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#オーシャン・ヴオン
shinayakani · 4 months
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240111 状況と言葉(断層のただ中で)
 さて何から書いていこうか、などと書き出せるのならまだいいものの、書きたいことが全く見当たらない。年末年始にまで至る数ヶ月の間は雑事に追われていたこともあるが、持ち前の怠惰が遺憾なく発揮されていた(能動的な怠惰って何?)と、弁明せずに言えばそれに尽きる。しかしそれとは別に、私が言葉を綴ったところで、その言葉たちがどんなものであっても、現実と対峙するにはおそろしく安直で愚劣なものにしか映らなくなってしまうような出来事が、現在進行形で起こっている。いや、そもそも何十年もの間ずっと起こり続けていた。
《教えてください。/非暴力で訴えても世界が耳を貸さないのだとしたら、銃を取る以外に、ガザの人たちに他にどのような方法があったでしょうか。反語疑問ではありません。純粋な疑問です。教えてください。》――岡真理『ガザとは何か』
 国際法は機能していない。「暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる」。おそらく。私はそんな世界で生きていたくないし、人間は生き続けることができない。しかしまた、あからさまな暴力や不正が行われ続けているにもかかわらず、あたかも何事もないかのように隠蔽され取り繕われた日常を生きることが、どこまでできるだろうか。一つの固有名、パレスチナ――これまでの「歴史」が一気に凝縮されたかのような土地の、名――を避けるようにして、それどころかあたかも存在すらしていない/いなかったかのように書かれる言葉の欺瞞。私もその欺瞞を共有している。遠く離れた土地での出来事だって? いまでは訳知り顔で「恥辱」という言葉を使うことも、自身を省みて「ヒューマニティー」を易々と鼓舞することすらも耐え難い。だがそれでいて、沈黙することは許されていない。苦境を生きる者(当事者、マイノリティ…)や傍観者(非当事者、マジョリティ…)というお馴染みになった区別は、出来事を語る際にただ自身の安全を担保して距離をとるための手段になってしまうのなら、適切なものとは言えない。そして長く続くこの惨状に関して、外地への収奪によって駆動し続けた末に現在まで至った「近代」の歴史を少しでも顧みれば、発言する者の複数の立場などというものは、もはや存在しえるのだろうか。現在の虐殺を、いまに至る占領を止めさせること以外に。
(240104)
《ツィフェル「ちょっといっておきたいことがある。民衆が権力を奪取するのは、ぎりぎりの窮地に追いつめられたときだけだよ。このことは、概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある。首筋まで水に漬かったときだけなんだ。ひとびとはカオスを、革命を恐怖する」
カレ「それを恐怖するばっかりに、とどのつまりは地下壕のなかに、頭上には爆撃の音を聞き、背後にはSS隊員の拳銃を感じながら、うずくまることになるんだ」
ツィフェル「そして腹のなかはからっぽになり、子どもの埋葬に外へ出ることもできなくなるんだな。しかし秩序は厳然と支配していて、ひとびとにはほとんど、ものを考える必要がなくなるだろう」
〔…〕
ツィフェル「きみに誤解されないように付け加えておくと、ぼくはひとびとを批判してはいない。批判するどころか、その逆だ。尖鋭な思考は苦しいもので、それをできる限り避けるほうが、理性的なんだ。ぼくが知っている国々のように、異常なまでの思考を余儀なくさせる国々では、ほんとの話し、とても生活は不可能だよ。不可能だよ、ぼくが生活と名づけるものは」》
 ――ブレヒト『亡命者の対話』ⅩⅣ章
 戦時中に異国の地を転々としていたブレヒトによって書き継がれていた本のなかで、上に掲げた対話は「革命と思考とにたいする恐怖について」と題された章で交わされる。私が住んでいる国においてはとりわけ、誰もその内実を知らない「革命」というものを、何も性急にぶち上げたい訳ではない(念のため。政治に関して言えば、その言葉が特に空疎なものに響くというよりは、私たちにはもっと最低限な認識すら欠けているのが現状だろう)。ここで気になるのは、「革命」と「思考」と呼ばれるものが、互いに密接に関係するものとして言われていることだ――《概して人間はぎりぎりの窮地に追いつめられたときにだけ思考する、ということと関連がある》。
 人が何事かを思考しはじるのは、それを不可能にする事態に直面した時だけだとするならば、普段の生活において行っているものは、どこまで思考と呼べるものなのか。文中《厳然と支配していて》と言わるほど圧制的なものではないにしても、秩序は存在している。その中でそれなりの生活を享受している私たちは、一時的に「カオス」から守られもするだろうが、はっきりと目に見えてやって来る外部からの衝撃、またはそれまで(確実に存在していながら)眼前に一瞬だけ過るものにすぎなかった内部の破れ目から漏れ出したものによって、いつの間にか、これまでの自動的な習慣を取り繕いながら維持し続けることは不可能なものになって行く。そこにおいてこそ思考が発生する余地があると言うこと――だが、それ自体も「カオス」の領野に属するものを、受動性においてもなお引き受けなければならないというのは、困難な要請ではないか。何よりも身体が直接的な暴力(戦争、窮乏、災害、病い…)に曝されている状況にあっては、なおさら「思考」などと安穏に言ってはいられない。
 なるほど、人は自分自身が耐え難い災厄に遭遇してみないかぎりは、他者の苦痛を、よくても「想像を絶するもの」と片付けるだけで、それについての思慮を能動的に働かせるには及ばないのかもしれない。現在の生が、自分たちの安全が、維持されているかぎりは……。そんな風に呟きながら行き着く先が、偽装された政治的言説にお決まりの賢しらなニヒリズムに陥るか、道徳教師よろしく訓戒を垂れるだけならば、もっと救いがない。西欧流のヒューマニズムの復権なんてもうとっくに擦り切れていて、場合によってはそれが発言する者の利害に関わっているものにすぎないようにも思われる。しかし、そういった気分もまた、ともすれば単にシニカルな認識をもたらすだけならば、共犯的な愚かさだ。
 たとえ自身の罪悪感や無力さから出発したもの(ヒューマニズム?)であったとしても、人々を、どんな形であれ現状に抗する行動と思考に駆り立てる動機となるならば。狂気一歩手前で、「われらの正気を生き延びる道を教えよ」。兆候となる自発的な行動と、やって来るはずの未だ形を成していない思考が、これまでのヒューマニティとは異質の次元を切り開くものとなるならば……。
(240109)
 政治的な発言をする時、曖昧な言葉を繰り返し口に出すだけならば、それは有効な力を一切持たない。私の言葉は優柔不断なものに見えるのと同時に、読み返す気がまったく湧かないほどに、ひどく固まって動きのないもののように思えて、息苦しい。ここでいつも似たような言葉を書き綴っていたことにも言えるが、その度に経験と知識が足りないことを痛感させられる。言葉は、その意味が了解可能なものになり、さらに手垢に塗れた使用に慣れたものとなった時、すでにその役目を終えてしまう(言うまでもなく、政治的な性質を帯びた言葉に限った話ではない)。それに比べると、上に引いたブレヒトの言葉からは何度読み返しても不思議な魅力を感じる。事態は切迫していて、現実に彼の政治的な立場は明確なものであったと思うが、彼が書く言葉にはいつも奇妙な揺れがある。曖昧さとも異なる、この距離感と軽やかな(?)動きは、いったい何なのだろう。
 この本を読んでいたのは昨年の九月だったようだが、そもそもブレヒトを読みたくなったのは、同じ頃に久しぶりに手に取った『彼自身によるロラン・バルト』で度々言及されていたのがきっかけだった。
〈R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。/「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどというのは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるかというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)〉――「ブレヒトからR・Bへの非難」
 バルトが上に引いている警句にも、どこか奇異な言葉の揺れ動きがある。そしてバルトは同断章の末に、政治的な言葉が反復されずにすむ(手垢に塗れ固定したものにならずにすむ)、まれな条件を三つ上げている。その中の二つ目はブレヒトに関わる場合(それも「控えめな場合」)として、こう言及する――〈著述者が、ことばづかいというものについて単に《知的理解》さえもっているなら――みずからの生む効果についての知識によって――厳密でありながら同時に自由な政治的テクストを生みだせばいい。そういうテクストは、すでに言われていることをあらためて発明し変容させるかのように働き、自身の美的な特異性のしるしについて責任をもつことになる〉。さらにまた、以下は別の断章で詳述されているもの。
〈ブレヒトの場合、イデオロギー批判は、《直接的に》おこなわれているのではない(さもなければ、それはまたしても、しつこい、同義語反復的な、戦闘主義の言述を生み出す結果となっていただろう)。それは、美的な中継を経ておこなわれる。反イデオロギーが、ある虚構の下に身をひそめるわけだ。リアリズムの虚構ではなく、《適正な》虚構にたよるのだ。たぶん、ここにこそ私たちの社会において《美的なもの、美学》の演ずる役わりがあるのだろう。《間接的でしかも他動詞的な〔現実に働きかける〕》言述のための規則を提供する、という役わりである(そういう言述は言語活動を変形することはあるけれども、みずからの支配力、みずからの善意を掲示したりはしない)。〉――「イデオロギーと美学」
 《美的なもの、美学》? 危機が切迫している現状において、それは慎ましいもの、どころか全く呑気で欺瞞的なものに響くだろうか? たしかに、あたかも外部の喧騒から逃れることができるかのように自律性を誇示するだけの言葉を書くだけならば、そうだろう。しかし、言葉を読む/書くという思考の次元というものがあるとするならば、それは、実際に身体が生きている現実から影響をつねに被り続けながらも、現実の生に対して謎めいたずれや断層を幾重にも孕んでいるものだ。言葉は現実そのもの(出来事やそれぞれの生)に対して、直ちに結び付くことはない――「早すぎる、遅すぎる」。ましてやそれが、当然のように久しく繰り返されてきた愚劣を打ち破るために、現在に介入しようと試みる言葉であるならば。もちろん、短絡的に大多数の人々に動員を促すことは、つねに心許ない。その意味で思考、言葉にできることは、あまりに慎ましいものだ。
(240110)
 ブレヒト=バルトの教え。リアリズムではない《適正な》虚構が、具体的にどのようなものであるかは、引用したバルトの文章からはそれ以上詳述されていないが、彼によれば《間接的でしかも他動詞的な》言葉は、読む者の言語活動を変形させる。さらにまた、その言葉によって語られる物事は、反復され自明視されたものとしてではなく、つねに奇異なものとして示し出される(再発見される)。出来事は、つまり、変容可能性に開かれたもの(変化の兆し)として見出される。
 おそらく、美的なものは、あらかじめ自律的なものとして創造されるのではなく、まず第一に外との折衝がなければ生み出されえない。どこまでも「政治的な」現実に対峙しながらも、現状を掻い潜るように揺れ動き、読む者の言語活動(思考の動き)を変形すべく働く言葉――現実に働きかける「問い」となる言葉を、いかにして書くことができるか。
 ここでふたたび、書く身体と読む身体の問題に帰ってくる。
《僕は一体的な作品群〔body of work〕を作り上げたいと考えたことは一度もない。ただ、僕らの体〔body〕――息をする、説明の付かない存在――を作品の中に保存したいとは思う。》
《偉大な本は政治的なものから自らを“解き放ち”、差異という障壁を“乗り越えて”、普遍的真理に向けて人々を一つにする、と人は言うだろう。��れはとりわけ、技巧を通して成し遂げられる、と。では、その方法を具体的に見てみましょう、と人は言う――まるで、そうして組み立てられるものが、それを作った衝動とは切り離されるかのように。まるで人間の姿形を考慮することなしに、最初の椅子がこの世に現われたかのように。》
 ――オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』
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straycatboogie · 1 month
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2024/03/25
BGM: Prince - Purple Rain
今日は遅番だった。今朝、ぼくはオーシャン・ヴオン『地上でぼくらはつかの間きらめく』の続きを読もうとして着手したのだけれど、本の中身に入っていくことができなかった。もちろんこの本は実にすばらしいものだ(再読なのだけれど、実にリリシズムを湛えたみずみずしさにあふれた1冊と思う)。だからなんでこんなことを考えてしまうのか自分でもわからない。たぶんこの感覚は外で降っていた雨の影響かなと思った。そういうことが起こりうるのもまた人生というものかな、と悟ったことを言ってみる。
本に入り込めない時に、村上春樹の初期の逸品『1973年のピンボール』の主人公のような感じでぼくは自分自身に静かに語りかけたりする。メモパッドを眼前に置いて、そこに英語でアイデアの断片を書きつけていくのだ。言い換えれば、いわゆる自己内対話というやつで自分の内なる思いを「吐き出す」(文字通り「心のゴミ」を出していくわけだ)。でも、そんなことをしてもぼくの中の相手の人格(言葉に答えてくれるもう1人の自分)は沈黙したままで答えてくれなかった。だから諦めてしまった。
仕事の合間、休憩時間にこんなことを考えた――いったい、幸せとはなんだろう、と。実を言うと、あきらかな事実として(この日記にもちょくちょく書いてきたことだが)――ぼくはぜったいに成功した、パーフェクトな人間ではありえない。何度でも言う。でも、ぼくはこの小さな自分、そうした「完璧になれない」自分に対する諦めと共に生きる自分に共感・同情を感じる。いじめに遭った時期があったり、シビアな時期を生きさせられたりしたからかもしれないのだけれど、かつてはぼくの中に強い強迫観念があってそれに苦しんだ。強くなるのだ、成功するのだ、みんなを見返すのだ、などなど。
それを一概に悪いとは言わない。ある意味ではそういうのを「野心」「野望」と言うのだろうとイヤミでも皮肉でもなく思うからだ。でもぼくの場合は、そうした強迫観念が頭がおかしくなるくらいのところまでぼくを追い詰めたことを思い出せる。気が狂いそうなほど、「成功しない自分」と「理想」のギャップに悩み……リアルでいまの友だちに出会って、その後いろんな試行錯誤を積み重ねて恥をかいた。その恥をかいた経験がぼくを鍛えたのだろうと思う。
いま、ぼくは日常生活において英語を学ぶことを楽しめている。ほぼ毎日、Zoomで開催される早朝の英会話のミーティングに参加し、そしてWhatsAppやDiscordやMeWeで友だちと英語でのコミュニケーションを楽しむ。この指で触れられるはっきりした幸せというものはそうしたところにある、と感じる。このスキルや興味を活かしたことができれば、とも考えられるようになった――教えること、あるいはこうして書くことによって。いや、そのためにはまず動かないといけないのだけれど。
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t0ri0923 · 1 year
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1/9
8時ぐらいに目覚めるが二度寝して結局14時に起きる。流石に活動のリズムを少しずつでも午前にずらしていかないといけない気がしてきた。
もやしのナムルを作って、冷凍しておいたご飯を温めて、インスタントのコムタンスープに入れてクッパにして食べる。ナムルは少ししょっぱくしすぎてしまった。
少し歩いて郵便局と区立図書館に行って用事を済ませる。ちらほら振袖を着た人に出会い、今日が成人の日だと気がつく。地元はいわゆるヤンキーがまだ元気な地域なのでもっとお祭り騒ぎなのだが、この辺りはとても穏やかだ。
図書館でオーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかのまきらめく』と、おととい本屋さんで見かけて青い表紙が綺麗で気になったヤスミン・クラウザー『サフラン・キッチン』を予約して、以前ツイッターのフォロワーさんから勧めてもらった徐智瑛『京城のモダンガール』を借りる。祝日だからか小さい子供から、勉強する中高生や時間を潰しているおじさんなどすごく混んでいた。
最近、夕暮れ時の空の染まり具合がとても綺麗だ。この2週間ほどは完全に引きこもっていたので、なんだかすごく気持ちが良い。
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1/10
久しぶりに大学で講義を受けた。もともと後は論文を出すだけなので講義は出なくてよいし、そもそも履修登録もしていないのだが指導教授のことが好きなので律儀に出席してしている。
生協で製本ファイルを買って、いよいよ印刷して提出だ!と意気込んだところ、次々に誤字脱字が見つかるのでもう一度確認して明日出直すことにする。私は絶対に校正者にはなれない。
大学からの帰り道でコンビニに寄って朝食用のロールパンを買う。ちゃんと起きられたら韓国の屋台トーストのイメージで千切りキャベツを入れた甘い卵焼きを挟んで食べるつもりだ。
文春の東博館長の記事を読む。東博レベルが「光熱費が賄えない」と言うと流石に多くの人が危機感を感じるのかとTwitterを眺めながら思う。
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findareading · 2 years
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めくられる紙の一ページは、対のない一枚の翼だ。だから、空は飛べない。でも、僕たちは心を動かされる。
オーシャン・ヴオン著/木原善彦訳『地上で僕らはつかの間きらめく』(2021年8月、新潮クレスト・ブックス)
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『赤い魚の夫婦』宇野和美訳、グアダルーペ・ネッテル作、現代書館
『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』姜信子監訳・一文字辞典翻訳委員会訳 キム・ソヨン作、CUON
『地上で僕らはつかの間きらめく』木原善彦訳、オーシャン・ヴオン作、新潮社
『パッセンジャー』杉山直子訳、リサ・ラッツ作、小鳥遊書房
『星の時』福嶋伸洋訳、クラリッセ・リスペクトル作、河出書房新社
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hummingintherain · 2 years
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12月29日(水)
 仕事を無事収めた昨日。年末年始の休日が長めに担保されており有り難がりながらさっさと帰省することとなる。地元が遠いと、地元ネタがそのまま話題になる。こちらとしては初手でそれなりのリアクションがとれる鉄板ネタ。年末は特に帰省の話になりやすいので、昨日も暇をもてあそんでいる時間帯に年末年始の話になり、年末はどうするんですか~帰省します~ああそうなんですか地元どこですっけ~からのそのまま帰省の話になり、何時間くらいかかるんですか、とか、何で帰るんですか、とか、どんなとこなんですか、とか。たまに行ったことのある人に出会うのだけれど、逆に驚く。有名処はあるけれども、それを越えてこちらが思っているよりも情報量が出てくると更に驚く。
 年末をほぼ振りかえる間もなく年始を迎えそうだ。めまぐるしさに絡みとられている場合ではないのだけれど。当たり前に明日もずっと続いていく。
 たしか、去年の十二月のあたりは、積極的に年末年始に読む本を考えていた。今年は慌てふためいている間に時が過ぎてなんだかじっくりと考えられずにいる。去年は、年末のあたりで『プルーストを読む生活』を読み始めた記憶がある。ただ、帰省するにはあまりに物理的に巨大だったので、帰省の新幹線では持ち運びしやすい文庫本を選び、若松英輔の『悲しみの秘義』を読んだことをよく覚えている。再読の本だ。一緒に持って帰ったのは小川洋子だったか。『悲しみの秘義』の読了ツイートを出して、多分ハッシュタグかなにかをたぐってだと思うのだけれど、知らない方が写真を見て表紙に惹かれ、読みたいと呟いていた。その後、読まれただろうか。元気にしておられるだろうか。そうした記憶が付随しているから、余計に印象的に覚えている。来年も『悲しみの秘義』から始めてもいいかもしれない。
 そういえば今日で帰省をするのだから今年読んだ中でとても印象的だった、いわゆる今年の十冊を選ぶのであれば今ぐらいしかタイミングはない。本棚を離れても印象的な本というのは頭に残っているけれども、そうはいっても人の記憶なんてあてにならない。今年はまじめに読書記録をつけていないので、余計に怪しい。今年は時間はやたらあったけれども、一体何冊読んだんだろう。わからない。でもあまり気にしていない。独断と偏見で、書いておこう。まだあと、今日を含めて三日あるけれども、暫定で。なんだかんだ振り返ろうとしている。
・光の犬/松家仁之
・海をあげる/上間洋子
・ゼロエフ/古川日出男
・長い一日/滝口悠生
・地上で僕らはつかの間きらめく/オーシャン・ヴオン
・読書からはじまる/長田弘
・目の見えない白鳥さんとアートを見にいく/川内有緒
・ことばの途上/岩瀬崇
・夏物語/川上未映子
・まとまらない言葉を生きる/荒井裕樹
 溢れている本も多い。『プルーストを読む生活』もそうだけれども、植本一子とか、日記本をよく読んだ一年だった。今じっくり読んでいる『天使日記』だってとても、とてもいい。佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』のラストの描写もあまりに好きで、手帳を開いてすぐ読めるようにコピーをとってある。絞るなんて酷なものだと自分でやっておきながら思う。あくまで、今、この瞬間であって、一時間後には、明日には、また変わっている可能性はじゅうぶんあるけれども。怒濤の一年だったけれど、たくさん本を読めたぶん、幸福な出会いも多く、楽しかったな。今年の小説のハイライトはなんといっても松家仁之とオーシャン・ヴオンとの出会いだと思う。それほどに自分の中では強烈だった。これからも面白い本に出会いたい。もっと、もっと、雑食に、面白い本を読んでいたい。
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straycatboogie · 1 month
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2024/03/17
BGM: U2 - Get On Your Boots
今日は休日だった。朝、恒例のzoomでのミーティングで英会話に興じる。その後、これまで続けている英語のアクティビティ(つまり、どんなことを英語を学ぶ上でやってきたか)をメモパッドに書いていった。たとえば英語で毎朝日記を書きつけ続けていること、いつも書いている英語メモ、DiscordやMeWeでの英語でのコミュニケーション(単にチャットしているだけだが)、そしてその他SNSを使った交際。その後、図書館に行きオーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』を借りる。
10時より、zoomを使った「発達障害を考える会」のオンラインミーティングに参加する。そこにおいて、ぼくの発表の板に上に書いてきた英語活動について話す。この学びの始まりをたしかに思い出せる。なぜこんなふうに英語を学ぼうと思い始めたのか――その昔、40歳の時(そしてすでに人生に絶望していた頃)、いまのジョブコーチの方に言われた言葉が発奮するきっかけとなったのだった。「あなたの英語はきれいでわかりやすいです」と。そしてほぼ同時期、MeWeで別の友だちが言ってくれた。「あなたの英語はクールだ!」。ああ、そこから変わったのだった。
でも、だからといって「英語は必須! できないのは単にあなたが怠惰だからだ。世界はグローバル化しているんだから」なんてことは言わない(「口が裂けても」言わない。ぼくだって皮肉でもなんでもなく、きわめて怠惰な人間です)。この世にはすでにいろいろなデバイスが存在する。平たく言えば、翻訳してくれるポケトークのような機器がある。そうした機器はきわめて早く・的確に英語に翻訳してくれる。それらを使うな、なんてことは言わない。便利なのはいいことだ。ただ、思い出すのは「サピア=ウォーフの仮説」だ。使う言語がその人の考え方・フィーリングを左右する(可能性を持つ)というもので、この仮説にしたがえば言葉を学ぶこと・話すことは別の言語へと自分を開くチャンネルとなりうる。だから興味を以て学べるのだろう。
そのミーティングでは、他の方のプレゼンテーションも楽しめた。特にある方の「ルッキズム」という現象に関する発表が面白かった。これは見かけ・外見がその人の印象を左右しかねないというものだ。言い換えれば外見がその人に対する偏見を生むきっかけとなる(「偏見」なので、騙されることもある)。ぼくが思い出すのは、とあるアメリカのネイティブの方の話。この方は英語教師で、アフロ・アメリカン(俗に言う「黒人」。ただ、彼女のルーツはよく知らない)なので「ヒップホップはお好きですか」と訊かれてそれで困ったのだとか。もちろんアフロ・アメリカンならヒップホップなどの音楽に通暁しているという偏見の産物だろう。
夜になり、またある友だちの英語でのzoomのミーティングに参加する……ああ、アホみたいにたくさんの機会を介して英語に触れている。勉強家? ではないだろう。なんというか、自分でも「英語クレイジー」だなとあきれてしまった。
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straycatboogie · 2 years
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2022/07/13
BGM : Masayoshi Yamazaki "HOME" 今日は休みだった。午前中、とある方とDiscordを通じて通話をする。私が住んでいるグループホームのことや今回行われた選挙のこと、私が通っている英会話教室や私が続けている仕事のことなどを話す。楽しいひと時だった。ただ、これからやりたいことを訊かれて言葉に詰まってしまった。これから叶えたい夢……自分にはそうした確かな未来へのヴィジョンがない。前にはベストセラー作家になりたい、なれないならせめていっぱしの作家になりたいという夢があったのだが、そういう目標もなくなってしまった。諦めたというか、今の境遇でもかなり満足できているというのが正直なところなのだった。
それで、Facebookにも書いたのだけれどもう「夢はな��なってしまった」ということでいいのではないかと思った。いや、これからやりたいことはいろいろある。ジョブコーチの話だってあるし日記だって書き続けていきたい。恋愛だって楽しみたい。だけど夢とは何だろう。私が心の奥底から望むことは「多くの人に読まれたい」「リアルな反応が欲しい」ということなのだけれど、それはもう実現していることでもある。これでいい……足るを知る、という言葉もあることだし、前にも書いたけれど小津の映画の登場人物の言葉のように「欲を言えばキリがない」と思ってしまうのだった。欲や夢を持つことに疲れてしまったのかもしれない。
午後、アメリカ在住のとあるムスリムの方と英語でチャットをする。彼女が「あなたはビューティフルな人だ」と言って下さった。いつも書いていることだが私自身は性欲だって持ち合わせているし、そんなにクリーンな人間ではない。だが、そういうナスティな要素をむき出しにして生きるのもみっともないと思っている。それが私の流儀だ。彼女と文学について話をする。私が愛読した小説としてポール・オースター『ムーン・パレス』を薦めた。彼女はディーリア・オーウェンズという作家の『ザリガニの鳴くところ』という本を薦めて下さった。調べると邦訳もあり評価も高い。さっそく読んでみようと思った。
彼女に教わったのだけれど、ポール・オースターの息子ダニエル・オースターがヘロインの過剰摂取で亡くなったそうだ。まだ若いのに……それで私も依存症で苦しむ人間として、このことを機に何か書けないだろうかと思った。私は結局フィクションを作れないので自分自身が生きてきた過去をベースに、自己の恥多き人生を告白する形で書ければ、と……そうして書いてみた。「今」自分がしなければならないことが見えてきたように思った。時間は待ってくれない。未熟でも不勉強であっても、私は結局書き続ける。それが私という人間なのだろう。彼女に薦めるべくオーシャン・ヴオンやイーユン・リーの小説などを読んでみようかと思う。
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