Tumgik
#錯視上ブルーエンド
ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド⑦
7話:8月10日(午前3時21分)野生化x高校生
 叔母さんの家を逃げ出してから今日で8日めか9日め……だと思う。
 疲労のせいで記憶力が低下してる。スカートが緩くなった。スカートとお腹の間に親指が入る。体重と一緒に体力も落ちてる。思うように力が入らない。ふらふらする。
 まさか徒歩で笹巳まで帰らなきゃいけなくなるなんて思わなかった。
 それも、行く先々で変な人にも警察にも見つからない場所を探して野宿しながらだ。信じられない。なんだかんだでそれをこなせてしまってるのも信じられない。こんなシチュエーションで新しい自分の可能性を発見したくなかった。私、逃亡者の才能がある。それから野宿の才能も花開いた。開かなくていい。いや、今は開かなきゃダメなんだけど。
 昨日はコンビニのゴミ捨て場からダンボールとエアパッキンを拾って、それを高架下の柱の側に敷いて眠った。土の上に寝るよりはマシだけど、背中と腰が蟹の甲羅みたいに硬くなってしまった。おまけに身体中虫刺されだらけ。
 全身がボロボロ。
 靴擦れは左右合わせて5箇所。足の裏のマメは左右合わせて11箇所。日焼けした顔全体、両手、両足の皮膚が蛇の脱皮みたいにズルリと剥けること2回。
 満身創痍だ。身体中の筋肉が熱を持って腫れているし、日焼けした皮膚もヒリヒリする。いや、これは日焼けって呼ぶべきじゃない。火傷って呼ぶべきだ。
 両手は指先から肘まで、両足は足首から太ももまで包帯でぐるぐる巻きになってる。包帯の下の皮膚は小さな水ぶくれでいっぱいだ。包帯を巻いてから痛みはマシになったけど、マシになっただけで消えたわけじゃない。
 ……でも靴擦れもマメも火傷も、怖い痛みじゃない。
 私は左の手首を摩る。痛みはもうなくなっているけど、恐怖がまだこの手首に残ってる。大人に本気で掴まれるとあんなに痛いなんて知らなかったし、知りたくもなかった。骨が潰れるかと思った。
 でも、あの刑事さんには本当に酷いことをしてしまった。とっさのこととはいえ、唐辛子フレークを人の目に向かって投げつけるのは良くないことだ。
 刑事さんは悲鳴をあげながら顔を抑え、致命傷を負った熊みたいにファミレスの床の上を右へ左へ転がっていた。もう1人の小柄な刑事さんも、店内にいたお客さん達もみんな、その大柄な刑事さんの方に意識を持っていかれていたから、私はこうして無事に逃げおおせることができたわけだけど、罪悪感は私の背中に張り付いたままだ。
 強盗、傷害、逃亡、傷害、また逃亡。どんどん良くない方向に転がってしまってる。悪いことや、酷いことをしたいわけじゃないのに。
 一体、先輩の家まであとどれくらいあるんだろう? 道はあっているのかな? そもそもここは笹巳なの? 本当に? 実は全然違うところに来ちゃってたりしない?
 私は暗くて、狭くて、蛇腹状に右へ左へ折れながら延々と続いている人のいない路地を進む。ブロック塀の向こうには民家やアパートが建ち並んでいる。殆どの家の灯は消えているけど、時々まだ灯がついている窓もある。その光のおかげでなんとかこうして闇に飲まれずに歩いていられる。
 スマホが恋しい。Googleマップが恋しい。ありとあらゆるデジタルなものが恋しい。Siriの無機質な声が恋しい。
「ヘイ、Siri。先輩の家までの道を教えて」
 夜道に呟く。そして落ち込む。頭のおかしい人になった気分。
 私はコンビニで買った「最新版千葉県マップ」を強く握りしめる。紙の地図の読み方なんて小学生の時に授業で軽く触れたくらいだ。それも「この地図記号はなんでしょう?」みたいな部分を暗記しただけで、実際にどうやって地図を読めばいいのかは教わらなかった。
 大まかな方向は間違ってはいないはずだけど、「多分、こっちかな?」で長時間歩き続けるのは精神に堪える。
 地図通りに進めているのなら、この路地を抜ければ高校から先輩の家の方まで続く長い坂道に合流できるはず。
「Siri、どうか私を導いて」
 頭がおかしい人になっちゃってもいいやと思って、独り言を再開する。こんな状況で頭がおかしくならない人なんて、そっちの方が絶対おかしいから。
 ──あのお友達は、あなたのことを好きじゃありませんよ。梨花さん。わかっているでしょう。あのお友達のあなたを見る目。あれは恋人を見る目じゃないもの──
 不安が叔母さんの声を借りて私に話しかけてくる。全部妄想ってわけじゃない。幾つかの言葉は、叔母さんが実際に私に投げつけた言葉だ。
 ──あなたも本当はあのお友達のことを好きじゃないでしょう。好きだと思い込んでいるだけ。初めて男の子に告白されたから、のぼせ上がってしまっているの。反発しないで、自分に聞いて御覧なさい。あなたはとても優しいから、同情や憐れみを恋だと思い込もうとしているんですよ──
 うるさい。
 ──梨花さん。それは恋じゃないの。愛でもないの。ただの反抗期なんですよ。あの人はただのお友達であって、彼氏じゃないの。あなたは賢い子でしょう? 聞き分けなさい──
 先輩があの地区に住んでるってわかるまでは『梨花さんの彼氏』って呼んでたくせに。『叔母さんも安心だわ』なんて言ってたくせに。急にころっと態度を変えたくせに。
 先輩の家がどこにあるか聞いた途端に、先輩に向かって『気にしなくていいのよ』なんて言い出したくせに。『あなたは他の人と違う、ちゃんとした子だから』なんて言ったくせに。あの時、先輩は笑ってたけど、目の中にヒビが入ったのを見てたでしょう。ううん。ヒビを入れるために言ったんだよね。私の大事な人にヒビを入れて、それを私に見せるのが昔から大好きだもの。
 ──じゃぁ、好きになさい。ええ。どうぞ。その汚らしい格好でお友達のお家に押しかけて御覧なさい。あなたのお友達があなたを家に迎え入れてくれると思うの? きっとこう言うはず。『一旦、家に帰った方がいいよ。急に来られても困るよ。ほら、俺たち、そこまでの仲でもないじゃないか』って。──
 うるさい。
 ──あのお友達は他人なんですよ。梨花さん。家族じゃないの。あなたの人生に責任なんか持ってくれませんよ。ただの通りすがり。長い長い人生でたまたま同じ時間に、同じ場所にいただけの人なんだから。どんなに綺麗な言葉を囁いてもね、本心じゃないの。無責任だから、どんなことでも言えるのよ。私は違いますよ、梨花さん。私はあなたの人生に責任があるの。意地悪をしているように感じるだろうけど、全部あなたのためにやっているんですよ。責任は果たされなきゃいけないの。私はあなたに責任があるし、あなたも責任がある。そうでしょう? 無責任は一番良くないの──
 うるさい。うるさいな。
 ──あなたのお母さんは、とても無責任な人だった──
「うるさい!」
 思わず声を出して怒鳴ってしまった。
 灯りのついていた窓の向こうで、人影が動くのが見えた。窓の鍵を開けようとしている。
 バカ。1人で何やってんの、私。
 私は慌てて路地を駆け出した。ドロドロでボロボロの体よりも、1人で喋っていて、それを人に聞かれたということが恥ずかしかった。
 突然、左右にずっと続いていたブロック塀が消えた。路地が終わったんだ。
 坂道だ。私は坂道に立ってる。
 車道を挟んで真正面には赤錆だらけの自動販売機があって、聞いたことも見たこともないジュースが照明に照らされて輝いていた。『チョッチ炭酸パイナップリーナ』って何。『メロンちょーだいミカンちゃん』って何。
 人はいないし、車も走ってない。ものすごく静かだけど、さっきまで歩いていた路地とは違って視界が開けているから、不安を感じない。ホッとする。
 左を見る。坂は古びた街灯に照らされながら真っ直ぐ下って伸びている。暗くてよくみえないけど、あの先にはシャッター通り商店街があるはず。さらにその先には高校があって、高校の向こう側には私の家がある町が広がってる。
 右を見る。坂は真っ直ぐ伸び上がっている。この先には団地があって、そこから更に先には──。
 私は坂を上り始める。先輩のところに行くんだ。
 先輩の男の人にしては甲高い笑い声や、2人でいる時だけ見せる大人びた顔や、やっぱり2人でいる時だけ見せる子供みたいな顔を思い浮かべる。
 脳にこべりついていた叔母さんの声や、腕に絡みついていた刑事さんの手の感覚が遠ざかってゆく。
「負けないぞ」
 私は呟く。
「負けないぞ。私は恋をしてるんだ」
前話:次話
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ama-gaeru · 5 years
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錯視上ブルーエンド14
14話:8月16日(午前10時58分)耐え続けるx崩れ続ける 
 西郷に唇を噛まれた時、肉をホチキスでバチンと留められたと感じた。
 骨まで伝わったあの振動。バチン。それも2回。バチン。バチン。頭が真っ白になるとは、ああいった状態を指すのだろう。
 口の中にシロップで濡れた氷を押し込まれた感触がまだ残っている。舌さえ触れなければ、あれをキスだとは思わなかっただろう。
 いかにもあいつらしい不器用さだが、その不器用さを今は好意的に受け止めることはできない。これから先もずっとそうだろう。ぶっきら棒だが可愛げのあるお気に入りの後輩は消えてしまった。そもそもそんな奴は、最初からいなかったのだ。
 あいつも所詮、嘘つきの蛇だった。この2年、西郷と築いてきたと思っていたものは、全部嘘だったのだ。
 反吐が出そうだ。
  昨日は家に帰るなり眠り込んでしまったから、自分の顔がどうなっているのかを確認する余裕がなかった。
 あの衝撃に相応しい、さぞや深い傷になっているのだろうと覚悟して鏡をのぞいてみたが、鼻と唇の間にある窪み──人中(じんちゅう)の少し右と下唇の左端に、わずかに歯型が残っているだけだった。
 触れるとひりつくが、この程度なら数日後には消えているだろう。あのバチンという音は、きっと精神に受けた衝撃音だったのだ。
 こんな大したことない傷じゃ、あれ自体がまるで大したことじゃないと言われている気になる。俺は口の周りの肉を全て齧り取られているべきだし、第一次世界大戦の負傷兵のように顎を失っているべきだ。
 だが、鏡の中にはいつもと変わらない俺がいる。現実の内側と外側が噛み合っていない。誰かに裏切られる度にいつもそう思う。心の傷が──安い言葉だ──肉体に反映されるものなら、俺の体で傷がついていない箇所などほとんどないだろう。残り少ない無傷な部分も、昨日1つ失った。
 やってくれたよ。西郷。お前って奴は。
 洗面台の蛇口をひねり、流れ出す水を手のひらですくい取って、口をすすいだ。どんなに丁寧に磨いてもいつの間にか赤カビでぬめるようになっている洗面台の上を、蟻が1匹歩いてゆく。ので、潰した。まだ触覚が動いているそれを排水溝に向かって指で弾く。蟻は水の渦に飲まれ、コポポポポと音を立てる穴に吸い込まれて消えた。また1匹現れたので、また潰す。ほぼ反射的に潰した1匹めとは違い、今度はどうせ殺すのならばと、そいつを西郷だと思って潰した。幾らか胸がスッとする。ブラジルで蝶が羽ばたけばテキサスで竜巻が起きるように、あの蟻と西郷の運命が人知の及ばない複雑な法則でもってリンクして、あいつがどこかで何かの下敷きになって死んでいればいいと思う。線香くらいはあげてやろう。俺は優しいから。そのはずだ。俺は優しく、善良で、憎めない、いい人間だ。だからそういう人間らしい振る舞いをするのだ。俺はそういった俺を俺自身で作り上げるのだ。だから俺は、あの時、西郷を責めずに許したのだ。最初から何もなかったことにしてやった。俺が俺でなければ、誰があんな嘘つきに許しなど与えるものか。
 壁、床、屋根、窓。
 この家はいつもどこかに穴や隙間が空いていて、虫や爬虫類が入ってくる。眠っているうちに体の上を何かが這っていくことも多い。どんなに清潔に保とうとしてもどうにもならない。夏だから一層酷い。
 服や靴や鞄はいつもコンビニのビニール袋の中にいれて、硬く口を縛っている。こうすれば虫が入ってこない。学校で服に虫がついてるところでも見られてみろ。「結局お前はあの地区の人間なんだ」という憐れみの目に突き刺される羽目になる。それは避けなければならない。誰にも俺を憐れませるものか。俺はずっと高尚な人間なんだ。お前らなんかよりもずっと、ずっと。
 部屋の真ん中の畳の間から1つ、琉球朝顔の蔓が伸びて、扇風機の風に揺れている。毟っても、毟っても、蔓はそこから顔を出した。きっと床下は朝顔の根と茎とで満ちているはずだ。最近、家の中でよく見る、小指の爪ほどの大きさの不気味な甲虫は、朝顔についているものなのだろう。
 下着姿の父が平たい布団にうつ伏せになったまま、その蔓を指で弄んでいる。
「このまま育てたら、ここでも花が咲くかな」と父は言った。
「その前に朝顔の根に柱をやられて、家が崩れる」と答える。
「そうかよ」と言って父は蔓から手を離した。しかし毟ろうとはしない。家が崩れ、潰れて死ぬことを望んでいるのかもしれない。俺は巻き添えになりたくない。
 元々こんな花は生えていなかった。俺の家にも、周囲のどこにもだ。
 何処かの誰かが面白半分で家の基礎コンクリートの通気口に種を投げ込んだのだろう。きっとここをゴミ屋敷と呼び、笑いながら様々なゴミを投げ込んでいく連中のうちの誰かの仕業だ。例えばあのスクーターの連中とか。奴らはここらの人間じゃない。鴨川ナンバーの観光客だ。ここでなら何をしてもいいと思ってるクズ。
 悪ふざけによって芽吹いた緑は床下で爆発し、家は見えないところから崩れていく。このまま俺の家が朝顔に飲まれて消えたら、その誰かは少しでも悪いことをしたと思うだろうか。いや、そんなことは決してない。奴らは笑うのだ。こんな面白いことを自分はできるのだと自らのジョークを誇るのだ。いつだったか、シャッター通り商店街にゴミを捨てた西郷のように。
 あれが西郷に対して失望を覚えた1回めだった。
 あの時に完全に切っておけばよかった。中途半端に「もしかしたらこいつも少しは変わるかも」なんて期待してしまうから、こんな裏切りを受ける。もっと素早く、人を見切れるようにならなくてはならない。正しい時に正しい振る舞いを、少しの心の揺らぎもなく、できるようにならなくては。
 瞬きする間に、おかっぱ頭の恋人の顔が浮かんだ。きっと彼女なら、西郷のような男をなんの躊躇もなく切れるに違いない。
 あの子の迷いのなさが好きだ。あの子はいつも正しい。他人に嫌われようと、疎まれようと自分を突き通す。磨き抜かれた槍のようだ。あの子のように生きれたら、きっと人生はもっと生きやすいはずだ。物事を全て白黒で判断する。揺らぎなんかない。素晴らしいことだ。
 彼女が俺を見て、他人に向けている冷たい無表情な顔が崩れる時、俺は本当に幸せな気持ちになれる。あの子の目は、俺を素晴らしい人間なのだと実感させてくれる。彼女はいつも正しい。だから彼女が選んだ俺も、間違いなく正しい人間なのだ。
 俺は彼女のことを考えるのをやめる。こんな家で彼女のことを思いたくない。今や彼女だけが俺が手にしている唯一の美しいものだ。こんなところで彼女を思うべきじゃない。誰が肥溜めの中で神に祈る? 祈るのなら、祈りに相応しい美しい場所でだ。それはここではない。
 俺は水を止め、洗面台のすぐ横にある台所に移動する。冷蔵庫はとっくの昔に壊れていて、中にはほとんど使うことのない食器と、安物のカップ麺が詰め込まれている。それから『ボランティア』の連中が置いていくレトルトの健康食品。俺の体を気遣っているつもりなんだろう。1食で1日分の野菜が取れる中華丼や、カレーや、豆腐ステーキの素を冷蔵庫に詰めれば、それで俺にむけるやましさはチャラになると思ってる。ふざけるな。
「何食べる? シーフードと豚骨とカレーと」
「この暑いのにラーメンなんか」と言いながらも父は「シーフード」と答えた。
 ヤカンに水を入れ、コンロに火をつけるとゴトクの下からまだ成長しきっていない小さなゴキブリが数匹這い出して逃げていった。
 湯を沸かしている間に、シンクに投げ込まれているカップ麺の容器や割り箸をゴミ袋に投げ入れていく。
 何度言っても父はゴミをゴミ袋に入れずにシンクに投げ込む。ひどい時は窓から投げ捨てる。まるで俺がしていることが、全て無駄なのだと言うように。結局ここはゴミ溜めで、それ以外にはなりようがないのだと俺に納得させようとでもするように。
 それが父の目論見なのだとしたら、成功してる。こうして家に父と2人でいると、俺は自分をゴミのように感じるのだ。父が俺を、そういう目で見るから。
 俺さえここにいれば逃げ出した母が戻ってくるだろうと目論んで、父は俺を引き取る条件で離婚に同意した。仮に母が戻らなくとも、母の再婚相手から俺の養育費を得られるだろうと父は思っていた。だが結局、母は戻らず、養育費は俺の高校進学と共に送られて来なくなった。父は俺を「期待はずれ」という目で見る。
 ゴミを片付けながら、俺に向けられている父の視線を忘れるために、西郷のことを考える。考えたくて考えるわけじゃない。考えずにはいられないからだ。あんなことがあったんだ。無理もないだろう。
 西郷好太は俺によく懐いていた。散歩の時間になると自らリードを銜えて玄関前で待っている犬を連想させる程だ。あいつの容姿は少しも犬には似ていないが。
 短い睫毛に囲まれた大きすぎて丸過ぎる目と、大きすぎる口。ガタガタの歯並び。彼は何かの間違いで地上に上がって、そのまま人間になってしまってうろたえているサメのように見えた。
 学校という陸地での西郷は、トラックを走り回っている時以外は息苦しそうに見えた。あれは周囲に合わせた振る舞いができないタチなのだ。器用さに欠く。
 入学したての頃は周囲に嫌われたりバカにされたりすることを恐れ過ぎるあまり、わざと舌打ちをしたり、髪を派手な色に染めたり、趣味の悪い服を着たりして、先手を打って嫌われようとしていた。
 「嫌われたり、バカにされたくないのなら、努力して嫌われたり、バカにされたりしないようにすればいいんじゃないの? なんで真逆のことをするの?」と、学校の連中は思うだろう。だが、俺には西郷がなぜそんな不器用な選択をしたのかがわかっていた。時に、嫌われる理由があるということ自体が、人を救うこともあるのだ。少なくとも「何もしていないのに嫌われた」という絶望を遠ざけることはできる。
 学校では常に居心地悪そうに見えた西郷も、団地という陸地に食い込んだ海の中では自分自身を取り戻したように見えた。
 一緒に帰る時、俺たちはいつもあいつの団地の前で別れた。
 「じゃあな」と手を振った後、そのままそこに立ち止まっていると、団地の階段の踊り場から中学生くらいの子供が顔を出して「コータくーん! おかえりー!」と声をかける様子や、小学生くらいの子供たちが次々とあいつに駆け寄り、ハイタッチしたり、足に絡みついたり、肩車をねだる様子が見えるのだ。あいつは子供たちを雑ではあるが愛情に満ちた態度で相手にしながら、団地の庭の花壇をいじっていた中年の女性と挨拶したり、ベンチに座っている老人に手を振ったりしながら団地の中へと消えてゆく。
 俺はあいつの団地での振る舞いを見る度に、胸が焼けるような気持ちになった。少なくともあいつは、どんなに学校で息苦しかろうが、本当の意味で孤独にはなりようがないのだ。あいつを気にかけている人間が、あんなにたくさんいる。あいつは恵まれている。あいつは、あの灰色の無骨な建物の中では安心して眠れる。それが酷く、妬ましかったのだ。
 俺は小さい頃から多種多様のクズを見てきた。バリエーション豊かな自己愛の塊たち。全部書き出したら分厚い図鑑も作れるだろう。
 母の浮気を疑い、顔が蘭鋳(らんちゅう)みたいに膨れ上がるまで殴りつけた父。幼い俺を連れて出戻った母を一度は迎え入れたくせに、母を追いかけてきた父の狂人じみた振る舞いを恐れ、母と俺にわずかな金を握らせて追い出した祖父母。仕事を世話してやるからと母を囲い者にした旅館の板前。父に居場所がバレることを恐れて俺の戸籍を登録しなかった母。書面上、どこにも存在しない俺を、これ幸いにといいように扱った連中──どいつもこいつも口を開けば「お前のため」と言う。俺のためだと言えば、俺に触れる手からやましさが消えるかのように。やましいことをするのは、俺がやましいことをされるような奴だと言うかのように。
 そう言った連中に比べれば、西郷は上等だった。十分に人間だった。世渡りの下手くそさも好意を持つに至る一因だった。俺は確かに、あいつが好きだったのだ。
 あいつは俺と話す時、常に俺がどう感じるかを想像していた。
 俺の機嫌を損ねやしないか、俺に嫌われるかどうか、俺に好かれるかどうかを、あいつは常に気にしていた。
 その目が、俺を人間のままでいさせた。俺に自尊心を与えた。俺自身に「俺はゴミではないのだ。まともな人間なんだ」と実感させた。
 西郷は俺が必要としているものを俺に与えた──尊重だ。
 だから、今回のことはとても腹立たしかった。
 あいつは俺の意思を考えもしなかったのだ。
 俺がどう感じるのかすら、どうでもよかったのだろう。
 あいつは俺を軽んじたのだ。
 それも、俺が、誰にも吐露したことがない悩みを告白し終えた直後に。いわば、お前を信頼しているのだと俺が心を開いた直後にだ。
 俺の足の下で波に飲まれてもがいていた西郷を思い出す。
「あのまま殺しちまえばよかった」
「誰が誰を殺すって?」
「独り言だよ」
 ヤカンから激しく湯気が立ち上ったのでコンロの火を止め、父と自分の分のカップ麺に湯を注いだ。2人分の箸とカップ麺を持ち、父のいる部屋に戻る。この家に部屋はこの6畳間しかない。あとはトイレと風呂だけ。どちらもカビだらけで、窓は割れていて、どこも壊れてないはずなのにひどい臭いがした。
 2つの布団の真ん中にあるプラスチックの小さなテーブルにカップ麺を置くと、父はもぞもぞと毛虫のように身をよじって起き上がる。痩せた体に骨が浮き出していて、腹だけがポコリと膨らんでいる。まるで地獄絵巻にでてくる餓鬼のようだ。幼い頃、俺を殴りつけた手も、俺を踏みつけた足も、枯れ枝にしか見えない。
 父は病院に行きたがらないので確認しようがないが、もう長くはないと思う。あの薄い皮の下で、病魔が巣を作っているのだ。いや、父自体が巣なのだろう。病が父の内側に死という名の卵を産み付けているのだ。
「ありがてぇなぁ。お前は何でもやってくれる。俺にはもう、お前だけだよ。なんたって最後は血だよ。血が全てなんだ。たった2人の父と息子だからな。お前みたいないい息子を授けてくれたこと、仏様に感謝しねぇと」
 父はそう言って俺を拝む。薄寒く、嘘だらけの拝みの仕草に苛立ちが増す。
 この縋り付くような目が嫌いだ。俺をゴミとしか思っていないくせに、それでも俺を自由にしようとはしない。それに父がこういう目で俺を見るのは、俺に何かをさせようとする時だけだ。わかってる。今日はボランティアがくるのだ。それを父は知ってる。幾らか金も受け取ったに違いない。どうせ死ぬのに、それでも金が欲しいのか。惨めな人間だ。
「俺ももう長くねぇから、歩けるうちに歩いとこうと思ってな。今日は公民館まで行ってくるから」
 俺は首の後ろに手をやる。付け根よりやや下に指を伸ばせば、人差し指がへこみに触れる。この間、ボランティアに噛まれた痕だ。
「戻んのは夕方だなぁ。お前、留守を頼むよ。人が訪ねてきた時、誰もいねぇんじゃ困るからさ」
 この傷はそう簡単には消えないだろう。ここを噛まれた時は痛み以外には何も感じなかった。完全に俺に対する感情を隠していた西郷と違って、ここを噛んだ人間は、最初から俺に対する欲情を少しも隠していなかった。初めて会った時から、俺に対する欲情が目の中で燃えていた。それは部活にやってきたあのバカ女共のからかい混じりの目線などが児戯に思える程の下劣さだった。おぞましかった。
 俺はできるだけ2人きりにならないようにしていたが、先月、ボランティアがきた時になぜか父は「ちょっと散歩」と言って家をでていった。
 俺は「用があるなら俺が代わりに行くから、父さんはボランティアの人と話をしなよ」と表面上にこやかに、内心では「嘘だろ! なんだよ!」と叫びながら言ったが、父は「お前から話した方がいいだろ。こういうのは子供の方が素直なんだから」と言って、出て行ってしまった。
 あの男が「2人だけでできることもあるからね」と言って俺を後ろから抱きしめた時、俺は恐怖のあまり身動きとれなかった。
 まさか父が本当に俺を見捨てるわけがないと、まだ信じていたのだ。
 ──おいおい、そんな大げさに騒ぐなよ。ちょっと噛んだだけじゃないか。ふざけてただけだよ。君が暴れるから、つい力を込めすぎちゃったじゃないか。私には弟がいてね、小さい頃よく噛み合いっこをしたから、君も喜ぶかと──。
 ──勘弁してくれよ。俺には妻も子供もいるんだ。ここには福祉できてるだけで、君にそういう感情は持ってないよ。当たり前だろう。女じゃあるまいし、男同士で体に触ったくらいで大騒ぎするなよ──。
 ──もしもこれをそういうものだと感じたなら、さぁ? 君もそういうことに興味があるってことなんじゃないのか? ──。
 ──もしかしてもう経験があるんじゃないか? いや、いや、これは興味本位で聞いてるんじゃないよ。私にはこの地区の子供達の成長を見守るという役目があるんだ。だからもしも、もしも君がそういうことをする大人にあったことがあるのなら、素直に言ってほしいな──。
 ──君がいう「そういうことはしてない」っていうのは、お金は受け取ってないってことかい? 恥ずかしがることないよ、君くらいの年齢だとそういうことに興味があって当たり前だし、実は私も高校の時に……わかるだろう? まぁ、君ほど綺麗な子じゃなかったけどね──。
 ──次に来る時までに機嫌が直ってると期待してるよ。君はね、生まれ持った才能を生かすべきだよ。もちろん陸上もそうだけど、陸上だけが全てじゃないからね。もっと広い視野で、これからの人生について考えてみるべきだよ。必要な支援を、君の生活態度によっては与えてあげられるかもしれないし──。
 俺は父に向かって言う。
「学校の用事があるから、今日は俺も出かけるんだよ。散歩なら明日でもいいだろう」
 父は俺を拝んでいた時の愁傷な顔を一変させる。しばらく父は無言で俺を睨んでから、カップ麺を掴んで俺に投げつけた。まだ熱いスープと麺が顔と髪に絡まる。
「風呂入って臭ぇ体洗ってこい。誰のおかげで生きてられると思ってんだよ。ボケナスが。俺は出かける。テメェは家にいろ。留守番もまともにできねぇガキに育てた覚えはねぇんだよ、俺は! グダグダ言ってるとブチ殺すぞ!」
 死にかけの骸骨のような父に、俺の中に残っている小さな俺が震え上がる。今は俺の方が大きいし、強いとわかっているのに。
 俺は立ち上がり、風呂場ではなく台所に向かう。風呂場に入る気はしない。いつも、台所で水を浴びて体を洗っている。
 蛇口から流れる水に頭を突っ込んで、髪についた汚れを洗い流す。
 水音の向こう側から、父の声が聞こえる。
「テメェのクソちんぽを変態に1つ、2つしゃぶらせたところで減るもんじゃねぇだろうが」
 ああ。もう俺があいつに何をされるのかを、隠す気すらないのか。
 うんざりだ。うんざりだ。みんな死ね。死んでくれ。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
前話:次話
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ama-gaeru · 5 years
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錯視上ブルーエンド13
13話:8月16日(午前10時53分)自分がやられていやなことx人にしてしまうこと 
 「夏休みに入ってから、先輩との付き合いに反対するお前の叔母さんに別荘に軟禁されていたと。そんで隙をみて逃げ出して、ボロッボロになりながら笹巳まで徒歩で帰ってきたはいいけど、先輩の家の周りをお前の父親の車がグルグル監視してたから迂闊に近寄れず、かといって家に戻るわけにもいかず、途方に暮れていたところにうちの団地が目についたから、人が住んでねぇ部屋に勝手に忍び込んだってか。最初は1階、次は2階と短期間で移動して足つかねぇようにして、そんで昨日は最上階と」
 西郷君はキッチンから2人分のグラスと麦茶のボトル、それからアクエリアスを抱え��リビングに戻ってきた。西郷君は軽く手を伸ばすだけで天井にタッチできるくらい背が高いので、椅子に座っている私は彼の顔を見るのにかなり顎を持ち上げなければならなかった。首が痛い。
 西郷君は大きな口を開き、舌の上で「ハッ!」という笑い声を転がした。
「バッカじゃねぇの」
 魚みたいにまん丸い目の中にある、黒い瞳が冷ややかに私を見下ろしている。黒い色は深すぎると青みを帯びる。墨汁やタールはその黒い表面に、本当なら含まれていないはずの青を浮かばせる。西郷君の黒い瞳も、どこにもない青い色を滲ませている。
 あれは彼の中でずっと燃え続けている怒りの炎の色だと感じる。敵意、怒り、嫌悪感──私がシルキーを川に落とした日からずっと、彼はこういう目でしか私を見ない。あんなことを私がしてしまう前は──ほんの少しの短い間だけど──ただの友達みたいに話せていた時期があったことを、西郷君はもう覚えてはないんだろう。それがとても悲しい。悲しめるような立場じゃないけれど。
 彼を前にすると背骨の中に鉄串を通されたみたいな気分になる。ただでさえ、思っている通りに動いてくれない顔の筋肉が、完全に無表情に固定されてしまう。
「普段、スゲェ細けぇどーでもいーことでクラスメイトや部活の連中に説教しまくるくせに、自分はなんなんだよ。不法侵入とか。普通に犯罪じゃん。最低だな」
 西郷君はテーブルにグラスを並べ、モンスターズインクの柄がプリントされているグラスにアクエリアスを注ぎ始める。
「後で管理人室行って、空き部屋で寝泊まりしてたこと詫びろ。お前のせいで団地に住んでるみんなが不安だったんだ。不審者かホームレスが住み着いたって、見回りまでしてたんだぞ。ああ、これは言わねぇでも知ってるか。おっさんたちに見つかンねぇようにするために、ベランダにぶら下がったんだもんな」
 ハッとまた西郷君は笑う。サメが笑うとしたら、きっとこんな顔だろうと思った。テーブルの下、腿の上で重ね合わせた手が震えないようにする。指先が冷たくなったように感じるのは、このリビングの冷房のせいじゃない。
 私は彼の前だと萎縮してしまう。だって西郷君は、私の最悪な部分を見てしまった人だから。彼は私の罪を知ってる。そしてそれを決して他の人には言わない。神父のように沈黙を守る。彼の中に私の罪を留める。だから、私は公に責められることがなく、そして許されることがない。
「一歩間違ったら死んでただろ。あんなことするくらいなら、普通に『ごめん』って謝って家に帰りゃいいだろ。2、3発ビンタ食らうかもしんねぇけど、そりゃ迷惑料だ。親に心配かけんな。他人にも迷惑かけんな。バカなことする前に話し合えよ。つーか、表向きははいはい別れますっつといて、隠れて付き合い続けりゃいいだろ。そんぐらい考えつかねぇのかよ」
 西郷君はアクエリアスを私に差し出し、それから残ったグラスに麦茶を注いで、私の正面に座った。
 彼は私に非難の目を向ける。胃がキリキリする。こうして面と向かって話をするのは、小学校の時以来だ。部活でもクラスでも西郷君は私に話しかけてこなかったし、私も彼に話しかけられなかった。彼の目、態度、纏う空気。全てが私に棘を向けていた。少しでも近づいてきたら突き刺してやるからなって。
 私は彼にちゃんと謝罪をしないといけないと思う。
 団地に忍び込んだこともそうだし、布団を貸してもらったこともそうだし、熱中症を起こしかけていた私を朝まで付きっ切りで看病してくれていたこともそうだし、何より、シルキーのことを彼に謝らないといけないと思う。
 『西郷君。本当にごめんなさい。他に選択肢がなかったの。謝って済むことじゃないってわかってるし、許してもらえると思ってない。何度も謝ろうとしたの。でも、謝ろうとするとどうしても言葉が別のものにすり替わってしまうの。信じてくれないだろうけど、私、自分が思ってることを、ちゃんと言えないの。そういう風にされちゃってるの』
 頭の中で繰り返し、口を開く。大丈夫。きっとできる。だって私は、あの叔母さんからも逃げることができたんだから。ここまで自力で歩いてくることもできた。野宿もできた。警察からも逃げられた。
 私はなんだってできる。自分で考えて、自分で行動することができる。私は変わることができる。もう、西郷君が知ってる最悪の私じゃない。それを伝えなきゃ。
「西郷君、私」
 ──どうして梨花さんが謝るの? あなたは何も悪いことしてないでしょ? あなたはやるべきことをしただけよ──
 叔母さんの声が頭の中に響く。唇から音が消える。ダメ。ダメ。消えないで。
 ──取り乱しちゃダメ。みっともないでしょう。ちゃんとした子に育ってちょうだい。あなたは完璧な梨花ちゃんにならなきゃいけないでしょう。あなたにはそうしなきゃいけない責任があるの。あなたのために、私が何を失ったと思ってるの。責任を果たしなさい。あなたが生きてることの、責任を──
「私、少ししたら出て行きます。本当にご迷惑をおかけしました。管理人室には帰る時に立ち寄りますので、大体の場所を教えてくれると助かります」
 こんなことを言いたいんじゃないのに、こんなことしか口に出せない。声を上げて泣き出したいのに、表情がガチガチに固まっているのが自分でもわかる。私はきっと、外からみたらものすごく変な奴だ。無表情で、平坦な声で喋るロボ。鉄仮面。変人。麗子像。そう呼ばれてるのを知ってる。好きでこうなったわけじゃないのに。
 西郷君は目を細めて私を睨んだ。
「出て行った後、どーすンの? 家、戻ンの?」
「そうするつもりです。西郷君の言う通り、私はバカなことをしました。父と叔母に謝罪して許してもらうつもりです」
 嘘だ。家には絶対に戻らない。……だからといって、どこに行けばいいのかわからない。先輩に会いたいけど、父さんに見つかる可能性があるから近づけない。警察もそろそろ見回りを始めているかもしれない。私から先輩のところに行くんじゃなくて、先輩が私のところに来てくれたら……。
「……西郷君。先輩に私がここにいるって連絡して貰えませんか?」
 西郷君は不意に水をかけられたような顔で私を見た。
「なんで、俺が?」
「私はスマホを取り上げられてしまったままですし、家に戻ったら次に先輩に会えるのいつになるかわかりません。だから、西郷君から私がここにいるって連絡してくれれば……」
「無理。今、俺ら微妙だから」
 西郷君はそういってなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。自分を責めているような、先輩を責めているような顔だ。
「まさか、喧嘩したんですか? 西郷君と先輩が?」
「お前に関係ねぇだろ」
 驚いて聞き返した声は、鋭い声に切り落とされる。
「つか、お前、それ飲んだら帰る前に風呂入れよ。もう風呂入れるくらいには回復してんだろ。沸かしてあるから。ホームレスに間違われんのも無理ねぇよ、お前の格好と臭い。その包帯は洗面台の側のゴミ箱に捨てろ。そんなに汚れてたら包帯の意味がねぇ。替えの包帯と日焼け用の塗り薬、あとで置いといてやるから、風呂からあがったら自分でやれよ」
 西郷君はそう言うと麦茶を一気に飲み干し、「風呂場、あっち。洗濯機と乾燥機は好きに使っていーから、風呂入ってる間に服洗っとけ」と廊下の先を指差して立ち上がった。
「あとその敬語、ウゼェからやめろよ。普通に喋れんの知ってんだからな。小坊(しょうぼう)の時も、2人っきりになると普通に喋ってただろーが。覚えてンだからな」
 石垣が風呂に入ってる間に俺はスマホを操作し、LINEを立ち上げた。
「……クソッ」
 覚悟していたけど、やっぱりブロックされてる。クソッ。そりゃそうだよ。
 俺はきっとダメだろうと思いながらも、先輩のアドレスにメールを送る。これも多分、ダメだろうな。迷惑メールフォルダに振り分けられるのが眼に浮かぶ。……となると、電話か。
 俺はハァーッと大きなため息を吐いてから、先輩の番号を呼び出す。コール音を聞きながら、シャツの胸元を握る。どーせ出ないだろうと思いながらも、万が一、繋がった時のことを考える。
 一体、どんな声でどんな風に話せばいーんだかわかんねぇ。まさか『よぉ、先輩。俺、西郷。昨日、先輩に告って、キスして、ぶん殴られて、見捨てられて、海に置いてかれた、あの西郷。それは一旦置いといて、お探しの彼女が今、俺ん家にいんだけど、これから来れる?』とでも言うわけにいかねぇし。
 何度かのコール音の後、電話が繋がった。
「先ぱ」
「お客様のご希望により、電話をおつなぎすることはできません」
 ……。マジかよ。電話まで着信拒否か。クソッ。
「これで損してんの、俺じゃなくてテメェと石垣だからな。クソ原」
 俺は呻きながら髪をかき混ぜる。石垣と別れたくねぇって泣いてた先輩の顔が頭ン中にはっきりと浮かぶ。あー。クソ。ひっでぇ告り方して、悲惨に振られたのに、そんでもまだ、先輩に泣いて欲しくねぇって気持ちが優ってる。
 精神的な疲労と肉体的な疲労がダブルパンチだ。マジで死にそう。昨日今日とジェットコースター過ぎんだろうが、俺の人生。
 昨夜。
 俺が「日野原先輩と別れンの?」と聞くやいなや、石垣はばね仕掛けの人形みたいに勢いよく立ち上がって「絶対に別れない!」と鉄仮面のまま叫んだ。そして砂が崩れるようにゆっくりと座り込み、そのまま気絶しやがった。
 俺は鼻血をだらっだら流し続けている石垣を部屋に運び、布団の上に寝かせた。
 室内灯の下で見る石垣の姿はそりゃ酷ぇもんだった。顔から胸までは鼻血で真っ赤に染まっていたし、手足を包む包帯はあちこちから膿が染み出していたし、両手の皮はズルムケ、足の裏や指は血豆だらけ、包帯に覆われてない部分の皮膚は日焼けしすぎでヒビが入って、ヒビの下からピンク色の肉が見えてた。完全にゾンビだった。俺がウォーキング・デッドのキャラだったらその場で頭を叩き割ってたと思う。
 おまけにチビた体には洒落にならない程の熱がこもっていた。熱中症を起こしかけてるってすぐに気がつけたのは、運動部部員が必ず受けることになってる応急処置の特別授業のおかげだ。あと練習中にぶっ倒れた三国の世話をした経験も活かせたんだと思う。
 俺は気絶した石垣を叩き起こし、薄い塩水を飲ませられるだけ飲ませた。それから氷を詰めたビニール袋をタオルで巻いて、それを首の後ろと両脇の下と太ももの付け根に置いて、太い血管を冷やした。濡らしたタオルで腕や額や足を覆って、体から熱が外にでるようにするのも忘れなかった。
 そのまま大人しく寝ててくれりゃ楽だったのに、石垣は体から多少熱が出て行くと「大丈夫です。お世話になりました。帰ります」と言って立ち上がろうとした。
 最初は相手が──石垣とはいえ──怪我人だから、できるだけ静かに「寝てろ」と命じていたが、あまりにもしつこく立ち上がろうとするので、最終的に俺はキレた。
「大丈夫じゃねぇ奴が、大丈夫って判断してんじゃねぇよ! この場で冷静なのはどっちだ!? 俺か、テメェか、どっちだよ!? 俺だろうがっ! 次立ち上がろうとしやがったら、動けねぇように体縛り上げるからな、クソがァ!」と俺が怒鳴って、ようやく石垣は無理に起き上がろうとするのを諦めた。
 その後。俺が濡れたタオルを取り替えたり、深夜営業しているコンビニまで氷を買いに行ったり──クソ遠い。学校の反対側まで行かなきゃいけない──している間に、石垣はウトウトと眠り始め、俺も疲労が込み上げてきて床に尻餅を付いた。
 本当はその場に大の字になって眠りたかったけど、結局、俺は朝までずっと起きて石垣の様子を伺っていた。流石に嫌じゃん。目を覚ましたら冷たくなってましたとか。
 「……クソ。どういう状況だよ。あの石垣が俺ん家にいるとか。冗談だろ。信じらんねぇ」
 俺は欠伸を嚙み殺しながら独り言ちる。
 あいつ、ここから出たら家に帰るとか言ってたけど、絶対ぇ嘘だろ。こんな団地に忍び込むくらい嫌がってる家に、俺に見つかった程度でホイホイ帰るわけねぇもん。大方、団地から出たらまた別の潜伏先探すんだろうな。ホームレス女子高生だ。遅かれ早かれ事件か事故に巻き込まれて酷い目にあうルートじゃん。……まぁ、俺には関係ねぇけど。
 俺は自分の両腕をお姫様抱っこをする時の形にする。あいつメチャクチャ軽かったな。2週間かそこら、家出続けてるっつてたっけ。その間、飯どうしてたんだ? コンビニ飯かなんかか? ハッ! バッカじゃねぇの。
 「これ、もしかして私にですか?」
 風呂から出てリビングに戻ってきた石垣は、テーブルの上の雑炊を指差して俺に尋ねた。冷蔵庫のあまりもんぶち込んで作ったやつだ。ぐずぐずに煮込んだから、胃が弱ってても食えんだろ。
「お前以外に誰がいンだよ。とっとと座って食え。昨日の夜から何も食ってねぇだろ。全部食えねぇなら食えねぇでいーけど、ちょっとは腹になんか入れろ。家帰るまでに倒れられたら寝覚め悪ぃからな」
 石垣は鉄仮面のまま俺の正面の椅子に座り、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。シャワーと、シャンプーと、リンスと、ドライヤーの力で、鳥の巣みたいだった石垣のおかっぱ頭がいつも通りの無駄な輝きを取り戻している。あいつが頭を動かすと髪がサラサラーッと流れて揺れた。ふーん。これがサスーンクオリティ。
 痛々しいばかりだった包帯も綺麗に巻き直されていて、だいぶゾンビ感は払拭されていた。今の石垣はゾンビではなく、ただの座敷わらしだ。ちょっとは人間に近づいた。
「お前のスポーツバッグ拾って来たから。後で中身確認しとけよ」
 俺はソファーの上に置いた赤いスポーツバッグを指差す。石垣が昨日、ベランダの柵にぶら下がる前に少しでも体を軽くしようと地面に落としたものだ。団地内の誰かの落し物だと思われていたらしく、植え込みの側のベンチの上に『誰が落としたか知りませんけど、落し物はここですよー』と言わんばかりに置いてあった。
 石垣はスポーツバッグと、雑炊を何度か交互に見てから俺に顔を向け、「どうしてですか?」と聞いた。
「何が」
「西郷君、私のこと嫌いでしょう?」
「わかってんなら一々聞くなよ」
「私のこと嫌いなのに、どうして優しくしてくれるんですか?」
 ……あ?
「誰がいつお前に優しくしたよ?」
 しねーよ!
「だって、寝ないで看病してくれたり、お風呂貸してくれたり、ご飯まで」
 ハッ!
「お前はただそいつが嫌いだって理由で、鼻血流しながらぶっ倒れたボロ雑巾みてぇな人間をそのまま転がしとくのかよ。バッカじゃねぇの。怪我人の面倒みンのと、そいつが好きか嫌いかは別だろーが。そんなの、優しさの問題じゃねぇよ、ボケナス。ズレてるとこ、昔っから変わんねぇよな。あと敬語やめろっつたろ。イライラする」
「……ごめん」
 ケッ!
「その鉄仮面みてぇな面も、えっらそーなチクリ魔ぶりも相変わらずだな。高校生なんだから、ちょっとはマシになると思ってたけどな」
「少しはマシになってたんだよ」
 ほんの少し、石垣の鉄仮面が揺らいで感情らしきものが見えた気がした。反発とか、苛立ちとかだ。生意気じゃん。お前が俺に何をイラつくってんだ。
「どこがだよ? クラスでも部活でもズレまくりの浮きまくりじゃねぇか。ホームルームでクラスメイトのミスをネチネチ晒しあげンのやめろよ。クソウザいから。自分でわかんねぇの? あーゆーことすっからいつまでたっても、どこにいても嫌われンだよ。お前、女子とすら喋れてねぇじゃねぇかよ」
 石垣はスプーンで雑炊の表面を突きながら「わかってるよ」と言った。
「わかってるけど、どうにもできないんだよ。それでも、中学校の時はかなりマシに抑えられてたんだけど、高校に入ってからぶり返しちゃったんだ」
 石垣は何か言いたげに俺を見た。
「んだよ? 人の顔ジロジロみンなよ」
 ごめん、と石垣は俯く。
「でも、私、最近ちょっとずつ変わってきてるんだよ。話しを聞いてくれる人が側にいてくれてるから」
「日野原先輩とか?」
「……うん。先輩の前にいると、普通でいられるんだ。先輩、私のズレてるところを絶対にバカにしないで、褒めてくれるから。梨花ちゃんはそこがいいんじゃないかって笑ってくれるんだ。ちゃんと私の話しを聞いてくれる人、先輩だけなんだ。私、先輩と一緒にいられたら、もっとマシになっていけると思う」
 冷たい感情が湧いてきた。先輩がそうやってお前を受け入れてんのは、お前の本性を知らねぇからだろ。
「お前はマシな人間になんかなれねぇよ」
 石垣は無表情だった顔をわずかに赤くした。
「なれるよ。西郷君は私を知らないでしょう。私、本当にちょっとずつ変わってき──」
「ガキの頃、テメェは俺にも言ったよな。『私の話しを聞いてくれるの、西郷くんだけだから』って。そんで打ち解けたみたいな振りして俺を油断させておいて、最後に何したよ? なぁ? それで、今度は先輩か? さぞ打ち解けてんだろうよ。先輩もお前に気を許してんだろうよ。そんで、次はどーすンの? 先輩の可愛がってる猫か犬でも殺すの? 俺とシルキーにしたみたいにさ?」
 鉄仮面のまま、サァーッと石垣の顔が白くなる。
「西郷くん、私、本当に、あの、あの時のことは、本当に」
「別にイーんじゃねぇの。気にせず、忘れて生きていけばぁ? テメェにとってはどーでもいーことなんだろ。害獣1匹、処分しただけだもんな。けど、俺は絶対忘れねぇから。お前がどんなに自分で『マシになった』って思っても、実際、『マシになった』ように見えたとしても、俺は覚えてるからな。テメェがどういう人間なのか」
 俺は石垣を睨みつける。
「テメェが俺の目の前でシルキーを川に捨てた。俺が川に飛び込んで、シルキーの入った袋を拾ったんだ。俺が1人で穴を掘って、俺が1人でシルキーを埋めて、1人で墓を立てたんだ。俺は全部みたんだぞ。お前がシルキーに何をしたのか、あの袋の中を、全部みたんだ」
 石川の顔からは全ての表情が消えていた。少しだけでも罪悪感を持ってるのか? 涙の1つも流しそうにねぇじゃねぇかよ。
「シルキー、お前に懐いてたよな。簡単だったんだろうよ。人間を信用しきってて、傷つけられるなんて考えてすらいない子猫をあんな風にいたぶるのはさ。俺はな、あんなことをする人間は永遠に改心なんかしねぇと思ってるよ。テメェがこの先、どんなに表向きマシになったとしても、どんなに周りの人間が、先輩が、お前自身が、そのマシな姿を信じ込もうと、俺はテメェの本当の姿を見抜いてるからな。テメェはマシな人間になんかなんねぇ。ずっとずっと、あの時のままだ」
前話:次話
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ama-gaeru · 5 years
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錯視上ブルーエンド12
12話:8月16日(午前9時27分)敵対x関係 
 救円会(きゅうえんかい)総合病院の3階。短期特別入院患者用の個室。
 ベッドの上で半身を起こし、腰から下は布団で覆った状態で、石垣花笑(はなえ)は私が手渡したタブレットを見つめていた。
 画面に表示されているのは、市川(いちかわ)のコンビニの監視カメラの映像だ。スポーツバッグを肩にかけた小柄な少女が何かを買い、ややふらふらした足取りで出て行くところまでが収められている。
 花笑は映像を最後まで見ると「間違いありません。姪の梨花です」と言った。彼女は私にタブレットを返すと、胸を手のひらで抑え、背中を丸めて長い溜息を吐いた。2週間ぶりに目にした姪の姿に心底安堵しているといった素ぶりだが、大袈裟で芝居がかっていると感じる──端的に言うと、嘘くさい。
 未成年の家出人の保護を担当するようになってから、それなりの経験を積んできた。駆け出しの頃は相手を見誤り手痛い失敗を犯したりもしたが、ベテランと呼ばれる年齢になった今では、家出した子供に問題があるのか、それとも家出された保護者に問題があるのかは、それなりに見抜けるようになったという自負がある。
 経験に裏付けされた勘は、目の前にいるいかにも繊細で弱々しい女を、その見た目の印象通りに受けとるのは危険だと告げている。
「このあとの足取りはわかりませんか?」
 私は石垣花笑の手��らタブレットを受け取る。
「千葉県のウォーキング用地図を買っていたという記録が残っていました。恐らくは徒歩か、それに近い手段で笹巳に戻ろうとしていたのではないかと。市川から笹巳に向かう道のあちこちで目撃情報がありますし」
 隣に立っている後輩の金山(かなやま)が私の言葉を引き継いだ。
「このコンビニから15キロほど先の河川側で、『女の子が野宿してる』という通報も入っています。警察が到着する前にすでに立ち去ってしまっていましたが、身体的特徴からして、姪御さんで間違いはないはずです。もしかしたらもう笹巳市内に入っているかもしれません」
 石垣花笑は額に貼られた大きなガーゼを細い指で抑えながら「徒歩に野宿……行き倒れにでもなったり、変な人に目をつけられたらどうするつもりなの。あの子、自分1人の力で生きていると勘違いしているんじゃないかしら。なんて無責任な」と呻いた。
 私は『娘のように育ててきた姪御さんに気絶するほど強く殴られるなんて、本当に災難でしたね。わかります、わかります』という表情を作って石垣花笑を見つめるが、あのガーゼの下にあるのはちょっとした切り傷の痕と、青紫色のタンコブだけだと知っている。どんな病院にも1人くらいは、警察手帳を取り出して『ぜひご協力を』と魔法の呪文を唱えるだけで、ベラベラと患者のプライバシーを喋ってくれるちょろい看護師がいるものだ。
 件の看護師曰く『あの程度で気絶なんかありえないですよ。本人が痛い痛いって騒ぐからレントゲンもとりましたけど、出血が派手だっただけのタンコブですよ。あんなので本当に気絶したというなら、それは殴られたことがあまりにショックだったからじゃないですか? それか、大騒ぎして入院日数増やすのが目的かも。いるんですよ、そういう当たり屋みたいなの』だそうだ。
 大方、単なる家出だと警察が真面目に捜査しないと思って考え出した浅知恵だろう。だとしたら──きっとそうだろうが──やはり信用できない。警察相手に顔色ひとつ変えずにサラッとすぐにバレる嘘を吐くなんて、余程のバカか、嘘を吐き慣れているかのどっちかだ。
 私はタブレットの中にいる少女に視線を向ける。
 石垣梨花。16才。
 父・石垣柳(りゅう)と母・香苗(かなえ)は彼女が赤ん坊の時に離婚。以降、叔母・石垣花笑と3人で千葉県笹巳市笹巳本町で暮らす。
 笹巳本町と言えば、知る人ぞ知る本物の一等地だ。立ち並んでいる家々は田園調布や青葉台なんかの豪邸と比べりゃ地味に見えるが、その実、あそこら辺のぽっと出の成金どもとは格も歴史も違う。笹巳本町に住んでいるのは地元に深く根を貼った、日本昔話に出てくるような時代からの土着の金持ちたちだ。
 石垣家はそういった連中の筆頭。大地主。この病院も、マルハラ食品の工場地帯も、笹巳大の敷地も、笹巳大付属高校の敷地も、笹巳市役所の敷地も、全て石垣家が数十年単位で貸し出しているものだ。
 つまり、石垣梨花は正真正銘のお嬢様というわけだ。地味な顔つきもそういう背景込みで見ると品のいい和風顔に見えてくる。実際、鼻筋の通ったいい顔だと思う。10年後には同窓会で「あの時、声かけときゃよかった」って周囲をざわめかせるタイプになるかもしれない。まぁ、つまり、今はただの座敷わらしだ。もしくは無表情な麗子像。
 梨花は私立笹巳大付属高校の2年生。陸上部所属。親しい友人も、親しくない友人も0。小学校、中学校、高校通してだ。普通の親なら自分の子供に友達が1人もいないなんて相当不安になるだろうが……。
 私はベッドを挟んだすぐ向こう側で、椅子に腰掛けている石垣柳に目を向ける。彼は私たちなどここに存在しないかのように、手元のスマートフォンをいじり続けている。
 子供が家出をした時、母親と比べて父親は少しマッチョぶりたがる傾向がある。『心配かけたいだけなんですよ! ほっときゃそのうち帰ってくるんだから! 俺は警察なんて大げさだって言ったんですが、女房がね! どうしてもって言うから!』ってな感じでだ。だから彼のこの無関心な態度も最初はその手の強がりかと思っていたが、どうも違うようだ。
「ご確認いただけますか?」
 私は動画を最初のシーンに戻してから、柳にタブレットを差し出した。柳はタブレットを一瞥しただけで、手に取ろうとすらしない。
「姉が梨花だと言うなら、梨花なんでしょう」
「柳」
 花笑がたしなめるように名を呼ぶと、彼は面倒くさそうにタブレットに目を向ける。私にタブレットを持たせたまま画面を操作して動画を再生し、数秒だけ画面を見てから、「娘ですね」と素っ気なく言った。私は彼が他にも何かを言うのではないかと思ったが、それで終わりだった。
 花笑は肩を竦め、わずかに唇の端を持ち上げて私を見た。小さな子供が駄々をこねる側で「この子ったらしょうがないわよね。でも、子供ってそういうものだから仕方ないわ。あなたもそう思うでしょう?」と同意を求めてくる母親みたいな顔だ。知るか。こいつもあんたもいい年した大人だろ。
「もしかしたら途中で歩き疲れて電車やバスを使うかもしれませんよ。あ、それとレンタルサイクルとか。夏休みは家出が増えますからね、千葉県内のレンタルサイクル店とはすぐに連絡がとれるようになってるんです! 梨花さんがお店に現れたらすぐに連絡がきますよ! 全店舗に千葉県警パートナーシップ店のシールも貼ってあります!」
 得意げに胸を叩く金山に、花笑は冷ややかな目を向ける。
「そんなシールが貼ってあるような場所に、家出中の子供が近寄ると思いますか? それに電車やバスなんかのいかにも警察が待ち構えていそうな場所も、あの子は避けますよ。最初に電車で笹巳まで行こうとした時に、ファミレスであなたたちに捕まりかけていますからね。あの子、用心深いから。ああ、あの時、捕まえてくださっていれば……」
 金山は顔を真っ赤にして俯いてしまった。バカめ。
「その節は、本当に大変申し訳ございませんでした! 私もまさか、唐辛子フレークを目に投げつけられるとは思わず! まともに眼球に入ってしまって! はい!」
 金山はでかい図体を2つに曲げ、勢いよく頭を下げる。このバカは一体、あの件を何回詫びるつもりなんだ。もう済んだ話だろうに。っていうか謝ってるつもりなのか。言う必要があるのか、唐辛子フレークとか。ちょっと面白くなっちゃってるじゃねぇかよ、バカ。
 うんざりするが、私だけ頭を下げないわけにもいかない。万が一、億が一、石垣梨花が何らかの事故や犯罪に巻き込まれてしまっていた場合、『警察は真面目に捜査してくれなかった! それに柿原(かきはら)刑事は初動のミスに対して頭を下げようともしなかったんだ!』なんて、後出しで騒がれたらたまったもんじゃない。
 私も金山の隣で頭を下げ、「こちらの落ち度です」と静かに言った。1、2、3とカウントし、こちらの謝罪が十分伝わっただろうタイミングで頭をあげる。短すぎては逆上されるし、長すぎても舐められる。さじ加減が難しいのだ。
「本当に、申し訳ございません!」
 まだ頭を下げたままだった金山が叫んだ。舌打ちを堪える。この筋肉バカはなんでもやり過ぎなんだ。ペコペコしてると足元見られんだよ。
「悪いと思っていらっしゃるなら、早くあの子を保護してください。心配で、心配で、気が気じゃありません」
 石垣花笑の声にこちらを詰(なじ)るような色が滲み始めた。
 ほらみたことか。例えこちらに非があろうと、隙を見せるべきじゃないんだ。
 私は素行不良の家出娘に振り回される親向けの表情を作る。適度に誠実そうで、適度に高圧的で、協力はするが奉仕はしないという仮面だ。
「家出した子供はほとんどの場合、自宅周辺で見つかります。それか、ご両親が離婚されている場合は、もう片方の親の元に」
「それは絶対にありません!」
 花笑が甲高い声をあげた。今にも崩れ落ちそうな弱々しい女性のコスプレが崩れ、目を血走らせた般若が出現する。おーっと。ご家庭の地雷を踏んだようだ。
「あの子の母親は娘を捨てたんです。あの子もそれをわかってます。私の梨花は母親のところには行きません!」
「……可能性の話しですから。まぁ、今回は笹巳に戻ってきていると考えてほぼ間違いはないでしょうし、今後もご自宅の周り、駅の周り、カラオケ店や24時間営業のファミレスなどを中心に見張りを続けますので、どうぞあまり思いつめずに。退院したらできるだけ家にいてください。彼女のように普段の素行に問題がない子供の場合は、冷静になって家族の元に戻ってくる可能性も高いので。戻ってきても、あまり怒らないでやってくださいね。高校生なんてまだまだ子供なんですから」
 石垣花笑はじっと私を見つめている。般若状態は脱したようで、また元のミス薄幸に戻っていた。色白は美人の条件だとよく言われるが、ここまで白いと美醜どうこうの前に気持ちが悪いという感情が先にくる。まるで生乾きの紙粘土でできた人形のようだ。
「刑事さん、あの子は利用されているんです。タチの悪い男友達に」
 眉が八の字に下がり、大きな三白眼が侮蔑の色を滲ませながら細まってゆく様は、恐ろしく出来のいいクレイアニメのようだった。彼女の表情は彼女の内側からくる感情から動いているのではなく、彼女の外側にいる不可視の何者かが手を加えて動かしているように感じる。
「あの男の子と付き合うようになってから、姪は変わってしまいました」
「あー。高校生の恋愛ではよくあることですよ。私もそれくらいの年齢の時は随分、恋に恋する青春を」
 私は金山の靴の先を踏み、ゆっくりと体重をかける。テメェは黙ってろの合図だったが、金山は不思議そうな顔で私を見下ろし「柿原さん、踏んでますけど?」と言った。ますけどじゃありません。踏んでんですよ。
「これ以上、あの男の子と一緒にいたら決定的に道を踏み外してしまうと思ったんですよ。ですから夏休みの間は私と2人、笹巳から離れた町で生活するつもりだったんです。幸い、そういう時のための家なら幾つかありましたしね。しばらく連絡を取らずにいれば逆上(のぼ)せ上がった頭も冷静になって、正しい行いができるようになると思ったのに」
 そう言って彼女はわずかに顔を下に向けた。閉じかけた雨傘のようななで肩から伸びた細い首と頭は、えのき茸を思わせる。ちょっと乱暴に振り回せば、笠の部分がポロリと落ちそうだ。
「姪御さんの彼氏、日野原青海くんのことですね」
 日野原青海。
 同じ高校の陸上部の先輩。学校での評判は教師からも同級生、下級生からも二重丸。時々テレビにも出るような有名人で、いわば学校のアイドルだ。
 100Mの記録保持者で、「美麗」という大仰な言葉すら嫌味なくハマる容姿の持ち主であることを考えれば、一時期の羽生結弦並みにメディアに露出しても不思議じゃないが、そうならないのは彼が住んでる地区のせいだろう。
 あそこは警察だって『上』の許可がなければ捜査ができないし、許可が取れることなんてほとんどない地区だ。とても表には出せないやばいものをゴミ箱代わり投げ込んでいたら、地区全体が表には出せない代物になっちまったっていうバカみたいな場所。一度、完全に更地にでもしない限り、あそこが普通の町になることはないだろう。
 あの地区のあちこちに建てられた箱物は一体誰が建てたのかとか、入居者のほとんどいない高層マンションは本当は誰が使っているのかとか、少し掘り返すだけで解除不可能な地雷がゴロゴロ出てくる。浦安で行方不明になったフィンランドからの観光客が錯乱状態で発見されたり、栃木で行方不明になった小学生の半裸死体があの地区のマンホールから出てきたりしたが、いずれも捜査は途中で打ち切られている。独自調査を続けていたジャーナリストはホテルで自殺してしまった。両手足を縛った状態で首の血管を切っていたということが、それでも『自殺』になるのだ。あの地区では。
 メディアもたかが『もしかしたら金メダルをとるのかもしれない男子高生』程度のために、あんな地区に関わりたくないのだろう。
「正直に申し上げますとね、刑事さん。私にはあんな場所で生まれ育った子が、私たち一般の日本人と同じようなまともな感覚を持ち合わせているとはとても思えないのです。あの子は最初からうちの梨花を誘惑して、利用するために近づいたのかもしれません。だってあの顔ですからね、そういうことは慣れているのかもしれません。あの顔は他人に媚びる顔です。悍(おぞ)ましいったらないわ! それにあの地区の人間のくせに、普通のご家庭の男の子のような身なりをしいたのもずっと気にかかっていたんです。一体、どこから出たお金で買っていたのか、わかったもんじゃありません。今思えば、うちに遊びにきてる時も変な感じだった気がします。礼儀正しい普通の子を装っていたけど、目があちこちにさまよってて、全く落ち着きがありませんでした。まるでうちの中を値踏みしているように感じましたよ。それにおやつだって、毎回全部食べてしまうんです。全部ですよ。犬みたいにがっついて……ああ、なんであんな子と付き合ったりなんか!」
 彼女は掛け布団の縁を両手で掴んだり、離したりを繰り返す。人はストレスがたまると、腹の底から吹き上がってくる行き場のないエネルギーを発散するために無意識に体を動かすものだ。
「落ち着いてください。そう興奮しなくても……」
「刑事さん。これはただの家出ではないんですよ。叔母に対する暴行と、傷害と、強盗です。梨花は家出中の罪のない未成年ではなく、事件の容疑者なんです」
 柳が口を開いた。
 逆八の字型に眉を跳ね上げ、花笑とお揃いの三白眼で私を睨む。恨みがましい目で人を睨むのが様になる姉弟だ。
「もう少し真剣に探してくれてもいいのでは? いつになったら本物の刑事さんを担当に回してくれるんですか? これなら探偵でも雇った方がまだマシでしたよ」
 柳は眼鏡のツルを軽く持ち上げながら私に尋ねる。気障(キザ)ったらしい上に嫌味ったらしい。
「……石垣さん、私たち生活安全課も本物の警察ですよ。もちろん、警察は全力でお嬢さんを探しています。ただ、こういうケースはガムシャラに動けばいいという話でもありませんし、あまり大ごとにするとお嬢さんが後々、学校生活を送りにくくなる可能性も──」
「それは娘の自業自得ですから、刑事さんが気にすることではないでしょう。それで、日野原くんにはいつ話を聞きにいくつもりですか? 梨花が笹巳に戻ったら、一番に駆け込むのは彼のところですよ。見張りは置いてるんですか? 昨日、見に行った時は、彼の家の周辺には誰の姿も見えませんでしたが」
「見に行ったんですか?」
「警察のみなさんがお忙しいようなのでね。何度か直接、足を運んでますよ」
 柳は不快そうに顔を歪め「ろくでもない地区です。ヤクザみたいな連中が私の車を取り囲んで、サイドミラーをへし折って行ったんです。走行中にですよ!」と吐き捨てた。
 ザマー! という感情を深い同情を浮かべる仮面を被って隠す。
「梨花さんが家出していることや今までに起きたことを全て日野原くんに話す形になりますが、それでも構わないということですね? でしたら何か梨花さんについて知っていることがあるかどうか、彼に聞きに行きますよ。これからでもね。ええ」
 私は金山の肩を叩いて病室のドアに向かった。
 が、ドアを開けて廊下に出ても後ろに誰もついてこない。
 振り返ると、金山は不思議そうな顔をして自分の肩と私を交互に見ていた。ベッドの側から少しも動いていない。
「……金山くん」
「はい」
「行くよ?」
 私は廊下の先を指差し、『全然怒ってないよ』とタイトルのついた仮面を被る。
「あー。はい。じゃぁ、失礼しますね。お嬢さんは必ず保護しますから」
 金山は石垣姉弟にバカ丁寧に頭を下げてから、ようやく病室からでてきた。私は『なんでもないんですよー?』の仮面を被って、病室に残った2人に向かって「それでは」と会釈してドアを閉めた。
 ……。えいっ。
「柿原さん、なんで俺の足を踏むんですか?」
 不思議そうに金山は首をかしげる。私は金山の右足のつま先を踏んでいた足を持ち上げ、もう一度バンッと踏みつけた。
「わぁ! 吃驚したぁ!」と金山が叫び、廊下を歩いている患者たちが怪訝な顔でこちらを見た。
「大声を出すな。病院だぞ」
「だって、だって、柿原さんが急に! なんなんですか、もー! さっきから肩叩いたり、つま先踏んだり! 暴力はよくないですよぉ! 柿山さん、力弱いから痛くはないけど、吃驚するじゃないですかぁ、心臓に悪いですぅ!」
 私は脳みそスカスカ熊男の胸ぐらを掴んで引き寄せる。何でこんな手取り足取り教えなきゃ何もわからんようなアホに育っちまったんだか!
「かーなやーまくぅん!」
「柿原さん、顔が近いです。あと両足が俺の足踏んでますよ」
「踏んでますよじゃねぇですよ、踏んでんですよ! 君は私が全部言葉で説明しねぇと意図すらわかんねぇんですか! 私が肩叩いたら、部屋を出てくってことですよ! つま先踏んだら黙れってことですよ! 悟れ! 前後の空気で、悟れよ! 朴念仁(ぼくねんじん)!」
 あー、なるほど! と金山は手を叩いた。
「ツーカーの以心伝心な刑事コンビって感じで格好いいですもんね、そういうの!」
 金山はにっこりと私を見下ろす。『もー。しょーがないなー。ごっこ遊びがしたいならそう言ってくれなきゃー』とでも言うような顔。
 ……なんで私がわがまま言ってるみたいな感じになってんだ!
 病室のドアが開き始めた瞬間、私は金山の胸ぐらを掴んでいた手を離し、足から降りた。ドアが開ききって、柳が出てくるまでの間に『真面目で実直で適度に高圧的な顔』の仮面を被る。
「おや、石垣さん。どうしました?」
 私がそう聞くと、柳はドアを閉めてからこう言った。
「例えばですが。娘が姉を襲って金を奪った行為が全て、日野原青海の指示だったとしたらどうなりますか?」
 ……。何言い出してんだ、こいつ。
「それは……何か根拠があってのことですか?」
 柳は否定も肯定もせずに肩を竦め「もしもそうだったら、どうなるのかと思っただけですよ。ちょっと可能性を考えてみただけです。ちゃんと逮捕してくれるのかなって。ほら、悪い芽は早めにって言うでしょう」と答えた。
 逮捕と言った時、柳の顔に蛇のような笑みが浮かんだ。
「石垣さん、まずは娘さんが無事に帰ってくることだけを考えましょう。私たち警察も、全力で協」
「いいです。他の可能性を考えますから」
 言い終わる前に柳はドアを閉めて病室に引っ込んでしまった。
 ……。うわっ。
「柿原さぁん」
「あ?」
「俺、あの人のこと嫌いだなぁ」
 ……。
「私も」
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド⑩
10話:8月15日(午前12時39分):ブルーハワイ×猛ダッシュ
 勝浦駅の改札を抜ける。
 俺たちは人々の流れに乗って、駅から民家を割って伸びる道を歩き出した。いかにも海水浴がメインの観光街らしく、駅前には南国感を演出するためにヤシの木が──いや、ありゃサテツってンだっけ? ──植えられていて、ところどころに「ようこそ、勝浦へ!」と書かれた看板が立っている。
 波の音ははっきりと聞こえるし、潮の匂いもするのに──。
「全っ然、見えねぇっすね、海」
「民家や看板に遮られて視界に入らないだけだ。歩いて5分くらいだから。まぁ、この人の波についていけばすぐにつくさ」
 行こうぜと言われて、俺は先輩の少し後ろを歩き出す。
 石垣の話が中途半端なところで終わってしまった。結局、どーするつもりなんだ。親が出てきたから別れンの? 連絡つかねーから? 別れンならそりゃ、俺ぁ大賛成だけど。……先輩が傷つくのはすげぇ嫌なわけでさ。クソッ。石垣め。あのクソ女、いつもいつも、俺の好きなものを傷つけにくる。
 道を進んでゆくと徐々に匂いが強くなってきて、波の音に混じって大勢の人々が笑う声も聞こえてきた。道の先はT字路になっている。俺たちの前を歩いている人々は、T字路を右に曲がった瞬間に、例外なく顔を輝かせていた。
 自���と少し早歩きになる。
 やがて俺たちもT字路に到着し、体を右に向ける。そこにあるとわかっていたはずなのに、思わず「超海じゃん!」と声が漏れる。「そーだよ、超海だよ」と答えるように強い潮風が吹いてきて、俺のアロハと髪を膨らませた。太陽で焼けた砂と、潮と、焼きそばのソースの匂いだ。
 視界いっぱいに青い海のパノラマが広がっている。
 青緑色の海。海水に浸って灰色に変色した波打ち際の砂浜と、波から離れた白く乾いた砂浜。浅瀬に突き出す黒い岩。海から少し離れた場所に建てられた赤い鳥居。色とりどりのビーチテント。浮き輪やボールを抱えた水着姿の人々。夏の色が全部揃ってる。極彩色のパレットだ。
「風、気持ちいいなぁ! 西郷どん! 来てよかっただろ、海! 盆地とは大違い! 歩いてるだけで風吹いてくるし!」
 先輩は前髪をかきあげながら、目を細めて笑う。眉間と鼻の付け根にくしゃっと皺が寄った。
「あの盆地にいたら、歩いてるだけで窒息しちまう」
 強い日差しが先輩の顔に落ちる影を濃くする。大きな目が深い穴みたいに見えた。ものすごく暗い、苦痛とか恐怖とか、そういう何かを見てしまった目だ。あれは川から���い上げた袋の中に入って��た、シルキーの目だ。
 突然、先輩がハッと目を見開いて俺を見た。かと思うと、今度は眉を八の字に寄せて笑う。先輩は怒ってても悲しくても全部笑うから、笑顔のバリエーションだけ異常に多い。これは驚いているのを隠す笑顔だ。
 ンでそんな顔で見るんだ? と不思議に思った直後、俺は自分が先輩の手を握っていたことに気がつく。
 ……。
 血の気が引いた。完全に無意識だった。喉の奥で悲鳴が鳥みたいに羽ばたく。待て。今のなし。これはなし。今のはタンマ。一時停止。ポーズ。これは違うんだ。右手が。この右手が勝手に。勝手にだな。事故なんだ!
 俺が言い訳を思いつく前に、先輩は俺の手を握り返してきた。なんで。やめろ。
「そうだな、こうしとかないと、はぐれちまいそうだもんな。あ、つか、指ひらいてよ」
 言われた通りにすると、先輩は俺の指と自分の指がかみ合うように手を握ってきた。恋人繋ぎだ。キュッと先輩の手に力が一瞬篭る。ニッと笑った口から真珠みたいな歯が見える。
「いえーい。彼氏ができたぁー」
 殺される。俺は、こいつに殺されるんだ。
「案外、人多いもんだなぁー。見ろよ、テントだらけ! つか、海の家の行列すごいな。並んでるうちに腹減って倒れそう」
「……うっす」
 心臓。心臓。心臓。止まんねぇかな。今だよ。今。マジで止まれ。汗腺とか全部つまらねぇかな。バレるじゃん。手汗とか、鼓動とかでバレるじゃんよ。変だって思われるじゃん。変だって。先輩に変な奴だって思われるじゃん。
「西郷どんはさー、好きな子いねぇの?」
「別に」
 先輩はヒュゥーと口笛を吹いて「今の言い方、クール過ぎじゃん? 『別に』」と俺の真似をした。
「そんな言い方してねぇッス」
 アハハッと先輩は笑い、「しーてーたーよー」と言いながら繋いだ手をブンブンと前後に振る。
 先輩の手、平べったい。指なげぇ。ひんやりしてる。硬い。
 そういうとこに意識を持ってかれる。もうちょい力込めて握っても平気か。変じゃないか。変だって思われねぇかな。でももう手を繋げることなんか、これ逃したらないじゃん。こうやって2人で海とか、そんなのももうねぇわけじゃん。
 俺は先輩に自分の抱えてるもンを見せる気はねぇし、何も言う気はねぇ。卒業まで全力で耐えるって決めてる。そこまで耐えられたら、あとはただ先輩のことを「そんなこともあったなぁ」って考えられるようになるまで、とっとと全力で老けるつもりだ。もしかしたら、次に好きになるのは女子かもしれねぇし。
 だから今日を、今を逃したら、もう二度とこんな風に先輩と手は繋げない。もうずっと、一生だ。それでいいんだけど。そーゆー方向にいくつもりなんだけどョ。
 勇気を振り絞って手に力を込める。先輩は何も言わない。気にしないで欲しいってホッとしながら、気にして欲しいって思ってる。頭がグルグルする。ちゃんとしろ、俺。コントロールすンだよ。自分のことなんだから。
「……西郷どんはさぁ、梨花ちゃんの家、行ったことある?」
 先輩に手を引かれて道路から浜辺に足を踏み入れる。スニーカーの下で乾いた砂が崩れた。俺のいい気分も少し崩れた。今は先輩のことだけ考えていたかったのに。おのれ、石垣。テメェはここにいてもいなくても、俺の青春に出張ってくる。
「玄関までなら」
 あいつの親、あいつにミリ単位でしか似てないんだよな。あ、親ではねぇのか。あいつん家、母親いねぇし。
 頭ん中にむかーし、団地の祭りにきていた石垣の叔母さんがぼんやりと浮かんでくる。髪が長くて、白くて、細くて、お上品。うちの母さんや、団地で見かけるおばさん連中とは別の種族って感じ。
 『石垣の家族』っていう先入観もあんだろうけど、俺はあんま好きじゃねぇ。数えるくらいしか顔みたことねぇと思うけど、あの叔母さんは変な感じがした。
「俺は何回も遊びに行ったことがあるぞ! なにせ、彼氏様だからな!」
 ビシッと先輩は親指で自分を指差して笑う。目は穴みたいなままだ。これは空元気だ。
「すごいんだぜ。梨花ちゃん家。玄関開けたらふわってさ、いい匂いがすんの。ドライフラワーが壁や窓に飾ってあってさ、その匂い。梨花ちゃんが『電気つけて』っていうと、家の電気がつくんだよ。すげぇよな。3階建てでさ、天井が高くて、部屋が広くて、階段の幅も広いんだよ。エレベーターもあるんだぜ。ビビったよ。家ん中にエレベーターかよ! 吹き抜けもあるんだぜ? 1階から3階まで、ただ突き抜けてる空間。『空間』って!」ハハッと先輩は笑う。
「金持ちらしさってさ、何万もする高いものを持ってるとか、そういうことじゃないって俺は悟ったよ。金持ちっていうのは、『余白』を買うんだ。『何にもない』を買うんだよ。哲学的だよな?」
 先輩が俺の手を握る力が強くなった。心臓止まれ。心臓止まれ。
「梨花ちゃんはさ、俺を家に呼びたくなかったんだ。付き合ってるのもなるべく隠したいって言ってて。俺は梨花ちゃんがそういうこと言うたびにちょっとむかついちゃってさ。『俺が彼氏なの不服かよー』って。ちょっと思ってたんだよ。だから、梨花ちゃんが初めて家に呼んでくれた時すげぇ嬉しくてさ。けど梨花ちゃん、すごい顔面ガッチガチの鉄仮面になっちゃってて」
「石垣さん、いつも鉄仮面じゃん」
「おーれーにーたーいーしーてーはー、ちーがーうーのぉー」
 先輩はまた繋いだ手をブンブンやりながら言う。
「お前に見せてやりたいよ、俺の前にいる時の超可愛い梨花ちゃんを! あ、ダメだ。あんな可愛いものをみたらお前が梨花ちゃんに惚れてしまうな! もちろん梨花ちゃんが俺以外を選ぶわけがないから、西郷どんは失恋してしまう! 可哀想だな! 西郷どん、本当に可哀想! ふられちゃって可哀想! 可哀想だから、今のはなしだ! 可愛い梨花ちゃんを見てはいかんぞ! ずっと梨花ちゃんを鉄仮面だと思い込んで生きてゆけ! その狭い視野でな!」
「勝手に1人であるわけない事態を想定して、あるわけない事態を解決すンのやめてくんねぇっスか……なんで俺が石垣に失恋しなきゃいけねぇンだよ」
「ないとは言い切れないだろ。梨花ちゃんは可愛いし、西郷どんは割と簡単に人に惚れる。誰にでも惚れる」
「そんなことねぇよ」
「いーや、あるね! お前はチョロいのだ。チョロ郷どん! 俺にはわかる。俺は人間に詳しいんだ。西郷どんはちょっと優しくされたら『はぁーん、しゅきぃ』ってなっちゃうタイプだ。俺、すげぇ心配よ? お前、恋のためなら多分、自分のリミッター外しちゃうタイプだよ。両思いだろうと、片思いだろうとさ」
「ッセェな。気をつけてどーにかなるもんじゃねぇーでしょ。さっきから話があちこち脱線すんのはなんなんスか。話しにくいから遠回しにしてんの? イライラすっからサクサクしてくださいよ」
 先輩は肩をすくめて「ハハ。お前にはお見通しだなぁ」と笑った。なんかもう、あんまり先輩の笑顔を見たくねぇ。だって、笑ってっけど笑ってる顔じゃねぇもん。アレ。
「結論から言うとだ。俺を家に呼んだのは梨花ちゃんじゃなくて、梨花ちゃんの叔母さんだったわけだよ。『彼氏がいるならお家につれていらっしゃい』って。梨花ちゃんは俺にあの地区に住んでることを絶対に叔母さんには言わないでって言ってきてさ。『私の家族は、そういうことをものすごく気にするんです。絶対に私たちを別れさせようとしてくる。どんなことでもしてきます。そういう人たちなんです』って、顔を真っ青にしててさ。けど、まぁ、俺はちょっと軽く見てたわけ。だってさ、今、21世紀だぜ? そんなさ、梨花ちゃんが心配してるような『お前のような生まれのものが、うちの娘と付き合えると思っているのか!』みたいなのってさ、今時あるわけねーじゃんって」
 先輩は空に向かって「思っちゃってたんだぜー!」と叫んだ。周りの通行人がチラッとこっちを見たけど「高校生じゃん? 可愛い」「青春ー」とか言うだけで気にしてはないようだった。俺だけが顔真っ赤にして恥ずかしがってる。俺だけ損じゃん。
「あ、海の家にかき氷あるじゃん! 西郷どん、かき氷と冷やしきゅうりと氷みかんと焼きそば、どれに並ぶ? ばらける?」
 先輩は空いている方の手で海の家を指差す。
 ばらけるって言えば自然に手を離せる。手汗や心臓の音も気にしないでいい。
「ばらけたら合流できないっスよ。かき氷買って、食いながら次のに並べばいいんじゃないっスか」
 俺のバカ。そんなに手ぇ繋いでたいのかよ。
 ……繋いでたいんだよ。バカ。
「オッケーオッケー。俺、ブルーハワイすげぇ好きなんだよね。アイスが乗ってたら最高なんだけど、乗ってるかなぁ? 欲を言えばさくらんぼも乗せて欲しいんだぜ。昔さぁ、西郷どんの団地の祭りで食べたんだよね。団地住みの子がくれたんだよ。ブルーハワイ好きじゃねぇからって。あんなに綺麗なのにな」
「! 来てたんスか?」
「1回だけな。笹巳に越して来たばっかの頃」
「越してきた?」
「あれ、言わなかったっけ? 俺、元々、ここ出身よ?」
 先輩は指で地面を指す。
「勝浦?」
「そ。もうちょい奥の方だけど。小さい頃は母親と二人でこっちにいたの。まだあるかどうかわかんねぇけど、琉璃波(るりは)旅館っていう、ちょっとおっきいとこに住み込みでさ。そんで、母親が旅館の出入り業者の人と再婚するから父親に引き取られたんだよね。それで笹巳に越して来たわけ」
「聞いてなかったっス。元々、笹巳に住んでたのかと」
「俺にも色々あんのよ? それなりに波乱万丈の17才なんだからね? そのうち、24時間テレビで俺の人生の再現ドラマ作られるから、乞うご期待な! まぁ、ほとんどのエピソードが削られんだろうけど。お茶の間向きじゃねぇからね。俺の人生」
 先輩は俺を連れてかき氷の列に並ぶ。俺たちの前には10人くらい並んでいたけど、かき氷機は4台もあるし、そう待たずに済むかもしれない。
「……俺はこれでもさ、色々考えて生きてきたわけだよ。きちんとした生活をして、きちんと勉強して、きちんと運動して、輪を乱さず、人に好かれて、人を好いて。そうやってコツコツと信頼を得ていけばさ、不自由なんか何にもないだろうって。実際、今までそうやって生きてきたんだ。俺がこうしたい、こうするぞって決めたことは全部できた。中学行けたし、高校も推薦で入れたし、バイト先でもいい感じだし。なんていうかさ、努力すればちゃんと全部、人生に還元されてる実感があったわけよ。だからなんかこう、『大袈裟』って思っちゃうんだよな。それか『努力が足りんのだ』って」
 先輩はその言葉を言おうか言うまいか、首を右へ左へ曲げた後で、滅びの呪文でも吐���ように「差別」と言った。少し黙っていたのは、その言葉を唱えた後でも世界が滅びずにそのままでいることを確かめていたんじゃないかと思う。
 俺にはわかる。俺も昔、その呪文を唱えたから。
 中学ん時に初めて全国に出た時、観客席にいた誰かが俺を指差して「ほら、地方の学校ってどーしても勝ちたいから外国からあーゆーの呼ぶんだよ。さっきもいたじゃん。どっからどーみても『田中』って顔じゃねーだろって奴」と言った。俺はその日、初めて「西郷好太」じゃなくて「あーゆーの」になって、「西郷って顔じゃねーだろ」って顔になった。そんで初めて「ああ。これか。これが噂に聞く、例のやつね」って悟ったんだ。
「差別……とかそういう深刻なのじゃないじゃんって。貧困地域とか、スラム化地域とか言われてもさ、俺としてはそこで普通に生きてるから。毎日、普通にさ、暮らしてるからさ。別に、普通にコンビニ行ったり、普通にこうやって遊んだり、普通にカラオケいったり、普通にデートしたり、してるしさ。だからなんか『差別されている貧しい地域の子』っていうのに、自分が噛み合わなくて。外の人たちが言う『あの地区』と、俺の生まれて暮らしてきた地区がさ。重ならないんだよ。だって俺、別にあの地区で、あの家で、普通に生きてるし」
 先輩は眉を寄せる。笑おうとしているのに上手くいってないって顔だ。石垣ならこういう時、どうするんだろう。俺はこういう時、どうすればいいのかわかんなくて。ただ、隣で戸惑うことしかできない。
 先輩は「そう心配そうな顔すんなよ。西郷どんは相変わらず感受性豊かだなぁ。落ち込まないの、はい、西郷どん、スマイルー?」と俺の腕を突く。慰めたい相手に慰められてどーすンだよ。俺。
「俺は彼女の言うことをちゃんと聞く、理解のある彼氏だからね。最初は言われた通り内緒にしてたんだ。家に遊びに行くと、梨花ちゃんの叔母さんがさ、陶器のトレーにコーラとチョコパイとポテトチップス乗っけて持ってきてくれるんだ。『うちにはあんまり男の子の食べるものがなくて。足りなかったら言ってね』ってさ。明らかにさ、普段この家の人たちは食べないんだろうなって感じるんだよ。俺のためにわざわざ買ってきてくれたんだろうなって。まぁ、似合わねぇんだよ、陶器のトレイとコーラとチョコパイとポテトチップス。全然」
 場違いでさ、と先輩は小さな声で言った。
「俺みてぇだった。居心地悪そうすぎて、いつもとっとと食べちゃったよ。あんな可哀想なチョコパイ、見たことねぇもん」
 先輩は途中で話を切り、「梨花ちゃんの家も母親いないの知ってる? 梨花ちゃんと父親と叔母さんの3人暮らしなんだよ」と言った。俺は頷く。
「梨花ちゃんの叔母さん、すごい雰囲気のある人でさ。ちょーっとだけ梨花ちゃんに似てて、華奢でさ、工芸品みたいなの。きっとあの家の女の人はみんな、ああなんだと思う。積み重ねでできてる」
 列が進んで行く。氷を削る音と、シロップの匂いが近づいてくる。
「最初はうまくいってたんだ。梨花ちゃんの叔母さんも父親もさ、俺のこと気に入ってくれてさ。何せほら、俺って人気者だろう? 『日野原選手・インターハイ100メートル男子金メダル&大会新記録おめでとう!』の垂れ幕とかがさ、校舎とか、笹巳市役所に飾られちゃうような、俺なわけだよ。品行方正だし? 美形だし? 文句なんかないだろ。娘のボーイフレンドとしてさ」
 先輩の俺の手を握る力が強くなる。目の暗さも一段と深くなる。
「俺、完全に油断しててさ。それにロマンチストだったからさ。普通に言っちゃったんだ。『俺の家は団地の先にあるんで』って。言っちゃっていいと思ったんだ。梨花ちゃんが言うように、梨花ちゃんの家族が態度を変えたとしても、俺のことをちゃんと知ってるわけだからさ。平気だろって。……完全にしくじったよ。もうさ、空気が変わっちゃって。梨花ちゃん、2人きりになった時、ワーワー泣いてさ。『先輩はわかってない! 先輩は自分のみたいものしか見えてない! きっと私たちは滅茶苦茶にされる!』って。俺は『大丈夫だよ、考えすぎだって』って言ったけど、彼女が正しかった。俺が甘かった」
 先輩は俯く。どんな顔をしているのか、影になって見えないけど、多分まだ笑ってる。
「それまでは俺は俺だったんだ。単品の俺。それがさ、家のこと言った瞬間から俺は俺じゃなくなったんだ。『あの地区に住んでる子』になったんだよ。俺がポテトチップスを食べるだろ? そうすると『食べさせてもらえてないのね』になっちゃうみたいで、『夕飯食べていく?』とか言われちゃうんだ。俺の箸の使い方とか、靴の揃え方とか、挨拶の仕方とかがさ。急に『あの地区の子にしては』って目で見られるようになっていくんだ。俺のこともさ『あなたはあの地区の子とは思えないくらい礼儀正しい』とか『あなたはあの地区の子だけど、他の人とは違って普通ね』になっちゃったんだよ。名前だって、『最近の子は格好いい名前が多いのね』から、『あの地区の人たちがつけそうな名前ね』になっちゃって。もうなんていうかさ」
 先輩は空を見上げながら「きつかった」と言った。やっぱり笑顔だ。
「あんなにきついなんて思ってなかった」
「先輩」
 笑うなよ。そんな顔で。泣いてんのと変わんねぇじゃん。だったら泣けよ。
「わたあめ作る時の割り箸になった気分。砂糖の糸が絡みついてきて、玉になっていくんだよ。ベタベタしててさ、甘くてさ、悪気なんかないんだ。……いや、悪気がないふりをしてるのかな? まぁ、表立っての悪気がない分、余計にきついんだ。梨花ちゃんの家族も初遭遇だったんだろうな、あの地区の人間。関わる機会なんかないじゃん。エレベーターがある家に住んでるような人達にはさ。それできっと、どうしていいかわかんなくなっちゃって、ああいう『私たちは気にしていませんよー』みたいな態度になったんだと思う。でも、実際気にしてんだよ。気にしてるから、別れろとか言い出したわけだ。まぁ、あの人達風に言うなら『他の可能性に目を向ける』ってことだ」
「日野原先輩」
「笑えてきちゃってさ。やっぱ漫画や映画とは違うよなぁ。あからさまに『お前のような卑しい人間に娘はやれん!』とは誰も言わねぇもん。逆だよね。優しくて甘いんだ。優しくて甘くて、毒なんだよ。梨花ちゃんの親がさ、『他の人』でくくってんのってさ、俺の家族だったり、昔からの知り合いだったりするわけじゃん。『誰だって』家族のことを他人にいきなり悪く言われたら嫌な気持ちになるだろ? 当たり前のことだろ? でも梨花ちゃんの親の『誰だって』の中に、俺は入ってないんだよ。あんなの初めてで、愕然としちゃって。どうすればいいのかわかんなくなって、怖くなっちゃったんだよ、俺」
 先輩の手が震えている。見ていられない。
「なんて言うんだろうな。俺、差別って言葉、すごい嫌いなんだ。なんか超ダセェじゃん。こう、わかってねぇ連中が勝手に外から貼り付けてる感じがして、新しい檻に閉じ込めようとしてるんじゃねぇかって感じがしてさ。だから差別っていう時、俺、ちょっとさ、差別の後に(笑)(カッコワライ)が付いちゃうんだよ。なんか笑えるんだよ。『確かにそういう問題があるのは知ってるけど、俺のとこは違うから』って思ってたんだよ。だって別に、誰かに殴られたとか、意地悪されたとかさ、なかったし。大袈裟だって思ってたの。貧困とか言われても、飯食えてるし、こうやって海も来られるしさ。でも、梨花ちゃんの家族と向き合って話してる内に、どんどんしんどくなってきて、すげぇ頭んなかで『あれ、これってすごい差別みたいだな』って思ったんだ。『社会問題じゃん、差別みたい。実際にあるんだぁ』って。その時さ、すっげぇ面白いなって思ったんだよ。最初にさ、『なにこれウケる』って思ったの。なんつーの。例えば中国人がカンフーの服きてヌンチャク振り回してたら『いるんだ、実際』って思って笑っちゃうじゃん。俺、思っちゃったんだよ。ウケるって。あの状況とか? 俺とか、青ざめてる梨花ちゃんとか、のんびりしてる梨花ちゃんの叔母さんとか、全部、込み込みで超ウケるー。差別とかあるんだ実際ーって。なにこの状況。超ベタじゃんって。俺って超ウケる奴だって」
「日野原先輩、無理すんのやめてくれって。マジで。笑うなって」
「そんでその後にさ『いや、そういうんじゃねぇじゃん』って思ったんだわ。大袈裟じゃんって。こんなの、別にそんなさ、大きい問題じゃねぇじゃん。つーか。ねぇ。これはさ、そういうのとは違うじゃんって。だって、向こうにしてみたらさ、そりゃ、言うだろうしさ。相手の立場に立って、俺は考えたわけだよ。俺、相手の立場に立って物事考えるの、割と得意だから。そうやって、望まれるいい奴やってきたわけで、それはほら、テクニックじゃん? だって俺の考え方と『みんな』の考え方は違うってわかって���から。そうやって『みんな』に合わせるのって、普通かと思ってたんだよ。それができる俺って、すげぇ奴なんだって思ってたの。でもな、西郷どん。『みんな』ってのは、自分の考え方と『みんな』の考え方がほとんどずれてない人のことを言うんだ。合わせる必要のない人を言うんだよ。俺は『みんな』に合わせられるけど、『みんな』には成れないんだよ。そういうのに、一気に気がついちゃってな。だから俺、うわーってさ。なっちゃったんだ。『うわー。これって、そういうのだったんだ』って。もう全然、笑えなかったよ。(笑)、どっか行っちゃって、帰ってこねぇの」
 先輩の声が震える。
 どうすりゃ止められるんだろう。
「もしも俺があそこらへんの子じゃなかったら、絶対に言わないだろ。『あなた『は』しっかりしてる』なんて。『あなた以外』のことなんか、知りもしねぇのにさ。そんでもうさ、息苦しくなっちゃって。だってさ、どうすりゃいいの。怒ればいいの? それともニコニコしているのがいいのかな。俺、どっちもできなくてさぁ。すげえ変な顔で固まっちゃったと思うんだ。もう、なんか、やっちゃったよね。ほんと、ほんときつかった。誰かマニュアルかなんか作ってくんねぇかな。だってさ、差別をしてはいけませんっていう話ってさ、結局差別する側に対する啓蒙だろ? された側にどう振る舞えばいいのか教えてくれるものなんか、ねぇじゃん。ぼんやりした『あなたは悪くない。自分に自身を持って。差別する側の方が劣っているのです』とか『サポートが必要ならNPO法人なんたらかんたらへ』とかばっかじゃん。そういうんじゃなくて、ああいう目にあっちゃった時の、今すぐ使える模範解答みたいなのが欲しいよ、俺は。でも、そんなのないんだ。全部個別だからな。人間関係は。きついわ、人生。まじでしんどい」
 先輩は「暑いなぁ! 汗が目の中入ってくる」と言いながら目を擦る。
 汗じゃないだろ、とは言えなかった。
「梨花ちゃんは、俺といつ別れるんだって親が毎日言ってくるって泣いてさぁ。俺はさ、『俺がどういう人間かわかれば、梨花ちゃんの親も細かいことなんか気にしなくなるよ。だってもう21世紀なんだよ。そんな古臭い価値観で人を見たりするなんて、あるわけないじゃないか』って言ってさ。梨花ちゃんがまた泣くわけだよ。『ちゃんと見てください! あるわけないって言っていれば、消えると思ってるんですか! あるわけない、いるわけない、って思ってるうちに、取り囲まれてしまうんです! うちの親は、叔母さんは、現にいるじゃないですか! 別れろ、別れろって、言うじゃないですか! あの人たちは折れませんよ! 私は知ってるんです!』って。いやぁ、うん。バリッバリに現役だったよね、古い価値観! ピンピンしてた! もうさ、思い知らされたわけだよ。古いとか、時代遅れとか、そういう風に呼ばれてるもんがどれだけ強いのかってことを! 全然古くないの! オンゴーイング! 古いとか嘘! 全然現在進行形だよ!」
 かき氷の列はほぼ詰まることなく順調に進んでいて、もうすぐ俺たちの番になりそうだった。
「先輩。かき氷食べてからゆっくり話そうぜ。なぁ。無理しねぇでも俺、ちゃんと全部聞くから」
「なんで漫画とかアニメとか映画とかでしょっちゅう、バカみてぇで臭くて説教がましいさ、『差別主義者が倒されてめでたしめでたし』なお話やってんのか、わかっちゃったんだよ。倒せねぇからだよね! 倒せねぇから、お説教の中で倒してんだよ。だってそうだろ。本当にそういうのが悪いって、『みんな』が思ってたら、そんなものはもうないはずだし、そんなものを倒してめでたしめでたしな��話もねぇはずなんだ! 本当は勝てねぇから、勝てる話を作ってんだよ。負けてる側が負けてる側を慰める為に作ってる妄想なんだ! 惨めだ! すげぇ、惨めだったよ! ハハ!」
 先輩は喉を抑える。まだ笑ってる。やめろって。マジで。シャレにならねぇから。
「なんかきつくて。息がうまく、できねぇって感じで。それで、こう、頭がぐちゃぐちゃでさ。夏休みに入っちゃって、梨花ちゃん、夏の合同練習にも来ないし、今日も学校に来なかったし。LINEも電話も全然繋がんなくてさ。家に行っても追い返されるし。もうしんどくて。それでちょっと、急に、飛び出したくなったんだよ、盆地。あそこにいたら息ができない」
 先輩は海を指差して「そういうわけでの、海なんだよ。西郷どん」と言ってから、携帯を開いて俺に見せる。
「ちょっと前に、こんなメールが来てさ」
『もう会わない方がいいと思います。今までありがとうございました。日野原先輩だったらすぐに素敵な彼女ができると思います。』
「……これ、俺、見ていいやつなんスか?」
 つか、振られてんじゃん……。
「いーやつだよ。だってこれ、梨花ちゃんが書いたメールじゃねぇもん。これでも付き合って結構長いんだぜ? 毎日LINEしてんだから文体くらい覚えるよ。これは家族だよ。梨花ちゃんの家族。別れさせようとしてんの。つかメールって時点で変じゃん。だってさ、梨花ちゃんだぜ? 本当に別れるって決めたなら、直接言いにくるよ。そういう子じゃん」
 はぁと先輩はため息をつく。
「絶対に別れたくねぇ。意味わかんねぇじゃん。なんで別れなきゃいけないんだよ。俺、梨花ちゃん好きだし、梨花ちゃんだって俺を好きなんだ。それ以外なんか、どうだっていいはずなのに、じわじわ嫌なものに取り囲まれてる。わけわかんねぇ。俺と梨花ちゃんの、2人の話なのに」
 俺たちの前に並んでいた親子連れが注文したかき氷を受け取り、横にずれる。
 先輩は店の看板からぶら下がったメニューの短冊を見ながら「あ、ここのブルーハワイ、アイスはねぇんだー。ざーんねーん」と言い、千円札を差し出して俺と自分とを交互に指さすと「ここ、お会計一緒で」と言った。
「いーっすよ、俺、自分で。さっきガリガリくんももらったし」
「いーの。これは口止め料だから。おにーさん、俺、ブルーハワイで。お前は?」
 決めてなかった。
「えーっと。じゃぁ、俺もブルーハワイで」
 店の兄ちゃんが氷削り機のボタンを押し、氷を削る音が響く。音聞いてるだけで涼しい。
「……何にも解決しませんよ、海なんかきたって。夏休み明けに話ししてみたらどーっスか? 流石に夏休み終われば会う機会あるでしょ」
「人間にはな、何にも解決しないってわかってても、海に行きたくなる瞬間があるんだよ。だってほら、風が吹いてるんだぞ、海は」
 先輩の声に応えるように海から風が吹いて、先輩の長い睫毛と三つ編みと、おでこにかかる長い前髪が遊ぶように揺れた。
 かき氷のシロップが入った大きなボトルに光が差し込んで、乱反射して、先輩の右顎の下から左の眉頭に向かってブルーハワイ色の光の線を引いた。綺麗だ。
「風吹いてると、一生懸命口開けて呼吸しなくてもさ、口開けてるだけで空気、入ってくるから。息苦しくねぇからさ」
 先輩は「ほら」と言って口を開け、風を受ける。
 白くて清潔で綺麗に揃った歯と歯の間に舌が見える。あれは先輩の内臓の、一番外側にある部分だ。いやらしい。
 先輩はさっき石垣の話をしながらちょっと泣いてた。長い睫毛が濡れて、小さな小さな涙の粒が先端で揺れている。
 かき氷屋のあんちゃんが「はい、どーぞー。シロップ足りなかったら、スプーン3杯まではかけてオッケーでーす」と言って氷でいっぱいになったプラスチックの器を差し出す。
「はーい。どーも」と先輩は器を受け取る。もう何でもないみたいに笑ってる。
「西郷どん、できてるよ。ブルーハワイ」
 先輩はかき氷屋の兄ちゃんが持っているブルーハワイのかき氷を指差す。
「お前は本当に青が好きだなー。青いネックレス、青いアロハ、かき氷までブルーハワイか」
 先輩の口の中にブルーハワイ色の光が差し込んでる。先輩の涙で潤んだ右目にブルーハワイの青い色が差し込む。砕けかけのひび割れたビー玉みたいだ。風が吹いて、三つ編みが揺れて、ブルーハワイ色の光が揺れて、先輩の目に溜まっていた涙が汗と混じって垂れ落ちて、言葉にできないくらいに綺麗だった。そーゆーのが、全部、変な風に噛み合ってしまって、俺はコントロールを失った。
 俺は先輩の口に噛み付くつもりはなかったし、噛みつき終えた後に「あんたが好き」って言うつもりもなかったのに、そーゆーことをしてしまい、かき氷やの兄ちゃんは小さい声で「ぇえっ」と言い、先輩は硬直し、俺はかき氷のシロップが染みた青い天辺をスプーンも使わずに口でかぶりついて崩し、まだ半分以上残っているかき氷を屋台横のゴミ箱に投げ込み、まだ硬直している先輩の口にもう一度噛み付いて、舌でシロップでぐしょぐしょに濡れたかき氷を中に押し込んで、「すげぇ好き」と言って、その瞬間にかき氷のキーンがゆだっていた脳みそを冷まし、俺は正気に戻り、かき氷やの兄ちゃんがまたしても「ぇえっ」と言う声と、先輩の唇の真ん中からブルーハワイのシロップが垂れていくのを見て、そんで。
 逃げた。
 全力で。
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド⑨
9話:8月15日(午前11時52分):青海×ブルー
 「あのな。俺たちが付き合い始めた、そもそものきっかけはお前だぞ。お前。西郷どん」
「俺?」
「そ。お前、1年の時に浮きまくってただろ。『団地のマフィアが入部してきた』ってビビってる先輩も多かったんだぞ?」
「……俺のどこをどうみたらマフィアに見えるんスか」
「制服のシャツの下にドクロと桜の刺繍入りのTシャツ着てたからなぁ」
 あれはオシャレだ。
「あと髪型。金髪オールバックはないぞ。幾ら何でも。今のオールバックだけでも、西郷どんを知らん人から見たら結構怖ぇからな」
 オシャレだ。それに髪型に関してはあんたに言われたくねぇ。
「それに人とすれ違うたびにすっげぇ舌打ちしてただろ」
「……あれは、ただの癖で。それに舌打ちは直したじゃねぇっスか」
「俺が口を酸っぱくして注意したからな。とにかくな、初期郷どんは怖かったの。周りがビビりまくってたの。そんで、お前を退部させようって空気ができてたんだよ」
「えっ!?」
 何それ、聞いてねぇぞ。
「1年の時、先輩から髪のこと注意されてただろ?」
「……されてねぇっスよ? 髪のこと言ってきたの、日野原先輩だけっス」
 『ただでさえ怖い西郷どんの怖さにブーストかかってるから、染めてこい』って頭を引っ叩かれたんだ。あれは心外だった。
「いや、言われてたね。『すごい髪だね、西郷君。似合ってるね。でも、陸上部ってさ、真面目な部活なんだよね。全国入賞もしてるし、うちの部、県内でも強いので有名なんだ。だから学校のみんなの模範にならなきゃいけないんだよね』とかさ。俺、側で聞いてたし」
 ……。言われたような言われてないような。あ、言われたわ。言われた、言われた。名前忘れたけど、1年の時の部長に言われた。
「注意じゃねーんじゃねぇっスか? 俺、普通に『髪の色と足の速さ、関係ないっスよね。それに俺が真面目にしたからって他の生徒が『西郷君が真面目だから俺も真面目になろう』なんて思わないっスよね』って答えましたけど」
 特にその後なんも言われなかったから、ただの世間話かと思ってた。つか、今まで忘れてた。な���か変なこと聞いてくんなぁ? とは思って引っかかってはいたけど。
 日野原先輩は「あーのーなぁー!」と大げさに叫ぶ。
「それは『髪を黒く染めてこい』って意味だよ」
 ……えぇっ。
「そんな遠回しなのわかんねぇっスよ! 暗号かよ!」
「あの時な『注意して黒くしてこなかったら真面目に部活やる気ねぇってことにして退部させようぜ』って空気が3年生の先輩ん中にあったんだよ。直接お前になんか言うのは怖いけど、お前が部活にい続けるのも嫌だったの」
「俺、部活は真面目にやってたじゃねぇっスか! 遅刻したことねぇし、練習だって真剣だったし、掃除とか片付けも一度もサボったことねぇっスよ!? 結果だって出してたじゃないっスか!」
「そうだなぁ、インハイ5位。来年こそは表彰台狙ってこうな。とにかくだ。俺はその空気が嫌だったわけだ。当事者が知らないところですげぇデカいことが決まっちゃって、物事がその方向に誘導されてくのは気味が悪い。しかも、お前、俺と一緒でスポーツ推薦だろ? 部活やめるってことは、学校やめるってこととほとんど直結してるだろう。そういうのさ、3年の先輩、誰も考えてないんだ。お前を崖の側まで連れて行って、不意打ちで肩をどーんって押すけど」
 と、先輩は俺の肩を軽く突く。
「お前が落ちて死ぬところと、お前の死体からは目を反らすんだ。『あいつ、自分で落ちたんだよ』ってさ。気分悪いだろ。だから俺が申し出たんだよ。『西郷の髪や服装や舌打ち、俺がなんとかするんで少し待ってやってください』って。俺、当時の3年にとっては、先輩を立てるよくできた後輩君だったからね。『��前がそこまで言うならまかせるよ』ってさ。そんで、誰かお前のことを知ってる奴いねぇかな? って考えてみたら梨花ちゃんが思い浮かんでさ。お前と同じクラスだし、確か小学校も一緒だったって聞いてたから話しかけたわけ。西郷どんって実際どうなのって」
 俺はため息を吐く。
「どうせ悪口言われたんでしょ」
「梨花ちゃん、お前を悪くは言わなかったぜ?」
「どーだか」
 先輩は俺の頬を指でぷにっと押してくる。
「西郷君は言えばわかる子って言ってた。というか、言わないとずっとわかんない子ってさ」
「なんスか。それ。つか指、やめてください」
「お前は不満や怒りをすぐに相手に言えるから、自分以外の人間も全員それができるって思ってる節がある。不満を言えずに溜め込むタイプの人がいるってことが、感覚的にわかってないんだよ。だから自分が何かをしでかした時も『誰も何も言ってこないから問題なし』ってスルーしちゃうんだ。水面下で『あいつ、嫌な奴だよな』ってじわっと嫌われてんのに気がつけなくて、周りからの反感が高まって、完全に手遅れになってから初めて自体の深刻さに気がつくんだ。梨花ちゃん、お前のことよくみてるよな。俺も梨花ちゃんに同意だわ」
「なんスか、それ。つーか悪く言ってんじゃねぇかよ! あのクソ女!」
 パァン! と先輩の平手が俺の頬を叩いた。音が超デケェ割に、痛くはなかった。そういう叩き方だ。
「人の彼女を、クソ女呼ばわりはよくないぞぉ、西郷どん」
 先輩はにっこり笑う。ブルースリーみたいに差し出した片手の指をクイックイッと曲げて「かかってこい」のジェスチャーをする。
 ……。
「クソ女に」
 パァン! とまた平手が飛んだ。
「クソ女と」
 パァン! 負けねぇ。
「言って」
 パァン! 本当のことを。
「何が」
 パァン! 言ってる。
「悪い!」
 パァンパァンパァン! だけじゃん!
「わーったよ! 言わねぇよ! イテェだろ!」
 パァン! えーっ!?
「何も言ってねぇじゃん!」
「おまけでーす」
「クソッ、あんた、嫌いだ!」
 俺はお前が大好きだぜぇー! と先輩は指差しポーズをする。
 こいつは! 本当に! なんなんだよ!
「実際に西郷どん、梨花ちゃんに注意されたらやめたんだろ? 小学校の時の話しは聞いてるぞ。乱暴な言葉使ったり、借りた本返さなかったり、鯉に給食投げつけたりしてたけど、注意したらすぐやめたって。それに俺が注意したら髪も舌打ちもやめたじゃないか」
「そりゃ……言われたらやめんよ。当たり前じゃねぇか」
 先輩の目が少し優しくなったような気がする。プリングルス捨てる前の目に近い。あ。でも、消えちゃった。……なんだよ。なんでだよ。
「お前はさ、自分にはわかんない理屈で見切られちゃうことがあるってことを、もう少し真面目に考えないとな」
 俺はプリングルスをシャッターの穴に押し込んだ時の、あの感触を思い出す。金属に紙容器が擦れて中に入っていく手応え。それを見ていた先輩の冷たい目。
「んで、梨花ちゃんがさ、西郷どんは話を聞く耳は持ってる子だから、3年の先輩達みたいに遠巻きにするんじゃなくて、直接お話ししてみたらどうですかって言ったわけよ。『先輩って持ってる人じゃないですか』って」
 先輩は両手で何かを握るふりをした。そしてニヤッと笑って「『人望』」と言った。
「『日野原先輩が西郷君と話していれば、他の人たちも続きますよ』って」
 ……。
「何ソレ」
 素の、割と冷たい声が出た。
「先輩が俺に声かけてきたの、あいつに言われたからなんスか?」
 先輩は「いや、別にそこはどうでもいいじゃん。きっかけなんかそんなもんじゃん」と肩をすくめた。
「最初から嫌われ者の可哀想な俺を助けてやろうって気持ちで近づいてきてたんスか? つか、それ、3年の先輩達がやろうとしてたことと何が違うんスか? 結局、俺の話なのに、俺じゃねぇ奴らが話決めてんじゃないっスか。何スか? イーことしてるとでも思ってたんスか? 石垣と2人で、ニヤニヤしながら俺が言うこと聞くのをみてたわけっスか?」
「だから、ちげぇって。ニヤニヤなんか」
「違くねぇだろ! 裏があったんじゃねぇかよ! 俺ァなァ! コソコソ裏で操作されんのが一番嫌(イッチベンキレ)ぇなんだよ!」
 俺は怒鳴り、立ち上がる。
 なんだよ! 先輩が先輩の意思で俺に話しかけてきたと思ってたのに! 石垣が裏にいたのかよ! つか、俺きっかけで石垣と話しするようになったとか、なんだよそれ!
「ふざけんな!」
「西郷」
「俺ァ次の駅で降りる! 1人で勝浦行って溺れて死ね! すっごい死ね!」
「待てって、おい! 西郷!」
 俺は隣の車両に移動する。
 バカ原も俺のあとを追いかけてくる。
「お前が聞きたいっつった話をしてんだろ!」
「なんで石垣と付き合ってんのか、なんでそれを隠すのかって聞いたんだよ! なんで俺が嫌われてたとか! 石塚の言うことヘコヘコ聞いて、嫌われもん手懐けてやったぜとか、そーゆー話を聞かされなきゃいけねぇんだよ! ボケ! 死ね!」
「なんで物事を悪くとるんだ! 確かにきっかけは梨花ちゃんのアドバイスだけど」
 ドアを開ける。連結を渡る。ドアを閉める。
 先輩がついてくる。
「きっかけはきっかけでしかないだろ! 今、俺と一番仲良い男子はお前だぞ! 俺は基本的に交友関係浅く広くでやってくタイプだからな! もっと誇れよ! この俺、日野原青海(ブルー)のお気に入りの後輩になれたことをな!」
「知ッたことじゃねぇんだわぁー! このバァァッカが! クッソみてぇな名前しやがって! 何がブルーだ! 読まねぇよ、ブルーとは!」
「格好いいだろう! 青い海と書いてブルー! 海のごとく大きな男に育つよう願われた俺なのだ!」
「ウルセェ! 死ね!」
 ドア開ける。連結。閉める。バカ原。
「嫌だ! 生きる!」
 ドア。連結。閉める。バカ。
「お前のこと好きだから今も一緒にいんじゃんよ! わかれよ、2年坊主!」
「好きとかぁ!」
 俺は俺は足を止めて振り返って怒鳴る。
「簡単に言ってんじゃねぇよ! バアァァァーッカァ!」
「顔が怖いんだよ、オールバック人食い鮫!」
「んだと、三つ編み引き抜くぞ、チビ!」
「どうでもいい奴連れて、2時間かけて勝浦なんぞに行くか! 仲良くなきゃ2時間も会話もたないだろう! だがしかし! 俺達は余裕でもつだろう! 何度カラ館で2人オールしたと思っているのだ!」
「テメェ、後半いつも爆睡してただろうが!」
「だって……眠いから!」
「カルーアミルクばっかり飲むからだよ! バカ!」
 ドア。連結。
 閉めらんない。バカが俺の腕を掴む。
 俺はバカを引っ張って前に進む。バカはまだ腕を離さない。
 クソ。男だ。男の力だ。クソ。クソ。男の手なのに。クソ。
「俺たちは! 仲良しだ!」
 ……。
「なんっ……だ、そりゃぁ!」
 バッカじゃねぇか、こいつ!
「事実だろ! 仲良しだろうが! お前は俺が好き! 俺もお前が好き! 仲良し! そういうことだろう! それが大事なんじゃないか!」
 だから、好きとか、なんで軽く言えるんだよ! 好きじゃないからだろ! 好きじゃないから言えるんだ!
 電車が急に速度を落とした。停車駅を告げるアナウンスが聞こえる。完全に停車駅のことを忘れていた俺たちは、倒れまいと体を傾けてとっさにバランスを取り、つり革に手を伸ばした。
「っと! っぶねぇ!」
 そして反射的にお互いが倒れないように手を握る。
「ほら」
 ハァハァと息を吐きながら先輩は俺の手をグッと強く握り、傾いていた体を起こした。
「仲良し!」
 このまま手ぇ離してやろうかと思ったけど、「だろ?」と首を傾げて聞かれて、なんだか毒気を抜かれてしまった。ムカツク。
「……仲良しではねぇからな!」
 俺が扉側の座席に座ると、先輩が隣に座ろうとしたので「まだ怒ってはいんだからな」と低い声で言った。
 バカ原は「悪かったよ。ちょっと俺が無神経だった」と言い、俺の正面の座席に座った。
「ごめんな」
「もういーよ。うっぜぇな」
 落ち込まれると調子が狂う。
 そのまま4駅程お互い黙ったままだった。電車には誰も乗ってこない。
「続きは?」
「ん?」
「だぁーかぁーらぁー。続き。話し中途半端なとこで終わってんじゃねぇかよ。なんで石垣……さんと付き合って、そんで隠してんの? やっぱ彼女が変な」
 先輩の目がスッと細くなる。これは下手なこと言うとまた平手が飛んでくるパターンだ。
「……好き嫌いのわかれる顔だから付き合ってんの公言すんの恥ずかしいとか?」
「そんなわけないだろ」
「……マジでわかんねぇわ。石垣がすげぇ楽しいとか、親切とか、優しいとか、そういう性格ならわかるけど、あいつそーゆーんじゃねぇじゃん。鉄仮面じゃん。一体どこがいいんスか? 陸上部だけでも、あいつより可愛くて、あいつより性格いい女子、幾らでもいるじゃないっスか。先輩は藤野(ふじの)先輩とよく話してるじゃないっスか。俺、付き合うならそっちかと思ってましたよ」
 藤野先輩はちょっと優柔不断なところがあるけど、明るくていい人だと思う。まぁ、三国の片思いの相手だから部内が揉めそうではあるけど。
「いや、藤野は普通に他の学校に恋人いるからな? ラブラブだぞ?」
 可哀想な三国。今度、先輩として���めて(からかって)やろう。
「梨花ちゃんはさ、物凄く強いだろう? 精神がさ」と先輩は笑う。
「ありゃ、融通が効かないってんですよ」
「捉え方は人それぞれだな。でもあの子が竹みたいにまっすぐなのは本当だろう? あの子は、正しいことを正しい手順でやれる子なんだ。靴は揃えて脱ぐ。背筋はいつも伸びてる。制服は少しも乱れてない。学食で魚を綺麗に食べる。溶液につけたみたいに綺麗に骨だけ残すんだよ。それから字が綺麗。鉛筆の持ち方、お箸の持ち方、食器の並べ方、全部綺麗なんだ」
 それから子猫を川に捨てる。害獣だから。あんなまっすぐさ、絶対認めねぇ。
「どーでもいーことばっか見てんスね」
「はぁー! お前は本当に人を見る目がないなぁ! 西郷どん、そのうち人の心のわからない悪魔みたいな奴に惚れてズタボロにされるぞ」
「っせぇな」
 テメェが言うな。
「梨花ちゃんのそういう綺麗なところは、鍾乳石みたいにちょっとずつ積み重ねないとできあがらない綺麗さなんだよ。習慣という名の美なんだ。あれは毎日をきちんと積み重ねてる人間じゃないと持ち得ないんだぞ。出したものを元あったところに戻す。きまった時間に掃除をする。汚れているように見えないテーブルを拭く。そういうことをな、実はみんな、できないんだよ。『別にいいや』で流しちゃうんだ。でも梨花ちゃんはそうならない。ならないように出来上がっているんだ。誰かが、彼女のことを大事に思っている周りの人たちが、彼女がそう振る舞うように育てたんだ。『こういう所作は美しい。こういう所作ができる人間になって欲しい』っていう、強い確信があって、育てられた子なんだよ。見てればわかるよ。梨花ちゃんってさ、盆栽みたいなんだ。どこにどうハサミをいれて、どういう風に針金を捻れば、何年か後にはきっと美しくなるはずだっていうのが、計算されてるんだ。見事だよ」
 先輩は目を輝かせて石垣の話をする。
「ただの告げ口好きのいい子ぶりっ子の断罪屋っスよ。小学校の時よりゃマシだけど、今でも週に1回は『せんせー、誰々さんがこんな悪いことしてましたー』ってやるんスよ。みんな、勘弁してくれって思ってんじゃないっスか。ああいうの、高校でまでやることじゃねぇじゃないっスか」
 この間もクラスの派手女子が地味男子の漫画を借りパクしてブックオフに売ってただなんだってクラス会で騒いでたな。派手女子こと磯崎(いそざき)はキレんし、地味男子こと緑川(みどりかわ)は日和って「僕が磯崎さんにあげたんだよ! 騒がないでよ! なんなんだよ、石垣さん! やめてよ!」とか言い出すし。
「部活でもそーじゃないっスか。石垣さん超嫌われてんじゃないっスか? あいつがギャンギャンうるせーから部活やめちゃった奴も結構いるし」
 先輩は小さく肩を竦め、聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で言った。
「やめた子達は明らかに遊び目的で入ってきた子たちだったよな? そこを言わないのはフェアじゃないぞ?」
 ……確かに、筋トレにも走り込みにも「女の子の日なんでぇ」って参加しなくて、その割に日野原先輩や三国なんかの顔がいい奴んとこ寄ってって、スマホ向けてたような連中だったけどさ。
 陸上部はグラウンドや体育館の関係で女子と男子が一緒に練習することが多いから──ついでに言うと顧問も同じ──男女おんなじ部活って感じになってるけど、あいつらが入ってきた時はさすがに男女別にしてくんねぇかなって思った。
 俺が「真面目にやんねぇなら出てけよ」っつても「はぁ? うちら女子部なんだけど。男子部関係なくねぇ? つーか西郷じゃまー。三国君みえねーじゃん。三国くーん! シャツ脱いでよー! 腹筋みせてー!」ってゲラゲラ笑ってたよな。
 なんだったんだ、あの生き物。全然言葉通じなかったな。脅しても凄んでも「西郷こわーい。三国くーん、日野原せんぱーい、たすけてー!」って笑ってたし。なんだあれ。
 みんなが「もうあいつらは無視しとけ。三国もあんなの気にすんな」って空気になって、三国もあいつらを無視するのが板についていく中、石垣だけがずっと注意を続けてた。
 あのロボットみたいな鉄仮面で「人に向かって服を脱げと言うのはとても失礼です。三国君に謝りなさい」だの「大声で騒ぐことが部活の邪魔になっているとわかりませんか」だの「あなた達がしているのは性的な嫌がらせでしょう。恥ずかしくないのですか。セクハラをしているんですよ」だの。だの。だの。
 そりゃぁもうしつこく。
 最初は「はぁ? 話しかけんなよ、オカッパ」とか言って笑ってた連中も、あまりにも石垣がしつこいからついにキレて、石垣のツラにビンタしたんだよな。
 すげぇ音したの覚えてる。……そん時は多分まだ、先輩と石垣、付き合ってはねぇよな? 彼女殴られたら流石になんか反応するもんなぁ。
 そんでさすがに厳重注意が入って、連中は「石垣のブス超うぜぇ」って捨て台詞を残して部活を辞めた。
 みんなあいつらをうざいと思っていたから喜んでいたけど、石垣の株は特に上がらなかった。うざいのとうざいのが戦って、よりうざい方が勝ったってだけの話として、部活の中で消化された。
 石垣はいつも通り淡々と1人で走りこんでた。ビンタされた頬がまだ赤い内から。
 「……あいつらは辞めてくれてよかったけど。やり方ってもんがあるんじゃねぇっスか?」
「例えば?」
「もっと穏便に、騒ぎになんないようにやる方法もあるんじゃねぇっスかね」
「例えば本人たちの知らないところで影で連帯して、部活をやめるように誘導していくとか?」
 あ。
 俺の「あ」って顔に日野原先輩は両手指差しポーズで「西郷どん、人は自分がやられると物凄く嫌なことでも、他人に対してはわりと無意識にやっちゃうもんだよな」と言った。
「揉めてた時さ、俺、仲裁に入ろうとしたんだよ。ほら、持ってるから、人望」
 キリッとした顔がうぜぇ。
「だから梨花ちゃんに『あとは俺に任せなよ。藤野部長と相談するから』って言ったの。そしたら梨花ちゃん、『どういう方向でまとめるつもりなんですか?』って。俺は『穏便に済ませるよ。例えば練習に参加できない日は部室に入らないようにするとか、練習中はスマホはロッカーに入れさせるとか』って言ったんだ。そしたら梨花ちゃん、『そういう穏便はダメです』ってさ」
 先輩は石垣の硬くて取りつく島のない口調を真似て言う。
「『何がどう問題なのかをはっきりさせて、彼女たちがしたことは悪いことなんだと示さないと意味がありません。そうしないと彼女たちではない誰かがまた同じことを繰り返しにきます。それに何より問題点をはっきりさせないと『人を傷つけても問題がない』という空気が部活の中にできてしまうんです』って」
 ああ。なんか。いかにも石垣が言いそうだ。
「あいつらクソうざかったけど、別に人は傷つけてなくねぇっスか。クソうざかっただけで」
 先輩は眉を八の字に下げる。
「三国君は嫌がってただろ? あれは確かにセクハラだったぞ」
 でも三国は男子じゃん。服脱げとか腹筋みせろとか、男子から女子に言ったらダメだろうけど、いいんじゃねぇの? 男子なんだから。気にする方がバカみてぇじゃん。男のくせに。
「今、『男子なんだからいいじゃん』って思っただろ」
 先輩の目が冷たい。測られていると感じる。俺はまた何かを間違えたらしい。
「すごく嫌だぞ。自分の顔や体をエロい目でみられて、それを大声でからかわれたり、写真撮られたりすんのはさ。男も女も関係ねぇよ。俺は生れながらのこの美貌ゆえに消費されることには慣れてるけどなぁ」
 先輩はフーッと息を吐いて天井に顔を向け、上から流れてくるエアコンの風を受け止める。
 まだ乾いていなかった汗が先輩の眉尻から頬骨の外側へと下って顎へ、顎から喉仏へと移動していった。喉仏の周りはみるからに湿っていて、さっきの一粒の汗の姿はその湿りの中に溶け込んで消えてしまった。
 触ってみたらどんな感じなんだ、あのぬるついたとこ。触りたいな。
「慣れたくて慣れたんじゃねぇし。慣れたからって平気なわけじゃないんだ。普通に傷つくんだよ、ああいうの。第一な、すごく気持ち悪ぃだろ。好きでもねぇ奴にそういう目で見られんのさ」
 針が飛んできて心臓に刺さる。
 俺はちげーし。あのバカどもみたいな、ああいうのとは。あんな、バカみたいなのとは違げぇんだし。……ちげぇもん。
「俺も受け売りなんだけどな。西郷どんと仲良くなったよーって報告しようと思ってさ、梨花ちゃんが用具整理当番の日に部室に寄ったんだよ。そしたら先に三国君が来ててさ。梨花ちゃんと話してたんだ。『俺のことなら気にしなくてよかったんですよ。ああいう風に揉められちゃうと、俺が原因で女子部員減らしちゃったみたいに感じちゃいます。石垣先輩のお気持ちはありがたいんですけど、おおごとになっちゃうと辛いじゃないですか。逆に。俺を思うなら、ああいうのほんと、放っておいてくれていいですから』みたいなさ。謝ってんのか、感謝してんのか、愚痴ってんのか全部中途半端な言い分でさ。俺が『これ、入っていい空気か?』ってドアの外で立ってたらさ、梨花ちゃんが『三国君のためにやったのではありません。私はああいう空気がとても嫌いなんです。誰かがどう見ても嫌がっているのに、『大したことないだろ。この程度で傷つくなよ』で流す空気のことです。そういう空気は一回できあがってしまうと、覆すことができなくなるんです。だから早めに対処しただけです』って」
「つか、先輩。めっちゃよく覚えてますね。会話」
 あと地味に石垣と三国のモノマネがうまい。
「何回も思い出したもん。凄い格好よかったんだよ」と先輩はニヤけた。
「『三国君。辛かったんでしょう。だったら笑っちゃいけません。笑ったら三国君はああいう風に扱われるのを許したことになるんです。ちゃんと怒らないと。そうすれば』」
「バカバカしい。あんな連中に怒ったところで言葉が通じるもんかよ」
「だーよーなぁー! そー思うよなぁー!」
 先輩は俺を指差して「わかるぅー!」と足をバタバタさせた。うざい。
「梨花ちゃん曰くね『怒らなければあの人たちは、『怒られないから悪ふざけしただけの人たち』だけど、怒れば『怒られたのに、嫌がられてるのに、それでも無理やりやった最低の人たち』になるんですよ。全然違うでしょう。あの人たちは最低だった。それをはっきりさせなきゃいけないんです』って」
 先輩は「その瞬間だよね。『あ、俺はこの子が好きだぞ』って思ったんだよ」と言って笑った。きっと石垣にだけは見せてる笑顔だったんだろう。誰かを好きなことが溢れ出してる笑顔だった。
 でも、なんか変だ。目が暗い。
「1回『好き』って思うとさ、そっからはもう、早いじゃん? 俺、すっげぇ梨花ちゃんのこと目で追いかけててさ。お前のクラスに遊びに行く時も気がついたら梨花ちゃんみちゃってたよ」
 知ってる。
「さっきお前に言った、字が綺麗とか姿勢がいいとかっていうのはさ、好きになったあとに気がついたんだ。それまでは見過ごしてた。あの子がゴミをきちんと捨てるところとか、あの子が周りの、傷ついているけど自分では��も言えないでいる子を見逃さないところとかさ。好きになると全部みちゃうんだよ。それをみて好きになったとかじゃなくて、好きだから、綺麗なところが見えてくる感じ。そういう感じで、俺、梨花ちゃんのこと好きなんだ」
 先輩の一言一言は氷の塊で、俺の肺は氷枕になったって感じ。先輩が石垣がいかに可愛くて、石垣をいかに好きなのかを口に出す度に、俺の肺に氷が投げ込まれていく。内臓が冷えまくってるのはエアコンのせいだけじゃない。
 石垣は先輩の試験に合格したんだ。それもたぶん、全問正解の百点満点で。
 海が近づくに連れて電車内に徐々に人が増えてきたので、俺は先輩の隣に移動した。もう先輩に対して怒ってはいなかった。
 乗客のほとんどが俺たちと同じく勝浦の海目当てらしく、ビーチボールや浮き輪やビニールシート、バスタオルなどを詰め込んでパンパンに膨らんだバッグを持っていた。車両の中がビニールの匂いで満ちてゆく。
「まだなんか隠してますよね」
「ん?」
「石垣さんのこと。何かあるんでしょ。言いたいこと」
 先輩は三つ編みの先を指で弄びながら「お前は本当に俺に関しては勘がいいよなぁ」と言った。表情が硬い。
「……別れろって言われた」
「誰にっスか?」
 電車が停まり、乗客が一斉に降り始める。勝浦に着いたようだ。
 先輩は降りようともせずに、しばらく黙ったまま三つ編みを弄っていた。乗客達がだいぶ減ってきた。「降りないんスか?」と聞こうと思ったタイミングで先輩が口を開く。
「『2人ともまだ若いんだから、視野を広げて将来のことを考えて、色々な可能性をみてから決めたらどうだい』って、向こうの親に言われた」
 先輩は立ち上がり、降り口に向かって歩き出す。俺も後に続く。
「すげぇよな。『テメェは娘に相応しくねぇから別れろ』を上品に言い換えると、こうなるんだなって思ったよ。流石は大人って感じ」
 電車から降りると、暖かい潮風が髪を撫でた。
「梨花ちゃん、電話出てくんねーんだよ」
 先輩が振り返って俺を見る。大きな目が潤んでる。
「俺、すげぇ好きなのに」
 あぁ。
 クソ。
 俺だって。
前話:次話
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錯視上ブルーエンド⑧
8話:8月15日(午前11時07):シルキー×川
 夏休みとはいえ、平日の昼間だ。勝浦に向かう電車はガラガラで、乗り込んだ車両には俺たちしかいなかった。満員を想定したままフル稼働していた冷房の直撃を食らって、体を湿らせていた汗が冷たく乾く。
 電車はつり革を揺らしながら進んでは停車、進んでは停車を繰り返したが、俺らのいる車両には誰も乗り込んでは来なかった。窓の向こうを畑と林と森が流れてゆく。
 先輩は電車に乗ってから急に無口になった。顔がこわばっていて、目線が揺れている。時々俺を見て口を開きかけては閉じるを繰り返している。
「……本題はなんスか?」
「ん?」
「単に海に行きてぇから俺を追いかけてきたわけじゃねぇんでしょ。俺に言いたいことがあるか、聞いて欲しいことがあるか、どっちかっショ?」
 先輩の口角が上がり、眉が下がる。笑いながら困る顔。
「流石は西郷どん。俺のことが大好きなだけあってよく見てるなぁ。いやぁ、感じたわぁ、お前のラブ! 俺の心臓にトスンときたわ」
 ……そぉいっ!
「痛ぃ! なんで叩くんだ! 俺は先輩だぞ! せーんーぱーいー!」
 反射的に平手で頭を引っ叩いてしまった。俺は悪くねぇ。
「ッセェ! こっちが真面目に聞いてンのに茶化すからだろうが!」
「冗談の通じないやつだなぁ!」
 心臓に氷を投げ込まれた気分。そーだよな! あんたにとってはただの冗談なんだよな! 別に、全然、それでいいけどサ!
「……どーせ石垣さんのことッショ!?」
「ぐぅっ、貴様、なぜそれを!」
 なんだその口調は。時代劇か。
「先輩が走りのことで悩むわけねぇし、勉強で悩むわけねぇ。そうなると石垣さんしか残んないじゃないッスか。なんかあったんスか? くだらねぇことだったら俺、フツーに帰ッからね!」
「うーん。まぁ、そうなんだけどさぁ」と先輩はジト目になって俺を見る。
「俺としては、こういう話しすんなら西郷どん一択だと思ってたわけだけどさ。よくよく考えてみたらさぁ、西郷どんさぁ」
 珍しく、歯に物が挟まったような話し方だ。
「梨花ちゃんのこと、普通に嫌いじゃん?」
 ……。
「好きではないっスね」
「『好きではない』?」
「……普通に嫌いっス」
 先輩は「だよねぇ。見てりゃわかるわ」と肩をすくめた。
「2人は小学校、同じなんだよな」
「あいつが私立に転校するまではずっと同じクラスっス。1年から5年まで。石垣さんから聞いてるでしょ。俺たち、昔から仲悪いんで」
 どーせ、当たり障りのないことしか言ってねぇんだろうけどな。
 小2の12月。
 寒くて、空が雲に覆われてた灰色のあの日、あのクソオカッパは俺が可愛がっていた野良猫のシルキーを、川に捨てたんだ。
 それも「西郷くん。猫は害獣なんですよ。責任持って飼えないなら、責任持って処分しなきゃって、叔母さんが言ってたんです。無責任が一番良くないんです」なんて言って。
 俺は川に飛び込んでシルキーの入った袋を掴み取ったけど、袋の中のシルキーは……クソ。思い出したくもねぇ。
「……初対面の時が一番お互いに好印象だったと思いますよ。あとは秒ごとにどんどん仲悪くなってったんで。先輩の彼女のこと、口出すもんじゃねぇから黙ってたけど、俺、本当に石垣さんのこと無理だし。なんで2人が付き合ってんのか、全然わかんねぇっスよ」
 ほんのわずか。あいつと仲良くなったような気がしていた瞬間もあったけど、結局は全部俺の勘違いだった。
 俺があいつに対して好印象を抱いていたのは席が隣になった瞬間で、その後はずっと好感度は下がり続けてる。決定打はシルキーの件だけど、その前からあいつのことは嫌いだった。
 普通さ。
 入学初日の、まだクラスメイトの顔も覚えていない状況の時に「せんせー、隣の男子がちゃんと話を聞いてませーん。あと、教科書に落書きしてましたー!」とか言うかよ? 唖然としたわ。
 クラスに1人はいる告げ口屋。それが石垣だった。
 誰々くんが悪いことしてましたー。誰々ちゃんが意地悪してましたー。って。次から次へと密告しまくる。
 俺なんかいい標的だった。
 『せんせー、西郷君が班の子に乱暴な言葉をつかいます! 班の子が怖がってます!』
 『せんせー、西郷君が給食を持ち帰って、餌やり禁止の池の鯉に投げてます! 鯉が死んじゃいます!』
 『せんせー、西郷君が学級文庫を独り占めします! 読みたがってる子が読めません!』
 『せんせー』『せんせー』『さいごーくんがー』。
 ウゼェことこの上なかった。何回かキレて「いい加減にしろよ!」って怒鳴ったけど、あの鉄仮面はピクリともしなかった。
 こっちは小学生なりに散々悩んで「これくらいの怒鳴りなら女子相手でも平気かな?」とか程度を考えたりもしてたのに。
 あの鉄仮面はシレーッとした、なんで俺が怒ってるのかまるでわからないって顔で「いい加減にするのは西郷君の方だと思います」ときた!
 男子も、女子も、先生ですらあいつをウゼェと思ってた。
 先生は放課後に俺と顔をあわせると『先生もお前くらいの年の頃はあの手の女子にギャーギャー言われたもんだよ。無視しとけ。あんなの』なんて笑ってたもんだ。
 うるせぇ密告女よりも、手のかかる問題児の方が可愛がられるってこと。
 俺と石垣を受け持った先生はみんなそんな感じで、俺はそんな先生連中がスッゲェ嫌いだった。
 だってクソダセェじゃん。
 確かに俺は石垣が嫌いだ。大ッッッ嫌いだ。
 だけど石垣になんか言われたわけでもねぇ他の連中まで石垣を嫌い始めて、そんでそれを俺に『石垣ってやな奴だよな』って報告しにくるクソみたいな現象の方がもっと嫌いだった。
 お前らはお前らの理由であいつを嫌えばいいじゃねぇかよ。俺の感情に相乗りしてくんじゃねぇよ、クソバカ共がって思う。
 で、俺は「オメェには関係ねぇだろ」っつて、俺に石垣の悪口を言いにきた連中は「なんだよ、味方してやってんのに」って不満そうな顔をして去って行った。
 そんなことを何回か繰り返していく内に、俺も石垣も、2人揃ってクラスん中で浮く羽目になった。つまり、俺は巻き込まれたんだ。あの鉄仮面に。
 だから高校に入って、クラスん中に小学校の時と全く変わらないオカッパ鉄仮面を見つけた時、思わず「ウェッ」って声が出た。
 あいつは本当に相変わらずで、高校の入学初日から例の真面目ちゃん口調で『先生、授業中に携帯をいじっている人がいます』をやり始めた。
 誰かの「マジかよ」って呟いた声は、きっとクラス中の人間の心の声を代弁してたんだと思う。
前話:次話
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド⑥
6話:8月15日(午前10時49):ゴミ×試験
 先輩が追いつきやすいよう、ゆっくりと駅に向かう。
 どんな町だろうと駅が近づいてくれば多少は栄えてくるもンだけど、ここは逆だ。どんどん廃れてくる。お綺麗な歩道と歪みのない車道の両側に並ぶのは、ゴミと雑草だらけの空き地と、潰れたまま放置されている何かの店の跡地ばかりだ。
 「最初から全然必要のない場所に無理やり作った駅だからなぁ。これから発展するぞ! って見込んだ人たちが色々な店を出してたけど、まぁ、結局はこういう具合だよ」と、前に先輩が言っていた。
 商店街やブラジル団地は「昔はお元気だったんだけど、お亡くなりになっちゃってる」って感じの死臭だが、ここは「死んで生まれた赤ん坊の口におしゃぶり突っ込んで、服を着せて、ベビーカーに乗せて、生きてるって言い張ってる人に染み込んだ臭い」みたいな──やめだ! 頭に浮かぶ想像図がエグい上に辛い! しかも悲しい! やめだ、やめ!
 去年の夏休み。
 先輩は「『なぜこの地区だけが発展から取り残されているのか』を夏休みの自由研究課題にする」と言って、図書館で笹巳の古地図や江戸、明治、大正、昭和に書かれた土地に関する文献を調べまくっていた。確か担任に紹介状だかなんだかを書かせて、笹巳大学の教授に話を聞きに行ったりもしてたと思う。
 俺も時々は先輩と一緒に図書館に行って、コピーとったり、本を戻したり持ってきたりっていう雑用をした。
 「共同学習ってことにすれば、俺もこの課題を提出できるから」と説明すると、先輩は俺が手伝いを買って出たことに納得したが、実際はまぁ、夏休みにも部活外でも会う口実が欲しかっただけだ。
 図書館にいる間、先輩は何も喋らずに古い地図の写しに線を引いたり、印をつけたりを繰り返してた。その真剣な顔は、先輩が走ってる時だけに見せるもので──つまりはいつもならどんなに運が良くても10秒程度しか見られないものだった。USSR(アルティメットスーパースーパーレア)。
 俺は本を読んでいるふりをしながら先輩を見つめ、時々、何か面白い本を探しに行くかのような素振りで席を立っては、一番エアコンが効いているパソコン室に入って真っ赤になった顔を冷ますのを繰り返した。あーゆーギャップとかそーゆーの、卑怯だと思う。
 それだけ真剣に取り組んでいたのに、ひと夏かけて出てきた結論は「特になんの理由もありません。ここは屠殺場だったことも、処刑場だったことも、戦場だったことも、墓場だったことも、疫病がはやったことも、沼地だったこともありません。どういうわけか江戸、明治、大正、昭和、平成とどんなに時代が流れても、栄えなかった土地です。特になんの理由もありませんが、何となく周りから嫌われています」だった。ざけてる。
 結論が出た後、先輩は図書館の机に突っ伏し、「理不尽だ」と呻いた。
 俺は先輩が落ち込んでいるのだと思い、鬱陶しく思われない程度の慰めの言葉をかけようと思ったが、どういう言葉がいいのかあれこれ考えているうちに先輩は「まぁ、ものは考えようだな。何にでもいい面はあるし」と言って顔をあげた。ケロッとしていた。
 先輩は落ち込むようなことがあったとしても、自力でさっさと立ち上がってしまう。もちろん、そりゃ、それが一番いーンだけど。なんか、もうちょい、こう、あんじゃん。
 前方から男たちのガラの悪ぃ笑い声と、バイクの音が聞こえてきた。ただのバイクの音じゃねぇ。クソでけぇ音がするように、マフラーをいじったバイクの音だ。嫌な予感しかしねぇ。
 やがて50メートル程前方にある交差点の左手から、ごっついスクーターが3台ぬるりと顔を出した。乗ってる奴らは全員ノーヘル。離れてても雰囲気がヤベェのはわかる。チンピラっつーか……輩(やから)だ。
 水中でシャチの群に出くわしたような気分だ。スクーターのデカくて黒くて丸いっこいフォルムと、シャチの顔の白い模様に似たライトのせいだろう。
 信号を無視してスクーター達はクラクションを鳴らしながら坂を下りてくる。つーか、俺に向かってくる。ヒャッハァァー! とか言ってる。ンだよ……マッドマックスの白い坊主かよ……。
 俺は車道からできるだけ離れ、ちょっと強い風が吹いたな? みたいな顔して歩く。こういう時、目をばっちり合わせちゃダメだし、かといって見向きもしねぇのもダメだ。やり過ごせ。運がよけりゃ、絡まれずに済む。
 先頭のスクーターに乗っているのは半袖短パン、タバコをくわえた30代くらいの男で、両腕と脛にペイズリー柄みてぇな刺青を彫り込んでいた。クソ、オシャレかよ。
 スクーターはスピードを落とし、歩道ギリギリまで走ってきた。
「よぉー! どこ行くんだよ、兄ちゃん!」
 話しかけてくんなよ。前歯ねぇじゃん。溶けてんじゃん。
 どう答えればこいつらが俺から興味を失ってくれるのか考える。返事をした方がいいのか、無視した方がいいのか悩んでいると──輩どもはそんな俺を見て楽しんでいるように見えた。クソッ──、車のエンジン音が聞こえてきた。
 坂の下から1台の車が上がってくる。茶色いファミリーカー。ちょっと高いやつだ。場違い感がすげぇ。
 車は俺と輩たちの側を通る時、少しだけ減速した。運転席にいた中年の男が困惑した顔で俺と輩を見ているのが見えた。
 車はすぐに坂を登りきり、交差点の赤信号の前で停車した。……ここらの人間じゃねぇな。ここらの人間なら、この地区、この状況で赤信号に従ったりしねぇ。そんなもん無視して一刻も早く走り去るはずだ。つか、ここらの人間はそもそもあんな車に乗ってこんなとこ来ねぇけど。
 輩たちは俺に向けていたニヤニヤ笑いをファミリーカーに向ける。……ターゲットが移ったようだ。
「兄ちゃん。これ、捨てといてくれやぁ!」
 男は咥えていたタバコを俺の顔に向かって投げつけてきた。反射的に後ろに跳びのいたので当たらないで済んだけど、ちょっとでも遅れてたら目がやられてた。こいつ──!
「ッぶねぇな! 何しやがる!」
 反射的に怒鳴っちまった。また注意を引いちまったんじゃねぇかって不安になったが、男は笑い声を上げ、車に向かってスクーターを走らせていた。2人の取り巻き輩も先頭の輩にならって喫いかけのタバコを俺に投げつけ、車に向かってゆく。
「いー車だなぁ! 俺らも乗せろよ!」
 スクーター達はクラクションを鳴らしながら車の横に付き、車体を叩き始めた。まるでシャチの群がトドを取り囲んで小突きまわしてるみてぇだ。
 信号が赤から青に代わり、車は道を左折してゆく。スクーターの輩どももついて行く。……あの感じだと人通りの多い道に出るまでつきまとうだろう。
 俺はなるべく早めにあの車が輩どもから逃れられることを祈りつつ、足を止めて腕を組み、うーんと唸る。
 車を運転してた人、どっかで見た顔だった。向こうも俺に見覚えがあったんじゃねぇかな? なんか、そーゆー感じの顔して俺を見てたような気がする。
 車が消えた方向を眺めながら、俺はしばし考える。スクーター��クソうるせぇ音はだいぶ遠ざかった。もう戻ってこないで欲しい。
 スクーターの音が完全に聞こえなくなると、代わりに足音が坂を上がってくるのが聞こえた。輩どもに絡まれかけてからずっと強張っていた肩の力が抜ける。
「さい」
 ホップ。
「ごー」
 ステップ。
「どーん!」
 ジャンプ。
 また背中を叩かれたが、今度はむせなかった。
「待たせたな」
 先輩はハーフパンツとTシャツに金属のビーズがジャラジャラついたパーカーを羽織っていた。
「……なんか90年代の変なラッパーみたいっスね、それ」
「西郷どんにあわせて、俺もチンピラリティを上げてきたのだ!」
 先輩は俺の前で回って服を見せる。パーカーの背中には虎の顔が刺繍されていた。ビーズはともかく、この刺繍はカッケー。
「チンピラじゃねぇって。全然ちげーし。つかどこで売ってんスか。なんスかそのギラギラしたの。先輩、そんな服持ってましたっけ?」
「いや、俺のじゃないよ。家に置いてあったから適当に着てきた。ほら、この俺が着こなすと、そう、ここはパリコレ!」
 先輩は両手を腰にやり、キメ顔でモデル歩きをしてみせる。
 パリコレかどうかはわからないが、堂々と歩かれてしまうとなんだか本当にその変な服が奇抜なブランドもんに見えてきた。腹が立つ。
「いーから、もう行きますよ。電車来ちゃうから」
「大丈夫だよ、まだ電車くるまで時間あるから。のんびり行こうではないか。行きと帰りも大事なイベントですぞう?」と先輩は笑う。
 俺もつられて笑いかけるが、ぐっと奥歯に力を込めて笑うのを堪える。
 こうやって普通に話しているつもりでも、どんなに仲良くなったように思えても、先輩は俺のことを見限ったまんまなんだと思うと、一緒に笑っちゃいけない気がするんだ。笑ったら、先輩が俺を見限ってる状況を了承したことになっちまう気がする。それは嫌だ。絶対に。
 こうして一緒に下校したり、どっかに遊びに行ったりするのが当たり前になってきたある日──つまり優しい先輩の偽装メッキが剥がれて、驚きのウザさが丸出しになった頃──、先輩は「クラスの奴がくれたから食おうぜ」って帰り道にプリングルスを持ってきた。
 部活帰りの男子2人じゃプリングルスなんか瞬殺だ。学校を出て早々。商店街前の坂を登り切らない内に容器は空になった。
 先輩は空容器を通学鞄に入れようとしたが、俺は通り過ぎようとした店のシャッターにちょうどプリングルスの直径と同じ程度の穴が空いているのに気がついた。
 俺は先輩に「それいーっスか?」と言ってプリングルスを受け取り、その穴に押し込んだ。
 いいアイディアだと思ったんだ。何にも悪いことをしているつもりはなかったし、なんなら面白いことをしたと思ってた。
 だから店の前で先輩が立ち止まって「お前はそういうことをするんだな」と言った時、戸惑うしかなかった。
 先輩は軽蔑か、落胆か、怒りか、悲しみのどれかが浮かび上がる直前の、何考えてんだかわからないお面みたいな顔になっていた。
 そんで結局、それらのどの感情も浮かばせることなく、先輩は「よくないぞ」と言って笑った。
 今でもあの時のことを思い出すと掌に嫌な汗が滲んでくる。
 あれは誰かを完全に見限った人間が浮かべる類の笑顔だった。
 俺は慌てて「何スか、そんなマジになって。取るって。取りゃーいんだろ!」と言ってシャッターの穴からプリングルスの容器を抜き取った。
 「んだよ、細けぇスね! たかがゴミだし、この店だってもうやってねぇんだからいいじゃねーっスか! 店ん中、もうゴミだらけだしよ。俺がやんなくたって誰かがサァ!」とか何とか自分を擁護する言葉を並べた。
 先輩は「そうだな。お前の言う通りだな。俺は少し細かいところがあるんだよ」と言って笑っていたが、先輩の目からはその時、その瞬間までは確かにあったはずのある種の親密さが消えていた。
 そしてその消えてしまった何かは、今も戻らない。
 あの時、俺は先輩の中で行われている何かの試験に落ちたんだと思う。
 以来、先輩と一緒にいると、どんなに楽しかったり嬉しかったりしても、どうしても胸に影が落ちる。その影は先輩の住んでるこの地区の状態を知り、ゴミだらけのボロい家や空き地を見たりするたびに大きくなる。あの時、俺が軽いノリでしたことが、当たり前のようにしたことが、面白いと思ってしたことが、先輩にどんな風に見えていたのかを思い知る。
 それでも、「やり直しのチャンスくらいくれてもいいんじゃねぇのか」って思うんだ。
 先輩の中にいる俺はきっと、プリングルスを空き家に捨てた時の俺のまんま更新されずにいて、その更新されない俺はきっと、この地区を『何書いてもいい場所』扱いしてる連中とおんなじラベルを貼られていて、きっと、先輩の家を見てゲラゲラ笑うんだ。
 俺、本当はそーゆーんじゃねぇのに。
 俺はベラベラと海までの道のりを説明し続けている先輩を見下ろす。それからゴミだらけの空き地を見る。あれは全部昔の俺みたいな奴が捨てていったんだ。
 俺は筋肉と骨でできた自転車のフレームみたいな先輩の肩を掴んで、俺の方を向かせて、大声で怒鳴りたくなる。
「俺はそーゆーんじゃねぇからな! あんたが思ってるような人間じゃねぇんだ! 成長したんだ! 俺はいー奴なんだよ!」って。やんねぇけど。
 今も俺のこと、見限ったまんまなのかよ? って聞きたい。聞かねぇけど。
 俺、あれからどこでもゴミ捨てねぇし、あんたが見てないとこでもそーゆーことしてねぇけど、それでも俺、あんたの謎試験の追試もうけらんねぇの?  あんたさ、あれで俺の何がわかんの?
 あれで俺の全部わかったってこと?
 もっと踏み込んでくりゃいいじゃん。そしたら俺、あんたが思ってるような人間ってわけじゃないって、わかんじゃねぇの? 
 たまんねぇんだけどさ。あんたの中の俺が、あんたが思ってるような俺が、俺じゃねぇのにあんたに見限られてんの。
 もっと俺に踏み込んでくれよ。そしたらぜってーわかるから。
 それとももう踏み込む価値もねぇの?
 そーゆー試験だったのかよ、あれが?
 って聞きたくなる。聞かねぇけどな。
 だって聞かなくてもわかるんだ。あれは、そーゆー試験だったんだ。
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド⑤
5話:8月15日(午前10時32):団地x兄妹
 ひび割れだらけの黒ずんだ団地の階段を駆け足で上る。
 団地の中はいつも洞窟みたいに湿ってて、外よりも少しだけ空気が冷たい。
 踊り場には奥様連中が溜まっていて、団地の住人特有の言葉で今年の団地内夏祭りの相談をしていた。
 俺ん家(ち)含めて、この団地の住人の大半はブラジルから関西に移住してきた人々の末裔だ。末裔っつーと「織田信長の末裔」とか「西郷隆盛の末裔」みたいに何百年も前から続いてるような大げさな感じがすっけど、うちの場合は爺ちゃんの代からの移住だから、俺で3代めだ。なんか、3代めっていうと酒造の若旦那とか、料亭の若旦那とかっぽくなる気がする。関係ねーけど。
 爺ちゃんは長年関西の自動車工場で働き、親父がガキの頃に新しい仕事を求めて千葉のこの団地に越してきた。他の住人もそんな感じ。
 だからこの団地に住んでいる一定の年齢より上の人たちの言葉はちょっとばかし独特だ。関西の訛りがあって、時々ブラジルの公用語であるポルトガル語が混ざってる。
 顔見知りのおばさんが俺に「あら、おかえりさん。随分早いねぇ」と声をかけてきたので、「今日、半ドンなんで」と嘘をついて軽く頭を下げる。サボってんのはバレバレだろうけど、それ以上何か言われることはない。
 おばさんは奥様連中のお喋りに戻っていった。相手を気にはかけるけど、ベタベタはしねぇ距離感、俺は好きだね。
 「エステアーニョ(今年)のお祭りはインポッスィボ(無理やわ)。人が少なすぎやん。クリオンセス(子供ら)には可哀想やけど、規模を小そうして、みんなで山車(だし)でも引くんでええやろ。まだ共同倉庫にあるんやろ。飾りだけちょっと変えて、風船つければなんとかなるわぁ」とかなんとか。
 「お祭りよりもホームレスやんか、問題は。1階の空き部屋、誰かが勝手��住み着いてたらしいんやわ。うちの子が夜中に誰かがベランダから中に入ってくのを見たって。次にきたらポリィサ(警察)呼ばなきゃ。まぁ、役に立つかどうかで言うと立たんやろうけども、おらんよりマシやし、なんもせんよりもマシやろ? 本当に人が減っちゃってからトラブルばっかりで困ったもんやわ」とかなんとか。
 「男の人たちに見回りしてもらえんのかしら? あんたんとこの旦那さん、元ラグビー部やろ? それから管理人さんの息子さんもおっきな体しとるから、夜中にちょっと見回りしてもろたら、変なのも怖がって出て来ななるんちゃう?」とかなんとか。奥様連中は止まることなく喋り続ける。
 数年前まではこの団地にはもっと人がいて、団地内の公園でやる夏祭りはそりゃど派手だった。
 次々と焼かれる謎の肉。開けられる謎の酒。踊りまくる謎のおっさんとおばさん。どっからか出てきた謎のバルーンアーティストと謎の一輪車乗り。自転車で引っ張るタイプの異国風の山車。なんだかよくわかんねーけどとにかく楽しかった。山車に乗ってたのが「とっとこ名探偵ピカえもんマウス」としか形容しようがない紙人形だったのも、まぁ、それはそれで味があったんじゃねぇかと思う。
 団地の外の子供達とその親も遊びにきたりして、団地の中と外とを繋ぐぎこちないなりに平和な交流もあるにはあったんだ。
 それが今は静かなもんだ。
 何年か前にリーマンショックがなんたらかんたらって騒ぎになってたけど、親父が言うにはその影響がもろに出たってことらしい。
 アメリカのバカがやったバカなことのダメージが、巡り巡って日本の冷凍食品会社の脇腹をぶん殴って、労働者を口からゲロみたいに吐き出させたってこと。
 ほとんどの家族が「やってけねぇよ!」っつてブラジルに行っちまった。俺の団地のダチの大半もだ。
 この団地もシャッター通りと同じ運命をたどるんだろう。
 湿ったコンクリの臭いは、土地が死んでく臭いなんだ。
 2階と3階の間の踊り場には樹理(じゅり)と実華流(みげる)の神原(かんばら)兄妹がいて、子供用ビニールプールの側に「風呂のやつじゃん」としかいいようのねぇプラスチックの椅子を置いて、それに腰掛けていた。
 プールの中には氷とスイカとタマリンドジュースの缶が浮いていて、樹理はビーサンを履いたままその中に足を突っ込んでいる。
 樹理はヒョウ柄のタンクトップとショッキングピンクのミニスカート。もちろん、ヒョウ柄というのは、ヒョウそのものの姿が描かれているというやつだ。イケてんぜ。
 実華流はシマウマ柄のタンクトップと迷彩柄のパンツ。もちろん、シマウマ柄というのは、シマウマそのものの姿が描かれているというやつだ。イケてんぜ。
 2人とも玩具のビーズで作ったブレスレットやネックレスをつけて、メッシュをいれた髪にラメったヘアピンを刺しまくっている。
 まさにヤンキーとファンシーの複合体。
 相変わらず超(スペリオール)オシャレで、超(アンキャニー)センスいい。こいつらの神がかったファッションセンスには脱帽するしかねぇ。あと2年くらいすれば、世界一ガルフィーとヴェルサーチの似合う兄妹になるんじゃねぇかと思う。
「お、コータ君じゃん。何、サボり?」と樹理が言う。
 顔の右半分と左半分が別人だ。右はアイドルみたいな美少女で、左は高校球児。どちらも樹理の本当の顔じゃない。
「相変わらず怖ぇメイクしてんな、お前」
 最近いつもこんな顔してるから、元々の樹理の顔がどんなだったか忘れつつある。
「Tik Tok(ティックトック)で受けるんだよー。私(アッシ)のメイクテク、プロ級だからサー」
「暇なことしてねぇで中学(ガッコ)いけよな。今日、中学も登校日だろ? おめぇらこそサボりじゃねぇか」
「こんな日に学校とかねぇわー。俺、高校(コーコー)いかねーし。中学とか意味ねぇっしょ」
 実華流はだるそうに言う。またピアスが増えてる。
「高校は出とけよ。お袋さん泣くぞ。お前、勉強好きだろ。うちに遊びに来るたびに俺の宿題とか、数学のプリントとか勝手に解いてたじゃねぇか」
「あんなのただの暇つぶしのパズルだよ。ひーまーつーぶーしー。そんなのに学費払うのバカじゃん。それに中卒で働いた方が俺みたいなのにはお得なの。早めに金稼げるしさ。俺、工場に就職決まってっし。非正規(ヒセーキ)だけど月に16万だって。やばくね? 16万だぜ、16万。お年玉16年分だぜ? マジで富豪じゃん、俺!」
「はーい! 私ね、私ね、グリッターインジェクションズのアイシャドウ欲しい!」
「おうおう、お兄(に)ぃに任せときな!」
「お兄ぃ大好きー!」
「知ってるぅー!」
 2人は両手で指ハートを作って「イェーイ!」と叫んだ後、俺にも指ハートを向け「コータ君も大好きだぜぃ! イェーイ!」と叫ぶ。
 俺はビニールプールに手を突っ込んで「知ってるぅ」と怠く応えて社交辞令の指ハートを向けた。
 好きじゃない相手になら、いくらでもできるんだけどな。
 キャッキャキャッキャと騒ぎ続ける樹理と実華流を置いて階段を上がり、4階にある自分の家の鍵を開けた。 
 家には誰もいない。夏休みが終わるまで家にいるのは俺だけだ。最高の夏isスーパーカミン。
 爺さんの姉、つまり俺にとっては大叔母さん? にあたる人が観光客の乗った車に跳ねられて体中の折ったとかで、爺さんと母さんは大叔母さんの世話をしにブラジルに行ってる。大叔母さんはお年寄りだし、独身主義で家族がいないから身の回りの世話をしてやれる身内がいないと困るだろうって。
 俺も一緒に来るようにかなりしつこく言われたけど、そうやって親戚の事故の見舞いを装ってブラジルに連れて行かれて、だまし討ちみたいな形でその後もブラジルに住み続けることになった団地のダチがいたので、俺は絶対に首を縦にふらなかった。
 結局、大叔母さんは本当に怪我をしていたから、俺の心配はただの杞憂だったわけだけどな。2人が向こうについた日に包帯とギブスだらけの大叔母さんの写メが送られてきた。
 もしも叔母さんが札束で一杯になった風呂に入っていなくて、カニエ・ウエストみたいなサングラスをかけていなくて、こちらに向けてダブルピースとかしていなければ、もう少し神妙な気持ちになれたんじゃねぇかと思う。たまたま自分を跳ね飛ばした車の持ち主が、アラブの石油王である可能性って、一体何パーセントなんだろう。
 親父は夏休みが始まる前から、東北に新しくできたマルハラ食品の新工場の立ち上げ支援のための出張に行っていて、こっちに帰ってくるのは冬休みの終わり頃の予定だ。
 爺さんと母さんがブラジルに行ったこと、俺だけ団地に残っていることを電話で告げると、親父は「火の元栓と、戸締りにだけは気をつけろよ。それから女の子を連れ込むのはいいとして、母さんにはバレるなよ」と、「俺にはお前のやることは全てお見通しだ」風の声で言った。連れ込むような相手なんかいねぇし、連れ込みたいのは女の子じゃねぇし。
 歩きながら服を脱いで洗濯機に投げ込み、水のままのシャワーを浴びて汗を流し、タンスから引っ張り出した学校指定の水着を履く。
 学校の指定水着で海ってどうなんだ? って思うけど、これしか持ってねぇんだからしょうがねぇ。
 水着の上からジーンズを履いて、シャツを着て、気に入ってる青いアロハを羽織って、少し悩んでからネックレスを掛け、財布と鍵をポケットに突っ込んで玄関を後にした。スマホはいーや。濡れたら嫌だし。
 踊り場に戻ると樹理と実華流が手すりに体を預けて外を見ていた。樹理はおもちゃの双眼鏡を覗き込んでいる。
「あそこのクールビューティって、コータ君の友達でしょ?」
 樹理の指差す先には、団地の入り口の花壇の縁に腰掛けている先輩の姿があった。ほんっと、喋んねぇで黙ってると別人だな。
「あぁ。陸上部の先輩。前にテレビとか出てた人」
「ウッワー。テレビより全然美形じゃん。何、あの足! 長っ! ありえない! 何頭身だよ! 私、リアル8頭身、初めてみたよ! 気だるげな雰囲気超エローい。あ、汗拭いた。エローい!」
「団地から先んとこの人?」
 実華流の問いに俺が「そー」と答えると樹理は「そっかー」と言いながら双眼鏡を離した。樹理の目からスーッと興味が消えていくのがわかる。……。
「痛いっ! なんで髪引っ張んの!」
 さぁ。なんでだろうな。
「プールかたしとけよ。邪魔だからな」
 後付けで理由をでっち上げる。
「あ。コータ君、オシャレしてじゃん。ネックレスつけてるー。イケメンと歩くから気合いいれてんの?」と樹理がからかってくる。ウッゼ!
「うっせぇな、バァカ、オシャレじゃねぇよ、タコが」
「コータ君も、好きな人は好きな顔だと思うぜぇい。ほら、意外とウツボとかサメとか好きな女子って一定数いるから、そこ狙ってこうぜ。レッツ隙間産業!」
「うっせぇ! 捻り潰すぞ!」
「キャァー! コータ君が怒ったぁー! こわぁーい!」
 神原兄妹は南米に生息してる派手な色の小型の猿みてーな笑い声をあげる。ウッッッゼェ!
 2人のキャハハハキッキ笑いを背中で聞きながら、俺は階段を駆け下りた。
 団地の入り口に戻ると先輩が「お、きたきた。お疲れぇ」と手を振ってきた。
 俺がいない間に冷静さを取り戻したらしい。いつもの先輩だ。
「相変わらず西郷どんの私服のセンスはチンピラリティが高いな! なんだその骸骨柄は! 骸骨とコウモリと桜って! どういうアロハだ!」
「いーっしょ、別に」
 超(インクレディブル)カッケーのに。んでわかんねぇんだろ。
「身軽だねぇ? 水着とタオルは?」
「水着は中に着てるんで。暑いんだし、歩いてりゃ体なんか乾くでしょ」
「そりゃそうか。あ、そのネックレスはいいな。お前に似合ってるよ」
 先輩は俺のネックレスを指で摘む。顔が近づく。
「小さいドリームキャッチャーだな。インディアンのお守りだよな? 寝てる間にこの網の部分で悪夢を捕まえるっていうやつ」
 先輩の形のいい爪の先がドリームキャッチャーの網を突く。網の先端についた鳥の羽とトルコ石が揺れる。
「ふーん」
「ふーんって、知らんでつけてたのか?」
「トルコ石の青いのが気に入ってるだけなんで。由来なんかどうでも」
「あぁ。トルコ石ね。そういやお前の私物、じわじわ青いの増えてるよな? 前から青、好きだったっけ?」
「なンスか。悪いっすか」
 先輩は歯を見せて笑う。
「いーや。お前は明るいブルーがよく似合うよ」
「うっす」
 顔を太陽に向ける。顔が赤いのは太陽のせいだということにする。
 そのまままた坂道を登り、団地から先の住宅街に入る。
 ここにくると歩道は一気に広くなり、足の下はコンクリからパステルカラーのタイルに変わり、ボロい街灯は全て新しい物に変わる。
 全ての道が京都みたいに碁盤の目に走り出す。どの道も、どこまでも見通せる。地図だけでこの地区をみたら、さぞ立派でオシャレな場所に見えるんだろう。地図だけで見るのならな。
 この地区にある建物のほとんどが公営住宅だ。びっくりするぐらい人は住んでねぇ。あとはいわゆる「箱物」。この一帯だけ国営のなんたらかんたら支援センターやら、なんたらかんたら学習センターやらが乱立してる。
 そいつらは1つの例外もなく、ぜってーにいらねぇだろって広さの自転車置き場を備えていて、それらの自転車置き場には1つの例外もなく「希望」とか「光」とか「未来」とかいう凡なタイトルの変な銅像が備え付けられてる。それとツツジの花壇も。
 時々みかける一軒家は、どれも屋根と壁が錆だらけのトタンでできていた。窓ガラスに���内側からベニヤが貼り付けられていて、人が住んでるのかどうか判別すらできねぇ。誰かが捨てたゴミが屋根の上に溜まっている。そういうのを見るたびに、胸が締め付けられる。
 不必要に広い歩道から伸びた細い路地からは、生ゴミとションベンの混ざった臭いが漂ってきた。路地には誰かが吐いたゲロや、ぶちまけられた生ゴミや、猫の死体が広がっていて、鴉のいい餌場になっていた。
 学校でも駅でも、最初に落書きされる場所ってぇのがある。
 体育館の裏側の壁とか、男子トイレの奥の個室とか。他の場所となんら変わりないはずなのに、ちょっと日陰になってるからとか、ちょっとだけ目につきにくいとか、そんな理由で悪意を持った落書きが集まってくる。最初は1つだけ。それが2つ、3つと増えてゆき、気がつけば『何を書いてもいい場所』になっていく。
 この住宅地はいわゆるそういう場所だ。それもずっとずっと昔から。
 今はとりあえず真新しいペンキを塗って、落書きを見えなくしたところ。だけど、それも長くは持たない。そんな気がする。
「俺ん家、超ボロいから西郷どんはびっくりすると思うぜー」
「そうっスか」
「西郷どんの憧れの先輩像が崩れちまうなぁー」
「憧れてねぇっスから」
 またしてもビシッと先輩は俺を両手で指差し、体をぐーんと横に傾ける例のポーズをした。
「素直になれよ! お前が俺を大好きなのはお見通しなんだぜ!」
 胃が痛い。
「……いや、そこまで怒ることはないんじゃないか。顔が怖いぞ、西郷どん」
「怒ってはねぇッス」
「人食いザメみたいなお顔で怒ってねぇって言われてもなぁ」
 先輩は笑い、背伸びをして俺の頭を撫でる。クソ。
「俺がいなくなったら西郷どんをからかう奴いなくなるなぁ。西郷どんは顔と態度が怖ぇから、またみんなから遠巻きにされちゃうんじゃねぇかなって、俺は心配よ?」
「からかってるって自覚はあったんスね」
「西郷どんは誤解されやすいタイプだからねー。繊細なのにねー」
「っせぇな! とっとと着替えてきてくださいよ! 行くんでしょ、勝浦!」
 先輩は俺の頭から手を離す。
「じゃぁ、ゆっくり駅の方に歩いててくれ。追いつくから。あ、路地には入るなよ! 道を聞かれても無視しろ! ワンボックスが歩道に寄せてきたら逃げろ! いいな! 日野原先輩との約束だぞ!」
「この時間ならいくらここら辺でもそんなことないでしょ。女子ならともかく、俺、男っすよ。つーか、家の前で待ってますよ」
「あー。ダメダメ」と先輩は顔の前で手を振る。
「言っただろう。俺の家はボロいのだ。だから、見せたくないんだよ」
「俺は気にしねぇっス」
「見せたくないと言っている」
 先輩の声が少しピリっとした。タレ目の陽気な顔つきという錯視が剥がれて、酷く冷たい顔が姿を見せ──たかと思ったらまた戻る。先輩は微笑んだ。
「西郷どーん。俺は嫌がっているのだよ? だからほら」
 シッシ! と先輩は手を振る。
「駅の方に歩いてろ。追いつくから」
 こうまで言われちゃどうとも言えず、俺は「うっす」と言って言われた通りに歩き出す。先輩は元来た道を駆け足で戻ってゆく。
 きっと、通り過ぎてきたボロ屋のどれかが先輩の家なんだろう。
「……俺は気にしねぇし」
 俺のこと全然わかってねぇし。俺のこと勝手に見限るから、そーゆーことがわかんねぇんだ。俺はあんたが思ってるよりずっと、良い人間なんだ。クソ。
 どんなに普通に話しているつもりでも、どんなに仲良くなったように思えても、先輩は俺のことを、見限ったまんまなんだ。
前話:次話
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド④
4話:8月2日(午後1時29分)逃亡x靴下
 サイレンを響かせながら、救急車は山道を登って行った。
 回転する赤い光が完全に見えなくなるまで待ってから、私は道沿いの茂みの影から立ち上がった。隠れている間、ずっとしゃがんでいたせいで膝の裏が汗ばんでいる。それに左手の手首を蚊に刺されていた。ぷっくりと膨らんだ虫刺されの痕に親指の爪を押し付けて、バッテンの凹みを作る。先輩は「こうして痛くすると、痒みがどっかにいくんだ」と言っていたけど、痒みは消えなかった。
 小学生に間違われることすらある自分の体型が全然好きではなかったけれど、こういう風に人目を避けなきゃいけない状況には適してると思った。この調子で誰にも見つからずに町までたどり着きたい。
 足元に置いていたスポーツバッグを持ち上げ、肩にかけ直す。
 バッグの中には着まわしのきく数日分の服と、歯ブラシと絆創膏、叔母さんの冷蔵庫から持ち出したミネラルウォーターが2本、それから血の染み込んだ靴下が入っている。
 靴下はすぐにでも捨てたかったけれど、シャーロック・ホームズみたいにちょっとした痕跡から真実を導き出すような人にたまたまそれが見つかってしまって、「お前が犯人だな」と指さされるんじゃないかって不安のせいで、手放すことができない。バカな想像だってわかってるのに。
 私は灯りのない山道を再び下り始める。
 闇は少しも怖くない。深夜の山道で、生きている人間と出くわす方がずっと怖い。こんな夜にこんなところを歩いている人間なんて、絶対に厄介な人間だから。
 例えば、叔母さんの頭を殴りつけて気絶させ、お金を盗んで逃げ出してきた私みたいな奴とか。
 強盗と、傷害と、逃亡。
 高2の夏に、私は何をしちゃってるんだろう。
 サンダルの踵部分がアスファルトを叩く音が夜に響く。
 街に着いたらまず新しい靴を買わないと。叔母さんのサンダルじゃ歩きにくくてしかたない。私より一回り大きいから、ちょっと気をぬくと脱げてしまう。
 車でなら町まではそんなに遠くない。山道を下り切って、踏切を渡って、あとはただまっすぐ進む。大体、15分くらい。でも、徒歩ならどれくらいかかるだろう? 1時間はかかるかもしれない。いや、もっとだ。サンダルなんだから。2時間はみておいた方がいい。それから電車に乗って、笹巳まで戻る。大丈夫。きっとうまくやれる。
 履き慣れた自分の靴が恋しかった。私の真っ赤なニューバランスは今もまだ、叔母さんの金庫の中に閉じ込められている。私のお財布とスマホも。
 先輩は私に電話してくれているだろうか? LINEも送ってくれてるだろうか? こんなに長い間、連絡をとらなかったことなんてないから、きっと心配してる。
 暗闇の中で振動するスマホの姿を想像し、自分自身を重ねてしまう。
 光って、バイブして、着信音を鳴らして、メッセージを表示しているのに、分厚い金庫の中で誰にも気がついてもらえない。
 先輩は今頃何をしてるだろう? 私を心配して、家まで来ているかもしれない。お父さんはなんて答えるだろう? 「梨花は叔母と一緒に田舎に帰ってるんだ」とか?
 いや、それだけじゃ済まない。きっとこう続ける。
 「この暑い中、わざわざ来てくれてありがとう。麦茶でも飲んでいきなさい」。
 それからこう。
 「前から君と2人だけで話をしたいと思っていたんだ」。
 そしてきっとこう言う。
 「君はもうすぐ卒業だろう? 君も梨花も若いんだ。視野を広げて色々な可能性に目を向けることも大事だよね。もしかしたら、もっと君にぴったりくる相手だって見つかるかもしれないし」って。言外に、私と別れろってメッセージを送る。
 先輩は反発するだろうけど、父さんに言いくるめられてしまうだろう。
 だって先輩は、父さんみたいなタイプに弱い。先輩が悪いわけじゃなくて、性質の問題。先輩はグーで、父さんはパー。2人で話しをした時点で、どっちが負けるかはっきりしてる。同じテーブルにつかせちゃいけないんだ���
 叔母さんも、父さんも、相手をふわりと包み込むのが得意だ。仄めかして、思わせぶりな態度をとって、相手の選択肢を順番に潰していって、相手の逃げ場を無くして、その相手が「こんなことは絶対にしたくない」って思っていることを、やらなきゃいけない状況に追い込む。
 そしていざ相手が狙い通りに行動すると、今度は「おやおや。そこまでしなくてよかったのに。君は随分思い切ったことをするね」なんて言ったりする。まるで、相手がその行動を自らの意思でやったんだって念押しするみたいに。
 それがいつもの石垣家のやり口。
 叔母さんと父さんはそのやり口で私から猫のシルキーを奪い、私から友達を奪い、私から母さんを、母さんから私を奪い、私から私を奪っていった。
 そして今度は、先輩まで取り上げようとしてる。
「それだけは絶対にだめ」
 私は声に出して、自分に言い聞かせる。
 早く先輩に会いたい。色々なことを話したい。叔母さんと父さんのことを警告したい。あの不思議な顔を両手で挟んで、ほっぺたを揉みたい。笑う顔が見たい。先輩が男の人になって、おじさんになって、おじいさんになっても、私は先輩のほっぺたをそうやって揉める唯一の人間でいたい。
 そのためなら、私は何本でも靴下を真っ赤にできる。
前話:次話
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド①
1話:8月16日(深夜2時8分)失恋x疾走
 高1ン時から超(スーパー)ガラにもなく、超(ハイパー)片思いしていた先輩に、うっかり告って、秒(びょう)で振られた。
 超(アルティメット)死にてぇ。
 血が魚の煮こごりみたいになっちまってて、心臓をバカみてぇにポンプし続けねぇと血管という血管が全部詰まって死ぬんじゃねぇかっていう、ありえねぇ妄想が実感を伴ってる。こいつは死んじゃうタイプの失恋だ。
 なんも考えたくねぇし、なんも思い出したくねぇのに、脳みそは勝手に回転して、最恐最悪の未来予想図を再生する。一時停止。ポーズ。タイム。ききゃぁしねぇんだ!
 今頃、先輩は部活の連中とかクラスメイトとか石垣とかに、俺が告ったって言いふらしてんじゃねぇか。夏休み明けの学校で、みんながニヤニヤ笑いながら俺を指差して「あいつだぜ」って言うんじゃねぇか。ツイッターとかでネタにされてんじゃねぇか。おまけにそれがバズったりしてんじゃねぇか。
 陳腐でありふれた悪夢が頭ン中を右から左に通り過ぎてはぐるっと回って戻ってくる。通り過ぎてはこんにちは、通り過ぎてはまた会いましたねって。スシローみてぇにグルグルグルグル。
 だから、いてもたってもいられなくて。
 こんな夜中に団地を飛び出して、クッソヌルい空気ン中、クッソ長ぇ坂道を駆け下りたり、駆け上がったりする奇行に走ってンだよ。俺は。
 腕振りまくって、足振りまくって、体ン中でグルグルしてる悪夢をクッセェ汗に変えて、粒に変えて、真夜中に振りまく。
 こんなドロついたもんは全部俺ン中から追い出してやンだよ。そうしなきゃ息もできねぇ。空っぽになるんだ。息をするために。
 そンために、クソ古くて整備もされてねぇサビだらけの街灯と、聞いたことねぇメーカーのパチモン臭ぇジュースばっか並んでる自販機の光が照らす坂を、上がったり、下がったりしてんだよ。俺はァッ!
 コンクリを蹴り飛ばす。両足が地面から離れる。汗が後ろに流れてく。顎が上がる。満月が俺を見下ろしてる。月に吠える。
「見てんじゃねぇよ! バァーカァ!」
 山に囲まれたクソ盆地の底に、夏の夜の濡れた空気が溜まっている。
 俺の汗もそん中に溶けて、混ざって、息苦しい夜に沈殿して、朝になったら乾いて消えてくれ。
 ラムネ瓶の中のビー玉を噛み砕いちまったような、血だらけの夜だ。
次話
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ama-gaeru · 5 years
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創作について色々
1:「錯視上ブルーエンド」は書いてはいます。が、がんばるぞう。ちょっと生活が色々変わったので創作に力を入れられない状況が続いています。
このところいつも時間が割けないので、もう「年に一回くらい更新してて、気がついたら消えてる」みたいなルートでは? って気がしています。人生、意外とやることいっぱいある。
2:11月の文学フリマに参加します。長いこと(もしや20年近いのでは?)ネット上で文章を書いてきましたが、自分の創作作品でサークル参加は初めてですね。私は身の程をわきまえた地に足のついたパーソンなので、ちゃんと持ち帰らないで済む数量だけ作ります(知っているんだ。ネット上のいいねとイベントの購入率は1/500くらいだってことくらい、ぼかぁ知っているんだぞ)。
3:サイトに掲載している作品のボリュームアップ版を書籍にします。書き下ろしをつける予定でしたが、全然かけないので書き下ろしはなしです。(もしもイベントに間に合えば、コピーとかで出すかもしれませんが、まぁ、わかんないです。
4:「自分ドロップ」を一時非公開にしました。公募にだしますので(のでので)。
気に入っている作品なので、まぁダメだったとしても同人誌にするつもりですが、もう2年以上前に書いた作品なんで、まぁ、どうなんでしょうね。
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ama-gaeru · 5 years
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雑記
1:すっかり報告を忘れていましたが、カクヨムコン4ホラー/ミステリー部門の中間選考に「自分ドロップ」が残りました。結果は来月発表予定なので、あと数週間の間はドキドキワクワクを抱えたまま生きてゆけます。嬉しいなぁ。
2:「錯視上ブルーエンド」の更新と同人誌の予定が遅れに遅れておりますが、進めてはいます。ちょっとアンソロジー原稿の詰めを最優先にして動いているのです。若干「これ、スランプなんじゃねぇのぅ?」と感じているのですが、書かなきゃ脱出できないものなので、ガツガツ書いては「なんだこれ、つまんないなぁ!」と焼き捨てている状況です。がんばるぞぅ。
3:あ、冬の文フリに出る予定です。(べ、別に私が前々から好きだった作家さんが前回一気に参加していたのに仕事の都合で遊びにいけなくて、友達はその作家さんにお会いできてたことが、羨ましかったわけじゃないんだからね)
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ama-gaeru · 5 years
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雑記
1:とりあえず「錯視上ブルーエンド」の年内更新はここまでです。
  来年の2月くらいまでにコツコツ水面下でエンディングまで書き上げておく予定です。
  キラリサワヤカキリンレモンシュワシュワ的なものを書きたいという欲望が原動力ですから、この調子で最後まで人が死んだりしないで進められればと思うていますよ。
2:そろそろカクヨムコン4の開催が近づいてきたので、既存作品の誤字脱字修正などに時間を割きます。
  「自分ドロップ」をホラー・ミステリー部門で出すつもりです。
  元々SFジャンルで出してるものなんですが、カクヨムコンが「SF・現代ファンタジー」と「ホラー・ミステリー」にジャンルがわかれており、編集者さんからのアドバイスとか応募要項を読んだ感じだと、「自分ドロップ」は「ホラー・ミステリー」部門の方が合っているのかなぁ? と思うたのです。
  コンテストが終わったら「SF・現代ファンタジー」ってくくりがなくなるんで、またSFに戻すと思います。そうだよ。ぼかぁ、ジャンルがなんなのかぼんやりとしかわからないんだ。なんなんだ、ジャンルって。全部小説じゃないか。
3:サイトではまだ書いてなかったような気がしますが、現在、同人誌をコツコツ作っています。
  サイトに掲載した小説の中で比較的反応がよかったものを改稿して収録するのと、書き下ろしを何作かつける予定です。
  現時点で200P超えてるんで結構分厚い本になります。まぁ、15年以上だらっと続けてきた活動の、初めての同人誌なのでこれくらいにはなりますよね(ねー?)。
  休日が割と不安定なのと、単純にイベント参加というきちんと自己管理できる人じゃないと乗りこなせない高度な趣味人の遊びに適応できないとわかったので、イベントには出られませんが、通販などであれこれするつもりではいます。
4:「自分ドロップ」も自分では結構「おいおい、イケてるの書けたじゃん」って思っているので、カクヨムコンの結果によっては同人誌でだそうかなと思うています。
5:まぁ、予定は未定なんですけどもね(ねー?)
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ama-gaeru · 6 years
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雑記
1:色々考えた結果、今の会社でこの先ずっと働けるかというと無理な気がするので「おばあちゃんになるまで働ける」ことを前提に再就職先を探すことになりそうです。コミュニケーション難しいねぃ。
2:「完結させてからアップすればストレスがたまらないぞ! それにちゃんとプロットを作ればきちんと終わらせられる!」と思って、水面下で進捗していたのですが、どうしてもプロットを作ってから本編を書くというのが自分にあわなくて、書く気力自体がマイナスになってしまったのです。
  プロット書いた時点で「名作ができてしまった! 響こと千葉さんはこれでなんか有名な賞を2つくらい受賞したりして、友達と喧嘩したり、仲直りしたり、無礼な新聞記者をいてこましたりしつつ、映画化されたり、漫画化されたり、アニメ化されたりして印税ガポガポ。四国の離島を購入して自給自足の丁寧な暮らしをスタート。私の作品の熱烈な読者が島にやってきて作家業復活を熱望されるも『もう作家業は引退したんですよ。今は一人の人間として、この自然と共存していきたいですね。ほら、ハーブティーとコリンキーのサラダはいかが?』とかにこやかに答えて、『あんた、もっとギラギラしてたじゃねぇか!』と読者の怒りをかい、脇腹を刺されて砂浜に倒れ、美しい夜空をみあげながら「ああ。生まれ変わることがあったら、作家にだけはなるまい...異世界....異世界の悪役令嬢として生まれ変わって、ロハスライフを送るんだ」って言い残して死ぬんだ!! もう何も書かないぞ! 書くものかぁ!」みたいな気持ちになってしまう。
3:だからまぁ、いつも通り即興でやります。楽しいのが一番だ。
4:しかし、この「プロット書かない。即興で。楽しいのが一番」っていうやり方はすごく怖いもので。
  何が怖いって、成長しない言い訳にそのまま転用できちゃうとこです。
  「プロット書かないから(つまんなくてもしかたない!)」
  「即興だから(面白くなくてもしかたない!)」
  「楽しいのが一番だから!(結果がでなくてもしかたない!)」
  みたいになっちゃうと、こう、どんどんどんどん「しかたない」に甘えて、際限なくどこまでもど下手くそに落ちてゆくのだ。
  (それが怖くて、プロットとか頑張ろうと思うたんだけど、無理だったわ)
5:とりあえず、「初稿を勢いのままにガーッと書き上げて、あとで形を整える」っていう方向でいきます。たぶん、それが一番自分にあってる。
6:錯視上ブルーエンドはほのぼのした青春キラキララブリーうぇいうぇい物語になるはずなので、人は死なないし、人類は滅びないです。健全に生きる。
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ama-gaeru · 6 years
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錯視上ブルーエンド11
11話:8月16日(深夜2時54分)ベランダx遭遇
 「クッソがぁーっ!」
 湧き上がる自己嫌悪を夜に響かせながら坂を駆け上がる。殴られた痕に汗が染みた。
「テメェが! 海なんか誘うから! 風なんか吹くから! キラキラしてんじゃねぇーよ! わかっちゃったんだよ! あんな、ドラマチックにキラキラしやがンからよォ! もうこれで、二度とこんなことないなって! わかっちゃったからさぁー! これを逃したら、何にもねぇなぁって! 今飛ばなきゃ、二度と飛べないなって! そーゆーのだなってわかっちゃったからァー! わかっちゃったからさァアーッ!」
 深夜の商店街に俺の罵声がこだまする。構うかよ。どーせ月しか聞いてねぇし! こんなこと、相談できる相手なんか人類に1人もいねぇし!
「バーカ! バァーカ! バァーカァッ! 死ね! 俺なんか死ね! 死んじまえ! 死んじまえばよかったんだよ!」
 商店街最後の店を超えた。あとは団地までこのまま坂を走る。
 走る。走って、全部体から出すんだ。絞り切るんだ。空っぽにして、何にも考えないようにして、あとは水でも浴びて布団で気絶してやる!
 わけわかんねぇ告り方しちまった後。
 俺をガン見しながら硬直している先輩を置いて、俺は人ごみをかきわけ、海に向かって全力で走り出した。冗談でしたで誤魔化せるもんじゃねぇってわかってた。
 海に飛び込んで死んじまおうとか思っていたわけではなくて──そうしちまえばよかった──、波打ち際の方が砂が海水で引き締まって走りやすくなっているはずだから、逃げ切れる可能性が高いと思ったんだ。パニクった時って妙に打算的になるもんだよな。
 波打ち際にたどり着いた時点で海の家からはかなり離れていたし、先輩はまだ硬直したまま動かないでいたから、俺はイケる! 逃げ切れる! って思ってた。ガーッと走って駅に戻って、電車に飛び乗ってはい、さようなら! ってな。
 全然イケなかったし、可能性でどうこうなるレベルじゃなかった。 
 日野原先輩は、ゆっくりと俺の方に顔を向け、足を踏み出した。
 で。速攻。追いつかれた。
 そりゃー! そーだよ! あったりめぇだろ!
 あの人、100メートル9秒99だぞ! ジュニア世界記録の上から数えてベスト10に入ってんだ! なんで逃げられると思ったんだよ! 無理に決まってんだろ!
「バカーッ! 死んじゃえよ、俺!」犬みたいに月に吠えた。
 加速がエグかった。ほんっとにエグかった。超怖かった。なんだったんだあれ。俺が1歩進む間に先輩は2歩進んでいて、俺の真後ろにつけていた。
 先輩は俺のアロハの端を掴んで引っ張ると、そのまま思いっきり俺の脇腹に膝蹴りを入れた。肋(あばら)が折れたんじゃねぇかってくらいキツい蹴りだった。俺は砂浜に倒れて転がり、先輩は倒れた俺をまた蹴って仰向けに転がし、馬乗りンなって胸ぐらを掴み上げた。
 先輩は腹の底から突き上げてくる言葉を吐き出さまいとするみたいに、口を硬く引き結んでいた。顔は真っ赤で、肩は大きな鳥が羽をバサバサやるみたいに激しく上下してた。きっと湧き上がってくる罵声を外に出さないように耐えていたんだ。
 あんな唇ブルブル震わせて、顔真っ赤にするくらいなら、言っちまえばよかったじゃねぇかよって思う。気持ち悪ぃってよ! どーせ思ってたんだろうし! 別に! そういう風に言われるのなんか、想像しまくってたから今更だし! 想像するだけで丸1日メンタル死んでたんだから、実際に言われたら、実際に死んだろうけどよ! そっちの方がずっとよかったよ!
 先輩は超絶ブチキレてて、見開いた目から眼球が転げ落ちてきそうだった。あそこまでブチキレてる顔を見たのは初めてだった。
 先輩は怒ってる時も笑うから、怒ってる時に怒ってる顔してるのを見て、俺はすげぇビビってんのに「あ、よかった」って思っちまったんだ。この人、ちゃんと心のままの顔もできるんじゃんって。それで、また余計なことを言った。
 「俺、その顔、すげぇ好き」
 余計なことを口走った代償は、左頬が支払った。先輩のパンチには容赦ってもんがなかった。首がもげるかと思ったし、目の前で星が飛んで、ついでに意識も一瞬飛んだ。先輩が何か言ったけど、聞こえなかった。聞こえなくてよかったと思う。だってあの状況だ。「死ね」か「キモッ」かのどっちかしかねーじゃんよ。
 殴られた頭が濡れた砂にめり込んだところで、引いていた波が一気にゔぁぁーっときて、俺に覆いかぶさった。砂混じりの海水が目や鼻や口に流れ込んできた。俺は体を起こそうとしたけど、先輩が片方の膝を俺の胸の上に乗せて体重をかけてきた。俺は起き上がることができず、波が引くまで海水の中で溺れ続けた。
 水ン中で乱反射する光と、砂と、小さな貝殻と、歪んだ先輩の姿が、一つの情景記録みたいになって、今も目ン中に入ったゴミみてぇに俺ン中に残ってる。取ろうとしても取れねぇし、無視しようとしても無理。
 波が引いて、飲み込んだ海水を吐き出して、咳き込みながら息を吸った。胸の上の膝にグッと力がこもったので、また波ン中に浸けられんのかと思った。けど、先輩はすげぇ短(みじけ)ぇ一息だけの笑い声を残して立ち上がった。その「ハッ」て笑い声をmp3かなんかにして、ファイル名をつけるとしたらこう──「侮蔑」。
「もういいよ。お前」
 先輩は笑ってた。
「俺はもう帰るから。西郷も落ち着いたら帰れ。気をつけてな」
 先輩は自分の左頬を指差して「俺も殴ったし、今日のは全部チャラにしよう。最初から何にもなかったんだよ。俺たちには」と笑い、駅の方へ向かって歩き去った。
 俺は波打ち際に座り込んだまま、先輩の背中が人の波に紛れて消えて、完全に見えなくなるまでそこにいた。打ち寄せる波が体温を奪っていって指先が震えてもそこにいた。照りつける太陽が首の後ろと背中を焼き、ヒリヒリと痛み出してもそこにいた。声は出なかった。涙は出た。
 切り捨てられたんだ。あれはそーゆー笑顔だった。
 古い自販機の前を駆け上がり、そのままスピードを落とさずに団地の前に戻って来た。
 足を止めた途端、疲労が体に覆いかぶさってくる。ガタガタと揺れる膝を両手で抑え、呼吸を整える。呼吸をするたびに毛穴から汗が吹き出した。
 クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、ドロドロしたもんが、消えやしねぇよ!
「ンだよ! 疲れただけじゃンよ、クソが!」
 俺は生まれたての子鹿みてぇに足を揺らしながら団地の門を通り抜け、花壇の前を通り過ぎ、団地の階段にたどり着いた。4階まで行くのがしんどい。なんでエレベーターねぇんだよ。つけとけよ。
 手すりにしがみついて階段を上がり始める。1階から2階へ。2階から3階の踊り場へ向かう。
 複数の足音と話し声が上から聞こえてきた。大人の男。2人か3人くらい。懐中電灯の光が壁に当たってる。
 体が強張る。こんな時間に誰かが団地ン中を歩いてるなんて考えもしなかった。昼間におばさん達が話していた、団地に忍び込んでいる不審者の話を思い出す。
 鉢合わせしないように階段を降りるべきか悩みかけたところで、その声が聞き覚えのあるものだと気が付いた。ンだよ。ビビって損した。俺はため息を吐いて再び階段を上り始める。
「誰か上ってきてねぇか? 足音聞こえるぞ?」
 雲ン中で転がる雷みてぇな声が言った。
「俺っすよ。4階の西郷」と、答えたが聞こえなかったらしく、返事はなかった。
 3階の踊り場を懐中電灯が照らす。
「おい! そこにいんのは誰だ?」
 雲ン中の雷が踊り場に向かって落ちてきた。相変わらず怖ぇし、柄が悪ぃ。
「だから、俺だって。どーも」
 俺は踊り場に上り、懐中電灯の光の中に入る。
 思った通り、懐中電灯を持っていたのは神原兄妹の親父さんだった。体も顔も岩みたいにゴロゴロしている。イワポケモンだ。
「なんだお前(め)ぇ。コータ君じゃねぇの」
 神原兄妹の親父さんは懐中電灯の光を俺の顔に向ける。眩しさに顔をしかめたら「おお、悪ぃな」と言って懐中電灯を下に向けた。
「こんな夜中にガキが何やってんだ? あぶねぇぞ?」
「走り込み。昼間は暑くて、全然練習できねぇから」
 尤もらしい嘘を吐く。
 神原の親父さんは後ろに控えていた2人のおっさんたちに「4階の子だよ。うちのガキ共の友達。笹高の陸上部なんだよ」と俺のことを説明した。
 2人の顔にも見覚えがある。タンクトップを着てるのは1階に住んでる人で、赤いTシャツを着てるのは確か管理人さんの息子だか、孫だかだ。全員が全員、絵本に出てくる鬼みたいなごつごつした体つきをしている。腕には「朝陽(あさひ)団地防犯隊」と書かれた腕章をつけていた。
 いつもブラジル団地って呼んでるし、呼ばれてるから、正式名称で書かれている文字をみると変な気分になる。団地の中の一部の人はブラジル団地って呼び方は「外の連中が呼び始めた蔑称だからすべきじゃない」って言っていて、また一部の人は「母国を蔑称だと考えるのがおかしい」って言っていて、度々小競り合いが起きる。
「練習頑張るのはいいけどよぉ、こんな真夜中にやるのはやめとけよ。せめて日付が変わる前にしとけ。アッチの方から、悪ぃのが来るかもしんねぇからな?」
「うっす」
 神原の親父さんは他のおっさん達を引き連れて階段を下りてゆく。
「おじさん達は何やってるんですか? こんな夜中に懐中電灯なんか持って」
 タンクトップのおっさんが「見回りだよ」と答え、その言葉を赤いTシャツのおっさんが引き継ぐ。
「不審者が空き部屋に入り込んでるらしいんだよ。今日も空き部屋から物音がしたって聞いてな。様子見てきたとこなんだ。503号室」
 と、Tシャツおじさんは鍵の束をジャラッと見せる。
 503。俺ん家の真上の部屋じゃん。
 俺は階段を下りてゆくおっさんたちの背中に尋ねる。
「どうだったんスか? なんかあったんスか?」
「意見が割れてる」と神原の親父さんが笑いながら答えた。
「誰かがいた跡なんかねぇな、不審者がいたって噂のせいでみんなが敏感になってんだろってんのが俺と山ちゃんの意見」
 神原の親父さんはタンクトップと一緒にうんうんと頷く。
「そんで竹ちゃんだけ『誰かがいた跡を消してる』ってんだよ」
 竹ちゃんと呼ばれた管理人さんの息子だか孫だかが顔を歪めて「絶対に人がいたって。なんか気配がしたんだって」と唸る。
 おじさん達はもう俺の存在など忘れたようで「んなこと言ったって、風呂ん中も、押入れも、天井も、天袋ん中まで探したけど何もなかったじゃねぇか」だの「神経質になりすぎなんだよ。変なとこなかったろ」と言い合いながら階段を下りて行った。
 今にも崩れそうになる体を無理やり動かして家の前にたどり着き、首から下げていた鍵を取り、扉を開けた。
 ずっと窓を締め切っていたから、室内の空気はゼリーみたいにぶよついていた。エアコンつけっぱにしときゃぁよかった。
 汗を吸ったシャツと、ハーフパンツと、パンツと、靴下を廊下に脱ぎ落としながらキッチンに向かって歩く。服は明日拾えばいーや。
 素っ裸になって冷蔵庫のドアを開ける。冷気が滝みてぇに汗まみれの肌の上を流れ落ちていく。気持ちいい。麦茶の入ったボトルを手に取り、そのまま直飲みする。水分を失っていた体の中を、口から喉、喉から食道、食道から胃の底へと、冷えた麦茶が落ちていくのを感じる。乾いていた体の細胞が息を吹き返す。口に入りきらなかった麦茶が喉、鎖骨、胸と体を下って床に溢れた。明日ふきゃぁいーや。面倒なことは全部後回し。今日はそーゆー日だ。許されるだろ。そンくらいよ。
 俺は麦茶を飲み干してから冷蔵庫を閉め、風呂場に向かった。
 シャワーのコックをひねり、頭から水をかぶる。水と言ってもこの猛暑のせいで随分ぬるい。身体中の汗を流し、髪を洗って、雑に体を拭きながら外にでる。髪を乾かすのもめんどくせぇ。寝よう。今日は許される。寝よう。
 俺は自分の部屋にいって下着だけ履いて、またリビングに戻る。
 エアコンのある部屋はリビングだけだから、じいちゃんと母さんがブラジルに行ってからはリビングで寝ている。
 エアコンの設定をいつもの27度から20度にして、風量も強にして、電気を消し、床に敷いた布団の上に倒れこむ。風邪引きそうだけど別にいー。風邪引いて苦しくなれば、ちったぁ気が逸れんだろ。
 枕に顔を埋めた瞬間に、意識が一気に布に染み込んで、俺は何もかもを忘れて意識を失い──はしなかった。
 音がする。音っつうか、振動? 何かを叩いたり、ぶつけたりするような振動が床から布団に伝わってきた。窓の外からだ。
 ……どうせなんか、コウモリとかそんなんが物干し竿にでもぶつかってん──。
 バンッ! という大きな衝撃が響いてきた。眠気が覚める。なんだよ。今の音。閉じていた目を開けると、またバンッ! と音が響いた。    俺は重たい体を布団から体を起こし、窓に顔を向ける。向けたところでカーテンが閉じているので何が起きているのかわかんねぇけど。
 振動と音は明らかにベランダから伝わってきていた。絶対にコウモリじゃねぇ。何か、重たいものが金属を叩いているような音だ。でも叩いているだけならもっと音は響くはずだ。叩いたあとですぐにその金属を掴んで、振動を止めているような音。なんだよ、これ。
 疲労と眠気をねじ伏せて立ち上がり、窓に向かう。
 寝ている時は気がつかなかったけど、音は上階から響いてくる。上のベランダからだ。
 おっさん達が言ってた不審者のことが頭を過ぎる。
 ……小動物。猫とか、ハクビシンとか、でかいネズミとか。そーゆーのであってくれ。マジで。今日はいっぱいいっぱいなんだよ。限界なんだよ。つか、不審者って具体的にどんな奴だよ。クソ。特徴くらい聞いときゃよかった。
 あれだ。熊と一緒で大きな音を立てて「ここに人がいるぜ」っていうのを気づかせてやりゃぁ、向こうの方から離れてくれんじゃねぇのか。
 ……いや。ダメだ。この団地、今、そんなに人いねぇし。小さい子供がいる家とか結構あるし、うちみてぇに旦那が出張で女子供しかいない家もあるし。俺んとこから消えて、そーゆー家んとこに行っちゃったら最悪じゃん。不審者ならなおさら、ここでとっ捕まえねぇと。
 俺は足音がしないようにソッと窓に近く。
 さすがに手ぶらじゃ不安だったので、途中で床に転がしたままだった箒を拾う。不意打ち狙えば勝てるっしょ。
 窓の前に立ち、指でカーテンを少しだけ広げる。
 思った通り、ここのベランダには誰もいない。またヴォン! という音が聞こえた。やっぱり。上の階のベランダに誰かいる。
 俺は静かにカーテンを開け、さらに詳しくベランダの様子を伺う。
 さっきは音のことばかり気にしていて気がつかなかったけど、ベランダに影が落ちている。上のベランダからの影。それもでかさからして、もう完全に人。人の影だ。ただ、影の輪郭はぼやけていて、影の主人がどんなポーズをしているのかまではわからない。滲んだ大きな墨汁の染みに見える。
 きっと人だろうと思ってはいたけど、本当に人かよ。クソ。気持ち悪ぃ。どーゆー奴が団地に忍び込むんだよ。
 人生で初めての変質者との戦いだ。俺は箒を硬く握りしめ、音がしないようにより慎重になって窓の鍵を外し、音のする方を見上げながらゆっくりと窓を開ける。大丈夫。ぜってぇ勝てる。
 ガラスに遮断されて聞こえなかった音が耳に届いた。
 ハァハァという荒い呼吸音と、グッとかンッとかいううめき声。
 俺は箒を構え、ゆっくり、ゆっくり外に出た。
 その時だ。
 突然、上の階のベランダから下に向かって、2本の足がぬるりと伸びてきた。足首から太ももまで包帯でぐるぐる巻きだ。
 驚きすぎて声が出なかった。
 声が出ない代わりに、さっき飲んだばかりの麦茶がクッソ冷てぇ汗に変わって吹き出した。
 足は空中で自転車を漕ぐように動き始めた。いや、あれは、なんか立てる場所でも探してんのか? いや、思いっきり空中だぞ。無理だろ。ハァッ! ハァッ! という息遣いが大きくなる。一瞬足の動きが止まり、またバァン! と音が上から響く。
 んだよ。なんなんだよ、これ。なんだこれ。幻覚かよ。いや、幻覚ではねぇけど。わーってるけどよ。なんで足が。
 この足の持ち主は上階のベランダの柵棒にしがみついているみたいだ。体を持ち上げようと棒をつかみ直すたびに、ヴォン! とかバァン! とかいう音が響いているらしい。
 ちょっとずつ足全体が下がってきている。太ももまでしか見えなかった足が腰まで見えるようになった。
 この鹿みてぇな細い足。
 ……。
「……石垣?」
「えっ!?」
 あっ! あっ! あっ! という声が破裂するように聞こえ、空中で静止していた足がズルズルと下がってくる。
「さ、さ、さ、さ、さいご、西郷君?」と足は言った。
 ……石垣だ。
 捲れたシャツと、臍。そこまでゆっくり降りてきたところで、足がだらっと一直線になる。
「わた、わたし、落ちちゃ」
 その言葉のあと、Tシャツ姿のおかっぱ女が落ちてきた。ベランダの外に。
 俺は悲鳴を上げながら猛ダッシュした。
 両手を広げ、今まさに4階のベランダをバンザイの姿勢で通り過ぎようとしていた石垣の両手を掴む。
「ンなんだよっ!?」
 落下する石垣の勢いに負けて体が引っ張られる。
 肋骨がベランダの手すりに激突し、大きな音を立てた。衝撃で指の力が一瞬緩み、俺の左手から石垣の手がすり抜けた。
 俺はもう1本の石垣の手を両手で掴む。石垣の手は足と同じように包帯でぐるぐる巻きで、その包帯は汗でぬるぬるしていて、ものすごく掴みにくかった。長時間は掴んでられない。こいつが小学生みてぇなチビで本当によかった。普通の女子の体格だったら、多分、掴みきれてなかった。
 俺は石垣の手の骨を握りつぶすくらい強く掴み、そのまま一気に石垣を引っ張り上げた。背筋が痙攣する。
「あああああああーっ!」
 やっててよかった! 上半身の筋トレ!
 石垣の胸が手すりの高さまにくるあたりまで引っ張ると、俺は石垣を掴んだまま後ろに下がった。大きなカブでも引き抜くように仰け反る。
「うらあああーっ!」
 石垣の小さい体はベランダの手すりの上を滑り、外干しされてる布団みたいに2つに折れてから、ベターン! という派手な音を立ててベランダの内側に落ちた。俺が片手を掴み続けていたせいで受け身を取れず、まるで片手を突き出したポーズのまま垂直落下したスーパーマーンみたいになっていた。
 俺は背中から窓にぶつかり、そのままずるずると座り込んだ。
 石垣がうめきながら体を起こす。両手で顔を抑えている。指の間から血が流れていくのが見えてギョッとしたけど、「大丈夫か」の声も出てこない。
 わっ……けわかんねぇ! 一体、なんなんだよ! なんなんだよ、この状況!
 石垣は俺に顔を向ける。鼻を抑えた両手が血だらけだ。
 オカッパ頭はたんぽぽの綿毛みたいに爆発してるし、よくみりゃ身体中垢まみれで、ドロドロだった。ジャングルに逃げ込んだ日本兵みてぇだ。食いもんねぇから、味方の肉を食べるとかそういう感じのやつ。
 まだ手に、石垣の手がぬるっとすり抜けた瞬間の感触が残ってる。体が恐怖で震える。あとほんの少しでも何かが遅れてたら、こいつ、死んでたんだ。
 俺は石垣を見つめたまま、乱れまくった呼吸を整えた。石垣は石垣で俺を見つめたまま、肩で息をしている。
「……石垣」
 俺は声を絞り出す。
「石垣、石垣……テメェ」
 なんで上から落ちてくるんだ。なんでうちの団地にいるんだ。なにやってたんだ。なんだその格好。鼻血大丈夫かよ。なんだその包帯。それによくみりゃガリガリじゃねぇか。どーなってんだ、お前。
 色々な言葉が頭ん中でぐるぐるしてたけど、最初に口をついて出たのは全然頭に浮かんでない言葉だった。
「日野原先輩と別れンの?」
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