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#東日本大震災を忘れないために私にできる復興支援
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【団員レポート】ミューザ―川崎シンフォニーホール 被災地復興支援チャリティ・コンサート 今回は前日のリハーサルから本番までの様子を、パーカッションパート三浦瑞穂から見た目線でレポートしていきます。
3月11日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「第10回 被災地復興支援チャリティ・コンサート」が行われ、第2部オーケストラステージに東北ユースオーケストラが出演いたしました。
指揮はミューザ川崎シンフォニーホール チーフアドバイザーの秋山和慶さん、ピアノはミューザ川崎シンフォニーホール ホールアドバイザーの小川典子さん、宮本貴奈さん 、パイプオルガンは同じくミューザ川崎シンフォニーホール ホールアドバイザーの松居直美さん、ソプラノ、鈴木美紀子さん、司会は山田美也子さんでした。 演奏曲は「Anger from "Untiteled 01”」「Three TOHOKU Songs」「Aqua」「The Last Empror」「Kizuna World」「Merry Christmas Mr.Lawrence」「花は咲く」の計7曲でした。 まず、団員は演奏会前日の3月10日17:30に会場入りし、打楽器の搬入を行いました。今回は楽器数が多いことに加え、参加できない団員の関係で担当パートも変わっているので、楽器をどのように並べるか、ステージのどのあたりに打楽器が来て、どのくらいのスペースがあるのかなど、直前まで心配事は尽きなかったのですが、なんとかセッティングを終えました。
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18:30からリハーサルが始まりました。
まずは、「Anger from "Untiteled 01”」からです。今回私はチェレスタを担当することとなり、とても緊張していました。そもそもあがり症なことに加え、チェレスタはヴァイオリンパートの後方にあったためいつも近くにいる心強いパートのみんながそばにいないためです。そのうえ、ほとんどimprovisation(即興演奏)だったので、とても不安でした。 
しかし、曲が始まってみるとお隣にいたハープが所々同じ動きをしていて、それを頼りに演奏することができました。いつもと違う楽器での演奏も、新たな発見があって面白いと思いました。
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次に、「Three TOHOKU Songs」です。指揮の秋山さんから「掛け声もっと明るく、張りがある声で」とご指導いただきました。掛け声はThree TOHOKU Soungsの大きな特徴であるパートであるため、私もよりはっきりとした発声を心がけました。 続いて、「Aqua」です。打楽器と一部の管楽器は出番がないのですが、弦楽器の音色には毎回聞き入ってしまいます。普段は朗読と共に演奏される曲ですが、朗読なしで聴いてもとても素敵な曲だと改めて感じました。 次は、「The Last Empror」です。この曲は何度も演奏して慣れていると思っていたのですが、指揮を振る方が変わるとテンポや拍の取り方が変わるので、それを修正していくという感覚でした。私はバスドラムを担当したのですが、いつも以上に気を遣ってテンポキープに徹しました。
続いて、「Kizuna World」です。この曲も打楽器と一部の管楽器は出番がないのですが、とても素敵な曲で、合奏に参加できないことを毎回悔しがっています。またしても聞き入ってしまいました。
次に、「Merry Christmas Mr.Lawrence」です。私はこの曲でも前半部分でチェレスタを演奏しました。後半で出てくる拍子木は移動の関係で他の団員に担当してもらう予定だったのですが、想定よりチェレスタと打楽器の距離が近かったため、早足で移動して拍子木も演奏することとなりました。加えて、グロッケンと銅鑼を兼任する予定だった団員の移動が間に合わないため、銅鑼も演奏することになりました。思いがけずたくさんの楽器を担当することとなり、ドキドキでしたが、なんとかこなすことができました。
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最後に出演者全員で演奏する、「花は咲く」です。この曲は鈴木美紀子さんが歌で参加されるため、歌声とのバランスに気を付けながら練習をしました。特に打楽器はシンバルなどいわゆる金物の楽器はよく響くため、ホールによっては音量を大幅に落とす必要があるのですが、今回は歌の方も参加されるため、より一層音量バランスに気を遣いました。
前日のリハーサルは21:00近くまで続きました。
3月11日演奏会当日、9:00にホール入りし、10:00からゲネプロが始まりました。
演奏会本番の流れに沿って合奏を行います。前日のリハーサルでご指導いただいた部分を確認しつつ、11:30頃ゲネプロが終了しました。
そして、13:00からキャプテン海津洸太くん、ヴァイオリンパートの中学生大田継美さんと共にインタビューのリハーサルをしました。聴きに来てくださった大勢の人の前で話すということでとても緊張しました。
13:45に開場し、14:00からプレトークとして秋山和慶さん、松居直美さん、小川典子さん、宮本貴奈さん、司会の山田美也子さんが登壇されました。
14:30に第1部が始まり、2曲演奏を終えたところで14:46に黙祷をささげました。私は毎年この時間に合わせて黙祷をしているのですが、今年は遠く離れた川崎でも東日本大震災を忘れないで思いをはせてくれている人たちがいることに感謝の気持ちをもち、祈りをささげました。
第2部が始まり、1曲目は「Anger from "Untiteled 01”」です。例のごとく私はとても緊張していましたが、なんとかハープを頼りに演奏することができました。即興演奏の経験はほとんどなかったので、貴重な経験となりました。
2曲目は「Kizuna World」です。この曲は前述の通り打楽器は全員お休みのため、弦楽器の音に聞き入りながら緊張で震える手を落ち着けていました。
3曲目は「Three TOHOKU Songs」です。リハーサルでご指導いただいた掛け声もホールによく響いていました。1曲を通して、特にキャプテンの海津くんの声が良く聞こえました、さすがです…!
ここで団員3名のインタビューが行われました。楽器を始めたきっかけや震災当時の記憶などを振り返りました。各々担当楽器をもってステージ前方に向かったのですが、私はリハーサルの際、海津くんに「みずほちゃんは拍子木でしょ。」と言われたため、拍子木をもっていきました。すると、私の自己紹介の後、司会の山田さんが「せっかくなので鳴らしてみていただけますか。」と仰いました。なんとか外さずに音を鳴らすことができた安堵感から、なにを話したのかはあまり覚えていません…
4曲目は「Aqua」です。例によって打楽器はお休みなので、じっくり聞き入ってしまいました。何度聞いてもとても素敵な曲だなあと思います。
5曲目は「The Last Empror」です。前日のリハーサルでの課題点だったテンポについてもしっかり修正し、演奏することができました。
6曲目は「Merry Christmas Mr.Lawrence」です。チェレスタ、拍子木、銅鑼と多くの楽器を担当しましたが、遅れることなく全てこなすことができて一安心しました。
最後は「花は咲く」です。2番は会場においでくださった皆さんにも歌っていただき、一緒に音楽を奏でることができました。感動して涙を流している方もいらしたそうで、とても嬉しかったです。
無事に演奏を終え、ミューザ川崎シンフォニーホールという素晴らしいホールで、4人のホールアドバイザーの方々と一緒に演奏するという貴重な機会をいただけたことをとても嬉しく思います。今回の演奏会で東日本大震災から12年がたった今でも、被災地以外の場所で震災のことを思い返す機会をつくってくださっていることの貴重さを改めて感じました。TYOもこれからは支援される側ではなく、支援する側に転換していかなければならないと思います。ミューザ川崎シンフォニーホールでの演奏会がその第一歩になればと思います。
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パーカッションパート 三浦瑞穂
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azarashi5656 · 11 months
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コロナに翻弄された3年間を経て、ソーシャルディスタンスラベルも久しぶりに通常の距離感へ。
#あたごのまつ #ひと夏の恋
開栓しています。
#新澤醸造店 #愛宕の松 #純米吟醸 #大崎市 #川崎町 #東日本大震災を忘れない #東日本大震災を忘れないために私にできる復興支援
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fukko-youth · 2 years
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薄磯スタディツアー(秋祭り)、ワインボランティア
9月17日に、薄磯地区でのスタディツアーを行いました。今回は薄磯地区の伝承館の訪問、薄磯地区でのボランティア活動、同時に富岡町のボランティア活動を通して震災復興について広く学んでもらうというものです。
今回の主題としていわき市薄磯にあるいわき震災伝承みらい館で、薄磯地区における東日本大震災による津波被害について学びました。
初めて見学に訪れた1年生もいましたが、みらい館では初歩的なところから説明されていて、とてもわかりやすい展示だと感じました。
展示物には、旧豊間中学校の体育館にあり震災時の津波によって被災した「奇跡のピアノ」などがあり、薄磯地区における津波が町に甚大な被害をもたらしたことを実感しました。また、地震や津波、福島の復興などに関する本を紹介するコーナーもあり、どれも興味深いものだったので、そちらも参考資料として読んでみようと思いました。
福島における震災の被害と言うと原発事故ばかりが注目されがちですが、他県の沿岸部と同じように大きな津波にも苦しめられていることを忘れてはならないと強く感じました。
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また、薄磯地区にある慰霊碑や豊間地区の防災公園などの視察も行いました。慰霊碑には津波の高さが刻まれており、現地でその恐ろしさを感じることができました。
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薄磯の町の様子の変化が下記いわき市HPに載っていますので、現地にいけない方はぜひこちらを比べてみてください。
同時に行われた富岡町でのワインドメーヌでの活動では、ワインの原料であるぶどうの収穫のお手伝いをさせていただきました。
ぶどうの収穫のために、朝6時に集合して作業に取り掛かりました。
早朝の活動は大学生にはつらいですが、いよいよ収穫ということで参加者の皆さんはとても気合が入っていて、私たちも負けじと頑張って作業に取り組みました。
今回収穫したのはソーヴィニヨン・ブラン。今まで成長を見守ってきたぶどうが収穫されるのは感慨深いものでした。これまでの記事でも紹介させていただきましたが、津波被災地域の復興の一つとして始まったぶどうが、年々成長しおいしいワインになると思うと、今年も待ち遠しいです。
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午後からは薄磯の秋まつりのお手伝いをさせいただきました。
薄磯区会の方々が来場者にカレーライスや焼き鳥を配っていて、それらの配布のお手伝いが主な仕事でした。
先ほど薄磯地区の津波被害について書きましたが、それとは打って変わって薄磯の元気な様子を見ることができました。天気も良くたくさんの人が足を運んでくださったので、お食事を配布するブースは大盛況でした。
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会場にはステージも用意されており、フラガールたちによるフラダンスや地元のアイドルであるアイくるガールズさんのステージなどが企画されていてお祭りを盛り上げていました。どれも華やかで、思わず目を奪われてしまうものばかりでした。
ステージの最後にはいわきの伝統芸能であるじゃんがら念仏踊りもあり、津波の犠牲者の霊を慰めるための太鼓と鉦の音がとても印象的でした。
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お祭りのあとには復興と鎮魂を祈る花火が浜から打ち上げられました。500発の花火を普段よりずっと近くで見ることができ、空一面に花火が広がる様子は圧巻でした。
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今年度の薄磯地区での活動は、7月に行われた海開きに引き続き2回目となりましたが、これらの活動を通して震災による津波被害から立ち直りつつある薄磯の皆さんの力強さを目の当たりにしました。これからも、薄磯の震災被害について学びつつ、たくさんの人に笑顔になってもらえるよう頑張っていきたいと思います。
今回の活動は一般社団法人 東北地域づくり協会「みちのく国づくり支援事業」の後援をいただいて実施しております。この場を借りて、感謝申し上げます。
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tmyksg · 2 years
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釜石〜相馬間の震災遺構を見てきた。ずっと行きたかった場所。11年目に漸く行けた。人は自然に対してただただ無力。 #東日本大震災 #東日本大震災を忘れない #東日本大震災から11年 #東日本大震災を忘れないために私にできる復興支援 #震災遺構 #うのすまい #下宿定住促進住宅 #陸前高田ユースホステル #奇跡の一本松 #ブライダルパレス高野会館 #大川小学校 #門脇小学校 #荒浜小学校 #中浜小学校 (旧大川小学校) https://www.instagram.com/p/CdI0Yc8r_oK/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2ttf · 12 years
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xf-2 · 5 years
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多くを語る必要はない。 あれは悪夢だった。安倍首相の発言に対し、民主党のトップでもあった岡田氏らは「取り消しなさい!」などと国会の議場で叫んだ。 まず述べたいのは、自民党の総裁としての発言であり、これは国家の行政トップとしての首相の発言ではない。あくまで、当時下野していた、そして現与党である自由民主党の総裁として、政党のトップとしての発言だ。ここは大きく意味が違うので、強く明言しておく。 ゆえに、そもそも国会で取り上げることに違和感を覚える。
さて、その上でだが、「民主党政権は悪夢だった」と思う人はどれほどいるだろう。 少なくとも私もその一人だが、自民党が政権奪還を果たしたということは、【民主党政権は最低だった】と思う人は相当数にのぼる現実がある。
自民党の全てがいいとは言わないが、「民主党は悪夢だった」という人は過半数、いるように思う。 つまり、自民党の政権支持率以上に、「あれは悪夢だ」と思っている人の比率は高いのではないか?
私も、”これはちょっと”と思う政策はある。 特に経済政策や企業関係については、アクセルを踏むとこ、ブレーキを踏むところが違うように思うのだ。 しかし、それでも自民党の支持率が高止まりしているのは「民主党が悪夢だった」というのが恐怖心と言えるレベルで染みついているのだと思う。
民主党が悪夢だったと思う人は、FBでのイイネ・シェア、ツイッターでの拡散をお願いします。
民主党の閣僚名簿
鳩山内閣から、オールスターズである。 見ているだけで頭がクラクラする。
千葉景子が法務大臣、外務大臣はイオンの岡田さん。農林水産大臣の赤松氏も口蹄疫が忘れられない。行政刷新で枝野幸男。
鳩山内閣(平成21年9月16日発足、平成22年5月28日現在)
職名 氏名 備考
内閣総理大臣 鳩山 由紀夫
内閣法第九条の第一順位
指定大臣(副総理)
財務大臣
内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
菅 直人
総務大臣
内閣府特命担当大臣 (地域主権推進)
原口 一博  
法務大臣 千葉 景子   外務大臣 岡田 克也   文部科学大臣・内閣府特命担当大臣(科学技術政策) 川端 達夫   厚生労働大臣 年金改革担当 長妻 昭
農林水産大臣 赤松 広隆
経済産業大臣 直嶋 正行
国土交通大臣 内閣府特命担当大臣  (沖縄及び北方対策) 前原 誠司
環境大臣 小沢 鋭仁
防衛大臣 北澤 俊美   内閣官房長官 内閣府特命担当大臣  (消費者及び食品安全担当   少子化対策担当及び   男女共同参画担当)   事務代理 平野 博文   国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣  (防災) 拉致問題担当 中井 洽   内閣府特命担当大臣 (金融) 郵政改革担当 亀井 静香   内閣府特命担当大臣 (「新しい公共」) 公務員制度改革担当 国家戦略担当 仙谷 由人   内閣府特命担当大臣  (行政刷新) 枝野 幸男
https://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/meibo/daijin/index.html
菅内閣になり、蓮舫が入閣。
菅内閣内閣総理大臣 菅 直人
総務大臣 内閣府特命担当大臣 〔地域主権推進〕 原口 一博
法務大臣 千葉 景子
外務大臣 岡田 克也
財務大臣 野田 佳彦
文部科学大臣 内閣府特命担当大臣 〔科学技術政策〕 川端 達夫
厚生労働大臣 年金改革担当 長妻 昭
農林水産大臣 山田 正彦
経済産業大臣 直嶋 正行
国土交通大臣 内閣府特命担当大臣 〔沖縄及び北方対策〕 前原 誠司
環境大臣 小沢 鋭仁
防衛大臣 北澤 俊美
内閣官房長官 仙谷 由人*
国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣 〔防災〕 拉致問題担当 中井 洽
郵政改革担当 内閣府特命担当大臣 〔金融〕 亀井 靜香
事務代理 平成22.6.11- 仙谷 由人*
平成22.6.11- 自見 庄三郎
国家戦略担当 内閣府特命担当大臣 〔経済財政政策 消費者及び食品安全〕 荒井 聰
公務員制度改革担当 内閣府特命担当大臣〔「新しい公共」 少子化政策 男女共同参画〕 玄葉 光一郎
内閣府特命担当大臣 〔行政刷新〕 蓮 舫
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/94.html
第一次改造内閣では、岡崎トミ子も入閣。
なんと国家公安委員会委員長だ。 内閣府特命担当大臣として、〔消費者及び食品安全 少子化対策 男女共同参画〕も所掌した。
第一次、第二次改造内閣の名簿は割愛。
野田内閣内閣総理大臣 野田 佳彦
総務大臣 内閣府特命担当大臣  〔沖縄及び北方対策   地域主権推進〕 地域活性化担当 川端 達夫*
法務大臣 平岡 秀夫
外務大臣 玄葉 光一郎
財務大臣 安住 淳
文部科学大臣 中川 正春
厚生労働大臣 小宮山 洋子
農林水産大臣 鹿野 道彦
経済産業大臣 原子力経済被害担当 鉢呂 吉雄* (経済産業大臣臨時代理
平成23.9.11-) (藤村 修*)
平成23.9.12- 枝野 幸男*
国土交通大臣
海洋政策担当 前田 武志*
環境大臣 原発事故の収束及び再発防止担当 細野 豪志* (原子力行政担当は平成23.10.3-)
内閣府特命担当大臣  〔原子力損害賠償支援機構   原子力行政〕 枝野 幸男* (原子力損害賠償支援機構担当は平成23.10.3-)
防衛大臣 一川 保夫
内閣官房長官 藤村 修*
国家公安委員会委員長 内閣府特命担当大臣 〔消費者及び食品安全〕 拉致問題担当 山岡 賢次*
郵政改革担当 内閣府特命担当大臣   〔金融〕 自見 庄三郎*
国家戦略担当 内閣府特命担当大臣〔経済財政政策  科学技術政策〕 社会保障・税一体改革担当 宇宙��発担当 古川 元久*
内閣府特命担当大臣 〔行政刷新「新しい公共」少子化対策 男女共同参画 〕 公務員制度改革担当 蓮 舫*
東日本大震災復興対策担当 内閣府特命担当大臣 〔防災〕 平野 達男
第一次、第二次、第三次改造内閣については割愛。
まさに悪夢だ。
書けばきりがない。 どんな思いで戦ったのか。
いまのネット保守とは、ちょっとニュアンスというか、ノリが違う。
公務員というのは行政マンゆえ、行政が抑えられればそれまでだ。 警察すら味方とは言い切れず、そもそも国家公安委員長が岡崎トミ子。
私たちは、「自分たちが反政府活動をしている」ことを理解して活動していた。
いまと違って野党だったから、行政手段に訴えるよりない。 請願などの諸手続きでは、少なくとも代表者は住所氏名を明示する必要があった。 署名する人も、基本的には実名。
まだ今ほどネットが台頭していない時代、リアルにリスクを背負いつつ、 公権力と戦ってきた時代。
私は、実名で活動してきたけれども、実は私以外にも結構な人数が存在していた。 そうするよりなかったからだ。いまは、ネットは「私は匿名で!」「責められるから!」みたいなノリだけど、当時はそういうのはできなくて、全部さらして前線は戦ってたんだよ。
振り返れば、当時、実名でやってたメンバーで残っているのは数えるほど。 だいたいは引退したと言いたいところだけれども、「潰された」みたいな事例も、あるにはあった。
自民党が安定与党となってのち(つまり参院選でも勝ったあと)、 今とは随分と違う覚悟をもってやっていたし、やり方もまったく違った。
民主党が悪夢である根拠。 書けば、きりがない。
色々と書こうかと思ったが、やめとく。
※ 何度か書いたけれども、当時、最前線にいたのは、その道のプロたちであったり、 それなりのクラスの中小企業(中には大企業も。)が、身分を伏せて活動していた事例が多数あり、当時のメンバーは結構ガチ勢だった。
ネットで目覚めた初心者もいたけれども、そもそも戦闘力が高い者が、国に危機を感じて、私生活や自分のビジネスを諦めて身を投じていた。
政権奪還後は、それぞれ本職に戻って行ったというのが実態。 だが、中には撃墜された同志も、いるよ。
連絡網だけは活かしている。 極まれに、同窓会みたいのはしてる。
時々、凄まじい戦闘速度を発揮するのは、凄まじい数のプロが後ろについているから。 (国会議員事務所、何個か分に相当すると、対外的には言われています。) 基本的に、彼らは出てこない。
私が同窓生に声をかけるときは、本気で潰しに行くとき。 (例えば、ほぼ一年前にやった拉致問題に関する通達とか、国家予算の編成とか、ロビー活動も個人で間に合うわけはないし、そもそも事務作業が追い付くわけがない。2~30人は控えてないと、あれはできない。)
当時、何があったか、
どんな思いをしたのか、
どれぐらい悪夢であったか、
コメント欄で書いてみてください。
民主党政権は悪夢だとと思っている方は、拡散をお願いします。
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travelersrecord · 3 years
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〜 東日本大震災から10年 〜 あの震災を風化させない為に。 2011年3月11日に発生した東日本大震災ではかつてない大きな被害が出ました。 その後に続いた余震によっても被害は広がりました。 亡くなられた方々へ、心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、被害を受けた方々へ、心よりお見舞いを申し上げます。 また、全国の方々からのご支援は一生忘れる事がない、感謝の気持ちでいっぱいです。 本当にありがとうございます。 私自身も住んでいた場所���全壊になるという被害を受けましたが、この大きな震災を後世に伝え、災害への備えに一人でも多くの方が関心を持って頂けますように。 双葉郡 大熊町〜双葉町、  国道288号線。 福島県の内陸と海側を結ぶ大動脈の国道288号線は、東日本大震災以来、原子力発電所に近い事や道路損壊が激しかった事などの要因により、長年通行止めになっていました。 昨年2020年12月10日、 ほぼ10年ぶりに全線が開通。 これによって内陸部と海側の往来は非常に便利になり、復興作業にも良い影響となるのは間違いないでしょう。 双葉町など、帰還困難区域の中を真っ二つに横断する形の道路なので、この道路以外の脇道や道路沿いの建物の前にはバリケードが連立され、一切立ち入る事はできません。 帰還困難区域なので、全ての家屋は人が手入れをできず、老朽化が進んでしまっています。 それでも、JR常磐線・双葉駅は現在は新しく建て直されました。 2020年3月4日には駅周辺の一部ではありますが、帰還困難区域も避難指示は解除され、また復興へ一歩進みました。 この道路一本の開通により、復興へのスピードはますます加速するでしょう。 普段は気にもせず通行していた道路。 この道路一本の有り難みを肌で感じました。 (ちなみに、この国道288号線は現在は軽車両や歩行者は通行できません。 又、緊急時を除いて路肩などに駐停車する事も禁止されています。) 〜東日本大震災の記録〜 #福島県 #国道288号線 #大熊町 #双葉町 #双葉駅 #復興がスピードアップ #311を忘れない #東日本大震災 #後世に伝える為に #2011年3月11日 #Follow #Followme #Mutualfollow #フォロー #相互フォロー #フォロワー募集 . https://www.instagram.com/p/CNRXSMCA-zr/?igshid=dpb2p9af0a9v
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satosnj · 3 years
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天皇陛下「被災地に心寄せ続けたい」おことば(全文): 朝日新聞デジタル
天皇陛下の「おことば」は次のとおり。
東日本大震災から10年が経(た)ちました。ここに皆さんと共に、震災によって亡くなられた方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。
10年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す方が亡くなり、行方不明となりました。また、この地震に伴う津波や原子力発電所の事故により、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。この震災の被害の大きさは、忘れることのできない記憶として、今なお脳裏から離れることはありません。
あれから10年、数多くの被災者が、想像を絶する大きな被害を受けながらも、共に助け合いながら、幾多の困難を乗り越えてきました。また、国や全国の地方自治体、160を超える国・地域や多数の国際機関、大勢のボランティアなど、国内外の多くの人々が様々な形で支援に力を尽くしてきました。
私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、関係者の努力と地域の人々の協力により、復興が進んできたことを感じています。これまで復興に向けて歩んできた多くの人々の尽力とたゆみない努力に深く敬意を表します。
一方で、被災地ではまだ様々な課題が残っていると思います。復興が進む中にあっても、新しく築かれた地域社会に新たに人と人とのつながりを培っていく上では課題も多いと聞きます。家族や友人など親しい人を亡くしたり、あるいは住まいや仕事を失い、地域の人々と離れ離れになったりするなど生活環境が一変し、苦労を重ねている人々のことを思うと心が痛みます。また、原子力発電所の事故の影響により、人々がいまだに自らの家に帰還できない地域や、帰還が始まったばかりの地域があり、農林水産業への風評被害の問題も残されています。高齢者や子供たちを含め、被災された方々の心の傷を癒やし、心身の健康を見守っていくことも大切であると感じます。
今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います。
先月にはマグニチュード7を超える地震が福島県沖で発生しました。被災された皆さんに心からのお見舞いを申し上げます。この地震は東日本大震災の余震と考えられており、このことからも、震災を過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。
我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。過去の災害に遭遇した人々が、その都度、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして、災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。そして、その教訓がいかされ、災害に強い国が築かれていくことを心から願っています。
今なお様々な困難を背負いながらも、その苦難を乗り越えようとたゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、安らかな日々が一日も早く戻ることを皆さんと共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。
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biwakaba · 6 years
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鷲田清一先生の式辞
平成29年度卒業式式辞
 本日ここに集われた美術学部124名,音楽学部60名の卒業生のみなさん,大学院美術研究科53名,音楽研究科24名の修士課程修了生のみなさん,そして美術研究科7名,音楽研究科4名の博士課程修了生のみなさん,ご卒業ならびにご修了,まことにおめでとうございます。ご臨席いただいたご家族のみなさまにも心からお慶び申し上げます。
 また,門川大作京都市長をはじめ,美術教育後援会,音楽教育後援会,美術学部同窓会,音楽学部同窓会のご来賓のみなさまにもご列席いただけましたことに,京都市立芸術大学を代表して深く感謝申し上げます。
 さて,この2月には美術学部・美術研究科のみなさんの制作展をたっぷりと見させていただきました。作品のみならず,フレームや部屋のレイアウトにまで神経を研ぎ澄ますその手抜き無しの作業に感じ入りました。
一昨日は音楽学部の卒業演奏会を今年もステージの袖で聴かせていただきました。演奏直前にエレガントなドレス姿で腕をぐるぐる振り回したり,シコを踏んだりする姿に,一回の演奏をどれほど大切にしているかを肌で知りました。また毎月,わたしの執務室で開かれるコンサート「ムジカジカン」には,音楽学部のみならずときには美術学部の有志も参加してくれ,至近距離でみなさんの息遣いを感じてきました。刃物のように鋭い集中力と,体の痼りを解いてくれるような穏やかな空気に,職員やわたしたちは,ときに胸に何かがぐっとこみ上げるような思いすらしました。ほんとうにありがとう。
 さてその卒業制作,そして卒業演奏には,いつも驚愕させられます。先生方からは厳しい言葉が返されるのかもしれませんが,わたしには「凄い」という言葉しか出てきません。わたしにも若い頃,絵と楽器演奏にのめり込んでいた時期がありますので,そしていずれもかなりの期間取り組んだうえでついに挫折したので,あなたがたがみな人並み外れた才能を持っていることはよくわかります。だからわたしはみなさんに対しては「学長」ではなく「応援団長」を名のってきました。入学時にはまだ「原石」でしかなかったその才能を,あなたがたはこの4年間で,ときに深く迷い,ときにもがきながらも,しっかりと磨いてこられました。ですから今日ここで,みなさんのこれまでの研鑽を,「応援団長」として心から祝福したいと思うのです。
 ただ,その才能は,あなたがた一人ひとりのものではありません。才能(talent)という語にはよくgifted(「恵まれた」とか「天賦の」)という形容がなされるように,それはあなたがたに贈られたものでもあるのです。「原石」は,それを磨いてくれる人,磨かせてくれる環境,さらにはそれを磨くことに専念させてくれる人びとの支えがあってはじめて輝きを得ます。そういう意味で,贈られたものなのです。
 それとともに,「贈られた」ということにはもう一つ,別の意味も含まれています。贈られたものは贈り返されねばならないという,言ってみれば「義務」ないしは「責任」のことです。「義務」や「責任」というと,日本語ではとても堅苦しい感じがしますが,「義務」は英語ではobligation。興味深いことにこの語には「恩義」や「感謝」という意味もあります。たとえば今日わたしがこうしてあるのは誰々のおかげだ,と言うことがありますが,そのときの「誰々に負う」という感じ,その拘束感が「恩義」や「感謝」というものです。ポルトガル語のobligadoも「ありがとう」という感謝の表現です。
そして次に「責任」。日本語では責めを負うといった厳しい意味でありますが,英語ではこれはresponsibilityです。この語を分解するとrespoondとability。つまり誰かの訴えや促しに応じることができる,あるいは応える用意があるということです。もういちど言いますが,才能を贈られた人には,この贈り返すということが「義務」ないしは「責任」としてあるということです。
 卒業後,みなさんは,自身で芸術をさらに究めてゆく道を選ばれるにしても,あるいはそれを企画したり,下支えしたりする道に進まれるにしても,その道は果てしなく長いし,迷いや不安もずっとつきまとうことでしょう。でもその迷いや不安のただなかで,じぶんがしたいこと,しようとしていることの再確認とともに,じぶんがじぶんを応援してくれた人びとから何をすべく期待されているかということも一度ならず顧みてほしいのです。
わたしたちが孤独な状態のなかで独り抱え込んでいると思っている苦痛や不安も,けっして個人のプライベートなことがらではありません。家族や地域から国際情勢まで,じぶんが一定の歴史的なコンテクストのなかに生まれ落ちたこととつながっています。じぶんの個人的な傷や不安も,表現行為も,このようにことごとく時代のなかにあるということを,しかと見つめてほしいのです。
 「わたし」というのは,銘々がそう思っているほど確固としたものではありません。「わたし」の表現とは,じつは「わたし」の存在が負っているものすべての表現でもあります。その意味でいかにプライベートに見える表現も,同時に「時代」の表現なのです。
 そう考えると,制作する「わたし」,演奏する「わたし」とは,じつは時代がみずからを表現するときの〈��〉のようなものだということになります。そういう〈器〉として「わたし」に何ができるのか。みなさんにはそういう視点を,いつも持っていてほしいと思います。みなさんはこれからも多くの苦難を経験されるでしょうが,その苦難は他の人びとの苦難,困窮ともつながっているということ,つまりは時代の痛みでもあるということ,そのことをよく知る〈器〉となってほしいと思うのです。
 この〈器〉ということについては,みなさんの先輩で,長く京都のVOICE GALLERYを拠点にアーティストたちを支える仕事に取り組んでこられた松尾惠さ���が,別の言葉で次のように述べておられます。
芸術家は,自身をふくめて,種々の境遇や状況など,叫びやつぶやきに耳を傾け,社会が見ない・聴かない小さな個人を代弁し,その存在を形にする重要な存在なのである。……〔その意味で〕芸術は,経済や福祉やその他の社会的サービスのすべてに共通する概念なのだ。
(「京都新聞」2018年2月23日夕刊)
 と。これ,すごく大事なことです。
 そして〈器〉ということについては,さらにもう一人,歴史社会学者の山内明美さんが『こども東北学』という本のなかで,とても大切なことを書いておられます。
放射能汚染の不安が日本社会を覆いはじめたとき,わたしがいちばんはじめに感じた違和感は,いま起きている土と海の汚染が,自分のからだの一部で起こっているということを誰も語らないことだった。遠くの災いみたいに話をしている。
 彼女は宮城県の出身です。東北は,じぶんが住んでいる場所なのに「東北」と呼ばれ,「みちのく」(道の奥)と呼ばれてきた地域です。ずっと「中央」に兵力と労働力と食糧を供給するばかりだった「地方」です。震災をきっかけにこの地の歴史をあらためて辿るなかで山内さんが衝撃をもって気づいたのは次のようなことです。かつて冷害や干ばつでたえず飢饉の不安に苛まれてきたこの地方にあって,土に雨水がしみ込むことをじぶんの体が「福々しく」膨らむことと感じる,そうした土や海と人とのつながりを,魚や野菜や穀物と人とのつらなりを,この地の人びとがもっていたということです。そういう人たちであれば,土や海の汚染も「遠くの災い」ではなく,わが身の痛みとして感じたはずだというのです。
 ここから,〈器〉という考え方の持つ,さらにもう一つの重要な意味が浮かび上がってきます。〈器〉はつねに何かによって充たされるのを待っているということです。芸術についていえば,先ほども少しふれましたが,絵画であれ,彫刻であれ,デザインであれ,演奏であれ,つねに「表現」ということが問題にされます。「表現」とはexpression,この語を分解すれば,内にある何かを「外へ」と「押し出す」ということです。「表現」行為に取り組んできたみなさんは,だから何を「表現」というかたちで外へ押し出すかをずっと考えてこられたことと思います。けれども〈器〉という考え方は,これとは違います。〈器〉は何か別のものに充たされるのを待つからこそ,〈器〉なのです。
 音楽の楽譜に,Wie aus der Ferneという指示表現があるそうです。Wie aus der Ferneとはドイツ語で《遠くからやってくるように》という指示です。『グレン・グールド 孤独のアリア』という本を書いたミシェル・シュネデールによれば,この指示表現は,シューマンの〈ノヴェレッテ〉作品21の最終曲や〈ダヴィッド同盟舞曲集〉作品6の第18曲,ヴェルクの〈ヴォツェック〉419―421小節などにあるそうです。シュネデールはその指示表現を,「音が遠くからやってくればくるほど,音は近くからわたしに触れる」というふうに解釈しています。そんな「驚くほどに音が遠くにある感じ」で生きつづけるものとして音楽を聴くのがわたしは好きだというのです。
 はるか遠くからの音に耳を澄ます,そのことがまるでじぶんの内深くから響いてくるように感じられるところに音楽のほんとうの凄さがあるということなのでしょう。はるか遠くの生きものの声が生きものとしてのわたしを知らせる,はるか遠くの動物の声がわたしを動物としてのわたしに向きあわせるということなのでしょう。
 いまいちど山内明美さんの言葉を引けば,山内さんはこう書いていました。《放射能汚染の不安が日本社会を覆いはじめたとき,わたしがいちばんはじめに感じた違和感は,いま起きている土と海の汚染が,自分のからだの一部で起こっているということを誰も語らないことだった》と。そして続けて,土に雨水がしみ込むことをじぶんの体が「福々しく」膨らむことと感じられるような感受性をなんとか回復したいと言っていました。芸術的な資質とは,まさにそうしたものではないでしょうか。詩人がしばしば,言葉を探すのではなく,言葉が降りてくるのを待つという言い方をするのも,きっと同じことをさしているのだと思います。
 今日,みなさんの旅立ちへの餞の言葉としては,わたしの話はややもすればうねりすぎ,いちど聞いただけではわかりにくかったかもしれません。でも,みなさんにはどうか,芸術を人生の軸として生きるとは,独創的な表現の〈主体〉になることではなくて,社会の〈器〉になることだということを心に留めておいてほしいと思い,あえて長々しい話をしました。
 その長い話の最後に,昨年と同様,激励の言葉を贈らせてください。みなさんはこの先きっと何度も,道に迷ったり,目の前の道が消えたり,分かれ道で途方に暮れたりすることがある。でも,この大学で何度も何度も演奏と制作のプロセスを歩み抜いた経験,いいかえると,芸術にいちど寝食を忘れるまでにとことん取り組んだ経験は,あなたがたの身体にしかと痕跡を残し,このあとかならず大きな財産になるはずです。どうかみなさんには,これからどのような場所で,どのような職業によって芸術にかかわり続けるにしても,芸術をつうじて,同じ時代を生きる人びとの歓びや悲しみ,苦しみに深く寄り添い,どんな苦境のなかでにあっても希望の光を絶やさぬよう,力を尽くしていただきたいと心底願っています。そのような芸術の深い慈しみの光が,これからもずっとみなさんに向かっても射し続けることを祈りつつ,以上,私からの祝福の言葉とさせていただきます。
 さようなら。また逢えるその日まで,どうかごきげんよう。
平成30年3月23日
京都市立芸術大学 学長
鷲田清一
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 ≪押し付け憲法後生大事に守る≫
 サンフランシスコ講和条約締結で独立を実現して60周年になるというのに、日本は大災害、戦争、国際テロといった厄介な問題を勝手に想定外とするか放棄し、占領下で押し付けられた憲法を後生大事に守っている。憲法第9条で戦争は放棄したから、起こりっこないと本気で信じている日本人はどれだけいるのか分からない。が、全国のあちこちで、「非核平和都市」や「核兵器廃棄平和都市」を宣言する立て看板は今でも目にする。これら自治体の関係者は、宣言すれば実現する、とまともに考えているのだろうか。
 占領下の憲法だから国軍の存在を認める条項はない。国家の非常事態を想定していないから緊急事態条項もない。民主主義体制が崩壊したり、今回のような大災害が起きたりした際には、一部私権を制限する条項も必要であろう。
 法治国家なら当然の常識は、護憲派の菅直人首相ら民主党首脳にはない。独立国がとるべき措置などは念頭になく、ひたすら「地方主権」や私権を尊重した平時の取り組みに没頭する。専門家の復興案は憲法の枠内の技術論ばかりだ。揚げ句の果てがこの体たらくである。
 東日本大震災で自衛隊が黙々と演じた役割は、「日本国憲法信者」も等しく認めるところだろう。が、時間の経過とともに、国の背骨である自衛隊の存在はまた忘れ去られていくのだろうか。
 ≪フィリピンの近視眼笑えるのか≫
 話は少々、それる。
 南シナ海の領有権をめぐる紛争で、中国は傍若無人な振る舞いに出て、フィリピンやベトナムと厳しく対立している。軍事力で劣弱なフィリピンは、石油探査船が妨害され、漁民が威嚇を受け、領有権を主張するパラワン島沖のイロキス礁では、船で建設資材を持ち込まれて実効支配を開始されてしまう。旗艦であるフリゲート艦、ラジャ・フマボンを紛争水域に送ったものの、第二次大戦に参加した世界最古の軍艦だから、中国側は歯牙にもかけない。
 この軍事小国は、情け容赦ない現実に直面して急遽(きゅうきょ)、海軍力増強に乗り出した。ロサリオ外相はワシントンに飛び、米比相互防衛条約の適用を明言し軍事援助を増やしてほしい、と懇請する。
 冷戦後の1992年、フィリピンはスービック海軍、クラーク空軍の両基地から米軍を追い出し、間隙を埋めるように中国海軍が進出してきた。軍事力を背景に有無を言わせぬ中国外交を前に、フィリピンは「相手を刺激しない」行動をとるほか選択の余地はなかった。万策尽きて、今度は、米国の懐に逃げ込んだのだ。
 フィリピンを笑えるか。
 ≪戦後体制の最後の徒花、菅政権≫
 鳩山由紀夫前首相は、日米同盟の証しである沖縄海兵隊の普天間飛行場を県外あるいは国外に持っていくと述べて、同盟を崖っ縁に立たせ、以来、普天間移設の問題は解決がついていない。ところが、尖閣諸島沖で中国漁船体当たり事件が発生し、対中事なかれ外交が破綻すると見るや、前原誠司外相は訪米し、クリン��ン国務長官に尖閣諸島を日米安保条約の対象にすると言ってほしいと要請した。防衛費は、自民党時代から一貫して減らしている。占領時代を引きずっている疑似独立国そのものではないか。
 劣悪な指導者を持つと、国はどのような事態を迎えるか。いわゆる戦後体制の欠陥がいやが上にも浮かび上がってくる。リーダーシップなき民主主義は堕落を続け、選挙民の歓心をいかにして買うか、政権維持のためどうして人気を上げるかの競争が繰り広げられる。国家の緊急事態に際しての体制整備に、政治家の関心が向かなくなってきて、果ては、国家の安全保障まで住民の意向とやらが決定する。原発も普天間飛行場も、首相官邸が断を下せないまでに、国家の機能は衰えている。
 しかし、絶望の溜め息をつくのはまだ早すぎる。耐用年数をとっくに過ぎた戦後体制の最後の徒花(あだばな)が菅政権であると位置付ければ、希望は出てくる。66年前に中学1年生だった私が見た日本の風景は、あらゆる面で廃墟(はいきょ)だった。独立達成にかまけていた日本の政治家たちが怠ったのは、新たな憲法の作成である。新しい時代の政治家を鑑定するリトマス試験紙が、これほどはっきりしてきた時代はない。
” - 日本は擬似独立国だ (via itokonnyaku)
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shibaracu · 4 years
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●日本を分割占領から救った知られざる親日国
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●日本を分割占領から救った知られざる親日国 ◆日本を分割占領から救った知られざる親日国とは!分割統治を企むソ連の策略を撃破した強烈な一撃!アジアを死の淵から生還させた日本を救い出せ! 2018/09/20  https://youtu.be/ZHOK_uf7chM ■ おすすめの動画 驚愕!外国人が仰天した日本の特殊性!日本人がアメリカを憎まない本当の理由とは!驚き!  2018/09/17 https://youtu.be/yKNXjmcS5tU
【海外の反応】驚愕!外国人も驚く日本の歴史の長さ!中国を上回る世界最古の歴史を持つ国家だった?仰天!【ぞくぞく】   2018/09/20 https://youtu.be/KrBJGSOsxpE
アメリカ陸軍第442歩兵連隊  アメリカ陸軍日系人部隊 https://youtu.be/IpjaQ8lJqmY 引用元 http://www.mag2.com/p/news/181484   ◆日本を分割統治から救ったスリランカ初代大統領J.R.ジャヤワルダナの名演説 https://www.frone.life/relationship01/ 大東亜戦争敗戦後の1951年サンフランシスコ講和会議において戦勝国である連合軍は、日本に対して厳しい賠償と制裁措置を求めました。 その中で出た日本の分割統治計画とは、第二次世界大戦において、ドイツが降伏後米・英・ソ・仏4カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本も北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治しようとした計画でした。 図は当時最終的に固まった米英中ソの4ヶ国での分割統治の案です。 https://www.frone.life/wp-content/uploads/2017/11/relationship01_map.jpg ソ連(赤)  :北海道/東北 アメリカ(青):関東/中部/関西/沖縄 中国(茶)  :四国 イギリス(緑):中国(地方)/九州
米英中ソ   :東京 米中     :大阪
分割統治計画については、1977年放送の「NHK特集 日本の戦後 第1回 日本分割 知られざる占領計画」でも特集されており、NHKオンデマンド(有料)で視聴できます。 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012044949SA000/
  ◆日本を分割占領から守ったジャヤワルダナ大統領というのは本当か? https://spiceup.lk/jr_jayawardene/ 2019/06/08 恩を受けた日本が親スリランカであるべきところですが、日本ではあまり知られていません。 目次    1 日本分割統治案が議論されたという噂    2 日本が最初に国交を結んだのはスリランカという噂    3 日本の角膜手術の最初の成功例という噂    4 まとめ   ◆知られざる親日国スリランカと日本の関係 | 海外インターンシップ ... https://tigermov.com/blog/detail/1306 2020/01/30 ●日本と一番早く外交を結んだ国、スリランカ 意外に感じると思いますが、世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのはスリランカでした。 他にも日本と関係の深い国はたくさんあったはずですが、なぜスリランカが一番早かったのでしょう? そのきっかけとなった出来事は、第二次世界大戦敗戦後の1951年サンフランシスコ講和会議。 戦争に勝ったアメリカ、イギリス、ソ連、中国によって作られた「日本分割占領案」により、 日本は4地域に分割される予定でした。   ◆知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mag2/world/mag2-239114 2017/02/14 日本人にとって、決して馴染み深い国とは言えないポーランド。しかし、先日掲載し多くの反響をいただいた記事「多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話」でもお伝えしたように、両国間には人道を通じた絆が存在しています。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』では、さらに両国をつなぐ知られざる深い善意と友好の歴史を振り返っています。   ◆日台友好の象徴に横槍。日本人の寄附で再建された台湾の神社に批判 https://www.mag2.com/p/news/238255 2017.02.09 主に日本からの寄付金を元に、昨年70年ぶりに再建された台湾南部の神社を巡り、中国寄りの台湾野党・国民党の幹部が「日本人によって台湾先住民が多数殺害された台湾出兵の地に日本の神社を建てるとは何事だ」と、与党の民進党に対して批判の声を挙げたことが現地で話題となっています。しかし、メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄文雄氏は、「歴史を歪曲し日本を悪者にするのは国民党の常套手段」とし、当時の正しい日台間の歴史を記すとともに、国民党員の姑息な手段を厳しく批判しています。   ◆6千人のユダヤ人を救った杉原千畝と難民を温かく迎えた誇るべき日本 https://www.mag2.com/p/news/150405 2016.02.23 みなさんは、6000人ものユダヤ難民にビザを発行し多くの命を救った「杉原千畝(ちうね)」という人物をご存知ですか? 日本のシンドラーとの異名をもつ彼は、諜報外交官としても一流だったそうです。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そんな杉原の情報収集能力にも注目し紹介しています。   ◆日本の分割統治計画 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の分割統治計画 日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく) 第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国が分割統治しようとした計画案。 ソビエト連邦は、北方四島と北海道占領計画を持っており[1]、またアメリカ合衆国もイギリス、ソ連、中華民国の連合国での分割統治する案を検討したが、結局、日本占領は分割占領でなく連合国軍最高司令官総司令部による日本政府を介した間接統治となった。   ◆ポーランド共和国|東京都立図書館 https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/olympic_paralympic/area_studies/index/poland/ 1.国名の由来 ポーランとは「平原、農牧地」の意味。 英語では、これにランド「国」をつけてポーランドと呼んだ。 自国ではポルスカと呼ぶ。 1947年に社会主義政権の人民共和国が成立、1989年に社会主義体制と決別し現在の国名に変更。 2.国旗の由来 15世紀初頭、ドイツ騎士団を撃破した「タンネンベルグの戦い」で使われた赤地に白鷲が描かれた軍旗が基。 赤い夕日を背景に飛ぶ白い鷲に吉兆を見て、赤地に王冠つきの白鷲を王国の紋章にしたという建国伝説に由来する。 その後、白鷲は白に、夕日は赤に象徴されて現在の2色旗になり、1919年に国旗として定められた。 ・豆知識 古くからドイツ、オーストリア、ロシアなど列強により分割、消滅を繰り返してきたため、"悲劇の国"とも呼ばれ、世界中に散らばったポーランド人は1千万に達する。 ポーランド人は強い愛国精神、したたかな抵抗精神、そして議論好きな国民性をもつ。 地動説のコペルニクス、ピアノの詩人ショパン、物理学者キュリー夫人のほか、長崎で布教したコルベ神父、社会福祉事業で活躍したゼノ神父なども知られる。   ◆「知られざる親日国」パラオで新たなビジネスの芽 | 地域・分析レポート https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2019/ad5a3526fe8d360d.html 2019/01/17 太平洋島しょ国は14の独立国(以下、島しょ14カ国)などで構成され、 ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3地域に分けられる(図1参照)。 https://www.jetro.go.jp/ext_images/biz/areareports/2019/ad5a3526fe8d360d/g01.jpg 一部を除き、国土や人口規模が小さい(表1参照)ため規模の経済が働きにくく、主要な国際市場から離れているため輸送コストがかかることなどから、日本企業からビジネス上の注目を集める機会が少ない地域となっている。こうした中で、同地域随一の親日国とされるパラオへ2018年12月に派遣された経済ミッションには、多くの企業が参加し、現地企業・政府関係者らと積極的な商談や会合が行われるなど、新たなビジネスの萌芽(ほうが)が見られつつある。   ◆未来世紀ジパング5 知られざる親日国 / テレビ東京報道局【著】 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0310084 内容説明 「世界の沸騰現場から、日本の未来が見えてくる」をコンセプトに、テレビ東京系列で毎週月曜午後10時から放送中の経済番組「未来世紀ジパング」が電子書籍になった!世界は激動し、知られざる驚きに満ちている。世界を知ることで日本の立ち位置が分かるはず。世界を駆けまわるビジネスパーソンから、世界情勢に関心の高いシニアの方々、定番の観光地ではもう飽き足らないという海外旅行好きの方々��未来のグローバル人材である高校生・大学生まで、身になる情報が詰まった電子書籍です。
第5巻は「知られざる親日国」。沸騰ナビゲーターの後藤康浩(日本経済新聞社編集委員)、太田泰彦(日本経済新聞社論説委員兼編集委員)、畑中美樹(国際開発センター・エネルギー環境室研究顧問)、米倉誠一郎(一橋大学イノベーション研究センター教授)が解説します。
1 ジャパンタウンも登場 成長する大草原の国 モンゴル 2 94年前の日本との絆 ポーランド 3 『最後の秘境』の開発ラッシュ パプアニューギニア  4 『世界一裕福な国』のオールジャパンプロジェクト カタール  5 ドナウの真珠と日本の意外な共通点 ハンガリー   ◆知られざる親日国「サカルトヴェロ」ってどこにある国? | デイリー新潮 https://www.dailyshincho.jp/article/2019/05230700/?all=1 国際 2019年5月23日掲載. 「サカルトヴェロ」という国名を聞いて、すぐに場所や国柄を思い浮かべられる日本人はそう多くないだろう。しかし、じつは日本とも大変に縁の深い国なのだ。  たとえば、同国は柔道が非常に盛んで、大相撲の関取も3人輩出している、大の親日国である。また、世界史に名を残す独裁者の出身地としても知られ、日本は第2次世界大戦の最終盤で彼が率いる国に侵攻され、貴重な領土を奪われている。 ――とここまで書けば、ピンとくる読者もいるかも知れない。「サカルトヴェロ」とは、現在は「ジョージア」と呼ばれている、ヨーロッパ東部の小国の正式名称である。かつてのソビエト連邦の構成国で、かの独裁者スターリンは同国で生まれ育っている。  国際協力機構(JICA)理事長の北岡伸一さんは、2017年にジョージアを訪問した。以下、北岡さんの新著『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』(新潮選書)から、同国に関する記述を再構成して紹介しよう。   ◆【特集1】知られざる親日国 パキスタン|キャラバントラベル| http://www.caravan-travel.co.jp/special/sp06.html 南アジアに位置するパキスタン(パキスタン・イスラム共和国)は、 国土面積80万平方キロメートル(日本の約2倍)、 人口は世界第6位の1億9千万人を誇ります。 35歳以下の人の割合が多く、 また出生率も高いことから、国連の推計によると2030年には世界第5位、2050年には人口が3億4千万人まで増加し、 インドネシア、ブラジルを抜いて中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位の人口大国、巨大な市場になると予想され様々な方面から注目されています。 そんなパキスタンですが、 イスラム過激派によるテロ事件など何か悪いニュースが発生した時にだけ報道されることから、 「光と闇」の「闇」の部分だけが強調されてしまい、 パキスタンの素晴らしさ「光」の部分はなかなか紹介されないことから、 パキスタンは、『危険な国』というイメージを持たれている方も多いことでしょう。 パキスタンでは通りを走る車の何と9割が日本車で、 中には車体にわざわざ日本語で文字を書いている車も見受けられ、 理由は「日本が大好きだから」 だそうです。 その親日ぶりの背景の一つには 日本の戦後の歴史と関係があり、 1950年代頃、パキスタンは特産の綿花を日本に輸出していて、 当時の日本の主力産業で戦後の復興を支えた紡績業の隆盛に大きく寄与していました。 それに伴い日本の商社マンもパキスタンを頻繁に訪れ、投資も行われ、その後のパキスタンの発展に大きく貢献したことがこの国の人々の記憶に深く残っているのだそうです。   ◆知られざる親日国シリーズ・ハンガリー - 未来あんしん隊 ライフプラザ http://mirai-anshin.jp/article/0205074.html 2015/06/30 東欧の美しい国ハンガリー。 ノーベル賞受賞者は人口比で世界一という天才国家です。 そんなハンガリーではなんと"そろばん"教育が盛んだそうです。 さらにハンガリーの国民車といえば、日本のスズキ。 約25年前に進出、マイカーブームを 起こしハンガリーの人たちの誇りとなっていました。 そして今、牛角でおなじみの日本企業が、ハンガリーの「幻の豚」に 目をつけ勝負に出ようとしていました。 それは、なんと"食べられる国宝"でした。   ◆知られざる親日国と日本の天才建築家  2018年09月17日 | 日記 https://blog.goo.ne.jp/change-commonsense/e/cb0e4bbc5c3c11303b320ff7f69d95b7 世界にはたくさんの親日国があるのをご存知でしょうか。マレーシアと接する東南アジアの国 ブルネイ(ブルネイ・ダルサラーム国)もその一つです。 昭和17年に 陸軍司政官として、当時の統治国ブルネイの知事となった 木村強氏は「生産力向上のため もっと圧力を強めて 現地人を奴隷化した厳しい統治をしろ」と 本国から再三にわたる通達を受けていたにも関わらず「私は日本人。けして奴隷化などしない。むしろ子や孫の世代にまでつながる協力関係を構築すべき。」と譲らなかったそうです。 それどころか 奥地まで電気を通すなど、インフラ整備を充実させては 現地の方のために尽くされた。木村氏の任期はわずか一年だったにもかかわらず、くしくも当時の秘書が、後の国王となる人物だった事もあり・・その崇高な姿勢は現在まで語り継がれる事となります。   ◆世界を見渡せば〝反日国家〟を探すほうが難しい!『親日を巡る旅  世界で見つけた「日本よ、ありがとう」』 https://www.shogakukan.co.jp/news/222450 2019/08/04 〝親日〟が生まれた背景 一部の国の「反日」ばかりがクローズアップされているが、世界各地を訪れ、現地の人々と交流した筆者が見たのは、日本人が想像もしない各国の親日ぶりだった。 その背景には、先人たちが流した汗と払った犠牲があった。 ミャンマー連邦共和国(ビルマ)、パプアニューギニア独立国のラバウル、カンボジア王国、ポーランド共和国、ソロモン諸島のガダルカナル島、マルタ共和国、フィリピン共和国、フィンランド共和国、パラオ共和国、インドネシア共和国、極東ロシア、そして台湾・・・・・・日本人が忘れてしまった歴史の真実に光をあてる。 以下、本書「はじめに」を全文掲載!   ◆ 隠れた親日国 https://note.com/okinawanoaitu/n/ne3ccc1072660 2019/12/28 01:10 諸君、こんばんわ、今日は真夜中だから辛口ぞ kawusoは日本スゴイ論が好きではない。 最近は、外タレを使った���組で「日本スゴイ!」「日本大好き」を連発し それを見てバカな視聴者がいい気分になるという電波スナックみたいな 番組が受けているようだけども、スゴイというのは、人づてに伝わるもので モニターを通じて直で聞いても、ヨイショにしか聞こえない。 ちなみにモニターとは警告者という意味だよ。 テレビモニターが君を褒め出したら思い出してね だが、人知れず日本を褒めている親日国は覚えておいていい ギャラを貰わないのに日本を褒めていればそれは本物だろう そんな知られざる親日国に、ボリビアやパラグアイがある。   ◆ベオグラードを走る日本のバスが伝えること 知られざる中欧の親日国「セルビア」 www.msn.com › ja-jp › news › world › ar-AAxRlQr 2018/05/27 . 森川 孝郎.  【2018年5月31日11時40分 追記】記事初出時のタイトルは『ベオグラードを走る日本製バスが伝えること』でしたが、日本がセルビアに供与した車両は日本製ではなく、ドイツのMAN社製のものでした。誤った情報を掲載したことをお詫びするとともに、タイトル及び本文内の表記を修正致します。  当時、老朽化したバスが走っていた中で、「日本から贈られた93台の新車のバスは衝撃的だった。実はこのとき、日本政府からバスをきれいに使うようにという条件が付けられていた。われわれはこれを、日本人がこのプロジェクトに真剣に取り組んでくれていることを表すメッセージと認識した。日本は教育のレベル高く、道にゴミを捨てない、物をきれいに使うという意識が全国民に浸透している。93台のバスは、こうした日本人のような考え方を持たなければならないと、セルビア人が考えるきっかけになった」(グリシッチ大使)という。  ちなみにバスは、今もすべてが現役で活躍しているといい、ベオグラード市民がいかに大切に使っているかがわかる。むしろ最近は日本のほうが、使い捨て文化が浸透しているようで、なんとも気まずい思いを感じるのは筆者だけではないだろう。  セルビア・日本両国間の支援関係はこれにとどまらない。2011年の東日本大震災発生時には、セルビア政府がいち早く約5000万円の対日支援を行ったほか、平均月収4万円という決して豊かではない同国の経済事情にもかかわらず、セルビア国民から赤十字などを通じて約1億9000万円という多額の義援金が寄せられた。このときはベオグラードのみならず、地方都市でもチャリティ活動が行われたという。
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animezuki · 4 years
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鬼小十郎まつりおすそわけラスト
義援金東日本大震災復興プロジェクト代表 森川智之忘れてはなりません、私の使命はこれを送り届けて、被災地の復興のためのボランティア活動です。そして、白石市アンバサダーとして務めること。今回も、2019年トークライブおまえらのためだろ!で預かりました、皆さまからの義援金を白石市市長にたくしました。(私も寄付しております) 来年の鬼小十郎まつり、ぜひ遊びにいらしてください。お待ちしております。 http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/また、令和元年台風19号の被災地支援のための義援金のご協力ありがとうございました続きをみる
『著作権保護のため、記事の一部のみ表示されております。』
Source: 森川智之オフィシャルブログ
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jazieta-blog · 5 years
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東日本大震災から8年、安倍政権の被災者切り捨て、棄民政策の実態 「復興五輪」と銘打ちながら復興を妨害
litera https://lite-ra.com/2019/03/post-4598.html  本日、東日本大震災から8年を迎える。犠牲者数は「震災関連死」を含めて2万2100人を超え、いまなお避難生活を余儀なくされている人は約5万1778人、福島第一原発事故が発生した福島県では約3万2600人が避難生活を強いられている。  だが、政府は現実とは裏腹に「復興」をアピール。その象徴が、来年開催される東京五輪だ。  たとえば今月、聖火リレーの出発地を、福島第一原発から約20キロの場所に位置する、原発事故の対応拠点だった「Jヴィレッジ」にする方向で大会組織委員会が最終調整に入っていると報道されたが、これは五輪招致演説で「アンダーコントロール」などと大嘘をついた安倍首相の発言を正当化するための政治的な判断でしかない。  現に、安倍首相は、震災発生翌年の2012年からおこなわれてきた3月11日の会見を「一定の節目を越えた」などという理由で2017年に打ち切り。さらに、安倍政権は避難指示を解除する“帰還政策”を進めてきたが、たとえば避難指示解除から約2年が経った飯舘村に戻った村民は1割余り。同じく富岡町も1割に満たない状態だ。  しかも、2017年3月末には自主避難者への住宅無償提供が打ち切られたが、今年3月末には家賃補助も打ち切られる。8日の参院予算委員会では、福島県出身の共産党・岩渕友議員が「国家公務員宿舎への入居は3月末で打ち切られる。約半数は住まいが決まっていないのに、退去しない場合は2倍の家賃を請求される。追い出し以外の何物でもない」と指摘したが、渡辺博道復興相は「福島県が主体」などと責任逃れの答弁に終始した。 「復興五輪」を掲げることであたかも「復興」が進んでいるかのように印象付ける一方、「復興」が果たされていない現実を無視し、被災者支援を一方的に打ち切っていく──。これでは五輪を大義名分にした棄民政策ではないか。  実際、被災3県に暮らす人びとの東京五輪に対する視線は厳しい。  たとえば、朝日新聞が被災3県の住民にアンケートを実施し、「東京五輪・パラリンピックが復興に好影響を与えると思うかどうか」を質問したところ、「思わない」と答えた人が68%にもおよび、「思う」と答えた人はわずか27%だった(朝日新聞3月9日付)。  こうした思いを抱いているのは、被災者だけではない。宮城県気仙沼市でK-portという名前のカフェを開くなど被災地復興活動に力を入れている俳優の渡辺謙は、2月11日付朝日新聞DIGITALのインタビューでこのように語っている。 「2020年の東京五輪だって、復興五輪のはずなのに経済五輪になっているところが気になります。日本が復興していく姿を世界に見せていくんだというところに端を発しているはずなのに、経済効果だけを考えるオリンピックになっている気がします。東京だけ盛り上がって、東北が全然そっちのけっていうかね。遠い国の話みたいな感じなんじゃないかなあ」  また、先月2月24日に亡くなった日本文学研究者で、東日本大震災後に日本国籍を取得し、日本に永住すると表明したドナルド・キーン氏も、「復興五輪」の欺瞞をこのように喝破していた。 「私は、もともと東京五輪には反対だ。まだ、その時期ではない。「復興五輪」と銘打ちながら、東日本大震災や原発事故の被災地の復興とは無関係だ。むしろ、五輪関連の公共事業によって職人が不足し、復興の遅れや費用の高騰を招いていると聞く。原発事故の後始末もこれからだ。  被災地にもスポーツ観戦が好きで、東京五輪を楽しみにしている人もいるだろうが、大震災から六年たっても、それどころではない被災者は少なくない」(東京新聞2017年6月11日付) 渡辺謙、ドナルド・キーンも指摘! 東京五輪が復興を妨げている現実  渡辺やキーン氏が指摘するとおり、招致段階での「復興五輪」というお題目が完全に忘れ去られているだけでなく、経済効果重視と五輪至上主義の結果、リンピックが復興を妨げる原因ともなっている。五輪関連の建設ラッシュなどのせいで労務単価が上がり、東京の工事費は高騰しているからだ。  2015年9月25日付毎日新聞の報道によれば、〈工事原価の水準を示す「建築費指数」(鉄筋コンクリート構造平均)は、2005年平均を100とすると今年7月は116.5。東日本大震災前は100を下回っていたが、五輪決定後の2013年秋から一気に上昇〉したという。挙げ句、〈復興工事が集中している被災地では人手不足に加え、建築資材費の高止まりにより採算が合わず、公共工事の入札不調が相次〉いでいるというから、五輪開催がむしろ被災地の復興を妨げているのだ。  実際、読売新聞が実施した被災3県の沿岸部の市町村に復興の進捗を問うアンケートでは、〈陸前高田市と宮古市、大槌町、田野畑村、野田村は「1~2年遅れている」と回答。うち宮古市と野田村、田野畑村が「資材費の高騰や建設作業員の不足、入札不調」を遅れの原因に挙げた〉という(読売新聞オンライン3月10日付)。 「復興五輪」と謳いながら、五輪開催によって復興が妨げられている現実──。いや、「復興五輪」という錦の御旗の下に、多くの人が被災地や被災者が抱える問題から目を逸らしていないか。それどころか、「被災地の現実」を口にすることじたいがタブーになりつつある。 ウーマン村本も炎上! 原発批判と「被災地の現実」を語ることがタブーに  たとえば、ウーマンラッシュアワーの村本大輔が2月15日、〈福島の浪江町で21時以降の遅くまで空いてる飲み屋さんありますか?あと宿も。知ってる方いたらインスタのDMください。自分の町がなくなることへの話が聞きたい。ちなみに明日の話です〉と投稿したことに批判が殺到。村本はその後、〈最低な一言だった〉〈おれは思いやりが欠けてた。いや、欠けている。大反省しないと〉と撤回・謝罪をした。  たしかに「自分の町がなくなること」というのは無神経な言葉だっただろう。ただ、浪江町は現実として、避難指示解除後、帰還した居住者が6%強ともっとも低い。ひとたび原発が事故を起こせば暮らしを奪われるのは住民であり、現実に、福島では自分の故郷を奪われてしまった住民が数多くいるのだ。大飯原発のお膝元である福井県おおい町に生まれた村本にとって、その現実は他人事ではなかったからこそ、行動を起こそうとした。それを言葉尻だけ捉えて、炎上させ、現実を封じ込める。  原発事故の影響もそうだ。マスコミではすでに原発批判は完全にタブーになっており、ネットでも放射線の危険性を口にしようものなら、たちまち“放射能厨”として炎上させられてしまう。  政府による「復興五輪」なるまやかしに乗り、福島への“棄民政策”に大きな反対の声も上がらず、東京五輪の開催に疑義を呈すると「もう決まったこと」「和を乱すな」と同調圧力が起こる──。私たちは「復興」に名の下、一体、何から目を逸らされてしまってきたのか。震災から8年を迎えるきょう、いま一度、そのことを問わなければならないだろう。 litera https://lite-ra.com/2019/03/post-4598.html
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csijaki-blog · 6 years
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『みらいへのとびら』
2016年4月7日
·2013年の12月から、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの担当スタッフと一緒にすすめてきた「放射能リテラシーワークショップ」は、以下に報告をまとめていますが、
http://blogs.shiminkagaku.org/shiminkagaku/2016/01/npo.html
その印刷物という形での一つの成果とも言える、ハンドブック『みらいへのとびら〜知って、考えて、話してみよう 自分���こと、みんなのこと、放射能のこと〜』が出来上がった。この春から福島市内の公立中学校全校で全生徒に配布されることが決まり、これからの展開が期待できそうです。
『セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン 東日本大震災緊急・復興支援 5年間の軌跡 子どものために 子どもとともに』という報告書に寄せて、私が書いた文章でこのワークショップのことを述べているので、それを転載しておきます。
このハンドブックをご覧になりたい方も多いと思われますが、後ほど、どうすればご覧になれるか、そのやり方が決まりましたら、改めてお知らせいたします。今しばらくお待ち下さい。
*********************
原発事故以降、福島県は県をあげて小中高での放射線教育を推進してきた。だが、従来の教科の枠に収まらない内容を、しかも、今現実に抱えている、健康への不安や避難・帰還の是非など、実に様々な問題に向き合うべく、学べるようにすることは、どの教員にとっても至難の業であろう。放射能リテラシー事業は、その困難を見据え、複数の中学校などの協力を得て試行錯誤を重ねながら、開発された。その最大の特徴は、子どもたちが放射線の正確な科学的理解をはかることと、放射能汚染・被曝がどのような社会問題をもたらし、それへの対処にどう関わっていけるかを思い描くことを統合している点にある。一部に実測やゲームも取り込み、子どもたち自身の主体的な意見を最大限に引き出すために、徹底した対話型をとっている。これまで約20回におよぶ中学校などでの実践で、関わってくださった教員の方々からも好評をいただいたが、何よりも教室の子どもたちの生き生きとした反応が忘れられない。人類史に刻まれるほどの大規模な原発事故による広範で長期的な影響を、子どもたちが自身の力でどう乗り越えていくのか―放射能リテラシーワークショプはそのための確かな一助になると思う。
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東日本大震災から7年を迎えるのを前に、人気アイドルグループ「AKB48」の横山由依さん(25)や姉妹グループ「NGT48」の北原里英さん(26)ら8人が4日、女川町女川小体育館で復興支援ライブを開き、弾む歌声とパワフルなステージで地元住民ら約300人を元気づけた。 メンバーは、ヒット曲「ヘビーローテーション」や「恋するフォーチュンクッキー」、復興支援チャリティーソング「掌が語ること」など8曲を披露。「心のプラカード」では、最後にメンバーが1文字ずつプラカードを掲げ、「ともに未来へ宮城」というメッセージになる演出があった。   ライブ中盤には、会場を巻き込んだじゃんけん大会があり、最後の1人にサイン色紙が贈られた。2回行い、女川町役場に勤務する宮川直喜さん(28)と女川小4年阿部琉娃(るあ)さん(10)が勝ち残った。阿部さんは「うれしい。みんな美人だった。歌ってくれた曲も全部好きだったので幸せいっぱい」と笑みを見せた。 この日、復興支援ライブは女川町だけでなく、釜石市と南相馬市でも同時に開催された。ライブを中継でつなぐ場面もあった。   女川町には2度目の訪問だった横山さんは「被災地に来る度『ありがとう』とか『頑張ってね』と逆に応援されるので、すごくパワーをいただいている。これからも私たちにできる復興のお手伝いを続けていけたら」と語った。 今春でのグループ卒業を発表している北原さんは、被災地訪問はおそらく最後という。女川町3度目の訪問に「間もなく7年。月日がたっても忘れてはいけないという意識をずっと持ち続けたい」と思いを新たにしていた。   AKB48グループは、震災直後に「誰かのために」プロジェクトを始め、11年5月から被災3県(宮城、岩手、福島)を中心にライブを開催している。女川町への訪問は4回目。 石巻かほく メディア猫の目
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jijinetasite-blog · 6 years
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福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(上)–寺島英弥 京都市伏見を再訪したのは2017年2月26日。まだ冬のさなかの東北と違い、京都は梅が咲き誇る早春の候だった。東日本大震災の被災地を毎年応援している「もっと広がれ支援の輪from伏見」という地元の労働組合、市民らのイベントに3年ぶりに講演で招かれ、「大震災から6年 何も終わらない東北の被災地」との題で現状を報告させてもらった翌日、足を運んだ場所がある。近鉄・桃山御陵駅前の踏切を渡り、にぎやかな大手筋商店街のアーケードをくぐって両替町の小路を曲がると、その店は変わらず穏やかなたたずまいを見せていた。 焦げ茶の柱や板戸、白壁、銀色に光る瓦。京都の下町らしい古い町屋作りの店には「みんなのカフェ」の表札。立て看板のメニューには、手作りのシフォンケーキ、チーズケーキにまじって、東北のにおいのする「ずんだティラミス」や「わっぱ飯ランチ」も。あるじとして切り盛りするのは、福島市から自主避難している西山祐子さん。東京電力福島第1原子力発電所事故の後、同じく京都に移った同胞の家族らを支援する社団法人「みんなの手」の代表だ。伏見にある避難先から近い町屋を自ら借りて改装し、2013年5月に店開き。「みんなの手」の拠点でもある。3年前の講演の打ち上げ会場が偶然「みんなのカフェ」という縁で西山さんに話を聞かせてもらったのが2013年10月。それ以来の再会だった。 福島から京都へ自主避難 西山さんの自宅は福島市瀬上町。阿武隈急行という第3セクターの駅があり、のどかなリンゴ畑に囲まれた住宅地だ。京都に避難するまでの経緯を、筆者のブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る109~同胞をつなぐ、はるか京都の地で』でたどってみよう。 【「2011年3月11日の震災があり、福島第1原発事故による放射性物質の拡散で、原発から60キロ以上離れた福島市内でも3月15日に急激に放射線量が増えて、24.2マイクロシーベルト毎時まで上がった。(政府から)福島市に避難や屋内避難の指示は���なかったけれど、『自主的に避難した方がいい』と友人からメールをもらった」 「共同通信の記事(同16日)も、福島市で同日5時以降、『通常の約500倍に相当する毎時20マイクロシーベルト以上の放射線量を少なくとも5時間、連続して観測した』という県の発表と、『必要のない外出は避けてほしい』という呼び掛けを伝えていました」(注・17年7月12日現在の『福島県放射能測定マップ』で、同市瀬上町は0.1前後に低減)。 「両親や夫に反対されたけれど、避難しようと決め、そのころ2歳の娘を連れて18日に東京に行った。でも、都は自主避難する人の受け入れ、支援をしておらず、親戚を頼って都内でアパートを借り、3カ月滞在した」。夫は仕事のある福島に残り、二重生活となって経済的な負担も生じました。「5月の連休に一度帰ったけれど、放射線量の状況は震災前に戻らず、避難が長期化するかもしれないと感じて、受け入れの情報を懸命に集めた」。 福島県全域から自主避難する人々を独自の震災対策事業として受け入れていたのが、京都府でした。「対応がとても丁寧、迅速で、2、3週間の準備で避難先の下見をさせてくれた」と西山さん。府から提供されたのが、伏見区にある公務員宿舎でした。夫はやむなく引き続き福島に残ることを決め、「なじみのない西日本は心細いが、安心できるなら」という両親、娘さんと4人での京都の暮らしが始まりました。未知の土地ゆえに、福島から避難した人たちがどこにいるか、誰か知り合いが来ていないのか、知りたくなり、府に問い合わせましたが、「個人情報は教えられない」と壁に阻まれて、五里霧中だったといいます。 地元で市民らの支援の会が活動しており、「行ってみたら、たまたま同じ公務員宿舎に避難している人がいた。『声を掛け合って、集まってみないか』という話になり、8月に初めての集いを宿舎で開いた」。20人も集まり、西山さんら有志は「ふれあいの会」を旗揚げしました。京都新聞や全国紙の取材も入ってニュースが広まり、支援したいという申し出も寄せられした。府から必要な家財道具の支給はありましたが、「何かできますか?」と。  「私がいる公務員宿舎とは別の場所で暮らす福島からの避難者とも出会った。府の宿舎以外には公的な支援がないことが分かり、『ずるい』と言われた。同じ避難者として、誰もがつながれることが必要だ、と感じた」といいます。「原発事故で故郷を離れた人、津波のために帰る家をなくした人、福島だけでない他県からの避難者も、とにかくそれぞれが孤立に陥らず、つながろう。支援をしたい、という地元京都の人もつなぐ。そんな場をつくりませんか」と西山さんは呼び掛け、12月に「避難者と支援者を結ぶ京都ネットワーク みんなの手」を立ち上げました。スタッフは、西山さんら福島からの避難者が2人、京都の有志3人。「自分はつなぎ役になろう」と決めて、拠点は公務員宿舎の自室に置いて月1、2回のニュースレターを発行し、避難先リストを持つ京都府に郵送を委託しました。発送便の届け先は435世帯に上ります。希望者にはメーリングリストを使った発信も始め、登録者は現在65人。「支援やイベントの招待など、いろんな情報が電話でも集まるようになり、それらを発信してきた」】 福島県が支援打ち切り それから6年。西山さんをはじめ福島県内から全国各地へ自主避難を続けてきた人々の境遇は、大きな転機を迎えようとしていた。 筆者の京都訪問のほぼ1カ月後、政府は福島第1原発事故の被災自治体に発した全住民の避難指示を、2017年3月末(富岡町は4月1日)に解除。それを以前から見据えたように同県は2015年6月、放射能への不安などから自らの判断、選択で避難した県民の生活を支えてきた住宅無償提供(家賃全額補助)の支援を打ち切る方針を決めていた。その時点で古里を離れて県内外に避難した人は4万3700世帯、10万1900人、うち自主避難者は9000世帯、2万5000人に上る。同県の意向は「除染や災害公営住宅の整備が進み、生活環境が整うと判断」「災害救助法に基づく応急的な支援から新たな生活再建策に軸足を移す。県外の借り上げ住宅から県内への引っ越し費用を補助するなどして帰還を促す」(同月16日の『河北新報』)と報じられたが、政府のスケジュールと軌を一にしていたことは明らかだった。 復興庁も同じ時期、自主避難者らを対象に「子ども・被災者支援法」の基本方針を改定する案の説明会を東京都内で開き、(1)自主避難に関する支援を縮小する(2)古里への帰還支援などに比重を移す――という方針を伝えた。東日本大震災から5年の節目であった2015年度末で政府の「集中復興期間」が終わることを踏まえ、「福島県内の多くの地域で空間放射線量が大幅に低減した」「避難指示区域以外の地域から避難する状況にない」などを根拠に、法律の上でも自主避難者への支援を打ち切る内容だった。「避難者の切り捨てではないか」という反発や疑問が会場の自主避難中の人々から相次ぐ中、政府は同年8月25日、「幕引き」を急ぐかのように閣議決定した。 翌9月15日の『河北新報』には、「住宅無償提供 延長を 自主避難者 増す負担」という見出しの記事が載った。 【「母の願いはただひとつ、子どもを守りたい。そのためにもう少し山形で子育てさせてください。どうか住宅支援の延長をお願いします」。4日、山形市で開かれた「住宅支援の延長を求める会」の発足式。原発事故当時、3歳の娘と福島市から山形市に母子避難したパート従業員の女性(42)が切々と訴えた。長距離通勤、母子避難、二重生活...。自主避難者の環境はさまざまだが、避難生活で家計の負担が増す中、住宅無償提供は大きな支えになる。中には貯金を取り崩しながら生活する家庭もあり、切実な問題だ】 福島県は支援打ち切りの方針を決定した後、担当者に各地の自主避難者を戸別訪問させた。だが、「職員が訪ねてくるなり一方的に通告された」「打ち切りありきで被災者と接している」といった当事者の声が、「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」「原発事故被害者団体連絡会」などを通して明るみに出た。2016年に入り、多くの避難者を受け入れた山形、米沢両市の議会が撤回を求める請願を採択するなど、住宅無償提供の延長を訴える活動は全国に広がったが、内堀雅雄知事は再考に応ずることなく、「県全体で丁寧に対応する」と語るのみだった。これらの決定の積み重ねは、避難指示解除を境に、自主避難が「原発事故のため強いられた決断」から「自己都合」へと扱いが変えられてしまうことを意味した。当時の今村雅弘復興相が2017年4月4日、「(もはや自主避難に政府の責任はなく)本人の責任、本人の判断」と突き放した「自己責任」発言も、自主避難者を切り捨てる流れを代弁したものと言えた。 とどまるか、帰還か                    「京都府、京都市とも、自主避難者への支援を2年間、延長してくれた」と、西山さんは語る。京都には2016年末現在で福島県などから計95世帯、257人の自主避難者が暮らしていた。冒頭の被災地支援イベントのように、地元では福島県からの自主避難者への市民の受け入れが温かく、支援打ち切りに反対し避難者の窮状を訴える署名集め活動なども行われた。両府市は足並みをそろえて「入居から6年間」の避難者を無償で受け入れ、それを過ぎた後も独自に2019年3月まで有償ながら提供を続けると決めた。全国の多くの自治体では政府の要請を受け、自主避難者の公営住宅への優先入居枠を設けて住み替えを求めたが、京都ではそのまま住み続けることができる、良心的な対応が生まれていた。 「でも、わたしは去年の3月、府から避難先に充ててもらった公務員宿舎を自分の判断で出て、父と母、娘と一戸建ての家を借りている。もう去年から住宅の支援を受けていないのです」と西山さん。なぜですか?と問うと、「そのころは京都でも支援が打ち切りになりそうな空気だった。2017年初めの時点で『支援は終わりです』と京都府からも言われていた。それが、2月になって急に『支援を延長します』に変わった」。その間の市民たちの応援が行政を動かしたとも言えたが、西山さんは、「仲間たちにも『もう支援に甘えず自立しよう』と言ってきたのに」と複雑な気持ちだったという。「京都での行政の支援もあと2年という先が見え、『みんなの手』の活動をこれから1年、1年どう続けていくか、思い悩むところもあります」 避難生活の苦労を共にしてきた家族にも、思いもかけぬ悲しい出来事があった。「京都の暮らしになじめない部分があり、ストレスに苦しんでいた」という83歳の母親が亡くなったのだ。「福島の家が大好きだったんです」。同市瀬上町の自宅では、1歳上の父親が160坪の畑を借りて家庭菜園を作っており、夏になると家のブドウ棚の下にビニールプールを広げて、娘真理子さん(現在8歳で小学3年)を遊ばせたという。その楽しさを真理子さんもよく覚えていて、「早く帰りたい。京都より福島の方がいいと話すんです」。 自宅の周りの地域でも除染作業が行われ、放射線量は低減したが、「安全と言われても、安心はできない。『ホットスポット・ファインダー』で見ると、まだ高い所がある。子どもを住まわせてもいいのかどうか、悩みます。低線量被ばくの危険をぬぐえないのに、『安全』と決めつけないでほしい」と西山さん。サラリーマンの夫は仕事のため福島に残り、二重生活が続いてきた。2年前に東京の企業に再就職し、以前より距離は縮まったが、家族分断の現実は変わっていない。 駆け抜けてきた4年 「みんなの手」の活動も4年になる。「つながってくれている避難者は、京都府に登録している約250人。3年前の600人からずいぶん減りました。でも、住宅探しなど、さまざまな支援情報などのニュースレターを毎月送っている先は、関西の他府県にいる人も合わせて、いまも650世帯ある」。情報の発信だけでなく、京都での交流会も年7回ほど催し、古里の東北らしい芋煮会や紅葉狩り、餅つき大会など、家族で楽しめるレクレーションを企画してきた。避難者の身の振り方を検討する一助として、京都への移住を希望する人を応援する団体「京都移住計画」と共にランチ交流会なども。 「ふるさととつながろうツアー」は2011年12月、避難先の京都と福島に離れた親子らをつなぐ夏休みや年末の「家族再会プロジェクト」として始め、その後福島県の交通費助成も得て、2013年から現在の名称で避難者の参加を募って続けている。「今年(2017年)のお正月には30人が参加しました。次の3月のツアーは40人くらいになりそう」。本拠とする「みんなのカフェ」も、西山さんが避難先の伏見の古い町家を見つけて改装したが、助成金が数百万円不足し、最後は自費で賄った。「スタッフは6人。南相馬市など福島県からの避難者の仲間も働いてくれたけれど、それぞれ古里に帰って、いまは京都の人だけになった」。 西山さんは原発事故前、福島や仙台で英語の講師、通訳のキャリアを積んでいた。それらを捨てての避難生活は、「マイナスからの出発になった。先のゴールは見えず、今日のことしか考えず、自分はただ髪を振り乱して駆け抜けてきた」。避難者の誰もが「帰還するか、京都に残るか」の選択を迫られていた中で、すでに福島に家を造って再出発した人も、古里を思いつつ放射能への不安で京都定住を決めた人もいるという。自身も同じ当事者でありながら、同胞の支援活動に奔走し、「就活に役立てて」とカフェの2階でパソコン教室などを始めたり、避難家庭の子どものための英語教室でも教えたりしている。 「自分を後回しにし、いろんなことをやって疲れてしまったところがある。娘も大きくなってきた。いつまでも避難者の支援でなく、そこから新しい生き方を探したい気持ちもある」。 そんなチャレンジで4月から京都外語大の大学院に通い、再び英語の勉強を始めた。 この数年が最後の活動になるかもしれない「みんなの手」の代表として、いま取り組むのは、京都の地で避難生活の苦楽を共にしてきた仲間たちの証言集づくり。「古里を離れねばならなかった自主避難者の痛みと真実を、みんながばらばらになって、忘れられる前に書き残し、多くの人に伝えたい」。 西山さんは忙しい活動を縫って仲間からの聞き取りを始めていた。京都にとどまり、あるいは古里へ帰還した仲間を訪ねて。(つづく) 寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。 関連記事 「避難指示解除」後の飯舘村(下)被災地の残酷な現実 「避難指示解除」後の飯舘村(上)帰還農家が背負う「開拓者」の苦闘 映画『新地町の漁師たち』が描く「もう1つの福島」 「食用米」復活へ模索続ける「飯舘」「南相馬」の篤農家たち 飯舘村「帰還」の哀しみ(下)託した「願い」 (2018年2月28日フォーサイトより���載) Source: ハフィントンポスト
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