Tumgik
bunshinovel · 11 days
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雑記24.04.17
 約一ヶ月ほど書いていなかったよう。飽きたから書いてなかったけれど、長く書きたいことが見つかったというか、今日帰り道自転車こぎながら考えてたら出てきたので、書くことにしたという訳。  大きく二つあって、一つは本のオッペンハイマーと映画のオッペンハイマーの違いというか、スタンスの差というか、その二つへの気付き。もう一つはそれに伴って見つけた映画と文章の時間と小説は小説家にしかわからないという発言の意味。ツイッターに書こうと思ったけど、長くなると思ったのでこっちにということです。
1.映画オッペンハイマーとハヤカワ・ノンフィクションのオッペンハイマーの違い。
 映画オッペンハイマーは3時間あると聞いたのは映画を見終わってからだったんだけど、実際その時間を感じさせないくらい映画に集中してしまった、ということは自分の中では面白かったということだと思うんだけど、一方で本のオッペンハイマーもまだ上巻の途中だけど面白い。この2つの面白さを分けるなら、映画の方はちゃんとエンターテイメントとして、原爆製造という歴史として面白い。本の方はどうかというと、とにかくオッペンハイマーという人間がどのような人物なのかということを徹底的に調べてあるのが面白い。こういう差がある。だから、本基準で映画を見ると物足りないと思うんじゃないかと想像する。本だととにかく彼に関わった人たちに片っ端から取材しているような感じで、当時のオッペンハイマーはどんな人だったかということを彼らの口から語らせている、歴史的な彼のキャリア形成や世界史的な情勢も踏まえるんだけど、とにかくどういう人だったかがしつこく書かれているという印象で、そうなると映画は3時間という大作なんだけど、3時間じゃそこは入らないよなって思う、どういう人なのかは出来事として描かれるんだけど、それは例えるならその人自身を掘り下げるというよりも、周りを掘ることでその人を盛り上げるような描き方だと思うんだが、本を読むととにかく本人自体を掘り下げようという書き方で、実際すごく掘り下げるから、映画を見て感じるオッペンハイマーという人の印象と、本を読んでるときのそれは全然違うということでもないけど、違いが鮮明になるというか、追加情報としてたくさん入るから、結果として映画は人物を描くという意味で薄味に感じてしまう。決してそれが欠点であると言いたいわけではない、少し書いたけど3時間に収めるなら、それでも3時間は多いが、どうしても描かない、描けないことってたくさんある。どこに光を当てるかというのは監督の手腕で決まるし、クリストファー・ノーランは人物を深堀りするというタイプの監督じゃないように思うし。とにかくそういう違いがあるなと思ってたら
2.時間の話
 そう考えると、映画の時間というのはつまり上映時間と思ってしまうが、たくさんのアウトテイクもあるだろうし、構想されていても実現されなかったものもあるだろうから、単に上映時間とイコールではない、撮影されていた、カメラが動いていた時間だけでなく映画を作るための全ての時間が映画の時間であって、でも完成品を見てもそのような時間は見ることが出来ないので普通気付かない。
 本も同じで、例えば400字の原稿用紙10枚の分量の文章があったとして、それは1時間で書かれたのか、それとも一週間かかったのか、一ヶ月かかったのか、見る人が見たらわかるかもしれないが普通わからない。
 何がいいたいかというと、作品は沢山の時間というものが封入されているのだが、その時間を感じるということは普通やらないし、本当に慎重に、丁寧に見ようとしなければ見ることは出来ない、気づくことさえ出来ないことになっている。ということです。
 そして、それがわかるのはそれに関わり、制作した人たちだけ。
 だから小説は小説家にしかわからない。そこまで届くほどの批評は滅多に書かれない。読者もそこまで想定して読まない。さらに言えば、小説家自身も自分が書いた小説をすべて「わかっている」わけではないのだけど、でも、小説を読むということにおいて小説家のように読むためには、その小説を書いているその人以外にはかなり難しい行為で、だから小説は小説家にしかわからないという言葉が生まれる。んじゃないかなと思ったわけです。
 では、餃子焼いてきます。
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bunshinovel · 1 month
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雑記24.03.16
 一瞬で時間は過ぎていく。一週間ぶりくらいに書くことにする。その間はずっと書き続けてはいた。その書いたものがよかったかといえば、ずっとそんなことはなくて、だいたい「今日はいい感じに書けたな」というのはあるけど、「今日はいい文章だったな」とか「今日は良い小説書けたな」みたいなのはない。だいたい、これが小説として成立するのかはわからない。なんというか、ピースが全部あるか心配なパズルみたいなものかもしれない。一つ一つ繋げて作っていくんだけど、最初はピースが多いからここに抜けが何ピースかあって最後まで完成しないかはわからないんだけど、どんどん続けていくとやっぱりピースが足りないとか、そういう瑕疵が見えてくる。だいたい書いていると飽きてくる。一日に書けても二千字くらい、千字くらいで飽きる。飽きたら終わり、一日中書くなんてことが出来る人はすごい。そんな集中力もないし、書くこともなくなる。そこに集中できてないと、書いたことが嘘っぽく響くから書けなくなる、人が文章を書くことが出来るのは、その文章が嘘じゃないからだ。嘘ってのは本当に起こったことではないとか、フィクションという意味ではなくて、それが虚実関係なく、それが起こって当然とか、そうなると自分が思っているということで、それを裏切るようなことは当然書きにくいし、にくいというか書けない。長く書いてると、そういう感じで書けなくなる。これは多分多くの人がそうなんじゃないかと思う。
 特に自分は会話が苦手だ、ずっと白々しい、なんというかこの辺は観察が必要なんだけど、例えば都会に出てスタバとかドトールで休憩しながら周りの話に耳を傾けるみたいなことでどうにかしようと思ったことがあるんだけど、どうしても自分はそういう場で人の話を聞くということができないようだ。まず上手く聞こえないというのはある、耳が悪いのか、そもそも目の前の人に届いていれば良くて、だとしたら音量としてはそう大きくないから聞こえない、加えてそういう場で人の話に耳をそばだてない、更に、遮断して聞こえないようにするという振る舞いが身についてしまっているので、気がつくとその話に集中していたはずなのに、その集中を外して意識を散らしてしまってうまく聞けない。自分でも極端だなあと思う。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.03.10
 しばらく書いていなかった。その間も小説は書いていて、毎日書いてていい感じ。でも前に進んだり戻ったりしてる。書いたところを躊躇なく消せるようになったのは、多分成長。あくまでも小説は、物語を利用はすれど、でも実際小説は物語ではない。ここがわかってない人達が多いと思う。なぜなら、ほとんど多くの小説は物語だから。小説は物語とは違うが、小説は物語として書かれる。矛盾しているようだが、実際そうではなく、両立する。と勝手に思ってる。物語は物語として面白いところはあるんだけど、大事なのは物語ではなくて小説として書くことで、じゃあ何が違うんだと言われても上手くは言えない。ここが上手く言えるようになれたら小説家になれると思う。
 今日はベーグル屋に行き、その足でパン屋にも行った。行帰り中ずっと、今の生活を続けるか否かについてジクジクと考えていた。正論と自分のやりたいこと。やるべきと思われていること。自分の意志と他人の意思。社会的な圧。いろんな要素があるけれど、基本的に今の生活を維持するためのロジックとしてはかなり不利になる、しない方がいいというのは明らかに強い、なぜならそれがこの社会で生きるということだし、圧倒的な正論だから。だからこそ、したくない気持ちが出てくる。いろんな心配事をかなぐり捨てても、今の生活を続行すること、それがいくら愚か者として、痴れ者として映ったとしても、自分の生活、自分がやりたいことをやる、後悔しないで生きていく、それとの天秤なんだけど、自分がわりと正論に寄ってしまっているから困る。要するにどうしてそうなるかと言えば、正論だから。とにかく正論は圧倒的に強くて、どんな言葉でも切り崩せない。だからこそなんだが、だからこその論理は弱い。現実という圧倒的に強い存在をぶつけられると、あらゆる想像は簡単にもろもろって崩れてしまう。この「だからこそ」の部分がわからないのが、正論を言う人達なんだよなあって思う。何回も書いてるけど、俺は別にこの社会において正解とされる、もしくはモデルとして存在する、こういう風に生きてください的なストリームで生きるつもりはまったくない、なかったし、できなかった人間だから、今更そのストリームに戻ろうとしても当然弾かれる。この「当然」が本当に嫌いだし、だから今の社会は駄目なんだと思ってるんだけど、そのストリームで生きてきた人たち、その物語内部で生きている人たちは、その外にいる人達を差別したり、攻撃したり、馬鹿にしたり、見下したりしていいって思っているから、だから俺は嫌なんだ、この嫌だというのは重ねて言うが、メインストリームで生きてる人たちに理解できる人は少ない。一度でも外に出たことがある人ならわかる、でも賛同してくれる人は少ない。ただ俺は自分がしたいことをしたい、それは後悔したくないから、そして今の生き方は自分にとって、ずっと幸せだったし、楽しかったし、それを捨てるというのは難しい。一方で捨て去れという自分もいる。そしてそれはおそらく「正しい」、「」はつまりこの社会で生きるにおいてはという注釈付きで。しかしやはりその「正論」は俺の納得に敵わない。納得できない以上今を続けるだけである。ただ読んで、ただ書いて、それが何にもならなくたっていい。まあ、親からしたらクソみたいな生き方しやがってって、そりゃなるわな、それがわかるから揺らぐ。そういう立ち位置でございます。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.03.06
 何を書くかはそこまで困らない。やはりどう書くかが一番困る。なんというか、指針というのか。しかしその指針というものは、自分が決めることではない。あくまでも、よく目を凝らして周りを見ることが大事だ。そうしていると、どこかに目印が現れる。しかし注意だ、それをいきなり捕まえに行ってはいけない。その目印は偽物かもしれない、そういう注意深さはどの場面にでも有効である。
 跳躍が必要なときに重要なことは何かを考えるといいのかもしれない。着地地点がどういう地形なのかは大事なことだ。あまりに凸凹していたら足をくじくかもしれない、転んでしまうかもしれない。その跳躍と着地点との間になにもないことを確認するのも大事だ。大きな穴が空いていたら大変なことだ。しかし、最も重要なことは、んなこといいからさっさと跳ぶということなのは間違いない。うだうだしてたら、身体は跳ばないという方向を向いてしまう。身体は正しい、だから、正しく行為する前にやってしまわないといけない、ときには身体を欺く必要だってある。
 今日は寒すぎるので、寒い、風呂、温まる。寒い、なんでこんなに寒いんじゃ、雨は止めだ止め。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.03.05
 焦らないが、しかし何もしない。何もしないでいたかったが、誰もそれを許さない、それを許さない世界で生きている。でも、本当はそんなのはおかしな話で、誰もが好きに生きてきたはずだ。いやそうじゃない、人は好きに生きられない動物なのだ、というのは一つの真理ではあると思う。人は自分の好みややりたいことやその他とにかく自分の意志とは別のなにかで生きる、何かを生きる。そういうことなんじゃないか。だから、こうでしか生きられないという生き方は本質的に不可能なのだ、人はこれしか出来ないという生き方を生きるのだが、それ以外もさせられる、というかそれ以外ばかりさせられる。その結果消耗して、気づいたら年老いている。
 そうならないようにしようという話である。つまらないからね。
 海辺のカフカを読み終えた。全体として、なかなか良く出来てるというか、そういう言い方するとすげー偉そうだからしたくないんだけど、良く出来てるなあっていつも思う。でもなんというか、出てくるものがどれも何かの比喩であるような形というか、換喩というか、置き換えなんだけど、じゃあこれはなんだろうってのが一つあって、それは星野くんが最後倒したあの得体のしれないアレは、じゃあなんなのだという。佐伯さんと中田さんは対になってるし、ジョニーウォーカーと主人公の父親も対になってる。対というか、なんというか。彼らは同じでありながら違うというか、でも主人公の父親を殺してもジョニーウォーカーは死ななかったけど、ジョニーウォーカーを殺したから主人公の父親も死んだという形でのつながりだから、相互ではないんだけど。主人公はこれから「戦う」存在だけど、大島さんはそうではない、「戦わない」存在でもない、彼女(彼)は戦っている、同様に。戦い方が違うだけ。それぞれが色々な戦い方をしている。当たり前の話だ。だから、人に向かって戦えというのはなんというか、傲慢である。みんな自分の戦地で戦っている。他人がそれをどうこう言えるものか。しかし、最後佐伯さんのいた部屋で主人公と大島さんとの別れのシーン、別れ際に主人公と大島さんは抱き合うんだけど、なんかそれは、アメリカンだなあって、アメリカ映画というか。日本人だったら、多分やっても握手までなんじゃないかなあって。そういう意味でも、田村カフカはかなり無自覚的なのかわからんが��やってんなあって思う。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.03.04
 昨日書いた分を削って、また少し書き足せた。昨日書いた分は、方向が違ったなと思えたし、書きながらこういうことじゃないなとなったので、とりあえず書き直した。悪くはないと思うが、これも書き直すかもしれない。本当は一日で全部書ければいい、いやほんの一瞬で全部が書ければいい。しかし、何かを作るということは時間とともにある。そして時間が経てば当然自分は変化してしまう。自分だけじゃなくてあらゆる物事は、事物は変化してしまう。
 自分が強烈に変化に弱い存在なので、それは困ってしまう。変化を受け入れるということが出来ないわけではない、自分から変わるということが出来ないだけだ。出来ないというかやりたくない、変わらないで欲しい。でもそんなことは無理である。自分はできるだけ変わらないようには出来るが、前述の通りあらゆる事物は、物事は変化してしまう。あの愛着ある繰り返しは、いつの日か叶わない。即座に変化し、受けれられるような人間は有能だ。しかし世間一般だと、その能力はそれほど評価されていないように思える。でもいちばん大事なことだと思う。全体的に鬱々としている。それでもやれることを少しずつやるしか無い。引っ越しの準備、二年ある。あと今週は管理会社に電話をするもある。
 海辺のカフカに出てくるナカタさんは、五十年くらいずっと木工作業をコツコツやり続けて生きてきた。俺は彼のように生きたかったが、それは叶わなかったようだ。一つのことをコツコツと、それが何になるわけでもないようなことを、ただきれいな石を見つけて喜ぶ、それだけのことをしていたかった。他にやりたいこともないし、人生でやるべきことなんてないはずなのに、何故かやるべきことは、自分の外側に、与えられて、出てくる。決して逃げられない。そこは本当に人生の良くないところだと思う。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.03.02
 気づけば3月で、もう沈丁花が咲いていた。でもまだ寒さはある。久しぶりに小説を書き始めて少しずつ進んでいく。プロットや下書きはない。最前線である最後に書いた位置から、仕事しながら少し想像する、実際言葉にしてそう書いてみる、でもそれらはたいてい使われない。なんでかと言えば、それはその時に書いたことで、今から書くとしたらそれは今書いたことではないので、どうしたって合わない。時間で形が変化するパズルみたいな感じで、五分前に考えて文章を頭でずらっと並べてみても、五分後にはもうなんか違うなってなる。先に書くと、もう飽きてる自分がいる。それを大事にして、飽きてなんかないとして貫くことは違うと思うから、それをやらない。事前に作るなんてことは、あり得ない。飽きてしまうし、今それは違う。テンションも、感覚も、見ている場所も、興味がある部分も全部もうそれは過去のそれで、過去時点での自分のそれで、今の自分はもう別のところを見ている。こんなに飽きっぽいのに、むしろこっちのが正道な気がしている。そもそもそれがもう間違っている、いやわからない、一つ言えるとするなら、正しい/間違ってるで書くことは止めている。
 表すべきなんて大層なことでもない。書くべきことがあるなら、簡潔に、びしっと、わざわざ物語を利用することなく書けばいい。書くことなんて無い。表現したいことだってない。ただ書くだけ。先に道ができる。あとから人が歩く。いや違う。先に歩く。それが道になる。ならないこともある。むしろほとんどがならない。道になってくれるなら嬉しいが、しかしそんな立派なものでもない。花粉のことを考えると、外に出たいと思えない。本当はパン屋に行きたかった。洗濯もしたかったけれど、洗濯のタイミングを完全に逸した。ちょうどよく使う言葉の変換、その言葉がありふれているもので優先度が付けにくい時、変換すると第一候補第二候補どっちも頻度が高いと一発で変換されない時があって、それがストレスになる、積み重なる、でも抑えて、コツコツ積み上げていく。河口が近い浜辺に流されてくる研磨されて丸くなって磨かれた石たちを、一つ一つ下を向いて、きれいな、自分の目にかなうやつが、自分の好みに引っかかるやつがないか歩きながら探していくような。
 柴田聡子の新アルバムがよい。前作もとても良かったけど、今作も良い。レコ発のライブは油断してたので、東京はチケット完売。追加のライブ、でも実はライブという気持ちではなくて取るのを躊躇っている。阿部芙蓉美の新譜は買う。予約注文で買う。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.29
 今日はうるう日だ。うるうってどういう意味なんだろう。閏は門構えに王という字を書く。なんでも昔中国ではうるう日には王様は門の外に出なかったみたいな、そんな逸話というか習わしがあったらしく、そこから来たのではないかという説が、インターネットで調べると出てきた。うるうという言葉は、もともと存在しなかった閏という文字をどうにか読むときに、似た文字の「潤」から「うるう」になったのではということだった。なるほど。筋は通っている。でも、わかりやすいってことは逆に怪しいってことでもある。あとから作った俗説ということもある。本当の由来ってのは、なかなかたどり着けないからね。そして何を書こうとしていたか忘れた。色々とやることがある。やらないようにすることもある。ただ生活を続けようとしても、どうしても変化しないといけない時がある。変化することに弱いじぶんがいる、というか、ほとんどの人は変化することに弱い。それでもやらないといけないから、仕方なく、えいやとやる。でも、そのなかでもそれでも出来ないような人もいる。あまりに出来ないと、その人はある種の傾向を持つみたいな言い方をされる、もしくは病気ということにもなる。ただ生きるだけなのに、大変な世である。昔も大変だっただろうけど、今も何故関わらず大変である。その「大変」の内容は変化し、度合いも変化しているに違いないが、大変であるということ自体に変化がない。本当は、ただ生きることだけなら大変である必要はないのでは? なぜ大変にしたがるのだろうか。チャレンジしたい人が居たら、チャレンジすればいい。全員がチャレンジする必要はないのではないだろうか。全員が武器を持って戦う必要はないのではないか。戦え、挑め、その言葉は勇ましく正しくも見える。でも、本当にそうなのだろうか。
 今日はこの数日書いた分を消して、新たに書き直した。少し良くなった。方向を間違えていた、が、しかし今新しくなった部分の方向が正しいかはわからない。どうにかうまく書きたい、なんていう気持ちはない。良い小説ってのは、なんというか、余計な「力み」がない。構えないし、なんというか、とにかく、私を超える。私が書いている、という層ではないところで書くこと。そこをどう踏み越えられるか。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.28
 色々と調子が芳しくない理由はわかるが、これを解消することはおそらく不可能なんだろうなという気持ちがさらに体調へダメージを与えてくるように思う。こういうときはもう、そのことについて深く考えることはとりあえず今は止めておいて、自分の足元を今一度しっかり確認し、荒れていたら形成して再び元に戻すことを意識する方がいいなと思ったので、丁寧な食事、調理をすることにする。今日も花粉は絶好調なれば、わたしたちはただそれを耐え、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶのみである。花粉様には勝てねえでな。敵わねえだわ。
 昨日あの一斉を風靡した三体が文庫化したという情報を得たので、早速買ってきた。冒頭を読んだが、これは面白いやつってすぐわかるやつだった。ただ、小説ってやつはしかし、書くことも読むこともとても大変なものだなと。海辺のカフカは下巻に入りました。海辺のカフカも悪くはないんだけど、どこか、なんというか、自然ではないような、作為というか、当然作品に作為はあるんだけど、海辺のカフカ的世界の在り方と、自分の読みが正面衝突してしまうところがあるなあって。当然っちゃ当然なことなんだけど、それ以外は面白いなあって読めるし、中田さんパートは面白いんだけどなあって。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.27
 思いの外給料があってよかった、いやよくはない。よくないの? いやいいんだけどさ、うん。まあ色々あるよね。3月になったらとりあえずまず今住んでるとこの管理会社に連絡すること。忘れずに。いや今やればいいっちゃいい。でも3月でもいい。
 ケリー・リンクのマジック・フォー・ビギナーズっていう短編集に、ザ・ホルトラクってのがあって、これがすごく好きなんだけど、そこにオージブルキャズムという単語が出てくる。どう翻訳されてるかというと「聞こ見ゆる深淵」という言葉になってる。オージブルってのは「audible」のことだろう。聞こえるってこと。キャズムってのは何なのか。どうやら溝のことらしい。キャズムでググるとキャズム理論が出てくるけど、そういえばそんなのもあったなと思いだしたり。綴りは「chasm 」これでキャズムは読みにくい。しかしこれを「聞こ見ゆる深淵」と翻訳するセンスはいいよね。見ゆる、見ゆってのは自然と見えてしまうくらいの意味合いで、だから聞こえるし自然と見えてしまう深淵、普通深淵なんて無いわけだから、それでも自然とその存在を知ってしまうようなという感じか。ん? あってるかな。
 今日も少し書いた。停滞していたが、少しずつやっていこう。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.24
 昨日は気がついたら寝てしまってて、起きたのが午後四時くらいだったので、なんやかんやしてたら書きそびれてしまった。でも小説は書いたので偉い。偉人である。辞書的な意味ではない、偉いと認定された人が偉い人、「い」を抜かして偉人、「いじん」ではなく「えらひと」いや連濁して「えらびと」である。どうでもいい。
 今日の花粉は久しぶりに攻勢を仕掛けてきた、そういえばこんな具合だったなという被害を被ることになった。初めて花粉症になったのが高校生のころだったから、もう二十年以上付き合っている。しかし、誰もこれどうにかしようと思わないのだろうか。二十年あればなにか出来たんじゃないだろうか。すこしずつやってはいるんだろうが、結局個人の持ち出しで病院に行くとか、免疫的な治療をするとか薬を飲むとかそういうことで、もっと抜根的な解決を目指すべきなんじゃないか、って思うけど、例えばじゃあ全部のスギ・ヒノキを切り倒せばいいってわけでもないし、花粉を出さないやつに変えればいいなんて安直なことが出来るわけでもない。切り倒すのだって時間がかかる、二十年あればどれだけ切れたか、でもそれをそのあとどうするのか、誰が切るのか、無計画に針葉樹を植林するからこうなる。林業自体が下火なのも問題だと思うが、それ以上に人間自体が無計画、政治的にも無計画、愚か、馬鹿、脳みそ小鳥、以上、解散、いい夢見ろよ。
 今日も書けましたのでさらに偉人になりました。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.22
 今日も書けた。昨日書いたものの続きを書いた。消すことなく書いたので、多分軌道に乗ったといえるが、その道がどこに向かっているかわからないので、途中でやっぱり消すかもしれない。  あっさり消すことができない人は書けない。いや書けるけど、それが小説になるかどうかでいえば、きっとならない。なんというか、壁一面にきれいに色を塗るときに、油絵でカンバスに絵を描くみたいなことにはならないはずで、だいたい一発で決めるんじゃないか、なんかいも塗り重ねて、塗り重ねることで特定の色を出したいなら話は別だろうけど、そんなふうに壁は塗らないで、職人は一発で決める、んじゃないか。だから今ある文章をどうにか言葉を入れ替えたり、文章を組み直したり、構成なるものをしてみたり、付け足したり削ったり、それはいいか、でもそういう手を入れることでよくなった、なんてあるんだろうか。その文章は書いている最中のそのときのそれで書いているから、その時のそれで再び書けないのだとしたら、ずっと違和感があるし、ズレて行ってしまうように感じる。自分で書いた文章なのに、自分で書いたようには思えないし、どこか他人事というか他人事である。
道がわからなくなったら引き返せ、先に進めば余計にどツボにハマって迷子が手に負えなくなる、とわかっていても、よく迷子になる人達は前へと進んでいく。方向音痴ほど自信を持って間違える。そういうのが好きだ。
 今日書いたものの一部。こういう文章は別に考えて書いたわけじゃない。向こうからこっちへとすーっと流れてきた、地形に沿って、決して高いところを無理に登ったり、必要以上に左右に蛇行したりせず、あくまでそういう地形だからそういう動きになったのだという力みのない流れの中で出てきた言葉で、そういうものにぶつかると、なんというか、自分でやったことなのに自分が驚く。思いの外いいじゃんなんて思う。でも、いいのかどうかはその次の瞬間には見えなくなるというか今までもずっと見えているわけではないのに、いいじゃんなんて思ったりするから馬鹿だ、でもその瞬間の馬鹿に少し助けられる、でもすぐにその馬鹿ごとまた溺れるから、次々に誰かが救助に来ないかなと思いながら進んでいく、そういう不安の海に浮かぶ、人間は水に浮かぶ場合水の外に出せる重さなのか面積なのか体積なのかはわからないが数値があって、確か一桁%じゃなかったか、だから手を上に出して気づいてもらおうとすると身体が沈んでしまう、だから救助を待つ、溺れないようにするにはそういうことをせず顔を、というか口が水の下にいかないようにとにかく身体を外に出さないで呼吸が出来る状態を保つことが重要だ、みたいな話を何処かで読んだ。それもやはり流れの中の、自分の意志というものの外の話だ。自分の意志で動こうとすると溺れてしまう。不安の海に漂うのも、いちおうやり方というものがある。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.21
 もし、サンドイッチの具が分厚く、もりもりに挟まっていたら、それにかぶりついたときどうなるか、ぜひ考えてみて欲しい。絶対に逆側から具材がはみ飛び出てきて、ボロボロと溢れる。しかし、だからといってサンドイッチに十分な具材の量を挟まないという理由にはならない、むしろ反対側からボロボロとこぼれ出てきて手を���して、うわー最悪だよって言いながら食べたいのだ、というか、それこそがサンドイッチであり、それができないようなものは半人前のサンドイッチである、だから、あらゆるサンドイッチを手にしたらまずやることは挟んだ状態のパンをぺろりと開いて、内側がどのような構造、構成になっているのか点検することだ。サンドイッチの顔というべきあの三角の斜辺のライン上だけしっかり具材が乗っているような、そんな詐欺サンドイッチだとしたら、もうそれには手を付けない。それを食べるということは、そういうことをすることを肯定してしまう。決してそれを肯定したい気持ちはない。それはやってはいけないことなのだ。それなら高くなったとしてもしっかりたっぷり具材を挟んで欲しい。
 今日もまた昨日書いたものを読み返して全部消した。改めて書き始めて、なんとなくこれだなとなったけれど、明日はまたわからない、消すかもしれない、一日��つと、昨日書いていた文章との接続面がもう存在しないように感じるから、同じように書くことができない。こういうときは、もう少し書こうかなというところで止める、もしくは文章の途中で止めると少しはましなんだけど、それすら通用しないときもある。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.20
 昨日書いた分を丸々削除して、新しく書き直してみた。多少良くなったように思う。なんというか、書き応えがあるみたいな形にはなったし、書きやすくもなった。小説には大きく2つの軸があると思っている、素人なくせに偉そうに書くが、一つは「何を書くか」でもう一つは「どう書くか」、こんな当たり前のことを勿体つけた書き方している時点でクソみたいなもんだろうが、でもこの2つはとても大事なことで、大事だからこそ当たり前で、当たり前だと思っている物事ほど、意外なほどに理解していないし出来もしないみたいなことは往々にしてある。小説に関していえば少なくともそういうものだと思っている、じゃなかったら誰しもが職業小説家になれることになる、でも本の一握りしかなれないし、仮に商業に乗ったとしても大したことが書ける人なんてさらに一握りしかいないのが小説家という職業で、だから大変なんだけど、そもそも小説を書けない人だらけというのも一つ問題なのかもしれないが、今回はそれについては書かない。  何を書くかはあっても、どのように書くかはあまり考えないんじゃないか。題材とかプロット、構成、登場人物のあれこれみたいなのは考えたことある人は、多くはないだろうけれど小説や舞台の脚本とかそういうものを書くにおいて大事なことだというのは、これは誰にでもわかることだと思う。これらは「内容」つまり「物語」がどのような形をとるのかということに関わるので、当然大事だし、蔑ろにできないことなのは当たり前というか、わかりやすい。でも実際もっと大事なことは、どのように書くか、書けるかというところだと思う。料理に例えるなら、食材は揃っている、じゃあどんなメニューにしますかということ。それらを使ってどんな料理作りますか、ということ。小説が料理全体だとしたら、食材は重要だけどそれらを使ってどんな料理を出すか、こっちのが俺は大事だと思っていて、だからというか、正直食材やら何やらはそこまで書くにあたって考えない、思いつき、その場しのぎ悪くいえばそんなやり方をしている、というかとっかかりがあればいい、最初の設定だけ、ボルダリングで言えば、最初にどこに指を引っ掛けるかだけは考える、あとはそこに引っかかってから勝負するみたいな、そんなやり方で書いているんだけど、それは料理における食材をどう切るのか、どう切ってどう処理してどういう料理につなげるのかというところに相当する、その下処理で作る料理が決まる、あくまでも書いていくうちに考えたり思いついたりしたそういう運動の中で決まっていくものとして扱うようにしている。この運動の中で書くってのが大事だと思う、そこは料理と違うところで、料理はあくまでも料理があって、それに従ったレシピがあり調理法がある。でも小説を書くことは料理と違って、出来上がり想像図は頭の中にあってもいいけれど、~という料理みたいなかっちりしたものではない、だから鶏の唐揚げを作るように考えていたけれど、途中で油で揚げるのはやめて下味つけた鶏肉を野菜と炒めるみたいな変更を細かくしていく、というか変更とも思っていない、実際一つずつやってみて、その道が通れると思えば通っていく、でも通れないなら変えるしか無い、そうしていくとレシピみたいな決まった道を進むようなことにはならない、その都度その都度判断して進んでいく、手探りで目の見えない、前の見えない状況を進んでいくような、そんなイメージだ。だから自分が書いた文章がほんとうにいいものなのか、とか、これ小説になっているのかとか、とにかく不安であるが、この不安こ���が道標になっているというか、道標にするしか無い。
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bunshinovel · 2 months
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雑記024.02.19
 気がつくと2月も後半になっている。日々をすりつぶすようにして生きているように感じて、それは良くないなと思う。じゃあどうするのがいいのか、んー。わからん。日々をどう過ごすかってのは、時間があるようでないという状況において、何をするというところが当然メインになる、が、基本的には何もしていたくないわけであり、だからこその非社会性というものなのだ、社会というものは人に何かをしろと命ずる、何かしら役割を果たせ、役割につけとそういう圧をかけてくる、勿論そう生きることも立派な人生だと思う、でも、全員がそれをするわけではない、そういう自由だってある。そもそも、誰がお願いするわけでもなく、生まれたら勝手にこの社会に突っ込まれているわけで、勝手に入れられ、勝手に登録され、そんなことは俺の意思ではないところで勝手に進められて、と、こう書くと、じゃあそこから出ればいいだの、勝手に何を言うだの、そういう反応があるかもしれない、でも、これは事実である、ただの事実を並べただけ。そういう形なのだ、この社会というものは、もしくは人生というものは。そこに自由というものがあるとするなら、ほんのなけなしのものだ。そのなけなしの自由ですら、構造が奪おうとしてくる。実際多くはその構造に乗っかってることに気づかない人間が奪おうとしてくるのだが。とにかく、今日から書くことにする。全くの見切り発車だが、なんとなくこういう形で書けるんじゃないかというのを最近思いついたので、少しずつやっていこうと思う。大事なことは毎日コツコツやることだけ。そうやって少しずつ積み上げることでしか、小説は成さないのは間違いない。安定したものはない。常にそこには不安定さがある、落ち着きのない、決まりもない、それを自由と呼ぶにはあまりにもぐらついた、そんなものなはずだ。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.18
 しばらく書いてなかった。いや昨日はとんでもないことがわかって、慌てて作業してたんすよ、餃子を作ったりもしてたので各事自体を忘れていた。  最近阿部芙蓉美の新アルバムが3月に発売と発表になって、先行して「Some True Love」という曲が配信されたんだけど、この曲は去年のライブでも演奏されてて、この曲めっちゃ聞きたくて、でもまだ音源になってなかった、のを忘れててすげー探してしまったという、ちょっと俺落ち着けということをしてしまったで有名な曲なんだけど、有名ではないが、この曲の歌詞に「最前線」という言葉が出てくるんだけど、この最前線という言葉がずっと頭に残ってしまったままここ数日過ごしてたら、昨日か今日に「そうか、人間ってのは一人ひとりが世界と対峙しているわけで、だから世界と私という関係においてこの私の身体こそが最前線で、最新で、防波堤なんだ」と気がついた、それが何になるのかは今をもってもまったくわからないし、こんなことは当たり前なんだけど、当たり前のことってのは気づいてしまえば当たり前なんだけど、当然当たり前以前というのがあって、当たり前以前は当たり前だと思ってないし、そもそも発想として存在していないという状態なので、この0が1に変わるとき、当たり前が当たり前になる時ってのは、個人的な出来事としてとても大きい。  言ってしまえば、全員が最前線にいるということは、この世界に、社会でもいい、おいて、誰もがその参加者であり当事者であり、この世界で起こることは誰もが関係していて、関係がないなんてことはありえない、という発想にもつながるんじゃないか。だとしたらとても重要な発見、発見というか、これは心構えとして大事なことなんじゃないかと思うのだ。  まあでも、自分の生き方を振り返れば、なるべくあらゆる物事との接地面を減らすことで、楽しくのらりくらり生きてきたわけで、それは最前線に居ながらも、というか自分にとっては自分は最前線ではないと思っていたわけだが、実際そんなことはなかったということで、そういう意味でも最前線だという気持ちを持つということは、今後のためになるなこれはと書きながら思ったのであった、がなるべくどうでもいいことは右から左に受け流すムーディ勝山式で生きていきたいのは今も変わらないけど。
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bunshinovel · 2 months
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雑記24.02.16
 餃子を作ろうと思う、この週末に。そしていつも考える。餃子を作るときにいつも考えることがある。それは、キャベツを使うべきか、ハクサイを使うべきか。個人的な好みで言えば、キャベツがいい。ほぼキャベツで作ってきている。具は、豚ひき肉、キャベツ、ネギ、ショウガ、以上。ニラもニンニクもなし。別にニラが入ってるのが嫌いとか、ニンニク入りが駄目ということではない。それでもいい。でも入れないで作って十分おいしい。しかし、ハクサイはどうだろうか、という探究心はある、そして一度やってみたことがあるのだが、あまりピンとこなかったというのが本心である。味付けの仕方を変えるべきだろうか。塩、醤油、胡椒、料理酒、くらいだが、例えばオイスターソースとか入れるべきだろうか、鶏ガラスープの素を入れるべきだろうか。色々な組み合わせがある中で、どれが一番いいだろうか。乾燥シイタケを刻んで入れてみるとかはどうだろうか。アイディアはある。そして今は結構やる気もある。だから手包みの餃子を作ろうと思っているのだ。大量に作るつもりだから、色んな味を試してみればいいか。カレー風味なんてのもいいかもしれない。そして週末は髪を切ろう。花粉は昨日から猛威をふるい始めた、一度認知してしまうとずっと症状がしっかり現れてしまう、ある種これは病気になりに行っているということかもしれない、そういうこともあるかもしれない。人間は思い込みで色々な状態を作れてしまう動物だから、症状も定着してしまう前にしっかり、それを否定するような、それも同じ思い込みだが、そういうものをセットしておけば大したことないなということになる可能性だってある、なんにせよ今週も今日で終わり、お疲れ様。
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