Tumgik
#誰でも描ける美術講座
kyary1976 · 2 years
Photo
Tumblr media
#少しでも応援ありがとうございます #ワンセブンライブ . . . みんないつも楽しい時間をどうも😁✨m(*_ _)m✋ありがとうございます😊✨✨✨✨ ライバーの僕がみんなを楽しませなきゃいけないのに、配信してる僕がいちばん楽しんでます。 今朝は少し下ネタ入りました🛁*。フルエールルーレット(*´︶`*)♡Thanks!でえちえちばなしが当たったので。 あと、仕事くれる方々ありがとうございますm(*_ _)m このまま、僕の枠がうまくまわってゆけばと思います(*^^*) お昼からの配信の予定は15:15からになってますけど、多分14:15から配信します。今日のところ。夜の0時まで14:15から突っ切りたいのですが、携帯📱💭💕のお熱を考えると一旦18時頃に終わって、19時から配信再開したいと思います。 あと、新人ライバーの壁( _ _)ノ|壁イベントガチ参戦中🌊は、ほとんど盆踊り大会やってますので、祭りの血がたぎってうずうずしてる方はいらしてください。 ーーーーーきちんと真面目に配信しないとな。。。。 . . . #ワンセブンライブ #17ライバー奏蒼 #一般社団法人亜細亜美術協会 #一般社団法人社員画家 #亜細亜現代美術展 #奏蒼マジック #絵の注文5000コインから承ります #朝活 #AM05:29 #キャリさん #15日0時まで盆踊り大会 #壁ガチ絶対30位以内 #初のネットイベント参加 #今年たくさんお世話になった方にはクリスマスに松阪牛届けます #夏の素描 #美女たちの森と沼 #美術という沼 #エキセントリックな技術なら教えますよ #誰でも描ける美術講座 #誰でも描ける現代アート講座 #画業43年 https://www.instagram.com/p/Cg5eAOpv8bH/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
4komasusume · 1 month
Text
読み手が感情移入するための余白――橋本ライドン『妹・サブスクリプション』
(注意:この記事は『妹・サブスクリプション』の核心に関するネタバレを大量に含んでいます。)
 全てを読み終えた後の感情は怒りだった。それは、最後まで人間性を獲得することができなかったみゆきに対する怒りである。
 失われた人間を模倣する人造人間技術「レプリカント」が実現された近未来で、失踪した妹・今日子のレプリカント「きょんちゃん」と暮らす姉・みゆき。2か月前に書いた記事の後、物語は佳局へと入っていき、そして結末を迎えた。みゆきとかつての親友・正美の対峙、今日子とその親友・吉乃の再会、そしてみゆきときょんちゃんのクライマックスである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Tumblr media
妹・サブスクリプション (シリウスコミックス)
posted with AmaQuick at 2024.03.22
橋本ライドン(著), 講談社 (2024-03-08)
Amazon.co.jpで詳細を見る
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Tumblr media
Tumblr media
〔145・146ページ〕
 クライマックスで、みゆきはレプリカントのきょんちゃんの変化に動揺しながらも、自身がこれまでに犯してきた過ちにようやく気づく。「私はずっと過去を見てたんだ」と。そして二人が抱き合いながら言葉をやりとりする場面は、二人の対話に見えて、実は本物の今日子に対するみゆきの届かない独白だろう。目を見ることなく吐露する言葉にきょんちゃんがどのように反応するかは、みゆきにとってもはや問題ではない。むしろ言葉を吐き出すことそれ自体が、すなわちみゆきが過ちを自覚したことのあらわれこそが、この場面における焦点なのだ。
 ここまでこのように読んだ私はこう考えた。みゆきはついにレプリカントのきょんちゃんを捨てるのだ、と。本物の今日子はみゆきの認識では行方不明であり、またレプリカントのきょんちゃんの次の個体も工場が焼けてしまったので、どちらにももう会うことは叶わない。それでも、自覚した過ちと決別するために、まさに過去の象徴たる最後に残った一体のきょんちゃんを、みゆき自らの手で破壊するものだと信じていた。
Tumblr media
Tumblr media
〔147・148ページ〕
 しかし、みゆきはそうしなかった。あまつさえ、今の住まいを引き払ってレプリカントのきょんちゃんと逃げ、楽しそうに遠出の遊びに来ているではないか。最初こそ入水心中エンドだと読んでいたものの、後にアップされたこの楽しそうなイラストを見て、その可能性は捨てざるをを得なくなってしまった。
Tumblr media
〔100ページ〕
 これでは、レプリカント会社の代表の「結局 偽物で構わないのだ」という言葉を認めたことになっているではないか! それとも、最後の一体になって替えが効かなくなったからレプリカントのきょんちゃんはみゆきにとって偽物から本物になった、とでも誰かは言うのだろうか。レプリカント自体が最初から本物の今日子の代わり=偽物だったにもかかわらず?
   ◇
 二人が抱き合いながら言葉をやり取りする場面を、私は読み違えたのかもしれない。146ページと148ページのセリフの反復を考えれば、みゆきの言葉はレプリカントのきょんちゃんにまさしく向けられたものと読む方が自然にも思えてくる。ダメな自分には偽物がお似合い、といったみゆきの消極的な諦めという読解だ。あるいは、みゆきの言葉は確かに独白だったが、同時に決意でもあったという読み解きもありえるだろう。過去を反省しつつ、しかし今日子との再会はもはや叶わない(みゆきの主観では今日子は行方不明である)のなら、せめて目の前のきょんちゃんを精一杯愛していこう、という積極的な諦めだ。これならまだ物語的な救いがある。
 しかし、いずれの読解を採用しても、私の怒りが収まることはなかった。なぜなら、私はこの作品の読解において絶対的に親・今日子かつ反・みゆきの立場であるからだ。その理由は、本作の第三期(今日子の過去編)の終盤における、今日子のこのセリフに心震えたからだ。
姉ちゃん 私がいなくなったら 姉ちゃんも私のレプリカントを作るのかな
Tumblr media
Tumblr media
〔89・90ページ〕
 これは今日子の嘆きだ。誰かに否定してもらいたかった、できることならみゆきにそうしてもらいたかった悪い想像だ。「昔のきょんちゃん」でも「理想のきょん」でもなく、今ここにいる今日子と向き合ってほしかった、という叶わぬ願いだ。それは、個々の人間が代替不能な存在として、人間でない複製・改変可能な何かに取って代わられることなく、あるがままに尊重されてほしい、という人間的な祈りだったのだ。
 今日子にかように言わしめたみゆきを、私は決して許すことができない。今日子は全てにおいて正しく、みゆきの情状は一片も酌めない。この姉妹の悲劇が勘違いから始まったものだとしても(詳しくは単行本収録の描き下ろし番外編を参照)、思春期や反抗期という知識によってみゆきが誤りを正す機会はいくらでもあったはずだ。
 ひとことで言えば私は、みゆきは自身の過ちを改めてくれる、とギリギリまで信じたかったのだ。しかし、みゆきは最後までレプリカントのきょんちゃんから離れることができなかった。今日子の叫びを、またはレプリカント会社の代表の言葉を、ついぞ否定できなかったみゆきは結局、偽物の機械ではなく本物の人間こそを愛する、という人間性を獲得できなかったのだ。悲しいが、そう言わざるを得ない。
   ◇
Tumblr media
〔123ページ〕
 私の読みが公平世界仮説に依った、かつ寄ったものであることは甘受しよう。『妹サブ』の物語展開は徹頭徹尾、みゆきと分かりあえ得ない者同士の相対であった。正美、吉乃、今日子、そして社会。それぞれに譲れない信義があり、どこまで行っても『理解すれども納得せず』を超えることはなかった。みゆきが「正美は正しい」ことは認めつつも「正論で片付けられない」としていることがその証左だろう。
 ここで重要なことは、作者の橋本ライドンは『妹サブ』のどの登場人物にも肩入れしていない、ということだ。世界がこうあり、またキャラクターがこう生きるから、その間の衝突で生まれるドラマを、達観あるいは諦観した――作者でさえ物語世界には介入できない、という――視座から巧みに写生することによってこの作品を描き上げたように思うのだ。だからこそライドンワールドでは、現実世界と同様に、公平世界仮説が成立しない。不合理も矛盾も、作者による意図的な味付けではなく、作品世界に生きるキャラクターという素材の味わいとしてあらわれるのだ。
 つまるところ、橋本ライドンはキャラクターを描くのが上手すぎるのだ。作者自身にとってさえも、作中のキャラクターは物語のための道具ではない、というスタンスでマンガを描いているのだ。だからこそ、それぞれのキャラクターに生々しさがあるし、また読者こそがそこに肩入れして感情移入する余地が生まれる。そして複数の並行した立場の中から、私はこのキャラクターを、そしてこの読みを選ぶ、という能動的な読書体験を可能にしているのである。
 また、ハッピーエンドやメリーバッドエンドといったものは、『妹サブ』においては物語が目指すべきゴールではないどころか、結果的にたどり着いてしまった一点ですらない。それすらも読者体験にゆだねられているのである。そして、かような複数の読解は多義的な場面描写だけでは成立し得ない。肩入れしたくなるほどに強烈な実在感を持つキャラクターがあってこそ、多義性そのものという客観視点ではなく、それぞれの意味に依った主観的な読解に強度が生まれるのだ。
 ここまで来ると作者は、『どのように読み解いても構いませんよ』というサービス精神を超えて、『あなたならどう読み解きますか?』と読者に対して挑戦状を突きつけているようにも思えてくる。そして2か月前の記事で私がほのめかした社会的な読解への志向は、全てではないにせよ、大部分が吹き飛んでしまった。そのような小手先(もはや小手先だと言い切ろう)だけで『妹サブ』を読み解こうとするのは無理だと悟ったからである。
   ◇
 いつかどこかで私は、確かとある歌手に対するインタビュー記事の中で、歌い手が感情を込めすぎた歌は聞き手に響かない、なぜなら聞き手が感情を込める余地がないからだ。だからプロの歌手は聞き手のための空間を空けて歌うのだ、といった旨を読んだように覚えている。
『妹・サブスクリプション』は作者が個々のキャラクターに肩入れしないことによって読み手が感情移入するための余白を残した作品と言えるだろう。それはまさにプロのワザだ。そして私はそのワザに見事にやられたのである。「全てを読み終えた後の感情は怒りだった。」と率直に表現するしかないほど、フィクションの存在に肩入れしてしまった。そう観念せざるを得ないほどの圧倒的なキャラクターの力が、この作品にはあったのだ。
(すいーとポテト)
0 notes
shukiiflog · 6 months
Text
ある画家の手記if.124  告白
香澄と一緒に車で家を出た。留学から帰ってくる絢の迎えに。 絢と僕らはもう親戚ってわけじゃないけど、僕も香澄も少しでも早く会いたかったから。 かいじゅうくんキーホルダー、役に立ったかな…。 出てくる前に香澄とじゃれてた名残でまだ少し体があつい。車内の空調を強くしたら髪の毛が後ろに靡いた。 香澄も僕もだいぶ髪が伸びた。僕の髪はちょっと前は大型犬の尻尾くらいの長さだったけど、今はクラゲの触手くらいの長さになってる。
空港で会えたのは絢だけじゃなくて、ちょうど同じタイミングで帰ってきたまことくんと雪村さんと光くんもだった。 絢に「おかえり」って言って頭を撫でたら撫でた手に噛みつかれた… 合間をみて雪村さんにちょっと大きめの箱を渡す。「帰国祝いです」って笑って渡したら向こうも笑って受け取ってくれた。 いい包装紙がなかったから山雪の工房を借りて、大きな紙に自分で描いてデザインしたかいじゅうくんと絢ちゃんの柄を刷ってみた。包装するリボンにも、綺麗にレタリングしたアルファベットとかいじゅうくんと絢ちゃんの顔を描いて、シルクスクリーンで刷って入れた。 かいじゅうくんもだけど、雪村さんにあげるなら絢ちゃんも一緒に入れたほうが喜ばれるかなと思って。絢が僕に絢ちゃんを見せてくれたのは病院に持ってきてた一回くらいだけど、たまに送られてくる画像にもよく写り込んでるし特徴は覚えてた。 絢はたまに、みんなにじゃなくて僕だけに画像だけ送ってきてくれたりする。嬉しい…んだけど、謎の画像が多くて、どれも絢が外を歩いてて撮った写真みたいなんだけど、枯れた蓮のドアップだったり、寂れて朽ちて顔の印刷が禿げた公園の動物の遊具だったり、…謎だ。毎回一応送ってくれた写真にはコメントしてる。
帰って来るやいなや絢と一緒にあっという間に香澄も攫われていって、残された僕とまことくんとでぽかんとその場に立ち尽くす。 正確には僕一人。まことくんはそこまであっけにとられたふうでもなくて、慣れてるみたいな涼しい顔で絢たちを見送ってた。オーストラリアでもこんなことあったのかな。 このまま香澄も一緒に行かせちゃっても特に危険はないと思う…わがまま言ってるふうでいて絢がそう判断してもいるんだろうし…。 絢の家族の人間性とか危険性については香澄からも絢からも僕はほとんど聞いたことがない。それぞれ個人についてなら間接的な情報を聞けたこともあったし、それが無意味ってことじゃないけど。情香ちゃんからの報告も、つまるところあくまで情香ちゃんへの対応なんだと思う。 僕は香澄みたいに彼らと個人的な関係を築けてるわけじゃない。…でもみのむしくんは渡せた、これ以上は高望みかな。 ひとつ音にもならないくらいのため息をつく。煙草…はここは禁煙かな。 となりのまことくんのほうへ視線をやって話しかける。僕はまことくんにも話しがあったんだった。 「まことくんは機内でなにかもう食べた? 僕は空港内のカフェで軽く食べて帰ろうと思うけど、よければ奢るよ」 にっこり笑って誘う。「君と少し話せたらなって思って」 「え?や…ありがとうございます…」 まことくんは愛想笑いでも警戒するような感じでもなく、僕に対して特にどういう感情もなさそうな顔。 「食べて帰ろうかと思ってますけど…  香澄も絢も居ないのに俺だけなんか悪いですし」 お辞儀してそのまま一人で行っちゃおうとするから、もう一声かけてみる。 「香澄も絢も居なくていいかな。できれば君と個人的な話が二人でできればいいなって思ってたから。…無理強いはできないけど」 まことくんがカフェに向かって歩き出す僕の斜め横にくる。 「そういうことならありがたく奢ってもらいます。院生て金無くて。留学とか行っといてなんですけど」 今の言葉でとまってくれたのかな。その前と言ってることはほとんど変わらないけど、どこで思いとどまってくれたんだろう…。 「お金があってもなくてもやりたいことはやらなきゃね」 院生か。僕は院には行ってないけど卒業後それなりに極貧生活だったな。まだやってることがはっきりと���結実しない期間ってことなのかな。 院には慧が行ってた、その慧の部屋に僕はしばらく入り浸ってたから、まことくんと慧では分野は違うだろうけど院生がそれなりに忙しいスケジュールを抱えてるわりにまるで儲からないのはなんとなく知ってる。 一緒に来てくれるってことで、まことくんの肩からひょいっと荷物を預かる。僕のランチの提案で重たい荷物を抱えて当初の予定より余計に歩かせることになるから、せめて。飛行機から降りたばっかりだし。 そのとき気付いた。まことくんの荷物の端っこで揺れる、荷物に付けてあるキーホルダー…木彫りの、かいじゅうくん、僕が香澄��一緒に作った 「ーーー……」
まことくんと二人で入ったのは飛行機の離着陸や滑走路が見える日当たりのいい綺麗なカフェ。 軽く食べるっていっても僕はもともとが一度にそんなに食べきれないから小さなワッフルとコーヒーだけ。 夏だけど僕はコーヒーは一年中ホットで飲んでる。空港内は涼しいからまことくんもこの季節に見てて暑苦しいってほどじゃないはずだ。 テーブルの向かいの席にまことくんも座る。 こうして綺麗に正面から姿を見るのは初めてかもしれない。 絢や香澄と一緒に家に遊びにきてたことは何度もあるけど、まことくん個人と面と向かって話したことはない。 顔立ちはシャープな印象だけどパーツや骨格の造り自体はそんなに細く鋭く尖ってるわけじゃない、骨ばってもない、てことは表情でかなり顔が変わるのかな? 造形より印象が圧倒的に強く出てる。 表情豊かな人だ、多分。造作的な表情の変化の幅が大きくて広いって意味じゃなくて、ほんの少しごく僅かな表情の変化だけで内面や感情を非常に雄弁に物語る、って意味で。 少ない情報…出力から、相手に膨大な入力をもたらす相貌、ひとの顔は見る人間と見られる人間の双方の視線で織りなして編まれる、出入力のアンバランスが造作より印象が圧倒的に勝る容貌に繋がってるのか…どうかな… まことくんが飲み物しか頼まないから「好きなもの頼んでいいよ」って言ったら僕と同じワッフルを頼まれた…   さっきお金ないって言ってなかったっけ…  あんまり量食べないほうなのかな 余計なことかもしれないけど、店員さんにメニューの中からいくつか腐りにくい日持ちしそうな料理を頼んでテイクアウトにしてもらった。 コーヒーに口をつけながらまずはなんてことない話を始めてみる。 昔、慧につっこまれた、突然本題を相手の顔面にパイみたいにぶつけていく話し方やめろ、それは会話じゃない、って。 そのパイをぶつける話し方って案外、美術講師をやってた頃には生徒に通用してたんだけど。先生と生徒なら、要点が話の頭に来たほうが早くて助かる、ってことだったのかな。 「そういえばまことくんの名前って本名じゃなかったんだね、最近香澄が呼び方を変えたので初めて知ったよ」 まことくんも飲み物を飲みながら答える。 「そうですね。まことって呼んでたのは香澄の勘違いというか…本名は張磨寿峯です」 ことねって名前がふとした話題に出てきたとき、最初僕は香澄が誰の話をしてるのか分からなくて、新しい友達ができたのかなと思った。なんとなく、香澄も呼び方を変えてすぐにしっくりきたわけでもないみたいだった。 名前、というより呼び方なのかな、相手そのものの僕の中での存在のあり方を呼称って形で包括してる。呼び方を変えるときは相手の存在形式が大幅に変わったときか、変えるときで、だから僕の中では絢はずっと絢だったりする。 …僕は名廊に絢がいたときから、絢のことを「絢」って呼んでたから。あの日理人さんと会って。今でも僕が「絢」って呼ぶとき、それはなんとなく「雪村絢」の絢じゃなくて「絢人」を略したものとしての絢だったりする。…言わなくてもいいことだから、言わないけど。 「はりまことね… 綺麗な名前だね。…僕も呼び方変えたほうがいいかな?」 香澄から呼び方を変えた経緯とかは聞いてないからまことって呼ばれるのになにか不都合が起きたんじゃ… 「呼びやすいように呼んでください。絢はまだまこって呼んできてて、逆にぬいぐるみのサメに寿峯って名前つけてんですよ。まぁそういうのも別にいいかなって思います」 杞憂だった。 絢はまことくんにもぬいぐるみ買ってたのか…。 …そう言われれば…こう、鋭利な印象と魅力的な部分に相似が…  もしかして絢もそう感じた…? 「サメ…  ………まことくんがサメに似てるから…?」 訊いてみたらまことくんの表情のニュアンスが少し変わった。嬉しそう…楽しそう…? 「そうそう、サメ似てるって…絢から聞いてました?」 「いや、僕は何も聞いてなかったけど、印象が似てると思って…」 絢はぬいぐるみが好きなのかな。そういえば僕によくノエルぶつけてくるね。好きな人にそのイメージのぬいぐるみをあげてたりするのかな。 僕から見るとサメってすごくかっこいいけど、絢から見てもまことくんはそんなふうに見える? なんとなくにこにこする。 そのまま立て続けてサメからゆきちゃんからノエルからかいじゅうくんからみのむしかいじゅうくんの話をしそうになって一度冷静になる。 留学から帰ってきてまだそのままだし、そんなにここに長居させるわけにもいかない。国が変わると空気とか水とか匂いに慣れるまでに時間がかかるとか体壊すとかって前に稔さんから聞いたような…。 僕とまことくんとはしょっちゅう会えるわけじゃないから聞きたいことがあるなら今聞いておかなくちゃ。 「そういえば絢から通話で聞いたよ。まことくん、絢と付き合い始めたんだって?」 僕が聞きたかったのはそういう話。 まことくんはさっきの顔からまた元に戻って短く答えた。 「ああ…はい」 「…」 こういうのって、例えば家族とかでも本来は無遠慮に聞いていい話じゃないんだろうな。誰とどう交際するとか結婚するとかって。 名廊はそのへんも古いからな…そろそろ誠人くんがそういうのにも耐えがたくなって変えてそうな気もするけど。男女関係なく、誰かと交際するときはもちろん結婚前提だし、相手もそれなりの家で、相手の家の親族は軽く洗ってあまりに見るに耐えかねる人物がたとえ遠縁にでもいたらそこで話は終わり、とかだった。 ずっと家の子供たちを幼稚舎から西蘭に通わせる理由にそれもある。あの学内だけでプライベートな人間関係が構築されるなら、西蘭には名家の子や一定レベル以上に優れた能力を持つ子しか入らないから、学内で普通に恋愛しても家曰く「ひどいハズレ」を引くことがない、とかなんとか。…考えてて嫌になるし、実際嫌になったから僕は大学は別のとこにいったんだっけ… 「…立ち入ったことだったかな」 眉を下げて訊いたらまことくんがフォローを入れてくれた。 「いえ、絢が香澄と直人さんに伝えたのは聞いてました」 まことくんと絢が付き合い始めたのが留学期間中であってるなら、まだそんなにどういう交際になるのかとか、はっきりしてないのかもしれないし、僕は別に波風立てたいわけじゃ…ない。 「…伝えてきたのは絢の行動であって君の積極的な意思が伴ってたのかはわからないし、だから僕がその事実関係を知ってることを君も知ってることと、僕がその関係について絢じゃなく君にも遠慮なく踏み込んだ話をしていいのかは、別だから…」 慎重に言葉を選ぶ 相手を悪戯に傷つけないように 土足で踏み込まないように 「君が嫌なら金輪際絢との関係については話題にしない…って言いたいけど、最低限僕が君としたい話だけ、ここで僕にさせてくれるかな」 どこまで僕がエゴを抑えて話せるか 「答えられることなら」 まことくんはさっきまでと同じ声で答えた。 「絢が香澄と直人さんに伝えたいって思うのは納得できてますし、俺もそれは了承してます。でも今は俺しかこの場に居ないから。俺一人で答えられる範囲じゃ無いって思ったら、それはすみませんけど、話せないってこともあるかも。それでもよければ」 むしろここに絢もいたら、絢は僕がまことくんに聞きたいことや話したいことを茶化したり誤魔化してくるか混ぜっ返してくる。そしてもう一度同じ話題に戻れない流れを作る。絢はそういうのが上手い、ここでは厄介な存在だから、今はいないほうがいい。 …なにから話せばいいのかな   絢とまことくんが付き合うって知って頭を掠めたものはなんだったっけ …髪留め
「…邪推の域を出なくて申し訳ないけど、僕はずっとまことくんは絢じゃない別の人のことが好きなんだと思ってたんだ。今もそうなのかなと、僕は思ってる。…僕はなにか勘違いをしてるかな?」 向かいでまことくんが唖然と…ぽかんと…?してる。 脱線してないことを示そうとしてにこっと笑って続ける。 「…僕は君がその人の誕生日に髪留めを贈ったのを知って、そうなのかなと思ったんだけど。」 「え」 まことくんの食べてる手が止まった。目が合う。…これもあんまり僕からは言っちゃいけないことだったかな。  これに関しては何も攻撃の意図はないから最初に声をかけた時のまま、穏やかな笑みを崩さないでおく。 「香澄のことですか」 「うん。決められたたった一人の相手としか恋愛や交際をしちゃいけないとは僕は思ってない、けど…自分の大事な子たちに無節操に軽い気持ちで手を出されるような動きをされると心中穏やかじゃない。香澄にも絢にも、幸せになってほしいから」 香澄は僕が幸せにするけど、香澄に髪留めを贈って、絢に告白されたら付き合って、僕はどっちのこともいい加減に扱われていたずらに気を持たせて蔑ろにされたようで   少し怒ってて でも  …どういう行為が本人の中で下衆な行いだって認識されてるのか、その行動を一人一人の相手がどう受け取るのかは、分からない…場合によってはそれでいい関係だって多分あるんだ    今回は僕がただ拭えない違和感を感じただけで、それだって僕は本来部外者だし… 僕と香澄と情香ちゃんの関係だって、信じがたい、受け入れがたい、って人はいる   パーティでそういう声も聞いたから だから結局僕の気持ちより絢の気持ちのほうがずっとずっと今は大事にしなきゃいけない でも絢は… 傷つけられても、…気付けないかもしれない 「…君は絢のことをどう思ってるの」 まことくんは訝しげな表情で僕にしっかりした声で返した。 「俺は付き合うなら一人だけです。絢と付き合うなら二股とか浮気はしません」 眉が下がっていく… 一緒に目線も下がって、手元のコーヒーをじっと見つめることになった。 「それは君の主義信条方針であって君の気持ちは一言も出てきてない。僕はそれが怖い。僕は、絢のことをどう思ってるのかって聞いたのに。…」 どんな崇高で堅牢な主義思想や人道的な判断を貫くより絢のことを誰より一番に最も深く愛してほしい、どれだけ道に外れることになっても愛の形が歪になってでも   …どこからが僕の本当の願いで、どこからが変えられなかった過去だ 悲しい顔した僕の向かいでまことくんは少し気分を害したみたいな空気で言った 「…好きですよ」 その言葉に、僕は「お前ごときに絢を幸せにできるとでも思うのか」って怒鳴りたかった、そうしなかったけど その言葉は本来はまことくんに向けられたものじゃない、その怒りも、本当は僕に向けられたものだ、だから言わなかった 今ここでこうして絢の恋人相手にあれこれ訊いてみるなんて滑稽な真似してまで僕は絢に幸せになってほしい、 そうじゃないと僕が困るから? 絢は僕の犯した因果から産まれた 僕一人では負いきれないほどの咎を、まるで無関係のはずのまことくんに負わせてしまったような気持ちでいる、 僕が 絢を幸せにしてあげられればよかった 誰より深く優しく愛して死ぬまでそばにいて慈しんであげられたら それはできない 僕が絢を一人の連続した人間だってふうに思えるようになったのは、香澄に会って 香澄と愛し合ったから 深く優しく慈しむような愛し方も 僕の中には元々なかった 香澄と関わって育まれたものだ それは香澄と僕で編んだもので、僕が一度そういう愛し方を学んだからって誰しもにそれを適用できるわけじゃない  あくまでその人との関係の中で生まれたものを途切れないように大事に紡いでいくだけで、それがどこに行き着くかどんな形になるのかは、そうしてみないと分からないし、香澄とまったく同じ形になることは相手が誰でもきっと起きない
「…」 少しの間黙り込んじゃったけど、手元のコーヒーを一口飲んでからまことくんに柔らかく微笑みかけて、話を続ける。 「そう…  それならよかった。…僕が訊いて君が答えてくれたのに、言われたことを鵜呑みにもできなくてごめんね。君を信頼してないってこととも違うんだけど…。」 好意なんてものを単純に絢にとって良いものだなんて信じられるわけがない、絢だけじゃない、好意をかさに着て香澄に好き勝手に振舞ってきた人間がどれほどいたか いつも好意はどんな悪意より尚たちが悪かった 好きだって、まことくんの言ってる好意がどういうものかは、真実を僕が知ることはなくてもせめてこうして話さないと何も分からない 「…僕は当人と直接一対一でのコミュニケーションを重ねないことにはどうにも個人像が得難いらしくて、今まで君のことも家で幾度となく見かけて挨拶を交わしたりもしてるのに、僕には君をどういう人間のようにも思えなかった。こうして多少不快なやりとりを通してでも僕は君のことを知りたかった、絢を傷つける人間を僕はもう二度と絶対に許さないから。」 理人さんも、誠人くんも、僕も。 流石にもう分かってるよ、理人さんが優しくて儚げで壊れそうなお兄さん、なだけじゃなかったこと。…誠人くんも。…僕も。 まことくんは…どういう人なのか。プロフ��イリングみたいな成果がこの会話で欲しいんじゃない、お互いの中にまず一人の人間として根を下ろす覚悟がまことくんにも僕にも必要じゃないかなってことなんだけど…。 まことくんが僕の少々重たい言葉を継いだ。 「…絢がすごく真剣に物事考える奴だってことは俺も感じてます。だから正直なんで俺?って思いましたけどね。直人さんみたいに周りに絢を心配する人が居るのはあいつにとっていいと思いますよ。俺は俺が関わる以上のことは絢にしてやれないんで」 ………。 絢に…何かを要求してるわけじゃない…? 関わる以上のことはできない…  なら、 どう関わりたいかだけがネックだ。 「僕はもう絢にとっては親戚でも従兄弟でもなんでもない存在だから…正直どこまで僕の一存で絢に鬱陶しくいつまでも構っていいものかはずっとはかりかねてるんだけどね…。君は、絢とどういうふうに関わっていきたいと思ってるの?」 ここまで訊いていいのかな、嫌なら「答えられない」で済むからいいのかな、とか思ってたらまことくんの顔から力が抜けた…僕なにか変なこと訊いたかな… 「どうっていうか… 俺わりと絢はそのまんまで好きなんで。絢がやりたいようにやってるとこ見てられればそれで」 「ーーー……」 「俺も絢もやりたいこと違うと思うんですけど、それでも相手の興味あることが自分の糧になったりもしますし」 「………」 ………そっか…  絢は今度は 際限なく尽くして相手の欲求や混乱を鎮めて満たしていくような関係は 自分を少しでも損なうような関係は、望まなかった…のか 絢のことが…  そのままで好き…… 「………まことくんは、なんで自分なのかって言ってたけど、僕は今すごくよく分かったような気になったよ…あの家を出たあとの絢らしいね… 前からいい子だったけど、ずっとずっといい子になった…」 自分で言ってて優しい気持ちと一緒に笑みが溢れる。 「僕だけかもしれないけど話しを聞けてすごく安心したよ。好意を振りかぶって傷つけてくる人間が、大勢いたから…好きだから付き合うってだけじゃどうしても警戒心が抜けなかったんだ」 そのままの絢が好き… 絢に何を求めてるんでもない、何でもこなす器用なあの子にそのスペックを自分との恋愛に活かしてほしいだとか、あの美しい容姿を連れ歩いて自己顕示の道具にしたいだとか、ただ愛玩したいだとか、そういうのじゃなかった…  僕がほっとしてる間にまことくんは「はぁ。そうですか」てまた元の顔に戻っちゃってる。…?違う感じもする… おたおたしながらコーヒーに口をつけて弁解みたいなことを言う。なんとなく目が泳ぐ。 「ご、ごめん、絢の話ししてたのに自分語りみたいになっちゃったね。喋るの苦手で…話すとき言葉が抜けがちとか主語がないとか日本語じゃないとかよく言われるんだ…」 正直に白状したらまことくんに笑われた。苦笑いみたいな感じだけど。 マグの向こうをそっと見る。この子ちょっと困ったような感じの苦笑みたいな笑顔が映えるな。少し痩せ気味の体型とも合ってて全体の空気に統一感がある。苦笑に皮肉や嫌味っぽい暗い雰囲気が混じらないから向けられたほうも嫌な気持ちにならない。無表情に近いときの顔の造作がそういう笑みの印象から…遠くはないけど、でもすぐに思い描ける感じでもないから、そこに少しのギャップがあるのかな。 「日本語になってないって…」 まことくんは苦笑したまま返してきた。 「や、別に、会話って言語外のニュアンスが色々ありますから」 「…ニュアンス頼りだと齟齬にいつまでも気付けないこともあるし…」 僕の場合はニュアンス以前な気がするけど… 「香澄に会ってからは気をつけようとはしてるんだ…あの子ははじめて会った頃はあんまりどういう言外のニュアンスも醸さなかったから、僕も何も汲まなかったひどい歴史があって… …絢はそういうとこは醸すかどうかしっかり統制してるからこれもやっぱり僕には難しいんだけど…相手が汲んでほしくないものは汲めないし…」 「そういうものじゃないですか、人間関係は」 僕がおたおたしてたら総まとめにされちゃった…。 続けづらくて黙ってコーヒーを飲んでたらまことくんが続けてくれた。 「俺は前まで絢が好きなのは香澄だと思い込んでたんですけど まぁ、そういう…はっきり言われないとわからないこともありますね。絢が香澄を好きなのは間違いないと思いますが」 「…?うん。…?」 絢は香澄が好きで香澄も絢が好きでまことくんは香澄が好きだけど絢も好きで付き合ってて、…いい関係だと思うけど… 「留学最終週とか絢ずっと香澄に会いたいとかくっつきたいとか色々言ってて、それで今日会った途端あれじゃないですか。マジで置いてかれたし…」 まことくんがちょっとおかしそう?に笑ってる 絢、もうすでにまことくんに甘えきってるな… 「置いてっても君ならちゃんとそこにいると絢が思ってるからでしょう。両想いだね」 僕がそう言ったらまことくんは笑顔の余韻を漂わせてる。 「あー…まぁ…だといいですね…」 真っ先に駆け寄っていく相手と、置き去りにしていく相手。どっちがどうとは言えないけど、違う形の信頼関係が両者とそれぞれにあるってことかな。 「僕は絢が君を選んだことがすごく嬉しいよ。どれだけ今の段階で深く愛しあってても、絢が香澄を恋人に選ぶよりも、君を選んだことが。 あの子は生まれた時から自分のすべてをたった一人のひとに捧げて、その生き方を愛ゆえ��と思うことで耐えて生きてきた。本当に愛かもしれなかった、それはもう分からないけど、絢の世界ではずっと愛し愛されることはあの子が身を削る形のものでしか成立しなかった。 でも君はそのままの絢が好きだって言った。絢はやっと身を削らなくてもそのままでいるだけで愛し合える相手を見つけて、そういう君のことを、自分の意思で選び取れたんだと思って。」 きっと怖かったんだろうな。がんばったね絢。 笑んだ目元に自然と涙が薄く浮かんだ。僕のほうにまっすぐ視線を向けたまま、まことくんは黙ってた。 僕から続ける。 「それに君はいくら恋人でも絢のために身を削る真似はしない、…ような気がした。」 にっこり。これから変わるかもしれないけど。 「まぁそうですね」 そうであってくれるから、絢はまことくんを選んだんだろう。 僕の勝手な想像だけど、絢から聞く限りでは、絢がまことくんとの関係を恋人って形にするのを少し急いたのは、絢が香澄と今後も一緒にいるためでもあったような気もする。 自分の気持ちの成就もあっただろうけど、絢の人間関係はそれほど大きな広がりを見せることはもうないはずで、絢と香澄はそうならないように思いあっているものの、お互いに少し、お互いのことになると我が身を省みなくなるところは…あるよね。 長々話し込んだけどコーヒーも飲み終わったし、まことくんも食べ終わってるから日が落ちる前に空港を出る。夜道の運転は暗所が見えない僕は避けたほうがいい。 「食べ終わったし、そろそろ僕らも帰ろうか。送っていくよ」トレーを持ってワッフルを包んでた紙を丸めてゴミ箱に入れながらまことくんのトレーも彼の手から預かって片付ける。 「はい。じゃぁ…ほんといいんですか奢ってもらって」 「もちろん」 会計しながら話す。 「まことくんは遠慮しそうな気もするけど、ご飯作るのが面倒だったりお金がなかったらいつでもうちに泊まってってたくさん食べてってね。一人暮らしだって聞いたし。香澄も喜ぶよ」 「ありがとうございます。機会があれば」 丁寧に「ごちそうさまです」って言って僕に頭を下げる、わかりやすい愛想はそんなにないけどどこも無礼じゃない…躾の行き届いた子?っていうのかな…?いや、この年齢ならもう躾とかってことじゃないのかな…。
香澄と絢は向こうの車で帰ったみたいで、ロールスは駐車場でいい子に待ってたから後部座席にまことくんを乗せる。 僕が持ってたまことくんの荷物も乗せて、その横に食料を乗せた。 ふと思いついて運転席からバックミラー越しに提案する。 「今日はうちに泊まっていったら?今夜は香澄も絢のところに泊まるみたいだから僕も家に一人だし。おいしい晩ごはん作るよ」 さっき香澄と絢から連絡が来てたのを見た。僕一人だとちょっと寂しい。 「いや、さすがにそれは…帰って荷ほどきとかもしたいんで」 「そっか」 今まではずっと留学先で絢と同室だったみたいだし、急に一人の部屋に戻って一人で寝起きするのも寂しいんじゃないかなと思ったんだけど、一人のほうが落ち着くし静かでいいって場合もあるし、これも無理強いはできないな。 「じゃあせめて家まで送っていこう」 そこから先はまことくんのナビで一緒にまことくんの下宿までいく。 車の運転はなるべく安全運転で。 後ろのまことくんに話しかける「そのキーホルダー、絢からもらった?」 荷物についてたかいじゅうくん。僕と香澄がお守りに渡したものを他の人に渡すなんてよっぽどだ。 まことくんは「借りてるだけで返します。それも何度も断ったんですけど」って言ってる。相当絢が食い下がったな。お守り、自分よりまことくんに持っててほしかったのかな。
まことくんの下宿についたら、車から荷物を持って降りる彼に、カフェで受け取った大きな袋を運転席から差し出す。 「これ、さっきのお店のメニューで日もちしそうなやつをテイクアウトしといたんだけど…疲れてるかなと思って、数日は料理しなくていいように」 慌てて付け足す。 「アレルギーとかあったり食べきれなさそうだったらこのまま僕が持って帰るよ」 「あーありがとうございます…なんか色々してもらって」 絢を呼べばぜんぶ処理できる気はするけど、絢ももしかしたら今頃はしゃぎすぎて熱出してるかも。 まことくんは袋の中身を確認して「助かります。いただきます。ありがとうございました」って綺麗にお辞儀した。 背筋もいいけどお辞儀の仕方が綺麗なだけじゃない、茶道じゃない…何か武道をやってたのかな。 「役に立ちそうならよかった。それじゃあ、お疲れさま。留学先から絢を無事に帰してくれてありがとう。おやすみ」 運転席の窓を閉めて車を出す。
聞きたいことが聞けたのとはちょっと違ったけど、それより当初の目的は達成できてる気がする。 最初はたしか香澄の話題に頻出していた、名前だけの存在だった”まこと”くんに、実体が伴い、造形が伴い、存在感が伴い、今日ようやく僕なりの像が得られた。 これからそこに少しずつ違うものが追加されていったらいいな。
香澄視点 続き
0 notes
artetpensee · 9 months
Text
『君たちはどう生きるか』
Tumblr media
全てが謎なまま上映開始した『君たちはどう生きるか』ですが、『千と千尋の神隠し』以上のハイスペースで観客を動員していると聞いて驚いています。
徹底的なネタバレ対策が講じられた本作を、「ネタバレされる前に観たい」という人が多いのでしょうか。
私もそのうちの1人で、上映開始5日後に観てきました。そして自分でも不思議なのですが、初めてジブリ映画で涙が出たのです。
アニメーションの美しさ
あまりに当然のことでつい言及し忘れてしまいそうなので敢えてはじめに書きますが、私が感動した理由の1つはアニメーションの美しさです。
冒頭で主人公・眞人が階段を移動するときの描写や、建物に燃え移った炎の躍動感はそれだけでも観客に「映画を観に来て良かった」と思わせるでしょう。
冒頭部分を除くと、監督の若かりし頃の作品で見られるような、誇張された迫力あるアクションは本作ではあまり見られません。
しかし、コップで水を飲む動作、弓を射る動作、船を漕ぎ出す動作、パンにバターを塗る動作など、人が深く考えずに普段から行っている動作が、アニメーション表現のテンプレートを用いることなく極めて写実的に描出されていることで、「動作の美しさ」に対する純粋な感動を覚えます。
アニメにありがちな相槌や独り言のような台詞が一切排除されている点も、この動作の写実性を補強していると思います。
背景美術も非常に綺麗でした。
パラレルワールドに存在する墓の島には、ベックリンの絵画『死の島』を想起させる黒々とした巨大な杉がそびえ立ち、中央には先史時代の支石墓のようなものが鎮座していました。
実在する美術が組み合わされた墓の島は、死の恐ろしさを強く感じさせながらも人を引き込むような魅力を併せ持っており、眞人を迷い込ませる説得力がありました。
このように監督の頭の中にストックされているモチーフが見事に再構築されており、「ジブリの世界」を十分に満喫することができました。
眞人の成長の物語
物語の柱となるのが、主人公・眞人の成長です。タイトルである『君たちはどう生きるか』という問いに対する答えを眞人が見つけていく物語だと捉えることも可能でしょう。
生と死の間の世界で命の偉大さに触れ、少女時代の母と冒険を繰り広げることで精神的な成長を果たす眞人は本作品の見どころの1つだと感じています。
主人公が直面する「生」と「死」の存在
先述の通り、物語の冒頭シーンの迫力は、多くの観客に強烈な印象を残すことだろうと思います。
母が入院する病院の火事の知らせを聞いた主人公・眞人が獣のように階段を駆け上がり、人混みを掻き分けて家事現場に向かうシーンです。炎の描写はビデオ映像を見る以上に肉眼で見るそれに近く、母の「死」を眞人にも観客にも強烈に刻みつける場面でした。
次の場面では数年の時が流れ、眞人は父の再婚相手であるナツコと出会います。
ナツコはすでに夫との間の子を宿していました。ナツコは自己紹介もそこそこに眞人の手を取り、自らの腹を触らせます。
父が経営している飛行機工場とともに疎開してきた眞人は、ナツコの実家に暮らすことになります。
母が炎の中に消える悪夢を見て、夜中に部屋からこっそりと起き出した眞人は、仕事から帰ってきた父と出迎えたナツコが深いキスをかわしているところを目撃します。眞人はそれがどういう意味なのか分からないほど子供ではなく、しかしナツコににこやかに接することができるほど大人でもありませんでした。
眞人はナツコとのやり取りでは礼儀正しいながらも必要最低限の会話のみに留め、今は亡き実母の存在を求めつづけているように見えました。
母の「死」で頭がいっぱいだった眞人は、継母の出現によって「性」に限りなく近いところにある「生」を意識し始めることになります。
ジブリの世界で描かれる「命の営みの尊さ」
パラレルワールドに引き込まれたナツコを追って眞人がたどり着いたのは、現実世界の "下"にあると言われる、生と死の間にあるような世界でした。
そこで窮地に立たされた眞人を救ったのは、死の世界に住むキリコという女性でした。その世界の構成員のほとんどは幻か実体を持たない生命体で、殺生ができるのは自分だけなのだとキリコは眞人に話します。
眞人はキリコとともに魚を獲り、生命体に分け与えた残りを調理して食べ、眠ります。
食事や睡眠など人の生活の根幹を成す部分が丁寧に描かれていた場面です。また、それまでは他人に心を開かなかった眞人の表情が一気に豊かになる場面でもあり、個人的にとても心に残りました。
眞人がキリコの家のテラスに出ると、まるでサンゴの産卵のように、白い風船のような生命体が夜空いっぱいに昇っていました。キリコによるとこの生命体たちが "上" に行くことで、現実世界で新たな命として誕生するのだそうです。
数えきれないほどの生命体たちを見ているとき、眞人の脳裏にはナツコの赤子の存在があったことでしょう。
その幻想的な光景は、命の営みもまた生活の根幹を成す要素であり、命は尊いということを眞人と観客に語りかけているようでした。
亡き母への未練との訣別
序盤の眞人は母親のことを非常に恋しがっており、フロイトのエディプス・コンプレックスをも想起させました。
生と死の間の世界を出発した後、眞人はパラレルワールドでようやく母親に出会えるのですが、母は母でも少女時代の母だったのです。
実は母親も若い頃に眞人同様パラレルワールドに迷い込んだことがあり、そのときの母親と現在の眞人が時空を飛び越えてパラレルワールドで出会っている、ということになります。
「ヒミ」と名乗る少女時代の母と眞人はナツコを探すための冒険に出ます。
冒険の過程で眞人とヒミは、親子の愛情とは別に同年代の友達同士のような絆を築いていきます。
これによって眞人は「母親」という自ら理想化してしまっていた存在を俯瞰して見ることができるようになり、ナツコのことを新しい自分の母親として受け入れます。そして、今までは同年代の友達を作らず距離を置いていましたが、友達を作るために心の扉を開ける決心をします。
この物語をエディプス・コンプレックスになぞらえるならば、エディプス・コンプレックスは定義上では男性の近親相姦的願望は父親によって抑圧されるか同年代の異性の他人を関係を持つことで解消されるとされていますが、
「実の母親が同年代の友人となることでコンプレックスと訣別する」
という回答は斬新で面白いと思いました。
原始的な感情としての「平和の希求」
私が『君たちはどう生きるか』に最も心を動かされたポイントは、
「善い人でありたい」
「平和な世界を作りたい」
という極めてピュアなメッセージ
です。
眞人が迷い込んだ���ラレルワールドは、自分の母の大叔父が造った世界であったということが判明します。
天才の大叔父が造り上げた世界で、眞人は生の尊さや自然の美しさを目にします。同時に、パラレルワールドの住民の僅かな「悪意」によって、パラレルワールドの均衡が崩れ世界が瓦解する瞬間にも立ち合います。
そして、自分が元いた世界では世界中を巻き込んだ戦争が繰り広げられています。
以上の経験を踏まえた上で、眞人は大叔父との問答の中で「平和を目指すこと」「そのために自信が悪意を持たないこと」を誓うのです。
このシーンを見たとき、私は自身の奥底にあった何か強い感情が揺さぶられるのを感じました。
「平和」という言葉を口にするの���、大抵は太平洋戦争を振り返るまさに今の時期や、ニュースで遠い国の争いを見たときや、ミサなどで祈りを捧げるときなどで、今まで平和とは理性で以て考え話し合う対象であると捉えていました。
しかし、眞人の言葉によって引き摺り出された私の感情は、理性とは程遠い原始的なものでした。
安心していたい、大切な人を守りたい、未来を守りたい、そのために悪いことはしたくない……誰しもが持っているこのような強い気持ちに、今まで経験してきたどんな平和学習などよりもこの作品が鋭く迫ってきたのは、戦争の時代を知っている監督の気持ちの強さと表現力の賜物だと思います。
誰しもが持っている平和を望む本能に語りかけてくる本作品は、多くの人の涙を誘うのではないかと思います。
終わりに
『君たちはどう生きるか』ぜひ観てください。動員数を増やして、監督に次回作を作らせてください。
1 note · View note
buxiangshuorenhehua · 2 years
Text
5 愛ってなんだろう?愛とどう向き合うか?
恋愛は人生経験の重要な一部です。誰もがそれに向き合い、対処し、実際の体験の中で学び、反省しなければならないのです
5.0 この講座の目的は、愛について語ることです。実際に愛に出会う前に、私たち一人ひとりは、大衆恋愛(小説、映画、連載)、ポップソングなどを通じて、愛に対するあらゆる理解、期待、ビジョン、想像を形成しています。偏った恋愛観は、誤解を招き、真実の愛を逃し、生涯後悔し、ひどい結末(ひどい恋人)になることもあります。本講座では、恋愛と向き合うための前向きな姿勢と正しい概念を提供し、真実の愛を逃した後悔を軽減することを期待しています。マイナス面:テロリストの恋人を作らないように、または自分がテロリストの恋人にならないように!
5.1恋愛とは、誰もが自分の「倍」を追い求め、「もう半分」(=一緒)と一緒にいることを求めることです パートナーがいなければ、人生は不完全なものに感じられるでしょう。→西洋の言語における "symbol "の本来の意味:ある物を二つに分け、二人がそれぞれ半分ずつ持ち、将来再会することを "Keepsake "とみなす "心を一つにした結婚指輪 "はその典型的な例です。したがって、恋人たちはしばしばお互いの感情関係を目撃できる様々な "シンボル "を気にします5.11 愛とセックスは基本的に密接な関係にあるが、同一視することはできない。愛もセックスも、人間の本性にある性別の区別(男/女)に由来するものです。愛とセックスの関係においてのみ、私たちは区別することができます。
愛にはセックスと超越が含まれています。セックスは肉体の組み合わせ、愛は魂や魂の組み合わせです → 性行為そのものが、愛を超えることがある。常識的に考えて、愛する人とのセックスが一番オーガズムに達しやすいはずですが、必ずしもそうではありません
愛は排他的で「一夫一婦制」に従う(キリスト教)。セックスは「一夫多妻制」。ある意味、性欲は食欲と似ていて、新しいものが好きで古いものが嫌いという傾向があります
男性と女性では、セックスに対する考え方が異なる。女性は愛とセックスを両立させる傾向がある。男性も愛とセックスの一体化を追求しますが、愛の対象がない場合は、性的な満足を追求するしかないのです。セックスは男性にとって必要な欲求であるが、女性にとっては必要ない。→ 男性と女性では欲求も傾向も違うので、お互いに理解し合うことが必要です 現代流行の「エロ文章」「ジェンダー文章」は、誤解を招くことが多い。誰もが自分の体験で検証できる!
5.12 人生の実体験の中で、愛は偶然の出会いの喜びと不可解さから生まれる(歌集:「野に雑草あり」):「美しい人がいると、澄んで優雅な気持ちになるものです。偶然の出会いは、私の願いです。" 歌集にある「準備」。"夕べは何だろう?この最愛の人を見てください。西太后、西太后、このような最愛の人を!」。夕べはどうした?この出会いを見てください。息子よ、息子よ、こんな出会いを!」、スピノザ:愛とは、私に幸福をもたらす対象が現れること。だから、この対象が消えても、私はこの対象を絶えず想像の中で再現する=行方不明と恋煩い→緑のスカートを思い出し、どこまでも香る草を憐れむ
5.121 いわゆる「出会い」とは、必ずしも二人が実際に初めて会うということではなく、二人が初めてお互いを感じ、一目惚れする瞬間を指すのです 二人は長い間お互いを知っていたのに、ある瞬間に突然「一目惚れ」してしまうことがあります。
恋は、出会った時の言いようのない喜びと、アカシアの余韻から生まれる。愛とは、出会うことの言いようのない喜びにほかならない(恋人たちの出会いは、すべて最初の出会いのようなものだ。古い北京の歌:君を見て笑え!) そして、会えない時の寂しさ、欠伸。行方不明は一種の甘美で優しいものであり(緑のスカートを思い出し、あちこちの香草を哀れむ)、また別れの耐え難い痛みでもある(一日の行方不明は秋の三日のようなものだ)。非常に強い感情的な情熱として、愛は、会えない時の寂しさや苦しみの中から生まれるのです あなたが誰かを愛しているかどうかテストしてみましょう。"一日に何回会えなくなるか?" もしあなたがお互いを全く欲していないなら、それはあなたがお互いを全く愛していないことを意味します。愛とは、欠けること、恋しいことから生まれるのです 二人は「一緒にいたい」と思うようになります。まず、お互いがいないと、まるで生きていけないような、退屈でつまらないような、そんな人生が突然とても辛く悲しくなることに気づきます。
5.13 フランスの哲学者バディウの恋愛論:恋愛とは、主観的な個人的感情欲求ではなく、ある状況における二つのトラックの偶然の出会いから生じる「真実」の過程である。この純粋に遭遇した「出来事」(エンカウンター)は、男性の立場と女性の立場という「二つの立場の分離選択」を構成する。恋愛とは、純粋に遭遇した「出来事」によって形成される「二重」の「性」化過程である。恋愛とは、この二つの立場を出来事後に遡及的に命名し宣言することであり、これが「愛の宣言」である。二つの立場の宣言の命名と確定確認としての「愛している」! 真実」のプロセスとして、愛は「出来事」との純粋な出会いの後の「宣言」の「忠誠」のプロセスである!
5.131 張愛玲 "愛"
…それだけである。
その後、女は親族に拉致され、妾として他県に売られ、何度も転売されたという。数え切れないほどのスリリングな嵐の末に。年をとっても、彼女は昔のことを思い出していた。あの春の夜、裏口の桃の木の下にいた若者のことを、彼女はよく話していた。
何千人もの人の中から出会う人。何千年もかけて、果てしない時間の荒野の中で、たまたま追いつく。他に言うことはない。"ああ、あなたもここにいるのですか "とそっと尋ねるのだ。
5.132 男性の立場=恋人、女性の立場=愛する対象→「愛する/愛される」関係、「追いかける/追いかけられる」関係。男性の立場と女性の立場の選択は、必ずしも両者の生理的性別とは関係ないが、多くの場合、両者の生理的性別と恋愛の過程で生じる二つの「性別の立場」は重なり合うことが多い。
このモデルは、同性愛も対象としている。恋愛においては、同性愛もまた、身体的な性別を超えた二つの「ジェンダー的な立場」の選択に入り込む。したがって、「恋愛は本質的に異性愛である」というbadiwuの主張が理解できる。恋愛においては、異性愛・同性愛にかかわらず、2つの異なる人格の立場の分離と選択に入らなければならない!) この点で、我々は二つの興味深い例を思い浮かべる。プルーストの「時間の経過の想起」とロラン・バルトの「恋人たちの会話」である。周知のように、プルーストとバルトは同性愛者であるが、「回想」と「恋人たちの会話」を読むと、プルーストとバルトが描く愛の状態に、異性愛者との違いはほとんど感じられない!?
5.14 愛は相手の欠落・痛みから生じる→「もう半分」を失う喪失の痛み→もう半分=ジェンダーの立場→「最愛の人=もう半分を失う」という愛の喪失から愛が生じる。
愛は不可解なもの=××が私に触れて痛がった。それが何であるかもわからない。流行のラブソングでは 私たちは毎日、繰り返し唱和を聞くことができる:愛は一種のトラウマであり、心痛の感情である。
カフカはこう書いている:愛とは、あなたが短剣であり、私はそれを私の傷に注ぐことである。
恋人の存在とは、生まれる前に心に刻まれた名もなきトラウマを自覚することである。
生まれる前に残された名もなきトラウマは、どこから、どのようにして生まれたのだろうか。厳密に言えば、それは説明できないのです プラトンの『恋愛神話』に戻るのみ。
プラトンの『饗宴』には、喜劇俳優アリストファネの口を通して、ほとんど不条理な恋愛神話が語られている。太古の昔、結合二重丸の複合人間がいて、強くて力があり、大きな功績をあげたという。そのため、ゼウス神を怒らせ、半分に切るようにと罰せられた。半分になった複合人間は、もう半分を失ったからといって、お茶やご飯のことは考えない。彼は一生、自分(彼女)の二重人格を探しているのだ。半分が男と女なら異性愛者に、半分が男なら同性愛者に、半分が女ならレズビアンになる。愛の傷跡はどこから来るのだろう。天の神ゼウスは、今日の結合子手術と同じように、私ともう片方の半身を分けた。もう片方の半身との別れは、母親のへその緒との別れより古い別れである。私は生まれた瞬間に母親から切り離されましたが、もう片方の半身とは生まれる前から切り離されていたのです。
恋人はみな、半分に切断された複合人間であり、ちょうど生まれつき不完全な個体のように、前世の分割傷が体に残り、失われた半分を探して現世をさまよっているのである。しかし、出会った人が本当のパートナーだと、どうすればわかるのだろう。それを確かめるには、その対象が私の心の奥底にある前世の傷に触れたかどうかを確かめるしかない。しかし、ある物体が私の心の奥底にある前世の傷に触れることができるのは、バートが述べたように、彼女が前世の記憶のような「既視感」を呼び起こすからである。"彼女のイメージは彷徨える幻影のようで、私の古い創造物を傷つける" しかし、いわゆる "既視感 "や "前世の記憶 "は、世界と切り離されたような空論に過ぎず、決して確認・検証できるものではありません。どんな通行人でも、私の傷口に当たるだけで、「似ているところがあれば、それは全くの偶然」としか言いようがないのだ。
したがって、恋人たちの生涯を通じた彷徨と探索は、ナンセンスな冗談に過ぎない。連続する出会いの中で、異なる出会いの対象が不可解にぶつかり合い、傷口に触れ、それは耐え難い苦痛を伴うが、その出会いの対象が本当の「もう一人の自分」であるかどうかは、決して証明・確認できないのである。5.15 恋愛に対する前向きな姿勢と考え方
(1)恋がやってきたら、真摯に勇気をもって向き合うこと
恋の訪れを証明する方法 → 会えたら大喜び! 会えなくなると、意味もなく寂しくなったり、苦しくなったりする。一度、このような淋しさや心細さを感じさせてくれる人がいたら、真摯に勇気をもって向き合い、親しくなったり知り合ったりするきっかけを探してみて、この恋の気持ち(会える喜び、淋しさの苦しみ)を確認しなければなりませんね
(2) 誰かを好きになる自分を発見する方法は、2つしかない。1、 相手を自分に惚れさせる方法を探す(いわゆる「追いかける」)。2、愛し合うことをやめる方法を見つける。
スピノザは、"愛する人を幸せにできると想像するのは栄光である "と言った。→ お互いに幸せをもたらすことができる。もちろん、相手にも好かれ、惚れられる → 相手を動かす。
自分を磨く、自分を良くする→お互いに好かれるに値する。人を好きになることは、自分を磨��、苦労し、進歩するための前向きな原動力となるはずです
(3)自分が愛される側の場合、どう向き合えばいいのか?
相手に気持ちがないのであれば、直接、はっきりと断るべきです 直接、「気持ちがない」と言えばいいのです。今は勉強に専念しているので、気持ちのことは話したくないなど、理由をつけてごまかすのはやめましょう。相手に騙された、騙されたと思わせてしまうと、「テロリストの恋人」を作ってしまう可能性があります。
相手が迷惑していないと感じたら、相手に機会を与え、自分もアプローチして理解し合う可能性を持たせたほうがいいかもしれませんね
提案:相手を否定するために、多少の細かいことや考え方にこだわり過ぎないこと!
(4) 恋愛の出会いは偶然と偶発のものであることを認識する
恋愛は、二つの軌道の偶発的な出会いであり、二つの立場を形成するものである。出会いの偶然性を認識し、「運命の出会い」「遺伝子はあなたを愛していると決めている」といったロマンチックな妄想を断ち切ること。たとえ非常にマッチした二人であっても、それは天国で作られた一対のものであって、出会うチャンスがない、あるいは出会うタイミングが悪いというのは無益なことである。"真珠を返し、涙を流す。結婚前に出会えないのは嫌だ "ということです。例:映画「ゴーレフト、ゴーライト」。映画には時空を超えたラブストーリーが多く、現実にドキドキするような相手に出会える確率が非常に低いことを証明している。ウォン・カーウァイ監督の映画「堕天使」。"よく会うけど、知りたくない人 "もいる!」。
恋愛の出会いは非常に偶発的で、魅力的な対象に出会える確率は非常に低いことを自覚すること。張愛玲が言ったように、"数千人の中から出会う人は、数千年という時間の無限の荒野の中で、偶然に追いつき、早くもなく、少しも遅くもない "のである。すべての出会いが一期一会であることは、十分に肯定される。一度逃したら二度とないのだから、よく掴んで大切にし、一生懸命に追い求めれば、将来後悔することはないだろう。フランス語の時制には、"あの時ああしなければ、こうなっていたかもしれない "という「過去仮説」のようなものがある。"これを知っていたなら、なぜ始めたのか "ということわざに似ています。あるフランス語の先生は、「過去仮説」とは、Le Temps Du regretが後悔する時のことだと言っていました。
人生で好きな対象に出会える確率は非常に低く、相手がたまたま自分を好きになってくれる確率はさらに低く、宝くじの一等が当たる確率に匹敵するのではないでしょうか 恋愛の出会いでは、自分が好きな対象に出会っても、相手は自分のことを好きになってくれないのが普通です。一目惚れというのは、稀に見る異常事態なのです
卞氏麟の破戒章、1935年
明るい月があなたの窓を飾った
あなたは他人の夢を飾った
"私は月を見るつもりだったが、月は溝を照らす"→私は月のようにあなたに注意を払い、あなたを恋しく思うが、あなたは他の人に注意を払い、他の人を恋しく思う。→ 人生の感情的な出会いにおいて、「私は彼女が好きで、彼女は他の人が好き」というのは、普通の状況と考えるべきで、あまり悲しく不公平になる必要はないのです。宝くじを買うのと同じで、当たらないのが普通。
人生において、本当に好きなモノに出会えることは一種の幸せです。このチャンスを大切に、勇気を出して追いかけてみましょう。本当に相手を好きになれないのであれば、あまり無理をする必要はない。本当に努力したのなら、悔いはないはずだ。→ 自分が誰かを好きになるには、2つの方法しかない。1、相手を自分に惚れさせる方法を探す。2、お互いに好きでなくなる方法を探す。
(5) 真の愛は、対等な関係でなければならない。本当に好きなものであれば、猫や犬が好きな人のように、必ず自分の同類、友人、親族と同じように考えるはずです。愛する相手を自分よりも大切な存在とさえ考えるようになる。しかし、これは相手が主や王であり、自分は奴隷や大臣であるということではありません。真の愛は、対等な関係でなければなりません。恋する両者は、人種や階級、富や貴賤といった不平等な関係を越えなければならない。(これは、金持ちの少年や娘が貧しい少年や娘と恋に落ちるという、多くの大衆的な恋愛小説のドラマチックなテーマでもある。インド映画はほとんどカーストを超えたラブストーリーばかりだ)。
恋愛において、一方が劣等感を抱き、相手にふさわしくないと感じていたり、プライドが高く、優越感に浸って相手に施しをしていたりすると、そうした不平等な恋愛関係は、必然的に双方を歪め、傷つけてしまうことになる。
愛の平等は、実質的な平等な関係である。恋愛では、愛される側と追いかけられる側の行動が異なることが多い
0 notes
biken1946 · 2 years
Text
美研メールニュース No.1(2022.4)
美研メールニュースNo.1をお届けいたします。美研通信はNo.57で一旦お休みをいただき3年後にNo.58は再開いたします。このメールニュースはオンライン参加・不参加にかかわらず、休所扱いとなっている特待生以下メール登録者全員に配信いたします。美研通信は隔月でしたが、メールニュースは毎月の配信です。改修の情報や改修後の研究所の形、オンライン講座の情報、ジョイントセミナーのお知らせ、皆さんの活動報告、公募展や個展、グループ展の予告など細かに載せたいと思います。皆さんの活動報告・予告は研究所事務所にお知らせください。
Tumblr media
(片付けの終わった誰もいない教室)
第403回コンクール
第403回コンクールが3月7日(月)~12日(土)に実施されました。前期18名/後期22名/人体27名/合計67名の提出。
○研究生の在籍詳細(2022/3月時点) 前期29名 後期31名 人体32名 絵画部 9名 彫塑部 10名 合計111名
コンクール出品数は素描科在籍者92名の72.8% 現在の研究所での最後のコンクールとなりました。多くの合格を念じていましたが、研究所の伝統的な厳しいデッサンに対する見方はやはり崩せず、前期1人という結果になりました。ただこの現場では最後ですが、3年後のリニューアルからコンクールは復活いたします。
第34回ジョイントセミナー(写生会)
第34回ジョイントセミナー(写生会)は大阪市中央公会堂にて開催されました。38名と多数の参加となりました。
Tumblr media
「4月16日の写生会、天気になり良かったです。私も外での写生会はひさしぶりでした。やっぱり、外での写生会はいいですネ。いつも教室では、デッサンがどうのこうのと言われるのですが、そんなのどうでもいい。うまく描けなくてもいい。その日、その場の風をかんじましょう。絵を描く楽しみを味わえればいい、又みんなに会える日まで。」 (担当講師 定森 満 記)
お知らせ
●美術館企画「親子で楽しむ春のスケッチ大会」  5月3日(火・祝)に開催します。今回は親子限定での実施となります。  担当講師は中井英夫。 ●第35回ジョイントセミナー  『絵画基礎講座』を開催いたします。担当講師は森井宏青。
  7月5日(火) 14:00~16:00(受付/13:30~)  美術館地下展覧会室 参加費・お一人/1,500円  講義『古典絵画技法・材料のすべて』  油彩・テンペラ・フレスコからアクリル絵具まで。西洋��画の様々な技法や材料についての基礎的な知識をわかりやすく解説いたします。(森井宏青)           
申込はメールまたは電話で、6月1日(水)~30日(木)の間、受け付けます。定員は30名になり次第締め切ります。 ジョイントセミナーは8月に人物クロッキー、9月に人物固定ポーズを予定しています。
個展及びグループ展・公募展報告
●個展・グループ展 ◆アートと人生 愛そして宇宙 3月14日(月)~26日(土) ギャラリー菊/吉野芳子 ◆デッサン展 3月16日(水)~20日(日) 藤井寺美術サロン/松本かよこ ◆高槻阪急トリプル個展 6月29日(水)~7月5日(火) 高槻阪急3Fイベントスペース/羽根佐智子 ◆第9回うちょう展 5月25日(水)~31日(火) ホルベインギャラリー/花川孝二/井上勝司/森優子/木村信治/村田千代/久保美知子/牧草洋一/佐々木シュウジ ●公募展・コンクール ◆第78回関西水彩画展 3月8日(火)~13日(日)大阪市立美術館/梅嶋妙子/渋谷晴子/田村加津子/中野裕子/細井聡子/森優子/出口尚子 ◆第50回人展 3月8日(火)~13日(日)大阪市立美術館/東本光司/木村信治/鹿海由美子/時岡道代/森優子/山本君枝 ◆第27回アートムーブコンクール 5月10日(火)~15日(日) 大阪府立江之子島文化芸術創造センター/羽根佐智子
◆第66回新槐樹社展 兵庫展 3月23日(水)~27日(日) 兵庫県立美術館原田の森ギャラリー・京都展  5月17日(火)~27日(日) 京都市美術館別館/西﨑昌子 ◆第117回太平洋展 5月18日(水)~30日(月) 国立新美術館/池内正子
研究所の今
冒頭の写真、今の教室の記録です。イーゼルや椅子を片付け、何もなく寂しい空間です。他の教室も写真でお見せしたいところです。ここで75年の熱い思いが籠って時を経ていたと思いますと、何もない空間ですが、色々な想いが凝縮された濃い密度が残像として迫ります。
片付けたイーゼルや椅子やカルトンなどは、3年後3Fに移動するもの以外は廃棄する予定です。5月9日(月)・13日(金)の各11:00~12:00/13:00~14:00に研究生の方で欲しい方がおられればイーゼルなどを譲渡したいと思います。取りに来ていただける方限定です。美術館には駐車できません。石膏像については3Fに移動するもの以外は希望の方に抽選で譲渡が決まりましたが、梱包・運送は富島運輸に委託しています。イーゼルや石膏像についてご不明な点は研究所までご連絡ください。4月から始まりましたオンライン授業は現在多数寄せられている状況です。お一人の添削に当たる時間は平均して1時間を超えています。絵画作品批評などの場合はお一人5分なんて申し訳ない状況でしたが、今回の要時間は丁寧に伝えるためには必要な時間だと思います。いろんな作品が送信され、それぞれに個性があり、創造性を目的にしたガイダンスの課題が展開されています。それらの作品を皆さんに見ていただく場の設定はどうすべきか、現在進行中で議論しています。事前にお渡ししたオンラインの課題は、今年度が課題をベースにしたデッサン、次年度が提出されたデッサンをエスキースにし、3年目はそれぞれの画材で作品制作を、と考えています。このカリキュラムは、3年間の休所を無駄にしないため、また研究所の学習の結果にある制作への道を身につけてもらうために考案いたしました。
研究所のコンセプトは専門家育成です。デッサンのためのデッサンを目的にした機関ではありません。ましてや行く場所がないからと、行く場所でもありません。行く行くは研究所のすべての過程を修了して一人の孤独な制作の現場に入っていかねばなりません。まず「何を描く」から悩み、次に「どう描くか」を模索します。研究所では何を描くかの悩みはすでに準備されているので必要なく、どう描くかもその箱の中で考えれば済みました。オンラインの課題はWHATからHOWへ、一から自分で考える、今後の制作の現場に入るためのトライアルの3年間です。故に3年間の継続を念頭に置いています。疾病などのやむを得ない理由以外の退会は認められないとしたのは、継続に意味があると思ったからです。しかしそもそも魅力ある対応でなければ皆さんも興味を失うであろうことは自覚しています。マンネリにならず、毎回新鮮に取り組んでいく努力が我々に求められると思います。もし受講の方々に不満があれば改善し、また希望があればお伝えください。検討していきます。
「お知らせ」でジョイントセミナーの予定を記しました。開催は年数回の予定ですが、これに研究所展も加えていくとかなりの割合で皆さんとお顔を合わせることになります。情報収集の場としてセミナーなど、活用していただければと思います。研究所展は会場を変えて開催します。号数や点数など、詳細については来月以降のニュースでお知らせいたします。
編集後記
研究所の教室はほぼ何もない状態に片付き、これで石膏像がなくなると本当に何もない。寂しい限りですが、オンラインの添削作業、メールニュース(毎月送信)、様々な雑用、何しろ初めてのことばかりで戸惑うばかりで忙しい日々です。この分で行くと、こりゃ3年はあっという間、と感じています。(美研通信編集 中井英夫)
1 note · View note
cdne201173 · 2 years
Text
1月17日応用演習(CD)第15回
今回の授業ではおもちゃに対する講評とグループでの振り返りを行いました!
これまでのプロセスを振り返ったり、今までの写真がたくさん���まったムービーを見ると、こ��4ヶ月間はとてもあっという間に感じたのに中身の詰まった特別な時間だったなと改めて思います。全ての授業を終えてみても、他の授業と同じ回数だったはずなのに時間の重みが違うというか、なんだか不思議な気持ちです。
途中から面倒に感じてサボってしまった時期もあったけど、このタンブラーを描く習慣もこの授業に真剣に向き合うきっかけになった要素の一つだったのではないかと思います。
それぞれのグループに対する講評は、同じ教室で頑張ってきたのを知っているからこそ他のグループのものでも聞いていて納得したり、改めてみんなが楽しく学べるおもちゃ作りの難しさを学んだりしました。実際に高い評価をもらっていたグループの体験の様子は、ユーザテストや発表当日に見ていても子供たちが楽しそうで賑わっていたように感じたので、人を惹きつけるおもちゃがどんなものなのかまたひとつ学んだように思います。自分たちのグループの評価もまだまだ伸ばせる部分はあったけど、ずっとそばで見守ってくれたり、親身になってアドバイスや意見をくれた先生方に頑張った部分を褒めてもらえたのが嬉しかったです。
普段のグループを離れて行った一つ目の振り返りもいつもとは違った環境とメンバーだったので新鮮だったし、それぞれ違う内容のおもちゃを作っていたけど目指すところは同じだったせいか考えることが似ていたり共感できる部分が多かったように思います。
そして普段のグループに戻って二つ目の振り返りを行いました。私自身はあまり伝えたいことが上手くまとまらなくて何が言いたいのかよく分からなかったと思うし、記事にもしにくいような感じだったと思うので、終わってから少し反省というか申し訳なさを感じていたのですが、他のみんなは言葉にするのがすごく上手だったのでそれぞれの話を聞いていて改めてこのグループで良かったなと思えたし、最後に振り返りを通してみんなの考えを知れて嬉しかったです!
グループでのおもちゃ作りが始まってから振り返ってみると、企画案がまとまっていざ試してみたら飛ぶはずの袋が全然飛ばなかったり、この体験を通して子供たちに学んでもらうにはどうしたらいいか悩んだり、子供たちが能動的に体験できるような仕組みや工夫を考えたり、毎週同じ日に集まって長時間作業したり、発表当日にメンバーが3人になってしまったり、全てが思い通りに上手く行ったわけではないけれど、考えたり悩んだり失敗した時間も全部含めて良かったと思えるような、濃くて中身の詰まった時間だったと感じます。
発表当日は人数が減ってしまったことで不安に思う部分もあったけれど、その場にいなかったメンバーの気持ちや今までの頑張りも背負って、自信を持って子供たちを迎えることができました。思った以上に忙しくて休憩が取れなかったり、荷物が重くて筋肉痛になったり、今まで見たことないくらいに気球が飛びすぎてしまったりもしたけど、体験を通して子供たちが気球が飛んで喜んでくれたり、親御さんと一緒になぜ袋が飛ぶのか考えて学んでくれている姿を見たり、撮ってくださった素敵な写真を見ると達成感を感じると共に、色んな感情で胸がいっぱいになりました!
Dグループのみんなはもちろん、先生方や同じ教室にいた他のグループのみんなも含めてこのメンバーでコンテンツデザインの応用演習を無事終えることができて良かったです!プログラム説明会でも言われたように決して楽ではなかったけど、とても楽しくてCDを選んで良かったなと思います。今までありがとうございました!
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
_______________________________________________
【座談会テーマ】
演習を通して自分はどう変わったか?何に気がつけるようになったか?
他者とのインタラクションやコミュニケーションにどのような変化があったか?
自分たちの成果を振り返って想定していた目標を達成できたか?
上山
まずみなさんお疲れ様でした。自分自身の変化は自分で気づくのは難しいから詳しくはわからないけど、何が優れているのかを図る物差しが増えたと感じた。今までは、デザインのルールや教科書や本に書かれているような、いろんなルールで美しいものや正しいものは知っていたけど、子供達の前にすると、それが通じなくなったり、それがベストではないことがあるなと思った。
CDだからっていうかネ学だからっていうもあると思うんだけど、高校生の時はリーダーとかになると、自分の意見がそのまま通ってそれで決まっちゃうってことが多くて、だけどネ学の人は芯があって、今回のグループワークでも話したことに対して打ち返してくれるから、ラリーが生まれて良い意味ですんなりいかない話し合いができてすごいいい経験になった。
具体的な目標を設定していなかったので、想定していた目標を達成するとかは無かったんだけど、最終日、休む暇もなく人が来てくれたということですごい安心しました。それと成果物として、作ったものは、本当によく出来ていたので、頑張った時間は無駄では無かったと感じました。
薬師神
自分自身の変化を見つけるのは難しいんだけど、グループワークがとても好きになったなって思う!去年のグループワークは開始数秒で喧嘩が始まったりとか、前期のグループワークもみんな周り女の子だったりして、グループワークだけど一人で頑張るっていう意識が強かったけど、今回はグループワークを通して協力するってこういうことなんだなっていう、努力する時間を共有するってこういうことなんだなぁって気付くことが多かった。それと提出する作品も自分のためじゃなくて、単位とかのためじゃなくて、グループのためにやるっていう責任感を持ってできた気がする。イラレのレイヤーもまとめられるようになったし!そういう技術面での進化もあったと思います。
てったんも言ってたけど打ち返したくさんあったから楽しかったな。自分の意見だけが採用され続けると、いい気もするけどつまらなくて、今回はラリーがあったり反応があったからそれもその反応はポジティブなもので、すごい喋りやすい空間だった。それと、口だけのレスポンスだけじゃなくて、行動でのレスポンスも多かったのでそれも楽しかった。
自分も目標を明確に立ててなかったんだけど、最初CD始まった時は単位取れればいいやとかやってれば身につくでしょとか受け身の姿勢だったのが、自分達で何かを成し遂げようという姿勢になれたのが目標ではないけど、今振り返ると達成感があるね。でもこの達成は自分だけの達成じゃなくて、周りのメンバーに促進されてできたことだから個人の目標ではない気がするけど最初飛ばなかったものが頑張って飛ぶようになって、それが評価されるっていうのはすごい嬉しかった。最後までやり切れたのも達成的な面で見てもよかったなって思います。あと何より楽しかった。能動的に学習した!って感じがする。
上山
俺は話さなかったけど、技術的な面での成長はあったと思うみんな。当たり前かもしれないけど大事なことだよね、自分を褒めるためにも気付くべきだね。
山本
なんか結構自分は指示待ち人間なんだけど、ここのメンバーはそれぞれずば抜けてできるところがあるから、役割が分かりやすくて、進んでできたっていうのはあるね。それは一番なんか変われたところな気もする。
さっき二人が言ってたみたいにいろんな角度からの意見があって、前期の時は一人が言ったことがそのまま採用されるとかが全然あったけど今回の班になって、こういうたくさんの意見が出てくることが新鮮だったし、こういう意見があるんだって思った。みんなそれぞれ違う方向から意見が出てくるから多種多様ですごい勉強になった。
俺も目標はなかったんだけど想定していた目標というよりも、袋が飛ぶようになるとかの一つ一つの目標が達成できてきて、ステップアップしていって、発表会でユーザーが喜んでいる姿を実際に見て、最終的な制作物としての目標は達成できたのかなって思う。子供が遊んでくれてるのも見るとああいうことあったなとか色々蘇ってきてって感じかな。
沼田
今までのグループワークは結構人見知りしちゃって、全然喋れないしあんまりグループの役に立てなかったけど、今のグループはみんな褒め上手だし、褒めて伸ばしてくれる感じだからイラストもあんまり得意じゃないけど自分のやるべきことが明確だったからすごくやりやすかった。
みんなやるときは真面目にやるけど、雑談もあってそのバランスがとってもよかったって感じる。
思っていたよりも毎週みんなで集まってしっかりやってたから達成感もあるし、みんな頑張ってた。目標達成とかはないけど、みんな自分のやるべきことを理解して頑張ってたと思う。
菅谷
私が今回1番大きく変わったことは、指摘し合うということです。悪いところを指摘するということだけでなく、いいところもちゃんと伝えるということが大事だと気づいて、今まで意見出せなかったのが積極的に話せるようになりました。誰のアイデアであっても、そこのどこがいいのかどこをどう改善したらいいのかを指摘し合う。また、それらをすることでどこを直したらいいのか改善するべき点に気づけるようになりました。
1でも話したように、良いところも悪いところもちゃんと意見を話せるということができるようになりました。また、発表当日は練習をしっかりとしてから行ったわけではないので心配なことが多かった。でも、その場で考えて話して説明するということで相手も自分に合わせたコミュニケーションだからより楽しんでもらえたように感じた。なので、台本通りに行うのより、今回の授業からその場での会話というのが相手にも影響を与えると知れました。
私も目標を達成してなかったからちょっと微妙なところがあるけど、グループみんなで納得のいくものを作れたと思ってます。途中、アイデアがうまく成功しなかったり「こうしたい」ということができなかったり難航することが多くて、でも最後「すごいぞ!」って自信持ったものを作れたので大成功だと思ってます!
6 notes · View notes
megalobox2news · 3 years
Text
Anime News Networkにスタッフインタビューが掲載!
北米最大規模のアニメ紹介サイトAnime News Networkにスタッフインタビューが掲載されました!
ぜひチェックしてみてください!
https://www.animenewsnetwork.com/feature/2021-06-04/discussing-the-socio-politics-of-megalobox-2-nomad-with-you-moriyama-katsuhiko-manabe-and-kensaku-kojima/.173444
記事の日本語訳はこちらです↓↓
『Nomadメガロボクス2』は、メガロボクスの物語を驚くべき新しい方向へと進めました。 ジョーと勇利の運命的な試合から数年後、ジョーは地下ボクシングの試合で戦う放浪者となりました。 ANNは、この予想外の続編がどのようにして生まれたのかについて、監督の森山洋氏、脚本家の真辺克彦氏、そして小嶋健作氏にお話を聞きました。 
 Nomadインタビュー:『Nomadメガロボクス2』ライター陣、及び監督 
                                                          『メガロボクス』の世界に戻ってきました。勝利以来、ジョーには多くの変化がありました。『あしたのジョー』では、ジョーの結末(最期)を曖昧に描いていましたが、『メガロボクス』のジョーは、死の可能性もありましたが切り抜けたようですね。それでも、苦労しています。ジョーの物語を新たな方向へ出発させることにした経緯についてお話しいただけますか? 
【森山】:『メガロボクス』終了後は次回作となる別の企画を考えていたのですがなかなか思うように進まず、同時にプロデューサーから『メガロボクス』の続編を考えてみてはどうかと打診を受けました。前作のラストで物語としては区切りをつけたものの彼らキャラクターの人生があそこで終わったわけではない、勇利に勝利しメガロボクスの頂点に立ったことがジョーの人生の最も輝かしい瞬間であるならその後はどうなるのか。前作では描かなかったものをテーマに据えるのであれば続編をやる意味があるだろうとストーリーを考え始めました。
【真辺】:脚本家チーム含め、監督、プロデューサー全員が続編をつくることは全く考えていませんでした。別のオリジナル企画を進めていたのですが、なかなかうまくいかず、そんな時にメガロボクスが海外で高い評価を受けていることから続編をや��ないかという話があり、もう一度向き合うことになりました。 ただ、全てやり切ったという空っぽの状態からのスタートだったので、どういう物語にするか? 様々なアイデアが出ましたが、これだという確信を持つまでには至りませんでした。打ち合わせが終わるといつも居酒屋で飲みながら話すのですが、そんな中で“許されざる者”になったジョーというキーワードが出ました。監督の森山氏がそれを元に今回のNOMADOのベースになるプロットを用意し、そこから自らの過ちで故郷と家族を失ったジョーの再生を核に物語を構築していきました。メガロボクスの頂点へ駆け上った奇跡の三ヶ月は通過点に過ぎない、生きている限り人生は続くのだという普遍的なテーマは私たち作り手にもフィードバックし、直面している現実や社会から目を背けることなく描こう、という共通認識が私たちに生まれました。その困惑と思考がNOMADOという物語にリアリティと熱量を持たせたのだと思います。
【小嶋】:『あしたのジョー』の結末で、ジョーは真っ白な灰のように燃え尽きました。『メガロボクス』のジョーは、リングの上で死ぬことはありませんでしたが、勇利との戦いを終え、ある意味で燃え尽きてしまったのだと思います。そんなジョーがもしもう一度リングに上がるとしたら何のためか? 続編をつくるにあたって、監督、プロデューサー、脚本チームで話し合いを重ねました。その中で森山監督から提示されたのが、チーム番外地にとって太陽のような存在であった南部の死と、罪を背負って地下を放浪するジョーというアイデアでした。あの輝かしい勝利のあとで、ジョーの身に何かが起き、すべてを失ってしまった。そのアイデアに強く魅了された私たちは、どこへどう辿り着くのかわからないまま、とにかくその方向へと物語を出発させることにしたのです。
Tumblr media
本作品に登場する移民体験は、多くのファンの共感を呼んでいます。チーフと彼のコミュニティに関して言えば、本物らしく(リアリティをもって)見せるために、どのようにしましたか? 何か参照したものはありますか?
 【森山】:『メガロボクス』の近未来世界には様々な国籍のキャラクターが登場することもあり、舞台の裏側のこととはいえ人種問題や移民問題は常に自分の近くにありました。それもあって続編にはその要素を物語に絡められたらと考えました。自分は移民問題についてのエキスパートではありませんが、ニュースやドキュメンタリーなどこれまで見てきたものからヒントを得て物語の構築や絵作りを行いました。個人的には映画の影響が強く、例えばケン・ローチ監督作品やスパイク・リー監督の『Do the right thing』は制作中に観返したりもしました。同じ場所で生きる様々な人間たちの複雑な関係性、表裏のある言葉のやり取りなどはチーフと仲間たち、彼らを排斥しようとする者たちの考えや行動に影響を与えていると思います。
【真辺】:私の住んでいる街では多くの外国人が暮らし、母国を離れざるを得なかった難民の方もいます。恥ずかしい話ですが、彼らに偏見を持ち、差別的な言動をする人間も存在します。 歴史を遡ると、多くの日本人がアメリカだけでなく、中南米に移民として海を渡りました。今の日本には日系ブラジル人や日系ペルー人の方々が各地で暮らし、カーサのようなコミュニティがつくられています。いわれなき差別を受け、満足な公共サービスを受けられない人々に対し、私も含め多くの日本人は労働の担い手としか見ようとせず、無関心を貫いてきました。既に二十年以上、この国で共に生きているにも関わらず、です。無知が恐れを生む悪循環を止めることは困難ですが、わずかでも抗うためのクサビを打ちたい、そんな思いをこの物語に込めました。共感を呼んでいるのだとすれば、その祈りが届いているのだと思います。私は悲観主義者なのですが、掲げた理想を現実に引きずりおろす愚かな真似はしたくないのです。
【小嶋】:私が住んでいる埼玉県の蕨市という小さな町には、外国からの移住者が多く暮らしています。排外主義者のグループがヘイトスピーチをしに来たこともあります。特にクルド人住民の数は日本の中で一番多く、”ワラビスタン”とも呼ばれています。彼らは母国での迫害を逃れて日本にやって来た人たちとその家族ですが、政治的理由で難民申請を受理されないまま、人権を制限された状態で暮らしています。日常的に彼らの姿を目にしていることが、本作品での移民体験の描写に影響しているのかもしれません。 参照した作品を一つ挙げるとすれば、イギリス映画『THIS IS ENGLAND』です。ミオと地元の少年たちの関係を描く際に参照しました。
Tumblr media
勝利した後、ジョーは、ある層の人々からヒーローとして受け入れられるわけですが、『メガロボクス』のジョーに、どういう男性像を見出しますか?  また、ジョー(の生き様)が心に響くとすれば、どういうことを体現しているからだと思われますか?(ジョーという存在のどういうところが、心を打つのか…皆さんにとってどういう存在でしょうか)
  【森山】:人種も何も関係のないひとりの人間の個の獲得、その強さや輝きというものがジョーというキャラクタ���の魅力なんだと思います。だからこそ助け合え、共に生きていけるという希望の象徴です。そこを描くことが前作のテーマであり課題でした。ジョーは男性ですがそこに性差は関係なく『メガロボクス』のキャラクターにはそういう思いを込めました。
 【真辺】:『大きな力に対し、おもねるのではなく抗う』。名もなき存在であったジョーがメガロボクスの頂点に立ち、虐げられる立場の人々にとって希望の灯りとなった。チーフはまさにその象徴です。しかし、南部という父親を失ったジョーは、自らが父親の役目を果たそうとして家族であるサチオたちを傷つけてしまう。そのことは“男らしさ”という呪いの言葉に囚われた幼い自身の姿をさらけ出すことになりました。 家父長制とマチズモが賞賛される社会で生まれ育った人間にとって、この病を克服することは厄介です。かつてチーフもそうだったのかもしれません。ですが、チーフは家族を失いながらも成熟した“良き大人”の姿をこの物語の中で見せてくれました。ジョーもチーフのバトンを受け取ったことで、呪いから解放される姿を見せてくれるでしょう。 ジョーの魅力は、自分の弱さや不安を誰かを貶めることで解消しようとしない愚直な誠実さであり、優しさを失うことのない高潔さだと思います。そして冒頭に書いたように、権力や権威を嫌って、諦めずに抗い続ける強さ。私にとって彼は敬意を払うべき友人であり、「そんな風になりたい」と思う人間のロールモデルです。
【小嶋】:ジョーが体現しているものは“信じる力”だと思います。金でも、権力でも、神様でもなく、人を信じる力です。彼は“ギアレス”ジョーとしてチャンピオンになりましたが、心はずっと“ギアレス”のままです。相手に生身でぶつかっていくその無防備な誠実さと危うさが、見る人の心を打つのだと思います。
Tumblr media
アニメやスポーツにとって、『あしたのジョー』の遺産は、どういうものだと思われますか?
 【森山】:難しい質問でうまく答えられませんが……創作の場においては未だ影響の大きい作品です。
【真辺】:スポーツの面では、日本でスーパースターになった辰吉丈一郎というプロボクサーがいます。WBCのバンタム級チャンピオンでした。彼の丈一郎という名前は、彼の父親が主人公の矢吹丈から取ったものです。私も大好きなボクサーでした。 アニメの面では、特に『あしたのジョー2』については影響を受けていない作り手はいないと思います。技術面だけでなく、伝説の漫画原作に負けまいとせめぎ合う高い志に感銘を受けました。簡単に消費されないエバーグリーンな名作であり、未だに心を震わされます。
【小嶋】:『あしたのジョー』は、強烈なロマン主義と情念のリアリズムを併せ持つ偉大な物語です。その精神性は、アニメやスポーツに限らず、日本の文化に大きな影響を与えていると思います。しかし一方で、男らしさや、死の危険を顧みず命がけで戦うことを良しとする、いわゆる「男の美学」については、現代の価値観では受け入れ難いものがあることも確かです。それをどう乗り越えていくかが、今のクリエイターたちに与えられた課題だと思います。
視覚的に、メガロボクスは複数の点で特徴的です。その「粒子の粗い」外観にした背景には、どういう狙いがありますか?
 【森山】:前作『メガロボクス』を制作中は原案である『あしたのジョー』とは距離を取りながら近づける、ということを意識していました。例えば、舞台だては大きく変えるが物語のテーマは引き継ぐというようなことです。「粒子の粗い外観」もその一つで、最新作を再放送のような画面で見るということがひとつ魅力になるんじゃないかと考えました。シンプルな構造の物語にはインパクトある画面が必要だったこともありますし、VHSのような劣化した画面が自分にとっては魅力的に映ることも大きいです。
森山監督は、コンセプトデザインの経験が豊富ですが、「ノマド」の世界を視覚化しようと思った出発点/インスピレーションは何でしたか? 監督ご自身が以前に関わった作品で得たスキルやアイデアで、メガロボクスの土台を築くのに役立ったものはありますか?
 【森山】:インスピレーションはほとんどの場合これまで観てきた作品が深く影響していて、映画や音楽から得たものが特に大きいです。『NOMAD』制作中は特にアメリカやスペインの西部劇を観返すことが多かったです。他にもカメラワークなど昔ながらの方法で撮影された映像の雰囲気を取り入れたかったので60~70年代のニューシネマも良く観返しました。自分は実写の映像からアイデアを得ることが多いです。コンセプトデザインに取り組む方法は作品によって異なりますが、『メガロボクス』の場合は脚本チームとのミーティングも自分にとっては特に重要な要素です。会話の内容にかかわらずコミュニケーションのすべてが作品に影響していると思います。
真辺さんと小嶋さんは以前、実写のNetflixシリーズ『深夜食堂』でも一緒にお仕事されていますね。一緒に仕事をするようになったのはいつからですか。お二人の仕事上の関係はどのようなもので、どのように一緒に作業されるのでしょうか?
 【真辺】:小嶋氏と共作するようになったのは、Netflixシリーズ『深夜食堂』からです。私が所属するシナリオ作家協会のシナリオ講座で講師をしていた時に、彼が講座生として来たのが出会いです。カリキュラムで2時間の映画脚本を書くのですが、彼は福島の原発事故をテーマにした話を書きたいと言ってきました。「センシティブな題材なので簡単じゃない」と私はアドバイスしましたが、「これを書かないと前に進めない」と彼は言い、取材をして書き上げました。そのことで「信頼できる書き手になるだろう」と思い、深夜食堂の監督である松岡氏に紹介しました。そして松岡氏の信頼も勝ち取り、脚本家チームに加わることになったのです。 出会いこそ講師と講座生ですが、シネフィルで映画の知識が豊富にある彼のアイデアは刺激があり、上下関係なく優秀な一人の脚本家として敬意を持って仕事をしています。 互いの家でアイデア二割、無駄話八割をしながらプロットを考え、脚本まで仕上げていくスタイルです。多少どちらかが先行するケースもありますが、プロットの段階で互いの意見を遠慮せずに言い合うことで、船を間違った方角に進ませる悲劇は起こりません。もちろん納得出来ないこともありますが、言葉を惜しまず耳を傾ければ、相手の意図が「この作品にとってプラスになるか、そうでないか」を判断出来ます。  脚本家にとって最も重要なことは、設計図であり楽譜でもある脚本をどれだけ強靭なものに仕立てられるかが作品作りのトップランナーとしての役目だと考えています。たまに私が先輩風を吹かすこともありますが、小嶋氏は寛容な心で受け入れてくれます。恐ろしくて本人には確かめられませんが。
【小嶋】:出会ったのは2012年です。真辺さんは私が通っていたシナリオ学校の講師でした。卒業後、真辺さんに誘われて、『深夜食堂』のプロジェクトに参加することになりました。以降、一緒に仕事をしています。 真辺さんとの作業はいつも、たくさん話しをすることから始まります。見た映画やドラマ、読んだ本、身の回りの出来事や世の中で起きているニュースなど、その時々の関心事についての会話の中から、アイデアが生まれ、少しずつ物語の形が見えてきます。仕事を忘れて、お喋りだけで一日が終わることも珍しくありません。そんな日は二人とも罪悪感に苛まれます。とにかく、そうやって書いたものを互いに読みあい、率直な意見を交わしながら、ブラッシュアップしていきます。  私は理屈っぽく観念的に考えてしまう癖があるので、真辺さんの直感的で具体的なアドバイスに、いつも助けられています。
8 notes · View notes
kyary1976 · 2 years
Photo
Tumblr media
#ワンセブンライブ #17ライバー奏蒼 . . . こんにちは(*^^*)😊🌤 『世界一の画家』を目指して日夜修羅の道を行く奏蒼(カナタ)です🗿💬( *´꒳`* ) 毎日・毎朝朝のAM05:29から、ワンセブンライブでお絵描きカテゴリーにてお絵描き🎨✍💕配信をしています。 ここのところ、7ヶ月ずっと毎日お絵描き配信をして来たので、7月いっぱいまでは、お絵描き配信をおやすみ( ˘ω˘ )スヤァして♥雑談配信をしています。 たいてい軽いドピンクなお話しをリスナーさんとしていますが、かなり時代や芸術のこととなると真剣な話しに移行します。 フルエール👏✨で、自分の過去の絵をとあるアプリを使って美術絵画アイコンとして配ったり、リスナーさんからの絵の注文などもお受けしています。 まだまだ配信については未熟者ですけど、少し背伸びしながら、誰も見てないところで頑張ったり、現代アートやドローイング➳ ( ˙-˙の講座なども配信中にテクニックを紹介などもしています。 毎日𝐄𝐯𝐞𝐫𝐲𝐝𝐚𝐲が素人で、毎日毎日右も左も分からないままですが、自分のやりたいように、やりたい時に配信しています。 歌ったりもします。音痴ですけど‼️‼️‼️‼️🗿💬( *´꒳`* ) 配信アプリのおかげで、ぼっちだった僕にも少しは友達も増えてきて、様々なアプリ・友達を通して自分の配信を頑張っています。 絵の弟子・配信上での相方も募集中‼️‼️‼️🗿💬( *´꒳`* ) とにかく有頂天屋の呑気で笑い好きの僕の配信に遊びに来ませんか❓❓❓🗿💬( *´꒳`* ) 9月末には、東京での僕の絵の展覧会も待ち受けています。 いろんなライバーさんの思惑の渦巻く中、ただひたすらマイペースに頑張ってます。 7月になったらラスト2ヶ月で配信1周年。 あと少しで、1年間続く4%以下の狭き門をくぐれます。 たくさんの挫折を味わって来ましたが、持ち前の根気強さで乗り切りながら、ぼちぼち歩いてゆくしかないです。 僕の枠を見かけた時は、普段の挨拶から、声をかけてくださいm(*_ _)m💦 🗿💬( *´꒳`* ) ID:奏蒼です_0413.flower. 礼を尽くし、笑顔捨て、泥まみれになります🙇‍♂️m(_ _)m . . . #ワンセブンライブ #17ライバー奏蒼 #一般社団法人亜細亜美術協会 #一般社団法人社員画家 #亜細亜現代美術展 #美女たちの森と沼 #奏蒼マジック #broadcast #Painterlive #9月末上野 #世界一の画家へ #KISHINOpresents #KISHINOpresents社長 #三重県岸野家新頭領 #絵の弟子募集中 #配信の相方募集中 #美術絵画アイコン #純日本人 #年中無休 #狭き門 #もうすぐ1周年 https://www.instagram.com/p/CfOqzb2J7YI/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
shukiiflog · 10 months
Text
ある画家の手記if.12   冷泉慧鶴視点
壺の中で小さなポンプが泡を噴き続けている。 その水の上にパラパラと赤茶色の餌をまぶしてやると中の金魚はすぐに食いついた。
名廊が魚を好んで飼い始めたのは、大学時代、学友の耀屋七が夜店の金魚すくいでとった金魚を自分では飼えずにもてあましたからだ。 広い共有アトリエの端の台に、室内のガタクタ置きから山雪が見つけだした昔ながらの金魚鉢を据えて、金魚を放した。 七は暇なときは台に乗り出して金魚をじっと見ていた。 餌をやったのは名廊だった。 なぜだか名廊と七が金魚に夢中になった。 似ても似つかない割におかしなところでこの二人は昔から波長が合う。 俺もなんだかんだで水換えをした気がする。 たった四日足らずで金魚は死んでしまった。 もともと弱っていたから七にすくい上げられたんだろう。 その後も、名廊は新しい魚をわざわざ買ってきて金魚鉢に入れた。死んだら次、また次と。 それから俺や七が大学を卒業した後も、名廊は留年してあのアトリエにいた。 俺がたまに訪ねて行ったときもアトリエには名廊と、魚もいた。 それから20年近く、名廊はずっと途切れさせずに魚を飼っている。
名廊のアトリエを長期不在に耐えるよう簡単に整理して、出入り口の壺のナカザトさん(金魚/仮名)に餌をやった。 ひとまず今日ここで俺がやることは終わった。 部屋を出てから、アトリエと寝室と書斎の扉に鍵をさしてすべて回しておく。 ……何回目になるだろう、何十年も、こんな状況、今の俺は。嫌な既視感だ。 回した鍵を引き抜いて階段へ行こうとすると、誰かがそこを駆け上がってくるのが見えた。 一瞬ひらひらした服が女物のようにも見えたけど、身長や体格的には なんて思う間もほとんどなかった、俺がいることに気づいて階段を登りきった辺りで足を止めた、明るい髪に、顔のほとんど全面に大きく散った、傷跡の 「……………綾瀬香澄…か」 自分の口の端に勝手に浮かんだ愛想のいい笑みを一旦手で覆って間を持たせた。 思わず小声で漏れてしまったにしても初対面で呼び捨てもないだろう。 小さく咳払いをして言い直す。「ーーー綾瀬香澄くんか」 相手は俺を知らないのか、どうか。俺は一度だけ出先で見かけたことがあった。 それに名廊が執拗に描きたがる傷跡を奴の作品で幾度も目にしていた。 間近で見るとそれほど衝撃的なわけでもない、傷跡はおそらく生来の彫りの深い顔の造りとよく融けて立派なひとつの人相になっている。描くのに手こずる気持ちは分からないでもない。 あまり見過ぎるのもどうかと視線を手元の鍵に落とす。 「鍵を閉めたところだった。中に用なら開けるか?」 「…え…っと」 やっぱり何も聞いてないか。あいつはここでも普段通りらしいな。 目の前の相手には誠実だが、それ以外がトリミングされてすっぽりと真っ暗な死角になる。 「俺は冷泉。こういう時のここの留守を預かってる。美術講師だ。君のことは名廊からも少し聞いてる」 「え……聞いてるって、何を」 たじろぐ様子からもあいつとの関係が透けて見えるような気がした。 それにトーンを合わせて腕を組んで困ったように息を吐く。 「……正直、あまりいい話ばかりじゃないな。君との関係を好き勝手に噂する連中も界隈にいる」 「そ…う、なんですか…」 少し顔つきが曇ったように見えた、その背中を押して階段を降りるよう促しながら笑う。 「はは、そんな顔しなくてもな。もう昼飯食ったか? 時間あるなら少し話そうか」 「え…、あの、でも俺」 「名廊ならしばらくここには居ないぞ」 状況を説明するためにもここより少し落ち着いた場所が欲しい。 来たってことは一応なにかここに用があったんだろう。
このあたりに気の利いた店がないものだから、結局近くの公園のベンチに並んで腰掛けるだけになった。 自分からは口火を切れなさそうにするアヤセカスミに、そばの自販機でホットレモンを買って持たせた。「無理に飲まなくていいぞ」 俺も同じものを買って先に一口飲む。程よくあったかくて少し気分が切り替えられる。 近づきすぎない少しあけた隣に俺も浅く座る。 「俺が言付かってもいいし、面会もできる。まあそれも含めて病院は教えておこうか」 「病院…って 直人、どうしたんですか」 「………」 「俺が聞いていいことなら、教えてください」 取り乱してはいないものの、ちょっとした知り合い程度の出せる声色ではなかった。それなりに切迫している。 「…………」 ふむ。 どう言おうかね 「先に言っとくと命に別状はない。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような何十回目って自殺未遂だ。狐の嫁入りのほうがまだ珍しいくらいだな」 あいつも面倒なことを何度となくするな。 俺の周りではどちらかというとありふれたことになるが、一般人からは遠いものだろう、自殺なんてのは。 「自殺未遂………」 自分の中でその言葉を反芻させて実感を得ようとするような様子に少し罪悪感を感じた。 俺が想像していたより、名廊の一方通行ではなかった、のか。 「さっきは反応を見るようなことを言って悪かったよ。俺は君と名廊の関係を悪く捉えちゃいないんだが…ああいうことはあいつの口からはいつまで経っても出らんだろうからな……」 界隈の妙な噂は名廊も知っているが、あれがなんとも思ってない上にあの調子じゃこの子にそれは伝わらないだろう。 俺はそれを少々歪に感じる。 わざわざ本人の耳���入れるような下世話を働くのは、判断材料を多く持ってほしいからだ。その上で一緒に居てやってくれればーーーこれは勝手な願望だ。 それでも俺はそういうものを望むし、そういう俺をあいつも許す。 「死にたいって……俺にも、直人、言ってた…」 「大人気ない話で悪いな」 「いいんです。…でも」 横で色々と煩悶するこの子に、どこまで何を言おうか迷う。 「……俺が駆けつけたとき、あいつが珍しくケータイなんて握ってたから少し勝手に見た。知り合いからの着信もあったけど画面に開きっぱなしになってたのは、君からのメールだった」 本当のことだ。いつも鳴らしてみないと居どころの分からないような存在感の名廊のケータイが、その日はあいつの手にあった。 バスルームでもう意識のなかったあいつのやたらとでかい体を引きずって体勢を変えさせて救急車が来るのを待ちながら、代わりに折り返したほうがいい緊急の何かがないかケータイを確認した。 電源を入れて出てきたのは傍目にはなんとも不穏に感じられるような一文だった。 送信者は、綾瀬香澄。 それを思い返していたから階段のところでつい口からその名前が出てしまった。 「俺…   「君のせいにしたいわけじゃない」言葉尻を待たずに付け足す。 「あいつがそこから何をどう捻くったんだかさっぱり分からんからな」 何となく分かる気もするが…想像でしかないので伏せておく。 「もう意識はあるぞ。俺から何をいくら聞いてもあれだろ?  ***病院だ、あそこに頭が見えてる」 少し離れた場所から高いビルの頭がのぞいているのをホットレモンを持った手で指差す。 こういう深刻ぶった話を真顔で話すのが苦手でずっと中和するように気持ち笑んでいた自分に嫌気がさす。 その気分を散らそうと椅子から腰を上げて凝った肩を回して伸びをする。 春の日和にずっと寝ずに手続きだの片付けだのをしていたせいで欠伸が出るのを手で覆って噛み殺す。 「ああ疲れた、寝てなくてな…ろくな話し相手になれなかったけど、君があそこに来た用件はもうよかったか?」 「よくないけど、でも、…はい」 もう意識はあるものの、ほとんど眠っているか、起きてもあの状態のあいつを思い出す。 今回は今までとは少し何かが違うようにも思う。 「渡すものなりあるなら預かれるが、直接あいつに渡してやってくれたほうが俺が助かるかな」 大した無茶振りだなと思いつつも振ってみる価値はあるんじゃないか、珍しく、そんな気がした。 あいつのことで誰かに期待する感覚は久しぶりだったし、そんな自分を寂しく思った。
香澄視点(ルート分岐)へ、続く
0 notes
satsea77 · 5 years
Text
すべてのサラリーマン必読の文章の教科書 - 古賀史健「20歳の自分に受けさせたい文章講義」 ★★★★☆
学校では習うことがない文章の教科書
Tumblr media
20歳の自分に受けさせたい文章講義
posted with ヨメレバ
古賀 史健 星海社 2012年01月26日
楽天ブックス
Amazon
Kindle
内容
「正文」とはなにか。
感想
「小中高校と12年間、国語をならったのだから、こんな本は必要ない。」本当にそうだろうか? いや、そんなことはない。いま、必要なのは文章力だ。
私たちが習った国語は、文の中から著者の言わんとすることを見つけたりする授業が大半だった。小学校の日記は先生から花マルをもらうために「〇〇さんは大変だなぁと思いました。もう一度同じことがあったら助けようと思います。」といった、「いい子ちゃん作文」だった。だから私たちは文章が書けない。
社会人になり、部長レビューや役員会など文章を書く機会が増えてきた。なあなあで通っていたものも、近年では証跡を残し上長の承認が必要になってきた。その時に武器になるのは文章力だ。私が書いた文章なんて説明する間もなく課長の指摘で真っ赤になって返してくる始末だ。 パソコンの普及により、誰もが同じツールを手にすることになった。そこで必要なのは、よりわかりやすく、よりシンプルな文章なのである。
本書は、「国語」ではなく「文章」に焦点を当ててあり、オフィスワークの人はぜひ読んでいただきたい。いや、読むべきだ。 論文に使うのには毛色が違うので参考にはならないかもしれないが、大学生諸君も将来に向けて読んでおくことをお勧めする。
引用
どうすれば文章がかけるのか?
書こうとするな「翻訳」せよ
文章とは、あたまのなかの「ぐるぐる」を伝わる言葉に「翻訳」したもの
うまくかけずにいる人は「翻訳」の意識が足りない。
書くことは、考えること
「書く技術」を身につけることは、そのまま「考える技術」を身につけることにつながる。考えために書きなさい。
理解したから書くのではない。解を得るために書く。
わからなことがあったら、書こう。自分の言葉に「翻訳」しよう。
「翻訳」の第一歩
聞いた話を「自分の言葉」で誰かに話す  →再構築・再発見・再認識の「3つの再」が得られる。
「言葉でないもの(地図や絵、写真)」を言葉にする。  Point:自分の意見をいっさい入れない。レトリックに頼らない。
「書く技術」は、一生使える「武器」になる。
これからますます「書く時代」「書かされる時代」になる。
文章力という「武器」を手に入れることは、将来に対する最大級の投資。
文章は「リズム」で決まる
文章の正体は「リズム」である。
文章のリズムは、「論理展開」によって決まる。
文章の論理的整合性は「接続詞」によって保たれる。
支離滅裂な文章は、文と文の「つなげ方」がおかしい。
美文より「正文」を目指す。
主観を語るからこそ、客観を保たなければならない。
文章の「視覚的リズム」
句読点の打ち方
1行の間に必ず句読点をひとつはいれる。
改行のタイミング
最大5行あたりをメドに改行する。
漢字とひらがなのバランス
ひらがな(白)のなかに、漢字(黒)を置く。
文章において引き立てるべきは、明らかに漢字だ。漢字そのものが太字で書かれたキーワードのような役割を果たしている。
文章の「聴覚的リズム」
音読は、文章のリズムを確認するためにおこなう。
文章を音読する際の、2つのPoint
読点「、」の位置を確認する。
言葉の重複を確認する。
断定により、文章にリズムを持たせる
「断定のリスク」を乗り越えるためには、断定する箇所の前後2~3行を、しっかりとした理論で固める。
文章の面白さは「構成」で決まる
文体の妙、文章の個性、あるいは文章の面白さ。これらを決めているのは、ひとえに構成である。論理展開である。
文章のカメラワークを考える。  ①導入(=序論)・・・客観のカメラ   →客観的な状況説明  ②本論(=総論)・・・主観のカメラ   →序論に対する自分の意見・仮説  ③結末(=結論)・・・客観のカメラ   →客観的視点からのまとめ
「序論2:本論6:結論2」あたりの割合が無難なところだと思われる。
いかなる読み落としや誤読も最終的には書き手の責任だ。
導入は映画の「予告編」
導入がつまらないと、読者は文章を読んでくれない。
予告編の基本3パターン  ①インパクト優先型 ②寸止め型 ③Q&A型
「論理的な文章」の3層構造
主張・・・その文章を通じて訴えたい主張
理由・・・主張を訴える理由
事実・・・理由を補強する客観的事実
あらゆる、「主張」は仮説なのである。
文章の中に「主張」「理由」「事実」の3つがあるか、そしてその3つはしっかりと連動しているかを、いつも意識する。
文章を書くとき、われわれは「結局なにが言いたいんだ?」という問いに「ひと言」で、答えられなければならない。
構成は「眼」で考える
頭のなかの「ぐるぐる」を図解・可視化して、「流れ」と「つながり」を明確にする。
文字量を「眼で数える」習慣をつくる。
読者の「椅子」に座る
あらゆる文章には、必ず読者が存在する。
読者の立場に立つのではなく、読者の「椅子」に座る。  ①「10年前の自分」の椅子に座る  ②「特定のあの人」の椅子に座る
文章は、やさしく書くのがいちばんむずかしい
*「わかるヤツにわかればいい」のウソ  →著者の理解がふかければふかいほど、わかりやすい表現でどんな高度な内容も語れるはず
「説得」せずに「納得」させる
文章を書くことは、他者を動かさんとする「力の行使」なのである。
人は「他人事」に興味はない  →「自分事」にすることで、納得させる。
「仮説」を提示し、一緒に「検証」することで、読者を「議論のテーブル」につかせる
「起"転"承結」で読者を巻き込む。
「起"転"承結」を成立させるためには、冒頭に「自らの主張と真逆の一般論」を持ってくる必要がある。
文中にツッコミを入れていくことは、読者に対する「優しさ」のようでありながら、同時に文章の「強さ」を高める作業でもあるのだ。
文章はコミュニケーション
本当のリアリティは、日常の何気ないところに転がっている「面倒くさい細部」を描写することによって生まれるのである。
「ちいさなウソ」はつかない。細部をどれだけ大維持にできるかは、文章の最重要ポイント
「自分の頭でわかったこと」以外は書かない。
「目からウロコ」は3割、残り7割は「すでにわかっていること」でよい。
右手にペンを、左手にハサミを
推敲とは、ハサミを使った「編集」である。
書きはじめの編集
「何を書くか?」ではなく「何を書かないか?」
頭の中にある「ぐるぐる」を可視化する  →「ある傾向を持つキーワード」と「それ以外のキーワード」の両方を紙に書き出してみる。
いつも「疑う力」を忘れずに、文章と向かい合う
書き終えてからの編集
推敲とは「過去の自分との対話」である。
最大の禁句は「もったいない」
長い文章を見つけたら、短い文章に切り分ける。
論理性をチェックする方法  →この文章を、図に描き起こすことはできるか?
細部がどれだけ描画できているかチェックする方法  →この文章を読んで「映像」が思い浮かぶか?
「身近な他人」「いまの自分」「明日の自分」に読ませる
もしあなだが接続助詞の「が」を多用しているようなら、そこにハサミを入れられないか、あるいは別の言葉に言い換えられないか、考えるようにしよう。
いい文書を書くのに「文才」がいらない
才能を問うのは「言い訳」。
6 notes · View notes
graphic-recording · 5 years
Photo
Tumblr media Tumblr media
武蔵野美術大学公開講座2019
「クリエイティブを学ぶ!~デザイン、アートの力って?」
第2回「あたらしい仕事をつくるビジョン力」を学ぶ!
2019.9.18
今回も社会人向けの公開講座をグラフィックレコーディングしてきました。
講師は、NPOグリーンズ代表理事/greenz.jp編集長の鈴木菜央さんと、日本仕事百貨代表/株式会社シゴトヒト代表取締役のナカムラケンタさんのお二人です。
Tumblr media
今回は質問会の前に振り返りタイムとして全体のトークを私がグラレコを使いながら場に返して話す発表時間をいただき、「輪」そして「サイクル」というお2人の共通ワードが描いていて見つかったこともお伝えすることができました。鈴木さんのドーナツの例えが面白かったです。
Tumblr media Tumblr media
ちなみに会場では毎回付箋で学んだこと&質問を書いてもらってるんですが、グラレコに感動したと書いてくれた人がいて嬉しかったです。
Tumblr media
ビジョンの種は「まず心の声聞き行動たくさんして好きなことを経験から見つけて行くこと」。これはすごくしっくり来ました。私も日記自体は小学生の頃から続けているんですが未来日記はやったことがなく、楽しそうだからやってみたいです。
Tumblr media
ビジョンだけでなく。この小さく始めて回してくのは何事にも通じるなぁと感じます。お二人のビジョンへの取り組み方はそのまま働き方、生き方にも通じているようで聞いている私や参加者の方も誰もが取り組めるところが少しはあると感じられたのではないかと思います。
今回もとても面白い会でした。そして会を追うごとにグラレコ活用のPDCA回せているのも嬉しいです。
1 note · View note
2ttf · 12 years
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエ��カガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟惨傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
4 notes · View notes
m-b-chat · 5 years
Text
逃避
le lundi 19 août 2019
Tumblr media
今日から講座でした。でもゆうべは浅い眠りで,それに何度も目が覚めて最高に質の悪い睡眠でした。でも朝早くに起きて弟を車で高校へ送りました。でも判断能力が鈍っていて,飛び出して来たチャリンコを跳ね飛ばしてしまいそうになりました。あ,このまま走っているとぶつかる,減速しなければ。思考はずいぶん冷静でした。危機を避ける本能でしょうか。見通しが悪くて危ない場所なので,今度から気をつけようね。
午前中はエンジニアがエアコンを取り付けにいらっしゃいました。なれた手つきでエアコンを設置してくださいました。
お昼前に外出。でも気分は落ちこんでいて何もしたくなく,身体も重くて。大学へはたどり着いたのだけれど,煙草を何本か吸っただけで帰りました。講座を受ける気力がなかったので仕方なく。文字通り逃げました。自分を守るために仕方ないです。
Tumblr media
抑うつ状態で辺りを彷徨っていました。何をしたらよいか分からなくて,不安から逃げるように歩き続けました。どこをどう歩いたか...。美術館へ行こうと思ってバス停で降りたのですけれど,それどころではなくてふらふらと歩いていました。小川の近くをあるいて,知らない道を通って武家屋敷跡に出て,教会病院の聖堂に入ってみました。ここは初めてで,日本の伝統技法も折衷されていました。履物を脱いで上がるところとかいかにも日本っぽくないですか ? 簡素なステンドグラスも和の強い内装にマッチしていました。病院の聖堂なので,体の悪い人でも来られるように畳も敷いてあるのです。
教会の建物が好きで,見つけると入ってしまいます。僕はキリシタンでないのですけれど,誰にでも門を開いているそうなので。
その後カメラ屋さんに行きました。昔よく行っていた,小さなお店。とっても親切なおじさんがやっています。まだ覚えていてくれて,少し話もして和みました。フィルムを一本買ったので,今度外に出たら二眼レフに入れて撮ります。
少しだけポジティブになって,ふたたび歩いて美術館へ。
Tumblr media
「チームラボ ...」という美術展をしていて,たった数日で来場者が数万に達するという人気ぶりをニューズで知りました。興味があって行ってみたかったのですけれど,ようやく心に晴れ間が見えて来られました。
Tumblr media
花が描かれてゆく。今この景色はもう二度とみられない
Tumblr media
自分の周りにあまた数ある人,仲間,の存在を感じる
闇をメインにした展示が印象的でした。誘導員の方がいらしたので大丈夫でしたけれど,迷路みたいで良かったです。宇宙みたいでした。暗くて,限界が曖昧でね。心を形に表したものとも感じられました。
会場を後にしても目を閉じると感覚がよみがえるほどでした。
夕方になってようやく調子が出て来ました。明日も休もうかな。
1 note · View note
Text
#8「世界大戦とレジスタンスの記録」
世界大戦におけるレジスタンスの記録は世界に様々にあります。では、日本の演劇において存在したのか? 戦後新劇や総力戦体制下の移動演劇に焦点に当てながら、日本の演劇人が満州事変から始まる世界大戦の中で何を見、考え、行動していたのかを探りました。 下記は、講義の概要をまとめたものです。 -- 講義では、「ジャガイモを掘るベケット石を投げるサイード」にまず触れました。「ジャガイモを掘るベケット」とは、第二次世界大戦におけるナチスドイツに対するレジスタンスの諜報員であったベケットがパリから逃げる時に、畑のジャガイモを食べながら生き延びたエピソードを指しています。(それが「ゴドーを待ちながら」の原風景となっていると、幾つかのベケット伝に書かれています。)また、「石を投げるサイード」は、パレスチナのインティファーダを指します。圧倒的に不利な状況にあっても侵略行為を犯すインスラエルに石を投げるサイードの姿勢。こうした世界大戦におけるレジスタンスの行為としてのささやかな振る舞いというものが、実は演劇活動とか、あるいはサイードのような思想家としての活動としての根拠になっているのではないか、と鴻さんは考えます。 そしてまた、こうした状況下での作家の姿勢について、戦後日本の新劇復興という活動も視野に入れながら、日本の演劇人について考えたとき、一体どういったことが起こっていたのでしょうか? ◼︎ドイツの、そして日本の戦争責任 鴻さんは、まずドイツの思想家カール・ヤスパースは『我々の戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫)について触れました。その著書の中で、ヤスパースは、「我々」すなわちドイツ人の戦争責任とは何かについて語っています。その中で、戦後の裁判についての言及がこうあります。 -- ……「この裁判は全てのドイツ人にとって、国民的な恥辱である。せめてドイツ人が判事であれば、少なくともドイツ人がドイツ人に裁かれることになるであろうに。」とある論者がいう。
これに対してはこう答えることができる。いわく、「裁判が国民的恥辱なのではなく、裁判を招来したゆえんのもの、[なぜ裁判が行われることになったのか?] すなわち、そのような政府が存在してかくかくの行為をしたという事実こそ、国民的恥辱なのである。国民的恥辱という意識はドイツ人にはどっちみち逃れられないものだが、それが裁判に対しての意識であって、裁判の起こるもととなった原因に対する意識でないとすれば、それは方向を誤っている。 さらにまた戦勝国がドイツ人の法廷といったものを構成させるか、あるいはドイツ人を陪審判事に任命したとしても、事情は少しも変わらない。 -- この部分を、ドイツ人を日本人として読み替えた時、それはそのまま東京裁判の話のようだと鴻さんは言います。また、ここで重要なのは、ヤスパースは戦勝国と敗戦国という区別をしている点でもあると指摘します。ヤスパース自身はドイツ人なので敗戦国の人間。この本は敗戦直後1946年にそうしたことを考えながら書かれているものです。 -- 戦勝国が敗戦国の人間による法廷といったものを構成させたり、あるいは、敗戦国の人間を陪審員に任命したとしても、事情は少しも変わらないのではないか。ドイツ人が法廷にいるのは、ドイツ人の自己解放力によるものではなく、戦勝国の恩恵によるものである。してみれば、国民的恥辱に変わりはないはずだ。裁判は、我々が犯罪的な政権から自己を解放したのではなく、連合国に敗北したことによって解放されたという事実から裁判が生じている。こうした状況の中から、戦後が出発しているということをどう認識するのかということが、実は大きな問題なのであるにもかかわらず、この裁判はインチキであるというような、要するに、戦勝国が敗戦国を裁くという絶対的に有利な立場から、法的な機関というものを無視することもできるような形で裁きの無効性を主張するような議論もよく起こるのだけれども問題は自らの力によって敗戦に追いやられた政権を、つまり、その独裁的な権力を倒すことができなかったということが、後々の我々に大きな禍根を残しているのだ。 -- ヤスパースは、世界大戦における戦争責任の問題は、過去に遡り、問題を様々な形で考え直していかなければならないのではないか、という提言を1946年にドイツの人たちに向けてしていた。この本の解説を書いている加藤典洋は、こういうような明瞭な提言というものが、悲しいかな、日本にはなかったと書いていると鴻さんは語ります。 ヤスパース自身は、ナチスの政権下でユダヤ人の妻がいました。ナチス党から離縁を勧告されたとき、それを拒否して大学を去りました。ヤスパースはそうした形で具体的な抵抗を示していたのです。しかし一方で、ヤスパースは殺されることがわかっていながら、それでも抵抗して死んでいくべきであるとは言いませんでした。ではどこまで抵抗するべきなのか? そこに、道徳の問題が絡んでくるとヤスパースは書いてる。そして、そこでは、ある種の抵抗をした人たちと、また多くの抵抗しなかった人たちを含めた、罪の問題をどう考えていけば良いのかという分類がなされている、と鴻さんは解説します。 ◼︎ 満州事変から第2次世界大戦へ、その歴史的局面 ヤスパースは、著書の中で、ナチスの政権が1933年に政権を取���たところで、後戻りのできない状況になっている、そこが一つの転換点だったと分析しています。第一次世界大戦が終わってから15年、新たな戦争を避けるための様々な局面もあったというのです。 例えば、日本軍の満州侵略という暴力行為がなかったなら、それに対する適切な国際的な対応というものがなされていたならば、ナチス的な政権の独裁というものも防げるような方策を考えることができたと書いています。 そのこと自体の検証はできないけれども、世界がどのように動いていくのかということを考察するときに、ドイツの思想家が1946年の敗戦の直後に、ドイツがこういうような状況に向かっていくのを阻止できなかった原因の一つに日本軍の満州侵略を上げていることは興味深いことであると鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、満州事変��世界大戦へ向けた一つの転機であるというような発言をしているのは、ヤスパースだけではないと言います。フランスの思想家シモンヌ・ヴェーユは『フランス支配圏内における植民地の新たな主要件』という論文の中で、帝国主義社会における人間の大きな問題である植民地をどのように扱えば良いのか? と問い、日本について言及しているそうです。 フランスは、ドイツに対するレジスタンスをしながら、しかし、一方で植民地政策を続けていました。この頃、イギリスの植民地は南アフリカからアフリカ大陸を南北縦断するように、フランスの植民地は西アフリカからアフリカ大陸を東西縦断するように、それぞれが植民地展開をしていた。その縦横がぶつかるところで、植民地戦争が起こり、フランスはイギリスに負けたけれども、まだ植民地を持っていたのです。 シモンヌ・ヴェーユは、基本的には、植民地に関しては具体的な方策を考えながら解放を目指すべきであると考えていました。植民地住民は彼ら自身の利益を目指して、彼らの政治的経済的生活に関与すべきである、しかし、実際はそうではない。そうした政策が実際に遂行されるのであれば、あらゆる植民地問題が解決へ向かう。部分的な解放であれ、それによる自由が完全な解放へとつながる可能性がある、と1938年に語っています。 しかしながら、フランスはそうした解放への動きは全くしなかった。こういう状態で、もし日本が今、インドシナを奪おうとしたとき、日本がベトナム人(フランス植民地)を利用することは大いに考えられる。フランスが少しの自由を保障していれば、日本がそれを習うことは難しい。フランスは植民地解放へと動き出すべきであるとシモンヌ・ヴェーユは主張していたと鴻さんは説明します。 このようにシモンヌ・ヴェーユも、1938年に日本がフランス植民地インドシナをフランスから奪い取りに来るだろうことを予測していました。日本は、実際3年後の41年に真珠湾攻撃と合わせて、上陸作戦を開始します。37年盧溝橋事件をきっかけに、日本の中国大陸への具体的な侵略が開始されたとフランスの知識人たちは見ていたのです。 ◼︎ 外の世界がなかった日本 ー 総力戦体制と移動演劇 鴻さんは、1927年にヨシフ・スターリンは、中国革命は3段階で起こるだろうと予測していたと言います。 第1段階は、ブルジョワジーが革命を支持する形で外国帝国主義に対する戦いが開始される。第2段階は、ブルジョワ民主主義革命が起きて、それ以降はブルジョワは革命から離れていたにもかかわらず、農民の革命に対する支持が開始される。第3段階でソビエト的な革命が起こる、こうした将来が必ずやってくるとスターリンは考えたのです。そして、中国では実際に共産革命が起こりました。 また、スターリンは日本についても言及していると鴻さんは引用します。 -- 西欧で我々の敵である者たちは、皆もみ手をしながらこう言っている。中国で革命運動が起こった。これはボルェヴィキ(ソヴィエト)が中国人民を買収したのだと悪口を言っている。これはロシア人が日本人と戦う道へと導くであろうと皆が言っている。こんなことはデタラメである。中国の革命運動は信じられないほどである。我々は帝国主義者どもの束縛から中国を解放し、中国を単一国家にするために戦っている。中国革命に共鳴している。日本もまた、中国の民族運動の力を考慮する必要があることを理解する。 -- このスターリンの日本に関する予測は当たりませんでしたが、しかし、こうした裏には、自分たちの国以外の国がどのようになっているのか、その人たちが何を願い何を考えているのか、もしかしたら事態はこうなるかもしれないということを考えながら、スターリンが記述していることがわかる、戦後、ヤスパースは我々(ドイツ人)の戦争責任を考えていたけれども、日本人はそう言ったことは考えていなかったのか。では何を考えていたのか? と鴻さんは問います。 こうした日本の盲目性に関して、森秀男が「戦中と戦後をまたぐ――『女の一生』の場合――」という論文を書いています。鴻さんたちが、『シア���ーアーツ』で「戦争と演劇」という特集を組んだ時に、掲載された論文です。 これは、今も繰り返し上演されている文学座の『女性の一生』という作品について書かれたものです。作者である森本薫が『女の一生』を執筆時は戦中でした。戦時中に上演されたということは、それは“反戦”演劇ではなかったということです。戦時下で上演された『女の一生』の台本は、戦後の台本とは異なります。初演台本と戦後の改定された台本、そして定本として読まれている台本がそれぞれいろんな形で違っているのです。この初演台本は長いこと簡単には読めませんでした。この経緯についてよく知っている文学座の戌井市郎などに、森秀男さんが話を聞きながら、変更箇所について調べたことがこの論文に書かれているそうです。 『女の一生』が、どのように戦前の演劇から戦後の演劇へと変わったのか? 例えば、主人公のけいが想いを寄せるが、中国へと姿を消す栄二という登場人物は、戦後の改定において、最初は左翼的な人間だったのが、転向して情報員として戦争協力する仕事などをしながら、敗戦後、帰国する、という設定がなされたりしている。 1961年の『女の一生』パンフレットで、森本薫から杉村春子に当てた敗戦前後の私信の抜粋が公開されました。また、当時舞台女優に宛てた森本薫の手紙が残っています。そこでは、森本薫が次のように言っています。 -- 1945年8月3日付 『怒涛』や『女の一生』がダメなのは、描くことだけに力を入れて自分を込めるというか、なんといったらよいかわからんが、ともかく作家自体が芝居の中で求めているものがはっきりしない。あるいはないことだ。 -- 1945年10月11日付の手紙 とにかく皆誰かなんとかしてくれるだろうという他力本願を捨てて本当に一生懸命準備しなければならん。僕は『田園』から『女の一生』までの文学座を省みて、岩田豊雄に逃げられたり、戦争にいじめられたりしながら、我々自身大して自信もなく歩いて来た道は、そう無駄な道ではなかったと思う。我々は我々が到達したところからしか出発できない。しかも我々は率直に楽しめる現代劇から真面目に社会を考える現代演劇への第一歩を踏み出している。僕は色々と取り越し苦労をしているように見えるかもしれないけれども、今回の出発に関して新しい風は左翼演劇からは現れないということを断言する。左翼演劇ではなく、自分たちのやろうとしている演劇から新しい風が吹き始める。 -- 森秀男は、「森本薫は8月15日を境に、戦中と戦後という時代をほとんど苦労なしにまたぐことができたようだ。戦争中、時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉は見当たらない」と書いています。 この時、「時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉」がどういう風に語られるのかについて問題にしているのがヤスパースであり、その道徳的罪であるとか、政治的罪についてを『我々の戦争責任について』で書いている。戦争犯罪を実際に犯すことと、その国の政権が独裁的で侵略戦争をしていからという理由でそれに抵抗できなかった人間は、戦争犯罪人ではない。ただし、道徳的罪はあるだろうとヤスパースは言っている。そこで、自責の言葉がどういう風に語られるのかが問題である、と鴻さんは展開します。 ◼︎日本戦時下の移動演劇 ー その問題性と魅力 ここで、鴻さんは「だんだん日本の演劇人の戦争中の行動と、それに対する戦後の自責の念のなさという私の批判が始まるのではないかと思う人もいるかもしれないのですが、こういうことを踏まえた上で、私はいま全く違うことを考え始めている。」と、日本の移動演劇の歴史について語り始めます。 例えば、戦時下の演劇が孕む問題性とその魅力が同居するときにどうしたら良いのか?  ー日本では戦中、移動演劇が盛んでした。演劇をより多くの人に見せるために、農村地帯や漁村、山村など様々な場所に展開しました。有名なのは、移動演劇の部隊であった桜隊が1945年8月6日広島にいたということです。その時に、原爆が落とされて、桜隊のメンバーが原爆で亡くなっています。(そのことを巡って、井上ひさしは『紙屋町さくらホテル』という作品を書きました。新国立劇場のこけら落としに執筆され、1997年に上演。鴻さんが劇評を執筆しています。) そして、戦争が終わり、他の移動演劇も敗戦とともに消えていき、なくなってしまいます。 演劇評論家の茨木憲は、『昭和の新劇』という本のなかで、戦後の新劇人たちは、戦時下において自分たちがやってきたことの反省において新劇活動をしなかったということを告発していると鴻さんは参照します。 日本の戦後新劇のはじまりを告げたのは、1945年12月に文学座と俳優座の合同公演として上演された、アントン・チェーホフの『桜の園』でした。1940年に国の一斉検挙があり、新協や新築地の両劇団は国情に適しないから解散するようにと命令された時、当局の推奨を受ける形で存続していた文学座は「国情に適した」劇団だったのでしょう。そして、戦後の合同公演で直ちに、雰囲気劇としてチェーホフを上演したのです。 ここには、森秀男によって詳細に分析された『女の一生』の改ざんの問題における日本の戦後新劇人の自覚のなさと共通するものが見られると鴻さんは考えます。 そして、茨木憲が著者の中で戦時下の空白期と書いているところに、実は移動演劇がありました。 戦時下に移動演劇連盟が作られたのが1941年6月。その後、1943年2月に再編成されます。この移動演劇の活動初期1年半で動員した観客の数は約450万という膨大な数に上ります。農村、山村、漁村、工場、鉱山などを周り国民に観劇の機会を与えることを目的に公演回数は3,500回を数えました。 時は真珠湾攻撃の直前。ビラ広告のキャッチコピーは「米英撃滅 今このとき!」。勇ましい宣誓文が続きます。 -- 我々は文化領域における翼賛運動の一助たる我らの職域を明瞭に自覚する 我々は協力一致の精神と誠実明朗の態度をもって我々の使命に奉仕する -- 移動演劇は、東京毎日新聞などの資本を得つつ、主に公的な資金で運営されていました。入場料は無料です。移動演劇は商業演劇のような単なる娯楽ではなく、教化=教え諭すことで、正しい国民を作っていくことを目的に上演されていたのです。 移動演劇連盟の委員長は、岸田國士。大政翼賛会の文化部長であった岸田國士が個人の資格で委員長になりました。そして、副委員長が伊藤熹朔、事務局長も兼任していました。伊藤熹朔は千田是也の兄です。このように、演劇界の重要人物たちが移動演劇連盟を仕切っていたのです。 伊藤熹朔は、昭和18年に『移動演劇の研究』という本を書いています。移動演劇は、劇場がないような場所でも上演をするので、ときには劇場作りから始めなければならず、巨大な装置は使えないという点から色々な工夫がなされていました。 ここで重要なのは、国民全員が見る体制を作ること、単に楽しむためだけでなく、国民が考える場所を提供することを目的に移動演劇が作られたと書かれていることだと鴻さんは指摘します。 いろいろな場所で上演できるような一種の実験的な試みを展開しつつ、新しい創意工夫のもとに移動しながら演劇を上演していく、こうした移動演劇という新しい様式を作り上げていったと伊藤熹朔は書いています。 鴻さんは、この研究書を読みながらロシア・アヴァンギャルドのアジプロ演劇を想起したそうです。ロシアでは、1918年にボルシェビキのプロパンダ演劇のための劇場が列車となり移動し上演するアジプロ列車というものができました。アジプロ船もありました。 当時の日本ではアジプロ列車についてどの程度知られていたのか不明ですが、移動演劇では、舞台美術家である伊藤熹朔が中心を担って、プロセニアム劇場ではない形の舞台で、どういう演劇を、具体的に作っていくのかが模索されました。 このように、劇場なしでの上演を巡って移動演劇に新しい可能性があると考えた人たちがいて、それが国策で行われました。非常事態において行われていたことが、重要な演劇的な意味合いを持っている可能性があると鴻さんは論じます。 研究書の中で伊藤熹朔は、移動演劇の起源はギリシア演劇の起源にあるテスピスの車輪だと書いています。そうした歴史的な起源にまで遡りながら、伊藤熹朔は自分たちがやっていることは芸術的な革新運動であると思っていた。それを国策演劇であるということで切り捨ててしまうと、その面が見えなくなってしまう。一方で、独裁政権化の軍事政権ファシズムが演劇による総力戦化という中でそういうことが行われていたことは事実です。この2つの歴史的事実をどう繋げて考えていくことができるのか? さらに、植民地主義の抱える矛盾。ソビエト科学アカデミーの中の歴史書シリーズの中に、「植民地に対する侵略と略奪がなければ資本主義の成長はありえない」という一文があります。資本主義がなければ私たちはいないのだけれども、その植民地をいかに解放するのかというシモンヌ・ヴェーユの悩み。 それらの文脈の中に、日本の移動演劇がどう位置付けられるのか? 鴻さんは、日本の植民地主義や戦争責任を巡る議論と移動演劇の活動を参照しながら、それを演劇論として論じるのは非常に困難な作業であるが、そうした探求を進めることこそ演劇研究の役割であると言って講義を終えました。 参考文献: カール・ヤスパース『われわれの戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫、2015年)[ドイツ語原典は、1946年出版、初訳は、1950年桜井書店から『戦争の責罪』として刊行され、その後『責罪論』、『戦争の罪を問う』などのタイトルで幾度も出版されている]。 伊藤喜朔『移動演劇十講』(健文社、1942年) 伊藤喜朔『移動演劇の研究』(電通出版部、1943年) シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』(春秋社、1968年) スターリン『スターリン全集』7、10(大月書店、1952、53年) 文/椙山由香 
4 notes · View notes