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#道隆寺
i1964m1965 · 2 years
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四国八十八ヶ所霊場めぐり 第七十六番 金倉寺 (こんぞうじ) 香川県善通寺市 第七十七番 道隆寺 (どうりゅうじ) 香川県仲多度郡多度津町 第七十八番 郷照寺 (ごうしょうじ) 香川県綾歌郡宇多津町 #四国八十八ヶ所 #四国八十八ヶ所霊場 #四国八十八ヶ所巡礼 #金倉寺 #道隆寺 #郷照寺 #香川県 #善通寺市 #綾歌郡宇多津町 #宇多津町 (四国霊場第76番 金倉寺) https://www.instagram.com/p/CdIUxzqv-C7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shan-luoluo · 1 year
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Baby Peaceful Holiday
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shirasuphoto · 2 years
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京都八景 嵐山本線
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年��に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きているのか?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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yamada50 · 1 year
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大内文化を隆盛させた大内義隆公を祀る築山神社 八坂神社の境内、大内教弘が築いた大内氏の別邸の跡地(築山城)に鎮座しています 長州に移封された毛利氏の実質初代藩主毛利輝元により慶長10年(1605)現在の山口市の多賀神社境内に義隆公などの霊を祀った「宝現霊社」がはじまりです 現在の拝殿と本殿は明治3年に氷上山興隆寺境内にあった東照宮を移築、遷宮し家康公を合祀しました この社殿は寛保2年(1742)に造営されたもので山口では珍しい部類に入る三間社入母屋造です 氷上山興隆寺は築山神社南方の氷上山にある天台宗の寺院ですが、推古朝に創建された古社で大内氏の祖である琳聖太子が開基と伝わり、その時の大内家当主大内茂村が大内氏の総氏寺としたことからその後隆盛を誇りましたが、戦国期に大内氏が滅んでからは衰微しています 八坂神社のお隣に並んで社殿を構えていますが別の宗教法人です 一方八坂神社と築山神社は今八幡宮の兼務となっていて御朱印は今八幡宮で授かることができます #築山神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 築山神社(つきやまじんじゃ) 鎮座地:山口県山口市上竪小路101 主祭神:大内義隆公、(相殿)徳川家康公、(配祀)大内義尊公、大内氏諸公卿諸士28人 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社と四季#御朱印#御朱印巡り#御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築#神社仏閣#パワースポット#山口県#山口市 (築山跡) https://www.instagram.com/p/Cno_PWlv0UJ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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mvrider4 · 5 months
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大覚寺
元々嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院。参道の入り口に嵯峨御所の門跡が立つ
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参道にあった民家の紅葉が見事すぎ
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駐車場も紅葉真っ盛り
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紅葉に囲まれた大沢池
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境内に
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表門を潜るとここでも真っ赤な紅葉
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納経所から参拝。入ってすぐに神輿
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式台玄関に菊
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紅葉と菊の競演
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石舞台と勅使門。勅使のご来山や門跡猊下出仕の晴れの法会など特別な時のみ開かれるらしい。
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法隆寺の夢殿を模した勅封心経殿
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箱庭みたい
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みかんと紅葉
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霊明殿。紅葉をバックにした松
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こちらから大沢池に
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村雨の廊下から紅葉
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辰殿の襖絵
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The Gold and Silver Expenditure and Receipt Book (金銀出入帳)
The "Gold and Silver Expenditure and Receipt Book" is a record of the Shinsengumi’s receipts and disbursements, covering the period from the 14th day of the 11th month, Keio 3 (1867) to the 1st day of the 3rd month, Keio 4 (1868). It is approximately ten pages in length and is written in a unique ink script. This record is thought to have been written down by Shinsengumi accountants, and is one of the most valuable official documents of the Shinsengumi for understanding their exact activities and financial situation.
A portion of this document was once published in "Shinsengumi Shimatsuki" (written by Shimozawa Kan in 1928). Until around 1937, it was in the possession of Kondo Isami’s relative, Miyagawa Takashi, who lived in Kamiishihara, Chofu, Tokyo. It’s now kept at Ryugenji Temple (6-chome, Osawa, Mitaka, Tokyo), the site of Kondo Isami’s tomb, along with many other related documents once owned by the Miyagawa family.
The first part of this document is marked with "Start". It then describes the movement of money within the accounting division, and the four people whose names appear in the document, Yasutomi Saisuke, Kishijima Yoshitaro, Otani Isao, and Nakamura Gendo are of course Shinsengumi accountants.
The accountants were usually in charge of bookkeeping, but in times of war, such as the Battle of Toba-Fushimi, they were also assigned to the the logistics division (konida). Yasutomi and Kishijima worked as investigators (諸士調役) (also called "metsuke"), while Otani and Nakamura were treated as the same level as corporals. Some records refer to Otani as an accountant and Nakamura as an equivalent of an accountant.
(source: 新選組史料集)
Out of all the historical texts in 新選組史料集, the Shinsengumi’s account book seemed the most interesting to me, and I kept seeing quotes from it in the articles I’ve read.
It took a while to make sense of the archaic terms and Edo period accounting notation, but I think I’ve mostly figured it out. Here’s my translation: [link], and below are my translation notes and the full original text.
[Read the full translation here]
Translation Notes
一金...也 = formal notation used to clarify and confirm that the money will indeed be paid. Ignore this when translating. (source)
也 = classical modal particle used at the end of sentences to express an explanation or judgement. Ignore this when translating. (source)
右 = classical term of respect. Ignore this when translating. (source)
ニて (にて) = indicates the location where something took place. Ignore this when translating.
江 = river? (not sure why it’s added to some of the entries, but makes more sense to ignore this when translating)
同 = same 一同...也 = 一金...也 同人 = same person as the previous entry
両 = ryo (see: how much was 1 ryo worth?)
分 = bu (1/4 of a ryo)
朱 = shu (1/16 of a ryo)
代 = fee
渡 = transferred
相渡 = handover, transferring from one party to another
手宛 = salary
地役 = easement (the right to use someone else's land for a specific purpose) (source)
入用 = necessary uses
御用 = official duties
帰ル = returned
拾 = ten
廿 = twenty
卯 = year of the rabbit (1867 in this case)
正月 = first month
極月 = twelfth month
一件 = incident
候 or 候事 = the state of things. Ignore when translating.
払 = payment
付 = assistant
Original Text
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Simplified Text
卯七月
金銀出入帳
(宮川隆司氏や龍源寺の所蔵印があるが、これらは後に押印されたもの)
始メ
卯十一月二十八日 二十両 中村渡蠟印一件 (中村は、勘定方の中村玄道のこと)
十二月三日 六十二両二分 安富渡福林代 (安富は、諸士調役の安富才介のこと)
五日 七十二両 同人袴代渡
十一日 二百五十両 岸嶋渡 (岸嶋は、諸士調役の岸島芳太郎のこと)
十一日 百両 安富渡
五十両 同人渡
五十両 同人渡
百両 同人
十二月二十一日 五十両 安富渡
百両 同人
三百両 同人 大平分
百五十両 同人
百両 同人 大平分
伏見にて 二百両 中村玄道預ケ
二百両 同人 船中にて
品川 二百両 安富渡
百両 中村渡
一月二十三日 百両 同人 品川にて
一月二十三日 五百両 安富渡 布段代
二十八日 五十両 同人
大坂より諸払分 二百二十二両 中村渡
二月六日 百両 安富渡
八日 六百三十両 同人
十一日 百両 同人
十五日 百両 同人
二十三日 五十両 同人
二十七日 五十両 大谷 (大谷は、勘定方の大谷勇雄のこと)
二十九日 二百両 安富
百両 大谷
二月二十九日 五十両 岸嶋渡
三月一日 二百両 道中 大谷
手宛入用出口 (現在は書き出し付箋がはがれ、上から三文字が不明となっている)
十一月十四日 三百五十七両三分 十一月分手宛 (十一月分の月給のこと)
七両 同学講 三人 (講師への手当)
十五日 五両 角楼払 (島原遊廓角屋への支払い)
十七日 十両 山田一郎 刀拵代渡 (二条小川角の研師で、隊士の刀剣の修理代と考えられる)
百両 佐藤安二郎 相渡 (保次郎とも書き、文久三年以来、新撰組といろんな接点を 持つ。この記録からも密接な関係を知ることができるが、実態はいまひとつはっきりしない。幕臣 <小普請組岡田将監支配〉 佐藤喜内の孫で、父を宗三郎という)
十七日 二十五両渡 伏見御用
内十両原田請取 原田岸嶋
内十二両二分□二分入 両人渡 (副長助勤原田左之助、諸士調役岸島芳太郎らが伏見へ公用 で出張した折のもの。坂本龍馬の暗殺により海援隊士などが 大坂から伏見に上り、ここから分散して京都に潜入したのが十七日。この不穏な動きを察知し、直ちに出動したものらしい)
十九日 十七両 七条一件 十七人被 (七条油小路で伊東甲子太郎および高台寺党の面々を襲撃した時に出動した隊士への特別手当。一人各一両が渡されている。記録によって出動が判明している隊士は、永倉新八、原田左之助、大石鍬次郎、岸島芳太郎、宮川信吉、島田魁、横倉甚五郎、三浦常次郎、 芝岡剛三などで、原田、大石、岸島、三浦、芝岡の負傷が確認できる)
十一月十九日 十両 金物屋清兵衛払
十九日 一両 七条一件付下男共遣し
二十一日 二十両 山田一郎相渡
二十二日 一両二分 伏見行入用幷ニ酒料共
二十二日 五両也 帰ル 下坂手宛宮川 渡 (この記載事項は印を押して抹消してある)
二十三日 十両 同入用辛嶋 相渡 (辛島昇司への大坂行きの手当。この辛島は、後に大坂で新撰組を脱走している)
二十三日 五両 荒木新三郎遣し (信三郎とも書く。江戸で病死したと伝わる)
二十六日 十六両二分 大和守身三本 (会津の刀匠大和守源秀国の刀身三本を購入)
十一月二十三日 一二分 御用出入用渡
二十九日 十六両 刀身二本宗安
五両 綿代相渡
十二月 二日 二分二朱 西ノ宮御用行 (上京途上の長州藩兵の様子を探るため、二日夜に西ノ宮へ向かった隊士への費用。翌三日に帰還して作成した報告書が残る)
二日 一二分二朱 土方剣術古手一ツ (「古手」は「籠手」の誤記)
五両 土方入用
六日 十五両 山田一郎相渡
九日 十両 原田渡
二両 宮本 (局長付の宮本騰太のことか)
十二月 十日 六両 着込入用吉村渡
十一日 二百両 歩人足手宛部屋頭 相渡
三百四十四両三分 手宛相渡 (十二月分月給のこと)
三十九両 局長付相渡 (局長付の十二月分月給。局長付池田七三郎の遺談に「十二 月になって一両が渡された」とあるから、三十九人分ということになる)
三千両 山中組十家 返済
十三日 二百二十七両 二条城にて一同 相渡 (特別手当として支給されたもの)
二百両 人足渡部屋頭渡
十両 吉村貫一郎着込 (吉村は本名を嘉村権太郎といい、奥州盛岡藩を脱藩し新撰 組に加入した人で、この時、諸士調役を務めていた)
十五両 賄方忠助福田渡 (忠助とは沢忠輔のこと)
四千九十八両二分 (十一月二十三日の御用出入用渡という記載からの合計金額)
四十五両 山崎烝相渡 (山崎は副長助勤)
二十五両 大坂岩城にて先生 御買物払分 (新撰組は十四日に永井玄蕃頭に従い下坂して、大坂の天満天神に駐屯した。先生とは近藤勇のことである。岩城とは呉服屋のことか)
十両 先生行辛嶋 渡
大坂にて 十六両 局長付残分手宛山崎
十五日 夜 百両 山崎吉村伏見行節 相渡 (新撰組の伏見警備が決まり、偵察と下準備を兼ねて、先発隊として向かったものらしい)
十五日 十両 大坂にて辛嶋渡
十六日 二十五両 伏見地役共被 (十六日、新撰組は大坂を発し、夕方、伏見に到着し、伏見奉行所へ入る)
十両 部屋頭渡伏見人足 入用
十両 大坂表て人夫分 渡
四両 大川七郎相渡代
五十両 先生下坂付山崎 ���渡 (十二月十八日、伏見奉行所から二条城へ出向いての帰り、 近藤は高台寺党の残党に鉄砲で右肩を撃たれ、重傷を負った。 会津藩と大坂城の将軍家から医者が来たというが、手当てが 充分できないというので、二十日になって大坂へ赴いた。 沖 田総司も同行し、以後、大坂町奉行屋敷にて療養を続けた。この時に護衛をした山崎烝に預けられたもの)
二十両 伏見部屋頭 相渡
八両 荒木柏村岡田中村残人 相渡
三両 井上源三郎賊相手 節渡 (井上は、副長助勤で三番隊組頭)
四十九両 伏見て歩兵人足 被
十一 十一人賊相手節 (十二月二十一日夜の都城兵との事件に関する特別手当。 一人あたり一両となる)
三十両 伏見部屋頭 相渡
十二月二十八日 百八十五両 伏見にて一同被 (特別手当として支給されたもの)
御口し口
十二月二十八日 三百両 部屋頭 貸渡分
六両 福田平馬相渡
(天然理心流近藤周斎の門人で、神奈川奉行所定役である。 甲州勝沼戦争の時に近藤が神奈川の菜葉隊の応援を期待したのは、この福田の関係からである。明治になって、駿府奉行所支配定番となる)
二十九日 四両 小幡三郎 (+) 行節渡 (薩摩兵の動きを探るため、間諜として潜入する時に渡されたもの)
一両二分 大坂遣ひ人相渡
一月七日 百五十五両 大坂城って一同手 宛渡 (一月分月給のこと)
十八日 五百八十五両 品川宿局中一 同 被三十九 (鳥羽伏見戦争に敗れた新撰組は、大坂天保山沖から富士 丸と順動丸に分乗して江戸へ向かった。 横浜で負傷者を上 陸させ、本隊は品川宿の釜屋半右衛門方を宿所とした。この 時に分配された特別手当で、一人に十五両が渡された)
二百四十両 同局長付二十四人被 下 (一人に十両となる)
百五両 伏見地役七人被 (一人に十五両となる)
百五両 步兵 被 (一人に七両で、十五人か)
六十五両 人足 被 (一人五両で、十三人か)
一月十八日 九十両 役人分被
十五日 百両 横浜病人手宛嶋田 預ヶ置候 (横浜の仏語学校を改造した病院で治療を受けている隊士た ちのことで、伍長の島田魁が世話役として派遣される)
品川にて 二十両 大工仙蔵渡 (近藤の試衛館道場と関係のあった人物)
十八日 二十五両 土方諸買物払
二十二日 三十五両 土方戎屋払 (武器購入の支払い分)
二十三日 二十五両 大工仙蔵相渡
(この日、品川から鍛冶橋御門内の若年寄役屋敷へ移っているので、この役宅の修繕代か)
五両 諸払土方出 (副長土方歳三は、このところ自らいろんな買物をしているようだ)
五両一分二朱 子儘者ぶん硯瀬戸 物色々 (「子儘者」は「小間物」ということだろう)
千八百七十一両三分二朱 (十二月二十八日の部屋頭へ貸渡分という記載からの合計金額)
四百両 大坂先生出分
二十六日 十五両 大工仙藏
二十七日 三百二十両 横浜在留之者相渡
同志十六人局長付六人 人口四人 (一人あたり、同志十五両、局長付十両、人足五両。 これは、 横浜において治療を受けていた隊士たちを岸島芳太郎と尾関泉が迎えに行き、近藤の指示に従って江戸和泉橋の医学所へ移した日に渡されたもの。医学所が収容しきれなかったので、 幡三郎、中山重造、大町通南太郎、大橋半三郎、足立麻太郎、医学館の方へ入ったという。ちなみに鳥羽・伏見戦争で負傷したと考えられる面々は、近藤芳祐、 小原孔三、 粂部正親 山野八十八、 松原幾太郎、 沼尻小文吾、 中條恒八郎、小上原栄作、池田七三郎、和高小刀太、相馬肇、一色善之助、小堀誠一郎などである)
二十八日 五十両 内三十八両帰ル 先生 横浜行持参 (仏人医師の治療を受けるため、横浜へ赴いたもので、この時に近藤と会った通詞田島応親の遺談が残っている)
二十九日 六両 仕立や乙二郎遺
二月二日 三十両 大工仙藏
三日 十両 近藤隼雄 原錠之進
三日 二十五再 原田嶋田両人子供 片付遣し候
三日 百両 元詰鉄炮五丁 (一挺二十両となる)
二月六日 十両 岸嶋芳太郎脇差代
八日 八両 佐藤安次郎刀代
十日 六両三分 買物払
十三日 五十両 先生 出 (永倉証言でいうところの近藤の月給か)
百六十四両一分 手宛相渡 (二月分の月給のこと)
十五日 六十四両 病院詰
十四両 同手宛 (病院に入院中の同志および局長付へ渡された二月分の月給。六十四両は同志の分、十四両は局長付の分と思われる。 同志十六人とすると人あたり四両で、局長付は二両で七人といったところか)
四十三両 中嶋屋払大小七本
十五両 同渡
二十両 大工仙蔵分寺尾君 渡
(寺尾君とは、田安家の家来で寺尾安次郎という人。 近藤上京後、道場の世話をしてくれていた天然理心流の有力者であ る。 板橋で処刑された近藤の死骸を掘り出す時も、その指示をした)
十六日 三十両 日野宿要三幸助遣 (谷春雄氏によると、要三とは侠客小金井小次郎の弟分天野要蔵だという)
二月十七日 三百両 甲州行三人渡 (甲州鎮撫に赴くための下工作資金か)
七両 永倉 両度渡 (副長助勤永倉新八のこと)
十八日 二十一両 伏見地役七人渡 (一人あたり三両となる)
七十五両三分 刀五本脇差三本
二十四日 六両二分
二十五日 二十両 中村屋金払
二十両 石屋弘二本
千疋 芝参詣香料 (芝の金地院にある近藤周斎の墓に詣でた折のものか、あるいは増上寺の徳川家茂の墓か)
二十六日 六両二分 中村屋金兵衛払
七両二分 馬代大久保払 (この頃、近藤はすでに大久保剛と名乗っていたらしい。一説によれば、若年寄格に登用されたという)
二月二十六日 二十両 大工払沖田渡 (副長助勤沖田総司のこと)
十両 佐藤安二郎馬代払
二十七日 十両 大石鍬二郎甲州行 (十両は甲州行きの特別手当。 大石は鎮撫隊先番として先発した)
百両 松本良順石料 (松本への薬代の支払いである)
二十八日 五百九十五両 四十九人二十一人甲 行手定 (甲州行きの特別手当で、同志四十九人に十両ずつ、局長付二十一人に五両ずつが支給された)
二十八日 三百両 二十騎相渡し (近藤の妻子が住んでいる牛込騎町のことを、俗に仕騎と呼んだ。御坊主の家を購入したもので、新しく建て増した勝手と三部屋くらいの広さであった。この後まもなく甘騎の家は福田平馬に譲り、中野の成願寺へと疎開している)
五十両 宮川神前 (天満屋事件で戦死した伍長宮川信吉の神前に供えたもの)
十両 沖田渡 (甲州行きの特別手当と同額であり、沖田が甲州鎮撫隊に途中まで随行したという説が、俄かに真実味を帯びてくる)
三両 忠助妻
二月二十九日 七両 子供手宛 (近藤、土方の召し抱えた小姓のことで、刀持ちなどを勤めた。一人一両ずつとすると七人いたことになり、一両三分ずつとすると四人となる。井上泰助、沼尻愛次郎、渡辺市造、市村鉄之助、上田馬之介、玉置良蔵、 田村銀之助などがいた)
三十一両 中嶋屋弥右衛門払
十三両二分 中村屋佐兵衛づぼん (池田七三郎〈後の稗田利八〉の談話に、「洋服の上着みた いな木綿の綿入れにズボンをはき、これに撃剣の胴を着けて草鞋ばき」という、甲州勝沼戦争時の服装を語った部分がある)
六両二分 沖田遣
四十両 田中福田蔭山嶋崎 (田中恒太郎、福田平馬、 蔭山新之丞、嶋崎は勇三郎か玄弥 か。同志の甲州行きの特別手当と同額なので、この人たちも甲州鎮撫隊に参加したと考えられる)
十両 伏見役人遣し (これも甲州行き特別手当と考えられる)
二十両 松原大橋渡 (松原幾太郎と大橋半三郎への甲州行き特別手当。同志格につき、各十両ずつが渡されている。両名は鳥羽・伏見戦争で負傷し治療を受けていたため遅れたもの)
二十両 三人分手宛 (甲州行きの特別手当で、同志名、局長付二名に対し支給されたもの。同志一名とは、 近藤芳祐か)
金請取口
(現在は付箋がはがれ、一部文字不明となっている)
十一月十四日 六十三両一分 十一月分一同借財
十九日 二十両 会より四人葬敷手 宛受取
(会とは会津藩のこと。 七条油小路で殺害した、伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の葬儀料を受け取った屯の)
二十三日 三両 東一件持合之入
十二月朔日 二百両 杢兵衛受取 (永倉記録に、部屋頭若松杢之助とある人物のことか)
五日 千両 同人
七日 千四百両 会 大竹受取
六百両 会より受取
十三日 二千両 小堀数馬受取 (所司代支配下の京都代官。 禁裡御所御用支配を兼任した。役高六百石、役料千俵)
四十二両 宮川 紀州より (伍長宮川信吉が、紀州藩公用人三浦休太郎を護衛術中に戦死したため、紀州藩からの弔慰金)
二十日 二十両 会より先生見舞 (近藤が高台寺党の残党に襲われ、右肩に重傷を負った折の見舞金)
一月七日 五百両 大坂城請取
四千二百両 同賄方分請取
二百両 大坂先生請取
江戸にて 二千両 会請取
十二月八日 四千両 大坂山中組合十家 より (帳簿に記載するのを忘れ、後で書き込んだようである)
二月三日 三百両 御城設楽殿 (幕府御目付設楽岩次郎〈備中守〉のことと考えられる)
二十七日 二千三百九十四両一朱 御城請取
二十九日 千二百両 会より
三千両 松本良順より 二万三千百四十一円余 (この分別筆)
(カッコ内は古賀茂作の註解)
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kennak · 1 month
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令和3年12月23日から令和5年5月7日まで実施した新型コロナウイルス感染症の無料検査事業については、虚偽の実績等に基づく補助金交付申請事案があったため、補助金交付決定の取消し等を行った旨、令和5年6月2日に公表しました。 今般、その後発覚した新たな事案について、補助金交付決定の取消し等を行いましたのでお知らせします。 今後とも、不正が発覚した場合には厳正に対処してまいります。 1 新たに交付決定の取消し等を行った10事業者 AIM Beauty Medical Clinic泉岳寺院 所在地 東京都港区高輪二丁目19番20号 財界二世学院ビル8階 代表者 院長 畑野颯佑 事業所 5か所(AIM Beauty Medical Clinic 東中野採取所、麻布十番5階採取所、麻布十番6階採取所、麻布十番7階採取所、日野採取所) 令和5年度 補助金 交付決定額 約2,900万円(未交付) 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 令和4年度 補助金 交付決定額 約3.9億円、交付済額 約2.1億円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため MSCルナクリニック渋谷院 所在地 東京都渋谷区道玄坂二丁目23番12号 フォンティスビル8階 代表者 福永和成 事業所 1か所(MSCルナクリニック渋谷院) 令和4年度 補助金 交付決定額 約7.9億円、交付済額 約5.3億円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 令和3年度 補助金 交付決定額 約6,300万円、交付済額 約340万円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 医療法人木原会 所在地 東京都品川区小山三丁目2番11号 JMLクリニックビル武蔵小山203号 代表者 木原一成 事業所 2か所(医療法人社団木原会PCR等検査センター浅草会場、医療法人社団木原会PCR等検査センター神保町会場) 令和5年度 補助金 交付申請額 約1,500万円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 不交付決定 措置理由 補助金の交付決定の内容、その他法令等に違反したため 令和4年度 補助金 交付決定額 約3.3億円、交付済額 約3.0億円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 補助金の交付決定の内容、その他法令等に違反したため 株式会社抗加齢医学研究所 所在地 東京都港区新橋二丁目16番1号 ニュー新橋ビル3階320 代表者 内田ひろみ 事業所 2か所(株式会社グローバルゲイツ、裕信株式会社) 令和3年度 補助金 交付決定額 約4,900万円、交付済額 約1,200万円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため スキンシアクリニック 所在地 東京都荒川区東日暮里六丁目60番5号 COCOSPACE日暮里6階 代表者 院長 石山実穂 事業所 3か所(スキンシアクリニックPCR等検査センター日暮里会場、医療法人社団日暮里医院PCR等検査センター赤坂会場、医療法人社団日暮里医院PCR等検査センター成増会場) 令和5年度 補助金 交付申請額 約5,200万円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 不交付決定 措置理由 補助金の交付決定の内容、その他法令等に違反したため 令和4年度 補助金 交付決定額 約39億円、交付済額 約28億円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 補助金の交付決定の内容、その他法令等に違反したため 令和3年度 補助金 交付決定額 約3.8億円、交付済額 約2.0億円 措置日 令和6年3月21日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 補助金の交付決定の内容、その他法令等に違反したため 池袋スタークリニック・デンタルアンドメディカル 所在地 東京都豊島区池袋二丁目62番10号 武蔵屋第三ビル2階 代表者 新井正彦 事業所 13か所(池袋スタークリニック・デンタルアンドメディカル銀座営業所、株式会社エムズ医療研究所、西麻布エルコンフォート、新茗賀株式会社駒込営業所、スタークリニック三鷹営業所、日暮里PCR検査場、新茗賀株式会社大塚営業所、株式会社アースケア、株式会社エイル練馬営業所、株式会社エイル北千住営業所、STORY立川営業所、武蔵小金井駅前PCRセンター、株式会社エイル西ケ原営業所) 令和5年度 補助金 交付申請額 約9,100万円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 不交付決定 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 令和4年度 補助金 交付決定額 約31億円、交付済額 約18億円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 株式会社StarSeed 所在地 大阪府大阪市西区北堀江二丁目3番10号 代表者 村井祐介 事業所 11か所(原宿PCR無料検査場、葛飾新型コロナ無料検査場、狛江市新型コロナ無料検査場、泉岳寺新型コロナ無料検査場、恵比寿新型コロナ無料検査場、渋谷本町新型コロナ無料検査場、墨田区新型コロナ無料検査場、小岩新型コロナ無料検査場、神田駅新型コロナ無料検査場、八王子新型コロナ無料検査場、白金新型コロナ無料検査場) 令和5年度 補助金 交付申請額 約810万円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 不交付決定 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 令和4年度 補助金 交付決定額 約8.6億円、交付済額 約6.0億円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 令和3年度 補助金 交付決定額 約1.7億円、交付済額 約9,400万円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 医療法人社団創生会 所在地 長野県諏訪市諏訪二丁目1番29号 代表者 渡辺道生 事業所 7か所(医療法人社団創生会御徒町仲内科クリニック、株式会社エイル、株式会社コーラルベリー、株式会社エイル北千住営業所、医療法人社団創生会無料PCR検査センター神田1号店、医療法人社団創生会無料PCR検査センター神田2号店、未来株式会社) 令和5年度 補助金 交付申請額 約3,500万円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 不交付決定 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けようとしたため 令和4年度 補助金 交付決定額 約22億円、交付済額 約13億円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 令和3年度 補助金 交付決定額 約13億円、交付済額 約2.8億円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため FRONT LINE株式会社 所在地 大阪府大阪市中央区平野町二丁目2番7号 北浜コンソール203 代表者 田中信次 事業所 2か所(麻布十番PCR検査場、渋谷二丁目PCR検査場) 令和4年度 補助金 交付決定額 約1.5億円、交付済額 約6,100万円 措置日 令和6年1月19日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため プレミアム禅クリニック 所在地 大阪府大阪市北区西天満四丁目12番6号 アーデン西天満707号 代表者 寺西康行 事業所 1か所(銀座禅PCR検査センター) 令和4年度 補助金 交付決定額 約5,800万円、交付済額 約5,800万円 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 2 交付決定の取消し等を行った事業者(令和5年6月2日公表分)に対する追加措置7事業者 株式会社メタボスクリーン 所在地 神奈川県横浜市中区寺久保34番地1号 クリオレミントンハウス横濱山手 ロワイヤル412号室 代表者 関澤隆一 事業所 2か所(メタボスクリーン東京第一研究所・コロナバスター東京本部、PCR検査センター東京ラボ・コロナバスター西尾久店) 令和3年度 補助金 交付決定額 約8.1億円、交付済額 約680万円 措置日 令和5年11月17日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため Assist・Medical株式会社 所在地 埼玉県富士見市上南畑240番地 代表者 代表取締役 大関翔太 事業所 1か所(調剤薬局バルナバ大森店) 令和3年度 補助金 交付決定額 約1,800万円、交付済額 約370万円(交付済額は返納済み) 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消・返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 医療法人社団JOY 所在地 東京都中央区銀座二丁目11番8号 ラウンドクロス銀座二丁目2階 代表者 伊東絵美奈 事業所 1か所(エミーナジョイクリニック銀座) 令和3年度 補助金 交付決定額 約2,800万円、交付済額 約780万円 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 株式会社HOS 所在地 東京都荒川区東日暮里五丁目50番5号 アートホテル日暮里ラングウッド1階 代表者 代表取締役 高濱幹 事業所 6か所(アステル薬局無料PCR検査センター神田駅北口、同センター田町駅、同センター武蔵小山駅、同センター亀戸駅、同センター池袋駅、同センター銀座) 令和3年度 補助金 交付決定額 約1.8億円、交付済額 約1.1億円(0.2億円返納済み) 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 向日葵商事株式会社 所在地 東京都中央区銀座三丁目12番19号4階 代表者 田中ゆかり 事業所 1か所(四ツ葉薬局) 令和3年度 補助金 交付決定額 約4,400万円、交付済額 約4,400万円 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため medical 4 men clinic 所在地 東京都中野区東中野二丁目24番13号 スイートルーム302、201、202 代表者 院長 中島知賀子 事業所 6か所(medical 4men clinic���東麻布PCR検査センター、東中野PCR検査センター101採取所、赤羽採取所、PCR検査センター向原駅前店、江古田採取所) 令和3年度 補助金 交付決定額 約31億円、交付済額 約3,200万円 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 株式会社メディトランセ 所在地 東京都新宿区北新宿一丁目4番7号 代表者 加藤篤彦 事業所 13か所 (tokyoartsgallery、個別指導Wam飛田給校、個別指導Wam清水が丘校、個別指導Wam小宮町校、個別指導Wam小山田桜台校、東京湯島指導センター、東京駒場指導センター、【PCRラボ】ICheck×nanoAce 町田駅東口前PCR検査場、個別指導塾スタンダード市ヶ谷教室、個別指導塾スタンダード西日暮里教室、ICheck PCRセンター、個別指導Wam青戸校、フラクタルPCR検査センター) 令和3年度 補助金 交付決定額 約30億円、交付済額 約4,500万円 措置日 令和5年11月16日 措置内容 交付決定取消、返還命令 措置理由 不正の手段により補助金の交付を受けたため 3 その他 無料検査の不正事案については、適宜警視庁に情報提供を行っており、今後とも適切に連携を図っていきます。 問い合わせ先 保健医療局感染症対策部医療体制整備第二課 電話 03-5320-7044
PCR等検査無料化事業補助金交付決定取消し等|東京都
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helloharuo-diary-2023 · 2 months
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茶畑庵→新松戸→水道橋→Motown→蒲田
Saturday 1 March 2014
今日坐禅会は、禅寺の都合でお休み。真観は、始発バスに乗って東京へ向かった。バスが新宿に着きその後山手線に乗り日暮里駅へ。常磐線に乗り換えて新松戸駅へ。余裕で到着したのでマクドナルドで暫し休憩。今日は撮影日。撮影は身体障害者の方だった。中々いい表情が撮れなかったが一瞬の笑顔を逃さず撮影出来た真観。その笑顔の写真を最後に撮影は終了。
スタッフと別れ1人東京のオフィスに戻る真観。帰りは、日暮里駅から秋葉原駅に移動し総武線で水道橋駅まで。オフィスに着くとUさんはまだ来ていなかった。機材をオフィスに起きてランチを食べに餃子の王将へ。餃子とミニ天津飯を食べる。531円也。Uさんといつも水道橋で食事をするがUさんは餃子の王将はガヤガヤとうるさいから好まない。真観は、1983年の上京以来お世話になっている。
オフィスに戻るとまもなくUさん登場。そしてOさんも登場。この3人でおしゃべりすることがオフィスでよくある。話題の一つは、Oさんが撮った真観のポートレイト写真。その写真を真観がFBにプロフィール写真として公開すると結構な数の「いいね!」を頂いた。そのお礼をOさんにしながら真観は。自分の考えたことを2人に伝えた。
今日3月1日は、坐禅会に参加して1周年になる日。 昨年の3月から7月までの4ヶ月FBを休止し再開するに当たってすべての友人のフォローを一旦止め真観の投稿記事に対して反応をしてくれた友人からやり取りを始めた。その後、自分からフォローする友人も少しずつ増やして行った。これはSNSのコミュニケーションから振り回されることに対しての苦肉の策だった。そして今日の朝、晴れて真観はFB上の友人(610人ほど)すべてをフォローすることに決めそれを実行した。これは坐禅の経験から得た回答だった。
夕方になりUさんと2人で新宿で開催されている真観の生徒の写真展に赴いた。この週末又雪が降るのではないかと懸念されていたが小雨止まりであった。水道橋駅から四谷駅、四谷駅から四谷三丁目駅に電車で移動。その後は写真展まで小雨の中歩いた。真観はよっぽどの大降りでないと傘は使わない。写真展は、「Motown』と題され愛知県の豊田市をテーマにしていた。真観のクラスの生徒なので作品内容は知っていたが改めて展示された写真たちは展示用に再プリントされまた違う顔を見せていた。写真は、4x5ネガフィルムで撮影されていて生徒自身でプリントしていたが印画紙が以前と変えた様でコントラストがあり見栄えが良い写真になっていた。Uさんも一通り写真を見て生徒に感想として展示レイアウトについて助言した。このテーマを今後彼が続けて行くかどうかは分らないが1年続け2年続け10年続いた後に同じギャラリーで同じ枚数の写真を展示すれば印象は当然変わって来る。この生徒に対して学校の先生方の期待は大きい。でも期待など全く意味がない。これも坐禅をして得た回答の一つ。ただやる気があるならこのテーマ続けるがよろしい。それだけだ。
写真展を後にしてまた小雨の中歩くのもなんだとタクシーを拾うことして信濃町駅に移動。今夜は、Uさん宅にお泊まりするので蒲田駅までさらに電車で移動。Uさん宅はこれで2回目の訪問となる。蒲田駅に着いてから駅ビルのレストラン街で麦とろ定食を食べる。近くのテーブルで酒を飲みその勢いで声の大きい2人組がいたがやや不快だった。仕方ない公衆の場だ。でも食事は美味しく頂き麦飯をご飯茶碗に2杯食べた。食事の後Uさん宅まで歩く。途中Uさんは酒屋でワインを1本と干しホタルイカを購入。
Uさん宅に着くと家猫のニーチェがいるのだが今夜は真観を警戒して顔を見せない。初めて訪れた時は膝の上に乗ったんだがなぁ。ニーチェにとってはいい迷惑かもしれない。だとしたらごめんよ。でもそれも分らない。分らないなら放っておけばいい。
Uさんとの語らいは、まるで先生と生徒の様。Uさんは惜しみなく真観の疑問から様々なキーワードを与える。真観は、メモを書き込むためペンとノートを用意した。
苦海浄土石牟礼道子>森崎和江全共闘運動のスローガン「連帯を求めて孤立を恐れず」谷川雁キリスト教原罪塩狩峠三浦綾子氷点内藤洋子ビッグバンライプニッツウィトゲンシュタインヒットラー血盟団事件唐牛健太郎60年安保の全学連委員長吉本隆明田中清玄児玉誉士夫渡辺芳則組長・・・
2人でワイン1本飲み干したら深夜1時になっていた。楽しい夜になった。真観は、1月に亡くなったUさんのお母さんが使っていた部屋で寝た。
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furoshikiblog · 3 months
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木版画家・井堂雅夫の描く雪の清水寺です。 濃い緑の上下にスクリーンサイズで描かれた雪降る日の清水寺の本堂舞台と連なる三重塔。 針葉樹に積もるやわらかな薄緑の雪景色。穏やかではんなりとした京の冬。湯豆腐が恋しくなる京の冬。
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針葉樹の葉のような渋い緑の上下に、初雪でしょうか、ふんわりとやわらかく積もる雪景色の清水寺の伽藍が描かれています。 京都の景勝地を数多く描いている井堂雅夫の作品の中でも、清水寺を描いたものは数点です。京都市の中心繁華街から比較的近い 清水寺は、お土産屋さんが軒を連ねる参道の二寧坂(二年坂)・三年坂を含めていつでも混雑しています。でもやっぱりあの舞台には 一度は立ってみたい、「清水の舞台から飛び降りる」とはどんな覚悟だろうかと、念願の舞台に立ってはみたものの、 足がすくんでしまった経験をお持ちの方は多いことでしょう。 寒い日に暖かいニットにくるまって、リビングの壁に飾った清水の雪景色をじっくり眺めながらのコーヒータイム。 清水寺は広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つです。
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rangothewind · 3 months
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想想也過得夠久 可以來寫和L的故事了。
和L是在外校重修時認識的,兩個系上的後段班,很快就因為借作業什麼的熟了起來。L是一個白淨纖瘦的女生,雖然不是我喜歡的類型,但她確實是個高冷美女。聊起天來她就是個單純直接,有南部口音的太妹。那時我們各自有喜歡的對象,很自然的互認乾哥乾妹,聊系上追她的男生,以及我那有憂鬱症的曖昧對象。
在被期末壓的喘不過氣的時候,她和家中個性火爆的軍人老爸吵架,每夜惡夢連連;我喜歡的女生則是不再跟我聯絡了。凌晨,我們在冷清的自習室外邊喝熱巧克力邊吐苦水:她著恨她爸,不屑拿他的錢在台北生活、談及對家的唯一掛念就是家裡的老狗。
年前,我們在咖啡廳準備下禮拜重修的期末考。唸書時,她簡單提到她看到IG上的廣告,說明天要去跟幹部面試酒店小姐,我心裡頭的警鈴大響,天哪,她要去做什麼?
我們傍晚離開咖啡廳去坐捷運。在捷運月台,我再仔細的問了一次。她也蠻不在乎的再敘述了一遍因為她不想跟家裡拿錢,所以想找個賺快錢的工作,昨天已經打電話跟那裡的女公關約好面試了。聽完之後我的心裏一片混亂,想阻止她卻又不知道該說些什麼好,那時候思緒的混亂與情緒的起伏,是會讓人瀕臨失控的那種。
上了捷運以後,我除了和她講不要去之外也不知道能做什麼。最終,只能握著她的手,勾著她的肩膀,像個戀人一樣在她耳畔輕聲的請求她不要去面試。在轉車的月台,她用顫抖聲音的說她快哭了,腦子空白的我緊緊的抱著她、拂著背說有事我們一起想辦法,不要衝動。最終我們說好,隔天我在外面等她面試結束。
隔晚我在大樓外等待,那間公司的門牌寫著xx國際娛樂還什麼的,黑底金字,感覺就是間黑道經營的辦公室。兩個半小時的長長等待之後,L終於從電梯出來,寒冷飄雨的冬天,她穿著不符合季節的黑紗衫與熱褲,看起來冷酷又迷茫,那一刻我好疲憊,也好焦急,但終於等到她了。時近跨年,街道上瀰漫著放假迎新的快樂氣氛,而我則因為這事情完全開心不起來。
往捷運站的路上,糖炒栗子的攤販散著熱氣,但我的心情沒有因為這小小的溫暖而舒展。她說著她因為酒量不好、個性慢熟,被男公關建議去做s。終於坐上捷運,她講到如果下海一個禮拜可以賺三萬,這樣寒假一個月就能賺十五萬了。聽到之後我顫抖的問說:妳這樣金錢觀不會被養壞嗎?她無法肯定,也無法否定;她說到因為自己的胸部太小不會受台北的有錢客戶歡迎,所以被安排下週去桃園面試,而女公關對她說等她賺到一些錢之後就可以去整牙跟隆乳了,她微微笑著說這樣就可以變漂亮跟賺更多。憤怒、失望的情緒糾纏在我的心裡,捷運上我們貼著坐,但當時我只能低著頭,偶爾艱難的擠出一些問題試圖了解狀況。
面試的情況理解的差不多了,她要去下一輪面試的意向也蠻堅決的了,我憂愁的問L說:妳怎不去給人包養就好了呢?她說那間公司的人說被包養就想是被當寵物,不能學到什麼技能。幹,聽到這句話我真的火氣整個上來,心裡想當妓女是能學什麼技能嗎?那一刻可能是我這輩子第一次這麼想打一個女生,憤怒、失望,理解到說爸媽想打小孩的那個衝動是什麼。我很想直接放棄她,走出車廂。但我辦不到,捷運剛好開到龍山寺站,我把她拉下車。
拉著她下車時,是想讓她看看華西街的娼寮是長什麼樣子,但我心情實在是太浮躁不安了,於是就決定先走去龍山寺拜拜。在主殿裡我祈求觀音與媽祖不要讓身旁的她走上歧途,祈求她能和家裡的關係和好。拜完之後,心情有平靜一點,我勾著她的手走過廟旁小巷。看到巷子裡坐在娼館門口的紅光下等待客人的妓女們,她看起來有嚇到,直說應該公司給的環境不會這麼差。
之後我們回到學校附近,在幾乎客滿火鍋店吃晚餐。那晚我們聊好多好多東西,聊兒時的種種、星座算命、一些好的或壞的經驗、家人之類的事。在火鍋蒸騰的水氣裡洗掉疲倦與憂慮,補充一些能量。在好好地吃了一頓晚餐之後,我跟L的心情也就平復些了。打烊了,在回到宿舍的路上我把她冰冷的手放進口袋裏取暖,她笑著說再對她毛手毛腳我就是噁男,我回她說待會付你錢就不算啦。路上她拉著我的手叫著截色,就這樣笑著鬧著到了她的宿舍門口,我輕柔又悠長的抱住她跟她說希望她再好好考慮未來,她沒好氣的說聲好啦。她走進學舍大門,隔了兩分鐘又打電話給我說折傘忘在我這裡,交給她傘後,沒想過這是我們最後一次深談。
L之後有大半年不願意和我說話,此時的我大概心中有個底,她終究是去做酒店了。看著她隆起的山根、霧眉、以及花錢去做的隱適美牙套,直到最終在她的ig上查到酒店經紀po出她簽約的照片。我知道她去做八大了,我也和她越來越遠,即使我們有因為在一起上課而稍微破冰,深深的隔閡卻難以打破,曾經嘗試約她出門,換來的是她和我講她和別的男生出門約會,一切的努力與對她的掛念好像蒙了塵的櫥,之後被丟棄,好像不曾存在過。
過去的一年我去拜了好多次月老,求得的籤告訴我她可能有第三者,卻又告訴我不要放棄這段感情,一直到前天再去得到一張下籤,在擲筊問事之後告訴我可以放下這段情了,這份執著也得結束。我不清楚這段經歷帶給我什麼成長,只知道這件事帶給我難以抹滅的記憶吧。
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louisg11 · 4 months
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📍中国 · 河北 · 石家庄 · 正定 【 隆兴寺 】
Longxing Temple
五彩悬山:长15.7米,高7.5米,以雕塑与绘画相结合的壁塑艺术形式,将观音说法的道场——普陀洛珈山壮观热烈的场景微缩于壁面。踞坐正中的观音菩萨,突破了宗教佛像的呆板作风,形体曲线柔美,姿态优雅端庄,是诠释宋代观音造像世俗化特点的上乘之作,故被誉为“东方美神”。又因其坐南面北,与大殿坐向相背,又称“倒坐观音”,是隆兴寺六最之一。
Five Colored Suspension Gable Roof
The five color overhanging gable roof is 15.7 meters in length and 7.5 meters in height, miniaturizing magnificent and fervent scene in Putuo Luojia Mountain, the Bodhimanda where Avalokitesvara made the presence and spoke the dharma. Avalokitesvara sitting in the middle breaks through the rigid style of religious idle with the graceful figure and elegant posture. It's the best work to interpret the secular characteristic of Avalokitesvara figure in the Song Dynasty, thus called the Beauty of the East. Also, it sits in the south and faces north, on the contrary to the hall's sitting direction, so it's also called Reversely Sitting Avalokitesvara. It's one of the six best of Longxing Temple.
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摩尼殿:建于北宋皇祐四年(1052年),面阔和进深均为七间,重檐歇山顶,殿身四面正中各出一山花向前的歇山式抱厦,平面布局呈十字形。檐下斗拱宏大,分布疏朗;柱子用材粗大,有明显卷刹、侧角和升起,与宋《营造法式》相近。为隆兴寺现存古建筑中价值最高的一座,隆兴寺六最之一。
Manichaean Hall
Manichaean Hall was built in the fourth year of Huangyou Reign in Northern Song Dynasty (1052), with seven rooms in both width and depth, double eaves, saddle roof and gabled porches on four sides. Its plane layout takes on a shape of crossing. The bucket arches are grand with a simple and clear distribution under eaves. The pillars are of robust materials, with the top in an obvious arc, side angle and rising, and typical of the Song architecture. As the most valuable building, the hall is one of the six best constructions in Longxing Temple.
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铜铸千手千眼观音菩萨像:为北宋开宝四年(971年)奉太祖赵匡胤之命铸造,像高21.3米,位居我国古代铜造像之首。其42臂中除当胸双手合十外,两侧各20臂呈辐射状分布,手不仅分别执日、月、净瓶、金刚杵、宝剑等法器,且均饰有一眼,以40只手眼配以佛教三界中二���五种果报即为千手千眼之来历,千手表示护持众生,千眼表示观照世间。此像作为一千多年前劳动人民聪明与智慧的结晶,可谓我国古代治金史上的一大奇迹。在隆兴寺六处文物之最中最具影响力。
The Bronze Statue of Thousand Hand and Thousand-Eye Avalokitesvara
It was built with the order of Emperor Zhao Kuangyin in the fourth year of Kaibao Reign in the Northern Sang Dynasty (971). The statue is 21.3 meters in height, making it the highest among all bronze statues in ancient China. Among its 42 arms, except for two in front of the chest putting palms together, the rest arms are stretched in turn with 20 arms on either side. The hands are not only equipped with sun, moon, kalasa, vajry pestle, sword and other implements, but also decorated with eyes on each of them. To represent the twenty five retributions in the three worlds in Buddhism with the 40 hands and eyes is jut the origin of thousand-hand and thousand-eye. The thousand-hand means the protection to all human beings, while the thousand-eye means the observation to the secular world as the crystallization of the intelligence and wisdom of the working people more than one thousand years ago. The statue can be really said as a magic in the ancient metallurgical history of China. It's the most influential one among the six best of Longxing Temple.
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tortillagirlsf · 5 months
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hachikenyakaiwai · 6 months
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【かいわいの時】推古天皇二十一年(613)十一月条:掖上池・畝傍池・和珥池を作る。又難波より京に至る大道を置く(『日本書紀』)。
7世紀初めの推古朝には、遣隋使を派遣し、中国を手本として国の整備が進められ、上町台地の先端に近くに難波津が整備されました。推古15年(607)に遣隋使として派遣された小野妹子らの帰国とともに、翌年隋から裴世清らがやってきました。裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
ところが、遣隋使から中国では幅広い直線道路が整備されていることを聞いた推古らは、道路の整備が急務であると考えました。『日本書紀』推古21年(613)には、「難波より京に至る大道を置く」と記されています。この京とは飛鳥の小墾田宮のことです。大道とは幅の広い直線道路でしょう。裴世清の来朝から5年後のことです。
この推古21年に置かれた大道とは、難波宮から南へ直線的にのびる「難波大道」と、それに直交する竹内街道と一般に考えられてきました。しかし、発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。
竹内街道ではなく、渋河道・龍田道・太子道(筋違道)のルートこそ推古21年に設置された大道ではないかと考えられます。このルート沿いには7世紀前半に建立された四天王寺、渋川廃寺、船橋廃寺、衣縫廃寺、平隆寺、斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺などの寺院が建ち並びます。そしてこのルートならば、それまで利用していた大和川に沿ったルートでもあります。しかも、大和と河内のあいだの峠越えとして、もっとも高低差の小さいルートでした。四天王寺、渋河、斑鳩という聖徳太子(厩戸皇子)に関連深い地を通ることから、このルートを整備したのは聖徳太子だったと考えられます。
壬申の乱の際にも大坂道とともに西からの攻撃に対する大和の守りの要となり、天武8年(679)には、龍田山・大坂山に関が置かれています。飛鳥時代には、龍田道が最重要路だったことがわかります(安村俊史)。柏原市立歴史資料館・館長の連載コラム「龍田古道(2)飛鳥時代の龍田古道」2022より=図も。
(図)「7世紀前半の難波から飛鳥への道」
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ari0921 · 1 month
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無責任体制で自民党の迷走が続く
  櫻井よしこ
岸田政権の政治には何の脈絡もない。連帯し、心をひとつにして難関に当たる気風がなく、およそ全てがバラバラに動いている。2月29日と3月1日、2日間にわたる国会での政治倫理審査会を見て感じたのはこのことだった。
岸田文雄首相は、われこそは正義の人だとでもいう気持ちで政倫審に出席したのであろう。確かに首相の出席によって清和会座長や事務総長経験者らが全面公開の審議に応ずることになった。率先垂範で局面打開を図ったのであろうが、国民目線で見ると首相自身も同じ政治資金疑惑を抱かれていることに気づいているのか、訝らざるを得ない。
宏池会には3年間で約3千万円の不記載資金があり、会計責任者の元事務局長の有罪が確定した。野党は同件を追及しなかったが、結局岸田氏も清和会と同罪かとの疑念は残る。
もう一点、岸田氏には政治資金問題に区切りをつけて一日も早く内外の課題に取り組むことが求められている。が、政倫審への出席によって新たな課題を自分自身で作ってしまった。不記載問題を起こした政治家の道義的責任を問うて処分を検討すると約束したことだ。
岸田氏は疑惑が報じられた時点ではまったく何の調査も行わず、新聞報道に驚いて清和会所属議員の処分に走った。閣僚を筆頭に副大臣、政務官、党役員等の全ての役職を、清和会というだけで解こうとした。政務官は1年生議員が多いことから彼らには責任はないとして、萩生田光一前政調会長が抗議して彼らだけは任務を継続した。だがその他の役職者は処分され罰せられている。これからさらなる処分、とは一体どんなことになるのだろうか。岸田氏はどこまで問題を引きずるのだろうか。ここまでくれば、全ての議員はいずれ選挙で審判を受ける。
それで十分ではないのか。
安倍総理の懸念
3月1日の「言論テレビ」で政治ジャーナリストの石橋文登氏が自民党内の動きを説明した。
「幹事長の茂木敏充、国対委員長の浜田靖一の両氏が全く機能していない。そのために森山裕総務会長が前面に出てきた。森山さんは萩生田さんの政倫審出席を止めて、岸田さんを守ろうとした」
萩生田氏は自ら政倫審に出ると申し入れたが、森山氏が萩生田氏は清和会の閥務には携わっておらず無関係だとして止めた。石橋氏が続ける。
「もし萩生田氏を政倫審に呼べば、次は二階氏だ、その次は岸田氏だという流れになる。森山氏は総裁に事が及ばないようにと、手を打っていたわけです。そんなことも全く配慮せず、岸田さんは自分が出席するといきなり発表した。これでは岸田さんを守り立てていこうという人はいなくなります」
政倫審ではもうひとつ、清和会座長及び事務総長経験者らが徹頭徹尾無責任集団であることがはっきりした。とりわけ座長の塩谷立氏の責任は重い。
立憲民主党の寺田学氏が塩谷氏に、安倍総理は政治資金の不記載を問題視していたのではないか、と問うた。
塩谷氏は、「安倍総理は『還付を現金で行うことはやめよう』とおっしゃった」と答えた。寺田氏は尚も食い下がったが、塩谷氏は「不記載」という言葉は、自分を含めて安倍総理の部屋に呼ばれた全員が聞いていないと思うと断言した。
もし、安倍総理が塩谷氏の言うとおり現金での還付はやめようと語ったのであれば、それはその行為自体が政治資金規正法に違反していることを危惧していたからだ。ノルマ以上のパーティ券を売り上げ、余剰分を個々の政治家に還元する際、それを政治資金収支報告書に記載せず現金で還付していた。この一連の動きが政治資金規正法違反だと認識したからこそ、安倍総理は派閥の座長、事務総長らに厳しく言い渡した。「現金」還付への懸念は、それが不記載のお金であり、不記載は法令違反だという認識の中でのことだったはずだ。
『正論』発行人の有元隆志氏が言論テレビで指摘した。
「安倍氏は2021年11月に派閥に戻り、清和会会長に就任しました。翌22年5月に予定されていた清和会の資金集めパーティに備えて事務局長の松本淳一郎氏の報告を受ける内、不記載問題を知り驚愕したのです。すぐに事務総長の西村康稔氏を自分の事務所に呼びつけた。これが22年2月24日のことです」
西村氏を指導したものの安倍総理の懸念は晴れなかった。再び有元氏が語る。
「2月24日に続いて、3月2日、4月7日にも呼びつけています。3月2日に招集されたのは西村氏、参議院幹事長の世耕弘成氏の他、前会長の細田博之氏です。4月7日には西村、世耕、塩谷、松本氏に加え、事務総長経験者の下村博文氏を呼んで還付金不記載をやめるよう指示しています」
有権者の審判
このような事実を知れば安倍氏が正そうとしたのが「不記載問題」だったことが分かる。塩谷氏らが理解できなかったとは実に不思議だ。
塩谷氏ら全員が、事の本質が不記載だとは気がつかなかった、と証言したが、これ以上の無責任はない。
そして立憲民主党だ。彼らはこれまで安倍氏を汚い言葉で罵ってきた。だが寺田氏は、そんなことは忘れたかのように安倍氏を持ち上げ、「安倍総理のご遺志」を蔑ろにするのかと、塩谷氏らを責めた。正論を展開しているように聞こえるが、この手の平返しの立憲民主党の言葉にも耐えがたいものがある。
塩谷氏は政治資金の還流を続けたことに関して、「還元を求めた人たちが多かった、それでそのままになった」という趣旨で答えた。だが氏は座長だった。多くの若手後輩議員たちに資金の不記載を継続させたことについて、長として責任をとるべき局面ではないかと、私は思う。検察が法的に詰め切れなかったからと言って、知りませんでしたで逃れるのは、再度言う、無責任だ。
塩谷氏が、座長の自分が悪かったとして真っ先に政界引退を宣言すれば、あるいは状況はここまで悪化しなかったのではないか。こう考えるのは、今回の問題が朝日新聞などが取り沙汰するような悪質な裏金作りだったとは思わないからだ。明白な法令違反ではあるが、朝日が強調してやまない悪質さはそこにはないと思う。だからこそ、最も責任ある人が非を認めて謝罪し、一身を犠牲にして反省の気持ちを明確に示すことが大事だった。現実には真逆の現象が起きた。責任をとるべき人々の言い訳によって、逆に有権者の反発は強まり、
怒りが増幅したのではないか。
苦々しい気持ちは自民党議員に対してだけではない。幾人かの野党議員が声高に自民党を糾弾したが、彼らにそれ程の資格があるのかとも、私は疑問に思っている。
前述したがやがて選挙になる。一人一人の政治家には日本国と国民のための政策を掲げ、有権者の審判を潔く受けてほしいと思う。
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