Tumgik
#蓮實重彦
shihlun · 3 months
Text
Tumblr media Tumblr media
24 notes · View notes
anamon-book · 1 year
Text
Tumblr media
闘争のエチカ 蓮實重彦・柄谷行人 河出書房新社 装幀=菊地信義
8 notes · View notes
findareading · 2 years
Quote
まあ、気絶なさったの。あたくしも、結婚前に一度は気絶してみたいとひそかに憧れておりました。歐洲の小説を読むと、ヒロインたちは肝心なときに決まって卒倒するじゃありませんか。でも、卒倒って、本当はどんなことなんですの。
蓮實重彦著『伯爵夫人』(2019年6月kindle版、新潮文庫)
29 notes · View notes
ya-da · 2 years
Photo
Tumblr media
I went to "at "A-Get-Monya" in Koenji for an 8-KARAAGE(fried chickens) set meal for 1,100 yen. I arrived around 5:10 p.m., so I killed some time by reading "What is a shot?" by Shigehiko Hasumi at a nearby park. I returned at 5:20 p.m. to find that one person was already waiting in line. Still, the speed of eating has slowed down. I used to eat so fast. I was the first four to enter, the second to be served, and the slowest of the four to finish eating. Like the person who finished first, even though he was the first to eat "Atsu-Giri TON-KATSU" (Thick-cut large loin breaded pork chop set meal)with two extra pieces of fried chicken and another serving of rice. It was frustrating. And sad. 高円寺「あげもんや」で、からあげ8コ定食1100円。 17時10分頃に着いちゃったので、近所の公園で蓮實重彦「ショットとは何か」を読んで時間潰して、17時20分に戻ったら、既にひとり並んでいた。 やっぱりうまいね、「あげもんや」さんの唐揚げ。 それにしても食べるの遅くなってしまった。最初に入った4人、2番目に給仕されたのが僕で、4人のうちで一番遅く食べ終わった。 一番先に食べ終わった人とか、厚切り大カツで唐揚げ2コ追加してライスおかわりしてたのに、一番先に食べ終わっていた。 なんか悔しい。 そして哀しい。 #からあげ #唐揚げ #高円寺 #あげもんや #蓮實重彦 #ショットとは何か #friedchicken #koenji #tokyo #japan #japanesefood #japanesecuisine (あげもんや) https://www.instagram.com/p/ChdU3nevnzJ/?igshid=NGJjMDIxMWI=
2 notes · View notes
kazokudessin · 2 years
Text
2022年9月23日、ながおか映画祭で上映されます
映画『カゾクデッサン』が新潟県長岡市で開催される、ながおか映画祭で上映されることとなりました。 長岡リリックホールにて9/23(金・祝) 16:30 からの上映となります。
上映後のトークに今井文寛監督が登壇します。
長岡市民の皆さま、新潟県の皆さま、この機会に是非ご鑑賞ください。
http://nagaokafilmfes.jpn.org
長岡リリックホール
新潟県長岡市千秋3丁目1356番地6
電話:0258-29-7711
0 notes
kennak · 3 months
Quote
目に浮かぶようだな。近年の何もかもが軽薄なテレビバラエティ&ネットカルチャー的なノリに冒されて、批評や文藝といった知的な楽しさを軽視してきたことのツケだと思うよ。
[B! 映画] 久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくま
8 notes · View notes
ryotarox · 4 months
Text
「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だと確信して、黙って聞き流せばよい|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくま
(「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だと確信して、黙って聞き流せばよい|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくまから)
わが令和日本の貧しい言説空間には、「科学技術」といういかなる辞書にもまったく載っていない語彙がわがもの顔でひとり歩きしている。 「科学」と「技術」とは意味がまったく異なる二つの概念を指示する単語にほかならず、それが並置された場合、前部が後部を修飾するというのが日本語では一般的な理解である。とするなら、これは「科学的な技術」を意味しているのだろうか。どうもそうとは思えない。それなら、そう書けばよいはずだからである。 どうやら、この国には、平成七年に制定された「科学技術・イノベーション基本法」という不気味な名前の法律が存在しているようなのだが、その成立に貢献したとされる国会議員の諸姉=諸氏は、この意味不明な語彙からなる法律の制定に当たって、「科学技術」とはいったい何を意味しているかを、多少は考えられたのだろうか。勿論、そんな気配はまったく感じられないのだから、国会議員なるものを信頼すべきではない、といった退屈な結論を導きだしたいわけではない。
- - - - - - - - - - - - - - - -
本当にそう。サイエンスとテクノロジーは違うよねえ。
2 notes · View notes
reportsofawartime · 4 months
Text
あのとき何が敵だったかというと、間違いなく精神分析であるわけで、その精神分析をフーコーは優雅に避けるわけだけれども、ドゥルーズはそういう避け方をしなかった。代わりに、どんなに異質でもいいから、ガタリを連れてきて、一緒に『アンチ・オイディプス』を書いちゃうわけです。それは、優雅なテクストになるかわりに、暴力的かつ危険性をはらんだかたちで機能するわけでしょう。そのことがドゥルーズには見えてたわけですよ。(共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理・蓮實重彦・前田英樹・浅田彰・柄谷行人『批評空間』1996-Ⅱ-9)
2 notes · View notes
m12gatsu · 2 years
Note
人に薦めたい映画ありますか、
『ハッピー・アワー』を知らずに生きることは、現代の日本社会に対する破廉恥な無知の告白にほかならぬ。
と蓮實重彦御大が仰っていました。いやそこまでいわんでも……と笑ってしまいますが、確かにもう邦画はしばらく濱口竜介だけ観ときゃいいんじゃないですか、とも思います。これもだいぶ放言だけど。別に啓蒙したいわけじゃないんですけど、他人の機微にあんなに真摯な作家っていま他にいますか。あ、三宅唱のボクシングのやつ楽しみです。十二月にやるやつ。
あと、アピチャッポン特集のユリイカ読んで、僕が好きな映画はその多くが「スローシネマ」という定義に当てはまるらしいことを最近知りました。濱口の『親密さ』とかもたぶんそう。そういう話のできる友達が増えたらちょっと嬉しいかも。サブスクもいいけど、映画館行きましょう。
24 notes · View notes
foucault · 5 months
Text
Tumblr media
今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
6 notes · View notes
nocathasfuture · 1 year
Text
3 notes · View notes
shihlun · 9 months
Text
所謂的引用,容易被認為是缺乏獨創性的模仿,但是對電影而言,引用實際上意味著對電影的肯認,對本來缺乏正統性的電影可說是一種支撐。拼命地反覆才是引用。今天,缺乏電影記憶的電影是不存在的。從被認為具原創性的導演到被認為屬平庸之輩的導演,不管有意無意,所有電影藝術家都在引用前人作品,電影只能是對電影自身的反覆。這就是從高達開始,法國新浪潮作者們明確獲得的唯一電影真理。
蓮實重彥,《電影的記憶裝置》(1979)
14 notes · View notes
anamon-book · 1 year
Photo
Tumblr media
EV.Cafe 超進化論 村上龍+坂本龍一 講談社 装幀=浅葉克己 ゲスト:吉本隆明、河合雅雄、浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男
64 notes · View notes
ophelia333k · 1 year
Text
2023.03.23 逃走線を引く、存在の耐えがたきサルサ
 Twitter、「おすすめ」欄にずっと、キメセクとMDMAとChatGPTと、ときどき大江健三郎のツイートが流れてくる、という感じだった。別に「おすすめ」欄があって、そこで勝手にツイートをおすすめされることそのものは許せるけれど、自分のツイートがあの欄に表示される可能性があると思うと嫌な気持ちになる。あと、最近のTwitterって、メタゲームじみた空気感で、人を属性やパターンへと還元していくような流れがあって窮屈かもしれない。こういうことをTwitterで言ったとしてもそれはTwitterに回収されてしまうから、ここみたいな一応の「外部」にしか何も書くことができない。
 
 ツイッターをやめる、とは言わないまでも、距離を取る、という意識がずっとある。元々、インターネットは2001年の『リリイ・シュシュのすべて』で描かれているような、鬱屈した現実からの出口だったわけだけど、もはやインターネットは現実そのものと癒着してしまって、インターネットそのものから「現実」へと逃走しなければならないという転倒が生じてしまっている。
 
 ***
 
 そういえば、6日前に「INTERNET YAMERO」が出た。
 行われているのはある種のカルチャーのサンプリングなわけだけど、どのカルチャーもそれなりに自分幼い頃から体験してきたものだから、ほとんどオートマチックに快感を覚えてしまう部分はある。強制的に脳を弄りまわされるような。内容というよりかはアプローチとして、「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」とか「物凄い狂っとるフランちゃんが物凄いうた」辺りを思い出した。
 
 作中に「甘い夢を見せてよマイスリー」という歌詞があるように、インターネットと精神薬が癒着しているわけだけど、元々そういうカルチャーはオタク、というよりかはサブカルの領域との接点が多かった気がしていて、日本においてそれを広めた元祖は中島らも辺りなのかな。日本では違法の薬がそれほど出回らなかったからこそ、市販薬のODもしくは向精神薬の濫用が流行った、と整理しちゃいそうだけど、海外ではどうだったのだろう。少なくとも睡眠薬はどこでも濫用されるに決まっている。
 というか、濫用あるいは乱用、という言葉自体に反感を感じてきている。もちろん、明確にダメなラインは確かに存在する(自分もそれを経験しているから)。でも、睡眠薬を濫用する、とは言うけれど、正常な使い方とは何なんだろう。どんな薬にしても、私たちの身体の力能を増大させうる(つまり、私たちの身体が行いうることを最大化する)限りではそれは間違っているはずがない。その意味で言えば、覚醒剤でさえ私たちの身体の力能を増大さえうる、けれど、やっぱり程度の問題で、使いすぎれば身体の力能は減少していく。その意味では、LSDにせよ覚醒剤にせよ睡眠薬にせよテトラヒドロカンナビロールにせよ、私たちの身体が壊れず、その力能を減少させない程度で、身体の力能が増大するそのギリギリのラインでそれらを使い続ける必要がある(たとえばLSDは摂取しすぎるとあまりにも身体が「やわらかく」なりすぎてしまう。そして、あまりにもやわらかくなり過ぎた身体は何を為すこともできない。マイクロドーズする身体のことを考える。
 かなり脱線してしまった。結局のところ、サブカルな人たちもオタクな人たちも、インターネットが一定以上普及してからはどちらもインターネットを通じて交わるようになるわけで、そうなるとサブカルもオタクもインターネットに合流することになる。そして、その区別も曖昧になったのかもしれない。
 自分にとってマイスリーが関係する曲といえば神聖かまってちゃんの「マイスリーぜんぶゆめ」と、ひがしやしきの「マイスリー全部飲め」だったのだけど、これからは「INTERNET YAMERO」のことも思い出してしまうのだろうね。
 
 ***
 
 村上龍の対談集である『存在の耐えがたきサルサ』を読んでいる。
 お目当ては、村上龍と、中上健次、柄谷行人、坂本龍一、浅田彰、蓮實重彦との対談。
 まずは浅田彰との対談を読んでいるけれど、浅田彰がニーチェの言う強者は「マイノリティで、マジョリティに迫害されながらも、それをルサンチマンに変えずに逃走し続ける人」だと述べるのに対して、それを「強者というのは特権的に危機感を持っている人間」だとパラフレーズするところに村上龍を感じた。
 
 さらにこれを自分なりにパラフレーズするのなら、ニーチェの言う「強者」というのは、ある不可能性の壁のようなものによって阻まれながらも、その絶望的な状況に対して絶えず逃走線を引く者のことだと思う(もちろん、これは間にドゥルーズを介している)。さらに言えば、それは現実的(actual)な次元において絶望的な、不可能性の壁に阻まれながら、潜在的(virtuel)な次元において逃走線を引き、最大限に創造的である者のこと。
 浅田彰は「エイズになって、免疫系全開で外部に晒されながらも、創造的に生き続けている人」の例を挙げるけれど、まさにそのような状態。黒人たちのロックンロールあるいはHiphopもそうだし、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で、死刑を待つ中の獄中で、換気扇から聴こえてくる讃美歌で歌い踊る妄想をするエルマもそう。あるいはゴッホだってそう。
 対談の中で村上龍は「特権的に危機感を持っている人」という話から、魚から両生類の進化の例を挙げるけれど、ドゥルーズが明確にベルクソンのエラン・ヴィタール(生命の飛躍)の線の流れにいることを思うと、進化の話を持ち出してきたのは鋭くて、進化というのも、その環境の有限性の中で、つまりはアクチュアルな絶望、不可能性の壁の中で、逃走線を引くということ。あるいは、その潜在性を最大限に発揮するということ。
 
〈本当の意味でニーチェ的な強者ってのは、一番マイナーで、外に曝されてて、けれども、曝されている中で何とかいろいろなものをピック・アップして組み合わせて新しいものをつくり出していく、そういう存在なんだということは重要だ〉(『存在の耐えがたきサルサ』、p172)
 ***
 
 自分はずっとそうだけど、朝起きてからお昼、そして夕方に至るまで、18時くらいになるまでほんとうに何もすることができない。起立性低血圧とかも関係しているかもしれないけど、異常なくらいに何もすることができない。本調子が出るのは、23時~午前2時までの3時間くらいだけで、それすらも数日に一回くらいしかない。
 ***
 インターネット・ガールとインターネット・ボーイ。虹色の女はマンションの屋上から落下しては、再び逆再生されて、マンションの屋上へと戻ってくる。落下と再生を一万回繰り返す。虹色の女は肉塊になっては、また人間に戻って、また肉塊へと戻る。すべては同じことの繰り返しだけれど、たましいだけが1gずつ減っていく。
2 notes · View notes
practiceposts2 · 2 days
Text
20240514
いかに語るかがすべてなのだ。何かを立証しようとする芸術作品など、何の値打ちもありはしない。何ごとをも意味せぬ美しい詩句は、何かを意味しているそれと同程度に美しい詩句よりも、秀れているというべきなのだ。形式だけが救いなのである。
(蓮實重彦/凡庸な芸術家の肖像)
0 notes
straycatboogie · 11 months
Text
2023/06/13
BGM: 真心ブラザーズ - 空にまいあがれ
蓮實重彦『反=日本語論』を読んでいると面白いエピソードに出くわした。この本で、蓮實は彼がテレビを通して見た光景について書いている。そこでは外国語を流暢にしゃべる少年たちが、蓮實曰く「馬鹿正直」と言ってもいい態度で海外の人々を相手に自分の思いをぶつけていた���だけれど、それに触れて蓮實は「どの国の人間であれ、自分の外国語の力にどれほど自信があっても、外国語では意見を表明すべきでない」(p.47)と語っている。「外国語を話すことによって、しかも相手の意向にそって一つのまとまった考えを主張しようとする場合、人は必要以上に真面目になって、その真面目さがかえって途方もない不誠実へと自分を導いてしまうからである」(p.47)と。つまり蓮實はここにおいて、外国語で立派な意見を語ろうとしていた少年たちがその真面目さゆえに変に力んだ「社交的な」態度になってしまっていたことに冷や水を浴びせている。そしてこれは真面目に、なかなか傾聴に値する意見だと思った。ぼく自身は外国語として英語を話す場合、そんな風に「社交的」になってしまうことから来る滑稽さを免れているだろうか。
蓮實のこの見解から、ぼくはむしろ「外国語であれ母国語であれ、外に対して自分を表明することは本質的に滑稽なことなのではないか」とも思ってしまう。ぼくがこのようにして書いている日記だって充分に滑稽だ。誰に頼まれたわけでもないのに、ぼくはこうして自分の思いをしたためてそれを「他人に向けて」表明する。でも、ぼくはその滑稽さが悪いことだとは思わない(蓮實だってそれを「悪いこと」とは言っていないとぼくは受け取る)。滑稽かもしれないにしても、言いたいことは言ったほうがいい……だけど確かに、そこに「外国語で話す」というファクターが入ってくるとその滑稽さは増すと言える。ぼく自身、英語で話していると妙に明るくなってしまったりフランクになったり、あるいは「社交的」になってしまったりする。蓮實がまさに指摘するような滑稽さからぼくも自由になれていない。これはいったいどこから来るのだろう。もっともこれはぼくだけではなく、外国語を話すことで他の人もこうした「変化」を感じるものだとぼくは聞くのだけれど。
「外国語を話す」ことは、その意味では自分の中で別の「モード」「人格」が立ち上がることではないかと思う。「ペルソナ」と言ってもいい。それは人に過度に「社交的な」仕草を強いてしまうところもあるのかもしれない。蓮實が見抜いた「滑稽さ」もそこから来ているのだろう。もちろん蓮實に反論をぶつけることもできる。「真面目さ」「滑稽さ」はそんなに悪いことなのか、と。蓮實的な冷笑主義も確かに大事な視点だけれど、ぼくはついつい「社交的」かつ「生真面目」になってしまう自分を愛する……といろいろ書いてしまったけれど、この『反=日本語論』はなかなか示唆に富む面白い本だと思った。大学生の頃に1度読んだことがあったのだけれど、ぼくはその頃はまだ今のように本腰を入れて英語を勉強しておらずしたがって外国語のシビアさやリアリティとも触れ合った生活をしていなかった。今読むとどんな気づきをもたらしてくれるのだろうか。
夜、英会話教室へ行く。そこで今日は自然を鑑賞するという話題で盛り上がった。宍粟市、あるいは日本のさまざまな場所にある豊かな自然。そして世界の各国に存在する自然……ぼくは最上山公園もみじ山について話した。新緑の季節にもみじ山に行って緑豊かなもみじの葉を鑑賞したのがとても印象的だったこと……ぼくはその席で、自分の口から英語がスラスラと出てくることに驚く。そして、蓮實が言っていたことについても考えてしまった。蓮實が言いたいのはこうして「スラスラ」「ペラペラ」言葉を発してしまうことの中にある、ある種の「いかがわしさ」ではないかと思ったのだ。コントロールできるわけのない外国語が、にもかかわらず口からポロポロとこぼれ落ちてくる……確かにそう考えていくと外国語を学ぶということは謎だ。その教室に話を戻すと、いろいろな方の英語に触れて自分自身の考え方もリフレッシュされたように思われた。確かな幸せを感じて、今日のレッスンは終わってしまった。
0 notes