円香ちゃんの瓶詰め
円香ちゃんの背中には穴があいている。なかは見えない。肌にぽっかりとあいたまるい穴は暗く、手首まで入るほど深い。穴のなかは温かく、ときおり熱いくらいに感じられる。もぐり込ませた手が心臓へ届くようでおそろしくなるけれど、とても暗い穴のなかはなにも見えないし、体の奥にふれるということはない。
『――残っているのは私の両目だけだ。私の両目は珍しいサファイアで……』
円香ちゃんの背中には穴があいている。なかは意外とさらさらしている。浅い水に手を入れたような淡い抵抗があり、指のはらでこすると半固形の液体が剥がれ落ちる。掻き出した黒い液体は空気にふれるとさっと溶け、においも味もない。自分では背中に手が届かないからと、わたしが円香ちゃんの手伝いをするようになったのは11歳か12歳くらいのことだった。
『――そして若者が顔を上げると、そこには美しいサファイアが枯れたスミレの上に……』
円香ちゃんの背中にあいた穴は、ふだん肌で隠れている。けれどひと月とか、長くて季節に一度くらい液体を出してあげないと体調がくずれてしまうし、背中が出る衣装を着るときもそう。わたしたちはこの秘密をうまく隠せていたけれど、もう必要がなくなる。円香ちゃんの穴はだんだん小さくなっているし、ひらくまでの間隔も延びていって、この日だって九ヶ月ぶりのことだったから。
『――次の日一日、ツバメは王子の肩に止まり……珍しい土地で見てきた……』
「小糸」
円香ちゃんの声は、背中の穴から腕をつたってやってくる。わたしは少しだけ身構え、けれどすぐにわたしのすべきことを再開する。穴はもう、指をすぼめないと入らないくらいに狭くなっている。
「どう言ったらいいのかわからない」
わたしは返事をしなかった。隠しておいた小瓶をそっと取り出し、円香ちゃんの背中の穴に入れると、黒い液体をすくいとり、空気にふれないよう蓋をしてふところにしまう。円香ちゃんは、たくさん時間をかけて続きを話した。
「でも、本当にありがとう。長い間……長い……」
こうしているとき、円香ちゃんはなにも話さない。最初は緊張していたから、わたしは無言でいるのが苦しくて、たまたま手もとにあったこの本を読み上げた。それは自然にわたしたちの約束になり、だからもう、この時間は絶対に終わってしまうのだとわかった。
『――たくさんの話をしました。ナイル川の岸沿いに長い列をなして……』
そうして、いつか穴は消えた。
円香ちゃんはまたお礼を言って、部屋を出るともう戻らなかった。わたしは疲れ果ててしまい、そのままベッドで横になると、胸のなかに円香ちゃんの小瓶を抱きしめて目を閉じた。眠る前もう一度、本のいちばん好きなところを読んだ。『――この世界の中にも、本当に幸福な人がいる、というのはうれしいことだ』
目が覚めると、遠くで空が明けようとしていた。ひと晩しっかりと温めたので、小瓶のなかの液体は円香ちゃんにかわっていた。円香ちゃんはくすり指の先くらいの大きさで、少しも動こうとせず、膝をぎゅっと抱えてまるくなっている。わたしは机のいちばんおおきな引き出しをあけると、ディズニーのクッキー缶を取り出し、なかの小瓶を並べていく。十数年、百人以上の円香ちゃんはそれぞれ液体をとったときの姿で、それぞれみんな悲しげにしている。じっと横になっている、立ち尽くしている、手で顔をおおっている……たくさんの、円香ちゃんのありえた悲しみがわたしのそばでたたずんでいる。
「11歳だったね」
わたしはふと思い出す。11歳だったから、音楽の授業を選んでいた円香ちゃんのかばんにはリコーダーがささっている。小瓶の蓋を引き抜くと、円香ちゃんは黒い液体に戻り、すぐに消えてしまう。
「わたしまだ、子どもだったよ」
わたしが蓋を引き抜くと、円香ちゃんが消えていく。それをひたすらくり返し、わずか数十分で円香ちゃんはいなくなった。あとにはただ、透明な小瓶がいくつもいくつも残っているだけだった。
わたしはしばらく小瓶のひとつを指で倒したり起こしたりしてから、バッグのなかのハンカチや袱紗、手紙をたしかめると、いちにちの支度をするために部屋を出た。けれどふと、階段を降りようとして足を止めた。呼び止められた気がしたのだ。「……円香ちゃん」わたしは呼んだ。「円香ちゃん」消えてしまったたくさんの過去がめぐった。「まどかちゃん……!」
戻った部屋では、はやくも射し込みはじめた朝の光が、からっぽの小瓶たちをかがやかしく照らしていた。
【参考・引用】
「幸福の王子」
https://www.hyuki.com/trans/prince.html
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生まれた家の近くには川が流れていた。幅十数メートルのゆるやかな川だった。川には橋がかかっているが、どれほどか昔には人や荷物を舟で渡す必要があったらしく、岸には小さな船着き場の跡らしいぼろぼろの桟橋がいまも残っていた。船着き場は対岸にもあったようだがとうに壊れており、橋脚の木材が水から飛び出していた。その眺めのことは忘れてしまっていたし、もちろん思い出すこともなかった。
あなたは、あなたのための贈り物があまり多いものだから、それが初めてのことみたいにびっくりする。もっともそれは去年も似たような様子だったのだけれど、あなたはそういうふうに驚いていたことをすっかり忘れているものだから、やっぱり初めてみたいにびっくりしたのだった。
「283プロでは、これはどうするものなの?」
あなたがたずねると、事務員の七草さんがにこやかにこたえる。
「人それぞれですよ~。ぜんぶ持ち帰る人もいますし、ひとつも受け取らない主義の方もいますけど、ここに残していただいたぶんはみなさんのおやつですね~」
ちなみに~。
「中身はこちらで確認しているので、安心していただいていいですよ~」
事務員の七草さんのオフビートな話声を聞いているうちに、あなたは去年も同じ質問をしていたことを思い出す。みなさんのおやつは談話室をしばらく潤したし、あなたは手頃な小箱をひとつだけ持ち帰ったのだ。
どうして?
どうして、あなたは小箱を選んだのだろう。
あなたはひとつ疑問をいだき、プレゼントボックスを飛び出すくらいの贈り物のなかを探してみる。するとやっぱり小箱がある。持ってみると小箱はずしっと重い。包装の赤い色のリボンは一度ほどかれたために少しくしゃっとなっており、それがかえって手ずから編み上げたようなやわらかさを感じさせる。あなたは小箱のリボンをほどき、なかから小さなクマを取り出す。
クマは陶製のテディベアらしいデザインで、小箱と同じやわらかい赤いリボンを首もとにつけ、黄銅色の台座にどっしりと腰かけており、背中を覗いてみるとおしりのあたりからやはり黄銅のゼンマイが飛び出ている。
考えるでもなく、あなたはゼンマイを回す。聞こえたオルゴールの節は家にある音楽部屋の光景を思い出させるが、あなたにはその理由がよくわからない。音楽だから。あなたはそれくらいに考えてオルゴールを聞く。それはなにか、解決され��い音程で終わる。あなたはクマのオルゴールを小箱へしまいなおすと、「これだけいただいていこうかな」と言う。とても自然に。
「にちかちゃん」
と、あなたは呼ぶ。
アイドルの七草さんは返事もせず、なにかを唱えている。ちょっと回り込んで見てみると、学生だったころにノートを見おろしていたのと同じ真剣さで、イヤホンをかけたまま机にひろげた歌詞カードと熱心に向かい合っている。曲を入れているのだと気付いてあなたは諦めかけるのだけれど、事務員の七草さんがとても気軽なふうにイヤホンを外してくれる。
「なにー! もうお姉ちゃん!」
「わ」
「み、美琴さん! お疲れさまです!」
ここまでぜんぶひと息で言って、アイドルの七草さんはがばっと立ち上がる。有線のイヤホンが耳から引っぱられ、スマートフォンがフローリングに落ちる。「わーっ」と屈伸するみたいにかがんで立ったアイドルの七草さんは画面をたしかめる。息をつく。
「大丈夫?」
あなたはその様子を見ると、かわいそうだなと思いながら、少しだけ愉快な気分になってほほえむ。
「大丈夫です、あの、ぜんぜん!」
「よかった。気をつけてね」
「はい! あの、美琴さん、戻ってらしたんですね」
「うん。プレゼントがあるって聞いたから。にちかちゃん、手伝ってもらえない?」
「ええと、手伝うって……」
それからのごちゃっとしたやりとりは、遠慮とか恐縮とかSDGsの観点とかから、結局消えもののいくつかをアイドルの七草さんが持って帰るというところにおさまった。
「美琴さんは、ちなみにそれ、どんな……」
たくさんの贈り物を前にさんざん悩み、悩み疲れたらしいアイドルの七草さんがあなたの手もとの小箱を見つめてたずねる。
「オルゴールみたいだね」
あなたはこたえる。
アイドルの七草さんははっと息をのみ、「それ、去年も……」とつぶやく。
あなたはすごいと素直に思う。
「すごいね。にちかちゃん、覚えてるんだ」
「……いえ、えーっと……あははー……」
するとアイドルの七草さんがちょっときまりが悪そうにしたものだから、言わないほうがよかったのかも、とあなたは反省する。そのうち283プロのプロデューサーさんが帰ってくるとやりとりはさらにごちゃっとしたものになり、あなたはほほえんで、明るい気持ちになり、誕生日っていいなと思いなおしてみたりする。そういう景色をレッスン室の眺めがそう遠くないうちにあなたから押し流していくけれど、アイドルの七草さんが堰をつくってとどめていてくれる。
『美琴さんへ
突然こんな手紙を渡してしまってすみません。お時間がなければ読まずに捨てていただいて平気ですし、もちろんお返事なんて……』
アイドルの七草さんからの贈り物であるアイチューンズカードといっしょに入っていた手紙は、そんな書き出しからはじまっている。
あなたは長い、長い時間をかけて手紙を読む。
あなたは読み終えた手紙をきれいにたたんで封に入れなおすと、〈大事なもの箱〉にしまう。〈大事なもの箱〉は、あなたが十五歳の頃から、捨ててよくはなさそうだけどどこに置けばいいかわからないものをしまっている四〇×三〇×二〇センチのありふれたコンテナボックスで、あなたはその手紙をアイドルの七草さんが千回書き直したことなど知るよしもないが、ともかく〈大事なもの箱〉にしまい込む。そうしてバッグから取り上げた小箱を持って音楽部屋へ向かい、オルゴールについて思い出す。クマは八体目だ。
クマたちはオルガンの上に並んでいる。どうして忘れられるのかもわからないのが忘れられたかれらは左から赤、橙、黄……つまり虹のように色づいたリボンをつけており、それらはみなうっすらほこりをかぶっている。
あなたは左から、ひとつひとつゼンマイを巻いてオルゴールを鳴らしていく。たまったほこりでクマには指のあとが刻まれてゆき、その途中であなたはオルガンに引かれた灰色の線に気付く。線は五体目と六体目との間にあり、それを引いたときのことをあなたは覚えていないけれど、線の意味はよくわかる。五体目のオルゴールがやはり解決されない音階で鳴り止んだとき、あなたはクマたちのことをすっかり思い出してる。
川が流れている。
あなたは一度部屋を離れると、ウェットティッシュを持ってきてクマたちをきれいにする。何枚も、何枚も使ってクマたちがすっかりぴかぴかになると今度はオルガンを拭く。うすく積もったほこりが消えると、あなたはふたたびゼンマイを巻いていく。八体目。いちばん左のクマよりもやや淡い赤い色をしている。オルゴールは、連続する節を一体目のあらわした調が貫いており、七体目がやはり解決されないまま終わると、八体目のクマが最初のクマの変奏を鳴らしはじめる。川は流れていく。川は戻ってくる。あなたはもう、誰がそのクマを贈ってくれているのかを思い出している。
あなたは目を閉じる。あなたはもう、そのときの眺めを思い出せない。ひとつひとつのクマの記憶はレッスン室やステージの景色に押し流されてしまっている。川はとどまらない。過ぎていく。川はめぐってくる。あなたはクマが鳴り止んでも目をひらかない。続きが聞こえている。あなたが忘れてしまったことをほかのだれかが大切にとどめていてくれる。
川辺に立っていた。ゆるやかな川に残された桟橋から対岸を眺めていた。川面を突き出た橋脚のうしろには背の高いススキの原が広がっており、幅二メートルほどにわたって川を向いて倒れていた。それはなにかが通った道のように見えた。ちょうどなにか舟のような。人や荷物を渡す、小さい。
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さよならいろいろ
その樋口のとんでもなく強烈なびんたが私の奥の歯をぶっ飛ばしたのは2025年のことだった。右下のだった。びんたっていうか、手のひらのつけ根のあたりの骨のところで思い切り殴るという一撃にはびんたなんてかわいい響きでない名前があると思うのだけど私はその呼び方を知らない。私はだいたいのことを知らない。2025年。私は自分が22歳なのか23歳なのかあいまいだったしノクチルのレーベル移籍を聞かされたのがつい何日前なのかもう忘れているし、いわんや樋口にびんた(ではなさそうなやつ)をされた理由なんてわかるわけもない。
ところで歯はぶっ飛んだわけではなかった。口の中の痛みと別のいやなかんじをかろかろぺっと吐き出すと、血まじりのつばといっしょに歯は落ちた。みじめっぽく転がり、でかいバルコニーの排水溝に消えた。すごい。消えてしまったのだった……。
「樋口……」
私は感動して呼んだ。樋口はしばらく黙っていた。私は樋口のことばを待つことに決めた。
ところで2025年は少しいい。にーおーにーごー。口にしてみたらわかると思う。ちょっとだけ、明るいきもちになる。
にーおーにーごー。
にーおーにーよん。
”私たちのプロデューサー”が倒れた年だ。
かれが倒れたと知らされたのは夏になるのかならないのか曖昧な季節だったと思う。理由は知らされないけれど長期間――結局は四ヶ月とちょっとになった――休養をとるということだった。事務所はたいへんなことになった。はづきさんと社長さんと、もうひとり、半年間の契約ということで若い男の人がかれの代わりにやってきて、こいつがやばかった。仕事はよくできたらしく私たち的にもいい印象だったのだけど、事務所との契約が終わってすぐ大麻を持っていたとかで逮捕された。契約、延ばせばいいのにとかのんきにも私は思っていたから大人ってやばいなと思った。そのころ戻ってきていたかれと、カウンセラーさんと、たて続けに面談が組まれて私は正直に大麻について知らなかったとこたえた。面談は全員に組まれていると聞いて、私はまたかれが倒れるんじゃないか? と思ったけど、倒れたのは事務所のほうだった。正確には? 倒れたのではなくて倒れる前に手を打つことにしたらしい。大人ってやばい。
「バーターでしょ」
樋口は言った。にーおーにーごー。そのことばの意味はいつか樋口が私に教えてくれた。カートンで煙草を買うとついてくる百円ライターがノクチルだということだった。樋口はライターを擦った。暗い夜が揺れた。樋口が火を移したのは放クラさんなのかアルストロメリアさんなのか私にはわからなかった。
私たちはセックスをしていた。移籍を告げられた夜だった。雛菜や小糸ちゃんとなんだか夜通し過ごそうかみたいな流れになりかけたところを樋口が切り捨てて、あとあと個別のやり取りから私の家でやった。高校生カップルみたいだとぽんと思ったけどなにがそう思わせたのだろう。セックスは初めてってわけじゃなかった。初めてのときのことは忘れようもない。私はなにか光が、ひかりがまっ暗い部屋に満ちていくのをうつくしいな、と思って見つめていたのだけれど、いまも時おり光は見える。光は煙草よりちいさい。
私はたずねた。
樋口はふっと笑ってくれた。
「浅倉」
煙草の先が目に近づく。目を熱いとたぶん初めて感じる。私は樋口にならしかたないと思った。ちいさい光は見てみると無数の微小の業火が集まってできていた。
だけど樋口は煙草を吸う。
私がむずかってあちこちくちづけるのを深いふかい優しさでいなし、きっちり吸い終えた煙草をビンに放り込むとまたやってくれる。樋口。私はかれとはひと晩に一度しかしなかったけど、樋口とは何度もする。何度も何度も。べろが入ってくる。このとき奥歯は揃っている。
”私たちのプロデューサー”が倒れているあいだ連絡は控えるよう言われた。それはそうだと私もわかった。いろいろと話して頭を深く下げた社長さんは私たちのなかの誰よりきつそうに見えたけど、モニタのむこうにはもっと苦しんでいる誰かがいるのかもしれなかった。その夜、私たちは四人して私の家で眠った。意外と話すことはなかったし、眠れないこともなかった。朝起きると樋口と雛菜はいなかった。仕事に出かけていた。小糸ちゃんは私の作った朝ごはんを残さず食べてくれた。それから家にひとりになると、入りの十七時までかれの家を見ることにした。かれの家のありかはあまり多くの愛みたいな呪縛にさらされていたから、永世中立地とか聖地とか禁足地として誰もが知るところになっていたのだ。
十五時に樋口は来る。かれの家の前に立ち、インターホンを鳴らすと、ひらかれたドアの中へ入っていく。かれの姿は見えない。私はスタジオに行ってウェブラジオを録る。ディレクターの中浦さんや構成作家の梶井さん、メインパーソナリティの坂野さんなんかはかれの休養を知っていて私を気遣ってくれる。それで収録は滞りなく進んだ。樋口はかれとセックスをしたのかもしれなかった。そう思うのは私がかれとセックスをしたからだった。
私がすることは樋口もする。
三日くらいして樋口は来る。私は樋口の声が好きだ。そしてもうかれの家へ行かなかった。
ノクチルの移籍は、プロダクションが他事務所の子会社となり、マネジメント体制の再編が必要となったことから、いくつかのユニットとあわせておこなわれます。
小糸ちゃんの整理してくれた文章を読むとだいたい頭がすっきりする。樋口は機嫌がいいらしくお酒を注ぐ手をとめずに「ん」とこたえる。反対はそうでもないけど、樋口の機嫌は私に入ってくる。だから言おうかは迷う。どころか実際言うのは後まわし後まわしされるうち日付が変わる。決意と諦めと半々くらいになったころ、樋口がバルコニーへ出る。私はついていく。バルコニーは寒かった。寒く、美しかった。屋根がなかった。冷たい星がひかっていた。初めて樋口とやった夜みたいだと思った。あれはそうか、私は思った。冷たいから美しかった。私は感動した。涙が出そうだった。けれどもう無理だった。私たちは温かく、私も樋口もかれもどこをとっても温かく、もうあんな美しいものにはなれないのだった。
「樋口」
私は呼ぶ。
「なに」
樋口はこたえる。
春愁の候だった。
そんなことばを私が知っていたのは、かれがとても嬉しそうに教えてくれたからだった。
「さよならって言ったよ。あのひとに」
私は続けた。
「き――
2024。
私がかれとする。
樋口がかれとする。
私と樋口がする。
私たちは分かれていたし分かちがたく結びついていった。
2025。
こうして右下の私の奥の歯はうしなわれたし、私とかれには二度とない別れが約束された。なくしてばかりだった。頬がずしっと痛かった。さっきした感動の涙がいまになって落ちた。
樋口は黙っていたけれど、黙っていたいわけではないのがわかった。無数の微小の業火だった。奈落に立ったときのようだった。
「撤回して」
やがて樋口は言った。それはとても樋口っぽくないことばだった。
「まだ、間に合うから」
はあーっ??? 私は思った。ちょっといらつくくらいだった。なら消えてしまった歯は? 倒れてしまったかれは? 樋口とかれにありえた明日とか未来は? 間に合うものなんてなかった。
「歯。折れた」
私はイヤミっぽく言ってからかなりイヤミっぽかったなと気付き、だけど樋口が先にこたえた。
「殴っていい」
続けた。
「殴って。あのひとのところへ行って」
青春じゃん。私はうっかり言いそうになったのをとどめる。そういうふうに、私もちょっとずつだけどやばい大人になっていくのかもしれなかった。「私」私は言った。ない歯のところがひんやりしていた。「殴りたくないよ。樋口のこと」続けた。「てかさ。きれいだね。樋口。ずっときれいだったんだ。驚いてるよ。私」
それは告白だった。けれどなにを告白するのかは私にわからなかった。だからそれを決めてくれるのは、樋口なのだと私は思った。
樋口は黙ってしまった。私はくちをもごもごして待った。奥の歯が折れました。右下です。移籍はまだだから”私たちのプロデューサー”に連絡しないとなのだろうか。今度はそんなに待たなかった。
「寒い」
と樋口は言った。
「入ろ」
と私はこたえた。
私たちはバルコニーをあとにした。部屋は温かった。樋口は歯がぶっ飛んだらなにをすればいいのか調べてくれた。そうして私たちは、私と樋口はかれをなくしてしまった。私たちがどうなるのか、私にはぜんぜんわからなかった。にーおーにーごー。にーおーにーごー。私たちはなにかになるのかもわからなかった。
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通り雨だったね
「しずかになったね~」
雛菜が言う。バルコニーにいる。
月が出ている。
あは~。
あなたはこたえるか視線を向けるか、それとも返事をするかしてともかく同意を示す。すると雛菜は、ホットミルクやカフェオレ、あるいはミルクティーをを淹れたマグを差し出した。ひとつしかなかったので、一度くちをつけてすぐに返した。雛菜もひとくち飲んだ。喉が動いた。吐息は白くてすぐ消えた。
静かになった、というのは雨があがったことかもしれない。あるいはガラス窓を隔てた室内のことと両方を指すのかもしれない。そこでは友だちのひとりがベッドか半分畳んだままのお布団か瓶カンがごちゃっとなったテーブルで横になっている。もうひとりの友だちは、敷居をまたいで上半身を廊下に放り出し眠っている。嬉しいことやろくでもないこと、それかこの上なく愉快なことがあったために、みんなお酒をがぶがぶ飲んだ。
あなたたちはましなほう。
「なんか~、遠くまできたなって思った~」
雛菜は言う。星が見える。
ぽつりぽつりか、もしかして夜空いちめん。
雛菜はあなたを見ないので、空を見ているので、あなたは返事を考える。あなたの言うのは同意でもありえるし否定ではおそらくないが、結局はそのどちらかなのかも。遠くまできた、というのはそれぞれひとり暮らしを始めて生家を出たこととか、誰かのマンションもしくは山あいのひなびた温泉宿に泊まっていることとかを言っているかもしれないし、それとも、移転して広々したプロダクションのバルコニーについて思ったかもしれない。
あなたがこたえると、雛菜は首をそむけ、「そうだね」とほほえんだ。
そのさかさまの雛菜を、かわいいな、とあなたは思った。
それはたしかだ。
雨があがったとか。
月が出ていることだとか。
たしかなことはいくつかあった。
雛菜のとつぜん鼻歌しだした『アンダーザシー』のゆったりめのリズム。
しずかだということ。
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ノクチルと、絶対に割れるガラスキュー
「これは、絶対に割れるガラス球なんだ」
彼はそう言って、ガラスでできたらしい透明な球体を突き出した。その腕まくりに日焼けのあとが目立つのは、いかにも盛りの夏を感じさせるようだった。
一方で、ガラス球を突き出された彼女たちは困惑した。意図を探るようでも、呆れるようでもあった。溜息をつく者もあった。彼女たちは、大切な用事があるからと四人揃って、このために集められたのだった。それからしばらくの間をおいて、返事があった。
「そ、それってふつうのことじゃ……」
彼はその当然といえる疑問に、笑顔を投げ返す。絶対正義のその笑顔は、ガラス球を反射してなおまっすぐに彼女たちを見つめる。
「そうかもしれない」
彼は含みを隠そうともせず答えて、ガラス球を差し出した。相手は福丸小糸だった。小糸はほとんど怖がるくらいの調子でガラス球を受け取ると、慎重にそれをたしかめた。ガラス球は、小糸の片方の手のひらにおさまらないくらいの大きさで、両手にずっしり重かった。しばらくして、何もわからなかったらしい曖昧な表情のまま、小糸はガラス球を差し出した。相手は浅倉透だった。透は手のひらで受け取り損ねて、無言でガラス球を下に落とした。
「ぴゃっ」
と言うのは小糸だった。
「あぶなっ」
ガラス球の割れるのを望んでいたわけではないけれど、割れたならば割れたで別に構わない。そういう鷹揚な身振りで透はしゃがみこみ、カーペットの球体を拾い上げる。手で転がすと、
「終わるとこだった」
とガラス球を差し出した。
相手は市川雛菜だった。雛菜はガラス球を光に透かした。それから、ガラス球越しに隣り合う少女たちを眺めて、いかにも愉快らしく笑うと、ガラス球を差し出した。相手は樋口円香だった。円香はそれを受け取るのさえ拒む様子だったが、手に取ると、工場機械じみてなめらかに彼へ返却した。
「用がなければ帰りますが」
円香が言うと、彼はほほえんだ。
「これを、みんなで管理してほしいんだ」
彼が言うのは、こういうことだった。
ガラス球を、全員で持ち回りする。それぞれ手もとに置く日数は任せるけれど、なるべく持ち歩く。そうして、全員のところを回ったら返却して、そのときに感想を聞かせてほしい。
「なにもなければなにもないでいいよ」
彼は続けた。
「話したくないと思ったら、話さなくても���い」
彼の授けるほほえみを分かち合うように、彼女たちは顔を見合わせた。誰もその意図を、把握しかねるようだった。
「断ってもいいんですか」
円香がたずねると、予想していたふうに彼はこたえた。
「問題ないよ。仕事じゃなくて、俺個人からのお願いだからな」
それはどうにも、円香を苛立たせるのだった。
ガラス球は、彼の手のひらのうえ返事を待って佇んだ。やがて沈黙が、それを砕こうかというほど押し迫った頃、声をあげるのは透だった。
「いいよ」
透はガラス球を彼からくすねるように持ち去って、両方の手で遊ばせた。それは自由だった。ガラス球がそれ自身まるで生きているかのように跳び回るのは、透の天稟の賜なのかもしれないし、ガラス球の必ず割れるという性質のもたらすはかない閃きなのかもしれなかった。
「よろしく。ガラスキュー」
透は言った。そうしてまた、ガラス球を取り落とした。
呼び出されてプロダクションを離れるまでに数十分かからなかったから、日はまだ天頂近くにいた。乾いたばかりの汗がまたどっと出て気分はすぐれなかったが、ガラス球が青っぽく涼しげな様子で光るので、往来をわざわざ手に持って歩いていた。
「樋口は?」
「知らない」
「なんとか」
「……どうせ割ったら日々もこんなに脆いんだとか言う」
「あはは。似てる似てる」
「ほんとはすごい高級品だったりして~」
「な、なにか伝えたいことがあるんだと思うよ……!」
「浅倉は」
「わからん」
彼女たちはそういうふうに話した。ガラス球を持つのは透が最初になり、あとは会うときに渡すと決めた。そのときガラス球は、ただの透明な球にも無意味の球にも、きらきらした球にも、なんらか秘密の命を帯びた大切な球にも見えた。
真夏の太陽にガラス球はきらめいた。プールサイドに、無造作に放り置かれたそれは、揺れる水面を吸い込んでその光の波の四方八方から押し寄せるのにさんざめくようだった。
ガラスキュー。元気してるか。
透はたずねた。ガラス球はこたえなかった。あるいはその光の反射でこたえるのかもしれなかったが、透はそれを無視してガラス球を拾い上げると、手でもてあそんだ。ガラス球は回転した。右手と左手を行き来して、バスタオルのなだらかな坂を下った。時おり声をかける者もいたが、誰ひとりとしてわからないのは、それがふたりのダンスなのだということだった。
やがて撮影の再開が告げられ、透は立ち上がる。バスタオルを剥がすと、明るい色の水着や、あるいはガラス球より澄んだその体をかがやかせる。ガラス球の光るのを省みる者はいなくなり、するとそれは適当に置かれていたせいかプールサイドを転がりはじめると、誰も気の付かないうちにプールへ落ちる。撮影は続く。
ガラス球は、水底より見る。時間というものはガラス球にないのだが、長い間じっとしずかに揺らめく水面を見ている。すると突然、降りそそぐ光が隠されるのは、透が飛び込んだからだった。透は探した。ガラス球は透明で、水の中でいっこう見えないので泳ぎながら手さぐり手さぐりそれを求めた。ガラス球はそのとき、水底から、透を見上げた。透は美しかった。泳ぎはいっこううまくないのに、水の中にいるのが本当という印象を与えた。億千の星々のよう千々に分割された日の降るのを一身に集わせ、波と光を衣装にするのが透なのだった。
ところでガラス球は美しいという観念を持ち合わせていないから、それはもしかして、真実であるのかもしれなかった。
危ないぞ、ガラスキュー。
透はそれを拾って言った。プールを上がると、今度は転がらないようにとタオルで上等な柵をつくった。それだから、ガラス球はもう水へ行かなかった。
雛菜は悩む様子だった。四畳間くらいの手狭な控え室で、照明のぴかぴか散るメイク台に置いたガラス球を見つめて今にも呻らんばかりなのは、できたての占い師だとか、いっとう見込みのない手習いの職人みたいなふうだった。
雛菜はガラス球にさわった。爪の先で輪郭をなぞり、手のひらを押し当てた。子どもをあやすみたいにその面を覗き込むと、突然バッグをがさごそやって、ぱっと笑った。その手に誇らしげに、メイクポーチを持った。
まず入れるのはつやだった。絵画に光沢を加えるように、はじかれる光を描き入れた。頂点に葉っぱや、茎を描き加えて、なにかつまらなそうにリムーバーできれいに洗った。そうしてふたたび、ん~っと首を傾けて、赤茶けて波打つ線をひきはじめた。それがぴんときたらしく、雛菜は俄然あかるい表情になって、そこからは早かった。ガラス球は、やわらかくウェーブする髪を得て、まるい目と、にっこりほほえむ口もとを授かると、できあがりの合図にヘアピンをぱちんっと留めた。雛菜は喜んだ。ガラス球はその喜びを反射することができなかったが、口もとはどうにも楽しげだった。
それから、雛菜はガラス球と自撮りをした。それは納得できず何度もくり返されるが、ついには完璧な一枚がおさめられたらしく、すぐにツイスタにあげられた折にはこういうコメントがつけられた。
「円香先輩と」
そうしてすぐ、メイクは落とされた。すっぴんのガラス球は、しかし次には小糸のかたちになってふたたびツーショがツイスタにあげられた。みたびメイクを落とされてくたびれたガラス球に朗報だったのは、雛菜の待ち時間が終わったことだった。呼ばれてひとり、雛菜は控え室をあとにした。ガラス球は置き去りにされた。持ち歩くのはできるだけという約束だったから、それはガラス球になんらおかしな振る舞いではなかった。
しばらくして雛菜は戻って、続きをするでもなくガラス球をかばんにしまい込んだ。スタジオを離れて帰り���の途中には、予定の近かった円香へガラス球を渡した。それだから、雛菜とガラス球の時間はちょうどまる一日くらいだった。
ガラス球は棚に置かれた。蓋のない、お菓子の空き缶におさめられ、ほとんど身動きの取れないようにされて、文句も言えずその身を縮こめおさまっていた。ガラス球の肩上あたりから、円香は見えた。円香は机に向かい、ノートに向き合っていた。その姿には明けの静寂の泉のたたえる威厳があり、円香が時にペンをじっととどまらせては時にわずかに走らせるのを、ガラス球はおし黙ってじっと見つめるのだった。
円香はガラス球を省みなかった。ノートに向かい、ベッドに寝ころぶとうとうとするのに首を振って、またノートに向かった。そのうちに昼食をとって、ノートに向かい、気分転換にベランダへ出たり音楽を聞いたりして、ノートに向かった。そのうちに、日の色が変わってくると、円香は母親の言いつけで買い物へ出かけて、そのまま部屋へ戻ることなく夕食の時間となった。ガラス球は何も思わなかったが、円香の戻らない部屋はしんと静かだった。
しばらくして、地震が起きる。東京都西部を震源とするマグニチュード5.1の地震に家はすこし慌てる。けれど震度4くらいの、ささいな揺れのもたらす動揺はさほど続かず、平静を取り戻した家族を離れると円香は部屋を覗く。ほんの数秒。部屋を離れる。
次に部屋へ戻ってきたとき、円香は眠る支度をすっかり済ませていた。そうしてまた、ノートに向かって、今度ペンは昼間よりなめらかに進む。一ページの半分くらいを書いて、円香はノートを閉じた。満足するのも満ち足りないのもガラス球には少しもわからないが、閉じたノートを見つめる横顔を反射するのはできた。
やがて円香は電気を消した。そのとき円香が、ガラス球を一瞬でも見たのかはわからない。
それほどガラス球を丁重に扱ったのは、人類史上にないだろう。ガラス球は手持ちのクッション素材の保冷バッグに入れられ、さらにタオルでぎゅうぎゅうにまるめられ、それはかえって宝物とか爆発物とかに見えて危なく感じられるようだった。小糸はいつものリュックサックと保冷バッグを抱えて、いってきますと家をあとにした。偶然に会った透からは、家出するみたいだと言われた。
久しぶり、ガラスキュー。
透はおつかいに出ているところだったので、道ばたで別れた。小糸は暑さに立ち向かうみたいに早足で歩いて、図書館へ入ると、ガラス球を机に置いた。見れば祈るような光景だっただろう。けれども小糸は別段ガラス球を拝むでもなく、リュックからあれこれ取り出して勉強を始めた。勉強は長く、厳しく続いた。急ぎの電話であったり、席を離れる折に小糸はガラス球を連れ添った。ひとが怪訝に見つめるのも、小糸には大切な約束だったし、ガラス球はそれらの視線をはじくので、問題ではなかった。
勉強は、図書館の閉まるまで続いた。
小糸は夕ご飯の少しだけ前に家へ帰った。食洗機をまわして、つかの間の休息をしているところに、雛菜から連絡が入った。返事をすると雛菜はすぐにやってきて、ガラス球に、透のメイクを施して小糸とのツーショをおさめると満足して帰った。小糸はそれからしばらく迷って、雛菜へ連絡をすると、メイクを落として平気というのでガラス球を拭いた。磨いてきれいにぴかぴかにされて、ガラス球はふたたび小糸の部屋で勉強するのを見守った。そのとき、それから部屋が暗くなっても、どこかから音階の高く低く波うつ心地のよい音楽の聞こえるのは、小糸の歌ではなかったし、ガラス球は歌わないのだからもちろんガラス球の歌でもない。
音楽はやがて消えた。
彼女たちの手もとをまわり終えてガラス球が返される日になった。ガラス球は道すがら小糸から雛菜、円香から透の手をたどって、プロダクションへ入った。夏の盛りだった。油蝉の道に落ちているのを、円香は心底嫌がるような日だった。
「お疲れさま。ちゃんと返してくれてありがとう」
透からガラス球を受け取ると、彼は言った。よければ感想を聞かせてくれないかというので、彼女たちはこたえた。
「え。なんだろ、べつに」
「なにもありません」
「たのしかった~」
「みんなのぶん重たくて……緊張しました……!」
彼は納得する様子でうなずき、ガラス球をデスクの台座に置いた。それで今日の用事は終了、というわけではなく彼女たちには打ち合わせがあった。とはいえそれも一時間ほどで終わり、いよいよプロダクションをあとにする、というところだった。
「じゃあね、ガラスキュー」
透が言った。声に感応するように、突然ガラス球に一本のいかずちみたいなひびが入った。「あっ」とこぼしたのは、彼女たちの誰かかもしれないし彼かもしれない。彼女たちはそれで揃ってガラス球を見て、ひびの次々刻まれていくのを見つめた。それはまたたく間だった。ガラス球はほとんどまっ白になり、球形を保っているのが不思議なくらいだった。
静かだった。
あたりはまったく無音だった。
誰ともなく彼女たちは踏み出した。ガラス球のそばに寄ると、それぞれ顔を見合わせた。差し出すのは透だった。透はひとさし指の、爪の先をゆっくりと近づけていく。指とガラス球の、近づくほどに時間は引き延ばされ、しかしそれらは悲劇を知って避け得ない愛のように、結局は結びついてしまうのだった。
ガラス球は、絶対に割れる。
透の指が、ガラス球にふれる……。
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火を消して帰って
一時間前。
「うまいうまい」ルカさんは言った。「よく走るなー」
「いつも、誰と……」私はラケットを振った。「やってる……と!」
思ってるんですか。
私の内っかわの叫びを乗せたボールはへろへろっと山なりの軌道をとって、どうにか相手のコートに落ちる。ルカさんはそれを、天使なり悪魔なりそれかもっと高貴ななにものからしく美しく笑って、「じゃあ取れるなー」とオープンコートへ打ち返した。
カコーン。
ぽこっ。
カコーン。
ぽこっ。
年暮れから住みはじめた家の近くには大きな川が流れていて、それは私たちの生活をがらりと変えた。そのひとつ。河川敷にはランニングコースがあって、橋から橋まで二キロ。橋を渡って二.五、一周すれば五キロ。あたりが暗くなってランニングをする私たちの誰も、橋のそばにテニスコートがあるのを知らなくて、私が現場で引越にまつわる世間話の折に聞きつけたのは年が新しくなってからだった。
ルカさんが二年くらい、まだ小学生の頃にテニスをしていたと知ったのもそのとき。
「ボール! そろそろ見えなくないか?」
カコーン。
「まだまだ……いけます、けど!」
ぽこっ。
ルカさんの振り回しには容赦があって、私のぎりぎり手の届くところ数歩手前を的確についてくる。その数歩の蓄積が私に一度きり裏をかくだけの力を与えてくれていることを、ルカさんは知らない。
「こんだけ暗けりゃ大丈夫だって、やめよう、なー?」
カコーン。
「……じゃ、これで、さいご!」
カコーー…………ン。
全力でコートを駆けると先んじてボールを待ち構え、腰をしっかり回転させてスイングはコンパクトに、そうやって区民いこいの広場テニス場オープンを制覇するはずだった私の渾身のスマッシュはなにを間違えたのか空高くあがり、「おお……」とルカさんは星の一つ、二つしかまたたかないまっ暗い空を見上げる。そのまま、打ち上げられたボールの落ちる位置を見きわめながらテクテク下がっていく。
ボールは私に見えない。
ルカさんには見える。
私たちは荷ほどきをしていた。引越を済ませてから忙しい日が続いたからそれは思うように進んでいなくて、私は、ユアクマちゃんのぬいぐるみでベッドをどこか児童書の国のお姫さまみたいに飾りたてるのに執心するルカさんの代わりに梱包を次々解いていたのだった。
ボールはまっすぐルカさんの手のひらにおさまる。
コートのはるか外。
私はコートに寝そべった。もう一歩も動きたくなかったけれど、息をするごと体は楽になった。空気は冷たかった。心地よかった。星が三つ、四つ……たくさんまたたくのに気づいた。きれいだな、と思った。ルカさん。私を見おろし、「がんばったな」と言った。家を離れるのをお姉ちゃんの前で泣くほど悩んだけれど、勇気を出してよかったと思った。
「そんなにがんばらなくていいよ」
ルカさんはたなごころを差し出した。
「誰のせいですか」
私はそれを取って、うおおーっと引きずり倒した。
それから、映画みたいに笑い転げたりはしなかったけど、ルカさんが笑うので私も笑った。
*
二時間前。
「ルカさんたばこやめたんですよね」
ライター。
「やめたんですよね」
灰皿。
ルカさん。
昔の写真。
*
いま。
しっかりトレーニングウェアを着てきたのだけど、思ったより汗をかいてしまったので、河川敷はひどく寒かった。風が吹くとほとんど凍えるくらいになり、私は水のほとりで、体をまるめてかがむよりほかなかった。
「なんかおもちみたいだな」
「寒くないんですか」
「おりゃ」
「ぎゃっ!?」
「おお、……なんかごめん」
「首ありえないですよ、首! やっぱりルカさん、末端冷え性……」
冷たい手にふれられて私が怒っていると、ルカさんは突然に、ことばをうしなわせるほど優美な手つきでマフラーをほどいて、私へかけて、巻いてくれる。ルカさんの首は細い。きれいだ。美琴さんはそこにキスをしただろうか。私はふたりが過去に恋人同士だったと思い込んでいたのだけれど、ルームシェアを提案した後に、そういう関係ではなかったと聞いた。でも私が真実のおもいからルカさんの細い指にくちづけたり、おなじだけのおもいで美琴さんの涼しい体に身を寄せたり、恋人とかそういうものでなくとも、私たちは互いをはっきり求めることができた。
「だから悪かったって……」ルカさんは身をかがめて、言い訳みたいにぶちぶち言う。「あったかいだろ。マフラー、いっしょに巻こうかって一瞬思ったけどさ、短いし……」
そうして、やめたはずのたばこをくわえる。かきっ、となにか心を砕くみたいにフィルターを噛んで、ライターを擦る。風があって火がつかない。寒くて火がつかない。ジジッ。ふるえていて火がつかない。私が手で囲いをつくり、ようやく火はともる。
たばこに火がともる。
私はそのなにもかもが嫌いだったけれど、夜とルカさんとたばこの結びつく瞬間あらわれる横顔のくるしくなるほどの美しさを、胸の奥の手の届かないところが愛していた。
嘘の魔法みたいに煙が舞うと、私は大げさに手を振って風上に逃げる。「これで最後だよ」とルカさんは言って、写真を指にはさむ。
写真には、どこかのベランダで隣り合い、自然にほほえんで振り返った美琴さんとルカさんが、写っている。
おそらく仕事用のスナップショットであるそれを、どうしてルカさんが持っていたのかわからない。ルカさんは話さない。昔の。そう言ってごみ袋へ放られたそれを、だったら、と取り上げてしまったのも私にはわからない。ほとんど口論みたいに言い合って、結局はこの河川敷まで流れ着いて、私はなにを望んでいたのか、ルカさんになにを求めていたのか、ふたりの過去をどうしてほしかったのか、いまでもぜんぶわからない。
「最後」
ルカさんはささやく。
たばこの火を、写真のルカさんに押しつける。
何度も、何度も。
そうして顔をなくして、腹も腕も脚もなくしてやっとルカさんはたずねる。
「おまえもやるか」
羨望するのかもしれなかった。
訣別してほしいのかもしれなかった。
最後まで、私にはわからなかった。
「火、ください」
私はこたえる。たばこと、写真を受け取り、まず美琴さんの顔を焼いた。穏やかなほほえみがまっ暗く焦げるまで火を押しつけて、それから胸を焼いた。あとは背景の青空を適当に、そしてライターをもらうと、写真に火をつけた。灰皿をルカさんが用意してくれていて、私たちはそれが燃え尽きるのをじっと見ていた。
川へ流した灰はちらちら雪みたいに消えた。
私は、帰ったらたばことか灰皿とかとにかくまるごと一式ぜんぶ捨てさせるぞと決意をして、はあっと息をつくと、「カラオケのあれみたいですね、むかしの映像」と言った。それでルカさんが、「カラオケ行ってないなー」とぼんやり言うので、休みが重なったらいっしょに行く約束を取りつけた。
星の見えない帰り道がすごくきれいだった。
家に着くと美琴さんはいつの間にやら帰ってきていて、ソファで軽く寝息をたてるのをじゃましないように、私たちはルカさんの手作りおせちの残っていたのを広げてから、ゆっくりぬくい体を揺すった。カメラを向けると寝起きすぐの美琴さんは反射で穏やかにほほえんでくれて、それだから、私たち三人の写真はかなりいいかんじに撮れた。灰はもう海へ着いたのかもしれなかった。
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「寛容」
〈REC〉
奏ちゃんがカメラを避ける。百ぺんに一ぺんくらいそういうときがある。撮影はいったん後回しにして、あたしは彼女を甘やかすことにする。
〈STOP〉
〈REC〉
カメラはあたしたちの座ったソファの背面に立てられている。ソファとふたつのあたま、暗い部屋、一番くじで引いてからなんとなくテレビボードに乗っかったままのファミリアツインの小さなぬいぐるみ、それに映画が映っている。
今日はめずらしく休みが揃ったので朝からふたりしてだらしなく過ごした。猛暑を理由に絶対カーテンをあけないぞと決めて、冷食でブランチを済ませるとネットフリックスをひらき、選んでいいというのでマイリストのいちばん上を再生し、ちょっと熱中できないかんじだったのでセックスに誘うとことわられ、あたしもそれに同意した。彼女は基本、夜にちゃんと雰囲気をつくってするのが好きだ。昼間から”乗っかって”くることもままあるけど今回しなかったのは朝だらしなく過ごすことになった原因がゆうべの長いセックスだったからかもしれないし、映画が良かったからかもしれない。あたしはその映画にいまいち乗れなかった。映画ではいま家が燃えていた。家はなにもかも完璧というわけではないけど、かけがえのない場所であるのは間違いないようだった。
それで夜のために夕食の仕込みやお洗濯、水回りの掃除なんかを終えると二本目に入った。映画はスペインのベストセラー小説を原作にしたミステリーであるらしくうす暗く湿った空気が印象的だったけど、これもあまり刺さらなかった。そういうとき、あたしは彼女のよこがおを見ていることが多い。彼女もあたしの好みをまあまあ知っているのだからきっと気付いていて、無視をしてくれる。
よこがおは、白くなったり暗くなったりする。
炎であかく揺れたりする。
デコにめんちょがあったりもする。
いま映画には巨大な回遊魚の水槽が映っていて、するとあわい光が、彼女の瞳のいちばんおもてを不実にも美しく青くいろづけ、あたしはこの子をほんとうに愛するのかもしれないと思ったときと同じように、今度は絶対に燃えない家について考えはじめる。
〈REC〉
あたしはカメラを構え、彼女がヤーズを飲むところを撮る。彼女は呆れたふうにほほえんであたしを許してくれるので、もう一度、同じ場面を撮ることはないと思う。
あたしがプロダクションに入り、突然ものになってから体調を”安定させる”ためにヤーズを飲みはじめるまでの時期と、彼女とつき合いはじめてからの時期が重なるころ、ちょっとずつずれた不調が重なって���醜いケンカをしたことがある。そのときのことはいまもまだ笑って話せないし、だいたいあたしたちはいつだってなにもかもが順風満帆な最強のふたりというわけではなくて、限りなくそれに近いとは思うのだけど、けっこういろいろなところに傷がついている。絶えない。
だからあたしたちはずっと治癒の途中にいて、もしかして九割くらい治るときがいつか来るのかもしれない。
〈REC〉
きっかけは覚えていないしなにかで酔っていたのかといえばそうかもしれないけど、ともかくあたしたちはセックスをカメラで撮ってみた。
次の日になっておそるおそるデータをひらくと、彼女はあたしの背中から顔を覗かせて悲鳴をあげながら肩をバンバン殴ってくるし、あたしも思ったよりか恥ずかしくなってしまったので、十秒で再生を終えてデータを消すと、このことはあたしたちの忘れたいゆえに忘れがたい思い出となってしまった。
とはいえデータはこっそり内緒でバックアップをとっているので、いつかまたふたりで見るかもしれない。本気でぶたれそうけど、あたしはそういうときの彼女がかなり好きだ。
〈STOP〉
〈REC〉
ファイザーワクチンの四回目接種をするとあたしは寝込んでしまった。三十九度台後半の熱を出していてかなりしんどかったのでカメラは彼女に託すことにした。彼女は勉強熱心で、あたしよりよほどうまくカメラを扱える。だから撮影は、手厚い看病のさなかでも続いていく。
「どうしてこんなことを始めたの」
彼女はカメラをこんこんっとつつきながら、「続けるの」とつけ加えた。
「おばあちゃんになったとき、いっしょに見たいなって思って」
とあたしはこたえた。それと、三十九度台後半の熱を出していたせいでこういうふうにも続けた。「あと、残るもんがほしくて」「や、これ違うな、違くて、ごめん、なんて言うたらええんやろ」あたしはなぜかさみしく、胸が苦しかった。「待って、きもちわるなってきた」
その不快感はあっという間に吐き気となり、あたしは後生やからと撮影を止めるよう頼んだ。すると彼女はそうねとささやき、「おばあちゃんの私たちがこれを見るのね」と目を細めた。まじで?
立ち上がれないことはなかったけど、優しい彼女が湯おけを持ってきてくれる。湯おけにはタオルが敷かれていて、準備万端というかんじで、あたしはこの不条理な瞬間をオエオエとえづきながら、それでも、彼女の前で初めてゲボを吐くんだとゆっくり心で受け止めていった。でも、それを愛というのかもしれなかった。知らんけど、たぶん。あ、吐く。出る。出ます。
〈STOP〉
〈REC〉
ただいまっ、とあたしたちは明るく家へ帰ってきてあれこれ喋りながらリビングの方へ入っていく。これは実は仕込みだ。あたしが先に玄関へ入り、カメラをミニ三脚につけてコンソールテーブルへ立てておいた。タイ直帰の彼女はそういう仕込みにしぶしぶといったかんじで乗ってくれて、その実むしろ澄ました態度でさりげなく演出を足してくれた。だからやっぱり、このときの心というのはあたしたちにしかわからない。
夕食をつくるのでカメラをキッチンカウンターに置く。レンズは当然あたしを向かないし、ソファに横になっている彼女は見えない。で、あたしたちの声がして、それもだんだん少なくなる。日の色が変わってゆく。調理を終えるとあたしはカメラを持ち、ソファへこっそり近付く。眠っている。ねがおを十秒くらい撮り、くちもとにかかった髪をよける。まつげをくすぐると彼女は目を覚まし、なにか言う。
なんとなしにつけたテレビでセサミストリートをやっていたので、あたしはクッキーモンスターのマネで料理を紹介する。すると彼女はかなりよろこび、もう一回、もう一回とねだってくる。だからあたしは何度もクッキーモンスターになる。何度も何度も。何度も。
〈STOP〉
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セカンダリ・ラバーズ
「アイドルやめてきた」
と加蓮が言う。
私はミルをまわすのを中断し、手をあげる。てのひらを指のまたの間までうんと広げ、返事を待つ。加蓮はいかにもアイドルらしくしゃなり歩き、そして思いきり振りあげた手を、「やったぜ!」とぶつける。音は心地いい。爆発して、私たちの好きだったもの嫌いだったもの大切すぎたものそれらなにもかもを吹き飛ばしていく。
「お疲れさま」と私はふたたび手を動かす。遠くない港から届いた汽笛の音が時間を知らせる。シロクマじるしの遊覧船は四十分に一本、港を出て新陽新島群をまわると五十分で帰ってくる。だから汽笛は、島々の浜や青い浅瀬を思わせる。
「疲れたぁーっ!」
加蓮はバッグとか贈答品らしい手提げとか、いろいろなものをひたすら放り投げ、ソファに寝ころぶ。背もたれのむこう伸ばした両手足が見え、ひらいた手のひらがひらひら羽ばたく。疲れることなんてあったの、私はたずねる。ちょうど若い子たちがいてさあ、加蓮はこたえる。さしがねだったんじゃない。そうかも、握手会やってきたよ。すてきね、私も並べばよかった。おとなは遠慮してーっ……。
やめてきた、というのを正確に言い直すなら、プロダクションとの契約終了が今日だった。アイドルをやめることについては加蓮は三ヶ月前、私やあとなん人かと揃ってのラストライブをもってすべての活動を終えていた。私の退所のほうが二ヶ月早かったのは契約期間の都合でしかない。
「あれほんとに助かったよ。贈り物の手配」
私の退所日には雨が降っていたのを思い出す。そういう時節だったのだ。思えば最初の契約書にサインをした日にも雨が降っていたような気がするけれど、景色は遠くぼやけている。温かい雨だったように思う。どちらも音だけが、はっきり感じられる。
「もーひゃっぺん頭さげた……ってかそうだ、守衛の畑沢さん。知ってる? あのひとも今日でやめるんだって」
「畑沢さんって、よくロビーにいたあの?」
「ロビーってかA棟」
「よね。私もお会いしたかったな……」
「奏のぶんも挨拶してきたよ。なんかいっしょに住んでるの知ってたし、仲良しだったもんねえって」
「あら嬉しい。理由は聞いた? まだお年ではなさそうだけど」
「長野できょうだいと住むんだって」
「そう、幸せでいてくれたらいいけど……」
「あのひとなら大丈夫でしょ、コーヒーありがと」
「ええ。ケーキも食べるでしょ?」
「お願いしまーす」
私は冷蔵庫のケーキボックスを取り出し、テーブルに並べる。加蓮のうるさくかがやく目は、過ぎ去ってもう久しい少女が気まぐれに戻ったみたいに見える。お皿や、フォークを持ってソファへ戻ると、起きて場所をあけてくれる。私は隣へ腰かけると、かたちを崩さないようケーキをお皿に移す。
私たちお気に入りのふたつ離れた駅の洋菓子店の、いちばん好きだったももとあんずのミルクレープはこの日を待たず店頭から消えていた。少し残念に思っていたけれど、次に愛したタルトタタンをテーブルへ広げてみると、これが最善だったよう感じられる。私は加蓮を見る。加蓮もそう思っているのがわかる。ありがと、加蓮は言う。十一年お疲れさま、私はあらためて言うと、タルトタタンを先に食べるよううながす。
「その前に」と加蓮は言い、私を見る。ああ。私は心の準備をする。加蓮のてのひらが頬に添えられ、ゆっくりと、引き寄せられるのに私は応じる。そうして加蓮がくちづける。私は目を閉じてこたえる。それは清潔にもちょっと続く。けれどもせっかく冷えたケーキやコーヒーの香りを台無しにしてしまうほどではない。それくらいの私たちは、どちらともなくくちびるを離す。すると加蓮が身を寄せてくる。ほとんど倒れこむみたいで、予想しなかったので少し驚く。「おっぱいすき」「バカ」加蓮はけらけら笑って言う。「ちょっと、疲れたかも」
私は、「うん」とこたえて加蓮の髪をなでる。今日はもう出かけないのだから、セットをくずしてもいいと思う。「いいよ」と私は続ける。加蓮は服をぎゅっと掴む。それは切実に重い。
「握手会、若い子ばっかでさ、なんかこんなだったっけとか、思っちゃった」
思い出す。十年前、私も”こんな”だったはずだ。初めてプロダクションに足を運んだ日、エレベーターで川島さんと乗り合わせた。川島瑞樹さん。社員らしい男性が降りていって数階ぶんだけふたりきりになり、私は声をかけたかった。何を話すのかなんてわからなかったけれど、結局彼女は先に降りた。こんなことなら制服を着ていったほうがましだった。アイドルの説明を受けるあいだ、ずっと肌寒かったのを覚えている。
十年前。
新陽はまだこの世にないし私はサーフィンにもダイビングにも興味がなくアイドルを始めたならいつかはやめる日がくるなんて考えたこともなかったけれど、それでも今日へ向かっている。
「ちゃんとアイドルをしたのね」
私は言う。
がんばったんだ、と加蓮はささやく。
そうして、私たちはケーキを食べる。いちカットで満足できず、もうひとつ。コーヒーを飲みながら今後の予定について確認をしていると、また汽笛が鳴る。そびえたつ陽泉山系を反響し、汽笛は天頂の日と折り重なって降ってくる。加蓮の視線に気づく。私は見返しもそうそう、ジェスチャーで返事をする。加蓮はてきぱき後片付けを始め、私は予定しなかった外出の準備をする。新陽の午後にいい波が立つのは珍しい。でも今日がその日かもしれない。
カットバック・アンド・リッピング。
しぶきは火炎のようにひらめく。
加蓮は華麗に波濤に消える。
いつか、加蓮が溺れたときのはなしを聞いた。小学生だった。加蓮は夏休みに合わせた再入院が決まっていたので、最後のプール授業になんとしても出たかったのだけど、医師が許してくれなかった。だから放課後、忍び込んだ。鍵のかかった柵を乗り越えると、準備体操もそこそこにプールへ飛び込んで溺れた。死ぬってふたつあって、加蓮は教えてくれた。炎か影。結局、駆けつけた教師に引き上げられたということだった。
「もー!」加蓮は波を飛び出すと、髪をかきあげサーフボードにのそっと乗る。「最悪! 絶対いけた!」
ことばと裏腹に大口をあけて笑っている。この波で今日は終わり。私たちは浅瀬から浜へ戻る。波は背中を押したり後ろ髪を引いたりする。日はおよそ暮れかけ、新陽新市街の[[rb:白黒 > モノクローム]]LEDが銀の銀河の星のくずのように光っている。
新陽は六年前、××半島の突端に三の大島、三十三の小島をあわせて建造された。なんらルーツのない新陽にはさまざまな出自の人間――あるいは非人間――が集まり、多様で多層で多重かつ多面的な多人種、多秩序都市が形成された。つまり雑多な街だった。一方で、陽泉海岸周囲がもともと有していた豊かな自然は厳格に保全されており、新島群をつづら折って形成される波はサーファーの人気が高く、また本州有数のダイビングスポットとしても知られている。
そして新陽には、さらにいかした性質がある。
私たちが今晩の食事について話しながら歩いていると、三人連れの男たちが声をかけてくる。彼らには色がない。
新陽には色がない。
都市設計時に忘れられていたため、新陽では現在も白と黒以外の色が存在していない。
新陽あるいは新陽に属するあらゆるものにおいて、色は白と黒の濃淡になんらかのモチーフを加えて視覚される。
私たちには彼らの肌の色がわからない。着ている服もそう。もっとも、左端の男が黒髪であることはそのべたっと濃厚な黒色で知覚される。しかしあとのふたりの、微妙な濃淡の違いは私たちに色を伝えない。顔立ちから日本人であることは予想されるのだけれど、新陽に限ってはそれですらあてにならない。
初めて来たんだけどいい店を教えてほしい、と彼らは言う。
おそらく外から来ているのだろう。
マック、と加蓮はこたえる。
彼らは返事を聞く気もないのか行き方をたずねるところから案内してほしいというところまで流れるように続ける。きっと、練習を重ねたのだと思う。脚に感じる視線もさほどひどくない。どちらかと言えば、ウェットスーツのジッパーを落としたいのかもしれない。できれば新陽でない場所で。
どこかで会ってないか、と彼らがたずねる。
そうかもね、と私はこたえる。
無駄な会話だと思う。おかげで夕食を決められない。私たちはもういい歳をしたおとななので、おなかが空いているとあまり人にやさしくできない。うんざりして無視をきめこみ更衣室までくると彼らは捨て台詞を言う。なにか軽薄で汚いことばに、よせばいいのに加蓮が反応する。なんつったお前、とすごんできびすを返す。加蓮のそういうケンカっぱやいところを私は好きじゃない。男たちは喜んで応じる。加蓮の構えるのを見て残酷に笑う。加蓮は彼らをぶちのめすだろうか。たぶん無理だろう。ヤヤンに習ったシラットは最強の武術だけれど無敵の魔法ではない。でも、一人くらいはいけるかもしれない。私もやればもう一人。
「どーうしったのっ!」
そのとき奇妙な節とともに、フアンがあらわれる。よかった。私は息をつくし、加蓮も構えを解く。男たちは肩に乗せられた巨大な腕を、それからフアンを見て驚く。彼らはサノスを知っているだろうか。インフィニティ・サーガを見ただろうか。フアンはサノスの思想に強い感銘を受け、もともと外見に近しいところもあったのを運命と感じ、敬虔な信仰と壮絶な修行の結果ほとんどサノスそのものになったという、狂気の聖人だった。色を伝えるモチーフには当然インフィニティ・ガントレットを選んでおり、フアンの巨体は私にはサノス・パープルに見える。
新陽のいかした性質。
ここではひとは――ひとでなくても――望めばなんにだってなれる。
私たちはフアンにハンドクラップをおくると、更衣室へ入った。
「ヤヤンに怒られるわよ」
ロキシーのジッパーを下ろし、私は言う。
「ごめんって……黙っててください」
私のは、加蓮が下ろしてくれる。
シャワーのあいだにお店と加蓮の奢りは決まって、更衣室を出るとビーチハウスに寄る。フアンはなんだかものうげに焼飯を作っていたけれど、私たちを認めると柔和にほほえんでくれる。男たちの姿はない。私たちは感謝を告げる。フアンにハグをすると、かれの家族の営むお店、プラチャーナ宮へ行くことを伝える。フアンは喜びながら、やはり憂いをたたえて見える。もしかして彼らになにか、私はたずねる。フアンは静かにこたえる。
「スナップを、したくなったんです」
「……ああ、指パッチン?」
「はい。わたしはまだまだサノス師に遠い……あまりに……」
「えっと、元気出してよ。サノスさんもさ、畑が虫に荒らされてパッチンしたくなることもあったと思うよ……」
私たちはかれに優しくしたいけれど、おなかが空いている上に焼飯がいい香りをあげすぎるのでうまくできない。それでもフアンはふたたびほほえみ、私たちを送り出してくれる。入れ違いに、焼飯の香りにつられたのかサメ人間がやってくる。頭はメジロザメ、体は人間。こんなところで出会えるなんて。サメ人間はそのサメのくちでフアンと話し、焼飯を受け取ると牛串のできあがるのを待った。その、太古の頃より研がれ続けた鋭い牙。数千万年研磨されたオブシディアンのように美しい眼……。サメ人間は、恐ろしくもたくましい顎を繊細にはたらかせストローでメロンソーダを飲んでいる。その姿に、私は惹かれかけている。ひとめ惚れだったのだ。加蓮が私を引きずっていく。
陽泉海岸を離れること十数分。新陽駅に着く。駅南は景観保護のため規定された厳格なルールがあり、線路を渡るとそのすべてが消滅する。線路沿いには住宅を兼ねた十席ほどの小料理屋が並び、それらは〈大父母〉によって経営されている。大父母は、新陽の建築に資産を投じた不動産、都市計画事業体のお偉方の集まりであるらしい。北口を出てすぐ広がる新陽新市街――これらも大父母がもっている――はオフィスやモールではなばなしく、そびえ立つ六つの巨大ビル群、〈新陽・サンシャイン・ビルディングス〉通称〈SSB〉はその名の示す通り新陽じゅうの光を略奪している。北部の最高峰、陽泉山脈よりもよほど高いのだから、かれらの罪はどれほだけのものだろう。
SSBの麓を横切り、大父母経営のお店をすべて通り過ぎると、屋根のないアーケードに入る。旧市街。屋台町。汗や香草、フルーツ、そして二十四時間なにかの焼け続けるにおいが心地いい。さまざまな人/非人が集まり、思いおもい食事を楽しんでいる。プラチャーナ宮は十坪ほどの店舗と同じくらいのテラス席でできている。私たちはムーガタやパッタイ、カオマンガイを頼む。それに私はウーロン茶、加蓮はアユタヤ・ビール。ミーチャ、フアンの奥さんは紫色ではない。私たちの知る誰よりも二重のぱっちりした恰幅のいい女性で、頼んだものをすべてを一度に運んでくる。前腕に刻まれた刺青のため、彼女の肌はかわいいイチゴ色に見える。
「はい、お疲れさま」
「次の波に」
グラスをぶつけると、真後ろのテーブルから乾杯の合唱がとんでくる。かんぱーい、私たちも輪唱する。それはそう。フルーツレディ、アロサウルス、ビーグル犬のピーターやスヴェトラーナがテーブルを囲んでいるのだ。
フルーツレディ。フルーツが好きすぎるあまりフルーツになりたがっている。フルーツショップを営んでおり、イチゴカラーのワンピースからブドウモチーフの髪、バナナのピアス、マンゴーやキウイやドラゴンフルーツの指輪……あらゆるフルーツで全身すべて彩っている。声が大きく、やることなすことせわしない。ほんとうの名前は捨てたらしい。
アロサウルス。身長百七十センチ。かれの名前も私たちは知らない。父より母より朝のコーヒーよりアロサウルスを愛しているのだけれど、アロサウルスが臆病な恐竜であったと明らかになって悲しんでいた。私も、アロサウルスは繊細な恐竜だったのだろうとかれを見て思う。だぼっとした着ぐるみの見た目で、スペアリブを食べている。
ビーグル犬のピーター。アロサウルスが飼っている。もともとは人間だったのかもしれないけれど、それはわからない。乾杯の合唱のとき、ワンワン、かれは言った。
スヴェトラーナ。ふるいロシアの伝承の魔女”ヴィイ”に憧れているらしい。無色の肌に落ち窪んだ頬、鼻は鉤のようにいかつく、たるんだ瞼の目の奥があやしく光っている……外見は悪くないのだけれど、性格がどうにも明るい。張りのなくしゃがれた声でテーブルの会話をリードしていて、スヴェトラーナがいてくれるとみんなが楽しい。
私たちはかれらと近況を報告し、最近はやりのSSBの陰謀論とかを聞くとテーブルに戻る。とうとうアイドル卒業となったので、私たちには話したいことしたいことが山ほどあった。稼いだお金はまあまあ残っているし、私は大学の夏期休講があと一ヶ月あるし、前期の簿記二級を六十八パーセントで落ちてけっこうやる気をなくしている。加蓮のダイビングスクールも日程はけっこう自由がきく。時間がある。車も買った。私たちはいま、けっこうどんなことでもできる。
加蓮がソファで眠っている。
シャワーを浴びたばかりでまだ、私は髪が濡れている。指の先のしずくをぬぐい、つけっぱなしたテレビの音量をしぼる。それから、加蓮にふれる。お酒が肌の濃淡を塗り変え、頬はほんのり温かい。驚くべきは、加蓮が歯みがきの最中に眠ってしまったことだ。くちびるから歯ブラシが飛び出し、ソファによだれがこぼれている。加蓮はお酒に強くない。悪いことに、酔い潰れるのが好きだ。潰れて介抱されるのが好きだという困った、面倒な、厄介な嗜癖を持っている。たまにちょっといらつく。いらつくのと愛おしいのと、心はまだらに明暗変わる。
加蓮には色がない。
ミントモチーフのヘアピンさえなく、ゆるっとしたロングスリーブシャツ一枚の加蓮には、白と黒の濃淡のほかどんな色もない。
加蓮、と私は呼ぶ。
加蓮はこたえない。
「加蓮、起きて」
「起きへふ」
「いいから。途中でしょう」
「起きへあふ」
「ばかみたいに飲むから」
「……」
「寝ないで」
「ふぇー……」
加蓮はどうにか体を起こし、おざなりに手を動かす。テレビのニュース〈新陽・ナイト・プラネット〉をぼんやり眺めている。ウサギとリスのキャスターが、まじめにニュースを読み上げる。立てこもりが……溺死者が……動物園のヒヒが子どもを救って……。人面ウェルシュ=コーギーの学者が含蓄豊かなコメントを添える。機械人間の気象予報士が吉報を、明日もよく晴れ真夏日になるという知らせを届けてくれる。
加蓮は歯みがきを済ませると、私にまとわりついてくる。さみしいよ、とうそぶく。フロスもしなさい、と私は指示する。加蓮は素直にしたがう。
『……第十六島で起こった立てこもり事件の続報です。人質救出は失敗に終わり、三人の人質は全員死亡、犯人はその場で射殺されたもようです。現場から……』
私が歯みがきをするあいだ加蓮はももで眠っている。ソファを立とうとするとしがみついて離れない。ジェスチャーで説明をして、すると加蓮は腰にひっついてくる。結局、寝支度を済ませるまでそばにいる。頭をなでると嬉しそうにして、加蓮はもしかして犬になれるかもしれない。私はアロサウルスみたいに、いつか加蓮を飼うかもしれない。サーファー犬。それは悪くない。あごをなでると加蓮は拒否する。
私は加蓮の寝室へ行く。加蓮のベッドに横になり、加蓮の隣で眠る。寝室は別々にあるけれど、時間があまりにもずれるときやどちらかの調子が悪いとき、もしくはひどめの喧嘩をしたときとか以外だいたいいつもいっしょに眠る。セックスをすることもある。最初の頃にし過ぎたから最近はそれほど盛り上がらないけれど、たまに爛れる。
奏ちゃん、と加蓮が呼ぶ。
明日も早いのよ、と私はこたえる。
いいじゃん、ねえ、髪染めたいとか思ったことある?
あまりないわね、似合わなそうだから。
あはは、そうかも。でも考えてはみたんだ?
それくらいね。加蓮は? 他の色って考える?
あんまりないかなあ……なんでだと思う?
知らないわよ。
ひど、つめた……ねえ、ごめんね。
……。
やば、謝っちゃった。ちがうの、じゃなくて……ね、おやすみ。
おやすみ、加蓮。ちゃんと起きてね。
ふふ、大丈夫だよ。奏、またあした。
そうして加蓮はすぐに眠ってしまう。首すじに息を感じる。寝息はぬるく、くすぐったい。肩越しにまわされた加蓮のてのひらにさわってみる。なでたりもんだり、指先でひっかいたりする。加蓮は眠っている。そんなふうに、てのひらで遊んでいるうち私も眠る。夢を見る。夢だけがまだ、絢爛色彩りに満ちている。朝にはもう忘れてまた次の一日の始まりに、私たちはサーフボードをかかえて陽泉海岸を駆け出すと白黒銀の波へ飛びこんでいる。
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あじさい②
あじさいが咲いたというので外へ出た。あじさいは、庭のおもてから裏手の丘の斜面へ続くと、そのうちに木々と溶け合った。どこまで続くのか、ここからではとても窺い知ることはできなかった。
「おいでー」
周子が呼ぶ。彼女があじさいの、背丈ほどある花冠の合間から顔を覗かせるのは、どうもその花の一輪らしく見える。
ふたりきり、過ごすのは久しかった。懐かしいとさえ感じた。
私は駆け寄って、すると彼女が待っていてくれるので、すぐにたどり着くことができた。彼女は黙って、私の手をとった。このごろは私が求めてばかりだったから、それは嬉しかった。詩や歌みたいな気持ちだった。彼女は私の、そういうところをひらかせて、なんにも知らない顔をして、ほほえんでみせるのだった。
「風流だねえ」
彼女は言う。私たちは森のきわの畝のひとつにいる。地面はよく整えられ、歩きやすい。きっと、誰かが手を入れているのだろう。それにしてはどこまでも続くのに、ひとの影はなく、歩くうち私は異界に迷い込むような気分になった。あじさいの、ひとつとして同じ色のないのも、そうさせた。
むらさき。
紫。紫紺。咲きかけ、朝もやの色。
夕焼けの、消える間近みたいな。
あるいはべに。
気分がよくないと、私が言い出すより先に休憩を提案してくれる、彼女にはそういうところがある。子どものむずかるのなんかも、彼女はすぐ察した。そうして見る間に笑わせるから、私は少しも恐ろしくなかった。
「こわい?」
彼女はたずねた。
私はこたえた。
「私、こわくなんてなかったよ」
私はこたえるのは不安だったけれど、彼女がほほえんでくれるので、これは伝わったのだと、ほっとした。すると足が軽くなって、すぐに気分も良くなって、歩こうという気持ちになった。彼女もそれを感じたみたいで、歩調を合わせ、私たちはあじさいのどんどん奥へ入っていった。
ああ、
そういえば、素敵な帽子を買ったんだった。
夜、帰ってきた周子が、横になっていた私を見かねてか、おそばを作ってくれた。お出汁のきいた、薄めの八割そば。ねぎや、油揚げなんかをかんたんに浮かべて、私はそれを食べながら、彼女へたずねた。
「庭のあじさいは、どう?」
彼女はおそばを気持ちよくすすって、こたえた。
「また来年、かな」
聞けば今年はもう、厳しいらしい。無理をするよりしっかり土壌をつくって来年に咲いてくれたほうが、いいんだとか。
私はそれで納得して、ちょうど食事も済んだのでお礼を言った。
「おそまつさまでした」と彼女がなんだか知らないハンドサインをするので、笑おうと思って、それがうまくいくので自分で驚いた。
あとはお皿をいっしょに洗ったり、寝支度をしたあとでソファで映画を見たりしてから、ベッドに入った。目を閉じて、涙が出たのを周子はぬぐってくれて、私はそれがやまないからついに背中を向けたのだけど、気がつけば彼女の胸にいて、結局またそこで眠った。
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鼻血
「あ」
鷺沢文香が、ささやいて本を繰る手を止めたのは、連綿つらなる文字の河を、鼻腔をこぼれたべに色のしずくが堰き止めたから、なのでした。
「……ああ」
文香はおお慌てで右を左を見ます。どうしてかというと、本を汚してしまったから、それは彼女の知る五悪のうちひとつであるからなのです。すると鼻面に、ちり紙が差し出されます。彼女はもの言わず、鮮血を拭き取ります。それはまったく赤いので、楽な仕事ではないのですが、執念にも近い指のはたらきは、見事紙のおもてをまっさらきれいぬぐいさるのでした。
「……ご迷惑を」
「読んでていいよ」
塩見周子が応じます。その手は休むことなく、文香の手の甲を拭いております。なにしろそこは血だらけなのです。ようやくぬぐいさっても、鼻血はまた鼻腔を滴るので、そうそうきれいになるということはありません。
「ちょい顔上げよっか」
文香は周子にしたがいます。子どもが絵本を高らか歌いあげるように、本を掲げると、すっかりきれいなそこへ視線を与えます。だって物語は、佳境なのです。もうたった数千字で閉じゆく世界、文香は奔走し熱狂し感動をして、そしておわりには讃頌をおくりたいのです。
「……ありがとうございます」
「うん」
周子は、文香の背後へ回ります。えんえん流れる鼻血をぬぐいながら、しかし文香と書物との交流に決して分け入らないよう、それきり喋らずただ手のみを、はたらかせ続けるのでした。
光景を、速水奏は見ておりました。けれど彼女は、黙っているのです。どうしてそうするのか、彼女には知れません。胸をふるわせるおもいのなんであるかをまた、彼女はいっこう知りません。奏はたなごころをかたく結び、鷺沢文香と塩見周子とのあいだに起きる交換を、ああ、じっとしずかに、見ていたのでした。
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ベイビー・イン・カ―
「あかちゃんが乗っています。」
ラッパを吹く二体の天使と天使っぽくあかちゃんの描かれた黄色いステッカーはあたしの車に朝イチ貼られていて、夢で見て生涯忘れ得ない花の印象を与えた。
「おお」
つい言って、ドアを開くと(ポーンポーンポーン……)置き忘れたコートを拾うのだけれど、ところで駐車場にはサンフランシスコっぽいシャッターがついていて防犯は完璧ですというのが売り文句のひとつだったけれど、っていうかこれ剥がすとべたべたが残るんちゃうか、知らんが。
ステッカーは、むかし志希ちゃんに贈った――遊びで貼っつけた――ものだった。それはフレちゃんとのあいだにベイビーがやってきて実際におおいに役立ち、ベイビーが子どもになっていまは最初の役割を取り戻して彼女の車で燦然と光っていた、ステッカーだった。
その、ふちを爪でなぞる。そうしてふと思いたち、鼻を近づける。奴はにおいを残さない、証拠を残さない。
離れるのは、どうしてか惜しまれた。
あたしはコートで身を包み、ぜんぜん寒いので自販機を眺めポケットに手をつっこんでスマホを部屋に置いてきたことに気づく。それで寒さはシャッターの目のむこうの朝の曙光みたいに射し込んで、あたしを車内へ追いやった。
そこであたしは目を閉じた。
一瞬が、ものすごい密度でやってきた。
……ことっ。
ことっ。ことっ。
目を開くと、奏ちゃんが窓をノックして、呆れたみたいにほほえみながら寒さで体をちぢこめていて、信じられないほど深い愛しさが、訪れるのを感じた。
もう言葉はいらないでしょ、というかんじの視線を奏ちゃんが送るので、あたしは指で車のうしろを示した。イヤよって雰囲気を明らか出してそこへ向かう寝起きてまるい後頭部に、「まだ伝えてないよね?」��たずねると、奏ちゃんはステッカーとあたしとを見比べ、目をまるくしてうなずく。
「こわあ」
あたしはつぶやく。とはいえべつに、ほぼほぼ三ヶ月は会ってないにせよ、たとえばプロダクションでたまたま耳にしたとか、奏ちゃんのご両親と家族ぐるみで親しくしているフレちゃんから仕入れたとか、あるいは防犯シャッターを破ったみたいに知り得ない手段で盗み出したとか、あの子なら、なんだって考えられた。
それだから、やってくるのはどうしたって、嬉しさなのだった。
「あかちゃんが、乗っています」
あたしは言う。
あたしはあたしのおなかにふれる。
その声を、聞いた気がする。
「ことっ」
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抜け道
抜け道。
そう呼びたくなるような場所だった。
「抜け道」は、森林のただ中にあるようだった。木々が譲るように道をつくり、頻繁に往来があるのか地面は平坦だった。降り続く広葉樹の青葉は道脇にうずたかく集められ、しかし人間の作為は少しも感じられない。香りのせいだと思った。芳醇に、かすかに腐敗を感じさせるように甘く緑の香るのは、故郷の、祖母の暮らしていた山中に孤独に佇む家々を取り巻いていたものと同じだった。
ともかく道は、うっそうとした樹林のなかでいかにも不自然な印象を与える。
けれど不快ではない。
私は深く息をした。
「あちこちを、見て回るのもいいと思いますよ」
楓さんは言った。
たしかに、道すがら木々のむこうに見えるものは興味を感じさせる。ぽっかりと、森の開けた場所にある泉。それは光のいたずらなのか、うすく桃色の光を放つように見える。ほとりには短い下草が生えていて、いかにも暖かそうなのにひとつの花も見えないのがかえって泉の印象を深めている。
「あちらは、近づかないほうがよいです」
どうしてですかとたずねると、楓さんはあいまいにほほえんだ。その指でさしたほうには、立ち枯れ、折れた木々の群れがあり、しかし樹冠のないそこに注ぐ光はかえって美しかった。太陽がいくつも浮かび、影をひとつ残らず奪っているようだった。墓所なのかもしれない。私は感じた。
「とはいえ、まっすぐ進むのが最善なのですが」
楓さんの言うとおり、私はしたがった。途中、ものすごい数の銀色の蝶に楓さんが目をうばわれ、ふらふらと足を向けてしまったので、慌てて引き止めることになった。蝶の道の先には、木の家があった。家は小さかった。家には扉がなく、丸い窓があった。薄布が塞いでいた。
「失礼しました……ともかく、誘惑のおおいところです」
楓さんは続けた。
「ひとりで来るのは、あまりおすすめしません」
あなたはどうなんですか、と私はたずねたかった。
「ああ、これは……懐かしいですね」
そう言って楓さんは、一枚のぺらっとした紙を取り上げた。それは算数の、かんたんな計算のプリントであるようだった。
「私、急いでいたんです。これを出すのと、遅刻しないのと、両方を叶えるには抜け道を使わないといけなかった。でも、そのときは知らなかったんですけど、抜け道を使うと、けっこう大事なものをなくすんです。だから私は、学校には間に合ったけど宿題を出せなかった」
おこられました。
楓さんはほほえんだ。
そういうものが、道にはたくさん落ちていた。黄色いクマのキーホルダーや、防犯ブザー。携帯電話のストラップ、衣服の詰まった紙袋や、shureのコンデンサマイク。
持ち帰れないものですか。私はたずねた。
「差し出したものは、戻ってきませんから」
楓さんはこたえた。とはいえ安心してください、とつけ加えた。
「今回、抜け道を開いたのは私なので、差し出すのも私です」
なにをなくすのかしら、と楓さんは別に不安がる様子でもなかった。その肩越しに見えた、大樹と呼ぶべきだろう老木のうろが、呼吸をするように収斂し、薄暮みたいにかがやく蜜を吐き出していた。
「そろそろ、いいでしょうか」
楓さんはふと立ち止まり、ここへ来たときのように、私の手をとった。あまりにもそれが自然に、なにげなくおこなわれものだから、私がこの人にひかれかけているという意識は後からやってきて、それは力強く、子どものころにガラスの宝石玉に触れたときみたいな気持ちだった。
「くり返しますけど、差し出すのは私です」
楓さんは、私の目をしっかり見て続けた。
「美優さんが自分の意思でここへ来るのなら、美優さんがなにかを差し出すことになります」
わかりました。私はこたえた。
「なので私は、もうここに来ないと思います」
楓さんが手を放した瞬間、私はひとりで局の階段にいた。なのでそうっとそこをのぼり、スタジオに着くと放送にはどうにか間に合った。楓さんには仕事の成立を報告して、感謝を口実に夜また会った。抜け道のことは話さなかったし、なにをなくしたのかも聞かなかった。雪は止んでいた。その日も、楓さんの家で眠った。
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りんみお浮気紀行!
「だーっから! アヤしいと思ったんだよあのおっちゃん!」
本田未央は叫んだ。息もたえだえ背中で車を押しながらのうったえは、永遠の存在を感じさせるほどに青く広大なモハーヴェ砂漠の空に消えていった。
「まあ英語もロクに話せない日本人、カモでしかないよね」
渋谷凜はつぶやいた。道路にしたたり乾いて消える汗を眺めながら命というものに思いをめぐらせていたため、その声は、いっそ景色に似合いのそらぞらしいものとなった。
「もー! しぶりんはなんでそう冷静かね?」
「いや、騒いでも消耗するだけだし」
「じゃあ未央ちゃんが盛り上げるから、そのかわり、倒れたらあとを頼むよ」
「そのかわりってなに、助けないよ……」
未央はそれで、なにか続けようと口をもごもごさせたが、なにしろそこは乾いていた。同じくらいからからの舌で唇の亀裂をさぐると、うしろ数メートルに置き去りとなった言葉を切な��に細めた目で見つめ、未練を吹っ切るよう「きゅうけーい!」と言った。それで返事を待つこともせず、真っ赤なキャデラック・エルドラドの運転席に回り込み、サイドブレーキをががんと引いた。
凜はもう一度「助けない」とつぶやき、車体の日陰に腰をおろす。最悪の正午を過ぎてもう、映画のなかの逃亡犯みたいに車体に背中をへばりつける必要のないことに心からの感謝を捧げていると、ペットボトルが差し出される。
五百ミリの、最後の水。
そのうちきっかり五十ミリを飲んで、未央に返す。未央も同じだけ飲む。ふたりは互いが、互いを生かしているのだとわかっている。
互いがいるからこそ、かろうじて希望をうしなわずにいられる。
ふたりが直面しているのは、そういう現実だった。
ロサンゼルスよりラスベガスをめざして走り出したキャデラックのエンジンが末期の白い煙を吐き出してから二時間、モハーヴェ砂漠を横断するはずのルートを通る車は一台もない。道を間違えたのだろうか。この道を使う人はいるのか。何度か目にした、廃棄されたかつての道路や骨になった獣を思い返し、未央は立ちあがる。「ちょっと見てくる!」と緩やかな登り坂を、そのむこうに水や緑、ケンカなんてすっかり忘れて両腕をいっぱいに広げた恋人が待っていると信じるような足どりで駆けていく。
「そういうとこだよ」
凜はつぶやき、圏外としか言わないスマホを眺めると、ジーンズのポケットからシルバーのジッポライター、ラッキー・ストライクを取り出した。ジッ、ジッと火をつけ、たばこの煙を、恋人とのケンカ――アメリカまで飛んでしまいたくなるほど最低な――の原因となったそれをふぅーっと吐き出した。
「ゼロ点」
輪っかのかたちをつくろうとして、もやっとまるい煙を吐き出しながら、凜は思い出す。
『――こうなったら完ぺきな、百点満点の浮気をしてやろうじゃないか、しぶりん!』
と青白い顔をして向かったレストルームから戻るなり、未央はミツボシ☆☆★のアタマでも歌うみたいに、ロックグラスのボウモアをあおって言った。凜はそのとき、百点満点の浮気という言葉のもつハッピーなときめきに胸のまんなかをがつんと打たれ、ろれつのまともに回らなくなった口で「やるぅ」とこたえた。それからふたりは、飛行機の一泊を二日酔いで、ロサンゼルスでの一夜を景���づけにと入ったホテルのバーでぶち壊しにして、今夜こそはと意気込みながらロマンチックなほど真っ赤なボディのキャデラック・エルドラドで乗り込んだモハーヴェ砂漠で、死にかけているのだった。
「しぶりーん! 坂、下り坂! ここまで押せばクルマで下りれる!」
「なにか見える?」
「なんにも、でも大丈夫だって!」
なにが大丈夫なのだろう、そういうとこだよ、と凜はたばこを地面に押しつけて立ちあがる。灼熱の日射しに頭をくらくらさせながら、手でつくった庇の下から未央を見て、「あっ」とこぼす。
あたりをたしかめて、叫んだ。
「未央! 絶対走らないで! 落ち着いて、右のほうを見て……ゆっくり……」
太陽に向かって伸びる花みたいに手を振っていた未央は、凜の声にしたがうと、瞬間ものすごい速度で駆けだした。
そのうしろから、数頭のコヨーテが牙を剥き、未央に迫った。
「バカ! バカ未央!」
凜は叫び、車内を見た。スーツケース、クッションやからっぽのペットボトル。凜は運転席のドアを開くと、助手席のほうへ回り込み地面の石をいくつか拾う。「よけて!」と放ったこぶし大のそれはなだらかな山なりの軌道を描き、およそコヨーテに届かないままことんと落ちる。
「しぶりん、横!」
未央が叫んだ。それは偶然だったが、飛びかかったコヨーテは凜が反射で開いた助手席のドアにぶつかり、よだれでべったり窓を汚すと地べたに横たわり首を振った。
凜はシートにぼうっと座り、腕や足に咬み傷のないことをたしかめ顔を上げた。未央は数秒で車にたどり着く距離にいたが、コヨーテはいまにも飛びかかりそうだった。凜はとっさに腕を伸ばし、クラクションスイッチを殴りつけた。突撃ラッパのようなキャデラックのクラクションが鳴り響き、コヨーテが一瞬動きを止めた。それで未央は運転席に滑り込みドアを閉じる。「窓!」と凜が叫ぶ。なかばほど開かれていたそこが、閉じるより早くコヨーテが顔をすべり込ませる。獣のにおいが、飢えた牙からよだれがしたたる。未央がクッションで首の根元をおさえつけ、凜がなにか叫びながらペットボトルをその口に押し込んだ。コヨーテがかん高い悲鳴をあげ滑り落ちると、窓はのんびりと閉まっていった。
ふたりは荒い息をはきながら、顔を見合わせる。
「水、飲むよ」と未央が言う。
「私も」と凜はこたえ、きっかり五十ミリの水を飲むと、「なんで走ったの」と言う。
「いや、だって、ゆっくり歩くのってクマ……」
「みんなそうだよ、追ってきたでしょ!」
「知らないよ! 怖かったんだもん!」
「それは、そうだと思うけど……」
「もういい、私がばかでした! 助けてくれてありがと!」
「なにその言い方、私こそ助かったよ! ありがとう!」
それでふたりは少し黙って、車内の重たい雰囲気から逃げるように外を眺める。コヨーテは五頭、車道に寄り集まり、地獄の門の番犬らしく獲物を見張った。未央はふたたびクラクションを鳴らすが、かれらはもう微動だにしない。かすかに耳を動かすばかりで、やわい肉のたっぷり詰まった真っ赤な檻から視線を外すことはなかった。
「やばいやばいやばい……」
未央はつぶやく。
「未央、見て」
と凜はダッシュボードを指さす。そこでは、エンジンが動かなくなって一時間を待たずバッテリーの切れたために放り出されたプラスチックのハンディ扇風機が、溶けて車と一体になろうとしている。
「うそでしょ……」
「シートはそこまでじゃないだろうけど、でも」
「ニュースとかで見るよ。置き去りにされた……」
「そう。とにかく手を打たないと、私たち」
その後のことばを、凜は口にしない。つうっと流れた汗が頬を伝い、あごをしたたり脚へ落ちる。
「死ぬ」
未央は言う。
凜はしずかにうなずき、後部座席へ体を移す。スーツケースから着替えや化粧ポーチ、ヘアアイロンを取り出しながら、「未央。さっきはごめん」と言う。「私、かっとなるとまわりが見えなくなるっていうか……昔からそうで、だから、責めてごめん」
未央は神妙な面もちでうなずきながら、昔からってそれ自覚あったんだ、という返事を飲み込む。後部座席がぎゅうぎゅうにならないよう、着替えや安眠グッズ、電源コードを受け取りながら、「私こそ、ごめん」とこたえる。「私も、ひとりで突っ走っちゃって……だからあーちゃんとも、いや関係ないけど、とにかく! ごめんなさいしぶりん!」
そうして、ふたりは互いを見つめる。共に歩んだかがやかしい青春の日々が、乗り越えてきた苦難の数々が、それぞれの目の奥でぱっ、ぱっとまたたきはじめる。
「生きよう」
とぶつけたふたりの拳のあいだには、なにか、火花のようなものがはじけた。
「っても役立ちそうなのなんもないじゃん!」
「落ち着いてってば……グローブボックスは? なにもない?」
「んー、保証書? とかマニュアルくらいしか……ん? ん?」
「どうしたの」
「なんか二重底? になってるっぽい……しぶりん、なんかテコにできるのない?」
「ヘアアイロンでいい?」
「たぶんいける……壊したらごめん」
「助かるならなんでもいい」
未央がしばらく、うんうんうなりながらグローブボックスを探る様子を、凜は眺めた。時刻は十四時。太陽は西へ傾きだしていたが、それが沈みあたりが涼しくなる頃にはあの扇風機と同じ運命だろう。コヨーテは、いっそこっちに来ないかと誘うような甘い目つきで見つめた。凜が中指を立ててそれにこたえていると、「あっ」と未央がこぼした。
「外れた? なに、なにか出てきたの?」と凜はたずねる。
未央は黙っている。
凜はシートから身を乗り出し、未央の手もとを覗きこむ。
「あっ」
と同じようにこぼす。
「アヤしいと思ったんだ、あのおっちゃん」
未央はこたえ、ふるえる手で拳銃を握りなおした。
千秋楽ドーム公演の開幕を告げる特効のキャノン砲。
破裂音が鳴り響くと、観客たちはその高揚に歓声をあげ踊り狂う。
しかし観客――コヨーテの群れはその音がモハーヴェの空に霧散すると、肉の魅惑にしたがいふたたびキャデラックのまわりに腰を落ち着けた。
「痛い! しぶりんこれめっちゃ痛い! 耳ちぎれてない!?」
「ごめん、きんきんして……聞こえない」
「なに? なんて言ったの?」
「落ち着こう。ちょっと、けむいし」
凜はそう言って耳を、みずからのものと未央の耳の両方を塞いでいた手を離し、窓をすこし開く。それでコヨーテが、準備はできたか、とばかりに目をかがやかせるので、「やるか」とつぶやく。
耳鳴りが止んでようやく、「いけると思ったのに」と未央は首もとの汗をぬぐった。
未央の案はこういうことだった。いつかポジパで農村再生プロジェクトにたずさわったとき、猟銃の空砲で害獣を近づけないようにする様子を目にしたことがある。そんなふうに、コヨーテも銃声で追い払えるはず。
「音が足りないのかなあ」
「私だったら千キロ遠くに引っ越して二度と寄らない」
「そうだ! レコ大シンガーしぶりんの声ならきっと」
「冗談?」
「半分くらいは」
「……卯月のはちみつかりんシロップがないとむり」
「冗談?」
「わりとまじ」
ならケンカなんてしなきゃいいしそもそもたばこだってしまむーにガチトーンで叱られる前にさっさとやめてたら良かった。
未央はそういうことばを五十ミリの水と一緒にぐっと飲み込み、「やるしかない」と言った。
凜はその声を、レコ大授賞式の前室で見せたより厳粛な態度で受け取ると、「たしかめよう」とこたえた。
未央がおぼつかない手で開いたリボルバー式の弾倉より、黄金の弾薬がばらばらっとこぼれる。ひとつ、あやまって落下したそれを凜は拾いあげると、薬莢の触れ合う音すらたてない慎重さで手のひらへ返す。未央はその一つひとつを、おびえとも脱水症状ともとれないふるえを帯びた指先で、コヨーテを撃ち抜く瞬間を思いながら弾倉へ込めなおす。
頭。
頭。
腹。
頭。
頭……をそれた銃弾はモハーヴェの広大な礫砂漠に小さなあとを残し、未央と凜の体はおよそ二十四時間後に通りがかったドライバーに発見され、彼はいかにも面倒に遭ったというふうにぬるくどろっとしたバニラシェイクを吸いながら金品を奪うとおおまかな場所だけを記憶し、トラックを走らせて百キロ離れたガソリンスタンドより警察に匿名の通報をかける。
五頭のコヨーテ、五発の銃弾。
一発も外せない。
未央は弾倉をフレームへ、祈りにも似た仕草で戻すと、その金属音が神さまの啓示であるかのように目をつむり、深く息をはいた。
「ほんとうに、いいの?」凜がたずねる。
「任せてよ。だいたい見つけたの私じゃん」と未央はこたえる。ニュージェネのリーダーだから。ここまで連れてきたのは私だから。百点満点の浮気だなんてばかみたいに誘った私のせいなんだから、そういうことばをいくつも飲み込む。「ぜんぶ私が……なんとかする」
そうして未央は狙いを定める。すこしだけ開いた窓から突き出した銃身が、コヨーテの眉間を捉える。コヨーテは、並んで地べたに横になりながらいかにも冷めた目で未央を見ている。
食われる。
どうせ食われる。
銃弾は一発も当たらず渇き苦しみもだえながら死んでいくのならいっそ体を差し出してしまった方がどれほど楽か――未央は照準を腹部に定めなおす。てのひらの汗が止まらない。当たらない。このままでは当たらない。てのひらを拭ったタオルが、じっとりして湿っている。
しぶりんを、不安に思わせてしまう。
未央はふたたび銃身の先を見つめるが、そこはふるえている。みずからが、ふるえているのだ。胸が苦しい。ずうっと息を止めていたことに気付く。未央は深呼吸をくり返し、コヨーテを睨みつけると、「ちょっと待って」と銃身をおろす。「できるから、でも、ちょっとだけ」そう言って、目のあたりを強く押さえる。
未央のその、苦しみに、凜は頭や胸のまん中のあたりがかっと熱くなり、「貸して」とほとんど奪うように銃を手にとる。
きのうの夜のステーキは、ぎっしり重たい赤身なのにやわらかくて、ミディアムレアのうっすら赤い切り口からは肉汁がたっぷりこぼれて、胃もたれするくらいにそれは、おいしかった。
凜は思った。つまりそういうことだ。ものを食べて生きるように、私はいま生きるためにコヨーテを撃つ。しおれた花弁を剪定するのと同じだ。できる。私にはできる。照準をぴったり鼻のあたりに合わせ息を止めたそのとき、コヨーテがした大あくびが、ハナコのそれと重なって見えた。
「しぶりん」
その声に、肩に触れた手に、凜は息を呑み全身をこわばらせトリガーを引いた。轟音が響き、銃弾はコヨーテの上方数十センチの空を切り、遠い砂地に突き刺さる。コヨーテは驚き散りぢりに去っていくが、すぐにもとの場所へ戻ると。なにも起きなかったかのようにだらりと寝そべった。
その様子を、ふたりはなにもせずじっと見ていた。
「ごめん、私」と凛は言う。
「違うよ。私がばかだった、私が」と未央は言う。
「ごめん、失敗した……ごめん」
「平気だよ。大丈夫、大丈夫だから」
「ごめん、ごめんなさい……」
「だめだよ、しぶりん……泣かないでよ……」
激しい耳鳴りで声は聞こえなかったが、互いがなにを言っているのかはよくわかった。
ふたりはしばらくそうしていた。身を寄せ合い、やがて降り下ろされようとする死のてのひらの影の巨大なおそれを、分かち合うよりほかにできることはなかった。
からっぽのペットボトルをバックシートに放り投げ、凜は「たばこ吸っていい?」とたずねた。喫煙は様々な疾病になる危険性を高めあなたの健康寿命を短くするおそれがあります。未央はばかばかしく赤いマルの描かれた箱の文言をだらっと目で追ってから、「好きなだけ吸ってよ」とこたえた。
「しまむーにちくってやる」
未央は涙の涸れたあとをぬぐい、ささやくようつけ加えた。
「いくらでも」
凜はほほえみ、生きて帰れたら、ということばをたっぷりの煙にかえて吐き出す。
そのにおいはもう、凜にも未央にも平生のようには感じられない。脱水が、体から感覚を奪いつつあった。手足がしびれ、モハーヴェのけわしい山岳の輪郭はかすんで見え、したたるほどの汗でにじんでいたシャツさえも、段々乾きつつあった。
「アメリカのひとはさあ」未央がつぶやく。「なんであんなパンパカ撃てるんだろ。映画とか」
「慣れてるんじゃない」凜がこたえる。「はじめてのステージ、ほら、私たちけっこうやばかったけど、いまはわりと平気だし」
それ言うかあ、と未央はのろのろ凜の肩を叩き、「なら私には一生むりかな」と小さく笑う。
「どうして」
凜はたずねる。
未央は、ゆっくりとこたえる。
「私はこわいよ。明るくふるまってごまかしてるけどさ、いまもステージに上がるのは逃げ出したいくらい、こわい。結局さ、根っこは変わらないんだよ。……臆病で、あーちゃんも悲しませる」
「……未央」
「ってごめん、関係ないね。あはは、もうこんな状況なのにやんなっちゃうな、もうさ……」
「撃てるよ」
未央ははっと顔を上げる。その視線を、凜が受け止める。凜のその、真実のみがもつ白青く澄んだかがやきをたたえた目が、未央をまっすぐに見つめている。
「未央は立ちあがった」凜は続けた。「あのとき立ちあがって、ステージに戻ったみたいに……未央は……」
しかしその声は、少しずつ小さくなりやがて消える。凜はぼうっと、青い泉のまぼろしを見るように視線を遠くへ飛ばした。その指先よりたばこがこぼれ落ち、「しぶりん! ひ! 火!」と騒ぎたてる未央の声も届かないようだった。
やがて凜は、「聞こえる」と言った。
コヨーテが、その声を聞いたかのように耳をぴんと起こした。
未央はしばらく、なにが起きているのかわからなかった。しかしコヨーテが立ちあがり、道路の後方はるか遠くを見つめはじめたころすべてを理解し、「……助かった」とこぼした。
「助かった! 助かったよしぶりん!」
そのとき後方から、なだらかな坂のさらに向こう、未央にはもうぼやけて見える平野から救世主が放つには華々しすぎるライトイエローの反射光をたたえて、巨大なトラックが姿をあらわした。
「しぶりん、ほら返事して! 聞こえてるでしょ!」
未央が勢いよく抱きつくと、凜はほとんど体勢をくずしかける。「聞こえてる」とささやき、覚めないまぼろしを漂うように「助けを、呼ばなきゃ」と続けた。
未央は大きくうなずき窓を開く。コヨーテは寄ってこないようだった。ひどく怯えるらしいその群れを勝利の喜びをもって一瞥し、未央は「おおい!」と叫んだ。トラックは、近づきつつあった。
未央はドアを開いた。凜の制止を振り切り、運転席から道路へ飛びだした。コヨーテはもう未央を見ることもなかった。「助けて! ヘルプヘルプ!」未央はそういうふうに声をあげ、両手をいっぱいに振った。
凜がゆっくりと、助手席から道路へ降りた。未央を、コヨーテを、あたりをうかがう表情はけわしい。耳を澄ませ、目を開き、轟音を響かせながら接近するトラックを不安症患者の目で見つめ続け、やがて「逃げよう」と言った。
その声にしたがい、コヨーテが駆け出す。
未央は「なんで」とたずね、その声がみずからの心をむなしくすり抜けていく様子を感じた。
トラックはゴウゴウと排煙を吐きながら、まっすぐに、走っていた。定められたレールの上を死ぬまで走り続けることを運命づけられた古い機関車のように、その巨大な車体はキャデラックの同一車線上を突き進んだ。
「なんで! 気付いてくれないの」
「居眠りでもしてるんでしょ、いいから逃げて!」
「でも……ひどいよ、こんなの……」
「未央! 走れ!」
凜の叫びとともに、炎のひらめきのような反射光が未央を射貫いた。そのとき未央は、トラックに撥ね飛ばされ無残な轢死体となった自らの体を飢えたコヨーテがなかば飽きながら食い尽くす様子を幻視し、「くそう!」と駆け出した。しかしトラックが、キャデラックの背後にて突然に身をひねり、その頭を未央へ向けた。トラックのフロントには牙のような装飾があり、それは未央を襲うようだった。
死ぬ。
未央は思った。
ひとり取り残され、コヨーテに取り囲まれた凜がなすすべなく……。
未央はすべての力を込め、跳躍した。トラックはふたたび首を振り、車体を道路中央へ戻すとキャデラックの運転席のドアを吹き飛ばし、荒々しい砂煙をあげながらおよそ数十メートル先で停止した。
未央はじっと見ていた。運転席の窓から、からみつく蛇のタトゥー彫りのされた野太い腕が突き出され、親指が、地を差した。
地獄に落ちろ。
そうして、トラックは走り出した。未央は遠ざかる光を追いながら、心で唱えた。地獄に落ちろ。百点満点の浮気だなんて愚かな誘惑をおこない友だちの命を危機にさらしたお前は地獄に落ちろ。
「未央!」凜が叫んだ。「戻って、早く!」
はっと顔を上げ、よろこびの吠え声をあげながら駆け戻るコヨーテを目にすると、未央は立ちあがる。足がふらつく。視界がゆらぐ。熱狂と落胆のあまりの激しさに、全身が悲鳴をあげていた。「こっち!」凜が言った。未央は飛び込んだ後部座席のドアをきつく閉じると、「なんでだよ」と言った。
コヨーテが激しく吠えた。凜が「やだ! やだ!」とくり返しながら、ドアをなくした運転席へ殺到するコヨーテを、スーツケースで懸命にとどめていた。しかし足もとの隙間から、一頭のコヨーテが侵入しつつあった。その頭を凜が必死に蹴り飛ばすが、勢いは止まらない。スーツケースが鋭い爪で削られていく音は悲劇的で、断末魔の叫びによく似ていた。
地獄に落ちろ。
未央は助手席を見た。
拳銃。
銃弾は四発。コヨーテは五頭。
しぶりん。
未央は呼んだ。
撃てるよ。
凜はそう言った。
しぶりんが信じてくれたから、私は。
未央は叫びながら助手席へ飛び込み、手にした銃でコヨーテの頭部を撃った。轟音とかん高い悲鳴があり、なまぐさい臭いが飛び散った。次いでスーツケースとルーフのすき間から牙をのぞかせたコヨーテの口腔内から頭部を撃ち抜くと、足もとより侵入するもう一頭を狙った銃弾はその鼻先をかすめたが、次弾は両目のあいだを貫いた。
かちかちかちかちかちかちかちかち。
未央はトリガーを引き続ける。そうして、弾がすっかりなくなったことに気付き顔を上げると、凜が笑った。
そのとき凜は、たしかに笑ったのだ。
未央はおたけびとも悲鳴ともつかない声をあげながら、スーツケースに飛び込んだ。凜の支えていたそれに体をしたたかぶつけ、飛びかかっていたコヨーテごとアスファルトへ落下した。その衝撃はコヨーテの頸椎を折り砕き、スーツケースをもまっぷたつに破壊した。息をあえがせながら、視界に射した黒い影へ、未央はとっさに壊れたスーツケースのかたわれをかかげた。最後のコヨーテの爪が、吠え声が頭上から降りかかり、死んだ、と未央は思った。もう一度つっこんでくるか、横からまわりこんでくるか、足のほうにくるか、どう襲ってきても次は耐えられない。しぶりん。未央は思った。どうか生きのびてほしい。突き立てられるコヨーテの牙を頭上に幻視しながら、未央は残された時間を祈りにつかった。
しかし、その瞬間はおとずれない。
かん高い悲鳴と、小さな衝撃があった。それがあまりに弱々しく静かだったので、未央は目を閉じることすらしなかった。空想の爪や牙がいつまでもやってこないので、そうっと顔をのぞかせる。ほとんどかたまりの血が頬をなで、未央は悲鳴をあげる。いきおいスーツケースをひっくり返すと、コヨーテは死んでいた。首から血を噴出させた死骸から、未央はあとずさる。車体に背を預け、死んだコヨーテから広がっていく血をぼんやり眺めていると、凜がとなりに腰を下ろした。
「撃てたでしょ」
凜は言った。その手から大量殺人に用いられた鉈のような金属片――吹き飛ばされたドアの破片がこぼれ落ち、からんからんとやけに晴ればれした音をたてた。
「まあね」
未央はこたえた。
そうしてぶつけたふたりの拳から、はっきりとした光がはじける。
「ほら、未央ちゃんってスーパースターでしょ」
「そうだね。未央。未央はスーパースター……」
「ちょちょちょしぶりん、否定してよ」
「だめ。一生こする」
「照れるんだって……」
そうしてふたりは、ふたたびキャデラックを押しはじめる。助けも邪魔もなく、ドアをなくして少し軽くなった車体が坂を登りきると、広大な、見渡す限り命の気配すら感じられないほど荒涼としたモハーヴェの砂漠が一面に広がっている。
「まあ」未央は言う。「行けるとこまで行こっか」
「そうだね」凜は言う。「無事に帰れたら、一億点あげるよ」
ふたりを乗せたまっかなキャデラックがのろのろと、なだらかな坂をくだっていく。
長い旅路の終わりのようにキャデラックのホイールが最後の回転を終えると、「止まった」と未央は言った。
止まった。
止まった……。
呆然とそうくり返すと、未央はハンドルを殴りつけ「どうして! もうちょっとなのに!」と叫んだ。「なんで! なんで!」と、涸れて出ない涙の代わりに感情はたかぶった。
「未央、うるさい」凜が言った。「頭いたい、しずかにして」
未央はごめんと小さくこたえ、顔をあげる。
その目にかすかな希望が見える。
未央の視線は砂漠のはるかむこう、オアシスと同じ色をした建物をはっきりと捉えている。それはガソリンスタンドに見える。モーテルにも見える。いずれにせよそれは、かすんだ視界より時おり消え失せるようなものであっても紛れのない、真実の希望だった。
しかしそれはあまりに遠い。一キロ、二キロ。十キロ。もしかして一千キロ。どれほどの距離にあるのかうかがい知ることはできないが、そこはみずからが日本へ置き去りにした幸福な日々のように、もう届かないものと感じられた。
「しぶりん」
未央は呼ぶ。
「行こうよ」
と凜はこたえる。帰らなきゃ、私たち……ささやきながら開いたドアから、凜の体はゆっくりと倒れていく。
未央はキャデラックを飛び出し、凜の様子をたしかめた。渇ききり、汗の一滴も流れず、意識はうつろなようだった。「帰ろう」と、凜はくり返した。「未央、帰ろう」凜は目を開かないまま腕だけをぐうっと伸ばした。
未央は、その手を取った。
肩を支え、立ち上がり、歩き出した。
希望はたしかに見えていた。しかし歩みは弱かった。一歩、また一歩と進むたび、灼熱の道路に命がこぼれ落ちた。
やがてふたりは、くずれ落ちる。
そのとき、未央の体が凜の下敷きになったのは偶然ではなかった。未央はただ、少しでも凜が苦しくないようにと、そう願ったのだった。全身が痛み、背中は焼けるようだった。それでも、凜がそんなおもいをしないのであればいいと、まっさおな空を見上げて思った。
「ごめんね」
未央はそのとき、凜のために言った。
こたえるように凜が体を起こした。凜はそうして、未央を見つめると、くちびるにキスをした。からからのくちびるは、はじめて愛のたしかめられる瞬間のように、ほんのわずかだけ触れ合い、離れていった。
なんだこれ。
百点満点じゃん。
未央はそう思った。嬉しくて叫び出したくなるような、運命的なまでのキスだった。未央はもう、うまく言葉も発せない喉を懸命にふるわせ、「しぶりん」と呼んだ。話したいことがたくさんあった。せめて一言だけ、このキスの感想だけでも聞いてから死にたいと思った。
凜はこたえる。
「……卯月」
続ける。
「卯月、卯月……」
それで未央は胸が苦しくなって、世界のそこかしこできらめく数多の愛の星々から見離されたような気持ちになって、くちびるをきつく噛んだ。血がにじむほど噛みしめ、やがて大きく息を吐くと、「死なせるもんか」と言った。
涙は流れない。
しかし未央は。
「どうしても、生かしてやる」
そう言って、凜のポケットをさぐった。肌に触れていた固い感触は、凜の大切そうに扱っていたジッポライターのそれだった。
つたない手つきで着火をたしかめ、未央はキャデラックを振り返る。およそ十数メートルほどの距離を、這うようにして戻っていく。タンクを開くとタオルを取り上げ、ガソリンを染み込ませる。ガソリンを今度はペットボトルに集め、タンクにつっこんだタオルへ続く導火線を道路にこぼしていく。
そうして、未央は凜のそばへ戻る。凜がまだ息をしていることをたしかめ、ポケットから取り出したたばこに火をつけた。それを一口すうっと吸い激しく咳き込むと、「絶対やめさす」と凜へ告げ、たばこを指ではじく。
炎はガソリンの道を伝い、車へ走った。炎はタオルに取りついたと思うと、またたく間にタンクへ吸い込まれ、爆発が起きた。
その、あまりの大きさに未央は笑った。まっかなキャデラック・エルドラドはドライブインムービーの八十五分的に吹き飛び、あとからあとから黒煙をもうもうと吐き出した。
未央はしばらくもの珍しいその光景を眺めて、視線を飛ばした。数キロ離れたあの青いガソリンスタンド、あるいはモーテルから、何台もの乗用車やトラック――ばかばかしいほどの黄色い光をたたえた――が炎に誘われてやってくる様子を見た。
地獄には、落ちるかもしれない。
未央は思った。
でも、私だけにして。
しぶりんを、しまむーのもとへどうか届けてあげてください。
そんなふうに思いながら、未央の意識は熱砂へ沈んだ。
*
――それじゃあいきますよ、さん、にい……。
ちょっと、待って卯月。いちからって話したじゃん。
ええ、そ、そうでした!
(あたたかい笑い声)
もう一回いこうか、せーの。
いち、にい……。
――さん、と卯月は続けない。いまにも空へ放とうとしていたカサブランカのブーケを胸に抱きしめ、うすいピンクのウェディングドレスをそっと揺らしながら、白鍵を鳴らすように教会のステップをくだっていく。
その隣で、凜がほほえんでいる。清澄な連弾をかなでる奏者のように、卯月の足取りを支えながらステップをくだっていく。その身を包むコーラルブルーのドレスはやさしく、淡く光をはじいている。
「さん」と卯月が言ったのは、藍子の前だった。みずからの幸せをまるごと分かち合うかのように、「藍子ちゃん。未央ちゃん。ご婚約おめでとうございます」とブーケを差し出した。藍子は驚いて、列席者たちから贈られ���彩り豊かな祝福に包まれながら、長い時間をかけてはぐくまれた愛情そのものと同じくらいに美しい花を受け取ると、泣いてしまった。すると卯月もつられて泣いて、ふたりの涙は予定外のお色直しが必要になるくらい温かく流れたので、未央は目のはじのほうをうるませながら、明るく笑った。
「おめでとう、未央」
凜が言った。
「おめでと、しぶりん」
未央はこたえた。
ふたりは互いの涙を眺めて、照れるみたいにまた笑った。
長い冬の終わる日だった。四月の半ばまでじっと居座っていた寒気が去り、よく晴れた空とあたたかいと感じられる微風が春のおとずれを告げると、若い命がすくすく芽を伸ばしはじめる、そういう日だった。
鮮やかに、新たに、なにもかもが生まれ変わっていく。
そういう季節の、はじまる日だった。
「お疲れ、花嫁」と未央はカクテルグラスを差し出す。「どっちがいい?」
「ピーチで」凜はこたえて、淡いピンクのグラスを受け取る。「仲人ありがと。ところでこれ……」
「ノンアル」
「だね」
「なになに飲みたいかんじですかおねえさん?」
「逆。今日はいいかなって気分」
「見よ! かように幸福のわれらを深く酔わせることといったら!」
「なんのフレーズ?」
「いま考えた」
「……ちゃかさないで、ほら」
乾杯、とふたりはグラスをぶつける。はかない光が、ふたりを包むうす暗がりを一瞬照らし、カフェテリアのまばゆい喧噪のうちに溶けていった。
はなやいだ二次会だった。所属タレントふたりの結婚とあって、特別に開放されたプロダクション併設のカフェテリアは、二十三時をとうに過ぎたいまも醒めやらない祝福の暖気でいっぱいだった。日中の式には参加できなかったアイドルたちが、代わるがわる訪れた。酒も食事も、用意されていたものが早々になくなっても次々運び込まれた。こうこうと、オフィス街の夜に照らし出されるそこは、旅人が砂漠に浮かべる楽園の夢のようだった。
「しまむーは?」
「あそこ。先輩方になんか教わってる」
「あー……」
「藍子は?」
「あっち。お姉さま方になんか」
「ああ……」
そうしてふたりは黙りこむ。熱砂のおとずれを待ちわびる。ふたりには、話せていないことがあった。帰還より数年が過ぎてなお、あの、モハーヴェの砂漠に置き去りにしたおもいが、茫漠とふたりの心に広がっていた。
「……覚えてる?」未央が言う。「しぶりん、あのときさ」
「キスをしたよね」凜が言う。「私、……未央にキスをした」
乾いた風が吹きはじめる。やがてあたりの喧騒は消え、カフェテリアに灯されたまっしろな明かりが、ふたりの姿を砂漠の影に、たどり着くことのなかったモハーヴェの夜に覆い隠す。
「……覚えとんのかーい」
「最近、思いだしたんだよ。車を買おうかって、卯月と話して……」
「うん」
「赤いキャデラックが展示されてて、懐かしいなって見てたら、急に」
「爆破したやつ」
「そう。あれの負債とか結婚費用で結局、車買えなかった」
「あはは。ばーかばーか」
「あんたもでしょ」
ふたりは少し笑う。
グラスをかたむけ、「バチが当たったんだ」と未央は言う。
「……卯月だって思ってた」
凜は続ける。
「あのとき私、卯月がきてくれたって思ってた」
「うん。知ってるよ」
「そんなわけないのに」
「なくもないかも」
「謝るのも違うって、思うんだけど」
「うん」
「あのときキスをしてごめん。未央。あんな、あんな……」
「百点満点の?」
「あんなことして、私、未央を裏切った」
「思ってない。未央ちゃんはぜんぜんそんなふうに思ってない。ほら、しぶりんこっちおいで」
「でも」
「誰も疑わないよ。う、わ、き、だなんて」
「そうじゃない、未央のばか。バカみお」
「よしよし。ほら、誰もいない。好きなだけ泣けばいいさ」
未央はそう言って、凜を強く引き寄せる。胸のうちに、まだ十代の少女だったころよりもずっと、小さな声で泣くのがうまくなった凜を抱きしめながら、未央は顔を上げる。うるんだ瞳にゆらぐ光は、あのとき見ることのかなわなかった砂漠の夜の星々を思わせる。それで未央は思う。ここは砂漠だ。このモハーヴェの夜に誰が、それこそ車まで爆破しなきゃならなかったのに、いったい誰が私たちを見つけるだろう。
「いっぱい泣いたらさ」
未央はこの日のため、悩みに悩んだパーティバッグを開いて、続ける。
「ここに、ぜんぶ捨ててこうよ」
そうして未央はシルバーのジッポライターを、かつて凜のものだったそれをうやうやしく、永遠のおもいを誓う指輪みたいに差し出す。
「……たばこもうやめたけど」
凜は涙をぬぐって続ける。
「持ってて、くれたんだ」
「いやー、ねえ? 返す機会もないし勝手に捨てるのもなあって」
「そうだよね」
「……受け取ってくれる?」
凜はその、ぴかぴかに磨かれたライターを、未央の手のひらからそうっと取り上げ、「ありがとう」と言う。
「いままで大切にしていてくれて、ありがとう」
両手でしっかりと包んで、そう言う。
「ちゃんと捨てろよ」
それで未央は、笑う。
「……さーて、十二時もまわったことだし愛するシンデレラを迎えに行きましょうかねえしぶりんや」
「なにそれ、かなりださい」
「はあー? アイオライトしぶりんには未央ちゃんのセンスがわかんないかなあ~」
「ちょっと、私そういうのとっくに卒業したんだけど」
「は? かわいい、チューするぞ」
「は? ねえ、スーパースターが浮気してるけどこっち」
ふたりは軽口とともに立ち上がり、モハーヴェのうす暗がりからカフェテリアのさんざめく光へ、それぞれの愛するひとのもとへ帰っていく。
「じゃあね、親友」
未央は言う。
「これからもよろしく、……親友」
凜は言う。
そうしてぶつけた拳の間にそのときはじけた小さな光は、長いながい、旅の終わりとともにはじまったふたりの新たな旅を、永遠に照らす。
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ニーナの旅立ち
マーヤ①
ハンマー。
ガラス。
一度目の殴打はタオルとガムテープに阻まれ弱々しい音をたてる。二度目には、力を込めたつもりだったが変わらない。三度目。ガラスは割れる。油蝉がけたたましく鳴く。ジワジワジワジワ。ガラスが床板に華やいでこぼれる。垣根むこうから声がする。聞こえなくなるには時間がかかる。
ジワジワジワジワジワジワ。
鍵を外す。
家へ踏み入りガラス戸を閉じると全身が脱力し、覚えずしゃがみ込んだ。いちどきに汗の噴き出すのがわかる。おそろしいほど、夏だったのだ。屋内はうす暗く、建物を冷たい風のめぐる音がした。日中は、留守にしているはずだった。足音が、背後や廊下の角より幻聴された。おもての、垣根むこうの路地を人が過ぎた。
下調べをした二週間にこれほど頻繁な人通りは見なかった。私は首を振ると、汗のいっこう止まらないのを諦めて立ち上がった。どうしてか足の痺れるのは、歩くに支障なかった。
時間はない。
家は平屋でさほど��間はかからないと思っていたのだけれど、実際のところ絶えず周囲を警戒しながら棚や抽斗の一つひとつを探していくのは簡単な仕事ではなかった。こうしている間にも、警備会社がこちらへ向かっているのかもしれない。かれらは家の前にワゴンを停め、庭先をまわりこみ割られたガラス戸を見つけると、中へ踏み込む。いくばくかの現金を手にした、あるいはなにも持たない女を見つけるとただちに取り押さえ、警察へ引き渡す。空想の私は、計画と人生の終わったというのにとても穏やかな表情をしている。もうなにもなくすことはないのだと――。
光が起きる。それは罪をあかすのでなく、心もとなくも暗い廊下を照らすセンサーライトだった。心臓を蹴り上げられたような心地で、しばし動けなくなる。家主の急な帰宅が空想され、ふたたび背後に生々しい足音が幻聴される。やがて照明は消え、足を進めるとまた照らす。どうあっても、見逃されることはないのだ。リビングやダイニング、書斎らしい部屋を探し終えて座敷へ入った。
座敷は障子戸で囲まれていて、外からの日の影にぼんやりと暗かった。そこは障子戸を隔てて仏間を兼ねており、数人のやわらかい視線が見おろした。責めるようには見えなかった。しかしそれは、責めるに堪えない者への軽蔑なのだ。息が苦しくなり仏間を逃げた。隣室は窓のない狭々した畳間で、大小様々な古びた箪笥と、老齢ゆえの気品を感じさせる化粧台と、金庫とが見えた。
見つけた。
私は目的を達成したような昂揚を覚え、しかしまだ、なにも手にしてはいないのだ。金庫は沈んだ灰色だった。金庫は電子レンジほどの大きさで、ダイヤルと鍵穴が前面にあった。つまり両者を見つけなければならない。心は急いた。足がもつれ、手をついて箪笥を揺らすと上からかごを落とした。落ちたかごからは、小さくもたしかな破損の音が聞こえた。布の袋に包まれ、なにが壊れたのかはわからなかった。
器物損壊。
住居侵入窃盗。
全身が冷たくなり、足先からふるえの伝うのを感じた。いまさら。私は言い聞かせた。しかし眼前に、果たされた罪と、これより果たされる罪が並び、刑罰を言い渡されたかのように心はおびえた。みずからの、心臓の焦燥は仔細に聞こえた。
へたり込み、息を整える。畳の目を爪の先でなぞると(かりかりかり……)、次第に心は落ち着いて感じられる。
まだ、なにひとつ済んでいない。
息を吸う。鍵は、ダイヤルのパターンはどこかにあるだろう。私は一条の光明を願うおもいで顔を上げる。すると、視界に動くものを認める。化粧台の、鏡の仏間にそれはいて、反射で振り向けば逃げ遅れた髪が揺れて消えた。
声をかけるか。
かけるのであればどのように呼ぶのがよいか、あるいは逃げるか、逃げるのであれば行き止まりのこの部屋より仏間を横切るほかないが、考えているうちすべてが手遅れになる。
障子戸の影より、彼女は出てくる。
キッズスマホ、淡く黄色いくたっとした猫の耳のそれを両手で構え、「撮ってる」と彼女は言う。か細くまだ芯ができておらず、しかし気位を感じさせるつんと張った声だった。「暴れたらだめだよ」と飼い犬をあやすよう言って、姿を見せた彼女は栗色の髪の、まるい目がほっそりした輪郭に浮いている、骨格のまだ育ちきっていないため痩せすぎて見える……少女だった。
少女は小さかった。まだ小学校の低学年くらいだろうか、背丈は私の胸ほどしかなく、その小さなかたちは避けがたく庇護のねがいを駆り立てた。
少女は白かった。年頃に似つかわしくない肌のまっ白さは、生まれてより外へ出ることの叶わない病苦の日々、あるいはその命のはかなさを感じさせた。
少女はあいらしかった。
あいらしい、小さな女の子だった。
私はそのとき、逃れ得ない運命が私を捕らえようと望むのを見た。それは一度、罪人を赦免して偽りの、苦痛に満ちた自由の大海をもがく姿を楽しんでふたたび、永劫解かれない鎖でもって捕縛すべく巨大な両腕を広げるのだった。
それだから、私には抵抗する気力さえなかった。座り込み、手のひらを床につけたまま呆然した。じっと黙っていたせいか、女の子はスマートフォンを下ろして私を見た。私はそのまるい目に、見つめられるのに耐えられずすぐに目をそらした。いっそ警察に電話をかける声の聞こえた方がどれほど楽かという沈黙が続き、不意に女の子は「待ってて」と座敷を離れた。
私は待った。すぐには戻らない女の子を待っているのは、ぴんと張った糸が切れたのかあるいは残虐なる自由を奪われたせいなのか、どうにも気楽だった。
女の子は戻るなり、鍵を金庫へつき刺した。スマートフォンと交互に見ながらダイヤルを回しあっけなく金庫を開くと、ひと束のお札を取り出した。「はいっ」と気軽く、消しゴムみたいに放られた札束を私は思わず受け取ってから、「これは」とたずねた。あとの疑問を探していると、「指紋がついたね」女の子は言った。
続けた。
「脅かされて、しょうがなくて……警察はあたしとあなた、どっちを信じるかな」
私は慌てて札束を手放す。それが畳間にぺとっと落ちると女の子はちょっと笑って、次のひと束を投げつける。「わ」と私は手でふせぐ。札束はまた落ちる。女の子はもっと楽しげに笑って、次を、その次をぶつけてくる。「わ、わ」それらをたて続け拒むと、金庫の札束はなくなったらしく、混乱して目のうろうろする私を指さしながら女の子は声にして笑う。その自由な、ほがらかな笑顔があまりかわいくて、私は悪魔というものを見たおもいがする。
そうしてから女の子は、不意にまじめな顔をする。
「ぜんぶあげるから、あたしをさらってください」
まっすぐに、私を見る。
「あたし、ニーナっていいます。佐倉ニーナ。十一歳です。あなたは」
かるく息が上がっている。
「佐藤、真綾です」
頬がわずかずつ、あからんでいく。
「としは?」
「三十、です」
「マーヤ、」
口もとが弱々しくふるえる。目はうるみ、息をするのもむずかしいように喉をつまらせながら、女の子は言う。
「……助けて」
ニーナちゃん。
ここは暗い。
かろうじて入るおもての光はうすくぼやけて、しかし私には彼女の姿がはっきり見える。その、いまにも消えゆく灯のようにはかない命のかがやきに、私のたましいは激しく感応する。これは運命の手のわざであるのか、だとすればこれ以上の罪を、あるいはなにを望むのか、私にはわからない。わからずに、私は手をとった。立ち上がった。油蝉の音が止んだ。恐ろしく、てのひらは小さかった。
マーヤ②
西を目指している、ということだった。
私たちは青いコンパクトカーで旅をはじめた。選んだのではなく、急に一週間、借りられるのがそれしかなかっただけなのだが、ぴかぴかつやめいてかがやく青い車を、ニーナちゃんは気に入ったみたいだった。
「ずっとまっすぐでいいですね」
私はたずねる。
「うん。つき当たりで右」
ニーナちゃんはこたえる。
会話はさほどない。西のほう、とニーナちゃんは言ったけれど目的地を私はまだ知らない。私たちはまだ、互いについて知らない。ニーナちゃんはどうしてかひどく不機嫌に見えて、私にはそれが怖い。
あの家には、少なくとも下調べをした二週間には、子どもの出入りはなかった。大人の女性がひとりだけ、朝と夕とほとんど同じ時間に出て帰った。だから私は侵入を決意したのだけれど、だとすればこの女の子はなんなのだろう。彼女の娘、であれば学校は。不登校、だとして一歩も家を出ないものだろうか。なによりも、あの願いは――。
信号が変わる。
赤色の横断歩道のほとんど線上に停止して、歩行者のないのは幸いだった。私は「すみません」と頭を下げ、それで少女にふれていたことに気づく。急制動の折、癖で肩をおさえていたのだ。「すみません」と私はもう一度言って、ニーナちゃんは「うん」と小さくこたえる。やり取りはそれで終わり、信号が変わる。車は走る。
鎌倉。
日が高くなり、夏の木々の緑は景色に増していった。
やがて海が見えてきた。
言われた通りに突き当たりを右折し、海沿いの道へ出た。西へ向かうのだからこれをまっすぐ、それでいいかと確認するため隣へ目を向けると、ニーナちゃんはほとんど窓から身を乗り出して見えた。なにかと思えば海を見ているのだった。海はきれいだった。天の光が海原を、少女の瞳をきらきらかがやかせていた。
そのよこがおに大いなる安らぎを感じ、私は「止まりますか?」とたずねる。
ニーナちゃんはかすかに体をふるわせたのち、ゆっくりこちらを向くと、「うん」とそっけなくこたえる。その目はやはり、波のよろこびを集めて見える。
平日だというのに、空いている駐車場を見つけるには時間がかかる。私たちはビーチハウスで日焼け止めやサンダルを購入する。ところでお金は盗んだものだった。私が躊躇していると、ニーナちゃんがせっつくみたいにお札を取り出してくれる。浅黒い肌の女性はサングラスの奥から笑って、私がどうにか笑顔を返しているうち、ニーナちゃんはサンダルに履き替えて日焼け止めを塗るのも間に合わず駆け出している。
夏休み時期であるせいか、浜は人で溢れている。子どもの姿も多く、色とりどりのビーチパラソルで視界の塞がれるため、私は先に駆けて行った姿を見失う。なにしろ彼女は小さかった。ニーナちゃん。私は呼んだ。けれどいっこう戻らなかった。ひとりで、その混雑へ分け入るには勇気が必要だったが、なにしろ私は誘拐をしているのだからはぐれてはならないと思った。
砂浜へ一歩踏み込んだ。そうして後ろから手を取られ、振り向いて見えたのはまだ子どもの女の子だった。
私は振り払った。
女の子は、ニーナちゃんだった。
ニーナちゃんは呆然と、夢見るみたいにまるい目で仰いで、私は取り繕おうとした。しかし理由を、どうしてその手を拒んだのかを、どうやって説明すべきなのかわからなかった。
そうしてぼんやり立っていると、ニーナちゃんが大柄の女性に体をぶつけられる。女性は人混みで気づかないのかなにも言わずに去っていく。ニーナちゃんはよろけて、私の胸のうちにおさまった。名前を呼び、じっと見上げた。そのとき私は、ニーナちゃんの信じられないほどの体の軽さや、その薄いくちびるに名をささやかれる心地よさ、そしてまるい瞳の見上げて起きる蠱惑とも懇願とも見える不実のまたたきの美を、知るのだった。
「離れちゃだめだよ」
ニーナちゃんは服の裾をつまんだ。
「すみません」
それを受け入れるのはできたので、私は目を離さないと約束して歩いた。
人波を縫って砂浜の終わりまでくると、立ち止まって海を見た。見るのは遠くだった。砂の色の変わり、寄せる波のつま先を濡らさないその際でニーナちゃんは長いあいだ海のずっと遠くを見つめていた。
私たちはどう見えるだろう。私には気にかかった。人々に、自然にうつるだろうか。うたぐる視線が背後に感じられ、いたたまれなくなりしゃがみ込むと波にふれた。波は冷たかった。人々が海へ入りいかにも楽しげに振る舞うのは不思議に思われた。するとニーナちゃんが、ならうようしゃがみ込み波にふれた。手のひらで波を掬うと、「冷たいんだね」とささやいた。私はうなずき、ひとすくいの喜びを感じて戻ろうと提案するかを迷ったけれど、ニーナちゃんが膝をつくのでことばは飲み込まれた。ニーナちゃんは胸をおさえ、「息が」とこぼした。
ニーナちゃんの呼吸は浅く、頻回にくり返されるよう変わってゆき、次第に喘ぎが混じった。目を見開き、顔色は青ざめ、みずからを守るよう胸をかかえた。全身は激しくふるえ、体を支えるのもままならないらしかった。
体は動く。私は立ち上がる。パニック発作。落ち着けるには人目が多すぎる。私はニーナちゃんをおぶって砂浜を走った。息は見る間にあがった。砂に足をとられ、太陽が照りつけて熱く、背中には未成熟の少女の体が押しつけられた。その体はやはり十一歳と思えないほどに軽く、肘や胸郭は肌を浮かんだ骨でごつごつした。
そこにいる人々すべてが、あるいは砂粒の一つひとつが、私を責めるよう感じられた。
「小学校の先生だったんです」
青い車に隠れ、ニーナちゃんが落ち着くと私は話した。
念のために確認をするとアレルギーや持病は持っていないということだったので、病院へ行くのはひとまず保留した。ニーナちゃんはアクエリアスをおいしそうに飲み、どうやら冷汗もおさまったみたいだった。
直射の照らす車内は、どれほど冷房を効かせても暑い。
「ニーナちゃん。海が怖いんですか」
と私はたずねた。
ニーナちゃんは私を見て、質問にはこたえなかったけれど、尾道へ行きたいのだと教えてくれた。
「ほんとのお母さんとお父さんと、いっしょに暮らしてたところだから」
とニーナちゃんは打ち明けた。
「あと、緊張してて、なんだかうまくしゃべれなかったの」
ニーナちゃんはたてつづけ話した。
「手、さっきほどかれたのすっごく傷ついた」
ニーナちゃんは不満げにまくしたてた。
「それとね、マーヤ。あたしのことニーナちゃんって呼ぶのやめてほしい。あたしそんな子どもじゃないし、それにあたしたち共犯者ってやつでしょ、協力してくんだからもっとちゃんとして、ニーナさん、って呼んでくれなきゃ!」
ごめんなさい、と私はこたえた。
「わかりました。ニーナさん」
出発が遅れたから、夜は箱根のホテルに泊まることになった。
内ぶろを出たとき、ニーナさんはまだ部屋へ戻っていなかった。ずいぶん長い。ホテル泊は四、五歳以来だと言っていた。大浴場もそう。せっかくなのだから、楽しんでいるといい。私は髪を乾かしながら、テレビをつけた。夜のニュースは誘拐を知らせることなく、明日は全国的に晴天だと教えた。ネットにも私たちについて書いた記事は見つからなかった。こういった事件は解決されるまで報道されないと聞いた気がするが、実際のところはわからない。
尾道には明日のうちに着くだろう。朝から車を走らせれば、ニーナちゃんを目的の場所まで届けることができて、それから。
手もとには、三九五万円の現金が残っている。
スマートフォンの振動に私は驚き、それを取り落とす。通知はかつて、数ヶ月前まで暮らしていた郷里のサロンからの暑中見舞いだった。しばらくご来院がありませんが、お元気でしょうか。私はトークを、あらゆる郷里のアカウントを削除した。遠くへ来た。もう会うことはないだろう。
「ただいまー」とニーナさんが戻ってくる。「もー温泉すごいよかったよー! マーヤもきたらよかったのに」
なによりです、そんなふうに、私はこたえようとしてまずいものを見る。ニーナさんは浴衣だった。体に合わない丈の長さや適当に結んだらしい帯のため、浴衣はかなり乱れていた。どこからその格好でいたかは知れないが、あわせはざっくり開いていて、内の肌着が覗いて見えた。
「なによりです、私は少し、潔癖の気があって……」
私は言いながら、バスルームへ逃げ込んだ。自然だったとは到底思えないが、悪い判断ではなかった、と思いたい。私は浮かべた。これまでの行程や、ここからの道ゆき。日暮れる間際の海の、焼かれる草原の色。あるいはニーナさんの、助手席で口ずさんだ何年か前に流行した歌。シングルルームを選ぶべきだった。私は私の愚かさを呪った。
「ねえー」
ノックノック。
「ごめんなさいだけど、歯みがきしたい」
ニーナさんはほがらかに言う。それは彼女の美徳だ。私は「はいっ」と声を裏返らせ、どうにか気持ちを落ち着かせてバスルームを出た。
「急がせてごめんね」
ニーナさんは素直に言う。美徳。私は大丈夫ですと返事をして、おそるおそるたずねる。
「もしかして、浴衣は初めてですか?」
ニーナさんは、歯みがきチューブをにゅうっとつぶしてこたえる。
「えー? うん、なんか着たことあるかもだけど、よくわかんない」
私は納得して、それでは、と簡単な帯の結びなおしを申し出る。ニーナさんはうなずいて、気にするでもなく受け入れる。私は安堵するが、しかし虎の穴へ入ろうというのだ。歯をみがきはじめたニーナさんの後ろへまわりこみ、失礼しますね、と固結びの帯をほどいた。はらりと浴衣のあわせがとけると、私は可能な限り速く手を動かし前を閉じた。ひとまずあわせが開かないように帯をまわすと、その腰のほっそりして端整な曲線に感嘆がもれた。
「かたい……」
なにかと思えば歯ブラシを言うのだった。ホテルのものはそうですよね、と私はこたえて体の後ろで帯の結び目をつくった。そのときニーナさんの肌の香りや、華奢な肩の稜線に私は気が気でなかった。
「マーヤってなんで敬語なの?」
「先生のころの癖で、ついこう話してしまうんです」
「なんで先生やめちゃったの?」
「向いていなかったんです」
話しながら、ニーナさんの髪にふれた。それはあんまり美しかった。さらさらと、流れる星を束ねたようになめらかで、からめた指が星々の栗色の川に呑まれてしまうかと思われるほど、うすく濡れた髪のもたらす官能は深かった。
それだから、過ちに気づくのは遅かった。
「どうしたの?」
ニーナさんはたずねた。私は指を、彼女の髪に深くからめているのだった。私は言い訳した。「ええと……とてもきれいで」と、それはさながら自白だったが、ニーナさんは特に不快に思う様子もみせず言った。
「とかしてほしいかも。髪」
私は救いを得た心地で、言われるがままその髪を梳かしながら、ニーナさんの繊細な流れに溺れていった。
「マーヤ先生、あたしはいいって思うけど」
不意にニーナさんが言った。
ありがとうございます、と私は曖昧に笑った。
ゆっくりと、気持ちを落ち着けながらナイトケアを済ませ、バスルームを出たときニーナさんは眠っていた。うす暗い部屋のベッドの上、毛布もかけずに横になるその姿がどうにも不安を感じさせ、私はそばへ寄った。するとイヤホンをつけたままでいるのが見えた。コードは猫の耳のスマートフォンにつながっていた。
そっとイヤホンを外し、耳へあてた。イヤホンは言った。「先生」イヤホンは続けた。「わたし、先生のこと」続けた。「大丈夫だよ、先生。だってもう、わたしこんなに」
イヤホンを外した。それを投げ、頭を抱えた。彼女の声がくり返した。先生。先生。「先生」それがほんとうに聞こえるのは目の前の少女が言うからだった。少女は指さした。言った。「この人がわたしを」
部屋はまぶしかった。
目を覚ますと、明るい部屋のベッドの上、うたた寝をしていたらしかった。息は乱れた。鼓動は泣き出すようだった。荷物を漁り、服用できていなかった安定剤を飲んだ。這い上がってはまた落下して、波のおさまるには長い時間が必要だった。
私は未成年者略取犯だった。
私は尾道へ向かっていた。
私は服薬なしで夜を眠れなかった。
私は……。
ニーナさんはしっかりと、毛布のなかで眠っていた。耳にはイヤホンがあって、猫の耳のスマートフォンとつながったそれを私はそうっと外した。イヤホンを枕もとに丸め、ふと見ると、ニーナさんの目のきわは濡れて光った。
長くそばにいられないのだとそのとき思った。
マーヤ③
箱根から昼過ぎまで走ると浜名湖へ着いた。私たちは次に見つけたお店で昼食にすると決めて、長い橋を渡った。
ニーナさんは落ち着かない様子だった。昨日は、鎌倉を出発してからどこかのんびりして景色を楽しんでいたのが、今日になってみると、外を向いているのにどこも見ていない。砂丘があるというので寄ってみようと提案するのも、間をおかずニーナさんは断った。
ふるさとへ早く帰りたいのかもしれない。
怖がるのかもしれない。
ドライブインの駐車場はまばらだった。店の中もそう。私たちはのんびりしたふうのウェイターから声をかけられると、好きな席を選ぶことができた。するとニーナさんはいくつかの席に腰かけては立ち上がり、最後にはやはり奥まったボックス席に、店外の見える向きで座った。昨日もそうだったが、やはり警戒をしているのかもしれなかった。
店が閑散しているからか、頼んだ食事はすぐに出てきた。ニーナさんのミックスハンバーグ定食と、私の山菜そばはいっしょにやってきて、食べ終わるのもほとんど同時になった。
ニーナさんの箸使いはきれいだ。ナイフやフォーク���扱いも手慣れていて、食事中は喋らない。その間にことばをたくわえていたかのように、食後にはいかにそれがおいしかったのかを教えてくれる。
「ハンバーグ、中ちょっと赤かったね」
「こちらでは有名らしいですよ」
「ふうん、へんなの。ちゃんと焼いたほうがおいしいのに」
「私は好きですよ。ちょっと赤いハンバーグ」
「へんなの」
けれど今日についてはそれも早々に、ニーナさんはトイレに立つ。いつでも出れるからね、と言い残してドアをくぐると、席に食後のコーヒーが運ばれてくる。アイスにしたのは正解だった。もっとも、ニーナさんが急ぎたいのであれば味わうまではむずかしいかもしれない。
「私にもコーヒー。ホット」
突然に向かいの、ニーナさんの席に女性が腰を下ろし注文をはじめる。ウェイターが軽く返事をしてキッチンへ戻る。ぼんやりとアイスコーヒーに思いをめぐらせていて理解は遅れた。女性はファッションモデルの印象だった。白いブラウスで長い腕を手首まで締め、スキニーパンツで美しい脚のかたちを強調し、やわらかい長い髪は背中へ流した。はっきりと厳格な性質を感じさせる目は、メイクの印象もあるだろうがどこまでも重く黒く、端整なほほえみをたたえるので雰囲気はいかにも優しげだったが、これほどの暑さでやってきて少しも汗をかかないのが私には深く印象に残った。
やっぱり。私は思った。
「はじめまして。佐倉亜矢です」
似ていない、と。
「ニーナの母親」
知っているでしょ、とくだけた様子で彼女はテーブルに肘をついた。値踏みをする、あるいは瑕疵を探すように視線で撫でながら気安い態度を崩さず言う。
「ごめんなさい。ニーナが迷惑をかけて」
続ける。
「むりやり頼まれたんでしょう。わかってる。あの子実は精神疾患を持ってて、作話癖があって、これが初めてじゃないの。ごめんなさいね。私が連れて帰ります。お金もいくらか迷惑料で差し上げるから、あとのことは全部私に任せて、黙って、内密にしてほしいの」
ひと息に続ける間も表情は変わらない。柔和なほほえみを浮かべ、返答を待つ。私はたずねる。
「……どうして、私たちがここにいるとわかったんですか」
彼女はすぐにこたえない。返答のかわり息をつく。ちょうどホットコーヒーが、運ばれてくる。彼女はウェイターへ声をかけ、おしぼりを持ってきてほしいと頼む。まだ若くさほど勤勉でもないらしいウェイターは面倒な内心を隠さずこたえ、後ろを向く。突然、目の前がまっ白になる。私は、光と衝撃と、遅れて痛みに襲われる。
「やだ鼻血、たいへん……! 使って」
彼女はテーブルのおしぼりを私へ差し出すと、ウェイターの持ってきたそれで手を拭く。「止まらないのね……」と気遣うふうに席を移す。
殴られたのだ。
いま隣へ座ったこの女性に。
「監視カメラがあるの」彼女は気軽く話す。「もちろん、録音も」
痛みと恐怖をこらえながら周囲をうかがった。しかし誰ひとり、ウェイターはもちろんスマートフォンをぼんやり眺める男性も会話とコーヒーを楽しむ老夫婦も気付く様子はなかった。暴力はしずかだった。彼女の演出は完璧だった。
「あなたのことも知っている」
私は助けを求めようとした。
「佐藤真綾さん」
しかし大腿をぐぐぅっと圧迫され、見おろすとテーブルの下フォークがにぶくきらめいた。それはいまにも突き立てられんと張り詰めた。彼女は私の視線を、肌を歪めたフォークから移した視線をたいへんおいしそうに飲み込み、ほほえんだ。ほほえみは端整だった。先ほどとまったく同じ外形の内、目の奥の深部より残虐な欲求はあふれ出しまっ黒く光を吸った。
「真綾さん。名前で呼んでいいでしょう。元教師、山形市の小学校に八年間で二校勤めていたのに半年前に突然退職して、学生の頃に過ごした川崎に越してきている」
支配されるのはたやすかった。
「たいへんな事件を起こしたのね。教え子との性交未遂。示談にした? 前科がついていたら、こうやって罪を重ねることもなかったのかも」
息をするにも彼女の許可が要った。
「故郷を離れたのは事件のせいでしょう。きっと、示談金は教師のご両親が援助してくれたのね。手切れ金がわり? 恋人も、友だちも知り合いからも縁を切られて逃げて来たのね。孤独で、お金もなくて、やけになって空き巣に入った」
そのとき、私の命は彼女の手のひらでもてあそばれた。それは風船や、蝋燭の火ではなかった。それはちりだった。ほこりだった。なにげのない彼女の所作のひとつでそれはうしなわれた。
「……ニーナはかわいいでしょう」
彼女は、亜矢は言った。ふっと腿よりフォークを遠ざけ、それをテーブルに置くと、コーヒーのたっぷり入ったカップを手にした。
「私はね、ニーナを愛しているの」
亜矢はカップを持ち上げ、腿の上ゆっくりと、それを傾けた。熱いコーヒーが肌を焼き、私は悲鳴をあげかけた。しかし悲鳴には許可が要った。
「手放さない。邪魔をするのならなんでもする」
亜矢は細く糸を垂らすよう流麗にコーヒーを落としながら続けた。
「丸裸にする。全て奪う。号泣させて目を抉る。絶叫させて舌を抜く……私のニーナ……」
激痛の襲う中、確信した。亜矢は獣だ。苦痛と恐怖の牙で人間を喰らう暗夜の獣だった。ニーナさんを、彼女のもとへ返してはならない。どうすれば、私はニーナさんをどうやって――。
「遅いのね」
私へ向けて亜矢は言った。思考さえ、いまは彼女の所有物なのだった。
「呼んできます」
私は席を立つ。亜矢は明るく言う。
「そうね。荷物は私が見てるから呼んできて。ついでに顔、脚も洗ったほうがいいかもね、誘拐犯さん」
そうしてコーヒーをかたむけ、優美にほほえむ。
私は席を離れ、厨房をのぞいた。カウンター越しに見えていた裏口は、搬入されたのか搬出されるのか知れない大量の荷物で塞がれていた。駆け出していた空想の私は足を止め、振り返る。亜矢がほほえみかける。入り口への経路にも亜矢はいて、あるいは従業員専用と貼られた扉との距離にしても亜矢は近い。いったいどうやって。私はほとんど絶望してトイレの前に立った。ノックをして、返事はなかった。もう一度。しかし返事はない。私はゆっくりと、扉を開いた。中扉が開いていて、ニーナさんの姿はなかった。
振り返る。
「目を閉じて!」
ニーナさんが叫ぶ。
私が反射するより早くニーナさんは構えた消火器で亜矢を襲った。声もなく、亜矢は白く埋もれ見えなくなり、「はやく!」とニーナさんが呼んだ。私は駆け出し、席のバッグを取り上げた。獣のかぎ爪が、もやを切って手のわずかそばで革のシートに突き刺さった。それは銀のフォークだった。私は走りながらバッグを探り、店を出たところで取り出せたお札の束を放った。飛び込んだ車の走り出す、そのときニーナさんが教えてくれたのは、駐車場の白いセダンが亜矢の車だということだった。
買い込んだ水がなくなると、タオルにくるんだ氷をあててもらう。疼痛が、頭の中心を響いて全身へ拡散される。覚えずうめき声をもらすので、ニーナさんは不安に思うようだった。見上げる彼女へなにか声をかけてあげたかったけれど、適切なことばが見つからず私は黙った。口をつぐんだ。ぐらぐら伝う痛みをわずかずつ氷が麻痺させていくのを感じた。
信号は赤い。
車を止める。
ふれた鼻の痛みは軽く、幸いにして骨に異常はないようだったが、なにか歪んで戻らないようなおさまりの悪さが感じられた。思考のまとまらないのはその違和感と、痛みと、与えられた恐怖のためだった。亜矢の声は、ほほえみは、私を襲ったそのすべてはまなうらに鮮明に間をおかずくり返した。
信号は長い。
車が止まる。
右車線の白いセダンは、亜矢は私たちを認めると車を降りる。近づく。亜矢はあの優美なほほえみを浮かべ窓から覗くと、ドアをノックして、手をかける。アクセルを踏み込むが車は動かない。振り上げた銀のフォークが、反射した太陽の鋭い光が目を刺し、私は苦痛を予期する。
クラクション。
信号は変わっていた。右車線、先へ行ったのは白い小さな軽自動車だった。慌ててアクセルを蹴り、急発進のため青い車はがこんっと跳ねると、こちらへ身を乗り出していたニーナさんが頭をぶつける。「あっ」とかすかな悲鳴が聞こえ、私はニーナさんの無事をたしかめようとして車線を踏み外す。ガードレールと接触しかけてどうにか車体を道路へ戻すと、ニーナさんが「平気、平気だから」とこたえる。
「マーヤ。ちょっと休も。ずっと走ってるよ」
ぶつけたおでこを押さえて続ける。
「大騒ぎにしちゃったから、すぐ追いかけてこれないよ」
ニーナさんはそう言って、服の裾をつまんだ。
わかりましたと私はこたえ、しかし脚の疼痛が呼ぶ恐怖に追い立てられるために、結局はそれから一時間ほど走って車を止める。道の駅。日はまだ暮れるように見えなかったが、山中であるから変わるのは早いのかもしれなかった。
道の駅はのどかだった。駐車場はほとんど空いていて、空気はしずかだった。遠く取り囲む山々の、見慣れないかたちをした木々は、高原の涼風に青くざわめいた。心地よい水の音が肌にふれるのは、近くを清く沢が流れるためだった。沢は穏やかな流れの内に陽光を集め、たくわえた光をちらちら放っていた。
ニーナさんは好きになるだろうか。私は誘おうとするのだが、彼女は羊に恋をしていた。白い羊は道の駅のまきばで飼育されているらしく、ちょうど散歩の時間だったのだ。ニーナさんは羊をじっと見つめ、けれど手を伸ばすには勇気が足りないらしい。私は彼女をベンチへ誘った。そこへいったん腰を下ろすと、道が見えない、あの白いセダンがやってきてもすぐに見つけられないと思い、近く日陰のベンチへ座りなおした。
��うやって、私は気付いた。
ニーナさんは、こういうふうに自分のいる場所を選んでいたのだ。
ニーナさんは隣へ座った。脚の火傷を気遣って、「ごめんなさい」と謝った。こう続けた。
「傷つけて、こわい思いをさせてほんとうにごめんなさい。マーヤ、もう置いていってくれていいよ。あたしは平気。近くの駅とかまで送ってくれたらあとは一人で行けるから」
そのときニーナさんは、決意をして見えた。
私は亜矢を思い出す。火傷をさする。与えられた恐怖や痛みを甦らせると、「尾道で、頼れるひとのことを教えてください」とたずねる。
ニーナさんはそれで慌てたらしく、「おじさんが」とか「お母さんの……」とかきれぎれ言って、ついに黙りこんでしまう。ほんとうの両親をなくして離れるよりほかなかった土地なのだから、戻れる場所ではないのだろう。
「ニーナさんをひとりにはしません」
私は言う。
「あの家へ入る前、調べました。私は一度もニーナさんを見ませんでした。ニーナさん。閉じ込められて……もしかして、亜矢さんからひどいことをされていませんか」
ニーナさんが口をつぐむのは、なによりのこたえだった。
「私は、あなたをひとりであの家へは返しません」
私はこたえた。ニーナさんはなにか言いたげに口もとをもごもごさせ、黙りこんだ。私もそれ以上、どんなことばを続けていいのかわからず、長い沈黙のいたたまれなさに立ち上がった。なにしろ喉は渇いた。傷が痛んで、体はずっと熱かった。
すると、ニーナさんが袖をつかむ。
不安げに見上げるのに、飲み物を買ってくるだけです、とこたえると結局はふたりで自販機へ行く。冷たいペットボトルを持ってベンチへ戻ると、まさかそこには羊がいる。羊は日陰で涼むだけにも、ニーナさんと待ち合わせていたようにも見える。さわってみませんか、と飼育員がたずねる。あたしですか、とニーナさんはたしかめて、おずおずと、白い羊へ手を伸ばす。
背中をなでる。
頭にふれる。
はじめはおそるおそる、かれを怒らせてしまわないかと怯えるみたいに少しずつ、少しずつ。しかしだんだんと、かれは気を悪くしないのだとわかっていくと、ニーナさんは大胆になっていく。指で毛づくろいをしてみたり、大きな体をぎゅうっと抱きしめてみたり、もらった青い草をあげてみたり、さまざまなことをニーナさんは楽しむ。その目のきらきらかがやくのがわかる。初めてだったのだろう。私は穏やかな、うんと優しい気持ちになってカメラを向ける。まだ日は高い。ニーナさんのよろこびは、残らず写真におさまって見える。
「マーヤ、こっちも!」
ニーナさんは自分のスマートフォンを差し出す。猫の耳。黄色くてまるいかたち。私はそれを受け取ると、さん、に、いち、と声をかけて写真を撮る。ニーナさんはまぶしく笑い、羊はぼんやり宙を眺めて、それが楽しくてニーナさんはやっぱり笑った。
よかった。
私は思う。
カメラを終了し、ホーム画面に戻る。私はなにげなくそうして、ホームの背景に胸がつまった。ニーナさんは羊に夢中で気づかないようだった。私はそれを見た。彼女によく似た女性と、背の高く優しげにほほえむ男性、そしてずっとおさないニーナさんが、笑うのだった。
私はニーナさんを見た。
彼女はとても幸せに見えた。
よくないおこないだとようやく思い、ニーナさんへスマートフォンを返そうと声をかけた。しかしそのとき、既に暗転した画面のはじに残った像に気づき手をとどめた。
「どうしたの?」
と不思議がるニーナさんへ、私はもう一度画面を見せてほしいと頼む。ニーナさんは羊へたっぷり手を振って、パスを入れると点灯した画面を差し出す。仲の良いおやこ、でなくてその上、通知バー。アイコン。位置情報。
私は操作を続ける。みまもりの設定が有効になっていることをたしかめる。それは位置情報を指定されたスマートフォンと共有するもので、無効にするにはパスコードと指紋認証が必要であるらしかった。
亜矢はどうして居場所がわかったのか。
「ニーナさん」
このスマートフォンが、亜矢に教えていたのだ。
「これを、捨てることはできませんか?」
私はたずねる。ことばは思うより冷たかった。ニーナさんは最初怯えて、けれど事情を説明するときちんと理解してくれる。かしこい子なのだ。ニーナさんはうなずき、しっかり考えたのち、「ごめんなさい」とこたえる。
「これね、お父さんとお母さんがくれたの。写真とかムービーとか、声とかたくさん残ってて、亜矢さんの、やさしい頃の思い出も、だから、ごめんなさい」
ニーナさんはこたえるうち涙ぐんだ。
私は謝罪をして、せめて電源を切っておくよう提案する。ニーナさんはそれを受け入れ、愛おしそうに眺めた画面をまっ暗にする。電源を切った位置までが共有されるはずだった。もっとも、GPSだけでなくたとえばスマートフォン内部に発信器が仕込まれていたら、そうでなくとも他の手段で、亜矢は追ってくるのかもしれなかった。
「必ず、連れていきます」
と私は言う。
ニーナさんはうなずいてこたえる。羊が家へ帰っていく。わずかずつ、日の色が変わりはじめる。
夜は深く沈んだ。
引いては増す痛みのため病院へ寄り、火傷は思うほど重度でないのは幸いだったが、時間はかかった。痛み止めと軟膏、抗生剤、七日後には果たされない再診の約束を取りつけてまた車を走らせたのだが、尾道にたどり着くことはできなかった。
旅館は和室だった。部屋からは琵琶湖が見えた。暗い巨大な洞だった。周囲を弱光の取り囲むのは、夜光虫のふちどる底のわからない地下湖の様相に感じられた。
「痛くない?」
ニーナさんが見上げる。
「平気です」
私はこたえる。痛みはずいぶんうつろだった。疲労と怪我の熱、昼間の恐怖から飲んだ倍量の安定剤があらゆる私をあいまいにした。窓辺の椅子より、足もとにひざまずいて包帯を巻き直してくれるニーナさんを見おろすと、心のたかぶりは素直に感じられた。ニーナさんは、あいかわらず浴衣をゆるっと着こなした。胸もとは、肌着のなかの痩せて窪んだみぞおちや発達なかばの乳房は、肋骨の一本一本が肌を浮かぶのはつぶさに見えて、私は興奮と自罰をくり返し行き来した。意識が弱っていた。髪に指をからめるのは無意識下におこなわれ、私は慌ててそのあたまにふれて包帯への感謝を告げた。ニーナさんは特に気にする様子でもなかったが、昨夜のようにしてほしいとはねだらなかった。
それだから、ニーナさんがこわくて大浴場に行けないといって内ぶろへ入ったのが、私にはおそろしかった。
たましいが、二つに裂けようとする心地だった。
シャワーの音を聞きながら、丹念にニュースをたしかめた。誘拐の報道はやはり見つからなかった。ドライブインや消火器に関する報道も、一つも。
「マーヤ」
そうするうち、音が止む。
「ごめんね、こわくて、いっしょにおふろ……だめ?」
私は拒む。それは反射だ。「狭いので、とても」とどうにか言い訳をして、ドアを背にする。「ここにいます。怖くなったら声をかけてください」と言う。
ニーナさんが「うん」と言って、ふたたびシャワーの音が聞こえはじめた。私は安堵して、しかし恐怖に体はすくんだ。ほとんど膝をかかえ、ニュースに集中した。小田原で、住宅二軒を焼く火事があったということだった。「マーヤ」「はい」今夏の熱中症による搬送者数は過去最多ペースであるということだった。「マーヤ」「ここです」明日の天気は快晴、本州全域で真夏日になるということだった。「マーヤ」「大丈夫ですよ」「迷惑をかけてごめんなさい」
私は振り返った。
ドアのむこうには、か細くよわいニーナさんが、あるのだった。
「安心してください。離れませんから」
そのうちにシャワーの音が消える。体を拭くやわらかい音が聞こえて、開いたドアよりニーナさんは全身はだかで出てくる。
「マーヤ、ありがと」
けれどそれはまぼろしで、ニーナさんは浴衣を着ていた。着くずすことなく衿をしっかり閉じていて、湿った髪の毛は背中へ流された。頬はあからみ、いい香りがして、かがみ込むとやはり大きめの浴衣からはなだからなふくらはぎや内ももが覗いた。
私は。
どうして生きているのだろう。
ほとんど逃げるように浴室へ入った。思考が滲んで、落ち着けるには長い時間が必要で、けれどニーナさんの姿は頭を離れなかった。
浴室を出るとニーナさんは眠っている。私は髪を乾かし、ナイトケアを済ませると、畳間に腰をおろしその寝顔を見る。
子どもだった。
私に体がなくて、そばで見守れたならよかった。
うす暗い部屋でそうしているうち、ふとイヤホンに気づく。それは右の耳にだけ入っていて、激しい恐れのために私はイヤホンを取った。しかし、スマートフォンの電源は入っていなかった。私は「ごめんなさい」と言った。ニーナさんは、約束を守っていてくれたのだ。イヤホンからはなんの声も聞こえなかった。
明かりを落とし蒲団へ入る。明日もよく晴れる。早いうち尾道へ着く。私たちは、それから……。
ぼんやりと考えをめぐらせていると、蒲団をさぐる手を感じる。毛布をめくり、ニーナさんがもぐり込んでくる。私はどきどきしてたずねようと、あるいは逃げだそうとする。ニーナさんは声をかけるでもなく、私の腕にすがりつき、はじめから泣いていた。
「さみしいよ」
と言った。
一度手離してしまえばとどめようなく、おもいはこぼれ落ちるのだった。
私は、私のなかの恐れや、底をうごめく欲望がふっと目を閉じるのを感じた。かれらが眠ると、私は心の底より、全霊を込めて、ニーナさんの安寧を希求することができた。ニーナさんにかなしいおもいをしてほしくなかった。ニーナさんにはいつもほほえんでいてほしかった。ニーナさんがどの一瞬も幸福であれば、私はそれでよかった。
ニーナさんはもう、なにひとつ我慢できないようだった。抱きしめると、大声をあげ泣きじゃくった。口にする名前やことばはほとんどわからなかったけれど、たくさんのものを愛しているのだということがわかった。たくさんの、数えきれないほどの愛の結実として、ニーナさんはいまここを生きているのだった。
それだから、私は全存在をかけてこの子を慈しみたいと、そう思った。
ニーナさんは声や涙のかれるまで泣き続け、やがて眠った。息をするのは穏やかだった。優しい眠りだった。私もまた、そのしずけさのほとりに身をひたすようにして眠った。そこは温かかった。何頭か、羊が寄り添い頬にふれた。
ニーナ①
あたしたちは寝坊をしてしまって、それでも朝ごはんにはなんとか間に合って、旅館を出るのは遅くなった。頭の上の木の葉がざわざわ音をたてて、それなのに外はもう息苦しいくらいに暑くなっていて、森のすき間から湖のきらきら光るのは目を刺すみたいだった。
『昨日はご迷惑をおかけしました。お店とはこちらで話し合い、事件にはならないよう取り計らいましたのでご安心ください。
今度は落ち着いて話し合いをしませんか。もちろん、娘も一緒に。
そちらの対応によっては警察の介入を避けてよいと考えています。それでは、連絡をお待ちしています』
亜矢さんのメッセージは、旅館を出てすぐマーヤに届いた。どうやって連絡先を知ったのかはわからないけど、あたしは、あのひとにならかんたんだと思った。あのひとにできないこと、あたしにはちょっと思いつかない。
あたしはすごく怖い。
マーヤもきっと怖いと思った。
メッセージを読んだきり黙ってしまったマーヤに声をかけようと思った。逃げよう。大丈夫だよ。けれどマーヤは「ああ……」とささやいて、なにかわかったみたいにうなずいた。
「警察を、入れたくない」
マーヤはひとりで続けた。
「子どもを、そう……」
それからまた、マーヤは黙ってしまうから、あたしはなんの声もかけられなかった。しばらくすると、待たせたことをごめんなさいと言って車を出発させた。やけどの痛みは落ち着いたみたいだった。あたしは不安で、気を抜いたら泣いてしまうみたいな気持ちだったのに、マーヤは違うみたいだったから、どうしたらいいのかなにもわからなくなった。
車はぐんぐん走る。
一度だけ休んで、なん時間かで尾道に着く。
あたしの家は線路のこっちの海のほうだったから、尾道になってから時間はけっこうかかった。それでも、だんだん見覚えのある場所は増えてきて、あたしは胸のどきどきするのを感じた。マーヤの、手をとったり袖をつまんだりしたかったけど、運転しているからできなかった。かわりに爪で窓を叩いた。聞いたことのないさみしい音だった。
なん十分かで家に着く。
家はもう、なくなっている。
あたしの生まれた家。おばあちゃんの頃から暮らしていた家をリフォームしたとかで、見たかんじは古くさいのに住むのはすごく温かかった。庭のほうに突き出した瓦の屋根があって、昔はおばけが出たんだよ、というのにおふろはまぶしいくらい白くて、たくさん浮かべた黄色いあひるは、ま緑の草むらのどこにも見つからなかった。
海のにおいがする。
ここからは見えないけど、海が近くにある。
見覚えのある、古びた(ふぜい、なのだとお父さんは言っていた)家が並んでいて、あたしの知っているそれらはなにも変わらないのに、あたしの暮らした家だけがぽっかりなくなっているのを、ふしぎに思った。
「行きたいところはありますか」
マーヤがきく。あたしは考えて、夕方まで待ちたいとこたえる。それを受け入れてくれて、きっと亜矢さんをおそれているのにマーヤは優しい。
行きたいところ。
あたしたちは海へ向かう。
海へ行って、それから、あたしはどうしよう。家と家のあいだの狭い道はうす暗く冷たくて、海はとてもまぶしいから、あたしはなにかいつまでもそこへたどり着かないみたいな心地がして、こわがってマーヤの袖をとろうとしたのに、できなかった。
手を伸ばそうとするたび、ゆうべやさしく抱きしめてくれたことが浮かんで、だけどマーヤはあたしの手を力強くとってくれたり厳しく払いのけたりしたから、ふれたいのに、どうやってふれたらいいのかわからなかった。
マーヤ。
あたしは言いたくなった。
誕生日なんだよ。
夕暮れまではけっこう時間があったのに、マーヤはいっしょに待っていてくれた。
海はきれいだ。後ろの山に夕日が沈んで、海は、たくさんの島も、どれも赤くて金色だった。だけどふしぎだ。小さなころ、もっと子どものころのお父さんとお母さんがいっしょの、思い出のなかの景色はまっすぐきれいな金色だったのに、いまがそれより大切に感じるのはふしぎで、さみしかった。
あたしは振り向く。
マーヤは手を振ってくれる。
これからあたしはどうしよう。ここへ着いたら、あたしにはもうなにもない。家に帰りたくて、奇跡みたいにあらわれたひとと、ここへ来ることしか考えていなくて、着いてしまったらもう、あたしとマーヤがいっしょにいる理由はなくなってしまった。
行きたいところはありますか。
波がたずねた。波はあたしの足にさわった。誘われるまま、波のなかに入っていくと、足首までを海にひたした。お父さんはそこで死んでしまった。お母さんは、そこへ消えたということだった。けれど波と波のあいだでお父さんがほほえんでいたり、浅い海のなかでお母さんが手を広げてくれていたりしなかった。
とつぜん押し寄せる激しい孤独に、あたしは胸が苦しくなるのを感じた。息がぎゅっと詰まって、体を思うように動かせなくなった。
マーヤ。
あたしは心で呼んだ。
マーヤ。
マーヤ!
そうすると、マーヤはあたしを抱きしめてくれる。大きな体で、あたしを包み込んでくれて、気持ちが落ち着くまでそうしてくれる。くつが濡れてしまって、それなのに、マーヤはそんなことちっとも言わなかった。
「暗くなるまえに行きましょう」
マーヤは言う。あたしがつないでほしいのを知ってるみたいに、手を差し出してくれる。
あたしは、それが嬉しいぶんだけ離れたらもっとさみしくなるって知ってるのに、その手をとらずにはいられなくて、じゃあどうしたらさみしくなくなるのか、それからずっと考える。
晩ごはんを、おなかいっぱい食べられなかった。
マーヤがシングルルームをふたつ取っていて、いらっときた。
べつに興味なんてないのにゲームコーナーに寄ってみて、ぬいぐるみは取れなかった。
カラオケがしたいって言ってみて、でもゆっくり過ごす時間がなくなるだけだから今日はやってなくてよかった。
おふろの前で待ってもらった。
「マーヤ」あたしは呼ぶ。マーヤはドアのむこうから返事をくれて、あたしはなにを話すのか考えていなかったから、そうだ、と秘密を打ち明ける。「あたしね、最初に会ったとき、マーヤのこと撮ってなかったよ。スマホ向けてただけだから」
マーヤはありがとうございますとこたえて、あれ、とあたしは思う。ゆっくりして、落ち着いた声だった。別の返事がほしかったとか、もうちょっと喜んでくれたらよかったとか、そういうことではないと思ったけど、なんで気持ちがいらいらするのかあたしにはぜんぜんわからなかった。
あたしは考えた。海をあとにしてからいままで、いろいろなことを考えて、あたしは差し出せるものの少なさを思い知ったけれど、それはかえって力をくれて、結局あたしはやるしかないのだった。
決意はしっかりしていた。
だってそれは、いっしょの未来のためだった。
「よし」
あたしは言う。
シャワーを止めて、もう一度。
あたしはちゃんと体を拭いて、まだふくらみだしたばっかりのおっぱいとか、ぜんぜん毛の生えないあそこをたしかめて、「よしっ」とひとりで言う。バスタオルを一枚だけ体に巻くと、あたしのなかのけものを連れて、えいっとドアを開ける。大きくて、優しい背中に抱きつく。
だってどうしたって、マーヤを離れるのはいやだった。
マーヤは全身石みたいになった。あたしはマーヤに迫った。「聞いたよ。子どもとエッチしたんでしょ」マーヤはこっちを見ず、だけどあたしは壁かけの鏡のなかのマーヤの目の中に亜矢さんと同じ、さみしく暗い火がともるのを見た。その色は、お母さんとも同じだった。お父さんがいなくなって、あたしをぶつようになったお母さん。あたしはそれをさみしさのせいなのかもと思った。お母さんも亜矢さんも、きっとマーヤも、さみしくてどうしようもなくて、火をともさないでは生きていけないのかもしれなかった。
でも、あたしがいるのに。
「迷惑かけてるもん。あたしのこと、好きにしていいよ」
あたしはマーヤの背中におっぱいを押しつけて言った。それはなんだか痛かった。しっかり拭いたつもりだったのにまだ体はぜんぜん濡れていて、髪の毛がぞぞぞっと肩をなぞるのが気持ち悪かった。
「そんなこと!」
マーヤは嫌がる。
「しなくていい! そんなこと……!」
ぐぐっと体を引いてそのまま離れて遠くへいってしまいそうで、あたしはもっと体を寄せる。マーヤの手を取ってさわらせようとする。
だってさみしかった。
マーヤは拒んで手を払う。あたしは床にお尻をぶつけて、マーヤはそれを心配するのに、いまにもどこか見えないところへ逃げてしまいそうだった。
さみしかった!
あたしはそれでかっとなって、マーヤへとびついた。マーヤが避けるから、ベッドにぶつかって肩は痛かった。「じゃあ! どうしたらいいの! わかんないよ!」あたしは叫んだ。追いかけた。マーヤは床をよつばいで逃げた。あたしはさみしくて、さみしくて、気がへんになりそうだった。
部屋は狭くて、あたしはすぐにマーヤを追い詰める。マーヤはベッドの下の部屋の角っこで、体をまるめた。あたしは息が荒くなり、頭はぽうっとするのに、けものの声はよく聞こえた。胸もとの、バスタオルをとめていたところをとって、はだかの体を広げた。
あたしのけものをマーヤにあげた。
そうすればずっとそばにいられると、ほんとうに信じていたから。
マーヤはあたしを見なかった。マーヤはうずくまった。壊したいみたいに激しく頭を床にこすりつけた。「ごめんなさい」と言った。「ごめんなさい、ごめんなさい……」マーヤはくり返した。マーヤの声はだんだんと、ひどく泣きながらうめき声みたいになって、それでも、いつまでも謝り続けた。
あたしは全身がつめたくなり、そのときやっと、自分がおそろしいことをしてしまったんだと気づいた。
マーヤ。
あたしは手をのばした。肩に指でふれた。だけどその瞬間、毒のあるとげで刺されたみたいにマーヤはふるえて、間違えたんだとわかった。
あたしは考えた。
思い出すのは、お母さんがくれたものだった。
あたしは抱きしめようと思って、だけどマーヤはあたしが怖い。それだから、もっと考えて、まずバスタオルを体にしっかりと巻きつける。それから毛布を、ベッドから引っぱって、「毛布をかけるよ」と声をかけてからマーヤにかぶせる。
「苦しくない?」
こたえはない。
「こわくない?」
こたえはない。
「抱きしめてもいい?」
あたしはたずねる。こたえがないので、「だめだったらすぐ教えてね」と言って、あたしは毛布のうえから抱きしめた。マーヤは白い羊みたいだった。
あたしは考えた。
「こわかったよね」
考えた。
「あたし、自分のしたいことをむりやり押しつけて、ひどいことした。ごめんなさい」
あたしは生きてきていちばん、ひとのことを考えた。
「ほんとうに、ごめんなさい」
こんなに誰かが悲しんでつらいのも、誰かが泣き止んでほっとするのも、初めてのことだった。
マーヤの泣き声が聞こえなくなると、あたしは自分の部屋へ戻ろうと決めた。浴衣をきちんと着て、教えてもらったとおりに帯をしっかり巻いた。「朝ごはん、七時からだけど八時くらいでいいよね」と声をかけた。マーヤはこたえなかった。「あとね」あたしは告白した。
「ほんとはね、今日、おふろも怖くなかったの。ごめんなさい。だからひとりでも平気だよ」
おやすみなさい。
マーヤに背中を向けるのはさみしかった。あたしはたぶん、ひとりになったら泣いてしまうだろうなあと思った。
「……私は!」
だからマーヤの声がすると、嬉しくて、あたしはわあっと振り返った。マーヤは巣を離れるのをおそれる小鳥みたいに、床に座ったまま腰から下を毛布でくるんで、たくさん泣いてあかっぽい目であたしを見つめた。
「私は……ニーナさんを、かわいいと思ってしまいます」
マーヤは続けた。
「罪を犯したんです。ゆるされない……」
言いながら、胸をおさえた。息はみだれた。苦しいのだと思う。あたしはマーヤのくれたものを思い出した。
「そばにいってもいい?」
と言って、マーヤのそばにかがんだ。目の高さを揃えて、手をつなぐのはやめにした。冷蔵庫の水を差し出した。マーヤは水をすこし飲んで、ゆっくりと続けた。
「……教え子を傷つけたんです。性行為を、のぞみました。体に傷をつけることは避けられましたが、それでも、彼女には一生残る。誰を信じていいのかわからなくなる。彼女の人生を、私が傷つけた」
続けた。
「もう二度と、誰も、ニーナさんを傷つけたくない。……それなのに、くるしいほど、ニーナさんの体に惹かれる。ニーナさんを大切にしたい、できるなら、ニーナさんを救いたい。ニーナさんに、幸せになってほしい……それなのに、……おさえられない……」
あたしはマーヤの告白を聞きながら、たくさんのものごとが胸のうちですとんっ、すとんっと落ちていくのを感じた。初めて会ったときからあたしに怯えていて、それなのに燃やしたがるみたいにあたしを見ていた。子どもにも敬語でしゃべって、似合うのに先生をやめてしまった。優しくて、たくさん苦しんでいるのに、優しくて、あたしはマーヤが好きだなあと心から感じた。
「マーヤ、がんばったね」
だけどいま、あたしの気持ちはきっとマーヤを苦しめてしまうから、じゃあなにを差し出せるのか考えた。すると今度思い出すのは、お父さんのくれたものだった。
「なでても平気?」
あたしはたずねた。マーヤが困って見えたので、さわるのはやめにして続けた。
「おさえられないなんて、そんなことないよ。マーヤがまんできたもん。あたしが迫ったのに、なにもしなかった。すごいよ。あたしは好きなものってぜんぜんがまんできないのに、マーヤは泣くまでがまんした。ううん。泣いても。すごいことだよ」
あたしは一生懸命に考えて、続けた。
「お父さんはね、あたしがよくないことしたら叱ったし、でもちゃんと反省したらがんばったねって言ってくれたよ。マーヤはがんばってるよ。すごいよ。マーヤ、たぶん自分のことほめられないよね。だからあたしがほめてあげる。マーヤのぶんまですごいよって、言うから」
だってそうしないと、マーヤはずっとひとりぼっちでいないといけない。
「マーヤのいいところも、よくないところも、あたしが知ってる」
そんなのはさみしい。
「もう、ひとりじゃなくていいよ」
あたしはマーヤだって、幸せになっていいって思った。
言いたいことはぜんぶだった。あたしはマーヤの返事を待った。マーヤはあたしをじっと見つめた。あたしはだんだんと緊張してきて、ちょっと冗談とかを言いたくなった。だってあたしは、お父さんに似て、ほんとはけっこう明るいタイプなのだ。あたしはついに言おうとした。そのときマーヤが口をひらいた。それはあたしにはかなり運命的な一瞬のおもいの重なりだった。
「ありがとうございます」
マーヤは続けた。
「シャワーを浴びてきますね」
あたしはうなずく。マーヤがしずかに立ち上がるので、ベッドによけて道をつくる。あれ。ここで待ってていいのだろうか。あたしは悩む。なにも言われないうちは待っていようか、それとも空気を読んでひとりで部屋へ戻ろうか。それでまたしても、あたしの気持ちを知っているみたいにマーヤが言った。
「少し、明日のことを話しましょう」
続けた。
「あなたに出会えてよかった」
あたしは感動して、ちょっと泣いてしまったのはドアのむこうのマーヤに内緒だった。
シャワーの音が聞こえだすと、もしかしてマーヤがひとりで泣いていたらいやだと思って、ドアの前で耳をそばだてたのだけれど、そうするとなんだか胸がどきどきして、あ���しは自分のさっきしたことを思い出し、もしもマーヤにおなじことをされてしまったらと想像して、わっと顔があつくなった。あたしはキスをするとかエッチをするとか手をつなぐとか、その順番とかやり方を、前に仲良しだったいけてる子に聞いてなんとなく知っていたけれど、それらがほんとに好きになって生まれるのなら、そのむずかしさにどう向かっていけばいいのか考えた。だけどぜんぜんこたえは出なくて、シャワーの音がやむと慌ててベッドに戻り、喉がからからだったので近くのコップを取り上げたのだけど、マーヤの飲みさしのそれに、おそらくこれから長いあいだ、口をつけることはできないのだった。
あたしは伝えたかった。
いつか、このときのことをマーヤに伝えようと思った。
それから。
ふたりでいっしょに眠る支度をすっかり済ませて、そのあと、あたしはほとんど一方的に秘密を知ってしまったのをよくないと思って、お父さんやお母さんの秘密とか、亜矢さんが最初やさしかったのにだんだんおかしくなっていったことを打ち明ける。それと、アルバムに残ってるお父さんお母さん、亜矢さんの声やムービーを見てもらう。
それから。
あたしたちはたくさん話す。
それから。
そういえばっ、とあたしは十二歳の誕生日を告白して、マーヤはおめでとうのことばといっしょに、ちゃんとしたお祝いはあらためて、と約束をくれる。
それから。
あたしたちは長いはなしをする。
あたしたちは旅の終わりをわかっていて、だからはなしを終えるとふたりでベッドに入る。マーヤがそばにいるからイヤホンがなくても大丈夫だったけど、離れるのはやっぱりさみしかった。それでも、マーヤはすごくやさしい仕方で抱きしめてくれるから、あたしはちゃんと眠ることができた。夢も歌もいらなかった。
ニーナ②
ひとにぶつかることが多かった。
あたしは道を歩いていて、よくひとにぶつかったり、もしかしてぶつかられたりした。小さすぎるせいかもしれない、と思ったけど他の小さなこどもはそんなことないし、もっと子どもだったころはそうじゃなかった。なんとなく、お父さんが死んでから、お母さんがおかしくなった頃からだったような気がする。久しぶりに外を歩いていて、そんなことを思い出した。
だけどマーヤはそれに気づいて、あたしを守ってくれる。
尾道は細い路地が多くて、坂道で足もとがよくなかったりもするから、マーヤは忙しかった。だけどあたしはねこをかわいがって、見覚えのある子なんかを見かけるとつい追いかけてしまって、そのうち赤っぽい土の登り坂にたどり着く。地図をたしかめるとどうやら行きたい場所には続いているみたいなので、さっそく坂を登りはじめる。マーヤは珍しく気が進まないみたいにあれこれ言って、結局はついてきてくれるのがあたしにはおかしい。
坂はだんだん急になっていって、足を伸ばしてやっと登れる段差なんかも出てくるから、あたしたちは離れていく。あたしはさっさと行って、なかなか来ないマーヤを途中で待つ。景色はきれいだった。町も海もみんな見えた。葉っぱの風に泳いでざわめくのが、あたしたちを拍手するみたいに聞こえた。海の青くかがやく一つひとつが、あたしたちの未来のできごとみたいに見えた。それらを眺めて、汗の引いていく涼しさを楽しみながら、やがてやってくるマーヤを待つのは初めて感じる幸せだった。
そうしてついにマーヤが登ってくる。ぜえぜえ息を切らせて、かなりなさけないかんじで登ってくるのにあたしは手を差し出す。マーヤは手をとって、それから、あたしたちはあとの坂をいっしょに登りきる。
頂上から、今度は舗装された、とつぜん急になったり段になったりする道を降りていって、途中にあるカフェでお昼ごはんを食べることにした。あたしはそこを知っていた。窓辺の席からテラスの緑の庭が見えて、お昼すぎくらいまでは頭の上の木の影になって涼しいそこには、いつもたくさんのあいらしいねこがたむろった。あたしはかれらの名前を思い出して、知らない子には名前をつけて、それらをぜんぶマーヤに教えた。そうすると、お父さんやお母さんと覚えていた場所は、マーヤといっしょの新しい景色になっていった。
お昼を食べ終えると、あたしたちは準備を始める。
マーヤは亜矢さんにメッセージを送って、警察へ電話をする。あたしはスマホの電源を入れて、そうだっ、とひらめいてマーヤといっしょの写真を撮ると、背景に設定してマーヤに見せる。
それがいい写真だったから、あたしたちは嬉しくて笑う。
そうして、約束の時間までもう少し、思い出をつくる。
ニーナ③
「待ち合わせです」
とマーヤは静かにこたえる。
警察官さんは荷物を調べ終えると、犯罪の予告があったので離れてほしい、とあたしたちを去っていく。駅前の、海のそばの広場は赤いコーンでふさがれていて、たくさんの警察官さんがまわりを気にしている。子ども連れで、まさかこのひとが犯人ですなんてわからないだろうなあとあたしは思う。
そこが閉じられるのは予想していなかったので、あたしたちは通りをちょっと歩くと、建物の裏の海沿いの歩道のベンチに腰をおろす。あたしがはじに座ると、マーヤはまんなかを選ぶ。日の色はゆっくり変わりはじめていたけど、あたりはまだまだ暑かったから、日陰のそこにいるのは気持ちよかった。おんなじ気持ちでいるのかそれとも食べ物をねだるのか、ウミネコはいくつかのまとまりをつくって歩道をうろついた。あたしはなんとなく気にかかって、かれらを見つめた。ウミネコは羽が白く、くちばしはがっしりしていて、けだるいかんじで歩きながら時おり地面をつついたりニャアニャアと鳴いたりした。まとまりは、なん羽から大きくて十羽くらいで、ふしぎなことに同じくらいの間を空けながら歩道のずっと先まで続いた。かれらはひとが近くを通ってもおびえて逃げるでもなくちょっとはじに避けるだけで、そういう姿はけっこう自由らしくうつった。
ニャアニャア。
いいなあ、とあたしは眺める。
ニャアニャア。
ウミネコが飛ぶ。
胸が跳ねる。
ウミネコは歩道の奥から、ひとまとまりごと飛び立って、それはおそろしいものが近づいてくるのをはっきり知らせる。
あたしは手を握る。マーヤ、緊張が伝わる。
そうしてウミネコをすべて払いのけ、亜矢さんは、ゆっくりとあたしたちに近づくと、親しげに声をかける。
「テロ予告でもした?」
ベンチにはかけず、汗もかかず、ただつめたくマーヤを見おろす。
「だいたい、そんなところです」
マーヤが落ち着いてこたえるので、反応は遅れて聞こえる。
「まだ罪を重ねるのね」亜矢さんは続ける。「未成年者略取、住居侵入、窃盗、犯罪予告をして、過去には児童淫行。もうニーナには手を出した? 何年刑務所に入るのか予想もできないけど、終わりでしょうね」
続ける。
「騒ぎにして、私とニーナのことを警察沙汰にしたかった?」
あたしを見る。あたしは目をそらす。
「でも残念。この子は私に逆らえないの。ねえ、ニーナ」
あたしはこわい。
「見なさい」
あたしは顔を上げてしまう。そうして亜矢さんの、目を見て、そのなかの燃える火を見た。火はさみしかった。火はくらかった。あたしは亜矢さんに与えられた優しさや痛みを思い出した。亜矢さんはことばより、その目で守り、支配するのだった。
「ニーナ。帰ってきなさい」
あたしは立ち上がった。言われるままベンチを離れると、亜矢さんのそばへ寄った。亜矢さんは喜んで、マーヤは絶望して見えた。亜矢さんはあたしの肩をつかみ、マーヤを見おろした。
「警察へ渡したりしない。あなたはニーナの大事なお友だちだから、一生囲ってあげる。ニーナとは会わせない。誰にも。あなたは生涯孤独に日の光を見ず食欲は満たされず美しい音楽も聞かない。鉄と土��うす汚れた自分のにおいをかいで生涯を終える」
マーヤのふるえるのを見て、亜矢さんは歓喜した。朗らかに、歌うみたいに続けた。
「あなたのすべてを奪って、私の手もとでゆっくりと殺してあげる」
亜矢さんの、演し物は終わったみたいだった。まだ興奮のおさまらないみたいにあたしの肩を強く握って、マーヤを見た。マーヤはふるえた。うつむいて、言い返すこともできないみたいに見えた。
それだから、亜矢さんは満足げに「帰りましょう。あなたもね」と言う。
歩き出して、戻ってきたウミネコたちをおびえさせて、振り返る。
「どうしたの」
亜矢さんは言う。
マーヤは立ち上がらない。「早く」亜矢さんがいらだつのがわかる。マーヤは落ち着いた動きでスマホを取り出して、画面にさわる。『……手もとで殺してあげる』亜矢さんがくり返す。あたしの肩を痛むくらい握りしめる。
「脅迫」
マーヤは言う。
「あなたも」
言い終わるより先に亜矢さんはほとんど殴るみたいにマーヤを押さえつける。マーヤは抵抗する。亜矢さんは強くて、誰かを傷つけるのをためらわなくて、それでもマーヤの抵抗は激しくて、スマホはかんたんに奪われない。
あたしはそういう、必死な亜矢さんを見るのは初めてだった。
だけど亜矢さんはおそろしい。亜矢さんはついにマーヤの腕を掴むと、スマホを奪いとる。くつで踏んで、蹴りとばす。マーヤのスマホは海へ落ちる。
そうして、騒ぎを聞いた警察官さんがやってくる。
それでも亜矢さんはすごかった。一瞬で涙を目に浮かべると、へたり込み、「娘が、誘拐されて……!」とたくみな演技をしてみせた。とっさに爪で手の甲を引っかいたから、血が浮かぶのはいかにも被害者っぽく見えた。
そのときあたしは泣いていたから、こらえきれず泣いてしまったから、言うべきことばはすぐに出なかった。
だってもう、別れが近かった。
警察官さんはどうするか決められないらしく仲間を呼んだ。すると、亜矢さんは目でうったえた。あたしにはそれが、はなしを合わせろという命令なのだとすぐにわかった。あたしは決意をして、それを決めなおして、ねこのスマホを取り出した。アルバム。音声。再生。さようなら、亜矢さん。
『……やだ、やだやだ! 痛いよ! 亜矢さん……痛い! もうやだ、やめて……』
あたしの声が響いた。
『ニーナ。幸せにしてあげる……私が……あなたは幸せなの……ニーナ。私のニーナ……』
録音された、亜矢さんの声が広がった。
その数秒であたしはたくさんの大切なものを、いっぺんにうしなうのだった。
あたしは泣いていて、なにか言うのもできないし、もうスマホを持っているのもむずかしかった。目の前のなにも見えなくなって、だけど、抱きしめてくれたのがマーヤだということは、その優しい仕方でわかった。
わかるよ。
マーヤ。
亜矢さんが、最後にすれ違うときにマーヤに言ったことばは、あたしからは遠くて聞こえない。
もう、日はほとんど暮れている。
マーヤはあたしのところへ、警察官さんといっしょにやってきて、少しだけ話す時間をもらったということだった。
「言いたいことが」
マーヤは言った。
「私はペドフィリアです。もし十年後に会っても、その歳のあなたに惹かれることはありません。どうでもいいと、感じるんだと思います。きっと、そういうふうに、できていて……だから……」
続けた。
「ええと、だから……言いたいことがたくさんあって……」
あたしへ言った。
「……よく、生きてください」
マーヤはそれで満足したみたいに見えて、あたしもそれが言いたいぜんぶなのだろうと思った。
「もういっかい」
あたしは涙のまた出そうになるのをがまんして、もう一度言ってほしいと、そのことばを録音させてほしいとお願いした。だけどマーヤは、おそろしいほどきれいなほほえみであたしの願いをこばむと、「私を忘れてください」と言った。
「忘れない!」
あたしは叫んだ。
「よく生きる、約束するから」
あたしは誓った。
マーヤはそれで、にこっと笑った。
「私を、救い出してくれて、ありがとうございます」
と言った。
あたしは言いたいことがたくさんあるのに、ことばが喉の奥でつかえて出なかった。そうすると、マーヤが目で誘いかけたので、海のほうを見た。海のそばの公園からは、夕日の沈む間際のすべてがよく見えて、それは赤かった。金色だった。後ろの山に夕日が消える、そのとき海は永遠に燃え続ける金色にかがやいて、それはあたしの見た世界のいちばんうつくしいものだった。
あたしたちはそれを見つめた。
そうやって、旅が終わった。
マーヤとニーナ①
一年は気づけば過ぎる。
刑務所の朝早く夜も早い生活は体に合った。作業で糸を編むのが良かった。図書室での時間は平穏だった。人間関係はそううまくいかず、前歴や人格から反感を買い激しく疎外された。仕方ないと思ったのだけれど、主導する二人が近しい時期に出所をするとひどいものはおさまった。ニーナさんからの手紙は毎月届いて、施設に身元を引き���られ清潔に暮らしており、学校へも通えているということだった。よかったと思ったが、返事は書かなかった。面会はすべて拒んだ。
二年はすぐに過ぎる。
限られた時間で糸を編んだ。多くの入所者が入れ替わると、わりあいしずかに暮らせるようになった。ニーナさんの手紙は毎月届いて、里親を探しているということだった。
三年が過ぎる。
糸を編み、本を読んだ。ニーナさんの手紙を開かなくなった。受け取りは拒否できない、ということだった。
五年が過ぎる。
仮釈放を打診された。遠縁の親類が事情を知っていて、身元を引き受けてくれるということだった。感謝の手紙をしたため、申し出を断った。未開封の手紙は溜まった。
八年が過ぎる。
糸を編んだ。手紙をすべて捨てた。
いつかあなたも。
亜矢は最後に言った。
その通りだ、と私は思った。
九年が経つ。
出所の日、門の前でニーナさんが待っている。真夏日だった。青いコンパクトカーがとまっていた。ニーナさんは驚くほどに背が伸びて、すらり脚は細く、もともと美しい骨格だったのだ、ファッションモデルもかくやとばかりにサングラスを外すと、激しく泣いている。「ごめん、ごめん……ちょっと待って……!」と手で顔を隠して、それがおさまるにはしばらくかかる。
どうしてこの日を知っているのか、私には不思議だった。
「よし……よし!」とニーナさんは頬を揉んで、私を見る。「乗ってって。送るよ」と言う。
せっかくですが、と私は拒否をする。けれどニーナさんは拗ねて、ほとんど子どもが駄々をこねるみたいに食い下がった。「せっかく買ったんだよ。ガソリンの古い車ってどんどん厳しくなってるのに」とか「遠くから来たんだよ、ね、うちまで送るだけだから」とか、そういうことだった。私はなにかを断るのに慣れていたけれど、ニーナさんのそれはやはり特別で、結局は助手席へ座ることになった。
ニーナさんは家の場所をたずね、私が戸塚の住所を伝えるとナビが案内を開始した。到着は、おそらく夕方になる。どうやって家を用意したのかニーナさんがたずねる。遠縁の、事件を知って支援してくれる親類のいたことを伝えると、ニーナさんは喜ぶ。「がんばったから」と、ニーナさんのくれることばを、私はうまく受け取れない。
「ニーナさん」
と私は呼んだ。
「ニーナ」
ニーナさんは前を見て続けた。
「ニーナって呼んでよ」
私はそのよこがおを、栗色の長い髪を見た。「ニーナ、」とどうにか呼ぶのはできたけれど、どうしてここまで来てしまったのか、たずねることはできなかった。
「もういっかい」
とニーナは言った。
「……新那、と書くんですね。新しいに、那覇の那」
「うそ、知らなかった? 最初に名乗ったじゃん」
「あのときは、慌てていたので……」
「あー、そうだね。じゃあ手紙でわかったの?」
「はい」
「手紙、返してくれなかった」
「それは……」
「さみしかった!」
「……すみません」
「じょうだん。会えたから平気だよ」
ニーナは明るくほほえんだ。私はすっかり彼女に呑まれ、「いい名前だと思います」とだけ伝えた。
それから、長い時間をかけて話した。といっても私はほとんど聞くばかりで、ニーナはいまの暮らしや、これまでの九年についてたくさん話した。ニーナは十四歳で里親の家に入り、優しいかれらと穏やかに暮らした。住まいは能登にあったが、この春には就職にともない三浦へ越した。車はお祝いにと、両親に半額を援助してもらって購入した、ということだった。
「いいでしょ、青い車」
ニーナはきつねそばを食べ終え、誇らしげに言った。
「はい」
と私はこたえた。
サービスエリアの食道から見える公園やドッグランでは、たくさんの子どもたちが習いたての合唱みたいに遊んでいた。
遅めの昼食を終えて、車に戻るとまた私たちは多くを話した。
そうしているうち目的地は近づいた。ナビが家の近くを、国道から曲がるべき場所を知らせて、するとニーナは黙りこんだ。どこか遠くを見つめるようだった。
ニーナ。私は呼ぼうとした。隣を見て、息を呑んだ。ニーナは指示を聞かずまっすぐ進むと、修正された道順も無視してついにはナビを消してしまった。私はその迷いのない所作から、その一瞬のニーナから、目を離せなかった。
だってニーナはきれいだった。
ニーナはもう大人になってしまったのだと、はっきりとそのとき、私にはわかった。
どうしたのか、私はたずねる。ニーナはこたえない。どこへいくのか、私はたずねる。ニーナはこたえない。ではいったい、なにをしようとするのか。ニーナはこたえる。
「マーヤをさらうの」
私は思う。
さらう。
さらう……。
そうしてやっと、私は気付く。
私は、誘拐されていたのだ。
「あたし、よく生きたよ」
まっすぐに、前だけを見てニーナは言う。
「マーヤに言われたとおり。むずかしかったよ。でもよく生きて、ちゃんと大きくなった。あたしのことどう思う? いいな、すてきだなって思わない? どうでもいいやって思う?」
私は思う。過去がやってくる。青いコンパクトカーは九年前とおなじ道を走っている。終わらない。償いはまだ終わっていなかったのだ。私が傷つけたひとびとのため、ニーナは遣わされた。ニーナのまなざしは、すべてのかれらのまなざしだった。たましいに架せられた罪の重みが身を押し潰すほどに感じられ、ことばに窮した。けれどニーナがしずかに待っていてくれたから、私はこたえることができた。
「どうでもいい、です」
続けた。
「言った通りです。私は子どもにしか、惹かれません。だから、いまの、ニーナに……」
私は、続けようとした。
「私は……」
けれどその先の、言うべきことばは出てこなかった。
ニーナはほほえんだ。前を見たままで、声にして笑って、「泣かないでよ」と言った。
「がんこなひと」
ニーナは続けた。
「マーヤ、大丈夫。わかったよ。でも、あたしなんかどうでもいい、ぜんぜん惹かれないならさ、大丈夫だよ。今日から友だちになろうよ」
ニーナ。
私はこたえたかった。
「あたし、マーヤの気持ちちょっとだけわかるよ。わかるようになった。でも、ひとりになったらだめだよ。あたしはマーヤを絶対ひとりにしない。だからあたしと、あたしがずっとそばにいるから、一生だって付き合うから、もうしませんってあかしていこうよ。っていうかマーヤみたいなひとと友だちになれるのってあたししかいないよ。冗談だけどごめん、けっこう本気」
私はこたえたかった。
息は詰まって、私はものを思うのに精いっぱいで、気の遠くなるほどの時間をかけて、「よく、生きたんですね」とニーナにこたえた。
ニーナ。
ニーナのそばにいる限り、私は罪のまなざしを逃れられなかった。
けれど私はもう、ニーナを離れることなどできなかった。
「そうだ、聞いてほしいはなしがあるの」
ニーナがそう言って、続けるのはこんなことだった。
何年か前の冬に、男の子から告白されたの。あたしはずっと好きなひとがいるからってことわって、かれとはその後も友だちってかんじだったけど、仲良しの女の子がかれをずっと好きだったみたいで、あたしにつんけんするようになったんだけど、あたしはなにそれ知らないよって怒って、しばらくバチバチだったけど、なんかそのうち、また遊ぶようになった。次の夏くらいだって思うけど、あんまり覚えてないしきっかけがなんだったかもわかんなくて。で、先週いきなり、久しぶりに会ったらそのはなしになって、あらためて謝られた。あたしもごめんなさいして、なんか成長したよねって笑ったんだ。
そうして、ニーナはこれからどこへ向かうのか話した。西。まずは鎌倉、箱根。九年前に行った場所をぜんぶたどって、尾道まで行く。
旅をする、ということだった。
私はそれをただ聞いた。号泣して返事をできなかった。けれどことばとともに、想像のなかの景色はすべていまのニーナといる場所に変わっていった。それは逃避ではなかった。鎌倉から、尾道へ、あるいはもっとその先まで私たちは行けるのかもしれなかった。けれどほんとうの、いま目の前で変わりゆく景色は見えなかった。つないでくれたニーナの手のひらだけが、私には感じられた。
ニーナ。
私の過去。
私の愛。
たましいの罪。かけがえのない友だち。
私の未来。
私はニーナの手を離せなかった。そうやって、永劫の地獄へ落ちるのかもしれなかった。あるいは地上の最良の場所へ行くのかもしれなかった。けれど先はなにも見えなかった。目のなかであざやかな光がきらめいて、もうすぐ海が見えてくるんだと思った。
*
【参考】
『「子供に手は出さない」 若い小児性愛者の告白』
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-41812774
『「小児性愛』という病――それは、愛ではない』(斉藤章佳 著)ブックマン社
『クィアと法 性規範の解放/開放のために』(綾部六郎・池田弘乃 編著)日本評論社
「第二章 シェレールとフーコー ――フランス現代思想史における一挿話としてのペドフィリア」(関修 著)
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イクサ
おまえはいまにも死のうとしている。
おまえははげしく飢えている。草の実や、地を出た虫はまったく腹を満たさなかった。おまえはひどく疲れている。森を、平野を、荒れた舗装道を昼も夜もなく歩き通していた。おまえは眠ってしまいたい。おまえはもう先へ進めず、吠えることさえできない、それだから、座して死を待つよりほかなかった。
そんなおまえにも、ともがらがいた。
おまえの最後の場所と決めた、小高い登坂道路の頂上には大樹が立っており、日陰に先客がいた。かれはしずかだった。かれは大樹にもたれかかり、休んでいるようだった。最初おまえは警戒したが、かれがいっこう動かないので気を許し、少し離れたところに寝そべった。
かれは、そのひとは灰白色だった。そういうひとを見たことがなかったし、よく親しんだ脂のにおいがしないのをふしぎに思い、おまえは近づいた。鼻を寄せた。前脚でつつくと――体は石みたいに硬かった――かれはたやすく崩れた。跳び退きうなりをあげたが、かれはそれきり黙っていた。灰白色の崩れた指は、風にはらはら散っておまえの身体をくすぐった。
おまえは安堵し、目を閉じた。ずいぶん心の穏やかなのは、ともがらがしずかでいてくれたのと、おまえにふれた偉大なる死の腕が驚くほど優しいからだった。
1
おまえは楽園というものを知らなかったが、目覚めておまえはまさにその国の存在するのを感じた。なぜならば、身体を包む毛布は軽くうんと温かく、薄くも清らかな白い花のほころぶ香りがした。毛布を、ベッドを出て踏みしめた無垢材はかたく、一足ごと正しい身体の感覚を与え、毛足の長いラグマットはあおあお伸びた芝生のように足底をくすぐった。室内は温かかったが、その熱源たる炎を認めるとおまえは恐怖した。おまえは炎を知っている。しかし暖炉を知らなかったから、炎のもたらす破壊の記憶におびえ、浅い火の洞穴よりぱきぱき薪のはぜるたび身をふるわせたのだが、それがおまえを傷つけるのでないことがわかると、炉火を離れ毛布をたぐり寄せふたたび寝そべった。
おまえはうとうとしかけるうち、空腹に気づいた。気づくとそれは、けたたましい悲鳴をあげるのだった。部屋を見回すと皿に気づいた。水飲み皿。おまえは知っている。慣れ親しんだものと形状こそ違うが、機能は���感で理解された。おまえは歩き、そこかしこ骨や関節のたてる原始の打楽器じみた音を楽しみながら皿へ寄った。
水飲み皿は火に近い。最初おまえは警戒する。しかし水はおまえを引き寄せ、身体へ入った。おまえは飲んだ。皿はまたたく間、空になった。おまえはふたたび部屋を見て、腹を満たすもののないことを知ると、そこで横になった。おまえの、忠実の本能がそうさせた。また気高さの本能は、近づく足音を聞き逃さなかった。
頭上の銀の、ノブがまわる。
扉が開く。
「わ、起きた」
入ってくるなり女性は言って、おまえの名を呼んだ。
「イクサ」女性は続ける。「イクサ。合ってる? 首輪についてたけど……」
イクサ。
ウェルシュ・コーギー・ペンブロークのイクサ。
それがおまえの名だ。
イクサは名前にふれられて、いくつかのおぼろげな記憶のかたまりが揺れるのを感じた。かつての主人、ふるえる手で鎖をはずすと、棍棒と炎とで乱暴におまえを追い出した……おまえは幸せだったというのに……。
「イクサ。ごはん食べれるかな、おいで」
それをイクサが思い出すのは、女性の声が、主人に近しく優しく鳴るからなのかも、しれなかった。
食事は豊かだった。米や卵、鶏の肉……。犬のため、特別にあつらえたものではないので味は濃く感じられたが、そのぶんたっぷり水を飲んだ。腹が満たされると、イクサは心地がよくなった。かつて主人にしたように喜びをもってひと吠えすると、女性のほほえむのを見た。
「おなかいっぱい? よかったね」
すると続けて扉が開く。
「おー、起きたのか? なんだ元気そうじゃん」
扉のむこう、おもての明るい日ざしを背負い、もうひとり女性があらわれる。彼女は土のついた手袋をまるめ、ブーツを脱いで、ずかずかイクサへ近寄った。勢いそのままにあごや腹を大胆なでられると、気高い本能はすぐに身をひそめ、与えられるひとのたなごころの喜びに、イクサは耽溺するのだった。
「よーしよしよし、人なつこいな」
「ずるい、わたしも」
ふたりから、際限なく降る快楽にイクサが疲れはじめて、ようやくそれは終わる。
「こんなかんじだから、わたしもすぐ出るよ」
「助かる。イクサ。あたしはミト。こっちがカーラ」
「よろしくね、イクサ。わたしたちのこと、忘れないでね」
「そうだな、あたしたちを守ってくれよ」
ミト。
カーラ。
イクサは言葉を知らない。けれど彼女たちの名前をすぐに覚えた。優れた知恵と、忠実の本能がそうさせた。ミト。花と土のにおい。カーラ。花と織物のにおい。まるで昼と夜だった。それだから、ふたりがそばにいるとなにもかもが満たされて、感じられるのかもしれなかった。
突然、イクサの耳が跳ねる。
イクサはすぐに吠えない。それは臆病な犬のすることだ。イクサは来客を伝える外を見る。そこは森だ。迫る冬に枯れだした森の、ひらけたところに家は孤独に建っていた。林道を、歩いてくるのは白髪頭の男性だった。年若くはないが、足取りはしっかりしている。急いだらしく、肩で息をするのがうかがえた。
「ザハさん」
「いいはなしじゃ、ないんだろうな」
ふたりは家を出る。扉を出て、階段をおり、イクサはついていく。
「ミト。カーラ……また、町の若い、女が石になった……」
老人、ザハは息を切らし続けた。
「みな、危機を感じている……」
ミトたちは、しずかに受け止めるようだった。
「石になったのは誰ですか?」
「ノル。知っているか?」
「顔が出てこない……カーラは?」
「新しくきた子だよね。話したことはないかな」
「網は? シフトはどうしたんですか?」
「現に石化したのだから誰かが忘れたんだろう。ノルは来て浅かった。確実に記憶している者も少なかったのかもしれない……」
彼は続けた。
「ミト。カーラ。町へ戻らないか。きみたちが穏やかに過ごせるよう、努力する。町のみなにも守らせる。傷つけないと、約束をさせる。また、われわれと暮らさないか」
イクサは彼を見る。彼は疲れ、焦燥して、その声には誠実の響きがある。誰かを傷つけようと後ろ手に棒を持つのでない、真実の声音。
「ごめんなさい」間をおかずカーラがこたえる。「ザハさんは大切だし、感謝してます。でも、町は……」
「欲しいのはあたしの体質だろ」
ミトは言う。
「あたしは戻らない。二度と……」
「ミト」
「事実だろ」
「ミト」
「……ザハさん、教えてくれてありがとうございます。それと、すみません」
ミトは頭を下げ、家へ戻った。
「わたしたちはここを離れません。ほんとうにごめんなさい」
「いや、……いいんだ。きみたちが幸せなら、私はそれでじゅうぶんだ」
そうして彼は、別れ際こう告げた。
「気の立った連中がいる。ことを荒立てないよう努力するが、ほんとうにすまない、いつでも逃げられる準備をしておいてほしい」
カーラはほほえんでこたえた。
彼の背が森に消えるまで見送り、カーラは家へ戻る。階段を昇り、扉を開き、「ミト!」と強く呼ぶ。「なに、さっきの態度。失礼でしょ、もう……」
ミトもそれを予期していて、「ごめん」とすぐに謝る。「だめなんだよあたし、ああいうはなしになると血がのぼって……悪いことしたなあ」
それでカーラが許すこともなく、たっぷり十分をかけてミトは厳しいお説教を受ける。しおらしく、うなずき続けるミトを見ながら、イクサはこの家庭のしくみや、ふたりを幸福たらしめるささやかな力について、理解していく。
お説教が終わるとふたりは、イクサもいっしょになって、農園へ向かった。収穫に手入れに、時間はまたたく間に過ぎた。日が傾きはじめたころ向かった鶏小屋では、一羽の鶏が病気をしている。ふたりは鶏を深く案じ、丁寧に手当てを施した。一羽の鶏が卵を産んでいるのを見つけると、心の底から喜んだ。イクサにその喜びはわからなかったが、ふたりが喜ぶので同じように嬉しかった。
2
病んだ鶏の死のかなしい夢を覚めるとひとりだった。鶏は飛んでいた。暗い湖だった……。イクサは起きあがり、全身に元気のみなぎっているのを感じた。それなのにひとりきり、腹を空かしているのは物足りなく感じられ、寝室から階段を降りていった。
カーラは泣いているようだった。
イクサは行動した。だって主人は、前にイクサを大切にしてくれたそのひとはよく泣いた。そういうとき身を寄せると、主人はイクサをそっとかかえ、しばらくすると立ちあがりお礼にと食べ物をくれたり野原で心ゆくまで遊んでくれたり、したものだった。
だからイクサは身を寄せて、抱き寄せる力があまり強いので、きゅんっとうめく。
「どうしよう……」
カーラはそれに、気づかないようだった。
「ミトが、……ミト……」
そうしてカーラはさめざめ泣いて、イクサのやわい毛を涙で濡らす。イクサは空腹をこらえながら、カーラへ身を委ねる。芽吹きはじめていた、新たな主人への愛情がそうさせた。すべて犬の献身がそうであるように、イクサのおこないはカーラに大きな勇気を与えた。
「助けなきゃ」
カーラは言った。すぐに家を出るので、イクサは食事にありつけないのを残念に思ったけれど、愛情が許した。
森を抜ける。
町へ出る。
町はイクサに、もの珍しかった。前の主人と暮らしたのは広い牧場で、そこには家と野原と羊の群れだけがあった。町には家が多くあり、けれど羊があらわれないので、イクサはすべての羊が炎で焼かれてしまったのだと思った。けれどひとは時おり見かけ、カーラを逃げるみたいに姿を消した。カーラは恐怖なのかもしれない。はじめイクサは思ったが、カーラは少しもおそろしくないので、ひとびとは、かれら自身こそが恐怖でありカーラはそれを写す鏡なのだと考えた。するとイクサは、いやな気持ちになった。腹が減っているのだ。イクサは段々、気が乱れていくのを感じた。
カーラは進んでいく。
今度はカーラを逃げないひとびとがいる。かれらは石造りの教会のまわりで、洗い物や農園の世話をしている。カーラに気づくとかれらは呼ぶ。「カーラさん、こんにちは! いい日よりですね!」かれらは続ける。「お久しぶりです、町にご用ですか?」カーラはおじぎだけ返して進む。かれらは気にする様子もなく、ふたたび作業へ戻る。ひとりが礼拝の時間を告げると、揃って教会へ入っていく。イクサは考える。かれらには恐怖がないのだ。
カーラは町の、公会堂へたどり着く。
扉の横には男性がいる。彼はカーラを認めると、きまり悪げに目をそらした。イクサにはわかる。おびえているのだ。カーラはすたすた近づき、溶鉄みたいな声で「ミトはここ?」と問いかけた。彼はおそるおそる顔を上げると、「困るよ」とこたえた。目を合わせない。声は小さい。伸びるのか伸ばすのかあいまいなあごの髭をさわるのは、母の手触りを求める幼子の指に見える。
「アープさん。ごめん、入るね」
カーラは告げ、突っ切ろうとした。彼は慌てて割って入り、「よしてくれ」と言った。カーラが止まらないので距離は縮まり、ついに、彼は肩を掴み強く言った。「カーラ! やめてくれ、おおごとになる……」
カーラは抵抗した。しかし力では、敵わないのだ。引きずられながらカーラは叫んだ。「ミト! ミト!」声はイクサの耳を刺した。悲鳴。頭蓋と脳のすき間を音は乱反射した。全身がふるえた。ふるえるのは怒りだった。空腹が、イクサの獣を揺り起こしていた。主人の危機にイクサは牙をあらわした。吠えも呻りもせずしずかに、ジーンズごと彼の脛部の皮膚を咬み裂いた。
彼は絶叫する。牙はにぶく鋭い。皮膚を裂き、ぎざぎざの歯で肉を無理矢理こじ開けると、脳深奥に野生の歓喜を感じ、イクサは牙を離さなかった。彼が叫びとともに振り回す脚に喰いつき、すばらしいよろこびがみるみる身体に広がっていくのを味わった。
「イクサ! やめろ!」
けれどそれは絶対だ。主人の声はイクサの神の絶対なる命令だった。数人と連れだって建物を出たミトの声にイクサはあっけなく牙を離し、獣が眠ると口のなかの血のあじを気持ち悪く感じた。カーラの用意してくれる、温かい食事をはやく食べたかった。
「アープさん、すみません。……ひどい」
彼の脚を上着でしばり、ミトは続ける。
「誰か、薬……手当てしないと、急いで」
カーラが近づく。
「ミト! ねえ、戻ろうよ」
「カーラ、なんで来たんだ。あたしは大丈夫だから、帰って……」
「ミト! カーラ! くそ犬、なんてことを……!」
「違う! イクサはわたしを守っただけ、アープさんが……」
「薬がないんだ! もう、町には……」
「水は、水道が裏にあったよな……」
「ミト、帰ろう。もう帰ろうよ……」
そう言って、カーラが手を引く。ミトは離れるのではなく、アープの手当てをするつもりでいた。けれどカーラの、意志は強かった。意志の力のまま強く手を引かれると、崩れたバランスを整えるためミトは立ちあがった。二歩、カーラへ寄った。すると町のひとびとには、ふたりが逃げるように見えた。かれらは引き止めた。行く手をはばみ、肩を掴んだ。それがカーラにはおそろしかった。カーラは激しく抵抗した。手を振り解かれると、いきおい足をもつれさせた町人――モドは背後の友人――ハリドのいかつい肩に頭を打ち、痛みに血を昇らせた。モドはふたたび手を伸ばす。その目的は最初と同じではなくなっており、カーラは掴まれた腕の痛みに悲鳴をあげる。ミトはとっさにモドを突き飛ばす。だってミトは、はじめからずっと、カーラを守りたいだけだったのだ。ハリドはモドとの親しさから、かっとなってミトを強く押す。ミトはふらつき、かがんでいたアープに足をぶつける。倒れる。ミトは倒れる。硬い地面へ頭から落ちる。
すべてをイクサは見ている。
「ミト」
ゆっくりと、血が流れはじめる。
「ミト、……ミト!」
カーラは叫び、かがみこむ。「大丈夫、大丈夫……」ミトはこたえて、体を起こす。「ほんとうに、大丈夫だから……」
だれもかれも黙っている。
「二人を帰そう」ザハが言った。「話は落ち着いてからで、いいだろう」
彼はミトとカーラのそばへかがみ、続けた。
「申し訳なかった。帰って怪我を治してほしい。ただ、薬のたぐいは分けられない。すまないが……ゆっくりと、休みなさい」
彼の視線の言うことを、ふたりはたしかに聞いた。
そうしてふたりはそこを去る。ミトはカーラの肩を借りながら、みずから歩いた。
イクサはうしろをついていく。そうしながら、何度も振り返るのは、アープがその脛に開けられた穴のように赤��まっ暗い目でいつまでも追いかけるからだった。
*
ミトは横たわった。その姿があまり静かなものだから、カーラはくり返し、くり返し耳もとを近づけた。
「大丈夫だよ」
ミトがささやいた。
「ごめんな、カーラ。はなしがしたかっただけなんだ……」
「大丈夫、謝らないで……いま、支度するから……」
「はなしが、したくて……」
「わかるよ。ミト、休んで。そしたら、遠くに行こうね」
「……いいな、遠く……。旅なんて初めてだ……」
「そうだね。どこに行こっか……」
やがてミトが眠ると、その穏やかな呼吸をたしかめてカーラは寝室を離れた。
イクサはようやくありつけた朝食に飛びついて、たましいをまるごと埋めていたので、カーラを気にかけない。着々と進んでいく――大事なものはほんとうに少ない――支度の様子に気づくのは、皿をすっかり空にして横になろうと思ったそのころだった。
「イクサ、お願い」カーラは言った。「もし、誰かがきたら、大声で吠えるの。いい?」
イクサにはその意味がわかる。それは危機に瀕してカーラの、ひとの内なる獣が目覚めつつあるせいなのかもしれない。扉をくぐり、階段を降りて、イクサは家の前の農園に陣取った。そこで寝そべり、主人の言いつけを守ることにした。
森は静かだ。先のひとびとの争いが耳の奥で反響するくらいに、静かだった。重たい雲が垂れこめた。日は陰って見えなかった。風もないのに森が揺れるのは、豊かに育まれた木々の生命のわざだった。
絶えず、家からは物音が聞こえる。
一階と、二階を行き来するカーラの足音が響く。慌ただしく、まるで小屋の鶏たちのうろつくように途切れなく続く。それが満腹の、身体にやけに心地よくイクサは眠ってしまいそうになる。イクサは果実をかじる。まだあおい果実の酸っぱさが、目を開かせる。退屈してうろうろしだす。そうしているうち、物音が聞こえなくなってしまって、ひしと深い孤独がイクサに寄せた。イクサは待ち続けた。
耳がぴんと跳ねる。
イクサは林道を見た。樹冠の光をさえぎる暗路を、赤い、輪郭のぼやけた影が近づいた。炎。イクサは身をふるわせた。それはランタンの炎だった。ザハの手にした炎に、イクサは強い恐怖を感じた。
「おまえ……」
ザハは言った。
「ミトと、カーラはまだ……」
しかしイクサに、聞こえていた足音はひとつではなかった。それはザハの、たしかな足取りの影の内に潜んだ。影が、実像を得るように足音は突然激しく林道の葉を踏み鳴らし、ザハは振り返った。一度、硬い骨を奥の歯で噛むのに似た音が響き、炎が落ちた。鶏がけたたましく叫んだ。頭蓋を砕かれ、ザハは倒れるともう起きなかった。
アープ。
彼はまたたく間、農園へ踏み込みザハの頭を砕いた金属の棒を振るった。イクサは身をかわし反撃に出ようとするのだが、その腹を厚いブーツが打ち抜いた。イクサは飛ばされ、身を横たえた。起きなかった。目を開き、苦痛に歪む意識のなかで、それからのできごとを眺めた。
アープは怒りだった。憤怒であり憎しみであり、怨嗟に隷属するあわれな人獣だった。イクサが、ミトとカーラがそうさせた。愛を、体を、尊敬を求めて得られないかなしみが、ひとを獣にした。
彼はそれ以上イクサを傷つけなかった。もとより興味はなかったのだ。彼は農園を踏み越え、階段を昇り、扉をくぐった。乱暴な足音が居場所を知らせた。玄関、リビングを抜け、ダイニングをたしかめたのち階段を昇る。寝室は、三つ。ひとつを開く。閉じる。開く。閉じる。開く……。
石のように、彼は静かになった。
イクサは身体を起こそうとする。けれどそれはうまくいかない。脚に力が入らないのだ。身体を横たえたまま回復を待った。やがて家がにわかにざわつきはじめるのは、アープのみだれた足音のせいだった。彼は階段を駆け降りて転んだ。ずいぶんひどい転びようで、どうにか受け身をとったものの全身土にまみれた。しかしそれを気にするでもなく、彼はてのひらを見た。両方の、てのひらをじっと見つめそれを広げたり畳んだりした。そうしてやっと立ちあがり、走り出すと、ふたたび転んだ。今度は顎を地面へ打ち、血が流れ出すのにも構わず脚をひどくもつれさせながら林道を町のほうへ消えていった。
イクサは疲れて目を閉じる。
次に目を開けたとき、森は夜になっている。
イクサは身体をたしかめ、痛みの再燃におびえながら慎重に歩く。さいわい、骨や内臓に異常はないらしかった。イクサは元気を取り戻す。ランタンの、ザハの落とした地の炎はまだかすかに息をしていて、暗くなった彼の目を揺らす。
イクサは家に入った。
そこは静かだった。玄関にかばんが三つ置かれていて、開いたままの口からは陶のイクサの水飲み皿が覗いていた。
イクサは階段を昇った。
そこは静かだった。イクサはひとり過ごす家を知らないので、どこもしんと黙っているのをふしぎに感じた。
イクサは寝室へ入った。
寝室はしずかだった。ミトはしずかだった。カーラはしずかだった。あおむけの胸に、手をあてて眠るミトの、かたわらにカーラが寄り添うのは、いかにも安らいで平穏に見えた。
ミトはもう起きない。
カーラの、灰白色の体はもう動かない。
イクサだけが、そこで息をする。鼓動する。ものを思う。
イクサは気軽くベッドへとび乗り、ミトをつついた。体はつめたかった。首もとをなめると、涙の清いあじがして、前の主人の記憶の甦るとともに、死はイクサに了承された。
イクサはカーラをつつこうとして、鼻先を止めた。その色のひとはふれて砕けるのだ。イクサは知っていた。それだから、机上の空の小瓶の意味を知らずとも、カーラのもう動かないことはイクサに理解された。
その後脚がくすぐり、ほどけたミトの手から紙ぺらが離れる。床に落ちたそれを、イクサは見る。手紙には、こう書いてある。
『ザハさんへ、もしかして他の誰かへ。イクサへ。
ミトが死にました。さっき。眠ったまま、息をしていなくて、だから苦しくなかったらいいなと思います。私もミトのところへいきます。手紙は、届くかわからないけど届けばいいなと思って書きます。ミトは私のぜんぶでした。恋人、家族、私の半分で、愛していました。だからミトといっしょがいい。信じてもらえるかわからないけど、町のみんなに感謝しています。小さくて孤独だった私たちが生きられたのはみんなのおかげだし、悲しい別れになってしまったけど、気持ちが変わることはありません。受け取ってくれるなら金品はかばんにあります。家も好きにしてください。それと、イクサをお願いします。賢くて、生き抜く力を持った犬です。かわいい子です。最後に、お願いがあります。私の体を砕いてください。石になると、ひとのたましいは体にとどまると聞いたことがあります。それだけは、いやだ。私はミトといっしょがいい。遠くへ、ふたりで行きたい。ミト。あいしてるって言いたい。私をよんでほしい。笑って……ミト、また私と……ミト……して、ミト』
そうして手紙は役割を終えた。床の紙ぺらを見る者はない。それだから、カーラの願いを叶えるのはイクサだ。
イクサ。
おまえはおまえのすべきことを知っている。
おまえの炎の破壊の記憶が、甦る。主人は死んでいた。おまえの主人は、まだ幼い少女だった。少女は羽根のある足で羊を追いかけ、ほんとうの親のしかたでおまえを愛し、病に倒れた。あっという間だった。少女が死に、少女の父母は石の足音を耳に聞きながらおまえを逃がした。松明と、棍棒を��鬼のように振るい、おまえの命を救った。炎が広がり、羊の群れの断��魔とともに少女たちを抱いた家の焼け落ちるのはまったく純粋な破壊に見えた。しかしかれらはそれを望んだ。イクサ。おまえは考える。賢い犬。忠実と気高さと、二重の本能を有し、そしてひとを知る犬。イクサ。おまえは思う。炎は破壊だ。炎は恐怖だ。炎はすべてを焼き尽くす、炎は――。
イクサ。
炎は、ただ破壊するのでは、ないのかもしれない。
イクサは一度、稲妻みたいに鋭く吠える。寝室をあとに家中を駆け回る。炎を探す。それはたとえば、寝室の消えたランプだ。脚でさわったそれは床に落ちた。油が広がり、いやなにおいがたちのぼった。それはたとえば壁の灯火だ。イクサが背を伸ばし鼻先でつついた火のない灯火は、階段を落ちて油を吐いた。リビングを、ダイニングを、物置部屋をさぐるうち、イクサは燃料缶を倒した。偶然にも、ゆるんでいた蓋が外れた。それをイクサは知らない。それは偶然に起きる。炎を求めて引き起こす数百の小破壊のうちのひとつとして、イクサが起こす。
しかし炎は生まれない。イクサはキッチンをさぐる。暖炉をさぐる。薪に鼻をつっこみ、炎は見つからない。思い出す。ザハのランタン。イクサは駆けだす。わずかに燃え残る炎を、恐怖に身をしびれさせながら懸命に引きずる。それはいまにも消えそうだった。雨滴の、最初のひとつがイクサの耳に落ち、またたく間に激しい雨が降ると、炎は消えた。
イクサはそれを理解する。
立ちのぼる煙が雨のうちに霧散するのをイクサは眺めた。雷鳴が、轟きはじめた。たてつづけ、雷光が空を裂いた。それはイクサの心だった。イクサは望んだ。炎を願った。暗夜を引き裂く雷光を畏怖し、その偉大な力のうちに炎を見た。イクサは哮った。それは野生の祈りだった。イクサは吠えた。雷鳴が応じた。吠え続けた。雷光が、イクサの世界をまっ白くした。
炎。
いかづちは、ミトとカーラの家を貫き、原始の炎をともした。炎はこぼされた油に、やわらかいソファに、温かく光を透かすカーテンやいかなる夜も朝も安寧をもたらしたベッドに、あらゆる災禍からふたりを守った家に広がり、それらすべてを焼いた。延焼は早かった。雨は業火をさまたげなかった。窓が砕け、鶏小屋へ燃え移り、屋根が落ちて次の瞬間に家は崩れた。ミトとカーラを抱いたまま、家は崩れ落ちた。
イクサはじっとそれを見た。
炎は絶対の破壊だった。しかし炎は破壊のみでなかった。炎は空へおくった。ひとと石。永遠に分かたれたふたつのたましいを、はぜて散る光とともに、炎は天へおくっていった。
そして炎は、イクサのこごえる身体を温めると、その命さえ、救うのだった。
あたりは見る間に暗くなる。炎は大いなる破壊と救済を終え、その身を隠す。イクサはやがて家を去る。ミトとカーラを去っていく。林道の途中に冷たい石となったアープを見つける。町へ向かう。
*
町は崩壊のただ中だった。
イクサはそのほとんどを知らない。しかし通りの、青い屋根の家の玄関扉に寄りかかり石化した彼を覚えている。ハリド。公会堂の争いの中でミトを突き倒した彼は《人石》――石と化したひと――なりそのたましいを永遠に体内にとどめた。彼の叩いていた、扉の内ではモドが、彼を忘れないため夜警をしていたアーリーンが揃って人石となっていた。
町は《網》を張っていた。網は、仲間を多くうしなったかれらの作った睡眠のシフトであり、起きている誰かが眠っている誰かを必ず覚えている、それを守っていれば忘却による石化を防げる、というものだった。
しかし網は、最初から破れていたのだ。
ほつれを補っていたのはミト、不眠のミトであり、時にカーラだった。ふたりは町を大切に思っていたから、くる日もくる日も、何度も何度も町のひとたちとの写真を見つめ、記憶をあらためて、かれらがみな無事でいるよう願っていたのだ。
イクサは町を歩いた。町中の、いたる所に人石が転がっていた。公会堂の争いにいた、ベリル、マルコ、キヌ、カリィ、カンダ。カーラを見かけ姿を隠した、ナナ、マチノ、チエートやクラノーマ。網のシフトが重なっていて同じ場所にいたエーデ、モリ、オスター、ソーンヒルは、そこかしこから聞こえる石化の嘆きを聞いておもてへ出ると、目の前のできごとの恐怖に我を忘れ、記憶の網の破れた穴よりこぼれ落ち二人が石化した。残された二人は、互いの手を取り合っていたためその場を生き延びたのだが、やがて次々ひとびとの石化していく光景に耐えられなくなり一人が気をうしなうと、もう一人が石化した。最後の一人はその後すぐ、気絶したまま人石になった。四人の記憶がうしなわれると、二十二人が人石になった。二十二人の記憶がうしなわれると……。
そうやって、町は滅びた。
ひとびとは、自分たちがなにに守られていたのか知らなかった。
*
夜が明けると、拝石教徒――石造りの教会に集うかれら――は続々姿をあらわし、雨上がりのよく晴れた平穏のうちに町の遺骸を眺めた。かれらは朝、起床後の集団礼拝を終えると予定していた仕事を中止し、人石を集めた。人石は、そのすべてがどこかを砕かれたのち教会へ運び込まれると祭壇へ安置され、かれらの信仰物の一部となった。
3
イクサは町はずれの空き家の軒下で夜を明かした。日が昇り、あたりが明るくなるとまた歩き出し、大樹を見つけた。登坂道路の頂上。イクサはもと来たほうへ戻っていた。
イクサは反対へ、進もうとして、足を止める。
大樹の根元に��かつてのともがら、手指をなくした人石がいる。かれは数日前と変わらない。人石はもろい。しかしその場所は大樹に守られており、風雨の及ばないため、かれはいつまでもそのかたちをとどめていられるのだった。
イクサ。
おまえは忘れない。
おまえはかれの、足をつつく。そこはたやすく崩れ、かすかな風が破片を砕きさらっていく。おまえは前脚で、全身をつき崩してゆき、やがて粉々になったかれが散り遠くへ消えていくのをじっと見つめる。
そうしておまえのうち、イクサは眠りについた。
いつかまた、誰かがイクサを目覚めさせるのかもしれない。イクサは眠ったまま、おまえと滅びるのかもしれない。それは知れない。
けれどおまえは行く。
踏み出す。歩き、走り出す。
おまえは生きる。
ミトとカーラと、ともに行く。
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ノクチルと人形たちの森
「こわいね~円香せんぱ~い」
「怖くない」
「だだだ、だいじょうぶだよ、円香ちゃん……怖くないよ……」
「怖くない」
「ふふ。閉じてる。めっちゃ目」
「閉じてない」
人形。
果たして円香は目を閉じている。車はゆっくり進んでいる。追跡者の姿はない。瞼の裏っかわの無間の闇を円香はさまよっている。人形。時おりちらちら光が見える。円香は光に近づく。人形。白樺の樹皮の肌。底の無い眼窩。痩けた頬。人形。口らしい意匠はない。鼻筋は削がれたよう。人形。円香は目を閉じる。しゃがみこみ耳を塞ぐ。人形。人形。人形……。
「樋口」
透が呼ぶ。
円香はゆっくり目をあける。
透はそこにいる。後部座席、円香の隣に座っており、平常なにも変わらないかのようなほほえみを投げかける。
「大丈夫だよ。樋口」
なにが大丈夫なのか。円香は思う。人形。透の背後、車外の闇林を白い影がよぎる。影はどこへも追ってくる。円香がなによりおそろしいのは、いま人形は動かなかっただろうか? 林道に並べられた白い人形たちは、その眼窩の闇に、私たちを捕えては見ていないだろうか。
手を掴む。
透は温かい。
フラッシュバック。
*
なんかたまったから。
透が言ったときもう手遅れだった。円香には珍しくない。なるわアイドル宣言がそういう取り返しのつかない事態のトップランナーで、今度はそれに及ばないもののトップスリー入りが予想された。求。自動車。譲。百万円。
「イエー」
透が百万円で車を買ってきた。
「あは~」「とと、と……」「……」
円香は驚かなかった。むしろ感心した。書類手続きとかよくひとりでできたな。それであとあと契約書のたぐいを確認しようと決めた。車は青く、ぴかぴかだった。海の色だと素直に感じた。
「行こうよ」
ということで旅に出た。
実際にはおよそ一ヶ月後、二泊三日の旅程に休みを合わせ、ぴかぴかの青い車で海を目指した。ところが海にはすぐ着いた。三十分かからなかったかもしれない。車を買って海へ行く。子どものころからの大きな夢が叶ったというのに感動はいまいちだった。それは車のどこかからがりがり異音がひっきりなし聞こえていたからかもしれない。あるいは夏休み時期の海がフェスさながら騒々しく乱れていたからかもしれないし、彼女たちが夢の海原をとっくに飛び越えていたからなのかもしれない。とりあえずラムネを買って飲んだ。ラムネはぬるく、長居せず海を出た。
「な、なんか……」小糸は言う。それから、二の句を継げず黙ってしまう。
「これからっしょ」後部座席。透が言う。「いけるいける」
「がっかりしたね~」助手席の雛菜が言う。言葉のわりに口ぶりは明るい。「ホテルの海もこんなんじゃなかったらいいな~」
円香は何も言わず、スマートフォンを見た。目的地は西の海のそばのリゾートホテルだった。ウェブサイトの”プライベートビーチ”は宿泊者専用となっておりイメージフォトの加工済のブルーはいかにもリゾートらしく見えるが、実際のところはわからない。だから円香は何も言わなかった。アメの袋を開き、後部座席から配った。
つまり、運転手は小糸だ。
どうして小糸が運転手かといえば、雛菜の推薦だった。雛菜と小糸は、ほんの数ヶ月前いっしょに運転免許を取ったばかりだった。透と円香はそれぞれ免許を取って一年以上をペーパードライバーで過ごしていたから、提案は即時可決となった。透が運転をしたかったかはわからない。しかし円香は正直なところ、透の動かす車には乗りたくなかった。免許を取れたのだから偏見だと理解しつつも、無事に降りられるイメージがどうしても湧かなかった。
道すがら海を何度も見た。山を越え谷を越えトンネルをくぐれば海海々。海はもはやSRだったが、道中楽しいことはたくさんあった。海沿いのサービスエリアでは海岸を散策してみた。きめのあまり細かいため踏んだ砂が鳴くということだったが、ついぞ声はしなかった。けれど足湯はよかった。波打ちぎわのほど近くで足湯を味わうのはなんとも心地がよく、うっかり将来はこのあたりで暮らそうかと盛り上がった。おまけにサービスエリアのイベント広場では地元のアイドルがイベントをしていたものだから、ついつい六十分の出番とヒーローショーのゲスト出演までを見届けてしまい、時間は遅くなった。
夕暮れが迫っていた。
夏深い、暮れのことだった。
「こ、これ、合ってるよね……?」
小糸の不安はあらわだった。
「ん~? 大丈夫だよ~」
雛菜は普段通りの様子だが、まわりをよく見た。それは車が山へ山へ、山の中へ彼女たちを連れていくからだった。
数十分ほど前、下手の太平洋が消えた。海を背に、丘を登ると青青ススキの原が広がり、原を過ぎて山に入った。山はいつ終わるとも知れなかった。
「越えたらホテルだから」
円香はグーグルマップをたしかめて言う。ほんの少し縮尺を広げると、車は山中取り残された。縮尺を狭めると、すぐにホテルは消えてしまった。だから円香は指で山道をたどり、ホテルまでたどり着こうとするのだけど、途中で道を見失った。どうしても、何度くり返しても同じだった。ついに日が沈むとあたりは暗くなり、すると街灯が、深橙の灯で心許なくも道のあることを教えた。
しかしそれもすぐ消える。
山林を縫う道は見る見る細くなる。つづら折りに山を登り、片側は崖だ。木々が鬱々繁っていた。ガードレールはなく、ぽつぽつ立ったポールが命を守った。いくつかは折れ曲がり、なまなましくも反射板が砕けていた。
ぴゃあ~~……。
小糸の悲鳴が崖を落ちる。
「来る」
透が言う。
「小糸ちゃん。後ろから来てるっぽい」
それで円香は見た。光が、通ってきた山道を登ってくる。ヘッドライトだ。ものすごい速さだった。つづら折りの坂を信じられないほどなめらかな軌道で光は追いかけてきた。
「どこかで譲っちゃお~」
雛菜がのんびり言うのは、小糸を救うようだった。
しかし山道はあまり細い。つづら折りの坂を終えても左手には崖が続いた。逆側では、白樺の木々が道路の際を浸食していた。途端に光は追いついた。それは車だった。車は白かった。運転手は見えなかった。
「まぶしい~」
「っていうか煽ってるんでしょ」
「ぴぇ………………」
光は近付いた。近付き、離れ、また近付いたが相手は見えなかった。
「ゆっくりいこ、安全だいいち~」
「う、うん……」
小糸は怯えていた。視線はうろうろ定まらなかった。あるいは事故につながるかもしれない。円香は思った。いっそクラクションでも鳴らしてくれたほうがわかりやすい。しかし車は離れて近付きをくり返すばかりで、見ていると一定の時間を刻んでいた。六秒。きっかり六秒ごとくり返される車の動きは何か蠕動じみて感じられ、どうにも不気味だった。
「あった……!」
そのうち待避所があらわれ、小糸は慌てて車を入れる。白い車は彼女たちを追い抜くとまたたく間森に消えた。
「小糸ちゃんがんばったね~」
雛菜のいたわりに、小糸はほっと息をつく。
「撮れてるの?」
「ばっちり。たぶん」
透は車載カメラを見てこたえる。念のため円香がたしかめると、録画ランプが赤く点灯していた。
「小糸。ゆっくり行っても一時間かからないから」
円香は言う。
車はふたたび走り出す。
山道は続く。曲がりくねり、底無い崖と樺の深林とに挟まれ、車はいかにも孤独らしい。
円香は電話をかける。チェックインが遅れている。夕食には間に合うようだ。明るくはきはきしたホテルスタッフとの会話に、いくらか心の落ち着くのを感じた。森は暗かった。樹冠が月を隠していた。
「ぴゃっ!」
とつぜん、小糸が悲鳴をあげる。背後からヘッドライトが照らした。円香は振り返り、まっ白い光をまともに浴びる。
六秒。
光は離れる。
六秒してまた近付く。
「さっきのじゃん」
透が言う。
車は白い。
「お、おお、追い越す場所、なかったよね……?」
「でもあったんでしょ~?」
「……悪質」
円香は苛立った。追跡者の行為よりかは、その不気味さを感じる自身に苛立つようだった。
「すみませんが、煽り運転をされています」
円香は電話をした。一一〇。現状を解決してくれるはずもないが、少なくとも罰してくれるかもしれない。相手はきびきび話した。
『場所はどちらですか』
「木折峠を入って一時間……Nホテルに続く山道です」
『わかりました。向かいます』
「……ええと、いま来られても」
『わかりました。対応します』
「……いえ、……たとえば、山道を抜けた先で待っていただくことなどは、可能ですか……?」
『わかりました。向かいます』
「……」
『わかりました……』
声の途中で電話は切れた。円香はすっきりしなかった。先のホテルとは異なり、人と話した心地がない。電話の彼が来るのではないだろうが、救ってくれる相手だとは思われなかった……。
「円香せんぱい、つながったの~?」
雛菜がたずねる。
「雛菜ずっと圏外だよ~?」
円香はスマートフォンをたしかめる。圏外。……検索中。圏外。圏外。これはいつ��ら圏外だったのか? あの警察官は? ホテルスタッフは? 繋がったのだから、圏外ではなかったのだろうが。
「……だ、誰か……来るのかな」
小糸が言った。
沈黙。
「ふふ」
透が不意に笑う。
「小糸ちゃん。いまめちゃこわかった」
小糸はなにか言おうとするが、光は再び迫る。左手に崖。逆側に森。逃げ場はなく、先は暗澹として暗い。
しかしそのとき救いが差す。
道が分かれるのだ。
ナビはまっすぐ先を示した。森の奥へ進む道は、地図に載らなかった。
「ゆずっちゃえ~!」
雛菜は明るく言う。小糸はウインカーを出し、ゆっくり右へ折れる。邪魔にならないよう、車体を完全に森の道へ押し込む。追跡者が背後に迫る。ほとんど追突する近くに止まる。道を塞ぐ。
「こ、こっち……」
小糸はふるえて言う。
「バックして……一旦戻って譲ればいいでしょ」
円香は小さな寒気を感じる。
小糸はギアを操作する。警告音が鳴り、モノクロのバックモニタが追跡者の足もとを映す。ナンバーは掠れており、削られたようにも見える。円香は身を乗り出し、目を細める。がりがりがりがり。異音は突然起きた。円香は驚き顔を上げるが、小糸はブレーキを踏んでいた。それは車内から聞こえたようだった。
追跡者は動かない。
いっこう。
「頼んでくる? 私」
透の気安い提案を、円香は切って捨てる。小糸も雛菜も、考えは同じだった。山道。圏外。追跡者。降りていいはずがなかった。この車内でだけ、安全をは約束されるのかもしれなかった。
「進んで」雛菜が言う。「どこかで折りかえそ~……」
進む。円香は耳を疑ったが、それしかないことは理解している。背後を追跡者が塞いでいる。両側を白樺の森が閉ざしている。行けるのはこの舗装のされた、地図に載らない、森へ入る狭道しかないのだった。
「じゃ、行こっか」
今度透は了承される。
小糸がアクセルを踏み、車はゆっくり走り出す。ゆっくりと、追跡者は追ってくる。しかしもう迫らなかった。等距離をおき、追跡者は彼女たちをむしろ導くようだった。
圏外。
円香はスマートフォンをたしかめる。地図はもう読み込まれない。いま、木の影に誰かいなかった? 円香は目線をそっと下げる。「あ~」雛菜が言う。「看板? なんかあるよ~」
車は速度をゆるめる。合わせて追跡者も。ヘッドライトが降りかかり、道の傍の看板はよく見える。こう書いてある。文字はほとんど消えている。
〈……禁……染し……啞……ずる…………fection……cloak……〉
そう書いてある。
看板は、杭に平らな板を打ちつけただけの簡素なもので、十数文字かけ四列の言葉ほとんどが風化あるいは腐食のため読み取れなくなっている。看板には白い縄が結わえられ、縄は三本、間に六つの結び目を挟んで先の杭とつながっている。杭は延々続き、縄は闇に消える。そうして白樺の森を、杭と縄が隔てて道は延びる。
それでも、進むよりほかないのだ。
縄の内を車は進んだ。追跡者は止まらなかった。閉じ込められていると感じた。
「だ、誰かいるよ……!」
小糸が言う。円香は息を呑む。こんなところに? 人影はたしかに見える。円香は身構える。近付いていく。その姿を認めると、「は」覚えず息を吐いた。
「人形……」
誰がそれをささやいただろう。
人形は、のろのろと近付いてくる。人形は、店頭ディスプレイによく使われるものくらいの大きさで、全身まっ白く、ほっそりして、白樺の樹皮のように所々色を変えた。人形の顔は異常なまでに痩けており、また口のないために顎は飢餓的に尖っていた。鼻筋は削れていた……それは元より無かったのではなく、意図して削られており、目が無かった。目は暗い虚穴だった。窪んで底の無い眼窩が、円香をじっと見つめていた……。
人形は増殖した。一体ぽつんと現れた人形は、次の一体が現れたと思うと、途端に道の両側に並んだ。柵のこちらだった。人形は、みな同じ顔をしていたが皮膚の模様だけがみな違っていた。それらはまるで篝火だった。一体一体、すべての人形がどれも鮮明に見られるのは、整えられた樹冠の招き入れる夜光が等しく照らすためだった。
いつか追跡者は消えている。
小糸はゆっくり車を止める。
ぼんやりした闇が、あとに残っている。
「い、いないよ」小糸は続ける。「戻って、みよっか……」
「……戻ってどうするの」
「ぴぇ……」
覚えず厳しい言葉になった。小糸はふるえていた。
「……戻っても、きっとあれが待ってる」
「そ、そうだよね、でも……」
でも。
言葉は続かなかった。でも、もしかして戻れるかもしれない。でも、進んだらどこまで行くのかわからない。いま、人形は動かなかっただろうか。円香は見る。円香が目をそらすまで、人形は黙っている。
「電波~!」
雛菜がとつぜん大声をあげ、車内が揺れる。人形は動かなかった? 雛菜は「あ~」と続ける。
「電波あったのに~また消えちゃった~……」
それで彼女たちはスマートフォンをたしかめる。圏外。圏外。検索中。円香は息を呑み、ほとんど祈る。検索中。円香は祈る。そうしているうちは、人形から目を背けていられる。検索中。検索中……。
「あった」
透が言った。
電波は一本、かろうじてつながるようだった。円香は一一〇を呼んだ。発信中が表示され、すぐ消えた。圏外。検索中……。今度はホテルをコールした。発信は間に合わなかった。円香はふたたび祈るより、チェインを開いた。『××さん』円香はトークを送った。『緊急です』『電話をください』それは電波の復活とともに送信されると、すぐに既読の通知があった。円香は祈った、祈りは四人のものだった。『着信 ××さん』円香は瞬間タップをした。スピーカーフォンにすると、彼との会話を始めた。彼の声は鮮明だった。
『どうした、円香』
××さん。
彼女たちのプロデューサー。
その声に安堵したと、円香は素直に認められた。
『……円香、おーい。聞こえてるか?』
「すみません。緊急なので急ぎ伝えます」
『ああ。いいよ』
「今、U県にいるのですが、追われています。浅倉たちもいっしょです」
『ああ』
「……こちらから電話がつながりません。あなたから警察に連絡をお願いします。木折峠から、Nホテルへ続く山道を、一時間ほど進んだ場所です」
『なるほど、そうだったのか』
「……聞こえていますか」
『なら、傘を置いていったらどうだ?』
「は?」
『しまった。別のことを言えばよかったな……』
円香は黙る。
彼女たちは黙っている。
『どうした、円香』
彼が続ける。
円香はこたえる。
「いま話したことは……」
『うん』
「……××さん」
『そうかな、そうかもしれないな』
「……」
『いい風だな』
「……」
『よし、楽しく話せたな』
円香は黙っている。
『どうした、円香』
彼は続ける。
『朝食は食べた?』『中身は見てない?』『花の香りかな』『なくしたのか?』『勉強?』『メイクを変えた?』『出会った時のこと、覚えてるか?』がりがりがりがり。
円香は叫びかけ、寸前に透が通話終了をタップする。『××さん』ビープ音とともに画面が戻る。トークは既読になっていない。表示は今度圏外を変わらない。
「戻ってみよっか」
透の言うのに、誰も異を唱えなかった。
小糸がゆっくり、白い車との遭遇に備えながら、ゆっくりと車をバックさせる。すると路傍のかれらはかがやいて見える。バックライトを浴びながら、しかしその目玉は暗い。そこは暗く、どんな光もたやすく飲んだ。
「ぴゃ」
不意に小糸がこぼす。
ブレーキランプの赤色灯が、その姿をあらわにする。
「……なかった」
円香は言った。しかし人形はあった。白樺の樹皮の人形が数十体道のまん中佇んだ。めくら四方を向き、互いを見ず、この暗い森の、何を見るのだろうか。
誰も言わなかった。
ギアチェンジの音がした。がりがりがり。異音はやまない。
人形は後方へ遠ざかりやがて見えなくなった。
「こわいね~円香せんぱ~い」
円香は恐ろしい。
「だだだ、だいじょうぶだよ、円香ちゃん……怖くないよ……」
円香は恐ろしい。
「ふふ。閉じてる。めっちゃ目」
円香は目を閉じている。
まなうらで人形が踊った。人形は、しゃがみ込み目を閉じ、耳を塞いだ円香のまわりを踊っていた。火が揺れていた。円香は供えられているのだと思った。影は揺れ、奇妙にも青紫の火影が伸びていた。それは人形の身投げする炎だった。声なく静止した人形が、同胞をおくっているのがわかった。頬に冷たい感触があった。触られたのだ。円香は必死に目を閉じた。触られていた。それは冷たく、熱はなくどこまでも冷たかった。がりがり。がりがりがりがり。円香は耳を塞いだ。決してその声を聞いてはならないのだった……。
「樋口」
円香はゆっくり目を開ける。
後部座席だった。透がそうっとほほえみかけた。
「大丈夫だよ。樋口」
透は言った。
その手はたしかに温かかった。
「……なにが」
円香はこたえた。
「……このどこが、大丈夫なの」
そんなふうに言うべきでないとわかりながら円香が言ってしまったのは、道がついに行き止まりになったからだ。
森と闇の檻の隙間を縫った道はふっと消え、木立の群が塞いだ。木立は濃密だった。互いの枝葉を異国の織物のよう絡ませ、ヘッドライトは肌を滲みる樹液さえ照らした。人形があった。人形はさながら若木のように林立し、すべて円香を見た。見られていた。円香はその目の虚穴と柵と森と深い闇に囚われていた。そして青い車さえ、がりがりがり、いまや彼女たちの檻なのだった。
「あ」
雛菜がこぼす。
「うそ……」
人形が動く。
人形は動いた。それはぎこちなかった。ギイ、ギイ、と四肢を運ばせ、関節の軋みの聞こえるようだった。円香は夢の続きを望む朝のようにぼんやり眺めながら、いつか見たテレビを思い出した。緑の胴に黄色い頭の芋虫が、コマ撮りで動く子ども向けの番組だ。芋虫はいかにも愛らしくデフォルメされていたが、高熱に苦しむ円香にそれは恐ろしく見えた。芋虫は夢に出た。ギイ、ギイ、と蠢く巨体にどこまでも追いすがられやがて押し潰される、そういう夢だった。
「ど、どう……」
「戻って~!」
これは、しかし目を開いて終わらない。
ギイ、ギイ。
がりがりがりがりがり。
車は動かない。
がりがりがりがりがり。
小糸はアクセルを踏んでいる。ブレーキ。アクセル。しかし車は動かない。異音はいまや車内そこかしこから鳴り、車はいっこう動かない。円香はロックをたしかめる。人形が近付く。
「後ろ」透が言う。「来てる」
円香は後ろを見る。人形は小糸の踏んだブレーキにあかるく光る。
ギイ……。
人形が窓に触る。まっ白いてのひらを押しつけ叩く。それはやけにのんびりしている。しかし一体が、二体に、十体が数十体になるとその打ちつける粗雑な不定のポリリズムはついに頭上でも鳴り出す。
「割れない」円香は祈る。「そんな簡単に……壊れるわけない……」
祈りは誤った神へ届く。人形は、後部座席の円香のそばの窓を叩いていた人形たちはふと動きを止めたと思うと、一体の腕を引きちぎる。次は左腕。またたく間四肢をもがれ人形は転がる。微小の破片が石灰粉のように風で散る。ああ、風が吹いていたんだ。円香は思う。窓にひびが入る。二度目の殴打でガラスは砕ける。破片に円香は身を伏せ、人形が手を掴む。信じられない冷たさだった。「いや」円香は振り払う。白い手はあっけなく折れる。手は次々入ってくる。円香を掴む。ロックを外す。ドアが開き円香は引きずり出される。「やだ……!」空気はやけにぬるかった。透も小糸も雛菜も、誰の声も聞こえなかった。円香は何が起きるのかわからなかった。最後、虚穴の目の笑うのがわかった。
*
円香は夢を見なかった。
回想もフラッシュバックさえ許されず、目を開くとふたたび現実に囚われなければならなかった。
人形。
円香は息を呑む。悲鳴はあげられず、口を塞がれていた。噛むのは布らしいが土とも木とも知れない淡い苦みがあった。腹を吐き気と酸のにおいがのぼったが、戻すのはどうにか避けられた。
人形。
手足を縛られている。
人形。
ほかに誰もいない。
人形。
森がひらけていた。
人形が頬をなでる。それは冷たい。ひとかけの熱も感じられないほどに冷たかった。人形の手は濡れていた。手は丹念に円香の左頬に触った。なにかを塗られるのがわかった。人形はそれを終えると後に下がり、次の人形が続いた。今度は触らなかった。円香を見ていた。それから三体をあけて、人形は円香をなでた。右頬だった。人形は、ぼんやりとして並び数体ごと円香になにか塗りたくると、行列を離れ輪に戻った。輪の中心には壊れた人形たちがあった。かれらはばらばらに砕けると無造作に積まれ、落ちる月を反射し、まるでかれら自身が発光するかのように、青白い灯火で原を照らしていた。
円香は気絶したかった。恐怖がそれを許さなかった。触る手がひとたびごと円香に鮮やかに恐怖を喚起させ、しかし感情は次第に摩耗した。諦めは体を痺れさせた。
浅倉は。
円香は思う。
小糸は、雛菜は、どうなっただろう。
わからないけれど、逃げていればいい。
こんなめに遭っていなければ、いい。
やがてすべて人形が訪れ終えると、縄が解かれ轡が外された。円香はへたり込み、遅れて逃げようと気付くのだがそのときには人形が囲んでいた。円香は見守られた。まるで、初めて子どもの歩くのを待ちわびるようだった。円香はおそるおそる立ち上がった。道が開けた。人形が分かれたのだ。円香は預言者のようひらかれた人形の谷を進んだ。姿を見ないよう円香は顔を伏せて歩いた。すると腕や脚を粗雑に白塗りされているのがわかった。爪で掻くとぼろぼろこぼれた。石膏に似ているが、ひどく脆い。あの人形たちと同じものなのだろうか。円香は肌のひりひりするのを感じた。それ��不思議と鮮明だった。ぬるく湿った夏の夜風が肌をなでると、鈍磨した感覚の甦るのを感じた。それは残酷な眼前の運命への、円香の精神の最期の抵抗なのかもしれなかった。
円香は考えた。
振り返ると、来た道を人形が閉ざした。
そして行く先はひらけていた。
谷の先にはひらけた原と、台座があった。台座はちょうど人がひとり横たわるような大きさで、まっ白く塗られているが土台は石造りであるらしかった。台座のそばにはなにもなかった。誰もおらず、逃げるのであれば一瞬だと思った。
望みの潰えるのさえ、一瞬のことだった。
人形は掴んだ。円香の手。円香は振り解いた。人形の手は折れ、新たな手が掴んだ。円香は暴れた。人形は無数だった。無限の四肢の異形の生物に捕縛されるよう、円香は人形に押さえつけられ台座へ横たえられた。そこは祭壇だった。円香にそれがわかるのは、残された悲痛と嘆きがぬるく香るからだった。
「やだ……っ!」
円香は叫んだ。口を塞がれた。ぞっとするほど冷たい手が離れると、口はもう開かなかった。塗り固められたのだ。全身を捕らわれた。めちゃめちゃに暴れるのだが、数十本の人形の手は砕かれなかった。
んうーー……っ!
円香は悲鳴をあげ続けた。喉が痛んだ。涙が流れた。息が苦しくそのうち頭がぼうっとするのを感じた。しかし今度は諦めなかった。手足を白く塗られ、口を塞がれ、では次は。
人形が見下ろした。人形は口がなかった。鼻は削がれ、目が無かった。目のあった場所には深い闇が、永劫暗く虚しい洞が広がっていた。
「んんーーっ!」
指が近付く。
ゆっくりと、慎重な様子で迫る人形の指を円香は逃げた。しかしすぐに、頭を押さえつけられた。六本の手に拘束され、もう円香は涙をこぼすしかできない。人形が目もとにふれた。その冷たい指で優しくも涙をぬぐうと、瞼をこじあけた。指が近付いた。おや指とひとさし指。キイ、キイ。指の軋みが円香に聞こえた。それはかすかだったが、苦痛の絶叫に似ていた……。
そしてすべてがまっ白くなる。
しかし、いっこう痛みは訪れない。
円香はまばたきをする。
……まばたきができる。
瞼を広げた指は離れ、目の前がまっ白いのは人形のつやつやして白い指先が、まばゆい光を浴びるからだった。
「まぁーー……」
声が聞こえる。
「……どかせんぱーーい!」
雛菜。
ハイビーム。円香は目を細める。
ふっと拘束が緩まる。人形の手が離れている。
円香は思う。
無事でよかった。
「小糸ちゃんいけ~~~~!」
雛菜は叫んだ。フラッシュライト。小糸の――運転する青い車のエンジンの――けたたましい雄叫びが人形を襲った。蹂躙した。薙ぎ倒し、轢き潰し、粉々に破壊していった。気高くも勇ましい、『ワルキューレの騎行』が円香に高らか鳴り響いていた。
「樋口、いける?」
いつの間に透がそばにいる。
「どうして……」
口の石膏を剥がされ、円香は立ち上がる。
「あとで話そ。来て」
円香は透について走る。向かう先には雛菜がいる。雛菜は踊るようだった。松濤館空手小学生の部県三位の雛菜は、月へと奉納するような美しい演舞でもって襲い来る人形を破壊し続けていた。
「やば」
透が言う。
たしかに。円香も思う。
そうして雛菜の暴れるところへ、小糸がやってくる。百万円の青い車で人形を破壊しながら、土煙をあげて急停止する。円香たちは乗り込む。「い、行くよ……!」小糸が言う。ハンドルを握りしめる。人形は無数に破壊され、しかし無数に追いかける。小糸がアクセルを踏み込み、車は人形を置き去りに森へ入る。
「人形。襲って、きて、樋口がさら、われて、から、やつけた、ぜんぶ……」
「わかった、浅倉、もう、大丈、ぶ」
車はどかどか揺れて走った。森の木々の合間を縫い、小糸は車を走らせた。数十センチの余白を外さず、轍を完璧になぞる小糸の手さばきはなにか神がかりさえ感じさせた。
「ぶつかる!」
小糸が言う。振動が起き、ばらばらの人形が窓を横切る。見ると前方から、左右から後方から人形はやってきた。しかし人形は脆い。小糸は構わず轢き飛ばし、やがて踏み倒した柵を越える。森の中の狭道を、もと来た方へ戻っていく。速度をあげる。人形をすべて破壊していく。「いけいけ~!」雛菜が歓喜する。それは円香に気持ちいい。雛菜の大声はいま円香に天使の歌にさえ感じられる。
「樋口」急に、透が真面目らしく言う。「白いよ。顔」
円香は思い出す。およそ固まりかけた白いそれを円香は剥がしていく。頬が額が、腕や脚が、剥がした箇所すべてがひりひり痛む。その痛みを贖うかのように、人形は破壊され続け、やがて姿が見えなくなる。木々のみが夜に浮かび、文字の掠れた看板を抜けると柵も消えた。
終わった。
そう感じた。
「このまま、降りるからね……」
小糸はささやいた。いままでと一転して慎重な運転になるのは遭遇を警戒するからかもしれなかったが、あの、白い車はあらわれなかった。そうしてついに分かれ道に着いた。
「やは~!」
雛菜が言った。
「もどっ……!」
それは最後まで言われなかった。光が襲い、車が揺れた。衝撃は激しかった。爆発のようだった。円香は身をかがめ、しかし寸前にあの白い車を見た。すべてが静まり周囲がまっ暗になるまで時間は果てしなく感じられたが、今度円香は気を失わなかった。
ポォン。
ポォォン……。
ドアが開いていた。夜のしじまに警告音が響き、ハザードランプが明滅して森を照らした。
円香は車を転がり出て、背中をしたたか打つ。はっ、はっ。どうにか呼吸を取り戻すうち、体そこかしこの痛みを感じる。おそるおそる、地面に手をつく。コンクリートがもやもや熱い。腕は、脚は無事にはたらく。立ち上がり、重傷のないらしいことに安堵する。頬のかすかにひやっとするのは、ふれてみると血のせいだった。側頭を切ったらしい。肩口で顔を拭うと、血痕はさほど大きくない。円香は息をつく。呼ぶ。
「浅倉」
ハザード。
「……小糸」
喉が痛む。円香は血のあじのつばを吐き捨てる。それはハザードにぬめって光る。
「……雛菜」
車は木に衝突していた。ひしゃげて半開きのエンジンルームから白い煙がかすかに出たが、車体はさほど歪まなかった。追跡者は? わからないが、轍が見える。焦げ付いたタイヤ痕は崖へ続いている。落ちたのかもしれない。
はっ。はっ。
車内を見る。
透は目を閉じている。
「浅倉……!」
円香は呼ぶ。そばに寄り、くり返すが返事はない。口もとに耳を近づけると、ゆっくり息をしているのがわかる。大きな傷は見られない。小糸を、雛菜をたしかめる。ふたりとも、はっきりと息をしているが、小糸の頭部からの出血は少なくなかった。円香はタオルと、カーディガンを取り出し傷のあたりに巻いた。それらがみるみる赤く染まるということはなかったが、安堵できる状況ではなかった。
エンジンキーを押す。
森は静かだ。
ぬるい風が吹き、木々ががさがさ鳴った。
はっ。
はっ。
ハザード。
はっ。はっ。
円香は見ていた。サイドミラー。夜の森の木々の影を。そして、闇よりあらわれ出る人形を、鏡越し見た。
森。
月はない。
ハザードの点滅ごと人形は数を増した。
近付いた。
円香はとっさに発煙筒を掴んだ。使い方は、映画で見るのと同じだった。冷たくも赤い火が噴き出し、周囲をこうこう照らした。人形は数十体いた。手の折れたものも、脚をなくし体を引きずるものもいた。なんとかなるかもしれない。円香は雛菜を思い出す。しかし、できなかった。体は動かなかった。円香は景色が揺れるのに気付いた。発煙筒の、手の、体のふるえることに気付いた。円香は恐ろしいのだった。
「……来ないで」
円香は言う。
人形は近付く。
「来ないでっ!」
円香はほとんど悲鳴をあげる。
人形が足を止め、一瞬してまた近付く。あざけるのだと感じる。
「やだっ……!」
円香が振った発煙筒が、人形にぶつかる。それは偶然にも突き刺さった体を、肩口より焼き切っていく。円香の手に振動が伝う。電ノコで人体を切断するような感触に円香はおびえ、手を引く。人形は倒れ、発煙筒がその下敷きとなる。
ハザード。
数十体いた。
円香は後ずさり、やがて車に背をつける。守らなければならない。しかし人形は近付く。目の前にいる。あの暗い虚。円香は全身の力の消えるのを感じる。人形がふれる。その冷たさ。恐怖に目を閉じ、そして、円香は――。
「あー」
声を聞く。
「……そっか。えっと、樋口」
浅倉透があらわれる。
「大丈夫だよ」
しかし円香は思う。いったい、何が、大丈夫なのか。雛菜であればそうかもしれない。けれど透が、透は言う。
「よっしゃ」
続ける。
「いくぞー」
透はつかつか歩く。散歩するよう人形へ向かうと、いちばん円香に近いそれに肘を叩き込む。猿臂。頭を砕かれ人形はあっけなく崩れる。透は勢いを殺さず次の人形に鉤突きを打ち込む。脇腹に大穴を受け、続けざまの肘で二体目が崩れる。手刀。首が落ちる。貫手。鳩尾を抜かれた人形の手が肩を掴むが透は止まらない。下段足刀。飛びついて頬を打った腕を中段前蹴りで引き剥がし、二歩の加速で上段膝蹴りを叩き込む。ほほえんで血まじりの唾を吐くと、猿臂で顎を砕き、鉄槌で頭部を割り、中段膝で胴を破壊し、蹴り上げて人形を真二つに切断する。透はなにか、そうと決められた流れをたどるようなめらかに、人形を破壊し続ける。見る見る人形は減る、円香はそれを見ている。ハザードランプの明滅のひとつごと透はかたちを変え、そのたび人形が消える。風が吹いている。破片が白くはらはら舞う。それはさながら雪花のよう散る。
順突き。
最後の一体が消える。
透はゆっくり息を吐き、円香を見る。大丈夫。透は言わない。「……風」髪をかき上げる。爽やかな汗のたまが、きらきらと光をはじいている。「きもちいいね」
円香は夢を見るようだった。人形はもういなかった。恐怖が、荒々しく塗り変えられるのを感じた。胸のうちが激しく熱く、涙をこらえるような心地だった。
「浅倉」
円香はたずねる。
「どこで……そんなこと覚えたの」
透は円香を見つめる。「え?」とだけ言い、しばらく口をつぐむと、円香がたずね直そうとした頃ようやく言う。
「えーと、ルールそのいち」
透はこたえる。
「ファイト・クラブについて口にしてはならない」
ハザード。
*
『あと一時間以内で着けると思う』『できるだけ巻いて行くよ』
彼からのトークを眺める。
タップ。
『こちらは問題ありません』『急がず来てください』
送信し、既読がつくと円香は後悔する。余計なことばだと思ったが、取り消せることでもないので諦めることにした。番号札十六番の方が呼ばれると、松葉杖をついた若い男性が億劫そうに会計へ歩いていった。
「よ」
透が言う。隣へ腰をおろす。
「うい」
円香はこたえる。
「小糸ちゃん、シーティーだって。さっき会った」
「そう」
「あれって、どんな気分かな。輪切り? になるんでしょ」
「さあ」
「小糸ちゃん、平気かな」
「……平気なんじゃないの」
円香は急に面倒になり、スマートフォンを眺める。画面は割れていた。円香の被害といえばそれと、側頭の切り傷くらいだった。しかし小糸は額を何針か縫わなければならず、雛菜は右腕を骨折していた。百万円の車は壊れ、ホテルは当日キャンセルとなり、検査や治療に数千円かかった。
人形。
円香は振り向く。
病院はそこかしこ人人でごった返すも静かで、画面を反射して見えた影は、待合の明かりのどこにも、見つからなかった。
あの場所はなんだったのか。
車載カメラには何も映っていなかった。人形も、看板や柵も、追跡者の白い車さえ映像には残っておらず、ただ慌てふためく彼女たちの声や鬱蒼暗い森の様子が、記録されているばかりだった。
ふと、肩にふれられるのを感じる。
「樋口」
言うのは透だった。
「大丈夫だよ」
透は優しくほほえんだ。円香はそれで安堵して、透の手をとった。手は冷たかった。円香は目を見開いた。透はその澄んで美しいまなこに円香をとらえたまま、「どうしたの、樋口」とたずねた。手は冷たかった。ぞっとして冷えた手を覚えず振り払うと折れた。
腕は落ち、砕けた。
透の、白い腕。
「あー」
透は言った。折れた腕をぼんやりと円香へ差し出した。円香は突き飛ばした。透は床へ倒れるとばらばらに砕けた。破片は白かった。風もないのにさらさら動いた。
「どうしたの~?」「ま、まどかちゃん……」
雛菜が。小糸が言った。円香を掴んだ。それは冷たかった。円香は突き飛ばした。雛菜と小糸が砕けた。
円香は悲鳴をあげた。
*
まっ白い光。
円香は目をぎゅうっと閉じる。反射だった。目のまわりが、顔が燃えるみたいだったが、身をよじると熱さは落ち着いた。
円香は目をひらく。
がりがりがりがり。
スマートフォンが、ドアと擦れてけたたましくふるえている。円香は手に取る。『着信 ××さん』なにげなく、応答をタップする。
『……円香! よかった、大丈夫か?』
電話越し言う。
「うるさ……」
円香は思わ��つぶやき、耳を離す。声は頭にがんがん響いた。体が重かった。どうも車中で、眠っていたらしかった。それに気付くと、寝起きのひどいのも納得された。
『無事か? 無事なんだな? 円香、いまどこにいるんだ?』
「どこって……」
森。
頭上の樹冠のあいまより、眩しい朝日が注いでいる。
『チェインを見たんだ。すまない、眠ってて……ともかく……』
「チェイン……」
そうして円香は思い出す。
彼に送ったトークを、そして、あのできごとのすべてを。
円香は隣を見る。透が眠っている。くちびるに、耳もとを近づけ穏やかな寝息をたしかめる。小糸は、雛菜は。運転席で、助手席で眠っている。やはり寝息は聞こえる。車は無事だった。木に衝突もせず、差しかかった分かれ道の手前で止まっていた。窓を開けると人形はもちろん、白い車の痕跡もなく、分かれ道はすぐ先で森に変わっていた。かつては道があったのかもしれない。しかしいまは、車の通れるはずもなく、折り重なる木々の奥に看板らしいものが見えるような気もしたが、結局それは定かでなかった。
『……円香? 聞こえてるのか? 円香……』
円香はこたえる。
「大丈夫です」
耳を遠ざけ、息をつく。
喉が渇いている。
円香は透を見る。ゆっくりと手を伸ばし、てのひらにふれる。そこはしっかり温かい。血の通う、慣れ親しんだ透の肌がそこにある。
円香は目を閉じる。
ぬるい風が吹いている。
*
それから。
彼女たちは一時間せず山を下り、ホテルで一泊をして、温泉でうんと体を休めた。当然前日は無断キャンセルになっており、確認らしい着信が残っていた。事前に到着時間を伝えた上でのキャンセルだったが、理由を隠し謝罪のみを伝えるとそれ以上の追求はなかった。
まる一日羽根を休めると予定通りに東京へ戻り、翌日には仕事をした。××さんの追求には酔っていたとこたえた。酔いすぎて、ほんのいたずらのつもりどころかトークを送るつもりもなかった。謝罪とともにそういう説明をすると、彼は納得したようだった。そんなふうに、すべてが日常へ帰っていった。
あれはなんだったのか。
ふと、思い出すことがある。
「……して平気~?」
なにか雛菜がたずねている。
「ま、円香ちゃん……」
小糸はどうやら気遣うらしい。
円香はシートに背中をあずけなおし、「任せる」と言った。窓の外を眺めると、景色の過ぎるのは速かった。
「オッケー」
透がこたえた。
彼女たちは透の車に乗っていた。車はぴかぴか青かった。空の色だ、と円香は感じた。
円香は感じていた。
車はこういう色だっただろうか。
なにげなく海を過ぎた。海は、車あるいは空は、私のてのひらはこういう色をしていただろうか。夏とはこれほどに暑かっただろうか。この歌のキーはAだっただろうか。夢とは色のあるものではなかっただろうか。××さんはああいうふうに簡単に引き下がる人間だっただろうか。雛菜の肌はこんなにもまっ白かっただろうか。小糸はこれほどに暑がりだっただろうか。透は――
「どうかした?」
運転席の、透が言う。
「円香」
それで円香は思う。
私たちは、どこへ向かっているのだろうか。
「……別に」
円香はこたえると、目を閉じる。知っている。浅倉透を知っている。わかっている。円香は続ける。
「大丈夫だよ。透」
透の手は、円香に温かく感じられる。
*
『_____人形たち__』
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黒髪の奇蹟
ぼくがホタルに出会ったのは2022年のことだった。
ぼくは旅をしていた。
そのころ世界は揺れていた。いまと比べてどちらが、と問われれば答えるのはむずかしい。ハイスクールの先生が言っていたレトリックを引用するなら、人間はいつまでも離陸しようとする飛行機であり続けるのかもしれない。
その頃ぼくは写真家のまねごとをして太平洋諸島をまわっていた。ポリネシアとかメラネシア、ミクロネシアあたりのことだ。島々一つひとつで数日から数週間を暮らし、そこに住む人々の写真を撮っていた。どうしてそんなことをしたかというと、ディエゴ=ホセ=”カルドスート”=サントリオに憧れていたからだ。彼は1980年代、およそ十年をかけて太平洋諸島をまわりながら生活写真を撮った。そうして発表した作品群で彼は偉大な写真家となり、またカル・ド・スート〈日と幻〉の呼び名を授かった。余談だけど、カルドスートは1995年太平洋を単独航海中に消息を絶っている。後に漂流する船が見つかったが、彼の消息は現在に至るまで知れない。
ぼくは彼にあこがれた。ぼくは彼の作品に心を揺さぶられ、心酔した。彼のようになりたかった。彼のまねをすれば彼になれると信じていて、つまりぼくは写真家ではなかったのだ。
ホタルとはメラネシア、ガルン島で出会った。
ガルン島は半径数キロ、人口1200人の小さな島だ。バララ共和国の主島からは300キロ以上離れており、生活のほとんどは島内で完結した。豊富な鉱石資源で安穏に暮らしていたが、二十年前に枯渇してからは農耕や漁、観光で日々を生きた。一方で多くない若者は懸命に英語を学び数Mbpsの速度でインスタを更新してはやがて海外へ出てもう戻らないか、あるいはポリエステルのシャツを身に着けて帰った。木造住居の並ぶ村の中央にはコンクリート建の庁舎があり、画質の劣化も気にせずPR動画を日々ツイッターにアップしていた。ありふれた眺めだ。人々は鷹揚な心に誇りとあこがれをもっており、それはガルンのあらゆる景色のように美しかった。昇るときも沈むときも、日は熟れたマンゴーみたいにどろっとして見えた。
「ビム。面白いものを見せてやる」
カカが言った。酔っていて、バララ語のあとかんたんな英語に直した。カカはガルンの若者グループをはじかれた、実際ちょっと風変わりなやつだった。”ビム”というのはよそ者を指す(原義には西洋人を指した)ガルンのことばだ。悪意はなかった。カカは悪いやつじゃない。カカはビムであるぼくの世話を買って出て、見返りには外の情報や、自分が外へ出るときの世話を求めた。それに写真に撮られたがった。家族がカルドスートに撮られたのだというが、写真は残っていなかった。カカは自分のカルドスートを求めていたのだ。ぼくはぼくで求められるのが心地よかったから、ぼくらの関係は相互に利己的なものだったけれど、それでも友情であるのに違いはなかったように思う。
ぼくらは火を離れ、庁舎へ向かった。庁舎は閉じていた。鍵が植え込みに置いてあることはみんな知っていた。資料庫の鍵はエントランスに、開きっぱなしのキーボックスにぶら下がっていた。庁舎に限ったことでもないのだが、ガルンの人々は何かを守るのではなく、大事にしていますよ、と示すために鍵を用いるようだった。
上階は月光で青く明るかった。ぼくらは資料庫に入った。カカは鼻歌混じりに大小さまざまの箱を取り上げたと思うと、「これだ。見ろ」と言った。ぼくは目をこらした。箱は小さかった。鍵が底についていた。ちょっと他のとは違う、時計や宝石を入れるような飾り箱で、蓋には何か記してあったがガルンのことばらしくぼくにはわからなかった。ぼくはたずねた。カカはにやっと笑い、「ホタルだ」と言って箱を開いた。ぼくとホタルの出会いだった。
ホタルは髪だった。数十センチ、ひと掴みほどの黒い髪がつやつやした布の上に巻かれていた。髪はガルンではおよそ見ない、細くやわらかい印象だった。
ぼくがホタルを手に取ろうとすると、カカが言った。
「すごいものなんだぞ」
半笑いで本気には見えなかったが、なんとなく気が引けた。カカは冗談らしく資料庫の手袋をはめて、蓋を裏返した。そこには二つ折りの便箋があり、開くと英語が記されていたのだが、文字の半分以上はかすれるか破れるかして喪失されていた。筆跡は幼い印象で、それを裏付けるようにことばは拙かった。アメリカ、オレインシティの誰かへ、ヘアドネーションとして、(……-ppy、おそらく幸いを)願い贈られたのだと読み取れた。興味深いのは、(理由は喪失されている)もしもなにか不幸(misfortune)が起きたなら捨ててほしいと、謝罪を添えて記されていることだった。
『Hotaru-……』
署名にはそうあった。日本のファーストネームだと推察できた。ウェブトゥーンでそういうキャラクターを見たことがあるし、前のワールドカップでその名前の日本人がいたはずだ。ファミリーネームは喪失されたらしい。ファイアフライ。かなしい名前をつけるものだ、とぼくは思った。
「どうだ?」カカがたずねた。どうもなにも、答えあぐねるとカカは「おまえの国のものだろ」と言った。ぼくは説明した。ぼくは韓国系アメリカ人だ。三度目だった。日本のことはきみと同じくらい知らない、と言いかけるのをカカは手でさえぎった。「似たようなもんだ」「おまえだってガルンとバララとカタル=トリニアの違いなんてわからないだろ」カカはほがらか笑って言った。そういう大雑把さや無関心なところが島の若者にはじかれる原因のひとつであるようだったが、実際助けられる部分でもあったし、生まれになじめなかったぼくには楽だった。ぼくは一応の同意を示し、これのなにがすごいのかたずねた。カカは箱を丁寧にしまいながら、もったいぶって話��た。
ホタルは十年ほど昔、突然ガルンにあらわれた。朝、浜にあるのを漁師が見つけたんだ。近くには何もなかったが、森で割れたガラスが大量に、反対の浜でからっぽの荷箱がいくつか見つかった。降ってきたんだろうな。老人方がまだ子どものころ、空から物が降ってきたことがあった。そのときは得体の知れない精巧な細工が、まあ何かの機械だったんだろうが、食料やら衣類といっしょに箱で降ってきた。ガルン、というかこのへんの島には外海から恵みを授ける神さまの伝承があって、これもそうだってことになったらしい。そういうわけで、ホタルも神さまの恵みになった。
カカは庁舎の鍵を戻すと、村の明かりを背に歩き出した。
だが神だのを信じるのは老人、せいぜいおれたちの二つ上の世代までだった。親世代はもう信じなかった。レディガガとかジョブズをよっぽど信じた。そんだから老人方は考えたか怒っておかしくなったかしたんだな。首長の孫娘にホタルを身につけさせることにした。ホタルは神のお恵みなのだから必ず良運をもたらすってことなんだと。悪くなかったのは孫娘がホタルを気に入ったことだ。どこへ行くにもホタルをつけてたらしい。おれも見たがまあ似合っちゃいなかった。それでもずいぶん魅力的に見えたのは不思議だったな。
で、あれよあれよとファーストレディだ。
カカは家でビールを拾った。ぼくももらったが、ビールはぬるく、泡みたいに薄かった。
色々とあったが、どうにかホタルは帰ってきた。老人方は、今度は若者もホタルを信じた。個人に委ねるべきじゃないと考えて、社に祀ったんだ。それからホタルはガルンに恵みをもたらした。水だ。ガルンは地質的に保水力が弱いんだが、こういう気候だからあまり水には欠かない。とはいえ天恵のことだ。年に何度かは干魃が起きていた。ホタルが来てからはこうだ。干魃が起きそうだ、やばいな、島民はホタルに願う。するとホタルが雨をもたらす。ばかばかしいだろうが、年に何度かの干魃がホタルが来てから一度も起きなかったんだ。島民はホタルを崇め、ますます願った。願いが水に限られたのは今日を暮らせれば満足する島民の性質のせいだろうな。だから三、四年前、世代交代やらカタル=トリニア移住もあったせいなんだろうが、貯水と灌漑の設備が整うとホタルへの信仰は薄れていった。
ぼくらはそのうち小密林へ入った。ガルンの小密林は青く、月が暗く落ちた。カカの背はまだらの光闇で染まっていた。
「飲まないならよこせ」
カカは言った。ぼくはビールを差し出し、空瓶を受け取った。カカは笑った。闇がきらびやか笑うようだった。
「ココナッツを落としてやる。見つけたらな」
カカは続けた。
ホタルが拝まれるのは、老人方は別かもしれないが、島全体としては年に一度くらいになった。コビッドが来たときでも無視されたくらいだ。おれもホタルは知っていたが興味はなかったな。ブルーノマーズのワールドツアーとかMCUの公開スケジュールのほうがよっぽど大事だった。それで去年、津波が来た。被害は小さかったが、社を流した。波が引いて驚いたのは、ホタルが社の跡に残っていたことだった。老人方はひどく怯えた。ホタルの力を思い出して騒いだそうだ。だがまあかれらは島の実権を手放していたから、社を再建するまで資料庫で保管して、年に何度かはしっかりと祈りを捧げよう、ってことで手打ちになったそうだ。
ぼくらは小密林を抜け、浜へ出た。浜は青ざめていたが、明るかった。
「どう思う?」
カカはたずねた。試すように笑っていた。ぼくにはわかった。カカは試験をしようというのだ。ぼくは一丁前にも客人の心構えというか、よそものに期待される姿勢を旅のあいだに学んだつもりでいたから、いかにも”ビム”らしく答えた。
どうもこうも。
ホタルはただの髪だ。
雨が降ればホタルのおかげ、災害があればホタルのせい。ぼくの髪だってうまくやればホタルになるさ。
ぼくが言うのを、カカはビールを飲みながら聞いた。
「その通りだ」
カカは答えた。波が寄せ、月がまた青くなった。
浜には再建中らしい社があったが、機材のたぐいは見当たらなかった。完成しているようには見えないが、作業は終わったのだろうか。
「なあ。ヘアドネーションにして少ないと思わなかったか?」
カカは言った。
美しく火照りだしたカカの頬を、ぼくは見つめた。
「ホタルは散っていたんだ。キララとかカタル=トリニア、モロー、ヌドゴ……十数の島々に分け与えられた。ファーストレディは有名だったし、ホタルも当然知られることになったから」
カカは続けた。波濤が産んだ宝石みたいな瞳が、月を捕らえていた。
「移住したホタルのほとんどは津波で流された。みんな西の浜に社を置いたからな。免れたのは二、三だったか」
カカは言った。
「答え合わせだが、ホタルは本物なのかもしれない」
ぼくを見つめた。
それは、揺れだった。
レトリックなんかじゃない、カルドスートへの感動とも違う、それは震動だった。おそろしくさえあった。ホタルが、ぼくを連れていこうとするのかもしれなかった。
*
【奇蹟か? それとも神意? 海より訪れた黒い髪】(製作:AWB)
2022.4.19放送回
サンタ=モス。南米チリ中部、人口およそ六千人の小さな町に奇蹟が起きている。住人は取材に対して口々に語った。「奇蹟だよ」「あれが来てから信じられないことばかり起こる。もちろん、良いことばかりだ」「神はわれわれを見ていてくださった」
住人の一人、ジェシカ・チャウウィシュさんに詳しい話を聞いた。
「あれが、あの黒い髪が流れ着いたのは去年の9月のことでした。どこから、どうやって来たのはわかりません。子どもが浜で箱を拾ったんです。ずいぶん痛んでいたけど、立派な飾り箱だということはわかりました。けれど入っていたのは黒い髪で、わたしたちは面食らってしまったんです。不気味に思ったのも覚えています。夫も当然いやな顔をしました。どうして捨てなかったのかはわかりません。きれいな箱だったから、いいものだと思ったのかも? ともかく、髪を箱にしまったままとっておくことにしたんです。それから半年で起こったことを、ええと、どう話したらいいのか……。とにかく町に新しい学校ができることになって、車で三十分かけなくてもいいお医者様にかかれるようになって、魚は大漁で、出ていった若者もどんどん帰ってくることになって……。
*
「懐かしいものを見てるんだな」
カカが言った。ふつか酔いらしくモニタを覗き込んですぐおえっと流しへゆき、しこたまうがいをした。
スクランブル・エッグはどうやら食べてもらえないらしい。
ぼくは牛乳と、一応シリアルを用意して記事に戻った。サンタ=モス。ジェシカ。元気にしているだろうか。三年前。ぼくはガルンからバララ、オーストラリアを経由してチリへ渡った。ジェシカはモニタ越し見たそのままの姿(服装まで同じだった)で、気前よくはなしを聞かせてくれたしすばらしいパエリアをごちそうしてくれた。ぼくよりも、ついてきたカカのほうがパエリアを食べた。
ぼくはホタルを追った。ガルンから旅に出たホタルを追って太平洋諸島をめぐり、奇蹟を一本の記事に仕立てるとそれが四十ドルになった。最初の仕事というわけだ。ぼくはそれから記事を書きまくって糊口をしのぐと一年くらいしてアデレードで仕事にありついた。酪農家の記事を書いたり引退する消防士の長話を聞いたり、学校ができればカメラをかかえて向かったりした。動画コンテンツが主だったけれど、やっぱりぼくは写真が好きだった。カルドスートにはなれなかったけれど、ぴかぴかの運動場でジャニスが一等賞のテープを切ったその一瞬を写すことはできた。
「うまいな、これ。焼きが、完璧」
カカは牛乳とシリアルと、スクランブル・エッグを残さず平らげた。
カカはぼくの旅についてきて、アデレードの観光会社に職を得た。太平洋諸島ツアーなんかをよくよくやっていて、特にガルンにはたくさんの客をもたらしていた。離れてやっと愛着が生まれたらしく、カカは素直な愛情をふるさとへ向けた。ぼくにはそれが気持ちよく見えた。
出発の時間を、カカへたずねてみる。
「おまえが知ってる」
とカカは笑う。
ぼくらは互いを利用し合って生きてきたけれど、別に利用する部分がなくなってもいっしょに暮らしていた。
出発は昼過ぎだ。ぼくらはゆっくりしていていい。プリントアウトした記事をめくった。諸島国家、アメリカやカナダ、ニュージーランド。ホタルの旅した国々に授けられた幸福の数々。ぼくはやっぱり、それを信じていない。ぼくのなかにはずっとビムがいて、奇蹟を否定するのだ。記事をめくる。機械翻訳にかけた日本の芸能ニュースが出てくる。『Hotaru Shiragiku』それがホタルの名前だった。
ジェシカの映像をカカに見せられてから、ぼくはホタルを探した。情報はあまりに少なかった。旅の最中にも探り続けたのだが、ホタルが何者なのかはわからなかった。しかし2023年、アデレードに最初の家を見つけたころにふっと日本の芸能ニュースが浮かんできた。
「Hotaru Shiragiku」――「白菊ほたる」と日本語で書くらしい――のヘアドネーションについてのインタビュー記事だった。
ぼくはひと目で確信した。ほそく柔らかい彼女の髪は、まさにホタルそのものだったからだ。
彼女は記事でこう語った。実はヘアドネーションは初めてではなく、まだ十代前半のころ(それはガルンにホタルが降りた時代と一致する)に一度だけしていた。彼女は当時おそろしかったのだという。不幸。みずからが不幸だという強い意識があり、自分の髪を分けることで不幸を渡してしまうのではないかと、しかし、それでも自分の髪がもしも誰かの支えになるのなら、と心は揺れた。決意をして髪を贈ってからも、恐怖と後悔は絶えなかった。それから、髪を伸ばすことができなくなった。ヘアドネーションを再開する決意ができたのは二十代に入ってからで、これが二度目になる。
そして三度目が昨年のことだ。
ぼくが日本へ行こうと決めたのもそのころのことだった。世界は揺れていた。しかしぼくが世界を回っていたころよりは、少なくとも望めば彼女に会うことだってできるくらいには、ましになっていた。
彼女が日本で大きなライブに出るというので、ぼくは記者の立場を利用してインタビューの約束をとりつけた。記事を書くというのは表向きの理由だ。ぼくは休日を使っていたし、たとえ何か書いたところでアデレードの地方メディアが欲しがるとは思えない。つまり、ただ話したかったのだ。ぼくは記事でホタルの名前を出さなかったから、きっと彼女はホタルについて初めて知ることになるだろう。彼女がどう思うのか、ぼくは聞いてみたかった。
「ヒマだな」カカは言った。「ドライブしていこう、いい天気だ」
いいね。ぼくはこたえた。大きい荷物はホテルに送ってあるから、ぼくたちは身軽に行ってよかった。手荷物はスマートフォンとタグ。それに小箱。
ホタルの入った、きれいな。
ぼくたちはガルンでホタルを盗んだ。十本そこらだったし、資料庫に眠っているのだから気付かれもしないだろう。果たしてそれからのぼくらの人生は、ホタルによるものだったのだろうか。この暮らしは、カカとの日々はホタルのもたらした幸福であったのだろうか。ぼくは違うと思う。だってぼくはビムだ。きっと彼女も否定すると思う。だって彼女は、ヘアドネーションをやめなかったのだ。
ぼくたちは家を離れる。
カカの運転する車は、静かに地を流れていく。
「またその歌かよ」
カカが文句を言う。明日の予習だよ。映像を見ながらぼくはこたえた。カカはやっぱりブルーノマーズとかジョンバティステとかが好きだ。とても彼女の歌を気に入るはずがない。ファイアフライ。彼女の歌は名前に似つかわしく、かなしくも美しい。
ぼくは彼女を見る。
彼女はステージにひとりきり、そして最後にほほえむ。
ぼくは想像する。
ぼくは彼女に会うとインタビューも早々に切り出す。黒い髪の奇蹟について、それとぼくたちについて。ぼくたちの、奇蹟とも呼べないありふれた幸福について彼女に伝える。すると彼女は笑う。あのインタビュー記事のような、どこか困って見えるほほえみをうかべ、そしてぼくはカメラを向ける。ぼくはカルドスートではなかったが、彼女の写真を撮ることができるし、隣にカカがいる。「勘弁してくれえ……」辟易するカカ。ぼくは最近、ホタルに祈りたくなる気持ちが少しわかる。話せばきりがなく、どこまでを伝えようかは悩む。
2022年。
ぼくはホタルに出会った。
海を越え、空を渡り、旅が終わり生活は続き、また旅をして、明日。
ぼくは、ほたるに出会う。
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