Tumgik
zuiki · 8 months
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ピカとは鳴かないが光っていた
2023年9月9日
小説を書いているのだけど、出来事を書くときにどうしても上手く前に転んでいかない感覚があるので、ここで練習してみようと思う。
出来事だけ(出来事ってなんだ?)を日記で書いてみる。
昨日は短い映画を二本見て、映画とはなんなのだろうかうーんと考えながら編集会議の計画を立てようとしたが、あんまり全員のスケジュールが合わなくてうだうだしてたら、31に行く時間になって2階にダンボールと一緒に積まれてる巨大ピカチュウを横目にマリオのスーパーキノコカップを食べて、ハロプロの25周年コンサートの動向をTLで確認しながらタスクを整理して、気づいたら夕ご飯の時間になっていて、近くのコンビニで冷しゃぶサラダを買ってレジ袋は要らないと言ったせいか、エレベーターで一緒になった親子にこれから冷しゃぶサラダを食べる男として認識された後、大学の同級生にお祝いでもらった高い素麺を茹でて、つゆがなかったので八方だしと青森のりんご醤油でつゆらしきものをつくり、冷しゃぶサラダと一緒に食べて、想像以上の美味さに驚いて、高い素麺のポテンシャルに思いを馳せた後、やらないといけないタスクが2つではなく、3つであることに気づき、慌てて今度開催するイベント情報をまとめようとしたのだが、バナー画像がないことに気づき、またもや慌てて同居人にIllustratorを借りて画像をつくり、そうこうしてるうちに日をまたいでいて、もう一つのタスクは風呂に入りながら進めようとスマホを持って湯船につかっていると、いつものルーティンが作動してジャルジャルのYouTubeなどを見てしまい、これじゃいけないと風呂を出てパソコンの前に座ったが、なかなか集中できなくて、もういいや明日の自分に期待しようと祈りを込めて布団に入ったが、なぜか眠れなくて、今度韓国へ旅行する予定だから韓国の歴史でも調べておこうと、教養系YouTube番組で韓国の歴史を概観し、調べていくうちに中国の歴史、特に元、明、清の流れがおもしろいなと思い始め、Wikipediaの道草が止まらなくなり、明日は朝から外出しないといけないことを思い出し、画面から離れる覚悟を決め、せめて清について語っているポッドキャストはないかと探したが見つからず、妥協で諸葛亮孔明について語っている番組を聴きながら眠りについた。
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zuiki · 11 months
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本とともに待つ玉葱の飴色
ダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言 犬と人の重要な他者性』(訳:永野文香)を引きつづき読む。
「伴侶種(コンパニオン・スピーシーズ)」とは、自分なりの解釈でいうと、まるっきり仏教の縁起と同じことを言っていて、あらゆる存在は関係性が先立ち、所与の情報は存在し得ないということ。
主体、客体という分別すら存在しない。
私たちはこの世界にすでに投げ込まれていて、偶然的に現れているその対象との関係性でこそ、私たちは形作られている。
なので、わたしやその対象をどのように表現すればいいのか。
そんな重要な他者によって形成されるものたちを、まとめて「伴侶種」と呼ぼうではないか、ということ(なのか? わからんけど続ける)。
伴侶種の間では、「自他を理解する」というような、いわゆる”愛”の決まり文句が否定されて、「トレーニング」のような互いの技術の研鑽こそ”愛”の名にふさわしいものとされる。
“何者かを愛し、心身を捧げ、その者とともに技術を磨きたいと熱望する気持ちは、ゼロ・サム・ゲームではない。ヴィッキー・ハーンがいう意味でのトレーニングのような愛の行為は、それに連結された他の、創発=出現しつつある諸世界を気にかけ、それらを大切におもうような愛の行為を生み出していく。それがわたしの伴侶種宣言の中核にほかならない。わたしは経験上、アジリティーがそれ自体として特別な良さをもっているとおもうし、より現実世界的に生成する(tobecome more worldly)方法でもあるとおもう。”
わかる。
とにかく、ハラウェイの書き方に真摯さを感じた。
自らをさまざまなアイデンティティの集合体としてとらえ、アメフトの試合のようにそれぞれの視点・役割で、ボールを前に進めていくのだ。
「スポーツ記者の娘」、「アリストテレス主義者たちに学んだ者」、「マルク スとフロイトに改宗した者」、「魂にカトリック教育の消せない印を刻まれた者」、「ダーウィンの忠実な娘」「犬にかまけた者」などなど。
こういう主体のPOLY LIFE MULTI SOUL感はすごく好きだ。
あと、「かまける」っていう言葉いいなと思う。
僕は己の僧侶性を解体したいわけではないし、僧侶であることを幸福に捉えられている。
でも、なんだか、特に文章を書いていると、その一つの人格に自分が飲み込まれていくような感覚もするのだ。
だから、ハラウェイのように、視点を「同時に」持つという書き方が新鮮に移った。
解体ではなく、氾濫というのかな。
氾濫させて、粉々になった粒たちを再構成させるようなイメージ。
今まで端っこに追いやられてた自分のなかの小人たちが、ハラウェイの文体によって掬われたような気がした。
僕もまた伴侶種宣言をしたくなった。
自分自身「なぜかそこにいる」という観念を大事にしているが、それは伴侶種としての芽生えだったのだ。しらんけど。
僧侶ではなく、伴侶となることを選ぶのが、縁起を説く仏教の必然的結論なのではないだろうか。しらんけどけど。
次はロラン・バルトが気になる。
レコードは無音になるのがいいなと思った。
当たり前だけど、円盤に刻まれた溝が尽きれば、音は切れるのだ。
静かになると、いままで音楽が鳴っていたことを知る。
今も、静かな音(日常音)が鳴っている。
また針を落とすと、音が鳴る。
マックス・ピカートは言葉には沈黙が必要であると言ったけど、わかる気がする。
Netflixがしんどいのは、エンドロールで「お次はこれ!!!」と、あほみたいなレコメンドが出るところ。
もう少し日常単位で生に休符があれば、生に終止符を打ちたくなる気持ちもなくなるんじゃないか。
くれぐれも、それを余白なんて言葉で語ってはいけない。
坂本龍一のライブをNetflixで流しながら仕事していたら、坂本龍一が突然ピアノの中側まで身を乗り出し、弦のところを小槌で叩き出して笑ってしまった。
これは道具の再発明ではなくて、人間が機械(テクノカルチャー)の一部になるという試みなのだろうか。
明後日旨いカレーが食いたいので、玉葱を飴色にまで炒める。
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zuiki · 11 months
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夏小蝿生まれてくれてありがとう
ダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言 犬と人の重要な他者性』(訳:永野文香)がよかった。
以下、引用してみる。
“『伴侶種宣言』はしたがって、〈重要な他者性〉において結ばれた犬と人間の、仮借なく歴史的に特異=種差的な共同の生における、自然と文化の内破をあつかう。多くの者がその物語に〈呼びかけ〉られる。そして、その物語は、衛生的な距離を保とうとする人びとにとっても有益なはずだ。テクノカルチャーに棲まう者たちは、まさに自然-文化のシンバイオジェネティックな諸組織の内部において、物語上も、事実上も、いまあるわたしたちの姿へと生成する。そのことを、わたしは読者に納得していただきたいのである。
 「呼びかけ」という語は、フランスのポスト構造主義マルクス主義哲学者 ルイ・アルチュセールの理論から借りている。彼は、近代国家において、イデオロギーを通じて「呼びかけ」られることによって、いかに諸主体が具体的な個々人から膨錠的地位へと構築されるかを論じた。こんにち、動物の生にかんするイデォロギー的な含意をもった語りを通じて、動物たちはわたしたちに「呼びかけ」、動物とわたしたちがその内部で生きなければならない体制について説明を求めている。わたしたちの方も、動物をわたしたちの構築物であるところの自然や文化へと「呼びかけ」入れる。そのおもな帰結として、生と死、健康や病気、長寿や絶滅が付随してくる。さらに、肉体において、わたしたちはイデオロギーでは網羅することができないような方法で、お互いとともに生きている。物語はイデォロギーよりも大きい。そこにこそ、わたしたちの希望がある。”
一冊すべてを読み切ったわけではないので、何を言おうとしているのかを完全に理解できたわけではない。
だけど、この一連の文章に用いられるすべての言葉にシンパシーを感じるのは確かだ。
「伴侶種」はなんとなく僕が感覚的に大事にしていて、個人的に「トーテム」と呼んでいる、人と”物”をつなぐ関係性に近いように思える。
そして、「呼びかけ」もまた、自分が大切にしている念仏に近いように思えるのだ。
石に名前をつけてその名前を呼んだときに感じる、あのほのかな希望。
それを思い出した。
久々の日記である。
文章がなかなか前に進もうとしない。
頭では言葉が大量に生まれていて、今か今かとその決壊を待ち望んでいるのに、手が追いついていない。
手は追いついているのかもしれないけど、もう頭のなかで生まれてしまった言葉たちがその手作業を「おっそ〜!」と揶揄している感覚だ。
一文字一文字打ち込むたびに、頂上が遠のいているような感覚がする。
山登りも一緒である。
でも、いつか一文字が頂上となるような文章を書きたいと思う。
なぜか自分の仕事部屋に、蝿なのか蚊なのか、虫が数匹飛んでいる。
今は都心のマンションで暮らすにあたって、そんなことは初めてだった。
もしかしたらどこかで卵が孵化してしまっているのかもしれないと思うと、ゾッとした。
だけど、こんなモノにあふれた茶色と黒ばかりのマンションの一室で、ちゃんと命が生まれているのだと思うと、なんだか嬉しかった。
友達がマンションのベランダでトマトを栽培していたら、ちょっと目を離した隙に、てんとう虫に全部食べられてしまったと話していたのを思い出した。
コンクリートの隙間をかいくぐって、あいつらは生きてるんだなぁ。
久々の日記であった。
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zuiki · 1 year
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置き忘れたマフラーよその子の顔
2023年1月19日
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zuiki · 1 year
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濃い味の拉麺よろしくお願いします
2023年1月17日
13時からの訪問先の近所に有名なラーメン屋があって、足を運んでみることにした。
前情報で、平日でも開店前に並ばないとたちまち1時間待ちの長蛇の列になるほどの名店だと知っていたので、開店前に並んだのが運の尽きであったのだ。
ラーメン屋の開店前に待機するのは、おそらく人生初である。
「心を込めて準備中」と書かれた看板の前には、もうすでに3名が並んでいた。
昔ベイブレードがうちの地元で異常に流行ったとき、開店前のジャスコの入り口前に母とともに並び、開店すぐにおもちゃ売り場にダッシュし、決死の思いでベイブレードを購入していたことを思い出した。
懐かしい記憶とともに、嬉々として並んでいたのだが、なんだか異変を感じた。
店前に並ぶのって、めちゃくちゃ恥ずかしいのだ。
先頭に並ぶ我々三人は、何も話さない。ただ、その”時”を待っている。
ふと想像してみる。この後、自分は店員さんに名前を呼ばれて、カウンターに座り、いまかいまかとラーメンを待ち、提供されたら即座にズルズルと麺をすするわけである。
僕はいま、食べたくて食べたくてどうしようもないやつであることを、世界に主張してしまっている。
おそらく近隣住民だろうか、老人がシルバーカーを押しながら、我々の顔をジーッと眺め、目の前をすぎていった。
老人の目からは俺たちはどう見えているのだろうか。少なくとも言えるのは、我々はいまめっちゃラーメン食べたい人だということだ。
食欲が外に向けてもろだし状態である。
この後、こいつらめっちゃすするのだろうな、と。その瞬間のために、こいつらは開店前に並び、おそらく朝飯を抜き、昨晩から食べログでメニューを見て何を食べようか考えて、空腹を我慢して眠りについたのだと。
想像されてしまっているのだ。
恥ずかしかった。もう2度と開店前に食べ物やさんには並びたくはない。
訪問先のお寺には、珍しいことにお墓の中に畑や果樹園があり、キャベツ、白菜、ニンニク、オリーブからブルーベリーからみかんまで、住職の手によって育てられていた。
これお土産にどうぞと、唐辛子をもらって、こういう農作物をプレゼントされるのって嬉しいなぁと思っていたわけなのだが、帰り道にポケットに入った唐辛子の粒たちを見て、ふと本当にこれは食べていいものなのかと悩んだ。
お墓で育った唐辛子である。
とはいえ、お墓というのは別に忌むべき場所でもないとは思う。
生と死が循環されていく場所だと思うのならば、その墓で新しい命が育まれているのは場の願いに叶っているとも言えるだろう。
でも、厳密にいうと、今生きている私たちが墓場を通して、死を悼み、亡き人を思い出すことで、死というものを日常の中で感じ取ることができ、生と死は回り始めるのだと思うのだ。
つまり、墓とは死者が眠る場所であり、その場に私たちが足を踏み入れるだけで、生と死は結ばれる。
なので、墓自体に命の芽生えを促進するのは、どうなんだろうと思えてきた。
食べるということは、何気ない行為ではあるが、とてつもないことである。
その食材が生まれた場所を、そのまま自分の体内に宿すということになる。その場所の一部を、身体の一部にするということである。
そう考えれば、その墓を自分の身体に入れてしまってもいいのだろうかと悩んだ。
たった八粒ほどの唐辛子であるが、この小さな粒に自分の死生観が問われようとしている。
果たして、僕はこれを食べてもいいのだろうか。
とりあえず、皿の上に盛って眺めることにする。
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zuiki · 1 year
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ホルモンを忌み筋肉を喰らう老婆
2023年1月16日
「ホルモンて、内臓やろ? そんなん、かなんわ、わたし」
食卓に並んだホルモン焼きを前にして、おばあちゃんはそう言った。調理した母は「そう? 美味しいよ、コリコリしてて」と言う。
それでも、おばあちゃんは一度もホルモンには箸をつけず、漬物と瓶詰めにされた牛肉のしぐれにをつまんで、ぽちぽちと白米を食べていた。
じゃあ、今すごい速さでホルモンを胃に納めていく僕たち兄弟の姿は、おばあちゃんの目にはどのように映っているのだろう。臓物をすするハイエナのようにでも見えるのだろうか。
たしかに「内臓」と思えば、食べるのは一瞬、躊躇してしまう。でも、おばあちゃんが今食べている牛肉のしぐれにの牛肉とは「筋肉」なのだ。
筋肉はOKで、内臓は忌むべきというのもよくわからない話である。
わざとらしく僕ら二人の前でそう振る舞って、内臓ヘイトを飛ばしてくるおばあちゃんに対し、兄はよく反論していた。
「何がちゃうん? そんなん、おばあちゃんが普段食べてる肉だって、ただの筋肉やねんで? ハラミは横隔膜やしな」
おばあちゃんに論理は通じない。「せやろか」とだけ相槌を打って、でも「私は嫌やわ」と振り出しに戻る。
兄も僕も、目の前で内臓をすするハイエナだとは思われたくない。ゲテモノを好んで食べているだなんて、思われたくない。
だから、おばあちゃんの偏見をロジックで打ち砕きたいのだが、そう易々と人の感性の奥深くに刻まれたバイアスには言葉は届かないものだ。
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zuiki · 1 year
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食卓の天気予報からあげの雲行き
永代供養ってすごいなと思った。
永遠に供養することを約束するサービス。そんなもの、この世にあっていいのだろうか。
普通の会社だったら間違いなく、あり得ないサービスである。
誰にも永遠を保証することはできない。というか、永遠に特定のサービスをし続けるということは資本主義社会においては最大のリスクである。
もしそのサービスが世の中の潮流的に廃れてしまったら? 永遠に無意味な行為を続け、無限に赤字を連ねることになる。
だから、永遠を謳うというのは、それほどにマヌケな存在であることを自ら主張しているものだと思う。
お寺はマヌケな存在である。決して愚かだってことではなくて、文字通り間が抜けているのだと思う。
「永遠に供養します」だなんて、言えちゃうのだから。
寺院が一生継続するものと考えている。現在のお墓文化が一生続くと考えている。
もちろんそれって愚かなのかもしれないけど、一言で「永代」と言えてしまう凄さがあるのだ。大河を丸ごと片手で掴むような次元の底抜け感。
僕にとってマヌケというのは、そういうことなのだ。僕はマヌケでいつもいたい。
実家に帰ると母が「晩ごはん何がいい?」と聞いてくる。
なんでだろうか。昔からこの回答がうまくできない。
BUMPが晩ごはんの不思議を歌っていた。
あれは親に怒られた後にご飯が出てきたらなぜか涙が出てしまうという内容なのだが、僕の場合は「晩ごはん何がいい?」にうまく答えられない、なのである。
もちろん、そのとき食べたいものがないのかと言われたら、そういうわけでもない。好物はハンバーグだし、ハヤシライスだし、いついかなる時も焼肉は食べたい。
なのに、なんでだろう。それらの料理を作ってほしいとは思わない。
食卓にそれらの料理が出されていたら、もちろん幸せな気持ちになる。テンションが上がる。でも、注文することはできないのだ。
なんだろう、それをすると、幸せが半減する気がする。
母が作ってくれるご飯は、いわば天気みたいなもので、今日は晴れだとか雨だとか、そういう自然現象に近いものであってほしいのだ。
晴れが続けば、そりゃ雨が嬉しい日もあるように、ハヤシライスの日もあれば、大根の炊いたんの日もあればいい。
そうした移り変わる食卓そのものを愛しているのだ。
だから、どんな料理でも受け入れたいし、たとえ自分が望んでいない料理ができていても、それが幸せなのである。
「こういう理由だから、何がいいとは言えない」
と母に伝えたとき、母はどういう反応をするだろうか。
少なくとも世の中の母は、「はぁ?毎日来る日も来る日も、献立作らなあかん、私らの気持ち考えや!もうな、私ら何作ったらええかわからんねん。はよ、何が食いたいか言い!」
というわけで、雨乞いをせざるを得ないのであった。
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zuiki · 1 year
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石跳ねる水溜りやポリリズム
学生の頃「空気を読む」という言葉が流行っていたが、今は同じ雰囲気の言葉として「メタ」という言葉が使われている気がする。
メタバースを発端にしているのかなんだかわからないが、メタ発言、メタ認知、メタミューズなど、なんとなくその言葉に時代の風を感じる。
芸人のネタも、メタが多い。漫才メタ、コントメタ。
はじめてアイドルメタをやったのは、秋元康の「なんてたってアイドル」だろう。
LOVEマシーンの「モーニング娘。もWow Wow Wow」は、それに続いていたように思える。
メタは「高次元の」という意味なのだそうだが、次元を超えるという行為についていえば、人間は昔から洞窟に絵を描いたり、神という存在を創出したり、マルチな次元を行き来する生物である。
メタという行為自体は、人間の本来的な作用であるように思える。
でも、なんだろうか、いわゆる近年のコンテンツにおけるメタには違和感を抱いてしまう。
アイドルだって大変なんだとアイドルが歌う。
ゲームのキャラクターが版元を匂わせるような発言を行う。
確かに、次元は越えているのだけど、なんとなく好きではないのが、そうした「仕組みを暴く」ようなニュアンスを含んでいるからだ。
つまり、そもそもはじめから世界が作動している仕組みがあり、メタ発言により、その世界の仕組みが明るみに出る、そうした概念としてとらえている気がする。
でも、それって、人間本来のメタという機能とは違うんじゃないかと思う。
うまく説明することができないけど。
とにかく今自分は、メタをやっている場合ではなく、切実にこの現実を受け止める必要があるということである。
それは決してファンタジーをやらないということではない。
たとえば、死だって人間にとってはメタな生き物のはずである。
まとまりのない話がつづいている。
雨なので、また商店街のアーケード下を歩き回っている。
自分の心の奥底には、「すべての生物が仲良くしてほしい」という願いがあふれていて、それはどこから生まれているのか気になる。
昔から競争が嫌いだ。
幼稚園の頃に徒競走で、隣のレーンでこけたSくんが心配になって、起き上がるのを待って一緒にゴールしようとしたら、Sくんに振り払われて先にゴールされた思い出がある。
なんでこんなに他人に対するエゴが解体されているのだろう。
でもなんだか、どうしようもなく目立ちたい時だってあるのだ。
どこが安定したエゴの置き場所なのか、まだよくわかっていない。
なんとなく、家に帰るまでの道で、自分が今歩いている様子を航空写真で上から撮影されたら、どんなふうに映っているのかを想像してみた。
実は、これできてしまう。
視界は目の前の現実世界を映しているのに、同時に頭では神視点での自分の姿を見ているのだ。
人は同時に二つのものを見ることができるという事実が、なんとなく嬉しかった。ポリリズムである。POLY LIFE MULTI SOULである。
メタではなく、同時をやりたい。
メタは一つの世界を切り捨てにしている。ポリは二つの世界の橋となる。
ポリは「と」ではない気がするのだ。
蜂蜜と遠雷。罪と罰。それでは遅すぎる。
「の」ではないだろうか。
蜂蜜の遠雷。罪の罰。
名詞が名詞の中に生きているということなのかもしれない。
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zuiki · 1 year
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ダリアください右手に花瓶浮かれ足
2023年1月12日
近所の花屋さんの前を通ったとき、店員さんが軒先を掃除しているのが目に入った。
あれ、なんか、ちょっと雰囲気が変わった気がする。
二度見したのがあだとなった。
その瞬間、店員さんが僕を発見し「あ〜!」と言う。
とっさに僕は「ごめんなさい最近買えてなくて〜」と、挨拶より先に謝罪を口走ってしまった。
そうなのだ、最近お花を買いに行けてなかったのだ。一年前はひと月に1、2度は通っていたかな。
花を買って生けるのがめんどくさいので、お店に直接花瓶を持っていって、その場で生けてもらうのが恒例だった。
店員さんは花瓶を引っ提げてお店を訪れる僕を、なんか少し、名物客のように受け入れてくれていた気がする。
「マスター、いつもの」
に憧れていた僕としては、
「あ〜!今日のお花も綺麗〜!」
と言いながら、店内に花瓶を持ち込んでいる自分が好きだったのだ。
それが、去年は生活のみだれから、花を飾る余裕を失い、そんな貴重なルーティンを忘れ去ってしまっていた。
愛着がある分だけ、申し訳ない。いつも暖かく迎えてくれる花屋さんに向ける顔がない。
自分の小ささが「ごめんなさい最近買えてなくて〜」に溢れ出ていた。
でも、店員さんの返事は、「とんでもないです」「今年もよろしくお願いします〜」だった。
受け入れられていた。よかった。
というか、そんなことよりも、僕の驚きは、ただ店の前を通り過ぎただけの自分を、「花瓶を持ってくるあのお客さん」として認識していてくれていたことにあった。
だって、散歩を出かけるときの自分は、帽子を被って、マスクをして、顔の下半分までダウンのフードで隠れているのだ。
顔の情報はほとんどない。それに、ここ半年くらいは店に顔を出していない。
それなのに。
すごいなぁ。
「今年もよろしくお願いします〜」と、言ってそそくさにその場を立ち去った。
変だったろうな。もっと気持ちを込めて言えればよかった。
今年は、花を飾ろう。
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zuiki · 1 year
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体育館まばたきの隙間で靴が鳴る
2023年1月11日
映画スラムダンクを観てきた。二回目である。
なぜ私たちはスポーツをするのだろうかと考える。
そんな小難しいことを考えたくなったのは、井上雄彦先生がこの作品で、スポーツというものの原始を掬い上げているのではないかと思ったからだ。
というか、物語を作るにはそのレベルのメタと掘り下げを徹底しなければならないのだという、魂の激励を受けた気がした。
描かれていたのは、生と死だった。
その間には緩やかな境界線があって、越えてはならないはずの一線を行き来する登場人物たちの物語だったように思える。
死の象徴としての海、生の象徴としての陸、その境界線である海岸でリョウタは慟哭を経験する。
「心臓バクバクでもめいっぱい平気なフリをする」
リョウタが自分のアイデンティティとして置いたのは、ま��に生と死の中間を歩もうとする姿だった。
劇的な試合の勝利後、メンバーの中で唯一、天井を見上げるリョウタ。そのままカットは沖縄の空へとつながっていく。そして、「(山王は)怖かった」と海を眺めて母親に告げる。
それは海(死)を超越した瞬間として象徴的なシーンであった。
「ゴミみてぇだな」
雪に対して放たれた言葉であるが、カメラは宮城自身に向けられる。宮城自身が自分に対して思った言葉として作用している。
ゴミとはまさに生と死のはざまの存在だ。
リョウタはゴミから復活したのではなく、自らが死に近いゴミであることを自覚し、ゴミでも生きているふりをする生き���を選んだのだ。
ゴミから蘇った三井とは対照的に描かれている。
作中では、心臓はドリブルの象徴として描かれている。心臓バクバクで限りなく死に近づいてる瞬間であっても、それでも平気なフリをする。
落ち着いて、冷静を装って、一歩歩き出す。映画はリョウタのドリブルで終わる。
生と死の二項対立の超越を達成したリョウタに対し、限りなく死に近い存在として描かれていたのが桜木花道だったように思う。
生(エゴ)の象徴が、流川だった。
花道は何度も境界線を越えていた。
作中では、先述したように死と生の境界線が何度も描かれていて、それがリョウタの場合は海岸、そしてトンネルだった。
花道にとっての境界線は、バスケのコートである。
花道はおそらく三回境界線を越えている。
観客を煽るシーン、ボールを追いかけて背中を負傷するシーン、最後の流川にパスを回すシーン。
桜木花道は、線を越えることを躊躇しない。リョウタが平気なフリなのであれば、花道はまじで平気なのだ。
「親父の全盛期はいつだ。全日本か?俺は今なんだよ」
花道はただ無謀に命を粗末にしようとしているのではなく、人生の全体を捉えた上で、今この一瞬に命を注ごうとしている。
だから、線を越えられる。
選手生命が終わることさえ、恐れていない。身体の限界を突破しようとしている。
一方、流川は生(エゴ)の象徴だった。
思えば、流川が疲労しているシーンはあまり描かれていない。
彼はあくまで山王・沢北に対し、腹が立っているのだ。
流川は競走・勝負の世界の住人であり、あくまで己のエゴとのみ向き合っているように描かれている。
彼の見せ場は、桜木に初めてパスを出したシーンだが、それは桜木によってエゴが解体されたシーンでもあった。
死の世界の住人である桜木には、エゴはない。
これがこの映画の絶妙なところであって、桜木はエゴイスティックなキャラに見えて、実は全くエゴがないのである。
表向きは自意識過剰、ナルシストなキャラクターであるが、それは仮面の姿であって、実は誰よりも冷静で状況を俯瞰している。
ゴリに沢北の弱点を教えたのも、観客を煽って空気を味方にしたのも、桜木自身に「生」(エゴ)がないからである。
だからこそ、集団と一体化することもできるし、流川という他者のエゴも解体することができた。
原作との大きなちがいである、桜木の告白シーンがカットされたのは、恋愛という代表的なエゴの発露が、この映画での桜木との役割とどうしても帳尻をつけることができなかったからだろう。
生の流川。死の桜木。その間に立つ宮城。
そうした生と死の境界線を行き来する物語が、スラムダンクTHE Firstである。
井上雄彦先生は、スポーツを生と死という人間の根源から描こうとしているのではないだろうか。
なぜ人はスポーツをするのだろう。なぜしんどいのに体を動かすのだろう。
疲労困憊した体に鞭を打って、一歩、また一歩と足を進める行為は、死に近づいていく行為だ。
本来の人間の目的が、自分の命の継続であることを思えば、スポーツはその逆を走っている。
よく考えてみると、もうすでに頑張っている選手に対し、「がんばれ〜」と声援を送ることは、「死ね」と言っているに等しい。
とはいえ、忘れてはならないのは、スポーツとは競走の世界だ。
勝敗という形で、結果がわかりやすく二分され、その力学は個に向かっている。
己の強さを証明しなければならないのは、まさに生(エゴ)の世界である。
競争は人に生をもたらし、興奮は個人の死をもたらす。
「がんばれ」という声援が死に拍車をかけ、負けるかという踏ん張りはギリギリのところで生を蘇らせる。
高鳴る心臓の鼓動は、生と死の狭間で脈打つ、今生きていることの証明であり、その音が聞こえたとき、人は一瞬と永遠の間に足を踏み入れることになる。
スポーツは生と死の芸術だ。スラムダンクが描くのは、そうしたスポーツの原始の姿だったのだと思う。
寺町商店街にホームレスがいた。
軒先にゴミを集めて、寒さをしのいでいた。
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zuiki · 1 year
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ひと息で吸う鴨川午前零時
2023年1月10日
夜中の11時、鴨川まで歩く。
走ることを題材にした小説が書きたくなって、試しに鴨川で走ってみた。
気づいたのは、顔の角度で走る気持ちが大きく変わるということである。
前方を向いたとき、その景色はあまりにも大きい。
壮大な視界を目の前にすると、自分の進む力の小ささに絶望する。
一方、1メートルくらい先の地面に目線を落として足を進めたとき、なんだろう、不思議な感覚がする。
一瞬にして目に映るものが過ぎ去っていく。
目の前に現れたものが次々と後ろへ流れていく。
いや、当たり前なのだけど。
走っている間だけは、この世のすべてのものが流線型をしている。
尖ったものも、四角いものも、ちょっとずつ後ろに流れて、まるくなる。
個としての輪郭が少しずつ他者とつながり、なめらかになっていく。
そんな全能感と虚無感の狭間を行き来するような心地がするのである。
流動体としての自分が周りの景色をも流動にしながら進行していく感覚。
でも、確かに地面だけは踏みしめている。
その大地感だけは消えることはない。
だからこそ、ギリギリのところで個を保つことができているのかもしれない。
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zuiki · 1 year
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ユッコって知らぬ名の友を呼ぶ冬は寒い
2023年1月9日
雨が降っていたので、商店街のアーケード下を歩き回ることにした。
降りたての雨の空気はじんめりしていて、トゲトゲした冬の冷たい風をサテンの布団カバーのように和らげてくれていた。
昔からずっと、優しさを持てる人間になりたいと思っていた。
なんでここまで優しいのかよ、と思えるほどの人間に憧れていた。
たぶん、最初に作品としてその無限突破の優しさに触れたのは、中村一義の「永遠なるもの」を聴いた時だろう。
初めて音楽を聴いて涙する瞬間になった。
でも、今思うのは、優しさというのも空間を移動し続けるエネルギーのようなもので、優しさの総量も補完され続けるのではないか、ということだ。
つまり、誰かに優しくできるのは、誰かにそうしてもらえたら。
芸術なんかは、一つの作品でたくさんの人に優しさを送り届けることができる装置なのかもしれない。
でも、その芸術の存在があることで、嫉妬する人もいるかもしれない。絶望する人もいるかもしれない。
世の中の優しさは常に等分されているのだ。
だからこそ、自分のことを優しい人間だと思えるというのは、疑わしいことなのではないだろうか。
僕は、僕のことを優しい人間だと思えている。
自分にも甘いし、他人にも甘いし、その甘さが優しさなのかと言われたら、難しい話になってしまうのだけど、とにかく自分で自分のことは、愚かにも優しい人間だと思えている。
それに、よく優しいと評価される。
いつか母からの誕生日メッセージに、「あなたみたいな優しい人間に育って母は誇らしい」的なことが書かれてあった。
でも、自分は本当に優しい人間なのかなぁ。不安になるのだ。
優しさが有限であるとするならば、それは僕が誰かから優しさをもらっているだけのことなのだ。
たまたまお金持ちの家に生まれたってくらいの、ただ恵まれた人間なのである。
人間性というと、その人の根源的な個性のように感じるが、そうでもないのかもしれない。
だって、幼稚園に通っていた頃、僕は暴虐の限りを尽くしていたらしいのだ。
制服、特に帽子を絶対に被らないという、その幼さにしては異次元のこだわりの塊で、いついかなる時も自分がおっぱいを吸いたい時におっぱいがなければ、ゴジラのように園内を泣いて破壊し尽くしていたそうだ。
そんなドブ犬がいつの間にか、優しい人間として評価されている。
いつそうなったのだろう。
人と人の間を移動している優しさの存在に気づいたのはいつなのだろうか。
優しさは無から生まれ得ない。
だから、僕だって、たまに酔っ払って何も聞こえてなさそうな歩行者に、小声でうんこーって言ったりするのだ。
でも、闇から光が生まれ、光からさらに闇が生まれるのだとすれば、そうした呪いからも優しさが生まれていると言えるのかもしれない。
僕のささやかなる暴言「うんこー」もまた、大気中を移動して、誰かの鼓膜を揺らして、誰かの優しさを生み出す素地を作る、そのまた元となる小麦粉の1gくらいみたいになっている可能性はある。
じゃあそれは、神様や宇宙人からすれば、「愛してる」と同じなのだ。
「うんこー」を言いたくなった僕の心にも、「愛してる」は生まれ得ている。
そうした大きな大きなはじまりに着地しそうなとき、嬉しい気持ちがする。
財布の中にずっとZepp難波のドリンク引替えのコインがある。
これはたしか500円くらいの価値があるものだ。眠らせておこうと思う。
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zuiki · 1 year
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名のなき草ちぎりて月へおそなえす
2023年1月7日
スリリングなことがあった。
とある人にとある人を紹介したいと言われて、実家にてお会いしたのだが、なんというか、何もかもが違っていて、たまらなかったのだ。
その方がいわゆる「間違っていた」のだとは言い切れない。
彼の見ている世界からすると、僕の方が違っていたのだと思うし、あくまで僕と彼の間に大きな大きな川が流れていたというだけなのかもしれない。
彼の発していた言葉の端々を思い出していこう。
「そりゃ、お坊さんはお金もってるでしょ」
「誰もやってないことだから面白いんじゃないですか」
「メディアが注目してくれるでしょ。そしたら売れる」
最近読んだ本に、人間には三種類の自己が備わっていて、同心円の球の構造になっているのだと書かれていた。
最も外側にあるのは「言うこと」、その次は「言わないこと」、そして最も核にあるのは「言えないこと」。
誰だって、お金儲けはしたいのだとは思う。
それでも、その欲望は「言わないこと」として、引き出しに閉まっているのが当然だと思っていた。
でも、彼の場合、最も地表にそれがあるのだ。
「金儲けがしたいです!」と地面に看板を指して掲げている。
それが正直でいいとか、あけっぴろで気持ちがいいだとか、そういう話ではない。
違和感は、それしか看板がないということである。
逆に言えば、その看板を掲げることで、うまくやれている。そういう世界の住人であるということなのかもしれない。
だからこそ、自分もまた間違っていたのだと、そのとき思った。
なんだか、ひどく疲れたのだけど、スリリングなひと時だった。
散歩に出かけると、抑圧がかかっていた分だけ、頭の中で色々な物語が生まれていった。
負荷が創造を生むというのは本当なのかもしれない。
彼の話を思い出していると、なぜだろうか、自分の過去もむず痒くなった気がした。
あるとき自分は、ピコ太郎みたいになれないかと思っていた。
こんまりみたいになれないかと思っていた時期もある。
なんとしてでも、売れたかったのだ。
いじらしいほどに、”成功”や”勝利”や”夢の成就”を求めていた。
別にそれが悪いわけではないのだけど、焦がれていた分だけ、身も心もひどく疲弊していた。
ちょうど家出のときだったかもしれない。
根無し草の旅をしていると、己の可能性を無限に計ってしまう。
もちろん無限なのだとは思うけど、世界、社会、他者には、どうしてもその無限の一部しか与えられない。
自己にとって自分と、他者にとっての自分、この両方のバランスを取るのが難しい。
またいつか、僕もあのいじらしさを宝物のように思える時が来るのかもしれない。
草をちぎってみる。
夜中なのでわからないけど、緑の液体が手につくような感覚。
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zuiki · 1 year
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凍つ尻の日憶えている古椅子や
2023年1月6日
昼間の散歩ははじめてのことで。
日々消費していく物を買うついでに歩くということをやってみるのだけど。
新鮮な気持ちである。
歩くという意思を持って、街に一歩踏み出したとき、全然心の持ち方が変わってくるのだ。
普段何を考えて、街を歩いているのだろう。
なんとなく、頭の中に音楽が流れていて、その歌を心の中で歌っていることが多い。
時には、漏れ出てるけど。
雨の日は雨で漏れ出た声がかき消えるから好きだ。
めっちゃ歌えるのだ。
街中、皆が着ているファッションに目がいく。
たまにいる蛍光色の人。
ダウンなんかは、教科書の大事なところかってくらい目立っている。
そういえば、昔、蛍光色に憧れていた時期があった。
浪人生の頃、ユニクロで黄色の蛍光色のパーカーを買って、俺はもう1年間これしか着ない!と宣言したものの、
結局、二日しか着なかった。
どう見ても、通学路に立つ交通安全のおばさんにしか見えなかったからだ。
あのパーカーは未だに母が犬の散歩をする際に、着ている。
その後も黄色の蛍光色への憧れを催したときがあり、ノースフェイスの黄色の蛍光色ジャケットを買ったことがある。
それも、今は母の犬の散歩のウェアと化している。
一定の周期で回ってくる、蛍光色への飽くなき渇望。
なんとなく、今は茶色の大きなもこもこに憧れている。
こないだはようやくダウンを買うことができた。
今の俺は茶色の大きな生き物である。
家具を修理して販売しているお店に入る。
店内に工房がある。
おそらく木のホコリを吸引する大きなバキューム。
家具を固定する万力。
立ちながら作業するに最適であろう台。
���崎駿を思い出す。
エプロンの男。
エプロンの男への憧れもあるだろう。
職人である、
アーコールという椅子がある。
昔のイギリスの家具である。
先日同じようにこのお店を訪れたときに、店員さんが言っていたことを思い出した。
同じ型の椅子でも、全然違うのだという。
「椅子は座る人の体を記憶しているんです」
木の椅子には、乗っかったおしりの記憶が残り続ける。
映画「すずめの戸締り」では、それがフェティッシュに描かれていた気がする。
ちょっと下品だった気もするけど。
椅子と尻のキスは、身体的な接触にあるのかもしれないが、本当のエロスはお互いの身体に相手の身体が記憶されるということにある。
木も骨も、愛した者のことを覚えているのだ。
赤信号の先頭で待っていると、後ろから誰かに押されないか不安に思うことがある。
そんな経験はないのだけど、なぜか押された感覚があるのだ。
いつか夢で見たのかなぁ。
たまたま肩が当たったのかもしれない。
でも、故意だったのかもしれない。
人への恐怖はそうした漠然とした記憶から生まれている。
でも、その人は押さざるを得なかったのかもしれない。
悪意もまた、そうせざるを得なかった、どうしようもない心の発露なのだ。
社会的な正義として語れば、許してはならないけど、個人としてはそれすらも許したいと思える。
それは俺が生きるに値しない人間だからというわけでもない。
俺は生きることに貪欲である。
ただ、悪意は自然の産物であるから、そうした悪意が発生することを、人間は常に抱きしめなければならない。
台風の次の日の田んぼのように、マヌケな顔を空に浮かべるには、こんなことがあっても恨まなかった、憎しみを持たなかったという態度を、常に見せ続けることが大事なのだと思う。
まるで田んぼみたいな男だ。
田んぼの「んぼ」のところみたいな人間だ。
少しでもおしりに愛を届けるため、正方形のマットを買った。
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zuiki · 1 year
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唄遠く夜風北風ちゃりんこの白
2023年1月5日
片手袋が落ちていた。
なんでいつも片方なのだろう。
両手袋が落ちているところは見たことがない。
人が無意識に何かを落とすのは、欠片なのかもしれない。
そのものを落とすことはない。記憶もそうかも。
欠片を落とすのは、そのものを生をさらに確かめるためなのだ。
なのか??
深夜、歌を大声で歌いながらチャリを漕ぐ女の子がいた。
酔ってるのかなと思ったら、Uターンしてチャリを止めた。
落とし物をしたらしい。酔ってないっぽい。
チャリに乗ると、再び歌い出した。
なんの曲だろうか。聞いたことがあるようで聞いたことがない。
不思議だ。なんで人はチャリンコに乗ると、ここまで自己表現できるのだろうか。
僕もよく歌ってる。歩いていて歌える人は少ないだろう。
たぶん、速さは人をひとりにするのだ。
目の前にたとえ人がいたとしても、置き去りにする。
もちろん、残像は他人に見えるが、残像のことは己だと思っていない。
数秒後の私は今、ここにいる。
そういう実存の確かさで、他者をぶん殴るような態度がチャリンコ中には現れる。
「速くなければいけない」
というタイトルで寺山修司は、随筆を書いている。
「ぼくは速さにあこがれる、ウサギは好きだが、カメは嫌いだ」
冒頭の文章。
そして、レースにおける速度は比喩であり、僕たちにとっての速度は実存なのだと。
なんとなくわからんでもない。
チャリを漕ぐ俺たちの実存。
僕は面白くなりたいと思う。
そういえば、小学生の時は、「お笑い芸人になりたい」と言っていたことがあった。
吉本新喜劇の島木譲二に憧れていたのだ。
ただし、昔からから面白いことを自分から仕掛けることは苦手なのだ。
島木譲二がすごいのは、己から仕掛けているのに、主役は他者に委ねている点だ。
「アホだねぇ」って言われたいのはなぜなんだろうな。
焼き鳥屋の入口の隙間から幸せそうに酒を飲む男女の姿が見える。
喉から手が出るほどに、彼女がほしかったとき、その光景に恋焦がれていた。
焼き鳥屋は暖かそうで、俺の今はあまりにも寒いのだ。
アイドルグループにアイドリングと名付けた人、自分のことを天才だと思っただろうな。
いや、そんなことないか。
マクドナルドのM、割れ目と見るか谷間と見るか
ヤンキーに背後から煽られるが、ビビってないフリをして悠然と歩く様、愛おしい。
気づかないふりという最低限で守ろうとする矜持。
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zuiki · 1 year
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句詠む隙なし空っ風三ノ宮
2023年1月4日
THE FIRSTスラムダンクのことしか考えられない。
本当にいい作品というのは、嬉しい寂しさがあるものだ。
だって、出会いがあって別れがあるのだもの。
嬉しくて寂しいのは当たり前で、逆にそう感じない作品というのは、人間というものを描けていないのではないかと思えてしまう。
コントのように平面的で、コンセプトだけが先行していないだろうか。
シソンヌのコントが好きなのは、そういうコントではないからだ。
宮城リョータという自分が好きだったキャラクターに、新しい物語が添えられて、自分のことのように嬉しい。
でも、新しさは感じなかった。
描かれていたのは昔見たままの宮城であり、新しい物語が付け加えられていても、それは宮城なのであった。
だから、この物語は、井上雄彦先生のなかで、元々あったものなのだと思う。
スラムダンクのキャラクターは生きている。
その生きている感は、いかにして表れているのか。
元々”ある”ということが、その要因だと思うのだ。
設定があったり、歴史がある。そういう次元ではない。
過去も未来もすべて、井上先生はすべてのキャラクターのすべての瞬間にアクセスできて、その永遠の一瞬がコマとして描かれている。
そう言えるだろうか。どうすればそんなことできるんじゃいわれ。
三宮の深夜、繁華街のなかでは季語は見つからない気がする。
詠めなさそうな夜である。
月、風、空、そんなものしか見つからないが、すぐそばに常に自然はあるのだと思えた。
たとえば、引きこもった部屋のなかにも、じんわりと自然が染み込んでいて、気づかない季語もあるのかもしれない。
あと、俳句がすごいと思うのは、〇と〇が似てると言わなくていいところだ。
ものをふたつ並べるだけでいい。二物衝撃。
ものとものは、その選択のなかでつながっている。
本来的にあらゆるものはつながっていて、ただ二つをきりとることで、その関係性が浮き彫りになるということなのかもしれない。
スラムダンクのキャラクターも同じことを言えるな。
あ、そうだ。スラムダンクをみてて、ちゃんと自分自身の傷を物語にして書きたいと思った。
なぜか書けると思ったのだ。おばあちゃんのことになるだろう。
スポーツもスポー��漫画もあまり読んでこなかったが、スポーツの良さがわかった気がする
勝ち負けじゃないのだ。いや、勝ち負けなんだけど。
つまり、負けたくない、勝ちたいという意志がごく自然的に踏ん張りを生む。
そして、その踏ん張りには人生が見えるからだ。
人生という長いスケール、地球という遙かな大地を想像したとき、その一試合の勝ち負けなんてどうでもいいことだ。
でも、勝たないといけない。でも、負けてはいけない。
そのどうでもいい一瞬の試合だからこそ、人間のすべてがあらわれる。
地球の危機や、生死のかかった戦いでないからこそ、なぜ勝ちたいのか、なぜ負けたくないのか、が如実に現れてくる。
いいなぁ。
占い師が商店街にいた。チケット屋さんの前。
目を合わせると、会釈をしてくる。
これは占い師による営業テクニック。目を合わせてはいけない。
これも魔法であろう。
三宮の飲み屋街。店の前で路上に倒れ込み女の子が号泣している。
「なんていわれたん?」
介抱する男がしきりに聞いている。
どうすれば、一人の人間をひとことでここまで泣かせることができるのだろう。
タワマン文学とは、都市の中で読むべき季語がないと嘆いている俳句のことなのではないだろうか。
趣を求めて、趣がないと詠っているように思える。
自販機の「つめた〜い」も見たくないほどの寒波。
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zuiki · 1 year
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道欠けたコンクリートや冴ゆる月
2023年1月3日
散歩に出たものの、なかなか仕事のことが頭から抜けない。
リソグラフという印刷手法を、仲間に教えてもらったのだ。
このやり方で印刷すると、紙面に掠れとかムラが現れるらしい。
あと、色と色が混ざったりもする。それは本当に一つずつ色を重ねているからなのだ。
当たり前のように紙に印字された文字を読んでいるが、よくよく考えると、この世界にとって印刷とはどういう行為なのだろう。
それは模倣なのか、それとも拡販なのか。一を多にする行為と、一を一’にする行為は違う気がする。
印刷は世界にとって自然な行為なのだろうか。
そんなことを考えはじめると、もう終わりである。
ふと独り言を口に出してみる。
「あの聞いてほしいねんけど」
何も聞いてほしいことはないのに言ってみる。
心の中にあった言葉が、口から出て、耳を通って、音になって、意味としてまた心に帰っていく。
なんだか、元々は自分の言葉であるのに、一人の時に声に出すと、自分とは切り離された何かとして聞こえてくる。
心と自分という存在はよく混濁する。
声に出した瞬間、その言葉の主体が心のなかから飛び出て地面に足をつける感じだ。
自分のことを他者として見つめなおすことができるのかもしれない。
もしも人間が川なのだとしたら、俺は小川でありたい。
真っ暗なみちを懐中電灯を持って歩いている俺の姿は、遠くから見ると火の玉に見えるんじゃないかな。
誰かにとってのオカルトになることが多い人生だ。
昔、京都の将軍塚で知らないカップルにガチモンの幽霊として見間違えられて、怖がらせてじったことがある。
真っ暗な畑に、懐中電灯を当てる。畑のゴツゴツとした肌が露わになり、エロティック。
エロスとは何かを俺は知らないといけない。
たくさんの小学生が車に轢かれたという通称「魔のカーブ」。
でもこれ民家の裏なのだ。
自分の家の裏で人が事故り続けるのって、どういう気持ち?
こんだけ歩いてると人の家なんて小さいものだなと思えてくる。
たった10歩くらいの幅で人は生きているのだ。
世界地図の上を歩いている感覚。移動するものはでかい。
昔から、小学校の友達ばかり夢に出てくる。
最近の友達が夢に出てきたことはない。
中学になって、皆が大人にヤンキーになっていったからなのかな。
悲しかったからなのかな。
仲良くしてほしかったのだ。仲良くあれるはずだったのだ。
でもなんか、みんな線を引こうとしていた。
仲良かったときの記憶がちゃんとあるはずなのに。
通学路。20年前と同じ道を歩いている。
サッシの入ったコンクリートから下の水路がちらっと見える。
全く変わってない。
もし道を舗装して、コンクリートを捨てるときがあったら、分けてほしいな。
というか、今ここに欠けているものがあれば、奪っちゃおうかな。
そのコンクリートで器を作って、水を飲みたいよ。
道のまんなか、そこだけ欠けたコンクリート、今日の月みたいだ。楕円形。
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