Tumgik
#注文住宅 外構 外構工事 庭づくり 家づくり
kil-house · 1 year
Text
何を参考にするか?(YouTube編)
最近は YouTube で専門家(建築士、工務店、住宅メーカ営業などなど)がたくさん配信されています。完成した家のツアーなどもあるので、様々な事例を勉強することもできます。
ながら聴きしやすい、というのが動画の良い点ですが、もう一つ、(上手い人の動画だと)頭に残りやすいというのも良い点かなと思います。とくに、上手に重要ポイントを強調できる人の動画は記憶に残ります。反対にしゃべるのが下手な人だと良いことを言ってても眠たくなってくるので勿体ない。
また、最近のウェブの記事はどっかのをパクってまとめたような、似たような内容のが多く、オリジナリティのある記事にたどり着くのが大変になっている、というのも動画優位の原因の一つのような気がします。
Amigo住宅ゼミ
https://www.youtube.com/@amigokoike
注文住宅全般を扱っています。
間取り新築大学・りくのビーバー
https://www.youtube.com/@rikuno_bb
間取り、特に生活動線の設計を中心に解説しています。どっから間取りを考えていいか分からない、自分の間取りはこれでいいのか?という方はこのチャネルがおすすめ。
住宅知識 間取り YouTube住宅専門学校
https://www.youtube.com/@YUTAKAdesign
「勝手に間取りダメ出し」というシリーズがあって、どっかの間取りの問題点を指摘し、改善案を解説してます。どっちかというと中級者向け。りくのビーバーさんの動画で勉強した後で実践編的に勉強するといいかと思います。
職人社長の家づくり工務店さん
https://www.youtube.com/@hiramatsukenchiku
工務店の社長さん。工務店の注文住宅全般、特に省エネやトータルコストを考えた注文住宅を解説しています。
YUKICH NO HOME
https://www.youtube.com/@YUKICHNOHOME
インテリア、おしゃれに見えるデザインを解説しています。インテリアは全く考えたことがなかったのですが、このチャネルを見るとどのように考えればよいか、何を考えなければならないのか、基礎的なことから分かります。
また非常に丁寧な動画の作りで見やすい。
庭ファン【外構の大学】
https://www.youtube.com/@niwafan1128
外構(駐車場、庭、フェンスなどなど)を解説しています。
とりあえず外構についてはこれを見ておけばいいんじゃないかと思います。
ダンディM
https://www.youtube.com/@dandym
いままで紹介してきたチャネルは家を作る側、売る側の人のチャネルで、専門知識と豊富な経験を元にベストプラクティスを紹介する、というものですが、こちらは家を建てる側の人のチャネル。それも趣味全開のチャネルで、参考になるか、というと参考にしないほうがいい部分も多くありますが、他のチャネルを見てると失敗はしなくなるけど面白みにかけて優等生的な家になりがちかと思うので、それを打破するという意味では参考にしても良いかも。
まあ、独特の語り口が面白いのでついつい見てしまうのですが。縦シャー、僕も好きです。
0 notes
fukuda-kurisaku · 2 years
Photo
Tumblr media
マイホームを建てるって決めることめっちゃ多くて大変。そんな中でも最後の難関的な存在「外構工事」は正直、ラスボスというか「お前もいたのか、、、」感がすごいですよね。これまでの打ち合わせ、決定ラッシュが一段落ついてまだまだ疲れが取れていない中に登場する「外構工事」の基礎知識からスケジュール感、注意点を施主目線で解説していきます。
https://kurisakunchi.com/exterior-first/
0 notes
ari0921 · 3 years
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)1月27日(水曜日)
 コロナ禍以後、産業の地殻変動が続くが、日本は再生できるのか
  「需要が減ったのではない、変質しているのだ」
*************************
 コロナがもたらしたのはロックダウン、巣ごもり、飲食店やインバウンド業界の大量失業だった。一方で、テレワークの大流行はズームや関連家電の大量消費がおこり、ズームの利益増は90倍。外食に代わって出前(ウーバー)、そして巣ごもりの娯楽は映画となりネットフリックスの会員は二億人を突破した。
在宅勤務はビジネススーツ需要を減らし、マスクは化粧品需要を変質させる。青山商事は売り場を半減させ、空きスペースにコンビニなどを誘致する。反対にカジュアル衣料、スポーツ関連が伸びる。
ファミレスのひとつサイゼリヤや居酒屋チェーンのワタミは赤字転落で後者は83店舗を休業させた。吉野屋などは黒字。巣ごもりはインテリア充足という需要が起こり、ニトリは空前の利益。
たしかに「需要が減ったのではない、変質したのだ」。
 雇用状況に地殻変動的な動きが表面化した。IHIは社員8000名の副業を認めた。
 この「副業の制度化」は日立、日本製鉄、JFE、日産、ホンダなどを例外に、三菱ケミカル、三井化学、ダイハツ工業などは取り入れている。
 典型は三菱重工の余剰社員をトヨタ車体が「出向」というかたちで引き受けたように、雇用の移動がおきている。
ANA、JALは国際線が事実上止まり、国内線も大幅減便となって、余剰人員を関連産業へ派遣した。業界ではJAL・ANA統合プランが噂されている。
 観光旅行はGO TOキャンペーンで瞬間的な回復の兆しがあった。
その後、緊急事態宣言が再発令され、自粛された。ビジネス出張もテレビ会議で代替するようになって、国内のホテルは四割減。新幹線も飛行機もガラガラ状態。旅客機は貨物輸送に振り替えている。
とくにインバウンド業界が深刻である。温泉旅館は閉鎖が目立ち、受け入れのガイド、旅行代理店は閑古鳥が啼き、花形だったHISも世界の支店の多くを畳んだ。観光ホテルは休業状態が続き、溢れ出た失業は、この先の人生に不安を増大させる。
外食産業と言えば居酒屋、ファミレス、牛丼、トンカツ、回転寿司などだが、合計で480万人の雇用があった。現時点でまだ営業を続ける店も、じつに37%が閉店、もしくは休業を考えているという。銀座は灯が消えている。これらはコロナがもたらした地獄図の表面の動きである。
 産業構造的な大改変は大きな災害のあとに行われるインフラ投資だが、阪神淡路大震災では「新長田駅南地区」の大開発がいわれ、立派な複合ビルや商店街が完成した。ところが商店街はいまもシャッター通りである。
 東日本大震災では、駅や病院の周辺に住宅地、商業施設などを集約したコンパクトシティの建設、仙台空港の民営化や東北医科薬科大学に医学部が新設された。仙台は一時建設ブームに沸いて、関東からパブや風俗産業まで移転したほどだった。
「ポストコロナ」のインフラ建設の青写真はまで提示されていない。
 ▲住宅事情も大変化の最中
コロナ禍は不動産業を大きく揺さぶった。テレワークとなれば、都心のオフィスビル需要が急減し、有名ビルもテナントが埋まらず値下げになる。
反対に近郊都市への住居移転が顕著となった。週一回程度の出勤ですむ職種の人は、新幹線通勤などに切り替え、残りの日々は田舎でのんびり。
じつは米国でもっと顕著である。シリコンバレーからエクソダスが始まったのだ。オラクルは本社を移転し、テスラCEOのアーロン・マスクも自宅を移した。
最大の理由はシリコンバレーの家賃が高すぎることで、在宅勤務ならわざわざ高い家賃のマンションに住まなくても良い。いや思い切ってテキサス州はどうだとオースチン市あたりの人口は突如30万人も増えた。
逆に人口急膨張をつづけてきたカリフォルニア州で人口減という新現象がうまれた。
カリフォルニア州は政治的に極左、ハリウッドではガガばかりか、シュワちゃんまでが反トランプ。ハリス副大統領もカリフォルニア州選出の上院議員だった。もうひとりの上院議員ファインスタインの秘書は長年にわたって中国のスパイだった。
カリフォルニア州は山火事も多く、アジア系移民がメキシコ移民より多くなって、愛国心は希薄である。進歩的思考は福祉増大をうむが同時に州税が跳ね上がり、税金への不満も高まっていた。
 ▲次の産業は何か。「脱炭素」「EV」「医薬品」。そして。。。。。
 模索から実践へ。これまでに言われたのはEV、医療設備、次世代半導体などであり、投資家の資金投下が目立ち、ベンチャーキャピタルも虎視眈々と新成長産業に注目し、投機する。
 次期半導体開発は、あたらしい産業界を牽引する象徴的な基幹部品だが、世界最大のTSMCやインテルは闘士を増やしている。日本のルネサスも注文を捌ききれないのは自動車用半導体が供給不足となっているからだ。
 半導体装置の東京エレクトンの株価は、コロナ発生時から三倍、ルネサスは四倍という急暴騰をしめしている。
 また半導体と並ぶ基幹部品はベアリングである。自動車がEV方向へ流れはじめ、ガソリン車仕様の半導体が減少して行く傾向は明らか、日本精工などは家庭用電気製品の部品生産を倍増させる投資をおこなう。
 フードテックは、植物素材から肉や卵を量産するプロジェクトで、パンやおやつ、甘酒パウダーと餅米のピザ用務チーズなど、三十何前から本格化しているマグロの養殖も技術が格段にあがったとされる。
 加工食品業界も大きく変貌する曲がり角にある。
 IHIなどの基幹産業のイメージから離れて副産物で魚、野菜の栽培に、副産物の酸素を活用する実験が繰り返されてきたが、23年実用化の目処がたったという。これは水素を造る過程で酸素がうまれる田小目、環境負荷のすくない特性から生産や流通コストが軽減されるため脱酸素につながる。
 なにしろ日本は「2050 脱酸素」を宣言しているのである。
 
同時に医療現場で夥しい矛盾が発覚した。
国民健康保険や介護保険は財源が限界にきているが、医療と保険の相互関係が、本来の医療目的とは乖離した実情を現出させていた。
病床はあまっているのにコロナ感染者を受け入れる病院が極端に少なく医師会のやり方に批判が集中した。
これは今後、異常な生命維持装置重点主義、植物人間維持システムの改編につながる方向へ進むのか、どうか。
日本経済は転換点、それも歴史的な岐路に立っている。
7 notes · View notes
xf-2 · 3 years
Link
中国政府は西部・新疆で暮らすウイグル族など数十万人の少数民族を、自宅から遠く離れた場所で新たな仕事に就かせており、それが少数民族の分散につながっている――。そんな状況が、BBCが確認した、中国政府上層部に報告された研究で浮かび上がった。 中国政府は、新疆の人口構成を変えようとはしていないとしている。
また、別の土地での仕事をあっせんしていることについては、人々の収入を増やし、地方の慢性的な失業と貧困を改善するためだと説明している。 だが今回確認した証拠からは、中国のそうした施策は強制の色合いが濃く、生活様式と思考を変えることで少数民族を同化させようとの狙いがうかがえる。これは近年、新疆で建設された、再教育のための収容施設でもみられることだ。 
 この研究は、政府高官が見ることを前提としたものだったが、誤ってインターネットに載せられた。その結果、政府のプロパガンダや関係者へのインタビュー、中国各地の工場への訪問などを基にした、今回のBBCの調査報道の一部となった。 BBCの報道は、移住させられたウイグル族の労働者と、欧米の2つの有名ブランドの関係性についても質問を投げかけた。そうした関係性はすでに世界的なサプライチェーンに組み込まれており、その広がりに対し、多くの国が懸念を強めている。
  ■自発的な申し込みはゼロ 
 新疆南部の村の平原で、干し草が集められている。ウイグル族の家族が昔から囲んできた低い台が置いてあり、その上に果物や平らなパンが並べられている。 のどかな光景だが、タクラマカン砂漠を吹き抜ける生暖かい風は、不安と変化も一緒に運んでくる。 中国共産党系のニュース放送局は、この村の中心部で赤い旗の下に座る、当局者の一団を紹介している。旗は、4000キロ離れた安徽省での仕事をPRするものだ。 記者のナレーションは、2日たっても1人の村民も就職の申し込��に現れず、そのため当局者らが家々を1軒ずつ訪ね始めていると伝えている。 続いて、非常に強烈な映像が現れる。ウイグル族やカザフ族、その他の新疆の少数民族を、往々にして自宅から遠く離れた土地の工場労働や手作業に就かせようという、政府の大がかりなキャンペーンの一場面だ。
 ■「他の人も行くなら」
 映像が放送されたのは、この施策が本格化し始めた2017年だ。だがこれまで、外国の報道機関に取り上げられたことはなかった。 映像では、当局者たちが父親に話しかけている。父親は、娘ブザイナップさん(当時19)を遠く離れた土地に送り出すのを明らかに嫌がっている。
 「行きたいという人が他にいるはずだ」と父親は訴える。「私たちはここでやっていける。このまま生活させてほしい」。 当局者らはブザイナップさんに直接語りかける。このままここにいれば、そのうち結婚し、ここから出られなくなるぞと伝える。 「よく考えろ。行くか?」。当局者らは尋ねる。 当局者と国営テレビ記者たちに凝視される中、彼女は首を横に振り、答える。
「行きません」。 しかし圧力が弱まることはなく、ついに彼女は涙を流しながら折れる。 「他の人も行くなら、行きます」 映像は、母親たちと娘たちの涙あふれる別れの場面で終わる。ブザイナップさんや、同じように「集められた」新規労働者たちが、家族と故郷の文化を後にする瞬間だ。 英シェフィールド・ハラム大学で人権と現代の奴隷について研究するローラ・マーフィー教授は、2004年から翌年にかけて新疆で暮らし、それ以降も訪問し続けている。
 「この映像は注目に値する」と教授はBBCに話した。 「中国政府は、人々が自主的にこれらのプログラムに関わっていると言い続けている。だが、この映像からは、抵抗が許されない強制的な制度であることがはっきりわかる」 「もうひとつ見て取れるのが、隠された動機だ」とマーフィー教授は説明した。
「政府側のストーリーとしては人々を貧困から救うというものだが、生活を様変わりさせ、家族を引き離し、住民をばらばらにし、言葉を、文化を、家族構成を変えようとする力が働いている。それは貧困を減らすよりも、増やす結果を招きやすい」
 ■「同化させるために重要」
 新疆に対する中国政府のアプローチの変化は、歩行者と通勤者を襲った、2件の残虐な事件に端を発している。2013年に北京で起きた事件と、2014年に昆明で起きた事件だ。中国政府はウイグル族のイスラム教主義者と分離主義者が引き起こしたとしている。 施設への収容と遠方での就労という両方の施策の中心にあるのが、文化とイスラム信仰に対するウイグル族の「古い」忠誠心を、「現代的な」物質主義的アイデンティティーと、共産党への強制的な忠誠心に置き換えようという、中国政府の意欲だ。
 ウイグル族を中国の多数派である漢族の文化に溶け込ませるという最大のゴールは、新疆における労働移動施策に関する、中国の綿密な研究で明らかにされている。この研究は中国政府の幹部らで共有され、BBCも中身を確認した。 2018年5月に新疆省和田地区で実施された現地調査に基づくこの研究報告書は、2019年12月に誤ってオンラインで公開され、数カ月間後に取り下げられた。 執筆したのは、天津市の南開大学の学者グループだ。大規模な労働者の移動については、「ウイグル少数民族に影響を与え、融合させ、同化させるために重要な方法」であり、ウイグル族に「考えの変質」をもたらす点でも大事だと結論づけている。
 また、ウイグル族を居住地から引き離し、地域内の別の土地や、国内の別の省へ移住させることで、「ウイグル族の人口密度は低下する」としている。 この報告書は、中国国外で暮らすウイグル族がオンラインで発見。米首都ワシントンの共産主義犠牲者記念財団のシニアフェロー、エイドリアン・ゼンズ博士に連絡した。 南開大学が間違って公開したことに気づく前に、ゼンズ氏はウェブ上のアーカイブサイトに報告を保存。さらに、自らの分析を記し、英語の全文訳も載せた。 「これは、新疆への高度なアクセス権をもつ有力研究者と元政府関係者が書いた、前例のない、信頼できる情報だ」とゼンズ氏はBBCに話した。 
 「私が見るところ、この報告のもっとも衝撃的な告白は、対処が必要な余剰人口が存在し、ウイグル族の中心都市に労働者が集中するのを軽減する方法として、労働力を移動させているということだ」 ゼンズ氏の分析の中には、米ホロコースト記念博物館の元シニアアドバイザー、エリン・ファレル・ローゼンバーグ氏の法的見解が含まれている。ローゼンバーグ氏は今回の「南開報告」について、強制移動と迫害という人道に対する罪が犯されたことを示す「信頼できる根拠」を提供するものだとしている。 中国外務省は、文書による声明を発表。「報告書は筆者の個人的見解が反映されたものに過ぎず、中身の大部分は事実に沿ったものではない」とした。
 「ジャーナリストには、新疆について報じる際、中国政府が発表した信頼すべき情報を基礎に置いてもらいたい」
 ■政府の施策に「行き過ぎ」との警告も
 南開大学の報告書の筆者らは、職場において「自発性の約束」が示され、工場が労働者の「自由な退職や復職」を認めることで、貧困との闘いが進められていると称賛している。 ただそうした見方は、施策が実際にどう機能しているかに関しての、筆者らの詳述と合致しない。 この施策には達成すべき「目標」が存在する。例えば和田地区だけでも、研究が実施された時点で、労働力人口の5分の1にあたる25万人を送り出している。
 目標を達成するよう圧力もかかる。「すべての村に」募集事務所が設置され、当局者らには「集団動員」と「家庭訪問」が命じられた。19歳のブザイナップさんのケースはまさにそれだ。 また、すべての段階で、統制が行われていることを示す証拠��見られる。寄せ集められた人は全員、「政治思想教育」を受けてから、団体で工場へと移送される。多いときは1度に何百人も送り込まれ、「政治指導者が安全確保とマネージメントのために引率する」。 自分の土地や家畜を置き去りにしたくない農家は、留守の間に管理する政府のプログラムに、それらを差し出すよう奨励される。 新しい工場の仕事に就くと、今度は労働者らが、寝食を共にする当局者による「集中管理」の対象になる。 報告書はまた、こうした制度の中心に存在する深刻な差別が、効率的な働きを妨げているとしている。中国東部の警察は、大勢のウイグル族が列車でやって来ることに恐怖を覚え、押し返すこともあるという。
 報告書はところどころで、中国政府の新疆における施策に対し、行き過ぎだったかもしれないと警告を発してさえいる。例えば、再教育施設に収容されている人々の数は、過激主義との関連が疑われる人々の数を「はるかに超えている」と指摘している。 「ウイグル族の全人口が暴徒だとは想定されるべきではない」と報告書は記す。
 ■米企業「強制労働容認しない」 
 繊維関連会社の華孚は、中国東部・安徽省の淮北市にある、陰鬱(いんうつ)な工業団地の端に位置する。 国営テレビで取り上げられたブザイナップさんが送り込まれたのは、この工場だった。 BBCが訪ねた時、独立した5階建てのウイグル族の寮は、開け放たれた窓のそばに置かれた1組の靴を除いて、人が住んでいる気配はほとんどなかった。 門にいた警備員は、ウイグル族の労働者らは「家に戻った」と説明。国の新型コロナウイルス対策が原因だと話した。華孚はBBCの取材に、「当社は現在、新疆の労働者を雇っていない」と声明を出した。 BBCは、華孚製の糸で作られた枕ケースが、アマゾンUKで売られているのを確認した。ただそれが、訪問した工場や、同社の関連施設と関係がある物なのかを確かめることはできない。
 アマゾンはBBCに、強制された労働者の使用は容認せず、同社のサプライチェーン基準を満たさない製品を見つけた場合、販売は取りやめていると述べた。 BBCは中国を拠点とする国際ジャーナリストらのグループと連携し、計6カ所の工場を訪れた。 広東省の靴メーカー・東莞緑洲鞋業の工場では、ウイグル族の従業員らは独立した寮と専用の食堂を使っていたと、労働者の1人が話した。別の地元民は、同社が米スケッチャーズの靴を製造していると話した。 この工場は以前、スケッチャーズと関係があるとされた。製造ラインでウイグル族の労働者がスケッチャーズの靴を作っている場面だとする真偽不明の動画が、ソーシャルメディアに投稿されたのだ。また、オンラインの中国の企業電話帳でも、関係性がうかがえた。 
 スケッチャーズは声明で、「強制労働は一切容認しない」と述べた。だが、東莞緑洲鞋業を供給業者として使ったのかという質問には答えなかった。 一方、東莞緑洲鞋業は、コメントの求めに応じなかった。 この工場でのインタビュー取材からは、ウイグル族の労働者らが余暇時間に自由に外出できた様子がうかがえる。しかし別の工場では、証言はもっと微妙だった。 少なくとも2件の取材で記者らは、いくらかの制限が存在していたと聞いた。武漢市の工場では、漢族の中国人従業員がBBCに、200人近いウイグル族の同僚らは外出を全面的に禁止されていたと話した。
 ブザイナップさんが村を去り、政治教育訓練を受け始めた姿を紹介してから3カ月後、中国の国営テレビ局は、安徽省の繊維関連会社・華孚にいる彼女を再び取材した。 その様子を伝える報道の中心にあるのは、やはり、同化というテーマだ。 ある場面では、ブザイナップさんはミスを叱られ、泣きそうになる。しかしその後、彼女には変容が起きていると説明が入る。 「何も言わず、じっと頭を下げていた気の弱い少女が、職場で自信をつけつつある」とナレーションは言う。 「ライフスタイルが変わり、考えも変わってきている」 プロデューサー:キャシー・ロング (英語記事 Chinese study reveals Uighur 'assimilation' goal)
2 notes · View notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮な��しに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやテ��レッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
2 notes · View notes
shunsukessk · 4 years
Text
あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
 都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか?  まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下との境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。  徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。  ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベランダに男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向かって若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。
Tumblr media
 東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の賃貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建ち、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。
Tumblr media
 アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。  掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。お隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。  通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。
Tumblr media
 わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部を一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。  人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか?  そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか?  あるいは都市は既に死んだ?  人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける?  このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。  実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの炎を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?
Tumblr media
 白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。  午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。  こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか?  都市の穴蔵とはそんなに浅いものだったのか?
Tumblr media
 いやぁ、  未来都市ですね、
 ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。ある濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。  未来都市?  だってこんなの、見たことないですよ。  ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市?  ここは現在なのに?  ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
 おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
 わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だから、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。
Tumblr media
 ようやく気づいたか。  ああ。  それで?  おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと?  どうかな、  本当は都市なんか存在しないのか?  どうかな、  すべては幻想だった?  そうだな、  どっちなんだ。  まあ結論を急ぐなよ。  おれはさっさと結論を出して原稿を書かなきゃならないんだよ。  知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。  あんたは誰なんだ。  まあ息抜きに歩いてこいよ。  息抜き?  いつもやっているだろう。あの循環だよ。  ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
 もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。  キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする?  豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。  リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭も指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。  と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の躍動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。
Tumblr media
 それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都市がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。  なあ、そうだろう?  応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。  コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所によるランドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。  さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN  Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場で物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。
Tumblr media
 ほら、  幕は上がらないだろう、  お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出してみろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ?  あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか?  それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在した。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な玄関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか?  胸を抉られるような気持ちだったはずだ。  そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほっとしたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか?  もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。  では、お前は想像の世界に満足したか?  そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七八戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じ��がら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。  結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう?  こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。  とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都市へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。
Tumblr media
 実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。  あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。  この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。  長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。アトリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう?  一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。
Tumblr media
 まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。  わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、たぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
 あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。  どうかな、  で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう?  そうだな。
 もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。
Tumblr media
3 notes · View notes
2ttf · 12 years
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎��括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
4 notes · View notes
okuizumi-risako · 5 years
Text
動きはじめる身体のために
Tumblr media
-
 かつて、世界は今よりずっと、見通せるものだった。だだっ広く広がる土地には、はるか遠くに、水や地面の終着する線だけが見える。教科書で習った知識に基づけば、その線の向こうは、きっと地球が球体であるから見えないのだろうし、はるか遠くの地面の小さな凹凸がまるで気にならないのは、われわれの視力が、そこまで鋭敏ではないからだろう。それから長いときが経って、世界の多くは、細かく細かく分割され、整備された。そこで暮らす人間の分だけ家ができ、彼らが快く暮らせるように、数多くの機能を持つ構築物が生まれた。川の向こうに難なく渡れるようにもなり、地面から離れた場所に上っていく経験を簡単に得られるようにもなった。辿り着ける場所が広がるにつれ、街は見通せなくなっていった。身体の自由はおそらく増えた。人は、かつての人が、一生のうちに移動していた距離をずっと超えて、想像できたよりもずっと突飛な場所に、行けるようになっただろう。そうして、目は、随分と近くを見るようになった。構築物が周囲全方位から眺められるということは、ほとんどなくなったし、見えないくらい遠いものに出会うことも少なくなっていった。目は、多くの制限を受けるようになったとも言えるし、目のための足掛かりが、この世にたくさん作られたとも言えるだろう。
 意識を持ち、自分の身体が自分のものだと気づき、概ね自由に動かせることも把握したとき、人は、世界が自分の身体とは関係なくただ周りにあるのだ、ということをすでにわかりはじめている。さて、どこまで関係なく、しれっと存在しているものなのだろうか、なにせ私たちは、この地面に支えられているのだ、この壁のせいで向こうが見えないのだ、この窓のお陰で陽を浴びるのだ。身体と世界の関係、と言ってしまうと随分と大げさな響きだけれど、身体と身の周りのもの、自分の扱う範囲で言えば、身体と建築の間にある緊密な関係、そこに興味のすべてがあった。身体が動けば、見えているものは変わる。乗り物の動きに合わせて、車窓から見える風景が後方に滑っていくのと同じように、世界は、建築空間は、私の身体の動きと逆方向にぬるりと動いていく。そしてその身体の可動範囲は、建築によって定められている。床がなければ進めやしない。建築は、人の身体の位置を規定しながら、人の視覚の中に動きとして立ち現れるのだ。そして、足掛かりのたくさんあるこの世の中で、視覚は身体よりも、遠くまで届く。建築空間は、動きはじめる身体のためにあった。そして、動かずに建築を訪れる、ということはできない。
-
 leaf throughという言葉を、タイトルに掲げてみることとした。自分の思う建築体験を、的確に表していると考えたからだ。〈(本の)ページをめくる、ぱらぱらと繰る〉というこの言葉には、フリップブック、いわゆるパラパラ漫画についての記述を読んでいたときに、ふいに出くわした。『観察者の行方−ポスター、絵本、ストーリー・マンガ』(鈴木雅雄) の中に出てくるその記述は、映画と同時代、19世紀末以降に流行・定着したこの装置を取り上げて、” 単純と言えばこの上なく単純なこの遊具が、映画の時代にそれと並行して存続し、今にいたるまで命脈を保ってきたという事実には、何か感動的なものがある。それは映画の代理ではなく、自らが出来事を作り出しているとともに、その出来事が自らとは切り離されたものとして現象してしまうというあの矛盾した体験−動いてしまうイメージという体験−を、何度でも生成させるためにこそ要請された装置ではなかっただろうか。” と、装置のもつ〈運動を自ら操作する〉という側面に重心を置いたものである。ここに続く記述は、女性が衣服を脱いでいくようなポルノグラフィックなフリップブックが多数存在することを取り上げ、単に〈彼女〉が服を脱ぐだけでなく、〈私〉がその出来事を作り出すということに対する、危うい欲望に触れている。“ 私は出来事を作り出し、そのスピードを操作することさえできる。思いのままに出来事を止めて、気に入ったポーズに見入ることすら自由なのだ。それは単に運動への欲望ではなく、動かすことができ、また止めることもできるという驚異への欲望である。”
 この危うい欲望は、建築空間を体験するわれわれの快楽そのものだ。ある空間は私たちを、機能や好奇心などの要請により、その先へと歩かせる。そのとき私たちは、身体の動きと逆方向にぬるりと動きながら、徐々に展開していく建築空間に直面するわけだが、足を早めればそのスピードは上がり、のろのろと歩けば緩やかになる。また、ぴたりとその動きを止め、もと来た道を引き返し、それ以上知らずに帰ることもできる。さすがに、ばっとページを開くように、ランダムなあるシーンだけを不意に知るということは、実空間には難しいが−ただ、建築写真などで、不意に知ってしまうこともある断片的なシーン同士の繋がりを、実際に流れで見てみないと全貌は知り得ない、という点は、また似ている。知ってしまっても、何度でも、もう一度見ることができる。先ほどとはまた違う速度で。少し違う角度で。建築空間は、視点の埋め込まれていないフリップブックだ。対象を観る目の角度は、鑑賞者が選ぶことができる。場合によっては別の順番で観ることもできるし、〈私〉と同時に、横に並んで入った〈あなた〉の目に展開する建築空間は、また少しだけ角度の違うものになるはずであるし。
 建築は時間芸術ではないというのは自明すぎる命題だが、映画や音楽と比較するとそうなのだ、と言えるだけであり、実際には、流れていく時間と切り離して語ることはできない。鑑賞する目、もちろん目に限らず、空間を知覚する身体は、その身体能力によって制限を受けている。フリップブックをめくる速度がどんなに自由だと言えども、実在する紙である以上そこには限界があるように、空間を体験するわれわれの身体には、歩く速度、走る速度、見える角度や視野などの限界がずっとつきまとっている。動いていく身体とともに、ある程度規定された見えが移り変わっていく、という当然の事実を、あらゆる建築物に当てはめてみる���ころから、リサーチを始めた。
-
 〈第一の部材としての身体〉と名付けた1つめのリサーチは、物質として立ち現れ、この世に確固とした存在感を放っている建築物と、それをふらりと訪れる〈私〉の身体の位置関係を記述したものである。空間は、〈私〉以外のものとして体験することはできないために、このリサーチはかなり主観的な性格を帯びるはずだが、〈私〉がごくごく一般的な〈人間〉の形をしている以上、記述されている図は一般化できるものになる。図はすべて〈鑑賞者の身体の位置を含んだ空間構成のコンポジション〉だと言い換えられる。そして、コンポジションの問題として扱うと、広大な地平線から展示室に置かれた椅子までを、身体との位置関係で見え隠れするものとして並列に考えることができる。こうして、furniture・architecture・landscape・earthという4つの区分で、今までに訪れた建築における空間体験を記述していった。
 リサーチは、ひどく単純なところから始まる。初期のいくつかの図版が示すものは、ドイツ・ケルンにある教会Bruder-Klaus-Feldkapelle、スリランカの名作ホテルLunuganga、ドイツ・ミュンスターの中心街にあるLWL-Museum für Kunst und Kulturなどに通じる、身体の動きと共に移り変わるシークエンスである。ここでは、自由に歩く鑑賞者に委ねられていると言えるはずの建築空間の体験が、外部からの要請によって生まれる〈人間〉一般の常識的な動きによって、思いのほか画一化されていることが見いだせる。例えば、広大な広場の上に道が1本あれば人はその上を歩くし、ホテルに到着し荷物を置いて腰掛けるとき、身体の向きはベンチに影響される。階段を後ろ向きで上ることもないし、空間の幅によって見通せるものは定まる。図面には身体に対して持っている強制力があること、やさしい言葉を使えばエスコートの意図が張り巡らされていることを再確認することができる。
 この動きと連動した視界の変化は、アサヒビール大山崎山荘美術館の下り階段や、Boa Nova tea-houseのエントランスのように〈徐々に視界が閉じていく/開けていく〉など、人間を包み込む空間全体に影響する使われ方をすることもあれば、Tomba Brionの、手前の飾りと奥のスリットのように〈観る位置によって揃って/ずれて見えてくる〉ことで、身体の位置により細かな影響を及ぼすこともある。また、Church in Marco de Canavezesの祭壇の向こう側の〈観る位置にかかわらず見えない〉空間を構成する角や目地などのように、視線の届く範囲を制御することによって、建築物側を知り尽くせないものとして保つ、ということもあり得る。
 身体の位置をさりげなく/強制的に定める建築物によって作られるのは、建築空間の立体的な造形に対する〈観察者の位置〉である。動きを伴う場合、移動していく〈観察者の位置〉は、空間を動くカメラワークの動線のようなものであった。続いては、この動線の中で、人がふと足を止めるような場面を想定するときについて考えてみる。もっともわかりやすく極端な例は、Villa Malaparteだ。この作者不詳のヴィラは、Jean-Luc Godardの映画に登場したこともあり名が知れており、容易に場所を知ることもできるが、敷地に向かう道は途中で、扉と有刺鉄線により閉ざされている。恐らく数多の人間がここまで来たのだろうという証拠に、インターネット上にはその扉の前から撮影された、一定の角度のVilla Malaparteの写真が並ぶ。ここでは、立ち入り禁止という強制力によって外観を見るための〈観察者の位置〉が限定され、逆説的にその建築を代表する外観のショットが決定されている。
 多くの建築物においては、Villa Malaparteの例のような動線の行き詰まりとは無関係に、立体的な造形に対する気持ちのいい見えというものが存在する。これは、建築のファーストイメージが描かれたドローイングのように、設計者によって意図される場合もあるだろうし、偶然生まれる場合もあるだろう。また、外側から建築本体に向かう視線ではなく、景色を観る外側への視点場として設定される場合もある。いずれにせよ、つい足を止めて眺めてしまったり、カメラを取り出したくなるような場面についての話である。リサーチの図版を見ていくと、建築物のもつ象徴的な見えというものが、その建築のもつ平面・立面・断面形状という独立した形の問題である以上に、どこから眺め得ることができるか、というその土地の制限に関わる〈観察者の位置〉の問題であることが浮かび上がってくる。
 例えば、スイスの山奥に建つCappella Santa Maria degli Angeliでは、山を登り入り口までまわり込んでいく道の途中で、山頂に突き刺さるような教会全貌の造形を真横から眺めやることができる。建築家、Mario Bottaがどんなにこの見えに拘り完璧な立面造形を作り上げたとしても、この道がなければこの見えに到達するものはいなくなるのだ。もう少し偶然に近いもので言えば、FirminyにあるUnitéd’Habitationの台形形状の列柱が挙げられる。この柱と柱が重なる見えは、三角形の空隙を作り出す。この空隙に丘の上で遊ぶ子供がボールを追って入り込んでくると、この三角形は、ユーモラスな光景を再生し出す窓として機能し始める。また、見通せたり覗き見たりできることばかりではない。パリの都市部に建つTafanel Logistics Hub and Officesは、長く長く続く三角形の連続屋根が特徴であるが、あまりの長さと都市部の道の狭さにより、どんなに身体を目一杯引いたとしても全貌を視界に収めることはできない。
 このような事例から、建築において重要な問題は〈どのような形が存在するか〉ではなく、〈どのような形に対し、どの位置に立つことができるか〉であることが実感される。そしてこの先、空間を移動するカメラワークのような動いていく身体、また不意に足を止めシャッターを切るような静止する身体が、純粋なビデオ・カメラではなく、われわれの身体、曖昧な知覚を持つ〈人体〉であることが問題になっていく。
-
 形と身体の位置の書き出しは、観る位置と角度の問題にとどまらない。このリサーチが単純なコンポジション以上の問題を含み得ることに一番初めに気がついたのは、ブリュッセルの町外れにあるKersten Geers David Van SeverenのDrying Hallに、車で近づいたときの体感である。この建築物は出荷前の植物を24時間乾燥させるための風通しのいい倉庫であり、白く閉ざされたような外観をしている。この倉庫の周囲をぐるりと周って内部に車のまま入り込み、内側の壁全面から外の景色を透かし見ることができた瞬間、一体どうして、と息を飲んだことを覚えている。知ってしまった今では単純な話であるが、風通しのために倉庫の壁は小さな穴が無数に空いた素材でできていて、走る車の中からは確認できなかったが、車を降りて近づけば、光が差し込む方に透けている理由も端的に理解できるというわけだ。
 ここで、建築物からの身体の拘束方法に〈乗り物〉という可能性が足されると共に、〈視力〉という〈観察者の位置〉よりも、一歩人体側に踏み込んだ要因が取り上げられた。Azkuna Zentroaの多様なデザインの柱にひとつずつ近づいてみたくなってしまうことや、Insel Hombroich Museumの異様に遠く美術館本体がなかなか見えてこないアプローチも、視力と造形の問題になるのだろう。そして、視力の問題が細かいデザインに用いられているのが、集合住宅OFFICE 131の屋上にある柵である。この柵は、細い縦部材と少し太い横の部材で構成されており、その端部はすぱっと断ち落とされたような状態になっている。地上階から眺めるしかない住人以外の人々にとって、断ち落とされた柵は、密接する隣家の壁に接続しているように見えるのである。
 また、Grundtvigs Kirkeの美しい全体造形が、近づいていくほどに異様なレンガのディテールとして現前することも、無関係ではないだろう。このとき〈観察者の位置〉が変わることによって起こるのは、単に見えていなかった細かい部分が見える/見えなくなる、ということ以上の、見え方の変化である。漠然とした空間の形、が、��み方のわかる煉瓦の集積へと瓦解していくこと。見る距離と視力によって変化するのは、空間から捉えられる意味の総量でもあるのである。〈見る距離と視力によって、空間から捉えられる意味の総量が変化する〉ここから派生していくのは、人間は見たものの意味を読み取る、という、目が紐づいている身体を含めた側面と、人間の視覚と距離の関係、視覚自体の性能という側面である。
 前者は、建築のボキャブラリーとしてしばしば登場する。人は何かを見た瞬間にその対象を自動的に理解しようとする。自分の周囲で起きていることや、視界に入り始めたことを、秩序立て理解できるものに変換する。その精度は必ずしも正確なわけではないために、一瞬で受けた印象が実空間とは異なるものとなり、続けて体験する空間から意外な印象を受ける、というようなことも起きる。ここでの好例は、富山にあるミュゼふくおかカメラ館と、イタリアの海岸沿いに建つOscar Niemeyer Auditoriumである。円筒形がパッと目につくミュゼふくおかカメラ館は、その内部形状も同時に想像されてしまうような、明快な佇まいをしている。しかし、エントランスから内部に入ったときに見えるものは、想像していた円筒の内部ではなく、あるはずのない奥行き方向に伸びていく空間と中庭である。Oscar Niemeyer Auditoriumにおいても似たようなことが起きている。外観で特徴的なアーチ型の形状は、奥に見えるホールの空間の硝子に近づき沿っているように見える。しかし、裏手に周りそのアーチのなかに入り込んだとき、思いのほか広いその隙間から不意に海を見渡し、私たちは立ちすくむ。
 一瞬で受けてしまう初期の印象、は、部材や素材の話と接続することもある。スイス、Plantahof Auditoriumの建築全体を支えているような部分。大阪に建つ住宅Tritonの、一見すると分厚い石に見えるファサード。空間体験ではっと立ちすくむこととはまた別の、意味により絡め取られるような足止めも、建築には起こり得る。
 そして後者、人間の視覚と距離の関係は、意図的に設計へと活かされるというよりも、自然の摂理として起きていることだと考えられるが、顕著に現れているものとしては、パリに建つCinémathèque française、また、ローマ近郊の都市EURにあるPalazzo della CiviltàItalianaのことが思い出される。
 Cinémathèque françaiseでは、大小さまざまな造形を施された搭状の空間が上に伸びており、それらを地上階から眺めやる天窓が作られている。この天窓から見える上の部分は、ほとんど垂直に建っているはずのものでありながら、中心部に向かって、ぎゅうと密集しているように見えてくる。遠くのものは小さく、近くのものは大きく見える。また、これは聞いた話だが、Hagia Sophiaの大空間の内部では、同時に視界に入る、人間の近くまで吊り下がる照明と遠い天井の動きの差異を観ることで、遠すぎる天井への妙な実感が湧くという。距離と大きさの問題は、距離と移動速度の問題でもある。
 Palazzo della CiviltàItalianaで扱えるのは、距離と立体感の問題である。近づいてもかなり抽象的な造形を持つ建築物だが、不気味なまでの存在感を発揮するのは、都市を横断する道路沿いに遠く遠く離れたときである。道路の中心に見えるこの建築は、決してよれない紙をぺらりと置いたような、平面的で硬質な様相を帯びている。マッシブな造形が紙に姿を変えてしまうというのは一体どういうことなのか、を考えていくと『観察者の系譜−視覚空間の変容とモダニティ』(Jonathan Crary)、及び『造形芸術における形の問題』(Adolf von Hildebrand)のなかで度々触れられている、目と視覚対象の距離の問題まで遡ることができるだろう。
 以上、建築と建築を観る身体の位置、というシンプルな記述方法から、観る位置、順番、角度、距離に留まらない、視力、見立て、判断、遠近法、移動速度、触知的な視覚と遠隔像、などという、さまざまな視覚の問題が立ち上がった。これは建築の、身体と世界の間に建つ触媒のような側面に着目して設計を行うための試論に向かう、足掛かりである。
-
 リサーチ〈第一の部材としての身体〉で触れてきたのは、既に存在する建築物を注意深く観るための技法であった。つまりここでは、物質の実際の建て方を扱う設計者という立場以前に、観察者としての立場に立って調査をしていると言える。また、建築物は原則として実際の世界に建つものであるし、調査方法も〈実在のものを/実体験をもとに〉と限定していることから、ここまでで提示されているのは、自然の摂理に即した、ありのままの世界で起きている現象である。
 観察から立ち現れる建築とはなんであるか。設計、という行為は、まだそこにないものの組み立てを定めることだと言える。そして、まだそこにないものを作り出すとき建築家は、その敷地と、そこに作られるであろうものに対する0人目の観察者であると捉えられる。いかになにもない敷地だとしても、現実の世界である以上は、完全になにもないということはない。建��を建てるということは、敷地と敷地の周囲に既にあるものを観察し、その中心にある空白に、身体と目を制限するような場を増やしていくことに他ならない。
 ここで着目し始めたものが、映画、小説、漫画、アニメーションなどの〈なにもないところから世界を立ち上げる〉視覚文化の表現技法である。
 なにもないところから始まる表現芸術において、描かれないものは存在しない。このとき古くから人は、現実に存在するものをいかに正確に書き写しとるか、ということに拘ってきた。表現芸術の発展の歴史をすべて追っていくにはあまりに力不足なのだが、例えば、カメラ・オブスキュラに関するJonathan Craryの記述、 ”視覚的=光学的基盤を理解していた者にとっては、この器具は、完全に透明に働いて、再現=表象(リプレゼンテーション)の光景を提供してくれるものだったし、原理に無知な者にとっては、それは幻覚=幻像(イリュージョン)の快楽を与えてくれるものであった。” これだけを見ても、現実世界の表象を取り出し切り離して観てみること、に価値が与えられていたことは明らかである。また、有名すぎる話だが、Eadweard Muybridgeの撮影した写真から、人々が走る馬の正確な形を初めて知ることができたことなども、身の周りの物事は技術の発展とともに徐々に把握されはじめ、真実に近づいていった、という流れが感じられる代表例だろう。
 しかし、物語世界−必ずしも、物語(ストーリー)を伴うわけではない、作品世界−を作り上げようという欲望は、そのように現実の写しとしての精度を上げていくことだけに執着した訳ではなかった。ここから、現実を再現=表象するだけにとどまらない幻覚=幻像への欲望、正確さを欠いていたとしても魅力的な架空の世界を描き出すこと、への舵取りが始まる。この方向性の先には、3DCGなどを駆使したあたかも実在するような虚構を描き出す道も想像されるが、ここで注目していきたいのはそういった〈過保護〉な表現ではなく、観察者である受け手本人の身体に補われることによって完成する、物語世界の表現手法である。
 例えば、建築に近しいものでいうと、現代アニメーションには、遠近法やイラストレーションに馴染んでいる私たちであれば容易に空間を認識することができる、簡潔な表現が多数見受けられる。なにもない場所、奥行きも動きもない場所に空間性を描き出すようなアニメーションの試みに関しては、( http://okuizumi-risako.tumblr.com/post/175221555384/奥行きなき世界の奥行き) にまとめている。また、フレームを固定し、その内部に描かれるキャラクターの大きさが変わることによって、キャラクターが接近していると思わせる漫画表現や、登場人物の顔が画面に近づくにつれ、睫毛など顔を構成する部分が仔細に描かれるゲームやアニメによく見られる手法などからも、現実の世界の見えを紙面や画面の中で再現=表象し、より効果的に感情を喚起させるような工夫を感じられる。また、より普遍的な、ふきだしやテロップ、ワイプなども、見慣れているから疑問を感じないというだけで、かなり独創的な、声や別空間の表象方法の確立であると見ることもできるだろう。これらに共通するのは、鑑賞する身体が、その表現物が前提とする規則をきちんと理解し、必要に応じて現実から関連項目を引き出し重ね合わせてくれるだろう、という、観察者の身体への素朴な信頼である。
 忘れてはならない前提は、多くの視覚芸術が前提としている観察者の目の動きは、さほど自由で多岐に渡るものではないということである。観る距離によって像を正確に結ぶ絵画や、観る位置の差異により像を切り替えるレンチキュラーなど、わずかな身体の微動をその想定に含むものはあるが、基本的に視覚芸術は、動かずに対象を見つめる身体のことを、鑑賞者と呼んでいる。これは〈動かずにはいられない〉建築の鑑賞者とは大きく異なる。そのため、視覚芸術の中から見つかった技法は〈物語世界で自由に動くことのできない〉鑑賞者が〈実在しない〉虚構を見出していくこと、つまり、こう描かれたものはこう見えるはずだ、という視覚の仕組みの側からの逆引きにより、虚構の世界が構築されていくというわけだ。このとき、人間の身体こそが、見知った現実世界の情報を適度に虚構世界に照射して、描かれた世界を立ち上げていくための装置となっている。
 よって、視覚芸術を観る身体と、表現されている虚構のバリエーションを見ていくことは、人間の知能の中で行われる処理の構造を知ることに繋がる。しかし、ここで建築との大きな差異として立ち現れるのは、観ている身体が動かない、ということだけではなく、観ている身体が、その身体が誰であれその鑑賞がいつであれ、ある一つの点/シーンごとに切り替わる一つの視点に固定されているということである。映画館の座席は、その位置によって異なる鑑賞体験を期待させるものではない。受け手の性格・感情・その日の気分など不確定な要素が鑑賞体験に影響を及ぼすことや、ある一つの作品が人によって異なる受け取られ方をすることはあれど、視点の位置は固定されているのだ。それにより起こるのは安全圏にいる鑑賞者の特権化であり、それ以前に立ちはだかる作者の特権化でもある。鑑賞者は与えられるままに、安全な場所から目の前で起こることを享受し、飽きたら消してしまうということができるし、作品に目を留めている以上は、その目の位置を定めているのは作者である。
 さて、建築の場合も、ある程度の身体の位置は設計者により定められており、その範囲の中で鑑賞者は自由に動き回ることができた。このことだけを考えると、あらゆる視覚芸術と比べて、建築はもっとも自由で能動的なものであると言えるような気がしてくる。けれども実際には〈鑑賞物〉と対象を括った時点で、私の身体とは無関係な鑑賞対象、見る−見られるという二項の向こう側に対象を当てはめてしまうものであり、身に迫る鑑賞、自分の身体にまで影響を与えてくる鑑賞というものは難しい。
 もっと言えば、建築は〈鑑賞物〉として享受されているのだろうか、という疑問すら湧く。建築を観る、という意識は、本来建築を観に行くのが好きな人だけが使う言葉だ。一般的に建築というのは、生活のために必要で、機能に合わせてその場の雰囲気に寄与することもある〈道具〉であると捉えるのが妥当だろう。あるいは、広義の建築…屋外広場や、東屋の屋根、そのような漠然とした建物未満のものも含めて考えると、建築というのは床があり、そこに立つことができ、ときに屋根や壁があって風や雨から身が守られる、というような、生まれたときから親しんでいる世界そのものと同じ見えをしている、というべきかもしれない。いずれにせよ、建築を観はじめた、建築を観終わった、などという判断を下すことは、実生活においてほとんどないものだと考えた方がいいのだろう。建築は〈世界〉と〈生活〉のあいだで透明化している。
 以上のことから、鑑賞している身体とその鑑賞物(あるいは、身体とその視界に入っている物)は、それが実空間にせよ物語世界にせよ、その関わりが意識されにくいものだと言える。鑑賞物は、人間の知覚能力に半分乗り上げるようにして立ち現れているというのに。
-
 ここから、視覚文化に対するリサーチは、漠然とした鑑賞者に対する工夫を集めるものから、無自覚のうちに、観る側、という立場に安堵しきった鑑賞者を揺さぶる可能性のある表現を探る試みへと変わった。その取っかかりとなった、安全圏を脅かされることに関するテキストは( http://okuizumi-risako.tumblr.com/post/175562702374/観客の安全圏) であり、ここでは、パフォーマンスアートのように見られる身体が現前する例からはじめ、どちらかというと映像の中のものごとを自分ごととして受け取れるような、感情移入に近い問題を扱っている。ただ、感情移入の問題は〈現前する事象が自分のいる世界線とは切り離されている〉という前提のもとに、それでも入り込んでしまうものとして有効なのである。目の前の現象も、全て現実の出来事であるのが当たり前である建築の場合、この話はあまり有効だとは言えない。
 ここで思い出しておきたいのは、”〈私〉と同時に、横に並んで入った〈あなた〉の目に展開する建築空間は、また少しだけ角度の違うものになるはずである” という、この文章の序盤で確認をした事実である。建築において特筆すべきことは、その空間を体験しているのはあなたひとりではなく、同時に体験しているいくつもの身体があること。そして、その身体たちにはそれぞれ、空間を立ち現せる知覚の能力があり、その身体は別々の角度から空間に対面しているということである。
 
 視覚文化のうち、鑑賞者に影響を及ぼすような表現を探っていくと、このような、異なる水準に属する人・物たちがその階層を明らかにするような表現に出会うことがある。例えば、クロアチアの現代アニメーション作家による『Technement』では、SFのようなテイストで描かれた登場人物たちが物語を進めていくのだが、最後のシーンで不意に、鳥のような女性のようなかたちをしたキャラクターが、画面に向けて手を広げ、画面(あるいは、光景を記録していたカメラ)を覆い隠す、という出来事が起こる。そのとき私たちが直面するのは、油断しきって画面を見つめていた自分の存在が、登場人物たちにずっと前から勘付かれていたかのような気まずさであるが、これは、画面のなかの登場人物たちに、私たちと同等の知覚の能力を認める瞬間、ということでもある。私たちの娯楽のために、台詞や振る舞いを徹底し、物語を遂行しているかのように見えた身体が、〈知覚する身体〉であったことを知る、という話である。
 このような、作品世界の側が、その作品を成り立たせる仕組み自体に自覚的になるような表現は、小説の1ジャンルとして始まったメタフィクションや、自己言及型芸術などと呼ばれるジャンルに属している。
 鑑賞している自分以外の身体に知覚能力を認めること、作品世界を閉じたものとして捉えずに、鑑賞者の世界と地続きのものとして扱うこと。それを意識したときから、こうした工夫のある作品を収集し、建築の問題と関係して考える可能性を検討し始めた。今までに述べたような、鑑賞者の目への映り方に自覚的な表現であり、複数の階層の知覚する身体を扱っている、ということに加えて、多くの自己言及型芸術が、普段は見えていない仕組みを可視化してしまう工夫である、という点も可能性を見出した理由である。
 例えば、先ほど取り上げたアニメーション『Technement』においては、独立しているように見えた作品世界を覗き込んでいたカメラが、最後に姿を現した、と考えることもできる。アニメーション『カモにされたカモ〈Duck Amuck〉』、Lucio Fontanaによる『空間概念 〈Concetto spaziale〉』、手塚治虫の『ビッグX』などの例を通すと、このイメージをより明確に伝えることができるだろう。これらの作品の当該の場面において作品は、キャラクターの動きや、色彩や、表情や意味内容から、鑑賞者の気を逸らせるような要素を持っている。『カモにされたカモ〈Duck Amuck〉』におけるその場面は、画面の中でユーモラスに動きながら台詞を言っていたダフィーダックが、その身体が描かれたフィルムごと上にずれ込んでいってしまうというものであり、『ビッグX』においては、漫画のキャラクターが作者・手塚治虫に、気を失ったキャラクターの目を開かせるよう懇願し、作者のペンが登場してそれを描き直す、という表現である。また、『空間概念 〈Concetto spaziale〉』は、絵画であるため性格は異なるが、絵画において前提となっているキャンバスそれ自体を切り裂く、という革新的なシリーズを指す。ここで一般的に鑑賞対象とされている〈内容〉と呼ばれるような要素から、私たちの意識が移る先は、動きを生み出しているフィルム・漫画を描いている作者・前提となっているキャンバスであり、これらは普段、アニメーションや漫画、絵画などを鑑賞するときには、ジャンルを成り立たせる〈形式〉として、透明化されているものだと言える。
-
 建築は〈世界〉と〈生活〉のあいだで透明化している、と先ほど記述した。ここで、他の芸術における〈形式〉/〈内容〉と、建築におけるそれを比べてみると、建築において〈形式〉は生まれたときから親しんでいる世界そのものであり、〈内容〉は生活のために必要で、機能に合わせてその場の雰囲気に寄与することもある道具的な側面である、と当てはめて考えることができる。
 あらゆる形式をもつ芸術において、メタフィクションは、前提を盲目的に信頼する我々を軽やかに欺く態度、���るいは、形式すらも物ともしない果敢な表現である。ただ、その形式が世界そのものと一致する存在であった場合− その形式にまとわりつく制約が、紙の大きさでも、ビデオテープの録画可能時間でも、美術館の搬入口の大きさでもなく、この世界の重力や光や影、風が吹くことや、雨が空から降ること、それから使い慣れたこの身体のことであった場合− メタフィクションは、生活に塗れ透明化している都市を、空間を、もう一度見つめるための表現となる、と、言い切ってみることもできるだろう。
 建築における透明さ、〈形式〉としての透明さは、他の芸術と同じく、そこにあることが前提となりあえて気にする必要がない物事のことだ。その代表格として、1つめのリサーチで述べていたような、次々と露わになる視覚の問題、身体にかかっている制約、また、知識や経験があるからこそ自動的にできてしまう判断などの、鑑賞する〈私〉自身の身体の性能があるのである。そして、もう一つ意識から消えているものは、慣れ親しんだ自然の摂理そのものだと言えるだろう。透明化しているそれら二つの要素は、冒頭で掲げたフリップブックと建築の、数少ない相違点でもあると言えよう。
-
 以上のことを踏まえて、リサーチ〈第一の部材としての身体〉と視覚文化についてのリサーチをベースに、実空間の中で、各人物が固有に持っている知覚が、不意に隣接したり遠く離れたりするようなことを起こし得る設計の技法を探っていく。つまり、視覚文化のリサーチを建築にそのまま転用するのではなく、透明さを可視化する表現として参考にした上で、あくまでも現実世界での現象を基準に考え、複数の階層の接し方・離れ方の図式としての転用可能性を検討する、ということである。
 設計には2つのフェーズがあり、2つめのフェーズは、現在ようやく手法が定まったという状態である。まずは、1つめのフェーズ、都市の中で透明化しているものを見出すことや、複数の〈知覚する身体〉の関係を描き出すことに着目し、具体的な敷地を設定して行った4つの設計の実験について記していく。
-
 敷地は具体的な場所である必要があった。なぜならこの制作は、現実世界に建つ〈建築〉の問題を扱うものであるからだ。メタフィクションは、鑑賞者と作者の間にフィクションをまず描きだし、それを共有してから始まるものである。この制作において、作者の頭の中で作られた敷地や抽象的な敷地から考え始めてしまっては、他の作品世界のメタフィクションのコピーとなってしまい〈建築〉を考えることにはならない。
 よって、フェーズ1の設計はすべて、都市の中に既に存在する公共空間や空き地を足がかりに行なわれるものとなった。
 敷地は、目黒川沿い、及び山手線目黒恵比寿間の線路沿いから選び出した。それぞれ、既存部分��形状や環境など、よく見ているとどこか引っかかりのある場所、を理由として選んでいるが、ここで川や線路など視界の抜けが目立つ敷地ばかりが揃ったことには、身体の位置によって視界の到達範囲が大きく変わるような場所を選ぼうという意思が働いていたのだろうと考えられる。また、小さな実験の場として公共空間に取り付くような形式をとることに関しては、1から10まで自分で作り出し完全なフィクションになってしまうことを避けようという意図でもある。
 1つめの敷地は、目黒区目黒1丁目付近の交差点、橋上道路の上から見える、向かい合うビルに挟まれた川とその周辺道路である。この土地には、東から西陽が射している。そういうと嘘か出鱈目のように聞こえるのだが、実際には、西に向いた大きなガラス窓が連なるファサードに光が反射し、反対側のアパートの東側立面を照らし出している、というわけである。この、ふたつの太陽がある状態だとも言える場所に、橋をかけ、その橋の上にベンチを並べる計画を立てる。橋は、橋上道路へと向かう川沿いの坂道の下部分の構造体、アーチ状になっている空間への出入りを可能にする。この空間は、反射した光が当たるため草が生い茂り、整備すれば都市から不意に離れた休憩所になりそうだが、現在はアクセスする方法がないために放置されているのだ。ここで注目すべきところは、川の流れる方向と西陽の射す方角が、垂直に交わってはいないという点である。そのため、反射を起こすビルと光を受けるビルの間には、a.西陽だけが射す空間/ b.西陽と反射光、ふたつの光が当たる空間/ c.西陽はビルによって阻まれ、反射光だけが当たる空間 の3つのゾーンが存在することになる。これにより、均等に並んだベンチは、東側・両側・西側へと、リズミカルな影を落とす。この場所に人が増えていくと、その人々もそれぞれ、立つ場所によってさまざまな方向へ影を落としていくことになる。橋の上から眺める人々の中には、自然光しかないはずの屋外空間に複数の影が落ちていることに、ふと足を止める人もいるかもしれない。
 2つめの敷地はこの橋上道路の反対側、道路へと上がる階段と坂道、及び橋上道路の欄干である。川沿いの道路は標高5m、橋上道路は10mであり、道路の上に出るには西側の上り坂か、東側の階段を上がることになる。ここで考えていたのは、人は、自分の身体が直面している以外の知覚を想像できるのかということ、近くて遠い別の場所と、関係を持つことはできるのだろうか、ということである。ここでは、東側の川沿いの道と階段横の手すり、そして橋上道路の欄干の形状を変え、その一部を広場とする計画をした。東側の川沿いの道の傾斜は非常にゆるく、ここを歩く人は、対岸の上り坂を上がっていく人の身体の上昇をずっと横目に見ながら、最後の最後に階段を駆け上がり追いつく、という形式を持つ。しかし、15mを越える川幅を隔ててそれを意識することは少ない。そこで、傾斜の少ない地面の手摺を外し、対岸の斜面と同じ角度を持つ斜めの壁を建てる。この斜めの壁にはスリット状の窓をいれ、道を歩く身体が、向こう岸で上がっていく斜面を意識に留めながら見え隠れするように設計する。西側から眺めるとこの水平窓は、東側の道を歩く人が徐々に見えてきて、その身体が川を難なく覗き込めるようになった次の瞬間、急に駆け上り、足だけが見える、という状態を映し出すのだ。また、橋上道路の欄干は、道路へと向かう斜面を歩く身体の角度と同様に傾ける。この細かい操作によって、斜面を平行に見下ろす道路の上の身体と、斜面を登っていく人から見て、奥行きの見え方がずっと変わらない開口部分ができるのである。手摺、欄干の形が変わることにより、両岸とそれを繋ぐ橋上道路の上の身体たちは、別の場所を眺め、意識することになる。
 3つめの敷地は、目黒川を北へと遡り、目黒区民センターの2階部分と対岸を繋げる大規模なタイル貼りの橋である。橋の上のタイルは9cm角で、1cmの目地によって繋げられ、橋の床一面を埋めている。この橋の階下には、川沿いの道がある。現状では、対岸に渡るには一度川沿いの道から上がり、2階のレベルまで上がってから再び降りるという動線になっている。ここでは川沿いの道同士を繋ぐ地面を、この橋の下に計画する。着目するのは、人の視点から見た足元のタイルの大きさである。通常、成人の目は、地面からおよそ140-170cmのところについており、距離を隔てるほどに視界に映るものは小さく見えていく。そのため、タイルの大きさが9cmであると頭で理解していても、その大きさがありのまま9cmに見えているわけではない。ここで、既存の橋の欄干をやや外側に付け替えるとともに、広い橋の床面に吹き抜けを空けて、計画する階下の橋の床面を見通せるようにする。そして、階下の橋の床面には、既存の橋から見通したときに9cmのタイルと同じ大きさに見えるように、サイズの大きなタイルを敷いていく。既存の橋から階下の橋の床面までの距離は4.7m、この距離を隔てて9cmに見える正方形は、一辺が40cmのものとなる。また、1cmだった目地は、5cmにまで広がる。スケールの問題を扱うことにより、5cmの目地をもつタイル貼りの床、という不自然なディテールが生まれていく。上から見下ろす人々は同じ大きさに見える床にすぐさま疑問を抱かないかもしれないが、階下で人が滞在しているのを見るとき、その人と、人が立つ地面のグリッドの大きさのバランスに、疑問を抱くかもしれない。
 また、このとき、追加で行う操作として、人間の目に近い手すり子の上面の正方形を、それぞれの床面のタイルと同じ大きさに見えるように設計していく。そうすることで、同じ高さに手摺を設定しているのにも関わらず、既存の橋では20mm角、階下の計画部分では75mm角と、手摺の有り様が変化し、掴んだ時の印象にも差異ができるのである。
 余談ではあるが、既存の橋に空ける吹き抜けの位置は、橋の上にもともとある二股に分かれた街灯の、低い方の光の下を基準にしている。都市の中の街灯の形状は逐一着目するものではないが、高さの違う光源の片方が階下のための照明に見えたとき、街灯の存在感は少しだけ後押しされることだろう。
 最後に、4つめの敷地は、目黒川沿いからは離れ、山手線の線路沿いにある一つの空き地である。ここは、線路を越える橋上道路から覗き込める位置にあり、線路からおよそ3m上/橋上道路からおよそ3m下、というレベル差を持つ土地で、山手線が平均3分に1度は通過するために、3分に一度は振動している土地であるとも言える。敷地の手前にはバス停があり、現状では、バス停のすぐ後ろにある簡易フェンスとロープにより仕切られた穴、という様相をしていて、土地を見学するための簡易階段が階下まで取り付けられている。この土地を線路から区切るコンクリートの擁壁は、分厚く安定したものだと言える。この擁壁の内部を掘り込んで地下空間を作り、100角の鉄骨で組んだ華奢な構造体で屋根をかけることによって、電車による振動を可視化するような建築物を計画できないかと考えた。建築物は2階建てとし、1階部分は、擁壁によって堅く守られた地下空間、そして二階部分は、バス停を待つ人が休憩に気楽に降りていけるような、橋上道路から階段4段分ほど下がった半屋外空間とする。そして、2階部分の床にはグリッド状に6cmの孔を空け、天井梁から階下へと続くランプを吊るしていく。最大で8mほどに及ぶ紐で吊られたランプは、電車の振動を屋根が拾う時、暗い地下空間を緩やかに動きながら照らすことになる。通常、人は、地面が不意に揺れたとしても、その揺れ自体を見ずにすぐその原因に思いを馳せてしまう。都市の振動は直裁的に、車や電車の存在、あるいは災害を意味するものであった。ここでは、観る対象となっていない揺れそのものを、ただ観測する、という経験を作り出している。
 また、副産物とも言える地上階の部分は、わずかな柱を除き、天井から吊られる華奢な紐と椅子のみで構成された空間となる。人の身体がこの紐に不意に触れるとき、その衝突は、また階下の暗がりに影響を与えることになる。
-
 これらの設計はそれぞれ、知覚する身体が都市のなかでなにを観るか、なにに気がつくのか、ということを意図しているが、その実験的な性格ゆえに、具体的な建築の計画として提示するにはあまりに局所的であり、テーマがひとつに絞り込まれすぎているような感覚を覚える。これらの設計で起きたこと、具体的な実感を持って示せそうなこと、というのを基に、空間構成の問題として、より複雑な内部空間の作り方を実践してみたいと考える。ここからが、フェーズ2に向かう試論である。
 また、ここで自覚すべきことは、各設計物が、自ら人の知覚に訴えかけるような要素を持つために “作者が気づき、鑑賞者が未だ気づいていないことに気づかせる” という、押し付けがましい性格を帯びてしまうことへの危険性である。この特権的な、全てを把握している作者の立場、とでも言えるようなものは、多くのメタフィクション作品が陥っている “結局のところ作者の手のうちであるのだ” という興ざめにも繋がるものであるし、建築が訪れる身体によって再生され立ち現れる、という、理想とする体験の快楽から離れてしまうものである。このメタフィクションのマンネリ化と、ではそこで、鑑賞者が能動的であるためにはどのようなあり方があるか、という問いの投げかけは『あなたは今、この文章を読んでいる』(佐々木敦)の中心を担うテーマでもある。 
 この本の序章で佐々木敦は〈メタフィクションの問題〉という見出しのついた章の中で、どんなに複雑に仕掛けられたメタフィクション作品にも、その外延には常に現実の作者がいるという事実と、その〈作者の実在〉という事実こそが担保になって、読者が様々な仕掛けを安心して享受することができる、という実状に触れている。そして、この提起に続く一説は、建築のメタフィクションを考える上での大きな問題を提示してくれているとも言える。
  ”「メタフィクション」の「仕掛け」とは、じつは「作者」と「読者」が暗黙に協力し合いながら行う演戯のようなものである。そして、この「演戯」は、それがどれほどリアルに感じられたとしても、やはり本物の「現実」とは断絶した、つまりは誰かが造った絵空事なのであり、そうでしかないという事実性をあらかじめ/どこまでも保証されている。つまり、「メタフィクション」こそは「フィクション」が本来的に有する安全無害さを強調するものなのだ。” 
 設計において、鑑賞者よりも先に設計者がその内実を知る、という順番は、逆転し得ないものだ。ただ、ひとつの設計物において、 “作者が気づき、鑑賞者が未だ気づいていないことに気づかせる”という性格が出てしまうと、いかにその設計物が見えていないものを見せる効能や興味深い要素を持っていたとしても、ある単一の目的のための〈装置〉になってしまう。そのとき建築は、世界の複雑さのほんの1要素だけを提示する、作者から与えられた安全無害なフィクションに成り下がるのだ。 
 『あなたは今、この文章を読んでいる』の副題は、『パラフィクションの誕生』である。この〈パラフィクション〉という考え方は、本文章のはじめの方で触れたフリップブック、鑑賞者がいることによって生まれ出でる動きの創出、という話と通じるものがある。”ある小説は作者以外の誰かに読まれた時にはじめて実在する。そうでない場合、それはいわば存在はしていても実在はしていないのだ。” という言い切りは、まさに鑑賞者と鑑賞物が接したところから体験が立ち上がる、物は物だけで実在するのではなく〈知覚する身体〉に受け取られてはじめて動き出す、という態度である。そして、この問題に最も差し迫るのが、作家・円城塔の技法に触れながら展開する〈README〉の章である。
 ”「README」は際立って特殊であると言える。「README」というアルファベット六文字それ自体にかんして見るならば、それは常に既に読まれているからだ。「私を読みなさい」と読んだ時、私はもうそれを読み終わっている。まさしく自己回帰的な行為遂行文。このような意味で「README」と完全に同じ次元にある同様の指令文は他には存在していない。ある文章を読んでいる時、私たちがしているのはそれを読んでいることである/でしかないのだから。”
 この、「README」という一つの理想形、これは、行為と指令の不可分で同時間的な一致である。この六文字は確かに人間に対する乱暴なまでの強制力を持つのだが、ここで起こっているのは、作者の押し付けがましい意図ではなく、もっと大きな〈そうなってしまう他はない〉システムの動きによって、鑑賞者の身体が動かされている現象だ。
 文字を見るときほど素早く確実なわけではないが、現実を生きる〈知覚する身体〉は視界に入ったものを、自動的に確実に処理していくという事実を、私たちは信用すべきである。これもまた、作者だとか鑑賞者だとかという区分を越えた、大きな自然の摂理である。見なさい、と誰かに命じられているわけではなくても、目は周りを見て、自動的に理解していく。設計はやはり、ただ何もない場所を分割していくことであるし、そうしてできる空間には、更の敷地よりも多くのピントの受け皿があり、見える/見えない、という問題が大量に発生する。そして小説と異なり、実空間においては、鑑賞者は同時に複数のところに存在し、それぞれの〈知覚する身体〉に対して、身体の可動範囲/目の可動範囲を持つ。この、身体と目それぞれの可動範囲を持つ複数の〈知覚する身体〉を考えていくということに、この知覚を扱う試論を、空間構成の問題へと接続する鍵があると考える。
-
 
 “ 二十七階分の距離を隔てた場所で、信号待ちをしている人たちがいて、いちばん先頭にいる女の人が、こっちを見上げているように見えた。一時間くらい前、同じ場所にわたしが立っていて、同じようにこのビルを見上げていた。(…)一時間前、そこには、交差点を見上げているわたしを見下ろしている人がいたかもしれない ”
−柴崎友香『寝ても覚めても』
 この小説のさりげない一節が感じさせるのは、人物の移動とそれに伴う時間であり、空間が身体に与える制限の範囲で、〈私〉の位置は、別の身体の位置と交換可能であることの証明である。また、建築を一望し、全てをひとたびに把握することは原理上不可能であるため、少し過去である〈私〉と少し未来にいるところの〈私〉という、時間を隔てた同一人物同士の関係も見出せる。ある1本の柱をぐるりと周って把握するだけのことだとしても、その柱の裏側については、1秒前にそこを見ていた〈私〉の知覚と協力し合うしかないからである。
 さらにここでは、二十七階分、という、身体が自力で移動するにはあまりにも遠い距離が、視覚によって容易に飛び越えられていることも示されている。小説の文章の中では軽やかな時間を感じさせるこの記述だが、現実の世界で想像してみると、信号待ちをしている人たちのいちばん先頭にいる女の人にとっては、この窓枠は、ぺたりとひらべったい遠隔像であるし、二十七階から見下ろす〈私〉にとっては、窓枠は質感も厚みも確かにそこにある窓枠そのものなのである。遠隔像と触知的な知覚の転倒、過去と未来の自分の身体も含む、他者との視覚範囲の交わり。複数の〈知覚する身体〉が、効果的に空間を立ち上げていくこととは、交換可能な身体と視覚の可動範囲が、重なったり離れたり、線引きされたりすることだろう。このとき、身体も目も、作者の意図によってある一点に誘導されるのではなく、切り替わり交換されていく前提として扱われ始める。
 この前提を付加した上で、1つめのフェーズで行なったような透明化している人体と自然の仕組みを探る空間の構成を、立体的に展開していく。このとき、勿論、空間の各場所にいる身体から、そのとき見えるものを扱っていくのだが、2つめのフェーズでは、見せるべき限定したものを示すのではなく、敷地の各場所から認識できる身体の可動範囲〈身体のための敷地〉と、視線の可動範囲〈視覚のための敷地〉両方を別のものとして分け、すべてプロットし、取りこぼすことなく扱っていく。〈視覚のための敷地〉は、敷地境界線の範囲内に収まっているとは限らない。開口部などを通して視線が建築物を通り抜けるとき、隣家の壁までを、川の向こうの岸壁までを、無限遠とも言える空までを、〈視覚のための敷地〉の内部として扱うことができるからである。また〈視覚のための敷地〉は身体を越えて自由に拡張されるように見えて、簡単に阻まれ失われてしまうものでもある。なぜなら、ある更地の中央に柱がたった一本建てられただけで〈視覚のための敷地〉には把握できない空隙が生まれてしまい、その土地をぐるぐる歩こうにも、その空隙は方角を変えて残り続けるからだ。
 ある敷地を設定したとき、あらかじめその周囲を囲んでいる隣家や周辺の構築物が〈視覚のための敷地〉の臨界線となるわけだが、どの構築物が臨界線としての役目を担うのかは、観察する身体の位置との関係による。同一平面上での〈視覚のための敷地〉の範囲は、計画される壁と開口部によって定められていくが、ここで最も広範囲の〈視覚のための敷地〉に影響するものは、観察する身体が立っている地面のレベルである。例えば地面から高さ2200を越えると、一般的なコンクリートブロック塀は視線を阻まなくなる。一軒家の高さを越えると視線の広がる範囲はさらに増え、遠くの団地が臨界線として登場する。さらに団地の高さも越えると、ほとんどの屋根は飛び越えるが、遠くのゴミ処理場の塔にはぶつかるかもしれないし、遠近法により縮んだ塔は、視線の衝突を免れるかもしれない。鑑賞者の視覚は〈身体のための敷地〉に制御された上で、任意の〈視覚のための敷地〉を体感するというわけである。
 以上を踏まえて2つめの設計実験では、壁や柱を1枚建てるごとにこの2種類の敷地をプロットし、各箇所にいる〈知覚する身体〉のもつ〈視覚のための敷地〉の重なり合いや、見える範囲と距離の変化による認識の変化を取り扱っていく。こうしていくことで初めて、建築空間のもつ、人の身体の位置を規定しながら、人の視覚の中に動きとして立ち現れてくる側面や、知ってしまっても何度でももう一度見ることができるという性格を、設計手法のプロセスの中で取り扱うことに近づけるのではないか。
〈どのような形に対し、どの位置に立つことができ、どこまでのものが、どう見えるのか〉 これは余りに当たり前のことにも感じられるが、誠実に扱い切れる問題だとは到底思えないのである。よって、引き続き試してみたいと思う。 
8 notes · View notes
gohan-morimori · 3 years
Text
アジャラカモクレンニセンニジュウイチネンニガツヨウカカラジュウヨッカマデノニッキ
2月8日(月)
 今日は早めに起きて出勤前に皮膚科に行くぞ、と諦め半分で思っていたのだけど諦め半分だったからやはり起きれず。尿意を無駄に我慢しながらだらだら起床してゆるゆると準備をしていそいそと豆腐を食べて出勤。先週は毎日ほんとだめだめだったな、今週はちょっとはましな一週間にしたいな、と思いつつ。自分の不調をもっとロングスパンで見たほうがいいのかもな、とぼんやり思う。働く。やることが増えてきた、というより、やらなければいけないことと、やったほうがいいことがすこしずつ見えるようになってきた、といった感じか。めちゃくちゃ忙しい、というわけではぜんぜんなかった一日だったのだけどずっとせかせか動いていて、だからこの「見えるようになってきた」のと並行して「もっと無駄なく動く≒働く」ことを意識しないといけないのだけどそれがむずかしいというかわたしは苦手で、最近凹んでばかりの原因は主にこの「もっと無駄なく動く≒働く」ことがなかなかできないからで、うーん。わたしのこれまでのささやかな人生の処世術というか、それは悪い癖でもあるのだけれど、「(一見)無駄に見える所作や状態に心のお守りを見出す」みたいなところがわたしにはあり、その悪癖が最近は勤務の中で思考を邪魔している感がある。一度癖づいた悪いフォームを直すような作業が必要とされている。気がする。小学生のころの習い事(硬式テニス)、中学のころの部活動(卓球)、などでもその悪癖は発動されていたように思う。いろんなことを毎日思い出す。自分を責めるのはカンタン。カンタンなことはつまんない。つまんないことはやめたほうがいい。だからやめよう。明日から二日間は休みだから今日こそは早めに家に帰ろう、という強い気持ちでいそいそと帰宅。クラブハウスで子供鉅人の人たちのわちゃわちゃした即興芝居を聴いて何度も笑ってかんじさん進藤さんと話したりもして、それから久々にしけこと通話をしてしけこは漫画などのネタバレを率先して読むタイプらしく話の要点にしか興味がないとしきりに言うので「いっとくけど話の要点に話の要点はないからな」とやや苛ついて応えた。苛ついている自分にちょっとびっくりしつつわちゃわちゃ話していたらもう早朝みたいな時間になっていてわたしは数時間前からずっと布団にくるまった状態で通話をしていてもう眠かった。通話を切って、ふよふよとした感情を可愛がっていたら寝ていた。
2月9日(火)
 皮膚科に行こうとしていた、午前中に。行けなかった。去年読んだ本をようやく本棚に収めた。収めるついでに本棚の整理もして、見えやすい位置と奥まった位置の本の配置をああでもないこうでもないと動かしたり、自分の芯、みたいな本をまとめ直したりした。楽しい。時間が溶けるような作業。そのあと床掃除をして、溜まっていた洗濯物をがんがん洗濯して、干して。午前中に皮膚科に行けないならもう今日は一日中家にいようという気持ちでいたのだけれど、まおさんとLINEをしていたら今日はビールだビールだ慰労だ慰労だという気分に。米を5合研いで炊飯器のスイッチを入れて冷蔵庫にあったカブの葉をゴマ油と塩コショウで炒めて家を出て、自転車の鍵を外したあとに「やっぱ歩いていけるほうのスーパーにしよ」と思ってまたすぐに鍵をかけて歩き出した。イヤホンをつけずに外を歩くのは久しぶりのような気がする。「今日は外に出る日(もしくは、人と会う日)」とあらかじめ決めておかないとなかなか外に出られない人間だし、「今日は一日家にいる」という日が週に1度はないと具合が悪くなる人間なので、毎週の休日はけっこう切実に深呼吸みたいな感覚がある。今日はもともと「午前中に皮膚科に行くぞ」と思っていた日だったからスーパーに行くために外に出られた感じがする。スーパーの中で散々ふらふらした結果、黒ラベル6缶パック、ミックスチーズ、フライドチキン6個入り、カニクリームコロッケ、コロッケ、メンチカツ、を買ってほくほくした気分で帰宅。黒ラベルとミックスチーズは冷蔵庫に入れて、フライドチキンとカニクリームコロッケとコロッケとメンチカツを温めて、どんぶりにご飯を山盛りにして、その上にカブの葉の炒めたやつをのっけて、平皿にフライドチキンとカニクリームコロッケとコロッケとメンチカツを盛って、おうち麺TV.の動画を流し見しながら、ああそうだそうだソースだソース毎回ソース買い忘れるんだよな〜〜〜と思いながら、なにもかけずにコロッケたちをガツガツ食べてフライドチキンもご飯もコロッケたちもたいらげて、おなかを休めていたら眠気がやってきて、シャワーを浴びた。寝ようか、どうしようか、と思いながらビールを開けてかぷかぷ飲んで、クラブハウスで中橋さんたちのルームを聴いていたり途中で参加してふざけあったり。すっかりクラブハウス厨だ。きっと良くない。柴崎友香『春の庭』所収「春の庭」「糸」読む。ななえちゃんとメッセージでやりとりしたり(遊びにいきたいよ〜)、『春の庭』所収「糸」の蛙のメタファーに震えて衝動的にみのりさんにLINEを送ったり。しているうちに外が明るくなってきていてほんとうによくない。休日に疲れてどうする。寝る。
2月10日(水)
 昨日皮膚科に行けなかったということは今日も皮膚科に行けないということで、それは「今日は外に出る日」とあらかじめ決めていなかったからで、だから今日はわたしは家を出ない。というのはちょっと意固地が過ぎるような気もするが。だからもうそれはしょうがない。明日早めに起きて行けるか、どうか。今月のlook(s)も早めに撮っておきたい。
 オリンピックをどうにかしてやりたい人らの発言への抗議のひとつとして「変わる男たち」「わきまえない女たち」みたいな言葉がツイッターで散見されるようになって、もやもやしている。「男たち」、「女たち」。いつまで「男」と「女」なんだろう、と思う。「変わる私たち」「わきまえない私たち」では駄目なのだろうか。「変わる」「わきまえない」という言葉にももやもやする。何にもやもやしているのかうまく掴めていないけど、もやもやする。それでいいんか、それで、みたいな気分。変わる/変わらない、わきまえる/わきまえない、という言葉、軸、で、いいのか、本当に。「変わる男たち」は、「わきまえない女たち」は、「それ以外たち」のことをどれくらい視認しているのだろうか。「男たち」にも「女たち」にも入れない/入らない人のことについては、どう思っているのだろうか。
 わたしは、わたしの性別についても、もやもやしている。それは子供のころからだけど、そのころから、形を濃度を揺らぎの種類を変えて、ずっと。「男たち」はもちろん、「女たち」という言葉を扱う人たちの輪には入れないな、と思うし、「女たち」という言葉が扱われるときに想定される「女たち」の中に、わたし(みたいな人)はいないんじゃないかな、と思う。でも、わたしは、わたしのことも(も?)「女」だと思う。と同時に、わたしは、わたしのことを「わたし」だとも思う。ときどきは限りなく男に近い気分にあるのかもしれないと思うこともあるし、どちらでもない存在なんだろうな、と思うこともある。でも、クエスチョニングである自覚はない。「女」だと、思ってる。でも(以下無限ループ)。みたいな状態で生きている。だれかに、(こういう想像をするときの「だれか」は顔の見えないぼんやりとした像の男性であることが多い)一度でいい、しっかりと抱きしめられたら、わたしはわたしを「女」だと思うだろう。思いたい、と思う。ああわたしは(うだうだ考えていても「結局は」、)「女」なのだ、と甘美な諦めに似たよろこびを実感するために、抱きしめられたい。さみしい、とも違う。実感を伴いながら生きるための寄る辺が、あまりにも少ない。気がする。甘えなのかもしれない。何への?誰への?どこへの?
 明日は祝日だということに気がついた。ということは、明日も皮膚科に行けないということだ。ばかやろー。金曜日には行かねば。
 昼過ぎに起きて、「たぬきゅんの仲良し放送局」の新しい回が更新されていることを知って、それを聴きながらクイックルワイパーで床掃除をしてキッチンと風呂場のゴミをまとめてゴミステーションにぶちこみに行って、その帰りに郵便受けを見たらON READINGから『歌集 ここでのこと』が届いていてうれしいうれしい気持ちになった。家に入ってから封を開けて手に取るとずいぶん美しい装丁で、良い意味で、贅沢品、といった感。すべすべと表面を撫でたりぱらぱらとめくったりしていると藤原印刷という文字を見つけて、そうか、藤原印刷なんだな、と思った。いつ読もう。ちょっと寝かせておきたい。冷凍庫から先週買って冷凍しておいたトーストを1枚と、1ヶ月ほど前に作り置きしておいたトマトソースを取り出して、軽く解凍したトーストの上に同じく解凍したトマトソース、そしてミックスチーズを盛って、トースターで焼いて、ピザトーストを作って食べた。職場のメニューの簡略版。職場のピザトーストを、そういえばまだ食べたことがないな、と思った。簡略版でもずいぶんと美味しくて、ちょうどよくお腹が満たされる感覚があった。家でトーストを焼いて食べるのもずいぶん久々だ。この家で暮らしはじめてからは初めて。笹塚に住んでいたときは、結局一度もトーストを食べなかった気がする。だとすると前回おうちトーストを食べたのは、京都のアパートか。柴崎友香『春の庭』をじりじり読んだり、コーヒーを飲んだり煙草を吸ったりしているうちに、不意にショートスパンコール94篇目の形が自分の中でまとまり、いそいそとパソコンの前に座って、書いた。その流れで95篇目も書けて、書けた書けた、よしよし、と思いつつ公開する。94篇目ではずっと老人ホームでの一幕を書きたいと思っていて、誰の視点でどういう書き方でいくかをずっと決めかねていて、どういう選択をしてもなにかいやらしいというか、書きたいと思っているシーンがゴテゴテとしつこくなりすぎたり、説明説明しすぎる感じになりそうな予感があって、手を付けられずにいた。今日書けた方法でその予感が無事払拭されたのかどうかは正直ちょっとわからないが。今日書けるとは思わなかったな、とぼんやり思っていると眠たくなってきてまだ夜も早い時間帯で、気圧が下がっているのかもしれなかった。だるくて、眠くて、キッチンで立ったまま納豆ご飯を食べて、歯を磨いて、布団にもぐって『春の庭』の残りを読んでいたら突然せつなくなって貪欲の手を握ったり頬をうずめたりして感情をやり過ごした、「やっぱり湯船に浸かって身体をあっためよう」という気分になり、起き上がって風呂場へ行って浴槽を洗ってからお湯をためはじめて、たまるまでの間、キッチンに置いてあるキャンプ用の椅子に座って、昨日買った黒ラベルを1缶開けて、ヤマシタトモコ『違国日記』7巻を読んだ。お湯がたまって髪をまとめてシャワーキャップを被って入水。入湯? 入浴か。入浴。お湯に浸かりながらオーレ・トシュテンセン『あるノルウェーの大工の日記』を読む。ちびちび、ゆるゆる、じわじわ、あったかくて、おもしろい。「あったかくて」と感じるのはわたしがお湯に浸かりながらこの本を読んでいるからなのかもしれないけれど、あったかい。あったかくて、おもしろい。知らない言葉、知らない仕組み、知らない態度がどんどん出てくる。そうか、インテリア、という言葉はあたりまえに知っていたけれど、エクステリアという言葉があるのか……。のぼせそうになるまで浸かっていて、ふらふらとお風呂から出て、眠くて仕方がなかったのに読みたい気持ちが勝ってきて、煎茶を淹れて飲みながら土岐友浩『Bootleg』と永井祐『日本の中でたのしく暮らす』を読む。度胸、みたいなことを思いながらずんずんたのしく読む。読んでいる途中、不意に「あ、いま作れる」という状態になって短歌連作を作った。「洛中」と名付けてiPhoneをたぷたぷいじってTwitterに投稿する。してから、引き続き読むモード。
短歌連作「洛中」 自重から解き放たれることはなくあくまで吊り上げられる口角 黒ラベルロング缶なら許されたあの数秒の無言であるとか 頼まれたときから既にできていて知っていたって素振りの中華屋 拒否いずれ許容になって山と山の間に例えば宿があること お買い物までの準備に旅支度らしさ伴う私服のあなた
 今日はショートスパンコールも書けて短歌も作れて上出来。ずっとゆるく頭が重くてだるいのだけど、眠ればどうにかなるでしょう。たぶん。
 そして午前4時。寝よう。馬鹿。寝ろ。寝る。
2月11日(木)
 先週の日記で短歌を作るときに最近思っていることを書いたけどそんなん関係なく素直に作ったらええ、素直に作ること以外なんも考えんでええ、みたいな気分に昨日からなっていてわたしの気持ち、考え、感情なんて信用ならない。
 11時半ごろ目が覚める。6時間くらいしか眠っていないはずだけどやたらと長く眠ったような感覚があってそれは眠りが深かったということか。起き上がって、昨日そのままにしていた洗い物をしつつお湯を沸かして白湯を2杯立て続けに飲んで昨日の出涸らしで煎茶を淹れてくぴくぴ飲みながら煙草を吸いながら永井祐『日本の中でたのしく暮らす』読む。祝日で皮膚科と耳鼻科は閉まっているから、今日は出勤前にそれ以外の用事をこなせたら、と思っている。look(s)を撮って、通帳記入をして、お金を公共料金用の口座から生活費用の口座にすこし移して、入金作業をして、連絡しないといけない人に連絡をして、自転車に空気を入れて、スーパーで魚の切り身でも買いたい。魚の切り身は必須ではない。昨日というか一昨日の深夜に作ったプレイリストを昨日から延々リピートしている。私的懐メロの羅列、みたいなプレイリストになった。
 シュトーレンがまだ冷蔵庫にあって、まだちびちび食べている。次のクリスマスシーズンまで思い出す人がいなくなってきた、いまくらいのシュトーレンが美味しい。 
 納豆ご飯をがつがつ食べ、出勤。働く。久々初台デー。働き終え、ご飯をばくばく食べ、家に帰って夜ふかしをして眠る。
2月12日(金)
 なんだかとても幸福な夢を見てあわてて起きて支度をして出勤。下北。明日明後日はBONUS TRACKで催事なのできっと猛烈に忙しい、はず。いそいそあわあわと二日間に備える。閉店間際にやってきたななえちゃんとしゃべりながら発注などしていると阿久津さんがやってきて明日明後日売る台湾ウィスキーの写真などを撮りはじめてななえちゃんと楽しげに構図を考えていてその光景がなんだか良かった。ショートスパンコール更新デー。阿久津さんは仕事でZOOMだということで2階へ行き、わたしとななえちゃんは1階でナマケモノの動画をYouTubeで観て愛くるしさに悶絶していた。しばらくしてななえちゃんが帰り、わたしもわたしでごはんを食べて帰ろう、と思っていたら阿久津さんが降りてきて面白いものが見れるからおいでと言われてひょこひょこ��いて行ったら面白いものが見れた。デイリーコーヒースタンドのゆうさんとZOOM越しにはじめましてをした。お互い文字上では知っていてなんだか不思議な気分。楽しくわちゃわちゃと話しているうちに阿久津さんはがんがんにお酒を飲んでがんがんに酔っ払っていって終いにはその場で眠り始めた。ZOOMが終わり、阿久津さんは起きそうになかった。電気を消して、片付けをして、さあ帰ろうか、と思っているとみのりさんから電話がかかってきて、出る。みのりさんとわちゃわちゃ話をしながら職場を出て、自転車を押して、1時間ほどかけて職場から家まで、歩いて帰った。家についてもみのりさんとのおしゃべりは止まらず、たのしいたのしいと思っているうちに4時とか5時とかになっていて、ふたりしてあわてる。電話を切って、ふらふらと着替えて、寝よう、寝よう、と思っていたらなぜか頭が短歌を作るモードになっていて、寝たい、寝ないと、寝ろよ、と身体が言っているのに頭が言うことを聞かなくて折坂悠太『平成』を流しながら聴きながらどんどん短歌ができていって笑った。寝ろよ!!!!
短歌連作「都内」 坂道を駆け降りるためなだらかな身体でなだらかに眠らねば 自転車にエアー と打たれたリマインダー 覚えがなくて告知がきてる 低く深く都内に風が吹いている おそらく右翼の車で目覚める 物流はとても座りがいい言葉 幹線道路の砂利蹴り上げて 昔の写真(写真は昔だ)親元を離れてからブラジャーを買うこと すごいことだ射精しなくていい肉体ってやつはほんとに 国道 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12月やさしいね Amazonだ と思うときAmazonはあなたに灯す魂を持つ 殺したい奴いるくらいあたりまえですか?健康ですか?      へえ
 壊れてしまう。ベッドにインしてスリープ。
2月13日(土)
 起きてすぐ昨日作った短歌をまとめ直して1首追加で作って連作をもうひとつ作って起き抜けにしては旺盛な創作意欲だった。
短歌連作「眠りの圏外」 怒りから光に変わるゲートまで導かれている、いま、この人に 歌い方声高に言う人といて天上天下が旋律になる ほんとうは夜は幼な子たちのもの幸せはおれたちに降るもの 欲望に貴賤はなくて米を炊く前に無意味なくちづけをする 韻律を整えようとするようにきみはわたしの名を諳んじた 眠りから遠いところに立っていてだから遥かな道のりでした
 洗顔をして(お風呂に入りたい。入れない。)お湯を大量に沸かしてパスタを大量に茹でてバターと醤油と納豆とゆかりと海苔でぐちゃぐちゃにしたものを急いで食べて出勤。いそがしいそがしいそがしいそがしあわあわあわあわあわあわあわあわすごいすごいすごいすごいいそがしいそがしいそがしいそがしあらあらあらあらあらほいほいほいほいせいせいせいせいそれそれそれそれいそがしいそがしいそがしいそがし閉店時間。踊るように働いた。チーズケーキを次々焼いてカレーの仕込みを途中までやってまるでお店だねと阿久津さんと笑い合った。昨日の痛飲で阿久津さんはへろへろの様子で、いつもより早く帰っていった。阿久津さんが帰ってからごはんをばくばく食べ、明日の準備をすこしして、永井祐『日本の中でたのしく暮らす』を読む。読んでから、長らく積んできた『仕事本』を読み始めようとぱらぱらしていると酒瓶の中の酒がぐらぐら揺れだして地震だった。あっこれは、おっ、えっ、となってすぐにテーブルの下に隠れた。くらくらする。iPhoneでTwitterを開くとどうやらかなり大きな地震で、しかも福島。あんまりいろんな情報を見ないようにしよう、と思いつつ目はタイムラインを追っていった。ゆかちゃんから「だいじょうぶですか!」というLINEがきた。こわかった!と返事を打った。みうらさんと石川くんからもそういったLINEが来て同じような返事を打った。これはもう、帰れ、ってことだな、ということで帰り支度をして職場を出る。なんとなく、自販機でオロナミンCを買った。帰宅。すこしまえに買ったラジカセをつけてAMラジオをつけた。洗濯物をとりこんだ。ラジオを流しっぱなしにしながら、お風呂に入って、貯水とか一応したほうがいいんかな、という気になり、髪と身体を洗ってから浴槽を洗ってお湯を張って、湯に浸かる。浸かりながらオーレ・トシュテンセン『あるノルウェーの大工の日記』読む。アツい本だなあと思いつつ屋根裏の改築についてのあれこれを読んでいるとふわふわ眠たいような気になってきて湯船から出て浴槽に蓋をして身体を拭いて寝間着を着て髪を乾かしてオロナミンCを飲みつつ永井祐『広い世界と2や8や7』を読み始める。煙草を吸って歯を磨いていま。エレ片のラジオを聴きながらこれを打っていて、もう寝ないと。明日は1日中下北で働く。きっと猛烈に忙しい。大丈夫。早起きしなきゃ。
2月14日(日)
 早起きでーきた!せっせと準備をして家を出て、買い出しを済ませて朝の職場へ。即座に仕込みを開始して開店前を慌ただしく過ごして、開店して回転して踊るように忙しく閉店まで働く。すっかりへとへとになって、逆にハイ、みたいな状態になっていて閉店後の店内でしばらく呆然としたり阿久津さんとたのしく話したり。阿久津さんが帰ってから、ごはんをどっしり食べて、短歌を作った。バレンタイン短歌。
短歌連作「千とバレンタイン」 愛されたビス愛された室外機愛された飲みさしのピルクル 巻き爪に拍車がかかり側面の皮かたくなる たまに食べちゃう ビタミンって人間に発見されるまでビタミンじゃなかったんだって え? つむじからさわさわ音が出るような生え方ですね 髪の そう、毛 わかんないけどなんとなくこの命終わるまで見ない気がする 修羅場 テレアポを初回の座学でばっくれるきみこそ神になるべきなのに 考えるワシでありたい(いま葦って言うと思ったじゃろ。がはははは) おふざけは個々までにして景観のいいエレベーター越しの森ビル ライフ、ワーク、バランスでじゃんけんしようなんどもライフであいこにしよう
 と、バレンタインとはあまり関係ない短歌。
短歌連作「水筒と自戒」 いきたいものだ400字詰め数枚で数万円が相場の立場 水筒に白湯入れるのだ御守りの中身はどうでもいいようなもの 揺れてから揺れに過敏になるくせに/だからこそ強く貧乏ゆする 漠然と いやはっきりと 眼の位置にあなたの眼があること うれしいな 怒りって場所がこわれる 人がこわれるのはそれから それは嫌です 勤労がおもしろいのかおもしろいから勤労なのか 髪を結う 些事ばかり間違えながら生きていて昨日滑った口の復唱
 永井祐『広い世界と2や8や7』読む。土岐友浩『僕は行くよ』読み始める。ずいぶん遅くまで職場にいて短歌を作る状態から抜け出せなくなっていた。2時だか3時だかに職場を出て、人通りのない帰り道を自転車で。空気がぬるい。雨が振りそうだったというかもう降り出していた。粉みたいな雨。帰って、しんどいな、と思う。気圧が下がっているというより落下している。だれかを、特定のだれかを気になり始めること、すきだとはっきり思い始めること。東浩紀が突発的にニコ生配信をしていて、それをずっとワイヤレスイヤホンで聴いている状態で寝支度を済ませて、布団に入ってもずっと聴いていて、東浩紀の声質は気持ちいいな、はじめて知った、心地いい、耳にやさしい、言葉の連続を聴き続けたい、このまま……と思っていたらいつの間にか意識を失っていた。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
1 note · View note
monqu1y · 3 years
Text
索引
 
Tumblr media
高校生が描いた夢の施設Homedoorが作る、ホームレス状態脱出の仕組み  ICC サミット FUKUOKA 2019に登壇する企業のひとつ、Homedoorは、大阪市北区を拠点にホームレスの人たちへの生活支援を続けています。14歳の頃からホームレス問題に関心を抱き、川口加奈さんが2018年に設立した施設「アンドセンター」を、今回ICCサミット運営チームメンバーとともに初訪問。活動の内容と、実際に施設に暮らし、再出発を目指す方にお話をうかがいました。  ICC サミット FUKUOKA 2019のカタパルト・グランプリで登壇する川口加奈さんが、19歳で設立した Homedoor は、今年で9年を迎える。  誕生から現在までの道のりは、ぜひ当日のプレゼンテーションやホームページをご覧いただきたいが、大阪市北区を拠点とし、「ホームレス状態を生み出さない日本の社会構造をつくる」をビジョンに、ホームレスの人や生活困窮者への就労支援、生活支援を行っている。  2018年は、ホームレス状態で危険な生活を続ける人たちが駆け込める「アンドセンター」を設立した。この宿泊機能を備えた、ホームレス状態からの脱出をサポートする施設は、14歳の頃からホームレス問題に関心を抱いていた川口さんが高校3年生のときに描いた絵が基になっている。   ICCパートナーズ と運営スタッフメンバーは、「アンドセンター」を訪問し、川口さんや実際に住んでいる方にお話を伺った。 川口さんが高校3年生のときに描いた、夢の施設の間取り図  
Tumblr media
 
Tumblr media
「アンドセンター」の外観
 大阪市北区の「アンドセンター」入り口から入ると、冷蔵庫、キッチン付きのリビングルームのようなスペースが広がる。川口さんは、ホームレスの人たちを親しみを込めて”おっちゃんたち”と呼ぶが、おっちゃんたちが訪れて、食事をしたり、交流したり、ゲームを楽しんだりすることができる場所だ。訪問したときには、インターネットをしていたり、お湯をもらいにきたおっちゃんがいた。  
Tumblr media
正面ドアから入ったところ。温かいお湯やお茶、軽食が用意されている  「ここでは、ごはんを作って食べてもらえます。今日はおっちゃんが鴨そばを作っていましたね。食品は企業から賞味期限が迫ったものをいただいたり、一般の方からご寄付でいただいたりしています」  奥にはこじんまりとしたキッチンがあり、さまざまな備品が部屋を囲むように収納されている。生活感のあふれる食卓テーブルのある空間は、この時期、寒い外から入ってくると、温かく感じられる。  川口さん「ずっと施設を作りたいという目標があり、土地を探していました。2年前にこの物件は一度空いたのですが、そのときは私たちも準備ができていませんでした。それに一度、住居提供をトライアルしてみて、本当に宿泊施設が必要かどうか試したかったのです。  それでやっぱり住居提供が必要だと判明し、物件を探していたのですが、2年前に見たこの物件以上のものがなく、悔しがっていたところ、昨年(2018年)の2月にまたここが空いたので、逃すまいと思いました。  一般的にNPOはこういう場合に助成金を取るのですが、間に合わず自費です。1970年に建てられたビルなので暖房が古く、使い物にならないので改めて設置しています。完備できた部屋から入居していただいています。  現在、年間で300名ほど新規で、路上で生活している方をはじめとする生活にお困りの方々からご相談いただいています。今日も1人入居して、3人が次のステップにと退去されました。部屋は多めに用意しているので、待機が生じることは今のところありません」  
Tumblr media
衣類や防寒具、救急箱や食品の備蓄など  この建物は5階建て。隣の敷地と合わせて借りた家賃は月100万円だ。以前は韓国人留学生用の寮で、全室が同じタイミングで空いたため、一般のアパートよりも借りやすかったという。1階と2階の共有スペースはリフォームし、個室は短期利用が5室、長期利用が15室用意されている。ベッドや布団は一般の人からの寄付によるものなので、各部屋ばらばらだ。  
Tumblr media
現在空室のある3階。階段の奥には共同利用の洗濯機がある  うかがったときは10室に入居者がいて、そのうち長期利用している方が半数。長期利用について��、その人の収入に合わせて家賃をもらっているという。その一人、4階に住む吉岡さんの部屋を見せていただいた。 長期利用者に聞く  
Tumblr media
お話をうかがった吉岡さん  吉岡さんが住んでいる部屋は、4.5畳程度の居住スペースに、シングルベッド、小さな棚、テレビ、冷暖房にユニットバスがついている。整頓された部屋からは、几帳面に暮らしている様子が伝わってくる。  吉岡さん「ここに来るまでは西成のドヤ(簡易宿泊所)にいました。1泊1,000円でしたが、暖房もなく、お風呂も別だったのですが、ここは暖房、ユニットバス付き。居心地は最高です」  吉岡さんは西成からHomedoorまで往復540円かけて通い、自転車の啓発員として働いていた。そのうち上に住んでもらうのはどうかということになり、2018年9月から長期利用第一号として住み始めて半年近くになる。  吉岡さん「ぶっちゃけの話、西成のドヤにはおりとうなかった。  1000円はそんなに高くなかったから、金だけのことを考えたらいいけど、環境がよくない。隣がやかましいし、部屋はこれより狭く、汚い。あげていったらきりがない。  啓発員としての仕事は、自転車が道路にはみ出ていたら、通行人の邪魔にならないよう片付けたり、不法駐輪があったら警告の紙を貼ったりします」  
Tumblr media
個室にはユニットバスや石鹸類が備えられ、すぐ生活をスタートできる  吉岡さんは72歳。岡山県出身で、技術系のサラリーマンを3年、パチンコ店勤務を10年などずっと働いてきた。最後の10年は住宅リフォームの営業マンとして勤務し、最終的に支店長を務めた。家族もいたが、現在は一人。ホームレスになってもうすぐ2年になる。  Homedoorを知ったのは、川口さんたちが行っている夜回りでチラシを見たことから。夜回りは冬の間は毎月2回、ボランティア、Homedoorのスタッフ、元ホームレスの人など約20人で4つのルートを回る。路上に暮らしている人に声をかけ、お弁当と、路上からでも仕事があることを知らせるチラシを渡す。  
Tumblr media
冬は毎月2回、お弁当や寝袋を持って夜回りを行っている  吉岡さんは、お弁当をもらった翌日にHomedoorを訪れた。その頃、路上で生活するようになって1ヵ月ほどたっていた。吉岡さんのいた梅田は、大阪市で2番めにホームレスが多いが、とくになりたての人が多く、そういう人たちに訴求したいと川口さんたちは夜回りしている。  吉岡さん「私はまだ短いけれど、もう10年近く無職で路上生活の人もいる。なかにはもう自分はいい、普通の世界の人と関わりを持たないといって、声をかけても逃げていく人も多い。そういう人は心を開くのは難しい。  西成のドヤには半年いたけれど、隣の部屋のおっちゃんとは交流が一切なかった。お互い避けるというか、挨拶すらない。ほかの階の人の顔もようわかりません。  三畳一間の汚いところで、生活保護をもらいながら生活するだけです。仕事もやることもないから、結局飲むか、ギャンブルに行くしか楽しみがなくなります。生活の向上自体が絶対ありえない」  路上のコミュニティのほうが実際仲がよかったりするそうで、一旦生活保護を利用してドヤに入っても、孤独を理由に半分ぐらいがホームレスに戻るそうだ。  「アンドセンター」では、忘年会、餅つき、節分など季節のイベントが企画され、再出発を目指す利用者たちの間で交流がある。吉岡さんも、30代や50代の入居者と仲がいいそうで、夜回りのお弁当を作ってくれるおっちゃんに、一緒にごはんを作ってもらって食べることもあるという。  吉岡さん「なんとか、2月いっぱいには出られるようにします! もう年ですから、これからはなんとか年金内でやっていこうと思います」  
Tumblr media
2階にある入居者たちが共有するキッチン&冷蔵庫  快適に暮らすことができ、交流もある。すると、この場所から出たくないとはならないのだろうか?  川口さん「一応最初に2週間が期限だと決めるのと、相談員が何度も面談を重ねていって次の進路を見つけていくことになるので、あまり出たくないということはないですね。むしろ、早まったりする人のほうが多いです。  ただ職員が5名と少ないので、キャパ的にも年間300人が精いっぱい。もう少し体制が整ってきたら、宿泊数がもっと増えるのではと思っています。  出戻りはまだないですが、一度うちで働いて次で働いたけどうまくいかず、戻りたいという人はいます。プライドもあると思いますが、気にせず戻っておいでよということにしています」 6つのチャレンジでよりよい支援を目指す  
Tumblr media
施設を一通り見学したあと、Homedoorの取り組みをさらに詳しく伺うことにした。現在は5割がネット検索、3割が夜回り、2割が口コミでHomedoorの存在を知り、ドアを叩く。  川口さん「私たちは6つのチャレンジと読んでいますが、ホームレス支援を6段階に分けていて、毎年アップデートしています。  よりよい形を模索して、ゆくゆくは行政に制度として取り入れてもらうようになる支援のあり方を考えていきたい。  1つ目のチャレンジは『届ける』。  存在を知ってもらうために、従来は夜回りを行ってい���した。昨年度の新しい取り組みとしては、電通さんと新しいキャッチコピーを考えていただいています。  電通でコピーライターとして活躍されている並河 進さんたちが手がける、人工知能の コピーライターAICO というのがあります。AIは人の仕事を奪うといわれがちですが、その逆はできないだろうかというコンセプトで一緒に考えてくださっています。  ネット検索のリスティング広告や、ネットカフェにポスターやバナー広告を掲示いただいたり、イートインスペースのあるコンビニに地道に営業に行ったりしています。  
Tumblr media
いろいろな質問に答えてくれた川口さん(写真右)  2つ目のチャレンジは『選択肢を広げる』。  Homedoorに来てくれれば、路上生活を脱出できるいろいろな選択肢があります。さきほどの吉岡さんのように、ここに住まれながらお金をためて次の家を探すとか、生活保護を利用するとか、年金を受けられるように住民票を設定するなど、その人に応じた選択肢を提供します。  最近は、女性や親子での相談者もおられました。  昨年は289名が新規で相談に来てくださって、平均44.6歳。女性が全体相談者の11%ぐらいです。  ちなみに厚労省が出しているホームレスの人の平均年齢は、61.5歳です。日本だとホームレスの定義にネットカフェ難民、24時間のファストフード店で夜を明かす人などは含まれていません。  ▶ ホームレスの実態に関する全国調査(生活実態調査):結果の概要 平成28年 – 厚生労働省  私たちはそういうところにアプローチしているので若くなっています。諸外国と比べると、日本のホームレスの定義は狭く、路上で寝泊まりしているのを確認されないと、そう認定されないのです。  行政がテントを撤去しているので、わかりづらくもなっています。それで余計支援の手が届かなくなるというのがあります」 HUBchariなど4種類の仕事を提供  取り組みの幅の広さと、問題の深さに驚かされる。川口さんの説明は続く。  川口さん「3つ目は『暮らしを支える』。生活の形を整えていくということで、イベントを実施しています。衣服や食事、シャワーの提供をやっています。  人気なのがカットモデルの生活支援。近くの理容師の専門学校にご協力いただいて、専門学校生のカットモデルになってもらい、モデル料ももらえるので人気です。  
Tumblr media
カットモデル募集の告知などが1階の冷蔵庫に貼られている  相談には来ていないけど、カットモデルには行きたいとか、シャワーは使いたいとか、そういうことでうちを知ってもらえるので、関係性がスタートするきっかけになります。  4つ目は『”働く”を支える』。  就労支援として現在、4職種を提供しています。吉岡さんのような啓発員と、商業施設の駐輪管理の受託、大阪市内86箇所で展開しているシェアサイクル HUBchari (ハブチャリ)のメンテや再配置、内職などの軽易な作業です。相談に来た人全員が働くわけでなく、働きたいという方にご提供しています。  
Tumblr media
自転車修理講習なども行っている  仕事の合う合わないは必ず出てくるので、配置換えもしやすいように、いろいろ職種は広げていきたいと思っています。  一方、有料の職業紹介の資格も得ているので、次の職業へのマッチングもしています。ただ、有効求人倍率が上がっているので、うちもおっちゃん不足で悩んでいます(笑)。若いホームレスの人が増えていますが、家族関係が原因の人がほとんどです。虐待を受けてきて、精神疾患を抱えてしまい、すぐには就業できない状況にある人も多いです。  
Tumblr media
「アンドセンター」の隣にあるHUBchari拠点  5つ目は『再出発によりそう』。  家を探すお手伝いをし、引っ越しのサポートもしています。相談者は、家賃や初期費用をためることで精一杯なことも多く、家具家電は極力プレゼントやレンタルできるように、リサイクルショップさんと提供して モノギフト というサービスをしています。ボランティアさんに手伝ってもらいながら、引っ越しのサポートもしています。  また、うちの特徴としては、Homedoorを卒業した相談者たちが、ボランティアで夜回りなどのサポートを支えてくれています。季節のイベントに、卒業後は顔を出してもらい、ゆるやかな関係性を継続して築いていきたいと思っています」  6つ目は、「伝える」。  川口さんは講演やワークショップで全国を飛び回っている。こうして訪問した私たちのさまざまな問いに答えてくださることも、現場を知る人が正しく伝えるという意味で非常に大きい。 過酷な生活環境を支える  
Tumblr media
アンドセンターでは、元料理人のホームレスの人が夜回り用のお弁当を作る  ホームレスの人の6割近くが、精神や知的障害を持っている方が多いことから、路上生活者が「アンドセンター」を訪れたときの相談員として、精神病院に勤めていた専門家をスカウト。他の団体とも連携しながら、相談者に向き合っている。  川口さん「毎月第3木曜日に健康相談会をやっていて、訪問看護の看護師グループにきてもらい、必要であれば病院につなぐこともしています」  環境を整えても、夜回りでいくら顔見知りが増えても、みんながすぐに利用してくれるわけではない。はじめはシャワーや仮眠室だけの利用から関係を築き、ふと会話の中で出た体調不良の言葉などから、相談につながるケースもあるそうだ。この冬、毎日お湯をもらいにだけやってくるおっちゃんは、知り合ってから通うようになるまで3年かかったという。  
Tumblr media
川口さん「70〜80歳ぐらいの人で、公園で寝泊まりしている方の中で、足は骨と皮のようなおっちゃんがいます。寝ているそばで炊き出しがあるので食いつないでいるのですが、先日寝床を撤去されてしまいました。うちから提供していた寝袋もすべてです。  そのあと夜回りで会ったときは、公園の奥のスロープで、冬だというのにダンボールだけで寝ていました。認知症を患われているようで、意思疎通はほとんどとれません。  
Tumblr media
夜回りの様子  現在、看護師さんにもボランティアで夜回りに参加いただいていますが、いずれはお医者さんにも関わってもらい、もっと医療体制も整えられたらと思っています」  公園だけでなく、他の場所でも路上生活者の寝床を撤去されることは多い。時間がたって廃棄される弁当を目当てに集まられないように、薬剤を撒く店もある。かくいう自分も、路上でホームレスの人を見ると、反射的に目を反らしてしまう。  淡々と話す川口さんだが、活動を続けるなかで、憤りを感じることも当然あるだろう。しかし、40代の女性が病気のために就業が難しく、翌日の生活費も尽きたため生活保護を申請すると「女性ならできる仕事がある」と窓口の人に告げられたエピソードを話した時が、唯一わずかに感情の揺れがうかがえた時だった。  結局、川口さんは弁護士を呼び、その場を解決したという。個人の感情よりも、自分の責任ではないのに大変な現実に向き合っている人たちがいるという意識のほうが強いのだろう。  
Tumblr media
おっちゃん手作りのHUBchariの看板。手先が器用な人も多いという  お話をうかがったあと、別の席で川口さんとお会いした。Homedoorでやるべきこと、実現したいことをたくさん伺ったが、あえて、今の仕事でなかったら、何をやりたかったかを尋ねてみた。  「私、スタジオジブリが大好きなので、大学を卒業するときに、就職しようかと思っていたんです」  意外な回答。実際応募はしたのですか?と聞くと、  「どう思う?と、おっちゃんに聞いてみたら、『ハヤオはスタジオジブリに入りたがる奴は採用したくないと思うで』と言われて『それもそうだな』と思ってやめました」  「知り合いでもないのに、呼びすて」と笑いながら、あっさりとそう答えた川口さん。この見極めの速さ、そしておっちゃんたちと築く信頼関係が、Homedoorをより強固なものにしていくのだろう。  ホームレス問題は、海外の問題や子ども関連の支援活動に比べると、人気や注目度も低く、本人に問題があると考えられがちで、世間からの風当たりも強い。そんな「誤解と偏見」を「理解と関心」に変えるべく、川口さんたちはひとつひとつ課題に取り組み、再出発する人たちを増やしていく。  「 アンドセンター 」が初めて迎える冬。「 家賃に加え、光熱費がどれだけかかっているか怖い 」とのこと。
 
Tumblr media
 「最近、このあたりからおっちゃんたちが、一掃されたんですよね」  人気のない広い公共施設のエント���ンスをぐるりと一周し、��々まで目をこらした。駐輪場の端や建物の裏側などで暖をとっているおっちゃんがいないか、確認するのである。「おっちゃん」とはホームレスの人のことだ。
Tumblr media
 焼き鳥屋、居酒屋、百均ショップにたこ焼き屋。庶民的な店が軒を連ねる、大阪の中心部から歩いて20分の商店街。  週末の夜、安く飲ませる店の軒先はくつろぐ人たちで賑わうこの商店街から、脇に抜けた公共施設の前でのことだ。  現在、路上で暮らす人の数は全国に4555人(2019年1月、厚生労働省調査)。  病気、人間関係のトラブル、家族の介護などで仕事を失うことは珍しくない。現金収入が途絶え、家賃が払えなくなり、住む家を追われ、路上に居場所を求める —— 。それは誰にでも簡単に驚くほどあっけなく起こり得る。  そしてこの人は、路上生活に陥った人が再び生活を立て直すまでを、5つのステップによって支える活動を行っている。川口加奈、29歳。 就職せずにホームレス支援の道を  
Tumblr media
川口がホームレス支援に関わって15年になる。  川口がホームレス支援を始めたのは14歳のときだ。  中学から私立ミッションスクールに通うような恵まれた家庭に育った女の子が、大学卒業後も就職せず、ホームレスの人たちと関わり続けている。  19歳、大学2年で任意団体「Homedoor(ホームドア)」をつくった。大阪駅やその周辺など、北区に暮らす路上生活者を支援する。  現在は認定NPO法人となり、事務局スタッフが6人、当事者スタッフが20人、相談ボランティアは15人、ボランティア登録者は1158人にのぼる。ビジョンは「ホームレス状態を生み出さない日本の社会構造をつくる」だ。  川口はいつものように、弁当を持って夜回りを始めようとしている。  本格的な冬を迎えようとする、夜9時。 「よかったら遊びに来てください」  
Tumblr media
川口はボランティアとともに早足で大きな公園に向かった。東京ドームがすっぽり収まる広い敷地にはジャングルジムや長い滑り台などの大型遊具、卓球場、充実した施設に、芝生、噴水まで備える。  商店街の喧騒とは裏腹に静かな公園内をひんやりとした夜露が覆う。  ずんずんと歩いて行く川口の前方に、荷台にこんもりと荷物を積み上げた自転車が見えた。自転車の脇のベンチで中年の男性が仰向けになって文庫本を読んでいる。  「お弁当、渡しましょう」  川口がささやき、ボランティアがバッグの中から弁当とスナックを小分けに入れた袋をそっと取り出した。  「こんばんは」  ゆったりとした関西弁で川口が声をかけ、男性が身を起こした。がっちりとした肩は、50代に差しかかった頃だろうか。  「何の本、読んではるんですか?」  穏やかな川口の口調につられるように、  「東野圭吾は全部読んだよ」  と返した男性の言葉には南国の訛りがあった。  ひとしきり言葉を交わし、「Homedoor」の案内を書いたニューズレターを手渡した。  「体に気ぃつけてくださいね。よかったら、うちにも遊びに来てください。推理小説とかいっぱいあるし」  「ありがとう。寄らせてもらいます」 弁当は知ってもらうための手段  
Tumblr media
公園の内外のどこに誰の棲み家があるのか、川口の頭の中には顔と名前と場所が一致する地図ができあがっている。  歩道橋のたもとや商店街の端に寝床を敷いて暮らす人たちは、川口を見ると笑顔にな��た。  「今日のおかず、何?」  と、ヤマさん。路上生活歴は10年を超える。  「ヤマさん、爪伸びとるなあ。お風呂、入りにきてくれたらええなあ。爪切りもあるし」  噛み合わないかけ合いが、どこかあたたかい。  「もうすぐ、カレーが食べられる忘年会なんで、よかったら来てくださいね」  安否確認をしながらこうして弁当を配り、声をかけ、別れ際にはHomedoorに来てみないか、と誘いの言葉は忘れない。  出発して1時間半、夜10時半を回る頃、20個の弁当はすっかりはけた。これからの厳しい寒さをどのようにしのぐのか。2時間の夜回り「ホムパト」は路上生活者の立場を具体的に想像させる体験だった。  弁当はおっちゃんたちにHomedoorを知ってもらう手段だ。  食事、寝る場所、仕事、人との関わり。Homedoorにはホームレスが生活を再建するために必要な手段がさまざまな形で用意されている。この仕組みを川口は8年かけて整えた。ホームレス支援の団体がさまざまあるなか、トータルな仕組みはホームドア独自のものだ。  だが、Homedoorとつながって生活を変えるかどうかは、本人の意思に委ねられている。 それぞれに事情ある人たち  
Tumblr media
キビキビと弁当づくりの場を仕切る弦さん。  玉子焼き、煮物、魚の切り身の唐揚げ。テーブルいっぱいに並べられたおかずとバットに広げられた白飯を、10人ちょっとのボランティアが流れ作業で詰めていく。米は寄付、食材はフードバンクからの提供だ。ごはんにシャケのふりかけをかけて、焼き海苔を被せると完成する。  ホムパトに出かける1時間ほど前、Homedoorの事務所にはこんな風景があった。  おかず作りに腕をふるった弦さん(仮名)は、60代の後半、元料理人だ。  関東のある町で生まれ、中学卒業後に都内で料理の修業をした。結婚して名古屋に移り住んだが、愛妻を亡くし50歳目前でひとり大阪へ流れた。興した事業がうまくいかず、数年前から川に近い路上に生活の場が移った。  「ホムパト」中の川口に出会ったのは2年前。弦さんは、後日Homedoorの事務所を訪ねた。そこで路上生活から抜け出るための「相談」をするようになり、Homedoorに「居場所」を得て、また、食事のサポートを受けた。ほどなく、自転車整理やビラ配りの仕事を紹介され「働く」ことが可能になった。住民票登録や保証人のサポートを受けて、現在住むアパートの契約にこぎつけた。  ホムパトのある日、弦さんはアパートから45分かけて電車を乗り継いで事務所へやってくる。Homedoorに集まる人たちと冗談を言い合い、料理に腕をふるって感謝されるひとときは、弦さんにとって大切な時間だ。  川口のそばでホームレスの人たちを眺めていると、それぞれのホームレスがひとりの人として立ち上がってくる。「ホームレス」という単語ではくくることのできないそれぞれの事情や生い立ちの物語があることが、ぐっと身近に思えてくる。
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板 に  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
0 notes
skf14 · 4 years
Text
10162212
顔が気に食わない。
隣県で、殺人犯が逮捕されたらしい。小生はその物騒なニュースを、朝餉の芋粥を食しながら静かに眺めていた。テレビの中で切羽詰まった声を出すアナウンサーが、ヘリコプターから撮ったであろう映像の中、ブルーシートが掛けられた家の中で凄惨な事件が起きていたことを伝えている。バラバラと喧しい羽の音に混ざって、部位、だとか、皮、だとか、およそ朝の爽やかな空気に相応しくない単語が居間に垂れ流されるのを、少々不愉快に思う。
「捕らえられ抵抗する容疑者」のテロップと共に映ったモザイクのかかった男は暴れており、そんな大層なことをしでかせるようにはとても見えず、小生はそのアンバランスさに首を傾げ、暫く男の本性が見えやしないかと画面を凝視していたが、程なくして辞めた。今以上のものは見えてこない、と判断したからだ。
「はぁ。不可解ですねぇ。」
改めて事件の概要を、と、アナウンサーが巨大なパネルの前へ立ち、めくりを駆使して起こった事件について説明を始めた。
なんでも、近隣住民から匿名で、「変な匂いがする」と警察に通報があったらしい。駆けつけた警察官が、凶器を手に眠っている血塗れの男を見つけ、現行犯逮捕した、と。
「チープにも程がありますねぇ。」
事実は小説より奇なり、など実際起こり得るかと言われれば大半の事象は小説の方が奇である、というのが小生の持論だった。
男曰く、「俺はやっていない。奴が全部やった、顔が気に食わない男が全ての顔を潰した、」なんて訳の分からない動機をほざいている、とか。へぇ。でも?アナウンサー曰く、「現場に男以外の痕跡は残っておらず、見つかった遺体のうち1名は、男と交際関係にあった女性、先月から行方がわからなくなっていた。」と。投了、といったところか。
「そうだ、新しく頂いたほうじ茶があったような。」
喉の渇きには和の香りがよく似合う。刷り込みかもしれないし、はたまた流れる血がそうさせる謂わば本能かもしれないが、茶葉のパックを開け香りを胸いっぱいに吸い込んでから、最近プレゼントで頂いたそのほうじ茶をとくとくと湯飲みに注ぎ、定位置のテレビの前、畳の上へと座り直した。アナウンサーの緊迫感あふれる話はまだ続いている。
「へぇ、もう生い立ちまで掘られてるんですか。」
彼の名前は...A?あぁ、伏せられているのか、成る程。きっと取扱注意な犯人なんだろう。確か警察用語では、マルセイ、だったかな。ミステリーは管轄外ではあるが、それなりの基礎知識は持ち合わせていた。ま、オーダーされる可能性も無きにしもあらずですから。なんて言いつつ、今更人に言われて望み通りの話を生み出す気はさらさら無い。
『顔が、何ですか、気に食わない?というのは一体どんな動機なんでしょうかねぇ。』
『例えばですが、自分の顔にコンプレックスを抱き、他人に嫉妬する、そういったパターンが考えられますね。』
『えっ?あ、えー、今、速報が入ってきました。速報です。○○県で発生した殺人事件について、犯人と思われる男の自宅から、別の女性の遺体の一部が見つかった、との速報が入りました。』
『えー、情報によりますと、行方不明だった男の交際相手、○○さん以外の、複数人の遺体が見つかっており、警察では身元の判明と、動機について捜査を進めている状況です。』
珍しい。と、頭の中では近年日本で起こった3名以上の殺人事件を辿っていた。件数はあまり無い。今の言い振りから想像するに、まだ死体は上がってくるだろう。
小生はその男の事を何も知らないが、男の残した、「顔が気に食わない」というフレーズに不思議と囚われていた。頭の中が活字でいっぱいになりそうな感覚に襲われた小生は携帯を取り出し、履歴から辿って電話をかけた。
「もしもし。野鳳仙花です。」
『あ、先生!おはようございます!今日は随分とお早いんですね!』
「元気ですねぇ、貴方。」
『いや〜、さっきまで葵先生のところにカンヅメで、やっと原稿が貰えたところなんですよ...』
「あぁ、あの鳴かず飛ばずの、薄紅立、葵先生。あの方の遅筆さは有名ですからねぇ、ご苦労様です。」
『本当ですよ全く...で、どうされました?』
「いえ、次回作なんですが、小生、ちょっと思い浮かんだものがあります故、来週の木曜、いつもの場所まで来ていただけます?」
『おおっ!待ってました!いいですよ、えーと......15時半はいかがですか?』
「ええ、構いませんよ。」
『因みに、どんな感じですか?』
「そうですねぇ...強いていうなら、ルポルタージュ...」
『えっ!?』
「風の、ノーモラルな創作です。」
『ですよね...では、また来週木曜日、15時半に喫茶「午前葵」で!』
小生が本名は愚か顔も自宅も明かさず、ただ引き篭もっている小説家だと知っている編集の彼の驚いた声が面白く、小生は口元を抑えて笑いを堪えながら、垂れ流されていたテレビの電源を落として、部屋へと戻った。
簡単だ。慣れてしまえばただのルーティーンと化す。鍍金工場の人間から定期的に買い取る高濃度の水酸化カリウム水溶液、所謂強アルカリを適量ガラスの瓶の中へ入れて、刷毛を手に部屋へ入ると、中には手足を縛られぐったりと横たわる、否、眠る女が1人。つくづく、人の身体は様々なものに弱い、と思う。この女の名前はどうしようか、と思案しながら作業をしよう、と、強アルカリを刷毛へと染み込ませ、女の顔へと塗布していく。女はぴくりとも動かず、ただただ僕の施す、謂わば芸術を享受している。素直でいい子だ。そうだな、名前は葦にしよう。
技術面での話をすると、彼女の鼻、そして口には予めチューブを通してある。口だけでは嚥下の際に誤嚥があったら大変だし、人間の鼻は思っている以上に沢山の情報を我々に伝えてくれる。まぁ、視力はここへ連れてくる為の手段として奪ったが、え?やり方?目薬をさしてあげようって声掛けて、強アルカリを垂らしただけ。あれは特に粘膜へは浸潤が早いから、手っ取り早いんだ。
僕の対アルカリに特化したゴム手袋がぬるぬると溶けて滑る皮膚を撫でつけて、粘土細工のように顔が蕩け、引き攣れたように突っ張りずる剥けの表皮が掌と顔の間でざらざらごろごろと触れて踊る。くすぐったい。
先程のニュースを反芻していた。顔が気に食わない、と人を捉えては顔を潰しバラバラにして遺体を捨てていた男。世にも奇妙なサイコ野郎が捕まった、と世論を操作したい、そんな思惑が透けて見えるニュースだったが、僕は違った印象を抱いていた。彼は、なぜそんなにも、人間の顔が気に食わなかったのだろう。容姿を知ることはおそらく出来ないが、醜いことはないはずだ。ならば、何故。答えは案外簡単なところにあるのかもしれない。手の中の粘土はムチムチと肉の感触だけを残して、歪な芯を持つ古びたゴムボールのようになった。目があった箇所の微かなゆるりとした膨らみがどうしようもなく愛しく、僕はその曲線を、今あるだけの愛情を指先へと込めてなぞった。
「起きたかな、葦。あぁ、不安にならなくとも、大丈夫。あの時一緒に食事した、僕だよ。実は、君は酷く醜い姿になってしまったんだ。だから、人里から離れた場所へ避難させたんだけど、...ん?僕の言うこと、信じられない?だろうね、きっとそうだ。話せない、見えない、耳だけが聞こえてて、そんなこと急に信じろってのが無理な話だよね。じゃあ、体験しようか。抱えるから、暴れないでね。」
顔が濡れる感覚で、目が覚めた。はずなのに、何も見えない。ただザーザーと顔をまるで洗い流すように流れる冷たい水の、その音と温度だけが私に伝わってくる。目が開いた感覚がまるでない。首を捻ろうとしたら言葉にし難い激痛が走って脳がツキンと痛む。何、ここは、誰、どこ、何もわからない。確か私、昨日、か、一昨日かの夜に、誰かに誘われて、ご飯を食べて、それから...思い出せない。手足も動かない。喉には何か管のようなものが通っていて、かろうじて呼吸は出来る。状況がまるで飲み込めない中、水が止まり、横から柔らかい男性の声が聞こえて、あぁ、一緒に食事をしたあの男の人の声だ、と、少し安心した後に押し寄せてきたのは、際限のない恐怖。訳の分からない事を言う彼は震える私を抱えて、恐らく少し歩いた。ドアの開く音が何度かして、私は、土と、草の上に降ろされた。這うことも出来ずに仰向けに寝かされた私に、声が聞こえてきた。
『うわっ、何あれ...化け物?』
『ママ、怖いよ〜!!!うぇぇええ〜ん!』
『こら、見ちゃいけません。世の中にはね、ああいう病気の人もいるの。』
『バズりそうだな、写真撮るか?』
『バッカやめとけってw呪われるぞw』
「分かった?君が、醜くなってしまったこと。」
耳元で話しかけられて驚いたことも、きっと、何も伝わっていないんだろう。私と世界を繋ぐ線は、もう、彼しかないことに気付いて、私は、心の中で涙を溢した。伝われば、と、私の醜い顔を撫でてくれる、助けてくれた優しい彼の手に顔を押し付けてみれば、ふふ、と笑った空気が耳に伝わってきて、私は真っ暗な闇の中に、微かな淡い光を見た気がした。
「って、感じでしょうか。小生には生憎、分かりかねますが。」
現実主義故、アテレコは得意ではない。小生が得意とするのは理性的で現実的な世界であり、感情が左右する不安定で繊細な世界ではないので。と言いながらも、想像しないことには楽しくならない。万年筆を行儀よくくるりと回して、今時もう皆PCで行う執筆作業を、アナログに取り残されたまま進めていた。彼女の気持ち。まあ、及第点だろう。細かい点は想像で埋めれば事足りる。升目が文字で埋まっていく快感を知ったのは、義務教育が何年終わった頃だっただろう。
「はぁ、またお茶が切れてしまいましたね。」
そばに置いた湯飲みの中身はとうに空になっていた。喉が渇いた。来週の木曜日まではまだ5日ある。どこかの某と違って、小生は筆が早い方なので、少々サボタージュを謳歌しようと、それなりの形には出来るだろう。作業に戻る為にも執筆を進めよう、と、姿勢を正し机に向き直った。
僕は、殺人が嫌いだ。世界で一番憎む行為だと言っても差し支えないだろう。身勝手を具現化したようなその罪は、実に残忍な行為だ。何故、って。じゃあ、例えばここに、1人の人間が死んだ事件が2つあるとしよう。失われた命は人1人分、どちらも当たり前だが同じ重さだ。
1つ目の事件の容疑者Aは、小中と被害者にずっと虐められていた。そのトラウマ故仕事も長続きせず、Aが生活保護をもらいに行ったタイミングで、市役所の職員になった被害者Aと再会した。被害者は形だけの謝罪を述べ、自分がいかに今恵まれているかを一通り話した。Aは隠し持っていたナイフで被害者を刺し、被害者は失血死。
2つ目の事件の容疑者Bは、幼い子供が大好きだった。己の言うことに服従するしかない力のないか弱い生き物に、性器がついていることに著しい興奮を覚えた。いつかその狭い入り口をこじ開けて、奥の奥に控えたまだ眠る部屋へ自身の遺伝子を刻みつけて育てたいと、そればかり考えていた。そして、その趣味がある日唐突に、父親へバレた。激昂し集めた児童ポルノを捨てようとする父親の頭を、部屋に置いてあったコンクリートブロックで殴打し、父親は死亡。
今100人いたら100人が、前者に情緒酌量を、後者に厳罰を、と思うだろう。だから僕は、殺人が嫌いだ。命の尊さ、だの、生きる理由、だの言いながら、自ら人間がそれの価値を決めている。
なんて醜い生き物だろう、と思う。だから僕は絶対人を殺さない。かの有名な殺人犯もサイコキラーも、僕の目にはただの馬鹿にしか写らない。
「葵、葦、翌檜、楓、秋桜、唐胡麻、合歓、木蓮。皆美しく、可愛らしい。」
目の前に麻酔をかけられて寝そべった葦の左手を、親指を握るように折り曲げ強アルカリの中でこね回し一つの塊にしながら、僕は僕の箱庭で共に暮らす子たちのことを考えていた。右手、両足はもう指とか関節とかそんな概念を捨て去った新しいものへと生まれ変わった。左手もこのくらいでいいだろう。僕はアルカリを洗い流し、処置をして、手足をキツく折り曲げてテーピングしていく。彼女達はここが安寧の地だと分かってはいたが、念のため、だ。
顔が気に食わない。
殺人を犯したあの男、もとい、あの男に入れ知恵をしたどこかの誰かは論外だが、人の顔が、何か末恐ろしいものに思える気持ちは否定出来ない。僕が何故、こんな面倒な行為を進んで行なっているのか、僕にも上手く説明する事はできないが、快楽であり、安らぎであり、愛であり、これは、この世界中の言葉を尽くしても表し難く、それでも強いて言葉にするのであれば、僕、と。その一言に尽きるのであった。
「...うーん、ちょっと雑、すぎますかね。まぁでも、こんな感じでいいでしょう。喉も乾きましたし。」
時計を見ると、もう昼前になっていた。作業部屋の様子も見ないまま、物語を延々と綴っていたらしい。大事でそこそこ値段のする真っ白な原稿用紙に涎が垂れている。全く、そんな真似は眠る時だけにしてもらいたい。
「さて、昼食の時間ですし、今日は何を作りましょうか...。」
「そうだ、葦に決めてもらおう。」
0 notes
benediktine · 4 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
【リニア工事の残土処分のため? 相模原市の急斜面に「不思議な牧場」建設計画】 - ハーバー・ビジネス・オンライン : https://hbol.jp/224332 : https://archive.is/xPYzq : https://archive.is/6fmzM : https://archive.is/GsnDk : https://archive.is/h9Qzo : https://archive.is/qu8EW 2020.07.24 樫田秀樹
■《リニア新幹線の残土を捨てるためのカモフラージュ?》
 {{ 図版 1 : 津久井農場の完成予定CG(住民説明会の資料より) }}
 2018年秋、神奈川県相模原市の田所健太郎市会議員(共産党)が、筆者に「不思議な牧場計画」について話してくれた。あくまでも地元住民からの二次情報だが、以下のような内容だった。
 市の山の中に大量の残土が捨てられる。噂では、その数㎞近くで工事が行われるリニア中央新幹線のトンネル掘削の残土らしい。山の中に捨てれば不法投棄だが、山の急斜面を残土で平坦地にして「津久井農場」という牧場を建設するという。
 だが、その残土は東京ドーム1杯分にも相当する100万m^3にもなる。しかも、事業者は地元の人間ではない。自動車で1時間かかる茅ヶ崎市から通勤して、250頭もの牛がいるのに夜は無人になる。
「地元では、なぜ、わざわざ牧場計画地に斜面を選んだのか、この事業者が本当に酪農をやりたいのかが見えてこないという人がいる。牧場造成に名を借りたリニア残土捨て場であり、牧場の造成直後に事業者は『やっぱり無理でした』と牧場経営を放棄するのではとの噂もあります」
 もちろん、この話が本当なのかの確証は田所議員にはない。リニアとの関連性も断言していない。ただ、そういう噂を耳にしたということだった。
 JR東海が計画するリニア中央新幹線は2027年に開通予定で、東京(品川駅)から名古屋までを40分で結ぶ予定だ。2014年から工事に入ったが、準備工事(ヤード整備、斜坑の掘削など)は進んでいるものの、本丸であるトンネル掘削はほとんど未着手。
 一つの要因として、東京ドーム約50杯分の5680万m^3もの膨大な残土の処分地が決まっているのが全体の2割台しかないからだ。建設残土は不法投棄を防止するため、「資源」として有効活用できる場所でなければ捨てることはできない。つまり、残土を有効利用できる処分地が決まらない限り、トンネルは掘れないのだ。
 田所議員と話した2018年時点で言えば、フジタはリニア工事を愛知県、長野県、岐阜県などで進めている。津久井農場予定地の近くのリニア工事にも入札するのではと噂されていた(*後述するが2020年6月25日に津久井トンネル他東工区を {{ フジタが落札 : https://www.kentsu.co.jp/webnews/html_top/200626300023.html : https://archive.is/oZvja }} している)。リニア工事と津久井農場は関係があるのだろうか?
■《莫大なお金をかけて、なぜ急斜面の土地に牧場を作る謎》
 {{ 図版 2 : 津久井農場計画について語る鈴木秀徳氏 }}
 そこで筆者は情報を整理しようと、2019年夏に地元で反対運動を展開する相模原市緑区韮尾根(にろうね)地区在住の鈴木秀徳さんと落ち合った。
 鈴木さんは居住地のすぐ近くの斜面に地上80mの高さに残土を積む計画に恐怖と疑問を抱いていた。こういう説明だった。
 事業者である有限会社「佐藤ファーム」の佐藤誠代表は、茅ヶ崎市で若いときから酪農を営んでいた。だが、県立高校の耐震化建替えに伴う仮校舎用地として牧場用地を提供したことで、1999年に休業。津久井農場が2024年に運営開始予定というから、実に25年ぶりの牧場経営となる。それなのに、250頭もの牛を飼育する経営体制は構築されていない。
 筆者は、佐藤代表はかなりの資産家なのかと思った。というのは、相模原市では残土の受け入れ業者に対して、残土の不法投棄を防止するため、市への保証金支払いを課している。100万m^3では、4億300万円が必要となる(造成後に返金される)。
「造成工事にも数十億円はかかる」と鈴木氏は予測するが、さらに、残土を搬入するため、1日300台のダンプカーが集落の狭い道を何年もかけて延べ約25万台も通る。つまり、道路拡幅が必要となる。これにもおそらく億単位のお金がかかる。
 またこれだけの大事業なので、環境アセスメントの手続きを受けなければならない。環境調査を外部の業者に委託するために、さらに億単位のお金がかかる。
 もっともわからないのが、津久井農場の計画地は佐藤代表が1998年に購入したが、1999年の休業を見越しての土地取得だったとしても、なぜ牧場にするには使いづらい急斜面を選んだのかということだ。そして、なぜ20年以上も経っての牧場再開なのかだ。
 環境アセス手続きでは、環境調査が終わったあとに計画を文書化した「環境影響評価準備書」(以下、準備書)を公表して住民説明会を開催しなければならないが、鈴木氏と会った2か月後の2019年9月5日、その説明会が開催されるというので、筆者も参加した。まずは、鈴木氏の話を一方的に聞くだけではなく、佐藤代表の主張にも耳を傾ける必要があるからだ。
≫――――――≪
■《事業者は「答えられません」を連発》
 {{ 図版 3 : 住民説明会 : 2019年9月5日に開催された住民説明会。佐藤誠氏はていねいにお辞儀を繰り返していた }}
 2019年9月5日19時。相模原市の串川地域センターで開催された住民説明会には、一般市民が約30人集まった。佐藤代表からは純朴な印象を受けた。市民が入室するたびに「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げていたその姿からは、悪い人ではないと思った。
 説明会では、佐藤代表の横に造成工事を請け負う準ゼネコン「フジタ」の社員2名と環境アセスを行った「パシフィック・コンサルタンツ」社の社員1名が座った。津久井農場計画について40分の説明があった後、私は質問の手を上げた。
「これだけの大事業なのに、総事業費の説明がない。いくらかかるのですか?」
 すると、この質問には佐藤代表が答えず、フジタの社員が「私的な牧場計画ですので、資金計画に関わることはここでは回答を控えさせていただきたい」と答えた。私的な牧場計画だから? なぜフジタ社員がマイクを?
「なぜ、あなたが回答するのですか? 私は事業者の佐藤さんに尋ねているんですが」
 こう私が発言すると佐藤代表はマイクを持ったが、やはり「答えられません」という回答しか返ってこなかった。これに限らず、他の市民からの資金に関する質問には、事業者である佐藤代表が答えずフジタ社員が答え��というパターンが続いた。
■《予定地の近くで大量の残土が発生する工事は、リニアのトンネル掘削しかない》
 {{ 図版 4 : 津久井農場予定地 : 津久井農場予定地(鈴木氏撮影) }}
 会場から出た質問への佐藤代表の回答を整理すれば、計画の概要は以下の通りだ。
 佐藤代表は58歳。2024年には63歳になる。20年前までは約100頭の牛を育てていたが休業。いつかは規模拡大して牧場再開をしたいと夢見ていたという。しかし、平坦な土地を売ってくれるところはなく、山ならいくらでも売ってくれたので、1998年に土地を購入した。
 だがそこを開発しようにも、周辺地域で他業者が残土受け入れを始めたことで、佐藤ファームもその目的だと誤解されるため「今は待つように」と行政に言われて結局20年待った(これは理解に苦しむが)。そしてフジタと出会い、造成をお願いすることになった。
 佐藤氏の3人の息子(大学生)も跡を継ぎたいと言っているが、3人とも専攻は農業とは無縁で、酪農の修行もしていない。夜は無人になるが「問題ない」という。できれば地元の方を雇いたいとのことだ。
 また、残土を運ぶ市道「志田線」は道幅が5.5mしかない。フジタは「これを片側3mの2車線にして、加えて3mの歩道も設置したいが、最終決定ではない」と説明した。
 100万m^3の残土を受け入れると、10トンのダンプカー1台あたり1万5000円が入るので、25万台では40億円弱の収入になるとの試算もある。その正確な数値はわからないまでも、佐藤代表によると「それでも残土を積んでの造成にはお金が足りない」という。
 この準備書説明会は9月8日にも行われたが、参加した市民によれば(私は不参加)、やはり具体的な数字は出されなかった。「試算中です」「答えられません」との回答だけが頻発したという。
 そしてこの2回の説明会を通じて、住民が佐藤代表とフジタに突きつけた質問が「それだけ大量の残土を排出するのは、予定地の近くならリニア中央新幹線のトンネル掘削しかない。リニアの残土を受け入れるんじゃないですか?」ということだ。
 確かに、津久井農場から数kmの距離には、JR東海が2027年に開通を目指すリニアのトンネル掘削とその前段階となる斜坑掘削の工事が予定されている。
 地域住民は「あの急斜面を牧場に選ぶのは不自然。結局、津久井農場は、リニア残土を体よく埋め立てるカモフラージュじゃないのか」と見ている。これに対してフジタは「どこの残土にするかは数社と交渉中」と答えるだけだった。
≫――――――≪
■《引っ越す予定がない住民が引っ越すことになっている》
 {{ 図版 5 : 内藤さん宅 : いつの間にか引っ越すことにされていた内藤さん宅(左) }}
 津久井農場の造成で予想される問題は、沢が埋まる可能性、土砂崩れの危険性が指摘される。地元住民に直結する問題は、生活道路である市道志田線を1日に300台もの大型ダンプカーが通ることだ。そうなると犬の散歩もできなくなり、1日中排気ガスや騒音、振動に悩むことになる。
 志田線は幅5.5mしかなく、乗用車同士でもすれ違いが難しい。そのため、フジタは、その道を拡幅する必要があるが、この件を巡って、住民に不信を抱かせる事件が発生した。
 その拡幅工事には、ある家屋の立ち退きが必要となる。フジタは相模原市に「一軒の家が引っ越すことになった」と報告して計画を進めようとしたが、その家の家族はそのことをまったく知らなかった。
 コトが発覚したのは10月4日。その前日、鈴木氏は韮尾根の住民から情報収集を行っていたが、その一人である内藤ひろみさんから「9月下旬に、フジタが来訪して『工事期間中に庭を2m幅だけ貸してほしい。工事終了後に返す』との説明を受けた」との情報を得た。
 鈴木氏は翌日、相模原市環境政策課に電話で「そんな話があるのか」と尋ねると、夕方に返信の電話があり、「工事期間中、内藤さんは一時的に引っ越すことになっている」と回答した。
 驚いたのは内藤さん本人だ。
「そんな話は一度もしていません!」
 {{ 図版 6 : 相模原市の環境影響評価審査会 : 相模原市の環境影響評価審査会。正面の白いシャツが片谷会長 }}
 さらに問題は続く。
 10月9日。フジタ社員F氏が内藤宅を訪問。内藤さんの兄が「引越しとはどういうことなんだ」と問い質すと、その話を初めて聞いたというF氏は返答も説明もできなかった。この時点でフジタを信用できなくなった内藤さんは「信用できないから、土地は貸さない」ときっぱりと断った。ところが――。
 環境アセス手続きでは住民説明会のほかに、相模原市が常設する有識者で構成された「環境影響審査会」で計画が審議されるのだが、その第2回目となる11月28日、フジタは内藤宅が転居することになる資料をそのまま提出したのだ。
 20年1月20日の第3回目の審査会で、委員の一人は「引っ越す予定がない住民が引っ越すことになっている。これは誤植なのか?」と疑問を呈すると、審査会の片谷教孝会長は「地権者の同意なく着工はできない。具体的方針を出してもらう」と佐藤ファームへの正しい対応を求めた。
■《事業者は「知りませんでした。今、初めて聞きました」》
 この事件で韮尾根自治会が抱いた疑問は、「施工業者を指導する立場にある佐藤代表がこの件に関与していない」ということだった。住民約20人と佐藤代表は、2019年12月21日に話し合いを持った。
 そこでわかったのは、佐藤代表は工事の内容はもちろん、審査会で配布された資料にもまったく目を通していないという事実だった。つまり、工事のすべてをフジタに丸投げしていたのだ。だから、内藤さんの引っ越し話も当然だが知らなかった。以下、当日の録音データから書き起こす。
内藤:なぜウチが引っ越すことになったのか説明してほしい。 佐藤:把握していません。申し訳ありません。 内藤:でも(フジタ作成の)書類は佐藤さんが認めたもの。工事は承知しているんですよね。どこを拡幅するかご存知ですよね。 佐藤:知りませんでした。今、初めて聞きましたので。
 この発言に鈴木氏は徒労感を覚えた。さらに、佐藤代表の経営者としての姿勢にも疑問の目が注がれた。
住民:2020年から2024年までの5年間の工事で、どれくらいの支出があるか計算しているんですよね。 佐藤:まだ計算していないです。 住民:普通は、土地を買った時点で、大ざっぱな計算をするはず。工程表も作る。どの時点で借金が終わるかの計算もするよ。 住民:佐藤さんは、工事をフジタにまかせているの? 佐藤:はい……。
 {{ 図版 7 : 話し合い : 2019年12月26日 住民(向かって左)と佐藤誠氏(正面左)とフジタ社員(向かって右)とが話し合いを持った。その場で、津久井農場計画が佐藤氏からフジタへの丸投げだったことが明らかにされた }}
 さらに住民は、佐藤代表が某政治家に紹介されてフジタとつながったことも知った。そして5日後の12月26日、筆者の目の前で佐藤代表とフジタが住民と話し合った。ここで住民が「佐藤さんはフジタに丸投げしているんですよね」と念を押すと、フジタも「はい」と認めた。そして鈴木氏が、内藤家転居の件で「いったい誰が市役所に虚偽の報告を伝えたのか?」と問うと、フジタは「調査します」とだけ約束した。
≫――――――≪
■《住民との話し合いでも決着つかず、反対署名が開始される》
 2020年1月18日、フジタの社員6人と佐藤代表が韮尾根地区を来訪。ここでも虚偽報告の真相は明かされなかった。ただし、この計画で初期から住民との折衝に当たっていたフジタのW氏が「(市に転居の話をしたのは)一番可能性があるのは私だと思います」と曖昧に回答し、10月9日に内藤さんの引っ越し話を初めて聞いたというF氏もその後、社内で問題を精査していなかったことも明らかになった。
 さらに、住民の憤りに火をつけたのは2月10日。この日の話し合いで、佐藤代表は受け入れ残土を100万立米から60万m^3に減らすことを表明。フジタは、その場合でも「道路を拡幅したら1日160台のダンプカーによる運搬が34か月、拡幅をしなければ120台で45か月かかるので、どちらかを選んでほしい」と住民に要請した。
 これは拡幅そのものを問題視している住民の神経を逆なでしたものだった。これを機に、志田線沿いの地権者8人は「用地交渉には一切応じない」「事業者等の訪問や連絡は一切断る」とした意思表明書を佐藤ファームに送ることになる。
 また、この一連のできごとから津久井農場計画そのものを信用できなくなった住民たちは、10月から農場計画に反対する署名活動を展開。すると、地域の外からも署名に応じる人が増え、最終的には2247件が集まったのだ。
 2月には、韮尾根自治会が審査会の全委員と本村賢太郎市長にも問題の詳細を文書で送付した。この文書が汲み取られたのであろう、2020年2月26日に審査会は本村市長に宛てて「志田線の拡幅は確定していない。(事業者は)何か確定した条件で見直しての環境保全措置や事後調査を実施すること」(概要)との答申案を提出。
 本村市長は、そこにさらに「地元自治会から地域環境悪化への懸念に関する要望書が署名を添えて市に提出されたことも念頭に置き」などの文言を加え、佐藤ファームに対して「地域住民等との意思疎通を図ること」との意見を表明したのだ。
 環境アセス手続きでは、市長意見を取り入れてアセスの最終報告書というべき「環境影響評価書」を作成しなければならない。だが、市長意見に従えば、地域住民と佐藤ファームとが協議のうえで同意に至らなければ、評価書は作成されず、計画は進まないことになる。
 佐藤代表はその後「住民からの質問に丁寧に答えます」と表明し、話し合いを要望しているが、コロナ禍での外出・集会自粛の影響で7月6日時点でも話し合いは実現していない。
■《残土を受け入れの数十億円が最初から目的だった!?》
 {{ 図版 8 : 佐藤誠氏の過去を知る嶋田俊一氏 : 佐藤誠氏の過去を知る嶋田俊一氏 }}
 この取材の過程で、私は「佐藤誠代表を知っている」という男性と知り合った。相模原市緑区在住の嶋田俊一氏だ。
 約10年前、佐藤代表の父親と懇意にしていた横浜市在住のK氏から「佐藤の息子(佐藤代表)が土地を2か所、それぞれ1億円で騙されて買ってしまった。その処分に困っている。相談に乗ってくれないか」との連絡を受けた。
 嶋田氏は佐藤代表と一緒にその土地(今の津久井農場計画地)を見に行った。佐藤代表は「ここを残土捨て場にしようと思う」と説明したが、嶋田氏は「残土捨て場は谷にするべき。この急斜面では無理だ」と告げ、以後、寺院関係者に「墓地にならないか」と打診をしたが、すべて断られた。
 そして2009年には佐藤代表に「私が仕事で回収するスーパーやドラッグストアなどからの段ボールの保管場所としてあの土地を使い、とりあえず利益を出し、廃品回収業の下地を作ることを検討してみては」との手紙を送ったが、返事はなかった。
 また2か所の土地のもう1か所は、反社会勢力組織が産廃などの不法投棄を始めた。これにK氏が対処し、それを片づけさせたこともあるという。
 ところが、5年ほど前から佐藤代表とは音信不通になる。そして2019年8月、偶然にインターネットで津久井農場計画を知った。嶋田氏は「この土地の件で世話をした人間に何の連絡もないとは」と憤ったという。
 もしこの話が本当だとすれば、佐藤代表は農場などやる気はなかったことになる。ただし、フジタとつながったことで、残土を受け入れれば数十億円の金が入ってくるということで、改めて農場経営を目指した可能性も否定はできない。
 そこで筆者は4月上旬、佐藤代表に宛てて「嶋田氏の話は事実なのか、佐藤ファームの住民への説明責任、フジタを紹介した政治家とは誰か、そして万一の土砂崩れでの補償の用意はあるのか」など17の質問を手紙で送った。
 すると1週間後に佐藤ファームの顧問弁護士から「後日、弁護士から回答を入れる」との電話が入った。そして回答がFAXで入ったのは、1か月以上も経った5月22日のことだった。
 その内容は「地元説���会等において通知人(佐藤代表)自らご説明を差し上げて参りたいと考えているところであり、個別の対応は差し控えさせていただきます」という実質上の“ゼロ回答”だった。
 だがこれは、佐藤代表が地元住民から筆者と同様の質問が出されても回答すると明言したことである。実際に地元自治会は、佐藤代表に対して質疑をする予定だ。
≫――――――≪
■《フジタはJR東海から「残土の処分地を口外するな」と言われている!?》
 {{ 図版 9 : 右が内藤ひろみさん。左が韮尾根自治会の落合会長 : 右が内藤ひろみさん。左が韮尾根自治会の落合会長 }}
 5月中旬。韮尾根自治会で気になる動きがあった。フジタの意向を受けた住民のH氏が内藤さん宅を訪問。H氏は「橋本(相模原市の中心部)に引っ越せば、資産価値も上がります」と引っ越しをほのめかしたが、内藤さんは「フジタと佐藤ファームとは交渉は一切しない」と引っ越しを拒否。だがH氏は、「フジタはもう引けないところまで来ているから、道路の拡幅がなければ、別方向から残土を運ぶかもしれない」と説明した後にこう告げたのだ。
「フジタは、どの残土を持ってくるかは先行して伝えられない。JR東海から(口外を)止められているらしいんですよね」
 これはリニア工事からの残土を意味するのか? 内藤さんからこの録音データが送られてきたとき、鈴木氏ら住民は「やはりか」との思いを抱いた。そして、それが決定的になったのは6月25日。
 JR東海が、リニア工事のうち津久井農場に近い「津久井トンネル(東工区)」の施工者をフジタに決め、契約を交わしたのだ。これにより、そこから発生する60万m^3(津久井農場への搬入量と同じ)もの残土を、フジタが津久井農場に運ぶ可能性が高まった。
 すると、フジタが排出する残土を佐藤ファームが数十億円で引き取り、そこから佐藤ファームが農場造成への数十億円をフジタに支払うことになるのだろうか? 佐藤代表の話では「(100万m^3の段階で)農場造成にはそのお金だけでは足りない」ということだが、その足りない分はどう工面するのか? 佐藤代表は住民の前でそれをどう説明するのだろうか。
 JR東海の発表のあと、フジタのF氏から韮尾根自治会の落合会長に「受注したリニア工事は農場計画とは一切関係ない」との電話が入った。では、60万m^3もの残土をどこから運ぶのか? それを明かさないままでは住民合意には至らない。
 住民が知るべきことはまだまだある。たとえば、2019年12月時点で佐藤ファーム、津久井農場での牧場施設(牛舎や堆肥舎など)の建設(約4億3000万円)については未契約だった。これはいつ契約されるのだろう。
 また、膨大な残土を急斜面で造成する以上は、土砂崩れの可能性もある。そうなった場合の補償は誰が行うのか。土砂崩れを怖れて隣接する愛川町でも反対運動が起こっている。この問題を今しばらく追いかけてみたい。
<文・写真/樫田秀樹>
●樫田秀樹  かしだひでき●Twitter ID: {{ @kashidahideki : https://twitter.com/kashidahideki }} 。フリージャーナリスト。社会問題や環境問題、リニア中央新幹線などを精力的に取材している。 {{ 『悪夢の超特急 リニア中央新幹線』(旬報社) : https://www.amazon.co.jp/dp/4845113643/ }}で2015年度JCJ(日本ジャーナリスト会議)賞を受賞。
0 notes
tezzo-text · 4 years
Text
200727 七月の読書など
昔読んだ本をもう一回読んだ時、内容をごっそり忘れていて愕然とする…。ということで短くてもサマリーや感想を書いとこうと思い立った。いにしえのミクシィやってた時は読書メモみたいなのつけてたんですけどネ…なんつって。
-
200712
大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』 岩波新書(2019) https://www.iwanami.co.jp/book/b458082.html
玉川高島屋で買って駅の喫茶でちょっと読もうと思ったら一気読みしてしまった。ちなみに昼は実家ですき焼きを食ったので、そこへコーヒーを飲んで胃がもたれ、鎮まり、ぶりかえしもたれ、鎮まり、を繰り返しつつの読書であった。
興味深かったトピックは以下の通り。
・ソ連は戦術と戦略を繋ぐ「作戦術」(戦略の下位分類)を重視していて、軍事思想家による理論化が他国に比べて相当進んでいた。独ソ戦以前から内戦でも実践されて理論が練り上げられ、満洲でも展開、ベトナム戦争以降のアメリカにも注目される。
・ドイツの収奪戦争の原因としてヒトラーのイデオロギーが強調されるが、戦間期の国内世論を優先したゆえの財政出動と、軍拡との、本来不可能なはずの両立を目指したことがもう一つの原因だった。ナチスにいい思いをさせられていたという点で、ドイツ国民は東部戦線が絶望的になっても第一次大戦のときのように騒擾やストなどで内側/下側から戦争を終わらせようとする運動を起こしえなかった。実際に国民に困窮を強いる総動員体制があった日本と、ユダヤ人はじめ被迫害層を作り出すことで労使や階級間の対立を糊塗していたドイツとで、戦後の感覚が違うんでは?と思った。
・ソ連はドイツの戦力を引きつけていることから、連合国側に対する「貸し」があり、独ソ戦の最中には米英に対して西部戦線の再開要求をする等、また戦後処理にあたっても交渉材料にしていた。逆に日本はドイツが東部戦線に投下している軍事的資源を対米戦争にも回してほしくて、独ソ講和のために工作していた。
-
200715
三島由紀夫『暁の寺』 新潮文庫(1977) https://www.shinchosha.co.jp/book/105023/
『春の雪』は大学生の時に華族の生活とは…ということが知りたくて読んだが、再読してみると、松枝清顕という人はやたらひねくれてるのに、こんな風にまっすぐ恋に引きずりこまれることってある?というデリカシーゼロの感想に…。あるか。
『奔馬』は関係するいろいろを見聞きしながら読んでたので興味深かった。
https://youtu.be/AlpWBGPwjl0 https://youtu.be/im5aRdSN7Dw
例えばこれである。
ここで自決直前の三島由紀夫が「単なる右傾化した文化人として保守勢力に利用されるのでは?」と言われ、「僕は絶対その手には乗らない、今にわかります」と明るく喋っていてたまげる。
関係ないが彼の肉声を聞いてると、〇〇ですね、というところを、〇〇ですねぃ、とちょっと古風な感じに発音していて、彼と話した人は、そのなんともいえないかっこよさに感じ入ってみんな好きになっちゃうんじゃないか…という気がする。
後半、学生は革命のために死ぬか?という話の中で、明治維新あるいは戦争末期のインテリ青年たちは葛藤の中で死んでいったけど、昔の人は単細胞だから死んだのではない、安田講堂事件では学生は意外にあっさり降伏したが、それは命が一番大事という戦後教育の現れではないか、と二人は言っている。三島由紀夫が死んだのが1970年、あさま山荘事件が72年。もし彼がそこまで生きていて事件の報道を見たとしても、よりガッカリが深まるかもしれないが、その認識は動かないだろうと思った。
それから、防大出たての3尉と話したら「自衛官は純粋な技術者なので、日本が共産主義国だろうと国を守るために仕事する」と言っていた、という話も興味深かった。戦中も海軍ではわりと合理主義的だったとのこと。
https://genron-cafe.jp/event/20190309/
最近ポッドキャストでこれについて話して思い出したが、ここでも軍人が「職業」倫理を超えた一般的市民的な倫理(あるいはイデオロギー?)みたいなものを持つべきかどうか…みたいな議論があった。確かに、自衛官はそういう個人的な議論から疎外されてもいいのか…なんて考えたこともない。他の仕事でも似た問題はあるが、軍人に限ってはなんといってもクーデターの可能性があるから例外的な問題のように思っていた、としか言えない。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010235_00000 https://youtu.be/l-yOlKFOIko
クーデターといえば二・二六事件。なんかドキュメンタリーがないかと思って探したら、まだ生きてる家族にインタビューしている番組があった。奥さん方が夫や同僚の自死や処刑について話している。仕事の中に死が含まれているのが当然の時代と、仕事中の死が大事故大労災でしかない時代を両方知っているというのはどんな経験だろうか…。その転換に呆然としつづけたまま戦後社会に適応して生活してしまうしかないだろう、というのを、死について話す奥さん方の語り口が淡々としているのを聞いて思う。
https://www.youtube.com/watch?v=NdwxVkQP2Tw
などと考えていたら、先日フランスのタイプ学生エミリーさんにこの映画を勧められたことを思い出したので、見た。戦士階級は実質軍事的な業務に就かなくても、「仕事の中に死が含まれている」という建前を特権の源泉にしていて、この映画では生活上の切実な本音とそれとが全面的にぶつかり合っている。
https://youtu.be/bO-w-cn-pJM
前後して『憂國』も見た。後から知ったが、三島由紀夫が映画『憂國』を作ったのは『切腹』の影響もあったそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E8%85%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)#%E8%A9%95%E4%BE%A1
彼は『切腹』をこのように評価している。本物の日本刀でスパッと腹を切ることができない、竹光と皮膚がすさまじい摩擦を起こしつつ突き抜けてゆく、というのはまさに、建前と本音の摩擦そのものだ。それは「主題の強調と展開のため」の的確な表現ではあるが、確かに切腹シーンのインパクト自体が独立して迫ってきて、単に「かわいそうなお侍さん」「本音を建前が殺した悲劇」という感想を持つのが逆に憚られる気持ちになる。ただし彼がいうように残酷「美」を感じはしなかったが…。
ということで『奔馬』は読みながら色々考えていたが、『暁の寺』がどうだっかというと、(松坂?)慶子の印象のばっちりキマり具合の面白さ……はさておき、まあ今のところよく分からんというのが感想である。上の対談で、前半の唯識についてのとこがわかりづらいと古林尚が言っているが、そこはわりとスッと読めた。それより若い娘への惹かれ具合なんかが全然意味わからんという感じ。むしろところどころ、話の本筋とそこまで関係ない5〜10行ぐらいの描写なんかに感心したりした。
「彼はそもそも「物」に触ったことがなかったのではないか?  これはこの年になってからの奇妙な発見だった。本多はその生涯を通して、およそ閑暇というものを知らなかったが、それは労働者たちが労働をとおして知る自然の手ざわり、海、その波、樹、その堅さ、石、その重さ、それから船具や引網や猟銃などの道具の手ざわりに、別の方向から、閑暇をとおして親しむにいたる貴族的な生活とも、ほとんど無縁にすごしてきた証拠であった。」など。
-
200726
Richard Coyne, 松井健太・訳『思想家と建築 デリダ』 丸善出版(2019) https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=303548
ラ・ヴィレット公園内の庭園をピーター・アイゼンマンが担当し、デリダを招いて設計した(実施されず)の話など興味深く読む。プラトンが提唱したといわれる、イデア界でも現実界でもない三つ目の場所「コーラ」を庭園に表現しようとしたらしいが、そのコーラが何なのかわからない。検索してみたら中沢新一『精霊の王』に出てくる「後戸の空間」と重ねて評しているものを見つけ、そういえばあれを読んだ時も全編謎だったのでなんか納得してしまった。
このアイゼンマンとデリダのやりとりは出版もされたが、デリダは議論に不満だったとのこと。本の編集者は、「彼(デリダ)はゾッとするようなことを私にいった。『植物のない庭なんてあるのかい』、『木々はどこにあるんだい』『人が腰掛けるベンチはどこにあるんだい』。こういったものこそが、哲学者たちの望んでいることなのだ。彼らはベンチが置かれる場所を知りたがっているのだ。」とデリダの発言を紹介しているが、アイゼンマンの方がコーラや脱構築というアイデアをデザインに落とし込めるものと捉えてしまって、デリダを招いた甲斐のないものをやりたがっているように思った。
デリダは「コーラは建築であるとか建築の新しい空間であるとかいったように述べることはできないのです」「ピーターのような建築家と建設を妨げるあらゆる権力とのあいだの交渉、このような交渉こそがまさに建築としての脱構築、あるいはひとつの建築としての脱構築が生じ得る場なのです。」「脱構築的なものとみなすことができるようなオブジェクトは存在しない」などと言っている。どれも確かにという感じ。「デリダがアイゼンマンに求めたのは、貧困、公営住宅、ホームレスといった建築に関連する別の問題について考えることであった。」とも。
0 notes
abcboiler · 4 years
Text
【黒バス】愛のある生活
2013/05/03発行オフ本web再録
【愛のある生活】
「真ちゃんさ、今週か来週、どっか空いてる日ある?」
空調の効いた部屋の中で、高尾は何のきっかけもなく、たった今、降って湧いたのだとでもいうような口調で緑間に声をかけた。部屋の外ではまだ夕方の火が残って、黒い道路とベランダをじりじりと焼いている。けれどそんな外のことなど、窓を閉じきった二人には関係の無い話であった。二人の厳正なる協議の結果決まった二十八度の人工的な空気の中で、緑間と高尾は古びた革張りのソファに腰掛けている。所々に煙草の焦げ跡が見えるこれは、宮地から受け継いだ歴史ある一品である。宮地もまた、大学の同級生から受け継いだと言っていたから、ヴィンテージと呼んで差し支えないほどの貫禄を持っていた。きっと二人の前に宮地はここに腰掛けて雑誌を読んでいたのだろうし、名前も知らない彼の同級生は野球観戦をしていたのだろうし、きっとその前の持ち主はこのソファの上で窮屈なセックスをしたに違いなかった。時間と情念が染み込んだずっしりとした色は、思いのほか部屋に馴染みやすい。高尾はその上であぐらをかいてテレビを見ていたし、緑間は足を組んで本を読んでいた。てんでバラバラの行動をしている二人は、目線も合わせずに会話している。
高尾の唐突な質問に、緑間は雑誌から顔を上げずに答えた。並んで座るソファの向こうではテレビが騒がしい音を立てている。
「丸一日か」
「んー、できれば」
そこでほんの僅か、緑間は雑誌から視線を上げると宙を見つめた。蜃気楼を見定めようとするように細めた視線の先には何も無い。��の中のカレンダーを彼はめくる。九月の始め。大学二年生の夏休み。高校生はもう二学期が始まっているだろうが、大学生はまだ半分近く夏休みが残っている。むしろ本番はこれからだろう。しかし、世の学生は講義が無ければバイトと遊行で予定を埋め尽くしているかもしれないが、こと緑間に限ってそれはなかった。伝手で紹介してもらった家庭教師のバイトは酷く割が良かった。一時間二千円で毎回ケーキやらしるこが出るのだよ、と高尾に伝えた時の表情を、緑間は未だに忘れていない。
あれは二人で夕飯の買い出しに出かけた時のことだ。季節は秋の終わりで、冷たくなった空気に秋物のセーターは少し風通しが良すぎた。俺久しぶりに真ちゃんに殺意抱いたわ、とはその時の高尾の言である。今日の夕飯はもやしでいいかな、俺今月ピンチなんだよね、真ちゃんはお金あるかもしれないけどね、とぶつぶつ呟く姿は、緑間でなくともあまり眺めていたいものではなかった。当の本人である彼は、お前は以前にも俺を殺そうとしたことがあったのかと問おうか考えて、どのような答えが返って来たとしてもあまり歓迎できる事態ではない、と結論づけた。喉元まで出かかっていたその言葉を飲み込んだ。その程度には彼も大人になっていた。代わりに、お前とセックスする時は大体死にそうになっているんだが、と伝えれば高尾は何も無い所でつまずいた。その後しばらく無言で、高尾は肉を買い物かごに無心に放り込んでいた。その日の夕飯は牛のすき焼きだった。とてもよく覚えている。
「……真ちゃん?」
「ああ、ぼんやりしていた」
「もー。それで、どう?」
完全に思考が逸れていた緑間は、もう一度、空中に浮かぶ見えないカレンダーに視線を移す。大学に入り、友人もできた。高校ほど顕著に周囲を拒むことは無い。講義の終わりの飲み会にだって顔を出すようになった。しかし、彼は大学の友人たちと毎日繁華街に繰り出すより、二人の家で静かに本を読むことを好んだ。カレンダーはまだ空いている。
「……木曜。来週でいいなら火曜」
「あー、今度の木曜は俺がバイト入ってんだよなー、来週の火曜は空いてる」
「それなら、そこでいいんじゃないか」
「うん」
再び本に意識を戻した緑間は、高尾の「それじゃー、そこ空けておいてね」という一言に軽く頷いた。
「それで、結局なんなのだよ」
「ああ」
目線を合わせないまま、ゆっくりと会話は続く。高尾の突然な誘いは初めてのことではない。最初は理由から何から全て尋ねていた緑間も、最近では中身も聞かずに許可を出すようになった。全ては『慣れ』の一言で片付けられるのかもしれない。そしてそれは、悪いものでもなかった。二人の間を流れる時間は酷く優しかった。きっと二人は昨日もこうしていたのだろうと思わせるような速度。明日もこうしているのだろうと思わせるような空気。テレビからは、バラエティ番組特有の揃えられた笑い声が響く。
「大掃除しようと思って」
「……大掃除?」
そこでようやく緑間は、読んでいた本から意識を外した。怪訝な顔で高尾の方を見れば、視線に気がついた高尾も、テレビから緑間へと視線をスライドさせる。隣同士に座る二人の距離は近い。
「そ。去年の夏はドタバタしててやれなかったけどさ。年末に大掃除やったじゃん? あれ、夏もやっとこーかなーと」
二人がルームシェアを始めたのは、大学入学とほぼ同時期だ。緑間は危なげなく第一志望の医学部に合格を果たし、高尾も、周囲から危ぶまれつつ有名私大の経営学部に合格した。あれだけバスケしかやっていなかった癖に、と周囲からやっかみ半分賞賛半分の拍手を受けつつ、めでたく二人で現役合格を果たしたのである。
難があるとすれば、それは双方共に大学が自宅から離れていることだった。一人暮らしには躊躇う。けれど自宅から通うには厳しい、そんなもどかしい距離。特に、遅くまで授業が入るであろう緑間にとって、通学に二時間かかるという現実は歓迎できたものではなかった。
「だったら、一緒に住んじゃおうよ」
そう言いだしたのは高尾だったろうか。緑間は「馬鹿なことを言うな、許される筈がないだろう」と言ったかもしれないし、「そうだな」と答えたかもしれない。
いいや、もしかしたら緑間が「一緒に住めばいいだろう」と言ったのかもしれなかった。高尾が「それは無理なんじゃないかな」と答えたのかもしれなかったし、「真ちゃんナイスアイデア!」と叫んだのかもしれなかった。今となっては二人とも覚えていないことである。それは世間一般から見れば大事なことだったのかもしれない。しかしこうして一緒に暮らすことに慣れてしまえば、大切な思い出は存外あっさり過去になっていくものだった。一度この件で二人言い争ったこともあるが、お互いに相手が言いだしたのだと主張して譲らなかった。「どっちが先にプロポーズしたか論争みたいだよな」と、後に高尾は苦笑いしたけれど、それに関してはお互い自分からだと譲らなかったのだから、不思議なものである。
どちらが言いだしたのかはともかく、まだ学費も親に出してもらっている身の上の二人、まさか当人だけで決定できるはずもなかった。恐る恐る親に話を出してみれば、二人が驚くほどスムーズに親同士は連絡を取り、一時間ほどの世間話と五分の要件で話はあっという間にまとまった。妹を抱え、あまり余計な出費をしたくない高尾家と、財政面はともかく、お世辞にも生活力があるとは言えない息子を一人暮らしさせるのが不安な緑間家は、あっさりと大学生二人の同居を許諾したのである。高校三年間、お互いの家に入り浸り続け、親にすれば今更だったのかもしれない。両親同士が、迷惑をかけると思いますがうちの子をよろしくお願いします、と言い合うのを聞いていた二人の表情は、それはそれは微妙なものだった。何故俺がこいつによろしくしなくちゃいけないのだよ、いや迷惑かけるのは恐らく真ちゃんっしょ、という視線が二人の間で交錯していた。
「……よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
ダンボールに溢れかえった二人の新居で、正座しながら向かい合って挨拶をした初めての夜を、二人ともまだ覚えている。
 一年目は慌ただしく過ぎた。正直な話、幾度か破局の危機を迎えたほどである。女の子と結婚する前に同棲しろってのはなるほど正しいと、高尾は一人、誰もいないトイレで頷いたものだった。ちなみにこの時は、トイレから出るときに便座の蓋を閉めるか閉めないかで二人が大喧嘩していた時であり、現在では蓋は必ず閉じきられている。だいたいそういったことに我慢がきかなくなるのは緑間の方で、彼の様々なジンクスに高校生活で大分慣れたと考えている高尾ですら、一緒に生活してその異常さを痛感することになったのであった。今までこれを全て実行していたのかと思えば頭が痛い。真ちゃんママとパパってさ、流石真ちゃんのお父さんとお母さんだよね。初めて緑間と喧嘩をして仲直りをした日の夜、高尾がぽろっと呟いた言葉は紛れなもなく本音である。とはいえど、緑間から言わせれば高尾の生活も酷いものであった。味噌壺に直接胡瓜を突っ込んで食べる、牛乳パックを開け口からそのまま飲む、CDの外と中身が一致していない、なんていったあれこれである。そういったこと一つ一つ、慣れない暮らしや生活習慣の違いを見つける度に二人は喧嘩をして、たまに食器が一枚割れたりした。しかし二年目ともなればお互いに慣れてくる。緑間が洗濯物を洗う曜日に敏感なことも、高尾が調味料のメーカーにこだわることも織り込み済みである。夕飯を食べるか食べないかの連絡だってスムーズになった。慣れは、決して悪いものではない。
高尾が言った大掃除とは、年末に二人で行ったものである。なるほど、確かに一年分の汚れはなかなか落ちるものではなかった。半年間隔でやってしまおうという意見は、緑間にとっても悪いものではない。
「場所は? 全部か?」
「全部! まあ普段だってちょいちょいやってるし、一日で終わるだろ」
天井払って、壁と床拭いて、窓磨いて、あと洗面所と風呂トイレに台所だろー。
指折り数える姿に、悪いものではないが、これは結構な重労働になるなと緑間は溜息をついた。背の高い緑間にとって、天井付近はあまり負担ではないが、その分床に近づくと途端に身動きが取れなくなる。自分の体が、邪魔なのである。せめてその日が晴れるように祈るしかない。雨の日に水拭きなどしたら間違いなくカビが発生して、本末転倒になるだろう。
二人の協議の結果決まった二八度の冷房。高尾が選んだ柔らかいらくだ色のローテーブル。二人が好きなつまみ。緑間は、細かい朝顔の透かし彫りが入った切子ガラスのコップに手を伸ばす。氷を入れたグラスと緑茶は、見た目からして涼やかだ。冷房の下、僅かに汗をかいている表面をなでて、彼はそのまま一息に飲み干した。頭の中のカレンダーに、大きく赤い文字で、大掃除と刻み付ける。
「ところで高尾、テレビは消していいのか」
「えっ!? あ、ダメダメ。宮地さんが推してるチーム歌うから。真ちゃんもしっかり見ろよ?」
「は?」
「え、だって十月に大坪さんと木村さんも一緒に飲みあんじゃん。絶対にカラオケ行って歌うから、合いの手とコール覚えなきゃだろ?」
「断わる! お前だけやればいいだろう!」
「真ちゃんも一緒にやるから面白いんだろ!」
ほらほら、これCM明けに歌うから!
逃げだそうとする緑間を押さえつけて高尾はテレビの音量を上げた。暴れだす体の向こうで、同じ顔をしたアイドルたちが笑顔を振りまく。半年前に出た新曲と同じようなメロディと同じようなキャッチーさで、彼女たちはテレビの向こうから愛を届けている。日本中の可愛い恋人たちのために。
二人、相手を黙らせるために仕掛けたキスに夢中になって、結局ろくに歌を聴くことはできなかったのだけれど。
     ***
 よっしゃ、良い天気だ。
前日に二人で作ったてるてる坊主が効いたのかどうかは判らないけれど、檸檬色のカーテンをひけば高い青空が見えた。白いちぎれ雲が自信ありげに浮かんでいる。ホンの少し涼しくなった空気はまだ残暑模様。朝でも肌には汗が浮かぶ。午後からはきっと焼け付くような暑さが来るだろう。おり良く強い風が吹く。洗濯物がよく乾きそうだった。絶好の掃除びよりだと高尾は笑う。お前はそんなに掃除が好きなら、普段からもっと部屋を片付けろと緑間は溜息をつく。そう言う緑間が、いつもより十五分早起きしていることを高尾は知っている。
「じゃ、まずは上からな」
「壁か」
「んー、天井ざっとはたいてから壁かな」
汚れても良い格好ということで、二人とも服装はラフである。高尾は少しくたびれたTシャツに、これまた古びたジーンズ。緑間も洗いざらしのシャツとクロップドパンツだ。二人とも素足だが、ここでも去年の夏、スリッパ派と素足派による二日間の戦争があったことを知るのは、この二人だけである。ちなみにこれは開戦から二日目の夜、素足派による「だって夏のフローリング気持ちいいじゃん!」という叫びを否定しきれなかったスリッパ派の譲歩によって幕を閉じた。一週間に一度のクイックルワイパーを条件にして。それももう、一年前の話である。
ハタキと、堅く絞った雑巾を手渡され、緑間は黙々と天井の埃を落とし始めた。丁寧にやるような箇所でもないので、四角い部屋を丸く掃くような雑さで終える。そもそも、椅子に乗らなくとも天井に手が届く緑間にとっては簡単な作業である。洗剤やらスポンジやらを出して準備している高尾を尻目に壁にとりかかった。手渡された雑巾で、力をこめずに、壁紙の目に沿って拭いていく。ポートレイトや写真が貼られているのを丁寧に外してみれば、うっすらと壁に日焼けの跡が見えた。僅かに色の変わった境界線を、感慨深く緑間は撫でる。ついでとばかりに、飾ってあった額も拭いてしまう。それにしてもなんだか見慣れた雑巾だと思えば、それは高尾が寝間着代わりに使っていた白いTシャツだった。それがざっくばらんに切り刻まれ、雑巾として再利用されていることを見て取って、緑間はまたひとつ溜息をついた。いつの間にこんな主婦臭い技を身につけていたのか。
そもそも壁を拭くことすら緑間は知らなかった。しかし考えてみれば壁も汚れるものである。年末に帰省した際に母に聞いてみれば、毎年拭いていたとのことで、それまで母の仕事に全く気がついていなかった緑間は少し自らを恥じた。言われれば手伝ったのにと暗に言えば、あなたにはもっとやって欲しいことがあったから、と少し老いた母は笑った。高尾に、何故お前は知っているのだと聞けば、俺ん家は妹ちゃんも俺も総出で掃除させられたから、とあっけらかんとした答えが返ってきて、彼は黙り込むしかなかった。
その高尾は先に窓を始めている。バスケをやめた今となっても、自分にあまり水回りの仕事をさせようとしない高尾のことを緑間は知っている。基本的に自分の物は自分で片付けることが二人の間のルールだが、食後の皿は緑間がやろうとしても高尾が全て洗っていた。高尾が手際よく洗っていく皿を、緑間は隣で黙々と、白い木綿の布巾で拭いていく。会話は、あったりなかったりである。さすがに大掃除となって、濡れた雑巾に触れないわけにも行かないが、洗剤を使うような場所は頑なに自分でやろうとする高尾を、今更とがめはしなかった。その小さなこだわりは、きっとこれからも続いていくのだろうと緑間は知っていた。いつか高尾が緑間の左手を大事にしなくなった時、二人の関係は終わるのかもしれないなとぼんやり緑間は思っている。それが、本当の終わりなのか、それとも次の場所へと進むのか、そこのところはまだわかっていないし、わからなくて良いと思っている。結局、今のこの場所が居心地良いと思っているのは、双方同じなのである。だからこそ、こうやって二人で手入れをするのだから。
二人暮らしの狭い家とはいえど、壁一面となればそれなりに重労働である。意識をそっと白い壁に移して、彼は壁紙をなぞる。固く固く絞られた雑巾が、ホンの少し黒ずんでいく。その分また壁は白くなる。世の中はうまい具合にできている、と緑間は思う。
 緑間が壁を拭き終わり、高尾の様子を窺えば、彼は丁度全ての窓を磨き上げたところだったらしく、休憩にしようか、と笑った。曇り一つ無く、洗剤の跡すら見えない窓ガラスと積み上げられた雑巾に、こいつも大概完璧主義である、と緑間は思う。太陽は既に頂点、二人が掃除を開始してから二時間が経過、時計は十二を僅かに過ぎていた。朝の想像通り、日差しはますます勢いに乗って世界をじりじりと溶かす。無論掃除している最中にクーラーはつけていないので、二人とも背中には汗の痕が滲んでいた。風呂入る? という高尾の一言に緑間は首を振る。どうせこれからもっと熱くなるに決まっているし、目的はまだ半分しか達成されていなかった。
その様子に高尾は軽く頷いて、額に滲んだ汗を首から下げたタオルで拭う。窓の裏側を掃除するために外に出ていた高尾の方が体感はより暑かったのだろう、顔は少し赤くなっていた。素麺で良いよね、という言葉に緑間は頷いて、そのままぐるりと首を回した。パキ、と空気が割れるような音がする。あー、お湯沸かすのあっつい! という高尾の叫びを無視して、緑間はテーブルの準備を進めていた。どうせ手伝うこともないので、黙々と皿を並べる。濃緑の箸は緑間、橙は高尾。今は良いだろう、と緑間はクーラーのスイッチも入れた。お世辞にも新しいとは言えないそれは、大きく低い振動音と共にゆっくりゆっくり動き出す。ゴオ、オという音をたてて冷たい空気を排出するそれが効き始めるまでに、もう少し時間がかかるだろう。それまではこの部屋はただのサウナだった。気分だけでも涼しく、とグラスに氷を入れて緑茶を注げば、案外喉が渇いていたことに気がつく。
「きゅうり入れるー?」
「入れる」
台所の方から飛んできた声に、緑間は髪間入れずに答えた。夏の胡瓜は、夕立をナイフで切ったような食感がするから好きだと彼は思う。
「卵は?」
「細切り塩で」
「なんだよこまけえな」
文句を言いながらも、高尾は注文通りに手際よく仕上げていく。サラダ油がたっぷりと敷かれたフライパンの隣で、ボウルめがけて白い卵の殻がパカリと割れる。出てきた黄身をダンスでもするようなこ気味良さでかき混ぜて塩をふれば、その頃にはフライパンはすっかり温まって湯気を立てている。卵を流し込めば薄く広がって、柔らかいそれを一気にまな板の上に放り投げた。食べ物で遊ぶなと緑間が苦言を呈したことは数知れないのだが、最後に放り投げる癖は未だに抜けないままである。余熱で固まるそれを手際よく畳んで細く切りながら、なんか残り物あったっけ、と高尾は呟いた。緑間が冷蔵庫���開ければ昨晩の煮物が出てきたので、彼はそれを小鉢に盛る。タッパーから直接食べてしまえばいいだろうと言う高尾と、残飯を食べているようだと許せなかった緑間の、そんな戦争の結果はここにもある。
「おい、高尾、吹きこぼれそうだぞ」
「うっわ。やべ、あぶな」
透明な素麺は、川のようだから好きだと、昔高尾は笑って言った。
「いただきます」
「いただきます」
両手をあわせて自分の器にきゅうりと卵を投入しながら緑間は尋ねる。
「このあ��は」
同じくきゅうりと卵を投入して、ごっそりと素麺を器に入れながら高尾は首を傾げた。麺つゆが器から溢れそうになるぎりぎりのところまで素麺が入り込んでいて、よくもまあそんな絶妙な量を取るものだと、緑間はいっそ驚嘆の目でそれを見つめる。彼の器には二口ほどで食べきってしまえる程度しか麺は入っていない。
「んーあとは床と水回りだな。台所洗面所風呂トイレ。あとリビング片づける」
「なるほど」
ネギは無いのか、という緑間の台詞に切らしてる、と口の中に詰め込みながら高尾は答えた。キムチならあるけど、という言葉に首を振る。生姜はするの面倒くさいから却下ね、と尋ねる前に答えられて緑間はいささか不機嫌そうに麺をすすった。
「台所は絶対に俺だとして、他の水回り、いやでも真ちゃんにできると思えねえ」
「失礼な」
「いや、そーは言うけど、排水口に詰まった髪の毛ヘドロって結構えぐいぞ」
「う」
緑間がそこの掃除を担当したことは今までに一度も無い。水回りだからである。しかし初めてパイプがつまりかけて、すわ水道トラブル五千円か、と慌てて掃除をした時の憔悴を高尾は覚えている。髪の毛だって人体の一部だということを何故忘れていたのだろう。生物の一部が、ずっと水にさらされていればどうなるかは明白だった。すなわち、腐る。その時の異臭とあまりにもグロテスクな見た目を思い出して、高尾は慌てて首を振った。間違っても食事中に思い出したい光景ではない。あれ以来、髪の毛はなるべく排水口に流さない、紙にくるんでゴミ箱に! と叫び続けていたが、そうはいっても限界はある。こまめに掃除をするようにはしていても、夏場の腐食の早さを冷蔵庫を預かる高尾は知っていた。そして、どう考えても潔癖症のきらいがある緑間に向いている仕事では無いということも。
「水回り全般俺がやるから、真ちゃん床お願いね」
「……分かった」
高尾の悲壮感の漂う決意を受け取ったのか緑間は神妙に頷いた。別に死地に赴くわけでもなし、高尾は笑って緑間の状況を告げる。
「しゃがむのきついだろうけどファイト」
身長百九十五にとっては、床に這うのも重労働である。広くないとは言えど、終わる頃には腰が悲鳴を上げることは歴然としていた。
「……代わらないか」
「ヘドロ」
「……」
緑間は黙って素麺をすすった。やっぱネギ欲しいな、と高尾は笑った。
 「高尾」
磨き上げられた窓の向こうから夕日が差し込むのを見て、緑間は風呂場にいる高尾に向かって少し大きめの声をかけた。実際、やってしまえば床は案外すぐに終わり、高尾が悪戦苦闘している様子を見てとった緑間は一人だけ休憩するのもなんとなく心地悪く、結果リビング全体の掃除を始めていた。小物に少し溜まった埃だとか、装飾棚の隙間まで、一度始めてしまえば徹底的にやり切るまで集中する緑間は、目を刺す橙の光にふと気がつくまで、黙々と掃除を続けていたのである。
「ん、真ちゃん終わった? 俺も終わりかな~」
風呂場でシャツとズボンの裾を捲りながらカビと戦っていた高尾は、最後に洗剤をシャワーで流して伸びをする。腰からも肩からも不穏な音を感じて高尾は苦笑した。風呂に充満する洗剤の臭いに、少し頭が痛くなっている。換気扇を回して浴室から足取り軽く飛び出した。
「お、スゲー。リビング超きれいになってる」
「当然だろう」
床だけをやっている割には時間がかかっているなと薄々感づいていた高尾だったが、新居さながらに整えられたリビングと少し誇らしげな緑間の表情に、全てを悟って彼は笑った。完璧主義はどっちだよ、と告げれば軽く肩をすくめられる。
「やっぱ整理整頓は得意だよな真ちゃん。あんだけのラッキーアイテム把握してただけあるわ」
「だが、これが」
入らないのだよ。そう続けた緑間の視線の先には積み上げられた本と雑誌。幾枚かのCD。二人ともに気になっていたから、自分の部屋には持ち帰らずに置き放していた書籍の類である。月バスの五月号を買ったのは高尾だし、六月号を買ったのは緑間だ。緑間が気まぐれに買ったミステリの新刊を、高尾が気に入ってシリーズで揃えてしまった事もあった。高尾がおすすめだと無理矢理押し付けたバンドの新作のアルバムを何故か緑間が買ってきた。そういった、二人の間で分かちがたかったあれそれがリビングテーブルの上に広げられている。どちらが買ってきたのかももう覚えていない物もちらほらと見受けられた。これも一種の慣れなのかもしれないと、高尾は思う。放っておくには量が多すぎたし、どちらかの部屋に持ち込むにはあまりにも二人の間で共有されすぎていた。
「んー」
彼がちらりと壁に目をやれば時刻は四時。陽は頂点を過ぎてなお盛んである。むしろ暑さはこれからが本番だとでも言いたげな表情で、町は赤く燃え盛っていた。朝から掃除をしていたことを思えば結構な時間だが、一日を締めくくるにはいささか早い。まだ太陽は今日を終わらせるつもりがなさそうである。そう結論づけて、高尾は一仕事終えたと言いたげな緑間を振り返る。その表情を見て緑間は顔を引きつらせた。ろくなものではない。
「買いに行こっか」
「は?」
「本棚」
ホームセンター近えし。
その高尾の言葉に自らの予想が完璧に当たったことを理解して、緑間は一つ大きな溜息をついた。
そう、二人がこの街に居を構えることに決めた、大きな理由の一つがそれだった。本屋やコンビニを併設した大型のホームセンターが徒歩圏内なのである。トイレットペーパーから墓石まで揃うと謳うその店は流石の品揃えで、信じられないことに深夜二時まで営業している。男二人暮らし、計画的な買い物が得意ではない以上、いざという時に頼れる存在は大きかった。それは例えば、夜中にいきなり花火をしたくなった時なんかに。
「…支度をする」
置くのここでいい? と窓枠の下を指した高尾は、どこに持っていたのかいつ取り出したのか、メジャーを使って寸法を測り始めている。奥行ありすぎると通る時にぶつかっちゃうかな、でもあったほうが上に物とか置けて便利かな、そう目を輝かせる高尾はもう緑間のことを見ていない。これはもう止まらないな、と、この一年で学習した緑間は着替えるため、一人先に部屋に戻ろうとした。
「え、いーじゃんもうこのままで」
「外にでる格好ではないのだよ!」
見ていなかったはずの高尾に腕を掴まれて緑間は怒鳴る。その視野の広さを無駄に活用するくらいなら、素麺の噴きこぼれを防げと緑間は言いたい。そんな怒気に気がついているのかいないのか、メジャーをポケットにしまいながら高尾は笑う。
「今日組立までやるとしたらまた汚れるから着替え直しだし、めんどいだろ」
「そういう問題じゃ」
繰り返すが、今日は掃除で汚れると思っていたから、緑間も手持ちの服の中で最も汚れていいものを着ているのである。それに汗もかいている。近所のコンビニ行くのにラルフローレン着る必要なんてないだろ、と高尾は笑うが、コンビニじゃあないしラフにも限度があるし、これはマナーの問題だと緑間は思う。大丈夫真ちゃん別にくさくねえって、との言葉に彼は本気で頭を叩いた。
「ほれ、はやく」
涙目の高尾に引きずられて、結局、そのままの格好で、鍵と財布だけをポケットに突っ込んで二人は出発した。外に出た途端に額に滲む汗に、緑間も降参の溜息をつく。仕方がない。ここまできたら、とっとと買い物を済ませて綺麗になった家に帰ろう。足下のサンダルは安っぽい音を立てて道を進んだ。
 「ぜってえこっちの方がいいって」
「そんな下品な色がか? こちらの方が落ち着いていて良いだろう」
「そんなじじいっぽいのやだよ俺!」
とっとと買い物を済ませようという当初の思惑などすっかり忘れ、緑間は高尾と二人、本棚のコーナーでにらみ合っていた。ただでさえ目立つ二人組は完全に周囲の視線を集めている。案内している販売員も、最初は少し驚いたようだったが今は完全に笑いをこらえた顔で二人のやりとりを眺めていた。
「この人だってこっちのほうが今はやりだっつってたじゃん!」
「はやりの物は飽きるのも早いのだよ。こちらのほうが容量も大きく沢山入るとあの方も説明していただろう」
「いいや、いっぱい入ったって好きじゃなかったらしょうがないね。見るだけで嫌になるようなものに物を入れたいなんて思わないじゃん」
「ふん、入りきらなければ元も子もないだろう。それに」
「それに?」
「大きいほうが良いに決まっているのだよ」
「真ちゃんここでもそのよく判らない大きいもの志向持ち出すのやめようぜ!」
話し合いは完全に平行線である。こちらの商品はいかがですか、と指し示されたものを見た二人は、数秒間それを見つめ、「財政的にちょっと」と同じタイミングで声を発した。
「待って真ちゃん、一回冷静になろう」
「良いだろう」
「まず容量だ」
ああでもないこうでもないと言い争えど結論が出ないので、ついに高尾は最終手段に出ることにした。申し訳なさそうに販売員に紙とペンは無いか尋ねる。快く差し出されたそれに、高尾は雑に「デザイン」「色」と書き込むと、他に何かある? と緑間に尋ねた。特になかったらしい緑間は首を振って黙って見ている。それに頷いて、高尾は二本の線を伸ばし、間に横線をランダムに引いていった。二人がどうしても戦争を終結させられなかった時、諦めの平和条約の作り方をこの一年間で彼らは生み出していた。
「真ちゃん、右と左どっち」
古式ゆかしいあみだくじだった。
一時間後、高尾の選んだ色と緑間の好みの型をしたブックシェルフは無事にレジを通り抜けた。販売員に頭を下げて、二人は板を小脇に抱え込む。あみだくじはぐしゃぐしゃに丸められて高尾のジーンズのポケットにつっこまれていた。後で洗濯をする時に出し忘れて洗濯物を汚すパターンなのだが、今の彼はそんなことには気がつかない。二人、何かをやり遂げたような顔で家路を行く。配送業者も組み立て業者も近くで待機していたが、これくらいならば自分達でやると丁重に断わった。自転車で来れば良かったかな、とぼやく高尾に、逆に載せられないだろう、と緑間も淡々と返す。背中に夕日を背負って、二人の前には長く長く影が伸びている。やべえ俺モデルみたいに脚長い、お前はもう脚長おじさんって感じ。そう言って高尾が笑いながら取ったポーズがあまりにも滑稽で緑間は笑う。どうやら笑わせようと思って取ったポーズでもなかったらしく、高尾は一瞬複雑そうな顔をしたが、どうやら調子に乗ったようで、その後も家にたどり着くまでことあるごとに奇妙なポーズで緑間を笑わせにかかった。調子に乗りすぎて板を落としそうになったところまでご愛嬌である。とはいえどなかなかの重労働で汗をしこたまかく羽目になったので、あの服装で正解だったのかもしれないと緑間は頭の片隅で思った。そんなこと、口に出しはしないけれど。
 会議という名の喧嘩時間に反比例するように、案外あっさりと組み立て終わった白いそれは二人の腰よりも低く、窓枠の下にぴたりと収まって、雑多に積み上げられていた本も雑誌もCDも、全て収めて夏の光をはじいていた。これに合わせて変えようと、高尾が一緒に買った白いカーテンがはためいている。磨き上げられた窓、滑らかな床、白い壁は夕日で赤い。本棚もカーテンも、夕焼けと同じ色で呼吸をしている。暑さも和らいできた。午後七時。夕日は地平に差し掛かり、町陵を金で縁取っている。昼間、高尾がいつの間にか干していたシーツが、朱金の鼓動を飲み込んで乾く。一日が、終わろうとしている。
「よっしゃ、これで終わり!」
「雑巾はもう捨てて良いか」
「おう!」
あー、一仕事終わったし、ビール飲もう! 枝豆冷やして! あとはなんだ、漬け物と、キムチで鶏のささみ和えて、いや、手羽先の方が良いかな。夏はうまい!
次々と夜の献立を並べる高尾に、緑間は僅かに頬を緩めた。腹が減っているのはお互い様である。何せ今日は、とてもよく働いたので。はじめは全くと言っていいほど合わなかった食の好みも段々と近づいて、今ではお互いの好物を好きだと言えるようになっている。
ねえ真ちゃん、今度おっきいソファ買いに行こうよ。今のも良いけどさ、もっとスプリング効いたヤツ。並んでテレビ見てさ、そんでそのまま…。
不真面目な頭を思い切りはたいて、歴史あるソファに緑間は腰をおろした。高尾が座れないように、真ん中に。空中にある明日のカレンダーの予定を見つめて、彼は午前中の用事に大きくバツをつけた。文句を言う高尾の口を塞ぐ。洗いたてのシーツで惰眠をむさぼるのも悪くないだろうと思って。
開け放した窓から夜風。彼らの城は今日も明るい。
Love is life.
        【愛こそすべて!?】
  まさか真ちゃんがあそこまであのソファに愛着を持っているとは思わなかった。その点は俺の見込みが甘かったとしか言えない。そりゃ、俺だってあれのことは気に入ってるさ。大分古びてるとはいえども、それがまた洒落てる感じ出してるし。座り心地だって悪くない。いや、悪くなかったんだ。でもさ、スプリング壊れちゃったんだから仕方ないじゃん。布を突き破って出てきたバネは鈍い黄金色をしていて、王様みたいな貫禄があってやけに格好良かった。それが真ちゃんとのセックスの最中じゃなければね。あの男三人が座ったらぎゅうぎゅうになる場所でどうやんのって話だけど、まあ窮屈には窮屈なりの楽しみ方があるってことでここはひとつ。
さて、俺たちはしばらく顔を見合わせたあと、まあお互いのケツにそれが刺さらなくて良かったじゃないかっていう結論に達した。その後ベッドに移動してどんくらい何をどうやったかっていうのは、俺だけの秘密にさせてくれ。
んで、後日修理してもらおうと、見積の業者さんを呼んだ俺たちは、提示された金額に頭を抱える羽目になった。流石王様。流石ヴィンテージ。俺たちは知らなかったが、このソファに使用されていた革は本革の相当質の良いものだったらしく、 これを貼り直すとなると普通に新品を買ったほうが良いというような、そんな値段になってしまうのである。古い物ほど、整備には金がかかるってことらしい。人間もそうかもね。
「あっちゃー、これはしょうがねえな……買いなおすか」
「……」
「やっぱ無いと不便だもんな。真ちゃんいつ空いてる? 別に丸一日じゃなくてもいいけど。買いに行こう。粗大ゴミって確かシールとか貼って業者さん呼ばなきゃいけないんだっけ……」
「…………」
「真ちゃん?」
「捨てないのだよ」
「は?」
「捨てない」
パードゥン? って感じだった。っていうかパードゥン? って言っちゃった。そしたら、捨てないのだよ、ってもっかい強く言われて、マジか、ってなった。その時は、俺は真ちゃんの、いつもの、まあかわいい我が儘だと思ってたんだけど、思ってたから、割と軽い調子で説得を始めちゃったんだけど、どうやらそれがより気に食わなかったらしく、結局その日の夕飯は無言でお互いにカップラーメンをすすった。そりゃ、俺だって愛着がないとは言わないけど、流石にあの値段は学生には無理だ。そんなの真ちゃんだってわかってるはずである。なんでそんなにこだわんの? って聞いたら、視線をそらされながら「バネが飛び出たソファがラッキーアイテムになるかもしれないだろう」って言われた。もしもそんなことになったらいよいよおは朝は専属の占い師を変えるべきだと思う。
とりあえず翌日、前の持ち主である宮地さんに電話してみた。もらったんですけど壊れちゃいましたすんませんっつったら、お前らにやったモンだから別に構わねえよ、とだるそうに返された。そもそもあれ古かったしな。しかし何して壊れたんだ? そんな風に聞かれて、いや、ちょっとはしゃぎすぎて、としか返せなかった俺は多分悪くない。
まあそんな感じで、俺は捨てて新しいのを買いたいんだけども、真ちゃんは全然そんなつもりがないらしく、バネはいつまでも飛び出したままだった。最初は王様のように見えたそいつもずっと見てると腹立たしくなってくる。案外間抜けな感じじゃないか。何年の歴史があるんだか知らないが、お前の時代はもう終わったんだ。
っていうか普通に危ない。怪我をしたらいけないからと説得したら、真ちゃんはしばらく考えたあげく、部屋からぬいぐるみを一つ持ってきてぶっさそうとしたので慌てて止めた。なんで目の前でいきなりスプラッタを見なくちゃいけないんだ。お前の男らしさはそんなところで発揮されるべきじゃないだろう。っていうか、そもそもお前はそういう物を大事にする奴だと思ってたんだけど。一通り止めた後、不審そうな顔で、「お前は何を言ってる。これはパペット人形だ」って、最初から手を通すために空いてる穴を見せられて思わず脱力。そんな訳であのソフアには蛙がど真ん中に堂々と立っている。バネは見えなくなったが、今度はこいつがウザイ。心底腹が立つ。っていうかこの蛙の居場所のためだけに、俺たちの生活スペースが侵食されてるんですけど! 真ちゃん!
「これは」
俺とお前が、初めて、一緒に選んだものだろう。
そうですね。
 「は? それで結局お前らそれどうしたわけ?」
「いや、やっぱ普通に不便だし無理なんで、新しいの買いました」
「そりゃそうだよな」
「んで、あのソファは真ちゃんの部屋に運び込まれて、今大量のラッキーアイテムのぬいぐるみが置かれています」
「あっそ」
久しぶりに宮地さんと差しで飲んでいる時に、ふとその話題になった。いや、俺が、ソファに座ってこの前真ちゃんとテレビ見てたら、って言ったんだっけ。結構酔いが回ってるらしい。覚えてない。
「つか、お前らが一緒に選んだってなに。あれ、俺がゆずったやつだけど」
「いや、実は真ちゃん、あれ宮地さんの部屋にある時から気に入ってたみたいで、俺も結構欲しかったんで、宮地さん家に行った時にそれとなくねだろうって事前に打ち合わせしてて……あたっ」
笑顔の宮地さんに叩かれたが、まあこれは仕方がない。引越し祝いに下さいとねだったら案外あっさりくれたんだし、そんなに怒らないでくださいよ。愛する後輩の、かわいいおねだりじゃないですか。やっぱり世界は愛が回してるんですよ。あのソファは、俺と真ちゃんと、あと多分宮地さんとか、宮地さんの前に使ってた人とか、それより前に使った人とか、その前の人とか、その前の前の人とか、作った人とかの愛がこもってるんですよ。だからやっぱり、捨て���なかったんですよ。そういうことなんですよ。決して、真ちゃんの我が儘に付き合った訳じゃないんです。
「嘘つけ」
そうっすね。嘘ですでも嘘じゃないんですよ。だってこれも俺の愛の形で、あれも真ちゃんの愛の形。世界は愛でできてるんです。愛こそ全て! 飲みましょう!
Love is life, Love is all.
0 notes
gallery-f · 4 years
Text
生家の記憶
7/7/2020
(Description) I was born and raised in a traditional Japanese house. As an adult, I live in a new house, but the only dreams I see at night are dreams of a house I grew up as a child.
The spiritual mentor said. "Sometimes see family photos. Love can be charged."
ぼくは長屋の一角で産まれたんだけどその長屋は借家だったので、 両親ががんばって古い家付きの土地を買ったのを機に引っ越したのね。 古い家を改築し、曲がりなりにも風雨を防いで家らしくなった後 両親は相次いで亡くなった。
ぼくは今の家で寝る。そして夢を見る。家族が出て来る。家が出て来る。 だけど今の家じゃない。前の家。生まれて育った家。長屋の夢。
格子扉をがらりと開けると暗い暗い土間があって ぼくの手が届かない天井近くに番傘が何本も飾ってある。 飾ってあったのか、そこが番傘の定位置だったのかは分からないけど。 父が木材を組み合わせて真っ黒に塗り、前面にカーテンを付けた お手製の下駄箱の上に黒猫が子猫を育てている。
靴を脱いで最初のドアを開ける。 左に食器棚、それから冷蔵庫その向こうにガス台と作業台?そしてシンクと洗面。 また扉があってその向こうに洗濯機。ここは底上げして床を張った台所とは違って 打ちっぱなしのコンクリートの上に木のすのこを置いただけ。 洗濯機の隣はお風呂。五右衛門風呂。
友達のうちがガス風呂だったのに、うちは長らく五右衛門風呂だった。 おじいちゃんが古いものを大切にするひとだったから。 毎日書く日記は万年筆で書いていた。 その万年筆はインクを吸うタイプの太いもの。 力の入れ具合によって字が太くなったり細くなったりする。 おじいちゃんが書く字は好きだった。 西日が入る居間で一日の終わりにおじいちゃんが書く日記。 癖字で何が書いてあるのかは分からなかったけど 万年筆の先から太い線、細い線が生み出されて そこから家族の歴史が編み出される。
あの日記。どこにあるんだろう。今、読みたいのに。
裏庭の真ん中には大きな石が据えてあった。 下駄を脱ぐところにも小さな石があった。 裏庭を挟んでお風呂と相対するところにトイレ。 木の欄干。いつもそこを握ってくるっと回るから 欄干の頭はつるつるしていた。 黒いスベスベした木と細い竹が組み合わされた床は 一部が外れて床下にアクセスできるようになっていた。
いつも開けていたのはおばあちゃんか父だったので ぼくはとうとう開け方をマスター出来なかった。 たしか、欄干の一部が組木になっていて、あるパーツを外して 次のパーツをずらすと欄干の下が外れ、その向こうにある 木と竹を手前にスライドさせて床に穴があくんだった。
昔の職人さんはすごいね。こんな市井の小さな長屋にも そんな細工をほどこしていたんだよ。 もっともおじいちゃんが長らく町長をしていたせいかどうだか 長屋の中でもうちは別格に大きい家だったけど。
長屋だったから、奥行きはみんな一緒だったけど、家の幅は広かった。
皆で囲む食卓には時計があった。 おじいちゃんの勤続何年だったかに職場からもらった記念の柱時計。 食卓の上に乗って、手を伸ばすと時計の扉を開けて 中に入っている金属のネジを取り、文字盤の左に開いている穴に差し込んで右回り 文字盤の右に開いている穴に差し込んで左に回す。 指が痛くなるほど回してから金属の振り子をちょっと動かすと チックタック、チックタック、動き出す。
友達の家にはおしゃれな電池の時計なんだよ。 スイッチポンのガス風呂。 ガス給湯器。
でもうちは朝練炭に火をおこして薬缶の水を湧かす。 湧いたお湯を洗面にためた水に足してそれで顔を洗っていた。
「お金がないからね」 と父。 どうして、お金がないの? 「そんなことはお前は気にするな」
今振り返ってみたらなんとなく分かる。 気前が良すぎる祖父母。もらったものを家族で分けず誰かにあげる。 我が家には未開封の箱が通り過ぎるだけ。 おばあちゃんは民生委員だったからウチよりもっと貧しい家のうちによくサポートしに 行っていた。
ぼくが生まれる前は祖父母は田舎の子弟をたくさん下宿させて下宿代も取らなかった。 田舎の人は最初にコメ渡したら中学高校6年間何もくれなかった。 最初のコメがどんなけ保つと思っていたんやろう、あっという間になくなるわ。 母がこぼしていた。
団地の子のうちはピカピカで、ハイカラで、最先端。 医者の子のうちには見たこともないおもちゃがいっぱいで庭には芝生が植えてあって 英語の絵本を読んでもらった。 アパートに住んでいた子のウチにだってガラスで出来た動物の置物がいっぱいあって それで遊んだ。
ぼくは何で遊んでいただろう。覚えがない。 ぼくは2歳から字を読み始めたと言うから、絵本を読んでいたかもしれない。 ぐりとぐら。 エルマーとりゅう。 不思議な絵本。
食事をする部屋の片隅のふすまを開けると階段がある。 ふすまを開けて階段というのは遊びに来た友達がいつも驚くポイント。 暗く急な黒光りする階段を手を使って四つ足で上る。 上り切った左手に布団箪笥。 布団箪笥の上に三毛猫が子猫を育てている。
ぼくがいつも子猫のしっぽをつまんでぶら下げるものだから 母さん三毛猫はぼくがとんとんとんと階段を上がって来ると 子猫の首を咥えてぼくの手が届かないところに避難する。
布団部屋に立って、左に行けば両親の寝室。 両親の寝室を抜けて立て付けの悪い黒い扉を挟んであるガス管に注意しながら 開けると父の書斎。木で出来た古い大きい重い素敵な机。
あの机。いつかぼくもあそこで勉強とかするんだろうか
とか思っていたけど、あの机、どうして引っ越しするとき捨てちゃったの?
布団部屋から右に行くと父のアトリエ。父は絵描きだった。 この部屋はかなり大きくて天井も高くて、天井には展覧会のポスターが 全面に貼られていた。おじいちゃんと二人でポスターの裏に糊を塗って 天井に貼っていた作業、今でも覚えているよ。
大きな木の机がふたつもあって、なぜかというと父は学区内の子供たちを集めて 絵画教室をしていたから。
時間内に絵を描いて、父が画用紙の裏に批評を書く。 「よくできました」 「せんが、きれいです」 「いろづかいがすばらしい」 そして花丸。
ぼくは小さかったけど、小学生のお兄さんお姉さんがたくさん来るこの時間は わいわいとたのしかった。たまに電車の中で知らないお姉さんに 懐かしそうに話しかけられることがある。だけどぼくはその時4,5歳。 ぼくのほうはお姉さんの顔、覚えていないよ。
ていうか、いまのぼくって5歳のころの面影残ってるんだろうか。 それはそれでフクザツ。
アトリエの横にまた扉があって、それを開けると母の音楽室。 母は音楽の先生だった。
エレクトーンとオルガンが並んでいた。倉庫には古いレコードがいっぱい。 レコードプレイヤーや映写機、木琴、カスタネット、ハーモニカは一段二段三段。 子供用のハープ。大太鼓小太鼓。トライアングルまであったな。 ピアノは1階の客間に置いてあって、ヤマハじゃなくてイバッハ。 リストやワーグナーが愛したと言うドイツ製のピアノ。 (「iBach」「ピアノ」で検索。今買うと300万円ぐらいします)
ぼくは小学生になった頃、このピアノには嫌な思い出しかない。 友達と遊びに行けなくなったから。 学校から帰ると母がピアノの前で待ち構えている。 母が紡ぎ出す和音を当てないと遊びに行かせてもらえない。 どみそ どふぁら しれそ 他多数。
一個当てたら遊びに行かせてあげる。 一個当てたらもう一個。 さらにまた また、また、また。 玄関で待っていた友達は待ちくたびれて行ってしまった。 ○○ちゃんと遊びたい。 「明日遊べる」 母の言葉。 でも明日も母はピアノの前で待ち構えている。
おじいちゃんが毛が無くなった頭をなでながら登場 「(ぼくの愛称)が可哀想だ。あそばしたれ」 母、渋々ぼくを開放。 しかしもう日は暮れて、烏がかぁかぁ。友達はみんな暖かい家にご帰宅。 玄関の前には誰もおらず、ぼくのこころのなかに冷たい風がひゅ〜。
重量 200kg もあるイバッハを置くために客間だけ改築し、床下を補強してある。 長屋なのに! イバッハの向こうには前庭があって、父の鳥小屋がある。 猫もいるのに鳥もいる。 鳥は50羽ぐらいいた。ほとんどジュウシマツとベニスズメ。
ぼくの鳥好きは父の影響だな。ぼくが飼ったのはカエデチョウ。
客間には改築時出窓を作ってここだけハイカラだった。 出窓には水槽があって、父が釣り堀で釣って来た金の鯉やドイツゴイがいた。 ぼくはこの鯉でごった返す水槽を眺めるのがホントに好きだった。 簡単にトランス状態に入れるから(^^;
夕焼けが見える西の掃き出し窓を全開にして、夕日が入る畳の表情が好き。 裏庭にぼくが作った鳥の餌台にキジバトが来てクルック〜。 前庭の木に巣を作ってヒナを育てた。 この家は小鳥のエサのおこぼれはあるは、それとは別に餌はくれるは すげ〜気前がええぞ〜と思っていたかどうかは知らない。
長屋で暮らした思い出が濃過ぎて。 今の家で見る夢に出て来るのは前の家の映像ばかり。 家族がいて、両親がいて、祖父母がいて 猫がいて小鳥がいっぱいいて 光が入って、風が通って、いろんな思い出が渦巻いていて。
仏間に飾ってあったぼくが生まれる前の家族の集合写真 今どこにあるんだろう。
今の家には家族の定位置がない。 前の家にあった家族の思い出が詰まっていたアルバムやら古い写真やら入れていた水屋 あれをどうして捨てちゃったの? アルバムはどこに片付けてあるんだろう。 今、見たいのに。
江原さんが言っていたよ。 たまには家族の写真を見なさい。 愛は充電出来るから。って。
1 note · View note
tokyogumispazioecco · 4 years
Photo
Tumblr media
. . 2020.6.30 世田谷区 Y様邸 ㊗️ご契約 . 持たれていた色合いのイメージは 白い壁と木。 . エントランス前のスペースは庭のように。 . 内外装はナチュラルな質感をベースに、ステンレスやスチールといった素材を用いて空間の温度感を心地よいところに整えていく . しっくりとくる色味や質感、素材のもつ温度感を探り追求していくプロセスも、家づくりならではの楽しみです。 . 色の好みは十人十色。 家を構成する「色合い」がもつ印象は、その家の個性になります。 . 床と壁、そして窓も自然な素材を選択する . ご夫妻の感性がどのような「色」で表現されていくのか、とても楽しみです。 . 今後ともどうぞ宜しくお願い致します。 . @tokyogumi_kenji_watabe . . ▪︎design 株式会社ninite 松下泰久/牧野綋可 . . . . . . . . . . . . . . #家づくり #家づくり記録 #マイホーム計画 #マイホーム記録 #マイホーム計画中の人と繋がりたい #注文住宅 #自然素材の家 #デザイン住宅 #設計事務所 #設計士とつくる家 #工務店 #工務店がつくる家 #エコハウス #省エネ住宅 #新築一戸建て #せせらぎ #landscapephoto #landscapephotography #naturephoto #naturephotography https://www.instagram.com/p/CCLcOcKgF5c/?igshid=1jqsg649n2f4k
0 notes