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#遠征記録
sayasaan · 2 years
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#どらほー ⤴︎ 今日から大島くん復帰🌟 昨日の試合の流れを断ち切るような初回からの毎回得点! いい試合でしたっ😊 ごちそうさまでした。 先日バンテリンドームへ訪れた際、唯一購入した選手プロデュースメニュー。 #大島イチゴフロート 暑かったし、疲れてたし、お腹すいていたから秒でなくなる。カルピスなんかひと吸いで終わったと思う😅 インスタ用の写真なんかより早く口に入れたい! その気持ちが勝ったのか、この画像🤣🤣🤣 #まったく映えない #選手プロデュースメニュー #背後霊のように写る自分 ✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧・━・✧ #ドラゴンズ #ドラゴンズファン #ドラゴンズファンと繋がりたい #ドラゴンズ愛 #中日ドラゴンズ #ドラゴンズ好き #ドラゴンズ大好き #ドラゴンズ頑張れ #夏の思い出 #夏休みの思い出 #遠征記録 #名古屋遠征 #バンテリンドームナゴヤ #プロデュースメニュー #大島洋平 #大島洋平選手 #大島洋平8⚾️ #おかえりなさい (バンテリンドーム ナゴヤ) https://www.instagram.com/p/ChuUGQxvCE6/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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myonbl · 16 days
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2024年4月11日(木)
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朝起きると、Googleから<Mizuo さん、3 月のハイライトをお届けします>とのタイトルのメールが届いていた。どうやら、ロケーション情報を使った新機能のようだ。ところが、東京遠征の記録はあるが名古屋に立ち寄ったことは記録されていない、通信環境の問題だろうか。もちろん、個人情報保護の観点からロケーション情報をオフにされる方も居られるだろうが、個人的にはこんな遊びは大好きだ。何しろ、毎日こんな記録を書いているくらいだからね。
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5時起床。
日誌書く。
洗濯機回す。
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朝食。
珈琲。
ツレアイは昼にゆうちょ銀行によるとかで自分で🍙用意、ご飯があるので私は息子2人の弁当を詰める。
プラゴミ、45L*1。
彼女の職場経由で出勤する。
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順調に到着する。
同僚にして学部同級生のA兄から着信、共通の友人であるK君が亡くなったとのこと。30年ほど前に脳腫瘍を手術、余命1年と言われていたのが奇跡的に回復、ところが1年ほど前に再発していたらしい。残念な知らせではあるが、よくこれまで命を保ってくれたことはありがたい。合掌。
月水の<情報機器の操作Ⅰ>で実施した<PC所有情況アンケート>の集約、68名中、自宅にPCのないものが6名だった。彼女たちにタイピング練習を頑張らせることが当面の課題となる。
来週の<スタディスキルズ>の資料作成。
3限は<スタディスキルズ(教育学科)>、18名中欠席は1名。教科書を持っていないものが結構いたので、コピーは用意せずに教科書無しで進行、仕上げは自己紹介だ。学力的には厳しいものが多いクラスだが、元気だけはあるので楽しく終了した。
授業後に一人の学生が「先生、パソコン詳しいですか?」と、「はい、何か質問ある?」。一人暮らしを初めてPCを購入したのだが使い方がわからないとのことで、アプリの入れ方がわからないと。スマホ世代にありがちだが、パソコンではブラウザを使って捜査すると説明、YouTubeの見方を紹介した。
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順調に帰宅する。
1F作業場の整理、毎日カバン1杯分の図書を研究室に運んでいる。明日の分を詰め込むが、来週中には目処が経つだろう。連��中に集中して仕事するための準備である。
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昨日のツレアイの戦利品である鯖・鯛・銀鮭西京漬け・鱈の切り身、息子たちには鱈のムニエル、私たちは鯖の煮付けを用意する。
録画番組視聴、平成紅梅亭から
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小痴楽「湯屋番」、ちょうば「?」、木久扇「漫談」。
片付け、入浴、体重は150g減。
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買物を諦めたので、3つのリングは完成ならず。
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信じようと、信じまいと― よく知られている話だが、日本書紀には全く意味の分からない謎の歌が記録されている。 斉明天皇の時代に庶民の間で爆発的に流行したという、「まひらくつのくれつれをのへた・・・」という童謡である。 新羅遠征の失敗を予言した歌、あるいは当時の権力者の揶揄等諸説あるが、いまだに定説がない。 ついに解明したと言う研究家もこれまで何人かいたが、いずれもその内容を発表することはなかった。 人に問われると、彼らは決まって「知らないほうがいい」と答えるのである。
都市伝説・・・奇憚・・・blog - 都市伝説・フォークロア
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tutai-k · 1 year
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ただそこを歩いていたいだけ、ただそこに立ち止まっていたいだけ
新しい仕事が始まって、二度目の週末が来た。日・月が休み。土曜日に出勤するというのが、じつは結構久しぶりの(十年ぶりくらい?)ことで、少し新鮮。一緒に出かけたい友人も数える程度しかいないので、休みがあわなくて……という悩みはそんなに頻繁に起こらないだろう。 いまのところ、驚いているのは、あんなに起きられなかった朝がスムーズに起きられて、支度を調えてもまだぼんやりする時間があると言うことだった。前の労働、前の前の労働ではそんなことがまったくできなかったので、一ヶ月間、療養したことは意味があったんだなと思った。 通勤は電車になった。ラッシュを過ぎた時間に乗るので、座席を確保できるから本が読める。 今週は『夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』(シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著 多賀谷正子訳 双葉社)を読んだ。 サバイバーの女性たちとともにエベレストの麓へ向かうこと、父の暴力・家事を手伝いに来ていた男性からの性暴力、そこから逃げ出してアメリカへゆきレズビアンとしての自分を母に受け入れられずに苦しんだ遍歴……。 女性たちとのシスターフッドを構築するトレッキングから、エベレストのサミット・プッシュへ向かうチームに切り替わると、そこはもう男性しかいない世界になる。 男性のために規格された登山用品をなんとか使い、男性のために整備された登山道をゆく……頂上付近では、人体は心肺機能を維持するために身体のほとんどの機能を停止させるのに、それでも子宮だけは動きつづけるままならなさに歯がみする。 男たちが「征服」を試みる路を、筆者は傷つけられた尊厳を修復する路として歩んでいく。傷つき、苦悩した日々と、刻々と高度を上げて行く登山記録が交互に収録された構成は、人間は「前に進み続けるだけ」「乗り越えつづけるだけ」という行いはできず、つねに現在と過去を行きつ戻りつし、大きな傷の寛解を探る、「立ち戻る」作業が必要だというメッセージのように読めた。
電車内での読書は、とても順調にはかどっている。気づいたら降りる駅を乗り過ごしそうになってしまったり。次は「女の子と公的機関」「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を取り寄せているので、これを読もうかな、と思っている。読みかけのカズオ・イシグロにも手を伸ばさなければ……。
今日は友人が遠方から来てくれた。地元の浜を歩いてみたい、というリクエストだったので、十代の頃、友人たちとなにかにつけて歩き回ったプライベートビーチや、灯台の麓の浜辺、わたしがいつも鳥を撮りにいく砂浜を案内した。 貝や鳥を見つけたり、おしゃべりをずっとしていた。欧州ではひとびとは「ビーチをただ波打ち際と平行に横に歩く(おしゃべりしながら)」と言う話を聞いたあと、わたしたちも砂浜をゆっくりゆっくり横に歩いた。 「ときどきフグやウミガメが落ちてるよ」と話をしていたら、ウミガメが打ち上げられていた。浜辺で死ぬ大きな生き物というのは、食物連鎖がすぐ処理をする。甲羅の中は空洞だった。
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友人を駅に送り届けて、家に帰るまでの間、「そういえば、何の目的もなく浜を歩くのって、久しぶりじゃないか」と思った。 わたしにとって浜へ行くのは、貝を拾いに行くとか、鳥の写真を撮りに行くとか、目的がある。今日だって貝を拾ったりもしたけれど、その貝をどうにかしよう(わたしは無職だったとき浜で拾った貝をインターネットでキロいくらで売りさばいてなんとか生きていた)と必死だったし、いまだって、シギやチドリ、時にクロサギ���いないかと探し回っている……ということはなくてただ波の音を聞き、砂浜に靴底が沈んでゆき、そこでとりとめのないおしゃべりを交わしながらあるいている。そんな時間は、実はもう、何十年と持っていなかった。 ただ歩いているだけの時間がこんなにも、こんなにも豊かだということを、取り戻したような気がした。
前に進むこと、何か目的を持って「そこへゆき」、何かを獲得したり、劇的な(自己への)変化があったり……そんなことはなにひとつなくていい、ただ歩いているだけ、どこにもたどり着かなくても、ただ歩いて、……そして、ただ立ち止まって、見慣れた景色を眺めながら、どこへも行けなくても、なにかを成し遂げられなくても、得られなくても、人間はまず「ここにいる」、ここにいて、語る言葉を持ち、物語を持ち、存在しているのだと思った。
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centerlight · 9 months
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アニメプラザでのコラボカフェが再開催された時の記録です。二度目の開催。確か此の時は町田の方迄伺いました、遠征楽しいです。
遊矢のパンケーキと、素良きゅんのプリンアラモードが好きだったな〜。特に素良きゅんはもう今後コラボフード類には成ら無いだろうな…と感じたのも有ってとても嬉しかった思い出。
一番美味しかったのはパスタでした。
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hummingintherain · 1 year
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11月19日(土)|緊張前日
 文学フリマ東京の前日だ。六時半あたりに目が覚めて、壁に映った桃色の淡い光をじんわりと見ているうちにやがて黄色がかかっていき、一層まばゆくなっていく前に窓を開けると優しい朝日が昇っていた。静かな朝だった。長いようで短いだろう、今日と、それから明日が始まろうとしていた。  スーツケースに文フリ関連のものを詰め込んだらそれだけでいっぱいになった。お品書きを作成していても、小説一冊から始まったのが一昨年の一月で、そこからもうじき三年というところでなんだかんだと種類は増えた。形あるものを作るのは、よろこばしくも、大変だ。けれども形あるものへと表現している人たちが1400近くも集まるのが明日なのだと思うとくらくらして不安が強くなる。一体どれほどの冊数をもっていけばちょうどいいのだろう。大体いつも荷物は多すぎる。わからなくなりながら、目がさめたその瞬間で、一月の文フリ京都や通販に備えて新刊・既刊を分別して、荷造りは完了した。文フリ以外の荷物はかなり粗末だった。  自宅のコピー機が随分と今回頑張ってくれてインクを吐き出しきった。用意していた紙もあっという間に消えていった。東京でなくならなくても、通販や京都で残りを出したらいい。
 今回は私一人じゃないので幾分気が楽だ。それに今までと違って、遠征で前日入りする関係でフリペも含む原稿が直前の夜まで完成していない、という状態ではない。まだこれから印刷した分を折ったりホッチキス止めしたりといった作業があるのだが、全部印刷してあるだけで充分ゆとりがある。それも一緒に参加してくれる人が手伝ってくれる予定なので、本当に精神的に助けられている。一人で抱え込んで、あれもこれもとトライして、本番楽しみながらも緊張から解き放たれた瞬間の疲弊感で折れそうにもなったところからの、脱却を試みる。一人ではできないこともやりたいし、誰かと繋がって得られる幸福を、ひとつひとつを、大事にしたい。そのための準備、があるのだろうな、と今、思う。どうなったとしても受けとめられるように、そして今その瞬間を、誰かが前を通ってもしかしたら本を手に取るかもしれないその瞬間を、文章や絵などを通じて知り合った誰かと会う瞬間を、大切にできるように。そのために、今から頑張って折ろうと思う。そんなわけで浜松町駅付近のドトールより本日の朝の記録ならぬ昼の記録をお送りいたしました。
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delorean · 2 years
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名古屋遠征-テスラスーパーサミットに参加してました
ブログ更新が滞ってますが、活動は積極的に続けています。報告ができてないだけです。。。もう1カ月以上前の5月14日(土)、イオンモール熱田(名古屋市熱田区)であった「テスラスーパーサミット」に行ってきました。忘れる前に記録を残しておきますw
きっかけは、テスラモデル3に乗るきのぴーさんからのお誘いでした。「どうせ高速道で行くし1人で移動しても退屈だから一緒に乗って行きません?」。予定を調整し、13日(金)午後9時、広島を出発してきのぴーさんのテスラで名古屋を目指します。この時間帯での出発・顔ぶれで思い出すのは、昨年10月のトヨタ博物館クラシックカーフェスティバル参加です。EVデロリアンで名古屋に向かう際、大阪まできのぴーさんが同乗してくれました。その時に納車されたのが、今乗ってるテスラモデル3。そして今回、そのEVに乗って再び名古屋へ向かっています。なんだか感慨深いです。
けっこう激しい雨の中、EVデロリアンと違って電池がなかなか減らない安定走行。途中、岡山県内のSAで1時間ほど仮眠した後、午前4時15分に滋賀のスーパーチャージャー大津に残り24%で到着しました。テスラ最速の250kW級V3充電器で、238km分を18分で充電してしまうほどの早さ。もう異次元です。30分後にはもう出発し、6時半ごろ名古屋に到着。市内のコメダ珈琲店でモーニングをいただきながら2時間近く休憩した後、会場のイオン熱田店へ向かいました。
少し早めの9時半に到着したつもりが、もう会場にはテスラ車がずらり。最終的には108台が集まったそうです。モデル3の電気で作ったポップコーンを振る舞っていたアユダンデの安川さん(EVSmart運営会社)や、日産アリアに外部給電器パワームーバーを繋いでデモ披露していたテスカスさん(Clubhouseの常連さん)、集合住宅にEV用コンセントを設置・運営するユアスタンドの浦さんに初めてお会いできて、とても有意義でした(あまりテスラと関係ないw)
別会場では鈴鹿在住でBMWi3乗りの石井さんが、テスラ以外のEVユーザーさんが集まれるオフ会を開催中で、約10台が集まっていました。そこにA-MiEVを製作した平賀さん、トミーカイラZZ乗りの内藤さんがいまして。ここから予想外の展開が続くのでした。 【つづく】
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graciebarrahimeji · 10 hours
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2024.4.18 海外遠征の記録。
場所:タバルガタイ(ターツェン、塔城)
関西国際空港→青島→新疆ウイグル自治区ウルムチ→タバルガタイの空路。その後陸路でカザフスタン共和国国境まで10キロのチョチェク市に到着。
2日かけての移動。
入国審査と宿泊先に行く手段でトラブル
乗り切って無事到着✈️🌍
🔺グレイシーバッハ姫路
ブラジリアン柔術・格闘技スクール
📍姫路市本町68-170大手前第一ビル2F3号
📞079-287-9566
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2015mai24 · 1 month
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MUCCが結成25周年を記念して行っている過去アルバムの再現ツアー「Timeless」の第3弾が、6月9日の“MUCCの日”に開幕する。
今回のツアーの軸となるのは、2008年リリースの「志恩」と2009年リリースの「球体」。エレクトロニカやテクノなどのクラブミュージックの側面を打ち出した「ファズ」、ヘヴィメタル色を全開にした「アゲハ」など、新たな音楽性に挑んでいたMUCCの意気込みが感じられる楽曲が収録されている2作だ。
ツアーを前に、音楽ナタリーではYUKKE(B)にインタビュー。一連の再現ツアーを振り返っての手応えを皮切りに、「志恩」および「球体」がリリースされた当時のこと、MUCCの未来について語ってもらった。
取材・文 / 樋口靖幸(音楽と人)
再現ツアーができることは誇り
──まずは第1弾、第2弾とやってきた「Timeless」ツアーの感想をお願いします。
アルバムの再現ツアーができることを誇りに思いますね。25年以上やってきたバンドじゃないとやれないツアーだと思うので。あと、今までも昔の曲は常にツアーでやってきたけど、ここまでガッツリとアルバム単位で振り返る機会ってないじゃないですか。その分、当時より楽しめて演奏してる自分がいるというか。
──昔の自分と比べて?
そう。この曲ってこう弾いたほうがいいなとか、こういうアプローチが正解だったんだなって、気付くことが多い。当時はうまく表現できなかったところも、今なら楽器を含めていろんなアプローチで表現できるし、曲自体の魅力をちゃんと引き出せるようになった自分がいて。25年以上やってきてようやくかよって感じだけど(笑)。
──先日野音で迎えたツアーファイナルを観ましたが、メンバー全員がすごく楽しそうで。今まで観てきたMUCCの野音で一番ハッピーな空間だったと思います(参照:MUCC、時を超え野音に響かせた艶美で芳醇な「鵬翼・極彩」の世界)。
そうですね。野音は4、5回やってるけど、たぶん一番楽しくやれたと思います。それこそ「鵬翼」とか「極彩」をリリースした頃って、まだまだ演奏するのに必死で、ライブを楽しむ余裕がなかったし。これができねえ、あれもできねえ、大変だ、リーダーに怒られる……みたいな焦りがいつもあったんですよ。でもこないだの野音はちゃんと曲と向き合えてたし、今日のライブを楽しもうとする余裕もあって。
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「MUCC 25th Anniversary TOUR『Timeless』~鵬翼・極彩~」日比谷公園大音楽堂公演の様子。(撮影:冨田味我)
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「MUCC 25th Anniversary TOUR『Timeless』~鵬翼・極彩~」日比谷公園大音楽堂公演の様子。(撮影:冨田味我)
──ツアーの手応えを感じている様子が印象的でした。ちなみにツアー第1弾、「是空」「朽木の灯」の再現ツアーも楽しめました? メンバーにとってはつらい思い出のあったアルバムだったと思いますが。
確かにあの頃の曲と向き合えば、今でも当時のことは思い出すし、重たさとかしんどさとかいろいろ抱えていた気持ちは今でも忘れないです。でも時間も経ってるし、バンドが新体制になったこともあって、俺は演奏に集中できていたと思います。むしろ個人的にはツアーの第2弾のほうがいろんなことを思い出したかな。アルバムのレコーディングで苦労したこととか。
──そうなんですか?
「鵬翼」から岡野ハジメさんというプロデューサーが入ったことで、それまで自分の手癖で弾くことが多かったフレーズに、新しい要素を取り入れることが多くなったんですよ。いろんなアプローチがあることを教えてもらったんです。でもそれを自分のものにするのが大変で、すごく苦労してた。そのことをライブ中に思い出して。でもあの頃と比べてもだいぶ弾けるようになったことにも気付くことができた。あ、ちょっとは成長できたのかなって。2、3mmぐらいだけど。
──自己評価が低いですね(笑)。
じゃあ2、3cmとか?(笑) でもここ最近、ライブ中の余裕はずいぶん出てきた気がする。今までずーっといっぱいいっぱいだったけど、やっぱり3人体制になったのが大きいのかなって思う。サポートドラムのAllenにとっては初めて叩く曲ばっかりのツアーだから、すごく大変そうだけど。
──イチから曲を覚えていくわけですからね。
そんなAllenの前で俺も「大変だ大変だ」ってテンパるわけにもいかず(笑)。そこはやっぱり3人になったことも関係してる気がします。
──特に再現ツアーを始めてからのMUCCは、メンバー1人ひとりの存在感が際立っているだけじゃなくて、3人の関係がイーブンになってるような。
ホントですか?
──バンドってボーカルとギターに目が行きがちだけど、今のMUCCは3人それぞれから目が離せないバンドになっているなと。
それは……今まで4人で背負っていたものを3人で背負うことになったからなのかな?
──だと思います。あと、前回のツアーでお客さんの声出しが解禁されましたが、ひさしぶりに声を聞いてどうでしたか?
最初にお客さんの声を聞いたのはCLUB CITTA'のライブだったんですけど、あまりにもひさしぶりだったんで心がゾワゾワしちゃったんです(笑)。たぶんミュージシャンなら誰でも思うことだけど、ライブって本来はお客さんの声があって成立するものなんだなというのを実感したのと、やっと「WORLD」をお客さんと一緒に歌えたことがうれしくて。もともとライブでシンガロングするのをイメージして作った曲なんで、やっとそれが実現したなと。
メンバー3人で初めてクラブに行った
──6月9日にスタートする「Timeless」第3弾は、「志恩」と「球体」の再現ツアーです。2008年から2009年にリリースされた作品ですが、当時の記憶で鮮明に残っている出来事は?
やっぱり海外ツアーかな。2カ月近くアメリカを回りました。
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MUCC海外ライブの様子。
──2008年の「Taste Of Chaos」ツアーですね。2006年のヨーロッパ公演以降、この頃のMUCCは海外遠征を精力的に行うようになりました。
時間軸的には海外に行くようになった頃に「志恩」ができて、さらにアメリカのツアーで経験したことが「球体」になった感じですね。
──「志恩」で印象的だったのは、シングルとして先行リリースされた「ファズ」が四つ打ちのダンスチューンだったことで。
リーダー(ミヤ)がクラブでDJをやるようになったのもその頃かな? もしかしたら「カルマ」のときだったかもしれないけど、MUCCがそういうテイストも曲に取り入れるようになって。で、「空気を体感してほしい」ってリーダーに言われて、メンバー3人で初めてクラブに行ったことがあったんですよ(笑)。
──初耳です(笑)。
何かイベントをやってそうなクラブを必死に探して(笑)。そういう過程を経てレコーディングしたりしてました。
──音楽性の幅が広が���ていったのと同時に、間口を広げようとしていた時期でもあったと思います。
そうですね。バンドが外の世界を意識し始めた時期だったんですよ。海外でやるのもそうだし、プロデューサーの意見を取り入れるのも、もっといろんな人に聴いてもらえるような作品作りもしたかったからで。そこは当時のレコード会社の人たちの意見も聞きながらやってましたね。
──「球体」はまさにそういうアルバムでした。
海外ツアーを経て日本に帰ってくると、今まで自分たちが無自覚でやってたことにいろいろ気付かされるんですよ。例えばMUCCのメロディがすごく独特であることとか。日本だけにいると気付かないんですよ。MUCCのメロディは日本人ならではのものだってことに、海外のバンドと一緒にやることで気付いたり。そういう自分たちの強みをもっと出していったのが「球体」ですね。
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──あと、このアルバムからミヤさんがギターソロをたくさん弾くようになったのも……。
アメリカツアーの影響もあると思いますよ。その頃からですね、俺とリーダーが前に出ていって背中合わせでパフォーマンスするようになったのは。俺自身、アメリカツアーですごく度胸がついたというか。一緒にアメリカを回ってたAtreyuとかStory of the Yearとセッションをしたり、ライブの打ち上げで彼らとウェーイ!みたいなノリで盛り上がったりする感じって、それまでの自分にはあり得なかった。
──アメリカのバンドのノリに刺激を受けたと。
思いっ切り受けましたね。アメリカナイズというか……男らしさ?(笑)みたいな部分が自分の中から引き出された感じがあった。それまでのYUKKEのキャラって、もっとナヨナヨしてたと思うんですよ。前髪パッツンでピヨピヨーみたいな(笑)。
──そうですね(笑)。
そんなYUKKEのパフォーマンスがだんだん男らしくなっていった時代かな。だから……今でも海外ツアーやりたいと思いますね。
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──当時はかなりしんどそうだったけど、今は大丈夫?
もちろんバス移動は過酷だし、しかもメンバーとずっと一緒じゃないですか。でも、昔より今のほうが楽しめる気がするんですよ。やっぱりそれは今バンドの空気がいいからで。みんなで楽しくいられるんじゃないかと。あと、今のMUCCのほうが昔より海外でも勝負できると思うんで、ワンマンじゃなくてフェスへの出演とかでもいいかもしれない。
──あえてほかのバンドと対バンしてみたいと。
うん。今でも海外に行けば、絶対何かを持って帰れると思うんですよ。だからこそ今やってみたいな。
出演番組が放送されたらネットをチェック
──先ほど「バンドが外の世界を意識し始めた時期」と発言されてましたが、「球体」をリリースした頃は特にいろんなメディアにMUCCが出ていた印象があります。いわゆる一般層に向けたアピールというか。
もっとたくさんの人に知ってもらいたい気持ちはあったし、特にこの頃はレコード会社もそういう動き方をしてたんですよ。だから音楽番組に出てパフォーマンスをしたり。で、番組が放送されたらネットをチェックするという(笑)。
──エゴサーチですね(笑)。
ファン以外の人がMUCCを観てどう思うのか、やっぱり気になるじゃないですか。一般の人にはどんなふうに映るんだろう?みたいな。ファンが言わないようなことを絶対言うだろうし。もちろん批判的な意見とかも目にするんだけど、反応がもらえること自体がうれしかった。
──無反応よりは全然いいと。
それぐらい意識が外に向いてたんだと思う。だからライブの見せ方とかアクションとかも、この頃からたくさんの人に見られることを意識するようになったし、武道館とか大きな会場でライブをやる回数も増えた。でも、それに比べて自分のプレイがまだ追いついてなくて。思ったように動けないし、弾けない。全然殻を破れていなかったんですよ。だから……あの頃の自分がやり残したことを、今回の再現ツアーでちゃんとやり遂げたいですね。
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──ここまで再現ツアーを観てきて思うのは、当時は曲のポテンシャルにバンドの力量が追いついてなかったんだろうなと。
そうですね。曲に負けていたと思います。
──演奏力とか表現力が劣ってる分、気合いとか熱量とかバンドの一体感みたいなものでライブを凌いでいたというか。不器用だし空回りしてるんだけど、そこがこのバンドのいいところだよね、というか。
でもそれで許されるのって20代までだと思うんですよ。若さゆえ、みたいな。あの頃から15年ぐらい経って、俺らも40代になり、ようやく曲本来のよさを引き出せるだけの大人になったんじゃないかな。再現ツアーにはそういう昔とは違う味わいがありますね。
──歳をとったことよりも成長できたことに喜びを感じられるツアーだと。
しかも、ここからまた自分が大きく成長できるチャンスをもらってる気がするんですよ。当時演奏していた曲が、「実はこういう楽しみ方があるんだよ」と今の自分に教えてくれることで、また新しい扉を開けられそうな感覚があって。面白い現象ですね。
ちゃんと今のMUCCだからこそできるものを見せたい
──今回のツアー会場では新曲「99」がCDで販売されますが、この曲、先ほどから話に出ている海外ツアーの影響を強く感じるバンドサウンドだと思いました。
あの頃を振り返りつつ、今のMUCCだから表現できるフレーズとかプレイが詰まっている曲だと思います。たぶん……この曲ができたからもう1回海外ツアーに行きたいと思ったんですよ。
──なるほど。 イントロの激しい感じとか、海外のお客さんがウォー!って手を挙げてる光景が目に浮かぶんです。あの景色を前に今の自分たちがライブをやったら、きっと楽しいだろうな。当時も楽しかったけど、さっきも言ったように演奏でいっぱいいっぱいだったから(笑)。
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──今の自分だったらもっと楽しめるはずだと。
想像するだけで気持ちいいだろうなって。そういう気持ちでツアーに臨めるいい曲だと思います。あと、当時の自分だとこの曲は難しくて弾けてないです(笑)。
──弾けるようになってよかったです(笑)。
本当にそう(笑)。知らず知らずのうちにちゃんと成長できてるんだなと。あと、前回のツアーからバンドマンの後輩がたくさん観に来るようになったんですけど、どうも「鵬翼」とか「極彩」からMUCCにハマった人が多いらしく。後輩たちがバンドを始めるきっかけとかになっていたみたい。
──これだけ長くやってれば、そういう存在になって当然です。
25年ってそういう時��の重みがあるんだなって、最近は特に思います。だからその分、後輩たちの前で昔の曲をただ再現するだけのライブにはしたくなくて。ちゃんと今のMUCCだからこそできるものを見せたいし、バンドの未来が見えるようなライブにしたい。
──そもそも20年以上4人でやってきたバンドからメンバーが1人脱退して、それでも続けていくことを決めた時点で、前に進むしかないわけで。
本当にそうですよ。だから……逹瑯がよく言うんですけど、再現ツアーとは言うものの、なんのために過去を振り返ってるか?という話なんですよ。3人になったMUCCが、これからもバンドを続ける……だけじゃなくて、もっと大きくなっていくために必要なこと。それは自分たちの過去の作品と向き合うことで、もっと自分たちの足元を固めるというか。前に進むためにやってることなんです。
──そうですよね。
ていうか昔と同じことはもうできないんですよ。演奏のスキルも違うし、曲との向き合い方もお客さんとの向き合い方も違う。そもそもメンバーだって違うわけじゃないですか。あの頃と違うってことを、過去の曲をやることで思い知る。
──あの頃のMUCCはここにはいないと。
当時はもっとヒリヒリしてたし、俺も余裕がないから緊張感が半端なかったし、それがある意味バンドのガソリンみたいになってはいたけど、今はもうそうじゃないから。だったら今の自分たちが向かう先を見据えたうえでツアーをやらないと、俺たち何をやってたんだろう?ってなっちゃう。だから「99」を聴いて自分なりにバンドの先が見えたことがすごくよかったし、この曲に次のツアーは引っ張ってもらえると思います。
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quelle: natalie.mu 1.06.2023
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tumnikkeimatome · 2 months
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北欧諸国の文化・社会的アイデンティティの基盤を作ったバイキング文化と北欧神話:キリスト教化に伴い浸透したルーテル派の発展、ルターの教えに基づく勤勉・質素・正直の価値観を築く
バイキング文化 バイキング文化は、8世紀から11世紀にかけて北欧から発展した海洋民族の文化です。彼らは優れた航海術と戦闘能力で知られ、ヨーロッパ各地に遠征や交易、植民を行いました。この時期、彼らは北欧諸国の文化や社会構造に大きな影響を与え、その影響は現在でも北欧の歴史や文化遺産の重要な部分として認識されています。 北欧神話 バイキングの宗教は、豊かな神話体系である北欧神話に基づいていました。オーディン、トール、フレイヤなどの神々や、ヴァルハラ、ラグナロクなどの神話的な物語が含まれています。これらの神話は、口承で伝えられ、後に「エッダ」や「サガ」といったアイスランドの文学作品に記録されました。北欧神話は、文学、芸術、文化に影響を与え続けています。 キリスト教化とルーテル派の発展 10世紀から11世紀にかけて、北欧諸国はキリスト教化されました。この宗教改革により、北欧諸国はカトリッ…
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sayasaan · 2 years
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くまこ。 旅に出ます。。。 #新幹線に乗って #お得意の食い倒れツアー ─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─・・─ #旅行 #旅 #旅スタグラム #旅女 #旅行記 #旅の記録 #旅女子 #旅遊日記 #旅行好き #旅好き #旅行好き女子 #旅の思い出 #旅行好きな人と繋がりたい #くまこの遠征 #前回は大雪の日だった #今回は台風で暑い (新幹線内) https://www.instagram.com/p/Cio3ZXRvVt3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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myonbl · 9 months
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2023年8月12日(土)
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今夏最大の楽しみ、横浜・東京への落語遠征の日がやって来た。夫婦揃って<SOU・SOU>で身だしなみを整え、カバンに寝酒用のワインとグラスも用意した。昼は<第108回よこはま落語会>、夜は<第34回鈴本夏まつり>、仕上げは<露の新治ファンクラブ(?)>の例会で師匠を囲んでビールで乾杯。いやぁ、暑く熱い一日、楽しかったなー!
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5時起床。
日誌書く。
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いつもの蕎麦定食だが、今朝は納豆ではなく昨晩のシチューの残りでいただいた。
洗濯1回。
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新幹線で新横浜、在来線に乗り換えて桜木町、昼の会場は<神奈川県立音楽堂>、暑さの中を急な上り坂、いやぁきつかった。
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13時15分開演
三遊亭兼好「桃太郎」 露の新治「狼講釈」 柳家喬太郎「百川」 仲入り 喬太郎「侵略指南」 兼好「締め込み」 新治「大丸屋騒動」
16時終演
何と新治さんは大丸屋騒動、大きなホールの広い舞台、見栄が決まって素晴らしい出来だった。
坂を下りて桜木町から御徒町、こちらも初めての<鈴本演芸場>へとやってきた。
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番組は、2番目のアサダ二世が舞台に上がったところ、前から4列目の下手端、出が見にくくはあったがトリまでしっかり楽しんだ。
東京のNさんにお声かけいただき、終演後は近くのイタリアンレストランで師匠を囲んで懇親会、遅い時間のスタートなので色々話したりないことはあったが、楽しく終宴。
iPhone に導かれて徒歩数分で<相鉄フレッサイン 上野御徒町>にチェックイン、ワインいただきながらあれこれ、ボトルが開く頃に睡魔到来、楽しかったなぁ。
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歩数はそれほどでもないが、3つのリングはしっかり完成、水分は記録無し。
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hajimelab · 2 months
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お客様の声(研究室新メンバー募集連動企画)
以下、石川初研究会を履修している/履修したメンバーによる、研究会おすすめ文です。 デザイン全般に興味があり、ランドスケープという新たなジャンルを知り、研究会の雰囲気に惹かれ石川研に入りました。研究会活動では、これまでは言葉や形に綺麗にまとめてしまい取りこぼしていたものを、分類せず愚直に集めていく方法や、フィールドワークの仕方を学ぶことができ、自分なりの世界の見方を獲得できたように思います。(学部4年・Y) 学期に一度行われるドローイング合宿では、泊まり込みで文字、木、断面図などの描き方を丁寧に教えてもらいます。普段の研究会の活動でも絵を描いて説明する機会があるため、絵に描いて記録を取ることに対する躊躇がなくなり、フィールドワークが楽しく、学びの多いものになりました。みんなで練習して実りあるフィールドワークに出かけましょう!(学部3年・K) 元々インドアなので石川研に入る前は外を歩いたり旅行したりするのもそんなに好きじゃありませんでした。でも石川研に入ってからフィールドワークの楽しさを知りました!年に何度かみんなでフィールドワークする機会があったり、特プロで遠征合宿にも行けたりして楽しいです。(学部3年・R) 私は、この展示会がきっかけで石川研に入りました。元々は全く異なる分野について学んでいましたが、私ならではの新たな視点を身につけられるのではと考え、志望しました。 この1年間で、数々のフィールドワーク通じて、風景や景観への見方を知りました。そして、気付くと同じ道を歩いていても自分でも新しい発見をすることができるようになりました。石川研に入ってからどこへ行くにも楽しくなりました。ぜひ、展示会へ来てそれぞれの新しい発見をしてほしいです。(修士1年・A) 「パーソナルプレイスデザイン」という授業がきっかけで石川研に入りました。石川研を通じて改めて世の中の広さ、自分の無知を知り、視野を広げられたと思います。今回の展示会ではそういった展示も多いので、興味を持った方はぜひ一度いらしてみてほしいです。また、研究会自体はプロジェクトへのコミットは求められますが、自分のスキルが思わぬところで発揮できたり、参加することによって得られる思わぬ学びも非常に大きいです。今回の展示を通じて石川研に興味を持った方も、ぜひ聴講をお待ちしております。(学部3年・S) 石川研にお世話になってから、日常生活で感じている景色の見え方が変わりました。特に、私は環境音に興味があったため、ランドウォークを通して、その場所を示すような音に耳を澄ますようになりました。そのため、知らない場所へ行くことが、楽しく感じるようになりました。(修士2年・M) 石川研の活動を通して、旅行やふらっとどこかの街を歩いた時などの非日常な風景的な面でも、ごく当たり前な日常的な生活でも、恐らく他の人とは違った視点で、その時間を楽しめる脳になったと思います。 否定や批判から入るのではなく、目の前にあるものをまず愛でるという姿勢を日頃からせざるを得ない体になりました。(疲れてる時は除く) 私はこの腐った世界をブルーチーズにして美味しく嗜みます。It’s a delicious world.(学部4年・Yu) 内部進学で修士から石川研に入りました。学部では建築士受験資格のための授業や、林業系の研究会での卒論を通して建築研究の基礎を学んでいましたが、正確な数値だけでは明らかにできない柔軟な研究をしたいと考えました。石川研での即日課題や、ランドウォーク、学士・修士・博士課程のみなさんの発表や議論の内容を学ぶうちに、研究対象を安易に批判しない、といった新しい視点を多く得ることができました。修論では、学士で学んだ統計手法と修士で学んだ視点や一人称の手法を組み合わせ、卒論を発展させることができて満足しています。(修士2年・Mi) SFCに入り周りのレベルの高さに驚き、自分も何かの分野で自信を持ちたいと思い石川研に入りました。 入って最初の学期に行う新規生課題で、手すりの鑑賞ガイドを作った時、自分の思っていることを発表するとそれを真剣に受け止めてくれる仲間がいました。石川研では、同じ熱量を持って学べる環境があります! SFCに居場所が欲しい方是非お待ちしてます。(学部3年・Ko) 私は、石川研に入ってから人が変わりました。決めつけや否定から入らず、そのままの状態で日常を愛でる姿勢で様々なものと向き合うようになりました。愚直に、丁寧に、執拗に世界と接する姿勢は、これから荒野に出ても、意識をせずとも自分自身に刻み込まれていると思います。(学部3年・Mo) 石川研では、まちを歩いていく中で出会った魅力的な事象と地形や地図の広域的なものごとを結びつけることが徐々にできるようになりました。今回の展示を通じて石川研に興味を持った方がうたら、ぜひお待ちしています!!(学部4年・Ka)
「ランドウォークのおかげで路地に入るのが楽しくなりました。今の家は目の前の路地が気に入ったから住んでいます(築60年超の平屋)。」(2017年大学院卒・コンサル勤務)
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ishiwarawoshitemoji · 4 months
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天皇氏族の特徴
天皇氏族―天孫族の来た道 (古代氏族の研究⑬) | 宝賀 寿男
ここでは、天照大神や神武天皇の日本列島内における祖系を遡って探究するとともに、この天皇氏族・天孫族の様々な特徴を探り、それに関係した諸氏についても見ていく。検討すべき問題が多種多様で、それぞれが大きい問題を含むから、本書が紙数の制約のもとにあることを念頭におき、これまで検討してきた結論的なものを整理して、予めある程度示さざるをえない(このことを先ずお断りする)。
わが国天孫族の主な動向
これまで公刊してきた拙著『「神武東征」の原像』や『息長氏』など古代氏族シリーズ)を通じて、天皇氏族の基本的な人物たる神武天皇と一族近親、臣下・関係者について、各々の原像を具体的に示してきた。それらなどを踏まえて、以下に要点を記す。
神武天皇などの初期天皇:神武は、当初に居た北九州の筑前海岸部(天孫降臨伝承にいわゆる「日向」。具体的には筑前の早良・怡土両郡あたり)から、兄・彦五瀬命とともに畿内に東征を試み、紀伊の紀ノ川滞上ルートで大和侵攻に成功して、奈良盆地南部地域あたりを押さえ、大和朝廷の初代の大王(天皇)となった。治世時期は概ね紀元一七五~一九四年の約十九年間とみられる(資料編に掲載の表「古代天皇の治世時期の推定」を参照)。この東征は、邪馬台国本体の東遷ではなく、筑前の支分国の庶子・一族関係者による小勢力の東征活動にすぎない(要は、「神武東征」という事件はあったが、それは「邪馬台国本国の東遷」ではない。当地での前途を悲観した庶子たちによる他地への分岐活動という意味)。
神武に関連して現れる随行・敵対の人々と崇神天皇関係者とを比べれば、それぞれがまったく異なっており、「神武=崇神」という同一人物のはずがない(神武は崇神の五世代ほど前の祖先る)。鏡を象徴とすろ太陽神信仰(この奉祀勢力)の中心が北部九州から畿内に移動したと認めても、それが直ちに邪馬台国東遷だとみるのは論理の飛躍である(筑後川流域と大和盆地の地名の類似も、物部氏東遷の影響のほうが強いか)。
北九州の在地には、神武東征当時はまだ邪馬合国もその怡土支分国もともに残り。その後の一世紀半ほどの期間は、北九州と畿内に各々の王権勢力が列島内に並存した(三世紀中葉頃は、畿内のほうの勢力はまだ小さいから、列島内で二強の王国が並立という構造。規模ではない)
神武の後のいわゆる「闕史八代」の諸天皇は、実在性を否定する根拠に乏しい、。邪馬台国の九州残滓勢力は四世紀中葉頃には滅ぼされたが、これは、最終的には畿内王権・景行天皇の九州巡狩に因る(従って、古田武彦氏の言う「九州王朝説」は成り立たない)。大和王権がほぼ確立した崇神天皇の時代には、日本列島のうち本州主要部を版図としたが、西側は吉備ないし安芸くらいが西限であって、その勢力は北九州にはまだ達していなかった。
神武の父はは、天孫・瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊(山幸彦)で、母は海神族首長の娘・玉依姫である。
『記・紀』に神武の父とされるウガヤフキアエズノ尊(彦波瀲尊)は山幸彦嫡出の長子であって、実際には神武の嫡兄である。その子孫が怡土支分国の王家を継いでいったとみられるが、後裔の系譜や存続の詳細は不明である。
天照大神:高天原を主宰する男性神であり、名を天活玉命(生国魂神)ともいう(論拠は様々に異なるが、山片蟠桃以降、男性神説もかなり多い。天照大神は、卑弥呼ではないし、推古天皇や持統天皇など実在者の反映でもない。後世に造作された架空の人物でもない。本書では詳説しないが、拙著『「神武東征」の原像』『息長氏』等を参照のこと)。天稚彦の親として神代紀に記される「天国玉」や、天照御魂神にも相当する(鈴木真年著の『古事記正義』)。
天照大神は天皇家の遠祖だが、決して抽象神ではなく、神武の四代祖先という具体的な生身の人間である。長子の天忍穂耳尊(天忍骨命)の嫡子が天火明命(この神は物部祖神ではないことに注意)で、この系統が本国・高天原(筑後川の中下流域で、久留米市の高良山麓に本拠)の邪馬台国王を継いでいった(これも後商やその存続の詳細が不明で、大和王権側の記録には残らない。景行天皇の九州巡狩や神功皇后遠征の時の討滅対象のなかにあったものか)。
天火明命の弟が、高天原から筑前の「日向」へ天降り(移遷)した者で、これが瓊瓊杵尊である。祖先の居住地から支庶の者が分かれて新天地に遷ることを、東北アジアのツングース系の上古伝承では、「天からの降臨」という形で把握する傾向があり、日本列島でもその例にもれない。東北アジアの習俗・伝承を視野に入れない議論だから、こんなことは実際にありえず、後世の造作だと安易な速断をすることになる。東アジアの太陽神は、殷の太陽神俊や高句麗の例のように、全てが男性神であった。なお、記紀のいう「高天原」及び「日向神話、出雲神話」の舞台は、全て北九州にあった。
日本列島への到来者:本書では、以下に具体的に検討を加えるが、天孫族の分派が初めて分かれるのは、天照大神の諸子から始まるという形の分支流の系譜などから見て、天照大神のあまり遠くない祖先が北九州に到来したとみるのが自然であろう。
「倭人」を江南にあった呉の太伯(周王朝ど同族で姫姓)の裔とする伝承は、『魏略』逸文などに見えるが、種族・経路や時期等から見て、その支配層については疑問が大きい。すなわち、上古の「倭人」』の人々の大宗を占める海神族が越人(タイ系種族)と同種族とは認められるとしても、二世紀前半以降に北部九州における倭国連合体の長たる地位についた天皇家の先祖は、これとは系譜・種族が異なる。国の主な住民とその上に立つ支配層とは、朝鮮半島古代の例を見ても、別途考えることが必要である。
弥生時代に日本列島に渡来した主な種族・人々では、江南から(朝鮮半島南部を経て、稲作・青銅技術などの弥生文化をもって渡来した部族と、これにかなり遅れて、東北アジア地方(とくに中国東北部及び朝鮮半島)から渡来して鉄鍛冶技術をもった部族という二系統の部族があった、これら種族と、縄文時代から列島原住の人々(一種族ではないかもしれないが、とりあえず一括して「山祇族」としておく。総じて、クメール系種族)との混合体が「弥生人」とされよう。だから、単一種族として弥生人を捉えてはならない。なお、始皇帝によって東海に派遣され斉国の琅邪郡から船出した徐福が日本列島にある国の祖となったと言う「徐福伝説」は、肥前佐賀や紀州熊野などにあるが、とるにたらない。
天孫族の始祖・スサノヲ神
わが国における天孫族(皇統)の具体的な始祖から検討に入ろう。この始祖神としては、天照大神ではなく、「五十猛神(伊達神、射楯神)」(イタケル、イタテ)があげられる。この神は、『書紀』に言う、たんなる新羅からの渡来神ではない。別名を「渡し神(和多志神)、度津神」と言い、これは外地の韓郷から渡来してきたことに因る。佐渡一宮で式内社の度津神社(新潟県佐渡市羽茂飯岡)は海上交通の守護神として五十猛命を祀るなど、日本各地で同名で祀られる(『神道大辞典』など)。
この神の記事は少ないが、『書紀』第八段(宝剣出現)の一書第四および第五の記事に見える。素戔嗚尊が子の五十猛神を率いて先ず新羅国に天降り、そこから舟を作って出雲に渡ったとあり、また、五十猛神が天降りの際に多くの木種を将来したが、韓地には植えずに、筑紫より始めて列島内に木種を播いたとある。そうすると、韓地からの最初の到来地はむしろ筑紫になるし、渡来航路的にはそのほうが自然である。このように、韓地(朝鮮半島南部)からの渡来が『記・紀』に明確に記されるのは、天日矛(天日槍)より前の時代の神・人では、ほかにいない。五十猛神と妹二神(大屋姫命、抓津姫命。実態は妻神か)が「伊太祁曽三神」として紀伊国名草郡の名神大社で篤く祀られており、奉斉者が紀伊国造よりも紀臣氏(系譜は皇別とされるが、実態は天孫族系)とみられる事情にも留意される。
記紀神話では、その父「スサノヲ」は、高天原にあっては天照大神を困らせる暴れん坊神で、天照大神と争って敗れており、それによる追放後の「出雲」では開拓者的に描かれる。その終焉の地が出雲という伝承もあり、出雲市佐田町須佐の須佐神社(風土記・延喜式に記載)が祀られる。その攝末社に天照社・厳島社・須賀社などがあり、境内に千数百年という老杉や蘇民将来の祭もある。スサノヲの子の大国主神の子、加夜奈留美(女神?)の子孫と称する須佐氏が永年奉斎するが、少なくとも系図の初期段階などには疑問があり、出雲国造一族が祭祀に関与したか(瀧音能之氏が須佐神社周辺の地をスサノオ神の本貫とみるのは疑問で、ここには同神は到来しておらず、子孫と称する家が祀っただけのこと。出雲国造一族が奉斎した神社も当初は熊野神社が主で、杵筑神社(現・出雲大社)でも長い間、祭神がスサノヲであった)。
スサノヲは、その子孫という大国主神を通じて地祇の三輸氏・賀茂氏や住道首などにつながるという系譜を伝える。これが『姓氏録』大神朝臣条や『旧事本紀』地祇本紀などに見える子孫の系譜であり(前者の大神朝臣条では、素佐能雄命の六世孫が大国主と記される)、『古事記』では「いわゆる出雲系」の多数の神々に通じる系譜が紀載される。しかし、五十猛神と大国主神との関係はこれら系譜では不明なままである(五十猛と大国主とは、祖先・子係の関係にない。出雲の大国主神の父は天冬衣命と伝え、その祖系のなかにも五十猛は見えない)。
このため、「スサンヲ」という神には複数の神格(人格)がおるようにみられている。実際には、このような名・通称で呼ばれる者が一族・同系統で複数いたり(部族長の通称的な使用もあるがか)、子孫が祖先の伝承を伴って各地へ移遷、展開したともみられる。朝鮮神話に見える檀君も、スサノヲに擬せられたり、高句麗からの渡来系氏族・八坂造氏が京都祇園(感神院祇園社)で祀る「牛頭天王」も、中国神話で牛首人身神とされる炎帝神農氏(赤帝)や蚩尤(兵主神)という頭に角をもつ武神(戦神)、兵器製造神にも通じる。わが国ではこれら神々の実体がスサノヲ神(ないし大己貴命)に通じるとされることが多い。蚩尤が鉄神とも言われる。
この「スサノヲ」の名は、同一部族(天皇氏族)の根幹系統を通じて、遠い祖先から見える「通称」ではないかと把握される。すなわち、五十猛神自身がスサノヲ(の一人)に相当するとしたほうがよい。五十猛神を祀る式内社は、出雲六社、播磨二社、紀伊二社など全国合計で十五社もあり、これら地域分布からは天孫族系の出雲国造族が主に奉斎したことが窺われる。これに関連して、わが国で兵主神を祀る式内社は、近江国野洲郡及び大和国磯城郡など名神大社三社を含め、合計で十九社もあり、うち但馬七社、因幡二社、近江二社、播磨二社、丹波一社などという地域分布に留意される(この辺に着目すると、但馬出石に落ち着いた天日矛一族が、韓地の新羅あたりから当該兵主神をもたらした可能性も考えられる)。
兵主神社の祭神は、いまは大己貴命、素戔嗚神などとされて、特に前者とされることが多い。これは、本来の祭神で鍛冶神たる八千矛神が、大穴持命に通じる大己貴命と混同され、出雲に兵主神の神社分布が多い事情に因るものか。八千矛神という神は、『書紀』には見えず、『古事記』で高志の沼川比売の求婚譚などに見えて、大国主神の別名として扱われる。同神の子には、「御井神」も見える。御井神は木伺神ともいわれ、多くの樹種をもって天降り、広く大八洲に播種したと伝える五十猛神の縁者というのがふさわしい。滋賀県蒲生郡日野町の八千鉾神社は、大屋彦神(五十猛神のこと)を祭神とする。銅矛・銅戈や銅剣は分布が北九州に多くあり、銅矛の出雲出土はあまり多くないので(最多出土の荒神谷遣跡でも、銅矛十六本に対し、銅剣が三五八本の多数で出土)その意味でも出雲の大国主神が八千矛神とされるのにはしっくりこない。
八千矛神とは、実はイタテ神(伊太弓、伊達、射楯こと五十猛神)のこととみられる(その場合、御井神とは高魂命〔高木神〕のことか)。銅矛・銅戈の出土が肥前唐津辺りに多く、銅剣も含めて銅製武器が北九州に多く出て、これが「銅剣銅矛分布圏」という把握もある。日本列島では、弥生Ⅰ期に朝鮮半島から銅矛が到来し、鉄矛は同Ⅲ期に出現して古墳時代中期以降盛行した(『日本考古学事典』)、とされるから、鉄矛も併せ持って渡来したのが天孫族か。天孫族の広い範囲に入るとみられるのが、新羅からの渡来を伝える天日矛(天日槍)である。唐津市の宇木汲田遺跡からは多数の銅剣・銅矛や多鈕細文鏡などが出土しており、天孫族の足跡を示すものか。
イタテの神は新羅系の韓鍛治の奉祀した神だと窺えると、真弓常忠氏は指摘する(『古代の鉄と神々』)。中国の原型である「兵主神」が額に角を持ち鉄を食べる蚩尤(上記)とされており、わが国で同神にも比定される五十猛神が角凝魂命(「角+鉄塊の意味の凝」)という別名をもつのも肯ける。吉野裕氏は、『風土記』の研究などから、早くに『風士記世界と鉄王神話』(一九七二年刊)や『素尊鉄神論序説』(一九七三年刊)を著し、スサノヲが鉄神だとみた。この鉄神性を同神に認める見解が多い。
端的にいえば、複雑な性格ゆえにスサノヲ神(素戔嗚神)の位置づけが難解であり、たいへん重要なのである。これが、記紀にイザナギ・イザナミニ神の子で、皇祖神たる太陽神・天照大神の「弟」とされたり、大己貴命の祖先とされたりと様々に混同が生じた(実際、記紀で天照大神と争った「戦った」という意味をもつ「スサノヲ」は、大己貴など海神族系の祖という性格では、別神としたほうがよい。現実の出雲と、実体が葦原中国〔筑前海岸部の那珂川波域〕たる記紀神話の「出雲」とを、八世紀段階の記紀の編者たちは混同したことなどに因る。
人皇ノ鼻祖という鈴木真年の指摘
一般には、記紀神話の影響で、スサノヲ神の子ないし子孫(六世孫『姓氏録』ないし七世孫)が大己貴命(大国主神)で、いわゆる「出雲族」(あるいは海神族)の祖神がスサノヲ神と受けとられている。
しかし、大己貴命は海神族の系統の祖神であるが、そうであっても、スサノラヲ神とは男系血筋でのつながりがなく(スサノヲ神後裔の女性を妻の一人としたことは考えられるが)、両神が血統一系というのは原型・実態とは異なる(両神の血縁関係を否定する先学の見解はかなりある。例えば、瀧音能之・藤岡大拙氏など。スサノヲの子に「八千矛神」がおり(五十猛神のことか)、兵主神社で該られるが、これが大己貴命と混同された結果、スサノヲの子ともされたものか)。ともあれ、「出雲神族」という概念は紛らわしく、使用には留意される。
スサノヲによる八俣大蛇(八岐大蛇)の退治の伝承も、竜蛇信仰をもつ種族のトーテム獣を退治したのだから、海神族の祖神であるはずがない。もっとも「八俣大蛇=九頭竜」という見方もあるようである(ギリシャ神話に出る竜迷体の巨大怪物ヒュドラーも九つの首をもつ)。これが、『古事記』では「高志之八俣遠呂智」と表記されるが、「高志」が越すなわち北陸地方とまでは、スサノヲの活動地域から読みとれない。ともあれ、皇威に抗う荒神(荒ぶる水神)の象徴として大蛇がでてくることになる。
この伝承も、同神が居て活動したのが北九州だとしたら、竜蛇信仰をもつ種族・国々(海神族系種族の国、主に奴国か)の退治・平定を意味したのだろう.スサノヲについて、韓地から渡来の鉄器鍛冶集団が信奉する神という説はかなりある。火山の神という見方もあるが、これは火に関わる鍛治神の祖神、竃の神からの転訛の可能性もあろう。
明治期の国学者で系図研究者の鈴木真年は、その著書『日本事物原始』や『古事記正義』で、この神について概ね次のような主旨で記している。
「素戔鳥命トハ人皇ノ鼻祖二坐シテ、二神ノ真名子タリ。故二、天神此葦原中洲ヲ賜テ、国土ツ開闢セシム」(適宜、句読点を付した)と切り出し、高天原から天降って新羅の牛頭方(楽浪郡のうちの地)に至り、伊太氐命(亦名を五十猛命、大屋毘古命、伊太祁曽命、神平多命)・速須勢理比売を生み、その後、太白山(平安北道寧辺の妙香山に比定。平壌の東北方)の下に至り檀木の下に互市(陸上での交易)するなど人事や社会運営を教え、これを国人が追末して檀君という。また神櫛玉命(亦名を櫛御気野神、気津御子神。すなわち、熊野大神)ともいう。
その子の伊太氐命を率いて東海に入り、多くの樹木種ををもって出雲国に着き、須賀の地に宮居したが、伊太氐命は妹と協力して樹木の種を各地に分布した。素戔鳥命の子の天忍穂耳命を、天照大神は子として養って天子の位につけた。」(ここで天忍穂耳命を「子」とするのは、天安川の河原における天照大神との伝承から、スサノヲの実子と考えたものか。ただ、この見方には疑問あり、実際にはスサノヲの子孫となろう。後述)
こうした真年の把握には疑問な点もいくつかあるが、スサノヲ神がわが国の「人皇ノ鼻祖」だという基本は妥当な線だとみられる。天照大神が男神だという性格(夫婿が知られずに子孫を残す女性が古代大族の祖先系図にはまったく現れない事情もある)や忌部氏の上古系図等を参考にして、これら記紀の記事を総合的に考え併せる必要がある。そうすると、韓地から日本列島に渡来してきた、わが国天孫族の始祖(天照大神の更なる違い祖先)こそがスサノヲ神であって、五十猛神とも同神(ないしその父神)だとみるのが適当となる。朝鮮の始祖とされる「檀君」(後述するが、後世の造作神となろう)とほぼ同種の性格をもつ神という程度は認めて良い。
十世紀後葉の北宋に、日本の東大寺の僧・奝然らが雍熙元年(九八四)にやって来て、銅器や『王年代紀』などを献上したが、天御中主を初代とする皇統譜には、第十八代に素戔鳥尊(その前代が伊奘諾尊)、第十九代に天照大神尊、第二四代目に神武天皇の名前が記される(『宋史』日本伝)。平安中期の円融天皇治世のときに存在した『王年代紀』が何に基づくかは不明だが、天照大神の先代に素戔鳥尊があげられることに留意される。
スサノヲがスガの地に居たという上記伝承からか、全国の須賀神社はスサノヲを祭神とする例が多い。同社は、牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社で、全国に広く存在し、島根県・高知県に特に多い。これら須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」「天王社」と称していた。牛頭天王は、播磨の広峯神社などでも祀られるが、同社は天孫族の針間国造の領域にあって、同じく凡河内国造一族が長く奉祀した。
なお、素戔嗚命の実体について、卑弥呼と対立関係にあった「狗奴国王」を考える説もあるが、これは根拠に乏しい想像論である(狗奴国の性格・習俗についての誤解が基礎にある)。また、習俗・祭祀やトーテムが異なる大国主神(海神族系氏族の祖)の父祖でもない。
八幡神の実体
豊前の宇佐八幡でも、祭神たる八幡神の実体が五十猛神だとみられる。応神天皇家や宇佐国造など天孫族の一派の実際の遠祖として、八幡神が考えられる。字佐国造は、高魂尊の裔孫の宇佐都彦(菟狭津彦)を国造初祖とするが、高魂尊の先が五十猛神とみられる。
弘仁五年(八一四)の太政官符や『宇佐託宣集』等に拠ると、字佐郡の小倉山の麓に八つの頭が一つの身体についた奇異な風体をもつ鍛冶翁がおり、金色の鷹となって示現し、その姿を見ようと近づく者の半数が死亡したが、神官(辛島勝乙目とするのが原型か)の祈持に応じて三歳児童の姿で八幡神が出現し、「我は始め辛国に八流の幡となって天降り、日本の神となって一切衆生を度する釈迦菩薩の化身なり」と託宣したという。こうした伝承などから、八幡神はもともと鍛冶神とする見方も古くからある(柳田国男氏ほか)。
後世では八幡大神にも擬せられる応神天皇は、実際の系譜は宇佐国造一族の支流の流れをひく鍛冶部族の息長氏に出ており、遠祖は神武に始まる王統と同じで、高魂命であった。金色の鷹は、金鵄や八咫烏にも通じる天孫族のトーテムである。
素盞嗚神という神は、海神族たる大己貴神(大国主神)の父祖としても伝えるが(記紀ともに見えるが、『古事記』のほうに多く伝える傾向)、その一方、熊野大神として、天孫族系統の物部連や鳥取部によって祖神として広く奉斎された。これら氏族の祖たる天津彦根命(天若日子)やその兄弟神は、素盞嗚神と天照大神との天安河原の誓約の際に息吹きのなかから誕生したと神話に伝える。
こうした両様の複雑な性格をもつ素盞嗚神は、本来は性格ごとに別々の人格神かとも考えるのがよいかもしれない。そのなかでも、最も主なものとしてはわが国天孫族の祖となる(こうした見方は、私の氏族研究の結論的な部分だけを記したので、分かり難いかもしれないが、紙数制約や論旨展開上の見地から、本書ではこのくらいに止める。以上の記述に関連して、本シリーズの『息長氏』『三輪氏」』などをご参照)。
天孫族の祖系と祭祀
現存の天孫族系統の系図では、天照大神より先へ遡る神統譜を記すものは少ないが、『姓氏録』では若干は記事が遺る。それが、角凝魂命を遠祖とする系譜をもつ諸氏(鳥取連・鳥取、委文連・宿祢〔倭文連・宿祢〕、竹原、美努連、税部〔鴨県主一族〕や額田部宿祢〔物部氏同族〕、雄儀連などで、殆どが少彦名神の流れ)である。
角凝魂命を祀る神社は全国で少ないが、鳥取連が奉斎した和泉国日根郡の式内社、波太神社(大阪府阪南市石田に鎮座。もと桑畑村、東鳥取村で、同国神名帳に従五位上波太岐社と記載。府社)の祭神として鳥取連の祖・天湯河板挙が垂仁朝に祖神を創祀したと伝える。波多の地名は肥前国松浦郡にもあり、当地に波多八幡神社(佐賀県唐津市北波多稗田で、宇木汲田遺跡の西南近隣)が鎮座する。「波多」は秦韓・辰韓に通じるものか。
忌部氏の系図(「斉部宿祢本系帳」」や「宮中八神」などを基礎にして、始祖の五十猛神以降の初期段階の歴代を整理、推定してみると、概ね次のようになる(第1図)。ただ、妻神(后神)は難解であり、推定の度合いが大きい。
各々の遠祖神が異なる複数の神名をもつことに留意されるが、天照大神は「斉部宿祢本系帳」では「天庭立命」として表記される(この名に近い「天壁立命」も天背男命の父神で左京神別の宮部造の祖とされるから同神となる)。
この神は、大阪市天王寺区の生国魂神社(東生郡の難波坐生国咲国魂神社)で奉音される神であるこれが、信濃国小県郡では名神大社の生島足島神社(長野県上田市下之郷)でも祀られて、その祭神が大八嶋を統べる「生島神・足島神」とされる。摂津国川辺都(兵庫県尼崎市栗山町)の生島神社では、生島神・足島神、天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那岐・伊邪那美神をいま祀る(祭神の名に重複がある)。
この生島神・足島神は、天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀ともみられる八十島祭の主神とされる(この祭は、文献初見が文徳天皇の即位時の嘉祥三年〔八五○〕九月で、鎌倉前期まで廿二回確認されると言うが、由来は上古に溯るのだろう)。『延喜式』神名帳には、宮中八神殿で御巫祭神八座のなかで生産日神・足産日神(『古語拾遺』では生産霊・足産霊)として祀られ、神祇官に坐しては生島巫祭神二座として生島神・足島神があげられる。両名は併せて夫婦神(その場合、足島神のほうは妻神か)とみられ、男神は伊久魂命とも天活玉命ともいわれる。天照大神という名では、『延喜式』神名帳では宮中坐神三六座のなかに見えないし、『姓氏録』にも諸氏族の祖先として見えないことに留意される。なお、天活玉命を祀る神社は少ないが、越中の高瀬神社(富山県南砺市高瀬。同社は五十猛神も合祀)や讃岐の大麻神社(寒川郡の大蓑彦神社。香川県善通寺市大麻町)という式内社があげられる。
『書紀』には生申の乱の時(天武天皇元年〔六七二〕七月廿三日条)に生島神が見える。そこでは、高市社に坐す事代主神と牟狭社に坐す生霊神が神憑りして、神日本磐余彦天皇之陵(神武陵で、『書紀』にいう畝傍山東北陵か)に馬と種々の兵器を奉納すれば、両神が天武軍の前後に立って守護すると告げたが、この生霊神が生島神(生国魂神)に当たる。いま畝傍山の東北の裾、橿原市大久保町域(旧洞村)にある神武陵旧跡と伝える地の近隣には、生玉神社が鎮座する。
『古事記』には「天津国玉神」とも表記されるが、これは、天若日子(天稚彦。天照大神の子で別名が天津彦根命、天背男命、天湯河桁命であり、出雲国造や物部氏など鍛冶部族や鳥取部等の祖)が大国主神のもと(葦原中国)に派遣された事件に関連して見える。
その父神が高皇産霊尊であり、上記の宮中八神殿で祀られる高御産日神にあたる。この神のときころに筑後川流域に至って定着したとみられる。この神を天孫降臨の指揮者として皇祖神のはじめに置く見方が学究には多いようだが、上記系図に見るように更に父祖の神々を伝えることに多意される。
「宮中八神」の意義
ここまでに宮中八神にも触れてきたが、『延喜式』神名帳の冒頭に掲げる「宮中八神」には十分留意される。
すなわち、宮中神として大社三十座小社六座があり、そのうちの筆頭に「御巫等祭神八座」並大、月次新嘗とある神々で、①神産日神、②高御産日神、⑤玉積日神(玉積産日神)、④生産日神、⑤足産日神、⑥大宮売神、⑦御食津神、⑧事代主神、の八神があげられる。さらに、「座摩巫祭神五座」並大、月次新嘗として生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五神、「御門巫祭神八座」並大、月次新嘗として、櫛石窓神と豊石窓神が四面門各一座、「生嶋巫祭神二座」並大、月次新嘗として並大の生嶋神、足嶋神の二神があり(ここまでが「神祇宮西院坐御巫等祭神」とされて、合計が二三神)、更に、「宮内省坐神三座」並名神大、月次新嘗として薗神社、韓神社二座、「造酒司生神」大四座、並大、月次新嘗として大宮売神社四座が掲載される。
「宮中八神」の次ぎにあげれる神々は、御門神(八座)を除くと、おそらく八神の異名・異称で重複するものだろう(ただ、座摩巫が祭る五神は、「大宮地を守り坐す霊神」とされるが、その実体は難解・不明。五神はみな始祖神関係の異名かもしれず、「生井、福井、綱長井」で三井・御井、「波比祇、阿須波」が五十猛神に通じるか)。そして、その皇統譜のなかで大祖先神としての位置づけにあった神々ではなかろうか。具体的には、天照大神夫妻を含めそれ以前の三代の夫妻神とみられる。上記の「第1図天孫族の初期段階の系譜」は、こうした見方のうえで推定記載をした。
注意すべきは、最も重要な天照大神にあたる神の名が二つ(玉積産日神、生産日神)あり、対偶を持たない「事代主神」があって、合計で「八神」となっている点である。天孫族系統では、「八」という神聖数をもっていた。
さて、ここの「事代主神」の実体は何だったのだろうか。抽象神としての意味は、「神憑りして神託をくだす神」であり(松前健、佐伯有清などの諸氏)、特定の固有名詞とされる必要はない。ところが、この神は、一般には地祇(国津神)・三輪氏族の祖で、神武天皇の皇后の父神が指される。これは、後代の諸天皇の母系祖神として理解が出来ないわけでもないが、それならば、天照大神の邊遥か後代の神であって、宮中祭祀のバランスを欠く。
そこで、「姓氏録』を見ると、天神としての「天事代主命」(天辞代主命、天辞代主命)が存在したとわかる。この神を祖神とするのが、左京神別の畝尾連、右京神別の伊与部、大和神別の飛鳥直の三氏であり、これら諸氏の系譜を考えると、みな中臣連一族の初期分岐となる(伊与部条には高媚牟須比命の三世孫と記載も、これは疑問)。畝��連の一族は和泉神別にもあげられ、そこでは「大中臣朝臣同祖。天児屋命之後也」と記載がある。しかも、高市郡明日香村に鎮座の飛鳥坐神社(並名神大)では、事代主神、高皇産霊神、飛鳥神奈備三日女神を祭神とする。すなわち、天事代主命とは中臣氏の大祖神(天孫降臨痔の天児屋根命の父祖神か)の位置づけということになるが、そうすると、天照大神も含め、この神から遡って三世代の夫神の誰かの舅神で、天孫族系統の母系の祖として特掲された可能性があり、この場合には「宮中八神」に所掲の神々の活動年代とも符合するものとなろう(現在の当該飛鳥神社の祭祀では、転訛された影響で、有名な三輪の事代主神と混同されている)。
なお、{宮中八神」のなかに、元は「倭大国魂神」(実体は九州所在の大己貴神)も含まれていたとみる見解(若井敏明氏『「神話」から読み直す古代天皇史』)には反対である。天照大神以前の上古歴代の舅神の位置にはいないからであって、『書紀』崇神天皇大年条の記事には疑問がある。不祭祀のイザナギ・イザナミの諾冊二神も、実体をもつ神ではなかった。
韓国イタテ神の列島渡来
『延喜式』神名帳のはじめに、宮中で祀られる神々が「宮中坐神三十六座」としてあげられる。そのなかに宮内省に坐す神の三座(並名神大)があって、薗神(園神)の社と韓神の社の二座がある。この「韓神」こそ韓(伽耶)から渡来した五十猛神を指す。ちなみに、御巫等祭神の八座にあげる神産日神も大始祖たる五十猛神にあたるとみられ、五十猛神の妻神の御食津神(御膳神)も同八座のなかに見える。この女神は豊受大神でもあり、食物主宰の倉稲魂神(稲荷神)で保食神なのだから、薗神にあたるとみるのが自然である。織物と酒造を司る女神、大宮売神にも当たりそうな可能性もあるが、それを留保しつつ、この関係では別神としておいた(関連して言うと、丹波国多紀郡式内社の大売神社【兵庫県篠山市寺内]は、大宮売神を祀るが、「オーヒルメ」神社と読まれている。大宮売がアメノウズメの別名だとする平田篤胤説や、これに通じる『古語拾遺』の記事は誤りとみられる)。
かつて、黒板勝美博士は、天照大神より前の神々が皇室の祖先として奉斎されていないとの理由で、それらの実在性は認めがたいと考えた。しかし、上記のように現実に別の神名で宮中で永く奉斎されてきた。出雲でも、神産日神も神魂神社の名で、意宇郡六社の一としてあり(松江市大庭町)、出雲国造が長く奉仕した。同社は神火相続の神事で知られる。
「園韓神」には一に大己貴神・少彦名神・大物主神をあてる説もあり、平安京遷都以前に京の地を支配したのが渡来系の秦氏だとして、園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神とみる説(水谷千秋氏)もあるが、ともに論拠薄弱である。
園韓神社は宮中では唯一の名神大社であり、応仁の乱頃までの宮殿の宮内省に鎮座した。この神格・鎮座地からみても、秦氏にふさわしいとはとても言えない。例祭は園韓神祭といわれ、『江家次第』では神部四人が榊・桙・弓・剣を持って神楽を舞ったと見え、『百錬抄』では大治二年(一一二七)の大内裏火災で園韓神の御正体を取り出そうとした折に神宝として剣・桙があったと見える。帝王鎮護の神という役割や、皇祖神の系統からみても、これは始祖神の五十猛神夫妻とするのが妥当であろう。もとからこの地にあって平安遷都に伴い遷座させようとしたら、帝王を護りたいという託宣が韓神からあったとも伝える(本来は鴨県主奉斎か)。
御食津神はオオゲツヒメ(保食神)でもあり、穀物神(稲倉魂命)でもあった。五十猛神は大屋毘古神とも呼ばれ、一緒に植樹につとめた妹・大屋毘売(大屋津姫)は、名前の対応から考えて、「妹」とは実際には「妻」の意であろう。紀州にはこの女神を祀る神社もある(和歌山市字田森に鎮座の大屋都姫神社など)。この妻神は白山信仰の菊理媛命にも通じ、水神の罔象女神であり、多様な神格と名をもつ。八幡大神の妻神たる比売大神でもあって、宇佐八幡宮で祀られる。水神が竜神に通じ、仏教での同種の弁財天にも通じる祭祀もある。
筑後国御井郡や豊前国田川郡(豊比咩命神社という名で、いま香春神社に合祀)など各地の「豊比咩神社」の祭神であって(神武天皇の祖母とされる「豊玉姫」ではないし、「神功皇后の妹」のことでもない)、伊勢神宮外宮の豊受大神にあたる。香春の豊比咩神が宇佐の比売大神に相当すると岡谷公二氏も指摘する(上掲書)。豊比咩(豊姫)については、高良神の妻神という見方もあり、この辺の可能性を留保しつつ、比売大神という見方で一応、考えたい。
比売大神については宗像三女神説(宇佐神宮・石清水八幡宮の立場か)もあるが、大分県杵築市の奈多宮では、沖合の市杵島(または厳島)と呼ぶ岩礁に比売大神が降臨したと伝えるから、主祭神八幡神(=五十猛神)の后神で、端的に市杵島姫神と考えたほうがよい(その系譜は不明だが、天照大神の娘のはずはなく、海神族的な色彩があるものの、幹地から共に渡来したか、既に北九州にあった種族の出かは判じがたい)。
この女神は、水神の性格からは淀姫(興止姫神、世田姫)にもあたる。肥前国一宮たる佐嘉郡の與止日女神社(河上社。佐賀市大和町川上)、予賀神社なども含め、肥前中心に二十数社の多くで祀られ、とくに佐賀県の嘉瀬川流域に六社もあって祭祀が集中する。夫神・五十猛神と同様、石神の性格ももつ(脊振山に鎮座の脊振神社は、弁財天社ということで本地垂迹で市杵島姫を祀るが、この神にもあたる〔瀬織津姫や蛇神の宇賀神にもあたる〕。山城国乙訓郡の式内社、与杼神社〔京都市伏見区淀〕でも写る。安芸宮島の上厳島神社〔伊都岐島神社〕や近江の竹生島神社〔浅井郡式内社の都久夫須麻神社〕、相模江ノ島でも、市杵島姫【弁財天】を祀り、竹生島では、併せ宇賀神・浅井姫・龍神も祀る。淀姫が、一に「八幡大神の叔母、神功皇后の妹」とされるのは訛伝)。
唐津市呼子の加部島(別名が姫島)の宮崎鼻に鎮座する田島神社(松浦郡の式内名神大社の田島内神社)は、肥前最古といわれ唯ーの大社とされる。本殿の裏には磐境(祭場)とみられる地があり、立った三個の巨石や二個の平石、太閤祈念石と呼ばれる巨石もある。
加部島は、韓地・大陸への交通を考えると「道主貴(ちぬしのむち)」の鎮座地にふさわしく、市杵島姫を含む宗像三女神が礼られる(神名帳には「一座」と表記)。そうすると、韓地釜山(ないし対馬)辺りから筑前大島・沖ノ島を通る海路が「海北道中」と一般に解されるが(「海北」=は朝鮮半島を指す)、当該経路は、倭韓間の海上交通における当初のメインルート「壱岐・対馬を経由の線」だとみる田中卓博士の見方のほうが正しいものか。宗像大社では、九州本土の宗像市田島の地に辺津宮(総社)として現在、市杵島姫を祀る(『古事記』では、市杵島姫は中津宮、辺津宮鎮座は田寸津比売と記す)。
道主貴は、『書紀』(巻一第六段の一書第三)に「筑紫の水沼君等が祭る神」と見えており、水沼君(水沼県主)は佐賀君(佐喜県主)と同様、火国造同族とみられるから、これら諸氏の祖神でもあろう。『旧事本紀』天皇本紀には景行天皇の皇子のなかに武国表別命をあげ、筑紫水間君の祖と記される(同人は、「円珍俗姓系図」に讃岐の和気公・因岐首の始祖とされ、九州の阿蘇君・火君らの祖とみられる。『書紀』景行段に見える水沼別の始祖・国乳別皇子かその近親にあたる。同書の記事では、「弟の豊戸別皇子。是火国別之始祖世」と続ける)。
水沼君氏一族は、筑後国三潴郡の豪族で、久留米市西南部の大善寺町にある大古墳、御塚(全長約一二〇詩という帆立貝式古墳。中期古墳か)及びその北隣の権現塚(外径が全長約一五〇計かともいう。後期古墳か)の築造者とみられている。東北方近隣の同市高良内町には、これらに先立つ石櫃山古墳(全長が百計超【最大で一一五潮というで、境輪式を出土)もあったが、消滅した。久留米市北野町赤司に鎮座の赤司八幡宮(御井郡惣廟を称)がもと豊比咩神社といわれ、與止比咩命・高良大神や道主貴(三女神)、すなわち宗像三女神が祭神で、祠官家が水沼君氏との伝え(境内碑文)もあるが、領域からやや離れる感もある。
「韓」を冠する五十猛神
延喜式の神名帳には全国各地の官祭に関わる多くの古社があげられるが、そのなかで「韓」が頭につけられる神は五十猛神のみである。多くの樹木の種を持って大八洲に植えたと伝えて、紀伊国をはじめ各地で多く祀られる。わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてはかなり多くあり、全国で十五社を数える。
とくに、出雲には最多で合計六社もある。それが意宇郡・出雲郡に集中するが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する。これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか。そして、これら出雲国内の六社が全て、韓国伊太氐神と記されて、式内社では類例の少ない「韓国(辛国)」が冠として付けられる。当地の曽枳能夜神社境内の韓国伊太氐夫神社(島根県出雲市斐川町神水)揖夜神社境内の韓国伊太氐神社(同県松江市東出雲町揖屋)など、韓国伊太所神社が出雲国の九郡中で意宇郡と出雲郡とに三社ずつ見られる(出雲国意宇郡の条に、①玉作湯神社、②揖夜神社、③佐久多神社に「同社坐韓国伊太氐神社」があり、西側の出雲郡条にあっても、「同社(神)韓国伊太氐神社」としての阿須伎神社、⑤出雲神社、⑯曽枳能夜神社が同様)。
このほかの式内社では、薩摩国曽於郡の韓国宇豆峯神社(鹿児島県霧島市国分上井)も、五十猛神(又の名を韓神曽保里神)を祀る。ここでも、とくに「韓国」を冠した神社の名前になっていることに留意される。これらの事情も、ての神の韓国からの渡来を示唆する(千家俊信『出雲式社考』にほぼ同旨)。出雲の西隣、石見国では現大田市五十猛町に近隣して韓神新羅神社・五十猛神社の両社が鎮座する。
この朝神新羅神社、出雲国出雲郡の韓竈神社(産銅遺跡のなかに鎮座)や安芸国御調郡の賀羅加波神社のほうは、素戔鳴命を屯るというが、五十猛同神か。
五十猛神については、記紀に見えるのは上記の一箇所だけであるが、イタテ神としては、『播磨国風土記』餝磨郡の因達里(姫路市街地の北部)の条に伊太氐之神が見える。因達里の伝承が、神功皇后が韓地征討で渡海する際、先導神としてその御船の上に鎮座したのがこの神である、という内容なのだから、「韓国」を冠しないイタテ神の場合にも韓国との関係がみられると石塚俊氏は指摘する。これが、餝磨郡式内の射楯兵主神社(姫路市本町に鎮座)である。イタテ神が神功皇后の先祖・天日矛にも通じるとしたら、祖神たちの加護を受けてその祖国の韓土に進攻したことになる。関連して、九世紀後半の貞観期当時の対新羅関係の悪化という背景のなかで、日本を新羅から守る目的で韓国伊太氐諸社が建立されたという説(瀧音能之氏)は疑問が大きく、この神の祭礼の由来は更に古かった。
伝承では、イタテ神は韓地の新羅から直接渡海し、日本列島に着いて出役に入り、そこから紀伊に遷ったようにうけとられる。出雲・紀伊には関係社が多くあり、出雲の西隣の石見国安濃郡にも、現・大田市五十猛町に五十猛神社と韓神新羅神社がある。五十猛命の降臨地としては、奥出雲、出雲国仁多郡の鳥上峰(船通山、鳥髪山)という伝承もある。これも、天孫族関係者が高山に天降りするという所伝の一環である。
九州の太宰府付近にも鳥髪山に相当するような山(例えば基山〔後述」」とか砥上岳(遠賀川源流地)がある。一方、対馬、壱岐を経由して九州の有明湾岸に上陸とも伝えるから、多くの関係請社や遺跡などの分布を具体的に見ると、やはり韓地→対馬→筑紫という地理的に自然な経路をとったとみられる。そこで、次ぎに北九州の分布を見てみる。
九州の五十猛神
対馬では、対馬島の北端で河内湾に臨む地に鎮座する岩立神社(岩楯神社ともいう。対馬市上対馬町大字河内)がまずあげられる。素戔嗚尊が韓土よりお帰り(到来か?)の時に、この浦に船を寄せたと伝える。元来、本社は岩楯の地に在って神籠磐境だといい、社殿がなく森の中に磐石があって、これを神位とする。
同名社では、備前国和気郡にも、磐梨別君氏(垂仁天皇後裔と称するが、実際には息長氏の一支流の和気氏)の奉斎とみられる同名の石立神社(現・備前市麻宇那)があり、社殿の下に大磐石があって、岩石崇拝に創まるとされる(『神道大辞典』)。姫大神も祀られ、近隣の北側対岸には祇園神社・磐井神社、稲荷神社や荒神社もある。石立神社の南方の備前市域、日生には高良八幡もあって、その社叢もウバメガシが占める海岸林で知られる。対馬の那祖師神社(対馬��上対馬町豊。島大国魂神社も合祀)など数社も、五十猛神を祭祀する。
大和にも同名社が添上郡式内社であり、「天乃石立神社」と記載される。現社名を天石立神社(戸磐明神)といい、奈良市柳生谷、戸岩山の北麓(奈良市柳生町の岩戸谷)にあって、本殿をもたず、鎮座する巨岩を直接拝する形態をとる。四つの巨石の総体が天石立神社と呼ばれるが、なかでも中心の丸い巨岩(きんちゃく岩と呼ぶ)が日向神社で、これが天照大神を祀り、他の三つは門神(豊磐門戸命、櫛磐門戸命)と天岩戸別命に当てられる。地域的に考えると、同社は磐梨別君同族の山辺県主一族が祭礼に関与したものか。
北九州の五十猛神祭礼では、筑前国御笠郡の筑紫神社(福岡県筑紫野市原田)や同国早良郡の五十猛神社(同県福岡市西区金武)が著名である。前者では、筑前・筑後・肥前の交通要衝に、筑紫の国魂たる筑紫大明神として祀られる。その別名の白日別神は、太陽神にも「日向」になも通じる。早良郡の西職りの怡土・志摩両郡(現・糸島市域)にも、五十猛神を写る神社が多い。王丸の白木神社前原の酒神社、草場や西浦の白木神社などがそれであり、潤神社も含め、その旧名が「白木神社」とするものも多い。これらの白木神社の群や、密集する白木の地名は新羅に因むといい、朝鮮半島由来の遣跡や伝承に彩られる。
肥前では、基山を神体山とする荒穂神社(佐賀県三養基郡基山町宮浦)がある。筑紫神社の後背地にあたる基肄郡の基山山頂には五十猛神が祀られ、玉々石という巨石の磐座や五十猛神伝承による「日本植林発祥之地」という石碑がある。同名社は、基山の別宮として、遠賀川上流域の福岡県嘉麻市牛隈(旧・嘉穂郡)にもあるが、祭神がニニギの尊で、元宮が馬見神社という。
『筑後国風土記』逸文には、荒ぶる「麁猛神」が筑前と筑後の境界に居て、往来の人々の半数を殺すので、筑紫君等の祖・甕依姫を祝にして祀ったと見え、麓の荒穂神社で祀られる。この実体が五十猛神とみられる。この地に朝鮮式山城の基肄城が築かれ、瓊瓊杵命が基山で国見をしたとの社伝もある。アラは伽耶の安羅(慶尚南道の咸安あたり)にも通じるし、「基肄」は紀伊国造の紀直氏や武内宿祢後裔と称した紀臣氏の「キ」にも通じる。杵島郡の稲佐神社・妻山神社(ともに同県杵島郡白石町域)なども、五十猛神やその眷属神の祭祀で知られる。
日本列島に杉などの樹種をもたらしたことで、各地の紀伊神社や杉山神社の祭神とされることも多い。とくに武蔵南部(旧都筑・橘樹両郡や横浜市港北区域)には、五十猛神を祭神とする杉山神社の分布が多い。これは、五十猛神を奉じた人々・部族がこの地域の開拓を進めたことに因るものであろう。
九州に戻って、五島列島、福江島の北部に位置する五島市(前・南松浦郡)岐宿町岐宿に巖立神社(岩立三所大権現)があり、社叢は椎の大木やナタオレの木などの原生林として長崎県文化財に指定される。対馬のイワタテ同名社に通じ、ここでは宗像三女神等を礼るが、本来は市杵島姫を祀るものか。長崎市香焼町の岩立神社では、境内に樹齢推定二百年という古木のエノキ(市指定天然記念物)がある。
岩立神社について言えば、このほか、出雲の東隣の伯耆西部にも同名社があり(祭神はいま大山祇命とされるが、疑問)、大山中腹の鳥取県西伯郡伯耆町岩立に鎮座する。ここでも、樹齢推定二百年、という樅・杉・銀杏の巨樹群が社を深く覆うことで有名で、裏山には「岩滝さん」と呼ばれる古くから信仰の対象とされた巨石があり、周辺に岩立古墳群もある。近隣の金持神社(同県日野郡日野町)や石見の物部神社別天神(島根県大田市川合町)などに祀られるのが、天之常立神である。この神は天地開闢の際に、別天津神五柱の最後に現れた神で、天(高天原)そのものの神格化ともされるから、具体的には五十猛神を指すのかもしれない。国常立神は、国土守護神ともされる。
これら五十猛神と眷属神を祀る神社や関連遺跡は、���九州では天山を含む背振山地の周囲に濃密に点在する。天山は、同山地の西部側、佐賀県のほぼ中央部に位置し、唐津・小城・佐賀・多久の各市に史る。その標高一〇四六㍍は、同山地東部の最高峰、脊振山(標高一〇五五㍍)に次ぐ。
この辺の事情を踏まえ、天孫族の様々な特徴を次ぎに見ていくことにしたい。
鳥トーテミズム
天皇家・天孫族には、鳥トーテミズムや、始祖の卵生伝承らしきものなど、鳥にまつわるものが多くある。古くは「天の鳥船」や「八咫烏の先導」の伝承があり、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承も代表的であって、その墓の候補のいくつかには「白鳥陵」という命名がある。
河内の古市古墳群にある津堂城山古墳は、前期末頃の巨大古墳で、倭建命の陵墓に擬される。すくなくとも、当時の大王一族関係者の陵墓とみられており、辺十七㍍の方墳状の特殊な施設には、巨大な水鳥形埴輪三体が配されている。この水鳥はおそらく白鳥ではなかろうか。烏型の埴輪は全国的に分布するが、応神天皇陵に比定される誉田山古墳や継体天皇供の可能性が大きい今城塚古墳でも見られ、これらに先行する。古墳の周濠から鳥形木製品が出土した例もあり、天上と地上を結ぶ聖なる動物という意味以上に、こうした鳥トーテミズムが大王一族にあったから祭祀に使われたものだとみられる(鳥形木製品や鳥装シャーマンは弥生時代から見られるが、穀霊信仰の現れとするのは疑問か)。中国の長江中・下流域にあった河姆渡文化期には鳥と太陽が象徴化されるとの指摘もある。
こうした鳥トーテミズムは、同族の息長氏から出た応神王統にあっても同様である。『記・紀』などに見える大雀・隼・雌鳥・鷺などを名にもつ応神・仁徳近親の王族も、鳥トーテミズムの現れであろう。この系統の遠祖、少彦名神は鳥の神様ともいえ、天日鷺翔矢命の名ももつ鳥取部造の祖神でもあった。
応神天皇自体が、宇佐八幡の伝承に、金色の鷹が金色の鳩に変じし、さらに小児となって現れて「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗ったと伝える(『八幡宇佐宮御託宣集』)きも。この金色の鷹は、菱形池のほとりにいた鍛治翁の化身とされる。応神の前身(若い頃)は、垂仁天皇の皇子・ホムチワケ(品遅別、誉津別)として記紀に登場する(「ワケ」の名からして、垂仁の皇子ではありえないが)。ホムチワケは成人してもものを言わなかったが、空をいく白鳥の声を聞いて初めて話をしたので、山辺の大鶙が命をうけ捕らえたとの伝承がある(記紀に多少差異があるが、捕獲者は少彦名神後裔の鳥取部造の祖)。「大鶙」は鷲鷹類の鳥を表す名(通称)であり、これに対応して『書紀』に見える名の「天湯河板挙」とは、実際には祖神の名であって、少彦名神の親・天若日子(天稚彦)の別名とみられる。
全国各地には白鳥神社が多くあり、日本武尊(倭建命)の伝説に因むとするものが多い。これらは、総じて天孫族諸氏の祭祀にかかるとみられる。福岡県にも白鳥の地名や同名社が多く鎮座する。順不同であげると、朝倉市白鳥・柳川市三橋町白鳥・京都郡みやこ町節丸字白鳥など白鳥の地名や、久留米市荒木町白口、田川市猪国、嘉穂郡嘉穂町馬見、八女市黒木町大淵、八女郡矢部村北矢部などに白鳥神社が鎮座する。大分県にも同名社が多い。久留米市白山町や神埼市神崎町城原にある「白角折神社」(前者の地ではシラトリ、後者ではオシトリと訓む)も関係社とみられ、後者には樹齢千年起という楠の巨木がある。
神武の大和侵入に際しては、八咫烏が道案内し、金色に輝く霊鵄(実体は八咫烏同神で、少彦名神後裔によるトーテム表示)が皇弓の筈(弓の弦をかける所)に止まって、抵抗する長髓彦軍の平定に助力したという伝承もあり、天孫の徵表が天羽羽矢であったとも記される(『書紀』)。天日鷲翔矢命(少彦名神の別名)の后裔には、長白羽神(天白羽鳥命)、天羽槌雄神や鴨族諸氏がいる。鍛冶神たる天目一箇命や少彦名神兄弟の父・天若日子(天津彦根命)は、自ら雉を射抜いた「反し矢」によって殺害されたが、その葬儀に際して、川鴈・雀など多くの鳥が役割を担ったと『書紀』に記される(割註では、本文より多くの鳥の名をあげる)。
これは、『春秋左氏伝』の昭公十七年条に見える山東省南部の夷系の国、郯子国の多くの鳥の名を付ける官名に通じるようであり、松本信広氏は、死者の魂を他界に連れていく鳥の観念と関連すると説く。朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)でも、死者を天上に飛揚させるため、大鳥の羽根を用いて死者を送るという風習があった(『三国志』魏書弁辰伝)水上静夫氏も、中国の中原東方には郯子国など鳥トーテムをもつ諸氏族があり、殷族がこれらと一群の種族だとみる(『中国古代王朝消滅の謎』ー九九二年刊)。郯子国(郯国)は山東省郯城県(山東半島の基部の南方)の西南境に位置し、春秋時代に魯の属国であったが、東夷族の祖・帝少昊の後とされ、嬴姓の国とされるから、秦・趙や徐、黄、江、李などの国・君と同族である。山東にあった大国・斉は、もとは秦と同じく嬴姓の蒲姑(薄姑。殷代の侯爵国)の領域といい、少昊自体もその別名の「鷙」が手で鷹鷲をしつ執るという意味だとされる。
白川静氏も、金天少昊氏と山東の郯子とは同じ系列に属するとみる。殷は種族的には夷系に属するとし、殷の王朝的規模は、倭の五王期とあまり異なるものではなく、殷墟に残される十三基の地下王陵は、わが国の仁徳、応神の諸陵にほぼ匹敵し、殷が直接支配した地域も、西日本の全域程度のもので、絶対年代の異なることを除けば、両者の条件はきわめて似ている、と指摘する(『中国の神話』)
殷の始祖の舜には、もと太陽神であったらしい形跡があり、アマテラスの信仰と似ているといえよう、とも言う。
中国では、『春秋左氏伝』より更に古い『逸周書』の「王会編」に、鳥トーテムをもつ異族が見える。周王が成周(いまの洛陽)に壇を築いて万国を会集する状況を記述するなかに、森林が密集する山陵地帯の異族が多く奇鳥喘禽を献じており、鳥トーテミズムをもつ秦の出自がこの方面たあると白川静氏も指摘する(上掲書)。これら西方の庄爽は、黄河上流域山陵部の森林密集地帯(上古代の当時。内蒙古のオルドス地方か)のあたりに居たとみられる。
日本では、天若日子は、子の少彦名神を通じて、鳥取部造の遠祖でもあった。鳥の名をもつ人名(神名)も天孫族系統にかなり見られる。先にあげた天日鷲翔矢命の一族のほか、素戔嗚尊自体が須佐能烏命とも書かれる。出雲国造の遠祖・天夷鳥命(天鳥船命、武日照命)の実体が、鍛冶部族の祖・天目一箇命に通じると、別書(『越と出雲の夜明け』)で述べた。同国造の初祖の名は崇神朝の鵜濡渟命と伝える。国造家の遠祖・櫛八玉命(伊佐我命のことで、天夷鳥命の子)は、鵜となって水に潜り、水底で採取した埴土(赤土)で「天八十毘良迦」(多くの平たい土器)を作り、料理人となって大国主神に供膳したと伝えるが(『古事記』の国讓​りの段)、その伝承を思わせる名である(すなわち、「鵜が潜く沼」だから、一種の通称か)。
これと同祖の鍛冶部族・三上祝氏一族でも、鳥鳴海命(三上祝の祖)、速都鳥命(穴門国造の祖)、意富鷲意弥命(師長国造の祖)等の鳥の名の人々が見える。長門の穴門国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいだが、鍛冶神天目一箇命の後裔で天孫族たる近江の三上祝の一族であり、代々が式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社。山口県下関市一の宮)に奉仕した。その由来は、託宣を行って韓地征討に功績のあった住吉三神の荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に祀つた、と『書紀』神功皇后摂政前紀に見える。同社(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。
北九州でも、吉野ヶ里貴跡を始め弥生時代の出土品には、杆頭にとりつけられる木製の鳥製品が頻出する。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(鳥竿。杆頭に木製の鳥をつけて寺院の入口等に立てられ、「ソッテ」などとも呼ほれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祭祀った)につながる。鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分遺跡でも出ている。こうしたソッテの習俗は、ウラル・アルタイ族に普過的な信仰である北方的祭天儀礼と位置づけられ、シャーマニズム文化に帰属する(萩原秀三郎氏の「稲と鳥と太陽の道」)。
始祖の卵生神話
高句麗の祖・朱蒙(東明王)は、日の光に感精して生まれた卵から成長し、弓の名手であった鶏卵のような精気が天上から降りてきて女が妊娠し生まれたとも伝える。こうした所伝は早く、「好太王碑文」等にも見えており、始祖鄒牟(朱蒙のこと)は天帝(ないしその太子��)の子で卵を割って出生したとある。東夷の祖神・帝少昊の子(一に子孫)の揮は初めて弓矢を作り、張姓を賜ったと伝えるが、わが国の鳥取部・弓削部・矢作部を管掌した氏(鳥取連・弓削連・矢作連)は天孫族の出で、いずれも遠祖が少彦名神であった。
『魏書』やっ『隋書』等の高句麗伝では、高句麗の高官や使者は冠に「二本の鳥の羽」を挿すと記されており、これも鳥トーテミズムに関係しよう。「東明編」(高麗の李奎報の叙事詩。一一九四年成立)には夫余の祖・解慕漱(へ・モス)が頭に鳥羽冠をかぶり五竜車に乗り、百余人のお供はみな白鵲に乗って天降りしてきたと記される。この解慕漱が河伯の娘・柳花を娶るに際して、河伯との変身合戦で最後に鷹に変じて圧倒したので、ほんとうに天帝の子だと認めたという記事もある。高句麗には烏骨という城(遼寧省鳳城市に残る鳳凰山城で、高句麗最大の山城)、烏拙という大官(十二官位のうち第六)もあり、鬼神・社稷・霊星(農業神)を祀った。
古くは『逸周書』」王会篇に、周王朝第二代の成王が諸侯を招集したとき、高夷が見えており、これが高句麗族の源流だと、『隋書』を編纂した唐代の孔穎達が言い、鵠(白鳥類-のトーテムを祀るとする。「高夷」は遼寧省撫順市周辺に居たともいう。
新羅の国王初代で朴王家の祖・赫居世、金王家の祖・金閼智や昔王家の祖・脱解や、伽耶の金官王家の初祖・首露にあっても、卵生神話や誕生時に鳥にまつわる伝承(金閼智の場合は、その到来を白鶏が告知)がある。
わが国の天皇家には、鳥類にまつわる卵生伝承は端的な形では見られないが、これが天孫降臨の際の真床覆衾に関連するといわれる。この真床覆衾は、殷の王権・即位の儀礼に見られる「綴衣」という先王の用いた衾に通じると白川静氏がいう(『中国の神話』)。殷は東夷系で、玄鳥(燕)の卵を呑んで懐妊した女性の子・契(『荀子』に「契玄王」という表記あり)という者が始祖で、商の地に封じられたという卵生説話をもった。先祖の王亥は鳥形神の字形で表され、その神像は両手で鳥を操り、まさにその頭を食らう、と白川氏が『山海経』やト辞を踏まえて表現する。鳥トーテムの強い色彩があり、王は巫祝としてシャーマニズムが盛んであった。殷の子孫が周王朝の祭儀に客神として参加して降服の儀礼を再演し白鷺の舞を献じたことは同様に記される。
殷の伝承などから、この殷族を貊民族の一分派とかツングース族とみる見解(文崇一や、シロコゴロフの『北方ツングース族の社会構成』)がある。殷の起源は、祭祀・主食(オオムギ)などから考えて、西方からの侵入説(西方系の遊牧民族の一派とみるもの)を水上静夫氏が唱えており、これもおそらく妥当であろう。この場合、西戎は東夷に通じる模様である。
鳥のトーテムとシャーマニズムの関係でいうと、もとの筑前国怡土郡にあたる糸島市有田の上鑵子遺跡では、鳥の羽飾りをつけた鳥装の司祭の絵を刻んだ木板が出ている。これは弥生中期頃からの遺跡とされる(奈良時代の製鉄跡もある)。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町大曲の瀬ノ尾遺跡(旧東脊振村域で、吉野ヶ里遺跡の東側の丘陵に位置)からも、羽飾りをつけた烏人とみられる絵を刻んだ弥生期の土器が出土した。吉野ヶ里遺跡の西方近隣、神埼市神埼町竹にある川寄吉原遺跡からも、頭に羽をつけた人物を刻んだ鐸形土製品や銅鏃が出た。韓国のシャーマン(巫師・祈祷師。「シャマン」とも表現される)は、今日でも雉の羽がついた帽子をかぶる。吉備でも、弥生中期頃の新庄尾上遺跡(岡山市北区御津新庄)から出た絵画土器には、鳥に扮した人(嘴とトサカ状の装飾がついた人)が描かれる。烏スタイの9シャーマンには山口博氏も注目するが(『大麻と古代日本の神々』、}、わが国の祭祀担当の忌部氏一族(中央及び阿波・安房に分布)は天日鷲命の後裔であった。
中国・吉林省南東部の集安市は高句麗の旧都だけあって、同市人民政府の庁舎前には高句麗の象徴である「三足鳥」(太陽に住むとされ、足が三本あるカラス。林巳奈夫氏は、実は龍山文化から伝統のある大型猛禽のイヌワシだという)の銅像が立つという。その案内板には「太陽鳥(三足鳥)は中国古代の伝説に登場する。高句麗の壁画の三足鳥は高句麗民族と中原民族が同じ太陽鳥を崇拝したことを示す」と書かれていた。現実に高句麗の古墳壁画に太陽の中に描かれた三足鳥が見られる。これは、わが国鴨族の祖・八咫烏にも通じ、三足鳥で描かれる。
イヌワシ(金雕)を現在でもトーテムとすることで知られるのが、中国・新疆ウイグル自治区に西隣する中央アジア・カザフスタンのカザフ族で、古代鳥孫の末后裔という(二〇一五年一月二九日のNHK第一テレビで、イヌワシを扱う少女鷹匠の話が「世界最古のイーグルハンターモンゴル・カザフ族」として放映された)。ウイグル族・タジク族や清朝(満州人)、エヴェンキ族・ホジェン族などのツングース種族も鷹をトーテムとした。鷹が天神テングリの使者であり、女人との間に生んだ男子が最初のシャーマンだと伝える(以上はネットの「百度百科」)。イヌワシをトーテムとする信仰が上古の華北文化に存在したとの指摘もある。四川省広漢市の三星堆遺跡(約三千年前の殷代晩期のものか)から発掘された青銅神樹(扶桑樹、太陽樹)の枝には九羽のイヌワシが止まっており、この鳥が太陽を表すとみられている。
太陽神の祭
鳥トーテミズムは、世界各地で太陽神信仰や鍛冶屋伝承に結びつくことが多い。中国の射日神話では、弓の達人・羿(ゲイ。后羿ともいう)が帝堯の命を受け、人々を苦しめる十個の太陽のうち、一つだけ残し九個の太陽を射落としたが、この射落された太陽の実体が三本足のカラス(火鳥)だつたという。鳥が霊魂を運ぶ太陽の使者だとする中国の神樹思想にも通じる。殷の王族は太陽の末裔だと当時考えられていた。十個の太陽(十日)は、帝俊(帝舜)と妻・義和との子とされる(『山海経』大荒南経)。なお、帝俊の妻・常羲(嫦娥)は天照大神に通じるともみられ、また、后の妻ともいわれ、これが月神ともされる。
わが国の天孫族もこの例に漏れず、鍛冶部族で鳥トーテミズム、太陽神祭祀をもった。皇祖神の天照大神が天岩戸に神隠れしたことで、高天原を含め世界が真っ暗になったという天岩戸神話が有名である。もっとも、こうした「日隠れ神話」は世界中にあり、上記の射日神話にも通じるから、わが国天孫族に限った話ではないが、天皇家が祭祀などで太陽神信仰セをもったことは疑いない。太陽神を祀る朝鮮半島・日本の巫覡に女性の数が多かったこともあり、これが推古・皇極・持統などの女帝出現とあいまって(推古女帝の出現が直接の契機か)、日本では太陽神が後に女性神に転化したが、原型は男性神であった。三浦茂久氏も、天照大神は本来、月神であったとみており、高天原神話に見える天照大神の機織りは月神の特徴だとされる(『古代日本の月信仰と再生思想』二〇〇八年刊)。
天照御魂神こと天照大神に代表される太陽神を、天皇家は伊勢皇太宮などで奉斎し、これに奉仕する日置部も天孫族の��れから多く出た。日置・日置部を名乗る氏には諸流あるが、応神天皇皇子の大山守王の後(『姓氏録』右京皇別)、忌部首の一族(同・未定雑姓和泉の日置部)や土師連の一族(出雲国造袋)などが知られる。
渡来系にも日置があって、高句麗に出自の日置造(左京・右京・大和・摂津の諸蕃)、日置倉人(大和諸蕃)の諸氏が「『姓氏録』に見える。こちら諸氏は高句麗の権臣・淵蓋蘇文(泉蓋蘇文、蓋金、伊梨柯須弥)の族裔であり、高句麗王家と同族の蓋(盖)氏の流れであった(遙かな遠祖は、天孫族と同じか)。この一族は、京都に居住して八坂造氏となり、祇園で牛頭天王ことスサノラヲ神を祭礼した。日本での先祖で、『書紀』斉明二年条に見える高麗の副使の伊利之とは、権臣の泉蓋蘇文の従弟の蓋須のことであった。その子孫には、日置造と八坂造との二大系統があって、後世に永くつながった。八坂造は後に紀朝臣氏と通婚し、紀姓を称した。泉蓋蘇文は高句麗五部のうちの順奴部の出で、父は東部大人、大対慮の宮職にあり、父の職務を承け高句麗軍事の大権を握り、主君栄留王と多数の支持者を殺害し、宝蔵王を擁立して大莫離支(宰相)にもなって、唐と対抗した。
天孫族の一派、鴨族の祖・鴨健角身命(天日鷲命ともいい、実体は少彦名神)は異名が「八咫烏」ともいわれる。その子孫が、神武の大和侵攻を先導した伝承のある八咫烏(先祖と同じ通称)であり、光り輝いて敵の戦意を消失させた金鵄にも化身した「(「金鵄=八咫烏」の平田篤胤等に同意。この「烏」の実態がイヌワシなら、後頭部の羽衣は光沢のある黄色で、英名〔Golden Eagle〕の由来でもある。林巳奈夫氏の著『中国古代の神がみ』では、青銅神樹に止まる「太陽の鳥」は、体つきから見ても、龍山文化から伝統のあるイヌワシだとする)。この八咫烏が、忌部首や日置部の遠祖でもあった。律令時代において、主殿寮に仕える名負五氏のなかに日置・鴨県主があり、日置氏と鴨県主が火を受け持つ類縁の間柄にあった。葛野郡の名神大社、木嶋坐天照御魂神社も鴨氏族の奉斎にかかる。
各地に多く針座する天照御魂神社は、祭神が物部氏祖神(饒速日命)とか天火明命だと受けとられることが多いが、基本的には皆、男神の天照大神のことである(穗積氏の伝えた系図には、天忍穗耳命の父として「天照御魂太神」と記される)。対馬の天道(天童)信仰も特徴的で(日ノ神、殻霊、祖霊の信仰という)、当地には扶余と同様な太陽感精神話も伝えられる。天孫族は渡来の経路として一族や祭祀・習俗を対馬に遺した。「国造本紀」には、津嶋縣直をあげ、始祖の建弥己己命は高魂尊の五世孫で、橿原朝(神武天皇)の頃に置かれたと記される。この官の設置の時期はに早すぎるが、系譜は出雲国造の同族の出であった。
太陽神信仰と鳥トーテミズム・卵生神話が合わされば、霊山信仰・霊鳥伝承や「天帝」の子孫の降臨・天降りやゃ国見の伝承にもつながる。広く伽耶まで含む東北アジア地方諸国の王家や天皇家について、祖先が高山(ないし、その山頂の高い樹)に降臨したという伝承が多い。それ故に、これら各々の国の聖山(新羅の吐含山、百済の北漢山〔高木山〕、金官伽耶の亀旨峰〔金海の亀山洞〕、大伽耶の伽耶山や、日本のクシフル岳(糸島市の高祖山のことで、原田大六などが言う。南九州の日向国ではない〕)として祭礼対象とされる例が多い。匈奴や鮮卑(遼西の朝陽付近の弾汗山)・烏丸、扶余などでも各々が聖山をもち、山上祭天の儀式をした。『三国遺事』には、天帝桓因の子、桓雄は父から三つの天符印(「鏡・剣・鈴」という)を授かり、大勢を率いて太伯山(今の妙香山〔平壌の東北方〕とされる)の頂上の神檀樹の下に天降っており、その教示に基づき人間になることに成功した「熊女」(熊トーテム族の女性と解する李丙燾氏に同意)との間に檀君を生んだ、という神話が見える。新羅の脱解王は、高麗時代にも「東岳神」と言う山神として祀られた。東嶽(東岳)とは、慶州市街地の東方の吐含山のことであり、新羅五嶽のうちに数える同市の最高峰で、日本海を展望できる護国の鎮山として神聖視され、天に祭祀を上げた聖山として知られる。脱解については、日本列島の出身で海路到来と伝えられ、天孫族や天日矛と同族の出とみられる(後述)。
ここまで、天孫族の祖系や祭祀・習俗などを見てきたが、天皇氏族の特徴的なもののうち、主に考古遺物・遺構などに絡まる関係は次の章で見ることにしたい。
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3saizi · 4 months
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2023年総括
もう年末だね~早いね~とか言ってたら
今日で2023年終わっちゃうじゃん!
ヤダヤダヤダヤダ!
取り乱しました
3才です
皆様は年越しの瞬間やお夕飯のお供に何をご覧になっているのでしょうか
僕はテレビの番組表で18時以降の放送を眺めた後
あまりのつまらなさに台所を飛び出し
クリスマスケーキを買いに街へ繰り出してしまいました
ヤダヤダヤダヤダ!
こんなの見ながら大晦日終わらせたくない!
大晦日に野球すな!
大晦日に息子のゲーム機をヒスって破壊した親を映すな!
取り乱しました
ところで俺、2023年って何してたっけ
ブラック企業のせいでヒィヒィ言ってたような…
あっ 
退職しました
そんなこんなで2023年の大晦日は特に何の番組を見るでもなく過ごしていますが
この記事を書いているときのお供がこちら
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分かる人には分かる
これが全ての始まりになった曲であるという事が…
多くのファンにとってはPS版、PSP版のよーみさんカバーの方が馴染みがあるのかも知れないけど
GBA版テイルズオブファンタジアから入った僕としては
個人的にも、自分の中のテイルズ歴の原点の曲という印象ですね
え?
そっちじゃない?
そういえば、去る12月13日をもって会社を辞めました
正確には12月14日から有給消化に入っております
1月31日までは会社に縛られながらもニート生活をしています
長すぎだろ
皆さん、僕を遊びに誘うなら今のうちですよ
???
正直今後の事はかっちりとは決まっておらず、一応の展望はあるけど…な程度でしかないので
トチ狂って闇バイトに手を出さないように気を付けて参ります
なんか良い仕事あったら教えてください
建設業以外でお願いします
そんなこんなでブラック企業に忙殺されていた1年間でしたが
一応休みはとれる環境だったので、ライブを見たり出演したりすることも出来ました
見に行ったライブだと、2月はCocco!
そして何よりも行けて良かったのが10月
KINOSHITA NIGHT2023
ナーディメンバーが4/5人東京に集まった日
僕はPOLYSICSもART-SCHOOLもまだ生で見たことが無かったのですが
なんと言っても、僕が敬愛してやまないバンド
syrup16gを初めて肉眼で観測することが出来たのです…
やな言い方するな
演奏した8曲のうち1~4曲目が新曲というまさかの展開に
逆に涙が出ない!!!笑
そしてそこからの4曲、Delayedまでの曲しかやらない
ああレミゼ
天才のイントロでオアーーー゛ーッ!!!と叫んでしまいました
終演後は4人で酒を飲んで最高の日だったな
自身が出演したライブでいうと
Nerdy Pixieが遠征で出演した3月の"alternative youth"
そして9月の"超人的な未来への飛躍 Vol.1"
どちらも最高なイベントでした!
バンドとしてはドラマーとして新メンバー・ウツノさんを加え
新たな曲を引っ提げてライブ活動を再開することができ
ローペースではありますがバンドとしていい1年に出来たと思います
宮城と東京のかっこいいバンドを知れて交流も続けられ
遠征って色々ハードな面もあるけど、やってよかったな…と思いました
来年のNerdy Pixieはどんな活動をしていくんでしょう
まだ不確かな事ばかりですが、とりあえず2月末空けておいて下さい
僕はとりあえず自分のとこでボールが止まってるアルバム制作を完了させないと。。。
冬はなかなか体調管理が難しくて、歌を歌うコンディションまで持っていくのに苦しめられること例年の如しです
更には有給消化という名のニート生活により起床・就寝時間が完全に終わってしまいました
宅録でボーカルを録るのは時間との闘いなんだ…
そろそろ怠けるのはやめて、2024年は本気で駆け抜けられるかな?!
善処しま~す
そういえば大事なことが書いてあったのでもう一度言いますね
2月末空けておいてください
ガタニーです
2024年の目標!
現実的なところから言うと、どんな形であれ就職先をみつけること…
活動的な方面で言うと、バンドでも、コピバンでもソロでもどれでも、とにかくライブがしたいです!
久しぶりに弾き語りとかもしてみたいですね
最近アコギ弾いたら死ぬほど下手になってて自分に引きました
寝てる暇あったらギター弾け
あとはそろそろ、個人名義で曲が作れたらいいな~
もう曲が作れなくなって3年…?
怖い怖い
20代最後の年になりますが、色んな面で心機一転
感受性を豊かに色んなことに取り組みたいです
今年一年お世話になった皆様、ありがとうございました
来年もよろしくお願い致します!
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tetsuyah · 5 months
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【A:don:vent Calendar 2023:9日目】僕の遠征録・その2
どうも、ひらぎのてつやです。 この記事は今年2回目の旅行の記事になります。前回の旅行の記事はこちら
11/16~11/19:愛知
1日目。空港近くの東横インに宿泊。 チェックインができるようになる時間までは空港で食事を取ったり、近くにある建物を見たりしていました。
矢場とんのキャラクターがお出迎え。
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空港内はクリスマスの装いになっていました。
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チェックイン後は常滑駅からイオンモール常滑までお散歩し、イオンモール内で夕食を食べました。
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2日目。空港で午前中を過ごす。お土産を購入したり、矢場味仙の台湾ラーメンを食べたりしました。
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午後は名古屋市の大須へ。商店街の中には様々な店やお寺が。
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その中にツナガロッタの設置店舗であるフェドラ大須のタイトーがありました。
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3日目。3年ぶりに同じく名古屋市にある大高へ。イオンモールで買い物をした後は数ヶ月前にリニューアルオープンした「ゲームパニック大高」へと向かいました。
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最終日。空港で飛行機が出発するまでの時間を過ごしました。
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ここまでご覧いただき、ありがとうございました。今回参加しているAdvent Calendarと昨日の担当の方と明日の担当の方による記事へのリンクをご紹介します。
明日の「A:don:vent Calendar」の担当はunaristさんです。
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