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#夫婦二人で醸す
igayasakebrewery · 1 year
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本日の17時半で仕事納めとなります♪ 年明けは3日から、通常通り9~17時半の営業となります🎍 本年も皆様には格別の御厚情を賜り、心より感謝申し上げます😊 今年は品質向上の為の大きな設備投資ができた、充実した年でした😆これも一重に飲み手の皆様が応援して下さるおかげであります🎵来年も現状に甘んじることなく感動して頂ける味わい、お酒造りを夫婦二人で続けて参りたいと思います🙇‍♀️🙇 来年も引き続き変わらぬご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます🙇どうぞよいお年をお迎え下さいませ🙇‍♀️ #創業1853年 #始まりが伝統になる一滴入魂の蔵 #岩清水の如く澄んだ味わい #理屈抜きで美味しい個性ある日本酒 #ワイングラスで美味しい日本酒 #食事とのペアリングを意識した酒造り #麹割合を変化させた酒造り #低アルコール日本酒 #無濾過生原酒 #完熟麹 #完熟醪 #じっくりと時間をかけて #丁寧にていねいに #テロワール #減農薬栽培米 #減化学肥料栽培米 #井戸水 #超軟水 #日本一生産量の少ない酒蔵 #夫婦二人で醸す #厳しい品質管理 #マイナス5度で瓶貯蔵 (井賀屋酒造場) https://www.instagram.com/p/Cm0ESi7yUvP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kennak · 5 months
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途中の橋で擦れ違った子供連れの夫婦を見て《ユダヤ人だな》と確信しました。数歩先で、何かが気になって、ふと振り返りました。衣類にも、帽子にも、子供の髪形などにも、ユダヤ人特有のものは何もありません。話していた言葉は、フランス語。会話の中にユダヤ教のお祭りの名前などは聞こえませんでした。それなのに、ユダヤ人の一家だと直感したのです。ユダヤ人の多い町に長年住んでいると、いつしか、こんな感覚も身に着きます。特定の宗教集団だということが、取り立てて見分けようなどと思っていなくても、擦れ違いざまに動作や体全体の醸し出す雰囲気で、判ることがあるのです。一瞥しただけで宗教を言い当てる人 最初の例ストラスブールに住み始めて数ヶ月経った時期に、真面目な顔で「カトリック教徒とプロテスタント教徒は、一目で見分けが付きますよ」と言う人がいて、信じられなかったことがありました。 二人めその数ヶ月後に学生仲間と談笑しながら歩いていた時、反対方向からやって来た女子学生とF青年が挨拶を交わした後、仲間の一人が「今の女の人、キリスト教の福音派だね」と言ったのも思い出しました。それが正解だったので、驚いて質問しました。「どうして判ったの↗」「福音派の改宗脅迫・信者獲得屋に何週間も付き纏われたことがあるんだ。連中には、特有の雰囲気がある」三人め以降は、驚かなくなってしまいましたが・・・自分にもその能力の具わる日が来るとは、まだまだ思っていませんでした。
宗教は一瞥で判明することがある - F爺・小島剛一のブログ
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myonbl · 20 hours
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2024年4月29日(月)
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連休三日目、今日のミッションは書棚を整理すること。この家に入ったのは2002年2月2日、1階の壁一面に書棚を用意してもらい、蔵書を並べる作業は楽しいものだった。数年前に<MQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)の事務所を我が家に移した際、落語関連本以外は泣く泣く処分、そしてこの3週間でそれらの本も研究室へ運びようやく隙間が生まれた。これで棚からものが溢れることもなくなり、私の<終活>も一歩進んだことになるのだ。
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今日は<昭和の日>というのか・・・。
5時起床。
日誌書く。
洗濯。
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朝食。
珈琲。
大型ゴミ(炊飯器)をガレージに出す。
MQJのサイトとFacebookPageを更新する。
ツレアイはココを<秋山恵蔵動物クリニック>へ、近頃は予約制らしくあまり待つこともなくなったようだ。血液検査の結果は、前回よりはよくなったとのこと。
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私は書棚の整理に没頭、何しろ以前はものをどけないと本やDVDが取り出せなかったので、これでもずいぶんスッキリしたのだ。
休日だが月〜金は原則としてランチ抜き。
ツレアイは午後から訪問2件。
<笹寿し伍十>で、今夜の笹寿しを30個購入する。サービス券(500円)利用で4,200-500=¥3,700。
ライフではも皮2パック、¥773。
筍を煮る。
ツレアイ帰宅、一緒に夕飯準備、18時に長男夫婦来訪。
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スパークリングワインで乾杯、土産にいただいた<純米大吟醸 久保田>を美味しくいただく。
二人が帰る頃には、私は酔いが回ってそのまま布団の中へ。
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歩数は9,971歩、まずまず。
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shukiiflog · 6 months
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ある画家の手記if.?-4 名廊情香視点 告白
こいつら三人は、私にはたまに幻影かなにかのように見える。 
向かいのソファに座ってる真澄の髪の毛を、光が横から器用に小さく編み込んでってる。 光曰く「今日はわたしとおそろい」。両サイドの編み込み。 「うん、かわいい」仕上げた光が真澄の顎に手をあてて頰に軽くキスして真澄の横に座った。
***
夫婦っつっても色々なんだろうが…。 単純に見たままなら年齢差で完全に犯罪なんだが、二人の様子を見てると、想いあってる愛しあってるのは一目瞭然として、他のどんな関係でもない「夫婦」だってのがなんとなく滲むように事実としてこっちに伝わる気がする。 外見はまったく似てねえのに、仕上がりが違うだけで同じ生地でできた揃いの服みたいにも見える。 本来の夫婦ってのはこういうもんなのか、サンプルが少なくてどうとも…これまで自分に対峙する誰かならそれなりに見てきたつもりでいた、でも自分とは別に存在して関係しあう誰かと誰かはそれほど注視してこなかったかもしれない。 直人と香澄がそれに当たる。私はあの二人をセットとして見たことは少ない。ないと言っていいほどに。 それぞれに応じてきた。あの二人の関係についてあれこれ考えたときでさえだ。 直人と香澄は純粋に好き合ってることが一緒にいることや今の関係にダイレクトに繋がってる。 とすると、真澄と光は、どうなのか。…ダイレクトなものだけじゃねえのは、分かるような。
「光はお前にベタ惚れだな」 三人で外を歩きながら、さっき光が真澄の髪を編んでたのを思い出す。 「うちが例外にしたって夫婦でもここまで妻が夫に惚れ抜いてるってのは結構珍しいんじゃねえか」 光の好意はわかりやすい。単純ってのとは少し違いそうだが、こと好意に至っては表現に迷いがない。一方の真澄のわかりづれえこと。 今も三人で歩きながら光だけまっすぐ歩かずに真澄のまわりをくるくる回ったりコートの中に潜ったり真澄の手を握ってひっぱったり指先に白い息をかけてあっためたり、わかりやすい。 そんな光をたまにからかうような仕草でいなしたり丸い頭に手を置く真澄の印象は、満更でもない、って感じだ。 「そうかい。まぁ光は最初から頭おかしいんじゃねえかとドン引きする勢いで押してきたヤバい人ではあった。押し負けた」 「押し勝った!」 なるほどな。誰にでも好意的なような光だが、そこからさらに他のすべてへの好意を自分で押しのけてでも真澄一人を選びとるほど、真澄が好きだと。そういうことでいいんだかなんなんだか。 昔から愛だの恋だのって手の話題は不得意だ。好意的な感情の細かいジャンル分けや線引きに昔から首を捻った。その点、直人と香澄は私にとって考えやすいともいえる。あいつらお互いに好意的な感情はなんもかもすべて相手に対してあるからな、多分。 私がこれまでまともに恋愛して恋人同士になった相手なんて学生時代含めたってほんの数人だ。それも型に嵌った何の面白みもない交際。どれも短期間で終わった。同じ家で育った兄貴の交際遍歴を見てて、レンアイってのは難しい…面倒なもんだとハタから見て醒めちまったせいもある。 でもそういう交際やら人間関係の機会に恵まれなかったわけでもねえんだし、もう少し恋愛とかなんとかに絡んで、あの複雑怪奇な情緒をもっと掴んどくべきだったか。
…学生時代、か。… 「………ユキムラマスミ…雪村真澄…お前、今と学生時代で姓名変わったりしてねえか?」 聴かされて覚えた名前、音でしか知らなかった。 まさかこいつがもしかして、同姓同名じゃねえ本人か? 「変わってねえよ?」 拍子抜けするような素直な返事が返ってきた。警戒心の抜けた顔。表情はそれほど大きく変わらねえけど醸す印象が随分変わるな。 「人違いだったら悪い。ユキムラマスミ…もしかしてあれか、私のいた××校で、女遊びが激しいとかなんとかいう噂で、一部の女子から熱狂的に好かれて一部の女子から毛虫のように嫌われてた。意識したことなくてお前自体の姿とか顔までは知らなかったけど、何人か来たぞ、私のところにお前に振られた女子が、お前への割り切れない気持ち抱えてさめざめと泣きに。」 「人違いだね」 ここは間髪入れねえのかよ、嘘だな。 道路脇にかがんでた光が走って追いついてきて、私と真澄に一本ずつ花を渡してきた。 「光のぶんはねえのか?」 光が何も持ってねえから聞いてみれば「わすれてた」とか今気づいたみたいに言いながら驚きに三つ編みが跳ねそうなリアクションしてる。 なんかこういう妖精いたな、人間にプレゼントするのが好きで、自分のことが頭から抜けてて、無制限になんでも喜んで渡しちまうから、最後には妖精自体が存在までもをなくして無邪気に消える。 ふと、さっき光が真澄のコートの胸ポケットにさした花を、真澄が抜いて、光の三つ編みの耳あたりの編み込み部分に髪飾りにしてさした。光がにこにこして真澄を見上げる。 …真澄がいるから、消えねえ妖精、か。 「真澄。おんなあそび。ってなに?」 「何だろうねぇ」 微笑ましいんだかボケてんだか。真澄はともかく、光はこれ分かってて夫に嫌味ふってるとかってふうじゃねえな。 「真澄の話しっぷりはケムに撒いてんのかマジなのかよくわっかんねえなぁ…。お前の話を光はなんでも信じ込んじまうんじゃねえか?」 光は真澄のコートの中に入って前をカーテン閉めるみたいにして合わせて顔だけぴょこっとのぞかせてる。よくその近距離で二人とも滞りなく歩けるな…と思ったけど歩幅も足のでかさも違いすぎて逆に歩けてるっぽいな。 真澄が私の言葉に息だけで笑い零した。 「煙にまくつもりはないぜ。煙にまかれてんじゃねえかと思われた時点でそいつは成立してないもんだ」 視線の方向のわかりづらい黒目がちの伏目の目線の先が、光の頭に目配せするように動いた。 「…」 つまり真澄も、無垢で純真な少女にひたすらまっすぐで美しい想いを向けられ続けて、その無垢な想いの美しさに押し負けた。んじゃねえってことな。…なんかはじめからそんな気はした、半分くらい。 「さっきのはなし。××校ならわたしもがっこうそこだった。ふたりが入学する年にわたしがちょうど卒業したタイミングだったのかな?」 光が真澄のコートから出て、話を戻してきた。 光も同じ学校か。まああのへん子供の数も少なかねえけどそれほど多くもなかったし、いくつも分校されたりってのもないし、一箇所集中しやすかったか…。 「……先輩から聞かされた噂にこんなのもあったな。保健室の座敷わらしとかなんとか言われてた女子生徒。男子と途切れることなく付き合うものの秒速で別れたかと思ったら直後に別れた相手の男子が怪我したり厄介ごとに見舞われる怪奇現象が起こるとかいう…。」 「ひとちがいです」 「光は絶妙なタイミングで嘘が下手だな」 からかったら光がガクッと項垂れた。 こうしてスラスラ学生時代の噂話なんてもんが出てくる自分にびっくりする。 別に私は噂好きでもねえし校内の噂に精通してたわけでもねえし、噂話はむしろ好かねえほうだ。ただ、校内でさんざん周囲の話題にのぼってたせいで耳に焼きついて覚えてたいくつかが今うまくヒットした。 と、いうより、今夫婦になってる真澄と光が両方とも、学校って場所で目立ちやすい存在感と話題性を備えてたんだろうな。 つーか今の感じからしても十分納得するもんがあるよ。お前らは今そうやって夫婦として並んで仲良さげにしてるだけで結構目立ってるしもう話題性を伴ってるからな。 「なんで座敷わらしだったんだ?」 「うー かみのけが、まっすぐで、いまよりすごく長かったからかな」 「重たそうだな…動きづらくねえのか?」 「あの頃はかみのけ切ったらはるきくんに怒られるからしかたなくずっと伸ばしてたらそんな見ためになっちゃってただけだもん…」
ハルキ。佐伯春輝。 昔のことはよく知らねえが、最近のことなら少し聞いた。 絢が、その佐伯春輝ってのがいずれ光の命を狙ってくるのは自明だっつ��て主張して、光が自分から相手の懐に入って、加害された現場を真澄が処理、ごく自然な証拠を揃えてうまく逮捕につなげた。その犯罪者だ。 ーーー家庭内での案件てのはつくづく捌くのに苦労するもんだ。直人も、香澄も、絢も、光も、慧も、問題のすべてじゃねえにしても確実に家の中でも蝕まれた。 そういうのに切り込むには真澄がやったような変化球が必要になる、少なくとも今のこの国では。 聞いた限りの印象では、私は光の動きが甘かったように感じた。自分で行くと言い出した光、命を左右する現場になる可能性が高かった、実際そうなった、それでも光にはまだ佐伯春輝を救おうとするかのような行動と、警戒心の欠けも多かった。 あれじゃあ真澄も常日頃から気が抜けねえだろう、なんて顛末まで聞いて一人で思ったりもした。まあ簡単にしか聞いてねえからこの程度の感想もハズレてっかもしれねえけど。 ……。光がただの純真無垢な女の子、ではないことは分かった。でも佐伯春輝の件での動きで私が光に持った印象は、つまりそういうもんだった。そう思われておかしかねえんじゃねえか。…否、まだ何も知らねえ段階で、ここまで考え下げるのも無為なような… 「…ハルキ、って、簡単な話しか聞いてねえけど、あのお前の養父とかいうクズ野郎か。あれからどうなった」 おとなしく服役中、じゃねえ可能性がある。それもわからねえが、真澄が相手に刑務所なんて快適生活させとくか? 「光知ってる?」 真澄に聞かれて光は近づいてきた街中のほうを見ながら答えた。 「きもだめしにあそびにきてたよ。おばけ役やりたいみたいだったからわたしとかすみくんとなおとくんとときひこくんで退治したの」 一瞬パキッと自分の歩行が石みたいに固まった気がした。…光と香澄と直人…なんつー絶望的な危機対処班だ… 「情香も呼んだはずだぜ?来ればよかったのに」 「そのオバケとやらの出現を先に教えりゃ行ったさ…。なんつった、直人がなんだって?死人かいいとこで重傷者は出なかったのか?」 これは冗談で言ってんじゃねえぞって目で真澄を見る。真澄は光と顔見合わせてる。 「約一名重傷だったかな?」 「そうでもないよ、おばけだし。ぺしゃんこになったけどたぶんもうげんきにやってるよ」 顔見合わせたまま眩しいくらいにこにこ笑ってるそれは誰がどう大丈夫で誰がぺしゃんこになったんだよ。 …トキヒコ? 「さっき私の知らねえ名前も出たな。随分たくさん集めたのか?」 「ときひこくんか」 話してんのを聞きながら、単に「ヒコ」ってどこにでもある名前の類似で思い出す。
初めて会ったのは… パーティに、直人と香澄とはじめて行ったとき。 画家や関係者だらけのホールに、一人の男の子がいた。その場に子供が彼だけだったわけでもなかった。それでも記憶に残ってる。 偶然近くにきたとき、彼があまりにも強い力で自分の上腕あたりを引っ掻いてたから、服の上とはいえ怪我すると思って、おせっかいは承知で軽く一声かけようとした、 その一声をかけようとするモーションを私が少しも取ってない手前の瞬間に、彼は私のほうへ素早く顔を向けて、何も言わずそのままただ私をじっと見た。 睨まれたとまでいかない、でも独特の目つきをしてた。 あれだけ大きなぱっちり開いた目での上斜視、まるで睨み上げてるようにも見える、私じゃなくてもかなり印象深いだろう。 その子がまったく別日に、ハロウィンで真澄の家に集まってる中にもいた。 その子は直人とハロウィンの作業を終えてから、探すそぶりもなく私のところまで迷いなく歩み寄ってきて、頭を下げて言った。 ーーーー”覚えていらっしゃるか分かりませんが、パーティのときにお会いした者です。行屋虚彦と申します。あのときはご挨拶もせず不躾な目で見て、すみませんでした”ーーーー
「……」 イキヤ…ウツヒコ、か…。さすがにここは関係ねえかな。 「ときひこくんは…真澄のおともだち…?」 「残念ながら違う。僕に友達は居ない」 言い切ったこいつ。友達はいない、か。友達の定義にもよるだろうけどよ…。 「ときひこくんは真澄のことおともだちだっていってた…ときひこくんのかたおもいなの?」 道の脇の比較的綺麗な高いブロック塀の上に身軽に飛びのった光が、そこに腰掛けて両脚を交互に揺らしながらきょとんとした顔で訊く。 「おおう?あの人何言ってんだ」真澄が妙な曲がる球でも受けたみたいにウケてる。 「なら友達としておくよ。片想いされてんのは僕じゃねえしな」 「そうだった、かたおもい…ふてきせつなことばづかい…。ときひこくんはかすみくんがすきなんだった」 急に球がこっちに曲がって私にヒットした、どういうこったよ…。 「そこで香澄が絡んでくんのかよ。なんかまたやべーやつじゃねえだろうなそれ…」 あからさまに嫌な顔して腰に手を当てる。 「わわ、」 そのとき光が妙な声をあげて唐突に大きく体勢を崩して壁から落ちた。 「!」 私が受け止めようと動いたときにはもう真澄が落ちてきた光を抱きとめてた。 「やべーやつだな。けど僕や情香とどっこいだぜ」 たぶん。てとこまで付け加えて答えながら、光を地面に下ろす。 私は普段から、何事か起きるのを頭で考えて予期して動くのは体質的に合わないんで、それよりよほど俊敏に反応できて動ける条件反射でだいたい動いてる。危機対処にしても体の動かし方ならそっちが主軸だ。 真澄はまるで考える部分がごっそりないまま、ただ予期してたような動きを当たり前にする。それで合ってんのか知らねーけど、仮にそういう人間がいたとして…予期が思考じゃなく感覚的なものなら、ノータイムでの動きも可能か…。
さらに歩いて行きながら話を続ける。 のんびり歩いてるせいでちょっとそこまで買い物に行くだけなのにずいぶん時間かかってんな。
「私やお前と張り合うようなやばさならまだ助かる。最近香澄の友達っつー子と話す機会があってな、…あと半歩横にズレりゃ香澄のストーカーっつーか…様相…実態としてな。あれにはまいったよ」 「ほー。そりゃお疲れさん」 「……」 つい最近の、自称香澄の友達っつー子。 あの子と私個人での相性の悪さや考え方の違いはそりゃ在るだろう、てだけでどうってことじゃねえし、あれ以外にも捌き方はあった。扱いにまいったとかじゃない。 「…妙な話だけど、今の形の家族が持てて、これが私に許されるギリギリだったろうなと思うよ。後からだからこそ思える話かもしれねえけどさ」 … 特に優先すべき重要な話題があるでもなし、三人で散歩ついでに話しながら買い物してこうってだけだから、少しくらいは重めの話振ってもいいか。この二人相手でそのまま場が暗く沈み込んじまうってこともなさそうだしな。 …と、思って、珍しいな…とか、少し外れた位置から思う。
友達や知り合いがいないとか孤独に生きてるとかってわけでは全然ないが、これくらい気軽に喋れる相手ってのはいなかった。 うちの場合、特に夫や息子の話ってなるとそのままを話してみてなかなか二言で腑に落ちてくれる相手はいない。香澄が友達に詰め寄られてんのを前もって危惧してたのも、その辺があった。 そういう入り組んだプライベートがなんとなくでも共有できる相手ってのは珍しい。ありがたいとも思う。 話を続ける。 「私が初めて香澄に会ってあれこれ略歴聞いたとき、本人はなにも答えきれてねえこと自体にはおろおろするものの、自分にその答えられねえって事実がなにも響かねえことには動揺はなかったっつーか、ある意味ではあの状況でよく落ち着いてた。本人に落ち着くも何もなかったのかもしれねえが、今回は友達の言葉になんとか考えて自分で反論しようとしてた。私はそこを遮った」 私の高くて細いヒールの音が道のタイルに響く。 「香澄への負荷と、相手にもヒートダウンする時間とチャンスをやるべきだと咄嗟に思った。それにくわえて昔からの癖で、ここはバッサリ省いていい、無為な、思考をさくべきポイントからズレてると…長く真剣に向き合ったぶんだけ下手に消耗してすり減らす…と直感で思ったものを、迷いなくバッサリ切り捨てちまうんだ。 …でもその場から離れても、香澄は友達の言葉に向き合う姿勢を崩さなかった。これにもまだ別の意味での危うさはあるものの、自分がもし香澄にとってもっとひとつひとつの言葉がひどく重く絶対的に響くような存在…例えば実の親だとか、だったなら、とてもじゃねえけど今回みたいなフォローに見せかけた横暴はできねえし、怖気付いて何もできなかったかもな…てな。」 愚痴っぽい情けない述懐に、光は何も言わなかった。これで案外母親としての覚悟や方針は、光のほうがよっぽど度量深くすでに決まってるのかもしれない。 絢には時間がない。 つまり真澄にも光にも、親として家族としてグダグダ迷ったり悩んだりする時間は、もうそれほどない。 真澄も光も絢も、相手に自分のことをまるでわかったような気にさせるのが上手い。騙してやろうっつーことじゃなく自然体でやってるんだろうが、今の私みたいに接した相手は気分いいだろうな。 そのぶん深刻な虚像か勘違いを相手に抱かせたまま、それをことさら修正する必要もなく、生きていく。 誰しもそんなもの。それでも程度の差ってのはある。 こいつら三人は、私にはたまに幻影かなにかのように見える。 横で真澄が小さく嘆息した。 「そんなものは相性でしかないさ。香澄には情香が合う、それで親子なんだからいいじゃねえか」 「……」 幻影(仮)のわりにまっとうなこと喋るよな。おかげで少し頭が切り替わったよ。 「…てめえんちはお利口なウサギと素直なリスだがうちは違った意味で手に負えねえガキが二人もいんだぜ…?いろいろ悩むこともあらぁな…」 自分から話し出したついでに、ここらで恨めしげな目つきしてまぜっ返す。 「お利口…」 真澄が光を見て呟いた。 そういや絢とは最近対面で話してはねえな。なんか絢も変わってきたのか…? 「まだまだ可愛らしい範疇だよ。絢は真澄にベタ惚れだし。とてもかわいい」 光がえらくかわいいを連発してる。絢って初対面時のしっかりした爽やか美青年のイメージが私の中では強いんだが? 「…お前もな。まぁそいつはお互い様だろう。ひやひやさせられてしょうもねえアホだけど可愛いんだから仕方ない」 ……。 「…このリスもはじめはお前のストーカーだったんだっけか?」 親指でクイッと光を指して言ったら真澄が吹き出した。相当ツボに入ったのか肩震えてる、ガチで笑ってんじゃねえかこれ。 「ますみー!そのリアクションまちがっている!ここはわたしをフォローするところだぞ!」 真澄のまわりをぴょんぴょんすごい跳躍力で飛び跳ねて光が抗議する。長い三つ編みが一緒に大きく跳ねる。 それをなだめるように真澄が光の頭を撫でる。 …ちょうどいい、感じでもあるんだろうな。真澄と光と絢は、三人で家族で。
ここではたとさっきの話に頭が戻った。 「もしかして光くらいの世代か…?慧がいたの」 「あき。」 光が横で首をかしげる。三つ編みが一緒にかたむく。 「冷泉慧鶴。やたら目立つやつだから分からねえかな、見た目は完全に白人で、プラチナブロンドに薄い青い瞳の、品の良い雰囲気してるやつで…」 私や真澄とは世代がずれてる、でも光なら校内にいりゃギリ先輩だったはずだ。知り合いじゃなくてもあいつはどこ行っても注目される、…それで光が注目するかはあやしいけど。 「わたしほとんどほけんしつにいたから…ほけんしつの座敷わらしだったので。…ほんとにぜんぜんがっこう行けなかったから、しらないかもしれない…。じょうかちゃんのおともだち?」 一度舌出しといて、私に申し訳ないみたいに眉下げてくる。 「長い付き合いの友人だ。絢となら、ほんの数回だけど会ってお互い見知ってはいるんじゃねえかな。 約一年前、半身に大怪我を負ったまま病院から失踪して、それっきりになってんだ。足どりを調べてもあまりに綺麗に行方知れずで、どう賢く人目を避けてもここまで痕跡を残さねえのは難しい。失踪してこれまでの全部なげて生きるのも私個人と二度と関わらねえのも、それもいいと思うんだが…なんかやべえことに巻き込まれてねえといいんだけどな…」 最低限の情報を伝えて私的な感情も伝えておく。素直な本音だ。慧が今どうなってるやら…。 「もしどっかで見かけでもしたらできれば教えてくれ」 ケータイを取り出して慧の写真を二人に見せる。ネット上に死ぬほど盗撮画像とかがあんだけどな。 「……つるちゃんだ」 「…つ?」 思わず反覆しそうになった。 あいつがあだ名で呼ばれること自体が珍しい。そこまで他人を懐に入れねえし、せいぜい私や直人や香澄が「慧」って縮めて呼んでた程度だろう。 「わたしほけんしつにいたから。つるちゃんもときどき具合わるくなってほけんしつにきたよ。わたしの先輩でほけんしつなかま。……つるちゃんいなくなっちゃったの…」 光がほんの少ししょんぼりした様子になる。聞けばそんなに仲が良かったってことでもなく、一度も連絡もとってねえらしい。ならそのしょんぼりはどっから来てんだ。
とりあえず画像見せるために足を止めてたのを、また街中まで歩き出す。 まだ夕方にもなっ��ない、太陽の位置は高い。 古本や書籍の店だらけの場所まで来た。 「光は本が好きなのか?」 「んー……??」 謎の返事。好きとか嫌いの枠から外れた特殊なものか? 本屋に入ろうとした瞬間、一歩手前で立ち止まった光がギュンと効果音がしそうなくらいの速さで首を横に振って、私の体に三つ編みが高速でバチンと当たった。 小さく謝った光は視線の奥にある通りをじっと見て、 と思ったら途端に駆け出した 「光!」 すぐに追いかける なんだ 異様に足が速い、本当にこんだけ私と身長差あるのか?追いつけるかどうか… 「つるちゃんみつけた!」 走りながら光が言った、 目視で確認する前に光が追いついた、 長いブロンドの、 走ってきた私たちを交互に見てぽかんとした…多分…慧。
「つるちゃんでしょ?みつかったよじょうかちゃん」 満足げに私の顔を見て笑う光は、慧の服の裾をガッチリ掴んで握りしめている。 慧の目線が光を見下げて、思い当たったように少しだけ目を丸くした。 「…きみは…、××校の…佐伯?」 気のせいか…?なんか慧の様子が… 他人から声をかけられて愛想笑いでも作り笑いでもなんでもニコリともしねえってのは…初めて見た。 「もう佐伯じゃなくて雪村だよ。けっこんしたから。あのね、この子がつるちゃん探してたの。わたしのおともだちのじょうかちゃん」 光の後ろに立つ私が名指されて、視線を光の顔の位置まで下げていた慧がちらりと一瞬あげて私を見た。目つきだけでお互い「詳しい話は後で。」って意思疎通が済んだ。 「…お前の友達?情香がか?」 慧の物言いが若干刺々しくねえか…? 「うん。なんでそこが気になるのかな」 ん?光もなんか張り合ってねえか…? 「情香は友人になる人間はちゃんと選ぶぜ」 「ほう、わたしではじょうかちゃんのおともだちには不足だと」 「誰もそこまで言ってねえ。なんで服掴んでんだ離せ」 「にげちゃうからだめだよ、つるちゃんよわむしだもん」 …。だんだん口調が砕けてきてる、どうもこっちが慧と光のお互いよく知った本来の雰囲気らしい。 やっぱただの保健室で顔合わせてた付き合いの薄い先輩後輩って仲じゃねえだろ。なんかあったのか…? 「そういう無遠慮に踏み込んでくるあたり変わってねえなお前。何十年ぶりって再会だってのに昔と寸分変わらずいけ好かねえなんて、自分が情けなくなってくる」 「かなしいこと言うやつめ。わたしはつるちゃんすきなの��」 「いけ好かねえんじゃなくて嫌いだってきちんと言い直すべきか?」 「大差ないからどっちでもだいじょうぶ。」 「何が大丈夫なんだ分かんねえやつだな」 「……。」 思わず聞き入ってしまった。
慧が姿だけでもだいぶ豹変してるとか、思いもよらず見つかったとか元気そうだとか、色々思うところはあるものの、 基本的に誰にでも笑顔で、嫌いな人間にも礼儀は通すし自分がどんな状態でも礼節は尽くす、あの慧が。 簡単に人を罵ったり嫌ったり下品な振る舞いは決してしない慧が。 光をおそらく…ディスっている、淡々と…。 慧は光にそれだけ言い捨てるようにしたあとでさっさとその場を去ろうとする。 私にはあとから電話もメールもできるからか?……光が離さねえから服の裾伸びかけてる…。 「慧?…大丈夫か?」 声をかけていいもんか迷ったが、慧の連絡先が変わってちゃここで逃すと連絡つかねえかもしれねえ。 慧は静かに振り返って光の手を掴んで服からひっぺがしながらこっちに向き直った。…手袋いらねえのか… 「悪い、光に気ィ取られた。一年ぶりだな、情。後味悪い上に面倒な消え方して悪かったよ。色々お前に世話もかけたんじゃねえか。また日を改めて連絡する。一年分と今日も含めて、そこで埋め合わせさせてくれ」 ほぼ以前と同じ笑顔を浮かべた慧が目の前に立って話している。これも作ってるわけじゃねえんだけど…相変わらず器用にモードチェンジするな。 「…埋め合わせより、質問はここで済む」 「ん?」 「いま元気か、何かやべーことに巻き込まれたりしてねえか、私の助けが必要なことはあるか?」 それさえ確認できりゃいい。友人としてまたつるむのは当然のことだ、慧がまだそう望むなら。 慧はしばらく考えたあとで答えた。 「元気にしてたし、元気だよ。お前の助けが欲しけりゃ遠慮なくまたいつでも頼らせてもらうさ」 これは信頼の示し方だ、慧なりの。 効率よくするための分担だとかで他人と協力して仕事に取り組んだり、そういうのはコミュニケーションスキルの高い慧の得意分野だけど、そういうのを好んでやってはねえし、一人で片付けられるならそれが一番気楽で、誰かに頼るのが上手いようでいて、本当の意味で信頼して誰かに助けを求めたり頼るのは下手だ。 慧は一拍おいてさらに続けた。 「巻き込まれてはねえよ。俺の意思だ」 そのままくるっと体の向きを変えて通りを曲がっていく。 横から光が手を振って言った。 「またあそぼうねー」 慧が遠くから「勘弁しろ…」とかなんとか、こっちを見もせずに半目でげんなりした様子で呟いてるのがかすかに聴こえた。 …あの髪の長さでも美術講師は務まらねえことねえはずだけど、慧の性格的に教職就いててその職種に必要な域を出るほどに派手だったり奇抜な外見は、本人のすわり心地が悪くてできねえはずだ。 ただでさえ必要以上に目立っちまうから慧はせめて髪だけでもっつって常に短く整えてた。 別の理由も絡んでるが。 …以前の張り詰めた空気感が…緩んだ、ようで、以前より緊張感は増してるようにも感じる。 巻き込まれてはねえ、か…。自分の意思とやらで結局今なにしてんのか、今度会ったときに吐いてもらうか。
完全に置いてきちまったと思ってた真澄がいつの間にか光のそばまで追いついて来てた。 その日は光が読む本をどっさり買って、三人それぞれで分けて本を抱えて持って帰った。 私は雪村家の近くの駐車場に停めてた自分の車で自分の家まで帰る。 光からメッセで唐突にお茶会の誘いがきたと思ったら…こうなるとはね… 考えたいことと、すぐにも始めたいことが色々浮かぶのを、運転しながら頭を落ち着けた。
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7wave3 · 11 months
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20230605
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『怪物』
脚本坂元裕二、監督是枝裕和監督という好きな組み合わせと『怪物』というタイトルに惹かれて映画館へ。
「この2人が怪物で生きづらさがテーマなのかな〜」という漠然とした印象しか持ってませんでした。以下ネタバレ感想。
鑑賞後の感想は3つあって、1つは脚本に翻弄されてすぐに没入できたこと。
前半伏線を仕込みつつ、中盤で答え合わせを提示し、後半で2人の関係を描き全体的にコラージュ的な仕上がりを見せていました。
冒頭は「怪物」が誰なのかというシナリオに引き込むため、母親、担任教師、校長(安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子)を含めた役者陣が自覚的に心無い人間の演技をしてたと思います。
担任教師が謝罪の際に鼻で笑っていたり態度がかなり良くなかったのは母親である沙織の目線から見えたもので、事実なんだけど曲解に近いものだなと鑑賞後思いました。中盤で担任の保利先生は勘違いされやすいだけの人だと分かってくるので。一方からだけのバイアスで見させられていたんだなと気が付きます。
2つ目は怪物とは何だろうという疑問。
ネタバレになりますが主人公の湊は自分はクィアなのではと自認しつつあり、そんな自分を異端視しています。
訳あって車から飛び降りて怪我をしてしまいCT検査を受けますが自分のセクシャリティが露呈するのでは、と怯えてしまうくらい知識はなく親や他人に知られることを恐れている。
もう1人の男の子・依里はのびのびした可愛い子だけど、エリート思考の父親から虐待を受けていて、学校でも虐められている。
正直依里が学校で虐められる理由がよく分からなかったけど、女子と仲良くしてることや、夢想家っぽい雰囲気や、やたらとキーワードとして頻出していた「ノリが悪い」という小学生男子のムードに沿わないタイプだったからなのかな。
依里は父親に「お前の脳には豚の脳みそが詰まっている」と日常的な暴言にさらされていて、拒否するのではなく回避して笑っている。よく心を立て直して生きている、と思いましたがあの回避行動しかできなかったし依里にとっては笑顔でかわすことが生命線なんだろうと思いました。児童心理には詳しくないのであまり言えませんが・・・
依里も性自認はクィアだったのか、その辺りは分からないけど識字が怪しいところや日頃の態度のみで「豚の脳みそ」と虐げられるものだろうかと考えると、やはり湊と同じだったのかなと思います。
湊は依里が好きだった。
2人には「この世に間違えて存在している」という認識があるように見えたし、すごく宙ぶらりんでやたら死の匂いがする会話をします。
「死んだら顔に土をかけるのか」「死んだ後はどうなるのか」
「宇宙は壊れるのか」「宇宙が壊れると時間が逆回転して、時計も人間も、電車も猫も、後ろ向きに進んで牛丼は牛に戻って、うんこはお尻に入る」
「人間は猿になって、恐竜が復活して、また宇宙が出来る前に戻るんだよ」「生まれ変わるんだね?」
「そうだよ」「準備しようか」
宇宙は今も膨張つづけていて限界に達すると破裂して小さくなる、ビッククランチという宇宙の終焉の予想ケースのひとつらしいんですが、依里が何かで知った話を湊は信じたんですよね。
この回帰願望は現実を生きるための一時的な逃避だったのかなと思ったんですが、森の中に放置された電車車両を2人だけの基地にして準備を進めたことで、猛烈な台風が上陸した日に「ビッククランチがくる」と考えた2人は車両に向かい土砂に巻かれて死んでしまう。
2人が見つけられる描写はなく、かわりに晴れた草っぱらを自由に駆ける。あのラストシーンは2人が死んだと読み取りました。
死んだ生き物には土をかけるという会話と、現実世界ではあった大きな柵が2人が駆ける先になかったからというのが決め手です。
つまり明らかに虐待をしていた父親、普通の結婚(家庭)を悪気なく求めて来る母親、性自認をからかう環境を醸成している同級生やオーディエンス側が怪物ということだと言えるし、自らを怪物と思い込んでしまった少年達とも読み取れると思います。でも人間しかいなかったと個人的には思う。
3つ目。
もし2つ目で書いたことが「怪物」ということなら、10代からBLを読んでもはやサラサラの醤油くらいの発酵度の腐女子には、改めて深く刺さるものではなかったということ。
何なら「今?この内容今なの?」という感想も持った。
性自認が受け入れられない人や、多様な生き方を尊重しようと近年高らかに言われてますが腐女子として言わせてもらうなら「そんなことは知っているぜ・・・・・・・?」なんですよね。
腐女子としてBLをエロ本として読んでいた側面はあれど、性別が同じだというだけで理不尽な目に合うことは間違ってる、とか、性別関係なく親愛や性愛でも結ばれる存在がいることがどれだけ幸せか、その逆がどれだけ苦しいかということは散々分かっている。つもりです。
高校生時分に『ブロークバック・マウンテン』を観て1970年代のアメリカであってもヒース・レジャー演じるイニスはこんなに艱難辛苦の人生を送ったのかと。あれでこちとら散々泣いてらあ。です。
そして何故2人の命を摘まなければならなかったのか、摘まなくても良かったのになという悲しさが残りました。
2人を祝福すべきだったと思います。ラストシーンを「生きている」と解釈する人もいると思いますが。
同じ境遇の小学生が観たらどう思うんだろうと思ってしまって複雑でした。
唯一「誰にでも手に入るものを幸せって言うの」と言ってくれる校長がいましたがあれに救われるかどうかは人によるのかなと思います。
ーーー
というか浦沢直樹の『MONSTER』が好きで『怪物』というタイトルに惹かれて観にいったというのも大いにあるんですが、まさかオチが「生きてるだろうor死んでるだろう」を視聴者に問うっていうところが一緒だと思いませんで驚きました。
細かい謎の仕込みも面白く、作中の流れを適当に書き起こして「何故このタイミングで湊は部屋で暴れたのか」→「それは依里の家を訪��て理不尽な思いをしたから」とか全て整合性が取れてるのを確かめるのも楽しかったです。
こういう誰がどう行動しているのかを登場人物の視点の分だけ描き、輪郭が見えてくるという手法を羅生門的な手法と言うようでタメになりました。MONSTERも映像化するとそうなるのかな。
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映画が終わってから客足に紛れて退出していると、後方から「何か難しかったね」という話が聞こえてきて「そうなのか、難しいのか」と正直に思いました。周りには夫婦でいらしてる年配の方が多く、ちょうど湊や依里くらいのお子さんがいそうな方がいたので、そういった方へ向けた映画だったのかなと。
ーーー
音楽は坂本龍一さんだったのですが、劇伴で邪魔になることもなく・・・というよりあまり意識できていなかったのでまた観る機会があればちゃんと耳を傾けたい。
映像は是枝さんの持つ汗ばむような空気感があり、湊役の黒川想矢くんが何と表現したらいいのか・・・少年を色香を感じるよう自覚的に撮ってるので、変な言い方ですが気にしないようにするのに変に力が入りました。
勢いで観に行き原作小説を購入したんですが開いてみるとほぼ映画通りの内容でした。
読みやすそうなので気になったところを反芻しようと思います。
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mocomocon · 1 year
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ふふっ
アフロとロゼのバチバチ合同シナリオ見てふふってなってます、瞬間湯沸し器蘭ちゃんかわよ。
とりあえずアークナイツさんはBSWかA1か歳関係かライン生命かフィアメッタさん出てくるイベ来たら本気だします、ええ、A1とライン生命の漫画まだ??(ずっと言ってる
なんか盟友のイベスト評判いいから気になってはいるんですが……如何せん読むと大体3時間から4時間、ニアーライトは全部含めて8時間のボリュームにおののいてます、はい。お前ホンマにソシャゲか??
バ!さんのストーリーはメインでも2時間前後でいいっすね……イベスト45分くらいだし……とりあえずお菓子教室まで見返しますかね。なんか推し二人組のイベストが流れてきてたからみたんですけど、新婚を通り越して熟年夫婦みたいな雰囲気醸し出してて笑った。仲良きことはよきかな。
しかしやっぱ絵柄?変わったよね……最近のキラキラしてるっていうか、こう……初期のさっぱり絵が好きだったんよねぇ。
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team-ginga · 2 years
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映画『アンチクライスト』
 DMM. comでDVDを借りて、ラース・フォン・トリアー監督の『アンチクライスト』(2009)を見ました。
 ラース・フォン・トリアー監督の映画は何を見たっけ。たくさん見たような気になっていましたが、『ドッグヴィル』(2003)、『奇跡の海』(1996)、『ハウス・ジャック・ビルド』(2018)の3作だけのような気がします。
 いずれもいい映画だと思いますが、見るのに覚悟がいるというのかな、精神的にも肉体的にもある程度の準備ができていないと見られない映画のように思います(非常にグロテスクで不快とされる『ハウス・ジャック・ビルド』を私は大笑いしながら見ましたが、それはまた別の話です)。
 『アンチクライスト』は前から気になっている映画でしたが、なんだか怖くてなかなか手が出なかった映画です。
 だって、夫婦がセックスしている間に幼い子どもが窓から転落して死んでしまうところから始まる映画ですよ。私は「子どもと犬は死なせてはならない」というハリウッドのお約束(ヘイズコード?)を信奉する者ではありませんが、子を持つ親としてこういう話はやはりちょっと「きつい」と思います。
 でも、改めて考えると、これっていつぞやピッコロ劇団が上演していたイプセンの芝居『小さなエイヨルフ』にちょっと似ていますね。まあ、小さなエイヨルフは、両親がセックスしている間にベッドだか机だかから落ちて足に障害を負うだけですが、それによって両親、特に母親がトラウマを負うことに違いはありません。
 イプセンはノルウェーの劇作家ですから、デンマーク人のラース・フォン・トリアーは『小さなエイヨルフ』を知っていて、そこからインスピレーションを受けたとしても不思議はありません。
 幼い息子を失った妻(シャルロット・ゲインズブール)はショックで入院してしまいますが、心理療養士の夫(ウィレム・デフォー)は妻を退院させ、薬をやめさせて自分で治療しようとします。夫婦の会話の中にもありますが、家族や肉親の治療をすることは最悪のチョイスです。
 夫はさらに妻に一番恐ろしい場所はどこかと尋ねます。妻が森だと答えたので、夫は彼女を森の中の別荘に連れて行きます。一番の恐怖を乗り越えられれば他のものも乗り越えられるという一種のショック療法なのかもしれませんが、これもまた最悪のチョイスーー社会から隔絶した森の中の別荘に篭れば、症状は悪化するに決まっています。
 つまり、最悪のチョイスが二つ重なったわけです。『アンチクライスト』は幼い息子を失った夫婦の再生の物語ではありません。そういう夫婦が最悪のチョイスをしてどんどん追い詰められていく物語、追い詰められた人間がどうなるかを描く物語なのです。
 夫婦の別荘は「エデン」と名付けられていますが、その名とは裏腹に最悪の場所で、夜になると不思議な物音が響きます。妻によればどんぐりが屋根に落ちているのだそうです。そんなことあり得るんでしょうか。
 夫が窓から腕を出したまま寝ていて、朝起きると手や腕にびっしりヒルのようなものが張り付いているシーン、夫婦が庭にいると木の上からアリがびっしりたかった鳥のひなが落ちてきて、それを鷹だか鷲だかがさらって食べるシーン、夫が草むらで死にかけのハイエナのような動物(ネット情報では狐だそうですが、私にはそうは見えませんでした)を見つけて、その動物が夫の方を向いて"Chaos reigns"(混沌が支配する)と言うシーンなぞは、気の弱い人はダメかもしれません。
 夫婦がセックスしていて、妻が「叩いて」と言うのを夫が拒否すると、妻が全裸のまま外に飛び出し、大きな木の根元でオナニーを始めるシーンも衝撃的です。夫は妻を追いかけ、オナニーをしている妻に覆いかぶさり、挿入したまま妻を叩くのですが、そのとき木の根のあちこちから人間の手が見えるのもゾッとします。
 妻は歴史学者か何かなのでしょうか、前年の夏、夫を都会に残して幼い子どもと一緒にこの別荘で魔女狩りについての論文を書こうとしていました。その流れから、Nature(自然)の邪悪さの話になり、Human nature(人間の性質、人間性)の邪悪さを経て、Female nature(女性の性質)の邪悪さの話になるのは、言葉遊びじみているとはいえ、なかなか面白いものがあります。
 ある日、妻が子どもの検死報告書を見つけます。死因に不審な点はないのですが、子どもは足の骨に軽度の奇形があったと書いてあります。
 夫は前年、妻がこの別荘で撮った一枚の写真を見て、息子が靴を左右反対に履いていることに気づきます。他の写真も調べてみると、見る写真見る写真全てがそうです。
 妻はわざと息子に左右反対に靴を履かせていたのではないか、息子の足の骨の奇形は妻がわざと作ったものではないかと夫が考えていると、妻が突然「私を捨てる気なんでしょ」と叫びながら襲いかかってきます。
 二人はそのままセックスになだれ込みますが、妻は突然、近くにあった木材で夫の股間を潰します(えっ?)。
 妻は失神した夫の足に手動のドリルで穴を開け、そこに研磨機と言うのかな、大きな砥石を貫通させ、ボルトだかナットだかで固定します。失神から覚めた夫は砥石を引き摺りながら、外に出て大きな木(妻がオナニーをしていたところです)の根元にできた穴に身を隠しますが、妻に見つかってしまいます。
 妻は夫を家の中に引きずって行き、そこで大きなハサミで自らのクリトリスを切り取ります(えっ?)。
 夫は肘で床板を壊して床下から工具を取り出し(妻がそこに工具を捨てたのですが、夫はなぜそれを知っているのでしょう。妻が捨てるところを見てはいないはずですが……)、ようやく足から砥石を外します。
 そして放心状態の妻の首を絞めて殺し、外で薪を炊いて妻の死体を燃やします。森にはそこかしこに白塗りの全裸の人間が転がっています。私は思わず「え? 寺山ですか? それとも山海塾?」とツッコミを入れたくなりました。
 翌朝、夫は足を引き摺りながら山を降りて行きます。するとどこからか驚くほど大勢の女たちがわらわらと現れます。女たちの顔は目鼻立ちが一切見えないように映像処理がしてあります。
 この女たちは何者か、彼女たちは何をするつもりなのかはわからないまま映画は終わります。ただ、女性の性質の邪悪さが話題になっていたことを思うと、決して夫に対して好意的ではないことが推測できます。
 どうです、凄まじい映画でしょ?
 カンヌ映画祭に出品した際には物議を醸し出し、見るに堪えない女性蔑視の映画だと酷評する人もいたようですが、これは女性蔑視というより男の中にある女に対する根源的な恐怖を描いたものではないかという気がします。AntiChristというタイトルの最後のTが丸の下に十字をつけた女性を表す記号になっていることからも、反キリスト=自然=女性という図式が感じられるように思えます。
 『アンチクライスト』は見る者を選ぶ映画です。万人受けは絶対にしないと思いますが、一度は見る価値のある映画だと思います。
 次は『イディオッツ』か『メランコリア』か『ニンフォマニアック』を見てみようかな。でも、そのためにはそれなりの準備と覚悟が必要な気がします。
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duckreunion · 4 years
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人間小観察①~「227大団結」について
 まず始めに、このアカウントを作ろうとしたのは、日ごろ読んだBL小説やBLマンガなどの書評と感想をポストするつもりだった。まぁ日本語の練習もその目的の一つなのだが、しかしまさか最初の一編となるものは、書評も感想でもなく、中国の同人圏の一大事件についての雑文だとは、思いもしなかったものだ。 
 ここに書いたのはただ個人の記録と感想なので、事件の全貌や真相などではない。間違いがあればお許しください。
 さて、誰でも否定できない事実から始めよう。2020年2月29日に、AO3が中国のGFWにブロックされ、中国大陸のインターネットユーザーがAO3に直接的にアクセスできないようになった。この事件の火元は政府側ではなく、「肖戦」というアイドルのファンによる告発だったそうだ。どうして肖戦のファンが政府にAO3を告発したのだろうか。そこには妙な原因がある。
1.「陳情令」とファンの構成
 近年中国では、IP(Intellectual Property)の開発の好景気に伴い、オリジナルBL小説に基づくドラマも多くなってきた。「陳情令」もその中の一つで、BL小説「魔道祖師」を翻案したドラマなのだ。そして「陳情令」の主役として、肖戦は「魏無羨」つまり受けを演じた。ちなみに攻めの「藍忘機」を演じたのは、王一博というアイドルだ。
 このドラマはSNSで話題になり、人気を博した。もちろん主役の二人も多くのファンを集客した。ただし、「陳情令」はBL小説に基づいてのものなので、そのファンの中にはBLの好きなファンも多い。更に、BLファンの中に、キャラクターではなく役者の二人の関係を恋愛関係だと想像しながら、二人をも応援している、通称「CP(カップリング)ファン」という人も少なくない。彼女たちはBLの力を発揮し、肖戦と王一博の仮想の恋愛関係を語り合ったり同人を書いたりしているようだ。
 一方、アイドルのファンには一人のアイドルしか好かないファンもいるに違いない(いや、むしろそのようなファンこそ一般的なファンだろう)。中国では彼らは「唯ファン」と呼ばれている。「唯ファン」とは、「そのアイドル=唯一」という意味だ。その言葉はそもそもアイドルグループの場合に、メンバーズの中で一人しか好みではないファンに対しての呼び名だが、今は広義的に使われるようになったそうだ。
 まあ細かいところには気にしなくてもいいのだが、とにかく、肖戦の「唯ファン」たちは彼らのアイドルを他の人とカップリングさせることを嫌がっている、というのは否定できないことだ。
2.同人小説と告発
 2020年2月24日、あるCPファンが、『落下(中国語:下坠)』というRPS(Real Person Slash、実在する人間に基づいてのBL同人小説)をAO3とLofter(たくさんの中国同人作者が活躍しているブログ)で発表した。もちろんそれは王一博と肖戦を主人公にした同人小説だ。小説では、「王一博」というキャラクターは未成年の高校生で、「肖戦」は女装している男である上、売春もやっている性同一性障害患者なのだ。一見危うい題材だが、読んだら意外にいい作品だと思う。官能的な描写もあるが、二人の主人公の切ない感情が繊細に描かれているところもあり、さらに主人公の身近の人たち、そのどん底に生きている人間の絶望と虚しさも、ゆっくりとしたタッチで語られている。私は普段オリジナルBL作品しか読んでおらず、同人作はあまり読んだことがなかったから、その文学性に驚いた。
 しかしその小説の反響があり、発表した後すぐSNSで広がっていき、CPファンだけではなく、唯ファンたちにも読まれだ。その結果、「肖戦」のキャラクターの設定に大変な物議を醸した。「唯ファン」は彼らの統領をはじめ、「未成年・売春・色情の内容が未成年たちに害する恐れがある」ことと、「アイドルを娼婦として描写することはアイドルのイメージに対しての損害」といった理由をもって、小説・小説作者・小説の発表されたサイト(AO3とLofter)三者を政府機関に告発することを仕掛けた。もちろんその行為を反対したり批判したりす���人もいないわけではないが、告発を止めることはできなかった。こうして、ある見えない「戦争」の火種を灯した。そして数日後AO3がブロックされたことを機に、火種は燎原の火になった。
3.戦場の拡大
 この戦争は肖戦のファンの内部分裂で引き起こされたのだが、その影響は拡散したため、今はもうサイバースペースでの社会事件と言ってよいだろう。どうして今回の事件はこんなに大規模になったかについては、私の浅はかな考え方からすると、恐らくこの事件にはいくつかの問題が重なっており、それぞれの問題に対して、異なる人の回答と行動を要請し、結局思いもよらぬところまで波及していったのではないか。
 まずは同人圏からの反対と「227大団結」の誕生。
 もう慣例になってしまうが、中国のサイトが告発されたら、(不適切だとみなされた)内容への清掃は必ず付いてくる。この環境の下で、同人、特に性描写のある同人を創作する作者はいつも不安なままなのだ。だから告発の始まった後、Lofterでは大量の同人作品が読めなくなり、多くの作者も保身のため自分の作品を削除し、Lofterから遁走した。影響された作者とその作品は、肖戦の同人圏だけではなく、Lofterでほとんどすべての同人圏にも及んだ。それを見かねて、同人の支持者が集まって、肖戦のファンの行為に反対の声を上げはじめた。肖戦の熱狂的なファンの向こうに立っているのは、世界中の数え切れない作品とその同人、「ハリーポッター」から「文豪ストレイドッグス」まで、それぞれの愛好者たちによる戦線なので、その日(2月27日)は「227大団結」と名付けられたそうだ。
 次は論争の焦点、「告発の権利」と「表現の自由」だ。
 同人圏の反対に対して、肖戦のファンは「わいせつな物を告発するのは市民の権利だ。私たちには間違いなどない。そのような物を作った人こそ間違っている。」と主張した。それによって、告発の権利と表現の自由との関係も激しく討論された。
 中国では近年文芸上の制限が増え、書いてはいけない題材・表現が多くなる一方だ。また「告発」は制限の仕組みの一環となっている。読者が「不適切な」ものを発見→政府機関に告発→作品の封鎖/サイトに処罰を与える、という連鎖なのだ。この制限は同人圏より恐らく商業化されたオリジナル創作圏の人に嫌われているのだろう。いずれにせよ自分の作品が「不適切だ」と判断されると、作家自身の名にも酷く影響を与えることになるからだ。従って、今回の論争にはオリジナル作家も(もちろん彼らの読者も)「大団結」の側に立ち、同人圏の人を応援したのだ。大団結の支持者は徐々に増えてきている。
 最後は「ファン圏」とインターネットユーザーとの間の衝突。
 「饭(ファンの発音の当て字)圈」という言葉は今中国のSNSでよく見られる。元々「ファンダム」という意味だった。今は「ファン圏」と聞いたら忌まわしい印象があるので「ファンダム」とそのまま翻訳したらそのニュアンスがなくなることから、「ファン圏」というちょっと変わった言葉を使ってみることにした。
 アイドルがいればファンもいる、というのは言うまでもないことだが、中国の「ファン圏」という言葉が指したのは一般的なファンの集まりではなく、高度組織化されたファンの団体のようなものだ。
 普通のファンは好きなアイドルの歌を聞いたり、番組を見たり、ライブなどあれば行ったりする。しかし「ファン圏」の一員になったら、すべきことが多くなる。あらゆるランキングに投票する。アイドルのポストしたことをリツイートする。アイドルがある商品のイメージキャラクターになれば、その商品を買う。SNSで誰かがアイドルの悪口を言うと、「アイドルの風評被害を防ぐ」ために、そこに赴いて反論する等々。
 上述のことは、普通のファンもしたりするが、ファン圏であれば、そのようなことは割り当てられた任務になった。それをしなければファン圏の一員失格なので、他のメンバーズに見下されるようだ。さらに、ファン圏の者は頭領の指示に従い行動を一体化させるところもあるため、その影響力が拡大し、ファン圏以外の人物に多大な影響を及ぼすことが屡々ある。
 ファン圏による群体的行動にはだいたい二つの目的がある。アイドルの人気や商業上の価値を上げることと、アイドルのイメージ・風評を守ることなのだ。ネット上では、普通のユーザーがファン圏に嫌悪感を抱いているのは後者による行動だろう。
 ファン圏の人はアイドルに対するあらゆるツッコミ・不満・批評を、アイドルのイメージの損害と認識しているようだ。そのようなコメントが発見されるたびに、ファン圏は迅速に対応する。反論は基本中の基本だが、他の手段もある。例えば、アイドルに対する積極的なコメントを多く発表しネガティブな批評はコメント欄で閲覧できなくなる。さらに、それを不適切な発言があったと報告する。評論者の個人メッセージに「そのコメントを削除してください」などとお願いする。下手をするとお願いではなく過激な言論や悪口なども送ったりするのだ。Weibo(中国版のツイッターって言ってよいのかな)では検索機能がある。たとえ「○○(アイドルの名前)の演技下手過ぎて受けるわ~」というツッコミをしても、ファンに見つけられ囲まれいろいろ言われる恐れがあるから、今Weiboでは「ファン圏」という兵器を持っているアイドルに、他の人は彼らの頭文字だけ用いて語るようになった。つまり新垣結衣を「ay」と書く、という感じなのかな。
 もちろん異なるアイドルのファン圏の間でもよく「戦いあう」がそこまで言ったら収まらないだろう。とにかく、ファン圏の活動の拡大に伴い、一般的なユーザーは活動空間が侵食されつつあり、苦情も不満も溜まっている一方だ。今回の事件を契機として、AO3やLofterなどをよく知らない人もファン圏の過激なやり方を批判したりこれまでの苦情をこぼしたりして、大団結の戦線の一部となった。
 要するに、事件の直接的な被害者である者、表現の自由の擁護者である者、ファン圏のやり方の反対者である者、この三つの群体が、肖戦のファン圏と直接的に対峙している。まるで波紋が四方に広がっていくかのような状況なのだ。
4.AO3の陥落と攻防戦の開始
 政府機関に告発したのは26日だった。そして29日の夜、中国からAO3にアクセスすることができなくなった。同人圏に、「精神上の家が失われた」と嘆きながら涙を流した者は少なくなかっただろう。とはいえ、たとえどう願ってもAO3は戻ってこないのだということをつくづく感じ、彼らはすぐに自身の悲痛と憤りを肖戦のファン圏への恨みに変え、敵討ちしはじめた。
 肖戦の膨大なファン圏に反撃するため、「肖戦」を狙わなければいけない。肖戦を倒すのは反撃の一番重要な目標となった。ここでの「肖戦」は人間としての肖戦ではなく、アイドルとしての肖戦だ。資本に操られ、ファンに崇拝され、信仰を金銭に両替する一番重要な中枢というものなのだ。また、その目標には、「肖戦が芸能界から追い払われたら、肖戦のファン圏も自分の大好きなものが失われる苦味を味わわされるのだろう」という、肖戦の反対者の気持ちさえも含まれていた。
 反撃の計画は速やかに立てられた。肖戦の商業上の価値を消すのは計画の核心となった。肖戦が出演した作品のレビュー欄で反対の声を出し、これはドラマ・番組の制作会社に警告し、今後肖戦を役者として起用しないという手段だ。同時に、肖戦をイメージキャラクターに起用している商品をボイコットし、会社にイメージキャラクターの変更を訴える。それらの会社の中に、肖戦を支持する会社はいくつかある。そのような会社に対して、反撃者たちは「発票」というものを持って大手企業と対抗する。
 私は文系なので経理のことにはちっとも分からないが、ようするに「発票」とはレシートみたいなものだが、実は税務局の課税の対象になるそうだ。買い物した後、レシートをもらえるのは言うまでもないことだが、中国ではお店に「発票」を出してもらうことができる。発票を発行することでその部分の売り上げは税務局に知られ、そして税金は増えるようだ。発票による税金は会社が納める税金の全部ではないが、発票を多く出せば出すほど、納める税金は多くなるのだ。そこで消費者が発票を請求しなければ、普通の店舗は発票を出さない。
 しかし、取引が発生したら、消費者がその記録を保存し、将来いつでも販売店に発票を請求することができる。なので反撃者たちは消費者の権利を行使し、何年も前の消費記録を探し出し、肖戦を支持する会社に発票を出してもらうことにした。短時間に大量の発票を出すと、会社の経理部に大きな圧力を与えることができ、その会社は税務局に何か不審な行動があるのではないかとも疑われるそうだ。
 ボイコットと「発票」の策は効いている。肖戦のイメージキャラクターはだんだん他の者に取り替えられていった。しかし勝利にはまだほど遠いのだろう。肖戦を世論とトラブルから救い出したいのはファン圏だけではない。肖戦の所属する芸能事務所と、「肖戦」というブランドに投資した資本もこのブランドの価値を保つため動いている。時々肖戦を群体迷惑行為の被害者として、「227大団結」を加害者として描いた文章がWeiboで流布される。「227大団結」の参加者を香港の独立の擁護者、暴動者と同じように見なす評論も見られる。ちなみに「227大団結」というタグの閲覧数は一億を越えたが話題ランキングには全然見られない。このようなことは肖戦の後ろ盾である資本による仕業だとみなされている。更に、肖戦とは全く関係のない政府の公式アカウントが肖戦への同情の言論を発表したり、肖戦のスタジオの声明をリツイートしたりすることもある。この現象は「227」の立場からみると、まさに資本が政府の機構を蝕み、共謀している証拠なのだ。ゆえに肖戦側には「公権を私的に利用する」という罪名が加えられた。
 振り返ってみると、いつの間にか「表現の自由」というスローガンはこの攻防戦が始まったとたんに捨てられた。私にとっては残念なことだが、それはしょうがないことだと納得が付かないこともない。成人向けのレイティングのない中国では、あらゆる性描写のある内容がわいせつ物と視されがちだ。もちろん芸術的価値のある作品であれば性描写があってもわいせつ物の範囲には入らないが、どのような基準に則って芸術的価値の有無を裁定するかは、法律には書いていない。こういう状況である以上、「表現の自由」についての討論はこの戦争に役立たず、逆に話をややこしくし、敵に隙を付け込まれる恐れもあるのだ。従って「227」の人たちは本当の目的を明かさず、肖戦を倒すのにもっと役に立つ罪名を探し出した。「公権を私的に利用する」のはその一つだ。肖戦の昔のWeiboでの発言を探り、女性を見下すような品のないコメントを取り上げ、「女性を侮辱する」という罪名をつけた。また、ファン圏の行為を放任したせいで、ファンが狂気になりファン圏自体も邪教団体と化す可能性があるため、「ファン圏の邪教化」という罪名も加えられた。事件が起こった直後に、肖戦のファンがツイッターで自分の無実を訴えたりした。AO3がブロックされたのは中国政府のしたことで、肖戦に、彼らには関係ない、と。しかしそれらの弁解はそれぞれ微妙に差があり、元々偏っている話をさらに誤魔化し、結局傍観者に「中国政府がlgbtを迫害している」や「肖戦は新型コロナで死去した」といった印象を残してしまったようだ。もちろんそのような言論も227の人にピックアップされ、Weiboで暴かれ、もっと厳しい罪名がつけられた。国家の形象を損害することつまり「売国」という罪名なのだ。こういうふうに、227の人は肖戦と彼のファンを、国家と対立する立場に押し付け、社会の平穏を脅かす存在として語っている。
 5.政府筋の意見?
 227の人と肖戦のファンとの戦いが白熱化し、いよいよ政府が注意を喚起した。
 3月11日、中国の最高人民検察院に所属する機関紙『検察日報』が今回の事件について文章五編を登載した。文章の作者には検察日報の職員や、検察官や、法学の博士もいる。機関紙に出る文章は公的立場からの意見とされているので、この五編の文章も政府側の今回の事件に対しての見方だと見なされている。
 それらの文章をかいつまんで言うと、両方にも意見が表れていることが分かる。
 一つは同人側に対する意見。
 1.中国では、同人作品はオッケー。ただし、商業利用の目的であったら法律違反になりかねない(著作権侵害など)。また、同人にわいせつ的内容があったら法律違反だ。中国では「わいせつ物伝播罪」という罪名がある。わいせつ物をもってお金を稼ぐことはもちろんダメだが、ただわいせつ物を広げることだけで犯罪視される、ということだ。
 2.『落下』の小説について言えば、現実人物の肖戦と王一博の氏名権を犯す可能性はあるが、告訴の主体は肖戦と王一博に限る。
 3.中国ではレイティング制度はないので、AO3での一部の作品は中国の法律を犯したのかもしれない。外国のサイトであるAO3に対して中国は法律を執行できないなので、法律に従い措置をし伝播ルートを阻止するのもおかしくないのだ。
 次はアイドルとファン圏に対する意見。
 1.ファン圏の活動が一般人のインターネットの利用ないし生活にも影響を与えたということは否定できない。
 2.アイドルとファンの絡みが日に日に強くなる今日には、ファンの暴走に見て見ぬふりをするのもアイドルの失格だ。
 3.法律違反の行為や現象などを見たら政府に告発する権利を市民は持っているが、それを持って意見の不一致である反対者を排除することは認められていない。
 私に言わせれば、これは政府の本音に一番近い意見かもしれない。
 同人は大丈夫だけど色情はダメ。色情内容���削除できないとしたら排除する。アイドルが自分のファンを手先のように馴らしてもいいが、調子乗りすぎると締めてやる。まるで公正無私の父上が喧嘩し合っている兄弟を止める時の言い方のようだ。その文章を一通りに読んだら、今回の事件は価値観の対立している二つのコミュニティーの間の争いに見えるかもしれないが、事件の起こる要因の一つとしてのGFWは巧みに隠された。隠喩的に「法律に従い措置をし伝播ルートを阻止する」という言葉のみにとどめられている。さすが公正無私のお父様にも大人の事情があるのだ。
 6.一か月後の今
 これを書いたのは、「227」の一か月後、3月28日の深夜だ。
 いまだに「227」と肖戦のファン圏との戦いは続いている。いつ終わるかは、私にはさっぱり分からない。毎日SNSで関連情報をざっと目を通すことすら私は疲れてきた。現時点ではSNSで「227」の人の憤慨と悲痛の気持ちは多少治まったが、ボイコットの範囲は拡大しつつあり、「発票」を請求する対象となる商社も増えている。なぜなら、肖戦のファン圏を倒すためにまず肖戦を処罰しなければならず、またそのために、肖戦の後ろ盾としての資本・大手企業と戦わなければならない、という見方で彼らが一致したのだ。涙は御免で、大切なことが失われたその切ない気持ちを相手に味わわさせるこそ一番大事なことなのだ。
 面白いことに、事件が起こった頃から今まで、肖戦はネットでも現実でも全く姿を現さず、お詫びも申し開きもせず、まるでAO3と一緒にGFWにブロックされたかのようだ。ファンの保護の下に凌いでいる度胸のないやつだと言われることもあれば、しばらく鳴りを潜め復帰できる時を待っている企みだけだという推測もある。しかし私は、犠牲になったAO3が「227」の闘争の旗となったことと同じように、肖戦側も何かを抽象的に彼らの意志を託す象徴物を作らなければならないと思う。そうでないと戦争は始まらない。そこで肖戦は彼らの味方に選ばれ、軍旗の上の印にされたのだ。この戦争が終わらないうちは、肖戦は外に出られないのだろう。まるで保護対象が生贄になったようだ。まあそれはそれで一種の罰なのかもしれない。とはいえ、逆に言えば、肖戦自身が皆の前に現れるというのは、このもどかしいシーソーゲームの勝負がつくということだ。しかしながら、その時には、どちらが勝者どちらが敗者なのか、それを突き止める意味はまだあるのだろうか。「227」のほうが勝ったとしてもAO3は私たちの許へ戻れなくなったことに変わりはない。
(この雑文は私の日本語先生に添削していただきました。サクラ先生、どうもありがとうございました!)
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igayasakebrewery · 1 year
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GOWARINGO2023の添麹【日本酒を造る際、3日間に分けて水・麹・蒸し米を容器に混ぜ合わせて入れていきます。その1日目の麹】が完成しました♪ 狙いは総ハゼ❗米の表面も中心も白い菌糸が伸びた状態を目指しました🌾 新米の状態を見極めながらの麹造りの割には良い出来映えです🎶 良い麹の見極め方として、純白であること・弾力があること・香りが華やかであること・麹を割ると中まで菌糸が食い込んでいること・輪郭がシッカリと出ていること・食べると上品な旨味があること等々ありますが、どれもまずまずといったところ😊 次回の麹造りは年明けからスタートとなりますが、蒸し加減や菌糸をより深く伸ばす為の水分と温度と酸素コントロールを意識しながら頑張ります🎵 #完熟麹 #時間をかけてじっくりと #丁寧にていねいに #完熟醪 #始まりが伝統になる一滴入魂の蔵 #創業1853年 #夫婦二人で醸す #日本一生産量の少ない酒蔵 #食事とのペアリングを意識した酒造り #麹割合を変化させた酒造り #低アルコール日本酒 #無濾過生原酒 #リッチ&ピュア #岩清水の如く澄んだ味わい #香りは食事の邪魔をしない様に上品に薫る #理屈抜きで美味しい個性ある日本酒 #テロワール #減農薬栽培米 #井戸水 #厳しい品質管理 #マイナス5度で貯蔵 (井賀屋酒造場) https://www.instagram.com/p/Cmgvzc8ycqt/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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hanazonoweb · 5 years
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ここで梶谷文雄と遠藤文香のそれぞれが、「花」について思うことや抱くイメージについて少し話したいと思う。
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「花」または「植物」について / 梶谷文雄
私は花について、というか植物のことを弱い人間が求める存在だと思っている。ここで言う弱いとは別に心を病んでいるとか社会的立場が低いとかの話ではなく、自分自身が完全体でない、自分の力だけで生きることはできないことを自覚した人(もしくは最初から理解している人)のことを差す。そういう人が植物を愛しているんじゃないかなと思う。みんな無自覚で植物とは関わっていて、なんだったら呼吸できるのも植物のおかげな訳だから、当たり前に植物が必要なことはほとんどの人が分かっているんだけど、その中でも私って何でもできる!最強!と思えた若い頃の無敵の時期を終えた人が、植物を通じて「共生」とか「この世の壮大さ」みたいな感覚を得ているんじゃないかなと思う。その感覚をわかりやすく身近に表しているのが植物のような気がする。
私の存在がちっぽけというか、例えば死ぬこととかこの世では抗えないことがたくさんあるんだなと自覚するようになってきて、そんなとき植物がそんなの当たり前じゃないですか?と呆れ顔で言ってくれているような気がして安心する。全てを受け入れている達観の先輩みたい。もし植物が死を恐れていたり、人間みたいに争っていたらそれはそれで親近感が湧いて一緒に怖いよねって話もしたい。芍薬を買ったとき薄ピンクの花で期待した色じゃなかったからブスって何度か呼んだ。そしたら5割くらい開花した後、蕾のままボトッと落ちて私の発言によって死を選んだんじゃないかと怖くなった。それくらい人間を見ていて、感じ取っている。けれど私から植物の気持ちを感じ取れることは、ほとんどなく、元気とか萎れちゃっているくらいしかわからない。でもその少ない情報の会話だからこそ私は植物に恐ろしさも含んだ神秘性を感じ取っているのだなと思う。
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親密な「花」 について / 遠藤 文香
私にとって花は、美しさの象徴であり、そして同時に親密さや共感を感じさせる不思議な存在だ。花の中でも、特に人間の手によって飾られる花に特別な感情移入を起こすような気がする。(前提として花は植物の仲間だが、私の中で花と花以外の植物ははっきりと区別されている。)
私が初めて猛烈に花の魔力、というか魅力に打たれたのは高校生の時、神保町のとある古本屋で荒木経惟の「花曲」という写真集を見た時だ。(私が一番好きな写真集なので、見かけた際は是非一度手にとってみてほしい。) その時のことは今でもはっきりと覚えている。エロティックで官能的に接写された花々があまりに衝撃的で言葉にならず、ただただ、花って・・やばすぎる・・・とその場に立ち尽くしてしまった。なんて妖艶で甘美。性器をおもむろに突き出してと言ってはアレだが、文字通りそのままだ。私たちが衣服の下に隠している性器を、花は潔く恥ずかしげもなく天へと突き出している。それからというもの私は誘惑されるがままに花を、愚かにも性的な目で眼差す人間になってしまった。荒木の撮る花を通して、花は徐々に私の中で興味深い存在へとなっていった。
ところでなぜ、私は花に「共感」してしまうのだろうか。花について考えていくうちに、ある時今までなんとなく感じていた「親密さ」や「共感」の正体が、花に対して無意識のうちに「女性性」というものを投影しているからだ、ということになんとなく気がついた。もともと「花」という言葉は「大和撫子」に代表されるように、昔から美しい女性の比喩として使われてきたことは周知の事実だが、でも果たして私が花に感じる「親密さ」は、そんなステレオタイプな古い刷り込みによるものなのだろうか・・・?力強く暴力的なまでに美しさを放っているかと思えば、時に哀しさや寂しさを漂わせ、怪しげな色気まで醸し出す。時にかなりグロテスクでエロティックに見える様は、先程も触れたように私を虜にする大きな理由の一つだろう。気まぐれに変化する花は、そのまま自分の気分を投影しているみたいだ。そして誰に媚びるわけでもなく、笑顔を振りまくわけでもなく、凛としてそっと佇む姿は他者に何も求めていないように見える。が、自然界でも圧倒的に目を引く派手な色彩、造形、香りからは「私を見て!」と言わんばかりの自己主張を感じたりもする。そしてそれは、女性たちが化粧をしたり鮮やかなドレスで着飾ることに似ている気がしなくもない。花は、受粉のためにミツバチや鳥に見つけてもらわないと困る、だからこそ目立たないといけないわけだが(花によって異なるが、目立つ花は大体昆虫や鳥を必要としている)、着飾る女もまた誰か、他者に見つけてもらわないと生きてはいけない存在なのだろうか。自分で言っておきながら反論したくなるが、それを置いといてもどうしても生物的な面(ジェンダーではなくセックス)において、女性は主体ではなく客体であることは確かだ。他者に客体にされるという花と女の共通点が、私の中で無意識のうちに「共感」や「親密さ」へと繋がっていたのかもしれない。私はきっと、自分や、世の女性たちの女性性、その記号に抱く好意や嫌悪を、そのまま花に投影していたのだと思う。そのことから考えれば、花はどうしようもなく愛おしい反面、実は目を背けたくなるような存在でもあり、花はそうゆうありとあらゆる相反するものが同時に共存できる豊かさで満ちているのだと思う。その豊かさこそが、私を惹きつけて止まない花の魅力の一つである。
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展示を通して
上の文章でもそれぞれの視点の違いについて話したが、やっぱり全くと言っていいくらい捉え方が違い、お互いに感心し、そして少し嫉妬し合った。梶谷は俯瞰して見るように自分と花との距離を意識している。それは植物に対してそこに”いる”という感覚を持っていて、花も同じように人間をなんか”いる”な、と捉えているのではないだろうか。一方で遠藤は、植物という大きな括りからさらに一歩踏み込み、一点を集中的に見るようにしてその花の魅力を見つける姿勢を持っている。花を対象にするとき、見る/見られるというような自分と花個人の関係を重視している。そうゆうそれぞれの花に対する態度は、花だけに対するものではなく普段の人間関係など、あらゆるものを見る目線ともかなり共通していると思った。
それから私たち人間は当たり前に野菜などの植物からエネルギーをもらって生きているが、改めて山本さんが庭で採れたみかんを絞りジュースにしたり発酵させたコンブ茶を飲んだりしているのを見て、面食らってしまった。というのは、私たちは家に花を飾ったり植物を置いてそれを見ることで普段エネルギーを得ているが、山本さんご夫婦は見ることに加え、自分たちの手でのびのび育てた植物たちを日々食べることでもエネルギーを得ていたからだ。スーパで売られている野菜たちも同じ植物だが、自分たちで育ててもなければ、育った場所も知らない。パッケージされたそれらに対して植物、という意識はどうしても薄れてしまいがちだ。みかんジュースやコンブ茶を飲ませてもらったとき、食を通して植物からエネルギーをもらっているという事実を改めて実感した。
私たちがよく愛でている観葉植物や、道に植えられた植物たちは、あるべき場所にあったものを自分たちの空間に持ってきて育てるという、支配関係みたいなものが存在している。森や山などの植物たちが自生する場所においては、逆に人間が彼らの場所に居させて頂く、というような感覚になる。普段あまり触れることがなかった山本家の大きな庭を体験してみて、庭はその二つの行為の中間点というバランスのいい感じがした。庭は、人間と植物が1番いい距離感で共生していける可能性に満ちた場所だった。
この場所で展示させてもらったことは、私たち人間と花や植物たちとの関係性や、共生というものについて考えていくいいきっかけを与えてくれた。そして、花に対する個人的な捉え方の違い、「花」という存在についても、考え続けていきたいと思わせてくれた。私たちだけではなく、他の人たちが感じている「花」についての話も聞きたいと思ったので、機会があれば是非私たちに聞かせて貰えると嬉しいです。
最後に。展示場所の提供をしてくださった山本ご夫妻に心より感謝申し上げます。
最後まで読んでくださった方も、どうもありがとうございました。
2020.8.31. 遠藤文香 梶谷文雄
●写真撮影 : 遠藤文香
● 作品の一部を以下のサイトで販売しています。(展示作品の詳細、アップ写真が見られます。)
https://fumio.theshop.jp/
●プロフィール Artist Profile
< 梶谷文雄 / Fumio Kajitani >
1993年生まれ。東京藝術大学美術学部デザイン科 卒業。
Instagram : @ffffumio / Mail : [email protected]
< 遠藤文香 / Ayaka Endo >
1994年生まれ。東京藝術大学美術学部デザイン科 在籍。
Instagram : @e__n__d__ / Mail : [email protected]
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2ttf · 12 years
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xf-2 · 5 years
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第198回国会に当たり、所信を申し述べます。今回が私の二度目の外交演説となりますが、昨年の外交演説の中で申し上げた六本の柱を引き続き、外交政策の中心に据えてまいります。 
第一に、日本の平和と安全を確保していく上で、日米関係を一層強化し、日米同盟の抑止力と対処力を一層向上させます。同時に、普天間飛行場の一日も早い辺野古移設を含め、地元の負担軽減に全力で取り組むとともに、沖縄の一層の成長につながる国際化支援を進めます。さらに、米国の協力を得て英語教育を推進します。 加えて、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、国際法の尊重など共通の価値観を持つ国々との連携を強めていきます。インド、豪州、EUや欧州主要国等の戦略的利益を共有する各国との枠組みや、ASEANを含めたアジア太平洋の地域協力等、同盟国・友好国のネットワーク化を推進します。
 第二に、我が国周辺の安全保障環境を踏まえつつ、近隣諸国等との関係の強化を進めます。ロシアとは、「1956年共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」との首脳間の合意を踏まえ、領土問題を解決して平和条約を締結するとの基本方針の下、交渉責任者として粘り強く交渉に取り組みます。 大局的観点からの中国との安定的な関係構築は極めて重要です。首脳間を含めたハイレベルの往来を通じ、経済関係のみならず、国民レベルの交流を深め、信頼関係の強化を図ります。他方、東シナ海における一方的な現状変更の試みは、断じて認められません。引き続き、冷静に、かつ、毅然と対応してまいります。 国際社会は核武装した北朝鮮を決して受け入れません。核・ミサイル問題を解決し、正しい道を歩めば明るい未来を描くことができるということを、北朝鮮の現体制に示し、北朝鮮による全ての大量破壊兵器及び弾道ミサイルの完全な、検証可能な、かつ、不可逆的な廃棄まで国際社会の団結を維持するとともに、拉致問題の早期解決に向けた努力を続けます。 韓国に対しては、日韓請求権・経済協力協定、慰安婦問題に関する日韓合意など、国際的な約束事をしっかりと守ることを強く求めていきます。また、日本固有の領土である竹島については、日本の主張をしっかりと伝え、粘り強く対応します。 
第三に、WTOを中心とする、ルールに基づく多角的貿易体制をしっかりと守り、改革する努力の旗振り役を務めます。また、官民連携の推進による日本企業の海外展開支援、再生可能エネルギーの利活用を含めた資源外交、インバウンド観光の促進、日本産商品への風評被害対策、海外で日本企業が直面する知的財産侵害対策、鯨類を含む生物資源の持続可能な利活用等の取組等、積極的な経済外交を進めていきます。本年、日本で開催されるG20の議長国として、世界経済の成長を牽引するためにリーダーシップを発揮していきます。
 第四に、地球規模課題の解決への一層積極的な貢献をしていきます。 国連の安保理は、もはや21世紀の現実を反映していません。安保理を改革していくことは日本だけでなく、国際社会の喫緊の課題です。まず、改革のための正式な交渉を始めることを目標にします。 唯一の戦争被爆国である日本にとって、核軍縮・不拡散は重要な問題です。核兵器のない世界の実現に向け、核兵器不拡散条約の維持・強化や「核軍縮の実質的な進展のための賢人会議」の開催等を通じ、核兵器国と非核兵器国といった立場の異なる国々の橋渡しに努め、核軍縮・不拡散の現実的かつ実践的な取組を主導します。 地球規模課題への対応が急務となる中、SDGsの達成に向けて、日本が主導してきた「人間の安全保障」の考え方に基づき、「誰一人取り残さない」社会を実現するための取組を進めていきます。 気候変動問題は最も重要な課題の一つです。気候変動は、北極にまで影響を及ぼしており、環境変化のメカニズムの解明、その影響を理解することが重要です。また、我が国の知見や技術を活かし、パリ協定の着実な実施を始め、気候変動の影響にしっかり立ち向かいます。 このほか、海洋プラスチックごみ対策やユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)の推進にも取り組みます。G20大阪サミットを見据え、これら諸課題に対しリーダーシップを発揮します。 イラク、シリアにおけるイスラム国の支配地域が大幅に縮小したものの、外国人テロ戦闘員が出身国や第三国へ帰還・移転したことにより、テロ及び暴力的過激主義の脅威もアジアも含めて世界中に拡散しています。関係各国とテロ対策に関する協力を強化し、穏健化の促進等に取り組みます。また、在外邦人の安全確保に万全を期してまいります。
  第五に、引き続き対中東政策を強化していきます。中東の平和と安定は、日本を含む世界の平和や経済の繁栄に直接関わってきます。それゆえに、中東地域における政治的な関与の強化が必要です。日本は、宗教・宗派や民族的な観点から中立であり、中東地域になんら負の歴史的足跡を残したことはありません。また、中東に影響力のある米国と強固な同盟関係にあります。このような強みを持つ日本だからこそ果たせる役割があります。ようやく日本も中東におけるプレイヤーの一つと認識されるようになりました。引き続き、日本の中東への関わり方を示す「河野四箇条」、すなわち、「知的・人的貢献」、「人への投資」、「息の長い取組」、「政治的取組の強化」の「四箇条」の下、中東の平和と安定に向け一層の役割を果たしていきます。
 第六に、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて、努力を続けます。法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序とシーレーンの安全は、国際社会の安定と繁栄の礎です。そのために、航行の自由や法の支配の普及・定着、国際スタンダードにのっとった質の高いインフラ整備による連結性の向上、海洋安全保障分野の能力構築支援の三つをASEAN諸国、米国、豪州、インド、NZ等の関係国と緊密に連携しながら、具体的に進めます。 
今回は、これらに加えて、いくつかのことを申し上げたいと思います。 
日本は、軍事力を背景とした外交を行うことはありません。一方、我が国外交の大きな柱であるODAはピークからほぼ半減しています。知恵と工夫による我が国の「裸の外交力」が試される時代になりました。裸の外交力を高めるためにも、外交活動を支える足腰を強固にする必要があります。そのためには、外務省に良い人材を集め、更にその人材に磨きをかけなければなりません。外務省では、全職員の約3割、来年度入省する職員の約半数が女性であります。また、全職員の約6割、約3,500名が在外公館で勤務しています。共働きの職員、介護を抱える職員など様々な事情を抱える職員がそれぞれの持ち場で活躍しています。しかしながら、現在、外務省の業務は飛躍的に増大しているため、一部の外務省職員の残業時間は、これまで累次の機会に述べているとおり大変深刻な状況にあります。このような状況が続けば、外務省に優秀な人材が集められないという状況にも陥ります。それぞれの職員が、普通に家族と時間を過ごし、育児休業などの休業や休暇制度を活用し、子育てや介護など家庭と仕事を持続的に両立できる体制の整備により一層取り組む必要があります。立法府にも是非、このような状況を御理解いただきたいと思います。さらに、多様な人材が活躍できる組織とする上で、障害者の雇用にも全力で取り組み、障害者が活躍できる環境を整えていく所存です。
 もちろん外交の責任者としての外務大臣の責任も重大です。国連安保理の非常任理事国選挙を始め、国際司法裁判所の裁判官の選挙、北朝鮮に関する安保理決議の完全履行、あるいは国連改革など、国際場裏で日本への支持を獲得するためにはトップセールスが欠かせません。また、多くの国際会議は益々各国の利害が激しくぶつかり合う場になっており、日本の立場を反映させるためには、事前の連携、事後の調整が欠かせません。外務大臣就任以来、日本の外務大臣として初となる国々9か国を含め63の国と地域、のべにして94の国・地域を訪問しましたが、No country shall be left behind、「どの国も取り残さない」という精神で身を粉にして職務に努めてまいります。そのためには外務大臣の海外出張を効率化すると同時にロジを簡素化する必要があります。
 今、日本外交の大きな武器になりつつあるのが、2013年にユネスコでも無形文化遺産に登録された和食です。現実に、多くの国で、大統領や首相が、積極的に大使公邸に足を運んでくださっています。そのためには腕の良い公邸料理人を確保し続けることが大切です。 日本外交の最大の課題は、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、国際法の尊重といった基本的価値に基づいた国際秩序を様々な方面からの挑戦から守り続けることにあります。 ある国で経済が発展すれば、その国民は次に民主主義を求めるようになると私は信じています。しかし、最近の国際的な経済の発展に比べ、民主化の遅れが見受けられます。基本的価値に基づく国際秩序に対抗する秩序を創り上げようとする動きとは断固、戦わなくてはなりません。 
他方、民主化を目指すならば、その道筋は一つではありません。その国なりの民主化の道筋、速度があるはずです。押し付けではなく、その国に寄り添った民主化支援を目指します。G7などの場で、基本的価値に基づいた国際秩序の中でそれぞれの速度で民主化を目指すアジアの声をしっかりと代弁していきます。 サイバー空間においても、近年、一部の国が管理・統制する潮流が出てきています。過度な管理・統制に対し、我が国は民間や学術界、市民社会から幅広い参加を促す国際的なマルチステー��ホルダーの取組に基づき、「自由、公正かつ安全なサイバー空間」を堅持していきます。
また、人工知能、IoT、第五世代移動通信システム等の技術の発展は新しいサービスを生み出し、社会的価値を創出する一方、サイバー攻撃に対する社会の脆弱性を増しています。こうした脅威に一国のみで対応することは容易ではなく、国際社会全体との連携が不可欠です。こうした認識の下、日本は「法の支配の推進」、「信頼醸成措置の推進」、「能力構築支援」を三本柱としてサイバー外交を推し進め、「自由、公正かつ安全なサイバー空間」を実現していきます。 自律型致死兵器システム、LAWSと呼ばれる、人工知能を搭載し、人間の関与なしに人を殺傷する兵器に関しても、国際的な議論が始まっています。かつて火薬や核兵器が戦争の在り方を変えたように、人工知能も戦争の在り方を根本から変える可能性があります。映画「ターミネーター」のように人工知能が人間の関与なしに自ら判断し人間を殺りくするリスクもあれば、人工知能の活用により低コストで兵隊を置き換えられる可能性もあります。すでに多くの国では開発競争が始まっており、我が国は有意な人間の関与が必須であるとの立場から、日本の安全保障の観点も考慮しつつ、国際的なルール作りに積極的に関わっていきます。
 ODAに関しては、背伸びをせず、身の丈にあった、人間の安全保障を中心とする日本らしいODAを目指します。 ODAに対する理解を国民の間で深めていくためにも、ODAの効果を明確に示していく必要があります。保健や教育、女性または農業などの支援に関しては、国際的にも効果を数字で示せるようになりつつあります。税金を使う以上、ODAも結果にコミットすることが必要です。
 今年は、横浜で第7回アフリカ開発会議(TICAD7)が開催されます。アフリカでは、選挙、議会、法律、司法、治安、徴税、入国管理など国家の制度に対する国民の信頼が低く、国家の公式な統治機構よりも民族や文化や宗教的な結びつきが重視されてしまう国がまだあります。それが温床となって、内戦や宗教的対立、テロが頻発し、開発が遅れます。アフリカにおける平和構築、特に国家の制度構築の取組に対し、積極的に手を差し伸べていきます。その一方、成長著しいアフリカは21世紀最後のフロンティアとも言われ、大きな潜在力を持っています。TICAD7へ向けて、官民の連携を通じた日・アフリカ間の貿易投資、アフリカの経済成長のための人材育成、質の高いインフラ整備の一層の促進を図る考えです。 今や世界的に難民、避難民の数は約7,000万人に達し、第2次世界大戦後最多となっています。気候変動の影響で台風や集中豪雨などの自然災害は激甚化することが予想されています。2030年までにSDGsを達成するためには、毎年2兆5000億ドルの資金ギャップを克服しなければならないと言われていますが、我が国を始め、先進国の多くは厳しい財政制約に直面しています。そのため、革新的な資金調達メカニズムが必要です。グローバリゼーションから利益を得た者が、その利益の一部を人道支援のために国際機関に提供することが求められます。国際的な取組みの進展状況等を踏まえつつ、グローバリゼーションがもたらす利益の一部を活用し、それを地球規模課題の対策に充てる国際的な資金調達の方法は議論を深める価値のある一つのアイデアです。日本は、こうした議論の先頭に立ってまいります。 
OECDのDACルールの下では、一人当たりGNIが一定水準を超えた国はODAカウントの対象から外れます。しかし、気候変動の中、島嶼国のように災害のリスクが高まっていく国もある中で、柔軟な対応が求められています。ODAにカウントされるか否かにかかわらず、支援を必要としている人をしっかり支援してまいります。 発展途上国の経済の多くは、ODAだけでなく、日本からの投資を求めています。ODA予算が限られている中で、民間の投資を動員することも今後の日本外交にとって大変重要です。大企業だけでなく中小企業も積極的に海外に出て行けるように、情報提供やODAを活用した海外展開支援をしっかりと行っていきます。 
また、昨年末に発効したTPP11の拡大や発効が確定した日EU・EPA、さらにはRCEP交渉の早期妥結のように大規模な自由貿易の取組を進めるだけでなく、経済規模が小さな国・地域とのFTAや投資協定も戦略的に進めていきます。北京やソウルと比べると、東京から直行便が飛んでいる国、都市の数は限られています。民間活力を外交に生かすためにも、国交省と連携し、直行便を増やし、投資や観光の交流を増やしていく必要があります。
 いまやマンガやアニメを入り口として日本語や日本の文化にも興味を持つ若者が世界中に増えています。ドラえもん、ハローキティやピカチュウは今や国際的キャラクターですし、寿司やラーメンのレストランは世界中で見ることができます。マンガやアニメだけでなく、日本のテレビ番組や映画、音楽、和食や飲み物、ゲームなどさまざまな形で日本の文化を世界に向けて発信し続けていく必要があります。残念ながら文化予算は、フランスはもとより韓国と比較しても少ないのが現状であり、日本も一層力を入れる必要があります。一方、国の予算だけでは限界があります。官民協力に取り組みつつ、文化で稼げるようにすることも大切です。
 日本の自然・文化は多くの外国人観光客を魅きつけています。2019年ラグビー・ワールドカップ、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会、更に2025年の大阪・関西万博に向け、被災地の復興ぶりも積極的に国際社会に発信し、インバウンド観光促進にも貢献していきます。 
日本が様々な外交政策を推進し、基本的価値に基づく国際秩序を実現していくためにも、日本の政策・取組の戦略的な対外発信により努めます。特に、歴史認識や領土保全における日本の立場を発信していくことは、極めて重要です。 日本を理解し、支持・応援してくれる親日派・知日派を発掘し、育てていくことも極めて重要です。また、日本語教育は、外国人材の円滑な受け入れや、外国人と日本人の共生社会の実現のためにも重要であり、その観点からも海外における日本語教育に取り組んでいきます。しかし、残念ながら英語はもとより、フランス語、スペイン語、中国語等にも学習者数において大きく後れを取っています。地道な取組が必要です。日系社会との連携も重要です。日系社会との絆を一層深められるような取組を一層強化していく必要があります。
 外交は、外務省だけ、政府だけで行うものではありません。日本全体の力を使った外交が必要です。無償資金協力や技術協力にもっとNGOの力を活用しなければなりません。いや、活用できるNGOを育てていかなければなりません。そのために、ODAに関する有識者懇談会から提出された提言も踏まえて、日本NGO関連予算をまずは、3割程度積み増し、実施状況を見つつ、段階的に引き上げてまいります。その中で、NGOの一般管理費の引き上げについては、最大15%を見据えて検討していきます。
 JICAのガバナンスを確立すると同時に、ODAの実施に関してもJICAと競争できる実施主体を養成していきます。健全な競争関係を確保しつつ、ODAの全体像の中でNGOや開発コンサルティング等の実施主体の特性を踏まえ、日本全体としての「顔の見える」ODAを実施してまいります。コンサルティングの分野も抜本的に改革し、国際的な競争力を強化していきます。
 国連を始めとする国際機関で活躍する日本人を増やすことも急務です。国際機関に対して、日本人の職員、幹部の数の増加を日本の拠出金とリンクさせることを明言していますが、そもそも応募者の絶対数が足りません。若手でも英語力などの問題で国連の採用試験に受かる者がほとんどおらず、JPOからの採用しかほぼ道がないため、国連機関に採用される若手の人数はJPO予算に制約されます。短期的な対策として、海外に留学している日本人学生に対して国際機関に関するガイダンスを強化していきます。国家公務員をJPOとして国際機関に派遣することを復活させます。 
また、国際機関の職員の幹部登用を後押しするため、上を狙う国際機関の日本人のために外務省のポストを活用していきます。 日本で高等教育を受けても英語ができるようにならないことが、国際機関だけでなく、日本人が様々な場面で活躍する際の障壁となっています。美しい日本語か英語かの選択ではありません。どちらも必要です。英語教育の抜本的な改革は急務です。文科省と連携していきます。
 国際機関の中でも重要な組織のトップを取るために、各国は、首相や閣僚経験者を始め、政治家の候補者を擁立してきています。これに対抗し、国際機関のトップを取るためには、日本も政治家を候補者として擁立していく必要があります。そのためにも与野党の枠を超え、適材を適所に擁立することが必要です。我こそはと思う方は是非名乗りを上げていただきたいと思います。外務省は全力で御支援申し上げます。 私は、これからも日本の国益や平和をしっかり守りながら、世界の平和と安定に貢献していく考えです。 議員各位そして国民の皆様の御理解と御協力を心からお願い申し上げます。
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sasakiatsushi · 5 years
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救い主が嗤われるまで ーいわゆる「鬱三部作」についてー
 ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』は、そのいつもながらのセンセーショナルな話題性に乗せられて、ついついこの原稿を書くことを約束してしまった私を、なかば予想(期待?)通りに思い切りげんなりさせてくれた、つまりはいつもながらのフォン・トリアー映画であると、ひとまずは言える。  よく知られているように、この作品は完成前からさまざまな噂や憶測が飛び交い、有名俳優たちがハードコアポルノ顔負けの場面を演じるという触れ込みでおおいに物議を醸した、二部併せて四時間を超える大作である。けれどもしかし、私は実際観てみて、少なくともそのような意味合いでは、事前に騒がれていたほどのものではないと正直思った。別にそういうアレを楽しみにしていたわけではなかったので特に落胆はしなかったが、もちろん日本公開版であるからにはボカシの問題はあるにせよ、局部や交接が見える見えないといったことはどうでもよくて、だがハードというならたとえば『アンチクライスト』の方がはるかにハードだったのじゃないかとも思ったのである。この「事前に予想(期待?)していたほどスキャンダラスではない」という落差は、昔『ドッグヴィル』を観た時にも感じたことだった。どんだけ救いがないんだろうか、と覚悟しつつ観に行ったら、別にそうでもなかったのである。  ここでお断りしておくが、私はラース・フォン・トリアーの作品が好きではない。いや、好きか嫌いかでいったら積極的に嫌いだとさえ言ってもいいかもしれない。彼の映画が格段に優れたものだとも、率直に言うと、全然思ってはいない。むしろこれではやはり駄目なのではないか、と思うことの方がずっと多い。だが、にもかかわらず、私は彼の映画をそれなりに熱心に観てきたし、後でも触れるが過去にも論じてみたことがあり、今またこうして何かしら書いてみようとしている。それは取りも直さず、やはりトリアーという存在を興味深いと、何かしら考えるに足るものがあると思っているからだろう。では、それは何なのか、ということをあらためて語ってみるにあたって、ここでは『ニンフォマニアック』によって結したとされる、いわゆる「鬱三部作」について少々論じてみようと思うのである。  トリアーは二〇〇七年後半から二〇〇九年初頭にかけて重度の鬱に苦しみ、映画監督としての活動休止を余儀なくされた。種々のセラピーを受けることによってようやく恢復した彼は、シャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォー主演(といっても、この映画にはほぼこの二人しか出てこない)で『アンチクライスト』を撮り上げる。もっともこの作品は『マンダレイ』発表後の二〇〇五年から準備されており、必ずしも鬱の経験によって発想されたものとは言えない。しかしトリアーはそれ以前にもたびたび鬱の症状があったとのことなので、ある意味で、これを皮切りとする「鬱三部作」は、生まれるべくして生まれた連作と言えるかもしれない。  この映画のストーリーは次のようなものである(この先も含めて本稿ではネタバレは一切気にしないのでご注意を)。ある夜、洗濯場で夢中になってセックスしている間に幼い息子が窓から落ちて死んでしまう。後悔と絶望に打ち拉がれる妻を、セラピストでもある夫は何とか救おうとする。彼は彼女を森に連れてゆく。妻はそこを「エデン」と呼ぶ。山小屋で二人きりで過ごしながら夫婦は語り合い、善悪について、罪と罰について、女について延々と議論を続けるが、次第に妻がおかしくなってくる。偶然に夫は妻が我が子を虐待していた事実を知る。すると妻は「私を捨てる気だな!」と激昂して夫の太腿に大きな丸研石を埋め込み身動き取れなくする。それでも夫は逃亡をはかるが呆気なく見つかり、激しい暴行のあげくに彼女は自らのクリトリスを鋏で切り取って悶絶する。その隙に夫は丸研石を外して逃げようとするが、気付いた妻と取っ組み合いになり、遂に彼女の首を絞めて息の根を止める。彼は妻の死体を燃やし、森を後にする。ふと見ると、たくさんの人々(全員、顔にボカシが入っている)が山の斜面を登ってくるのが見える。  まったくもってヒドい話だ。鬱から恢復してこんな映画を撮(れ)るトリアーの神経は如何なるものだろうか。この映画を私は今回、DVDで再見したが、見直さなければよかったと思った。そしてふと思い出したのは、三浦大輔率いる演劇ユニット、ポツドールの『おしまいのとき』という舞台である。この芝居でも、冒頭で夫婦のひとり息子が事故で亡くなる。妻は絶望から鬱状態に陥る。だがある時、エアコンの修理に来た若い男と不倫を始め、それからはもうすさまじい勢いで堕ちてゆく。『アンチクライスト』の日本公開は二〇一一年の二月、『おしまいのとき』の初演は同年九月。三浦大輔が映画を観たのかどうかは不明だが、タイミング的には十分にあり得ることだし、少なくとも基本設定において二つの作品は明らかに似通っている。だがむしろ興味深いのは、そこからの両者の違いである。『おしまいのとき』の妻は、性と悪の権化のごとき男にひたすら溺れていき、しまいには犯罪的な行為に手を染めさえするが、しかしそこで描かれるドラマはあくまでも即物的で世俗的である。だが『アンチクライスト』の場合、子を死なせた哀しみや悔恨や辛さ、それそのものはいつのまにかどこかに行ってしまって、トリアーはもっと観念的な何ものかを相手にしようとしているように見える。  三浦大輔は『おしまいのとき』公演時に受けたインタビューの中で、次のように話している。
「今回は“人が終わってしまう瞬間”っていうものを描きたかった。それは何かというと、例えば、不幸が自分に舞い降りてきても人はそこで終わるのではなくて、生きていかなくてはならないと思うんです。そのとき人を突き動かしているのは何かと考えたら、理屈なんだと思ったんですね。その理屈をこねくり回して人は生きている気がするんです。自分の理屈がまだ自分の頭の中にあるうちは、人は終わらないんじゃないか、その理屈をこねくり回した末に、自分のなかでつじつまが合わなくなって破綻したときに終わってしまうんじゃないかなって思ったんですよね」。 (東京ヘッドライン http://www.tokyoheadline.com/vol522/stage.5989.php 2014年9月9日最終アクセス)
 この発言からも『アンチクライスト』とのシンクロを感じる。ここで三浦の言う「理屈」は『アンチクライスト』の妻と夫がすがろうとしたものでもある。「理屈をこねくり回した末に、自分のなかでつじつまが合わなくなって破綻したときに終わってしまう」というのは、映画の結末そのものだとも言える。だが『おしまいのとき』の妻が「理屈」によって、いわば無限の自己正当化をはかることで逆に追い詰められてゆくのに対して、『アンチクライスト』の妻は自己処罰の欲望をどんどん過剰にしていきながら、それを「女性一般」へとあっけなく超越させてしまう。わたしが愛する子どもを喪ったのは、子どもの靴を無理矢理互い違いに履かせるという陰湿な虐待に及んでしまったのは、わたしがわたしだからではなく、わたしが女だからである、と。彼女はこのような「理屈」を捏ねているように見える。『アンチクライスト』は二〇〇九年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、当然のごとく激しい毀誉褒貶を醸したあげく、シャルロット・ゲンズブールが女優賞を受賞したものの、「女性嫌いの最たる作品」として「最低賞」を受賞している。この「女性嫌い=ミソジニー」こそ、そもそもこの映画の隠れた主題(のひとつ)であることは、エンドロールにミソジニーにかんするリサーチャーがクレジットされていることからもわかる(したがってカンヌの審査員たちは、またしてもこの監督の策略にまんまと乗せられたに過ぎない)。トリアーがややこしいのは、ミソジニーを或る独特な形で宗教的な意識に関連付けていることである。『アンチクライスト』の妻は「理屈」を「宗教的な観念」へと昇華させることによって、より破滅的な「おしまいのとき」を迎えることになるのである。  『アンチクライスト』を最後まで観ると思うのは、この作品の真の主人公が妻よりもむしろ夫の方なのではないかということである。見ようによっては、これは「夫が妻をセラピーしようとして失敗する物語」ではなく「妻の狂気と死をもって夫が救済されるに至る物語」だと捉えられなくもない。荘厳なラストシーンは、それを暗示しているようにも思える。だが、誰にもわかるように、これはどう考えても「救済」とは言えない。それはいうなれば贋の救済、救済のパロディでしかない。なぜこの夫婦は、子どもの死という事実と現実に向き合うことを早々に止めてしまい、観念的で宗教的な、不毛なディスカッションに明け暮れ、それどころか子どもが死んだ時と同じくセックスばかりしているのか。ふたりはあまりにも不真面目にシリアスなのである。実際、妻はほとんど確信(自信?)を持って狂気へと突き進んでいくように思える。『おしまいのとき』の妻の「理屈」とは、言い換えるなら要するに「言い訳」である。だが『アンチクライスト』の妻には言い訳の意識は微塵もない。彼女はむしろ真理へと、自分自身を超えた世界の真理へと超脱しようとして(そう出来ると信じて)、しまいには自分で自分の小陰唇を割礼するのである。妻の狂気に否応無しに巻き込まれてゆく夫は、映画の後半はただただ恐怖しているかに見える。この映画は途中から、ほとんど『エクソシスト』のようなホラー映画になってしまったかのようなのだ。  もう一点、『アンチクライスト』を『おしまいのとき』と比較することで見えてくるものについて指摘しておきたい。しばしば露悪趣味と呼ばれたりするほどに、常に人間(性)のネガティブな側面を題材にしながら、極度に完成された劇的世界を造り上げてきたポツドールだが、それだけに、二〇一一年秋の公演の内容はおおいに注目されていた。何故ならば、それが他でもない「二〇一一年三月十一日」からたった半年足らずで三浦大輔が発表する演劇であったからである。結果として『おしまいのとき』は、より純度を上げたポツドール中のポツドールというべき作品になっていたのだが、創作にあたって三浦大輔にも迷いがなかったわけではないことを、本人が公演のプレスリリースで語っていた。「この間、色々なことがありました。そして、今、この時期に、自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのか、とても悩みました。で、出した結論がこの芝居です」。つまり、ある意味で「色々なこと」があったからこそ、こんな作品だったのである。この回路もまた、トリアーが鬱を経て『アンチクライスト』を撮ったのと似ていなくもない。つまり、トラウマに対するセラピーとしての更なるトラウマ的体験の導入。いや、トラウマを治癒するために発動される、より強力なトラウマ(の戯画化?)。すなわち結局のところ治癒など絶対にあり得ないということを潔く認め、認め続けること自体を動機として作品を拵えること。  「鬱三部作」の二作目に当たる『メランコリア』については、私は以前『批評時空間』という書物の最終章で論じたことがある。それは同作と、時期を同じくして公開された二本の映画(大畑創監督『へんげ』と石井岳龍監督『生きてるものはいないのか』)を繋げて「世界のおわり」にかんする想像力を扱った文章だった。以下はそこで書いたことの引用及び繰り返しを含む。この映画は二〇一一年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されたが、トリアーは記者会見で「ヒトラーの気持ちは理解できる」と発言し、カンヌ映画祭評議会は彼を「好ましからぬ人物」として追放を決定した。だが作品自体は上映され、キルスティン・ダンストが主演女優賞を受賞している。  この映画のストーリーは次のようなものである。二部構成になっており、前半がダンスト演じるジャスティン、後半がシャルロット・ゲンズブール扮するクレアを中心に描かれる。新郎マイケルと共に披露宴の会場である屋敷へと向かうジャスティンの様子から映画は始まる。ジャスティンの姉クレアとその夫ジョンの人脈によって大勢の招待客が集まり、豪奢なパーティが催されようとしている。しかしジャスティンは重度のメランコリア=鬱に罹っており、宴が進行するにつれ異常な言動を取っていく。遂に彼女は決定的なトラブルを起こし、いたたまれなくなってマイケルは去る。ジャスティンは職場の上司をも罵倒し、あっけなく全てを喪う。ここまでは前半。後半に入ると物語は一変する。メランコリアと名付けられた巨大な星が周回軌道を外れて地球に近づいており、五日後には最接近するという。心を病んだジャスティンを自宅に引き取ったクレアは、夫のジョン、幼い息子レオと一緒に、その時を迎えようとしている。ジョンは、メランコリアは地球とすれ違うだけで安全だと言う。だが、それは間違いで、やはり星は地球と激突し、この世の終わりが訪れることがわかってくる。すると一番落ち着いていた筈のジョンは、誰にも告げずに突然、納屋で自殺してしまう。無邪気に星の到来を心待ちにしているレオを守りつつ、クレアはパニックを起こす。だがジャスティンはむしろ破局が近づくにつれ落ち着きを取り戻していく。ラスト・シーンは、メランコリアとの接触の瞬間を迎えるジャスティン、クレア、レオの姿である。絶望に震えるクレア、いまだ事態を理解しないままのレオ、そして穏やかに微笑むジャスティン。強烈な音と光と爆風が画面の奥からやってくる。これが最後のショット。  トリアーは、これを「ハッピーエンド」だと称している。地球の終わりと人類の滅亡が、どうして幸福な結末なのか。この点にかんして私は、先の批評文で長々と論じたのだが、それは『批評時空間』を読んでもらうとして、そこでの分析を踏まえつつここで述べておくべきことは、『アンチクライスト』の動機付けにかんして触れた「トラウマを治癒するために発動される、もっと強力なトラウマ(の戯画化?)」が、この作品にも当て嵌まるということである。ジャスティンがなぜ鬱に陥ったのか、その原因や背景は映画にはまったく描かれていない。むしろそのようなものは無いのだと考えるべきかもしれない。だが明白なのは、彼女がメランコリアの襲来=世界の終末によって恢復するということである。姉のクレアとの立場は、映画の後半になって逆転する。他のひとびととは正反対に、地球を滅ぼす星の到来が彼女を元気にするのである。  いささかデリケートな話題なので気を遣うが、私の知人に、長年鬱病(的なもの)に悩まされていたが、「二〇一一年三月十一日」以後に急に元気になった、という人が居た。そのメカニズムのほんとうのところは知るところではないが、同じような話は当時、幾度か耳にしたように思う。だがジャスティンの復調は、それらとはやはり違う。災厄や危機と、終���や滅亡は異なるからである。だがひとつの共通点は、自分自身の罪や責任からは完全に切り離された、紛れもなく具体的な悲劇、無根拠で不条理な悲劇こそが、具体的でない、説明の不可能な、つまり気分としての鬱に対する、一種のショック療法として作用することがある、ということである。そして重要なポイントは、私の知人の体験は現実の出来事だが、トリアーはわざわざ『メランコリア』のような物語を自ら創り出して観客に向けて語ってみせているのだということである。  『アンチクライスト』と『メランコリア』に限らず、少なくとも或る時期(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』辺り?)以降のラース・フォン・トリアーの映画の多くは、ほぼどれも次のセオリーに従って出来ている。
1。物事はどんどん悪くなってゆく。 2。それは最悪の極みに達するまでけっして止まらない。 3。物語(映画)の最後は、あらかじめ予測された最悪の達成であり、それ以外ではない。
 映画のはじまりにおいて観客の誰もが容易に想像し得るバッド・エンディングへと殆ど迷いなく突き進んでゆき、そして想像通りに最悪の結末が描かれることによって彼の映画はおわる。『アンチクライスト』も『メランコリア』も、考え得る限り最低最悪のラストでありながら、トリアーはそれを「ハッピーエンド」だと考え、そのためにこそ映画を構想しているのである。そしてそれは彼自身の鬱と深く関係している(ことも自ら表明している)。トリアーにとって、先のセオリーこそが自己救済のプログラムなのである。だが、それはいったい、どういう意味なのだろうか?  三部作の末尾を飾る『ニンフォマニアック』も二部構成になっているが、前作とは違って、ここでは長尺を便宜的に分割しただけで、前半と後半で視点や話法に変更があるわけではなく、物語は最初から最後まで基本的に連続している。公開前でもあるし、細かい挿話を記すのも無粋なのでざっくりと述べておくなら、トリアー作品の常連ステラン・スカルスガルド演じる男セリグマンが、激しい暴行を受けて路地裏に横たわる女を発見し、自分の家に連れ帰って介抱するところから映画は開始される。どうしたのかと尋ねる彼に、ジョーと名乗る女は自分は色情狂なのだと告白し、幼い頃から現在までの波乱に満ちた人生を物語り始める。この映画は、ニンフォマニアの女ジョーの自分語りと、それに時々、文学的/哲学的なコメントを加えるセリグマンのやりとりを外枠として、全8章にわたって様々なエピソードが描かれてゆく。  前二作に較べると、色情狂というテーマは、いささか軽いと思えなくもない。実際、目をそむけたくなる場面が続出する『アンチクライスト』、容赦なき終末論的な終末の映画『メランコリア』よりは、これははるかに普通に楽しんで観られる映画である。ジョーの描かれ方は、ニンフォマニアというよりは、一種の体質的(?)なセックス依存症とでも呼ぶべきものであり、エロティシズムの追究などといった高尚さは完全に脇に置かれて、ただひたすらヤリたくてヤリたくてたまらない、ヤラないと頭がおかしくなってしまう人物であるかに描かれている。  トリアーがやりたかったことのひとつは、そんなヒロインの行動をいちいち「理屈」で粉飾せずにはいられない童貞(と彼は自ら告白する)中年男セリグマンの人物造型だろう。いうなれば彼は『アンチクライスト』でウィレム・デフォーが演じていた人物のパロディアスな反復である。パロディというのは、妻の狂気を起動し促進し止めることの出来なかった夫とは、物語におけるその機能がほぼ逆転されているからだ。そのことは、ここではさすがに書くわけにいかない、だがほんとうは書いてしまっても全然構わないとも思える、ネタバレ厳禁的な映画のラストシーンで明らかになる。ただ言えることは、これも『アンチクライスト』と同様に、『ニンフォマニアック』の真の主人公は、ジョーではなくセリグマンなのだと考えてみることで、俄に見えてくるものがある筈だということだ。ほんとうの「色情狂」は、彼女ではなく彼のことなのだ、と。  ラース・フォン・トリアーの映画、とりわけ「鬱三部作」は、一言でいうならば、救済とその不可能を、ただそれのみを語っている。その無理、その無効、その無意味を。それは彼自身が体験した鬱と、そのセラピーから発想されたものかもしれない。それは結局、わからない。だが彼は明らかに、誰かを(自分を)救おうとする者に無能を宣告するために、これらの物語を語っている。この意味で、トリアーの映画はどれも、徹底的に倒錯した宗教映画だと言える。救い主は嗤われるためにのみ、彼の映画に召喚されているのである。  
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20181001
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最近、個人でやっているラジオ的な配信を聞くからか、めちゃめちゃにラジオパーソナリティごっこがしたい。いくつかのトピックスについてくだけた調子で話してさ。合間合間に音楽なんか流しちゃったりして。思い立ったが吉日。外はごうごうと荒れているので、明日の朝はぐっすり眠れると信じ書きます。
気軽に読んでいってね。でも結構長いから、ゆっくりできるところで、できればブラウザで見てね。それでは、はじまりはじまり~。
オープニングナンバーを飾るのは日食なつこ「ヒューマン」です。
https://youtu.be/_blNMvcTIOY
三角の頂点で虫の息のヒューマン、という詞に皮肉がきいてていいですねえ。知恵がついちゃったばっかりに悩むのが人ですけれど、めちゃめちゃに可愛いですよね。だめな人、大好きです。
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今日一つ目の話。
インターネットのおばけについて、ときどき思うことがある。
画面の向こうの世界では、時間の観念がこちらよりもうすく見える。たとえばTumblrにはタイムラインがあるけれど、リブログというシステムが「あたらしい」と「ふるい」をないまぜにすることに成功している。そうした有象無象の間からひょっこり顔を出す、帰る家をもたない文章に出会うのが好きだ。
本などの著作物、TwitterをはじめとするSNSからの引用。どこで生まれたかということが辿れないものもしばしばで、憑き物のようにぼくの記憶にだけ残っていく。
「創作は少し恥ずかしいくらいがいい、人の目を惹くものにこそ表現する価値がある」
「分かつことは祝いであり、呪いである」
ぱっと思い出せたのはこれくらいだけれど、ぼくの中にはおばけがたくさん棲んでいる。固有の人格を離れた、放られたまま自由落下に従わずに漂い続けることばたち。どこをどうしてやってきたのか、目の前にふわりと現れて、小さな画面のなかでにぶく輝く。
「いつ」や「誰が」、「どんな文脈で」なんて情報はみんな削ぎ落とされてしまって、それがかえって純粋な体験に感じられるから不思議。
今日はここへ来てくれてありがとう。ここへぼくの言葉としてくちゃくちゃ書き付けているけれど、いつかquoteされてぼくのもとを離れてくれるような文章がかけるように精進するよ。
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言葉の力とは不思議なもので、人を作ることも壊すこともできてしまう気がするのです。タテタカコさんの言葉はなんとなく、おばけのそれに近い中庸さを備えていると感じられたので、タテタカコ「宝石」です。
https://youtu.be/UGiSB7n1tiQ
異臭を放った宝石、という表現にどこかぐっとくるものがあるのです。あと、この曲が主題歌になっている「誰も知らない」という映画はとてもおすすめなので、ぜひ秋の夜長に鑑賞されてみてはいかがでしょうか。
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二つ目の話。
うちから一番近い自動販売機の近くに、一年くらい前まで家が建っていた。どこにでもある二階建ての家だった。きっと気立ての良いおじいさんが暮らしているのだろうな、という佇まいだった。庭にはアオイなんかが見事に咲いていて、のんびりした印象だった。
さいきん雨戸が閉められたっきりになったなと思っていたある日、その家の周りに規制線が張られ、敷地を黄色いテープでぐるぐると巻かれていた。塀の向こうに部屋の中の様子がちらりと見えた。お行儀のよいことではないけれど、すこしだけ背伸びしてみた。
家の中はあまり日当たりが良くなかったのか、家具も壁にかけられた絵も止まった時計も全部が灰色にくすんでいた。時間の流れのよどみのような、そんな雰囲気が感じられた。なんにせよ家の主がもういないことだけ��確かだった。かつてその屋根に、壁に包まれていたであろう生活はとっくに死んでいたのかもしれない。それからしばらくして、家は取り壊された。春になり、夏になり、更地だった土地には草木が繁茂していった。
今、その土地に新しく家が建てられようとしている。下草はていねいに刈られ、新品の木材の香りをぷんぷんさせて。そこにあった生活のなごりを踏みつぶすように、新たな生活が生まれ出ようとしている。一介の傍観者にすぎない自分は黙ってずっと見ていた。
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自分にとってなんでもない景色でも、喉の奥に刺さった魚の小骨のように思えることってありますよね。関係がないからこその寂しさ、とでも言いますか。どこへも連れて行ってはくれない感情に戸惑うことがあります。そんなさみしさと美しさを兼ね備えた一曲、World’s end girlfriend「Singing under the rainbow」です。
https://youtu.be/BhspWKgBo14
曲が進むにしたがって、崩れていくような変化を遂げるところに注目です。
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最後の話。
すこし前に「むずかしい愛」という本を読み終わった。カルヴィーノという作家のことは知らなかったのだけれど、絶対の信頼を寄せる岩波文庫から出た本なら間違いないだろうと思ったから買ってみた。結果、予想を遥かに超える満足度だった。
ある○○の冒険、というタイトルの作品を集めた短編集で、ひとつひとつはそんなに長くない。全然違う身分、立場から描かれる物語ならば語りも変幻自在。情景描写から心理描写、独白が執拗とも思える密度で押し寄せる。
とまあ、そんなことは読めばわかるので気になった方はどうぞ。個人的に気に入っているのは「ある写真家の冒険」「ある旅行者の冒険」「ある夫婦の冒険」かな。
「ある写真家の冒険」は写真を撮るということ、とりわけ人物写真に対しての暴力性、狂気じみた情熱が描かれているお話。おそらくカルヴィーノはそうして撮ったことがあるのかもしれない。ぼくはないな、たぶん。ただ、レンズを向けて記録するという行為の愛と呼んで差し支えない執着には気づいている。写真撮りなら一度読んでみて損はないはず。
「ある旅行者の冒険」は愛する人に会うために、夜行列車に乗り込んだ男の道中についてのお話。男は旅に対する心得を持っていて、列車の中での一夜をよりよいものにしようと注意を払う。その姿はややコミカルなのだけれど、色々なトラブルに見舞われてしまう。思うように眠れもしなければ、せっかく着てきたよそいきの服もくちゃくちゃに。それでも目的の駅に着いたとき男の顔は幸せで満ちていて、一番に飛び降りていく。コートのポケットの中に握りしめたコインで、愛する人に到着を伝えるために。はああ、大好き。
「ある夫婦の冒険」は冒険らしいところが見当たらない、生活サイクルのまるでちがう夫婦の日常のお話。共に過ごす時間は少なく、ともすればすれ違うこともありそうな日々の中。お互いの不在と残り香のようなものを感じながらかえってお互いを感じ、さも愛おしそうに暮らす姿は美しい。ぶっちぎりで短い(6ページ!)ことも、夫婦の安定感を醸し出すのに一役買っている。
「むずかしい愛」がそうである所以は、ここで描かれる愛はお互いの間で交わされるものではないからだ。それは愛そのものではないのかもしれなくて、まるで愛のつくる影を見ているかのようだった。訳者の解説ではこれを「陰画としての愛」と表現していたので、そう的外れでない読み方ができたのだろうと思う。
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そんな、時に不毛な可愛らしい人間のいとなみは、さながらラブレターのようで。というわけでカネコアヤノ「恋文 Outdoor Ver.」です。
https://youtu.be/gp1EkEVOL3Q
これもまた、陰画としての愛なんじゃないかと思います。ストレートな言葉で表現されているので、それほどむずかしさは感じないかもしれませんが。
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反省会:分量としては1時間分くらいを想定したのだけれど、すこし長すぎたかなあ。2時間くらいかかってる。普段から見たもの全部がいっぺん文章に変わるから、書くこと自体には困らないんだけど。今日はそんな試験的な投稿でした。おかしいなあ、小粒めの話をストックの中から選んだつもりなのに。
今日からもう10月です。今年も残すところ…なんて言葉がそろそろ聞こえ始める頃ではないでしょうか。皆様方に置かれましては云々。難しく考えずに楽しく過ごしていきまっしょー。いけね、もう4時だ。エンディングは「夢で逢いましょう」です。
https://youtu.be/rQIdmpGwPdU
それではさようならー!
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scaleizumi-atsuko · 2 years
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#出水がセンになる 新しい記事がアップされました! わたしの大好きなお味噌屋さん #野田味噌 のご紹介◎ @izumi_sen2021 ↑↑↑ トップページのURLから! ・・・ . . ▶▶▶ 出水を再発見 ▶▶▶ 私が紹介したいお店【昔ながらの野田味噌 ヤマシタ醸造】 https://izumi-sen2021.com/saihakken/526.html . (Text/ Atsuko Yamakawa) @atsuco_chan.works . . 野田町下名にある、代々相伝の伝統的な製法でお味噌づくりを行っている#ヤマシタ醸造 さん。夫婦二人で丹精込めて作っているお味噌について、じっくり見学させてもらいました! 山下醸造さん、取材・掲載にご協力いただき、ありがとうございます! . . . 出水ってどんなまち? あなたが好きな場所は?時間は?食べ物は? もっと知りたくなる、そして誰かに伝えたくなる、そんな情報を紹介するローカルウェブマガジン「いずみがセンになる」 プロフィール欄のURLをチェック🙌 . . . #いずみがセンになる #鹿児島県出水市 #ローカルウェブマガジン #鹿児島 #北薩 #ローカル #長島 #阿久根 #薩摩川内 #さつま町 #水俣 #芦北 #八代 #出水 #出水を再発見 #ヤマシタ醸造 #野田味噌 (野田) https://www.instagram.com/p/CZ-dXmpB96W/?utm_medium=tumblr
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