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#ロラン・バルト
shinayakani · 4 months
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。遠く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在の虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、うずくまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか、その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と「思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了解可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用に慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的に》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述は言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理���向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。それはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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anamon-book · 3 months
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テクストの快楽 ロラン・バルト、沢崎浩平・訳 みすず書房
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straycatboogie · 1 year
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2022/12/11
BGM: The Smiths "Bigmouth Strikes Again"
昨日は寝る前にずいぶん久しぶりにTwitterをしてしまった。後悔しているわけではないが、反省はしている。Twitterをこれからどう使うか考えたのだけれど、読書メモを公開できないかと思うようになった。自分の読書について、実況中継的に何を考えながら読んでいるか書いていく。他人と議論をすることや、自分の意見をラフな形で世界に提示することに前ほどには情熱が持てなくなった。雑にジャンルを跨いで何かを論じることは一種知的な冒険を冒すようで気持ちがいいが、それに慣れると暴論を開陳して悦に入るようでみっともないとも思うようになった。
この日記をどう書いているかなのだけれど、いつも私はマルマンから出ているメモパッドに英語でメモを書いている(日本語でメモを書いていた時期もあるのだけれど、どうしても長続きしなかった。試しに英語でメモを書くようにしたらストンと腑に落ちたようで続くようになったのだった)。そして、1日の始まりの朝に昨日起きたことをそのメモを読みながら振り返って、そして書き記しているのだった。日本語で書き終えてから、それを英語に訳していく。私の知り合いはフランスやインドネシアに住んでいて、英語しか読めない人もいるので英訳を始めたのだった。
青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読み進める。日記というジャンルはなかなか味わい深い。ストーリーがあるわけではなく、ただ日々の出来事が五月雨式に続いていくだけだ。だが、そのデタラメとも言える日々の記録が読み進めるにつれて味わい深くなっていく。考えてみればジョン・アーヴィングを並行して読んでいるのもそうした、コンセプチュアルというか大掴みというか、頭でっかちに捉えられないデタラメな人生の実相が孕む偉大さ/深遠さを味わいたいからでもある。私の嗜好は今、そういう「世界のデタラメさ」を触れることに向いているようだ。
日記ということで言えば、アンディ・ウォーホルの日記を再読するのも面白いかもしれない。人から教わったスチュアート・マードックの日記はどうやら入手困難なようなのだけれど……自分は日記マニアというわけではないと思うが、それでもたくさんの日記を読んできたのだなと思った。私だってその読書の成果からこんな日記を(もう、初っ端に抱いた動機も忘れてしまったが)始めてしまったわけだ。考えてみれば私の大好きなフェルナンド・ペソア『不安の書』だって日記みたいなものだし、古井由吉やロラン・バルトだって日記のようなエッセイを書き残している……日記とはそうして考えていくと奥が深いもの、素晴らしいものなのかなとも思う。
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m12gatsu · 25 days
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読書っていいことだとされているけど、私は本を読みすぎたことで現実とフィクションの境目が分からなくなって(ノンフィクションであっても本になる時点でドラマチックだし)、人間関係が上手くいかないことが多々あります。そのせいでもう何を読んでも、作者の意のままに物語が進んでいってるだけと感じて読書が楽しくなくなりました。同じ理由で映画も上手に観られません。フィクションや創作物と上手く付き合うコツ、意識していること、あるいは気にしていないことはありますか。
人間関係までも。大変だ。
たぶん、作家か、テクストか、という話かと思います。あなたのいう「作者の意のままに物語が進んでいってるだけ」 というのはきっと作家論ですね。作家原理主義って感じ。対して、簡単にいえば、あくまでも文章をそれ自体として作家とは切り離す考え方がテクスト論です。ロラン・バルトって読みましたか。僕は積みました。
どちらの方が作品に対する上手な付き合い方なのか、という議論は僕の手には負えません。ただ、僕がいつも意識しているのは、作品の「語り」であり、その「ナラティブ」です。どういうことかというと、たとえば、「吾輩は猫である」と語るのは漱石ではなく名もなき猫であるはずだし、「メロスは激怒した」と語っているのは決して太宰治ではない、「語り手」と呼ばれるような誰かではありませんか。私小説はどうですか。これも僕の手に負える議論ではないけれど、梶井基次郎の作品の語り手は梶井基次郎なのでしょうか。北町貫太って、根所蜜三郎って、長江古義人って、一体誰なんでしょうか。ウルフは「意識の流れ」という手法で『灯台へ』を書きました。それは果たして作者の意のままに書かれたものなのかしらん。森見登美彦の『熱帯』は、自分が今どこで誰の文章を読んでいるのか、それこそ見当識障害を起こしそうになります。
例を挙げたらキリがないけれど、映画にも同じような仕組みがあるはずだと思っています。ミヒャエル・ハネケみたいな定点の長回しが三人称の語りだとしたら、『桐島、部活やめるってよ』の最後の屋上の乱闘シーンは神木隆之介の手持ちカメラの視座、つまり一人称の語りとして受け取れる。作家性と切り離せないドキュメンタリー映画もたくさんありますね、森達也とか、原一男とか。
大江健三郎の『M/Tとフシギの森』という小説の中で、「僕」が村の伝承に耳を傾ける時、話し手の年寄りたちはこう前置きします。
あったか無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか? 
何度も繰り返されるこの問いかけに対して、「僕」は必ず「うん!」と感嘆符つきで答えます。物語との上手な付き合い方があるのだとすれば、これ以上の態度を僕は知りません。
街裏ピンクとか嫌いでしょう笑 うそ��きだから。でも嘘だとわかって笑っている人もいるわけです。長くなりました。こういう話なら酒飲みながら俺ずっとできるよ。とりあえずオッペンハイマー観よう。語りを語ろう。
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kazeto · 1 year
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Eugène Atget (French, 1857 - 1927) アジェの撮ったパリの写真。
都市には誰も人間がいない。この時代の写真機は、長時間露光が必要だったために、街には人々が歩いているのだが、写真には映らないのだ。 ロラン・バルトは写真の本質を「かつてーそこにーあった」という実在に見た。たしかに、実在しないものを自由に描ける絵画や文学に対して、写真とは光という実在の化学的変化という即物的なものであり、その意味でバルトの洞察はたしからしい。たしかに写真は「存在」を撮ることはできるが、「不在」を撮ることはできない。 しかし、アジェの写真は明らかに「不在」の撮影が行われている。その街を活気づけていた人々の存在が、これらの写真たちからは(技術的な条件によって)消えている。そして、その消えたことではっきりと不在が撮影されている。(だからこそくっきりとした人間の形象を撮るために、不動のマネキンたちが撮影されている。) あるいは、不在の痕跡と言ってもいい。亡霊のような、たしかにアジェ自身の身体の眼には写ったはずだが、カメラには写っていないその痕跡。ここに、写真家の身体と、写真機という機械との埋めようのない亀裂が現れている。
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patsatshit · 7 months
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今年の8月末日、短編小説と音源がセットになった『JAGUAR』というZINEを制作した。200冊限定ナンバリング入りで、現時点(10/13)での在庫が30冊程度となった。ところが4月にリリースした『ほんまのきもち』と違って、本作についての感想がほとんど聞こえてこない。もちろん直接口頭、あるいはソーシャルメディアのダイレクトメッセージで読後感を伝えて下さった方々は沢山いる。しかし書評と呼べるものは実はいまのところ皆無に等しい。批評することを躊躇わせる斥力のようなものが作品に内包されていたのかもしれないと密かに勘繰ってみたりした。虚しかった。そこで、である。敢えてこの場を借りて、稀有で貴重な『JAGUAR』評を紹介しようと思い立つ。当ブログへの転載を快諾してくれた評者の方々にはとても感謝している。ほんまにありがとう。早速おふたりの素晴らしいレビューを読んで頂きたいのだが、いましばらく当方の四方山話にお付き合い下さい。
まず最初に『JAGUAR』という物語がかれこれ10年以上も前に執筆していたものであるということを前提に、すでに読んで下さった方々には当時の僕の意識混濁っぷりが窺い知れる内容になっていると思う。ビルメンテナンス会社の営業職に就いて忙殺される日々、精神と肉体が泥のように疲弊していくなかで書き上げた小説。大袈裟でなく、このままでは生きるという行為を自ら手放してしまうのではないかという危うい精神状態だったが、幸運にも当時に知ることができた偉大な哲学者、思想家、精神科医たちの言葉に背中を押され、結果的に今日まで生きのびた。以下に引用した名著の言葉たちが『JAGUAR』と僕を根底から支え、励まし、作品を世に放つ機会を与えてくれた訳だ。特に大気を裂く稲妻のように強烈な『千のプラトー』は、書かれている内容がわかるわからないというスノッブな価値観を遥かに超越した位置から自分を叱咤激励してくれた。こんなにぶっ飛んだ内容の読み物は他にないし、未読の方は絶対、ぜぇぇったいに読んでほしい。
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小説は、自分の名も、自分が探しているものも、していることも、すべて忘れ、記憶喪失、運動失調症、緊張症となった登場人物、なすすべを知らない登場人物の冒険によって定義されてきた。(中略)。宮廷愛小説の騎士のすることといえば、自分の名前、自分がしていること、人が自分に言ったことを忘れることであり、どこに行くのか、誰に話しているのかも知らずに、たえず絶対的脱領土化の線を引き、またたえず道を失って立ち止まりブラック・ホールに転落することである。『千のプラトー』ドゥルーズ+ガタリ著
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各人は、他者の世界の中での一客体であるばかりではなく、自分の世界の中で自分の体験や構成や行為がそこから生じるところの、時空間における一つの場所でもある。人は自分自身の視点をもった自分自身の中心である。そしてわれわれが見つけたいと思っているのは、まさに、他人と共有する状況において各人がもつところのパースペクティヴである。『狂気と家族』R.D.レイン/A.エスターソン著
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私にはひとつ、ことばを≪見る≫という病気がある。ある風変わりな欲動があり、それは、願望がまちがった対象に向かうという点で倒錯的な欲動なのだが、そのせいで、本来なら単に聴くべきものが、私には一種の≪ヴィジョン≫として現れるのだ。(中略)。言語活動に関して、私は自分が幻視者で、また、のぞき見の倒錯者であるような気がしている。『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト著
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そして小説版『JAGUAR』と一蓮托生の身である特級呪物、音源版『JAGUAR』については、僕が最も敬愛する女性DJにその制作を依頼した。マルコムXの演説を逆再生させたところから始まるMIXは、いくつかの世界線が交錯と混濁を繰り返し、正気と狂気の狭間を湿気をたっぷり含んだ低空飛行でかいくぐり、やがてひとつの景観ヘと辿り着くまでの過程をコラージュを交えた手法でドキュメントした、とんでもない内容に仕上がっている。揺るぎないベースライン、不意に降り注ぐ天啓となる言葉の数々、妖艶極まりない夜の気配、そして匂い。ぜひとも爆音で体験してほしい。以上のことをふまえて、OBATA LEO、moanyusky両名による書評をご覧下さい。
「JAGUAR」評① :評者OBATA LEO(ROLLER SKATE PARK作者)
土井政司の新作「JAGUAR」を読んだ。内容の理解云々以前にまず、地を這いずるような具体性の塊、描写に喰らった。自分が普段労せずざっくり物事を把握するための便利な道具として使っている言葉という同じものを使って、この作品はレンズのように細密にものを描き出す。ひとがきちんと見ずに済ませているような部分にまで光を当てる。そんな驚きもありつつ、やはり気になる。「JAGUAR」とは何なのか?
-「彼女は常に超越的な地位にあり、私たちとは隔たれた外部に位置している。そうであるにもかかわらず内部であるここにも存在しているのだからタチが悪い。絶えず外にいて内にあるもの、それがJAGUARだ。」最も端的にJAGUARについて書かれたこの部分を読んで、体内・体外の関係を想起した。普段「体内」と何気なく口にしているが、胃袋のように体には空洞がある。皮膚や粘膜などの体表に覆われて血液が流れている内部を体と呼ぶのだとしたら、その空洞は体に囲まれた「体外」ともいえて、私たちは体内に体外を抱えているという言い方もできるというわけで。それで繋がるのは、口腔内の歯の溝に落ちたタブレットを舌で触る場面である。「体内」でありながら自分では視認することのできない、舌で探るしかないその空間は確かに「体外」であるし、JAGUARもまた、己にとって内なるものでありながら断絶した他者でもあるような何かとして捉えられるのかもしれない。そんな線で読んでいくと、-「だが実際に私の目の前で何者かの手によって鍵の施錠は実行され、おまけに用心深くレバーハンドルを何度か動かしてしっかりと鍵がかかっていることを確認した。」という作品の終盤に出てくるこの部分で、文法的なエラーに感じる違和感は、そのまま私とJAGUARとの関係の違和感そのもののように思えてくる。得体の知れない何かに鍵をかけて、何食わぬ顔で電車に乗って仕事場へ行くなかでの体の軋み、のような何か。体といっても、いわゆる「(近代的な)身体」というキーワードで片付けるにはあまりに繊細な、大いにパーソナルな部分を含む体の感覚が、この作品にはあると思う。
出かけた「私」は、電車のなかで女性が着ている服のボーター柄の反転を目にするが、ここまで読み進めてくると、気持ちの良い幻惑に襲われはじめる。異常にディティールが詳しいのでそうと気づいていなかったが、やはりこのフィクションの中で起こる出来事たちは、出来事の形をとった何か夢やイメージのようなものだったのではないか。そして冒頭のリフレインまで突き当たると、この作品は初めから何についての話だったのだろうかと、今までひとつひとつ理解しながら読んできたはずの物語が全く違う相貌を携えているように見えてくる。そんなぐにゃんとした気持ちになるのは、良い小説を読む醍醐味のひとつだ。
「JAGUAR」評②:評者 moanyusky(音楽レーベルprivacy主催)
当たり前の様に無造作にある事で、それを見るか見ないか、それだけのことだと思います。土井政司の最新作「JAGUAR」を読みました。ここではJAGUARとなっていますが、人によってそれの名称は変わると思っています。よくわからぬ相手との対話や闘いがあるかどうかというところが、この作品の感じ方が分かれるところだと思っていて、私はどちらかといえば、その相手に困らされた事があったので、この作品を読んで、え!土井さんもやったんやとびっくりしました笑。ここは勘違いして欲しく無いところなのですが、人それぞれという言葉があるようにそれは一緒ではないのですが、構造はかなり近いと言ったような事でした説明がつかないわけですね。私は人の「想像」は人を殺しにかかるような死神として、隙があれば、それは現れるわけです。世の中ではアートであったり、想像力は良いように言われていますが、全くもってそれは何かが隠されているわけで、私は良かった試しが無いわけです。出来れば普通のルートで現代社会を楽しみたかったです。でも多分知っていくという事はそういう事なのかもしれない。想像力に悩まされてきた身としては、この作品は、別の場所で、それと闘って、きっちり答えが出ているというところ、しかも、10数年前の作品という事で、私は土井さんに出会って、色々な対話を交わして、初めて彼の濃厚な苦悩との生活に出会う事となったわけです。各人の時間軸が理解の範疇を超えて、重なり合って手を取ったのだと思っています。その時に置いてきぼりになってしまう、その真ん中で産まれゆく、刻まれた何かがずっとどこかで成長していたら、人は正気を保てるだろうかと思ってしまいます。誰かが入ったであろう、部屋のノブをあなたは回せるかどうか。私はそれには名前をつけなかったが、もう二度と会いたくないですし、いつまた来るのだろうと、恐れを感じます。彼は人が地面を無くした時に現れるように思います。浮遊した瞬間、命をもぎ取ろうとする。
でもそれはオカルト的なアレとか、スピリチュアル的なアレなんてものではないのですね。確実に自分、自分を構成する設計図の謎のようにも思え、それが薄らぐために生活をやり、音楽をやり、愛し合い、話し合い、何かを育てるのだと思います。現実社会で経験した摩擦は地面をはっきりさせ、そいつのいる世界から距離が出て、薄めてくれるように思うわけです。だからこそ。JAGUARの言葉を借りれば「痛みと不安から自分自身を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す」。が救いの言葉となっているように思います。2部構成で出来上がる、この作品のバランス感覚は、人と創作の関係性をSFとして描いているように感じます。同じ場所にて語る事は嫌がられるかもしれませんが、私が映画を観に行った時に続々と子供たちが外へ出て行った宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を出したタイミングと、土井政司がこれはいけると思ったタイミングで出されたJAGUAR。それは何もかもを抜きにして考えると、世の中の人たちに対して彼らは同じことを思っているのだと思います。今それを出さなければならなかった。その「灯り」の意味を考えなければならないのです。
〆はもちろんこの曲で!
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nakanohajime · 1 year
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彼���ロラン・バルト)によれば、西欧においてデモとは根源的な自発性と凶暴性を秘めた集団の主張の表出と考えられていますが、「全学連」のそれは整然として統率され演出され、主張というより表現、あるいはひとつの見世物のように、まるでマスゲームのように見えるというわけです。ここではシニフィエとしての主張、時にその暴力性は、それが生じる瞬間にシニフィアンとして、自己規制された記号へと絶えず収斂し消滅すると言っています。もちろん日本でもデモに伴う暴力はいつも問題になりますが、革命を何度も経験した国からすると、「全学連」の暴力的なデモも、お行儀のいいものに見えたということでしょうか。
フランス人はなぜデモを続けるのか | Meiji.net(メイジネット)明治大学 - Part 3 | 国際 - Meiji.net(メイジネット)明治大学
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hanbunmensch · 1 year
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カムスキーCEO復帰エンディングで流れるオペラ曲について
 「カムスキーエンド」と通称される主人公早期全滅ルートで、カムスキーが「Un bel dì, vedremo」を聴いている。ざっと検索したところ、このことに言及しているページが見当たらなかったので書く。ただ、使用曲はエンドクレジットを確認すれば誰にでも分かることで、別に元々オペラに詳しいわけではないためご留意を。  まずはエンディングの概要から。
条件:  カーラが『ズラトコ』以前の章で死亡するか初期化されてメモリを復旧できず、コナーが『最後の切り札』で停止処分になり、マーカスが『自由への行進』で死ぬか『交わる運命』でジェリコから追放される(マーカスが死んだか追放されたかによって報道シーンの構成が変更される)。
 つまり正確には全滅というか、最終章より前にプレイヤーがやることがなくなってしまった場合に条件を満たす。
あらすじ:  FBIがジェリコに襲撃を仕掛けたことを機に、変異体の権利闘争は収束へ向かう。軍により国中のアンドロイドが捕獲・破壊されているという、リビングのテレビが流す大統領の声をバックに、ハンクはロシアンルーレットの当たりを引く。一連の事件を受けてサイバーライフのCEOに再任命されたイライジャ・カムスキーは、アンドロイドは生命を真似てみせるだけの従順な機械であることをカメラの前で明言する。
そして船は現れない
 エンディングムービー中盤のカムスキー邸のシーンで、国がアンドロイド収容所を設置したニュースが聞こえる後ろに、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』のアリア「Un bel dì, vedremo(ある晴れた日に)」冒頭が流れている(一応何度も聴き比べて確認したが、もしイタリア語が分かってオペラの聞き取りもできる人がいて、これが間違っていたら知らせてほしい)。
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Un bel dì, vedremo  levarsi un fil di fumo  sull’estremo confin del mare  E poi la nave appare
ある晴れた日に* 一条の煙が上がる 海のかなたに そして船が現れる
*「ある日」が正しいという指摘もあるが、日本では「ある晴れた日に」でよく知られているので今回はこちらを採用した
 聴く限りでは、nave(船)という単語に差し掛かったあたりで、カムスキー邸から次の報道パートに切り替わる。  『蝶々夫人』は長崎を舞台に、アメリカ人の海軍将校と結婚した没落藩士令嬢である蝶々さんが彼に捨てられるまでを描いた悲劇ものオペラ。「Un bel dì, vedremo」は、中盤、国に帰った夫の船が現れるのを蝶々さんが愚直に待ち続ける場面で歌われる。実際のところ将校は彼女を現地妻と考えていて、結局長崎に戻ってはくるがアメリカ人の正妻を連れている。既に彼の為にキリスト教に改宗までして勘当もされていた蝶々さんが、それを知って父の形見の刀で自害し、幕を下ろす。  このオペラ自体は安いエキゾチシズムとしてよく批判されるが、それはともかくとして、ハンクが自殺し暗転してから「Un bel dì, vedremo」が流れるカムスキー邸までの一連のシーンでは、人間──作中世界で迫害される少数派として散々描かれたアンドロイドではなく──が現地妻の立場に置かれている。窓辺の椅子に座るカムスキーは、「海のかなた」(多分デトロイト川だが)を望み、現れない船を待っている。現れない船は、ついぞ出航せず、革命を成し得なかった廃船・ジェリコだとここでは見立てることにする。
伝染病を待ちながら
 『カムスキー』チャプターに遡ると、カムスキーは待たせる側だった。来客をエントランスで待たせるだけでは飽き足らず、部屋に招き入れたうえでわざわざ何往復か泳いでみせて──それが演出か素かはさておき──待たせる側に立とうとした。  待たせることにはどのような意味があるか。ロラン・バルトによるとそれは「あらゆる権力につきものの特権」だそうだ。
転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在──まるでわたしの欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのように──に隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。(『恋愛のディスクール・断章』)
 「転移」とは精神分析の用語で、患者が他の人に向けるはずの抑圧された感情を分析者に対し抱く現象を言う。患者はカウンセリングの中で分析者のことを、何でも知っている人だと思い込み、分析者を転移対象にする。転移する感情は愛情であったり敵意であったりする。医師と患者の関係は対等ではないため、医師は患者からの転移性恋愛に応じることを控えなければならないが、転移自体は重要な治療のプロセスでもあり悪いわけではない。  D:BH作中最もよく分析者然と振る舞っていたコナーを例にとると、ダニエルを信頼させたルートでのちのち「お前は必ず報いを受ける」と恨み言を言われたり、ハンクの個人的な事柄を調べ上げて当人にあけすけに語ることで好感度が上がったり、或いは『最終任務』で対立した際に「その言葉(「友人」)の意味もわかっちゃない」とキレられたりするのも、ある種彼らに転移されているのかもしれない。  そして『カムスキー』チャプターでは、変異体について何か知っているに違いない者として、カムスキーが待たれていた。
 そのカムスキーもまた実は革命を待っている側だったことは、別にゲームの制作段階で削除された台詞を参照しなくとも想像できる。  カムスキーは「自由への欲求も伝染病といえるかな?」と言ったが、この発想は珍しいものではない。20世紀初頭、ボリシェヴィキ革命後の時点で既に、のちの西側諸国は共産主義を伝染病に準えて「防疫線」を提唱した。現在も、主に批判的意味合いで特定の思想を伝染病に喩える場面はよく見られる。
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『自由への行進』/『サイバーライフタワー』
 デトロイト実況プレイ動画などを見ていると「こいつら本当に自我あるのか?」とすこぶる評判の悪い(ような気がする)マーカス達の「さあ起きて」描写だが、敢えてこの異様さそのものを好意的に捉えるとすれば、彼らが「伝染病」という言葉の簒奪を果たしている点と言えるだろうか。また、『カムスキー』でクロエを撃ち殺して選択肢「ウィルス」の質問をした場合の、カムスキーによるウイルスの潜伏に関する説明と、『サイバーライフタワー』でコナーが失敗した場合にたどり着くフローチャート項目における、倉庫の変異しなかったアンドロイドに関する言及で、remain dormant という同じ表現が使われている点も考慮していいかもしれない。ここではウイルスが、アンドロイドが、「精神的ショック」をスタンバイしている。革命を為そうとする時、形容の影にカムスキーがいる。
 今回のエンディングの話に戻ると、アンドロイドが創造主に対して立ち上がる日を待望していたであろうカムスキーと、うまくいけば変異体の支持者になることで人生を取り戻せたかもしれない──そして本当にうまくいけばフードトラックの前で待っていてくれたかもしれないハンクという二人の人物が、「Un bel dì, vedremo」の引用を介して、将校の乗る船を待つ蝶々さんにオーバーラップする。悲恋に暮れるのは今日のところ「人間」のようだが、恋ほど人を惨めな気分にさせるものはない。
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2comlog · 2 years
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週報2022-08-03
・コミケ!
コミケに参加しました。 参加された方、お疲れさまでした! 相変わらずみなさんに優しくされてホコホコとしておりました。 今回は一人参加だった事もあり、 より色んな人に甘やかしてもらった感じがしています…
とはいっても前回(昨年末)の記憶が残ったままのコミケだったので、 そんなにヘマはせず…
嘘……… 朝、前回と打って変わってバカの時間に起きてしまい死ぬかと思った。 そう、前回は目覚ましかけわすれるみたいなドヘマをしたのですが、 それに比べたらまあまあマシでした。 でも寝不足のまま夏のコミケはダメだったと思う。 そこそこ肉体にヘビーでした。
そして、アホの時間に起きて、しっかり朝ごはんを食べたのに、 拍手をする前からもうずっと空腹で飢えた獣の瞳をしていたと思う。
わりと毎回そんな目にあっていて「なんで!?」と思うのですが、 引きこもりインドアオタク、本沢山入った重たいコロコロカート引っ張って 人込みの中を散々歩いたらもうHPが8割切ってるんだと思う。 イベント経験何回目?いい加減気が付いた方がいい…自分の肉体の事……
とはいえ朝コンビニで水とプロテイン買っていったのですが… (親知らず抜歯跡地激腫れにて、口が開かないと思ったので、固形物買えんかった…) もうずっと空腹……… 飢えに飢えた獣の瞳だったと思われる私にも優しくしてくれて…みんな…ありがとね…
そうはいっても嬉しい事いっぱいありました!
DianaのTシャツ着てきらら島ウロウロしてたら 「Dianaお好きですか」と聞かれて思わず「ハイ!!!!!!」ってなった…
こんなに嬉しい事がありますか…!?
Dianaの事…知ってくれて…ありがとね………… これだけは私の功績だと思っています。 この世で一番好きなカメラの事を、その良さをみなさんに知ってもらえたこと…嬉。 なんかもう人生の全部が達成されたようなもんですよね。 着ていって良かった…DianaワールドツアーのTシャツ…
いやDianaワールドツアーって何よ。
Dianaカメラ、大元は香港のオモチャカメラで、一度は生産が中止になっていて、 2007年くらいにロモグラフィーから 「Diana+」という名前で復刻販売されているんですよね。 そしてその発売記念かなんかのタイミングで、 元祖Dianaだったり、そのDianaの模倣品だったりを集めた展示会を各国回りながら開催した… という催しがDianaワールドツアーだったらしいです。 トリチャンはコレはエアプですが… その時の記念販売Tシャツをメルカリで探し、ご機嫌で買って着てます。
そしてそんなDianaワールドツアーと書かれたTシャツを着ている人間は、 スペースに戻り、ほぼずっとロラン・バルト読んでました。 記号学の本。 明るい部屋とは打って変わってなんも意味分からん、才能がない。 そんでPolaroidカメラの本を売っている。一貫性がありすぎる…
そんな感じで、一日優しくされ、 台風がヤバそうだったので打ち上げもせず良い子に家に帰り、 お家で人目も気にせず一心不乱にパンを食べました。 ご機嫌!
お足元激悪の中来てくださり本当にありがとね… サークル参加側はマジで運が良く、全然雨に打たれませんでした。 お昼からしか雨じゃなかったので、朝早くに会場という屋根の下ものは全く濡れなかった。 いやねえ…いらっしゃった方のメガネに水滴ついててはじめて「アレッ!?もしかして外ヤバいんですか!?」となるくらいには運が良かったです… みなさん風邪などめされてませんように…
来れなかった方も、通販はやっているので、気になる方はよろしくお願いします。
imPulse(2com)の通販・購入はフロマージュブックス https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=1569869
写真論bookという事もあり、文字入れやってくれた友人は 「ぎんしおロスの人、読んだらいい」と言ってくれましたが、二次創作なのでその感情に効く薬とはあまり…思え…ないな… ですが、まあ、カワイイ本なのでよろしくね。
・集
親戚の集まりに行く。 基本的に父方の親戚の集まりニガテがちではあったのですが、 祖母の事とても好きなので最近は素敵な機会だなと思えています。
祖母、とても素敵で上品な人で、 オズオズと「突然話変わるんだけど…」と切り出して、 「いや…突然話変わるの良くないよね…」となっており 「今までいたコミュニティが上品すぎただけだって!!!!」となった。
みんな話変えまくる…現代人は特に… そういう事を言っていたら最終的に 「みんな意見が同じだったら戦争になるのよね」とまとまりになって、 やっぱこの人の話をもっと聞きてえ…と思った。
…突然話変わるんですけど(速攻回収)、 親戚の子がもう高校生なので、「もうじきお酒が飲めるねえ」という話になって(気が早い)、 こういう年若いモノの人生を楽しみにする事が大人の務めなのだなと思い、 この手の娯楽でも私楽しくやっていけそうだな…とめちゃくちゃ安心しました…。 年老いてもやっていけるなという自信になったので…
死にたくない事=老いる覚悟になってくるんで、 私は今後も安心して死にたくない方を貫けそうです。 今後ともよろしくお願いいたします、みんなも長生きしてください。
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archizinesfair2024 · 7 days
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山をおりる 『山をおりる Newsletter Book #1』|2022 『山をおりる1.0[プリント版 2nd edition]』|2022
「山をおりる」は、建築・都市のあたらしい表現を模索するためのエディトリアル・コレクティヴです。現在のメンバーは、春口滉平/中塚大貴/綱島卓也。
『山をおりる Newsletter Book #1』 「山をおりる」が過去に配信したメールマガジンを再編集した書籍です。人種差別・デザイン人類学・ナレッジマネジメントなど幅広いテーマを扱った本書は、都市が有する課題への議論を喚起します。
『山をおりる1.0[プリント版 2nd edition]』 ウェブメディアを再構成し、限定部数で発行したプリント版です。 「インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面」等の論考を収録。
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k-240 · 1 month
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被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである。
ロラン・バルト(1985)花輪光訳『明るい部屋―写真についての覚書』みずす書房
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anamon-book · 10 months
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ロラン・バルト映画論集 ロラン・バルト、諸田和治・編訳 ちくま学芸文庫 カバーデザイン=鈴木守
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straycatboogie · 1 year
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2022/12/06
BGM: Silent Poets "Talk Is Toy" (Inter-Planetary Travel Mix)
今日は休みだった。朝、イオンに行きそこでとあるサーバで行われている今年のアドベントカレンダーの企画のためのエッセイのアイデアをあれこれ考える(イオンまで行ったのは、何となくそこでならいいアイデアが出そうだったからです)。その後グループホームに戻りそのエッセイを完成させる。今から10年前、私が自分の人生においてどん底にいた時のことを振り返り、そこから10年でどんな変化があったかを書くものになった。ああ、何とも味わい深い10年だったと思う。よくもまあ生き延びて、ここまでやってきたものだ。
10年後どころか、1年後だっていつも自分がどうなっているか見当もつかない人生を歩んできた。いや振り返ってみれば20年以上も同じ仕事をしていて、同じ趣味(読書や音楽鑑賞、映画鑑賞)に勤しんできたことになるわけだが、例えば今こうして日記を書いている自分のことを5年前は想像できなかった。5年後、そこから振り返って私は「今」こうして日記を書いている自分を想像できるだろうか。そう考えていくと、自分という存在は目まぐるしく変化する世界の中で成長していく存在なのだなと思われてくる。ああ、来年はどんな人生を歩むのだろう。
午後、図書館に行き本を借りる。ジョン・アーヴィングの本を何冊か。今年はアーヴィングを読んで年末年始を過ごすことになりそうだ。それで『未亡人の一年』を読み始めたのだけれど、相変わらずアーヴィングの世界はエッチで、そして抜群の安定感を保っていると思う。アーヴィングはこうした物語に潜む「普通の生活」の力を信じているのかなと思った。物語、と書くと起承転結のはっきりした、もっとメリハリがある話を連想させるかもしれないけれどアーヴィングはそうした血湧き肉躍る話とはまた違った、旨味のある物語を書く作家だ。これ以上は読み進めてから書きたい。
夜、そのアーヴィングを一旦脇に置いておいてフェルナンド・ペソア『不安の書』の残りを読む。ペソアは倦怠感を隠さず、自分の思念で世界を塗り替える。倦怠感を書くことの根本に据えた作家、疲れ果てたところから書き始めた書き手というとロラン・バルトが思い浮かぶ。バルトを読み返すのもいいかもしれない。いや、バルトを理解できたと思ったことはまったくないしこれからも(フランス語を学び直さない限り)ないだろう。だけどバルトを読むのは気持ちいい。わからないけれど面白い……こんな態度は褒められたものではないかなとも思うのだけれど。
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htbbth · 5 months
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「読書」という行為を、「作者が用意した世界観(書き手の思惑)を当てて楽しむゲーム」だと考えてしまうと、作品世界は(最初の書き手の想像力と創造力以上には)広がっていかない。その作品を愛し、世界を広げたいと思うならば、読み手は自身と作品との化学反応を楽しみ、「書き手が意識していなかった領域」にこそ着目しすべきである。これを「読者の誕生」と呼び、その祝祭は(近代主義において意味を付与された「個人」という幻想的価値に力点を置いた)「作者」の死によって贖わなければならない、とロラン・バルトは書いた。 何が言いたいかというと、SNSでよく見かける(そしてたまに私宛にリプライで飛んでくる)「たぶん作者の人そこまで考えてないよ」というフレーズは、読み手である自分の限界を告白しているだけであり、「だったら余計に面白いですよね、それはこの作品と"わたし"との化学反応により生まれた価値だということだから」と返答したくなる。
Xユーザーのたらればさん: 「「読書」という行為を、「作者が用意した世界観(書き手の思惑)を当てて楽しむゲーム」だと考えてしまうと、作品世界は(最初の書き手の想像力と創造力以上には)広がっていかない。その作品を愛し、世界を広げたいと思うならば、読み手は自身と作品との化学反応を楽しみ、「書き手が意識していなかっ…」 / Twitter
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22centuryworks · 10 months
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ダニエル・シュミット監督「書かれた顔 4Kレストア版」をヴィヴィアン佐藤氏の解説トークつきでみた。「書かれた顔」は現実と夢のはざまを色彩感覚ゆたかに描き出した佳品だった。女形(オバサン形?)のモサっとした色気のある坂東玉三郎氏の最後の舞踊の所で自分のような老人は入眠してしまった。エンドロール直前に目がひらく際、夢の中で私は目玉焼きを口に入れていた。いつも私の夢は食べる瞬間に終ってしまう。だから卵を口に入れるタイミングで現実に戻ったのだ。だが、そこから数分後、目のまえに出来したのはいかなる人「間」とも呼びがたい異形のドラァグ・クイーン=ヴィヴィアン佐藤氏だった。
写真を撮らせてもらった時、少しお話しできたが、御本尊を見つめているうちに、様々な雑念(自「分」はなぜここにいるのだろう?とか)が去来し、アタマが真っ白になった。後ろのファンの方がつかえているのに、大変申し訳なかった。そこでフォーラム仙台を後にし、一枚の写真を投稿した。
ヴィヴィ氏がトーク中に口にしたまさにロラン・バルト「表徴の帝国」のごとき異界だった。玉三郎もじしんを空虚であると語ったが、それをヴィヴィ氏も体現していた。それが書かれた顔であった。私じしんがもう老境にあり、映画などをみていても長過ぎると感じたり、入眠してしまう方なので、ヴィヴィ氏とフォーラム仙台=橋村支配人、2人の映画愛好家に感動した。
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「WOKE CAPITALISM」 [著]カール・ローズ/「ザ・キルスコア」 [著]ヤコブ・トーメ
気温上昇くらいでは動じない人も、自分が一生で死に追いやる命の数を突きつけられたらどうか。本書の問題提起を受け、消費や投資、政治の分野でどのような行動をとるかは、私たちひとりひとりの倫理観にかかっている。(三牧聖子)
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zuiki · 11 months
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本とともに待つ玉葱の飴色
ダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言 犬と人の重要な他者性』(訳:永野文香)を引きつづき読む。
「伴侶種(コンパニオン・スピーシーズ)」とは、自分なりの解釈でいうと、まるっきり仏教の縁起と同じことを言っていて、あらゆる存在は関係性が先立ち、所与の情報は存在し得ないということ。
主体、客体という分別すら存在しない。
私たちはこの世界にすでに投げ込まれていて、偶然的に現れているその対象との関係性でこそ、私たちは形作られている。
なので、わたしやその対象をどのように表現すればいいのか。
そんな重要な他者によって形成されるものたちを、まとめて「伴侶種」と呼ぼうではないか、ということ(なのか? わからんけど続ける)。
伴侶種の間では、「自他を理解する」というような、いわゆる”愛”の決まり文句が否定されて、「トレーニング」のような互いの技術の研鑽こそ”愛”の名にふさわしいものとされる。
“何者かを愛し、心身を捧げ、その者とともに技術を磨きたいと熱望す��気持ちは、ゼロ・サム・ゲームではない。ヴィッキー・ハーンがいう意味でのトレーニングのような愛の行為は、それに連結された他の、創発=出現しつつある諸世界を気にかけ、それらを大切におもうような愛の行為を生み出していく。それがわたしの伴侶種宣言の中核にほかならない。わたしは経験上、アジリティーがそれ自体として特別な良さをもっているとおもうし、より現実世界的に生成する(tobecome more worldly)方法でもあるとおもう。”
わかる。
とにかく、ハラウェイの書き方に真摯さを感じた。
自らをさまざまなアイデンティティの集合体としてとらえ、アメフトの試合のようにそれぞれの視点・役割で、ボールを前に進めていくのだ。
「スポーツ記者の娘」、「アリストテレス主義者たちに学んだ者」、「マルク スとフロイトに改宗した者」、「魂にカトリック教育の消せない印を刻まれた者」、「ダーウィンの忠実な娘」「犬にかまけた者」などなど。
こういう主体のPOLY LIFE MULTI SOUL感はすごく好きだ。
あと、「かまける」っていう言葉いいなと思う。
僕は己の僧侶性を解体したいわけではないし、僧侶であることを幸福に捉えられている。
でも、なんだか、特に文章を書いていると、その一つの人格に自分が飲み込まれていくような感覚もするのだ。
だから、ハラウェイのように、視点を「同時に」持つという書き方が新鮮に移った。
解体ではなく、氾濫というのかな。
氾濫させて、粉々になった粒たちを再構成させるようなイメージ。
今まで端っこに追いやられてた自分のなかの小人たちが、ハラウェイの文体によって掬われたような気がした。
僕もまた伴侶種宣言をしたくなった。
自分自身「なぜかそこにいる」という観念を大事にしているが、それは伴侶種としての芽生えだったのだ。しらんけど。
僧侶ではなく、伴侶となることを選ぶのが、縁起を説く仏教の必然的結論なのではないだろうか。しらんけどけど。
次はロラン・バルトが気になる。
レコードは無音になるのがいいなと思った。
当たり前だけど、円盤に刻まれた溝が尽きれば、音は切れるのだ。
静かになると、いままで音楽が鳴っていたことを知る。
今も、静かな音(日常音)が鳴っている。
また針を落とすと、音が鳴る。
マックス・ピカートは言葉には沈黙が必要であると言ったけど、わかる気がする。
Netflixがしんどいのは、エンドロールで「お次はこれ!!!」と、あほみたいなレコメンドが出るところ。
もう少し日常単位で生に休符があれば、生に終止符を打ちたくなる気持ちもなくなるんじゃないか。
くれぐれも、それを余白なんて言葉で語ってはいけない。
坂本龍一のライブをNetflixで流しながら仕事していたら、坂本龍一が突然ピアノの中側まで身を乗り出し、弦のところを小槌で叩き出して笑ってしまった。
これは道具の再発明ではなくて、人間が機械(テクノカルチャー)の一部になるという試みなのだろうか。
明後日旨いカレーが食いたいので、玉葱を飴色にまで炒める。
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