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yuka-p · 4 months
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昨年末に「穏やかな年になってくれたらいいなあ・・・」と書きましたが、新年早々の大地震や翌日の航空機事故など波乱の幕開けとなってしまいました。
地震が起こった時、私は古いスマホで音楽を聴きながら刺繍をしていました。 突然聞きなれない音がして、何事かと思ったら新しいスマホが鳴っている模様。カバーを開いてみると、緊急地震速報でした。(古いスマホの時は緊急地震速報は設定していませんでした) 驚いているうちに揺れが来て、なかなかおさまらず。地元では震度3でしたが、中越地震(震度5弱)を思い出す大きな横振れが長く続いたため、東日本大震災(震度5強)の時のように、徐々に強くなっていくのかも・・・と恐怖を感じました。
今回地震で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。 被災地は寒冷な土地ですので、被災された方や救助・救援の方たちの体調も心配です。 無力な私には義援金を送るくらいしかできませんが、どうか皆さまお身体にはお気をつけてください。
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yuka-p · 4 months
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初日の出
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yuka-p · 4 months
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あと2時間と少しで今年も終わります。
今年は前半は例年と変わりませんでしたが、7月以降は色々あって、最悪とまでは言わないまでも、かなり悪い年になってしまいました。
7月末に高齢の父が圧迫骨折で入院、2ヶ月ほどで退院後も寝たきりに近い状態になってしまいました。その後、認知症が始まってしまったようです。
父の入院の数日後には雹(ひょう)で家・離れ・物置のガラスが割れたり車がやられたり大損害。大工さんの見積もりと車の被害額は、軽く200万を超えてしまいました。
車は全額保険で修理できたし、家も保険がそこそこ出たので、金銭的にはそう困らなかったのですが、気持ちが滅入ってしまい夏から秋は何も手につきませんでした。おかげで畑は草茫々に・・・やっと枯草退治が終わり休日に袋詰めしてはゴミ出ししている状態です。
12月中旬には原因不明の蕁麻疹が1週間続いたなんてことも。
他にもカメラは壊れるわ、インボイス制度のせいで面倒な仕事が増えるわで散々な年でした。
来年は良い年とは言えないまでも、穏やかな年になってくれたらいいなあ・・・
写真は、先日眼科へ検診に行った時に歩いた道から撮った写真。こんな田舎に住んでいます。
そして、瞳孔を開く目薬をさしたために眩しくて車の運転ができず、この風景の中をサングラスをして歩いて帰りました。
冬の田舎道でサングラス。他人から見ると、かなりアヤシイ感じだったと思います。
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yuka-p · 4 months
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1ヶ月ほど前に投稿した九度山の真田庵のクラウドファンディング、昨日第一目標の500万円に達成したとのこと。300人以上の方が寄付してくださったようです。
第二目標の1,000万円は厳しそうですが、最後まで応援していきたいと思います。
和歌山県九度山町が真田氏ゆかりの土地だということは、昔はあまり知られていませんでした。
今世紀に入ってゲームを中心に真田人気が盛り上がり、2016年の大河ドラマ「真田丸」あたりで九度山のことも一般に知られてきたような気がします。
大河ドラマとしての「真田丸」は、私にはどうにも合わず楽しめませんでしたが、あのドラマがあったから九度山に注目する方が増えたのかもしれません。その点だけは、「真田丸」に感謝しなくては。
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私が行った頃は、真田関係の本やガイドブックに掲載されていた真田庵の情報はほんのわずか。インターネットも一般家庭にはあまり普及していませんでしたので、九度山町の観光課に資料を送っていただいて、分厚い時刻表とにらめっこしながら調べ、なんとか行くことができました。今はスマホでもPCでも観光情報や電車の時間も簡単に調べられますから、ずいぶん便利になったものです。
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yuka-p · 5 months
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4週間干した柿。やっぱりちょっと甘味が薄いかな。
ネットで調べたら愛宕柿は「さっぱりとした甘さ」「上品な甘さ」とあったので、うちの柿のように「こってりした甘さ」にはならないらしい。
そして、表面も中もちょっと硬めなので、切らないと食べにくいです。
もう少し小さくて数が多いものを追加購入しましたが、10日ほど干したところ、表面の質感や揉んだ感触がうちの柿と似ているので、写真の柿よりも柔らかく仕上がりそう。
来年は自宅の柿で作れるといいな。食べるのよりも作るのが楽しい。
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yuka-p · 5 months
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池の所で見かけたシメとメジロ。
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隣の公園にいたカケスとハクセキレイ。
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yuka-p · 5 months
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世良田東照宮と長楽寺
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yuka-p · 5 months
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新田荘歴史資料館の庭には色々な木があるので、紅葉の色も様々。ずっと眺めていたくなります。
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yuka-p · 5 months
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太田市の歴史公園で紅葉を見てきました。
新田荘歴史資料館の2週間前には緑だった木も、しっかり紅葉していました。
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yuka-p · 5 months
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2週間干した柿を試食してみたのですが、思っていたほど甘くなっていませんでした。
うちの柿の方がずっと甘かったけれど、個体差なのか大きな柿だから水分量が多いとかなのかな。
1週間後にまた試食してみます。
1週間干したもの。
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2週間干したもの。
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yuka-p · 5 months
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歴史公園の後に、エアリスの小さな森公園へ。秋バラが少し咲き残っていました。
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↓この花はアメリカデイゴと言うそうですが、以前見た時は9月ごろに咲いていたような・・・
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紅葉はきれいでした。
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まだ新しいカメラに慣れません。
ズームも思ったよりも効いていない感じですし、遠くの花をズームするとピントがなかなか合わない。何か設定が間違っているのかな。
最近のデジカメやスマホなどは簡単な取扱説明書は付いてくるのですが、詳細な設定や使い方はネットで調べるというのが多いようですね。付属の取説は100P足らずですが、メーカーのHPで見られる取説は353Pもあります。
1000円くらい余計に出してもいいから、詳細な取説を冊子でほしいなあ・・・カメラを使っている時にスマホでいちいち使い方調べるなんて面倒だし、神の方が落ち着いて見られるのです。
まあ、時間のある時にちゃんと見て覚えておけばいいのかもしれませんが、機械は苦手なのでなかなか覚えられないんですよね。
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yuka-p · 5 months
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太田市の歴史公園に紅葉を見に行ったのですが、例年より遅いようです。新田荘歴史資料館の一番好きな木は、まだほとんど緑色でした。
他の木も、全体的に紅葉は進んでいない模様。
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yuka-p · 5 months
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少し前に何年も迷っていたミシンを購入しました。
使ってみると、思っていたよりも簡単でしたが糸調子を合わせるのがなかなか難しい。
電子ミシンとコンピュータミシンで迷いましたが、刺繍機能とか要らないし高価なものを買って使いこなせなかったらもったいないので、電子ミシンにしました。でも、自動糸調子だけはあった方が良かったかな・・・
写真は「COTTON TIME」11月号に掲載されていた正方形の布2枚で作る小物入れです。
直線縫いだけでできるので簡単ですが、端を縫うのがちょっと難しい。まっすぐ縫っているつもりでも脱線してしまう。
慣れればもっと上手くできるようになる・・・かな?
手前2つのイチゴとサクランボ模様は以前の「COTTON TIME]の付録で、後ろの青海波に猫と紫陽花?模様はセリアのカットクロスを使用しました。
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yuka-p · 5 months
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yuka-p · 6 months
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関ケ原合戦の翌年から真田昌幸・幸村親子が暮らした地・和歌山県九度山町の真田庵(善名称院)で老朽化した土塀や本堂修繕のためのクラウドファンディングが始まりました。 微力ではありますが、私も参加しました。
■真田ゆかりの九度山町 真田庵。修繕工事で後世へつなぎたい。
上田城や沼田城も櫓や天守の復元を目指しているようですが、現在ないものを復元することには特に興味はありません。 でも、ずっと大事にされてきたものが朽ちてしまうのは食い止めたい。特に真田庵は昌幸の屋敷跡(幸村の屋敷は別だったとも)であり、終焉の地でもあるお寺。いつまでも守っていかなくてはならないお寺であると思っています。
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真田庵には、1997年のGWに行きました。 GWの旅行は、友人が希望した高野山と大坂・神戸に決定。細かな日程を立てるのは私なので、初日に無理やり九度山の真田庵をねじ込みました。 群馬県から和歌山県なんて、そうそう行けるものではないから、行ける時には行っておかなければと。
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始発で出発して、大阪で昼食&デパートで開催中の奈良の仏像展を見てから九度山へ。かなり遠かったです。 当時は九度山が真田氏ゆかりの地だと知っている人が少なかったためか、GW中だというのに観光客の姿はありませんでした。 しかも商店街は定休日。その分、静かな良いところという印象でした。
真田庵は法要か何かを行っているようで、庵主さんのお話をうかがえなかったのが残念です。 休憩は、現在「グラタンカフェ」というお店があるところでした。当時の名前は憶えていませんが、26年も前なので別の店名だったかも。 今では真田庵近くに「九度山・真田ミュージアム」とうものがあるそうです。私が行った頃とは、ずいぶんと変わっているのでしょうね。
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yuka-p · 6 months
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昨年初めて作ってハマった干し柿。今年は不作の年のうえに雹でやられたため、大きい渋柿は2個、小さい渋柿は4個しか収穫できませんでした。(小さい方は獲れない高さにいくつかある)
父が干し柿が食べたいというので、ネットで10㎏購入。大きな愛宕柿が35個入っていました。
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重量があるため干し竿にすべて吊るすのは不安なので、半量の18個を剥いて吊るしてみました。
もう少し柿と柿の隙間をあければ良かったかも。
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今年も美味しくできるといいな。
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yuka-p · 6 months
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■真田幸村
 幸村公は昌幸公の次男で、永禄10年(1567年)生まれ。永禄13年(元亀元年・1570年)説もあります。  母は昌幸公の正室・寒松院山之手(山手)殿。兄の信之(信幸)公よりも1歳または4歳下になります。通称は源次郎または源二郎。  本来の名前は『信繁』であり、『幸村』という名を実際に名乗っていたかどうかは不明ですが、真田まつりでは一般的な『幸村』として登場するので、『幸村』で通します。  来年の大河ドラマ『真田丸』では『信繁』を使用するのではないかと言われています。そうしたら、真田まつりでも『信繁』表記になるのかな?
 幸村公は、おそらく甲斐国甲府生まれ。その頃の昌幸公は、武田信玄公の母方の親戚である武藤家に養子入りし、武藤喜兵衛と名乗っていました。  武田家滅亡直前に、甲斐(山梨県)から山之手殿や信之公とともに逃れてくるエピソードがありますので、少年時代までは主に甲府住まいだったと思われます。  武田家滅亡後数年間は、上野(群馬県)や信濃(長野県)で暮らしていたようですが、天正13年(1585年)の第一次上田合戦(神川合戦)の直前には、越後の上杉家への人質として海津城(長野市)や春日山城(新潟県上越市)へ赴き、その後は豊臣秀吉公のもとに出仕(人質)しています。  秀吉公が亡くなった後には上田に戻ったようですが、幸村公が上田で暮らすことができたのは、ほんの数年間。でも、『上田』といえば『真田幸村』となってしまうのは、やはり人気と知名度でしょうか。
 上記のように人質生活が長かったため、幸村公には実戦経験があまりありません。  近年は、第一次上田合戦の時に幸村公は上杉家から一時的に上田城へ帰されて徳川軍と戦ったという説を推す研究家も増えてきたように思いますが、一般的にはやはり海津城か春日山城にいて出陣しなかったという説の方が妥当ではないかと言われています。  幸村公の初陣は、通説では天正18年(1590年)小田原北条氏征伐に関連した松井田城攻めあたりではないかと推測されています。この時、幸村公は数え24歳。当時の武家の男子は、15歳前後で初陣していたようですので、随分と遅い初陣でした。  でも、兄の信之公は十代の頃から小規模ではありますが戦場に立っていたので、記録には残っていませんが1歳下ならば幸村公も一緒に出陣していた可能性も考えられますね。  文禄・慶長の役(朝鮮出兵・1592年~1598年)では、真田家は肥前名護屋までは行っているものの、半島へは渡海していませんので、戦場に立つことはありませんでした。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに連動した第二次上田合戦では西軍(石田方)として東軍(徳川方)に勝利したものの、関ヶ原で西軍が敗れたために紀伊(和歌山県)高野山へ配流となり、その後麓の九度山に移りました。(このあたりのことは、昌幸公のところで説明します。)
 九度山での暮らしの中で昌幸公を喪い、気力も萎えていたと思われる幸村公でしたが、慶長19年(1614年)に徳川家康公が大坂城の豊臣秀頼公を攻めることになり、豊臣家から幸村公のもとに入城を要請する使者が送られてきました。  幸村公はその招きに応じ九度山を脱出、大坂に入城して活躍したことは、これを読んで下さっている方ならばご存知でしょう。  大坂冬の陣では真田丸に拠って多くの敵を討ち取った幸村公でしたが、和睦により大坂城の堀は全て埋められて真田丸も破壊されてしまいました。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも幸村公は敵からも称賛される戦いぶりを見せました。  運命の5月7日、幸村公は敵の大将・家康公の首のみを狙い、家康公本陣を脅かすほどの猛攻でしたが、本懐を遂げることは出来ず、安居神社のあたりで疲れきった身体を休ませているところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾久作に討ち取られたと伝わっています。  幸村公の享年は49。戦上手で知られた真田家に生まれながら活躍の場を与えられず、34歳から48歳の壮年を九度山の配所で虚しく過ごしていた幸村公にとっては、武士として逝けたことは幸せだったのではないでしょうか。
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