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#小諸城
shunya-wisteria · 4 months
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秋旅2023 小海線 HIGH RAIL 1375 ~ 野辺山・小諸
JR線で最も標高の高いエリアを走る路線 小海線にのって、一路 小諸へ。
今回も前々から一度 乗ってみたいと思っていた小海線、せっかくなのでJR東日本ののってたのしい列車シリーズの HIGH RAIL 1375 にて小淵沢から小諸までを乗り通してみた。普通列車で途中下車しちゃうと次の列車はいつだろう…… となってしまいますが、このような観光列車は見所の駅では少し長めに停車してインスタント途中下車を楽しむのを待ってくれる、というのがシンプルにこの子を選んだ理由なのです。あわせて紅葉が楽しめそうな小諸城跡の懐古園も散策します。
朝、ほどほどの時間の特急あずさにて小海線の起点 小淵沢へ。小淵沢駅に降り立つと、キリっとした冷たく澄んだ空気がお出迎え。やっぱり都内とは違うね。ありきたりな言葉ですが空気がおいしい。改札横からのお出汁の香りに誘われ立ち蕎麦へ、遅めの朝食として軽く腹ごしらえ。寒いときには格別!の駅そばをいただいた後、列車の出発時刻まであたりを散策。列車内でのお楽しみ、お弁当とお酒を丸政さんで仕入れる(食べてばかり)。
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程よい時間に、改札を抜けホームへ。青色に塗装されたキハ100系気動車へ。最近 キハ100系に乗ることが多いような…、非電化のローカル線だと自ずとそうなってしまうか。今回は私は窓側を向いた1人用のシングルシートをセレクト。隣を気にすることなく大きな窓を独り占めできるリクライニングシート。
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ほどなく列車は出発、急な勾配を進みどんどん高地へ。別荘地帯を抜けJRで2番目に標高の高い駅 清里に到着、しばしの停車。かっこいいHIGH RAIL 1375の車両でも撮影しておきましょう(PhotoshopとPixelの消しゴムマジックで他の乗客を消しているのは内緒です)。清里を出発すると次は野辺山。この区間にはJR最高地点 標高1,375mの地点が。列車は速度を落とし、乗客は皆 カメラを構える(ガラスの反射で変な模様なでちゃった 涙)。数分で野辺山に到着。
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JRで最も標高の高い駅 野辺山。ここでもしばし停車時間があり、改札外出ることも可能。白く一見教会を思わせるような駅舎を見学。駅正面には冠雪した山々の美しい姿を拝むこともできます、写真は失敗しちゃいましたが…。観光バスでお越しの外国人観光客がたくさん。小海線に乗るわけではなく、駅だけを見に来ている?不思議な感じでした。
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まもなく列車は発車。野辺山をあとにすると、列車は高原を下り佐久盆地を目指します。後半の見どころは、右へ左へと移り変わる千曲川。お弁当を食べながらのんびり楽しみましょう。長野側の主要駅にいくつか停車し、列車は北陸新幹線との接続駅 佐久平を経て、終点 小諸に到着。2時間強の列車旅でした。
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小諸では小諸城址に整備された庭園 懐古園へ。戦国時代、武田信玄の軍師 山本勘助によって設計されたという言い伝えの小諸城。城郭が城下町よりも低地にあることから穴城とも呼ばれていたとか。懐古園は大正時代に町によって整備された史跡の自然景観を活用した公園。ちょうど紅葉シーズン真っただ中ということで、空気の澄んだ青空のもとで映える色づいた葉にシャッターをきってみた。不思議とここは人が少なく空いていましたねぇ。これくらいが写真を撮る身としてはありがたいものですが。
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ひとしきり園内を回り身体も冷えてきたので、足早に小諸の街を散策しつつ帰路へ着きました。
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mvrider5 · 1 year
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小諸城
前回は🌸の開花に間に合わなかったのでリベンジ再登城
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二の丸
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天守台
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天守台から見下ろす。
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今回もちょっと遅かった😂葉桜
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黒門橋
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絶壁の空堀は堅牢をアピール
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前回の投稿は以下から
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yuka-p · 6 months
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↓昨日投稿の上田城の紅葉と同じ日(2005年11月5日)の別所温泉と懐古園(小諸城)。
■別所温泉
■懐古園
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tanzawa77 · 2 years
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信州の旅 2022年4月30日〜5月2日 白馬~上田別所温泉〜小諸
①②白馬村/大出公園 ③上田城趾 ④信濃国分寺 ⑤安楽寺木造三重塔 ⑥北向観音参道のジェラート ⑦⑧布引観音堂 ⑨小諸の蕎麦 ⑩小諸城址
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kouichikoyama · 2 years
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KOMORO城田農園の桃🍑✨ *『KOMORO桃とクラフトジンのマティーニ🍸』🎶 (クラフトジン×桃×ジャスミンシロップ) #バージズ #barzizz #こもろ #小諸barzizz #オーセンティックbar #フレッシュフルーツカクテル #城田農園 (Bar Zizz) https://www.instagram.com/p/ChZWUr5vxAN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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swanky1992 · 3 months
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THE SECOND HALF OF 2023
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yatsugatake-east · 4 months
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一昨日アップしたレストラン「小諸本陣主屋」を出た後、17〜8年ぶりくらいに小諸城址「懐古園」を歩いてみました。こちらは厳密に言うと「懐古園」の外側の大手門公園にある国の重要文化財「大手門」です。「小諸本陣主屋」からは歩いて3分程。本来はかなりの広さを持つ城址です。 さらに「大手門公園」を歩き小諸駅すぐ側の「懐古園入口地下道」でしなの鉄道の線路をくぐると・・・。
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目の前にこれも国の重要文化財である「三の門」が現れます。扁額にある懐古園という文字は徳川家達の書だそうです。 小諸城の起源は木曽義仲の武将小室太郎光兼が現在の地の東側に築いた館が始まりとされています。その後戦国時代に大井氏が前身である「鍋蓋城」を築き、さらにこの地に侵攻した武田信玄が地理的な重要性に気づき山本勘助らに命じ現在の城の原型を作ったとされています。
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「三の門」をくぐり入園料金所で300円(大人)を払うと左手に二の丸跡の高い石垣がそびえています。 豊臣秀吉が天下統一を果たした後には仙石秀久が小諸に封ぜられ、城の大改修と城下町の整備に取り掛かり、今の遺構の残る堅固な城としたそうです。
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さらに進むと「黒門橋」が現れます。向こうの石垣の上にはこの城唯一の井戸「荒神井戸」跡があります。 その後、小諸城は徳川家光の弟の忠長の領有するところとなり、城代が置かれ、重要な領地であることから、歴代藩主には徳川譜代等が配されたそうです。
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「黒門橋」を渡り左に折れ、さらに石垣を右に回り込むと目の前に「懐古神社」が現れます。ここは「本丸」跡でもあります。
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神社にお参りもしました。喪中ではありますが忌中ではないので参拝は全く問題無いとのことです。
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神社の右手を入っていくと「天守台」跡に行き着きます。かつてこの上に三層の天守がありました。
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跡地に登り浅間山方向を望むと浅間山は残念ながら樹木とさらに雲に隠れていました。三層の天守が残っていればちゃんと望めたでしょうにね。今度は桜の時期に来てみよう!
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ〜〜」と詠った島崎藤村(明治32年から6年間「小諸義塾」で教師をする。)の遺品や資料などを展示した「藤村記念館」も園内にあります。(2024/1/8) 小諸懐古園のURLは https://www.city.komoro.lg.jp/kaikoen/index.html
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amiens2014 · 2 years
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綾城/宮崎県綾町【城趾】伊東四十八城のひとつとして島津家に立ちはだかった山城を復元
綾城とは 綾城(あやじょう)は宮崎県東諸県郡綾町北俣(みやざきけんひがしもろかたぐんあやちょうきたまた)にある城址だ。 足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門が築いたと言われ、伊東四十八城の一つ。 伊東四十八城といえば、前日に行った日知屋城も、そのひとつとされる。 https://niyodogawa.org/blog/outdoor/shrines-and-temples/shrines/japanese-shrines/45587/ 築城は1331年~1334年で、別名「竜尾城」とも呼ばれる。 1615年の一国一城令により、廃城となった。 綾城のはじまりは、今からおよそ660年前の元弘年間(1331年~1334年)足利尊氏の家臣であった細川小四郎義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠が収納使として綾を領有し、綾に山城を構え、綾氏と称したころと考えられています。 綾氏は数代城主とし…
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leomacgivena · 4 months
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事後諸葛亮【じごしょかつりょう】〔俗〕事態がすべて手遅れになったあと、終わったあとに、さも状況を見越していたかのように『ああすればよかった、こうすればよかった』と訳知り顔で解説すること。《元は中国語圏のスラングで、1975年に中国で出版された小説『煤城怒火』が初出とされる》
Xユーザーの単語はかせBotさん
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yoga-onion · 11 months
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[Photo above: Banyan tree in Shuri Castle Park]
Legends and myths about trees
Forest spirits and natives (5)
Kijimuna – Mischievous red-haired spectres
Kijimuna are legendary small tree spirits from the Okinawa Islands in Japan, who live in trees (generally old banyan trees). They are said to look about 3 or 4 years old and have red hair.
Another name for the kijimuna is bungaya, which means roughly large-headed. The Kijimuna are known to be very mischievous, playing pranks and tricking humans. One of their best-known tricks is to lie upon a person's chest, making them unable to move or breathe such as sleep paralysis. Even though the Kijimuna are tricksters, they have been known to make friends with humans.
They are skilled fish catchers and only eat the left or both eyes of the fish they catch. Therefore, if you become friends with a Kijimuna, you can always get a fish and become rich. They are good at diving and fishing and catch a lot of fish in seconds. But all the fish they catch have no eyes. They can also run around on the water surface and can stand on the water while carrying people.
They are extremely hatred of hot pot lids, octopus, chickens and human farts, and it is forbidden to let them near the Kijimuna. They also die (or are forced to move to another tree), if a nail is driven into the tree in which they live. They will take terrible retribution, including murder, against anyone who breaks these prohibitions.
Nevertheless, as long as one do not break these prohibitions, they are basically harmless to humans, and many lores say that they are "good neighbours" with humans.
[History of Ryukyu Islands (collective name for Amami Islands, Okinawa Islands, Miyako Archipelago and Yaeyama Archipelago)]
The Ryukyu Islands are known to have been inhabited by humans for about 32,000 years.
The Ryukyu Kingdom was a monarchy, existed in the southwestern islands of Japan for about 450 years, from 15th century to 19th century. It developed through diplomacy and trade with China, Japan, Korea and Southeast Asian countries, and the castle of the Ryukyu dynasty, Shuri Castle, was the political, economic and cultural centre of its maritime kingdom. In the late 19th century, the Japanese Government, dispatched troops to oust King Shoutai from Shuri Castle and proclaimed the establishment of Okinawa Prefecture (Ryukyu Disposition). Here, the Ryukyu Kingdom was destroyed.
Genetic studies have shown that populations in the Ryukyu Islands (Okinawa Islands, Miyako Archipelago and Yaeyama Archipelago) have no direct genetic link to mainland China or Taiwanese populations and have identical paternal lines to mainland Japan, and nuclear DNA analysis in 2018 showed that genetically, Ryukyuans are the most closely related, followed by mainland Japanese, from the Ainu (Ref) perspective.
Furthermore, in 2021, a paper on archaeogenetics published in the journal Nature stated that DNA analysis of prehistoric human bones excavated from the Nagabaka (lit. Long graveyard) site in Miyakojima City showed that they were "100% pure Jomon", a research finding that indicates that prehistoric archipelago people came from the Okinawa Islands.
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木にまつわる伝説・神話
森の精霊たちと原住民 (5)
キジムナー 〜 いたずら好きな赤毛の妖怪たち
キジムナーは、日本の沖縄諸島に伝わる伝説の小さな木の精霊で、樹木 (一般的にはガジュマルの老木) の中に住んでいる。見た目は3、4歳くらいで、赤い髪をしていると言われている。
キジムナーの別名は「ブンガヤ」であり、「頭の大きい」という意味である。キジムナーは非常にいたずら好きで、いたずらをして人間をだますことで知られている。最もよく知られているのは、人の胸の上に横たわり、身動きや呼吸をできなくさせる「金縛り」だ。そんなキジムナーだが、人間と仲良くなることもある。
魚捕りが巧みであり、しかも捕った魚の左目または両目だけしか食べない。その為、キジムナーと仲良くなれば魚をいつでも貰え、漁運に恵まれる。海に潜って漁をするのが得意であっという間に多くの魚を獲る。でも、彼らが獲った魚は全部目が無い。また、水面を駆け回ることができ、人を連れながらでも水上に立てる。
熱い鍋蓋、タコ、ニワトリ、人間のおならを極端に嫌い、それらのものをキジムナーに近付けるのは禁忌である。また住んでいる木に釘を打たれると死ぬ (或いは別の木への転居を余儀なくされるとも)。これらの禁忌を破った人間に対しては、殺害を含む恐ろしい報復を為す事も辞さない。
然し、禁忌さえ破らなければ基本的に人間には無害な存在であり、人間とは「良き隣人」であると言う伝承が多い。
[琉球諸島 (奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島の総称) の歴史]
琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっている。
15世紀から19世紀までの約450年間、日本の南西諸島に存在した君主制国家、琉球王国は、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して発展し、琉球王朝の王城、首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心にあった。しかし、19世紀後半、日本政府が軍隊を派遣し首里城から国王尚泰 (しょうたい) を追放し沖縄県の設置を宣言した(琉球処分)。これによって、琉球王国は滅亡した。
遺伝子研究では、琉球列島 (沖縄諸島、宮古列島、八重山列島) の集団は、遺伝的に中国本土や台湾の集団との直接的なつながりはなく、日本本土と同一の父系を持つという研究結果や、2018年の核DNA分析から遺伝的に、アイヌ(参照)から見て琉球人が最も近縁であり、次いで日本本土人が近縁であるという研究結果が発表されている。
さらに、2021年には、宮古島市の長墓遺跡から出土した先史時代の人骨をDNA分析した結果、「100%純粋な縄文人」であったとする考古遺伝学の論文が雑誌「ネイチャー」に掲載され、先史時代の列島人が沖縄諸島から来たことを示す研究結果が発表されている。
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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papatomom · 28 days
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2023.03.30(Sat)
地元の企業が運営する「越前ふくい美術館」が、県庁がある福井城址のお堀のすぐ前にオープンした。(福井駅西口より歩いて3分ほど)
館内には東山魁夷や藤田嗣治など越前和紙を用いた有名画家の作品や浮世絵などが展示されていた。
葛飾北斎が描いた木版画「諸国名橋奇覧」11枚には、人間国宝の9代目岩野市兵衛氏の和紙「越前生漉(きずき)奉書」が使われている。
嬉しいことに、写真で展示物の風景を撮るのはいいとのこと。
こじんまりしているけれど雰囲気もよくシックで見ごたえのある「ちいさな美術館」でした。
展示を見終わって、併設されているCafeリンデンで、アップルジュースとチーズケーキのセットを注文。チーズケーキは小さめだけど濃厚でおすすめです。
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mvrider5 · 14 days
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信州春の城巡り
桜の名所が多い各地の城。今日は南信州のお城巡り
一つ目は諏訪の浮城高島城
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復元天守に映える桜
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本丸公園を埋め尽くす桜
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青空に映える満開に色づいた桜
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次は佐久の五稜郭
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花びらで埋め尽くされたお堀
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最後は小諸城の懐古園
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myscrap · 1 month
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Xユーザーの小諸さん: 「春デニムじゅりちょこ #西城樹里 #園田智代子 https://t.co/edtey6G0jZ」 / X
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yamada50 · 1 year
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大内文化を隆盛させた大内義隆公を祀る築山神社 八坂神社の境内、大内教弘が築いた大内氏の別邸の跡地(築山城)に鎮座しています 長州に移封された毛利氏の実質初代藩主毛利輝元により慶長10年(1605)現在の山口市の多賀神社境内に義隆公などの霊を祀った「宝現霊社」がはじまりです 現在の拝殿と本殿は明治3年に氷上山興隆寺境内にあった東照宮を移築、遷宮し家康公を合祀しました この社殿は寛保2年(1742)に造営されたもので山口では珍しい部類に入る三間社入母屋造です 氷上山興隆寺は築山神社南方の氷上山にある天台宗の寺院ですが、推古朝に創建された古社で大内氏の祖である琳聖太子が開基と伝わり、その時の大内家当主大内茂村が大内氏の総氏寺としたことからその後隆盛を誇りましたが、戦国期に大内氏が滅んでからは衰微しています 八坂神社のお隣に並んで社殿を構えていますが別の宗教法人です 一方八坂神社と築山神社は今八幡宮の兼務となっていて御朱印は今八幡宮で授かることができます #築山神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 築山神社(つきやまじんじゃ) 鎮座地:山口県山口市上竪小路101 主祭神:大内義隆公、(相殿)徳川家康公、(配祀)大内義尊公、大内氏諸公卿諸士28人 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社と四季#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#山口市 (築山跡) https://www.instagram.com/p/Cno_PWlv0UJ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kouichikoyama · 2 years
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暑かった8月も終わりですね…。 今週も季節のフレッシュフルーツ🍸とウイスキー🥃でお楽しみ下さい♪ 小諸城田農園「川中島白桃」今年ラストだそうです🍑 #バージズ #barzizz #こもろ #小諸barzizz #オーセンティックbar #フレッシュフルーツカクテル #城田農園 #城田農園つちふたつ (at Bar Zizz) https://www.instagram.com/p/Ch1lFvGPQLL/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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