Tumgik
#江戸裂き
gobangiri-news · 3 months
Text
本ポスター&本予告&場面写真一挙解禁!
このたび、映画『碁盤斬り』の本ポスター&本予告&場面写真が一挙解禁となりました。本作は、ある《冤罪事件》によって娘と引き裂かれた男が、武士としての誇りを賭けた感動のリベンジエンタテイメントです!
■本ポスター
Tumblr media
静寂と暗闇の中、精悍な表情で1点を見据える主人公の柳田格之進の横顔が大きく映し出され、ある冤罪事件に巻き込まれ、復讐を誓った男の怒りがヒリヒリと伝わってくるかのようなこのビジュアルには、キャッチコピーすら斬り落とされており、草彅剛さんの存在感も圧倒的な本ポスターとなりました。
■本予告
youtube
濡れ衣をきせられ、妻も喪い、故郷を追われた男・柳田格之進が、1人歩みを進めているシーンから始まります。続いて映し出されるのは、格之進の1人娘、お絹(清原果耶さん)の「父上は、一旦こうと決めたら何があっても後には引きません」という言葉と凛とした眼差し、そして囲碁や日々の暮らしに誠実に向き合っている格之進の姿。そんなある日、格之進は旧知の藩士から妻の最期に関する驚くべき事実を聞くことに…。身の潔白の証明のため自ら命を絶とうとする格之進でしたが、愛する娘・お絹の必死の訴えにより、父と娘それぞれの誇りを賭けた闘いが始まります。そして「あの日の約束を、忘れてはおらぬな!忘れてはおらぬな!」と、激高する格之進の姿など、鬼気迫るシーンの数々が映し出され、父娘による愛と感動のリベンジに期待が高まる予告編に仕上がりました。
■場面写真
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
《あらすじ》 浪人・柳田格之進は身に覚えのない罪をきせられた上に妻も喪い、故郷の彦根藩を追われ、娘のお絹とふたり、江戸の貧乏長屋で暮らしている。しかし、かねてから嗜む囲碁にもその実直な人柄が表れ、嘘偽りない勝負を心掛けている。ある日、旧知の藩士により、悲劇の冤罪事件の真相を知らされた格之進とお絹は、復讐を決意する。絹は仇討ち決行のために、自らが犠牲になる道を選び……。父と娘の、誇りを賭けた闘いが始まる!
10 notes · View notes
774 · 9 months
Quote
近藤らは敗走し、3月8日には八王子宿(東京都八王子市)において江戸引き上げを宣言した。この頃、永倉新八、原田左之助らは勢力を結集して会津において再起を図る計画を立て、3月11日には江戸和泉橋医学所において近藤と面会するが、近藤は永倉・原田らの計画に対して近藤の家臣となる条件を提示したため両者は決裂し、永倉・原田は離脱した。近藤・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、隊士は227名に増加した。近藤は変名をさらに「大久保大和」と改めた。 4月には下総国流山(千葉県流山市)に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿(東京都板橋区)に入っていた。新選組は4月1日・2日には流山の光明院・流山寺に分宿し、近藤・土方は長岡七郎兵衛宅を本陣としていた。新政府軍は総督内参謀の香川敬三が大軍監となり、下野国宇都宮の宇都宮城占拠を企てる会津・桑名勢に対抗するため日光街道を進軍し、4月2日には糟壁(埼玉県春日部市)に至っている。新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知り、4月3日には近藤を捕縛する。近藤捕縛は史料により状況が異なり、越谷の政府軍本営に出頭したとする記録もある。 しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。 板橋宿平尾の脇本陣豊田家に幽閉され、板橋宿本陣にて連日取り調べが行われた。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった加納鷲雄、清原清に近藤であると看破され、結局捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩(谷干城)が押し切り、慶応4年4月25日(1868年5月17日)、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。
近藤勇 - Wikipedia
6 notes · View notes
kennak · 3 months
Quote
高い枕を使っていることが脳卒中の一因である「特発性椎骨動脈解離」の発症リスクになっていると、国立循環器病研究センターの研究チームが発表した。首への負担がリスクと考えられ、チームは「殿様枕症候群」と名付けて注意を呼びかけている。論文が国際学術誌に掲載された。  特発性椎骨動脈解離は首の後ろの椎骨動脈が裂けてしまう病気のうち原因不明のタイプを指し、15~45歳の若い世代では脳卒中の8~10%の原因とされる。  チームはこの病気の患者で極端に高い枕を使っているケースが目立つことに着目。2018~23年に同センターでこの病気と診断された53人(26~79歳)と、同時期に同センターに入院した年齢と性別が同じ比較対照の53人について、枕の高さや硬さを調査した。枕の高さは、頭をのせない時で12センチ以上を「高い」、15センチ以上を「極端に高い」と定義した。  その結果、特発性椎骨動脈解離患者と対照患者を比べると、高い枕の使用率は「34%(18人)対15%(8人)」で約2倍、極端に高い枕では「17%(9人)対2%(1人)」で約9倍の差があった。枕が高いほど発症割合が高く、枕が硬いほど発症との関連が強くなる傾向もあったという。  極端に高い枕を使っていた患者の中には、スマートフォンやテレビを見る目的などで枕を複数重ねたり、巻いた布団で代用したりしていたケースがあった。  チームによると、日本では17~19世紀に殿様枕と呼ばれる高く硬い枕が市民の間で広く使われ、江戸時代の随筆には高さ4寸(約12センチ)だと髪形が乱れないが、3寸(約9センチ)の方が長生きできるという意味の記述がある。チームの田中智貴医長(脳神経内科)は「首が大きく曲がった姿勢がリスクになり得ることを知ってもらい、少しでも病気予防につなげたい」と話す。
「殿様枕症候群」ご注意、高くて硬い枕に脳卒中のリスク…首への負担が原因か | ヨミドクター(読売新聞)
2 notes · View notes
qofthequinine · 3 months
Text
椿
この時期は寒椿が咲く。道に落ちた真っ赤な花びら。少しドキッとしてしまうが、色合いが植物だ。自分も、友達を追いかけていたところを他の友達に階段の手前ではがいじめにされたあと、パッと解放されたら倒れ込んで、眉毛の筋肉が裂けた。あのときの廊下に流れた色はよく覚えているが、あの傷を受けた瞬間もそのあとも、痛くなかった。怖いだけだ。駆けつけた先生に渡されたタオルの枚数は覚えていないけれど、相当な量だったと思う。あと、出血に気づいた瞬間に、本能的に腕を思いっきり押し付けて自分で止血していたのは、どこで覚えたんだろうか。
椿。来月には咲くだろうか。本物の椿はもっと恐ろしい。赤い小さな花が開かないままに、ボタリと落ちる。首が落ちるわけだ。縁起が悪い花のはずだ。そして、椿がある場所はなぜかひっそりしている。家の中の人目につかないところ。
帰るべき実家には椿が植ってある。というか、なぜか先祖を辿ったり地理条件とひいおばあちゃんの話ぶりと地元の江戸からの古文書を読むに、どう考えても椿はよくないように思うんだが、なぜか家紋に椿が入っている。
昔読んだ少年向けの本に、冬休みの旅行先で、庭にある椿の頭が一斉に顔になって笑い出し、さらには落ちていく、という描写があった。で、それを祓う呪文は、「ノウマクサンマンダバサラダンカン」聞き覚えがあるなあ、と思っていたら、母方の実家でいつも唱えていた真言だった。
今年は椿が咲くだろうか。
2 notes · View notes
ysformen · 1 year
Text
『日本人が知らない満洲国の真実』を読んで印象的だったところ。
歴史とは因果関係を明らかにすることです。
良い悪いや善悪の判断は、生身の人間がすることではなく、閻魔様の役割だとでも思ってください。
日本人は真面目すぎて、問題が発生した時に一所懸命に考えて、その都度、最前と思われる対処を行なったのがよくなかったのではないかと、私は思うのです。何千年も前から現地に横たわっていた問題など、放っておけばよかったのです。
日本人のすぐに白黒つけたがる性格がいけなかったのではないかと、最近では思っています。
台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき。
日本人は自分たちのしたことについて、まったく自覚がないところは悪い点です。
日本がパリ講和会議で出した人種差別撤廃条約にしても、あれがいかに欧米の人を困らせたか、日本人は全然理解していません。
アメリカがハワイを併合したときも、日本はかなり文句を言いました。アメリカはすごく腹を立てましたが、日本はそれについて無自覚で、その後、アメリカが日本に報復したくなるとは思いもよりませんでした。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。しかし私はちょっと違うと思います。日本人は自分たちがいかに世界中に大きなインパクトを与えたか無自覚すぎます。
私から言わせれば『あなたたち、自分たちがいかに、世の中を変えたのか、もっと自覚なさい」というところです。
日本人にその自覚がないため、却って無責任に映るのです。日本人が無自覚に正当論を述べたり、本当のことを言ったりすることが、相手にとって痛手になればなるほど、相手はそれを根に持ちます。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法を守って、何もしていません」と言っているのは、とても嘘臭く見えるようです。
優等生が「明日のテストの勉強、私、全然してないの。どうせ悪い点だわ」と言っているのと同じような感じです。それでいい点を取るのですから、嘘つきだと憎まれるのです。
中国人からすると、日本人は全員が嘘つきに見えるようです。
第一次世界大戦後、日本は世界の一員として相応しい態度と振る舞いをしようという意気に燃えていたのに、結局、ヨーロッパからは日本だけが悪者扱いをされてしまいました。
本当に今とそっくりだと思いませんか。
ヨーロッパ人は、そもそもアジア人を信用していないのです。ヨーロッパ人の人種差別は根が深いのです。日本人は名誉白人にはなっても、白人ではありません。
1919年というのは、たった一年ですが、世界史が動き出した一年と言えます。
この1919年の前か後かによって、因果関係がまったく変わってきます。
1919年、世界同時革命を目指すコミンテルンが誕生し、ウィルソン米大統領が民族自決を煽ったせいで、アジアでも激しい民族運動が勃発しました。朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動です。
ハプスブルク帝国を八つ裂きにし、オスマン・トルコ帝国抹殺し、この両国から二十もの国が独立していきました。
現在ではこの両国の旧版図に五十もの国がひしめき合っています。
1919年、ソヴィエトはカラハン宣言を出して、日露戦争後、満洲やモンゴルのを互いの勢力圏に分割した日露の秘密協定暴露し、日本とロシアの取り決めを無効としました。
日本を悪い国だと世界に示すのが目的でした。
中国が共産化して反日に変わった1919年から、満洲は中国であると言われるようになるのです。
ロシアがソ連軍になって過去の関係を全て無視したのと同じように、ソ連の後ろ盾を得た中国も、過去の人間関係や国際関係、条約を全部棄てました。
満洲における日本と中国の関係は1919年を境に完全に変わったのです。
日本という国家はイデオロギーではできていません。最初からみんなが仲良く暮らしていて、憲法などなくても平気なのです。私は憲法廃止論者です。憲法など無い方が、よほど縛りが無くていい国が作れると思っています。よそから来たイデオロギーは日本人には合わないと思います。
中国人と喧嘩をしろということではないのです。見方や感覚がまったく違うので、合わせようと思うことをやめればいい。
感情を抜きにして付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。
国際連盟にとどまっていても、戦争に突入したということもあり得ます。
日本ではなくアメリカが戦争をしたがっていたので、いつかは戦争になっていたはずです。
本当は、アメリカがなぜそれほど日本を敵視して、戦争をしたがったのかこそ、問題にすべきでしょう。
日本人が強いのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が最終的に負けたのは、本当にインテリジェンスが弱いとしか言いようがありません。
満洲にいた満洲人が最後に言ったのが、「日本も残念ですね。こんなに軍事力が強くて、こんなに立派だったのに」という言葉で、現地の方からもそう見えたのでした。
現在の中華人民共和国や北朝鮮と、当時の満洲や併合後の韓国と、どちらがまともな生活をしているか比べてみてください。
そうした観点から論じるべきなのに、日本人は、何事においても、ああすればよかった、こうすればよかったと反省し、失敗した理由を考えすぎます。
矛盾は矛盾のままで、特に問題にすることなく放っておくのです。解決など考えずに、そのままにしておこうというのが大陸的なのです。
戦後の日本の新しい発想というのは、大陸帰りの人からのものが多いです。
当時、右であれ左であれ社会主義の影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ世界史は理解できません。
関東軍もそうですが、軍人はほとんどが貧乏な家で育ちました。そのため、資本家がいなくて人間は平等であるという社会主義の国を目指したのです。
当時の満洲には、自分たちが南方の国民党や共産党と同じ中国人であるという意識はまだなく、のちに歴史を書き換えたのです。
江戸時代は指導者を育てる教育をしていたのが、明治になって官僚を育てる大学しかつくらず、政策を考える帝王教育、君主教育が日本にはなくなったから、立派な指導者が育っていないのです。
日本人は個々人がしっかりしても、全体としては方向性がないというのは本当に残念です。
ノモンハン事件後に関東軍司令官となった梅津美治郎は 、暴走する関東軍参謀らを処分し 、人事の立て直しをはかりました 。彼のもとで一九四一年に 、ソ連国境付近で関東軍特種演習 (関特演 )が行なわれました 。
梅津が支那駐屯軍司令官時代には 、宋哲元の部下が熱河省を侵犯したのに対して 、梅津 ・何応欽協定 (一九三五年 )を結んでいます 。
梅津は 、昭和のありとあらゆる重要事件に関わっていたと言ってもいいでしょう 。二 ・二六事件後に陸軍の粛軍人事を行ない 、一九四五年の降伏文書調印式にも嫌々ながら軍の代表として出席し 、ミズ ーリ号で降伏文書に署名しています 。そのときに息子に対して 、二 ・二六事件とノモンハン事件のことを指して 「今度もまた後始末だよ 」とぼやいたと言われています 。
明治以降の積み重ねが 、今の日本の土台になっているということを 、日本人はしっかりと認識すべきです 。それを理解した途端に 、日本人は元気になると思います 。日本の歴史の本当の姿がわかれば 、それだけで将来は開けると私は思うのです 。従って 、今 、日本のなかで自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を 、取り払っていくだけで 、それ以上は何も言わなくても 、日本人は勢いよく前へと進めると思います 。
日本の六十歳を超えた世代がこのように全然あてにならないので 、三十代 、四十代が本気で頑張らないと 、日本は本当に駄目になると私は思っています 。
満洲国が存続していたら 、日本人も変わることができたのにと思うのです 。日本の中央官庁の職員になったら 、研修で否応なしに最初の三年位 、満洲に行かされます 。そうすれば 、世界のことがわかり視野が広がって 、いい訓練になったのになと思います。
日本では権威 (天皇 )と権力 (侍 ・将軍 )を分けていて 、満洲国でもそれに倣ったからです 。権威と権力の分離は日本の歴史の素晴らしいところで 、日本の歴史では 、天皇陛下がいたずらに権力を振るうということはそうそうなかったのです 。
支那事変と 、それに続く大東亜戦争さえなければ 、満洲国は今の南米の国などとは比べものにならないほど立派な国になっていたはずです 。もう少しで 、共産党の中国�� 、北朝鮮のような国ではない立派な近代国家が 、アジア大陸に誕生していた可能性が高かったのです。
今の北朝鮮や中国に対して 、 「われわれは 、こんな国を作ろうとしたのではない 。もっと立派な国をつくろうとしたんだ 。国民に幸せに暮らしてほしいと願って投資したのに 、異民族支配は嫌いだと日本人を追い出しておいて 、同じ民族になら 、殺されても満足なのか 。その後 、なぜこんな状態になったのだ 」と 、日本人は抗議する権利があると思うのです 。
11 notes · View notes
kuribayashisachi · 1 year
Text
勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第1部「外圧」第3章‐5
Tumblr media
朝勉強で少しずつ読んでいる、 野口良平『幕末的思考』みすず書房
第1部「外圧」の第3章「変成する世界像」‐5 まで来ました。 学習メモと、感想、連想、脱線……を書きます。
***
時代と格闘する幕末の真摯な群像に出会い、どきどきが止まらないこの本。 とくに、第3章‐3(ポーハタン号・咸臨丸による幕府使節の渡米)には、胸がときめくようでした。
なのに、ここへ来て、だんだんついていけなくなる。
それはひとえに、私が「戦やだ~~」から離れられないから。
しかし、彼らは武士なので戦争が家業だし、この時代に「戦争自体が悪」という思想はなかったのだろうし、今は、真摯な幕末人たちの事蹟を負うのだから、私の感想は置いておこう。
幕府が必死にどのように開国するか、列強に対応している間、 長州と薩摩は、外国と戦争をはじめてしまう。
長州藩は、関門海峡を通る外国商船を砲撃。 薩摩藩は、生麦事件(大名行列を横切った英国人を斬り殺してしまう)の賠償交渉で英国と決裂して開戦。
彼らは「戦争」を選び、しかしそこから列強との新たな交渉の窓口をつかんでいった……。という。
***
本の内容をメモ。 (間違ってたら、だれかおせーて!)
緑色の字は「個人の感想です」^^
米英蘭仏と条約を交わし、開国を決めた幕府。 ここへ来て、考え行動する幕末人たちは、それぞれに新しい一歩を考え出してゆく。
◎横井小楠の説
熊本出身の学者・政治家横井小楠は、スカウトしてくれた松平春嶽を通して幕府に献策。それが「破約必戦論」。
“今は攘夷か開国かではなく、興国のとき。現行の不平等条約は、不正なやり方で締結されたので破棄。→もちろん列強は怒るだろう。なので「必戦」は覚悟した上で、国内の諸勢力が同じテーブルについて天下の公議を重ね、国是を決め、それを諸国に示して国際会議の場で普遍的な道理に照らして是非をはかる。"
という考え。
(うん、「必戦」以外はよい!)
だが、横井小楠の「破約必戦論」は、幕府(特に徳川慶喜)に拒絶される。
→徳川慶喜の言い分 ①必戦というが、戦をして負けたらどうなる?(負けるよ-)
②諸侯会議を開いて、時局のことをまったく判ってない奴が来て変なことを言えば混乱するだけ。 (わかる)
③条約を結んでおきながら、批判が高まればおたおたするのは天下に対して無責任すぎる。
→横井小楠「慶喜さま、卓見だわ~」と、策を引っ込める。
→けれども、長州の周布政之助、桂小五郎は横井小楠の策に賛成! 「破約必戦論」を聞いた周布、桂は、これまで「条約追認論者」と決めつけていた横井小楠を信頼する。
→「もう幕府はダメかも、諸国のみんなで連携してやろうか、政治を」という気運になってくる。
◎長州藩の動き
吉田松陰の弟子である久坂玄瑞が、京で攘夷派の公家を動かし、朝廷を攘夷派でまとめ、孝明天皇から(京に捕らわれている)家茂に「条約破棄交渉をせよ」と命令書を出してもらう。
さらに、生麦事件の賠償問題で困っている幕府をさらに追いつめるため、関門海峡を通る米・仏・蘭の商船を砲撃する。
→ひえ~、やめて~~!!
→4国連合艦隊が報復。惨憺たる敗北
→「今までの軍ではダメ。身分を問わず、みんなで防衛しよう」と、 高杉晋作が、武士だけでなく、身分を問わぬ「寄兵隊」をつくる。
攘夷戦争と同じ頃、横浜から長州人5人が密航留学してる。
◎薩摩藩の動き
生麦事件の賠償交渉を、英国と藩独自でもつ。→決裂→薩英戦争。「善戦」するが敗北
終戦交渉の場を利用して、イギリス相手に幕府を批判。対日本交渉の窓口は、幕府より薩摩だ!とアピール。
湾に入ってきた英艦に乗り込んで薩英関係の改善に努力した人も。 五代才助(友厚)、松木安弘(寺島宗則)。
◎勝海舟と横井小楠
幕府から献策を却下されたとき、 横井小楠が、幕臣の勝海舟にぼやいた言葉。 “「攘夷は興国の基」だが、異人をやたら斬ったり「でていけ~」というのが攘夷だと思っている輩が多すぎるので、なかなかそこまで行けない。ふう~"
勝海舟の海軍構想 と 横井小楠の「公共の政」構想は、通じるものがある、とのこと。p62
◎理屈ではわかるが、なんだかこわい
勝海舟の海軍構想 と 横井小楠の「公共の政」構想は、民主主義国家と国民皆兵制度のことだと思うけど、
すばらしいもの……なのかなあ。
なんか、江戸時代の方が庶民にとってはいいように思う。
江戸時代、農民・町人は唯一の納税者。武士はその「あがり」で食べ、身分制度の頂点にいた。そのかわり、いざとなったら戦に出て農民たちを守る。
ところが近代、明治以降~ 農民たちは税も取られる上に、兵にも取られて死ななくてはならない。いやだよね~。とられすぎ。。。
それにこのとき、「とにもかくにも(ぶっちゃけ、たとえ植民地になっても戦をしない」という考えはどこからも出てこなかったのだろうか。知りたい。
3 notes · View notes
niyuuhdf · 21 days
Text
行屋家の遺伝的なもの?
「感覚に支配されやすいからこそ感覚したものだけが世のすべてだと思わぬように。(感覚できるものを世のすべてにしてしまったら絶望しか残されない。) 感覚できないものこそが我々の救いになってくれる。」
遺伝的に発症する体質 ・全感覚過敏 ・発達と発育が早く早熟 ・他者との身体的接触への生理的嫌悪感 ・頻脈 ・運動神経の良さ ・バランス感覚の良さ ・痩身、太れない、痩せ細りやすい 過覚醒と過集中で全身のエネルギーを常に大量消費するため ・長身 (重力に逆らうような荒っぽい生き方をした場合+性的快楽を早くから求めすぎた場合、結果として小柄なまま身長の伸びが止まるケースが多いため、小柄な血筋に見えがち。逆らわず性的快楽も求められずおとなしかったナナはどこまでも手脚が伸びた高身長なため、遺伝的にはむしろ長身) ・高体温、発熱状態 (すぐに水分不足に陥り脱水と熱中症が常? 海水を飲むとマシになる?) ・時間感覚の狂い (おそらく過集中の症状?) (健常な人間の人生と肉体の時間経過を全体的に速めたようなイメージ。) ・短命(※本来、不老不死の不死身と謳われる長寿。殺しても殺しても死なない不死身の頑強な身体。)(※「遺伝」と表するのは誤謬。血族間での壮年前期での殺人を「病死」として隠蔽するための建前。むしろ身体的には常人ならざる殺しても殺しても死なない頑強さを持つ、本来はその肉体的な強さのほうが「遺伝的」なもの。あらゆる苦痛と汚辱を受けて血塗れ傷だらけになって発狂してもなお肉体的には頑強で容易に死ねないことから、血族が殺意を持って確実に殺すことでしか死なず、放っておくと九十年以上も生きる。) (歴代の死因も、ほとんどが身体的な病死ではない。ほとんどが事故、他殺、変死。血族間での殺人は現代になってからは事件性の誤魔化しを効かせるのが難しくなったため減った。が、病の苦しみから躁的に見える常軌を逸した危険行動や衝動に精神を支配されての、行動による結果的な死。) ・視覚認知への依存が強い脳 ・腑に刺激が奔る (その不快な刺激に心身を侵略されないために正常な性的快楽で打ち消そうと肉体の性的快楽を異常に求める。その行為を非倫理と見做さない精神構造は、卵と鶏どちらが先か、本人たちにも判別できない。故に、性に奔放で早熟で、性行為が生殖と結びつきにくい認知) (そこに至る前提として、生まれつき他人との身体的な接触への凄まじい生理的嫌悪感を持つ。 身体を侵略されることへの耐えられない屈辱感が強すぎるため、腑を勝手にくすぐられる感覚が常人より何倍も耐えがたい苦痛になる。) ・加齢とともに目が明るさに耐えられなくなる ・ある日突然目に激痛が襲い、以後は光が眼球を針で刺されるような痛みで、瞼を開けていられなくなる。正常な視覚を失う。 (見えるはずのないものが見える目は、視覚以外のすべての鋭敏な感覚からの情報の集約とそのイメージ幻覚なので、正常な視覚を無くしても瞼を閉じていてもそれは脳裏に見える。それを頼りに生きることができる。 見えるはずのないものまで見えるから目の酷使で激痛を起こし視覚をなくすというより、本来は逆? 視覚をなくしてもまだ視覚イメージで世界を把握して生存しようとする、視覚認知への依存が強い脳)
「感覚に支配されやすいからこそ感覚したものだけが世のすべてだと思わぬように。(感覚できるものを世のすべてにしてしまったら絶望しか残されない。)感覚できないものこそが我々の救いになってくれる。」
「俺たちは行灯の火を潜り抜けて現し世に偶然姿を晒しちまった。現し世の人々の目に、俺たちのこの姿が分け隔てなくうつるとは、ゆめにも思わずに。」
…でも本当は、死の先に帰る場所があるように感じてる。そこにしか俺の帰る場所はない、とも。…この感覚はなんだろう。 死の先に 故郷がある。
ーーーーーー
もとは海辺の近くで暮らす一族。 まだ「行屋」の苗字もなく、漠然と血縁同士であることを感じ取って助け合って生きていた頃。 海辺で生まれた民の中で生きていた。
行屋家の血筋の者は、見えないはずのものをよく見た。 しかし、血縁同士で見えるものを他者に口にしすぎないことを教え伝えていた。 ※それまでには、ごくたまにだが、見えたものを口にすることで村の秘密を暴いてしまう危険な存在として、ひどい暴力も迫害も公然とあった。特に行屋家の幼児はうっかり口にしてしまいひどい仕置きを受けた。 しかし行屋家の幼児はそのほとんどが発達が早く早熟で聡明だったため、親族の教育でその事態を防いで沈黙し何事もなく暮らしていくことが可能だった。
江戸の頃。 海辺の村ではその目は代々「ありがたい不思議な力」程度のものとして、脅威や不気味さとして認識されることなく、 ごく自然に受け入れられ、どちらかというと重宝がられ、失せ物さがしなどを気楽に頼まれてはその場で解決してみせ、不思議な力にみなで感謝しつつ宴会をひらく、というような楽観的で素朴なものだった。 行屋家の人間も、この頃は30代より少し長く生きたし、当時はそれくらいの年齢で亡くなることはそこまで異例でもなかった。海辺が行屋家の身体に環境として合っていた可能性もある。
文明開花(?)以後。 海辺の田舎にも医者、それも西洋医学を軸として学んだ医療が及ぶ。 行屋家の人間の目と病と短命が、放置されなくなった。 医療を尽くして懸命に長寿を達成させようとする向き。しかし手を尽くせば尽くすほど、他の病とちがい、行屋家の人間だけはどうにもできないことが浮き彫りになってくる。
(目のことは医師の間で遠くまで知れ渡り、もっと時代が進むと「霊能者」あるいは「エセ霊能者気取りの不気味な血筋」として強烈な迫害と少数の信仰を招いた) 歳を負うごとに狂躁のような激しい気質を帯び、それが昂って暴走したり、あるいは茫然自失になるさまから、 行屋家の人間が嫁いでいった先の家には「座敷牢」が用意されるようになった。 ここから行屋の人間は「精神病者」と定義づけられ、私宅監置に置かれることとなった。 行屋家の人間はそれを静かに受け入れた。
その後、また時代が過ぎて、 外部から調査にきた医師団が、私宅監置の現状を調べ、あまりに杜撰で酷いものが多いことから、病院への入院治療を推し進める流れになる。 おりしも行屋家の住む土地は人の少ない海辺であったので、危険行為を繰り返す精神病者を完全に病院に隔離することなく開放的な入院治療と静養がかなうとして、静かな海辺に精神病院が建てられた。(行屋家のみのための病院ではない)
その後、また時代が過ぎて、 全国で人口が爆発的に増加。 海辺の田舎にも住宅が押し寄せひしめき、「海が綺麗だ」というだけの理由で好んで住みたがる人間たちが、各地から病院付近に密集。 その人間たちは、古くから建つ精神病院を忌み嫌い、立ち退きを要求してきた。 病院側は、「患者を院外に出さない」ことを条件に、立ち退きを逃れた。 精神病者の生活と権利と尊厳が狭く限られてゆくこととなる。
その後の大きな戦争で大打撃を受けた精神病院から、一部の行屋家の者が焼け出された。 多くは医師との信頼関係があり、病院におとなしく留まった。 焼け出された者たちが、海沿いのあちこちの各地に散ったのが、今の行屋家の人間たちの実態である。 海外に飛んだものもあるが、皆決して海から離れようとはしなかった。
ーーーーーーーーーー
行屋家の血筋の者は、ほぼ例外なく奇妙な病を患って、発狂し、短命に終わった。 現代医療でも説明不可能な原因不明のなにか。 発症年齢と経過には多少の個人差があった。
行屋家の遺伝的体質、特徴 躁、早熟(多才多芸、性的な面も)、発達が異様に早い、小柄なことが多い、運動神経がよく異様に力が強い、感覚過敏?、色情狂、 常に頻脈、太れずすぐに痩せてしまいやすい、体毛は黒い、折れて取れそうなほど痩せた細い手首、強い筋肉、痩せ型、全身の感度が高く興奮しやすくなんでも性的刺激になってしまいやすい、 痙攣・呼吸困難・哄笑・狂ったように暴れる・衝撃で胃液を嘔吐する・シーツに爪を立てて見る影もなく引き裂く
①一つは、はたわらを内側から撫でさすられるような強制的な性的刺激に似た苦痛が継続して続く発作。頻脈、動悸、呼吸困難、痙攣、血行不良、貧血、その他多くの身体的症状も同時に起こる。このまま死ぬのではないかと思うほどの苦痛だが、この苦痛だけでは死にまでは至らないと本人は苦痛の中で確信する。 ※この病の特徴のためかどうかは曖昧だが、行屋家の人間は、性的刺激を他者から与えられること・与えること、幼年期からの自慰行為や性交渉など、幼い頃から成人に至るまであらゆる性的行為への抵抗感や躊躇いがない。性的刺激も性行為も、生殖という概念となかなか結びつきにくい認知をしている。知性と知識で補っているが、それでも失念しやすい特性を持つ。 性的快楽は病の苦しみを緩和するのに最適な手段のひとつ。性に奔放を通り越して、色情狂、性的なモラルのタガが外れているように見えるはず。 ※この病の苦痛を緩和させる方法に、「鯨の声」がある。症状の出る胴体部分に大きな深い呼吸をすることで胴体を内側から押し広げたり縮めて、べつの刺激を与えることで緩和できる。が、病で身体が衰弱する前にしっかりと習得することが必要になる。 ※この病の苦痛を緩和させる方法に、「なにかに夢中になって我を忘れること」がある。
②もう一つは、目の激痛。 前兆として逆まつげが刺さるような痛みがあるが、そこから一日もおかずに激痛となる。細い針を眼球に絶え間なく突き刺され続けるような痛み。 これは当人たちの感覚としては、明るい光などが特に痛みをひどくする。 まっくらであればあるほど、痛みは和らぐ。 痛みからなのか、瞼を開けていられなくなる。 ※見えないものを見る目と関係がある?
③もう三つ目に、茫然自失。 これは一つ目の病の苦痛に耐えられなくなった者が発狂した姿。 こうなると、もう二度と回復は望めないとみたほうがいい。 発狂したからといって苦痛が消えたわけではなく、むしろ永劫の苦痛の中にあることを受け入れていっさい足掻かなく・足掻けなくなった姿といえる。
※このことから、疾彦は父母を、ほとんど交流がなかったわりに「自分と同じ一族」であると認識していたようだ。 特に父を、「帰してやりたい」と望んでいた。それは、自分も父も同じ一族であり、「今のような形で生を受けているのは本来の我々の様相ではなく、我々はあるがままに生きることで人に害を為す、早く元いた世に還さなければ」というような無意識(潜在意識?)があった。 「俺たちは行灯の火を潜り抜けて現し世に偶然姿を晒しちまった。現し世の人々の目に、俺たちのこの姿が分け隔てなくうつるとは、ゆめにも思わずに。」
0 notes
bearbench-tokaido · 1 month
Text
五篇 追加 その六
藤屋の亭主と上方者と一緒に、古市へやってきた弥次郎兵衛と北八。
仲居が、残された弥次郎兵衛に、 「さあさあ、お前様、ちとあちらへ。」 と、案内するので、 「どれ行きましょう。どこだどこだ。」 と、いいながら立ち行く。
この弥次郎兵衛いたって見栄っ張りなので、例の醤油で煮たように汚れているふんどしを締めているのが事のほか気にかかり、見られては恥の上塗りだと、ふところから手を入れてそっと外し格子の間から庭に放り出してしまう。 それを誰にも見られていないかと辺りを見回して確認すると、安心して仲居の後に付いてく。
その後夜も更けていき、奥の間の伊勢音頭もおのづからしずまり、旅客のいびきの声が響いてくるだけだ。 そこに鐘の音が七つなって鶏の声も歌い出し、しだいに夜も白みかける。
朝の日差しが窓から差し込んでいるのにおどろき起あがって、目をこすりながら上方者が、 「なんと、もう朝かいな。どれ、いのうわいな。」 と、北八の座敷にやってきて誘う。 北八も起きだしてくると、二人で弥次郎兵衛のところに来て、 「弥次さん日が出た。帰えらねえか。」 と、声をかける。 「やれやれちょっと寝すぎたか。」 と、弥次郎兵衛も起きだしてきた。 「これこれ、今日もいさんせ。」 と、側でおやまの初江が言う。 「とんでもない。今度は、本当に帰る。」 と、みな支度して出かける。
おやまどもも、送りに廊下に出てくると一人のおやまが、格子から何か見えるので覗いている。 「これこれ、あれ見さんせ。庭の松に浴衣がかかってあるわいなあ。」 弥次郎兵衛の相方の女郎、初江が、 「ほんに、取り除いておきなさい。いやじゃいな。誰じゃいな。」 というと、弥次郎兵衛は自分のふんどしがかかっているのかと思って、 「ははあ、こいつはおかしい。三保の松原の羽衣の松じゃあねえ。 ふんどしかけの松とは珍しい。」 と、言ってしまう。 それで北八がよく見てみると、確かにそれはふんどしだ。 「弥次さん。ありゃお前のじゃねえのか。」 初江が何か思い出しように、 「ほんにそれじゃ。お前さんのふんどしじゃないかいな。」 と、弥次郎兵衛の顔を見て笑う。
弥次郎兵衛はさっき、つい喋ってしまったのをしくじったと思いながらも、昨日格子から捨てたふんどしが松の枝に引っかかり、ぶら下がっているのがおかしいと思っていたが、さすがにそうだとも言えずに知らないそぶりで、 「なんて事をいうんだ。あんな汚ねえふんどしを俺がするものか。」 というと、初江が、 「いいや、そうおっしゃても、昨夜わしゃこのお客さんの着物を脱がそうとした時に、よう見たがあないな色のまわしじゃあったわいな。」 と、思い出しながら言う。 上方者も、 「おお、そうじゃあろぞい。」 と、あおる。 「ばかいうな。俺は、木綿のふんどしは嫌いだ。 いつでも、超高級な羽二重をしめている。」 と、弥次郎兵衛は下手な言い訳をする。 「おほほ、うそやの。あれじゃいな。」 初江はすっかりわかってしまったといわんばかりである。 「弥次さん。あれがどうして木綿だとわかる。 それにあんな汚いふんどしに俺も見覚えがある。たしかにあれだろう。 そうじゃないならお前今裸になって見せなせえ。 大名行列の先頭を歩くやり持ちのように、ぶらぶらしているに違いない。」 と、北八が詰め寄る。
初江はこの騒ぎに出てきた男に話しかける。 「そうじゃいな。おほほこれこれ、久助どん。そのまわしはお客さんのじゃ。 取ってくだんせ。」 久助と呼ばれた男は持っている竹ぼうきの先で、例のふんどしを起用に取ると初江のところまで持ってきて、 「さあ、ふんどしがやってまいりましたぞ。 それ、取らんせ。取らんせ。」 初江が、それを摘み上げると、 「おお、臭い。」 と、思わずそこにほっぽり出してしまう。 「ははは。弥次さん、ほれ、拾ったらどうだ。」 と、ふんどしを指差しながら言うと、 「ええ、情けないことという。俺のじゃないというに。」 と、弥次郎兵衛は、そっぽを向いてしまう。 北八が、 「そんなら、お前、前をまくって見せろ。」 と、弥次郎兵衛を捕まえると帯を解こうとする。 弥次郎兵衛はそんな北八から逃れると、そのままにげ出して行く。 皆々は、 「おほほほ。 「わははは。」 と、大笑いして送り出る。
三人とも、ここを立ち出ると、 「ええい、いまいましい。北八が俺に赤恥をかかしやがった。」 と、弥次郎兵衛が北八に言い、 「確かに、松にふんどしがぶら下がったのをみたのは初めてだ。」 と、一首詠む。
ふんどしを 忘れて帰る 浅間山 万金丹が 古市の町
さて妙見町に帰ってきた三人はいい天気なので、急いで内宮と外宮のお宮参りしようかと簡単に支度して、先程の古市の入り口に戻ってきた。 ここには、露天が店をだして、客を呼び込んでいる。
そこに有名なお杉とおたまのような女たちが、やや高い音調の三味線を弾いている。 「べんべら、ちゃんてん。」 しかし、弾き方が無茶苦茶で何の歌かわからない。
行き交う旅人の一人がこの女の顔にお金を投げつけると、うまい具合にそれぞれに顔をふりよける。 それを見ていた弥次郎兵衛が、 「あっちの若い方に、ぶつつけてやろう。」 と、金を二、三文投げるとさっとよけてしまってあたらない。 「べんべら、べんべら。」 と、女らは馬鹿にするようにやたらと三味線を弾いている。 「どれ、俺が当ててやろう。」 と、今度は北八が投げるがやっぱりあたらない。 上方者が、 「いくらやっても、お前がたではどないに放りさんしても、相手は、当てさせるものではない。」 と、言う。
ちょっと考えて、弥次郎兵衛が、 「今度は見てろ。これでどうじゃ。」 「おやおや、あんなでかい物もあたらんか。」 と、弥次郎兵衛が銭をとめている紐ごと投げつけたのを見ていて北八は、 「こりゃ、あんまりしゃくにさわる。」 と、小さな石を拾って投げた。 例の女らはその石を器用にばちで受けるとひょいと投げ返す。 するとその石は弥次郎兵衛の顔にぴっしゃりと、あたってしまう。 「あいたたた。」 と、弥次郎兵衛が顔を抑えるのをみて、 「ははは、こいつは大わらいだ。」 と、北八は笑っている。 弥次郎兵衛は、 「ああ、痛え、痛え��」 といいながら、一首詠む。
とんだめに あいの山とや 打ちつけし 石返したる 事ぞおかしき
また、先に歩いて行くと中之町に着いた。 左の方には本誓寺という勝景の地がありまた、寒風という名所もあるそうだ。 五知の如来や中河原など書こうと思えば、枚挙にいとまがない。
それより牛谷坂道を通りかかると、女乞食が化粧して飾り立てていて行きかう旅人に錢を乞う。 又、他にも、十二、三の女子どもが紙にてはりたる色とりどりの笠をかぶっていて、 「銭おくれ。お江戸さんじゃないかいな。 そこの旦那様。頬かぶりした旦那様。銭おくれ。放うらんせ。」 と、掴みかかってくる。 「やかましい。つくなつくな。」 と、弥次郎兵衛が突き放すと、 「そういわんで、お江戸さんじゃろ。ちと、くだんせ。」 と、乞食が袖をひく。 仕方がないと、北八が、 「ええい、引っ張るな。それ、まくぞまくぞ。」 と、いい加減にばらばらと金をまくと乞食は、めいめいに拾って、 「よう、くだんしたや。」 と、ひとりひとりが礼を言う。
この先に又、七八才ばかりの男の子が白い鉢巻をして、そでのない羽織に膝のところでくくりつけた袴をはいて、手に扇を持って踊っている。 その後ろで編み笠をかぶっている男がささらという、竹を細かく裂いて擦ったり振ったりすることで音を出す物を振りながら歌っている。 「やれ、ふれふれ。 五十鈴川~、ふれやふれや、ちはやふる~。 神のお庭の~、あさ清め。 するやささらの~、えいさらさら、えいさらさ~。 それ、てんじょうじゃ。 ゆかしたじゃ。 やっていきなされ。やっていきなされ。」
北八はふところから金をだすと、 「そりゃやっていかんすぞ。しかも、四文錢だ。」 と、そこに放りだすと乞食が、 「四文ぜになら多すぎる。こりゃぜひ、釣りに三文くだんせ。」 と、いうので弥次郎兵衛が、 「こいつ自分勝手なことを言う。」 と、笑って行き過ぎる。
つづく。
0 notes
kirigaya-jun · 1 month
Text
相続の悩みを解消!司法書士が教える争族を避けるための生前対策ガイド
東京都江戸川区「6回目でやっと司法書士試験に合格した「相続・商業登記を軸とした中小企業支援業務」の専門家」「登記業務を通じてお客様に寄り添う」 資格試験アドバイザー 司法書士・行政書士の桐ケ谷淳一(@kirigayajun)です。 はじめに あなたはなぜ相続の生前対策が必要なのか知っていますか? もし対策を講じないまま相続が始まると相続人に迷惑がかかります。 相続人間の人間関係にも亀裂が入ってしまうことも。 そこで今回は、司法書士目線で「生前の相続対策が必要な理由」を紹介していきます。 ぜひ最後まで御覧ください。 相続人の人間関係を良いものにするために… 生前の相続対策をしないままの場合、戸籍謄本を取り寄せて見ると、知らない相続人が… 意外とこんなケースに遭遇することがあります。 前婚の子供だったり、認知している子供がいたりすると、相続のときの紛争のもとになります。 また、相続人間の仲…
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
kachoushi · 1 month
Text
各地句会報
花鳥誌 令和6年4月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年1月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
ドッグラン鼻と鼻とで交はす賀詞 荘吉 裸木のはるかを白く光る街 要 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 順子 人波をこぼれながらの初詣 光子 焼芋の煙たなびく志んぐうばし 和子 群衆といふ一塊の淑気歩す 順子 寒雀神馬と分かちあふ日差し 光子 寒雀入れ神苑の日のたまり 同 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
岡田順子選 特選句
跼り清正の井を初鏡 昌文 本殿につぶやく寒紅をつけて 光子 楪の浴ぶる日我にゆづらるる 慶月 肺胞に沁み込んでゆく淑気かな 緋路 冬草や喧騒去りて井戸残し 眞理子 馬見えぬ乗馬倶楽部の六日かな 六甲 寒鯉来おのれの色の水を分け 緋路 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一束もいらぬ楪もて遊ぶ 成子 深井より羅漢に供ふ冬の水 かおり 赤なまこ横目に買ひし青なまこ 久美子 畳みたるセーターの上に置くクルス かおり 再会のドアを開けばちやんちやんこ 朝子 半泣きのやうに崩るる雪兎 成子 火を見つめ男無口に薬喰 かおり 歳晩の一灯母を照らすため 朝子 悴みて蛇となる能の女かな 睦子 その中の手話の佳人やクリスマス 孝子 悪童に悲鳴をはなつ霜柱 睦子 凍空とおんなじ色のビルに棲み かおり かくも典雅に何某の裘 美穂 唐突に雪投げ合ひし下校の子 成子 楪や昔硝子の磨かれて かおり 奥伝の稽古御浚ひする霜夜 愛 出会ひ重ね寿限無寿限無と年惜む 美穂 冬灯一戸に遠き一戸あり 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
流れ来し葉屑も霜を置いてをり 昭子 御慶述ぶ老いも若きも晴れやかに みす枝 初春の光りまとひし石仏 ただし 神なびの雨光り落つ氷柱かな 時江 地震の中産声高き初笑ひ ただし 歌留多とり一瞬小町宙に舞ふ みす枝 まだ誰も踏まぬ雪道新聞来 ただし 奥の間に柿餅吊し賑はへり 時江 さびしさの枯野どこまで七尾線 昭子 万象の音の鎮もり除夜の鐘 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 萩花鳥句会
初句会吾娘よりホ句のファクシミリ 祐子 書き初め震何んぞ訳あり辰に雨 健雄 吹雪突き突進するエネルギー 俊文 日本の平安祈る今朝の春 ゆかり こがらしが枯葉ころがしからからと 恒雄 平穏な土地にて食べる七草粥 吉之 御降や茶筅ふる音釜の音 美惠子
………………………………………………………………
令和5年1月10日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
被災地にすがりし木の芽盛んなる 世詩明 的中の乾いた響き弓始 誠 初場所の桟敷の席の晴れ着かな 同 初御空耶馬台国は何処にぞ 同 石段を袖振り上がる春著の子 同 細雪番傘粋に下駄姿 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月11日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
年上の夫に引かるる初詣 喜代子 地震起こり慌てふためく大旦 由季子 曇り拭き笑顔映りし初鏡 さとみ 地震の地にぢりぢり追る雪女 都 冴ゆる夜の天井の節をまじまじと 同 男衆が重き木戸引き蔵開き 同 寒月や剣となりて湾の上 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
海鳴や雪の砂丘は祈りめく 都 初電話卒寿は珠のごと笑ひ 同 針始友が未完のキルト刺す 同 授かりし神の詞や竜の玉 悦子 蜑に嫁し海山詠みて老いの春 すみ子 焚上げの火の粉加勢や冬銀河 宇太郎 古傷を思ひ出させて寒四郎 美智子 枯葦の透き間に光る水一途 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
寒の雨誦経とよもす陽子墓碑 文英 寒林を上り来よとて母の塔 千種 顔消えし元禄仏へ寒菊を 慶月 道祖神寄り添ふ寒の雨うけて 慶月 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 裸婦像の背にたばしる寒の雨 同
栗林圭魚選 特選句
信州へ向かふ列車の二日かな 白陶 寒林を上り来よとて母の塔 千種 晴天の初富士を背に山降る 白陶 大寺の太き三椏花ざかり 幸風 空までも続く磴なり梅探る 久 はればれと良き顔ばかり初句会 三無 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 五姉妹の炬燵の会議家処分 経彦 走らざる枯野の車両咆哮す 千種 凍蝶のポロリと落つる影哀れ れい 三椏の開花明日かと石の門 文英
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月13日 枡形句会(一月十三日) 栗林圭魚選 特選句
嗽ぐをどる喉越し寒の水 幸風 七福神ちらしの地図で詣でをり 多美女 七福神詣りしあとのおたのしみ 白陶 凍て鶴の青空渡る一文字 幸子 金継ぎの碗に白湯汲む女正月 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月15日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
曇天に寒紅梅や凜と咲く のりこ 寒梅のつぼみの枝の陽の仄か 貴薫 青空に白き寒梅なほ白く 史空 朝の日に紅色極め寒椿 廸子 我が机散らかり初めし二日かな 和魚 倒れ込む走者にやさし二日かな 三無 釦穴に梃摺る指や悴かみて あき子 夢てふ字半紙はみ出す二日かな 美貴 二日早主婦は忙しく厨事 怜 りんご飴手に兄妹日向ぼこ 秋尚 雪遊びかじかむ手の子包む母 ことこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
幼子の運を担いで福引へ 実加 寒空や命尊きこと思ひ みえこ ことわざを子が覚えをりかるた取り 裕子 元旦の母と他愛もない話 同 元旦や地震の避難を聞くことに みえこ 初詣車椅子の児絵馬見上ぐ 実加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
古里に温石と言ふ忘れ物 雪 師の墓に愛子の墓に冬の蝶 清女 寒の月見透かされたり胸の内 眞喜栄 鴨浮寝無言の中にある絆 同 降る雪を魔物と今朝を天仰ぐ 英美子 藪入りも姑の一言行けぬまま 同 庭仕事今日冬帝の機嫌よき かづを 玻璃越に霏々と追はるる寒さかな 同 正月が地獄の底に能登地震 みす枝 雪しまき町の点滅信号機 ただし お御籤の白き花咲く初詣 嘉和 若狭より繋がる水脤やお水取 やす香 水仙の香りて細き身の主張 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
寒紅の濃き唇が囁きし 世詩明 お雑煮の丸と四角と三角と 同 正月の馳走其々ある謂れ 千加江 新年の風も言の葉も美しく 和子 磯の香も菰巻きにして野水仙 泰俊 捨て舟を取り巻くやうに初氷 同 左義長や炎崩れて闇深し 同 去年今年形見の時計よく動く 同 ふと今も其の時のマフラーの色 雪 天地に誰憚からぬ寝正月 同 迷惑を承知の猫に御慶かな 同 不器用も父似の一つ初鏡 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 鯖江花鳥句会(一月十七日) 坊城俊樹選 特選句
而して九十三の初鏡 雪 蛇穴に入り人の世は姦しく 同 紅を差し眉ととのへて近松忌 同 懐手おばあちやん子を憚らず 同 鬼つ子と云はれて老いて近松忌 同 着膨れて顔ちさき女どち 一涓 歌かるた子の得て手札取らずおく 昭子 年新たとは若き日の言葉とも やす香 新年を地震に人生うばはれし 同 元旦を震はせる能登竜頭めく 同 裂帛の気合を入れて寒みそぎ みす枝 風の神火の神乱舞どんど焼き ただし 八代亜紀聞きをり外は虎落笛 清女 寒怒濤東尋坊に砕け散り 同 波の腹見せて越前浪の華 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月19日 さきたま花鳥句会
月冴えて城址うろつく武者の翳 月惑 仲見世を出て蝋梅の香に佇てり 八草 枯菊や木乃伊の群の青き影 裕章 寒鴉千木の反り立つ一の宮 紀花 合掌す金波銀波の初日の出 孝江 青空に白き一機や寒紅梅 ふゆ子 初詣令和生まれの児と犬と ふじ穂 白鼻緒水仙の庫裏にそろへあり 康子 激震の恐れ記すや初日記 恵美子 お焚き上げ煙を浴びて厄払ひ 彩香 我が干支の年につくづく初鏡 みのり 家篭りしてをり冬芽萌えてをり 良江
………………………………………………………………
令和5年12月1月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
師を越ゆる齢授かり初鏡 雪 初笑玉の如くに美しく 同 大晦の右大臣左大臣 同 猫の名は玉と答へて初笑 同 天が下縁深めゆく去年今年 数幸 能登の海揺るがし今日の空冴ゆる 和子 しろがねの波砕かれて冴え返り 笑子 語り継ぐ越前の秘話水仙花 同 雪降れば雪に従ふ越暮し 希子 皺の手にマニキュア今日は初句会 清女 初電話親子の黙を解きくれし 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
蟷螂を見て戻りたるだけのこと 雪 もて余す老に夜長と云ふ一つ 同 蟷螂の緑失せつゝ枯れんとす 同 小春日や袱紗の色は紫に 泰俊 正座して釜音聞くや十三夜 同 海沿ひにギターの調べ文化の日 千加江 枝折戸をぬけて紅さす返り花 笑子 祇王寺の悲恋の竹林小鳥来る 同 大胆な構図を取りし大銀杏 和子 宿の灯も消して無月の湖明り 匠 秋の海消えゆくものにますほ貝 天空 落葉降る賽の河原に降る如く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
異ならず枯蟷螂も人老ゆも 雪 世の隅に蟷螂は枯れ人は老い 同 無造作に残菊と言ふ束ね様 同 冬ざれや汽車に乗る人何を見る 泰俊 石膏でかたまりし腕冬ざるる 和子 山眠る小動物も夢を見る 啓子 路地裏の染みたる暖簾おでん酒 笑子 冬ざれや路面電車の軋む音 希子 おでん屋の客の戯れ言聞き流し 同 風を背に連れておでんの客となり かづを にこにこと聞き役おでん屋の女将 同 冬紅葉地に華やぎを移したり 同 街師走見えざるものに背を押され 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
1 note · View note
bailonglee · 2 months
Text
世々刻々アセンション
アンドロメダ系譜のレムリアは、調和の大国。
しかし、13,000年前、レムリア、ムー、アトランティスは姿を消した…
逃れ築いたのが、縄文時代という説。
しかし、弥生時代は紀元前900年くらいから、紀元170年の卑弥呼出現、空白の四世紀、150年の後、倭の五王まで、記録がない…
縄文時代、そしていきなり、弥生時代w🤣
紀元前900年くらいから、弥生時代。
ちょっと待てよ…
Tumblr media
イスラエル王国が分裂、人々が分散…
この時期と、弥生時代開始、めちゃくちゃカブるやんか。。
そして聖徳太子。
さあ、私達が知りたい、庶民の感情。
シャーマンは、選ばれし一人。
じゃあ庶民はってぇと、一切の呪力も持たず、ただ、怯え、羨望し、転生を繰り返すだけ。
良い資料が、あった。
紀元前900年 ユダヤ漂着、弥生時代開始
紀元170年〜3世紀 卑弥呼出現
四世紀 空白。謎の期間。
五世紀 聖徳太子出現
七世紀 役小角出現
平安時代初期 空海
平安時代末期 法然
鎌倉時代 日蓮
室町時代 一休和尚
安土桃山時代 ※特にいないw��
江戸時代 天海
明治時代 天理教 中山ミキ
大正時代 大本教 出口王仁三郎
昭和時代 創価学会 池田大作
平成時代 幸福の科学 大川隆法
令和時代 !現在!🤣✨✌️
この、
3,000年くらい、失った高い次元の力を取り戻そうと、日本はもがいてきた。
しかし16世紀辺りからは、レムリアの力はかけらもない、インチキみたいな指導者に、我々庶民は翻弄された。。🤣😭✨
だから、令和よw
アセンションよw🤣
1960後半〜1970年代の思想、
“ニューエイジ”。
アセンション、というアルバムタイトルを、ジョン・コルトレーンは付けた。
「神の啓示を受けた」
とも、彼は言っている。
そんな、ニューソート、ニューエイジで生まれたのが、「ヘミシンク」だ。↓↓↓
世界とはそんな狭いもんじゃなく、多次元であり、物質世界も、非物質世界も、存在する。
つまり、宗教という概念は、諦め、つまり庶民という馬鹿共は、永遠に進歩しないという、差別思想、宗教者の選民思想だ。
だから、『庶民の可能性をいかに狭くするか』、これが宗教の、狙いw🤣
アセンションとは、庶民が覚醒し、選民思想支配からの脱却、与え合える、成長した庶民の、世界。
つまり、失われたレムリアを取り戻す、そうすれば、まだ地球にある次元上昇したレムリアと、合流出来る。
ありとあらゆる3,000年の流れは、
レムリア帰依
、これでしかないw🤣✨😎✌️
0 notes
oldkwaidan · 4 months
Text
龍同士の闘いの果に
 信濃川の西に江戸巻という処があり、その近くに小さな池がある。  寛政三年八月一日、突然、北西から激しい風が吹きつけた。  そして一叢の黒雲がその池に落ち、雷鳴が轟き渡った。  瞬く間に黒雲は広がり、田野を覆い、池の上には二つの龍火が現れた。  龍火は激しい争いを始めた。東に追いかけ、北に戻り、風車のように回転しながら、雷光を閃かせ、雷鳴を響かせる。  併せて強風が左右に吹き分け、豪雨が地面を叩いた。  雨には大きさの氷塊が混じる。当たれば肉は裂け、骨も砕けた。  風は家を傾がせ、木を倒し、石を転がし、土を覆す。  雨は大地を濁流の河に変えた。
 やがて龍の一頭は稲を吹き飛ばし、家々を破壊しながら東に進んだ。  栗林村の下を抜け、加茂の山に沿いながら空に登って行った。  別の一頭は信濃川を遡り、三条の町際を抜けた。  堤の上の土蔵を倒し、茶店を吹き飛ばしながら南に飛んで行く途中でふいに引き返し、山手を北に回って、どこかへ行ってしまった。  二頭の龍が通り過ぎた後は何もかもが破壊し尽くされた。  特にひどかったのは信濃川のほとりの栗林村近辺である。周囲二、三里が壊滅状態であった。
 当時、私はまだ池端村という処に住んでいた。  この日、池端村は抜けるような青空だった。  農民たちは八朔の祝宴を催し、私もそれに参加させてもらった。  ところで池端村には上記の被害を受けた地域を治める陣屋がある。  翌日早々、加茂あたりから飛脚が来て、被害報告が提出された。  役所の検分に私も参加し、現地の悲惨さを目の当たりにしたのである。
 あれだけ大きな被害が出た龍同士の闘いというのは、越後でも極めて稀である。
 (橘崑崙『北越奇談』巻之一 「闘龍」)
0 notes
kikkaoiwa · 7 months
Text
Tumblr media
出演しました映画『STORY GAME』の初号試写でした!
日本人なら誰もが知っている“トイレの花子さん”、“口裂け女”、“「四谷怪談」のお岩&「皿屋敷」のお菊”
ハワイ出身のジェイソン・K・ラウ監督の手によって新たなジャパニーズ・ホラーが誕生!
…なだけじゃなかった〜😱
最後の最後までドキドキの79分‼️ ぜひ大きなスクリーンと音響で観てほしいです。
11月10日(金)からヒューマントラストシネマ渋谷にて公開。そのあと全国順次公開です!
https://storygame-movie.com
Tumblr media
美しいハワイのキャンプ場で謎のゲームアプリ“ストーリー・ゲーム”が招く恐怖の夜が始まる
Story
ハワイでのキャンプ旅行中、アート系大学に通う3人の学生が、ある賭けをする。「誰が一番怖い話をできるか?」。そして、3人はキャンプファイヤーを囲みながら、ゲームアプリ“ストーリー・ゲーム”の指示に従い、順番に怖い話を始める。グラフィック・アーティストのチカは日本の女子高生のいじめから起きる悲劇を、脚本家のジェームスは通勤電車で出会った魅惑的な女性に心を奪われたサラリーマンの物語を、小説家のニコルは江戸時代を舞台にした、女中に嫉妬する妻の悲しい末路を語り聞かせる。3人が勝敗を決めようとした時、思いもよらぬ参加者がゲームに加わり、ハワイでの一夜はさらなる恐怖に包まれることに…。
キャスト チカ・・・・・・・・・岡野りりか ニコル・・・・・・・・グリア・グラマー シルヴァ・・・・・・・ネッド・ヴァン・ザント ジェームズ・・・・・・アルベルト・ロゼンデ カホ・アン・・・・・・アヤカ・ウィルソン お菊・・・・・・・・・遠海まりこ ケン・・・・・・・・・ジェイソン・クイン お岩・・・・・・・・・山本真理 春・・・・・・・・・・玄理 エモリ先生・・・・・・山村憲之介 鉄山・・・・・・・・・地曵 豪 高村・・・・・・・・・樋口隆則 ジナン・・・・・・・・小林ルリ カンナ・・・・・・・・升澤理子 ニコ・・・・・・・・・汐夏 道場コーチ・・・・・・大石菊華 ミオ・・・・・・・・・亀田七海 ミチコ・・・・・・・・伊藤 歩
0 notes
hachikenyakaiwai · 8 months
Text
Tumblr media
【かいわいの時】元亀元年(1570)九月十三日:石山本願寺勢が十四日にかけて信長の陣を攻撃。石山合戦開始(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
三好三人衆は地図でご覧の中嶋と天満の森に布陣。淀川河口に近い野田と福島に砦を築きます。一方、三好三人衆の動きを知った信長は元亀元年(一五七〇年)八月二十日に岐阜を立ち京都の本能寺へ。二十六日には天王寺に到着、そこを本陣とします。そして先陣には、三好三人衆が籠もる野田、福島の砦を取り囲むように、天満、川口、渡辺(現在の八軒家あたり)、難波などに陣取りをさせました。(略)
こうして戦闘の準備が整った頃、信長は天王寺を出て、天満の森に本陣を構えます。楼の岸と川口の砦には大櫓を上げて、そこから野田と福島の敵方の砦へひっきりなしに大鉄砲を打ち込みます。三好三人衆も応戦はするものの三千挺の鉄砲で攻め立てられてはたまりません。勝ち目はないと和議を��し出ます。が、信長はこれを認めません。九月十二日、将軍義昭と信長は海老江に本陣を進めます。野田・福島砦は陥落寸前です。その夜半、突如石山本願寺の早鐘が鳴り響き渡りました。本願寺の挙兵を告げるこの早鐘は摂津、河内の寺内町(じないまち)や道場へ次々と伝播され、和泉や大和、紀州にまで伝わります。いよいよ一〇年以上にも渡る信長と顕如の石山本願寺合戦の火蓋が切られました。早鐘を聞いた門徒衆が続々と本願寺へ結集。そのなかには雑賀(さいか)の鉄砲衆も見られます。
まず、門徒衆の鉄砲が、石山のすぐ近くの楼の岸砦と川口砦に打ち込まれます。楼の岸砦では信長配下の中川重政らの将兵が三好三人衆の一万三千の軍勢と対戦していました。そこへ突然の本願寺の参戦。形勢は逆転します。不意をつかれた信長軍は予想しない展開に混乱をきわめました。あくる日の十三日には大雨で淀川が逆流し、信長の本陣が水に浸かる中での合戦。敗走する信長軍へ向けて本願寺方の鉄砲が炸裂します。それはもう壮絶な戦いでした(平野)。
当時の大坂は、いま以上に起伏に富んだ地形でした。最外殻部である惣構では、慶長3(1598)年の「大坂町中屋敷替え」とも呼ばれる大規模な開発を契機として、この地形を克服し平坦な土地をなるべく広く確保できるよう、盛土などの土木工事が積極的に行われました《略》秀吉による開発まで、大川の南には水流で削られた崖面が存在しました。このことは、今回の調査地*での成果や、織田信長が本願寺を攻める際に「楼の岸砦」を築いたとする文献史料から推測することができます。また、調査地周辺に残る石垣も、かつての地形の名残を留めています(市川創2015)。『葦火』176号より。
*上記の調査地には、2015年に「天満橋亰町ビル」が建てられました。「調査地周辺に残る石垣」は2段(下段は豊臣期、上段は江戸期)になっています。その上に建つ「天満橋ニュースカイハイツ」と同様に、今では通りからほんの一部しか見ることができません。
(写真)「ビルの隙間に見える楼の岸古址」=2015年6月29日撮影
0 notes
bunshinovel · 9 months
Text
8月1週
 色々と考えるけれど、どれも忘れていってしまう、というのはそんなことはなく、ただ考えても誰にも伝えないだけだったりする、けれどそれは果たしてこの世に存在していることになるのだろうか。私一人が見たものは、誰かと共有しなければこの世に存在することにならないのだとしたら、それが社会の始まり、とも言えるなら、社会とはこの世が存在するということを確かめ合うためのものとなる、けれどそんなことは忘れて、人は社会というものがあるようでないような、そんな気分になってしまっている、成熟した社会とは社会の存在感が薄くなるのかもしれない、しかし、その時が、社会の存在が脅かされるタイミングでもあるのではないか。会社に向かうときには必ず空を見上げると、分厚い雲が阻んだり新月でなかったり公転自転のタイミングが悪くない限りは月が見える、とても明るくて丸い月に薄雲が掛かっていた。月の周りにも雲があって、月の明るさでその周りの雲も光っていた。空気は一つも動いてなくてひたすら暑かったが、周りに植物が増え始めると露骨に体感温度が下がる、ので木を伐るような為政者ははっきり言って馬鹿である。
 火曜日の話ではあれど、その実月曜日の話だったりする、そしてこれを書いているのが水曜日で、今自分が曜日を間違って、火曜日だと思ってたことに気がついた。朝がすごく涼しくて、日中がいくら暑くても朝夕涼しければお釣りが来ると思ってしまう。とにかく真っ暗になってからも灼熱みたいな、そういうタイミングが今のところ無いだけで去年よりも暑さはマシだなと思ってしまうのはきっと間違っている。温暖化改め沸騰化などというワードが飛び出すほどに世界中が暑いらしい、本格的に対策しないとどうしようもないだろうところまで来てしまったんだろう。しかし人間は果たしてそんな簡単に変わることが出来るのだろうか。便利に慣れすぎた現代北半球人は、果たしてそんな簡単に今の生活を手放せるだろうか。あと一年でこのままじゃ人間が絶滅します、ということになっても、人は変わらないのではないかと最近は思っている。その程度に、人間というのはアホなのだ。一日Twitterをしなかったが、特になんの支障もないので定期的にやろうと思う。
 夏の花といえばサルスベリ、それとオシロイバナ。サルスベリは見た目が良い、勢いよく放射状に伸びる枝先に刺々しいほどのピンク色した花弁が破裂するように咲いているのがいい。個人的には白い花弁のが好きだが、ピンク色の中にある白色がいい。オシロイバナは夕方から夜に花を開く、明けたくらいにもまだ咲いているけれど、暑くなり始めたらもう閉じてしまう。近づくと甘い香りがしていい。ユウゲショウという別名もあって、これは夕方から咲き始めることから来ているんだろうな、少し調べたら侵略的外来種らしい。侵入は1600年からだって、江戸!
 どうしても野菜が食べたくなったので、夏野菜のトマト煮を作った。ナス、ズッキーニ、パプリカ、エリンギを小さめのざく切りにしてタマネギは粗微塵切り、オリーブオイルでニンニクを炒めてそこにタマネギを投入、しかし買ってきたタマネギめっちゃでかい、わりと炒まったら残りの野菜を投入してしばらく火を通し、頃合いを見てカットトマトを入れて塩とチキンブイヨンで味をつけてしばらく煮込む。獣味にソーセージを。多量なのでしばらくこれを食べる。ここにショートパスタを入れて食べるのがよいです。
 しかし、労働がクソなのはそもそも労働環境がクソでいいと思っているような連中が管理しているからに違いない。なぜ楽しく楽に仕事ができるような環境づくりをしないのかが不明である、おそらくそれが資本主義なのだろう。そこに注力するよりも、他にコストを掛けたほうがより多くの金を儲けることが可能である、というそういう妄言、これこそがthe資本主義という信仰なのだろう。故にクソである。なんでもそうだが、実際手足を動かしている対象を蔑ろにするような、そんな組織はさっさと潰れればいいのだ。とにかく今週は日曜日に仕事という、神をも恐れぬ禁忌を犯さざるをえなくされたので、その鬱憤が溜まっているのだ。
「悪は善のことを知っているが、善は悪のことを知らない。」
カフカの言葉。
1 note · View note
bearbench-tokaido · 2 months
Text
五篇 上 その六
追分町の茶屋で、一休みしている弥次郎兵衛と北八に、 「私もお江戸にいた頃は、日本橋本町の鳥飼の饅頭を、賭けをして二十八も食ったことがあったな。 しかも、その賭けに勝ったんだから格別だったな。」 金毘羅がつぶやくように言うと、弥次郎兵衛が、 「鳥飼といやわしらの町内だから、毎日茶うけに五、六十は食べてました。」 と、ほらをふく。 金毘羅は、さも感心したように、 「それはえらいお好きですな。私も餅好きでね。 ほれ、御覧なさい。一息で五膳食べてしまいましたわ。」 と、積み上げられた椀を指す。
弥次郎兵衛も、 「俺は、今ここの饅頭を十四、五も食べたんだが、甘いものには目がないほうなんで、まだ腹に入るようだ。」 と、自分の横にある、皿を指差す。 金毘羅は、首を振りふり、 「いやしかし、いくら甘いものが好きでも、もう食べられないでしょう。 十四、五も食べたら、それが限度というものでしょう。」 「なにまだ、食べられます。」 と、弥次郎兵衛は意地になっていった。 金毘羅も後にはひかない。 「どうしてどうして。あなた口ではそうおっしゃるが、そのようには食べられないと思いますよ。」 「なに、食べられないことがあるものか。ただ、金がかかるから食べたりしないが、誰かが奢ってくれるというなら、まだいくらでも食べられます。」 弥次郎兵衛はますます意地になって言っている。
金毘羅はポンと膝を叩くと、 「これは面白い。失礼ながら私が、奢りましょう。 同じ数だけ、召し上がってみませんか。」 「ああいいよ。食べましょう。」 と、弥次郎兵衛は、つい言ってしまう。 金毘羅は、ニヤニヤしながら、 「しかしただ、お金を出すのもつまらない。 もしあなたが、全部食べられないとその饅頭のお金を私がいただくということにしましょう。」 「そりゃいい。ただで饅頭が食えるなら、そんないい話はない。」 と、弥次郎兵衛がつい調子にのって饅頭を取り寄せる。 そして、食べ出したのだが途中で、苦しくなってきた。 でも、金毘羅を負かしてやろうと、やっとのことでみな食べてしまう。
金毘羅は驚いた様子で、 「こりゃ、たまらない。えらいえらい。もうもう私は、かないません。」 と、饅頭の金を弥次郎兵衛に払う。 「俺だけが、金を貰うのも気が引ける。 どうだ。お前さんも、一つやってみたら。 こんな小さな物はいくらでも、食べられる。」 金毘羅は、ちょっと思案していたが、 「いやいや、あなたのようには、食べられないでしょう。 しかし私も、残念だ。十ばかり食べてみましょう。」 と、饅頭を取り寄せようとする。 弥次郎兵衛は、その様子に、 「なにを、十をぐらい。二十食べな。 そのかわり、ひつも残さずに食べたら饅頭の代金とは別に百文、金毘羅様へのお賽銭として差し上げましょう。」 と、ニヤニヤしている。
金毘羅は、パッと顔を輝かせると、 「そりゃ、ありがたい。ええいままよ。やってみましょう。」 と、饅頭を二十取り寄せて、ただもじもじと見てばかりいたが、やがて食べ始めると、一気に十個ほど食べてその後、いやそうな顔つきでぽつりぽつりとやっとのことという感じで、結局全部食べてしまう。 弥次郎兵衛は、当てが外れて、 「こりゃ、すごい、大食漢だ。」 と、苦笑いしている。 金毘羅は、苦しそうに、 「お約束の通り、饅頭代は差し引いて、お賽銭を百文くださいませ。」 と、弥次郎兵衛に言うと、 「ああ、今やろう。しかし、あんまり見事だからもう、二十食べな。 そしたら今度は、お賽銭として三百文やろう。 そのかわり食べられないと、こっちへ二百文となるがどうだ。」 と、言う。 「面白い。面白い。何事も、お金が絡むと、出きるもんだ。 腹の裂けるまでやってみましょう」 と、金毘羅は苦しそうながら、やる気漫々である。 弥次郎兵衛は、その様子にちょっとひるんだが、 「さあさ、金を出しておくから、お前も二百文そこへ出しておきな。」 と、三百文をつきだしておいた。
弥次郎兵衛は今とられた百文に、利子をつけて取り返すつもりで、さすがにもう食べられないだろうと思って饅頭をまたまた二十取り寄せ金毘羅の間に置くと、今度は何の苦もなくあっという間に二十を食べてしまい、手ばやくかの三百文を掴むと、ふところの中にいれてしまう。 「これは、ありがたい。饅頭の代金もよろしうおたのみ申します。 ははは、思いがけないご馳走になりました。いや、ごゆっくり。では、これで。」 と、神に供える酒を背負い後も見ずに、出て行く。 弥次郎兵衛は、あきれはてている。 北八が、 「ははは、たぶん、こんなことになるだろうと思った。」 と、笑うと、弥次郎兵衛が、 「いまいましいやつめ。 最初の百文が惜しくて、つい悪乗りをした。腹の立つ。」 と、悪態をつく。
そのうちかごかきが、ぶらぶらとやってきた。 「だんな方、かごはどうですかいな。」 と、話しかけてきた。 弥次郎兵衛は苦りきった様子で、 「ふん、かごどころじゃない。えらいめにあったんだ。 饅頭を食べる競争をして、三百文取られたところだ。」 かごかきは、手で顔をひょいっと撫でると、 「ははあ、今の金毘羅じゃな���やつは、あんな様子をして歩いて��りますが、ありゃ、大津の釜七という詐欺師野郎ですわ。」 弥次郎兵衛らが、キョトンとしていると、 「先週も鈴鹿坂の下で餅を食べる賭けをして、七十八も食べたとみせて金を人に払わせ、餅は全部、たもとに入れていたそうですじゃ。 旦那も、いっぱい食わされましたな。」
この話を聞いているところへ、伊勢参りらしい子供が二人、饅頭を三つ四つづつ手に持って食べながら、近づいてきた。 「旦那さま。抜け参りに施しを。」 子供のうちの一人が、北八に話しかけてきた。 「これ、お前たち。もしかしてその饅頭は、誰かに貰ったものか。」 伊勢参りの子供は、顔を見合わせ、 「はい。どうして、ご存知で。 先程、すれ違った金毘羅参りの人が、親切にもくれました。 と、ニコニコして言う。
弥次郎兵衛は、それを聞いて、 「ええ、そんなら、金毘羅が食ったと見せて、俺を、騙したのか。 いまいましい、追っかけて、ぶちのめそうか。」 と、怒り出したのを、北八が、 「いいじゃねえか。俺たちも神参りだ。ゆるしてやんな。 それに全部、こっちが間抜けだからいけないんだ。ははは。」 「そう言っても、あんまりしゃくにさわる。 腹の中が煮えくり返るようだ。」 弥次郎兵衛がいうと、北八が、 「昨日の泊まりで、俺を酷い目にあわせた報いだと思いな。 本当に、いい恥さらしだ。」 と言いながら、一首詠む。
盗人に 追錢やるは まんじゅうの 案の外なる さい銭取られて
弥次郎兵衛は、その狂歌を聞いて、 「面白くもねえ。」 と、女中に向かって、 「もしもし、饅頭のお代はいくらだね。」 「はいはい、全部で、二百三十三文でございます。」 と、女中が答える。 弥次郎兵衛は、 「しょうがない。」 と、不承不承金を払うと、かごかきが、 「だんな、運直しに安くやりますから、どうですか。」 と、話しかけてきた。
弥次郎兵衛は、 「いやいや。」 と、首を振ると、かごかきが 「酒代ぐらいで、行きますから。」 と、なおも、誘ってくる。 「きさま酒を飲むのか。」 と、弥次郎兵衛が問いかけると、かごかきが、 「はい、酒は好きで一升ぐらいは、簡単に飲んでしまいます。」 と、答える。 弥次郎兵衛が、さっきの饅頭の賭けになぞらえて、 「ということは、また、酒を飲む賭けをしようと言うんだろう。 もういやだいやだ。さあ北八、出かけよう。」 と、これより、東海道から分かれて、伊勢の参宮道に入る。
これで、五篇 上は終わりです。五篇 下に続きます。
0 notes