Tumgik
#対話篇
patsatshit · 4 months
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いつもは僕が気になる友人たちにインタビューをしている「対話篇」ですが、今回はなんと日常炒飯事くんが僕にインタビューを挑んでくれました。ひとまわり以上も年の若い友人に手のひらでまんまと転がされる様を、どうぞご笑覧下さい。
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〔日常茶飯事〕炒飯事、個人店もアイドルも変わらないと思ってるんですよ、世の中にはこんなにたくさんのアイドルがいるのに(お店があるのに)自分のところを選んでくれるなんて!みたいな感じで、商売なんだけど、でも、選んでくれる(推してくれる)喜びが凄くあると思っちゃってるんですけど土井さん、これは妄想ですか?サイクルショプすずめでは来てくれる人たちが次に進むため飛び立つための?一時的な止まり木的な役割もできたらな的な話を直接、聞いただか読んだだかしたんですけど、でも今まで来てくれてたお客さんが急に来なくなるのは次に進んだということだから嬉しいことでもあるんだけど、絶対根っこではどこか寂しいと思うんですよね、たまには連絡してよね、お店に来てよね、でもべったりは嫌よみたいな、実際にも今タラウマラから離れるお客さんが増えた的なことも言ってましたが、土井さんは推し変についてはどう思いますか?自分は推し変に関しては見る目のないバカの迷走だと思ってます。なんというか量と早さをコントロールしたらうまいこと推せると思うんですよね。桐乃みゆさんのことをみゆっぴって呼びたいのにまだ呼べたことない、自分には無理かも、呼べてないってことはこれから呼べるかもしれないってことだから、を抱えてやってくみたいな感じで。
〔土井〕さすが炒飯くん、いきなりええとこ突いてくるやん。炒飯くんとはサイクルショップすずめからの付き合いやから、なんだかんだでもう7年とかそれくらいの付き合いになるんかぁ。確かにその間にほんまに沢山の出会いと別れがあったわ。炒飯くんの指摘にあるように、僕は店なんて止まり木で十分やと思っていて、次から次に羽を休ませては巣立っていくというのが理想で、それ以上の関係性は窮屈に感じるし、最初からそこまで密接な人間関係を求めてもいない。若い子を育てるとか、お客の音楽を聴く幅を広げたいというような大それた野望も抱いてない。適当な距離感で羽ばたいて行ってくれるのが丁度いい。でも、去り方は重要やと思うねん。「立つ鳥跡を濁さず」という良い言葉があるのに、実際には食い散らかした挙句にその場を糞まみれにして「ほな、さいなら」みたいな奴が多いよね(笑)。いや「ほな、さいなら」を言うてくる奴はまだマシな方で、そのまま去っては遠方からウンコ爆弾を落としてきたり、レジ金を啄んでいくような奴もおるからなぁ(笑)。やっぱり飛び去り方は大事やと思うわ。ここ数年、強く感じていることやけど、僕のまわりでアーティストを気取ってるような人たちはとにかく弱い、弱すぎてこっちが逆にビビっちゃうくらいに弱い。当人たちはそれを必死に隠そうとしてるけど、やっぱり捲れるよね。面と向かって何も言えない人たちは、カゲで好きなこと言うてはるみたいやけど、僕は所在地も電話番号もメールアドレスも世間に晒して生きてるから、ちょっとそういう人たちの感覚は理解に苦しむなぁ。炒飯くんの「推し変」というのをきちんと理解して答えられてるか怪しいところがあるけど「推し」をころころ「変える」ような人は、そもそも「推す」ということを理解してないんちゃうかなって思う。好きな対象にはどこかに嫌いというか受け入れ難い一面もある筈で、そういうこともきちんと飲み込んだうえで「推す」訳やん。好きだからこそ、あなたのこういうところが嫌いです、と言える。ちゅうか言わないとあかん。好きなアーティストの発表する楽曲や作品が全部好きになる訳ないやん。打率10割のバッターがこの世に存在せえへんことが何よりも物語ってるし、野球好きの人らは好きな選手が三振したら、えげつない罵声を浴びせはしても、だからって「推し」を辞めることはないやん。野球ファンの人ら、あれほんま長いこと根気よく「推し活」してるで。それに比べてアイドルやアーティストやショップを推してる人たちは何か気に食わんことがあったら簡単に手のひらを返す印象がある。自分が好きだと思い込んでるときは何でもかんでも褒めるのに。だからやっぱり「推す」ということがわかってないと思ってしまう。あと呼び名問題はめっちゃわかるわ。僕はジャニーズ系のアイドルやクラブ界隈の人たちが年齢やキャリアに関係なく相手を「くん」呼びする感じが苦手で、僕は炒飯くんのこともしばらくずっと「さん」呼びしてたと思う。小野ちんのことを「さん」から「ちん」と呼べるようになるまでに5年くらいかかったもん(笑)。WDのマーシーさんやSFPの今里さんは僕よりも年上やけど基本的に「土井さん」って呼んでくれてる。でもたまに話が盛り上がってテンションが沸点に達したときには「土井くん」に変わったりするねん、あれ好きやわ(笑)。
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〔日常炒飯事〕そうなんです、炒飯事は良いところを突いちゃうところあって、土井さんの「JAGUAR」だって一読で自分が好きだなと思ったところをここが訳わからなくて一番好きでしたって送ったら、そうやねん梶原くん僕もそこが一番好きやねんってなりましたもんね。なんか分かっちゃうんですよねそういうのが、たくさん本を読んでるのでポイントというか本の声が。梶原さんって呼ばれた記憶無いんですけどありましたっけ?7年の付き合いだしあるかも!土井さんの声色推しとしてこれは言っておきたいんですけど土井さんのカジワラくんのイントネーションが好きなんですよね、桐乃みゆさんの炒飯事〜も好きなのですが、今も土井さんの声が聞こえてきてます。去り方!これは土井さんからのパスだと感じました。アイドルっていつか卒業するもので、だから去り方は常に考えてますね、でもやっぱ自分、去り方には自信あるので任せてください!patsat!桐乃みゆさんはいつも最高にするからって言ってくれるんですけど、だから炒飯事も最高にするって決めてます。土井さんそれが不思議なことに桐乃みゆさんに対しては、どこか嫌いというか受け入れ難い一面が、推して3年目?くらいなんですけど無いんですよ!(もしかしたら炒飯事は2年間その場でグルグル回っているだけなのかもしれない)でも安心してください。炒飯事、本をたくさん読んでるので受け入れ難いこともゴクゴク飲めると思ってます!押忍。弱い人が多いって話ですけど皆んなどこか不安でその不安が人を動かしてる気がするんですよね、商売も推すことも推されることもってな感じで、そこら辺は土井さん的にどう感じてますか?なんか自分は不安な人に安心して欲しい気持ちがあるんですよね、人の不安を煽りたく無いというかでも時々不安を煽るようなことをしちゃうんですけどね。野球やってたんですけど、あんなのやんなきゃ良かったと思ってますね、あれのせいで自分は人の話を理解していないのに取り敢えず返事しとくみたいな癖がついてしまった気がします!土井さんはボクシングやってたんですよね確か、インスタのストーリーに載せてたミット打ちならぬ段ボール打ちの動画?凄く怖かったです!怒らせたらアカン!よくタラウマラのレジの金を盗もうと思うわ!野球やってたけど本を読む方が好きで、ジャニーズといえば、加藤シゲアキさんあの人結構良い小説書きますよ、『なれのはて』と『オルタネード』しか読めてないんですけど。こんなに本を理解できてる(本なんて理解できないことも含めて理解できてる)自分という読書がいて幸せだろうな本はぐらいの気持ちで本を読んでいるぐらいど��か自分に自信がありつつ同時に桐乃みゆさんに対しては自分はホラーじゃなくて喜劇になれているんだろうか?と毎日不安に押し潰されそうになってます、なんかカルチャーとか文学とかそういう世界にいない普通って言ったら、なんだその括りはとか怒られちゃいそうなんですけど普通のそこらへんの同世代の女性とかに炒飯事のインスタグラムを見てもらいドン引きしてもらわないと、心が保たない気がしてて、でも、そのドン引きは本気のドン引きじゃなくて呆れ笑いというかそういうのが嬉しいんですよね面倒くさいですよね、そういうところもキモいよとバッサリ切り捨てて欲しいくらいです。SかMかといえばどちらかというとMなので、でも一線を超えて呆れられることに怯えてるみたいな不安が自分にはあります。たくさん呆れられてきたからだと思います。土井さんはSですか?Mですか?なんというか自分は喜劇だと思ってやってるんですけど真剣でもあって、でも笑っても欲しくて、ふざけちゃうんですけど、それが度を越すと、人に対してアイドルに対してファンに対して、失礼になると思うので気をつけてるのですがそこが難しいです、日常炒飯事という名前もどう考えても滑っててうすら寒いし。
〔土井〕いや、ほんま僕も何で野球を例えに出したのかわからんくらい昔から野球をやるのも見るのも苦手やねんけど、たぶん炒飯くんからプレゼントしてもらった鹿島田真希の『来たれ、野球部』に引っ張られたんや(笑)。そもそも僕がボクシングを選んだのもチームプレイがとにかく苦手で、ひとりで黙々と打ち込めるものを探し続けて辿り着いただけやから。そういう意味では小説も一緒。それらはドストエフスキーの言うところの「地下室」みたいなもんやな。いまこれ鹿島田真希からの流れでドストエフスキーの名前を出してんけど、ほんまねぇ、アクセサリー集めるみたいな感覚で私家版のエッセイやzineを集めてる「読書好きの人と繋がりたい」人たち、マジでちゃんと読もうぜドストエフスキー!あれこそ真の弱者やで。あんなにゲスくて屁理屈をこねくりまわしてるだけやのにおもろい小説もないよね。僕の小説に出てくる登場人物たちの会話の噛み合わなさは間違いなくドストエフスキーからの影響、というかほぼそのまんま。いや、話が逸れたな(笑)。そう、弱さについて。いまの戦争被害者やDV被害者たちは本当に望まずして弱き立場に追いやられた人たちで、そういう方々の不安は一刻も早く解消された方が良いとは思うんやけど、僕がさっき言うた「弱さ」は「逃げ」と同義の脆弱さというか、『呪術廻戦』の両面宿儺が最も嫌悪する「弱さ」に近い感じかな。弱さに弱さを掛け合わせて、ほんまの弱者を押し退けて自分たちの居場所を確保する感じ。ほんまきついわ。『死ぬまで生きる日記』や『鬱の本』が受ける背景には弱者救済のフリをした承認欲求が潜んでるよね。あともう一度「推し」について、桐乃みゆさん、炒飯くんの話を聞いてるとマジで凄いなって思う。彼女の「日常炒飯時じゃーん!」の言い方は確かに僕も惚れそうになったわ(笑)。あれほんま良い。炒飯くんは僕の声を推してくれるけど、きっとそれくらい声とかイントネーション、抑揚は重要なんやで。どれだけ良いことを歌っていても声が生理的に無理やったら受け付けられへん。だから最近のラッパーのほとんどが無理やねん。発声方法がテンプレート化し過ぎてて、そっちが気になって歌詞の内容がまったく入ってけーへん。それでも諦めずに歌詞カードを熟読してみるんやけど、え、何も言うてないに等しいやん、みたいなのばっかりで(笑)。「俺の後ろに道ができてた」とか「太巻きを吸って吐いてchill」意外の言葉が聴きたいのに、そこから先の言葉になかなか出会えない。それやったら「ピカチュー」とか「でも寒いよね」とか「気づいたら刺青だらけだなぁ」とか「得意技でしゃがめ」とか「ババババレンシアガ」みたいに最初から何も言うてない人たちの方が遥かに好きやな。僕はこういう人間やからレーベル側の人たちからしたら面倒臭いったらありゃしない。そのあたりも含めてWDsoundsやMIDNIGHT MEALの方々は僕の性癖をすごく理解してくれているから、こちらも本音で好きなものは好き、苦手なものは苦手と腹を割って話せる。だからSかMかと聞かれたら……うーん……どっちやろか、えー、どうかな、でもどちらかと言えば逆境に立たされた方が燃えるところがあるからMなんかな(笑)?
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〔日常炒飯事〕そろそろインタビューを始めたいと思います。今回はインタビューを受けてくださりありがとうございます。よろしくお願い致します。人や生き物が亡くなったときそれが自分じゃなかった理由がないことについてどう思いますか?
〔土井〕おい!いま僕に話してるのは虎杖か?それとも宿儺か?いつの間に契闊を唱えたんや!って言うくらいに見事な切り替えをありがとう(笑)。他者の死が自分のものではないと断言できない件、それはもうべケットやクライストの愛読者としては一生考えていかないとあかん問題やと思うけど、それは常に喜劇と紙一重で、お葬式って、独特の緊張感のなかにクスクスしてしまうような笑いの要素が多分に含まれてるやん。だからコントのネタにもなりやすいと思うねん。結婚式みたいな華やかな場で、それこそネタを披露する親類縁者や友人の振る舞いを見て心底面白いと思ってる人はおるんかな?僕なんかはむしろピシッと張り詰めた告別式の空気感のなかでの僧侶の一挙手一投足に目が離せなくなる。ちょっと躓いたり、読経の最中に噛んだりしただけで吹き出してしまいそうになる(笑)。あれやん、甲本ヒロトが言うてた「いなくなったことは大したことじゃない。いたってことが凄いんだ」ってやつ。だから死はある意味では自分のこととして受け入れることができるけど、結婚式や出産はどこか他人事というか、知ったこっちゃない、みたいな感覚が付きまとう。これはあくまでも僕の個人的な体験に基づく感想やからね。だからという訳でもないのかもしれんけど、昨年亡くなったスチルスの近松くんの棺は最後の最後までよう開けんかった。開けたらそこに自分の遺体があるような気がして。僕にはまだやるべきことがあるって思ったから。それだけ彼の死は「近かった」んやと思うわ。
〔日常炒飯事〕『劇場版チェンソーマン レゼ編』の公開が決定されましたが、その際の藤本タツキ先生の「お互い消耗品として誰かに使われる存在のデンジとレゼのモチーフはアニメ映画「人狼」内の主人公とヒロインを参考にしました。構図なども もろな部分があると思うので是非「人狼」も見てほしいです!」というコメントについてコメントをください。
〔土井〕おお!『人狼』をまったく知らん、いますぐ観なければ……。そもそも僕がアニメや漫画にハマったきっかけは紛れもなく炒飯くんやからなぁ。僕の知識なんてペラペラですよ。『チェンソーマン』も『呪術廻戦』も炒飯くんが教えてくれたよね。ほんま感謝してるわ。いまやその両作は僕に1週間生きる目的を与えてくれる生命維持装置みたいもんやから(笑)。とにかく『人狼』は今週末にでも観るとして『チェンソーマン』はほんまに凄いよね。断然原作が好きやけど、特に第二部の「つまらなさ」がほんまに凄い(笑)。これは揶揄してる訳じゃなくて、やっぱり大切なことを本気で伝えようとしたら「退屈」や「難解さ」は避けて通れないと思うから。思想家の佐々木中が「フーコーやスピノザを噛み砕いてわかりやすく解説しろって言われるけど、それは冒涜や」みたいなことを言うてはったわ。いま『チェンソーマン』が描こうとしてるのは革命以前の「運動」そのものやから、運動には象徴が必要なだけで、あとはセクトの地味な思惑が勝手に物語を運んでいく。当然、主人公はお飾りやから、第一期のようなヒーローもの(それでもだいぶ捻くれてるけど)を期待する人には退屈で仕方ない。バトルの派手さや構図の妙もすっかり影を潜めてて、でも人気絶頂期にこれをできるってほんま凄い!連合赤軍をそのまんま描いた山本直樹の『レッド』よりヤバい!子どもはただちに『チェンソーマン』を棚に戻して『僕とロボコ』をレジに持って行きなさい(笑)。
〔日常茶飯事〕今日何着てますか?
〔土井〕RC SLUM のピーポくんパーカー!
〔日常茶飯事〕ストリートスナップ撮ってる者なんですけど撮影させてもらっても良いですか?
〔土井〕炒飯くん、やっぱりエグいな。それな、ほんまその感じがまさに藤本タツキがやろうとしてる「デンジとレゼ」やんな。あれほんま何なん?カメラやSNSなんてなかった方が人間は幸せやったんちゃう?
〔日常炒飯事〕妻であるゆきこさんに惹かれた理由を教えてください。
〔土井〕ほんまエグいな(笑)。いっぱいあるけど、一番は顔かな、ゆきこの顔を見てたら落ち着くねん、顔が好き。
〔日常炒飯事〕最後の質問になります。今の土井さんの敵は何ですか?
〔土井〕これはいくつも答えのパターンが思い浮かぶけど、炒飯くんには中途半端なレトリックは通用せえへんから、真っ向勝負でいくわ。敵は百万年書房や!あそこがやろうとしていること、やっていることが僕にとっては害悪以外の何ものでもない!あれらを取り巻く環境、ムード、サービス、金の流れ、それがはっきりといまの僕の敵や!
〔日常茶飯事〕ありがとうございました。良いクリスマスプレゼントができたと思います。
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yoga-onion · 1 year
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Legends and myths about trees
Trees in Buddhism (1)
Fig trees (Ficus) - Trees that bear fruit without flowering
“Enter the fig forest and seek the flowers, but get none. In the world of the three realms (Trailokya: Ref), you seek the unwavering and you do not get one. The practitioner who knows this, forsakes this and that together...like a snake shedding its old skin.” - Buddha
Above is an extract from a verse of the Buddha in the Sutta Nipata No.5.
A common feature of the fig genus (ficus) is the peculiar inflorescence. They appears as if it suddenly bears fruit without flowering. They are hermaphrodites or dioecious, collectively known as fig trees or figs. These belonging to the family Moraceae have about 850 species and are native throughout the tropics, with a few species also found in semi-temperate zones.
Hermaphrodites are generally those that have male and female reproductive organs in one individual. Those that do not are referred to as gonochoric. In the case of plants, they are referred to as monoicous and dioicous, respectively.
The fig fruit develops as a hollow, fleshy structure called the syconium that is lined internally with numerous unisexual flowers. The tiny flowers bloom inside this cup-like structure. The small fig flowers and later small single-seeded (true) fruits line its interior surface. At maturity, these 'seeds' (actually single-seeded fruits) line the inside of each fig.
The fruit of most species are also edible though they are usually of only local economic importance or eaten as bushfood. However, they are extremely important food resources for wildlife. Figs are also of considerable cultural importance throughout the tropics, both as objects of worship and for their many practical uses.
The Bodhi tree is well known for Siddhartha Gautama (Ref2) sat under the tree, meditated and finally attained enlightenment becoming the Buddha, also known as "sacred fig tree", belongs to this fig family.
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木にまつわる伝説・神話
仏教の樹木 (1)
イチジク(無花果) 〜花を咲かせずに実のなる木
“無花果の林の中に入りて、花を求めて得ることなし。三界世間(参照)の中にありて揺るがざるものを求めて得られず。かく知っている修行者は、これをもあれをも、ともに捨てる。蛇が旧き皮を脱ぎ捨てるがごとく。“ーブッダ
上記は、経集 (スッタニ・パータ 5) にあるブッタの詩篇の抜粋である。
イチジク属に共通する特徴は、花序が特殊であることだ。イチジクが無花果と言われるように、この仲間は、花が咲かずに唐突に果実を生じるように見える。雌雄同体あるいは雌雄異株で、高木になるもの��ら低木、またはつる性の木本になる種もある。モクセイ科に属するこの植物は、約850種あり、熱帯地方全域に自生し、数種は半温帯にも分布している。
雌雄同体 (しゆうどうたい) とは、一般に、雄の生殖器官と雌の生殖器官を一個体に持っているものを言う。そうでないものは雌雄異体 (しゆういたい) という。植物の場合にはそれぞれ、雌雄同株 (しゆうどうしゅ)、雌雄異株 (しゆういしゅ) という。
イチジクの果実は、中が空洞で肉厚の「サイコウニアム (隠頭花序)」と呼ばれる構造で、その内部には多数の雌雄同体の花が並んでいる。小さな花は、このカップ状の構造物の中で咲く。その内面には、小さなイチジクの花と、後に小さな一粒の種の真果が並ぶ。成熟すると、この「種子」(実際は1粒の果実) がイチジクの内側に並ぶ。
果実はほとんどの種で食用になるが、通常は地域経済的に重要であるか、山菜・野生の果物として食されるに過ぎない。しかし、野生動物にとっては非常に重要な食糧資源である。イチジクは、熱帯地方において、崇拝の対象として、また多くの実用的な用途として、文化的に非常に重要なものである。
菩提樹は、ゴータマ・シッダールタ(参照2)がこの木の下に座って瞑想し、ついに悟りを開いてブッダとなったことで知られ、「聖なるいちじくの木」とも呼ばれる、イチジク属の植物である。
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「ボーはおそれている」を観た。 以下ネタバレあり。
前に「哀れなるものたち」を観に行った時予告編を観て気になっていた映画。でもアリ・アスターといえば「ヘレディタリー」と「ミッドサマー」なので、ホラーがあんまり得意でない自分はどうかな…と思っていた。 というような話をXに書いていたらアリ・アスターの短編"The Trouble With Mom"というものを教えていただいて、おそらくアリ・アスターはこのテーマです、とのことだった。 まあ短編だしと軽い気持ちで見てみたら、これがものすごくよかった。自分がちょっと親(特に母親)が苦手なのが大きいとは思うけど、短編映画でこんなによかったのは久しぶりだし、今年観た映画のなかでもトップくらいによかった。短くてセリフのない映画でこれだけやるとはアリ・アスターすごいな…。
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というわけで俄然「ボーはおそれている」も気になって観ようという気持ちにはなっていたものの、急に仕事が忙しくなってしまってなかなか行けず、なんとか先週末ようやく行けた。日曜最後の回だったのでガラガラだったし、ど真ん中のいい席で観れた。
で、「ボーはおそれている」の話。
基本的にはTrouble With Momなんだけど、長いだけあって親子以外にも家族の話や、子供を持つことや、あまり自分は分からないので下手なことは言えないけど、精神的な病気やADHDというようなことも描かれていたと思う。なので入れたい要素が多すぎてこの3時間なんだろうな。
3時間はたしかに長かったし、最初は90〜120分くらいにカットしてもよかったんじゃないかなと思ったけど、今はこれはこれで意外とよかったのかなという気もする。3時間なんだけど、4パートくらいに結構はっきり別れていて、なんとなく海外ドラマを4本立て続けに見たような感じかな。そもそも長いのは事前に分かっていたし、長い割には意外と観やすかった気はする。それに、意外と最初の方も覚えている。
最初のボーの自宅のパートはあんまりいらないんじゃないかなと思ったけど、「ボーにとっての現実」をしっかりインパクトを持たせて打ち出すには必要だったのかな。全身タトゥーで真っ黒のカラコン(?)の人がやばかった。というかボーの近所がポストアポカリプスすぎる。Fallout級。でもそういう風に見えているってことなのか。
2つ目の謎のファミリーの家に転がり込む所はいわゆる「表面上いい人たちだけど実は…」というホラー映画の定番のパロディみたいな感じなのかな。この家族は一人息子を戦争で亡くしていて、そこから両親も妹もおかしくなってしまった、というボーとは別の「家族、親子」の話が描かれていて、戦争の多いアメリカだとある話なのかなあと思ったりもした。ファミリーやマイホーム、軍隊に入る愛国心というのはアメリカの良き象徴みたいになってるけど、実際には問題山積みなんだろうな…。お母さんはなんでここで家族っていいよねと思わせようとしたのか…。
3つ目のヒッピー劇団(?)のパートは一番好きなパートだった。また別の映画の話になってしまうけど、このパートを担当したクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの「オオカミの家」という映画が友人に勧められて気になっていて、でも結局見れずじまいだった。本人たちの映画ではないけど、ここでその一端が見れてよかった。演劇の舞台からという導入もよかったし、書き割りのセットのような、手書きのような不思議なアニメーションはとてもよかった。この時のナレーターというか語り手はやっぱりお母さんだったのかな…? この時のホアキン・フェニックスがボーとは全くの別人という感じで、やっぱり役者さんってすごいなあと思った。目がもう全然違う。
4つ目は意外とあっさり実家に帰り着いてからのお母さん、そして父親(?)との対決、さらに初恋の終わりとなかなか盛りだくさんだった。自分的にはやはり母親との対決シーンが良かったかなあ。Trouble With Momは短篇だしセリフがなかったけど、ボーは尺もあるし台詞もあって、母親の言い分もあるのがよかったと思う。いやほんと親子とか家族ってホラー映画より怖い呪いだ…。その後の兄と父(?)のシーンといい、ここは自分の恐怖と向かい合うパートだったのかな。
5つ目、というか4つ目のパートに入れてもいいのかもしれないけど、スタジアムのシーンはまさか最後こうなるとは思わずびっくりした。恐怖と向き合ってみたけど、結局母親からは逃れられないという…。そして結末はTrouble With Momと大体同じ。
全体的に、かなり色々やりすぎにしてあって笑ってしまう感じで、ホラー要素はほとんどなくてよかった。そして単純にボーが被害者で虐げられてるだけ、とかではなく、決められないこととか、自分が悪いと思ってしまうことを悩んでいたり、母親には母親なりの自分が親からもらえなかった愛情を子供に注いでやりたいという気持ちがあったりとか、誰にでもどっちもある、あるいは色々ある悩みや考えや恐れをしっかり出しているのはよかった。 "Guilty"という言葉が劇中度々出てきたけど、これはキリスト教を信仰しているとまた意味があるのかな。自分は特に信仰はないけど、なんとなく自分が悪いと思ってしまうことがあるのでなんとも言えない気持ちになった。 色々決められなかったり、必要以上によくないことを想像してしまったり、ちょっと心配になるとすぐネットで(信頼性の低そうな情報を)検索してみたり、結構自分にも当てはまるなと思う所があった。Trouble With Momもだけど、なんだかアリ・アスターには勝手に親近感を持つなあ。
そういう人間の中の複雑な気持ちの表現が全体的にすごく過剰なので、真ん中あたりでヒッピー劇団〜アニメーションの見やすいパートを入れたのは構成として上手いなと思った。あれがなくてずっと過剰な表現続きだと疲れるし飽きてしまいそう。 ただ、アニメーションパート以外の映像や音楽、美術などはわりと普通かな…という印象だった。悪くはなかったけど…。まあそこを見る映画でもないかな。
音楽といえばヴァネッサ・カールトンやマライア・キャリーといった懐かしの名曲が突然かかって(しかもかかるシーンがまた可笑しい)、結構笑いそうになった。少し調べてみた所、歌詞にもかなり意味があったらしい。お母さんキモすぎる。
公式サイトに見た人向けの解説があったので読んでみたけど、やはりいろんな映画のオマージュというか引用があるらしい。サンセット大通りは好きな映画だけど気が付かなかったなあ。監視カメラの所はたしかにリンチの「ロスト・ハイウェイ」を思い出したけど、同じA24の「アンダー・ザ・シルバーレイク」っぽい雰囲気もあった気がする。
自分的にいちばん思い出したのは「未来世紀ブラジル」だった。
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よく「オーウェルの1984的な統制社会の恐怖を…」とか説明されるけど、結構親子、それも母と息子の話なんだよな。主人公のサムが夢と現実の区別がつかなくなっていく感じもボーにちょっと近い気がするし、父親が出てこない点も似ている気がする。 あと、ブラジルのエンドロールとボーのエンドロールが似ている気がした。どちらも暗くグレーな広い空間の真ん中に死んだ主人公がいて、その画の上にクレジットがでてくる。なんか共通するものがありそうな気がするなあ。
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あと、もうひとつ思い出したのはデヴィッド・フィンチャーの「ゲーム」。
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これはたしか最終的に主人公の"ゲーム"は弟が全て仕組んだものだった、というオチなんだけど、全てを母親に仕組まれていたボーに近いかもなと。CRSという会社がちょいちょい出てくるのもお母さんの会社が色々なところに出てくるのに少し近いかも。見たのがずいぶん昔なので詳細は覚えていないけど、また観たいなあ。でもこの手のネタは他にもたくさんあるか。
ボーはおそれている、総合的にはまあまあといった感じだったけど、なかなか面白い映画だった。親子も家族も色んなものへの恐れも、永遠のテーマなんだなあ。どうしたらいいという答えはないけど、あれこれ考えるきっかけになる映画な気がする。この内容で3時間の映画を作って世界に配給されるというのはとてもいいことだな。ヘレディタリーとミッドサマーも怖そうだけど観てみよう。
<余談>
自分の持っていたクレジットカードの一つがサービス終了とのことで、自動的にSaison Gold Premiumというカードに切り替わった。普段、カードの優待とかはあまり気にしないんだけど、このカードの優待で「映画のチケットがいつでも1000円」というのがあって今回それを初めて使ってみた。
対応している映画館が限られているけど、自分がよく行くTOHOシネマズは使えた。ちょっと面倒なのは、まず映画のチケットが無料になるクーポンを1000円で買う→そのクーポンを使って無料でチケットを取る、という二段階の手間がかかるのと、購入の12時間後にクーポンが送られてくるという所。自分は仕事の都合で今なら行けそう…と急に行くことが多いので、これは少し残念。でも、クーポンの有効期限は3ヶ月くらいあるようなので、観たい映画がある時は事前に購入しておけば突然行くこともできそう。
最近はわりと映画行くようになったので、これはありがたいな〜
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reportsofawartime · 3 months
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もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交通[Verkehr]がそれを証明している。われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。
Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)
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manganjiiji · 7 months
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こはく雪積れ積れ
友人が結構復調してきているらしい。喜ばしい。私からはとくに伝えることがないので個人的なメッセージを送ってはいないが、周りの話を聞くとメッセージもスムーズなやり取りができるようで、とてもよかったと思う。私も何か言葉をかけたいような気はするが、こちらからは本当になんの報告もない。ただそのまま順然と回復していきますように、というのは皆が願っていることで、わざわざ私が個人的に伝えることでもないような気がする。そのような元気が自分にないだけの気もする。ともかく良い事です。本当に、もっと幸せになってから死んでもらわなきゃ困る。
今日は友人(こうこさん)の誕生日「苦肉の日」だった。昨夜21時半頃からもくり(通話スペース)を立てて、23:30になったらこうこさんお誕生日カウントダウン会場になりますと栞に書いておいた。そして集まった4人で(当然本人は寝ているので不在)30分前からカウントし、15秒前から数を数え、0時になった瞬間ハッピーバースデーを歌った。その後はもくりのタイトルが「こうこさん誕生日おめでとう」になった。本人は不在だが、祝いが届けばいいなと思い、その様子を今日報告した(やはり本人はまったく感知していなかった)。こうこさんには今年はかなりの、いわゆるキャラグッズをプレゼントとして送った(去年は洒落たボディソープなどを送った)。チェンソーマンとA3!のグッズ詰め合わせと、最近こうこさんがステッカー収集にはまっているので、ロルバーンの横型ノートと、その表紙につける透明カバー。このカバーに(もちろん本体にでもいい)たくさんステッカーを貼ってくれというわけだ。カバーを掛け変えれば別のステッカーの表紙にもなるし、ノートを使い終わっても、また別のノートにステッカー付きカバーを使いまわせる。無限大の夢が詰まった商品だ。すごい。あとかわいいジェットストリームがあったのでそれもおまけで付けた。友人のことがわかっていると、好みにジャストなプレゼントを送ることができていいな、と思った。無事に喜んでもらうことができ、安堵。こうこさん達の界隈というか、周辺では、誕生日付近になるとAmazonのほしい物リストを公開して、本を贈り合うのが慣例になっている。私も1冊送った(川端康成の異相短篇集)。明日着くと思う。みな誕生日前や誕生日後にもばらばらと届くように注文するので、誕生月は本が不意に降ってくる月になるらしく、お祭りだなあと思った。私は欲しい本があったらすぐ買ってしまうので、そういった催しには縁がない。また、読むべき本が意図せず増えてしまうのも苦手だ。本が読める人はすごいと思う。どんどん買ったり借りたりしてぐんぐん読んでいく。脳が強くてつねに空き容量があるのだなあと感動する。私は脳が貧弱で物語飽和症であるため、フィクションを摂取できる量が少ない。買う本はほとんど小説ではない本で、それさえも読むのが遅いし、積む。本日の時点で机の横に置いてある「今読んでいる本」を写真に撮ったものがたまたまあったので貼る。
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資本主義、民主主義、キリスト教、アメリカ、というのが相変わらず私の興味の中心だ。若い頃はもっと日本の歴史や思想にも興味があったはずだが、今はそのあたりへの情熱が薄れている。ミュージカル「ラグタイム」のパンフレットにもまだ目を通しきっていない。アメリカの近代というものに、私たち日本の今が凝縮されている気がして、ついそのような本を手に取る。ベスト・オブ・エネミーズの上映を友人(ことこさん)に薦められたのはたまたまだが、あまりにも私向きのコンテンツだった。舞台って、ミュージカルと違って歌のうまさを気にせずフィクションの世界にのめり込めるからいいな、ということに気づいた。そして英語を聞くのも心地いいなと思ったので、最近は数人の友人にアマプラで見れる洋画を沢山教えてもらった。物語としてまとまった英語が聞こえてくるのは楽しいな、脈絡がある知らない言語っていいな、と思ったので、内容が見えなくても流しておくくらいはしたい。寝たまま映画や動画を見るためにiPadを買ってはどうか、ということをいよいよ本格的に考えている。
数日前に、正式に退職した。次職も決まっていない。なんとなく応募してはいるが、たぶん決まらないだろうと思う。色んな人が私に仕事を辞めるように言ったし、そもそもどうせ続かないということもよく言われたし、その人たちの思惑通りというか予想通りになり、私は悔しいような気持ちもあるが、ただ、また敗けたのか、と思っている。私が働くことを無駄だと思う人、そんなことに意味は無いと思う人、私が働くと都合が悪い人、色々いる。私は前職の仕事も同僚も本当に好きだったので、退職したことはかなり悲しい。しかし、体が動かないのであれば、もう仕方がなく、私の「失脚」を望む人々の希望通りになった。それはそれで少し落ち着いた気持ちになった面もある。心配して言ってくれているとか、現実を見て言ってくれているとか、そういうことは頭ではわかっているが、私は単に仕事がしたくて仕事が好きなのであり、それを否定してくるということは私に死ね、今すぐ自殺しろと言っているのと同義である。と私の心は捉えている。これはもちろん拗ねているのだと思う。そのような捉え方はよくないし、幼稚だと思う。しかし、それでも、なぜ、私のやりたいことを応援してくれないのか、なぜ、最初からできない、やるべきではないと言われなければならないのか、そんなに私に「生きない」でほしいのか、と感じる心の動きは自分で押さえられるものではなく、自然発生である。私にとって生きることは働くことであり、働けなくなったら死ぬしかないと思っている。実際この世はそうだと思うし、そう思うことでしか生きていけないような個人的な事情が私にはある。そのことはカウンセリングでの先生との対話を通して整理していくべき課題だと思う。
仕事を辞めたことで、うつ状態になる確率が急上昇し、ふとした瞬間に、あ、ここで落ちたらもううつになるな、という「手前」を感じる。実際ほとんどうつ状態で寝ているし、希死念慮と自殺企図が一日おきに発生している。無気力はややましになったが、その代わりに、という感じだ。そのストレスにより、偏頭痛が頻発し、予防の注射を打ってもなお、毎日偏頭痛薬を飲んでいる。酷い時は朝も夕も飲んでいる。自炊する気力もきっかけもうしなって、とりあえずロッテリアをウーバーイーツで頼み続けているため、明らかにまた太ってしまった。ウエスト部分がきついと吐き気も生じやすい。まずロッテリアを食べることを辞めるべきだが、これも正気を保つひとつの手段になってしまっている。
なかなか正気を保てない。寝ているか、食べているか、余力があれば友人と通話する。さらに無理をして外出、勉強ができるときもある。今日はほとんど何もできなかったが、明日が期限の書類を速達で出すことができた。今日の成果はそれのみ。英語の勉強をしたかったなと思う。大澤真幸の『資本主義〜』も早く読み終わりたいのだが、段々話のレベルが上がってきて、そこまで早くは読み進められない(やっと第3章:増殖する知、勢いがどんどん増していき面白い)。マイケル・サンデルの『実力も運のうち』も、西洋思想やキリスト教にかなり突っ込んだ内容のようだったので気になって文庫版を結局買ってしまった。諏訪部浩一の『現代アメリカ小説探訪』も、かなり歴史の補助線として有難い。教科書的に(体系的に)アメリカ史を学んだことがあるわけではないので、独自の個別講義から得た知識で穴埋めしていっている感はぬぐえないが、このようなやり方も面白いなと思う。日本の歴史は小学校から徹底的に外枠から内実の順に埋めさせられたが、世界史(外国史)の知識は今のところほぼないので、内実から外枠に向かっている。果たして自分でアウトラインを説明できるほどになるのかはわからないが、できるようになりたいとは思う。しかしアメリカは広すぎて、地理知識が日本史の比ではない。連邦国家ということがそもそもアメリカの特徴的なすがたであるので、アメリカ史というのは、12から15くらいの国の歴史を学ぶ感覚になっている。ざっくりと北部と南部、西海岸、東海岸、と思ってはいるが、とにかく都市や州ごとにルーツの違う人達だし、ルーツの意識とは別に「アメリカ人」として育った意識もまた別にあり、縦にも横にも重層的な国だと思う。しかもこれが近代になってから作られた人工的な国なのだから、びっくりしてしまう。それでも現代日本人である私には、明治以前の社会よりは、アメリカ社会のほうがまだ感覚が近しい。そこにはキリスト教という絶対的な断絶があるけれども、その断絶を眺める作業はかなり楽しい。その仕組みさえわかれば、あとはだいたい私たちと同じ、と思えるので(というのも落とし穴だと思うが)200年前のことでも理解しやすい。日本だと、200年前の人というのは、その感覚をほとんど想像できない。同じ列島に住んではいるが異国の人だと思う、旧日本人は。それでも文化や宗教への感覚がほぼ変わっていない点があると思うので(勉強不足のため曖昧な表現だが)、前近代の感覚さえ掴めれば、霊的な部分の繋がりには、キリスト教圏ほどの隔たりはないように思える。
紀伊国屋ホールで「燕のいる駅」という芝居を見た。和田雅成さんが主演のため、友人(となりさん。和田さんの長年の、かなり前線のファン)が観に行っているのを見ていいな、と思っていたら控えめに薦められたので、そのままチケットを取り、話をした翌日、つまり昨日見に行った。帰宅しながらとなりさんにLINEで感想をぽつぽつ送っているうち、2人ともすごい熱量の文章を送りあってしまい、ひとつの演劇作品について、こんなにも自由度の高い読み取り方ができてすごいなと思った。私の感じたことは実はあまりなくて、ただ芝居のテンポやリズムがおもしろくて、そういうのがいいな、と思った。となりさんは脚本(物語)についてもかなり考えていて、私はそこまで深く考えて見ていなかったので、ほんとうに、観劇や読書というのは、受け手の人生体験に依るところが大きいのだなと改めて思った。二次創作の恋愛中心の小説でさえ、やはり読んでいる時は自分の恋愛観や人間関係の記憶が読む時の手すりになっている気がするし、人の数だけ物語がある。受け手が創造しているんだよな、と思う。私はこの、同じものを見たり読んだりしても、頭の中には違う物語が残っている現象というのがとても好きである。受け取り手がいて初めて物語は出来上がると思う。もちろん、書いている人も書きながら読んでいるので、書き上がった時点ですでに物語が1つできている。みんなそうやって、物語を読みながら、自分の人生に整理をつけて生きていて、偉いなと思う。私は読むことによって自分の人生の記憶と向き合うことを避けているのかもしれない。それはあまりにも大きな消耗を伴うため。読んでも読んでもすり減らないくらいに強くなりたいが、それはなろうと思ってなれるものなのだろうか。
2023.9.29
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kyotoopnaku · 7 months
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京都タワーの下にある話題の人気スポット「KYOTO TOWER SANDO」を会場に「くるり」づくしのサテライトスポットが、期間限定で誕生!
地元京都のランドマーク、京都タワーの下にある「KYOTO TOWER SANDO」を会場に京都を満喫できる人気店が軒を連ねる話題の人気スポットならではの各店と、くるりの『FLAG RADIO』が、スペシャルコラボ! 『α-STATION × KYOTO TOWER SANDO SPECIAL SATELLITE くるりのさんど』と題して、9/30(土)-10/9(月・祝)の10日間期間限定で、開催します。
このサテライトスポットでは、くるりの最新アルバム「感��は道標」にちなんで、あなたの感覚を刺激するメンバーがチョイスしたオンパクの帰りにも食べてほしいコラボフード&ドリンクが、合計20メニュー登場!また、「京都音楽博覧会2023」公式Tシャツの先行展示、『くるりのえいが』のスチール写真の特別展示や、さらには「FLAG RADIO」特別番外篇として、結成当時のオリジナルメンバーである岸田繁・佐藤征史・森信行の3人が久しぶりにDJとして登場。
約半年間をかけ、制作された注目のニューアルバム「感覚は道標」のレアなエピソードを、結成当時オリジナルメンバーならではの3人が語り合う、期間中の「KYOTO TOWER SANDO」館内放送、及びポッドキャスト配信限定でお届けする『HANG OUT QURULI’S FLAG RADIO』と題したラジオプログラム風のスペシャルコンテンツをお届けします。
また、期間中は「京都音楽博覧会2023」前売券、もしくは開催当日のリストバンド掲示で、京都タワーサンド館内対象店舗にて受けられるお得な特典や、抽選であたるスペシャルプレゼントがあったり、「京都音楽博覧会2023」終演後の2日間には京都タワーが、「京都音楽博覧会」カラーに灯り、街がまさにオンパク色に染まる、そんな「くるり」づくしの特別な10日間となっています。
◾️『α-STATION × KYOTO TOWER SANDO SPECIAL SATELLITE くるりのさんど』 <期間> 2023.9/30(土) ~ 10/9(月・祝)計10日間 <時間> B1F: 11:00–23:00 / 1F :10:00-21:00/ 2F: 10:00–19:00 ※一部店舗は異なります。 <会場> 京都タワーサンドB1F~2F(〒600-8216 京都市下京区烏丸通七条下る東塩小路町721-1) 詳しくはこちらからhttps://fm-kyoto.jp/information/info-138576/
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todo-of-wakayama · 1 year
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『晏子春秋』「雑下」から南橘北枳に関する抜き書き
晏子、将〔まさ〕に楚に至らんとす。楚之〔これ〕を聞きて、左右に謂〔い〕ひて曰〔い〕はく「晏嬰、斉の習辞の者なり。今方〔まさ〕に来たらんとす。吾、之〔これ〕を辱めんと欲す。何を以〔もっ〕てせんや」と。左右、対〔こた〕へて曰はく「其〔そ〕れ来たらば、臣請ふ一人を縛し、王を過ぎて行かん。王、曰はく『何を為〔な〕す者か』と。対へて曰はく「斉人なり」と。王、曰はく「何にか坐〔ざ〕せる」と。曰はく『盗に坐せり』と」。 晏子、至る。楚王、晏子に酒を賜〔たま〕ふ。酒酣〔たけなは〕、吏二り、一人を縛して王に詣〔いた〕る。王、曰はく「縛れるは曷〔なに〕を為す者ぞや」。対へて曰はく「斉人なり。盗に坐せり」。 王、晏子を視〔み〕て曰はく「斉人、固〔もと〕より盜を善くするか」。 晏子、席を避けて対へて曰はく「嬰、之を聞く。橘〔たちばな〕、淮南に生ずれば則〔すなは〕ち橘と為るも、淮北に生ずれば則ち枳〔からたち〕と為る。葉、徒〔いたづら〕に相似するも、其の実、味同じからず。然る所以の者は何ぞや。水土異なればなり。今、民、斉に生長して盜まず。楚に入れば則ち盜む。楚の水土、民をして盗を善くせしむる無きを得んや」。 王、笑ひて曰はく「聖人、与に熙とする所に非ざるなり。病を取りて反〔かへ〕す人、寡〔すく〕なし」。
晏嬰が今にも楚に到着しようとした。楚の王は聞いて、左右の家臣に言った。「晏嬰は斉の優れた文官だ。今にも来ようとしている。私は晏嬰に恥をかかせてやろうと思う。何をするか」。家臣は答えて言った。「晏嬰が来たら、私が他の一人を縛って、王さまの前で連行したいと思います。王さまは『何をする者か』と聞いてください。『斉の人です』と答えます。王さまは『何の罪か』と聞いてください。『盗みの罪です』と答えます〔斉は犯罪者が多いとバカにしてやりましょう〕」。 晏嬰が到着した。楚の王は酒を下賜した。宴がたけなわの頃に、役人2人が、1人を縛って王の前に進み出た。王は言った。「君たちが縛る者は何をしたか」。役人は答えて言った。「斉の人で、盗みの罪を働きました」。 王は晏嬰を見て言った。「斉の人々は生まれながらに盗みがうまいのですか」。 晏嬰は席を立ち、改まって答えて言った。「私めは聞いております。タチバナは、淮河の南に生えればタチバナとなるのに、淮河の北に生えればカラタチとなる。葉はやたらと互いに似ていますが、実は味が同じではありません。理由は何でしょうか。水や土が異なるからです。〔斉の住民は善良で〕今、住民が斉で生まれ育って盗みをしないのに、楚に入ってすぐに盗みをした。楚の水や土〔他国の使者を侮辱しようと悪ふざけをするような文化〕が、住民に盗みをさせるのではないでしょうか」。 王は笑って言った。「聖人が共に喜ぶような話ではない悪ふざけだった。われわれの問題を指摘して反論する人は少ないものだ」。
書き下し、現代日本語訳ともに私にした。
(参照)
晏子春秋 : 內篇 : 雜篇 : 雜下 : 楚王欲辱晏子指盜者為齊人晏子對以橘 - 中國哲學書電子化計劃 https://ctext.org/yanzi-chun-qiu/chu-wang-yu-ru-yan-zi/zh
漢文日録30.5.19 http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.30.05.19.htm
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ari0921 · 9 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)8月15日(火曜日)
   通巻第7863号
碧佳園(中国最大手デベロッパー)、ドル建て社債をデフォルト
 嘗ては「中国一番の金持ち」と言われた女社長、いまや杜子春
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 碧佳園は英文名がカントリー・ガーデンという。
 中国へ行くとあちこちにマンション団地を造成し、ショッピングモールを建設して「バブル」の代名詞、悪名を馳せた恒大集団より、じつは規模が大きい。建設中のマンションでいえば恒大集団の四倍ともいう。
 碧佳園は広東省仏山で起業し、おりから華南の不動産ブームであてて急成長を続けてきた。
2007年4月、香港市場でのIPO(新規株式公開)には16億ドルの応募があった。創業者の楊国強で娘の楊恵燕に全財産を譲渡したため、いきなり25歳の女社が中国一の金持ちとなった。個人資産は600億ドルとも言われた。彼女はかなりの株式を社会事業団体に寄付した(楊恵燕は「楊恵研」とも書く。「研」は女篇)。
中国の不動産ブーム、それも投機資金が雪崩れ込んでの異常な現象は2020年頃まで続いた。そしてバブルがはじけた。人類史始まった以来の、未曾有の不動産暴落が始まった。
碧佳園のドル建て社債のうち、2250万ドル(32億6000万円)分の社債は22年末に75セントに暴落し、23年初に14セント、8月13日には8・7セントと紙くずに近く、株価は前年比65%の暴落を示している。
このドル建て社債の利払いができなくなった(8月6日)。30日の余裕期間があるが、たとえば利払いに漕ぎ着けてもそれは一時凌ぎ、恒大集団のように、債務超過が54兆円規模。碧佳園は、恒大集団より大きいから悪影響は、中国経済を致命的なレベルに落とし込む可能性がある。
なお大手デベロッパーの緑地集団と遠洋集団も社債デフォルトに陥った模様で、「たぶん助かるのではないか」と言われた大連万達集団も、幹部が逮捕される事態に及んだ。大連万達集団は海外で映画館チェーンを買収し、ハリウッドのは映画スタジオを買ったことでアメリカでも有名だが、中国全土に万達(ワンダ)ホテルチェーン、テーマパークなどを建設した。これらをすべて売却し、利払い返済にあててきた。
 これらに加えて中国の建設企業が海外で起債したオフショア債は5800億ドル(84兆円)にのぼるという。
 ▼マレーシアにも豪華ホテル、リゾートマンションが完成。たちまちゴーストタウンとなっていた
 碧佳園は「一帯一路」がら���でマレーシアにも大規模投資を行っていた。
 十年近く前だったろうか。シンガポールで予定が一日空いたことがあり、国境を越えてジョホールバルへ向かった。この地で蓮田善明が自決したのだが、その軍営跡地を探そうと日帰りでマレーシアへ行った(軍営跡地はペンペン草、自決場所は特定できず)。
そのときにジョホールバルで目撃し、知人から聞いた話では、「碧佳園は、沖合の島に橋を架けて、豪華リゾートマンションを林立させ、それを中国ばかりか東南アジアの華僑に販売していた。この大リゾート地を「フォーレスト・シティ」と名付けた。
 フォーレスト・シティはシンガポールとの間にある1370ヘクタールの土地に、70万人規模の人工都市を作る計画だった。マハティールの前任者が中国との契約をおこない、マレー側が40%、碧佳園が60%の合弁企業を設立し、豪華マンション、豪華ホテルなどは、碧佳園が建設、これまでにおよそ1万戸を販売した。買い手の9割が中国人だった。総事業費1000億ドル。マンションもホテルも完成したが、いうまでもなくゴーストタウンとなった(ちらほらリゾート客がいるていど)。
 当時、マハティール首相は「あそこはフォレスト、シティではない。オランウータンの島だ。(開発などとんでもない)。自然に戻せ」発言した。
 環境問題、とくに生物の生態系が破壊されるとして猛烈な反対が起こり、2015年にマレーシアは、「フォーレスト・シティへの外国人投資」禁止した。
従来のように投資移民にはビザを発給しない。「フォーレスト・シティは外国の植民地ではない」と述べた。
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myonbl · 9 months
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2023年8月2日(水)
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先月届いた<京都みなみ会館>の閉館ニュースは、とても残念だった。リニューアル直後からのサポート会員ではあるが、実際に足を運んだ回数は誇れるものではなく少し罪悪感さえ感じている。ということで、夏休み期間中に可能な限り出かけることにする。とは言え、私が選んだものは126席のスクリーンに5名だけ、いくら平日とは言えこれでは厳しいよなぁ・・・。
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5時30分起床。
日誌書く。
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今回のお蕎麦はこれで最後、明日の朝食はパンにしよう。
洗濯1回。
弁当はツレアイと3男の分。
空きビン・缶、45L*1。
ゴミ袋がなくなったので補充しなければならない。
ツレアイを職場まで送る、リモートで先に冷房していたのでとても快適だ。
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京都みなみ会館へとやって来た。本日選んだのは・・・
陸送屋のコワルスキーは、70年型ダッジ・チャレンジャーをデンバーから1200マイル離れたサンフランシスコまで15時間で届けるという無謀な賭けをした。爆走するその車を追って各州警察が追跡を開始。警察無線を傍受した盲目の黒人DJスーパー・ソウルは、ラジオでその模様を実況中継する。大勢の野次馬やメディアが押し寄せる中、コワルスキーは、ブルドーザーが道路封鎖するバニシング・ポイント<消失点>に向かってアクセルを踏み込んでいく…。
『バニシング・ポイント』は、権力への反抗と現実に敗北する者たちを感傷的に描いた多くのアメリカン・ニューシネマとは一線を画し、作品全体の乾き切った精神性に加え、遡行と跳躍によって非直線的に描かれる【時間】という概念の表現を革新、かつてない高みに達した鮮烈・孤高の雄篇だ。現実に対する底知れぬ虚無と諦念を抱え、速度の限界に挑むコワルスキーの姿は、観る者をスピードの陶酔と快楽の果て、時空も生死も超越した無限の境地へと誘っていく。
タイトルは覚えていたが、映画が始まってすぐにすでに見ていたことを思いだした。とは言え、おそらくテレビで放送されたものだったと思う。70年代初頭の空気感と音楽、いやぁ良かった!
帰路にライフ西七条店で買物、ゴミ袋(2種)と鱧皮を購入する。
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ホンダからメールが届く
以下のとおり契約の更新手続きが完了いたしましたのでお知らせいたします。 詳細は添付の契約書(PDF)をご確認ください。
【受付内容】 ------------------------------------------------------------------------------------ 購入日 : 2023年8月1日 操作者 : 自動継続による購入 HTC会員番号 : HTC7299452837 対象車種 : フィットハイブリッド(京都544す1105) 対象サービス : 基本パック (月額) お支払金額(税込): 550円 ------------------------------------------------------------------------------------
あれ、手放した前の車に課金されている。ディーラーは定休日なのでコールセンターに電話、アプリで自分で解約手続きが必要とのことだ。恐らくセールス担当も知らなかったのであろう、納車時に説明はなかった(と思う)。電話を切ってアプリにログインするが、今の車の情報が表示されるのでこれを解約するわけにはいかない。再度コールセンターに連絡、アプリの車の画像をタップすれば以前の車の情報が表示されるとのこと、なるほど過去2台分の情報がちゃんと残っている。やっとのことで<過去車>に変更して解約することができた。しかし、アプリ時代の世の中、対応できない高齢者は多いだろうなぁ。
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ツレアイは<ノー残業デー>とのことで早めに帰宅、みなで夕飯を頂く。さんだかん燻製工房の無添加ベーコンと奥川ファームの平飼い有精卵とのベーコンエッグ、ささみ燻製、キュウリとわかめの和え物、トマト+レタス。息子たちにはヱビスビール、私たちは賀茂鶴を冷やし、魚は鱧皮とキュウリの和え物。
片付け+入浴・・・のはずが、冷酒が効いて先にダウンしてしまった。
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今日の京都は38℃越え、こんな日は無理してはいけない。水分は、1,530ml。
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aya-ebina · 1 year
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2022年のまとめ
今年も残るところ1日半、自分で引き起こしたとはいえ仕事面が激動の1年でした。詩はあまり変化なくやっています。例によって、時系列ではなく出来事別に振り返ってみます。
★仕事と生活
2月に引っ越し、4月に立場が変わり、7月に転職活動開始、10月に転職と忙しなかった。長いこと前職への違和感があって、それに目を瞑り続けるのが苦しくなったので、年齢的にもほぼ未経験で転職する最後の機会だろうと思い、転職活動を始めたところ、めちゃくちゃスピーディーに決着した。障害者枠なので、お互い探り探りという感じはありつつ、無事に年末を迎えた。
生活面は近所に馴染みのお店などを作りたいなと思いつつ、それができていない。「町の本屋さん」を探しても近くにはないし、ブックカフェはちょっと雰囲気もコーヒーの味も通うほどではないと思った。カフェに関してはチェーン店があるので、結局そこへ入ってしまいがち。縁もゆかりもない街に、利便性と雰囲気が気に入ってやってきたので、ゆるくていいから何か繋がりを持ってみたい。
★推し活
生活を圧迫しない程度に、ミュージシャンを追いかけることも続いている。本当にただ歌声と曲調が好きだ、という理由だけで聴いている。飽きるのかなと思ったのだけど飽きない。ライブも行ったし、ファンクラブの更新もしたし、年明けのファンクラブ限定ライブも当選した。ライブで聴く歌声は音源の何倍も素晴らしいし、「ここで今音楽を浴びて、同じ空間を作っている」という感覚が楽しい。あと、大きな夢を持って叶えるために進んでいる姿を見ると、勝手に励まされて、自分ももうちょっと詩を頑張ろうと思う。
それから、10年以上ぶりに連続ドラマを全話見た。Silent。ネットで手話サークルを調べている時に、今期のドラマに手話を扱ったものがあるという話題を見かけて、Tverで見たのが始まり。手話も上手いし、演技力もすごい。特に、泣きの演技が凄まじい。あと、手話と日本語が両立しているというか、対等の“言語”として扱っているとも思った。聴覚障害者を“音が聞こえない・声で話せない可哀想な人”と見るのではなく、“音声言語ではない、違う言葉を使って生きている人”というような表現をしていると思った。それは、障害の有無に関わらず、みんなそれぞれ”違う生き方をしている”ということであって、障害者はその”違い”が見えやすいということなのではないか。よいドラマだったので、思わずシナリオブックを買った。
★詩
こちらは低め安定という感じだった。原稿依頼をもらうことはなかったけれども、自分で淡々と書いていた。ネットプリントは、あまり自分には合わないと思ってやめた。それで、webに載せようと思った詩はサイトの「詩」のページで更新する方式に戻した。
私家版詩集を作ることも個人詩誌を作ることもなかった。次の詩集に関しては引越し代に貯金が消えたのもあって、進捗はほぼない。一応並びを考えて、タイトル案を出した。明日までに書いた詩で構成することを決めているので、来年の早いうちに再度見積もりを依頼したい。できれば、9月の文学フリマ大阪で販売したい。
詩を書いた数としては、ノートに書いたあとデータで清書したものは31篇、完成したと思えたものはもっと少ない。月に約2.5篇だから、昨年に続いて、自分としてはあまり書いていない1年だった。わたしはたくさん書いて、よいと思ったものを残す書き方をするので、ある程度数を書かないとよいものも残らない。ボツになるとしても、週に1篇くらい書いておきたい。
12月に合評会を主催した。ネットで参加者を募って、誰ひとり来なかったらどうしようとか、来てもらっても盛り上がらなかったらどうしようとか心配していた。実際は、自己紹介と雑談から始まってよい雰囲気で話と合評ができたと思う。自分の負担が過重にならない頻度で続けたい。
★まとめ
生活面を再構築する1年だった。新しい家にも新しい職場にも慣れたので、来年はもう少し動く年にしたい。ひとまず、1月15日日曜日に文学フリマ京都へ出店する。その辺りの予定や目標についてはまた別の記事で。
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patsatshit · 5 months
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いまの世の中の風潮的にこういう言い方をすると色々と問題になってしまうのかもしれないけれど、僕は昔から女性が苦手で、いや、苦手というか怖い存在と言った方が良いかな。フェミニズム云々とかではなく、対峙したときに生き物として畏怖の念を抱いているというか、純粋にかなわないと思ってしまう。これは男女という性別には関係のない話やけど、人って打算的やし残酷でしょう。たまたま僕はこれまでの人生でそういう女性と多く出会ってきたから、ある種のトラウマになっているのかもしれない。文筆家OBATA LEOはそんな僕が素直に話ができる数少ない女性のひとりで、彼女が自主制作しているZINEを読んだとき、年齢や性別に関係なく、この人とはもっと話がしたいと思った。だから今回のインタビューで彼女の素顔に少しでも迫っていけたら嬉しいし、それによって僕自身がトラウマを克服できたら最高!
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〔土井〕 そんな訳でLEOちゃん、今日はよろしくお願いします。あなたの素顔に迫りたいということで、いきなりで申し訳ないんやけど、LEOちゃんはメイクは念入りにする?それともスッピンでも平気な人?
{LEO〕畏怖の念というの、当たり前かもしれませんが自分はあまりピンとこず、それはさておき、話したいというのはとても嬉しいお言葉です。土井さんに対する自分の思いは話し出すと長くなるのでここでは割愛しますね(笑)。インタビューの最初の質問って、文章の書き出しと同じでその後の流れを決める置き石のようなものですが、無駄のない場所に置きはったなという感想です(笑)。メイク、友達や知り合いや初対面の人と会う日、休みを満喫するぞって日は絶対めっちゃします。でも誰とも会う予定ない日は日焼け止めすらせず出かけてますね……。本にも書いたんですけど、メイクって自分にとっては、したくてやってると言い切れるわけでもなければ、したくないのに嫌々やってるとも言い切れるわけでもない、微妙な行為で。川上未映子の『乳と卵』という作品で、豊胸手術について、「それは社会に思い込まされてるんや」という意見と「自分がしたいからするんや」という意見が対立して決着がつかない、という場面があります。自分もフェミニズムというものを知ったとき、そういうジレンマに陥って、なんなら「社会に思い込まされてることを全て取り除いて真の欲望を見つけたいと思う」みたいな文章まで書いたんですけど、今となってはそんなことは不可能やしあまり意味もないのかもと思ってます。
〔土井〕うーむ、良いね、出だしからヒリヒリとした緊張感があるわ、前回の小野ちん(moanyusky)のときとはえらい違いや(笑)。そう、でもやっぱりメイクって自分のなかでは割と重要で、メイクは女性だけに限った話ではないとはいえ、やっぱり男性でメイクをする人はまだまだ少数やし、僕らおっさん連中のほとんどがむき出しの顔面を晒して生活してしているのに対して、女性の多くはメイクで日々、自分の顔を変化させることができる。メスで皮膚を傷つけることなく、その日の気分で変身できるというのは、なかなかにショッキングなことで。『乳と卵』は僕も大好きやし、未だに川上未映子の最高傑作やと思ってる。あそこで描かれる能動的か受動的かという問題、実はタラウマラのご近所さんで実際に豊胸手術をした主婦の方がいて、その人は旦那が胸が大きい方が好きなんだろうと思って実際にやってみたら実は旦那の好みはそうではなかったと知って、めちゃくちゃ後悔してはった。旦那を喜ばせたいという自発的な想いが発端とはいうものの、その背後には無意識に旦那の好みに寄せていくという受け身な態度が窺い知れる。しかもそれが思い込みやったとなれば更に話がややこしくなる。ほんま人間はどこまで能動的に振る舞えるんやろうね、甚だ疑問やわ。そう言えば『乳と卵』のなかに巻子と緑子という親子が互いに自分の頭で玉子を割ってドロドロになる描写があったやん。あれって卵子を破棄したいという願望の現れやと思うねんけど、LEOちゃんの最新作『目下茫洋』のなかにも子宮を爆弾に例えて「それを運び続けることが、すなわち生きることになっている」という強烈な表現があってゲロ吐きそうになってん(賛辞)けど、それ以外の箇所も含めてあきらかに前作『ROLLER SKATE PARK』とは異質の内容になってると思う。前作から今作に至るまでの期間に何か心境の変化のようなものがあったの?
〔LEO〕なるほど!!いわれてみればストレートな比喩やのに、卵の場面でその解釈を思いつきませんでした……!殻が割れるというのが、二人の心の殻が割れるってことを暗示してるんかなぁと思ってました。あとはその卵を体にぶつけて割るという非日常的である意味馬鹿らしい行為を共有することで、関係も変わったんかなぁとか。そもそも、あの話でもなんで巻子が豊胸手術をしたいかっていうのは謎なんですよね。他の人とその話をする機会があったときに聞いた意見で妙に納得したのは、豊胸手術をすれば全てが上手くいくという願いみたいなものがあったんじゃないかというので、それは実際の土井さんのご近所さんの話を聞いて、改めて重ね合わせてしまいした。旦那さんを喜ばせるためには、豊胸手術をする以外の形もあったはずや��に、それが選ばれたという事実について、考え込んでしまいます。ZINEの内容としては、『目下茫洋』の原稿を書き始めたのは、『ROLLER SKATE PARK』と同じタイミングで2022年の9月です。でも最後の最後まで完成しきらず、また最初に出す作品で「女性の書き手」というイメージをつけたくなかったので、別の機会に回すことにしました。一年経って、やっと踏ん切りがついたので、今回出したというような感じです。なので、心境の変化は特にないですね。それどころか、2022年の9月に書きはじめるときにも、2020年とかもっと前に書いた別の原稿を原型にしたので、むしろ『ROLLER SKATE PARK』の方が異質な内容といえるのかもしれません(笑)。
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〔土井〕そうなんや!あの2冊は同時期に書かれたものなんや!それはびっくり!あれをがっちゃんこして1冊にしないところがニクいね(笑)。でも「女性の書き手というイメージをつけたくない」という気持ちはわかる気がする。社会そのものが「女性」というイメージを操作する機械やとしたら「女性」の書き手にとってはこのことほど煩わしくて鬱陶しいものはないよね。機械についてはドゥルーズの言葉を引くしかないけど「一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である」っていう、何回読んでもきちんと理解できないドゥルーズなりの概念があって、さっきの能動的か受動的かという話に戻るけど、要するに手を取り合ったかと思えば手を離すということをひたすらに繰り返すってことやんな(違ってたらすみません!)。『ROLLER SKATE PARK』が流れを発する機械やとしたら『目下茫洋』は、この発せられた流れを切断する機械やという感じかな。でもあれは確かにぶった斬りにきてるよね(笑)。そもそもLEOちゃんが「能動的」に文章を書きはじめた、あるいはそれをzineにしようと思ったきっかけは何なの?
〔LEO〕機械の例えはほんまにそうですね……。操作できないレッテルを貼られた箱のなかに勝手に分類されるときの無力さは筆舌に尽くし難いものがありますね。ドゥルーズのその文、帰り道で何回も考えてみたけど難しい(笑)。能動と受動に関しては、自分も全然答え出てないです。「能動的に」文章を書きはじめたきっかけやZINEにしようと思ったきっかけもいまいちはっきりとはしてなくて。文章は小学2年生くらいに挿絵つきの物語を書きはじめて、3年生くらいのときに大学ノート一冊分くらいの勧善懲悪的な物語を書いてたのは憶えてます。子供向けの賞にも応募したことあったような。中学生のときは音楽の感想を書くブログに熱中してて、高校生のときは今もたまに更新してるはてなブログで書いたり、掌編を書きかけては筆を投げたりしてました(笑)。大学に入ってからも、気づいたらtumblerやGoogleドキュメントやノートに文章を書いてて、なんか書こうと思って書くよりは気づいたら書いてる(書かないとやってられない)って感じで、それこそわりと受動的な部分や習慣の部分が多いと思います。ZINEは大学に入る前から出してみたいと思ってたんですが、なかなかまとまった文章を書けずにいて、最後のひと押しをしてくださったのは他ならぬ土井さんです!
〔土井〕え、ほんまに!なんにせよLEOちゃんの文章が世に出るきっかけになれたんやったら、素直に嬉しいわ。それにしても小学校低学年から物語を書いてた��いうのはすごいな。僕は二十歳のときが最初で、司馬遼太郎の『燃えよ剣』をまんまギャングの抗争に置き換えた内容で(笑)。いま思い返してみてもほんまに恥ずかしい!でもその恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はなかったなぁとは思う。そういう意味でも勧善懲悪の物語を経た、いまのLEOちゃんが書いた小説を読んでみたいな。エッセイや日記はもちろん素晴らしいけど、僕はやっぱり根本的に「嘘」が好きやから、あなたの「嘘」つまり小説が読んでみたい。そう言えばLEOちゃんとはじめて会ったときに別役実の『ベケットといじめ』という本をオススメしてくれたやん。後に僕がイジメ体験者であることを知って、めっちゃ気にしてくれてて、ええ子やなって思ってん(笑)。あの本のなかで中野富士見中学で起きた「葬式ごっこ事件」を題材に、自殺した被害者も含めてあそこに関わった全員が何らかの役割を演じていたという指摘があったけど、いまでいう同調圧力、それかやっぱりドゥルーズの機械云々がふたたび頭をよぎる。まさにLEOちゃんの言う「箱のなかに勝手に分類される」感じで、そういうのは決して珍しいことじゃない。むしろいまを生きる者みんなが何かしらの役柄を演じてると言えなくもないし、ちょっとゾッとするよね。そう言えばLEOちゃんは『ベケットといじめ』の解説を書いていた宮沢章夫さんの演劇に役者として関わったことがあるんやろ?そのときのこと詳しく教えてほしいな。
〔LEO〕いや〜話したことに対してこんな熱量で返してもらえるのに「インタビュー」って、改めてすごいです(笑)。初めに書いたのがギャングの抗争やったんや、面白い!「その恥ずかしさの先にしかいまの自分の作品はない」ってほんまに間違いないですね。まぁ自分はまだ青二才なので、今も恥を塗り重ねてる最中ですけれども(笑)。小説、実はまさに一昨日書きはじめたところです。今回2作目のZINEを出してみて、いわゆるエッセイの形では今自分が書きたいことを表現するには限界があるなと感じて。それで、題材は現実からとるにしても、嘘の物語を書いてみようと思いました。「ベケットといじめ」のその指摘は本当にぞっとするところですよね。個々の人間の強い意志や悪意じゃなくて、場の雰囲気が人々に演じさせ、死にまで追いやるという。演劇については、当時はあまりピンとこなかったというのが正直なところでした。でも今の話でいうと、ちょうど先生の演劇に出る前に、友人が主宰してる劇団のワークショップで「目の前の相手を馬鹿にする」という演技をしたときに、普段とは違う強い言葉や嘲りの語調が自分の上に現れてきたのはびっくりしました。「役を演じる」というのは、それほど力のある怖い行為なんやと思います。「ゴドーを待ちながら」では、少年の役だったんですが、「わざと演じようとしなくていい」と言われていたので、演じるという感覚はあまりなかったし、思わず感情移入するような話でもないので、台詞をどんな風に言うべきか迷ってました。ご期待に沿えず申し訳ないのですが、実は当時の稽古のことよりも、帰ったらなんか焦りながら新書を読んでたことの方をよく憶えてます(笑)。当時はわかりやすく言葉の形で手に入るもの(知識)だけが価値あるものやと思ってて。小説という表現や、役者の人が身体に蓄えてきたものの豊かさとかに、全然思い及んでなかったです。教授としての宮沢章夫に5年も習ってやっと、価値あるものは世界のどこにでも遍在してるんやということに気づけました(笑)。先生は、街をフィールドワークさせたり、好きなものについてプレゼンさせたり、昔の映像を見せたり音楽を聴かせたりと、いわゆる「学問」的なアプローチではない授業をやっていました。それを勘違いして「楽単(単位をとりやすい楽な授業)」として舐めた態度で授業を受けてる学生も多かったですが、実際のところ受け身でも何かが身につくように親切に教えてくれるわけではなくて、街をフィールドワークする授業では、自分で実際に歩くことでしか見つけられない視点を得てきたかというところを厳しく見ていました。印象的だったのは、ただ通行人が新宿の駅前を歩いてるだけの映像を3分間くらい見せたあとに、先生ひとりが「面白いよねぇ」と笑っていたことで、このニュアンス伝わるかわかりませんが、この人は皆に全然見えてないものが見えるんやなと(笑)。
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〔土井〕めちゃくちゃ興味深い話がいっぱいなだれ込んできた(笑)!LEOちゃんの小説、それはヤバい、楽しみすぎる。日記専門店「日記屋 月日」でディレクターをしている蟹の親子さんともよくこの話をするねんけど、やっぱり僕らは「ほんまもんの嘘」を肯定できなくなったら終わりやと思うねん。いまはどちらかと言えば「嘘」は「フェイク」と貶されて、「ほんま」は「リアル」だと厚遇される。僕はどうしてもそういう価値観とは相性が悪い。本来フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の「語り」はあると思うねん。せやから「あの登場人物のモデルは誰ですか?」とか聞かれても返答に困ってしまう(笑)。「目の前の相手を馬鹿にする」ワークショップの話もめっちゃおもろいな。そこでLEOちゃんの脳みそに降りてきた罵詈雑言の数々……どんな感じやったんやろ、想像でけへん(笑)。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーもまさに同じような境地に立ったんとちゃうかな?ふとしたきっかけで自分のなかの底なしの悪意に気がついてしまうことはある。たまたまレジャーはそこから戻ってこれなくなったのかもしれへん。僕は『ダークナイト』が大好きなんやけど、何が凄いってジョーカーが自身の口が裂けた原因を語る場面で、あるときは「親父のせいでこうなっ���」と言い、また別のあるときは「妻のせいでこうなった」とか言うねん。めちゃくちゃ怖いやん。しかも最後まで明確な根拠が提示されないままに映画は終わる。「何らかの要因があって、こうなった」というのは、あらゆる物語にとって逃れ難きテンプレートやと思うけど、ジョーカーにはそれがない。すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る。笑い飯の漫才にも優しいおばあちゃんが自分の畑の土から出てきたモグラをスコップで叩き殺す、みたいなネタ(哲夫が披露した「すべらない話」かもしれない)があったような気がするねんけど、ああいうのが一番怖い(笑)。ある種の物語に依存している人たちは何でもかんでも原因があって結果が生ずることを求めるけど、実際は人間ってそんなにわかりやすいものでもないやん。恨みとかなくても笑いながら人を刺す奴も絶対おるで。例えば自分の作品でいうと『JAGUAR』の終盤で前後の脈絡なく唐突に「常温でも冬場なら五日、夏場なら二日は日持ちしますよ」みたいな語りが出てくるねんけど、あれはほんまに自分でもわけがわからない(笑)。なんのこっちゃさっぱりやで。でも日常生活においては別に珍しいことでもなく、普通に歩いていても突然色んな言葉や考えが降って湧いては消えていくやろ。だからあのまま残してん。なんかLEOちゃんの話を聞いていると、宮沢章夫さんは講義や演劇を通じて学生たちにそういうことを伝えたかったんちゃうかなぁって思うわ。そうそう、あとあなたを見ていていつもハッとするのが印象的なファッション。すごく似合っているし、魅力的やと思うねんけど、あの独特のファッションは自分なりに考えがあってのことなん?
〔LEO〕「フェイクかリアルかみたいな単純な二項対立からは逃れたところに小説の『語り』はある」っていうの、ほんまにそうですね。小説のなかは独自のルールで動いてる一個の世界で、どんなに現実っぽい見た目してても現実ではないから、それを現実の物差しで測ってリアルか否かを問うのはなんか違うなと思います。その映画は知らなかったんですが、毎回別の説明するのめっちゃ怖いですね(笑)。宮沢先生は演劇も笑いもいわゆる「不条理」な感じなので、近いと思います。因果関係については、小説書きはじめてみてもう早速ぶつかってる壁です。いや、読んでる側のときはなんでもかんでも因果関係で解明しようとする読みはつまらんのちゃうかと思ってました。例えば、夏目漱石の「こころ」でなんで先生やKが死んだのか?みたいな問いって、物事の因果関係の層で片付く問題じゃないと思ってて、仮にあれが個別の具体的な人間に抽象的な概念を象徴させてる話なんやとしたら、そこで出来事だけ追って説明しようとするのってナンセンスやんと思ったり。でもいざ書こうとしてみると、なかなか因果関係から逃れるのって難しいですね。「すべては突発的に、因果関係なしに起こり得る」っていう土井さんの捉え方は、もしかしたら他者の捉え方を反映してるのかなって思いました。tumblerの記事とか読ませてもらってても、勝手に合理的な説明を作って納得しようとしたりするよりかは、他人は他人でわからんもんやって大前提がある気がして、清々しいなと思います。ひとが皆、自分が理解できるような形で自分の行動の意図を説明してくれるわけじゃないですもんね。ファッションは自分なりに気を遣ってるところではあります。顔が地味やから、せめて服だけでも派手にしよう、みたいな(笑)。でもZINEでも書いたみたいに、本来の自分を「粉飾」してる感覚で、つい服を買ってしまうけど、常に微妙な引っかかりがある。真剣に服が好きな人とは対立する価値観やと思うんですけど、服(やメイク)って所詮は見た目のところでしかなくて、本当に大事なものは精神のところにあるんやとも思ってて。だから、いつか坊主にして毎日同じ黒のシンプルな上下を着るみたいな日々を送れたらなとも思うんですけど、なかなか踏ん切りがつかないでいます。
〔土井〕嫌や!LEOちゃんが坊主の黒服は何でか知らんけど嫌や(笑)、ってこれも勝手な理想の押しつけやねんなぁ。ほんますんません。うちの奥さんもたまに「坊主にしたい」とか言うときがあって「嫌や」って言うたら「自分は私が嫌やって言うてもタトゥー彫ってるやん」って怒られる(笑)。人間って自分勝手やな。ファッションに関連した話で、今年の8月に大阪の音楽イベントに出演した韓国のDJ SODAさんが性被害を受けた事件があったやん。DJ SODAさんの身体に故意的に触れた奴が「あかんことをした」というのは大前提にして、僕はあのDJ SODAさんのファッションやセックスアピールと誤解されても��方がないようなジェスチャーがとても怖い。彼女は「私は服を選ぶ時、自己満足で着たい服を着ているし、どの服を着れば自分が綺麗に見えるかをよく知っているし、その服を着る事で自分の自信になる」と言うていたけど、やっぱりそれを目の当たりにすることによって気まずさを抱える人間や、性的に興奮してしまう人間がいることも頭の片隅に置いとかないとあかんと思う。もっと言えば、彼女が派手なメイクや衣装で自身のスタイルの良さを際立たせれば際立たせるほどに、別のタイプの女性に劣等感を抱かせはしないか?僕はやっぱり筋骨隆々な男を見るのが苦手で、なんとなく目を背けてしまう。でも街中には肉体美をこれみよがしに見せつける看板を掲げたジムがどんどんできて、筋肉バカが量産される、あっ、さすがに言い過ぎた(笑)。これは僕の偏見に満ちた感想なんやけど、男女問わずキラキラした連中って、すぐに群れるし、意識的であるにせよそうでないにせよ他を排除しようとするやん。あいつイケてない、キモいとか言って。DJ SODAさんたちのようなポップアイコンの無自覚な言動が世の中に優劣の基準を植え付けて、新たな弱者を生んでるような気がしてならへん。まぁ、だからって胸を触る行為が許される訳ないし、そんな奴はどつかれたらええねん、とは思うけど(笑)。とにかく一般的に言われる強者、弱者という区分には違和感しかなくて、それは常に変動するものやし、それぞれの局面によっても変わってくる問題やからね。スーパー銭湯やホテルが刺青やタトゥーを禁止にしてるところが多いけど、僕は仕方のないことやと思う。入浴のわずかな時間に刺青だらけの奴の人間性なんか知ったこっちゃないし、ほんまは優しくて良い奴やねんとか言われても、見た目には威圧感しかないから。LEOちゃんは同性の立場からDJ SODAさんのことはどう捉えてる?
(LEO〕そうですね……。それほど詳しくないですが、現代らしい出来事やなとは思ってて、自分のなかでもいろんな考えが交差してます。DJ SODAさん個人に対して思うことは特にないですが、その人に限らず、自分を綺麗に見せたいという欲望や見た目を通して自信を得るというあり方を正々堂々と公言する風潮には違和感を感じますね。それは必ずしも社会の大多数が肯定すべき「潔白」で「正しい」価値観ではないはずです。そもそも「美しさ」は必ず「醜さ」を前提としていて、美しくあろうとすることは、他者よりも優位の場所にいたいという薄汚い欲望が剥き出しになってるあり方だと思うので。土井さんの言うように、実際にそういうものを見て、性的な興奮や気まずさを感じる人も居るわけですし、決して手放しにいいね!ってなるようなものではないと思います。と言ってみて、自分が服を買うときに感じる後ろめたさの理由がさらに明確になりました笑 つまり、自分もアプローチは違えどDJ SODAさんなんですよね。ただ自分としては、自己満足でやってるというのを、「自分が好きで能動的に選んでる」という意味で捉えてるので、他者にどう思われるか・どう扱われるかというところまで受け入れなあかんとは思っています。いや正味なところ腹がチラッと見えるような服を着てるからって腹触られたらキレてしまいます、でも腹を見せる服を着ることで自分は何を表現しようとしてるのか?って考えたら、ほんまに後ろめたい汚れた答えしか出てきません。「腹を見せるのは自分のスタイルが良いのを誇示したいから」→「スタイルの良し悪しは自分の努力で決まったわけではない」→「ほとんどただの遺伝要因にすぎない要素を自分のものかのように誇示してるのはさすがにダサすぎる」→「でもこの服を着ると自分の気分も上がるし」→「その『気分の上がり』は詰まるところ優越感だよな」→「いやでも実際これを着ていくと評判もいい」→「その『評判』に何の価値がある?」…みたいな問答を繰り返しながら、結局のところ快楽に溺れてる情けない人間です。そういう「屈託」(グレーゾーン)の部分をどんどん取り払って、ポジティブを装っていくような風潮があまり良いとは思えないですね。お風呂のタトゥーは少し違う部分もあるけど、威圧感を感じてしまう他者がいるという点では似てますね。
〔土井〕そうやなぁ、タトゥーも含めてファッションってほんまに難しいよね。そこにはやっぱり今回の僕らの話の裏テーマ的にもなってる能動的か受動的かという話と切り離せない問題やと思うし、そこには確実に実在しない何者かによる「まなざし」がべったりと貼り付いてる。ちなみにほんまの余談なんやけど、いまや作業着も私服もまったく同じで毎日同じ服装しかせえへん僕も、実は服飾専門学校に通ってた時期があって、結局なんぼやってもまつり縫いができへんくて早々に中退してん。ほんまこれどうでもええ話やったわ(笑)。とにかく今回のインタビューで気がついたことがあって、LEOちゃんのなかにも男性性があるし、僕のなかにも女性性があるということ。それが順繰り自分でも気がつかないうちに小刻みに切り替えが行われてるんちゃうかな。だから自分の行動や考えにも常に違和感がつきまとう。さっきようやくその結論にたどり着いた自分はもはやいまの自分ではないから、どうやってその結論に至ったのか、いまとなっては到底わかわからない、みたいな(笑)。その果てなき違和感に決着をつける術が僕の場合は小説なのかもしれへん。決着というか、違和感を違和感のまま提示できる裏ワザのようなもんかな。生きてたら矛盾だらけやけど、その矛盾をそのまま置いてみたり、別の角度から眺めてみたり、転がしてみたり、味見してみたりできるのが小説やな。さっきのファッションに関するLEOちゃんの問答なんて、すでにめちゃくちゃ小説的やと思うねん。小説って何も起承転結があって、ある地点で発生した問題を最終地点に送り届けて解決することが目的ではなくて、語りそのものの躍動こそが本来の醍醐味やと思うから。俗にいう解決しない物語は、独りよがりな問答から始まる。だからやっぱり僕はこれからあなたが書き上げるであろう「嘘」が楽しみで仕方ない。今回は色々と突っ込んだ話ができてほんまに楽しかった。そもそも関東から関西に戻って来たばかりで仕事も執筆活動も大変なときに時間を割いてくれてありがとう。そんなわけで最後の質問、いまのLEOちゃんの最大の楽しみは何ですか?それが聞きたい。過日Gerald MitchellのDJで踊るあなたはめちゃくちゃ楽しそうやった!
〔LEO〕なるほど……面白いです。自分のことだからって自分で全て把握してるわけでもないんでしょうね。自分(私)は把握できてると思い込んでたけど、それこそ小説を書きはじめてから深層心理を掘り返すような作業に早速飲まれてて、全然把握できてないことを思い知らされました(笑)。小説って面白いですね。いまは書き急がず、もっといろんなものを読んでみようと思ってます。最大の楽しみ!確かに音楽を聴くのはとても好きですが、最大と言われるととても難しい(笑)。若干ズレてて恐縮ですが、布団でまどろんでるときと良い夢をみてるときが一番幸せですかね。最後こんなんですみません、こちらこそ貴重な機会をほんまにありがとうございました。今後は自分が土井さんを個人的に質問攻めにさせてください。この長いインタビューを読んでくださった方もありがとうございました!
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keredomo · 1 year
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ファム・ファタール
 「あのひとは私のファム・ファタールだから」
 ほころんで、気を許してしまっている私がぽろりとそう話すと、親しく心を通わせているひとである歌人は、「なるほど」と深いところで呟いた。
 その声からは、ほんとうに初めて、私がその人に執着している意味を理解し、納得した様子がうかがえた。それは、「素敵な人だから仕方ないよね」が「なるほど」になった瞬間だった。われわれは互いの心の深いところを撫であう。
 私が「ファム・ファタール」と呼んだそのひとは、自認も他認も疑いようなく男性である。まさか自分が“femme”と呼ばれているだなんて想像したこともないだろう。  この世の不条理にきちんと応答するだけの知性をもつこの歌人は、私が女ながらに男を“femme fatale”と呼ぶ意味を完全に理解して、「なるほど」と返してくれたのだった。  深い理解が心地よく、つい大胆な言葉づかいをしてしまう。  あくまでも、hommeではなくfemmeなのだ。私が破滅を引き受けたことに即すまでもない。ずっと、このひとは私のファム・ファタールだと思いながら付き合ってきた。  付き合ってきた。そうして書いてきた。書いてきたものは、美しかったはずだ。
 *
 私は、私たちは、現代の女として生まれて、男が「ファム・ファタール」という名目で女の生を消費することを憎むべき立場に置かれている。
 「運命の女」という訳語はあまりにも甘く、女にとって耳触りよく作られすぎている。fataleは「致命的な、死と破滅をもたらす」という意味を持つ語で、身を持ち崩す程度ではおさまらないはずなのだが、安全地帯に身を置きながら、身を持ち崩す程度で済ませてその女との関係を芸術に昇華した男たちによって作られた「ファム・ファタール」という言葉の響きはやはりどうしようもなく甘美で煌びやかだ。女であっても、抗い難く憧れてしまうだけの強度を持っている。
 マノン・レスコー。椿姫。マン・レイにとってのキキ・ド・モンパルナス。『昼顔』のセヴリーヌ。『勝手にしやがれ』のパトリシア。エトセトラ、エトセトラ。  「強者に見出され、彼のその手で私も何者かになりたい」と願う様子など微塵も見受けられない女たちが、男によって勝手にファム・ファタールに任命され、消費され、滅ぼされてきたのを、何度見てきただろう。  彼女たちのうちのいったい誰が、「私をあなたに捧げます」などと縋っただろう。誰一人として、そんな屈辱には身を任せなかったはずだ。彼女たちは、誇りを守って死んだはずだ。  手に入れることができないまま死なせてしまった女たちを、男たちは身勝手に解釈し、悲哀を添えて描いてきた。女たちの生の誇りは、男の物語によって、わかりやすく蔑ろにされたのだ。
 芸術の美は、美を免罪符として、そこにあるはずの内実をひらりと覆い隠す。「ファム・ファタール」の語には、男性中心社会の残虐性を覆い隠すお砂糖が塗りたくられているのだ。ファム・ファタールは死に、男は死に至ることなく、社会に守られながら生きながらえる。そうして描く。撮る。書く。  女を失った悲しみと自己憐憫とともに、描き、撮り、書く。次のファム・ファタールたる女を探して放浪する。男は生きている。女は死んでいる。女の生は、男の芸術のために消費されていた。そういう歴史があった。
 *
 私は、男のファム・ファタールとして生きながら、男のこともまた同じくファム・ファタールに仕立て上げようと、男が手の甲にキスをしたその手で男に砂糖を塗りたくった。  甘くなれ、甘くなあれと念じながら、その腕に、その背に、その爪先に、その眼に、耳に、頬に、唇に、喉元に、丹念に砂糖を塗った。私の手の届くすべての箇所に。胃にも、心臓にも、私の手は届いた。ざらりと音が鳴るのを確かめながら、丁寧に丁寧に塗り込んだ。  そうしたのちに、焼く。書くことは、砂糖を塗り込んだ男の表面をガスバーナーで炙ることだった。  砂糖漬けにする。表面が艶やかになったら、火を入れる。今日はキャラメリゼにする。手でつまんで食べられるように。明日はブリュレにする。アメリが、スプーンの底でカチンと割れるように、丹念に固めて、焦げ目を入れる。美しい照りが見える。明後日は何にしようか。
 丹念に砂糖を塗り込まれ、甘美に食せるような焼き目をつけられ、そうして思いがけず私のファム・ファタールにされた男は、ファム・ファタールよろしく、私を狂わせ、破滅させて、そののちにすんなりと死んだ。
 私は狂い、みずからファム・ファタールに仕立て上げた男によって破滅する。男の死とみずからの運命を嘆きながら、しかしいつのまにか正気を取り戻し、あらためて書きはじめる。強者として。ぼろぼろにされても死には至らない、「ファム・ファタール」の遣い手である、圧倒的強者として、すべてを対象化する。その横で、男が死んでいる。死顔は、甘く、美しい。
 *
 男は言う。あなたによって書かれ、暴かれることに、何の抵抗もないと。それどころか、書かれることに喜びを感じているのだと。  ファム・ファタールたる男が、どうぞお使いくださいとその身を差し出すことで、差し出されたその身を存分に食らい書き尽くすことで、私は歴史に復讐している気がしてくる。
 やがて美しい短篇が生まれる。私に書かれるために死んだ男に語りかける。「あなたのおかげよ」。
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hotelinfernoll · 2 years
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ROUTE1999メモ②
*「ROUTE1999」ネタバレ
少年達が選んだ“甘美な、間違ったルート”
「ROUTE1999」(以降「1999」)は代償を払わず、下すべき決断を先送りにした少年達が世紀末を越えられなかった“最悪のルート”の話。
考えるのもキツイこの話を描こうと思ったのは、やっぱりホテルの二次創作の動機がいつも「嘘喰いのつづきを読みたい」だったから。それと過去編の少年達の甘い日々が永遠に続けばいいと妄想する一方で、いつも頭の中にあった「でも1998年のふたりがそのまま一緒になったら共依存になって最悪のルートをたどりそう」という考えを整理して自分の外に出したかった。
これは“原作が最善ルート”という前提なんだけど、どうして原作の地獄展開が最善手かといえば「欲しいものはギャンブルで手にいれるしかない」という貘の性に加えて、そこに「ハルと本気で勝負したい(遊びたい)」を叶えるならばそれは“殺し合いのギャンブル”しかなかったからだった。
貘は仲間を手に入れる時に必ず“最初は偶然で出会う→その縁を捨ててギャンブルで手に入れる”という行程を踏んでいる。その中でいちばん手に入りにくい“高嶺の花”だったのがハルこと切間創一だった。たぶん貘は、その縁を切る時スリルを味わっている。それが妃古壱が見た初回屋形越えで笑っている貘だったのだと思う。でもこの話は若さゆえに、目の前の甘い果実を手にとってしまい悲劇に至る少年達の話だ。
偶然でも運命でもなく
でも結局、貘とハルはどんなルートを辿っても結局は殺し合う事になる。原作だってたとえば記憶を失った内調蜂名と貘が出会って仲良くなるルートに分岐する可能性はあるけれど、行き着く先は原作(=殺し合い)ルートになるんだろう。そうならないとハッピーエンドにならない。そしてそのルートも歯車が一つでも違えば最悪のルートになる。それでも元手を持たない貘が欲しいものを手に入れるには、偶然や運命ではなく“ギャンブルで手にいれる”しかなかった。
少年達を取り巻く大人達
原作を読んでる感覚を味わいたいという衝動で描き始めたので特に貘とハル以外のキャラクターは「こうしたい」という気持ちを極力消して描いてた。 ちなみに、ホテルの漫画の描き方は、ある程度プロットを決めたら即興という感じなんだけど、本当は判事が出る予定は無かった。ただこの話を描いていていちばんキツかったのが#6の最後のページを描きながら、このあと「創一の記憶障害の回復を願っているのに、記憶が戻らない事を願う撻器」に気付いて手が止まった。そして未来を切り拓くために必要な「友人」に助けてもらう事にした。
頂点の孤独
個人的に「孤独なリーダーは短命」というメッセージを原作から感じていた。創一は友人達との深い付き合いを禁じられたために、その反動で偶然得た貘との友情を命を賭けて守ろうとした。一方で撻器のしなやかな強靭さ・柔軟さは本人の性格と合わせて若い頃から同年代の立会人達との信頼関係の上に生まれたようにも見える。だから殺すつもりはなくとも息子に銃口を向け実際に引き金を引いた痛みを分かち合うために判事が召喚された。そして判事が出てきた時にこの話は改めて「お屋形様とその友達」になった。#7でハル(未来のお屋形様)と貘(その友達)は離ればなれになって再び二人の運命が交わるまでは、現お屋形様(撻器)とその友達(判事)の話になっている。
零號立会人
原作と同じ気持ちを味わいたい、という事でピンチの時に最強の立会人零號が出てきた時の頼もしい感じを描きたかった。と同時に帝国タワーのレオ登場のオマージュでもある。やっぱり読者を裏切り続けるという原作のストーリーを出来るだけ再現したかった。希望から絶望、天国から地獄の落差で後半は心臓が苦し���った。
その他、小ネタと蛇足解説
#1 p2:「いっちゃった」は自分が「言っちゃった」とハルが「行っちゃった」 p5-7:吹き出しのセリフ以外はモノローグなので戻ってきたハルが貘に言ったセリフは「ちゃんと聞いて貘さん」「僕は…」「君と一緒にいたい」。
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#2 p1:ミスタードーナツ1998年のメニュー p3-5:貘はハルの秘密を共有する事で自分達の仲間に伽羅巻き込もうとした。ハルに何かあった時に守ってもらうためチームを作りたかった。 p8:「もうすぐクリスマスだね」良いとこの坊ちゃんに対して「いつもなら家族と一緒に過ごすんでしょ」と鎌をかける貘。自分に巻き込んでしまったハルに対して罪悪感もある。 p9:一向に来ない創一に栄羽はいつまでメッセージを録音し続けるか悩んだ。
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#3 p1:コンドーム配布は1998年のいかがわしさの象徴。*コンドマニア原宿店は1993年の2月にオープン p8-9:ちょっとハルが良い子すぎるけど良い子というよりは律儀な子。
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#4 ふたりの蜜月。その時間が甘ければ甘いほど罪悪感が深まる。 p4:赤ん坊時代のエピソードも即興。記憶ありそうだなって。 p9:貘が決断をしたのと同じ時に、ハルも決断をしている。
#5 p1:年越しジャンプの元ネタは「ツルモク独身寮」って今回調べて知った。 p4:ハルの買い物は睡眠薬。
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#6 p8:ハルの痛みを思って自傷(唇を噛む)する貘。血と涙が混じる雫は帝国タワーラスト「クララの嘘つき」オマージュ。
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#7 p1:判事の職業は裁判官だと思って裁判所にしてしまったけど、よく考えたら「通称:判事」なので、違う職業の可能性があるのだとあとから気づいた。というか違う職業なのにあだ名が「判事」の方がかっこいい? p5:初回屋形越えの創一と同じポーズで去る父
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#8 p1:スイス、ベルンのバラ公園 (ベルンのバラ公園に咲き続ける日本の心「ソメイヨシノ」) p2:ホテルの漫画でたまに出てくる直器のスイス留学時代の同級生(初恋地獄篇、巨悪とゆかいな仲間達② (pixiv) ) p3:自分より強い相手が嫌いな撻器、「私もです」は「私もあなたが嫌いです」でも「私もこういうドライな自分が嫌いです」でもどちらでも。 p4:子供は殺さないけど、成年してから来たら知らないよ。 p6:「みんな嘘つき」のみんなは、戻ってくると行って死んでしまったハルと自分を殺さなかった伽羅のこと。「いっそ殺してくれれば良かったのに」。 ��も伽羅の「悪く思うな」は、貘の唯一の友達であるハルを救えなかったことと全てを失った貘が「いっそ殺してくれれば」と思う事も見越して。 p10:噂話を聞くまで「ハルは死んでる」と思っていた貘が活路を見出す。 p11:「LOVE & PEACE」は貘の秘密の目標「世界平和」。 捨てなければ(忘れなければ)前に進めない創一と、決して忘あきらめない貘の物語は原作へつづく。
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(221025)
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kennak · 2 years
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石原慎太郎『わが人生の時の時』(新潮文庫)を読む。私は慎太郎があまり好きではなく、ほとんど読んでこなかった。最近友人から、慎太郎ではこの本が好きだと言われ��それでは読んでみようと思った。なるほど、とても気に入った。  慎太郎自身や知人の経験した様々なアクシデントを書いていて、平均10ページのエピソードを40篇収録している。慎太郎はヨットとスクーバダイビングが趣味なので、それらに関する話題が多いが、どちらも日常とは違って危険が少なくない。ここに書かれているアクシデントは慎太郎がいつ事故死していても不思議はないものだった。  ゴルフ場で落雷に逢った話。突然前にいた組の真ん中に落雷して3人が死んだ。彼は以来絶対に金のスパイクのついたゴルフ靴ははかないという。ヨットレースに参加した折り、私たちの船から1挺身もへだてぬ水の上に落雷し、すがすがしいほど鮮やかな紫色の炎の大きな柱が立ち上がり、次の瞬間それはゆっくりと明るい色の水の柱に変わり、そしてまた次の瞬間、柱は水を刺すようにして没し、後の宙空になぜか薄緑の光の輪が漂っていた。
石原慎太郎『わが人生の時の時』を読む - mmpoloの日記
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manganjiiji · 11 months
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スフィア
なんと。開幕爆撃頭痛から回復できず、欠勤。そんな。今日が現場デビューのはずだったのに。ショックです。でもほんとうにびっくりするほど頭が痛いのと吐き気が全く何をどうしてもおさまらなくて、早めに欠勤の連絡を入れて、すこし横になってからどうにか脳神経外科(かかりつけ)に行った。偏頭痛薬の残弾も残り1になっていたので、新しい保険証はまだ手元にないが、とにかく今日しかないと思って行った。偏頭痛にしても緊張型頭痛にしても変な感じで、どっちの痛み止めを飲んでも鈍い痛みが続き、脳神経外科の待合室でも頭を抱えて椅子にうずくまっていた(検査技師の方に心配して声をかけられた瞬間に診察になり、ほとんど声も出ないほどに痛かったがなんとか薬を出してもらった。「飲みすぎないでくださいね」と先生に2回も言われた。そんな。私は飲みすぎるタイプじゃないから大丈夫なのに、相当理性を失っているように見えたのだろうか)。その後なんとか痛みでもやがかかったような頭(かなり重い)でマックに寄ってパイナップルのフラッペみたいなものとポテトLを完食し(なんでだよ。早く帰って寝ろよ)、ふらふらとがんばって家に帰り、横になるも、何も回復しない。熱もないのに熱があるように体が痛く、2020年末のコロナの時のような倦怠感、あの時ほど酷くはないが。いま、つまり26日の3:15になってやっと体の緊張がやわらいできた。今日だけで何錠薬を飲んだのだ。飲んでもほとんど意味がなかったので、飲まないほうがよかったのか?しかし胃は強いので気にしなくていいだろう。というか、消化系も重だるくなってほぼ停止していて、頭痛の波が引いても吐き気で起き上がれない状態が続いた。こんな原因不明の体調不良はひさしぶり。熱中症の心当たりもない。もしかして初現場への緊張がなせるわざ!?いやそんなやわな性質ではない。さすがに。変なものを食べたわけでもないし、本当に何だったんだろう。先程やっとコンタクトを外すことができ、就寝に向かっている。明日の朝には何もかも解決しているといいのだが。
病院への行き帰りで、伴名練編の日本SFの臨界点『死んだ恋人からの手紙』(恋愛篇)を買ってから3年弱経って初めて読み進めた。表題作「死んだ恋人からの手紙」がかなり良かった。ティプトリージュニア(愛はさだめ、さだめは死)を読んでいた時も思っていたけれど、私はSFに温かみを求めているなと思う。2篇目の「奇跡の石」も、そこまで真剣ではないが、読んだ。これはそこまでおもしろくは…というか、好みではなかった。キャラクタの魅力が私の好み/非好みを決めているのであって、展開とか構造とか物語のうまさとかそういうことではない。どんなに面白い話でも、キャラクタがただそこに配置されているだけの、恣意的な没個性キャラクタだと、興味がわかない。性格のいい人とか、善人とか、誰かを愛している人とか、容姿がととのっている人とか、そういうわかりやすく魅力的なキャラクタが好きである。ホームズは読めるかもしれないが、アガサ・クリスティは読める気がしない。とはいえ小学六年生の頃、学校の図書室でアガサを借りるのが流行り、その中ではミス・マープルの話が好きだった。ポアロとかもいるな。よく考えたらたぶん魅力的なキャラクタはいるのだと思うが、なんか、自分好みにひと捻りされているキャラクタを望んでしまう。ホームズはカンヴァーバッチの『SHERLOCK』の1作目を見ているので、たぶん面白いだろうなと思っている。つまり、物語の展開とか、トリックとか、どんでん返しとか、そういうことにあまり興味がないので。キャラクタがいかにかっこいいかしか興味がないので。それにしてもミステリを読む気が起きない。エンタメの礎を全く読んでこなかったしこれからも読まないであろうことを考えると、エンタメの素養が0。シナリオ・センターの講座を受けている時、毎年の、世界の100人が選ぶミステリの10位までは最低限読めとおっしゃっている先生がいて、たしかに。と思った。その時に『春にして君を離れ』がタイトルが美しくて買ったのだがまだ読んでいない。『アクロイド殺し』も持っているが読んでいない。読みなよ。『流れよわが涙、と警官は言った』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』なども持っていたはずだが(読まずに)消えた気がする。27歳の時に、精神も身体もどん底になり、本の背表紙を見ることさえきつくなってかなりの未読の本を手放してしまった。『盤上の夜』とか『皆勤の徒』とか『バレエ・メカニック』とか、ほぼ読まずに。その路線で行くと、いまだに諦められないのが『グラン・ヴァカンス』でこれはまだ生家のどこかにあるはず。爆笑問題の太田さんがものすごく凄いと言っていた『タイタンの幼女』は持ってきているはず。どれもこれも10年前とかそのあたりに買ったものです。そのあたりから小説をほとんど読めなくなっている。ようは、学生時代までは読めていた。社会人になってから、というか、より正確に言えば投薬を始めてから小説を読むのにものすごい困難というか疲弊というか徒労感をかんじて、最初の1ページだけ読んでは次の本を買う、「買うだけの人」になった。昨年からすこし頑張って小説を読もうとしているので、昨年はそれまでよりは読めたと思う。相変わらず腰を据えて大作(というか、溜めている古典的名作)に挑んではいないが。小説は1年に1冊読み切れればいいほう。歌集、詩集、新書、選書、その他専門書のライトなものなどは読める(��いたいノートにメモ��取りながら読んでいる)。積極的に読んでいる。ただ、フィクションを摂取するのがかなり難しい。そのなかでも昨年は『月と六ペンス』がここ10年でいちばん面白かったと感じられるくらい良い読書体験だった。手を動かさずにただ「読む」という行為が耐えられないのかもしれない。要因は色々あると思う。最近は今のところ、村上春樹の新刊も面白いなと思って少ないが進められているし、今日も日本SFの臨界点を少し読んだし(はたして円城塔の「ムーンシャイン」までたどり着きたいものだ)、小説の内容を目で追って読むという能力は近年すこしずつ回復しているかもしれない。これがpixivの二次創作だといくらでも読めるんだけど、それは前述の通りキャラクタが魅力的であることが確約されているから。一般文芸は、キャラクタの全体像が見えてくるまで我慢してさまざまな「事象」を頭に入れていかなければならない。そのなかには非好みのキャラクタも出てくるし、とにかくたるい。2行読んだら話が進んでいてほしい。私の読む速度がもう少し速ければ(眼球運動を意識して速めれば)かなり行けるのではないだろうか。どんな小説を書くにも、たとえ文体とキャラクタだけを書きたいにしても、展開がなくてはならない。どんでん返しとか意表を突くものでなくても、とにかく何かが起こって、キャラクタがそれに対応しなければならない。そうなると、どんなに純文学が書きたいと思っても、エンタメのインプットからは逃れられない。手っ取り早いのは映画とか、映像。ただ流しておくだけでよいから。でも私は本との関係を切りたくないので、これからも引き続き小説の読解にも取り組んでいく。
『精読 アレント 「人間の条件」』も数ヶ月寝かせてからやっととりかかっている。これはノートにまとめながら。ノートに文字を書くのが楽しすぎて、ノートを取りながら読むものは意外と進める。今日はパンセクシャル認知の日らしい。
眠気がやってきたので眠れそう。
2023.5.25
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orhpee-annex · 2 days
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「死んだ男――鮎川信夫」(詩を読み直す)
死んだ男
                            鮎川信夫
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ傷むか。
◆はじめに
 詩をより具体的に、深く読みおのれの裡に取り込む為に気紛れに一篇の詩を少し手間をかけて読み直すことにした。最初の試みとして戦後詩の代表的な詩である「死んだ男」を掲げる。わたしの好きな詩。だが、詩をこうして筆写したのは初めてだった。そしてまず驚いたのはその短さだった。自分の印象よりもずっと短い。それほどまでに言葉の密度が高い、という意味だ。
◆どういう詩か
 全体の構成としては、「すべての始まり」を告げる第一連を経たあと、回想に入る。詩の矛先はぼく(≒若かりし頃の詩人)の友人Mの埋葬のクライマックスに向けられている。友人の死を回顧的に抒情性を高めつつ語り果せる詩であると読める。
◆誰がどう語っているのか
 基本的には「ぼく」である(※基本的に、と書いた理由は第一連を参考)。
「ぼく」とMが親しい間柄であることは、Mが鮎川信夫の詩友、森川義信であるという事実を抑えずとも、たとえば第三連――「Mよ、昨日のひややかな青空が/剃刀の刃にいつまでも残っているね。」といった詩行から伝わる。これを「剃刀の刃にいつまでも残っている。」としたのでは、或いは同連の四行目を「きみを見失ったのか忘れてしまった。」としたのではぼくとMの関係の印象はがらりと変わってしまう。
 「――これがすべての始まりである。」
「たしかにそのとおりであった。」
「黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。」
「きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。」
と、全体的にリアリズム小説のような語り口が貫かれている故に、第三連の感傷がいっそう際立つ。
◆第一連
 怪談やサスペンスを思わせる導入。
 「たとえば霧や/あらゆる階段の跫音のなかから、」の二行には、生き延びたぼくが何処にいても死者の幻影に憑かれている様を暗示させる。詩を語る動機をここで示し得ている。
「遺言執行人」とは誰だろう。それはMでもないし、単純に「ぼく」のことでもないだろう。もう一人の「ぼく」――つまり日常を送るぼくではなく、まさに詩人としての「ぼく」であると、ここでは読んでおきたい。
◆第二連
「遠い昨日……」と、回想へと導く詩行に始まる。
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
 の二行。どんなふうに捉えればよいのだろう。「ゆがんだ顔をもてあましたり」という言葉からは、例えば思春期の情感過多のイメージが湧く。だが戦時中という時代、さらには次の「手紙の封筒を裏返す」との関連において踏み込むと、友人知人の訃報に接して思わず差出人を確かめるような、そんな状況が思い浮かぶ。
「実際は、影も、形もない?」と括弧内の呟きも呆気ないひとの死を前にした言葉と解釈すると腑に落ちる。
 ――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった
 右の詩行は第一連と同じダッシュの話法で、間違いなく詩人(話者)本人の感慨であるとすれば、括弧内の呟きはMの口吻になると推測される。このことは最終連にて「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」と言い放ったのがMであること導出される。
 ◆第三連
 それまでの連とは打って変わり、親しく語り掛ける口調が用いられ、抒情性が高められている。そして、ひややかな青空が残る「剃刀の刃」とは何か。それは肌を傷つけるには容易く、自刃に用いるにはあまりに頼りない青年期の象徴でもあれば、髭を剃る大人の男にとっては毎朝用いる道具でもある。死に損なった詩人は朝の剃刀の中に「昨日のひややかな青空」を、いつまでも見出し続けている。だが、「何時何処で/きみを見失ったのか忘れてしまった」ほどに詩人の生の時間は、Mと共に生きた時間からかけ離れてゆく。
 活字の置き換えや神様ごっこ――
は第一に詩作を連想させる。友と互いに詩を評し合う姿も目に浮かぶ。ここでも括弧内の台詞、これもMの台詞だろう。ただし青春期の只中での言葉というより、詩作どころではなくなった時期の言葉として。
◆第四連
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
という詩行。それまで回想の裡に読み込まれた青年期の時間が夏のように花ざかりの時間ではなく、当人たちにとって常に衰亡を予感させる苦々しい時間だった。「淋しさの中に落葉がふる」とMの亡霊のような言葉がそこへ重なる。
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
という詩行。言葉は人影、街へとより群衆の側へと歩んでいる筈なのに伝播の印象とは正反対だ。むしろ誰にも聞き届けられ、拾われることのない孤独のままに、最終連の「埋葬の日」へと連なる死の時へと無情に淡々と歩んでいる。
 ◆最終連
 埋葬の日は、言葉もなく
 立ち会う者もなかった、
 Mの死に様が穏やかではなかったこと、ただ戦地で当たり前のように死んでしまった状況が伝わる。「憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もない」というのは、従容と死を受け入れざるを得なかった事情の喩のようでもあり、しかし何処か寂しい程の静けさを予感させる。
 空にむかって眼をあげ、
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 ここで詩人の眼はまさに死にゆくMの眼と想像の中で重なる。
 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」とランボーの詩「永遠」に対しての訣別、異国の前時代の詩に語られた永遠が、現実の死に際において裏切られてゆく無情を物語る。そのような孤独の死に沈んだMに、旧友である詩人だけが語り掛けるのをやめない。
 「きみの胸の傷口は今でもまだ傷むか。」――そのように生き残った者が死者を忘れないこと、それを倫理として刻むこと。それこそが遺言執行人の役割であり、戦後詩はそのような倫理を抱えて敗戦後の荒地へと重い一歩を踏み出した。
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