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#片岡義男
anamon-book · 3 months
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ドライ・マティーニが口をきく 片岡義男 角川文庫 カバーデザイン=成瀬始子、カバー写真=中道順詩
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findareading · 11 months
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線路の高架下を歩いて北側へと出ていき、瀬川は古書店に向かった。商店街を数分歩いて脇道に入り、その古書店で彼は一時間近くを過ごした。三冊の本を買い、インナーバッグに入れた。軽かったインナーバッグに三冊の本の重さが加わると、右手に感じるその重さは瀬川の頭のなかにある回路をたどり、ここで珈琲だな、という回答を引き出した。だから彼はカフェに入り、買ったばかりの三冊の本を相手に、一時間を過ごした。
片岡義男著「鯛焼きの出前いたします」(『豆大福と珈琲』2019年5月Kindle版、朝日文庫)
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straycatboogie · 2 years
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2022/10/18
今日は休みだった。朝、イオンで片岡義男『日本語で生きるとは』を読む。ふと、ここで書かれている日本人論を読みながら、自分自身のことを考えてしまった。私は日本語と英語を話す人間だが、日本人らしさから自由になれたと考えたことは一度もない。流行りの言葉を使えば「純ジャパ」の人間であり、サザンオールスターズの音楽に懐かしさを感じる人間でもある。ならば、そんな人間が片岡義男の日本人批判を読む時はどこに立場を置けばいいのか考えてしまう。私はいったい何のつもりで英語を学び、日本人らしさから少しだけ離れた立場を目指そうとしているのだろう。
中島義道の本で知ったのだけれど、ル・クレジオが「たまたま地上にぼくは生まれた」と記しているらしい。この「たまたま」というところがミソなのだろうな、と思う。私も何だかよくわからないが、途方もなく金持ちでもなければ貧乏というわけでもない田舎の中産階級の家で生まれた(『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のオープニングみたいだ)。私の生まれ育った条件はその意味で私にも選べなかったわけだ。だが、その生育の不条理から目をそらして(あるいは意識することもなく)私は生きられている。これもまた面白いことだ。
図書館に行き、鶴見俊輔の本を借りる。その後ジョブコーチのことでメールを書く。地元のミニコミ誌に載せてもらえるかもしれない文章を書く。小さな文章だが、私が今に至るまで生きてきたその過程を少し振り返る作業となった。今から10年ほど前、にっちもさっちもいかなくなって結果的に働けなくなり、実家でくすぶっていた時に車谷長吉の本を読んだこと。あの頃の読書もまた今の自分を作っている。あの頃から比べれば今は仲間がいる。そして、支えとなる仕事にも私生活にもありがたみを感じられている。それが幸せだと思う。
夜、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』を少し読む。ウィトゲンシュタインの書いたものにまた感心が戻っている。私自身は哲学に一生を捧げられるタマではない、とも思う。もっと世俗的な成功や快楽に幸せを感じてしまうし、考えを純粋に極めるということもできないからだ。『ラスト・ライティングス』を読��返すのは久しぶりだったのだけれど、ここで展開される自問自答に(そして、その自問の過程をまざまざと書き付ける彼の執念に)息を呑む。やはり自分は彼から影響を受け続けているな、と思った。
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misasmemorandum · 9 months
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『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』 片岡義男 X 鴻巣友季子
題名の通り、英語から日本語への翻訳について二人で語らうもの。サラリと読んだだけだが、翻訳業について勉強になった。個人が己の楽しみのためにだけ読むのではなく、文章で描かれてはい��いが読み取れる作品の世界を翻訳の文章や単語使いで多数の読者たちに伝達するものなんだ。だから古語を使ったり、ちょっとまどろっこしい言い回しにしたりするんだ。翻訳者が選んだ表現法が合わなければその翻訳者の本を読まなければいいだけだろう。しかし、外国の作品は原語で読めないものの方が多いし、原語で読めるものも日本語で読むより時間がかかるから、やっぱ翻訳本を読むしかない。複雑だ、、、。
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ishiiruka0421 · 1 year
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ishiduca · 1 year
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片岡さんの口から「申し訳ありません」という言葉を聞いたのはこれが初めてだった。考えてみれば、申し訳ないようなことをされた覚えがただの一回もないのだから当然のことなのだが、そのひと言がおれをかなり動揺させた。片岡さんに「申し訳ありません」と言わせてしまったことが、とてつもなく申し訳ないことのように感じたのだ。 そしておれは片岡義男になりきって、三千字の原稿を書き、締め切りギリギリに印刷所へ放り込んだ。三千字は一本のエッセイのなかでちょうど中間部分にあたる部分だった。 「おれはいま片岡義男なのだ。片岡さんならこういうことを書くに違いない。『全体』は『ぜんたい』とひらかなくてはいけない。『なんなのか』ではなく『なになのか』でなくてはいけない」 と、自分に言い聞かせながらパソコンのキーを叩いていった。
https://suigyu.com/noyouni/%e7%af%a0%e5%8e%9f%e6%81%92%e6%9c%a8/%e5%83%95%e3%81%af%e7%8f%88%e7%90%b2.html
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ks-republic · 2 years
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台風一過? 今日の我が家は、大規模お片付け中! 紬はお休み… 奥の方から現れたのは雑誌と埃の山そして読んだのか読んでいないのか?忘れ去られた本たち。 さて、どこに移動するかなぁ?? #free&easy #片岡義男 #村上龍 #世田谷ベース #いぬ #いぬのいる暮らし #いぬのいる生活 #いぬとの暮らし #いぬばか #犬 #犬のいる暮らし #犬バカ #犬ばか  #犬のいる生活 #犬服 #犬グッズ #犬との暮らし #犬すき #犬好き #jackrussellmix #ミックス犬 #いぬ好き #ジャックプー #ジャップー #プージャック #ジャッカプー #jackpoo #jackapoo #トイプードルミックス #ジャックラッセルテリアミックス https://www.instagram.com/p/ChOb1eJLt2J/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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respectjaco · 4 months
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寒い日の過ごし方
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今年はいつまでも暑い日が 続いてきたが、 11月を過ぎた頃からは さすがに冷え込んできた。 ようやく外をジョギングできる。 週末の午後、いつもの公園に行き、 腹の脂肪を燃焼すべく走り始める。 銀杏の大木は今だに 艶やかな黄々しさを魅せていたが、 紅葉はもう落葉に変わりつつあり 冬の気配を感じさせていた。 冷たい筈の北風も熱く火照った身体を 程よく冷やしてくれるので 寒さよりも心地良さを感じる。 だから今の時期は外の方が ジムで走るよりも長く走れる。 夕方の4時から5時にかけては 陽の落ち方が尋常でなく早い。 僅か1時間の間で昼から夜へと 空の色が藍色に変わっていく。 夕闇の中で頬を撫でる風だけが ずっと変わらず気持ちいい。 そうは言っても 足元も見えないくらい暗くなったので さすがに家路についた。
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私の家は慢性的に散らかっている。
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とにかく買ってから 読んでない文庫本が沢山有って 幾つもの山を形成しているのだ。 腹が出てくるまでは読書と音楽鑑賞が 私にとっての至上の趣味だったが、 しばらく興味が遠ざかっていた。 それを少しずつでも片付けたいので 最近は家に居る時、 意識して本を読むようにしている。 今は片岡義男のエッセイ集 『すでに遙か彼方』を読んでいる。 だいぶ前に古本屋で見つけた 昭和60年の初版本だ。 雪印のアイス『リーベンデール』の 広告のしおりが時代を感じさせる。 すっかり陽に焼けて薄っすらと 茶色くなった頁をめくると私は 不甲斐無い今の時間を抜け出して、 まだ将来を見据えて 上を向いて生きていた 若かりし頃の時代に 逃避行をしてい��。
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【蛇足】 2023年は13篇の乱筆を 描くことができた。 期せずして乱筆活動復活の年になった。 その理由はTwitterがバカCEOのせいで 実名登録制になるかもしれない という報道を観て、 昨年末にMastodonの垢を作って そのまま放置していたのだが、 使わないのは勿体無いと思って 乱筆の元ネタになりそうな さらに短い乱筆を そこに書き残すようにしていたのだ。 そしたら執筆活動が 久々に楽しくなってしまった。 報われない人生だがこんな感じで まあまあ楽しく生きていられるのを 先ずは良しとしよう。 それでは皆さんも良い年を!w
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rabbitboy · 3 months
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ヴィレヴァンは、よく「サブカル」の聖地だといわれる。歴史的にいえば、メインカルチャーに対する傍流として「サブ」カルチャーといわれることが多く、ヴィレヴァンの創業者である菊地敬一も、ヴィレヴァンの創業にあたって「B級である矜持を持とう」というメモを書いていた。A級ではない、傍流としての「B級」を目指す姿勢がよく現れている。 ヴィレッジヴァンガードに迫った永江朗『菊地君の本屋』には、このような「B級」であるために客を満足させる定番商品リストが書いてある。ウィリアム・バロウズの著作集や片岡義男の本、ジャズに関連する本などがそこには書かれてある。ある程度、どのような顧客に向けて商品を揃えるのかというターゲティングが明確であったともいえる。 しかし、時代が流れ、SNSを通じて人々の好みが多様化した現在、もはや「メイン」や「A級」という考え方自体が、ほぼ消滅してしまった。 それと同時に「サブカル」なるものも、90年代ぐらいまで、カルチャーのメインを作っていたのは、マスメディアだったが、ネットの発達以降、マスメディアの影響力も相対的に低下し、そもそも「サブカル」なる言葉の輪郭が曖昧になってしまった。
ヴィレヴァンが知らぬ間にマズいことになってた 「遊べる本屋」はなぜ魅力を失ってしまったのか | 街・住まい | 東洋経済オンライン
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renachtara0313-blog · 4 months
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2024年の抱負(やりたいこと)
既に新年始まって9日なので今更感はある。…が、ネットで文字を書いて形に残すと自分に言い聞かせる効果があると実感している。だからまとめることにした。
転職活動は続ける。後1社くらいは内定取ってみたい。蹴るかもしれないけど。
→自分の人生で勝つ経験が欲しい。社内政治のプロになることは自分の満足とはズレている。現職という狭い箱の中で認められること、それで自分は満足か?と自問自答してしまう。30代は挑戦ができる最初の機会だし、もしかすると最後の機会かもしれない。その機会を何もやらずにドブに捨てたりせず、「私、ちゃんと生きていたな」と振り返って納得できるような経験をしたい。だから、転職活動を続けることにした。既に書類選考で1社落ちているので、このままでは終われないといった気持ちが大きい事もあるけど。1−3月にやって、ここまでで決着つかなければ現職の都合上、次にトライできるのは8月中旬からだ。向こう3ヶ月一旦頑張って、後は3ヶ月の状況を振り返った上で決めたい。
真面目に勉強する。候補は簿記、プログラミング、ドイツ語と中国語。
→現職で成果出せていることを言い訳に、ダラダラと7年(今年で8年)会社で過ごし続けていた気がする。成果が出ているように見えても、後輩がつかずマネジメント経験はないし、部署異動すら経験していないので実務経験が本当に広がったのかと言えば謎だった。書類選考で落ちた会社は会計や経理関連の経歴/スペックが欲しかったらしい。
なので、いい加減簿記の勉強を真面目に続けようと思う。会社で経験できなければ、自分でさっさと身に着けなければ。
加えて、プログラミングは自分の興味分野だが、興味で終わるばかりでは意味がない。自分も会社で必要な簡単そうな効率化システムとか内製化/デザインできるようにならないと、他人と差がつかない気がする。調べたところ、Paizaなどお手軽にプログラミングの学習素材を提供しているページをいくつか確認できた。何でもいいから手を付けようと思う。自分の現職と関わりが深いものはHTML/CSS(ホームページ担当、大体業者に委託しているが)、うまく活かせば製造現場に役に立ちそうなものはPython、一番とっつきやすいのはJavaらしいと聞いている。この辺りを少しずつ触っていこうかと思う。
最後に語学。ドイツ語は高校で専攻だったけど高校時代はうつ状態?ともかくメンタル不良との戦いだったので、断片的くらいにしか残っていないと思う。その不完全さを、成人になった今だとしても、一生かけて埋めていかないとなと思う。(そうでもしないと、昔の自分の日々がトラウマとして延々と襲いかかってくる気がする)一方で中国語、特に台湾華語を学びたい気持ちが強い。台湾に詳しい人の話を聞くと、他の国以上に治安・国内の人々の性格面で住みやすい環境であるらしい。台湾の人と社会的に関わっていける力を持てば、生きる場所といった選択肢を広げられるのではと思う。ドイツ語に比べて単純に学べる機会は幅広いと思うので、ここは自分に頑張って鞭を打ちたいところ。
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(台湾観光をまともにできなかったという悔しさもある(家族全員体調崩し+思った以上に英語も日本語も通じない+乗り継ぎ待機時間が非常に微妙だった+夏は厳しい、逆に年末年始休暇の際は台湾一周が候補になる可能性あり)。中国語学習のモチベを復活させるには、このことを思い出さんとな。)
見出しに書いていなかったが、そろそろ運転免許も真摯に取得を考えないと親がキツそうである。後は、公共交通機関インフラが脆弱(申し訳ない言い方だが)な地域に住んでいる友達には、自分が車を運転して会いに行けるといいな、という将来の野望もあるので…。
趣味を増やす
→流石に「上手に生きること」を考えると、やはりアニメとゲーム好きのままでは趣味活動が厳しい。アニメとゲームを消費するための脳は、上手く生きることに繋がってこない。自分でも悲しいし心にぽっかりと穴が空いた気持ちになるが、ポケモンと刀剣乱舞も満足に追えないかもしれない。どちらも日本各地に根ざした取り組みが活発なので、旅行のついでに追いかけることは引き続き問題ない。が、今後ゲームをどれだけ消化できるかは不透明だ。刀剣乱舞はちょうど良く昨年に一番好きな刀剣男士がレベルMAXになっている。ポケモンだけが悲しいことになってしまった…がしょうがないんだ…。
旅行はお金も時間も飛んでいくが、両親も私も好きだし他の人との雑談のネタになるので何やかんや続けていくだろう。それ以外に何をするかだ。いろんな本を読むという読書趣味はあるが、それ以外にも欲しい。料理は必須になった時に、ライフであり趣味と同化してきそうな気がする。(既に最近、声優の木村良平さんの料理放送や、ゆるキャン△の外飯レシピをじっくり見てはいるが…)なので他のもので探してみた。
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(京都 東寺の川を泳ぐ野鳥)
野鳥観察。観るだけなら旅行しながらでもできるか。というか名古屋市だと、たくさんの鳥を見るためには港付近の小さな干潟公園に行くしかないような…これまでに撮ったことのある鳥さんをスケッチで描き起こしてみることも、一興ではあるかと思う。
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(相当どうでもいいが、最近は地図を自分で手描きすることが何となく楽しかったりする)
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(静岡 島田のふじのくに茶の都ミュージアム)
茶道。持ち家ではないし、そもそもの人脈上誰かを誘うこともないか…。教室に行ってじっくり学ぶ必要があり、お茶会を開けそうな環境(小道具や服装含め)がないとキツそう。ただし、茶道の知識があると、江戸時代の大名さんが持っていた茶道具の価値や、博物館の展示物コレクションへの理解が深まる。教養として学ぶことに意義があると感じた。
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(埼玉 鉄道博物館で眺めた新幹線「とき」)
東京に何度か行き来すると、鉄道/電車に愛着が湧く。しかし、鉄道も動かす仕組みや歴史を学ぶこと以外だと、基本乗り鉄マニアとして旅行の延長線になりそう。いつか青春18切符で名古屋からできる範囲で効果的に旅をする、といった目標なら考えられるか。
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(埼玉 大宮盆栽美術館。木の幹が龍の形に整えられた、最も私の印象に残った五葉松)
盆栽はとても良い趣味だとフィーリングで思ったが、調べてみた結果、植物を育てることも愛玩動物の世話をすることと同じレベルの手間や丁寧さ、こまめさが必要と分かってしまった。関心事が変わりやすかったり、ふらふら遠出したくなる自分には向かなそうである。ただ、茶道と同じく、知識を身につけることで見れるものが多くなると感じた。何気なさそうな造形から、手入れした人のイメージした世界観や風景を想像する楽しみがある点は、日本刀の観賞に似ている気がする。後植物に愛着が湧く。
ま、まああまり変わらないな。ドローン操縦も気になるが、ライセンスも必要になりそうだし、関係法令をきちんと学ぶハードルもある。何よりどんな教室に通えば学べるのだろう…。
最後の候補は藤井聡太さんで話題になっている、将棋を覚えてみるか....(?!)。
旅行経験や何かしら思い出のある県に関する、話題をまとめたブログ記事(※Wordpress)を書く
→日本国内だと47都道府県の話になるが、実際は日本以外の国も含めて記事化することを想定している。
きっかけは、スマホの旅行写真をなかなか破棄できずに困っていること。また、外付けHDDを既に所持しているは良いものの、HDDにバックアップしたところできっとその存在を忘れるだろうと思っているから。忘れないようにするためには、自分が作ったネットの媒体に写真とテキストを残すことが一番かと思う。手間もあっての記憶だろうか。加えて、プログラミングは自分で触って形にしないと身につかないだろう。HTML/CSS知識習得の手段としても、Wordpressは何とか記事作成と運営を続けるべきだ。地域の思い出に関するネタなら、無難な話を書くことができるだろう。読書感想文を投稿しても良いだろうけど。
ぐだぐだ述べてしまった。これ以外にも増えるし変更するかもしれない。いずれにせよ、自分を出し惜しみせず、後悔のない1年を過ごせるようにしよう。
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myonbl · 4 months
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2024年1月6日(土)
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<初春文楽公演>、今年も最初の土曜日にやって来た。演目以前に体力の問題から午後の第二部のみの観劇としていることは既に述べたこと。文楽劇場の入口には大きな門松が、中に入ると舞台上に大きなにらみ鯛が設えられている。正月早々地震・津波・航空機事故と暗いニュースで始まったが、今日ばかりはゆっくりと初春気分を味わうことにしよう。
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6時15分起床。
洗濯機を回す。
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このところ、蕎麦には三ツ葉をトッピング、正月用にたくさん買ったので早く消費せねば。
ツレアイは3男とココに点滴。
私は正月食材の整理、夕飯用に八頭を煮る。
午後は出かけるのでツレアイはあれこれ買物に走る。
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ランチはカップヌードルで簡単に済ませる。
いつものように、七条御前通りから京阪京都交通のバスに乗って阪急桂駅、天下茶屋行きの準急に乗って日本橋駅、階段を上がればすぐに文楽劇場だ。
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入口を入ると、例年通り見事なにらみ鯛が飾られている。
座席は今回も最前列、字幕は見づらいが何と言っても前が空いているので舞台が見やすい。
第2部 午後2時30分開演 伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)  竹の間の段  御殿の段  政岡忠義の段  床下の段
竹の間の段は芳穂/錦糸、御殿の段は千歳/富助、政岡忠義の段は呂勢/清治、床下の段は小住/燕二郎。太夫はみな安定した出来映え、とくに呂勢太夫の表現力が出色。
人形は和生の政岡はもちろんのこと、玉志の八汐、勘彌の沖の井の3人がそれぞれキャラが明確ですぐに舞台に引き込まれる。
14時30分開演、16時55分終演という、今の私の体力には丁度良い時間。スムーズに電車も乗り継いで桂駅で下車、いつも通り揚げ物を購入して帰宅。
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早速4人で食事、同居猫・ココは朝の点滴が効いてずいぶんと元気を回復している。
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録画番組視聴、落語研究会から「商売根問」五街道雲助、「穴どり」柳亭市馬を楽しむ。商売根問を東京の噺家が演じるのは知らなかったが、さすがは国宝、軽くサラッと楽しませてくれる。
片付け、入浴のはずが早々にダウン、布団に吸い込まれる。
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移動のみだが、辛うじて3つのリングは完成、水分は1,360mlと少ないが電車なので仕方ない。
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anamon-book · 2 years
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ボビーに首ったけ 片岡義男 角川文庫 カバーイラスト=吉田秋生 ・山川晃
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findareading · 1 year
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現実の僕がいると同時に、『酔いざめの三軒茶屋』という短編を考えている僕がいる。その僕は、考えている段階からすでに、書き手としてその短編のなかにいる。僕が持っている時間は、ここまでで早くも三重になっている、と言っていい。後日、下書きのさらに下書きのようなメモに、すべてをまとめていく僕がいるし、書いていくときの自分もいる。時間は五重だが、これだけ重なると、僕はいつだってひとつだけです、と言いたくなる。書き終えて活字になるまで、わずかな空白がある。そして活字になれば、読む人それぞれの時間となる。
片岡義男著「午後のコーヒーから生まれた短編小説について反省する」(『珈琲が呼ぶ』2018年11月Kindle版、ボイジャー)
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straycatboogie · 2 years
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2022/08/27
BGM: YMO "BEHIND THE MASK"
塵も積もれば山となると言うが、実は私は時折見た夢を記録することを試みていて、それが少し溜まってきた。俗に他人の夢語りは退屈と言うが、忘れ去ってしまうのももったいないと思ったので書き始めたのだった(友だちの夢語りに触発された、というのもある)。もちろん自分では自分の夢語りが面白いかどうかわからないので皆さんの判断を仰ぐしかない。こういう川上弘美的なシュールな掌編を書いてみたいとも思っていたので、もちろん私は自在に夢をコントロールする能力など持っていないけれど、結果的にラッキーなのかもしれないなと思っている。
今日は休みだった。朝、「朝活」の一環でイオンに行く。そこで本を読もうとするが頭が働かない。焦りが芽生えてくるが、もちろん自分ではどうしようもない。仕事でも何でもそうだが、日本人がお米を炊く時の「始めちょろちょろ中ぱっぱ」の精神で少しずつ手探りで調子をつかむことを試みる。そうしているとどこかで調子をつかめてきて、次第に波に乗れるようになる。最近はインプットが多いので自分から積極的に「学び」をアウトプットすることが必要なのかもしれない。こうしてFacebookを使うのもひとつの手ではあるだろう。LINEで友だちに伝えるのもいいのかもしれないが、なかなか私の書いたことに返事が来ないこともある。もちろんそんなことは日常茶飯事なのだけれど。
とまあエラそうに書いておきながら、結局午前中は手応えもなく終わってしまったのでご飯を食べたあと昼寝をして、昼に片岡義男『彼らを書く』を読んだ。ビートルズとボブ・ディラン、プレスリーについて記したエッセイが並んでおり、もちろん読ませる。片岡義男の書くものからはいつも鋭敏な知性と感性を感じる。自身の中で生じる戸惑いなどの感覚を言葉にして果敢に書き記す。そんなストイックで真面目な姿勢に惹かれる。彼のエッセイ・コレクションも実に面白く、デザインもクールなので古本ででもいいから手に入れたいと思うがどこを探しても見つからないのだった。
夜、坂本龍一『音楽は自由にする』を読む。坂本龍一という人は謎だ。この本は彼が自分自身の半生について語ったものなのだが、知られるように彼は日本を代表するミュージシャン/アーティストでありながら「気負い」がなく、ベルトルッチとの仕事で有名になりながらもガツガツと欲張って生きてきたわけでもないらしい。80年代の波に乗ってYMOの一員として活躍し、その後ソロで数々の名盤を出しながらも、本人の感覚としてはその時その時訪れる波に揉まれながら乗りこなし方を覚えていく内にいつの間にか成功していた、というらしいのだ。そういう人生もあるのだろうが、なかなか真似できる人生ではない。覚悟を以て貫き通さないといけない渋い生き方だ。
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medickalmalpractice · 9 months
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。��答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前��したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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asunoah · 1 year
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​​明日のアー 悪役研究発表公演『本当にあったひどい話 創作集』
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〈公演に関するおしらせ〉
・出演を予定していた柴山美保さんは、体調不良後に新型コロナウィルス感染症の陽性と診断されたため、本公演を降板することになりました。尚、他出演者は柴山さんの陽性確認後、PCR検査を行い全員陰性確認が取れており、現時点でも体調不良などの症状がない為、公演はこれまで通り開催いたします。何卒ご理解いただけましたら幸いです。
・本公演の上演時間は、当初予定していた約50分から約75分に変更となりました。
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少年漫画の悪役が自分の事情を語りはじめました。悪役というものがいなくなりつつあります。物語における男性中心主義的な見方が終わりつつあるのかなと考えましたが、そのとき悪役はどこをうろつくんでしょうか。ちゃんと考えてみたくなりました。ホモ・サピエンスが集団としてまとまれたのは物語の力によるものと聞きます。物語の原初の形態とは「助けてくれ、悪いやつらに仲間を無惨に殺された」そんな「ちょっと聞いてよ」的なひどい話と悪役にあるのではないでしょうか。明日のアーがやることなのでショートコント集のような50分くらいの舞台になりますが、悪役をためつすがめつ見ながら物語の本質を考えます。
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【作・演出】大北栄人
【出演】高木珠里(劇団宝船)、トチアキタイヨウ、よシまるシン、吉田正幸(テニスコート)、柴山美保、古瀬リナオ(劇団あはひ)、和田華子(青年団)、西村由花(青年団)、望月めいり、小出水賢一郎
【会場】SOOO dramatic!
(〒110-0004 東京都台東区下谷1丁目11−15)
・東京メトロ日比谷線「入谷駅」1番・2番出口から徒歩1分
JR山手線「鶯谷駅」南口から徒歩6分、「上野駅」入谷口から徒歩12分
【日程】2022年12月23日(金)〜25日(日) 全6回公演
[公演スケジュール]
12月23日(金)14:00・19:00
12月24日(土)12:00・16:00
12月25日(日)12:00・16:00
※開場は開演の20分前、当日券受付は開演の40分前
※上演時間は約50分。
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【チケット料金(税込)】
前売券 2.800円 当日券 3,300円
【チケット取扱い】
▶︎ローソンチケット https://l-tike.com/asunoah/ 
▶︎LivePocket ​​https://t.livepocket.jp/t/asunoah_akuyaku
[チケット発売日]12月3日(土)10:00〜
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【スタッフ】
舞台監督:トチアキタイヨウ
音響協力:片岡敬
音響操作:張江浩司
照明協力:kiesselbach
制作協力:やまだはなこ
制作:後藤かおり
協力:ローソンチケット、SQUAD、シバイエンジン、スターダストプロモーション、(株)アプレ、レトル、チーズfilm
助成:文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業
主催:明日のアー
問い合わせ:[email protected]
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