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#交響曲蔵粋
tokudesu · 2 years
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🍶ひとりではしご酒🍺 2022年9月2日 ふくしまの酒まつり 3年ぶりに新橋SL広場で開催された「ふくしまの酒まつり」へ行ってきました。 早く着いたので、当日券を買って前乗りしようかと思ったのですが、めちゃ混み。当日券を入手するまで50分もかかるということで、諦めました。 前売り券の指定時間通り19時30分まで待ちましたよ、はい。 入場して55分で、一体どれだけの日本酒が飲めるんだ?と思っていましたが、意外と飲めてしまいました。 呑んでいる側の私たちも、蔵人のみなさんも一緒になってワイワイできて、メチャクチャ良かったですよ。もちろん話をする時は、マスクは装着してました。 来年は、時間制限なしで、もっとワイワイ出来ると良いですね。 まずは、プレミアム晩酌セットとお薦めふくしまの酒ということで、 松崎酒造さんの「廣戸川 純米秋あがり」と鶴乃江酒造さんの「ゆり 純米吟醸」から。 あとは、自分でチョイスした日本酒を、 郡山市の仁井田本家さん 「おだやか 生酛 純米吟醸 雄町」 二本松市の奥の松酒造さん 「奥の松 あだたら吟醸原酒」 喜多方市の小原酒造さん 「大吟醸純米 交響曲 蔵粋」 会津若松市の山口さん 「儀兵衛純米吟醸 雄町」 会津若松市の名倉山酒造さん 「会津士魂 純米吟醸 福乃香」 郡山市の渡辺酒造本店さん 「大吟醸原酒 雪小町 五十一号」 喜多方市のほまれ酒造さん 「純米吟醸 からはし 山田錦」 喜多方市の笹正宗酒造さん 「純米酒 笹正宗」 #日本酒🍶 #日本酒で乾杯 #日本酒好きな人と繋がりたい #新橋sl広場 #ふくしまの酒まつり #松崎酒造 #廣戸川 #鶴乃江酒造 #仁井田本家 #奥の松酒造 #小原酒造 #交響曲蔵粋 #儀兵衛 #名倉山酒造 #会津士魂 #渡辺酒造本店 #雪小町五十一号袋吊 #ほまれ酒造 #笹正宗酒造 (新橋駅) https://www.instagram.com/p/CiThoSavBPT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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kyokantheaternews · 2 years
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いつも共感シアターを応援していただきありがとうございます! 毎週火曜日21時より生放送をしている「共感シアターナビ」では、"俺たち共感族!!“という視聴者の皆さまと戯れるコーナーがあります!視聴者の皆さまに「お題」を投げかけ、ご投稿いただいたお答えの中から抽選で10名の方の投稿をご紹介します。そして、その10名の中からさらに抽選で1名の方にどんな映画でも使える「ムビチケGIFT」をプレゼントします!そんな、7月12日のお題は「記憶を消したい映画」です。以下の投稿は抽選の結果、読み切れなかった方の投稿を掲載しています。他の方の投稿も気になりますよね、ぜひ、ご覧ください!
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千葉ダミアンさん:『フェノミナ』
ネタバレになるので詳しい事は話せませんが、フェノミナは毎回記憶を消してから観たいです!スタンダールシンドロームやシャドーなど、アルジェント作品の特徴的に、再度観る際は毎回記憶を消したくなる作品ばかりですが、中でもフェノミナは頭一つ抜きん出ています。ジェニファーコネリーのPVとしても、サスペンス映画としても、フェノミナは間違いなく超一級品です。トップガンマーヴェリックで、トム本人やトップガン世代だけでなく多くの若者達を魅了した熟女ジェニフェーコネリー!衰え知らずの魔女、ジェニファーコネリー幼少時における伝説的作品!一言で言うなれば、虫を操る夢遊病の少女が幾多の困難を乗り越えていく感動ムービー!後にも先にも、こんな心の美しい人間を見たことありません。そりゃマーヴェリックもメロメロなります。あの怒涛の展開、映画史に残る衝撃!頭から尻尾まで美味しい、文句無しの大傑作!あぁ、記憶消してもう一度観たい
じろさん(じろともトン)さん:『ソウ』『リング』『ジェイコブスラダー』
◯ジェームズワン監督「ソウ」1作目。 観る前ネタバレ案件。観たい度MAXなタイミングで、ネットでラストをバラされた時の気持ちは別の意味で忘れられない映画です。その���自分的ハズレなしジェームズワン監督との出会いを初めからやり直したい。初恋の気持ちで記憶から消して監督デビュー作を観たいです。
◯中田秀夫監督「リング」。劇場で女性や学生さん、大きな男性まで「タイタニック」よりもガチ泣きしてどよめく光景。ラストで客席が真田広之と一緒に後ずさってる後頭部達が忘れられない映画。何も知らない頃まで記憶を消してまたあの光景を観たい映画体験。
◯エイドリアンライン監督「ジェイコブスラダー」劇場体験としてレイトショー観終わった後、階段で5階分降りたら入り口シャッターが閉まってて、映画の冒頭ティムロビンスが降りた駅の入り口が施錠されてるのとリンクしてゾッとした忘られられない映画。映画自体マイベスト映画の1本なので同じ状況で再体験したい。
teppeiさん:『ウォーターワールド』
お疲れ様です。自分は仕事でミスしてしまった時は、瀬田さんの動画を見て、心を落ち着かせています。「記憶を消したい映画」ですが、自分は「ウォーターワールド」です。自分は最近この映画を何十年ぶりに見返しました。海が舞台で超予算がかかってますよね。音楽もどこかで聞いたことのある曲ですよね。セットの汚れ具合も最高、海も綺麗、アクション満載。設定だけ聞くと超面白そうですよね。残念ながら自分には全く合いませんでした。登場人物が薄っぺらく、テンポも大変悪い、ファミリー向け映画の割にはバイオレンスですよね。たいしてギャグシーンも面白くないですよね。この作品のファンの人もたくさんいると思いますが、記憶から消したいが今の所の心境です。
sv_yoshiさん:『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
アニメ大好き!ガンダム大好き!というわけではないですが、パッと思い浮かんだ映画は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(88)。
TV『機動戦士ガンダム』(79)から続く“永遠のライバル”アムロ・レイとシャア・アズナブルの最後の戦いを描いた今作。終盤、地球滅亡を巡る大バトル中のアムロとシャア。かつて“三角関係”で“ファム・ファタール(運命の女性)”であり、“アムロが殺した”ララァ・スン(享年15歳)について、シャアは叫びます。
シャア「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」 アムロ「お母さん?ララァが?」
観てる私「は??私の母???」 今までの設定とか伏線とか一切関係なく、5歳下設定の女性に母とはとにかく唖然。よりにもよって二人が交わす最期のセリフがこれ。更に盛り上がらないEDテーマでこの映画はメビウスの宇宙へ消えていきました。これにより世間のシャアの評価は駄々滑り、“マザコン”とまで嘲笑される事態に。ああ、『MIB』のニューラライザーで「ピカッ」っと出来たらいいのに。
ヒロ神崎さん:『ハリー・ポッター』シリーズ
見たという事実を消したいのはぶっちぎりで「大怪獣のあとしまつ」。見てしまった自分を恥じています。さらに、岩松了さんが「シン・ウルトラマン」に出てきても「また全く笑えない駄洒落やギャグですべり倒すのか」とかと思ってしまい、真っ当な作品鑑賞の邪魔になります。でも記憶を消してしまうとまた騙されて三木聡作品を見てしまうからこれはむしろ消しちゃいけなくて心に刻み込んでおかなきゃいけない映画ですね。となるとやはり記憶を消したいのはハリー・ポッターシリーズです。初見の時は原作も読んでいなくてなんの予備知識もなしに主人公たちの成長を一作ずつ、毎年見守ることができました。あの純粋な気持ちで一作目から見直したいです。同時にエマ・ワトソンやダニエル・ラドクリフらの成長した姿及びその後の出演作品も記憶から消したい。やはりハーマイオニーは一作目の「ヒキガエルを見なかった?」の登場シーンの衝撃を純粋に味わいたいです。
REMさん:『情婦』『スティング』『デス・トラップ 死の罠』
「記憶を消してもう一度みたい映画」というお題と解釈させていただきます。その方針だと、内容に触れるとネタバレになりかねないので、タイトルと最低限の紹介だけ。なので、3本あげさせてください。
『情婦』ビリー・ワイルダー監督 1957年。 法廷物の大傑作クラシック。マレーネ・ディートリッヒの美しさ可憐さ妖しさに翻弄される。映画好き必見。
『スティング』ジョージ・ロイ・ヒル監督 1973年。 コンゲーム物の超傑作クラシック。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの黄金コンビの再共演がたまらない。全人類必見。
『デス・トラップ 死の罠』シドニー・ルメット監督 1982年。 意外と知られていない名作。スーパーマンのクリストファー・リーヴがその演技力を世間に知らしめた1作。面白い映画を見たい人必見。
その性質上3本ともミステリーになりました。どれも違う魅力の特級品。さあ、今すぐご覧あれ。
randさん:『ブレードランナー』
映画は2種類に分けられます。『ブレードランナー』以前か以後かです。と言い切ってしまって良いくらい、その後の多くの作品に影響を与えたのがブレードランナーです。自然環境が破壊された中、退廃的な、ごった煮のような都市に人々が暮らす未来という情景は、もはや定番と言えるでしょう。私はブレードランナーから少しでも影響を受けたと思える映画を見ている時、自分の注意力のかなりの割合を、その作品のどこがブレードランナーに似ているのかを探すのに使ってしまうことがあります。でもそれって、作品に正面から向き合っていないことになり、せっかく映画を見ているのにもったいないと思うのです。なので私は、ブレードランナーの記憶を消して、影響が大なり小なりある映画をそれぞれ単独のものとして見てみたいです。クリストファー・ランバートの『ニルヴァーナ』など。そしてひとしきり堪能した後、消した記憶に戻ってきて欲しいです。
へるだいばぁさん:『イベントライゾン』
私の記憶を消したい映画は、SFホラー映画イベントライゾンです。一言で表現すれば、幽霊船ホラーをSFに置き換えた様な作品です。2047年、7年前に消息を絶ったイベントホライゾン号が海王星宙域に現れ、不明瞭ながらリバラテ.メという言葉を含む急難信号を発信した。その意味は助けてというラテン語だったが……前半は謎解きも含め観客も精神的に追い詰められます。後半、何者かの意志により、不鮮明だったビデオログの内容が突然解明されると、記録されていたのは、流血の乱交と呼ばれた、凄惨と言う言葉すら生易しいゴア描写がサブリミナル的に差し込まれ、耐性の強い私も流石に目を背けました。今作が面白いと理解しても、どうしてもまた観ようという勇気が湧かない作品です。前半不明瞭だったリバラテ.メという言葉は、リバラテ.トゥテメ.エクス.インフェリエス。地獄から己を救えが全文です。正に宇宙の果てに地獄がありました。あ~怖かったぁ。
NORI“アレックス”65tさん:『魔界転生』
子供の頃に見た『魔界転生』ですね。千葉真一さんが柳生十兵衛。沢田研二さんが天草四郎。"島原の乱"でリーダーの天草四郎もろとも幕府軍に惨殺されたキリシタン教徒達。その怨念から蘇った天草四郎は、自分と同じようにこの世に怨み、執着、無念の想いを持つ死人を復活させ、幕府の破滅を計ります。魔界衆の存在を知った柳生十兵衛は、彼等との戦いを決意しますが、敵の中には更に恐るべき人物が..一番の見せ場が、柳生十兵衛vs宮本武蔵。あまりにも強すぎる武蔵との決闘に向かう十兵衛。何故、行くのか?と問われて、剣の道は自分で選んだ道だからと答えます。人生を後悔している人間vs自分の生き方を肯定する人間。伝記アクション時代劇ならではの面白さに加えて、この作品のテーマ?が大好き。クライマックスは実際にセットで火を燃やして撮影した燃え落ちる江戸城での柳生十兵衛と天草四郎との最終決戦。とは言えその時の僕は、その頃発売していた角川の情報誌『バラエティ』の"魔界転生&山田風太郎忍法帖特集号"を、隅から隅まで熟読してしまい、そのストーリー展開の大半を知っているという大失敗を犯してしまった後でした。事前にストーリー紹介を読まずに見たら、もっともっともっと面白かったに違いないと。しかし、、最早その経験は出来ません。本当に楽しみな映画があったら、事前情報はなるべく入れないようにしようと心に決めた一因です。
きゃわぐちさん:『セッション』
悩みましたよ。記憶を消すなら、やっぱり「シックスセンス」みたいなドンデン返し系かな?とか。あるいは、何回も観て、もはや呼吸と同じレベルの「ターミネーター2」や「ザ・ロック」を新鮮に観たいかな?とか。もしくは、映画館で観たあの感動、エンドゲームやノーウェイホームの圧倒的な感動をゼロから体感したい気もするな。とか。でも、呼吸レベルになった作品は、いわば長年の友情のようにその積み重ねにも意味があるからリセットしたくないし、エンドゲームの感動は、劇場全体が1つになったあの空間も込みだから、自分だけ記憶消しても物足りない。迷走した結果、僕が選んだのはデイミアン・チャゼル監督の「セッション」!あの超絶クライマックスの衝撃をまた受けたい!ただしこれには条件がもう1つ。記憶を消して、かつ、映画館で観ること!あれをDVDで観てしまった後悔たるや。デロリアンに乗って、過去の自分に「映画館へ行け!」と言いたい。
中学28年生さん:『リング』
「記憶を消して、もう一度観たい」映画ですが、先週「マーヴェリックの記憶を消して新鮮な気持ちでみたいなぁ」と書き込んだところ、あれが結構な大ネタだった気がして、それ以降あまり思い出せず…!フレッシュな気持ちで楽しみたい系は色々とあるので、今回は「リング」を挙げてみようかなぁと思います。あれを見たのは多分小学校6年生くらいだったのですが、鑑賞中も鑑賞後も生活が恐怖で支配された経験はリング以降ない気がします。廊下を歩いている時、ふとリビングのテレビが目に入った時の恐怖。家に誰もいないから静かなはずなのに…「リングは作り物だ…」と分かっているのに!まるで墨汁のように黒いブラン感がこちらをじっとりと静視しているかの様…ロシアに住んでいた頃なので、「貞子は日本語しか話せないからコチラの勝ち」みたいな訳のわからな無い理論で恐怖を克服していた記憶。そんな「リング」をブラウン管ではなく薄型の液晶テレビで見たら、テレビ恐怖症にかかるのかな…?
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mori-mori-chan · 3 years
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続・『少年ハリウッド』を観ました
cf. 『少年ハリウッド』を観ました
いやぁ……とうとう完走しました『少年ハリウッド』(以下少ハリ)。今回も記憶を基に感想を綴っていきます(ので台詞や時系列など多少間違いもあるかと思いますが許してニャン)!
※以下、ネタバレを含みます
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今回もwikiのスクショ失礼します。ストーリーに関しては公式サイトでざっくり紹介されていますので私の駄文よりそちらをご覧ください
第21話『神は自分の言葉で語るのか』……経典回です。このタイトルでいう神はシャチョウ、そして1期で出てきたやまびこフレンド(トミーの生活している施設の名称、フレンズだったかも)の子供が言っていた、世間一般で言うところの超越した存在にして万能の神(「悲しい感情と嬉しい感情が~」とか何か言ってましたよね)の両方を指しているように感じました。
センターに抜擢されたことで取材を受けるカケル。インタビュアーに勝手に言葉を捻じ曲げられ、発言してもいない言葉を書かれて戸惑うカケルの姿が見ていて痛々しかったです。カケルはセンターになったことを別に喜んではいないんですよね。センターになる=アイドルにとって嬉しいこと・ファンにとってはめでたいことと思い込みがちの我々ですが、マッキーのファンからしたらそれまでのポジションを、トミー、キラ、シュンシュンのファンからしたら彼らがセンターになるチャンスを奪った者としてカケルは恨むべき対象に一転しますし、実際に客席から睨まれもします。これがアイドルグループの難しいところというか、複数名で活動する以上誰かに光が当たれば誰かが影になる為必ずしも目立つことが良しとされないというか……光と影はいつだって表裏一体なのですから。 
休憩室(楽屋?)にマネージャー・勅使河原がファンレターを持ってくるのですがセンターになった影響かカケルのファンレターが増えています。それを見てカケルはメンバーに睨まれたことを打ち明けるのですが、その時にシュンシュンは言います。
「俺は超人気があるわけでもないし、アンチがいるわけでもない。アンチでもいいから注目してほしいって思うよ」
アッ……ここで大森靖子の『ミッドナイト清純異性交遊』を思い出し悶絶する私!嘘でもいい、嫌いでもいい、私を見つけて……。自分語りで申し訳ないのですが、私はハロオタでもあるのでかつてバラエティで体を張って頑張っていた嗣永桃子さんや道重さゆみさんを思い出し情緒が狂わざるを得なくなりました。それはさておき作られた、偽りの人格=アイドルとしての自分と現実の自分の乖離に悩むカケルに、シャチョウはアイドルとは神であり生贄でもある、と語り掛けます。この回のシャチョウの発言は全てが経典です(LINEスタンプも販売中!)。
「アイドルってね、ファンの見ようによっては神にも生贄にもなれるんですよ」
「ファンはアイドルにあるものもないものも求めます。恋人になってほしい、家族になってほしい……素を見たい、素を見たくない。近くにいてほしい、遠い存在であってほしい。自分だけのアイドルでいてほしい、皆のアイドルでいてほしい……」
アイドルは偶像ですが、その中身は生身の人間です。私達が日常で目にしているアイドルだって自宅だったり家族や友人、或いは恋人といる時は全く別の人かもしれませんからね……この回はアイドルの数だけその中身がいるという単純にして絶対的な事実を再認識させてくれます。アイドルが好きな人は勿論、アイドルを志している人にも見てほしいですね。
第22話『ファンシーメルシーブラックコーヒー』
まさかの恋愛回~~!!!!
前回視聴時(2021/9/11)は少ハリで恋愛について触れる回はあるのか少し気になってはいたのですが、恋愛回担当はまさかのキラですよ!メンバー中最もプロ意識が高く遅刻もしたことがないキラです!!マッキーが言っていましたが、恋愛は人を狂わせます。熱愛発覚により解雇されたアイドル、過去に何人いたことでしょうか。
キラの家の冷蔵庫が故障→キラ母「今日はお弁当が用意出来ないから何か買って食べてね」→キラ、恐らく人生初であろう学校での昼食の購入を行うため通学路にあるサンドイッチ屋さん『ファンシーメルシー』へ……恋はしようと思ってするものではなく、突然落ちるものですから仕方ないですよね。キラは初恋をします。はっきりと明言されてはいないのですが、まぁ初恋でしょう。��員の女性に一目惚れしたキラは、苦手な大葉(シソ)が入っているにもかかわらず彼女のおすすめのサンドイッチを購入します。冒頭で社長が苦手だった食べ物を克服する描写があったので友人が
「これ絶対キラシソ気に入る流れでしょ!」
と言っていたのですがまさにその通りに。キラは大葉を克服し、ファンシーメルシーに通い詰めになった結果、連日大量のサンドイッチを公演の差し入れとして持ち込むように。キラが持ち込むのは癖のあるメニューばかりで、とある理由から敢えてそういう「売れ残りそうなもの」を選んでいます。キラいわく人気のあるメニュー、ベタなメニューは自分が選ばなくとも売れるだろうからなんですが、きっと売れ残りそうな商品を大量に買うことで店員さんにインパクト&いい印象を与え自分を覚えてもらいたいんでしょうね。あと、これは勝手な見解ですが売れるものって売れているから売れるみたいな部分があるので、まだ大スターではない少年ハリウッドと売れていないサンドイッチを重ねたのかな、などと思いました。
店員の女性はキラと話している時よく笑い、楽しそうに口元を右手で隠します。キラがいつものようにお店に行くと、丁度店員さんが早く上がるところに鉢合わせます。用事があって早く帰るんです、という彼女にキラは積極的に話しかけます。彼女にコーラ、自分にブラックコーヒーの缶を買い二人で公園へ行くのですが、連日のサンドイッチ責めに何かを感づいたマッキーと彼に誘われたカケルが彼らを尾行しています。恋愛経験のないキラには段取りが理解できず、初っ端からびっくりするぐらいグイグイいくので友人とキラ怖い!やばい!と震えっぱなしでした。
結論から言うと彼女には婚約者がいて、左手の薬指には婚約指輪が輝いており早上がりは婚約者に誕生日を祝ってもらう為だったのです。……いつも口元を隠すのが右手なので、左手は見えないんですよね。図らずも失恋してしまったキラですが彼は彼女に元気いっぱい言います。
「僕は、キラ……佐伯希星です。少年ハリウッドってアイドルしてます。いつか、もっともっと売れるんで、今日という日のことを絶対に忘れないでください!!」(うろ覚え)
これは……伝説の1期16話『本物の握手』のアンサーや!!!
正直恋愛沙汰でやらかすならシュンシュンだと思っていたので(ごめん)、よりによってもっとも"そういうこと"をしそうにないキラに恋愛回が来たのが少ハリだな、と……先のことなんてわからないのはファンもアイドルも同じです。
キラが名を名乗ったことで女性も自らの名を名乗ろうとするのですがキラはそれを遮り、一緒に遊んでいたシーソーから女性を王子様のようにエスコートし立ち上がらせます。失恋したキラを慰めるマッキーとカケルがお兄ちゃん感あって……すごくよかったです……。結局かっこつける為だけに買ったブラックコーヒーは作中では飲まれなかったのですが、キラはこう、16話の握手会でマッキーと街中を歩いていた時のポップコーンみたいに"相手に良く思われたい、こう見られたいというイメージ通りに見せたい"が為に好きでもないものでも躊躇なく手を出しますよね。少ハリくんキャラの掘り下げ方うますぎんか???
恋愛回とは書きましたがよくある「恋に悩むアイドル」的な恋愛描写ではなく「アイドルがそのアイドル人生の中で一瞬でも心通わせた相手に対する憧憬」みたいな、もっとこう……深い話なんですよね……自分の文才の無さが悔しい!!これがまた主役がキラなのがいいんですよ。芸能界には慣れていてパフォーマンスもトークもばっちりなかわりに日常生活を芸能界に捧げ続けてきたせいで平凡な恋の仕方を知らない彼に、純粋培養された子役出身アイドルの哀しみを感じました。キラのいた星の国は、多くのものを犠牲にして出来た国でもあったのです……。
EDのキラソロ曲(『青いきゅんきゅんマフラー』)も良かったです!!!
第23話『正しさと正しさの狭間で』
この辺から毎OPで泣くようになります(Ding!Dong!Dang!の辺りから)
私へ シーマさん出ました
残り5話もないこの状況で敵役/悪役を出してくる少ハリ、流石だネ!!なんと今回は初代少年ハリウッドの7人中未出演2人のうちの1人、海馬と書いてシーマのシーマさんが敵というか壁となり立ちはだかります。シーマさんと言えば初代が人気絶頂の最中初代シャチョウが事故死し、今後の少ハリをどうするかの話になった際に(最終的には納得したものの)解散を強く拒んでいましたよね。つまり彼��また初代少年ハリウッドを愛していた人物なのですが……?
ところで皆さん、ハロプロはお好きですか?私は好きです。今の推しは川名凜ちゃん(凛ではないのでご注意ください)です。ハロプロには多くのユニットが存在し、モーニング娘。やアンジュルムのようにメンバーの卒業・加入を繰り返しその形を変えながら活動を続けているユニットもあればBerryz工房や℃uteのようにオリメンのみで活動、卒業はあれど加入はなく、メンバーこそがユニット、みたいなユニットもあります。卒業や加入によってユニットを構成するメンバーが大幅に入れ替わったとしても、それは元のユニットと同じと言えるのか?と思ったことないですか?私はないです(ないんかい)。例えば前出のアンジュルムはもうオリメンはいないのですが、かつてのメンバーと同じように厳正をオーディションを突破、或いは研修を経て加入したのであれば追加のメンバーの見た目もダンスも歌も既存メンバーと全然違えどアンジュルムなわけですよ(なお川名凜ちゃんもアンジュルムですよろしく)。つまり、構成するものが変わっても実質的な機能が変わらないのであれば、それは同じと捉えてよいのか?と(まんまギリシャ神話のテセウスの船なんですが……)。
今回突如現れたシーマは、少年ハリウッドや彼らの活動の場を壊そうとする、今作における明確な"倒すべき存在"です。初代少ハリメンバー現少ハリに好意的で助力を惜しまない人ばかりだったためここに来て初代少ハリから敵が出てきたことに驚きました。経営難・人気頭打ちの少年ハリウッド&ハリウッド東京の経営は立て直して上手くやってあげるから、代わりに自分がシャチョウになるし好きなようにやらせてね☆(意訳)とのたまうシーマに現少ハリ一同は衝撃を受け、絶望的な空気になります。少年ハリウッドであること、永遠にアイドルであろうとすることに強いこだわりのあるトミーは特に。これまでに関わった初代メン達が優しい人ばかりだったので、憧れの存在だった初代少ハリの1人に自分の夢をぶち壊されることとなったのはなおさらきついでしょう。
……とこれだけ書くとシーマが超嫌な奴っぽいのですがシーマはシーマで初代少年ハリウッドが大好きで守りたいだけなんです。
友人「こじらせてんな」
私「こじらせてんな」
またハロプロの話になるんですが(すいません)かつてカントリー・ガールズというユニットが存在しました。元々は1999~2007年に活動していたカントリー娘。だったのですが名を改めメンバーも総入れ替えし2014年から再始動していました。名前が多少変わってはいますが一応ユニットとしては同じものではああるのです。……アッ自分から振っといて申し訳ないのですがカンガの話は辛いからやめます!!私が泣いてしまうので!情緒が狂ってしまうので!!『書いては消しての “I Love You”』は名曲です!!!
シャチョウは概念としての少年ハリウッドを、シーマは実態としての少年ハリウッド(オリジナル)を愛し、続けようとしているのでしょう。うまく表現できませんがシャチョウがしようとしていることは花瓶みたいな感じでしょうか。シャチョウの残し続けたい少年ハリウッドが人を楽しませる美しい花(枯れたら入れ替える)とそれを飾る為の花瓶のセットで、シーマの残し続けたい少年ハリウッドは彼にとってどうでもよい今の少ハリを無視した、初代少ハリが輝いていられる花屋さんみたいなものかなと私は思いました。満開になった花をガスなどで長持ちさせたりドライフラワーにしたり……”初代メンを活かす装置としての少年ハリウッド”を作りたいのかな、と。シンプルに日本語が下手だな私
シャチョウはどこかへ去るわクリスマスライブ後に劇場が壊されることが決まってしまったわ実質解散が迫っているわで、皆もかつての1期のクリスマスライブ前のような統率の取れていない状態になってしまいます。何も知らないファン達に新規の仕事を祝う声援を受け、トミーは劇場袖で号泣します。少年ハリウッドでいたいトミーがいずれ少年ハリウッドでいられなくなる事実、声援に笑顔で答えた=ファンに嘘を吐いた、その苦しさを受け止めきれないのでしょう。また、トミーは自分が怖い!と感情を爆発させます。自分は結局変わることを拒み今のままでありたいと願っている、つまりシーマと同じではないか、変化を受け入れられないこんな自分が怖い、と。苦い回でした。
第24話『まわりっぱなしの、この世界で』
本当に申し訳ないのですが23話辺りから「あ~少ハリ終わっちゃうんだ……やだ終わらんといて……」と脳がまともに機能していなかった為23・24話の内容がかなりごっちゃになっています。申し訳ございません!
23話で決まったTDL的な施設のイメージキャラクターを務める仕事をしているのですがまぁギスギスです。それまで仲裁や鼓舞など皆のメンタルサポート的な役割を果たすことが多かったトミーが、内に秘めた自我を爆発させしキラとバチバチになったのが意外でした。トミーも本気でキラと衝突しているわけではないのですがやはり彼には少ハリとハリウッド東京がなくなる(厳密に言うと形が変わる、ですかね)、が認められないんですよね……一方でキラはこの絶望的な状況でもスタッフへの配慮を忘れておらず、流石の一言に尽きます。コーヒーカップでの撮影でスタッフから音声は拾われないから楽しそうに振る舞ってくださいね、と言われたのをいいことに、マッキーと同乗している施設のマスコットキャラ・シロートくんの暴言がきっかけとなり皆が皆を和気藹々と罵倒し始めます(和気藹々の罵倒とは)。
私へ リュウ出ました
シロートくんの中の人は初代少ハリの解散と共にどこかへ旅に行ってしまった初代メンバーのリュウです。とにかく口が悪い!正直リュウはもっと掘り下げてほしいのですが、彼は原作の小説等ではもっと出ているのかもしれませんね。リュウは罵倒はしてくるもののものの特に現少ハリは勿論初代についても言及することはありませんでした。リュウは現少ハリのことどう思ってんだ~???でも彼は嫌いだったら構ったりしなさそうなのでなんだかんだで気に入っている、或いは気にかけてはいるのかな……?
ラストの次回予告はリュウがやりたい放題やっていて「声優ってすごい!」と思わざるを得ませんでした。岸尾だいすけすごい。
題25話『瞳を閉じる日が来ても』
キラの演技力でシーマと勅使河原を劇場外へ連れ出す→キラ猛ダッシュでUターンからの少ハリによる劇場立てこもりが発生します。個人的に雨の夜に手ぶらでほっぽり出されたシーマ&勅使河原は一体何をどうして過ごしていたのかが気になります。別にそこまで仲が良さそうでもないですし……。誰もいなくなったバリケードだらけの劇場、その舞台の上で彼らはクリスマスライブに向けての目標を紙に書きだしては貼っていきます。最後は全力で頑張ろう、という声に頑張っているのはいつもだから、いつも通りやろう、最高のいつも通りを目指そうとマッキーやカケルは言います。
メンバーによるメンバーやシャチョウ等の物真似大会等を経て皆の気持ちがまとまりかけた時、劇場が雷雨により停電し真っ暗になります。メンバーが暗闇に右往左往する中トミーが鮮やかな光を灯します。その光は、もしかしたらもう使われることがなくなるかもしれない少年ハリウッドのペンライト。観客と劇場への感謝の気持ちを込めて客席の一つ一つに彼らはペンラを置いていき、その光の中でアカペラで「永遠never ever」を歌います。ここのアカペラがもう圧巻でしてねェ~!!!!!!!!!!1期7話で音痴を指摘され悩んでいたカケルの歌がすごくよくなっているんですね……もう何か自分のことのように嬉しかったです。何でしょうこの感情は。因みに物真似大会の最中トミー(確か)から匿名掲示板上にシュンシュンが整形でないか疑う&それを擁護する書き込み→シュンシュン自演乙書き込みがあったと告げられます。シュンシュン!アンチだけど注目してくれている人増えたよ(cf.21話)!!
客席のペンラも一つ残らず消え夜が明けた頃、シャチョウが忘れ物を取りに来たと客席にひょっこり現れます。そこへシーマも。勅使河原の「シャチョウ!」の呼び声に両者が反応するところに笑ってしまいました。バリケードを作ってまで少ハリを守ろうとしたこと、”最高のいつも通り”を披露できるよう努力したこと、シャチョウとシーマ含む初代少ハリ全員に認められたことを理由に少ハリはクリスマスライブ後もこれまで通り活動を続けていい、本当に自分はハリウッド東京を乗っ取るつもりだった、とシーマの口から明かされます。なんかもう良かったね!!良かったね!!と狂うことしかできず……シーマさんはちょっとアプローチが違っただけで彼なりに少ハリとハリウッド東京を本当に守りたかったんです。娘。みたいにメンバー構成を変え新鮮さを保ちながら活動するか、℃みたいに慣れや老いを受け止めながら熟成しながら続けるか……的な(???)???アイドルにとっての永遠、を改めて考えさせる内容でした。
リュウがいつ少ハリを認めたんだ?と気になりましたがもしかしたら前回でメンバー同士でボロクソに言い合いながらも結局は楽しくやっていた様を彼なりに「こいつらなら託してもいい」とジャッジしていたのかもしれませんね。勝手な憶測ですが。なお舞台上で目覚めるシーン、私は勝手にスラムダンクのオマージュかなと思いました。EDの『世界が終わるまでは』の最後の方に皆で雑魚寝してるシーンありませんでした?いやまぁスラダンと何の関係もないんですけど(何で書いた)実質この回が最終回で、1期2話でシャチョウが皆にプレゼントしてくれたスニーカーのアップが何回かありました。良すぎて泣いていた気がします。情緒が狂ってしまっていてもう記憶がやばいんよ
第26話『HOLLY STAGE FOR YOU』
ありがとう少年ハリウッドありがとう
え~もう何も言えん……DVD買うわ……。かつては自己紹介を放棄さえしたシュンシュンがバッチリ最後のあの曲げた肘を上にガッ!と上げる決めポーズを見てウォウウォウ泣きました。
何の因果か2021年秋に2014年夏・冬のアニメを観たわけですが当時ではなく今の自分だからこそ楽しめたのかな、という気もします。会うべくして会った作品ですね。あと視聴させてくれた友人に感謝。そしてクラウドファンディングに参加し素晴らしい作品を起こしてくださったオレンジの皆様にも感謝です。この作品は一生語り継いでいきたい……認知症になってもこれだけは忘れたくない……。
色々と書きたいことが無限にありますが、自分から見たキャラクターがどんな印象かをちょっとだけ綴ります。読まなくていいです。
☆風見颯(カケル):逢坂良太
「君の宇宙は、僕の宇宙。僕の宇宙は、君の宇宙。つまり僕は君に夢中!夢をカケルよ、風見颯。高校二年生の十七歳です!」
良くも悪くも自己主張のない、空っぽな男の子で、言い換えれば無限の可能性を秘めた何物にもなれる存在でもあります。これといって夢も野心もなくただ何となく流されるようにシャチョウのスカウトに乗り、戸惑いながらも精一杯彼なりにアイドルであろうとしていますが、センターに選ばれたのは彼のその性格によるものでしょう。
シャチョウから見て最も神様にも生贄にも近いメンバーが彼だったのでしょう。だって、「自分からなろうなろうとしてなった神様って、何か嫌じゃないですか?」
☆甘木生馬(マッキー):柿原徹也
「座右の銘は、仏恥義理魂。ハンパなことは嫌いです。マッキーこと、甘木生馬、十八歳。夜露死苦。」
高校は同級生に馴染めず中退、家族とは特に関わりなしでハリウッド東京及び少年ハリウッドに自分の居場所を見出します。若干配慮に欠ける部分も見受けられますがその豪勢さが皆の救いにも待っています。センター交代回で見せた熱い涙はかっこよかったです……。
風邪を引いて3日活動をお休みしていた時、台所がぐっちゃぐちゃになっていたので特にお見舞いに来てくれる友人もいないのかな、と���じました。でも24話?でもし少ハリがなくなったらハリウッド東京に残るかと問われた際にバイトでもするかな、と答えていたのは意外でした。特にそこは拘りないんだな……もしかしたらセンター交代を経てシャチョウが言っていたようにセンターだけが自分の居場所ではないと目覚めたのかもしれません。
☆佐伯希星(キラ): 山下大輝
「少し前まで、星の国にいたんだよ。このキラキラが見えますか?君の希望の星になりたい、佐伯希星、最年少、中学三年生の十四歳です!」
キラおめぇ何だかんだでマッキーと息ぴったりよな
☆富井大樹(トミー):蒼井翔太
「世界一のラッキーボーイ。君の運気上昇担当になりたい、富井大樹十五歳、高校一年生です。お守りにしてね!」
確かシャチョウから「誰も傷つかないようにその努力は素晴らしいですがあなたは本当は鋭い棘を持っている、その棘で誰かを傷つけないよう気を付けてください」みたいなこと言われてませんでしたっけ?ど、どの辺りが!?優しくて純粋で、強い意志と思いやりのある素敵な少年です。
トミーは初代少ハリへの思い入れが強く、一部の初代メンバーの「ずっと少ハリでいたい、一生アイドルでいたい」という夢が叶っていないことにショックを受けその分自分達が永遠になろう、ずっとアイドルでいたいと強く願います。彼は施設で育った子なんですがレッスンが忙しくなってきた頃に施設内の幼児から「明日は帰ってくる?明後日は?その次の日は?」と問われます。幼児は施設のルールに則りいつかトミーもどこかへ行って戻ってこなくなるのでは、と不安に思っているのです。しばらく先だよ、とはぐらかすのですがずっと同じところにはいられない──少ハリで散々語られる残酷な現実を一番感じているのも案外トミーかもしれませんね。
☆舞山春(シュンシュン):小野賢章
「笑顔でキュン!怒りんぼにシュン。この八重歯にかけて、君の最後の彼氏になることを誓います。十五歳の高校一年生、シュンシュンこと、舞山春です!」
MPを削る攻撃をしてくるタイプか?
シュンシュンは結構視聴者への与ダメが大きいですよね。やりたくない仕事の毎日にうんざりして他の事務所のオーディションに行くも顔以外評価されなかったり、芸能界から離れた初代メンをかっこ悪いと思ってしまったりイキり散らかして自己紹介を放棄→会場内の空気を凍らせたり自ら出待ちにファンサしに行ったり(書いているだけで胃が痛いです)。……生々しいんですよね、行動のひとつひとつが。元々シンガー希望なのでアイドルにそこまで思い入れがないのかもしれませんが、プロ意識がないというかある意味等身大の男の子だなと感じます。
シュンシュンといえば"夢"が切っても切れないワードですよね。母親からも言われたようにアイドル活動が忙しくなっていくに伴い大事にしていたギターを弾くことはほぼなくなります(2期ではほぼ映っていなかったような……)。元々抱いていた"世界的なアーティストになる"夢はなくなりましたが、夢は形を変えてもいい、可能性は無限にあると気づいてからは吹っ切れたような印象があります。
本当に素晴らしい作品でした。出会えてよかったです。
なお21~26話を完走したのちdアニで『IDOLiSH7』1期も完走したんですが少ハリを経験した後だと解像度が恐ろしいほど上がりますね。全てのアイドルものに手を出すならばその前に少ハリをキメてくれ、と思います。環がファンに騙されるところは『少年ハリウッド』1期16話通過後の私はもうア゛ ア゛ ア゛ ア゛ ア゛ ア゛ ア゛お前お前お前~~~!!お前は本物のファンじゃねェ~認めねぇぞォォォォォ!!!!!!と心で暴れましたからねハイ
ありがとう少年ハリウッド、本当にありがとう。死ぬまで布教し続けます。
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kkv-main · 4 years
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MAGAZINE - 2020.01.27
JAGATARA アケミ30年目の追悼『おまえはおまえの踊りをおどれ』
90年1月27日にアケミが亡くなってから30年、つい先日からJAGATARAの音源がサブスクリプションでも聴けるようになり、主要アルバムがアナログで再発もされた。そして今日、渋谷のクアトロではJAGATARA 2020としてライブが行われる。80年代の日本でひときわ異彩を放った彼らの音楽はバブル景気に湧く日本で違和感を感じていた人々を強烈に惹きつけていた。本書はメンバーや当時の関係者のインタビューを中心にもう一度JAGATARAがどんな存在だったのかを捉えようとする企画だ。あれから30年、当時を知る者には今も響き続けるアケミの「なんのこっちゃい」という言葉が本書をきっかけにこれからJAGATARAの音楽に出会う世代にもいまこそ伝わって欲しい。
彼らの音楽に強く影響をうけたひとりとしてJAGATARAの思い出を書いてみる。
与田太郎
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JAGATARAの思い出〜1987年の冬
JAGATARAとの出会いは1986年、最初に見たライブは渋谷のライブインだった。次がたぶん11月3日武蔵大学の学園祭、ちょうど二十歳だった僕はその時のステージにノックアウトされてしまった。それまでパンクやニューウェーブな���のロックしか聴いてなかった耳に大編成のファンク・ビートはあまりにも新鮮で、なによりアケミの歌がどんなパンク・バンドよりもリアルに響いた、歌詞の一節一節が正面から語られる嘘のないモノローグのように思えた。せっかくのダンス・ビートも踊るという経験のない当時の僕にはどうしていいかもわからず、ただステージに突進して「アケミー!」と叫ぶだけだったのだけど。
翌87年の3月、『裸の王様』を発売日に買ってから、僕のJAGATARAイヤーが本格的にはじまる。僕は当時大学の学園祭を企画するサークルに所属しており、その年自分の企画にJAGATARAを呼ぼうと動きはじめた。当時学園祭のコンサートはインディーズ・バンドをブッキングする大学が多く、早稲田、駒沢、明治、法政、横浜国立、神奈川大学あたりは毎年ラインナップを競っていた。僕が企画していた明治の生田祭は11月23日の勤労感謝の日とその前日の2日間、学園祭シーズンの最終日にあたる。そこでどれだけ面白い企画ができるかを考えるのだが、僕はこの年JAGATARAとばちかぶりの共演を企画した。ばちかぶりは初期の色物的なパンクから揃いのスーツを着たファンク・バンドになっており、JAGATARAとの共演は絶対に話題となると思った。それから夏休みが終わろうとしていた9月中旬、8月に渋谷エッグマンで解散ライブをやったローザルクセンブルグのどんとが新しいバンドのデビュー・ライブをやらせてほしいという連絡がきた、そのバンドがボ・ガンボスだった。最高のラインナップだがJAGATARAとの交渉はほんとに難航した、ギャラがこちらの予算の倍だったのだ。さらにこの年7〜8本は学園祭がブッキングされているという。学校から企画予算がでる学校ならいざしらず、こちらは会場費こそないが純粋な興行で音響も照明にも経費はかかる。しかも前日には法政でフリー・コンサートというスケジュール。何度かJAGATARAのオフィスを訪ね、マネージャーに駄々こねるようにしてお願いをした、さぞ迷惑だったのではないだろうか。その甲斐あってようやくOKもらえたのが9月の終わりごろだったと思う。しかしボ・ガンボスの出演により予算は完全にオーバー、それでも決行できたのは翌日の企画がソールドアウトを見込めたからだった。  
実は当日のことはそれほど覚えていない。主催の責任者としてあまりにもバタバタしていたこともあり、ばちかぶりのステージの途中、モニターの調子が悪くドラマーがステージから出て行ってしまったこと、そして動員もそれほどではなかったことをおぼろげながら覚えている程度だ。この年、自分にとって忘れることができないのは前日の法政学祭野外ステージのJAGATARAだった。
87年は5~6回はJAGATARAのライブを見ていた、いやむしろアケミの様子を熱心に追っていたというほうが正しいのかもしれない。というのも、この年彼らの演奏はどのライブも素晴らしかったと思うのだけど、自分にとってはアケミの歌が突き抜けるかどうかでライブの印象がまったく違ったものになっていたからだ。時にアケミはなにかに迷っているようで、どこか居心地のわるそうな印象を受ける時があった。もちろん僕はJAGATARAの曲で盛り上がりたかったが、それ以上にアケミが心の底から力強く歌う姿を見たかったんだと思う。  残念ながらこの年最高のステージは自分の企画ではなく、11月21日法政大学市ヶ谷校舎のフリー・ライブ、その日はゼルダとパンタが共演だった。 JAGATARAがステージに上がったのは22時近かったんじゃないだろうか。日中はそうでもないが、日が落ちるととたんに冷え込む晩秋の夜、乾燥した空気とお祭りの賑わいのなかのJAGATARAのステージは素晴らしかった。アケミは迷うことなく、いきいきと歌詞に込められたメッセージを伝えようとしていた、彼のそんな姿はひさしぶりだった。本編ラストの「みちくさ」の熱気の凄まじさ、そしてアンコールの「タンゴ」。あのステージ前のコンクリートの広場はそのまま歌詞にある都会の片隅だったし、見上げた空は暗くEBBYのギターがどこまでも響くようだった、おもわず込み上げてくるものを抑えようとステージに向かった。すべての演奏が終わった後、校舎の屋上からしょぼい打ち上げ花火があがった、そこまで含めて完璧な夜だった。あれから30数年たったというのに、この夜のことは匂いまで覚えてるような気がする。
バブル経済で盛り上がった80年代後半、アケミの歌は「おまえらなんにもわかっちゃいねえ」という思いを世の中だけでなく、自分たちにも向けていたのだと思う。30年たったいま、またそのメッセージの正直さはより���く響く。生田祭のステージが終わり、JAGATARAの機材車も出発しようという時、メンバーからも離れひとりで大教室のすみにポツンと座っていたアケミに僕はひとことお礼とメンバーのみんなが出発する旨を伝えると、「おれは電車で帰るよ」といって楽屋になっていた大教室をひとり後にした。
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sorairono-neko · 4 years
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I miss you.
 ヴィクトルはうっすらと目を開けた。ほとんどまどろみながら寝返りを打ち、腕の中にあるはずのぬくもりを抱きしめようとした。何も手にふれなかった。彼は手を差し伸べ、敷布の上をそっと探った。それからはっとまぶたをひらき、急いで起き上がった。ふとんが落ちて背があらわになる。しっかりとした筋肉に覆われた背中には、左右に赤い筋がいくつかはっきりとついていた。しかしヴィクトルは痛みに構いつけず、ベッドから飛び降りて扉へ走った。 「勇利!」  乱暴に戸を開け、廊下へ出る。 「勇利! 勇利!」  台所に入ると、ヴィクトルの絶望的な声に驚いた勇利が振り返った。 「なに? 朝から騒々しい……」 「勇利……」  ヴィクトルはほっと息をついた。勇利は真っ白いシャツに、ヴィクトルがよく「ダサい」と批評するジャージのパンツという姿で朝食をつくっていた。 「もうちょっと待って。あとすこしだから……」  勇利は目を伏せながら言った。 「それより、素っ裸なのをどうにかしてよ。まったくもう……」  ほんのりと頬を赤く染めて勇利が苦情を述べる。彼が着ているシャツはヴィクトルのものだ。大きくてだぶついている。ヴィクトルは胸が痛くなり、勇利に近づいて彼を抱きしめた。 「ちょっと、話聞いてた?」 「ああ……」  ヴィクトルは勇利の肩口におもてをうめ、額をすり寄せた。勇利が苦笑を浮かべてヴィクトルの髪を撫でる。 「早く何か着て。風邪ひくよ」  ヴィクトルが身支度を終えて戻るころには、食卓の上に美味しそうな朝食ができあがっていた。ヴィクトルは無言で席につき、挨拶をして食べ始めた。 「ジャム? バター?」 「バター」 「はいどうぞ」  勇利はほほえみ、すみのほうで食事しているマッカチンを眺めている。ヴィクトルは黙ってパンを口に入れた。 「どうして何も言わないの?」  勇利が笑みをヴィクトルに向けた。ヴィクトルの胸はずっと痛んでいた。ゆうべ、いつもより激しく、熱烈に勇利を抱いたときから苦しかった。いや……、もっと前から。どうして勇利は笑っていられるのだろう? 「きみに捨てられる」  ヴィクトルはぽつりとつぶやいた。勇利が困ったように笑った。 「なに言ってるんだよ」 「俺を捨てて日本へ帰る」  ヴィクトルは反抗的に言った。勇利は答えずにスープを飲んでいる。 「俺を愛してないのか?」 「好きだよ」 「それなのに俺をひとりにするのか。俺をロシアにほうり出して、勇利は勇利の好きなようにするわけだ。俺とマッカチンはどうすればいい? 勇利がいなくなったらすぐによわってしまう」 「大丈夫だよ。ヴィクトルは強いから」 「そんなのは幻想だ。勇利が勝手に俺に押しつけた役割だ」  勇利はサラダを口に入れ、ゆっくりと咀嚼してからヴィクトルを見た。 「さびしい?」 「さびしい」  ヴィクトルは勇利に顔を近づけた。 「勇利はさびしくないのか?」 「さびしいよ」 「おまえは俺と離れて平気なのか? 俺がいなくても生きていけるのか? 俺を愛しているなんてうそだろう。本当は、俺のことなんかぽいっと捨てていけるんだ。美女が色男を捨てるみたいにね。そうだろう」 「ヴィクトル、落ち着いて」 「なぜ勇利は落ち着いていられるんだ。俺がこんなに苦しんでいるっていうのに!」 「わかってたことでしょ。もうきめたって言ったじゃない」  勇利は物穏やかにつぶやき、トーストに赤いジャムを塗った。 「どうしようもないんだよ……いまさら」 「遅くなんかない」  ヴィクトルは必死に言った。 「やっぱりやめよう。ここにいてくれ。離れたくない」 「無理だよ」 「俺がかなしんでも平気なのか? 俺を愛してないのか?」 「愛してるよ……ヴィクトル、おねがいだからそんなこと言わないで……」 「勇利はひどい」  勇利はそっとかぶりを振り、あえかな息をついた。 「俺のことなんてぜんぜん考えてくれない。本当は俺から離れられてほっとしてるんじゃないか? 日本へ帰ったらせいせいするだろう」 「ヴィクトル」  勇利はそっと目を上げると、せつなげにヴィクトルのことをみつめた。ヴィクトルの胸は引き絞られた。勇利の瞳は、いつも通り、「貴方を愛している」と訴えていた。しかし勇利は日本へ帰るのだ。ヴィクトルを置いて。 「……ごめんなさい」  勇利のやるせなさそうな謝罪に、ヴィクトルはかえって苦しくなった。そんな言葉はいらない。ただそばにいて欲しかった。だが勇利は、一度きめたことはやり通す。彼がここに残る望みはない。ヴィクトルは明日からひとりなのだ。  ヴィクトルがソファでマッカチンを撫で、ぼんやりしているあいだに、勇利は手早く朝食の後片づけをした。ヴィクトルの視界には、勇利が部屋から出してきたトランクがあった。あれをいますぐどこかへ捨ててやろうかと思った。燃やしてやりたい。そうしたら勇利は帰れまい。ずっとここにいてくれる。 「冷蔵庫に残ってるものは明日までに食べてね」  勇利がそばにやってき、隣に座った。 「洗濯物は昨日全部きちんとしておいたから。ヴィクトルは自分でするとき、乾燥機に入れたまま忘れちゃうからね。気をつけて」 「勇利が気づいてくれればいい」  勇利はかなしそうにほほえんだ。 「牛乳の期限はちゃんと見て。おなかを壊すよ」 「勇利が気をつけてくれればいい」 「マッカチンのごはんは入れすぎちゃだめ。食べさせすぎ厳禁だよ」 「勇利がしてくれればいい」 「電話にはちゃんと出て。ぼんやりしてるとヤコフコーチに怒られるよ。仕事もきちんとね。下着とか靴下はいちばん上のひきだし。ないないってあちこち探さないで」 「勇利が……」 「ぼくがいなくてもちゃんと寝て、ちゃんと起きて」 「…………」 「ぼくが……、」  勇利はささやいた。 「ぼくがいないからって、何もかも投げ出したりしないで……」 「勇利」  ヴィクトルは勇利を抱きしめた。 「いやだ。いやだ……行かないでくれ……」 「ヴィクトル……」 「離れたくない。そばにいて欲しいんだ。耐えられない……」 ���…………」 「勇利がいなくちゃ、俺は……」  勇利は手を伸べ、そっとヴィクトルの背を撫でた。わかっている。もう何度も話しあったことだ。ヴィクトルもうなずいたし、それが勇利のためだと理解している。どうしようもない。  けれど、でも──いやなのだ。勇利と一緒にいたい。離れたくない……。 「……そろそろ行かなくちゃ」  勇利が優しくヴィクトルの胸を押した。けなげな甘い瞳でさびしそうにヴィクトルをみつめる。 「ごめんね、……ヴィクトル」  勇利は部屋へ行くと、着替えを済ませ、洗濯室にヴィクトルのシャツを持っていった。あれを俺が洗濯するのか。勇利がいた痕跡を俺が消す……。ヴィクトルは胸が苦しかった。 「送るよ」 「……ありがとう」  勇利を車で空港まで送るあいだ、ヴィクトルはひとことも口を利かなかった。何か言ったら言葉があふれだし、行くな、俺のそばにいろ、絶対に離さない、とわめいてしまいそうだった。勇利は窓にばかり顔を向け、頬杖をついていた。彼もヴィクトルを見たら泣いてしまうのかもしれない。そんなかたくなさが感じられた。  大勢の人々が行き交う空港のロビーで、勇利はヴィクトルをまどかな目で見上げて控えめに言った。 「ここでいいよ。長く一緒にいるとつらくなるし」  決心がにぶるということだろうか。だったらずっといて気持ちを変えさせたい。 「あんまり裸でうろうろしちゃだめだよ」  勇利は最後だというように無理に笑った。 「ごはん、ちゃんと食べて」 「…………」 「ヤコフコーチを怒らせないようにね」 「…………」 「それから……」 「勇利」  ヴィクトルはたまらず勇利を引き寄せ、力いっぱいかき抱いた。 「やっぱり行くな。行かないでくれ」  ヴィクトルは絞り出すような声でささやいた。 「行かないでくれ……」 「ヴィクトル……」 「いやだ。いやなんだ。そばにいてくれ……」 「…………」 「愛してるんだ……」 「ヴィクトル……」 「行くな」  勇利はいちずで純粋な瞳でヴィクトルをまっすぐに見た。彼はヴィクトルの頬にためらいがちにふれた。彼の可憐なくちびるから、ぽろりと言葉がこぼれた。 「好き……」 「勇利」 「もう行くよ」  搭乗の知らせが流れていた。勇利はヴィクトルから離れると、足元に置いていたトランクをつかみ、にっこりと笑った。 「じゃあね、ヴィクトル……」 「勇利」 「どうもありがとう」  勇利は、泣き顔は見せたくないというようにさらにほほえんだ。ヴィクトルは笑えなかった。勇利はさっときびすを返した。彼は一度も振り返らなかった。泣き虫の勇利は、ヴィクトルよりずっと強いのだった。  ヴィクトルは勇利の背中を見送っていた。胸が苦しい。息ができなくなりそうだ。勇利の姿が見えなくなった。  勇利。おまえをずっと、俺の腕の中に閉じこめておけたらいいのに。  勇利のいない毎日は、単調で色褪せて見えた。退屈などという言葉では生易しい。ヴィクトルの瞳にはすべてがつまらなく映り、何もする気が起きなかった。勇利と歩きながらなんてうつくしいんだとふたりで感心した風景も、いまとなっては味わいもうるおいもない、いかにもそっけないものに思えた。あれほどあたたかそうに見えた自分の家は、冷ややかな、自身を拒絶する場所のように感じられた。好きだった音楽もまったくこころに響かず、聞くのがいやになってしまった。勇利が注意したことを守ろうと思うのだけれど、どうしてもそうすることができなかった。ヴィクトルは勇利と眠ったベッドでマッカチンを抱きしめ、つらい思いで夜を過ごした。食べなければ勇利に怒られるというただそれだけの理由で食べ物を買いに行った。つくる気にはとうていなれなかった。勇利とふたりで料理をした台所でなんて働けなかった。ヴィクトルは総菜を見てまわり、勇利の好きそうなものをみつけると、勇利に買っていってあげよう、と思いつき、次の瞬間、勇利はもういないのだと思い出して苦しんだ。ひとりぶんの食事をどうにか確保し、帰途へ着いたら、花屋がたくさん目についた。勇利に買ってあげようとまた思い、その必要はないのだと気がついてうつむいた。 『これ、ぼくに? ありがとう。綺麗だね』 『わあ、美味しそう。こぶたにならないように気をつけないと』 『どこに売ってたの? 今度一緒に買いに行こうよ』 『ヴィクトル』 『ねえ、ヴィクトル……』  何もしたくなかった。ヴィクトルは昼間は機械的に行動し、夜はソファでぼうっとした。あるべきものがないのだ。勇利がいなくなってから。この家のいたるところに勇利の思い出があり、あれは勇利が寝惚けてぶつかった壁、あっちは花瓶の水をこぼした床、これは図書館のようだと言った本棚、と数え上げてしまう。勇利と親密に過ごしすぎて、思い出すことが多すぎた。 「勇利……」  勇利のところへ行きたかった。彼のいない生活なんて耐えられない。 「どうして俺を捨てたんだ……」  愛していると言ってくれたのに。あんなに熱烈に抱きあって、くちづけを交わし、想いを確かめあったのに。 「なぜ、俺を……」  ヴィクトルは膝に額を押し当てた。マッカチンが心配そうに寄り添った。 「勇利に会いたい……」  勇利のやわらかな笑顔が見たかった。彼の優しい声が聞きたかった。勇利を……。  勇利を、この腕に抱きしめたかった。  日本へ戻ってしばらくは慌ただしかった。勇利は無我夢中で過ごし、ようやくすこしくつろぐことができるようになった。長谷津は変わっていなかった。まったく同じだった。勇利がヴィクトルとロシアで暮らしているあいだも、ここにはずっとなつかしい空気が流れていたのだ。それは帰郷した勇利を優しく迎え、包んでくれた。そう。同じだ。あのころと。  ……ヴィクトルがいたころと……。  町を歩けば、「先生はどがんしたと?」「今日はヴィクトルはおらんの?」と尋ねられる。勇利はそれがつらかった。笑顔で「うん、いないんだ」と答えるのは身を切られるような苦しみだった。こんなふうにヴィクトルと離れることになるなんて、思ってもみなかった。ロシアへ行ったばかりのころは……。 「……ヴィクトル」  勇利の目に涙が浮かんだ。ヴィクトルが恋しかった。彼に会いたかった。抱きしめてもらいたかったし、優しいキスが欲しかった。ヴィクトルはいつもすてきに笑い、勇利にいろんなやり方で愛をささやいたものだった。それは言葉だったり、しぐさだったり、まなざしだったり、……情熱的な愛撫だったりした。勇利はヴィクトルの愛を一身に受け、しあわせな日々を過ごしたのである。長いような、短いような時間だった。だが、このうえないすばらしい毎日だった。いまヴィクトルは勇利のそばにおらず、彼を感じることはできない。  ヴィクトルの部屋に入る勇気がなかった。初めて長谷津へ来たとき、ヴィクトルはそこを「こぢんまりしててクラシカルな部屋だね」と批評した。ロシアのヴィクトルの家はひろくてしゃれていて、すてきだった。しかしヴィクトルは幾度も言っていた。 『長谷津が恋しいよ』 『あの部屋でまた過ごしたい』 『勇利とふすま一枚をへだてて眠りたい』  彼は、「いまなら一緒に寝たくなって、勇利の部屋へ押しかけるかも」といたずらっぽく笑ってもいた。勇利も笑顔で「ぼくのベッドは狭いよ」と言った。しかし、ヴィクトルのいないベッドは、果てしなくひろく感じられた。ヴィクトルとともに眠る大きなベッドよりもずっと……。  長谷津は、どこもかしこもヴィクトルとの思い出だらけだった。家はヴィクトルと住んだ家だし、リンクはふたりで長く過ごした場所だった。町にはよく買い物に行ったし、長谷津城のほうは鍛錬場だった。どこもヴィクトルがいなければおかしく、ヴィクトルと訪れなければさびしいばかりだった。  勇利はリンクへ通い、熱心にスケートに打ちこんだが、何か上手くできたときはリンクサイドを振り返り、「ヴィクトル、よかったでしょ!?」といつも言ってしまった。自分のプログラムをすべろうとしても、気がつくと「離れずにそばにいて」を踊っている。どうしようもない。ヴィクトルがいなければ……。  リンクの真ん中から、いつもヴィクトルがいた場所をみつめた。 『思い出してみるんだ。恋人に愛されたこと』 『最高のテーマだね』 『勇利、曲名決めてなかったけど、どうする?』 『見たいね!』 「……ヴィクトル」  勇利は両手でおもてを覆った。こんなところにはいられなかった。ひとりではいられない。ここはヴィクトルとふたりの場所だ。  耐えきれず、建物の外へ逃げ出した。ヴィクトルとの思い出がないとこ、と考え、そんなところはひとつもないし、そんな場所へは行きたくもないのだと気がついた。矛盾している。ヴィクトルと親しんだところはつらくてせつない。しかし、ヴィクトルを思い出せない場所へは行きたくない。  勇利は町をさまよい歩いた。ヴィクトルと歩んだ道をたどった。商店街も、コンビニエンスストアも、田んぼのあぜ道も、ひとりで訪ねた。町を見晴るかす長谷津城でベンチに座り、ヴィクトルとの最初の練習を思い出した。勇利は緊張して彼とまともに話せなかった。ヴィクトルは一生懸命勇利の気持ちをやわらげようとしていた。彼は写真を撮ってと言い、その写真は世界じゅうをかけめぐって……。  なつかしかった。あのとき自分はヴィクトルがそばにいることが信じられず、これは現実なのだろうかと半信半疑だった。しかしいまは、ヴィクトルがかたわらにいないことが信じられない。 「ヴィクトル……」  勇利の目に涙が浮かんだ。勇利は泣き虫だからね、と笑うヴィクトルの顔が思い出された。勇利は立ち上がり、とぼとぼと歩いてリンクへ戻った。スケートをしているときがいちばんヴィクトルを感じられた。勇利は夢中ですべった。「エロス」はヴィクトルが初めてくれたプログラムだった。「Yuri on Ice」はヴィクトルと出会ってから知ったすべての愛を表現した曲。そして──、「離れずにそばにいて」。ヴィクトルとめぐりあうことになった、大切な曲だ。これは勇利のプログラムではないけれど、自分のものと同じくらい身近でいとしい、愛の感じられるプログラムだった。  ああヴィクトル。どうして貴方はそばにいないの。あんなに愛してくれたのに。愛していると言ってくれたのに。離れたのはぼくだ。そんなことはわかってる。でもつらいんだ。貴方にそばにいてもらいたい。抱きしめて、キスをして、愛してるよとささやいて、ぼくを貴方のものに──。 「勇利!」  最後の天を仰ぐ姿勢で静止していた勇利は、その呼びかけに、はっと我に返った。信じられなかった。幾度となく聞いた、あたたかな、はかりしれぬ愛のこもったいとしい声だ。ヴィクトルの水際立った、優しい声──。  勇利は振り返った。ヴィクトルが氷に足を踏み出すところだった。目を疑った。ヴィクトル──ヴィクトル? ぼくの��ィクトル? 「勇利!」  ヴィクトルがすべり出した。勇利も彼に向かって駆け出した。 「ヴィクトル!」 「勇利!」  ヴィクトルはうれしそうに笑っていた。しかし勇利は笑えなかった。泣き出してしまった。勇利は勢いよくヴィクトルにぶつかり、彼に抱きついて胸に顔をうめた。 「ヴィクトル……!」  涙があふれ、ヴィクトルのシャツを濡らした。ヴィクトルは勇利をきつく抱きしめ、「ああ勇利、俺のかわいい勇利」とささやいた。  勇利は混乱のあまり、自分を見失っていた。ただヴィクトルにすがりつき、ヴィクトル、ヴィクトル、とくり返した。ヴィクトルは勇利の髪にキスし、勇利におもてを上げさせると、顔じゅうに接吻した。 「ヴィクトル」  勇利の声は涙に濡れていた。ヴィクトルはくちびるにくちづけた。勇利は目を閉じた。あたたかく、愛情深いキスだった。夢中でくちびるを押しつけた。 「……俺の勇利」  ヴィクトルが熱っぽくつぶやいた。勇利の身体はふるえていた。止まらなかった。 「会いたかった……」 「……ぼくも」 「勇利のことを考えない日は一日もなかったよ。何をしていても勇利のことばかりだった。勇利……」 「ヴィクトル、もっと強く抱いて」 「大事な俺の勇利。俺の最愛。俺だけの、得がたい天使……」  勇利はヴィクトルの胸に頬をこすりつけた。ふたりは身を寄せあい、視線を合わせてはくちづけを交わし、互いがどんなに必要か、どれほど愛しているかを、目で、しぐさで、キスで伝えあった。 「ヴィクトル……」 「ごめんね、何も言わずに」  ヴィクトルはいたずらっぽく笑った。 「どうしても会いたくなって……、我慢できなかったよ」  勇利は伸び上がってまたキスをした。 「驚いた?」 「驚いた……」 「うれしい?」 「うれしい……」  勇利はあえぐように言った。 「なんにも手につかなかった……頭の中はヴィクトルのことばっかり……ずっとヴィクトルの思い出をたどって、ぼく……」  勇利はヴィクトルにすり寄り、甘えてねだった。 「ね、ヴィクトル……ぼくと町じゅう歩いて……」 「うん?」 「ヴィクトルがいない長谷津はさびしくてつらかった……貴方がいなきゃだめだよ……」 「もちろんいいよ。一緒に行こう。どこへでも。またこのリンクでもふたりで過ごそうね。でも……」  ヴィクトルは、きらきらと輝く愛情いっぱいの瞳で勇利をみつめた。 「まず行きたい場所は……」 「なに?」 「俺の部屋のベッドかな……」 「疲れてるの?」  それは大変だと勇利はリンクから出、スケートシューズを脱いだ。そのあいだも、ふたりの手はずっとつながっていた。不便でも離したくなかったのだ。 「そうじゃない」  ヴィクトルは勇利の耳元にくちびるを近づけ、ひそやかにささやいた。 「ふたりで寝たいねってことだよ……」  勇利は目をまるくした。 「思いきり勇利をかわいがりたい……、いいだろう、勇利……」  勇利はまっかになり、ヴィクトルをにらみ、それから彼に勢いよく抱きつくと、純真な瞳をヴィクトルに向けて、舌足らずに言った。 「うん。いっぱい、いっぱい、たくさん……、して」  チムピオーンスポーツクラブのリンクには、今日も多くの生徒が集まっていた。シーズンが終了し、それぞれひと息ついているところなので、まださほど熱心な練習ではない。これからはアイスショーもあるし、国民に名前をおぼえられている選手は、そういった方面での仕事もある。  ミラも取材対応やアイスショーの打ち合わせなど、すこし別のことをしなければならない時期だった。だが、そんな彼女よりはるかに忙しい男がいて、彼はそれでもスケートの水準を保つため、できる限りリンクへかよってくる。皇帝ヴィクトル・ニキフォロフは、才能と努力と情熱を兼ね備えた、スケートをするために生まれてきたような男だった。もっともこの一年は、スケート以外にもこころを捧げていたようだが。いや、一年どころか、さらにその一年前からのことだろう。しかし、それもよい刺激となっているようだ。ヴィクトルは彼が来てからというもの、このうえなく色彩豊かで、感情があふれ出るようなスケートをするようになったのだ。さまざまな意見があるようだが、ミラはいまのヴィクトルのスケートのほうが好きだった。  だが、今日はそのヴィクトルがいないようだ。取材などは入っていないと聞いていたのに。それはなんとなく耳にした情報で、ミラはヴィクトルの予定をすべて把握しているわけではないから、何か変更があったのだろう。 「ヴィクトルはいないのね」  ちょうどユーリがやってきたので、なにげなく彼女は言った。 「取材? 撮影? 忙しいわよね」  適当なあいづちを打ってもらえばそれで終わる話のはずなのに、ユーリはなぜかうんざりしたような目でミラを見た。 「何よ。私、変なこと言った?」 「変なのはおまえじゃねえ。ヴィクトルだ」 「どうしたの?」 「あいつ、日本へ行ったぞ」 「え? なんで?」  反射的にミラは尋ね、すぐに思い直した。 「今日からだっけ?」 「ちがう。でも行ったんだ」 「どうして?」  ユーリは深い溜息をついた。 「あいつがヤコフに必死に訴えてるところを見ちまった……」 「何を?」 「カツ丼がいなきゃ死ぬって」 「は?」  ミラはぽかんとした。 「もう我慢できない、俺は日本へ行く、そのために詰めこんで仕事も片づけた、何も問題はないはずだ、つってものすごい勢いで出ていったぞ」 「それいつの話?」 「昨日」 「だって……」  ミラはつぶやいた。 「……どうせ、来週から日本でしょ?」  そう聞いている。ヴィクトルは今週いっぱいはロシアにおり、それから日本へ発つのだと。オフシーズンを勝生勇利の故郷で過ごし、あちらでアイスショーに出演し、ヴィクトルと勇利それぞれのプログラムを練ってくるのだ。 「仕事の都合で、カツキのほうがさきに帰国したんでしょ? 四日……三日前だっけ?」 「そうだ」  ユーリは疲れたような顔をしていた。 「ヴィクトルはただ一週間遅れっていうだけでしょ? すぐ会えるんでしょ?」 「その『すぐ』が待てなかったんだ」  ユーリはゆっくりとかぶりを振った。 「たったの一週間もひとりでいるのが耐えられないって、いったいどういう感覚なの?」  ミラはこれまでさんざん、「一緒にいなかったら死ぬのね」「目を合わせないと息ができない病気なの?」「身体の一部がふれてないと心臓動かないんじゃない?」とふたりをからかってきたのだが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。自分の発言は、あながちまちがいとも言えないようである。 「まあ想像がつくぜ……」  ユーリはやっていられないというように吐き捨てた。 「どうせ離れるときも、今生の別れみてーな気色のわりい雰囲気出してやがったんだろ……」 「……でもカツキが止めるんじゃない? あきれるというか。さすがに」 「おまえはあいつらを甘く見すぎだ」  ユーリが厳しく言った。 「けど、普段わりとそっけないところがあるじゃない」 「あんなのカツ丼の性格がおかしいだけだぞ。あいつだってヴィクトルに負けず劣らずとち狂ってるし、ヴィクトルヴィクトルって頭やべえんだよ」 「そうか……そうね……」  確かに勇利は、ヴィクトルを適当にあしらうこともある。だが、そうでないときは、とにかく乙女もこれほどだろうかという目つきでヴィクトルをみつめ、とろけきっているのである。めろめろのとろとろだ。 「ったく……ばかばかしいぜ……」 「本当に、離れたら死ぬのね……」  それならば、相当にせっぱつまって会いに行ったのだろう。いまごろ再会しているころだろうか。どうせ、生涯会えないと思っていた相手と、困難を乗り越え会うことができた、というような雰囲気たっぷりの逢瀬をしているにちがいない。ミラは笑ってしまった。 「三日しかもたなかったのね……」
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金閣寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年���後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュメンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史とその庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートルです。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
デヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋に泊まり、撮影は嵐山にある松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
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『一流と日本庭園』  生島あゆみ 著  CCCメディアハウス  
正伝寺  京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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sasakiatsushi · 6 years
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言葉と物と音について ー一多和田葉子とカールステン・ニコライ一一
 文字は数字になり、数字は点になる。 「ラビと二十七個の点」
 多和田葉子と「音楽」との関わりといえば、彼女と同じドイツ在住のジャズ・ピアニスト高瀬アキとの長年に渡るコラボレーションがつとに有名である。二人は日本、アメリカ、ドイツなど数カ国で朗読+ピアノのジョイント・ツアーを行なっている。だがもうひとり、あるドイツ人ミュージシャンと共同で一枚のコンパクト・ディスクを発表していることは、おそらくほとんど知られていないのではないか。yoko tawada + noto名義で一九九九年にリリースされた『13』がそれである。  ノトことカールステン・ニコライ(Carsten Nicolai)は、美術と音楽という異なる二つの領域と、両者を横断する「サウンド・アート」と呼ばれる分野において、近年めざましい活躍を続けている人気アーティストである。美術家としては、日本を含む世界各国で個展が催されており、ドクメンタを始めとする国際的に著名な展覧会にも度々参加している。音楽の世界では、ノトもしくはアルヴァ・ノト(alva.noto)名義で数多くの優れた作品を発表しており、エレクトロニカと総称される現在の電子音楽の一潮流において、シーンの最前線を牽引する存在として高い評価を受けている。『13』はニコライ自身のレーベルから限定盤CDとしてリリースされたものである。  筆者の知り得た限りでは、日本語で刊行されている多和田葉子の文章で、この作品に触れたものは存在していない(どういうわけか公式サイトのビブリオグラフィーにも載っていない)。それゆえ、どのような経緯で二人が知り合い、共同作業をすることになったのかは今なお不明なのだが(筆者はニコライ本人から直接CDを貰ったのだが、馴れ初めについては聞き損ねた。だがニコライが作家多和田葉子のファンであったことは間違いない)が、この一度限りの試みは、多和田葉子の「言葉」の特異な有様を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれるように思う。
 高瀬アキとのコラボレーションに関しては、多和田葉子は何度か書いている。たとえば「音楽と文学の境界を越えて、などといかにも新しいことのように言うのは正直言って恥ずかしい」などと言いながらも、言葉と音楽との出会いを、繊細かつ緻密に描写した以下の文章。
 音と言葉のパフォーマンスでは、ピアノの即興演奏と詩の朗読が同時進行するのだが、この同時進行というのは「あわせる」というのとはちょっと違う。わたしは、足の親指から喉までの領域は音楽に聞き入って音楽に応えながらも、舌から脳に至る区域は言葉の意味を追って進む。あるいはピアノの方に向いた左半身は音に向かって発熱させ、右半身はテキストの中に沈み込ませようとしてみる。すると、自分というものが二つに分裂して大変気持ちがよい。両者の間には溝がある。半分は言葉の世界の外に出ていて、半分は中に入っているような気持ちでもある。もちろん、つながりもある。しかし、そのつながりは、歌のメロディーと歌詞の間の関係のようにべったりしたものではない。両者は不思議な空間を屈折して進む振動によって、間接的に繋がっている。あるいは分離している。そうでなければ、「音楽に合わせて読んでいる」ことになってしまう。 「フライブルク一音楽と言葉」『エクソフォニー 母語の外に出る旅』
 フリーの即興演奏と、詩人や小説家による朗読のパフォーマンスという組合せは、特にヨーロッパにおいては、とりたてて珍しいものでは��いが、その際に現場でリアルタイムに起こっている、実のところかなり錯綜した、ある種の「戦い」にも似た事態を、この文章ほど見事に解き明かしているものはない。だがしかし、ここに記されている音と言葉の交感の明晰かつ詩的な自己分析は、ノトとの『13』の場合は、ほとんど当てはまらない。  『13』には一九分二五秒の長いトラック一曲のみが収録されている。最初に音楽抜きで「ヨーコ・タワダ、ドライツェーン(DREIZEHN=13)」と無造作にタイトルが告げられ、一拍置いてから、ノトのトレードマークである厳密に構成された電子音が、ミニマルでモノトナスなパルス=リズムをゆっくりと刻み出し、数秒の後に朗読が始まる。言葉が読まれる速度は非常に速く、切れ目もほとんどない。バックのサウンドにメロディ的な要素は皆無であり、朗読の調子も、極度にストイックで無機質なサウンドと同様に、ほとんど機械を思わせるような無表情さをひたすら保ち続ける。  朗読されるテクストは、題名の通り、十三の断片に分かれており、最初から九番目までがドイツ語、残りの四つが日本語で読まれる。内容はほぼ「詩」と呼ぶべきものであり、脈絡を断ち切られ縫合されたアブストラクトな言葉の連なりが、奇妙にコミカルな雰囲気を醸し出す。日本語によるパートの最初の断片は、たとえばこんな具合である。
 まくらするならだれもいないんでよなきするまくらしらないスリッパ あさおきるのがつらいんでいぬのとおぼえまねしているのがやかんねっとうそれからカーテンのやくそく ゆれながらさゆうにどんどんおおきくふくらんでいってめをあけてもちょくりつするのはだれ めがさめたときのわたし からだがいつものさんばいも (注:原文を参照できない為、CDから聞き取ってひらがなとカタカナのみで表記した)
 自然な抑揚を欠いた、だがいわゆる一本調子とはやはり違う不思議な韻律の、とはいえしかし六を挟む数字で割り切れるようなアルカイックな「日本語」の懐かしさがどこかで谺しているようでもある多和田の朗読。その背景で、エレクトロニックな発信音が整然と流れていく。その単調でマシニックな反復は、人間の「声」の寄り添いによって、初めてやっとかろうじて「音楽」と呼ぶことができるようなものであり、と同時に、そのような「人間」的な要素など、そもそもまったく必要としていないようにも聞こえる。  先のエッセイの続きで、声に出して読むこと=音読という行為(いや、運動と言った方がより正しいだろうか?)が、音楽の演奏と直に掛け合わされることによって、「言葉」が俄かに「音=響き」として浮上してくる驚きについて、多和田葉子は書いている。
 たとえば、「食べたがる」という表現に現れた「がる」という単語などは、「がる、がる、がる」と繰り返してみると分かるが、随分個性的な響きをもっている。ところが、普通に読書している時には、なかなかそのことには気がつかない。「がる」がその前にある動詞から切断されてたっぷり発音された瞬間に、その響きがいわゆる「意味」に還元しきれない、何か別のことを訴えかけてくる。言葉をたずさえて音楽という「もうひとつの言語」の中に入っていくと、そういった言葉の不思議さが自分のテキストの中から立ち現れてきて驚かされる。音楽を通して、言葉を再発見するということかもしれない。 (同前)
 音楽は「もうひとつの言語」である。多和田葉子の朗読と高瀬アキのピアノの共演は、まったく異なる二つの「言語」によって、手探り状態で対話をしているようなものだ。相手の「言語」が及ぼすエフェクトによって、自らが操る「言語」も刻々と異化されてゆくことになる。両者の間に完全な交通などはありえないが(それにもしもそうなったら「対話」の意味もなくなるだろう)、そうであるからこそ、そこにはマジックが生じ得る。  ピアノの音に対峙しながら、口唇から発される言葉は「意味」を脱色され、バラバラの音韻へと分節され、語の響きの肌理が、ざわめきとともに立ち上がってくる。つまり、言葉は「もうひとつの音楽」である、と言っても同じことではないか。「対話」であり「双奏」でもあるような、二つの「言語/音楽」による交通=コミュニケーション(それはもちろん、多和田の言うように「反コミュニケーション的なコミュニケーション」でもあるのだが)。「耳をすましても決して一致はしない、もどかしい、余りだらけの割算をお互いに繰り返しながら、発見を重ねていくことに、音と言葉の共演の楽しさがあるように思う」と、先の文章は結ばれている。  しかし『13』の場合には、そもそも言葉と音はまったくコミュニケーションしていないのではないか。サウンドは無骨にパルスを繰り返す。声は黙々と言葉を発音していく。あたかもそれは二台の機械が互いに無関係に駆動しているさまを見せられて(聴かされて)いるかのようなのだ。「不思議な空間を屈折して進む振動によって、間接的に繋がっている。あるいは分離している」などとは、とても呼べない。それらは繋がっても分離してもいない。そこには厳密な意味で「交通」は存在していない。アコースティックな即興演奏とエレクトロニックな反復音響という違いはあるにせよ、この共演はほとんど異様である。 実際のレコーディングがどのように行なわれたのかは不明だが、多和田葉子はノトと「対話/双奏」していない。  なるほど確かにひとつのポイントは、ノトの「音楽」自体がいわゆる「生演奏」ではない、ということにある。それはあらかじめ録音されたものであり、デジタルに記録されたオーディオ・データが機械的に再生されているのにすぎないからだ(もちろん、ニコライがその場でエレクトロニクスを操っていた可能性もゼロではないが、そのような想定はおよそナンセンスというものだろう)。当然のことながら、音楽がリアルタイムで声に反応JGすることはありえない。だから「交通」があるとしても、それは一方通行でしかない。この考えはまったく正しいが、しかし問題の本質は実はそこにはない。  たとえ既に完成されたバック・トラックをヘッドフォンなどで聴きながら多和田葉子の声が録音されたのだとしても、そのことが朗読にどのような影響を齎したのかは、完成した『13』からは聴き取ることができない。反対に、朗読が事前にレコーディングされており、音楽の方が後から付け加えられたのだとしても、結果はほとんど相違ないのではないかとも思える。つまり、言葉と音の時空間的なズレは、この作品の本質には関係しておらず、むしろこの無関係さこそが問題なのである。多和田葉子とカールステン・ニコライが一度も直接会ったことがなかったとしても、この作品は十分に成立可能であり、言葉と音が完全に別々に録られていようと(筆者はそう思っている)、あるいはそうでなかろうと、『13』の仕上がりには関係がない。そこに厳密な意味で「交通=コミュニケーション」が存在していないというのは、このような意味である。  では結局のところ、多和田葉子とノトの一度限りの共同作業は、多くの豊かな可能性を孕みつつ現在も継続中の高瀬アキとの共演と較べて、いわば試しに行なってみた無味乾燥な実験のひとつでしかなく、そこにはおよそ得るものはなかったということになるのだろうか。なるほど確かにそこでは「音楽を通して、言葉を再発見する」というような体験は、ほぼ皆無であったかもしれない。しかし、そのような言葉と音楽の生産的な交流とはまったく別の次元で、この出会いには明らかな必然が潜んでいたのだと、筆者には思える。そしてそれは何よりもまず、多和田葉子の言葉とカールステン・ニコライの音の「組成」が、極めてよく似ている、両者はほとんど同じ物である、という点に存している。
「私が目的としているのは、幾何学的な体験をするということであって、美的なものを追求していくということではありません」 カールステン・ニコライ
 音楽家としてのカールステン・ニコライは、デュオ・ユニット「cyclo.」として共同制作も行なっている池田亮司などと並んで、しばしば「サイン・ウェイヴ派」などと呼ばれている。「サイン・ウェイヴ」とは、一定の周波数を示す「サイン=正弦曲線」のみで表される「波=音」のことであり、倍音の要素を一切含まないことから、「純音」とも呼ばれる。言うまでもなく、「音」とは空気中の振動という物理的な現象なのだが、あらゆる「音(響)」は、フーリエ変換という数学的なプロセスによって、「サイン・ウェイヴ」の重ね合わせに分解することができる。ニコライと池田は、このような「純音」それ自体を、楽曲の素材として全面的に使用しており、ある意味では「電子音楽」の黎明期に立ち戻ってみせたかのような(既に五十年代にシュトックハウゼン等がフーリエ変換を用いて「サイン・ウェイヴ」による作品を発表している)、彼らのラディカル=原理的=急進的な方法論と、旧来の「音楽」の美学的価値判断を揺るがすような姿勢は、90年代の「テクノ」以後の環境の中で、極めて強力な影響力を持つことになった。  「サイン・ウェイヴ」の特質は、あらゆる「音」の原基を成すものでありながら、それ自体は徹底して人工的なものだということである。自然界には「サイン・ウェイヴ」は存在していない。現実の世界でも、たとえば時報や横断歩道のシグナル等といった限定されたもの以外では、正確な周波数だけの「音」を耳にすることは滅多にない(そしてこのことが「サイン・ウェイヴ派」が音色の点でも新鮮に受け止められた理由でもあるだろう)。いわばそれは「数」としての「音」だといっていい。  ところで、興味深いことに、「音」を「数」として、すなわち周波数の厳密な値として捉えることによって(それゆえ「サイン・ウェイヴ派」は「周波数音楽」などと一ある種の揶揄や批判も含めて一呼ばれることもある)、個々の「音」そのものを、まるで一種の彫刻のように磨き上げたり、ブロックのように連結したりといった、嘗ての「音楽」では考え方自体がありえなかったような作業が可能になった。言い換えればそれは、「音」を「物質的」に扱えるようになったということである。たとえば、1キロヘルツ(ヘルツは周波数の単位)の一秒の「音」は、「数」で表示されるものであるのと同時に、削ったりバラしたり、あるいはつまんだりすることもできるような、一種の「物」でもある。  更に現在のデジタル・テクノロジーは、「音」のサンプリングを一秒の四万四千百分の一(もしくは四万八千分の一)の精度で行なうことを可能にしており(更にいわゆる次世代オーディオではその二倍以上のサンプリング・レートが達成されている)、カ−ルステン・ニコライや池田亮司は、そのようなミクロな「音」の単位で制作を行なっている。比喩的に言えば、「サイン・ウェイヴ」が「音」を水平にバラしたものだとすれば、「ミクロ・サンプリング」は「音」を垂直に切り刻む。そうすることによって「物質」としての「音」が抽出されてくることになる。純粋で超微細な、分子のような,点のような「音」。  「数」であり「物」である「音」。このような意味での「音」は、およそ「音楽」の歴史において、作曲や演奏の俎上には上ってこなかったものである。今なお大半の音楽家にとって、それは「音ー楽」の「音」ではない。ちなみに『13』をリリースしたカールステン・ニコライ自身のレーベルの名称は��noton.archiv fur ton und nichtton(ノートン、音と非=音のための収蔵庫)」という。ノートンとはドイツ語で音を意味するtonに英語のnoを加えた造語であり、ノトというアーティスト・ネームも、ここに由来している。
 言うまでもなく、人間の「声」も「音」であることに変わりはない。「言葉」が「声」として発された瞬間、それは「音」になり、必然的に「サイン・ウェイヴ」の集積に分解され得る。そしてまた、たとえば「食べたがる」の「がる」は、もっと短い「が」の更に何万分の一ものミクロな「音」に分割され得る。このようなマセマティカルかつマテリアリスティックな観点に立った時、『13』における多和田葉子の朗読は、「言葉」としての「意味」を失うどころか、最終的には、ノトが用意したエレクトロニックな「音」との差異さえ消滅させてしまうことになる。「物」としての「音」に区別はありえないからだ。  もちろん、それはあらゆる「音」に関して等しく言えることであり、『13』の多和田葉子の「声」が殊更に「物質的」に振る舞っているわけではない。だが、カールステン・ニコライの「音」に対する幾何学的かつ唯物論的なアプローチは、多和田葉子の「言葉」へのアプローチと、明らかに通底していると思える。そしてそれは、朗読=音読によって生じる「音」としての「言葉」というよりも、むしろ「音」以前の書かれた「言葉」、すなわち「文字」の審級、そして更にその根元に在る「言語」の審級において、そうなのではないか……おそらくカールステン・ニコライは、このことに気付いており、それゆえ二人のアーティストは出会うことになったのではないだろうか?    私はよく、言葉のklangkorperとschriftkorperということを考える。これら��決してよく使われる合成語ではないが、klang(響き)とschrift(文字)は、大変一般的な単語である。それらの単語にkorperを付ければ出来上がり。言葉は意味を伝達するだけではなく、たとえば響きというものがあり、響きそのものが作り出す意味もある。文字についても、同じことが言える。 「からだからだ」『エクソフォニー』
 korperとは「からだ」(この「から」には「空」や「殻」も潜んでいる)の意である。「言葉+響き+からだ」と「言葉+文字+からだ」。「文字」と「響き」とが、同じ「からだ=言葉」の中に入れられる。それはいわば「グラモフォン(「文字」+「音声」/蓄音機)」(デリダ)としての「言語」ということであろう。だが、今や「音声/響き」は「物」でもある。ならば当然、もう一方の「文字」もまた「物」として捉えられなくてはならない。「グラモフォン」はそれ自体、すこぶる唯物論的な装置なのである。  断っておかねばならないが、それはしかし、ただ単に「文字」がインクの分子や、フォントのドットに分解可能だという、言わずもがなのことを意味しているの(だけ)ではない。「言葉」も「音」も「物」である、ということは端的な事実でしかない。だが、カ−ルステン・ニコライが、「音」が「物」で(も)あるという事実を潔く受け入れた地点から、彼の「非=音楽としての音楽」を開始し、旧弊な美学では太刀打ちできない、唯物論的なポエジーとでもいうべき「音響」の世界を切り拓いてみせたように、多和田葉子は、「文字」が「物」で(も)あることを、「書くこと」の始源において絶えず意識しながら(意識させながら)、すぐれて「詩」的でありながらも同時にやたらゴツゴツとした手触りを持った「非=言葉的な言葉」を駆使して、「グラモフォン」としての「言語」をアップデイトさせていると思えるのだ。そしてこの時、ドイツ語と日本語の境界は、もはや意味を成さなくなっている……。
 ここで俄に想起されるのは、ベンヤミンが「翻訳者の使命」で唱えた、あの非常に理解しにくい「純粋言語」なる概念である。
 二つの言語間の親縁性は、歴史的親縁性を除くとすれば、いかなる点に求めることができるだろうか。(中略)むしろ、諸言語間のあらゆる歴史を超えた親縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものが志向されているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものとは、個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち、〈純粋言語(die reine Sprache)〉なのである。 「翻訳者の使命」ヴァルター・ベンヤミン/内村博信訳
 ベンヤミンのもっとも有名な、かつもっとも難解なテキストの一つというべきこの論考は、しかし知られているように、もともとはボードレール『パリ風景』のベンヤミン自身によるドイツ語訳の序文として書かれたものである。であるならば、どれほど高度に観念的な思考が繰り広げられているように読めたとしても(そしてそれは勿論そうなのだが)、しかし一方ではそれは、ベンヤミンその人による具体的な翻訳作業の経験と、より正しく言うならば「翻訳」という行為に内在する紛れもない「物質性」と、密接に結び付いていると考えられなくてはならない。
 ひとつの言語形成物[作品]の意味が、その伝達する意味と同一視されてよい場合でも、意味のすぐ近くにあってしかも無限に遠く、その意味のもとに隠れあるいはいっそうはっきりと際立ち、意味によって分断されあるいはより力強く輝きつつ、あらゆる伝達を超えて、ある究極的なもの、決定的なものが依然として存在する。あらゆる言語とそれぞれの言語による形成物には、伝達可能なもののほかに、伝達不可能な何かがなおも存在するのだ。それが象徴するものとなるのは、ただ諸言語で書かれた有限の形成物においてのみであって、これに対して諸言語そのものの生成のうちにおいては、それは象徴されるものとなる。そして、諸言語の生成のなかでみずからを表現し、それどころかみずからを作り出そう(herstellen[復元する])とするものこそ、純粋言語というあの核そのものなのである。 (同前)
 「象徴するものを象徴されるものそのものにすること」が「翻訳のもつ強力な、しかも唯一の力なのである」とベンヤミンは言う。「純粋言語」という概念は、そのような意味での「翻訳」を可能ならしめるものであり、と同時に、その絶対的な困難の根源に横たわるものでもあるように見える。それは「翻訳」を包含するあらゆる「言語表現」の基底であり、また限界でもあるようなものであり、しかし「翻訳」というあくまでも具体的な行為=運動によって、はじめてその存在を証立てるものとしてある。つまり「純粋言語」というもの自体は抽象的だが、それはいわば「言語表現」の「物質性」の果てしない乗数の狭間から立ち上がってくるのである。
 純粋言語とは、みずからはもはや何も志向せず、何も表現することなく、表現をもたない創造的な語として、あらゆる言語のもとに志向されるものなのだが、この純粋言語においてついに、あらゆる伝達、あらゆる意味、あらゆる志向は、それらがことごとく消滅すべく定められたひとつの層に到達する。 (同前)
 「翻訳者の使命」とは「異質な言語の内部に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語のなかで救済すること」だと、ベンヤミンは述べている。しかし彼は「みずからの言語=母国語」と「異質な言語=外国語」の非対称性について語っているのでは無論ない。当然ながら「みずからの言語」の内部にも「純粋言語」は呪縛されている。ここでの「呪縛」とはむしろ「みずからの」という自明性の中に潜在し隠蔽されている、というような意味なのである。  周知のように、多和田葉子には「翻訳」を主題とする一連の作品群が存在している。中編『文字移植(旧題『アルファベットの傷口』)』を始めとして、短編「大陸へ出掛けて、また戻ってきた踵」、パウル・ツェランを論じたエッセイ「翻訳者の門」など。ドイツ語と日本語を併記した詩��『あなたのいるところだけなにもない/Verlag Claudia Gehrke』もある。  多和田葉子は、彼女が「最も尊敬するドイツ語詩人」だというツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉に関して、次のように述べたことがある。
 「一つの言語で」という時の「一つの言語で」というのは、閉鎖的な意味でのドイツ語をさしているわけではないように思う。彼の「ドイツ語」の中には、フランス語もロシア語も含まれている。外来語として含まれているだけではなく、詩的発想のグラフィックな基盤として、いろいろな言語が網目のように縒り合わされているのである。だから、この「一つの言語」というのはベンヤミンが翻訳論で述べた、翻訳という作業を通じて多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く「一つの」言語に近いものとしてイメージするのが相応しいかもしれない。 「パリー一つの言語は一つの言語ではない」『エクソフォニー 母語の外に出る旅』
 「ベンヤミンが翻訳論で述べた」「一つの言語」とは、言うまでもなく「純粋言語」のことである。晦渋なベンヤミンの文章が一挙にクリアになった感があるが、しかし「多くの言語が互いに手を取り合って向かって行く」という明快な表現を、単純な意味でのポリグロット的な理想像や、あるいは間違ってもいわゆるクレオール的な言語様態への素朴な称揚と捉えてはならない(たとえ多和田葉子がしばしばクレオールへのシンパシーを表明しているとしても)。この文章を多和田葉子はこう結んでいる。
 ツェランを読めば読むほど、一つの言語というのは一つの言語ではない、ということをますます強く感じる。だから、わたしは複数の言語で書く作家だけに特に興味があるわけではない。母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、「外」とか「中」とか言えなくなることもある。 (同前)
 「翻訳者の使命」を司る「純粋言語」なるものは、たとえば「日本語」と「ドイツ語」の「間」にあるのではなくて、それぞれの言語の内部につねに/すでに巣食っているのである。「一つの言語」の中に生成する「複数の言語(むしろ「無数の言語」と呼んだほうが正確かもしれないが)」と、「複数の言語」を貫通する「一つの言語」とは、つまりはまったく同じことを指しているのであり、「それ」すなわち「純粋言語」が露出する瞬間を、「翻訳」と呼んでいるのである。  しかしそれにしても、やはりもうすこし具体的な話にならないものだろうか。ジャック・デリダは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」を論じた講演の中で、「純粋言語」を次のように定義している。
 それは言語の言語ー存在(=言語であること)、そのものとしてのかぎりでの言語ないしは言葉である。すなわち、諸言語が存在するようにさせ、そしてそれらが諸言語であるようにさせるといった、いかなる自己同一性も有しないそういう一者である。 「バベルの塔」『他者の言語  デリダの日本講演』ジャック・デリダ/高橋允昭訳
 ますます具体的から遠ざかったかにも思えるが、必ずしもそうではない。ここにふたたびカールステン・ニコライによる「純粋音響」を接続してみることで、何かが仄見えてくるように思う。だがそのためには「翻訳者の使命」に先立つベンヤミンのもうひとつの奇怪な言語論「言語一般および人間の言語について」を参照する必要がある。  「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語(Sprache)として捉えることができる」と書き出されるこの論考は、したがって「音楽の言語、彫刻の言語、といったものを論ずることができる」のだとした上で、極めて特異な一種の「汎ー言語論」を展開していく。
 言語は事物の言語的本質を伝達する。だが、言語的本質の最も明晰たる現われは言語そのものである。それゆえ、言語は何を伝達するのか、という問いに対する答えはこうなる一一どの言語も自己自身を伝達する。たとえば、いまここにあるランプの言語は、ランプを伝達するのではなくて(なぜなら、伝達可能な限りでのランプの精神的な本質とは、決してこのランプそれ自体ではないのだから)、言語ーランプ[言語となったランプ]、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ。つまり言語においては、事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う、ということになる。言語理論の理解は、この命題を、そこに含まれているかに見える同語反復性を完全に払拭してしまうような明晰さにもたらしうるかどうかにかかっている。この命題は同語反復なのではない。というのもそれは、ある精神的本質にあって伝達可能なものとはこの精神的本質の言語を謂う、ということを意味しているからである。一切はこの〈……を謂う〉(これは〈そのまま直接に……である〉と言うに等しい)に基づいている。 「言語一般および人間の言語について」ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎訳
 ベンヤミンが自ら先回りして注意してみせているように、ここで主張されていることは、いや、このような記述それ自体が、一見したところ、あからさまなまでにトートロジックに思える。「この命題は同語反復なのではない」とわざわざ述べることによって、それは却ってますます深刻な「同語反復」に陥っているようにさえ見える。字面だけでロジックを辿ると、ベンヤミンはほとんど「言語とは何ものでもない(もしくは、それと同じ意味として「何ものでもある」?)」ということを語っているようにさえ思われてくるかもしれない。長くなるが続きをもう少し引用する。
 ある精神的本質にあって伝達可能なものが、最も明晰にこの精神的本質の言語のうちに現われるのではなく、その伝達可能なものがそのまま直接に言語そのものなのである。言いかえるなら、ある精神的本質にあって伝達可能なものが、そのまま直接に、この精神的本質の言語にほかならない。ある精神的本質にあって(an)伝達可能なものにおいて(in)、この精神的本質は自己を伝達する。すなわち、どの言語も自己自身を伝達する。あるいは、より正確に言えば、どの言語も自己自身において自己を伝達するのであり,言語はすべて、最も純粋な意味で伝達の〈媒質〉(Medium)なのだ。能動にして受動であるもの(das Mediale/媒質的なるもの)、これこそがあらゆる精神的伝達の直接性[無媒介性]をなし、言語理論の根本問題をなすものである。 (同前)
 このようなベンヤミンの独特と言ってよい「言語」観は、先のデリダによる「言語ー存在」という語によって端的に言い表されている(もっともデリダは引用した講演原稿の中で「言語一般および人間の言語について」は自分の手には負えない、というようなことを語っているのだが。「その試論の性格が私の眼にはあまりにも謎めいているし、また���かで多元決定もいろいろとあるので、私はその試論の読解を延期せざるを得なかった」)。「いかなる自己同一性も有しない一者」というデリダの表現にも現れていることだが、ベンヤミンの初期言語論は、ゲルショム・ショーレムによるユダヤ神秘主義から非常に強い影響を受けている。「言語一般および人間の言語について」や「翻訳者の使命」で語られていることは、つまるところ「言語」なるものを通したメシアニズムなのだと考えれば、明らかに理解はしやすくなる。そして、「言語一般および人間の言語について」と同年に成立した「同一性の諸問題についての諸テーゼ」や、「翻訳者の使命」より十年ほど後に書かれた「模倣の能力について」などの論考を読む限り、要するにそういうことなのだと考えて恐らくは差し支えない。  ベンヤミンの論述が過度に難解に見えるのは、彼がたとえば「精神的本質」という言葉で表そうとしているものの内容を、けっして直接には示そうとしないから、正確には示すことは不可能だし、またすべきでもない、と考えているからである。それでも人間はそれを「言語」において、あるいは「言語」的なるものにおいて掴まえようとするしかない。そして/しかし、「言語」は「同語反復」という形式によってのみ、それを表すことが出来る。  だとすれば、ある意味では「精神的本質」の内容は、もはや問題ではないのではないだろうか。極端に言えば、それはいわば一種の空集合のようなものである。いや、それ自身のみを要素として持つ集合のごときものなのであって、そして/しかし、「それ」を名指そうとした途端に、こう言ってよければ、この形式はあからさまに「宗教」的な色彩を帯びることになる(デリダの「いかなる自己同一性も有しない」という表現は、このことを更に逆説的に捉えたものだとも考えられる)。しかしここでは「純粋言語」とは「どの言語も自己自身を伝達する」のだということ、すなわち「言語ー存在」である、ということを、敢て専ら形式的に捉えてみたい。  たとえば「言語は言語である」はトートロジーである。しかし総てのトートロジーはオントロジーを稼働する。それは言うなれば「自己自身を伝達する」ことしかしていない。それは「言語がある」とだけ記しても、ほとんど同じ意味である。逆に言えば、それだけで足りるのに「言語である」ではなく、「言語は言語である」という無意味で非生産的な反復を必要とするところにこそ、「純粋言語」の核心がある。それが「純粋」であるというのは、「自己自身を伝達する」という運動=現象の純度を指しているのである。  ではここに「音は音である」というトートロジーがあるとしよう。空気中の振動現象を人間の鼓膜ー聴覚が認知することで生起するのが「音」である。前述したように、カールステン・ニコライが自らの音楽に用いている「サイン・ウェイヴ」は、あらゆる「音」の原基を成す、周波数成分としてはそれ以下に分解できない「音」、という意味で「純粋音響」と呼ぶことが出来る。それはすべての「音」の中に潜んでいるものではあるが、当然ながらわれわれは特定の音楽を「サイン・ウェイヴ」の重ね合わせにフーリエ変換して聴取する耳を持っているわけではない。それはあくまでも原理的にそうであることが知られるようになっただけなのだが、しかし同時にそれは厳然たる物理的な事実でもある。  カールステン・ニコライは、そのような「純粋音響=サイン・ウェイヴ」を、そのまま音楽の素材、構成要素として用いている。そこで次のようには言えないだろうか。「純粋音響」のみから成る「音楽」は、ただフーリエ的な意味で「純粋」であるというだけではなく、「音は音である」ということを極限的に明示し、「自己自身を伝達する」ということに収束しているという意味で、トートロジカルな存在なのであり、そのことによって、「音」のオントロジーを、すなわち「音ー存在」を証明しているのだ、と。そして極めて重要なことは、この「音ー存在」は、現実に聴くことが出来るということである。  ベンヤミンの「純粋言語」とニコライの「純粋音響」のアナロジー、そして両者の決定的な違いは、ほぼ明らかだろう。われわれは「純粋言語」を実際に読むことは出来ないが(それはたとえば「翻訳」という運動=現象の中でしか触知し得ない)、「純粋音響」は具体的な聴取が可能である。もちろん、ベンヤミンによれば「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語として捉えることができる」のであり、したがって「音楽の言語」というものが想定し得るのだった。しかし「音楽」を「言語」として捉えた上で、そこにおいての「純粋言語」を考えたとしても、結果としては同じことだ。つまるところ、われわれは「言語」においては、「音」における「サイン・ウェイヴ」に相当するものを、いまだ発見していない、ということなのである。
 多和田葉子が、自らの「言葉」によって検証し析出し探求しつつあることとは、ベンヤミンの不可能な「純粋言語」を可能ならしめようとするおそるべき試みであり、そしてそれはまた、カールステン・ニコライが「音楽」と「音」に対して行なってみせたのとほとんど同じことを、「言葉」において行なおうとする試みである。高瀬アキとのコラボレーション・パフォーマンス(朗読+ピアノ演奏)のために書き下ろされた「脳楽と狂弦」や、連作詩編「傘の死体とわたしの妻」などは、その最新の成果である。そこでは「言葉」が「文字」であり「音響」であり「物質」であるということが、「言葉」が「言葉」であるということが、驚くべき強度で反復されている。  おそらく「言語」には「サイン・ウェイヴ」は存在しない。だがしかし、ベンヤミンが漸近してみせたように、それが在ると考えることで露わになる真理がある。そしてわれわれは多和田葉子の他に、この真理を実践する者を、未だほとんど持ち得てはいない。
(『(H)EAR』青土社刊)
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originworld · 3 years
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「PS4 うみねこのなく頃に咲 猫箱と夢想の交響曲」をトロコンまでの道、〜その5〜
火曜日:バイオリン教室→ピアノ教室 水曜日:進学塾 木曜日:補習塾 金曜日:親と一緒の塾 土曜日:家庭教師 こんな生活させてたら普通のニンゲンの場合ストレス過多でネトゲ廃人になってまう、譲治さんだからいい子に育っただけで
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怒り狂いながら屋敷中を探す男の中の男達、やられ役が多いのになんで株をDON★DONあげていくのだ… 舞台が切り替わり再び戻り、蔵臼さんも流弗夫さんも秀吉さんも…3人の涙は……ニンゲンの宝物だ(揃って可愛い、僕男なのにこんな感想www) ゼパルさんとフルフルさんの言う恋の資格って本当に大切だよね、君達は悪魔なんかじゃ無いよ。試練なのに真心でいっぱいだもん(敗者は消えてしまうとか言って置いて…秒で復活したら実際ただのボランティア活動なんじゃねえかなあ…) ベアトを見て学ぶといい、���めプや痛ぶって遊ぶ事を。それが本来より少ない能力でどう華やかな戦いを描くかという確かな意味を持った軌跡なのかって
エピソード4:ベアト(蝶々、綺麗)、善い人発覚 エピソード6:ラムダ(金平糖、美味しい)、本来は善い人発覚。8でみんなの為に大奮闘 ベルン(黒猫、可愛い)、天文学的確率の最低最悪脱出ゲームの被害者。壊れて狂った エピソード8:エヴァ(人妻、このアホウ!この!この!www)、善人化 アウアウローラ、バケモノ??…???
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「全員が束になってもエルンストフォンアドラー様のあらゆる闇、いや総ての闇を越えられなさそう」
霧島04(ゴキブリ⤵️) “””新しい血族のシックス様”””が怪盗Xなどとは次元が違うと認めた新たなる新種という名の絶対悪。こいつだけは愛があっては視えない
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知球GrassShining3「汚ねえ❗️❗️❗️❗️❗️魔女みんな許すからさ、まじでコイツだけは袋叩きにしてなんとかしてくれよ。上位現実(純粋な戦闘に置いては虚構締化より最強)の僕である香氣04でも1VS1に則るなら危ねえもん」
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koudelkalightnovel · 6 years
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Collections of Hiroki Kikuta’s blog
1997年秋から1999年末まで携わった、 「クーデルカ」という仕事は、僕の人生の中で大きな意味を持つ。 嬉しかったこともあり、残念だったこともあり、しかし、制作に費やした二年間は、 無駄ではなかったと、今振り返って思う。 サクノス立ち上げに助力していただいた、元セガ副社長の故藤本敬三氏の思い出。 ロサンゼルスはウエストハリウッドでの夢のようなモーションキャプチャーセッション。 胸に浮かぶままに、語るべきことは尽きない。 ここでは、写真、設定資料、デザイン画を中心に、ゲーム制作のプロセスと、 その印象を綴っている。 クーデルカのための宣伝用イラストレーション/1998 岩原裕二 部分 このサイトは、1999年12月にプレイステーション向けホラーRPGとして発売されたゲーム「クーデルカ」のディレクター菊田裕樹が、制作資料の掲載や作品解説を目的として運営するものです。ゲームをプレイしてくれたユーザーが、より深くクーデルカの世界とその魅力に親しんでもらうために、僅かなりと助けになれれば幸いです。 --- 「クーデルカ」のモーションキャプチャーは、1999年1月、ロサンゼルスはサンタモニカにあるスタジオで収録された。技術面を担当したのはフューチャーライト。普段は「ゴジラ」等のハリウッド映画のSFXを担当している映像制作会社である。遡る1998年9月、僕はイベント系を担当する人員の不足から、それを全てモーションキャプチャーで賄うという構想を建てた。全体で見れば一時間をこえるイベントシーンを、手打ちのアニメーションとスクリプトで実現しようとすれば、5人がかりの仕事となる。しかも、一向に従来のRPGの域を出ない、面白みの無い方法だ。ゲームのドラマ部分を表現するために、効果的で、目新しくて、しかも大きな省力化になる方法として、モーションキャプチャーは画期的な試みだった。無論、問題はあった。技術的に不可能だというのだ。物語の性質上、最大4人を同時にキャプチャーし、併せて音声も収録する必要があったからだ。僕はまず、日本国内のスタジオで実験をし、手応えを掴んだ。その結果、モーションキャプチャーは十分に魅力的な効果を生み出すという確信を得た。しかし同時に、僕の要求する仕様は日本国内では実現不可能であるということも分かった。だが、そこで諦めてはクリエイターが廃る。幸い、以前「双界儀」の録音でお世話になったデイブレイク社の大竹氏が、海外のコーディネイターに詳しいというので、畑違いながら探してもらったら、ロスにそれらしい技術を持った連中が居るという。早速連絡を取り、俳優のオーディション方々会いに行った。ところが実際に会ってみると、彼等も僕が考えるような仕様でキャプチャーをしたことがなかった。4人を同時に、音声もいっしょに、しかも数分に及ぶ芝居をいっぺんに収録する。そんなの聞いたことがない。しかし驚いたことに、面白そうだから是非やってみょうと、彼等は言ったのだ。新しいことにチャレンジするのが嬉しくてしょうがないスタッフ達。こうして、この前代未聞の試みは実現したのである。 クーデルカを演じてくれたヴィヴィアンとエドワードを演じてくれたマイケル。100人程のアクターをオーディションした中から選んだ人達だ。アメリカのアクターの層は厚い。皆、良い作品に出演することを夢見て、演技の勉強をし、技術を身に付け、レストランなどで働きながらハリウッド近辺で暮らしている。アメリカでは基本的に、どのような有名な役者でも、名前だけで出演が決まることはない。必ずオーディションをして、その役に本当に相応しいかどうかを確かめられる。彼等は、役の大小に限らず、それを勝ち取ることに真摯で、また仕事に臨んでも出来るだけ良い結果を残そうとする姿勢を崩さない。 セッションに参加してくれたスタッフ達。フューチャーライト側から、モーションキャプチャーの陣頭指揮にあたってくれたダン・マイケルソンをはじめ、プログラマーのランディ、エンジニアのジョン。彼等は4日に及ぶセッションの中で起った、様々な問題に素早く対処してくれた。日本側から、クーデルカのモーションを担当した竹原君。IPG側から、わざわざこのコーディネイトのためにニューヨークから駆け付けてくれたポール。そして、サウンドエンジニアのキース。 写真中央、このセッションのディレクションを全て担当してくれた、IPGから参加のデビッド・ウォルドマン。彼は日本でビデオクリップのADをしていた経歴があり、日本語が話せたため、今回の仕事に適任として選ばれた。映像制作の現場でのノウハウや、その進行に関して、彼に学ぶところは大きかった。その後、ロスでムービーキャメラマンの学校に入り、本格的に映画制作を志しているらしい。左は、デビッドの女房役のADであるクレイグ。右に居るのは、9才のシャルロッテ役を演じてくれた12才のサラ・パクストン嬢。その可愛らしさで、スタジオの人気者だった。しかし、プロとしての意識は本物で、長台詞を覚え、慣れないキャプチャーに戸惑うこともなく、見事に演じてみせた。下の写真は、キャプチャーセッションに先立つ、リハーサルの時のもの。近くのホテルで部屋を借り、本番の時と同じように、全ての芝居をチェックする。この時キャラクターはどんな気持ちなのか、何を考えながら演じればいいのかを、ひとつひとつ、押さえていく。このシーンは、クーデルカとエドワードが、オグデンとベッシーにスープを振舞われるところ。中央に、いかにも人の良いおばさんを演じてくれた人の良いおばさん、デニス・ホワイト。 スタジオというよりは工場といった有り様だが、実際すぐ横にプロップを組み立てる工房があったりした。一応サウンドステージとして作られてはいるのだが、防音がしっかりしていないため、上空を飛ぶ軽飛行機の音がうるさくて、撮影が中断したのには参った。真中に置いてあるのは、ジェームズら3人が大聖堂に入る扉が開かなくて悪態をつくシーンのための大道具。例えば、扉を叩く芝居が欲しい時に、何もないのにそういう振りだけしても、リアリティーは生まれない。扉を叩く時には、そこに扉があるべきだ。下の写真は、ゴミの山に埋もれてひっそりと稼動しているSGIのONYX。これに限らず、驚くような機材が、ごく当たり前に使われているのをあちこちで見た。聞けばそれらは全て、レンタルなのだという。こういう所にも、日本との状況の違いを感じた。右は、連日に及ぶ深夜の撮影で疲れ果てて眠りこける僕。 2000/11/25 菊田裕樹 --- ヴォイニッチ文書 部分 Emigre Document 紀元前5000年をさかのぼる昔、ブリタニアには高度な巨石文明を持った民族が栄えていた。今も島のあちこちに残るドルメンやストーンサークルは、現代科学を持ってしても不可能と思われるほどの彼らの技術力を、我々に示している。彼らはケルト人が到来するまで、全世界でも最も進んだ文化と文明を持つ民族であった。エジプトでピラミッドが建築される遙かに昔。中国、バビロニア、イスラエル、どの文化圏よりももっと以前に、ブリタニア全土に分布する巨石遺構は建てられたのである。 その力の秘密は、彼らの持つ宗教にあった。彼らは大地より湧きいでる生命の秘密に手をかける術を知っていたのである。生と死を操り、不死や、あまつさえ死者の再生をも我がものにし、労働力としての人間ならざる怪物を生み出し、高度な文明を築き上げた。それは自然の持つ輪廻の法則そのものを御する行いであり、神の為す神秘に等しい。いや、彼らこそが原初の「神」だったのかもしれない。彼らはその「神を遙かに遡る世界の成り立ちの秘密」を、文字にして書き記すことはなかったが、その祭儀や術としてのノウハウは、ケルト社会のドルイド僧に引き継がれた。ドルイド僧は古代人の残した祭儀法を基盤に、自分たちなりの技術的アレンジを加え、古代人には及ばないまでも、天地の秘密を力に変換することを自らのものとした。 だが、彼らもまた、自分たちの慣習や宗教に関して書き残すことをしない。ケルト民族の在りように関して最初に言及したのは、まさにそこを征服せんとして兵を進めたユリウス・カエサルである。しかし、彼が紀元前50年頃に「ガリア戦記を」書き記す以前に、前4世紀頃ケルト民族と親交のあったアレクサンダー大王が、アレクサンドリアの大図書館に收めるべく、ドルイドの秘儀をギリシア語で文書化させていたのである。彩飾図版を交えて作成されたこの文献は、その任に当たった人物の名を取って「エミグレ文書」と名付けられた。 この文書は閲覧を禁じられた秘密の書として王宮の図書館に保管された後、戦禍を逃れて持ち出され、数世紀の間、各所を転々とする。その間にはキリスト教の成立やローマカトリックの隆盛などがあるが、6世紀に入り、アイルランドに様々な修道院が建設され、写本事業が盛んになった結果、イタリアの片田舎に忘れられていた「エミグレ文書」は、リンデスファーン島にある写本で名高い修道院に持ち込まれた。だが、ギリシア語に堪能でない彼らは、内容の美しさや彩飾の艶やかさに目を見張りこそすれ、文書の持つ本当の力に気づくことはなかった。 9世紀に入って、度重なるヴァイキングの来襲により、蔵書の保存に危機を感じた修道院は、重要な文献を各地に避難させ始める。アイルランド生まれで敬虔な信者であるヨアヒム・スコトゥスとダニエル・スコトゥスの兄弟は、大修道院長より「エミグレ文書」を託され、その内容に驚愕した兄ヨアヒムは弟ダニエルをウェールズの辺境にあると記される聖地へ赴かせ、自らは写本を携え、フランス王の元に庇護を願い出た。弟ダニエルは聖地で修道院を建て、祈りを捧げて一生を終わる。兄ヨアヒムは碩学として歴史に名を残すが、その死後、ローマ法王庁に写本を接収されてしまう。 キリスト教を脅かす力を持ったこの文書は、ローマ法王を恐怖させ、禁断の書物として誰にも閲覧を許すことなく、書庫の奥底にしまい込まれたが、13世紀になってその損傷の激しさから、新たな写本を作る必要が生じ、当時最高の知識人として名高かったフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンにその任が与えられた。彼は10年にも渡ってフランスに幽閉され「エミグレ文書」を精確に複製することを強いられたが、その過程で文書の知識は彼の物となった。秘密を守るため彼をそのまま監禁し、二度と世に出すまいという法王庁の意図とは裏腹に、彼は密かに外部と連絡を取り、自らが解読した文書の示す聖地へ赴き、生命の秘密を探る試みに取りかかるべく、着々と準備を進めていた。 彼は、先にダニエル・スコトゥスが建てた修道院を改修し、実験施設となるべきゴシックの大聖堂を建築させた。そこで彼がどのような秘術を試みたのかは、記録に残っていないが、法王庁の手を逃れフランスを脱出した彼は、二度と姿を現すことはなかった。彼は、姿を消す前に、新たな一冊の写本を残している。エミグレ文書の記述を元に、ウェールズ語の暗号で書かれたその写本は、聖地の修道院に残されていたが、16世紀になってエドワード・ケリーとジョン・ディーによって発見され、新たな写本として書き直され、さらにローマの修道院を経て、20世紀になって古物商ヴォイニッチによって再発見され、ヴォイニッチ文書と名付けられて、現在エール大学のベイニック図書館で閲覧できる。 また、ロジャー・ベーコンによって複製された「エミグレ文書」写本(原典は破棄された)は19世紀までヴァチカン宮殿の奥深くに秘蔵されていたが、1890年頃何者かに盗み出され、以後その行方を知る者はいない。ダニエル・スコトゥスが建てた修道院は1536年の修道院廃止例の後、政治犯や重要犯罪人を拘留し処刑するための施設へと転用され、聖なる場所で多くの人命が闇に葬られた。 (設定資料より) 2000/10/25 菊田裕樹 --- 2000/10/25 Hiroki Kikuta Koudelka Iasant 1879年生~没年不詳。イギリスはウェールズの田舎、アバージノルウィンの寒村生まれのジプシー。幼い頃から強すぎる霊能力を持ち、様々な怪異を起こすため、呪われた存在としてジプシーの世界から追放される。1888年9才頃ロンドンで霊能力者ブラヴァツキー婦人に拾われ、秘蔵っ子として厚遇されるが91年婦人が他界すると共に、再び放浪の旅へ。普段は霊媒として失せ物を探したりして、糊口をしのいでいる。 年は若いが、世の中の事情を一通りわきまえたところがあり、良く言えば大人、悪くいえばすれっからし。普段はあまり明るい顔をせず、大体において不機嫌そうで態度が悪いが、時折女らしいところを見せる。差別される者や愛されない者に肩入れする傾向がある。自分を表現することが下手。 (登場人物設定資料より) Notes クーデルカという名前は、著明な写真家であるジョゼフ・クーデルカから採ったものだ。口にした時の不思議な響きと、民族や国籍を感じさせないところが気に入って、名字ではなく名前として使わせてもらった。手元の資料を見ると、キャラクターデザインの岩原裕二氏にコンペ用のスケッチを発注したのは1998年の3月26日だが、遡る2月10日の段階で、僕はゲーム全体の進行手順と、シナリオの箱書きを完成させていたし、キャラクターの心理設計も完全なものとなっていた。クーデルカはジプシーの出身である。彼らはイ��ドをもっとも古い故郷とし、放浪に生きる人々で、自分たちのことを誇りを込めてロムと呼ぶ。それは人間という意味である。一般社会の人間たちとは隔絶され、自分たちの血縁関係の中だけで生きている彼らにとって、追放はもっとも苦しい罰となる。クーデルカはその特異な能力ゆえに、子供の身でジプシーを追われることになった。僕は彼女を、どこにも安住することを許されない、最も孤独な存在として設定した。平和で豊かな暮らしの中に、彼女の居場所は無い。呪われた魔物や幽霊が跋扈する、廃虚の暗闇の中にだけ、かろうじて自分を置くべき空間を見出せる。クーデルカは、そういう悲しい存在なのである。 岩原氏はこのプロジェクトのために、100枚にも及ぶキャラクタースケッチを描いた。クーデルカだけでも数十枚になるが、そのほとんどはポリゴンによるモデル化のための制約から来る衣装デザインの試行錯誤であり、キャラクターの本質部分に関しては、最初から完成形に近いものを掴んでくれていたようだ。また、氏にはゲームの制作に先行して角川書店の雑誌で漫画連載を始めてもらい、ゲーム設定の1年後のストーリーという立体的な構成で、物語の厚みと魅力を増すことに貢献してもらった。 クーデルカのポリゴンモデルは、当時広島のコンパイル社の倒産で行き先を捜していた渡辺伸次氏に、経済的に援助するということで東京に移り住んで制作してもらった。彼は同社の仲間とCGスタジオであるD3Dを設立した。そのころの彼等には全く実績が無かったが、見せてもらったプロモーションムービーのキャラクターの動きに並ならぬ情熱を感じ、彼等と一緒に新しいチャレンジをする気になったのである。しかし実際、キャラクターのモデリングは難航した。ゲームスタッフ側の無理解も大きな原因だったが、D3D側もクーデルカほど高いレベルのモデルを作るのは初めてとあって、試行錯誤のために何ヶ月も時間が必要になった。リテイクに次ぐリテイクの嵐。最終的には、僕自身が彼等の後ろに付いて、鼻をもう少し縮めてだの、唇をもう少し上げてだのと細かく指示を出し、なんとか納得のいくものに仕上がるまでに半年近くかかっている。 モーションキャプチャーにおいて声と演技を担当してもらったヴィヴィアン・バッティカ嬢は、米サンタモニカ・スタジオで行ったオーディションの中で、クールで独特の色気があり、抑えた芝居の出来る人として選定した。ただ可愛いだけではなく、クーデルカの持つ陰の部分を表現するためである。彼女自身まだ若く経験も浅いとはいえ、その熱意と努力は相当なもので、10分にも及ぶ長丁場の芝居、何十行もある長台詞を、たった数日で完全に頭に入れて撮影に臨む辺り、なるほどプロというものはこういうものかと感心させられた。度重なる技術的不備にも嫌な顔をすることなく、エドワード役のマイケル・ブラッドベリーと現場の雰囲気を明るく盛り上げてくれたことには、感謝の言葉もない。 2000/10/25 菊田裕樹 llustrated by Yuji Iwahara このページ内の全ての画像及び文章の著作権、版権、複製権、二次使用権は全てその正当な著作者、権利所持者に帰属します。よって、無断複製、無断転載を含め、著作権法に違反する形態でのあらゆる利用を禁止します。 All Rights Reserved 1997 1998 1999 2000. クーデルカは(株)サクノス・SNKの登録商標です。 All Rights Reserved (C)SACNOTH/SNK 1999 --- Nemeton Monastery イギリスはウェールズ地方。アバースワースにほど近い、海沿いの断崖に、人気もなく廃墟と見まごうようなネメトン修道院がある。ちょっとした公園ほどもあるその敷地の中には9世紀頃に建てられたと思われるロマネスク様式を色濃く残した修道僧の宿坊をはじめ、13世紀頃に建てられた飛び梁も美しいゴシックの大聖堂、会堂をかねた図書館、鐘つき堂、屠殺場を兼ねた炊事場、処刑台に使われた東屋、近代になって建てられた宿舎などが、全体を囲む壁と一体化して並んでいる。16世紀に修道会を禁ずる制令が発布されるのを待たずして寂れ、廃墟と化したこの場所は、17世紀に入って政治的な犯罪者や虜囚などを閉じこめたり処刑したりする目的に使用された。今でもどこかに地下牢が隠されているといわれている。近代になって、訪れる者も居なくなり、荒れるに任せていたのを、ある資産家が物好きにも買い取って移り住んだが、程なくして彼は姿を消し、後には様々な憶測と噂だけが残った。あるいは、財宝が隠されたまま埋もれているといい、あるいは、悪魔が彷徨っているといい。再び廃墟と化したこの修道院を訪れるのは、人目を避ける犯罪者や一攫千金目当ての食い詰め者だけだった。 (制作資料より抜粋) ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 1998年2月の段階で、ゲームの進行に伴う、マップ全体像の設計は、ほぼ出来上がっている。八棟の建物、地下道、墓地など、全部で100個見当の区画からなる構成で、イベントと連動して移動できる範囲が拡がっていく。実は、このような閉鎖された空間を舞台として設定したのは、単に演出的な意図によるものではなく、人的物理的制約による結果なのである。例えば、高度に訓練されたグラフィックスタッフが20人居るならば、一年間に500から600枚を超える背景画を制作することが可能だ。しかし、楽観的に考えても数人が限度と思われる人材確保の現状を前提にすると、およそ100マップ200~250画面が、用意できる背景数の上限と見なければならない。一般のRPGのように、ワールドマップがあって幾つもの街があって、などという仕様は、最初から無理。そこで、極めて限定された空間を設定し、それを有効に活用しつつ、様々な雰囲気のバリエーションを提供できるような仕掛けを考案した。それがホラーRPGという枠組みだったのである。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 ネメトン修道院を構成する建物群は、そのひとつひとつが、建てられた年代も、目的も異なるものである。各々の建築様式の違いは、ドラマの進行と相まって、ユーザーを飽きさせないための装置として機能する。扉を開けて新しい建物に入る度に、物語が次なる展開を迎えたことを実感してもらうために。微にいり細にわたり、緻密に作り上げることが、あたかも実際にそこに居るかのような臨場感を生む。そのために最も必要だったことは、実際の建築物を参考にすることであった。 ネメトン修道院初期設計図/1998 松野泰三 物語上でアバースワースとしたのは、アイルランド側の海岸にその場所を置きたかったからだが、98年8月にスタッフを伴って訪れた実際の取材は、ウェールズの下側に位置する観光地ペンブロークシャーを中心に行った。その一帯は、草原から突然に切り立った断崖が現れ、地平線の彼方まで続く、不思議な景観の土地である。その周辺に夥しい数の修道院や城跡が存在する。あるものは往時を偲ばせて健在だが、ほとんど廃虚と化した遺構も多い。セント・デイビッド教会は、中世そのままの姿で我々の目を楽しませてくれると同時に、石造りの聖堂が持つ、独特な雰囲気を理解するのに役立った。また、垂れ込めた雲と雨が作るどんよりとした暗い空気は、実際にその場に立ってみないとイメージできないものである。近辺の修道院の壁や石組みを大量に撮影して、3Dモデル用のテクスチャーとして使ったのも、大きく意味がある試みであった。 さて、ネメトン修道院の大聖堂はゴシック建築として作られているため、本当ならば、その常として側廊が無ければならない。ゴシック建築は荷重を分散する構造にすることで壁を薄くし、ステンドグラスの設置を実現しているからである。しかし、ゲーム仕様上の制約としてプリレンダリングのマップを考えた時に、多数の柱を立体的レイヤーとして配置することが困難であるために、内部を単純な箱型にせざるをえなかった。外側から見ると、飛び梁様の補強柱が一定間隔で取り付けられているが、現実の物として考えれば、全体の重量を支えるために、壁自体もさらに厚くせざるをえないと思われる。なお、大聖堂頂部の鐘突き堂は、そのものが飛び梁によって構成されている特殊な形式だが、これは架空の物ではなく、実際に存在するスタイルであることを付け加えておきたい。 2000/10/25 菊田裕樹 --- Library : クーデルカという物語 By 菊田 裕樹 – 2000年 3月 28日Posted in: Library, Library : ARTICLE    クーデルカという物語    2000年3月 公開    このサイトを御覧の方には僕の制作した    RPG「クーデルカ」を未プレイの向きも多いと思う。    手短に説明すると、19世紀のイギリスはウェールズの    片田舎にある今は廃墟同然と化したある修道院を舞台に、    クーデルカという19才のジプシーが出会う様々な    怪異をテーマにした、いわゆるモダンホラーと    呼ばれるジャンルに属するゲームである。    僕はこの作品のコンセプトに始まり、キャラクター設計、    マップ構成、シナリオ、ムービーや    モーションキャプチャーイベント部分の    ディレクション等など、様々な種類の仕事をした。    基本的な部分の組み立てには約3ヶ月ほど要しただろうか。    全部で100冊以上の本に眼を通したが、    物語の発想の土台となったのは、    「幽霊狩人カーナッキ」という本であった。    短編集で、主人公である怪奇現象研究家カーナッキが、    様々な「怪異」と「怪異に見えるもの」に遭遇し、    あるものは解決し、あるものは良く分からないまま    終わる(笑)という、味わいのあるホラー小説集だ。    興味のある方は是非一読されたい。    さて、僕が物語を組み上げる段階でこだわるところは、    歴史上の事実を曲げないということである。    実際に起こったとして、記録に残っている様々な事件を、    相互に関連付け、その隙間を虚構で埋めていくという    やりかたが僕は大好きだ。    同じ嘘をつくのでも、まったく根拠も無く考えるのと、    事実に基づいてその基盤を組み上げていくのとでは、    細かい部分でのリアリティーが違ってくる。    だから、クーデルカという物語には、    プレーヤー諸氏が考えているよりも、    ずっと多くの史実が含まれている。    エドワードやロジャーが実在の人物である事など、    歴史に興味のある方は、調べてみられるのも一興かと思う。    1898年は科学と迷信がせめぎあう世紀末の、    まさに移り変わる一瞬を捉えて興味深い時代である。    明ければすぐに1900年、近代科学文明の浸透の    象徴ともいうべき、パリ万博が開催される。    そしてそれこそが、僕がクーデルカの続編と    目論んでいた物語の舞台なのである。    ウェールズを描くために、ロンドンやペンブロークに    足を運んだのと同じように、僕はパリやベルギ��に    取材をするつもりだった。    (パリ万博に出展されていた建物が、当時の    ベルギー王の要望で買い取られ、    ブリュッセルに現存するのだそうだ)    会場から郊外を結んで建設された地下鉄と、    そこで起こる怪異。エースネクスト誌連載中の    漫画版のエピソードを終えたクーデルカが、    拠ん所ない事情でパリを訪れ、地下に巣喰う    亡霊どもの争いに巻き込まれていく。    実はクーデルカの続編は、僕の頭の中では4作目まで    出来ている。第一部イギリス、第二部フランス・・・    とくれば、第三部はアメリカである。    時代は大きく跳んで、1973年アメリカはシカゴ。    主人公は、シカゴ大学で教鞭を取る文化人類学者、    クーデルカ・ロードメル。    クーデルカの娘アメリアが後に渡米して産んだ子供で、    つまりは孫だ。ベトナム戦争末期とあって、    帰還兵が持ち帰ってしまった悪霊が、    様々な殺人事件を引き起こすのを、まだ生きている    ロジャーの助けを借りて解きあかしていく。    (ちなみにロジャーはスーツを着て出てくる)(笑)    そして第四部は1984年奈良。    関西大学で教える友人の宗教学者の元を訪れたクーデルカは    何者かに命を狙われ、陰陽師や式神と戦う羽目になる。    奈良の巨石墳墓や京都の町並みが、    雰囲気造りに一役買うだろう。    残念なことに、今のところ僕がそれらの    続編を作る予定はないが、    小説のようなものであれば、書いてもいいかなあと思う。 Story of Koudelka : Library --- Haven: On Koudelka, you served as producer, writer, and composer. What were some of the goals you accomplished in taking on these various responsibilities? Were there ways in which the project could have been better realized? Hiroki Kikuta: Let me begin by saying, whenever you divide up responsibilities among a group of people concerning the judgments that get made on a project, the end quality is bound to suffer as a result. To keep the quality high and the schedule organized on a project, it's better for as few people as possible to be making key decisions, and for them to be communicating within the group with as few conflicts as possible. The ideal situation would be for but one director to be delegated the responsibility of expressing his or her creative vision. That said, for Koudelka, I was pursuing that degree of creative control. To prepare, in gaining an understanding of the game's setting, I read about one hundred books on English history, touching on periods from the Medieval era to around 1900. It proved useful in discovering relevant episodes which could be incorporated into the story. Having several events to ground the plot in a kind of historical reality, I then started building on that foundation with some fictional events. For example, the character of Edward is based on an actual Irish dramatist named Edward Plunkett, 18th Baron Dunsany, while the woman who writes a letter for Charlotte is based on Sophie Dorothea of Württemberg. Roger Bacon is, of course, a historically famous philosopher. Also, the incident on the Queen Alice really occurred and is recorded in the captain's log of the vessel. By filling out the gaps in those historical events with fictional incidents, such as the Emigre Document and reincarnation ritual, I aimed at providing a realistic basis to the imaginary aspects of the story. Before production, some members of our staff went on a trip to Whales to gather information and capture the genuine atmosphere of the place with our own eyes. We demanded extreme accuracy in providing the background details, and we even used motion capture technology to provide culturally appropriate body language for the characters, techniques advanced enough to compete with the standards of the Hollywood industry at that time. Those challenges, which were provided by the passion motivating that project, were the real essence of Koudelka. Koudelka, "Patience," music sample I remember that I was reading the critical biography of James Cameron, who was making Titanic at that time, on the airplane to England. I was overwhelmed by his tremendous efforts to capture those startling images. At that time, I realized that it is necessary for creative work to have a degree of obsessive passion involved. I hope that some degree of that conviction had a positive result on the end product. --- As soon as it is in the year 1900, the Paris World Expo is to be held as a symbol of the penetration of modern scientific civilization. And that is the stage of the story that I was thinking as a sequel to Kuderuka. In the same way that I went to London and Pembroke to draw Wales, I planned to cover Paris and Belgium. (It seems that the building which was exhibited in the Paris Expo is bought at the request of the King of Belgium at the time and exists in Brussels.) The subway built by connecting the suburbs from the venue and the monster occurring there. Kuderuka who finished the episode of the comic version in the series of Ace Next magazine visits Paris due to circumstances that are not based, and is caught up in the strife of ghosts who nest underground.    (The first line of the Paris Metro opened without ceremony on 19 July 1900,[4] during the World's Fair (Exposition Universelle - that is what is meant by subway) Actually, the sequel to Kudelka is made up to the 4th in my head. Part 1 England, Part 2 France · · ·     If you do, the third part is the United States. The era greatly jumped, in 1973 America was Chicago. The hero is a cultural anthropologist, Kurdelka Roadmel, who teaches at the University of Chicago. Kuderuka's daughter Amelia is a child who gave birth to the United States later, that is, it is a grandchild. With the end of the Vietnam War, the evil spirits brought back by the returning soldiers will solve various murder cases with the help of living Roger yet.     (By the way, Roger comes out wearing a suit) (lol) And the fourth part was Nara in 1984. Kurdelka who visited the origin of a religious scholar of a friend taught at Kansai University is targeted to someone, and it will be fought against the Yin Yang masters and the expression god.     The megalithic tomb of Nara and the townscape of Kyoto will contribute to the atmosphere building.     Unfortunately, for the moment I have no plans to make those sequels, but if it's like a novel, I wonder if I can write it. --- RocketBaby: At what age did you become interested in music? Hiroki Kikuta: When I was ten years old, I met up with the music of Emerson, Lake & Palmer. I had never heard such marvelous music before. It was quite an impact for me. A few months later I heard that Keith Emerson was using a particular instrument called MOOG synthesizer. RB: At what age did you start writing music? HK: When I was twelve years old, the Folk blues movement came over to Japan from America. I studied Acoustic Guitar and started to create an original song immediately. I wanted to be a singer/ songwriter... if I wasn't a terrible singer. Actually, Digital equipment opened up my potential as a music composer. Without a musical sequencer, I can't create any complicated tunes. When I first acquired a YAMAHA SY-77 synthesizer/sequencer, I felt as if I got a ticket to a different world. RB: Why did you start Sacnoth? HK: I had held many original ideas about video games and visual expression for a long time. The most important purpose is to create an entertainment. When I was searching for a way to achieve my dream, I met a dominant business advisor. He introduced me to the chairman of SNK. I told him about many pitfalls that every existing RPG had. I thought those were lacking a comprehensive insight and a integrative interpretation. It is a structural defect of game production. To resolve the problem, it is necessary to get the picture of each element of game creation at the same time. I have an ability to do that. I established a company SACNOTH and took up my position as CEO in order to produce a new horror RPG project, Koudelka. But unfortunately... Though I conceived a grand scheme to realize an innovative game system and visual expression, many old staffs from SQUARE were not able to accept real change without hesitation. I say that the person who will have no change is already dead. After termination of Koudelka project, I retired as CEO of SACNOTH. It was my choice. RB: As a composer how should music effect the game? As a developer how should the music effect the game? HK: A music composer wants to create a good tune with utter simplicity. But if you want to create a good game as a developer, it is not enough. Because good music does not necessarily fit a good game. The most important problem is adjustment of each of the elements. If the visual element exactly synchronizes with the musical element, a dramatic effect will be generated.. And I take it for granted that everybody wants to hear a good melody in the end. RB: What were your influences for Koudelka? HK: In the first instance, I designed all concepts and fundamental settings of the Koudelka's world. I gathered various graphic and text materials in London and Wales. I did character design, map design, event design, scenario writing, direction of computer graphics movie, direction of motion capture... I got involved with all of the integral parts of Koudelka except battle and game system. Especially, I had no influence in battle section. I still have a great regret. I wish I could have designed it. And a quick digression, I consulted many movies and books for Koudelka. A most impressive movie is The Name of the Rose (Jean Jacques Annaud 1986). I also read the original book which was written by Umberto Eco. It is a definitely masterpiece. If you want to know some origins of Koudelka's world, you may read Carnacki the Ghost Finder written by William Hope Hodgson and The Case of Charles Dexter Ward written by Howard Phillips Lovecraft. Many fantasy novels by Lord Dunsany (His his full name and title is Edward John Moreton Drax Plunkett 18th Lord Dunsany) are also important. If you want to know about visual origin of Koudelka, see photographs created by Bob Carlos Clarke and Jan Saudek and Holly Warburton. Those are extremely exciting works. RB: How did you manage to write, direct and compose the music for Koudelka? HK: Writing a scenario. Directing a CG movie. Composing a BGM. Each of those is no more than a single face of game creation. When I imagined the world of Koudelka, I figure graphic elements and story elements and sound elements all at once. Because, those are mingled with each other organically. So I think that It is rather easy to manage multiple affairs. RB: What was the easiest aspect of working on Koudelka? What was the hardest? HK: The easiest aspect is music composing. Because I can create a music by my lonesome. It makes me free and I feel comfort. Hardest aspect is behind-the-scenes maneuvering of power game in company organization. I am so tired to do that. Let's get something straight, I am not a buccaneer but rather a creator. All aspects about creation are really pleasant for me. RB: Why do you make music? Why do you make games? HK: Music composing is a natural behavior for me. Like breathing. I usually conceive a good melody and a harmony without suffering. So I have no reason to make music. I think that it is my vocation. Meanwhile, creating video game is not my vocation. It is my wish. I want to produce high quality entertainment in the future. When I write a story and a plot, I usually suffer by myself. Though it is very hard and thorny, I feel maximum accomplishment. RB: What inspires your melodies? HK: Many great works of famous composers and musicians inspire me. If I must respect only one person or group as a music composer(s), I will take Pink Floyd. RB: What are your hobbies and why? HK: Good question. Riding bicycles is my hobby. I also love my yellow Peugeot MTB made in France. I also have some fun playing with my cat. She is extremely pretty. RB: When did you begin working at Square? HK: I began work at Square in 1991. I was twenty seven years old. In those days, the production studio of Square was placed in Akasaka Tokyo. It was small and homey, different from now. I remember that Nobuo Uematsu and Kenji Ito interviewed me in their office. We talked about progressive rock music and famous guitar player Allan Holdsworth with each other. I created sound effects for Romancing Saga at the start of my career. A few of graphic staff worked with me to design a lot of novelty sounds. We worked hard in night and day. RB: How much freedom did you have making music at Square? HK: In a sense, I had perfect freedom. Because, the planning staff of Square put none of the assignments relevant to the menu of music work and schedule in my hand. Nobody explained to me about game detail which they were producing. I had to think and imagine what kind of music was needed for our game project. Changeover,changeover, and more changeover of specifications. It was difficult to foresee the final image of it. But I did. RB: What is favorite game that you worked on at Square and why? HK: May be Seiken Densetsu 2 (Secret of Mana). I think that it was a pretty good game except for the big BUG. The multi player system was extremely fresh and delightful. In the aspect of music, I was fully challenged in regard to sound expression using 8 voice PCM system of SNES hardware. Please see and hear the opening sequence of Seiken Densetsu 2. It is so simple but so lyrical, isn't it? I am really proud of my visual direction and music composition. RB: Did Nobuo Uematsu influence your work? HK: I think there is no influence from Nobuo Uematsu. I have never taken any lessons about composing game music. The style and the melody of my music are totally conceived by myself. Just the same, every staff composer at Square were free from influence of somebody else. Originality and personality were cheerished in our studio. It was the policy of Nobuo Uematsu. RB: What are the best and worst memories that you have of Square? HK: Hmmm... Best memory... it seems a trip to MANA island of Fiji republic. After a production of the game Secret of Mana, I and my friend decided to visit an island placed in South Pacific Ocean. We played skin diving everyday and watched some corals. Those were extremely beautiful. It looks like a blue heaven. I will never forget the view of the sunset from Mana's beaches. It is one of my treasures. By the way... Worst memory is a dissolution of the game team in which I was supposed to participate. I wanted to propose an innovative game system using music and sound effects. RB: Who is your favorite Square composer and why? HK: I recommend Jin Sakimoto (Hitoshi Sakimoto). His works are extremely dense. RB: One of our favorite soundtracks of yours is Soukaigi. The sound quality and styles are some the best for a game. HK: Soukaigi has many characters of sound. I designed it with different complex styles. House music meets real performance, fusion meets folk choirÖÖ It was an adventure for me. To tell you the truth, the style of music does not a matter. I don't dwell upon it. Though I put a high value on counterpoint it does not bind me. It is only a method. In the case of Soukaigi, I was mainly influenced by East European pops like Varttina. RB: Why did you leave Square? HK: I wanted to direct not only musical expression but also visual expression. And of course, I wanted to write a fine scenario which is different from existing one. I had felt a big complaint against those juvenile works. But unfortunately, I couldn't get a chance to take a part in those kind of production works in Square. I suffered terribly for a long time. After all is said, I left Square and established new company Sacnoth to achieve my idea. RB: Do you perform your music live? HK: If I have a chance to do that, I wish to play my music as a live performance. I didn't make an attempt to do that in Japan yet. Do you want to hear my music in front of your eyes, ya? RB: Who would you like to make music with? HK: Jin (Hitoshi) Sakimoto. Because, I could not collaborate with him on composing game music when we were hired together by Square. I respect him. Except for game music composer, I want to collaborate with Allan Holdsworth, a fusion guitar player. His music is a miracle. RB: How do you think game music compares to other genres of music? HK: I think that is similar to movie soundtracks. It is important to synchronize the music with visual element. It has an expressive purpose. If you want to create a game music, don't forget to construct it as an emotional device. RB: How will the next generation consoles allow you to express yourself as composer and game designer? HK: I feel a strong attraction to X-box and Game Cube. A big visual capability makes me hot. I have many ideas to display fascinating characters using real time computer graphics. They will sing and dance and talk with real emotion. Don't you want to play the Musical RPG on Network? I want to play it. RB: What would your advice be to people who: A. People who want to create game music. HK: Listen to as much music as you can. Don't confine yourself to your room. The genre of music is meaningless. If you want to find your treasure, you must challenge the common practice at any one time. B. People who want to create games. HK: Video games are not art. They are an entertainment. You must amuse your audience first instead of amusing yourself. I am always conscious of the feeling to accommodate someone with a fun service. Can you create a lot of gimmicks for the player? If you work so hard and push yourself enough, the day will come to collaborate in some way with me for sure. Let's think of a next game together. RB: What is in the future for Hiroki Kikuta? HK: I will be involved in some new game projects that are not directed by me. I will be a technical advisor. I will create computer graphics and sounds. But soon, I hope to form my studio and develop my own game project. So now I am looking for new investors around the globe. RocketBaby would like to thank Mr. Kikuta for chatting with us.
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beginnerslupin · 6 years
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お宝と美女が大好物! 『ルパン三世プロファイル』
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怪盗アルセーヌ・ルパンの孫で、奇想天外な作戦で世界中のお宝を盗みだす神出鬼没の大泥棒。IQ300の天才で、美女が大好き!
ルパンにとって盗みとは、『退屈しないためのゲーム』。その巧妙な盗みのテクニックと人物像とは!!
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まるで忍者!?侵入&盗みのテクニック
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「なぁに壁なんてのは、越えるためにあるんだ」
その言葉通り、どんなに侵入困難な場所でも知恵と身体能力を活かしてスルリと侵入していく、まるで忍者のような超人級のテクニックを見ていこう。
●「ルパンVS複製人間」の侵入テクニック
・レーザーが張り巡らされた場所への侵入
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侵入路に張り巡らされたレーザーに触れると敵に存在がバレてしまう!そんな時は暗視ゴーグルと、レーザーを避けて前進するための組み立て棒を使用。上の画像はゴーグルをはめた時に見える映像。1歩進むごとに棒の長さや角度を調整し、びっしりと張られたレーザーを巧みに避けていく。
●「カリオストロの城」の侵入テクニック
・地下水道からの侵入!
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地上での侵入が困難な時には地下の水道からス~イスイと侵入!道なき道をも迷わず進むのがルパン流。
・敵が現れたら天井に隠れる!
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侵入時に敵と遭遇しそうになったら、素早く天井へ!忍者もびっくりの隠れ技!
・体一つで高い城の壁をよじ登る!
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高くそびえたつ城を、城壁をつたって地道によじ登る!細腕ながらかなりの腕力を持っている。
●TVSP 第15弾『お宝返却大作戦!!』の冒頭で繰り広げられる、セキュリティ解除テク
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強固なセキュリティが施されたカジノの金庫に現れたルパン。まずは防犯カメラ対策!
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実は事前に次元がカジノ周辺の電線を撃ち、停電させた隙に防犯カメラの映像をいじっていた!右が実際の映像。左の監視員が見る映像では、ルパンが消えている。
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いよいよ侵入!特殊な手袋をはめて、指紋チェックOK!
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特製の眼球メガネをあてて、網膜チェックもOK!
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お金の入ったジュラルミンケースのセキュリティも特殊な道具で解除していとも簡単にお金をゲット!次元と連携して特殊道具を駆使する、これくらいの盗みならルパンにとっては朝飯前!
●まだまだある!ルパンのハイスペックすぎる道具
・ワイヤー内蔵!腕時計
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普通のかっこいい腕時計?・・・と思いきや!
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強靭なワイヤーが 飛び出す!
華麗なワイヤーアクションで高所でもスイ~スイ~と自由自在に空中移動!高層ビルや高いお城への侵入もお手のもの!
(TVシリーズPART4 第1話『 ルパン三世の結婚』より)
・トイレの詰まり取りが侵入道具に大変身!
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トイレの詰まり取りと滑車をくっつけたユニークな移動用吸盤で、張り巡らされたセキュリティセンサーの中をスルリスルリとすり抜ける!日用品もルパンの手にかかれば犯行道具に早変わり♪
(TVシリーズPART2 第47話『非常ベルにルパンは笑う』より)
・お宝はバキュームで一気に吸引!
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盗みはスピーディに、豪快に!宝石やお宝はチビチビ盗まず一気に吸い上げる!
(TVシリーズPART1 第16話『宝石横取り作戦』より)
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変装テクニックがスゴイ!
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ルパンが正体を隠して敵のアジトなどに侵入するために行う『変装』。体型/性別/人間or動物を問わず、本物そっくりになりきるテクニックは圧巻!
●銭形の変装には様々なタイプが存在
・覆面タイプ
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どこからどう見ても銭形!・・・と思いきや、正体は銭形そっくりの覆面をかぶったルパン。よく比較して見ると、手まで変えていたことが分かる。
(TVシリーズPART2 第63話『罠には罠を!』より)
・お面タイプ
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お祭りのお面の様にベリっとはがせるお手軽タイプ!
(TVシリーズPART2 第145話『死の翼アルバトロス』より)
・くす玉(!?)タイプ
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こちらは首の後ろの紐を引っ張ると、パカッ!とマスクが取れる優れもの。まるでくす玉のよう!
(TVSP 第16話『盗まれたルパン~コピーキャットは真夏の蝶~』より)
●もはやコント!キャラ激変の変装
・ 昭和の雰囲気漂うおじさんに!
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どこかで見たことのあるようなおじさんに大変身!眉毛とヒゲのメイクが秀逸。
(TVシリーズPART1 第15話『ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう』より)
・おもしろフェイスのお百姓さんに!
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歯に注目!!!抜いたのか特殊メイクなのか・・・!ここまで徹底した役作りにはハリウッド俳優も脱帽・・・!?
(TVシリーズPART1 第13話『タイムマシンに気をつけろ!』より)
●麗しき女装術!
・美しすぎるが故、男性から求婚されたことも!
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あまりの美しさに男性から求婚を受けたこともあるルパン。たまらず正体をバラすものの、それでも構わないとさらに熱烈に求婚され、結婚へ!
女好きのルパンだからこそなせる、男心を鷲掴みにするテクでお宝もバッチリ頂いた。
(TVシリーズPART2 第42話『花嫁になったルパン』より)
・セクシーな不二子をも完全再現
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勘の鋭い不二子でさえ、鏡に映った自分だと騙されてしまうほどの完成度!そして驚くべきは、不二子への愛ゆえか・・・(!?)、当日の下着まで合わせてくるところが神業!どうやってこの日の下着を調べたのだろうか。
(TVSP第11弾 『愛のダ・カーポ~FUJIKO's Unlucky Days~』より)
●人類を超え、動物にまで大変身!
・「パンダ」!?いや、「ルパンだ」!!
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パンダに変装したルパン。銭形も「ああ、パンダか」と検問を通してしまい、逃走成功!シロクマの着ぐるみに黒でペイントするという意外とアナログな方法ではあるが、 足の裏まで完璧にパンダを再現!でもちょっと暑そう・・・。
(TVシリーズPART2 第150話 『ピアノ交響曲「動物園」』より)
・獰猛なトラに!
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猛獣のトラになりきり、四足歩行もお手のもの。座り方はうっかりルパンが出てしまったが、飼い主にも見破られず、侵入成功!臥体のいいトラの中にスマートなルパンが入っているとは誰も疑わなかったようだ。
(TVシリーズPART2 第40話『ミサイルジャック作戦』)
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世界の名車を華麗に乗りこなす!
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ルパンを語る上で欠かせないアイテムが『車』。高級車から大衆車まで幅広く乗りこなすルパン。その超プロ級のドライビングテクニックは作品の見どころの一つとも言える。
●ルパンの愛車の一部をご紹介!
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・左上
TVシリーズPART1のオープニングでも登場する初代の愛車。最強の速度と馬力で走行する高級スポーツカー!しかし五ェ門に真っ二つに斬られたことも・・・!(TVシリーズPART1 第7話『狼は狼を呼ぶ』参照)
・右上
TVシリーズPART2のアイキャッチで見覚えのある方も多いであろうこの車。世界でも生産台数の少ない超レアカー!
・左下
TVシリーズPART1から登場するが、特に活躍が印象的なのは劇場版 第2作『カリオストロの城』の冒頭で繰り広げられる激しいカーチェイスシーン!コンパクトカーならではの小回りの利く走行で森の中や崖っぷちもスイスイ走る!(詳細は下の項目で紹介!)
・右下
TVシリーズPART4での愛車。左下の車種をベースにし、よりスポーティなモデルに仕上げられた車種である。コンパクトカーならではの身軽さはそのままに、どんなうねった道をもグングン進む力強さがアップ!
●ルパン家代々のクラシックカーコレクション
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TVシリーズPART1 第23話『黄金の大勝負!』ではルパンのアジトにルパン家代々のクラシックカーコレクションが置かれている。
● 脅威のドライビングテクニック!
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TVシリーズPART1 第1話『ルパンは燃えているか・・・・?!』では飛騨スピードウェイを舞台にF1カーレースを繰り広げる!ルパンはF1世界選手権参戦用に開発された車に乗車。敵に仕掛けられたどんな障害物をも回避し他の追随を許さない! A級ライセンスを持つルパンの神がかったドライビングテクニックを存分に堪能したい方はぜひこのタイトルを見て欲しい!
●劇場版 第2作『カリオストロの城』でのカーチェイスシーンは必見!
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ルパンのドライビングテクニックを語る上で、『カリオストロの城』冒頭でのカーチェイスシーンは絶対に見逃せない!ウェディングドレス姿の少女クラリスの車、そしてそれを追う男達の車に出くわしたルパン達が、壮絶なカーチェイスを繰り広げる。
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ルパンは、道から外れて岩壁の上を走行するという脅威の離れ業を見せる!
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道のない森の中も、木をバッキバキに折りながら爆走!
「キキキーッ!!!」崖から落ちるギリギリのところで見事なターン!
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美女が大好き!!
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「裏切りは女のアクセサリーのようなものさ。いちいち気にしてちゃ、女を愛せるわけがないぜ」
不二子を筆頭にかわいこちゃんには目がなく、騙されても許してしまうその女好きぶりに、次元や五ェ門は呆れている。
●美女へのデレデレシーン集
・裸で不二子にダイビング!
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不二子を筆頭に、美女に襲いかかる時に見せる得意技がこれ。ジャンプすると同時に脱皮するかの様に服を上から下まですり抜け、パンツ一丁or全裸でそのままターゲットへダイビング!野生剥き出しの技だが、だいたい失敗する。
・不二子ちゃ~んが大本命!
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ルパンのこの表情を見よ!天下の大泥棒も、不二子にはハートを完全に盗まれてしまっている。不二子は騙すためにルパンを誘惑する事が多いが、ルパンはそれさえも楽しんでいる。
・不二子以外にも!美女なら誰でもウェルカム!
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ルパンが鼻の下を伸ばすのは不二子だけじゃない!美女なら誰それ構わずデレデレに。
・女性に優しいジェントルマン
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ルパンはただ女好きなだけではない。女性に優しく、ヒロイン達を助けてくれるジェントルマンでもある。
劇場版 第2作『カリオストロの城』でルパンは政略結婚のため城に幽閉された少女クラリスを助けようとする。そして「どうかこの泥棒めに盗まれてやってください」「無理やり花嫁にされようとしている女の子は緑の野に離してあげる、これみな、泥棒の仕事なんです」となんとも優しく、粋な言葉をかける。
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TVシリーズPART2 第155話『さらば愛しきルパンよ』では、永田重工に騙され、父親も亡くした小山田マキが殺されかけているところを、ルパンが間一髪助け出した。そして優しい表情で「じゃ、後始末に行こうか。」と言ってマキの無念をはらすように共に永田重工と戦った。
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kyokantheaternews · 3 years
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【共感シアターナビ】たくさんの投稿頂きました!「おすすめしたい日本のアニメ映画」投稿全部ご紹介!
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先日13日火曜日の21時より放送された共感シアターナビの中で、視聴者の皆さんの声を紹介するコーナー「俺たち共感族!」のお題は「おすすめしたい日本のアニメ映画」でした。 募集をかけたところ、多くの視聴者から熱いコメントをたくさん頂きました!ただ、番組内では放送時間の都合上、全部を紹介することは出来ませんでした。 そこでこの度、放送内ではご紹介できなかった投稿を含めて、視聴者の皆様から頂いた全投稿をこちらに掲載させて頂きます! 視聴者の皆様から寄せられた熱い投稿、ぜひご覧ください!!
番組アーカイブはこちら!
きょたさん
■作品:劇場版シティーハンター<新宿プライベートアイズ> ■おすすめ理由 2019年に公開されたシティーハンター最新作。前作から20年ぶりに作られた新作(パラレルワールドのエンジェル・ハートは除く)シティーハンターは好きだが昔のコンテンツというイメージだったので、正直期待しないで観に行ったが面白すぎて度肝を抜かれた。感想としてはとにかく完璧にシティーハンターをしてるシティーハンターだった。無駄な要素を一切入れていない。 作品のノリや雰囲気、キャラの性格が当時と変わってないから安心して観れる。何より監督や声優が当時のままなのが一番嬉しい!平成最後に神谷明主役のアニメをぶちこんでくれたのは最高でした。山寺宏一、山崎たくみ、茶風林など当時エキストラで出演してた声優が今回メインキャラになったのは感慨深いものがある。 ギャグシーンも多めで、獠は5分に一回くらいはもっこり言ってたイメージ。もちろん戦闘もバッチリ決める!ゲスト芸能人声優が邪魔してないのもGOOD。話題性ばかりで演技がド下手な「大物ゲスト俳優(笑)」を使う作品が多いが、今回のゲストヒロイン役の飯豊まりえが上手くて物語に集中できた。 そしてシティーハンターはあくまで獠と香が主役だからシナリオ的にもでしゃばってない他にも往年のファンのテンションが上がる要素が多くて飽きさせない。特に音楽。シティーハンターシリーズの歴代主題歌が随所で流れるが、タイミングも曲のチョイスもバッチリ過ぎて聴いた瞬間目頭が熱くなった。 原作を知ってるならあっとなる小ネタも多くて探すのが楽しい。劇場公開時よく言われてた感想で「昔馴染みのラーメン屋に入ってラーメンを頼んだらラーメンが出てきた」というのが秀逸。確かに最近はラーメンを頼んだら冷し中華が出てくる作品が多い。そんななかこの作品が完成したのはまさに奇跡としか言いようがない。 一見するとファン向けな作品のイメージだが内容は「いつものシティーハンター」なので入門書としてもオススメ。映像面もシナリオも完璧で、まさにシティーハンターの最高傑作と呼ぶにふさわしい作品だった。 ■作品:デジモンアドベンチャー ぼくらのウォー・ゲーム! ■おすすめ理由 デジモンアニメの中で一番好きな作品。40分という短い尺の中に恋愛、戦争、生活、友情、勝利など様々な要素が詰まってる映画。最初はいたずらメールを送るくらいのコンピューターウィルスがどんどん進化していき、レジの代金をバグらせてとんでもない代金にしたり、交通機関を乗っ取って電車を暴走させたり少しずつ世界を混乱させていく…… それを阻止するため主人公達が立ち向かうというストーリー最終的には核ミサイルまで発射されてしまい、日本を壊滅させようとするスケールのデカさにビックリしたこの映画に「島根にパソコンあるわけないじゃん」という台詞があるが島根県出身の身として言わせてもらうと、一応パソコンは当時から島根にもあったぞ~~!!
鶴岡亮さん
■作品:クラッシャー・ジョウ ■おすすめ理由 僕がオススメしたいアニメ映画は「クラッシャー・ジョー」です。本作の舞台は2160年の宇宙で、主人公ジョウ率いる宇宙の何でも屋の「クラッシャー」がある依頼を受け、壮大な戦いと陰謀の渦に巻き込まれていくというスペースオペラものです。 このアニメの見所は何と言っても監督のみならず、作画監督も務めた安彦良和さんを始めとするアニメーター陣による圧倒的な作画力です。河森正治(かわもりしょうじ)さんデザインのスターファイターが宇宙空間で繰り広げる激しいドッグファイトシーンや、カーチェイスやクリーチャーを相手にした豊富なアクションシーン、人間の身体の動きを滑らかに描いたガンファイトシーン��が、80年代アニメブーム時代の高クオリティな作画で楽しめます。ストーリーも若干フィルムノワールを思わせる敗者の哀愁を漂わせる面があり、一見スタンダードなスペースオペラという体制をとりつつも、そういう所を取り入れてくるのが学生運動経験者の安彦良和監督らしく面白い所です。 後、一部の人にしか判らないでしょうが、安彦良和さん作画の「ダーティペア」が一瞬見れる所も今作の見所です! 高クオリティな作画を楽しみたい方には楽しめる作品だと思いますので、未見の方が居たら是非ともご覧下さい! ■作品: 機動警察パトレイバー2 the Movie ■おすすめ理由 この作品は言わずと知れた押井守監督作品のアニメ映画。 本作は90年代に作られた作品で、当時日本で問題になっていた自衛隊の海外派兵問題や、それを是とする日本国の情勢に対して、押井監督の鋭い指摘が冴えまくった作品です。 横浜ベイブリッジにミサイル発射テロが行われるシーケンスに代表される印象深いカットワークてんこ盛りの本作ですが、中でもテロに対して東京に非常事態宣言が発行され、新宿、渋谷、池袋に自衛隊が駐留し、「日常から非日常」へと転換していくシーケンスは非常にインパクトがあり一見の価値があります。 奇しくも、この映画が公開された1993年の2年後の1995年にオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生し、「このアニメに影響されたテロでは無いか?」と物議を醸し出しだす事になりました。 社会、こと日本について描いた作品というと、庵野秀明監督の2016年の「シンゴジラ」が挙げられますが、本作「機動警察パトレイバー2 the Movie」は押井守監督が90年代の日本の状況を克明に描き出し、予言とも言える快作を作り上げました。 ポリティカルサスペンスとして非常に完成度が高く、90年代という日本の時代性を語る上で外せない作品だと思うので、未見の方は是非ともご覧下さい。
バッファロー・ビルさん
■作品:今敏監督作品「パーフェクトブルー」 ■おすすめ理由 アイドルを卒業し、女優への転身を決意した主人公。彼女は事務所の要望となりたい自分との狭間で思い悩むようになります。現実と虚構が曖昧になっていく中、彼女にストーカの影が・・・最近では実写でもあまり見かけなくなったサイコホラーという題材。 90年代はセブンとか羊たちの沈黙とかやたら多かったですが、人間というものの気持ち悪さをここまで、それもアニメで本格的に描いた作品はあまりないでしょう。 98年の作品ですが、インターネット、芸能界の思惑、ストーカー等、現代でも十分通じる物語です。この作品がダーレン・アロノフスキー監督の「レクイエム・フォー・ドリーム」「ブラックスワン」に影響を与えたことは有名です。2010年にお亡くなりになった今敏監督。訃報を聞いた時はとてもショックでした。本当に残念でなりません。
肴はサラダチキンでいいさん
■作品: OVA版ブラックジャック カルテX  しずむ女 ■おすすめ理由 皆さんに見てもらいたいアニメで考えた結果これしか思いつきませんでした。また変化球気味で映画ではなくVシネマアニメですが、ギリOKという事で。 今作は手塚治虫先生の原作話で週刊チャンピオンで連載される訳でしたが、当時の公害描写などの理由でお蔵入りとなった話がOVAでアニメ化された物です。 ブラックジャックは医療アニメである前にヒューマンドラマだという事が分かる素晴らしい作品です。共感族の皆さんにも機会があれば是非見てもらいたいですね!^_^
nksさん
■作品:デジモンアドベンチャー ぼくらのウォー・ゲーム! ■おすすめ理由 本作は知る人ぞ知る細田守監督の出世作で、東映アニメ祭りで上映された、40分の短編映画です。 アニメーションの革新性、主要登場人物8人の手際良い配置、適度なギャグ、魅力的なアクション、どれを取っても20年前とは思えない出来の良さです。  スピルバーグが〈映画うま男〉なら、細田守は〈アニメうま男〉といったところだと思います。 細田監督がメジャー化してからの作品である「サマーウォーズ」は、実質本作のリメイクですが、個人的にはラスト10分でミサイルが着弾するスリルが現実の上映時間10分とぴったりリンクする所など、完成度において「ぼくらのウォーゲーム」の方が優れていたと思います。
■作品: 海獣の子ども ■おすすめ理由 本作は、主人公の少女(cv.芦田愛菜)が魚と会話できる不思議な力を持った少年と出会い、ひと夏の冒険を通じて海/地球/宇宙の神秘と生命の起源を知るという、ジュブナイルものかと思ったら「2001年宇宙の旅」だった、という映画です(なに言ってるか分からなかったらスミマセン。)。 ストーリーが難解でつまらないといった評価が多いですが、2001年やプロメテウス、エヴァが好きな私にとっては、大好物の作品でした。 しかしなんといっても本作最大の特徴は、一枚一枚が水彩画であるかのような、圧倒的な画力です。日本で同時期に公開された「スパイダーバース」と比較しても、勝るとも劣らない画の密度で、ハリウッドからの挑戦状に日本から回答を示すなら本作「海獣の子ども」だと思います。 2019年10月、制作会社のスタジオ4℃でアニメーターの残業代未払い問題が報道されました。そもそも本作は企画から完成まで6年を要した労作であり、そりゃ作り手が何人か倒れててもおかしくないよなと思いました。が、一観客として、「その成果はちゃんと届いてるよ!!」と、改めてアニメーターさん達に拍手を送りたいと思います。
甘えん坊将軍ユウスケさん
■作品:クレヨンしんちゃん~嵐を呼ぶジャングル~ ■おすすめ理由
しんちゃん映画だときっとオトナ帝国と戦国が挙げられるでしょうが、あの二作はアニメ映画としては最高ですが、しんちゃん映画としては言いたいことがあるので敢えてあの二作の直前の本作をピックしました。 擬似的な親離れ家族離れ体験としていつもの五人でジャングル探検してギャグシーンを満載にした前半(原恵一監督は結構このシチュエーションやってる気がするのですが、このテーマ好きなんですかね?)。一人の兄としてひまわりちゃんを守って頑張る中盤。徹底的にまたギャグに振ったみさえ&ひろしの救出シーン。で、本作最大の見処であるしんちゃんの憧れのヒーローであるアクション仮面のくだりです。 単純な強さで言えば、悪役のパラダイスキングに劣ってしまうアクション仮面ですが、皆の応援、特にどんな時でも憧れのヒーローとして慕ってくれるしんちゃんの声援と、悪役にはない優しさがあるからこそ勝つと言うちゃんと「正義は勝つ!!」のロジックを下手なアメコミ映画���りちゃんとやっている点。 また、ハリボテの城に住み、「力」は手に入れたが、また本当の意味で声援を送ってくれる者の居ない文字通り「猿山の大将」である、ある意味でヒーロー俳優としてあり得たかもしれない別視点の自分が最大の悪役として立ちはだかる点。 これら昨今のアメコミ映画に有りそうな題材をアメコミブームの10年近く前に既に、ちゃんとやっていると言う点ではヒーロー映画としての完成度は抜群に高いとと言いたいです。また、最後はバッチリお下劣ギャグやナンセンスギャグで締めてくれるのも最高ですね。 オトナ帝国や戦国、ロボとーちゃんばかりが、もてはやされがちですが、ギャグとアツい展開のバランスが取れてるクレしん映画としておすすめしたい一本です(特に特撮ヒーロー好きなら大西さんにもおすすめです。既にご覧になられてるかもしれませんが…笑)。
nikiさん
■作品: 時空の旅人 ■おすすめ理由 『火の鳥・鳳凰編』と同時上映の80年代角川アニメです。子供のころ、戦国時代が好きだったこともあり、劇場で見ました。こういったガキの時に見て面白かった作品が今見ても面白いのか?という疑問は昔の作品にはつきまとうと思うのですが、『時空の旅人』は大人になってから見ても面白かったです。 萩尾望都のキャラクターデザインの作画、竹内まりやの曲もいい感じです。ただ、ストーリーが原作ほど緻密ではない点、唐突に挟まれる角川春樹の俳句には目をつぶってください。
きゃわぐちさん
■作品:第5位 「帰ってきたドラえもん」と「サマーウォーズ」をセットで挙げます! ■おすすめ理由 13年前、まだ映画で涙した経験のない、鉄仮面だった高校生の私を大号泣させたのが、アメトークのドラえもん芸人で見た「帰ってきたドラえもん」でした。以来、涙腺がブッ壊れ、ついに映画館でも初めて泣いてしまったのが「サマーウォーズ」の花札のシーンです。 当時はセカチューや「1リットルの涙」から続いていた闘病モノブームもあって、そういう“お涙頂戴”がことさら多かった気がするのですが、“悲しさ”ではない感動で泣く、という経験ができるのもこの2本のいいところですね。
■作品: 第4位 「この世界の片隅に」 ■おすすめ理由 第4位は一転して底無しの“悲しさ”に泣けてしまう「この世界の片隅に」です。戦争モノのアニメ映画といえば、「はだしのゲン」や「火垂るの墓」や、いわゆるグロくて強烈な作品は数あれど、こんなにも穏やかな、それでいて辛い作品があったでしょうか!? 全編にわたりほぼほぼ戦闘シーンがなく、主人公・すずさんのおっとりした性格も相まって、日常系のアニメを観ているかのような気分になりそうな本作。しかし確実に戦時中である、というギャップが、どうしようもなく悲しい。去年の終戦記念日に初めて観たのですが、すずさんの穏やかな暮らし、健気な性格を見ていると「戦争さえなければ、平和に幸せに暮らせていたはずなのに」という思いが込み上げてきて、クライマックスでも何でもないシーンで涙が止まらなくなりました。 そして、当時の日本には何万人、何十万人という“すずさん”がいたのだという事実が現実味を帯びて感じられます。紛れもなく、映画史に残る名作です。 ■作品:第3位 「 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」 ■おすすめ理由 これは「クレヨンしんちゃん」という子供向けコンテンツを、大人の視聴にも耐えられる、むしろ大人こそ感動できる作品へと昇華させた金字塔的作品です。クレヨンしんちゃんの映画として必須な“お下品な笑い”はふんだんに盛り込んでおきながら、成長して見返すと泣かずにはいられない感動もある。 見る年齢によって、泣き所が変わってくるのもポイント。いつ観ても笑って泣ける、最高に楽しい映画です!こっちは何回も観るからブルーレイ化してくれ! ■作品:第2位 「 ルパン三世 カリオストロの城」 ■おすすめ理由 挙げるまでもない名作ですが「ルパン三世 カリオストロの城」! ・言わずもがな抜群の完成度。 ・テレビで流れていればつい観てしまう ・何度も観ているから安心感があるのに、何度観ても飽きのこない面白さまさにアニメ映画界の「ターミネーター2」! 今さら観てない人はいないと思いますが、「クラリスって誰?」という人がいないとも限らないので、念のため第2位にランクインです。 ■作品:第1位 「 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」 ■おすすめ理由 そして第1位は、完全に私の趣味「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」で決まりです!もちろん世代ではなく、小学生のころケーブルテレビで父に見せられたのがきっかけ。テレビ版も見たことがなく、最初に触れたヤマトが劇場版2作目の“さらば”。 まだアニメといえばドラえもんやクレヨンしんちゃんやコナン、あるいは少年漫画の単純な勧善懲悪しか知らなかった私に、いきなりの“さらば”はまさに世界がひっくり返るような衝撃でした。見終わったあとテレビの前で呆然としていたことは、20年以上経った今でも覚えています。ボロボロになっても戦い続ける、ヤマトの不屈のカッコよさ、白色彗星帝国の圧倒的な強さと絶望感、クライマックスの激闘、そしてきゃわぐち少年を衝撃の渦に呑み込んだラスト。最高と言うほかありません! ただ、ヤマトに限りませんが、大人になってから初めて触れると、どうしても奥にいる製作者や、話の辻褄ばかりに目がいってしまって、純粋に作品の世界に没頭することが難しくなるもの。でも子供の頃に観たものなら、大人になってもずっと“あの頃”のまま楽しむことができます。 共感シアターをご覧の皆さんで小さなお子さんを持つ方がいたら、早いうちに「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見せることをオススメします。あと「あしたのジョー」。 余談ですが、共感シアターではだ〜れも観てない「鬼滅の刃」、僕は初日に行ったしブルーレイも予約したし、結構感動しました(笑)
アレスさん
■作品:「 マジンガーZ対暗黒大将軍」 ■おすすめ理由 無敵のスーパーロボットと思ってたマジンガーZが新たに現れたミケーネ帝国の戦闘獣軍団にボロボロにされるのは幼心にそれはもうショッキングでしたが、そのピンチを救うべく飛んできたグレートマジンガーの無双ぶりはそれを上回るインパクトでした。 「マジンガーZの兄弟さ」とだけ言い残し飛び去って行くラストシーンの格好良さはアニメ映画の括りだけじゃなく、映画のマイオールタイム・ベストシーンです。
ぜんぞう
■作品:「 餓狼伝説/劇場版」 ■おすすめ理由 さて、おすすめしたい日本のアニメ映画ですが、僕のおすすめ日本アニメ映画は、「餓狼伝説/劇場版」です。「AKIRA」や「オネアミスの翼」等、大好きなアニメ映画は沢山ありますが、他の皆様のおすすめにあがりそうなので、あまり語られることのないであろう、「餓狼伝説/劇場版」をおすすめしたいと思います。 制作当時、隆盛を極めたSNK製のビデオゲーム「餓狼伝説」シリーズを基にした、劇場版ならではのスケールの大きいオリジナルストーリーがとにかく魅力的。ゲームでお馴染みのキャラクター達が、伝説の闘神の鎧を巡ってインディ・ジョーンズよろしく遺跡を巡り、謎を解き、鎧を狙う敵対勢力と超人バトルを繰り広げる展開は圧巻の一言。 ダイナミックなアクションとミステリアスなストーリーは、これぞ日本アニメ!「ヘルボーイ/ゴールデンアーミー」にも影響を与えた(と勝手に推測している)クライマックスも含め、見所満載のスペクタクルアニメ映画です。ぜひぜひ、ご鑑賞ください。
ヱキストラさん
■作品:クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ(2004年) ■おすすめ理由 クレヨンしんちゃん界隈の映画秘宝こと「クレヨンしんちゃん研究所」で絶賛された本作品。往年のマカロニ・ウェスタン/アウトロー作品への愛を異常なほど感じさせる本作は、これまでの明るい雰囲気を出さないためか、オカマキャラを一切登場させない徹底ぶり。 「荒野の七人」「夕陽のガンマン」「マッドマックス」「ローン・レンジャー」など自分がわかるだけでも数作品のオマージュ/パロディが随所に散りばめられていて、その上、元ネタを知らなくても楽しめるクオリティの高さでした。加えて最後のオチは、"映画"というギミックを笑っちゃうぐらい見事に活用! 上映時間は95分で、Netflixにも公開されているので、映画好きな共感族の皆さんにも、是非一度ご覧いただきたい作品です( ´-`)
リノス屋さん
■作品: バンパイアハンターD (英題:Vampire Hunter D: Bloodlust) ■おすすめ理由 古典的なモンスターホラー要素に、SFファンタジーや西部劇の要素も併せ持つ作品です。 舞台設定は、遥か未来。“貴族”と呼ばれる吸血鬼に支配された世界で、人類は家畜同然な存在に。貴族達に怯えながらも、なんとか生活を保っている人類に味方をするのが、人間と吸血鬼の混血で、吸血鬼ハンターを生業にしている、主人公“D”。全身黒ずくめで、大きな旅行帽を被り、背中に長い刀を背負い、左手には人面瘡(じんめんそう)を宿し、顔立ちは美形という、一見地味に見えてカリスマ性のあるこのキャラクターがまず魅力的です。 映画の内容は、名門と云われるエルバーン家の少女が、貴族に誘拐される所から物語が始まり、それを知ったエルバーン家の者が、主人公Dや人間の吸血鬼ハンターいち味を雇い、少女救出へと向かわせます。後に、『マトリックス』のオムニバスアニメ『アニマトリックス』の一作品を手掛ける事になる、監督の川尻善昭(かわじりよしあき)さんが描く、道中でのアクション等見所が随所にあり、混血な故に貴族からも人間からも毛嫌いされ、しかしながらも奮闘する主人公Dの孤独な戦いもドラマに絡んできて、終盤には思わず涙を誘われます。 又、この作品の公開時は、英語版での上映のみでしたが、ソフト化の際には、日本語版も発売され、声優ファンには堪らない錚々たるメンバーがキャスティングされております。特に、主人公の左手に宿る人面瘡(じんめんそう)の声を、永井一郎(ながいいちろう)さんがアテられていて、無口な主人公とは対照的に、ユーモアや皮肉に溢れるキャラクターを演じられていたのが印象的でした。『バンパイアハンターD』は、映画以前にもOVAやオーディオドラマ、プレステ用ゲーム等のメディア展開も多くあります。 何より、菊地秀行(きくちひでゆき)さん原作の小説には、キャラクターデザイン兼挿絵をファイナルファンタジーシリーズのイラストでも有名な、天野喜孝(あまのよしたか)さんが手掛けられていて、天野さん自身の個展でも度々、同作品のイラストも出展している為、おそらく共感シアターの皆様も、どこかで一度は“D”を目にしたことがあるかもしれません。
孔明(MOVIE TOUCH)さん
■作品: トランスフォーマー ザ・ムービー 1986年公開作品  ■おすすめ理由 1984年にアメリカでトランスフォーマーの玩具が発売され、テレビアニメ放送もあって大ヒット。それを受けて製作されました。テレビアニメ同様に日米合作で、作画は主に日本の東映動画(現:東映アニメーション)が担当。最初のテレビアニメ「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー(通称:初代)」の続編ですが、本作は当時の子供達に深い傷痕を残しました。 開始30分以内に玩具の在庫処分のために初代に登場したトランスフォーマーの殆どが無惨にも殺されていき、同時に新商品の宣伝のために新しいトランスフォーマー達が主役の物語が容赦なく始まるという衝撃的な内容。総製作費40億円(尚、半分しか使い切れなかった)をかけた本作はCGと見間違える程の神作画が終始続き、日本のアニメーター達の底力を見られます。特に星帝ユニクロンの変形シーンはロボットアニメ史に残る神シーンです。ジャド・ネルソン、レナード・ニモイ、エリック・アイドル、オーソン・ウェルズらが声優として出演。 また本作はオーソン・ウェルズの遺作でもあります。勢いある80年代を象徴するような本作のアルバムは映画アルバムでもベストに入れたいほどの名盤で、特に主題歌「The Transformers Theme」と挿入歌「The Touch」は海外アニソン屈指の名曲。因みに劇伴は「ロッキー4/炎の友情」のヴィンス・ディコ���ラ。日本は玩具発売元であるタカラ(現:タカラトミー)の大人の事情で劇場公開に至らなかったものの、後にチャリティ上映やソフト販売が一応行われました。 現在国内で合法的に見る方法は北米版ブルーレイ(勿論日本語音声も字幕も無し)を海外から取り寄せる以外ほぼ皆無で、他はネットに違法アップされた物を見るしか方法がありません。しかしタカラトミーもブルーレイ発売や配信をする気が無いのにも関わらず本作の玩具を出しまくっているので事実上黙認状態(因みに今月も発売予定あり)。実写映画版シリーズで本作から引用されているシーンや台詞、設定がかなり多いので是非見てください。 ■作品: ガールズアンドパンツァー 劇場版  ■おすすめ理由 ある意味戦車アニメ版ワイルドスピード。その熱さは実際に鑑賞した多くの映画ファンから同年公開の「マッドマックス 怒りのデスロード」に匹敵すると言われた程。 砲撃戦のみならず戦車で戦車を投げ飛ばして攻撃、戦車同士で格闘戦、ジェットコースターのレール上で戦車チェイス、窮地を救う観覧車先輩などなど、「戦車でそんな使い方アリ?!」のオンパレード!仲間はファミリー同然に面倒を見る!一度戦った相手はマブダチ!応援大使は蝶野正洋!一見あり得ない戦車戦の裏には膨大なリサーチに裏付けられた世界トップクラスの再現度を誇る戦車描写があり、リアリティとファンタジーが見事に融合した戦車映画になっているのです。 特攻野郎Aチーム的な「どんな奇策でその場を乗り切るか」という展開も見どころです。オーケストラで収録された劇伴も作品を盛り上げる良い仕事ぶりを発揮し、オリジナル楽曲以外にもリパブリック賛歌やフニクリ・フニクラなど様々な国の曲が使われるので大変勉強になります。共感族なら一度は聞いた事があるであろう、あの映画にも出てきたあの楽曲も使われます。また劇中歌「おいらボコだぜ!」は人生何度ボコボコにされても立ち上がる力をくれる素晴らしい歌です。 現在劇場用OVA最新作「ガールズアンドパンツァー最終章 第3話」が公開中。それに合わせてNetflix、dアニメストア、Huluなどの各配信サービスにて本作ほかシリーズ作品が見放題配信中、更にシネマサンシャイン系列劇場などでリバイバル上映中です。以前アニメ業界にいたのですが、業界人として見ても手描きアニメと3DCGを組み合わせる現代のアニメの中でもトップクラスの作品と言える程クオリティは高いと思います。また、私が業界にいた頃にお世話になった方々が関わっていますので、是非ご覧いただければと思います。 因みにガルパンのムック本「不肖・秋山優花里の戦車映画講座」は監修/執筆が青井邦夫さん、執筆協力の1人が高橋ターヤンさん!ガルパンは実質共感シアター案件では?! 以上になります! 今回は「日本のアニメ映画」というように限定しましたが、アニメ映画はまだまだたくさんありますので、また皆様からのお声を募集したいと思います! お楽しみに!!
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cota-nust · 5 years
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●銀魂 ジャンプGIGA vol.3へ向けての記憶する記録
(2019.2.9 0:38)
 銀魂の感想は書くまいと思っていたけど、56巻の将軍暗殺篇の始まりを読んで考えが少し変わった。ジャンプGIGA3号目に向けて、今、いまこのタイミングに思うこと、そして初読に感じたことを書き残しておくべきなんじゃないかなあと。
 読み返すごとに思うところは様々に変わっていくけど、始めに読んだときに思ったことは決して無くならないし、それは何度再読したって変わらない。忘れずにそこに、自分の中にずっと残ってくれる。それこそ魂みたいに。そして再読するごとに変わる、その時々に感じることも、やっぱり同じ様に自分の中にずっと残ってくれるなら、ここに書き記してもそれは磨り減らないし、自分の中から無くならない。
 それなら、いま自分がどんな風に銀魂を好きなのか、それを少しだけ書き残しておきたい。全部じゃなくて良くて、残しておきたいところだけでいいから。
 もちろん「書かない」(書けない、かもね…こわいね)っていうことも一つの感想だと思うので、そこはそれということでひとつよろしく。  じゃ、行きますか!
◇56巻  ああ、終わりの始まりなんだなと、そう思った。  空知がこれまでの十年をフルに使う、本気のやつを描きに来たぞと。
 とは言え下ネタの勢いも激しく(カゲ汁)、ギャグ混じりで描いてはくれているのだけども。ふ○っしーそういえば丁度この頃だったね…(笑)ただ、ふっとばされた喜喜ががっつり怪我してる辺りからも、シリアス長編だぞ、分かってるな、ときつく伝わってくる。
 影武者の件に関しては、銀さん行かないでよ、万事屋の皆行かない…………訳……ないよね……と思いながら、うう……となった。だってあの三人がこの局面で手を貸さない訳が無いことを、私たちはもう知っている・・・・・・・のですよ。嫌になるほど知っているのですよ、ここまでの55巻を経た私たちは……。まして将軍はほんとのほんとに万事屋三人の命を救ってくれた過去があるからね。まあね、そうなんだよ、そうなんだけど。でも、やっぱり、と思いそうになるけど、なるんだけど!だとしてもそれでも、いやこの三人は行くんだって思うんだよ。だってさ、だってそうじゃなきゃ万事屋じゃないんだ…!私たちの知ってる万事屋は、銀さんは、新八は、神楽は、やっぱりそうするんだよ。そうだって私たちは知ってしまっているんだよ。
 空知の本気も分かっていたつもりだったけど、こういうの描ける人で、今までいい塩梅にセーブしてくれてたのも分かってて、ここからリミッター外してくるのも分かってたけど、それでもやっぱり将軍の首が飛んだ1コマで、あ、本気だ、って改めて思った。こっちもスイッチを入れられた。本気で読まなきゃだめなやつだこれは、と。いや別にいつも本気で読んでるんですけどね。
 あとは全蔵の眼がなあ…。初めて描かれるのはまず間違いなくこういうガチの場面だろうとは思ってたけど、やっぱりくるものがありましたね。
 ちなみに守護霊の話の始めの「こんな化物が499話ずっと銀さんの側にいたの!?」のくだりに何となく覚えがあるような無いような…だったので、この辺までは本誌を読んでたのかもしれない。確かに大学卒業が2015年春なので、2014年の夏~秋口とかなら読んでる可能性あるんだよな。いやめっちゃギリギリのとこまで読んでたんじゃん!っていう。ジャンプが転がってたら銀魂の掲載順は必ず確認してたからなあ。
 他にも色々あるけど、とりあえずはそんな感じ。47巻読もう。ア゛ーーーーーこわいなーーーーー!
 ――ああ、終わりの始まりの、足音がする。
(2019.2.9 1:40)
◇57巻  いつもの将軍かよォォォ!!の引きからの続き。将軍ほんとに死んでるのか?と思いつつ、始めから将軍が偽者だったっていうのはさすがにこっちも騙されたわ…。でもじゃああれは一体誰だったのか?とも思ってたけどまさかこういうことだったとは。全蔵の回想シーンで思わず「う゛あ……」と声が出てしまった。人間・徳川茂茂の命を護ろうとした、という表現がまたぐっとくる。
 表紙の阿伏兎の表情も印象的。先の展開でこんな表情が似合うタイミングが来るのかな。どっちかというと銀さんにも似合いそうな表情に思えるけど…でも銀さんがこんな表情になってしまう様な場面、見たく……うーん、ないなあ、やっぱり…。…そんな風に笑わんでくれよ。
 あと、この真選組と万事屋の関係がやっぱ好きだ。気に食わないけどお互いを認めてる感じ。見ている方向はバラバラでも、帰るべき場所は同じだ、っていう銀さんの台詞がもうそっくりそのまま言い表してるよね。別の正義だけど敵同士じゃない。
 生きて帰るのが友達の務めだっていうのもね。これはずっと昔から銀魂の好きなところの一つ。生きて帰るのが友達の務めだ。務めだからね。
 個人的にはこの高杉たちとの再対が、紅桜篇の時と対になってるのかなと思った。新八が武市に(紅桜篇の時と違って)躊躇無く一刀入れてたのが印象的でした。万事屋全員が揺るがなく万事屋メンバーであることが万事屋が万事屋たる所以なところが、力強いし、心強いなと思う。(「万事屋全員~所以」なところが、の意。分かりにくいな)
 あとあと、将軍を連れて廊下から飛び降りるシーンの三人の一瞬の目配せと、そこからの銀さんが柱を掴んでぐるっと反転するところがめちゃくちゃ格好よかった…!戦闘シーンでも、銀さんに剣を渡すのはいつも新八なんだなあというのがやはり印象的。とっておきのがもう一本、なんだよな。
 五百五十五訓の1ページ目、銀さんは昔と変わらない表情で描かれているのが、狙ってやってるんだろうけど気が引き締まる様な感じ。ここで新八と神楽の名前を呼ぶのもすごい好きだ。
 それで、神楽の、この地球で生まれた神楽アル、って言い切る強さがまた…大好きなんだ…!負けんな!神威なんかに負けんなよ神楽!あんなクソ兄貴一発殴って怒ってやれ!!という気持ちのまま次巻へ。
 あと五百八訓も読んだ覚えがあったので全然余裕で突入したところまで読んでましたね。いや全然ギリギリどころじゃなかったね!普通に突入してたね!次の巻あたりまでがほんとに読んでる可能性があるラストのところなので、ちょっと気をつけつつ読もう。なんかもう一話くらい読んでそうだわ。
(2019.2.11 22:36)
◇58巻
 上手い言葉なんてない。それどころか上手くない言葉すら見つからない。1冊読み進めるのに3度は思わず本を閉じて息を吐いた。その時間が必要だった。
 十年……十年間これを、これ・・をずっとしまい続けて、よくまあ十年も……空知先生…………銀さん……。つい二巻前にも書いたけど、ここまでの巻の全てが伏線になって、はっきりと提示してくる。そこに描かれた坂田銀時という男の在り様が、私たちに、まざまざと、鮮明すぎるほどに、過去と現在の銀さんを提示してくる。
 ずっと間に合わなかったんだとばかり思ってた。あと一歩届かなかった、もっと自分達が強ければ、と、そういうことだったのかと。そういうことだったのかと思ってたんだよ。こんな……こんな、なんで、こんな。
 どうしようもなく、何もできることは無いんだなと思った。たぶん作中の誰にもできることは無くて、もちろん読者である私たちも同じ様に何もできなくて、ただもう……どうか、どうかと祈ることしかできないんだなと……。願わくば、これから銀さんを襲うであろう困難を、銀さんが乗り越えられますように。何一つ取り溢さず歩いて行けますように。銀さんの道行きが、笑顔に満ちたものでありますように。どうか、どうか、と。
 59巻も続けて読んだので、ちょっとそっちの内容も入るけど、銀さんがこの先、銀さんの思う答えを見つけることができて欲しいな、と思う。今の銀さんは万事屋の銀さんでもあるから、そこには新八と神楽がいるから、きっと見つかると思う。
 高杉と相対する時だけはきっとずっと松下村塾の、吉田松陽の弟子の坂田銀時だったんだな、と。銀さん…。
 あと、それでも、銀さんのために私は少しだけ腹を立てたい。松陽先生に。なんで斬らせたんだと。銀さんはやってくれるって、願いを汲んでくれるって分かっててやったでしょう、と。他に何か手は、無かったんだろうけど、でも、それでも、それでも…!銀さんは確かに強いけど、ああいう人だから応えてくれるしその力もあるけど、松陽先生も近藤さんも背負わせるばっかりで、いやそればかりじゃないんだろうけど、でもさ、じゃあ、じゃあ銀さんの荷物は誰が一緒に持ってくれるんだよ。皆いるのに、いないわけないのに、いらないわけないのに、持たせられない人だって分かってるのに…それでも、それしか手が無かったんだとしても、でも、やっぱりそれでもさ、と、どうしても思ってしまうのですよ。銀さんはやっぱり、最後の最後で松陽先生の方に少しだけ傾いてただろうから、余計に。でも、松陽先生も銀さんたちに、楽しくなくったって、それでも生きてて欲しいって思ってたのかなと思うと…何も言えない…言えないんだよ…。先生…。
 これを書くのにもう一時間半くらいかけている。最後にちょっと気になった点を一つ。
 松陽先生ってあの…もしかして夜兎だったりします?なんか回想シーンの怪力具合と言い、髪とか肌の色といい、そう思うとそれらしく見えてきてですね…。あのいまいちこっちの話を聞いてない感じとか、よくよく考えると神威とテンポ感が似てるよね。過去も何かありそうだし、うーん、まだやっぱり分からないところだらけだなあ。
 そんなこんなで、次巻へ。祈りつつ。
(2019.2.12 23:16)
 
◇59巻
 58巻を読んでそのまま寝るのはちょっと…しんどい…続き…となったのでそのまま読みました。真選組の話。
 真選組もやっぱり、警察じゃなくても、近藤さんがいて、土方さんがいて、沖田がいて、皆がいて、それならどこでだって真選組なんだなと、改めて。逆にそうじゃなきゃ真選組じゃない。江戸を離れ、いよいよ時代が動こうとしている様が見えてきた。それでも皆の笑顔があるなら、どこでだってそこがやっぱり皆の帰る場所なんだっていう、それも再確認できて良かった。将軍暗殺篇からこっち、空知先生自身が自分に言い聞かせてるのかってくらい(それもありそうだけど)、もうあの日には戻れないんだ、皆でバカやってたあの日には…って何度も繰り返し語られるので、これは嬉しかったな。そうだよね、どこでだって、いつだって、って思えて。
 前巻を踏まえての、銀さんの、まだどっちも護れるって言葉が響いた。夢に見てるってことも…。答えが見つかりますように、今度こそはどっちも護れますように、と、やっぱり祈る。
 中盤、身を隠した銀さんが着ていた着物はあれ辰五郎さんの着物だったのかな。お登勢さんと目を合わせるシーンがいい。
 ヅラが銀さんを指して、とっておきのを残してきた、って言うのがまたいいんだよな。そんで、銀さんのとっておきは新八と神楽なんだな。
 あと、小銭形さんの再登場が個人的に嬉しい!カミュのくだりがいっそ懐かしい…(笑)
 いよいよ新政権との対立が明確になってきて、見廻組というか佐々木の思惑も気になるところ。いざ次巻へ。
(2019.2.12 23:52)
◇60巻  表紙が知らない人だ!の60巻。ついに60巻の大台に。  ヅラの一つ結び好きなんだけど一瞬で終わった。お互いの敵を倒しあうこの戦闘シーンが格好いい!  八咫烏は不吉の象徴である、という知識を持っていたような気がしていたんだけど、調べてみたらそうでもなかった。烏が不吉とされていたこと、八咫というのは実際に八咫(咫は長さの単位)ある訳でなく巨大であるという意のこと、あたりからそう思ってただけだったのかな。  あと奈落も単に深い穴ってだけでなくて、舞台装置の意も含んでそう名付けたのかな(空知先生が)。舞台装置が動くときは決まって物語が転換する時だから。調べたら地獄とかどん底って意味も出てきて、そういえばそういう意味合いもあるよなと。  名付けについてはあと、さっき気づいたというか思い至ったけど、奈落は烏、夜兎は兎で、合わせて烏兎じゃん、と。これ確か熟語で意味があったはず…(前に調べたことがあった)と思って調べ直したら、太陽の中に烏、月の中に兎がいるっていう中国の故事から、太陽と月のことを指しているらしい。あと、そこから転じて年月のことも指すとのこと(前調べたのはこっちで、烏兎怱々=月日が経つのが早いさま、の方)。ちなみに烏が有ると書く烏有は、いずくんぞあらんやの意で何も無いことや架空のことを指すし、烏有に帰す、は全く何も無くなることを意味する熟語。ここまでくると蛇足だけど、太陽と月のモチーフは吉原篇でも出てきたし、わざと対になるように名付けたのかなと思ったり。ちょっとこじつけすぎかな?あんま関係ないかな。とりあえず思考を残しておくために一応書いておく。  もう一個、奈落は今のところ、朧、骸(信女)、虚、と出てきたけど、どんどん実態が無くなっていくほど強い順になっているのかな。朧は隠れているだけ、骸はそこに肉体はある、虚は何もない、ので。いや、朧さんすごい銀さんに状況とか教えてくれるな…?と思って。松陽先生とも交流があったみたいだし、過去に高杉の左眼を潰しつつだけど止めたのも朧だし。やっぱり他の奈落たちと少し違う感じ。その理由はまだ分からないけど、そのうちまた明かされるのかな…。  といった辺りで閑話休題。本編の話の方へ。  初めて副長と呼んだ沖田もまた、真選組になれたのか、いやもうずっと前から沖田は真選組だったのか。第47条がぐっと来る。いつかの銀さんは死ぬな、と言って、いま土方さんは生きろ、と言う。やっぱり二人は似てるんだなあと思うし、この言葉選びの違いが二人の正反対さも示しているのかなあとも思う。斬り拓くために駆け出す絵、そしてこの台詞。熱い!  佐々木は銀さんや真選組と敵対する存在なのか、それとも大きく見れば同じ側に立��存在なのか、いまいち真意が読めないと思っていたけど、こういう過去があったとはなあ…。敏い人だった、敏いからこそそこに至り、いまも尚ここで自分自身と戦い続けているのか…そうか…。佐々木の眼に近藤さんはどんな風に映ったんだろうな。  佐々木と松平のとっつぁんの間にもちゃんと関係性があるのが嬉しい。たぶん、ある意味ではとっつぁんだけが佐々木の理解者だった。それと信女も。信女との関係もこういう風だとは思ってなかったな。みんな自分自身と戦っているんだ。  神楽は本当に……強くなったなあ。  そしてあらわれた虚。表紙の人だ!見た目も何もかも強そうだけど果たして…。元奈落で現天導衆か。刀身が黒いのは何か理由があるのかな?  ところで新八の木刀って、もしかして一兄との一戦のとき銀さんから渡されたのそのまま使ってるのかな。何だか字が入ってるみたいに見えるんだけど…。そうだとしたらこれもまた熱いな。  そしてとにかく、腹を括った近藤さんの、俺と共に…の台詞が力強い!近藤さんはやっぱりこうでなくっちゃ。いつだってそこが真選組の場所なんだ!  次くらいで「さらば真選組篇」は最後になってしまうのかな。心して読む! (2019.2.13 23:11)
◇61巻  サブタイトルが「さらば真選組」。おまけに表紙が59巻と対になっているという粋な演出!色も緑系で揃えてあるのはきっとわざとなんだろうな。  土方さんはもうね、ずるいよね。鬼の副長にあんな顔されて言われたら無視できる訳ないじゃんね。それでいて自分はぎりぎりまで佐々木を待つんだからさ…。ずるいよなあ。  そして虚。いったいどういうことなの?誰なの?  いや正直なところを言うと、本屋で銀魂買うのに探してるときに、先の方の巻が平積みされてて表紙をちらっと見ちゃったんですよね。そしたら松陽先生っぽいけど明らかに悪い顔をしてる人がいたので、これは…?とはなってたし、虚が出てきた時も喋り方とか髪とかぽいなあとも思ってたんだけど、松陽先生のことをまるで別の人のことみたいに話すじゃないですか。別人格なの?これ誰?謎が残ったままひとまず退却になってしまったけど…一体どういうことなんだ…。  さすがに銀さんも固まったけど、そうなんだよ、今の銀さんは一人じゃないんだよ。銀さん一人の剣は届かなくても、というこの場面が過去と決定的に違うところを映し出していて熱い。今なら、今の銀さんなら届くんだ…!吉原篇とは逆に、神楽が銀さんを呼び戻してるところも良いよね。  近藤さんのシーンはさすがにヒュッと息を呑んだ。間に合わなかったのかと…真選組は近藤さんと共にあることが本当にまざまざと思い知らされた。近藤さんが居ない真選組は真選組であることがどうしたってできないというか…崩れたかと思った。けど、銀さんがつなげた。近藤さんの人選は正しかった。たぶん近藤さんの預かり知らないところで、銀さんにとってもそれはきっと意味のあることだった。  朧が背後の近藤さんにちゃんと反応して、鞘で防ごうとしてるのがすごいんだよな。これ近藤さんが朧を斬るつもりだったら、たぶん鞘で防がれてたってことだと思うんですよ。けど実際は鞘はノーダメージで左腕が落とされた。つまり、近藤さんは端から朧に致命傷を与えるつもりじゃなかったってことで。自分が決めるんじゃなくて、土方さんの斬撃を通すために動いて(土方さん利き腕やられてるし)、土方さんもたぶんそれをあの一瞬で汲み取ってるのかなと。それくらい何度も一緒に戦場を、死地をくぐり抜けてるんだよこの二人はさ…。  戦闘シーンは動きがだいぶ練られてるんだろうなと常々感じる。たぶん拾いきれてないところもある。個人的には銀さんも虚も柄で斬撃を受けるシーンがあるのが好き。松陽先生から盗んだ技の一つなのかな。  土方さんと銀さんは似てるけど、やっぱ土方さんの方が素直というか、銀さんの方がひねくれてるというか…とにかくまあ、やっぱり、似た者同士だよな。近藤さんありがとね。土方さんありがとね。銀さんと土方さんが、腹抱えて笑ってるの見れて嬉しかったよ。ありがとね。  お別れは必要ない、さらばだけど、さらばじゃない。――いってらっしゃい、真選組! (2019.2.14 23:41) ◇62巻  ちょっとだけ…と言いつつ、結局ほとんど61巻から続けて読んだ62巻。  虚、そういうことだったのか…というのが率直な感想。あ、アルタナ!…アルタナ…!?……アルタナ…?…あ、龍脈っていってたあれのことなのか…!みたいな感じでした。繋がってくるなあ…。虚もまた、自分で自分を終わらせられない、終わることの出来ない存在だったのか。松陽であった時、やっぱり自分を殺してくれる誰かを探しに、あるいは作ろうとしてたのかな…。  まあでも、色々納得した。そういうことだったのか。なるほどなあ…。  ところで、本当にぶち壊しなこと言うけど、虚はその…首…生えてきたんかな…?朧もなんか腕生えてるしな…。朧が血をもらったのは松陽先生だった頃の虚なのか、どうなのか。  あと虚が500年生き続けているとして、元はただの人だったってことなのだろうか。そうだとしたらあまりにも…。  そして高杉を救うために、かつての仲間たちが集結するこの展開…!銀魂初期の頃から、たぶん誰もが一度は夢想していた場面がついに…!しかし高杉と戦いに行く、じゃなくて高杉を救いに行く、になるとは思いもよらなかったなあ。高杉ヒロインポジションじゃん!と読んでる時にちょっと面白くなってしまった…(笑)  あと、三凶星、すごい物々しく出てきたけど正直次回1Pで倒されてそう…と思っている。将軍は本当に5Pで落ちたからな。あれより短そう。  ともあれ、それぞれがそれぞれの思惑を胸に動き出した。さてどうなるか…早く次巻が読みたい。 (2019.2.15 0:13)
◇63巻  表紙誰これの63巻。銀さんまんじゅう食べて太ったんか?  銀さんが攘夷戦争の時の仲間に慕われて、すごい!って言われてるところを見れて嬉しいしなぜか鼻が高い気分になった。そーだろうそーだろう!銀さんすごいんだぞ!強いんだぞ!どうだ俺たちの銀さんは!みたいな。高杉晋助に決まってんだろ!にも、いやいや銀さんに決まってんだろ、って心の中でね、言ってしまったよね。あと坂本のこういうとこ(桂浜の龍坂本辰馬で決まっ…)好きよ。一番色々見てるとこもね。  小さい銀さんがあ~やっぱり銀さんだな~って感じで嬉し笑い。ヅラに偶には俺とやってみるかって銀さんから声をかけるってことは、ヅラも当時から相当強かったんだろうな。  ヅラの本気のこういう戦闘シーンってほんとに初めてな気がするけど、やっぱ強いんだなあ。逃げの小太郎はともかく狂乱の貴公子はいまいちピンとくるようなこないような、って感じだったけど、今回のこれで合点がいった。今回ばかりはいつもと逆で、桂じゃない、なのがまたもう…!頭突きのシーン、いつかの銀さんと被って見えた。ヅラの影響だったのかな。  そして坂本のターン。簡単に死ねると思うな、が、すっと、曲がらず、けれど確かな質量を持って届く。喜喜にもそれは届いたんだろう。喜喜も、喜喜にそれを言った辰馬ですらも、やはり自分自身と戦っている。そして、それはこれからも続くんだ。坂本はどこまでも坂本らしいな。陸奥の曳き波って表現がしっくりくる。  銀さんの方は二人に続いてシリアスに戦闘シーン…と思いきや、思ったより序盤はギャグ強めの展開で一笑い。パクヤサ…(笑)三凶星を全員抑えて表紙を飾ってるのがまた笑いを誘うぜ。でも銀さん住所分かるくらいだから何気にまだ繋がりあるんだな、というのが垣間見えて笑みがこぼれた。  しりたきゃその目玉で…のコマでもそうだけど、銀さんのあの、わざと光が描かれない眼がいつもゾクゾクくる。銀さんはそうなんだよ、怖い人の一面も持ってるんだよ…。酷薄そうなあの眼に会う度にそれを思い出す。  あと、あの…569訓の扉絵の銀さんが…めちゃくちゃ格好良い…。背景が洛陽なのと雨の情景が相まってまたしっとりと渋くて良い。  まんじゅうと朝飯。明日の朝飯のために戦う、が、すっと心に入る。うん、…そうだな。銀さんらしい。  そしてなんだかんだでオッさんがめちゃくちゃ強い銀魂が好きです。次巻へ。  (2019.2.16 22:26)
◇64巻  またも表紙が知らない人だ?と思ったけど、じっくり見てあっこれ神楽のマミーか…!?となった。二年後篇の神楽に納得。  銀さんと高杉の戦闘シーンはいつも二人が対比されて描かれるのがすごく格好良いのだけど、今回はまたとびきりの…!相手の武器を使って相手の仲間を護り、相手の背後の敵を倒してそのまま自分の武器に持ち替えるというあの一連の流れが格好良すぎる!  そして四天王が集結…!私たち読者がかつて脳裏に浮かべたこの場面が本当に…!辰馬の言葉が本当にそう、そう思ってしまったよ。それでもやっぱり、胸を張って隣に立てる自分でいよう、そうでありたいと、それだけは譲れないことだね。四人の道はここでもう一度交わった。それぞれが今の友を連れて。なればこそ、旧き友のために、旧き友の今の友のために、彼らは剣を振るうんだ。  高杉が、三人が新八に銀さんを頼むって思いを託すのがいい。新八は、戦闘力こそ銀さん神楽に引けを取るかもしれないけど、誰かを連れて帰ることに関しては万事屋随一なんだから。絶対曲げないし折れないんだよ。  神楽は本当に強くなったね。今の自分を、地球で生まれたって言ってくれてありがとう。切り捨てるとか、諦めるとか、そういうことじゃなくて、繋ぎ留めるとか、護るとか、そういうものを強さって言ってくれてありがとう。どうか取り戻してほしい。  俺と死ね、とは…なんて口説き文句だろう。なんてものすごい…ものすごい口説き文句なんだろう…。私たちはどう生まれるかは決められないし、どう死ぬかも決められない。けど、どう生きるかは自分自身で決められるんだ、って、そう思ったりした。  神楽の強さはでも、母親譲りなのかもね。神威も強さを見つけられたらいいなと、今はそう思う。次巻へ。 (2019.2.16 23:16)
◇65巻  折り返しの空知先生の言葉がじんわりくるなあ。もうここしかないなと見えてくるものか…。  神威はもう止まれなくなってしまったんだな。それしか無いっていうのか。でもそうじゃないよなあ、そうじゃないよ。本当に戦うべきはきっとそこじゃなくて…。そしてこのやり方が銀さんらしい。不器用だけど、まるごと引き受けてしまう銀さんが、それでも、空っぽだと思っていた自分に意味をくれたのは新八と神楽だって言ってくれるのが誇らしい。それが銀さんの今の名前だ、って、それが全部伝えてくれる。  この局面で、お前も負けんな、って、そういう言葉が出てくるところがね、銀魂の好きなとこの一つだよ。たぶんきっと、ずっとそうだったし、もちろんこれからも。  笑って、怒って、泣いて、苦しんで、あがいて、一緒に強くなってきた万事屋だから、もう負けないんだ。  揺るがない強さを見せてもらった今巻。いざ次巻へ。  (2019.2.17 15:36)   ◇66巻  朧も松下村塾の、吉田松陽の弟子だった。松陽先生は自分の中の虚に負けてしまったかもしれないけど、抗った。その抗いが銀さんたち弟子を生んだんだ…。松陽先生の思いを銀さんがつないで、けどその銀さんに、松陽の弟子達に松陽の思いをつないだのはまぎれもなく朧だったんだ。だから、そうか、そういうことだったのか…。  朧は誰のためにも戦えなかったって言ったけれど、けどそれでも戦うことをやめなかったことが答えなんじゃないのかなと思う。抗うことを教えてくれたのはだって、紛れも無くあの時命を救ってくれた虚だし、松陽先生なんだから…。そして、朧が松陽先生に抗う術を教えたんだよ。死なせたくないって、人らしい感情を思い起こさせたんだよ。だからきっともう、なりたかったじゃなくて、なってるんじゃないかって、とっくになってたんじゃないかって、そう思う。そう思うよ。  最終章のはじまりに、1巻1話のはじまりのモノローグを入れてくるのはほんと奮い立たせられるような気持ちになる。銀ノ魂篇か…!  そう、喧嘩に勝つんじゃなくて止めるんだ。勝たなきゃならないのは喧嘩は喧嘩でも、と不敵に笑んでみせる銀さんを、万事屋を、かぶき町のみんなが、江戸のみんなが、そして私たち読者が、信じたんだ。その信じる思いもやっぱり揺るぎないなら、勝算が無くても負けない。負けない!  ところで、ここに来てふと思ったことを一つ。洛陽篇では神楽が、その前の話では銀さんがそれぞれ過去の自分に抗い戦ってきたけど、新八の話がまだされてないような気がするんですがそれは…?一兄の一件がその位置付けなのか、いやでも…もしかしてあえて最後に持ってきたんだとしたら、それは、もう本当に感嘆のため息しか出ないな。  負けない。希望を胸に、次巻へ!  (2019.2.17 16:17)
◇67巻  総力戦!一時身を潜めていた仲間達が次々と集結していく様に胸がすく思い。戦況は悪くなる一方で、今の銀さんの剣ですら虚に届かないのかと、銀さん本人も諦めかけてしまっていたその時に、いつかの言葉をそっくりそのまま返されるのが熱い…!どうか最後まで諦めないで、抗うことをやめないで、…負けないで、と、結局のところどうしたって祈ることしかできないけど、でも、それでも祈ることはできるんだ。きっと届くと信じることも。  喜喜の交渉のくだりは久々の感じでまた声を出して笑ってしまった。もう戻れなくとも、そこに笑顔があればいつだって!  実写化のくだりも入ってきて、ほんとにすごいところで実写映画入れてきたんだな!?って感じでした。地球滅亡しかかってるところだよ!  新八の剣を取る理由、そうだね、ほんとにそうだ。追いかけてた背中が今は隣にあるのなら、護りたいと思うなら、それは間違いでも許されないことでもないと、私もそう思いたい。これは新八の、きっと万事屋の誰よりも強いところなんだろう。  何だろう、怖いのにね。うまく言えないけど…今はただ、続きが読みたい。早く、早く。それだけが間違いなく言えるきっと唯一のこと。次巻へ。  (2019.2.17 18:24)
◇68巻  最終章に入ってからこっち、ずっとサブタイトルが昔の感じに戻ってて嬉しい。薄々思ってたけど、将軍暗殺篇から以降、今までのキャラクター全部出すようにしてるんだろうな。金さんまで出てくるとは思ってなかった!でもそりゃそうか、そうだよな。ちゃんと一人ひとりの過去や思いに決着をつけて、前に進ませてくれてるんだな、って伝わってきてちょっと目が潤む。空知先生にとったらみんなそうだよな、子供みたいなものだもんね…。  機械たちも自分の信じるものにかけて、その機能を停止させて。源外さんも自分の信じるもののために、それまでの自分をそこに置いて。どうしたってやっぱり、護り護られて生きているんだなあ、と。護るだけの人も護られるだけの人もいないことを、噛み締めるように心にしまった。  しかしハタ皇子がここでこう繋がってくるとは…!あとエリザベスは今度はいつのシフトの奴だったんだろう…(笑)坂本すらツッコミに回させるヅラのボケ力が本当にすごいな。  高杉と対峙した時に銀さん自身が言ってたけど、銀さんが切り捨てなかったものが、つながってきたものがこれなんだなあって、改めて。銀さんも万事屋も一人じゃないんだって、強く強く思う。  ああそうか、だから、ここまでの68巻が、それぞれの過去も現在もひっくるめてずっと地続きであるのなら、きっとここから先の未来もずっとずっと地続きに、それは続いていくんだな。どうしようもないくらいに、ずっと続いていくんだな。そうか、そうだね。そっか。…うん、そっか、そうなんだよ。  うん。次、読もう。次巻へ。 (2019.2.17 18:54)
◇69巻  はっこの618訓も読んだ覚えが…!ある…!2017年6号っていうとまだ大阪にいた頃のはず?たぶん2月ごろだよね、6号なら。どこで読んだんだ!?病院の待合とかか?全然記憶にないなあ…でもジャンプ見かけたらやっぱしつこく読んでたんだなあ。そんな過去の自分がちょっと嬉しい。  というか、これは69巻関係ないんだけど、これを書いてる今、久しぶりに、読むのが楽しみすぎてお腹の中がふわふわする感じがしてる。ねえ、続き楽しみだよ。楽しみだよ!読めるの嬉しいよ…!嬉しいんだよ…!…良かった、良かったよ…!声をあげて泣きたい様な気持ちがするくらい!ねえ、楽しみで、嬉しいんだよ、嬉しいんだよ…!  次郎長親分!平子!頼もしい仲間が帰ってきて、戦況もがらりと変わる勢い。今までの仲間達が集まって一緒に戦ってくれる、こんなに頼もしいことはないんだなあ。次郎長親分と銀さんの共闘は、前回もだけどとにかく格好良くて痺れる!二人揃った時のあの悪ガキな感じも、粋に決める感じも本当に格好良い!辰五郎さんの思いも一緒にここにずっとつながっているんだ、と、二人がつなげているんだ、とここでも思う。恐怖塗りたくってな、のくだりの銀さんが、そうだった、この人は攘夷戦争を戦い抜いてきたんだった…と思い出させるには十分な程に、戦慣れというか、戦をよくしってることをまざまざと見せ付けてくる。そうなんだよなあ、やっぱり当時から強かったんだよなあ…としみじみ思う。  ペドロのシーンは久々に慌てふためく銀さんが見れて楽しかった。ハーフになったけど今後大丈夫なのかな!?でもほんと、平和が一番だね。  そんなこんなで一時休息。読んでるこちらもちょっと一息つきつつ、次巻へ。なんかこの感想、ずっと書き終わりが来なきゃいいのにな、ってちょっと思ってしまったよ。 (2019.2.18 21:53)   ◇70巻  表紙、ぱっと見なんで銀さんシャツなの?と思ったんだけど、よく見たらそういうことか!だいぶふざけとるな…(笑)でも嫌いじゃない、そういうの。  銀さんのめったにきけない一言、そうだね、万事屋のみんなもまだまだってことでさ、だから、もう少しだけ。もう少しだけ、一緒に走ってくださいね、きっと。  しかしなんか、前々から思ってたんだけど、圓翔さんちょっと色々出張りすぎじゃないですかね!?なにが聖戦だよ!戦うしか残ってないのくだりはもう神威がなあ!いっぱい時間をかけてなあ!苦しんで、抗って、でも負けないで乗り越えてんだよちょっと前の巻で!同じことしようとしてんじゃねえぞ!…いまそんな 、そんなことしてる場合じゃないだろう!故郷を壊滅させられたその怒りは、悲しみは、苦しみは、他にぶつけるべき相手がいるんじゃないのか、いまやるべきは、これ以上同じ悲しみを生み出さないことなんじゃないのか…!…坂本の、そんなもんあろうがなかろうが、と静かに落とす言葉が、揺るぎなく響く。額に銃をあてるその姿が、まるで祈るような、願いをかけるような、と思うのはちょっとセンチメンタルすぎるかな。でも私も祈る。祈るよ。  高杉に、神威も合流して、いよいよもって集結しつつある…!エリーの顔、ドラゴニア顔になってるのすぐ忘れては思い出し、見る度吹き出してしまった。もう高杉も、神威も、きっと誰にも負けないんだ!  勢いこんだまま次巻へ。もう71巻か、長かったような、あっという間だったような…。…うん、読む! (2019.2.18 22:28)
◇71巻  鬼兵隊表紙に背表紙似蔵さん…!この展開になるとほんと似蔵はかませ犬だった感がどんどん強くなってしまうな…と思っていたのでちょっと感動。やっぱそうだよね、空知先生忘れてなかったよね…おお…。と思ってたら本編の方でも…!似蔵さん今思うとかませ犬感がすごいなと思ってしまってごめん。鬼兵隊は、そう、何も失くしちゃいなかったんだ。全員いる。そうだ、全員いる…!  武市が理屈を捨てるというのがぐっときた。そして、武市も万斉も、死ぬためになど戦わない。最後までただ友と生きるために戦うというのなら。それを見守ろう、もうきっとそこに祈りは必要ない。ただ生きるために戦い抜く、その姿は、泥臭かろうが、みっともなかろうが、眼が離せない、そういう強い光を放つばかりなんだろう。  今巻のサブタイトルは「おもしろきこともなき世を~」で紛れも無く高杉の巻であるけれど、「絶望よりも太い奴」も好きだ。言わずとも、それは、やっぱり鈍く確かに輝いているんだろう。次巻へ。 (2019.2.20 19:59)
◇72巻  圓翔…お前も逃げ続けてきたのか…。アルタナの暴走よりもはるか昔から…そうか…。高杉の、そここそが本当��戦場だろう、という言葉が重い。そうだ。死ぬ覚悟ではなく、生きる覚悟の方が、もっとずっと強くて、重い。だからこそ生き続けなければならない。抱えたまま、背負ったまま、不様でも、苦しくても、辛くても、もがき続けることだけが唯一の。  お前は二度まで、という坂本の叫びがこだまする様だ。喜喜がそこに、自らの意味を見出すと言うのなら、ただ共にあったことを喜ぼう。覚えている。この国の最後の将軍のことを。  地球に、いらっしゃい、はじめまして、そしておかえり。振り返る銀さんの表情が優しい。でも銀さんもいないとだめなんだからね、それを忘れないでいてね、と思う。二本差しで、が温かい。その言葉でまた強くなれるような、そんな気がする。  そしてハタ皇子、ここまで繋がってくるとは…!そしてこの状況、銀さんの過去の再映は銀さんにもう一度選択を迫るものかと思っていたけど、ここでこう来るとは。ハタ皇子も前に進むときが来たんだな…(殴り帰されたけど)。しかし、これ、ここにきて思ったのだけどもしかしてずっと逆順で…やってるのか…?ハタ皇子の前はアネモネだし、ハタ皇子の次は長谷川さんだし。やっぱり新八の話が最後に来るのだろうか。そうだとしたらもう本当に、空知先生…!  長谷川さん…!胸を熱くしながら次巻へ。 (2019.2.20 20:34)
◇73巻  こんな格好良い無職があるか…!長谷川さん…もうそれしか言えないよ…!  最後の希望なんかじゃなくて、ただの万事屋の犬として、救世主なんかじゃなくて、ただの万事屋として、銀さんも、新八も、神楽も、定春も、戦っている。だからこそ、と言う銀さんの言葉が万事屋の辿り着いた場所だということが、本当に、本当に、本当に、言葉にならないくらいに、好きだ。きっとこの感情を表すならば、好きだ、と、それが一番似合っている。そういう銀魂を愛している。好きだよ、好き、 大好きだよ。  そして新八の話…!銀ノ魂篇に入ったときも書いたけど、もう一度ここで1巻1話を持ってくるのが本当に胸をふるわせられる。そしてここまで、過去との決着だったり変わることだったりで皆がそれぞれに前へ進んでいく様をあんなにも鮮やかに描き出しておいて、その上で最後の最後、新八が、終わらないもののため、変わらないもののため、今を生きている、と剣を振るうこの圧倒的なまでの、物語の魂の強さ…!変わることも、変わらないことも、終わらないものも、変わらないものも、全てが強く、闇を跳ね返すようで、光を反射して、不恰好でも鈍く、輝くようで。眼を閉じない、は父上だけじゃなくて、いつか銀さんが言ったことの延長線でもあって欲しいな。  ただいまとおかえりを、もう一度言わせてくれよ。聞かせてよ。万事屋の三人が帰る場所はそこなんだよ。定春…!  皆の力を合わせて、ほんとにほんとの総力戦…!いよいよだ…!の次巻へ! (2019.2.20 21:19)
◇第七百二訓  ついに始まったアプリ配信。いつもの通知と同じで朝8時に配信開始かと思ってたらまさかの0時きっかりに開始…!あわあわしつつもそんなに長いこと動揺する間もなく、勢いで読みました。  一晩明けて一日反芻してからこれを書いているので、多少はまとまったようなまとまってないような…後からまた色々思うことが出てきそうだけど、ひとまずはいま思うことを書き留めておきます。  さらば真選組篇のときも、ハタ皇子のときも思ったし、ちょっと書いてはいたんだけど、ああ、ねえ、これは再映なんだね、銀さんの過去の……ねえ、やっと、銀さんが……銀さんがあのとき見つけられなかった答えを、見つけに行けるんだね……!  忘れたものを取り戻させてもらったって銀さんが言うなら。ハタ皇子に、長谷川さんが「どっちも間違いだ」って言ってくれるなら。一人の剣じゃ届かなくても、今の剣なら届くって、そう銀さんが、皆が見せてくれるなら。だから、銀さんの過去に対するそれは、一人じゃないって、「万事屋銀ちゃん」なんだって、それがきっと答えになったんだって、そう思ってたんだけど。  ねえ、銀さんが、銀さん自身が、それを見つけに行けるんだね。……ああ、良かった、良かったよ、嬉しいよ、ありがとう、ありがとう……ありがとう!今度こそ、今度こそって、でも、そう思いながら、それでも祈らずにはいられないような気持もあって。もうそこに祈りは必要ないかもしれないし、どちらでももう何の関係もないのかもしれないけど。それでも……それでもどうか、私は祈りたい、銀さんが答えを見つけられますように、笑ってくれますように、笑っていられますように、と。  松陽先生は、吉田松陽には「還れない」と言うけど、無と「帰る」だし「帰れる」唯一の場所、とも言っているんだよね。それなら松陽先生の過去は決して無ではないんだよ。無に「還る」じゃないんだから。でも「帰る」場所は他にもあるんじゃないかって思う。「帰」り方、他にもあるんじゃないかって思う。それに、どんなに苦しくても、這いつくばってでも生き続けることこそが、と言った高杉にとっての救いって、本当に高杉がいま思うそれでいいのか?それを言わせた空知先生が、死ぬことを「救い」とするとはどうしても思えない。それは高杉に対してとかじゃなくて、もっと大きな、銀魂という物語で提示される「救い」の話として。GIGA3号を読んだ時は、始めは、虚はそうか、終われることが、人として死ねることが彼の救いなのか、って思ったんだけど、読み返してるうちに、そうだろうか?って思いだした。死ぬことが本当に虚にとっての、ひいては銀魂で描き出される「救い」なのか?やっぱりどうしても、そうだとは思えないんだよ。空知先生はどんな形でどんな答えを出すんだろう…もうほんと予想は全くつかないけど、それが少し怖くもあるし、楽しみでもある。でもきっと、本当はちっとも怖くないんだよ。そうでしょ?だって……。  そして松陽先生は誰も救えなかったって思ってたという事実がね……最初読んだときはちょっと腹が立つまであったけど、でもそうか、松陽先生は虚の中からずっと見てたんだもんな……。……どれほど辛かったろうか……。銀さんもどっちも護ろうとしてどっちも護れなかった、って思ってて、銀さんばかりがそうだと思ってたけど、やっぱりこれも、逆もそうなんだよな。松陽先生も、銀さんも高杉たちもどっちも救えなかったって思ってて、たぶん高杉も、先生も銀さんも救えなかったって思ってる。  そうか、今気づいたけどこの人たち誰も謝れなかったんだな…ほんとはごめんって、ごめんなさいって言ってしまいたかっただろうに、でもそれを言うことは他の二人の思いを踏みにじることになるから言えなかったんだ…。松陽先生も、ほんとは後悔なんかしてないって言わなきゃって思ってたのかもしれないけど、でも「すまない」って言えるのは、弱い自分をさらけ出すのは、それは紛れも無く強さだから、やっぱりそれを言えたのは松陽先生が強いからだと思うんだよ。それが強さだって、そうであって欲しいと思うよ。  そして今回高杉が松陽先生を斬った(とあえて書こう)ことによって、いよいよもって銀さんと高杉は"同じ"になってしまったんだよな。そして虚と高杉という、銀さんの宿命(つまり逆から見ればお互いもお互いの宿命ともとれる訳だけど)も一つに重なってしまったので、この構図がどう影響してくるのか気になるところ。予想したってしょうがないところでもあるな~って感じではあるけどね、空知先生は毎回必ず予想の斜め上を行くからね…ほんとすごいよ空知先生…。  うん、しかし書きすぎでは?長いな。  もうちょい思うところある気はするけど、とりあえずこのへんで。また追加あれば書きます。 (2019.5.13 23:28)
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neokayvii · 5 years
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2018年のアルバムのレビュー(デモ)
● Arctic Monkeys『Tranquility Base Hotel & Casino』
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ロックの軛から外れて月へ飛んだアクモンは毀誉褒貶を招いたらしい(OGRE YOU ASSHOLEがオルタナからAORに切り替えたときを思い出した)。でもAlex Turnerはもともと50-60sの非ロック・ミュージックへの志向を別プロジェクトのThe Last Shadow Puppetsでも明らかにしていたし、それをアクモンの方でも打ち出すとは世間で思われていなかった、というだけのことだろう。
前作「AM」ではBlack SabbathとOutkastの邂逅がテーマとして掲げられていたが、むしろヒップホップのサンプリングネタとなるような、タイムレスなサウンドへアプローチをかけることで、同様のアチチュードを示すBadBadNotGoodと共振した音楽性をパッケージするに至った今作。ギターからのインスピレーションに限界を感じ、ピアノを眼前に作ったとのことで、なるほどRandy NewmanやNick Caveにも似た芳醇さを湛えている(ライブでのAlexの出で立ちを見る限り、Father John Mistyへのシンパシーも伺えそうだ)。
とは言え、ドラムのMatt Heldersによるタイム感とそれによって引き締まるバンドサウンドの構造強度は不変であり、シンセサイザーのレトロな音色も、リラクシンな間接照明ほど淡くなく、かといって初期Stereolabほど輝度も高くない、シャンデリアのように綽々たるムードを演出する装飾として機能している。
宇宙空間を展望できる6角形のフロアの重なり。月面上に打ち立てられたホテル+カジノなるストレンジな舞台構想に響く、絶妙に歪んだムード音楽・・・そういう点では「ツインピークス」のスコアが案外近しかったりするのかも知れない。
● Khruangbin『Con Todo El Mundo』
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メロウネス、サイケデリア、オーガニシティという3つの宝物をもって東方の三賢者よろしくテキサスから世界を巡礼するKhruangbin。60-70sのタイファンクや中東のポップスに影響を受けたということだけど、それらを戦略的に別種と交配させる(例えばRosaliaの新作におけるフラメンコとトラップ)のではなく、純粋にプレイしてなお、モダンなポップ・ミュージックとして受け入れられている状況は、Tame Impalaの視座や道程と符合するように思われる。
Little Tempoにも通ずる、甘露のごとき円やかな聴き心地に加えて、Tommy Guerrero的推進力というのか、その一つ場所に止まらないような風通しの良さが大きな魅力だと感じるが、彼らのサイト”airkhruang”がまさしくそのことを物語っているようだ。フライト・ミュージック・シミュレーターというべきこのサイトは、どの空港からどの空港まで旅行するか、飲み物はコーヒーと紅茶のどちらが良いか、といった初期最適化プロセスに似た質問に答えると、フライトを楽しむためのBGMのプレイリストが組まれるという代物(自分のSpotifyにお土産として残せる)。それはある意味、YouTubeで未知の音楽がレコメンドの連鎖で流れていく体験と重なる訳だが(典型的なのが「プラスチック・ラブ」だろう)、静かなファーストクラスかエンジン音の近いキャトルクラスか、フライトで途中に着陸を挟むか否か、といった聴く環境にまつわる選択肢があるのは興味深い。
機内ではアンビエント以上にグルーヴィー・チューンが機能する・・・かどうかは分からないが、Khruangbinのタフネスは、バチェラーパッドな悠々自適空間だけでなく、諸々属性の異なる他人に密接する公共圏としてのエコノミーシートにもそぐうものだろう。”Music For Between-Airports”なんて表現しようと思うと、それが書きたかっただけだろうとか言われそうだけど、やっぱり移動のための音楽として捉えるのは間違いだと思えないし、それこそシーンの遷移を期待させるというニュアンスにおいて、映画的というワードを援用する誘惑にも駆られる。以上のような要素をあえて総じてみるならば、Jim Jarmuschの名を引くことこそ、取り留めないこの小文の締めに相応しい、と思った。
● SOPHIE『Oil of Every Pearl's Un-Insides』
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AQUAのようなポップ・ミュージックをコマーシャルなものとして捕捉し、軽薄かつ皮肉めいた、愛憎綯い交ぜの表現=バブルガム・ベースに転化させること。kawaiiらしい変調された声、やたらピカピカ光るシンセ、カクカク駆動するベースを跋扈するようにアレンジする、そういう曲者たちの梁山泊としてPC Musicというレーベルが存在するが、近くにいながら門は叩かず、盟友ではあるがレーベルメイトではないという、超然として仙人もかくやというのが自分の抱くSOPHIEのイメージだ。
実際、不穏な空気で場を支配する、強烈で切れ味のあるサウンドは非常に記名性の強いもので、誰が聞いてもSOPHIEだと分かるくらいだ。RustieとJam Cityの各1stを並べてみたくなる、いかにも内蔵音源で作られただろうというプリセット的テクスチャとピーキーなアタックは、ポスト・インターネットアートでしばしば散見されるPhotoshop感の強調との共振を見いだせる。初作「Product」では金属の衝突や液体の滴る音、水泡が浮かんで消えたり、ヤカンで沸騰した音が擬似的に合成されているが、それは塑性も延性も自在で、���体~液体~気体をも���なく相転移する未来のマテリアルを再現しているかのようで、それこそオンラインギャラリーに展示された(拡張された定義における)彫刻を音場へ変換した結果、現前した音楽という聴感すら与え得る。もちろん、現実世界ではそのような素材は物理的にあり得ないだろう。しかしそれゆえに、「Immatrial」でのステイトメントー〈私はインマテリアル・ガールなんだ〉ーが鮮烈さを帯びてくることになる。
インタビューで彼女が語ったところでは、自身の制作は、例えば「Ponyboy」において金属音から「ある種の機械仕掛けの動物にセクシャルなものを見出した」ように、刺激としての「音へのフィジカルな反応がアイデアとサウンドを結びつける」という、極めて彫刻的な方法論に則ったものであり、その原点はAutechreの音楽に感じ取ったという物質界と人間の関係性にあるという。そう、極めてフェティッシュな・・・Autechreと同じ機材とソフトを使うがゆえに、テクノと同じ位相空間にありながらもマシン・ファンクの突然変異種としてねじれの位置に存在する、奇妙な人工性が目立つ初期作も、彼女にとってはとても人間的な作品だった訳だ。
そういう意味ではSOPHIEの態度は「Product」から一貫しており、今作では自身のシグナチャーサウンドを残しつつも、トランスやレイヴ、ドローンのフレーバーを香らせたり、PrinceとLFOを射影する瞬間もあるように、Samuel Longという個人と世界の関係性をより開いて見せたと言える。当初は自らタグ付けするなら”advertising”だと答えていたが、その真意は彼女の以下の言葉から明らかであるー
「メインストリーム・ミュージックは排除しないし、選り抜きしない。それは自分の音楽でも保ちたい基準。」
だからこそ、フューチャーポップというタームでは掬いきれない、本当の未来を彼女は描けるはずなのだ。
● Superorganism『Superorganism』
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8人。これがSuperorganismのメンバー数。多い・・・はずなんだけどバックボーカルだったりダンスだったりヴィジュアル演出担当だったり、役割の住み分けやバトンタッチはスムースにされているようで、情報過多のはずなのに耳はオーバーフローを起こさない。これがオロノの歌う〈大きくなったらスーパーオーガニズムになりたい〉というリリックの突くところなのかも、と思った。
CDジャケットにはオロノをプロジェクトに誘ったときのLINEメッセージがプリントされているが、そうしたヴァーチャルな結成から始まって最初に完成したアルバムは、ゼロ年代以降のインディー・エレクトロをブレーン状に覆う、発熱したゼリーのような不思議な音楽性を発露している。Passion Pit、Animal Collective、Hot Chip、A Sunny Day In Glasgow、Neon Indian、Grimes。視覚効果も備えた自作楽器を使うPurity Ringや、楽しげにダンスするLet’s Eat Grandma。チルウェイヴのスクリュー感覚。M.I.AとTyler The CreatorとTom Tom Club。GTAのラジオチャンネルに、アドベンチャータイム。とにかくもう色んなものが脳裏を過ぎっていく。Kevin Coyneが目を離している隙に、第四の壁を超えてYoshimiがThe Flaming Lipsをオンライン上で再構築したら・・・なんて妄想も捗ってしまいそうだ。
圧縮された時空間としてのYouTubeと、フラットに配置されるSNSのアイコン。ソフトウェアのオペレーションを嗜み、互換性というメディア間のトンネルを潜ってカルチャーの海を回遊する彼らなら、”superorganism”という単語には”superflat”や”superimposed”だってもちろん含蓄されている、と主張するだろう。共同生活をしながらも、いざ制作となると絶対にソフトを介したファイルベースのプロセスをメソッドに採択しているというのは、共通言語としての英語では飽き足らず、攻殻機動隊さながらに共有のためのアーキテクチャも重視するという、コミュニケーション/インタラクションへの限りないこだわりの証左だ。
最近、五十嵐大介の漫画「ディザインズ」を読んでいて印象的だったのが、複数のイルカがクリック音で多岐にわたる情報を互いに伝達しつつ、連携してミッションを遂行するシーンだ。イルカ然として作り上げるポップ・ミュージック・・・旧来のニューエイジとも違う、ヴァーチャリティを本質的な意味で利用し、新たな環世界(ウムヴェルト)へ越境して生み出す表現。なんとなく、バブルガム、な聴感でありながらどこか超次元的な雰囲気が残るのは、多分そういうことなんじゃないか。
ジャケットにあしらわれたワンポイントのようなイルカは、黙して雄弁である。
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shibaracu · 4 years
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●『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)
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●『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集) 源氏物語は、何度か読みましたが、日本の最古の官能小説というのが私の感想です 私は頭が悪いので途中挫折で完読には程遠い感じです。 瀬戸内さんの翻訳本を所有していたこともあります。   万葉集に出ている詩は結構恋愛物が多いようです。   源氏物語にしろ万葉集にしろ 昔も今も男女の恋はスゴイものがある。 歴史を作ったのは夜の寝床の中。 こんな事も聴いたことがある。 人を愛する事は素晴らしいこと。 たとえソレが不倫であっても。 賞賛できないものもタダ多いとは思うけど。 人を好きになるのは何者にも変えがたくて人間臭いのでは。 その人のために命をかける。   日本人はそのものをモット広げて大風呂敷を広げてきた。   慈悲ではなくて博愛の精神で。 ソレが人もモノも大切にする事につながったのではなかろうか。   ●菟原処女の伝説  https://ja.wikipedia.org/wiki/菟原処女の伝説 菟原処女の伝説(うないおとめ の でんせつ)とは、奈良時代より日本の摂津国菟原郡菟原(現在の兵庫県芦屋市および神戸市東灘区付近)での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめ(年若い女性)を巡る悲しい妻争いの伝説である。妻争い伝説(つまあらそい - )ともいう。 2人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男達も後を追って死んでしまったというもの。   ●万葉集 - Wikipedia http://bit.ly/wXFe3N 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。 天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。 和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。 日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった。   ●たのしい万葉集: 万葉集の入門���イトです - ART TAGS https://art-tags.net/manyo/ 万葉集は、日本でもっとも古い歌集で、奈良時代の終わり頃にできたと考えられています。 全部で20巻、およそ4,540首あり、平城(へいぜ い)天皇の勅撰(ちょくせん)とも、 大伴家持(おおとものやかもち)の私撰(しせん)ともいわれています。 でも、誰が・何のため・どのようにして編纂 (へんさん)したかは、 はっきりとはしていません。 万葉集は最初から20巻あったのではなくて、もともと巻1と巻2の内容があって、これらにいろいろな歌集や歌の資料をもとに増えていったと考えられています。 歌は舒明(じょめい)天皇(600年くらい)から大伴家持(759年)までのものが収録され ています。第一巻の最初の歌は、雄略(ゆうりゃく)天皇の歌と言われています。   ●万葉集入門 http://bit.ly/yuvM7H 現存する日本最古の和歌集である万葉集。 学生時代に授業で習った方もおられるかと思いますが、その難解さに辟易とされた記憶があるのではないでしょうか。 しかし、ほんとうの万葉集は万葉時代の人間の喜怒哀楽、神への祈りが歌に託されている、もっと楽しく読める詩歌集です。 ここでは一首ずつ歌を取り上げながら、万葉集を誰でも気軽に学び楽しめるように工夫してみました。 各歌のページの上半分にある、原歌と現代語訳を読むだけでも、一通りの知識が得られるようになっています。 また、解説のページでは奈良や明日香村などの万葉集に詠まれた歌枕(土地)や歌碑の写真なども掲載しているので、それらを眺めるだけでも楽しんでいただけるかと思います。 古典というかたぐるしさにとらわれることなく、ぜひ万葉集の世界を楽しんでみてください。 黒路よしひろ(サイト製作者)より   ●訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―http://bit.ly/wbnd2p 目次 はじめに 凡例   ●万葉集入門 - ODN http://bit.ly/zLukdb ようこそ、万葉集の世界へ。 今から、つかの間、古代への旅をお楽しみください   ●万葉集 まんようしゅう - 奈良時代 京都大学所蔵資料でたどる文学史 http://bit.ly/xrV0K3   ●平成万葉集 2019/04/14 https://www.bilibili.com/video/av49365360/ ・生田斗真と吉岡里帆が朗読、短歌から平成を振り返るNHK BS『平成万葉集』 https://www.cinra.net/news/20181214-manyoshu 2018/12/14 短歌の番組『平成万葉集』が、1月2日にNHK BSプレミアムで放送される。 『平成万葉集』は平成に詠まれた無数の短歌の中から秀逸なものを紹介する番組。 天皇皇后や歌人、ホームレスや短歌マニアの小学生まで、多様な立場の人々による短歌から、当時のヒット曲なども織り交ぜながら、平成の30年間を振り返る。短歌監修は京都大学卒の細胞生物学者でもある永田和宏が担当。   ●高岡市万葉歴史館 大伴家持が見た越の国 http://www.manreki.com/ 越中国守大伴家持ゆかりの富山県高岡市にある万葉集の博物館。 企画展示以外に上代文学関連の五万件近い図書や論文を公開。   ●万葉集ロマン(万葉集と、四季の草花の写真集)http://hiro-ks.jp/manyou 万葉集を原文、訓読み、かなで表し、季節、花、地名等の歌に読み込まれた言葉で検索が可能です。 万葉集の意味が分かるように解釈文をつけています。 自選の万葉集百人一首を掲載しています。 自選の万葉集長歌百選を編纂中です。 四季の草花の写真、鎌倉めぐりのスナップ写真を掲載しています。 万葉集、草花の写真、万葉時代のロマンを楽しみ頂けたら幸いです。   ●万 葉 集 を 読 む ー壺齋散人の万葉集評釈ー http://manyo.hix05.com/ 万葉集はわが国最古の歌集であり、世界的にも非常に古い詩集のひとつである。成立したのは、日本史で言えば奈良時代の終わりころであり、西暦で言えば八世紀の末にあたる。その時代に、民族の感性を集約したような歌集=詩集が編まれたというのは、非常に意義深いことである。ある意味で、中国の詩経国風に相当するものと言えなくもない。万葉集に盛られた歌の精神は、以後日本人の感性の原点となって、日本の詩歌の歴史を駆動していく原動力ともなった。万葉集は今日に至るまで、つねに民族の心を舞台にして、日々新しい意味を付与されているとも言える。つまり眠ることのない歌集なのである。   ●万葉集校本データベース http://www.manyou.gr.jp/SMAN_1/   ●朝鮮語で「万葉集」は解読できない http://bit.ly/AaQUJG 「万葉集」を「レプチャ語」で解読?  JICC出版局 「万葉集」を、朝鮮語で説明するという流行の本のほとんどは、正しい言語比較の方法をとっていない。 「朝鮮語は、日本語と関係があるはずだ」という未証明の前提のもとに謎を解こうとしている。 かくて「暗合」が「暗号」に転化する。   ●レプチャ語 - Wikipedia http://bit.ly/A0Fq55 レプチャ語(レプチャご)またはロン語(ロンご) インドと中国に挟まれたシッキム(現在はインドの州)で話されている言語である。 チベットの一地方語である。 言語学的にはシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する。 表記にはチベット文字を元に18世紀初頭に作られたレプチャ文字を用いる 日本語の起源はレプチャ語であるとする安田徳太郎の『万葉集の謎』が ベストセラーになり一時話題になったことがある。 しかし、実際は稚拙な語呂合わせに過ぎなかったと言われている。   ●湯河原の由来も万葉集 「令和」に驚きと期待 | 箱根・湯河原・真鶴 ... https://www.townnews.co.jp/0609/2019/04/05/476864.html 2019/04/05 「万葉公園」「万葉倶楽部」も 「令和」の出典が万葉集である事が明らかになり、湯河原の万葉公園では1日午後から観光客が「萬葉洞門」の看板を撮ったり、元号由来の歌を探す姿が見受けられた。 湯河原はかつて土肥と呼ばれ、万葉集にに収録されている一首「あしがりのとひ(土肥)のかふち(河内)にいづるゆ(湯)のよにもたよらにころがいはなくに」は町のルーツとも言われる。 公園内には万葉集に登場する草木が植えられ、 町所有の宿泊施設の名前も「万葉荘」。 湯河原温泉を配湯し各地に施設を展開する万葉倶楽部(株)の高橋弘会長は 「湯河原と出典が同じ万葉集。大変喜んでいます」とコメントを出した。 町観光課も「町内から『チャンス』という声もある」と前向きだ。
●万葉集遊楽 http://manyuraku.exblog.jp/
●あなたに聴かせたい万葉集 全16曲 http://bit.ly/wZuZxO
●万葉集について  野尻昌彦のホームページ http://www2.gol.com/users/nojiri/manyou.html 万葉集には様々な魅力があります。そして、また、なぞもあります。万葉集を読んでいると、古代日本史の舞台裏が見えるようなそんな感じにさせてくれます。 1.万葉集の魅力  ある友人が、「『万葉集』の歌というのは、読む人の感性によっていろいろな解釈が出来ると思います。そこが「万葉ファン」の多い理由でもあるんでしょう」と語っておりますが、そのような自由な読みかたができる古典として「万葉集」は希有な存在なのではないかと感じています。 「源氏物語」「今昔物語」などすばらしい古典だと思いますが、自由に夢を膨らませ、想像の世界に入って行けるものではありません。万葉集がそのような読みかたができるのは、短歌(あるいは長歌)といった形式で書かれているということもあると思いますが、何よりも歴史と密接に繋がっているという点にあるのではないでしょうか。  歴史上の有名人が至る所に登場しています。その中には悲劇的な最後を遂げたひとびとも数多くおり、事件の背景や状況を想像することができます。大津皇子とその姉の大伯(来)皇女の歌や皇子の辞世歌、有馬皇子の歌などがそれに当たります。大津皇子は姉のもとを訪ね何を話したのか。興味は尽きません。   ●万葉集を携えて http://achikochitazusaete.web.fc2.com/ 万葉集には百数十種の花が詠われているといいます。 現在の花名と違うものも多く、はっきりこの花といえないものもたくさんありそうです。 でも、そんな難しいことは学者の方におまかせして、 野原や山道でそっと咲いている花に出会ったときのあの喜びを伝えたくて編集してみました。 ですから、できるだけ「植物園」・「万葉公園」などではなく、野山に自生する花を求めたいと思っています。 万葉集に詠われた花々を紹介します  花の紹介  113種   ●万葉集 - YouTube https://youtu.be/MwTNvmBuMh0 恒2 身分の高い人も庶民も文字が読めたということですね。どんな社会を形成していたんでしょうか。興味があります。日本民族がどのような人達だった想像ができます。だから敗戦後の日本の復興があったのでしょう。誇りに思います。
Friedrich Engels 「新しき 年の初めの・・・」の歌が第三位に選ばれている。この家持のしらべは、万葉集の最後を飾る歌だったように覚えている。 万葉集の美は、人の純粋な感情を表した明るい清雅の美ではないかと思っている。上代の古い言葉に「きよく、なほく、あかき(明き)」という表現があるけれど、そういうものが歌の中に一体となって形象化されているのではないだろうか。私の好きな額田王の歌が八位であるのも嬉しい。この解説をなさっている女性はどなたなのか判らないけれども、抑揚と緩急の効いたみごとな朗読のように思える。UPに感謝。
仏陀 春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山 それは500年以上後、鎌倉時代初期に藤原定家(1162~1241)が、自分の美意識にそうように改作したもので、小倉百人一首にあります。もともとは持統天皇(645~702)の作です。
digin 宇宙語は日本語。カタカムナは文字の始め。神代文字は天皇家や皇族別に様々有り、古事記や日本書紀は古史古伝を編纂したもの。漢字は日本が生んだもの。中国人が中国語を学校で習うにはルビがローマ字でも明らかです。
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mashiroyami · 5 years
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Page 102 : 地を這う者たち
 アーレイスでポケモンを従える人間は限られている。誰もがポケモンを持ち、連れ歩き、共に生活をしているわけではない。多少の地域差はあれど人とポケモンの線引きはむしろ強く、それは野生と社会の境界線そのものでもあった。故に、どの町にもポケモンを扱える医者が居るわけではない。ポケモンと一口に括っても、その種族は何百と報告されており、千を超えるとの説もある。全てのポケモンを一律に診ることのできる者はそういない。簡単な治療や体力回復ならば大きな問題は無いが、重症度が高くなるほどそうはいかないのは人間と変わらない。  キリに向かう途中で立ち寄ったフラネの町にて真っ先に診療所に足を向けると、虫ポケモンは専門外だと言われラーナーは眩暈を覚えた。頼み込んで包帯を換えてもらい痛み止めである水剤を貰い、門前払いにされなかっただけ御の字だったが、考えてみれば当然なもののどこでも治療を受けられるとは限らないというのは思いがけない重石だった。  出入り口の屋根の下で曇天を仰ぐ。しとしとと降る雨は、正午から降り出したものだ。雨の気配は朝から漂っており長く危惧していたが、結局この町、フラネに辿り着くまで雨粒が落ちることは無かった。  ラーナーは怯えるような深い溜息をつく。心の澱みは一色に限らない。アメモースの傷口を実際に目にしたのは初めてだったが、それ以上に衝撃的な出来事が焼き付いている。壁にもたれ掛かりながら、欠片を拾うように思い返す。  水風船のような弾力のある身体に入った忌まわしい亀裂、そこを白い糸が幾度も往復していた。内包された繊維や肉体が鮮明に露出していたのだろう部分は縫われ息を潜めていたけれど、大きく腫れあがり、決定的に足りていない何かが存在していた証である傷だった。  包帯を取り、傷の具合を確認しようと患部周辺に医師の手が触れた瞬間、アメモースは決壊したように叫んだ。悲痛な金切り声はラーナーが耳にしたことのない類だった。  たまらず名を呼び近付いたが、目玉を模した触角が力任せにラーナーの頬を弾き、突き飛ばした。歪な羽ばたきでその場を飛び、しかし壊れたように予想もできぬ不安定な軌道を描いたかと思えばすぐに頭から墜落してしまう。床に叩きつけられた音が処置室に響き、そして尚も触角は揺れ、小さな翅は激しく震えた。床を転がるように暴れ回る姿は、悠々と空を滑空していた姿とはまるで対照的で、羽虫が最期に死に物狂いで足掻いている姿と重なった。そしてその目は、抉り出すようにぐるりと向いたその目は、座り込んで呆気にとられているラーナーを捉えた。つぶらで純粋な漆黒の双眸が、はっきりとラーナーを視た。声と視線で訴えかける、なにか強い意志が、彼女を槍の如く貫いた。  アメモースは、嗚咽を漏らしていた。  抑えつけられながら即効性の鎮静剤を投与されその場は沈黙したが、ラーナーはアメモースから発せられた衝撃に戸惑っていた。既に痛みなど無いはずなのに、叩かれた頬がまだ熱を帯びているようだった。  掌に収まっている小さな紅白に視線を落とす。細い手では抱えられないだけのなにかが、無理矢理この中に詰め込まれているのだ。  途方に暮れるとはこのことだろう。焼き尽くすような烈しさを前にしながら、尚も膜を張っている自分の心が虚しかった。  不透明な感傷を抱えたままラーナーは傘を差し、エーフィと共にその場を後にした。  フラネの町は長い草原帯を抜けた場所にある町で、白い壁と色とりどりの屋根が特徴的な町並みだ。それまで続いていた閑散とした風景の中にぽっかりと浮かぶような町は、田舎町だが愛らしい情緒がある。煤汚れたような深い色をした煉瓦造りの道路が町全体に張り巡らされているが、濃縮したように建物が連なっているためにどこも道が狭い。ラーナーは入り組んだ迷路のような町だという印象を持った。見た目は可愛らしいが、気を抜くとどこにいるのか解らなくなってしまいそうだった。だが、人口が少なく路地が狭い分人目には付きにくい。隠れ場所が多いようで、そのことはラーナーを安心させた。  音も無く降る雨の中を進んでいると、思考が明滅する。アメモース。宿。服装。食事。それから、じゅくじゅくと泡立つ音を立てている足下。雨の中を進んでいれば尚更だ。気になって仕方が無い。  町をぼんやりと彷徨っていると、青果店、肉屋を始めとした商店の集まる広場に出た。中央には巨大な樹が枝を伸ばしており、象徴的な佇まいをしている。樹を中心とした花壇は季節の花が植えられており、柔らかい桃色や紫色がしっとりと初秋を彩っている。雨に濡れる様は艶やかでもある。広場には買い物籠を手に品定めをしている者もいれば、浮き足立った表情でカメラを構える者もいる。全体に漂う和やかな賑わいは鬱屈とした雨模様を感じさせない。  霧雨のような人々の他愛もない会話を横にラーナーは壁を沿うように広場を歩き、どこにも立ち寄らなかった。店先に並ぶ彩色豊かな食べ物が目に付いたが、視界が濁っているように見ただけでうんざりした。首都を出てから、結局まだまともな食事をしていない。腹を空かしているはずなのに、全身が静かに拒否をしている。  広場から幾つも伸びている道の一つに足を踏み入れた。  再び狭い路地に入り声が遠くなったところで、ラーナーはひたと足を止め顔を上げた。  こじんまりとした白壁の建物だが、店頭に貼り出された一枚の大きな写真が目に入ったのだ。  険しい岩肌と真っ白な雪。辺りを薄らと漂っているのは霧のようにも雲のようにも見える。そしてあまりにも鮮やかな青い空。上空ほど濃い色になり、繊細なグラデーションが一切の汚れを知らぬ澄んだ空気を想像させた。雪山の写真だった。それも山頂だ。中央には、爽快な表情で高々と両拳を突き上げている男性の姿が写されている。  ラーナーは何故だかその写真に釘付けになってしまう。  山などまともに登ったことは無いが、雪山の険しさは言われずとも納得できる。切り立った岩肌は大自然の牙そのもので、美しさと同時に畏怖を感じさせる。凍える世界なのだろう、写真で満面の笑みを広げガッツポーズをしている彼も、背中を覆い尽くすような巨大なリュックサックを背負い、顔が埋もれているような防寒具を着込んでいる。  どこだろうか、素直に疑問が浮かび上がり目を凝らすと、写真の隣の扉が開き危うく声をあげそうになった。  写真よりもやや丸みを帯びた男性が、店内から顔を覗かせた。 「お客さん?」  尋ねられ、ラーナーは心臓を高鳴らせながら思わず曖昧に首肯した。そうか、と彼は笑う。笑窪が深く、ほっとするような笑い方をする人だった。がっしりとした体つきだがどこか草臥れ、三十か四十代程の外観に見える。 「いやね、あんまり夢中になってるようだったから、ちょっと気になりまして。僕も入り口近くにいて、たまたま見えたから」  そう言って顎で入り口を指す。扉は全面硝子張りになっていて、室内がよく見えた。中にも同じような山の写真が何枚か壁に飾られ、棚に並べられている商品も登山を想像させるものばかりである。 「ご迷惑でしたか」 「まさか。単に珍しくて」男性は腰に手を当て、隣に立つ。「山、登るんですか?」  ラーナーは即座に首を横に振った。 「そうじゃないんですけど、目に入って」 「そうですか、ここは登山向けの物しか置いてないけれど」  不意に、はっと彼は目を丸くししゃがみ込んだ。 「驚いた……エーフィだって」  男性の顔が興味深げに輝く。まるで新しい発見をした少年のような純粋な表情だ。  顔を近付けられたエーフィは二叉の尾を揺らし、動揺している様子が無い。エーフィは感情の機微を繊細に感じ取れるポケモンだ。彼から向けられた感情に悪意が混ざっていないことが見て取れる。 「君のポケモンですか」 「はい、一応」 「トレーナーとは恐れ入るな。良かったら、触っても?」  どうぞ、と促すと、男性は優しい手つきでエーフィの巨大な耳の後ろをさすり、それから頭全体を掴むように大きく撫でた。大きな手だった。甲の隆起が荒々しく、一本一本の指が太い。 「まさか生きていてエーフィに会える時が来るとはなあ」  大袈裟だと思いラーナーはくすりと笑った。けれどそうなのかもしれない。エーフィとブラッキーはどこに行っても物珍しい視線を集める。当然のように自分はこの二匹を連れているけれど、自分の方が異端なのかもしれない。正確には、彼等に出逢い育て上げた両親の方が。 「ありがとうございます。急に悪かったね」  長い胴体をゆったりと撫でてから、満足げに男性は笑い、徐に立ち上がった。ラーナーとは頭一つ以上の差がある。見上げた勢いで写真が目に入り、気になった。 「この写真の人は」 「ああ、僕です」  やはり。ラーナーは達成感に満ちている写真と現実の男性を無意識に見比べる。照れ臭そうに男性は苦笑いを浮かべた。 「結構前の写真ですけど。五年以上前かな」 「どこの山ですか」 「シルビア山脈。西に連なっている山脈の中でも険しい山です」  ラーナーは唾を呑み、改めて写真を見る。  険しくも美しい山並み。白い断崖絶壁の向こうには、遙かなる青が、絵の具で一気に塗りたくったように広がっている。白と青で構成された中で高々と拳を突き上げている一枚が、なんとも爽やかだ。どんよりとした雨が降っている今、余計に華やかに浮かび上がっている。 「最近は小さな山ばかりだけど、この山を登頂できたのは今でも誇りでね、でかでかと主張してしまうんですよ」  でも、と前置きをする。 「自分で言うのもなんですが良い写真でしょう。アピールするには良い一枚です」 「じゃあやっぱりお店も」 「そうですね。見ていきますか?」  ラーナーは自然と頷いた。  招かれた店内はアウトドア向けの商品が所狭しと置かれ、棚と棚の間は人ひとり分でいっぱいになる狭さだった。男性は身体が大きいので、余計に窮屈のようだった。  入り口正面の壁際にはずらりと服がかけられている。レインウエアから下着の類まで、僅かな隙間も埋める品揃えであった。部屋を仕切るような棚にはヘッドライトやコンパスなど細々とした商品が並べられ、ラーナーはしげしげと眺める。 「あ」  店内を移動しながら、ラーナーは声をあげる。部屋の奥にはトレッキングシューズや本格的な登山靴が並べられていた。 「靴を探してるんですか」 「あ、いえ……はい」  狼狽えながら辛うじて肯定すると、男性は嬉しそうに靴の商品棚の前に立つ。 「女の子だからなあ。むさ苦しいデザインばかり���申し訳ないんですが」 「あの、私、山は登らないんですけど」 「わかってます。でも、しっかりした靴が欲しいんでしょう」  胸の奥が引っ込むような感覚がした。  僅かな狼狽を見て、男性は豪快に笑った。 「なんとなく只者じゃないような気がしたんですよ。間違っていたかな」  これだけのやりとりで、何を感じ取れるというのだろう。ラーナーは疑問に思いながらも、曖昧な表情を浮かべた。 「修行の旅かと」 「修行」  思わず繰り返してしまい、その雰囲気から間違っていたとすぐに判断したらしい。 「漫画の読みすぎか」 「いえ……でも、旅はしています」 「あ、やっぱり?」  随分と年上だろうに、ぱっと華やいだ顔が何故か子供らしい。 「エーフィなんて珍しいポケモンを持ってるし、プロトレーナーの中には強い野生ポケモンとの出会いと自らの鍛錬を求めて修行の旅に出たっていう話もあるから。他の国では、そう珍しくもない所もあるらしいしね。とはいえ、アーレイスでは確かに聞かないし、現実離れした浪漫だからなあ」  親密な雰囲気でまくし立てる男性の前で、平然とした顔を繕いながらラーナーはどきどきしながら話を聞いていた。旅をしていると正直に話してしまったことを後悔した。どこかするりと自然な物言いで懐に潜り込んでくるような雰囲気が、突いてほしくない部分に触れてしまうのではと気が気ではなかった。 「それほど重装備じゃない方がいいかな。かといって、ウォーキングシューズだと心細いだろうか」  ラーナーの心配をよそに、彼は熱心に勤しんでいる。  独り言なのか話しかけているのか判別のつきづらいような口振りで、男性の頭より少し高い位置に掲げている靴を一足取る。スニーカータイプだが生地が厚く、今ラーナーが履いているカジュアルなデザインよりもずっと無骨だ。しかし黒地に白いラインが二本入っているのがアクセントになっていて、小洒落てもいる。 「どこでも歩けるものがいいだろうな。サイズは?」 「……三十七です」 「あるかなあ。ちょっと待ってて」  靴を足下に置くと、男性はレジカウンターの奥の部屋へと入っていった。  残されたラーナーは軽くなった肩を落とし、壁一面に整然と並べられた靴を眺める。黒、灰色、茶といった落ち着いた色合いのものが多いが、中には蛍光色が全面に出された主張の強い種類もある。ラーナーにはデザイン以外の細かい違いが解らない。スニーカーデザインもあれば、ベルトで締めるタイプもあり、ブーツもある。試しに男性が床に置いていった一足を手にとってみると、今自分の履いているものより重量感があり、靴底が殆ど曲がらず驚いた。こんなもので長距離を歩けるだろうか。勿論歩かずに電車などの乗り物を駆使する方法もあるが、町で人との擦れ違いすら怯えることがあるのに、密閉空間で他人と暫く同じ空間を共にしたら、と考えるだけで背筋が震える。  それに、これではいざという時走れるかどうか。 「おまたせ」  扉が開き、男性はいくつか白い箱を抱えて戻ってきた。 「履いてみた?」 「いえ。でも、ちょっと重そうだなと」 「最初はそうかも。履いてみるとまた印象が変わると思うよ。サイズあったから試してみる?」  なんだかあれよあれよと流されているようだ。ラーナーはエーフィに一瞥すると、彼女は涼しげな顔をしていて、むしろ何故か楽しそうな印象がある。  ラーナーは提案に乗って近くの木椅子に座り、スニーカーを脱ぐ。雨中を歩いていたからだろう、穴が出来た影響で中までびしょ濡れで靴下も足首まで水が浸透していた。見るも無惨な姿に言葉が出ない。人目に晒しているのだから尚更たちが悪い。  だが、それほど気に留めてないように男性はしゃがみ込んでせかせかと箱から真新しい靴を出し、準備を進めている。  とはいえ、少なくともこんな足で試し履きをするのは憚られる。ラーナーは鞄から使い古したビニール袋を取り出し濡れた靴下を放り込んで、急いで予備を履く。 「随分履き込んだんだね」すっかり汚れたスニーカーを一瞥し、男性はゆったりとした表情を浮かべた。「その靴を見て、きっと靴が欲しいだろうなあとか、随分と歩いてきた人なんだろうなあとか思った」 「それだけで?」  ラーナーは目を丸くする。 「勿論靴だけじゃない。エーフィもそうだけど、膨らんだ鞄とか、服もどことなく着古している感じとか……あ、気を悪くしたなら申し訳ないけど」  慌ててラーナーは首を横に振ると、男性は肩を揺らして笑った。 「まあ、一番はなんとなく同業者の匂いがしたってとこかな。さ、どうぞ」  足下に差し出され、ラーナーは僅かに胸が高鳴った。  するりと足を入れると、新品独特の、足を引き締めながらもぱりぱりと弾き返すような質感がした。そこで改めて、自分がどれだけ今の靴を履き潰してきたかを実感する。  両足を揃え、すうっと立ち上がる。やはり靴底が堅く、厚い分背が伸びたような気になった。試してみると案外重みは感じない。膨らんでいる分、急に足が大きくなったようなアンバランス感が可笑しかった。 「いいね」  満足げに言いながら、彼は素早い手捌きで靴紐を締める。一つ一つの動作が早いが、急いでいるというよりも、最初の一歩を躊躇せずに踏み込める性格なのだろうとラーナーは思った。自分に自信を持ってて、その自信に揺らぎの無い確信を得ている人。  促され歩いてみると、重みが安定感を生み出しているような気がした。数歩離れ、また戻る。確かめるように、じっくりと一歩一歩を踏みしめる。 「どう?」 「思ったより歩きやすいです」 「それは良かった」  また少年のように笑った。表情だけを見ると、気軽で隙のある雰囲気が、彼が一回りも二回りも年上であろうことを忘れさせる。 「でも、底が堅いのがやっぱり気になります」 「こんな平らな床だと余計ね。でも、たとえば岩道とか滑りやすい道だとやはり違う。元々履いていたこのスニーカーだと地面のでこぼこが直接伝わるから、足が疲れやすくなる。それでなくとも足は体重に耐え全身を支えているものだからね。これだと底が衝撃を吸収してくれるから足に疲労が溜まりにくいんだ」  熱の籠もった説明を聞きながら、ラーナーは相槌を打つ。元々疲れやすいのは体力が無いこともあろうが靴のせいでもあったのだろうか、などと考えるが、そもそも比較対照は無尽蔵の体力をもっていたことを思い出し、すぐに自ら消し去った。 「それに生地が厚く防水加工もしてあるから、雨や雪にも強い。うん、悪くないと思う。まあ、一番は君が気に入るかどうかだ」  ラーナーは逡巡して、顔を上げる。 「他も履いてみていいですか?」 「勿論」  靴を脱ぎながら棚を仰ぐ。基本的には男性を対象としている品揃えなのだろう、一目で大きいと解るサイズばかりが揃っている。こじんまりと左側に女性向けの靴が寄せられていた。  いくつか履いてみたが、これで良いと踏ん切りがつかない。値段もそう簡単に出せるようなものではなく、彼女を萎縮させた。  想定外に真剣に打ち込むうちに独特の疲労感が押し寄せてきて、方角を見失ったような気分に陥る。 「ちょっと考えてもいいですか」  出直したい、という意を込め、苦い思いでそう切り出すと、男性は嫌な顔一つ見せずに頷いた。 「まだこの町に?」 「とりあえず、今日はフラネに泊まるつもりです。でも……明日雨が止んだら出ようかと」 「そうか」  男性は少し残念そうな表情を見せ、やや考え込む。 「明日、出る前にもう一度来ないか?」  引き留める提案に、ラーナーは睫毛を伏せた。  彼の柔和な言動や雰囲気には、無理矢理売り込もうという強い下心も絡みつくような強制感も滲んではいなかった。しかし却ってそれが小さな違和感を抱かせる。が、正面から向けられる期待の視線もあって熟考する間もなく、ラーナーはふらりと一つ頷いていた。 「そうか」あっさりと嬉々とした表情を見せた。「明日までに店の奥に掘り出し物がないか、探しておこう」  ラーナーは目を細めた。  別れの挨拶を簡素に済ませ、店を出る。不思議だった。べたべたと付き纏ってくるような粘着感は無く、適度な距離感で接してくる。居心地が良いとは言い切れないが、悪くもない。出来るだけ人に会いたくなかったはずなのに、再訪問の約束まで交わしてしまった。  そういえば名前を聞いていなかったし、あちらも尋ねてはこなかった。が、大した問題ではないだろう。そのぐらいの距離感が良い。あまり自分をどこにも残したくない。  再び傘を差し、店の正面に堂々と飾られた写真をもう一度背中越しに振り返る。  西の山脈。  彼はそう言った。胸に針が刺さったようだった。  狭い路地を歩き、町で一番大きな広場へと戻る。交通の便は悪いが、可愛らしい町並みが人気を呼ぶのか、土産物を全面に押し出した観光向けの店も並んでいる。そういう場所に行けば、宿の案内をしてくれる場所もある。嘗て教えられたことだ。できるだけ安い場所、と釘を刺すように言われた記憶が蘇る。  素泊まりで一泊。町のはずれでひとまず宿を取ると、肩の荷が下りたように安堵する。築年の長い宿独特の古びた小汚さがあり、小さな一人部屋は簡素なベッドが部屋の大半を占領しているが、野宿に比べれば充分贅沢だ。寒さと雨を凌げればそれ以上は望まない。ラーナーはベッドに頭から倒れ込んだ。どっと疲れてしまった。  どうして明日も行くと約束してしまったのだろう。苦い後悔が広がっていく。  あの男の、不思議な吸引力に惑わされてしまったのなら、こんなことではいけないと思う。簡単に流されても、簡単に懐に入り込まれてもいけない。  だらだらと時間を弄ぶうちに窓の外は暗くなり、電気も点けずにいたので部屋も丸ごと黒く塗りつぶされていく。あまりにも自然と暗くなっていったので、ラーナーは暫く暗闇に気付かずに時間を過ごした。  靴。服装。食事。そしてアメモース。  追い立てるように頭の中で流れていくけれど、総じて怠くて仕方がない。  結局そのままラーナーは眠りに落ちた。ポケモン達も、今度は誰も起こさなかった。彼女から迸る不可侵の膜を破ることはできなかった。  早朝に目を覚まし、窓から差し込む薄明に彼女は眉を潜め、時刻を確認しまた倒れ込む。  夜も降り続けていた雨は止んだようで、風の音も無い。  無為に数分を過ごしたラーナーは、よろめきながら堅い窓を開け放つ。雨は止んだが上空は分厚い雲に覆われている。幾分冷えた空気が肌を刺し、いよいよ目が冴えた。正面はすぐに他の建物があって、身を乗り出して周囲を見渡す。細い道に面し、左の方に行くと確か階段があって、町の中心部へと続いていく。湿った朝の空気は霧がかかったように静かだ。ひっそりとまだ眠っている町。自分だけが息をしているようだった。  今なら誰にも気付かれることなく町を抜け出せる。過ぎった思いつきに、ぎゅっと窓枠を握る。  しかし、あの写真の突き抜けるような青空が過ぎって、ラーナーの足を掴んだ。  シャワーを浴び、髪をタオルで挟み込むようにして乾かした。朝に清めると全身の細胞が起きあがるようだった。これから始まる一日を生きる気合いのようなものが泡のように浮かんでくる。頼りないけれど、ちょっとだけ前を向くような泡。  部屋を出て階段を降り、宿の玄関に出ると既に従業員の姿があり、宿泊費を払い宿を出た。  ポケモン達をボールで休ませたまま、冷ややかな朝のフラネを歩く。宿を出て左の道ではなく、右の道を選び、なだらかな坂を昇っていく。まだ乾かない靴の裏から煉瓦道のおうとつが伝わり、昨日店で聞いた話を思い返した。  長い階段を昇っている途中でふと振り返ると、左右に壁に挟まれながらも色鮮やかな屋根が立ち並ぶ町並みが奥の方で広がっていた。縦に長い額縁に飾られた絵のようだ。もう少し高台へ行こうと思い、階段を登り切り、左の方へ。当てもなく歩いていたが、偶然建物が途切れて町を見下ろせるような空き地に辿り着く。急に視界が開けて、ラーナーは朝に眠るフラネを眺望した。  石造の欄干にもたれ掛かる。  綺麗な町だ。  素直にそう思った。灰色の曇天だからこそ、カラフルな屋根の色がそれぞれ強調されるようだった。あらゆる色が町中を彩っている風景は立体的な絵画のよう。子供が思いつくままにクレヨンで塗ったような愛らしさもある。  こんな町もあるのだ。まだ知らない空があって、知らない場所がある。  もうじき町は起き上がるだろう。溶け込む間も無く自分は出て行く。キリへはフラネから更に西へ進む必要がある。  気が熟すまで暫し堪能していたラーナーは、ふとした勇気でアメモースを外に出した。  閃光を払い、地面に着地したアメモースは眠たげだ。昨日の荒れた行動の気配を微塵も感じさせない。いつものアメモース。マイペースで、気ままで、悠然としていて、誰にもとらわれない自由なアメモース。  ラーナーは彼を抱き立ち上がると、共に凪いだ町を見渡した。  烈しく暴れ鋭く睨みつけた姿が彼の本性だろう。彼は元々野生で生まれ育った。詳しい経緯をラーナーは知らないが、何かがきっかけで旅を始め、それでも尚アメモースは大空に解き放たれ、また戻ってきた。時に血生臭い炎の中を翔けた。あの間にある繋がりを、モンスターボールを通じた主従関係のみで片付けること���難しい。  誰かが消えて、多くの糸が途切れた。ラーナーもアメモースも等しく。そうして生まれた希薄な繋がりにどんな名前を付けたら良いのだろう。  黙り込み物思いに耽っていた、次瞬。  三枚翅が震え、前に乗り出したアメモースは緩んでいるラーナーの腕を突き放した。  え、と、彼女が声をあげる間も無く唐突に腕の中から離れる、翅をばたつかせて、空を、飛んだ、飛ぼうとした。背中。薄い逆光。高台では、青白い陽光に照らされた町がよく見える。遠くまで見える。硬直した。下まで、一体、どれほど。  こんなの一瞬だよ。  一瞬で、ぜんぶ終わる。  ぞっとするような透明な顔が、笑って、透明な声が、近い場所から聞こえる。  咄嗟にラーナーは腕を伸ばした。指が辛うじて触角を掴む。 「だめ! だめ!!」  悲鳴のような叫びと共に、体重を背中にかけて引き戻した。後ろから倒れ込み尻餅をつくと、アメモースは縫いぐるみのように手から滑り落ちて後方へと転がっていった。  翅を素早く震撼させるけれど、壊れた動作は不気味ですらあった。三枚翅の羽ばたきは収まらず、鋭い風の群れを呼ぶ。銀色に輝く歪な旋風が巻き起こり、乱雑に煉瓦の表面を抉った。ラーナーは思わず顔を覆う。その隣で、銀の鱗粉に紛れ込むように白い閃光が鞄から飛び出し黒獣がアメモースに襲いかかった。風を切り裂き、一瞬で四つ脚が相手の体を地面に縫いつけ、同時に風は収束する。 「ブラッキー! 落ち着いて!」  喉を低く唸らせ組み伏せたアメモースを威嚇するブラッキーだったが、主人の声にハッと血眼を見開く。踏み潰しているのが仲間と解るやいなや、息を留めた。  気まずい余韻に冷や汗が流れる。  ラーナーの耳元では荒々しい鼓動が鳴り止もうとしない。迂闊だった。あまりにも軽率だった。ずっと遙か奥に霞むまで続いている町の光景は、自由な飛翔を最上の喜びとするアメモースに突き付けるには残酷だと何故気付けなかった。  ブラッキーは恐る恐る離れたが、殆ど不発に終わった銀色の風をもう一度起こす気は無いようで、アメモースはその場に倒れ込んだまま動かない。それぞれの息遣いが随分遠い。唾を呑む音すら躊躇われるような冷たい沈黙に誰もが痺れてしまったようだった。  飛べないんだよ、アメモース。  私達は、飛べないんだ。 < index >
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