「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
通巻第8118号
孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れに次ぐ」
つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
(十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
9 notes
·
View notes
The Gold and Silver Expenditure and Receipt Book (金銀出入帳)
The "Gold and Silver Expenditure and Receipt Book" is a record of the Shinsengumi’s receipts and disbursements, covering the period from the 14th day of the 11th month, Keio 3 (1867) to the 1st day of the 3rd month, Keio 4 (1868). It is approximately ten pages in length and is written in a unique ink script. This record is thought to have been written down by Shinsengumi accountants, and is one of the most valuable official documents of the Shinsengumi for understanding their exact activities and financial situation.
A portion of this document was once published in "Shinsengumi Shimatsuki" (written by Shimozawa Kan in 1928). Until around 1937, it was in the possession of Kondo Isami’s relative, Miyagawa Takashi, who lived in Kamiishihara, Chofu, Tokyo. It’s now kept at Ryugenji Temple (6-chome, Osawa, Mitaka, Tokyo), the site of Kondo Isami’s tomb, along with many other related documents once owned by the Miyagawa family.
The first part of this document is marked with "Start". It then describes the movement of money within the accounting division, and the four people whose names appear in the document, Yasutomi Saisuke, Kishijima Yoshitaro, Otani Isao, and Nakamura Gendo are of course Shinsengumi accountants.
The accountants were usually in charge of bookkeeping, but in times of war, such as the Battle of Toba-Fushimi, they were also assigned to the the logistics division (konida). Yasutomi and Kishijima worked as investigators (諸士調役) (also called "metsuke"), while Otani and Nakamura were treated as the same level as corporals. Some records refer to Otani as an accountant and Nakamura as an equivalent of an accountant.
(source: 新選組史料集)
Out of all the historical texts in 新選組史料集, the Shinsengumi’s account book seemed the most interesting to me, and I kept seeing quotes from it in the articles I’ve read.
It took a while to make sense of the archaic terms and Edo period accounting notation, but I think I’ve mostly figured it out. Here’s my translation: [link], and below are my translation notes and the full original text.
[Read the full translation here]
Translation Notes
一金...也 = formal notation used to clarify and confirm that the money will indeed be paid. Ignore this when translating. (source)
也 = classical modal particle used at the end of sentences to express an explanation or judgement. Ignore this when translating. (source)
右 = classical term of respect. Ignore this when translating. (source)
ニて (にて) = indicates the location where something took place. Ignore this when translating.
江 = river? (not sure why it’s added to some of the entries, but makes more sense to ignore this when translating)
同 = same
一同...也 = 一金...也
同人 = same person as the previous entry
両 = ryo (see: how much was 1 ryo worth?)
分 = bu (1/4 of a ryo)
朱 = shu (1/16 of a ryo)
代 = fee
渡 = transferred
相渡 = handover, transferring from one party to another
手宛 = salary
地役 = easement (the right to use someone else's land for a specific purpose) (source)
入用 = necessary uses
御用 = official duties
帰ル = returned
拾 = ten
廿 = twenty
卯 = year of the rabbit (1867 in this case)
正月 = first month
極月 = twelfth month
一件 = incident
候 or 候事 = the state of things. Ignore when translating.
払 = payment
付 = assistant
Original Text
Simplified Text
卯七月
金銀出入帳
(宮川隆司氏や龍源寺の所蔵印があるが、これらは後に押印されたもの)
始メ
卯十一月二十八日
二十両
中村渡蠟印一件
(中村は、勘定方の中村玄道のこと)
十二月三日
六十二両二分
安富渡福林代
(安富は、諸士調役の安富才介のこと)
五日
七十二両
同人袴代渡
十一日
二百五十両
岸嶋渡
(岸嶋は、諸士調役の岸島芳太郎のこと)
十一日
百両
安富渡
五十両
同人渡
五十両
同人渡
百両
同人
十二月二十一日
五十両
安富渡
百両
同人
三百両
同人
大平分
百五十両
同人
百両
同人
大平分
伏見にて
二百両
中村玄道預ケ
二百両
同人
船中にて
品川
二百両
安富渡
百両
中村渡
一月二十三日
百両
同人
品川にて
一月二十三日
五百両
安富渡
布段代
二十八日
五十両
同人
大坂より諸払分
二百二十二両
中村渡
二月六日
百両
安富渡
八日
六百三十両
同人
十一日
百両
同人
十五日
百両
同人
二十三日
五十両
同人
二十七日
五十両
大谷
(大谷は、勘定方の大谷勇雄のこと)
二十九日
二百両
安富
百両
大谷
二月二十九日
五十両
岸嶋渡
三月一日
二百両
道中 大谷
手宛入用出口
(現在は書き出し付箋がはがれ、上から三文字が不明となっている)
十一月十四日
三百五十七両三分
十一月分手宛
(十一月分の月給のこと)
七両
同学講 三人
(講師への手当)
十五日
五両
角楼払
(島原遊廓角屋への支払い)
十七日
十両
山田一郎
刀拵代渡
(二条小川角の研師で、隊士の刀剣の修理代と考えられる)
百両
佐藤安二郎
相渡
(保次郎とも書き、文久三年以来、新撰組といろんな接点を 持つ。この記録からも密接な関係を知ることができるが、実態はいまひとつはっきりしない。幕臣 <小普請組岡田将監支配〉 佐藤喜内の孫で、父を宗三郎という)
十七日
二十五両渡
伏見御用
内十両原田請取
原田岸嶋
内十二両二分□二分入
両人渡
(副長助勤原田左之助、諸士調役岸島芳太郎らが伏見へ公用 で出張した折のもの。坂本龍馬の暗殺により海援隊士などが 大坂から伏見に上り、ここから分散して京都に潜入したのが十七日。この不穏な動きを察知し、直ちに出動したものらしい)
十九日
十七両
七条一件 十七人被
(七条油小路で伊東甲子太郎および高台寺党の面々を襲撃した時に出動した隊士への特別手当。一���各一両が渡されている。記録によって出動が判明している隊士は、永倉新八、原田左之助、大石鍬次郎、岸島芳太郎、宮川信吉、島田魁、横倉甚五郎、三浦常次郎、 芝岡剛三などで、原田、大石、岸島、三浦、芝岡の負傷が確認できる)
十一月十九日
十両
金物屋清兵衛払
十九日
一両
七条一件付下男共遣し
二十一日
二十両
山田一郎相渡
二十二日
一両二分
伏見行入用幷ニ酒料共
二十二日
五両也 帰ル
下坂手宛宮川 渡
(この記載事項は印を押して抹消してある)
二十三日
十両
同入用辛嶋 相渡
(辛島昇司への大坂行きの手当。この辛島は、後に大坂で新撰組を脱走している)
二十三日
五両
荒木新三郎遣し
(信三郎とも書く。江戸で病死したと伝わる)
二十六日
十六両二分
大和守身三本
(会津の刀匠大和守源秀国の刀身三本を購入)
十一月二十三日
一二分
御用出入用渡
二十九日
十六両
刀身二本宗安
五両
綿代相渡
十二月 二日
二分二朱
西ノ宮御用行
(上京途上の長州藩兵の様子を探るため、二日夜に西ノ宮へ向かった隊士への費用。翌三日に帰還して作成した報告書が残る)
二日
一二分二朱
土方剣術古手一ツ
(「古手」は「籠手」の誤記)
五両
土方入用
六日
十五両
山田一郎相渡
九日
十両
原田渡
二両
宮本
(局長付の宮本騰太のことか)
十二月 十日
六両
着込入用吉村渡
十一日
二百両
歩人足手宛部屋頭 相渡
三百四十四両三分
手宛相渡
(十二月分月給のこと)
三十九両
局長付相渡
(局長付の十二月分月給。局長付池田七三郎の遺談に「十二 月になって一両が渡された」とあるから、三十九人分ということになる)
三千両
山中組十家 返済
十三日
二百二十七両
二条城にて一同 相渡
(特別手当として支給されたもの)
二百両
人足渡部屋頭渡
十両
吉村貫一郎着込
(吉村は本名を嘉村権太郎といい、奥州盛岡藩を脱藩し新撰 組に加入した人で、この時、諸士調役を務めていた)
十五両
賄方忠助福田渡
(忠助とは沢忠輔のこと)
四千九十八両二分
(十一月二十三日の御用出入用渡という記載からの合計金額)
四十五両
山崎烝相渡
(山崎は副長助勤)
二十五両
大坂岩城にて先生 御買物払分
(新撰組は十四日に永井玄蕃頭に従い下坂して、大坂の天満天神に駐屯した。先生とは近藤勇のことである。岩城とは呉服屋のことか)
十両
先生行辛嶋 渡
大坂にて
十六両
局長付残分手宛山崎
十五日 夜
百両
山崎吉村伏見行節 相渡
(新撰組の伏見警備が決まり、偵察と下準備を兼ねて、先発隊として向かったものらしい)
十五日
十両
大坂にて辛嶋渡
十六日
二十五両
伏見地役共被
(十六日、新撰組は大坂を発し、夕方、伏見に到着し、伏見奉行所へ入る)
十両
部屋頭渡伏見人足 入用
十両
大坂表て人夫分 渡
四両
大川七郎相渡代
五十両
先生下坂付山崎 相渡
(十二月十八日、伏見奉行所から二条城へ出向いての帰り、 近藤は高台寺党の残党に鉄砲で右肩を撃たれ、重傷を負った。 会津藩と大坂城の将軍家から医者が来たというが、手当てが 充分できないというので、二十日になって大坂へ赴いた。 沖 田総司も同行し、以後、大坂町奉行屋敷にて療養を続けた。この時に護衛をした山崎烝に預けられたもの)
二十両
伏見部屋頭 相渡
八両
荒木柏村岡田中村残人 相渡
三両
井上源三郎賊相手 節渡
(井上は、副長助勤で三番隊組頭)
四十九両
伏見て歩兵人足 被
十一
十一人賊相手節
(十二月二十一日夜の都城兵との事件に関する特別手当。 一人あたり一両となる)
三十両
伏見部屋頭 相渡
十二月二十八日
百八十五両
伏見にて一同被
(特別手当として支給されたもの)
御口し口
十二月二十八日
三百両
部屋頭 貸渡分
六両
福田平馬相渡
(天然理心流近藤周斎の門人で、神奈川奉行所定役である。 甲州勝沼戦争の時に近藤が神奈川の菜葉隊の応援を期待したのは、この福田の関係からである。明治になって、駿府奉行所支配定番となる)
二十九日
四両
小幡三郎 (+) 行節渡
(薩摩兵の動きを探るため、間諜として潜入する時に渡されたもの)
一両二分
大坂遣ひ人相渡
一月七日
百五十五両
大坂城って一同手 宛渡
(一月分月給のこと)
十八日
五百八十五両
品川宿局中一 同 被三十九
(鳥羽伏見戦争に敗れた新撰組は、大坂天保山沖から富士 丸と順動丸に分乗して江戸へ向かった。 横浜で負傷者を上 陸させ、本隊は品川宿の釜屋半右衛門方を宿所とした。この 時に分配された特別手当で、一人に十五両が渡された)
二百四十両
同局長付二十四人被 下
(一人に十両となる)
百五両
伏見地役七人被
(一人に十五両となる)
百五両
步兵 被
(一人に七両で、十五人か)
六十五両
人足 被
(一人五両で、十三人か)
一月十八日
九十両
役人分被
十五日
百両
横浜病人手宛嶋田 預ヶ置候
(横浜の仏語学校を改造した病院で治療を受けている隊士た ちのことで、伍長の島田魁が世話役として派遣される)
品川にて
二十両
大工仙蔵渡
(近藤の試衛館道場と関係のあった人物)
十八日
二十五両
土方諸買物払
二十二日
三十五両
土方戎屋払
(武器購入の支払い分)
二十三日
二十五両
大工仙蔵相渡
(この日、品川から鍛冶橋御門内の若年寄役屋敷へ移っているので、この役宅の修繕代か)
五両
諸払土方出
(副長土方歳三は、このところ自らいろんな買物をしているようだ)
五両一分二朱
子儘者ぶん硯瀬戸 物色々
(「子儘者」は「小間物」ということだろう)
千八百七十一両三分二朱
(十二月二十八日の部屋頭へ貸渡分という記載からの合計金額)
四百両
大坂先生出分
二十六日
十五両
大工仙藏
二十七日
三百二十両
横浜在留之者相渡
同志十六人局長付六人
人口四人
(一人あたり、同志十五両、局長付十両、人足五両。 これは、 横浜において治療を受けていた隊士たちを岸島芳太郎と尾関泉が迎えに行き、近藤の指示に従って江戸和泉橋の医学所へ移した日に渡されたもの。医学所が収容しきれなかったので、 幡三郎、中山重造、大町通南太郎、大橋半三郎、足立麻太郎、医学館の方へ入ったという。ちなみに鳥羽・伏見戦争で負傷したと考えられる面々は、近藤芳祐、 小原孔三、 粂部正親 山野八十八、 松原幾太郎、 沼尻小文吾、 中條恒八郎、小上原栄作、池田七三郎、和高小刀太、相馬肇、一色善之助、小堀誠一郎などである)
二十八日
五十両
内三十八両帰ル
先生 横浜行持参
(仏人医師の治療を受けるため、横浜へ赴いたもので、この時に近藤と会った通詞田島応親の遺談が残っている)
二十九日
六両
仕立や乙二郎遺
二月二日
三十両
大工仙藏
三日
十両
近藤隼雄 原錠之進
三日
二十五再
原田嶋田両人子供 片付遣し候
三日
百両
元詰鉄炮五丁
(一挺二十両となる)
二月六日
十両
岸嶋芳太郎脇差代
八日
八両
佐藤安次郎刀代
十日
六両三分
買物払
十三日
五十両
先生 出
(永倉証言でいうところの近藤の月給か)
百六十四両一分
手宛相渡
(二月分の月給のこと)
十五日
六十四両
病院詰
十四両
同手宛
(病院に入院中の同志および局長付へ渡された二月分の月給。六十四両は同志の分、十四両は局長付の分と思われる。 同志十六人とすると人あたり四両で、局長付は二両で七人といったところか)
四十三両
中嶋屋払大小七本
十五両
同渡
二十両
大工仙蔵分寺尾君 渡
(寺尾君とは、田安家の家来で寺尾安次郎という人。 近藤上京後、道場の世話をしてくれていた天然理心流の有力者であ る。 板橋で処刑された近藤の死骸を掘り出す時も、その指示をした)
十六日
三十両
日野宿要三幸助遣
(谷春雄氏によると、要三とは侠客小金井小次郎の弟分天野要蔵だという)
二月十七日
三百両
甲州行三人渡
(甲州鎮撫に赴くための下工作資金か)
七両
永倉 両度渡
(副長助勤永倉新八のこと)
十八日
二十一両
伏見地役七人渡
(一人あたり三両となる)
七十五両三分
刀五本脇差三本
二十四日
六両二分
二十五日
二十両
中村屋金払
二十両
石屋弘二本
千疋
芝参詣香料
(芝の金地院にある近藤周斎の墓に詣でた折のものか、あるいは増上寺の徳川家茂の墓か)
二十六日
六両二分
中村屋金兵衛払
七両二分
馬代大久保払
(この頃、近藤はすでに大久保剛と名乗っていたらしい。一説によれば、若年寄格に登用されたという)
二月二十六日
二十両
大工払沖田渡
(副長助勤沖田総司のこと)
十両
佐藤安二郎馬代払
二十七日
十両
大石鍬二郎甲州行
(十両は甲州行きの特別手当。 大石は鎮撫隊先番として先発した)
百両
松本良順石料
(松本への薬代の支払いである)
二十八日
五百九十五両
四十九人二十一人甲 行手定
(甲州行きの特別手当で、同志四十九人に十両ずつ、局長付二十一人に五両ずつが支給された)
二十八日
三百両
二十騎相渡し
(近藤の妻子が住んでいる牛込騎町のことを、俗に仕騎と呼んだ。御坊主の家を購入したもので、新しく建て増した勝手と三部屋くらいの広さであった。この後まもなく甘騎の家は福田平馬に譲り、中野の成願寺へと疎開している)
五十両
宮川神前
(天満屋事件で戦死した伍長宮川信吉の神前に供えたもの)
十両
沖田渡
(甲州行きの特別手当と同額であり、沖田が甲州鎮撫隊に途中まで随行したという説が、俄かに真実味を帯びてくる)
三両
忠助妻
二月二十九日
七両
子供手宛
(近藤、土方の召し抱えた小姓のことで、刀持ちなどを勤めた。一人一両ずつとすると七人いたことになり、一両三分ずつとすると四人となる。井上泰助、沼尻愛次郎、渡辺市造、市村鉄之助、上田馬之介、玉置良蔵、 田村銀之助などがいた)
三十一両
中嶋屋弥右衛門払
十三両二分
中村屋佐兵衛づぼん
(池田七三郎〈後の稗田利八〉の談話に、「洋服の上着みた いな木綿の綿入れにズボンをはき、これに撃剣の胴を着けて草鞋ばき」という、甲州勝沼戦争時の服装を語った部分がある)
六両二分
沖田遣
四十両
田中福田蔭山嶋崎
(田中恒太郎、福田平馬、 蔭山新之丞、嶋崎は勇三郎か玄弥 か。同志の甲州行きの特別手当と同額なので、この人たちも甲州鎮撫隊に参加したと考えられる)
十両
伏見役人遣し
(これも甲州行き特別手当と考えられる)
二十両
松原大橋渡
(松原幾太郎と大橋半三郎への甲州行き特別手当。同志格につき、各十両ずつが渡されている。両名は鳥羽・伏見戦争で負傷し治療を受けていたため遅れたもの)
二十両
三人分手宛
(甲州行きの特別手当で、同志名、局長付二名に対し支給されたもの。同志一名とは、 近藤芳祐か)
金請取口
(現在は付箋がはがれ、一部文字不明となっている)
十一月十四日
六十三両一分
十一月分一同借財
十九日
二十両
会より四人葬敷手 宛受取
(会とは会津藩のこと。 七条油小路で殺害した、伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の葬儀料を受け取った屯の)
二十三日
三両
東一件持合之入
十二月朔日
二百両
杢兵衛受取
(永倉記録に、部屋頭若松杢之助とある人物のことか)
五日
千両
同人
七日
千四百両
会 大竹受取
六百両
会より受取
十三日
二千���
小堀数馬受取
(所司代支配下の京都代官。 禁裡御所御用支配を兼任した。役高六百石、役料千俵)
四十二両
宮川 紀州より
(伍長宮川信吉が、紀州藩公用人三浦休太郎を護衛術中に戦死したため、紀州藩からの弔慰金)
二十日
二十両
会より先生見舞
(近藤が高台寺党の残党に襲われ、右肩に重傷を負った折の見舞金)
一月七日
五百両
大坂城請取
四千二百両
同賄方分請取
二百両
大坂先生請取
江戸にて
二千両
会請取
十二月八日
四千両
大坂山中組合十家 より
(帳簿に記載するのを忘れ、後で書き込んだようである)
二月三日
三百両
御城設楽殿
(幕府御目付設楽岩次郎〈備中守〉のことと考えられる)
二十七日
二千三百九十四両一朱 御城請取
二十九日
千二百両
会より
三千両
松本良順より 二万三千百四十一円余
(この分別筆)
(カッコ内は古賀茂作の註解)
74 notes
·
View notes
そこへたどり着いてもわたしには見えない
フォトエッセイ集『つばさの方へ旅をする』を読んでくださった方はご存じだろうと思うが、滋賀県の湖北にオオワシが飛来する。カムチャツカで繁殖し、北海道などで越冬する巨鳥だ。
滋賀県の湖北地方に25年間連続で飛来しており、ねぐらとしているのが「山本山」という山だから、「山本山のおばあちゃん」という愛称で呼ばれている。
去年初めて会いに行き、彼女が帰北するころ、世界情勢が大きく動いてしまった。大丈夫だろうかと不安に思いながら、11月を待った。飛来の知らせを聞いたとき、戻ってきて「くれた」と、なにかそれが人類への自然からのプレゼントのように思えたし、同時に警鐘のようにも思えた。
だから今年もまた、どうしても山本山のおばあちゃんに会いたかった。『消えゆくものたちの生』で、筆者が「絶滅しつつある生物をこの目で見て言祝がねばならない」と綴っていたが、まさにそうで、人間という種族に生まれた責任と、(オオワシは絶滅危惧種である)まだこの目で見て存在を確かめることができる機会があるという幸運から、たしかにこの目で見て、言祝ぐ必要があるとわたしも思う。
オオワシがどんな環境で越冬するのかをこの身で体感すること、オオワシの生態を知ること。鳥の幻想小説を書いている(主人公はコウノトリだがオオワシやいろいろな鳥が登場する)ので、その取材も兼ねていた。
湖北野鳥センターで、オオワシの生態について教えて欲しいとスタッフの人に話しかけ、情報をもらっていたら「調べているんですか」と逆に質問を返された。
「オオワシが出てくる小説を書いているんです」
とするっと小説を書いていることが出てきたことに自分でも驚く。
見ず知らずの人に、(そうでなくても親しい人とかでもだけど)「小説を書いている」と宣言することは、わたしにはハードルの高い行為で、ほとんど人に話すことができなかったのだが……。
どんな心境の変化があったんだろうと不思議に思う。
まあ、もうすぐ転職する開放感とかがあるのかもしれない。
やっぱり退職というのは体にいい行為で、なにかしら人をおおらかに、強気にさせるものだ。
体調不良もあって、いまの仕事は休みがち。(今日は次の仕事の準備?で工場見学とか行って休んだ)
肩があがらなくなって日常生活に支障も出たので先々週一日休んだ。
肩が痛いのは、カメラが原因らしい。2キロ越えてる超望遠を振り回していたらそうなるなと言うことで、山本山ではさすがに一脚を持っていった。
肩を痛めた日は『神々の山嶺』という映画を見た。
山に憑かれた人間の物語で、最後はエベレストに登頂する。
「なぜ登るのか」その行為への答えが「わからない」のがよかった。登山する男を追うのは記者で、もともとは風景写真を撮っていたようだ。だけど次第に山に憑かれていって、自分もエベレストへ途中までだが登る。「風景写真」という、わかりやすく「その場にいない人間」にも共感を得られるツールを操る人間が、「その場で体験することでしかわからない」世界を経験するところがすごい。
わたしは鳥がいるから仕方なく登山もする人間で、景色や、登る(歩く)楽しさというのを感じる感受性に乏しい。
どうして山に登るのかとか、山に登ってなにが得られるのかとかわたしにはちっともわからない。夜通し走って木曽駒ヶ岳へゆき、三時間以上並んでたどり着いた千畳敷カールも、そんなに感動しなかった。
ただ、五歩歩いたら十分休むような酸素濃度のひくい世界で、ヒイヒイいいながら登っているときに、宝剣岳の山頂で万歳をする人を見て「のぼったんやなあ、幸せそうやなあ」とつぶやいている人がいたのが印象的だった。
この人の中には(たぶんこのぞろぞろと蟻の熊野詣のように登っている人たちのほとんどが)「登り切る」ことの『幸せ』を知っているのだ。そう思うと、わたしもその尻尾の毛先くらいはつかんでみたいと思う。また木曽駒ヶ岳へ行きたいと思う。
ほかに、昨日は『イサド住み』(オカワダアキナ)を読む。
トランス男性が主人公のボーイズラブだ。
マジョリティに対して『語らされる』ことで飼い慣らされていく過程への抵抗の物語としてわたしは読んだ。マイノリティが、マジョリティ側から「説明」を要求されるとき、聞き手には「期待している物語」がある。物語を期待できる(ジャッジできる)乱暴な権力のまえに、矯められなければ立つ場所が得られない。座ってくつろげるような場所なんてなくて、「まあいてもいいよ」と言われるのは排除ベンチみたいなかたちの椅子しかない。
「当事者の言葉で語られるべきだ」とわたしは常々思うのだが、その「当事者の言葉」は、この乱暴なジャッジにしてみれば「期待外れ」の言葉なんだう。期待通りの言葉を語らされることで、どんどんどんどん心の中にはゆがみがたまっていくし、マジョリティに都合のいい「物語」ができあがってしまう。
「物語すること」というのは主体的な行いのように見えて、聞き手の立ち位置によっては「させられること」受け身の行いになって(変えられてゆくこと)になる。作品の紹介に書かれた「吠える」とは、語りの主体を獲得することだとわたしは読んだ。
『誰かの理想を生きられはしない』という書物のタイトルが、ずしりと重く思い出される本だった。
あと二日出勤したら、療養のための長い旅に出る。
小説をたくさん読みたいという気持ちがあるのに、荷造りで詰めたのは小説の資料本ばかりだった。
旅先の本屋で、小説と縁を結びたい。
13 notes
·
View notes