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#立花藤兵衛
herofestival · 1 year
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一文字隼人 經典第一次變身!
「お見せしょう」からの途中でファスナー下して「変身」、庵野監督が大好きそうなシーン シン・仮面ライダーにはなかったですなぁ
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gobangiri-news · 2 months
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4月23日(火)完成披露舞台挨拶付先行上映会オフィシャルレポート!
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このたび、映画『碁盤斬り』の豪華キャストが勢ぞろいし、4月23日に完成披露舞台挨拶付先行上映会を開催いたしました!本作は、草彅剛さんが冤罪に貶められた浪人・柳田格之進役に挑み、時代劇を初めて手掛けることとなった『孤狼の血』の白石和彌監督との強力なタッグが実現した感動のリベンジ・エンタテイメントです。本日は、草彅剛さん、清原果耶さん、中川大志さん、奥野瑛太さん、音尾琢真さん、市村正親さん、斎藤工さん、小泉今日子さん、國村隼さんというオールスターキャストと白石和彌監督が登壇した舞台挨拶を実施しました。撮影中のエピソードや、映画の内容にちなんで《リベンジ》したいことなどについてトークが展開され、大盛り上がりの舞台挨拶となりました!
寡黙な武士、柳田格之進を演じた草彅さんは、舞台挨拶冒頭から満面の笑みを浮かべ、充実感を漂わせました。撮影以来となる共演者との再会をよろこび、「みんなのグルーヴがすごくいい!」とニッコリ。自分の持っているものすべてを出し切れたと話した草彅は「幸せな環境で映画が撮れました」と報告し、大きな拍手を浴びました。撮影現場は作品に関わるすべての人、職人のこだわりが詰まっていたとし「みなさんのおかげで(格之進を)ちゃんと演じられました。代表作になったと思います!」と役を��じ切ったと胸を張っていました。格之進の娘・お絹役の清原さんは「現場で草彅さんを見かけるたびに、“父上”という気持ちになって。格之進として佇んでいらっしゃって、とても支えられました」と感謝。父・草彅さんの背中を「追いかけられたらいいな、支えられたらいいなという思いで見つめていました。草彅さんのおかげでお絹ちゃんとしていることができたと思います」との清原さんの言葉に草彅さんは「その言葉、一生大事にします!忘れません」と返し、父娘のほっこりトークで和ませました。萬屋の亭主・萬屋源兵衛役の國村さんは「タイトルにもあるように碁盤を挟んだシーンがたくさんあります。碁がテーマでもありますが、碁のシーンを通して、格之進の性格を伝えていくという意味合いもある作品です。碁のシーンで格之進の中身が変わっていくのを感じられると思います」と笑顔でアピールしました。萬屋の手代・弥吉役の中川さんは「すごくピュアで真っ直ぐな武士の子。小さい時に源兵衛に拾ってもらい、息子のように育ててもらった青年です。映画の中で起きる事件に大きく関わるという役どころ。囲碁がベースになっていますが、とても親近感のある、身の回りで起きるような出来事を描いた作品です。弥吉のポジションは苦しいけれど、応援したくなるような弥吉になればいいなと思いながら演じました」と役作りを振り返りました。音尾さんが演じた萬屋の番頭・徳次郎はトラブルの発端となる役どころでいわばトラブルメーカー。中川さんが「あの人のせいです!」とトラブルを引き起こした音尾さんを指さすと、「トラブルを起こして申し訳ありませんでした」とお詫び。中川さんと音尾さんのトークのコンビネーションで会場を沸かせました。撮影現場で印象的だったのは座らない草彅さんの姿と明かした音尾さんは「神経が研ぎ澄まされているのでしょうか。本番に合わせてググッとフィットしていくために、研ぎ澄まさせている姿を見ていました。今日は現場と違ってかなりふわっとしています」と撮影中とイベントでの草彅さんのギャップを指摘。音尾さんのコメントに「ありがとうございます、高倉剛です」と撮影現場で座らないことで有名だった高倉健さんになぞらえ、キリッとした表情を見せ笑いを誘った草彅さんは、座らない理由について「5秒で眠くなっちゃう(笑)。みんなよく眠くならないよね。僕は夜10時には寝るけれど、座ると眠くなっちゃうんだよね」とマイペーストークを展開し、会場を笑い声でいっぱいにしました。すべてのキャストと絡みがあった草彅さんは、撮影中のエピソードを次々と披露。音尾さんについては「ずっと写真ばっかり撮っているカメラ小僧」とニヤリ。「この話でいいの?」と確認しつつ、カメラトークは止まらず、中川さんに至っては音尾さんにすすめられたカメラを購入したことも明かされました。自身のトークの順番だったにも関わらず、どんどん共演者とのエピソードを話し続ける草彅さんに時折ツッコミを入れ笑わせた音尾さんはしっかりと作品に触れる場面も。「いい役をもらいました。今年も白石監督にお歳暮を送ります」と白石監督作品常連の音尾さんならではのおなじみのフレーズで盛り上がりました。國村さんとの共演シーンを振り返ると、「春のシーンだったけれど、実はすごく寒くて。映像では綺麗に映っているけれど本当は寒いんです!」と草彅さんが撮影時の裏話を暴露。國村さんが「きっと寒かったんやろうな、って思いながら観てください」と舞台挨拶後に鑑賞予定の観客に呼びかけると、草彅さんは「僕(格之進)と國村さん(源兵衛)のラブストーリーにも注目してください!」と本作のおすすめポイントを伝えました。格之進と因縁のある武士・柴田兵庫役の斎藤さんは「ずっとかっこいい!」と大絶賛の草彅さん。「佇んでいるだけですごくクール。なんでいつもそんなにかっこいいだ、チクショー!という気持ちを込めました」と対峙シーンへの意気込みを解説し笑わせました。町の親分・長兵衛役の市村さんについては「すごく気遣ってくれる大先輩」と感謝した草彅さん。「いつも元気ですごい。役者として見習いたいので、健康法を教えてくださいと訊いたら、親が元気なので、と言われて(笑)。遺伝だからって。元も子もない!」と大先輩からのアドバイスを期待しましたが、まさかの回答があったことも明かし、笑い飛ばしていました。彦根藩の藩士・梶木左門役の奥野さんについては「ずっと途方に暮れていた」と撮影現場での様子をレポートした草彅さん。共演者全員との撮影を振り返り「僕はみんなと交流があったので!」と一緒のシーンがなく、今日が初めての顔合わせとなるキャストへの気配りで、いろいろなエピソードを公開したと説明しました。「役柄としては非常にクソ野郎です…」と小声で話した斎藤さんの役作りは「正義への考え方」だと解説。正義の反対は悪ではない。もうひとつの正義という気持ちで兵庫なりの悪を演じたとし、格之進役の草彅さんとは「最小限の動きの競技である囲碁と殺陣。静と動、2つの対峙をやらせてもらいました。どんなに熱を沸騰させた状態でいても、格之進と対峙すると水が変わるというのでしょうか。研ぎ澄まされた空間になってしまう。そういう格之進に静かに鳥肌を立てながら撮影していました」と語りました。このコメントを聞いた草彅は「かっこいい…。“静かに鳥肌を立てながら”っていうセリフもらいます!」とニヤニヤ。これまでの斎藤さんとの共演経験を踏まえ「(対峙の)集大成のようなシーンが撮れました。感謝しています」と深々とお辞儀をしました。演じた役柄について奥野さんは「格之進に常につきまとっている役。格之進が実直で、健気で、武士らしい姿を見せてくれるので、全幅の信頼をおきながら、ただただついていく。彼の背中をただただ執拗に追いかける役です」と独特の表現で分析し笑いを誘いました。草彅とは29年ぶりの共演となった小泉さんは「まだ剛くんが20代前半だった頃。少年っぽさが淡く残っていた時にテレビドラマで共演して。放送が始まって剛くんのキャラクターが人気になって、出番が増えていき、キャラクターが大きくなっていったのを覚えています」としみじみ。「当時から演じることを楽しんでいたし、すごく素敵でした。久しぶりにお芝居を一緒にしたけれど、背中が素敵で。主役としてすべてを背負って引き受けている姿に感動しました。この背中の役に立ちたいと思いながら、お庚という役を一生懸命演じました」と話す小泉さんに草彅は「キョンキョン大好きです!」と答え会場を盛り上げました。さらに草彅は17年ほど前に小泉さんからプレゼントされたTシャツにサインをしてもらったエピソードも明かしました。「和柄で、今回の作品に合っていて。撮影中の2週間、パジャマにしてました、洗わずに(笑)」と付け加え、さらなる笑いを誘いました。「春の撮影で花粉症がつらそうだった」と撮影中の草彅の様子を思い出した小泉さん。すると草彅が「かゆいし、鼻をかむと髭がとれちゃう。鼻をかむたびに(メイクの)直しが入って。それが1番大変だったかも」と撮影時の苦労を明かす場面もありました。市村さんとは「いつか一緒にミュージカルを!」という話で盛り上がったみたいで、イベントで草彅がその話を続けようとしたところで「今日は『碁盤斬り』の話をしましょう!」と市村さんが脱線を防ぐナイスなフォローを見せて会場を笑わせました。本作で時代劇に初挑戦した白石監督は「日本の映画史は時代劇とともに発展しました」と切り出し、「スマホの寄りを撮らなくていいなど、(現代劇とは違う)発見がいろいろとありました。今後もぜひ、時代劇に挑戦したいです」と充実感を漂わせました。こだわったのは江戸時代の光源だとし、限られた光源でどれだけの表現ができるのか、かなり攻めたとも話しました。さらに「普段はフレームからはみ出るような荒々しい映画をと思っているけれど、今回は美しい映画をという思いがありました」と初時代劇への見せ方にも触れ、注目してほしいポイントです。作品にちなみ“復讐したいこと”を尋ねられた草彅さんと清原さん。草彅さんは「今日の舞台挨拶をもう1回やり直したい。リベンジしたい(笑)」と少し俯き、「テレビカメラとかいっぱい入っているのに、どこが切り取られるんだろうと急に不安になってきて…」とここまでの自由なトーク展開を苦笑い。「では、私はそのリベンジを応援します!」と気合いを見せる清原さんに草彅さんは「清原さんはちゃんとしてたよ」と優しく返答。「これだけ(キャストの)みんなが集まるのは最初で最後かもしれないのに…」としながらも「映画をたくさんの人が観てくれたらリベンジできるかも!」と、今後もイベントが開催されることを願いつつ、たくさんの鑑賞を呼びかけるというナイスなPRで大きな拍手を浴びました。最後の挨拶では本作の宣伝を務める観客に向けて、SNS投稿時の「#(ハッシュタグ)」も発表。「#碁盤斬り」もしくは「#ごばんぎり」とのこと。「漢字は難しいから、ひらがなでもいいです。ご飯じゃないよ、ごばんだよ。このフレーズ気に入っているけど、いまいちウケなくて…」としながらも、最後までしっかりと映画を宣伝し締めくくりました。  
■英語タイトル“BUSHIDO(ブシドウ)”として 4月に開催されるイタリアのウディネ・ファーイースト映画祭のコンペディション部門での上映も決まっております。 さらに、フランスの配給も早々に決定しました。フランスの配給会社、ART HOUSE FILMS(アートハウス・フィルムズ)社の社長エリックさんからコメントをいただきました。 「演出も俳優陣の芝居もとてもいい。この映画は侍映画の伝統を引き継いでおり、とてもエレガントでよくできている」
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ari0921 · 6 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
    通巻第8070号
 AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
  文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
 わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
 「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
 このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
 皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
 しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースである。
 生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
 きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
 文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
 紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
 「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
 額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
 「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
 ▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
 『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
 『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
 古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
 江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
 井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
 上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
 近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
 描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
 谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
 「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
 ▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
 「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
 「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
 「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
 サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
 わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている���そこから想像が拡がっていく。
 こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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kachoushi · 1 year
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各地句会報
花鳥誌 令和5年5月号
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坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
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令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 長すぎるエスカレーター早春へ 久 立春の市の算盤振つてみる 要 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ きみよ 伊達者のくさめ名残りや南部坂 眞理子 慶應の先生眠る山笑ふ いづみ 豆源の窓より立春の煙 和子 供華白く女優へ二月礼者かな 小鳥 古雛の見てゐる骨董市の空 順子 古雛のあの子の部屋へ貰はれし 久
岡田順子選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ 同 大銀杏八百回の立春へ 俊樹 豆源の春の売子が忽と消え 同 コート脱ぐ八咫鏡に参る美女 きみよ おはん来よ暗闇坂の春を舞ひ 俊樹 雲逝くや芽ばり柳を繰りながら 光子 立春の蓬髪となる大銀杏 俊樹 立春の皺の手に売るくわりんたう 同 公孫樹寒まだ去らずとのたまへり 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
敬􄼲な信徒にあらず寒椿 美穂 梅ふふむ野面積む端に摩天楼 睦子 黄泉比良坂毬唄とほく谺して 同 下萌や大志ふくらむ黒鞄 朝子 觔斗雲睦月の空に呼ばれたる 美穂 鼻歌に二つ目を割り寒卵 かおり 三􄼹路のマネキン春を手招きて 同 黄金の国ジパングの寒卵 愛 潮流の狂ひや鯨吼ゆる夜は 睦子 お多福の上目づかひや春の空 成子 心底の鬼知りつつの追儺かな 勝利
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月6日・7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
潮騒を春呼ぶ音と聞いてをり かづを 水仙の香り背負うて海女帰る 同 海荒るるとも水仙の香の高し 同 坪庭の十尺灯篭日脚伸ぶ 清女 春光の中神島も丹の橋も 同 待春の心深雪に埋もりて 和子 扁額の文字読めずして春の宿 同 砂浜に貝を拾ふや雪のひま 千加江 村の春小舟ふはりと揺れてをり 同 白息に朝の公園横切れり 匠 風花や何を告げんと頰に触る 笑子 枝川やさざ波に陽の冴返る 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月8日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
雪を踏む音を友とし道一人 あけみ 蠟梅の咲き鈍色の雲去りぬ みえこ 除雪車を見守る警備真夜の笛 同 雪掻きの我にエールや鳥の声 紀子 握り飯ぱりりと海苔の香を立て 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
東風に振る竿は灯台より高く 美智子 月冴ゆる其処此処軋む母の家 都 幽やかな烏鷺の石音冴ゆる夜 宇太郎 老いの手に音立て笑ふ浅蜊かな 悦子 鎧着る母のコートを着る度に 佐代子 老いし身や明日なき如く雪を掻く すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝光や寺苑に生るる蕗の薹 幸風 大屋根の雪解雫のリズム良き 秋尚 春菊の箱で積まれて旬となる 恭子 今朝晴れて丹沢颪の雪解風 亜栄子 眩しさを散らし公魚宙を舞ふ 幸子 流れゆくおもひで重く雪解川 ゆう子 年尾句碑句帳に挟む雪解音 三無 クロッカス影を短く咲き揃ふ 秋尚 あちらにも野焼く漢の影法師 白陶 公魚や釣り糸細く夜蒼し ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
犬ふぐり大地に笑みをこぼしけり 三無 春浅しワンマン列車軋む音 のりこ 蝋梅の香りに溺れ車椅子 三無 寒の海夕赤々漁終る ことこ 陽が風を連れ耀ける春の宮 貴薫 青空へ枝混み合へる濃紅梅 秋尚 土塊に春日からめて庭手入 三無 夕東風や友の消息届きけり 迪子 ひと雨のひと粒ごとに余寒あり 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浅春の眠りのうつつ出湯泊り 時江 老いたれば屈託もあり毛糸編む 昭子 落としたる画鋲を探す寒灯下 ミチ子 春の雪相聞歌碑の黙続く 時江 顔剃りて少し別嬪初詣 さよ子 日脚伸ぶ下校チャイムののんびりと みす枝 雪解急竹はね返る音響く 同 寒さにも噂にも耐へこれ衆生 さよ子 蕗の薹刻めば厨野の香り みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月14日 萩花鳥会
水甕の薄氷やぶり野草の芽 祐子 わが身共老いたる鬼をなほ追儺 健雄 嗚呼自由冬晴れ青く空広く 俊文 春の園散り散り走る孫四人 ゆかり 集まりて薄氷つつき子ら遊ぶ 恒雄 山々の眠り起こせし野焼きかな 明子 鬼やらひじやんけんで勝つ福の面 美惠子
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令和5年2月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
吹雪く日の杣道隠す道標 世詩明 恋猫の闇もろともに戦かな 千加江 鷺一羽曲線残し飛び立てり 同 はたと止む今日の吹雪の潔し 昭子 アルバムに中子師の笑み冬の蝶 淳子 寒鯉の橋下にゆらり緋を流す 笑子 雪景色途切れて暗し三国線 和子 はよしねまがつこにおくれる冬の朝 隆司 耳目塗り潰せし如く冬籠 雪 卍字ケ辻に迷ひはせぬか雪女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
指先に一つ剥ぎたる蜜柑の香 雪 大寒に入りたる水を諾ひぬ 同 金色の南無観世音大冬木 同 産土に響くかしは手春寒し かづを 春の雷森羅万象𠮟咤して 同 玻璃越しに九頭竜よりの隙間風 同 気まぐれな風花降つてすぐ止みて やす香 寒紅や見目安らかに不帰の人 嘉和 波音が好きで飛沫好き崖水仙 みす枝 音待てるポストに寒の戻りかな 清女 女正月昔藪入り嫁の里 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月17日 さきたま花鳥会 坊城俊樹選 特選句
奥つ城に冬の遺書めく斑雪 月惑 顔隠す一夜限りの雪女郎 八草 民衆の叫びに似たる辛夷の芽 ふじほ 猫の恋昼は静かに睨み合ひ みのり 薄氷に餓鬼大将の指の穴 月惑 無人駅青女の俘虜とされしまま 良江 怒号上げ村に討ち入る雪解川 とし江 凍土を突く走り根の筋張りて 紀花 焼藷屋鎮守の森の定位置に 八草 爺の膝捨てて疾駆の恋の猫 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
古玻璃の奥に設ふ古雛 久 笏も扇も失せし雛の澄まし顔 眞理子 日矢さして金縷梅の縒りほどけさう 芙佐子 梅東風やあやつり人形眠る箱 千種 春風に槻は空へ細くほそく ます江 山茱萸の花透く雲の疾さかな 要 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 ぽつねんと裸電球雛調度 要
栗林圭魚選 特選句
紅梅の枝垂れ白髪乱さるる 炳子 梅園の幹玄々と下萌ゆる 要 濃紅梅妖しきばかりかの子の忌 眞理子 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 老梅忌枝ぶり確と臥龍梅 眞理子 山茱萸の空の広さにほどけゆく 月惑 八橋に水恋うてをり猫柳 芙佐子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
師を背負ひ走りし人も雪籠 雪 裏庭開く枝折戸冬桜 同 天帝の性こもごもの二月かな 同 適当に返事してゐる日向ぼこ 一涓 継体の慈愛の御ん目雪の果 同 風花のはげしく風に遊ぶ日よ 洋子 薄氷を踏めば大空割れにけり みす枝 春一番古色の帽子飛ばしけり 昭上嶋子 鉤穴の古墳の型の凍てゆるむ 世詩明 人の来て障子の内に隠しけり 同 春炬燵素足の人に触れざりし 同 女正月集ふ妻らを嫁と呼ぶ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
能舞台昏きに満ちて花を待つ 光子 バス停にシスターとゐてあたたかし 要 空に雲なくて白梅すきとほる 和子 忘れられさうな径の梅紅し 順子 靖国の残る寒さを踏む長靴 和子 孕み猫ゆつくり進む憲兵碑 幸風 石鹸玉ゆく靖国の青き空 緋路 蒼天へ春のぼりゆく大鳥居 はるか
岡田順子選 特選句
能舞台昏きに満ちて春を待つ 光子 直立の衛士へ梅が香及びけり 同 さへづりや鉄のひかりの十字架へ 同 春の日を溜め人を待つベンチかな 秋尚 春風や鳥居の中の鳥居へと 月惑 料峭や薄刃も入らぬ城の門 昌文 梅香る昼三日月のあえかなり 眞理子 春陽とは街の色して乙女らへ 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
ポケットの余寒に指を揉んでをり 勝利 黒真珠肌にふれたる余寒かな 美穂 角のなき石にかくれて猫の恋 朝子 恋仲を知らん顔して猫柳 勝利 杖の手に地球の鼓動下萌ゆる 朝子 シャラシャラとタンバリン佐保姫の衣ずれ ひとみ 蛇穴を出て今生の闇を知る 喜和 鷗外のラテン語冴ゆる自伝かな 睦古賀子 砲二門転がる砦凍返る 勝利 小突かれて鳥と屋や に採りし日寒卵 志津子 春一番歳時記の序を捲らしむ 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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hachikenyakaiwai · 1 day
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【かいわいの時】慶長二十年(1615)六月八日:松平忠明、大坂城主となる(新修大阪市史編纂所「今日は何の日」)
慶長19年(1614)、大坂冬の陣では河内口方面の大将として参戦し、後に休戦協定が豊臣方と結ばれると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。さらに夏の陣では、第1陣・水野勝成率いる7千人、第2陣・伊勢衆5千人を率いる本多忠政に続き、忠明は第3陣として美濃衆7千人を率い、茶臼山方面に参戦。忠明の家来で高齢の奥平金弥が大和口の先手として一番首を上げ、別の家来が大坂方の勇将・後藤又兵衛を道明寺の戦いで打ち取った。戦後、家康は京都二条城において諸将と共に大坂の陣の論功を行った。詮議の結果、松平忠明が戦功第一に決まり、元和元年(1615)、32歳で家康の命により摂津大坂藩10万石を与えられ、藩主として戦災復興に当たった。
忠明は、大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先した。天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大。大坂城三の丸を開放して京都伏見の町人を移住させ、合計80余町の伏見町を新たにつくった[最近の学説では、伏見町の完成は元和5年(1619)で、忠明の郡山藩主への転出後とされる]。武家屋敷や御用達商人の住居を東横堀川の東側の上町に当て、一般町家は西側に復興させ今日の船場の基礎を確立し、新たな町割りの実施と水帳(検地帳)を作成、さらに戦時中に中断していた道頓堀の開削を行った(江並一嘉)。 なにわ大坂をつくった100人「48話 松平忠明まつだいらただあきら(1583–1644年)」より。
(写真)大坂天満宮梅花殿中庭の石灯籠。天満宮に移設された川崎東照宮の石灯籠三基のうちの一つで、松平忠明が寄進したと伝わる。(画像は、ashisatsのブログより)
当宮境内に忠明が寄進した川崎東照宮の「石灯籠」が3基伝えられている。そのうち1基には「奉寄進 東照大権現宮 元和三丁巳年四月十七日 従四位下行侍従兼下総守 源朝臣忠明」と川崎東照宮の創建と同日の元和3年の銘を持つ石灯籠が梅花殿南側の中庭あり、残る2基は幣殿脇の西唐門前と東唐門前にある。なお、忠明が「従四位下行侍従」になるのは元和5年に大和郡山へ加増移封された後の寛永22年で、「東照宮」と称されるのは前述のとおり忠明が寛永21年に没した後の正保2年で、灯籠の銘は追刻か、あるいは寄進が東照宮創建よりのちの時代であるが遡って刻したとも考えられる。同宮には他に、川崎東照宮の「神輿土蔵」と「神輿」1基が伝えられている(湯川敏男)。「大阪にあった東照宮の“その後”」(大阪府立大学21世紀科学研究センター大阪検定客員研究員平成29年度研究成果報告書)より。
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bearbench-tokaido · 3 months
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五篇 下 その七
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 明星村の茶屋で、上方者が話しかけてきた。
上方者に、二人が下で馬に乗っていかないかと誘われた弥次郎兵衛は、 「そういえば昨夜、夜道を歩いたんで疲れている。 ちょうどいい。北八、俺は、乗っていくぞ。」 と、弥次郎兵衛が言うと北八は、 「そんなら、この荷をつけてもらおう。」 と、自分の荷物を渡す。 ここで馬の相談も決まり、上方者と弥次郎兵衛は、二人がけで馬に乗って出かけることにした。 北八は、その後ろを、ぶらぶらついて来ている。
馬が 「ヒヒン。」 と、いなないている。 「お前さんがたは、江戸の衆じゃろな。」 と、上方者が弥次郎兵衛に話しかけてきた。 「ああ、そうさ。」 と、答える。 「江戸はいいところじゃが、わしは去年行ってえらい目にあった。 あの江戸には似合わんが、どこへ行っても便所がとてつもなくむさ苦しくて、むさ苦しくて。 わしゃ百日ほどおったんじゃが、ほとんど便所にいかんかった。」 と上方者は、話始めた。 「それから江戸をたって、鈴が森というところまで来てからやれやれと海の中へ、ためにためた小便をいっきに風呂にいっぱいばかりしたが、いい気持ちだった。 あそこは、綺麗でえらく大きな便所であったわいな。ははは。」
弥次郎兵衛は上方者の言いように、ちょっとむっとして、 「京では小便と菜を、取り替えっこするんだろう。 その大切な小便をお前、海の中へ捨てるなんてもったいない事をしたもんだ。 ドラム缶にいっぱいなら五、六頭の馬でも乗せられないくらいの菜になるだろうに。」 と言うと、更に思い出しというふうに、 「そう言えば京では、屁が出そうになるとさっと裏の畑へ駆けていって、植えてある大根や菜の上に屁をするということだが、なるほどこれも肥やしになるだろう。」 と、笑いながら言う。 「そうじゃないわいな。 その屁をした菜をよう刻んで土にまぜて、壁をぬりおるがな。 京ではその土を、へなつち(屁の土)というわいな。」 上方者は、真剣に答える。 「総じて京というとこは、けちな所よ。 前にもわしが行った頃は三月で、ちょうど花見の最中。」 と、弥次郎兵衛は、更に続ける。 「自分勝手に幕をうって、何段にも重ねた蒔絵の重箱などを取ちらしたまではいいが、その重の中には何が入っているかと覗いてみると、残り物を混ぜ合わせたようないろんな漬物におからの煮たやつばっかりだ。 まいった。まいった。」 「いやそれよりか、お江戸の衆が吉原の桜はえらいといたく自慢するさかい、わしゃわざわざ吉原へいって見たが、なんの桜はありゃせんがな。」 と、上方者も負けていない。 不思議に思いながら、弥次郎兵衛は、 「そりゃお前、いつごろ行ったんだ。」 と、上方者に問いかけると、 「わしが行ったは、たしか十月ごろ。」 「当たり前だ。十月に桜があるわきゃない。」 「はあ、そうかいな。 それでも京の小室や嵐山には、年中さくらがちゃんとあるがな。」 と、上方者は、すまして言う。 「そりゃ木ばかりだろう。花は年中ありゃしめい。」 と弥次郎兵衛は、上方者をにらむ。 「そりゃそうじゃが。」
上方者はちょっと黙り込んでから、 「いや又、江戸の衆は長唄をよう歌ってじゃが、京の宮園や国太夫は又、格別なもんじゃわいな。」 「くにだゆうというは、どのような歌だ。」 と根っから歌が好きなので、弥次郎兵衛が聞くと、 「国太夫はこうじゃいな。」 と、真面目に声を張り上げて、国太夫を歌い出した。
「やがて~、私の年季があけて~、お前と夫婦に~、なるならば~、 苦労を供にすることも~、苦労と思わず~、添いましょう~。 ちんちん、ちんちりん。」
「いいな。面白い。ちょっと私にも、一段落教えてくれなさい。」 それを聞いて弥次郎兵衛は、歌ってみたくて仕方がない。 「そりゃ、簡単なことじゃわいな。わしについてやりなされ。」 と上方者が、歌い出す。
後ろ黙ってついてきていた北八は上方者が、あんまりに高慢ちきなので馬から突き落としてやろうと、細長い竹を一本を拾うと馬の後ろから狙っていた。 上方者はそんなことは露ほども知らないで、夢中になって国太夫を歌っている。
「ちんちりっん、ちんちりっん、ちんちん。 ほんに~、おなごは執念深い~、というは嘘じゃない~。 死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて、頭打つ。」
というところで北八が、手をのばしてさっき拾った竹で、上方者の頭をぴしゃりと叩く。 その後さっと、上方者から見えない方の馬の尻にさっと隠れる。
「やあ、こりゃ、どやつじゃい。人の頭を鞭うちおるがな。」 と、上方者が、叩かれた頭を抑えながら言うと、 「はははもう一度、今の文句を。」 と、弥次郎兵衛が催促する。 上方者は、痛む頭をさすりながら、
「ほんに~、おなごは執念深い~、というは嘘じゃない~。 死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて。」 というところで又、北八がぴしゃりと、叩いて隠れる。
「あいたたた、どやつじゃ。滅相な。なんで、ぶち叩くな。」 と、上方者は、振り返ってみたが、北八は隠れているので見えない。 「おもしろいがどうも、節が難しい。もう一度やってくんなせえ。」 と弥次郎兵衛が、催促するが上方者は、 「そりゃなんぼでも、やるはやるが又、頭を叩かれやしよまいか。」 と、何度も後ろを振り返っている。
「俺が、見ていよう。心配するねえ。」 と弥次郎兵衛が、上方者を見る。 「そんなら、今一度、やりましょかい。」 と、上方者が歌い出す。
「死んでも、責め苛む~夜叉羅刹、杖ふりあげて。」 またまた、北八が上方者の頭を叩こうとして、何を慌てたのか弥次郎兵衛の頭をぴしゃぴしゃと叩いてしまう。
「あたたた。北八、俺の頭をどうしてなぐるんだ。」 と弥次郎兵衛は、後ろ振り向きながら言うと上方者が、 「はあ、さっきから、わしが頭を叩いたのもお前さんじゃな、なんして叩いた。」 と、竹を持ってうろちょろしている北八に言う。 「わしは、叩いた覚えはない。」 と北八が、目の前で竹をふると、 「なにがないだ。その竹をみろ。やってないとは、言わせんわいな。」 と上方が、竹を指差す。 北八は慌てて竹をそこにほっぽりだすと、 「はて俺は知らねえ。しつこい野郎だ。」 すっかり開き直る。 「野郎とはなんじゃいな。貴様はえらい勝手なことを言う。」 と上方者は、怒っている。
「なんだ、このべらぼうめ。さっきから思ってたんだが、まったく気に食わない野郎だ。 あんまりふざけた事ばかり言うと、その馬から引きずりおろすぞ。」 北八が、けんか腰で言うと、 「おもしろい。さあ、おろして見やんせ。」 と、上方者も負けていない。 「おお、まっさかさまに、落っことしてやろう。」 と馬の尻をぴっしゃりと叩く。 馬は、驚いて跳ね上がる。 「やあこりゃ、たまらん、何するのじゃ。」 と上方者は、びっくりして馬にくくりつけてある荷台にしがみつく。 「ひゃ、なにをする。」 と 弥次郎兵衛も、上方者と同じようにしがみつく。 馬かたが、 「ええ、畜生め。どうどう。」 と必死になだめてどうにか、落ち着いた。
その後、黙って歩いていって、新茶屋、明野ガ原と通り過ぎて小俣町に着いた。 ここで弥次郎兵衛と上方者は馬をおりて、三人で茶屋に休む。
上方者は、北八に向かって、 「これお前は、なんしてわしが頭を叩かした。」 とまた、さっきのことを蒸し返そうとする。 「もういい加減にしなせえ。お互いに旅先じゃ、色んな事があるもんだ。 もう、いいじゃねえか。わしが、一杯おごろう。 もし女中、何ぞ肴があらば、ここへいっぱい出してくんな。」 と弥次郎兵衛が、中を取り持ちこれより酒盛りとなる。
上方者も一杯のめる口なので、だんだん酔いが回ってきた。 「こりゃえらく酔うたわいな。これ弥次さんとやら、わしゃお前が、えらい好きになったが、この野郎はいかんぞや。 うんいかん。しかしお前の連れじゃ、しかたがない。 そうじゃ、こうしようじゃないか。 これから山田の妙見町にいっしょに泊まって、古市をおごろかいな。」 上方者は、いい気分で、弥次郎兵衛に話しかける。 「わしゃ、あそこでは、顔がきくので、 千束屋(ちずかや)の鼓(つづみ)の間でも、柏屋の松の間でもわしが案内するさかい、行かんせか。どうじゃいな。」
弥次郎兵衛は酔って気が大きくなったのか、上方者がやたらに驕り高ぶるので、こいつをおだてあげて遊ぶつもりに胸算用して、 「古市とは、遊郭のことじゃな。なるほど、それはいい。 どうぞ、よろしくおたのもうします。」 と、頭を下げる。 「これからその山田の松坂屋で腹ごしらえして、妙見町の藤屋に宿をとろうじゃないかいな。 さあさあ、もう行こわいな。」 と上方者は、えらく上機嫌である。
弥次郎兵衛は北八と顔を見合わせて、ニヤリと笑うと、 「そうだな、どりゃ、出かけましょう。」 とここの酒代を払い、立出る。 この町の出はなれに、宮川という渡船に着いた。
���川で 神に機縁を 結ばんと すくった水の かげの白さよ
ここより、中河原を通り過ぎると、山田の町に着いた。
これで、五篇 下は終わりです。五篇 追加に続きます。
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774 · 5 months
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悪の組織ゲドンが尖兵とする獣人は、動物や昆虫の特性を直截的に取り込んだ造形となっており、人間よりも獣の要素が色濃い。ゲドンの獣人は食料となる人間を片っ端から誘拐してはその生き血を抜き取って殺していき、その遺体を食肉として保存する。 しかし、その怪奇性とヒーローの孤独を中心に据えた作品展開が仇となって子供たちに敬遠されてしまい、当初は好調だった視聴率が徐々に低迷してきたため、 第6話でモグラ獣人がアマゾンの仲間になってから大きな方向転換を余儀なくされ、低年齢向けの作風へ変化して視聴率の回復が図られた。そのための強化策は、以下の3点が挙げられる。 アマゾンがキックやパンチといった、従来の仮面ライダー同様のアクションを多用するようになる。 岡村まさひこ、岡村りつ子、立花藤兵衛といった仲間たちのサポートを受けて戦う。 明朗な痛快活劇を基本とした平板な展開が中心となり、モグラ獣人を中心としたコミカルな要素も加わる。 低年齢向けを目指した路線変更は、第14話でゲドン壊滅と共にガランダー帝国が登場してからさらに加速していくこととなる。古代インカ帝国の秘宝と、その秘密のカギであるギギの腕輪をアマゾンから奪うことを作戦の中心に据えたゲドンとは異なり、ガランダー帝国はインカの秘宝よりも世界征服作戦を優先させていく。その結果、従来の悪の組織ではあまり例のない規模の都市破壊をはじめとする大掛かりな作戦を次々と行うガランダー帝国と、それを阻止していくアマゾンの活躍がダイナミックかつテンポよく描かれるようになった。
仮面ライダーアマゾン - Wikipedia
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jimonjitoh · 7 months
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初代庄内藩主酒井忠勝は、正室鳥居姫(山形二十二万石、鳥居左京亮忠政の
息女)との間に子が無かったが、四人の側室との間に九人の男児と三人の女児を
もうけた。世子忠当(ただまさ)の母は花の丸殿と呼ばれていた。
 長門守が鶴岡に住み始めた頃には、忠当は老中松平伊豆守信綱の息女、千万
と結婚していた。この結婚は庄内藩を二度、危機から救っている。一度目は忠勝
の苛酷な農民支配で百姓の逃散事件が起こった時の、土豪の大肝煎高橋太郎
左衛門とのトラブルである。年貢増徴の結果である農民の逃散の責めを、藩は太
郎左衛門にありとして投獄し、あまつさえ謀殺を計画をしたので、憤慨した太郎左
衛門が幕府に上訴するという事件が起こった。忠当と娘の千万が婚約中であった
ことから、老中松平伊豆守はこの目安状を握りつぶし、代わりに太郎左衛門を侍
身分に取り立てることで妥協を成立させたので、わずかな落ち度で容赦なく大名を
改易や減封に処した当時の幕府の目に留まることなく、庄内藩は改易の危機を免
れたのである。そして二度目はこの「長門守一件」である。
 寛永十五年に長門守が鶴岡に蟄居しはじめてから、彼の回りには少しづつ人が
集まり始める。彼等について斎藤正一氏はこう述べている。
「当時、江戸で横行していた旗本奴のような無法な連中である。その中には二十
余年後に『末松一件』という凶悪事件を引き起こすことになる末松彦太夫の名もあ
る。」
 徳川家が天下統一を果たしたとはいうものの、まだそこここに戦火の記憶は残
り、血生臭さは拭い切れていなかった。榎本宗次氏の「さむらいの履歴書」によれ
ば、仕官の基準は戦場での功績、つまり首を幾つ取ったかという「高名之覚」とい
う履歴書で審査されたという。十六歳で相手と組み討ちの末、首一つとったのを皮
切りに計四つの首を挙げた者、或いは島原の乱での原城先陣争いで一番乗りを
した者。彼等はその証拠として目撃者の添え状も付けている。武勲を中心に彼等
は取り立てられたのである。これは逆にいうと平時において官僚的、事務的な能
力が求められたとき、彼等の何割かは役に立たなかったということであろう。彼等
の力の象徴は「刀」である。後に長門守の一味の末松彦太夫が武士の身分をカ
サにきて、町人の大量殺戮事件を起こした時に、彼の刀が番所の座敷に展示さ
れるということがあった。「当時はこのような荒仕事に使用された刀剣は名誉の武
器として観賞する風習があったようである。」と正一氏は述べているが、庄内藩の
初期において、いかに武断的な野蛮の風があったかが分かる。
 言うなれば長門守はまさしく武断の人であった。
そして兄であり、庄内藩主の忠勝もまた紛れもなく武断の人であったようである。
武士のたしなみとしての書や茶道に堪能であったとしても、本質において彼等は
戦いの中でこそ自分を発揮できるタイプだったかもしれない。長門守が忠勝に取り
入ったこともあろうが、この兄弟はその性行において、大変にウマがあったようで
ある。
 水面下で何かが形をなして動き始める。
それに呼応するように、拮抗する勢力も形成されてくる。忠勝の長男忠当(ただま
さ)を守る集団のトップは家老の一人、高力喜兵衛。彼の母は忠勝の妹なので、
忠当と喜兵衛は従兄弟である。長門守は叔父に当たる。父と子、従兄弟、叔父と
甥の血肉を分けた者同士が二派に分かれ、相対立し拮抗して争うことになる。
 しかし、もともと忠勝が忠当を疎んじていたというようなことは考えられない。忠当
の生母花の丸の方は寛永十一年閏七月に若くして他界しているが、忠勝はこの
夫人をとりわけ慕わしく思われていたようである。彼女の没後、実家の西田家では
藩主のたっての頼みで、縁故のつてを辿り、わざわざ甲賀から遠縁の女性を引き
取り、養女として後、内室として差し上げている。彼女は後花の丸の方と呼ばれ、
後の松山藩主となる男児をはじめ、四人の男児をもうけている。
 ともあれ、忠勝と忠当父子の間に、肉親のねじれた葛藤のようなものはなかった
とみていい。彼等の間柄が緊張を孕んできたとすれば、それは長門守の存在によ
るものというしかない。長門守は長男の九八郎に、忠当の妹おまんを娶せようとし
ていた。
 長門守が本当に藩を乗っ取ろうとしていたかどうかは、今となっては分からない
ものの、藩主との血縁関係をできるだけ濃くしておいて、息子に何万石かの分封
にあずかることは確実に期待したに違いない。少なくとも白岩八千石よりはずっと
いい。長門守の胸にはあの白岩領での屈辱の記憶が残っていたことだろう。今度
は失敗しない、と彼は考えたかも知れない。刀と頭を精一杯使って、思うままに支
配できる領地を息子の名義にしてやるのだ、と。
 さて、その九八郎である。「北窓雑記」によれば、彼は「賢太子」と呼ばれ、父長
門守とは別格の高潔な人物として描かれている。その一文を拙い現代語に訳して
みよう。
「九八郎様は格別の方でした。ある時、守り役の山本半右衛門をお呼びになり、
『私は今から自害しようと思うので、介錯を頼む』とねんごろに仰有いますので、半
右衛門は驚き、『何故、そのようなことを』『他でもないが、父君が私を可愛く思う余
り、御本家の相続を私にさせようとしている。事態は急なので、他に方法はないの
だ』とのことでした。半右衛門は必死になってお諫めし、『御賢慮まことに感じ入り
ますが、ここは一旦お考え直しください』といろいろ言葉を尽くして申し上げるけれ
ども、なかなかお聞き入れにならない。半右衛門も必死になってお止めし、ようやく
思いとどまっていただくことができた。その後、半右衛門はすぐに使いに書状をも
たせ、忠当様の附家老の水野内蔵助へ詳しく事情を知らせたので、忠当様、内蔵
助は小人数の供を連れて庄内から、江戸へ発たれたのである。」
 これは正保二年(一六四五)の五月のことである。長門守が鶴岡に住み始めて
七年。「酒井家世紀」によれば、
「一説に山本五左衛門という男が長門守にくみして、世子君を襲う企てがあるとい
う噂が流れた」との記述があり、実際、忠当はこの五月に江戸に登っている。
「北窓雑記」や「酒井家世紀」の但し書きはあくまで一説であるが、それに近い状
況があったのかも知れないと考えても、矛盾はないのである。ただ、九八郎が伝え
られるような「賢太子」だったかどうかについては反証を示す史料もあるので、実
際のところは分からないが、父親の長門守とはタイプの違う人間であることは確か
なようである。ぎらぎらした父とは異なり、線の細さが感じられる。父の言い分に面
と向かっては逆らえず、自害しようとして家臣から止められ、このお家騒動が落着
するのを見届けるように、すーっと若死にしてしまうのである。
 父親とタイプの違う息子といえば、忠当もまたそう言える。
父忠勝は「生来短気で、家臣に対しては手討三百余人の記録を残す」と書かれて
いるほどの人物である。しかし、彼は自分の類い希な癇性に少しも苦しまなかった
のであろうか。おそらくはおっとりと受容的であったであろう花の丸の方を慈しみ、
その亡き後は縁の女性に面影を求めたということは、忠勝の或る一面を窺わせ
る。しかし、藩主としての彼はあくまでも苛烈である。一方、息子の忠当はいささか
病弱の風があったらしく、それが長門守派をして「藩主の任に耐えぬ」という口実
を引き出す元になった。しかし、彼はこの嵐のような事件を耐え抜き、騒動後の庄
内藩の混乱を最小限に押さえているから、政治家としてはむしろ父よりも優れてい
たかも知れない。
 戦国の世の猛々しい気風を身にまとった父。戦火の静まった世に生まれ、抑制
的な思慮を武器に持つ息子。この相異なる傾向を持つ父子が、周辺の者達の
様々な野望、思惑、忠義の織りなす渦の中心に立たされる。そして犠牲はいつの
世も最も周辺の者達がこうむることになる。
 正保二年、十二月。長門守は高力喜兵衛一派を切り崩しにかかった。「三十二
御家中訴訟」事件がそれである。
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historysandwich · 9 months
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【常威近代史】(八百一拾三回)
終極大洗牌
時間線進入1939年嘅11月,整個世界面臨失控邊緣,由第一次世界大戰所建立嘅粗糙世界秩序摇摇欲墜,終於響1918年一戰結束30年後,出現一次終極大洗牌,東西方兩大勢力掘起,歐洲納粹德國同亞洲日本帝國,決心要挑戰以英美法為首嘅傳統資本主義世界秩序,改寫一切。當然事後孔明,大家都知道最後正義嘅資本主義打敗了邪惡嘅法西斯(如果世界上真的有正義同邪惡存在嘅話),但係身處1939年底,兩大決戰陣型嘅力量同底氣,秤先嘅,應該係邪惡嘅一方,或者講,正義嘅一方係被打個措手不及(佢哋根本唔想打),兩大陣營以外,仲有新興共產主義蘇聯勢力,正正係三分天下之勢,蘇聯嘅態度,亦都直接影響戰局,1938年德蘇互不侵犯條約簽訂,二次世界大戰因此爆發,最後蘇聯調轉槍頭同美英資本主義國家合作,亦係納粹德國戰敗嘅主因,不過千萬不要忘記美國有一個奧本海默(Julius Robert Oppenheimer,1904-1967),超巨大殺傷力武器原子彈嘅發明,亦都係整場二戰嘅勝敗關鍵。
1939年11月1號,中共作出《關於深入群眾工作的決定》,蔣介石擺到明重新打壓中共,毛澤東亦都提出「人不犯我,我不犯人,人若犯我,我必犯人」論調,勢必反攻,反正民眾同輿論站在左邊。同一日,汪精衛偽政權與日本喺上海商定《日支新關係調整要綱》,支,支那也。11月4號,國民政府委員馬相伯(1840-1939)病逝於越南諒山,終年100歲。馬相伯係中國近代教育家,政治活動家,滿清時代佢係一位天主教耶穌會嘅神父,後來成為震旦學院,復旦公學,輔仁社嘅始創人,成就斐然。11月5號,有政壇不倒翁之稱嘅山西王閻錫山(1883-1960)響臨汾謀求同日本共同反共,吓?同日本人合作?閻錫山真係好難捉摸。11月7號,新四軍江南指揮部喺江蘇溧陽成立。
今日,日軍獨立混成第二旅旅團團長,陸軍中將阿部規秀(1887-1939)所率1600人部隊響河北淶原上莊子附近比八路軍晉綏軍區部隊包圍。經過大半天嘅激戰,阿部團旅損失過半。傍晚時分,旅團部隊行蹤被發現,並且遭到迫擊炮轟炸,阿部中彈重傷,至傍晚21時流血過多而死,其部下500人亦喺依一役中喪命,日本華北方面軍司令多田駿(1882-1948)當時哀歎:「名將之花,凋謝在太行山上。」,原來,阿部規秀係中日戰爭爆發以來,被擊斃軍銜最高嘅軍官(中將),佢亦係日本自明治維新創建陸軍以來,首位喺沙場上陣亡嘅中將。
11月8號,美國援華「一碗飯運動」開幕;11月11號,駐確山新四軍第8留守團遭到國民黨軍圍困,200幾人被慘殺。可能因為1111光棍節,今日廣州日軍拘捕2000多名中國婦女充當日軍軍妓慰安婦,當然你可以拒絕,拒絕嘅,又當然係被拉去後巷打靶!日軍暴行,喪盡天良!11月12號,國民黨五屆六中全會喺重慶開幕。今日,加拿大美國共產黨聯合援華醫療隊隊長、加拿大胸外科醫生諾爾曼白求恩(Henry Norman Bethune;1890-1939)因為手指感染引發敗血病逝世,終年49歲。白求恩係世界知名嘅胸外科醫生,曾經入選英國皇家外科學院,佢響1938年1月嚟到中國,受聘為八路軍晉察冀軍區衛生顧問,創辦咗重岩口模範醫院,齊會戰鬥中,白求恩醫生連續工作69小時,搶救咗115名傷員,佢的確係中國嘅好朋友。
11月14號,中國佛教訪問團到達緬甸、印度、新加坡等國訪問。今日,英法聲明撤退華北一部分駐軍。11月15號,國民政府財政部部長孔祥熙(1880-1967)喺國民黨五屆六中全會上第三次大會中透露,國民政府歲出預算總額,1937年度為10億元,1938年度上半年為9億,去到1939年則為17億。軍費支出方面,1937年係13億,1938年上半年為8億,去到1939年為19億,合共40億元。至於點解1938年得半年數?資料冇講畀我知(應該係同撤退去重慶有關)。孔祥熙又透露,國民政府發行鈔票總額戰前為14億,去到1939年6月已經增加到23億,至10月再增加到25億,億億聲,打仗真係要洗好多錢,不過千萬要記住,銀紙唔係印出嚟就可以用。
1939年11月15號,中午時分,日軍第5師團同臺灣旅團,響海空軍火力掩護下,響廣西欽州灣西岸企沙、龍門一帶強行登陸。第4戰區守備部隊第46軍第19師冇辦法抵擋,岸上工事全被摧毁,更加上寡不敵眾,只得向欽縣、防城一帶撤退。今次嘅登陸行動,由日軍華南派遣軍司令官安藤利吉(1884-1946)指揮,安藤利吉係前臺灣總督,登陸大軍由東京灣出發,後續部隊仲有第28師團、近衛師團、海軍第四艦隊、海軍陸戰隊等等,合計兵力一共10萬人,11月16號,日軍勢如破竹,攻佔防城,17號佔領欽縣,中國軍隊無法抵擋,日軍兵鋒直指廣西首府南寧。
#常威💀 #蔣介石平反系列  #佛經抄寫員 #中日戰爭 #中華民國
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gobangiri-news · 11 days
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大ヒット御礼舞台挨拶オフィシャルレポート!
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このたび、映画『碁盤斬り』の大ヒット御礼舞台挨拶を開催いたしました!熱気たっぷりのスタンディングオベーションで迎えられた草彅さんが「こうやって迎えられるのってうれしいです!」と満面の笑みで感謝し、「みなさんお座りになってください」と観客に優しく呼びかけ、場内はさらに大きな拍手に包まれました。「大ヒット御礼ということで、本当にみなさんがたくさん“おいごばん”をしていただいたということ。とても良い映画になっているので本当に僕も満足、一本満足なんですよね(笑)」と冒頭からご機嫌で草彅さん節を炸裂し、会場を笑いの渦に。「聞くところによると、(映画を観ているのは)つよぽんのファンよりもおじさんの方がすごい多いらしくて。つよぽんのファンは出遅れているのかなと思っていましたが、今日はつよぽんファンの方がたくさんいらっしゃってますね」と客席を見渡しニッコリの草彅さんは、上映後の舞台挨拶のため「ネタバレOKということで、今日は楽しい話を出し惜しみなく(笑)、いろいろとお話していきたいと思います」と気合を入れました。本作が泣ける映画で映像も美しいというMCの言葉に「白石(和彌)監督はバイオレンスのイメージがあって、血みどろの世界という感じ。(斎藤)工くんと斬り合うシーンはあるけれど、ちょっといつもの白石監督のテイストとは違っていて。監督も(時代劇)初挑戦で、新しい挑戦をしている感じがあるので、監督のファンの方もいい意味で驚かれる作品。そのあたりをチェックして欲しいですね」と本作の見どころ、白石監督の新しい色にも触れながらおすすめしました。本作のイベントでは、映画の中とのギャップが指摘されがちな草彅さん。この日もMCの質問に「はい!」と元気よくハキハキと答え、寡黙な柳田格之進とは大違い。「僕、声大きいかな?マイクいらないんじゃないの?マイクなんていらないよ」とマイクなしでトークを開始するなど、自由でありながらも観客を置いてけぼりにすることなく、みんなで楽しい舞台挨拶を作り上げていく草彅さんでした。「今日の僕、元気だな」とニヤリとしながら、生声でトークを続けた草彅さんは「TOHOシネマズ日比谷なのに、生の声がこんなに通る!」とウキウキ。「大きいけれど満員御礼ですからね、ありがとうございます!」と感謝の言葉も忘れずに何度も伝え、大きな拍手を浴びました。そこで、「滋賀県彦根市からあるゲストが来てくださっています」とのMCの言葉に「なんとーーーー!」と驚いた様子で雄叫びを上げた草彅さん。ゲストのひこにゃんが姿を見せると「かわいい!」「カモンカモン」「ようこそ、ひこにゃん」と大喜び!ひこにゃんがステージへの階段を使う際には、手を差し出してエスコート。無事にひこにゃんがステージに上がると「ひこにゃーん、会いたかったよ!」とガッチリと握手。ひこにゃんの兜を触りながら、「ヘルメットなの?どうやってツノが出てるの?」などと質問攻めの草彅さんでしたが「あ!甲冑ってことか。彦根城から来ているんだもんね」と納得した様子。「彦根城を使わせてもらってありがとうございます」と撮影許可のお礼を伝えた草彅さんは、格之進が濡れ衣を着せられる前の回想シーンを彦根城で撮影したと明かし、「でも、ひこにゃんいなかったよね?」と再びひこにゃんに問いかけを開始。次々と飛んでくる質問にちょっとびっくりのひこにゃんの姿に「ひこにゃんってシャイなの?」とツッコミを入れるなど、絶好調の草彅さん。するとひこにゃんの顔をまじまじと見つめ、「ちょっとフレンチブルドッグみたいな感じ」とひこにゃんの顔を触り始め「この辺のフォルムがクルミちゃんに似てるかも!」と愛犬との共通点を指摘し、さらに目尻を下げていました。ひこにゃんに映画の感想を訊ねる場面ではひこにゃんの声も担当した草彅さん。なぜかふなっしーのモノマネでひこにゃんの言葉を代弁し、1人芝居を繰り広げる草彅さんにひこにゃんは後ずさりし始めると会場は大爆笑。ひこにゃんが泣いている仕草で感動したことを伝える流れで、草彅さんは「ここでハンカチで(涙を)拭くくだりだった!」と流れを思い出したことを口にし、さらなる笑いを誘いました。慌ててハンカチを取り出し、その後もふなっしーの声でひこにゃんを演じる草彅さんにMCから「猫なので。猫バージョンもお願いします」とリクエストされると、即座に猫っぽいバージョンのひこにゃんの声に切り替えるなどの草彅さんのサービスに会場は笑い声でいっぱいになりました。ひこにゃんとの2ショット撮影タイムでも、立ち位置やカメラ目線などを優しく誘導した草彅さんが「ひこにゃんの手がめっちゃ熱い!それだけ感動してくれたんだね」とお礼を伝える場面も。フォトセッション中には、カメラに手を振りながら、自身の言葉でも観客に感謝を伝え、さらにひこにゃんのコメントも代弁した草彅さんは「ひこにゃんのキャラが定まった!」と大発見といった様子で「ひこにゃん、強いにゃーん」というキャッチフレーズをつけるなど、終始ご機嫌でした。イベントには、さらに長屋の大家・八兵衛を演じた落語家の立川談慶さんも登場。映画初出演の談慶さんは「リハなしでいきなり本番。でも、目の前に“やさしいマン”がいたから、緊張しないでできました」と、草彅さんがCMで演じたキャラクターを思い出したことを明かし感謝。撮影を振り返り、草彅さんからのお弁当の差し入れにお礼を伝えたところ「談慶さんは2000円でいいですよ、って言われました」と笑顔で告白。すると草彅さんは「2000円まだもらってない!」とニヤリ。草彅さんは談慶さんがスタッフ向けに披露した高座の動画を撮影前に観るよう監督から言われていたそうで「談慶さんがいたから、格之進の役作りができました。談慶さんのおかげで格之進が出来上がったと思います」と深々とお辞儀。談慶さんは恐縮しながらも「想像以上の格之進でした」と大絶賛。さらに映画のあらすじを3分にまとめた「ミニ落語」を談慶さんが披露し会場を大いに沸かせました。イベントには花束ゲストとして本作にエキストラ出演した囲碁棋士の藤沢里菜さんも登場。「綺麗な花束」と笑顔の草彅さん。藤沢さんは「ものすごく強い棋士のオーラが出ていたし、手つきも綺麗。長年囲碁が趣味なんじゃないかという感じがしていました」と囲碁の達人、格之進を演じた草彅さんの演技に太鼓判。「ルールは知らないとのことでしたが、その後、ルールは覚えましたか?」との藤沢さんの問いに「覚えてないです」と苦笑いした草彅さんは「でも、(囲碁の達人って)藤沢さんを勘違いさせるほど、藤沢さんの目から見て大丈夫だという太鼓判を押していただきました!」と胸を張り、「囲碁のルールを知らなくても楽しめるということです」と、映画をアピール。そして、ひこにゃんに再び質問が飛ぶ場面では、草彅さんは「目と鼻が碁石っぽい!碁石つけてるの?」とひこにゃんの鼻を触りながらいじり倒して笑わせました。最後の挨拶で「今日は本当にありがとうございました」と挨拶すると、この日1番の大きな拍手を贈られた草彅さん。「楽しい時間であっという間だったけれど、まだまだ『碁盤斬り』を通してみなさんと深く関わり合っていきたいと思います」と話し、映画を観た感想を周りに伝えて欲しいと呼びかけました。何かが伝わる映画だとし、「これをステップにみんなが次に向かえればいいなと。そういう作品だと思うので、末長くこの作品をお願いしたいと思いますし、1人でも多くの方が観て、何か感じていただけると幸せな世の中になると思いますので、ぜひ『碁盤斬り』を通じて、これから一緒に人生を歩いていきましょう!本日はありがとうございました」と呼びかけ、深々とお辞儀。時代劇に対して、足が遠のいている傾向もある中で、「今、観る作品だと思うし、初めて(時代劇を)観る方にもおすすめしたい。世代を超えて、若い方から年配の方まで、世代問わず、たくさんの方にご覧になっていただきたいです」と呼びかけ、しっかりとイベントを締めくくった後には、再びひこにゃんの鼻を触りながら「碁石じゃないよ」「触らないで!」などと1人2役の1人芝居を続け、退場口のドアが閉まるギリギリまで観客を楽しませました。
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alog4 · 1 year
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(『シン・仮面ライダー』【公式】さんはTwitterを使っています: 「【毎日 #シン仮面ライダーオフショット シリーズ】 商店街の看板シリーズその2。 1974年放送「仮面ライダーX」で立花藤兵衛が営んでいたコーヒーハウス「COL」もあの商店街にあったようです。 #シン・仮面ライダー 公開中 劇場一覧↓ https://t.co/HQvPlmRddt 御期待ください。 https://t.co/JbVWs3rqTN」 / Twitterから)
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tomoya-jinguuji · 1 year
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「兵器支援より和平交渉を優先すべきでは」なぜ地元テレビ局はゼレンスキー大統領にそんな質問をしたのか 「広島サミットは失敗だった」論は根本的におかしい 「G7はかつてなく結束している」の意味 人々にさまざまな思いを残したG7広島サミットが終わった。実りの多いサミットであった。これほど多くの人々に「感動した」と言わせる国際会議は、珍しい。関係者の努力に敬意を表する。そのうえで、背景となった要素を三つ上げると、ウクライナ、ゼレンスキー、そして広島、ということになると思う。 ロシアのウクライナ侵攻の危機は、G7参加者にかつてない緊張感を与えている。G7メンバー(フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ+EU)は、協調しつつ多大な努力を払って侵攻への対処策を講じている。アメリカのジョー・バイデン大統領をはじめとする多くの参加者たちが、「G7はかつてなく結束している」と発言したが、これは危機対応の緊張感がもたらしている事情でもあるだろう。 今回のサミットはG7それ自体の枠を超え、インド、オーストラリア、韓国、ブラジル、インドネシアなど、さまざまな国々の多彩な指導者が一堂に会した会議ともなった。とりわけ大きなドラマが、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領が駆け付けたことだったのは言うまでもない。ゼレンスキー大統領とインドのナレンドラ・モディ首相の握手は、このG7サミットの成果を示す劇的な場面となった。 圧巻だった献花シーン しかしこれらの要素は、広島という舞台においてこそ、一層の輝きを見せたのだと筆者は考える。G7メンバーの首脳たちがそろって平和記念資料館を訪問した後、原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)に横並びして献花をしたシーンは圧巻であった。また、ゼレンスキー大統領も、岸田文雄首相と並んで資料館を訪れて献花をした後、「バフムトと広島が重なる」という印象的な言葉を残した。 G7サミットについては、政策的含意についても論じるべき点が多々ある。今回は3回に分けて論点を提示してみたい。1回目の本稿では、最も象徴的な要素としてサミット全体を貫く効果を発した「広島」について考える。 「サミットは失敗だった」論の根拠 サミット終了後、特定メディアから「サミットは失敗だった」という評価が集中的に流されたことが、SNS等で話題となった。これまで核廃絶運動をしてきた被爆者や運動家の方々を中心とした発言が、そうしたメディアでは大きく取り上げられた。大手新聞社出身の独立系メディアの記者が「逃げるんですか」と岸田首相に呼びかけたのも、核廃絶を語りきれていないことを糾弾したいという思いに駆られた行動であったようだ。 特定の層によるこうした評価は、かなり大きなイデオロギー的立場の違いから生まれた、見解の相違と言える。否定的な評価をされている方々は、「核廃絶の決意が弱い」といった精神的部分だけでなく、「核抑止を広島で語った」というかなり原初的な事柄を理由にして、サミットを批判したのである。 アメリカのバイデン大統領が平和��念資料館で「世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう」と記帳したように、大枠としての核廃絶に向けたG7諸国の意志は、今回のサミットでも変わりなく示されている。それでも批判派に言わせれば、決意の度合いが足りない、というわけである。 さらにこうした人々は、核抑止という構造が存在しているという現実を広島で語ることが、広島に対する冒涜であると受け止めるようだ。被爆地では「即時の核廃絶」が絶対規範であり、核抑止を語るようなことはあってはならないのだという。 「広島とは何か」という問いから生まれる二つの立場 しかし、こうした原理的な立場を前提にすれば、いかなるG7サミットも「失敗」の烙印を押されることは避けられない。特定のG7サミットが、現実の枠を飛び越えていくようなことはあり得ないからだ。 一連の「サミットは失敗」報道に特徴的だったのは、会議でさまざまな問題が話し合われた中で、核廃絶というテーマだけに焦点が置かれていたことだ。核廃絶だけは特別な問題だと認識し、広島で実施したサミットなのだから強い核廃絶の決意が表明されなければならない、万が一にも核抑止などに言及してはならない、という確信を持つ特定の集団があった。その方々にとっては、今回の「広島サミット」は失敗だと言わざるを得ないのであった。 さて、この「サミットは失敗」という意見は、それとは逆の(そしておそらくは多数派の)「サミットは成功した」という意見と表裏一体の関係にある。それらに共通するのは、「広島とは何か」という問いであった。 「法の支配に基づく国際秩序の堅持」の意味 議長国・日本が掲げた広島サミットの一番のテーマは、「法の支配に基づく国際秩序の堅持」であった。「G7広島首脳宣言」の冒頭で「われわれの取り組みは、国際連合憲章の尊重及び国際的なパートナーシップに根ざしている」と記されたように、「法の支配に基づく国際秩序」とは、より具体的には国連憲章の諸原則を指す。「国連憲章を含む国際法の深刻な違反を構成する」ロシアのウクライナ侵攻が、とりわけ重要な議題となったのもそのためだ。 広島とは何か、という問題は、このサミットのテーマに深く関わる。G7がウクライナへの支援を約束するのは、国際法の深刻な違反を是正し、「公正かつ永続的な平和(just and lasting peace)」を達成することを目標としているからである。日本語の宣言文では「公正」と訳されているが(日本国憲法前文でも英文で「Justice」と日本文「公正」が対応している)、つまりは「正義 justice」を伴った平和を目指す、ということである。 ウクライナに「停戦」を叫ぶ人々が求めているもの この「公正で永続的な平和」を追求するG7の立場に真っ向から挑戦しているのが、現在も進行中のウクライナ侵攻について、即時かつ無条件の停戦を叫んでいる方々である。 ロシアの侵略行動が止まらないうちにウクライナが一方的に停戦を宣言することは、ほとんど降伏に近く、失われた領土の回復や保障も果たされることはない。仮に一時的にロシアが停戦に応じたとしても、抑止が効かなければ侵略が再開されることは確実であり、停戦はまやかしの平和でしかない――。こうした批判を受けても、「即時無条件停戦」派は上記の「公正」や「永続性」にこだわらず、事実上の「非武装中立」を突然一方的に宣言することが大切だと主張している、そしてその論理を基に、日本政府をはじめとするG7を糾弾している。 ゼレンスキー大統領の記者会見で地元のテレビ局の記者が行った、「兵器などの支援を要請することも大事なのかもしれないが、せっかく被爆地広島を訪れているんだから、もっと戦争を終わらせるための和平に向けて話し合いをしたほうがいいのではないか、広島で行われるサミットで違和感がある、という声もあります。その声にどう答えますか」という質問も、同様の文脈に属するものだろう。 「公正で永続的な平和」の価値を世界に示した 果たして「平和都市」として知られる広島は、「公正で永続的な平和」と「即時無条件停戦」のどちらを象徴するのか。 一つの都市の存在と、このような大きな問いを結びつけることは、通常は起こりえない。しかし世界に知られる平和都市であるがゆえに、広島は、これらの問いをめぐる葛藤と、深く結びつけられて語られてしまうのだろう。 サミットは失敗だと結論づける人々は、「即時無条件停戦」に大きくなびいている。広島は非武装・無抵抗の平和の象徴であり、たとえ自衛権の行使などの「国連憲章の諸原則」に従ったものであっても、この場所で軍事に関わる話をすることは許されない、というわけである。 一方G7の首脳は、明快に「公正で永続的な平和」を選択している。そして、広島という場所においてその立場を隠すことなく、むしろ一致団結した姿を見せることで、その立場を世界に示した。広島こそが「公正で永続的な平和」への決意を表明するには最もふさわしい場所だと言わんばかりの態度を、G7は示したのだ。 おそらくはそのことが、「サミットは失敗」派を激怒させたのだろう。だが、広島が象徴する平和は「即時無条件停戦」の平和であり「公正で永続的な」平和のことではない、と断言できるような根拠はない。むしろ被爆者の苦難を知り、「過ちを繰り返さない」と誓う行為は、「公正で永続的な平和」と親和性が高いと言っても過言ではない。 今回のG7サミットで、広島/日本が象徴する平和が、「即時無条件停戦」の平和ではなく、「公正で永続的な平和」のことであるという理解を、日本の首相が、同盟国・友好国の首脳とともに世界に示した。そのことの意味は、決して小さくない。 「復興の象徴」としての広島 ゼレンスキー大統領は、「破壊された広島の写真がバフムトに似ている」と述べたうえで、「いまの広島は再建した。ウクライナの街並みも早く再建できることを夢見ている」と述べた。これはいわば「復興の象徴」としての広島についての語りである。 岸田文雄首相も、ゼレンスキー大統領を見送った後のツィートで、「1945年の夏、広島は原爆によって破壊されました。平和記念公園が位置するこの場所も一瞬で焦土と化したのです。その後、被爆者をはじめ、広島の人々のたゆまぬ努力によって、広島がこのような美しい街として再建され、平和都市として生まれ変わることを誰が予想できたでしょうか。」と、語りかけた。「復興の象徴」としての広島を強く意識したメッセージである。 広島市長の説明に聞き入ったゼレンスキー ゼレンスキー大統領は、岸田首相と言葉を交わしながら、2人で並んで慰霊碑に献花をした後、松井一實・広島市長の説明に熱心に聞き入った。報道によれば、松井市長は、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記された碑文などについて、説明をしたという。ゼレンスキー大統領は、広島の復興の精神に、強い関心を抱いていたのだ。 当然だろう。復興は、段階的には戦争中ですら始まっている。戦争が終わったときには、大々的な復興のプロセスを主導しなければならない。壊滅的な打撃を受けながら、不死鳥のごとく立ち直った広島の復興の歴史に、関心を抱かないはずはない。 ウクライナ復興に強力に関与するというG7の決意表明 G7は、初日に発表した「ウクライナに関するG7首脳声明」において、「ウクライナの復旧・復興に向けた支援」も強調し、「ウクライナが必要とする経済支援を確保することへの我々の強いコミットメントを再確認」したうえで、より具体的な領域でのウクライナの復興努力を支援していくことを宣言した。 もし広島が「復興の象徴」であるならば、G7はウクライナ復興に強力に関与するという決意表明を、世界で最もふさわしい場所で行ったことになる。その決意は、1列に並んで献花するG7首脳の結束を通じて、さらに広島平和記念公園を並んで歩く、議長国・日本の首相と復興の当事者であるウクライナ大統領の2人のパートナーシップを通じて、示された。 もし広島が「核廃絶」の象徴でしかないとすれば、どこまで核廃絶について語ったかということだけが評価基準になる。戦禍からの復興に関する議題などは、評価対象にならない。だが今回、議長国・日本は、他のG7メンバーと共に、いわば「復興の象徴」としての広島の意味を強調し、象徴的な画像を通じて、それを示した。 岸田首相だから実現した大きな成果 岸田首相の選挙区は広島一区、つまり広島記念公園からG7会場となったエリアを包み込む地域を地元としており、そこで過去に10回の当選を果たしている。広島の意味をめぐって、何が重要であり、実は異なる立場もありうるということについて、誰よりも知る人物であると言ってよいだろう。 「公正で永続的な平和」を目指す「復興の象徴」としての広島で、「法の支配に基づく国際秩序の堅持」を中心議題とするG7サミットを開く試みは、岸田首相という1人の具体的な存在をもって、初めて可能になったとも言える。「即時無条件停戦」論をはじめとするさまざまな異論も存在する中で、岸田首相でなければ、これほど明快な方針を打ち出すことはできなかったかもしれない。 広島とは何か、という問いは、日本とは何か、という問いとも深く結びついている。その解釈をめぐる葛藤は、今後も終わることはないだろう。たとえそうだとしても、今回のG7サミットが持った衝撃は、葛藤を抱える日本人の心の中にも、深く、長く、影響を及ぼしていくことになるだろう。
「兵器支援より和平交渉を優先すべきでは」なぜ地元テレビ局はゼレンスキー大統領にそんな質問をしたのか    「広島サミットは失敗だった」論は根本的におかしい
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kachoushi · 8 months
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星辰選集
花鳥誌 令和5年10月号
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令和5年7月号の掲載句より再選
坊城俊樹選
この星辰選集は、私が各月の掲載句の中で、雑詠選・撰集選・さいかち集の成績などに関係なく、改めて俳句としての価値が優れていると判断したものを再度選句したものです。 言わば、その号における珠玉の俳句ということになります。
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花種蒔く母は呪文を唱へつつ 池垣 真知子 九頭竜も隅田もつづり花筏 岡田 順子 行くほどに陽炎深き石仏群 四本木 ただし 武士となれず尾を振る蝌蚪の陣 横田 美佐子 その中に魔法のランプ春の市 大久保 樹 裾をわる粋言ふをとこ春惜しむ 渡辺 幸子 そなた若し津軽の瞽女や踊子草 藤枝 昌文 月島の雨に色濃き八重桜 栗原 和子
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この山の確と菫の一処 渡辺 炳子 石鹸玉の吹雪や少女手妻めく 野田 勝利 高瀬舟残んの花を離れけり 葛生 みもざ 振り袖にすれ違ひ行く花の雨 棈松 政江 しやぼん玉消えて魔法の解けにけり 剣持 せつ子 夕桜から夜桜となる間 上嶋 昭子 能舞台甍を飾る花の雨 田辺 て津子 二人して沙漠に蝶を追ひかけて 崎島 六甲
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磯波に大渋滞の花筏 舩上 照江 花衣うすむらさきの浄土かな 宮崎 悠紀子 春雷の去りて雨音かすかなり 続木 一雄 仁王立ちしてふらここを漕いでをり 加納 佑天 会へる人会へぬ人ゐて春の宮 小林 含香 目瞑ればさらはれさうや飛花落花 尾田 美智子 水鳥の言問ふやうに漂へり 白水 朝子 後戻り雛に呼ばれてゐるやうで 田原 悦子
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卍ヶ辻に迷ひはせぬか雪女 村上 雪 白鳥に引く日の近き与兵衛沼 赤川 誓城 亀の鳴く方より日暮はじまりぬ 大和田 博道 春の闇弾かるるを待つピアノあり 渡辺 彰子 洋館の鏡北向き遠桜 上嶋 眞理子 ふらここに行きつ戻りつ老いの来て 伊藤 裕章 口紅は使はれぬまま蝶の昼 田上 喜和
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天帝を恋ひ光へと向く椿 猪俣 北洞 花衣骨董市へ迷ひ込む 松本 洋子 蝶を呼ぶ埴輪は高く手を上げて 鍛治屋 都 涅槃図や人より泣いてとりけもの 村山 要 思春期の桜貝ほど割れやすく 佐伯 緋路
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chiefbelieverllama · 1 year
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海派中醫 無派之大派
“上海是海,是襟江連海的不息水流造就了上海,更是水滋養了上海,使這座城市孕育了以海納百川、相容並蓄為主要特徵的海派文化”。 這是作家、海派文化研究中心主任李倫新對上海海派文化的描述。
“海派”一詞肇始於中國繪畫,並受到傳統戲曲的極大影響。 “海派作為藝術流派濫觴後,很快從中國畫、京劇漫開至電影、小說、美術教育等領域,乃至社會風尚、生活方式。” (朱少偉《海派文化的淵源與流變》)新老上海人來自四海五洲,城市建築素有「萬國博覽會」之美譽; 上海語言南腔北調,還有洋腔洋調; 滬上餐飲菜系多樣,魯川粵閩,蘇浙湘徽,風味各異; 申城戲劇舞臺百花爭艷,京昆雅韻,淮越滬甬,劇種繁多。 海派文化,就是植根於中華傳統文化基礎上,以吳越文化為主幹,彙集中國其它地域文化的精華,吸納並消化一些外國的主要是西方國家的文化因素,融合形成的一種新的富有獨特個性的多元文化。
作為「海派文化」的一個重要分枝,「海」可以詮釋為「堅持開放、相容中西醫學、善於吸納新知、不斷發展變化、敢為人先、勇於創新的上海中醫醫學」。。 早在南宋紹定年間,青浦青龍鎮人何侃(字直哉),作為何氏第四世醫,開創松江一支; 其後子孫相傳,歷經29代不衰,何氏醫學“不僅在我國歷史上誠無多見,即在世界醫史上,亦從未之聞。 明末華亭人李中梓(字士材),所著《內經知要》、《醫宗必讀》等,是絕佳的入門醫書,寓普及於提高之中; 李氏之學,一傳為沈朗仲,再傳為馬元儀,三傳為尤在涇,世稱「士材學派」。。 清末民初時期,在上海更形成了孟河醫派、新安醫派、張氏內科、夏氏內科,婦科四大流派,傷科八大家,兒科四大流派,針灸六大流派,推拿一指禪等眾多蜚聲海內外的醫學流派相容並存的局面。 “”就是在這樣的歷史背景與學術氛圍中形成的,具有大度包容的學術胸襟,敢為人先的開創精神,納新求變的思維方式,對江南乃至全國中醫藥界形成多元輻射。
日本藤素 美國黑金 犀利士 威而鋼 樂威壯 必利勁 德國必邦 vigrxplus 必利吉 壯陽藥
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一炮到天亮 保羅v8 汗馬糖 日本2H2D 海狗丸 紅金偉哥 台灣本能 德國黑螞蟻生精片 
韓國奇力片
目前,上海正抓緊保護、挖掘滬上中醫各大流派,總結它們的學術思想、臨證經驗、診療醫案等,梳理它們的形成脈絡、發展要素,歸納總結“海派中醫”的傳承規律。 2009年1月以來,「上海近代中醫流派臨床傳承中心」的成立,目的是培養新一代傳人,形成新的中醫流派,續活血脈; 努力再現各派名醫輩出、流派紛呈的繁榮景象。 近年來的上海,選擇中醫中藥診療的病人(很多來自全國各地)逐年增加,秋冬季中醫膏方門診9月中旬就開始預約登記,至冬至前後,許多中醫專家膏方門診一號難求。 毫無疑問,中醫中藥現在是上海市民診治疾病的重要選擇,是衛生保健領域的重要力量,將來也必定如此。
在金庸的武俠名著《神鵰俠侶》中,主人公楊過來到劍塚,見到絕頂高手獨孤求敗“四十歲前恃之橫行天下”的“玄鐵重劍”。 此兵器外表黑黝,劍身深黑之中隱隱透出紅光,三尺多長,共重九九八十一���,兩邊劍鋒都是鈍口,劍尖圓圓的似是個半球。 正所謂“重劍無鋒,大巧不工”!在《道德經》第四十一章,老子論說“道”的崇高境界時,也有“大方無隅,大器晚成,大音希聲,大象無形”等說法,其義為:“方正的(物體)好似沒有棱角,貴重的器物總是後完成,宏大的樂聲反而聽起來無聲響,大的形象反而看不到形跡。 “因此,”大音希聲,大象無形“之喻旨在說明:世界上偉大恢宏、崇高壯麗的氣派和境界,往往不拘泥於一定的事物或格局,而呈現出”氣象萬千“的面貌和場景。 這裡“無”字,並非“沒有”之義,而是臻於至高至極的體現。
“海派無派”的表達亦是如此,正如已故“海派名醫裘沛然先生所指出的:“古往今來中醫分為各種流派,而海派中醫能立穩腳跟併產生影響,就在於它是'無派之派',海納百川、不拘一格,汲取了各家優勢。 “可見,”海派中醫“是融匯各派之所長、不拘泥門戶之見的”無派之大派“。 上海的中醫,包容萬象,兼收並蓄,各派歸「海」; 她薈萃賢才,融匯新知,遂成「大派」; 她博采勤求,傳承創新,堪稱“海派”。
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bearbench-tokaido · 3 months
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四篇 下 その一
『コケコッコー』 と、鶏の声が、響いている。 『ヒヒン、ヒヒン』 と、引かれている使役の馬の鳴き声も聞こえている。
すでに夜も明けて、かの弥次郎兵衛と北八は起き出してきた。 簡単に支度を整えると、さっさと赤坂の宿場を後にした。
さて二人が、この宿場を出るか出ないうちから三人連れの旅人が、後になり先になり行く。 どうやらこの連中も江戸のものと見えて、伊達男で少し巻き舌の早口である。 聞くとはなしに、話を聞けば、 「おい、夕べの泊まりは、面白かったな。」 「おお、それよ。なんでも、奥の間に泊まっていた奴等は、気の利かない野郎どもだ。 旅館で婚礼があるのを、羨ましがりやがって、襖の間から覗いたらしい。 それで夢中になって、襖ごと倒れこんだそうだ。まったく、馬鹿なやつらだ。」 「その後の騒ぎで、俺はろくに寝られなかった。まったく、忌々しい。」 「そうそう、そのうちの一人が夜中に宿の亭主を呼んで、ここの家は墓場じゃないのかと聞いていたそうだ。 たぶんあいつらは、気が違っているんだろう。」 弥次郎兵衛と北八が泊まった旅館と、同じところに泊まっていたこの連中は、面白おかしく話をしてる。
弥次郎兵衛は、腹を立て、足早に駆け寄ると、 「おいお前ら、さっきから黙って聞いてりゃ、俺のことを馬鹿とは、どういうこった。」 と、まくしたてる。 「はん、お前さん方には関係ねえ。こっちの話だ。」 突然、弥次郎兵衛に話しかけられたじたじとなりながらも、例の旅人が答えると、 「何がこっちの事だ。夕べの宿での話しだろう。その襖ごと倒れこんだのが、俺だ。」 旅人は、びっくりしながらも、弥次郎兵衛の顔をまじまじとみながら、 「はあ、お前さんが、例の馬鹿野郎か。」 「おお、そうよ。その馬鹿野郎だ。」 と、素直に認める弥次郎兵衛に、旅人は急に笑い出すと、 「ハハハ、馬鹿野郎に馬鹿野郎と言っただけだから、いいじゃねえか。」 「いや、こいつ、ふざけるにもほどがある。」 弥次郎兵衛は、つかみかからんばかりに怒っている。 「糞を食らえ。」 と、旅人が答えると、 「なんだ、くそを食らえだ。こりゃおもしろい。食ってやろう。持ってきやがれ。」 と、弥次郎兵衛は、真っ赤になって力み出した。 けれど、例の旅人も血気盛ん連中で、馬のくそをつえの先に引っ掛け、 「さあ、もってきたから食え。食え。」 と、弥次郎兵衛に方に、突き出す。とっさに、 「いや、馬のくそは、嫌いだ。」 と、弥次郎兵衛が言うと、 「嫌いということがあるもんか。どうしても食わしてやる。」 と、三人がかりで、弥次郎兵衛を身動きできないようにする。 北八は、笑いながらその様子を見ていたが、 「いや、もう、勘弁してください。もう、食べたも同じでございますから。」 と、止めにはいる。 三人の旅人も、やりすぎたと思ったのか、 「ハハハ、堪忍してやろう。」 と、あっさり行き過ぎる。
弥次郎兵衛は、腹の虫がおさまらない。 口の中で、ぶつくさぶつくさ言っている。 北八はなだめすかしながら、桐の木、中柴と通り過ぎ、山中(愛知県岡崎市付近)に着いた。 ここは、麻のあみぶくろや、悪人を捕らえるときに使う早縄などを商っている店が多い。 それを見ながら、北八が一首詠む。
御仏の 誓いと見えて 宝蔵寺 なおあみぶくろは ここの名物
そこから、やがて藤川に着いた。 宿場の入り口辺りにある茶屋は、店先に生魚を吊るしている。 ほかにも、大きくて平らな皿を店先にならべて、旅人の気をひいている。弥次郎兵衛がそれをみながら一首詠む。
ゆで蛸の 紫色は 軒毎に ぶらりとさがる 藤川の宿
その中の一軒の茶屋で、二人は一休みすることにした。 「さっきからどうも腹が痛い。ばあさん、すまんがお湯は、ないだろうか。」 と、北八が、懐から薬を取り出しながら言う。 「はて、ちょうど、お湯を切らしておりまして、水を上げましょう。」 と、茶屋の婆さまが答える。 「いやいや、この薬は、お湯でないとききめがない。」 と、北八は、言い終わらないうちに、腰を上げて、 「こりや、たまらなくなった。便所はどこだ。」 と、座敷の奥のほうを見ている。 これを見ていた弥次郎兵衛が、 「どこにと言って、部屋の奥を見ても、便所が畳の上にあるものか、裏へ回ってみろ。」 北八は、裏に回ってみる。 「ひゃあ、つきあたりに見える。見える。」 と、便所へ駆け出していく。
しばらく用をたしてから外に出ると、ここに物置のような小さな小屋があるのにきがついた。 その小屋の中に、十八、九の娘が、髪を振り乱して座っている。 なかなかの美人だ。 しかも一人で、ただ、ぽつねんと座っている。
北八は、これは、しめたと思い、勝手にこの小屋に入り込むと、その娘に笑いかけ 「もし、すまねえが、水をひとつもらいたいんだが。」 と、手を洗いだした。 その間、娘はケラケラと笑っている。北八は、不思議に思いながらも 「おい、あねさん、どうして笑ってるんだ。 しかも、こんなところに一人で居るなんて無用心だ。」 と、あたりを見回したが、運のいいことに誰も居ない。 北八は、腰をかけて、煙草をすい付けると、 「へへ、気味が悪い笑い声だ。何を見て笑ってるんだ。 おい、何を笑うんだと聞いてるんだ。」 と、娘の手を取って引っ張るが、振り切るわけでもなく、やはりただ笑っている。 北八は、こいつは有りがたい。もうしめたものだとぐっとひきよせる。 いつのまにやら、近くに子供がやってきて、これを見つけて、 「わあい、わあい。あの人は、頭のおかしな女を抱いている。ハハハ。」 と、大声をあげて笑いながら駆け出していった。
北八はびっくりして、逃げ出そうとしたが、娘はつかんでいる手を離さない。 「これは男。私の男。放さん。放さん。」 北八は、 「これは、困った。」 と、無理矢理に引き離そうとしているところに、この娘の親父たちが帰ってきた。 「こりゃ、貴様は、何をしている。若い女子を捕まえて、何をしようというんじゃ。」 北八は、しどろもどろで言い訳をする。 「いや、何にもしません。」 「何にもしないといいながら、どうして、女一人の部屋へ入っているんじゃ。 こりゃ承知できない。」 「いやなに、つい今しがた用たしにいって、水をもらったらこうなって。」 親父は、 「いいや、あれは、頭がおかしくなってござる。貴様は、それを幸いになぐさみものにするつもりだろう。うん、それに違いない。」 「なに、とんだことをいうんだ。」 「いやただでは、すまさん。それとあなどって、もうとっくに貴様がやってしまったに違いない。このぶんではすまさんぞ。」 と、わめきちらかし大さわぎをしだした。
弥次郎兵衛は表の茶屋で待っていたのだが、北八が便所に行って帰ってこないので、どれどれと見に来て陰からこの様子を見ていた。 おかしくてこらえられなかったが、もう出かけてやろうとゆっくり出てくると、 「すいません。私は、この男のつれのものだが、すべて聞きました。 こいつめもあのように見へても、実は、ちょっと、気がふれています。 勘弁してやってください。」 と、親父にいうと、北八に向かって、 「ええ、この野郎め。よく世話をやかせる。ほれ、あの顔を見てください。 きょろきょろする顔がまるで、ちょうちんみたいだ。」 と、困った顔で親父に話しかける。 「でも、まだ、娘なら女だけましだ。この男には、ほとほと困ります。」 親父は、半信半疑で、 「いやいや、そうは見えない。あれで、気がふれているものか。」 「いいや、よく見てください。あの顔つき。ありゃありゃ、あのとおりだ。」 と、弥次郎兵衛は、肩をすくめる。
「なんだ、俺がきちがいだと。なるほど、こりゃおもしろい。」 北八は、一人納得すると、 「ふるは~、ふるは~。 あれあれ、花のふぶきがちりやたらり、うんきんたらり~、かんきんたらり~、ちりかかるようで、おとなしく寝たられん。 と、やあ、そこにおるは女房殿か。いや、よい女房じゃ。こりやのほいほいい。さんなあろかいな、やんやあ。」
弥次郎兵衛は、 「ほれ、始まった。あのとおりだ。そこくせ、あのつらで色気違でしてな。 それだから女と見ると、よだれをたらさんばかりにでれでれして、恥を言うことになるが話さないとならんだろう。 実はこいつは私の弟で、いやもう、こんな因果なことはござりません。」 と、ぐったりと首を下げる。 親父は、首をかしげながらも、 「はあ、お前さんが、そう言われると、私も悲しい。 ご覧の通り、たった一人の娘が、この通りで、私は、おおいに苦悩しております。」 弥次郎兵衛は、 「お察しいたします。ええ、この馬鹿やろうめ何をげらげら笑うのだ。」 と、北八を捕まえると、 「それでは、親父さん。お騒がせいたしました。」 と、出て行こうとする。 親父は、 「まあ、茶でも飲んでいってください。」 と、引きとめようとする。しかし、弥次郎兵衛は、 「いやもう、行きましょう。さあ、このバカ野郎め。早く行け。」 と、めちゃくちゃに事を治めてしまった。
弥次郎兵衛は北八をつれて、ここを逃れるように出ると、二人は顔を見合わせて大笑いとなり、
くどきたる 娘はほんに 気がちがい こりゃ間違いと なりし目ちがい
などと、言いながら、歩いて行く。 そのうち、弥次郎兵衛が、 「おい、北八。それにしても、お前は、とんでもないやつだ。 気のちがった娘を捕らえてどうしようと思ってたんだ。恥さらしなことだ。」 「へへ、めんぼく次第もねえ。」 と、頭をかきながら、 「しかし、俺を頭がふれたことにするちは、弥次さん、ありゃお前一生の出来だ。」
弥次郎兵衛は、 「そう思うか。それなら酒でも買え。それよりも、面白い話を思いついた。」 と、いう。 「ほう、どんな話だ。」 「うん、ちょうどお前のような気まぐれものが、気のふれた女を捕らえて、ちょっかいをかけるとその女の親父がそれを見つけ、腹をたてて、 『やい、この野郎め。人の家に黙って入り込みやがって、娘を騙そうとしてもそりゃあっかんべえだ。』 といったんだ。 「・・・」 「すると、お前も、負けん気で、 『何を言いやがる』 と、くちばしをとんがらかして、 『お前こそ、四つ谷鳶の様だ』 と、ちゃかしたんだ。」 「・・・」 「そしたら、さっきの親父が、 『俺が、よつやとんびなら、貴様は、八幡様の鳩だ』 という。 『なんだと。どうして俺が、八幡の鳩なんだ』 と北八が言うと、親父が、 『貴様は、気の違った豆を食おうと、したじゃあねえか』と、ハハハ。」 「なんだ、卑猥なことをいいやがる。ハハハ。」 と、笑いながら、歩いていく。
つづく。
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iseilio-blog · 1 year
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美男子 的  頭
美男子 的  頭
赤江 瀑
德間文庫 1991年 2月 15日
「 真的這麼說嗎 ?」
能村 看著中年的刑警,幫他倒著茶。
「 謝謝、謝謝 !」
「 真嚇了一跳。這麼說來,怎麼,我也被殺了嗎 ?」
「 似乎是這樣。本人是這麼說。」
能村 在飲食店的街道開一個小酒屋已經二十三年。
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人生浮浮沉沉,開這個店客人有時吵架,殺人這可是第一遭。
「 你的客人,松谷孝一 認識嗎 ?」
忽然受到刑警的查問,能村在一開始表情顯得詫異。刑警給他看了
照片。
「 啊,是 立田醬 的朋友。」
兩個人都長得很高。刑警告訴他 松谷孝一 殺了人。
「 什麼 ?」
「 四月二十五日他的公司發薪水,他和同事 立田英介 一起帶了剛進
公司的女同事一起來吃飯,記得之後又去卡拉OK,玩得很高興。」
「 松谷 之後又來了幾次?」
「 兩三次吧。有一次四個人進來,小店差不多就滿了。」
「 野瀨 這個客人知道嗎 ?」
能村 猜測著刑警這突來的問題。
「 嗯,是熟客。他怎麼了 ?」
「 說起來可能很妙吧;松谷有很重要的事情。那一天如果沒有再
一個人進來,他就不會殺人了。」
「 蛤,你說什麼 ?」
「 他殺了其中的一個人。被殺的就是 野瀨修造。」
「 不會吧。」
「 野瀨 的家與工作地點,因為常常在店裡碰到,聽說 松谷 很快就
知道了。結果因為爭風吃醋 . . . . . ,」
「 就殺了 ?」
「 前天 野瀨 在回家的路上,胸部與腹部被殺了兩刀。」
能造 傻掉了。
「 能造,你是撿到一條命了。」
「 那一天因為店老板的建議讓我不得不離開 A子 座位的旁邊 ;那
小子就是元凶。還有,還有那個 立田,那個長得很帥的 立田,我
也恨。」
恨、恨、恨、恨 ;松谷 握緊了拳頭打著自己的膝蓋。
「 每天作夢帥哥的頭被從根折斷。」
初冬的陽光從高窗照了下來,狹窄的酒場,刑警在那陽光之中,靜默
的喝著茶。
野瀨修造 的葬儀那天,能村 充滿感慨的拜訪了 野瀨 的家。對碰上
莫名其妙的��禍而逝去的 野瀨,能村 有著奇妙的罪惡感,似乎無法
抬頭去看佛壇上的遺影。
松谷孝一 說元凶是 能村 的聲音一直無法離開耳際。
到了年底的一天,能村 又拜訪了 野瀨 的家,獨生女的 郁子 請他進了
屋子。
「 有點擔心妳來看妳一下。你有不錯的工作,總有一天會找到好的
夫婿 . . . . . 。現在、一個人住會不會不方便一些 ?」
「 很感謝,讓大家擔心;沒問題的。有個表姊和我住在一起。」
「 哦,那就太好了。」
能村 給 郁子 打打氣,也談了一些 修造 的往日種種。在告辭出門的
時候,無意間看到了屋子角落的那個擺飾。由於有花瓶與其它擺飾的
關係,並不容易看到。
「 啊,那是人偶的頭嗎 ?」
「 還沒整理;葬儀之後,把這些擺飾、道具類的東西通通堆到那邊
了。」
「 應該是“文樂”的頭吧 ?」
「偶戲奇遇記-日本文樂人形與台灣三昧堂布袋戲」(2019/5/2) - YouTube
「 是啊,你真內行。」
「 能借我看一下嗎 ?」
郁子 將那人偶的頭拿到 能村 面前。
已經有點灰黑的白臉,上面白粉掉落而稍微龜裂,原本應該是黑亮的
頭髮也失去了油氣。很清楚是個有著艷色的臉孔。是 文樂人偶 的頭
沒有錯。
頭,是人偶生命的源頭。
操偶師 必需注視著頭,讓自己的身體帶入人偶的根性。反過來說,
操偶師 的手如果是放在自己的身上,頭的精氣馬上失去光彩。
是那一個 頭雕刻師,那一個操偶師,一向又是如何注入生命的呢。
這個頭一定也曾經有過充滿血潮的時代、忽然 能村 沒道理的想到。
「 是個老東西吧 ?」
「 不太清楚。聽說祖父相當寶貴著。」
「 只有這個頭嗎 ?」
「 是。聽說父親出生之後,一直就裝飾在屋裡。說是祖父的長男、
我父親的哥哥,也就是我的伯父。是依照他年幼時候的臉的寫生
雕刻。」
「 喔 」
「 原本,在我父親出生之前他就已經死了。相當、是祖父很難忘懷的
男孩子吧。曾聽父親說過祖父瞇著眼,對著那個頭說話。」
「 哦 」
「 所以平常是收在佛壇下面的櫃子。葬儀時拿出來,一忙就忘了,
被祖父、伯父罵了一頓。」
「 很舊了。想說整理、修理一下。向父親說父親說不用。小時候,
祖父誰也不讓碰它。朽了,壞了,也沒關係,自行消滅了也就算了。
會還給祖父吧。」
「」「」「」
是 三宅周太郎 所箸的 〈文樂的研究〉。關於火災事件的部份確實是
如此記載 :
⋯⋯ 大正十五年十一月二十九日的早上,御靈神社 內的 文樂座 燒掉
了。而且就只是如此的一把惡火啊。燒掉了很多可以稱做國寶,風雅
優美的古人偶。當然,那些頭,都是就算重做,以今日的任何方法都
不可能再做得出來的名品。
著者在這本書裡面關於人偶的頭的部份,也具體的列出了這些名品的
名字。這裡面確實有一件就是【源太】
⋯⋯(略)大正十五年八月東京歌舞伎座的「河㽵」裡面,榮三氏
使用的就是 “治兵衛”。源太中的逸品燒掉了,現在只能用二流品
應付著使用。
能村 的父親在火災當時的確是在 文樂座,經常習慣的看到一級品的
頭。可是現在再怎麼向老父說明,總就是搖頭。
這就是 御靈先生 的〈源太〉沒錯。這是在年近九十歲老人的眼裡甦醒
的幻覺嗎 ?
人偶的頭什麼也不說。
能村 在街上碰到 郁子 是剛進入初夏的有一天。
郁子 與表姊剛從水果店走出來。
「 是家父很喜歡的櫻桃。」
郁子 提著小籃子的櫻桃笑著說。
「 都安定下來了嗎 ?」
「 托福;總算是能夠好好的度日了。」
那就太好了。
兩人站著說了一會兒話,要告別的時候,能村說,等清明節的時候去
拜訪。
「 謝謝。」
郁子 說著,
「 啊,對了。」
「 那個人偶的頭,想說把他一起放入祖父的墳墓。祖父、父親都不在
了,放在家裡也都沒有人,怪寂寞的。應該讓他們父子、兄弟團聚在
一起。」
能村聽到這話呼吸不免停一下。
「 伯父的是在大阪的墓園,祖父、父親的也是。」
「 大阪 . . . . .,」
「 啊,沒有說過嗎。祖父是大阪人,我們在祖父的時代就移居到
這裡,而伯父是在大阪的時候就已經逝世了。所以進金是在祖父先祖
的墓園。」
「 原來如此。」
「 孩提時代就早逝的伯父在那邊,總覺得可憐。將伯父的臉寫生的
雕刻。祖父把那個人偶當成自己的大兒子疼惜著。現在把他們放在
一起,一家團員應該會很高興。」
郁子 禮貌的點了頭離去,能村 在街上又站了一會兒 ;
( 大阪 . . . . .)、
忽然在初夏的陽光中,出現了一團火的迷幻。
那是為火燄燃燒著的 御靈神社 的 文樂座。
郁子的聲音又復甦了過來。
御靈先生 的〈源太〉;與老父的面孔重疊著。
能村 閉著眼睛。
這怎麼可能 . . . .
然而,透過了視界中的火燄,從燃燒中的箱子盜出一個頭的男子身影
劃過了腦際,如同幻影一般閃過了眼前。
能村 愰了一下頭。 幻影沒有消失
110-1踏溯台南路線介紹影片《大路線》西拉雅族人的遷徙與定著 - YouTube
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