Tumgik
#出雲流庭園
oniwastagram · 2 years
Photo
Tumblr media
📸卜蔵庭園 / Bokura Garden, Okuizumo, Shimane ② 続き。昭和の有名作庭家・重森三玲も実測に訪れ、現代にはその図面を下にその孫・重森千靑さんによる修復作業も行われたとか。 今回は新緑の季節に訪れたけど秋の紅葉の風景も見てみたいな〜。 . 庭園だけが目当てならばここで終わり…なのだけど、日本遺産&国選定重要文化的景観『奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観』の《たたら製鉄 鉄穴流しで造られた棚田》🌾はそこから徒歩10分ほど先にあります。 . この棚田、元はたたら製鉄の砂鉄を採取していた場所。その跡地を遊ばせておくのはもったいない…ということで棚田が造成され、その結果新潟の『星峠の棚田』あたりと同じく山間部ならではの環境が米作りに適し、現在では《東の魚沼コシヒカリ 西の仁多米》と並び称されるブランド米になったとか。 . この集落の中にも卜蔵家によるお食事処『たたらの舎-Cafe』があります。ぜひお食事も味わって。 . 島根・卜蔵庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/bokura-garden-%e5%8d%9c%e8%94%b5%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #landscapedesign #landscape #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #出雲流庭園 #島根庭園 #島根旅行 #島根観光 #出雲横田 #奥出雲 #izumo #アート #ランドスケープ #たたら製鉄 #文化財庭園 #おにわさん (卜蔵庭園) https://www.instagram.com/p/ChKMxmHvM7w/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
tokyomariegold · 4 months
Text
2023/9/29〜
Tumblr media
9月29日 朝の通勤で、隣の席の方が、明日からの大阪旅行の時刻を調べてメモしているのをぼーっと眺めていた。朝6時台の電車で玉川上水(!)から東京駅まで出て、そこから新幹線で新大阪へ。目的地は芦屋だった。
いま私が計画している大阪旅行の目的地と同じだったり、わりと実家近くの駅から出発する旅行に、少し親近感。
Tumblr media
今日は午前中出勤するけれど、大好きな服を着て、つらくなること(現��に出たりすること)はしないぞ!デスクワークだけする心意気で出勤すると、廊下から水が流れる音がしていて、?と給湯コーナーを見るとポットに水を溜めるために水栓が開けっぱなしになっていた。 もうすっかりポットから水が溢れて時間が経っていた様で、床が海。 でも今日の私はとても吸水作業ができる仕様ではなかったので、水を止めて、近くを通りかかった上司たちを引き止める様にして、みなさんに雑巾やモップで片づけをさせてしまった。 人力でこの海を処理するのは難しいのでは…と思っていたけれど、みなさんが雑巾で水を吸っては絞るのを繰り返してくれて、あっという間に片付いた。 私はあわあわと見ているだけだった。
午前中だけの業務時間だと、いつもの3倍速のスピード感で仕事をしようとしてしまう。
Tumblr media
午後のチャイムが鳴って走って退勤して、上野へ向かった。 国立科学博物館の企画展“海”を鑑賞。 一期下の方がいただいた招待チケットに便乗させてもらって、海にまつわる展示を見てきた。 平日だけれどひとがとてもおおかった。 子供より大人が多くて、展示の内容も、宇宙から縄文遺跡まで海というか地球と宇宙にまつわるあらゆることが網羅されている展示で色んなことを知れて賢くなった気分。
前回、恐竜展に一緒に行った友人が科博の出口で「鯨好きなんだよね〜」と言っていたのを思い出して撮った展示の鯨の標本(本物って書いてあったから剥製?)の写真を後で送りたい。
Tumblr media
展示を見ながら、そこから思い出されたエピソードをしたり、油壺マリンパークに行ったことがあった話や冬に広島と下関に行く話を聞かせてもらった。 下関はかつて毎年言っていた場所なのでなぜか嬉しくなってしまった。
展示を観て、かっぱ橋方面まで歩いて、いつも帰り一緒にお話ししているけれど、それでも今日もお付き合いしてもらえて嬉しいし助かってしまう。
来週までが締め切りの個人調書に異動希望を示そうかどうか悩んでいる。
今日は中秋の名月。月みてね。
Tumblr media
9月30日 昨日は月がずっと雲に隠れていた気がする。 六本木と表参道へ遊びに出て、帰る電車に乗る時はまだ外が明るかったのにずっと地下鉄を走る電車に乗っていて、地上に出たら真っ暗でしばらくまだ地下なのかと思っていた。
今日も暑かったけれど、日がどんどん短くなって秋になっている。
ネイルをとってもらい、また新しく施してもらってしまった。一回やってもらうと嬉しいけれど、生活の不都合の方が優ってしまったり、一週間くらいで飽きてしまったりするので、帰りの電車でオフだけの予約をした。
Tumblr media
六本木のギャラリーは13時オープンで、着いた時はまだ閉まっていて入り口の扉の前に宅配便が置き配されていた。 残念だな〜と、表参道まで歩く途中、昔好きだった人がとつめていると言っていた出版社の建物の前を通って、そういえば乃木坂で勤めていて青山霊園とか散歩するのが良いです、みたいなことを言っていた。
さらに少し歩いたら、カメヤマキャンドルのお店を見つけ、ふらっと入ってみる。 インターネット見たことがあるワンカップ大関やココアシガレットの面白キャンドルの実物を見て、思わずあずきバーキャンドルを買ってしまった。 あとパチパチ音が鳴るキャンドルも買えた! ネイリストさんに、帰り際にあずきバーキャンドルを見せたら失笑されてしまい少し戸惑っていた気もしたので「なんか最後にごめんなさい」と気づいたら誤っていた。
Tumblr media
友人と待ち合わせして岡本太郎記念館へ。 先週鎌倉で「岡本太郎好きですか?」と誘ってもらっていた。(私はその時、片岡八幡宮や鎌倉の古美術店を眺めながらその質問を聞いていたので、勝手に片岡鶴太郎に変換していた。)
岡本太郎のアトリエ兼住宅を美術館にした建物。 食虫植物や南国系の草が生えるお庭に、所狭しと作品がざわざわと展示されていておどろおどろしかった。 太陽の塔の中はかなり良いらしい。マンスーンさんも楽しいって言ってたね。
最近の写真の活動の報告をしながら表参道をふらふらしていたら、先日写真展にも来てくださった先輩とぱったりすれ違う。カメラ好きでとてもおしゃれ(世の中のおしゃれ軸では計れない感じ)。 今日はF値のTシャツを着ていた。
先週カメラのファインダーがとてつもなく汚い(私の手ではどうにもできない範囲)ことを指摘されたこと、忘れていたけれど、今日も改めて友人から言われてちゃんとショックになり、そうだカメラを買おうかなと思っている。
良いフィルムカメラを探す、というタスク(?)に少しわくわくする。
ありがたいことに1冊写真集を買ってくださった方がいたので、梱包材や納品書の準備をしなくては!で、少し忙しい気持ち(写真がガビガビでごめんなさい!)。
現像したかったフィルムを持ってくるのを忘れてしまったので、明日は、何としてでも、現像出したい。気をつけたい。
Tumblr media
3 notes · View notes
hachikenyakaiwai · 11 months
Photo
Tumblr media
【かいわいの時】昭和二十年(1945)6月7日:第3次大阪大空襲。死者2759人、被災者19万9105人(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
昭和二十年六月七日(一九四五年)午前十時十五分、生江地区の人々の悲劇の日がやってきた。サイパンを飛びたった三百機にのぼるB29アメリカ空軍爆撃機の大阪最後の空襲であった。早朝より敵の来襲を知らせる警報のサイレンが不気味な音を響かせ、初夏の空に鳴りわたる。遠くで爆弾が炸裂するのがドドーンと地面を叩くのか、抉るのか、鈍く重い音が足もとから伝わってくる。まもなく雲間に数機の爆音が聞こえてくる。何事もなかったように、白い飛行雲を残し、次から次へと生江の上空を北に向かって飛び去っていく。誰れかが大声で「逃げろ…」と叫けぶつかの間、キーンと耳を抉る金属音が頭上より背筋を通し伝わった。その瞬間、ものすごい炸裂と地響が起こる。人々は地面に叩きつけられ声もない。家屋はそのまま空中に舞いあげられ、粉々に飛び散り落ちる。真黒い煙が竜巻のように舞い上がり火の粉が散る。なおも空から容赦なく爆弾が不気味な金属音をたてながら黒く白く光りながら雨の如く落ちてくる。ここかしこで火の手があがる。真っ赤に空を焦がす熱気が突風を呼び、その風の物凄さ、猛り狂う炎の色、白昼を暗黒化にし生江地区を残し、つつみこむように周辺は火の海となった。火の粉は地区内に落ちてくる炎と煙に追いたてられ何千人もの人々がぞくぞくと城北公園めがけて着のみ着のまま泣き叫び、転びながら逃げてくる。それを待ち受けていたかのように戦闘機数機が黒煙の中より現われ、淀川土堤すれすれに飛び交い、避難してくる人々めがけて機銃弾を浴びせ殺したのである。
ある者は土堤や池の端、木の繁み、ある者は園道にうづくまり、頭をぶち抜かれ、足をもぎとられ、腹を抉られ、顔をとばされ、その肉片からしたたり落ちる血で大地を染め、乳呑み子から老若男女が水をもとめて這いづりまわり息たえる者、母と子がしっかりと抱き合い身動きもしない。髪をふりみだし「雲が燃えている」と泣き叫けぶ女の子、恐しさにお経を口ずさむ老人、爆弾の雨が音をたてながら木々をゆさぶり、人々に襲いかかる。炎が黒雲を呼び、雨を呼び、地獄絵図が数時間も続いて終った。遺体は常宣寺に運ばれたが、足の踏み場もないぐらい本堂にも庭にも並べられ、収容できずにそ��まま外に数日間放置されていた人々もあった。地区内の家々から帰らぬ我が子、父母の名を呼ぶ悲しみの声が幾日も続いた。遺体は淀川土堤に運ばれ、油をぶっかけられ火葬にされ、その煙が夜も昼も休みなく何日も続いたのである。戦争に駆り出され散っていった我々の親兄弟、家を守った母と子の尊い命が奪われていった……。
そして三十三年の歳月が流れ、今我々が生きていることを喜び合い、また戦争を知らない若い世代に何んの意味ももたない戦争という悲劇をくり返さないための手がかりを我々の手で残さなければならない。また我々の先輩が部落解放とすべての人民の解放を��び、多くの血を流し、闘い続けた運動の歴史を受け継ぎ、平和と人権尊重の精神を守り続けるため、真実を教え、真実を語り、真実を伝え、この惨劇の歴史と、ここに刻みこまれた犠牲者とともに永久に銘記するものである。一九七七年十一月二十五日 文 伊藤辰夫(平和観音「碑文」より)。
(写真)式典の準備が整った平和観音(=2023年6月7日午前9時1分撮影)
2 notes · View notes
kachoushi · 1 year
Text
各地句会報
花鳥誌 令和5年5月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年2月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
厨女も慣れたる手付き雪掻す 由季子 闇夜中裏声しきり猫の恋 喜代子 節分や内なる鬼にひそむ角 さとみ 如月の雨に煙りし寺の塔 都 風花やこの晴天の何処より 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 長すぎるエスカレーター早春へ 久 立春の市の算盤振つてみる 要 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ きみよ 伊達者のくさめ名残りや南部坂 眞理子 慶應の先生眠る山笑ふ いづみ 豆源の窓より立春の煙 和子 供華白く女優へ二月礼者かな 小鳥 古雛の見てゐる骨董市の空 順子 古雛のあの子の部屋へ貰はれし 久
岡田順子選 特選句
暗闇坂のチャペルの春は明日あたり きみよ 冬帝と暗闇坂にすれ違ふ 同 大銀杏八百回の立春へ 俊樹 豆源の春の売子が忽と消え 同 コート脱ぐ八咫鏡に参る美女 きみよ おはん来よ暗闇坂の春を舞ひ 俊樹 雲逝くや芽ばり柳を繰りながら 光子 立春の蓬髪となる大銀杏 俊樹 立春の皺の手に売るくわりんたう 同 公孫樹寒まだ去らずとのたまへり 軽象
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
敬􄼲な信徒にあらず寒椿 美穂 梅ふふむ野面積む端に摩天楼 睦子 黄泉比良坂毬唄とほく谺して 同 下萌や大志ふくらむ黒鞄 朝子 觔斗雲睦月の空に呼ばれたる 美穂 鼻歌に二つ目を割り寒卵 かおり 三􄼹路のマネキン春を手招きて 同 黄金の国ジパングの寒卵 愛 潮流の狂ひや鯨吼ゆる夜は 睦子 お多福の上目づかひや春の空 成子 心底の鬼知りつつの追儺かな 勝利
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月6日・7日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
潮騒を春呼ぶ音と聞いてをり かづを 水仙の香り背負うて海女帰る 同 海荒るるとも水仙の香の高し 同 坪庭の十尺灯篭日脚伸ぶ 清女 春光の中神島も丹の橋も 同 待春の心深雪に埋もりて 和子 扁額の文字読めずして春の宿 同 砂浜に貝を拾ふや雪のひま 千加江 村の春小舟ふはりと揺れてをり 同 白息に朝の公園横切れり 匠 風花や何を告げんと頰に触る 笑子 枝川やさざ波に陽の冴返る 啓子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月8日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
雪を踏む音を友とし道一人 あけみ 蠟梅の咲き鈍色の雲去りぬ みえこ 除雪車を見守る警備真夜の笛 同 雪掻きの我にエールや鳥の声 紀子 握り飯ぱりりと海苔の香を立て 裕子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
東風に振る竿は灯台より高く 美智子 月冴ゆる其処此処軋む母の家 都 幽やかな烏鷺の石音冴ゆる夜 宇太郎 老いの手に音立て笑ふ浅蜊かな 悦子 鎧着る母のコートを着る度に 佐代子 老いし身や明日なき如く雪を掻く すみ子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
朝光や寺苑に生るる蕗の薹 幸風 大屋根の雪解雫のリズム良き 秋尚 春菊の箱で積まれて旬となる 恭子 今朝晴れて丹沢颪の雪解風 亜栄子 眩しさを散らし公魚宙を舞ふ 幸子 流れゆくおもひで重く雪解川 ゆう子 年尾句碑句帳に挟む雪解音 三無 クロッカス影を短く咲き揃ふ 秋尚 あちらにも野焼く漢の影法師 白陶 公魚や釣り糸細く夜蒼し ゆう子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
犬ふぐり大地に笑みをこぼしけり 三無 春浅しワンマン列車軋む音 のりこ 蝋梅の香りに溺れ車椅子 三無 寒の海夕赤々漁終る ことこ 陽が風を連れ耀ける春の宮 貴薫 青空へ枝混み合へる濃紅梅 秋尚 土塊に春日からめて庭手入 三無 夕東風や友の消息届きけり 迪子 ひと雨のひと粒ごとに余寒あり 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
浅春の眠りのうつつ出湯泊り 時江 老いたれば屈託もあり毛糸編む 昭子 落としたる画鋲を探す寒灯下 ミチ子 春の雪相聞歌碑の黙続く 時江 顔剃りて少し別嬪初詣 さよ子 日脚伸ぶ下校チャイムののんびりと みす枝 雪解急竹はね返る音響く 同 寒さにも噂にも耐へこれ衆生 さよ子 蕗の薹刻めば厨野の香り みす枝
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月14日 萩花鳥会
水甕の薄氷やぶり野草の芽 祐子 わが身共老いたる鬼をなほ追儺 健雄 嗚呼自由冬晴れ青く空広く 俊文 春の園散り散り走る孫四人 ゆかり 集まりて薄氷つつき子ら遊ぶ 恒雄 山々の眠り起こせし野焼きかな 明子 鬼やらひじやんけんで勝つ福の面 美惠子
………………………………………………………………
令和5年2月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
吹雪く日の杣道隠す道標 世詩明 恋猫の闇もろともに戦かな 千加江 鷺一羽曲線残し飛び立てり 同 はたと止む今日の吹雪の潔し 昭子 アルバムに中子師の笑み冬の蝶 淳子 寒鯉の橋下にゆらり緋を流す 笑子 雪景色途切れて暗し三国線 和子 はよしねまがつこにおくれる冬の朝 隆司 耳目塗り潰せし如く冬籠 雪 卍字ケ辻に迷ひはせぬか雪女 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
指先に一つ剥ぎたる蜜柑の香 雪 大寒に入りたる水を諾ひぬ 同 金色の南無観世音大冬木 同 産土に響くかしは手春寒し かづを 春の雷森羅万象𠮟咤して 同 玻璃越しに九頭竜よりの隙間風 同 気まぐれな風花降つてすぐ止みて やす香 寒紅や見目安らかに不帰の人 嘉和 波音が好きで飛沫好き崖水仙 みす枝 音待てるポストに寒の戻りかな 清女 女正月昔藪入り嫁の里 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月17日 さきたま花鳥会 坊城俊樹選 特選句
奥つ城に冬の遺書めく斑雪 月惑 顔隠す一夜限りの雪女郎 八草 民衆の叫びに似たる辛夷の芽 ふじほ 猫の恋昼は静かに睨み合ひ みのり 薄氷に餓鬼大将の指の穴 月惑 無人駅青女の俘虜とされしまま 良江 怒号上げ村に討ち入る雪解川 とし江 凍土を突く走り根の筋張りて 紀花 焼藷屋鎮守の森の定位置に 八草 爺の膝捨てて疾駆の恋の猫 良江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
古玻璃の奥に設ふ古雛 久 笏も扇も失せし雛の澄まし顔 眞理子 日矢さして金縷梅の縒りほどけさう 芙佐子 梅東風やあやつり人形眠る箱 千種 春風に槻は空へ細くほそく ます江 山茱萸の花透く雲の疾さかな 要 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 ぽつねんと裸電球雛調度 要
栗林圭魚選 特選句
紅梅の枝垂れ白髪乱さるる 炳子 梅園の幹玄々と下萌ゆる 要 濃紅梅妖しきばかりかの子の忌 眞理子 貝殻の雛の片目閉ぢてをり 久 古雛髪のほつれも雅なる 三無 老梅忌枝ぶり確と臥龍梅 眞理子 山茱萸の空の広さにほどけゆく 月惑 八橋に水恋うてをり猫柳 芙佐子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月21日 鯖江花��句会 坊城俊樹選 特選句
師を背負ひ走りし人も雪籠 雪 裏庭開く枝折戸冬桜 同 天帝の性こもごもの二月かな 同 適当に返事してゐる日向ぼこ 一涓 継体の慈愛の御ん目雪の果 同 風花のはげしく風に遊ぶ日よ 洋子 薄氷を踏めば大空割れにけり みす枝 春一番古色の帽子飛ばしけり 昭上嶋子 鉤穴の古墳の型の凍てゆるむ 世詩明 人の来て障子の内に隠しけり 同 春炬燵素足の人に触れざりし 同 女正月集ふ妻らを嫁と呼ぶ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
能舞台昏きに満ちて花を待つ 光子 バス停にシスターとゐてあたたかし 要 空に雲なくて白梅すきとほる 和子 忘れられさうな径の梅紅し 順子 靖国の残る寒さを踏む長靴 和子 孕み猫ゆつくり進む憲兵碑 幸風 石鹸玉ゆく靖国の青き空 緋路 蒼天へ春のぼりゆく大鳥居 はるか
岡田順子選 特選句
能舞台昏きに満ちて春を待つ 光子 直立の衛士へ梅が香及びけり 同 さへづりや鉄のひかりの十字架へ 同 春の日を溜め人を待つベンチかな 秋尚 春風や鳥居の中の鳥居へと 月惑 料峭や薄刃も入らぬ城の門 昌文 梅香る昼三日月のあえかなり 眞理子 春陽とは街の色して乙女らへ 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年2月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
ポケットの余寒に指を揉んでをり 勝利 黒真珠肌にふれたる余寒かな 美穂 角のなき石にかくれて猫の恋 朝子 恋仲を知らん顔して猫柳 勝利 杖の手に地球の鼓動下萌ゆる 朝子 シャラシャラとタンバリン佐保姫の衣ずれ ひとみ 蛇穴を出て今生の闇を知る 喜和 鷗外のラテン語冴ゆる自伝かな 睦古賀子 砲二門転がる砦凍返る 勝利 小突かれて鳥と屋や に採りし日寒卵 志津子 春一番歳時記の序を捲らしむ 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
2 notes · View notes
ari0921 · 1 year
Text
我が国の未来を見通す(63)
「気候変動・エネルギー問題」(28)
「気候変動・エネルギー問題」(総括)〔後段〕
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
先週、連休を利用して島根県を訪問し、出雲大社を
特別参拝させていただきました。私などが詳しく解
説する必要はないと考えますが、ご案内いただいた
禰宜(ねぎ)が神話に基づき解説してくれた大社の
歴史は、地上界を支配すべきは天照大神(とその子
孫)とし、地上を治めていた大国主命から話し合い
によって(戦争することなく)国を譲り受けました。
天照大神は、感謝の気持ちを込めて大国主命を祭神
とする出雲大社を建設されたとのことでした。
私自身は、『逆説の日本史』(井沢元彦著)などで
語られているような出雲大社の“いわれ”を知らな
いわけではありませんが、江戸時代の中ごろに再建
されたとされる国宝の現本殿や神話時代から語り継
がれている、東大寺の大仏殿を超える日本一の高さ
48m、階段の長さが109mに及んだとされる初
代本殿の威容などを知ると、禰宜の解説の方により
納得がいきました。
大国主命は、今では広く「えんむすび」の神として
人々に慕われていますが、この“縁”は男女の縁だ
けではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄え
ていくための貴い結びつきを指すそうで、我が国の
悠久の歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守ら
れ、目に見えないご縁を結んでおられるのだそうで
す。
このように、(正確にはわからないそうですが)3
000年に近い歴史が有する出雲大社の歩みをお聞
きすると、その歴史はけっして“神話の世界”では
なく、我が国の「国づくり」の歴史、そしてこの間
に出来あがった「国柄」、特に神話の時代から「和」
を重んじる国であることなどが改めて理解できまし
た。この精神がやがて聖徳太子の「十七条憲法」第
1条「和を持って貴しとなす」として具現化される
のでした。
私自身はこれまで全国各地、数多くの神社仏閣を参
拝させて頂く機会がありましたが、特に、淡路島の
伊弉諾(いざなぎ)神宮、高千穂神社、伊勢神宮、
宗像大社などにはそれぞれの神話があり、そのつど
納得し、このような歴史を持つ日本に生まれたこと
に誇りと感じ、言いようもない幸せ感を味わった経
験がありますが、今回はこれまでの経験に勝るもの
がありました。
終戦後、GHQの占領政策によって、我が国は、神
話を教育することを含めて戦前の歴史を全否定され
ました。しかし、世界を見渡せば、神話を含めて国
の生い立ちを教えない国はありません。ポツダム宣
言には「日本が世界征服を企てた」となっており、
我が国はこのような“汚名”を受け入れることを余
儀なくされましたが、500年の長きにわたり、世
界征服を企てたのは欧米列国であり、この流れに
「待った」をかけた国こそが我が国でした。
その上、本来、「和」を尊ぶ我が国の国柄が語り継
がれていた神話の中にも存在することをGHQのス
タッフは身抜けなかったのでしょう。もしこのよう
な我が国の本性を熟知していたら、あるいは日米開
戦などは起こらなかったのでは、と想像してしまい
ます。
島根県には、国宝・松江城や日本一の庭園美術館
「足立美術館」などもあって、あらためてこの地域
の歴史や豊かさを堪能しましたが、島根県のみなら
ず全国各地にその地域ならではの歴史や文化があり
ます。天変地異など様々な混乱を経験しても、それ
らを残していただいた先人たちにあらためて感謝申
し上げますと共に、今に生きる私たち世代もまた後
世に残し、伝える責任があることに思いが至りまし
た。
▼我が国のエネルギー政策の“落とし穴”
 
さて、最近の我が国は、気候変動・エネルギー問題
のみならず、「国益」を一顧だにせず、というか
「国益」という言葉自体も忘れ、国際社会、特に西
欧列国に追随するとか、周辺諸国と謝罪することな
どをもって“国是”としているような風潮があるよ
うな気がしてなりません。かつてのグローバル・ス
タンダードなどもその部類だったと考えます。
もちろん、戦前のように、「国際秩序への挑戦者」
となることは許されないですが、戦前の“贖罪意
識”が強過ぎるのか、様々な状況を冷静・沈着に判
断して我が国が歩む道として最適の選択肢は何か、
というプロセスそのものをスキップしているように
思えてならないのです。そのようなことを何度も繰
り返すと、「進むべき進路を誤った」とされる戦前
と同じ結果になり、後々に禍根を残す可能性がある
ことを危惧します。
これまでも「木を見て森を見ず」という言葉を使用
しましたが、現在の我が国は、あらゆる分野で「専
門家」と称される人たちが発言力を持ち、それゆえ
に、専門とする極めて狭い世界の事象に拘泥し、結
果としてその考えに翻弄されているような気がして
なりません。各界に“森が見えない人たちがなんと
多いことか“とつい思ってしまいます。
特に、気候変動問題においては、菅義偉内閣になっ
て、突然「脱炭素」を宣言し、まさに「国益」やそ
の実行の可能性より、国際社会追随の政策に転換し
たことはすでに紹介しました。当時から「エネルギ
ーは安全保障最優先にすべき」との声もありました
が、様々な事情もあったのでしょうが、“見切り発
車”しました。いったん舵を切ると、トランプ前大
統領のような強いリーダーが出現しにくい我が国に
あっては、軌道修正がますます困難になることは明
白なのです。
また、「ブレーキをかけることを忘れた高齢者の運
転のように」と表現しましたが、アクセルばかりを
踏み込み、ついには「一石三鳥」のような勇ましい
キャッチコピーまで飛び出しました。国を挙げた勇
ましい政策には必ずその“副作用”があることを我
が国は長い歴史の中で何度も経験しましたが、その
ような歴史を学び、あるいは各方面からの警鐘を鳴
らす発言に耳をそばだてるような感性は、首相をは
じめ、政治家や官僚の皆様にはなさそうです。
政府が唱える政策に協力するのは当然としても、様
々な思惑をもって「脱炭素」政策に便乗する人たち
は、いったい全体、地球にとってCO2とは何なの
か、本当に異常気象なのか、地球温暖化は進んでい
るのか、それらの原因が人為的CO2の排出にある
のか、さらには、「脱炭素」は可能なのか、そのコ
ストはどれほどかかるのか、CO2を削減すること
が地球にとって本当によいことなのか、その上で、
自分たちのやろうとしていることは本当に日本のた
め、地球のためになるのか・・・などを考えたこと
があるのでしょうか。
おそらくそのような思考は停止したまま、「政府が
奨励しているから」「国連(あるいはIPCC)が
言っていることだから」「皆、やっているから(や
らないと取り残されるから)」と自らを納得させる
・・・私の周りにもそのような人がたくさんおりま
す。なかでも、金儲けの絶好の機会と野心的な思惑
を持つ企業関係者にあっては、その真実の解明より
「お金になるならなんでもよい」くらいの感覚なで
しょう。
民主主義とは、誤解を顧みず話せば、主権者たる国
民の大多数の支持があれば何でもできるし、何をや
ってもよい政治形態です。バラマキと言われようが
刹那的と言われようが、支持率さえ確保できればよ
いと考える政治家が政策を断行し、その結果、主権
者が喜べば、世の中は丸くおさまり、波風は立たな
いのです。
地球温暖化とは裏腹に、「100万年にわたる地球
の気温推移の歴史をみると、人間の出すCO2など
とは全く無関係に一定のリズムを刻んでいる」とし
て、「実際の地球は寒冷化に向かっている」との考
えを持つ人たちも少なくないですが、その寒冷化を
防止するためは、温室効果ガスが必要不可欠であり、
その主体はCO2になることでしょう。
何も考えずに「脱炭素」に協力していている人は、
かつての氷河期のように地球上の生命体そのものを
脅かすことに加担しているという考え方もできるの
です。
▼実行の可能性とコスト意識
さて我が国は、中国などの発展途上国と比較して、
先進国としてエネルギーを消費した歴史が古いこと
は間違いないですが、それでも1970年代に2度
体験した石油ショックから立ち直るために、並々な
らぬ“省エネ”努力を積み重ねてきました。その結
果、実質GDP当たりのエネルギー消費は世界平均
を大きく下回る水準を維持しており、インドや中国
の5分の1から4分の1程度の少なさであり、最近、
省エネが進んでいる欧州の主要国と比較しても遜色
ない水準となっていることも紹介しました。
つまり、すでに省エネに取り組み、それをもって過
度にCO2排出を排出しないという長い歴史があり
ます。そして、生活空間からしても“ウサギ小屋”
と揶揄されるようなつつましやかさも現存し、今と
なっては他国に誇るべきことですが、だからこそ、
これから先、さらに省エネを推進し、CO2排出を
削減することは至難の業だということもいえるでし
ょう。
これもすでに紹介したように、環境省の発表では、
これまで国と地方自治体合わせて30兆円の経費を
投入し、今後は税金で20兆円を投入して150兆
円の投資を呼び込むと皮算用していますが、すでに
省エネを推進し、CO2排出は地球全体の3%ほど
に留まっている我が国にあっては、仮に2050年
に「脱炭素」を実現したとしても、その効果は測定
できないレベル(試算では0.0008℃度程度)
にしかなりません。
最近、このような日本にあって、依然として現実的
な“良心”を有している機関を発見しました。経済
産業省系の研究機関といわれる「公益社団法人地球
環境産業技術研究機構」(RITE)です。RIT
Eはまず、「2030年にCO2を46%削減する
ためにGDP損失が30兆円発生する」として、2
0兆円の実質増税を含み、政府が考えるカーボンプ
ライシングは「経済への足かせになる」と警鐘を鳴
らします。
RITEはまた、「2050年に『脱炭素』を実現
するためには、技術面やコスト、自然制約・社会的
制約などの様々な面で課題や制約を乗り越えること
が必要であるが、技術革新などの進展には大きな不
確実性が存在するため、30年後の姿を具体的に見
通すことは困難である」とし、さらに、電力分野の
みならず非電力分野の技術を実装しない限り、「2
050年の『脱炭素』は極めて困難である」と結論
づけています。
この結言を導くために、RITEは電力構成につい
て5つのシナリオを取り上げて検証していますが、
なかでも再エネ100%のケースでは、電気料金が
2倍になることも試算しています。
東京都は、情緒的な判断だけでその効果もろくに検
証しないまま、都内の新築戸建住宅に太陽光パネル
の設置を義務化し、そのための支援制度を新設する
ということが話題になりました。この支援のための
経費は都民税から流用されることは間違いないでし
ょう。気候変動対策とか「脱炭素」を目的にすると、
コスト意識が頭から離れてしまいがちですが、その
コストは最近話題の電気料金の値上げだけではなく、
石油やガソリンなどの燃料代、そして所得税や地方
税などにも含まれることも再認識する必要があるの
です。
▼「脱炭素」と安全保障
さて、太陽光発電は国内の広大な土地を中国など外
国資本が買いあさる格好の材料になっていることも
指摘しました。最近、中国がアメリカ国内の農地を
購入し、アメリカが警戒していることが話題になっ
ていることも付け加えておきましょう。その面積は、
現時点では1554haほどで、1位のカナダや2
位のオランダなどには及ばず第18位、農地全体の
0.9%に留まっているようですが、高い伸び率で
農地が増えていることに加え、日本を含め、世界規
模で農地を買いあさっていることもあって、アメリ
カ国内では余計に警戒感を増大させているようです。
再エネを推進しようとするとコストがかかる。コス
トを削減しようとすると中国製の太陽パネルを使用
する必要がある、あるいは、太陽光発電のために中
国資本を招へいする必要がある、招へいすればする
ほど、中国資本の森林や農地が増える、増えれば増
えるほど安全保障上の問題に懸念が残る・・・。
上記のサイクルで何を優先すべきかは明らかなので
すが、「脱炭素」以外に盲目になっている人たちに
は、国内の森林や農地が外国資本に買収されること
に危機意識を持たないことが問題なのだと考えます。
前回、地球温暖化の提唱者たちの当初のシナリオが
狂っているのではないか、と指摘しましたが、我が
国にあっては、補助金付きで、中国資本を招き入れ、
国内はおろか、中国の世界戦略に加担するようなこ
とになるのだけは何としても避けたいものです。政
府の早急な英断が求められると考えます。
私は、「脱炭素」などのような“絵空事”(あえて
こう表現します)を根本から見直し、エネルギーの
安定確保(しかもなるべく安価で)を最優先するこ
とを提言したいと考えますが、読者の皆様はどう考
えるでしょうか。
▼まとめ
 
さて、本メルマガで取り上げました我が国の「少子
高齢化問題」「農業・食料問題」「気候変動・エネ
ルギー問題」には共通の要因があり、これらの問題
を抜本的に解決するためには、それぞれ小手先では
なく、国家レベルの根本からの「改造」が必要と考
えます。それらは、国防とか防災なども共通してい
ることでしょう。
本メルマガ「我が国の未来を見通す」は、「我が国
の歴史を振り返る」の後継として発信しているもの
ですが、この後、本メルマガの総括として、我が国
の歴史から学ぶ「知恵」を活かしながら、我が国の
将来に立ちはだかるであろう“暗雲”にいかに立ち
向かうか、について読者の皆様と一緒に考えていき
たいと思います。
しばらく整理と充電の時間を頂いたのち、第4編
「『強靭な国家』をつくる」(仮称)を題して、日
本を守り抜き、日本の未来を創造するための様々な
「知恵」について発信していきたいと計画していま
す。請うご期待!
(つづく)
(むなかた・ひさお)
Tumblr media
2 notes · View notes
zehimonashi8 · 10 months
Text
源氏供養のすすめ①
6/24から7/1まで配信しているネットプリント「禺伝 矛盾源氏物語供養」の奥付に「源氏供養のすすめ」なるプリントを作ろうとしていた形跡があるのですが、自分が力尽きてしまい配信できませんでした
混乱させてしまい申し訳ありませんでした
久しぶりの二連休を得て時間ができたので、僭越ながらこちらにて「源氏供養のすすめ」で書こうとしていたことを少し書かせて頂こうと思います
なお拙作短歌の解説にはなっておりませんのでご了承ください
内容は以下の通りです
①源氏物語のこの帖が好きだぞ
②源氏物語の能とか拙作短歌に出てきた能とかの話がしたいぞ
③左右社刊『ウェイリー版源氏物語』はいいぞ
長いので、①と②③で記事を分けております
ーーーーーーーーーーーーーー
①源氏物語の好きな帖のはなし
禺伝を観て、源氏物語を一から読み直しました
読んだのは左右社『ウェイリー版源氏物語』1-4 巻 大昔に「あさきゆめみし」と円地文子版を読んだきりだったのですが、このウェイリー版があまりに素晴らしかったのでみなさまにも是非ご紹介したく思います
手始めにまず源氏物語のなかで自分なりの好きポイントや読みどころをよりぬきで紹介しながら、ウェイリー版の魅力を少しだけ見て頂こうと思います
どうでも良いですが禺伝の54帖を只管言い続ける歌を聴いていたら54帖言えるようになりました
あと自分の推しは六条御息所と柏木です
以降「」で括った引用はすべて左右社『ウェイリー版源氏物語』より
・第2帖 帚木
「帚木」をテーマに光源氏と空蝉が歌を詠み交わすところが好きです 帚木とは「遠くからは豊かな木陰を作るように見えるが、近づくと貧相な灌木にすぎない」という伝説の木のことで、「近づくと見えなくなると言い、逢えそうで逢えない恋人の喩えに使われた」のですが、これをそれぞれの意味で2人が詠むのですね このシチュエーションに「帚木」の意味がバチッとハマっていてカッコいいです
・第4帖 夕顔
夕顔の初登場シーンは印象深いですよね
六条御息所のところへ行こうとして通った裏町で、夕顔の花がいっぱいに咲き乱れている家を見つけた光源氏はその夕顔を家来に摘ませます そのとき少女がその家から出てきて、「なにか花を載せるものがご入り用ではございませんか」と花を載せるために扇を差しだすのですが、その扇によく見てみると夕顔の歌が書いてある、というところです 素敵
・第9帖 葵
がばっととばして六条御息所 禺伝にもあった「なげきわび」のシーンですが、この歌は別にホラー調では全くなくて、ただただ必死で切実な御息所の心が胸を打つのです その前から見ていくと、「この祈祷をしばらくやめて」までは葵が話しているのですが、光源氏がそばに来ると突然態度が「優しく、もの思わしげ」になるのですね ここからおそらく葵の体を借りて御息所が話しています 「あなたが来てくれるなんて。恋焦がれ、魂が燃え尽きるほど、待ち続けていました」 そして和歌の訳をウェイリー版で見てみますと「スカートの縫い目を縫い合わせるように、どうかあなた、絶望と孤独に千切れたわたしの魂の端切れを、継ぎ合わせて」 人を呪って取り憑いて、さあ言う言葉は恨み言ではなく魂からの切実な願い、めいっぱいのSOSなのですよね 素晴らしい、和歌の訳もなんと叙情的、大好きなシーンです 六条御息所については②の葵上でも書きますので一旦割愛 賢木帖の野宮の別れのシーンも大変素敵ですね
・第15帖 蓬生
ここは末摘花のお話です 右大臣の目論みで光源氏が都を追われ須磨・明石に滞在していた間、多くの女が光源氏への愛を捨てて右大臣へ媚びていました ではその頃末摘花は、というお話ですが、ここは本当にウェイリー版が素晴らしく正直54帖の中で一番感動したところかもしれません(今まで何の感情もなかったことにもよりますが)
末摘花は、大事なものや大切な侍女を手放してもずっとずっと光源氏を待っているのですね 末摘花の頑なな強さと気高さ、彼女の心の美しさがありのまま描かれる素晴らしい帖です
「これほど内気で不器用で、変わったひとには会ったことがありません。それでも彼女の物腰、身のこなしには、誰にもまねできない気品が溢れているのでした。妙に彼女に惹かれます。いえ、実はずっとそうだったのです。だからこそ、彼女を見失いたくなかったのです」
この帖でウェイリー版ではある仕掛けが発動する仕組みになっているのですがそれは一旦後におき③でご紹介したいと思います
・玉鬘十帖より 乙女・胡蝶・蛍・野分
玉鬘十帖は特に源氏が最悪なのですが、その中でも女たちはまばゆく輝いています
乙女帖・胡蝶帖では源氏のお家に一緒に住んでいる紫の上と源氏が預かっている六条御息所の娘秋好中宮の交流が描かれます 彼女たちはそれぞれ春の庭、秋の庭を部屋に持っているのですが、そのお裾分けをしあうのですね 少女らしさのあるふたりが心を通わせるシーンは見どころの一つです 春、紫の上から秋好への歌「〈秋を好む方〉、枯れ草に鳴く松虫を好まれる方、わたしの花園から迷い込んだ蝶の罪を、どうぞお許しくださいませね」
蛍帖は玉鬘のお婿さん選びの話です 布を隔てて玉鬘と蛍兵部卿宮が夜に会うのですが、そこで源氏が悪戯をして蛍兵部卿宮に玉鬘の顔を一瞬見せてしまう 紙の袋に蛍を入れてランタンを作り、それで彼女の顔が照らし出されるようにしたのですね やっていることは最悪なのですが、蛍をランタンにするという発想は美しくて良いなあと思います 蛍帖には有名な紫式部の物語論の場面もありますね
野分帖は嵐の混乱のさなかで夕霧が紫の上を垣間見てしまうシーンが印象的です 嵐が来たという情景と夕霧が紫の上を見てしまって彼女に夢中になる展開が上手に組み合わされ読んでいて楽しいです
・第33帖 藤裏葉
頭中将と光源氏の息子夕霧の交流が藤の花を通して描かれる場面が印象的です 頭中将は娘の雲居の雁と夕霧が愛し合っていることを知っていながら長年仲を割いてきたのですが、とうとうここで雲居の雁を夕霧にやる気になります 途絶えていた交流が藤の花をもって徐々に回復していく姿は見事に美しく思われます
「もし日の光を透かすあの藤の葉のごとく、わたしに心を寄せてくれるなら、もうあなたを疑ったりしないのに」
・第34帖 若菜
若菜帖は確かに上下に分けたほうがいいと思うほど色んなことが起こりますが、何と言っても光源氏の妻となった女三の宮と頭中将の息子柏木の不義の密通があります つまりここでは藤壺の女御と光源氏の密通がリフレインされ、光源氏は自分で冒した罪の罰をここで受けるのですね そして光源氏は藤壺との密通をずっと桐壺帝が知っていたのではないかと閃くのです
今まで大人しい好青年だった柏木が突然転がり落ちるように恋に夢中になっていくさまはある種非常なる美しさを感じさせます 一瞬で恋は燃え、やがて破滅へと一気に加速する それに対して女三の宮が柏木への愛云々よりも光源氏に怒られることを恐れているのがなんともアンバランスで、物語として魅力的なのですね
「驚いたことに、彼女はとても華奢で、威張ったり高慢な様子もありません。ひたすら愛らしく、はにかんだ問い掛けるような、頼りきった目で彼を見上げているのです。彼の良き決意はもろくも崩れ去りました。世のなかも、世の人も、どうでもいい。今誰か危機に瀕しているひとがいても、手を差し伸べようとも思わない」
一人で破滅していく柏木は、光源氏に密通がばれて蔑まれていることを悟りその苦しさから床に臥せってしまいます
「どうしても、このたった一つの行いのせいで、生きる権利をすっかり失ったのだ、という思いが頭にこびりついて離れないのでした」
女三の宮・柏木の間にずっと猫の暗喩があるのも面白いですね
・第35帖 柏木
柏木の病は良くならず、女三の宮のお産も難航するうえ、紫の上が原因不明の病で一時危篤状態になってしまい���す 紫の上と女三の宮の苦しみの原因は、またしても六条御息所の霊でした
ここで身がちぎれるほどの柏木の想いは、六条御息所の切実さに重ねられています だからこその御息所の霊再登場でもあるのです 柏木にも何某かの女の霊がついているということでお祓いをしてもらうのですが、その時の言葉を引いてみます
「ある意味、彼(引用者注 光源氏のこと)の魅力、彼の眩しい輝きのせいで、あんなことがあって以来、ぼくはもう生きてはいけないと思ったんだよ。音楽のリハーサルの晩、あの方に睨まれた瞬間にぼくの魂が裂け、光ある部分はぼくを離れ、はるか遠く彼女のもとへと漂っていき、残ったのは暗い残りかすだけ。だからコジジュウ、ニューパレスでさ迷う魂を見つけたら、あなたの帯にしっかりくくりつけてぼくのもとへ届けておくれ」
ここでは葵帖の六条御息所の歌「なげきわび空に乱るゝわが魂をむすびとゞめよしたがへのつま」が完璧に踏襲されています 柏木の女三の宮への激情は御息所の切実なSOSに繋がる ここで動けなくなるほど自分は感動してしまったのですが皆さんはいかがでしょうか
そしてここで六条御息所が出てくるのは、やはり若菜帖から光源氏の罪が罰として返ってきているからだと思うのです 六条御息所は光源氏の業に振り回され、光源氏に今までも多くの罰を与えてきました ここでもう一度彼女が出てくるということ自体に、この源氏物語に通底する仏教の観念を感じます
そして柏木はそのまま亡くなってしまい、女三の宮も子を産んだ後出家してしまいます 亡くなった柏木の奥さん落葉の宮を柏木の親友であった夕霧が訪ねる場面も叙情的で魅力的です
「オチバが応対してくれるかどうか待つあいだ、ユウギリは庭の木立ちを見つめ、木々だけはこの邸の人びとを襲った悲しみも知らず、なんの躊躇いもなく夏の陽気な色を誇らしげに見せているものだ、と思います」
・第37帖 横笛
柏木の形見である横笛が夕霧から光源氏に渡る(そして柏木の遺児薫へと渡される)お話ですが、そこと関係なく印象的なシーンがあるのでご紹介します
月の綺麗な晩、落葉の宮の家から自宅へ帰ってきた夕霧が、雲居の雁と自分の沢山の子どもたちが床で雑魚寝しているのを見るシーンです
「部屋は子どもたちでごたごたといっぱいでした。ぐっすりと寝入ったあどせない幼な子の顔と、侍女やら乳母やらの一団がどちらを向いても縺れ合って寝ています。またしても彼は、今後にして来たばかりの死んだように静かな御殿と、この混み合った光景とを比べずにはいられません」
夕霧は雲居の雁と落葉の宮も比べ、雲居の雁はなんとわがままで怒りっぽくなってしまったことか、と嘆きます 月を見ながら横笛を吹きうとうとしていると、突然子供の一人が泣き出してしまい、雲居の雁は起きてお世話をします
「お乳を飲もうとしないので乳母たちはひどく心配し、慌てふためいていました。やがてクモイがその子を腕に抱き上げ、ランプのそばに一緒に腰掛けると、髪を耳の後ろにかきあげて、ドレスの前を開きます。彼女の胸の美しい膨らみが照らし出されました。お乳を飲ませようとはせずに、ただ口に乳房をふくませてやります。そしてどうあやしたのか、すぐにその子は泣き止んだのでした」
この場面が私は個人的にとても好きです 夕霧と雲居の雁はこの後言葉を交わし、夕霧は雲居の雁のチャーミングさに感動するのですが、落葉の宮の陰の感と雲居の雁と子どもたちの陽の感の対比がとても美しいと思います
・第40帖 幻
幻帖は紫の上の死後光源氏が出家のために一年を通してさまざまな準備をするお話です 大切な人々へ挨拶にゆき、紫の上との思い出の手紙を泣きながら破り捨てる 執着を消すため、今までの業を清算するため、いわば地獄めぐりといったところでしょうか この幻帖の様相はさながら能「源氏供養」のクセにも似ていて、幻帖自体が光源氏の一生に対するセルフ供養であるような気もするのです 紫の上の手紙を焼く場面は涙なしには読めない場面となっています
このあと空白の物語雲隠帖があり、9年のブランクを経て匂宮帖が始まります 宇治十帖もとても面白いのですがここでは割愛します
ここでは自分なりの読みポイントをご紹介してみましたが、源氏物語(現代語訳)を通読されたことがない方はぜひ一度チャレンジしてみてください 現代に生きる我々でも十分に楽しむことができます
次の記事では②③をまとめてサクッと書きます
長い記事を読んでいただきありがとうございました
1 note · View note
tamanine · 2 years
Text
もしもその日を繰り返せたら/京都
今日はとっても楽しかったから、夕方4時からもう一回同じことしたいね、と夜道で笑い合った。
歩けるんじゃない?と歩き出したら30分かかったことも、途中で見かけた店構えのいい「魚と白ワイン」のお店までまた18分歩いて戻ったことも、全部楽しく、全て偶然で、私たちが対面で会えたことも、歩く間に土砂降りにならなかったことも、ブライアンイーノの展示のソファの位置も、その日見たビジュアルも「77million」分の一だ。
7700万分の1の音と色の移り変わりを眺めて、アンビエントミュージックにぐにゃぐにゃに溶けながら77million分の1を味わう。
笑い合える人の隣でブライアン・イーノを聞けるのは1000million分の1のできごとかもしれない。
全て偶然で、偶然の輝きに満ちた1日、
にんじんのポタージュや鱧のパスタが美味しかったこと、鯛の白ワイン煮、フレッシュな白ワインは今年だけの味わい、
どうしてこんなふうに味わえたの、今日まで生き延びたから味わえたの。
またあなたに優しくしたい、また笑いあえたらいいなと思う。
パーム・スプリングスみたいにその日を繰り返せたら、「agiyao」のメニューを全部食べてみるのに。
2回目のその日が来たら、ブライアン・イーノの展示ですらも同じものになるんだろうか?
この日をまた繰り返せたら。
この日をまた繰り返せたら、あれを止められたのに、という人だっているだろう。
アンドリュー・ヘイ監督の次の作品がアンドリュー・スコット主演で山田太一の小説を薄く原作とすると聞いてとても嬉しく、新幹線で読もうと持ってきていた。
のぞみ89号の席で文庫本を開いてすぐ、後ろの席の3人連れのかたが「銃撃だって」と騒ぎ出した。ほんと?ほんとのニュース?という声を聞きながら新聞社のHPのトップの速報を眺めた。嘘のニュースではないが、現実感が湧かないようなニュース。
『そんなことが起きるわけがない』と思うようなことは、現実にはたまにある。
自分のことでも信じられないようなこと、自分の身に起きてても前と後のタイムラインがうまくつながらないようなこと、何日も『そんなことが起きるわけない』と思うようなこと。
私が楽しい1日を過ごして美味しいものを食べて、このメニューを全部もう一周食べたい、と思う日に、その日を朝から全てやり直せたらと、もっと痛切に思う人もいるだろう、もしもあの時、あの提案をもし止めていたら。
自分が深く傷ついた思い出で、『あの時もしも』はいくつかあるけれども、やっぱり全てはどうにもならず、時間は一方通行でしか流れない。
禅林寺に併設された幼稚園の庭の楽しそうな遊具を眺めていたら雨が降り出し、レーダーを見たら真っ赤だったので慌てて本堂に戻った。
雨脚は強くなり、鯉の泳ぐ池の水面が跳ねる。カエルの声が大きくなる。
庭にいた色んな人たちが建物の中に入り、雨粒が横から跳ねる渡り廊下の水たまりをぴょんと飛ぶ。
椅子と扇風機がある場所から強くなっていく雨を眺める。それが通り雨だと分かっている。いっときの足止め、緑色が鮮やかになる。
地下鉄の駅を目指していたら道を間違え、あまり混んでなかったブルーボトルコーヒーを飲む。
東京で席に座るために並ばなそうなタイミングを見たことが無い。
店員さんが全員驚異的に優しい。
道を間違えて得したな〜と歩いていたら立憲民主党の選挙カーとすれ違い、手を振り合った。
杉本博司が撮影した写真を知っていたので、中学生ぶりに三十三間堂に行く。
心の広い仏さまが戦争や分断や差別なんて望むのかしら?望むのは命と幸福なのではないかしら?そこに戸籍制度なんて関係ないんじゃないかしら、拝金主義のカルト野郎のせいで大勢の人間が困ってるんじゃないかしら、と思う。
軒先に座って風に吹かれる。蝉の声がして、お金が箱に落ちる音が聞こえる。
杉本博司が撮影した写真は早朝の太陽の
露光で行われたものだ。
https://imaonline.jp/articles/interview/20200918hiroshi-sugimoto/#page-1
東に向かって、普段は閉められた扉が開くと、金色の像が朝の光に照らされる。
出来立ての像はどんなに強く光ったんだろう。
あれらはすべて人が彫っている。
人が死にませんように、あの人が死にませんように、あの人が飢えませんように、ずっと先の人たちもその像を眺められますように。
戸籍制度なんてみみっちいことを、薄い金箔を貼りながら、瞳に水晶を入れながら、思うことなんてあるだろうか。
木彫に血なんて関係あるだろうか。
普段はバスが苦手で避けるけれども、東京の渋谷-原宿感覚で歩くと体に悪すぎると往路で分かりバスに乗る。
新幹線からは青空と夏の雲がよく見える。
4 notes · View notes
mouniassn · 7 days
Text
打造美麗的心靈花園
以下一位有緣人分享,來文照登:
唸經和學佛的行為一般人說是修行,近日聽聞一位師姐說,他老公說:「他不是修行人,而是行修人。」
那位師兄話出家師父才是修行人,我們邊行邊修是行修人,聽完之後覺得很有道理,且走且修才是真修行,如果在路上遇到紅燈,沒有等停紅燈,那就不是行修者,沒走在馬路的人,根本也不會有紅綠燈的問題。
人有很多惡習,經過不斷成長和環境的影響,會漸漸地跑出來,如果沒有即時修正改過,惡習就會變成常態。人和樹一樣,小的時候沒教育好,長大後要改變,真的很難,如果又加上上輩子的習氣,應該不是一個難而已。
十幾年前,公司老闆叫我去整理花園,修剪草木,當時聽到有些傻眼,後來回家想想,老闆是因為厚愛我,才叫我做這件事,每天欣賞到美麗的花,把花圃整理的賞心悅目,自己心情好,欣賞到的人心情也好。當時最大的工程,就是修剪庭園的造景樹,門外漢的我拿起大剪刀,真不知如何下手,後來老闆說那就要給你修身養性的工作,要把它們處理的處處圓融。
過了這麼多年,聽到那師姐分享他老公說的行修人,原來我們是要邊行邊修的人,還不及到修行人。樹木長出份外範圍,可以靠人修剪讓它圓滿美麗,人的行為越過本份,要用法律約束,行修人要且走且修,讓人生更為圓滿幸福。
(分享結束)
一個人最大的盲點,就是看不到自己內心的問題,藉由修行,就是在幫我們找出在內心大問題的根源。
想要修正內心的偏差,就要邊修邊行。我們的心總是隨著世間的各種境界起伏,飄盪在各種貪嗔癡慢疑的念頭中,一般人最大的煩惱在哪裡呢?求不到自己想要的利益,得不到想要的功名利祿,就開始煩惱了,經常自私地考慮自己的得失,希望世界都能照自己的意思去運轉,卻經常事與願違,煩惱越修越多。有緣人提到曾被老闆叫去修剪、整理花圃,將花園裡的花草樹木修掉雜草、雜枝,這些花草景觀才能生長得更美好,而人心也是需要修剪,修掉多餘的貪心、執心,心裡面才會更清淨美麗。
淨空法師:「眾生苦難在哪裡?不是他沒得吃,不是他沒得穿,世間富貴人也不少,他的災難跟貧窮人無二無別!最嚴重的災難是什麼?是不覺悟,迷惑顛倒,這是大災大難。」
修行或行修的秘訣是什麼?沒有什麼大祕訣,不過就是讓我們可以從迷惘的心念中覺悟。阿伯說:「聰明才智再高,其實對修行幫助不大,修行要的是安愚守分,佛心永固,任考不倒,任磨不逃。」我們無論在什麼境界當中,都要老實地安住自己,不攀緣、不貪求,以隨緣的心度日。在行修的過程中,修正我們偏離正法軌道的心時,有時會遇到難熬的情況,或遇到更多的障礙與考驗,這就是在跟我們過去根深蒂固的習氣對抗的時刻,此時更要提起經本,好好唸誦經文,或閱讀開示、看看其他人的分享文,藉此打開心中的瓶頸、枷鎖,找出內心的問題,讓行修可以更突破。
〈虛雲和尚開示錄〉:「『努力破除一切妄想。』又修學者,必須依佛戒。戒為無上菩提本,如依佛戒,則不論參禪、念佛、講經、無一不是佛法。若離佛戒,縱參禪、念佛、講經、亦與佛法相違,入於外道。學佛修行,本非向外尋求目的,只為除去自己業障,使不致流轉生死。若了生死。無須行持,故經云:『佛說一切法,對治一切心。若無一切心,即無一切法。』
『有如演戲,人生若夢。』自信自身本來是佛故,一切煩惱,一切相,一切障,皆是顛倒妄想。故修行者,切不可執著,應當放下。所謂萬法皆空,一無所得。《金剛經》云:「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」何以一切世間有為法是如幻無實?此以喻明之。」
人生如戲,別人的人生戲碼怎麼演,與我們不相關,但自己人生的戲碼,是由自己累世編劇而來,要如何在來世將劇本轉往好的方向,就要透過不斷地持戒修持,放下妄想與執著。唯有內心的大覺醒,才能換來人生的安樂、太平。
如今究竟要講「修行」還是「行修」呢?倒不必在這字面上琢磨,重要的是,我們已經走上正法的路上,就要堅持下去,不怕面對自己的缺點與誤區,勇於修正自己累世以來最大的問題,一點一滴地修正。習氣一步步修正、煩惱一天天減少,就像是在幫自己的心靈花園重新修剪、妝點,相信有一天自己的心,就能成為最美麗無瑕的園地!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
0 notes
Text
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
helloharuo tour 2014
Wednesday 16 April 2014
真観は、箱根の旅館に向かった。箱根までは約1時間で到着。この旅館でチェコから来ている観光者Dと初対面。昨年知り合ったチェコの女性Mからの紹介だった。Mは、大学で心理学の教授をしているがその彼女のクラスの生徒の母親が日本に来て箱根に泊まる。その彼女の箱根エリアの観光案内をして欲しいというリクエストだった。真観は快く承知した。9時にDが滞在してい旅館の前で彼女と合流。DとはFacebookで既に繋がっていて何度かメッセージのやり取りをして交流を始めていた。真観は彼女を車に乗せて「helloharuo tour 2014」をスタートさせた。旅館の前には橋が架かっていてその橋の両側に鯉のぼりが何体も風に吹かれて泳いでいた。鯉のぼりの意味をDに話すとチェコではポピュラーで食用するとのこと。真観には新しい情報だった。Dがお茶に興味を示していたので真観は強羅公園に先ず向かった。この公園には茶室があるからだ。強羅公園の入場料は500円。茶室に着いて抹茶とまんじゅうセットで500円。簡易的にサービスされ後は3カ��の茶室を回った。湯を湧かす為の正方形の小さい炉を塞いでいた畳をひっくり返してDに炉について説明すると『畳がこんなに厚いとは知らなかった』と言った。彼女には意外だったんだろう。真観たちがこの茶室を去る時に外国人の団体がやって来た。Dは、彼らの言葉を聞き『ロシア人だわ。チェコ人はロシア人は好ましく思っていない』と言った。真観はその意味を理解していた。それはかつて1968年に起きたロシア侵攻、いわゆる「プラハの春」があったからだ。Dは、チェコでアメリカのパソコン関係の会社の弁護士をしている。歳は真観の1歳上。初めて会った真観だったがDのオープンな性格と真観のオープンな性格がマッチしたのか一緒にいて会話は弾んだ。次に向かったのは富士屋ホテル。ジョンレノンも泊まったと言うホテルならば印象も深まるだろうという真観の案だった。このホテルは、つい先月Kちゃんと訪れたばかりだった。和洋折衷のホテルはDにとっても興味深く感じた様で連れて来て良かったと真観は思った。次に予定していたのは富士山須走口。箱根からR138、そして東富士五湖道路のインターに入った。そして真観は道を間違えたことに気付いた。仕方なく一つ目のIC、山中湖で降りて真観はiPhoneで富士山須走口を検索し一般道路で引き返すことにした。山中湖に差し掛かった時ランチの時間でもあったのでイタリアンレストランを見付けて入ろうとしたら休日だった。これまた仕方なく富士山須走口を見付けることを第一優先と考え車を進めた。まもなく「須走道の駅」を見付けてここでランチを食べることにした。そして真観はやっと富士山須走口に行く為には東富士五湖道路に入っては行けないんだと悟った。「須走道の駅」のレストランは富士山がバッチリ見えるレストランで二人とも「富士山カレーライス」を食べた。このカレーライスのライスは富士山に見立ててライスの盛りつけをしていて日本人の芸の細かさをDは知った。さて食事も終わり富士山須走口に行こうと車を走らせた時更なるどんでん返しがあった。雪でまだ通行止めだというのだ。確かに富士山に雪が積もっているのは茶畑庵からも確認出来ていたがこれは大きな誤算だった。富士山須走口を目指したのはそこから行ける「小富士」に行きたかったからだ。う〜ん、残念。
Dは真観の観光案内にフレキシブルに対応してくれて『富士山が見れればそれで十分』と言ってくれた。真観は気を取り直して古巣十里木高原へと向かった。R469を上り忠ちゃん牧場の先にある富士山絶景スポットに案内。Dは大変感動してくれて何度も真観に感謝を伝えた。今日の富士山は空にガスがあり少し霞んでいたが標高1000mの十里木高原に来たらすこしばかりクリアーに見ることが出来た。そしてさらちょっとした感動をと真観は思い十里木展望台へと向かった。途中真観はDに東京から静岡に引っ越しをするきっかけになった友人のペンションも紹介する。そうやってDとの道中お互いのことを話して打ち解けて行く。Dはご多分にもれず?離婚を経験していたり、その訳あって子育てで子供に辛い思いをさせたことや社会主義時代のチェコの話をしてくれた。真観も出身地から上京しカメラマンになるまでの経緯や日本についての考え等を話した。十里木展望台の駐車場には車が沢山停まっていたが人気はなかった。そして約10分2人は展望台へと登って行く。Dは少々運動不足の日々を送っている様で途中途中立ち止まっては休憩しながら登った。展望台に着くと気持ちよい絶景が待っていた。二人ともこの時ばかりにカメラの機能であるパノラマで撮影をする。そうやって撮りたくなるほど景色はパノラマに広がっていた。当初「小富士」に行く予定で観光案内のスケジュールを組んでいたが諸々で変更となりその分時間に余裕が出来ていた。真観はDに箱根に帰る前に茶畑庵を紹介したいと言った。Dは、茶畑にも興味を持っていたので丁度いいと真観は思った。そして外国からの観光客にとって日本の家屋の造りを見るのも良かろうとの判断だった。茶畑庵の到着すると庵内に入る前にバックヤードにある茶畑に案内した。天気が良ければ富士山が茶畑の向こうにそびえるのだが富士山は雲のベールでかすかにシルエットだけだった。この茶畑庵のバックヤードにある茶畑は茶畑らしい?形状を持ちとてもフォトジェニックである。茶畑庵の中に入ると真観はDに各部屋を紹介した。それはいつも茶畑庵に初めてやって来訪者たちへの恒例の案内。Dは、キッチンや壁の素材に興味を示した。それとバスルームで使う桶は何の為にあるのか?と質問して来た。恐らく日本の旅館に泊まった際に温泉の浴場に置いてあったのだろう。立ちながらシャワーをする欧米人には不思議なモノに写るのだと思う。真観は、バスルームに入って水のないバスタブから水を汲む振りをしてどう使うかをジェスチャーで紹介した。次は寝室そしてリビングと移りオーディオルームやレコードの説明そして坐禅部屋で坐禅の組み方も披露しDにも体験してもらった。英語で禅について説明するのは難解なのでインターネットで調べてほしいと頼んだ。2回に上がり仕事部屋から見える富士山を見たDは真観をうらやましがった。外国人にも富士山は憧れの山ということだろう。ライブラリー室に移ると真観は自身の作品、今回はウェディングアルバムの数々をDに見せた。Dは、一枚一枚ページを丁寧にめくり見ていた。ウェイディングは各国共通項の行事。ウェディングにどれだけの費用が掛かるのかとかどうしてお色直しをするのか興味津々だった。
夕暮れになり時間も6時近くになって来た。そろそろDを箱根の旅館に戻す時間になった。真観は茶畑庵を出発してDに真観が毎朝通う禅寺に案内した。禅寺には枯山水の庭があるのでツアーの最後に紹介したかったのだ。Dは真観の坐禅についての話を彼女なりに汲み取って自分の生活に何かが足りないのかもと気付いた様だった。真観自身がそうだった様に。
もう空は暗くなりヘッドライトを点灯してのドライブになった。朝Dと話した時に旅館でのディナータイムは7時半からだと聞いていたので今回のツアーはそれまでには終えようと真観はスケジュール調整して観光案内をした。
真観の車アーティ21スペシャルが旅館に着いたのは7時13分。 「helloharuo tour」はこうして無事に終える事が出来た。 Dとはこれからもkeep in touchで行こうとハグをして別れた。 いい出会いに感謝。
0 notes
oniwastagram · 2 years
Photo
Tumblr media
📸大徳寺 孤篷庵庭園 / Daitokuji Kohoan Temple Garden, Kyoto 大々的にPRもされていたので特に呟いてなかったけど、本日6月12日が7年ぶりの特別拝観の最終日。 自分も今回初めて拝観しました。撮影は不可🙅で中の写真は紹介できないけど、やはり面白い場所だったので感想だけでも。 . 京都を代表する禅寺の一つ『大徳寺』の山内の最北西部にある塔頭寺院「孤篷庵」(こほうあん)。 作庭家としても有名な大名茶人 #小堀遠州 が開基となり創建。小堀遠州自らが設計を手がけた茶室“忘筌席”や書院“直入軒”、方丈が国指定重要文化財、遠州作庭の『孤篷庵庭園』が国指定名勝となっています。 . 小堀遠州の集大成――ではあるものの、今日見られる建築は1797〜1799年にかけて松江藩主 #松平治郷 #松平不昧 により再建されたもの。 …島根旅行で松平不昧以降の“出雲流庭園”や“不昧流茶室”を沢山見た状態だと、↑これって結構重要な要素な気がしてて。 . 現代のような詳細な設計図🗺があったわけでも写真があったわけでもないので、再建された“孤篷庵”は小堀遠州:7、松平不昧:3…ぐらいの好みが混ざった空間なんじゃないかと(今回、不昧公の筆による“潮音堂”のお軸も掛けられていた)。 . 別のタイミングで参加された方(京都の方)と話して、「赤土・茶砂の庭園って珍しいね」って話になった。やはり自分もそこが気になった。 解説された方によると『(京都の)紫野の土』と言うことなんだけど、それを“見せている”京都の庭園って珍しい。現代の庭でなら重森三玲の『東福寺 霊雲院』や『貴船神社石庭』などあるっちゃあるけど…。 . “伝小堀遠州”の庭園は数あれど、誰かの為に作ったというより自らの為の空間に作庭した庭園で言えば備中高梁の国指定名勝『頼久寺庭園』があり、あそこも茶砂なので“遠州の好み”なのかなーとも思いつつ…、 . 今回孤篷庵を見て思ったのは、孤篷庵で遠州と並ぶキーパーソンである松平不昧に関連した《出雲流庭園・不昧流茶室への、孤篷庵からの影響》という点。 . #出雲流庭園 に茶砂が使われてることが多いのは単純に“出雲地域で産出される砂の色がそうだから(来待石とか)”だと思っていたし、出雲流庭園のスタイルは“沢玄丹が持ち込んだもの”だと思っていたけど、 もしかしたら不昧公は孤篷庵にめちゃくちゃ影響受けて、それを地元に反映したんじゃないの?躙口が無く入口が大きい“不昧流の茶室”って孤篷庵からの影響なんじゃないか、と。 . この辺はあくまで個人の主観・感想だけれど…『孤篷庵』に心から感動した人は備中高梁の #頼久寺 や、 #菅田庵 をはじめとする松江〜出雲の茶室・庭園へ行くときっと面白いと思う。 . そして『孤篷庵』からの影響を出雲に持ち込み、それが現代になり昇華されたのが『足立美術館』の庭園だと思うので、「なんか有名な所でしょ…」と思わずにぜひ足を運んでみてほしいな〜。 . 京都・大徳寺 孤篷庵庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/shoboji-temple-garden-%e6%ad%a3%e6%b3%95%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #jardinjaponais #kyototemple #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #京都特別拝観 #京都特別公開 #特別拝観 #文化財庭園 #おにわさん (孤篷庵) https://www.instagram.com/p/Cer_BrWv41e/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
iseilio-blog · 3 months
Text
絕妙好辭箋
四部備要 集部
上海中華書局 據 錢塘 徐氏校本校刊
袖珍古書讀本
( 一字不解,全文不暢,以至一知半解;一種糊里糊塗的感知與
美感。--網上查無 天下孤本 )
張孝祥
菩薩蠻
東風約略吹羅謨  一簾細雨春陰薄  試把杏花看  濕雲嬌暮寒
佳人雙玉枕  烘酔鴛鴦錦  折得最繁枝  暖香生翠帷 --
范成大
眼兒媚
酣酣日腳紫煙浮  妍暖試輕裘  困人天氣  醉人花底  午夢扶頭
春慵恰似春塘水  一片穀紋愁  溶溶洩洩  東風無力  欲皺還休 --
陸游
朝中措梅
幽姿不入少年場  無語只淒涼  一個飄零身世  十分冷淡心腸
江頭月底  新詩舊恨  孤夢清香  任是春風不管  也曾先識東皇
鳥夜唬
金鴨餘香暖  綠窗斜日偏明  蘭膏香染雲鬟膩  釵墜滑無聲
冷落鞦韆伴侶  闌珊打馬心情  繡屏驚斷瀟湘夢  花外一聲鶯 --
陸淞
瑞鶴仙
臉霞紅印枕 睡覺來冠兒還是不整  屏閒麝媒冷  但眉峰壓翠
淚珠彈粉  堂深晝永燕交飛  風簾露井  恨無人  說與相思  
近日帶圍寬盡 --
韓元吉
好事近
凝碧舊池頭  一聽管弦淒切  多少梨園聲在  總不堪華髮
杏花無處避春愁  也傍野花發 惟有御溝聲斷  似知人嗚咽 --
姚寬
菩薩蠻
斜陽山下明金碧  畫樓返照融春色  睡起掲簾旌  玉人蟬鬢輕
無言空佇立  花落東風急  燕子引愁來  眉愁那得開 --
吳琚
浪淘沙
岸柳可藏鴨  路轉溪斜  忘機鷗鷺立汀沙  呎尺鍾山迷望眼  一半雲遮
臨水整烏紗  兩鬢蒼華 故鄉心事在天涯  幾日不來春便老  開盡桃花 --
辛棄疾
摸魚兒
更能消幾番風雨  匆匆春又歸去  惜春長怕花開早  何況落紅無數
春且住  見說道  天涯芳草無歸路  怨春不語  算只有殷勤  畫簷蛛網
盡日惹飛絮 -
長門事準擬佳期又誤  蛾眉曾有人妒  千金縱買相如賦
脈脈此情誰訴  君莫舞  君不見玉環飛燕皆塵土  閒愁最苦
休去倚危欄  斜陽正在  煙柳斷腸處 --
劉過
醉太平
情高意真  眉長鬢青  小樓明月調箏  寫春風數聲
思君憶君  魂牽夢縈 翠銷香暖雲屏  更那堪酒醒 --
謝懋
驀山溪
厭厭睡起  無限春情緒  柳色借輕煙  尙痠怯  東風倦舞
海棠紅皺不耐晚來寒  簾半捲  日西沉 寂寞閒庭戶 飛雲無據  化作溟濛雨  愁裡見春來  又只恐  愁催春去
惜花人老 芳草夢淒迷 題欲遍  瑣窗紗  總是傷春句 --
陳 亮
水龍吟
鬧花深處層樓  畫簾半捲東風軟  春歸翠陌  平莎茸嫰
垂楊金淺  遲日催花  淡雲閣雨  青寒輕暖 恨芳菲世界
遊人未賞  都付與鶯和燕
寂寞憑高念遠  向南樓一聲歸燕  金釵鬪草  青絲勒馬
風流雲散  羅綬分香  翠 封淚  幾多幽怨  正銷魂又是
疏煙淡月  子規聲斷 --
真德秀
蝶戀花
兩岸月橋花半吐  紅透肌香  暗把遊人誤  盡道武陵溪上路
不知迷入江南去
先自冰霜真態度  何事枝頭  點點胭脂汙  莫是東君嫌淡素
問花花又嬌無語 --
劉光祖
洞仙歌
晚風收暑  小池塘荷靜  獨倚胡床酒初醒  起徘徊  時有香氣吹來
雲藻亂  葉底游魚動影
空擎承露蓋  不見冰容  惆悵明妝曉鸞鏡  後夜月涼時  月淡花低
幽夢覺  欲憑誰省  也應記  臨流憑欄杆  便遙想江南  紅酣千頃 --
蔡 ~
鷓鴣天
病酒厭厭與睡宜  珠簾羅幕捲銀泥  風來綠樹花含笑
恨入西樓月歛眉
驚~盡  怨歸遲  休將桐葉更題詩  不知橋下無情水
流到天涯是幾時 --
洪咨 ~
平沙芳草渡頭村  綠遍去年痕  游絲上下  流鶯來往  無限銷魂
綺窗深靜人歸晚  金鴨水沉溫  海棠影下  子規聲裡  立盡黃昏 --
岳 珂
生查子
芙蓉清夜游  楊柳黃昏約  小院苔深  潤透雙鴛薄
暖玉慣春嬌  簌簌花鈿落  缺月故窺人  影轉闌干角 --
張 錙
昭君怨
念奴嬌
綠雲影裡  把明霞  織就千重文繡  紫膩紅嬌扶不起
好是未開時候  半怯春寒  半便晴色  養得胭脂透
小亭人靜  嫰鶯~破春晝
猶記攜手芳陰  一枝斜戴  嬌艷波雙秀  小語輕憐花總見
爭得似花長久  醉淺休歸  夜深同睡  明日還相守  免教春去
斷腸空嘆詩瘦 --
盧祖~
清平樂
錦屏開曉  寒入宮羅~  脈脈不知春又老  簾外舞紅多少
舊時駐馬香階  如今細雨蒼苔  殘夢不成重理  一雙蝴蝶飛來 --
周文璞
一剪梅
風韻蕭疏玉一團  更著梅花  輕袅雲鬟  這回不是戀江南
只為溫暖  天上人間
賦罷閒情共倚闌  江月庭蕪  總是銷魂  流蘇斜燭花寒
一樣眉尖  兩處關山 --
徐 照
簾景~金線  爐煙袅翠絲  菰芽新出滿盆池  喚取玉瓶天水
買魚兒
意取釵重碧  慵梳~翅垂  相思無處說相思  笑把畫羅小扇
覓春詞 --
俞 灝
南鄉子
欲問東君  為誰重到江頭路  斷橋薄暮  香透溪雲渡
細草平沙  愁入凌波步  今何許  怨春無語  片片隨流水 --
潘 ~
南鄉子
生怕倚闌干  閣下溪聲閣外山  空有舊時山共水  依然
暮雨朝雲去不遠
想見躡飛鸞  月下時時認佩環  月又漸低霜又下  更闌
折得梅花獨自看 --
劉 翰
好事近
花底一聲鶯  花上半鉤斜月 月落烏~何處  點飛英如雪
東風吹盡去年愁  解放丁香結  驚動小亭紅雨  舞雙雙金蝶 --
劉子寰
霜天曉角
橫陰漠漠  似覺羅衣薄  正是海棠時候  紗窗外
東風惡
惜春春寂寞  尋花花冷落  不會這些情味  元不是
念離索 --
張良臣
西江月
四壁空圍恨玉  十香淺捻~~  殷雲度雨井桐凋  雁雁無書又到
別後紁分燕尾  病餘鏡減鸞腰  蠻江荳蔻影連梢  不道參橫易曉
----
宋詞 | 中國文化研究院 - 燦爛的中國文明 (chiculture.org.hk)
宋詞(中國文學):音樂文學,發展歷程,起源,發展,巔峰,四種分類方式,按長短規模分_中文百科全書 (newton.com.tw)
1 note · View note
taiwanindustrynews · 3 months
Text
啟翔輕金屬捐贈防疫門:成為防疫國家隊
在台北市矚目的信義區,集結著最優越的豪宅、商辦和百貨,然而鮮有人注意到構成這些宏偉大樓玻璃帷幕的關鍵元素,正是來自鋁業市占率超過60%的領先者──啟翔輕金屬科技,一家專精於鋁製建材,如帷幕、門窗、板牆、格柵等的台灣「隱形冠軍」企業。
啟翔輕金屬科技在其主要領域已經達到頂尖水平,為提升生產效率和競爭力,他們在桃園新屋區建立了佔地五萬多坪的一條龍鋁產業鏈。這項投資的目標是降低運輸、倉儲、包裝和時間成本,使其服務更加快速而優越。
然而,啟翔輕金屬科技的成長不僅僅止於此。該公司的董事長陳百欽近年來持續拓展至不同的領域,如鋁製家具,並計劃進軍蔚為風潮的露營車、鋁木屋等。他們不僅極大地發揮鋁材的功能性,更致力於打造環保產品,減少對木材的消耗。這種信念和不斷的自我挑戰,使得啟翔輕金屬科技的所有員工都擁有將事情做到最好、隨時因應挑戰的決心和能力。
啟翔輕金屬捐贈防疫門
啟翔輕金屬科技股份有限公司董事長陳百欽表示,王文杰是他先前就讀交通大學EMBA時的指導教授,在學期間受到許多教導,因此本次決定將公司研發的產品捐贈給政大。陳百欽也分享,自臺灣受疫情衝擊以來,公司曾經致贈醫院負壓隔離病房與篩檢站,一直在思考後續還能做些什麼。
「篩檢站讓你知道有沒有被感染,不過只做體內篩檢的話,體外消毒很多人也不知道從何著手。」陳百欽說,因為這樣的想法,他決定讓公司研發單位把其他產品都先停下,專注開發防疫通道產品。而在完成防疫通道後,又花了兩個月尋找適合的藥液。陳百欽指出,該公司的防疫門產品使用奈米銀與二氧化氯,已通過9項SGS驗證證明安全無虞,同時具備優良的殺菌效果。
啟翔輕金屬總經理何基州則解說防疫門的使用方式與相關機制。「走進通道之前,必須先量測體溫、手部酒精消毒,走進去之後就會自動感應並啟動全身性完整的清消。」何基州表示,經過精密的噴嘴調整,防疫通道內的奈米銀由上方微霧噴灑、二氧化氯則從側面清消,就連腳底也會徹底消毒,降低接觸性染疫風險,發揮高效能智慧防疫。
啟翔輕金屬展現的蓄積多年的靈敏應變力
2021年5月,全球新冠肺炎大流行已持續一年多,台灣突然爆發社區感染,每天數百位確診者或接觸者使得醫療系統幾近崩潰。在這個危急時刻,啟翔輕金屬科技展現了多年來積累的靈敏應變力。
陳百欽早在2020年攜手陽明交大EMBA同學共同研發組合式隔離負壓系統,並將其捐贈給國軍桃園醫院、署立桃園醫院新屋分院和桃園榮民醫院。隨後,陳百欽與經營團隊共同致力於研發組合型負壓隔離房、防疫通道和正壓檢疫站等新的醫療防疫產品線。
在疫情最嚴峻的時刻,啟翔輕金屬科技全體員工展現出極高的戰鬥力和拚勁,快速製造正壓檢疫站,並在最短時間內送到機場和全台主要的醫療院所使用。這種高效率和積極進取的態度,讓啟翔輕金屬科技在三個星期內完成了160座檢疫站和20多座負壓隔離病房,甚至比原定交期提前一週。
啟翔輕金屬-德國紅點大獎實力
負責規劃檢疫站內空間配置與組裝結構的伊莫諾家居總經理劉學橋表示,公司原本已經研發出能快速組裝的鋁屋結構,有助於提高製程速度。劉學橋協助設計了六人座移動式正壓檢疫站,允許六位醫護人員分兩線同時進行工作,提升篩檢效能。他強調,疫情結束後,只需將檢疫站的透明窗更換為不透光鋁板,即可百分之百回收再製成山屋或露營用的鋁製小木屋。
伊莫諾家居的另一項斬獲是可依使用者需求量身訂製層架配置的「LIXT所有格」,該產品榮獲2021德國「紅點產品設計大獎」(Red Dot Design Award)和2021綠色產品獎(Green Product Award)。這表明其多變的靈活設計不僅強化了防疫產品的壽命,還使家具更環保和永續。
啟翔輕金屬 董座不忘初心
回顧這次設計製造正壓檢疫站的任務,陳百欽認為公司投入的成本早已超過售價,但他堅持每製造一座檢疫站,自己就捐出兩萬元,累計捐贈超過300萬元。長年投入公益的他認為,這是在國家危急之時應該做的事。他表示:「我是從艱困家庭走出來的農村子弟,創業三十多年來我不斷提醒自己:只要我還有能力,社會哪裡需要幫助,我都不會吝嗇。」
啟翔輕金屬科技的總管理處副總經理陳臆云也強調,儘管這些防疫產品短期內可能不賺錢,但從ESG的角度來看,具有前瞻性的價值。從雲端上的高樓到救急最前線的正壓檢疫站,啟翔輕金屬科技展現了傳統產業與時俱進的正向力量。陳百欽總結道:「我衷心期盼全球新冠疫情能盡快過去,但若再度出現對防疫醫療用品的需求,啟翔隨時待命中!」
延伸閱讀:
全員拼正壓檢疫站,挺醫護不惜停工,啟翔輕金屬科技如何從豪宅帷幕到成為防疫國家隊?
陳百欽:全鋁家具 Emoono 伊莫諾與台灣鋁業大廠啟翔輕金屬,以「為地球多留一棵樹 由鋁開始」
陳百欽永續經營概念
啟翔輕金屬董事長陳百欽循環經濟
把痛點變新商機,啟翔輕金屬科技從代工到品牌「鋁鋁」創新
經濟部產業發展署專訪陳百欽- 啟翔創新園區
陳百欽「15%哲學」多角化帶領啟翔輕金屬科技踏上創新「鋁」途
陳百欽與何基州:啟翔輕金屬科技的研發之心
陳百欽「15%哲學」多角化帶領啟翔輕金屬科技踏上創新「鋁」途
啟翔創新園區鋁金屬業聚落
0 notes
kachoushi · 3 months
Text
各地句会報
花鳥誌 令和6年2月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年11月1日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
星の出るいつも見る山鳥渡る 世詩明 人の世や女に生まれて木の葉髪 同 九頭竜の風のひらめき秋桜 ただし 太陽をのせて冬木の眠りけり 同 生死また十一月の風の音 同 朝湯して菊の香に上ぐ正信偈 清女 懸崖の赤き菊花の流れ落つ 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月2日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
秋空の深き水色限りなし 喜代子 故里は豊作とやら草紅葉 由季子 菊花展我等夫婦は無口なり 同 しぐれ来る老舗ののれん擦り切れて 都 狛犬の阿吽語らず冬に入る 同 謎々のすつきり解けた小春の日 同 杣山の織火となりぬ紅葉山 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月4日 零の会 坊城俊樹選 特選句
綿虫と彼女が指せばそれらしく 瑠璃 梵鐘のはらわたに闇暮の秋 緋路 逝く秋をくづれゝば積み古書店主 順子 綿虫や浄土の風が抜けるとき はるか 太き棘許してをりぬ秋薔薇 和子 弥陀仏の慈顔半眼草の花 昌文 綿虫のうすむらさきや九品仏 小鳥 参道で拾ふ木の実を投げ捨てる 久 綿虫は仏の日溜りにいつも 順子 香煙はとほく菩提樹の実は土に 小鳥
岡田順子選 特選句
腰かける丸太と秋を惜しみけり 光子 九品の印契結ぶや冬近し 眞理子 古に大根洗ひし九品仏 風頭 綿虫や浄土の風が抜けるとき はるか 奪衣婆の知る猿酒の在り処 光子 神無月ならば阿弥陀も金ぴかに 俊樹 蚤の市に売る秋風と鳥籠と 和子 下品仏とて金秋の色溢れ 俊樹 綿虫と彼女が指せばそれらしく 瑠璃 梵鐘のはらわたに闇暮の秋 緋路
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月4日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
ありきたりの秋思の襞を畳みをり かおり 秋日入む落剝しるき四郎像 たかし 返り花ままよと棄つる文の束 美穂 凩や客のまばらな湖西線 久美子 凩のやうな漢とすれ違ふ 睦子 小鳥来る小さなことには目をつむり 光子 流れ星キトラの星は朽ちてゆき 修二 凩に雲や斜めにほどかれて かおり 人肌を知らぬ男のぬくめ酒 たかし 老人が老人負うて秋の暮 朝子 冬の日や吾が影長く汝に触れて 同 身に入むや妣の財布の一セント 久美子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月10日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
秋思消ゆ「亀山蠟燭」点せば 悦子 この町へ一途に滾り冬夕焼 都 新蕎麦を打つ店主にも代替はり 佐代子 添ふ風に方位はあらず狂ひ花 悦子 HCU記号音満つ夜の長し 宇太郎
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月11日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
トランペット響く多摩川冬に入る 美枝子 竹林の風音乾き神の留守 秋尚 公園の隣りに棲みて落葉掃く 亜栄子 句碑の辺の風弄ぶ式部の実 同 新のりの茶漬に香る酒の締め 同 歩を伸ばす小春日和や夫の癒え 百合子 朔風や見下ろす街の鈍色に 秋尚 ぽつぽつと咲き茶の花の垣低き 同 リハビリの靴新調し落葉ふむ 多美女 濡れそぼつ桜落葉の華やぎぬ 文英 露凝りて句碑に雫の朝かな 幸風 大寺の庭きりもなや木の葉散る 美枝子 山寺の風の落葉を坐して聞き 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月13日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
風除の日だまりちよっと立ち話 和魚 風除の分厚き樹林影高き 秋尚 揚げと煮し切り干やさし里の味 あき子 薄日さす暗闇坂に帰り花 史空 渦状の切干甘き桜島 貴薫 切干や日の甘さ溜め縮みたる 三無 風除けをせねばと今日も一日過ぎ 怜 切干や少し甘めに味継がれ 秋尚
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月13日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
確かむる一点一画秋灯下 昭子 幽玄な美女の小面紅葉映ゆ 時江 釣り糸の浮きは沈みし日向ぼこ 三四郎 六地蔵一体づつにある秋思 英美子 赤い靴なかに団栗二つ三つ 三四郎 着飾りて姉妹三人千歳飴 ただし 正装で背中に眠る七五三 みす枝 雪吊の神の恐れぬ高さまで 世詩明 七五三五人姉妹の薄化粧 ただし トランペット音を休めば息白し 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月14日 萩花鳥会
夜鴨鳴く門川住居六十年 祐子 捨てられて案山子初めて天を知る 健雄 ゴルフ玉直ぐも曲るも秋日向 俊文 山茶花や現役もまた楽しかり ゆかり 舟一艘ただぼんやりと霧の中 恒雄 献茶式津和野城下や朝時雨 美惠子
………………………………………………………………
令和5年11月14日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
秋の暮百均で買ふ髪飾 令子 虫食ひの跡そのままに紅葉かな 紀子 背の丸き鏡の我やうそ寒し 同 小春日や杖つく母を見んとする 令子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月15日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
小春日や日々好日と思ひたり 世詩明 禅林を通り来る風秋深し 啓子 何事も無き一日や神の旅 同 炉開きの一花一輪定位置に 泰俊 一本の池に煌めく櫨紅葉 同 三猿を掲ぐ日光冬日濃し 同 立冬こそ自己を晒せと橋の上 数幸 小六月笏谷石は饒舌に 同 如何にせん蟷螂は枯れ僧恙 雪 猫じやらしもて驚かしてみたき人 同 一匹の枯蟷螂に法の庭 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月17日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
小鳥来る赤き実に又白き実に 雪 幽霊の出るトンネルを抜け花野 同 おばあちやん子で育ちしと生身魂 同 見に入みぬ八卦見くれし一瞥に やす香 時雨るるやのつぺらぼうの石仏 同 近松忌逝きし句友の幾人ぞ 同 季は移り美しき言葉白秋忌 一涓 菅公の一首の如く山紅葉 同 落葉踏み歩幅小さくなる二人 同 冬ざれや真紅の句帳持ちて立つ 昭子 今日の朝寒む寒む小僧来たりけり やすえ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月17日 さきたま花鳥句会
からつぽの空に熟柿は朱を灯し 月惑 白壁の色変へてゆく初時雨 八草 六切の白菜余すひとり鍋 裕章 一切の雲を掃き出し冬立ちぬ 紀花 小春日や草履寄せある躙口 孝江 柿を剥く母似の叔母のうしろ影 ふゆ子 いわし雲よせ来る波の鹿島灘 ふじ穂 鵙たける庵に細き煙たつ 康子 雲切れて稜線きりり冬日和 恵美子 水鳥の羽音に湖の明けにけり 良江
………………………………………………………………
令和5年11月18日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
紫のさしも衰へ実紫 雪 蟷螂の静かに枯るる法の庭 同 二人居て又一人言時雨の夜 清女 母と子の唄の聞こゆる柚子湯かな みす枝 還りゆく地をねんごろに冬耕す 真栄 帰省子を見送る兄は窓叩く 世詩明 人に無く芒にありし帰り花 同 香水の口よりとどめさす言葉 かづを 時雨をり故山の景を暗めつつ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月19日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
浮寝鳥日陰に夢の深からむ 久子 呪術にも使へさうなる冬木かな 久 無敵なる尻振り進む鴨の陣 軽象 冬日和弥生も今も児ら走る 同 冬蝶の古代植物へと消えぬ 慶月 谿の日を薄く集める花八手 斉 冬天へ白樫動かざる晴れ間 慶月 青空へ枝先細き大枯木 秋尚 旋回す鳶の瞳に冬の海 久 冬の蜂おのが影這ふばかりなり 千種 水かげろうふ木陰に遊ぶ小春かな 斉
栗林圭魚選 特選句
竹藪の一画伐られ烏瓜 千種 遠富士をくっきり嵌めて冬の晴 秋尚 白樫の落葉急かせる風のこゑ 幸風 切り株に鋸の香遺る冬日和 久子 四阿にそそぐ光りや枯れ芙蓉 幸風 白樫の木洩れ日吸ひて石蕗咲けり 三無 小春の日熊鈴つけしリュック負ひ 同 青空へ枝先細き大枯木 秋尚 寒禽の忙しく鳴ける雑木林 貴薫 草の葉を休み休みの冬の蝶 秋尚 逞しく子等のサッカー石蕗咲けり 亜栄子 甘やかな香放ち桂紅葉散る 貴薫 あづまやの天井揺らぐ池の秋 れい
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月26日 月例会 坊城俊樹選 特選句
薄き日を余さず纏ふ花八手 昌文 耳たぶに冬の真珠のあたたかく 和子 黒松の肌の亀甲冬ざるる 要 雪吊をおくるみとして老松は 緋路 冬空を縫ふジェットコースターの弧 月惑 ペチカ燃ゆフランス人形ほほそめる て津子 上手に嘘つかれてしまふ裘 政江 嘘つつむやうに小さく手に咳を 和子 手袋に言葉のかたち作りけり 順子
岡田順子選 特選句
池一枚裁ち切つてゆく鴨の水尾 緋路 黒松の肌の亀甲冬ざるる 要 自惚の冬の紅葉は水境へ 光子 玄冬の塒を巻きぬジェットコースター 同 光圀の松は過保護に菰巻きぬ 同 ペチカ燃ゆフランス人形ほほそめる て津子 雪吊を一の松より仕上げをり 佑天 不老水涸れをり茶屋に売る団子 要 遊園地もの食ふ匂ひある時雨 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
0 notes
wangwill66 · 4 months
Text
讀萬卷書
H:讀萬卷書很無聊,行萬里路很辛苦。看電視的活衣廚,每日看平板找萬卷書,看旅遊節目觀遊世界。廢人世界的新讀書觀,懶人的觀遊世界路。以點引書,以觀代遊。網路世界很遼闊。「欲知天下事,須讀古今書。學了就用處處行,光學不用等於零。不能則學,不知則問;讀書全在自用心,老師不過引路人。」看「他們在島嶼寫作」介紹王文興,以電影文本的形式,紀錄文學大家。其中王文興教授談及「彷彿名人��能寫回憶錄。」因為有人看,普通人寫回憶錄則自我安慰,自娛娛人。有些人隨物換星移而隱去,有些書卻一直流傳。廢宅論不可取,各依所需,天冷在家,觀音唸佛祖,各唸一本家家經。20231217W7
王文興 (作家)
維基百科:
台灣作家 (1939-2023)
王文興(1939年9月24日—2023年9月27日),男,福建福州人,臺灣小說家。 維基百科
電影: 尋找背海的人
配偶: 陳竺筠; (1969年結婚—2023年結束)
王文興從1966年開始寫作《家變》,在1973年出版,發表後造成軒然大波。這是因為《家變》從內容到形式、情節、結構,語言文字,在當時的台灣文壇都是創新的,甚至創新到被某些人認為是「離經叛道」的「異端」,為了這部作品,台灣文學界曾經開過多次座談會,發表過多篇文章來討論。
古人說「人不登高山,不知天之高也;不臨深溪,不知地之厚也。」
蘇軾在《石鐘山記》一文中,記敘了他深入實地考察,揭開了石鐘山得名之謎的故事。
李時珍爲了完成《本草綱目》的著述,不辭辛勞遠出旅行考察,上山採藥和拜訪有實際經驗的人。
陸遊說:「紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。」
杜甫在《奉贈韋左丞丈二十二韻》中這樣的句子:讀書破萬卷,下筆如有神。
明末畫家董其昌的《畫禪室隨筆》卷二○畫訣中:「讀萬卷書,行萬里路,胸中脫去塵濁,自然丘壑內營,立成鄄鄂。」
古人講讀萬卷書,行萬里路,其實就是王陽明老先生講的知行合一。
「讀萬卷書,行萬里路,有耀自他,我得其助」出自清代梁邵王《兩般秋雨庵隨筆》
趙恆《勸學詩》
勸學詩
宋代:趙恆
富家不用買良田,書中自有千鍾粟。
安居不用架高堂,書中自有黃金屋。
出門莫恨無人隨,書中車馬多如簇。
娶妻莫恨無良媒,書中自有顏如玉。
男兒若遂平生志,六經勤向窗前讀。
人生五堂課:讀萬卷書、行萬里路、閱人無數、名師指路、自己開悟
讀萬卷書
書山有路勤爲徑,學海無涯苦作舟;腹有詩書氣自華,讀書破萬卷 下筆如有神黑髮不知勤學早 白首方悔讀書遲與肝膽人共事 無字句處讀書行萬里路千里之行 始於足下不積跬步無以至千里路遙知馬力日久見人心路漫漫其修遠兮 吾將上下而求索紙上得來終覺淺 絕知此事要躬行閱人無數讀人如讀書 閱人宜閱己邪正看鼻眼 功名看氣宇 事業看精神
古今賢文勸學篇
枯木逢春猶再發,人無兩度再少年。不患老而無成,只怕幼兒不學。長江後浪推前浪,世上今人勝古人。若使年華虛度過,到老空留後悔心。有志不在年高,無志空長百歲。少壯不努力,老大徒傷悲。好好學習 ,天天向上。堅持不懈,久煉成鋼。三百六十行,行行出狀元。冰生於水而寒於水,青出於藍而勝於藍。書到用時方恨少,事非經過不知難。
身怕不動,腦怕不用。手越用越巧,腦越用越靈。三天打魚,兩天曬網,三心二意,一事無成。一日練,一日功,一日不練十日空。拳不離手,曲不離口。刀不磨要生銹,人不學要落後。書山有路勤為徑,學海無涯苦作舟。師傅領進門,修行在自身。熟能生巧,業精於勤。
讀書篇
欲知天下事,須讀古今書。
學了就用處處行,光學不用等於零。
不能則學,不知則問;讀書全在自用心,老師不過引路人。
好曲不厭百回唱,好書不厭百回讀。
讀書貴能疑,疑能得教益。
默讀便於思索,朗讀便於記憶。
初讀好書如獲良友;重讀好書如逢故知。
處處留心皆學問,三人同行有我師。
石鐘山記
朝代:宋代
作者:蘇軾
《水經》雲:“彭蠡之口有石鐘山焉。”酈元以爲下臨深潭,微風鼓浪,水石相搏,聲如洪鐘。是說也,人常疑之。今以鐘磬置水中,雖大風浪不能鳴也,而況石乎!至唐李渤始訪其遺蹤,得雙石於潭上,扣而聆之,南聲函胡,北音清越,桴止響騰,餘韻徐歇。自以爲得之矣。然是說也,餘尤疑之。石之鏗然有聲者,所在皆是也,而此獨以鍾名,何哉?
元豐七年六月丁丑,餘自齊安舟行適臨汝,而長子邁將赴饒之德興尉,送之至湖口,因得觀所謂石鍾者。寺僧使小童持斧,於亂石間擇其一二扣之,硿硿焉。餘固笑而不信也。至莫夜月明,獨與邁乘小舟,至絕壁下。大石側立千尺,如猛獸奇鬼,森然欲搏人;而山上棲鶻,聞人聲亦驚起,磔磔雲霄間;又有若老人咳且笑于山谷中者,或曰此鸛鶴也。餘方心動欲還,而大聲發於水上,噌吰如鐘鼓不絕。舟人大恐。徐而察之,則山下皆石穴罅,不知其淺深,微波入焉,涵淡澎湃而爲此也。舟回至兩山間,將入港口,有大石當中流,可坐百人,空中而多竅,與風水相吞吐,有窾坎鏜鞳之聲,與向之噌吰者相應,如樂作焉。因笑謂邁曰:“汝識之乎?噌吰者,周景王之無射也;窾坎鏜鞳者,魏莊子之歌鐘也。古之人不餘欺也!”
事不目見耳聞,而臆斷其有無,可乎?酈元之所見聞,殆與餘同,而言之不詳;士大夫終不肯以小舟夜泊絕壁之下,故莫能知;而漁工水師雖知而不能言。此世所以不傳也。而陋者乃以斧斤考擊而求之,自以爲得其實。餘是以記之,蓋嘆酈元之簡,而笑李渤之陋也。
《本草綱目》是一部集中國16世紀以前本草學大成的著作,明代萬曆六年(1578年)定稿,萬曆二十三年(1596年)在南京正式刊行,作者為醫學家、藥學家和博物學家李時珍。此著收錄於《四庫全書》,為子部醫家類。
紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。
出自於陸游的《冬夜读书示子聿》
朝代:宋代
作者:陸游
古人學問無遺力,少壯工夫老始成。
紙上得來終覺淺,絕知此事要躬行。
奉贈韋左丞丈二十二韻
朝代:唐代作者:杜甫
同類型的詩文:社交讀書壯志
原文
紈绔不餓死,儒冠多誤身。丈人試靜聽,賤子請具陳。
甫昔少年日,早充觀國賓。讀書破萬卷,下筆如有神。
賦料揚雄敵,詩看子建親。李邕求識面,王翰愿卜鄰。
自謂頗挺出,立登要路津。致君堯舜上,再使風俗淳。
此意竟蕭條,行歌非隱淪。騎驢十三載,旅食京華春。
朝扣富兒門,暮隨肥馬塵。殘杯與冷炙,到處潛悲辛。
主上頃見征,欻然欲求伸。青冥卻垂翅,蹭蹬無縱鱗。
甚愧丈人厚,甚知丈人真。每于百僚上,猥頌佳句新。
竊效貢公喜,難甘原憲貧。焉能心怏怏,只是走踆踆。
今欲東入海,即將西去秦。尚憐終南山,回首清渭濱。
常擬報一飯,況懷辭大臣。白鷗沒浩蕩,萬里誰能馴?
1 
○記事2 
予在廣陵,見司馬端明畫山水,細巧之極,絕似李成。多宋元人題跋,畫譜俱不載,以此知古人之逃名。3 
今年游白下,見褚遂良西升經,結構遒勁,於黃庭像贊外,別有筆思。以顧虎頭洛神圖易之。主人迫欲朱提,力不能有,遂落賈人手。如美人為沙叱利擁去矣。更償之二百金,竟靳固不出。登舟作數日惡,憶念不置。然筆法尚可摹擬,遂書此論,亦十得二三耳。使西升經便落予手,未必追想若此也。4 
書家以豪逸有氣,能自結撰為極則。西昇雖俊媚,恨其束于法,故米漫士不甚賞心。若兒子輩能學之,亦可適俗。因作小楷書記之。5 
送君者自崖而返,君自此遠。宋子京讀莊子至此,遂欲沾巾。予北上,泊寒山為送別諸君子拈之。6 
鬥鵪鶉,江南有此戲,皆在籠中。近有吳門人,始開籠於屋除中,相鬥彌日。復入籠飲啄,亦太平清事。7 
餘與仲醇,以建子之月,發春申之浦,去家百里。泛宅淹旬,隨風東西,與雲朝暮。集不請之友,乘不系之舟。壺觴對飲,翰墨間作。吳苑酹真娘之墓,荊蠻尋懶瓚之蹤,固以胸吞具區,目瞪雲漢矣。夫老至則衰,倘來若寄,既悟炊梁之夢。可虛秉燭之游,居則一丘一壑,唯求羊是群;出則千峰萬壑,與汗漫為侶。茲予兩人,敦此夙好耳。8 
余游閩中,遇異人談攝生奇訣。在讀黃庭內篇,夜觀五藏神,知其虛實,以為補瀉。蓋道藏所不傳,然須斷葷酒與溫柔鄉,則可受持。至今愧其語也。9 
七夕,王太守禹聲,招飲於其家園。園即文恪所投老。唐子畏,郝元敬諸公為之點綴者。是日,出其先世所藏名畫。有趙千里後赤壁賦一軸,趙文敏落花游魚圖,谿山仙館圖。又老米雲山,倪雲林漁莊秋霽,梅道人漁家樂手卷,李成雲林卷,皆希代寶也。餘持節楚藩歸。曾晚泊祭風臺,即周郎赤壁,在嘉魚縣南七十里。雨過,輒有箭鏃於沙渚間出。里人拾鏃視予,請以試之火,能傷人,是當時毒藥所造耳。子瞻賦赤壁,在黃州,非古赤壁也。壬辰五月10 
元李氏有古紙,長二丈許,光潤細膩,相傳四世。請文敏書,文敏不敢落筆,但題其尾。至文徵仲,止押字一行耳,不知何時乃得書之。11 
餘頃驅車彭城,不勝足音之懷。又有火雲之苦,回馭谷水塔上,養痾三月。而仲醇挾所藏木癭爐,王右軍月半帖真跡、吳道子觀音變相圖、宋板華嚴經尊宿語錄示餘。丈室中惟置一床,相對而坐,了不蓄筆研。既雨窗靜間,吳門孫叔達以畫事屬余紀游,遂為寫迂翁筆意。即長安游子,能有此適否?12 
袁尚書賴無𥚛,孫女以餓縊死。尚書善噉,不能饜。每市蜆為晚飧,可竟一斗。有一門生,饋以十金,輒作三封。以一封置袖中,乘月叩窮交之戶。呼輿偕步,以袖中金贈之而別。其貧都由此,然每攜麗伎泛泊,一日不能廢也。13 
楊尚書成,在吳中負物望。其家不貧,而吳中人稱之,不在哀公下。以其淳謹安靜,故令人無可間然耳。尚書過蔡經舊里,曰:「此宋之大賊,乃居此乎?」以為蔡京也,所謂不讀非聖書者耶。14 
張東海題詩金山:「西飛白日忙於我,南去青山冷笑人。」有一名公,見而物色之曰:「此當為海內名士。」東海在當時���以氣節重。其書學懷素,名動四夷。自吳中書家後出,聲價稍減,然行書尤佳。今見者少耳。15 
餘與程黃門同行江南道上,停驂散步。見陂陁紆復,峰巒孤秀。下瞰平湖,澄碧萬頃,湖之外江光吞天,征帆點點,與鳥俱沒。黃門曰:「此何山也?」餘曰:「齊山也。」黃門曰:「子何以知之?」餘曰:「吾知杜樊川所謂江涵秋影者耳。」詢之舟人,亦不能名。但曰:此上有翠微亭。黃門與餘一笑而出,是日步平堤六七里,皆在南湖中。此堤之勝,西湖僅可北面稱臣耳。俗諺云,九子可望不可登,齊山可登不可望。信然。16 
大林寺,在天池之西,有西竺娑羅樹二株。中宴坐老僧,余訪之,能念阿彌陀佛號而已。白樂天詩云:「人間四月芳菲盡,山寺桃花始盛開。」必此寺也。17 
○記游18 
武彞有大王峰,峰極尊勝。故名武彞。君為魏王子騫,曾會群真於此,奏人間可哀之曲。19 
大田縣有七巖臨水。山下皆平田。秋氣未深,樹彫葉落,衰柳依依。20 
洞天巖,在沙縣之西十裏。其山壁立,多松樟。上有長耳佛像。水旱禱,著靈跡。其巖廣可容三几二榻。高三仞餘,滴水不絕。閩人未之賞也,餘創而深索之。得宋人題字石刻十餘處,皆南渡以後名手。詩歌五章。巖下有流觴曲水,徐令與餘飲竟日,頗盡此山幽致。追寫此景,以當紀游。21 
高郵夜泊,望隔堤大湖月色微晦,以為地也。至詰旦,水也。竺典化城,無乃是耶。22 
子行至滕陽,嶧山在望。火靈煙沙,殆不復有濟勝具。是日宿縣中官舍,乃以意造,為嶧山不必類嶧山也,想當然耳。曾游嶧山者,知餘不欺人。23 
呂梁縣瀑三千仞,石骨出水上。憶予童子時,父老猶道之,今不復爾。東海揚塵,殆非妄語。24 
○評詩25 
大都詩以山川為境,山川亦以詩為境。名山遇賦客,何異士遇知己?一入品題,情貌都盡。後之游者,不待按諸圖經,詢諸樵牧,望而可舉其名矣。嗟嗟,澄江凈如練,齊魯青未了。寥落片言,遂關千古登臨之口,豈獨勿作常語哉?以其取境真也。友人錢象先荊南集,不盡象先才情之變。而餘嘗持節長沙,自洞庭而下,漢陽而上,與象先共之。故其取境之真,特有賞會云。抑餘不能游,然好詩。象先能詩,又好游,是安得象先為東西南北之人?窮夫所謂州有九岳有五者。而皆被以奇音雋響。餘得隱幾而讀之。以吾拙而收象先之巧,以吾目而用象先之足,不大愉快哉?26 
東坡云:「詩人有寫物之工。」桑之未落,其葉沃若。他木不可以當此。林逋梅花詩:「疏影橫斜水清淺,暗香浮動月黃昏」,決非桃李詩。皮日休白蓮詩:「無情有恨何人見,月冷風清欲墮時」,此必非紅蓮詩。裴璘詠白牡丹詩。」長安豪貴惜春殘,爭賞先開紫牡丹。別有玉杯承露冷,無人起就月中看。」27 
餘以丙申秋,奉使長沙。至東林寺,時白蓮盛開。土人云:此晉慧遠所種。自晉至今千餘年,惟存古甃與欄楯,而蓮無復種矣。忽放白毫光三日三夜。此花宰地而出,皆作千葉,不成蓮房。餘徘徊久之。」幸此花開,與餘行會。遠公有記云:「花若開,吾再來。」餘故有詩云「泉歸虎谿靜,雲度雁天輕。苔蘚封碑古,優雲應記生。」記此事也。28 
古人詩語之妙,有不可與冊子參者,惟當境方知之。長沙兩岸皆山,餘以牙檣游行其中。望之,地皆作金色。因憶水碧沙明之語。又自岳州順流而下,絕無高山。至九江,則匡廬兀突,出檣帆外。因憶孟襄陽所謂「掛席幾千里,名山都未逢。泊舟潯陽郭,始見香爐峰。」真人語,千載不可復值也。29 
宋人推黃山谷所得,深於子瞻,曰:「山谷真涅槃堂裏禪也。」30 
頃見岱志詩賦六本。讀之既盡,為區檢討用孺言曰:「總不如一句。」檢討請之,曰:「齊魯青未了。」31 
「燈影照無睡,心清聞妙香。」杜少陵宿招提絕調也。予書此於長安僧舍,自後無復敢題詩者。32 
「萬事不如杯在手,一年幾見月當頭。」文徵仲嘗寫此詩意。又樊川翁「南陵水面漫悠悠,風緊雲繁欲變秋。」趙千里亦圖之。此皆詩中畫,故足畫耳。33 
「風靜夜潮滿,城高寒月昏。」「秋色明海縣,寒煙生里閭。」「春盡草木變,雨餘池館青。」「楚國橙橘暗,吳門煙雨愁。」「郭外秋聲急,城邊月色殘。」「眾山遙對酒,孤嶼共題詩。」「氣蒸雲夢澤,波撼岳陽城。」「林花掃更落,徑草踏還生。」「掛席樵風便,開樽琴月孤。」「落日池上酌,清風松下來。」王江寧、孟襄陽,五言詩句。每一詠之,便習習生風。34 
餘見倪雲林自題畫云:十月江南未隕霜,青楓欲赤碧梧黃。停橈坐對寒山晚,新雁題詩小著行。35 
明月照積雪,大江流日夜。客心悲未央,澄江凈如練。玉繩低建章,池塘生春草。秋菊有佳色,俱千古寄語,不必有所附麗,文章妙境,即此瞭然。齊隋以還,神氣都盡矣。36 
李獻吉詩,如「詠月」有云「光添桂魄十分影,寒落江心幾尺潮。」不見集中,自是佳語。唐子畏詩,有曰:「杜曲梨花杯上雪,灞陵芳草夢中煙。」又曰:「秋榜才名標第一,春風脂粉醉千場。」皆學白香山。子畏之才,何須以解首矜詡。其亦唐人所謂今朝曠蕩春無涯,不免器小之誚。37 
唐人詩律,與書法頗似,皆以濃麗為主,而古法稍遠矣。餘每謂晉書無門,唐書無態,學唐乃能入晉。晉詩如其書,雖陶元亮之古淡,阮嗣宗之俊爽,在法書中未可當虞褚。以其無門也,因為唐人詩及之。38 
翰墨之事,良工苦心,未嘗敢以耗氣應也。其尤精者,或以醉,或以夢,或以病。游戲神通,無所不可。何必神怡氣王?造物乃完哉。世傳張旭號草聖,飲酒數斗,以頭濡墨,縱書墻壁上。淒風急雨,觀者歎愕。王子安為文,每磨墨數升,蒙被而臥,熟睡而起。詞不加點,若有鬼神。此皆得之筆墨蹊逕之外者。今觀察王先生,當人日,病不起。據枕作詩二十章,言言皆樂府鼓吹也,乃與彼二子鼎足立矣。39 
東坡讀金陵懷古詞於壁間,知為介甫所作,嘆曰:「老狐精能許,」以羈怨之士,終不能損價於論文。所謂文章天下至公。當其不合,父不能諛子。其論之定者,雖東坡無如荊公何,太白曰:「崔灝題詩在上頭。」東坡題廬山瀑布曰:「不與徐凝洗惡詩。」太白擱筆於崔灝,東坡操戈於徐凝。豈有恩怨哉?
董其昌《評文》
1 
東坡水月之喻,蓋自肇論得之,所謂不遷義也。文人冥搜內典,往往如鑿空,不知乃沙門輩家常飯耳。大藏教若演之有許大文字。東坡突過昌黎歐陽,以其多助。有此一奇也。2 
蘇子瞻表忠觀碑,惟敘蜀漢抗衡不服,而錢氏順命自見。此以賓形主法也。執管者即已遊於其中,自不明了耳。如能了之,則拍拍成令。雖文采不章,而機鋒自契。3 
文章隨題敷衍,開口即涸。須於言盡語竭之時,別行一路。太史公荊軻傳,方敘荊軻刺秦王,至秦王環柱而走,所謂言盡語竭。忽用三個字轉云「而秦法」自此三字以下,又生出多少煙波。4 
凡作文,原是虛架子。如棚中傀儡,抽牽由人,非一定死煞。真有一篇文字,有代當時作者之口,寫他意中事,乃謂注於不涸之源。且如莊子逍遙篇。鷽鳩笑大鵬,須代他說曰:「我決起而飛槍榆枋,時則不至,而控於地而已矣。奚以之九萬里而南為?」此非代乎?若不代,只說鷽鳩笑,亦足矣。又如太史公稱燕將得魯仲連書云:「欲歸燕,已有隙,恐誅;欲降齊,所殺虜,於齊甚眾。恐已降而后見辱,喟然嘆曰:與人辨,我寧自辨。」此非代乎?5 
文有翻意者,翻公案意也。老吏舞文,出入人罪。雖一成之案,能翻駁之。文章家得之,則光景日新。且如馬嵬驛詩,凡萬首,皆刺明皇寵貴妃。只詞有工拙耳。最後一人,乃云:尚是聖明天子事,景陽宮井又何人。便翻盡從來巢臼。曹孟德疑塚七十二。古人有詩云:直須發盡疑塚七十二。已自翻矣。後人又云:以操之奸,安知不慮及於是。七十二塚,必無真骨。此又翻也。6 
青鳥家,專重脫卸。所謂急脈緩受,緩脈急受。文章亦然。勢緩處,須急做,不令扯長冷淡。勢急處,須緩做,務令紆徐曲折,勿得埋頭,勿得直腳。7 
杜子美云:擒賊先擒王。凡文章,必有真種子,擒得真種子,則所謂口口咬著。又所謂點點滴滴雨,都落在學士眼裡。8 
文字最忌排行,貴在錯綜其勢。散能合之,合能散之。左氏晉語云:賈誼政事疏,太子之善,在於早諭教與選左右。早諭教,選左右,是兩事。他卻云心未濫而先諭教,則化易成也。此是早諭教。下云若其服習講貫,則左右而已。此是選左右,以二事離作兩段,全不排比。自六朝以後,皆畫段為文,少此氣味矣。9 
作文要得解悟。時文不在學,只在悟。平日須體認一番,才有妙悟,妙悟只在題目腔子里思之。思之思之不已,鬼神將通之。到此將通時,才喚做解悟。了得解時,只用信手拈神,動人心來。頭頭是道,自是文中有竅,理義原悅人心。我合著他,自是合著人心。文要得神氣,且試看死人活人,生花剪花,活雞木雞,若何形狀?若何神氣?識得真,勘得破,可與論文。如閱時義,閱時令,吾毛竦色動,便是他神氣逼人處。閱時似然似不然,欲丟欲不丟,欲讀又不喜讀,便是他神索處。故窗稿不如考卷之神,考卷之神薄,不如墨卷之神厚。魁之神露,不如元之神藏。試之,自有解人處。脫套去陳,乃文家之要訣。是以剖洗磨煉,至精光透露。豈率爾而為之哉?必非初學可到。且定一取舍,取人所未用之辭,舍人所已用之辭;取人所未談之理,捨人所已談之理;取人所未布之格,舍人所已布之格;取其新,舍其舊。不廢辭,卻不用陳辭;不越理,卻不用皮膚理;不異格,卻不用卑瑣格。格得此,思過半矣。10 
文家要養精神,人一身只靠這精神幹事。精神不旺,昏沉到老,只是這個。人須要養起精神,戒浩飲,浩飲傷神;戒貪色,貪色滅神;戒厚味,厚味昏神;戒飽食,飽食悶神;戒多動,多動亂神;戒多言,多言損神;戒多憂,多憂鬱神;戒多思,多思撓神;戒久睡,久睡倦神;戒久讀,久讀苦神。人若調養得精神完固,不怕文字無解悟,無神氣,自是矢口動人。此是舉業最上一乘。11 
多少伶俐漢,只被那卑瑣局曲情態,耽擱一生。若要做個出頭人,直須放開此心。令之至虛,若天空,若海闊;又令之極樂,若曾點游春,若茂叔觀蓬,洒洒落落。一切過去相、見在相、未來相,絕不里念,到大有入處,便是擔當宇宙的人,何論雕蟲末技?12 
甚矣,舍法之難也。兩壘相薄,兩雄相持,而俠徒劍客,獨以魚腸匕首,成功於枕席之上,則孫吳不足道矣。此捨法喻也。又喻之於禪,達磨西來,一門超出,而億劫脩持三千相;彈指了之,舌頭坐斷,文家三昧,寧越此哉。然不能盡法,而遽事舍法,則為不及法。何士抑能盡法者也,故其游戲跳躍,無不是法。意象有神,規模絕跡。今而後以此爭長海內,海內益尊士抑矣。13 
吾常謂成弘大家,與王唐諸公輩,假令今日而在,必不為當日之文。第其一種真血脈,如堪輿家所為正龍,有不隨時受變者。其奇取之於機,其正取之於理,其致取之於情,其實取之於事,其藻取之於辭。何謂辭?《文選》是也。何謂事?《左史》是也。何謂情?《詩》《騷》是也。何謂理?《論語》是也。何謂機?《易》是也。《易》闡造化之機,故半明半晦,以無方為神。《論語》著倫常之理,故明白正大,以《易》知為用。如《論語》曰:「無適無莫」,何等本易。《易》則曰:「見群龍無首,下語險絕矣。」此則王唐諸公之材料窟宅也。如能熟讀妙悟,自然出言吐氣,有典有則,而豪少佻舉浮俗之習,淘洗殆盡矣。14 
夫士子以干祿故,不能迂其途,以就先民矩矱是或一說矣。不曰去其太甚乎?小講入題,欲離欲合,一口說盡,難復更端,不可稍加虛融乎。股法所貴,矯健不測。今一股之中,更加復句,轉接之痕盡露。森秀之勢何來?不可稍加裁剪乎?古文只宜暗用,乃得一成語。不問文勢夷險,必委曲納之。或泛而無當,或奇而無偶,不可稍割愛乎。每題目必有提綱,即欲運思於題中。又欲回盼於題外,若復快意直前,為題所縛。圓動之處,了不關心,縱才藻燦然,終成下格,不可另著眼乎?諸如此類,更僕莫數。一隅反之,思過半矣。
徐仙真錄序编辑
  天生英才,用之於當時,則能忠君保民,榮膺顯爵。歿則廟祀一方,而其陰功靈貺,猶能闡揚于後世者,實非偶然。蓋天將有意於斯世斯民,而使其至於是也。不然何獨異於人哉。若徐二仙者,槩可���矣。神,海州胸山人也。出偃王之後。其父溫,五代時為吳名將,能建軍功,累遷官至拜相,卒贈齊王,謐忠武。五子皆受王封,曰知證,曰知誇者,即二仙也。天福中,唐主受禪,封知證為江王,知誇為饒王,同鎮金陵。威德兼濟,民庶ㄨ安。率兵入閩,蠻寇迎降,境土寧靜。閩人歸戴;遂立生祠於鰲峰之北,設像以敬事焉。神念其誠,一日,語閩人曰:我明年別汝輩、當默佑玆土。果符前言,於是閩人敬事益虔。而凡旱潦虫蝗之灾,水火寇盜之危,疾病婚葬之請,隨禱隨應,若響若荅。至若摛詞揮翰,雲漢昭回,耀人耳目。自宋以來,累受封號。逮至我朝永樂之間,以神有翊衛聖躬弗豫之功,聿新祠廟,御製碑刻,褒封有加,以昭神貺。由此而觀,則神生為忠臣,歿為明神,其功德有益於國家生民者。如此,豈非天有意於斯世斯民,而使其至於是歟。其祠官方文照,蓋凡神之世系、行實、靈跡、華翰,與夫前代我朝褒封碑刻,恐歲久湮沒失傳,彙成一編,名曰真錄。閩藩總戎盂城孫公,忠義士也,竊嘗觀之,而有感焉,乃捐俸,命工繡梓,以博其傳,命予序引。予謂神聰明正直,其顯跡著于今昔者,皆不出於隱僻怪,誕而至於惑世誣民之患,莫非忠君孝親,仁民愛物之事,蓋士君子之所當為也。其近而耳聞目見者,固-不待是編而知,使遐方僻壤未及見聞者,幸獲一覽,其於為臣為子之道,脩身慎行之方,亦足為一助云耳。是為序。
  正統八年,歲在癸亥秋七月吉日,福建閩縣儒學訓導王用盛序。
補閑集
作者:崔滋
補閑集序編輯
文者蹈道之門,不涉不經之語。然欲鼓氣肆言,竦動時聽,或涉於險怪。況詩之作,本乎比興諷喩,故必寓託奇詭,然後其氣壯,其意深,其辭顯,足以感悟人心,發揚微旨,終歸於正。若剽竊刻畵誇耀靑紅,儒者固不爲也。雖詩家有琢鍊四格,所取者,琢句鍊意而已。今之後進,尙聲律章句,琢字必欲新,故其語生,鍊對必以類,故其意拙。雄傑老成之風,由是喪矣。我本朝以人文化成,賢儁間出,贊揚風化。光宗顯德五年,始闢春闈,擧賢良文學之士,玄鶴來儀。時則王融、趙翼、徐熙、金策,才之雄者也。越景顯數代間,李夢游、柳邦憲以文顯,鄭倍傑、高凝以詞賦進,崔文憲公沖命世興儒,吾道大行。至於文廟時,聲名文物,粲然大備。當時冢宰崔惟善,以王佐之才,著述精妙。平章事李精恭、崔奭,參政文正、李靈幹、鄭惟産,學士金行瓊、盧坦,濟濟比肩,文王以寧。厥後朴寅亮、崔思齊、思諒、李䫨、金亮鑑、魏繼廷、林元通、黃瑩、鄭文、金緣、金商祐、金富軾、權適、高唐愈、金富轍、富佾、洪瓘、印份、崔允儀、劉羲、鄭知常、蔡寶文、朴浩、朴椿齡、林宗庇、芮樂仝、崔諴、金精、文淑公父子、吳先生兄弟、李學士仁老、兪文安公升旦、金貞肅公仁鏡、李文順公奎報、李承制公老、金翰林克己、金諫議君綏、李史館允甫、陳補闕澕、劉沖基、李百順、兩司成咸淳、林椿、尹於一、孫得之、安淳之,金石間作,星月交輝。漢文唐詩,於斯爲盛。然而古今諸名賢,編成文集者,唯止數十家,自餘名章秀句,皆湮沒無聞。李學士仁老略集成篇,命曰破閑,晉陽公以其書未廣,命予續補。強拾廢忘之餘,得近體若干聯,或至於浮屠兒女輩,有一二事可以資於談笑者,其詩雖不嘉,幷錄之。共一部分爲三卷,而未暇雕板,今侍中上柱國崔公,追述先志,訪採其書,謹繕寫而進。
時甲寅四月日。守太尉崔滋序。
0 notes
gotherebnb · 5 months
Text
最美的峽谷【流芳橋】自然的鬼斧神工|太魯閣國家公園
#太魯閣國家公園 的 #流芳橋 是一座美麗的橋樑,位於 #中橫公路 的176.5公里處,恰好在 #錐麓斷崖 與 #九曲洞 之間。 最美的峽谷【流芳橋】自然的鬼斧神工|太魯閣國家公園 最美的峽谷【流芳橋】自然的鬼斧神工|太魯閣國家公園 此地點特殊,因為 #立霧溪 在這裡急轉直下,形成了一個近乎九十度的大轉彎,而流芳橋則巧妙地跨越了這個轉角。 最美的峽谷【流芳橋】自然的鬼斧神工|太魯閣國家公園 站在橋邊的觀景台上,太魯閣國家公園的壯觀景色就在您腳下展開。仰望那些直衝雲霄的山壁,低頭俯瞰那條蜿蜒的清澈溪流,您會發現這裡的每個角落都充滿了自然的鬼斧神工。此景象與 #燕子口 或 #九曲洞 的景致大相徑庭,呈現出…
Tumblr media
View On WordPress
0 notes
misdrnet · 6 months
Text
肇慶市(広東省管轄の地級市)--日本人観光客は広東省肇慶市を歓迎します
肇慶市
広東省管轄の地級市
肇慶市は、広東省が管轄する地級市で、広東省の中西部、珠江デルタの西端に位置しています。 西は広西チワン族自治区の梧州と賀州、南は雲浮、陽江、江門、東は佛山、背後は清遠と隣接しており、発展した沿岸地域から南西部の省までの交通の要衝となっている。 珠江の本流である西江がこの地域を通過し、北回帰線が横切っています。 北嶺を背に西江に面し、上空は滄武市、下は南シナ海を支配しており、広東省西部の喉元であり、「中国の硯の首都」として知られています。 肇慶市は、深い文化遺産と嶺南の雰囲気が色濃い国家歴史文化都市であり、嶺南文化と光復文化の発祥の地と栄華の地の一つである。 同時に肇慶市は中国有数の観光都市、国家庭園都市、国家衛生都市、国家環境保護モデル都市でもある。
中国語の名前
肇慶市
外国人の名前
秀興
所属する地区
中国広東省
地理上の位置
北緯22度47分~24度24分、東経111度21分~112度52分の間
エリア
15,000平方キロメートル
管轄区域
端州区、鼎湖区、高要市、四会市、広寧県、懐済県、豊開県、徳清県
官邸
端州区城中路49号
気候条件
亜熱帯モンスーン気候
有名な風景
七星岩、仙湖、鼎湖山など
肇慶駅、肇慶東駅(高速鉄道駅)
ナンバープレートコード: 広東省 H
ニックネーム
端州
人口
412万人(永住者2022人)
GDP
2,700億元(2022年)
テリトリー所有者
莫玄清、梁漢操、余漢蒙など。
電話の市外局番
0758
郵便番号 市外局番
526000
行政区分
県級市
地元の方言
広東語 - 羅光映画、客家語 (未満)
有名な学校
肇慶大学、広東財政大学など
都市概要
肇慶市は広東省の中部と西部、西江の中流に位置しています。 総面積は15,000平方キロメートル、人口は390万人以上で、端州区、鼎湖区と広寧、徳清、豊開、懐済の4県を統治し、高要、高養の2つの県級市を管理している。省レベルの肇慶ハイテク産業開発区が設立され、2010年9月、国家科学技術部は肇慶ハイテク産業開発区を国家レベルの肇慶ハイテク産業開発区に昇格することを承認した。 。
歴史
宋崇和元年(1118年)肇慶府が設置された。 「趙」は最初の説明で、「清」は縁起であり、宋徽宗は端王と名付けられたため、王位を継承して世界を統治するという縁起を引き寄せたことを意味します。 [1]
春秋戦国時代には白越の地であった。 秦は南海県と桂林県の領土でした。 漢の武帝の元定六年に高要県が設立された。 端州は隋の時代に設立され、後に新安県に変更され、唐の時代に端州が復元されました。 宋崇和の治世元年、肇慶府が設置された。 元の時代には肇慶路と改められた。 明清時代には肇慶県であった。 中華民国では政府が廃止され高要県が残されたが、1949年に肇慶市に再編され、その後西江省管轄の高要県に合併された。 1952 年に広東省中央行政弁公庁に属し、1958 年に肇慶市に返還され、肇慶地域に属しました。 1988年に県級市に昇格した。
肇慶は古代嶺南先住民文化発祥の地の一つで、考古学的発見によると約 14 万年前に肇慶で人間の活動があり、約 1 万年前には新石器時代への移行が始まりました。
約 5,000 年前、肇慶市の先祖はすでに鍬栽培、牧畜、織物、さらに高度な陶器製造を行っていました。 春秋時代後期から戦国時代にかけて領内の墓から出土した青銅器には、中原の殷・周文化や長江流域の楚越文化の影響の痕跡が見られ、重要な文化が残されている。嶺南文化の特徴。
肇慶市は古代端州として知られ、嶺南文化発祥の地の一つです。 中原文化と嶺南文化、中国の伝統文明と西洋文明が早くから交わる地域の一つであり、秦王朝以前には嶺南で最も経済的、文化的に発展した地域の一つであり、かつては政治、西江流域の経済と文化の中心地であり、歴史上「嶺南」として知られている。有名な県」。
秦の時代以前、肇慶は白越に属していた。
秦の始皇帝の 33 年(紀元前 214 年)、秦は白越を平定し、南海県、桂林県、翔県を設立しました。 現在、肇慶市の一部は桂林県と南海県に属している。 秦王朝は四会県を設置し、現在の四会、広寧、懐済などの市と県の全部または一部を管轄区域とし、南海県の管轄下にあった。
南海県の管轄区域は、南東は南シナ海に接し、西は現在の広西チワン族自治区賀州まで、北は南嶺に通じ、現在の広東省東部、広東省北部、中部の一部を含む。広東省および広東省西部。番禺県、龍川県、博羅県、四会県の 4 つの県を統治します (『漢書』の記録によると)。この県は番禺市を統治しています。 現在の広東省の大部分は南海県に属しています。
漢王朝の武帝が南ベトナムを平定した後、現在の高要市、肇慶市、西部の高明市と三水市、東部の雲府市に高要県を設立しました。 現在の広東省には、膠州市が管轄する南海県(広東省中部および東部)全域と、滄武県、合浦県、荊州貴陽県、揚州豫章県の一部が含まれる。 このうち南海県には、掲陽、中粛(現在の清遠)、曾城の3県が秦王朝よりも多かった。
前漢の元定六年(紀元前 111 年)、この地域に 8 県が設置され、四会県は南海県に属し、広新県、謝木県、高要県、豊陽県、端渓県は滄武県に属し、高梁県に属しました。県と臨雲県 郡は合浦県の管轄下にあり、膠州市の管轄下にある。
後漢の建安 25 年(西暦 220 年)、行政区画は前漢から引き継がれました。 三国の呉黄武 5 年 (西暦 226 年) に東漢時代に沿って建設され、大部分は広州に属し、一部は膠州に属しました。 当時、北部(現在の懐済県周辺)は荊州市臨河県に属していた。
西晋太康三年(西暦282年)に9県が設置され、四会県は南海県の管轄下にあり、広新県、端渓県、元渓県、高要県、新寧県、臨雲県は滄武県の管轄下にあった。県、西姆県、鳳陽県は滄武県の管轄下、臨河県の管轄下、広州の管轄下。
東晋永和 7 年(西暦 351 年)、16 県が設置され、4 県に分かれ、すべて広州に属しました。 四会県と淮化県は南海県の管轄下にあり、広新県と高要県は滄武県の管轄下にあり、源渓県、端渓県、豊興県、都城県、金華県、龍祥県、福蓮県は金康県の管轄下にあり、臨雲県の管轄下にある。金康県の管轄下にあり、新興県、南興県、丹島県、平興県は新寧県の管轄下にあります。
南北朝時代 (西暦 420 ~ 479 年)、高要、広新、奉興、五華、端渓、金華、都城、楽城、岳城、降安、安水、浜江、温照、南興、興興、臨雲、甘東、丹東、龍潭県、福納県、博林県、威平県、新照県、華蒙県、花木県、四会県、懐済県、華珠県、平興県、春寧県、肇興県、建寧県、崇化県、西木県、崇徳県、西牧県、開尖県、永谷県の38県、7県に分かれる:南海、滄武、金康、新寧、水建、松龍、臨清、広州、翔州。
西暦 479 年から 502 年まで、龍郷県、羅平県、永西県、浜華県、寧郷県、彰化県、定昌県、保寧県、乾安県、春寧県、永城県、広西チワン族自治区、斉安県、斉建県、林県を含む 11 県が追加されました。 . 彼 4 県は広州と翔州に属します。 西暦 502 年から 589 年まで、広州、成州、建州、新州、龍州に属する 54 の県が設置され、梁天建 6 年 (507 年) 9 月、県は高要県に昇格し、広州都都となりました。高要県のマンションを合併しました。 西江総督および高要総督を務めていた間に、陳覇は西暦 557 年に陳王朝を建国しました。 陳王朝の間、広州のドゥドゥの邸宅は依然として高要を統治していました。
隋の開皇 9 年(西暦 589 年)、同省の高要県が県に改められ、端州が設立され、高要県、端渓県、平興県、楽城県、青台県の 5 県となりました。 隋の大業 3 年 (西暦 607 年)、端州は新安県に改名されました。 当時、肇慶には17の県があり、そのうち四会・華蒙・懐済県は南海県の管轄下にあり、高要・端渓・楽県は5県の管轄下にあった。
七星岩牌坊城、平興、新興、博林、銅陵の7県は新安県の管轄下にあり、龍水、安水、永西の3県は永西県の管轄下にあり、豊川県、都城県は管轄下にある。滄武県の管轄下にあり、建仙県は西平県の管轄下にあり、広州、蓮州、端州、龍州、豊州に分かれています。
唐の開元 29 年 (西暦 741 年) に 20 県が設置され、広州直轄の四会県、懐吉県、華蒙県、綿安県、端渓県、金康県、岳城県、都城県の 7 県に分けられました。各県は広州市の康州市の管轄下にあり、龍水、開陽、鎮南、建水の4県は龍州市の管轄下にあり、高要県と平興県は端州の管轄下にあり、新興県と永順県は新州市の管轄下にある。 ; 豊川県と開建県は豊州県の管轄下にあり、福林県と銅陵県は欽州県の管轄下にある。 南漢乾和 15 年(西暦 957 年)、1 県 6 県に分けて 20 県が設置され、四会県、懐吉県、華蒙県、蓮水県が興公の邸宅の管轄となりました。
北宋の正和元年(西暦 1111 年)、8 県が設立され、第 1 軍の 4 県に分けられました。高要県と四会県は興清軍の管轄下にあり、会済県は広州の管轄下にあり、豊川県は第 1 軍の 4 県に分かれていました。県と開建県は豊州の管轄下にあり、新興県は新州の管轄下にあり、端渓県と龍水県は江州の管轄下にあり、広南東路の管轄下にある。 崇和元年(西暦 1118 年)、宋の徽宗皇帝は興清軍に肇慶県の称号を与え、依然として高要県と四会県を統治していた。
宋の崇和元年(西暦 1118 年)、宋の徽宗皇帝が即位する前に端王の称号を与えられていた趙治は、直接彼に勅書を与え、端州を「端州」に改名しました。 「喜びと縁起の始まり」を意味する肇慶。それ以来肇慶という名前が使われ、現在まで元王朝は魯によって統治され、明と清の王朝は傅によって統治されています。
元朝 17 年(西暦 1280 年)、肇慶大邸は肇慶路と改名され、総支配人の邸宅が設置され、広西路(29 年に広東路に改称)の管轄となりました。 知順元年(西暦 1330 年)に 7 県が設立され、2 道 2 州の管轄下に置かれ、端渓県と龍水県は徳清路に属し、高要県と四会県は肇慶路に属し、豊川県が管轄されました。開堅県は豊州の管轄下にあり、新興県は新州の管轄下にあり、江西省興中州などの管轄下にある。 元朝 15 年 (西暦 1278 年) に、懐済県は湖広興中州賀州などに移され、治正 23 年 (西暦 1363 年) には広西チワン族自治区興中州賀州市に属しました。
明の洪武元年(西暦 1368 年)、肇慶府と改名され、広東正使の管轄となりました。 肇慶県は高要県、四会県、新興県、陽春県、陽江県、徳清県の5県1県を含んでいます。 成化 11 年 (西暦 1475 年) に戦略的位置が分析されて高明県が設立され、成化 14 年に恩平県が設立されました。 嘉靖五年(西暦1526年)には高要東部を分析して三水県を設置し、嘉靖三十八年には四会地域を分析して広寧県を設置した。 万暦 5 年(西暦 1577 年)、龍水県は羅定県(東安県と西寧県を率いる)に昇格し、広東正使の直属となった。 これまで肇慶県がリードしたのは徳清県、高要県、四会県、新興県、陽江県、陽春県、広寧県、高明県、恩平県の1県8県である。 四会寺県は広西チワン族自治区梧州県に属します。
明の嘉靖四十三年(1564年)、広東・広西総督府は広西チワン族自治区梧州から肇慶に移転したが、乾隆11年まで広州に移転しなかった。 182 年間続いた清王朝 (1746 年)。 1646年、朱有朗は肇慶政庁を宮殿として使用し、即位して皇帝を宣言し、名前を永麗と変え、肇慶で兵士と民間人を組織して清朝に抵抗した。
清朝初期には明の制度に従いました。 肇慶県は、広東省の管轄下にある広肇羅島の行政官庁です。 順治6年(西暦1649年)に開平県が設置され、雍正9年(西暦1731年)に鶴山県が設置され、当時肇慶府は徳清県、高要、四会、新興、高明、広寧県、開平県、鶴山県、豊県、四川省、開江県、陽江県、陽春県、恩平県の 12 県があります。 同治9年(西暦1870年)、陽江県が直里県に昇格し、陽春県と恩平県が割譲された。 光緒 34 年(西暦 1908 年)、会済県は梧州県から平楽県の新都庁に移管されました。
清代には、趙洛路、肇陽羅路、広昭路など、省と県の間に道路が設置され、道路プラットフォームのほとんどは肇慶市にありました。 1912 年以降、肇慶市には趙洛軍政府支局、肇陽羅鎮使節所、西北軍太平洋委員会弁公室が次々に設置され、1936 年には 12 県を管轄する広東省第二行政監察局が設置された。
中華人民共和国の成立後、肇慶市は高要県、肇慶市人民政府、肇慶市地方行政弁公庁の所在地となっている。 1988 年 3 月、肇慶市は端州、定湖区と高要、広寧、四会、新興、羅定、雲浮、徳清、雲南、豊開、懐済の 10 県を管轄する地方都市に変更された。 1994 年 4 月 5 日、国務院の承認を得て県レベルの雲浮市が設立され、雲浮、羅定、雲南、新興の 4 つの県レベルの組織が肇慶市の管轄区域から分離され、雲浮市の 1 つが管轄下に置かれた。市が設立されました。 これまで肇慶市は端州市と定湖市の2地区、高要市と四会市の2市(県レベル)、広寧市、徳清市、豊開市、会集市の4県、肇慶市ハイテク産業開発区(国家レベル)を管轄している。レベル)。)。
名前の由来
肇慶市は古代端州として知られ、中国四大硯の最初の端硯の産地です。 肇慶という名前の由来はすべて宋の徽宗皇帝によるものです。 ——端公は皇帝に即位し、自筆で「肇慶府」の三文字を書き、肇慶の地名は今も使われています。
行政区分
肇慶市は3つの市区(端州区、鼎湖区、大王区)、2つの県レベルの市(高要市、四会市)、4つの県(広寧県、懐済県、豊開県、徳清県)を管轄しており、肇慶市国家ハイテク産業開発区(大王市にある市政府から派遣された機関で、県および市レベルでの経済管理および行政承認権を有している)。
市政府は端州区城中路 49 号にあります。
地理と気候
位置範囲とエリア
肇慶市は広東省の中部と西部に位置し、東と南東は仏山市と江門市、南西は雲福市、北と北東は清遠市、西は広西チワン族自治区に隣接しています。 領土全体は北緯22度47分~24度24分、東経111度21分~112度52分の間に位置します。 北回帰線が領土の中央を通っています。 市の総面積は 14,900 平方キロメートルで、州の総面積の 8.31% を占めます。
地形
肇慶市の地形は、北西が高く、東と南が低く、北西から南東に向かって傾斜しています。 中低山と丘陵が主体で平野が少なく、山地、盆地、丘陵、沖積平野などが交互に分布する山地地形を形成しており、中低山と丘陵が市の面積の約81%を占めています。平野と河川水が総面積の 50%、19% を占めます。 山と丘陵は主に北の懐済県、北東の広寧県、西の豊開県と徳清県に分布しています。 河谷平野は四会、高要、定湖、端州など南東部の都市(地区)に分布しています。 市内には 1,000 メートル以上の山が 40 個あり、最高峰は会集県の大超頂 (標高 1,626 メートル) です。 カルスト地形はよく発達しており、石林、洞窟、孤立した峰などの地形を形成しています。たとえば、肇慶市の七星岩、会稽県の燕岩、豊開県の白石岩などがあります。
植生
肇慶市は南亜熱帯の生物の宝庫であり、世界的に有名な貴重な生物が数多く生息しており、広東省の主要な森林地帯の一つである。 自然植生は基本的に南亜熱帯常緑季節風林に属しており、豊開県の鼎湖山と黒石頂自然保護区に代表されます。
水文学
西江と北江はこの都市の 2 つの主要な水系であり、西江は三水区を西から東に流れ、北江と合流して珠江に流れ込みます。 この地域の水質は良好です。
気候
肇慶市は南亜熱帯モンスーン気候に属します。 年間平均気温は21.2℃、1月の平均気温は12℃、7月の平均気温は28.7℃です。 懐済県北部の山間部では冬に霜や雪が見られます。 年間平均降水量は4月から9月に集中して約1,650mm以上、年間蒸発量は1,300mm以上です。 霜が降りない期間は310日から345日です。 春先は曇りや雨が多く、夏と秋は台風の影響を受け、晩秋は寒露や風が強くなり、農業生産に悪影響を及ぼします。
生態系
生態学的地域分布
肇慶市の全域は北緯22度47分~24度24分、東経111度21分~112度52分の間に位置する。 北回帰線が領土の中央部を横切っており、肇慶市は南亜熱帯モンスーン気候に属します。 地形は北西が高く、東と南が低く、北西から南東に向かって傾斜しています。 中低山と丘陵が主で、平地は少なく、山、盆地、丘陵、沖積平野などが交互に分布する山岳地形を形成しており、山と丘陵は主に北の懐吉、北東の広寧、西の豊開に分布しています。そして徳清県。 河谷平野は四会、高要、定湖、端州など南東部の都市(地区)に分布しています。
市の総面積は14,900平方キロメートルで、中低山と丘陵が市面積の約81%を占め、平野と河川が総面積の19%を占めています。 西江と北江が二大都市
水系は西から東に流れ、三水区で北江と合流して珠江に注ぐ。 肇慶市は水質が良く、世界的に有名な貴重な生物が数多く生息する南亜熱帯生物の宝庫であり、広東省の主要な森林地帯の一つである。 自然植生は基本的に南亜熱帯常緑季節風林に属しており、豊開県の鼎湖山と黒石頂自然保護区に代表されます。
自然保護区の建設
鼎湖山自然保護区 :鼎湖山は嶺南の四大名山の一つで、肇慶市の北東18キロメートル、北緯23度10分、東経112度31分に位置する。 北回帰線が通過する地球上のほとんどの場所は砂漠または草原であるため、鼎湖山は中国や外国の学者から「北回帰線のエメラルド」とも呼ばれています。 1956 年、鼎湖山は我が国初の自然保護区となりました。
1979年に、ここはユネスコの「人間と生物圏」プログラムに参加した私の国で最初の保護地域の1つとなり、「人間と生物圏」研究センターを設立し、国際的な学術交流と研究の拠点となりました。 鼎湖山の面積は1,133ヘクタール、最高峰の吉龍山の標高は1,000.3メートルで、麓から山頂まで渓谷熱帯雨林、常緑広葉樹林、亜熱帯季節風常緑広葉樹林、針葉樹林と低木。 保存状態の良い南亜熱帯林は、典型的な帯状常緑広葉樹林であり、400年以上の歴史を持つ原始的な亜熱帯林です。 鼎湖山はその特別な研究価値で国内外に有名であり、中国南部の生物種の「遺伝子の宝庫」であり「生きた自然の博物館」と見なされており、野生の高等植物は 1,856 種あり、そのうち 23 種は野生植物である。国家重点保護植物 鼎湖山に自生する植物は 30 種である。
鼎湖山の多様な生態系と豊富な植物は、動物にとって豊富な食料源と良好な生息地を提供します。 そのため、ここには鳥類 178 種、国家保護動物 15 種を含む哺乳類 38 種など、動物の種類と量が豊富で、1998 年 12 月、中南林業大学森林観光研究センターの測定によると、鼎湖山のマイナスイオン含有量は最高レベルに達し、105,600イオン/立方センチメートルで、中国で測定されたマイナスイオン含有量が最も高い地域となった。 山中にある蝶の谷は、森林、小川、滝などの自然が融合しており、動植物資源が豊富で、全長は 3.1 キロメートルです。 現在、医療、健康維持、普及科学調査、観光などの総合観光プロジェクトの開発を計画しており、投資規模は約2000万元である。
天然資源
天然資源
最新のクラス II 調査データによると、2005 年に市の森林面積は 1,587 万 3,600 エーカーで、市の土地面積の 71.7% を占め、森林面積は 1,405 万 4,700 エーカー、森林被覆率は 65.1% でした。 、緑化率は66.8%、立木在庫は3,742万立方メートル、年間成長量は242万7千立方メートル、成長率は6.5%です。
現在、市には 399 万 1,100 エーカーの生態公共福祉林があり、市の総森林面積の 25.1% を占めています。 商業森林面積は 1188 万 2500 エーカーで、市の総森林面積の 74.9% を占めています。
水資源
西江と北江はこの都市の 2 つの主要な水系であり、西江は三水区を西から東に流れ、そこで北江と合流して珠江に流れ込みます。 西江と北江の本流は両方とも珠江水系に属します。 同地域内の複数年平均流出量は139億5,700万立方メートル。 流域面積が1,000平方キロメートルを超える河川には、西江とその一級支流の合江、新興江、二級支流の東安江、鳳港江、北江とその支流の水江が含まれます。 。 流域面積が100平方キロメートルを超える河川が50本あり、そのうち25本は西江水系に属し、残りの25本は北江水系に属します。 西江本流の水量は全国の主要河川の中で長江に次いで第二位であり、高要水文基地の複数年平均流出量は2,237億立方メートルであり、複数年平均流量は2,237億立方メートルである。毎秒7,100立方メートルです。 西江は広東省と広西チワン族自治区を結ぶ重要な水路で、3,000トンの船舶が下流から肇慶三栄港ターミナルに直接アクセスできます。
肇慶市の複数年平均の地表水資源量は140億立方メートル、地下水資源量は40億立方メートルであるが、水資源の空間的・時間的分布は不均一であり、降雨量は主に4月から4月までの洪水期に集中している。 10月は年間降水量の80%を占めます。 2004 年の同市の降水量は 1,253 mm で、これは長年の平均降水量の 76% でした。 西江、水江、合江から大量の水が供給されるため、乾年は生産や生活用水の使用にほとんど影響を与えません。 市の一人当たりの複数年間の水資源占有量は 3,553 立方メートルです (通過水 2,464 億立方メートルを除く)。 域内の水質は概して良好で、西江、遂江、合江はいずれも国家二級水質基準に達している。 水資源が豊富なため、工業化が加速して水の消費量が増加しても、今後10年間は​​水不足の問題は発生しないと予想されています。 しかし、干ばつ地域や石灰岩地域では依然として局所的な水不足が存在しており、市内では依然として11万6,500人が水を飲むのに困難を抱えている。
鉱物資源
肇慶市では61種類の鉱物が発見されており、そのうち36種類の埋蔵量が確認されている。 主な金属鉱物にはニオブ、タンタル、金、鉄、ビスマス、モリブデン、錫、銅、タングステン、レアアースが含まれ、金鉱物資源は豊富で、35 の鉱床があり、主に高要市、懐済県、豊開県などに分布しています。埋蔵量は91トンで、広東省の「黄金の故郷」として知られています。 非金属鉱物としては、主にセメント用石灰石、フラックス用石灰石、石膏、装飾用花崗岩、建築用花崗岩、陶土、硯、ミネラルウォーター、地熱水などが挙げられます。 硯は肇慶市独特の工芸装飾用石鉱物で、主に西江のカモシカ峡の東側、蘭科山の端渓の岸で産出されることから「端硯」と呼ばれています。 端硯は中国四大名硯の第一位です。 七星岩から鼎湖山に至る北嶺山も硯石の主要な産地である。 区内の老坑、坑仔岩、麻子坑などの硯石の品質が最も良いとされている。 当市の硯石の埋蔵量は約10万立方メートルである。
生物資源
肇慶市は南亜熱帯の生物の宝庫であり、世界的に有名な貴重な生物が数多く生息しており、広東省の主要な森林地帯の一つである。 1993 年の時点で、市は緑化基準を達成していました。 2004 年時点で、市の森林面積は 94 万 8,000 ヘクタール、森林被覆率は 67.4%、現存在庫量は 4,559 万 3,000 立方メートルでした。
自然植生は基本的に南亜熱帯常緑季節風林に属しており、豊開県の鼎湖山と黒石頂自然保護区に代表されます。 市内には 300 科近く、1,200 属以上、2,500 種以上の樹木が自然および人工的に生育しており、その中には 1,000 種以上の樹木や低木が含まれています。 森林の種類は主に松、モミ、薪林です。
国家重点保護の植物は 254 種あり、そのうち一級保護の植物はイチョウ、ソテツ、シルバーモミ、ウォーターマツ、メタセコイアなどの 51 種であり、二級保護にはソテツシダ、福建ヒノキ、緑皮、クスノキ、ナンム、チェッカーウッド、フォールウッド、香木、小豆、紫檀、プラタナス、満州灰、沈香、ハマグリ、ケヤキ、ユーカリなど203種あります。 中国の高要市、四会市、広寧県、豊開県、徳清県は、それぞれシナモン、ミカン、竹、ロジン、ミカンの故郷です。
茶茎竹と桂皮の輸出が国の半分以上を占めています。 市内には、150 種の鳥類、11 種の端足類、20 種の爬虫類、32 種および亜種の哺乳類を含む 210 種以上の陸生野生動物が生息しています。 国家重点保護に指定されている種は 36 種で、その中にはニシキヘビ、オオトカゲ、ウンピョウ、シロエリキジ、キジの 5 種が第 1 級保護に含まれており、第 2 級保護にはマカク、チベット首長国連邦、センザンコウ、大小のハクビシン、マダラヤマネコ、ゴールデンキャット、キジ、ヤケイ、大小の羽のあるニワトリ、オオヤモリ、トラシマカエルなど30種。
旅行リソース
肇慶市は中国第三陣国家級歴史文化都市の一つで、2,200年以上の歴史があり、嶺南文化発祥の地として知られています。 ��安、徳清書院、肇慶古城壁、七星岩崖刻、徳清岳城龍木祖廟は国家重点文化財保護単位である。 星湖風景区は国家重点景勝地であり、国家 AAAA レベルの景勝地です。 市内には地域特色のある代表的な観光資源が95あり、そのうち自然観光資源は58で全体の61%を占めている。 肇慶市の観光資源は質が高く、種類も豊富です。
鼎湖山(景勝地)、七星岩、大石(豊開県)に代表される山地地質景観資源、新湖、西江、合江に代表される水景観資源、鼎湖山(自然保護区)、黒石頂に代表される生態資源(豊開県)、古城壁、岳江塔、端硯に代表される歴史文化資源、徳清龍母祖廟、梅安に代表される宗教民俗資源、肇慶ゴルフリゾート、広心農業生態公園などのレジャー、休暇資源は肇慶市の豊富な観光資源を代表するものです。
自然と人情の融合により、肇慶市の観光資源は他の省に比べて明らかな優位性を持っています。 発掘と統合を経て、七星岩と鼎湖山を中心として、四会鎮山、広寧竹海大展望、懐済延岩とザナドゥ、鳳開龍山と天下第一石、鼎湖葫山と天空を結ぶ都市が形成された。九龍湖、徳清盤龍峡、龍母祖廟、高要広信生態公園からなる「肇慶千里観光回廊」は、市内の観光発展を促進した。
エリア形成
古代には端州として知られた肇慶は、かつて西江流域の政治、経済、文化、軍事の中心地であり、2,200 年以上の歴史を誇ります。 ここは嶺南先住民文化の発祥の地であるだけでなく、中原文化と嶺南文化、西洋文明と伝統的な中国文明が最も早く交わった場所でもあります。 肇慶市は亜熱帯に位置し、温暖湿潤な気候、豊富な植生、多種多様な生物種があり、人間の居住に非常に適している。 北宋時代には「縁起の良い始まり」を意味する肇慶と呼ばれていました。
交通機関
高速道路
2013年末現在、肇慶市の高速道路走行距離は13,382.4キロメートルで、そのうち高速道路は251.317キロメートルである。
広州高速道路、江照高速道路、広佛趙高速道路、肇華高速道路、淮陽高速道路、広河高速道路淮吉~霊峰区間、二光高速道路連州~淮集区間、汕頭~昆明高速道路 高速道路の龍川~淮吉区間と国道321号線、324号線が通過それを通して。
鉄道
鉄道路線:南広鉄道、広佛山趙都市間軽便鉄道、貴広高速鉄道、三毛鉄道(広州~湛江)、六趙鉄道(計画中)
主要鉄道駅: 肇慶駅、肇慶東駅
都市の栄誉
2012 中国の特色を持つ魅力的な都市トップ 200
国家科学技術先進都市(地区)
国家スマートシティパイロット
国立歴史文化都市
中国の優れた観光都市
国立田園都市
国民健康都市
国家環境保護モデル都市
歴史と文化
ダイエット
肇慶市のケータリングは主に広東料理で、北と南の味、中国と西洋のスタイルを組み合わせた地元の味があり、料理、軽食、軽食が統合されています。 主な地元の特産品には、西江の生鮮食品、広寧の筍料理、高要市大湾鎮の舞渓鯉(草鯉)、文清鯉、鼎湖上蘇、肇慶の包み蒸し、豊海杏花鶏、四会仙貝、四会などがあります。ティーチキン、徳清ペニーヌードルなど
民俗芸術
肇慶市懐済の「桂歌劇」は300年以上の歴史を持つ中国でも珍しい歌劇の一つで、魚龍舞、酉の舞、一角獣の白馬の舞、12月の茶摘みの歌などが披露される。 400年間野原で歌われ続けています。
職人技
文房四宝の一つである端硯は肇慶市で産出され、書道の重要な道具の一つである。 端硯は肇慶市の最も有名な特産品である端、つまり端州の略称です。 肇慶端硯、湖壁、ライスペーパー、匯硯は「学問の四宝」とも呼ばれる。 石は純粋で柔らかく、墨跡は耐久性があり、彫刻は精巧で、過去の王朝の貢物として列挙されています。
人口
2013年末時点の常住人口は402万2100人、出生率は5万4300人、出生率は12.34パーセント、死亡者数は2万3400人、死亡率は5.32パーセント、自然増加人口は3万900人、自然増加率は3万900人であった。成長率は7.02‰でした。
肇慶市の地区(県、市)の人口データ
分割
面積 (km²)
居住人口(2010年11月)
肇慶市
14822.19
3918085
端州区
152.30
479344
鼎湖区
552.39
164701
広寧県
2380.00
424128
懐済県
3573.01
814172
豊開県
2723.29
398304
徳清県
2002.80
341197
高養市
2185.62
753357
四会市
1262.96
542882
全国の民間伝承
言語
肇慶市では主に人気のある中国語の方言が 2 つあります。1 つは広州方言としても知られる広東語、もう 1 つは広東語 (一般に俗語として知られています) で、2 つの部分に分かれています。最初の部分は主に分布する広東語です。端州市、定湖市、高要市 ; 2 番目の部分は、四会、徳清、広寧、会集、豊開、ハイテク (大王) 地区に分布する羅光面 (別名: 郭老面) です。
市の総人口の 90% 以上が広東語を話しますが、懐吉県には上方方言と下方方言があるなど、地域ごとに意味や語彙の違いなど、独自の郷土色があります。 2つ目は客家語で、市内で30万人以上が話していて各地に分布しており、その中でも話者数が最も多いのは四会市の約12万人です。 さらに、会集県と豊開県にはチワン語や少数民族のスローガンもある。 チワン語話者は、主に懐済県北部の下水庄、八尾鎮、中州鎮のいくつかの村に住んでおり、人口は約 7,000 人で、北部のチワン族の方言に属しており、広東語を話す漢族の同胞と密接な交流があるため、北部の方言には明らかな違いがあります。
この市には約20万人のスローガン保持者がおり、主に永谷、石東、橋頭、大港、梁村などの会集県の町と、奉開県の河口鎮、金荘鎮、長安鎮の一部の村に分布している。
民族分布
肇慶市には 47 の民族が居住しており、漢民族が最大の人口を誇り、市の総人口の 99.47% を占め、チワン族、ヤオ族、回族、李族、土家族、ミャオ族、満州族、東族を含む 46 の少数民族がいます。 少数民族の中で、チワン族、ヤオ族、回族が最大の民族であり、集団で住んでいます。チワン族は主に、懐済県の下水庄、ヤオ郷、中州鎮に分布しています。ヤオ族は、下水チワン族とヤオ郷に集中しており、回族は主に端州地区に集中しています。 他の少数民族は、主に人材の流入や結婚関係を通じて都市に流入します。 この都市には、最も多くの少数民族が共に住んでいる下水庄と下水の八尾鎮があります。
宗教
肇慶市には、仏教、イスラム教、カトリック、キリスト教を含む 9 つの主要な宗教団体があります。 肇慶市カトリック愛国会とカトリック教務委員会はいずれも 1990 年に設立された。カトリック愛国会の会長と会長は現在空席である。 肇慶市仏教協会は 1989 年に設立され、現在の会長は石念国氏です。 肇慶市キリスト教三自愛国協会は 1989 年に設立され、現在の会長は李道成氏です。 肇慶市キリスト教協会は 1989 年に設立され、現在の会長は劉天慈氏です。
肇慶イスラム協会は 1981 年に設立され、現在の会長は馬昆豪氏です。 2004 年末までに、この都市にはキリスト教徒 3,146 人、カトリック教徒 2,122 人、仏教徒​​ 15,000 人、イスラム教徒 508 人を含む約 20,000 人の宗教信者がいた。 市内には164人の宗教職員がおり、その内訳は仏教信徒53人、尼僧87人(ザイ・ニアンを含む)、イスラム教イマーム2人、カトリック司祭1人、修道女2人、キリスト教の長老3人、説教者16人である。
仏教活動の主な会場は青雲寺、劉祖寺、白雲寺、慈雲寺、宝蓮寺、乾安を含む 8 か所、イスラム教の活動会場は都市部の成西清真寺と成東清真寺など、カトリックの活動会場は 7 か所あります。端州楽竹囲教会、高要上清湾教会、高要黄東教会、キリスト教の活動会場には、端州城中路キリスト教会、四会キリスト教会、広寧キリスト教会、豊海キリスト教会、徳清キリスト教会、高要新橋キリスト教会、高要連塘キリスト教会、および11が含まれます。他の場所。
興味のある場所
旅行リソース
肇慶市は中国第三陣国家級歴史文化都市の一つで、2,200年以上の歴史があり、嶺南文化発祥の地として知られています。 美安、徳清書院、肇慶古城壁、七星岩崖刻、徳清岳城龍木祖廟は国家重点文化財保護単位である。 星湖風景区は国家重点景勝地であり、国家 AAAA レベルの景勝地です。
市内には地域特色のある代表的な観光資源が95あり、そのうち自然観光資源は58で全体の61%を占めている。 肇慶市の観光資源は質が高く、種類も豊富です。 鼎湖山(景勝地)、七星岩、大石(豊開県)に代表される山地および地質景観資源、星湖山、西江、合江に代表される水景観資源、鼎湖山(自然保護区)、生態資源に代表される黒石頂(豊開県)、古城壁、岳江塔、端硯に代表される歴史文化資源、徳清龍母祖廟、美安に代表される宗教民俗資源、肇慶ゴルフリゾート、広新農業生態公園などレジャーと休暇の資源は肇慶市の豊富な観光資源を代表しています。
自然と人情の融合により、肇慶市の観光資源は他の省に比べて明らかな優位性を持っています。 発掘と統合を経て、七星岩と鼎湖山を中心として、四会鎮山、広寧竹海大展望、懐済延岩とザナドゥ、鳳開龍山と天下第一石、鼎湖葫山と天空を結ぶ都市が形成された。九龍湖、徳清盤龍峡、龍母祖廟、高要広信生態公園からなる「肇慶千里観光回廊」は、市内の観光発展を促進した。
自然景観
【興湖風景区】
星湖は国家重点景勝地の第一陣、国家 AAAA 級景勝地の第一陣、全国十大文明景勝地の第一陣の一つである。国内初のISO14000を取得した国家実証景勝地。 星湖は七星岩と鼎湖山の二大景勝地から構成され、面積は約20平方キロメートル、保護区は261平方キロメートルで、広東省で最も有名な観光名所である。
七星岩風景区は肇慶市の北部に位置し、「嶺南第一の不思議」として知られ、5つの湖、6つの丘、7つの岩、8つの洞窟で構成されています。 廊峰、玉屏、獅子、天竺、蟇蟇、仙丈、阿坡などの七つの岩峰が北斗七星のように天空にそびえ立ち、6.5平方キロメートルの湖に埋め込まれ、険しい峰、緑の水、奇岩の絵を形成している。古代寺院の動画と国家重要文化財保護単位である七星岩の断崖彫刻は、中国南部で最大かつ最も保存状態の良い断崖彫刻群です。 仙湖は七星堰の新しいハイライトです。
鼎湖山風景区は肇慶市の中心部から 18 キロメートルの距離にあり、古木や滝がそびえ立ち、我が国初の自然保護区であり、我が国初の世界生物圏保護区の一つである。 中国や外国の科学者からは、北回帰線のオアシスであり、生きた自然の博物館として賞賛されています。 空気中の酸素マイナスイオン含有量は国内最高(105,600イオン/cm3)であるため、「中国No.1の天然酸素バー」の評判を誇っています。 鼎湖山保定園の肇慶九龍保定硯と端渓龍帝硯はともにギネス世界記録に登録されている。 蝶谷は新しく開発された冒険観光ラインで、山の中にある青雲寺は嶺南の 4 つの有名な寺院の 1 つです。
【高要広新農業生態園】
1999年4月に設立されたこの公園は、総面積5,000エーカー以上をカバーし、近代農業の発展と観光のための科学技術農業の促進を目的とした総合開発の実施をテーマとしています。 現代農業モデル区の建設を基礎として、農業と観光を結合し、田園風景、自然生態、環境資源を活用し、農業、林業、畜産、副業漁業生産、農業ビジネス活動、農村習慣を結合して一連の改善を図る。公園は、レクリエーション、エンターテイメントおよび会議トレーニングエリア、環境に優しい農業エリア、エクストリームスポーツアドベンチャーエリア、青少年の質の高い教育エリアの 4 つの主要な機能エリアに分かれています。 農業および生態観光、レジャー休暇、質の高い教育、ビジネス会議を統合したユニークな総合サービスの場を形成します。
【盤龍峡生態観光風景区】
広東省徳清県の北西部に位置し、県庁所在地から23キロメートル離れています。 この景勝地は原始的なエコツーリズムと中国の龍の文化と伝説の聖地であり、面積は 30,000 エーカー以上で、そのうち 20,000 エーカー近くが原生二次林です。 この景勝地には、緑豊かな植物、緑の峰、チリンチリンと音を立てる山の湧き水、鳥のさえずり、香りの良い花、そして新鮮な空気があり、地上の楽園のような雰囲気を醸し出しています。 この景勝地には現在、渓谷ラフティング、滝の驚異、ジップライン、水上「ディスコ」、オフロードレース、山の湧き水プール、黄島坡織物村、興味深い水車、スタイルの木造住宅エリア、と原生林観光プロジェクト。
この景勝地の滝は「アジアでは珍しく、広東初」として知られており、その中でも霊天滝の高さは60メートル以上、騰龍滝の高さは80メートル以上です。 景勝地の原生林は天然の大きな酸素貯蔵庫を形成しており、空気中のマイナスイオン濃度は1立方センチメートルあたり10万個と高く、観光客がリラックスして療養するのに最適な場所です。 「生きた化石」と呼ばれる国家一級保護植物、オランダカイウが景勝地内に点在している。 この景勝地での峡谷下りは「中国戦士の最初の下り」として知られています。
【肇慶ゴルフリゾート】
高要市白図鎮に位置するこのゴルフ コースは、全長 6,638 メートル (7,300 ヤード) の 18 ホールの世界選手権標準ゴルフ コースで、ユーカリの森、146 のバンカー、湖などの自然景観をフェアウェイのデザインに組み込んでいます。 ほぼ自然に近いコース景観で、1998年に「中国ゴルフ」誌により「最も美しい景観コース」に選ばれました。 このコースの No.1 ホールは、その独特なフェアウェイ設計により、2001 年にゴルフ ダイジェスト誌によって「中国のトップ 18 ホール」の 1 つとして評価され、ベスト ゴルフ賞を受賞しました。
ゴルフコースのクラブハウスは山を背にして建てられており、ゴルフコースのさまざまな角度からの景色を一望できます。 ユニークなデザインは、「すべてのメンバーとゲストが、まるで家に帰ってきたかのように、リラックスして自由に感じられるようにする」というリゾートの文化的コンセプトを完全に体現しています。 クラブハウスには、中国料理と西洋料理のレストラン、ゴルフ練習場、フットマッサージ、ホテルスタイルの客室、テニスコート、ジム、多目的会議室、ビリヤード室、子供用娯楽室、釣り台などのサポート施設が備わっています。
【龍山風景区】
豊開県龍山風景区は広東省の省級風景区で、龍山溶岩(中央)風景区、大石風景区、千層峰風景区、蓮都ギャラリー風景区、合江風景区で構成されており、面積は25.34平方キロメートル。 奇妙さ、美しさ、静けさで有名で、花崗岩、石灰岩、砂頁岩などのさまざまな地形の自然景観があります。
龍山の中心景勝地は石灰岩の溶岩の景観で占められており、主に双龍洞、白石岩、龍泉洞、鳥園、民族公演、蓮池潭、龍山湖、桃花島、小松島、観音山、龍石山、獅子などで構成されています。岩亀山や龍山大仏などの景勝地で構成されています。 この景勝地の主な景勝地は、高さ 191.3 メートル、長さ 1365 メートル、幅 695 メートル、周囲 4100 メートル、面積 1101 エーカーの球状の花崗岩の岩塊です。 盤古祠、聖妃宮、梨園、世界一の石碁盤、ロッククライミング、星華山荘など10以上の景観がある。
千層峰風景区は河口鎮に位置し、面積は280ヘクタール、山頂の高さは200メートル以上です。 さまざまな形をした峰は、いずれも堆積性の砂頁岩と地元の石灰質頁岩の層で構成されているため、「千層峰」と呼ばれています。 風光明媚なエリアには、展望台、滝展望パビリオン、水遊びエリア、バーベキューエリア、緑の橋などがあります。 蓮都ギャラリー風景区の面積は14.68平方キロメートルで、龍山風景区が管轄する最大の景勝地であり、カルスト地形と絵のように美しい風景があり、「十マイルギャラリー」と呼ばれています。 和江風景区は和江の下流、白国発電所から江口発電所までの流域に位置し、面積は476.8ヘクタールである。 曲がりくねった川、澄んだ水、そして両側に生い茂る竹林で有名です。
【鎮山風景区】
四会市の南2キロメートルに位置し、標高は648メートルです。 かつて広正山として知られていた鎮山は、唐の大理時代 (西暦 766 ~ 776 年) に殉教者徐家に捧げられ、かつては烈奴山と呼ばれていました。最初は鎮山と改名されましたが、北宋時代に趙真帝のタブーを避けるために鎮山に変更されました。 明の時代には鎮山と改名されました。
鎮山は南から北を向いており、山と丘があり、曲がりくねった小川と澄んだ池があり、緑と霧が深くて美しいです。 雨が上がり空が晴れると、山々は緑に覆われ、風光明媚で、明の時代には「鎮山夕吉」と呼ばれ、四会八景の一つに数えられました。 山の小川は清らかで、一年中滝が流れ続けています。 龍池の横には石の祭壇があり、ここで雨乞いをして民生利益を上げていると言われています。 川には一般に「ウドゥ石カタツムリ」として知られる平尾の妖精のカタツムリがいて、片側には一般に「フナのフライ」として知られる茶色の妖精の魚がいます。 山中には麻青、水鉢、鏡などの幻の石があり、仙人の痕跡とも言われています。
【バンブーシーグランドビュー】
広寧県は全国トップ 10 の竹の町の 1 つです。 竹の植林面積は104万エーカーで、120種類以上があり、国内第1位です。 竹海大観賞区は水江両岸の広大な平野の竹海を利用して造られた観光名所であり、敷地面積は8.13平方キロメートルであり、竹文化風景区、竹海の建設が計画されている。コアエリア、ホテルリゾート、10マイルの竹の廊下。 プロジェクトの第 1 段階は 2003 年 10 月 1 日に完了しました。
当初は「竹いかだに乗って、竹車に乗って、竹の海を見て、竹の子を食べて、竹筒酒を味わって、竹筒ご飯を味わって、竹芯茶を飲んで、船宿に泊まる」という観光ルートが形成されている。 、そして竹工芸品を買うことです。」 伸びる竹の海、ターコイズブルーの水江、エメラルド色の竹の回廊、金色の砂浜、新鮮な空気、奥深い竹文化、そして豊かな竹料理が多くの観光客を魅了しています。
【ヤンヤン】
延岩風景区は会集県橋頭鎮に位置し、省重点景勝地であり、典型的なカルスト洞窟であり、無数のアナツバメが巣を作り、繁殖していることから名づけられた。 私の国の内陸部でアナツバメが生息する唯一の場所です。 洞窟内には清流が流れており、この川は枯れることがなく、船で入ることができます。 「延岩渡船」は古淮陽八景の一つです。 延岩洞の壮大さは、広東省の他の有名な洞窟に匹敵するものはほとんどなく、「世界で最も素晴らしい洞窟」として知られています。 延堰を訪れる際は、延堰の美しい自然景観を楽しむだけでなく、崖の上を飛ぶツバメの巣拾いのスリル満点のスタントも見ることができます。
【鼎湖山風景区】
鼎湖山は肇慶市の北東 18 キロメートルにあります。 鼎湖山は嶺南四名山の第一番目であり、丹霞山、羅浮山、西橋山と合わせて広東四名山と呼ばれています。 北回帰線が通過する地球上のほとんどの場所は砂漠または草原であるため、鼎湖山は中国や外国の学者から「北回帰線のエメラルド」とも呼ばれています。
1956 年、鼎湖山は我が国初の自然保護区となりました。 1979年に、ここはユネスコの「人間と生物圏」プログラムに参加した私の国で最初の保護地域の1つとなり、「人間と生物圏」研究センターを設立し、国際的な学術交流と研究の拠点となりました。 鼎湖山の面積は1,133ヘクタール、最高峰の吉龍山の標高は1,000.3メートルで、麓から山頂まで渓谷熱帯雨林、常緑広葉樹林、亜熱帯季節風常緑広葉樹林などの森林形態が見られる。 。
保存状態の良い南亜熱帯林は、典型的な帯状常緑広葉樹林であり、400年以上の歴史を持つ原始林です。 鼎湖山はその特別な研究価値で国内外によく知られており、中国南部の生物種の「遺伝子保管庫」および「生きた自然博物館」とみなされている。 現在、定湖山には��学生ホテルが建設され、国内外からの学生を低価格で受け入れています。
鼎湖山の景観の主な特徴は森林と滝であり、文豪郭沫若はかつてこの風景を詩に「古木は青々と茂り、小川は長く、龍池には滝と太鼓と葦が舞い散る」と詠んでいます。 「これは鼎湖山の風景を忠実に描写したものです。 青雲古寺は嶺南の四大名廟の一つです。 保定園の「保定九龍」はかつて世界最大で、湖と山が互いに引き立て合っています。 バタフライ バレーには、滝や池、十字に交差する小川、緑豊かな古木、日陰の木々がたくさんあり、蝶が生息し繁殖するのに理想的な場所です。
鼎湖山は鬱蒼とした森林に覆われ、豊富な湧水が湧き、様々な泉や滝を生み出しています。 奥深い自然景観と東西の小川が、天渓風景区、雲渓風景区、そして新しく開発された天湖風景区の二大景勝地を形成しています。 鼎湖山は、レジャーと健康維持、普及科学の調査、宗教的巡礼を目的とした観光地です。
鼎湖山は、健康柔道、ピンインレジデンス、アイグリーンパビリオン、リトリートグラウンドを含む、定湖山で新たに開発された「ピン酸素バレー」観光プロジェクトを新たに開始した。 「健康柔道」では、人と地球のエネルギーとの触れ合いを通じて、足裏のツボを直接刺激・マッサージすることで、観光客の運動中の酸素の効率的な吸収や足湯のフィットネスをサポートします。 「ピン酸素レジデンス」曹寮では、お茶を飲み、滝を眺め、酸素を吸うことで、心臓を清め、肺に潤いを与えるという目的を達成できます。 「アイ・グリーン・パビリオン」では、自然に囲まれ、ピアノを聴き、歌を歌って、心安らぐことができます。 「静かな場所」では、専門家の指導を受けて、健康管理、健康、瞑想の効果を吸い込み、達成します。 専門家の研究によると、マイナスイオンは人体の7系統の30近くの病気に対して抑制、緩和、補助的な治療効果があり、人間の健康と健康に最も明白な影響を及ぼします。
文化的名所
肇慶八景
豊かな時代に志を育み、平和な景観を確立する。 明の宣徳六年(1431 年)から民国四年(1915 年)まで、五回にわたって八景が選定され、頻繁に変更された。 2003 年、慎重な議論、審査、評価を経て、肇慶市の新たな景勝地 8 か所が選定されました。
【星岩霧雨】星岩霧雨は肇慶市八古景勝地の一つで、春と夏の季節の変わり目の毎朝、小雨が降るたびに、七星奇岩の緑の山々が眺められ、霧と霧雨、まさに蓬莱ワンダーランドのようで素晴らしいです。
【鼎湖友生】鼎湖山は広東四名山の第一位に位置し、国家自然保護区でもある。 この景勝地には高い山、深い森林、美しい峰、そびえ立つ古木、緑の木陰、鳥のさえずりや香りの良い花、そして澄んだ水のせせらぎがあり、長い間都市に住んでいる現代人に本当に穏やかで快適な気分を与えます。
【甲冑夜韻】肇慶市七星岩アーチは 1958 年に建設されました。 1998 年の拡張後、敷地面積は 30,000 平方メートルに達し、肇慶市のランドマーク的な建物となりました。 夜になると色とりどりの花火が打ち上げられ、音楽噴水が雲に向かって吹き上がり、野外ステージで歌ったり踊ったりします。 なんという平和と繁栄の光景でしょう。
【宋城浪古】肇慶宋城壁は市の中心部に位置し、宋代の黄胡帝の時代に築かれました。 現在、城壁がそのままの状態で残っているのは全国的にも珍しく、肇慶の歴史文化都市のランドマーク的建造物であり、全国重点文化財保護単位に指定されている。 宋の城壁を登り、過去から学び、現在を理解することは、感情に満ちています。
【下岩清峰】カモシカ峡と兗州は水を隔てており、美しく雄大である。 アンテロープ渓谷はアンテロープランケの 2 つの山に囲まれており、西江は幅 1,000 メートル以上の川面から平均幅 304 メートル、長さ 7.5 キロメートルの急流まで細くなり、峰が重なり合う景観を形成しています。 、深い渓谷、緑豊かな木々、そして空飛ぶ渦潮、霞山滄江の雄大な景色。 峡谷を東へ出るとすぐに、西江の中心に「浮かぶ」硯のような形をした兗州島が見えてきます。 硯と保正は、硯を持って帰らないという伝説と共存しており、島の保公廟には常に善良な人々が敬意を表し、崇敬を集めてきました。 老坑硯はカモシカ峡の南東側の山奥にあり、国内外に有名な端硯の産地である。
【江堤塔影】江浜堤防(一期)は1993年に建設された治水・交通・観光を一体化した都市建設プロジェクトである。 堤防の両側には、北岸の崇禧塔と源奎塔が高く、もう一方は低くなり、南岸の宣峰塔と文明塔に面しています。 西江の両側には4つの塔が天にそびえ立ち、壮観な景色を見せています。
【江塔の雄大さ】岳江塔は数千年の歴史を持っており、前は西江に面し、後ろは星岩岩に寄りかかっており、高く高くあり、周囲の景色を一望することができる。 北伐の初期には葉庭独立連隊がこの建物に設立され、北伐の際に部隊を率いていました。 解放後、朱徳主席は自ら「葉亭独立連隊本部旧地」という碑文を建物の前に高く掲げた。 「風は岳江塔から遠く離れて流れ、心は延河烈図庭園を巡る」と言えます。
【美安祥雪】美安は西暦996年(北宋治道2年)に建てられ、古木に囲まれ静かな環境にあります。 この建築は宋代の木造軸組の形状を完全に残しており、フランス宋代建築の様式を体現しており、嶺南の特色が強く表れており、全国でも非常に珍しい。 梅庵の名前は、禅宗の六祖である恵能がこの地に梅の花を植えたことにちなんで名付けられました。 長い年月を経て修復されてきましたが、明安の昔ながらの魅力が今も残り、毎年冬には梅の花が咲き誇り、香りを漂わせます。
旅行フェスティバル
【仏陀沐浴祭】毎年
旧暦の 4 月 8 日、嶺南の 4 つの有名な寺院の 1 つである定湖山の青雲寺では仏沐浴祭が開催されます。
その日の早朝、仏教徒たちは各堂で焼香や色彩を呈した後、マハーヴィーラ堂に集まり、読経儀式(仏事とも呼ばれる)が行われた。 読経儀式の初めに仏教徒がお経を唱え、その後師が釈迦牟尼仏の化身である小さな玉仏を差し出し、住職が釈迦牟尼仏が生まれたときにそれぞれ温水と冷水を浴びせたという。 、それはドラゴンが水を吐き出して小さなエメラルドの仏陀を入浴させ、さまざまな有名な香りに浸した香水を使って小さなエメラルドの仏陀に油を注ぐようなものです。
儀式の後、��教徒は残った香水を使ってさまざまな花に水を与えます。 仏沐浴祭の1~2日前から、世界中から信心深い男女が続々と訪れ、4月の吉日を待って仏沐浴祭を訪れ、仏陀の加護と良い結果を祈ります。
【徳清岳城龍母誕生日】徳清岳城龍母祖廟(旧名暁通廟)は龍母を記念して建てられ、毎年旧暦5月8日に龍母誕生日祝福式が行われる。ここ。
伝説によると、周と秦の時代、岳城江のほとりに聡明で高潔な少女が住んでいました。彼女は農耕、織物、漁業、牧畜が得意で、不幸や幸運を予言し、あらゆる病気を治すことができました。 彼女は5人のドラゴンの息子を育てました。 雲を動かして雨をまき、環境と人々を守ります。 地元の人々からは龍母と呼ばれ尊敬されている。
毎年旧暦 5 月 8 日が龍母の正式な誕生日で、誕生日期間は旧暦 5 月 1 日から 9 日までで、雰囲気は暖かいです。 祭りが始まるとすぐに、広東省、広西チワン族自治区、香港、マカオ、東南アジアから巡礼船が次々に到着し、競って停泊します。 龍母廟は数日間、煙と爆竹で満たされ、数十万人が線香を捧げて祈りを捧げた。
【淮集ツバメ祭り】毎年旧暦6月の橋頭鎮廟縁日は延岩訪問のお祭りの日でもあります。 その日は大混雑で交通量も多く、すべての村���町から男性、女性、子供たちが燕岩に集まりました。 民謡を聴く、ツバメの巣掘りを鑑賞する、そして桂爾の演劇を鑑賞するのが延岩寺縁日の 3 つの特徴です。
シンプルな民謡のデュエットが盛衰を繰り返しました。歌手のほとんどは唐の衣装を着た若い男女でした。男性は無地のスカーフをかぶり、女性は赤い花を身に着けていました。彼らは質問をしたり、グループで歌ったりして、真実の愛について歌いました。
鳥の巣を掘るために崖を登るスリル満点のアクティビティは、寺院の縁日で最もエキサイティングな部分です。 ツバメ猟師たちは数本の竹竿と麻ロープを使い、高さ60メートル以上の崖を登るのですが、その動作は機敏で正確です。 この独特の技術を達成できるのは、地元のヤン農家3人だけだと聞きました。
Guier Opera は橋頭鎮にある古代のオペラです。 洞窟の入り口の北塔には舞台があり、「ヤンヤン伝説」「豚売りアラン」「賭博を戒める良妻」などが上演され、観客は川を挟んで向かい合って、何層にも重なって、シーンは非常に活気に満ちています。 この場合、旧暦の 6 日の前後 3 日間、数千人の歌手と観客が岩に集まり、絶え間なく流れが続きます。
【徳清孔子祭】毎年9月28日、徳清孔子廟では中国人および世界中の孔子の子孫とともに孔子を偲ぶ式典が行われます。
徳清記念孔子節では、清朝の規定に従って厳粛かつ優雅な公開記念式典が執り行われ、孔子の子孫のために家族の犠牲が手配されました。 時代の特色を反映するため、孔子の追悼式では、孔子の物語についての講演、孔子の名言についての歌合戦、新三字経についての歌合戦などの活動も行われた。
孔子を礼拝する際、伝統的な法服を着た司式者や役人は、孔子を礼拝する音楽が流れる中、ゆっくりと廟の前まで歩き、廟の扉が開くのを待ちました。 廟内では太鼓が360回打ち鳴らされ、行列は一人ずつ大成殿に入り、孔子像に神聖な線香を捧げ、敬礼して追悼文を読み上げた。 式典終了後、「孔子記念歌」が歌われ、続いて孔子一家の犠牲祭典が行われ、社会団体と一般大衆が廟に入場して自由に参拝し、孔子と四人の側室に敬意を表することが許された。イベント全体の雰囲気は厳粛で温かいものでした。
孔子を崇拝する儀式の後、廟は荘園餅、志貢餅、孔子の胸章、孔子の教えの像などを現場の群衆に配布した。
【四会柑橘・翡翠祭り】四会市はオレンジの故郷として有名で、四会柑橘は皮が薄く、甘くて爽やかな味で、残留物がないことで国内外に有名です。 明の時代から、四会節では毎年宮廷への貢物として最高の柑橘類が選ばれていたため、「貢物みかん」と呼ばれていました。
現在、四会には 30 種類以上の柑橘類が栽培されており、まさに柑橘類の王国となっており、広海北線と四環公路の両側には大規模な柑橘類市場も形成されています。
また、四会はビルマ翡翠の加工・販売の世界最大の集散地であり、翡翠の加工・販売に携わる従業員は10万人近く、全国から技術者が集まっており、四会翡翠歩行街には400人以上の翡翠玉歩行者専用道路があり、ティン クウォン マーケットの面積は 30,000 平方メートルで、3,280 以上の露店が並び、毎日午前 3 時から午前 8 時半まで営業しており、全国から観光客や商人が訪れます。このシーンはとても壮観です。
四会市では毎年黄金の秋の季節に、柑橘類の翡翠祭りを開催し、柑橘類の翡翠を中・大規模な商談や文化芸術公演を開催し、柑橘類の試飲や商談を楽しむために世界中からのゲストを集めています。 . .
経済
概要
2013年の域内総生産(GDP)は1,660億700万元で、前年比11.5%増加した。 このうち、第一次産業の付加価値は5.6%増加し、0.8%ポイントの成長を牽引し、第二次産業の付加価値は15.7%増加し、7.5%ポイントの成長を牽引し、第三次産業の付加価値は8.5%増加し、 3.2 パーセント ポイントの成長を推進しました。 3業種の構成は15.8:47.7:36.5となっている。 第三次産業では、卸売・小売業が14.0%増、宿泊・飲食業が3.4%増、金融業が14.2%増、不動産業が10.1%増となった。 常住人口に基づいて計算すると、2013 年の一人当たり地域 GDP は 41,479 元で、10.5% 増加しました。
第一次産業
2013年の穀物の作付面積は20万1,979ヘクタールで、前年比0.6%減少した。 このうち、米作面積は16万6,549ヘクタール(0.6%減)、トウモロコシ面積は9,983ヘクタール(3.2%増)、ジャガイモ面積は2万913ヘクタール(2.4%減)、サトウキビ面積は540ヘクタール、 22.4%減少、石油作付面積は25,354ヘクタール、0.1%増加、野菜作付面積は76,240ヘクタール、4.8%増加。
第二次産業
2013年の指定規模以上の工業企業の付加価値は813億4,500万元で、前年比18.1%増加した。 このうち、軽工業と重工業の観点から見ると、軽工業は16.7%、重工業は18.9%の成長を示し、登録経済類型から見ると、民営企業が22.2%成長するなど、民間産業が最も伸び率が高い。年間を通じて、国有持ち株企業は11.3%成長し、外国投資家、香港、マカオ、台湾からの投資企業は20.4%成長し、企業規模では中堅企業が主な成長ドライバーであり、大企業は20.4%増加した。 17.8%増、中堅企業は24.7%増、中小企業は18.8%増となった。 非鉄金属製錬・圧延加工業は27.2%増、非金属鉱物製品工業は26.0%増、金属製品製造業は20.9%増と、主要3業種が急成長した。
第三次産業
2013年の固定資産投資は1007億7800万元で、初めて1000億元を超え、前年比20%増加した。 通年の消費財小売総額は493億1200万元で、前年比13.8%増加した。 通年の輸出入総額は70億1,700万ドルで前年比10.5%増、うち輸出額は48億2,500万ドルで27.6%増、輸入額は21億9,100万ドルで前年比10.5%増となった。 14.8%減少しました。
2013年の訪日外国人旅行者数は170万2100人で、前年比43.7%減少した。 このうち外国人は42.9%減の16万9千人、香港、マカオ、台湾からの同胞は43.8%減の153万3千人だった。 市が受け入れた観光客のうち宿泊観光客は1,387万8,200人で0.3%減少した。 宿泊旅行者のうち、国内旅行者は1,292万2,000人に達し、5.9%増加した。 同市の観光収入総額は205億8,700万元で、14.7%増加した。
社会
教育する
2012 年、市内には合計 361 の幼稚園、1,372 の小学校、149 の中学校があり、その内訳は省レベルの学校が 16 校、市レベルの学校が 83 校で、21 校増加し、県レベルの学校は 259 校でした。 市内には 8 つの特別支援学校と 32 の指導学級があり、そのうち 1 つは聾学校、7 つは知的障害のある児童のための学校です。 市内には高等学校が 32 校あり、一般学部が 1 校(肇慶学院)、一般大学が 3 校(肇慶科学技術職業技術学院、肇慶工商職業技術学院、肇慶医科大学)、成人がいる。高等教育学校 1 校、中等職業学校 32 校(一般工業中等学校、成人工業中等学校、高等専門学校、専門学校、私立中等職業教育機関を含む)、私立教育機関 288 校、および郷鎮成人文化専門学校 106 校。 「第10次5カ年計画」期間中、本市の高等学校総入学率は54.42%に達し、高等教育総入学率は16.39%に達した。
2013 年には、あらゆるレベルと種類の教育(非学術研修を除く)で 274,700 人の学生が在籍し、前年比 0.9% 増加し、895,700 人の学生が在籍し、2.3% 減少し、256,700 人の卒業生は前年より減少しました。 4.2%。 このうち、特殊教育の就学者数は 0,300 人、学校の生徒数は 1,800 人で、136,400 人の子どもたちが就学前教育を受けています。
2014 年、肇慶市工商職業技術学院は広東省工商職業技術学院に改名されました。 2014 年 5 月、教育部の同意と広東省人民政府の承認を得て、肇慶市科学技術専門学校は全日制の応用技術総合高等教育機関に格上げされ、広東省に改名されました。技術研究所。
科学技術
端州古城 - 肇慶の歴史と文化の証人 2013年末時点で、県レベル以上の国営研究開発機関、科学技術情報・文書機関が18か所あった。 大企業と中堅企業の技術開発機関は前年と同じ 58 機関である。 同市の科学研究および実験開発(R&D)職員数は9,300人年(フルタイム相当)で、前年比3.2%増加した。 同市の研究開発支出は約14億9,500万元で、19.1%増加した。
2013年には省・省レベル以上の科学技術成果が9件(登録実績ベース)あり、年間の特許出願件数は1,777件で、前年比14.6%増加した。発明特許は295件、8.7%減少。 付与された特許の数は1,288件で9.8%増加し、その内発明特許は116件で18.4%増加した。 特許協力条約(PCT)に基づく国際特許出願件数は14件で前年と同じだった。 年間を通して、各レベルの科学技術行政部門によって2件の技術契約が登録され、取引額は237.6万元となった。 市内にはハイテク企業が108社あり、ハイテク製品の生産額は約705億元で、前年比1.6%増加した。 5つの国家レベルのイノベーションプラットフォームを持っています。 26 の省工学研究センターが設立されました。 21 の省レベルの技術革新専門都市と 31 の市レベルの都市が認定されています。
コミュニケーション
2013年の郵便・通信事業総額は40億7,300万元で、前年比8.7%増加した。 このうち、郵便事業の総額は3億8,100万元で42.8%増加、通信事業の総額は36億9,300万元で6.1%増加した。
メディア
2013 年末時点で、市内には 9 か所の文化センター、県レベル以上の公共図書館 9 か所、博物館と記念館が 9 か所ありました。 市内にはラジオ局が7局あり、ラジオとテレビの総合人口カバー率は100%です。 ケーブルラジオとテレビの利用者は55万400人、ケーブルデジタルテレビの利用者は19万2100人で、前年末比それぞれ2.6%、2.1%増加した。 年間を通じて 1,694 万部の新聞が発行されました。 市内には12の文書館があり、82万1,100冊の文書が所蔵されており、そのうち9つの総合文書館は38万1,600冊の文書を所蔵しています。
健康
2013年末現在、市内には3,248の各種医療・保健機関があり、そのうち146の病院と保健センター、7の母子保健機関、8の専門疾病予防・治療機関、7の疾病予防・管理機関、 7つの健康監督機関。 病院と保健センターのベッド数は 12,688 床で、6.9% 増加しました。 さまざまな種類の保健技術者は11.5%増の1万8,792人で、内訳は勤務医と勤務助手が6,122人、正看護師が7,156人、疾病予防管理機関の保健技術者が329人、保健監督機関の保健技術者が100人であった。 市内には合計 30 の地域保健サービス機関、96 の郷保健センター、2,411 の郷保健センターの病床、3,896 人の郷保健センターの保健技術者がいます。
体育
2013 年末の時点で、市のスポーツ システムには 1,627 人の選手と 79 人のフルタイム コーチがいます。 アスリートは国内外の主要な大会で 25 回の国内選手権で優勝しています。
有名人
肇慶市は、漢代の有名な古典学者である陳琴と陳源、唐代の広東省と広西チワン族の最初の学者である莫玄卿、そして禅など、時代を経て数多くの優れた人物を輩出してきました。禅宗の第一人者、師頭西謙師。 唐代の作家兼書家の李勇、日本の僧侶栄瑞、禅宗の恵能、北宋の有名な大臣鮑正(肇慶の知事を3年間務めた)、イタリアの宣教師羅明健、革命の先駆者孫文、肇慶市には北伐のスター、イェ・ティンやその他多くの歴史的人物の遺物が残されています。
0 notes