Tumgik
#東別院暮らしの朝市
nocogou · 1 year
Photo
Tumblr media
明日4/28(金)は 東別院暮らしの朝市 に出店致します 今月はいつもと違う場所ですので見つけて頂けたら嬉しいです♪ 【山門外エリア5】※3ページ目MAP参照 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『 東別院暮らしの朝市 』@higashibetsuin_asaichi 2023年4月28日(金) 10:00〜14:00 真宗大谷派名古屋別院(東別院)境内 / 名古屋市中区橘2-8-55 https://higashi-asaichi.jp ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ◉駐車場が満車の場合は近隣のコインパーキングをご利用ください ◉地下鉄名城線東別院駅より徒歩3分 ◉エコバッグを忘れずに!朝市は脱ビニール袋を目指しています #東別院暮らしの朝市#nocogou#ノコゴウ (真宗大谷派名古屋別院) https://www.instagram.com/p/CriDirBvydy/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
megka2 · 1 year
Photo
Tumblr media
久方ぶりの東別院暮らしの朝市 くもり☁️の予報が日差しが出て来て暖かいです😊 14時まで #nocogou #東別院暮らしの朝市 (東別院本堂) https://www.instagram.com/p/ClfKyMuPBK-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
kitobotanical · 2 years
Photo
Tumblr media
6/28 東別院暮らしの朝市 異例の早さで梅雨明けし、今日は真夏のように暑いですが、雨降りよりはマシかな… 夏に涼しげな山モミジや暑さにも耐えられる強い植物をメインに持ってきました。 今月でしばらく産休に入り出店はまた半年か1年後くらいに復帰する予定です。 お店への納品はもう少し早く復帰できると思いますが、出店もできるだけ早めに戻りたいなと思っています。 #kito #杜kito @kito_boooon #盆栽 #山野草 #東別院暮らしの朝市 @higashibetsuin_asaichi (at 東別院手作り朝市) https://www.instagram.com/p/CfVTQJXvI9j/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
yotchan-blog · 4 days
Text
2024/4/28 7:59:20現在のニュース
「山姥切」維持管理へ 基金設置 足利市「ふるさと納税」など活用(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:58:52) <茨食健美 大和沙織のこだわりレシピ>サニーレタスの焼き肉サラダ まぜて巻いて大満足(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:58:52) 交番で性的行為、20代の巡査の男女を処分…パトカーで自宅まで送り届けた別の巡査は本部長訓戒([B!]読売新聞, 2024/4/28 7:58:05) 読む政治:なぜいま? 岸田首相がGWに「世界一周弾丸ツアー」を敢行する理由 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/28 7:54:09) 岸田首相より人気? 林官房長官、業務の合間に「独自外交」 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/4/28 7:54:09) 春の褒章 埼玉県内から1団体と22人 鴻巣の「読み聞かせグループ たんぽぽ」が緑綬受章(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:50:37) <国吉好弘の埼玉NOW>J3大宮 順調な滑り出しで首位(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:50:37) <各駅停車>伝説の獅子たち(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:50:37) <ビバ!チバ!サンバ!>(1)人生変えたバテリアの響き 「これだ!」退屈 消えた 天王山「浅草カーニバル」今年こそ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:50:37) 色街を撮る、私の生きた証しだから 吉原に身を置いたシングルマザー(���日新聞, 2024/4/28 7:46:21) 投資信託、真のコストを知る 「総経費率」比較しやすく - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/28 7:45:28) ヨソモノ視点で横須賀の魅力を伝える 移住した木内さんが冊子に 暮らして感じた味わいや愛着(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:42:14) 衆院3補選の投票始まる 激戦の東京15区補選、投票率は?(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:42:14) 大迫力 夜の野外上映 横浜臨海部でシネマフェスティバル 30日から開催 入場無料(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:42:14) <記者だより>職員の萎縮招く処分(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:42:14) <つながる子育て>リンクママで知り合って 麻生で30日、ワークショップ開催(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/4/28 7:42:14) 春の褒章651人・14団体 俳優の原田美枝子さんら - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/4/28 7:39:15) 読む政治:なぜいま? 岸田首相がGWに「世界一周弾丸ツアー」を敢行する理由(毎日新聞, 2024/4/28 7:33:35) 絡み合う謎、理解されぬ純愛 7年ぶり長編刊行、佐藤正午さんに聞く(毎日新聞, 2024/4/28 7:33:35)
0 notes
shintani24 · 2 months
Text
2024年3月1日
Tumblr media
能登地震の倒壊家屋、元日のまま 「一歩一歩進むしかない」(共同通信 3月1日)
石川県輪島市の「輪島朝市」周辺に残る焼け焦げた車両=1日午前
発生から2カ月となる1日になっても、多くの家は倒壊したままで元日と変わらぬ光景が広がる。能登半島地震で大きな被害を受けた石川県ではいまだに1万人以上が避難所にいて、自宅に戻った人も断水などで不自由な生活を強いられている。「大変だけど一歩一歩進むしかない」。輪島朝市の焼け跡に早朝から手を合わせる人の姿も見られた。
朝市近くに住む主婦(77)は倒れかけた家屋を指さし「早くつぶしてくれないと危なくて」とつぶやく。道路には屋根瓦やくぎが散乱したままで「ちょっと歩くだけでも危険を感じる」。
珠洲市飯田町の浜田博司さん(80)は応急危険度判定で「危険」とされた自宅の再建をあきらめ、金沢市の賃貸住宅に家族4人で移る。「未練もあるが2カ月の避難所生活の大変さは体験しないと分からない」と話した。
津波の被害が大きかった珠洲市三崎町では地面が隆起した波打ち際に船や家電、布団などが残されたまま。川端国夫さん(73)は「崩れた建物も撤去してもらわないといけないが、いつになったら業者が来るのか」と力なく話した。
Tumblr media
石川6市町から1400人超転出 地震2カ月、人口流出に拍車の懸念(朝日新聞 3月1日)
6市町の転出者数
能登半島地震で特に大きな被害を受けた石川県内の6市町で、発災から2カ月で1400人超が別の自治体に転出していたことがわかった。転出には至っていないものの他の自治体に避難している被災者も多く、今回の地震をきっかけに人口流出に拍車がかかることが懸念されている。
1日時点で6市町に出された転出届の集計(速報値含む)によると、1月と2月の転出者数は計1449人。昨年同期の計602人に比べて2・4倍となった。地震が起きた元日時点の6市町の人口(11万9650人)の約1・2%にあたる。
1~2月の転出者は多い順に輪島市417人(前年同期196人)、七尾市405人(同200人)、珠洲市240人(同45人)、能登町163人(同57人)、志賀町129人(同82人)、穴水町95人(同22人)だった。
また、石川県は1日、2月1日時点の県内の人口は110万6278人で、地震発生の元日時点から1570人減になったと発表。内訳は死亡が出生を上回る自然減が1030人、転出が転入を上回る社会減が540人で、1971年4月の調査開始以来、自然減は過去最大、社会減は1月の数値としては過去最大だったという。
大森凡世(かずよ)能登町長は朝日新聞の取材に「ショックだ。生活の場を少しでも早く提供しない限りはこの状況は変わらない」と危機感をあらわにする。
Tumblr media
衆院予算委に臨む岸田文雄首相=2024年3月1日午後5時36分、岩下毅撮影
予算成立にこだわる岸田首相、弱体化を懸念か(朝日新聞 テーマ特集:岸田政権)2024年3月1日
新年度政府予算案をめぐる1日の審議は深夜に及んだ。年度内成立が確定する2日までに衆院を通過させようと自民が強行し、野党が抵抗したためだ。誰よりも2日の通過にこだわったのは岸田文雄首相本人だった。
1日の衆院本会議は、拍手とヤジ、双方が飛び交う騒然とした雰囲気となった。
「予算審議は円満にやってきたのに、強行するなんてありえない」
立憲民主党の山井和則氏の衆院本会議での「演説」は、記録が残る1972年以降最長の2時間54分間にわたった。小野寺五典・予算委員長(自民)の解任決議案を説明する場だが、国会混乱の発端は裏金問題にあるとして、裏金作りに関わった自民議員を一人ずつ読み上げて指弾した。
自民の強行に対し、野党はそろって批判した。日本維新の会の馬場伸幸代表は「原因は与党にある」と指摘。国民民主党の玉木雄一郎代表も「上半身は謝っているけれど、下半身は蹴飛ばしているような対応だ」と首相の姿勢を批判した。
ただ、この日深夜、立憲は態度を軟化させ、2日の採決に応じた。
強行は首相の強い意向とされる。年度内の自然成立のめどが立たないまま衆院を通過すれば、その後の参院審議でも野党の攻勢にさらされる可能性がある。自民幹部は「何か一つでも問題が起きて審議が止まれば、とたんに見通せなくなる」。野党側は、二階俊博元幹事長や萩生田光一前政調会長らの参考人招致を求めており、こうした要求にも応じざるをえない可能性が出る。
首相自ら衆院政治倫理審査会(政倫審)に出席したり、政倫審と同時並行で予算委を開催したりするなど異例の対応が続いたことも、予算案の年度内成立を確定させたいとの強い思いの表れだ。
そこまでして自然成立にこだわるのはなぜか。首相周辺は「年度内成立ができなければ、政権の統治能力が問われ、内閣支持率がさらに下がりかねない」と危機感を漏らす。参院中堅が「ここまで自然成立にこだわるのは、政権の弱り具合を首相自らが認識しているからだ」と指摘するように、自然成立が確定できなければ政権の弱体化に拍車がかかる。
とはいえ、こうした事態を招いたのも首相自身だ。強行姿勢を続ける首相に対し、自民重鎮はこう指摘した。「判断が遅すぎる。派閥解散にしてもそう。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)もそう。対応がすべて後手に回っている」(三輪さち子)
Tumblr media
繰り返す「在日特権」論は100年前のドイツと同じ 社会保障の行き詰まりを「あいつらのせい」に転嫁(東京新聞)2024年3月1日
根強く繰り返される「在日特権」という言説。だが、税制面での特権について国税庁は2月28日、国会で「ない」と明言した。昨年11月には自民党の杉田水脈衆院議員が「実際には存在します」とX(旧ツイッター)に投稿するなど、保守系国会議員やネット右翼らの「ある」という主張はやまないが、政府が公式に否定した格好だ。杉田氏を含む裏金議員の問題が問われた政治倫理審査会開催の日に、本当の特権は誰にあるか考えてみた。(岸本拓也、西田直晃)
◆国税庁が国会できっぱり否定
「国税当局が、対象者の国籍や特定の団体に所属していることをもって特別な扱いをすることはない」
「在日特権」について「ない」と答弁した国税庁の田原課税部長=衆議院インターネット審議中継の動画から
在日コリアンらへの憎悪をあおる悪質なデマとして知られる「在日特権」について議論された28日の衆院予算委員会分科会。高橋英明氏(日本維新の会)が、税制面の優遇などがあるのかとただすと、国税庁の田原芳幸・課税部長はきっぱりと否定した。
高���氏が「朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)とか、それに関わる法人個人にも一切の優遇措置はないのか」と重ねて問うと、田原氏は「繰り返すが、特定の団体なり、その会員に対して、特別な取り扱いをすることはない」と明言した。
在日特権は、在日コリアンが、日本社会で優越的な「隠れた特権」を持っているとする言説で、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などが主張してきた。内容はデマにあふれ、ネットの検索動向を示すグーグルトレンドによると、14年をピークに世間の関心は薄れていった。
◆杉田水脈氏の「存在する」発言で再燃
しかし、特定民族などへの数々の差別発言で知られる自民党の杉田水脈衆院議員が昨年11月、X(旧ツイッター)で在日特権は「実際には存在します」などと投稿して批判を受けると、その言葉がにわかに注目された。
ただ、これまでも特権の存在は、ことごとく否定されてきた。在特会がやり玉に挙げてきた在日コリアンらに認められている「特別永住資格」もその一つ。1991年の出入国管理特例法で定められ、一般の永住者と違い、入国審査時の顔写真の撮影や指紋採取などが免除される。
韓流ショップや韓国料理店が並ぶ新大久保で、旭日旗などを掲げてデモ行進する在日特権を許さない市民の会(在特会)=2013年3月17日、新宿区で
これらは特権なのか。特別永住者について議論された2014年10月の参院内閣委員会で、山谷えり子・国家公安委員長(当時)は「特別永住資格は特権ではなく、法律や通達に基づくもの」と答弁。当時、在特会関係者と一緒に写真撮影したことが問題視された山谷氏でさえ、特権とは言わなかった。
◆特別永住資格には「歴史的な背景がある」
改めて出入国在留管理庁に聞くと、担当者は「歴史的な背景がある話で、優遇や特権と呼ばれるものとは性質が異なる」と話した。
日本は1910年に日韓併合で朝鮮人を「日本国民」にして、労働力として日本で炭鉱労働などに従事させた。しかし、終戦後の52年にサンフランシスコ平和条約が発効されると、在日コリアンらの日本国籍は剝奪された。
すでに日本に生活基盤のある在日コリアンらが引き続き暮らせるよう韓国政府と議論。その子孫を含め、安定的な生活が送れるように整備されたのが特別永住資格だった。先の担当者は「日本への定住性が強いことや、日本国籍を失わせてしまったことへの配慮は必要で、結果的に一般の永住者と違いが生じた」と説明した。
生活保護を巡っても在日コリアンが「優遇」されているとの主張もあった。改めて、厚生労働省保護課に尋ねると、担当者は「特別永住者だからゲタを履かせることはない。日本人と同じように、支給要件に合致すれば出すし、しなければ出さない」と否定した。
◆「荒唐無稽なデマ、口にする国会議員がいることに驚き」
在日特権は存在しない。政府があらためて示す見解に対し、ジャーナリストの安田浩一氏は「そもそも、この文言をまだ持ち出す人がいることに驚き。荒唐無稽なデマに過ぎないのに。ましてや国会議員が口にするのは異常としか言いようがない」と絶句する。
その上で、在日コリアンの置かれた現状について、「現実には多くの在日コリアンが日本国籍を取得している。優遇措置が存在するなら、わざわざ日本国籍を取得する必要はない。むしろ、日本人と同様に税金を払いながらも、外国人参政権がなく、政治参画の機会すら持てない。そちらのほうが問題だ」と指摘。「マイノリティーがこうした差別を訴えると、『不当な利益を求めるな』という主張が横行しがち。現代における差別扇動の典型的な表現だ」
◆差別のために妄想とデマを寄せ集める、レイシストの作法
ネット右翼の中には、過去に一部の自治体が行っていた在日コリアンへの税の減免措置を「特権だ」と決め付ける言説もある。安田氏は「植民地時代に国籍を一斉に剝奪され、終戦直後には社会保障から排除された無権利状態だった。行政による必要な措置であり、それは特権でも何でもない。在日コリアンを差別したいがために、あらゆる妄想の産物やネット上のデマを寄せ集め、形式的な理由をつくり、武装して差別の正当化を図る。それがレイシストの作法だ」。
今回も、国税庁が在日特権を公式に否定したにもかかわらず、いぜんネット上には、「実質的に特権まみれ」「通名悪用すればいくらでも悪さできる」「ナマポ(生活保護)在日に優先してんじゃん」といった書き込みがあふれる。こうした排外主義的な動きの源泉に何があるのか。
「ヘイトは愛国心の発露ではなく、『政府は私を大事にしてくれるのか』という不安感の裏返しでは」と語るのは、駒沢大の山崎望教授(政治理論)。「社会保障や安全保障の行き詰まりを考えたとき、国に見捨てられる恐れが潜在意識の中にある。その点が日本人と関係のない人々の排除に向かっていく」
東京造形大の前田朗名誉教授(人権論)は「『日本人が損している』『本来得られるはずの利益が得られていない』といった思い込みが背景にある。下に見ている旧植民地出身者に目を付け、そのいびつな感情を『あいつらのせいだ』と転嫁している。100年前のドイツでも、ユダヤ人に対して同じ見方をしていた。世界中どこでも起きうる現象形態だ」と話す。
◆「特権があって当然」という思いがあるからでは
本来なら、政治家はこうしたヘイトやレイシズムに歯止めをかける立場だ。だが、岸田文雄首相が22年に杉田氏を総務政務官に起用するなど、自民党内には、歯止めをかけるどころかヘイトを容認したり、拍車をかけるよう動きや発言が後を絶たない。
前田氏は「一部の地方議員にも排外的な言説をあおる動きがあるが、『差別するつもりはない』という言い訳がまかり通っている。歴史認識の違いで済まされてしまい、議論が成立しないまま、差別と迫害につながっていく」と危ぶむ。
2月29日から岸田首相らが出席して始まった政倫審では、「政治資金は非課税」といった政治家への税制上の優遇措置も問われている。安倍派から寄付された計1564万円が政治資金収支報告書に不記載だった杉田氏、同氏を重用した安倍晋三元首相の名を冠した安倍派の幹部らは裏金疑惑にまみれている。存在しない特権を唱えたり黙認したりしてきた側が、「政治家特権」を享受してきた。
山崎氏は言う。「政治家には『特権があって当然』という思いが多かれ少なかれあるのでは。特権を持っていい人、よくない人という線引き、奇妙なおごりや選民意識が見え隠れする。非常にゆがんだ意識だ」
◆デスクメモ 「在日特権」などのヘイト言説は、旧ツイッターなどで根強く使われる。根拠を示さず短く攻撃的に言い切ってしまう危うさ。旧ツイッターより8字少ない132字制限のこのメモを5年9カ月書いてきて、痛感している。自分はきょうで最後。今まで本当にありがとうございました。(歩)
0 notes
helloharuo-diary-2023 · 3 months
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
思い出を振り返る
編集 | 削除
Tuesday 11 February 2014
2014年1月9日(木)夜10時4分、おかあさんが92歳で亡くなった。おかあさんは、自分の母のことではない。ハルオは、26歳の時人生のターニングポイントを迎えた。それはカメラマンになる修行を始める時だった。キーパーソンは、カナダ人のジョン。ジョンとの出会いは、ハルオが当時勤めていたカメラ量販店(24〜26歳)でのことで販売員(ハルオ)とお客(ジョン)の関係から始まった。そのジョンにカメラマンになりたいと伝えるとジョンはある女性を紹介してくれた。その女性は、ハルオが師事する事になったカメラマンGが手掛けていた雑誌の編集者をしていた。ハルオは、ジョンを介してその女性と会いまもなくカメラマンGを紹介してもらい彼の元で働きながら写真を学ぶことになった。
ハルオは、当時国分寺に住んでいた。カメラマンGの仕事場は中目黒にあった。一方ジョンは中目黒に近い下北沢のアパート「葉隠荘」に住んでいた。そのアパートは、いわゆる外人ハウスで管理人がいなくある意味無法地帯のアパートだった。そのアパートがあった敷地内におかあさんが営む一杯飲み屋「小料理 小千谷」があった。ハルオは、国分寺のアパートをキープしながら葉隠荘(3畳部屋)に移り住んだ。そしておかあさんと出会った。おかあさんは、当時70歳だった。1991年のことだ。「小千谷」とはおかあさんの生まれ故郷新潟県小千谷のことだ。「小千谷」カウンターに5席ほどの小さい飲み屋でおかあさんが一人で切り盛りしていた。メニューは、300円と600円のみ。瓶ビール(大瓶)500円。おかあさんは、自分のことを『昔はあばずれ、今は聖母マリア』と言った。そして『おかあさん』と呼んでと言われる。おかあさんは、外国人しかいない葉隠荘に日本人がやって来たことが嬉しかったのだろうかハルオとおかあさんはすぐに打ち解けて仲良くなった。「小千谷」は夕方から12時まで営業していたので仕事が遅くなった時でもお店は開いていてよくハルオはおかあさんに会いにお店に寄った。おかあさんは昔の下宿屋のおばちゃんみたいな存在だった。おかあさんは世田谷区に住まいがあり旦那さんと暮らしていたが葉隠荘にも1室部屋を持っていた。その部屋はジョンの部屋(6畳部屋)の隣りだった。ジョンもハルオも20代後半の血気盛んな時期で週末となればどこからともなく外国人たちがジョンの部屋に集まりテクノミュージック(後にトランス)を聞いて騒いだ。ボロアパートの葉隠荘だから音は筒抜けでおかあさんは最年長でテクノを聞いていたことになるだろうか。聞くだけならともかくその音はおかあさんには不快でよくジョンの部屋に来て『うるさいよ〜』と注意に来た。
「小千谷」には、常連のお客さんがたくさんいて当然おかあさんのファンでもあった。おかあさんが道で拾った鶏をカゴに入れて飼っていた時があった。そのカゴは「小千谷」の店先に置いてあってある日おかあさんはそのコメコと名付けた鶏を写真に撮っている女の子Aと出会う。そして「うちにも写真を勉強しているハルオ君という子がいるよ』と伝えハルオはその女の子と「小千谷」で会った。ハルオは、その女の子を気に入りやがて2人は付き合う様になった。おかあさんは愛のキューピッドをし他にもおかあさんがお客さんとお客さんの縁を取り持ち結婚までしたカップルがいた。ハルオには、18歳で上京して以来2番目に仲良くなったTという友人がいるがそのTも「小千谷」が気に入り常連になった。そのTもやはり常連だった女性と恋に落ちその縁は今でも続いている。
ハルオが葉隠荘にいた期間は3年間だったがその間に「小千谷」が30周年を迎えた。近くの北沢八幡宮の宴会場を借りて大勢の人が集まり盛大に開催された。おかあさんは、得意のかっぽれを踊った。おかあさんはハルオに葉隠荘の外観写真を撮ること依頼しその写真を使い記念テレフォンカードを作った。おかあさんが何かの病気になり病院に入院した。それは大したことではなかったが退院の日ハルオはおかあさんに頼まれて迎えに行った。当時ハルオは400ccのバイクに乗っていておかあさんをシートの後ろに乗せて葉隠荘まで連れ帰った。そのことは後々までもおかあさんの記憶に残っていて時折そのことを懐かしんでハルオに話した。
「小千谷」には焼き飯というメニューがあってとても美味しく量がありハルオはよく好んで食べた。他には、刺身や漬け物、焼き魚等のメニューがあった。時折ハルオが朝仕事に出掛けると葉隠荘の入り口におかあさ��からハルオに宛てたメモがありお店で残ったメニューの焼き飯やおにぎり、惣菜、を詰めてハルオに弁当を持たせてくれた。おかあさんは"お母さん"だった。ハルオは、バイクで交通事故に遭い肩甲骨と鎖骨を折って入院したことがあった。その際にはハルオの母も看病にやって来たのでハルオの母とおかあさんは顔を合わせている。その後年賀状のやり取りも続く。
ハルオが葉隠荘に住んで約3年後葉隠荘が取り壊しになる話が進められていた。丁度ハルオはカメラマン修行も終えた頃で立退料を大家の代理から30万円貰って早々に羽根木公園の近くのアパートに引っ越しをした。その後も暫く葉隠荘も「小千谷」もそのまま健在だったが遂に取り壊しをする時がやって来た。おかあさんが75歳前後のことだろうと思う。ハルオは、葉隠荘が取り壊される日、ドキュメント写真を撮った。その後まだ元気だったおかあさんは世田谷区上町駅近くの商店街に「小千谷パート2」を開店させた。ハルオは、定期的におかあさんに会いに行った。さてその店が何年続いたか?2〜3年?ハルオには記憶にない。下北沢という好条件にあった時に比べ上町ではお客さんが少なくなっていた。それでもおかあさんはお店を続けたかったんだと思う。
おかあさんは、水泳を好んで良くプールに出掛けていた。『ハルオ君、今度私が泳いでいるところを撮って』とおかあさんに言われたことがあったが実現には至らなかった。『小千谷パート2』が終りかけた頃、おかあさんは、自分史を書いた。その文章を常連のお客さんたちが小冊子に纏めた。その中にハルオについての話を書いてくれた。
2006年、ハルオは、写真展「十人十ゑろ」を開催した。しばらくおかあさんとは会っていなかったがおかあさんに写真展の話をすると行きたいと言ってくれた。しかしおかあさんは足が悪くなっていて自力では来れない。ハルオは、タクシーをチャーターしておかあさんの送迎をした。「十人十ゑろ」は10人の女性の素肌(殆どがヌード)をキャンピングテントの中で撮影した作品だった。その後おかあさんとのやり取りは年賀状や時折の電話で続いて行った。
2008年、ハルオは25年間住み慣れた東京から静岡に引っ越しをした。この年の前後(記憶が乏しい)におかあさんに会いに行った。場所は下北沢から近い世田谷区の淡島通り付近の喫茶店。おかあさんの住まいは一戸建だったがとても小さく人を迎い入れるには難があった。おかあさんの足は更に悪くなっていた。その時は、ハルオはおかあさんがキューピッドをして付き合うことになった女の子Aと行った。Aとのお付き合いは半年も続かなかった。しかし元々Aはカメラマンになりたかった女の子でハルオに触発されてか付き合っている頃から写真学校の夜間部に通い晴れてカメラマンになっていた。ハルオとAは、友達として連絡を取り合っていたのでいい機会と一緒におかあさんに会いに行ったのだった。ハルオは、写真を撮って後でおかあさんにその写真を額に入れて贈った。おかあさんはその後世田谷の住まいをそのままにして小千谷に近い新潟県長岡市に身を寄せた。始めはおかあさんだけでその後旦那さんも。
2011年、おかあさんからハルオに手紙が届いた。その日は偶然にもハルオの誕生日だった。手紙が入った封筒には、現金2万円と写真も入っていた。その時何故現金が入っていたのか分らずハルオは、誕生日プレゼントだと勝手に思った。(しかしそれは後で気付いたが新潟までの往復の交通費だった。)そして写真だがそれが驚いたことにおかあさんのヌード写真だった。おかあさんが50〜60歳位の頃の温泉の露天風呂に入っている写真で下半身はタオルで隠れていて上半身は裸で乳首は見えそうで見えてはいなかった。手紙に『ハルオ君の個展か何かに出せるんじゃないかと勝手に考えました。自分のうぬぼれかも知れないけどそんな風に役立てて下さい。お願いします』とあった。随分大胆だなとハルオは驚いた。ハルオは、この時以前プールの写真を撮ってとリクエストされたことを思い出した。
手紙を貰った後中々新潟までおかあさんに会いには行けなかった。 ハルオは、それがはがくゆく気になっていたのでおかあさんに会いに行く決意をする。 おかあさんに貰った交通費2万円を使い時がやって来たのだ。
2013年春、 その旨をおかあさんに伝えようと身を寄せていた新潟県長岡市のお宅に電話すると旦那さんが危ないからまたの機会にして欲しいと言われ延期した。おかあさんには2人のお子さんがいて長女さんは大阪に住んでいて息子さんはすでに亡くなっていた。その息子さんの奥さんがおかあさんと旦那さんの世話をしていたのだ。間もなく旦那さんは亡くなられた。そして10月の始め、おかあさんに会いに静岡から車で出掛けた。久しぶりに会ったおかあさんは、すでにガンに侵されていた。部屋の中で2時間ほど話した。写真も撮った。しかしおかあさんの笑顔は撮れなかった。おかあさんは、長年の伴侶だった旦那さんが亡くなり生きることよりも死ぬことを願っている様に見えた。ハルオは、おかあさんと別れた後おかあさんの勧めで小千谷にも寄って来た。おかあさんの実家は小千谷駅近くにあった。甥っ子さんが寿司屋を経営し、その同じ通りにおかあさんの幼馴染みが住む金物屋があって両方訪ねた。幼馴染みの方はご健在で写真も撮ることが出来た。
『おかあさん、これから手紙を定期的に送っていい?』そうハルオはおかあさんに尋ねると承知してくれたのでその後迷��にならない様に気を使いながら手紙(葉書)を送った。しかしおかあさんはそれから3ヶ月後に帰らぬ人になってしまった。
おかあさんのご冥福を心からお祈り致します。 長い間本当にありがとうございました。 安らかにお眠り下さいね。
2014年2月21日(金)    ハルオ
0 notes
ichinichi-okure · 3 months
Text
Tumblr media
2024.1.17wed_tokyo
昨晩は、わりとよく眠れた。 鼻詰まりが随分ましになったのが嬉しい。それまでは鼻をどれだけかんでも一向に空気の通り道が出来なかったのに、今では呼吸をするたびに鼻の奥に冷気を感じることができる。鼻呼吸ができないと、寝てる間にもしや呼吸困難に陥るんじゃないかと妙な心配をしてしまう。
熱を出すような風邪は4年ぶりです。 SUNNY BOY BOOKSさんでの個展を終えて、一息ついたらこれである。まあ、作家が個展のあとに調子を崩すのはよくあることかもしれない。 もしやコロナでは、と検査キットを試してみたけど幸い陰性でした。
たとえコロナでなくとも、辛いものは辛い。ふと寝起きの妻を見ると、どうやら彼女も調子が悪いらしく、今日は在宅の手続きを取ったそうだ。自分の風邪がうつったんじゃないかとヒヤヒヤする。 首から上だけプールの水に没んでるような、じんじんとした不快さを感じながら1階に降りると、柴犬のひるねは階段の下で尻尾を振って待っていた。早く散歩に行きたいのだ。風邪をひいたせいでここ数日の散歩はショートコースばかりだった。今日はノーマルコースにしよう。(ひるねのお散歩コースは、ショートコース、ノーマルコース、スペシャルコース、プラチナコースがあります)
Tumblr media
昨日の夕方の強風で凍える思いをしたので、念のため厚着で外に出ると、今日はそれほどでもない。ひるねも待ってましたと言わんばかりに、軽やかなステップで歩いてゆく。
体調が優れてなくとも、ひるねとの散歩は気持ちの良いものです。 僕が住んでいる町田市の玉川学園は、知る人ぞ知る坂の多い学園都市で、どこへ行くにも坂を上らなければならない。最寄りの小学校までは郵便局のある長い坂を歩いていかなければならないので、この町で健脚を鍛えた子どもたちは全国のマラソン大会でもなかなか良いところまで行くんだとかなんとか。真偽のほどはわからないけど。 とにかく、犬の散歩をするのにだって、それなりに坂を上ったり下ったりしなくちゃならないのだけど、おかげで見える景色にも変化があって楽しい。 家から南に曲がりくねった住宅地を歩いていくと、ゆっくりと標高が高くなっていく。断崖にそって左に大きくカーブしているので、そこからの見晴らしはなかなか良い。見晴らしと言っても見えるのは町田の街並みで、それは別にとくべつ美しいと言えるものではないのだけど(町田市民は怒るかもしれないけど)、「暮らし」を感じるにはこの上ない好スポットだと思う。夕暮れ時にここを通ると、ときどき中学生か高校生の女の子が、夕日を撮ろうとスマホを向けている。
犬と暮らすようになって、共に散歩をするようになると、そうでなかった頃には感じもしなかったことに気付くようになった。 たとえばポイ捨て。犬と散歩をすると自然と目は足元に行くわけで、道に転がるゴミの多さに辟易することがある。犬は食欲の権化と言っても過言ではないので(人間もそうかもしれませんが)おにぎりの包装フィルムとか、カップ麺の容器とか人が捨てたものに口を向けようとする。誤ってお菓子を包み袋ごと食べてしまった時は動物病院で吐かす処置をしなければならなかった。そういうことがあるから、散歩中にスマホなんてなかなか見れません。でもたまにいるんだよなぁ、スマホしか見ずに犬の散歩をしている人。もうなんならスマホに集中しすぎちゃって道の真ん中で直立不動になっちゃってるの。直立不動の飼い主にリードだけ繋がれちゃって、飼い主の周りをウロウロすることしかできない犬。なんですかあれは。
散歩から帰って、熱を測ると37.3分だった。これくらいの熱なんでもない筈なのに、なんなんだこの不快感は。 来週は勤め先の専門学校に必ず行かなければならないから、なんとしても治したい。学生は卒業制作の真っ只中で、その最終発表が来週なのだ。講師が風邪で不在なんて事態にするわけにはいかない。かかりつけのクリニックに予約を取ると、着込んで車で向かう。 いつも診てもらっている先生がお休みで、今日の先生は自分よりひとまわりは若そうな方だった。最近ではこういうことが増えた。今まではお世話になる人みんな自分よりも年上の方が多かったのに、気づけば同年代、今では年下の人にお世話になることが多い。アパレルの店員なんて、みんな年上のお姉さんって感じがしたけど。 若い先生は、緊張しているのか急いでいるのか、割と早口で、だけど丁寧に「まあ、風邪ですねえ」という話をしてくれた。
薬局で薬をもらうと、途中マクドナルドでテイクアウトして、家に戻った。ちょうど仕事の区切りがついた妻とまずはフライドポテトからむしゃむしゃ食べ始めた。
「マクドナルド美味しいな」つい、口に出た。マクドナルド美味しい。 「うん」妻が言う。
テレビをつけると、阪神・淡路大震災の追悼の様子を映していた。そう、今日は1月17日だ。29年前、私はまだ小学生でした。 会場の公園に設置された竹の灯籠で「ともに」の文字がかたどられている。当然、能登半島での被災者への思いを込めてのものだろう。 ここ数日は本当に寒い。北陸は凍てつく寒さだろう。避難所生活している方々を想うと本当に心が痛い。自分はなんだ、ちょっと風邪をひいたくらいで。暖かい部屋でハンバーガーを2個もたいらげているじゃないか。つい、そんなことを思っていると、切り替わったニュースで、与党が資金パーティの取りやめをどうするかで3時間会合を開きました、みたいなことを言っている。 どうかしている。さっさとやめれ、そんなこと。
Tumblr media
フツフツとテレビに対して怒っていると気分が悪くなるので、夕方まで眠ることにした。 ボフっと枕に頭を預けて、右を見たり、左を見たり、天井を見たりする。どっちを向いても鼻がツーンとして寝心地がよくない。 それで結局スマホをいじってしまったりするのだ。これは良くない。依存してるんだろうなぁ、スマホに。 どっかの誰かが言っていた。「朝起きて、パートナーにおはようを言う前にスマホをいじっているのなら、対策を考えたほうがいい」
そんな話の後だが、数時間後にスマホのメール通知で目を覚ました。新規の仕事の依頼メールだった。 児童文庫の装画の案件で、作者は誰もが知る素晴らしい児童作家だった。私も、彼の本は大好きだ。 パタパタと階段を降りて妻に報告する。妻も喜んでくれた。
16時になる頃に、もう一度ひるねのさんぽに行く。 手付かずの朝を歩くのも気持ち良いが、この時間の玉川学園も好きだ。街が頬を染めたような色に染まる。 ちょっと遠回りしたスペシャルコースをひるねと歩いて、何人かのご近所さんに挨拶をすると、例の見晴らしの良い曲がり角に差し掛かった。夕焼けの中で小田急電鉄がだんだん細くなる線路と共に、団地や無数の住宅の間を抜けて町田の市街地へ溶け込んでいく。
夕暮れが、家に帰る合図になればいい。暗くなる前に家に帰って、好きな人と過ごすのだ。夜になってからではちょっと遅い。夕暮れを一緒に過ごすのが良い。
Tumblr media
-プロフィール- 本田亮 40歳 東京都町田市 イラストレーター インスタ https://www.instagram.com/ryoillust/ ツイッター https://twitter.com/ryoillust
0 notes
kachoushi · 6 months
Text
井上泰至「恋の季題」連載ⅢⅩⅥ
花鳥誌2023年11月号より転載
Tumblr media
日本文学研究者
井上 泰至
 川端康成の代表作の一つ『古都』は全九章からなる。「春の花」「尼寺と格子」「きものの町」は春、「北山杉」「祇園祭」は夏、「秋の色」「松のみどり」「秋深い姉妹」は秋、「冬の花」は冬、といった塩梅で、京都の四季を背景に物語が進行する。「冬の花」は最終章に当たる。
 じつに真直ぐな幹の木末に、少し円く残した杉葉を、千重子は「冬の花」と思うと、ほんとうに冬の花である。 たいていの家は、軒端と二階とに、皮をむき、洗いみがきあげた、杉丸太を、一列にならべて、ほしている。その白い丸太を、きちょうめんに、根もとをととのえて、ならべ立てている。それだけでも、美しい。どのような壁よりも、美しいかもしれない。
 杉丸太とは、京都北郊の北山杉のことを指す。そこで働く女性たちは、裾除け・半纏を着て、三幅前掛けを腰に巻き、最後にズボンに当たる「たちかけ」を着る。同じく京都北郊の「大原女」と似ている。虚子が「時雨」とともに詠んでいる。
大原女の紺の袷の赤だすき 虚子 時雨るゝと大原女のうち仰ぎたる 同 時雨つゝ大原女言葉交し行く 同
 地味な労働着で、健気に働く娘の魅力とは、そのイノセントさ故に醸し出されるものだ。シンデレラを思い出してみればいい。灰被りの彼女は、掃除ばかり押し付けられるが、自分の美しさに気付かない。それは心ある男によって見いだされ、磨かれてゆく。昨今のフェミニストから見れば、とんでもないと怒られそうな解説をしてしまったが、共に古都鎌倉に住んだ虚子と川端の女性の嗜好はほぼ同じだと見てよい。
 もはやこのような京女など絶滅種だと思っていたが、そうでもない。最近我が家の三軒隣に、新築マンションが建ち、一階には美味いコーヒーを飲ませるカフェができた。店の女の子の言葉の端に残るイントネーションから、「関西の方ですか?」と聞くと、ひと呼吸あって「ええ」と用心深い線で答えてくる。
 本店は京都で、スタッフも皆京都から。用心深く京都弁を隠しているが、見抜かれたと感じたようだ。そこで安心してくださいと、「いや、こちらも京都出身なんです」と京都訛りで返してみると、救われた表情。その後通い詰めるうち、すっかり常連となり、打ち解けることに。常連故の気遣いを受け、きちんとそれに応えれば、花に水をあげたように笑顔は見違えってよくなる。
 ちょうど我が家は、義母を介護することになり、七時からやっているこのカフェは、しばしの憩いの場となった。そして、彼女たちの働く姿には、東京という別の言葉の世界で、自分の言葉をも押し隠しながら、明日を夢見て健気に早朝から働いていて、その姿そのものが健気で美しいことを知った。大人になった、虚子や川端が、京都の娘たちに心惹かれたのも、このような感じだったのだろう、と思ってみる。
 それにしても、なぜ彼女たちには、「時雨」が似つかわしいのだろう? 時雨は強いものではない。強くては、いくら何でも悲惨だ。しかし、夏の気持ちのいい驟雨でもない。娘たちは、雨の様子を見計らい、仕事の手や、ものを担いで移動する足を急かさなければいけない。そこに、哀れがあり、健気さが生まれる。カフェで言えば、早朝がよかったのだ。まだ眠い朝の表情を残しながら、常連の私には、心を込めてコーヒーを淹れ、朝食を作ってくれる。
 そして、何より雨の小粒は、若さを引き立てる。アイドルの写真集には、必ず雨やシャワーに濡れて、少しはかなげな表情のショットを挟む。肌の保湿力は、水を弾いて若さの光を引きたてるし、元気ではつらつとした表情の合間に見せる憂いの表情こそ、ギャップの魅力だ。ただ、明るいだけでは単調でいけない。塩で引き立ててこその高級菓子の甘さなのである。写真のプロになった知り合いにこの意見をぶつけてみたが、否定はしなかった。
 カフェのスタッフには、「東京の風は強いね、京都は雨も繊細なんだけど」とでも声をかけてみようか。暮れを控えた、彼女たちの帰郷の想いをきっと引き立てることだろう。
___________________________
井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
0 notes
kichino-tundra · 7 months
Text
虐殺の国③
Tumblr media
【注意】この作品には差別・虐殺などの描写があります。
第一章 権力構造、あるいは歴史的背景
第三節 視覚的スティグマ①
 鉄骨のシルエットが青空を切り裂くようにそびえ立っている。紺色の制服を着たダニエルは、ユリシーズと共に炭鉱の構内を馬に乗って巡回していた。竪坑櫓の周囲を見回し、特に異常なしとその場を去ろ��としたとき、一人の男が彼らに近づいた。
「すみません、ちょっと」
 そう言って二人を呼び止めたのは、セルピエンテの現場監督だった。
 セルピエンテは、蛇のような二股に分かれた舌を持つ種族だ。ドラコと同じく鱗を持つが、角を持たない。角以外の外見的特徴が殆どドラコと同じなので、彼らはユーゴニア市民権を持っている場合が多い。身体的特徴がドラコに近ければ近いほど高い「身体点数」が与えられるので、市民権の獲得に有利に働くのだ。セルピエンテの多くは、ドラコと他の種族の中間的な地位の仕事に就いていることが多かった。例えば、それこそ炭鉱の現場監督のような。
「一人怪我人が出たんです。崩れてきた石が頭に当たったとかで」
 土埃にまみれ、ランタンを腰から下げた彼はそう言ってダニエルたちを竪坑櫓から少し離れたところへ案内した。
◇◇◇
 怪我をしたのはリエブレという種族の女性だった。リエブレは、うさぎのような長く大きな耳をした種族だ。ガタと同じく、鱗がない代わりに被毛で全身を覆われている。
 その女性は、木に背中を預けながら薄茶色に汚れた布を頭に押し付けていた。汗や砂、油が染み込んで取れなくなったその布には、真っ赤な血が滲んでいた。坑道の中のような危険で力の要る仕事を女がこなしているなどとは少しも予想していなかったらしいダニエルは、思わずユリシーズの顔を見た。
「別に女の仕事場が選炭所だけとは言ってねえよ」
 彼は肩をすくめた。
 ダニエルは学校の教師や看護師など一部の職業を除いて、女性が働いているところを見たことが無かった。しかし彼が彼自身の故郷に存在するスラム街を、そしてそこで生活する女たちを見たことがないはずはない。同じ街に生きていて、誰に省みられることもなく毎日必死で働く女たちのことを、一度も見たことがないというはずはないのだ。それでもダニエルが彼女らのことを思い出せないのは、同じ街に住んでいても、階層によって世界は隔たれてしまうからだ。サフランの街の中で、ダニエルのようなドラコと貧困層の移民たちの住む場所は、明確な境界線が規定されているわけでもないのに混じり合うことがない。だから、ドラコと貧困層の人間とが言葉を交わす機会はほぼ存在していない。すれ違うことはあれど互いの背景を知る機会はない。だから記憶に残らない。
 現場監督はダニエルたちに事故の状況説明を済ませると、後は本人に聞いてくれと言ってさっさと坑内へ戻ってしまった。ダニエルはユリシーズを見た。
「病院に連れて行きましょう」
 ところがユリシーズは首を横に振った。
「このくらいならわざわざ連れて行くってほどじゃないだろう。家で寝てりゃ治る」
 坑内で負傷した者を病院で治療するとなると、様々な手続きが必要になる。ユリシーズは炭鉱会社の「余分な」仕事を増やすのを拒んでいるようだった。
「でも血が出てますよ!」
「頭は派手に出血するからな」
「じゃあ何のために病院があるんですか!」
 ダニエルは苛立ちまぎれに叫んだ。
「足が吹っ飛んだ奴の足をひっつけるためとかかな」
 そう言ったユリシーズはけろりとした様子だった。ダニエルはため息をついて、女性に声をかけはじめた。それを見たユリシーズは目を見開いた。
「おいおいやめろよ面倒な仕事増やすな!あんまそういうことしてっと響くぞ!昇給に!」
 喚くユリシーズを尻目にダニエルはその女性を自分の乗っていた馬に乗せ、自分は手綱を引いて病院へと向かいはじめた。
「別に良いですよそれでも。俺が勝手にやったことにしておいて下さい」
 ダニエルは振り向きながら言い放った。
◇◇◇
「まともな感性のやつが一人いて助かったよ」
 治療が終わるとようやく会話をする余裕が出てきたのか、女はダニエルにそう話しかけた。事務員に呼ばれるのを待つ間、ダニエルと彼女は待合室に置かれた木製の古ぼけた椅子に座っていた。
「俺はダニエル・レイクサイドだ。君は」
「ヨルカ・フロントライン」
 ヨルカ――頭に白い包帯を巻かれた彼女は、丸っこい顔に茶色い大きな瞳の目をしていた。温厚そうな顔立ちとは裏腹に、はっきりした大きな声で話す様子は意思の強さを感じさせた。ウェーブする柔らかそうなたてがみをうなじの上で無造作にまとめており、スカートを加工した大きめのズボンを身に着けている。彼女からは汗と土埃のにおいがした。
「アレクシアから来たのか?」
 ダニエルの問いにヨルカは一度目をそらしたが、すぐに彼を見た。
「親の代がね。わたしはユーゴニア生まれだよ。市民権は無いけど」
 アレクシアは、ユーゴニア西海岸に接する太東洋/Titanic Oceanの向こう側に位置する国だ。リエブレが人口の多数派を占めている。この国で数十年前に起きた大きな災害がきっかけとなって、ユーゴニアにはリエブレの移民が数多くやってきた。しかし現在ユーゴニアに住むリエブレの多くは、市民権を持っていない。リエブレの一般的な容姿では、規定の身体点数を満たすことができないからだ。
 ユーゴニア国籍法における身体点数は、移民に帰化する権利があるのかを判定するための基準として設けられた。10点を最大として採点されるその基準には、歯並び/顔立ち(マズルの長さ)/目の色/角の有無/鱗の有無などのいくつかの要件があり、それらはドラコの「標準的な容姿」を基準として設定されている。ドラコの移民であれば大抵は全ての要件を満たしているし、ドラコでなくてもセルピエンテであれば、多くの場合基準とされる点数を余裕で満たすことができる。だがリエブレは、身体点数という概念においてドラコと一致する特徴がかなり少ないため、基準値を満たせない者が多い。身体点数が低いと、他の評価で点数を補わなくてはならなくなる。そしてそれは、決して簡単なことではない。
 ところが、この国の人々の多くは、市民権を得るために必要なのは良好な素行や勤勉な態度といった概念だけだと思いこんでいる場合が多い。なぜなら、そう思い込んでさえいれば市民権を持たないのは怠惰の証であると主張することができるからだ。ドラコでない者がドラコの身体を手に入れることはできないが、勤勉さは努力次第で手に入れられる可能性がある。彼らによれば、それらを手に入れられなかった人間は、手に入れる努力をしなかったのだというのだ。
 この国にやってきたリエブレ移民だけではなく、ユーゴニア生まれでユーゴニアの外へは一度も出たことがない彼らの子供たちですら市民権を持たない者が殆どだ。しかしそれはあくまでも彼ら自身の責任でしか無いのだと、誰もが考えていた。
「ま、こんなクソ底辺の暮らししてる奴らにお国が市民権なんか下さるわけ無いよね」
 ヨルカの冷笑が響く。一瞬の沈黙が降りた。
「働くところなら選炭所だってあるだろう。なぜ坑道で?」
「危険な分稼ぎが良いからね。といったって、一日5オロくらいだけど」
 その金額はダニエルが一日に稼ぐ金額の半分にも満たなかった。もしダニエルと同じだけの金額だったとしても、仕事をする上で遭遇する危険に見合わないかもしれなかった。受付でヨルカの名前が呼ばれたので、二人の会話はそこで終わった。
 冬の気配の忍び寄る朝はひどく寒かった。大通りの坂道を歩いていたダニエルは、肩をすくめて一つ身震いをした。警察署があるのは、この坂の奥にある炭鉱の門の一歩手前だ。
 署が見えてきた辺りで、レイクサイド、と呼びかける声が聞こえた。ダニエルは立ち止まり、後ろを振り向いた。
「ライムライト所長」
 彼を呼び止めたのは、細身のスーツを着たドラコの男――ライムライトであった。彼はダニエルに歩み寄った。
「ユリシーズから話は聞いたよ」
 ダニエルは眉をひそめた。
「何のことです?」
「別に誤魔化さなくても良い。怒っているわけじゃないさ。怪我人を病院に連れて行っただけの男を何故咎める必要が?」
「では何故わざわざそのような質問を?」
「言葉を交わせば人と人は和解できる。そう信じているだけだよ」
 ライムライトはダニエルの目をじっと見つめていた。ダニエルは彼が自分と同じ金色の目をしていることに気づいた。胃の底が重くなる感覚がしたが、彼はあえて目を逸らさなかった。
「ドラコの男が目の前にいる弱者を救わないことなど、あってはなりません。それだけです」
 ダニエルは毅然と言い放った。
「つまり君は、君の思うドラコの男としての理想のために行動したのか」
「そう思っていただいて差し支えないかと」
 ライムライトは微笑んだ。不気味な笑みだ。
「立派な心がけだ。安心したよ……」
 ライムライトは歩きしなダニエルの肩をぽんと叩いた。
「ドラコとドラコは分かり合うことができるんだよ、レイクサイド……。きっと君だってすぐに私のことを理解できるようになるだろう。ユリシーズのことも。同種間の理解を妨げることができるものなど何もないのだから」
 警察署の廊下には二人分の冷たい靴音が響いていた。身柄を拘束されている男の家族が面会にやってきたというので、ダニエルはユリシーズとともに留置所へ向かっていた。面会に来ているのは、ダニエルが炭鉱街にやってきた日に盗みをはたらいた男の両親だそうだった。
「ヴァーブ/Verbが盗みを働いて捕まることはよくあるんだよ」
 ダニエルに先んじて廊下を歩くユリシーズがつぶやいた。
「ヴァーブ?」
 ダニエルが問うた。
「ここいらの山に住んでるガタの奴らのことだ。ガタは脳みそが動物に近い造りをしていて怠惰だから、ろくに働きもせず他人のものを盗んで生活していやがるのさ。ああいう奴らを生かしておく価値はあるのかね?俺にはそうは思えない」
「そういう人間を守り導くのが俺たちドラコの責務じゃないんですか」
 ダニエルは低い声で言った。ユリシーズは彼を振り返った。
「何ですか」
「いいや、別に」
 二人は留置されている男の両親を連れ、両側を牢屋に挟まれた狭い廊下を歩いた。彼らはある牢屋の前で立ち止まった。一人の男が中でうずくまっている。
「チャント……」
 母親のほうが男の名前を呼んだ。男――チャントは顔を上げた。その顔や服にはところどころ乾いた血の跡がついており、ひどく薄汚れていた。あの日警官たちに暴行を加えられたまま何の手当ても受けていないようだった。
 チャントと両親は言葉を交わし始めた。ユリシーズは彼らの会話に耳を傾けていた。彼らが話しているのはヴァーブの言語――ヴァーブ語だが、彼はある程度理解できたのだ。
 民族的出自より種族的出自が重視される「種族=国家社会」において、「他民族語」の習得は生涯にわたって継続的に行われることが一般的だ。それは、民族ひいては言語が��なっても、種族が同じでさえあれば同じ共同体に属していると認識されるからだ。隣に住んでいる人間の話す言語が自分と異なるのなら、お互い何を言っているのかどうにか理解しようとしながら共に生活するしかない。そしてそれはこの社会では全く特殊なことではない。そもそも「種族=国家」であることを前提として社会が構築されているのだから。この社会の人々は、相手の言語を学び自らの母語を相手に教えながら生きている。人々は多種多様な言語を混合させながら対話を試みるのだ。必ずしも完璧で正しい言葉を話す必要性は無い。もし相手が何を言っているのか理解できなくとも、表情や目線、仕草などからその意図を読み取ることもできる。言語というのは他者とコミュニケーションを取るための一手段に過ぎない。
 警官にとって、言語を学習する姿勢は特に重要なものとされる。言語は犯罪計画を立てる際の暗号として利用されやすいと考えられているためだ。彼はヴァーブの言語だけでなく、炭鉱で働いている者たちの使う多種多様な言語をある程度理解していた。
 まだヴァーブ語��聞き取れないダニエルは、牢の中で格子に指をかけて両親と話す男をじっと見ていた。しばらくの間、三人の会話だけが留置所に反響していた。
 時計を見たユリシーズが息子との会話に集中していた父親の肩に手をかけて乱暴に後ろへ引いた。
「終わりだ。さっさと山に帰れ」
 事務室に戻りしな、ユリシーズが口を開いた。
「なんでお前はあいつらみたいなのの味方をしようとするんだ」
「強い者が弱い者を守るのは当たり前でしょう」
「お前は俺たちが強いと思ってるのか?」
 ユリシーズは鼻で笑った。眉をひそめながらもダニエルが黙っていると、ユリシーズは話を続けた。
「俺は親が嫌いでたまらなかったから、学校を出てすぐ家を飛び出した。だが仕事にありつけなかった。仕事はどれも、低賃金で働く異種族たちのものになってたからだ。誰もドラコの俺を雇ってくれなかった。ドラコなのにだぞ?この国はドラコの国なのにだ。ライムライト所長が拾ってくれなかったら、俺は今頃とっくに飢え死にしていただろうよ」
 ユリスは床を睨みながら言った。それから、ダニエルのほうへ顔を向けた。
「ドラコと異種族は敵同士だ。早い目に言っとくがな……労働者や異種族とよろしくやってると、暴動やストライキの計画に加担していると見なされて監視されるぞ」
「誰に」
 ユリシーズは笑った。蛇のような目がダニエルを見ている。
「俺たちに」
0 notes
nocogou · 1 year
Photo
Tumblr media
明日1/28(土)は『 東別院暮らしの朝市 』に出店致します 年明けから体調を崩してしまい明日が今年ひとつめの出店です 8日の浜松のイベントにお持ちする為に準備していたハギレが残ってしまったので その分のB反ハギレをお持ちする予定です 最強寒波、今日よりは少し落ち着くとは思いますが暖かくしてお越しくださいませ 出店場所は先月と違います 【桜の木エリア20】 でお待ちしております ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『 東別院暮らしの朝市 』@higashibetsuin_asaichi 2023年1月28日(土) 10:00〜14:00 真宗大谷派名古屋別院(東別院)境内 / 名古屋市中区橘2-8-55 https://higashi-asaichi.jp ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ◉駐車場が満車の場合は近隣のコインパーキングをご利用ください ◉地下鉄名城線東別院駅より徒歩3分 ◉エコバッグを忘れずに!朝市は脱ビニール袋を目指しています #nocogou #ノコゴウ #テキスタイル #オリジナルテキスタイル #textile #textiles #fabric #手捺染 #布 #生地 #雑貨 #布雑貨 #布小物#東別院暮らしの朝市#B反ハギレ (東別院暮らしの朝市) https://www.instagram.com/p/Cn6BwTYPxt8/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
【新潟県謡曲古跡めぐり中越編】3箇所目  2021/6/28
能「松山鏡」「田村」
鏡が池 《 十日町市松之山中尾 》 平安時代の話だという。歌人として有名な中納言大伴家持が、朝廷の命令で東夷征伐に向かった。文人として素晴らしい才能を持っていたが、弓矢を取っては素人の家持は、すっかり蝦夷に追いまくられて都に帰ったため、ついに引退を命じられた。
 家持はその後、諸国流浪の旅を続け、越後国松之山に落ち着いた。そして篠原形部左衛門と名乗って、ほそぼそと暮していた。
 形部左衛門には、妻と京子という娘があった。京子は気品のある美しい娘だった。一家は貧しくとも平和に暮らしていたが、そのうち妻が不治の病で倒れた。助からないと覚悟をした彼女はある日、娘京子を枕辺に呼んで、
 「母は、もう助かりません。この鏡を形見にあげますから、私を見たくなったらこの鏡を見なさい」
 といって、息を引き取った。
 ただでさえさびしい田舎暮らしに、母を失った京子は悲しみに堪えきれず、毎日鏡を持って近くの池のほとりにたたずみ、鏡に映る自分の顔を母の顔だと思って泣き悲しんでいた。
 その後、形部左衛門は、ある人の世話で地元から後妻をもらった。その後妻は悪い女で京子を憎み、夫の留守をねらって京子をいじめた。それでも京子は自分の尽し方が悪いのだと思い、一生懸命に真心をもって仕えた。しかし後妻の非道は、ますますひどくなるばかりだった。
 ある夜、恋しい実母が枕辺に立って京子を招いた。京子は、その後について行くと、池のほとりまで来た。
 ふと池の面を見ると、母の姿が水の上にありありと映った。京子はあまりのなつかしさに鏡を抱きしめ、池の中へ飛び込んでしまった。
 それから何年かたったある日、東夷征伐に来た坂上田村麻呂が、形部左衛門と名乗っている家持をたずねた。久しぶりに会った二人は、夜の更けるのを忘れて話し合った。その時、家持の詠んだのが、
  鵲(かささぎ)の渡せし橋におく霜の
     白きを見れば夜ぞ更けるにける
 という名歌といわれる。
 その後、都に帰った田村麻呂のとりなしで、家持も都に帰り重要な官職につくことができた。
後妻は京子が池に身を沈めてから自分の非を悟り、夫と別れてその地に残り黒髪を剃って尼になった。そして、家持が秘蔵していた観音像をもらって池のほとりに草庵を建て、京子の菩提を弔いながら読経三昧の生活を送り、六十六歳まで生きたという。
 今も、この物語を秘めた中尾集落に、「鏡ヶ池」「お京塚」「形部屋敷」などの古跡が残っている。
 また、京子が投身自殺した鏡ヶ池の浮き島に、京子が投身する時持っていた鏡の裏に彫刻してあった、赤い花の水仙が化生したと伝えられる水仙が繁茂していたが、明治の末ごろ、酒に酔った若者によって枯らされ今はないという。
この伝説が、明治時代にドイツ語に翻訳され、「世界童話集」に収録された。そして、後に尋常小学校の教科書に載り、また謡曲や落語「松山鏡」としても親しまれるようになった。 また、鈴木牧之も『北越雪譜』の中の「菱山の奇事」で「松山鏡」について触れている。 永い間に数度の地すべりによって変容し、当時の様子を変えてしまったが、「松山鏡」を後世に伝える為、池畔近くにある、樹齢約1000年の大杉(県指定文化財、通称亀杉)があり、その昔を物語っていたが、豪雨の影響などにより、平成23年(2011)8月2日 夜9時頃倒壊してしまった。
家持の万葉歌碑があって、三首の和歌が書かれています。
あしひきの山桜花 ひと目だに  君とし見れば吾恋ひめやも
吾が宿の萩咲きにけり 秋風の  吹かむを待たば いと遠みかも
かささぎの渡せる橋に おく霜の  白きを見れば夜ぞふけにける  この松山鏡の話は、能以外に長唄としてもあり、明治34年(1901)には「孝子の鑑」として、尋常小学校国語読本に紹介されています。
能楽 #能 #Noh #申楽 #猿楽 #狂言 #風姿花伝 #世阿弥 #芸術論 #幽玄 #歌舞劇 #演劇 #能面 #マスク #文化 #旅行 #トラベル #名所旧跡 #神社 #寺院 #像 #碑 #巡礼 #古跡 #謡曲 #新潟 #中越 #伝統 #Travel #GoTo #ruins #wreckage #abuse #maltreatment #suicide #pond #daughter #stepmother #noble #aristocracy #aristocrat #conquest #subjugation #overcoming #general #Shogun #magpie #Waka #継母 #娘 #虐待 #自殺 入水 #投身 #母親 #親子 #池 #貴族 #征伐 #蝦夷 #将軍 #追放 #和歌 #古典 #童謡
1 note · View note
kitobotanical · 2 years
Photo
Tumblr media
5/28 東別院暮らしの朝市 今日は天気も良く土曜日ということもあってお客さんが多く賑わっています。 山あじさいやバラなど初夏に咲く花物を持ってきました。 他にも春に咲く萩や実がなり始めたまゆみ、姫りんごなどもあります。 #kito #杜kito @kito_boooon #盆栽 #山野草 #東別院暮らしの朝市 @higashibetsuin_asaichi #山アジサイ #藍姫 #バラ #愛実 #萩 #まゆみ #姫りんご (at 東別院参道) https://www.instagram.com/p/CeFc046v4_a/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
alookonbooks · 1 year
Photo
Tumblr media
☆東別院暮らしの朝市 @higashibetsuin_asaichi ありがとうございました〜! まだアップ出来ていなかった新作も見てもらえて嬉しかったですー! 色合いを合わせるためにめちゃくちゃ倉庫を漁りまくって見つけた 曖昧なブルーのスウェットとサーモンピンクのニットのミックス 何もおすすめする前にパッと手に取ってもらってた😆 嬉しいっす @8daime ご夫婦ありがとうございますー! 来週は @uno_campfes でお世話になりますがよろしくお願いしますー! そして 最近というか前から @tool405 のパンツとの相性がバッチリなのは分かってたんですが 特に最近一緒に合わせてくれる方々も多くて嬉しい😆 他にも常連様に新しい提案させてもらったり 先週に引き続き神奈川からお客様来てくださったり 今期最後の東別院はサイコーでした😆 来月はお寺の都合で18日はお休みで また4月から18日お待ちしておりますー! 2/19は 半年ぶりに @sundaybldg.mkt サンビル 岐阜 柳ヶ瀬商店街 お待ちしておりますー!😊🙇‍♂️ https://www.instagram.com/p/CozNL9qvD8r/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
akihiro0119 · 1 year
Photo
Tumblr media
. 千代田 Early Birds Breakfast 名古屋市中区、東別院の近くにあるカフェ。その名のとおり、モーニング、いやブレックファーストが美味しいお店。 実はこの日、朝に少し食事をしてからこちらに向かった、というより朝早くにこの付近へ行ったので、この機会しかない!ということで行きました。しかし、そこでブレックファーストを食べないのもなあと思い、セットを注文。 結果として大正解でした。むしろもっとお腹を減らして、もっとボリューム満点のセットでもよかったかも。このセットでも十分すぎるボリュームです。 かつて、シカゴへ行った時に、とあるダイナーでこんな感じのプレートを食べたのを思い出しました。これに近いものを名古屋で食べることができるのは嬉しい限りです。 #earlybirdsbreakfast #名古屋 #nagoya #コーヒー #珈琲 #coffee #朝食 #breakfast #カフェ #コーヒースタンド #cafe #coffeeshop #カフェ巡り #カフェ好き #コーヒー好き #名古屋カフェ #nagoyacafe #名古屋グルメ #cafestagram #cafepic #コーヒーのある暮らし #コーヒー好きな人と繋がりたい (at 名古屋別院) https://www.instagram.com/p/CnuEcNQJv00/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
oniwastagram · 2 years
Photo
Tumblr media
📸KKR逗子松汀園 / KKR Zushi Shoteien Garden, Zushi, Kanagawa 神奈川県逗子市の旅館『KKR逗子松汀園』の庭園が素敵…! 逗子のビーチに徒歩3分の旅館は、現・りそな銀行のルーツの一つ“不動貯金銀行”を創業した実業家 #牧野元次郎 が大正時代に造営したレトロな近代別荘建築…庭園を眺めながらの食事のみプランも。 KKR逗子松汀園の紹介はこちら☟ https://oniwa.garden/kkr-zushi-shoteien/ ...... 「KKR逗子松汀園」はJR逗子駅🚉より西へ徒歩10分ほどの場所にある旅館。 元は不動貯金銀行(現・りそな銀行)🏦を創業した実業家/銀行家・牧野元次郎が大正時代に建てた別荘で、現在は国家公務員共済組合連合会の組合員向けの宿泊施設となっています🛌(組合員以外の利用も可能) . 2021年10月に初めて訪れました。知ったきっかけは宿泊予約サイトで湘南・逗子地域を検索していた所から(東京住まいだった頃には全然気付いてなかったなあ…)。 . 旅程に合わず宿泊はしなかったけど、現在は朝ごはんプラン/リモートワークプラン(2時間or1日)/ランチのプラン/ちょい飲みプランなどなど宿泊せずにも色んなプランがあります🍚🍙 いずれも2020年以降に始まったサービスのようなので最新情報は公式HPを!今回自分はお弁当のテイクアウトプラン利用で庭園を歩かせていただきました。 . 逗子の住宅街の中に現れる、名の通りマツ🌴の高木に囲まれたお屋敷。 りそな銀行の前々々身のひとつ「不動貯金銀行」の創業者で当時の最大手の貯蓄銀行に押し上げた牧野元次郎の別邸として1923年(大正12年)に建てられたもので、石畳のアプローチや現在の“大正館”にその面影を残します。 . 翌年の関東大震災で周囲の建築が失われた中でこの邸宅は被害は最小限に済み、逗子の貴重な戦前の建築としてまもなく築100年を迎えます。 今回はテイクアウトのみだったので室内を見ることはできなかったけど、ウェブサイトを見る限り『茅ヶ崎館』と同様に数寄屋風の意匠が取り入れられた近代和風建築といった感じ。 . 国家公務員の福利厚生施設になったのは戦後の1949年からで、大正館と併設する形で2階建の比較的新しい“昭和館”も。(昭和もじゅうぶんレトロか…) . 元は1360坪だった敷地の大部分を占めるのが庭園。逗子八景“披露山の暮雪”を借景とした広々とした芝庭で、庭園南側には築山とその麓に流れの跡、(元からあったものかはわからないけど)石灯篭の姿も見られます。 敷地東部が現在は駐車場になっているけれど、元々はその辺まで庭園だったんじゃないかなあ…。 . 海まで徒歩3分という立地から7・8月はハイシーズン価格になるけど(駐車場脇には海水浴客向けのシャワー室🚿とかも)、それ以外の季節の平日なら組合員以外でも6,000円台〜と比較的リーズナブル。東京からは近くて遠い逗子・湘南への小旅行でぜひ使ってみて。 . (同じKKR系列の『奈良みかさ荘』と同じくあまり情報が無かったので「ここはまだ気付いている人少なさそう…」と思ったけど、2022年1月発刊の『近代別荘建築』にも掲載されてました。) ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #yokohamahotel #yokohamaryokan #ryokan #yokohamacafe #横浜カフェ #湘南カフェ #横浜旅館 #湘南旅館 #旅館 #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #庭院 #庭园 #近代建築 #近代和風建築 #りそな銀行 #近代別荘建築 #おにわさん (at KKR逗子 松汀園) https://www.instagram.com/p/CegO80HL24S/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
usickyou · 2 years
Text
いつかのきみに
 きみは出生時体重二五〇四グラムの未熟児として生まれ、母親の子宮口を通ったその首には臍帯が二度にわたり巻きついていた。助産師が慌てて、しかし職業的な熟練された手技で臍帯を解いてもきみはしばらく泣かなかった。背中をさすられ、叩かれ、やがて母親の涙がその意味を変えようとしたとき、きみはようやく産声をあげた。それは弱々しく、じゅうぶんな空気を体内に取り入れるにふさわしいものではなかったので、それからしばらくは保育器がきみの新しい住まいになった。  やがて母親のやわらかな腕に、父親のごつごつした腕にも慣れてきたころ、きみはふたりとともに家に帰った。きみがそこを自分の住むところだと認めるまでには、ずいぶんな時間が必要だった。そこがあまりに色彩豊かで、特にベビーベッドの上でぐるぐる回るモビールがとても騒がしくてしばらくは落ち着かなかったことを、きみはきっと覚えていない。両親は毎日くたくたで、少し感情的になることもあったけれど、笑顔を忘れないようつとめた。きみの好きな歌を歌うことも、決して忘れなかった。  はいはい歩きを覚えたころの事件を、きみはちょっとだけでも覚えているだろうか。きみの家は広く、両親と一緒におじいちゃんおばあちゃんも暮らしていて、絶えず誰かの視線があった。しかしそれでも、数秒、ほんの数秒の間隙はどうしても生まれるものだ。きみは家族がお茶をかたむけているとき、その目を盗んではいはい歩きをはじめるとすぐガラス戸に頭をぶつけた。そのガラスは古く、貧弱なつくりをしていて、悪いことに隅のほうに小さなひびが入っていたので、衝突によってばらばらに砕けてしまった。破片はきみの耳をかすめて、何が起きたのか理解してはいなかったけれど、両親がそれまで感じたことのないような力で抱きしめるのできみは恐ろしくなって泣き出してしまった。それでみんなはほとんどパニックに陥って、それが鎮まるにはしばらく時間が必要だった。ガラスは数日中に、家中のものがもう絶対に壊れないよう堅固なつくりのものに張り替えられることになった。  さて、きみが初めてつかまり立ちを覚えたとき、なににも頼らず歩きはじめたとき、ついに走り出したとき、家の中でいつも何かが壊れた。両親は少し不安を感じたけれど、元気な証拠だよとおじいちゃんおばあちゃんが言うのでそれはあまり問題にならなかった。きみは家の庭を元気にかけ回ると、小さな毒のある虫に触って大声で泣いたりした。どっしりした工具箱がぐらぐら揺れて、落ちていく様子をすぐそばで眺めることもあった。いろいろなことがきみを、きみを取り巻く人たちを麻痺させていった。  きみの肌にいまもうっすら残るその傷ができたのは小学二年生のころだ。それは休み時間のことで、きみが友だちと机を囲んでおしゃべりをしているところに、ふざけ合っていた男の子がぶつかってきた。きみがバランスを取るために掴んだ机には何枚かのプリント用紙が広げられていて、それが宙にぱっと舞う様子を見ながらきみはまっさかさまに倒れてしまった。机の支柱に後頭部をしたたかに打ちつけると、きみは意識をうしなった。そのため痛みを忘れられたことは幸いだったが、次に目が覚めるときみはわけもわからないまま頭に麻酔の注射を打たれるその痛みに唇を強く噛んだ。結局、怪我は数針を縫うくらいのものだったし、傷痕は髪ですっかり隠れるので、子どもにはよくあることというふうに片付けられた。  けれどきみが気付きはじめたのは、たぶんこのころのことだ。  きみのまわりではよく物が割れたり砕けたりした。父親の仕事の都合で、旅行の予定はなくなった。母親はスーパーに買い物に出かけるとめあての品が売り切れていて、夕飯の献立をちょっとだけ変える技術を身につけた。友だちと約束をすれば雨が降って、こわいくらい激しい嵐が吹き荒れることさえあって、きみはそのうちてるてるぼうずを作るのをやめてしまった。  きみはおじいちゃん、おばあちゃんはたて続けにうしなった。おじいちゃんが亡くなり、一ヶ月もたたず後を追うようにおばあちゃんも亡くなった。理由はそれぞれ違うものだったけれど、きみにとってふたりの死は一つの意味を持った。そののち、母親が肺の病気を患い一週間ほど入院することになった。それは彼女の心や体の疲れからくるものだったけれど、きみの人生に大いなる確信を与えた。  きみはふさぎ込むようになり、ずいぶん静かになった家には暗い影が差すようになってしまった。だからこそ、両親はすっかり環境を変えるために住み慣れた土地を離れることを決意したのだ。両親は明るいことばかりがあった思い出を、そのころ親しかった友人たちを頼りに、ふたりが出会った関東の地方都市への引っ越しを決めた。  きみがアイドルというものを知りはじめたのも、ちょうどこのころだった。そのひとは、そのひとたちはテレビの前で座り込むきみに笑顔というものをふたたび教えてくれた。嬉しいという気持ちや、悲しい、悔しいという気持ち、ほんとうに幸せなときに流れてしまう涙について、カーテンの切れ間からそそぐ曙光の鮮やかさできみに教えてくれた。それと、学校の友だちと一緒になってわあきゃあ盛り上がるという実際的で、かけがえなく、二度とは得られない時間をきみに取り戻させてくれた。  だから、アイドルになりたいときみが思ったことは必然だったのだろう。母親は、はじめから賛成だった。父親は、はじめのうちは渋る様子だった。けれどふたりとも、心のいちばん深いところからこんこんと湧き出るきみへのおもいに違いはなかったし、結局は応募書類に並んでサインを記したのだ。  きみの船出は、偉大な冒険家のそれがすべてそうであったように、途方もない暗闇に漕ぎ出すことからはじまった。きみの舟は小さく、ともしびはか弱く、立派な船のデッキからは見えないくらいに、はかなかった。それでも明かりを目にする船はあって、きみはそこの一員になると彼らと一緒に旅をはじめた。  倒産ということについて、きみにはまったく、凪いだ海に吹く風のひとかけほどの責もない。もとより船底には数え切れないほどの穴が空いており、誰もが、きみを含めた誰もが懸命に尽くした。尽くして尽くして、尽くしきって沈んでゆく船より散りぢりに離れていく仲間たちの後ろ姿を見送ると、きみはふたたび自らの櫂を漕ぎはじめた。  その悲しみを、いったい誰が知るというのか。きみの悲壮な決意を、きみ以外の誰が知っただろうか。それは一度ではなかった。きみは別れのたび、胸の内で燃え続ける炎のゆらぐ末期の息のような音を聞いた。  それでも、きみは漕ぎ続けた。  揺れ、くすぶり、こごえて、幾度も消えゆこうとした炎にくべられたものは、きみとひととの出会いだった。きみが触れ、離れた一人ひとりの言葉や仕草だった。きみに笑いかけるひとがいた。ひざまづいて涙を流すひとがいた。ささやかな喜びをともに分かち合ったひとは、心を病んでいなくなってしまった。きまぐれにストロベリーフラペチーノをくれたひととは、別れの言葉を交わすこともできなかった。  しかし、無駄ではなかった。  背中を押して、そばで見守ってくれて、いのちのすべてを使い果たそうとしたそのひとでさえ、いまはきみのそばにいない。  無駄なことは、ひとつもなかった。  きみは火種を受け取った。ひとつ、またひとつと小さな火を集め、きみのともしびは育っていった。きみは櫂の漕ぎ方を、闇に満ちた海原の渡り方を教わった。きみの胸のうちの炎は、どんな嵐が訪れようと決して消えることはなかった。  やがてきみは、  きみは……
 *
 昼食の支度ができたという妻の声に、僕ははっと顔を上げた。もう、それほどの時間が過ぎていたのだ。朝のひんやりと静かな空気はどこかへ行ってしまって、おもてからは騒がしくもこころよい声が聞こえた。ボールの跳ねる覚えたてのダンスみたいな音が響いていて、ブラインドカーテンを開くと、汗だくになってはしゃぐ子どもたちの様子をすっかり昇ったあたたかな日射しが照らしていた。  僕は書きかけのテキストファイルを保存すると、ラップトップをたたんで階下に降りた。キッチンからは妻がつくってくれた野菜カレーのいいにおいがして、つけあわせのサラダはまさにこの季節を祝福するような彩りにあふれていた。 「いいことがあったんだね」と、僕はわかっていて言う。 「どうして?」と、妻はふしぎでもなんでもないふうにたずねる。 「カレーの具が大きい。いつもよりずっと、ごろごろしてる」 「あなたも、いいことがあったんでしょう」 「なんでそう思うの?」 「ベジファースト、忘れてる」  そうだった、と僕が慌ててサラダをばくばく食べると、妻はばかにした調子で笑う。それは外から聞こえる子どもたちの声と同じ声調で響くと、永遠に色褪せることのない宝石みたいに美しくかがやく。  僕たちは普段、食事中あまり言葉を交わさない。妻は食事というもの与えてくれる幸福をよく知っていて、僕はそれを丁寧に教え込まれた首席生だ。けれどこの日は違って、僕たちはよく話した。僕たちの娘について、また彼女にふさわしい装いや態度、関係者たちと交わすであろうちょっとした、しかし大切な会話の内容について。 「なにかいるものはある?」と、妻がたずねる。 「買い物? 僕が行くよ」と、僕は答える。 「いいから。まだ途中なんでしょう」 「いや、そうなんだけど」 「けど?」 「とりあえず、君に見てほしい」 「知ってるでしょ。わたし、書き言葉って苦手なの。話す方が性に知ってる」 「うん。でもお願いしたい」 「なんで?」 「ええと、その……」  僕は流れる水をきゅっと止めて、洗い���えたグラスのしずく��しっかり拭うと、それを壁にひっかける。ああー、とため息をついて、シンクを指の先のほうでとんとん叩きながら、「……照れるんだ」と言う。 「は?」と妻は心底驚いたみたいに言う。 「だから、照れるんだよ。ほたるに見せるのは、僕は、すごく照れる」 「それでまずわたしに?」 「こう、君が見てへんなところがないかとか、ほたるが読んでも平気かとか……」  妻は呆れたみたいにふっと笑って、「お嫁に出すみたい」と言う。買い物リストをトークに送り、おまもりを扱うような丁重さでスウィフトのキーを僕に差し出すと「ケーキ。あと、お花。予約してるから時間に気をつけて」と続ける。 「これで、僕たちからの手紙になるね」と、僕は道化ぶって言う。 「真っ赤に直すから、覚悟しておいて」と、妻は面白がって答える。  それで僕は、ぱぱっと出かける準備をするとおもてへ出る。そこはすっかりあたたかく、暑いくらいで、いまだボール遊びに興じる子どもたちの声や彼らの間でさいきん流行っているらしい歌の乱反射する光みたいなメロディが聞こえる。  僕は一度、大きく深呼吸をした。そうすると、かがやかしく咲き誇る花々の香りや、祝福をほどこされたように清らかな空気が体中に満ちていく様子が感じられた。僕はすっかり、それこそ妻が言ったとおり娘をお嫁に出すときのような晴ればれした気持ちになって、「幸せになるんだよ」と言った。  けれどそれは、なにも新しいことではなかった。きみが産まれてから、たったいまこの瞬間まで僕が、僕たちが命のすべてを尽くして祈り続けてきたことそのものだった。  どれほどの赤ペンが、妻から届くだろう。だいたい僕たちは、いつどんなタイミングであの手紙、そうとも呼べないようななにかをきみに贈るのだろう。それは十年後かもしれない。たった一年先でもありうるし、あるいはこのあと数時間後であるのかもしれない。 「おめでとう」と僕は言う。  今日、アイドルと結ばれるきみに。  ずっとおもい合ってきた相手とほんとうに結ばれる、きみに。
0 notes