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#津軽古民家暮らし
1ma2-fio · 1 year
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キリリと澄んだ空気 水鏡の美しさ ピーンと張った青空の青さ されど過ぎ行くもの 大平さんのことばを 書き留める ただ本を買っても どうせ本棚の肥やしに してしまうので ちゃんと書いて 心に留め置きたいのです 疲労感が強くて 満身創痍 情緒不安定 だっふんだぁ~ おやすみ #日記 エッセイ 日常 #津軽古民家暮らし 田舎暮らし 実家暮らし 猫がいる暮らし #たまには無骨にアウトドアとか #昭和レトロでエモいかもしれない #雑で大雑把でかつ適度に生きている #キレイおしゃれシンプルからは程遠い日常をあえて発信するHSP #読書 絵画 映画 音楽はjazzが好きコーヒー #今日のことばもしくは詩や絵のようなもので語ります #チェアリングでのんびりまったり空を見上げるたまにはお料理も #ハッシュタグは自己紹介のつもりですよろしくお願いします https://www.instagram.com/p/ClBbwxYPfzB/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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lifefind-blog · 3 months
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非被災住宅ー2
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非被災住宅-2
「震度7以上に耐える住宅やビルの設計が重要だ」とテレビで全く言わない理由。それは「牛乳が体に悪い」と言えないことと同じ商業利権密着型の構図です。すでに社会の中にその有害物が多数ばら撒かれ、その下で働く人々が膨大で社会的影響が大きすぎるから
このような本末転倒なバカげたことは、世の中に多種多数存在しています。その情報に特化した本は、チャイナ・スタディー 葬られた「第二のマクガバン報告」以降、出てないのではないかと思います。最新増補版が3月に出るようです。あとで他にないか調べてみます。出てないのなら作る必要があります。
「身体に良いものと悪いもの」、「安心安全なものとそうではないもの」の二つの情報は、健康や命とは異なる基準で判断され、世の中に定着させられています。 車や道路に関してもそうです。命と密接な関係を持つ車の安全性は、日本でだけ棚上げにされて、毎日何十回も「スズキの大決算」という刷り込みが耳に入ってきます。
命を最も重視した設計のボルボのCMは滅多に聞こえません。そのため人気が無いので、中古のボルボはとても安く手に入ります。日本では電気自動車がちっとも売れないので、ボルボの販売店は困っているのではないかと思います。
軽トラに代表される軽自動車は、日本にしかありません。豊田章夫会長は日本中にばら撒かれ普及している軽トラを2030年以降に廃止することなどバカげていると言っています。このことは2重の意味でねじ曲がっています。
国連が、すでに世界中にばら撒かれた牛乳文化を突然禁止にすることに決めたようなものなのです。膨大な雇用が失われます。
だから牛乳文化を守れと言うのもおかしなことなので、2重なのです。
食塩食卓塩という名の精製塩が日本の加工食品のほとんどに使われている事実も全くTVでは言いませんね。
江戸時代には誰も牛乳を飲まず、牛肉も食べていませんでした。塩は天然塩を食べていました。
住宅の現状を見ると、29年前の阪神淡路大震災の頃に、姉歯構造偽装事件が問題になり、その後、耐震構造が少し強化されたと思います。 それでも、震度7やそれ以上の大地震になると壊れてしまうでしょう。 国の建築基準法の数値をそこまで引き上げてしまうと、ほとんどの住宅メーカーが現状で販売している住宅を売ることができなくなって、ダイハツみたいなことになってしまいます。 選択肢が他にあれば、普通の住宅メーカーや、建築基準法を相手にする必要もないのですが、・・・
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鉄筋コンクリートのビルや木造住宅は震度7以上の地震で崩壊しますが
防炎断熱を備えた、鉄骨テント構造の建築があったら、崩壊しないし、炎上もしません。もともとブルーシートで建築を作れば、ブルーシートを被せる必要もありません。燃えない素材にする必要はあります。 鐵骨も揺れはしますが、構造体全体がそのまま揺れるだけなので倒壊しません。頭を打ったり、転んだりはします。押しつぶされることは無い。
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非被災住宅
被災地域を安心安全な状態で継続するためには、同じ規模の災害に耐える住宅の設計が不可欠。これから具体的に考えます。能登半島に残ることを希望する人々が、また今までと同じような家を建てたらまた悲劇が起こります。これは日本中どこでも同じ
Non-disaster housing
In order to ensure that disaster-stricken areas continue to remain safe and secure, it is essential to design housing that can withstand disasters of the same scale. I will now think about it in detail. If people who wish to remain on the Noto Peninsula build the same kind of houses again, another tragedy will occur. This is the same everywhere in Japan
こういう風に感じている賢い人は結構居ると思います。その英知を結集させることができれば、地震国日本にふさわしい、新しい住宅像が出来上がってくると思います。
日本では、平和と安定を願うための特定の集団をつくることができにくくされています。その代わりに、統一教会や創価学会、中抜き利権派閥などの脱法集団が支配しています。そこにも対応が必要であるため、法律の専門家も必要になります。
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検閲だらけの日本のマスコミでは、気の毒な場面だけ報道し、その地区での被災者と被災してない家庭の比率を報じない。無傷だった住宅に関して全く情報がありません。
今後の復興と安全のためには、無傷だった住宅の詳細のほうが重要。見に行くしかない
東日本大震災の津波跡地に無傷で残っていたのは、ヘーベルハウスの住宅。集落じたいが全壊しているので、結局住み続けることはできなかったのだろうと思います。
地域で一人だけ核シェルターを作っても無意味というのと同じ。被災地域を安心安全な状態で継続するためには、同じ規模の災害に耐える住宅の設計が不可欠。
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自分や他人、動物たちを傷つける可能性があるものは、少なくともプラスのメッセージを伝えることを目的とした「作品」には使えないと感じています。どんなに美しいマリア像でも、地震で壊れて落下してきたら凶器になってしまいます。それは、マリア像にはふさわしくないので、あまり大きなものは作らないほうが良いと思います。頭に当たってもたんこぶができる程度の重さならOKです。私が2009年に段ボールの額縁を作ったきっかけはそういうものでした。額縁が落下して誰かを傷つけたら、それは、正しい使い方ではなかったことになります。
同様に、家や壁も、なるべく人にやさしい、軽い素材が良いと思います。
頭の上にコンクリートがある場所で生活していると、いつかは高い確率で死んでしまうことになるでしょう。そのことは、30年前に気づいていました。しばらく忘れていましたが、続きをやる時期になったと思います。
軽くて燃えにくく、雨風と日光に耐え、断熱、蓄熱効果が高いものが良いです。下から1mは、石や土でも構わない。1mより上は、人体より柔らかい素材。そういう家はテント式のものにありそうです。
能登半島で破壊された家がもしテントだったら、人は死ななかったし、自力で作り直すこともできたはずです。
検索したら一つ出てきましたが、硬い素材を上のほうに使用してしまっています。これではダメですが、改良はできるように思います。
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「減塩詐欺」
日本でだけ売られ、ほとんどの加工食品に使用されている食塩という偽名の精製塩。塩が高血圧の原因というときの塩とはミネラル除去の「精製塩」。「天然塩」は摂る方が健康になり、血圧も安定する。「減塩(減ミネラル)」は健康に悪い
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na1129 · 7 months
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きんようび通信No.671📚
2023年10月27日
*映画「月」を観て感じたこと
▲原作を読んでいないのですが、やまゆり園事件で報道された状況を出来るだけ再現した設定だったと思います。地裁段階で裁判が終わった今、犯人が何を考えていたか等たどり着けない事実が多くあります。製作者はもどかしさを感じていたのではないかと考えたりしました
▲すごい衝撃の連続でした。あえて感想を一言で言うとするなら、優生思想・内なる差別に対するストレートな投げかけだったと思います。障害福祉に身を置いて30年以上ですが、初めて障害のある人に接した時のこと・入所施設に勤務していた時に感じていたことなどを思い出しました
▲入所施設がどう描かれるかが観た動機の一つ。セットは一昔前でした。立地等から「閉鎖的/虐待が多い」との報道もありますが、パンフレットでは人権保障の取組みをフォローしていました。きちんと伝わるかは少し心配。根本に安心して暮らせる施設・職員不足の実態があります
▲一人ひとりが問われているのと同時に障害者差別が生み出される根源には、日本の社会保障制度の貧しさをはじめ憲法の保障する諸権利を国民に行き渡らせる国家的努力を怠ってきたことがあります。とりわけ障害者への対応が、不十分なまま放置されてきたことを改めて感じました
▲宮沢りえ・二階堂ふみ等の出演した俳優のみなさん。難しい表現を迫られたと思いますが、胸に突きささる迫真の演技を見せてくれました。出演後のコメントや感想も胸を打つものでした。多くの人に観てもらい話し合うことができたら、社会のあり様を変える一歩になるかも知れません
※映画「月」
※先にフェイスブックに書いた感想を通信の字数に合わせ編集しました。
【今日は何の日📌】
【今週の一句🔖】
酒飲み🍶🍷川柳
 食卓に
広告取り出し
検討中
【今週の歌🎸】
・Ed Sheeran…Blue(Live Acoustic)
来年1月に4年半ぶりに来日するエド・シーラン。ライブ当日は、がっつり仕事でした
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【今週のグルメ情報😋】
・花いち…御堂筋線・地下鉄あびこ駅から251m
職場近くのお店。もともと泉大津にあったお店で、車イスユーザーの方が気軽に入店できるようにといろいろと協力してくれていたところ。近海ものを中心としたメニューが中心で、リーズナブルな設定です。ぜひどうぞ😊
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【追伸🗞️】
明日から3日間、宮古島・沖縄へ出かけます。自衛隊配備・止まらぬ軍事化の動き等に触れて、しっかり考え伝えていこうと思います😍
#きんようび通信 #月 #やまゆり園事件 #優生思想 #内なる差別 
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deisticpaper · 1 year
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蜃気楼の境界 編(五六七)
蜃気楼の境界 編(一二三四)から
「渦とチェリー新聞」寄稿小説
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蜃気楼の境界 編(五)
界縫
 正嘉元年紅葉舞い、青い炎地割れから立ち昇る。音大きく山崩れ水湧き出し、神社仏閣ことごとく倒壊す。鎌倉は中下馬橋の燃える家屋と黒い煙かき分けて家族の手を引きなんとか生き延びた六角義綱という男、後日殺生も構わぬ暮露と成り果て武士を襲えば刀を得、民を襲えば銭を得て、やがて辿り着いた河川で暮露同士語らうわけでもなく集まり暮らす。或る夜、幾度目のことか絶食にふらつき目を血走らせ六角義綱、血に汚れた刀片手に道行く一人の者を殺めようとするが、嗚咽を漏らし立ち竦みそのまま胸からあの日の紅葉のごとき血を流し膝から崩れ落ちる。道行くその者、男に扮した歩き巫女だが手には妖しげな小刀、その去る様を地べたから見届けんとした六角義綱のすぐ背後、甚目寺南大門に後ろを向けて立つ闇霙(あんえい)と名乗る男あり。みぞれ降りだして、人とも呼び難いなりの六角義綱を一瞥し、闇霙、口開かず問いかける、そなたの闇は斯様な俗識さえ飼えぬのか。六角義綱、正嘉地震から甚目寺までの道中で妻を殺され、涙つたい、儂には女は切れん、と息絶える。その一通りを見ていた青年、六角源内、父を殺した女を浅井千代能と突き止めて敵討ちを企てるが、知られていたか検非違使に捕らえられ夷島に流され、以後誰とも交流を持たずに僻地の小屋で巻物を記したという。それから七五九年の時が経ち、二〇一六年、仟燕色馨を内に潜める二重人格の高校生市川忍とその同級生渡邉咲が、慧探偵事務所を相手に朔密教門前また内部にて些細な一悶着あった、その同日晩、奇妙な殺人事件が起こる。場所は百人町四丁目の平素な住宅区域、被害者女性、五藤珊瑚(三〇)の遺言は、残酷な苦を前に千年二千年なんて。戸塚警察署に直ちに捜査本部が設置され、その捜査とは別に警部補の高橋定蔵、市川忍の前に立つ。何故おれなんかに事情徴収を、と忍。事件当日、校門の監視カメラに映っていたきみが何か普段と違うものを見てなかったかと思ってね、若き警部補が爽やかに答え、それで市川忍、脳裏の人格に声を送る、一顛末あった日だ厄介だね。対し仟燕色馨、おそらくこの警部補、謎多き朔密教を疑っている、ならばこの事件あの探偵にも捜査の手が伸びる、ところで気づいているか探偵事務所の探偵に見張られている。
 小料理屋点々とある裏通りの角に螺旋階段へ繋がるアーチ状の古い門を持つ築古スナックビルの入り口で刈り上げマッシュショートにゆるめパーマの少年のような青年がただ立っていると突然背後から強面の男がどこに突っ立っとんじゃと怒鳴ってきたので青年は冴え冴えとした眼差しで振り返り、幻を見てたんじゃないですか、俺はずっとこの位置でスマホを見てました、俺の輪郭と色、背後の風景と俺のいる光景をもっと目に焼きつけてください。男は動転し不愉快な目の前にいる青年を忘れないようじっと食い入って見る。だが、その光景はすでに幻で、スマホを見ていた青年はもういない。走り去っていたのだ。朝のホームルーム直前にその青年、六角凍夏(むすみとうか)が現れ席につく。振り返り、後ろの席の渡邉咲に聞く、きみ、部活入ってるの。隣席美術部員中河原津久見が聞き耳を立てている。渡邉咲は初めて話しかけてきた六角凍夏が先々で勧誘しているのを知っていて、文芸部でしょ、と冷えた目を送ると、文化琳三部だよ、と。咲が琳三って何という顔で惑うと、清山琳三ね、俺らの界隈で知らぬ者はいないよ、とくるが、咲はどこの界隈の話なのと内心いよいよ戸惑う。だが、聞き耳を立てていた中河原津久見はピクシブなどで目にする虚無僧キャラねと気づくが話に加わらない。きみ、机の上の本、和楽器好きでしょ、清山琳三は気鋭の尺八奏者。私、渡邉咲、と口にしながら、尺八ね。放課後、六角凍夏は一人、文芸部部室の小さな教室に入って電気をつけるとドアを閉め、密室と成る。中央辺りの机に、鞄から取り出した古びた筒を置く。目を閉じる。刹那、周囲にぼろぼろの布団が幾枚とどさっと落ちてき動きだす。それは天明四年鳥山石燕刊行妖怪画集「百器徒然袋」に見られる暮露暮露団(ぼろぼろとん)だが現実に現れたわけではなく、六角凍夏の想像力は小さな空間で全能となり百器徒然袋の界隈と接続し、今回ならばそこに記された妖怪があたかも姿を見せたかのような気分になったのだ。密室に、江戸の布団の香りが充満する。ときに、異界からの香りが漂ってくることもある。翌、静かな夜、百人町四丁目にて更なる殺人事件が起こる。被害者は志那成斗美(四〇)遺言は、潔く煮ろうか。魔の香りも、又、此処に。
蜃気楼の境界 編(六)
五鬼
 出入りする者らの残り香も錯綜の果てに幻影さえ浮かべる夜の街。串揚げ並ぶコの字カウンター中程で束感ショートの若い警部補が驚きのあと声を潜め通話を切ると手話で勘定を頼み、さっぱりとした面立ちの探偵仲本慧に目をやり、五鬼事件だがまだ続いていたと輝きの瞳隠せないながらも声を落とし去っていく。百人町四丁目連続殺人事件の犯人佐々木幻弐が第二被害者志那成斗美の最期の正当防衛で刺され意識不明のまま病院で死亡したという話、監視カメラから犯行も明確、第一被害者五藤珊瑚への犯行とも繋がり既に報道もされた直後の第三事件発覚。カウンターに残された探偵仲本慧、ビールを追加し面白い事件だが依頼がきてないから何もできないね、と奥に座る長髪黒はオールバックの男に突然話しかける。その男、串揚げを齧りながらチラと目線を合わせる。慧、ビールを飲み干し、隣に座っていいかなと距離を詰め、そっと名刺を置き、歓楽街案内人の市川敬済だね仕事柄我々は抜け目ない、聞き耳を立ててたね、という。黙す市川敬済に、優秀な探偵の知り合いは二人と必要ないかなと強い声で独り言のように笑みを送る。店内、音楽なく、静かに食す客、座敷からの賑わい。この辺りで、青島ビールが飲める良いバーを探してる客がいたなそういえば、と市川敬済、懐から名刺を取りだし横に並べる。直後、和柄のマフラーをしたギャル僡逢里が現れた為、仲本慧、名刺を拾い、勘定を済まし去っていく。お知り合いさんなの、と尋ねつつ座る僡逢里に、池袋の二青龍で今は探偵の男だ知ってるか、と尋ね返す。誰よ、テリトリー渋谷だったし、今日はいないの。暗に警部補のことを口にする。僡逢里の耳元で、まだ続いてるらしい千代女のママ心配だな。食事の注文をしながら僡逢里、出勤前に縛られたい、と呟く。夜十一時、一人になった市川敬済の前を男女が横切る。片方の男が枯淡の趣ある着物姿でありながら凍風をただ浴びるがごとく静かであったため変に気にかかるが、気にするのをやめて電話をかける。あら敬済さん、と通話先、青藍に杉の木が描かれた着物の女、さっきまで警部補さんがいらしてたのよ、お店は営業してません、今朝三人目の不幸がありまして五鬼も残すところ二人なの。語るは浅井千代女である。
 遥か彼方より朗々と木曽節が諏訪太鼓と絡まり聞こえ��、それは五年前の、冬の宵、一人の女、吉祥寺の麻雀ラウンジ千代女の開店準備中、六人の女達を前に、肩に雪積もり震えている。浅井千代女が側に近づき、貴女の血に刻まれし鬼の禍、憎しと思うなら、受け継がれし技術でお金に変えて楽園を造るのよ、弐宮苺(にきゅういちご)の源氏名を授けるわ、そちらの西クロシヤ(五〇)引退で貴女の席があるの。語りかけてきた浅井千代女を取り囲む五人の女達、五鬼を見る。はい、と涙流し、生まれて初めての愉しい月日流れ、今、浅井千代女の周りに残る五鬼はその弐宮苺(三〇)と柵虹那奈(さくにじなな、四〇)だけだ。今朝殺害された紫矢弥衣潞(しややいろ、五〇)の遺言は、一路ゆくは三人迄。殺害現場で弐宮苺は両拳固く握りしめて言う。千代女さまを死なせはいたしません、次はこの私が千代女さまの匂いを身につけ犯人を誘いだし返り討ちにしてやります、これまで通り千代女さまは、五鬼にはできない私達鬼の禍の力を強める祈祷にどうか専念してください。浅井千代女の頬に涙が伝う。紫矢弥衣潞の形見の側に六歳の娘が一人。この災い突如訪れ、犯人の心当たりなく、志那成斗美が相打ちにし病院で死亡したという佐々木幻弐が何者なのかも分からない。不気味であったが浅井千代女は思う、そもそも私達がこの現世において得体知られていない存在なの、それに。相手は私達より強い、と震える。市川敬済に連絡を入れる。丑三つ時に市川敬済が女と帰宅、玄関騒がしく、津軽塗の黒地に白い桜が控えめに描かれた高さ一尺程のテーブルに女が横たわる音がする。自室でスマホを触っていた高校一年生の市川忍、悠里と帰ってきたのかあの女嫌いだな、と不機嫌になる。脳裏から仟燕色馨の声、きみの父だが今着信があり通話している。女といるのに別の女と喋ってるのそりゃあ母も出ていくよ。連続殺人の件だ探偵仲本慧の名前も出ている。いつも大人達は都合で何か企んでいて不快だよ。翌日、暑し。ホームルームの前に近寄ってきた同級生渡邉咲が、低血圧以外の何物でもないローテンションでいつもより元気な声で市川忍に話しかける。事件は解決してなかったのよ、貴方のお知り合いの探偵、仟燕色馨の出番じゃない?
蜃気楼の境界 編(七)
境迷
 昼か、はた、ゆめの夜半にか、北原白秋「邪宗門」の一節に紛れ込んでいた六角凍夏は国語教師茨城潔に当てられて、地獄変の屏風の由来を申し上げましたから、芥川龍之介「邪宗門」冒頭付近をちらと見、朗読し始めるが、正義なく勝つ者の、勝利を無意味にする方法は、いまはただ一つ、直ちに教師が、むすみその「邪宗門」は高橋和巳だ、遮ってクラス騒然となる。六角、先生、界をまたぐは文学の真髄ですと逸らす。教室の窓から体育館でのバスケの授業を眺めていた市川忍に、脳裏から仟燕色馨の声、百人町四丁目連続殺人事件、慧探偵事務所の手にかかれば一日で解決する探偵はあの少女が呟く数字で結論を読みとるからだ朔密教での一件はそういう話だっただろう。それじゃあカジョウシキカ勝ち目が。否あの少女がいかなる原理で数字を読むか今わかった。その時、教室の背後から長い竹がぐんと伸び先端に括られた裂け目が口のごとき大きな提灯、生徒らの頭上でゆらゆら揺れる。「百器徒然袋」にある不落不落(ぶらぶら)を空想した六角凍夏の机の中に古びた筒。不落不落を唯一感じとった仟燕色馨、市川忍の瞳を借り生徒らを見回す。何者だ。その脳裏の声へ、何故だろう急に寒気がする。界か少女は先の「邪宗門」のごとく数多の界から特定している市川忍クンきみはこの連続殺人事件どう思う。��夜の父の通話を聞くに麻雀ラウンジ千代女のスタッフが四度狙われるから張り込めばだけど犯人佐々木幻弐死んでも事件は続いたし組織か警察もそう考えるだろうから現場に近づけるかどうか。吊り下がる口のごとく裂けた提灯に教師も生徒も誰も気づかず授業続く。休み時間スマホで調べた麻雀ラウンジに通話。まだ朝だ、出ないよ、休業中だった筈だし。仟燕色馨は通話先を黙し耳に入れ続ける。浅井千代女らは、魔かそれに接する例えば鬼か、ならば逞しき彼女らが手を焼く犯人も、人ではないと推理できよう恐らく一人の犯行による。驚き市川忍、犯人が死んだというのに犯行は一人だって。きみは我が師仟燕白霞のサロンで幼少時千代女と会っていたことを忘れたか父と古く親しい女性は皆その筋だろう。側に、一人の同級生が近づいていたことに突然気づき、晴れてゆく霞、市川忍は動揺する。渡邉咲が、不思議そうに見ている。
 柵虹那奈、と雀牌散らばりし休業続く麻雀ラウンジで浅井千代女が呼びかける。はい千代女さま。志那成斗美あの人の槍槓はいつだって可憐で美しかったわ、五藤珊瑚あの子の国士ができそうな配牌から清一色に染める気概にはいつも胸を打たれていたわ、紫矢弥衣潞あの方の徹底して振り込まない鬼の打ち筋には幾度も助けられたわ、三人とも亡くしてしまった、弐宮苺は私達を守ると意気込んでいるけどあの子を死なせたくないの。ラウンジを出て一人、浅井千代女は市川敬済から聞いた池袋北口の慧探偵事務所へ出向く。雑居ビル、銀行かと見紛うばかりの清潔な窓口が四つあり小柄の女性職員田中真凪にチェックシート渡され番号札を機械から取り座る。呼ばれると先の職員の姉、同じく小柄な三番窓口女性職員田中凪月が青森訛りで対応するがシート見てすぐ内線で通話し真凪を呼び千代女を奥へ案内させる。無人の応接間は中国人趣味濃厚で六堡茶を口にしながら十分程待つと仲本慧現れ、異様な話は耳にしている我が慧探偵事務所に未解決なしさ安心して、笑顔に厭らしさはない、依頼費は高くつくけどね。千代女は私達に似てるわと思う、職員は皆日本人名だが大陸の血を感じる、理由あってここに集い共同体と成っている、市川敬済とは昔SMサロン燕(えん)で業深き運営者は仟燕白霞に紹介された、世俗の裏側で通信し合うルートで辿り着いた此処は信用できる。受け応えを記録する仲本慧に着信が入り中国語で喋りだす。六堡茶を喉へ。探偵職員二名曰く、監視対象の市川忍が早退し校門前で謎の探偵仟燕色馨と通話していたという。仟燕色馨が仲本慧に仕掛けた誤情報だが、千代女を上海汽車メーカーの黒い車に乗せ吉祥寺の麻雀ラウンジへ。市川敬済はその謎の探偵にも件の連続殺人事件を探らせているのかなぜ子の市川忍が連絡を、空は雲一つない、SMサロン燕は五年前の二〇一一年に閉鎖し今は仟燕家のみその調査は容易ではないが必要かすぐ崔凪邸へ行くべきか。麻雀ラウンジのドア、鍵開き、僅かな灯火の雀卓で盲牌していた柵虹那奈、差し込む外光より、冷気識る。現れるは、病室で死に顔さえも確認した、佐々木幻弐である。上海汽車メーカーの黒い車は崔凪邸に着く。少女崔凪は、使用人二人と土笛づくりをして遊んでいる。
by _underline
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「渦とチェリー」チャンネル
【音版 渦とチェリー新聞】第27号 へ続く
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仟燕色馨シリーズ 全人物名リスト
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unicodesign · 2 years
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薩摩旅 鹿児島編
先月の、久しぶりの旅の備忘録。2019年以来、飛行機乗りました。
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行く先は鹿児島。ライブ遠征、西郷どん&篤姫巡り、建築巡り、登山の4本立て3日間。
初めての鹿児島。路面電車の走る鹿児島中央駅、南国の風情。
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街の中にステーションが点在するレンタサイクルの『かごりん』を借りて出発。
まずは、西郷屋敷跡へ。ここは、明治6年の政変で西郷さんが征韓論で敗れて下野してから、西南戦争が始まるまでの4年間暮らしたお屋敷のあった場所、鹿児島市武。
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『徳の交わり』庄内藩の家老 菅実秀との対話の像。戊辰戦争で薩摩率いる新政府軍に対抗していた庄内藩、これに対する処分が寛大だった西郷隆盛の人柄に感動し、教えをこうためにこの屋敷に訪ねたそう。遠路はるばる。。。
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次なるは西郷生誕地へ。途中、軽やかに上着の裾を翻す大久保利道卿。
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『下加治屋町の西郷吉之助』と、せごどんで何度もでてきた現在の加治屋町。
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後ろに、弟の西郷従道の生誕地碑も。
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そしてお隣にある『維新ふるさと館』へ。
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ここで、ロボットドラマを鑑賞。ロボットを作る会社で働く妹が担当していたというので来てみました。
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維新の立役者と、薩摩出身の偉人たちが現れます(鹿児島県観光サイトより拝借)
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西郷さんといえば相撲。ということで相撲がとれます。
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その後、天文館通りに向かい、お昼ごはんは鹿児島ラーメン小金太。
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意外とあっさりめ、肉厚チャーシュー、美味しかった!
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そして、鹿児島といえばこちらもお忘れなく。ここがしろくま誕生の地。
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ふわっふわのかき氷に練乳、不朽です。
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ここで突然のにわか雨、しかし、鹿児島市内、アーケードが続くので、雨に濡れずに、次の目的地であるマルヤガーデンズに到着。
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かつての三越鹿児島店。地元の丸屋デパートの建物に、30年間、三越が入っていたところ、三越と伊勢丹が合併し店舗を整理していくなかで、三越撤退。オーナーが建て替えずにリノベーションという選択をし、耐震+改修設計をみかんぐみが行う。テナント探しに苦戦するなかで、D&D DEPARTMENNT、コミュニティデザイナーの山崎亮さんらが参画し『地域のコミュニティの場をデパートの中に作る』というコンセプトで各階に『ガーデン』と呼ばれるフリースペースくを設けたというもの。
今でこそ、コミュニティデザインやエリアリノベーションなど各所で様々な取り組みが行われていますが、改修工事が完了した2010年頃は新しく、先駆者的な場所だった印象があります。
最上階は緑豊かなガーデンがあり、あいにくの雨模様でしたが、多くの人がお弁当を食べたり、おしゃべりしたり。
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フリースペースでは個展が。
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いろいろな地域の取り組みがなされているようでした。中心部のデパートの中でこのようなことができるというのが画期的、東京だと、家賃と見合わなかったりでできないのかもしれない。と思う。
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続いても建築めぐり。鹿児島カテドラルサビエル記念聖堂へ。ちょうど雨も小降りに。坂倉準三/坂倉建築研究所設計。空に向かってすっと伸びる鐘楼が印象的。
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フランシスコザビエルが初めて日本に上陸したのは鹿児島県、それを記念して建てられた聖堂で、この建物は3代目。
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外の様子とはうってかわって、色彩あふれる主聖堂の内部。
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パンチングの後ろから赤と青のステンドグラスの光が降り注ぎます。
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スリットの窓から自然光が入り込む床と天井が美しく。
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こちらは小聖堂。コンクリートと木の空間。
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ここから薩摩藩せごどん巡り。まずは照国神社。島津斉彬公を祀る神社。
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鹿児島で一番大きな神社、鳥居も大きい。交通看板張ってあるが。
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続いて西郷隆盛銅像。陸軍大将の軍服姿で地上14mの高さに立つ西郷さん。
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お隣、鶴丸城御楼門。日本最大の城門だそう。
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NHKオンデマンドの『せごどん』一気見をきっかけに30年前の『飛ぶが如く』まで見てしまい、明治維新ブームがやってきた私とっては喜びひとしおの薩摩の地。
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次に、西南戦争銃弾跡。
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かつて石垣の中には、征韓論で敗れて下野した西郷隆盛を慕い、新政府を辞職してついてきた600人の士族のために、西郷さんが作った『私学校』がありました。150年前に現実にあったこと、と、銃弾のあとを見ながら思う。
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そして、いよいよ西南戦争最後の決戦地である城山へ自転車でのぼる。暑い。
熊本城をおとせず、九州各地を転戦したのち軍を解散した西郷隆盛が、最後に城山に戻って来て、最後の5日間を過ごしたという洞窟を経て
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城山へ至る。美しい桜島。これを見たかった。鶴丸城の天守閣からはこんな風に見えたのか。
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ここから、一気に自転車で港へ向かう。
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めざすは
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桜島!
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15分ほどで到着。
桜島は1周36キロ、自転車では3〜4時間、このあとライブの予定のある私たちはあまり時間もないため、タクシーに乗り、有村溶岩展望所まで向かう。
絶好の撮影スポットのはずなのですが、、、桜島見えず。
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タクシーの運転手さんが、いろいろとガイドをしてくれました。桜島は、1000年の間に4度の大噴火があり、流れ出た溶岩で都度形を��えていて、大正の噴火で、大隅半島とくっついてしまった。向こうに見えるが大隅半島。
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小さなクロマツが生えているのが新しい噴火でできた地層で、古い噴火の地層のマツは成長しているそう。
鉄分を含んで赤い溶岩、
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溶岩タイルの微妙な色合いが美しかった。
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運転手さんが連れて行ってくれたのは長渕剛のライブを記念した叫びの像。当時6000人の島民に対して75000人の観客がやってきたそう。(今は島民3000人とのこと)
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ふと振り返ると、桜島のてっぺんが姿をあらわしていました!
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運転手さんいわく、道路がこんなに綺麗なのは珍しい、噴火が絶えないので、火山灰がつもるのが常なので、今は洗濯物が外に干せて嬉しい反面、いつ大きいのが来るのか不穏だ、とのこと。
道路には、避難用のシェルターがところどこにあり、有村溶岩展望所のあずまやも、木造ではなく堅牢な造り、ベンチの下にはヘルメットが備えつけられていました。
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桜島の名前の由来は?とたずねると、『桜島の大明神にまつられているコノハナサクヤ姫のサクヤから』と『噴火口が桜の形だった』とのこと。日本全国、まだまだ知らないことがたくさんあります。
そして、再びフェリーにのって桜島をあとにし、この日の最後のタスク、レキシのライブ会場へ。なんとか、すべての予定をこなし、最終地点に到着。
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3時間のライブのあと、ごはん!郷土料理屋や駆け込みました。
キビナゴのお刺身、
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天ぷら
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さつまあげなど。
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7時40分の飛行機に乗って、まるっと1日、綿密に組み立てていたタイムスケジュールを無事終えて乾杯。長い1日でございもすた。
指宿、霧島編に続く。
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nakatateyama · 2 years
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『Day2195-5-117』 My coffee truck goes to @niigataeya . 憧れの画家、蓮池ももさんの個展会場の前で「コーヒーとタープ号」を出店させていただいた。深謝。 今日は地元十日町市や津南町から大勢の友人が駆けつけてくれた。そして、いつもは十日町市で会う新潟市在住の友人たちも。心よりありがとう。 さらに東北から10年以上前に報道写真のクラスを履修してくれ、大学院を卒業してからは同志のような存在のKくんも突然ふらりと現れてくれて…。嬉しいサプライズ。 その他、たくさんの「初めまして」も。 あー、楽しかった。 新潟絵屋のみなさん、素晴らしい機会をありがとうございました。 #rurallife #slowlife #notslowlife #countrylife #snowcountry #田舎暮らし #スローライフ #ノットスローライフ #5歳 #fiveyearsold #あおの棚田米 #棚田 #移住 #コーヒーとタープ #自家焙煎 #microroastery #microroaster #古民家リノベーション #古民家暮らし #軽トラキャンピングカー #キッチンカー #coffeetruck #コーヒートラック https://www.instagram.com/p/Cb2b5smLnl1/?utm_medium=tumblr
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1ma2-fio · 1 year
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夕焼けの空が近くなると なんだかそわそわします 今日の夕焼けはどんなかな… わくわく… 光の加減とか 空のうつろいとか 雲の様子を 感じとりたくて うずうず… 刻一刻と変わりゆく 芸術にも思える ただ ぼーっとみているだけ ですけれども… たのしいです 私もときどき 他にもっと良いものが あるのじゃないかと 貪欲になってしまいます でもやっぱり この手のなかにあるもの 今 持っているものに 落ち着いて目をむけると なぁんだってなることばかりで 日々勉強だなぁ…と そんな感じです 今日もありがとうございました おやすみなさい #日記 エッセイ 日常 ライフスタイル #津軽古民家暮らし 田舎暮らし 実家暮らし 猫がいる暮らし #たまには無骨にアウトドアとかりんご畑なんかもあるよ #昭和レトロでエモいかもしれない #雑で大雑把でかつ適度に生きている #キレイおしゃれシンプルからは程遠い日常をあえて発信するHSP #読書 絵画 映画 音楽はjazzが好きコーヒー #今日のことばもしくは詩や絵のようなもので語ります #チェアリングでのんびりまったり空を見上げる たまにはお料理も #ハッシュタグは自己紹介のつもりですよろしくお願いします https://www.instagram.com/p/ClYkARCPVNc/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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xf-2 · 3 years
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中国政府は西部・新疆で暮らすウイグル族など数十万人の少数民族を、自宅から遠く離れた場所で新たな仕事に就かせており、それが少数民族の分散につながっている――。そんな状況が、BBCが確認した、中国政府上層部に報告された研究で浮かび上がった。 中国政府は、新疆の人口構成を変えようとはしていないとしている。
また、別の土地での仕事をあっせんしていることについては、人々の収入を増やし、地方の慢性的な失業と貧困を改善するためだと説明している。 だが今回確認した証拠からは、中国のそうした施策は強制の色合いが濃く、生活様式と思考を変えることで少数民族を同化させようとの狙いがうかがえる。これは近年、新疆で建設された、再教育のための収容施設でもみられることだ。 
 この研究は、政府高官が見ることを前提としたものだったが、誤ってインターネットに載せられた。その結果、政府のプロパガンダや関係者へのインタビュー、中国各地の工場への訪問などを基にした、今回のBBCの調査報道の一部となった。 BBCの報道は、移住させられたウイグル族の労働者と、欧米の2つの有名ブランドの関係性についても質問を投げかけた。そうした関係性はすでに世界的なサプライチェーンに組み込まれており、その広がりに対し、多くの国が懸念を強めている。
  ■自発的な申し込みはゼロ 
 新疆南部の村の平原で、干し草が集められている。ウイグル族の家族が昔から囲んできた低い台が置いてあり、その上に果物や平らなパンが並べられている。 のどかな光景だが、タクラマカン砂漠を吹き抜ける生暖かい風は、不安と変化も一緒に運んでくる。 中国共産党系のニュース放送局は、この村の中心部で赤い旗の下に座る、当局者の一団を紹介している。旗は、4000キロ離れた安徽省での仕事をPRするものだ。 記者のナレーションは、2日たっても1人の村民も就職の申し込みに現れず、そのため当局者らが家々を1軒ずつ訪ね始めていると伝えている。 続いて、非常に強烈な映像が現れる。ウイグル族やカザフ族、その他の新疆の少数民族を、往々にして自宅から遠く離れた土地の工場労働や手作業に就かせようという、政府の大がかりなキャンペーンの一場面だ。
 ■「他の人も行くなら」
 映像が放送されたのは、この施策が本格化し始めた2017年だ。だがこれまで、外国の報道機関に取り上げられたことはなかった。 映像では、当局者たちが父親に話しかけている。父親は、娘ブザイナップさん(当時19)を遠く離れた土地に送り出すのを明らかに嫌がっている。
 「行きたいという人が他にいるはずだ」と父親は訴える。「私たちはここでやっていける。このまま生活させてほしい」。 当局者らはブザイナップさんに直接語りかける。このままここにいれば、そのうち結婚し、ここから出られなくなるぞと伝える。 「よく考えろ。行くか?」。当局者らは尋ねる。 当局者と国営テレビ記者たちに凝視される中、彼女は首を横に振り、答える。
「行きません」。 しかし圧力が弱まることはなく、ついに彼女は涙を流しながら折れる。 「他の人も行くなら、行きます」 映像は、母親たちと娘たちの涙あふれる別れの場面で終わる。ブザイナップさんや、同じように「集められた」新規労働者たちが、家族と故郷の文化を後にする瞬間だ。 英シェフィールド・ハラム大学で人権と現代の奴隷について研究するローラ・マーフィー教授は、2004年から翌年にかけて新疆で暮らし、それ以降も訪問し続けている。
 「この映像は注目に値する」と教授はBBCに話した。 「中国政府は、人々が自主的にこれらのプログラムに関わっていると言い続けている。だが、この映像からは、抵抗が許されない強制的な制度であることがはっきりわかる」 「もうひとつ見て取れるのが、隠された動機だ」とマーフィー教授は説明した。
「政府側のストーリーとしては人々を貧困から救うというものだが、生活を様変わりさせ、家族を引き離し、住民をばらばらにし、言葉を、文化を、家族構成を変えようとする力が働いている。それは貧困を減らすよりも、増やす結果を招きやすい」
 ■「同化させるために重要」
 新疆に対する中国政府のアプローチの変化は、歩行者と通勤者を襲った、2件の残虐な事件に端を発している。2013年に北京で起きた事件と、2014年に昆明で起きた事件だ。中国政府はウイグル族のイスラム教主義者と分離主義者が引き起こしたとしている。 施設への収容と遠方での就労という両方の施策の中心にあるのが、文化とイスラム信仰に対するウイグル族の「古い」忠誠心を、「現代的な」物質主義的アイデンティティーと、共産党への強制的な忠誠心に置き換えようという、中国政府の意欲だ。
 ウイグル族を中国の多数派である漢族の文化に溶け込ませるという最大のゴールは、新疆における労働移動施策に関する、中国の綿密な研究で明らかにされている。この研究は中国政府の幹部らで共有され、BBCも中身を確認した。 2018年5月に新疆省和田地区で実施された現地調査に基づくこの研究報告書は、2019年12月に誤ってオンラインで公開され、数カ月間後に取り下げられた。 執筆したのは、天津市の南開大学の学者グループだ。大規模な労働者の移動については、「ウイグル少数民族に影響を与え、融合させ、同化させるために重要な方法」であり、ウイグル族に「考えの変質」をもたらす点でも大事だと結論づけている。
 また、ウイグル族を居住地から引き離し、地域内の���の土地や、国内の別の省へ移住させることで、「ウイグル族の人口密度は低下する」としている。 この報告書は、中国国外で暮らすウイグル族がオンラインで発見。米首都ワシントンの共産主義犠牲者記念財団のシニアフェロー、エイドリアン・ゼンズ博士に連絡した。 南開大学が間違って公開したことに気づく前に、ゼンズ氏はウェブ上のアーカイブサイトに報告を保存。さらに、自らの分析を記し、英語の全文訳も載せた。 「これは、新疆への高度なアクセス権をもつ有力研究者と元政府関係者が書いた、前例のない、信頼できる情報だ」とゼンズ氏はBBCに話した。 
 「私が見るところ、この報告のもっとも衝撃的な告白は、対処が必要な余剰人口が存在し、ウイグル族の中心都市に労働者が集中するのを軽減する方法として、労働力を移動させているということだ」 ゼンズ氏の分析の中には、米ホロコースト記念博物館の元シニアアドバイザー、エリン・ファレル・ローゼンバーグ氏の法的見解が含まれている。ローゼンバーグ氏は今回の「南開報告」について、強制移動と迫害という人道に対する罪が犯されたことを示す「信頼できる根拠」を提供するものだとしている。 中国外務省は、文書による声明を発表。「報告書は筆者の個人的見解が反映されたものに過ぎず、中身の大部分は事実に沿ったものではない」とした。
 「ジャーナリストには、新疆について報じる際、中国政府が発表した信頼すべき情報を基礎に置いてもらいたい」
 ■政府の施策に「行き過ぎ」との警告も
 南開大学の報告書の筆者らは、職場において「自発性の約束」が示され、工場が労働者の「自由な退職や復職」を認めることで、貧困との闘いが進められていると称賛している。 ただそうした見方は、施策が実際にどう機能しているかに関しての、筆者らの詳述と合致しない。 この施策には達成すべき「目標」が存在する。例えば和田地区だけでも、研究が実施された時点で、労働力人口の5分の1にあたる25万人を送り出している。
 目標を達成するよう圧力もかかる。「すべての村に」募集事務所が設置され、当局者らには「集団動員」と「家庭訪問」が命じられた。19歳のブザイナップさんのケースはまさにそれだ。 また、すべての段階で、統制が行われていることを示す証拠が見られる。寄せ集められた人は全員、「政治思想教育」を受けてから、団体で工場へと移送される。多いときは1度に何百人も送り込まれ、「政治指導者が安全確保とマネージメントのために引率する」。 自分の土地や家畜を置き去りにしたくない農家は、留守の間に管理する政府のプログラムに、それらを差し出すよう奨励される。 新しい工場の仕事に就くと、今度は労働者らが、寝食を共にする当局者による「集中管理」の対象になる。 報告書はまた、こうした制度の中心に存在する深刻な差別が、効率的な働きを妨げているとしている。中国東部の警察は、大勢のウイグル族が列車でやって来ることに恐怖を覚え、押し返すこともあるという。
 報告書はところどころで、中国政府の新疆における施策に対し、行き過ぎだったかもしれないと警告を発してさえいる。例えば、再教育施設に収容されている人々の数は、過激主義との関連が疑われる人々の数を「はるかに超えている」と指摘している。 「ウイグル族の全人口が暴徒だとは想定されるべきではない」と報告書は記す。
 ■米企業「強制労働容認しない」 
 繊維関連会社の華孚は、中国東部・安徽省の淮北市にある、陰鬱(いんうつ)な工業団地の端に位置する。 国営テレビで取り上げられたブザイナップさんが送り込まれたのは、この工場だった。 BBCが訪ねた時、独立した5階建てのウイグル族の寮は、開け放たれた窓のそばに置かれた1組の靴を除いて、人が住んでいる気配はほとんどなかった。 門にいた警備員は、ウイグル族の労働者らは「家に戻った」と説明。国の新型コロナウイルス対策が原因だと話した。華孚はBBCの取材に、「当社は現在、新疆の労働者を雇っていない」と声明を出した。 BBCは、華孚製の糸で作られた枕ケースが、アマゾンUKで売られているのを確認した。ただそれが、訪問した工場や、同社の関連施設と関係がある物なのかを確かめることはできない。
 アマゾンはBBCに、強制された労働者の使用は容認せず、同社のサプライチェーン基準を満たさない製品を見つけた場合、販売は取りやめていると述べた。 BBCは中国を拠点とする国際ジャーナリストらのグループと連携し、計6カ所の工場を訪れた。 広東省の靴メーカー・東莞緑洲鞋業の工場では、ウイグル族の従業員らは独立した寮と専用の食堂を使っていたと、労働者の1人が話した。別の地元民は、同社が米スケッチャーズの靴を製造していると話した。 この工場は以前、スケッチャーズと関係があるとされた。製造ラインでウイグル族の労働者がスケッチャーズの靴を作っている場面だとする真偽不明の動画が、ソーシャルメディアに投稿されたのだ。また、オンラインの中国の企業電話帳でも、関係性がうかがえた。 
 スケッチャーズは声明で、「強制労働は一切容認しない」と述べた。だが、東莞緑洲鞋業を供給業者として使ったのかという質問には答えなかった。 一方、東莞緑洲鞋業は、コメントの求めに応じなかった。 この工場でのインタビュー取材からは、ウイグル族の労働者らが余暇時間に自由に外出できた様子がうかがえる。しかし別の工場では、証言はもっと微妙だった。 少なくとも2件の取材で記者らは、いくらかの制限が存在していたと聞いた。武漢市の工場では、漢族の中国人従業員がBBCに、200人近いウイグル族の同僚らは外出を全面的に禁止されていたと話した。
 ブザイナップさんが村を去り、政治教育訓練を受け始めた姿を紹介してから3カ月後、中国の国営テレビ局は、安徽省の繊維関連会社・華孚にいる彼女を再び取材した。 その様子を伝える報道の中心にあるのは、やはり、同化というテーマだ。 ある場面では、ブザイナップさんはミスを叱られ、泣きそうになる。しかしその後、彼女には変容が起きていると説明が入る。 「何も言わず、じっと頭を下げていた気の弱い少女が、職場で自信をつけつつある」とナレーションは言う。 「ライフスタイルが変わり、考えも変わってきている」 プロデューサー:キャシー・ロング (英語記事 Chinese study reveals Uighur 'assimilation' goal)
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shokobekki · 3 years
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【日記】
近くの水路沿いの河津桜も葉桜になり、菜の花が満開。もっと地面に寄れば、オオイヌノフグリがたくさん咲いている。雑草が一番好きだな。
さて、関係ないけれど、遅ればせながら?「鬼滅の刃」の原作を読んだ。うちに漫画が全巻揃ったのは、「岳」以来久方ぶりかもしれない。 原画は想像していた以上に粗くて(絵から動きが読み取れない;)、表面的には稚拙な(失礼)感じもするけれど、アイデアの芯は意外なほど軽やかに伝わってくる作品だと思った。 人間のもつ様々な負の一面。その権化が様々な鬼として描かれているようだ。背景には不条理がある。レベルの高い鬼ほど、人間時代の苦悩やコンプレックスが増幅されて化け物になっている。主人公炭治郎の宿敵となる最高位の鬼は、最初の鬼であり、不条理そのものの化身かそれに近い存在だ。死や絶望の淵を前にする人間がいると、やってきて鬼にしてしまう。でも、幸せに暮らしている人間も突然襲う。(ただ、彼も元は人間だったようなので、その背景をもっと掘り下げて読みたい気もする)。
理不尽な思いや報われない経験をしている人ほどハマりやすい要素が多いように思うので、仮にこれを、上品なジブリとか手塚治虫のようなカリスマが作画したとしたら、シリアスになりすぎたり、へんに神聖な感じになってしまって、逆にリアリティが薄れたり、一方で狂信者が出たりする危険性さえあるんじゃないかと思った。この荒さ(意図してかは不明)と、少年漫画やギャグ漫画のご愛敬が、いい具合に俗っぽさを残し、そこに歯止めをかけているような気がする。唯一嫌気がさすのは、やりすぎの広告や商戦や転売。まあ、私も駄菓子とか伊之助グッズを買ってしまっているので笑、大きな声では言えないのですが。。
それにしても、日本の山や民間伝承の好きな人間にはツボにはまるモチーフがけっこう多くて、個人的にはそこが一番惹かれる要因だったかもしれない。炭焼き仕事の炭治郎や、伊之助という野生のキャラクターに始まって、山修行で岩を切るとか、藤の花屋敷に火打ち石、那田蜘蛛山の廃屋に棲む小鬼、蝶屋敷のアサギマダラとか、刀鍛冶の隠れ里には温泉があって、全員ひょっとこの面を被っているとか…ありそうにも思えてきて、うんうん笑、と面白い。 日輪刀に特攻服のような隊服など、一歩間違えれば悪趣味に陥りそうな辺りには、若干危うさも感じるのだけど、主人公たちのピュアなキャラクターがカバーしているように思える。鬼も人も、絶望の前では紙一重。でも炭治郎たちの奮闘が、希望の光となる物語だ。
先に見たアニメの方は、動きの迫力はすごいけども、きれいに整え過ぎているせいか、どこか類型化されたアニメキャラっぽさのようなものが鼻につく。原作の方がやっぱり、ある意味自然な勢いがあって、粗削りでも私は好きだなと思った。(全巻読むうちに単に愛着が湧いたせいかな?) ちょっと上から目線で書いてしまった。でも、漫画家という方のイマジネーションは凄いなといつも思っている。
そんなわけで、ここしばらく、夜の本はエキサイティングな漫画続きだった。寝不足気味で頭が痛い。。 昨晩からは、がらりと変わり、静かな読書時間となっている。心鎮めて眠ろうと思う。李禹煥のエッセイ集は、「余白の芸術」というのだけ、以前読んだことがあり、とても好きな文章だ。これは先月の個展の折、水沢勉さんのお話から知り、買うことにした。 古書で取り寄せた。 古いレシートが出てきた。
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enomoto22 · 4 years
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次世代へつなぐ・わがまち榎本へのエール
※ふれあいえのもと通信39号(9/26発行)掲載
楽生会会長座談会 2020.8.5(榎本福祉会館)
平均年齢は80 歳越え。榎本地域を支える続ける楽生会(老人会)の 4 人の会長さんにお話をお聞きしました!
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◯さて榎本、いかがです? 〈‥ということでゆるゆるとプロローグ〉
濱田: 放出に生まれ、放出で育ち88 年。戦争の一番厳しい昭和18 年に卒業した榎本小の卒業生は250人。今も同窓会は続いていて、昨年は11人。今年はどうかな。
脇田: そやな‥小学校の思い出といえば、消防署を折り返してのマラソン大会。大きな建物もないから見渡せたし、ズルのしようもなかったな。
境: 放出に高層マンションが建ち始めた頃、この地に。東京オリンピックの頃には東京に、万博の頃には吹田住まい。ずっとサラリーマン生活で子どものPTAにも係ることもなく、楽生会が地域活動の始まり。
坂東: 大阪は仮の住まい、老後は徳島に帰るつもりで。しかし折角建てた故郷の屋敷も30 年間両親が住んだ後は空いたまま。広すぎて売りたくとも売れず‥。
◯ズバリ、榎本の魅力は?〈理由はわからんが何となく住みよい〉
濱田:寺が2つに神社が1つ。長い歴史財産をもつ放出。ずっとこの地で鉄工所をしてきたが、70 歳で車も仕事も全部卒業。11 年前に家内に先立たれたが、娘も息子も放出住まい。まだまだ百まで住みますよ。
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脇田:サラリーマン時代、転勤になるかなとも思っていたが、私がどこかに行こうと家族はここに住み続けると。便利やしね。特に娘には住心地良過ぎたかも(笑)
坂東:子ども3 人が榎本小、今津中と通ううち、家内が様々な活動に参加、榎本でネットワークができ、そして手芸クラブを立ち上げ定住。
境:転勤を重ねてきたが、ここに来て住まいを購入。もう動かないと覚悟を決めたのは、やはりその居心地の良さでしょう。
◯マイブームを教えて下さい〈次は八十の手習いやな、何しよう〉
坂東:60 過ぎて子どもの勧めで夫婦でパソコンを。家内は指一本打ちで株を始め、亡くなるまで1 日1回はパソコンに向かっていたね。私は独学でCAD を習得。設計が好きなんでCAD なら精密な線引きができるし、酒も飲まんのでパソコンで遊んでいます。
境:津軽三味線を始め30 余年、この10 年ほどは鶴見区の小ホールで月に2 回、民謡の講習会を(現在は休止中)。民謡で人の役に立てればいいなと。
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濱田:放出は古くは水害の多いところ。児童公園の大きな石碑にも大橋房太郎さんの治水の偉業が記されてますな。
坂東:そのお陰もあってか、大阪っていうか、ここらは豪雨災害も少ないね。また大雨が降っても今津公園のポンプが作動するとみるみる引いていく。
脇田:それでも昔は雨降ったら、床下まではよく水に浸かっとったな。地震に台風、コロナも予想外の災害やね。
◯自粛期間はどのように?〈地域のイベントは引きこもりがちな高齢者を誘ういい機会〉
境: 1 年に20 や30 は演奏活動をしていたけど今は中止。教室も休止中。飲みに行くのも自粛中(笑)
坂東: コロナ以前から、特に男のひとり暮らしは外へ出てこない。年寄りが増えているのに、楽生会は減る一方。私自身50 歳になって町会の班長になり、地域に係わり始めて30 年。その頃に出そびれると、いよいよ億劫になるのかな。まつりや行事があると声かけて出る機会も作れるが‥。
脇田: 百歳体操なんかも中止で、みんな家でじっとしてどうにかならんかなと心配。卓球は再開したが、みんなで集まってできることはないかなと考えている。今年は盆踊りもないしな。
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◯ご家族のお話をお聞きしたいです〈元気の秘訣はやはり家族愛〉
境: 生家は製材業。兄弟は中学校卒業したら家業に勤めていた。私は林業試験場で技術を身に着け、28 歳の時、結婚して故郷を離れ東京へ。運輸会社でトラックの運転をしていたが大阪の営業所開設とともに転勤。35 歳過ぎて経理を習い、真面目が取り柄で勤めてきました。え、今?あはは。
坂東: 最近はずっと家内の病院へ行くのが日課のようになっていたが‥いくつもの病院へ出向き、夜間の付き添いも。車は特別仕様(接近アラーム付)ですが、今はキーも取り上げられて(笑)。初盆を迎え、老後の資金計画を含め、様々な面で家内には感謝しかない。また葬儀の参列者の多さに地域との関わりの厚さをあらためて実感。娘たちにも地域とのつながりの大切さが伝わった。「私らも出来ることはせなあかんな」との感想は嬉しい。
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◯児童の見守り活動も15 年〈声かけてくれるのは嬉しいな〉
脇田:馴染みの子どもも増えて、中学生や高校生も挨拶してくれるのは、長く見守り活動が続いている証拠かな。こっちからの声掛けは難しい世の中やけど、普段でも声かけてくれるのは嬉しいな。
境:見守り活動が始まった頃の子らが働きはじめて、年金を払う歳に差し掛かってる。回りまわって助けてもらってるんかもね。
脇田・坂東:昔の子どもいうたら、上が下を見るのは当たり前。それが自然につながってゆく。夕方遅くなっても、親も「どっかで遊んでんねんやろ」ぐらいにしか思ってない。親の言うことは聞かんでも年長の子が世話してたな。今は子どもも忙しいし、自由もなくてかわいそうやな。
◯今後の楽生会は?〈なんとか次へと繋げたい〉
脇田:鶴見区でも老人会は3 分の1 ぐらいに。大方は会長の引き継ぎが難しく潰れてゆく。本人は元気でも奥さんが認知症になったり介護が必要になったりと。榎本も役員の後継でそれぞれ苦労している。歳を重ねるごとに、頼みに来られた前会長の想いが分かってきた。
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◯榎本へのエールを!〈これからも地域のために〉
濱田:「奉仕」という気持ちを忘れたらあきません。そしてまだまだ地域のためにがんばりたい。
坂東:地域のためにと手伝ってきた事は間違ってなかった。身体が続く限り、楽生会のために尽くしたい。
境:地域との関係をできるだけ密にして、自分に出来ることが、少しでも人の役に立てばと願っている。
脇田:会議以外で、地域でこんな風に喋ったことはない。たまにはこんな時間もええな。
本年度は敬老慰安大会の開催も見合わされました。 マスクを外し自由に語り合い外出できる日常が1日でも早く戻ります様に。 和やかな時が流れ、癒やしの空気に満ちたこの日。 地域の先輩の皆さまに心より感謝いたします。
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脇田 広志 さん(榎本在住77 年)榎本・放出出身 NPO 法人理事会監事・榎本第3楽生会会長(2018 年楽生会会長就任) 一番の若手!
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濱田 照雄さん(榎本在住88 年)榎本・放出出身 榎本第1 楽生会会長、放出の歴史地域・中高野街道が南北に走る2町会
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坂東 尚さん(榎本在住50 年)徳島県吉野川市出身 榎本第2 楽生会会長。電気設備設計士。60 歳から独学でCAD 習得。
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境 傳(つとう) さん(榎本在住46 年)岩手県東磐井郡出身 榎本第4楽生会会長。50 の手習いで津軽三味線を。 日本民謡鶴見区連合会事務局長他
楽生会〜楽しく前向きに生きていこう〜
「カラオケ ・ 健康体操 ・ グランドゴルフ」の3つの部会を作り、年間行事としては歩こう会、菖蒲・紅葉・梅の花に誘われての行楽会などがあります。 平成17年より 子どもみまもり隊 を組織して週1回木曜日安全な下校を目指して12箇所に立ち、子どもに声を掛けています。 60歳以上で榎本校区に居住される方は入会できます。
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omusuvi56rin · 4 years
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郷土料理 すしこ パッケージデザイン2種
青森県つがる市で古民家風丸などを運営する合同会社津軽の暮らしラボ様からのご依頼で、郷土料理「すしこ」のパッケージを制作しました。 パッケージは、すぐ食べる事の出来る「すしこ」と、自分作るキット「すしこのもと」の2種類あります。 「すしこ」とは、青森県の日本海側地域や稲作地帯に伝わる郷土料理です。もち米と複数の野菜を乳酸発酵させたもので、お米のお漬物に近いでしょうか。
すしこの詳しい説明はこちら
年配の方には身近だけど、若い人にとっては全然知らなかった!という郷土料理はきっと、全国にも沢山あるんだろうなと思います。 こんなにステキで美味しいものがすぐ身近にある、そんな事を伝えるためのお手伝いをさせて頂きました。 作るにあたって、初めて見る人にどんな食べ物かをちょっとでもでも想像出来るようにしよう思い、中に入っている野菜4種+もち米を、親しみやすいイラストをコラージュで構成しました。「津軽発」と「発酵食」をかけた言葉も入れて頂き、更に分かりやすくなりました。 「すしこ」「すしこのもと」は、古民家風丸さん (青森県つがる市森田町)と、BASEショップで販売中だそうです。
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2ttf · 12 years
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mark311text · 5 years
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mark=311
私は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)出身です。
今日は2011年から7年。2018年3月11日、午後2時46分から1分間の黙祷を終えたところです。
2011年3月11日
私は中学2年生で、卒業式の予行練習で午前授業だった。お昼過ぎには家に帰って、両親の部屋でテレビを見ていた。高校生だった兄も帰宅していて、家には私と兄と猫の太郎がいた。
こたつに入って横になっていると、突然、「ゴーーーー」というものすごい音がした。長かった。びっくりして固まっていると、次は激しい地震がおこった。体がゆさぶられるような揺れだった。太郎は驚いてこたつの中にとびこんだ。見ていたテレビが倒れ、画面が割れ、ここにいては危ないと思った私は、ベッドの上にあがり、上になにもない部屋のすみに避難した。クローゼットの扉は全開になり、中の荷物が全て床に落ちた。お母さんが使っていた、普段はうごかせないほど重いドレッサーも、揺れに合わせて生き物のようにズ、ズ、と前に動いていた。ガタガタと揺れる音や、ガシャーンと1階の台所からか食器の割れるような音が聞こえ、すごく怖かった。揺れはなかなか収まらず、もしかしてこのままずっと揺れているんじゃないかと怖くなり、耳をふさぎながら「あーあー!」と大きな声で叫んでやりすごした。
しばらくして揺れがおさまったので、自分の部屋に戻ろうとすると、ふた間続きになっている手前の兄の部屋は、タンスの引き出しや勉強机の上にあったものが全て落ち、足の踏み場がなくなっていた。地層みたいだった。物を踏みながら奥の自分の部屋に行くと、そこも同じように物の海になっていた。
兄に「とりあえずお父さんのところに行こう( お父さんは家の近くの公民館職員)。」と言われ、部活で使っていたエナメルバッグに持ち出せそうなものを入れ、ラックの上にひっかかっていた薄手の黒いジャンパーを着た。
もしかしたら役に立つかもしれないとお母さんドレッサーの引き出しに入っていた、カード会社や保険会社からの郵便物もカバンに入れた。無意識だったけど、もう家に戻ってこられないかもしれないと思ったのかもしれない。
兄が「避難所では猫の食べるようなものはもらえないと思う」と言うので太郎のご飯が入ったタッパーも鞄に入れた。太郎が怖がってこたつの中から出てこなかったので、兄に頼んで無理やり引っ張り出してもらった。このとき、兄は膝を悪くしていて、無理をすると膝の皿がずれてしまう状態だった。太郎を無理にだしたので膝が痛んだようで、少し休憩してから家をでた。その間も何回か揺れがきていて、家の壁には亀裂が入っていた。
外にでると、道路はでこぼこになっていて、マンホールからは水が溢れていた。家や電柱は傾いて、いつもの景色がゆがんでいるようだった。私たちと同じように、みんな近くの避難所へ移動しようとしている様子で、公民館に向かった。公民館のグラウンドでは小さい子たちが楽しそうに遊んでいた。状況がよくわかっておらず、興奮しているようだった。
公民館の中で誘導をしていたお父さんに会いに行くと、「津波がくるそうだ。公民館は津波の指定避難所ではないから( 公民館は二階建てで低い建物) 小学校か中学校に誘導するよう連絡がきたから、お前たちもそっちに早く避難しろ。」と言われた。
お父さんに話しかけるまで舞台の上で座っているときに、自分の膝から血が出ていたことに初めて気づいた。どこかにこすったようだったけど、不思議と痛くなかったことを覚えている。
お父さんから、津波がくると言われたけど、いつも津波がきても何センチかで結局大したことなかったので、今回もそんなもんだろうと思っていた。いつだったかのチリ地震の際もそうだったからだ。同じようなことを話している人もたくさんいた。私たちは2キロ先の小学校に向かった。
小学校に向かう途中、生協の前でNちゃんに会った。お兄ちゃんとはぐれたらしく、家に一回戻ると言っていた。私は津波が来るらしいから戻らないほうがいいと言ったが、大丈夫だからとNちゃんは戻ってしまった。
Nちゃんは津波にのまれて死んでしまった。
もっと強く引き止めていればよかった。
消防車が走って避難を呼びかけていた。
いつも何かあると鳴る、町のサイレンはこの日、鳴らなかった。
中学校の前で兄の膝が痛み出したので、予定を変更して中学校に避難することにした。中に入ると誰かが「3階か屋上へ!」と叫んでいた。兄と私は上へと向かった。外階段から中へ入られるドアをガンガン叩く音が聞こえ、見ると女の人が必死にドアを叩いていた。ドアの前に机が置いてあり、開かないようだった。でも、みんな自分の避難に必死で誰もどかそうとはしなかった。兄と机をどかし、ドアを開けた。「津波だ!」と、窓の外を見た。黒い水がじわじわと学校の駐車場に流れてくるのが見え、おじいちゃんが一人、まだ外にいるのを見つけた。「逃げて!」と叫んだけど、そのおじいちゃんが助かったかはわからない。
少し遠くを見ると。ず……、と、景色がそのままゆっくりゆっくりと動いた。町の中に船が見えた。船が家にぶつかり、家はぼろぼろになって崩れていった。あちこちに水の上なのに火が見えた。町全体が濃い灰色だった。兄と三階の教室から、水没したグラウンドを見た。水でいっぱいで、まるで映画を見ているようだった。夜になるにつれてどんどん暗くなり、懐中電灯を教室の真ん中あたりに置き、壁や周りにアルミホイルを貼って反射させて明かりを作った。持ってきたラジオからは、「絶対に水辺には近寄らないでください。被害の状況は­———」というような声が繰り返し聞こえていた。私は湿った教室の床に横になり、太郎を抱いていた。何も食べていないはずなのにお腹は空いていなかったし、眠気も全く来なかった。気づいたら朝になっていた。
朝になると水は引いていた。町を見たくて屋上にいった。それと、太郎がトイレをするかなと思って。屋上から見た景色に、町はもうなかった。グラウンドには車や船や瓦礫のようなものがぐちゃぐちゃになっていた。目の前にあった生協もなかった。今度は町が茶色だった。
あのときのトイレは今でも思い出すと吐きそうになる。人の用を足したものが積み重なり、ひどい臭いだった。吐きそうになりながら用をたした。学校には知ってる人がたくさんいて、Sちゃんに会った。Sちゃんは学校のジャージで、お腹から下は泥まみれだった。津波に少し飲まれたらしい。Sちゃんはお母さんとまだ合流できてない、小学校の方にいるかなあと言っていた。あとから知ったが、Sちゃんのお母さんは津波で死んでしまっていた。
お昼前ぐらいに兄が自宅の様子を見に行くと言って、少しして戻って来た。うちがあった場所には、うちの二階の屋根があっただけだったようだ。まだ実感がなく、そうなんだうちはもうないのか、と冷静に思った。
そのうちに大人の人たちが崩れてしまったお店から、食べ物や飲み物を持ち出してきた。避難した時に食料を持ち出すことのできた人たちから少しだけお裾分けをもらった。でも全員分はもちろんないので、たしか私はベビーチーズのようなものを一口分食べた。太郎にはお水を少しだけもらえたのでそれをあげた。
安全な内陸の避難所に全員移動することになったが、中学校の出入り口やバスが迎えに来てくれるおおきな道路にでるまでの道には、船や車や瓦礫などがたくさんあって、大勢の人が移動できるような状況ではなかった。なので自衛隊が道を作ってくれるまで待機するように言われた。
暗くなる前に作業は終わり、みんなでバスのところまで歩いた。海水のようなにおいと、ものが燃えたこげたにおいとガソリンのようなにおいがした。いたるところに車や船があって、きっと中には人がいたかもしれない。水は引いていたけど泥がすごくて、靴はすぐにぐしゃぐしゃになった。靴にビニールをかぶせていた人もいたけど、結局みんなどろどろになって歩いていた。
私と兄と太郎は、内陸の小学校の体育館に避難することになった。着くとすでに近隣の地域の人も避難していて、人がいっぱいいた。入り口でおにぎり一つと使い捨ておしぼりを一つずつ配られた。どこか寝る場所を確保しようとしたけど全然場所がなくて、体育館の中のゴミ回収のスペースの前が少し空いていたのでそこに落ち着いた。おにぎりを食べて、おしぼりで足を拭いた。毛布やシートも物資で配られたりしたようだったけどわたしたちがついた頃にはもうなかったので、余っている段ボールをもらって、段ボールを床に敷いて横になった。近くから避難してきた人たちは、自分の家から持ってきた毛布や服などであたたかそうで、わたしたちみたいな海から逃げてきた人たちとはギャップを感じた。目も怖かった。太郎も不安なのか、私のジャンパーの中から出てこようとしなかった。でもそのおかげで、すごく寒かったけど、お腹はあったかかった。中学の先生が状況把握のため点呼をとっていて、太郎をお腹に抱えた様子をちょっと笑われた。
夜、暗い中で何回か余震があって、そのたびに体育館の照明が大きく揺れて、ざわざわした夜だった。
朝になると支援物資が届いた。飲み物はコップがないともらえないと言われて、考えて、ひとり一個もらえるパンの中からサンドイッチ用のパンを選んで、その空き容器で飲み物をもらうことにした。兄はマヨネーズ入りのカロリーの高いロールパンを選んで、とにかく栄養を確保するように2人で食べた。トイレは、プールの水をバケツでくんで流せたので困らなかった。古着も物資で届いたので、パーカーなどの着られそうなものをもらった。わたしたちの隣にいた老夫婦が小さな犬を連れて避難していて、太郎は犬に懐かれていて面白かった。
兄と座っていると、名前を呼ばれた。お母さんとお姉ちゃんが走ってこちらに向かって来ていた。
生きててよかったと抱きしめられた。みんなで号泣した。
お母さんは仕事で内陸にいて、お姉ちゃ���もバイトで海からは少し離れたコンビニにいて、津波が来る前に東部道路に避難して助かっていた。2 人は違う小学校で合流できていたようで、わたしたちの地域の人たちが避難している場所を探していてくれたようだった。お母さんが働いていた保育所の休憩室を間借りしていいといわれたらしく、そこに移動することにした。車できたからそれでいこうと外にでると、血の繋がっている方の父がいた( 私の両親は離婚していて、お母さんは再婚して、新しいお父さんがいます)。私は父のことを嫌っていたし、何年も会ってなかったけど、そのときはなぜだかとっても安心して、頭を撫でられて肩を抱かれると泣いてしまった。非常事態だったので、お母さんも連絡をとって食料や布団などをわけてもらったらしい。
車に乗り、保育所に向かう途中、太郎が安心しておしっこをもらした。避難所では粗相をしなかったので、太郎もがんばっていたのだなと思った。
保育所の休憩室は、5畳ないくらいのスペースで小上がりの畳になっていた。畳の上に段ボールを敷いて、布団を敷いて、家族で川の字になって眠った。やっぱり寒くてなかなか寝付けなかったけど、お母さんが抱きしめてくれたおかげで、よく眠れた。
次はお父さんと合流しようと、情報を求めて市役所に向かった。市役所の中に入ると、壁いっぱいに「◯◯に避難しています◯◯みたらここに連絡をください」といったような内容の紙がびっしりと貼られていた。その中には知っている名前も幾つかあって、ああ無事だったのだなと安心したこともあった。お父さんの名前を見つけたけど、けがをしている、というようなことが書いてあったので焦った。とりあえずお父さんがいるという避難所へ向かうと、お父さんは元気そうに出入り口近くの椅子に座っていた。安心したお母さんはへなへなになって笑った。あのときは情報が錯綜していたので、間違ってそう書かれてしまったらしい。すぐに同じ場所にお父さんも移動したかったけど、お父さんは公務員なので被災者の誘導等の仕事があったのですぐには保育所に一緒に戻れなかった。
保育所での生活は体育館にいるときよりずっと過ごしやすかった。狭かったけど、家族がみんないて、人の目を気にしなくていいのはすごく救われた。電気はまだ復旧していなかったけど、水道が使えて嬉しかった。ごはんも、お母さんの仕事仲間の人が炊き出してくれたりして、あたたかいものを食べられた。ずっとお風呂に入れてなかったので気持ち悪くなって一度、水で頭だけ洗ったけど、寒すぎて凍えた。被災してから一週間たたないくらいに、電気が復旧し始めて、近くの家に住んでいたお母さんの職場の人の好意でお風呂に入らせてもらった。久しぶりのお湯はあったかくてきもちよかった。
お店もすこしずつものを売られるようになって、学校もない私と兄と姉はそれぞれ生活に必要なものを行ける範囲で探し回った。持ち出せたお小遣いをもって、とにかくいろんなお店でなにか買えないか歩き回った。個数制限で、ひとり3個までしかものが買えなかったり、なにも残ってなかったり、3時間以上並んだりした。
あるとき、ひとりでお店の列に並んでいると、知らないおじいちゃんに話しかけられた。どこからきたのかなんでひとりなのか聞かれ、答えると「大変だったね」と自分が買ったバナナを分けてくれた。少し泣いてしまった。いろいろなところで食べ物などを買えてうれしかったけど、そのころは物資不足で窃盗や空き巣が多発していたので、ビクビクしながら保育所に帰る道を早歩きでいつも帰っていた。
銀行でお金をおろせるようになり、保育所も再開するので長くはいられないと、アパートを借りることになった。お父さんががんばって見つけてくれた。引越して、いろんな人の好意で家電や家具をもらって、なんとか避難所生活はひとまず終わった。
アパートで炊飯器をつかって炊いた、炊きたてごはんをたべたときはすごくすごくおいしくて、おかずは缶詰の鯖だったけど、何杯もおかわりをした。あのとき食べたごはん以上に美味しいと感じたものは今もない。
アパートで暮らし始めて少しして、携帯の電話番号を覚えていた友達に電話をかけてみた。その子は飼っていたペットたちは犠牲になってしまったけど無事だった。ただ、その子との電話で「Aちゃん残念だったね。」と言われた。Aちゃんは私のすごく仲良しの女の子で、どういうことなのか理解できなかった。
Aちゃんの妹の名前と避難先の書かれたメモを市役所でみていたので、Aちゃんもきっと無事だろうと思っていた。「新聞の犠牲者の欄に名前が載っていた」そう言われて、後の会話は覚えていない。電話の後に新聞を読み返して犠牲者の欄を探したら、Aちゃんの名前を見つけてしまった。新聞に名前が載っている,という証拠のようなものをつきつけられて、一気に怖くなり、悔しくて信じられなくてまた泣いてしまった。
兄もその欄に仲の良かった友達の名前を見つけてしまったようで、リビングのテーブルに突っ伏して、「なんでだよ」とつぶやきながらテーブルを叩いていた。
4月のある日の夜、また大きな地震が起こった。また津波が来るのではないかと家族全員で車に乗り、指定避難所に急いだ。幸い、なにもなかったが、その日の夜は怖くて車から降りられず、朝まで起きていた。
通っていた中学校から一度学生も職員も集まるよう連絡が来た。当日は市の文化会館に集合し、そこからバスで市内の小学校に移動した。久しぶりに同級生と再会して、今どこに住んでいるのか家族は無事だったのかたくさん喋った。そしてみんなが集まった前で先生が、犠牲になった同級生の名前を読み上げた。Aちゃんの名前も呼ばれた。先生の声は震えていて、最後は泣きながら私たちに向かって話していた。7人の友達が死んでしまった。学校全体では、14人の生徒が犠牲になった。
私はすごく後悔していることがある。遺体安置所に行かなかったことだ。市内のボーリング場が安置所になっていて、そこにAちゃんがいることもわかっていたが、怖気づいていけなかった。私とAちゃんともう一人とで三人で仲良くしていて、そのもうひとりの子は会いに行っていた。顔中があざだらけでむくんでいた、と言っていた。お化粧をしてあげたよと聞いた。私も会いに行けば良かった。
学校は市内の小学校の旧校舎を間借りして再開した。歩いて行ける距離ではなく、駅から毎日臨時のスクールバスが出ていたので、私はそこから毎日学校に通った。文房具や教材は支援物資が届いて、しばらくは制服もなかったので私服登校だった。何週間も字を書いてなかったので、文字が下手くそになっていた。遠くに避難して、転校してしまった子もいたけど毎日家族以外の人とも会えるのは嬉しかった。でも、間借りしていることは肩身が狭かった。間借り先の小学校の子とは話した記憶がない。支援物資や有名人がきた時は「ずるい」、「 そっちばっかり」と言われるようなこともあった。自分は生徒会役員だったため、お礼状や物資管理を手伝っていたけど、千羽鶴や「頑張って!」、「絆」などのメッセージを見るたびに複雑な気持ちになった。無理やり前向きになれと言われているようだった。
学校も落ち着いた頃、同級生の一人のお葬式に参加した。小学校の頃から係活動で仲良くなった子だった。その子はお母さんも亡くなって、その子のお父さんから良かったらきてほしいと連絡があった。とても天気のいい暑い日で、田舎の方の緑がたくさんあるところでお葬式が行われた。久しぶりに会ったKちゃんは小さな箱になっていた。焼かれて骨になって骨壷に入ったKちゃんは、軽くて白かった。お墓にお箸で骨を一つ入れさせてもらった。「ああ、Kちゃんはもういないんだ」と、「こんなに小さくなってるなんて」と、脱力した。
私は夢を見るようになっていた。夢の中で津波から逃げたり、友達と会ったりしていた。その中でも強烈だったのが二つ
ある。一つは、どこかのホテルに友達と泊まりに来ていて、ホテルのベッドで飛び跳ねて遊んでいた。途中までは私も遊んでいたけど、何か変だと感じて、だんだん飛び跳ねている音がうるさくなってきて、「ねえもうやめようよ」と声をかけた。するとその音は「ゴーーーー」という地鳴りの音に変わって、私は耳を塞いでしゃがみこみ、叫んだところで目が覚めた。自分の叫び声で起きた。
もう一つは、なぜか私は小学生で、小学校の帰り道をAちゃんと何人かの友達と歩いていた。夢の中では納得していたけど、不思議なことにみんなでAちゃんのお葬式に行こうとしていた。道の途中で、2本に分かれているけど少し行くとまた繋がる道があり、そこで私はAちゃんをびっくりさせようと「また後でね!」と違う方の道を走って待ち伏せしていた。でも、だんだん不安になって、泣きながらAちゃんを探した。立ち止まっているAちゃんを見つけて、「 行かないで!」と抱きついた、Aちゃんは静かに「なんで私のお葬式があるの?」と、聞いてきた。
そこで目が覚めた。しばらく体は動かず、寝ながら泣いていたようで、頬が涙でカピカピになっていた。
冬になって、12月11日の早朝、お母さんとお姉ちゃんの声で起きた。どうしたのかとリビングに行くと、2人が「お父さん!」と声をかけて、体を揺すっていた。後から聞いた話によると、朝、お姉ちゃんがバイトの支度をしているときに、お父さんから寝息が聞こえず、お母さんに「変じゃない?」と言って、2 人で起こそうとしたようだった。私も声をかけたが起きず、お母さんは「かなこ!( お姉ちゃんの名前) 救急車!」と叫んで、心臓マッサージを始めた。バキバキと骨の折れる音が聞こえた。お父さんの胸はベコベコにされていたが、起きない。私も交代でマッサージをして、救急車を待った。救急車が到着して運ばれる直前、そっとお父さんの足を触った、氷のように冷たくて硬かった。救急車を後ろからお母さんの車で追いかけ、病院についた。ドラマで見たような部屋に運ばれ、看護師に心臓マッサージをされていた。心電図はまっすぐで、「ピー」という音がなっていた。何分間かどれくらい経ったか、マッサージが止まり、瞳孔を見られていた。「すいません」と看護師の方が言い、「ご臨終です」と、初めて聞く言葉を耳にした。病室には「ピー」という音とが響いていた。
みんな無言で家に戻り、お母さんがリビングに座ったところで、「どうして!」と泣き叫んだ。お母さんがそんなに泣いているところを初めて見た。お父さんのことはまだショックでよくわかっていなかったけど、その姿がどうしようもなく悲しくて、お姉ちゃんと抱き合って泣いた。
中学校には、お母さんが色々な手続きで忙しそうだったので、自分で電話をした。担任の先生に繋がり、ほぼ文章になっていなかったけど泣きながら事情を説明した。先生はゆっくり聞いてくれて、学校のことは心配しなくていいよと言ってくれた。
お葬式までの間、斎場でお父さんと過ごした、ドライアイスで冷やされて、冷たかったけど、箱の中にはずっといて、怖くもなかったし、もしかしたら起きるんじゃないかなんて思ったりもした。まあ、当たり前にそんなことはなく、火葬の日がきた。
お父さんが焼かれる場所へ、親族一同で向かった。炉の中へ入れられるとき、もう体さえもなくなってしまうんだと、お父さんに会えなくなるんだと理解した私は一気に悲しくなり、「お父さん」とつぶやいた。涙が止まらなくなり、「行かないでよ」とつぶやいた。お母さんが私の背中をさすった。兄が私の頭に手を添えた。
お父さんは焼かれた。ちゃんとお骨を拾い、壺の中にお父さんは収まった。
お父さんは公民館職員で、そして糖尿病を患っていた。震災の日、公民館は建物が低いので、違う避難場所に誘導している途中で津波が来た。目の前で他の職員が流されるのを見たそうだ。公民館にいた人はギリギリ二階に登り助かったものの、船が建物にぶつかって半壊し、もう少しでみんな死んでしまうところだった。でも、避難途中で犠牲になった人の遺族からすれば、いたら助かったじゃないか! とひどく責められていたらしい。
避難場所でも、公務員はずるい優遇されていると同じ被災者なのに責められ、ストレスで体がおかしくなっていた。持病の糖尿病が悪化し、20キロ体重が増えていた。お母さんから後から聞いた話によると、毎晩のように公民館のグラウンドいっぱいに遺体が並び、こっちに来いと呼ばれる夢を見ていたそうだ。死因は無呼吸からの心肺停止だった。
お父さんは震災に殺された。
お父さんの死と、自分の受験のシーズンが重なり、私は少しおかしくなっていた。受験している場合なのかと悩んで、身が入らなくなっていた。トイレで隠れて手首を切るようなこともあった。今思えば、なにも考えたくなかったからそういうことをして��まったのかもしれない。様子がおかしいと思われたのか、スクールカウンセラーの先生に、週1回、カウンセリングを受けることになった。行きたくなくてサボった日もあるけど、先生は怒らなかった。優しくいろんな話をしてくれた。友達にも支えられて、なんとかいつも通りに過ごせるようになった。
高校受験もおわり、合格発表の日、私は1人で受験した高校に結果を見に来ていた。無事番号を見つけてお母さんに連絡すると、すぐにメールで返事が帰ってきた。メールが2通届いて、確認してみると、もう1通はお父さんの携帯からだった。「合格おめでとう!」と、本当にお父さんからきたかと思って嬉しかった。すぐにお母さんがお父さんの携帯で送ってくれたのだろうと気づいたけどとっても嬉しかった。
高校では美術科に在籍していたため、常にコンペに向けて制作をしていた。一度だけ、Aちゃんを描いたことがあったけど、周りには誰ということはなにも言わずにただ描いた。それっきり震災関連で制作をすることはなかった。
高校生活の中で辛かった授業がある。保健体育の授業だ。心肺蘇生の心臓マッサージを学ぶ授業の時は、お父さんの感触を思い出して辛かった。避難について学ぶ授業では、ふざけた男子生徒が、避難のシミュレーションを発表するときに「津波だー!」とヘラヘラしながら津波のモノマネをしていて腹がたった。そういう授業があった日は、その日1日は震災のことなどで頭がいっぱいになり、帰ってからいつもお母さんやお姉ちゃんに慰めてもらった。
そして何度か震災復興のためのアートプロジェクトに参加した。被災者として何かしなければと義務感に駆られて、割と積極的に参加した。でも、いつも心の隅には、こんなことをしてなにになるのだと皮肉な自分もいた。震災の時のことを公演してくれ、文章にしてくれ、という依頼は全て断った。語ったりはしたくなかった。
高校の卒業制作展で、ゲストを迎えたパネルディスカッションを行った。ゲストは有名な大学の先生で、私は卒展の実行委員長としてトークをした。その中で、「地域復興」の話題を担当し、いろいろなことを話したけど、「私もゆくゆくは自分の地域をなにかしら盛り上げたい」と口にした後は「本当にそう思っているのか?」と、苦しい気持ちになった。立派なことを言わなければ、というプレッシャーがあった。
いつも3月11日は家で家族と過ごすようにしていたけど、2015年のその日は、震災以来初めて閖上にいた。
京都に引っ越す前にみんなに挨拶がしたいと思ったからだ。お花を持って友達と待ち合わせをして、久しぶりに来た日和山は、前はみんなで鬼ごっこをして遊んだ場所だったけど、今は慰霊の場所になっていて、上から街を見渡すと、何にもなかった。まっさらでたまに草が伸びている、そんな景色だった。
中学校に移動して、2時46分を待った。鳩の形の風船が配られて、メッセージを書いた。「行って来ます。」と。そして2時46分、みんなで風船を飛ばした。
でもその瞬間はひどいものだった。多くの人がスマホを構えて、風船を飛ばす瞬間を撮っていた。カメラの音がたくさん聞こえて悲しくなった。なんのためにやっていることなのか、気持ち悪かった。一緒に来ていた友達も怒っていた。イベントじゃないんだ、と叫びたかった。
京造に進学してからは、震災の話題に触れることは少なくなった。し、自分でも避けるようになった。
宮城出身です、というと大体「震災大変だったでしょ?」と言われた。「そうですね」と正直に言うと、気まずそうな申し訳なさそうな対応をされた。それが嫌で、出身は言いづらくなって、「震災大変だったでしょ?」と言われても、「大丈夫でしたよ」と言うようにした。一回生の授業である先生が、どんな内容で言ったのかは忘れてしまったけど、「津波はあっけなく人を殺すからね〜。」と、さらっと言ったことがあった。私はショックで涙がとまらなくなった。俯いて、寝てるふりをした。周りの子にはバレていたかもしれない。その日はずっと気分が上がらず、帰ってからお母さんに電話をした。当時一緒に住んでいたルームメイトに抱きしめてもらった。
二回生の時は、授業中に阪神淡路大震災の映像が流されて、震災の時の記憶がフラッシュバックしたこともあった。イヤホンをつけて目をつぶってやり過ごして、大階段を登ってすぐ横の芝生のベンチで家族に片っ端から電話をかけた。午前中でなかなか繋がらず、体育すわりをしながらずっと待っていた。お姉ちゃんとつながって、落ち着かせてもらって、その日は授業があったけど、一度家に帰った。夜は眠れなかった。
7年経った今でも、津波の映像や写真は見ることができない。彷彿とさせるようなものも苦手だ。3月はいつものように睡眠を取ることもできなくなる。11 日は家族と実家で過ごすようにしている。閖上の方向を向いて必ず黙祷をして、黙祷している時は、悲しい、悔しい、いろんな感情が混ざったように涙が出る。
私はずっと震災に潰されている。それが、とても嫌だ。
——
でも、このままでいるのはもっと嫌だ!
だから私は向き合うことにした。
制作をはじめると同時にひまわりの種を植えた。ひまわりは、お父さんの1番好きな花だったから。
だけど、ひまわりは咲かずに途中で枯れてしまった。
私にはもう少し、時間が必要なようだ。
もうすぐ、8年目の3月11日がくる。
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myonbl · 5 years
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第12回露新軽口噺(2019年3月5日)
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露の新治・新幸師弟の研鑽の場「露新軽口噺」、昨年11月17日の第11回以降中断していました。場所を「太陽と月」から「動楽亭」に移しての再開、ファンとしては嬉しい限りです。折りしもこの日は露の五郎兵衛師の誕生日とのこと、伝承芸に相応しいメモリアル落語会となりました。
「つる」新幸(24分)
手元の記録では、新幸さんの初高座は2014年12月27日、今はなき「雀のお宿」で開催された「立花家千橘・露の新治二人会」でした。今では髪型も変わり、羽織姿も板についてすっかり噺家さんらしくなられましたね。何よりも、このところ「マクラ」の充実ぶりが目立ちます。今夜は明日に迫ったNHKのオーディションの話題、マクラが豊かになるということは当人の活動量が増えていることの表れ。「遅れてきたルーキー」として、臆することなく頑張っていただきたいですね。ネタは鉄板、身体に染み込んでいますから安心して楽しむことが出来ました。
「兵庫船」新治(31分)
島根県での「べっぴん寄席」公演での長時間の移動、勝手に体調不安を心配していました。いささかお疲れの表情とお見受けしたのですが、今夜も色違いの三席を楽しませていただきました。袴姿の登場、宵のお話しは旅ネタと、蒲鉾の説明をしてからの兵庫船。讃岐から大阪へ戻る船中でのやり取り、「矢橋船」「三十石」などと同趣向ではありますが、往時の暮らし・庶民文化をうかがうことのできる楽しいコンテンツ。今夜の新治さん、喜六の弾けっぷりが見事でした。サゲ前の蒲鉾屋の登場、フカとの対峙、鳴り物入りの芝居仕立ては見応え・聴き応え十分。所作の綺麗な新治さんの魅力が十分に発揮された好高座でした。
「厩火事」新幸(15分)
ずいぶんとネタ数を増やされた新幸さん、4月1日に開催される若手噺家グランプリにはこのネタで挑戦されます。髪結いとその亭主のもめ事、兄貴分の入れ知恵で亭主の本心を引き出す作戦、孔子になるか猿侍か・・・。女性の登場する話でも、新治さんの「艶」にたいして新幸さんの「愛嬌」、骨太の外見(失礼!)とのギャップもあって大層可愛らしく感じられます。グランプリでは時間調整など大変でしょうが、自信を持ってチャレンジしてくださいね。
「転失気」新治(23分)
自分の知らないことを素直に知らないと言える、実は物事を深く突き詰めた人にしか出来ない芸当、そうでなければただのアホ。いささか身につまされる話ですが、転失気=オナラという医者の発言をめぐってのドタバタ。キーワードがオナラですから、しつこくやっては聴くに堪えないこともありますね。やはり、この手の話はサラッと上品にやるにしくはない。住持と医者のそれぞれ丁寧な言葉遣いでおかしさ倍増、武士と町人の対比でもそうですが、新治さんの持つ上品さ・江戸風味が生きていますね。
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仲入り前に写真撮影タイム、あまりSNSで使って貰えないとのボヤキ、早速 Twitter にアップしておきました。
仲入り
「高津の富」新治(32分)
この会は「ネタおろし」をウリにしていますが、最後の一席は何を聴かせていただけるのか。現状で商品としては55席、古希には70席にしたいとのこと、そこから「大川町の宿屋・・・」、をを、大ネタへのチャレンジですね。
印象に残ったのは2点、まずは最初の宿屋でのホラ吹き場面、盗人と金蔵・漬物石と千両箱、その後の法螺の続きはなくすぐに宿の亭主が富札を売りつけます。次は後半の高津神社、当たりくじの発表の後、先に宿屋の亭主が登場しました。
笑いを取るのは2番くじが当たるという男の妄想、この場面では「兵庫船」の喜六同様「松ちゃん」が盛り上げてくれます。
決して完成品ではありませんが、随所に新治さんらしいつなぎの言葉があって「新治落語」の味は十分に出ていると思います。願わくば、少し時間をおいてもう一度聴いてみたいと思いました。
三味線:はやしや絹代
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1ma2-fio · 1 year
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小指をぶつけても 気管に食べ物がはいって むせても スマホをいじっていても 誰かのそばにいても もしくは 誰がを想う瞬間も ひとりであることに 変わりはない 誰かに愛を求めても 「愛している」と言われたとしても それは無理やりなのではないか 想いを押し付けているのではないかと 悩むのは 自分がひとりきりだから 自分ひとりきりだから どこにいても なにをしても だれかといても ひとりきりだから #日記 エッセイ 日常 ライフスタイル #津軽古民家暮らし 田舎暮らし 実家暮らし 猫がいる暮らし #たまには無骨にアウトドアとかりんご畑なんかもあるよ #昭和レトロでエモいかもしれない #雑で大雑把でかつ適度に生きている #キレイおしゃれシンプルからは程遠い日常をあえて発信するHSP #読書 絵画 映画 音楽はjazzが好きコーヒー #今日のことばもしくは詩や絵のようなもので語ります #チェアリングでのんびりまったり空を見上げる たまにはお料理も #ハッシュタグは自己紹介のつもりですよろしくお願いします https://www.instagram.com/p/ClW8jG3B2EM/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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toshihikokuroda · 3 years
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「オール沖縄」 活気と結束 政権交代で新基地ストップ 4選挙区完勝・平和の心全国へ 2021年9月29日【3面】
 次期総選挙で、日本共産党の、あかみね政賢沖縄1区予定候補ら「オール沖縄」の1~4区全員勝利を目指し、オール沖縄の共同はこれまでにないくらいの活気や結束の強さを見せています。「政権交代」を合言葉に、必勝に向けた沖縄県内全域での大攻勢を、さらに強める構えです。
 オール沖縄は、1区のあかみね、2区の新垣クニオ、3区のヤラともひろ、4区の金城トオルの4人の予定候補を先頭に、菅義偉首相の政権投げ出しにも機敏に対応し、団結の強さを目に見える形で示してきました。
合同街宣  13日に4候補は合同記者会見を開き、「国民の命とくらしを最優先する政治へ変えよう。政権交代で、沖縄の民意を国政に反映させる新しい政権を実現しよう」と、県民に呼びかける共同アピールを発表しました。沖縄地元紙も報じ、注目を集めました。
 4候補は15、16の両日で合同街頭演説を、県内四つの小選挙区内で実施。それぞれの場所には、各区内のオール沖縄の地方議員も結集しました。
 合同街頭演説では、「オール沖縄は特定のリーダーが引っ張っているのではありません。県民の一人ひとりの思いが結集した運動体なのです」(金城トオル候補)と、オール沖縄の原点が熱く語られました。どの演説場所でも1~4区の全員勝利が、演説で明確に述べられ、「本気の共闘」「気持ちの良い共闘」が示されました。
政策明記  市民連合と4野党が8日に合意した共通政策に、同県名護市辺野古の米軍新基地建設を中止することが明記されたことが、「政権交代で新しい政権ができれば新基地を止められる」とオール沖縄陣営を大きく激励し、力を引き出すことにもつながっています。
 25日の日本共産党のオンライン演説会で、保守・中道政策集団「新しい風・にぬふぁぶし」の、翁長雄治県議(故・翁長雄志前知事の次男)がこう熱く訴えました。「あかみね政賢さんの勝利なくして、オール沖縄の勝利・政権交代はかないません」―。1区での必勝に向けて全力で頑張る決意を表明しました。
 翁長県議は「オール沖縄は、保守と革新がお互いの支援者の声を背に、一緒に沖縄を前に進めてきました。(全国の市民と野党の共闘でも)同じように共に前に進むことができると確信しています。政権交代で、国民の声を聞き、生活をしっかり見る、責任を持つ政権をつくりましょう」と呼びかけました。
 「オール沖縄の風が吹き続けている。スクラムを組んで沖縄の問題を解決していきます」(4区の金城候補)、「ぜひともオール沖縄代表で1区から4区まで全て勝ち抜いて沖縄の声を国会に届ける」(3区のヤラともひろ候補)、「沖縄の良識、誇り、尊厳を、来たる衆議院選挙で今一度、示していきましょう」(2区の新垣クニオ候補)など、連帯の訴えも配信されました。
 オンライン演説会の視聴者から「オール沖縄は健在だと実感した」「頑張る気持ちになった」「沖縄の平和の心を国政に届ける宝の議席、あかみねさんの議席の値打ちが分かった」などの感想が寄せられています。
前進誓う  オール沖縄の攻勢に対し、新基地建設推進の自公などの勢力もビラの全戸配布や街頭宣伝で圧倒しようとするなど、巻き返しを強めています。日本共産党やオール沖縄は、さらなる攻勢と共同の力で打破する構えです。
 あかみね氏は26日に那覇市内で行った「まちかど街頭演説会」で、新型コロナウイルス感染爆発と医療崩壊が起こったのは、自公政権が医師や保健所を減らすなどして、「医療体制が脆弱(ぜいじゃく)になった」からだと指摘。「国民の命を軽視する自公政権を倒さない限り、政治は改まりません」と強調しました。
 市民連合と4野党の共通政策で、医療崩壊から国民を守ることや格差と貧困を是正することを約束していることを紹介しました。
 あかみね氏は、辺野古の新基地建設を許さない県民によるオール沖縄の誕生が、全国の野党共闘につながった意義を改めて紹介。「野党共闘で新政権をつくるには、引き続きオール沖縄の前進と拡大が必要です。県民が頑張れば、日本の政治を変えられる力になる。ともに頑張ろうではありませんか」と呼びかけました。
 演説会をSNSで知って駆け付けた那覇市在住の金城寿芽子(すがこ)さん(56)は市民連合と4野党の共通政策を「もっと工夫して広めていかないといけない。今度の選挙で政権を代えるんだと多くの有権者に分かってもらい、投票に行ってほしい」と語り、あかみね氏を応援すると述べました。
 演説を聞いた上津沢子さん(50)は「戦争につながる米軍新基地建設や基地の強化はやめさせて、平和に暮らせるようにしてほしい」と訴えました。
あかみねさんに希望託します
ぶれずに信念貫く 前参院議員 糸数慶子さん  辺野古に新たな基地はいらないという「沖縄の心」と県民の思いを受け止め、ぶれずに信念を貫いて頑張るのは、沖縄1区で、あかみね政賢さんしかいません。沖縄戦戦没者の遺骨が眠る地域の土砂を、新基地建設の埋め立てに使おうとするなど、沖縄いじめの自公政権にノーとはっきり言えるのも、あかみねさんだけです。
 平和憲法に基づいて、あかみねさんが新基地反対の先頭に立ち沖縄の声を国に届けてきました。どうしても勝ってもらわなくてはなりません。あかみねさんに沖縄の希望を託したい―。私も勝利に向けて頑張ります。
 総選挙に向けて野党4党が共通政策に合意し、政権交代へ共闘していくことが決まり、勇気をもらっています。沖縄をモデルに全国で野党が共闘すれば、政権交代できると信じています。
 私が国会でずっと取り組んできたのが選択的夫婦別姓制度でした。共通政策にその実現が盛り込まれ、やっとここまで来たという思いです。実現の近道は政権交代です。沖縄から政権交代の道を切り開くため、「オール沖縄」の小選挙区予定候補4人の全員勝利をつかみたい。
米兵犯罪防ぐため 「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表 高里鈴代さん  あかみね政賢さんが国会議員になる前の那覇市議時代、私も那覇市議でした。当時から、あかみねさんが政治家として理路整然と訴える力に、すごく感心していました。
 1995年に沖縄で米兵による少女暴行事件が起こり、再び被害者を出してはならないと行動してきました。しかしこれまでも米兵犯罪は続発し、コロナ禍の今年も、米海兵隊員や軍属が路上で女性を襲う事件が起きています。
 事件を防ぐには、せめて米兵の基地の外での行動を制限すべきですが、それすら十分にされません。日米地位協定が米兵を守り、自由な行動を可能にしているからです。
 地位協定の見直しを求める沖縄の声に背を向けてアメリカに追従し、改定に取り組もうとしない日本政府の姿勢を、これ以上続けさせてはいけない。
 そのためにも今度の総選挙で再び、米軍基地削減を求める声と、辺野古の米軍新基地建設は絶対に受け入れられないという民意を明確に示したい。あかみねさんら「オール沖縄」の4人の沖縄小選挙区予定候補を必ず当選させたいと、強く思っています。
(しんぶん赤旗、2021年9月29日)
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