Tumgik
qofthequinine · 2 hours
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デートコース
デートというと、恋仲だけに限る人もいるようである。自分はそんなこと考えもしない。たとえ生物学的に同じ人であろうが、デートはデートだ。そもそも Date ってのが「日程、行程」である。旅のしおりである。修学旅行の旅のしおりは、例外を許さない。まあ、初めての土地で迷子になられたら困るからね。しかし、デートをするなら、迷子こそデートである、と断言したい。
土地勘のある場所のなんだか心惹かれる路地が好きで、ある晴れた日にその道を通った。そこを通るだけで、なんだか素晴らしい人生が待ち受けているような気分になるのだ。南北に通った、自転車がすれ違うには難しいような、しかし人間が並んで歩くにはちょうどいいような路地。怪しい建物があるわけでもなく、ただ生活を送るために装飾した庭の断片が感じ取れる。猥雑さは微塵もなく、吊り橋効果もなく、そこを通るだけで、心が安らぐ。季節によって見えるものは違い、あるときはバラが咲いていて、あるときは金木犀の香りがして、夏の暑さも感じにくく、冬の風も感じない。夢も現もどうでも良くなり、通る人は二人きりだ。そういう路地を探すのが好きだ。誰かの生活が現実的ではなくなる路地。二人の関係が夢になり、そのほかの世界が現実。探せばどこにでもあるんだが、みんな探さない。
そういう路地を探すのがデートだと思っている。集合場所から目的地に至るまで、あちらこちらしながら、こんな場所があった、という名前のない印象が欲しい。
絶対に恋仲になり得ない関係性の友人と、住宅密集地の路地を歩いて回ったことがある。秋雨が止んで、太陽が照っても少し霧のように見える。細い路地を抜ける瞬間、秋に向けてアポトーシスをするつもりの樹木と、日光と、その奥に抜ける生活が見えた。美しいと思った。同行者も美しいと思っていたらしい。
公園に行った。この公園は不思議で、混み行った住宅街の中に入り口は狭くて面積も小さいのに、ものすごく広大なように見えてしまう。小さい入り口から入って、その公園のベンチに座ろうと思ったが、少しお手洗いに行った。その間に、同行者はわざわざ子供用の滑り台の階段に登って、この光景をなんとか写真に撮って、「感動している」と言葉を添えてSNSに上げた。そうなんだ。あの公園は不思議なんだ。何かものすごい感動があるんだ。嬉しかった。
そういうランダムなアドリブを含みつつ、日程を組む。デートする。それが素晴らしい日々。一人きりでも変わらない。感覚している君と、感動している君とでデートしようじゃないか。
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qofthequinine · 3 days
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鏡像反転
鏡像は反転している、と習った。自分自身も最初は鏡を見るたびに混乱した。今はむしろ、鏡像越しに見る自分しか自分を客観視する方法がないので、鏡像の中の右左と身体感覚の右左が感覚に従っていれば、それで鏡を見ることは解決した。
一方、対面している誰かは、自分が文字を書く右手を使って文字を書くなら、向かい合って文字を書くとき、自分とは反対の利き手を使う人が多い。じゃあつまり、本質的に左右が逆になっているのはどっちだ?ということになる。だから鏡像の光学原理は変化しないだろうけれど、言葉で説明されると、どっちがどっちなんだかわからなくなる。自分が見る左の手を使う相手は右利きである。左と右を共有できるのは、横並びで同じ方向を向いている時間しかない。あるいは、美容室や理髪店で鏡の中で顔を見ている時間。
だから、おそらく、いまさらになって鏡像がわからんという議論が巻き起こっているのだろう。スマホのインカメラを鏡がわりにし始めると、もっと問題が拗れる。機種によっては、インカメラの写真が文字反転しないように、鏡の原理を無視してしまっている。
鏡の原理を学ぶために使うのは、文字やら矢印を頼るべきで、身体感覚の右左には当てはめてはいけない。
と、さっき新しいメガネを受け取りに行った受付の人が左利きで、渡す人が右利きで、その前に美容室に行って鏡を見ながら人と話したので感じた。
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qofthequinine · 4 days
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あれはダメ、これもダメ、全部ダメ
最近はどこに行ってもこればかり見かける。全部ダメでただ真っ直ぐになれ、と。若々しく、健康で、優しく、お金を稼ぎ、よく食べ、太らず、清潔感がある人物。マナーを守り、上品で、全てを"嗜んでいる"。
その結果、どうなるだろうか?全員が同じ血液を持ち、同じ顔になり、同じ考え方をして、同じように振る舞う。機械が人間を支配しているのではなく、人間が人間を機械にしようとしている、とよく思う。人間を「複雑な機械である」と捉える哲学もあり、それもまた間違いではないとも思うが、複雑な機械を単純化すれば、きっと本当に面白くないだろう。人間のアドミニスタを自分が務めるならば、その方が楽なのでそのように考える。
でもまあ、人間なんて隠された部分を表明しようとすれば、千夜一夜あっても足りない。アラビアンナイトではない。アラビアンデイズだと思う。虚構と夢と現実を見るから人間なのだ。あるいは、夢を見ている自分は、夢の側にあり、現実が夢でこそある、と、行ったり来たり繰り返す。だとか、誰かの夢の中にいる自分がこのように生きていると錯覚しているのだ、と、自分をフィクショナルな存在だ、と考えられなくもない。いくらでも空想できる。空想ながら実存の問題である。反論があっても、その反論は無意味だ。バートランド・ラッセルが言ったか、「世界五分前創造説」を知っているだろうか?証明ができないのに、反証もできない。数学や論理の限界である。フェルマーの最終定理も「人間には限界がある」ということを数学的に話したかっただけだと思う。ウィトゲンシュタインも「語り得ぬことについては沈黙せねばならない」と示した。
ここに参入したのがショーペンハウエルの『意志と表象の世界』で、「疑おうと思えば何もかも疑えるが、疑うのを諦めれば今生はなんとかなる」とざっくりまとめてしまえる。で、まあ一切空と思うならそれもよしだけれども、己のスタンスとして、見えてるものは可能な限り大事にしよう、見えていないけれど知っている世界は大事にしよう、彼らが好きなものや嫌いなものをそれなりに知って、そこに自分というコーティングをしよう、と、皮膜としての自己存在こそが、自己認識として現状の最適なのではないか?としているので、疑うべきは疑いつつも、自己存在だけは疑わない。さらには、胃の消化液が漏出すれば他の器官がダメージを受ける、みたいな理屈で人間の関係を解決しようと考えている。疑うのではなく、それぞれがそれぞれだなあ、と思うだけでいいのだ。何かを疑って断罪するのは簡単だ。そうじゃない。そんな簡単な話じゃない。人体も人間も平均値が存在しないのだ。中央値さえ存在しない。異常値が実はその人の正常値である可能性もある。正常値が間違うこともある。歴史に学ぼう。正常値なんてのは流行でしかない。
神に誓う?何を言ってるんだ?アダムとイブは知恵の実を食べたから人間になった。ギリシャ神話なんてのは、それぞれの神のあまりにもな人間っぽさゆえに、ある種のカルマの肯定だとも感じてしまう。イザナミとイザナギの話も、結局、人間の愛して愛されて、という話で、神に誓ったところで人間は人間なのだ。神より人間が大事。正月の餅を喉に詰まらせて死ぬ年寄りはおおむね咀嚼力と喉の筋力低下が原因で、正月に餅食って死ぬぐらいならそんな神事はどうでもいいのだ。生きろ。
まとまらない。わけがわからない。何が言いたいのか、自分でもわからない。ただはっきりと、生きたいと生きててほしいと生かすために何ができるか?ということだけ考えてればいいんじゃないか?と。
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qofthequinine · 6 days
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ねじれ
ガソリンは1L単位で販売される。1L二百円がどうのこうのでみんな騒ぐ。でもさ、おまえが気楽にコンビニで買うミネラルウォーターは、500mlなのに100円ちょいするんだよ。さらに高級なら、三百円とか。いやいや、もちろん、車に飲ませるより人間に飲ませる物の方が高いのは理解したい。うーん、でもさ、なんかこう、ねじれてないか?ゆがんでないか?生存には金がかかるが、論点のずれ方が、人間本位じゃなくて、経済活動本位になってないか?
と思った。
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qofthequinine · 6 days
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この音が続く環境が二月から続いてる。無理て。(コンクリに穴をあけるやつなので、聴こえる以上にうるさいです)
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qofthequinine · 14 days
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美しさと綺麗について
父親にこんなことを言われた記憶がある。
「綺麗」と「美しい」は全然違うんだよ。例えば、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケは、綺麗ではない。むしろグロテスクな想像さえ掻き立てる。しかし、美しい。綺麗なものは、印象に残ることもない。こざっぱりとしていても、面白くない。さらには���の「面白い」にも難しさがある。例えば、あるアイデアを「面白いやないか」と称賛したり、作ったものを「面白い」と評価すると、「バカにするな!」と怒る人に接したことがある。ここで自分が発話した「面白い」は「興味深い」「発��しそうだ」という意味であるんだが、「バカにするな!」と怒った人はおそらく、嘲笑しか知らない人なのだろう、と思うよ。
その記憶をさっき話した。「うん。たぶん言うたんやろうし、自分が思ってることと一緒やから、確実に話したと思う」と。
そして、映画を見ていても思う。どれだけ残酷な描写でも美しい瞬間があるし、愛が結ばれたように見えるキスシーンが綺麗なだけだった途端に興醒めする。
で、父は友人に一人や二人、そういう価値観を共有する人物がいると、話してくれた。
自分もまた、「綺麗やけどつまらん」「飲みやすいけど面白くない」「こざっぱりしてるけどダサい」「読みやすいけど芯食ってない」などの意見を共有できる友人が少なくとも3名いる。表向きには真っ当なんだが、対話を深めるうちに美学といえば大袈裟だが、なんだか見ている世界が一緒だなあと思う。おそらく、綺麗すぎる世界よりは美しい世界を見たいのだと思う。
ここからは、いろんな問題を掘りながら、結局内心の吐露になる。
綺麗すぎる場所には誰も住めないだろう。その人は綺麗の基準を満たさなければ排除されてしまう。汚すぎてもいけない。それは衛生学の専門だ。あるいは生理的嫌悪。でもこれを「嫌だから無くなってしまえ」と思うなら、我々が食べている畜産物を飼育している場所に赴くといい。動物の臭いが充満している。糞尿の臭いもする。しかし、この環境で飼育された肉を食わなければ、人間には無理が生じる。ヴィーガンとか言って動物性タンパク質を忌避する人もいるが、あれは南アジアの環境として宗教に衛生学がくっついたものだ。「動物を食べるなんてかわいそうに!」と言いながら、植物をものすごく残酷に扱う。桜の枝を手折るのは、本当にやめてほしい。綺麗な花を飾りたい気持ちは理解するが、その桜が来年咲かなくなったらどうしよう?その花が花を摘んだことによって死んでしまったら?弱肉強食までは言わない。食わねえと死ぬ。それだけである。知らなかったから美しいものを奪った、とは恐ろしいことである。
そうなってくると、「清い水には魚が棲めない」と話が発展する。
純水を思い起こして欲しい。全くの水だ。不純物はない。理科の先生が言っていたのは、「飲んでも害はないけど、めちゃくちゃ美味しくないよ」と。ミネラルウォーターにはある程度のミネラルが含まれているから飲める。硬水だとか軟水だとか、聞いたことあるはずだ。また、植物に水やりをする場合にも、おそらく純水では無理で、浄水器の水をやっても枯れてしまう。可能なら井戸水がいい。そうして、純水に放り込まれた魚は、割とあっけなく死んでしまう。そもそも酸素も二酸化炭素も含まれていない純水だから、水の中に生きる魚も呼吸が止まる。呼吸が止まるというよりも、いくら鰓呼吸してもしんどくなるばかりだ。実は今まさに、藻場を喪失した海では、これに近いことが起こっている。
藻場は、魚の産卵する場所だ。卵はやはり、酸素を必要とする。二酸化炭素を酸素に変換するあの場所がなくなれば、魚なんていなくなる。植物でさえ、酸素呼吸が必要だが、そこをうまいこと自己解決してしまった植物。しかし、彼らにも栄養が必要で、その栄養は窒素リンカリウムと覚えているように思うが、それ以外にもたくさんある。降雨とともに雨粒に含まれて土壌から河川に流れ、海に到達し、吸収される。
しかしまあ、そもそも山を管理する人はもう機能していない。林業はほとんどボランティアである。儲けようとすれば大量に伐採しなければならない。大量に伐採すれば山は崩れる。戦後すぐには、住宅の確保のために、まっすぐに伸びて資材として使いやすい杉の木を植えなければならなかった。致し方のないことである。
で、ここからは悪循環が始まった。戦後すぐに、蚊の多さゆえに殺虫剤を散布して蚊がいなかった時期があるらしい。しかし、蚊に刺される小児がいなくなったことで、若いころに形成されるべきアレルゲンへの抗体が少なくなった(真偽のほどは定かではない)と聞き及ぶ。蚊に刺されて痒いのは当たり前だ。しかし蚊はああいうアレルゲンを運びつつも少しずつ抗体を作り、蚊のみならずあらゆる害虫さえ、少量のアレルゲンを注入して慣れさせていたらしい。DDTを散布したらしく、即効性は虫に強くあったとのこと。花粉症は日本で初めて確認されたのだ。
もちろん全く良くなかった方法ではない。フェイタルな感染症は少なくなっただろう。衛生学として当時は正しい方法だったと思う。今度はコロナ禍である。
コロナ禍で、病原菌やウイルスは忌避された。手洗いとアルコール消毒とマスク。未知の病気に対する方法として、自明に正しい。ワクチンもちゃんと4回打った(5回目は都合がつかなかった)。マスクもしていたし、手洗いも入念にした。およそ三年間、無菌室にいたのと同様である。大人の振る舞いとして正しい。
じゃあ子供は?呼吸器がまだ不安定で、免疫を獲得する過程にいる。亡くなった子には哀悼を示すが、今生きている若い人たちは、もしかすると三年間、恋した人の顔を見なかったかもしれない。もしかすると両親の顔さえ、生まれてすぐに見れなかったかもしれない。こんなに悲しいことがあるだろうか?
医療を否定したいわけではない。医療は与う限りの尽力をして、命を救い、そのために自分自身が不安定になるリスクさえ犯している。人間、わからないことに飛び込むのは怖いことだ。よほどの胆力がなければできないし、もし間違えば診察室で対面している彼の命が明日費えてもおかしくない。命がけのルーチンワークだ。その精神力に敬意を表する。
最近の子供を見ていると、真っ直ぐ歩いていないような気がする。軌道の予測ができない。顔が右を向きながら足は左に向かうような。理解できるだろうか?
と、防疫と救急の違いを述べてみた。防疫は行政が行い、医療は医療法人の管轄だと理解している。研究は国立機関か製薬会社だ。
ブルーハーツの曲に『人に優しく』がある。人に優しくある以前には、人を守らなければならない。その「人」とは誰だろうか?と考えると、小生意気なガキである。気に食わない。が、守らなければ、と思う。理由はない。考えもない。ひとつだけ感覚するならば、「自分たちより不幸にならないでほしい」。
この言葉を発するためだけに長ったらしく書いていたのだ。こんなバカっているんだろうか?頭ハッピーなヒッピーだったとしてもこんなことは言わないだろう。「色即是空」とは言うものの、全部虚しいと悟るのは死に際であってほしい。全部楽しかったと思うのも、最期の瞬間であってほしい。
美しい瞬間をずっと覚えていてほしい。苦労した記憶も、悲しかった記憶も、楽しかった記憶も、怒り散らした記憶も、どこか美しいはずだ。随分前に亡くなった曽祖母が言っていた。「冬は凍えるようでなあ、藁草履に服着て半纏着て、みんな鼻水ズルズルやから袖なんてカピカピでなあ、でもあのとき一緒に行きよったみんなはよう覚えとるなあ、苦しいけど楽しかった」
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qofthequinine · 16 days
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ブランド
思い入れのあるブランドはカルバンクラインで、オンワードがまだ機能していたころはたまに店を見に行ったりした。ファーストスーツを作った際に、テーラーのおじさんが「君の骨格ならカルバンクラインがいいよ」と言われ、薄いピンクのシャツを購入した。
カルバンクラインを目にしたことはきっとあると思う。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で重要な役割を果たした。
父親はサングラスを掛ければシシリーマフィアにしか見えない。バーバリーが似合うが、かっちり着こなすのはあまり好きではないらしく、というか建設現場にスーツ姿で現れれば、職人さんが嫌な気分になる。だから、本当の正装は冠婚葬祭のみ。言うてお祭りになると、完全に参加者になるので法被に動きやすい服装だが。
カルバンクラインはある時期までは裏切らなかったが、最近はえっちな下着屋さんになってしまったし、そのほかのブランドもロゴを売ることに腐心している。スポーツウェアなら仕方がないと思うけれども、シャネルやヴィトンのロゴまみれの財布を持っていてもダサいだけだ。そういうのを使うよりも、ブランドもわからないお気に入りの財布を見つけた方がいい。
高校の制服は詰襟の真っ黒だった。差し色にビビッドなオレンジのサコッシュ、靴はエナメルにオレンジのラインが入った安物。テーマに従って服装が決まる。無闇なおしゃれは不必要だ。
と思う。
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qofthequinine · 22 days
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信用と信頼
「お前のことは信用しているけど信頼していない」と昔父親に言われた。信用と言って、思い浮かぶのはなんだろう?クレジットカードだと思う。ここから考えるに、彼の自立心ももちろん尊重すべきだが、むしろ「信用している」という部分が引っかかる。「用いる場合には信じている」と解釈していいかと思う。家父長制なんぞ滅びればいい、と思いながら、家父長制の利点もまたある。が、半端に家父長制の悪いところと男女同権の悪いところを取り入れてしまった我が家は、世代間の格差がひどく、祖父母は1000万ぐらいなら面倒見れるらしい。両親は100、自分はというと情けなく、こうやって金額で命を計量するのは良くないよ、とは言いながら、資本主義だ。どんな馬鹿野郎でも金持ちには頭を下げなきゃならん。
一方、共産主義や社会主義もまた、平等の名の下に全員が飢えてしまう。悲しいね。システムは個人を救わないのだ。システムは国家の存続のために機能する。例えば育ち盛りの高校生の食べる食事と、還暦の食事量を比較するに、平等では足りない。
そんなことを考えながら、そこを突破できない。イライラする。
火葬の際に荼毘に付す本は、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』である。おそらく世界中の人が、息をするのも苦しい真空状態にあるように思うし、重力も大きい。突破するには?この文学とも哲学とも言えない曖昧な書物を読み解くほかない。
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qofthequinine · 22 days
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最近の自分
性格が悪くなったなあと感じる。同時に、優しくもなったと思う。前まではただ優しいだけというか、感情がなかったのに内面がぐしゃぐしゃだったから、ここの以前のブログ記事が荒れすぎていた。荒れ方も相当なもので、割と危ない荒れ方だった。
そうやって自分で抱え込むのはやめた。そうすると、敵意ではないハッカめいた怒りが湧いてきた。鯨の骨格標本は乾いた伽藍堂で、そこに敵意はない。しかし生きている鯨は怒ると恐ろしい。『白鯨』ではその戦いが描かれた。その戦いは名前のある無人称だった。今はどうだろう?個人のアイデンティティは身分証にしかなく、語られることにはエビデンスが必要だ。ファクトベースで話すのは学術論文か、ビジネスシーンだけでよく、個人的な会話にさえ証拠性を求められると、人間は忘れてしまう生き物だから、証拠なんてない。では、「その人がその人である」証拠性が一枚の身分証にあるのなら、人間が生きているのは身分証と戸籍があるからというだけで、世界中が無人称であると考えられなくもない。伝言ゲームは歪むから面白い。しかし今の伝言ゲームは歪むことを許さない。事実より大事なことがある。その人を見ることである。その人が何を思うかを聞くことである。陰謀論は根拠性がないから馬鹿にされていたが、陰謀論に陥らなければ精神の安定が保てなかったのかもしれない。科学的根拠は心にまでアクセスできない。人間の話を聞けるのは人間だけだ。人間に話しかけられるのは人間だけだ。科学も人文学も、宗教とほとんど変わらない。何を見て何を信じるか?しかしそれ以前に、目の前にいるその人を愛する必要がある。闇雲に愛する必要はない。愛すると言えば勘違いする人がいるかもしれない。その人の内面を考え抜くべきだ。
ダイヤモンドはハンマーの衝撃で砕けるが、引っ掻いても傷がつかない。ダイヤモンドの硬さと称されるのは、引っ掻き強度である。ハンマーで叩いても潰れるだけでまた元に戻るのは紙風船ぐらいである。堅牢であることと壊れないことは全く別のもので、のれんに腕を押してものれんは破れない。障子に指を突き立てれば破れるが、A4のコピー用紙を片手で持って指を突き立てても、しなるだけで破れることはない。嫌いな言葉だが、柔を以て剛を制すという言い方もあり、柳に風折れなしとも言い、しなやかさは強さであり、しかし堅牢さも強さだ。どちらも身につけたい。というか身についてるのかもしれない。今はどちらかというと、「ダイナマイト・パンチ」の時期なのだろう。拳をコンクリの壁に当てる。そのとき腕はほんの少し伸びきらないぐらいにする。そして、その伸びきっていない腕を伸ばす。トム・ジョーンズの小説に出てきたボクシングの練習で、村田諒太の試合を見たことがあるだろうか?彼のストレートは相手にリーチした瞬間に伸び切る。さらに腰が入っているからたまらないだろうし、これは物理法則を利用してもいる。こういうパンチを処理するには太極拳や合気道などの、受け身の武術しか方法がない。あのパンチの勢いを避けながら軽く引っ張るだけだ。結局何が言いたいのか?つまり、強さは流転する。もしこの世に円形の天秤があれば面白いのに、と思う。
何もかもにいいところと悪いところがある。全くの善人に見えてもある部分は最悪だったり、『蜘蛛の糸』のカンダタにも人間らしさはある。二面性がある人物を悪くいうべきではない。そもそも人間が一面的であるわけがない。『レオン』という有名な映画は、冷酷な人物の人間である部分にフォーカスした。『シザーハンズ』では、怪物の優しさが描かれた。そして怪物を守るためのヒロインの行動は怪物的だった。黒澤明、伊丹十三、北野武の作品群は、日本特有の人情というか忠誠心というか仁義というか、『七人の侍』『たんぽぽ』『アウトレイジ』全て結局、その世界で己の筋を通すために行動した話である。
最初に「性格が悪くなったなあと感じる」と書いたものの、前言撤回する。知り合いが優しさと思っていた己の振る舞いは、半分が処世術で、半分が優しさであった。バファリンかよ。ことを荒立てないための対応と、本気の優しさであった。
そんなことを思った(夢十夜オマージュ)。
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qofthequinine · 27 days
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どこにある?
間違い探しは得意だった。流石にサイゼリヤのやつは脳みそがウニョっとなってしまって辞めたけれども、『ミッケ!』とか『ウォーリーをさがせ!』が大好きだった。神経衰弱というゲームがあるが、子供にとってみれば神経発達である。ああいうゲームが好きだし、ボードゲームも好きだった。心理戦が関わるととてつもなく面白く、『スコットランド・ヤード』では負けたことがない。一方、将棋では絶対に負けてしまう。弟とおじいちゃんが強すぎるのだと思う。チェスは案外強いが、弟ともおじいちゃんともやったことがない。おそらく負ける。アホみたいにオセロが強い母には成人してからやっと勝てるようになった。ポーカーは1ゲームでは勝てない。数ゲームやって、場にいるメンバーがどのレベルのカードでどういう振る舞いをするか、である。お金がないしギャンブルだけは絶対にやるなよ、という家訓があるので、NISAでさえ他の人がやっていてもあんまり興味がない。未来に金銭を預託する感覚がないのだ。借金もしない。借りた金を明日返せるか��わからないのだ。もらいタバコもしない。無理に吸わせず、無理に飲ませず、各々楽しんでほしい。
嗜癖とは人間の精神状態を表す。ギャンブルであれば興奮が足りず、飲酒であれば常に緊張していて、爪を噛む人はなんらかのストレスに耐えており、例えばこうやってキーボードを叩いているような時に、手の指に無理な緊張が走っていれば、その人はキワキワである。嗜癖と言ったが、「なくて七癖」の七癖がどこにある?を見極めるだけだ。過労パーソンは片付けができないか、オンラインゲームにハマる。こういうのをひっくるめて「発達障害」と名付けたのが失敗だったようには思う。正しい人間はこの世に存在しない。一面が正しくても他の面は正しくないかもしれない。人間は入り組んだ多面体だと思う。精神解剖なんつうのは無理な話で、奥底に秘めている話さなかったことは存在していない。
今日ここまで美しいと思ったことを書いて結びとしよう。
・スポーツ系の部活らしき自転車に乗った女性が、乗りながらウインドブレーカーを脱いでいた。普通、自転車がブレるだろうに、全然だった。体幹が強いなあ、と思って惚れ惚れした。
・マンションの改修に来ている鳶職の女性がいる。見た目はきついのに話すと優しい。
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qofthequinine · 1 month
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優しくない
猫を被っていただとか、嘘っぱちで生きてきたわけでもなく、自分は怒ることを嫌っていてやり方を知らないので、みんなから優しいとしか思われていなかった。暴力に訴えて怒ることしか知らず、言語的に怒ることが不可能だった。だから、小学校から高校、大学に至るまで、「秋山君は優しい」だとか、高校の時点では、「あっきーって本当に誰からも嫌われてないよな」と言われていた。というか、祖父母から両親まで、「あの子は優しい」としか認識していなかったらしい。
論破みたいなことは一切しない。ただ「この発言について、自分はこう感じて、カチンときた。その理由は……」と続けるだけで、「優しくない」と認定されることを理解した。大地のように全てを受け入れるふりをしていた自分が拒絶をすれば、そりゃもうね、手のひらがくるりんとなりますよ。もうすでに自らの優しさに甘えきった人物とは距離を置くというか、向こうから勝手に距離を置かれた。そうなんです。優しくなんかないんです。発言と文脈の裏に潜むメチャクチャに浅い思慮を指摘したとて、「考えすぎじゃねえ?」と言われるばかりで、リーチできない。
しかしまあ、ずっと仲がいい友人は、完全に自らの優しくなさを理解しており、「言葉を選んで丁寧かつ慎重に指摘しちゃうからみんな気がつかないよね」だとか、「たぶん解放したら軽く脳出血するレベルじゃない?」とか、つまりバウムテストで指摘された衝動性はこれかな?と思う。
暴力と言って、両者合意のもとじゃれ合うぐらいなら別によく、挨拶がわりにスパーしていた同級生もいたぐらいで、昔の恋人は鳩尾を殴るのが趣味だったりしたが、バチキレるのは良くない。大人になってると思う。一方、この優しくなさをどうしようか、とも思う。
基本的には優しいだろうけれども、精神的サンドバッグにならないようにしなければ、と思う。ここにいる人は殴りかかってこない。だからここにいるのだろうし、逆に殴っている自覚もなくただ話す友人も嫌いじゃない。そこに悪意はあるか?それだけである。
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qofthequinine · 1 month
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生きること死ぬこと
言葉の意味合いは逆だが、基本的には同じ意味合いである。
20歳で人生を生きる準備が整ったとして、あとはおおむね表にすれば下向きになっていって、寿命を迎えれば死ぬ。「これが人が生きるグラフです」と話した現代社会の先生が忘れられない。ユーモラスな人だった。
昔から「生き急いでいる」と言われすぎていた。生き急ぐとは、死に急ぐということであると思う。でも簡単に死ねないのが人間で、しかし突然死ぬのも人間である。
宗教問わず、生き死には神の領域である。イスラムであれば「ジハード」と言って、守るために死ぬことは名誉だ。十字軍だってそうである。ほとんど無宗教とも言える日本では、主君に忠実であるために切腹するなど、「信じるもののために」という思想は人間遍く変わらない。
シンプルに、「なんのために生まれて何をして喜ぶ わからないまま終わる そんなのは嫌だ」ってことだ。やなせたかしすごい
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qofthequinine · 1 month
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生きがい
生きがいなんつうのは危うい言葉で、定年退職した公務員はそのままぽっくり死んでしまうらしい。日々の生活のほとんどが抜け落ちるのだ。そりゃあ、虚しくてたまらないだろうし、たとえばパートナーがいたとしてもその人との対話の時間も仕事に奪われる。
で、大概の人間は生きがいなんぞ持っていない。生きがいのように見えているものは、「生きるための方法」であって、実はそんなに真剣味はない。雇用関係が安定していれば、月給とボーナスがあり、それで一ヶ月契約や一年計画を立てる。生きなければ為せないことがあるでもなく、ただ生きるための手段を尽くしている。素晴らしいことだ。
「生きがい搾取」という言葉もある。その労働があたかも生きる理由であるかのようにすり替えて働かせる。これで成功したところで、会社の支払える賃金以上にはならない。
生きがいなんて言葉は間違っているのだ。生きている理由は生まれたから生きている、以上のことではないのだ。どれだけ虚しく思える人生であれ、生まれたからにはそれにしがみついたほうがいい。と思う���
人生は長いような短いような、不思議なもので、宇宙的時間の中ではほんの一瞬だ。でも記憶は、その人は、その人が与えたものは、もしかするとその一瞬を素晴らしいものにしたかもしれない。
それが全てだ。人に優しく。生きがいを一応否定したものの、生きがいと唯一言えるのは、もしかしたら、「人に優しく」だけかもしれない
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qofthequinine · 2 months
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親族関係
育ててくれて今まで生きてる。迷惑ばかりかけたけど、被った迷惑もたくさんある。
父親が単価はでかいけど収入がない月もあるような請負業で、ひとり法人なので働くしかなく、仕事を理由にしないと祖母から連絡があるから、逃避先として仕事が機能している。まあ、ひとり法人で還暦超えてまだ働けているからすごいことだと思う。雇用されていたときは、最後の事務所で「交渉に長けた人物」として重宝されていたらしく、イエスマンの反対、「それは無理です」が言える人だった。過労により慢性疲労で一時期大変だったが、そのあと仕事の資格試験に合格してから早々に独立。ただこれが引き金となって、仕事場で飲んだり帰っても飲んだり、帰っても仕事の電話があったり、とにかく仕事に追われるばかりで、彼の休暇は床屋に行く時間ぐらいだ。仕事への誠実さは疑う余地もなく、地元では相当評価されている。ものの、評価ゆえに無報酬の地位を得てしまい、そこもまたストレスで、そうなると酒量は増えるし、もう大学の頃から呑兵衛なのに、今になってやっと「飲み過ぎ」の診断が出た。化け物の肝臓である。私はその子であり、やはり呑兵衛である。大嫌いな飲み放題で忘年会と称して親しい家族と飲んだが、そちらのお父さんも呑兵衛で、酒量がやばい。で、その頼みすぎた紹興酒六合を、勿体無いから飲め、と飲まされ、その時点で帰宅時間を気にしていたのは自分だけである。飲めちゃったし、そのあとの記憶もしっかりしている。
で、祖母と父は相当人の感情労働を軽視する。生まれてこの方、祖母と父のカウンセラーかつホストかつホステスみたいな生育をしている。祖母の悩み相談や、父の心理的ケア、さすがにライターを差し出すことはなかったが、タバコを吸い終えそうになると灰皿がわりの珈琲缶のキャップを開けて、そのあとに蓋をする。「言葉を選んで話せ」と言われたので、彼らの読む書籍や好きそうなものを考慮して適切な言葉で話す。
母は、こちらへの要求が多いのにこちらから要求すれば「今すぐは無理」とか「できない」ばかり言う。こちらが「もうちょっとしたら」と言えばあっちは五分と待てず、あちらが「もうちょっと」と言うときは平気で三十分かかる。
そのほかにも恨みはあるが、まあ別に構わない。
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qofthequinine · 2 months
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ハイヒールとメイク
美容室に行った。中学のときからずっと同じ担当のお姉さん。高卒でその美容室に来てからずっと働いている。
日本人がなかなかしない政治とか思想とかの話をした。特に、「育休、っていうから勘違いするんすよ、育児って戦いですからね!」「そうよほんと、男の育休とか言って、旦那が休暇取ったが故に、ミルクともう一食作らなきゃとかになったり、休暇じゃないよね!」「とか、ジェンダーレスとか言うけど、ジェンダーフリーじゃないですか、でもジェンダーって以前に身体の機能は生物学的にある。心が女の人が恐怖感で女性専用車両に乗るのはまだいいとして、心が女だから女装した男性が女性トイレに入るのは変じゃないですか」「そう、人間ってのは生き物だもん」「もちろんLGBTQとか言って認めるのはいいことだと思いますけど、あれって棚増やしてそこに入れてハイハイ、みたいな感じですよね。カテゴライズするんじゃなくて、『蓼食う虫も好き好き』でいいじゃないですか」「めちゃくちゃ上手いこと言うやん」「で、仲良くしたかったら話を聞いて何が好きで何が嫌いかとかがその人じゃん、と」
「あれブルベとかイエベとかあったじゃないすか」「うん」「でもメイクとかって、男で言えば甲冑着る、みたいなもんで、似合う似合わないじゃなくて、そうしたいか、したくないか、じゃないですか?」「そう!で、その似合う似合わないも自分のためじゃなくて誰かのため!」
おおかたこのようなお話。
昔友達に、「私がハイヒールにこだわるのは、これが戦闘服だから」と言われたこともある。
自分も、メイクされたときに、確かにスイッチが入る感じがあった。メイクの瞬間からずっと笑っていた気がする。
午後からは暇そうな友人と雑談。東京の両国でお相撲さんみたら幸福な気分になって、その後に漂うベビーパウダーの香りでほんとに妖精さん見た!と思うよね、とか、お茶の水で楽器屋巡って神田で蕎麦食って神保町で古本見て……とかから渋谷のキャットストリートの話、府中の雰囲気、三鷹のジブリ見て国分寺でピーターキャットのあったっぽいところ探して、みたいな話。あとは宮沢賢治が好きらしかったので稲垣足穂の『一千一秒物語』をおすすめしたり、穂村弘が好きだからという話題では『シンジケート』とか『手紙魔まみ』とか、角田光代や原田マハ、恩田陸好きだね、っていう話をしたり、「図書館の本を読破しようと思ってた」という話から、「バベルの図書館」の話をして、そうすると「実現できないね」「だから小説にしたんだよ」とか。
次は昨日連絡できなかった友人とせっかく新月なのでタロットしてみましょう、ということになり、タロットの意味よりもあれは解釈学なので、ということで互いに占うと、どう解釈してもいいようにしか考えられないと。占いは正直この人との対話ツールなので、せっかく新月なんだから、魚座でも探しましょうよ、でも東京は星が見えないからなあ、からの怒涛の音楽鑑賞と感想戦。めちゃくちゃ楽しかった。
日曜日にこんなに気分がいいのは久しぶりだ。
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qofthequinine · 2 months
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割にショッキングなMVだが、今まさに、の感じ
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qofthequinine · 2 months
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全然スピリチュアルじゃないよ
タロットで占うやつがある。占いは未来予測や千里眼ではなく、それを見ながらああだこうだ現在の問題点を把握するのが目的で、つまりコミュニケーションツールである。よく見る今日の占いは夕方には忘れてしまう。悩みがない人には「で?」としか思えない。
澁澤龍彦をよく読んでいた時期に、これはそういうタロットとかをわかっていないと面白くないな、ということで勉強して仕組みは理解した。つい昨日、占い師になりかけの友人と占い合って見ると、「私よりあっきーの方が適性ない?」とのことだった。
実は他にも、カバラや四柱推命(小学校の最初の担任が四柱推命のプロの家系で、それを継ぐために教職を辞した)、宿曜、なんかも仕組みは理解しており、アジア系の占いはただの暦で、インド系は数学だ。タロットはあくまで対話がベースにある。
と思うんだよね。
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