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#森の借景
tomiya-a · 1 year
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森を望む住宅プロジェクトが札幌市内にて竣工、お引渡をさせていただきました。 . 暮らしの中で森を望む住まいをと、長く土地探しをされてこられてきたクライアント様と共に、森の借景を各所から取り込んだこだわりのお住まいの設計をさせて頂きました。 . ZEH Orientedの高性能外皮断熱+省エネルギー設備と空間デザインを両立させています。 . 竣工写真は緑が映える頃にお住まいの雰囲気と共に撮らせて頂く事とさせていただきました。 . 施工は新栄工建株式会社様。 . 進行中プロジェクトのブログも随時更新中です。 ↓ https://tomiya-a.com/news.html . ____________________________________________ #富谷洋介建築設計 #一級建築士事務所 #設計事務所 #建築家 #北海道 #札幌 #借景 #森の借景 #スキップフロア #注文住宅 #スケルトン階段 #アーチ垂れ壁 #薪ストーブ #ZEHOriented #家づくり #マイホーム #architect #architecture #design (一級建築士事務所 富谷洋介建築設計) https://www.instagram.com/p/CoXaxGLPHLq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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aa-labo · 1 year
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おはようございます。 市街地にありながら目の前の公園の緑を取り込んで森の中にいるような借景のお家です。 #借景 #森の家 #2階リビング 高蔵の家|2014愛知県名古屋市 青木昌則建築研究所 "等身大の心地良い暮らしを設計する" 設計事例や現場の様子はプロフィール @mojaoki からホームページよりご覧いただけます。 DMまたはメールにてお気軽にお問合せ、ご相談下さい。 #家づくり #マイホーム #一戸建て #住宅 #新築 #木の家 #心地良い家 #設計 #建築士 #設計事務所 #設計事務所とつくる家 #建築家 #建築家と建てる家 #丁寧な暮らし #青木昌則建築研究所 https://www.instagram.com/p/CrEqqGMShHp/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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petapeta · 1 year
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六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、兵庫県芦屋市の町名及び同地の高級邸宅街。「丁目」のない単独行政地名。 神戸市、大阪市および阪神間の市街地と瀬戸内海を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面の海抜200 - 250メートル地点に位置する。1928年に払い下げられるまでは国有林で[5]、現在も芦屋市の自然環境の一部分を形成している。 芦屋の一部は元々、大阪財界人の別荘地として開拓されていた。六麓荘町の開発は、明治後半から大正時代にかけ、日本一の富豪村[6]と呼ばれた住吉村(現・神戸市東灘区)や夙川、香櫨園など近隣地域の影響を受けた延長上のものであった。1928年(昭和3年)から富商・内藤為三郎ら大阪財界人の手によって、国有林の払い下げを受けて当初197区画、数万坪にのぼる宅地造成を行ったことから始まった。六麓荘という地名は「風光明媚な六甲山の麓にある別荘地」に因み名付けられた。電線類地中化など先進的な街づくりが取り組まれた[5]。 六麓荘の開発は、1928年(昭和3年)に大阪財界人のひとり森本喜太郎が発起人になって、土地開発・住宅造成の会社である「株式会社六麓荘」を設立したことが始まりである。社長には上記の内藤為三郎、専務に森本喜太郎が就任した。この当時は、資金があまり準備できず、2人は協賛金や株の手付けなどの資金調達に専念した。 この地帯も国有林であったので、国有林の払い下げなどの運動については、法律に長けた取締役の瀬尾喜二郎が国との交渉にあたったとされる。 六麓荘開発のコンセプトは、この地を「東洋一の住宅地」とすべく香港の九龍半島やその対岸の香港島の白人専用街区をモデルに開発が行われた[5]。南斜面の起伏のある恵まれた地形を有効に利用し、スケールの大きな住宅地が形成された。例えば、細い山道にすぎなかった道を幅6メートル以上に拡幅して、1区画につき少なくとも300坪から400坪以上を標準とした。また、自然の地形を尊重した曲線道路により、住宅地全体が構成され、造成時に切り出された石材は石垣や石橋、庭石に利用。山林の赤松もできるだけ残されて庭木などに活用された。 敷地内に流れる山からの湧水を小川として取り込むほか、溜池や道路を流れる川には橋をかけた。さらに、特色として上水道は経営地の最高部に貯水池を設け、下水道はヒューム管を埋設。都市ガスも導入している。また、電気については、電柱が著しく風致を損なうとして、多額の費用をかけて日本で初めてとなる電線類の地中化が行われた。道路の保全と美観上の問題を含めて全面的な道路舗装を行い、安全面にも留意している。開発当初の1区画の敷地規模は、平均300 - 1000坪以上である。 六麓荘最大の特色として「六麓荘町内会」が開発直後から組織されていることが挙げられる。なお、「町内会」を別に「自治会」と称する事もある。町内会は環境保護・景観保護の為に、ある意味においては、治外法権的な役割を果たしており、町の住民は、開発当初から町内会独自の協定を設けて高級住宅街の維持に努めてきた。協定では、建物は一戸建ての個人宅に限り、新築と増改築には町内会の承認が必要である。 町内での営業行為は一切禁止しているため、マンションや商店、自動販売機は全くない[5]。町内会員により構成される六麓荘町内会(六麓荘土地有限会社)は、道路部分の土地所有権を有している。開発当初は道路を区分所有していたが、管理に限界があり、有限会社を設立することで共有財産とした。しかし、有限会社での自主管理にも限界があったために、芦屋市に無償貸与して市による管理が行われることになった。 新規居住者は、入居時に、町内会の入会金を支払いとともにこれとは別に月々の管理費を支払っている。これらの資金は、共有施設がある駐在所兼公会堂施設の維持・管理と町内会の活動経費に充てられている。新規入居者は、計画時に芦屋市から申請の内容が町内会に伝えられ、町内会でこれを承認するという手続きをとっている。セキュリティー面では、1930年(昭和5年)に町内会が無償で建物を提供して、芦屋警察署の六麓荘駐在所が開設された。 現在の建築条例(旧建築協定)は敷地面積を400平方メートル(121坪)以上とし、400平方メートル未満の面積への分筆も禁止され、用途は2階建以下の一戸建個人専用住宅に限られる。建物の高さは最高10メートルで、軒の高さは7メートル以下とし、営業行為も一切禁止で他にも色々な制限がある。 上述の厳しい制約から、賃貸契約や会社名義(社宅)としての利用が不可であると勘違いされる事も多いが、建築条例を充たした建物であれば居住形態の制限等は無い。賃貸(借家)住まいや社宅住まいの住人も数多く存在している。 バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災以後の近年では世代の交代や高額の相続税の支払いが原因で、土地を手放すケースが増加した。そのうえ前述している紳士協定に過ぎない「建築協定」では風致を維持することができなくなることが懸念されるようになる。そのため住民は強制力のある条例による景観保護を市に求めることとなった。 住民の要望を受けて芦屋市は「建築協定」をそのまま「条例」に格上げした「景観保護条例」を市議会に提出した。「景観保護条例」は、2006年(平成18年)12月22日の芦屋市議会で全会一致で可決されて、2007年(平成19年)2月1日から施行となった。通称「豪邸条例」として話題になった[5][7]。
六麓荘町 - Wikipedia
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foucault · 5 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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oniwastagram · 2 years
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📸白田邸庭園 / Shirata-tei Garden, Joetsu, Niigata 新潟県上越市の国登録有形文化財『白田邸』が素敵…! まだある新潟の由緒ある豪農屋敷…! 上越市の名家/旧家/豪農屋敷の特別公開イベント『上越名家一斉公開』で春・秋に鑑賞できる、明治天皇が御小休された近代和風建築は日本国内にはもう10例も現存しないというデザインも見所。(*通常非公開) . 新潟・白田邸庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/joetsu-shirata-residence/ ...... 「白田邸」は新潟県上越市に残る大庄屋/庄屋クラスの豪農屋敷による『上越名家ネットワーク』の名家/旧家の一つ。 明治天皇の北陸行幸の際に御小休座敷となった近代和風建築が「白田家住宅主屋」として国登録有形文化財となっています🏡 . これまでも新潟県内の豪農の館と庭園を色々紹介してきましたが、上越市にも歴史のある複数の館が(主に個人所有のまま)現存します🏡 しかしながら認知度・知名度も低く、“地域の文化財・文化資源”としての価値が認識・共有されず、財源難で必要な修繕も進まない現状がありました。 . その状況を打開する第一歩として2017年から始まったのが『上越名家一斉公開』。江戸時代から続く名家4家(当初は5家)が足並みを合わせ一斉公開され、まずは地域の方々に通常非公開の旧家を体感し、その重要性・貴重さを知っていただく…というイベント。 なお仕掛け人は『にいがた庭園街道』を徐々に全国区にされつつある?「庭屋一如研究会」の藤井代表。いつもお世話になってます。 . 2020年にはこれらの建築や庭園を後世に継承する為の組織『上越名家ネットワーク』が設立され、公開イベントのみならず地域の学校との連携や「サポーターズクラブ」など活動の幅を広げられております。 . で、2017年以降は春(5月)と秋(11月)に一斉公開イベントが行われてきた上越名家。2022年は7月にも1日限りの特別公開を実施!そこで初めて訪れました。一箇所ずつ紹介。 . 上越市の中心部から北東部、2005年の市町村合併前の「頸城村」の玄関口のほくほく線・くびき駅🚃の真南に位置する森本集落にある白田邸。江戸時代初期の検地帳にも名が残る旧家で、頸城村になる前の“明治村”時代には三代に渡り村長を務める家柄でした。 . 国登録有形文化財となっている現在の主屋は1918年(大正7年)より建築が始まり、その後も増築を重ねて現在の姿になったのは1933年(昭和8年)。 ' 元々は現在の糸魚川市、筒石村(磯部村)藤崎にあった斉藤家を移築したもの。 斉藤家は江戸時代には加賀藩主・前田家が参勤交代の際に宿泊する本陣だった家柄で、明治維新後の1878年(明治11年)には明治天皇が北陸巡幸の際の御小休所にもなりました。 . まずそんな明治天皇御小休座敷“玉座の間”の意匠がすごい!全てデザインの異なる欄間・書院窓の透かし彫や障子、そして襖絵🖼 . 玉座の間から庭園側にある座敷が“北土院”。普通の縁側と庭の関係とはちょっと違って、座敷の庭の間に広めの軒下・洗い出しの土間があるのが特徴的なところ。 パッと思い出した所では加賀藩の豪商の邸宅『喜多家記念館』…この作りはやはり加賀藩との繋がりから来るものだったのかな。 . 5間(約9m)と開放的な入側から眺められる庭園は庭石よりも樹木を中心とした自然風の庭園🌲 現在は成長した木が主役ですが、かつてはその正面に周囲の山々の借景がのぞめたのでは…?とも。 . また入側にある大きなつくばいは東京都北豊島区の庭師・伊藤寅之助直作。北豊島区…?“染井の庭彦”伊藤彦右衛門と関係ある方なのだろうか…。 続く。 #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #niigata #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #新潟庭園 #上越 #上越市 #古民家 #近代建築 #近代和風建築 #文化財 #日本建築 #おにわさん (at くびきのお宝のこす会) https://www.instagram.com/p/Cigvx4hvNJe/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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psalm80-lilies-iii · 1 year
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戦艦大和、あるいは皇国のアイコン
呉の「大和ミュージアム」に行った。
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3時間以上見学しながら、「日本はなぜ戦争したのかなあ」と改めて考えた。「蒋介石を必要以上に追いつめたことがアメリカの対日参戦を招いた」、この説明で納得しない人もいるだろうけれど、せめて満州だけでやめておけばその後の大惨禍はなかったろうと思う。では、どうして日本はそこまで蒋介石を追いつめることに熱心になってしまったのか。
むかし読みっぱなしにした本を改めてちゃんと読もうという気になり、呉に行く前日から、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)を読み始めた。読み切れないまま呉に行き、帰宅してから残りを読んだ。そこには、盧溝橋事件を受けて近衛首相が派兵を決定したことについてこうある。
近衛首相は強い態度に出ることによって、事態を日本に有利なかたちですばやく解決できると判断したのである。そこには、明治維新の成功でうぬぼれた日本が陥った中国蔑視を背景として、第一次世界大戦の参戦や対華二十一カ条要求問題あたりから現れはじめた、機会便乗主義とでもいうべき軽薄な日本の外交体質があった。
(第4章 苦悩の「聖断」)
日本がアメリカと戦争をしたのは蒋介石を追いつめたからで、日本が蒋介石を追いつめたのは「うぬぼれ」だったのだとこの本は書いている。列強の国内で世界大戦をものともしないナショナリズムの嵐が吹き荒れていたのは当時日本に限った話ではなかったと思うけれど、ナショナリズムというのはつきつめて言えば「うぬぼれ」なのかもしれない。古川先生はこの本の別な箇所でこの「うぬぼれ」についてこう描いている。
日本は世界のどの国よりも昔から天皇が統治する国として安定して存続してきたとされたため、日本の人々に過剰に自国の卓越性を意識させてしまった結果、周辺地域の人々への蔑視が強まって不必要な対外的緊張を招いた。
(おわりに)
ここに書いてあることはおそらくふたつである。ひとつは、外圧が少なく内政も急変せず皇室が安泰でいられた日本の人々が「そらみつやまとのくにはすめがみのいつくしきくに」と思っていたことそれ自体は、日本が「秋津洲」の国にとどまっている限り、別に虚妄ではなかったということ、もうひとつは、ふつう「植民地政策」というときたとえば「三角貿易」みたいに何か経営戦略があるものだけれど、日本の場合中国はもとより満州も朝鮮も確たる経営戦略はなかったということである。「過剰な」自国意識が「不必要な」対外緊張を招いた。いやいや、帝国主義世界はそれが瓦解するまで緊張を生み続けたはずだ、という批判もあるけれど、少なくともいま引いた本で古川先生は、昭和天皇の徳治主義と協調外交それ自体が帝国主義の世界にあってそもそもたわごとに過ぎなかったのだ、という書き方はしていない。それは、あり得た道なのだ。
だがそうはならなかった。昭和の陸海軍と国内世論は昭和天皇の協調外交に応じなかった(「ことの発端は昭和天皇の推進したロンドン軍��条約に海軍が反発したことに始まる」とこの本は書いている)。ナショナリズム、つきつめれば「うぬぼれ」。日本は「神州」あるいは「皇国」であるという「うぬぼれ」。国民国家にナショナリズムがあるのは自然なことだろうとぼくはいまでも思うが、アメリカに対日参戦を決意させるほど蒋介石を追いつめたことはやっぱり非合理な行動で、それを支えた「うぬぼれ」はやはり常軌を逸していたとしか言いようがない。
昭和天皇自身はその「うぬぼれ」には与しなかった、と古川先生は書いている(異論もあろうけれど)。だが戦争が終わったとき、昭和天皇は「神州」の現人神、「皇国」の皇統として、その「うぬぼれ」の代償を背負うことになった。国民の中でも、昭和天皇を戦前から知っている人以外は、あえて「尊敬する」とは言わなかったという。木戸幸一は「皇室が戦争責任を取らないのは将来に禍根となる」と言ったそうだが、率直に言えば、ぼくも昭和天皇が在位し続けることに「割り切れぬ空気を感じる」という意見には共感してきた。
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「大和ミュージアム」では、日本海軍の歴史・呉海軍工廠の歴史・戦艦「大和」の歴史・太平洋戦争の歴史・呉海軍工廠と戦艦「大和」を通して培われた技術の歴史が重層的に物語られている。そこでは多くの人々が何かを作り上げていった一方、戦争という現実の中で多くの人々が命を落としても行った。
そこに生きて死んだすべての人々がひとりひとり個人的に「うぬぼれ」に浮かれていたとはとても言えない。だが、少なくとも日清戦争の始まりから太平洋戦争の終わりまで日本を支配したものが「うぬぼれ」だったとしか言いようがないのであれば、そこで起こったすべてのことは、それぞれの人々の確かな歩みであったと同時に、「神州」あるいは「皇国」の「うぬぼれ」の体現でもあったと言わざるを得ない。少なくとも海軍と海軍工廠に生きた人々は、そういうダブルミーニングを背負うことになった。
そして、そこで生まれた戦艦「大和」こそ、そのダブルミーニングの産物として、「神州」あるいは「皇国」という「うぬぼれ」のアイコン(まさに「体現」)そのものにほかならない。それは、あの日本海海戦を制した日本海軍がその威信をかけて築き上げた技術の結晶であると同時に、物量にまさるアメリカ海軍を少数精鋭で制することができるという、残念ながら「うぬぼれ」に過ぎなかった思想の産物でもあった。
戦時中に身命を賭して追い求めていたものが戦後になって虚像だと気づく、それは「嘘」のせいなのか「欲」のせいなのか「狂気」のせいなのか、ひとはいろんなことを考える。先に引いた『昭和天皇』の中でも、古川先生は「なぜ国内世論が協調外交に応じなかったのか、その理由についてはまだ定説はない」と書いておられるが、先生自身が使っておられることばは、定説のないことをできるだけ術語を避けて記述しようとしたためだろうけれど、「うぬぼれ」というものだった。
「そうか、戦艦大和が体現したものは当時の日本人の『うぬぼれ』だったのか」というのは、衝撃的だけれど事実なのである。大和と武蔵、2隻だけで(いや、戦艦そのものは長門陸奥扶桑山城伊勢日向金剛榛名比叡霧島入れて12隻あったけれど)、太平洋を制することができると考えたのは「うぬぼれ」だったと言われたら、それはそうなのかもしれないと思う。
「大和ミュージアム」の中央に展示されている1/10「大和」には、その威容とは裏腹に、「うぬぼれ」という言葉をはね返すことのできないむなしさ、「世界一の戦艦がまともな海戦で自らの世界一を証明する機会を持たないままただ艦上攻撃機の餌食となって沈んでいった」というむなしさが、ただよっている。「戦争はいけない」「平和は尊い」というのは、兵器として作られた「大和」の全否定であると思う。国家には戦争をあえてしなければいけない日があるのだ。たとえば日本海海戦はむなしくはなかったのである。それは、日本海海戦は勝って太平洋戦争は負けたからだろうか。そういう理解もあると思うが、実は勝ち戦だった日清・日露戦争こそ、その後の日本にとって「うぬぼれ」を生む罠となったのである。
「うぬぼれ」。ここに生きて死んだ人たちのすべてをそのことばで片づけることにはものすごい抵抗があるけれど、でも「大和がうぬぼれでなければ何がうぬぼれだったんだ」とも思う。現にここに世界一の戦艦があったということを、そしてそれがいま「海の墓標」として東シナ海の海底に横たわっているということを、ぼくたちは正視するしかないのである。
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか
(吉田満『戦艦大和の最期』より「作戦発動」、哨戒長臼淵大尉の言葉)
日本は「何から」目覚めるべきだったのか。「うぬぼれ」という言葉の仮借ない残酷さを、「大和ミュージアム」で見たすべてを思い出しながら、いま改めてかみしめる。
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ものすごく情報量の多い博物館なので、今回は「大和ミュージアムNavi」というスマホアプリを使い、竹達彩奈さんのナレーションを聴きながらそこで紹介される資料を拾い見するという方法を取った。竹達彩奈さんの声がこの博物館のテーマにふさわしいのか、来る前には疑問もあったけれど、壮大なバッドエンドに至る全20章のナレーションを聴きながら、これがもし広瀬修子さんや森田美由紀さんみたいな声だったら、聴いていて気が滅入ってしまうだろうと思った。
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mlyzvt-no2157 · 1 year
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ミロさんと氷河🦂🐣 素敵な森林素材があったので、背景にお借りしました。新緑の森をお散歩している二人です💕
  自分の絵を見なおしてみると、大抵ハグ、キス、絡み絵が多くて、こういうシンプルな絵は私にしては珍しいな~って思いました😃
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hangorin · 2 years
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【報告】NO MORE OLYMPICS!NO MORE IOC!ぼったくりバッハ断固拒否デモ!
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(Photo by @ken123)
10月16日、東京五輪1周年記念事業の一環として「東京レガシーハーフマラソン」が開催され、さらにIOC主催の「Thank You TOKYO」Festival&Ceremonyが行われ、あのぼったくり男爵、IOC会長バッハが来場すると聞いた。
私たちはいつまでオリンピックやIOCの食い物にされなければならないのか。居ても立っても居られずデモを行うことにした。
ところが、IOC会長バッハは直前の10月3日に来日中止を発表。「スケジュールの都合」などと言われているが、この日の来日は今年初頭から決まっていたこと。9月に札幌市長とのローザンヌでの面会をキャンセルしたことからも推測すると、おそらく、いま連日報じられている東京五輪汚職の火の粉が自らに降りかかること、批判の矛先を向けられることから逃げたかったのだろう。なんとも卑怯だ。
しかし、盗人たちからサンキューなどと言われて黙っているわけにはいかない。私たちは予定通りデモを決行することにした。50人が結集した。
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JOCビル前には公安がずらり。
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さらにオリンピック・ボランティアの青いユニフォームに身を包んだ集団が、ファイブリングスのモニュメントと共に記念撮影をしようと列をなしていた。あれほどオリンピックに搾取されながら、いまなお有難がる者たちがこんなにいるとは世も末だ。
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その薄気味悪い空気を打ち壊すように、デモ参加者と、そして10月10日のおことわりんくの抗議行動で爆誕した五輪戦犯7人衆のパネル+森喜朗の胸像が現れた。
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(Photo by @ken0123)
デモ前の小集会では、小池百合子に扮した何者かが現れ、築地を破壊しプロポーザル契約によって70年間民間管理させることにしたこと、新国立競技場のために潰した明治公園をおしゃれなカフェやアウトドアショップだらけの広場に再開発することなどをオリンピックの成果として自慢げに演説。ブーイングと共にその場を後にした。
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続いて、賄賂疑惑のマスコット、ミライトワとソメイティが登場。風の精の力も借りつつ、いかに東京五輪が汚職にまみれたものだったかをわかりやすく解説し、最後は「オリンピックを応援したのは間違いだった」と改心し、NO THANK YOU TOKYO! ABOLISH THE OLYMPICS!と声を挙げた。
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そしていよいよ新国立競技場を2周(!)するデモ出発!オリンピックはどこにもいらない、の声が高らかに響き渡った。
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オリンピックいらない!どこにもいらない! パラリンピックいらない!どこにもいらない! オリンピック災害終わってないぞ! 札幌招致を今すぐやめろ! オリンピックは金まみれ! オリンピックは嘘まみれ!
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新国立競技場には、何箇所か競技場内に通じるゲートがある。その前では特にコールに熱がこもった。
No More Olypmics! No More Paralympics! IOC, Go to hell!
公園返せ! 団地を返せ! 住まいを返せ! 暮らしを返せ! 命を返せ!
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新国立競技場を2周する長いデモ。途中にはアルプスの少女ハイシ(廃止)による歌も!
♪オリパラはなぜ いつまでもおいしいの あの人はなぜ 逮捕されないの おしえて安倍晋三 おしえて警視庁 おしえて組織委森喜朗
♪TOKYOがなぜ Thank youと言われるの バッハはなぜ ここに来なかったの おしえておじいさん 教えてIOC おしえて都知事の小池さん
♪お客さんなぜ 参加費が無料なの? アスリートなぜ 笑っていられるの? おしえてオリンピアン おしえてメダリスト おしえて楽しめるそのわけを
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後で知ったことだが、7月23日のオリンピック1周年記念セレモニーと同様、この日のThank You TOKYOセレモニーでまたしても安倍晋三への黙とうが行われたという。国葬まで強行しておいて、何度弔わせれば気が済むのか。何重にも許しがたい事態だ。
しかし痛快なことに、その瞬間「黙とうの静寂を切り裂くように、「札幌五輪いらない!」などの怒声が響き渡った。黙とうが終わると、約1万人の観客はどよめき、騒然となった。(デイリースポーツ)」という。オリンピック・パラリンピックに社会をズタズタにされた私たちの怒りの声が、オリパラを称え、オリパラを推進した者を称える醜悪な企みを打ち破った瞬間だ。
また、直前になって逃げ出したバッハはビデオメッセージで、「世界的なパンデミックという背景がある中で、東京で皆が一つになる様子はまさに魔法のようでした。私は永遠に感謝します。ありがとう東京、ありがとう日本」などと語ったという。
私たちは一つになどなっていないし、世界的なパンデミックという背景がある中で、あらゆる社会資源を私たちから奪って強行されたオリンピック・パラリンピックを決して許さない。もちろん、オリンピック・パラリンピックがパンデミック以前から私たちの生活を踏みにじり続けてきたことも許さない。サンキューなどと言われる筋合いは一ミリもない。そのことを堂々と訴えたデモとなった。
デモの報道
五輪1周年イベント 冒頭で安倍元首相に黙とうも 反対派デモ響く 観客騒然/スポーツ/デイリースポーツ online (daily.co.jp)
東京オリパラ1周年 バッハ会長「東京が一つになる様子は魔法のよう」 安倍前首相に黙祷も― スポニチ Sponichi Annex スポーツ
東京新聞 こちら特報部「『金まみれ』政治の責任は 消えない『30年札幌有力』1周年イベント合わせ反対デモ」
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ところで、デモのあと何人かの仲間が五輪オブジェの前で写真を撮ろうとしたところ、JOCの警備責任者を自称する人物が、あんたたちはダメだと妨害し、あろうことかミライトワの頭をはたいて被り物を奪い落とすという暴力を振るった。また、アルプスの少女ハイシが手に持っていた紙をプラカードだと言って強引に奪い取ろうとした。
五輪オブジェには昼間からたくさんの人々が立ち入り、記念撮影を行っていた。五輪に反対の表現をする者だけ排除するというのは非常におかしい。
また、この人物は、自らの氏名も役職も一切明かさない一方で、私たちをJOC前の広場から締め出し続けている。そして、これまでも抗議行動参加者を「転び攻防」で陥れようとする、オリパラ反対署名の受け取りを拒否するなどの問題行動を繰り返している。(参照)
元々は都立明治公園こもれびテラスという公共空間だった場所が、オリンピックを契機にJOCに奪われ、今は一体何の権限があるのかまったくわからない暴力的な人物の独断によって支配されているのである。これもまたオリンピック・パラリンピックがもたらした最低最悪のレガシーの一つである。
10月16日NO MORE OLYMPICS!NO MORE IOC!ぼったくりバッハ断固拒否デモ・動画はこちら
①NKさん
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②KENさん
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tukumoteiog · 2 years
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D&D限定構築ブロール・デッキ:ハルシン/ギルドの職人
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 エメラルド木立の中で道に迷ってから半日、狩りの獲物には困らなかったが、木々はいっそう濃くなり日の光も遮られ、時間すら定かではなくなっていた。常に誰かに見られている感覚があり、落ち着いて食事をとることもできない時間が続く。
 日も落ち切った暗闇の中で火の床を用意していると、小枝を折りながらゆっくりと近づく音に気が付いた。武器を抜いて身構えると、木立から現れたのは大柄な灰色熊だった。熊は焚火に怯えるそぶりもなく歩み寄り、ゆっくりと何かを観察するようにぐるりと歩き回ったかと思うと、不意に立ち上がり、右手で武器を下ろすように身振りをした。
 何事かと思うが早いか熊は緑色の光に包まれて、大柄なエルフの男へと姿を変えた。刺青が彫られた顔にはいくつかの深い古傷が刻まれており、如何にも武勇の者という風貌である。
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 エルフはハルシンと名乗り、エメラルド木立のドルイドたちのリーダーをしているのだと語る。彼の言うところによると、最近ゴブリンたちが森の中をうろつきドルイドたちを脅かしているのだとか。冒険者の力を借りたいというハルシンの申し出を、キミたちは二つ返事で引き受けた。
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D&D限定構築ブロール・デッキ:ハルシン/ギルドの職人
統率者:
《エメラルドの大ドルイド、ハルシン》
背景選択:《ギルドの職人》
クリーチャー18
《ゾーン》
《非凡なスワッシュバックラー》
《略取するバーバリアン》
《溜め込むオーガ》
《奮起させるバード》
《アストラルの狩人、ガナクス》
《アメジスト・ドラゴン》
《エインシャント・カッパー・ドラゴン》
《裕福な亭主》
《アンダーマウンテンの冒険者》
《森の友、ジャヘイラ》
《グリーン・スライム》
《年老いた骨齧り》
《戦慄のリノーム》
《エインシャント・ブロンズ・ドラゴン》
《無双の古きもの、クラウス》
《行進するデュオドロン》
《マールート》
インスタント5
《稲妻》
《ドラゴンの火》
《ブレス攻撃》
《ワイルの逆転》
《予想外の授かり物》
ソーサリー1
《火の玉》
エンチャント3
《取り分争い》
《レンジャー・クラス》
《野生の活力》
プレインズウォーカー1
《時を超えた英雄、ミンスクとブー》
アーティファクト7
《カーネリアン・オーブ・オヴ・ドラゴンカインド》
《ジェイド・オーブ・オヴ・ドラゴンカインド》
《モンスター・マニュアル》
《秘儀の印鑑》
《精神石》
《苔色のダイアモンド》
《速足のブーツ》
土地23
《進化する未開地》
《ドラゴンの女王の寺院》
《宝物庫》
《統率の塔》
《モスファイアの谷》
《尖塔の庭》
《バグベアの居住地》
《ハイドラの巣》
《山》5
《森》10
 前回に引き続き、D&D限定構築ブロールのデッキをご紹介しよう。《エメラルドの大ドルイド、ハルシン》はドルイドの能力でトークンを4/4の熊に変化させることができる。《ギルドの職人》の効果で生成された宝物・トークンを熊にして攻撃しているだけでもかなり強い。中盤以降は基本的にハルシンを維持しながら宝物を出し、ドラゴンで膠着した盤面をこじ開けていく。
《森の友、ジャヘイラ》は宝物・トークンを生贄にせずともマナが出るようにする能力を持っているので、大量の宝物を維持しながらハルシンの能力を起動することができる。大量のマナは《バグベアの居住地》や《ハイドラの巣》とも相性がいい。
コンボ
《非凡なスワッシュバックラー》+各種エインシャント・ドラゴン
 二段攻撃を付与したエインシャント・ドラゴンの攻撃が決まればゲームはほぼ決まったようなものだ。《年老いた骨齧り》の誘発型能力も2倍になる。
 このデッキは派手なコンボはないものの、それぞれのカードが緩くシナジーを持っている。ブー・トークンや狼・トークンをハルシンで4/4にすることもできるし、《ミンスクとブー》でドラゴンを相手に投げつけて勝利することもあるだろう。《野生の活力》は相手を強化してしまうことがあるので、メタゲームによっては別のカードと入れ替えてもよいだろう。宝物トークンを維持できていれば優位に立ちやすいので全体除去の《ディレイド・ブラスト・ファイアーボール》や、クリーチャー化した宝物・トークンをさらに強化できる《ゴアガッツ団の親分、ラッガドラッガ》といった相性のよいカードが色々と存在している。
統率者デッキへの変更
トークン生成に特化した《ハルシン/ギルドの職人》型のみでは中盤以降のサイズ不足などで不利になりやすいので、赤緑ドラゴンとのハイブリッドにしていくのがよいだろう。統率者は変わるが、《敬愛されるレンジャー、ミンスク》を統率者にして白でもトークンを増やすデッキにすれば選択肢はかなり広がる。
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inuoh-anime · 2 years
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『犬王』開幕直前!先行上映会を開催! 舞台挨拶イベントレポートを公開
5月6日(金)に新宿バルト9にて、主人公・犬王の声を務めたアヴちゃん(女王蜂)、その相棒となる琵琶法師・友魚役の森山未來さん、湯浅政明監督が初めて公の場に勢ぞろいし舞台挨拶を開催いたしました。 特製扇子を持ったお客さんがあふれる場内で、映画さながらの“犬王”垂れ幕を背景に登壇者陣が登場し、狂騒のミュージカルシーンの制作エピソードはもちろん、出会ってから10年以上の旧知の仲であるアヴちゃん&森山未來さんのバディの秘話を探るフリップトークなども実施し、犬王&友魚と同じく最強バディのアヴちゃんと森山未來さん、そして2人とともに映画を作り上げた湯浅政明監督のトーク会場は大いに盛り上がりました。
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カリスマ性と歌唱力、そして野心を抱く能楽師・犬王を演じたアヴちゃんは、本作をイメージしたオレンジとパープルのオリジナル和装で登場。偶然オレンジ色のジャケット姿の森山を見て、アヴちゃんは「私たち仲がいいんやなぁ~」と微笑ましい場面も。また完成した本作を観たときのことを振り返り「映画を見ながら凄い泣きそうになって。最後の最後のエンドロールに自分の名前があってダメ押しの涙。こんなすごいことってあるんや!と泣いちゃいました。」と語りました。
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その相棒となる琵琶法師・友魚役の森山さんは「能は世界で最古のミュージカル。『犬王』はそれをモチーフに作られた作品。大事な言葉や想いが音楽や踊りの中にぶつけられている。色彩や音楽、歌も含めてエネルギーが波動のようにぶつかって来る、凄い体験をしました。」と絶賛。アヴちゃんと森山さんは10年来の友人といい、森山さんは「アヴちゃんと、ずっとどこかで関われたらと思っていたけれど、『犬王』で会えたことに縁を感じました」と共演に喜びもひとしおの様子でした。
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今年TVアニメも放送された「平家物語」に連なる物語として描かれた、古川日出男による「平家物語 犬王の巻」をアニメ化。その魅力について湯浅監督は「犬王は逆境にありながらも動じない、真っ直ぐな気持ちを貫く理想的なキャラクター。逆境の中で力強く生きた二人の生き様やエネルギーを見てほしい」と話しました。
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劇中曲の作詞もアヴちゃんが担当。「“レペゼン室町”という感じで、室町時代に思いを馳せて作詞をするのは初めてだったけれど、湯浅監督と脚本の野木亜紀子さんが描いたものを私が咀嚼して繋いでいくという気持ち。それは劇中で犬王がやっていることと凄く似ていたので、筆が止まらなかった。」と手応えを語りました。一方の、歌唱シーンの収録について「ブースの外に湯浅監督と音楽の大友良英さんに挟まれる形でど真ん中にアヴちゃんがいて、アヴちゃんからのトークバックで作っていった感じ。歌に関しては凄く引っ張られました。」とアヴちゃんのディレクションにも感謝を伝える森山さん。
またアヴちゃんはアフレコ収録を振り返り「声優初主演だからといって、そこで借りて来た猫になったら勿体ない。思い切り伸び伸びとやりました。マイクのない時代の歌なので喉がつぶれるのではないかと思うくらいの声量で歌っていました。」と熱演を振り返りました。
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さらにこの日は本作のバディな部分にせまった「犬王と友魚 バディな一問一答!」を実施。森山さんはアヴちゃんの第一印象を「物の怪」、アヴちゃんは森山さんの第一印象について「広大な砂漠」と表現。舞台「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の構想中に女王蜂の存在を知ったという森山さんは「アヴちゃんの姿を見たときに、練っていた構想がすべて崩れ去った。それくらい大きな衝撃。人の生き値を超えているような感覚というか、圧倒的存在感があった。それに僕は妖怪好きですから…(笑)」とユーモア交じりに「物の怪」と書いた理由を説明しました。一方のアヴちゃんも森山さんの第一印象について「初めて会った当時はギラギラしていて。破滅的な部分に広大な砂漠を見ました。」と解説し「それから10年が経ち、各々が誰もいかない道を進んで『犬王』でクロスできた。」としみじみ。現在の森山さんについてアヴちゃんが「砂漠のままでここまでレベルアップするのは凄い!」と褒めると、森山さんは「砂漠での楽しみ方を覚えたのかもしれない。野営とかをしてね。」とジョーク交じりで互いの健闘を称え合う様子も。
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また「日々のバディ(相棒)なもの」について聞かれるとアヴちゃんは「ステージ」、森山さんは「車」、湯浅監督は「ボディ」と回答。アヴちゃんは「ステージは絶対に私を受け止めてくれる場所で、ステージに立つために今生きている。」といい、森山さんは「普段から車移動をしているし、プライベートな空間でもあるから。」と話し、湯浅監督は「自分の体と対話しながら仕事をしている。」と語りました。
最後に森山さんは「この映画の音楽、色彩、アヴちゃんの歌声や湯浅監督のアニメ―ションは、映画館で浴びるべき作品です!」と猛プッシュ。アヴちゃんは「この映画に出るためにここまでやって来たのではないかと思うことが沢山あります。犬王として自分がもう一つの自分を手に入れたような不思議な気持ちに浸っています。ライブとは違って映画だから何度も通えるので、いつか応援上映がしたい!沢山の人に見届けてほしい!」とイベントを締めくくりました。
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tomiya-a · 1 year
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森に向き合う住まいのプロジェクト、竣工まで後少し、今日はクライアント様にもお越し頂き、お引き渡し前の確認等。 . 仕上げ前から一変した空間に大変喜んで頂きながら見て頂きました。 森と各所で呼応する楽しい空間になってきました。 . 綺麗な曲線の壁が印象的なキッチンからのカット。 . 進行中プロジェクトのブログも随時更新中です。 ↓ https://tomiya-a.com/news.html . ____________________________________________ #富谷洋介建築設計 #一級建築士事務所 #設計事務所 #建築家 #北海道 #札幌市 #借景 #森の借景 #森の家 #注文住宅 #アーチ壁 #アーチ垂れ壁 #スキップフロア #ZEHOriented #家づくり #マイホーム #architect #architecture #design (一級建築士事務所 富谷洋介建築設計) https://www.instagram.com/p/Cn9mathve_4/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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boskflowers · 5 days
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5月から森への定期便を再開します。
色々欲張っていた時期があったけど、少しずつ落ち着きどころが見えているような気がする。
だってみんなすごいんだもんな…比べたり、私はこれでいいのか、他人のうらやましいところとか、もしも○○だったらとか、やるなら後悔しないようにやり切ったほうがいいんだとか、自分に言い聞かせながら動こうとして動けなかったのは、そういうのは私らしくないと、もしかして本能的にストップ��かかってたのかなと思う。
ずっと目の前の石ころを拾い続けて進んできたんだから、いきなり大ジャンプはちょっと違うのかもしれない。心の声が、分不相応だって言っている。
実家の家業も世代交代の時期がやってきて、果たして私たちの世代は、どこで、何をして生きていくのか、漠然とずっとずっと不安。思い切って舵を切るとか、BOSKの仕事場も兼ねてどこかに新しく場所を作るとか、それなら40目前の今しかないとか、何かにせめたてられて息切れ。でも考えても今は答えが出ない気がしてます。それより、今自分の持っているものを見直すことにしました。素敵な空間も場所も店も、そのための借金も、本当に必要なのか?
今私にあるのは、自分たち夫婦と家、車の入れない場所にある譲り受けたばかりの広い畑、実家と両親、四匹の猫、両親と相方がやっている仕事(賃貸の職場)、BOSKの仕事。もうこのままでいいじゃないかな?焦らなくても。
いつかもっと身軽になったころに、畑に作業場兼休憩小屋を建てて、そこで日がな一日過ごすようになるかもしれない、とか。
私は将来、みんなで集まってモノづくりできるような空間を作りたいです。それぞれ家でやってたことを持ち寄ってお茶でも飲みながら、一人だと投げ出したくなるようなものも作れそうな。
私にとってそれが、植物でつくるなにかなのか、編み物だったり縫い物だったりするのか。それらをすべて「手芸」と呼ぶとして、「手芸クラブ」にしたいです。
それは大きな利益を生むことがなく、ただ楽しい場所、余白のなかにある場所。空気がきれいでなくても問題なくて、それより無理がないことの方が大事じゃないか。
先日、4月の森への定期便をおやすみさせてもらって、好きだったおばの家に行きました。58歳で亡くなっておよそ10年たち、家族も巣立ち、家が人手に渡ることになって、ひさしぶりで最後になるだろうおばの家。好きでやっていたパッチワークが好評で、お店を持つことになった古いおばの家は懐かしさに溢れていて、またひとつ思い出の風景がなくなることは少しさみしく思いました。おばが大事にしていたというカゴのバッグをもらいました。ハワイって書いてて家の絵がペイントしてある。なんともいえない可愛さ。おばのパッチワークのセンスがわかるような。
新卒で銀行員をしてたころ、帰り際に寄ったら、台所でおばが、揚げたてのウドの天ぷらを食べさせてくれた。私はちょっと気分が沈んでいて、見抜かれてるようでした。ウド、ちょうど今頃の季節ですね。おばは人のために何でもできる人だった。
自然な成り行きが自分に巡ってくる保証はなくても、あるものある場所持ってるものでやってきたおばの家に、今行けて良かったし、もしかしておばが呼んでくれたのかなとさえ思います。
2024/4/23
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kennak · 1 month
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信用調査会社の帝国データバンクによると、神奈川県横浜市に本拠を置く精肉店経営の「株式会社デリシュミート」は、3月27日付で横浜地方裁判所より破産手続の開始決定を受け倒産したことが明らかになりました。 2018年に設立の同社は、精肉や惣菜・青果の小売を手掛け、神奈川県内で海老名丸井店・関内マリナード店・上大岡店・秦野大秦町店・横須賀鴨居店の5店舗、それに東京・大森店の計6店舗を展開していました。 しかし、積極的な事業拡大に伴う多額の借入金が資金繰りを逼迫するなか、直近は人件費など各種コストの増加で採算が悪化するなど厳しい環境に陥ったことから、これ以上の事業継続は困難と判断し今回の措置に至ったようです。 負債総額は約2億7500万円の見通しです。
横浜の精肉店「でりしゅみーと」に破産開始決定、負債2億円 国内倒産 - 不景気.com
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oniwastagram · 1 year
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📸菊乃井 無碍山房 / Kikunoi Mugesanbo (Salon de Muge) Garden, Kyoto ——京都の名料亭が2017年に開業した新業態の茶房は“濃い抹茶パフェ”が若者世代にも人気🍨京都の一流職人が手がけたその空間、建築は #中村外二工務店 、庭園は #明貫造園 #明貫厚 の作庭。現代美術家 #名和晃平 のアート作品も! ...... 続き。まずその建築は菊乃井三代目・村田吉弘さん監修の下で中村外二工務店によるもの。 手前にはカウンター席、奥にはテーブル席があり、そのカウンター席やチェアなどのインテリアは北欧製で“ガチの和の料亭”とはまた異なる“現代数寄屋建築”。 . そして一角には現代芸術家・名和晃平のアート作品も…!しれっと配された《Particle-Mirai》は森山未來のパフォーマンスを3Dスキャンしたデータから生み出されたマイクロビーズの彫像。 テーブル席にあるストライプ柄の戸もSANDWICHっぽいデザインだなあーと思ったのだけど、こちらは別のデザイナーさんによるものだった(名前を失念…)。 . それぞれの席からは苔の広がる庭園を眺めながら時間を過ごすことができます。元々あった桜の木🌸を主木としながら、すぐ目の前の雄大な東山を借景とした庭園⛰ . この庭園を手がけている明貫厚さんは各種メディアで“京都を代表する庭師の一人”とも評されます(本店の庭園も明貫さんが手掛けられているとのことなのでいつか利用したい…)。 . 繁忙期には開店直後に行っても待ち人数が2桁!にもなる人気店。また桜の花が咲く庭園も見に訪れたいな〜。 . 京都・菊乃井 無碍山房の紹介は☟ https://oniwa.garden/kikunoi-salondemuge-kyoto/ - - - - - - #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都カフェ #建築デザイン #ランドスケープ #京都観光 #京都旅行 #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #kyotocafe #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #landscapedesign #数寄屋建築 #数寄屋 #おにわさん (無碍山房) https://www.instagram.com/p/Cmk31nBPJXS/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ayakoizumi-works · 2 months
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2023/2024
重なることについて 
2023/12/15ー25・2024/1/5ー15 obi gallery(藤沢)
世界の成り立ちやその仕組みについて観察し、思いを巡らせるのが好きで、例えば子供が玩具や手近な物を、その手触りや重さやかたちや機能について堪能したのち、そこから逸脱して新たな景色を立ち上げるような出来事に倣おうと考えています。見えている/在る(と思っている)ものを、視覚的、構造的、機能的な類似性(重なり)を見つけて、異なる在り方にうつしかえ、確認してみるような制作です。
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●個々の作品について 「重なる箱(overlapping boxes)」  本を開くとその中に世界が広がっている様子と同じような作品をつくろうと思ったことが、私の箱をテーマにした制作のはじまりです。過去には開閉式の箱の内側に世界の模型を入れようとしていましたが、いくつも箱をつくるうちに、板の厚みこそが世界を司どるものだと思い至り、今は入れ子の箱について考えるようになりました。  まず正方形の枡型の箱からはじめるという、自分の中で決めたルールがあります。  今回の新作は、壁に掛けるシリーズです。 「monad」  ブロックは普通、何か具体的な対象(乗り物や建物や動物など)の再現を目指して用いられます。再現性を高めるためには 解像度を上げる方向へ、つまり大量のパーツを用いたほうが良いことになります。または、少ないパーツでも「見立て」によって何かを象徴することが出来ます。しかしこのシリーズは、何かを再現するという目的を持たずに、ブロックのパーツそのもののかたちの美しさや機能に自然な姿勢で従って制作されました。  母家の方の「monad」は、友人から子供時代に使っていたダイヤブロックを借りて今回のために制作しました。色のことが加わっています。 《紐の彫刻》  紐は通路のように視線を誘導しますが、太さがある塊だと気づいてから、彫刻として彫り出すことをはじめました。  板から紐を彫る作業は、通常の文脈的なアプローチでことを為すのとは違って、道すじのないところから、異なる層にある方法で回路が開けていく様子に似ていると思っています。 「物語の量と在処」  本を読んでいる時には本自体を見ていない、物語はどこに在るのか?という不思議を問い詰めたくて、物語のページを細かく切り刻み、量を保つために全て使って、支持体なしにほんの少し糊代として重ねながら貼りつなげていく制作をしています。  体を切り刻んでも、これが命だというものを指し示すことが出来ない事象と重ねてこの制作をはじめました。  《言葉のかご》はホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』という、この世界を全て体系化して言葉で記述できると企図していた青年が、急に失語症になって筆を折ると決心したことを告白する手紙の物語を用いています。  《こま》と、《使者と小さな寓話》は、カフカのとても短い短編でできています。それぞれ、2頁=1紙片の物語と、1頁の裏表による1紙片の物語です。 《一瞬見えるように》  サティの楽譜には奇妙な特徴があり、五線譜の上の所に短い言葉が添えられています。それをタイトルにした作品をいくつか作ったうちの一つです。「冷たい小品」の中の「ゆがんだ踊り」というピアノ曲の楽譜に記されています。 「重ね描き」  イメージを重ねることを考えていて、そういえば、本を読んでいるときにそこから関連する別の事が想起されて脱線することが多々 あると思い当たり、それを律儀に拾ってみることからはじめました。類語辞典は言葉の体系化を実現した書物で、ホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』は世界の言葉による体系化に取り組むも急にそれ��不可能になってしまった者の独白という対照的なもの。言葉の誕生と消滅と再起について、身体的な感覚や認知機能についても興味が広がってしまうままに任せて書い てみました。 「ヒルマ・アフ・クリントが見ていたもの」  抽象絵画を世界で最初に描いたのはスウェーデンの女性画家、ヒルマ・アフ・クリント(1862 - 1944)だったという。彼女は当時隆盛だった神秘主義、特に人智学のシュタイナーに傾倒していました。今からそれを思うとオカルト的な雰囲気を強く感じますが、当時は電磁波の存在証明や、X線が発明されて見えないものへの科学的なアプローチが熱い時代だったことが、彼女に強く影響しただろうといわれています。彼女は100年程前に日々森に入り、植物を「エーテル面」から観察し、人類の大いなる進化のために得たメッセージと抽象的な図像をノートに残しました。どんな植物を見てそれをしたのか、記載されている名前を頼りに画像検索してまとめてみました。日付を頼りに画集の複写と見比べながら見てみてください。 「結び目(輪の彫刻とドローイング)」  紐を木彫しているうちに、数学に「結び目理論」というトポロジーの分野があることを知り、その分類表を元に構造を借りてスケッチ(ドローイング)をし、板からそのかたちを彫り出しています。
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bearbench-tokaido · 2 months
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初篇 その一
ますます発展しているこの江戸の町のあちらこちらに、これから先もますます御利益ありますようにと、祈って立てた門松が見える。 その門松に琴の音色が松風といっしょに漂うこの春のうららかさ。 天下太平のこの世の中は、まるで、錦絵の世界のようだ。 そこには鎧武者も美しく描かれるが、すでにこの平和な世の中では、弓も太刀も錦絵の世界の話になっっていた。
さて、この平和な世の中に、国々の名山景勝の地を巡り歩いて、年老いて、やかん頭になった時の茶呑み話のためにと、二人の男たちが誘い合わせ、長い旅に出ることにした。
腹巻の中に、大金を入れ、花のお江戸を旅立ったのは、神田は八丁堀あたりに住む妻を亡くして独り者、年の頃は、四十前後、少しばかり中年太りの弥次郎兵衛と言うぐうたら者と、その居候で、まだ二十才そこそこの北八という若者。 長旅だからと、奮発して買った高級な草履を履いて、塗ればまめができないと言う薬も買い込んで、二人おそろいの浴衣を羽織って颯爽と旅だった。 それを後押しでもするように、一陣の風が吹いていた。
さあ、お伊勢参りをして、さらに関西方面まで行こうと、足取りも軽く、歩いていくと、早くも江戸のはずれの高輪の町についた。 そこでふと、昔聞いた句を思い出した。 「高輪へ来て忘れたることばかり」 これは、江戸っ子が東海道の旅に出ると、たいてい高輪あたりで、旅支度のなかで忘れた物を思い出すという事である。 幸い、二人は忘れ物もはなかったし、ひとりもの同士の気楽さで、留守にした借家は、あけ渡してある。 周りの物は残らずこの風呂敷包にまとめてしまった。
それにしても、寺からお布施集めのために時々回ってくる袋に、ケチして、米を少ししか詰めなかったので、和尚さんに旅の身分証明書を頼むのに気がひけて、百文もお寺に寄進して身分証明書をもらっったり、あるいは、町役人の大家には、古い借金を払ったかわりに、なんとか関所の手形をもらったりして、えらい出費だったなと、弥次郎兵衛は思っていた。 だから、少しでも金になるものは、何でも安くひきとる古道具屋に売り払って金にかえ、売れないがらくたは、空家の始���をした時に手伝ってくれた近所の連中に分けてやった。 こちらは、ガラクタの処分をしたのだが、あの連中は、礼をいってたな。
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<夜明け> 弥次郎兵衛の思いは、続く。 そうそう、何一つ心残りはないと言いたいが、実は、酒屋と米屋の払いをそのままにして、いきなり旅立ってしまっので、さぞや恨んでいるだろう。 気の毒だとは、思うが、これも古い歌に、 「さきの世に借りたをなすか今貸すか いづれ報いの有りと思へば」 これは、前世で借りた金を今返したのか、それとも今貸すのか、どっちにしても報いのあることだから同じことという意味である。
と、高笑いしながら弥次郎兵衛はまた別の詩を口ずさむ。 「駆け落ちでは、ないと言えども、どうしても、 借金払わず、尻をまくって、逃げ出した。 そこに江戸の、借金取り、まさしく、これが、川向こうにずらりずらり。」 それを聞いた北八と二人で笑いあう。 と、まもなく品川の宿場に着いた。
そこで、早速、弥次郎兵衛が、 「海辺でも品川とは なぜに言う。」 弥次郎兵衛がつけた難癖の上の句に北八、とりあえず、 「ここに真水(さみず)があるからだろう」 と下の句をつける。 これは、昔、品川を鮫州(さめず)といっていて、これと真水をかけたのである。 こういうやりとりもをしながら、歩いているうちに、いつの間にか鈴が森の刑場のついた。
ここで弥次郎兵衛、また一首こじつける。
おそろしや罪ある人の首玉に つけたる名なれ鈴が森とは
これは、東海道の道筋にある鈴が森が、さらし首や処刑をわざわざ、通行人に見せていたので、弥次郎兵衛は、描の首に鈴をつける事をもじって言ったのである。
やがて二人は、大森についた。 ここは麦の藁で作った「麦藁細工」が名物で軒並み商っている。
飯に炊く麦藁ざいく買いたまへ これは子供をすかし屁のため
これは、麦飯を食うと屁が出ると言う。 すかし屁は音がしないようにこっそりと屁をひること、それに麦藁細工のおもちゃで泣く子をなだめすかすことにかけているのである。 六郷の渡しを越えて川崎に着き、名物の奈良茶飯でしられた万年屋で、腹ごしらえしようと店にはいって腰をかけた。
つづく。
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