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shunsukessk · 4 months
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「遺跡としての晴海団地」参考文献
「遺跡としての晴海団地」は日本建築学会のウェブサイト「建築討論」で2023年1月から11月にかけて連載された。もしかすると、いつか誰かの役に立つかもしれないので、参考文献の一覧をまとめておく。なお、赤字は連載内で2回以上触れたもの。
都市
磯崎新「都市の類型」、『磯崎新建築論集2 記号の海に浮かぶ〈しま〉』、岩波書店、2013年。
磯崎新「建築=都市=国家・合体装置」、『磯崎新建築論集6 ユートピアはどこへ』、岩波書店、2013年。
レム・コールハース『S,M,L,XL+』、太田佳代子、渡辺佐智江訳、ちくま学芸文庫、2015年。 ・「シンガポール・ソングライン」 ・「ビッグネス、または大きいことの問題」
藤村龍至「超都市(ハイパー・ヴィレッジ)の建築」、『SD2021』、鹿島出版会、2021年。
山岸剛『TOKYO RU(I)NS』、山岸剛、2022年。
ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」、前田英樹訳、『ドゥルーズ・コレクション1 哲学』、河出文庫、2015年。
里見龍樹『不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』、河出書房新社、2022年。
晴海
『万博』1938年5月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
「オリンピック中止 万国博覧会の延期 閣議で承認」、東京朝日新聞(夕刊)、1938年7月16日。
『万博』1938年11月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
東京都中央区役所編『昭和32年版 中央区政概要』、東京都中央区役所、1957年。
東京都中央区役所編『中央区史 下巻』、東京都中央区役所、1958年。
『観光お国めぐり 東京都の巻(上)』、国土地理協会、1959年。
東京都中央区役所編『昭和35年版 中央区政年鑑』、東京都中央区役所、1960年。
「運転手、死体で発見 血だらけ乗捨てタクシー」、朝日新聞(夕刊)、1963年12月7日。
「個人タクシーご難 晴海 三人組強盗に襲わる」、朝日新聞、1965年8月10日。
「運転手しばり放り出す 晴海 三人組タクシー強盗」、朝日新聞、1966年5月26日。
「スペインが初名乗り 万国博参加」、朝日新聞、1966年8月27日。
三島由紀夫『鏡子の家』、新潮文庫、1969年。
「カーサ晴海」、『近代建築』1977年8月号、近代建築社。
東京都中央区役所編『中央区史三十年史 上巻』、東京都中央区役所、1980年。
日東製粉社史編纂委員会編『日東製粉株式会社65年史』、日東製粉株式会社、1980年。
『第二次東京都長期計画』、東京都企画審議室計画部、1986年。
晴海をよくする会『晴海アイランド計画の提案』、晴海をよくする会、1986年。
「ソ連の一万トン客船 あす初寄港」、朝日新聞、1987年3月20日。
東京都港湾局、社団法人東京都港湾振興協会、東京港史編集委員会編『東京湾史 第1巻 通史 各論』、東京都港湾局、1994年。
小柴周一「晴海アイランド トリトンスクエア」、『新都市開発』1998年1月号、新都市開発社。
『晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業』、住宅・都市整備公団、晴海一丁目地区市街地再開発組合、1999年。
吉本隆明『少年』、徳間書店、1999年。
茅野秀真、大村高広「再開発地区計画の活用による一体的な広場・歩行者空間形成の実現──晴海アイランドトリトンスクエアにおける実践例──」、『再開発研究』第18号、再開発コーディネーター協会、2000年。
『トリトンプレス』vol.2、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2000年。
『トリトンプレス』vol.5、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2001年。
「晴海トリトンで「いい日常」」、朝日新聞(夕刊)、2001年3月23日。
「晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業 晴海アイランド トリトンスクエア」、『近代建築』2001年6月号、近代建築社。
佐藤洋一『図説 占領下の東京』、河出書房新社、2006年。
夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』、原書房、2016年。
渡邊大志『東京臨海論』、東京大学出版会、2017年。
晴海団地
「港に近く、高層アパート群」、朝日新聞東京版、1956年1月22日。
大髙正人「東京晴海の公団アパート」、『国際建築』1956年11月号、美術出版社。
志摩圭介「団地ずまい礼讃」、『新しい日本 第2巻 東京(2)』、国際情報社、1963年。
「団地に住んでゼンソクになった 工場ばい煙規制へ」、朝日新聞(夕刊)、1963年10月8日。
種村季弘『好物漫遊記』、ちくま文庫、1992年。
種村季弘ほか『東京迷宮考』、青土社、2001年。
中央区教育委員会社会教育課文化財係編『中央区の昔を語る(十六)』、中央区教育委員会社会教育課文化財係、2002年。
晴海団地15号館(晴海高層アパート)
小野田セメント株式会社創立七十年史編纂委員会編『回顧七十年』、小野田セメント、1952年。
河原一郎、大髙正人「新しい生活空間へ」、『新建築』1957年1月号、新建築社。
野々村宗逸「住宅公団の晴海高層アパート」、『住宅』1957年4月号、日本住宅協会。
『建築文化』1959年2月号、彰国社。 ・大髙正人「設計の概要」 ・河原一郎、大沢三郎「都市の住居:高層アパート」 ・野々村宗逸「いつまでも豊かさを」
川添登「晴海高層アパート──将来への遺跡」、『新建築』1959年2月号、新建築社。
前川建築設計事務所「晴海高層アパート」、『近代建築』1959年2月号、近代建築社。
木村俊彦「構造計画論の展開と私の立場」、『建築』1962年1月号、中外出版。
ロジャー・シャーウッド編『建築と都市 臨時増刊 現代集合住宅』、エー・アンド・ユー、1975年。
「アンケート:パブリック・ハウジングの可能性」、『都市住宅』1980年8月号、鹿島出版会。
日本経営史研究所編『小野田セメント百年史』、小野田セメント、1981年。
日経アーキテクチュア編『有名建築その後 第2集』、日経マグロウヒル社、1982年。
レイナー・バンハム「世界の建築の日本化」、伊藤大介訳、鈴木博之編『日本の現代建築』、講談社、1984年。
枝川公一『都市の体温』、井上書院、1988年。
大髙正人、小西輝彦、小林秀樹「昭和の集合住宅史(6)高密度高層住宅 広島市営基町住宅と公団高島平団地」、『住宅』1992年3月号、日本住宅協会。
野沢正光「〝ささやかな悠久〞をおびやかすもの──晴海高層アパート1958によせて──」、『住宅建築』1994年10月号、建築資料研究社。
住宅・都市整備公団、日本建築学会編『晴海高層アパートの記録』、住宅・都市整備公団、1996年。
『住宅建築』1996年8月号、建築資料研究社。 ・小畑晴治、野沢正光、初見学、松隈洋「座談会──晴海高層アパートから引き継げるもの」 ・初見学「晴海高層アパート残照」
井出建「都市に住まうことの戦後史 「晴海アパート」取り壊しと集合住宅の未来」、『世界』1998年1月号、岩波書店。
志岐祐一「晴海高層アパート 可変性検証の記録」、『住宅建築』1998年3月号、建築資料研究社。
高橋郁乃「「晴海高層アパート」は歴史館に行き、そして晴海は…」、『建築ジャーナル』1998年9月号、建築ジャーナル。
前川國男
田中誠「住宅量産化の失敗と教訓──プレモス前後」、『今日の建築』1960年9月号、玄々社。
ル・コルビュジエ『今日の装飾芸術』、前川國男訳、鹿島研究所出版会、1966年。
佐々木宏編『近代建築の目撃者』、新建築社、1977年。
前川國男、宮内嘉久『一建築家の信條』、晶文社、1981年。
丹下健三「前川先生の死を悼む」、『新建築』1986年8月号、新建築社。
伊東豊雄「公共建築の死・前川國男を悼む」、『住宅建築』1986年9月号、建築資料研究社。
宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』、晶文社、2005年。
生誕100年・前川國男建築展実行委員会監修『建築家 前川國男の仕事』、美術出版社、2006年。 ・井出建「前川國男と集合住宅」 ・「日本万国博覧会建国記念館 コンペ応募案」
前川國男建築設計事務所OB会有志『前川國男・弟子たちは語る』、建築資料研究社、2006年。 ・河原一郎「前川國男」 ・松隈洋「「生誕一〇〇年・前川國男建築展」という出発点」
団地
島田裕康「住宅団地におけるコンクリート塊の再生利用」、『月刊建設』1996年10月号、全日本建設技術協会。
原武史『団地の空間政治学』、NHK出版、2012年。
祝祭
岡本太郎、針生一郎「万博の思想」、『デザイン批評』第6号、風土社、1968年。
岡本太郎『新版 沖縄文化論』、中公叢書、2002年。
「五輪チケット、販売済みは収容人数の42% 7割が地元」、朝日新聞デジタル、2021年6月11日。URL=https://www.asahi.com/articles/ASP6C66BZP6CUTIL05R.html
「IOC広報部長、コロナと五輪「パラレルワールド」無関係強調」、毎日新聞デジタル、2021年7月29日。URL=https://mainichi.jp/articles/20210729/k00/00m/050/117000c
ギリシャ神話
ヘシオドス『神統記』、廣川洋一訳、岩波文庫、1984年。
呉茂一『ギリシア神話(上)』、新潮文庫、2007年。
賃金
労働大臣官房労働統計調査部編『昭和33年 賃金構造基本調査結果報告書 特別集計』、労働法令協会、1960年。
「賃金構造基本統計調査」、厚生労働省ウェブサイト。URL=https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html
銀座
東京都中央区役所編『中央区史 中巻』、東京都中央区役所、1958年。
赤岩州五編著『銀座 歴史散歩地図』、草思社、2015年。
築地
テオドル・ベスター『築地』、和波雅子、福岡伸一訳、木楽舎、2007年。
東京タワー
電気興業社史編纂委員会編『電気興業 40年史』、電気興業株式会社、1990年。
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shunsukessk · 5 months
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(6)晴海団地の瓦礫の上で
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて連載してきた「遺跡としての晴海団地」。最終回となる6回目が公開されました。今回は、解体から25年が過ぎた晴海団地をまさに遺跡として眺めました。最終回にして過去の100年が回帰し、疾走します。
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shunsukessk · 8 months
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(5)タブラ・ラサの再来と晴海団地の解体
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて隔月で連載中の「遺跡としての晴海団地」。5回目が公開されました。晴海団地の解体は単なる「団地の建て替え」ではなく、都市(シティ)から大都市(メトロポリス)への移行であり、新たな神話の始まりでもありました。島の100年の歴史も終盤に差しかかっています。
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shunsukessk · 9 months
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[PUBLICATION] 建築討論の注目連載を読む/遺跡としての晴海団地
『建築雑誌』2023年8月号にインタビューが掲載されました。建築討論の連載「遺跡としての晴海団地」をどのように書き始めたのかを語っています。聞き手は編集委員長の岩佐明彦さんです。
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shunsukessk · 10 months
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(4)晴海団地の成熟と交歓
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて隔月で連載中の「遺跡としての晴海団地」。4回目が公開されました。成熟に向かう晴海団地にはいくつもの交歓がありました。広場での祝祭、人工土地の宴、ソ連からの客……。終盤に向けて団地が疾走しています。
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shunsukessk · 1 year
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(3)最初の住民たち──晴海高層アパート112号室
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて隔月で連載中の「遺跡としての晴海団地」。3回目となる今回は築地から晴海にやってきた新婚夫婦の物語をお届けします。
あまり知られていませんが、晴海高層アパートの1階はとてもすてきでした。竣工から65年を経てその地表近くの風景を見つめます。
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shunsukessk · 1 year
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(2)焦土の上に空間を──前川國男と晴海団地の創造
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて隔月で連載中の「遺跡としての晴海団地」。2回目となる今回はいよいよ島に晴海団地が建設されます。
建築家・前川國男は焦土の上で何を考え、いかにして「人工土地の概念のさきがけ」とされる高層アパートを立ち上げるに至ったのか。貴重な設計図や写真とともにお楽しみください。
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shunsukessk · 1 year
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[PUBLICATION] 遺跡としての晴海団地(1)東京・晴海──何もない島という神話
日本建築学会のウェブサイト「建築討論」にて連載が始まりました。26年前に解体された伝説的な団地「晴海団地」を遺跡として眺め、人が集まって住むとは何かを問い直します。1回目となる今回は「何もない」とされてきた島の歴史を紐解きました。
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shunsukessk · 2 years
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祝祭の終わり、晴海団地の始まり(発表時期未定)
緊急事態宣言が発出されたあとも、わたしは変わらず舘野青果店に通った。こんなときこそ日常を損なってはいけないと奮起したわけではなく、ただ野菜や果物が必要だったのだ。なにしろ、例の西秀商店の干物を焼き、舘野青果店の野菜を煮物やおひたしにして添えるのがわが家では定番になりつつあった。いわば「晴海団地定食」である。失われたはずの団地は、いつの間にかわたしの生活の一部になっていたわけだ。舘野青果店に行くと、オリンピック・パラリンピックをめぐる気の滅入るようなニュースをバックグラウンド・ミュージックに晴海団地の話を聞いた。島に日常が建設されていく様を想像するのは、精神衛生上、とてもよかったと思う。
──第3章「日常の建設」
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──14歳で特攻隊に志願したんですか? 「そう。『天皇陛下のためならば  なんで命が惜しかろう』っていう歌があったくらいだから。おれは次男だからさ、親父が『長男は跡取りだからダメだけど、お前なら行っていいよ』って言うんだ。だから自分で志願したんだ。入隊する日も決まってた。8月の……20日くらいだったかな。だけど、延期命令が来て、終戦になった。『ああ、命助かった』って笑ってたよ」 ──それはつまり、心のどこかでは行きたくないと思っていた? 「ううん。全然そんなことはない。あのころはそういう教育だったんだ」 ──でも、命助かったなと。 「うん」
──第2章「島ができる」
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都市は炎に包まれ、おそらくその中で万博事務所棟は消失した。一度も祝祭のために使われることのなかった不遇な建物は、後世に廃墟すら残すことができなかったのだ。2021年4月の今、そこは東京オリンピック・パラリンピックの車両待機場になっている。オレンジ色のフェンスにぶら下がる、「この土地は[……]東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会が管理しております」のお知らせ。よみがえる巨大な祝祭の亡霊……。
──第2章「島ができる」
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晴海団地の設計は四谷にできたばかりの自社ビルで行われた。設計が始まったころ、晴海団地の計画は「窓を開ければ〝東京の海〟がながめられ、健康的であるばかりでなく、都心のオフィス街まで約10分という理想的なもの」(朝日新聞東京版、1956年1月22日)と報じられた。だが、島の建設用地を訪れた建築家たちは、そこが人が住むのに最適な場所ではないことに気づいていた。というのも、晴海は既に大型の港湾施設が建ち並ぶ工業地帯になりつつあったのだ。配置計画を担当した大髙正人はそのことに頭を悩ませていた。
──第3章「日常の建設」
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「すごく大きなバルコニーなんですよ。あれはよかったな。うちなんかね、主人がテーブルを置いて、夜、そこで飲むの。大晦日になると、年が明ける1時間前から、汽笛が『ぽーっ』って鳴るのよ。晴海埠頭に停泊している船が『ぽーっ、ぽーっ、ぽーっ』ってみんな鳴らしてくれて、新年になるとそれがぱっと止まって。除夜の鐘と同じでね。あのころはまだ電気もついていなくて、まわりが真っ暗でしょ。だから、すごく情緒があってね。主人がそれをすごく喜んで、寒いのに、座って飲んだりしたの。それが何十年続いたかな」
──第3章「日常の建設」
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その言葉に従えば、晴海団地は確かにばらばらに解体されてしまったが、そのあとで組み立て直されたのかもしれない。死のあとで再生があったのだ。そして新しい始まりが宣言される。90年代の終わりになると、晴海センターの入っていた1号館の跡地にはぴかぴかのオフィスタワーが地上195メートルの��置までにょきにょきと伸びていった。オフィスビルと商業施設は21世紀の初めに竣工し、エントランスの前には大きな時計台が設置された。その根元には竣工を記念するパネルが埋め込まれ、デジタル時計が竣工からの経過時間を分単位で刻む趣向になっている。島の時間はリセットされ、2001年4月1日午前0時が新しい始まりとなった。
──第4章「遺跡」
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つまり、ここにあるのはキメラのように合体してできた架空の住戸なのだった。それは時間を遡り、15号館が竣工した1958年を回復する。とはいえ、そこからふたたび時計の針が動き始めることはない。どれだけ見学者が訪れようと、部屋の中に生活感は芽吹かないのだから。いわば時間のない世界の中で15号館は生き続けていく。完璧なまでの避難所だった。ここがなければ15号館の偉大な室内は永遠に失われていただろう。もっとも、15号館が持っていたはずのポテンシャルがまるっきり反転してしまっているのは皮肉としか言いようがない。劣化の早い室内よりも、立体的な街のように組まれたフレームのほうが長生きするはずだったからだ。
──第4章「遺跡」
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そういえば、少年時代の吉本隆明も、できたての島に寝転がって星を見ていたのだった。ただし、青空の中に。あるいは、この島には人間の感覚を鋭敏にする何かが満ちているのかもしれない。吉本少年は文明の建設以前にそこにないはずの星を見たが、川添は星空の下で文明の終わりを見た。そこではまだ、15号館は遺跡としてそこに建っている。
──第4章「遺跡」
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とはいえ、島の日常が取り立てて変わったわけではない。7月23日もこれといった出来事のない一日だった。
──第4章「遺跡」
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shunsukessk · 4 years
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shunsukessk · 4 years
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あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
 都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか?  まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下との境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。  徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。  ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベランダに男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向か���て若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。
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 東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の賃貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建ち、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。
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 アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。  掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。お隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。  通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。
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 わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部���一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。  人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか?  そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか?  あるいは都市は既に死んだ?  人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける?  このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。  実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの炎を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?
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 白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。  午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。  こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか?  都市の穴蔵とはそんなに浅いものだったのか?
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 いやぁ、  未来都市ですね、
 ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。ある濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。  未来都市?  だってこんなの、見たことないですよ。  ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市?  ここは現在なのに?  ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
 おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
 わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だから、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。
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 ようやく気づいたか。  ああ。  それで?  おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと?  どうかな、  本当は都市なんか存在しないのか?  どうかな、  すべては幻想だった?  そうだな、  どっちなんだ。  まあ結論を急ぐなよ。  おれはさっさと結論を出して原稿を書かなきゃならないんだよ。  知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。  あんたは誰なんだ。  まあ息抜きに歩いてこいよ。  息抜き?  いつもやっているだろう。あの循環だよ。  ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
 もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。  キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする?  豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。  リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭も指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。  と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の躍動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。
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 それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都市がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。  なあ、そうだろう?  応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。  コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所による��ンドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。  さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN  Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場で物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。
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 ほら、  幕は上がらないだろう、  お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出してみろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ?  あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか?  それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在した。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な玄関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか?  胸を抉られるような気持ちだったはずだ。  そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほ���としたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか?  もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。  では、お前は想像の世界に満足したか?  そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七八戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じながら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。  結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう?  こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。  とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都市へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。
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 実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。  あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。  この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。  長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。アトリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう?  一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。
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 まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。  わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、たぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
 あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。  どうかな、  で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう?  そうだな。
 もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。
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shunsukessk · 4 years
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失われた広島と五月二七日の基町アパート
 わたしがその喫茶店に入ったとき、既に中継は始まっていた。喫茶店の名前を仮にHとしよう。喫茶Hでは、いつものように小柄なママがひとりでカウンターに立ち、常連客のための夕食を一刻も早く提供すべく、細い腕を機敏に動かしていた。フライパンに油を熱した匂いが立ちこめ、コーヒーポットの中の湯が店内の湿度を上げている。わたしは瓶ビールを一本、注文した。店の隅にある細長い棚の上に小さな液晶テレビが載っていて、その画面には現職のアメリカ合衆国大統領が映し出されている。彼の背後に原爆ドームが見える。喫茶Hは、彼と原爆ドームとを結ぶ線の延長線上、中継の現場からおよそ一・三キロメートルの位置にある。さっき地図で確認したからたぶん間違いない。わたしはまるで潜望鏡を覗くように中継映像を見ている。“Seventy-one years ago, on a bright, cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed”──現職のアメリカ合衆国大統領がゆっくりと、だが明瞭な口調で話し始めた。彼がいる平和記念公園以外の広島はすべて砂漠になっていて、どういうわけか、見ることができない。  わたしは驚いて、思わず店内を見回し、木製の扉に取り付けられたレースカーテンの向こうを見つめた。外はぼんやりとしていて、はっきりとは見えない。店の前の通路を通り過ぎる人の影がときたま確認できるだけだ。店内は少し薄暗く、食器棚のガラス戸にはママのお姉さんが折り紙でつくったポストカードが貼ってあり、カウンターの隅にあるダイヤル式の電話が客からの連絡をあてもなく待っている。いつもと変わらない、ごくありふれた喫茶Hの風景だった。だが、テレビ画面の中では平和記念公園以外の広島がことごとく失われている。まるでそんなものはもともと存在しなかったというように、画面に映るはずのものがぽっかりと空白になっているのだ。わたしはビールを飲み干して、今日は奇妙な日ですね、とママに向かって呟いた。本当に、と言って、ママは少し間を置いてからビールを注ぎ足してくれる。ひょっとすると、この店に入ったとき、正確にはあの演説が始まった瞬間にすべてが終わってしまったのかもしれないとわたしは思った。一〇〇万人以上の人口を擁するこの都市も、四〇〇〇人以上の住民が暮らすこの街も、一瞬にして消滅してしまった。  “Their souls speak to us”──神妙な面持ちで現職のアメリカ合衆国大統領が話している。中継は淡々と続いている。わたしはこの街で出会った人々のことを思い出していた。いや、何か得体の知れない巨大なものがわたしの記憶を喚起したと言ったほうがいいかもしれない。ある種の危機に瀕したとき、人間の脳は信じられない働きをするものらしい。大いなる力、と彼女は言っていた。彼女の名前を仮にIとしよう。Iさんはかつてこの街のすぐ傍にあった中国軍管区司令部の防空司令室で都市の終わりを見ていた。
 広島が全滅しましたという第一報を発するときでも、大いなる力──神様って言ったらおかしいかもしれないけど、次から次に考えが浮かんできたんですよ。外に出たら建物が潰れてる。普通の爆弾や焼夷弾だったら火が出ていないとおかしいのに、出ていない。で、もやってる。こういう状態って何?  って思ったの。今まで敵機が来てこういう状態になったことはなかったと思った。じゃあ、広島市内はどうなっているんだ、見てみよう、って。もう、次々に頭に浮かぶんですよ。本当に、自分ひとりの力じゃなくて、大いなる力が次々に命令を出すみたいに。それで、土手に上がったら、瓦礫の街になっていた。あのころはほとんどが民家だったけど、もう、建物がなくて、遙か向こう、宇品のほうに海が見えて。キラキラ、キラキラ、海が光って、大変だ、と思ってね。広島の街が全滅してる、って。街がなくなってると思って。
 この街の外れにある美術館で話を聞いたとき、Iさんは学徒動員されていた一四歳に戻ったような表情でそういうことを言った。だが、どうして今そのことを思い出すのだろうか。“Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies, we are most starkly reminded of humanity's core contradiction”──演説は続いている。カウンター席に座った常連客たちはその映像を物憂げに見つめたり、おかずを口にしたり、焼酎の水割りを飲んだりしている。演説が始まってから新たに店に入ってきた客はいない。外はどうなっているのだろうか。平和公園以外の広島が砂漠になっているのに、どうしてこの店はまだ存在しているのだろう。ひょっとすると最初からこの店は土の中に埋もれていたのかもしれない、そう思ったとき、食器棚に貼られた折り紙のポストカードが目に入って、原爆傷害調査委員会(ABCC)で働いていたというママのお姉さんのことを思い出した。仮にRさんとしよう。Rさんとはちょうどこの店の中で話した。
 当時のABCCというのは、広島の人からはいい風には捉えられてないよね。でもね、わたしはそこへ入所してからは本当に、親切丁寧にしてもらった。そりゃあ、広島市民の人は敵みたいに言いよったけど、全然、そんなことはないよ。初めはね、わたしが看護婦になると言ったら、おじいさんが「汚いことをする看護婦になるんなら、我は勘当じゃ」と言われたから、親戚の家からABCCに通いよったんよ。でも、やっぱり孫だから、結局は下宿させてくれてね。それから結婚して、娘をひとり産んで、離婚したんじゃけぇ。親子で苦労をしたわけよ。そのときは民間のアパートだったけど、わたしが夜勤に行くでしょう。夜勤のときは配車制度があって、家まで車で迎えに来てくれるんよね。じゃけど、娘がわたしの出勤を泣いて見送ることもあってね。運転手さんが「わしゃあ、あんた方へ迎えに来るのが一番辛いよ」と言いよっちゃったね。家庭持ちじゃろうがなんじゃろうが、関係なくローテーションはあるわけじゃから。仕事がきついとは思わんかったよ。ただ、子供が待っとると思うてね。いつもそう思うて。この街に来たのはそのころじゃったね。娘が六歳のときよ。
 Rさんの上品で穏やかな声が蘇る。記憶は、わたしの意思とは無関係に、ほとんど強制的に再生されている。だが、それに支配されているわけではない。記憶を再生している間もビールを飲むことができるし、常連客とママとの間で交わされる冗談を聞き、必要に応じて応答することもできる。何というか、この店の全体をプロジェクターの映像が照らしているようなイメージだ。“Hiroshima teaches this truth”──前後にたっぷりと間を取って現職のアメリカ合衆国大統領が言った。わたしはそれを見ているが、その間にも在日コリアン二世の女性の生き生きとした表情が店内に照らされる。仮にOさんとしよう。
 土手は今、綺麗になっとるけど、昔はもうガタガタ。石ころだらけでね。今みたいに綺麗な芝生なんかないけぇね。とにかくバラックが密集しとった。板べ一枚だから、寒い寒い。道は入り組んどるし、わかりにくいけど、でも、住んどったらわかるんよ。人はみな明るかった。��離が近いから、隣同士で声をかければね、お互いのことが全部わかるから。喧嘩してもみな聞こえるじゃない。だから、日本の人も、朝鮮の人も、みな仲がよかったよ。わたしは五、六年、そこに住んどったんじゃけど、わたしが覚えとるだけでも三回の火事があって、それは怖かったね。竜巻のような火柱がゴウゴウいうて追ってきて、すぐ隣に火が移って。まぁ怖かった。昼が多かったんじゃけど、近所で「火事よ、火事よ」いうて声が聞こえてね。出てみたら煙が出てるじゃない。あたふた、あたふた、してね。でも、避難しなきゃいけないから、末っ子を背中におんぶして、どこまで火が来てるのか見に行った。もう、何十軒がいっぺんに焼けるのよね。バラックで、板だからね。高層アパートはあのとき、まだ建ってなかったかな。工事を始めるころなんじゃろうね。何年かしたら立ち退きがあったから。
 Oさんの抑揚のある声が蘇って、わたしは街が走馬燈を見せているのではないかと思い始めた。これまでに再生された記憶は、この街の住民が何かを決定的に失った瞬間に関するものだったからだ。だが、街の走馬燈を見るというか、受信するということがあるのだろうか。ママはわたしに三杯目のビールを注いでいる。わたしが礼を言うと、Sさんはここへ通うようになって何年になるかね、とママがわたしに聞いた。三年ですね、と答えると、もうそんなになるかね、とママは感慨深そうに頷いてみせた。この店に初めて来てから、つまりこの街に初めて来てから三年が経とうとしている。最初にこの店に来たとき、ママはわたしの現住所と両親の職業をぴたりと当ててみせた。そのときの穏やかな笑顔は、ここにいてもいいんだよ、と言っているように思えた。  三年前、わたしはすべてに対して無気力になっていて、都市の中心にありながらほとんど顧みられることのなかったこの場所に逃げ込んだのだった。“We listen to a silent cry”──と液晶テレビから聞こえている。この街が人々の意識から消えたのはいつのことだったのだろうか?  広島城の掘の近く、ちょうどこの街が遠目に見える場所に《基町地区再開発事業完成記念碑》というものがある。この街が原爆で何もかも失ったあと、公的住宅と違法に建てられた簡素な住宅で埋め尽くされ、さらにそれらが取り壊されて中層アパートと高層アパートに建て替わったときに設置されたものだ。三年前にこの記念碑を見たとき、奇妙な感じがした。新しい街の始まりなのにどういうわけか墓石のように見えたからだ。まだ生き続けているのに勝手にピリオドが打たれ、終わったことにされている。わたしはこの街がどこか自分と似ていると思った。それから街の人の話を聞き始めた。  さっきから再生されているのはこの三年間で聞いた話の断片だ。わたしがその話を聞いた時間そのものは既に失われている。だから、わたしは別の時間と場所でそのときの話を反芻しているのかもしれない。よかったら食べんさい、とママがわたしの前に皿を出す。ふっくらとしたオムレツと、プチトマトが添えられた千切りのキャベツだった。いただきます、と言ってそれを食べ始めると、Sさんは真面目なからね、とママが呟いた。“Mere words cannot give voice to such suffering"──現職のアメリカ合衆国大統領は同じ調子で演説を続けている。単調だというわけではない。テレビから聞こえる演説にはスロー再生をしたヒップポップのような特有のリズムがあり、世界の終わりを告げているような緊迫感もあって、常連客の誰もテレビのチャンネルを変えることがない。案外長いこと喋るんじゃのう、と常連客のひとりが愚痴とも畏怖ともつかない口調で言ったとき、店内を満たしていた秩序のようなものが少し乱れて、例の声が奇妙な形で聞こえてきた。
 ぼくは本当は、本当言やぁ、日本におりたくない、ここに中国のドクターが、中国帰りたい、入ってくるのが、日本人嫌いとか、ええんじゃないかと、日本の国嫌いじゃなくて、ぼくは思う、
 声が混線している。聞こえているのはおそらく二つの声で、岳父が中国残留孤児だという男性の声と、この街で四〇年間にわたって診療所の医師として働いてきたという男性の声がそれぞれ分節され、交互に聞こえている。前者をHさん、後者をIさんとしよう。Iという記号は二回目だから、二人目のIさんだ。わたしはまずHさんの声に集中して記憶を分離しようと試みた。Hさんと二人目のIさんの声はどこか似ていたが、Hさんのほうが少しトーンが高く、中国語の訛りがあって、分離するのは難しいことではなかった。
 ぼくの生まれは河北省。北京のちょっと南。十代からはずっと北京にいたよ。四〇年間、中国にいたね。二〇年前に日本に来た。ぼくは残留孤児じゃなくて、妻のお父さんが残留孤児。日本に来て、最初は大阪の日本語学校、あとは専門学校に行った。それから東京で中華料理の店をやったんです。浅草だったけど、バブルが終わったあとで、よくなくて、辞めて、広島に来た。今はアルバイトやってる。機械の検査の仕事。なかなか仕事、つかない。しょうがない。ぼくは本当はね、日本におりたくない。中国帰りたい。日本人嫌いとか、日本の国嫌いじゃなくて、ここで生活しにくい。馴染めない。日常生活のトラブル、あるんですよ。日本人はみんな口を開いたら「中国人!  中国人!  帰れ!  帰れ!」って。なかなかね、この街は難しい。でも、息子が成人したけど、日本で育てたから、自分の国、帰ってから、すごい差別されるから、わたしは怖い。でも、国は別に、国境なくて、同じ人間だから。地球の中に生活してるからね。
 “We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil”──Hさんの記憶が再生されたあと、そこに割り込むようにして液晶テレビから演説が聞こえてきた。その一節は少し強い調子で読まれたために意識の中に嵌入したのかもしれない。その一節が終わると、間髪を置かずにこの街で診療所を営む二人目のIさんの記憶が再生された。
 昭和五一(一九七六)年に開業したころは、小学校に七八〇人とか、それくらいおったからね。子供もたくさん来たよ。すごい風疹が流行って、一日に二〇人も三〇人も風疹の患者が来たりした。それで、当時の老人っていうのは半分くらいが被爆者だったからね。いろんな種類の患者を診たよ。病院に入院したくないという老人も多くて、そういう人たちを看取りに行くこともあった。一番ひどかったのは、正月の一日、二日、三日と毎日人が亡くなったことがあったね。でも今は、そういうふうになる前に病院に入るよね。本人が最後までここにおりたいと言うても、子供たちが「それはいけん」って、入院させる人もおってだから。まぁ、それが時代の流れでしょうからね。今は患者は少ないよ。日本人の子供がおらんし、年寄りばかりになった。ここは原爆の街から外国人の街になる可能性が高いと思うよ。本当言やぁ、ここに中国のドクターが入ってくるのがええんじゃないかとぼくは思う。内科はもう一人、日本人がおるんじゃけぇ。ぼくのほうが七歳くらい年上で、早く辞めるから。だから、ここは中国の人が入ってきたほうがええような気がするけどね。
 二人目のIさんの渋くしゃがれた声を聞きながら、わたしは走馬燈のようなものが終わりに近づいているのではないかと思った。再生される記憶は、この街の住民が何かを決定的に失った瞬間に関わっている。だが、その瞬間が、七一年前のあの日から、次第に現在に近づいてきている。考えてみると当たり前のことだが、再生される記憶が現在と重なったとき、走馬燈は終わる。その時点で死を迎えるからだ。つまり、街の走馬燈が終わるということは街そのものが失われるということだ。普段は笑い声の絶えないこの喫茶Hが少し沈んでいるのも、ママや常連客たちがそのことを予期しているからかもしれない。中継の映像では、あいかわらず平和記念公園以外の広島がすべて砂漠になっている。わたしはオムレツを口に運んで、おいしい、とママに伝えた。還暦を過ぎたママは、本当?  と初めて彼氏に料理をつくった女の子のように喜んだ。オムレツは本当においしかった。何というか、この街の味がするのだ。数十年間にわたる常連客の反応が層となって織り込まれている感じがした。卵やじゃがいもや挽肉は化学反応を起こしたように渾然一体となって口の中で溶けていく。それを味わっていると、一瞬、再生され続ける記憶のことを忘れた。  この商店街の清掃員のことを思い出したのはそのときだった。どういうわけか、それまでとは記憶の再生のされ方が違った。何かに強いられるのではなく、自発的に再生することができた。カチッと音がしてどこかのスイッチが入ったようだった。まるでそのことを知らせるように、ほとんど同時に、カウンターの隅にあるダイヤル式の電話がジリリリ、と鳴った。ママがピンク色の受話器を取り、はい、はい、今からですか、大丈夫ですよ、どうぞいらしてください、と応答する。“Those who died ─ they are like us”──現職のアメリカ合衆国大統領が自信に満ちた顔で言う。そこにオーバーラップするように、画集出しても誰も見向きもせんわけよ、という清掃員の声が聞こえる。清掃員は、画家でもあった。掃除をしながら自分の生きる半径一キロメートルをまるで引っ掻くように絵にする画家で、清掃員画家と呼ばれていた。彼の名前を仮にMとしよう。Mさんの底抜けに明るい声が聞こえる。
 画集出しても誰も見向きもせんわけよ。じゃけぇ、タダで配っとった。いちおう何百万の銭、かかっとるんよ。メディアにも送ったんじゃけど、礼状のひとつもない。ほんまに、ドブに銭を捨てたんかと思うた。ドブに捨てたら「ぽちゃん」と音でもする。でも、何の反応もないわけじゃけぇ。ただ、わしは、それでもたったひとり、こんな画集出した奴がおるんじゃというて声を上げてくれたら、出した意味があると思うとった。たったひとり、気持ちを鷲づかみにする奴がおったらええと。そういうことなんだよね。ラブレターを書くようなもんよ。どこか、届かぬ人に向けてね。広い世界に、わしと似たような心情の人がおって、おもろいな、ええなぁ、言うてくれたらもう、それだけでいい。たったひとりの人間に、お前好きだよって、こんなにお前のことを好きだよって、レターを送れるかどうか、そういう世界を持ってるかどうかが、芸術じゃないの?  あ、ちょっと、いいこと言い過ぎた?
 Mさんがおどけてみせる。その話をわたしは何度となく聞いた。Mさんはまるでこの街の部品のひとつだというように、毎朝同じ時間に現れて掃除を始めた。わたしはそのこぢんまりとした背中を見つけるのが好きだった。今日も街が目覚め、昨日と同じように、ほとんど見分けがつかない微細な変化を含みながら動き始めたのだと、確認できるからだ。記憶の再生は続いている。記憶の中で、Mさんはいつもと少し違うことを言った。いや、同じなのだが、何かが充填されたというように、力強い言葉だった。
 いやマジでね、たったひとりに届けられる世界を持っているかどうか。世界なんだよ、それはね。個人から個人にやったように見えても、それは世界なんだよ。便所の掃除道具を掻きやがって、とぐぐっときた奴がいたら、そいつにとってはもう、ぼくが世界になる。
 木製の扉が開いて団体客が入ってきた。開かれた扉の向こうに眩い光が見える。いらっしゃい、とママが声を上げて、常連客のグラスに入った氷が音を立てて溶ける。走馬燈ではない、とわたしは思った。“The world was forever changed here. But today”──演説はおそらく終わりに近づいている。それを遮るようにこの街が強い信号を発している。だが、それは街が失われるということではない。わたしはその信号を抱き寄せるようにして受信する。被爆から三日目じゃったかね、とその声は言った。この街に来て四〇年が経つという女性の声だった。仮にAさんとしよう。
 被爆から三日目じゃったかね。お父さんが、市内に連れて行ってあげようと言うから、行ってみたんですよ。もう原爆で、家は全然ない。家が、ないなった。何もかもなくなったの。で、お米屋さんがあったんです。あそこに大きなお米屋さんがあるね、と言うて、ひょっとこう、見たら、死体の山。米じゃない、死体の山よ。兵隊さんだったのかよくわからないけど、もう、誰が誰やわからんのよ。顔もぐじゃぐじゃになっとるけぇ、わからんのよ。それがものすごい山になって、家の高さくらい積んであったね。ああいうことくらい、覚えているけどね。戦後、少ししてから、原爆の話をしてくれという学生さんが来たことがありましたよ。でも、わたしは、絶対せんかった。もう何があっても、嫌だったから。言いとうなかったよ、やっぱり。じゃけぇ、原爆の話は抑えとったんじゃけど、今、うちの曾孫がいるんですよ。まだ五歳じゃのに、原爆の劇をやった��しいんです。電話ですけど、おばあちゃん教えて、おばあちゃん教えて、言うけぇ、びっくりしたんですけど、それで、話したんです。
 店を出て、商店街の通路を歩いた。通路に沿って取り付けられた線状の天窓から夕方の穏やかな光が差し込んでくる。帰り際、喫茶Hのママは少し寂しそうな顔をして、また来るときは寄ってくださいね、とわたしに言った。いつものように。わたしはいつものように、また来ますよ、と応えた。喫茶Hの隣の中華料理店から中華鍋とお玉がぶつかる音が聞こえ、その先のラーメン屋から手を打って笑う声が聞こえる。計三本の通路が交わる広場に出ると、袋一杯の食材を自転車に乗せて走る中年男性と杖を突いて歩く高齢の女性がすれ違い、空の車椅子を押して歩く若い男性とロングヘアの若い女性が挨拶をするのが見えた。その傍を、五歳くらいの女の子が斜めに駆けていく。見上げると、頭上を数千のベランダの群れが取り囲んでいた。人の姿はない。だが、耳を澄ませるとまるで真夜中の草原のように無限の声が聞こえてくる。基町アパートの、縦に積み重ねられた人々の生活の蠢きだ。その集積が命をかけたひとつの表現となって街に漂っている。だが、誰も見ようとしなければ、それは永遠に失われる。商店街のスナックから女性の歌声が漏れ聞こえてくる。わたしはふと、Aさんが商店街でよくカラオケをすると言っていたことを思い出した。童謡が好きで、十八番は確か「故郷(ふるさと)」だった。わたしはね、今、残るものは歌しかない、そのまま歌で倒れてもええというくらいにね、Aさんはそう言っていた。わたしはその微かな音の出所を探るように商店街を歩き始めた。
(初出:『現代思想』2016年8月号、青土社)
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shunsukessk · 4 years
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XS,XS,XS,XL
 都市(XL)が惨敗を続けている。無数の人々が密集し結合することで、都市は数々の英知を生み出してきたが、回路は古くなり、分断され、衰退の一途を辿っている。大規模な修繕が必要だが、都市はあまりにも巨大で複雑な構造体と化していて、誰もその全体像を把握することができていない。せいぜい高度数百キロメートルから捉えた衛星写真を眺めて地上のカオスに思いを馳せるくらいだ。それはそれで楽しいが、問題は棚上げされ、都市は危篤状態に陥り、延命措置を行うのみとなって、わたしたちはどうして密集して住んでいたのかすら思い出せなくなる。  基町という街(L)に出会ったのは三年前の初夏だ。広島の中心に位置するこの街は、いくつかの公営アパート(M)が集まってできていて、広島市の人口の約〇・三六パーセントが暮らしており、何というか、都市の歪みが丸ごと放り込まれたような街だった。衛星写真でこの街を眺めると、まるで都市の中に浮かぶ離島のように見える。ビッグデータの世界にこの街は存在しない。もちろん、かつてここに軍事施設があり、原爆によって壊滅し、公的住宅と違法に建てられた住宅(S)で埋め尽くされたあと、すべてが取り壊されて中・高層アパートに建て替わったということくらいはわかる。だが、そこで何が起こっているのか、具体的なことは何ひとつわからないのだ。  何もかも謎に包まれた街は、たとえばブラックホールが宇宙の謎を解く鍵として物理学者の心を掴んで離さないように、魅力的だ。わたしはその街に行き、住民をはじめとした街に関わる個人と会い、個別の物語(XS)を聞いてまわった。都市を構成する最小単位にまで遡行すると、不思議なことに都市それ自体の輪郭が少しずつ見え始めた。個別の物語が積層されていくたびに、まるでモノクロがカラーになり、さらにハイビジョンになるように、都市の解像度が上がるのだ。もちろん、それで都市の全体像が見えるようになるわけではない。だが、やがてその連なりは、都市に似た架空の何かをつくりはじめる。わたしの細胞にまとわりつき、時に優しく語りかけ、時に厳しく叱咤する物語の塊。それは都市のいわば再帰であり、密集して生きるわたしたちの精神を問うものなのだ。
(初出:『現代思想』2016年9月号、青土社)
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shunsukessk · 5 years
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shunsukessk · 5 years
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[EXHIBITION] Timelinescape—広島・横川高架下、最後で最初の風景展—/解体を待ちながら
Timelinescape—広島・横川高架下、最後で最初の風景展—
Timelinescapeは失われつつある街を記録するプロジェクトであり、浅野堅一(写真家)、坂本淳(写真家)、佐々木俊輔(作家)、福岡奈織(作家)の4名が参加、図録およびフライヤーをYellowYellow(デザイナー)が担当した。
参加作家は、耐震補強の名目で解体・リニューアルされる広島・横川高架下をおよそ1年間にわたって記録した。それらの作品は、2017年5月から翌年5月の間、Creative lab node Yokogawa(横川商店街ビルB棟内)などで継続的に発表された。
「広島・横川高架下、最後で最初の風景展」というサブタイトルが付された展覧会は、その集大成であり、2019年3月30日から4月28日の間、立ち退きを間近に控えた山中酒店特設ギャラリー(旧ヤマナカ薬局)において開催された。
作品群は、解体とリニューアルの現場で、都市の連続性についての問いを提示した。横川高架下の店舗は2019年5月末をもって全面的に立ち退きとなり、56年の歴史にいったん幕を下ろす。他方、同年6月1日には高架下の新店舗が部分開業し、次の時代へ移行する。
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解体を待ちながら
福岡奈織との共同制作である。16編の物語からなる連作であり、オリジナルのテキストは、高架下とほぼ同じ時を経た五十数年ものの古紙に印刷された。
「最後で最初の風景展」では、山中酒店に残されていた古い木箱の中にオリジナルのテキストを眠らせ、その周囲にL版にプリントした縮小版を並べた。それぞれに付されたQRコードを読み取ると、朗読またはテキストにアクセスすることができ、それらをブックマークして持ち帰ることもできる。
高架下にかつて存在した物語は、古い箱の中に封印されようとしているが、消滅するわけではない。たとえばウェブ上にそれらを逃がすことで、物語に常にアクセスすることが可能になる。それは現実世界と並走しながら、ありえたかもしれない街の形について問い続ける。
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漂流線
「解体を待ちながら」を元にしたフィクション編である。「解体を待ちながら」では、横川���架下のある1日にスポットを当て、その中に高架下の誕生から現在までの約50年を凝縮させる手法を採った。次に、「漂流線」では設定を現在からさらに約50年後の2070年とし、ある1日の描写の中に計1世紀の時間を忍び込ませた。1日と1世紀という単位を同時に扱うことで、個人と都市のスケールを同時に思考する枠組みを構築することを目指した。
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図録「Timelinescape—横川高架下編—」
編集を担当した。デザインはYellowYellowによる。表紙は横川高架下に並ぶ店舗の看板やロゴをモチーフとし、その周囲を希望の色である黄が包み込んでいる。また、全ページにわたって黄色の線が走っており、文章と写真によるドキュメントが黄を軸にまとめられている。
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Timelinescape—広島・横川高架下、最後で最初の風景展—
山中酒店特設ギャラリー[旧ヤマナカ薬局] 広島県広島市西区横川町3丁目1-33 2019年3月30日(土)-4月28日(日)
浅野堅一(写真家) 坂本淳(写真家) 佐々木俊輔(作家) 福岡奈織(作家)
*図録+フライヤーデザイン YellowYellow(デザイナー)
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shunsukessk · 5 years
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解体と胎動
2018年11月24日。およそ半年ぶりに訪れた横川高架下商店街は、西側の半分が工事用の白い鋼板で囲われていて、街のある部分が静止しているように見えた。150メートルにおよぶ白亜の高架下は、文字どおりの空白地帯になっている。かつての街の痕跡はないだろうかと隙間を覗いてみたが、何もなかった。いや、実際のところ、黒々としたコンクリートの壁は見えた。だが、それは剥き出しになった高架の構造体にすぎない。そこに納まっていた店と物語は既に解体され、何も見えなくなっていた。ひとつだけ確認できたのは、柱だ。灰色の鋼板が巻かれて強化されるに至った高架の柱。この街は、第一義的にはこの柱の強化のために解体されたのだった。来るべき「揺れ」に備えて。
快晴の土曜日だったが、不思議な天気だった。日陰は身震いするほど寒いのだが、日向に出ると体の芯にまで暖かさが届く。日陰から日向に出てみると、高架に沿って虹のようなものが見えた。東側の商店街から張り出した店名入りのテントが連なっているのだった。かつてはその虹が、既に解体された西側にも伸び、JR横川駅の北口まで続いていた。今ではそれは半分になっている。真っ白になった西側から色のある東側に足を踏み入れたとき、時空の穴を抜けて過去に戻ったような感覚に襲われた。見覚えのある線状の街。一瞬にしていくつもの物語が喚起された。だが、実際のところ、来年5月末に立ち退きの期限を迎えるこの商店街は少しずつ変化しているようだ。
たとえば、ブルーのテントが印象的な男子専科Kでは閉店セールが開催されていた。年内で閉店するつもりらしい。また、その7軒先に、西側の角にあった焼肉の名店・アポロが移転してきている。新店舗が完成するまでの一時的な移転らしく、店名はかつてそこにあった「もり蔵」に上書きされている。さらにその2軒先、焼きめしで有名なグリルみきは営業を終了し、シャッターには猫をモチーフにしたグラフィティが描かれている。さらに3軒先の山中酒店はいつものように営業しているが、部分的に棚が整理されつつあった。来春まで店内を整理をしながら営業を続け、西側にできる新店舗に移転する予定だという。
午後0時59分になり、可部線広島行き786Mが頭上を右から左へと駆け抜けていく。見上げると、「博多ラーメンどんたく」の看板が小刻みに揺れていた。既に存在しない店の看板。だから、そこに刻まれた文字とは裏腹に、この看板が意味するのは「ここに博多ラーメンはありません」だ。消えかかった紅緋色のそれは、まるで街の遺構のように、数十年もの間、電車が通過するたびに揺れ続けてきた。半年前と較べると、ほとんど変化がないように見えるが、表面のひび割れが増えたような気もする。
この街では14カ月間、断続的に取材をして、原稿を書いた。そこで言いたかったことはただひとつで、「街は一瞬にして変わるわけではない」ということだ。街ではさまざまな線が並行して走り、ときに複雑に絡み合いながら、少しずつ変化していく。ところが、「リニューアル」という言葉をその上に被せたとたん、すべてのディテールは雲散霧消してしまう。過去は切断され、一瞬にして新しい何かが生まれるように錯覚する。結果、街のディテールが空白の中に捨てられる。遥か上空から街を眺める限り、つまり「リニューアル」というような言葉のレベルで考える限り、これからも無数のディテールが捨てられていくだろう。捨てないようにするためには、個別の物語の集積によって街を編み直すしかない。
午後1時33分に可部線あき亀山行き791Mが高架下商店街の上を通過したとき、わたしはグリルみきの店内にいて、その音は聞こえなかった。高架下の東側にあったグリルみきは、およそ2カ月前に楠木町の一角に移転していた。かつての店から北東に8分ほど歩いていくと、馴染みのある木製の看板が目に入った。「やあ、いらっしゃい」と店主の三木一誠さんが言って、「店、狭くなったでしょう」と千絵夫人は笑っていた。家賃は上がったようだが、メニューの価格は据え置かれていた。わたしはもちろん、いつものように680円の焼きめしを注文した。
三木さんが中華鍋を振り始めたとき、もうセッションは聞けないんだな、とわたしは思った。高架下の店では、電車の通過音と中華鍋とお玉杓子がまるでバンドのように音を奏でていた。だが、しばらくして、ソロの演奏もまた格別だ、と思い直した。その中にもまた何層もの音が連なっていると気づいたからだ。焼きめしが皿に盛りつけられると、わたしはその重層的な香りを堪能した。先代から受け継がれた醤油だれに、チャーシューと海老と香味野菜の宴。その味を求める客は途切れることがない。三木さんは、嬉しそうだった。高架下特有のリズムの中でその焼きめしは生まれ、いわば生き続けてきた。それは確かだ。だが、新天地でもその味は際立っている。
横川駅に戻るとき、白亜の高架下の隙間をふたたび覗いた。すると、ある部分に鉄筋が組まれ、さらにコンクリートが流し込まれているのが見えた。剥き出しの構造体の上に、新しい床がつくられつつあるのだ。その上で新しい街が動き始めるのは、新店舗が竣工する日、ではない。胎動は既に始まっているし、とうの昔に始まっていたのだ。
(2018年11月26日)
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shunsukessk · 6 years
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