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monqu1y · 1 year
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twitterから締め出されて、高市議員擁護の発信が困難になりました
https://ncode.syosetu.com/n7073hu/30/
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monqu1y · 3 years
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紛い者 胡散臭 ( うさんくさ ) い 紛 ( まが ) い者の 紛 ( まぎ ) れ込みをずっと防げずに来たのかも…  市営住宅集会所のコミュニティカフェに行った。 A:愛知県知事リコール運動の署名偽造事件で、リコール活動団体の田中孝博事務局長が、署名の収集を依頼していたことを認めたらしい。
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B:田中事務局長は、[日本維新の会]衆議院愛知県第5選挙区支部長だったんですね。 C: 態々 ( わざわざ ) 、偽造署名作りながら、リコール成立させないのは、不自然すぎる。 D:本当の署名を破棄しリコールを不成立にしたうえで、偽造署名作って高須医院長に汚名着せたとすれば、 辻褄 ( つじつま ) が合うような気がする。 私:黒幕、誰なんでしょうね?そのうち、分かるんでしょうか? A:[日本維新の会]は、脇が甘い。 胡散臭 ( うさんくさ ) い 紛 ( まが ) い者の 紛 ( まぎ ) れ込みをずっと防げずに来たのかも… B:2008年2月、テレビタレントの橋下徹弁護士が、[統治機構改革]を掲げて2百万票弱を得票し、大阪府知事に就任したのが、 発端 ( ほったん ) だったんですよね。 C:2009年3月、西野弘一府議の「大阪都構想」に、橋下知事が理解を示したんだ。 D:2009年10月、大阪府庁職員の竹山修身候補が橋下知事の応援を受けて当選し、堺市長に就任した。 私:就任後、竹山市長は、自分を当選させるよう尽力してくれた恩人に 謀反 ( むほん ) を起こし、「大阪都構想」に反対するようになったということでしょうか? A:2010年4月、橋下知事は、自民党を離党した府議や市議と共に[大阪維新の会]を結成した。 B:「維新」はブームを呼び、[大阪維新の会]とは無関係な「○○維新の会」の候補者が地方選挙で多数当選した。橋下徹氏は「非常に困惑しているが、やめろという権利もない」と選挙民の誤解を容認するような発言をした。その結果、[西宮維新の会]を掲げる野々村竜太郎候補が兵庫県議会議員に当選したが、この男は、後に政務調査費を詐取し号泣会見で「維新」のイメージを損なった。
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C:2012年9月、国政政党「日本維新の会」が結党された。11月には、石原慎太郎氏や平沼赳夫氏らが合流した。石原慎太郎氏が政党代表に、平沼赳夫氏が国会議員団代表に就任した。 D:2012年12月、高橋美穂衆院議員が札幌アイヌ協会の総会に出席し、「民族主義的な悪い風潮がのさばっている」旨、発言した。 私:2013年2月、民主党からの乗り換えで[大阪維新の会]の公認を受けた中野隆司候補が当選し、柏原市長に就任したんですけど、この人も、後に、問題起こしたんですよ。民主党からの乗り換え組、悪い人が多いのに、何故[維新]が公認するのか、理解できませんね。 A:2013年9月、橋下知事の応援を受けて当選しながら裏切った竹山市長が再選された。 B:2013年11月、アントニオ猪木参院議員が国会の許可を得ずに北朝鮮を訪問したんですけど、「日本維新の会」国会議員団の副幹事長職という自覚が無かったらしいです。 C:2013年12月、東国原英夫参院議員が離反した。 D:2014年7月、江田憲司氏らの合流に難色を示した石原慎太郎氏らと橋下徹氏らの確執から、「日本維新の会」は解散した。 私:翌月、石原慎太郎氏らが排除されて「日本維新の会」が再結党されたのは、江田憲司氏らを合流させるためだったのでしょうか? A:2014年9月、「日本維新の会」は、党名を「維新の党」に変更した。 B:2015年4月、「維新の党」は、居酒屋、ショーパブ等を飲み歩いた翌日の本会議を欠席した上西小百合衆院議員を除名しましたね。 C:2015年5月、[大阪都構想]は、住民投票で否決された。橋下徹氏が「維新の党」代表の座を降り、江田憲司氏に後を託そうとしたが、江田氏は引き受けず、松野頼久氏を推した。 D:2015年8月、柿沢未途幹事長は、左翼系の市長選候補者を応援するため、独断で山形市に行った。柿沢氏の独断専行を批判する橋下氏らと柿沢氏を擁護する江田氏らは対立し、「維新の党」が分裂した。橋下氏らが追い出され、江田氏らが軒を借りて母屋を乗っ取る様相を呈し、党名や政治資金を巡る泥仕合は訴訟合戦まで引き起こすこととなった。 私:「中野隆司氏は柏原市長になって不祥事を起こした」と前に言いましたけど、2015年9月、柏原市議会に於いて、中野市長の不倫騒動に関して、問責決議案が全会一致で可決されたんです。中野市長は、[大阪維新の会]顧問を辞任しました。 A:2015年12月、山本大府議が泥酔してタクシー車内で暴れて摂津警察署に保護された。 B:2015年12月、橋下氏らと江田氏らはお互いの訴訟を取り下げて和解し、それぞれの道を行くこととなりました。政権与党から転落した後[民主党]の勢いは衰える一方でしたけど、江田氏らは、乗っ取った「維新の党」を、その[民主党]に身売りしたんです。橋下氏らは「おおさか維新の会」を結成し、2016年8月、「日本維新の会」に党名変更しました。 C:2019年9月、不破忠幸大阪市議が買収で有罪判決を受けた。 D:2020年1月、「日本維新の会」は、カジノ参入に絡む収賄疑惑が晴れなかったので、下地幹郎衆院議員を除名した。 私:2020年6月、「日本維新の会」は、都知事選に於ける小野泰輔候補の推薦を決めました。「東京維新の会」所属の柳ヶ瀬裕文参院議員と音喜多駿参院議員の二人が高校の同級生だった小野泰輔候補を、松井一郎代表や馬場伸幸幹事長に紹介して、推薦するよう熱心に依頼したという記事を見ました。 A:小沢自由党 藤島正之衆院議員の公設秘書を勤め、チェゲバラを崇拝する新左翼的価値観を持ち続けている小野泰輔氏の推薦を決めた両幹部の意図が分からない。 B:MartinFackler氏のツィート「信じ難い。ワシントンが燃えている。これはハリウッド映画じゃない。そして、大統領はホワイトハウスの中に隠れ、国民に未だに演説していない。アメリカは国民を落ち着かせるリーダーが居ない。これは果たしてメイク・アメリカ・グレート・アゲインなのか?」をリツィートする小野泰輔氏の[反トランプ]思想は、「日本維新の会」の方向性と矛盾しないのでしょうか?
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C:遊説第一声を新宿歌舞伎町で上げ、「性風俗業を差別しないで!」と持続化給付金の支給について陳情するツィートに「いいね!」する音喜多駿参院議員と歩調を合わせる小野泰輔候補の選挙活動も、「日本維新の会」の方向性と矛盾しないのだろうか? D:「東京維新の会」の政策は、「日本維新の会」よりも「立憲民主党」に近いように思える。 私:江田憲司氏や松野頼久氏との泥仕合を彷彿とさせますね。
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monqu1y · 3 years
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敗戦革命 01 日清戦争 02 ソ連の産みの親 03 近衛人脈 04 第一次世界大戦 05 日ソ国交回復 06 張作霖爆殺 07 敗戦革命テーゼ 08 砕氷船テーゼ 09 第一次近衛内閣 10 NHK総裁 11 ソ連軍侵攻 12 自虐史観の意味 13 戦後の事件簿 14 大戦のもたらしたもの 15 権力の移り変わり 16 ツキジデスの罠
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monqu1y · 3 years
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ツキジデスの罠 米中激突を 止 ( とど ) める方法は  講演会の続編が開催された。  演題は[ツキジデスの罠]。講演内容の要旨は、次のとおり。  2017年11月、グレアム・アリソン著[米中戦争前夜]が刊行された。  著者は説く。  「新興国が経済的・軍事的に台頭するとき、それに脅威を感じる覇権国との戦争を避けることは難しい。今から約2450年前、アテネの同盟国が様々な思惑からスパルタに奔り迷走して紛争を起こしたとき、アテネ将軍ニキアスもスパルタ王プレイストアナクスも、戦争で得るもの少なく失うものが多いことを知っていたので、戦争回避の努力をしたが、両国とも、同盟国救済を叫ぶ国内世論を静めることができず、戦争になった。これを[ツキジデスの罠]という」  16世紀から20世紀前半までの 新興国・覇権国 対立13例を顧みると、戦争を回避できたのは、イギリスが覇権国の座を 諦 ( あきら ) めた1例のみ。
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 中共は、発足時から指導理念を変遷させてきた[労働者階級闘争→大躍進→文化大革命→改革開放→三個代表〔共産思想放棄⇒中華思想回帰〕→科学的発展→軍民融合]。
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 中国内では、総ての組織が中共の支配下に組み込まれる。それを拒否した 法輪功 は、厳しく弾圧されてきた。  [軍民融合]とは、民間の経済活動も、中共の支配下に組み込む意図を示した戦略である。  中国の電子取引は、2019年、総額35兆元になり、同年末、ユーザーが9億人を超えた。小売店でも、デパートやタクシーでも、スマホを使った支払いが普及し、現金を持ち歩く必要がなくなった。春節のお年玉もスマホで子供たちに贈られている。中心的役割を果たしてきた中国電子取引最大手「阿里巴巴集団」が中共政権の人民支配具に組み込まれることを承服しなければ、創業者 馬雲氏は、法輪功創始者 李洪志氏の轍を踏むことになるだろう。  経済的・軍事的に台頭してきた中共が、[中華思想に基づく華夷秩序回復]を思いとどまる要素は無い。
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 一方、[隷従支配体制を敷く中共]への覇権譲り渡しに承服するアメリカ国民も居ないだろう。  両雄の激突を 止 ( とど ) める方法については、中共の指導理念を替えさせることくらいしか思いつかない。
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monqu1y · 3 years
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権力の移り変わり  講演会の続編が開催された。  演題は[権力の移り変わり]。講演内容の要旨は、次のとおり。  1956年12月、朝鮮労働党全員会議で、金日成が千里馬運動(経済発展計画)を提唱した。  1957年、中国では、日本の景気変動による不況を見てソ連型計画経済の有効性を確信した毛沢東が、大躍進政策を推し進めた。農工業生産指標のみで短期間に英米を追い越すようなノルマを人民に課し、ずさんな管理をしたので、粗悪品の山が作られた。農作物食い荒らす雀の大量捕獲作戦は、蝗害を招き、食糧危機で餓死者を続出させた。  1959年4月、国家主席に劉少奇が就任したが、中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位を毛沢東は手離さなかった。  1959年7月、大躍進政策の問題点を指摘して政策転換を求めた彭徳懐が、国防部長と中央軍事委員会委員を解任された。  1960年3月、韓国で選挙の都度、不正を重ねて再選し続けた李承晩を批判する大規模デモが、知識層の呼びかけで続発した。李承晩は、軍部にも見放されてハワイへの亡命を余儀なくされた。  1960年、グレートブリテン共産党が ‘Out of apathy’ を発刊した。[新左翼運動]は、「ベトナム戦争反対」の声を世界中に溢れさせるために、次のようなことをした。 ◦ゴ・ジン・ジェム政権とアメリカ軍を一方的に非難した。 ◦「南ベトナム解放民族戦線」と名乗る反政府運動は、本当は、北ベトナム軍の軍人たちが攻撃を仕掛けているのだということを隠した。 ◦フランシーヌ・ルコントという女の人が焼身自殺した事件を脚色して反戦運動に結びつけた。
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◦北ベトナム軍の主力が「解放を目指す民衆」であるかのようなウソの 情報宣伝 ( プロパガンダ ) 映画を作成上映した。 ◦革命歌「インターナショナル」を流行させた。
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 これらが、全部、北ベトナム革命勢力を有利にする為のプロパガンダだったことは、ベトナム共和国(南ベトナム)が滅びた後、徐々に、明らかになっていった。  1962年1月、中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。席上、毛沢東が、大躍進の失敗を振りかえり、自ら党の第一線を退く意見を述べたが、それが毛沢東の本心だと思う者は居なかった。誰もが諌める勇気を持てないとき、総書記の鄧小平が、飢餓救済の為には劉少奇を国家主席にすべきだと述べた。反対意見は出ず、毛沢東は第一線を退くことになった。  1962年4月、日本の映画館で『キューポラのある街』が上映された。
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 「千里馬の如く発展する北朝鮮は地上の楽園]というイメージをもって帰国する人々が描かれた映画を観た在日の人々が北朝鮮に渡った。北朝鮮に渡った人数は、日本人妻を含め、九万人以上と言われている。しかし、帰国者への送金をさせるために未帰国の在日家族を残す運用が行われた。帰国の実務は赤十字社が行った。帰国船は、北朝鮮の船で、朝鮮総連を通じての対日工作やスパイ教育要員拉致、対韓スパイの送り込み等にも利用された。  朝鮮総連は、朝鮮学校の設立と民族教育を推進した。  韓国は、以前、日本海で抑留した漁師らを帰らせる見返りとして在日朝鮮人犯罪者を日本国内で釈放させたように、在日朝鮮人の受け容れを拒否し続けた。「戦勝国」だと主張して日本人以上の権利を主張する民族主義的・共産主義的な在日朝鮮人、長田区役所襲撃や血のメーデー事件など左翼と結託して暴動する者、犯罪を起こす者の対応に、日本政府は苦慮し、「帰国費用を負担するから希望者の帰国を受け容れてほしい」と韓国に要望したが、韓国はこれを無視して、同胞の日本居留継続を図るよう民団に指示した。  1962年9月、中共の毛沢東が、[反党分子]高崗についての記述がある小説『劉志丹』について、「小説を書いて反党反人民に利用する発明」と批判した。小説執筆に協力した習忠勲は、責任を問われて職務を解任された。そのとき、習忠勲の長男 習近平は9歳だった。
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 1965年11月、上海の新聞紙上で、京劇『海瑞罷官』は彭徳懐解任を批判した劇と印象操作する記事が掲載された。  1966年5月、中国共産党中央委員会通知は、『海瑞罷官』擁護者 彭真らを批判し、走資派(中央や地方の代表者)攻撃を指示した。また、北京大学構内に大学委員会指導部を批判する内容の壁新聞が掲示された。翌月、『人民日報』が「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」の除去を主張し、各地に私刑施設(牛棚)が作られた。  鄧小平は、総書記を解任され政治の表舞台から姿を消した。  文化大革命の犠牲者は数千万人と言われている。  ヨーロッパ中世の[魔女狩り]が再現された。
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 1967年、北朝鮮の金日成は、甲山派の朴金喆らを粛清して、独裁体制を完成させた。  1969年3月、中ソ国境付近の珍宝島で軍事衝突が起こった。交戦が半年間続いた後、北ベトナムのホー・チ・ミン国家主席死去に伴う葬儀を 契機 ( きっかけ ) として停戦が話し合われた。このときまでの双方の死傷者は 其々 ( それぞれ ) 百人を超えていた。解決は先延ばしされ、不確定の国境付近で両軍が 睨 ( にら ) みあう状態が続くこととなった。  1969年4月、第9回党大会で、林彪は「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている…実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命だ」と主張し、毛沢東の後継者として認定された。
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 しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案に同意しなかったことで、林は野心を疑われた。  1971年7月、アルバニアなど23ヵ国が「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」案を国連に提出した。10月、アルバニア決議案が反対票の倍を上回る賛成票で可決され、中華民国は国連から追放された。
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 1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判した。林彪は毛沢東暗殺を企てるが失敗し逃亡しようとした飛行機が墜落して死んだ。  中国共産党は、[文化大革命]の輸出入提携先に日本社会党を選んだ、ソ連派の日本共産党を避けて…  1972年2月、毛沢東の人民戦争理論に傾倒し資金や銃器を得るため強盗を繰り返していた若者らが、職務質問で犯罪が発覚しそうになったので逃走し、管理人の妻を人質にしてあさま山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊の人質救出作戦は難航し、死者3名、重軽傷者27名を出した。10日目に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。  犯人逮捕の結果、裏に隠れていた凄惨な事件が明るみに出た。「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートして凄惨な結果になったのだった。幹部の森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を作って実行した。暴行の対象者は日を追うごとに増え、死者を出すに至ったが、森らはこれを「総括できなかったため���敗北死」とし、方針が改められなかったため、死者が続出した。被害者らの死因は殴打による全身打撲や内臓破裂、氷点下の屋外にさらされたための凍死、食事を与えられなかったことによる衰弱死などであるとされる。一部のメンバーは森により「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告された。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺した後に絞殺した。 同志 ( タワリシチ ) に自己批判させ虐殺する行動様式は、毛沢東的権力掌握の 雛形 ( ひながた ) と言えるのかもしれない。
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 1972年2月、あさま山荘の人質救出作戦が難航しているときに、アメリカのニクソン大統領が中共を訪問した。ソ連と敵対する両国が手を結ぶ 為 ( ため ) だった。米中首脳会談実現は、日本の対中姿勢に大きな影響を与えた。  1972年9月、田中角栄首相が中国を訪問した。そして、[日中共同声明]が発表された。  1973年3月、中国の周恩来首相は、日米の技術力導入を切望し、鄧小平を副首相として復活させた。  1973年8月、中国で「批林批孔運動」が始まり、中国思想の善悪が判定された。  善:少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李卓吾、毛沢東  悪:孔子、孟子、司馬光、朱熹  封建的な儒教思想を持つ林彪はマルクス主義の敵とされた。  1974年、オリンピック憲章からアマチュア条項が削除された。古代ギリシアのオリンピックは、当初、肉体だけでなく人格も重視するイベントだったが、後に、勝者を讃えて賞金や身分を与えるようになったことで、アマチュアリズムの精神が失われ、不正や審判員買収が横行するようになった。古代オリンピックは、キリスト教がローマの国教となった4世紀末を最後に、その後、開催されなくなった。歴史は繰り返すのだろうか…  1976年1月、周恩来が癌で病死した。4月、毛沢東から野心のなさを信頼された華国鋒が国務院総理兼党中央委員会第一副主席に任命され、毛に次ぐ序列第2位の地位に抜擢された。  1976年7月、毛沢東を支えていた朱徳が老衰死し、毛沢東も9月に病死した。10月、華国鋒は、文化大革命を主導した江青、張春橋らの四人組を逮捕して党内対立を解決し、文化大革命を事実上終結させた。権力基盤の弱い華国鋒は、11月に毛主席紀念堂を着工して虎の威を借りようとしたが、人心を得ることはできず、やがて実権を鄧小平に奪われ、政治の表舞台から消えていった。  1981年6月、中国共産党中央軍事委員会主席に就任した鄧小平は、[経済建設]と[改革開放]を推し進めた。  重要産品については国家的統一計画、統一価格、統一分配を行い、それ以外は市場のメカニズムに委ねた。人民公社を廃止して、企業に採算を重視させ利益に応じた分配を許した。政治の中央部門は重大プロジェクトや全国的重点企業の管理に集中し、他の管理は地方に任せた。  深セン、珠海、汕頭、厦門を経済特区に指定し、外国企業の誘致に努めた。  1984年7月、ロサンゼルスでオリンピックが開催された。過去数十年間のオリンピック開催都市が莫大な赤字に伴う負債返済に苦しんだことで、ロサンゼルス以外に立候補する都市が無く、公的財源保証の無い任意団体から提出された運営計画をIOCが認めなければ、4世紀末に終わりを迎えた古代オリンピック同様、近代オリンピックも終幕を降ろす運命にあった。任意団体は、既存施設の活用等経費節減に努めるとともに商業的権利の売却で収入増を図った。その結果、宣伝効果を高める勝利至上主義が横行し、クーベルタンの紳士的精神主義は 顧 ( かえり ) みられなくなってしまった。  1987年1月、中国で、資本主義化の行き過ぎを懸念する古参党員らの巻き返しが功を奏し、総書記の胡耀邦が解任され、趙紫陽が後任として選ばれた。  1989年4月、中国共産党元総書記の胡耀邦が心筋梗塞で倒れて死んだ。胡耀邦を追悼する街頭活動が度々行われるようになり、天安門に集まる人数が 膨 ( ふく ) れ上がって首都機能が 麻痺 ( まひ ) するまでになった。趙紫陽総書記の呼びかけも功を奏さず、天安門に集まった人々は解散しなかった。6月、業を煮やした鄧小平は、人民解放軍に群衆の鎮圧を命じた。趙紫陽は総書記を解任された。鎮圧の犠牲者数は数千人と言われている。
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 中国当局の厳しい指導に従わず報道していたCNNの放送局に取締官らが踏み込んで放送を中止させる様子が生中継され、人権 蹂躙 ( じゅうりん ) を目の当たりにした西側先進諸国は、中国に対する経済制裁を行った。  1989年11月、江沢民が、中国共産党中央軍事委員会主席の地位を鄧小平から継承し、翌年4月には国家中央軍事委員会主席にも就任した。民衆の六四天安門アレルギー回避と民主派忌避の両立を企図した人選だったと言われている。  1992年10月、江沢民は、「社会主義市場経済」導入決定を発表した。そして、日本の宮澤喜一首相に働きかけて、天皇,皇后両陛下の訪中を実現させた。日本の抜け駆けで経済的不利益を 被 ( こうむ ) る 虞 ( おそれ ) を感じた西側先進諸国は、徐々に経済制裁を解いていった。  中国共産党中央委員会総書記に就任した江沢民は、上海市中国共産党委員会書記時代の部下(曽慶紅、呉邦国、賈慶林、李長春、賀国強、周永康、薄熙来、王立軍���徐才厚、郭伯雄、令計劃、賈廷安、由喜貴、劉京、黃麗滿、阮崇武、陳良宇、黄菊、張定發、曾培炎、回良玉、唐家璇、陳至立、華建敏、劉志軍、周小川、張文康、孫家正、劉淇、季建業、白克明、周明偉、汪光燾、杜青林、曹建明、孟建柱、張徳江、兪正声、劉雲山、魯煒、張高麗、孫政才、韓正ら)を昇進させて、身の回りを固めた。彼らは[上海幇]と呼ばれ、後に、習近平に依る[腐敗撲滅運動]の標的にされることになる。
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monqu1y · 3 years
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大戦がもたらしたもの  「大戦が 齎 ( もたら ) したもの」と題する講演を聞きに行った。  講演内容の要旨は、次のとおり。  1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争は、近隣諸国を巻き込んで規模を拡大していった。  イギリス・フランスがドイツに宣戦布告する一方、ソ連軍は、火事場泥棒的に、東からポーランドに攻め込んだ。  翌年、ソ連は、フィンランドを攻撃して領土の一部を奪うとともに、バルト三国を併合した。  ドイツは、デンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを制圧した。ドイツは、イギリスを牽制するためイタリアと、ソ連を牽制するため日本と軍事同盟を結んだ。近衛内閣は、軍事同盟に応じ、且つ、翌年、日ソ中立条約を結んで南部仏印に軍を進めたが、これらはスターリン戦略[砕氷船テーゼ]に沿うものだった。
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 1941年6月、独ソ激突が始まった。  半年後、日本は、アジア植民地解放戦争を開始し、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、オランダ領インドネシア、アメリカ領フィリピンを占領した。  それに触発された植民地独立宣言の動きは次の通り。
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 1942年2月、中国共産党の中央党学校開校式で、毛沢東が、学風(学習態度)・党風(党活動)・文風(文書類の表現)の三風を整頓し、党内の主観主義・セクト主義・空言主義を克服すべき旨、述べた。三風整頓運動が起こり、毛沢東 側近の張宗可(康生)は、関係者を拷問して自白を得たうえで、政敵を、スパイ,裏切り者,内通者等に仕立て上げた。拷問は本人だけでなく親族や縁戚にまで及び、拷問に耐えられず、身に覚えのない罪を自白する者も多かった。ソ連人脈の王明,博古,張聞天,王嘉翔,楊尚昆,陳昌浩,杜作祥,沈澤民,張秦秋,王宝礼,王盛荣,王運城,朱自舜,李元杰,汪盛荻,北海道特甫,殷剣,元嘉永,徐義新らは、失脚した。権威主義と官僚主義を率直に批判した王実味は、逮捕され処刑された。  1942年6月頃から、[砕氷船テーゼ]の予言通り、経済力と科学技術力を誇るアメリカを擁する連合国側が優勢に転じた。  1943年5月、ドイツと戦う連合国側に与する必要から、ソ連はコミンテルンを解散した。  1945年3月、日本軍がフランス軍を降してベトナムを独立させた。  1945年5月、イタリアが降伏し、ドイツも降伏した。8月には日本が降伏し、五千万(ソ連2060万,ドイツ950万,日本646万,ポーランド560万,中国318万,アメリカ113万,イギリス98万,フランス75万)人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦は終了した。  しかし、「尊皇討奸」の志を受け継ぎ、資本家階級を倒して国家社会主義を目指す陸軍将校らは、敗戦受容れの詔を録音したレコード盤を血眼になって探し求めた。
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 彼らの狙いは、ソ連軍に依る日本民族解放を待つための時間稼ぎだった。  近衛文麿人脈が占める政権中枢から「ソ連仲介和平」という口実で情報を得ていたソ連軍は、日本降伏に先立って、軍を極東に集結させていた。  アメリカ軍に依る原爆投下を機に日本への攻撃を始めたソ連軍は、武器を持たない無抵抗の日本人を殺しながら、瞬く間に樺太や千島列島を占領した。
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  占守島 ( しゅむしゅとう ) で樋口中将が抗戦を命じなければ、北海道はソ連軍に 蹂躙 ( じゅうりん ) されていたのだ。
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 ソ連軍は、朝鮮半島も占領したが、アメリカ軍が上陸してくると、米ソ協定に従い38度線以北に退いた。  ソ連軍は、東ヨーロッパの占領地域でも、社会主義人民共和国政権樹立に力を注ぐようになった。  日本の敗戦でベトナムにはフランスの植民地支配者が戻ってきていたが、1945年9月に革命が起こり、ホー・チ・ミンがベトナム社会主義共和国の建国を宣言した。しかし、フランスは、それを認めなかった。  1945年10月、国際連合(本部:ニューヨーク)が発足した。  イギリスでは、大戦終了直前の選挙で勝った労働党政権が、「ゆりかごから墓場まで」の福祉充実策を実施し、銀行,石炭,通信,航空,電気,鉄道,ガス,鉄鋼などの重要産業を国有化していった。そのため、産業は競争力を失い、[イギリス病]とよばれるほど国力は衰退した。復活には、1980年代のサッチャー登場まで待たなければならなかった。
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 朝鮮半島では、信託統治(国際連合の信託を受けた国による統治)が検討されたが、まとまらず、アメリカとソ連による分割占領が行われた。  1945年10月10日、中華民国と中国共産党との間で、「内戦を避け、独立・自由・富強の新中国を建設」するための協議が行われたが、双方の思惑は、相手を潰す準備を整えるための時間稼ぎだった。  1946年6月、イタリアでは王制が廃止されて共和政となった。翌年2月にパリ講和条約を結んだイタリアは、エチオピア・アルバニア・リビア・ソマリランドなど総ての海外植民地を失った。  1946年6月、ベトナム南部で、フランス領コーチシナ共和国臨時政府の樹立が宣言された。  1946年7月、中華民国と中国共産党との間で、全面的な内戦が始まった。当初はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢なように見えたが、次第に、ソ連に降伏した関東軍の装備等( 就中 ( なかんずく ) 精鋭将兵の軍事指導)を利用できる中国共産党に形勢が傾いていった。  1946年12月、ベトナム軍とフランス軍の戦争が始まった。フランス軍が優勢だったが、ベトナム社会主義共和国軍はゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。  1947年2月、建国を悲願とするユダヤ人とアラブ人の紛争が絶えなかったパレスチナを持て余したイギリスは、委任統治を放棄し、国連にゲタを預けた。11月、国連総会は、パレスチナの土地の6割弱をユダヤ国家に、4割強をアラブ国家に分割する案を、可決した。倍以上の人口を抱え、殆どの土地を所有するアラブ人側に過酷すぎる不自然な決定は、アメリカ大統領トルーマンのゴリ押しによるものと言われている。
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 そこから、中東戦争が始まり、長く続くこととなった。  朝鮮半島では、統一政府樹立のための総選挙がソ連の反対で実施できなかったので、1948年5月にアメリカの占領下にある南部だけで総選挙が行われ、李承晩が大統領に当選した。8月15日、大韓民国第一共和国の樹立が宣言され、アメリカ軍政が廃止された。  1948年9月9日、朝鮮半島北部を実効支配する勢力(満州派、甲山派、南労党派、中国共産党、延安派、ソ連派など)が、朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した。  1949年1月、中共軍が国民党軍を敗退させて、北京に入城した。10月1日、毛沢東が北京市で中華人民共和国の建国を宣言した。10月25日、中共軍八個連隊は、対岸の 厦門 ( ��モイ ) からの砲兵隊の援護を受け、200隻のジャンクで三方向から包囲するようにして金門島に迫った。これに対する国民党軍(三個師団と保衛一個連隊)は、旧日本陸軍中将 根本博氏の指揮を受け、一発も反撃せず、中共軍を上陸させて島内に誘い込んだ。日没後、国民党軍は、ジャンクに火を放って上陸軍への補給と退路を断ち、総反撃に出た。中共軍は、混乱し、包囲網の開いた一方向に雪崩を打つように殺到して海岸に向かったが、追いかける国民党軍と島陰で待機していた海軍の挟み撃ちに合って壊滅した。以後、中共軍は、対岸から砲撃するだけで、金門島に上陸しようとしなくなった。
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 1949年4月、北米と西欧の30箇国は、軍事同盟NATOを結んで共産圏の脅威に備えた。  1949年6月、ベトナム王国ができ、ベトナム帝国皇帝だったバオ・ダイが国王になった。  1949年12月、南京から逃れ出た蒋介石らは、台湾島の台北に中華民国政府を移転させた。  1950年1月、イギリス労働党政権が、中華人民共和国を承認した。  1950年2月、フランス、アメリカ、イギリスがベトナム王国を承認した。  1950年5月、韓国の総選挙で、李承晩政権に対する不信任の結果が示された。2年後任期満了時の再選を危ぶんだ李承晩は、人気挽回策として、対日戦意を煽り「対馬侵攻」を名目に精鋭軍を南下させ釜山に集結させた。手薄となった首都ソウルは、「国土完整」を唱える朝鮮民主主義人民共和国軍にとって、格好の餌食に見えた。  1950年6月25日早朝、北朝鮮軍による総攻撃が、青天の霹靂の如く、何の前触れも無く始まった。防衛ラインは次々と突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩は更に南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせる為、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋を、多数の避難民もろとも、爆破した。後に、橋爆破の現場責任者だったチェ・チャンシク大佐が責任を問われて処刑され、真相は闇に葬られた。  米軍機動部隊が大田に到着し防衛線を築いたが、北朝鮮軍は韓国軍を攻め、それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した。韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ、それを北朝鮮軍が使い、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった。  しかし、李承晩は、韓国軍が前線に立つことを主張し続け、状況は改善されなかった。  その結果、米軍主体の国連軍は敗北を重ね、8月末には、北朝鮮軍が釜山まで60キロメートル余の昌寧郡に迫った。  9月2日、マッカーサー元帥が国連安全保障理事会に「国連軍の活動に関する第3次報告書」を提出し、国連軍増強の必要を強調した。また「北朝鮮軍がカムフラージュの為に民家や民間輸送機関を利用しており、軍事目標を識別することは著しく困難である」旨説明し、民間人・施設に対する攻撃の正当性を説明した。民家人を装い、或は、民間人に紛れ込んで、民間人が攻撃しているように見せかけるのは、共産主義者の常套手段。民間人の犠牲を材料とするプロパンガは、彼らの強力な武器となる。9月15日、国連軍は、仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪回した。
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 しかし、李承晩の主張に基づき韓国軍を前線に立たせた結果、米軍の装備で米軍兵が殺害される状況が再現され、翌年1月、中共軍にソウルを占領されてしまった。  その後、戦況は、一進一退を繰り返したが、国連は休戦への道筋を作り、両軍の捕虜送還協定が締結された。  6月18日、李承晩は、国連決議を無視し、アメリカに何の予告も無く、抑留中の朝鮮人民軍捕虜二万五千人を北へ送還せずに韓国内で釈放させ、国際世論の非難を浴びた。この釈放は、不法に抑留した日本人の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として日本の刑務所で収監されている韓国人受刑者に対する放免・日本永住許可付与を要求した手口に相通ずる処がある。  1951年9月、サンフランシスコで吉田茂首相が講和条約に調印し、日本は主権を回復した。朝鮮・台湾・南樺太・千島は放棄し、沖縄と小笠原諸島はがアメリカの占領下に置かれることとなった。調印したのは48カ国だった。同日、日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ反共陣営に日本が組み込まれた。  1952年1月、韓国は、 所謂 ( いわゆる ) 李承晩ラインを一方的に設定した。  1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが病死した。  1953年7月、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が、軍事境界38度線を挟む休戦に同意した。軍事委員会委員長に就任した金日成は、朴憲永、金枓奉、崔昌益、許貞淑、金昌満、武亭、朴一禹、朴孝三、方虎山、尹公欽、徐輝、李相朝、金雄、鄭律成、金元鳳、許哥誼、朴昌玉、金烈、朴義琓、総政治局長、崔遠、金七星ら他派の政敵を次々に追い落とし粛正して、権力を強化しいった。  1953年12月、韓国は、日本海で漁船数百隻を拿捕し、乗組員数千人を抑留した。
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 そして、抑留者の返還と引き換えに 日本の刑務所 で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として 収監 されている韓国人 受刑者 の 釈放 を要求した。日本政府 はこれを飲み、在日韓国人犯罪者472人を放免し、日本での永住許可を与えた。  1954年2月、 嘗 ( かつ ) て中国西北部の陝西省で毛沢東らを迎え入れた高崗が「東北部を独立王国にしようとした」という濡れ衣を着せられて失脚し、半年後に毒殺された。  1954年、ベトナム国王バオ・ダイは、首相にゴ・ジン・ジェムを任命した。翌年、ゴ・ジン・ジェムが国民投票を実施し、ベトナムは共和国になった。ゴ・ジン・ジェムは大統領に就任し、アメリカの軍事援助を取り付けた���バオ・ダイはフランスに亡命した。  1955年、ソ連と東欧諸国は、NATOに対抗するため、軍事同盟WPOを結んだ。  1956年、ソ連での個人崇拝批判の影響受けて、北朝鮮でも金日成批判の動きが出てきたが、金日成は、甲山派と組んで政敵を除名し逮捕した。  1956年5月、毛沢東は、最高国務会議で「百花斉放 百家争鳴」を提唱し共産党への批判を歓迎した。翌年2月の最高国務会議でも中国共産党に対する批判を呼びかけるとともに、翌月6日から1週間かけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、共産党の中国支配に異を唱えたり毛沢東の指導力を批判する者も出てきた。5月、毛沢東は、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うよう命じたが、「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」と述べた。6月、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した社説を掲載した。10日後、人民日報は、毛沢東が 嘗 ( かつ ) て「百花斉放 百家争鳴」を呼びかけた演説内容を掲載したが、演説したという内容は、批判を制約するものだった。党を思い切って批判した知識人たちは社会主義政権破壊を画策した[右派]というレッテルを貼られ、知識人の粛清運動(反右派闘争)が始まった。以後、中国共産党批判は二度と行われなかった。
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出し���男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲��を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51��を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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monqu1y · 3 years
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自虐史観の意味  朝日新聞社やNHKは、サヨク的論調で日本の軍国主義や非人道的行為を非難している  その手口は、戦後政治の主導権を握るためマカーサにいち早く接近するとともに、責任を総て軍部に押し付け、 元凶 ( げんきょう ) である昭和研究会のメンバーを咎めようとしなかった近衛文麿の行動に通ずるものがある  元凶である昭和研究会のメンバーに朝日新聞社の 重鎮 ( じゅうちん ) が名を 連 ( つら ) ねているが、彼らは、軍国主義化・侵略戦争の元凶が天皇制・軍部・独占資本主義だったかのように歴史を 改竄 ( かいざん ) した  本多勝一は、「南京大虐殺」写真の 捏造 ( ねつぞう ) を行った  WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)は、次のような 自虐史観 ( じぎゃくしかん ) を日本人の意識に埋め込むためのGHQ心理作戦を意味する言葉だと言われている ・日本は無条件降伏したのだから、何事にも異議を述べる権利が無い ・日本人はアジア諸国で行った非道を反省し贖罪しなければならない ・広島と長崎への原爆投下は、戦争終結を早め、アメリカ将兵の犠牲者を少なくした  しかし、 洗脳 ( せんのう ) 工作は 極秘裏 ( ごくひり ) に進められた と「WGIP=米占領軍の日本洗脳工作」論者が主張していることからも分かるように、これは著しく 信憑性 ( しんぴょうせい ) を欠く都市伝説にすぎない   かつて、アジアの植民地解放を掲げ、 自国の敗戦革命を企んで対米戦争を 煽 ( あお ) った NHKや朝日・毎日等の報道関係者にとって、軍部に総ての戦争責任を押し付ける自虐史観が非常に好都合なツールであることは否定できないだろう。特高警官や憲兵がいばりちらし「非国民」という言葉で庶民の自由 謳歌 ( おうか ) を 妨 ( さまた ) げるシーンを盛り込んだウソのドラマ を 執 ( しつ ) こく放送し、誤解と 偏見 ( へんけん ) に満ちた「暗黒史観」を視聴者の 潜在 ( せんざい ) 意識に 刷 ( す ) り込んできたのも、そのためだった
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 「 総懺悔 ( そうざんげ ) 」と報道したのも、その延長線上にある   1945年8月に日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソビエト連邦は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかったのである。まして、大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民が、戦火を交える敵同士でなかったことはいうまでもない  しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう 唆 ( そそのか ) している   性懲り ( しょうこり ) なく、今も、日本とアメリカをケンカさせようとするのも、敗戦革命をあきらめていないからだ  戦争責任の 再検証 ( さいけんしょう ) を 極度 ( きょくど ) に恐れる報道関係者たちは、自虐史観を神聖化し、疑問を持つことすら罪悪であるかのように 情宣 ( じょうせん ) してきた。「歴史修正主義をゆるさない」は彼らの お守り札 なのだ
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monqu1y · 3 years
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ソ連軍侵攻  1945年8月6日_原爆広島投下、同月8日原爆長崎投下、同日ソ連対日宣戦布告
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 1945年8月14日_に日本はポツダム宣言を受諾し翌15日に昭和天皇による「敗戦受諾の詔書」を全国放送した。蒋介石は抗日勝利演説を行った  しかし、敗戦革命者たちによる終戦引き延ばし工作(宮城事件)が行われた
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 それと呼応するかのように、同月20日、ソ連軍が樺太住民数十万人を虐殺し、同月25日、ソ連軍が樺太全土を占領した
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 1945年8月_樋口季一郎中将がソ連軍に抗戦したので、ソ連軍は北海道に進軍できなかった。スターリンは、極東国際軍事裁判で、樋口を「戦犯」として処刑するよう主張し、NHKもソ連軍に抗戦した樋口中将を批判した。しかし、世界中のユダヤ人コミュニティーが樋口救済運動をしたので、樋口は無罪となった。
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monqu1y · 3 years
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NHK総裁  1939年1月_新体制運動・大日本党結党の提唱が契機となって近衛内閣は総辞職したが、近衛は、日本放送協会総裁の座は譲らず、ラジオ放送の実権を握り続けた
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 1939年_衆議院議員 中野正剛(元朝日新聞 記者)南進論及び日独伊三国同盟を支持し、撃栄東���民族会議を主催  1939年05月~9月_満州国・モンゴル人民共和国間の国境線をめぐって発生した紛争( ノモンハン事件 )  1940年7月22日_第2次近衛内閣成立。同年9月27日に日独伊三国同盟締結。同年10月、大本営の責任者に杉山元参謀総長を据えるとともに、大政翼賛会を設置(朝日新聞記者中野正剛が総務に、国家社会主義運動家赤松克麿が企画部長に就任)した  1941年4月13日_日ソ中立条約締結。同年7月28日、南部仏印進駐  1941年9月~1942年4月_日本国内で諜報謀略活動を行っていたソ連のスパイたち(近衛文麿のブレーンら)が逮捕された。朝日新聞論説委員佐々弘雄らは関連記録を隠滅した  1942年6月5日~7日_ミッドウェー海戦で、日本は、空母4隻と搭載機3百機を喪失した  ミッドウェー海戦での惨敗をきっかけとして、NHKと朝日新聞社は、大本営を構成する作戦参謀と情報参謀の対立を利用し、不利な戦況を国民に隠す道筋をつけた(祖国を敗戦に導きソ連軍が日本で民族解放できるような条件を整えるために…)  1944年3月1日_アサヒグラフ「撃て!この鬼畜米国!」発刊
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 マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者の目的は社会秩序の暴力的転覆によらなければ達成しえない」と書いているのだが、こういう考え方をするようになると、破壊行為をためらわなくなる  昭和初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報をもらし、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたら、彼等は戦争を終わらせず長引かせる方向に持ち込んで、革命を成功させようとしただろう  歴史の通説では、昭和初期、軍部が政府の命令を無視して暴走したと書かれているが、コミンテルンが「暴走」するよう工作したという記録もある  辻政信は、ノモンハン事件、ポートモレスビー激戦、ガダルカナル島激戦、インパール作戦等で、権謀術数を凝らして無謀な作戦が遂行されるように工作し、膨大な人数の日本兵たちを死に追いやる企みのもと敗戦革命論を神憑り的に実践した
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 辻政信は、戦後、著書『潜行三千里』を出版し慰安婦が軍属だったと主張した
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monqu1y · 3 years
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第一次近衛内閣  1937年6月4日_第1次近衛内閣発足(朝日新聞記者風見章が内閣書記官長に就任。国内 融和 ( ゆうわ ) を 図 ( はか ) るためという 口実 ( こうじつ ) で、治安維持法違反者、共産党員、二二六事件関係者等に係る 大赦 ( たいしゃ ) を主張)。1箇月後に盧溝橋事件勃発→北支居留民保護名目派兵→第二次上海事変交渉決裂→日中戦争(支那事変)拡大→「爾後国民政府を対手とせず」と発表、対中講和の道を閉ざした  1937年07月07日_深夜、北京近くの盧溝橋で、実弾を発砲する銃声が聞こえた。日本軍は演習で一切実弾を使わず、演習の実施をあらかじめ国民党軍に伝えていたので、その銃声は中国軍からの攻撃だと判断され、銃撃戦が始まったが、直ぐに、国民党と関東軍の間で停戦協定が結ばれ、銃撃戦は収まった(盧溝橋事件)  盧溝橋周辺は、国民党や共産党、匪賊、馬賊などが入り乱れて混乱状態になっていた。停戦協定は守られず、各地で武力衝突が起こった。そして、国民党は、共産党と手を組んで、関東軍と戦うことになった  結果として、盧溝橋事件で得をしたのは、中国共産党だった  1937年07月29日_冀東防共中国自治政府配下の中国人保安部隊が自治政府主席をつかまえて 謀反 ( むほん ) を起こし、日本軍部隊・特務機関を襲撃、日本人居留民223名を強姦等のうえ虐殺した(通州事件)  そして、国民党と関東軍の対立は深まり、国民党と共産党の結束は強くなった  結果として、通州事件で得をしたのは、中国共産党だった  1937年11月20日_大本営政府連絡会議 設置  会議員は外務大臣,大蔵大臣,陸軍大臣,海軍大臣,企画院総裁,参謀総長,軍令部総長。議長は内閣総理大臣 近衛文麿  1937年12月18日_南京入場式  中国人の 匪賊 ( ひぞく ) に住民が殺されたり、子供がさらわれたり、兵隊は悪いことをするものだという考えがあったが、日本兵の規律正しさに安心した住民が行軍を出迎えてくれるようになった  1938年3月_ユダヤ人18人がソ連と満州の国境まで逃げてきたが、満州国は入国を許可しなかった。  ユダヤ人たちの窮状を知った樋口季一郎少将は、食べ物、衣服、燃料などを与えたうえで、満州鉄道の特別列車で上海に脱出させた。後に「ヒグチ・ルート」と呼ばれるこの脱出路を通じて数千人(一説によれば数万人)の難民が救われた。  ドイツから何度も抗議があったが、関東軍総参謀長東条英機中将は、とりあわなかった。樋口の武士道精神を支持したのだった。  1938年4月_近衛内閣は、国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月には戦争目的に「東亜新秩序建設」を掲げる声明を発表した  共産主義者は取り調べを受けたが、ただ単にソ連に憧れるだけの人々が 咎 ( とが ) められることはなかった  1938年12月_女優岡田嘉子がソ連に 憧 ( あこが ) れて演出家の杉本良吉とともに 樺太 ( からふと ) からソ連に亡命したが、ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑にされた
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 戦後のマスコミが地上の 楽園 ( らくえん ) と報道して多くの日本人たちを北朝鮮に送り込んだのと同様、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスであるかのように宣伝していたのだ
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monqu1y · 3 years
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砕氷船テーゼ  1935年7月25日からロシアのモスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で、スターリンが演説した 「ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。」
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 1936年10月_中国共産党軍は、中国西北部の陝西省に 辿 ( たど ) り着いた  陝西省の共産党幹部はソ連派だった。前年の 遵義会議 ( じゅんぎかいぎ ) でソ連派から実権を奪った毛沢東派は、実権を奪い返されることを怖れ、地元の英雄でソ連派の劉志丹を暗殺した、国民党軍の仕業に見せかけて…  英雄が居なくなった地元の共産党幹部(習仲勲、高崗ら)は、毛沢東派に従うこととなった。地元民には文盲が多かったので民謡を利用してプロパガンダを仕掛けた
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 1936年2月26日_資本家を殺すという「尊皇討奸」を掲げた陸軍青年将校らが千五百名弱の下士官兵を率いてクーデターを 試 ( こころ ) み、高橋是清蔵相、斎藤実内務相、渡辺錠太郎陸軍大将、松尾伝蔵大佐らを殺し、鈴木貫太郎侍従長らに大けがをさせた
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 1936年9月_十年間空席だった日本放送協会総裁に近衛文麿が 就任 ( しゅうにん ) し、国家社会主義的な考え方でウソを流す放送を始めた  1936年11月_「昭和研究会」正式 発足 ( ほっそく )  昭和研究会は、新聞記者や共産主義者の 巣窟 ( そうくつ ) で、 主宰者 ( しゅさいしゃ ) は近衛のブレーン後藤隆之助だった。  1936年12月12日_共産党軍とにらみ合いを続ける国民党軍を励ますため、西安市に来た蔣介石を張学良が監禁して8項目(内戦停止、南京政府改組、政治犯釈放、民衆愛国運動解禁など)を要求した。蔣介石は、周恩来(元部下)、宋美齢(妻)らの説得を受け、8項目に合意して釈放された。追いつめられていた共産党は、張学良のおかげで生きながらえることができたのだった  張学良は、軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行、国民党の監視下に置かれた  結果として、張作霖爆殺事件で得をしたのは、中国共産党だった
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monqu1y · 3 years
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敗戦革命テーゼ  1928年07月_コミンテルン第6回大会で、スターリン(ソ連共産党の最高指導者)が話したのは、共産主義者が革命を成功させなければならないということだった。そのために必要なのは次のこと  (1)進んで軍隊に入り、祖国を裏切って戦争で負けさせる  (2)金持ちに都合良く作られている法律は守らず、秘密組織を沢山作って、ウソと騙しで祖国の偉い人たちを混乱させる
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 1928年12月29日_張学良は、満州で一斉に 青天白日旗 《 ちゅうかみんこくのはた 》 を掲げさせて、中華民国政府の味方になる気持ちを表わした  1929年4月16日_日本で、共産主義者339名が取り調べを受けた  1929年10月24日から始まる米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。ソ連型計画経済を解説した本がたくさん売れ、学界だけでなく、多くの官僚や軍人が読むようになった  1931年09月18日_南満州鉄道の線路が爆破された(柳条湖事件)。治安回復のため、関東軍は満州全土の制圧に乗り出した  1932年03月01日_張学良に味方しない有力者らが長春に集まって満洲国の建国を宣言し、愛新覚羅溥儀が満洲国執政に、鄭孝胥が���務院総理に就任した  1932年05月15日_大川周明の国家社会主義思想を信奉する青年将校らが[敗戦革命テーゼ]を実行しようとして、首相殺害等テロ実行。 犯行後 ( はんこうご ) 、犯人らは 自首 ( じしゅ ) し、 裁判 ( さいばん ) が行われた  犯行は 政治 ( せいじ ) を良くするためにしたという 弁護士 ( べんごし ) の主張が新聞で 報道 ( ほうどう ) された  「財閥の飽くなき私欲古賀中尉政党を罵倒」「国家革新運動の精神を力強く語る」「三上中尉、特権社会を痛撃し政党腐敗を憤る」「革命歌に感動、悩める西川熱弁」、「飢える農民のため、橘法廷で泣く」などという新聞記事を読んだ人々が犯人らに 同情 ( どうじょう ) した  同情の高まりに手ごたえを感じた新聞社は、「時局に憤慨し首相官邸で切腹」、「被告の減刑願いに鮮血の小指9本」、「殺到の減刑嘆願6万を突破」、「7万の嘆願書中に尋常1年生5名」、「血書の減刑嘆願陸続6万通を越ゆ」などと報道した  世論に押される形で 判決 ( はんけつ ) が変更された。 故人 ( こじん ) を 首謀者 ( しゅぼうしゃ ) とし、他の者は 禁固 ( きんこ ) 15年に 罪 ( つみ ) を軽くされた  1933年03月27日_国際連盟総会で満州国の独立が否定され、中国の統治権が承認された。これに反対する日本は、国際連盟に対して脱退を通告した  1934年07月_国民党軍との戦いに負けた共産党軍は、西へ北へと逃げまわった。このとき、共産党軍を指導していたのは、ソ連留学者 秦邦憲,軍事顧問オットー・ブラウン,周恩来の3人だった  1935年01月_貴州省に 辿 ( たど ) り着いた一行は、方針を決める会議( 遵義会議 ( じゅんぎかいぎ ) )を行った。周恩来、鄧小平らが、「秦邦憲とオットー・ブラウンのせいで国民党軍に負けたのだから、コミンテルンから離れた独自路線を採るべき」旨、主張した。周恩来は、軍事の最高指導者になった。その後、周恩来は、軍事的実力者 朱徳が支持する毛沢東に最高軍事指導者の地位を明け渡した。  1935年06月01日_NHK海外放送〔東京ローズ 情報宣伝 ( プロパガンダ ) 〕が開始された
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monqu1y · 3 years
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張作霖爆殺  1927年04月06日_北京政府大総統 張作霖 が共産党員の李大釗らを内乱罪容疑で逮捕した。3週間後に李大釗らが処刑され、共産党は張作霖を恨んだ  1927年07月_国民党と仲が悪くなった共産党が各地で反乱を起こしたが、国民党軍によって静められた  1928年2月_日本国内で初めての普通選挙が行われた。田中義一内閣は、治安維持法違反者を一斉に取り締まった。日本共産党、労働農民党等の関係者約1600人余が取り調べられ、484人が起訴された(3.15事件)。東京帝国大学等のエリート学生148名も共産主義者として取り調べられた  1928年05月_北京政府を倒そうとして山東省済南まで攻め上った国民党軍は、居留民を保護しようとする日本軍と衝突した。国民党軍は、日本軍との対決を避けて迂回し、北京に向かった  1928年06月03日_日本と良い関係を作っていた張作霖は、北京で国民党軍を迎え撃とうとしたが、負けて北京を脱出した。翌日、瀋陽駅途中の鉄橋で突然乗っていた鉄道が爆発して張作霖は死んだ。張作霖の長男 張学良 は、張作霖爆殺事件の犯人が関東軍だと思い込まされて、日本に激怒した  1928年06月08日_国民党軍は、北京に入城し、15日に全国統一を宣言した
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monqu1y · 3 years
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日ソ国交回復  1921年07月_上海に各地の活動家たちが集まり、中国共産党を作った  1922年_レーニンの健康が悪化  1922年04月03日_レーニンが、トロツキーに対抗するため、ソ連共産党政治局に 中央委員会書記長 《 ちゅうおういいんかいしょきちょう 》 の職を新設し、初代書記長にスターリンを任命  1922年10月25日_日本軍がシベリアから引きあげた  1924年01月20日_中国共産党員が個人として国民党に加入するという形で、国民党と共産党が手を組んだ  1924年11月_東京ラジオ放送局発足時の初代総裁は、日ソ国交回復に尽力して「赤い男爵」と異名をとり、その後の日本を「砕氷船」として、中国国民党やアメリカとの泥沼戦争に向かわせる状況を作った人物だった  1925年01月20日_日ソ基本条約が結ばれた  日ソ基本条約が結ばれた後、ソ連大使館のスパイが日本の出版界や学界に働きかけ、マルクスやレーニンの翻訳本が大量に出版されるようになった
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 貧困対策に対する日本人の関心が高まり、宮沢賢治がカールマルクスを天才と讃える『生徒諸君に寄せる』の執筆に着手した
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 1925年03月_東京放送局(初代総裁:後藤新平、理事長:岩原謙三)ラジオ放送開始  1925年_孫文( 中華民国建国の父 《 ちゅうごくけんこくのちち 》 )が癌で死んだ後、蒋介石が国民党軍を 広州 ( ほんこんのちかく ) から北京に向かって進軍させた  1926年08月_東京放送局+大阪ラジオ+名古屋ラジオ⇒NHK(総裁職は空席)
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monqu1y · 3 years
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第一次世界大戦  1914年06月_オーストリア大公夫妻がセルビア人テロリストに殺され、オーストリアとセルビアの戦争が始まった。オーストリアにはドイツが味方し、セルビアにはロシアが味方した  戦争が広がり、ドイツは、フランスやイギリス、そして日本も敵に回すことになった  1916年_河上肇は、朝日新聞の連載小説『貧乏物語』を書き、翌年03月に単行本として出版
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 [貧困]について経済学的な知識をもとに書かれていた単行本『貧乏物語』は、大正時代の自由な空気の中で、飛ぶように売れた
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 1917年_ロシア革命が起こり、翌年、[ロシア 社会主義連邦 《 しゃかいしゅぎれんぽう 》 ソビエト 共和国成立宣言 《 きょうわこくせいりつせんげん 》 ]が出された。ソ連がドイツに降伏し、ロシア王家の人々は全員、ソ連政府に殺された  連合国側からすれば裏切者のソ連の中で取り残されたチェコ軍の人々を救い出すため、シベリアに、多くの国々から軍隊が送られた  1918年_日本では米が値上がりし、庶民が米を買えなくなっていった。朝日新聞社は、広告掲載を断られた腹いせに、鈴木商店が米を買い占めていると、ウソの報道をした。8月12日、怒った人々が鈴木商店に押しかけ、建物を壊し火をつけた。鈴木商店主の鈴木よね(お家さん)が命からがら逃げる様子をからかう記事を朝日新聞が載せた
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 1919年01月18日_ドイツが降伏し、戦争を終わらせるための会議がフランスのパリで開かれた。日本が人種差別撤廃の提案をしたので、白人の国々は日本に反感をもった。アメリカは、中国で信者を増やす活動をしていたプロテスタントの宣教師に「悪者・日本」のイメージを広めさせた  1919年01月21日_李氏朝鮮国王高宗が急死  1919年03月01日_日韓併合で特権を失った 両班 ( やんばん ) や反日活動家たちは、「高宗は日本に毒殺された」というウソの 噂 ( うわさ ) を流し、「独立万歳」と 叫 ( さけ ) びながらデモ行進した。扇動者たちは、「マンセー、マンセーと 唱 ( とな ) えたえら 弾 ( たま ) が当たらない」と人々を 惑 ( まど ) わしてデモに参加させた。 空砲 ( くうほう ) の 威嚇 ( いかく ) に、「それ見ろ。当たらんぞ」と人々を 大胆 ( だいたん ) に行動させようとしたので、 治安維持部隊 ( ちあんいじぶたい ) がデモの 先頭 ( せんとう ) に向かって 銃弾 ( じゅうだん ) を 撃 ( う ) ち込んだら、 蜘蛛 ( くも ) の子を 散 ( ち ) らす様に逃げて騒ぎが 収 ( おさ ) まった  この騒動で、日本人約二百人が殺されたりケガをさせられ、建物約三百棟が焼かれたり壊されたりした  1919年10月10日_孫文が中国国民党を作った
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monqu1y · 3 years
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近衛人脈  1914年04月_近衛文麿は、東京帝国大学哲学科から京都帝国大学法学部に転校した。近衛文麿が河上肇を心から尊敬する様子を、1937年6月3日付報知新聞が次のように伝えている 大正三年の春、桜花爛漫と咲き乱れる京都帝国大学玄関先で痩身の帝国大学生が学生監と言い争っている… 「どうしても駄目だ、願書の締切日から三日も経っているじゃないか」 「何度お願いしても?」 「勿論」 「じゃ私も河上肇博士の社会科学が聞きたくて遥々東京帝国大学から転校して来たんだ、それを無情に追い帰すならヨシ私も男だ、死んでもここから動かないから」と玄関先へデッカと据えた信玄袋! その上へ腰を下して学生監をグッとにらんだ 「まあ、待て、待て、君!」とスッカリあわてた学生監 信玄袋戦術が功を奏して東京帝国大学哲学科から京都帝国大学法学部へ転校を許されたが、その青年が文麿公だった それからの大学生文麿は河上博士の講義にばかり出席し、 「主義と目的のため放逐される位人間と生れてむしろ痛快ではないか」と博士がクロポトキンを讚えれば、 「そこだ、先生!」と青年文麿は卓子を叩いて叫んだ…
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 -----------------------近衛人脈-----------------------  堀江邑一:マルクス経済学者河上肇の一番弟子、『中央公論』『改造』に中国関連論文を多数発表「昭和研究会」嘱託、戦後日本共産党入党、日ソ協会顧問、日ソ図書館長や日ソ学園理事長歴任  尾崎秀実:朝日新聞記者、第1次~3次近衛内閣内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員、近衛主催の政治勉強会「朝飯会」参加、ゾルゲ・ソ連スパイ事件の犯人、コミンテルン公認共産スパイ、1944年11月07日、巣鴨拘置所で獄中記を執筆。死刑執行  中野正剛:日報社、朝日新聞記者、東方時論社社長兼主筆、元衆議院議員、初代東方会総裁、憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩く。1939年には議会政治否定・政党解消を主張して衆議院議員を辞職、後の選挙で当選復帰。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催  1940年、大政翼賛会総務に就任  1943年10月27日、��宅にて割腹自決  風見章:第1次近衛内閣書記官長就任。国際通信、朝日新聞記者、戦後の左派社会党顧問、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長、ゾルゲ事件逮捕近衛元総理に既成政党を全て抹消するよう進言し、近衛から賛同を得ている。立憲政友会・立憲民政党の2大政党に内紛を起こさせて同党を解散に追い込む政治工作を行い、後の大政翼賛会の結成に至った  赤松克麿:「大政翼賛会」初代企画部長、衆議院議員、東洋経済新報社の雑誌「解放」の編集、日本産業協力連盟理事長、日本革新党党務長、左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた  牛場友彦:内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足、尾崎秀実を近衛文麿に紹介、日本経済復興協会の理事、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問  三木清:大谷大学、龍谷大学で教鞭。哲学者。日本共産党に資金提供し被逮捕  佐々弘雄:朝日新聞論説委員、参議院議員、九州帝国大学法文学部教授、『九州日報』『改造』『中央公論』で執筆。熊本日日新聞社社長兼主筆、ゾルゲ事件発覚時に尾崎秀実関連記録隠滅  藤隆之助:大政翼賛会の組織局長大日本連合青年団主事。「(1)現行憲法の範囲内で国内改革をする、(2)既成政党を排撃する、(3)ファシズムに反対する」の3点を根本方針とする昭和研究会設立趣意書を発表。蝋山政道、高橋亀吉、笠信太郎、尾崎秀実、三木清らを集めて、政治・経済・外交・文化等各方面に亘る国策研究を進めた。第1次近衛内閣発足時に、ブレーンとして組閣参謀を務め、戦後、昭和研究会の関係者を集めて「昭和同人会」を作った  笠信太郎:朝日新聞論説主幹。東京商科大学本科を卒業。同研究科退学。1936年01月朝日新聞入社、同年09月論説委員。近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」、朝飯会参加。1940年10月ヨーロッパ特派員としてドイツ駐在を発令され渡欧、戦後1948年02月に帰社後14年10か月間、論説主幹を勤めた。安保条約改定に反対し、1958年の朝日新聞には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を書いた  益田豊彦:1900年05月22日~1974年07月11日。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高松高等商業学校教授就任。1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任。1934年、東京朝日新聞入社、東亜問題調査会に配属され尾崎秀実と出会う。1936年、昭和研究会に参加し、外交問題研究会委員となった。戦後は朝日新聞の大阪本社代表取締役、東京本社代表取締役を歴任。1965年に取締役を退任  蝋山政道:1895年11月21日生。民主社会主義の提唱者。東京帝国大学法学部教授。1930年代、軍部台頭のなかで政党政治の行き詰まりを打破するため「立憲独裁」を提唱し、昭和研究会設立構想に参加。1942年、衆議院議員、大政翼賛会推薦で衆議院議員に当選。占領期に公職追放。中央公論社副社長、日本政治学会理事、民主社会主義研究会議議長に就任。日米安保肯定論で民社党の外交防衛政策を理論づけた。1980年05月15日、急性心不全で死去  -----------------------近衛人脈-----------------------以上
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