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#小仏城山
kiichilog · 11 months
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エビネ Calanthe discolor
ラン科エビネ属 かつて高尾山域には多くのエビネが咲いていたといわれますが 盗掘で少なくなったそうな・・・
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mt-akiwas · 2 years
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2022.6.17
Kobotoke shiroyama
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yamada50 · 1 year
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古事記に仁徳天皇と黒比賣との伝承が残る式内宗形神社 吉備高原に鎮座する宗形神社で延喜式内社です 10代崇神天皇の御代に筑紫の宗像より勧請し創建したと伝わります また古事記において仁徳天皇の段に皇后の石之日賣命の嫉妬を恐れた妃の黒日賣が吉備に里帰りし仁徳天皇が吉備に逢いに行くという物語があり、こちらの宮で再会したという伝承が残ります 日本書紀には黒日賣の話はなく代わりに応神天皇の妃、兄媛を追って吉備に逢いに行くという記述があります いずれにしても古代大和と吉備は婚姻によって協力関係にありました その後は葛城氏で皇后の石之比賣命の子が天皇として三代続けて即位することになり大和や山背の勢力が力を増すこととなります 備前備中美作では牛蒡締のしめ縄が多く見られ、一締めだけのものもあればこちらの神社のように連結して飾るところもあり、後者の方が主流のようです 古来天皇行幸の地であったことから広大な神戸、神領を持ち大宮として近世まで篤い崇敬を受けました #宗形神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 宗形神社(岡山県赤磐市)(むなかたじんじゃ) 鎮座地:岡山県赤磐市是里3235 主祭神:多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命、田心比賣命、大己貴命、大日霎命、豊宇氣比賣命、須佐之男命、菅原神、速玉男命、伊邪那美命、事解男命、大山咋命 社格:式内小社 県社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #鳥居#神社建築#神社仏閣 #パワースポット #赤磐市 #古事記 #神社巡拝家 (Akaiwa, Okayama) https://www.instagram.com/p/Cld5dJ9vjIG/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立��上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で��ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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moment-japan · 1 year
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愛染明王坐像〔重文)奈良国立博物館蔵
建長8年、 山城国相楽郡〔現在の京都府木津川市)で、大仏師・快成と小佛師快尊・快弁の手によって東大寺大仏殿の焼け残りの柱材を用いて造像・建立された愛染明王。
願主は真言律宗の開祖・叡尊の高弟で阿闇梨の寂澄。
尚、叡尊の高祖は空海です。
真言律宗は真言密教とその戒律である三昧耶戒(さんまやかい)を修学する宗派。
三昧耶戒とは、サンスクリット語のサマヤ(約束・契約という意味)からきており、仏との約束に基づく戒めと誓約という密教だけに存在する戒律のことを三昧耶戒といいます。
鎌倉・室町時代に一大宗派に躍り出た真言律宗ですが、明治時代にこの宗派も例外なく薩摩・長州の輩連中による廃仏毀釈によって復活が不可能というくらいの壊滅的な被害を受けました。
しかしその後、さまざまな知識人や常識ある人々の助けもあり、現在、北は福島、南は熊本まで100近くの末寺を擁する宗団にまで復活しました。
数多な国宝を有する京都・浄瑠璃寺も真言律宗の寺院です。
浄瑠璃寺はもともと奈良・興福寺の末寺でしたが、薩摩・長州からの廃仏毀釈で壊滅的な被害を受けた興福寺と同じ被害を受けないようにと、真言律宗に転じ貴重な文化財を守りました。
鎌倉時代作、奈良国立博物館蔵の重文・愛染明王。
真紅の身体と三眼六臂の憤怒相、怒髪天の頭上には、ひとたび雄たけびをあげれば、どんな猛獣や邪鬼もおとなしくなるという獅子の冠、後部には執着や愛欲を焼き尽くす日輪形光背、腕には煩悩を打ち砕く五鈷杵に衆生の眼を覚まさせる鈴の五鈷鈴、悟りの世界の象徴である蓮の花、そしてトレードマークであるキューピットのような弓矢などを持っています。
仏教における仏は、そのいくつかが古代ローマ神話に出てくる神が起源になっています。
愛染明王もローマ神話の神クピードー(キューピット)が地中海からシルクロードを通り中央アジアでヒンズー教の神仏に姿かたちを変え、日本に伝わってくる過程で、このスタイルになったといわれています。
愛染明王は左手の第三の手だけは何も持っていない金剛拳のように見えますが、この拳の中には衆生の思いや願いに応じるための摩尼宝珠を隠し持っています。
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bsamngodangbralba · 5 months
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容��ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の��解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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oniwastagram · 1 year
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📸宝泉院庭園(京都市左京区)② Hosenin Temple Garden, Ohara, Kyoto ——平成時代の京都で作庭された現代日本庭園の中では最も前衛的?な枯山水庭園“宝楽園”(仏神岩組雲海流水花庭)は長野県の作庭家・園冶庭園研究企画創作所/山岸満多朗の作庭。有名な額縁庭園“盤桓園”や紅葉の美しい江戸時代中期の“鶴亀庭園”も! ———————— ■宝楽園 そして宝泉院の中で最も大きな庭園が2005年(平成17年)に新たに作庭された回遊式枯山水庭園“宝楽園”。別名が“仏神岩組雲海流水花庭”。命名も見た目もなんだかアヴァンギャルドな他にあまり体験したことがないタイプの庭園…! その意味するところは《地球太古の創世と、その原初の海》を想像して作庭された庭園。いわゆる仏教的な思想/神仙思想に結びつく三尊石や蓬莱山に見立てた石はあるものの、宗教的な思想よりも更に昔のものという発想の面白さ。ヨーロッパのストーンサークル的な石鳥居などデザイン的な斬新さもありつつ、秋には紅葉と白砂のコントラストが美しい。 この立派な石庭、てっきり京都の有名な方・会社の作庭かと思いきや、手掛けたのは長野県の作庭家・山岸満多朗(山岸万太郎)さん/園冶庭園研究企画創作所。元々は京都や東京で修行し、東京時代には皇居や『ホテルニューオータニ』にも入られていたとか(ということは岩城造園に居たのかな…?)。長野には小口基實さん以外にもこんな強烈な作庭家さんがいらっしゃったのか…。 伊勢出身・山梨育ちの夢窓疎石。近江出身・岡山育ちの小堀遠州、岡山出身岡山育ちの重森三玲。京都の名庭園を作ってきた先人たちを見ても、初���から終わりまで京都という人ばかりではない。そんな風穴を感じさせてくれる庭園! 京都・宝泉院庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/hosenin-temple-kyoto-%e5%ae%9d%e6%b3%89%e9%99%a2/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #kyotoarchitecture #zengarden #landscapedesign #beautifuljapan #beautifulkyoto #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #kyototrip #kyototravel #kyototemple #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都寺院 #京都旅行 #京都観光 #大原 #京都大原 #園冶 #園冶庭園研究企画創作所 #山岸満多朗 #ランドスケープ #おにわさん (京都 大原 宝泉院) https://www.instagram.com/p/CqDg8DcP_lq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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tutai-k · 1 year
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カモを見たあとで鴨を食べ損ねた
文学フリマ京都7に参加してきた。 感染症が始まる直前、最後の文フリの参加が文学フリマ京都だった。あの頃はまだ感染症が流行して三年もイベントに参加できなくなるなんて思っていなかった。 仲のいい友達とアフターを楽しんで、また普通に会えると思って別れたから、そのとき、ドトールみたいなチェーン店でゲームの話をしたことを鮮明に思い出そうとしても思い出せない。 去年9月、文フリ大阪に久しぶりに参加しているから、これが「復帰1発目!」というイベントではないのだけれど、去年は始発で出かけて大阪城公園で鳥を撮りまくってからの参加だったから、眠くて眠くて仕方がなくてほとんどイベントの記憶がない。 だから、記憶があるイベントとしては1発目。
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ここでも書いたけど、前泊で参加した。 1日目は奈良・京都でずっとお話をしたいと思っていたひとたちに会った。一緒にイベント参加しようねって言いながら感染症でずっと無理だった人、感染症の蔓延しているさなか、出国まぎわに地元に来てくれて、鳥の写真を撮りながらおしゃべりしようと言いながら天気が悪すぎて、キャンプ場でスモアをつくったり、おしゃべりが楽しかった思い出をくれた人……。 「イベントに行けば会えた」人たちは、イベントに参加できなくなってしまうとなかなかあえなくなってしまって、地元の友達のようには気軽に「遊びに行けない」人なんだ、ということにびっくりした。 「誰かに会う」ということは、じつはとても困難だ。リモートで遠方のひととも気軽に会話できる、Twitterでは毎日のようにわちゃわちゃエアリプしている、でも「会う」というのは、いろんな要素と条件をクリアしていないとできないのだと言うことを、その要素と条件を簡略化してくれるのがイベントだったんだと思った。
文フリ当日の京都は曇りだった。 もう少し天気が回復すれば、オシドリで有名なところへ行こうと思っていたのだが、いつも使っているミラーレスではなく小さなコンデヂでは警戒心がつよく遠いところにいるオシドリは撮れない。 せっかく京都まで来たのに、とぶつぶついいながら、文フリ会場の近くを検索したら、平安神宮のお庭にカワセミが飛んでくるらしい。 カワセミとかべつにどこでも見られるのだが、せっかくカメラも持ってきたんだし、神宮のお庭という素敵な景観のカワセミとか撮れたらうれしいじゃないか!
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ホテルでごろごろしているのをやめて、大急ぎで平安神宮へ向かった。 お庭は600円で入れた。曇天で、しかも早朝、お庭はほとんど人がいなくて、カワセミもいなかった。 でも池がたくさんあって、カルガモがたくさんいた。ようすがちがうカルガモを発見する。カルガモとマガモの交雑種(ハイブリッド)。「マルガモ」という俗称があることをそのときはしらなかったので、「カルマガモ」と名付けた。ずっと観察していると、カルマガモは自分のことをカルガモに分類しているらしく、カルガモたちと行動を共にしている。マガモの群もあったのだが近寄ろうとはしていなかった。
庭を巡り終えたあと、文フリの会場のみやこめっせへ。
すごく久しぶりだったのに、体って普通に動くものなんだね。前日に会った人に「自転車の乗り方は体が覚えているというけれど、三年前の自分がイベントセットを用意してくれていたし、やらなければならないことのために体が動く」と言っていたが、本当にそう。
設営本能
としか言えないものがわたしを動かしていく。宅配搬入の段ボールをさっさと持ってきて、机から椅子を下ろし敷布を敷き、段々ボールを組み立て、本を並べていく……まるで前世の記憶! 私ってこんなにできる女だったのか?! まあ前々日の支度のときに「京都 野鳥」「京都 野鳥スポット」「鞍馬山 野鳥」とか調べまくっていてサークルチケットの存在を完全に忘れ去り、八束さんに「サークルチケット忘れてきたんですけど、持ってませんか」とDMをもらって(電車の中だった大和八木くらい)「サーーーーーーーークルチケット!!!!!」とその存在を思い出した。ちなみに八束さんはサークルチケットを忘れてきていなくて、ちゃんと持ってて、八束さんがサークルチケットをめぐんでくれた。だから前世からちょっと成仏しかけてたね……。
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見本誌も提出し終えて、まったりしていると隣接の鹿紙路さんがやってくる。鹿紙さんとは感染症が蔓延してからもじつはいろいろ旅などしているので結構会ってる。とはいえ久しぶりに会えるのでうれしい。 鹿紙さんは会場ぎりぎりにやってきたが、颯爽と組み立てていく。 みんな体が覚えているのだ設営を……。(鹿紙さんはイベント結構参加してるからね)
イベントがはじまると、びっくりするくらい人がたくさん入ってきた。文フリ大阪もたくさん人が来ていた様な気がするけど、なにぶん始発で鳥(以下略)だったため、記憶がない。
今回は新刊『山梔の處女たち』を持ちこんでいた。初めての百合スペースだし……めちゃくちゃ緊張していたが、鹿紙さんが隣にいるのでしゃべりつづけて心を保った。 とはいえ、わたしは文フリのスペース内ではあまり接客はしない人間で、愛想のないやつだなあとたぶん思われているだろうと思う。 服を買いに行ったとき、自分に似合うものなのか・着られるものなのか、値段は支払えるものなのか、それはいろんな要素がせめぎ合った「選択」だろうと思うけれど、本選びもそうだろうと思う。 「本当に読みたい本だろうか」「読める本だろうか」という吟味をするとき、なるべくいろんな声(特につくっている人間の心情や期待など)を浴びたくはないとわたしは思うので、吟味する時間と立ち去りやすさを考えてそうしている。 まあ、接客をしなくても、愛想がなくても、立ち寄ってくれるというのは「いいなあ」という。 普段はひとに愛想を振りまいて、なんとかご機嫌を取って暮らしている人間だから、こうやって無愛想に座っていても「いい」空間はありがたい。新刊は持ち込みの三分の二、他の本も半分くらいは縁があったみたい。 無愛想でも、 見本誌を見て、表紙がとても素敵だったから、タイトルがよかった、前に読んだ本が面白かったから、おすすめしてくれる人がいたから。 本をえらんでくれる「理由」を話してくれるひとがときどきいて、そうすると小説ってひとりで書いて、ひとりで本にして、ひとりで売ってるわけじゃないんだなと思う。
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イベントのあとは、鹿紙路さん、沙耶さん、らしさんと日本酒バーへ。 ほんとうはわたしも飲むつもりだったのだが、家のことが重なりすぎて後泊しないで帰ってきてほしいと言われて、酒は飲めなかった。 沙耶さんとウーロン茶を飲みながら、らしさんと鹿紙さんが日本酒を飲みまくっているのを眺め、鳥の話をたくさんした。 タメイーランドのこと、野鳥の会のこと、浜の鳥のこと、沙耶さんとゆっくり鳥の話をしたいと思っていたのでとてもいい時間を過ごせた。 近いうちに、一緒に鳥を撮りにいけたらいいなあと思っている。約束をした。 カモを見たあとで鴨を食べたいね~って話してたら鴨料理は売り切れていた。 カヤさんが教えてくれた「カモサブレ」を京都駅で買う。ますく堂さんがくれた「ハトサブレ」と見比べ・食べ比べをしようとおもう。
買い物も結構した。 買った本のリスト。 『LAZY MONDAY MORNING』あずみ(冬青) あずみさんの新作を読めるのがうれしい! 『イサド住み』オカワダアキナ(ザネリ) 「魔女の選択」を迷いながら書いていたとき、おかさんのこの本のあとがきにどれだけ救われたことか。本を読むのが楽しみで仕方ない。 『貝楼諸島へ』(犬と街灯) 柳川麻衣さん、紺堂カヤさん、オカワダアキナさん、佐々木海月さん、穂崎円さん、正井さんのお話が読みたくて買った。 『吸血鬼は青年を伴侶に選ぶ』きよにゃ(招福来猫) わたしのBLの教科書はきよにゃさんです!表紙がめちゃめちゃきれい~! 『百人のためのエンターテインメント~読書サロンにて『須永朝彦小説集』を読む~』ますく堂なまけもの叢書12(古書ますく堂) わたしがこの本を買うのに特別な理由を必要とするとお思い??購入は呼吸です。 『稲麻竹葦 第6号 神々との治療』 スクナヒコナが推し神です!!!!
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本の他に、緑色のカモノハシのぬいぐるみを買った。 新しい仕事の机に飾ろうと思う。
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poddyshobbies · 9 months
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小郡市の花立山「城山公園」
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花立山穴観音古墳の下見にやってきた所、雲行きが怪しくなって戻りました。
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県道53号(久留米筑紫野線)から入ってきた方向にまっすぐ進んでます。(無料駐車場あります)
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左の林へ入ると登山道
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←権現神社(左の登山道へ)・穴観音古墳→(直進)
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勘田ヶ浦堤(かんだがうらつつみ)を右へ
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堤の前の休憩所 ~ 石の祠と石仏様
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堤の上を歩いて林の中へ … 古墳までそう遠くない。
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「ん、左右に分かれ道。どっち?」
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と、ここで雷が鳴り始めたので引き返しました。
2023.7.27
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yfukuoka · 2 years
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【3522日目②】2022-09-08 スリランカ仏教の寺院かつ修行道場スリサンブッダローカ寺を見学。その夜は土浦が誇るスリランカ料理の名店へ。 #常陸房総アジア旅 2ヶ国目SRI LANKA 🇱🇰 バナナリーフ@土浦 ‪____________________________________ *EGB *Coconut Sambol *Egg Roti *Rice & Curry / chicken (パリップ、キノコと白身魚のテルダーラ、インゲンのカレー、ゴーヤーのテルダーラ、パパダム) *String Hoppers Kottu / Pork *Pork Curry Gravy スリランカフェスティバルでも常連の名店「バナナリーフ」。シェフの顔立ちからタミル人かと思って聞いてみると、シンハラ人。むむむ、僕の目利きは全然当てにならない。 彼の料理は本物。次々と作り出されるセイロンの料理は意外に繊細で、塩が強いもの、辛みが強いもの、優しいもの、強弱が明確で、ついつい混ぜることを誘導される一級品の味。 極辛&酸味のポルサンボル 。強すぎてすべては食べられなかったけど、レモンが強めの酸味で辛さっぱり。エッグロティは、鉄板調理のカリッとした仕上がりで、ストリート感溢れる一品。 インゲンの黄色いホッダ(ココナッツスープ)のようなカレーや、カシューナッツを使った炒め物を食べると、本当にスリランカ料理らしさを感じます。辛いキノコとやさしいパリップと合わせて、気分はナイス&カリー。 この日の一番のお気に入りは、ゴーダンバロティのコットゥではなく、ストリングホッパーコットゥ。ロティの小麦由来のモチモチ感ではなく、ストリングホッパー(米粉の細麺)のさっぱり&粘っこい食感に、ペッパーを効かせた野菜炒め。スリランカチャイニーズテイストの炒飯です。お腹は満腹なのに、ポークカレーのグレイビー(これも美味い)をかけて、どうしても胃袋におさめたくなる料理でした。 接客も含め、地元感もあって地方ならではの良店。土浦に「バナナリーフ」有り。 話は前後しますが、夕方にうかがった「SRI SAM BUDDHA LOKA[スリサンブッダローカ寺]」は、スリランカ人が運営するスリランカ仏教のお寺です。 自然豊かな片田舎の住宅街に突如現れる異国の大仏。境内に流れるシンハラ語のお経が異世界感をさらに演出してくれます。 若いお坊さんが案内をしてくれました。敷地は決して広いわけではありませんが、釈迦の一生を絵解きする祭壇小屋、釈迦牟尼仏の大仏、ムーンストーン、インド菩提樹、スリランカ仏教の大切な宗教要素は網羅されており、境内の奥には、「神社」があるとのこと。 ふだん非公開なのか、重々しい錠前を開けていただき御開帳。 「お釈迦さまの次に大切なのはヒンドゥー教の神様。私たちスリランカ人は神様も大切だから祈っている 」とおっしゃっていました。スリランカらしい考え方。 室内は5躯の像がそれぞれの部屋に収められる南アジアらしいスタイル。 クリシュナやスカンダ(カタラガマの神様って言っていたのでたぶんそう)、聖なる山のスリーパーダの土着の神サマン神もいました。子育ての守護女神パッティニ神は初めての学び。信仰対象が混ざり合うのは島国の宿命かもしれない。貴重なものを見させていただきました。ありがとうございました。 どの宗教かに関わらず、僕にとって宗教施設は、安らぎと興奮の対象。お寺ってイイなぁ。 ‪____________________________________ 🇱🇰 #srilanka #srilankanfood #bananaleaf #foodpic #foodstagram #asia #asianfood #tasty‪ ‬#spice‪ ‬#curry #currystagram #スリランカ #バナナリーフ #スリサンブッダローカ #仏教 #寺 #カレー #カレースタグラム #ス��イス # #茨城 #常陸房総アジア旅 #カレー好きな人と繋がりたい #フクドローン #ふくすたぐらむ ↓バナナリーフ(SNS更新されていません) @bananaleaf_tsuchiura (バナナリーフ) https://www.instagram.com/p/CioI1FXPmzL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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illaalli444 · 2 years
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『犬王』舞台巡り【山陽道編】
友魚の旅路/平家都落ちルートも巡りたいよね、という記録です。関西在住・北部九州出身なのでこの経路なんてもう数え切れんほど往復しているが視点を変えるだけでこんなにも新鮮な旅ができるってすごいなあと思う。
行った場所:腕塚(腕塚堂・腕塚神社)/草戸千軒町遺跡/厳島神社/花岡八幡宮/壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか
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腕塚(兵庫県神戸市・明石市)
腕を埋めて腕塚。一の谷の戦いに破れ西へと落ちゆく途中で非業の死をとげた平忠度の腕を埋めたと伝えられる"腕塚"は神戸市長田区駒ヶ林と明石市天文町の2箇所にある。え どゆことじゃ?と思ったけど知りたいこと全部書いてある論文ありました(大坪舞2008「祭祀される忠度の腕ー伝承を引き寄せる場をめぐってー」『論究日本文学』88)。こちらを参考にすると、そもそも忠度死地は『平家物語』でも史実でも絞り込めない。両地の忠度伝承は、駒ヶ林は17世紀後半(腕塚そのものは19世紀)、明石は17世紀初頭(腕塚は17世紀後半)までは遡れそう、とのこと。
駒ヶ林の腕塚は一の谷からちょっと東に位置。地下鉄海岸線駒ヶ林駅が最寄り。長田港に面する民家に囲まれて"腕塚堂"がある。細い路地に入っていくけど看板や標石があるので迷いはしないと思う。ガレージみたいなお堂。北西に忠度胴塚もある(こっちは看板少なくてわかりにくかった。伍魚福さんの隣)。
明石の腕塚は一の谷から西へ10kmほど離れる。山陽電鉄人丸前駅下りてすぐの"腕塚神社"。神社といってもお堂はごく小さい。木製の腕は地元の彫刻家の方が奉納されたもので、これで患部を撫でるとよくなるとか(境内においてあった「腕塚神社縁起」より)。東南に忠度塚と忠度公園もある。駅をはさんで北の丘陵にある人丸神社は柿本人麻呂を祀るが、境内に"盲杖桜"があり目の見えない人とのゆかりが深い。このへんからは明石海峡と行き交う船たちがよく見えます。
当たり前ですが京都とは全然景色が違っている。南が海、北が山。海を眺めていると友魚としてはこのへんまでは始めて来た場所であっても(見えなくても)"知ってる景色"なんだろうし逆に平家の人びとにとっては都を落ちて流浪の身になってしまったことを思い知らされる景色なんだろうなと思う。
どちらの腕塚も、いまも地元の人に愛されているのが伝わってくるたたずまい。腕塚が複数箇所にあるの、後世の人たちが"物語"を求めた結果だと思うのでそんな人間の営みが愛おしくなります。
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草戸千軒町遺跡(広島県福山市)
直接の舞台ではないのですが、湯浅監督がふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立博物館)の街並み復元模型に言及されていたので。博物館では中世の人々の生活に関連する出土品を沢山見られる。本編で町の人たちが持ってて印象的な曲物の容器もいっぱい並んでる。
草戸千軒町遺跡は当時の海岸線で芦田川の河口付近にあった中世の港町。友魚と谷一さんも寄ったかな?と思っていたのですが、拠点的な大都市というわけではないようなのと、どうやら14世紀後半は一時的に町が衰退していたようなので寄ってないかもしれません。友魚が魚をほぐしているシーンはまだ広島らしいので(オーコメより。広島を2年もまったり旅していたのはちょっと謎)、このあたりかなと思っていたのですが、お金持ちがの人がいるのは尾道とか鞆とかかな。
遺跡現地は博物館から西南約2kmに位置。調査後に掘削されあとかたもありませんが、法音寺橋に説明板が設置されている。橋を渡って芦田川の右岸には草戸稲荷神社と明王院(常福寺)がある。明王院は本堂が1321年、五重塔が1348年に建てられたものなので、友魚たちが見たかもしれない建物がそのまま残っていることになる。明王院入り口付近の石垣にはひょうたん形の石が組み込まれている箇所があり(現地に説明板あり)、犬王ポイント高いように思います。
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厳島神社(広島県廿日市市)
あれに見えるは厳島(ここでお社は映さないの超好き)。斎き島=神様をお祀りする島 として古くから信仰されてきた。1151年に安芸守となった平清盛は厳島神主家の佐伯氏と関係を深め、12世紀後半に海上の社を造営。その後何度か建て替えられているが、主要な建物の配置は基本的には変わっていないらしい。特に印象的な回廊は、現在のものは永禄~慶長年間(1558~1615)の再建。作中の回廊は、1241年に再建され、1537年に焼けたものにあたる。
干潮のタイミングで訪問したので、社殿が建ってるベースとの距離感がわかってよかった。友魚が落ちちゃっても自力で這い上がれそうな深さで安心(海の子なので心配には及ばないんだろうけど)。社殿が海に浮かんでいる姿が見られなかったのがかなり残念だけど、昼に干潮だと夜に満潮になる、という関係が理解できた。
大鳥居は改修中だったので足場が組んであり近くまで行けず。でも社殿の柱にもフジツボいっぱい付いてるのが確認できました。大鳥居も何回か建て替えられていて、現在のものは明治期の再建。1325年に2代目が倒壊してから1371年に3代目が建てられるまで空白期間があるので、友魚訪問時(1360年代後半くらい?)、実際には建ってなかったぽい。
しゃもじって琵琶みたいな形だな~と思いながらお土産見てたのですが、弁財天の琵琶っぽい工芸品としてつくられるようになったんですね。知らなかった。
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花岡八幡宮(山口県下松市)
境内に友魚が雨宿りしてた塔(閼伽井坊多宝塔)がある。多宝塔の建てられた時期、立て看板では「室町中期」となっているのですが、ガイドブックやウェブ上で「室町末期」説も見るのでど~いうこっちゃと思っていたのですが、建築様式からみて室町中~後期、解体修理で見つかった木片に永禄3年(1560)の墨書あり、ということのようです(下松市HPより)。また、お宮そのものも創建当初の鎮座地から1489年頃に現在地に動いているらしい。作中で描かれているのは実際よりも少し下った時期の姿になるのかなと思います。
多宝塔の実物は思っていたより小さい印象を受ける。というか、ここに友魚があの感じで座っているのを想像すると、まだだいぶこどもだな...?!と感じました。
旧山陽道に面した丘陵上に位置し、高いところにあるのでめちゃくちゃ石段を登る。現代人にとっては雨宿りにちょっと寄るレベルを越えてるので、参道入り口あたりでお寺の人が友魚に声をかけたのかもとか想像します。
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壇ノ浦古戦場・赤間神宮ほか(山口県下関市)
鴨の河原と同様、壇ノ浦も始まりの場所であり終わりの場所。
壇ノ浦古戦場跡は関門大橋の下関側のふもとに「みもすそ川公園」として整備されている。ちょうどこのあたりに友魚の暮らしていた集落があったのかなと想像できる景色。作中では霧に包まれて対岸は描かれていないけど、九州側の門司がかなり近くに見える。この土地も"境界"ですね。
赤間神宮は壇ノ浦古戦場跡から南西1kmに位置。壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る。江戸時代までは阿弥陀寺で、明治の神仏分離により天皇社赤間宮へ。1940年に赤間神宮に改称。1958年につくられた水天門は「波の下にも都がございます」の竜宮城を地上に造りだす意図でデザインされている。
耳なし芳一の舞台でもあり、境内の片隅に芳一堂あり。宝物館ではいろんな種類の琵琶も見られる。境内に平家蟹の標本も置いてる。
生きてる平家蟹は市立しものせき水族館海響館で見られる。海響館ができるまえの旧下関市立水族館は長府にあったのだけど、敷地内に"鯨館"という鯨形の建物があった。現在は中には入れないけど外観は見られます。小さい頃訪れたことがあって、でっかい鯨!のイメージだったけど今回再訪したら思っていたより小さいな...となりました。場所は関見台公園。下関は近代捕鯨発祥の地とされ、鯨とゆかりが深い。たまたまかもしれませんがモチーフの重なりが面白いです。
旅してこの文章を書くことで、山陽道、というか瀬戸内の海辺が友魚の旅路であり作中作(腕塚、鯨、竜中将)の舞台でもあるという重なりをはっきり認識できたのでよかった。この作品の重層的につくられているところが大好きです。
文献(本文中で言及したものを除く)
小川國治編 2001『長州と萩街道』街道の日本史43 吉川弘文館
県立広島大学宮島学センター2020「宮島 大鳥居のひみつ」
広島県歴史散歩編集委員会編2009『広島県の歴史散歩』山川出版社
ふくやま草戸千軒ミュージアム2020『瀬戸内の交流 まちのにぎわい 人のつながり』
峰岸隆2015『日本の回廊、西洋の回廊』鹿島出版会
山口県歴史散歩編集委員会編2006『山口県の歴史散歩』山川出版社
山口佳巳2008「仁治度厳島神社廻廊の復元的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集
頼祺一編 2006『広島・福山と山陽道』街道の日本史41 吉川弘文館
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mt-akiwas · 2 years
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2022.6.17
Kobotoke shiroyama
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yamada50 · 1 year
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大内文化を隆盛させた大内義隆公を祀る築山神社 八坂神社の境内、大内教弘が築いた大内氏の別邸の跡地(築山城)に鎮座しています 長州に移封された毛利氏の実質初代藩主毛利輝元により慶長10年(1605)現在の山口市の多賀神社境内に義隆公などの霊を祀った「宝現霊社」がはじまりです 現在の拝殿と本殿は明治3年に氷上山興隆寺境内にあった東照宮を移築、遷宮し家康公を合祀しました この社殿は寛保2年(1742)に造営されたもので山口では珍しい部類に入る三間社入母屋造です 氷上山興隆寺は築山神社南方の氷上山にある天台宗の寺院ですが、推古朝に創建された古社で大内氏の祖である琳聖太子が開基と伝わり、その時の大内家当主大内茂村が大内氏の総氏寺としたことからその後隆盛を誇りましたが、戦国期に大内氏が滅んでからは衰微しています 八坂神社のお隣に並んで社殿を構えていますが別の宗教法人です 一方八坂神社と築山神社は今八幡宮の兼務となっていて御朱印は今八幡宮で授かることができます #築山神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 築山神社(つきやまじんじゃ) 鎮座地:山口県山口市上竪小路101 主祭神:大内義隆公、(相殿)徳川家康公、(配祀)大内義尊公、大内氏諸公卿諸士28人 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社と四季#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#山口市 (築山跡) https://www.instagram.com/p/Cno_PWlv0UJ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 28 days
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【変見自在】歴史の作り方
 高山 正之
 賽金花は日本で言えば明治維新のころ、安徽省の貧しい家に生まれた。
妓楼に売られ、13歳、半玉で34歳年上の洪鈞に身請けされ愛人になった。
洪鈞は科挙をトップ合格した清朝末期を代表する外交官だった。
2年後、駐独支那公使を拝命して賽金花はその幼な妻として同行した。
彼女はそのころの支那の女、とくに妓女では当たり前の纏足をしている。
 小さいころに足の指を内側に曲げて布で縛り、人工的な小足にする。10センンチくらいが最も美しい。三寸金蓮なんて言われたが、健康な足をたわめるからこれほどの激痛はない。
 石平は『三大中国病』の中で、女の人権を蔑(ないがし)ろにしたおぞましいまでの蛮風とこき下ろす。 実際、金蓮とか囃されても女性は満足に歩けないし、歩けば激痛が走った。それでも賽金花はその代償に公使夫人になれた。
 ただそんな足で欧州社交界に出たところで踊れるわけでなし。奇異の目に曝されるだけだが、同時に男たちの関心は集めた。実際、洪鈞は彼女を伴ってウイルヘルム2世に拝謁したし、モルトケの右腕ワルデルゼー参謀次長にも親しく会っている。
 彼はことのほか興味をたぎらせ、何度か纏足女の味を楽しんだという。
洪鈞もそのつもりで不相応の女を妻にしたと言われる。いかにも支那人らしい発想だ。4年の任期の間に賽金花は独語をマスターし、皇帝ははっきり支那贔屓になって日清戦争の三国干渉を生み出す。
 洪鈞は任期を終えて帰国して間もなく病死する。洪家は格式の合わない賽金花を追い出し、彼女は再び北京の花街「八大胡同」に戻っていった。
そして山東省で外人、別けても独人を嫌う義和団の乱が起きる。
20万に膨れ上がった暴徒は北京の外国人居留区を包囲し、これに西太后の正規軍も加わった。
 柴五郎ら各国の警備隊員500人はよく戦い、籠城55日間を耐えたところに8か国連合軍がやっと到着する。総司令官は独軍のワルデルゼーで、義和団を蹴散らした後、最初にやったことが「独皇帝のための3日間の略奪」だった。3日間が明けると今度は「兵士のための3日間の略奪」を許可した。
 これに米、仏、露の兵士も加わり、北京市内は殺戮と略奪で混乱。市民は日本軍が守る「北城」に逃げ込んだ。ここだけは秩序が維持されていたからだ。この間、ワルデルゼーは昔なじみの賽金花を探して再会を果たした。彼は総司令官の特権を使って紫禁城に入り込み、西太后の寝所で賽金花とともに皇帝の夜を楽しんだ。占領地の夜を満喫する欧米人の姿がよく出ている。
 そういう思い上がりをワルデルゼーが象徴して風にも見えるが、習近平の御代になったらこの話が全く変わっていった。まず賽金花は「公使夫人として欧州社交界に登場するとその話術や華麗なダンスステップで一躍社交界の花になった」と曾樸「ゲツ海花(ゲツカイカ)」は書く。纏足の彼女は踊るどころか満足に歩けないはずなのに、そういう些細なことは気にしない。
 帰国後、義和団の乱が起きる。北京で独公使フョン・ケトラーが暴徒に殺されると夏衍の「賽金花」ではここに彼女を登場させる。「激昂する公使夫人を独語で慰めた」と。さらに8か国連合軍が北京に入城すると「旧知のワルデルゼー司令官を訪ねて報復しないように頼んだ。
 同司令官も説得に応えて北京市内に秩序を回復させ、同時に連合国将兵に報復や略奪を行わないように厳に戒めた」と。北京大教授の劉半農も「賽金花本事」で「彼女は西太后より立派」と称賛する。かくて纏足の売笑婦が北京を救ったヒロインになりあがった。
 そうまで加工しないと習氏が望む国民的ヒ^ロが出来上がらない。可哀想な国柄にも見える。
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zworktwo · 2 days
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名前の魔力
 名が体をあらわす、とも言う。
 悪魔祓いや呪術においては何より相手の名を知ることが必須とされ、優れた人物の名を新生児につければその者の能力が継承されると考えられた。
 ギリシア語やラテン語、更に多くの国語において「名」は「霊魂」と同じ語で表現され、身の安全を図るために「真の名」を秘匿する習俗はそれこそ世界各地において散見される。とにもかくにも、名前と言うものが単に個体を識別するためのラベルに留まらず、そのものの本質また生命に関わる呪的な紐帯(ちゅうたい)たりうると考えられていたと言うことは、フレイザー卿を始めとする多くの民俗学者の指摘するところである。
 ならば、この名前という側面から「悪魔城ドラキュラ」を考察してみるのも、あるいは一興ではあるまいか。もしかしたら何か面白いことが分かるかもしれない。そう、「悪魔城ドラキュラ」の世界や魂にまで関わるような重大な秘密が、もしかしたら開陳されるやも知れないのだ。
 名前の魔力の元、今、ここに――
 まず、ゲームタイトルともなっている悪魔城の主、ドラキュラ伯爵について見てみよう。
 15世紀ワラキアのヴラド串刺し公がどうのという話は、読者諸氏におかれてももはや耳にたこが出来ているであろうからこの際割愛させてもらうとして、「ドラキュラ」なる名が何を意味するかと問うなら、それは「悪魔の子」そして「竜の子」。この二つと言うことになる。
 象徴学の世界において「竜」とは日食を引き起こす巨大な魔物であり、また英雄たる息子に恐怖を引き起こさせる「恐ろしい父親」の寓意であるとされている。「恐ろしい父」――これはドラキュラ伯爵に奉られた心理学的解釈に他ならない。
 ドラキュラ。悪魔の子にして竜の子。ドラキュラ家の紋章は竜。竜は太陽を食らうもの――地上に闇をもたらすもの――英雄と戦うもの――英雄を恐怖させる恐ろしい父――悪魔にして竜――キリスト教美術において竜は蛇と共に悪魔を表すものとされる――嗚呼、なんと言う強烈な負のイメージの洪水であろうか。
 これだけでもドラキュラ伯爵は十分に暗黒世界の王たり得るであろうが、しかし「ドラキュラ」なる名に込められた闇の暗喩はこれのみにとどまらない。
 それと言うのも、映画「ドラキュラ72」(71)においてクリストファー・リー演じるドラキュラ伯爵が、ピーター・カッシング扮するロリマー・ヴァン・ヘルシング教授に向かって言った台詞に、こんなものがあるからである。
「私と闘う気か? 世界の王たる私と?」
 世界の王とはまた随分と大仰な台詞である。しかし、「ドラキュラ」の象徴的な意味を考察するにあたっては、これは決して見過ごしてはならない重要なキーワードである。
 実はキリスト教世界において「世界の王」とは、聖書のヨハネ伝14章30節、またヨハネ第一書5章19節のゆえに魔王サタンの称号と考えられているのだ。つまり、この台詞はドラキュラ伯爵のアンチ・キリストとしての側面を強調したものだと見ることが出来るのである。(ちなみにキリストの称号は「the King of Kings=王の王」である)
 以上の情報を統合すると、「ドラキュラ」の名に込められた象徴的イメージとは、「悪魔」「竜」「英雄と戦うもの」「恐ろしい父」「闇をもたらすもの」――そして「魔王サタンそのもの」であると言うことになる。いやはや、伊達に邪心の神は名乗っていないと言うところであろうか。まさにシリーズを通しての敵役に相応しい名であると言えよう。
 次に、ドラキュラ伯爵の宿敵たる英雄ベルモンド家について考えてみよう。
 ベルモンド――これはフランス語で「美しい山」から来た者、という意味のある名である。
 「悪魔城ドラキュラ」シリーズの舞台であるルーマニアの言語は、主にルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語、トルコ語、セルビア・クロアチア語とそれにイデッシュ語であるそうだから、この名はベルモンド家がルーマニアとは異なる言語圏からやって来た一族であると言うことを意味しているものと見ていいだろう。しかし本論にて注目すべきは、この「山」なるキーワードである。実はこの「山」と言う語には、まことに深遠、かつ神聖な象徴的意味が込められているのである。
 そもそも山とは、その高さゆえに天と地が触れ合うところと見なされていた。多くの民族において天が神そのもの、ないし神のまします所と考えられていたことは今更言うまでもない。ならば、その天と地をつなぐ山の重要性はいかばかりであったろうか。
 ノアの方舟はアララトの山に漂着し、モーセはシナイ山で十戒を授かった。預言者エリヤはシナイ山の別峰たるホレブの山で神の言葉を聞き、キリストもまた祈りや説教をするために山に登った。山とはすなわち天より啓示が下る場所であり、聖なるものとの霊交の場、神を崇拝し、その永遠の力と信義を目の当たりに見るための場所なのである。
 また、山の形に作られた神殿はシュメールのジッグラト、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥール仏教寺院、インカの太陽の神殿と多数あるが、これらは全て「宇宙の中心」としての山を表象するものであり、霊魂の上昇、天へ昇るはしごを意図するものと考えられている。いずれにせよ、山は神や聖なるものと密接な関係を持つ。
 すなわち――
 美しい山から来た者――ベルモンド家とは、文字通りカルパチア山脈を越えてトランシルバニアにやって来た異邦異言語の一族であると共に、神を祀る山に起源を持つ強力な祭祀者集団であったと解することが出来るのだ。ベルモンド家が聖者の家系、それも「太古にまでさかのぼる古い血筋」を持つ一族と言われる所以であろう。なにしろ、山を神聖視する考えは人類の文明そのものにも匹敵するくらいに旧いのだから。
 これだけでもベルモンド家は英雄の貫禄十分と言えるのだが、上記のドラキュラ伯爵の場合と同様、「ベルモンド」の名に秘められた聖なる暗喩はこれのみにとどまらない。
 山は高い。高いがゆえに、そこは太陽が生まれ、死ぬところと考えられている。太陽とは純潔や正義、そして神の力を表すと共に、英雄の象徴であると考えられている。英雄は宿命的に竜を殺す者。また、雪に覆われた山々は高貴さ、抽象的な思考、そして冷たい理性を表している。吸血鬼は悪疫の象徴と考えられていたがゆえに、古典的吸血鬼小説において吸血鬼殺し、ないし吸血鬼殺しの指導者には医学の心得のある者がその任にあたったことはよく知られていることである。悪疫を滅ぼす医学とは理性の産物に他ならない。更に山の中には英雄が眠り、いつの日か目覚めて姿を現し、この世を救い再生させると言う伝説がある。
 山、天、神、聖、魂の向上、太陽の昇るところ、正義、竜を殺す英雄、英雄の寝所、理性の象徴。「ベルモンド」――ドラキュラ伯爵と共にシリーズを支える英雄一族の名としては、これ以上相応しいものはないだろう。
 「悪魔城ドラキュラ」シリーズを支える、ふたつの勢力の名前についての考察は以上の通りである。いずれも闇と光、邪と聖、黒と白とソロモンの神殿の柱さながら好対照を呈している様は見事と言う他はない。これもまた「悪魔城ドラキュラ」シリーズがゴシックホラーと謳われる所以であろう。闇を制する光という構図は、古典的吸血鬼物語のセオリーに他ならないからだ。
 続いて、ベルモンド家の勇者たちの名前について考察してみるとしよう。
 まず、初代「悪魔城ドラキュラ」、およびMSX版「悪魔城ドラキュラ」ストーリーの冒頭にて語られる伝説の男、英雄クリストファーについて。
 クリストファーと言えば旅行者の守護聖人として、また十四救難聖人の一人として広く尊敬を集めた人物として有名だが、その名の意味するところは「キリストを運ぶ者」・・・つまり「クリスチャン」のことなのである。
 と、すると、「悪魔城ドラキュラ」のストーリー冒頭にて語られる英雄クリストファー伝説とは、ベルモンド家が神を奉じる一族であると言う事実をまずプレイヤーに提示するための暗喩なのだと解することが出来はしないであろうか? かつてドラキュラを倒した男がただの英雄ではなく、この世の光の側面を代表する者であったと言うことを、その名をもって象徴しているのだと考えられはしないであろうか?
 「ドラキュラ伝説」、そして「ドラキュラ伝説Ⅱ」と二作に渡って主役をつとめながらも、不思議とその活躍に触れられることの少ないクリストファー=ベルモンド。しかしその不思議も名前の魔力を追求することによって一応の解決を見る。つまりクリストファー=ベルモンドとは、実際に存在し活躍した英雄と言うよりは、むしろ象徴的な存在なのである。
 次に、「悪魔城ドラキュラ」シリーズ最多の活躍回数を誇るシモン=ベルモンドについて。
 シモンと言う名は、元来はユダヤ系の名前であり、その原型である「シメオン」を含めれば、旧約聖書の創世記にまでも登場するほどに旧いものである。ゆえにその起源が果たしてヘブライ語にあるかも不明なのだが、その意味するところはまことに神の民らしく、「神は聞き給う」、あるいは「神の言葉を聞く」と言うものなのである。
 「悪魔城ドラキュラ」をプレイする者は、ここに聖なる暗示を読み取らなければならない。冒頭のクリストファー伝説によって、美しい山から来た祭祀者たちが神に仕え、闇を制する者であることが提示された。そして今、神の言葉を聞き、また彼の祈りを神が聞くという戦士が登場したのである。美しい山から来た祭祀者ベルモンド、キリストを運ぶ者クリストファー、そして神の言葉を聞く者シモン。初代「悪魔城ドラキュラにおいてこれら三重の聖なる暗示が提示されたがゆえに、一連のシリーズにおける初代「悪魔城ドラキュラ」と、その主人公をつとめたシモン=ベルモンドの地位は不動のものたり得るのである。
 お次は「ドラキュラ伝説Ⅱ」に登場した男、ソレイユ=ベルモンド。
 ソレイユとはフランス語で「太陽」を意味する語である。太陽が英雄の寓意であることは既に述べた。美しい山から昇る太陽の英雄。しかし、勇士ヘラクレスの例を引くまでもなく、太陽英雄はしばしばその絶頂期に狂気に陥ることがある。ソレイユ=ベルモンドは成人と同時にドラキュラ伯爵の魔力によって操られるという憂き目に遭った。ドラキュラ伯爵の紋章は竜、すなわち太陽を食らい日食を引き起こす魔物である。竜に食らわれ、輝きを失う太陽。狂気の彷徨。そして日食の終わりと共に回復する太陽の輝き――クリストファー・ソレイユ父子の物語を考えれば、これはまたなんと言う奇妙な符合であろうか。
 続いて、「血の輪廻」で活躍したリヒター=ベルモンドについて一席。
 リヒターなる語がドイツ語で「裁判官」を意味することを知っている向きは多いかと思う。つまり、リヒター=ベルモンドは悪に鉄槌を下す正義の化身なのである。さらにドイツ語で神のことをDer Hochste Richer――「至高の審判者」と表現することを思えば、彼が単なる人間正義の体現者にとどまらず、絶対の裁き主としての神の側面を地上で顕現する者であるとも考えることが出来るだろう。歴代のベルモンド家の戦士の中ではトップクラスの強さを誇り、最強のバンパイアハンターと謳われたリヒター=ベルモンド。彼の強さは、まさしくその名において明示されているのである。
 しかしながら、西洋美術において「正義」を擬人化した場合、手に天秤と剣を持ち、公正な裁きを下すために目隠しをした女性として表されることを思えば、「血の輪廻」のラストシーンにおいて彼がドラキュラ伯爵と問答をしてしまったのは失敗ではなかったろうか。
 相手に心の隙を見せるなと言うことは、魔術戦のみならず悪霊調伏においても鉄則とされることである。ましてや神の正義という属性を名前に帯びている者なれば、尚更リヒター=ベルモンドはドラキュラ伯爵の言葉に耳を貸してはならなかったのだ。しかし彼はドラキュラ伯爵と問答し、そして裁きを下す者らしからぬ動揺を見せてしまった。その時点で、彼は「裁きを下す者」「神の正義を体現する者」の資格を失ってしまったのである。その謂いで、「月下の夜想曲」におけるリヒター=ベルモンドの変貌は、前作「血の輪廻」のラストシーンにおいて既に予言されていたのだと言っても極論とのそしりは受けるまい。
 次に、ベルモンド姓ではないのだが、リヒター=ベルモンドの妹と言うことでマリア=ラーネッドについても少々。
 マリアと言う名を聞いた時、まず頭に浮かぶのはキリストの母マリアのことであろう。カトリック教会や正教会において聖母として賛美され、数多くの美術の題材ともなったマリア。この名前との関連によって、マリア=ラーネッドが聖母マリアの如き慈愛深い心の持ち主であると言うイメージが喚起されるのである。
 更に、マリアなる名の原型が持つ象徴イメージがまた実に興味深い。そもそもマリアと言う名はギリシア語音訳であり、本来の形はミリヤム、すなわち「海の星」「欲しがられた子」また「愛されし者」なる意味を持つ名前である。そしてミリヤムとは出エジプト記で名高いモーセの姉にあたる女性であり、ユダヤ史上初の女預言者としてその名を知られている人物でもあるのである。
 マリア=ラーネッドが「悪魔城ドラキュラ」シリーズ初の正規女性プレイヤーキャラクターであったことを考えれば、これはまたよく出来た符合であろう。すなわち、マリア=ラーネッドと言う名前こそ、彼女が心優しき少女であり、愛されし者であり、そしてシリーズ史上に海の星(=金星)の如く燦然と輝く初の正規女性プレイヤーキャラクターであると言うことを雄弁に物語っているのである。また、ミリヤムと言う名にはあまり好ましからざる一面として、「苦難」「落とされた者」などと言う意味が含まれていることを考えれば、この名は彼女の苦しい恋の道を暗示しているとの解釈も、あるいは可能かもしれない。
 そして、「漆黒たる前奏曲」のソニア=ベルモンド。
 名称学の本の説くところによると、ソニアとかソフィー、ソーニャなどという名前は、全てSophia、つまりギリシア語の「知恵」を意味する名より派生したものと考えられているそうである。知恵、すなわち悪疫を駆逐する医術の化身。もっとも彼女の情熱的な生き方を思えばヘレンと言う名の方が相応しかったかもしれないが、彼女がバンパイアハンターである以上はソニアの名なればこそ平仄(ひょうそく)が合うと言うものであろう。
 ・・・以上の如く、ベルモンド家のバンパイアハンターたちの名前を分析して来た訳だが、そのいずれもが聖なる象徴、また、その人となりや運命に相応しい暗喩をその名に帯びているということにはただただ驚嘆する他はない。いささか関係妄想気味とのそしりを受けるかもしれないが、とにかくベルモンド家の英雄たちの名は、いずれも神を奉ずる者、闇を制する光として説明がつけられるのである。――ただ一人を除いて。
 そう。・・・ラルフ=C=ベルモンド。
 歴代のベルモンド家の勇者の中で、彼の名だけが分からない。ベルモンド家のハンターたちの中で、彼の名だけが他のそれとは同列に扱うことの出来ない微妙な色合いを帯びている。いや、はっきり言うならこのラルフと言う名前は、およそベルモンド家の人間には相応しくない、異様な名前なのである。
 ラルフ=C=ベルモンド。「悪魔城伝説」の主人公。
 名前の人気という点から見ると、このラルフと言う名は短縮形や定まった指小辞形を欠くためにあまり好まれなかったとされている。しかし、実を言うと「ラルフ」とはこれ自体が既に短縮形であり、その原型はラドルフ、すなわちドイツ語で「助言する狼」なる意味を持つ名前なのである。
 そして、本論においては、この「狼」なる要素こそが曲者なのだ。
 ベルモンド家の勇者がどうして「狼」などと名づけられたのだ!? 聖書のみならずゾロアスター教やイーリアスなどの無数の神話伝承においても、狼は生命を脅かす暗黒の諸力の代理人と考えられていると言うのに!?
 狼とは野性、貪欲、残忍、死体を食らうもの、悪魔、夜の側面に属するもの――そしてなにより、吸血鬼の化身のひとつ。狼は確かに勇気のシンボルでも、また戦士と言う職業のエンブレムであるかもしれない。しかし、その象徴するところはいずれにせよ、闇である。ドラキュラ伯爵の眷属の潜む、深く、そして暗い闇。
 なんと言うことであろうか――
 「漆黒たる前奏曲」にて明らかにされたベルモンド家の血の宿命は、「悪魔城伝説」の主人公がラルフと名づけられた時点で既に決定していたと言えるのである!!
 嗚呼、まったくもってなんと言うことであろうか。殊のほかのベルモンド家至上主義者である筆者としては、あのような事実はなかった、と思いたい。だが、まことに恐ろしいことに、ベルモンド家に流入したあの血の真実を裏付けるが如き暗喩の存在は、ラルフ=C=ベルモンドの名前だけにとどまらないのだ。
 シモン=ベルモンド。
 ラルフ=C=ベルモンドの子孫にして、「悪魔城ドラキュラ」の象徴とも言うべき男。ベルモンド家の血の秘密を暗喩する恐るべき象徴は、他ならぬこの男の名前に秘められていたのである。
 シモンと言う名が「神の言葉を聞く」、また「神は聞き給う」と言う意味を有していることは既に述べた。だが、この名前にはもうひとつ、「小さなハイエナ」――あるいは「雌狼とハイエナの子」と言う意味が含まれているのである。
 ハイエナは夜にさまよう闇の眷属。狼もまた然り。そしてこれら闇の生物の混血種。三重の闇の暗示。
 ・・・シモン=ベルモンドは、確かに神の言葉を聞く者であった。だが、同時に彼はベルモンド家の血の秘密をも、烙印としてその名に負っていたのである。
 象徴はすべてに通ずる。
 ゆえに、同じ象徴の力を��いてこの禍禍しい暗示を善きものに変換することは、可能である。
 ラルフなる名は、ゲルマンの言葉で「助言する狼」と言う意味を持つ。この「助言」なるキーワードに着目して、ラルフ=C=ベルモンドを闇の力を善き業(わざ)に変換する者、闇を光に変える者と解釈することは、確かに可能である。あるいはイザヤ書第65章25節において平和の象徴として歌われた子羊と共に草を食む狼の面影を重ねることも、また彼の「C」から始まるセカンド・ネームを「クリストファー」あるいは「クリスチャン」であると定義することによって、これらの名前の持つ聖なる暗喩を付加することも、決して不可能ではない。
 だが、このラルフ=C=ベルモンドなる男の名には、「漆黒たる前奏曲」で語られた通りの闇の側面があると言うこともまた、事実なのである。
 ――すべては仕組まれたことなのだろうか? 製作者がユーザーに仕掛けた、大いなるパズルなのだろうか?
 「悪魔城ドラキュラ」の歴史を通覧せる時、このシリーズが時には迷走とも取れる紆余曲折を経てきたことは衆目の一致せるところである。しかし、名前の魔力と言う観点から考察を加えたところ、迷走とも、あるいは恐るべき暴挙とも思える数々の展開が、実は巧妙に関連し合い繋がり合っていると言う事実が判明したのである。
 まるで、「悪魔城ドラキュラ」そのものが、自らの意思を持ってでもいるかのように。
 すべては仕組まれたことなのだろうか? 製作者がユーザーに仕掛けた、大いなるパズルなのだろうか?
 それとも、製作者は中世の魔術師よろしく造り出してしまったのか? 名前の魔力のもと自らを育み、自己の矛盾をも修正し統合してしまう「悪魔城ドラキュラ」と言う名の恐るべき怪物を?
 慄然たる思いに凍りついた筆者をよそに、魔力に満ちた「悪魔城ドラキュラ」の伝説はなおも語り継がれて行く。
(1999.7.8   K.T.)
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