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#使いやすい夕波箸
jujirou · 1 year
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おはようございます。 秋田県湯沢市川連は快晴です。 昨日は朝一から川連を出発し、秋田市のアトリオンにて、漆器組合主催の展示会の会場設営と搬入を行って来ました。 大凡400〜500点弱の品々は、夕方まで並べ終わるかの心配も有りましたが、何とか予定通りのお昼前に並べ終わり、搬入出担当のオラはお昼過ぎにはトラックで帰宅。 そして夕方からは用事果たしやら、続きの作業で一日が終了。 川連漆器大販売会 会期:令和4年11月4日(金)~7日(月) 会場:秋田アトリオンイベント広場 時間:11/4(金)12:00~17:00    11/5(土)10:00~17:00    11/6(日)10:00~17:00    11/7(月)10:00~15:00 11/5(土)6(日)はお一人様2,000円で蒔絵体験ができます。 時間:午前10:00~11:00(最終受付)    午後13:00~15:00(最終受付) 受付:各先着10名様まで 秋田市で大販売会を開催いたします。 400点以上の商品の品揃えで皆さまのご来場をお待ちしております。 そして今日は休み…ですが、月曜日も搬出担当で漆仕事が出来ないので、今日は続きの作業をコツコツ頑張ります。 皆様にとって今日も、良い週末と成ります様に。 https://jujiro.base.ec #秋田県 #湯沢市 #川連漆器 #川連塗 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #伝統工芸 #秋田工芸 #秋田クラフト #秋田の物作り #秋田の物つくり #髹漆 #寿次郎 #川連漆器大販売会 #秋田アトリオン #オラ飯 #川連漆器できのこスパゲティ #六寸会席皿 #会席皿 #使いやすい夕波箸 #kawatsura #Yuzawa #Akita #japanlaquer #japanlaque #JapanTraditionalCrafts #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro (秋田・川連塗 寿次郎) https://www.instagram.com/p/CkjjavjhDxV/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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johncoffeepodcast · 1 year
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 実家に帰って久々に昔使っていた引き出しを開けてみたら、お年玉袋が入っていた。小花柄のプリントされた黄色いポチ袋で、糊しろに透明なでんぷんがこびりついている。便箋の宛名には兄の字で〇〇君へと書いてあった。俺がそれを手に取ったのは、2022年の事で、お年玉を貰ったのは兄がまだ社会人になりたての2011年の冬の事だった。妹と両親と過ごした正月の事だ。うちの家族は兄弟が3人いて、俺には3人の兄弟がいた。兄が1番上で真ん中が俺。俺の下には1つ離れた妹と、もう1人産まれたばかりの妹がいる。兄は俺より四つ上で真ん中の妹は一つ下だった。兄は俺がまだ学生の頃からもう社会人になっていて、この頃の兄はトラックの運転手をしていた。昔と比べると家族の様子はまるで変わった。犬のライトは居なくなったし、隣町に住んでいた祖父母の家も空き家になった。俺の家も俺たちが高校に上がったぐらいから母も働きだして、今では日が高いうちは家に人がいる事はない。俺は大学を一年休学していたから、妹とは実質同学年だった。
 2011年は私たちに大きな衝撃が降りかかった1年だった。3月に太平洋沿岸を中心とする東北に大きな津波がやってきたのだった。俺は丁度大学に入るためにアパートを探している最中だった。俺の生まれた街から、大学までは直線距離で2000km離れていた。俺は地元から出るつもりは無かったので、休学している間は良かった。しかし、入学してからの4年間は仕方無く、向こうで暮らす事になるんだろうなと言う諦めにも近い心積もりがあった。しかし幸か不幸か、俺が一年大学を休学をしている間に様々な出来事が起こった。もし俺が大学を一年休学していなければ既に暮らしていたはずの地域では、マグニチュード6.8の大地震が猛威を震っていたのだ。ニュースで見る限りビルや漁協や、その場所にある様々な民家は瓦礫一つ一つに返ったように、散りと化してしまっていたし、沿岸の建物も作業用のトラックも全て波が攫ってしまった。俺や妹達が住む実家にも、地震による日本中の電力の自給の安定の為に、日本政府から計画停電が発令された。夜の3時間は真っ暗になり、俺が家の玄関から草履を履いて外に出てみた所、普段は灯っているはずの街頭が一つもついていなかった。俺は父親に仕事用のトラックでドライブをしてみようと提案してみたのだが、電気を使うのを控えているのだからガソリンを使うのも控えた方が良いだろう。と言う事で、震源地から遠く離れた俺の住む街は、地震があってからの数週間しばらく停電が続いた。
 世の中が混乱の中にあっても新聞はしっかりと毎日届いた。原子力発電機の事故によって放射線が漏れた事、津波によってある地域では沿岸から数十キロが全て土砂に飲み込まれてしまったという実情が、連日連夜報道された。俺はその年の春、合格した大学の入学式に出るために3月5日に初めてキャンパスを訪れた。第一志望と第二志望に落ちた俺は、場所だけが魅力的に映った第三志望の大学に受かった。大学は海の見える場所にある縦長に5階建てのビルが三棟も建っているキャンパスだった。入学式の後は経済学部と文学部と法学部が同時に集まって新入生のオリエンテーションが行われた。その入学式の途中で俺の中に、そこはかとない違和感が湧いてきた。何故そんな違和感が湧いてきたのかというと、まだ顔を合わせたばかりなのに既に周りの皆んなが知り合いだったからだ。今ではSNSで知り合ってから入学式を迎えるのが一般的らしい。18年培ってきた自然な人間の交流が、大学へ入学した事によっていきなり閉ざされた気がした。俺の隣の席に座っている女子が『〇〇ちゃんだよね��』とそのまた隣にいる女子に話しかけていた。俺は何じゃそれ思った。それと同時にスタートダッシュに乗り遅れたと思い、既に地元に置いて来た筈の淡い期待は打ち砕かれ、萎れた感情を秘めながら受けた入学式のオリエンテーリングを受けていた事を思い出した。
 俺の住む街は電車が一本だけしか通っていない田舎街だった。友人の侑君は高校を卒業してからは実家の牧畜業を継ぐ事になっていた。俺が大学合格の通知を郵便で受け取った数日後、友人の侑君にこの春に地元を離れる事になるかも知れないと告げた時、侑は寂しそうな顔をしていた。『お前、勉強はよく出来ていたもんな。お前とC組のOOさんと、スポーツ推薦の〇〇君は来年は地元にいないんだ。』と学校の帰り道に歩きながら俺に漏らした。『でも4年もすれば、どうせ皆んな帰ってくるんだろ。』そして付け足すように侑は言った。『俺ん家にも家業があったらな。』と俺は何処かに呟いた。『お前んちだって塗装屋やってんだろ?』と侑は俺に言った。『塗装屋とは言っても、何でも屋みたいなもんさ。壁紙のクロスから何から何までやりますよって感じだよ。』と俺が付属で侑に弁解すると『じゃあお前も父親と一緒に塗装屋やればいいじゃん。』と侑は言った。『まあねぇ。』『まあねってなんだよ。』『塗装以外もやっているって事は、塗装の仕事がないんだよ。』『何だお前。偉そうな事言ってんじゃねぇ。まあ良いわ。数年待って考えろよ。』侑は言った。『俺も気持ちだけはここに置いて置くからさ。』俺は侑に言った。侑の家と俺の家は同じ町内にある一軒家で侑の家は真裏には牧畜の牛舎があった。侑の家に遊びに行くと、牛舎の横には乳牛から搾り取った生乳を溜めておく大きな白いタンクがあり、侑君は侑君の父親と毎朝牛車で一仕事してから学校に来ていた。俺が朝、学校に行くついでに侑君の家に回って行くと、侑の家の庭には常時何本かの干し草が散乱していた。朝、侑君が押し車で牛の餌の干し草を、牛車の中に運び入れる際に手押し車から落ちてしまうからだった。
 2011年の1月に三学期が始まった。三年の三学期は、進路が決まった者たちは学校で時間を無下に費やすだけだった。俺が第三志望の大学の合格発表を受け取ったのは1月12日の事で、同じクラスの皆んなはまだ、自分の未来の行末を案じながら合格発表を待っていた。俺学校は受験のランク的には県内では中の下あたりの普通校で、ひと学年下の妹も同じ高校に通っていた。俺の兄も、この学校の卒業生だった。と言うもの、父親がこの学校の第一期の卒業生で、俺たち4人兄弟は全員この学校に通わせたかったそうだ。大学の合格通知を受け取った日の夕飯の食卓で俺は父親に聞いてみた。『何で俺たちを〇〇高に通わせようと思ったの?』親父は畳の上に腰掛けて、木製の丸いテーブルに乗った夕飯を食べていた。母親と、俺たち兄弟と父親は共に囲みながら、黙って木の箸で納豆をかき混ぜている所だった。『新しい道の見つけ方を教えてくれたからだよ。』父親は納豆を茶碗に乗せて、白米と共に口の中へ放り込みながら言った。俺は正直父親が、何に対して新しい道を見つけたのかさっぱり理解出来なかった。父親は父親のお父さんから塗装屋を受け継いで、今の今までに立派に営業しているし、高校時代もハンドボールに明け暮れていた。と言う話をお母さんから聞いている。お母さんはアップリケの付いたエプロンをしながら、父親の横で澄ました顔で焼き鮭を食べている。『真由は学校楽しかったか?』父親は1番下の妹に向かって言った。妹は学校に行く時はいつも二つ結びにしていたが、家に帰るとすぐに解いていた。『楽しいけど、校庭でバレーが出来ないのが辛い。』1番下の妹が言った。『あら、こないだ雪がまだ積もっているの?』とお母さんが妹に聞いた。『まだ端っこの所にだけは雪ぐ積もってるんだよ。真ん中はサッカーゴールがあるから男子が使って、バレーをやる子は端っこに行くの。』と再び1番下の妹は言った。それを聞いた真ん中の妹が『今度からバレーボールも真ん中ですれば良いのよ。』と言っていた。俺たち兄弟4人は、父親の過去に何があったのだろう。と言う疑念を腹の奥に押し込めながら、たわいも無い話題でその時の空気を払拭し、今日の夕飯は俺の合格祝いを兼ねた楽しい団欒が続いた。
 一つ下の妹は気が強く、それでいて俺たち家族の事を広い心で受け止めるような長女だった。陸上部に入っていて、地域の女子の中でも特段リーダーシップがあった。俺の住む田舎街では、一月の第二週目になると道祖神のお祭りがある。地域の子供やお年寄りが、薪や竹の倉を組んだ櫓に火をつけて、その業火で暖をとり、人々の無行息災を祈祷すると言うお祭りだった。俺と兄と妹達はお祭りには必ず顔を出し、飛び散る火の粉をわき目に、例年のように和太鼓を叩いた。和太鼓は誰が叩いても良かったが、大抵は男の上級生が叩いたりした。『春子先輩カッコよかぁ。』と下級生の女子達は、真ん中の妹が太鼓を打つ姿を見学して秘密裏に囁いていた。妹は隣町から来た他校の生徒とも交流がある様なカリスマ的存在だった。俺も侑と祭りの様子を見に行った。侑は俺の妹が赤い炎に照らされて、オレンジ色に染め上げられながらバチを打つ姿を見て『凄いな。あれお前んところの妹だろ。』と言っていた。妹の周りには、見物人の町内のご老人達が集まって、火を囲んで神事のお供物だった煮干しを食べたり、御酒(おみっき)を飲んだりしていた。太鼓の横でピーヒャラと縦笛を吹いているのは妹の友人の櫻子だった。俺のお母さんは婦人会で、御酒とお雑煮を地域の人々に振舞っている。するとお母さんと一緒にお祭りに来ていた1番下の妹が、俺の所にかけてきた。『どうしたよ真由?』俺は太ももにしがみついている1番下の妹に言った。『お母さんがお兄と遊んできてもいいって。』と1番下の妹は俺に言った。
 うちの家族の中で最年少なのは、俺の腕の中で抱えられている1番下の妹だった。妹は姉や俺が近くに居るとよくひっついて歩いた。まだ背は150cmにも満たない。今年保育園に上がったばかりで、台所に立ってはお母さんの料理の真似事をよくしていた。俺と侑は1番下の妹と祭り囃子が演奏されている太鼓の近くに寄ってみた。『お姉ちゃん。』1番下の妹が言った。真ん中の妹は太鼓を叩く妹はバチを大きく振り翳して妹の呼び声に答えた。『真由もお姉ちゃんみたいに大きくなったら、太鼓が出来るようになるんだぞ。』と俺は妹に手を繋ぎながら言った。俺と侑と1番下の妹は、炎に半身を照らされながら、太鼓の鼓動を聞いていると、近所の遊司さんがビニール袋を持って俺たちの方へ歩いてきた。遊司さんは大工さんで、俺のお父さんによく仕事を回してくれていた。遊司さんは実は俺の父親と同じ高校の同級生だ。『悟!侑!蜜柑持ってけ。』遊司さんは俺たちにビニール袋に入った蜜柑を差し出した。『神輿の準備で、山のお寺の方で配ってるんだ。悟。お前は今年は神輿担がんのか?』『今年は遠慮したんだ。』『何よ。どうして。』遊司さんは言った。『家からはお兄とお父が出る事になってるんだ。お兄今年から社会人だから、一年の商売繁盛を祈って神輿担ぐって。』『おおそうか、慶助と章介がね。とわいえ、慶助も親方冥利に尽きるってもんじゃないか。長男の章介が、まさか自分と同じ塗装屋になってくれるなんてな。』遊司さんはそう言うとガハガハと笑っていた。御神輿は山のお寺をスタートして里の神社まで地域の人達に担がれて運ばれる。この祭りのある夜は、一年のうちで1番街が一つになるはずだった。
 里の神社までは出店が30件ぐらい並んでいた。中には馴染みの顔もちらほら見かけた。黄色い暖簾のたこ焼き屋さんは、隣町のスーパーの前でたこ焼きを売っているおじさんだったし。りんご飴を売っていたのは、地元で有名な不良の女だった。俺は兄から貰ったお年玉を握りしめ、出店を矯めつ眇めつしながら里の神社に向かった。途中、1番下の妹がねり飴屋の前で立ち止まり、駄々をこねた。『お兄、わたしあれ食べたい!』と1番下の妹は言った。『わかった。わかった。帰りに買ってやるからな。』と俺は一度は妹を制するようにしてみたが、妹はねり飴屋の看板を見つめてそこから動こうとしなかった。その様を見た侑は、自分が発言にまったく責任を負わなくても良い事に、俺に向かって『せっかくなら買ってやれば良いじゃん。』とニヤニヤしながら言った。『お前が払ってくれるんなら考えるけど。』と俺は侑に言うと『真由ちゃん。兄ちゃん全然優しくないよな。』と侑は妹に向かって言っていた。妹は皆んなが食べてるのを見て、自分もねり飴が食べたくなったようだった。正直妹も初めは本気でねだっているようではなかったようだが、侑の発言を受けて段々とねり飴に関する欲望が増しているようだった。俺は仕方なく、お兄が父親から貰った少ない給料から捻出したお年玉を妹に渡した。兄がくれた3000円のうち400円を使って妹にねり飴を買ってやった。妹は『ありがとう。』と言って割り箸をこねくり回し、自慢げに道の端にある大きな石に座ってアメをせっせと舐めていた。『真由ちゃん良かったな。』と侑は言った。しばらくして御神輿が山の神社を出発すると、遠くから笛と鈴の音が聞こえてきた。
 音色はどんどんと里の方に向かって近づいてきた。灯篭を持った従者の陰が、明かりの無い山の間を葛を折るやつに降りてくる。ここから肉眼で見ると、人の姿は豆つぶ程で、距離としても3km位は離れていた。山の神社の急斜面を神輿を担いで男達が降りてくるのだ。『俺の兄貴もあん中にいるのかな。』と侑が言った。神輿は成人になった村の男だけが担ぐことを許される。という昔からの村の風習があった。小さい妹と居た俺たちは、里の神社まで行く事を諦めて、広場の炎から数100m程離れた石置き場の所で御神輿を待つ事にした。3人で腰掛けるのにちょうど良い道端にあった丸石の上に座っていると、頭上の斜め上から声をかけてるくる女がいた。俺が顔をあげると、そこにいたのは櫻子だった。『悟君!』『おお、櫻子』俺は櫻子に言った。『お囃子見てたでしょ。』『真由が見ようって言ったからさ。』『春子の太鼓凄いんだから。地響きが指の先まで伝わってきて、皆んな喜んでくれていたみたいだし、今年もやって良かったなって思ったわ。』と櫻子は言った。『櫻子ちゃんも上手だったよ。』と俺の1番下の妹が櫻子に言った。『見にきてくれてありがとうね。』櫻子は俺の妹の頬を、人差し指を折り曲げて柔らかくさすった。『そういえば櫻子、俺の妹と一緒じゃ無いの?』『春子?春子は私は後で行くから先に行っててって。』『怪しいな。』と俺は櫻子に言った。『怪しいわよね。誰か待っているのかしら。』俺と侑と櫻子は示しを合わせるようにした。そして思い浮かぶ可能性の中であり得そうな共通の概念を思い浮かべた。『そんな冗談はさておき、じゃあ私行くわね。』『待ってよ。お前もここで見てけば良いじゃん。』歩き出す櫻子を制して侑が言った。櫻子は『うんうん、良いの。』と櫻子はそう言って、遠くで頭を左右に振りながら、小走りで行ってしまった。友達が里の神社で待っているからと、櫻子は暗闇の中に言い残した。そして櫻子は里の神社へ坂道を走っていってしまった。
 俺たちは神輿が降りてくるまで道端の丸い石の上で座った。妹は近くの川を覗いていたり、妹は川縁で引っこ抜いた芒の茎をつかって野良猫と遊んでいた。辺りはもう真っ暗になり、後ろを振り返れば里の炎が夕闇をほの赤く染め上げている。目線を神輿のあるところから、山の裾野あたりに移すと、侑の家の生乳タンクが暗闇のなかにぽつりと見えた。侑は一生この村で暮らすつもりでいるのか。と邪性の様な考えが俺の頭の中をよぎった。侑は俺がふと考えがあらぬ方向を向いてる事に気がついたのか、俺に普段はあまり話さないような事を聞いてきた。『お前にはさ、兄ちゃんがいるだろ。お前は、お前の兄ちゃんがやりたくて塗装屋をやったんだとおもっとる?』侑は俺に聞いた。俺たちは体育座りをしながら語った。『どうだろうな。』俺は言った。『たぶんそうじゃないんじゃないかな。俺は男が1人だからさ。何となく家に入るんだけどさ。お前のお兄も多少はそういう気持ちがあったんじゃ無いんかな。』『兄ちゃんそんな事言っとらんかったけどな。』俺は石ころを川に投げて言った。『そういうのって、言わんだけで誰でも思ってる事じゃんか。見てみい。真由ちゃんもまだ小さいし、お前は進学するだろう。いくらしっかりしているからって春子ちゃんは女だし、俺が継ぐしか無いんじゃないかって心の何処かで思ってたんじゃないかなって、俺そう思うんよ。』『そんなもんなんかな。』俺は言った。『そんなもんなんよ。』侑はそういうと、腰掛けながら俺の肩を力強く掴んだ。『だからお前は大物になってこの街に帰って来いって、あの時、俺はそう言う意味を込めて言ったんだからな。』『侑。』『なに?』『これからも、俺たち友達な。』俺は涙ぐみながらそういうと、俺と侑は手のひらをがっちり結んだ。笛と鈴の音がだんだん大きく聞こえるようになってきた。俺と侑は猫と遊んでいる1番下の妹を呼び寄せて、御神輿の来ているところまで行ってみることにした。
 川の行方とは反対に、俺たちは山の方へ歩き出した。一年が始まって間もないのに、祭りは活気を全て使い尽くしてしまっている様な気がした。神輿を担ぐ掛け声が、俺たちのいる所にも朧げに聞こえてくるようになった。山に近づくにつれて、河川敷にはだんだんと御神輿を待つ人々で溢れるようになった。中には同級生の顔もちらほら見かけたが、大勢の人並みをかき分けて、火を燃やしている広場に向かって人々の流れに逆らって一目散に駆けゆく人がいた。『空けてくれ!頼むから。俺に道を開けてくれって。言ってんのが分からんか。』その人は人々の間を大腕を振ってすり抜けていく。『あれ?遊司さんじゃね?』侑は俺に言った。遊司さんは誰かを探しているようだった。『おい!悟!侑!お前らのどちらかでも良いから居ないか!』両手を口元に当てて遊司さんは俺の名前を大声叫んだ。『ここです!ここ!ここ!』侑はそう言うと群衆の中で飛び跳ねて、遊司さんに俺たちの居場所を知らせた。遊司さんは再び人並みを凄い勢いで掻い潜って、俺たちの所まで走ってきた。『悟、大変だ。章介が。』『兄ちゃんがどうしたでて?』兄の名前を聞いた時、俺の耳筋に冷や汗が垂れた。兄は一家の中でも最も屈強で、村の人々からも慕われる様な男だったからだ。『章介兄ちゃんがどうしたって?』俺はすかさず、遊司さんに掴み掛かるようにして問いただした。『章介が、章介が神輿の下敷きになりやがった。』俺は全身の力が抜けた。その言葉のお陰で俺の血液は脚の血管から全てアスファルトにこぼれ落ちたように思えた。俺の目の前は濁り、血の気が引いた。サーッと意識が地中に引っ張られたみたいになって、俺の眼には暗い、遠くの山の緑色がぼんやりと映る。『悟。早く!行くぞ。』侑は遊司さんがきた方角へ引き返すように促した。侑は里の神社へ向かって走り出そうとしていた。俺は真由の手を握りながらただ、立ちすくんでいた。見かねた侑は、俺が真由と繋いでいた手を自分の方に引き受けて、代わりに真由と繋いだ。『俺が真由ちゃん見てるから。悟は早く兄ちゃんの所へ行け。俺は後で行くから、お前は早く遊司さんについて行け!』侑は怒鳴った。『早く行け!』俺は侑の一言で、一瞬で我に返り、遊司さんが先導して作った人並みの隙間を埋めるようにして我が物顔で神社まで走った。
 走っている間、俺の動悸が収る事はなかった。あらゆる可能性が思慮の中を巡り、あらゆる疑念が新しく出来ては消えた。俺が鳥居をぐぐると、神輿は地面に置かれていた。少し離れた所で鉢巻をした人々が石畳の上で心配そうに集団を見守っている。近くには若い大人が4.5人と、年寄りの大人7.8人が群になって立ち話をしていた。俺は遊司さんにつれられて、事故のあった場所に行った。あたりには兄を円の様に取り囲む群衆があった。『どいてくれ!』遊司さんは円の一角に向かって言った。円の一角は、割れて兄のぐったりした姿が俺の目に飛び込んできた。神輿は狛犬のすぐ側にうちやられ、金の天守閣の鳥が人々の背丈を通り越して、俺の眼だけに侮蔑の様な表情を投げかけている様に思えた。地面にぐったり寝そべった兄の頭を母親が膝の上に置いていて、真ん中の妹が兄の体をさすっていた。兄の方には、神輿が倒れた事による紫のアザが刻み込まれ、体の至る所がどこも黄色く内出血している。父親は鉢巻で自分の眼を隠しながら、兄に向かって仕切りに『大丈夫か。大丈夫か。』と母と妹の頭上から投げかけていた。『誰か、誰か救急車を!』遊司さんは祭りに参加している大勢に向かって言った。侑と真由はやってきた。侑は鳥居の入り口で1番下の妹が事をこっちに来ない様に一生懸命引き留めていた。ねり飴の割り箸を大切そうに持っていた妹は、苔むした参道で章介の姿を心配そうに眺めていた。
 後日、兄が運ばれた病院にお見舞いに来た遊司さんや、櫻子ちゃんが言うには、兄の事故は神社のすぐ近くで起きたという事だった。担がれた神輿は山から急斜面を降りてきて、里の神社へ入る時に大勢を崩した。ぐらついた時に、兄の反対側に身長の高い男が居た事で、神輿の重い天守閣の部分が兄の上へ梨崩しになる様にして倒れてきたのだった。神輿の音頭をとっていた人に聞いた話だと、神輿を担ぐ四角い角が兄の体を地面に向けて打ちつけたと言う事だった。病院で下された症状は打撲という事だったが、兄は肩の筋を痛めてしまっていた。病院の先生はせいぜい2ヶ月は入院が必要だろうと言う事だった。俺たちは三日三晩交代で、兄の病室をおとづれたが、兄は元々の兄より口数が減っていた。兄の表情には言葉に祭りでは見せた筈の覇気が全く篭ってない様だった。兄が事故に遭ってから2日目の晩、家は妹達と俺だけで家で留守番を任され、父親は遅くまで仕事に出ていて、母親が付き添いで病院に行っていた。妹は風呂上がりに居間で、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら『こんな時に父さん、本当タイミングが悪いんだから。』とぼやいていた。1番下の妹は電球が点いたり消えたりする紐を引っ張って、部屋の明かりで遊んでいる。それを見た真ん中の妹は『真由、電気で遊ばないの。』と叱った。俺は大学から来た入学案内のお便りを、実感がないまま机の上に置いていた。
 その日父親が家に帰ってきたのは、夜の11時頃だった。長袖のポロシャツの肩のところにタオルを引っ掛け、1日履いて汚れたニッカパンツをズリあげた。玄関で足袋を脱ぐと、日焼けをした顔で入学案内を眺めている俺の事に気づいた。『おかえり。』俺は父親に言った。父親は『おう。』と言って洗面所に行ってしまった。妹は1番下の妹を自分の敷き布団の上に呼び寄せて、毛布に包まって一緒にテレビを見ていた。父親はそのまま風呂へ直行すると、真ん中の妹と俺はちゃぶ台を座敷の方から運んできて、夕飯の続きを父親の布団の空きスペースへ持って行った。父親は飯を食っている。その間、父は兄の事故に関しては一切口外しなかった。父親の鳶色の眼は青白いテレビの光が映ってビー玉の様になっている。『いつから行くんだ?』父親はテレビを見ながら、入学案内を眺めている俺に聞いてきた。『卒業式が終わってからかな。』俺は言った。『ふん。』そう言って、父親は味噌汁を啜った。飯を食っている間は目線をテレビから外す事なく、何か別の事を考えている感じでもなかった。『東北に行くんだから、もうすぐ下宿も決めるんだろ。もう検討はついているのか?』『まだ。』『まだって。準備してないのか?』『それより。兄ちゃん。大丈夫なのかよ。』俺は父親の話を遮った。そして、閉ざしていた扉を開けたみた。部屋の空気が少しだけ張り詰めた。俺と父親の様子を側で見ていた真ん中の妹は、まるで空気の流れを感じ取ったかのように『行こ。』と行って1番下の妹を2階につれて行こうとした。『大丈夫も何も。心配ねえだろ。俺があいつがいない間は手を回せない所をやるだけだから。』父親は言った。『俺が聞いているのは、塗装屋の事じゃなくて、兄ちゃんの具合の事だよ。父さん。あの時、何が起きたんだよ。近くで見てたんだろ。何が起きたか、少しぐらい話してくれても良いじゃないか。』『それはな。』父親が少しだけ語気を荒げ、箸をテーブルに置いた。『俺にもよくわかんねぇんだよ。』父親は俺の顔を凝視した。俺も父親の顔をじっくりと見た。
 次の日、父親は何事もなかったように仕事に行ってしまった。俺もアルミ���弁当箱に妹が作った弁当を詰めて、俺も学校が休みだったので父親のトラックに乗った。今日は父親の仕事が終わった後、俺と妹達と父親で病院に行くことになっていた。父親のトラックは、ハケとブリキ缶で荷台がいっぱいになっていた。ペンキと建築資材を乗せた父親のトラックは、30分程田舎道を走った後、近くの新築現場の前で止まった。仕事場で朝の8時から1人で溶剤をかき混ぜる父親は勇ましかった。俺は父親に言われた事しかできなかったが、父親が混ぜて作った錆止めの溶剤をハケで壁に丁寧に塗っていった。家の壁を半分ぐらい塗った所で気づけばあっという間に1日が終わっていた。俺が兄の部屋から拝借したヤッケは、錆止めのグレー色が所々着色していた。父親は手を拭け。と言って、俺に端切れの布を渡した。そして、陽が落ちて夕方になると今日はここまで。というような事を俺に言って、トラックに溶剤とハケと、乾き具合を守る保護シートをトラックに積むように言った。俺はブルブル震えるトラックの排気口の前を何度も行き来して、父親に言われた通りトラックにペンキとハケを積み、仕事が片付いた午後の6時ぐらいになると、父親は『助かったよ。』と俺に言った。それからトラックのエンジンをかけて、俺と父親は兄の入院する病院に向かった。
 病室に入ると、既に母と妹達が兄のベットの周りにいた。兄は遅れて来た俺と父親を見て、『よ。』と手を挙げた。ペンキだらけの俺と父親の姿を見ると『なんだ。〇〇。手伝ってくれてたんか。』と兄は言った。兄は表面上は元気そうに思えた。俺は仕事の自負を請け負った人にしか言いえない、"手伝ってくれたんか。"という一言を聞いて兄の事が誇らしくなった。父親も兄に向かって手を振った。兄は小っ恥ずかしいそうに掛け布団の上の膝あたりをみていた。『具合どうだ?』兄の具合に関して、父親から話しかけたのが意外だった。『あと1ヶ月ぐらいの辛抱だって。』兄は他人事の様に言った。『兄ちゃんが良くなったら、うちももう安泰だね。』と真ん中の妹が言った。『退院したら、真由と菜の花見に行こうね。ってさっき約束してたぐらいだから、もうこれで安心だね。』真ん中の妹は兄の怪我した肩の部位を触りながら言った。『ほら。』母親が言った。『まだ完全に治った訳じゃないんだから、怪我した所を触らないの。』『はーい。』『それじゃあ私はこの子達と帰るから、後からお家に帰ってきてね。』母親は俺と父親に言ったようだが、俺には母が帰り際に兄に向けてもそう言ったように思えた。その後は俺と父親は病室のテレビで野球中継を見ながら、今日仕事で起こった事や、俺が錆止めを厚塗りするから塗料が切れて、途中で昔の塗装屋仲間が塗料を分けに来てくれた事。父親が老いぼれた後は、兄と俺で塗装屋をやろうな。と言う冗談を交えているうちに夜はだんだんと更けていった。
 一月はあっという間に過ぎて行った。より一層寒くなるにつれて、二月がすぐにやってきた。俺と侑はもうこの頃は学校が自由登校になっていて、侑は毎朝牛舎で仕事をするようになっていた。俺も侑と志しを共にした。というわけでなかったのだが、兄の不在があった為、引き続き父親の仕事を手伝う様になっていた。この頃になると、作業の流れが自分の体に染み付き、だんだんと父親から任せられる作業も増えていったのだった。そして仕事が早く片付いた土曜日の昼、学校の先生が俺の元にやってきた。先生は俺に久しぶりだね。と言うような事を言った後、一枚の封筒を俺に差し出した。そして、俺が開封する間のなく第二志望を出していた大学が定員が割れる事になったから君が繰り上げで合格になったんだよ。というような事を言ったのだった。俺はかなり混乱した。既に東北の大学に行く手筈は整え初めていたのに、突然第二志望の大学に行ってやりたい勉強が出来るという可能性が浮上したからだ。どちらにしても捨てがたい選択を迫られた俺は、三月までに先生に結論を言い渡さなくてはならなかった。先生は『ゆっくり考えれば良いよ。』と言ってくれたが、今の俺に悩み混んでいる暇はない。ペンキを塗り出せば、仕事の事で頭の中が一杯になってしまうし、飯を食えばすぐ寝る様に若い身体は出来ている。先生は自転車を漕いで行ってしまった。俺は学校に戻る先生の背中を家の玄関から見守った。
 兄が退院してから、一家で初めて里の神社へお参りに行ってみた。梅の木の蕾が膨らみ出し、まだ枝葉にとまる鶯が、上手に鳴けずにいたようだった。俺と父親はお酒を一升もって、神社の賽銭箱の横に置いた。それから太いしめ縄をゆさゆさと大きく揺すると縄の上にぶら下がっている鈴がガラガラと鳴った。二礼し、二拍手した後に、兄は神様に向かって年始に起きた様々な事を詫びるなり、これからの人生に向かって願い事をするなりした。俺の後ろには大きな鳥居が聳え、その両脇に楠の木が壮麗に生い茂っている。兄が事故が起こった時は確かこの辺りで、すぐそこの石畳に人だかりが出来ていたなと俺は1人でに思い出した。しかし、神社に入る手前で事故が起きたのに、兄は、どういう経緯で神社の境内の石畳の上で倒れる事になったのだろう。という疑問が、俺の胸に芽生えてきた。祭りが終わった後は、神輿は大切に社屋の奥に閉まってある。水の湧く水飲み場で手を洗った俺はもう一度、神社の賽銭箱の方を見た。厳しい表情をしている狛犬の牙が、俺たちに剥き出しの嶺美を与えてくれているように思えた。
 翌朝の日曜日、この日は週に一度の休日だった。俺と侑はバスに乗って栄えている県庁所在地へ買い物へ出かけた。財布には父から1ヶ月の手伝いによってせしめた5000円と、正月に兄から���ったお年玉が入っていた。侑はスマートフォンに装着するケースをみたり、新しいNIKEのナップサックをみたりしていた。俺も新しいジャージや、かけもしないサングラスを見たりしたが、そこでは何も買わなかった。俺と侑は昼食を駅の近くのチェーンの喫茶店で食べて、午後3時から映画を見る事にした。映画館では流行りの映画もやっていたが、俺たちはジョンウェインが出てくる西部劇を観た。馬の手綱を握る俳優は知らなかったが、父が仕事の合間に寄るタバコ屋のポスターで、見た事のある野人の様な男が映画に出ていた。俺は映画を見た帰り道、初めて作業着屋さんによって茶色い皮のベルトを買った。侑は『珍しいもの買うな。』と俺に言った。『普段にも使えるし良いだろう。』と俺はバスに揺られる帰りの道中で、侑に向かって言ったのだった。
 俺たちの卒業ももう目前に迫り、新しい季節の始まりと共に、3月の訪れがやってきた。俺は学ランを着て卒業式に臨んだ。3月1日をもって、俺と侑はこの高校を卒業する。C組の成績優秀者や、スポーツ推薦で大学に行く者、はたまた人によっては、生まれ育ったこの街を今後一切踏まなくなる人も出てくるだろう。俺は今日、校長先生から卒業証書を受け取った。担任の先生は俺が下した選択に内心満足に思っていない表情を浮かべていたのを俺はよく覚えている。しかし、俺はやっと自分で新しい道を、やっと自分がやってみたいと思える道を、この街で見つけたのだった。先生に説得されたので大学は一年休学した。しかし、3月11日にやってきた悍ましい大地震のせいで、俺の大学そのものが無くなってしまった。俺はその事を消極的に捉えていない。人生はなるようにしかならない。神様はいつだって自分に正しい選択をする様に人々の行動を調節しているのかも知れない。あれから兄ちゃんは、肩の筋が完全に治る事はなかった。兄ちゃんはやむなく塗装屋を辞めて、遊司さんの計らいで新しくトラックドライバーとして働き出した。真ん中の春子は相変わらず部活の陸上に打ち込み、この学校の最上級生として、学校の新記録を樹立した。1番下の妹の真由は保育園の学年が一つ上がった。俺たち家族にとって新しい日がやってきた。『悟。支度できたか?』そう言ったのは父親だった。俺は母親が作ってくれた弁当をさげて、車体の横に家族経営〇〇塗装店と塗装されたトラックに勢いよく乗りこんだのだった。
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toshiki-bojo · 2 years
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俊樹五百句
虚子の「五百句」と対峙したい。虚子はそれを五十年ほども掛けたが、この作句期間は一週間に過ぎない。出来不出来以前にこの名著なる存在と対峙したかった。俳句の存在意義だけがこの試行錯誤の源である。短い人生である、我が愚行を是非批評して頂きたい。
坊城俊樹 令和4年8月
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弔ひの夜に横たはる暑き襤褸 浮浪者の襤褸に星降る夜となりぬ 弔ひの夜の白服なる異形 弔ひの杖に樹海の町暑し 浮浪者の眠る窓とて朧なる 夏の灯のまたたき琴座鳴るといふ 幽霊や露台に支那の戦没者 幽霊の招く小路の風死せり 夏の路地女幽霊絢爛に 星の降る夜へ英雄の霊かぎろふ
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国士無双あがる男へ星流れ 夏の夕遺族は骨を探索す 夏夕べ黒き連鎖の遺族たち 遺族らは夜より黒し星流れ 哀しさは真夏の盆へ地震きたる 地震の町に吠える家守の夜でありし 恋人も濡れる家守の夜となりし 母死して星も死すてふ家守の夜 家守らの目の爛々と星見上ぐ 家守らに昭和の記憶ありにけり
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金色の家守は母の野望とも 父がつけし渾名の犬へ星流れ 大蛇の我が天井を護りたる 姫蛇の碑へと真夏の夜の夢 蛍火に意思といふものありにけり 山泣くも山笑へるも蛍へと 犬死して総理も死して蛍へと 一億の蛍の一つ死してをり ほうたるの火に照らされて万華鏡 ほうたるの乱舞を待てる半旗かな
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火蛾ひとつ火焔の中を舞うてをり 蛍来る夜は両親へ星降る夜 死ぬ匂ひして晩年の蛍籠 怪しげな教会へ入る蜥蜴かな 万華鏡の色の蜥蜴や月を追ひ 猊下そは百歳に死し蜥蜴また 猊下死す百一の星流る夜を 猊下逝く蜥蜴は天の星仰ぐ 猊下逝く十の契りを夏の夜に 総理逝きしばらく夜の火蛾として
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猊下逝く祇園の夏の夜の契り 星流る方へ杖つき神楽坂 夏の夜の三味の灯しは籠もらざる 懇ろに幽霊を待つ簾上げ いつも見てゐて見てゐない裸かな 貪りて夜の怨霊の裸とも 風通す裸の窓をすべて開け 恩讐もある傷跡の裸体とも カンバスに幾何模様なる裸体 日当たるとやはらかくなる裸体かな
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陰翳の裸の体囁ける 因果なる裸体を褒めてゐて死せり 裸体なる女カオスの縮図とも 茅舎忌の我を白痴と思ふかな ヌードデッサンせんと孤高の茅舎の忌 茅舎忌といふ忌まはしき忌なりけり 俳壇に生けるも死ぬも茅舎の忌 茅舎忌の猿股を日に干してあり 金剛の露現今の茅舎ゐて 口唇に薬挿し入れる茅舎の忌
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河童忌の屋根に墜ちたる龍之介 河童忌といふ祝祭のやうなもの 蚕豆に天使の翼ありにけり 蚕豆の妻の故郷はカタルーナ 蚕豆といふ処女作のやうなもの 蚕豆を剥き深緑やや遺憾 蚕豆の筋のあたりを背骨とも 蚕豆のやうな赤子を授かりし 蚕豆とは一卵性双生児 バンクシーの絵は白黒に夜の秋
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我が瞳孔まもなく朽ちて夜の秋 丑三つのマンゴーゆつくり熟すなり 丑三つの蜘蛛透明な糸を吐く 斬られる待つ丑三つの熟柿かな 愚かなる夢の中なる熱帯夜 しづかなる女の舐める熱帯夜 黒蛇が白蛇を呑む熱帯夜 括れざる腰振る真夜の熱帯を 母さんが父さんを呑む熱帯夜 口唇を襞と思へる熱帯夜
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熱帯夜朱き口唇とて腐臭 熱帯夜とはずぶ濡れの吾子の夢 峠路に幽霊を待つ月見草 裏切りの美人薄命月見草 月光やちやん付けで呼ぶ影法師 月見草火星より木星が好き 月見草路地の子やがてゐなくなる 星の降る夜はひとつきり月見草 月見草恐らく祖母は浮気した 新婚の路地の匂へる月見草
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日覆を立てる穴とて深淵に 日覆のおほひて赤子腐敗せり ビルよりも高き日除けを立てにけり 男一人日除けを出でず老いにけり 裸族らし我が家の下の夫婦かな 裸にて人に逢ひたく皮を脱ぐ しづかなる蛇しづかなる自死をせり 蟻と蟻獄を出でたる如出逢ふ 灯の蟻といふ見当たらず羽蟻とす あの蛇を保育園へと見失ふ
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青条揚羽より高き蝶のなき 金輪際黒筋揚羽見失ふ 黒揚羽より正装の男かな 瑠璃揚羽祖父の遺墨を飛び立てり 暑き電線暑き電線と出逢ふ とぐろ巻く蛇地境を管理せり 大いなる物の崩れががんぼの死 青き星流れて白き星流れず 蟷螂と格闘をして日記とす 暁に麦飯を食ふ祖父の髭
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亡霊が炊いた麦飯吾れのため 麦飯の茶碗に描くただの柄 麦飯に卵二つの豪華さよ 麦飯を母は嫌がり父も嫌がり おばQを見て麦飯を食ふ至福 箸は茶で洗ふ麦飯たひらげて 麦飯を父は食はずにバタを食ふ 麦飯といふ軍縮のやうなもの 麦飯にのりたまかけて邪気かけて 仏教にあらず神道麦飯を食ふ
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麦飯を御霊に捧ぐことならず 麦飯で鉄腕アトム見てをりぬ 昭和三十六年の麦飯豪華なり 麦飯といふ神道のやうなもの 瑠璃鳴くや御霊のやうな声溢れ 神域を歌へる瑠璃のすきとほる 殉職の御霊へ瑠璃の鳴きにけり 銃弾に斃るるときに瑠璃鳴けり 天照大神きて瑠璃鳴かせ 天辺の虹の上より瑠璃鳴けり
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虚子とのみ彫られし墓へ瑠璃鳴けり 坊城家六代目へと瑠璃鳴けり 勾玉の青のひとつは瑠璃の声 瑠璃何か喩へてみれば金剛に 夏燕折り返し来る消防署 三次元を四次元に斬る夏燕 生れ替るなら岳麓の夏燕 青空を巻き込んでゆく夏燕 夏燕鏡を斬りてさかしまに 天辺に仏来給ふ朴の花
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朴の花白く翳りて懇ろに 朴の花の中に釈迦尊をらざりき 虎尾草に毛並のありて逆立ちて 虎尾草の揺れて待ちたる未通女かな 金輪際虎尾草と縁切ると言ふ 虎尾草の先くねくねと蠅を追ふ 梧桐に影といふもの濃かりけり 樹海めく梧桐たちに迷ひたる 梧桐を仰ぐ超高層仰ぐ 梧桐の葉とは天狗の団扇かな
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梧桐やブランコは立ち漕ぎ続け 梧桐の翳に不良の煙草吸ふ 梧桐に青春である疵を彫り 梧桐の伐られ虚空の天となる 山笠の波動花鳥子より届く 山笠の句の勇壮な波動来る 山笠に恋といふものありにけり 博多つ子純情の夏なりしかな 山笠の日と生誕の日と隣る 純情の山笠に夢馳せてをり
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山笠に天神颪とは来たり 金亀虫裏返りたる真夜の褥 黄金虫夜を引き摺りて灯へ入りぬ 灯に入手夜の帝国の黄金虫 羽蟻の夜玻璃にべたりと都市の闇 羽蟻翔ちお日様に溶けなくなりぬ 子を捨てし母は戻らぬ羽蟻の夜 羽蟻の夜金輪際の父は帰らぬ 羽蟻の夜弔問はなほつづきをり 茅舎忌の卍となりて日章旗
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露の世へ消ゆる人あり茅舎の忌 茅舎忌の夜が流れてしまひたる 隻眼が見えなくなりぬ茅舎の忌 龍子の絵どこか稚拙な茅舎の忌 茅舎忌の流れ流れて星ゐない 吾妹子の胸やはらかき虎が雨 吾妹子の海へ尿する虎が雨 煙草屋もとうに死に絶え虎が雨 土用波恋愛はもう星屑に 岬越え来る土用波白々と
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土用波いよよ怒濤となり崩れ 子が一人攫はれてゆく土用濤 土用濤灯台を越え来たりけり 元総理死にて土用の波濤へと 波怒濤土用の夜の人攫ひ 伝説の出水川とはこの小川 子を攫ひ妹を攫ひて出水川 出水川と記憶流れて悪夢とも 出水川恋の破綻も流しゆく 虚子塔に人来ぬ日なる最澄忌
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最澄忌千日回峰終るころ 叡山は星の降る夜の最澄忌 叡山をさ迷ふ夜の最澄忌 最澄の忌の極楽の湯舟かな 最澄忌灯す頃の先斗町 祇園にて猊下と酌みし最澄忌 萍の隠沼として河童棲む 萍を髪に見立てて河童立つ 萍の茂り月光留めたる 妖精が腰掛けてゐる蛭蓆
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丑三つの月光にある蛭蓆 優曇華へ星やさしくて月やさし 優曇華のいのち揺らぎて月を待つ 儚きは優曇華の茎なりしかな 優曇華にいのちあかりの灯せり 優曇華に神降臨すひとつづつ 母死して優曇華の情なしとせず 優曇華へ言葉少なき真夜の人 ケルン積む星降る夜となりしかな ケルン積む大岩壁と対峙して
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ケルン積むひとつひとつに女の名 行李から恐らく祖父の登山帽 恋をして山登りして死に逝けり ロッククライミングの刹那あの夏を しづかなる人しづかな死夜の秋 夜の秋幽霊ももう寝静まり 恋をして失恋をして夜の秋 瞳の奥の闇へと星の流れゆく 星の降る中に月降る夜の秋 蟻ひとつ彷徨うてゐる夜の秋
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死顔の威厳なるかな夜の秋 曾祖父も祖父も今宵は夜の秋 星ひとつ艶然とある夜の秋 夜の秋網膜剥離みたいな灯 羅を着て恋などに惑はされず 浴衣着て金魚の柄を泳がせて 羅を着て老いらくの恋をせむ 羅に序破急といふ恋のあり 妙齢は達磨柄なる浴衣着て 浴衣着て恋に窶れてしまひけり
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祖父と祖母らし残像の藍浴衣 羅の包んでをりぬ裸体かな 羅の包み適はぬ恋をして 浴衣着て恋の乳房となりしかな 浴衣着て恋人と逢ふ浜の路地 羅を着て蝮酒召し上がる 浴衣の子星とおしやべりしてをりぬ 後ろ手に団扇はさんで恋浴衣 白兎波間に跳ねて卯波くる 人死して星の卯波となりしかな
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卯波寄す森田愛子の臥所へと 九頭竜の卯波漣ほどのもの 夏の波真砂女の卯波とぞなりぬ 月光が卯波流してをりにけり 滴りの金銀の粒金剛に 滴りに輪廻転生ありにけり 滴りて岩壁となる日本海 東京スカイツリーの天辺滴りて 滴りて浅草線の三ノ輪駅 ゆつくりとしづかに歩む蛇ひとつ
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蛇の夢見てその蛇を見てをらず 蛇酒といふ極楽の中に死す 滴りの岩壁を行く数学教師 滴りの後ろ姿の女体山 蛇女邪心となりて星流れ 蛇ふたつ絡んでをりぬ月光に 蛇絡みつつ愛欲の中にあり 権現の無数の蛇の降る社 炎帝の統べるままなる総理の死 炎帝へ斬首の鴉羽ばたけり
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炎帝いま月の裏側焼きにけり 炎帝といふ今生の大宇宙 勲一等���一位なる墓灼けて 勲一等の軍馬の墓は緑蔭に 暗夜行路書きし墓とて茂り中 暑き固き墓石の如き絵画館 イザベラの墓に彫られし薔薇香る 銀杏並木の緑蔭もとんがりて 茂りてはいつも探せぬ乃木の墓 坊城は俊ばかり付く墓涼し
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殉教の墓へマリアの南風吹く 寝棺そのものを横たへ夏の墓 緑なる線対称の銀杏かな 八月の面対称の絵画館 サンドレスとは青山のあつぱつぱ 青山の墓みな灼けて無言なる 夏日燦超高層といふ墓標 無機質の超高層を旱とも ソファーめく茂吉の墓へ夏蝶来 茂吉いま夏蝶となり利通へ
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墓に挿す供華も明日より秋薔薇 秋の蝶クルスの墓を懇ろに 夏果てて石より重き絵画館 緑蔭のハチ公の墓何処なり ハチ公の供華はおそらく水羊羹 異国なる地下に眠りて薔薇の墓 夏の蝶マリアの指に触れてより 喪主だけが半袖で乗る霊柩車 蟬の音は聞かず真昼の野辺送り 蟬死して蝙蝠ばかり飛んでをり
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蝙蝠は帰る逆さになるために 蝙蝠の裏切る音を聴いてゐる 蝙蝠も消え失せグリム童話の夜 めまとひはめまとひとして囁けり めまとひは無責任なる大家族 婆の眼の脂にめまとひ親しめり めまとひを払ふ多情の口を閉ぢ めまとひの中を葬列続くなり 朱烏夏の夜の夢覚めし頃 茅舎忌の月光ことに夢を食ふ
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茅舎忌の虫の音といふ哀しけれ 茅舎忌のシュミーズは幽霊の自慰 そこはかとなく隠微なる茅舎の忌 キリストと生きる男へ茅舎の忌 茅舎忌に金子みすずを読んでをり 白鼻心白夜の夢を見てをりぬ おぼこ今白夜の夢を見てをりぬ 白夜とは神の数だけありにけり 熊に似る男涙の炉辺話 雪女帰らず解けてしまひたき
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金輪際なき眼光の鯖を食ふ 鯖を食ふ恋愛をした夢を見て 銀色に無限のありし鯖を食ふ 恩讐の臭みの鯖を食ふ女 鹿島灘あたり怒濤や鯖を食ふ 鯖を食ふ女臀部を揺らしつつ 鯖を食ふ潮の香りを煮てをりぬ 黒潮を炊いて鯖煮となりしかな 鯖食ひ男鯖食ひ女淫靡なる 鯖食うて惜別の情無しとせず
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我が生の金輪際の虹に逢ふ 虹死して首都凡庸の空となる 奈落より虚子の墓へと虹の橋 蚊柱となりて青山墓地を舞ふ 吾妹子の子宮男の子を生みにけり 我が家より大いなる虹架かりけり 苔の花とは妖精の小さき眼 苔の花喋るぺちやくちやぺちやくちやと 苔の花海に流れてしまひさう 我が生も淋しからずや苔の花
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大漁の夜の纜に苔の花 苔の花阿呆の黄色楽しくて 苔の花金輪際の生にあり 苔の花哀しくなれば咲いてをり 苔の花苔を大地として咲けり 苔の花の夜は近づく大宇宙 未熟児に産まれる人へ苔の花 そよぐことなき苔の花小さすぎ 流星と同じ色して苔の花 苔の花咲きて天動説となる
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苔の花影といふものありにけり 囁きの夜に閉ぢたる苔の花 河童忌を星の吹雪と思ふなり 河童忌の蛇口ひねれば湧いてをり 河童忌に砂糖を舐める女あり 河童忌のしんがりの児は引き込まれ 河童忌にベートーベンを聴いてをり 河童忌を皇后陛下畏くも 河童忌の童は杓子定規かな 怒濤とし童押し寄せ河童の忌
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滴りて山又山を濡らしをり 絵画館の壁の隙より滴れり 夏の水汲み元勲の墓域へと 滴りに栄枯盛衰ありにけり 滴りて富嶽をすこし潤せり 滴りに奈落といふは先のこと 滴りてゆつくり濡れてをりにけり 滴りて巌の命を疑はず 幻か滴る先に河童の子 滴りて四国三郎ありしかな
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蟻ひとり穴ひとつあり佇みぬ 増上寺国葬にあり蟻ひとつ 群衆の蟻群衆の蟻に逢ふ 山蟻の威厳の黒に死してをり 黒蟻と赤蟻言葉交さざる 蟻ひとつ地下迷宮を出で来たる 蟻塚に蟻の声のみ充満す 蟻塚の掘りたての土匂ふなり 蟻地獄静謐といふ美しき あとづさりして身を隠す臆病に
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岳麓へ行者道めく蟻の道 蛾の破片ゆらゆら運ぶ蟻の道 ビール飲む眉間に皺を寄せながら 麦酒飲むますます法螺を吹きながら 白魚のやうな指もて麦酒注ぐ 我が世とぞ思ふ望月の麦酒かな 麦酒のむいつか焼かれし喉仏 女ひとり化粧濃くして黒麦酒 蛇苺姉の我が儘永遠に 蛇苺庭に埋めし金魚へも
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侯爵の墓の片隅蛇苺 蛇苺男鰥の庭の恋 山笠の西の便りを句に乗せて 博多つ子純情いまも山笠に 山笠の男だらけの怒濤なる 傀儡の関節錆びて夏の雨 白雨きて蛍光灯の切れかかり 関節はぎしぎし老ゆる夏の雨 飴玉が降る音のして夏の雨 連続の数珠の音して夏の雨
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夏の雨身の内の獅子唸るなり 旋律はボブマーリーに似て夏の雨 戦後すぐ膣より産まれ夏の雨 白雨きてボサノバの雨合体す 白雨きてコーラの壜の女体めく おそらくは黄泉の国とて夏出水 夏出水遺品の遺書の何処へと 高貴なる神に押し寄せ夏出水 最果ての鵺の夜へも夏出水 土用波七里ヶ浜で祖父に抱かれ
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土用波みたいな嬶の乳房かな 柏翠の療養所へと土用波 土用波森田愛子の身の内へ 土用波虚子と愛子の物語 髪洗ふ乳房の先を湿らせて 髪洗ふ妬み嫉妬を流すとか 女百態懇ろに髪洗ふ 髪洗ふ幼き頃の金盥 あんな女に嫉妬して髪洗ふ 犬洗ふ即ち犬の髪洗ふ
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昼寝して夢の合戦破れたり 元首相撃たれし頃の大昼寝 夜よりも昼寝彼の世に近かりし 貪るは蛸か女体か昼寝覚 昼寝して夜には死んでをられたる 昼寝覚女百態消失す 昼寝覚地獄の釜を押し上げて 昼寝覚一年損をした気分 昼寝して虚子と話をして戻る 昼寝覚范文雀と別れ来て
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蝙蝠の彼の世此の世と飛翔せり 蚊食鳥煙のやうなる蚊を追へり 蚊食鳥夕焼け小焼けの唄に乗り かはほりの逆さに夢を見る昼間 かはほりに迷子探してもらふ夕 蚊食鳥夜の女は出勤す かはほりは街の電波と交錯す 蚊食鳥幼稚園児はもう家へ 友人の納骨を終へ蚊食鳥 学習院初等科の上蚊食鳥
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あぢさゐの萎れし夕べ蚊食鳥 かはほりと月と金星置きどころ 青林檎みたいな乳房持つ少女 青林檎囓る気もなく接吻す 青林檎真夏の夜の夢の中 昭和とはヌード写真と青林檎 麗人の口怖ろしく青林檎 漆黒の夜は青ざめて青林檎 青林檎堅しと思ふ瑪瑙より パテイーデュークショーを観ながら青林檎
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青林檎がさつな漢の手に堕ちる 夏の夜の夢とはならず老いゆけり 夏の夜の罪ある墓標御影石 唇は濡れて真夏の夜の夢 夏の夜のネオンサインはジジと切れ 漆黒の真夏の夜の夢となり 入れ墨の夏の女を持て余し 金魚玉夜に入��頃の小宇宙 絢爛の金魚は恋をしてをりぬ 絶縁の夜に浮きたる金魚玉
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和服着て振り袖を振る金魚かな 勲一等正二位の飼ふ金魚かな 飛魚の飛んで越え行く隠岐の島 隠れキリシタン飛魚となり戻りけり 飛魚の流刑の島を飛び越えて 炎帝に見つからぬやう昼に寝る 日輪が炎帝をまた拐かす 炎帝に翳といふものありにけり 白日夢とは炎帝が司る 炎帝が紛れ込んだり夢の中
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盆栽といふ炎帝の置き土産 炎帝も銀河の裾の一部分 我が霊も炎帝となり銀河へと 観音の笑みて溽暑を遠ざけて 観音の炎暑の唇を赤しとも 陽炎へる陽子の墓や禁色に 墓の苔とて万緑の一部分 観音の胸乳あたりへ夏の蝶 五輪塔とは緑蔭のただの石 乾きたる稲毛氏の墓とて旱
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一山の万緑なだれ年尾句碑 薔薇咲かせ流行り遅れの服を売る 昔から麦酒が好きな人の墓 蛍光灯切れかかりゆく夏の果 夏行くや皆んな貧しき灯して 人を待つ心にも似て夜の秋 涼しさの雨の粒とは淋しくて 街の灯の蒼く点りて夏の夜 灯して何読むでなき夜の秋 夜の秋義兄は生れ替りしや
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涼しさの夜の灯の鈍色に 堕胎の子いつも走りて汗哀し 夏逝くや雨の音符の翳色に 夜の秋眼の衰への文字歪む 夜の秋炎集めて住む川原 夜の秋己れ空しく酒を飲む 涼しさの夜雨の音の蓄積す 涼しさは恨みに似たり灯を消せば 幽霊坂うすむらさきの夜の秋 幼稚園死んだ子が居る夜の秋
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夜の秋やがて孤独の誕生日 蛍光灯切れかかりゆく死者の秋 老いてなほ秋めく恋の行方かな 新涼の飴の色とは濃紫 秋めきて失恋をする七回目 新涼の鏡に映す吾の死顔 頭痛して秋めく我の髑髏 新涼の驚き顔となりし天 新涼の犬に哀しき堕胎過去 八月の女ものものしく太り
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imaritogei · 2 years
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ご投稿ありがとうございます❤︎ #Repost @flower_naco with @imaritogei ・・・ 最近の夕食🍽 家にある材料でtryしてみました😊 左はチーズinハンバーグ、右はinではなく、上からかけました🧀(チーズ好きなので) 食器やお箸をブルーで揃えていい感じ💙 パン粉多めだったのでこんがり焼き上がりました✨ 玉ねぎは無かったので代わりにレタスを入れました! テーブルが無いのでダンボール敷いております💦 こういう時にお箸を置けるこのプレートの便利さに感謝です♡ 実はお箸やカトラリーを置くだけでなく、わさびなどの薬味を入れるのにも活躍する仕切りスペースなんですよ(⌯︎¤̴̶̷̀ω¤̴̶̷́)✧︎ ✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼ 𓌉◯𓇋伊万里陶芸▷▶和紋 半月プレート使用 𝕄𝕚𝕤𝕤𝕁𝕒𝕡𝕒𝕟𝕊𝔸𝔾𝔸スポンサー様 @imaritogei #和紋半月プレート #和紋 ✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼ #ハンバーグ #2021missjapan佐賀 @missjapan.saga 今年、2022年の大会は7月4日ホテルニューオータニにて開催👠 #cofil賞 受賞 @cofil.hasami #青海波文様 水平線の向こうから繰り返される穏やかな波のように、平穏な暮らしが永遠に続きますようにと願いが込められた模様 #青食器 https://www.instagram.com/p/CelRH5ipPzN/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kitaorio · 2 years
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忘飲忘食
 白くつぶつぶとしたかたまりが茶碗のなかに積み上がっている。一つづつを橋でつまむこともできるだろうけれども、それぞれがねっちりとくっつきあっているので、適当な大きさに塊を分けたほうがいいだろう、と、体の中心がどっかにいってしまったようなふらつきのなかで考えていた。  こめかみの上を通るようにわっかをつくって、それが頭の中心にむかって外側からぎゅうぎゅうと締めつけてくるような痛みで目が覚めてからというもの、この締めつけに耐えて眉間にシワを寄せているか、時おり痛みよりも眠気が勝り、とろとろとした眠りに落ちるかのどちらしかなかった。  昨日、気がついたときには、自分がどこにいるのかがわからず、どうしてこうなったのかがわからなかった。  ぐっすりと眠っていたのか、それとも眠りに近い昏睡にいたのかわからないが、目が覚める直前、ほどよく暖かく、ふわふわとした波のなかにいるような、それでいて、自分の体が上を向いているのか、横を向いているのかわからないような、平衡感覚の狂いに翻弄されていた。  えらく頭が痛い。でも、トイレにもいきたい。とりあえずは、起きてトイレだけでも済ましてこようと体を動かしたところで、腕と股間にチューブが繋がれているのに気づいた。  呆然とといえばかっこがいいのだろうが、頭の痛みに邪魔され、考えることや、こうなったまでのことを思い出そうとするのを阻み、濁々とした痛みの渦のなかに思考がうずくまっているような状態だった。  一人ベッドの上で横になったり仰向けになったりともんどりうっていたところ、巡回している看護婦に見つかり、医者が駆けつけてきた。  声をかけられたり、医者が俺の状態を見るためなのか体のあちこちを動かせというので、言われるままに腕をあげてみたりしているなかで、今日の日付を聞かれ、たしか、九月の二十日だと言ったものの訂正され、今日が十月の二日だということがわかった。  日付のズレ以外は、めだった不都合もなく、ただただ頭がいたいと医者に伝えたのだが、医者は俺の今の状態に驚いていた。  俺は溺れた状態で発見され、長時間の無酸素状態から、脳の機能に大規模な損傷があるのではないかと心配されていた。もっと言うと、意識が戻らないままでいるのではないかと思われていたとのことだ。俺は痛みの波が高架線の下の騒音のように、絶え間なく押し寄せるなか、医者の話を聞いていたが、この痛みをどうにかしてほしい、というのを伝え、それでそれ以上の話ができなかった。  看護婦さんが点滴のなかに注射器でなにか薬をいれたのがわかったが、横目でそれを見ているだけであり、ああ、とも、うう、とも発声ができず、ただただ見ているだけであった。  薬のせいなのか、すこしの眠気が来たと思うと、うとうとと一眠りをし、目が覚めたところで、周囲がえらく静かなのに気づいた。  気づいたというと表現が聡明すぎるぐらいで、急に誰もいない大広間につれてこられたような、静けさの圧迫感に唖然としてしまったのだ。  病室は静寂であるようでそうでなく、隣室から聞こえてくる医療機器の電子音や、看護婦さんや医者が廊下を歩く音、なにやら診察道具らしきものを乗っけたカートが時々ガチャガチャとしたおとをたてるのも聞こえてくる。こういうのですら、頭痛の騒音から解き放たれたあとでは、「水を打ったような」などと言い表されるような静けさと���じられるのだった。  久しぶりの平穏な状況に、半ば唖然としながらベッドの上であぐらを組んでいると、看護婦がまたやって来たのだった。どうやらさっきの注射は強力な痛み止めをいれてくれていたらしく、それが効いているとのことだった。ただ、薬が切れるとまたあの痛みが戻ってくるとのことで、今のうちに医者をもう一回呼んでくるとのことだった。  そこで改めて、医者から脳の損傷の可能性について話を聞かされた。精密検査はこれから機械の予約をとるが、簡単なテストは今やっちゃいましょうと、いくつかのテストをやらされた。  今日の日付と自分の名前から始まり、家の住所、携帯の番号あたりを言わされ、その他にも医者が挙げた果物の名前を同じように言う、また、早口言葉をいくつか繰り返す、からだのあちこちに鈍い針をつき当てられ、それがどこにあるかをあてる、などの、本気でやってるのか冗談なのか判然としないような検査を一通り受けた。  とりあえず、医者の所見では奇跡的に障害が残らずとのことで、今日は夕御飯を食べてゆっくり寝ていろとのことだった。  痛みがなくなると、体が自己主張し始めるのか、今まで気にならなかった、足の爪が伸びていることや、長いことちゃんと風呂に入っていないからか、あちこちがうっすらと脂ぎっているような不快感なんかが気になりながら、布団にくるまり、鎮静を堪能していたのだった。  ほんの少し寝てしまった頃だろうか、あまり深く寝ってないせいもあり、すこしの物音で目を覚ました。  看護婦とは違う女性が夕飯を運んできた音であった。  お盆の上には小さいお椀が三つほどならび、その上にはドロリと白濁した所々に白色の粒が見え隠れする暖かなお湯状のもの、親指の先ぐらいの大きさだろうか、くすんだ赤紫で、いやにシワシワになっている小さな木ノ実らしきもの、それに深い緑色の濡れそぼった布っぽいものが単一電池ぐらいの大きさにゆるく固めてあった。  箸をもったまではよかったが、そのあとどうしていいのかがわからず、白濁した湯を底になにか入っていないかつついてみたり、緑色の布っぽいものを少しつまんでひっくり返したりしていた。  巡回してきた看護婦と目が合うと、どうしていいのかわからず、これ、どうしたらいいんでしたっけ? などと、間の抜けた質問をしてしまった。  質問された看護婦も、なにを聞かれているのかわからないようで、どうぞ召し上がってくださいなどと言っているのだが、召し上がるものがないからきいてるんであってそれが伝わってないようだ。  押し問答をしたわけではないのだけれども、これをどうしたら良いのか本気でわからないってのを力説していると、少し待っててくださいねと看護婦は言い残し、どこかに消えてしまった。  やることもないので、湯をじっとにらんでいた。  陶器を模した樹脂製のお椀のなか、白濁した緩いペーストのなかに、ほろほろと崩れてはしまって入るもののずんぐりとした楕円を思わすような小さな粒がまばらに沈んでいる。まるで、浮き上がろうとして途中でやる気を失い表面までは届かず、かといって沈むわけでもなく、放っておいたら数年後でもそこで漂っていられるだろうと思うような重力間のなさでぽつぽつとならんでいる。少し冷ましてから持ってきたのか、ゆらりと湯気が立ち上ぼり、表面にうっすらと膜が張っていた。  後遺症があるかも、と俺に伝え、受けてる方が気恥ずかしくなるような検査をしていった医者がもどってき、どうしましたと、俺に現状を説明しろと求める。  俺は、持ってこられたこれらのお椀や箸をどうしたらいいのだろうと聞いたのだが、ここで新しい質問をなげられた。  あなたにはこれがどのように見えてますか、と言う。  見えているままに伝えた。  この事を医者に伝えると、お腹が空いていますかと聞かれた。特段すいているわけでもないが、減っているわけでもない。かといって具合が悪いわけでもなく、春先の日中のように、平々凡々と何事もない、というのが今の状態だろうか。  食べたくないのですか、と聞かれたが、食べ物でないものを食べたいという感覚がわからなかった。  医者は、目の前にあるスプーンを使い、俺の目の前にある白濁したお湯を一口を自分の口に入れ飲み込んだ。  看護婦が配膳用のカートから新しいスプーンを持ってくると、医者はそれを受け取り、俺に向かい同じことをやってみろと言う。  かるく掬い上げ、スプーンに入っている分をくちびるで口のなかに閉じ込めた。  口のなかにはかろうじて形を保っていた粒が形を崩し、正体をなくして何粒かが上顎についたりしていた。粒がただよい、汁が舌の上だけではなく、上顎のしたにもくっついてくる。  医者がどうでしたと聞くが、俺は口のなかにはいているからなにもしゃべれず、手をダメだというように左右に降り、口のなかを指差して、両手でばつを作った。  飲み込んでいいんですよ、といわれ、のどの奥に追いやろうとしたができない。舌が邪魔をして喉の奥に流れていかないのだ。しょうがないので顔をうえにあげ、口と喉とを一本のまっすぐの管にしてしまえば飲み込めるだろうと思ったが、ここで俺は溺れかけた。  のどに流れ込んでいき、ひと安心とおもったら胸の奥から発作的に込み上げてくる激しい咳の連打になり、息ができなくなったのだ。  ひとしきり咳き込み、やっと咳がでなくなったが、落ち着いた後は肩で息をするほどの苦しさであった。  医者は精密検査を急ぎましょうと言うと、看護婦に何やらニ三の指示を出すとどこかに行ってしまった。  点滴には新しい袋が追加された。  また、少しうとうととしていたが、痛み止が切れたのか、鼓動に合わせきりきりと頭を締め付けながら削岩機が動脈でのたうち回っているような頭痛に襲われていた。  鎮痛剤さえ打ってくれればいいのだが、かなり強力な薬らしくなかなか追加してもらえない。眉間に力を入れすぎ額の辺りが筋肉痛になりそうなぐらいになったとき、やっと点滴の管に鎮痛剤の注射を追加してもらえた。  この痛みの退きかたというのは、正座していた足のしびれが、はじめはどうにもならないぐらいだったのが、砂時計が落ちていくみたいに少しづつ消えていくあの感じににている。その様子が顔に出ているのだろうか、やっと口が聞けそうなぐらいになったところで、医者が話始めた。
 どうやら俺は高次脳機能障害というものになっているらしい。  医者も検査がどうこうと前置きを入れ、現段階では言い切れないといっているが、そういう方向性で精密検査や今後どうするかについて対応するとのことだった。。  医者が言っていたことを正確に把握できたかわからないが、俺の脳は、一見は正常のように見えるが、あることをしようとすると、その回路だけが正常に繋がらず、うまくできなくなってしまうものらしい。医者があげていた例だと、人の顔だけがわからなくなるというのがあり、人の顔が覚えられないとか物覚えが悪いとかではなく、顔であるということがわからなくなるといった状態になってしまった例。また、話をしていると正常なのだが、数時間経つとその記憶がまるまるなくなってしまう例というのもあった。曖昧な記憶になるというわけではなく、一定の時間が経つと、キレイにそのこと自体を忘れてしまうというのもあるのだそうだ。  それで、医者が見立てるには、俺は食べ物を見ても食べ物と認識できなくなったんじゃないだろうか、それにあわせて、食べるための基本的なからだの動作、噛むとか飲み込むとかの一連が消えてしまったんじゃないだろうか、ということだった。  あまり大袈裟な障害じゃないなあ、なんて考えていたのだが、医者が言うには、死活問題であるので、なぜそうなっているのかの原因究明ができるまえに、とにかく飲み込むこと、ができないといけない。と言われた。  食べることができないと、本人の自覚は無くとも、ゆっくりと飢えていってしまう。  そこで言われたのが、食べるためのリハビリをする。ということだった。  医者の見立てではものを飲み込むことを制御できないだけであり、すこし練習すればどうにかなるだろう、とのことだった。  リハビリをするまえにいくつか試験をしたいといわれた。  なにをされるのかとおもったら、耳掻きの先程の量だろうか、黒い粉末を口のなかに放り込まれた。それで、できるだけ口のなかを動かさないようにしてじっとしていてほしい、十分ぐらいしたら見に来るから、と言い残し、医者はそそくさとどっかにいってしまった。  放り込まれるまえに、これはカーボンの粉末で、要は清潔な木炭を無味無臭にして粉にしたようなものです、などと言われ、俺はキャンプファイヤーか何かか、と思ったのだがくちにはしなかった。  舌のうえになにかが乗っていると思えば、そう思えるし、なにもないと思えばなにもないように思える。ただ、黒く鉛筆の芯の削りカスみたいなものが乗っているのだけれども、それも、そうだというのを知らなければなにもないのと変わらなかった。  医者がやって来て、口のなかをペンライトで照らしながら観察し、からだの機能としてはちゃんとものを食べることができるから、たぶん、練習で食べるという動作は元に戻るだろう、と告げると、看護婦からまずは水を飲む練習をしましょう、と言われた。  どうやら、俺の脳は意識して飲み食いしようとするとどうやるのやらわからなくなるのだが、無意識のうちであれば、どうにかこなせるようになっているのだという。なので、まずは無意識での飲み込みがどれくらいできるかの確認だと言われた。  そこで看護婦に渡されたのは、スプーン一杯の水だった。これをとりあえず口のなかに含んでおいてください、という。飲めそうだったら飲み込んで構いませんが、無理して飲もうとすると肺にはいって危険なので、自然に減っていくようであればそうしてください。という、するなとは言われるけれども、なにかをしろと言われているわけではない曖昧な指示をもらった。  スプーンから流し込んだ水は、口のなかで舌の表面をくぼませたところにためておき、それからなにをするというわけではなく、ほんのわずかな水をためておくうすらでかい容器となっていた。  舌の上でよどんでいる水は、口に入れたときにはわずかに冷たさを感じたように思ったが、ほどなく温度差は感じなくなった。いつぞや口のなかにまかれた炭素の粉と違うのは、存在しているのかどうかがわからないというものではなく、たしかに口のなかにあるのがわかるところがおおきな負担となっていた。  十分ちょっとだろうか、もしかしたらもうちょっと短い時間かもしれないが、舌がつりそうだったので、やめたくなってきた。しかし、看護婦は見当たらず、飲み込もうにも、まえに粥でむせかいり、窒息しかけたこともあり、むやみに喉の奥に送り込もうとすると危険であるということはわかっていた。  これぐらいの量ならば吐き出してしまってもいいのだが、そうしていいのかどうかも看護婦に聞いてからの方がいいであろう。そう考えると、むやみに吐き出すわけにもいかず、もて余していた。  舌のうえにとどまらせておこうと思うからつかれるんであって、動かしていたら変わるかと思い、水の置場所を変えてみる。舌の上から下にしてしまえばすこしは楽であろうとやってみると、舌は楽にはなった。  しかし、窪ませておくという動作を持続させなければならないというのがなくなったというだけであり、下にしたらしたで、そこにとどめておかなければならないというのもおっくうであった。  他に、ほほの内側に入れたり、前歯と唇の間に移したりとしていたが、どれもこれも意識して留めて置かなければならなかった。  そこで、口全体に水を伸ばし、漫然と口全体でおいておくことを思いつき試した所、これがいい結果となった。  口の中からゆっくりと喉の奥へと水が流れたのでった。  看護婦にそのことを話すと、だんだんと水の粘り気が強くなってきた。はじめは、ゆるいペースト状となったものが、だんだんと硬くなり、スプーンから口に移すのに唇に力がいるような、固いペースト状のものとなった。これらのものも、口の中でまんべんなく広がるようにしてやると、だんだんと喉の奥へ流れていくように担ったのだった。  入院してから今まで、俺の体を維持していたのは点滴による養分だった。  しかし、少しづつでも自分の口で取ることができるのであれば、そのようにしようと医者が告げられた。  つまりは、俺は、やっと生きるという事が自分でできるようになりはじめたということだ。  大げさな感動はないが、妙な高揚感と、目の前の道が暗雲だったのが、急に霧が晴れたような爽快さに近い感じがった。子供がハイハイをできるようになった時、大人のような思考能力があればこういう感じになるのではないかと思う。  その日のこと、警察官が面会したいと病室にやってきた。  そもそも俺は、溺死しかけて復活したのである。その溺死の理��について話を聞きたいという。  教えて欲しいのはこっちの方だったが、断る理由も無いので話をした。  俺は、秋の始まりにしては肌寒い日の朝、用水路に浮かんでいる所を見つかったこと、胃の中からは処方箋が必要となる薬、鎮静剤や睡眠薬が出てきたこと、そして、それらに合わせ大量のアルコールが血液から検出されたことを知らされた。  その瞬間、晴れたはずだった霧が俺の前を覆い始めた。  そして、用水路の下流に俺が履いていたであろう靴とメモ書きが残されていたとのことだった。  警察の人が言うには、今の段階ではみないほうがいい内容であるのだが、君は自分でそういう状況になるようにしたのだとのことだった。  急に息苦しく、今吸っている空気がザラザラとした不快感を感じた。  窓際に立っていた警官に頼み、窓を開けてもらう。  大きく開いた病室の窓から、初冬のよく澄んだ空に目をやりどこか別の方向に意識向けようと顔を向けると、肌に軽く力が入るような冷えきった空気が入ってきた。ほどよく暖かい病室のなかは、心地はいいのだけれども長い間呼吸で煮込まれたような淀みがあり、外から流れ込んでくる冷ややかでどこまでも透明に思える空気は、無味無臭であるはずなのだが、すこし甘美な鼻腔の刺激があった。
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shibatakanojo · 3 years
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空みたい海みたい
 陰日向の多肉植物の葉が茶けてぶよぶよに腐っているのを見たとき、ああこれでやっと自分の中に衣吹くんと別れる明確な理由を見つけられたと思った。
「水を遣るのは月に一、二回でいいの。それ以上では腐ってしまうから」
 何度説明しても、衣吹くんはそれに対して「なんか可哀想な気がする」との言葉を返した。あのね、衣吹くん。衣吹くんのそのピントのずれた愛情こそが、この植物を水中毒で殺しちゃった要因なんだよ。そうやってはっきりと言ってやったなら、彼は一体どれぐらい盛大に顔をしかめて、どれぐらい私への言い訳を重ねるのだろう。
 結局私は衣吹くんのそういう言い訳がましいところをどうしても好きになれなくて、きっと衣吹くんだって私のこういう言葉尻の冷たいところをどうしても好きになれなかったのだと思う。大学のサークル内で知り合い、就職を機に一緒に暮らし始めて一年と六ヶ月。好きな音楽も、好みのファッションも、味覚も性格も笑うポイントも、何もかもが相容れない私たちの唯一の共通点は「異常なほどに青色が好き」ただその一点で、本当に、それだけを理由として恋愛関係を貫いてきた私たちはよくここまで続いたものだと自分でも感心してしまう。
   晩御飯を食べながら同棲の解消を申し出たとき、衣吹くんは間の抜けた声を上げて驚いていた。けれどそれもわずかな時間だけのことで、しばらくすると彼は、
「あー……、となると俺も引っ越さなきゃだ。ふたりだからここの家賃も払えていたわけだし、ひとりになるならこの広さは要らないもんなあ」
 そうして食べ終わった食器をシンクに置き去りに、通帳を見ながらかったるそうに電卓を弾き出す。ずっと前から私の心持ちがそうであったように、衣吹くんの中でも私はとっくの昔にただの“同居人”へと成り下がっていたのだろう。友人などの部外者からどう見えていたのかは知らないけれど、少なくとも私たちの認識が共通して「愛しの恋人」などという甘ったるいものであった時期なんて暮らし始めてから最初の数ヵ月そこらが精々だったはずで、それに関して私自身「私たちなんてそんなものだろうな」としか思えない。それでもこの事実はどうしても私の心にある何らかのしこりの輪郭を明らかにする。
 衣吹くんがブツブツ数字と格闘する声を背に、私はふたり分の食器を洗う。冷しゃぶを載せていた、掌を広げたよりも大きな紺色の平皿。モヤシと韮のナムルは空色の小皿に、取り皿に使ったコバルトブルーの豆皿は駅前の雑貨店で四枚ずつ買ったものだ。衣吹くん用のお茶碗はネイビーブルー、私のお茶碗は茄子紺。ふたつ揃いのマグカップはそれぞれ浅葱色と白群、お互い気分によって好きなほうを選んでいた。
 家にある全ての食器が青いだなんて、この街じゃきっと私たちだけだよね、と顔を見合わせて笑った一年六ヶ月前の私たちが今の私たちを見たら、一体どんな顔をするのだろう。訳もなくスポンジを繰り返し握り締める。肌理の粗い泡が立つ。
「なあー、未波はいつごろ出て行きたいとかあるの? 特にないんだったらさ、悪いんだけど二ヶ月ぐらい待ってもらえない? せっかくならじっくり家探ししたいけど、俺いま仕事死ぬほど立て込んでてしばらく内見だ荷造りだってできそうにないんだよな。となるとまあ先延ばしにはなっちゃうけど、お互い三月の引っ越しシーズン辺りに新居探しに行ったほうがむしろ得な気がするんだよね。そっちのほうが絶対、いま慌てて決めるよりいい部屋見つけられるだろうし。あ、それとも未波は実家戻る予定だとか?」
 蛇口をひねる。スポンジごと右手を水道にかざす。白い泡が排水溝へと吸い込まれていく。
「……んーん、私もまたひとり暮らしする予定。確かに三月くらいのほうが空き部屋の数も多いだろうし、そっちのがいいかもね。じゃ、お互い目標はその辺りってことで」
 衣吹くんとの生活もあと二ヶ月だけなのだと思うと、自然と嫌味は出てこなかった。
 最後ぐらいは常に笑顔で、冷たい言葉を慎んでいよう。たとえ、衣吹くんがどれほどの言い訳を重ねたとしても。
   そこからの二ヶ月間を衣吹くんがどう感じていたのか私にはこれっぽっちもわからないけれど、少なくとも私にとってこの二ヶ月は彼と同棲した一年八ヶ月で最も幸福な時間だったと言い切ることができた。当たり前のことだ、私たちはもう二ヵ月前に恋人としての生活を暗黙の了解として終えていて、それ以降私たちはお互いをただのルームメイトとして扱うことに徹したのだから。
 私は衣吹くんの後に入る湯船に髪の毛が浮かんでいても苛立ちを覚えなくなっていたし、お茶を飲んだだけのコップをシンクに放置されても「だらしないな」と思っただけで済んだし、何となく流しただけの映画に手を繋ぐシーンが出てきても、キスシーンが出てきても、それ以上のシーンが出てきても、私たちには自らにそういったノルマを課す必要がなかった。おそらくは衣吹くんも、私が食器棚の扉を半開きにしたままなのを見ても苛立たなかっただろうし、私が出しっ放しにしたままの基礎化粧品を見ても何とも思わなかっただろうし、風呂上がりの私が薄着でくつろいでいても、この二ヶ月ただの一度も抱き着こうとはしなかった。恋人であることを辞め、同居するだけの他人として一定の線引きができるようになった私たちは、誰が見ても適切な形でお互いを尊重し、そうしてお互いに干渉することへの興味の一切を失った。
 そもそも私たちは恋人になんてなるべきじゃなかったのだと思う。
 同じ大学の、好きな色が一緒で、何となく話しやすい異性の友達として、だらだらと時間を無駄にして馬鹿みたいに楽しいことだけを共有しておけばよかったのだと思う。他の友人を介し、たまに飲みに行って、お互いを異性として意識することもなく、だから恋仲になることもなく、そうしているうちにどこかで飽きがきて、少しずつ疎遠になっていけばよかったのだと思う。
 そうしたらきっと、きっと私たちはこんなふうにお互いを「もうどうでもいい人だしな」なんて諦めずに済んだはずなのだと思う。
 こんなにも悲しい気持ちを、こんなにも淡白な状態で知ることなんてなかったはずなのだと思う。
   三月。上旬に衣吹くんが駅から少し遠い川沿いのアパートを、中旬には私も地元密着型のスーパーからほど近いアパートを契約し、四月の第一週にお互いこの部屋を出ていくことになった。
 私が新しく暮らすアパートから駅へ向かう途中にも幅の狭い川があって、内見に向かう道中にはその川の両脇に咲く桜の花を眺めた。不動産屋と「綺麗ですねえ」「そうですねえ」なんてありふれた言葉の応酬をしていると、道路の向こうから散歩中の園児がカートに載せられこちらへ近づいてくるのが見えた。子どもたちは口々に「きれいだねー」「かわいいねー」「ピンクだねー」と笑っている。不意に利発そうな男の子が、
「おいしそうだねー」
 とおかしなことを口走って、カートを曳いていた保育士が、
「食べられないねー」
 慣れた様子で彼を窘めていた。盗み聞きなんて趣味が悪いとはわかりつつ、思わず吹き出してしまうと、彼らの会話を聞いていなかったのだろう不動産屋が不思議そうな顔で私を見る。いえ、すみません、何でもないんです、などと適当に誤魔化して、私は再び内見先へと歩を進めた。不動産屋が辺りの特徴をぽつぽつ挙げていくのを話半分で聞きながら、たぶんこの場に衣吹くんがいたなら不動産屋と同じ反応をしただろうな、とそんなことを考えた。衣吹くんが契約した川沿いのアパートの近くにも桜の木はあるのだろうか。特に理由はないけれど、ないといいな、と思う。
 三月も下旬辺りになると、部屋中が茶色いダンボールまみれになっていた。衣吹くんが依頼した引っ越し業者のダンボールに描かれた鳩と私は数分おきに目が合い、私が依頼した引っ越し業者のダンボールに描かれたパンダは衣吹くんから「笑いかたが気味悪いんだよな」と何度も罵られていた。家財はそれぞれ等分ぐらいの金額になるよう譲り合い、お互いこれから始まるひとり暮らしには邪魔になりそうなソファーやダブルベッドは専門の業者に引き取ってもらう方向で話しがついた。多額の処分料がかかるかと心配したが、むしろふたりで割ってもその日の夕飯には充分すぎるお金で買い取ってくれるという。有り難いことだ。
   四月の第一週、金曜日。私たちがこの部屋で共に過ごす最後の日だった。明日の午前に私はこの部屋を発ち、明後日の昼過ぎには衣吹くんもそうなる。数日前までは、最後の晩餐ぐらいパーッと外食でもしようかと話していたのだけれど、どうしても冷凍食品を食べ切れないまま今日まできてしまい、捨てるのも勿体ないからと結局こうしてふたり青色ばかりの皿をダンボールの上に並べ、無駄に品数の多い冷食だらけのディナーを囲んでいる。お湯で温めただけ、チンしただけ、自然解凍しただけの夕食も、いつもの青い皿に載せてしまえば普段通りの食事と同じ顔をして私たちに食べられるのを待っていた。どちらからともなく戴きますと手を合わせ、そっと箸をつける。肉厚なハンバーグからは肉汁がジュワッと溢れ出し、大口で頬張ると蕩けたモッツァレラチーズが上顎へ直に触れ思わず「あち」と慌ててしまう。
「なあ未波。俺、前から思ってたんだけどさ……」
 ハンバーグを咀嚼した衣吹くんが、軽く俯いたまま私に話しかける。なに、と返事をするよりも早く彼は、
「青い皿って、なんとなくまずそうに見えるよな。飯が��
 俺、ずっと嫌だったんだ。そうにへら顔で笑った。
「……何それ。いまさら言う?」
 衣吹くんの言葉を受け、この二ヶ月間ずっとこらえてきたような冷たい言葉を返しながらも、思わず吹き出してしまう。だって、全く同じことを私もこの一年八ヶ月の間彼に言えずにいたのから。
 ふたりとも、青が大好き。それだけの理由で親しくなった私たちは、この部屋に入れるものはできるだけ青で揃えてきた。カーテンも、カーペットも、ベッドシーツも布団カバーも枕カバーも、デニムなんて黒や白がほしくとも無理に青を選んでは、衣吹くんに見せて「似合うね」「そうでしょう?」と笑い合ってきたのだ。同棲を初めてふた月ほど経ち、見事青にまみれたこの部屋を衣吹くんは「空みたい」と言い、私は「海みたい」と言った。衣吹くんがそれに気づいていたかはわからないが、私の発した、海みたい、には軽い侮蔑の気持ちが込められていた。
「青色、確かに好きなんだけどさ、なんつーか……、俺、正直にいうとここまでじゃないんだよな」
「ああもう何それ、私だってそうだよ。最初に言ってよ。私なんてもう青い服だらけなんだよ。ほんとは赤とかピンクとか黒とかも着たかったよ」
「俺だって青いデニムのコートなんか買いたくなかったよ。本当はあれブラックのほう狙ってたんだからね。未波と買いに行ったから青にしたけどさ、ひとりで行ってたら確実に黒を買った」
「私、衣吹くんにずっと内緒にしてたけど、ブルーハワイのシロップ苦手なんだよね。一番好きなのはレモン。次がいちごで、その次はメロン」
「青じゃねえじゃん」
「そう、青じゃないんだよ」
 お互いくつくつと小刻みに肩を揺らして笑う。先ほどまでは湯気の立っていたハンバーグがどんどんと冷めていく。それでも私たちはこれまでの隠し事や嘘を一つずつ、まるでパレットの青絵具を薄めるようにしながら丁寧に暴いていった。
「衣吹くん、青が好きだからメロンソーダが好きって言ってたじゃん。あれ初めて聞いたとき私『いやそれ緑じゃない?』って思ったんだよね」
「あああれね、俺も言いながら心の中でしくじったなーって思ってたわ。だってメロンソーダなんて好きじゃねえもん。あの頃まだ付き合ってなかったから。未波の気を惹きたかったんだよな。音楽家も作家も俳優も、未波、何一つ俺の“好き”と被ってなかったからさ、このままだとやべえ、何かこじつけなきゃって焦ってさ」
「ね、ほんとに私たちって趣味合わなかったよね。それこそ付き合う前、衣吹くんから『青色が好きなら、ブルー・マンデー・ムーンとか聴いてる?』って訊かれたとき、私それが曲名なのかバンド名なのかもわかんなかったんだから」
「俺、あのバンドは青とか関係なく好きだからね?」
「私はピンとこないんだよね。歌詞とかもう訳わかんないよ、いちいち回りくどいし」
「だー、そこがいいんだよ」
 ダンボールの上に並ぶいくつもの青い皿を境として、私たちはどこまでもクリアに、親し気に話を続けていた。何一つ勘ぐることなく、気遣うことなく、気後れすることだってなかった。きっと私たちは青色になんか頼らずに、最初から、こんなふうに軽口を叩いておきさえすればもっと近しい距離で互いを認め合えていたのかもしれない。私たちはずっと馬鹿の一つ覚えみたいに青いものだけを揃え続けるばかりで、ずれたピントを直そうともしなかった。
   明日の午前、この青まみれの食器を一枚残らず置き去りに、私はこの部屋を出ていく。ふたりで過ごす最後の夜を、私たちは軽快に罵りながら笑い合って過ごしている。窓際に吊るされたままの青いカーテンが、空みたいな、海みたいな顔で私たちを窓の外の濃紺から区切っている。
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2ttf · 12 years
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marisa-kagome · 3 years
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シナリオ『Room.I』
【概要】
人数:2~3人 時間:2~3時間 推奨技能:無し
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【あらすじ】
「せっかくアイホート様の雛育てるんなら美味しい苗床になってくれ(とある狂信者の手記)」
連れて来られて体重が増えるまで帰れない、と見せかけた、逆ラ〇ザップシナリオとなります。 生贄にならないように部屋から脱出してください。 また、謎解きがメインですが、料理ロールなども出来るので、ワンルームでわちゃわちゃ遊ぶことも可能ではないかなと思います。 ただ若干ややこしい謎解きをしなければ、死にます。 また、窓からはアイホート様がじっと、探索者を見つめています。
【導入】
目が覚めると、探索者は知らないワンルームにいた。前後のことがよく思い出せず、持ち物などは何もない。 部屋にはキッチンやテーブル、ベッド、カーテンの間仕切り、扉があり、ひとつだけある窓からは夕焼けのような真っ赤な光が差し込んでいる。
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◎部屋
壁には数字と記号の様なものが書かれている。
窓側の壁:31 扉側の壁:2] カーテン側の壁:25] キッチン側の壁:[4
◎窓
赤く光る窓。それ以外は何も見えない。
もし目星などをふってまじまじと見るのであれば、どこか不気味な光に感じるだろう。 また、窓の下にはハッチのような物があり、その隣に小さなデジタル式体重計が置かれている。(※地図左上、グレーがハッチ、ピンクが体重計)
☆体重計
ボタンの二つ付いた体重計。
右のボタンを押すと「HATCH MODE」と表示される。乗ってみると探索者の名前と、飲み食いをしていなければ「-10kg」という数字が表示される。
この体重計に+10キロのものを抱えて乗るのなら、部屋の中にそれに該当するものは探索者達自身しかない。お互いを抱き上げる、等の行動を取れば、条件を満たせないことは無いだろう。
左のボタンを押すと「KEY ISN’T[WEST]」と表示される。乗ると、体重が表示された後に「×LOCK」の文字が出る。
英語技能:直訳すると「鍵は西ではない」となる。
☆ハッチ
取っ手のついたハッチは閉まっている。鍵がかかっているようだ。
このハッチは、体重を10キロ増やして体重計に乗ることによって、開けることができる。 開けると中は、そこそこ急なスライダーのような形になっている。奥は見えない。滑った場合は後述。
◎キッチン
ガス台や流しの並ぶキッチン。オーブンレンジや食器棚はキッチンに組み込まれている形となっている。 隣には冷蔵庫が置かれている。(地図左、キッチン横の正方形が冷蔵庫)
☆流し
プラスチック製のたらいが一つ置かれており、水を満たしたその中にはスチロール製の魚の切り身を入れる様なトレイが浮いている。
☆冷蔵庫
食材が入っている。おおよそ1食分であることが分かる。
※何のレシピを作っても、一食分が消耗する。また、全員が食べて寝ると中身はリセットされる。
目星:N極とS極が赤と黒に塗り分けられた、よくある棒磁石が貼り付けてある。
☆食器棚
人数分の皿と茶碗、箸、フォーク、スプーン、ナイフ、包丁、まな板、ハサミが置かれている。
アイデア:最低限の調理器具、といった印象だ。
目星:「美護印のカロリーファイト 1kg」と書かれた袋を見つける。中には白い粉が大量に入っており、使い方の欄に「なんの料理にも合います。100gで1キロ、上手く作れば3キロ、とびきり美味しいものだと5キロ、食べた後にぐっすり寝ると体重が増します。飯マズだと増えないかも」と書かれている。味は何もしない。
クトゥルフ神話技能:美護という単語に聞き覚えがある。ミ=ゴでは、と気付く。詳細はルルブ。
※こちらは日数が経過しても増えない
◎テーブル(※地図真ん中)
ランチョンマットの敷かれたテーブルの上には、メッセージプレートのようなものが置かれている。
アイデア、目星:テーブルが固定されている事に気づく。
※もしもこの後に家具を調べるのであれば、それらが全て固定されていることに気づく。
☆メッセージプレート
かなり軽い。持ち上げるなら、発泡スチロールで出来ているようだと気づく。
「+10キロに増えないと出られません」と書かれている。
また、裏面を見てみるのならば「×=C」とも書かれている。
◎ベッド(※地図右下)
上に一冊の本が置かれている。
アイデア:全て固定されていることが分かる。
☆カロリー満点レシピ
様々なレシピが載っている。簡単なものから凝ったものまで、カレー、シチュー、肉じゃが、ハンバーグなど、総カロリーがたっぷりしたものばかりだ。
本には、それぞれの料理の成り立ちも載っている。
《カレー:Curry》
多種類の香辛料を併用して食材に味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理、またその英語名。 明治時代、日本にはイギリス料理として伝わった。それを元に改良された「カレーライス」は、現在洋食として普及している。
《シチュー:Stew》
シチューは、野菜や肉、魚介類を出汁やソースで煮込んだ煮込み料理の英語による総称である。日本への「シチュー」の伝来がいつかについて明確な記述はないが、明治4年の東京の洋食店の品書きに存在する。しかし本格的に「シチュー」が全国に浸透したのは、第二次世界大戦終結以後のことである。
《肉じゃが:Nikujaga》
広く流通しているのは、東郷平八郎が留学先で食べた「シチュー」の味を非常に気に入り、日本へ帰国後に作らせようとしたが、命じられた料理長は「シチュー」を知らず、イメージして作った「シチューではないもの」が始まりという話である。これは都市伝説であると近年では言われている。
《ハンバーグ:Hamburg steak》
ひき肉とみじん切りにした野菜にパン粉を混ぜ、塩を加えて粘性を出し、卵を繋ぎとしてフライパンで加熱して固めたものである。原型に関しては諸説あるが、一説には「タルタルステーキ」が原型であるとされている。
また、読み進めるのであれば、その中に一箇所だけ「ヒトナベ」という項目を見つける。
《ヒトナベ(hitonabe)》
美護印のカロリーファイトを大さじ一杯と人間一匹を入れてぐつぐつ煮込むだけ!茶碗一杯で10キロオーバーなこと間違いなし!」
と書かれたそこには、文字通り人がぶった斬られ煮込まれている写真が載っているだろう。SANチェック1/1d4。
◎カーテンの奥(※地図右上波線)
五右衛門風呂のある、簡素な風呂場となっている。 固形燃料が入れてあり、傍にはマッチが落ちている。
目星:くしゃくしゃの紙切れを見つける。
「方角が分かればいいのか?駄目だ、さっぱりわからない、方位磁針なんてないし、有った所で壁の数字の順番はどうなる?何周りだ?それとも法則があるのか?西は夕陽が差し込んでいる方だと思っていたが、一向に陽が沈まない。不気味だ、食べて寝るだけの生活は悪くない、が、一体どうなってるんだ」
◎扉
鍵がかかっているが、鍵穴などは見当たらない。
【料理について】
楽しいクッキングが出来る茶番パート。 DEX×5とアイデア両方に成功することによって、美味しい料理が作れる。 料理技能がある探索者であれば、料理技能の成功のみでうまく作れて構わない。
DEX×5かアイデアの片方に成功すれば、普通の料理となる。 両方失敗するとまずくなる。料理技能の所持者はファンブルが失敗に値する。
クリティカル:5キロ増える 美味しい:3キロ増える 普通:1キロ増える まずい:増えない ファンブル:SANチェック
ヒトナベ:五右衛門風呂で誰かを煮込めば、大匙一杯の粉で一気に10キロ増える。ダイスの成功の有無などは関係ないものとする。
【扉から出る方法】
方位磁針を作成する。
水を張ったタライの上のスチロール、もしくはそこにメッセージプレートを浮かべ、上に磁石を乗せることによって、方角を知ることが出来る。
水に浮かべた磁石は正しく方位を指すだろう。
なお、方位磁針の作り方が思い浮かばなければ、アイデアや知識、それらしい本を見つけることによって思い出して構わない。
方角は以下のようになる。
南:窓側の壁 北:扉側の壁 西:カーテン側の壁 東:キッチン側の壁
「KEY ISN’T [WEST]」とあるように、鍵は西ではない。
西以外の文字「窓側の壁:31」「扉側の壁:2]」「キッチン側の壁:[4」を時計回りに並べると、[4312]となる。時計回りについては「×LOCK」の「×」にメッセージプレートにあった「×=C」を代入することによって「CLOCK」というヒントが出て来る。
鍵は西ではない=西以外のものを使う、という案が出ない場合、アイデアを振らせてもよいだろう。
出て来た[4312]を同じかっこのある[WEST]と並べ、数字の順番に並べると[STEW]、レシピに出て来たシチューとなる。
「KEY ISN’T STEW」、「鍵はシチューではない」(英語技能で分かってよい)という所から「シチューではないもの」と明記されている肉じゃがが鍵となる。
肉じゃがを作って乗せる、作って食べて乗る、または原材料を乗せても構わない。その方法で体重計を動かすことによって、扉のロックを解除することが出来る。
肉じゃが以外で上記の行為を行うと「ERROR」と出る
正直ややこしい問題だとは思うので、適度にヒントを出してあげてください。
【扉の向こうの部屋】
ドアを開けると、むわりとした腐臭が鼻をつく。中は薄暗く、入ってみるならば真ん中に死体があることが分かる。SANチェック1/1d3。 また、部屋には本棚と机が置かれている。
◎死体
男のようだ。ローブの様なものを纏っている。
目星:周囲に、蜘蛛の子供の様なものが蠢いているのに気付く。一旦視界にとらえれば、その数がかなりあることが分かるだろう。SANチェック1/1d3。また、手に何かメモを握っていることが分かる。 医学:腹が裂けたことにより死んだようだ。また、一部骨まで齧りつくされているのが分かる。
☆メモ
「-29」と書かれている。
◎本棚
ほとんどが洋書の本棚である。
目星:一段だけ空っぽな場所の奥にスイッチのような物があり、本を数冊をはめ込むことで棚が動きそうなことが分かる。 図書館:表紙が真っ黒のぼろぼろの本を見つける。タイトルは書かれていない。
『アイホート
イギリスのセヴァン谷の地下深くにある迷宮に棲んでいる。白く青ざめた肉の塊に幾つもの足が生え、体は目に覆われている。その瞳の色は赤いとも青いとも言われている。彼は人間の犠牲者を隅に追い詰め、質問する。これを拒むとその場で殴打され、殺されてしまう。申し出を受けたのであれば、その人物はアイホートの未成熟な雛を受け入れ、胎内で孵すこととなる。迷宮には多数の門が存在し、世界各地に繋がっていると言われる』
ここまで読んだ探索者はSAN値減少1d4。クトゥルフ神話技能+2。
◎机
上には地図帳が四冊置かれている。 また、引き出しがついている。
☆地図帳
「Ghana」「Japan」「Australia」「Austria」の四冊。
☆引き出し
開くと、一枚の紙が出て来る。本のページのようだ。
『怪談 赤い部屋
ある夜、タクシー運転手が一人の女を乗せた。真っ赤な服を着た俯きがちな女性は非常に美人で、運転手は気になりあれやこれやと話しかけるが、なんの返答もされない。やがて目的地に辿り着き客は降りていくが、気になった運転手は後から付けて行き、鍵穴から部屋をのぞこうとする。しかし、赤い部屋しか見えず、彼女は赤い色が好きだという情報しか得られないまま、その晩はアパートを後にする。
後日、幽霊話をしていた同僚が、赤い服を着た女性の話を持ち出す。あれは幽霊だったのかと驚く運転手は、顔も見た、という同僚の次の一言で、体を固まらせた。
「あの幽霊、格好だけじゃなくて目も真っ赤だったよ」』
オカルト、知識1/2:この話が、有名な都市伝説であることを知っている。
上の本と合わせ、ここまで読んだ探索者がもしリアルアイデアで窓の向こうの存在に気付いたのなら、SANチェック1/1d3。 あなたたちは、どうやらじっと人でない存在に見つめられているようだ。
【脱出】
「KEY ISN’T STEW」から導き出された肉じゃがから29、肉を引く。
英語表記にした時に「JAGA」は、地図帳の頭文字にそれぞれ該当する(オーストリアとオーストラリアの前後は問わない)。 本棚に「Japan」「Australia(Austria)」「Ghana」「Austria(Australia)」の順で地図帳を並べると、ロックの外れる音がする。
本棚を押しのければ、そこには白い光が広がっているだろう。 中に歩みを進めるのであれば、探索者はやがて意識を失い目を覚ます。
気付くと、公園のベンチに倒れていた。知っている場所でも知っていない場所でも構わないが、一応調べれば、探索者の家からそう遠くないことが分かるだろう。
夢だったのだろうか、そう思うにはやたらリアルだった体験を時折思い出しながら、探索者たちは日常へと戻って行く。トゥルーエンド。
また、体重は戻っていない。頑張ってください。増えていた場合、人によってはノーマルエンド。
【ハッチから脱出する】
ハッチから滑り降りると、探索者は広く薄暗い空間に投げ出される。
そこには夕焼けも何も無かったが、重い足音に振り返ると、白い楕円形に象の足の様なものを生やした、生き物と称するには悍ましい姿をした巨大な存在がいた。
無数の赤い目がまばたきをせずじっと探索者を見つめる。アイデアに成功すれば、その目の輝きに見覚えがあるだろう。それは赤いあの窓の色だった。
アイホートの姿を見た探索者はSANチェック1d6/1d20。
この後は、雛を埋められるか殺されるかのいつもの二択となります。雛を埋められた後、別の門から帰る事は可能ですが、幸運に成功しなければ見たこともない国外に辿り着いているでしょう。残された時間は、ルールブックの通りです。バッドエンド。恐らくロスト。
【生還報酬】
生還した:1d3
太らなかった:1d3
美味しい料理が作れた:1d3
SAN値は上限を超えて回復しないものとする。
【余談】
Room.Eye、もしくはRoom.Eihort。
この狂信者絶対肉じゃがめちゃくちゃ好きだと思います。
お読みいただきありがとうございました。 感想等いただけると喜びます。
詐木まりさ Twitter @kgm_trpg
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jujirou · 1 year
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おはようございます。 秋田県湯沢市川連は、連日の快晴です。 昨日は朝から続きの作業で、お箸の先端部の木地固め作業。 箸…箸…お箸を無心に木地固め。 3時煙草を終えてからは、修理依頼のアレコレを行い一日が終了。 そして昨夜のオラ家の晩ご飯は、川連漆器でもちもち玄米カレー。 今日は歯医者さんに行ったり、続きの作業やら、その他アレヤコレヤと有りますが、今日も一つ一つコツコツ頑張ります‼︎ 皆様にとって今日も、良い一日と成ります様に‼︎ https://jujiro.base.ec #秋田県 #湯沢市 #川連漆器 #川連塗 #国指定伝統的工芸品 #伝統的工芸品 #伝統工芸 #秋田工芸 #秋田クラフト #寿次郎 #箸 #お箸 #箸塗り #箸木地固め #木地固め #使いやすい箸 #使いやすい角箸 #使いやすい夕波箸 #使いやすい子供箸 #オラ飯 #川連漆器でカレー #川連漆器で玄米カレー #Yuzawa #Akita #Japan #japanlaquer #JapanTraditionalCrafts #Chopsticks #KawatsuraLacquerwareTraditionalCrafts #jujiro (秋田・川連塗 寿次郎) https://www.instagram.com/p/CpgM-9uBJX9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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vegan-surfer-ds · 4 years
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Wellbeing Life Library 2020年2月17日〜2月23日
#zen #mindfulness #meditation #sungazing #yoga #surfin #football #karate #exercise #fasting #vegan #vegitarian #liquidarian #breatharian #onsen #hot-spring #wellbeing #brain-gut-axis --------------------------------------------------- 2/17月☀️祈年祭氏神14:00Max16度/体温37.4℃ 朝課 仏前焼香/祝之神事30/Radon吸浴瞑想20 14:20WeightTR【腕立100腹筋100Squat50】 → 14:50PowerVinyasaYoga60 + 温冷交代浴3回【露天 塩化物/重曹泉 Sauna】 体重未計測     経口摂取日中 有機珈琲160 入浴後 ミルク紅茶130 12/12ハワイコナ120 煮出珈琲160 チラシ寿司 つけ麺 カクテル OrganicShag15 電子水補充
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晴天に恵まれるが朝夕は若干冷え込む。薔薇の��替えの土は赤玉5/有機堆肥3/培養土1/薫炭1で配合。 Yogaの後、鳥居さんに薔薇植替え状況を報告して教えを乞う。防虫用のチップを分けてくれることになり、お宅にお邪魔してご夫妻と茶菓子で楽しい団欒のひとときを過ごした(^^) 左手の箸を始めて1週間になるが、麺類でもストレス無く使えるようになってきた(^^)
------------------------------------------------------2/18火⛅️8:00 5度/体温37.3℃ 朝課 仏前焼香/神前祝神事+Radon太陽視瞑想25 12:00Gardening日外浴90 18:30WeightTR【腕立60腹筋60Squat50】 → 19:00空手鍛錬120→21:30StretchYoga30+温冷交代浴3回【塩化物/重曹泉 Sauna】体重56.7kg    経口摂取日中 緑茶160 煮出珈琲160 1/12珈琲120 OatsMilkTea180 有機珈琲160 VeaganCup麺 OatsCocoa200 入浴後 赤Wine 夕食【玄米 味噌汁 塩辛 Germanpotato 鮭カマ】 珈琲 OrganicShag15本
西日本では昨日から雪が散らつき、今週は全国的に最後の冷え込みになるとの予報なので波乗りは来週までお預け。朝一に黒金屋で園芸用品調達後にコロラドに寄ると、入替りで帰った万智子さんが鮭カマと塩辛を買って届けてくれたので有難く戴いた(^^)
-----------------------------------------------------2/19 水☀️ 13:30Max12度/体温37.3℃ 朝課 仏前焼香/祝之神事30 Radon吸浴瞑想30 9:30HomeWeightTR【PU100腹筋100Squat50】→10:00VinyasaYoga45/19:00CircuitTR30 + SivanandaYoga60+温冷交代浴3回【露天 塩化物重曹泉 Sauna】 体重56.7kg 経口摂取日中 有機煮出珈琲160 梅昆布茶180 緑茶200 OatsChai200 有機煮出珈琲170×2 OatsRoyalMTea200 入浴後21:00夕食【握り寿司7個 玄米味噌汁 】煮出珈琲160 OrganicShag15本     
練習試合後、腰の具合が芳しくないので朝Yogaと夜 Yogaに参加。一昨日と今日の @nagishanti のバックペンド系のフローは有り難かった(^^)
------------------------------------------------------2/20 木 🌦→☀️14:00Max13度/体温37.2℃ 朝課 仏前焼香/祝之神事30+瞑想30    Gardening裸日外浴45 HomeWeightTR【腕立100腹筋100Squat50】 → 19:30空手鍛錬90→HotRingYoga40+温冷交代浴4回【塩化物重曹泉 Sauna】 体重57.3kg 経口摂取日中 煮出珈琲3杯 450 入浴前もり天丼 餡饅 入浴後 珈琲120/ OrganicShag20本
今年になってから、以前から興味があった真言宗の阿字観瞑想の学びを深めているが、本日は高野山東京別院から来月の阿字観瞑想体験申込受付の返事を受取り、加えてAmazonで注文した「ヨーガではじめる阿部字観瞑想のすすめ」という本が届き、約一時間で読破。この本はお寺の娘のyoginiが著者で、文章がわかりやすく、心の病の人やYogaを愛する人は勿論、心の病んだ現代人の多くに読んでもらいたい心温まる内容だった。胎蔵界曼陀羅・金剛界曼荼羅のポスターが揃ったので、仕事の合間に額装をして玄関に飾った(^^)
------------------------------------------------------2/21 金 ☀️Max14度 /体温37.1℃ 朝課 仏前焼香/神前祝之神事30+Radon瞑想30 Yoga指導【パワンムクターサナ全種】60 HomeWeightTR【腕立60腹筋60Squat50】 → 自宅Shower温冷交代浴3回/体重未計測 経口摂取日中 OatsChai200 煮出珈琲120 2/12珈琲120 OatsTea200 みかん1個 食事【海老ワンタン麺、肉抜き半炒飯、胡瓜】
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春のような温暖な晴天の本日はプリンの命日。パルコニーのカーネーションを添えて母娘の健康を祈念。母と叔母のYoga指導でYogaの準備運動全種をやらせてみたが約60分要した。スムーズにやれば半分に短縮出来るかもしれない。次回からは、呼吸法+準備体想2種類+太陽礼拝のパターンを継続して経過を観察してみよう。Yogaの指導で再び右膝を痛めた^^;
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----------------------------------------------------- 2/22土🌦春一番 Max17度/体温37.5℃ 朝課 仏前焼香/祝之神事30 19:00耕雲寺坐禅40 午前中 Gardening日外浴60 /午後 洗車&散髪      12:00年中CLUB練習試合4/30FW25×3本=75分 HomeWeightTR 【腕立60腹筋60Squat50】 16:20RajaYoga60+温冷交代浴3回【露天&塩化物/重曹泉&Sauna】/体重56.0kg 経口摂取日中 FM珈琲100 煮出珈琲150 FM珈琲150 みたらし団子1本 食事【山之内の牡蠣フライ定食】 HotCampari /OrganicShag15本
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右膝の違和感はサッカーのプレー中にはさほど支障は無く、ゲーム観と動き出しは確実に上がっている。試合終了間際に被反則で右足脹脛打撲負傷^^; 3月末迄に10試合消化するプランは着実にこなせているが、リーグ戦開幕は怪我なく万全で迎えたい(^^) 土曜坐禅は新規参禅者4名内アメリカ人1名で座談会の内容が濃く為になった。住職から「坐禅は体感するもの。出来れば目的は持たない方が良い。雑念は浮かんで当たり前。どのように消していくかは各人が工夫してください」とのお言葉。個々其々の坐禅があって良いということが大事なポイントだ。本日の座禅では阿字観の月輪瞑想を試してみたが、楽しく時間も短く感じた。2/22散髪      2014年インド政府がYogaの基本体系を発表。超能力や超越現象の体感はその人しかわかりづらいが、医学、心理学など科学的アプローテの説明は、老若男女全人類に当てはまる説明につとまる。ムーラバンダを意識した前屈令和二年二月二十二日二時二十二分に居た場所
ヨーガの近代化と一般社会への普及が1920年代にはじまり、1960年代以降、ヨーガは神秘的な装いを纏うインド発の健康法や精神性探求に関連したボディーワークとしてインド国外に伝搬して行きました。
本家インドでは、ヨーガの再定義と国策化による国民の福利厚生に向けたヨーガの積極的な振興、同時にヨーガを世界的な文化戦略へのツールとする政策が進行中です。
インド側が「ヨーガはインドの伝統文化である」という主張を前面に押し出して来た今、ヨーガと健全な関係を築いて行く上での日本人としての主体性についても考えていきましょう。
座禅会に4名の新規参禅者が来て.2才と5才の子供の育児で感情的になってしまう自分が嫌で、サラリーマンから独立起業して上手く行かずにイライラして感情的になり、一日中考え過ぎるし、人も離れていき、今の自分をどうにか変えたくて、無心の時間が必要と感じて参禅。歯科医師で東北大震災直後に気仙沼に行き、200体以上の死体を見て抑うつ状態で3年以上、一時は入院もしていた。偶にフラッシュバックがある。アメリカのコロラドから俳優が参加。脳障害で短期記憶が失われる状態か3年間続いたが、忘れてしまうのでクヨクヨせずに今を生きるという感覚を体験出来たとのこと。
----------------------------------------------------- 2/23日㊗️☀️14:00Max15度/体温37.3℃ 朝課 氏神→仏前焼香/祝之神事30/太陽視瞑想20 HomeWeightTR【腕立60腹筋60Squat50】 → 16:20Yoga60+温冷交代浴【露天&塩化物/重曹泉&Sauna】3回/体重未計測          経口摂取日中 煮出珈琲160 煎茶200 萩珈琲240 食事【玄米 味噌汁 海苔】 煮出珈琲300 OrganicShag 15本
薔薇の再剪定、玄関周りの植木に栄養剤を与えた。壇ちゃん代行の通常Yogaが新鮮かつ癒された。ゴムカーサナは一番多くの効能があるとの解説があり、どの道苦手なので毎朝太陽礼拝3セットと共に日課にすることにした。
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whileiamdying · 8 years
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あらくれ
 お島が養親の口から、近いうちに自分に入婿の来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭脳には、まだ何等の分明した考えも起って来なかった。
 十八になったお島は、その頃その界隈で男嫌いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽古でもしていれば、立派に年頃の綺麗な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手頭などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚いおりから善く外へ出て田畑の土を弄ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家中の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭い男などから、彼女は時々揶揄われたり、猥らな真似をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥ぐことが好であったが、誰もまだ彼女の頬や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破ぬいて辱をかかせるかして、自ら悦ばなければ止まなかった。
 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰われてきたのは、七つの年であった。お島は昔気質の律義な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴い怒と惨酷な折檻から脱れるために、野原をそっち此方彷徨いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥いてくれる柿や塩煎餅などを食べて、臆病らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた夕陽がかげって、野面からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い懸稲、黝い畑などが、一様に夕濛靄に裹まれて、一日苦使われて疲れた体を慵げに、���来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の遣場に困っている自分の父親も可哀そうであった。
 お島は爾時、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久の渡あたりでもあったろうか、のんどりした暗碧なその水の面にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋っているのであった。
 その時お島の父親は、どういう心算で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素より解らない。或は渡しを向うへ渡って、そこで知合の家を尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可恐しい惨忍な思着が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯えた。父親の顔には悔恨と懊悩の色が現われていた。
 赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引取られてからも、気強い母親に疎まれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に焼火箸を押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。
「この業つく張め」彼女はじりじりして、そう言って罵った。
 昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の出遊のおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として遺っている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の瑕としてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、賤しいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては能く働いたがその身状を誰も好く言うものはなかった。
 お島が今の養家へ貰われて来たのは、渡場でその時行逢った父親の知合の男の口入であった。紙漉場などをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、遽に身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は養親の口から、時々その折の不思議を洩れ聞いた。それは全然作物語にでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、放浪の旅に疲れた一人の六部が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を言告げて立去った。その旅客の迹に、貴い多くの小判が、外に積んだ楮のなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の幸を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、終にそれらしい人の姿にも出逢わなかった。左に右、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。
「その六部が何者であったかな」養父は稀に門辺へ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に語聞せたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。
 養家へ来てからのお島は、生の親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。
 然し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に沁込むようになって来た。養家の旧を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし聞齧ったところによると、六部はその晩急病のために其処で落命したのであった。そして死んだ彼の懐ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の有にして了ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、矢張好い気持がしなかった。
「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」
 お島がその事を、私と養母に糺したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い汚点が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を劬りかばうようにと力めたが、どうかすると親たちから疎まれ憚られているような気がさしてならなかった。
 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は夜厠への往来に必ず通らなければならなかった。そこは畳の凸凹した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは大抵勝手に近い六畳の納戸に寝されていた。お島はその八畳を通る度に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼白い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄然とするような事があった。夜はいつでも宵の口から臥床に入ることにしている父親の寝言などが、ふと寝覚の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに魘されている苦悶の声ではないかと疑われた。
 陽気のぽかぽかする春先などでも家のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が籠っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭脳がのうのうして、寿命がちぢまるような鬱陶しさを感じた。お島は糸屑を払いおとして、裏の方にある紙漉場の方へ急いで出ていった。
 薮畳を控えた広い平地にある紙漉場の葭簀に、温かい日がさして、楮を浸すために盈々と湛えられた水が生暖かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩罷めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった空地は庭に作られて、洒落た枝折門などが営われ、石や庭木が多く植え込まれた。住居の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も外に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。
「貧乏くさい商売だね」お島は自分の稚い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、跪坐んで莨を喫っていた。
 顎髯の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。
「お前さんの紙漉も久しいもんだね」
「駄目だよ。旦那が気がないから」作と云うその男は俛いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る気遣もないからね」
「真実だ」お島は鼻頭で笑った。
 お島は幼い時分この作という男に、よく学校の送迎などをして貰ったものだが、養父の甥に当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終苦使われて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは豕か何ぞのように忌嫌われた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは直に気荒く罵った。
「おいおい、この忙しいのに寝ている奴があるかよ。旧を考えてみろ」
 おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を覗込みながら毎時ものお定例を言って呶鳴った。甲走ったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたるやくざ[1]者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との間にできた子供であった。彼の父親は賭博や女に身上を入揚げて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ稼ぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように零落れて、間もなくまた二人でこの町へ復って来た。その時身重であったその女が、作を産おとしてから程なく、子供を弟の家に置去に、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う報知が、木更津の方から来たのは、それから二三年も経ってからであった。
 お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも得乗らず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた黝い顔をして、疲れきった足を引きずりながら這込んで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。
「あの衆と一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい」
 作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、終にはえへへと笑って聞いていた。
 作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育盛を劇しい労働に苦使われて営養が不十分であったので、皮膚の色沢が悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に吩咐かって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、負ったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえるほど美しく肉づき伸びて行くのが物希しくふと彼の目に映った。たっぷりしたその髪を島田に結って、なまめかしい八つ口から、むっちりした肱を見せながら、襷がけで働いているお島の姿が、長いあいだ彼の心を苦しめて来た、彼女に対する淡い嫉妬をさえ、吸取るように拭ってしまった。それまで彼は歴々とした生みの親のある、家の後取娘として、何かにつけておとらから衒らかす様に、隔てをおかれるお島を、詛わしくも思っていた。
 お島が作を一層嫌って、侮蔑するようになったのもその頃からであった。
 蒸暑い夏の或真夜中に、お島はそこらを開放して、蚊帳のなかで寝苦しい体を持余していたことがあった。酸っぱいような蚊の唸声が夢現のような彼女のいらいらしい心を責苛むように耳についた。その時ふとお島の目を脅かしたのは、蚊帳のそとから覗いている作の蒼白い顔であった。
「莫迦、阿母さんに言告けてやるぞ」
 お島は高い調子に叫んだ。それで作はのそのそと出ていったが、それまで何の気もなしに見ていたそれと同じような作の挙動が、その時お島の心に一々意味をもって来た。お島は劇しい侮蔑を感じた。或時は野良仕事をしている時につけ廻されたり、或時は湯殿にいる自分の体に見入っている彼の姿を見つけたりした。
 お島はそれ以来、作の顔を見るのも胸が悪かった。そして養父から、善く働く作を自分の婿に択ぼうとしているらしい意嚮を洩されたときに、彼女は体が竦むほど厭な気持がした。しかし養父のその考えが、段々分明して来たとき、お島の心は、自ら生みの親の家の方へ嚮いていった。
「何しろ作は己の血筋のものだから、同じ継せるなら、あれに後を取らせた方が道だ」
 養父は時おり妻のおとらと、その事を相談しているらしかったが、お島はふとそれを立聞したりなどすると、堪えがたい圧迫を感じた。我儘な反抗心が心に湧返って来た。
 作の自分を見る目が、段々親しみを加えて来た。彼は出来るだけ打釈けた態度で、お島に近づこうとした。畑で桑など摘んでいると、彼はどんな遠いところで、忙しい用事に働いている時でも、彼女を見廻ることを忘れなかった。彼はその頃から、働くことが面白そうであった。叔父夫婦にも従順であった。お島は一層それが不快であった。
 おとらが内々お島の婿にしようと企てているらしい或若い男の兄が、その頃おとらのところへ入浸っていた。青柳と云うその男は、その町の開業医として可也に顔が売れていたが、或私立学校を卒業したというその弟をも、お島はちょいちょい見かけて知っていた。
 気爽で酒のお酌などの巧いおとらは、夫の留守などに訪ねてくる青柳を、よく奥へ通して銚子のお燗をしたりしているのを、お島は時々見かけた。一日かかって四十把の楮を漉くのは、普通一人前の極度の仕事であったが、おとらは働くとなると、それを八十把も漉くほどの働きものであった。そして人のいい夫を其方退けにして、傭い人を見張ったり、金の貸出方や取立方に抜目のない頭脳を働かしていたが、青柳の顔が見えると、どんな時でも彼女の様子がそわそわしずにはいなかった。
 お島の目にも、愛相のいい青柳の人柄は好ましく思えた。彼は青柳から始終お島坊お島坊と呼びなずけられて来た。最近青柳がいつか養父から借りて、新座敷の造営に費った金高は、少い額ではなかった。
 お島は作との縁談の、まだ持あがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお稲荷さまへ出かけたものであった。天性目性の好くないお島は、いつの頃からこの医者に時々かかっていたか、分明覚えてもいないが、そこにいたお花と云う青柳の姪にあたる娘とも、遊び友達であった。
 おとらは時には、青柳の家で、お島と対の着物をお花に拵えるために、そこへ反物屋を呼んで、柄の品評をしたりしたが、仕立あがった着物を着せられた二人の娘は、近所の人の目には、双児としかみえなかった。おとらは青柳と大師まいりなどするおりには、初めはお島だけしか連れていかなかったものだが、偶にはお花をも誘い出した。
 お花という連のある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、全然除けものにされていなければならなかった。
「じゃね、小父さんと阿母さんは、此処で一服しているからね。お前は目がわるいんだから能くお詣りをしておいで。ゆっくりで可いよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ満らないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね」
 おとらはそう言って、博多と琥珀の昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお賽銭をお島の小さい蟇口に入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、母屋から橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。
 それは丁度初夏頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、脊筋が汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、白粉の剥げかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、躑躅が咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を候うと、何となく気がつまって居辛かった。そして小いおりから母親に媚びることを学ばされて、そんな事にのみ敏い心から、自然に故ら二人に甘えてみせたり、燥いでみせたりした。
「ええ、可ござんすとも」
 お島は大きく頷いて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。
 町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると直に田圃道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い天刑病者が、そこにも此処にも頭を土に摺つけていた。それらの或者は、お島の迹から絡わり着いて来そうな調子で恵みを強請った。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで通過ぎた。
 曲がりくねった野道を、人の影について辿って行くと、旋て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往来している人や俥の群に交って歩いていったが、本所や浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内儀さんも偶には目についた。金縁眼鏡をかけて、細巻を用意した男もあった。独法師のお島は、草履や下駄にはねあがる砂埃のなかを、人なつかしいような可憐しい心持で、ぱっぱと蓮葉に足を運んでいた。ほてる脛に絡わる長襦袢の、ぽっとりした膚触が、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは直に忘れていた。
 大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎や起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶっ切り[2]飴を鬻いでいたりした。蠑螺や蛤なども目についた。山門の上には馬鹿囃の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太白飴の店などを眺めながら本堂の方へあがって行ったが、何処も彼処も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。
 そこを出てから、お島は野広い境内を、其方こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田舎廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙を潰すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田舎爺の加持のお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋燭のあがった多くの大師の像のある処の前に彳んでみたりした。木立の中には、海軍服を着た痩猿の綱渡などが、多くの人を集めていた。お島はそこにも暫く立とうとしたが、焦立つような気分が、長く足を止めさせなかった。
 休茶屋で、ラムネに渇いた咽喉や熱る体を癒しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引いていた。疲れたお島の心は、取留のない物足りなさに掻乱されていた。
 旧のお茶屋へ還って往くと、酒に酔った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座蒲団を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小楊枝を使っていた。
「まあ可かったね。お前お腹がすいて歩けなかったろう」おとらはお愛相を言った。
「お前、お水を頂いて来たかい」
「ええ、どっさり頂いて来ました」
 お島はそうした嘘を吐くことに何の悲しみも感じなかった。
 おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙の声が静な野中に聞え、人家には灯が点されていた。
「みんな御苦労々々々」おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で連に何か取込んでいた。
 お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、「肩をもみましょうか」と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って機嫌を取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を揉ませられるのが習慣になっていた。
 おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち此方戸締をしたり、一日取ちらかった其処らを疳性らしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の噂なども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。
 此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは能く知っているが、今の良人が取引上のことで、ちょくちょく其処へ出入しているうちに、いつか親しい間になったのだと云うことは、お島もおとらから聞かされて知っていた。その頃痩世帯を張っていた養父は、それまで義理の母親に育てられて、不仕合せがちであったおとらと一緒になってから、二人で心を合せて一生懸命に稼いだ。その苦労をおとらは能くお島に言聞せたが、身上ができてからのこの二三年のおとらの心持には、いくらか弛みができて来ていた。世間の快楽については、何もしらぬらしい養父から、少しずつ心が離れて、長いあいだの圧迫の反動が、彼女を動もすると放肆な生活に誘出そうとしていた。
 お島は長いあいだ養父母の体を揉んでから、漸と寝床につくことが出来たが、お茶屋の奥の間での、刺戟の強い今日の男女の光景を思浮べつつ、直に健やかな眠に陥ちて了った。蛙の声がうとうとと疲れた耳に聞えて、発育盛の手足が懈く熱っていた。
 翌朝も養父母は、何のこともなげな様子で働いていた。
 お花を連出すときも、男女の遊び場所は矢張同じお茶屋であったが、お島はお花と一緒に、浅草へ遊びにやって貰ったりした。お島はお花と俥で上野の方から浅草へ出て往った。そして観音さまへお詣りをしたり、花屋敷へ入ったりして、※[3]を消した。二人は手を引合って人込のなかを歩いていたが、矢張心が落着かなかった。
 おとらは時とすると、若い青柳の細君をつれだして、東京へ遊びに行くこともあったが、内気らしい細君は、誘わるるままに素直について往った。おとらは往返りには青柳の家へ寄って、姉か何ぞのように挙動っていたが、細君は心の侮蔑を面にも現わさず、物静かに待遇っていた。
 何時の頃であったか、多分その翌年頃の夏であったろう、その年重にお島の手に委されてあった、僅二枚ばかりの蚕が、上蔟するに間のない或日、養父とごたごたした物言の揚句、養母は着物などを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって了った。
 養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に障わったと云って、大声をたてて良人に喰ってかかった。話の調子の低いのが天性である養父は、嵩にかかって言募って来るおとらの為めに遣込められて、終には宥めるように辞を和げたが、矢張いつまでもぐずぐず言っていた。
「ちっと昔しを考えて見るが可いんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。旧を洗ってみた日には、余り大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか」
 養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、給桑に働いていたお島は、甲高なその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は直に六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな養父の声も途断れ途断れに聞えた。
 青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から私と供給されていた。
 お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも漸く憚られて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。
 その日も養父は、使い道の分明しないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に紛紜を惹起していた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃肚に保っていた色々の場合のおとらの挙動が、ねちねちした調子で詰られるのであった。
 結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、暫く用箪笥の抽斗の音などをさせていたが、それきり出ていった。
「まあ阿母さん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私なんざどうするんでしょう」
 お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振顧きもしなかった。
 夜になってから、お島は養父に吩咐かって、近所をそっち此方尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。
 おとらの未だ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙しいお島の目に、ふと庭向の新建の座敷で、おとらを生家へ出してやった留守に、何時か為たように、夥しい紙幣を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。
 お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸と届いたおとらの生家の外は、その返辞はどこからも来なかった。
 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼白い透徹るような躯を硬張せて、細い糸を吐きかけていた。
「お前阿母から口止されてることがあるだろうが」
 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊ねた。
「どうしてです。いいえ」お島は顔を赧めた。
 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。
 もう遊びあいて、家が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目色をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々してみえた。
 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦袢などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹にかけたり、茶をいれたりした。
「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、背を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の片着先や、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは皆な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、直に厭気がさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、往来も絶えがちになっていた。生家とも矢張そうであった。
 湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た海苔や塩煎餅のようなものを、明の下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、直に蚊帳のなかへ入ってしまった。
 毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の瘟気の夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が賑ったり、悪巫山戯で女を怒らせたりした。
 仕舞湯をつかった作が、浴衣を引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。
「この莫迦また出て来た」お島は腹立しげについと其処を離れた。
十一
 おとらと青柳との間に成立っていたお島と青柳の弟との縁談が、養父の不同意によって、立消えになった頃には、おとらも段々青柳から遠ざかっていた。一つはお島などの口から、自分と青柳との関係が、うすうす良人の耳に入ったことが、その様子で感づかれたのに厭気がさしたからであったが、一つは青柳夫婦がぐるになって、慾一方でかかっていることが余りに見えすいて来たからであった。
 お島が十七の暮から春へかけて、作の相続問題が、また養父母のあいだに持あがって来た。お島はそのことで、養父母の機嫌をそこねてから、一度生みの親達の傍へ帰っていた。お島はその頃、誰が自分の婿であるかを明白知らずにいた。そして婚礼支度の自分の衣裳などを縫いながら、時々青柳の弟のことなどを、ぼんやり考えていた。東京の学校で、機械の方をやっていたその弟と、お島はついこれまで口を利いたこともなかったし、自分をどう思っているかをも知らなかったが、深川の方に勤め口が見つかってから、毎朝はやく、詰襟の洋服を着て、鳥打をかぶって出て行く姿をちょいちょい見かけた。途中で逢うおりなどには、双方でお辞儀ぐらいはしたが、お島自身は彼について深く考えて見たこともなかった。そして青柳とおとらとの間に、その話の出るとき毎時避けるようにしていた。
 ある時そんな事については、から薄ぼんやりなお花の手を通して、綺麗な横封に入った手紙を受取ったが、洋紙にペンで書いた細い文字が、何を書いてあるのかお花にはよくも解らなかったが、双方の家庭に対する不満らしいことの意味が、お島にもぼんやり頭脳に入った。お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、微に受取れたが、お島は何だか厭味なような、擽ったいような気がして、後で揉くしゃにして棄てしまった。その事を、多少は誇りたい心で、おとらに話すと、おとらも笑っていた。
「あれも妙な男さ。養子なんかに行くのは厭だといって置きながら、そんな物をくれるなんて、厭だね」
 お島は養父母が、すっかり作に取決めていることを感づいてから、仕事も手につかないほど不快を感じて来た。おとらは不機嫌なお島の顔を見ると、お島が七つのとき初めて、人につれられて貰われて来た時の惨なさまを掘返して聞せた。
「あの時お前のお父さんは、お前の遣場に困って、阿母さんへの面あてに川へでも棄ててしまおうかと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ不具になっていたかも知れないよ」おとらはそう言って、生みの親の無情なことを語り聞かせた。
十二
 近所でも知らないような、作とお島との婚礼談が、遠方の取引先などで、意いがけなくお島の耳へ入ったりしてから、お島は一層分明自分の惨な今の身のうえを見せつけられるような気がして、腹立しかった。そしてその事を吹聴してあるくらしい、作の顔が一層間ぬけてみえ、厭らしく思えた。
「まだ帰らねえかい」そう言って、小さい時分から学校へ迎えに来た作は、昔も今も同じような顔をしていた。
「外に待っておいで」お島はよく叱りつけるように言って、入り口の外に待たしておいたものだが、今でも矢張、下駄に手をふれられても身ぶるいがするほど厭であった。
 婚礼談が出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。余所行の化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。
「あっちへ行っておいで」お島はのしかかるような疳癪声を出して逐退けた。
「そんなに嫌わんでも可いよ」作はのそのそ出ていった。
 作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の襖に心張棒を突支えておいたりしなければならなかった。
「厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です」お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。
「作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか」
 お島は仕切を取りに行く先々で、揶揄い面で訊かれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。
 それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。
「可いじゃありませんか阿父さん、家の身上をへらすような気遣はありませんよ」お島は煩さそうに言った。
「阿父さんのように吝々していたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ」
 ぱっぱっとするお島の遣口に、不安を懐きながらも、気無性な養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。
「嘘ですよ」
 お島は作と自分との結婚を否認した。
「それでも作さんがそう言っていましたぜ」取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を瞶めた。
「あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか」お島は鼻で笑っていた。
 王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。
「それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ」おとらは終にお島に訊ねた。
「そうですね」お島はいつもの調子で答えた。
「私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。些とは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ」
十三
 盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、直に養母が迎いに来た。
 お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か鮭を提えて作が急度お伴をするのであったが、この二三年商売の方を助けなどするために、時には金の仕舞ってある押入や用箪笥の鍵を委されるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも動もすると自分に一種の軽侮を持っている妹に、半衿や下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを矜りとした。姉や妹に限らず、養家へ出入する人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて喙を容れられると、因業を言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、途でお島に逢うと、心から叮嚀にお辞儀をした。
 大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が遊蕩を始めてから、また自分で稼業に出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々箸の上下しに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の頭脳をくさくささせた。
「そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては何にもありゃしないよ」
 母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな鉢が、幾個となく置駢べられてあった。庭の外には、幾十株松を育てある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この界隈に散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。
 いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。
「ええ。些とばかりの地面や木なんぞ貰ったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ」お島は跣足で、井戸から如露に水を汲込みながら言った。
「好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ」
「憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた覚なんかありゃしませんよ」
「そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、些とは直ったかと思っていれば、段々不可くなるばかりだ」
「余計なお世話です。自分が育てもしない癖に」お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。
十四
 お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との紛紜が気煩さに、矢張大きな如露をさげて、其方こっち植木の根にそそいだり、可也の距離から来る煤煙に汚れた常磐木の枝葉を払いなどしていたが、目が時々入染んで来る涙に曇った。
「お島さん、どうも済んませんね」などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。
「私はじっとしていられない性分だからね」とお島はくっきりと白い頬のあたりへ垂れかかって来る髪を掻あげながら、繁みの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた折檻の苦しみが、憶起された。四つか五つの時分に、焼火箸を捺つけられた痕は、今でも丸々した手の甲の肉のうえに痣のように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を抓ねられたり、妹を窘めたといっては、二三尺も��っている脊戸の雪のなかへ小突出されて、息の窒るほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を頒けるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が太々しいといって、何もくれなかったりした。土掻や、木鋏や、鋤鍬の仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、地鞴ふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。
 父親は、その度に母親をなだめて、お島を赦してくれた。
「多勢子供も有ってみたが、こんな意地張は一人もありゃしない」母親はお島を捻りもつぶしたいような調子で父親と争った。
 お島は我子ばかりを劬わって、人の子を取って喰ったという鬼子母神が、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。
 日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、漸と夕飯に入って来たが、父親は難しい顔をして、いつか長火鉢の傍で膳に向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が這拡がって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。
「まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ」父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を和めているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。
「今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから」お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。切めて自分を養家へ口入した、西田と云う爺さんの行っているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の閾は跨ぐまいと考えていた。食事をしている間も、昂奮した頭脳が、時々ぐらぐらするようであった。
十五
 或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある持地で、三四人の若い者を指図して、可也大きな赤松を一株、或得意先へ持運ぶべく根拵えをしていた。
 お島はおとらを客座敷の方へ案内すると、直に席をはずして了ったが、実母の吩咐で父親を呼びに行った。お島はこうして邪慳な実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を可愛がって育ててくれた養母の方に、多くの可懐しみのあることが分明感ぜられて来た。養家や長い馴染のその周囲も恋しかった。
「島ちゃん、お前さんそう幾日も幾日もこちらの御厄介になっていても済まないじゃないか。今日は私がつれに来ましたよ」おとらにいきなりそう言って上り込んで来られた時、お島は反抗する張合がぬけたような気がして、何だか涙ぐましくなって来た。
「手前の躾がわりいから、あんな我儘を言うんだ。この先もあることだから放抛っておけと、宅ではそう言って怒っているんですけれど、私もかかり子にしようと思えばこそ、今日まで面倒を見てきたあの子ですからね」
 おとらのそう言っている挨拶を茶の間で茶をいれながら、お島は聞いていたが、お島のことと云うと、誰に向ってもひり出すように言いたい実母も、ただ簡単な応答をしているだけであった。
 こんな出入に口無調法な父親は、さも困ったような顔をしていたが、旋て井戸の方へまわって手顔を洗うと、内へ入って来た。お島は母親のいないところで、ついこの一両日前にも、父親が事によったら、母親に秘密で自分に頒けてもいいと言った地面の坪数や価格などについて、父親に色々聞されたこともあった。その坪は一千弱で、安く見積っても木ぐるみ一万円が一円でも切れると云うことはなかろうと云うのであった。お島は心強いような気がしたが、母親の目の黒いうちは、滅多にその分前に有附けそうにも思えなかった。
「家の地面は、全部でどのくらいあるの」お島は爾時も父親に訊いてみた。
「そうさな」と、父親は笑っていたが、それが大見一万近いものであることは、お島にも考えられた。中には野菜畠や田地も含まれていた。子供が多いのと、この二三年兄の浪費が多かったのとで、借金の方へ入っている場所も少くなかった。去年の秋から、家を離れて、田舎へ稼ぎにいっている兄の傍には、暫く係合っていた商売人あがりの女が未だに附絡っていたり、嫂が三つになる子供と一緒に、東京にあるその実家へ引取られていたりした。父親の助けになる男片と云っては、十六になるお島の弟が一人家にいるきりであった。
 家が段々ばたばたになりかかっていると云うことが、そうして五日も六日も見ているお島の心に感ぜられて来た。母親のやきもきしている様子も、見えすいていた。
十六
 お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを逍遥いていた。どうせここにいても、母親と毎日々々啀みあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に熟み靡れてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には一握の土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って集って急度作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や出入の人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの禿あがったような貧相らしい頸から、いつも耳までかかっている尨犬のような髪毛や赤い目、鈍くさい口の利方や、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも蔑視ましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって罵るのはまだしも、実父にまで、時々それを圧つけようとする口吻を洩されるのは、堪えられないほど情なかった。
 大分たってから皆の前へ呼ばれていった時、お島は漸と目に入染んでいる涙を拭いた。
「私もこの四五日忙しいんで、聞いてみる隙もなかったが、全体お前の了簡はどういうんだな」
 お島が太てたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が硬い手に煙管を取あげながら訊ねた。お島は曇んだ目色をして、黙っていた。
「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」
「私は厭です」お島は顔の筋肉を戦かせながら言った。
「他の事なら、何でも為て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」
 父親は黙って煙管を啣えたまま俛いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を瞶めていた。
「島、お前よく考えてごらんよ。衆さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。真実に惘れたもんだね」
「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは前屈みになって、華車な銀煙管に煙草をつめながら一服喫すと、「だからね、それはそれとして、左に右私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も煩いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と宥めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。
 お島を頷かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が分明わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。
「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。
 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、気爽におとらと話を交えた。
「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」
 おとらは途々お島に話しかけたが、左に右作の事はこれきり一切口にしないという約束が取極められた。
十七
 おとらは途で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体に吹聴していたが、お島にもその心算でいるようにと言含めた。
「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為ることは鈍間でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄棒というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。
 お島は何だか変だと思ったが、欺したり何かしたら承知しないと、独で決心していた。
 家へ帰ると、気をきかして何処かへ用達しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙漉場の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお叩頭をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取做方をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦むようであった。お島はこの家が遽に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破滅に陥ちて来たようにも考えられた。
「あの時王子の御父さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川へ流してしまったと云って御母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。
 お島はつんと顔を外向けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。
「旧を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」
 お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。
「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理があるとは言うまいよ」
 お島は俛いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。
 おとらが汐を見て、用事を吩咐けて、そこを起してくれたので、お島は漸と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納戸で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃を掃出しているうちに、自分がひどく脅されていたような気がして来た。
 夕方裏の畑へ出て、明朝のお汁の実にする菜葉をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから明朝の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢張いつものとおり、にやにやしていた。
「汚い、其地へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。
十八
 お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。
 残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分弱も剰して、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた箪笥から取出されたり、足りない物が買足されたりした。
 お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、総てのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や食物の世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を辿ってみると、養父や養母に媚びるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、粗雑ではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな矜を感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を悦んでいた。
「お島さんお島さん」と云って、周囲の人が、挙って自分を崇めているようにも見えた。馬糧用達の西田の爺いから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。
「くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ潰そうと思えば、何でもありゃしない」
 お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって大束を極込んだ。
 病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。それでなくとも、十年来住みなれて来ながら、一生ここで暮せようとは思えなくなった家に、めっきり親しみがなくなって来たお島は、よく懇意の得意先へあがっていって、半日も話込んでいた。主人に代って、店頭に坐ってお客にお世辞を振撒いたり、気の合った内儀さんの背後へまわって髪を取あげてやったりした。
「私二三年東京で働いてみようかしら」お島は何か働き効のある仕事に働いてみたい望みが湧いていた。
「笑談でしょう」内儀さんは笑っていた。
「いいえ真実。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです」
「でも貴方にぬけられちゃ、お家で困るでしょう」
「どうですかね。安心して私に委せておけないような人達ですからね。何を仕出来すかと思って、可怕いでしょう」お島は可笑しそうに笑った。
 目こする間に、さっさと髷に取揚げられた内儀さんの頭髪は、地が所々引釣るようで、痛くて為方がなかった。
十九
 お島は或時は、それとなく自分に適当した職業を捜そうと思って、人にも聞いてみたり、自分にも市中を彷徨いてみたりしたが、自分の智識が許しそうな仕事で、一生懸命になり得るような職業はどこにも見当らなかった。坐って事務を取るようなところは、碌々小学校すら卒業していない彼女の学力が不足であった。
 お島は時とすると、口入屋の暖簾をくぐろうかと考えて、その前を往ったり来たりしたが、そこに田舎の駈出しらしい女の無智な表情をした顔だの、みすぼらしい蝙蝠や包みやレーザの畳のついた下駄などが目につくと、もう厭になって、その仲間に成下ってまでゆこうと云う勇気は出なかった。
 お島は日がくれても家へ帰ろうともしず、上野の山などに独でぼんやり時間を消すようなことが多かった。山の下の多くの飲食店や、商家には灯が青黄色い柳の色と一つに流れて、そこを動いている電車や群衆の影が、夢のように動いていた。お島はそんな時、恩人の子息で、今アメリカの方へ行っているという男のことなどを憶出していた。そして旅費さえ偸み出すことができれば、何時でもその男を頼って、外国へ渡って行けそうな気さえするのであった。
「ここまで漕ぎつけて、今一ト息と云うところで、あの財産を放抛って出るなんて、そんな奴があるものか」
 お島がその希望をほのめかすと、西田の老人は頭からそれを排斥した。この老人の話によると、養家の財産は、お島などの不断考えているよりは、※[4]に大きいものであった。動産不動産を合せて、十万より凹むことはなかろうと云うのであった。床下の弗函に収ってあると云う有金だけでも、少い額ではなかろうと云うのであった。その中には幾分例の小判もあろうという推測も、強ち嘘ではなかろうと思われた。
 小い子供を多勢持っているこのお爺さんも、旧は矢張お島の養父から、資金の融通を仰いだ仲間の一人であった。今でも未償却のままになっている額が、少くなかった。老人は、何をおいても先、慾を知らなければ一生の損だということをお島にくどくど言聴した。
 お島はそれでその時はまた自分の家の閾を跨ぐ気になるのであったが、この老人や青柳などの口利で、婿が作以外の人に決めらるるまでは、動きやすい心が、動もすると家を離れていこうとした。
二十
 婚礼沙汰が初まってから、毎日のように来ては養父母と内密で談をしていた青柳は、その当日も手隙を見てはやって来て、床の間に古風な島台を飾りつけたり、何処からか持って来た箱のなかから鶴亀の二幅対を取出して、懸けて眺めたりしていた。
「今度と云う今度は島ちゃんも遁出す気遣はあるまい。己の弟は男が好いからね」青柳はそう言いながら、この二三日得意先まわりもしないでいるお島の顔を眺めた。青柳は頭顱の地がやや薄く透けてみえ、明みで見ると、小鬢に白髪も幾筋かちかちかしていたが、顔はてらてらして、張のある美しい目をしていた。弟はそれほど立派ではなかったが、摺った揉んだの揚句に、札がまたその男におちたと聞されたとき、お島は何となく晴がましいような気がせぬでもなかった。彼はその頃通いつつある工場の近くに下宿していて、兄の家にはいなかった。お島はこの正月以来その姿を見たこともなかった。一度自分に附文などをしてから、妙に疎々しくなっていたあの男が、婚礼の晩にどんな顔をして来るかと思うと、それが待遠しいようでもあり、不安なようでもあった。
 その日は朝からお島は、気がそわそわしていた。そしてまだ夜露のじとじとしているような畠へ出て、根芋を掘ったきりで、何事にも外の働きはしなかった。畑にはもう刈残された玉蜀黍や黍に、ざわざわした秋風が渡って、囀りかわしてゆく渡鳥の群が、晴きった空を遠く飛んで行った。
 午頃に頭髪が出来ると、自分が今婚礼の式を挙げようとしていることが、一層分明して来る様であったが、その相手が、十三四の頃から昵んで、よく揶揄われたり何かして来た気象の剽軽な青柳の弟に当る男だと思うと、更ったような気分にもなれなかった。おとらと三人でいる時でも、青柳はよくめきめき娘に成ってゆくお島の姿形を眺めて、おとらに油断ができないと思わせるような猥な辞を浴せかけた。
 作太郎はというと、彼も今日は一日一切の仕事を休ませられて、朝から床屋へいったり、湯に入ったりして冶していた。そしてお島の顔さえみるとにこにこして、座敷へ入って、ごたごた積重ねられてある諸方からの祝の奉書包や目録を物珍らしそうに眺めていた。
 頼んであった料理屋の板前が、車に今日の料理を積せて曳込んで来た頃には、羽織袴の世話焼が、そっち行き此方いきして、家中が急に色めき立って来た。その中には、始終気遣わしげな顔をして、ひそひそ話をしている西田の老人もあった。
「今夜遁出すようじゃ、お島さんも一生まごつきだぞ。何でも可いから、己に委して我慢をして......いいかえ」
 箪笥に倚りかかって、ぼんやりしているお島の姿を見つけると、老人は側へよって来て力をこめて言聴かせた。
二十一
 お島が、これも当夜の世話をしに昼から来ていた髪結に、黒の三枚襲ねを着せてもらった頃には、王子の父親も古めかしい羽織袴をつけ、扇子などを帯にはさんで、もうやって来ていた。余り人中へ出たことのない母親は、初めから来ないことになっていた。
 川へ棄てようかとまで思余したお島が、ここの家を相続することに成りさえすれば、婿が誰であろうと、そんな事には頓着のない父親は、お島の姿を見ても見ぬ振をして、茶の間で養父と、地所や家屋に関して世間話に耽っていた。日頃内輪同様にしている二三の人の顔もそこに見えた。不断養父等の居間にしている六畳の部屋に敷かれた座布団も、大概塞がっていた。中には濁声で高話をしている男もあった。
 外が暗くなる時分に、白粉をこてこて塗って繰込んで来た若い女連と無駄口を利いたりして、お島は時の来るのを待っていた。女連は大方は一度か二度以上口を利合った人達であったが、それが孰も、式のあとの披露の席に、酌や給仕をするために※[5]われて来たのであった。その中には着物の着こなしなどの、きりりとした東京ものも居た。
 女達が膳椀などの取出された台所へ出て行く時分に、漸と青柳の細君や髪結につれられて、お島は盃の席へ直された。
「まあ今日のベールだね」などと、青柳が心持わなないているお島の綿帽子を眺めながら気軽そうに言った。そんな物を着ることをお島が拒んだので、着せる着せないで談がその日も縺れていたが、到頭被せられることになってしまった。
 盃がすむと、お島は逃げるようにして、自分の部屋へ帰って来た。それまでお島は綿帽子をぬぐことを許されなかった。
 着替をして、再び座敷の入口まで来たときには、人の顔がそこに一杯見えていたが、手をひかれて自分の席へ落着くまでは、今日の盃の相手が、作であったことには少しも気がつかなかった。折目の正しい羽織袴をつけて、彼はそこに窮屈そうに坐っていた。そして物に怯えたような目で、お島をじろりと見た。
 お島は頭脳が一時に赫として来た。女達の姿の動いている明いそこいらに、旋風がおこったような気がした。そしてじっと俛いていると、体がぞくぞくして来て為方がなかった。
「どうだい島ちゃん、こうして並んでみると万更でもないだろう」青柳が一二杯猪口をあけた時分に、前屈みになって舐めるような調子で、私とお島の方へ声をかけた。
 吸物椀にぎごちない箸をつけていた作は、「えへへ」と笑っていた。
 お島は年取った人達のすることや言うことが、可恐しいような気がしていたが、作の物を貪り食っている様子が神経に触れて来ると、胸がむかむかして、体中が顫えるようであった。旋てふらふらと其処を起ったお島の顔は真蒼であった。
 二三人の人が、ばらばらと後を追って来たとき、お島は自分の部屋で、夢中で着物をぬいでいた。
二十二
 追かけて来た人達は、色々にいってお島をなだめたが、お島は箪笥をはめ込んである押入の前に直り喰着いたなりで、身動きもしなかった。
「これあ為様がない」幾度手を引張っても出て来ぬお島の剛情に惘れて、青柳が出ていったあとに、西田の老人と王子の父親とが、そこへお島を引据えて、低声で脅したり賺したりした。
「あれほど己が言っておいたに、今ここでそんなことを言出すようじゃ、まるで打壊しじゃないか」お爺さんは可悔そうに言った。
「ですから行きますよ。少し気分が快くなったら急度行きます」お島は涙を拭きながら、漸と笑顔を見せた。
「厭なものは厭でいいてこと。それはそれとして何処までも頑張っていなければ損だよ。なに財産と婚礼するのだと思えば肚はたたねえ」お爺さんは、そう言いながら、漸と安心して出て行った。
 しんとして白けていた座敷の方が、また色めき立って来た。ちょいちょい立ってはお島を覗きに来た人達も、やっと席に落着いて、銚子を運ぶ女の姿が、一時忙しく往来していた。
「おい島ちゃん、そんなに拗ねんでもいいじゃないか」作が部屋の前を通りかかったとき、薄暗りのなかにお島の姿を見つけて、言寄って来た。お島は帯をときかけたままの姿で、押入に倚かかって、組んだ手のうえに面を伏せていた。疳癪まぎれに頭顱を振たくったとみえて、綺麗に結った島田髷の根が、がっくりとなっていた。お島は酒くさい熱い息がほっと、自分の顔へ通って来るのを感じたが、同時に作の手が、脇明のところへ触れて来た。
「何をするんだよ」お島はいきなり振顧ると、平手でぴしゃりとその顔を打った。
「おお痛え。えれえ見脈だな」作は頬っぺたを抑えながら、怨めしそうにお島の顔を眺めていた。
 髪結が来て、顔を直してくれてから、お島が再び座敷へ出て行った頃には、席はもう乱れ放題に乱れていた。お島はぐでぐでに酔っている青柳に引張られて、作の側へ引すえられたが、父親や養父の姿はもう其処には見えなかった。作は四五人の若いものに取囲まれて、連に酒を強いられていたが、その目は見据って、あんぐりした口や、ぐたりとした躯が、他哩がなかった。
二十三
 その夜の黎明に、お島が酔潰れた作太郎の寝息を候って、そこを飛出した頃には、お終まで残ってつい今し方まで座敷で騒いで、ぐでぐでに疲れた若い人達も、もう寝静ってしまっていた。
 お島は庭の井戸の水で、白粉のはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の田圃道まで出て来たが、濛靄の深い木立際の農家の土間から、釜の下を焚きつける火の影が、ちょろちょろ見えたり、田圃へ出て行く人の寒そうな影が動いていたりした。じっとりした往来には、荷車の軋みが静かなあたりに響いていた。徹宵眠られなかったお島は、熱病患者のように熱った頬を快い暁の風に吹れながら、野良道を急いだ。酒くさい作の顔や、ごつごつした手足が、まだ頬や体に絡わりついているようで、気味がわるかった。
 王子の町近く来た時分には、もう日が高く昇っていた。そこにも此処にも烟が立って、目覚めた町の物音が、ごやごやと聞えていた。
「今時分はみんな起きて騒いでるだろうよ」お島はそう思いながら、町垠にある姉の家の裏口の方へ近寄っていった。
 山茶花などの枝葉の生茂った井戸端で、子供を負いながら襁褓をすすいでいる姉の姿が、垣根のうちに見られた。花畠の方で、手桶から柄杓で水を汲んでは植木に水をくれているのは、以前生家の方にいた姉の婿であった。水入らずで、二人で恁して働いている姉夫婦の貧しい生活が、今朝のお島の混乱した頭脳には可羨しく思われぬでもなかった。姉は自分から好きこのんで、貧しいこの植木職人と一緒になったのであった。畠には春になってから町へ持出さるべき梅や、松などがどっさり植つけられてあった。旭が一面にきらきらと射していた。はね釣瓶が、ぎーいと緩い音を立てて動いていた。
「長くはいませんよ、ほんの一日か二日でいいから」お島はそう言って、姉に頼んだ。そして、いきなり洗いものに手を出して、水を汲みそそいだり、絞ったりした。
「そんな事をして好いのかい。どうせお詫を入れて、此方から帰って行くことになるんだからね」姉は手ばしこく働くお島の様子を眺めながら、子供を揺り揺り突立っていた。
「なに、そんな事があるもんですか。何といったって、私今度と云う今度は帰ってなんかやりませんよ」
 お島は絞ったものを、片端から日当のいいところへ持っていって棹にかけたりした。日光が腫れただれたように目に沁込んで、頭痛がし出して来た。
「またお島ちゃんが逃げて来たんですよ」姉は良人に声かけた。
 良人は柄杓を持ったまま「へへ」と笑って、お島の顔を眺めていた。お島も眩しい目をふいて笑っていた。
二十四
 晩方近くに、様子を探りかたがた、ここから幾許もない生家を見舞った姉は、養家の方からお島を尋ねに出向いて来た人達が、その時丁度奥で父親とその話をしているところを見て帰って来た。それらの人を犒うために、台所で酒の下物の支度などをしていた母親と、姉は暫く水口のところで立話をしてから、お島のところへ戻って来たのであった。
「島ちゃん、お前さん今のうちちょっと顔をだしといた方がいいよ」
 一日痛い頭脳をかかえて奥で寝転んでいたお島の傍へ来て、姉は説勧めた。
 お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を拵えて、田舎の方にいる兄のところへ遠っ走りをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、棄鉢な空想に耽ったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。
 姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。
「ふん、御父さんや御母さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ」お島はぷりぷりして呟きながら出ていった。
 外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の灯影が水々して見えた。茶畑などの続いている生家の住居の周囲の垣根のあたりは、一層静かであった。
 お島が入っていった時分には、もう衆は弓張提灯などをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は両親の前へ出ると、急に胸苦しくなって、昨夜から張詰めていた心が一時に弛ぶようであった。
「御心配をかけて、どうも済みません」お島はそう言ってお叩頭をしようとしたが、筋肉が硬張ったようで首も下らなかった。
「何て莫迦なまねをしてくれたんだ」父親はお島に口を開かせず、いきなり熱り立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。
二十五
 お島が数度の交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。
 お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に逆って、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、終にお島の頭髪を掴んで、彼女をそこに捻伏せて打のめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔利きの口から、父親の耳へも入っていた。それらの人の話によると、安心して世帯を譲りかねるような挙動がお島に少くなかった。金遣いの荒いことや、気前の好過ぎることなどもその一つであった。おとらと青柳との秘密を、養父に言告けて、内輪揉めをさせるというのもその一つであったが、総てを引括めて、養家に辛抱しようと云う堅い決心がないと云うのが、養父等のお島に対する不満であるらしかった。
「だから言わんこっちゃない。稚い時分から私が黒い目でちゃんと睨んでおいたんだ。此方から出なくたって、先じゃ疾の昔に愛相をつかしているのだよ」母親はまた意地張なお島の幼い時分のことを言出して、まだ娘に愛着を持とうとしている未練げな父親を詛った。
「こんなやくざものに、五万十万と云う身上を渡すような莫迦が、どこの世界にあるものか」
 太てていて、飯にも出て来ようとしないお島を、妹や弟の前で口汚く嘲るのが、この場合母親に取って、自分に隠して長いあいだお島を庇護だてして来た父親に対する何よりの気持いい復讎であるらしく見えた。
 お島も負けていなかった。母親が、角張った度強い顔に、青い筋を立てて、わなわな顫えるまでに、毒々しい言葉を浴せかけて、幼いおりの自分に対する無慈悲を数えたてた。目からぽろぽろ涙が流れて、抑えきれない悲しみが、遣瀬なく涌立って来た。
「手前」とか、「くたばってしまえ」とか、「親不孝」とか、「鬼婆」とか、「子殺し」とか云うような有りたけの暴言が、激しきった二人の無思慮な口から、連に迸り出た。
 そんな争いの後に、お島は言葉巧な青柳につれられて、また悄々と家を出て行ったのであった。
二十六
 その晩は月は何処の森の端にも見えなかった。深く澄わたった大気の底に、銀梨地のような星影がちらちらして、水藻のような蒼い濛靄が、一面に地上から這のぼっていた。思いがけない足下に、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は太息を洩した。道が人気の絶えた薄暗い木立際へ入ったり、線路ぞいの高い土堤の上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に途断れ途断れに啼立っていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、独で何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。
 けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、先刻からお島が微な予感に怯えていた青柳の気紛れな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。
「ちょッ......笑談でしょう」
 道傍に立竦んだお島は、悪戯な男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。
 甘い言をかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。
「御母さんに叱られますよ」お島は軽くあしらいながら歩いた。
「現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切己の掌のうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて了おうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ」
 威嚇の辞と誘惑の手から脱れて、絶望と憤怒に男をいら立せながら、旧の道へ駈出すまでに、お島は可也悶※[6]き争った。
 直にお島は、息せき家へ駈つけて来た。そしていきなり父親の寝室へ入って行った。
「それが真実とすれあ、己にだって言分があるぞ」いつか眠についていた父親は、床のうえに起あがって、煙草を喫しながら考えていた。
「彼奴はあんな奴ですよ。畜生人を見損っていやがるんだ」お島は乱れた髪を掻あげながら、腹立しそうに言った。そして興んだ調子で、現場の模様を誇張して話した。父の信用を恢復せそうなのと、母親に鼻を明させるのが、気色が好かった。
二十七
 お島が不断から目をかけてやっている銀さんと云う年取った車夫が、誰の指図とも知れず、俥を持って迎いに来たのは、お島たちが漸と床に就こうとしている頃であった。
「何だ今時分......」玄関わきの部屋に寝ていたお島は、その声を聞つけると、寝衣に着替えたまま、門の潜りを開けに出たが、盆暮にお島が子供に着物や下駄を買ってくれたり、餅をついてやったりしていた銀さんは、どうでも今夜中に帰ってくれないと、家の首尾がわるいと言って、門の外に立ったまま動かなかった。
「きっと青柳と御母さんと相談ずく���、寄越したんだよ」お島は一応その事を父親に告げながら笑った。
 父親は、お島から養家の色々の事情を聞いて、七分通り諦めているようであったが、矢張このまま引取って了う気にはなっていなかった。作太郎と表向き夫婦にさえなってくれれば、少しくらいの気儘や道楽はしても、大目に見ていようと云ったと云う養母の弱味なども、父親には初耳であった。
「芸人を買おうと情人を拵えようとお前の腕ですることなら、些とも介意やしないなんて、そこは自分にも覚えがあるもんだから、お察しがいいと見えて、よくそう言いましたよ。どうして、あの御母さんは、若い時分はもっと悪いことをしたでしょうよ」お島は頑固な父親をおひゃらかすように、そうも言った。
 そんな連中のなかにお島をおくことの危険なことが、今夜の事実と照合せて、一層明白して来るように思えた父親は、愈お島を引取ることに、決心したのであったが、迎いが来たことが知れると、矢張心が動かずにはいなかった。
「作さんを嫌って、お島さんが逃げたって云うんで、近所じゃ大評判さ」とにかく今夜は帰ることにして、銀さんは、漸うお島を俥に載せると、梶棒につかまりながら話しはじめた。
「だが今あすこを出ちゃ損だよ。あの身代を人に取られちゃつまらないよ」
「作の馬鹿はどんな顔している」お島は車のうえから笑った。
 家へ入っても、いつものように父親の前へ出て謝罪ったり、お叩頭をしたりする気になれなかったお島は、自分の部屋へ入ると、急いで寝支度に取かかった。
「帰ったら帰ったと、なぜ己んとこへ来て挨拶をしねえんだ」養母にささえられながら、疳癪声を立てている養父の声が、お島の方へ手に取るように聞えた。
「お前がまたわるいよ」おとらは、寝衣のまま呼つけられて枕頭に坐っているお島を窘めた。
「それに自分の着物を畳みもせずに、脱っぱなしで寝て了うなんて、それだから御父さんも、この身上は譲られないと言うんじゃないか」
 剛情なお島は、到頭麺棒で撲られたり足蹴にされたりするまでに、養父の怒を募らせてしまった。
二十八
 植源という父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或鑵詰屋へ縁着かせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や頭髪のものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。
 植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年弱もいて、職人と一緒に起臥して来たりした主人は、お島より十近くも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。
 鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある棟梁の家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、噂していた。植源の嫁は、生家の近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直��ぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の註文を持ちまわっていた。
 先の上さんが、肺病で亡ったことを、お島はいよいよ片着くという間際まで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか厭なような気もした。
「先の上さんのような、しなしなした女は懲々だ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ」姉は肥りきったお島の顔を眺めながら揶揄ったが、男のいい鶴さんを旦那に持つことになったお島の果報に嫉妬を持っていることが、お島に感づかれた。死んだ上さんの衣裳が、そっくりそのまま二階の箪笥に二棹もあると云うことも、姉には可羨しかった。
 結納の取換せがすんで、目録が座敷の床の間に恭しく飾られるまでは、お島は天性の反抗心から、傍で強いつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と喜悦に和ぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する矜を傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う噂が、年のうちに此方へも伝っていた。お島はそのことを、糧秣問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。
「あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ」お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。
二十九
 結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜極親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な祝言をすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や長襦袢が、屏風の蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。蓬莱を飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。
 客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に為て聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、前の上さんの病気の療治に骨の折れたことや、金のかかった事をも零した。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の手隙には、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう[7]時には、お島は店を預かって、しっかり遣ってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを措いているらしかった。
 部屋などの取片着をしているうちに、翌日一日は直に経ってしまった。お島は時々細い格子のはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や莫大小屋の店を見たりしていたが、檻のような窮屈な二階に竦んでばかりもいられなかった。それで階下へおりてみると、下は立込んだ廂の差交したあいだから、やっと微かな日影が茶の室の方へ洩れているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には厚司を着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。
 二日三日と日がたって行った。お島は頭髪を丸髷に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の余も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている良人の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に育み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ牽つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。
三十
 麗な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日潰してお島と一緒に、媒介の植源などへ礼まわりをして、それからお島の生家の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、前の上さんの義理の弟——先代の妾とも婢とも知れないような或女に出来た子供——のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に喰わぬといって、後廻しにすることにした。
 お島はこの頃漸く落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい較強味のある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の手絡をかけて、こってりと濃い白粉にいくらか荒性の皮膚を塗つぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。
 鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の柄も、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。
「かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない」
 鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら鍵を取出して、そこへ投出した。
「でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか」
「それもそうだな」と、鶴さんは淋しそうな顔をして笑っていた。
「それにおかねさんの思いに取着かれでもしちゃ大変だ」お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを引くら返していた。
「でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか」
「何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね」鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。
「あの慾張婆め、これも廃れた柄だ、あれも老人じみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ」鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。
 お島は錠をはずして、抽斗を二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて覗いていたが、お島の目には、まだそれがじみ[8]すぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。
「そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない」お島は蓮葉に言って笑った。
「戯談じゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう」
 左に右二人は初めて揃って、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから振顧ったが、お島はクレーム色のパラソルに面を隠して、長襦袢の裾をひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た柳条が、たおやかに※[9]っていた。お島は何となく胸を唆られるようで、今までとは全然ちがった明い世間へ出て来たような歓喜を感じていたが、良人の心持がまだ底の底から汲取れぬような不安と哀愁とが、時々心を曇らせた。今まで人に恵んだり、助力を与えたりしたことは、養父母の非難を買ったほどであったが、矜と満足はあっても、心から愛しようと思おうとしたような人は、一人もなかった。真実に愛せられることも曽てなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜み蟠まっているようであった。鶴さんは、それはそれとして大事に秘めておいて、自身の生活の単なる手助として、自分を迎えたのでしかないように思えた。駢んで電車に乗ってからも、お島はそんなことを思っていた。
三十一
 奉公人などに酷だというので、植源いこうか茨脊負うか、という語と共に、界隈では古くから名前の響いたその植源は、お島の生家などとは違って、可也派手な暮しをしていたが、今は有名な喧し屋の女隠居も年取ったので、家風はいくらか弛んでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。
 大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの昵みであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。
 おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽古などをした故か、嫻かな落着いた女で、生際の富士形になった額が狭く、切の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小作な体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを散かしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は更まったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく座蒲団をしいてくれた。
「そう急に他人行儀にしなくても可いじゃありませんか」鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。
「いいじゃありませんか。もう極のわりいお年でもないでしょう」おゆうは顔を赧めながら言って、二人を見比べた。
「貴女ちっとは落着きなさいましてすか」おゆうはお島の方へも言をかけた。
「何ですか、私はこういうがさつ[10]ものですから、叱られてばかりおりますの」お島は体よく遇っていた。
「でもあの辺は可うございますのね、周囲がお賑かで」おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の髪へも手をやっていた。
 性急の鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、燥いだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、薔薇の大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。四阿屋の方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。
「どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが......」鶴さんは時計を見ながらお島に言った。「何なら一人でいっちゃどうだ」
「不可ませんよ、そんなことは......」おゆうはいれ替えて来たお茶を注ぎながら言った。
 それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。
三十二
 日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし気懈い仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の生家へ行ってみようと云う興味は、もうすっかり殺げてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、[11]話しの調子がはずむようなので、古昵みのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど睦み合っては歩けなくなった。
「でも此処まで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね」
 今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。
「それ程にして戴かなくたって可いんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。生家は生家で、縁も由縁もない家ですからね」お島はそう言いながら、従いて行った。
 生家では母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、愛相らしい辞をかけることもできぬ程、お互に神経が硬張ったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは全然様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの身の上談などを、例の急々した調子で話していた。
「ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この恢復がつきません」
 鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。
「どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって......」
 鶴さんは語のはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、終に莫迦々々しかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。
「こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、厳しく仰ゃって、どうか駆使ってやって下さい」母親はじろりとお島を見ながら言った。
 鶴さんは感激したような調子で、弁るだけのことを弁ると、煙管を筒に収めて帰りかけた。
「何を言っていたんです」お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。「あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように駆使いさえすれあ可いものだと思っている人間だもの」
三十三
 夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、手提鞄と膝懸と細捲とを持って、停車場まで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体頭脳へ入って来たお島は、すっかり後を引受けて良人を送出したが、意気な白地の単衣物に、絞の兵児帯をだらりと締めて、深いパナマを冠った彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。
 それにお島は今月へ入ってからも、毎時のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして漸とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが気忙しそうに旅行の支度を調えてからの昨夜であった。
「私何だか体の様子が可笑いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、厠へいって帰って来ると、漸とうとうとと眠りかけようとしている良人の枕頭に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ往来の人の跫音がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。
「そいつぁ些と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の暢々した白い手をのばして、莨盆を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している体であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当擦や厭味を言ったりして漸と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮声をつかって、先の処と名を突留めようと骨を折ったが、その効がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜疑に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉......そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃めている女が、片端から恋の仇か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに揶揄われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑談らしく、妹のそこにあることを意にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。
 お島はそれが癪にさわったといって、後で鶴さんと大喧嘩をしたほどであった。
三十四
 鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して聴す作太郎の様子などで、その時はそれで釈けるのであったが、その疑いは護謨毬のように、時が経つと、また旧に復った。
「嘘だと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって可いでしょう......」お島は身顫が出るような様子をして、その男のことを話した。
「嫌う嫌わないは別問題さ。左に右結婚したと云うのは事実だろう」
「だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです」
「しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可怪しいよ」
 最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、漸と朧げに見えすいて来たように思えた。
「そうして見ると、あの人達は、そっくり私に迹を譲る気はなかったもんでしょうかね」お島は長いあいだ自分一人で極込んでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって根柢からぐらついて来たような失望を感じた。
 お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や言に、それと思い当ることばかり、憶出せて来た。
「畜生、今度往ったら、一捫着してやらなくちゃ承知しない」お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて狎々しくなった様子に、厭気のさして来ていることが可悔かった。
 二年の余も床についていた前の上さんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた下谷の方の女と、鶴さんが時々媾曳していることが、店のものの口吻から、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった小遣をくれたり、食物を奢ったりした。彼等はどうかすると、鼻ッ張の強い女主人から頭ごなしに呶鳴りつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、希らしくなかった。
 鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循巡って見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく土産などを提げて、好い機嫌で帰って来た。
三十五
 荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。
 鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場へ湯治に行っていたりした為だというのであったが、それから程なく、鶴さんの留��の間に北海道から入って来た数通の手紙の一つが、旅で馴染になった女からであることが、その手紙の表記でお島にも容易く感づけた。
 帰ってからも、そっちこっち飛歩いていて、碌々旅の話一つしんみり為ようともしなかった鶴さんが、ある日帳簿などを調べたところによると、お島はお島だけで、留守中に可也販路を拡めていることが解って来たが、それは率ね金払いのわるいような家ばかりであった。これまでに鶴さんが手をやいた質の悪い向も二三軒あったが、中にはまたお島が古くから知っている堅い屋敷などもあった。お島は少しでも手繋のあるようなそれ等の家から、食料品の註文を取ることが、留守中の毎日々々の仕事であったが、品物ばかり出て勘定の滞っているのが、其方にも此方にも発見せられた。
 悪阻などのために、夏中動もするとお島は店へも顔を出さず、二階に床を敷いて、一日寝て暮すような日が多かったが、気分の好い時でも、その日その日の売揚の勘定をしたり、店のものと一緒に、掛取に頭脳を使ったりするのが煩わしくなると、着飾って生家や植源へ遊びに出かけるか、昵みの多い旧の養家の居周やその得意先へ上って話こむかして、時間を銷さなければならなかった。養家では、作太郎が近所の長屋を一軒もらって、嫁と一緒に相変らず真黒になって働いていたが、お島はその方へも声をかけた。
「今度田舎の土産でもさげて、お島さんの婿さんの顔を見にいくだかな」作は帰りがけのお島に言ってにやにや笑っていた。
「まあそうやって、後生大事に働いてるが可いや。私も危く瞞されるところだったよ。養母さんたちは人がわるいからね」お島も棄白でそこを出た。
三十六
 暫くぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の噂などをして、一人で饒舌りちらして帰って行った。
 お島は気���の折れる子持の客の帰ったあとで、気憊れのした体を帳場格子にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、単衣もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも極のわるいほど、月が重っていた。
 旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、幾んど一日もなかった。偶に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、猥らな端唄の文句などを低声で謡って、一人で燥いでいた。
「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の片などを弄りながら、傍で擽ったいような笑方をした。
「面白くでもない。北海道の女のお自惚なんぞ言って」
「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい襦袢などを眺めていた。
「ちょいと、貴方はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも訊いてみた。
「どうせ私には肖ていまい。そう思っていれあ確かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。
「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を赧めた。「でも笑談にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」
「此方の身も可哀そうだ」
「それは色女に逢えないからでしょう」
 二人の神経が段々尖って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり跳起きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。
 今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの文が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。
「それは可笑しいの」姉は一つはお島を煽るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への嫉妬のために、調子に乗って話した。
「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は碌素法工場へ顔出しもしないで、そこへばかり入浸っていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、彼方へ往く度に札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、鉱山が売れたら、その女を落籍して東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの」
 姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。
「それに鶴さんは、着物や半衿や、香水なんか、ちょいちょい北海道へ送るんだそうだよ。島ちゃん確りしないと駄目だよ」姉はそうも言った。
「何に」と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、恐怖と疑惧とを感じて来た。
三十七
 植源の嫁のおゆうの部屋で、鶴さんと大喧嘩をした時のお島は、これまで遂ぞ見たこともないようなお盛装をしていた。
 お島が鶴さんに無断で、その取つけの呉服屋から、成金の令嬢か新造の着る様な金目のものを取寄せて、思いきったけばけばしい身装をして、劈頭に姉を訪ねたとき、彼女は一調子かわったお島が、何を仕出来すかと恐れの目を※[12]った。看ればハイカラに仕立てたお島の頭髪は、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体に咽ぶような香水の匂がしていた。
 旅から帰ってからの鶴さんに、始終こってり作の顔容を見せることを怠らずにいたお島の鏡台には、何の考慮もなしに自暴に費さるる化粧品の瓶が、不断に取出されてあった。夜臥床に就くときも、色々のもので塗りあげられた彼女の顔が、電気の灯影に凄いような厭な美しさを見せていた。
「大した身装じゃないか。商人の内儀さんが、そんな事をしても可いの」惜気もなくぬいてくれる、お島が持古しの指環や、櫛や手絡のようなものを、この頃に二度も三度ももらっていた姉は、媚びるように、お島の顔を眺めていた。
「どうせ長持のしない身上だもの。今のうち好きなことをしておいた方が、此方の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な真似をしているんじゃないか」
 お島はその日も、外へ出ていった鶴さんの行先を、てっきり植源のおゆうの許と目星をつけて、やって来たのであった。そして気味を悪がって姉の止めるのも肯かずに、出ていった。
 おどおどして入っていった植源の家の、丁度お八つ時分の茶の室では、隠居や子息と一緒に、鶴さんもお茶を飲みながら話込んでいたが、お島が手土産の菓子の折を、裏の方に濯ぎものをしているおゆうに示せて、そこで暫く立話をしている間に、鶴さんも例の折鞄を持って、そこを立とうとしておゆうに声をかけに来た。
「まあ可いじゃありませんか。お島さんの顔を見て直き立たなくたって。御一緒にお帰んなさいよ」
 おゆうは愛相よく取做した。
「自分に弱味があるからでしょう」お島は涙ぐんだ面を背向けた。
 夫婦はそこで、二言三言言争った。
「私も、島のいる前で、一つ皆さんに訊いてもらいたいです」鶴さんは蒼くなって言った。
 そしておゆうがお島をつれて、自分の部屋へ入ったとき、鶴さんもぶつぶつ言いながら、側へやって来た。
「孰も孰だけれど、鶴さんだって随分可哀そうよお島さん」終いにおゆうはお島に言かけたとき、お島は可悔そうにぽろぽろ涙を流していた。
 夫婦はそこで、撲ったり、武者振ついたりした。
 大分たってから、呼びにやった姉につれられて、お島はそこから姉の家へ還されていった。
三十八
 姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの悪口が絶えなかった。おゆうに庇護われている男の心が、歯痒かったり、妬ましく思われたりした。男を我有にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。
 お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の膳に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の箸を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。
「そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが皆な私を待っているでしょう」お島は蚊帳のなかで子供を寝しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。
「良人はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」
「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。
「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。
 外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や山茶花などの木立の多い、その界隈は閑寂していた。お島の足は惹寄せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を窘めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、稚馴染のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。
 大きな石の門のうえに、植源と出ている軒燈の下に突立って、やがてお島は家の方の気勢に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、灯影一つ洩れていなかった。お島は※[13]と欅の木とで、二重になっている外囲の周を、其方こっち廻ってみたが、何のこともなかった。
 車で家へ帰ったのは、大分おそかった。
「お帰んなさい」
 店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は漸と胸一杯に安心と歓喜との溢れて来るのを感じたが、矢張声をかける気になれなかった。
 上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。脱棄が投出してあったり、蔽いをとられたままの箪笥の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。
三十九
 お島は二三度階下へおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで経っても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が更けて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく壊れた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、頭脳がぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、彼女もいつか蒲団を引被いで寝ていた。
「お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので」お島はそう言いながら、呻吟声を立てていた。
 鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、彼方かえし此方返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを投りだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は闃寂して、下の茶の室の簷端につるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。
 お島は後向になったまま、何をするかと神経を研すましていたが、今まで懈くて為方のなかった目までが、ぽっかり開いて来た。そして、ふと紙のうえを軋る万年筆の音が、耳にふれて来ると、渾身の全神経がそれに錘って来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。
「何をしてるんです、今時分......」
 お島はいきなり声を立てて、鶴さんを吃驚させた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。
 鶴さんは、ちらと此方を見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、忽ち床から乗出して、その手紙を褫奪ろうとした。
「おい、戯談じゃないぜ」
 鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を浚っていくために臂まで這出して来た。
「おい、ちょっと話がある」大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。暴出すお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、爪痕のばら桜になっている腕をさすりながら、莨を喫していた。
 お島はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。
「......お前のようなものに、勝手な真似をされたんじゃ、商人はとても立って行っこはありゃしないんだからね」鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの前の内儀さんに対する立場などを説立ててから言出した。
「そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお貰いなさい」お島は憎さげに言を返したまま、またくるりと後向になった。
四十
 返したとも返ったとも決らずに、お島が時々生家や植源の方へ往ったり来たりしていた頃には、鶴さんの家も大分ばたばたになりかけていた。
 北海道の女の方のそれはそれとして、以前から関係のあった下谷の女の方へ、一層熱中して来た鶴さんは、店のものの一人が所々の仕切先をごまかして、可也な穴を開けたことにすら気のつかぬほど、店を外にしていた。
「子供だけは私が家において立派に育ててやるつもりです」
 鶴さんは、植源の隠居や嫁の前へ来ると、いつもお島の離縁話を持出しては、口癖のように言っていたが、お島に向ってもそれを明言した。
 植源の隠居に委してある、自分の身のうえに深い不安を懐きながら、毎日々々母親に窘りづめにされていたお島は、ある朝釜の下の火を番しながら、跪坐んでいたとき言を返したのが胸にすえかねたといって、母親のために、そこへ突転されて、竃の角で脇腹を打ったのが因で、到頭不幸な胎児が流れてしまった。
 その時お島は、飯の支度をすまして、衆と一緒に、朝飯の膳に向って、箸を取かけていた。もう十月の半で、七輪のうえに据えた鍋のお汁の味噌の匂や、飯櫃から立つ白い湯気にも���秋らしい朝の気分が可懐しまれた。
 女を追って、田舎へ行ったきり、もう大分になる総領の姿のみえぬ家のなかは、急に衰えのみえて来た父親の姿とともに、この頃際立って寂しさが感ぜられて来た。食かけた朝飯の箸を持ったまま、急に目のくらくらして来たお島は、声を立てるまもなく、そこへ仆れてしまったのであったが、七月になるかならぬの胎児が出てしまったことに気の附いたのは、時を経てからであった。
 一目もみないで、父親や鶴さんの手で、産児の寺へ送られていったのは、その晩方であったが、思いがけなく体の軽くなったお島の床についていたのは、幾日でもなかった。
 健康が回復して来ると同時に、母親と植源の隠居とのどうした談合でか、当分植源にいっていることに決められたお島は、そこで台所に働いたり、冬物の針仕事に坐ったりしていた。ぐれ出した鶴さんは、口喧しい隠居の頑張っているこの閾も高くなっていた。お島はおゆうの口から、下谷の女を家へ入れる入れぬで、苦労している彼の噂をおりおり聞されたりした。
「ああなってしまっちゃ、あの人ももう駄目よ」おゆうは鶴さんに愛相がつきたように言った。
四十一
 一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。
 植源の庭には、大きな水甕が三つもあった。お島は男の手の足りないおりおりには、その一つ一つに、水を盈々汲込まなければならなかった。そしてそれを沢山の花圃や植木に漑がなければならなかった。その頃かかっていた病身な出戻りの姉娘の連れていた二人の子供の世話も、朝晩に為なければならなかった。田舎で鉄道の方に勤めていた官吏の許へ片づいていたその姉は、以前この家に間借をしていたことのあるその良人が、田舎へ転任してから、七年目の今茲の夏、遽に病死してしまった。
 東北訛のその子供は、おゆうには二人とも嫌われたが、お島には能く懐いた。お島は暇さえあると、髪を結ったり、リボンをかけてやったり、寝起や入浴や食事の世話に骨惜みをしなかった。
 嫁にやられるとき、拵えて行ったものなどを不残亡くして、旅費と当分の小遣にも足りぬくらいの金を、少ばかりの家財を売払って持って来た姉は、まだ乳離れのせぬ小い方の男の子を膝にのせて、時々縁側の日南に坐りながら、ぼんやりお島の働きぶりを眺めていた。
「能くそんなに体が動いたもんだわね」
 姉は感心したように言をかけた。お島は襷がけの素跣足で、手水鉢の水を取かえながら、鉢前の小石を一つ一つ綺麗に洗っていた。夏中縁先に張出されてあった葭簀の日覆を洩れて、まだ暑苦しいような日の差込む時が、二三日も続いた。
「ええ、子供の時分から慣れっこになっていますから」お島は笑いながら応えた。
「子供を産んだ人とは思われないくらいですよ」
「だって漸う七月ですもの。私顔も見ませんでしたよ。淡白したもんです」
「それにしたって、旦那のことは忘れられないでしょう」
「そうですね。がさがさしてる癖に、余り好い気持はしませんね」
「矢張惚れていたんだわね」
「そうかも知れませんよ」お島は顔を赧めて、
「私が暴れて打壊したようなもんですの。あの人はまたどうして、あんなに気が多いでしょう。些いと何かいわれると、もう好い気になって一人で騒いでいるんですもの。その癖嫉妬やきなんですがね」
「でも能く思切って了ったわね」
「芸者や女郎じゃあるまいし、いつまで、くよくよしていたって為方がないですもの。私はあんなへなへなした男は大嫌いですよ」
「それもそうね。——私も思切って、どこか働きに行きましょうかしら」
「御笑談でしょう。そんな可愛い坊ちゃんをおいて、何処へ行けるもんですか」
四十二
 夜になると、お島はまた隠居の足腰をさすって、寝かしつけてやるのが、毎日の日課であったが、時とすると子息夫婦に対する、病的な嫉妬から起るこの老婦の兇暴な挙動をも宥めてやらなければならなかった。
 四十代時分には、時々若い遊人などを近けたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、幼い時から甘やかして育てて来た子息の房吉を、猫可愛がりに愛した。一度脳を患ったりなどしてから、気に引立がなくなって、温順しい一方なのが、彼女には不憫でならなかった。房吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に率つけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を抱きはじめたが、それも母親に遮られて、修業らしい修業もしずにしまった。
 寝るにも起きるにも、自分ばかりを凝視めて暮しているような、年取った母親の苛辣な目が、房吉には段々厭わしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が惹つけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った辞が、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。
 結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が気鬱な母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。夜更に目敏い母親の跫音が、夫婦の寝室の外の縁側に聞えたり、夜の未明に板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。
 お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。
 家にいても、大抵きちんとした身装をして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を活けたり、書画を弄ったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい辞を浴せられた。
「あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ」母親はそうも言った。
 衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、爾時五月の腹を抱えていた。日に日に気懈そうにみえて来るおゆうの媚いた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。
四十三
 お島の姉が、暑い日盛に帽子も冠せない子供を、手かけに負って、庭の方からまわって、おゆうを呼出しに来たとき、門のうちに張物をしていたお島と、自分の部屋の縁側で、髪を洗っていたおゆうを除いたほか、大抵の人は風通しの好さそうな場所を択んで、昼寝をしていた。房吉は時々出かけてゆく、近所の釣堀へ遊びに行っていたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を啣ませながら、茶の室の方で、手枕をしながら、乱次なく眠っていた。家のなかは、どこも彼処も長い日の暑熱に倦み疲れたような懈さに浸っていた。
 大輪の向日葵の、萎れきって項だれた花畑尻の垣根ぎわに、ひらひらする黒い蝶の影などが見えて、四下は汚点のあるような日光が、強く漲っていた。
 姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ卸して、袂で汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の端に、紙片を捲つけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。
「きっと鶴さんが来ているんだ」
 お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。
「姉さんも随分な人だよ」
 お島はいきなり姉の側へ寄っていった。
「どうしてさ」姉は這っている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を赧めた。
「解ってますよ」
「可笑な人だね。解っていたら可いじゃないの」
「そんな事をしても可いんですか」
「いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ」
 二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に内密で、おゆうから少ばかり融通をしてもらうために、私と姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。
「ふむ」お島は首を傾げて、「じゃもう、あの店も駄目だね」
「そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行くて言ってるわ」
「芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散々好きなことをして、店を仕舞うがいいや」
 お島は自暴に言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に荒みきった神経質な顔などが、目について来た。
 暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。
 おゆうの部屋を出て行く姉の手には、小袖を四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。
四十四
 堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に洩したお島は、それを又お鈴から聞いて、宛然姦通の手証でも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な苛責からおゆうを庇護うことに骨がおれた。
 宵の口に、お島にすかし宥められて、一度眠りについた隠居は、衆がこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した蚊帳のなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに倦み果てたように、四下を見回していた。
 宵に母親に警め責められた房吉は、隠居がじりじりして業を煮せば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを近けていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑稽にも莫迦々々しくも見えた。
「誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ」
 ※弱[14]かった幼い頃の房吉の養育に、気苦労の多かったことなどを言立てる隠居の言を、好い加減に房吉は聞流していた。
「不義した女を出すことが出来ないような腑ぬけと、一生暮そうとは思わない。私の方から出ていくからそう思うがいい」
 思っていることの半分も言えない房吉は、それでも二言三言辞を返した。
「そんな事があったか否か知らないけれど、私の家内なら、阿母さんは黙ってみていたらいいでしょう。一体誰がそんな事を言出したんです」
 隠居の肩を揉んでいたお島は、それを聴きながら顔から火が出るように思ったが、矢張房吉を歯痒く思った。
 無成算な、その日その日の無駄な働きに、一夏を過して来たお島は、習慣でそうして来た隠居の機嫌取や、親子の間の争闘の取做にも疲れていた。寝苦しい晩などには、お島は自分自身の肉体の苦しみが、まだ戸もしめずに、いつまでもぼそぼそ話声のもれている若夫婦の寝室の方へも見廻ってみる、隠居と一つに神経を働かせた。
「まあ、そんな事はいいでしょう」お島は外方を向きながら鼻で笑った。
「お前がそんな二本棒だから、おゆうが好きな真似をするんだ。お前が承知しても、この私が承知できない。さあ今夜という今夜は、立派におゆうの処分をしてみせろ。それが出来ないような意気地なしなら、首でも縊って一思いに死んでしまえ」
 それよりも、部屋で泣伏しているおゆうの可憐しい姿に、心の惹かるる房吉は、やがてその傍へ寄って、優しい辞をかけてやりたかった。妊娠だと云うことが、一層男の愛憐を唆った。
 お島にささえられないほどの力を出して、隠居が剃刀を揮まわして、二人のなかへ割って入ったとき、おゆうは寝衣のまま、跣足で縁から外へ飛出していった。
四十五
 二時過まで、植源の人達は騒いでいた。
 お鈴と二人で漸と宥めて、房吉から引離して、蚊帳のなかへ納められた隠居が鎮ってからも、お島はじっとしてもいられなかった。
「どうしましょうね。大丈夫でしょうか」お島は庭の方を捜してから、これも矢張そこいらを捜しあぐねて、蚊帳の外に茫然坐っている房吉の傍へ帰って来て言った。
 房吉は��白めた顔をして、涙含んでいた。
「大丈夫とは思うけれど、偶然とするとおゆうは帰って来ないかも知れないね。不断から善く死ぬ死ぬと言っていたから」
「そうですか」お島は仰山らしく顫え声で言った。
「それじゃ私少し捜して来ましょう」
 お島が近所の知った家を二三軒訊いて歩いたり、姉の家へ行ってみたり、途中で鶴さんや大秀へ電話をかけたりしてから、漸う帰って来たのは、もう大分夜が更けてからであった。
「安心していらっしゃい」お島は房吉の部屋へ入ると、せいせい息をはずませながら言った。「おゆうさんは大丈夫大秀さんにいるんですよ」
 お島が、大秀へ電話をかけたとき、出て来て応答をしたのは、おゆうには継母にあたる大秀の若い内儀さんであった。
 おゆうが俥で飛込んでいった時、生家ではもう臥床に入っていたが、おゆうはいきなり昔し堅気の頑固な父親に、頭から脅しつけられて、一層突つめた気分で家を出た。鶴さんに着物を融通したり何かしたと云うことが、植源へ片着かない前からの浮気っぽいおゆうを知っている父親には、赦すことのできぬ悪事としか思えなかった。
 おゆうが帰って来たとき、お島は自分の寝床へ帰って、表の様子に気を配りながら、まんじりともせず疲れた体を横えていた。
 帰って来たおゆうが、一つは姑や父親への面当に、一つは房吉に拗ねるために、いきなり剃刀で髪を切って、庭の井戸へ身を投げようとしたのは、その晩の夜中過であった。おゆうは、うとうと床のなかに坐っている房吉には声もかけず、いきなり鏡台の前に立って、隠居の手から取離されたまま、そこに置かれた剃刀を見つけると、いきなり振釈いた髪を、一握ほど根元から切ってしまった。
「可悔い可悔い」跣足で飛出して来たお島に遮えられながら、おゆうは暴れ悶※[15]いて叫んだ。
 漸とのことで、房吉と一緒におゆうを座敷へ連込んで来たお島の目には、髪を振乱したまま、そこに泣沈んでいるおゆうが、可憐しくも妬ましくも思えた。
「みんな鶴さんへの心中立だ」お島は心に呟きながら、低声でおゆうを宥めさすっている房吉と、それを耳にもかけず泣沈んでいるおゆうの美しい姿とを見比べた。
四十六
 情婦の流れて行っている、或山国の町の一つで、暫く漂浪の生活を続けている兄の壮太郎が、其処で商売に着手していた品物の仕入かたがた、仕事の手助にお島をつれに来たのはその夏の末であった。
「阿母さんは、一体いつまで私を彼処で働かしておくつもりだろう」
 植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこの家のなかの紛紜に飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親に零した。
 長いあいだ家へ寄つきもしない壮太郎の代りに、家に居坐らせるため、植源を出て来て、父の手助に働かせられていたお島は、兄に説つけられて、その時ふいと旅に出る気になったのであった。
「誰が来たって駄目だ。お前ならきっと辛抱ができる」
 お島に家へ坐られることが不安であったと同時に、田舎で遣かけようとしている仕事と、そこで人に囲われている女とから離れることの出来なかった兄の壮太郎は、そう言って話に乗易いお島を唆した。
 田舎の植木屋仲間に売るような色々の植木と、西洋草花の種子などを、どっさり仕込んで、それを汽車に積んで、兄はしばらく住なれたその町の方へ出かけていった。一緒に乗込んだお島の心には、まだ見たことのない田舎の町のさまが色々に想像されたが、これまで何処へ行っても頭を抑えられていたような冷酷な生母、因業な養父母、植源の隠居、それらの人達から離れて暮せるということを考えるだけでも、手足が急に自由になったような安易を感じた。
「みっちり働いて、お金を儲けて帰ろう」お島はそう思うと、何もかも自分を歓迎するための手をひろげて待っているような気がした。
 黝んだ土や、蒼々した水や広々した雑木林——関東平野を北へ北へと横って行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつ沁ひろがって来た。
「矢張こんなような町?」お島は汽車が可也大きなある停車場へ乗込んだとき、窓から顔を出して、壮太郎にささやいた。
 停車場には、日光帰りとみえる、紅色をした西洋人の姿などが見えた。
「とてもこんな大きなんじゃない」壮太郎は、長く沁込んだその町の内部の生活を憶出していると云う顔をして笑った。その土地では、壮太郎はもう可也色々の人を知っていた。
「どこを見ても山だからね。でも住なれてみると、また面白いこともあるのさ」
 汽車は段々山国へ入っていった。深い谿や、遠い峡が、山国らしい木立の隙間や、風にふるえている梢の上から望み見られた。客車のなかは一様に闃寂していた。
四十七
 車窓に襲いかかる山気が、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。鬱蒼とした其処ここの杉柏の梢からは、烟霧のような翠嵐が起って、細い雨が明い日光に透し視られた。思いもかけない山麓の傾斜面に痩せた田畑があったり、厚い薮畳の蔭に、人家があったりした。
 その町へ着くまでに、汽車は寂しい停車場に、三度も四度も駐った。東京の居周に見なれている町よりも美しい町が、自然の威圧に怯じ疲れて、口も利けないようなお島の目に異様に映った。
「へえ、こんな処にもこんな人がいるのかね」お島は不思議そうに、そこに見えている人達の姿を凝視めた。
 S——と云うその町へ入った時にも、小雨がしとしとと降そそいでいた。停車場を出て橋を一つ渡ると、直ぐそこに町端らしい休茶屋や、運送屋の軒に続いて燻りきった旅籠屋が、二三軒目についた。石楠花や岩松などの植木を出してある店屋もあった。壮太郎とお島とは、そこを俥で通って行った。
 町はどこも彼処も、闃寂していた。
 俥は直に大通の真中へ出ていった。そこに石造の門口を閉した旅館があったり、大きな用水桶をひかえた銀行や、半鐘を備えつけた警察署があったりした。
 壮太郎の家は、閑静なその裏通にあった。町屋風の格子戸や、土塀に囲われた門構の家などが、幾軒か立続いたはずれに、低い垣根に仕切られた広々した庭が、先ずお島の目を惹いた。木組などの繊細いその家は、まだ木香のとれないくらいの新建であった。
 留守を頼んで行った大家の若い衆と、そこの子供とが、広い家のなかを、我もの顔にごろごろしていた。
「へえ、こんな処でも商売が利くんですかね」
 部屋に落着いたお島は、縁端へ出て、庭を眺めながら呟いた。
「この町は先ずこれだけのものだけれど、居周には、またそれぞれ大きな家があるからね」壮太郎は、茶盆や湯沸をそこへ持出して来ると、羽織をぬいで胡坐を掻きながら呟いた。
 秋雨のような雨がまだじとじと降っていた。水分の多い冷い風が、遠く山国に来ていることを思わせた。ごとんごとんと云う慵い水車の音が、どこからか、物悲しげに聞えていた。
四十八
 そこにお島を落着かせてから、壮太郎が荷物運搬の采配に、雨のなかを再び停車場へ出かけていってから、お島は晩の食事の支度に台所へ出たが、女がおりおり来ると見えて、暫く女中のいない男世帯としては、戸棚や流元が綺麗に取片着いていた。
 壮太郎は、夜までかかって、車で二度に搬び込まれた植木類を、すっかり庭の方へ始末をしてから、お島にはどこへ往くとも告げずに、またふいと羽織や帽子を被て出て往ったが、お島はその晩裏から入って来た壮太郎が、何時頃帰ったかを知らないくらい疲れて熟睡した。
 明朝目のさめたとき、水車の音が先ずお島の耳に着いた。お島はその音を聞きながら、寝床のなかにうとうとしていたが、今日から全く知らない土地に暮すのだと思うと、今まで憎み怨んでいた東京の人達さえ懐しく思われた。
 ここから二停車場ほど先にある、或大きな市へ流れて来て、そこで商売をしていた兄の女が、その頃二三里の山奥にある或鉱山の方に係っている男に落籍されて、市とS——町との間にある鉱山つづきの小さい町に、囲われていたことは、お島も東京を立つ前から聴されていた。女がまだ商売をしている頃から、兄はその市へ来て、何も為ることなしに、宿屋にごろついていたり、居周の温泉場に遊んでいたりしているうちに、土地の遊人仲間にも顔を知られて、おりおり勝負事などに手を出していた。女が今の男に落籍されてから、彼は少ばかりの資本をもらって、※縁[16]のあったこのS——町へ来て、植木に身を入れることになったのであった。
 昼頃に雨があがってから、お島は壮太郎に連れられて、つい二三町ほど隔っている大家の家へ遊びに往った。そこはこの町の唯一の精米所でもあり、金持でもあった。大きな門を入ると、水車仕掛の大きな精米所が、直にお島の目についた。話声が聴取れないほど、轟々いう音がそこから起っていた。[17]
「この米が皆な鉱山へ入るんだぜ」
 壮太郎は、お島をその入口まで連れていって、言って聴せた。白くなって働いている男達と、壮太郎は暫く無駄話をしていた。
 主人は硝子戸のはまった、明い事務室で、椅子に腰かけて、青い巾の張られた大きな卓子に倚かかって、眼鏡をかけて、その日の新聞の相場づけに眼を通していたが、壮太郎の方へ笑顔を向けると、お島にも丁寧にお辞儀をした。柱の状挿には、主に東京から入って来る手紙や電報が、夥しく挿まれてあった。米屋町の旦那のような風をしたその主人を、お島は不思議そうに眺めていた。
「ここの庭さ、己が手を入れたというのは......」壮太郎は飛石伝いに、築山がかりの庭へ出てゆくと、お島に話しかけたが、そこから上へ登ってゆくと、小さい公園ほどの広々した土地が、目の前に展けた。
「へえ、こんな暮しをしている人があるんですかね」
 お島はそこから、築山のかかりや、家建の工合を見下しながら呟いた。
「ここへみっしり木を入れて、この町の公園にしようてえのが、あの人の企劃なんだがね。金のかかる仕事だから、少し景気が直ってからでないと......」
 兄はそう言って、子供のためのグラウンドのような場所の周にある、木陰のベンチに腰をおろして、莨をふかしはじめた。
四十九
 直にお島は、ここの主人や上さんや、子供達とも懇意になったが、来た時から目についた、通りの方の浜屋と云う旅館の人達とも親しくなった。
 旅館の方には、お島より二つ年下の娘の外に、里から来ている女中が三人ほどいたが、始終帳場に坐っている、色の小白い面長な優男が、そこの主人であった。物堅そうなその主人は、大い声では物も言わないような、温順しい男であった。
 山国のこの寂れた町に涼気が立って来るにつれて、西北に聳えている山の姿が、薄墨色の雲に封されているような日が続きがちであった。鬱々するような降雨の日には、お島はよく浜屋へ湯をもらいに行って、囲炉裏縁へ上り込んで、娘に東京の話をして聞かせたり、立込んで来る客の前へ出たりした。
 一家の締をしている、四十六七になった、ぶよぶよ肥りの上さんと、一日小まめに体を動かしづめでいる老爺さんとが、薄暗いその囲炉裏の側に、酒のお燗番をしたり、女中の指図をしたりしていた。町の旅籠や料理屋へ肴を仕送っている魚河岸の問屋の旦那が、仕切を取りに、東京からやって来て、二日も三日も、新建の奥座敷に飲つづけていた。
 精米所の主人が建ててくれたと云う、その新座敷へ、お島も時々入って見た。糸柾の檜の柱や、欄間の彫刻や、極彩色の模様画のある大きな杉戸や、黒柿の床框などの出来ばえを、上さんは自慢そうに、お島に話して聞せた。
 河岸の旦那の芸づくしをやっているその部屋を、お島も物珍しそうに覗いてみた。それでも安お召などを引張った芸者や、古着か何かの友禅縮緬の衣裳を来て、斑らに白粉をぬった半玉などが、引断なしに、部屋を出たり入ったりした。鼓や太鼓の音がのべつ陽気に聞えた。笛の巧いという、盲の男の師匠が、芸者に手をひかれて、廊下づたいに連れられて行った。
 そこへ精米所の主人がやって来て、炉縁に胡坐をかくと、そこにごろりと寝転んでいたお爺さんは直に奥へ引込んで行った。精米所の主人の前には、直に銚子がつけられて、上さんがお酌をしはじめた。
「あれを知らねえのかい。お前も余程間ぬけだな」
 兄はその主人と上さんとの間を、お島に言って聞せた。
「あの家も、精米所のお蔭で持っているのさ。だから爺さんも目をつぶって、見ているんだ」
 兄はそうも言った。
五十
 旦那を鉱山へ還してから、女が一里半程の道を俥に乗って、壮太郎のところへ遣って来るのは、大抵月曜日の午前であった。
 家が近所にあったところから、幼いおりの馴染であった、おかなと云うその女が、まだ東京で商売に出ている時分、兄は女の名前を腕に鏤つけなどして、嬉しがっていた。そして女の跡を追うて、此処へ来た頃には、上さんまで実家へ返して、父親からは準禁治産の形ですっかり見限をつけられていた。
 日本橋辺にいたことのあるおかなは、痩ぎすな躯の小い女であったが、東京では立行かなくなって、T——町へ来てからは、体も芸も一層荒んでいた。土地びいきの多い人達のなかでは、勝手が違って勤めにくかったが、鉱山から来る連中には可也に持囃された。
 おかなは朝来ると、晩方には大抵帰って行ったが、旦那が東京へ用達などに出るおりには、二晩も三晩も帰らないことがあった。二里ほど奥にある、山間の温泉場へ、呼出をかけられて、壮太郎が出向いて行くこともあった。
 おかなは素人くさい風をして、山焦のした顔に白粉も塗らず、ぼくぼくした下駄をはいて遣って来たが、お島には土地の名物だといって固い羊羹などを持って来た。
 女のいる間、お島は家を出て、精米所へ行ったり、浜屋で遊んでいたりした。
 精米所では、東京風の品のいい上さんが、家に引込きりで、浜屋の後家に産れた主人の男の子と、自分に産れた二人の女の子供の世話をしていた。
「浜屋のおばさんの処へいきましょうね」
 お島は近所の子供たちと、例の公園に遊んでいるその男の子の、綺麗な顔を眺めながら言ってみた。
「あ」と、子供は頷いた。
「阿母さんとおばさんと、孰が好き?」お島は言ってみたが、子供には何の感じもないらしかった。
 お島はベンチに腰かけて、慵い時のたつのを待っていた。庭の運動場の周に植った桜の葉が、もう大半黄み枯れて、秋らしい雲が遠くの空に動いていた。お島は時々炉端で差向いになることのある、浜屋の若い主人のことなどを思っていた。T——市から来ていた、その主人の嫁が、肺病のために長いあいだ生家へ帰されていた。
五十一
 お島が楽みにして世話をしていた植木畠や花圃の床に、霜が段々滋くなって、吹曝しの一軒家の軒や羽目板に、或時は寒い山颪が、凄じく木葉を吹きつける冬が���を見舞う頃になると、商売の方がすっかり閑になって来た壮太郎は、また市の方へ出て行って、遊人仲間の群へ入って、勝負事に頭を浸している日が多かった。
 持って行った植木の或者は、土が適わぬところから、お島が如何に丹精しても、買手のつかぬうちに、立枯になるようなものが多かったが、草花の方も美事に見込がはずれて、種子が思ったほどに捌けぬばかりでなく、花圃に蒔かれたものも発芽や発育が充分でなかった。壮太郎はそれに気を腐らして、この一冬をどうしてお島と二人で、この町に立籠ろうかと思いわずろうた。
 山にはもう雪が来ていた。鉱山の方へ搬ばれてゆく、味噌や醤油などを荷造した荷馬が、町に幾頭となく立駢んで、時雨のふる中を、尾をたれて白い息を吹いているような朝が幾日となく続いた。小春日和の日などには、お島がよく出て見た松並木の往還にある木挽小舎の男達の姿も、いつか見えなくなって、そこから小川を一つ隔てた田圃なかにある遊廓の白いペンキ塗の二階や三階の建物を取捲いていた林の木葉も、すっかり落尽くしてしまった。
 それでも浜屋の奥座敷だけには、裏町にある芸者屋から、時々裾をからげて出てゆく箱屋や芸者の姿が見られて、どこからともなく飲みに来る客が絶えなかった。お島は町を通るごとに目についていた、通りの飲食店や、町がさびれてから、どこも達磨をおくようになったと云う旅籠屋などに、働きに入ろうかとさえ思ってみることもあったが、それらのお客が皆な近在の百姓や、繭買などの小商人であることを想ってみるだけでも、身顫が出るほど厭であった。
 裸になって市から帰って来ると、兄はよくお島のものを持出して、顔を知っている質屋の門などを潜ったが、それも種子が尽きて来ると、矢張女のところへ強請りに行くより外なかった。
 その使に、お島も時々遣られた。峠の幾箇もある寂しい山道を、お島は独りでてくてく歩いて行った。どこへ行っても人家があった。休み茶屋や居酒屋もあった。女の囲われている町では、馬蹄や農具を拵えている鍛冶屋が殊に多かった。
「おかなさんが、こんな処によくいられたもんだ」お島は不思議に思ったが、それでも女のいるところは、小瀟洒した格子造の家であった。家のなかには、東京風の箪笥や長火鉢もきちんとしていた。
五十二
 けれど、そうしてちょいちょい往ってみる、お島の目に映ったところでは、おかなは兄の思っているほど気楽な身分でもなかった。おかなの話によると、鉱敷課とやらの方に勤めて、鉱夫達と一緒に穴へ入るのが職務であるその旦那から、月々配われる生活費と小遣とは、幾許でもなかった。もと居た市の方では、誰も知らないもののない壮太郎との情交が、鉱山の人達の口から、薄々旦那の耳へも伝わってから、金の受渡しが一層やかましくなって、おかなはその事でどうかすると旦那と豪い喧嘩を始めることすらあった。夏の頃から、山間の湯に行ってみたり、市の方の医者へ通っていたりしていたおかなの体は、涼気が経つに従って、いくらか肉づいて来たようであったが、やっぱり色沢が出て来なかった。それに何方を向いても、山ばかりのこの寂しい町で、雪の深い長い一冬を越すことは、今まで賑かな市にいたおかなに取っては、穴へ入るほど心細い仕事であった。どこか暖い方へ出て、もとの商売をしよう! おかなは時々その相談を、壮太郎にも為てみるのであった。
 旦那から少ばかりの手切をもらって、おかなが知合をたよって、着のみ着のままで千葉の方へ落ちて行くことになった頃には、壮太郎もすっかり零落れはてていた。月はもう十二月であった。山はどこを見ても真白で、町には毎日々々じめじめした霙が降ったり、雪が積ったりしていた。
 東京の自宅の方へ、時々無心の手紙などを書いていた壮太郎が、何の手応もないのに気を腐らして、女から送って来た金を旅費にして、これもこの町を立って行ったのは、十二月の月ももう半過であった。旅客の姿の幾んど全く絶えてしまった停車場へ、独遺されることになったお島は、兄を送っていった。精米所の主人や、浜屋の内儀さんなどに、家賃や、時々の小遣などの借のたまっていた壮太郎のために、双方の談合で、その質に、お島の体があずけられる事になったのであった。
 寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い蝙蝠傘を一本もって、宛然兇状持か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。鳥打の廂から、落窪んだ目ばかりがぎろりと薄気味わるく光っていた。
 その日は、夕方から雪がぼそぼそ降出して来た。綿の入ったものの支度すらできなかったお島は、袷の肌にしみる寒さに顫えながら、汽車の出てしまった寂しい停車場を、浜屋の番傘をさして、独りですごすご出て来た。
「兄さんにすっかりかつがれてしまったんだ!」
 お島は初めて気がついたように、自分の陥ちて来た立場を考えた。
 達磨などの多い、飲食店のなかからは、煮物の煙などが、薄白く寒い風に靡いていた。
五十三
 繭買いや行商人などの姿が、安旅籠の二階などに見られる、五六月の交になるまで、旅客の迹のすっかり絶えてしまうこの町にも、県の官吏の定宿になっている浜屋だけには、時々洋服姿で入って来る泊客があった。その中には、鉄道の方の役員や、保険会社の勧誘員というような人達もあったが、それも月が一月へ入ると、ぱったり足がたえてしまって、浜屋の人達は、炉端に額を鳩めて、飽々する時間を消しかねるような怠屈な日が多かった。
「さあ、こんな事をしちゃいられない」
 朝の拭掃除がすんで了うと、その仲間に加わって、時のたつのを知らずに話に耽っていたお島は、新建の奥座敷で、昨夜も悪好きな花に夜を更していた主婦の、起きて出て来る姿をみると、急いで暖かい炉端を離れた。そして冬中女の手のへらされた勝手元の忙しい働きの隙々に見るように、主婦から配がわれている仕事に坐った。仕事は大抵、これからの客に着せる夜着や、※袍[18]や枕などの縫釈であった。前二階の広い客座敷で、それらの仕事に坐っているお島は、気がつまって来ると、独で鼻唄を謡いながら、機械的に針を動かしていたが、遣瀬のない寂しさが、時々頭脳に襲いかかって来た。
 窓をあけると、鳶色に曇った空の果に、山々の峰続きが仄白く見られて、その奥の方にあると聞いている、鉱山の人達の生活が物悲しげに思遣られた。奥座敷の縁側に出してある、大きな籠に啼いている小禽の声が、時々聞えていた。
 市から引れてある電燈の光が、薄明く家のなかを照す頃になると、町はもう何処も彼処も戸が閉されて、裏へ出てみると、一面に雪の降積った田畠や林や人家のあいだから、ごとんごとんと響く、水車の音が単調に聞えて、涙含まるるような物悲しさが、快活に働いたり、笑ったりして見せているお島の心の底に、しみじみ湧あがって来た。
 その頃になると、いつも炉端に姿をみせる精米所の主人が、もうやって来て大きな体を湯に浸っていた。そしてお島たちが湯に入る時分には、晩酌の好い機嫌で、懸離れた奥座敷に延べられた臥床につくのであったが、花がはじまると、ぴちんぴちんと云う札の響が、衆の寝静った静な屋内に、いつまでも聞えていた。二三人の町の人が、そこに集っていた。
 酒ものまず、花にも興味をもたない若主人と、お島は時々二人きりで炉端に坐っていた。病気が癒るとも癒らぬともきまらずに、長いあいだ生家へ帰っている若い妻の身のうえを、独で案じわずろうているこの主人の寝起の世話を、お島はこの頃自分ですることにしていた。
五十四
 新座敷の方の庭から、丁字形に入込んでいる中庭に臨んだ主人の寝室を、お島はある朝、毎朝するように掃除していた。障子襖の燻ぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が二棹も駢んでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。お島は苦しい夢を見ているような心持で、そこを掃出していたが、不安と悔恨とが、また新しく胸に沁出していた。
 お島は人に口を利くのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の怯えを紛らせるために、一層精悍しい様子をして立働いていた。そして客の膳立などをする場所に当ててある薄暗い部屋で、妹達と一緒に朝飯をすますと、自分独りの思いに耽るために、急いで湯殿へ入っていった。窓に色硝子などをはめた湯殿には、板壁にかかった姿見が、うっすり昨夜の湯気に曇っていた。お島はその前に立って、いびつなりに映る自分の顔に眺入っていた。親達や兄や多くの知った人達と離れて、こんな処に働いている自分の姿が可憐しく思えてならなかった。
 お島は湯をぬくために、冷い三和土へおりて行った。目が涙に曇って、そこに溢れ流れている噴井の水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも痒いところへ手の達くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背を、昨夜も流してやったことが憶出された。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾返すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。
「鶴さんで懲々している!」
 お島はその時も、溺れてゆく自分の成行に不安を感じた。
 お島は力ない手を、浴槽の縁につかまったまま、流れ減っていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。
 橋をわたって、裏の庫の方へゆく、主人の筒袖を着た物腰の細りした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の蒼白い、手足などの繊細なその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を惹着けてゆくようにさえ思われた。
「郵便が来ているよ」
 不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、懐ろから一封の手紙を出した。
 それは王子の父親のところから来たのであった。
「へえ、何でしょう」
 お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を披いて見た。
五十五
 山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり碧い空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。
 冬中閉されてあった煤けた部屋の隅々まで、東風が吹流れて、町に陽炎の立つような日が、幾日となく続いた。淡雪が意いがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。樋の破目から漏れおちる垂滴の水沫に、光線が美しい虹を棚引せて、凧の唸声などが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか飴の太鼓が子供を呼んでいた。
「お暖かになりやした」
 浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。
 ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い頸元にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は荐に都の空が恋しく想出された。
「御父さんから、また手紙が来ましたよ」
 人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。
 正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり市の方へも足を遠退いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ話をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。
 そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい碌でもない噂が、昔し気質の老人を怒らせている事は、その文言でも受取れた。
「どうしましょう」
 お島はその度に、目に涙をためて溜息を吐いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。
「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」
 お島はそうも言って笑った。
 一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。市へお島を私と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の生計向では、それも出来ない相談であった。
 一里半ほど東に当っている谿川で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も異しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。
五十六
 嫁の生家や近所への聞えを憚るところから、主婦の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。
 S——町の垠を流れている川を溯って、重なり合った幾箇かの山裾を辿って行くと、直にその温泉場の白壁や屋の棟が目についた。勾配の急な町には疾い小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。
 お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、崖造の新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、居周の人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう苧環が葉を繁らせ、夏雪草が日に熔けそうな淡紅色の花をつけていた。
 雪の深い冬の間、閉きってあったような、その新建の二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に拓いた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の瓦屋根のうえに、小禽が怡しげな声をたてて啼いていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の梢ごしに奇しく眺められた。
 繭時にはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が偶に見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、函をさげて飛込んで来るのに出逢った。
「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」
 お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに惹着けられて、つい話に※[19]を移したりした。
 山越えに、××国の方へ渉ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ山の端に消えうせぬ間を、軽々しい打扮をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。
「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」
 お島は可羨しそうにその後姿を見送りながら、主婦に言った。
 三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、老人気のないこの家では、お島は比較的気が暢びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、希には針仕事などを取出していることもあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に閉籠っていた。
 夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に青蛙の啼声がきこえて、銀のような大粒の雨が遽に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の懶い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた頭脳が急にせいせいして来て、お島は手摺ぎわへ出て、美しい雨脚を眺めていた。圧しつけられていたような心が、跳あがるように目ざめて来た。
五十七
 浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。
 主人は来れば急度湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お終に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から突如に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。
 お島はその時、貰い子の小娘を手かけに負って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を摘んでやったりしていた。この町でも場末の汚い小家が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に沁通って仄かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑[20]が濃くなって行った。
「東京から御父さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」
 主人は或百姓家の庭の、藤棚の蔭にある溝池の縁にしゃがんで、子供に緋鯉を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て私語いた。
「へえ......来ましたか」
 お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。
「いつ来ました?」
「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此方へ来ている話をすると、それじゃ私が一人で行って連れて来るといって、急立つもんだからな」
「ふむ、ふむ」
とお島は鼻頭の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。
「それでどうしました」
「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引立てて連れて行こうという見脈だで......」
「ふむ」と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。
「御父さんにここで逢うのは厭だな」お島は手を堅く組んで首を傾げていた。「どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか」
「でも、ここに居ることを打明けてしまったからね」
「ふむ......拙かったね」
「とにかく些と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ」
「ふむ——」と、お島はやっぱり凄い顔をして、考えこんでいた。「東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に言断って来ましたからね。今逢うのは実に辛い!」
 お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。
「為方がない、思断って逢いましょう」暫くしてからお島は言出した。「逢ったらどうにかなるでしょう」
 二人は藤棚の蔭を離れて、畔道へ出て来た。
五十八
 父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく居住って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で莨をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、漸と勝手元近い下座敷の一つへ通った。
「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような辞をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。
「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも可かったのに。でも折角来た序ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら可いでしょう」
「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。
「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、恁うやって己が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」
「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の口吻によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。
 それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。
 お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給��をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に※[21]を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。
「人の妾なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を聴したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」
 浜屋が自分で、直に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、内密で金を出してもらって、T——市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた果の言条であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を粘つかせていった。
 奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。
 その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと霽あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。
五十九
 お島が腫ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、朝間の寒い風が吹通って、田圃の方から、ころころころころと啼く蛙の声が聞えていた。
「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は縁の端へ出て、水分の多い曇空を眺めながら呟いた。
「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか可いんでしょう」
 ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く意だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は空※[22]けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん恁うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから忙しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
 お島はそうも言って、父親を宥め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり肯かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ......」お島は腹立しそうに終にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を牽着けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを此処へ呼んできねえ」
 父親は高い声をして言出した。
 廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
 お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、硝子戸をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの頑固にも......」お島はそこへ顔を出して、溜息を吐いた。
「何といったって駄目だもの」
 どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は暫く立話をしていたが、するうち※[23]が段々移っていった。
 浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
 町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも彼処も咽かえるような若葉が鬱蒼としていた。痩せた菜花の咲いているところがあったり、赭土の多い禿山の蔭に、瀬戸物を焼いている竈の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか人迹のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。
六十
 山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か何ぞのように、山裾の谿川の岸の草原に跪坐んでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。
 赤い山躑躅などの咲いた、その崖の下には、迅い水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、水沫を散しながら流れていた。危い丸木橋が両側の巌鼻に架渡されてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を覗いてみたいような、悪戯な誘惑に唆られて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、四下の静さが、次第に牾しいような彼女の心をなだめて行った。
 人の声がしたので、跳あがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は可恥しさに体が慄然と立悚むようであった。
 お島は二人の間に挟まれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、足下が見えなくなった。
 父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。
 夏時に氾濫する水の迹の凄いような河原を渉ると、しばらく忘れていたS——町のさまが、直にお島の目に入って来た。見覚えのある場末の鍛冶屋や桶屋が、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い繭の盛られてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。
 お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、碌々男と口を利くひまもなく、直に停車場の方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。
「帰ってみて、もし行くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に私語いた。
 停車場では、鞄や風呂敷包をさげた繭商人の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって畔伝いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S——町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の頭脳に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。
 自分を窘める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。
六十一
 汽車が武蔵の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷かな田畠や矮林が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近くにつれて、汽車の駐まる駅々に、お島は自分の生命を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の生家へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で切拓くまでは、植源や鶴さんや、以前の都ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
 王子の停車場へついたのは、もう晩方であったが、お島は引摺られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹へついて行った。静かな町にはもう明がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
 父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石楠花や、土地名物の羊羹などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝に抱取った。
「寅坊、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」
 羊羹の片を持たされた子供は、直にお島に懐いた。
「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、可笑そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。
「一口に田舎々々と非すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。
「だって山のなかで、為方のないところだというじゃないか」
「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」
「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」
「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の金主をしてくれる人もあったのさ」
「へえ、そんな人がついたの」
六十二
 山の夢に浸っているようなお島は、直に邪慳な母親のために刺戟されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「業突張」とか「穀潰し」とかいうような辞が、彼女のただれた心の創のうえに、また新しい痛みを与えた。
 お島が下谷の方に独身で暮している、父親の従姉にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。素は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の御者などに取立られていた良人が、悪い酒癖のために職を罷められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、少ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送りと、人の賃仕事などで、漸う生きている身の上であった。
 昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、萎えつかれた脈管にまわってくると、爪弾で端唄を口吟みなどする三味線が、火鉢の側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、煤けたまま梁のうえに掲っていた。
 お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、口髭や眉や額の生際のくっきりと美しいその良人の礼服姿で撮った肖像が、その家には不似合らしくも思えた。
「伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね」
 お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした因縁から、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、天秤棒を振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。
「この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ」
 伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。
「やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ」
 お島はそうも思った。
 そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。
 その手助に坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を打たれたりした。
 重に気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。
六十三
 客から註文のセルやネルの単衣物の仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている裁物板の側へも来て、寝そべって戯談を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を打籠めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、忙しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中であった。
 自分の仕事に思うさま働いてみたい——奴隷のようなこれまでの境界に、盲動と屈従とを強いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。
 東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日逗留している間に、お島は浅草や芝居や寄席へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。
 浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして鉱山の売買などに手を出していたところから、近まわりを其方こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。
「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」
 彼は今でもお島をT——市の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。
「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。
 男は少しばかりの小遣をくれて、停車場まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。
 東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の放肆な遊びに疲れた頭脳に、浜屋の���とと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。
六十四
「どうです、こんな仕事を少し助けてくれられないでしょうか」と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。
 それまで仕売物ばかり拵えている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に溢れるようになってから、それを請負うことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも頼んであるいた。
「仕事はいっくらでも出ます。引受けきれないほどあります」
 小野田はお島がやってみることになった、毛布の方の仕事を背負いこんで来ると、そう言ってその遣方を彼女に教えて行った。
 毛布というのは兵士が頭から着る柿色の防寒外套であった。女の手に出来るようなその纏めに最初働いていたお島は、縫あがった毛布にホックや釦をつけたり、穴かがりをしたりすることに敏捷な指頭を慣した。「これのまとめ[24]が一つで十三銭ずつです」小野田がそう云って配っていった仕事を、お島は普通の女の四倍も五倍もの十四五枚を一日で仕上げた。
 手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、忙しいなかを出来上りの納ものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。
 平気で日に二円ばかりの働きをするお島の帯のあいだの財布のなかには、いつも自分の指頭から産出した金がざくざくしていた。
「こんな女を情婦にもっていれば、小遣に不自由するようなことはありませんな」
 小野田は眠からさめると、せっせと穴かがりをやっている手の働きを眺めながら、そう言ってお島の働きぶりに舌を捲いていた。
「どうです、私を情婦にもってみちゃ」お島は笑いながら言った。
「結構ですな」
 小野田はそう言いながら、品物を受取って、自転車で帰っていった。
 ホックづけや穴かがりが、お島には慣れてくると段々間弛っこくて為方がなくなって来た。
 年の暮には、お島はそれらの仕事を請負っている小野田の傭われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚えていた。むずかしい将校服などにも、綺麗にミシンをかけることが出来てきた。
「訳あないや、こんなもの、男は意気地がないね」
 お島はのろのろしている、仲間を笑った。
 車につんで、溜池の方にある被服廠の下請をしている役所へ搬びこまれて行く、それらの納めものが、気むずかしい役員等のために非をつけられて、素直に納まらないようなことがざら[25]にあった。
「こんなものが納まらなくちゃ為方がないじゃありませんか」
 男達に代って、それらの納めものを持って行くことになったとき、お島はそう言って、ミシンが利いていないとか、服地が粗悪だとか、何だかんだといって、品物を突返そうとする役員をよく丸め込んだ。
 お島のおしゃべりで、品物が何の苦もなく通過した。
六十五
 お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや裁板の前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、頭脳を働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。
「被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね」
 ちょいちょい納品を持って行くうちに、直に昵近になった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の商いぶりを讃めてくれた辞が、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。
「洋服屋なら女の私にだってやれそうだね」
 仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く壺にはまって来たようなものであった。
「遣ってやれんこともないね」感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら呟いた。名古屋の方で、二十歳頃まで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。上向になった大きな鼻頭と、出張った頬骨とが、彼の顔に滑稽の相を与えていたが、脊が高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした厳い姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。
「私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ」お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。
「むむ」小野田はただ笑っているきりであった。
「だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか」
 しなくなした前垂がけの鶴さんや、蝋細工のように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした風采に段々惹着けられて行った。
「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」
 薄野呂か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と愛着とがお島に起って来た。
「洋服屋も好い商売だが、やっぱり資本がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。
「資本があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些とした店で、どのくらいかかるのさ」
「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生やさしい金じゃとても駄目だね」
六十六
 芝の方で、適当な或小い家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。
 そうなるまでに、お島は幾度生家の方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、大店の成功談などに刺戟されると、彼女はどうでも恁でもそれに取着かなくてはならないように心が焦だって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで儲の荒いらしいその商売が、一番自分の気分に適っているように思えた。
「田町の方に、こんな家があるんですがね」
 お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。
「取着には持ってこいの家だがね」
 持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。
「あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし」
 幾度足を運んでも、母親が頑張って金を出してくれない生家から、鶴さんと別れたとき搬びこんで来たままになっている自分の箪笥や鏡台や着物などを、漸とのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち此方売ってあるいた。
 もと大秀の兄弟分であった大工が愛宕下の方にいることを、思いだして、それに店の手入を頼んでから、郵便局に使われていた古いその家の店が、急に土間に床が拵えられたり、天井に紙が張られたり、棚が作られたりした。一畳三十銭ばかりの安畳が、どこかの古道具屋から持運ばれたりした。
 雨降がつづいて、木片や鋸屑の散らかった土間のじめじめしているようなその店へ、二人は移りこんで行った。
 陳列棚などに思わぬ金がかかって、店が全く洋服屋の体裁を具えるようになるまでに、昼間お島の帯のあいだに仕舞われてある財布が、二度も三度も空になった。大工が道具箱を隅の方に寄せて、帰って行ってから、お島はまたあわただしく箪笥の抽斗から取出した着物の包をかかえて、裏から私と出て行った。
 外はもう年暮の景色であった。赤い旗や紅提灯に景気をつけはじめた忙しい町のなかを、お島は込合う電車に乗って、伯母の近所の質屋の方へと心が急かれた。
六十七
 ミシンや裁台などの据えつけに、それでも尚足りない分を、お島の顔で漸と工面ができたところで、二人の渡り職人と小僧とを傭い入れると、直に小野田が被服廠の下請からもらって来た仕事に働きはじめた。
「大晦日にはどんな事があってもお返しするんですがね。仕事は山ほどあって、面白いほど儲かるんですから」
 お島はそう言ってそのミシンや裁板を買入れるために、小野田の差金で伯母の関係から知合いになった或る衣裳持の女から、品物で借りて漸と調えることのできた際どい金を、彼女は途中で目についた柱時計や、掛額などがほしくなると、ふと手を着けたりした。
「みんな店のためです。商売の資本になるんです」
 お島は小野田に文句を言われると、悧巧ぶって応えた。
 まだ自分の店に坐った経験のない小野田の目にも、そうして出来あがった店のさまが物珍しく眺められた。
「うんと働いておくれ。今にお金ができると、お前さんたちだって、私が放抛っておきやしないよ」
 お島はそう言って、のろのろしている職人に声をかけたが、夜おそくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と矜とを感じずにはいられなかった。
 劇しい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている乱次のない小野田の姿が、時々お島の目についた。
「ちッ、厭になっちまうね」
 お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと居睡をはじめている、彼の顔を眺めて呟いた。
「どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか」
 職人がくすくす笑出した。
「そんなこって善く年季が勤まったと思うね」
「莫迦いえ」小野田は性がついて来ると、また手を働かしはじめた。
 色々なものの支払いのたまっている、大晦日が直に来た。品物でかりた知合の借金に店賃、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。
「こんなことじゃとても追着きこはありゃしない」お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。
「もっともっと稼がなくちゃ」お島はそう言って気をあせった。
六十八
 大晦日が来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。
 夜が更けるにつれて、表通りの売出しの楽隊の囃しが、途絶えてはまた気懈そうに聞えて来た。門飾の笹竹が、がさがさと憊れた神経に刺さるような音を立て、風の向で時々耳に立つ遠くの町の群衆の跫音が、潮でも寄せて来るように思い做された。
 職人達の口に、嗄れ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い頭脳が、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの粗雑な響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。
「この人到頭寝てしまったよ」
 寒さ凌ぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、ごろ[26]寝をしはじめていた。
「今日は幾日だと思っているのだい」
「上さんは感心に目の堅い方ですね」職人がそれに続いてまた口を利いた。
「私は二日や三日寝ないだって平気なもんさ」
 お島は元気らしく応えた。
 晦日の夜おそく、仕上げただけの物を、小僧にも脊負わせ、自分にも脊負って、勘定を受取って来たところで、漸と大家や外の小口を三四軒片着けたり、職人の手間賃を内金に半分ほども渡したりすると、残りは何程もなかった。
「宅じゃこういう騒ぎなんです」
 品物を借りてある女が、様子を見に来たとき、お島は振顧きもしないで言った。
 店には仕事が散かり放題に散かっていた。熨斗餅が隅の方におかれたり、牛蒡締や輪飾が束ねられてあったりした。
「貴女の方は大口だから、今夜は勘弁してもらいましょうよ」
 お島はわざと嵩にかかるような調子で言った。
 小野田に嫁の世話を頼まれて、伯母がこれをと心がけていたその女は、言にくそうにして、職人の働きぶりに目を注いでいた。女は居辛かった田舎の嫁入先を逃げて来て、東京で間借をして暮していた。着替や頭髪の物などと一緒に持っていた幾許かの金も、二三月の東京見物や、月々の生活費に使ってしまってから、手が利くところから仕立物などをして、小遣を稼いでいた。二三度逢ううち直にお島はこの女を古い友達のようにして了った。
「まあ宅へ来て年越でもなさいよ」お島は女に言った。
 女は惘れたような顔をして、火鉢の傍で小野田と差向いに坐っていたが、間もなく黙って帰って行った。
「いくらお辞儀が嫌いだって、あんなこと言っちゃ可けねえ」後で小野田がはらはらしたように言出した。
「ああでも言って逐攘わなくちゃ、遣切れやしないじゃないか」お島は顫えるような声で言った。
「不人情で言うんじゃないんだよ。今に恩返しをする時もあるだろうと思うからさ」
六十九
 同じような仕事の続いて出ていた三月ばかりは、それでもまだどうか恁かやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、幾許も残らないような苦しい三十日が、二月も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた小い借金が殖えて行ったりした。
「これじゃ全然私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は遣切のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中忙しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。
 近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の空瓶にもう八重桜が生かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も立退の請求を受けた。
「洋服屋って、皆なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」
 終に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、店頭へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている暢気そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を強いて抑えるようにして笑いかけた。
「何に、そうでもないよ」
 小野田は顔を顰めながら、仕事道具の饅頭を枕に寝そべって、気の長そうな応答をしていた。
 お島はのろくさいその居眠姿が癪にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような木片を取って、縮毛のいじいじした小野田の頭顱へ投つけないではいられなかった。
「こののろま野郎!」
 お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の頬桁を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に喰ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。
 殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に湧返っていた。
 暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は真蒼になって上って行った。
「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の見損いです」お島は泣きながら話した。
「どうかして一人前の人間にしてやろうと思って、方々駈ずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです」
 お島は口惜しそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。
「どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません」
 荒い歔欷が、いつまで経っても遏まなかった。
七十
「どうなすったね」
 脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、惘れたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。
「貴女はよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね」
「私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで惰けるなどと云われたことのない女です」お島は涙を拭きながら言った。
「洋服屋というものは、大変儲かる商売だということだけれど......二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね」女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。
「それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は行ろうと思ったら、どんな事があっても遣通そうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう筈がないんです」
「そんな人とどうして一緒になったね」女はねちねちした調子で言った。
 お島は「ふむ」と笑って、泣顔を背向けたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。
「でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。私等姑さんと気が合わなんだで、恁して別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ独身の方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね」
「何を言っているんだ」と云うような顔をして、お島は碌々それには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い耽っていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて圧つけようとしたが、どん底から衝動げて来るような悲痛な念が、留どもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り虐げられて来たような自分が、可憐くて情なかった。
 小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっていた。
「何だ、そんな顔をして。だから己が言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと」
 小野田はそこへ胡坐をくむと、袂から莨を出してふかしはじめた。
「被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして明朝から註文取におあるきなさい」
 お島は「ふむ」と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。
「そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない」
「こんな身装で、外へなんか出られるもんか」お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。
 帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり和められていた。そして明日から又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の矜を唆った。
「こうしてはいられない」
 彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。
七十一
 晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが偶に出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。
 最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、生家の居周にある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵詰襟の労働服か、自転車乗の半窄袴ぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを証すに十分であった。
 サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに交って、地を取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、笑談やお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。
 煙突の多い王子のある会社などでは、応接室へ多勢集って来て、面白そうに彼女の周囲を取捲いたりした。
「もし好かったら、どしどし註文を出そう」
 その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。
「そう一時に出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから」
 お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら差閊えていることを考えずにはいられなかった。
 註文が出るに従って、材料の仕込に酷工面をして追着かないような手づまりが、時々好い顧客を逃したりした。
「ええ、可しゅうございますとも、外さまではございませんから」
 品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが切なかった。それでまた外の顧客先へ廻って、懈い不安な時間を紛らせていなければならなかった。
「堅い人だがね、どうしてくれなかったろう」
 お島は小野田の失望したような顔を見るのが厭さに、小野田がいつか手本を示したように、私と直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に裹みはじめた。
「どうせ冬まで寝しておくものだ」お島は心の奥底に淀んでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃昵みになった家へ、それを抱こんで行った。
 一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々夢現のような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。
七十二
 それからそれへと、段々展げて行った遠い顧客先まわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい遣繰が持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。
 造作を売った二百円弱の金が、その時小野田の手にあった。細々した近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に取着く方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、意いのほか金が散かったり品物が掛になったりして、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、直にまた二人を見舞って来た。
 荒いコートに派手な頸捲をして、毎日のように朝夙くから出歩いているお島が、掛先から空手でぼんやりして帰って来るような日が、幾日も続いた。
 仕事の途絶えがちな——偶に有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに倦んで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。
 病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人気質の初めのような真面目さがなくなって、持って来た幾許かの金で、茶屋酒を飲んだり、女に耽ったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして居所がなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、旧の小心な臆病ものの自分になり切っていた。
 来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て怕れおののいていた。そしてどんな事があっても、一切日の面へ出ることなしに、家にばかり閉籠っていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、釦一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を晦ましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を萎縮させた。
 今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、蒲団のなかで聴いていながら、臆病な神経を戦かせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも繋っていた。
「私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね」
 お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。
 誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。
「お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ」飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑われた。
七十三
 二日ばかり捜しあるいた口が、どこにも見つからなかったのに落胆した彼が、日の暮方に疲れて渡場の方から帰って来たとき、家のなかは其処らじゅう水だらけになっていた。
 以前友達の物を持逃したりなどしたために、警察へ突出そうとまで憤っている男もあって、急にぐれてしまった自分の悪い噂が、そっちにも此方にも拡がっていることを感づいたほか、何の獲物もなかった彼は、当分またお島のところに置いてもらうつもりで、寒い渡しを渡って、町へ入って来たのであったが、お島の影はどこにも見えずに、主人の小野田が雑巾を持って、水浸しになった茶の間の畳をせっせと拭いていた。
 気の小さい割には、躯の厳丈づくりで、厚手に出来た唇や鼻の大きい銅色の皮膚をした彼は、惘れたような顔をして、障子も襖もびしょびしょした茶の室の入口に突立っていた。
「どうしたんです、私の留守のまに小火でも出たんですか」
「何に、彼奴の悪戯だ。為様のない化物だ」小野田はそう言って笑っていた。
 昨日の晩から頭顱が痛いといってお島はその日一日充血したような目をして寝ていた。髪が総毛立ったようになって、荒い顔の皮膚が巖骨のように硬張っていた。そして時々うんうん唸り声をたてた。
 米や醤油を時買しなければならぬような日が、三日も四日も二人に続いていた。お島は朝から碌々物も食べずに、不思議に今まで助かっていた鶴さん以来の蒲団を被って臥っていた。
 自身に台所をしたり、買いものに出たりしていた小野田には、女手のない家か何ぞのような勝手元や家のなかの荒れ方が、腹立しく目についたが、それはそれとして、時々苦しげな呻吟の聞える月経時の女の躯が、やっぱり不安であった。
「腰の骨が砕けて行きそうなの」
 お島は傍へ寄って来る小野田の手に、絡みつくようにして、赭く淀み曇んだ目を見据えていた。
 小野田は優しい辞をかけて、腰のあたりを擦ってやったりした。
「私はどこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と異っているのかしら、誰でも恁うかしら」お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって萌しはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。
 お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に齎そうとは想いもかけなかった。
 お島は今着ているものの聯想から鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を気拙がらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の火照った頬に落ちた。
 兇暴なお島は、夢中で水道の護謨栓を向けて、男の復讎を防ごうとした。
七十四
 小野田の怯んだところを見て、外へ飛出したお島は、何処へ往くという目当もなしに、幾箇もの町を突切って、不思議に勢いづいた機械のような足で、ぶらぶら海岸の方へと歩いて行った。
 町幅のだだっ広い、単調で粗雑な長い大通りは、どこを見向いても陰鬱に闃寂していたが、その癖寒い冬の夕暮のあわただしい物音が、荒れた町の底に淀んでいた。燻みきった男女の顔が、そこここの薄暗い店屋に見られた。活気のない顔をして職工がぞろぞろ通ったり、自転車のベルが、海辺の湿っぽい空気を透して、気疎く耳に響いたりした。目に見えないような大道の白い砂が、お島の涙にぬれた目や頬に、どうかすると痛いほど吹つけた。
 お島は死場所でも捜しあるいている宿なし女のように、橋の袂をぶらぶらしていたが、時々欄干にもたれて、争闘に憊れた体に気息をいれながら、ぼんやり彳んでいた。寒い汐風が、蒼い皮膚を刺すように沁透った。
 やがて仄暗い夜の色が、縹渺とした水のうえに這ひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落著いて来たお島は、腰の方にまた劇しい疼痛を感じた。
 暗くなった町を通って、家へ入って行った時、店の入口で見慣れぬ老爺の姿が、お島の目についた。
 お島は一言二言口を利いているうちに、それがつい二三日前に、ふっと引込まれて行くような射倖心が動いて、つい買って見る気になった或賭ものの中った報知であることが解った。
「お上さんは気象が面白いから、きっと中りますぜ」
 暮をどうして越そうかと、気をいらいらさせているお島に、そんな事に明い職人が説勧めてくれた。秘密にそれの周旋をしている家の、近所にあることまで、彼は知っていた。
「厭だよ、私そんなものなんか買うのは......」お島はそう言って最初それを拒んだが、やっぱり誘惑されずにはいなかった。
「そんな事をいわずに、物は試しだから一口買ってごらんなさい、しかし度々は可けません、中ったら一遍こきりでおよしなさい」職人は勧めた。
「何といって買うのさ」
「何だって介意いません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか......見た夢でもあれば尚面白い」
 それでお島は、昨夜見た竜の夢で、それを買って見ることにしたのであった。
 意いもかけない二百円ばかりの纏まった金を、それでその爺さんが持込んで来てくれたのであった。
 秘密な喜悦が、恐怖に襲われているお島たちの暗い心のうえに拡がって来た。
「何だか気味がわるいようだね」
 爺さんの行ったあとで、お島はその金を神棚へあげて拝みながら、小野田に私語いた。
七十五
 燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い頭脳の底から、光が差してくるような気がした。
「ふむ、こう云うこともあるんだね」お島は感激したような声を出した。
「全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね」
「お上さんの気前じゃ、地道なことはとても駄目かも知れませんよ」
「面倒くさい洋服屋なんか罷めて、株でも買った方がいいかも知れないね」
「そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。私は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった」
 職人は首を項垂れて溜息を吐いた。
「そんな事を言ったって、今更この商売が罷められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。
 職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。
「私は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。羅紗屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の成立を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」
 職人は興奮したような調子で言った。
「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」
「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は莫迦に高いものを着せられて、職人はお店のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ嘘です」
「ふむ」とお島は首を傾げて聴惚れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている悧巧者のように思えて来た。
「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は冷笑った。
「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」
 お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。
「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を※[27]った。
「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」
 お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や天麩羅で、男達はやがて飲はじめた。
七十六
 そんな噂がいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が遽に景気づいて来た。
 月島で幅を利していたその請負師の家へ、お島は新調の著物などを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、茶の室の火鉢の側には下に使われている男が仕事を休んで、四五人集っていた。大きな縁起棚の傍には、つい三四日前の酉の市で買って来た熊手などが景気よく飾られて、諸方からの附届けのお歳暮が、山のように積まれてあった。男達のなかには、お島が見知の顔も見受けられた。
「お上さんは莫迦に鉄火な女だっていうから、外套を一つ拵えてもらおうと思うんだが......」
 金歯や指環などをぴかぴかさせて、糸織の褞袍に着脹れている、五十年輩のその親方は、そう言いながら、サンプルを見はじめた。痩ぎすな三十七八の小意気な女が、軟かものを引張って、傍に坐っていた。
「工合がよければ、またちょいちょい好いお客をおれが周旋するよ」
 親分は無造作に註文を決めて了うと、そう言って莨をふかしていた。今まで受けたこともないような河獺の衿つき外套や、臘虎のチョッキなどに、お島は当素法な見積を立てて目の飛出るほどの法外な高値を、何の苦もなく吹きかけたのであった。
「これを一つあなたのような方に召していただいて、是非皆さんに御吹聴して頂きたいのでございます。どういたしましても、親方のようなお顔の売れた方の御贔屓にあずかりませんと、私共の商売は成立って行きませんのでございます」
 男達はみんなお島の弁る顔を見て、面白そうに笑っていた。
「お上さんの家では、お上さんが大層な働きもので、お亭主はぶらぶら遊んでいるというじゃないか」男たちはお島に話しかけた。
「衆さんがそう言って下さいます」お島は赤い顔をして、サンプルを仕舞っていた。
「たまに宅へお見えになるお客がございましても、私がいないと御註文がないと云う始末でございますから。あれじゃお前が一人で切廻す訳だと、お客さまが仰ゃって下さいます」
 お島はそう言って、この商売をはじめた自分の行立を話して、衆を面白がらせながら、二時間も話しこんでいた。
「あの辺でおきき下さいませば、もう誰方でも御存じでございます。滝庄という親分が、以前私の父の兄で、顔を売っていたものですから、ああ云う社会の方が、あの辺ではちょいちょい私のお得意さまでございます」
 帰りがけにお島は、自分のそうした身のうえまで話した。
七十七
 そんなような仕事が、少しばかり続くあいだ、例の金で身装のできたお島は、暮のせわしいなかを、昼間は顧客まわりをして、夜になると能く小野田と一緒に浮々した気分で、年の市などに景気づいた町を出歩いたり、友達のようになった顧客先の細君連と、芝居へ入ったり浅草辺をぶらついたりして調子づいていたが、それもまたぱったり火の消えたように閑になって、肆まに浪費した金の行方も目にみえずに、物足りないような寂しい日が毎日々々続いた。
 定りだけの仕事をすると、職人は夫婦の外を出歩いているあいだ、この頃ふとした事から思いついた翫具の工夫に頭脳を浸して、飯を食うのも忘れているような事が多かった。
 仕事の断え間になると、彼は昼間でも一心になってそれに耽っていた。時とすると夜夫婦が寝しずまってからも、彼はこつこつ何かやっていた。
「この人は何を��ているの」
 隅の方へ入って、ボール紙を切刻んだり、穴を明けたり、絵具をさしたりして、夢中になっている彼の傍へ来て、お島は可笑そうに訊ねた。
「こう云う悪戯をしているんです」
 彼は細く切ったその紙片を、賽の目なりに筋をひいて紙のうえに駢べていながら、振顧きもしないで応えた。
「何だねその切符のようなものは......」
「これですか」木村はやっぱりその方に気を褫られていた。
「これは軍艦ですよ」
「軍艦をどうするの」
「これでもって海軍将棋を拵えようというんです」
「海軍将棋だって? へえ。そしてそれを何にするの」
「高尚な翫具を拵えて、一儲けしようってんですがね......この小いのが水雷艇です」
「へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね」
「まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと資本を貸しますよ。どうせ私は金の要らない男ですからね」
「はは」と、お島は笑いだした。
「可かったね」
「こればかりじゃないんです」職人はこの頃夜もろくろく眠らずに凝り考えた、色々の考案が頭脳のなかに渦のように描かれていた。新しい仕事の興味が、彼の小さい心臓をわくわくさせていた。
「私ゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ幾箇も考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが急度ありますよ」
「じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな豪い人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、有難くもないね」
「笑談言っちゃ可けませんよ」
「まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね」
七十八
 お島たちが、寄つく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いN——と云う可也繁華な都会から帰ってからであった。
 一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に取ついている知人を頼って、上海へ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を停めているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。
 二人が月島の店を引払った頃には、三月ほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、孰もこれも持腐れになってしまったのに落胆して、又渡り職人の仲間へ陥ちて行っていた。
 南の方の海に程近いN——市では二人は少しばかり持っている著替などの入った貧しい行李を、小野田の妹の家で釈くことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。
 主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に遭って、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に憚られた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった惨めな父親の生活が、自分にすら厭わしく思えた。
 逢いさえすれば、路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。
 八九年前に、効性ものの妻に死訣れてから、酒飲みの父親は日に日に生活が荒んで行った。妻の働いているうちは、どうか恁か持堪えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の形に取られて、彼は細かな小屋のなかに、辛うじて生きていた。
 到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて土弄りをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は慄然とするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する軽蔑の念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。
七十九
 それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が本意ながるのも肯かずに、その日のうちにN——市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に瞞されていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、擽ったいような滑稽を感じた。
 空濶な平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、所々に見えた。砂埃の立つ白い路を、二人は鈍い俥に乗って帰って来たが、父親が侑めてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の坊主頸をした大きい頭脳が、お島の目には惨らしく滑稽にみえた。
 この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は鈍くさくて為方のなかった寂しい町の状が、可也賑かで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、洒落た構の料理屋なども、物珍しく眺められた。妹の住っている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも此処にもあった。
 小野田の話によると、父親の財産として、少ばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、多少の金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で機嫌を取って、父親を悦ばせてやらなければならないのである。
「そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか」
 お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の補助にしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の明などが能く見えた。四下には若葉が日に日に繁って、遠い田圃からは、喧しい蛙の声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。上海くんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には億劫に想われはじめていた。
「厭なこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ」そう言って拒むお島の空想家じみた頭脳には、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に箔をつける一廉の洋行か何ぞのように思われていた。
八十
 其処をも散々遣散してN——市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ著けたもののほか何一つすら著いていなかった。
 鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いN——市では、どこでも無気味がられて相手にされなかった。一月二月小野田の住込んでいた店では、毎日のように入浸っていたお島は、平和の攪乱者か何ぞのように忌嫌われ、不謹慎な口の利き方や、遣っぱなしな日常生活の不検束さが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように憚られた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、頭髪のものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの貸借にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。
「そんなに吝々しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」
 それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹であった。
 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、辛々そこを立ったのであった。
 一日込合う暑い客車の瘟気に倦みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。
「どこへ行ったものだろうね」
 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に蘇えったとき、お島はそこに跪坐んでいる小野田を促した。
 前に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の遣っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。
八十一
 不安な一夜を、芝口の或安旅籠に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日彷徨いていた。
 最後に本郷の方を一二軒猟って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、湯島天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。
 漸う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や銀杏の梢ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇い町���の建物が、長い一夏の暑熱��倦み疲れたように横わっていた。二人は仄暗い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦け疲れた二人の顔に心持よく戦いだ。
 水のような蒼い夜の色が、段々木立際に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀登って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天刑病らしい躄の乞食が目についたりした。
 石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸の上へあがった泥亀のように、臆病らしく四下を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠の暗闇の方へいざり寄って行った。
「ちょっと御覧なさいよ」お島は小野田に声かけて振顧いた。
 今まで莨を喫っていた小野田は、ベンチの肱かけに凭れかかっていつか眠っていた。
「この人は、為様がないじゃないの」お島は跳あがるような声を出した。
「行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない」お島は慄えあがるようにして小野田を急立てた。
 二人は痛い足を引摺って、またそこを動きだした。
「何でもいいから芝へ行きましょう。恁うなれば見えも外聞もありゃしない」お島はそう言って倦み憊れた男を引立てた。
 食物といっては、昼から幾んで[28]何をも取らない二人は、口も利けないほど饑え疲れていた。
 川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。
八十二
 長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか潔く受納れてくれた川西は、被服廠の仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。
 そこへ入って行ったお島は、久しい前から、世帯崩しの年増女を勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの為るような家事向の用事に、器用ではないが、しかし活溌な働き振を見せていた。
 前にいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の剥けた、色の浅黒い無智な顔をした小躯の女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお化粧をして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。
 始終忙しそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、臥床に就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから床を離れて、人の好い口喧しい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を吐かれていた。
 お島は女が二階から降りて来ぬ間に、手捷こくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、寝恍けた様な締のない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな食膳を離れて、���の工場で彼女の噂などをしながら、仕事に就いていた。
 彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い灑ぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。
「どうも済みませんね」
 ばけつ[29]をがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、懈そうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい頭髪を銀杏返しに結って、中形のくしゃくしゃになった寝衣に、紅い仕扱を締めた姿が、細そりしていた。白粉の斑にこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に汚らしく見えた。
「どういたしまして」
 お島は無造作に懸つらねた干物の間を潜りぬけながら、袂で汗ばんだ顔を拭いていた。
「私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ」
「そう」
 女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い目色をしながら呟いた。
「私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ」
「そうですかね」お島は白々しいような返辞をして、「でも可いじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、衆がそう言っていますよ」
 女は紅くなって、厭な顔をした。
「そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ」
八十三
「どうです、今日は素敵に好いお顧客を世話してもらいましたよ」
 半日でも一日でも、外へ出て来ないと気のすまないようなお島は、職人たちの手がしばらく空きかかったところで、その日も幾日振かで昼からサンプルをさげて出て行ったが、晩方に帰って来ると、お秀と一緒に店の方にいる川西にそう言って声かけた。
「為様がないね、私がなまけると直ぐこれだもの」お島は出てゆく時も、これと云う目星しい仕事もない工場の様子を見ながら言っていたが、出れば必ず何かしら註文を受けて来るのであった。中には自分の懇意にしている人のを、安く受けて来たのだと云って、小野田との相談で、店のものにはせず、自分たちだけの儲仕事にするものも時にはあった。そんなものを、小野田は店の仕事の手隙に縫うことにしていたが、川西はそれを余り悦ばないのであった。
「ほんとに好い腕だが、惜しいもんだね」
 川西は、独り店頭にいた小僧を、京橋の方へ自転車で用達に出してから、註文先の話をしてお島に言った。彼はもう四十四五の年頃で、仕入ものや請負もので、店を大きくして来たのであったが、お島たちが入って来てから、上物の註文がぼつぼつ入るようになっていた。
 川西は晩酌をやった後で、酒くさい息をふいていた。工場では皆な夕方から遊びに出て行って、誰もいなかった。
「そんな腕を持っていながら、名古屋くんだりまで苦労をしに行くなんて、余程可笑いよ」
 川西は、傍に附絡っているお秀をも、湯へ出してやってから、時々口にすることをその時もお島に言出した。
「ですから私も熟々厭になって了ったんです。あの時疾に別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね」
「小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩独立になるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず難しいね」
「そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの」
「どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に稼ぐ気はないかね」
 川西はにやにやしながら言った。
「御笑談でしょう」お島は真紅になって、「貴方にはお秀さんという人がいるじゃありませんか」
「あんなものを......」川西はげたげた笑いだした。「どこの馬の骨だか解りもしねえものを、誰が上さんなぞにする奴があるもんか」
「でも好い人じゃありませんか。可愛がっておあげなさいまし。私みたような我儘ものはとても駄目です」
 お島はそう言って、茶の室を通って工場の方へ入って行くと、汗ばんだ着物の着替に取りかかった。蒸暑い工場のなかは綺麗に片着いて、電気がかっかと照っていた。
八十四
 九時頃に小野田が外から帰って来たとき、駭かされたお島の心は、まだ全く鎮らずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが可恥しく腹立しかった。
「へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう」
 お島は迹から附絡って来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の隅に、慄然とするような体を縮めながらそう言って拒んだ。
 髯の延びた長い顎の、目の落窪んだ川西の顔が、お島の目には狂気じみて見えた。
「可けません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を墜しちゃ大変です」お島は片意地らしく脅しつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく払退けた。
 劇しい争闘がしばらく続いた。
 婉曲としおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を潰されたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は腕節の痛みをおさえながら、勝矜ったものの荒い不安を感じた。
 暫くすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり店頭に彳んでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。
「ぽんつくだな」お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、妄に気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。
「小野田が帰ったら、今の始末を残らず吩咐けよう。そして今からでも二人でここを出てやろう」
 お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい冷かな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の明が、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。
 その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。
「店が閑でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」
 小野田は言出した。
「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。
「己たちが自分の仕事をするので、それも気に加んらしい」
「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で冷笑った。
「出ましょう出ましょう。言われなくたって、此方から出ようと思っていたところだ」
八十五
 翌日朝夙くから、お島はぐずぐずしている小野田を急立てて家を捜しに出た。
「また何かお前が大将の気に障ることでも言ったんじゃないか」
 小野田は昨夜も自分たちの寝室にしている茶の室で、二人きりになった時、そう言ってお島を詰ったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。
「私があの人に何を言うもんですか」お島は顔をしかめて煩そうに応答をしていたが、出る先へ立って、細い話をして聞かす気にもなれなかった。
「それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか」
「でも何か言ったろう」
「煩いよ」お島は眉をぴりぴりさせて、「お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ」
「だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ」
「ふむ。私よりかお前さんの方が、余程間抜なんだ。だから川西なんかに莫迦にされるんです。もっとしっかりするが可いんだ」
 それで二人は半日ほど捜しあるいて、漸と見つけた愛宕の方の或る印判屋の奥の三畳一室を借りることに取決め、持合せていた少ばかりの金で、そこへ引移ったのであった。
 そこは見附の好い小綺麗な店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばかり月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して——多少怒の色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。
「どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ」
 人に対する反抗と敵愾心のために絶えず弾力づけられていなければ居られないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり勝矜ったように言った。
 部屋にはもう電燈がついて、その晩の食物を拵えるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、狎々しい口を利くような間になっていた。
「それでミシンはどうしたんです」
「それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ」
「ふむ、悪い奴だね」お島は首を傾げた。「畜生、私を怨んでいるんだ。だがミシンがなくちゃ為様がないね」
 飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、明朝届いたとき、二人は漸と仕事に就くことができた。
八十六
 住居の手狭なここへ引移ってから、初めて世帯を持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。
 川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、涼気の立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な人寄場などへ入って行った。
 行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、棄値で売ったり又は著崩したりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり纏まった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。
「己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか」
 着ものなどに頓着しない小野田は、お島の帰りでもおそいと、時々近所のビーヤホールなどへ入って、蓄音機を聴きながら、そこの女たちを相手に酒を飲んでいては、お島に喰ってかかられたりしたが、やっぱり自分の立てた成算を打壊されながら、その時々の気分を欺かれて行くようなことが多かった。
「あの御父さんの産んだ子だと思うと、厭になってしまう。東京へでも出ていなかったら、貴方もやっぱりあんなでしょうか」
 お島はにやにやしている小野田の顔を眺めながら笑った。
「莫迦言え」小野田はその頃延しはじめた濃い髭を引張っていた。
「だからビーヤホールの女なぞにふざけていないで、少しきちんとして立派にして下さいよ。あんなものを相手にする人、私は大嫌い、人品が下りますよ」
 お島はどうかすると、父親の面差の、どこかに想像できるような小野田の或卑しげな表情を、強いて排退けるようにして言った。小野田が物を食べる時の様子や、笑うときの顔容などが、殊にそうであった。
「子が親に似るのに不思議はないじゃないか。己は間男の子じゃないからな」
 小野田は心から厭そうにお島にそれを言出されると、苦笑しながら慍然として言った。
「間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに肖ない方が可いんですよ」
「ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ」
 小野田は終に怒りだした。
「お前さんはそれでも感心だよ。あんな親でも大事にする気があるから。私なら親とも思やしない」
八十七
 そんな気持の嵩じて来たお島には、自分一人がどんなに焦燥しても、出世する運が��く小野田にはないようにさえ考えられてきた。彼の顔が無下に卑しく貧相に見えだして来た。ビーヤホールの女などと、面白そうにふざけていることの出来る男の品性が、陋しく浅猿しいもののように思えた。
「己はまた親の悪口なぞ云う女は大嫌いだ」
 顔色を変えて、お島の側を離れると、小野田は黙って仕事に取りかかろうとして、電気を引張って行ってミシンを踏みはじめた。
 そのミシンは、支払うべき金がなかったために、お島が機転を利かして、機械の工合がわるいと言って、新しく取替えたばかりの代物であった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。
「こんな際どいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります」
 お島はその時もそう言って、自分の気働きを矜ったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。
 がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は裁板の前に坐って、縫目を熨すためにアイロンを使いはじめた。
「ふむ、莫迦だね」
 お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら溜息を吐いた。
「一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優だろう」
「生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土弄りをして暮しているじゃないか」
「ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない」
「お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、※[30]に悧巧なんだ」
 小野田はいつもお島に勧めているようなことを、また言出した。
「意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない意だからね」
「だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ」
 仕事が一と片着け片着く時分に、二人はまたこんな相談に耽りはじめた。
八十八
 上海へ行くつもりで、N——市へ立つ前に、一度顔出したことのある自分の生家の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、更めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい両親の機嫌を取りに行ったりしていた。
「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」
 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり植っている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。
 雑木の生茂っているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い竹藪や荒れた畑地もあった。周囲には新しい家が二三軒建っていた。
「ふむ」小野田は驚異の目を※[31]って、その木立のなかへ入って行った。夏草の生茂った木立の奥は、地面がじめじめしていて、日の光のとどかぬような所もあった。
「この辺の地所は坪どのくらいのものだろう」
 小野田はそこを出てお島の傍へ来ると、打算的の目を耀かして訊ねた。
「どの位だかね。今じゃ十円もするでしょうよ」
 お島は※[32]けたような顔で応えたが、この地面が自分の有になろうとは思えなかった。
 生家では二三年のあいだ家を離れて、其方こっち放浪して歩い��いた兄が、情婦に死訣れて、最近にいた千葉の方から帰って来ていた。一時生家へ還っていた嫁も、その子供をつれて、久振で良人と一緒に暮していた。兄は一時悪い病に罹ってから、めっきり健康が衰え、お島と山で世帯を持っていた頃の元気もなくなっていた。お島はあの頃の山の生活と、二三度そこで交際った兄の情婦の身のうえなどを想い出させられた。悪い病気にかかったというその情婦は、どこへ行っても兄に附絡われていて、好いこともなくて旅で死んでしまった。その時は、何の気もなしに傍観していた二人の情交や心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかが訝かられた。
「あの時は、兄さんはほんとに私をひどい目に逢わしたね」
 お島は長いあいだの経過を考えて、何の温かみも感ずることのできない恣まな兄との接触に、失望したように言出した。
 兄はその頃のことは想い出しもしないような顔をしていた。お島たちの寄ついて来ることを、余り悦んでもいないらしかった。
「あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね」
「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」
 小野田は、お島の投遣なのを牾しそうに言った。
「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの御母さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」
「それもお前が下手だからだよ」
 小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。
八十九
 小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は擽ったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を揶揄ったり、嫂と高声で話したりしていた。
「家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、幾度家を出たり入ったりしたか知れやしません」
 母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って聴せていたが、彼女の目には、これまでお島が干係した男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、口髭などに威のある彼のがっしりした相貌は、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は切たての脊広などを着込んで、のっしりした態度を示していた。
 お島は自分の性得から、N——市へ立つ前に、この男のことをその田舎では一廉の財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその意で、母親に口を利いていた。
「この人の家は、それは大したもんです」
 お島は母親を威圧するように、今日も皆が揃っている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。
「いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので」
 母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。
 お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の狡黠い態度も蔑視まれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。
 嫂は、この四五年の良人の放蕩で、所有の土地もそっちこっち抵当に入っていることなどを、蔭でお島に話して聴せた。
「御父さんが、あすこの地面を私にくれるなんて言っていましたっけがね、あれはどうする気でしょうね」
 お島は嫂の口占を引いてでも見るように、そう言ってみた。
「へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ」
「男だけには、それぞれ所有を決めてあるという話ですけれどね」
 お島はこの場合それだけのものがあれば、一廉の店が持てることを考えると、いつにない慾心の動くのを感じずにはいられなかったが、家を出て山へ行ってから、父親の心が、年々自分に疎くなっていることは争われなかった。
「行きましょうよ」
 お島はまだ母親の傍にいる男を急たてて、やっと外へ出た。
九十
 狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの孰れかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。
「へえ、そんなもんですかね」
 若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い異まずにはいられなかった。
「じゃ、私が不具なんでしょうかね」
 お島はどうかすると、男の或不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに訊いた。
「でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね」
 お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない羞恥を感じた。
「真実は、私はあの人が初めじゃないんですよ」
「それじゃ旦那が悪いんでしょうよ」
「でも、あの人はまた私が不可いんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど......真実に気毒だと思っていたんです」
「そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい」
 上さんは、真実それが満らない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。
「まさか......極がわりいじゃありませんか」
 お島は耳朶まで紅くなった。若い男などを有っている猥な年取った女のずうずうしさを、蔑視まずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。
 朝になっても、体中が脹れふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん唸りながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く浅猿しく思った。
「こんな事をしちゃいられない」
 お島は註文を聞きに廻るべき顧客先のあることに気づくと、寝床を跳おきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、夢幻のような目を目眩しい日光に瞑っていた。
「それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか」
 上さんは、笑談らしく妾の周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。
「そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう」
「莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく身上じゃありませんよ」
 お島は腹立しそうに言った。
九十一
 五六箇月の間に、そこの仮店で夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを質しなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。
 生理的の不権衡から来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に蘇えって来るのを感じた。
「成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい」
 そんな秘密の願が、気忙しい顧客まわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら為ておこうといったことのある、その男への復讐心から来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と歓楽とに憧るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。
 一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出���りなどして、あの古い植木屋の家にも、紛紜の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから洩聞いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。
 それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は定っていないまでも、どこかに自分が真実に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え渇えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧憬と不満とが、沁出さずにはいなかった。
 お島はそれからそれへと、※縁[33]を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、動もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。
「お前さんは真実に好かんよ」
 肉体の苦痛を堪え忍ばされたあとでは、そうした男に対する反撥心が、彼女の体中に湧かえって来た。
 根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に嫌いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。
「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」
 お島はそう言って、熱心に頼んだ。
「笑談でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」
 上さんはお島の言うことが、総て虚構であるとしか思えなかった。
九十二
 そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の賑いで、土地が大した盛場になっていた為であった。
 その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った動揺が、ここへも遽しい賑かしさを漂わしていた。
 陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した懇ろな手紙に誘われて、田舎で毎日野良仕事に憊れている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。
 この店を張るについての、二人の苦しい遣繰を少しも知らない父親は、来るとすぐ倅夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな老人を、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に媚びるような満足であった。
 上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。蟻のように四方から集ってくる群衆のうえに、梅雨らしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。
 お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを冠った小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な老人の彳んで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を※[34]って、父親の立寄って行くところへは、どんな満らないものでも、小野田も嬉しそうに従いて行って見せたり、説明したりした。
「それどころじゃないんですよ。私たちはそう毎日々々親の機嫌を取っているほど、気楽な身分じゃないんですからね」
 晩方になると、きっとお仕着せを飲ませることに決っている父親への、酒の支度を疎かにしたといって、小野田がその時も大病人のように二階に寝ていたお島に小言をいった。彼女は筋張った顳※[35]のところを押えながら、小野田を遣返した。
 お島はいつもそれが起ると、生死の境にでもあるような苦しみをする月経時の懈さと痛さとに悶えていた。
「それに私はこの体です。とてもお父さんの面倒はみられませんよ」
九十三
「そんな事を言ってもいいのか」
 そう言って極つけそうな目をして、小野田は疳癪が募って来るとき、いつもするように口髭の毛根を引張っていたが、調子づいて父親を待※[36]していた彼女に寝込まれたことが、自分にも物足りなかった。
 お島は煩そうに顔を顰めていたが、小野田が悄々降りていったあとでも、取つき身上の苦しさと、自分の心持については、何も知ってくれないような父親の挙動が腹立しかった。自分にどんな腕と気前とがあるかを見せようとでもするように、紛らされていた利己的な思念が、心の底からむくれ出して来るように感じて、我儘な涙が湧立って来た。
 お島がじっと寝てもいられないような気がして、下へ降りて行ったとき、父親はもう酒をはじめていた。小野田も興がなさそうに傍に坐っていた。
「どうもすみません」
 お島は何もない餉台の前に坐っている父親の傍へ来て、やっぱり顔を顰めていた。
「私はこの病気が起ると、もうどうすることも出来ないんです。それに家も、これから夏は閑ですから、お待※[37]しをしようと思っても、そうそうは為きれないんです」
「そうともそうとも、それどこじゃない。私は一時のお客に来たものでないから」
 父親はいつまでも倅夫婦の傍で暮そうとしている自分の心持を、その時も口から洩したが、お島が積って燗ける酒に満足していられないような、強い渇望がその本来の飲慾を煽って来ると、父親はふらふらと外へ出て、この頃昵みになった近所の居酒屋へ入っていくのが、習慣になった。そして家でおとなしく飲んでいられないような野性的な彼の卑しい飲み癖が、一層お島を顰蹙させた。
九十四
 山で知合になった人達が、四五人誘いあわせて出て来てから、父親は一層お島たちのために邪魔もの扱いにされた。
 連中のうちには、その頃呼吸器の疾患のため、遊覧旁博士連の診察を受けに来た浜屋の主人もあった。山の温泉宿や、精米所の主人もいた。精米所の主人は、月に一度くらいは急度蠣殻町の方へ出て来るのであったが、その時は上さんと子供をつれて来ていた。
 その通知の葉書を受取ったお島は、大きな菓子折などを小僧に持たせて、紋附の夏羽織を着込んで、丸髷姿で挨拶のために、ある晩方その宿屋を訪ねたが、込合っていたので、連中はこの部屋にかたまって、ちょうど晩酌の膳に向いながら、陽気に高談をしていた。
「えらい仕揚げたそうだね。そのせいか女振もあがったじゃねえか。好い奥様になったということ」
 精米所の主人は、浴衣がけで一座の真中に坐っていながら言った。
「御笑談でしょう」
 お島は初らしく顔の赤くなるのを覚えた。
「お蔭でどうか恁かね。でもまだまだ成功というところへは参りません。何しろ資本のいる仕事ですからね。どうか少しお貸しなすって下さいまし。あなた方はみんな好い旦那方じゃありませんか」
 お島はそう言って、自分の来たために一層浮立ったような連中を笑わせた。
 夜景を見に出るという人達の先に立って、お島も混雑しているその宿を出たが、別れるときに家の方角を能く教えておいて、広小路まで連中を送った。
「病気って、どこが悪いんです」
 お島はまさかの時には、多少の資本くらいは引出せそうに思えていた浜屋に、二人並んであるいている時訊ねた。浜屋がその後、ちょくちょく手を出していた山林の売買がいくらか当って、融通が利くと云う噂などを、お島はその土地の仲間から聞伝えている兄に聞いて知っていた。
「どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、東京で二三専門の博士を詮議したが、事によったら当分逗留して、遊び旁注射でもしてみようかと思う」
「それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで可かったね」
 お島は可怕そうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には成得なかった。
「あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可怕くて、どうするもんですか」
「今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死うとしたことさえあったっけがね」
「おお厭だ」お島は思出してもぞっとするような声を出した。「そんな古いことは言っこなし。あなたは余程人が悪くなったよ」
九十五
 一日の雑沓と暑熱に疲れきったような池の畔では、建聯った売店がどこも彼処も店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ人足は絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、猥らな女と男の姿や笑声が聞えたりした。
 お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、蒼い火が暗に流れていたりした。
 浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、微かに懐しく思出せるだけであった。あの時分の若い痴呆な恋が、いつの間にか、水に溶されて行く紅の色か何ぞのように薄く入染んでいるきりであった。
 自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の瓦斯の傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の袂のところで出会した。
「どうしたえ、田舎のお爺さんは」お島は順吉に訊ねた。
 二人はにやにや笑っていた。
「今夜も酔っぱらっているんだろう」
「ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ」
 お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で非して、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていたが、それはその時で、聴流しているのであった。
「私のこったもの、どうせ好くは言われないさ。あの田舎ものにこの上さんの気前なんかわかるものかね」
 お島はそう云って笑っていたが、新しく入って来たものから、世間普通の嫁と一つに見られているのが、侮辱のように感ぜられて腹立しかった。
「お上さん今夜は好いことがあるんだから、何かおごろうか」お島は二人に言った。
「おごって下さい」
「じゃ、みんなおいでおいで」
 お島は先に立って、何か食べさせるような家を捜してあるいた。
「......上さんを離縁しろなんて言っていましたよ」
 風の吹通しな水辺の一品料理屋でアイスクリームや水菓子を食べながら、順吉は話した。
「へえ、そんなことを言っていたかい」お島はそれでも極りわるそうに紅くなった。
「へん、お気の毒さまだが、舅に暇を出されるような、そんな意気地なしのお上さんと上さんが異うんだ」
九十六
 お島が毎日のように呼出されて、市内の芝居や寄席、鎌倉や江の島までも見物して一緒に浮々しい日を送っていた山の連中は、田舎へ帰るまでに、一度お島達夫婦のところへも遊びにやって来たが、それらの人々が宿を引揚げて行ってからも、���屋の主人だけは、お島の世話で部屋借をしていた家から、一月の余も病院へ通っていた。
 田舎では大した金持ででもあるように、お島が小野田に吹聴しておいた山の客が、どやどややって来たとき——浜屋だけは加わっていなかったが——お島は水菓子にビールなどをぬいて、暑い二階で彼等を待※[38]したが、小野田も彼等から、商売の資本でも引出し得るかのように言っているお島の言を信じて、そこへ出て叮嚀な取扱い方をしていた。
 お島はその一人からは夏のインバネス、他の一人からは冬の鳶と云う風に、孰も上等品の註文を取ることに抜目がなかったが、いつでも見本を持って行きさえすれば、山の町でも好い顧客を沢山世話するような話をも、精米所の主人が為ていた。
「私がこの旦那方に、どのくらいお世話になったか知れないんです」
 お島はそう言って小野田にも話したが、そこにお島の身のうえについて、何か色っぽい挿話がありそうに、感の鈍い小野田にも想像されるほど、彼等はお島と狎々しい口の利き方をしていた。
 肉づいた手に、指環などを光せている精米所の主人のことを、小野田は山にいた時のお島の旦那か何ぞであったように猜って、彼等が帰ったあとで、それをお島の前に言出した。
「ばかなことをお言いでないよ」
 お島は散かったそこらを取片着けながら、紅い顔をして言った。たっぷりした癖のない髪を、この頃一番自分に似合う丸髷に結って、山の客が来てからは、彼女は一層化粧を好くしていた。指環なども、顔の広い彼女は、何処かの宝玉屋から取って来て、見なれない品を不断にはめていた。それが小野田の目に、お島を美しく妬ましく見せていた。
「その証拠には、お前は私のおやじがこの席へ顔を出すのを、大変厭がったじゃないか」
 私が出て挨拶をするといって、聴かなかった父親に顔を顰めて、奥へ引込めておくようにしたお島の仕打を、小野田は気にかけて言出した。
「だって可恥しいじゃないか。お前さんの前だけれど、あの御父さんに出られて堪るもんですか。お前さんの顔にだってかかります」
「昔しの旦那だと思って、余り見えをするなよ」
「人聞きのわるいことを言って下さるなよ」お島は押被せるように笑った。「あの人達に笑われますね。それが嘘なら聴いてみるがいい」
「そうでもなくて、あんな者が来たってそんなに大騒ぎをする奴があるかい」
「煩いよ」お島は終に呶鳴出した。
九十七
 暑い東京にも居堪らなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は幾度となくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと手許の苦しい時なぞに、お島は浜屋から時借をして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、微見かさずにはいられなかった。
 浜屋はその通っている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、自然に彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。
「そんな事を言わずにまあ辛抱するさ」
 お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の身の上談がはずんで、男に凭れかかるような姿態を見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の応答ばかりして笑っているのが物足りなかった。
「あの時分とは、まるで人が変ったね」お島は男の顔を眺めながら言った。
「変ったのは私ばかりじゃないよ」お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような羞恥を感じて来た。
「月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか」
 お島は二階の六畳で疲れた体を膝掛のうえに横えている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。
 部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても直り合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、涼気の立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが憚られた。
「己も一度その人に逢っておこう」
 小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を表した。
「可けない可けない」お島はそれを拒んで、「あの人は莫迦に内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、温順しいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです」
 小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。
「それは東京にも滅多にないような好い男よ」お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赧くなるのを禁じ得なかった。
九十八
 避暑客などの雑沓している上野の停車場で、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。
 浜屋はお島に買せた色々の東京土産などを提げこんで、パナマを前のめりに冠り、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い打扮で汽車に乗ったのであったが、お島も絽縮緬の羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。
 足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、自然に以前の自分の山の生活が想出せて来て、涙含ましいような気持になるのであった。
「どうでしょう。西洋人は活溌でいいね」
 日光へでも行くらしい、男女の外国人の綺麗な姿が、彼等の前を横って行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを蹴散すように、そう云って、嘆美の声を放った。
「どうだね、一緒に行かないか」
 浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか日焦がして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、目眩いような気持のするほど、それは様子が好かった。
 客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。
「そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ」
 浜屋は窓から顔を出して、どうかすると睫毛をぬらしているお島に、そんな事を言っていた。
 お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり後髪を引るるような未練が残っていた。
 盆が来ると、お島は顧客先への配りものやら、方々への支払やらで気忙しいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い耽っているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は可恥しい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。
 暑い盛に博覧会が閉されてから、お島たちの居周の町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、頽廃の色が、まざまざと目に見えて来た。
 多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに放擲して了いたいような気分になっていた。
「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規蒔直しです」
 ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている羅紗の仲買などに、お島は投出したような棄鉢な調子で言っていた。
九十九
 本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の可也な店つきにすると同時に、棚に羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。
 愛宕時代に傭ったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の懐ろには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き創めるのに多分の興味と刺戟とを感ずる彼女は、際どいところで、思いもかけない生活の弾力性を喚起されたりした。
「面倒ですから、材料も私の方から運びましょうか」
 父親の縁故から知っている或叩き大工のあることを想出して、そこへ駈つけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を嘱んだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。
「そうしてもらいましょうよ。私達は材料を詮議している隙なんかないんだから」
 材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。
「どうです、訳あないじゃありませんか」
 大工が仕事を初めたところで、釘をすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智慧を欠かなかった。
「これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい貰いに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう」
 お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に脊負いださせた蒲団に替えた、少ばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの代物であった。
「乗るか反るか、お上さんはここで最後の運を試すんだよ」
 萌黄の風呂敷に裹んだその蒲団を脊負いださせるとき、お島は気嵩な調子で、その時までついて来た順吉を励した。
「お前もその意でやっておくれ。この恩はお上さん一生忘れないよ」
 涙含んだような顔をして、それを脊負って行く順吉のいじらしい後姿を見送っているお島の目には、涙が入染んで来た。
「どうでしょう。職人は小い時分から手なずけなくちゃ駄目だね。順吉だけは、どうか渡職人の風に染ましたくないもんだ。それだけでも私たちは茫然しちゃいられない」
 お島は大工の仕事を見ている、小野田の傍へ来て呟いた。
 表では大工が、二人ばかりの下を使って、せっせっと木拵えに働いていた。
 あらかた出来あがったところで、大工の手を離れた店の飾窓や、入口の戸に張るべき硝子を、お島が小野田に言われて、根津に家を持ったときから顔を知られている或硝子屋へ懸けあいに行ったのは、それから間もなくであった。
 お島はその日も、新しい店を持った吹聴かたがた、朝から顧客まわりをして、三時頃にやっと帰って来たが、夏場はどこでも註文がなくて、代りに一つ二つの直しものを受取ったきりであった。
 外は黄熟した八月の暑熱が、じりじり大地に滲透るようであった。蝉の声などのまだ木蔭に涼しく聞かれる頃に、家を出ていった彼女は、行く先々で、取るべき金の当がはずれたり、主が旅行中であったりした。古くからの昵みの家では、彼女は病気をしている子供のために、氷を取替えたり、団扇で煽いだりして、三時間も人々に代って看護をしていたりして、目がくらくらするほど空腹を感じて来た頃に、家へ帰って来たのであった。
 家では大工がみんな昼寝をしていた。小野田もミシン台をすえた奥の六畳の涼しい窓の下で、横わっていた。
 お島はそこらをがたぴし言わせて、着替などをしていた。根津の家を引払う前に、田舎へ還してしまった父親の毎日々々飲みつづけた酒代の、したたか滞っている酒屋の註文聞の一人に、途中で出逢って、自分の方からその男に声をかけて来なければならなかったことなどが、一層彼女の頭脳をむしゃくしゃさせていた。小野田がその父親を呼寄せさえしなければ、あの家もどうか恁か持続けて行けたように考えられた。あの飲んだくれのために、どのくらい自分の頭脳���掻廻され、働きが鈍らされたか知れないと思った。
「撲のめしても飽足りない奴だ」
 お島は、酔ったまぎれに自分を離縁しろといって、小野田を手甲擦らせていたと云う父親の言分から、内輪が大揉めにもめて、到頭田舎へ帰って行くことになった父親に対する憎悪が、また胸に燃えたって来るのを覚えた。小野田の寝顔までが腹立しく見返えられた。
「せっせと仕事をして下さいよ。莫迦みたいな顔して寝ていちゃ困りますよ」
 小野田が薄目をあいて、ちろりと彼女の顔を見たとき、お島はいらいらした声で言った。
 お島は台所で飯を食べている時分に、やっと小野田はのそのそ起出して来た。
「仕事々々って、そうがみがみ言ったって仕事ができるもんじゃないよ」
 小野田は火鉢の傍へ来て、莨をふかしはじめながら、まだ眠足りないような赭い目をお島の方へ向けた。
「それよりか硝子の工面もしなければならず、店だって飾なしにおかれやしない」
「知らないよ、私は。自分でもちっと心配するがいいんだ」お島は言返した。
百一
 小野田はそこへ脱ぎっぱなしにしたお島の汗ばんだ襦袢や帯が目に入ったり、不断著を取出すために引掻まわした押入のどさくさした様子などを見ると、とても世帯は持てない女だといって、自分のために離縁を勧めた父親の辞が思い出された。
「技倆があるか何だか知らんが、まあ大変なもんだ。とても女とは思えんの」
 そうも言って、荒いお島の調子に驚いていた父親の善良そうな顔も思出された。
「朝から出て、あれは一日どこを何をして歩いてるだい」
 父親はそうも言って、不思議がったが、お島自身に言わせると、朝は誰かが台所働きをしてくれて、気持よく家を出なければ、とても調子よく外で働くことはできないというのであった。帰って来た時にも、自分を迎えてくれる衆の好い顔をでも見なければ埋らないと言うのであった。それで小野田は順吉と一緒に、どうかすると七輪に火をおこしたり、漬物桶へ手を入れたりすることを行っているのであったが、お島が一人で面白がってやっている顧客まわりも、集金の段になってくると、やっぱり小野田自身が出て行くより外ないようなことが多かった。
 夕方にお島は機嫌を直して、硝子屋の方へ出て行った。
「この店さえ出来あがれば、少し資本を拵えて、夏の末には己が新趣向の広告をまいて、有ゆる中学の制服を取ろうと思っている」
 小野田はそう言って、この頃から考えていた自分の平易で実行し易いような企劃をお島に話した。
「それには女唐服を着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね」
「駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか」
 そんな際物仕事が、自分の顔にでもかかるか何かのように考えているお島は、そう言って反抗したが、好い客を惹着けるような立派な場所と店と資本とをもたない自分達に取っては、そうでもして数でこなすより外ないことを小野田は主張した。
 学生相手の確なことはお島も知っていた。洋服姿で、若い学生だちの集りのなかへ入って行く自分の姿を想像するだけでも、彼女は不思議な興味を唆られた。
「そうすると、お���の顔は直きに学生仲間に広まってしまうよ」
 小野田はその妻や娘を売物にすることを能く知っている、思附のある興行師か何ぞのような自分の計劃で、成功と虚栄に渇いている彼女を使嗾する術を得たかのように、自信のある目を輝かしていた。
「ふむ」お島は自分がいつからかぼんやり望んでいたことを、小野田が探りあててくれたような興味を感じた。男が頼もしい悧巧もののように思えて来た。
「それは確にあたるね」お島はそういって賛成した。
百二
 横浜に店を出している知合いの女唐服屋で、お島が工面した金で自分の身装をすっかり拵えて来たのは、それから大分たってからであった。
 新築の家はすっかり出来あがって、硝子もはまった飾窓に、小野田が柳原から見つけて買って来た古い大礼服の金モオルなどが光っていた。
 一度姿見を買ったことのある硝子屋では、主人はその申込を最初は断ったが、お島のことを知っている息子が、自分で引受けて要るだけの硝子を入れてくれた。
「老爺はああいいますけれど、お上さんの気前を買って、私がお貸し申しましょう。だから入れられるだけ入れてみて下さい。倒されればそれまでです」
 そしてその翌朝、彼は小僧と一緒に硝子を運びこんで、それを飾窓や入口のドアなどに切はめてくれた。
「お前さんは若いにしては感心だよ。そう云う風に出られると、誰だって贔屓にしないじゃいられないからね。また好いお得意をどっさり世話してあげますよ」
 お島はそう言って、その硝子屋を還した。
 看板を書くために、ペンキ屋が来たり、小野田が自転車で飛して、方々当ってみてあるいた羅紗のサンプルが持込まれたり、スタイルの画見本の額が、店に飾られたりした。
 白い夏の女唐服に、水色のリボンの捲かれた深い麦稈帽子を冠って、お島が得意まわりをしはじめるようになったのは、それから大分たってからであった。
「どうです、似合いますか」などと、お島は姿見の前を離れて、その頃また来ることになった木村という職人や小野田の前に立った。コルセットで締つけられた、太い胴が息がつまるほど苦しかった。皮膚の汚点や何かを隠すために、こってり塗りたてた顔が、凄艶なような蒼味を帯びてみえた。
「莫迦に若くみえるね。少くとも布哇あたりから帰って来た手品師くらいには踏めますぜ」木村は笑った。
 お島はその身装で、親しくしているお顧客をまわって行った。その中には若い歯科医や弁護士などもあった。
「どこの西洋美人がやって来たかと思ったら、君か」
 途中で行逢った若い学生たちは、そういって不思議な彼女の姿に目を※[39]った。
「その身装で、ぜひ僕んとこへもやって来てくれたまえ」
 彼等の或者は、肉づきの柔かい彼女の手に握手をして、別れて行ったりした。
「洋服はばかに評判がいいんですよ」
 お島は日の暮に帰って来ると、急いで窮屈なコルセットをはずしてもらうのであったが、薄桃色肉のぽちゃぽちゃした体が、はじめて自分のものらしい気がした。
 小野田は色々の学校へ新に入学した学生たちの間に撒くべき、広告札の意匠などに一日腐心していた。
百三
 時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、羅紗の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く出入する学校の門の入口に立った。
「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。
「私どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に......スタイルも極斬新でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を惹着けた。
「安いね」
「洋行がえりの洋服屋だとさ」
 学生たちは口々に私語きあった。
「おいおい、引札を撒くことは止めてもらおう。此方ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」
 門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を煩がって、彼女を逐攘おうとした。
 お島は時とすると、札を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。
「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」
 事務員はそう云って、彼女の出入に黙諾を与えてくれたりした。
 広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。
 時には一つの学校から、他の学校へ彼女は腕車を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と劇しい競争を試みることに、深い興味を感じた。
 小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、化粧をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、漸く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に喰っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして小いしなやかな足に、踵の高い靴をはくと、自然に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の羞恥も億劫さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。
 朝おきると、懈い彼女の体が、直にそれらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。
 自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。
「惜い事には丈が足りないね」
 小野田は胴幅などの広い彼女の姿を眺めながら言った。
「どうせ労働服ですもの、様子なんぞに介意っていられるもんですか」
 二人は暫く歩きながら話した。
百四
 月が十月へ入ってから、撒いておいた広告の著しい効験で、冬の制服や頭巾つきの外套の註文などが、どしどし入って来た。その頃から工場には職人の数も殖えて来た。徒歩の目弛いのに気を腐していたお島は、小野田の勧めで、自転車に乗る練習をはじめていた。
 晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁隔った原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。一月の余も冠った冠物が暑い夏の日に焦け、リボンも砂埃に汚れていた。お島はその冠物の肩までかかった丸い脊を屈めて、夕暗のなかを、小野田についていて貰って、ハンドルを把ることを学んだ。
 近いうちに家が建つことになっているその原には、桐の木やアカシヤなどが、昼でも涼しい蔭を作っていた。夏草が菁々と生繁って、崖のうえには新しい家が立駢んでいた。
 そこらが全く夜の帷に蔽い裹まるる頃まで、草原を乗まわしている、彼女の白い姿が、往来の人たちの目を惹いた。
 木の蔭に乗物を立てかけておいて、お島は疲れた体を、草のうえに休めるために跪坐んだ。裳裾や靴足袋にはしとしと水分が湿って、草間から虫が啼いていた。
 お島はじっとり汗ばんだ体に風を入れながら、鬱陶しい冠ものを取って、軽い疲労と、健やかな血行の快い音に酔っていた。腿と臀部との肉に懈い痛みを覚えた。小野田は彼女の肉体に、生理的傷害の来ることを虞れて、時々それを気にしていたが、自転車で町を疾走するときの自分の姿に憧れているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。
「少しくらい体を傷めたって、介意うもんですか。私たちは何か異ったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ」
 お島はそう言って、またハンドルに掴まった。
 朝はやく、彼女は独でそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛靄の顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に孕んで、草の実が淡青く白い地についた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに覗いている顔が見えたりした。土堤の小径から、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。
「おそろしい疲れるもんですね」
 一月ほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を店頭へ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。
「須田町から先は、自分ながら可怕くて為様がなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば急度平気になれます」お島は自信ありそうに言った。[40]
百五
 忙しいその一冬を自転車に乗づめで、閑な二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを厭がっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。
「......毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、余程毒なもんですね」
 お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで真の外面の傷害に過ぎないらしかった。
 その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。
 そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、切放れの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を利きあう若い医師が、二人も三人もできた。
 段々肥立って来た、売色あがりの細君の傍で、お島は持って行った花を花瓶に挿したり、薄くなった頭髪に櫛を入れて、束ねてやったりして、半日も話相手になっていた。
「どう云うんでしょう、私の体は......」
 お島は看護婦などのいる傍で、いつかも印判屋の上さんに訊ねたと同じことを言出した。
「夫婦の交際なんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません」
「それは貴女がどうかしてるのよ」
 患者は日ましに血色のよくなって来た顔に、血の気のさしたような美しい笑顔を向けて、お島の顔を眺めた。
「でも可笑いんですの。こんなことを言うのは、自分の恥を曝すようなもんですけれど、実際あの人が変なんです」
 お島は紅い顔をして言った。
「ええ、そんな人も千人に一人はありますね」
 お島が診てもらった医者に、それを言出すほど気がおけなくなったとき、彼はそう言って笑っていた。
 位置が少し変っているといわれた自分の体を、お島はそれまでに、もう幾度も療治をしてもらいに通ったのであった。
「当分自転車をおやめなさい。圧迫するといけない」
 お島は苦しい療治にかかった最初の日から、そう言われて毎日和服で外出をしていた。
 長いお島の病院がよいの間、小野田が、多く外まわりに自転車で乗出した。
 顧客先で、小野田が知合になった生花の先生が出入りしたり、蓄音器を買込んだりするほど、その頃景気づいて来ていた店の経済が、暗いお島などの頭脳では、ちょと考えられないほど、貸や借の紛紜が複雑になっていたが、それはそれとして、身装などのめっきり華美になった彼女は、その日その日の明い気持で、生活の新しい幸福を予期しながら、病院の門を潜った。
百六
 小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で裁をやっていたが、隙がありさえすれば蓄音器を弄っていた。楽遊や奈良丸の浪華節に聴惚れているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。
 しげしげ足を運んでくる生花の先生は、小野田が段々好いお顧客へ出入りするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も花活の前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な手容をして、ずんどのなかへ花を挿しているのを、お島は見かけた。
 もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。上方に近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とはうま[41]が合っていた。
「私だって偶には逆様にお花も活けてみとうございますよ」
 外から帰って、ふと二階の梯子をあがって行くお島の耳に、その日も午から来て話込んでいたその年増の媚めかしい笑い声が洩れ聞えた。嫉妬と挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。
 女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。
「お気毒さまですがね、宅はお花なんか習っている隙はないんですから、今日きり私からお断りいたします」
 お島は硬ばった神経を、強いておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。
 もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に小皺の寄った荒んだ顔に薄化粧などをして、古いお召の被布姿で来ていたが、お島の権幕に怯じおそれたように、悄々出ていった。
「この莫迦!」
 二階へ駈あがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日鬢や前髪を大きくふっくらと取った丸髷姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、外眦をきりきりさせてそこに突立っていた。
「髯なんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも余程な薄野呂だね」
 お島はそう言いながら、そこにあった花屑を取あげて、のそりとしている小野田の顔へ叩きつけた。吊あがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。
「何をする」
 小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。
 負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を顛覆えして、へし折りへし折りして小野田に投りつけた。
 劇しい格闘が、直に二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を弛めたときには、彼女の鬢がばらばらに紊れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。
百七
 二人が階下へおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、可恐しいものに触れるような気がして、絶えて良人の側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。
「あなたは別に女をもって下さい」
 お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。
「そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない」お島はそうも考えた。
 産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度店頭へ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵工廠の方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。
 小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、裏店住いをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。
「あの女はどうしました」
 お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は食物屋などに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり身装などを崩しているのであった。
「いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、呶鳴込まれたらどうするんです」
 小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って窘めたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。
「あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ」
 小野田はそう言って笑っていた。
 二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。
「どこへ行ったえ」
 お島は何のことにも能く気のつく順吉に、私とたずねた。
「白山から来たと云って、若い衆が手紙を持って、迎いに来ましたよ。私が取次いだんだから、間違いはありません」
 順吉はそう云って、まだ洋服もぬがずにいるお島の血相のかわった顔を眺めていた。
「じゃまた何処かで媾曳してるんだろうよ。上さん今夜こそは一つ突止めてやらなくちゃ......」
 お島は急いでコルセットなどを取はずすと、和服に着替えて、外へ飛出していった。時々小野田の飲みに行く家を彼女は思出さずにはいられなかった。
百八
 秘密な会合をお島に見出されたその女は、その時から頭脳に変調を来して、幾夜かのあいだお島たちの店頭へ立って、呶鳴ったり泣いたりした。
 女はお島に踏込まれたとき、真蒼になって裏の廊下へ飛出したのであったが、その時段梯子の上まで追っかけて来たお島の形相の凄さに、取殺されでもするような恐怖にわななきながら、一散に外へ駈出した。
「この義理しらずの畜生!」
 お島は部屋へ入って来ると、いきなり呶鳴りつけた。野獣のような彼女の体に抑えることが出来ない狂暴の血が焦けただれたように渦をまいていた。
 締切ったその二階の小室には、かっかと燃え照っている強い瓦斯の下に、酒の匂いなどが漂って、耳に伝わる甘い私語の声が、燃えつくような彼女の頭脳を、劇しく刺戟した。白い女のゴム櫛などが、彼女の血走った目に異常な衝動を与えた。
 手に傷などを負って、二人がそこを出たときには、春雨のような雨が、ぼつぼつ顔にかかって来た。
 まだ人通りのぼつぼつある、静かな春の宵に、女は店頭へ来て、飾窓の硝子に小石を撒きちらしたり、ヒステリックな蒼白い笑顔を、ふいにドアのなかへ現わしたりした。
「お上さんはいるの」
 女は臆病らしく奥口を覗いたりした。
「旦那をちょっと此処へ呼んで下さいな」
 女はそう言って、しつこく小僧に頼んだ。
 小僧は面白そうに、にやにや笑っていた。
「旦那は今いないんだがね、お前さんも亭主があるんだから、早く帰って休んだら可いだろう」
 お島は側へ来て、やさしく声かけた。そして幾許かの金を、小い彼女の掌に載せてやった。
 女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。
「わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください」
 女はそこを逐攘われると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように其処らをうろうろしていた。
「そっちに言分があれば、此方にだって言分がありますよ」
 亭主から頼まれたと云って、四十左右の遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその談から手を引かしめてしまった。顔利であった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして了うことができた。
百九
 親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに逐返したきりになっている、父親を悦ばせに行った頃には、彼が留守になっても差閊えぬだけの、裁の上手な若い男などが来ていた。
 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間服の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
 自分でも店を有ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世帯を畳んで、また職人の群へ陥ちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪刀を下そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、��意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
 彼はそう云って、どんな忙しい時でも下等な仕事には手をつけることを肯じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
 お島も躯の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思��た。
「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」
 お島は話ぶりなどに愛嬌のあるその男の傍にすわっていると、自然に顔を赧くしたりした。黒子のような、青い小い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な憧憬をそそった。
「いくつの時分さ」
 お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、猥な目を※[42]った。男はえへらえへらと、締のない口元に笑った。
「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」
「その女はどうしたの」
「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう疾のむかしに忘れっちゃったんで......」
 暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ頭脳に残っていた。
「そんな薄情な男は、私は嫌いさ」
 お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を蕩かすような不思議な力をもっていた。
 蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に耽った。
百十
 小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、初夏のある日の朝であった。
 病院で躯の療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の頭脳に色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか朧げに抱いていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。
 そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。
「あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを質そう」
 お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。
 一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも、まだ時々店頭へ来て暴れたり呶鳴ったりする狂女が、巣鴨の病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。
 全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から鉋屑や木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。
 近所の人だちの願出によって、警察へ引張られた彼女が、梁から逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。
「水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは確に狂気です」
 責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。
「私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ」
 お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、小遣をくれたりして頼んだ。
「多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、偶然として良人が帰って来たら、巧い工合に話しておいて下さいよ。前に縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね」
 お島は顔を赧らめながら言った。
「可ござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし」
 その男はそう言って潔く引受けたが、胡散な目をして笑っていた。
「真実にわたし恁ういう人があるんです」
 お島は終いにそれを言出さずにはいられなかった。
「けどこれだけはあの人には秘密ですよ」
百十一
 博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを拵えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。
 四五年前に、兄に唆かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の果をでも偸みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の頭脳を曇らした。
 汽車の通って行く平野のどこを眺めても、昔しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、四下を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから岐れて伊香保へでも行くらしい男女の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を悦ばせに行った小野田が思出された。不恰好な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、都て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。
「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」
 お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の埃のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。慾得のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する我儘な反抗心が、彼女の頭脳をそうも偏傾せしめた。何のために血眼になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に沁拡がって来た。
 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた梅雨時の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、淡墨で刷いたように、水霧に裹まれて、目近の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を滴垂らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような躑躅が、古風の屏風の絵にでもある様な鮮かさで、咲いていたりした。水がその巌間から流れおちていた。
 深い渓や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は幾度となく高原地の静なステーションに停まった。旅客たちは敬虔なような目を側だてて、山の姿を眺めた。
 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。
 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。糠のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。
百十二
 目ざす町に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。
 それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、手々にそんな話に耽っていた。山の町の人達の噂も、彼等の口に上ったが、浜屋々々と云う辞が、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に喚起したのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに幽かな姿を見せていた。
「あなた方はS——町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか」
 お島は、断々に耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。
「私は東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか」
 遊女屋の主人か、芸者町の顔利かと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。
 金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、雨あがりの桟道にかけてある橋の板を踏すべらして、崖へ転り陥ちて怪我をしてから、病院へ担ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。
 お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。
「すれば、あの人の霊が、私をここへ引寄せたのかもしれない」
 お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。
 浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく往来をしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、俥のうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、澱んだような静さと寂しさとで、彼女の曇んだ目に映った。
 お島はその夜一夜は、むかし自分の拭掃除などをした浜屋の二階の一室に泊って、翌る日は、町のはずれにある菩提所へ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。
 松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の喘ぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。
 半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。
「どこか温泉で二三日遊んでいこう」
 失望の安易に弛んだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。
百十三
 途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。
 浴客はまだ何処にも輻湊していなかったし、途々見える貸別荘の門なども大方は閉っていて、松が六月の陽炎に蒼々と繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い青嵐が煙ってみえた。
 お島の導かれたのは、ある古い家建の見晴のいい二階の一室であったが、女中に浴衣に着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする度に、一人客の寂しさが感ぜられた。
 浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している赭土山が侘しげに見られ、檐端はずれに枝を差交している、山国らしい丈のひょろ長い木の梢には、小禽の声などが聞かれた。
「お一人でお寂しゅうございますでしょう」
 浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら膳部を運んで来た。
 笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。
 電話室へ入って、東京の自宅の様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。
「好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう」
 お島は四五日の逗留に、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って誘った。
「それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には散々苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ」
 お島はそうも言って頼んだ。
 その晩は、水の音などが耳について、能くも睡られなかった。
 夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、旋て昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った籠などをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に賑かになった。
「こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね」お島は燥いだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の放縦な調子におずおずしている順吉に話しかけた。
「医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁をやってもらって、独立でやるかも知れないよ」
 お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の企画をほのめかした。
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kuro-tetsu-tanuki · 3 years
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作者様の許可も得たので久々に筆をとってみました。 料理作成のミニイベっぽい感じのイメージで。 冷やし中華
「暑いわねぇ・・・」 「暑いですねェ・・・」
季節は夏。 本日もお日柄はよく、洗濯物どころか人間を干すつもりなのかと言いたくなるくらいに暑い。 太陽の恵みは過多のレベルまで達しており、最早地獄である。 あんまりな気温の上昇に、今日は島の探索も早々に切り上げて屋敷に戻って来た。 一向に下がる気配のない気温に、正解だったとつくづく思う。
「大丈夫ですか、お二人とも。はい、麦茶です」 「ありがとう、崇」 「助かるわぁ。んぐっ・・・っかー!染みわたるわねぇ!」
居間で冴さんと共にぐったりしていると、崇が麦茶を持ってやってきた。 よく冷えたそれは瞬く間に体に染みわたっていく。 ああ、美味しい。 それにしても冴さん、ビールじゃないんだからその一言はどうなんだ。
「今日は特に暑いですね。出かけて行かれた皆さん、大丈夫でしょうか」 「大丈夫よぉ。暑さごときでくたばる連中じゃないわよ。そうでなくとも、意外とそういうとこに気を遣う奴らよ」
毎度の事だが冴さんのこの人物評は適当なんだか正確なんだかわからない。 でも、確かにあの3人が暑さという環境を舐めて行動する、という図は思い浮かばない。 いや、海堂さんは暑さでゆだってるところも容易に想像がつくけど。
「とはいえ、流石にこの暑さには本当に参りますね。食欲も失せそうで・・・」 「こういう時はさっぱりしたモン食べたいわねぇ。・・・例えば冷やし中華とか」 「あァ、いいですねェ・・・」
俺達の食欲はこの状況にぴったりの料理を連想させる。 うん、こんなに暑いんだ。さぞ美味しくいただけるだろう。
「冷やし中華・・・」
耳慣れぬ単語なのか、崇が不思議そうな顔でつぶやく。 あ、この流れ前にもあった。 そう思って冴さんを見ると、冴さんも同じことを思ったのかこちらと目が合う。
「裕ッ!」 「はい、作りましょう!今日の夕飯は冷やし中華!決定!」 「えっ、えっ!?」
困惑する崇をよそに、頭の中で必要な材料を羅列していく。 中華麺は三日月亭に行けばあるだろう。ラーメン出してるし。 卵はある、野菜類もある。 ハムは・・・あるのかな?無ければ蒸し鶏にしよう。 紅ショウガはこの前のお好み焼きの時の残りがある。 折角この島に居るんだ、具に海鮮を入れるのもアリかもしれない。 何はともあれ、一度三日月亭に買い物へ行かねば。
「いってらっしゃい、裕。ついでに私のおつかいもよろしく」 「って冴さん、何ナチュラルに俺に買い物に行かせようとしてるんですか」
食欲はあっても手伝うつもりは無いらしい。 この暑さでは外に出たくないのもわかるが。 というか自然な流れで自分の買い物も押し付けないでください。
「このピーカン晴れの中、女性に外で肌を曝せと・・・?」
ニコニコと笑っていた冴さんの目がスッと開かれる。 暑いはずなのに、背筋にヒヤリとした感覚が走る。
「そうですねそんなことじょせいにいうなんてよくないですねいってきます」 「流石ね裕。そういう配慮ができる男はモテるわよ」
身の危険を感じた俺は即座に言葉を改める。 配慮を称賛されるが明らかに貴女に言わされた言葉なんですが。 ・・・いや、これ以上深く考えないようにしよう。 時折この人は人の思考を読んだかのようなエスパーじみたことを言ってくるし。 迂闊な思考は死を招きかねない。
「裕さん、おつかいなら僕が行ってきましょうか?」
俺の事を気遣ったのか、崇がおつかいを申し出てくる。 だからといって崇をこの炎天下の中一人でおつかいに行かせるのは気が引ける。
「あー・・・いや、そうだな。そしたら崇、俺の買い物に付き合ってくれるか?」 「はい!」
崇、本当にええ子や・・・。 後でどら焼きを買ってあげよう。 こうして俺達は冷やし中華の為、三日月亭へと向かったのであった。
「という訳で、中華麺を譲って欲しいんですが・・・」 「どういう訳かはわからんが中華麺はあるぞ。ラーメンでも作るのか?」
三日月亭に着いて店長に中華麺のことを聞くと、あっさりと返される。 そういえば島の製麺所に作ってもらったって言ってたっけ。 となると専用ラインもあるだろうしそれなりに在庫もあるだろう。
「いえ、崇に冷やし中華を食べさせてやろうと思って。麺の在庫どれくらいあります?」 「ほう、成程な。ちょっと待ってな、今確認してくる」
ウチの台所事情を考えると半端な量を用意するのは危険だ。 あの胃袋ブラックホール集団を舐めてはいけない。 1人で何玉消費するか分かったものじゃない。 折角だし千波や辰馬も呼びたいし。
「今用意できてこんなもんだな。・・・足りそうか?」
暫くして店長が裏から出てくる。 両手に抱えられたバットに乗っているのは麺、麺、そして麺。 ざっと見たところ50玉はあるだろうか。 結構な量ではあるが持って帰れない程ではない。 というか、これだけの量を持ってきて足りるかどうかの心配をしてくる店長も中々毒されている気がする。 いや、屋敷に配送している量、俺や崇が日頃三日月亭で購入していく食材の量を考えれば何もおかしくはないのだが。
「ええ、大丈夫かと。余るようならそれこそ夜食のラーメンにでもしますよ」 「らあめん?裕さん、それも内地の料理なんですか?」 「ああ。うどんとかそばに似た麺料理、って感じかな。そっちも今度作ろうな」 「はい!楽しみです!」
嬉しそうに、楽しそうに笑う崇を見て、口元が緩む。 本当に崇は可愛いなぁ。 いっぱい食べて大きくおなり。
「店長、他にも買うものがあって・・・。あ、ついでに麦茶貰えますか?」 「ほい、麦茶。買うものはリスト見せな。ふんふん・・・」
店長から麦茶を貰い、喉を潤す。 買い物メモを渡すと、店長はリストにあるものをひょいひょいと用意していく。
「しっかし冷やし中華、冷やし中華ねぇ・・・」 「ここはラーメン出してるのにやらないんですか?こう、始めました的な」 「出そうとしたことはあったんだが、具に悩んでな・・・」
クソ暑いこの季節、銭ゲバ親父が絶対売れるであろう冷やし中華を出していないのは疑問でもあったので聞いてみるがどこか渋い顔。 具に、悩む? 冷やし中華の具、ぱっと思いつくのはきゅうり、トマト、錦糸卵、ハム、カニカマ、きくらげ、紅ショウガあたりだろうか。 きゅうりやきくらげは兎も角、トマトは・・・うん、この島の特徴を考えると色合い的にアウトか。 それを考えると紅ショウガもダメか。 カニカマは・・・セーフか?アウトか?ダメだ、わからん。 卵は足がはやいからあまり使いたくないって言ってたっけ。 ハムは・・・内地から仕入れないといけないか? そもそもこの島の人、あまり肉類を好まないからなぁ。 ・・・うん、そう考えるとビックリするほど使えそうな具が無い。
「あー・・・うん、具の種類が・・・」 「だろ?だから断念したんだよ。冷やし中華始めましたって看板、出してみたかったんだがなぁ・・・」
出したかったんだ。 うーん、でもなんとかなりそうな問題でもありそうな気が。
「おい裕、もし良さげな具材の案あったら持ってこいや。それで出せそうならボーナスをくれてやろう」 「すぐ浮かぶもんでもないので、屋敷の人達にヒントでも貰いますかね。わかりました、アイデアが浮かんだら持ってきますよ」 「おう、頼むぜ。・・・よっ、と。こんなもんか。他に必要なもんはあるか?」
リストに載っていたものを全て確認し終わって会計を済ませる。 ついでにどら焼きを購入しておくのも忘れずに。
「・・・しかし、結構な量だぞ。お前ら2人で持って帰れるのか?」
目の前に築かれた買い物の山。 麺がそこそこの重量なのは勿論、冴さんのおつかいがかなりの重量を占めている。 酒瓶、結構重いしねぇ。 とはいえ、崇に重量のあるものを大量に持たせるわけにもいかない。 必然、俺が頑張らなければいけないわけで。
「あはは・・・頑張れば、なんとか?」 「すみません、僕がもっと持てれば・・・」 「気にするなって。崇のせいじゃないさ」
むしろ冴さんのせいだ。 とはいえ、ここで冴さんの文句を言ったって荷物が減るわけじゃない。 これは往復を覚悟しなければならないか。 そう思った時、店の入り口がガラリと開いた。
「こんにちはー」 「こんちゃー!」
元気よく挨拶しながら入って来たのは、辰馬と千波だった。これなら、なんとかなりそうな予感がする!
「で、冷やし中華の為の買い出しですか」 「冷やし中か?それって冷やしてる途中の料理ってことか?」
辰馬は神社のおつかいで、千波は屋敷に来る途中で辰馬に合流したらしく、2人揃って三日月亭にやってきたようだ。
「冷やし中華。何て言ったらいいのかな、麺をお皿に盛りつけて、その上に具を乗せた感じの料理、かな。ラーメンの別バージョンって感じ」 「なんでも内地の料理らしいですよ。裕さんが作ってくれる事になって」 「羅悪免の?へぇ~!なんか美味そうだな!」 「冷やし中華ッスか。夏ッスねぇ~。・・・コンビニの廃棄モノが懐かしいッス」
ニコニコ顔で語る崇に、無邪気に笑う千波。 辰馬は既に知っているのか夏を感じ取っている。 いるけど、さり気なく内地生活の闇をぶちこんでくるのはやめようか。
「2人も呼びに行く予定だったからここで会えて手間が省けたよ。夕飯、食いに来ないか?」 「いいのか!?俺も屋敷にこいつを届けに行くつもりだったしな!行く行く!」 「こいつ?」
嬉しそうに頷く千波が、水入りらしいバケツを掲げる。 中身を覗くと、ハサミを持った生物がうぞうぞと犇めいていた。
「これ、海老に・・・蟹か?」 「おう!ちいと多めに獲れたからおすそ分けって思ってな!」 「にしても結構な量だな。凄いな、千波」
おすそ分けは純粋にありがたいし、海老や蟹なら冷やし中華の具にしてもいいかもしれない。 辰馬も関心するように驚きながら千波の腕を称賛している。
「辰馬はどうだ?予定、大丈夫か?」 「ええ、喜んでお呼ばれさせてもらいますよ。後で一度神社に戻ってから向かいますよ」
辰馬もこちらの誘いを快く承諾してくれた。 と、地面に置かれた俺達のおつかいの品々をひょいと持ち上げた。
「え?一旦神社に帰るんじゃないのか?」 「持ってくの、手伝いますよ。この量、裕さん達だけじゃ大変でしょう?」
このさり気ないイケメンムーブ。 顔も良くて気遣いもできる。頭も良い。 天は二物を与えずどころか与え過ぎでは?
「それに、俺達見つけた時ちょっと期待してましたよね?」
・・・バレてた。 荷物持ち確保。うん、即座にその思考が出たのは認める。 飯食いに来るついでに手伝ってもらう気満々だった。
「ははは・・・」 「さ、行きましょうか。千波、それ持ってくれ」 「おう!行こうぜ崇!」 「はいっ!」
かくして、俺達は無事買い出しを終え、屋敷へと帰還することができたのだった。
「・・・さて、やりますか!」
屋敷に戻って来た後、買ってきたものを台所に置いて一息ついた後、俺は材料たちと向かい合う。 辰馬と千波は一旦家に戻ってから改めて来るそうだ。 屋敷の仕事に戻るという崇にどら焼きをご褒美として渡すのも忘れずに。 冴さんは夕飯前だというのに既に飲み始めている。 何かしらつまめるものを先に用意すべきか。 そう思いながら大き目の鍋に湯を沸かし、塩を一掴み。 冷やし中華の具にすることも考えて蟹と海老は茹でにする方向でいこう。 そう思いながらまずは蟹を一杯、裏返して沸騰した鍋へと投入。 立派な蟹が何杯もあるんだ、何本かの脚と胴の部分をつまみで出しても問題ないだろう。 後で海堂さんに文句を言われそうではあるが。
「冴さん、はい。多くは無いですけど茹で蟹です。お酒だけじゃ体に悪いでしょう」 「あら、ありがとう。おっ、蟹味噌もあるわね、結構結構」
処理した茹で蟹を出すと冴さんはご満悦といった表情で杯を呷る。
「あ、そう言えば蟹用フォークとか無いですね。どうしましょう」 「え?いらないわよそんなの」
そう言って持ち上げた脚を半ば程の場所でポキリと折る。 片方を横にスライドさせると、蟹の身がするりと現れる。 冴さんは何も付けずにそのままぱくりといった。
「んー!最っ高!塩気も丁度いい塩梅よ、裕!」 「え、あ・・・はい」
蟹の身をちまちまと取っていた今までの俺は何だったんだ。 至福の表情を浮かべ、別の脚を取る冴さん。 またもやパキリと脚を折る。身を出す。 今度はそれを蟹味噌につけてためらいもせずに頬張る。 なんという贅沢。
「酒が進むわねー!冷やし中華も楽しみにしてるわよ!」 「お酒、程々にしといてくださいよ・・・」
蟹フォークの存在を完全否定された衝撃が抜けない。 あのちまちまほじくる感じも嫌いじゃないんだけどなぁ・・・。 何とも言えない気分のまま、俺は台所へと戻っていった。
「裕」 「おかえりなさい、洋一さん」
台所へ戻ると、勝手口が開きスッと大きな体が入ってくる。 洋一さんはその巨体と金髪ですぐに判別ができる。
「ああ、今戻った。・・・寅吉から、預かって来た。卵が余ってしまって貰ってくれ、との事だ」
洋一さんの持つ籠に���たくさんの鶏卵。 今朝寅吉さんの牧場で烏骨鶏達が産んだ新鮮な卵だろう。
「ついでに一羽持っていってくれ、と言われたのでな。今しがた絞めて血抜きをしている」 「おお・・・。ナイスタイミングですね」 「ふむ」 「今日は冷やし中華にしようと思いまして。ハムの代わりに蒸し鶏、この卵で錦糸卵もい��ますね」 「何か手伝うことはあるか?」
洋一さんは優しい。 俺だけにではないけれど、何か自分にできそうな事があればすぐに手伝いを申し出てくれる。 頼り過ぎも良くないと思ってはいるが、今日は量が量だ。 遠慮なく甘えさせてもらおう。
「元々用意してた鶏肉も含めて蒸し鶏の方をお願いできますか?俺は錦糸卵をやっちゃうので」 「ああ。その足元のバケツは、蟹と海老か?」 「はい。これも具にしちゃおうかと。そろそろ千波が来るのでコイツは千波に任せようかと」 「わかった」
蒸し鶏の準備をする洋一さんを横目に、卵をボウルに割り入れる。 卵に砂糖、塩、酒の調味料を入れ、混ぜて卵液を作る。 フライパンに油を薄くひき、よく熱する。 温まったのを確認し、卵を少量入れ、フライパン全体に均一になるように流し拡げる。 卵液の底が固まったら火から下ろし、蓋をする。 すぐさま、濡れ布巾にフライパンを当てて熱を取り、1~2分そのまま放置。 表面にも火が通り、固まっていればOK。 後は細切りにするだけだ。
「裕ー!来たぜー!母ちゃんが渋皮煮持たせてくれた!」 「おー!食後に皆で頂こうか。千波、そいつら頼む」
何枚か卵を焼いていると、千波が合流。 一瞬、沙夜さんと聞いて照道さんの顔が頭を過ぎったが今は置いておこう。 蟹、海老は千波に任せる。 洋一さんの蒸し鶏もいい感じだ。 錦糸卵の準備が終わったので、次は麺を茹でるためのお湯を用意、と。
「お邪魔します。裕さん、これ、おじいさんからッス」 「いつも悪いなぁ。おお、いつにも増して立派なトマトだ・・・。こっちのきゅうりも長くて太いな。美味そうだ」
お湯を沸かしていると辰馬も合流。 どうやらおじいさんに野菜を持たされたらしく、他にもナスやトウモロコシ、ピーマンや・・・なんだこれ、ゴーヤ? ・・・相変わらず、あそこの畑の植生は凄まじいな。
「太くて、長くて、立派・・・」 「・・・辰馬?どうした、顔赤いぞ?調子悪いのか?」 「ッ!いえ!だ、大丈夫ッス!俺は健康です!」 「うおっ!?そ、そうか。・・・そしたら、きゅうりとトマト、細切りにしてもらえるか?」 「うすっ!」
急に顔を赤くする辰馬。 体調が悪いのか心配したが、そういうわけでもないらしい。 急に大声出すからびっくりしたぞ。 辰馬には野菜の処理をお願いする。
「裕さん。冷やし中華のタレ、どうするんですか?」 「酢醤油ベースとゴマベースと両方用意するよ。片っぽだけしか用意しないと文句が出そうだしな」 「ははは・・・」
辰馬が野菜を切っている間にタレの準備もしておく。 こちらは混ぜるだけでいいから楽だ。
「戻ったぜ~!」 「っせ!耳元で叫ぶなよ・・・」
と、玄関の方から勇魚さんと海堂さんの声が聞こえてくる。 ベストタイミングで帰ってきたようだ。 調理台の上に所せましと並ぶ具の数々。 きゅうり、トマト、錦糸卵、紅ショウガ、ほぐした蒸し鶏、茹で蟹、茹で海老。 具の準備は万全。実に豪勢だ。
「じゃあ後は麺を茹でるだけだな」
麺についた粉を払い、鍋へと投入。 白く細かい泡が立ち昇り、麺が湯の中を踊る。 吹きこぼれに気を付けつつ、茹で上がった麺を流水で冷やす。 冷えた麺を皿に盛りつけ、具をのせていけば完成だ。
「と、いう訳で。今日は冷やし中華です」 「おお、いいねえ!そうめんもいいが夏には冷やし中華が欲しいよな!」 「この島でよく中華麺なんか調達できたな、お前」
嬉しそうに笑う勇魚さんに、感嘆といった表情の海堂さん。 口角を上げつつ多少ドヤ顔をしてしまうのは見逃して欲しい。
「三日月亭でラーメン出してましたからね。店長に融通してもらいました。っと、話はそんなところにしていただきましょうか」
「いただきます!」
「うめえ!裕、これうめえぞ!冷やしちゅーか!」 「気に入ってくれて何よりだよ。崇はどうだ?」 「はい!とっても美味しいです!うどんともそうめんとも違う麺ですけど、美味しいです!野菜やエビ、カニ、お肉も、かかっているタレも!」 「海老、蟹入りの冷やし中華なんて豪勢よねェ。ほら崇、次はこっちのゴマダレかけてみなさい」 「はい!」
崇も千波も初めての冷やし中華を気に入ってくれたようだ。 千波はいつもより食べるペースが速いし、崇も冴さんに勧められるまま2杯目を準備している。
「うう、お屋敷に来るとこうして美味しいものにありつけるのは本当に有難いッス・・・」 「ふむ。やはり神社は粗食を是としているのか?」 「おじいさんはそうですね。兄さんは・・・そういうワケではないんですが、その、食べられるものを用意するなら自分で何とかするしかないというか、その・・・」 「ふむ・・・。大変だな」
辰馬は若干涙ぐみながら冷やし中華を啜っている。 そこに洋一さんが興味を示したのか神社での食生活を聞いている。 ・・・うん、そうだよね。藤馬さんの作った料理は・・・うん、あれだよね。 尻すぼみになっていく辰馬の声色に何かを察したのか、洋一さんも辰馬を労って黙ってしまった。 辰馬の為にも、今後神社におすそ分けする回数増やした方がいいかもしれないな。
「ふむ。卵麺ですか。様々な具を使い、彩り豊か、栄養のバランスも取るようにしている。成程、これは素晴らしいですね」
照道さんは一人納得しながら冷やし中華を分析している。 そうだ、具の話、照道さんなら何かいい案が出ないだろうか。
「店長、三日月亭でも冷やし中華出そうとしたらしいんですけど出せる具にちょっと問題があって悩んでて・・・」 「・・・ああ、成程」
のっている具を見て色々と察したのか、照道さんも一度箸を置く。 ふむ、と顎に手を当てる仕草が実に様になっている。
「緑はきゅうり、黄色は卵。そうですね、彩を考えるなら赤や黒のもの、といったところでしょうか。裕さん、内地ではこの冷やし中華という料理の具はどんなものを使うのですか?」 「うーん、自分が知っている範囲だときゅうり、トマト、錦糸卵、ハム、カニカマ、きくらげ、紅ショウガあたりですかね」 「まぁそこらへんがベーシックだわな。打波で言うとハムやきくらげは用意しづらいかもな」
照道さんと話していると、海堂さんが混じってくる。 普段の言動はアレだが意外と料理に精通しているらしく、この人の言を参考にして間違いはないだろう。
「そこら辺は鶏肉でもいいかなと。最悪、ツナでも。きくらげは・・・島の中探せば出てきそうな気もしますけど」 「バカ言え、野生のキノコなんざ危なくて使えるか。下手すりゃ死人が出るぞ、却下だ却下」 「ですよねぇ・・・」
ハムは見慣れないものだろうが、鶏肉は元々この島でも食べられているのか認知がある。 蒸し鶏ならば抵抗はないだろう。 きくらげに関しては、乾燥モノを内地から取り寄せるという手もあるけどコスト嵩むよな。 かといって探すのも・・・。 野生のキノコは、本当に危険すぎる有毒キノコもある。 カエンタケ、タマゴテングタケ、ドクツルタケの猛毒キノコ御三家は有名だろう。 可食のキノコによく似た有毒キノコもあって、誤食からの食中毒、最悪死亡、なんてケースもあり得る。 何よりキノコは未だに可食、不食、有毒と解明されていないものが数多い。 可食に似た新種の毒キノコが出てくる可能性だってあるのだ。 少なくともお店にそんなリスクは持ち込めない。
「海苔を散らす、というのはどうでしょうか。これならば島の者も抵抗はなく、黒も添えられる」 「そういやそうだな。海苔散らす冷やし中華もあったな」 「おお、確かに・・・」 「裕、悪いがおかわりいいか?」
そんな話をしながら、ああでもないこうでもないと話していると、勇魚さんがお皿を持ってきた。 あれ、さっきの2杯目かなり麺多めにしたんだけどもう食べきったのか。
「はい、ちょっと待っててくださいね」
勇魚さんのお皿を預かり、流しで軽く洗ってから麺と具を用意する。 まだ食べ足りなそうだったから麺はさっきと同じくらいの量で大丈夫だろう。 用意を終えて戻ると、俺達3人の話に勇魚さんも混じっていた。
「お待たせしました。はい、勇魚さん」 「おう、ありがとな。なぁ裕。冷やし中華の話、赤の彩って蟹や海老じゃダメなのか?」 「いやでもソレめっちゃコスト高い感じになりませんか?」 「そうか?この島の獲れ方考えるとそうでもねぇ気がするぜ?」 「あ・・・」
そうだ、そもそもこの島の漁業は盛んだし、季節も生息区域も何するものぞと多種多様なものが獲れまくる。 今日の海老や蟹だって元は千波からのおすそ分けだ。 むしろ確保は容易なのかもしれない。
「むしろその方が島の者は馴染みやすいかもしれませんね。赤の彩とはいえ、海皇からの恵みをいただくわけですから」 「色としてもトマトみたいに赤一色ってわけでもねえしな。いいんじゃねぇか?」
きゅうり、錦糸卵、蒸し鶏、蟹、海老、海苔。 うん、いい感じだ。 内地基準で見ると蟹と海老のせいでめっちゃ豪勢なお高い冷やし中華に見えるが。
「うん、これならいけそうですかね。皆さん、ありがとうございます!」
俺のお礼に皆軽く頷くと、食事を再開する。 照道さんお墨付きのこの案なら店長も文句はあるまい。 そんな感想を胸に抱きつつ、俺も再び麺を啜り始めるのだった。
「ごっそさん!裕、美味かったぜ!冷やしちゅーか!また食いてえ!」 「おう、お粗末様。わかったわかった、今度また作ってやるから」 「ホントか!約束だぞ!!」
食後、崇と一緒に流しで洗い物をしていると、千波が後ろから飛びついてくる。 お前もかなり食ってたと思ったけど食後によくそんな飛び跳ねられるな、お前。
「崇も、どうだった?冷やし中華」 「はい!とっても美味しかったです!その、具が沢山あって、色んな味が楽しめましたし、タレのおかげでどんどん食べてしまって・・・」
崇は少し恥ずかしそうに笑いながら洗い物を片付ける。 うん、次はラーメンだな。 生憎、麺は完食されてしまったのですぐにとはいかないが。 だが、逆に言えばチャーシュを仕込む時間ができたとも言える。 待ってろよ、崇。 兄ちゃんが美味いラーメン食わせてやっからな。 キャラが行方不明の決意をしつつ洗い物を終わらせ、台所を後にする。 さて、三日月亭用にレシピも纏めなきゃな。 島の人に受け入れられるといいんだけど。
後日、三日月亭の看板に一枚の張り紙が増えた。
「冷やし中華、始めました」
と。
実際、島の人にも好評で飛ぶように売れたらしい。 ボーナスもきっちり頂きました。
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annamanoxxx1 · 4 years
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月兎 07
「オラ、銃兎。どれがいい」
 理鶯の店を訪れるなり、左馬刻は窓辺の銃兎に分厚い茶封筒を渡した。
「何?」
 銃兎が首を傾げながら、封筒の口を開ける。中には、写真と図面入りの、書類の束。
「家」
 端的に答える左馬刻の言葉に、銃兎がもう一度首をかしげる。左馬刻は時々言葉が足りない。そう言うのは良くないと銃兎は思う。左馬刻に尋ねようと口を開きかけたところで、理鶯の制止が入った。
「左馬刻、銃兎。こちらでやってくれ。店先だ」
「はい、理鶯」
 大人しく銃兎が書類を持って立ち上がる。左馬刻はチッと舌を鳴らして銃兎の後に続いた。
「おう、そうだ理鶯、これ今日の茶菓子」
 思い出したように左馬刻が紙袋を理鶯に渡す。今日は珍しく、中華菓子ではなく、和菓子だった。蓮粉を和三盆で練り上げ、笹の葉で包んだ生菓子だ。左馬刻は毎日忘れずに茶菓子を持ってくる。最初は銃兎に渡していたが、結局銃兎は理鶯に渡すのだからと、直接理鶯に手渡すようになった。
「ふむ、今日は…そうだな、ほうじ茶にしようか」
 紙袋を受け取った理鶯が、菓子を見て呟いた。紙袋を置き、薬缶を火にかける。その横で小ぶりなフライパンにも火を入れ、緑茶の缶を、飾り棚から選んだ。ついでにひょいとカゴから甘夏をひとつ掴む。理鶯がフライパンで緑茶を煎り始めると、香ばしい茶葉の香りがキッチンに広がった。
「いい匂い。わたしこの匂い好きなんです」
 左馬刻と共にティーテーブルに着いた銃兎の浮かれた声に、理鶯がフライパンを振りながらふふっと笑う。銃兎は香りの良いものが好きだ。特に天然素材の香りが好きなようで、理鶯はほうじ茶を煎る時以外にも、茶香炉で茶を焚いてやったりもする。
「確かに、いい匂いだな」
 左馬刻が、興味深そうに理鶯の手元を覗きに来た。
「左馬刻、ちょうど良いところに来た、甘夏を4分の1、皮ごといちょう切りにしてくれないか」
 理鶯のリクエストに、左馬刻がペティナイフを握る。カッティングボードで手早く甘夏を切り、残りはラップに包んで小さな冷蔵庫にしまった。
「何すんの?」
「フルーツティーにしようと思ってな」
 そう言いながら、理鶯がガラスのポットを温める。そこに左馬刻のカットした甘夏を入れ、煎ったばかりのほうじ茶も入れる。カンカンに熱した薬缶の湯を注ぎ、ティーコゼーを被せて蒸らす。その間に食器をセッティングし、手早く調理器具を片すと、戸棚から茶碗を取り出した。
「そろそろ頃合いだろう」
 ティーコゼーを外し、くるりとゆるくポットを回してから、茶碗に茶を注ぎ分ける。熱い湯気と共に、まろやかな茶の香りと、爽やかな柑橘の香りが辺りに立ち上った。
「熱いから、気をつけろ」
「ええ、ありがとう理鶯」
 理鶯の言葉に頷いて、銃兎がふうーと茶碗に息をかける。茶の香りを嗅ぎながら、そっと茶碗に口をつける。
「ああ、いい香り」
「そうか」
 うっとりと微笑む銃兎に笑いかけながら、理鶯が笹の包みを剥いた生菓子を銃兎の前に置く。黒みがかった透き通った餅。添えられているのは黒文字。
「あっ、嫌ですよ理鶯、それだと手が汚れるじゃないですか」
 皿の上で、笹の葉に乗る菓子を見て、銃兎が不満を漏らした。確かに、笹の葉を指先で抑えなけれは、餅は切り分けられない。
「銃兎、てめ、ほんとに我儘だな」
 左馬刻が横でため息をつく。指先が汚れるくらいなんだというのだ。ため息をつきながらも、銃兎の皿を引き寄せ、黒文字で餅���一口大に切ってやる。そのまま持ち上げ、銃兎の口元に運んだ。
 小さな赤い唇が、ぱかと開く。そこに餅を押し込んでやると、銃兎はもぐもぐと菓子を味わい、一口茶を飲んだ。
「おいしい」
 花が開くような微笑み。それを眺めて、左馬刻がかすかに笑う。そんな二人を正面から見つめながら、理鶯も静かに茶碗を口に運んだ。
「ところで左馬刻、今日は何か他に用事があったのではないか?」
 理鶯の問いに、左馬刻が「おう」と答える。棚に放られた茶封筒を取り、中身の書類を広げる。
「オラ、銃兎、好きな家選べや」
「なんの話しだよ」
 はぁ、とため息をついた銃兎にはかまわず、左馬刻が一枚ずつ銃兎に書類を渡していく。
「だから、住みたい家決めろって言うんだよ。これは山の手の方。こっから徒歩15分。これは横浜駅近く。こっから車か電車」
 次々に渡される書類に、銃兎が目を白黒させる。銃兎は、何かをこうして選んだことがない。どうしたらいいのかわからずに、トランプのように書類を広げた。
「今の貴殿の家では駄目なのか?」
 理鶯の疑問に、左馬刻がふいと顔を背ける。
「今の家は狭ぇし、日当たりも悪ぃし…」
「なぁ、いつになったら俺を連れてってくれんの?」
 む、と膨れながら、銃兎が問いただす。銃兎の言葉に左馬刻は、「だぁら、家引っ越してから」と答えると、銃兎はますます膨れた。
「もう俺、ひと月以上待ってんだけど。あとどんくらい待たせるんだよ。家なんて、狭くても暗くてもいいよ。早く、俺を連れてってくれよ」
 涙目で服を引っ張る銃兎に、左馬刻がウッと詰まる。確かに、待たせてしまっている自覚はある。だからと言って、あの家に連れ帰るには。
「もうこれ以上、待てない…」
 消え入りそうな声で、銃兎が俯く。銃兎のチャイナ服の膝に、ぽた、ぽたと、染みが出来ていく。
「左馬刻…」
 理鶯の少々困ったような視線と声に、左馬刻はうう、と頭を抱えた。
「うち本当に狭ぇぞ?」
「いい」
 うつむいたまま、銃兎が答える。
「ベッドもシングルの安っちいパイプベッドだし」
「シーツだけ絹にして」
「日当たり悪いし」
「陽に当たると焼けるから悪くていい」
「風呂も足伸ばせねぇし」
「毎日入浴剤入れてくれたら我慢する」
「ああもう」
 左馬刻はハァとため息を一つついて、銃兎を抱き上げた。
「仕方ねぇなぁ」
 膝に銃兎を乗せて椅子に座り、べそべそと泣く銃兎の頭を胸に抱いた。
「後で文句言うなよ?」
「ん」
 そんな二人を見て、理鶯が微笑む。
「左馬刻、観用少年の一番の栄養は愛情だ。環境ではない」
「…わーったよ。今日連れて帰っから、必要なもん包んでくれ」
「ああ、小官が車で運ぼう。二人も乗って行くといい」
「助かるわ」
 ようやく顔を上げた銃兎に気がつくと、左馬刻はその頬に自分の頬を擦り付ける。両手がふさがっているため止むを得ずしたことだったが、銃兎が嬉しそうに抱きついてきたので、まぁいいかと思った。本当にこいつは、甘ったれなウサちゃんだ。
「左馬刻、貴殿、今日何時に仕事が終わる?」
 理鶯の問いかけに、左馬刻が顔をあげる。
「今日は休みだ」
「そうか、ならば小官が荷物を纏めている間、銃兎の相手をしてやってくれ」
 言い置いて、理鶯が席を立つ。残された左馬刻は、「おう」と返事をしたまま銃兎を膝に乗せていた。
「貴殿、ずっと銃兎を膝に乗せていたのか?」
 1時間くらいたっただろうか。車に荷物を積み込んだ理鶯が、戻ってくるなり軽い驚きを声に乗せて尋ねた。
「ん?ああ。こいつ寝たぞ」
 左馬刻の言葉に、理鶯が銃兎の顔を覗き込むと、泣き疲れたのか銃兎はすやすやと眠っていた。
「安心したのだな。さて左馬刻、いつでも出発できるぞ」
「じゃあ、行くか」
 眠ったままの銃兎の背と膝に手を入れ抱き上げると、左馬刻が椅子から立ち上がる。細身の見た目に反して、なかなかパワーがあると理鶯は素直に感心した。銃兎は細身とはいえ、成人男性並みの重さだ。
 左馬刻が歩き出すと、ふっと銃兎の瞳が開いた。
「銃兎、これから貴殿を左馬刻の家に送っていく」
 銃兎の顔のそばで、理鶯が笑いかける。銃兎はぱちりと瞬きをして、理鶯の頬に触れた。
「理鶯、ありがとうございます。お世話になりました」
「うん」
 答えながら、理鶯はふふっと笑う。
「どうしました?」
「花嫁を送り出す父親とは、このような気持ちなのだろうかと考えていた」
「ちょくちょく帰って来ますよ」
「いや、銃兎、それは良くない。ほら、左馬刻の機嫌が」
「あ?」
 思いの他不機嫌そうな声が出てしまって、左馬刻は気まずさに目を逸らした。
「ふふっ。冗談です」
 笑いながら、銃兎が左馬刻に抱きつく。結局左馬刻は、車に乗せるまで銃兎を腕から降ろさなかった。
 ***
 それから、左馬刻の家での二人での生活が始まった。絹の寝具のシングルベッドで抱き合って眠り、朝は銃兎は人肌のミルク、左馬刻が飲むのはブラックのコーヒー。左馬刻が昼くらいに出かけると、銃兎は左馬刻の部屋で一人きり。大抵は黒い革張りのソファに座って、眠る。理鶯の店に居た時のように。お腹が空いたら目を覚まして、カップに注いだミルクを電子レンジであたためる。ゆっくりと飲み干したら、また少し眠って、夕方に、左馬刻が用意しておいた魔法瓶のお茶と一緒におやつ。済んだらまた眠って、左馬刻の気配がしたら目を覚ます。毎日がその繰り返し。
 左馬刻は大抵疲れた顔で帰ってくるから、玄関まで出迎えて、すぐにハグ。最初、耳の良い銃兎が、左馬刻が階段を上がってくる前に玄関のドアを開けて出迎えたら、左馬刻に「危ないからお前はドアを開けるな」と怒られたので、それ以来大人しく玄関の中で待っている。
 ちょっとした事故が起きたのは、銃兎がこの生活にも慣れた頃だった。その日、昼前に家を出た左馬刻を見送って、銃兎はうとうとと眠りについていた。お腹が空いたので、目を覚まし、キッチンへと向かう。
 いつものように冷蔵庫からミルクを取り出して、そうだ、今日はあのお気に入りのカップを使おうと、食器棚から金縁のカップを取り出した。高足の、薄い碧の地に、金でツタのようなアラベスク模様が施された、美しいポーセリン。
 カップにミルクを注ぎ、電子レンジの中へ入れ、教えられた「牛乳」のダイヤルを選んでスタートボタンを押す。その間にミルクのパックを冷蔵庫にしまおうと銃兎が目を離した時、ボン、と電子レンジが爆発した。
「きゃっ!?」
 音の衝撃に、全身が総毛立つ。女の子みたいな悲鳴をあげてしまったことに羞恥を感じながら、バクバクいう心臓に手を当てて、銃兎はゆっくりと電子レンジに近づいた。電子レンジは表示ライトが全て消えてしまっている。
「え?何?どうしよう…」
 遠巻きに中を覗くと、割れたカップとミルクの水たまり。また爆発したらと思うと、怖くて近寄れない。
「左馬刻」
 べそ、と涙が溢れる。早く帰って来て。さっき出かけて行ったばかりだから、夜まで帰らないのはわかっているけれど。
「左馬刻、左馬刻」
 べそべそと泣きながら歩き、ベッドに上が���。左馬刻の匂いを探して羽毛布団を抱きしめてみるけれど、あまり感じられなくて、銃兎はますます悲しくなってしまった。羽毛布団の端を掴んで、引きずりながらクローゼットへ向かう。クローゼットに顔をつっこみ、すんすんと、かかっている洋服の一枚一枚を嗅いで、左馬刻の匂いの強いものを数枚ハンガーから引きずり下ろした。布団と一緒に抱えあげて、ベッドに戻る。怖い。寂しい。悲しい。ぶわりと感情が溢れて、どうにも出来なくなってしまう。
「左馬刻、早く帰って来て」
 ぎゅうと左馬刻お気に入りのアロハを握りしめる。洋服と布団をかき集めて、左馬刻の匂いに包まれながら丸くなった。目を閉じて、息をすると、近くに左馬刻がいるような気持ちになる。
「寂しい…」
 べそべそと泣きながら、銃兎は目を閉じた。
「銃兎?」
 左馬刻が異変を感じたのは、玄関を開けた時の事だった。部屋が暗い。いつもだったら出迎えてくれるはずの銃兎が、出てこない。嫌な予感に胸がぎゅっと縮こまる。乱暴にブーツを脱ぎ捨てて、大股で部屋に入った。パチンとスイッチを入れると、部屋全体がふわりと間接照明で照らされる。
「銃兎、おい、銃兎」
 呼びかけても、返事はない。こんな時に限って、帰りが遅くなってしまった。リビングを抜け、一続きの寝室に入り、左馬刻は足を止めた。
「んだ、こりゃ」
 開け放たれたクローゼットは、荒らされた形跡がある。乱れたベッドの上にまで服が散らばり、左馬刻の背筋がヒュと寒くなった。もしや、強盗が入ったのか。ドクドクと激しく波打つ心臓を片手で抑えながら、ベッドに近づく。もこもことした膨らみの端から、かすかに茶色の髪の毛が見えた。
「……おどかすなよ」
 ハー、と息を吐く。そっと布団をめくると、左馬刻のアロハに顔を埋めて、銃兎が眠っていた。安心して、その髪に、ちゅっとキスを落とす。何があったのかは知らないが、コイツが無事でよかった。
 無理に起こすことはせずに、キッチンへ向かう。安心したら、急に腹が減って来た。何か作るか、と思いながら足を踏み入れると、手付かずのチョコレートの皿。
「なんだ?あいつ、食ってねぇのかよ」
 ひとりごちて、左馬刻は冷蔵庫を開ける。
「炒飯でいいか」
 冷凍庫から冷凍した白飯を取り出して、電子レンジのドアを開けたところで、惨事に気が付いた。
「うわ、まじか」
 ダバと庫内から流れ落ちるミルク。割れたカップ。そういえばレンジの表示ライトは消えている。あーあ、アイツ、金縁のカップレンジにかけちまったのか。
 カップをつまみ上げてコンビニ袋に入れ、ミルクに浸った破片も注意深く拾い上げる。キッチンペーパーを何重にも重ねて、ミルクを吸い上げ、また別のコンビニ袋に。床も拭き、仕上げにシュッとアルコールをかけ、乾拭きした。
 電子レンジが使えないのなら、炒飯は無しだ。米を解凍するのが面倒くさい。はあ、とため息をついて、左馬刻は小鍋に水を入れ、火にかけた。ぽちゃんと鍋用のキューブを一つ放り込んで、凍ったままの白飯も入れてしまう。その間に、片した陶器の破片をゴミ箱に放り込んで、電子レンジのコンセントを抜く。
「明日レンジ買わねぇとな」
 換気扇の下で、タバコに火を付ける。
湧き始めた小鍋をゆるくお玉でかき混ぜ、冷凍庫から冷凍した刻みネギを取り出し、鍋に入れた。
「卵あったっけか」
 冷蔵庫のドアポケットを見ると、残念ながら卵はなかった。あきらめて、代わりに銃兎用のミルクを拝借。鍋に注ぎ入れて、沸騰する直前で火を止める。仕上げに粉チーズと黒胡椒。リゾット風の雑炊の出来上がりだ。鍋ごとリビングに持って行こうとしたところで、起き出して来た銃兎に気が付いた。
「おう、おはようさん」
「左馬刻」
 アロハを握ったままの銃兎が、ぽてぽてと歩いてくる。
「雑炊食うか?」
「ん」
 こくんと銃兎が頷くので、左馬刻は腕をふたつと箸を二膳用意した。
 ソファの足元に、並んで座る。
「熱ぃから気をつけろよ」
 差し出された熱々の茶碗を、銃兎が両手で受け取る。箸をとり、一口、はふ、と言いながら口に入れた。
「旨い?」
 左馬刻の問いかけに、コクリと銃兎が頷く。そのままピタリと左馬刻に体を寄せてきたのを、左馬刻はそのまま好きにさせ、自分も雑炊を掻き込む。
「うん、まぁこんなもんだろ」
 ひとりごちて、大人しく雑炊を啜る銃兎を横目で眺める。泣いたのか、赤い目元が腫れぼったい。
「…ごっそさん」
 一足先に食べ終わると、左馬刻は銃兎を残して立ち上がった。銃兎がすがるような目を向けるので、くしゃりと頭を撫でる。
「後で一緒に風呂入っか」
 左馬刻の言葉に、銃兎の顔が明るくなる。それに笑って、左馬刻は散らばった服を回収するために寝室に向かった。
「ごめんなさい、左馬刻。わたし、電子レンジを爆発させてしまって」
 ほこほこと湯を張ったバスタブに浸かりながら、銃兎はしゅんと左馬刻に謝った。
「知らなかったんだろ。仕方ねぇよ。金属はレンジにかけると燃えんだよな。あと、木もダメだ。はじけちまうから」
 銃兎を洗ってやった後に、自分の髪を洗いながら、左馬刻は言った。怒りはひとかけらもない。これが銃兎でなければ、きっと烈火のごとく怒り狂っているだろうに。どうやら自分は銃兎には相当甘いようだと左馬刻は自嘲した。それどころか、嬉しいとすら、思ってしまったのだ。べそをかきながら、左馬刻の服をかき集めて眠っていた銃兎に。
「明日、電子レンジと一緒にスマホ買ってやるから。何かあったらすぐ俺か理鶯に連絡できるように」
 銃兎はずっと家にいるから、いらないと思っていたのだが、この分では、持たせておいた方が安心だろう。ついでに見守りカメラも買ってこようと左馬刻は決心したのだった。こいつは一人で置いておいたら、何をしでかすかわかったもんじゃない。出先から様子を見れた方が安心だ。
 泡を流し、体を洗う。さっとシャワーをかけ、銃兎のいるバスタブへ潜り込んだ。ザバっと大量の湯がバスタブからあふれる。
「ちょ、左馬刻」
 顔を寄せ、ぐりぐりと頬を押し付ける左馬刻に、銃兎が嫌な顔をする。
「あー。疲れが飛ぶわー。今日もくっそ忙しかったんだよなぁ」
 ぐたりと銃兎の背後から抱きついた左馬刻に、銃兎がじたばたと身動いだ。
「重た!重てぇ!左馬刻!」
「あー」
 構わずに、左馬刻は銃兎を羽交い締めにする。銃兎のうなじに顔を寄せると花のような香りがする。
 明日は、休みだ。休みにしよう。舎弟が騒いだって知るもんか。親父以外の呼び出しはガン無視だ。よし決めた。
 そんなことを考えながら、左馬刻は心ゆくまで銃兎の肌を楽しんだのだった。
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ama-gaeru · 5 years
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錯視上ブルーエンド14
14話:8月16日(午前10時58分)耐え続けるx崩れ続ける 
 西郷に唇を噛まれた時、肉をホチキスでバチンと留められたと感じた。
 骨まで伝わったあの振動。バチン。それも2回。バチン。バチン。頭が真っ白になるとは、ああいった状態を指すのだろう。
 口の中にシロップで濡れた氷を押し込まれた感触がまだ残っている。舌さえ触れなければ、あれをキスだとは思わなかっただろう。
 いかにもあいつらしい不器用さだが、その不器用さを今は好意的に受け止めることはできない。これから先もずっとそうだろう。ぶっきら棒だが可愛げのあるお気に入りの後輩は消えてしまった。そもそもそんな奴は、最初からいなかったのだ。
 あいつも所詮、嘘つきの蛇だった。この2年、西郷と築いてきたと思っていたものは、全部嘘だったのだ。
 反吐が出そうだ。
  昨日は家に帰るなり眠り込んでしまったから、自分の顔がどうなっているのかを確認する余裕がなかった。
 あの衝撃に相応しい、さぞや深い傷になっているのだろうと覚悟して鏡をのぞいてみたが、鼻と唇の間にある窪み──人中(じんちゅう)の少し右と下唇の左端に、わずかに歯型が残っているだけだった。
 触れるとひりつくが、この程度なら数日後には消えているだろう。あのバチンという音は、きっと精神に受けた衝撃音だったのだ。
 こんな大したことない傷じゃ、あれ自体がまるで大したことじゃないと言われている気になる。俺は口の周りの肉を全て齧り取られているべきだし、第一次世界大戦の負傷兵のように顎を失っているべきだ。
 だが、鏡の中にはいつもと変わらない俺がいる。現実の内側と外側が噛み合っていない。誰かに裏切られる度にいつもそう思う。心の傷が──安い言葉だ──肉体に反映されるものなら、俺の体で傷がついていない箇所などほとんどないだろう。残り少ない無傷な部分も、昨日1つ失った。
 やってくれたよ。西郷。お前って奴は。
 洗面台の蛇口をひねり、流れ出す水を手のひらですくい取って、口をすすいだ。どんなに丁寧に磨いてもいつの間にか赤カビでぬめるようになっている洗面台の上を、蟻が1匹歩いてゆく。ので、潰した。まだ触覚が動いているそれを排水溝に向かって指で弾く。蟻は水の渦に飲まれ、コポポポポと音を立てる穴に吸い込まれて消えた。また1匹現れたので、また潰す。ほぼ反射的に潰した1匹めとは違い、今度はどうせ殺すのならばと、そいつを西郷だと思って潰した。幾らか胸がスッとする。ブラジルで蝶が羽ばたけばテキサスで竜巻が起きるように、あの蟻と西郷の運命が人知の及ばない複雑な法則でもってリンクして、あいつがどこかで何かの下敷きになって死んでいればいいと思う。線香くらいはあげてやろう。俺は優しいから。そのはずだ。俺は優しく、善良で、���めない、いい人間だ。だからそういう人間らしい振る舞いをするのだ。俺はそういった俺を俺自身で作り上げるのだ。だから俺は、あの時、西郷を責めずに許したのだ。最初から何もなかったことにしてやった。俺が俺でなければ、誰があんな嘘つきに許しなど与えるものか。
 壁、床、屋根、窓。
 この家はいつもどこかに穴や隙間が空いていて、虫や爬虫類が入ってくる。眠っているうちに体の上を何かが這っていくことも多い。どんなに清潔に保とうとしてもどうにもならない。夏だから一層酷い。
 服や靴や鞄はいつもコンビニのビニール袋の中にいれて、硬く口を縛っている。こうすれば虫が入ってこない。学校で服に虫がついてるところでも見られてみろ。「結局お前はあの地区の人間なんだ」という憐れみの目に突き刺される羽目になる。それは避けなければならない。誰にも俺を憐れませるものか。俺はずっと高尚な人間なんだ。お前らなんかよりもずっと、ずっと。
 部屋の真ん中の畳の間から1つ、琉球朝顔の蔓が伸びて、扇風機の風に揺れている。毟っても、毟っても、蔓はそこから顔を出した。きっと床下は朝顔の根と茎とで満ちているはずだ。最近、家の中でよく見る、小指の爪ほどの大きさの不気味な甲虫は、朝顔についているものなのだろう。
 下着姿の父が平たい布団にうつ伏せになったまま、その蔓を指で弄んでいる。
「このまま育てたら、ここでも花が咲くかな」と父は言った。
「その前に朝顔の根に柱をやられて、家が崩れる」と答える。
「そうかよ」と言って父は蔓から手を離した。しかし毟ろうとはしない。家が崩れ、潰れて死ぬことを望んでいるのかもしれない。俺は巻き添えになりたくない。
 元々こんな花は生えていなかった。俺の家にも、周囲のどこにもだ。
 何処かの誰かが面白半分で家の基礎コンクリートの通気口に種を投げ込んだのだろう。きっとここをゴミ屋敷と呼び、笑いながら様々なゴミを投げ込んでいく連中のうちの誰かの仕業だ。例えばあのスクーターの連中とか。奴らはここらの人間じゃない。鴨川ナンバーの観光客だ。ここでなら何をしてもいいと思ってるクズ。
 悪ふざけによって芽吹いた緑は床下で爆発し、家は見えないところから崩れていく。このまま俺の家が朝顔に飲まれて消えたら、その誰かは少しでも悪いことをしたと思うだろうか。いや、そんなことは決してない。奴らは笑うのだ。こんな面白いことを自分はできるのだと自らのジョークを誇るのだ。いつだったか、シャッター通り商店街にゴミを捨てた西郷のように。
 あれが西郷に対して失望を覚えた1回めだった。
 あの時に完全に切っておけばよかった。中途半端に「もしかしたらこいつも少しは変わるかも」なんて期待してしまうから、こんな裏切りを受ける。もっと素早く、人を見切れるようにならなくてはならない。正しい時に正しい振る舞いを、少しの心の揺らぎもなく、できるようにならなくては。
 瞬きする間に、おかっぱ頭の恋人の顔が浮かんだ。きっと彼女なら、西郷のような男をなんの躊躇もなく切れるに違いない。
 あの子の迷いのなさが好きだ。あの子はいつも正しい。他人に嫌われようと、疎まれようと自分を突き通す。磨き抜かれた槍のようだ。あの子のように生きれたら、きっと人生はもっと生きやすいはずだ。物事を全て白黒で判断する。揺らぎなんかない。素晴らしいことだ。
 彼女が俺を見て、他人に向けている冷たい無表情な顔が崩れる時、俺は本当に幸せな気持ちになれる。あの子の目は、俺を素晴らしい人間なのだと実感させてくれる。彼女はいつも正しい。だから彼女が選んだ俺も、間違いなく正しい人間なのだ。
 俺は彼女のことを考えるのをやめる。こんな家で彼女のことを思いたくない。今や彼女だけが俺が手にしている唯一の美しいものだ。こんなところで彼女を思うべきじゃない。誰が肥溜めの中で神に祈る? 祈るのなら、祈りに相応しい美しい場所でだ。それはここではない。
 俺は水を止め、洗面台のすぐ横にある台所に移動する。冷蔵庫はとっくの昔に壊れていて、中にはほとんど使うことのない食器と、安物のカップ麺が詰め込まれている。それから『ボランティア』の連中が置いていくレトルトの健康食品。俺の体を気遣っているつもりなんだろう。1食で1日分の野菜が取れる中華丼や、カレーや、豆腐ステーキの素を冷蔵庫に詰めれば、それで俺にむけるやましさはチャラになると思ってる。ふざけるな。
「何食べる? シーフードと豚骨とカレーと」
「この暑いのにラーメンなんか」と言いながらも父は「シーフード」と答えた。
 ヤカンに水を入れ、コンロに火をつけるとゴトクの下からまだ成長しきっていない小さなゴキブリが数匹這い出して逃げていった。
 湯を沸かしている間に、シンクに投げ込まれているカップ麺の容器や割り箸をゴミ袋に投げ入れていく。
 何度言っても父はゴミをゴミ袋に入れずにシンクに投げ込む。ひどい時は窓から投げ捨てる。まるで俺がしていることが、全て無駄なのだと言うように。結局ここはゴミ溜めで、それ以外にはなりようがないのだと俺に納得させようとでもするように。
 それが父の目論見なのだとしたら、成功してる。こうして家に父と2人でいると、俺は自分をゴミのように感じるのだ。父が俺を、そういう目で見るから。
 俺さえここにいれば逃げ出した母が戻ってくるだろうと目論んで、父は俺を引き取る条件で離婚に同意した。仮に母が戻らなくとも、母の再婚相手から俺の養育費を得られるだろうと父は思っていた。だが結局、母は戻らず、養育費は俺の高校進学と共に送られて来なくなった。父は俺を「期待はずれ」という目で見る。
 ゴミを片付けながら、俺に向けられている父の視線を忘れるために、西郷のことを考える。考えたくて考えるわけじゃない。考えずにはいられないからだ。あんなことがあったんだ。無理もないだろう。
 西郷好太は俺によく懐いていた。散歩の時間になると自らリードを銜えて玄関前で待っている犬を連想させる程だ。あいつの容姿は少しも犬には似ていないが。
 短い睫毛に囲まれた大きすぎて丸過ぎる目と、大きすぎる口。ガタガタの歯並び。彼は何かの間違いで地上に上がって、そのまま人間になってしまってうろたえているサメのように見えた。
 学校という陸地での西郷は、トラックを走り回っている時以外は息苦しそうに見えた。あれは周囲に合わせた振る舞いができないタチなのだ。器用さに欠く。
 入学したての頃は周囲に嫌われたりバカにされたりすることを恐れ過ぎるあまり、わざと舌打ちをしたり、髪を派手な色に染めたり、趣味の悪い服を着たりして、先手を打って嫌われようとしていた。
 「嫌われたり、バカにされたくないのなら、努力して嫌われたり、バカにされたりしないようにすればいいんじゃないの? なんで真逆のことをするの?」と、学校の連中は思うだろう。だが、俺には西郷がなぜそんな不器用な選択をしたのかがわかっていた。時に、嫌われる理由があるということ自体が、人を救うこともあるのだ。少なくとも「何もしていないのに嫌われた」という絶望を遠ざけることはできる。
 学校では常に居心地悪そうに見えた西郷も、団地という陸地に食い込んだ海の中では自分自身を取り戻したように見えた。
 一緒に帰る時、俺たちはいつもあいつの団地の前で別れた。
 「じゃあな」と手を振った後、そのままそこに立ち止まっていると、団地の階段の踊り場から中学生くらいの子供が顔を出して「コータくーん! おかえりー!」と声をかける様子や、小学生くらいの子供たちが次々とあいつに駆け寄り、ハイタッチしたり、足に絡みついたり、肩車をねだる様子が見えるのだ。あいつは子供たちを雑ではあるが愛情に満ちた態度で相手にしながら、団地の庭の花壇をいじっていた中年の女性と挨拶したり、ベンチに座っている老人に手を振ったりしながら団地の中へと消えてゆく。
 俺はあいつの団地での振る舞いを見る度に、胸が焼けるような気持ちになった。少なくともあいつは、どんなに学校で息苦しかろうが、本当の意味で孤独にはなりようがないのだ。あいつを気にかけている人間が、あんなにたくさんいる。あいつは恵まれている。あいつは、あの灰色の無骨な建物の中では安心して眠れる。それが酷く、妬ましかったのだ。
 俺は小さい頃から多種多様のクズを見てきた。バリエーション豊かな自己愛の塊たち。全部書き出したら分厚い図鑑も作れるだろう。
 母の浮気を疑い、顔が蘭鋳(らんちゅう)みたいに膨れ上がるまで殴りつけた父。幼い俺を連れて出戻った母を一度は迎え入れたくせに、母を追いかけてきた父の狂人じみた振る舞いを恐れ、母と俺にわずかな金を握らせて追い出した祖父母。仕事を世話してやるからと母を囲い者にした旅館の板前。父に居場所がバレることを恐れて俺の戸籍を登録しなかった母。書面上、どこにも存在しない俺を、これ幸いにといいように扱った連中──どいつもこいつも口を開けば「お前のため」と言う。俺のためだと言えば、俺に触れる手からやましさが消えるかのように。やましいことをするのは、俺がやましいことをされるような奴だと言うかのように。
 そう言った連中に比べれば、西郷は上等だった。十分に人間だった。世渡りの下手くそさも好意を持つに至る一因だった。俺は確かに、あいつが好きだったのだ。
 あいつは俺と話す時、常に俺がどう感じるかを想像していた。
 俺の機嫌を損ねやしないか、俺に嫌われるかどうか、俺に好かれるかどうかを、あいつは常に気にしていた。
 その目が、俺を人間のままでいさせた。俺に自尊心を与えた。俺自身に「俺はゴミではないのだ。まともな人間なんだ」と実感させた。
 西郷は俺が必要としているものを俺に与えた──尊重だ。
 だから、今回のことはとても腹立たしかった。
 あいつは俺の意思を考えもしなかったのだ。
 俺がどう感じるのかすら、どうでもよかったのだろう。
 あいつは俺を軽んじたのだ。
 それも、俺が、誰にも吐露したことがない悩みを告白し終えた直後に。いわば、お前を信頼しているのだと俺が心を開いた直後にだ。
 俺の足の下で波に飲まれてもがいていた西郷を思い出す。
「あのまま殺しちまえばよかった」
「誰が誰を殺すって?」
「独り言だよ」
 ヤカンから激しく湯気が立ち上ったのでコンロの火を止め、父と自分の分のカップ麺に湯を注いだ。2人分の箸とカップ麺を持ち、父のいる部屋に戻る。この家に部屋はこの6畳間しかない。あとはトイレと風呂だけ。どちらもカビだらけで、窓は割れていて、どこも壊れてないはずなのにひどい臭いがした。
 2つの布団の真ん中にあるプラスチックの小さなテーブルにカップ麺を置くと、父はもぞもぞと毛虫のように身をよじって起き上がる。痩せた体に骨が浮き出していて、腹だけがポコリと膨らんでいる。まるで地獄絵巻にでてくる餓鬼のようだ。幼い頃、俺を殴りつけた手も、俺を踏みつけた足も、枯れ枝にしか見えない。
 父は病院に行きたがらないので確認しようがないが、もう長くはないと思う。あの薄い皮の下で、病魔が巣を作っているのだ。いや、父自体が巣なのだろう。病が父の内側に死という名の卵を産み付けているのだ。
「ありがてぇなぁ。お前は何でもやってくれる。俺にはもう、お前だけだよ。なんたって最後は血だよ。血が全てなんだ。たった2人の父と息子だからな。お前みたいないい息子を授けてくれたこと、仏様に感謝しねぇと」
 父はそう言って俺を拝む。薄寒く、嘘だらけの拝みの仕草に苛立ちが増す。
 この縋り付くような目が嫌いだ。俺をゴミとしか思っていないくせに、それでも俺を自由にしようとはしない。それに父がこういう目で俺を見るのは、俺に何かをさせようとする時だけだ。わかってる。今日はボランティアがくるのだ。それを父は知ってる。幾らか金も受け取ったに違いない。どうせ死ぬのに、それでも金が欲しいのか。惨めな人間だ。
「俺ももう長くねぇから、歩けるうちに歩いとこうと思ってな。今日は公民館まで行ってくるから」
 俺は首の後ろに手をやる。付け根よりやや下に指を伸ばせば、人差し指がへこみに触れる。この間、ボランティアに噛まれた痕だ。
「戻んのは夕方だなぁ。お前、留守を頼むよ。人が訪ねてきた時、誰もいねぇんじゃ困るからさ」
 この傷はそう簡単には消えないだろう。ここを噛まれた時は痛み以外には何も感じなかった。完全に俺に対する感情を隠していた西郷と違って、ここを噛んだ人間は、最初から俺に対する欲情を少しも隠していなかった。初めて会った時から、俺に対する欲情が目の中で燃えていた。それは部活にやってきたあのバカ女共のからかい混じりの目線などが児戯に思える程の下劣さだった。おぞましかった。
 俺はできるだけ2人きりにならないようにしていたが、先月、ボランティアがきた時になぜか父は「ちょっと散歩」と言って家をでていった。
 俺は「用があるなら俺が代わりに行くから、父さんはボランティアの人と話をしなよ」と表面上にこやかに、内心では「嘘だろ! なんだよ!」と叫びながら言ったが、父は「お前から話した方がいいだろ。こういうのは子供の方が素直なんだから」と言って、出て行ってしまった。
 あの男が「2人だけでできることもあるからね」と言って俺を後ろから抱きしめた時、俺は恐怖のあまり身動きとれなかった。
 まさか父が本当に俺を見捨てるわけがないと、まだ信じていたのだ。
 ──おいおい、そんな大げさに騒ぐなよ。ちょっと噛んだだけじゃないか。ふざけてただけだよ。君が暴れるから、つい力を込めすぎちゃったじゃないか。私には弟がいてね、小さい頃よく噛み合いっこをしたから、君も喜ぶかと──。
 ──勘弁してくれよ。俺には妻も子供もいるんだ。ここには福祉できてるだけで、君にそういう感情は持ってないよ。当たり前だろう。女じゃあるまいし、男同士で体に触ったくらいで大騒ぎするなよ──。
 ──もしもこれをそういうものだと感じたなら、さぁ? 君もそういうことに興味があるってことなんじゃないのか? ──。
 ──もしかしてもう経験があるんじゃないか? いや、いや、これは興味本位で聞いてるんじゃないよ。私にはこの地区の子供達の成長を見守るという役目があるんだ。だからもしも、もしも君がそういうことをする大人にあったことがあるのなら、素直に言ってほしいな──。
 ──君がいう「そういうことはしてない」っていうのは、お金は受け取ってないってことかい? 恥ずかしがることないよ、君くらいの年齢だとそういうことに興味があって当たり前だし、実は私も高校の時に……わかるだろう? まぁ、君ほど綺麗な子じゃなかったけどね──。
 ──次に来る時までに機嫌が直ってると期待してるよ。君はね、生まれ持った才能を生かすべきだよ。もちろん陸上もそうだけど、陸上だけが全てじゃないからね。もっと広い視野で、これからの人生について考えてみるべきだよ。必要な支援を、君の生活態度によっては与えてあげられるかもしれないし──。
 俺は父に向かって言う。
「学校の用事があるから、今日は俺も出かけるんだよ。散歩なら明日でもいいだろう」
 父は俺を拝んでいた時の愁傷な顔を一変させる。しばらく父は無言で俺を睨んでから、カップ麺を掴んで俺に投げつけた。まだ熱いスープと麺が顔と髪に絡まる。
「風呂入って臭ぇ体洗ってこい。誰のおかげで生きてられると思ってんだよ。ボケナスが。俺は出かける。テメェは家にいろ。留守番もまともにできねぇガキに育てた覚えはねぇんだよ、俺は! グダグダ言ってるとブチ殺すぞ!」
 死にかけの骸骨のような父に、俺の中に残っている小さな俺が震え上がる。今は俺の方が大きいし、強いとわかっているのに。
 俺は立ち上がり、風呂場ではなく台所に向かう。風呂場に入る気はしない。いつも、台所で水を浴びて体を洗っている。
 蛇口から流れる水に頭を突っ込んで、髪についた汚れを洗い流す。
 水音の向こう側から、父の声が聞こえる。
「テメェのクソちんぽを変態に1つ、2つしゃぶらせたところで減るもんじゃねぇだろうが」
 ああ。もう俺があいつに何をされるのかを、隠す気すらないのか。
 うんざりだ。うんざりだ。みんな死ね。死んでくれ。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
前話:次話
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うん、うん、わかった、と壁に向かって繰り返す。あーもうわかったうるさいいつも同じ細かいことを何度も何度も。ちゃんとやってるから、あーもうわかったてば。ママ、いつ帰って来る? もうすぐ帰る、で通話が切れて、受話器を置きながらため息が漏れた。久しぶりに電話がつながったと思ったらこれだ。
「ママ、もうすぐ帰って来るって。」
 子供部屋に声をかけると「はーい! お片づけの時間なのです!」と子供向けアニメの決めゼリフが微妙に甲高いうめき声に混ざって聞こえてきた。何事かと見に行けば床に転がったピンクうさぎのぬいぐるみがおもちゃ箱の下敷きになってバタバタもがいていた。何だうさぎか。
 箱をちょっとずらしてやったが存在に気づかずチカの足が踏んづけて、ぎゃっ、と悲鳴が上がった。散らかっていたぬいぐるみやままごとセットを拾い上げてはぽんぽん玩具箱に放り込むのを眺めながら自分は勉強机に戻って数学の課題にとりかかる。あともうちょっとで解けそうなんだけど、うーん……。どこ間違えたんだろ。
「ねえちゃん読んでー。」
 さっきまで数字が並んでいた場所をぬいぐるみ的なクマの絵が占領していた。チカの最近のお気に入り、「さんびきのくま」。
「自分で読みなよ。私来週テストなんだってば。そんなの読んでるヒマ無いって。」
「うー……。わかった。」
 口を尖らせて部屋の隅に座り込む。自分で読むと言ったってまだ平仮名すら読めないはずなんだけどページをめくりながら一字一句間違いなく文を読み上げ始めた。全部おぼえてるのか……。内容覚えてるのに読んで何が楽しいんだ。っていうかその記憶力私に分けろ。あと声出して読まないでよ気が散るから。
 書き写しミスを直してやっと最後の問題を解き終わったところでタイミングよくインターホンが鳴った。ちょっと待ってて見て来るから、と玄関に出るとガチャガチャと金属音が続いて扉が開いた。ママだ。
「ただいまあ。買い物してたらちょっと遅くなっちゃった。お腹すいたでしょ。今日はおいしいお土産があるんだよー♪」
 スーパーのレジ袋二つを任されて中身を覗き見る。一つはいつも通りにんじんとかたまねぎとかその他野菜類だったけどもう一つは妙に軽くて白い四角い箱。
「ママおかえりー! おみやげ? なに、なに?」
 周りを飛び回るチカを避けつつリビングのテーブルで箱をあけた。現れたのはイチゴのホールケーキ。三人用のようで一般的なホールケーキより若干小振りだがめったに我が家の食卓に載ることの無い高級品であることは間違いない。中身を確認してぃやったあ、とチカが両手をあげて万歳。
「ケーキだ! ケーキ、ケーキ!」
「飛び跳ねないの、下の人に迷惑でしょ。」
 ママは舞いあがるチカに苦笑しながら他の食材を冷蔵庫に分けて入れて、さあ夕ご飯作るからね、と中華鍋を取り出した。中華! どんな高級料理だろう。
   今日の夕飯は何か高級料理というわけでもなく無難に酢豚で、でもいつもは入っていないパイナップルが混入していた。豚によく合っておいしい。
「……何かいいことあったの?」
「うん! 和志が明日デートしてくれるって!」
「……よかったじゃん。」
 最近喧嘩して目をあわせてくれないとか次はいつデートしてくれるんだろうとか言ってたけどいつのまにか仲直りしたらしい。
「ママ、その人と結婚するの?」
「そのつもり。明日しっかり話し合うつもり。」
 新しくパパになるらしいその人は普段わりとぼけっとしてて、不器用で、でも優しくて気がまわるいい人なんだそうだ。半分どころか多分にママののろけが入っているので正確な情報じゃないだろうけどまあ悪い人ではなさそうだしうまくやっていけるんじゃないかな、と頭の隅で軽く考えて箸を置いた。
「結婚してほしくない?」
「ううん、応援する。そりゃパパのポジションに他の人が入って来るの抵抗ないってわけじゃないけど、パパポジションの人が来ればお金のこととか、色々楽になるんでしょ。何よりママの支えになる人がいつも側にいてママが幸せになってくれれば私もうれしいし。」
 うえ。何か綺麗事言い過ぎて口だけ私の顔からがっぽりはずれてどっか遠くでぺちゃくちゃしゃべってる感覚。嘘は言ってないけど本音を省略しまくったらこんなクサいセリフになるのか。うええええ……。
「そっか、ありがとう。」
 はにかんで照れたように顔をふせながらケーキを切り分けて、いつも苦労かけてごめんね、もうちょっと我慢してね、と笑った。そのまま流れで始まったのろけ話を流れで右から左に聞き流してフォークを手に取る。自分のケーキを細断して大事に大事に味わうチカの隣、空っぽの皿の前でピンクうさぎは不満そうにそっぽを向いていた。
  「桜庭(さくらば)、最近親どう」
 四限の数学の後、課題ノートを半分運びながら多田がきいてきた。
「どうって、なに。別にふつうだよ。何いきなり。」
「いや、俺の知り合い桜庭ん家近くらしいんだけどさ、夜遅くに結構その……さわいでる? っていうか」
「わ、ごめん聞こえてる? 近所迷惑になってるって言っとく。ありがと、教えてくれて。」
 他人ん家の事情に探り入れてくんなうっとーしー、このまま嫌な話に移行したらノート全部持たすぞとか思いつつ職員室がすぐ近くであることに感謝する。
 何が不満なのか多田は眉間にしわを寄せて職員室のを示すプレートを睨み上げて数秒黙ってから中に入って行った。先生はまだ戻っていなかったのでデスクに積んでおく。他の先生に言づてを頼んで職員室を出ると先に出た多田がまだ待っていた。そんな気をつかわなくてもいいのに。何やら周囲を気にしているので時折目を落とすのにつられて手元をみるとCMでよく見るようなタッチパネル式情報端末を握っていた。校則違反じゃんか。それも職員室前で。没収くらっても知らないぞ。
「あ……のさ、メアド教えてくれん?」
「何唐突に。私携帯持ってないんだけど。」
「マジで!? なんで? 親厳しんか?」
「前住んでた所立地のせいで電波悪くて。そのまままだ買ってもらってない。」
 そっかー、と目に見えて落胆してスマホをポケットに滑り込ませる。そのポケットをさぐってメモ帳を取り出して何か書き付け始めた。……早く携帯買ってもらわないとマズいな。
 どうやらこの学校では携帯は日常生活必須アイテムのようで転校初日にもクラスの女子からライン交換しようとかツイッターのアカウントはとかという話になって、カナが携帯を持っていないことを知ると人だかりは一気にはけてしまった。今更手に入れた所で手遅れかもしれない。
「あの、これ」
 メモ用紙を一枚破って渡された。11ケタのアラビア数字。
「家電(いえでん)はあるんだろ。何かあったらいつでも連絡して」
「ありがと。……今はいいや。」
 とりあえず適当にポケットにしまっておいて、昼食を買いに多田と別れた。
  「ねー、“パパ”ってどんな感じ?」
「どんなって。……そっか、チカはまだ小さかったもんね。」
 ウサギとクマとブタという、どう考えても弱肉強食が成立しそうな組み合わせで家族ごっこをするチカの頭をなんとなくなでる。ママ役をわりあてられたはずのピンクウサギが妙にいばりくさってクマに家事を押し付けまくっていた。クマとブタはされるがままゆっさゆっさとゆられている。
「ええと、いつも仕事で遅くて、でも土日はたいてい家に居て遊んでくれて……。」
 どんなって言われると意外と単語が出て来ない。優しかったり厳しかったりちょっとお茶目だったり、何にせよカナにとってもパパがいたのはもう五年も前の話で、早くも記憶が曖昧になっている気がする。パパはそこまでスーパー善い人だったか。たまに理不尽に不機嫌になって怒鳴り散らすようなことはなかっただろうか。そっちの方が人間らしくて、自分の近くに居た人という感じがする。
 鍋の中でとろけていたカレールゥがとろぷつと湯気を立て始めた。チカにご飯をよそわせてその上に解凍した冷凍カレーをぶっかける。今日はママがいないからルゥが二割増だ。リビングのテーブルに持って行くとすでにスプーンも並べられていた。行儀よくテーブル上に座らされたウサギの前にもプラスチック製の先割れスプーンが転がっていた。そんな期待の目で見られてもウサギの分なんか用意してないし。
 席についてそのまま食事を始めると「ねえちゃんいただきますは?」と手を合わせた妹に睨まれた。うるさいなあ、とスプーンを口に加えたままふがふがと手を合わせると「口にもの入れたまましゃべらない!」とすかさず声が飛んだ。あーもう、どこのオカンだあんたは。ウサギも馬鹿笑いすんな……。年下オカンに叱られ続けるのも癪なので素直に従って食事を続行する。
「あー、明日も雨だよー……。」
 画面いっぱいに並んだ傘マークにチカが肩を落とした。
「何かあったっけ明日。」
「ゆうちゃん家、明日旅行に行くんだって。」
 ゆうちゃんって誰だ。知り合いと親戚の名前を脳内検索していつもチカを預けているおばさんの名前がヒットした。いい歳して「ゆうちゃん」て。
「明日土曜だからチカは家でしょ?」
「おみあげ買ってきてくれるって言ってたよ。」
「おみやげね。……チカ、今日もデザートあるよ。」
「え、本当!」
 わー、小学生って単純だな。いや、もうすぐ小学生であって正確には小学生ではないのだけれど。昨夜うきうき気分のママののろけ話を一通り聞かされた後に学校帰りにデザート買って帰りなさいと500円玉を渡されたのだ。ケーキは昨日食べたのでプリン二つ、240円なり。残りはどうしようかなー。
 食後のプリンを平らげて、迷いつつも電話を手にとった。邪魔しちゃうかな、邪魔しちゃったら悪いなと思いながら押し慣れた番号にかける。ちょっと遅れてぷるる、と鳴り始める。
 15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
 まだ今からつながるような気分でしばらく固まって、受話器をおろした。期待していたわけじゃないけれど気がついたらため息がもれている。いやホント、期待していたわけじゃないけれど。
「またマンマ?」
「ママ、ね。」
「あの人ママじゃないよ、だってチカのこと知夏って呼ぶもん。ママはチカのこと、ちぃちゃんって呼ぶんだよ。」
 畳部屋で布団を敷いていたはずのチカが右手に持っているのは積み木だった。遊んでないで皿洗い手伝ってよ。そういう自分だって皿洗いほっぽって電話かけてたけど。チカはしばらくその角棒を手の中でもてあそんでから耳に当てて「もしもしママー?」とかやりはじめた。ママにかけていると言う設定なのに相手はもしもしこちらウチュウジンですと返事して、「今日ねーチカねーつみきしてあそんだのー。」と話し出す。見ているとピンクうさぎは困ったようにえーとママを誘拐したから身代金をとかぼそぼそさらりと学前児童相手にとんでもないことを口走りやがったのでじろりとにらむと、ウサギはおどけるように軽く肩をすくめてみせた。
 ジリリリ、と耳障りなアラームが鳴った。
「お風呂お湯入ったって。チカ先入っていいよ。」
「えー。一緒に入るー。」
 しょうがないなとタンスからパジャマを引っ張り出す。自分がいつから一人で風呂に入ってたのか覚えが無いけどそろそろ一人で入ってもいいんじゃないだろうか。
「ねー、今日ママいつ帰って来る?」
「今日はデートだから遅いよ多分。……チカが寝た後じゃない?」
 ピン ポーン
 ちょうどインターホンが鳴って二人で顔を見合わせた。ママが帰って来るには早すぎるから、お客さんかも。でも夜中に、誰だろ? チカが目をくりくりさせて「パパだったりして。」とにんまりしてみせる。
 しばらく間があってからガチャガチャと金属音を立てて鍵がくるりと回る。あーなんだママか。思ったより早かっ
   一瞬で視界がぶっとんで頭の中に思考が戻ってきた時にはリビングの床に転がっていた。ぎゃあぎゃあとチカの泣き声が響いている。体を起こすと手に革ひもが触れた。ママの黒バックだ。左目のあたりが食い込むようにズキズキと熱を持っていて視界が悪い。黒バックから水筒が顔をのぞかせていた。アレか。
「ねーちゃ、ねえちゃんっ。」
 アレに追われてチカが畳部屋から転がり込んできた。その体をストッキングの脚が蹴り飛ばして流しに衝突しガシャンと音が立つ。
「なんでてめえら片付け済んで無いんだ! 今から先に風呂だってか? やること、すませろって、いつもいってるよ、なっ?」
 ガスガスと蹴りつけられてチカがうめき声をあげる。その口がねーちゃんデンワ、と動いた。
 そうだ電話。早く電話かけないと。ママに。早く帰って来てって。
 固定電話に飛びついて聞き慣れたプッシュ音で目的の番号を呼び出す。途中から、二重に聞こえ始めてチカを蹴る音がやみ、アレが部屋を出て行った。
 ぷつり。電話がつながる音。
『はい桜庭です』
 落ちついたママの声。玄関の方からも聞こえるのでチカが不思議そうに覗き込もうとして、あわてて引き止める。
「ま…ママ?」
 電話の向こうのこの人もアレに成り代わられているんじゃないかと急に不安になって声が小さくなる。しかし返って来たのはいつもの穏やかな声。
『どうしたの佳那。ちゃんと夕飯は食べた?』
「うん。……冷凍カレー。デザートはプリンだったよ。」
 ちがうちがう、そんな日常的な穏やかな話をしたいんじゃなくて、でもこうやって時間を稼いでたらママが戻って来るかもしれないし。いつもそうだし。今からお風呂に入る所だったとか、宿題で一個わからない所があるから後で教えてほしいとか、どれから話せばママが戻って来るだろう。
『佳那。いろいろ話したいみたいだけどちょっと電池が……』
「待ってママ。」
 電池切れの警報が聞こえ始め電話を切られそうになってあわてて受話器を耳に押し付ける。
「ママ、いつ帰って来る?」
 ぷつ、ツー、ツー、ツー……
 通話が切れて、呆然と電話を見つめる。誰かがこっちに戻って来る。チカがカナの脚もとまで這ってきていてすがりついた。反射的に抱きしめて玄関と反対側へひきずって移動させ、覚悟をきめてリビング入り口に立った人影を振り向く。真後ろ、目と鼻の先にいた。
「まーたいたずら電話か? ああ?」
 髪をつかんで揺さぶられてずきんと左目が痛み、電話を取り落とした。
「受話器を投げるな! 物は大事に使えって言ってんだろ!」
 耳元で大音量がひびいてクラクラした所で腹に衝撃。うずくまったら今度は顔を何かにぶつけた。ママによく似た声が耳から大音量で突入してわんわんと反響している。何言ってるかわかんない、わかんない。どうすればいいんだよ、どうすれば、どうすれば静かになるんだよ。
 至近距離で怒鳴るアレはなぜか怒った顔というよりも泣いていて、びっくりしてよく確認しようとしたら殴られてそれどころではなかった。
「お前らが、いるからっ……お前らがいるからっ……」
 腹にぐりぐりと拳を突き込まれて息がつまる。うめいたら平手がとんできて頬がひりひりした。鼻がくっつきそうなほど顔が近づいて来る。
「いいか? これは私が悪いんじゃないの。お前らがいるから悪いのよ。和志ね、自分の子とお前らと平等に見れる気がしないからお前らをどっかに預けろっていうのよ」
「預けたら、いいじゃん……。」
 平手。さらに首に手が伸びてきた。なんとか頭をずらして避けると腹に拳がさらに食い込んだ。
「お前らを育てるために和志に頼りたいのに、預けられるわけないじゃない」
「預けたら他の子、育てられるんでしょ……。」
 また首。今度は避けられずに徐々に息がつまる。
「ねえちゃんこっち!」
 はっと顔をあげると椅子を移動して電話前から玄関へ直通路ができていた。玄関をチカが開け放ち、外廊下の灯りが遠いのに妙に目にまぶしくうつった。チカの手ににぎられたウサギもにげろ!と叫んでいる。
 体をひねって抜け出し、一直線に玄関へ。風呂場前の水浸しの床を飛び越え脱ぎ捨てられた上着を踏んづけ裸足のままで。思い切りドアを閉めて階段を駆け下りる。チカを追い抜き後ろを振り返る。閉まったドアの向こうから「お湯出しっ放しじゃねえか何やってやがんだ!」と怒声がずいぶんとはっきり聞こえた。どうやらすぐには追って来ない。今のうちに距離をかせがないと。
「チカ、早く。」
「へ、わ。」
 同じように振り向きながら降りていたチカが続きの段を踏み外した。くるんと体が回転し、ゴン、ドンと転がり落ちる。
「チカ!」
 地面に激突する前に何とかキャッチし抱きかかえてとにかく方向も考えずに走り出した。
 
 逃げなきゃ。早く。どこかへ。どこへ? 遠いところ。なるべく、遠い所。
 走っていたら途中バス停を見かけた。それは道路を挟んだ向こう岸だったのでそのまま走り続けていたらその先のバス停にちょうどバスが到着した所だった。なんとか発車前に追いついて乗り込む。お金あったっけ。ある、デザート買った残り。ポケットの中に入ってる。
 ぐっしょり濡れ鼠の姿を見て同乗する大人たちが眉をひそめる。おばあさんが何か言いかけたのでにらみつけて黙らせた。何も聞かないで。放っといて。説明するのも、なんかもう面倒くさい。
「ねえちゃん、どこ行くの?」
 チカがおろして、と体をゆらしてきいてきた。よかった、無事みたいだ。駅、とりあえずそう答える。駅まで行けば色んな所に行けるはず。そこから、えっと、おばあちゃん家に行こう。最後に行ったのはずいぶん前だし降りる駅もわからないけど、まあどうせお金十分になくて誰かの車にでも乗せてもらうことになるだろうからその人が地名を知ってれば大丈夫。だからとりあえず駅行って……。
 駄目だ。ポケットの中でちゃりんと小銭が音をたてた。この一年バスに乗ってなかったから忘れていたが自分は今中学生。もう大人料金で、だから駅までも行けない。運賃板に目を走らせると一区間分にしかならなかった。
 ボタンを押して停まった停留所ですいません降りますと運賃箱に料金を放り込んでさささと降りた。運転士が何か言いたげな顔をしたけどゆっくり話してる場合じゃないし、無視。アスファルトの上の小石が足の裏を刺した。
「ねえちゃん、ここ駅じゃないよ。」
「ごめんお金足りないから駅まで行けない。……とりあえず、どっか見つからない所で休もう。」
 雨粒が視界をさえぎってうっとうしい。左目の傷は切れているのか雨がしみてズキズキにヒリヒリが加わり始めた。チカも頬に傷を作って雨で薄まった血が頬をつたっていた。チカはその傷を気にするよりも眠くてたまらないようで歩きながらうつらうつらしている。そういえばいつもならもう寝ている時間だ。
 おぶさって、と背中を向けてチカをおんぶして、目についた公園に入る。運動公園とかいう無駄に広そうな所。フェンスを回り道して中に入るとずぶりと泥で足が滑って転びそうになり、あわててチカを背負い直して体勢を整えた。
 真っ暗な遊歩道を歩くうちにどんどん雨で体が濡れて来た。髪が頬にはりついて、セーターもシャツも通り抜けて水がしみ込んできて寒い。どこか、屋根のある所。後、明るい所。ゆるやかなカーブをまがりベンチの横を通り過ぎる。全速力で走ってきたせいか、足が重くてだるかった。さっきのベンチに座ってしまえば良かった。今から戻って座ろうか。足が止まる。
 ペチャ、とチカを支える腕に何かが触れた。この感じ、多分ピンクうさぎだ。もうちょっと頑張れ、な感じでベチャ、ベチャ、と優しくたたく。運んでんのは私であってウサギは乗ってるだけじゃないかとちょっとイラッとしつつその苛立ちを利用して足を前にだす。
 どうしてこうなっちゃったんだろう。皿洗いを後回しにしたから? 違う。お風呂に入るのを優先したから? 多分違う。だってアレはその時もう家にいた。パパが死んだから? 違う。アレが家に来るようになったのは最近だ。じゃあ、なんで?
 自分達が、いたから? 家を飛び出す前にアレが口走った言葉を反芻する。数日前に「ママは二人がだーいすき。だから生活は大変だけど、一緒に生きて行こうね」と笑っていたのは、ママだったはずで、だからアレはママじゃない。アレは、ママじゃない。
 ママ、戻って来るかな。戻ってきたら私たちがいないことに気がついて探してくれるだろうか。それとももう、ママは。
   ぼったん。粘った液体がタイヤから垂れた。つり下げられた白バンに絡み付いた藻は緑を通り越してドス黒く、ぼったん、ぼったんとドブ水を垂らしている。
 ぺろーん、と軽快なテロップ音が鳴り、視界の上下に文字が現れる。どこかでアナウンサーが地域のイベント紹介をする時と同じく興味無さげな他人事口調で淡々と何かを言っている。シナイのノウドウでジコがアリマシタ。ウンテンしていたダンセイのシボウがカクニンサレマシタ。ケイサツは……サンとミてミモトのカクニンを……。
 ……はやくかわれ
 民放ならCMでもいい。早く次のニュースにかわって。次のVTRにうつって。
 やがて音声が次のニュースに切り替わり、アナウンサーの声が多少和やかになっても画面は切り替わらないままで、
 ぼったん。ぼったん。
 したたる水音がだんだんと近くなって眼前にせまり、ぴちゃっと一滴、冷たくはねた。
   ぴちゃっ、と頬に何か触れて、目が覚めた。また一滴落ちてきて見上げると天井から水が降ってきていた。雨漏りしているみたいだ。外の雨はますます激しさを増し、ボックスの灯りに照らされた路面でびちびちと白く跳ねていた。アナログチャネルの雑音のような雨音がガラス一枚隔てた向こうからくぐもって聞こえる。
 チカはカナに抱きついたまますやすやと寝息を立てていた。階段から落ちたときについたのだろう傷はもうふさがっていて、かさぶたの近くにあざが浮いていた。右手に握ったままのウサギが首をしめられる形になっていて、へるぷみーとじたばたしていた。苦しいわけないだろ……。
 目の前に設置された緑の電話機をぼんやり眺める。今じゃ街では絶滅危惧種なこれが公園の敷地内に設置されていたのはラッキーだった。でもいつまでもここに居るわけにもいかない。狭いおかげでお互いの体温があんまり逃げなくて外よりは暖かいが背中にあたるガラスからその冷たさがだんだんしみこんできている。
 これからどうすればいいんだろう。とりあえずばあちゃんの所へって出て来たけど既にたどり着ける気がしない。手元に残った2枚の10円玉ではこれ以上もうどこにも行けない。深夜という時間帯と、場所が場所なだけあって近くを誰かが通る気配もなく、車に乗せてってもらうという選択肢も無い。
 ぽん。ウサギがチカのひたいに手をあてた。つられてカナも手をのばしてそのいつもより高い温度に気がつく。雨で冷えたのかもしれない。この状態じゃ外に出て人を探すわけにもいかない。ウサギがちょっとやすめと袖をひっぱる。一緒にいてやるから、やすめって。
「あんたじゃチカの熱さげれないじゃん。」
 そうだ、ぼくはもう二人をまもれない。でもいつでも一緒にいるから。チカがカナにひっついているように、カナもぼくにひっついていいんだ。だいたいそんなことを喋りながら小さな手で鼻をなでなでして、カナがついくしゃみをするとガラスにぶつかって床に落ちた。
 あわてて拾い上げたけど何か違う気がした。耳をつまんだのに文句を言わない。ちょっと、ねえ起きてる? とボタンの目のあたりをデコピンしてみたり、ゆさゆさ揺さぶってみても反応がない。当たり前のようにただのぬいぐるみがカナの指先でぷらぷら揺れているだけだった。
 どうしよう。誰か、誰か。
 ウサギがしゃべらなくなっちゃった。誰に言えばなおしてくれるんだろうと考えてからまず誰に言ってもまともに対応してくれる人が���ないことに気がついた。とにかく今は、誰かに、アレ以外の人に助けてもらわなくちゃ。
 目の前の電話機のコイン投入口に一枚放り込んで押し慣れた番号を呼び出す。息を潜めて待っているとだんだん頭がふらふらしてきた。倒れまいと電話機にしがみつき、コール音を数える。
 15秒。コール音を5回数えて、電話は切れた。
 どういう仕様なのか投入したコインは回収されてしまって戻って来ず、手元には10円玉が一枚だけ残った。後一回。ママの携帯にかけて、出なかったらこれで終わりだ。もう一回かけてつながる保証は無い。でも他にかけるところなんて……。
 ふと思い出してポケットをさぐる。数学の課題を出しに行った帰りにもらったメモがくしゃくしゃに突っ込まれていた。これで、誰も出なかったらもう誰も迎えに来ない。この辺りを誰かが通るまでは気づいてももらえない。反応しないウサギのぬいぐるみをぎゅうっとにぎりしめて、書いてある番号をひとつひとつ、押して行く。
 プルルルルルル、プルルルルルルルル、プルルルルルルルルル、……。
 一回、二回、三回……。ああ、駄目かも。夜遅いもんなあ、寝てるよね。五回目。
 ガチャっ。
「はい。多田です」
 出た。びっくりしてしばらく沈黙してあわてて桜庭です、えとあの、12ルームの、と付け加える。同時に今硬貨を入れたばかりなのに電光表示の0が点滅を始めた。やばい、こんな深夜にとか言ってるけどそれどころじゃ無い。何言えば、とりあえず助けてって、あと場所伝えなきゃ。
「あのっ。」
 ぷつっ。ツー、ツー、ツー。
 電話はあっさり途切れて、ついに足の力が抜け、崩れ落ちるように座り込んだ。同時に手から受話器がすっぽぬけ、顔面すれすれを通過してゆらゆらとぶら下がる。
 雨音がどこか遠くで聞こえている。電灯がジジリと音をたて、時折風がびょうとふく。
 チカをウサギと一緒に抱きかかえて、ぷらんと垂れた受話器に手をのばした。耳にあてても何も聞こえない。
「もしもしママ?」
 聞こえない。
「ねえママ、迎えにきて。」
 応えは無い。わかってる。��音の電話機の向こうが、ママにつながっていたらと想像する。大丈夫、私にはパパがいつもついてるから、待っていられる。だから迎えに来て。
 待ってるから。
  「ねえママ。今日はいつ帰って来る?」
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kachoushi · 4 years
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各地句会報
花鳥誌令和2年5月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
令和2年2月1日 零の会
坊城俊樹選 特選句
街に立つ師は冬帝の黒纏ひ 光子 福豆売る絶対秘仏背に負ひ 千種 黒マスクをんなおそろし御徒町 いづみ 男坂即かず離れず雪女郎 佑天 きさらぎのくづし文字かな恋みくじ 光子 麗人と佳人出くはす梅の下 千種 幾重にも幾重にも絵馬ぬくくあり 季凜 天神下の鮮魚よろづ屋空つ風 梓渕 不忍のボートを漕ぐや落第子 順子 寒雀今日はめでたき貌をして 久
岡田順子選 特選句
永久の灯をもつ瓦斯燈も春を待つ 俊樹 福豆売る絶対秘仏背に負ひ 千種 絵馬に書く文字の細きへ冬の蜂 和子 白梅を背負へば空の青さ知る 久 きさらぎのくづし文字かな恋みくじ 光子 射的屋は夜まで閑で梅の宮 梓渕 飴玉を頰張りしまま春を待つ 久 街に立つ師は冬帝の黒纏ひ 光子 如月のこのひかりごと攫はれむ 美紀 ピアス挿し吾妹の梅に遊びゐる いづみ 古井戸を守り湯島の冬囲ひ はるか
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月5日 立待花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
風折れの水仙畑の先に岬 世詩明 水仙の花盗人を見て逃がす 同 余所者も馳せ参じたるどんど焼 同 寒雷の激しき音よ玻璃を打つ 誠 寒明の祝杯とてや大吟醸 輝一
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月6日 うづら三日の月句会
坊城俊樹選 特選句
華やぎの面影少し枯菊に 喜代子 春風やひもとく本と束ね髪 さとみ おうおうと神を呼び込みどんど燃ゆ 都 物言はぬ星のまたたき寒の明け 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月6日 さゞれ会
北風すさぶ神の島へと打つ怒濤 かづを 潮騒を春立つ音と聞いてをり 同 水仙の香と荒磯の香競ひをり 同 灯籠にあかり灯され冬の宿 啓子 山頂に横一列に冬の雲 同 鬼やらひ芸妓乗り出す成田山 笑 三句碑へ怒濤となりて春の海 同 丹の橋にくだける怒濤寒の海 清女
令和2年2月6日 さゞれ会
なんとなく聞く待春の鳥語かな かづを 坪庭の苔青々と春を待つ 清女
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月7日 鳥取花鳥会
岡田順子選 特選句
出雲より春の使者とも旅神楽 益恵 走り根の猛り濡らして寒の雨 都 雪降つて少し軽めになりし雲 史子 春愁や泪の乾くまでのこと 幹也 鬼は外木霊となりし遠明り 宇太郎 梅盛り炭屋に宿を取りし頃 悦子 凩や薬缶の笛を織り交ぜて 幸子 鴨引きて瀞長々とがらんどう 益恵 星冴ゆる電飾解かれゐし枝に 都 畦を焼く匂ひは朝の教室へ 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月8日 枡形句会
栗林圭魚選 特選句
句碑裏に昼の日差しや蕗の薹 亜栄子 紅椿大樹に日差し別れ道 文英 瀬の音のとみに弾みて猫柳 三無 水仙の白に翳ありうすみどり ゆう子 摘む指に匂ひ絡めて蕗の薹 三無 迂回して緋寒桜の峠道 教子 一瞬に緑走りし和布かな 三無 感触を確めたくて猫柳 教子 流れ沿ひ会話訥訥猫柳 ゆう子 まんさくの黄が野を覚ます風のいろ 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月10日 武生花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
冬の夜は石を枕のヤコブかな 利榮 待つ春は道草しつつ来るらしき みす枝 奥越の高嶺颪や頰凍つる 一枝 人住まぬままの離れに初暦 昭女 初茶会金塗り椀に虚子の軸 みす枝 どことなくゆとりのもてて日脚伸ぶ 信子 橋脚を濡らして寒の水ぬるむ 世詩明 天空を星の抜けゆく霜の夜 時江 大嚏して線香の灰飛ばす さよ子 春炬燵潜りて跳んで遊ぶ児ら みす枝 バレンタイン義理チョコにして片思ひ 世詩明 七尾線枯れ一色の中を行く 昭女 すぽつすぽつと鳰潜る音 時江 帰宅して窓にはりつく寒北斗 世詩明 鍛冶音の響くばかりや星冴ゆる 時江 寒の水十指絡ませ水を飲む さよ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月10日 なかみち句会
栗林圭魚選 特選句
天城嶺の残雪映す山の湖 怜 鶯の静寂誘ふ余韻かな 聰 春菊を入れていよいよ箸動く あき子 眺めゐる山々遥か初音かな 史空 咲きそめし白梅一枝句碑に添ひ 迪子 雪残る医院の花壇主亡く 美貴 山道の疲れ忘るる初音かな 史空 うぐひすや門柱細き尼の寺 和魚 初音せり無名戦士の墓に来て 美貴 竹林に一筋の日や雪残る 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月11日 萩花鳥句会
はからずも吾娘と豆撒くひと夜かな 祐子 梅林園目白と遊ぶケンケンパ 美恵子 まごころの色のごときや梅白し 吉之 裁かれるいのちに甲乙春寒し 健雄 咲き誇る梅見守りし主なく 明子 光琳の紅白梅図のごとき梅 克弘
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月14日 芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
白梅の一枝二枝の朝日受け 寛子 こけし等の夫婦寄り添ふバレンタイン 依子 早春の対岸をゆく押し車 孝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2��14日 さくら花鳥会
岡田順子選 特選句
節分の豆煮てゐるや福の神 実加 山眠る垂水の音の澄んでゆく 政隆 坊守や母の手を取り寺の冬 登美子 薄墨の宛名の滲む寒夜かな 同 身籠りて薄味で食ぶはうれん草 実加 朝空や雀の散らす春の雪 光子 荒れゆくも自生水仙越前に 紀子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月15日 鯖江花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
それぞれを生きそれぞれに木の葉髪 雪 退屈なスコップ並び雪降らず 同 大仏に伍して漢の豆を撒く 一涓 寒月やなべて牛舎の静かなり 同 褪せてなほ威儀を崩さず古代雛 みす枝 春の雪重ねて山を新たにす 信子 沈丁に激しく降りて匂ひ立つ 直子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月16日 伊藤柏翠俳句記念館
坊城俊樹選 特選句
裸木となりおほせたる静けさよ 雪 注連をもて神となしたる大冬木 同 ひそむるはひそむる蒼さ竜の玉 同 衝立は志功の菩薩春灯 同 春宵の星の愛子を探さばや 省吾 春炬燵問はず語りに聞く出自 清女 谷深くして水仙の浜辺まで 紀之 白山の此の美しき雪地獄 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月16日 風月句会
坊城俊樹選 特選句
鬨の声なき城址の遅日かな 炳子 春めくや菩提樹の抱く石仏 眞理子 観音の肌清らかに春の雨 佑天 遠からず近からず置き落椿 秋尚 み仏の足裏くすぐる春の雨 佑天 まくれなゐ椿時々山鴉 炳子 空蒼を梅紅をゆづらざり 千種 春雨に濡れ肌色の陽子墓碑 圭魚 白梅の枝垂れて傘の色いろいろ 同
栗林圭魚選 特選句
しめやかな雨白梅の白の濃く 貴薫 見上げれば万の輝き紅椿 ます江 ぽつてりと塀の上より白椿 佑天 書きかけの反故増えゆけり獺祭 千種 雨に色連らねつ馬酔木咲きはじむ 秋尚 やはらかく雨にほぐるる牡丹の芽 秋尚 春光へ諸手を挙げて母子像 芙佐子 豊饒に咲かせ大樹の玉椿 淸流
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月19日 福井花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
天よりの悲鳴の如き初音聞く 世詩明 蜜柑剥く伊予の祖父似の太き指 千代子 何となく聞く待春の鳥語かな 雪子 春泥を駆け来し犬が膝頭 清女 凍ゆるみ老杉雪を落としけり よしのり 臘梅や新羅の鐘を伝ふ宮 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年2月26日 九州花鳥会 寺まち句会
坊城俊樹選 特選句
地獄より戻り来してふ春夕べ 光子 頰つぺたの体温となる春の雪 愛 戸を鎖して春の闇へと僧祈る 光子 春の夕浅き縁の人とゐる 久美子 石庭の波くねくねと春の夕 千代
岡田順子選 特選句
頰つぺたの体温となる春の雪 愛 釈迦の慈悲広ごる社梅の花 睦子 恋猫のかさぶた落つる夕明り 愛 結界の奥草の芽を啄みぬ 光子 啓蟄や髪を刈り上げホームレス 勝利 夕さりの春の博多は好いとうよ 志津子 六道の闇とき放つ春の鐘 かおり 雛飾る段に灯の入る夕べかな 光子
令和2年2月27日 九州花鳥会 定例句会
坊城俊樹選 特選句
潮の香の堂に絵踏の遠き日々 久美子 栄華の日まなうらに秘め古雛 かおり 信仰の別けても冥き絵踏かな 豊子 右足の形に減りしや板踏絵 志津子 塩壺に塩ある白さ春浅し 成子 海あをし絵踏の罪をかい抱いて かおり 霞野に均し朱鳥の病舎跡 順子 少年の浅き溜息雛まつり 成子 一寸の針の重さや針供養 睦子 草萌ゆるサーカス小屋の杭打てば 順子
岡田順子選 特選句
三椏の咲くや櫛田の鬼の数 由紀子 シスターの授業絵踏のこともあり 愛 蝶生まる兜太句碑ある爆心地 寿美香 島人の数ほど絵踏物語 豊子 輪郭の緑青乾ぶ踏絵かな 愛 春愁の目覚めに浅き夢つづき 光子 海あをし絵踏の罪をかい抱いて かおり 淋しらに灯るサーカス春浅し 久美子 遊女踏む赤き椿の踏絵かな 喜和 絵を踏んで転ぶ転ぶと吐く木霊 さえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年1月8日 立待花鳥俳句会
坊城俊樹選 特選句
抽斗の寒紅をさす夫の留守 世詩明 初詣巫女は緋袴束ね髪 同 巻き癖の直らぬままに初暦 清女 セメントを詰めし背骨に年新た 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和2年1月16日 芦原花鳥句会
坊城俊樹選 特選句
寒鮒漁網引く漁師のしたり顔 けんじ 三ケ日校門かたく閉ざされし 孝子 台所を浄めて除夜の鐘遠く 同 小屋はねて暗き野道の雪女郎 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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