Tumgik
#上有田の風景
Photo
Tumblr media
#おやつの時間 #上有田の風景 . @fountainmountain1108 . 〚 fountain mountain 〛 昨日クッキーを買いに立ち寄ると、偶然撮影の済まれた着物姿のお嬢様たち👘✨快く写真を撮らせていただきました📷✨ . 若さの前に「レトロ」とは死語で、むしろ出会いなのだと感じました✯いま必要なものがたまたま昭和だった、ということです✯ . 店長の作るクッキーがおいしくて、うっとりと時間を忘れそう…上有田の夏、歩くと楽しいですよ🚶‍♂✨ . . @iichi_japan [ 白砂三島彫 皿(小) ] [ 白砂三島彫 湯呑 ] . #saga #arita #kikoujin #有田焼 #波佐見焼 #貴好人 #トンバイベイ通り #上有田駅 . #和のある暮らし #日本のくらし #和の食卓 #和のテーブル #ハレのうつわ (貴好人) https://www.instagram.com/p/Ce91CrtvQqE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
4 notes · View notes
cototokifarm · 2 years
Photo
Tumblr media
是非皆んなに飲んでもらいたいお茶✨✨✨ 秦野の丹沢の麓で丹精に願いを込めて農薬、化学肥料に頼らず、自然と共に栽培しています。 #この風景を自然に寄り添いながら残していきたい! . 今週末は色々な所でお茶や野菜を販売してもらえます。 . 仲間たちに感謝💕 . 野菜は枝豆やズッキーニ.赤玉ネギです。 . . .\\\ 出店情報 /// . .○6/25(土)10-16時 . @minakaodawara .▷青物マルシェ⛺️ . .○6/25(土)14時ごろから . @recampodawara .▷Trial Market⛺️ . .○6/26(日)11-16時 . @tipyrecordsinn .▷農家の休日⛺️ . . .今週末は小田原各所で新鮮おやさいが買えますよ〜〜〜 . . ぜひ、チェックしてみてください👩‍🌾👨‍🌾 . . .『農家の休日』について☟ . \採れたて野菜を屋外で、炭火焼で/ マーケットと、直売と、ご好評いただいてるオーガニックファーマーズマーケットを6/26も開催! 今回のテーマは「農家の休日」。 マーケットを行うティピーのウッドデッキで、農家さんが持ち寄った野菜をその場で炭火焼きにして食べることができます◎ もちろん、お野菜のお求めだけでも大歓迎です! 雨天中止となってしまいますが、太陽の下で楽しめることを願い、、! 旬なお野菜とともに梅雨空吹き飛ばしましょう! ---------- 湘南オーガニックファーマーズマーケット×ティピー 「農家の休日」 6/26(sun.) 11:00-16:00 ところ:Tipy records inn ウッドデッキ address:小田原市栄町2-4-13 入場無料 BBQ台利用代:500円 ▼ティピーの梅酒ものめます ▲ご予約はInstagramDM/公式ラインまで .△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△ Famers(予定) ・くんちゃんのみかん @iwamoto_farm_ ・コトトキ農園 @cototoki.farm ・さとえむ農縁 @satoemu17farm ・安藤農園 @andofarm_odawara ・真美耕園 @mami_co.farm ・おくつ農場 △▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△ #湘南オーガニックファーマーズマーケット #湘南organicfarmersmarket #小田原球場 #上府中公園 #ファーマーズマーケット #オーガニックファーマーズマーケッ��� #オーガニック #農家直売 #有機野菜 #神奈川 #小田原 #南足柄 #西湘 #湘南 #藤沢 #秦野 #二宮 #開成 #中井 #大磯 #茅ヶ崎 #平塚 #farmersmarket #farmers #market #organic #organicfarmersmarket (Hadano, Kanagawa) https://www.instagram.com/p/CfKs6P0P5w2/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
yamada50 · 1 year
Photo
Tumblr media
毛利家を祀る豊榮神社と野田神社 別格官幣社巡りで参拝に上がりました 山口県神社庁のお隣、豊榮神社と野田神社ですが横並びにそれぞれほぼ同じ社殿や回廊を備えどっちがどっちな豊榮神社と野田神社です 豊榮神社と野田神社は見た目ほぼ同じですが別の宗教法人でそれぞれ旧別格官幣社で別表神社となっています しかし現在両社とも古熊神社宮司が兼務されていて数々の別表神社を巡ってきた中、兼務社の別表神社ははじめてのパターンでした 参道より奥、境内東側で橋を渡り社殿前に毛利三本の矢の男爵毛利五郎、男爵小早川四郎、男爵吉川重国奉納の石灯篭があるのが初代藩主毛利元就を祀る豊榮神社です 長門に移封となった毛利輝元が萩の氏神様の春日神社境内に元就公の霊を祀ったのが前身で、江戸時代中期宝暦12年(1762)に同じ萩に元就公を遷座し、毛利家の祖神とされる天穂日命を合祀し神性霊社として創祀しました また明和7年(1770)には仰徳社と改めています 明治に入り元就公による朝廷を崇敬する事跡があったことから、明治天皇より元就公に「豊栄」の神号を下賜され、明治4年現在地に社殿が造営されて遷座、明治15年に別格官幣社に列格しています その後明治6年に長州藩事実上最後の藩主で尊王攘夷、討幕、廃藩置県など明治維新の功労者である毛利敬親公を祀る社を有志によって諡号から忠正神社と称して豊榮神社の別殿として創建され、翌7年に野田神社に改称しました 禁門の変により朝敵ともされた毛利敬親公ですが防長の人々の願いが叶い明治19年に豊榮神社西隣の現在地に遷座し豊榮神社より独立、大正4年に別格官幣社に列しました 境内には山縣有朋をはじめ激動の幕末維新期を生き抜いた人々からの奉納であふれています 元藩士らの敬愛の念が伝わる境内でございました #野田神社 #豊榮神社 #豊栄神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 豊榮神社(とよさかじんじゃ) 鎮座地:山口県山口市天花一丁目1-1 主祭神:贈正一位毛利元就公 社格:別格官幣社 別表神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 野田神社(のだじんじゃ) 鎮座地:山口県山口市天花1丁目1-2 主祭神:毛利敬親公 社格:別格官幣社 別表神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#山口市#幕末#明治維新 (豊榮神社・野田神社) https://www.instagram.com/p/CnR7fzhPijZ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
125 notes · View notes
ari0921 · 4 months
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
    通巻第8070号
 AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
  文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
 わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
 「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
 このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
 『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
 皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
 しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近いニュースで���る。
 生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
 きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
 文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
 紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
 ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
 「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
 額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
 「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
 ▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
 『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
 『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
 古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
 江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
 井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
 上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
 近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
 描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
 谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
 「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
 ▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
 「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
 「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
 「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
 サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
 わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
 こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
5 notes · View notes
lilgurlcollins · 24 days
Text
旅の記録 in South Korea🇰🇷
Busan編
釜山に旅行してか3ヶ月経ってしまいましたが、旅日記は残すべく、今更ながら思い出語り。
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
何日に何したか、どこのお店行ったかの記憶が朧げなので釜山の魅力を書きます😭次の旅行はその日に書こう。反省。
釜山とソウルどちらも行った身としては、韓国に旅行してみたいけどどこ行こう?という人に、断然釜山をおすすめしたい。(美容にさほど興味のない男性は尚のこと)
釜山の魅力
①ソウルで味わえるようなご飯屋さんは網羅されてる上に、釜山ならではの新鮮な海鮮のお店が多い(し、ちゃんと美味しい)。カンジャンケジャン(写真5枚目)の艶ヤバくないですか?生臭さなんてものは一切なくて、とても美味しかった。
②都会と自然が両方ある。
釜山でいちばん思い出に残っているのは海(海雲台海水浴場:写真1,2枚目)。2枚目の電車はガイドブックに載っているので、多くの観光客が訪れるスポットだけど��予約した乗車時間までの暇つぶしで近辺を散歩していたらたまたま海辺まで辿り着けた。海青くてちゃんと綺麗だな?!!?!?!と興奮した。
Sydneyでもそうだったのだけど、高層ビルと綺麗な海が隣接している絵面が個人的にたまらなく好きで、地震大国の日本では見られない光景なのが少し残念。
③ローカルな朝ごはん屋さんが多い。
これもまた日本にはあまり馴染みのない文化だけど、海外では朝ごはんを外で食べる習慣が根付いている気がする。
美味しかった朝ごはん3選
(1)カルグクス(写真下)
カルグクス(「カル」=包丁,「グクス」=麺)は「韓国風うどん」とも呼ばれていて、味のバリエーションがとても豊富(訪れたお店はいりこの出し汁を売りにしていた)。先輩たちはソンカルグクス(温)、私はネンカルグクス(冷)を注文。優しい味のスープで目が覚めました。
Tumblr media
(2)ソコギクッパ(写真下)
ソコギクッパ(「ソコギ」=牛🐄)は、もやしや大根などの野菜を大釜にたっぷり入れ、牛肉と一緒に煮込んだスープ。韓国では二日酔いの日は朝に食べるのが定番らしい。個人的にはデジクッパより好みだった。
Tumblr media
(3)デジクッパ(写真下)
デジクッパ(「デジ」=豚🐖)は、豚骨を丸1日かけてじっくりと煮込んで出汁を取ったスープに、茹でた豚肉とねぎとご飯を加えて、たくさんの種類の薬味の中から好みの味付けをして食べる料理。西面にはデジクッパ通りというのがあるくらい人気の料理で、とても美味しかった。
Tumblr media
※ 「クッパ」はスープと米を混ぜた料理。お米も入ってるのでお腹も溜まる。
④観光地らしい観光地が結構豊富。↓
甘川洞文化村(山の斜面に建物が連なってて「韓国のマチュ・ピチュ」といわれている美しい村。星の王子さまのオブジェが有名)
海東龍宮寺(韓国でいちばん美しいと有名な寺。寺に向かう108段の階段を降りると願いが叶うらしい)
国際市場(なんか栄えてる市場。)
五六島スカイウォーク(崖の上から海上に突き出したガラス張りの展望台で、高所恐怖症の人は多分無理。)
釜山ダイヤモンドタワー(夜景スポット、たぶん日本でいう東京タワーみたいなやつ)
海雲台(釜山でいちばん有名なリゾートビーチ。海めっちゃ綺麗。今回の旅でいちばん良かったスポット)
海雲台ブルーラインパーク(4人乗りのノロノロ列車なので1人で乗ったら多分暇だけど、カラフルで可愛いし綺麗な海をずっと一望できるからおすすめ)
南浦洞(釜山のキラキラ繁華街。渋谷っぽかったです)
とかとか、他にも韓流の『サムマイウェイ』のロケ地もあって3泊4日では全然制覇できなかったくらいに観光地多い。ソウルは観光地らしい観光地が少ないイメージだからそこに関しては釜山の方が充実してた。
⑤百貨店やブランド通りもあるので、ほぼ有名なブランドやスポーツ用品店は揃っていて(調べたら多少はソウルにしかないものもあるんだろうけど)、ソウルと同じくらい買い物も楽しめる。
釜山にしかないOPTATUMのハンドクリーム、ぜひお土産に購入してください。
North faceのホワイトレーベル(韓国限定ブランド)のトップスを罪滅ぼしで兄にお土産で購入した😅(正月の航空事故の影響で福岡からギリギリ東京に到着した際、タクシー待ちの列が5時間で、韓国行きの成田便に間に合わない〜と詰んでいた妹を、国試1ヶ月切っていたのにレンタカーで千葉から迎えに来てくれました、、神)
ちなみに屋台もソウルと同じくらい栄えてて楽しかった。屋台のホットク、毎日食べたい。
⑥街の散策が苦じゃない。
個人的な印象だけど、ソウルよりも一駅間を歩くのが苦じゃなかったような気がする。たくさんご飯を食べた後、次の目的地まで二駅だから歩いちゃおう!みたいなことができて良かった。
韓国旅行はグルメメインになるので、胃もたれでしんどくなるイメージが強かったけど、歩きやすい街並みと胃に優しい朝ごはんのおかげで、たくさん食べてたくさん歩いて健康な旅!という感じでした。
⑥ソウルと比べてローカルな都市なだけあって、人との距離が近め(な気がした)。
電車にて3人で日本語で喋っていたら隣に座っていたおじさんたちから話しかけられたり、お店で鍋を突いていたら隣のお姉さんたから声をかけられたり。みんな親切であったかくてなんて素敵な街なんだ〜!と思った。
余談)
新世界百貨店の新世界スパランドもおすすめ(10種類以上のチムジルバンがあって、一番高い温度のチムジルバンは79度)。温泉のあとのご飯が美味しいっていう文化は世界共通なのか。
写真7枚目のフレーク入りヨーグルトは韓国の定番の朝ごはんで、美味しすぎるので日本でも売ってほしい。欲張ってたくさんスーツケースに詰めたら、飛行機の気圧で潰れてスーツケースがヨーグルトまみれになりました。ビニール袋に入れておくべきだった。
タラタラ感想を述べたらえげつない長文日記になってしまいましたが、大好きな先輩2人と楽しい3泊4日を過ごせて幸せな渡韓だった。
またどこか旅行しましょうね🙈
3 notes · View notes
kennak · 2 months
Quote
昨年10月期の連続テレビドラマ『セクシー田中さん』(日本テレビ系)で、原作者・芦原妃名子さんの意向に反し何度もプロットや脚本が改変されていたとされる問題。日本テレビは社内特別調査チームを設置すると15日、発表した。芦原さんは先月29日に亡くなったと伝えられていた。小説や漫画などの映像化における制作サイドによる原作の扱い、および脚本化のプロセスがクローズアップされるなか、過去にNHKが辻村深月さんの小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化にあたり、原作者と出版元の講談社からのプロットを見せてほしいという要求に応じず、撮影クランクインの2週間前に準備稿を見せ、講談社から容認しがたい改変があるとの理由に映像化を断られるという事態が起きていた。NHKはドラマ制作の中止を余儀なくされたとして講談社に約6000万円の損害賠償を求めて提訴し、東京地裁はNHKの要求をすべて棄却したが、裁判のなかでNHK幹部が、原作者による脚本の確認について「検閲に当たる」と述べていたことが、改めて問題視されている。 『セクシー田中さん』の問題をめぐっては、日本テレビは先月29日と30日に <原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております> などとするコメントを発表して以降、沈黙を守っていた。多くの漫画家や脚本家、有識者などから詳細な経緯の説明を求める声が高まるなか、原作漫画の出版元で芦原さんの原作代理人として日本テレビとの契約ややりとりの窓口だった小学館は今月8日、「第一コミック局編集者一同」名で発表されたコメントを公式HP上に引用。そこには <ドラマ制作にあたってくださっていたスタッフの皆様には(編集部追記:芦原さんの)ご意向が伝わっていた状況は事実> と綴られていた。  一方、脚本を担当する相沢友子さんは自身のInstagramアカウントで8日、 <芦原先生がブログに書かれていた経緯は、私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました。いったい何が事実なのか、何を信じればいいのか、どうしたらいいのか> と投稿。1月に芦原さんは自身のブログ上で、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビとの間では<ドラマ化するなら『必ず漫画に忠実に』。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく>との取り決めを交わしていたと説明していたが、相沢さんはこの取り決めを知らされていなかったとみられている。  日本テレビ関係者はいう。 「もちろん社内では関係者への聞き取り調査などは行われていたが、局としては最終的には原作者の承諾を得た脚本に基づいて制作し放送しており、契約違反はないというスタンスで、当初は正式に調査や結果の公表をする意向はなかった模様。だが、4月期に小学館の漫画を原作として『セクシー田中さん』と同じプロデューサーが担当する連ドラが放送されると報じられたことも重なり、沈黙を貫く局への世論からの批判は収まらない状況となった。また、小学館が社内の反発を抑えられずに日テレ側に責任があるかのようなコメントを出したのも想定外だった。  今回、第三者委員会という形態を取らずに社内の調査チームというかたちを取ったのは、調査やその公表を完全に外部に任せてしまうとマズいということで、局としてコントロールできる余地を持っておきたかったのだろう。その意味ではギリギリの線を守ったともいえるが、いくら外部識者の協力を得るといっても、社内の調査チームが調査しましたというかたちで、どれだけ世論の納得を得られるのかは疑問」  危機管理・広報コンサルタントの平能哲也氏も10日付当サイト記事内で次のようにコメントし、第三者委員会設置の必要性を指摘していた。 「原作者とテレビ局のドラマ制作サイド、脚本家の意見が食い違い、原作者が亡くなるというのは極めて異例の事態。また、この問題は日本テレビと小学館だけにとどまらず、日本のテレビ業界・出版業界全体に影響する事案であり、再発防止という観点でも、しっかりと第三者委員会を設置して調査・結果の公表をすべきといえる」 NHK幹部「第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認められない」  そんななか、同様にドラマ制作における原作の扱いをめぐり裁判にまで発展した過去の事案が再び注目されている。2012年にNHKが放送予定だった『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を原作とするドラマで、講談社は原作がどのように脚色されるのかを把握するためにNHKに再三にわたりプロットを確認させてほしいと求めていたが、NHKは応じず。講談社はクランクインの2週間前になってようやくNHKから準備稿を見せられたが、容認しがたい改変がされているとしてドラマ制作を容認できない旨を伝えた。するとNHKは、すでに費用が発生していることを理由に、講談社に対し約6000万円の損害賠償を求めて提訴。東京地裁はNHKの要求をすべて棄却したが、NHKはこれを不服として控訴するという紛争が起きていた(その後、東京高裁の和解勧告に基づき和解)。  そして、裁判のなかで証言に立ったNHK幹部は以下のように発言していたのだ。 <放送局として、我々が作る編集内容に関して第三者が口を出せるということを認めてしまうこと自体が認められない。ほとんど検閲に当たります>(15年4月28日付け講談社リリース「『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』に関するNHKとの裁判の判決に対する講談社の見解」より)  同リリースのなかで講談社は次のように述べている。 <管理委託を受けている出版社が、原作者の意向を受けて脚本に意見を述べることを「検閲」と捉えていることに、私どもは衝撃をおぼえました> <NHKは自らの一方的な判断で制作準備を進め、クランクイン予定日を設定していました。にもかかわらず、すでに様々な費用が発生しているので、その全額を払えと、弊社に対して裁判を起こしました。脚本委嘱料、撮影に要する美術費、出演料、職員の出張旅費・手当、会議費、タクシー代、携帯電話代、さらには原作書籍の購入代金まで、すべてを負担せよと要求してきたのです> <当該スケジュール下での当該制作チームによるドラマ化は容認できないが、NHKから再提案があれば優先的に検討するというものだと、何度もNHKに説明しました。それゆえ、私どもはなぜNHKがこのような裁判を起こしてきたのか、いまだに理解できません>  テレビ局関係者はいう。 「10年くらい前は、このNHK幹部の思考はNHKに限らずテレビ業界全体に共通のものだったといっていい。モラルとしても法律的にもめちゃくちゃだが、『原作とドラマは別物』という感覚で原作サイドがドラマの内容に口を挟むということは許されないという風潮があった。原作者・出版社サイドとテレビ局の間に明確な力関係が存在するという背景もあったし、その上下関係は今でも残っている。さすがに今ではコンプラ意識や著作権に関する意識の浸透もあり、基本的には局が原作者サイドに脚本について承諾を得ないまま制作を進めるということはない。ただ、ここまでSNSが発達しておらず、多くの漫画家や脚本家たちの意見が公にならない状況であったなら、日テレが正式に調査に動き出すという展開にはならなかったかもしれない」 【これまでの経緯】 『セクシー田中さん』の制作にあたっては原作者の芦原さんは、ドラマ化を承諾する条件として日本テレビ側に、必ず漫画に忠実にするという点や、ドラマの終盤の「あらすじ」やセリフは原作者が用意したものを原則変更しないで取り込むという点を求めていたとされる。芦原さんが1月にブログなどに投稿した文章によれば、何度も大幅に改変されたプロットや脚本が制作サイドから提出され、終盤の9〜10話も改変されていたため芦原さん自身が脚本を執筆したという。  問題が表面化したのは昨年12月のことだった。脚本を担当する相沢友子さんは自身のInstagramアカウントで、 「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」 「今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」 と投稿。9話・10話の脚本は自身が担当していない旨を説明した。  これを受けさまざまな憶測が飛び交うなか、1月に芦原さんは自身のブログ上で経緯を説明。ドラマ化を承諾する条件として、制作サイドと以下の取り決めを交わしていたと明かした。 <ドラマ化するなら『必ず漫画に忠実に』。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく> <漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様『原作者があらすじからセリフまで』用意する。原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたい>  芦原さんは、これらの条件は<脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して大変失礼な条件>であると認識していたため、<この条件で本当に良いか>ということを原作漫画の発行元である小学館を通じて日本テレビに何度も確認した上でドラマ化に至ったという。  だが、実際に��作が進行すると毎回、原作を大きく改編したプロットや脚本が制作サイドから提出され、 <漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう> <個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される> といったことが繰り返された。そして1~8話の脚本については芦原さんが加筆修正を行い、9~10話の脚本は芦原さん自身が執筆し、制作サイドと専門家がその内容を整えるというかたちになったという。
NHK、原作者による脚本確認を「検閲」と表現…過去に講談社に損賠賠償請求 | ビジネスジャーナル
3 notes · View notes
wic1956 · 4 months
Text
study abroad diaries 〜北京編〜
大家好~!!早稲田大学文化構想学部3年の下田葉月です!
9月からの1年間、中国の清華大学に交換留学しています🐼
アジア圏、特に中学へ留学する人はかなり少数派なのではないでしょうか、、(私が知る中でもWICでは私しかいないような、、)
私自身準備を進める段階からなかなか中国留学の情報は出回っていないなという風に感じているので、特に中国に興味のある人、留学を考えている人の参考になればと思います🌼
Tumblr media
↑故宮博物館(明と清の時代の宮殿、紫禁城)
① 北京と清華大学について
Tumblr media
清華大学は中国の首都北京の海淀区というところにあり、北京首都国際空港から車でおよそ50分の場所に位置しています。北京大学と並んで中国で最も有名な大学であり、中国各地から優秀な学生たちが集まる場所です。北京にはこれ以外にもたくさんの大学がありますが、清華大学のキャンパスは北京内で最も大きい面積を誇り、なんと早稲田大学の約15~20倍ほどです、、
このような環境の中で生活するうえで欠かせないのが、自転車です!!私は小学生の頃に自転車で転んで以来トラウマで一切乗っていなかったのですが、大学内での移動で徒歩ではなかなか限界があったために、大学で自分の自転車を買いました✨(9000円くらいでした)
今では自転車技術も向上し、大学の中でも外でもどこへでも自転車に乗っていきます!!
でも北京には交通ルールや秩序がほぼないので、たとえ信号が青でもしっかり確認して車の合間を縫って走らないと本当の本当にひかれます、毎日がスリル満点です。
中国ではレンタルの自転車も充実していますが、殆どの人が自分の自転車か小型のバイクを持っています。日本と比べ物にならないほど自転車とバイクが多いですが、道が平坦で広いため比較的走りやすいです。(でも日本よりはるかに危険です)
Tumblr media
↑ピーク時の大学内、誰も譲らないのでよくぶつかります
② 学習面
私は交換留学の言語プログラムなので、とっている授業はすべて中国語の授業で固定です。授業は毎朝8時からはじまり(毎日6時半起きです、、)午前中には終わります。私のクラスには日本、韓国、タイ、ベトナム、フィリピン、ドイツ、オーストリア、オランダ、カナダ、アメリカ、ロシア、キルギスからの学生が集まっていて、その年齢も様々です。私はクラスで最年少ということもあり、中国に留学に来る人は院生をはじめとした年上の人が多いなあという印象を受けます。
中国に留学してみて驚いたのが、中国にルーツを持つ日本の留学生の多さです。私の周りでも体感9割ほどが両親のどちらかが中国人だったり、もともと国籍が中国であったり、または昔中国に住んでいた、など何らかの形で中国につながりを持っています。ここが他の国への留学とはちょっと違うところなのではないかなあ、と個人的に感じています。
ルーツを持たない留学生のうちでもほとんどが日本の大学で中国語を専攻している学生なので、そのどちらでもない私はかなりレアなケースだと思います、、。上のような事情から中国語がもともとできる子が多いのでコンプレックスを感じることもありますが、今はそんな自分に誇りを持てるようになり、元々中国語が好きなので楽しんで勉強できています✨
毎日顔を合わせることもあり韓国のクラスメイト2人と日本のクラスメイトの4人ですごく仲がいいのですが、全休の日や週末にみんなで北京の色々な場所へ遊びに行っています!!実は北京にはユニバーサルスタジオもあるんですよ❤️
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
(上から天坛公园、万里の長城、ユニバーサルスタジオ北京)
③ 生活面
渡航前からなんとなくこんなところかな、、というイメージはありましたが、予想以上に北京は何もないところです、、。広大な中国の首都ですが、政治の中心という要素が大きいのか、不思議なことに都市の雰囲気がなく、日本に北京と似た都市はないとも言われます。
私は留学する大学を決める時に首都だから北京かな、と思って実際多くの大学が集まる北京を選びましたが、特に上海に住んでいた人や言ったことのある人はみんな上海がいいと言います(東京に似ているみたいです!)😭
そんな北京は、最近は気温が日に日に下がり、今12月の今日は最高気温がマイナス5度、最低気温がマイナス13度です、、。4日後にはマイナス20度になるそうです😥
とにかく体験したことのないような寒さで、露出しているところがあると痛いのでおしゃれもできません泣 
ここで、皆さん気になっているであろう、中国の食事についても紹介したいと思います🌸「美食の砂漠」と揶揄されることもある北京ですが、首都であるという特徴ゆえ様々な地方の中国料理を食べることができます!!私はほとんどの食事を大学の食堂ですませていますが、一食100~200円ほどで食べられて、種類も豊富でとても美味しいので飽きることがありません。私は特に辛いものが大好きなので、中国の暮らしや食に適応できています!
外で食べる火鍋や羊肉串などの中国料理は絶品なので、一度食べたら病みつきになること間違いなしです!ほかにも北京にはたくさんの韓国料理屋さんや日本料理屋さん(居酒屋)があり、様々な料理にありつけます!洋食もあることはあるのですが、中国料理で完結している感が強く、日本よりは期待できないと思います、、。              
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
美味しくて種類豊富な飲み物が安く飲めます💕
④ 最後に
最初は中国の食や環境に適応するのが大変で中国に来て何度もおなかを壊し(急性腸炎にもなりました)、肺炎にもなりました。公共のお手洗いなどは、清潔な日本に比べるとやっぱり少し難易度が高いので、中国に住むことは色々な面から忍耐力を要します、、。
さらに中国はビザをはじめとしたすべての手続きがすごく複雑で厳しいので、それを1つ1つこなすのにも体力と精神力が必要です。また、ライン、インスタグラム、ツイッター、Google、ユーチューブなどの普段頻繁に使うSNSが中国では政府の規制により使えないので、VPNを使用する必要があるなど中国留学には独自の厳しさがあるようにも思います😭
しかし、皆さんにお伝えしたいのは、中国はすごく素敵な国であるということです。観光地に行けば何千年もの長い歴史をその美しい景色から感じることができ、食べ物の種類も豊富で飽きることがなく、さらに中国の方は情熱的で優しい方がすごく多いです。
もともと中国語と中国に興味があり留学を決めましたが、やっぱり素敵な国だなあ、と毎日のように思いながら生活しています✨
中国はビザの手続きの煩雑さやなんとなくのイメージからなかなか行きにくい国ではあるかもしれません。しかしながら、旅行に行くにも留学するにも素晴らしい国なので、みなさんぜひ目を向けてみてください!!
少しでも中国留学の実態と中国の魅力をお伝え出来たなら嬉しく思います!最後までお読みいただきありがとうございました💐再见~!!
Tumblr media
3 notes · View notes
ichinichi-okure · 4 months
Text
Tumblr media
2024.1.6sat_tokyo
鳥の声で目が覚めた。ちゅんちゅんちゅん。こんな朝の起き方理想的すぎないかと思うのだが、朝、雀がめっちゃ庭に来る。ちゅんちゅんちゅん。
Tumblr media
と言っても今は10時、正月の名残ということで昨日はわざと目覚ましをかけずに寝た。わざとじゃなく1月3日は目覚ましをかけ忘れて、新年最初のイベントには遅刻した。
昨日も朝から稼働した担当イベントの後に23時までコワーキングのラウンジでご飯も食べずに仕事した。えらい。帰ってから夜中に能登のニュースをずっと見てしまったので眠い。昨日は好きな人たちとたくさん話したし、地味に疲れて本当に体が動���ないので、2度寝する。 11時にむくっと起きる。昨日水につけておいた小豆を炊く。大きい小豆のお汁粉大好き。いつも一応ちゃんと飾るお飾りも鏡餅も、なんだか気持ちが乗らなくてできなかったので、鏡餅用に買った餅を飾らないまま焼く。切り込みも入れたのに、ちくびみたいなお餅が焼けてしまった。おもろいな〜。
Tumblr media
来週は甲府にも行くし(楽しみにしてた天然ラジウム増富温泉・不楼閣にいく!)、夜もずっと予定があるので、今日明日はいろんな仕事を終わらせておきたいので頑張る。
15時、また動けなくなって地面に横になる。布団は危険だからだめ。こんな日は結構珍しいのだが、頭が考えることでパンクしてるのも影響してる気がする。無理すぎる。目を瞑る。考えることがたくさんある。GAZAのこと、戦争のこと、能登半島のこと、自分のこと、家族のこと、仕事のこと、近い未来のこと。
こういう時は音楽も、映画も、色々を見るのがキャパオーバーで難しくなる。なので家で作業する時はずっと無音。だけど、写真だけはみたい気がしていて、写美で始まったホンマタカシさんと、 松蔭美術館の牛腸茂雄さんや瀧口修造さんの展示は見逃さずに行きたいとぼんやり思う。
身体は地面に垂直のまま、石川県輪島市の知人である漆工の桐本滉平くんのインスタのストーリーをチェックする。今回の地震で、代々守られてきた、明治時代に工房として建てられた自宅が全壊全焼したと投稿していた。リアルな景色に目を覆いたくなるけれど、ニュースでは得られない、桐本くんのまさに今を切り取っている投稿を見ながら、今できることを考える。といっても寄付くらいしかできないのかもしれない。でも、こうやって遠くでも想うことができること、情報が共有できる時代というのは、本当に希望も多くある。 桐本くんは元旦から今もずっと、輪島の未来や、会ったことのない誰かを救うために、全力で動いていて、避難所のこと、道のこと、今この瞬間のみんなが必要な情報をSNSで発信し続けている。きっと本当に多くの人がこの投稿に助けられている。
私の1/1の16時6分は、埼玉のおばあちゃんちで10数人の親戚一同で集まっている時だった。お寿司を食べて、ビンゴ大会の手前でこの地震が起きた。まずはじめに私の携帯が聞きたくない大きな音で鳴った。その30秒後くらいにみんなの携帯が鳴って、すぐ地震が起きた。自分の携帯にはYahooの災害アプリが入っていて、画面には36秒後に地震が起きますと書いてあった。たった30秒だけれど、みんなの携帯とは30秒の差があったのだった。親の携帯にもアプリを入れなければ。そのままテレビをつけて、地震の情報を流しながらみんなで過ごした。私はXを見ながら地震や津波の情報を集めまくる。石川県には大事な友達たちもいる。途中お母さんが、血圧が高めで眩暈がすると横になりに寝室に行ったが、私は変わらず画面に張り付けになっていて、横にいたいとこの旦那のわたるくんが「ニュースも気になるけど僕は寝室の方が心配だよ」と言ってくれて、まさに…と思って、寝室に様子を見に行った。気持ちを落ち着かせながらその場にはいたけれど、帰る前に寝てた身体を起こして、お母さんから渡された”幸せが訪れますように”と書かれた封筒には3万円とビール券が入っていて、北の国からの泥だらけの1万円札くらい使えねえよ…………………………。とか考えながら、帰宅する電車の中でいろんな気持ちになり小さくバレないように泣いてしまった。
地震のSNSのこと。尊敬する、信頼する人たちからの情報はなるべく信じたい。そうなのだけど、発信をすることについて、映画監督の枝さんが信憑性の話をしていて、シェアができない、というようなことをSNSに綴っていた。良心を騙すような、いろんな詐欺も起きていて、ちゃんと調べてから行動したいと思いつつ、今は瞬発力なのではと思ったり、寒い季節がやってくるよなあと、頭がごちゃごちゃする。寄付について考えているとき、わざわざの平田はる香さんが「被災地に感情移入しすぎて普段の生活を失わないように。寄付はできる範囲で継続的に。1万円を一回より千円を10回百円10回でも。長期間にわたって支援しよう」と書いていて、まさにそう、1回で満足しないで、何度でも、と頷いたり。でも、自分の暮らしもちゃんとしなくちゃとか、ぐるぐるする。
ガバッと起きて、下北沢ボーナストラックに向かう。自転車で10分ちょっと。ギャラリースペースではカレンダーマーケットが開催中で、友達や自分がお誘いした出店者さんがいるので、挨拶をしに。到着してすぐにミヤジが良いカレンダーを案内してくれておもろい。ビール飲んで、ゲラゲラしながら、出店中のヤマグチナナコちゃんと、SAITOEさんに阿部龍一ブースの良さを発表して満足する。阿部の作品や思考は本当に素晴らしい。
Tumblr media
同施設内にあるキッチンスペースでは、今日は養生家の鈴ことさなえさんと、mizudoriのまみさんが出店していて、場所を管理しているりさPが、紹介したいと言って連れて行ってくれた。以前山梨の0-siteで開催されたイベントで、ちまきとホットワインを購入したことがあって、さらに昨年末にeatrip soilで開催のイベントでも見かけて気づいてくれていたらしく、その話もしつつ嬉しい再開。美味しい白味噌の雑煮と、出汁割り、おこぼれで微発泡の日本酒、出汁もご馳走になる。残り福。身体にあったお出汁や日本酒のことをお話しして、一息つく。ほっとする。今年一緒に何かやりたいな〜とお話する。嬉しい。
Tumblr media
続けてラウンジで残って仕事をしようと思ったけど、真っ直ぐ帰宅する。帰り道、怒鳴りながら自転車を漕いでる人がいて、「こわ〜」と思いながら、私が動線を塞いだようになった瞬間に(絶対に悪くない)罵倒されてしまったが、心を無にして道を変えたら、矛先がなくなったからか、さらに大きな声で背中越しにまた罵倒された。さらに無になって大きく深呼吸して、「あの人にもあの人なりの理由があるのだ」とほんの少しだけ思考して、記憶装置から抹消した。毎日いろんな人がいろんなことを抱えて生きてる。
さっきお雑煮食べたので、夕飯は野菜だけのサラダにする。菜の花が美味しいよ〜。そのまま残った仕事をしながら、明日も担当のイベントがあるので早く寝なくちゃとお風呂に入ろうと思ったところ、建築集団 々の野崎将太さんが、インスタライブをしていたので開く。実際に野崎さんは地震が起きてすぐに被災地に向かっていて、現地で簡易トイレを作ったり、生のその日の様子をレポートしつつ、今何をするべきなのかを投稿に残していた。野崎さんとは1回しか会ったことがないけど、仲の良い友人たちが信頼している人で、場作りも含めて作る建築は本当にかっこいいなあと思う。人としても。今回はあやおさんという実際に被災をした方と話す機会を設けていて、報道やSNSで流れていることと、実際に体感したことの違いや、これから起こりえること、今実際に起きていることなどを話していた。現状、今は被災した家に侵入する盗難が多発しているらしく、家を守るために車中泊して見張っている人も多くいるという。被災地が渋滞になるから、ボランティアに来ないでくださいという投稿もよく見るけれど、実際緊急物資などは、一般の人が通れない大きな道を使っているので、現状実際には関係ないこと、スカスカの道もあること、言ってるようにすごく渋滞している道もあること、だけどそれは明日にはわからないこと、被災地には本当に若者がいないことなどを丁寧に話してくれた。これから雪深くなり、外に出れていた人が避難所の中だけで過ごすようになることでのストレスのことなど、本当に今起きていることを話してくれていた。
あと、桐本くんが、地震直後、楽天モバイルだけが使えたことや楽天のキャリアが一番先に避難所に到着して救われたことを書いていて、忘れないようにしようとか。災害メモ作らなきゃとか。色々また巡ってしまい整理する。野崎さんは、阪神淡路大震災の時の経験が、今回の行動にもつながっているというようなことを話していた。身近な友達のアグネスも阪神淡路を経験していて、出かけるときはコンセントを全て抜くと話していた。私は3.11の時も京都に住んでいたので、大きな地震は経験したことがない。
お風呂に入った後に、GAZAのことを発信してくれている波田野州平くんのストーリーもチェックする。自分じゃ拾えない情報を集めてくれて、ずっと発信してくれている。戦争も本当にやだよ。自分にできることも考えるけど、もうちょっと勉強をすることもしなくては。自分は無知すぎる。 (そういえば1/13-19まで下高井戸シネマで2019年作の「ガザ 素顔の日常」という映画が上映される!見なければ)
お正月に起きたいろんなこと、秋から続く悲しい出来事、全部ぜんぶ終わりますように。願うし、動きたいし、できること考えたい。でも、まずは自分が悲しくなって倒れないように、心のケアもしつつ。メディアからも距離をとることをちゃんとして、一人で考えないで、隣の誰かと話すこと。会話して安心すること、みんなが考えてることを知ること。何もできなくてもちゃんと想ってるだけでもいいと思う。あとテンション上がりすぎないように、ちょっと落ち着くこと。余裕が無くならないように、自分のことも考えること。深刻になりすぎないように日常を過ごすこと。この日記も、そういう安心の場になるといいなといつも思う。日常をみんなに綴ってもらえるというかけがえのないこと、を、続けたいです。
元旦から文章にしたくて、自分の番じゃないけど日記を書いてしまいました。こんなことを考えながら、1m以上ある立派な泥ごぼうを夜中に炊き、ホクホクのごぼうができたよ。うまいです。幸せ。明日は楽しみにしてる新年会もあるのです。みんなに会えるの嬉しい。おやすみなさい。
Tumblr media
-プロフィール- 鷹取愛 東京 山ト波
3 notes · View notes
tokyomariegold · 4 months
Text
2023/9/26〜
Tumblr media
9月26日 除湿器をかけないで寝てみた。朝、溜まった水を捨てたりタンクを洗ったりする手間がなくなって少し嬉しい。 目を通さなくては!と思って玄関に置いてあった書類を持って出かける。電車で読もうと思っていたら、最寄駅で通勤にメインで使っている路線が人身事故で運転見合わせ中の情報を確認する。 乗り換えがとっても少ない陸の孤島路線なので、別ルート切り替えて、馬鹿正直に乗換案内通りに職場へ向かった。 今まで朝の時間の事故に巡り会ったことがなかったので、初めて朝の時間に乗る電車は少し新鮮だった。 でも窓の外の風景は、先日成田空港から帰ってきた時に感じた何もなさ、で、すぐ飽きてしまい、少し混んでいる車内だったけれどワクチン接種の予約やiDeCo(ってなんですか!)の資料を読んだりして、玄関に置いてあった書類の確認をこなす。 そのうち一つが、ガスの点検のお知らせで、対応可能日時を返信用封筒で答えないといけなかったらしい!(もう返送期日が過ぎていた。) なんだかんだ5分遅れで職場に着いてしまった。 お昼休みに今週末や来月の予定を立てたり、予約をしては変更したりして、予定をするだけでこんなに忙しなくなってしまって大丈夫?と不安になる。 実家から写真集の残部を配送したとのメッセージが来ていたようだったので、販売サイトを少し更新した。 あまり違いが分かってなかったけれど、私がしたかったのはNISAの方みたいで、インターネットで口座を開設する手続きをしているのだけれど、本人確認の審査が通ってから進めなくなってしまったので、コールセンターに問い合わせるけれど全然繋がらない。 自分の電話番号を間違えて登録してしまったみたいで、電話の繋がらなさに、もう、ここから他のインターネット口座開設にシフトチェンジしたい気持ち。 長生きする気がないのに、長い目で見たお金をどうこうしようとしてバチが当たったのかも。 いつも行くスーパーでは、ピーターラビットのグッズプレゼントが始まるのか、店員さんがピーターラビットのぬいぐるみを並べていて可愛かった。 帰り道に餅太郎が3つ落ちていた。 帰宅時間の30分の違いで、外の暗さが全く変わってくる季節。
Tumblr media
9月27日 通信制限のかかる操作感で、写真集のネット販売の設定とインターネット口座の登録をした。 実家から写真集を配送してもらったので、あまりよくわからないけれど、せっかく出し写真集の残部を販売してみることに。 限定販売してたのに売れ残って再販するって、なんかかっこわるい?のかもしれないけれど。 すでに登録を進めていた口座の方は、やはり今日もカスタマーサービスセンターに電話が繋がらず、他で新しく開設手続きをしてみる。 なんかお金のことばかりで少し悲しくなる。 でもお金って大切。 高校時代の政治経済の先生が、一流?銀行マンから教師に転職したと言っていたことと「人のお金を扱い過ぎてへとへとになってしまった」みたいなことを言っていたことを思い出した。 確かに教師が1番、業務上きれいごとを言って正解な立場かもしれませんね。 帰りのバスが、何かのイベント帰りのスーツを着た若者(男性ばかり)で行列になっているのをみかけて、反対周りに歩いてみる。 何もなかった。 明後日休暇を取りたい相談と明日の現場を控えたい相談を、今日もできなかった。 西武・そごうのストライキに密着したガイアの夜明けで、他社百貨店の労働組合の人たちも、こうゆうときは協力したい!と一緒にストライキに参加していた感じが、なんかとても良かった。
Tumblr media
9月28日 明日の1日有給、少し怯んでしまったのと余計なことを考えないで早起きしてお仕事をした方が気持ちが楽かも!と思い、半休を取らせてもらうことにした。 大阪に住んでいる友人から、来月会うスポットの提案をいただいて嬉しい。芦屋という高級住宅街のイメージの街のお店のリンクをいくつか送ってもらい、全然知らない街の新しい情報にわくわくしている(まだ見れてない)。 明日はお休みのつもりで、今日の帰りは写真を撮ろうと、月と一緒に撮りたいな、と三脚とカメラを持って出掛けてしまって、残りの枚数とか今日の思いの外夏が戻ってしまった気候とかを考えると、少し失敗だったかも。 久しぶりにメッセンジャーを開いたら、学生時代の研究室の先生から写真展のDMのお礼と行けなくてすみません、とのメッセージをいただいていた。 とても遅くなってしまったお返事をした。 日曜の都民の日、無料公開の施設がたくさんあるけれどどこも混んでそうで、でも植物園や庭園にふらっと遊びに行きたくなっている。 やっぱり1日休暇を取ればよかったな、と思いながら、無事明日の予定をこなせます様に。
Tumblr media
3 notes · View notes
foucault · 5 months
Text
Tumblr media
今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「��場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
6 notes · View notes
ignitiongallery · 5 months
Text
きくちゆみこ 個展『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』
Tumblr media
12月13日より、twililightにて、翻訳・文筆家のきくちゆみこによる個展『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』を開催します。
17日には安達茉莉子さん、21日には淡の間さん、22日は中村佑子さんをお迎えしてのイベントも企画しました。
ぜひ足をお運びください。
----
会期:2023年12月13日(水)〜2023年12月25日(月) 会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分) 営業時間:12:00〜21:00  休み:12月19日、20日
---
わたしがやることなすこと、すべてがわたしとあなたとわたしたちの喜びのためじゃなかったらいったいなんなんだろう?
なんのために書き、なんのために生きるのかといったら、やっぱりあなたと仲良くなりたいからだ。わたしはあなたにやさしくしたい、あなたにもやさしくしてほしい。そんな気持ちでものを書き、そのあいまに生きてきた。書くことが、自分について書きつづけることが、ひとにやさしく、自分にやさしくいることの最後のよすがみたいに思って――。
(『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』「あとがき」より)
twililight web magazineで連載していたエッセイ「だめをだいじょぶにしていく日々だよ」が本になりました。刊行を記念して、エッセイの世界を目で見てさわって感じられるささやかな個展を開催します。お会いできたらうれしいです。
きくちゆみこ
--
《プロフィール》
きくちゆみこ
Tumblr media
文章と翻訳。2010年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたジンを定期的に発行、言葉を使った作品制作や展示も行う。主なジンのタイトルに『愛を、まぬがれることはどうやらできないみたいだ』、『内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)』、訳書に『人種差別をしない・させないための20のレッスン』(DU BOOKS)などがある。現在はルドルフ・シュタイナーの人智学をベースに、心とからだと言葉を結びつけるための修行をあれこれ実践中。
--
《会期中イベント》
1.きくちゆみこ+安達茉莉子『書くこと、裸足でかけること』
日時:12月17日(日)開場:10時 開演:10時30分 終演:12時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
参加料金:2000円+1ドリンクオーダー
定員:14名さま
書くことは、自分をほどくことだと、きくちゆみこさんと安達茉莉子さんの文章を読んで感じることがあります。それはある種、自分の剥き身を曝け出すようで勇気が必要なことだとも思いますが、だからこそ多くのひとりひとりの深い部分にまで届き、共感を生む。
お二人はどのように文章を書いているのでしょうか。そしてどのようにジンや作品集を作っているのでしょうか。
日曜日の朝、書くことについてのワークショップのような時間を設けます。ぜひご参加ください。
“書くというのは、生きるというのは、あらかじめ与えられたひとつひとつの言葉を、より小さいものへと、自分ぴったりのかたちへと、つくり変えていく地道な作業なのかもしれない。”
(『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』「あとがき」より)
---
*定員に達したため、キャンセル待ちの受付になります!
件名を「きくちゆみこ+安達茉莉子『書くこと、裸足でかけること』」
として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
--
安達茉莉子(あだち・まりこ) 
Tumblr media
作家・文筆家。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関、限界集落、留学などを経て、言葉と絵による作品発表・執筆をおこなう。著書に『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(twililight)ほか。
---
*淡の間さんが体調不良のため中止になりました!
2.きくちゆみこ+淡の間『星のめぐりとわたしたち』
日時:12月21日(木)開場:19時 開演:19時30分 終演:21時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
参加料金:2000円+1ドリンクオーダー
定員:16名さま
『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』の第4章「わたしにとってのわたしたち」に登場する占星術師「淡の間」さんにご出演いただき、きくちゆみこさんの星座について公開星読みをしながら、参加者の皆さんと語り合います。あえて「すべて星のせい」にしてみることで語れることがある。
“占星術と出会ったことで、わたしは自分のことをもっと大きな視点で見つめるやりかたを知った。それは自分の運命をただ受け入れるというよりも、「わたしに与えられたわたし」とこの先どう付き合っていけばよいのかという、大まかな見通しみたいなものをもらったような感覚だ。そしてこれはきっと、自分自身にやさしくするという、わたしにとっての難題とも分かちがたく結びついている。”
(『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』「わたしにとってのわたしたち」より)
--
件名を「きくちゆみこ+淡の間『星のめぐりとわたしたち』」
として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
--
淡の間(あわいのま)
Tumblr media
西洋占星術、タロットカードを使う占い師。人智学、ヨーロッパの自然療法や魔術、自然哲学にまつわることなど、色々なことに興味があって勉強中。活動は2019年〜、オンライン講座の運営や各種媒体での執筆、オンラインと対面での個人鑑定、毎年オリジナルダイアリーの出版を手がけるなど。毎朝Instagramのストーリーで1日の流れ(日報)を更新。
Instagram / X
 @ aynoma.jp
----
3.きくちゆみこ+中村佑子『世界はいいところだと信じたい。』
Tumblr media Tumblr media
日時:12月22日(金)開場:19時 開演:19時30分 終演:21時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28-10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:来店参加:2000円 / 配信参加:1000円
来店+『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』¥2090=4090円
来店+『わたしが誰かわからない』¥2200=4200円
来店+『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』¥2090+『わたしが誰かわからない』¥2200=6290円
配信+『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』¥2090=3090円
配信+『わたしが誰かわからない』¥2200=3200円
配信+『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』¥2090+『わたしが誰かわからない』¥2200=5290円
*すべて見逃し配信(1ヶ月間)付き
予約:https://peatix.com/event/3779010/view
きくちゆみこさんの『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』(twililight)と、中村佑子さんの『わたしが誰かわからない』(医学書院)のW刊行記念イベントを開催します。
きくちさんは、わたしが誰だか知りたくて、書いて書いて内面に潜っていきます。
そして『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』「あとがき」では以下のように書いています。
“わたしがやることなすこと、すべてがわたしとあなたとわたしたちの喜びのためじゃなかったらいったいなんなんだろう?
なんのために書き、なんのために生きるのかといったら、やっぱりあなたと仲良くなりたいからだ。わたしはあなたにやさしくしたい、あなたにもやさしくしてほしい。そんな気持ちでものを書き、そのあいまに生きてきた。書くことが、自分について書きつづけることが、ひとにやさしく、自分にやさしくいることの最後のよすがみたいに思って――。”
これを読んで、中村佑子さんの『わたしが誰かわからない』を思い浮かべました。
中村さんは『わたしが誰かわからない』の「はじめに」で、以下のように書いています。
“わたしはまず、母に付き添って過ごした精神科病院で出会った女性たちのことから書きはじめ、前作と同じように当事者への聞き書きとして進めていった。しかしそこには、ヤングケアラー特有の困難があったのだ……。その詳細は本論を読んでいただきたい。  筆をとったり、筆を置いたりするわたしの右往左往、迷いともども、すべてをここに書いている。わたし自身の感情や思考のドキュメントとしての部分も大きいが、その道行きの困難さも含めて、書くということが孕(はら)む問題に向き合うことだったのだろうと、いまはそう思っている。  書きはじめてから二年あまりかかったが、最後に別の風景が見えてきた。そのことに、ありがたいような、感謝したい気持ちがわきおこる。  書くということは、洞窟を手で少しずつ掘っていくようなことだという醍醐味を味わった。ときに爪にやわらかい土が入って不快に感じたり、息が切れて壁によりかかって暗い天井を眺めたりしながら、ようやく最後に、指の先に少しだけ光が見えた。”
どこか共通点を感じるお二人に、わたしについて、世界について、お互いの本について、思う存分語り合っていただきます。
--
中村佑子(なかむら・ゆうこ)
Tumblr media
1977年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。テレビマンユニオンに参加。ドキュメンタリーを多く手がける。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』、テレビ演出作にNHK-BSプレミアム「幻の東京計画首都にありえた3つの夢」など。シアターコモンズにて、AR映画『サスペンデッド』脚本・演出などがある。
2020年、初の単著となる『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)を出版。立教大学現代心理学部映像身体学科兼任講師。
2 notes · View notes
myonbl · 5 months
Text
2023年11月19日(日)
Tumblr media
このところの冷え込みで、ずいぶん紅葉が進んでいるようだ。永観堂・東福寺・嵐山...、京都の紅葉スポットは大変な人出だろう。とは言え、我が家の狭いアナーキー空間でも紅葉の進み具合は楽しめる。風情や借景とは無縁でも、健気に季節の変化を教えてくれるのは有り難い。コロナもインフルエンザもまだまだ脅威、人混みを避けての小さな紅葉見物、自宅での週末の過ごしたかも悪くはないものだ。
Tumblr media
5時30分起床。
日誌書く。
洗濯機回す。
Tumblr media
いつもの蕎麦定食、美味しくいただいた。
ちょっと気を許すとたまってしまう段ボール、折りたたんで紐で結び、玄関先の物置の屋根に重ねる。なかなか廃品回収のタイミングが合わないので、たまるばかりなのは困ったことだ。
奥川ファームから届いた野菜や地鶏をチェック、今夜は関東煮に決定。まずは、大根と鶏手羽を煮る。
酢タマネギ仕込む。
ツレアイは、<風工房>の東北の手業展に向かう。
私は五条マツモトで一升瓶を回収箱に入れ、セントラルスクエア花屋町店で買物。
息子たちのランチは日清ラ王みそ味、帰宅したツレアイと一緒に残り物カレー仕立てをいただく。
録画番組視聴。
Tumblr media
私は午睡、ツレアイは買物に走る。
関東煮の仕込み、スジ・コンニャク・チクワ・厚揚げ・長芋・ゆで卵を順次投入、ブロッコリーを入れて仕上げる。
Tumblr media
早めの夕飯開始。
録画番組視聴。
笑福亭松枝 落語「高津の富」
初回放送日: 2023年11月19日 笑福亭松枝さんの落語「高津の富」をお送りします(令和5年9月7日(木)NHK大阪ホール収録)【あらすじ】田舎の金持ちだという男が宿屋に泊まりに来て、「いつも千両箱を漬物のおもしにしている。明日は2万両の取引がある」などと話している。これを真に受けた主人が、売れ残った「富札」を買ってほしいと男に頼む。大きなことを言った手前、男は買わざるを得なくなる。それでも調子よく「当たったら半分やる」と言うが…。
展開が気になるので枝雀のDVDを観る、なるほど、もう少し詳しく調べねばならない。
片付け、入浴、体重は200g減。
���日の夕飯用に、無水地鶏のハヤシライス(予定)を仕込む。
日誌書く。
Tumblr media
今夜から、数年前に無印良品で購入した<白熊パジャマ>を着用する。
布団に入って、片桐はいり『もぎりよ今夜も有難う』を楽しむ。
Tumblr media
ウォーキングすれば、楽々3つのリング完成、在宅時には頑張ろう。
4 notes · View notes
yamada50 · 1 year
Photo
Tumblr media
一夜のうちに山が花で覆われたという伝説を持つ花岡八幡宮 和銅2年(709)に宇佐八幡宮より勧請し創建したと伝わる古社です その勧請の際、一夜のうちに山が花で覆われたという伝説から「花岡」と称したと伝わります 見ものは江戸末期文化13年に建立された楼拝殿です 楼拝殿は特に大内文化の影響を受けその後毛利家による統治の中でも継承された周防独特の建築様式です 拝殿の扁額は近衛忠熈卿の筆による「永受嘉福」、普段は一般公開されていませんが長さ4.65m、重さ75kgで日本一の大きい日本刀とされる「破邪の御太刀」など見どころが多い周防国有数の大社でした #花岡八幡宮 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 花岡八幡宮(はなおかはちまんぐう) 鎮座地:山口県下松市末武上400 主祭神:誉田別命、市杵嶋姫命、田心姫命、多岐都姫命、息長足姫命 社格:県社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#temple#寺#仏教#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#下松市#破邪の御太刀#刀剣 (花岡八幡宮) https://www.instagram.com/p/Cnrkpi3P7Zb/?igshid=NGJjMDIxMWI=
59 notes · View notes
ari0921 · 11 months
Text
我が国の未来を見通す(67)
『強靭な国家』を造る(4)
「世界で最初に飢えるのは日本」なのか(その2)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
米国の雑誌「タイム」が岸田首相のインタビューの
特集記事として、「日本を軍国大国に変える」して
いた見出しを「平和主義だった日本を国際舞台でよ
り積極的な役割をもたせようとしている」と変更し
たが、記事そのものは「軍事大国」としたまま変え
ていないとした記事がニュースになっていました。
当然、アメリカも言論の自由が保障されている国な
ので、だれが何を言ってもよいのですが、「タイム」
誌の記者たる者が、この日本を「軍事大国」と呼称
するぐらいの見識しか持ち合わせていないことに愕
然とします。
GDP比2%の防衛費年額約10兆円はようやくN
ATOに肩を並べる水準ですし、アメリカは約85
80億ドル(約114兆円)〔2023年度〕、中
国の約1兆4505億元(約26兆3000億円)
〔2022年度〕には遠く及びません。その上、未
だ憲法にも明記されておらず、反撃能力を保有する
としても「専守防衛」という不可思議な防衛政策を
堅持している我が国です。
この記者は、日本に対する「ビンの蓋」的な発想と
か、「平和主義」の原点である「日本憲法はアメリ
カがつくった」などの思想を保有しているのでしょ
うか。このような時にだけ、「さすがアメリカ」と、
“それが何を意味するかもロクに考えないまま”国
内の同調者がことさらに騒ぎ立てることも問題なの
です。
本当に困ったものですが、個人的には、様々な話題
を世界に発信したい「タイム」誌なれば、もう少し
“賢い記者”を抱えてほしいと願うばかりです。
▼「食料自給なくして独立なし」
前回の続きです。鈴木宣弘氏も引用している言葉で
すが、食料に関してまさに“身につまされる言葉”
を送りましょう。まず「食料を自給できない人たち
は奴隷である」とのキューバの著作家ホセ・マルテ
ィの言葉です。我が国でも、明治時代、高村光太郎
が残した言葉として「食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」
との有名な言葉もあります。
鈴木氏は、「日本に独立を名乗る資格があるのか」
として、現政権などの政策に「食料自給率」の言及
がないことを取り上げ、「日本には『食料安全保障』
が存在しない」とも指摘します。
ゴールデンウイークを利用して、『安倍晋三回想録』
を読破し、改めて諸所に感銘を受けましたが、農業
政策に関する記述はほとんどありませんでした。安
倍元総理は、財務省とはかなり喧々諤々の議論を重
ねたようですが、「経産省政権」と揶揄する向きも
あるように、経産省主導の政策が多かったことは事
実でした。鈴木氏は、「かつては農家が自民党の票
田だったが、農家が減ったことで票田の価値が下が
ってしまったことなどが積み重なって、農政全体に
『ゆがみ』が生じてしまった」と指摘します。調べ
てみると我が国の戦後の農業政策についても意外な
事実があることがわかりました。その概要を紹介し
ておきましょう。
▼我が国の自給率低下と農業離れの要因
 
私たちは一般に「日本は島国で国土が狭いために農
地面積も限られている。よって、食料の自給率は低
くて当然である」という考えを持っていますが、長
い歴史を振り返ると、我が国は、(現在より人口が
少なかったとは事実ですが)、伝統的に食料自給率
100%を維持してきました。
だからこそ、江戸時代は鎖国政策を採用できました
し、外国から資源の輸出入ができないような情勢下
にあっても、様々な工夫で再生可能な植物資源を活
用する独自の「循環型社会」を築き上げてきたとい
う歴史があります。
戦後の歴史を紐解くと、意外にも我が国の食料自給
率が下がった原因は、「貿易の自由化」と「食生活
改善政策」にあったことがわかります。もっと具体
的にいえば、自動車などの関税撤廃を勝ち取るため
に農産物の関税引き下げと輸入枠の拡大を認めたの
でした。そこに、アメリカやヨーロッパが自国の農
家に補助金をジャブジャブ出してダンピングを仕掛
けてきたため、日本の農家は壊滅的打撃を受けてし
まったのです。
特にアメリカは、当時、小麦の生産過剰が問題にな
っていましたので、日本人の食生活を無理やり変え
させてまで、我が国をアメリカの農産物、特に“小
麦の一大消費地”に仕立て上げようとしました。
様々な宣伝・情報工作の中で、当時、影響が大きか
ったのが1958年に出版された『頭脳─才能を引
き出す処方箋』(慶応大学名誉教授・林たかし著)
でした。本書には「米食国民は一歩遅れる」として
「米を食うとバカになる」「日本人が欧米人に劣っ
ているのは、主食の米が原因である」などの主張が
掲載されていました。本書はまた、発売3年で50
刷を超える大ベストセラーになり、その影響は計り
知れないものがありました(ちなみに、本書は現在、
アマゾンの中古本として、最低価格が4758円、
中には1万円を超える価格で売られているものもあ
ります)。
当然ながら、この主張は科学的根拠が全くない「暴
論」のようですが、慶大名誉教授の肩書も手助け
し、当時は“正しい学説”としてまかり通りました。
これが「洋食推進運動」に発展して、「日本人の食
生活近代化」のスローガンのもと、和食を「排斥」
する運動まで拡大しました。この結果、本来、洋食
に反対するはずの農家の人々まで洗脳され、欧米型
食生活を崇拝するようになりますが、「これほど短
期間で伝統的な食文化を捨てた民族は世界史上もほ
とんど例がない」と鈴木氏は指摘します。
この背景には、「日本農業を米国農業と競争不能に
して余剰農産物を買わせる」というアメリカの「し
たたかな食料戦略」があったことは疑いなく、19
73年、当時のバッツ農務長官が「日本を脅迫する
のなら、食料���出を止めればよい」と豪語したとの
記録も残っています。
終戦後の占領時代の初期、「日本が二度と武器を持
って米国に立ち向かうことができない国にする」と
のトルーマン大統領の「降伏後における米国の初期
の対日方針」が発出され、マッカーサーの占領政策
の方針になります。1970年代と言えば、日本が
オイルショックから一早く立ち直り、ホンダやトヨ
タがアメリカ進出を果たした頃でしたが、その報復
というべきか、1970代あたりでも、トルーマン
大統領の「対日方針」がくすぶったままとはいえ、
まだ生きていたのでした。冒頭の「タイム」記事を
読むと今でも一部に残っていると感じざるを得ませ
ん。
▼その結果が「減反政策」や「酪農」を危機に
伝統的に、米を主食としてきた日本人にとって米の
安定供給は大きな課題でした。特に、戦後の“食糧
難”を経験した日本は、「米の生産量引き上げが国
全体の問題である」といっても過言でない時代があ
りました。
そして、この問題を解決するため、戦後まもなく過
ぎた頃、肥料や農業用機械の導入が進むなど技術革
新が起こり、米の生産量を大きく引き上げることに
成功し、米が名実ともに家庭の主食になりました。
個人的な体験で言えば、小学校の低学年の頃まで、
近所の農家はみな、農作用の馬を飼育していました。
兄が耕運機を購入して我が家から馬がいなくなった
のは小学校4年生の頃、つまり昭和36年だったと
記憶しています。その後の農作業の風景が様変わり
し、我が家も近くの畑や牧草地などを改良して田ん
ぼの面積を大幅に拡大するとともに、兄は、精米に
加工するためのライスプラントを建設し、近所の米
の精米を支援していました。
そのような折、前述の「洋食推進運動」が広がり、
「主食=米」の常識が徐々に崩れ出し、日本人の食
卓の欧米化が進行し、「米離れ」が加速しました。
この結果、米が生産過剰になり、生産量を調整する
ために、政府は「減反政策」を導入しました(昭和
44〔1969〕年に試験的に開始、1971年本
格導入)。これに対して、農家は当初は激しく反発
しますが、政府は、米農家の転作を支援するために
補助金を支払うことで農家を納得させ、事後「減反
政策」は約50年間続けられ、平成28(2018)
年、ようやく終わりを迎えます。
2018年に終了した理由は、高く販売できるブラ
ンド米を耕作する農家が増えて、業務用の米が不足
するようになったのが原因の一つと言われています。
食料増産を目的として米生産は、終戦時の900万
トンから20年後の1967年に1400万トン超
まで拡大しますが、「減反政策」以降の50年間で
半減し、最近は700万トンを切ってしまいました。
つまり、餓死者が出た終戦時より人口が1.7倍に
増えているのに、米生産は当時よりも少なくなって
しまったのです。
1960年以降、中国もアメリカもインドも、米の
生産を3倍以上に増やしていますし、世界全体では3.
5倍に増加している中で、日本のように、米が主食
にもかかわらず、米の生産を減少させている国は極
めて稀でした。
▼“米離れ”が招いたもの
 
2011年の総務省「家計調査」の結果、日本の一
般家庭におけるパンの消費額が米を上回ったと話題
になりました。1世帯(2人以上世帯、農林漁家世
帯除く)あたりの米に対する年間支出額2万742
8円に対し、パンは2万8318円と逆転したので
した。これは昭和21年(1948年)に始まる
「家計調査」史上、初めてのことだったようです。
現に、我が国の小麦の2016~20年(5年間)
の平均流通量は、国産82万トン(14%)のみで、
488万トン(86%)が輸入、その内訳は、アメ
リカ(49.8%)、カナダ(33.4%)、オー
ストラリア(16.8%)で、この3カ国でほとんど
を占めています。
ここでとても興味深い事実に気がつき、私自身は唖
然としました。ほとんどのパンやめん類には「小麦
粉(国内製造)」と書いてあります。実は、外国産
小麦を“国内で製粉した小麦粉”だからこのような
表記になっているのだそうです。
小麦の需給と価格の安定を図るために、政府が外国
産小麦の輸入と売り渡しを行なっており、製粉会社
は国が決めた“売り渡し価格”で小麦を購入して小
麦製品を作っています。小麦や小麦加工品(小麦粉
など)を輸入すると最大で1kgあたり158円の
関税がかかりますが、国が輸入する小麦には関税は
かかりません。
小麦粉は食品スーパーなどで、1kg100円ほど
で特売されていることもありますが、わざわざ高い
関税を払って小麦や小麦粉を輸入する人はいないの
で、外国産小麦から製造された小麦粉は“国内製
造”なのだそうです。
 
さて、米農家が「減反政策」で向かった先は様々で
した。その1つとして、「酪農」について取り上げ
ておきましょう。
我が国が「酪農」に力を入れたのは、我が国がGA
TT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟した
1955年以降でした。つまり、貿易・資本の自由
化が進められて、日本経済の開放体制のなかで、日
本農業の零細性の克服や生産性向上が求められたこ
とが始まりでした。
それを受けて、1961年、政府は「農業基本法」
を制定し、新しい農業と農業政策の方向を示し まし
たが、 経済成長に伴う所得上昇によって牛乳・ 乳
製品の消費量増大が予想されたため,「酪農」は
「農業基本法」の“選択的拡大”部門として位置づ
けられました。
そして、酪農支援策(低利融資、補助金、技術普及
等)の結果、1960年代から70年代、「減反政
策」で米作を諦めた農家が酪農に転向したこともあ
って、酪農農家は飛躍的に増加します。しかし、そ
の形態は、大半が水田の裏作や転作で飼料作物を生
産する 「水田酪農」と呼称される稲作と酪農の複合
経営に留まったという一面もありました。
一方、日本の酪農は、国内の飼料基盤が不十分 なま
ま輸入飼料に依存して急速に発達した ところに大き
な特徴があり、1970年には49.3%であった
飼料自給率は低下の一途をたどり、2007年には
32.8%まで低下します。
時を同じくして、人口増加に伴い、乳製品の消費量
も増加しますが、折からの乳製品 の輸入自由化、関
税率低下、円高もあって乳製品の輸入量も増加しま
す。事実、牛 乳・乳製品の自給率は,1960年で
は89%であ ったものが90年には78%に低下し,
2007年には66%まで低下します。また、飲用
乳の消費量も1994年をピー クに減少に転じます。
その後も、継続的な減少局面に転じ、現在に至って
います。
これらを背景に、酪農農家、特に経営規模が小規模
の「水田酪農」は減少に転じ、1970年代に、3
0.7万戸もあった酪農家は2022には1万33
00戸にまで減少してしまいます。こうして、酪農
と水田農業の結びつきが弱まった とはいうものの、
酪農家の5 割が米を生産しているといわれます。
残った酪農家も最近はコロナ禍やウクライナ戦争の
影響で生産資材価格が上昇し、特に200頭以上の
牛を飼育する大規模経営が赤字に陥っており、この
ままでは赤字がさらに膨らみ、連鎖的に酪農家が倒
産する可能性もあるといわれ、現に北海道ではかな
りのハイペースで倒産が相次いでいるようです。
コロナ禍などの理由以外に、北海道の酪農家は、輸
入している脱脂粉乳を国産に置き換えるための差額
として乳代1キログラムあたり2円以上の負担金が
課せられているようで、酪農家に重くのしかかって
いるのが実態です。
政府が主導した「畜産クラスター事業」(畜産の収
益向上のために、畜産農家を核として地域の関係事
業者が連携・結集していく体制をいい、これによっ
て、補助金として機械や設備導入時に本体価格の2
分の1の国庫補助を受けられる)の結果、全国的に
牛乳余りが生じ、酪農家は経営危機に直面している
一方で、海外からの乳製品輸入は据え置き、酪農家
には「乳製品が過剰だから、生乳をしぼるな、牛を
処分しろ」という矛盾しているではないかと疑問も
沸き上がり、「人災としての危機」と批判されてい
ます。
子牛も値下がりし、生後1カ月の雄子牛がだいたい
1万円ほどでコロナ前の10分の1に下がっている
ようです。餌代にもならない価格に、一斉に酪農家
がいなくなるとの危機感も叫ばれています。
ふたたび、個人的な経験ですが、「減反政策」で米
の生産を諦めた兄は、「水田酪農」に転じますが、
今度は「乳余りのあおり」を受けて、多額の借金を
抱えたまま酪農を諦め、その後、和牛の飼育に転じ
ます。その和牛飼育も12年前の福島原発事故の影
響で再びあきらめざるを得なくなりました。多額な
借金を息子の代(私の甥)になって完全返済したの
はようやく昨年でした。
第2編でも紹介しましたが、「政治家と農林省の官
僚(の愚策)によって、50年前に農業を奪われた」
と今なお、事あるごとに口癖のように語る兄ですが、
実際にこのような被害を受けたのは決して我が家の
みではなさそうです。次回、「日本の農業は過保護
なのか」について、諸外国と比較して“見える化”
してみましょう。意外な事実に気がつくことでしょ
う。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
15 notes · View notes
Text
板津昇龍 Shoryu Itazu
詩人・歌人・俳人として、début !!
東風吹かば  コロナの菌も  グッドバイ
風見鶏    国家と君に   恋すてふ
以上、2作品を、かなり考えて、句にしました。
風見鶏ーーーーーーーーー の句は、非常に風刺的ですね。
因みに、東風は、「こち」と詠みます。
春から夏にかけて吹く東寄りの風。氷を解き、春を告げる風として、古来雅語として取り入れられてきました。雨を伴うことが多く、この風が吹くと寒さが緩むので一般には喜ばれますが、海上生活者には時化(しけ)になる風として警戒されました。東風は単独に使われるほか、次のようなさまざまな複合した名称としても使われています。
 朝東風(あさごち)、雲雀東風(ひばりこち)(瀬戸内地方で3、4月ごろ吹く)、雨東風(あめこち)(九州の小倉(こくら)地方でいう)、いなだ東風(三重県志摩半島の白木(しらき)での呼称)、鰆ごち(さわらごち)(岡山県で春のサワラ漁のころに吹く)、青東風(夏、青空のもとで吹く)、星の入り東風(10月ごろ、おうし座のすばる星の沈む明け方に吹く)。
 東風は春の季語として「梅ごち」「桜ごち」「正(まさ)東風」「春風」などがあります。
東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな
菅原道真
でも、有名ですよね!
恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
これは誰の和歌でしょうか?
壬生忠見 (みぶのただみ) 三十六歌仙のひとり  百人一首の No. 41
読み方・現代仮名遣いは?
この歌の読み方は、「こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか」となります。
意味・現代語訳は?
『恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか』 の現代語訳は以下のようになります。
「恋しているという私の噂が早くも立ってしまったのだった。誰にも知られないように、心ひそかに思いはじめていたのに」
背景
百人一首No.40『しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思うと人の問うまで』で紹介した通り、平兼盛の『しのぶれど』と壬生忠美の『恋すてふ』は歌合で対決したもの同士。
この対決は後に様々な逸話を生み、鎌倉時代の『沙石集』には、負けた忠美が落胆のあまり食欲もなくなり、病になってついには亡くなってしまったという話が残されている程です。
『沙石集』の話は作り話臭が強いですが、当時の人々の歌に対する熱意が強かったことは事実なのではないでしょうか。
品詞分解は(表現技法は)?
①恋すてふ
恋す…サ行変格活用の終止形
てふ…連語、「てふ」というのは「という」のちぢまった形。「「恋をしている」という」という意味になります。
②わが名はまだき
わ…代名詞
が…格助詞
名…名詞
は…係助詞
まだき…副詞、「早くも」の意
③立ちにけり
立ち…タ行四段活用の連用形
に…完了の助動詞の連用形
けり…詠嘆の助動詞の終止形
④人知れずこそ
人…名詞
知れ…ラ行下二段活用の未然形
ず…打消しの助動詞の連用形
こそ…係助詞、係り結びで一番最後の「しか」が已然形になっています
⑤思ひそめしか(倒置法)
思ひそめ…マ行下二段活用の連用形
しか…過去の助動詞「き」の已然形、係り結びを受けて已然形になっています
意味的には「誰にも知られないように恋していたのに、噂がたってしまった」となり、④⑤→①②③の順番となるので、ここでは倒置法が使われていることになります。
参考文献
この記事は『シグマベスト 原色百人一首』(鈴木日出夫・山口慎一・依田泰)を参考にしています。
17 notes · View notes
kennak · 9 months
Quote
 服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)  今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久だ。(独占インタビュー前後編の前編です)  ◇  ◇  ◇  ──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。 「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。  なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました」 ■父の米国巡業の縁で姉弟が服部家に  ──被害にあったのはいつ頃でしょうか。 「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。  諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」  ──服部家とはその縁で? 「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。  それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。  今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」  ──どんな印象でしたか? 「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基地内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。  ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」 ──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか? 「私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。  ヒーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。  それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。  パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。  そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」 ■姉からは「汚らわしい」と言われ…  ──母親には話さなかった?  「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。ぼく、なんだか気持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。  姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。  ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。  アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく) ▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一。劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。 (取材・文=山田勝仁)
(2ページ目)国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」|日刊ゲンダイDIGITAL
6 notes · View notes