. 今年の「2大行かねばならぬ行事」の1つ「御柱祭」は先だって無事遂行。 もう1つの「善光寺御開帳」に行ってまいりました。 (1) 仁王門 この裏側にある三宝荒神像と三面大黒天像を夜中に撮りまして、それをぜひ御覧いただきたいところでしたが枚数に限りがありますのでまた別で。 (2) 山門 「善光寺」と書かれた額は、通称「鳩字の額」。 3文字の中に鳩が5羽隠されています。 さらに「善」の一字が牛の顔に見えるのは「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語るそうな。 (3)(4) 回向柱 上部の梵字5文字は「キャ・カ・ラ・バ・ア」(空・風・火・水・地)と書いてあるそうな。 ちなみにGoogle検索で「回向柱 文字」と入力すると「回向柱 文字 下手」と出てくる。 正直なところ僕もちょっと思ってしまった。(罰当たりめが!) (5) 回向柱をよく見るとツートンカラーになっているのが分かる。(おっさんはバイカラーなんて言わないよ) これはウイルス対策として、光触媒コーティングされているからなのだ。 (6) 夜の参道。あまりにも人がいないと「善光寺はオレのもの!」って気になるよね? ならんか。 (7)(8) 夜の回向柱。 夜はいいぞ~! 夜は触り放題だからね~! (9)(10) いま善光寺界隈で熱い戦いを繰り広げているのは、「コロッケのころっ家」と、DEEN池森秀一の「池森そば」だ! 見たところどうも池森そばが今は強いようだ。あれ以来すごく稼いでるよなぁ、池森くん。 ほんと、「このまま売上だけを奪い去りたい」って思うよね。 #長野市 #善光寺 #善光寺御開帳 #2022善光寺御開帳 #令和4年善光寺御開帳 #回向柱 #前立本尊 #お戒壇巡り #善光寺ライトアップ #回向柱ライトアップ #善光寺仁王門 #善光寺山門 #コロッケのころっ家 #池森そば #池森秀一 #このまま君だけを奪い去りたい (善光寺 Zenkoji Temple) https://www.instagram.com/p/CfO5tQ3vmCt/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
旅行記
写真めっちゃ多いのと一言シリーズです。言っておきますけどクソ長いですからね。今年のGW後半は法事で母と地元に帰還しました。実親は私の生まれ故郷を離れているためにもはや帰る家は無く、ほぼ旅行みたいなものなんですけど。
往路での初飯は空港のおにぎり屋さんみたいなとこでした。カフェインがダメな体質なので売店のお茶で唯一ノンカフェインのとうきび茶をセレクト。赤飯は結構好きです。
名も���らぬ飛行機を乗り合わせた方々。飛行機降りてからの長い通路、好きです。
モノレールか新幹線か、どっちかです。カーテンあるので多分後者。
10年とは行かないまでも7〜8年振りくらい。改装後は初なので懐かしいけど思い出よりも綺麗になってて笑いました。
初日の宿は、
ドーミーイン!人生初でしたが快適すぎて最高でした。一生住める。ゾンビ溢れる世紀末になったらドーミーインか映画館に避難したいです。
この向かいの建物なっっつ!ってなりました。入口地下のライブハウスとか1Fスタバとか、高校時代にお年玉持ってここでカバン買ったりとかしました。Tommy Hilfigerのボストンとか()エモくて死にました。
昔はここの通りにセブンなんてなかったと思うんですけどね。あと右側に大きい黒人の人が通行人に声かけてブランド品をぼったくり価格で売ってる店みたいなのがあったんですがここではなかったかもです。
単焦点での駅前。
広角での駅前。クソ田舎のくせに一丁前に流行りの格好した若者が沢山いてネットの普及と時代の流れを感じましたが歩き方やら声のボリュームやらのイキリ方があまりにも青臭くて「これぞ長野県民のクオリティだ」と実感すると同時に長野の嫌なところを再認識させられました。こんなとこに住んでたまるかって感じです。
この世で美味いビールのTOP3に入る志賀高原ビール。
美味い酒とでかいステーキにご機嫌になります。480gとかだった気がしますがこれ以上でかいサイズがなかったので致し方なく。1kgくらいは余裕です。
肉肉しくってよ〜。
食後は観光がてらライトアップしてる善光寺へ。
さっきの棒みたいなのが貴重?だとかなんだとか。触れるようなので触っておきました。行列できててウケました。
お戒壇めぐりってのを小学生の時にやりましたね。何も見えない真っ暗な中で前歩く人の肩に手を置いて進み奥にある鐘みたいなの鳴らすんですよね。
ここぞとばかりにいろんな写真を撮ります。
Youtubeライブ配信は善光寺にまで。ケーブルテレビという呼称がエモ。
牛に引かれて何とやらの牛くんじゃないか!かぁいいねぇ。
仲見世通の赤ライト。
善光寺仕様のスタバ。他店よりほうじ茶系が美味そうという偏見。
目が逝ってる鳥。
風神だったべか。
じゃあこっちが雷神だべな。
この地域では有名な式場です。従兄弟の結婚式で来たことがあります。
チン......ライポくんね。
この水溜まってるやつ、よく分からないけど長野って感じ。
懐かしさ。
なんかカフェと併設した絵画の展示場だったかの入口。怖い。
ぞうのぞう。
門前町なのでこんな不思議な駐車ができるのです。長野って感じ。
食べたことは無いです。美味しそう。
知らないキャラです。
アッ!八十二銀行!八十二銀行じゃないか!元気だったか?お前の名前を見たり聞いたりすると長野って感じがして、すごく懐かしいよ。
これ好きな写真です。通りに花を飾るイベントみたいなのの前日だかだったのでお花がいっぱいありました。綺麗でした。ロマンチック。
Hana.
flower.
furawa-.
これも好きな写真です。
PCR検査場あって何だか笑いました。何でだろう。
旅行2日目の朝食バイキング。野沢菜おやきが懐かしすぎて良かったです。前夜の夜鳴きそばは写真撮ってないです。
朝食もそこそこに法事のためながでんへ。出発数十分前に早々に乗り込んだのでだーれもいやしません。
別に乗り物は好きでは無いのですが折角カメラあるし他に人いなかったのでチャンスとばかりに撮影。多くの人が利用するはずの場所に全く人がいないというシチュエーションは大好きです。
無人。
で、コレですよ!電車の開閉ボタン、懐かしすぎ。今の職場に新潟出身の人が居たんですけど(過去形)このボタンの話できてちょっと盛り上がりました。
ホーム。
ホーム逆サイド。これだけだと夜の外ホームに見えますね。
電車。人居たらこんなの撮ってません。興味もないですし。
法事終わり。寺の写真を勝手に撮るのは勿論よくないんですけど、ここ父の実家なもんで。親族ですから。
これ書いてる時に気づいたんですけど善光寺の水溜まってるやつは、これを想起させるから懐かしかったんですね。お墓参りの水汲むとこです。
新緑、って感じですね。よく晴れている。
上の従兄弟。野球選手のマエケンをもっと強面にした感じの副住職。子供は下の従兄弟の息子なので叔父と甥ですね。
除夜の鐘でついたことがあります。
父と息子の履き物。いい写真。
本堂への通り道。関係者しか入れない場所です。
「三つ葉葵」があるんですよ。
玄関の喫煙スペース。従兄弟がここでタバコを吸います。俗物。一緒にアメスピを吸った思い出が甦ります。
法事終了。2日目の宿はかつて高3の卒業までの半年を過ごし、以降は帰省先となった村へ。移動手段が母の職場の後輩であり、自分の高校の2個上の先輩であ��と判明した方に送ってもらいました。懐かしい道のドライブでした。
夕景ってなんでこんなに美しんでしょうかね。
これ美味いんですよ。
夕飯。旅館・民宿って感じでいいです。白米は美味いわ山菜は美味いわで良かったです。それ以外は普通。
温泉。誰も居ませんから...。
ここの温泉まんじゅう、死ぬほど美味いんですよ。村内にいっぱいまんじゅう売ってるんですけど自分はここが一番好きですね。
エモすぎる!ヤマザキショップ!村内唯一のコンビニですけど普通に閉まるんですよね。2016年頃に一時帰省してた時はここでモンスターとかおやつとか買ったな〜。タバコも買ったっけか。
かつての冬季五輪のキャラらしいですよ。
お気に入りショット。
3日目朝。
これはガチ近所。
山々。
綺麗な景色です。田舎は嫌いですがこういうの見ながら育ったのは良かったですよ。四方を見回せば山に囲まれてるの、安心します。
この朝の景色撮るために前日夜に確認したバス乗り場をあえてスルーして次の知ってる乗り場に行ったんですけどそのバス停が無くなってて「戻るほどの時間はないけど乗り遅れたら新幹線も乗れなくなる!」ってなってクソ焦りました。結局早足で先に進んでさらに次のバス停に到着できました。
駅前。学生時代の寂れた駅舎の面影はありません。時代は変わりますね。生きてる間にあと何回ここに来ることができるでしょうか。特段用事もないというのに。
ハイ!東京!渋谷からバスに乗りました。今回のお目当てのSleek Eliteさんに向かってます。ハードケースは往路の時に東京駅に預けてました。GWでクソ並んでる中で颯爽と荷物を預けてギターを回収した時の、行列からの視線と地震の中に湧き上がる爽快感といったら。エクボクロークいいですよ。
Sleek Eliteでの用事は10分も経たずすぐ終わってしまいました。中心部に戻るためにバスで、人生初の阿佐ヶ谷に着弾。スタバは写真撮るだけで寄ってはないです。今回の旅はスタバに縁があったな。
本日の宿は東京駅近くです。
僕はドーミーインのが好きでしたが、後で聞いたら同行した母はこっちが良かったとのことでした。
夕景。今回はずっと晴れててくれました。なんだったらこの日は25°とかまであったので暑かったです。スキューバ素材の黒の長袖なんか着ちゃってました。
本当は夜に長年会ってない友達と会う予定でしたがお仕事の都合で急遽キャンセルに。予定もアテもないままご飯を求めて外に出ました。
設定変えて同じ景色を撮影。大人になってから紫好きです。
何でこのタイミングで撮ったのかは分からない。
東京にはたっかいビルがいっぺあんな。
憧れ?の丸の内OLの波動を感じる......。
散歩中に見つけた路地。誰も居なくて最高でした。都会の路地って感じの路地っていいですよね。龍が如くとかでもそういう道好きでした。大阪だけど。
駅前の繁華街まで来てしまいました。ちょっとエッチなお店があって怖い人に声かけられないかとかドキドキしました。
高架下。
いっぱいご飯の店あったんですけどあまり惹かれず全スルーして散歩継続。路地があれば入っていくぅ!
移動しまくって室町テラスへ。ここ相棒16のロケ地かと思って写真撮ったんですけど東京スクエアガーデンてとこだったので勘違いでした。
彷徨った結果巡り合ったのはミニストップでした。人生初で興奮しました。いい散歩になったと思います。
マンゴーとバニラだったかな。東南アジア系の外国人さんがワンオペ店員で日本人の田舎者の自分にソフトクリームを作ってくれるという構図にTOKYOを感じました。
旅も終わります。13階の景色いいです。バカなので高いとこ好きです。
最終日の朝食は早めに空港へ行きブランチをば。
ホットケーキって言え!
そこそこおしゃれな店でしたが忙しそうな店員さんに「メープル追加でかけられませんか?」と尋ねてしまう愚かな私をどうかお許しください。ドバドバかけて最後は皿に残ったのを飲みたいくらいメープルシロップ好きなんですよ。ちなみにダメでしたね。
そんな旅でした。
0 notes
☆ @boozy_brunch_market ありがとうございました! 今の時期は 7年に一度の御開帳ということで 観光バスで来る方々などで賑わってました。 僕の方は 朝からインスタ見てくれていたお客様が来てくれたり @koruri88 さんがめっちゃ似合ってくれたりして 嬉しかったです✨ 終わったあとは @magnet.2016 さんと 戒壇巡りして まさかの錠前が触れず また2ヶ月後にチャレンジしようと思います。😭 そのあとはいつも寄る関の 岐阜タンメン行って帰ってきました。 関善光寺さんはいつでも戒壇巡り が出来るのですが おすすめです☺️ さあ 5/13.14 @cacca_quiche モトマチスタンド 2dayPOPUP よろしくお願いいたします! https://www.instagram.com/p/Cdas_ZBPsD0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
宮崎正弘の国際情勢解題
(読者の声1)精力的に一次資料に当たって陰謀論の中の真実を暴き出す林千勝先生の「反日の源流」という動画を見て衝撃を受けました。
私はグローバリストの策謀により日本が大東亜戦争に引きずり込まれたものの、それによって彼らの植民地体制が崩壊したので、ザマヲミロと思っておりました。ところがこの動画によって、グローバリストはその上を行っていたことを思い知らされたからです。
具体的に云いますと、彼らはすでに植民地経営の限界・欠点を理解していて、それが壊されたことは、彼らにとっては、より効率的な新たな支配システムを構築するためには、むしろ好都合だったと云えるからです。
そして実際その通りに、今の日本は見事にしてやられてしまった現実があるからです。
黒船来航以前から、グローバリストは見事な国家を作り上げた日本がグローバリズムの脅威になると予測し、日本の研究を積み重ねていたそうです。
その中心となったのがロックフェラー財団で、なぜこういう国ができたのか?をその根本から徹底的に調べていたそうです。それが如何に精緻を極めていたかを示す事実が、日本の力の源泉がヘーゲル哲学によく似たカタカムナにあり、そのカタカムナから生まれたカタカナを警戒して、カタカナを禁止したことです。
それまで公文書に使用されていたカタカナが消え、教科書の童謡サクラサクラのカタカナ表記までも黒く塗りつぶされてしまいました。そして今では、カタカナは外来語ぐらいにしか使用されなくなりました。
この恐ろしく悪知恵の働くグローバリストは、マルクスを使って人類の学問を破壊する一方で、自らはその学問の一部である科学を邪な計画のために悪用し、一般の大衆に対しては、真実を明らかにする学問精神の涵養を阻み、その統制力で思考の自由を奪い、嘘のまかり通る前近代的な認識へと、人類の歴史を逆行させようとしています。
たとえ彼らが優秀であったとしても、彼らのやることが誤謬となり人類のためにならない必然性は、真理論的に云いますと、相対的真理(部分的真理)の絶対化(全体化)という必然的誤謬であるからであり、この誤謬は、人類の哲学の歴史が明らかにした絶対的真理(全体的真理)と、科学が明らかにしつつある相対的真理(部分的真理)との弁証法的統一によって、体系化された学問が明らかにする本物の真理とは決してならないものだからです。
具体的に云いますと、金融資本的グローバリズムは、国家社会全体の一部に過ぎない経済から全体を規定しようとする誤りであり、グローバリズムという地球規模の全体から捉えているように見えて、その内実は、国家の発展という過程を欠落させた、人類の歴史全体から今だけを切り離して、自分たちの利益という部分的真理を全体に強要するものに過ぎないからです。
また共産主義的グローバリズムの方は、労働者階級という部分的立場を絶対的に正当化して、それを否定的媒介を通じて国家全体として統合しようとするヘーゲルの主張を拒否して、対立を激化させて相手を殲滅することが根本的解決だ!と本家マルクスは主張しています。
それを忠実に実行したのが、ロシア革命であり、中国での文化大革命であり、カンボジアの文化人の虐殺です。この責任はマルクスのこの誤りにあるのです。
さらに言えば、この相対的真理の絶対化は必然的に現実を無視・軽視した観念論への転落を引き起こします。
科学的を標榜し、唯物論を強調するマルクス主義者の多くが観念論に転落して、現実を正しく見られなくなって��まうのは、このためです。
また事実的にマルクス主義の誤りが実証されても、彼らがマルクスを信奉し続けられるのは、この観念論への転落のせいで現実が見えなくなっているためです。これは、本当に皮肉なことであり、人類にとって不幸なことです。
インターネットによって、人類の脳・認識が容易に一体化される時代にあっては、この本物の学問を巡る攻防が一層の重要性を増してくると思います。
その意味で、今の日本の若い人たちの、学問的精神によって次々に真実が明らかにされてきていることは、本当に頼もしい限りです。
そういう動きがあるだけに、さらに欲を言えばそれらを統合して学問として体系化しようとの志をもって挑んでくれる若者が現れてくれることを切に望むところです。
(稲村正治)
(宮崎正弘のコメント)いささか牽強付会の陰謀論ではないかと思いますが、なにしろ保守論壇の一部でも新バージョンの「陰謀論」が大流行です。
小生は『ユダヤに拘ると世界がみえなくなる』という本を35年ほど前に書いて、陰謀論を否定しましたが、ユダヤ陰謀論は欧州の文書偽造業者ら作成し、ロシア帝政時代の秘密警察が使い、ナチスが援用した、戦争中は日本軍のなかにも信奉者がいました。『シオンの議定書』は偽書です。
その後の陰謀論は、このパターンに酷似しています。
7 notes
·
View notes
2020東京オリパラ大会の野宿者排除概要
私たちの知り得た範囲において、2020東京オリパラで排除された野宿者は145名、間接的な影響で排除された野宿者は41名、計186名になる。
交渉によって撤回させたりイベントが中止になったりして、排除が未遂に終わり、数字に含めていないケースも含めて概要を記す。
1、招致期間
2013年3月4日~7日、IOC評価委員会の東京視察が行われた。その際、国立競技場周辺の都道に置かれていた約10人分の荷物、代々木競技場周辺のテント10張と約20人分の荷物に、以下の警告書が貼られた。
「2月27日までに撤去しない場合は不要な物として処分する。その後、3月8日までの間、この付近に放置された荷物・テントはすべて即刻撤去する。 東京都建設局第二建設事務所 代々木警察」
警告に従い、代々木公園内に移動させた荷物に対しては、公園のサービスセンターが追い出しをかけた。また、移動した路上で荷物に放火され、焼失された方もいた(この時期、渋谷近辺では野宿者の荷物への放火が頻発していた)。これらの人たちは、10日近く、寝場所や荷物の置き場所に困ることとなった。
また、同様の期間、国立競技場に隣接する、明治公園「四季の庭」で、テント・小屋に暮らしてい���約10名の野宿者は、園内の一隅に集められ、周囲から見えないように白いシートで囲われた。
2、開催決定後
①明治公園
2013年10月下旬、東京都東部公園緑地事務所が明治公園の小屋に暮らす野宿者に「11月か12月に工事に入るので立ち退いてください」と勧告した。国立競技場建て替えのための関連工事ということだった。
以後、野宿者と支援者(応援する有志)は、国立競技場を管轄運営するJSC(日本スポーツ振興センター)と7回の団体交渉を行った。また、野宿者は、都の要請により2度の園内移転を行った。しかし、2年半の間には、絶え間ない圧力により、半数以上の方が公園から出て行かざるをえなかった。
また、明治公園霞岳広場・国立競技場の軒下・近場のトンネルなどで、夜だけ就寝する人も追い出された。
2016年1月27日、四季の庭を含む明治公園の大部分は東京都からJSCへ無償で貸与された。同日、JSCは、職員・警備員・警官、併せて約200名を動員して、強引に、テントのフェンス封鎖、水道やトイレなどのライフラインの停止を行おうとした。
2016年3月18日、JSCは、野宿者3名に対し、土地明け渡しの仮処分命令を東京地裁に申し立てた。申立書には、仮処分の必要性として「平成28年3月下旬までに本件土地を工事可能な状態にして施工業者に引き渡さなければ2020年東京オリ・パラ大会の開催自体が危ぶまれる状況にあること」と書かれてあった。
4月16日早朝に強制執行が着手され、明治公園の野宿者4名と支援者数名が排除された。野宿者の生活用品などの荷物は東京湾岸部にある倉庫までトラックで持ち去られた。
身一つで追い出されることとなった野宿者たちは、明治公園として唯一開園していた、飛び地に移動した。しかし、その場所も、日本体育協会とJOCの新ビル(ジャパンスポーツオリンピックスクエア)をつくるために、2016年10月に廃園になり、東京都が追い出しをかけてきた。
工事資材の搬入が始まる中での抗議・抵抗、議員による五輪相への追及などにより、土壇場で東京都は方針を覆した。都の提案と斡旋のもとに、野宿者たちは他の公園へ移転することになった。
明治公園内にある東京体育館において、2018年7月からオリパラ(卓球会場)のための改修工事がはじまり、同年10月、建物周囲のひさしで就寝していた約12名が締め出された。
工事自体は2020年1月末に終わったはずだったが鋼板で囲ったままで五輪会場として使用した。
現在、就寝していた所にはロープが張られている。
②有明
東京湾岸の有明で、オリパラのシンボル的施設の工事によって、2名の野宿者が生活拠点へ通行できなりそうだった。2019年11月、組織委員会が通行止めを記した工事看板を説明もなく設置した。
野宿者と支援者は交渉を重ねたが、「港湾局から完全閉鎖するように言われている」(組織委)、「閉鎖とは言っていない」(港湾局)と見解が食い違った。組織委は交渉の人数を制限し、ついには逃げ回る状態になった。
2020年3月、生活場所へ通行できるように変更した工事看板が設置された。その後、五輪延期に伴って、その看板も撤去された。2021年5月、工事が開始されたが大きな影響はなく、オリパラ期間中も同じ場所で生活をつづけた。
③潮風公園
2019年12月、私たちが潮風公園に行ったのは、ビーチバレー場の工事開始後で、すでにフェンスなどで囲われ、公園の大部分には入ることができなかった。
潮風公園には、荷物を常在させ就寝している方が5、6名いたということだった。施工業者によると、12月1日(着工日)早朝に、園内にいた2名ほどの野宿者が出て行ったという。
組織委に対して話し合いを持ったが、組織委は、野宿者が寝泊まりをしていることは認識していなかった、着工以前については関知しない、行政上必要な手続きは行った、と責任逃れを繰り返した。
品川区生活福祉課は、12月の定期巡回時に公園閉鎖に気づき、野宿者に会う術もなかったという。ホームレス自立支援法11条「適正な利用の確保」における「支援等に関する施策との連携」すらなされないままに野宿者排除が起きていた。
炊き出しも含め支援活動や野宿者の強いネットワークは、東京においては新宿・渋谷・池袋・上野・山谷など野宿者の集住地域に限られている。東京五輪の競技場がたくさん作られた湾岸エリアは、そのような網の目から漏れており、他にも排除された可能性がある。
3、開催直前
ライブサイト・聖火リレーの中止・無観客試合というオリパラの縮小に連動して、野宿者に対しての排除も抑制されたのは不幸中の幸いだった。
一方で、聖火セレモニー、そして競技会場近辺の交通規制・立入禁止による排除は行われた。
①代々木公園
代々木競技場に隣接する、公園内の広大な敷地が、大会駐車場にするために、7月16日から9月5日まで立入禁止となった。それに伴い、少なくても4名の野宿者が追い出された。
立入禁止の一部は、雨を避けられ常住できる場所だった。また、ベンチでは不特定の野宿者が就寝していた(なお、公園内のベンチは、2018年及び2021年2月、手すりで中央を仕切られた、横になりにくいものになった)。東京都は常住している方に対して「公園のほかの場所に移動してください」と言っていたが、公園内で、屋根がある場所は限られており、新たにテントを張ることも認めていない。移転した場所でも、会場周辺警備の警察官によって、テロ対策を名目に執拗に声をかけられ追い出された人もいた。ちなみに、駐車場は10台以下の利用しか見たことがなくガラガラだった。代々木競技場には自前の駐車場があり、隣接する旧・岸記念体育会館(JOC・日体協ビル)跡地もオリパラ用の臨時駐車場だったのだから必要性が乏しいものだった。
②国立競技場周辺
オリパラ期間中、国立競技場周辺は戒厳令下のようだった。6月8日から順次、立入禁止と交通規制を拡がり、7月3日から9月16日までは幹線道路(外苑西通り)を封鎖し、地域住民を度外視してオリパラを優先する区域になった。
競技場の近くの緑地帯に住む野宿者に対しては、4月末に、5月6月には出て行くように、都の第二建設事務所が通告。5月末、生活拠点を鋼板で完全に囲うことになると組織委が明言した。
6月18日、組織委(大会運営、警備)と都の建設局道路課、第二建設事務所と現地で話し合った。野宿者のことで組織委が現地に来たのは、はじめてだった。
組織委は、関係車両の円滑な走行とセキュリティのために7月5日には立入禁止にする必要があると言うばかりで、野宿者の人権や生活については何も答えなかった。また、代替の寝場所も提示しなかった。
7月3日の深夜、一帯は封鎖され、雨天時に野宿者が利用していた橋の下も閉鎖された(次の日まで当事者のみ出入りはできた)。主な生活拠点であった緑地帯も、組織委の説明より前倒しで封鎖された。
そのため、野宿者2名が長期にわたり追い出されることになった。
③渋谷地区
6月16日、聖火リレーコースの都道に置かれている、テント小屋や荷物に、東京都第二建設事務所が警告文を貼付した。
「この物件は、東京オリンピック聖火リレー(7月22日)、パラリンピック聖火リレー(8月24日)の支障となるため、至急撤去してください。撤去されない物は、支障物として移動・撤去します。」(一部区域は東京オリンピック聖火リレーのみ記載)
情報公開で得た資料によると、渋谷地区で49カ所、東京都は警告文を貼付している。自転車1台をのぞけば野宿者の物資であり、少なくても40人くらいは影響をうけるものだった。
現地の野宿者の交渉時、建設事務所は、警備上の支障になるから遠くに移動してくれ、テロリストに物を置かれてはこまる、と発言。
その後、建設事務所は、荷物置き場を渋谷区内につくるのでリレーの2、3日前までに移動してくれ(寝場所については示さなかった)と言っていたが、都内での聖火リレー中止によって、移動・撤去の話は立ち消えた。
④東京都庁舎周辺
7月23日、新宿西口にある都庁都民広場で聖火セレモニーが行われた。周辺に暮らす野宿者のうち15名ほどが、東京都第三建設事務所と警察によって、寝場所と荷物に警告文を貼付され、7月22日朝から23日夕方まで移動しなければならなかった。
また、8月20日、パラリンピックでも聖火セレモニー(集火式)が都民広場で行われた。5名ほどの野宿者のテント・荷物に対して、警告が貼付され前日から撤去を余儀なくされた。
なお、第三建設事務所は、東京マラソンで野宿者の荷物を移動させた時に、路上に残された必要とする荷物を即時廃棄して問題になったことがある。
⑤横浜スタジアム
横浜スタジアム周辺(横浜公園を含む)では約40名が夜間に就寝していた。7月24日から開始されるソフトボールや野球競技の会場準備によって、6月8日に一部が立入禁止になり、7月23日昼からは全面的に入れなくなった。
支援団体の交渉によって、横浜市が借り上げた簡易宿泊所(ドヤ)40床が、8月23日まで食事を含め無料になり36名が利用した。しかし、10名弱は利用せずに寝場所から出て行った。
4、間接的な影響
渋谷区立宮下公園は、「2020年東京オリンピック・パラリンピックを迎えるにふさわしい公園」を改修整備の目的の1つとして2014年7月、公募を開始した。オリンピック観客の宿泊場所が不足していることを理由として、ホテルをつくる三井不動産の案が採択された。2017年3月27日、渋谷区と三井不動産は抜き打ちで公園を封鎖し、夜間就寝していた野宿者約10名を追い出した。公園を屋上につくった商業施設、ミヤシタパークは2020年7月末に開業した。宮下公園は夜間施錠し、野宿者が泊まることは出来なくなった。
都庁の膝元にある新宿区立中央公園では、2013年から2年間で、テントなどの野宿者67人が追い出された。その後、オリパラを視野に入れた公園整備が進められ、2020年7月16日、公園内にスターバックスやレストランなどが開業した。野宿者の追い出しは、オリンピックと一体となった公園の商業化への露払いであっただろう。しかし、詳しい事情が分からないため、今回はカウントしなかった。
5、総計
①直接的影響による排除
・国立競技場 4名
・東京体育館 12名
・IOC評価委員視察 テント20名 荷物30名
・潮風公園 6名
・聖火セレモニー 新宿 20名
・交通規制、立ち入り禁止
国立競技場周辺 3名 荷物1名
代々木公園 4名
横浜スタジアム周辺 45名
計145名
②間接的影響による排除
・国立競技場
明治公園 6名(強制排除をのぞき)
競技場周辺 10名
道路などの荷物 10名
・宮下公園 10名
・ジャパンスポーツオリンピックスクエア 5名
計41名
③総計
延べ186名
※同一の人が異なる時期や場所で受けた排除もカウントしている。また、追い出しへの強い圧力があったケースでも未遂の場合は含んでいない。
4 notes
·
View notes
📛 1382 「怪人二十面相」 #1, 2, 3。
えっと、一昔前の学校の図書室には “はだしのゲン” や モーリス・ルブランや コナン・ドイルなどの本が わさっと並んでいて、夢やドキドキでいっぱいでしたけれど、読みたかったけれども、何となく読めないまま 時だけが無情に過ぎてしまって、泣く泣く置き去りにしてしまった作品も数多くありました。という訳で、こんな世の中ですし、江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第一章は 「は し が き」 というお話です。東京中の町という町では 現在の “流行り病” のやうに 誰それが顔を合わせれば 挨拶の代わりに “怪人二十面相” のうわさをしているさうです。"二十面相" というのは ふしぎな盗賊のあだ名で、変装がとびきり上手 (20の異なる顔を持っている) らしいのです。年齢も分からず、ほんとうの顔も分からない二十面相に 警察も手を焼いているやうですけれど、ヒジョーに高価な品物 (宝石や美術品など) を盗むものの、現金には手を出さなかったり、ひとを傷つけたり殺めたりする���とは一度もなかったりと どこかの怪盗紳士ふうだったりします。それと、必ず前もって “予告状” なるものを送りつけたりする大胆さをも秘めています。そんな “怪盗キッドさま” も見惚れてしまうやうな 神変不可思議な怪人二十面相に挑むのは 日本一の名探偵 “アケチコゴラウ” と、彼の助手 小探偵 “コバヤシヨシオ少年” です。果たして名探偵と小探偵は 怪人を打ち負かすことが出来るのでせうか!それとも金田一耕助さんや、チャーリー探偵事務所の “エンジェル諸君” を呼んで来たほうがいいのでせうか。
つづいて
江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第二章は 「鉄 の わ な」 というお話です。麻布にあるらしい とあるお屋敷町に、わたしが生涯住むことは無ささうな 100m四方もあるやうな 大邸宅があります。実業界では名の知れた ハシバソウタロウ氏のお住まいですけれど、そんなハシバ家に ふたつの大きな出来事が舞い込んで来ます。ひとつは 10年以上前に家出をしたっきりでした 冒険野郎ハシバソウイチ (長男。30才) が ボルネオ島から帰国して帰ってくるという知らせ、もうひとつは 怪盗二十面相から “予告状” が届いてしまったということです。長男の帰宅はさておき、怪盗二十面相が近日中に ハシバ家の家宝 “ロマノフ王家の宝冠を飾った大金剛石6個” を頂戴すると予告状に記されていたことで ご主人を除いたハシバ家は 震え上がります。そんな中、ある日の早朝に ソウジくん (次男。小学生) は、ホラー映画などで 逃げ惑う若者らが 気づかずに引っ掛かかって 足首から下を失ったりするやうな 鉄製のノコギリ状の歯のついた “わな” を 花壇の中に そっと仕掛けます。もしかしてもしかしたら 怪盗二十面相が “わな” に引っ掛かるかもしれないと思ったからです。
つづけて
江戸川乱歩さんの ポプラ文庫版 「怪人二十面相 (江戸川乱歩さん、ポプラ社 2008年)」 を読んでいます。三十一章から成る物語の第三章は 「人 か 魔 か」 というお話です。ハシバ家の長男ソウイチ君が無事に羽田空港に帰朝しました。喜び合うハシバ家ファミリー。帰宅し、皆で 新しいテーブルクロスで覆われた大きな食卓の席で談話をしていたその時です。書生が一通の電報を持って食堂に入って来ました。パパ ソウイチロウは 顔を顰めながら電報を読み、そしてムッツリと黙り込んでしまいました。電報には 「コンヤシヨウ一ニジ オヤクソクノモノウケトリニイク ニ0」 とありました。もう食事どころではなくなってしまいました。たちまち、邸内に ゲンジューな警戒が敷かれ、あらゆる出入り口がピッタリとしめられ、内がわから錠がおろされました。三人の非番警官と その他 四人の書生らそれぞれに 出入り口を固めさせたり、邸内を 夜を徹して巡視させ、他の者は 寝室にひきこもらせました。パパと長男は 洋館の二階にあります書斎に籠城し、部屋の隅の小型金庫のダイヤルをギリギリとまわし、とびらをガパッとひらいて、小さな赤銅製の小箱をサッととりだしました。小箱のふたがスッとひらかれると同時に 目もくらむやうな虹の色が閃き、大豆ほどの大きさの金剛石が六個、黒ビロードの台座の上にかがやいていました。ソウイチくんが鑑賞を終えた後、小箱の箱は そうっと閉じられました。そのときの時刻は 二十三時四十三分。その十八分後、パチンと小箱のふたを ふたりして 改めてあけてみますと、アラ不思議、由緒深い二百万円の六個の金剛石は フッと消えうせていました。
1 note
·
View note
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉
との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)���関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れた���とも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳��日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんな��花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
10 notes
·
View notes
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整��全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干��看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号// ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
4 notes
·
View notes
年始にある人から、(小説ではない他の形式)でも書いてみれば? と、何気なく言われたことをきっかけに、あるスケッチの存在を思い出すようになっていた。
私は自伝的な小説を書かないが、心を揺さぶられた「認識」は残らず入れ込むのが理想だ(実際はそう杓子定規にはいかない)。そのため小説の手前には、多くのスケッチが存在する。それらは既にある小説とは異なるものに育つように、と願って書かれた種であり、次々に活かされてゆく。
しかし一つだけ、アクセスを禁じてきたスケッチがある。当時、自分の想像力を調子に乗らせすぎたツケで、ひどい数日間を過ごした。二度と同質の想像を働かせないよう戒めとして書き、追放したものだ。内容はもう忘れた。心の底から忘れてあった。
想定してこなかった形式が忍び込めるとすれば、その追放という「穴」からではないかと思ったのだ。だが、小説に書かない=生きた認識として認めない=絶対的な距離を置く。という構図は我ながら完璧に機能していて、手がかりなしに考えることは困難だった。
『霧の抵抗 中谷芙二子』展(水戸芸術館、2019/1/20で終了)を駆け込みで観た。
ある場に漂うムードや、ドラマティックさ、その度合いなど。を気にかけなくなってからどのくらい経つのだろう。30分おきに噴霧される広場に隣接した喫茶コーナーで、初代館長である吉田秀和賞の本を読みふけった。終わると狙いすましたように霧の中に出て、この手を霧に消したり現したりした。
本来ならば濃霧が出る気象条件・時刻・場所ではないなか、群衆の一員としてやって来た感覚。霧と群衆のいずれかはレプリカであり、そのためそこにいる人間たちは同体だという感覚がはっきりとあった。誰か隠れたと思ったらすぐに他の誰かが見える。自分の腕が隠れ切ることもない。燥いでも静かだった。
ある「ムード」が通じる範囲とはどの程度のものなのか。霧はそれを不明瞭に示していた。インスタレーションの映像で、公園の樹々にロープで渡した噴霧器を境に、いつもの木漏れ日と、霧を通した格段にやわらかい木漏れ日が同時に目に入って来る様子は、ムードの相克を感じさせた。
そして他者の領分、他者が規定していることが分かりきっているムードの中に土足で入り、無理に自分の手中に収め押し広げようとし、そのことに高揚した挙句、破綻したのがあの数日間だったことに思い当たった。
その日の夜、ジーン・リース(2018)『あいつらにはジャズって呼ばせておけ ジーン・リース短篇集』西崎憲編 中島朋子他訳、惑星と口笛ブックス.を読み終えた。作者の高名な小説『サルガッソーの広い海』のヒロインはバーサだが、私「真麻」は小さい頃「ばあさ」というあだ名で揶揄われることがあり(「ばあや」のアナロジー)、親近感が沸く存在だ。
「わたしの本はどうなのかしら? ちっとも悲しくないでしょう。想像力を使って書いたから。それでもやっぱり、実際に起こったことを書けたらと思うのよ。包み隠さずありのままに書きたい、悲しかろうと悲しくなかろうと。楽しいことだって、少しは経験してきているし。確かに経験したのよ」(『ロータス』)
光り輝く日、雲が吹き払われた青い空。無慈悲な春の初めの一日――熟していないスグリのように酸っぱい日。ひんやりとした黄色い光が、庭の砂利やまだ花のない花壇や、高い塀の上に降り注いでいる。(『堅固な家』)
私の本はどうかしら? ただ一点を慎重に避けた本。そのことによって、自律させたつもりだった。でも実は、その一点において小説群全体が現実と、切り離す前のポリバルーンのように、中途半端に繋がったままなのではないかしら? 誰に分からなくても自分にそう見えるなら、放っておけないわよね?
翌日、『辰野登恵子 オン・ペーパーズ』展(埼玉県立近代美術館、こちらも2019/1/20で終了、ただし2/16より名古屋市美術館に巡回)を観た。画業の相当数が頭に入った状態で画家の回顧展を観るのは初めての経験かも知れない。巧みな構成で彼女が「かたち」をどうやって獲得し、展開していったのかがよく分かった。
輪郭を豊かに太らせ、左右の高さをずらした[]を描いた作品、その横棒をぐっと縦に広げることで、[]が内包していた空間が圧縮され切断面のように見えてくる作品など、親しいものの掛かった部屋の最後、種明かしのように『Oct-1-98』とそれに類するシリーズが目に留まり、衝撃がはしった。
原稿用紙(めいたもの)を一部白で塗りつぶし、枡目を膨らませるようにして、[]と似た「かたち」が描き込まれていた。横罫や方眼のノートを題材にしたことは知っていたが、原稿用紙は初めて見た。文字がなくても、それらは紛れもない小説だった。彼女の追求と獲得が織り込まれているからだ。
画と小説のあいだ、描くと書くのあいだが、ふとしたところに待ち構えていた。私にとっては敬愛する画家が、小説も書いていたという驚きになる。
ついに、例のスケッチを読んでみる決心をした。霧も、「悲しかろうと悲しくなかろうと」も、文字のない小説も、この偉大なリレーは露わになる手前の膨大な何かを湛えていた。だから、十年以上前に追放したもののところまで向かう力になった。
息を殺して読んだ。ソファに座りどおしだったのに、走ってきたかのように消耗した。エピソードの内実は、やはり何も覚えていなかった。懸命に書き留めてあった全ての会話さえ。だが表現そのものについては、終始冷静な目でみていた。
結論。スケッチを取り上げなかった過去の私の判断は、間違っていなかった。確かに生涯であの日々にのみ、認識し得たものがある。しかし、当時はそれをしっかり書ける状態になど、なかったのだろう。最小限に回復してからの文章は、注意深く活かしてきた。それで、とっくに、充分だったのだ。
年月が経つにつれ、閉鎖した扉の向こうには稀少な価値があると思い込んでいたようである。この空虚が消え、私は変容した。小説が繋がれていたただ一点の現実の疵、ウィークポイントを持っているという疑いから切り離された瞬間、より大きな現実に向かって永久に開かれた。これから書くものだけでなく既に書かれたものも、一文字も直さなくても、そうなのだ。
バルーンを空高くあげ、沢山の景色を透かそう。
13 notes
·
View notes
2022年1月13日
【本日 (1/13)の広島県内の感染状況】(広島県)
広島 805人感染 過去最多 広島市415人 呉市95人 福山市81人(13日午後5時台)(RCCニュース)
広島市で415人、福山市で81人、呉市では過去最多の95人。この3つの市以外の自治体の内訳はまだ明らかにされていませんが、広島県内で合わせて805人の感染確認が発表されています。1日の発表として初めて800人を超え、過去最多です。
また、広島市は患者2人の死亡を発表しています。
医療体制です。12日時点で県内の患者数は3899人。このうち自宅療養・自宅待機の患者は2599人で、いずれもこれまでで最も多い状態です。重症は2人、中等症は13人となっています。医療機関の確保病床の使用率は38.0%、宿泊療養者用ホテルの部屋は前の日より確保数が198室増えていて、使用率は45.2%です。
新規感染者の発見・治療に全力 広島市 【解説】会食から家庭へ感染拡大 推定経路(RCCニュース)
広島市で過去2番目の感染確認となるなど、感染急拡大が続く中、広島市の松井市長は新規感染者を早期に発見し、的確な治療につなげるため全力を尽くしていると述べました。
「第5波と比べると、比較にならないくらいのスピードで感染拡大が起こっていて、今回の感染はオミクロン株によるものと考えている。」(広島市・松井一実市長)
広島市の松井市長は、保健所などの職員を増員し、積極的疫学調査や患者の搬送、自宅療養者の日々の健康観察に全力を尽くしていると述べました。
「想像を絶する」ペースで感染急拡大が続く広島市。松井市長は、感染防止対策の徹底をあらためて呼びかけています。
去年8月の「第5波」と比べて急激に感染が拡大しています。
広島市が推定した感染経路では、「会食」が第5波では8.5%だったのが、今回は3割に達しています。広島市では、実態として感染が「会食」から次第に「家庭内」へと広がっているとしています。
そして、重症度については第5波に比べ、今回は中等症と重症の割合が少なくなっています。しかし、専門家はこのまま感染者の急増が続けば、高齢者などに広がっていくと警戒しています。
最後に新型コロナワクチンの接種についてですが、2回接種していても感染している人が半数程度います。こうしたことから松井市長が、あらためて感染防止対策を呼びかけたというわけです。
【重要】やっぱ広島じゃ割について、最大限の利用自粛をお願いします。
県内での新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴い、対象地域に関わらず「やっぱ広島じゃ割」、「やっぱ広島じゃ割(地域支援分)」及び「やっぱ広島じゃ割・地域観光支援割クーポン」の利用を最大限,自粛いただくようお願いいたします。
既に宿泊又は旅行を予約されておられる皆様には、予約先の宿泊施設又は旅行業者にご連絡いただき、予約のキャンセル手続きをお願いいたします。
なお、この度の利用自粛に伴い発生すると見込まれるキャンセル料は、別途、宿泊施設及旅行業者に対してキャンセル補填を行いますので、皆様からキャンセル料は収受しないよう依頼しております。
また、現在、新規の予約受付は停止しておりますが、今後県内の感染レベルがレベル3になった際には、利用を停止いたします。
全国の新規感染者、4カ月ぶりに1万8000人超 新型コロナ(毎日新聞)
全国の新型コロナウイルスの感染者は13日午後7時時点で、新たに1万8674人確認された。前日に比べて5000人以上増え、1週間前(6日)の4倍超となっている。新規感染者が1万8000人を上回るのは昨年9月2日以来、約4カ月ぶり。死者は4人、重症者は前日比20人増の125人となった。
東京都の新規感染者は3124人で、1週間前の約5倍。1日当たりの感染者が3000人を上回るのは昨年9月2日以来。直近7日間を平均した1日当たりの新規感染者は1503・4人で、前週比は689・6%となった。大阪府の新規感染者は2452人で、昨年9月8日以来の2000人超。愛知県は1036人で昨年9月10日以来の1000人超えとなった。
まん延防止等重点措置下の3県とも新規感染者は過去最多で、沖縄は1817人、山口は218人、広島は805人。新潟県(220人)、長野県(220人)、滋賀県(287人)、愛媛県(150人)、長崎県(160人)など各地で過去最多を更新した。
静岡県は12日公表分として感染者9人を追加。福岡県で3人、群馬、熊本両県で各1人、過去発表分の感染者を取り下げた。【まとめ・内橋寿明】
塩野義のコロナ治療薬候補、オミクロン型に有効性示唆(日本経済新聞)
塩野義製薬は13日、研究中の新型コロナウイルスの治療薬候補について、実験室レベルで新たな変異型「オミクロン型」への有効性を示唆するデータが得られたと発表した。同社は飲み薬タイプの新型コロナ治療薬の開発も急ぐ。重症化を抑制する複数の治療薬を実用化することで、医療体制の逼迫防止につなげる。
同社の三神山秀勲・先端医薬研究所ディレクターが、同日開かれた日本医療研究開発機構(AMED)の成果報告会で明らかにした。塩野義が研究を進めているのは、たんぱく質の断片である「ペプチド」を使う治療薬候補。新型コロナ感染者のうち軽症者や無症状者を対象に、鼻から吸い込む吸入剤などの形での投与を検討している。
サル由来の細胞を使った試験では、オミクロン型やデルタ型などの変異型ウイルスに効果があった。感染したマウスを使った試験では、鼻からの投与で症状を改善する効果があった。臨床試験(治験)入りの目標時期については言及しなかった。
塩野義製薬は2021年9月末から飲み薬タイプの新型コロナ治療薬の最終段階の治験も進めている。無症状者や軽症者、中等症患者をあわせて約2100人を対象とする計画で、症状改善や発症率低下に関するデータを集めている。韓国やシンガポール、ベトナムなど海外に治験を広げて参加者を集め、厚生労働省への早期の承認申請を目指す。
国内では既に米メルクの軽症・中等症向けの飲み薬「ラゲブリオ(一般名モルヌピラビル)」が実用化され、医療機関への供給が進む。米ファイザーは開発中の飲み薬について、日本政府と200万人分の供給で合意している。
車いす議員3人、衆院本会議場を視察 演壇へのスロープ設置にハードル(東京新聞)
衆院のバリアフリー化が参院よりも遅れている問題に関し、車いすを使用している立憲民主党の大河原雅子衆院議員と横沢高徳参院議員、れいわ新選組の木村英子参院議員が13日、衆院本会議場を視察した。3氏は今後も国会のバリアフリー化に向けて連携していくことを確認した。
衆院のバリアフリー対応を巡っては、昨年3月に脳出血で倒れ、その後は車いす��議員活動を続ける大河原氏が改善を求めている。本会議場の設備では参院が昨年1月、約5000万円をかけ���演壇へのスロープを設けた一方、衆院ではスロープがなく、大河原氏は閣僚席の後ろを回って演壇に上がっている。
大型の電動車いすを使用する木村氏はこの日、本会議場にスロープを設置できるかどうかを確認。定数465の衆院は定数245の参院と比べて議場内の空きスペースが狭く、参院と同様の対応は難しいことが分かったという。木村氏は「もし私が衆院議員になったら登壇は難しくなる」と指摘した。
大河原氏は現時点でスロープ設置を要望していないが議場視察後、「参院の皆さんにもアドバイスをもらいながら一つ一つ乗り越えていきたい」と強調。横沢氏は「障害の有無にかかわらず国会活動ができるような環境を一緒につくっていきたい」と語った。
衆院議院運営委員会は13日の理事会で、空きスペースに車いすを止め審議に臨んでいる大河原氏が車いすのまま使える議席を新設することを了承した。衆院事務局は通常国会開会までに改修を完了させたいとしている。(木谷孝洋)
12億円、当せん者どこに? サッカーくじ、期限迫る(共同通信)
サッカーくじを運営する日本スポーツ振興センター(JSC)は13日、期限が2月9日に迫った「メガビッグ」の1等当せん金12億円の払い戻し手続きが行われていないとして周知への協力を呼びかけた。公式サイトで「1等当せん者を探しています!」とチケットの再確認を求めている。
開催回は昨年2月8日に結果を発表した第1221回。販売場所は大分県佐伯市にあるローソンで、防犯や当せん者のプライバシー保護の観点から店舗名など詳細は公表していない。
期限までに払い戻しがない場合は時効が成立し、当せん金はスポーツ振興の財源となるほか国庫に納付される。
ZARA広島、30日閉店 中国地方の路面店消える(中国新聞)
スペインのファッションブランド、ZARA(ザラ)を国内で展開するITXジャパン(東京)は30日、広島市中区八丁堀の広島店を閉じる。中四国地方初の店舗として2005年11月から営業してきた。閉店後は中国地方の路面店がなくなる。
広島マリーナホップ敷地、車関連の体験型施設に 広島県、トムス案を採用(中国新聞)
広島県は13日、商業施設の広島マリーナホップ(広島市西区)が立地する県有地について、現在の賃貸借契約が終わる2025年3月以降の活用策の公募結果を発表した。多目的サーキットに車関連の体験型施設などを併設した「ひろしまモビリティゲート(仮称)」を整備する案を採用した。現在の契約者の応募案は次点となり、マリホは解体、撤去される見通しとなった。
マリーナホップ、解体へ サーキットなど体験型施設に(朝日新聞デジタル 1月21日)
瀬戸内海に臨む埋め立て地にあり、家族連れなどに親しまれた商業施設「広島マリーナホップ」(広島市西区観音新町)が3年後までに解体される見通しとなった。県有地の契約満了に伴い、県が新たに事業を公募したところ、サーキットなどの体験型施設を整備する案が選ばれた。
約10・5ヘクタールの敷地に広がる広島マリーナホップには、ファッションや飲食などの約50店のほか、遊園地もある。15日の土曜に訪れると、家族連れや犬と散歩する人の姿があった。遊園地で娘とよく遊んだという50代の男性は、解体について「思い出があるので寂しい」と残念がる。恋人と来ていた女性(27)は「人が少なくなっていたので、寂しいより、しょうがないという気持ち」と話した。
中四国最大級のアウトレットモールとして2005年3月に開業した当初は、年間300万人以上が訪れていたという。その後、経営者が代わり、12年にはビル管理などを手がけるみどりグループ(広島市)が引き継いだ。17年には「マリホ水族館」をオープンし、近年は年間200万人前後が訪れていたという。
土地の賃貸借契約が25年3月で切れることから、県は昨年7月に事業の公募を始め、3者が提案した。みどりグループは施設を継続しつつ、リニューアルする案を示したが、審査で次点となった。施設を運営するマリーナホッププロパティの担当者は「残念。可能な限り継続したい」と話した。
新たに採用されたのは、レーシングチームを運営する「トムス」(東京都)などのグループによる事業「ひろしまモビリティゲート」(仮称)。レーシングカーの運転を体験できるサーキット広場や、EV(電気自動車)カートでのレースを楽しめる屋内施設などを整備する計画だ。約97億円の事業費をかけて26年の開業を目指す。審査では「新たな観光名所として広域からの集客が期待できる」と評価された。
トムスは「EVカート、フォーミュラカー走行などの『体験ができること』が施設の中心的な魅力と考えている。アジア有数の観光名所を目指していきたい」としている。今後、県はグループとの契約に向けて手続きを進める。(岡田将平)
0 notes
善光寺
お戒壇巡りがしたくて松本城を急ぎました。満足でした。
2010.08.25
0 notes
※ 大規模接種、会場運営は民間に 自衛隊にノウハウなし
https://www.asahi.com/articles/ASP5C5VSTP5CUTFK00G.html?iref=pc_rellink_01
朝日の報道を誤報だと騒いでいる連中がいるようだけど、別に誤報は無いだろう。自衛隊がそれをやるということは、制服を着たぱっつんぱっつんの婦人自衛官がホールの玄関でジジババを出迎え(おっちゃんは、美人揃いのWAFをきぼんぬ!)、壇上では3自衛隊の音楽隊が「敵は幾万」とか「空の神兵」を奏でながら、袖をまくり上げた軍医殿が注射を打ちまくる! それが自衛隊が回すってとことでしょう?
パソナ辺りがかき集めた蛍光色のパーカーを着たバイトさんに出迎えられて打つ注射なんぞ、軍隊が運営しているとは言わんぞ。どん!
* 所で、イギリスでは去年から接種を初めて、その時々の問題点も報じられていた。薬局で薬剤師さんが打っているというニュースも早くから出ていた。確かにこの政権は無能の極致でロジの概念もない。でも厚労官僚は、それなりのタスクチームを作って、ロジから会場その他の計画まで、きちんと立てて置くべきだったよね。
0 notes
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)12月10日(木曜日)
ドイツ、中国の独ハイテク企業買収を阻止
宇宙航空の大手IMSTを中国航天科工が狙った
************************
ドイツのハイテク企業IMSTはレーダー部品、宇宙航空の精密部品並びにソフト開発、ワイヤレスモジュールなどで世界的な有名企業である。開発研究センターにはドイツ有数の技術者、研究者があつまる。
中国にとって垂涎の的、IMSTに買収をかけたのは中国大手の航天科工集団だ。
民間企業を偽装した中国軍直営企業であり、従業員13万、拠点570ケ署。宇宙航空分野ではロケット、巡航ミサイル、戦術ミサイル、人工衛星などを製造している。また自動車エンジンでは傘下の航天汽車が三菱自動車と組んで自動車エンジンを製作している。
この企業がドイツの優秀は技術力に目を付けたのだ。
5G開発競争において、裾野の精密部品生産に立ち後れている中国は暖簾、特許、技術者をまるごと飲み込む企業買収を狙った。土壇場でドイツ政府は待ったを掛けて阻止した。
中国資本のドイツ企業買収は頻度激しく、ドイツ政府が警戒しているのは軍事技術に繋がるハイテク企業である。2016年に中国の美的集団がロボット生産のクーカ社を買収し、同年にアリババはLAZADA社を買収したため、一気に警戒感が拡がった。フィンランド、スペイン、イタリアなどでも同様なかたちで中国企業に買収された例が多い。
日本は株式の構成、持ち合い制度の伝統があって、買収はされにくい上、外国為替法の改正で、より難しくなった。しかし中国は「千人計画」により、企業買収よりも、ハイテク企業の定年退職のOB、あるいは高給でつる作戦を展開して、かなりの成功を納めており、正面玄関からの買収を避けている。
6 notes
·
View notes
【新・再入荷】③
「定本 柳宗民の雑草ノオト」春、夏、秋 毎日新聞社
「雑草のくらし」甲斐信枝 福音館書店
「ふゆめがっしょうだん」長新太 写真:冨成忠夫、茂木透 福音館書店
「NORTH WOOODS-生命を与える大地-」 大竹英洋 クレヴィス
「はじまりのひ」川内倫子 求龍堂
「もりのてぶくろ」 八百板洋子 絵:ナターリヤ・チャルーシナ 福音館書店
「わたしは樹だ」松田素子 絵:nakaban アノニマスタジオ
「宮沢賢治の鳥」国松俊英 絵:舘野鴻 岩崎書店
「おおきな きが ほしい」佐藤さとる 絵:村上勉 偕成社
「きょうはパーティーのひ」樋勝朋巳 福音館書店
「いろいろいっぱい ちきゅうの さまざまな いきもの」 ニコラ デイビス 絵:エミリー サットン ゴブリン書房
「こっぷ」谷川俊太郎 写真:今村昌昭 AD:日下弘 福音館書店
「あな」谷川俊太郎 絵:和田誠 福音館書店
「さらじいさん」はせがわはっち ブロンズ新社
「おろろん おろろん」石黒亜矢子 偕成社
「なまえのないねこ」竹下文子 絵:町田尚子 小峰書店
「トラネコボンボンの365日 猫と世界どうぶつ記」 中西なちお 誠文堂新光社
「むかしこっぷり」おくやまゆか KADOKAWA
私はこの本が大好きで、何度も繰り返し読み、そしてお店の棚に何度も補充しています。
特に大好きな「善光寺のはなし」はお戒壇巡りに初めて行った子どもの頃の自分と重ねて読んでしまい、いつも胸がしめつけらる。
(亡き父の実家は長野市にあり、善光寺と言えば父の思い出ばかり思い出すのです)
0 notes
最近、中国が新疆ウイグル自治区でおこなっている少数民族ウイグル人への弾圧問題が、世界でのホットなトピックになっている。国連人種差別撤廃委員会は2018年8月末、最大100万人のウイグル人が強制収容所に入れられているとの指摘を報告。米中両国の政治的対立もあり、最近は米国系のメディアを中心に関連報道が続いている。
【写真】筆者が撮影した新疆ウイグル地区の写真を見る(全8枚)
ますます厳しくなるウイグル人への締め付け
トルコ系のウイグル人が多く住む新疆は、チベット・内モンゴルなどと並び、20世紀なかば以降にやっと中国政府による直接支配が確立した地域なので、少数民族の間では独立や自治獲得を望む意向が強い。
だが、中国では1989年の六四天安門事件後、国家の引き締めのために漢民族中心主義的なナショナリズムが強化され、また経済自由化のなかで辺境地帯の資源・都市開発や漢民族による移民が進んだ。結果、2010年前後からは追い詰められた少数民族による大規模な騒乱が増えた。
少数民族のなかでも、イスラム教を信仰するウイグル人は、中国共産党にとっては「党以外の存在」に忠誠を誓っているように見える。彼らは人種や文化習慣の面でも漢民族との隔たりが大きく、中央アジアや中東との結びつきも強いことから、他の少数民族以上に強い警戒を持たれている。
結果、近年のウイグル人への締め付けはいっそう厳しくなっている。中国は現在、「テロ防止」を最大の名目として国内の治安維持費用に国防費を約20%も上回る予算を投入、さらに国内に1億7000万台近い監視カメラを設置(2017年時点)したり、当局が国民のネット接続を監視したりする監視国家になっているが、その最大のターゲットはウイグル人と言ってもいい。
新疆は中国の治安機関の見本市
いまや新疆は、のどかなシルクロードのイメージとは裏腹に、強力な監視・警備体制が敷かれる恐ろしい場所になっている。筆者が2014年春に訪れたときは、街のいたる場所に制服姿の治安維持要員が立哨したり巡回したりしており、城管・公安・武装警察・特殊警察……と中国の各種治安機関の見本市のようになっていた。これらは現在、いっそう深刻になっているようだ。
また、近年の新疆では多くのモスクが閉鎖されるなど、ウイグル人はイスラム教の信仰を事実上禁止されるに近い状況に置かれており、公教育機関でも、ウイグル人としての民族的なアイデンティティを持ちづらい教育が行われているとされる。家族や親戚を含めて、国外にいる知人と連絡を取ることも容易ではないという。
ウイグル問題への言及はなぜ「面倒くさい」のか?
筆者はウイグル問題の専門家ではない。とはいえ、過去に現地に行ったこともあれば、自分の書籍で何度か詳しく言及したこともあるため、この問題への関心はおそらく他の中国ライターよりも強いはずだ。
ただ、正直に言ってウイグル問題に言及するのは気が重い。その理由は、日本国内でこの問題を語ったり調べたりする行為が、極めて面倒くさい事態を引き起こしがちだからだ。これは筆者に限った話ではなく、過去にウイグル報道に関係したテレビ関係者や新聞記者に尋ねても、似たような感想を述べる人が何人も見られる。
ここでいう「面倒くさい」事態とは、中国当局の妨害や圧力だけではない。もちろん妨害も深刻だが、こちらは事前に想定ができる。日本でわざわざウイグル問題を報じようとする報道関係者にはキモの据わった人が多く、ある程度の覚悟をしている人も多い。
メディアが直面する3つの問題
むしろ問題なのは、いざウイグル問題について調べようとフタを開けてみると、中国の政治事情とはあまり関係がない問題に数多く直面し、精神力をいちじるしく消耗する点である。結果、ウイグル問題を1度くらいは取り扱ってみても、「次」にもう一度取り組もうという気にはなれない報道関係者も少なくないようだ。
そこで今回の原稿では、日本のメディアがウイグル問題を報じる際に直面する「面倒くさい」問題の内実を指摘してみたい。おおまかに言えば、以下のような問題が存在しているのだ。
1.中国政府からの取材妨害や情報の制限
2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題
3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題
「えげつない監視体制」
まず「1.中国政府からの取材妨害や情報の制限」は想像が付くだろう。ウイグル問題は中国政府にとって、党の最高指導部の権力闘争と並ぶ重大なタブーだ。問題が現在進行形であり、かつ当局のコントロールが完全には成功していない点で、実は六四天安門事件や対日歴史認識問題よりも、ウイグル問題のほうが中国国内でのタブー度合いは高い。
個人的な経験で言えば、2014年春ごろに中国国内にいる某新聞社の日本人記者と電話で話した際に、ウイグル問題に言及した瞬間に音声の雑音が増え、いきなり切れてしまったことがある。たとえ日本語の通話でも、中国のSIMカードを使った場合はばっちりリアルタイムで盗聴されているわけだ。
ウイグル問題を取材しようと新疆に入る記者(報道ビザを持たない場合も含む)は行動を徹底的にマークされる。中国国内、特に新疆での携帯電話の通話内容やチャットソフトでの会話内容もすべてチェックされている。また街のあちこちにある監視カメラの画像も、顔認証技術を応用して解析されている可能性が高い。現代の新疆で、外国人の取材者が当局に捕捉されずに誰かと会って話を聞く行為は事実上不可能に近い。
ちょっと不満を漏らしただけで収容所送り?
しかも、滞在中に接触した現地のウイグル人は、その後に高確率で当局による尋問や拘束を受ける。話を聞く相手が確実に当局に特定され、さらにその後で拘束される可能性が高いとなると、コメント取りが重要になってくる大手メディアの現地取材はかなり難しいと考えていい。
加えて言えば、中国当局を過度に刺激するような取材をした場合、大手メディアの記者の場合はビザの延長が難しくなったり、中国支局に圧力が掛かったりする。フリーランスの場合は今後の入国自体が禁止される可能性も出てくる。当然、他の問題と比べて、日本のメディアがウイグル問題を取り扱うハードルは高い。
それでも近年の日本メディアは、『朝日新聞』やNHKなども含めて、実は世界規模で見てもウイグル問題の取材に積極的なほうだ。だが、記者本人が新疆に立ち入るような取材は、監視体制が現在よりはユルかった2014~15年ごろまでは多かったものの、近年は減った印象がある。
2018年現在は、ウイグル人がちょっと生活上の不満を漏らしただけで収容所送りになるという話もあり、現地取材はほとんどできなくなっている。
右翼勢力の影響が強すぎる「在日ウイグル人民族運動」
もっとも、中国当局による妨害は想定内の話だ。むしろ、次に紹介する「2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題」のほうが、現実が想像��斜め上を行っているという点で、心理的負担が大きい問題だとも言える。
過去、ウイグル人の海外渡航・海外留学が比較的難しくなかったゼロ年代ごろまで、日本は彼らの留学先として人気がある国だった。在日ウイグル人の留学生やビジネスマンのなかには政治的な考えを持つ人たちも存在していた。
2008年春ごろ、彼らの一部は日本国内で民族運動の組織を立ち上げる動きを見せ、世界規模の団体である世界ウイグル会議(WUC)もこの動きを支持した。その後、「1人1組織」みたいなものも含めて、現在までに日本国内で複数のウイグル民族運動団体が成立している。
だが結論から言えば、これらの団体の多くは結成当初から日本国内の保守・右翼系勢力との関係が深かった。戦前からのルーツを持つような伝統右翼系の勢力と、『日本文化チャンネル桜』のようなネット右翼系イデオロギーを持つ後発勢力の双方が影響力を及ぼしていたのだ。また、いわゆる宗教保守系の新宗教団体もここに接近している。
メンバーがほとんど日本人という組織も
一部の組織には、ごく少数のウイグル人活動家を除けば、実質的にメンバーの大部分が保守系の思想を持つ日本人で占められるものもあった。こうした日本側の支持者の影響は、ウイグル民族運動の上位団体であるWUCまで及んでいる。
2012年5月にWUCの総会が東京で開かれた際、WUC総裁(当時)のラビア・カーディルを登壇させてシンポジウムを開いた団体「世界ウイグル会議を応援する日本人の会」には、平沼赳夫・石原慎太郎・加瀬英明・藤井厳喜ら保守界隈の大物の名前が並んだ。同日には藤井らが付き添う形で、イスラム教徒であるラビア氏による靖国神社への昇殿参拝もおこなわれている。
なお、ラビア・カーディルは「ウイグルの母」とも称されるウイグル民族運動の精神的指導者で、ゼロ年代ごろまではチベットのダライ・ラマ14世とならびノーベル平和賞候補としても名が取り沙汰された人物である。2013年には宗教保守系の新宗教の傘下政党の党首がラビア・カーディルと会談し、彼らのメディアで大々的にそれを報じる事件も起きている。
支持勢力に「忖度」するウイグル人活動家
現在、日本国内でのウイグル人民族運動の主流は2012年当時とは別の団体に移り、彼らがWUCの事実上の出先機関になっているが、やはり右翼系の勢力との関係は確認できる(ちなみにウイグル人は、世界組織のWUCも日本国内の民族運動関係者も離合集散が激しく、お互いに足を引っ張ったり誹謗中傷を繰り返すような傾向も強いため、こちらもかなりウンザリする)。
日本でのウイグル人の民族運動の多くは、2008年の発足当初から「反中国」を理由に右翼・保守勢力と共闘する形を取っている。こうした団体に関係している在日ウイグル人活動家には、日本人支援者への忖度もあるのか、ウイグル情勢について過剰に話を演出したり、日本国内の特定の政治思想におもねるような言説を繰り返す例も少なくない。
「反中国」のアイコンにされてきた歴史
もちろん、右翼でも左翼でも宗教団体でも、深刻な人権問題を解決するために行動しているなら構わない、カネや政治力を持つ組織と亡命ウイグル人が共闘するのも仕方ないという見方もある。
ただ、過激な右翼色や新宗教色が強い勢力がバックに控え、ウイグル人活動家自身も支持者の政治的主張をコピーした言動を繰り返したり、新宗教団体の広告塔に使われたりしているとなると、報道が極端なイデオロギーや新宗教思想の宣伝につながることを懸念する一般メディアや記者が取材を手控えるのも納得できる話ではある。
ついでに言えば、日本においてウイグル問題は長年にわたり右翼・保守勢力の主張のパッケージに組み込まれ、「反中国」のアイコンにされてきた歴史があるので、ネットで「ウイグル」を検索するとネット右翼的な人たちのツイートやブログ・YouTube動画ばかりが引っかかって、扇動的な情報が異常に多く表示されるという問題も起きている。
最近は少し減ったが、数年前まではツイッターで、旭日旗アイコンを掲げながら野党批判や「反日マスゴミ」への批判をウイグル問題に結びつける投稿が大量に流れるという、意味不明な状況すら生まれていた。
42 notes
·
View notes
ヘウレンの森の吸血鬼3 (ダグエリ)
ーー知ってたか?エンデルクは一人でフランプファイルを倒したんじゃない。何で知っているかって?俺がその錬金術士に「竜の牙」を……いや、これはここだけの話さ。
ハレッシュが言っていた通り、エンデルクが実は凄腕の錬金術士を連れて、ヴィラント山の竜を倒したとするなら、この準優勝経験のある聖騎士と空をも飛べる錬金術士のふたりは、どうするだろうか。
「エルフィールさん、あなたがダグラスさんを頼りにされるのも分かる気がします」
祈るだけではどうしようもない。それらならば、あのふたりは力を合わせて海路を進むだろう。
それならば、また無事にザールブルグに帰れるように祈ろうかと、ミルカッセは思った。
0 notes