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smallflowersj · 5 months
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道端の茂みの奥の紅葉
花貫渓谷で、道端の茂みの奥でひっそりと、見頃を迎えていた紅葉を見つけました。
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smallflowersj · 6 months
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自分仕様の世界は幸せ?
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この写真は、Google フォトが、昨年11月のベスト写真として選んだものの1枚。なんとなくわからなくもないが、ベスト写真としての選定基準がよくわからず…。それに、Googleに選ばれてもあまり嬉しくもないかな…。
とりわけコロナ後のテレワーク中心の生活で、ネットを使用する頻度が激増しているのだが、最近、なんでもこういった選択や提案が勝手に行われることが多いような気がしている。パソコンを立ち上げれば、美しい海外の風景の写真が表示され、「気に入りましたか?」と聞かれる。気に入った、と回答すると、以降、同じような写真ばかり出てくるようになる。Googleでいろいろなことを検索したり閲覧しているうちに、頻繁に検索していたテーマの記事がトップに出てくるようになる。このブログで、以前泊まった宿について紹介する際に、正式名称を調べるべくその宿のホームページを閲覧したら、早速、旅行予約サイトから、その宿の割引情報のメールが送られてきた。
こういったことを便利で、効率的で、快適に思っていたが、最近、これでいいのか?と思うようになった。きっかけは、このブログを始めたことだ。
ブログは、それを書いている人の世界が広がっている場所だ。ありとあらゆる世界が広がっていて、色とりどりである。こういったブログを読むのは、さまざまな物が見つかる雑貨屋さんが立ち並ぶ通りを散策しているかのよう。私は雑貨屋巡りが好きなのだが、それは、何が置いてあるかわからないワクワク感と、思いがけず気に入った物を見つけたときの嬉しい気持ちが得られるからだ。
ブログは、まさにそんな感じである。入口のドアはいつも開かれていて、入った瞬間に、そこに一つの世界が広がっている。外に出て、別のお店に入れば、また全く別の世界がそこにある。こんなテーマでブログを書くこともできるのか!とか、こういう書き方もあるんだ~とか、テーマや雰囲気、書き方などあらゆるものが多種多様で、とても刺激的だ。
そこで、これまでの自分が、いかに自分仕様の情報にばかり囲まれていたかに気づく。いつも触れているのは、自分の興味関心に合うこと、自分が好きなテーマばかり。テレワーク中心でいろいろな人と意見交換することも少なくなってしまった。以前よりもネット中心の生活で、検索するときは、すでに自ら検索ワードを設定していて、その情報のみを受け取る。上にも記したように、希望しなくとも、ネット上で自分仕様の情報が優先的に送られてくるので、いつの間にかそういった情報だけに触れている。「多様性」という言葉がよく聞かれるようになったが、そういった自分仕様のパーソナライズされた世界だけで生きていると、どんどん視野が狭くなり、それ以外のものを受け入れにくくなるのではないか、多様な物事に対して、開かれた心を持てなくなってしまうのではないか、と思うようになった。
ブログは、多様性の宝庫である。自分のブログにスキをつけてくれた人のブログが、自分のブログとは全く違う雰囲気のものであるときは、とりわけ感動する。こんなにも、自分とは違う世界を持っている人が共感してくれたのか~、と。多様なブログを読んで共感し、スキをつけるという行為自体が、多様性に対して開かれた心を持つことの訓練にもなり得るのではないだろうか。
パーソナライズされた、自分仕様の空間や世界は、確かに居心地がいい。ただ、時にはあえて全く自分仕様ではない世界に自ら飛び込んでいくことで、いろいろな刺激や視点が得られる。そこから自分の世界は無限大に広がっていくし、それ自体がワクワクすることでもある。ブログの数々は、そういった機会をたくさん与えてくれる。
ということで、そろそろ今日のブログもこの辺で終わりにして、「雑貨屋巡り」に行ってきます!
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smallflowersj · 6 months
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Let us shout, "Stop the fighting in Gaza right now!" How can we stand idly by while innocent civilians, especially small children, are left to die? The world should listen to this song now!
今すぐにガザでの戦闘をストップして、と叫ぼう! 無垢の市民、とりわけ小さな子どもたちが見殺しにされるのを黙ってみていることができるだろうか? 今、世界はこの曲を聴くべきだ。
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smallflowersj · 6 months
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空を見上げて思うこと
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午前中、せわしなく用事を済ませ、午後の眼科の予約時間まで1時間もなく、テラス席でパンをかきこんでいたときのこと。ふと空を見上げて思う。(あ~、いい天気だなあ、緑がきれいだなあ)。ところがなぜか次の瞬間、思考は全く違った方向へ。(そういえば、広島で原爆が投下された日も快晴だったんだよな。例えば、今、投下されたら、上に見えているテラスの屋根も、生い茂る緑も、その後ろに見える高層ビルも一瞬で吹き飛んでしまう。あっという間に、この色鮮やかな景色は、暗いモノトーン1色になるはず。そういった過去の犠牲のもとに、今日のこの青い空が守られているんだな)。さらに思考は続く。(しかし、この青い空をずっとずっとたどって行ったら、今まさに戦時下の��クライナやガザにつながっていく。この青い澄んだ秋の空は、途中からどんどん色が変わっていって、やがて爆撃の煙や地上から舞い上がるがれきの粉塵などで灰色となった空につながるのか…)。
先日のテレビのニュース番組。アメリカでパレスチナを支持するデモに参加していた12歳の少女が、泣きわめきながら、カメラに向かって叫んでいた。「私と同じような年の子供たちが殺されてしまっているの!」。この年齢で、遠く離れた国で起きている惨事が、家族や親しい友だちの身にふりかかっているかのように考えられるなんて…。自分が12歳だったとき、すでにパレスチナとイスラエルの問題は存在していた。しかし、問題の存在どころか、パレスチナやイスラエルがどこにあるのかすら、知らなかったのではないか…。
今の時代は、あらゆるメディアで、たとえ戦争をしている国であっても、現地から生の映像が送られてくる。私たちは、まるで自らが戦時下にあるかのように、メディアを通して現状を知ることができる。本来なら、自ら体験しているかのように臨場感をもって伝えられるから、戦時下の人たちの気持ちに寄り添いやすくなった時代と考えるべきなのだろうが、私たちの関心は、昔から進化しているだろうか。今は映像があまりにも溢れすぎていて、メディアを通して戦争を「見る」ことに慣れてしまっていないだろうか。
2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻時、私は日本にあるNGO団体で働いていた。人道支援を行っている団体とはいえ、今すぐ空爆を止めて人々を助けに行くことなどできず、できることは、現地の状況をより多くの人に伝えることぐらいだった。当時、私の感触では、メディアを含め、関心を持ってくれる人は少なかった。「日本から遠いところで、いつも紛争や衝突が起きている場所」といったイメージで捉えられがちだったように思う。だから、現状を伝えただけでは不十分だと思い、私は悩んでいた。どうしたら、すぐ近くで起きていることのように、自分の愛する家族や親友に起きていることのように感じてもらえるのか。
そこで注目したのは、毎日、メールで送られてきていた現地スタッフの日記だ。彼は、NGO職員としてガザで働いていたが、彼の日記はすごく個人的なものだった。仕事のことはほとんど書かれていず、空爆下での停電の中、息子がろうそくの明かりで勉強するのを見守った、というような、現地の日常を綴ったものである。私はこの日記を、日本の団体のHPにアップし始めることにした。ある意味で、それはかなり勇気のいることだった。彼は空爆下で日記を書き続けている。明日、この日記が途絶えることもあり得る。私たちは、それを見届けなければならないのか…。しかし、毎日送られてくる日記は、彼の心の叫びだ。これを聞き流すわけにはいかない…。そういう思いで、思い切ってアップし続けることを決断したのだ。
すると、あるとき、それがメディアの目にとまり、ヤフージャパンのトップページのニュースとして、取り上げられた。あっという間に、団体HPのアクセス数が激増した。これまで、「遠い国でいつも起きていること」と思われがちだったテーマに、関心が寄せられたことが手にとるようにわかった瞬間だった。ブログと同じように、日記はとても個人的なものだ。彼はNGO職員としてではなく、愛する家族をもつ一人の父親として日記を書いた。父親として、空爆におびえる息子の不安を取り除くこともできず、ただ抱きしめてあげることしかできないやるせない気持ち。親としてわが子を守ることを約束できないふがいなさ。それが多くの人の心に届き、自分の家族や身近な人に起きていることとして、受け止められたのだろう。
あれから約10年経とうとしているが、今はさらに予想もしなかったほどに悪い方向へと進んでいる。現地の惨状がどれだけ生々しく伝えられても、私たちは一人の人を助けることすらできないのかと、どうしようもない無力感をもってニュース���見つめている。そんなとき、昨日朝のニュースで、長年、国連職員として、ガザ地区の子どもたちの支援に関わってきた清田(せいた)明宏さんが、あるパレスチナ人の若者の話を紹介してくれた。彼は、画家を目指していて、生き延びることができれば、今年、大学を卒業予定である。最近、同じように絵を描くことが好きだった親友を爆撃により失った。彼自身は助かったものの、これまで描いた作品や画材道具などすべてを失い、将来を考えられないどころか、明日生きているかどうかもわからない、と。清田さんは、「将来に向けて一生懸命頑張っている子どもたちが、ガザにはたくさんいるのに、こういう戦争で夢を失って、どうなるかわからないという状況は非常に悲しい」と声を詰まらせていた。
明日生きているかどうかは本当にわからない、と話すその若者の望むことは、ガザの現状を知ってほしい、ということ。「天井のない監獄」とも言われるガザに、これだけ多くの犠牲者が出なければ、世界が関心を向けてくれない、ニュースにもならない、ということは、もうなくなってほしい。まずは、私たち一人一人が、意識的に関心を持ち続けよう。私自身、今日の思いを忘れないように、見上げた空の写真を撮り、席を立った。
・「おはよう日本」の今朝のニュースは、現在、NHK プラスで配信中です。
・戦争については、以前のブログ「ごく普通の景色に隠れたもの」で、沖縄のことにふれています。あわせて読んでいただけたら、うれしいです。
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smallflowersj · 7 months
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「東京」という場所
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上の写真は、どこかのサイトから取ってきたイメージ写真のように見えるが、実際に私が東京に向かうバスの車窓から撮影したものである。東京駅近くの道を、颯爽と自転車で駆け抜けて職場に向かう女性。その光景を見ただけで体中にパワーがみなぎる感じがして、よし、今日も東京で頑張るぞ、という気分になった。
東京から地方に移住した人が言っていたことが印象に残っている。「今は東京に遊びに行くのが楽しい」。当時、東京に住んでいた私には、いまひとつピンとこなかった。確かに、東京は刺激が多く、また、趣が異なる場所が小さいエリアに集まっていて、飽きることがないし、好きなところだった。しかし、混雑した電車や人混みの多いお店や通りなどに頻繁に遭遇するとうんざりして、どこか遠くに逃げ出したくなった。東京で昼夜を問わず働いていた頃は、2カ月に1回くらいは、半日休暇をとって、都内の日本庭園でしっかり「呼吸」することを心がけていたぐらいだ。
そんな私がひょんなことから、首都圏を離れることになり、歩いて行かれる距離に湖があるような場所に住んでいる。東京までは、バスで2時間の旅。川→木→高層ビルの順で景色が変わっていく。高層ビル群が見えてくると、東京に近づいてきたな、と感じ、身体のスイッチがONになる。上の写真はまさに、今の自分にとっての東京のイメージ写真である。前向きに生き生きと、活動的になれる場所が東京だ。
帰りは逆に、高層ビル→木→川の順で景色が移っていく。利根川にかかる夕日が見えると、身体のスイッチはOFFになる。高層ビル群と川にかかる夕日。全く異なる景色を1日のうちに見られるのはぜいたくだと最近、思う。違うところに移ると、これまで自分がいた場所の良さや違った側面が見えてくる。たとえ仕事で東京に行くにしても、今の私にとっては、楽しいことだ。まさに、「東京に遊びに行くのが楽しい」と同じ感覚で、わくわくすることなのである。
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smallflowersj · 8 months
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キャンドルの灯りを見つめながら…
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緑色の灯りがともるキャンドルスタンド。いくつか持っているキャンドルスタンドの中でもお気に入りの一つ。かなり前に、都内のモロッコ雑貨のお店で買ったもので、溶けたロウがくっついてしまって、汚くなってしまった。下のほうには、ラクダの絵が描かれている。冬になると、キャンドルを灯すことが多くなるのだが、いつも愛用しているものだ。
小学生の頃、友人2人と物語の交換日記のようなものをやっていた。1冊のノートに1人が物語を書き、次の担当の人に手渡す。手渡された人は、続きを書いて、3人目に渡す。そうやって、1つの物語を作っていくことを楽しんだ。なぜそんなことをやっていたのか、よく覚えていないのだが、私は友人の1人が書く独創的な内容に、いつもわくわくしていた。自分が思いもしない方向に物語が紡がれていく。自分が書き終わって、友達の手に渡り、戻ってきたときにどんな物語になっているのか、ノートを開くのが楽しみだった。
そんなことをやっていた頃に、独創的な友達から刺激を受けて、自分だけで別の物語を書いたことがある。そのタイトルが、「モロッコの夜汽車」だった。どうしてそういうタイトルにしたのか、内容はどんなものだったか、これも記憶にないのだが、その当時から、「モロッコ」という音の響きが好きで、遠い行ったことのない国への憧れを抱いていたことは間違いない。
以前、乾燥肌に悩んでいたときは、アルガンオイルの化粧品に助けられた。ちょうど動物実験を行っていない、オーガニックな化粧品などに関心を抱き始めた頃だ。ちょっと高価でも、自然派のものを使うことに気持ちよさを感じていた。説明書に掲載された、アルガンオイルが採れるアルガンツリーの写真に癒された。そのアルガンオイルが、モロッコ産のものであったと、つい最近になって知った。モロッコのタジン鍋は日本で購入したものだが、とんがり帽子のようなふたの形状が、イスラム建築に見られるタマネギ型の屋根を想わせ、わざと見えるところに置いて、インテリアとしても楽しんだ。
その憧れの国であり、行ったこともないのに身近なところでふれていたモロッコで、多くの人が地震で亡くなり、またこれを書いているこの瞬間も、物理的にも精神的にも困難な状況に置かれている人がたくさんいる。遠いと思っていた国でも、世界は、どこかで自分とつながっている。美しいキャンドルの緑色の灯りを見つめながら、これまで自分に癒しの時間をくれていた国と人々に対して心からの想いを寄せようと思う。
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smallflowersj · 8 months
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涼を求めて… ②
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夏に「涼」と聞いて、思い浮かぶのが、渓流や滝だ。最近訪れた滝は、流れ落ちる滝の裏側に回ることができることでひそかに人気を集めている。正面からは、二筋に分かれて流れ落ちる滝が見られる。二つの滝の���れ方が異なり、それが美しい景観を作り出している。滝の裏側、つまり奥の洞窟みたいな空間は、立ち入ってはいけない神秘的な場所に見える(実際、中に入れてしまい、そこから滝の裏側を見ることができるのだが…)。水量が増えると、この二筋の夫婦滝に加えて子滝が現れるようで、安産や子育て、開運を祈る場とされ、胎内観音が祀られている。滝に濡れることなく、奥の空間に入ることができ、滝の裏側から流れ落ちる水しぶきを見ているとなぜか安心するのは、こういった滝の性質からだろうか。
この滝から車で20分ほど行ったところに、日本三名瀑の一つがある。幅が73メートルもあり、高さ120メートルのところから4段になって流れ落ちるので、「四度の滝」という別名がある。この地を訪れた西行法師が、「四季に一度ずつ来てみなければ、真の風趣は味わえない」と絶賛したことから、この名前がついたとも。それほどに、春夏秋冬、それぞれ異なる趣を楽しめる滝なのだ。
滝の近くは、もちろん涼しく感じられる場所なのだが、この滝の面白いところは、人工的に整備されたアプローチだ。入口を入るとトンネルがある。夏に訪れたときは、青色にライトアップされていて、ひんやりとした空気がとても気持ちがよく、歩くのが楽しい。ここからすでに「涼」を感じられるスポットだ。トンネルの右側に観瀑台に続く穴が空いていて、この穴から少し見える滝の姿もいい。
第1観瀑台からは、幅広く広がる滝が目の前を勢いよく流れ落ちる様子を見ることができ、まさに圧巻。吊り橋があり、そこで異なる角度からの滝も楽しめる。エレベーターで第2観瀑台まで行くと、屋外から滝の全景を望むことができる。水量の変化により、さまざまなハートが表れるそうだ。
滝を訪れた後に立ち寄ったカフェは、古い民家で、レトロな雰囲気がおしゃれな場所。この地域の特産品である奥久慈りんごを使ったジュースをいただいた。よく冷えていて、さわやかな甘さがとても美味しく、まさに涼を感じられた贅沢な時間だった。
(上の文章の順に)月待の滝、袋田の滝、daigo cafe(茨城県) 写真(上)は、月待の滝を正面から見たところ。 写真(下)は、裏側から見たところ。
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smallflowersj · 8 months
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涼を求めて… ①
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「涼」と言えば、以前、訪れた鍾乳洞が思い浮かぶ。日本屈指の規模を誇る秋芳洞では、一年を通して17℃程度の温度のなか、1キロの観光ルートを探索できる。とにかく広くて、そのスケールの迫力に圧倒される。青や緑色などにライトアップされた鍾乳洞もいいが、ここでは、通常、白色の照明のみだ。しかし、そのほうが闇とのコントラストが際立って見えて、奥行きが感じられ、シンプルに、またダイレクトに自然の神秘や迫力が伝わってくる。そして、秋芳洞に行ったら、日本最大級のカルスト台地、秋吉台にも立ち寄りたい。約8キロ続くカルストロードは、ドライブに最適だ。広い草原の中を走り抜けるとき、ここは日本?と一瞬思ってしまう。展望台もあり、この大パノラマを目の前にすると、暑さなど吹き飛んでしまうかのようだ。
涼を求めている人に人気だ、ということで最近テレビで取り上げられていたのが、栃木県の大谷資料館だ。大谷石の地下採掘場跡は、大谷石を掘り出してできた地下空間で、30℃以上ある日でも坑内の温度は12℃程度と、上着が必要なくらいの温度だ。ライトアップされた空間は幻想的で見飽きず、巨大な神殿と表現されることもあるが、外からかすかに入ってくる光に照らされた空間もあり、それもまたとてもいい。大谷石を使った雑貨を楽しめるセレクトショップを併設したカフェもあり、私は大谷石でできたキャンドルスタンドを購入した。
この資料館とあわせて訪れたいのが、宇都宮駅から歩いて5分くらいのところに忽然と姿を現すカトリック松が峰教会だ。大谷石を使って建てられた、近代ロマネスク様式の建築物で、登録有形文化財になっている。聖堂内も美しいのだが、私はとりわけその外観が好きだ。聖堂への入口に続く左右からアプローチできる正面階段と、日本では珍しい双塔のフォルムが美しい。宇都宮駅周辺で、突然、中世ヨーロッパの小道を散策していたかのような気分にさせられる。大谷資料館を訪れた後にここに立ち寄ると、地下採掘場跡とはまた違った雰囲気の大谷石の魅力にふれられる。教会の敷地内や内部の見学も可能で、ここでは、心の「涼」を感じることができると言えるだろう。
秋芳洞、秋吉台(山口県)/ 大谷資料館、カトリック松が峰教会(栃木県)
写真は、秋芳洞。
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smallflowersj · 8 months
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当たり前のように、今、そこにあるもの
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早朝に空を見上げたら、西の空に、昨夜のスーパーブルームーンを見つけた。夜、月を見るのはもちろん好きなのだが、朝、まだそこに残っている月を見るのもまた、とてもいい。
子供の頃、「まんげつのよるまでまちなさい」という絵本が好きだった。ストーリーそのものよりも、大きな満月の下で動物たちが楽しい時間を過ごす様子を描いた、最終ページのイラストが大好きだったのだ。ずっと眺められていて、大人になってからもしばらく手放さなかった絵本だった。また、満月の夜、ムーンストーンのネックレスに月の光を当てて、それをお守り代わりに、一人旅に着けていったりしていた。
満月の日の前日の月と、満月とを肉眼で見分けられるほど、月を見るのはなかば習慣になってしまっているのだが、今朝は、月が朝日で徐々に薄まっていき、太陽にバトンタッチするときを見て、ふと思った。夜には月が出て、朝になると、太陽が昇る。それが当たり前のように、日々過ごしているが、世界には、夜になっても太陽が沈まなかったり、朝になっても太陽が昇らないことがあるところもある。あるいは、自然の現象ではなく、ある日突然、戦争が始まり、防空壕での生活を余儀なくされれば、太陽も月もない。太陽が昇ろうが月が出ようが、関係なくなってしまう…。
今、当たり前のように享受できていること、当たり前のようにそこにあるもの。忙しく日々を送ることが多いけれど、そういったことに、丁寧に向き合っていきたいな、と思った朝でした。
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smallflowersj · 8 months
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「壁をよじ登る男」
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この写真は、かなり前に訪れた、ある美術館の屋外に展示されている作品、「壁をよじ登る男」だ。これを見ただけで、どこの美術館のことを書いているのか、わかった人もいるに違いない。それくらいこの美術館の代表的な作品である。
これは、あくまでも私の印象だが、とてもインパクトがあり、どこかユーモラスでもある。この作品は、360度、いろいろな角度から見ると面白い。顔の前に立って、あるいは、しゃがんで顔を見上げると、突き出た上半身がとても迫力があり、いかにも大きな壁を乗り越えようとしているかのように見える。ところが、横から見ると、意外と壁が薄く感じる。そこで、この男性の表情と考え合わせると、男性のこんなつぶやきが聞こえてくるようだ。「あれ、意外とこの壁、簡単に乗り越えられそうだな」(あくまでも、私個人の感じ方である)。
この美術館は、富士山に連なる山の中腹にあり、最寄り駅からバスでずっと上がってきた、緑の多い丘にある。晴れた新緑の美しい季節に行くととてもいい。緑が生い茂る入口を抜けて中に入ると、開けた丘の上に展示された作品の奇抜さ、不思議さ、強烈なインパクトに、まず圧倒される。そのうちの一つが、「壁をよじ登る男」である。その開けた丘の上から下を見下ろすと、ヨーロッパのような美しい庭園に、またいくつかの作品が展示されているのが見える。
この丘は、展示棟につながっており、順路としては、開けた丘(上部庭園)→展示棟に入り、階段を下りて階下へ→ヨーロッパのような庭園(下部庭園)という感じだろう。展示棟の中もまたいい。人があまり多くいないせいか、静まり返っている。その空間に、不思議なインパクトを持つ作品ばかりが並ぶ。静かで暗い空間で、どこか冷たい雰囲気だが、人物を対象とした作品が多く、作品の前に立つと、どこか温かみを感じる。館内に入った瞬間は、あまり作品数が多いと感じられず、やや物足りない印象を持ってしまうのだが、「壁をよじ登る男」のような面白い仕掛けが散りばめられているように感じ、それに夢中になる。一つ一つの作品の周りをぐるぐる回ったり、しゃがんで見上げるなど、いろいろな角度から見たりしていると、相当の時間を要することがわかる。展示棟から外に出ると、クレマチスなどの花が美しい庭園に出る。作品もいくつか展示されているが、ここでは、彫刻だけでなく、緑と花を一緒に楽しむことができる。
この美術館は、都心や主要都市にあるような大規模な美術館ではない。しかし、だからこそ、落ち着いて、一人静かに作品と向き合い、作品と対話することが可能だ。私が初めてこの美術館を訪れたときは、仕事でストレスを抱えているときだった。しかし、別にストレスを解消するために来たわけではなく、当時、たまたま最寄り駅��近くに住んでいて、なんとなく興味があって訪れただけだった。実際に来てみて作品を目にした瞬間から、仕事のことどころか、自分が何者であるかすら忘れてしまい、空気のような存在になって、夢中で作品の世界に入りこんでしまっていた。美術館を出るときには、この丘の上から見える空のように、頭も心もすっかり晴れ渡っていた。あの「壁をよじ登る男」のように、意外と簡単に壁を乗り���えられたのかもしれない。
クレマチスの丘 ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡県)
※現在は、施設の修繕などのため、休館中です。開館から20年が経ち、屋外展示作品や施設などの修繕が必要でしたが、コロナ禍での来館者数減少により存続が危ぶまれていました。そこで実施されたクラウドファンディングでは、短期間のうちに目標額を大きく上回る寄付が集まるほど、この美術館を愛する多くのファンがいます。以下の動画では、休館前の美術館の魅力を存分に感じることができます。また再度、開館した際には、ぜひ足を運んでみてください。
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smallflowersj · 8 months
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小さな幸せのつながり
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ある日、混雑した電車の中に、後ろから押し込まれるようにして乗った。電車が発車し、ほっと一息ついたとき、目の前のボックス席の窓際の席で、男性が折り紙で鶴を折っていた。揺れる電車で、折り紙を固定するテーブルもないところで、器用にすごいスピードで折っていく。しかも、その折り鶴を一つ一つつなげて、きれいな形にしていく。混雑した電車内でのストレスや疲労感など、どこかに吹き飛び、その見事な手さばきに見入ってしまった。きっと、これから向かうどこかで、これをもらうのを楽しみに待っている人がいるのだろう、今、そこに行く途中で、急いで折り続けているのだろう。
そう思っていると、次の駅に電車が着いた。多くの人が降りていく。そして、その男性も。ああ、ここで降りちゃうんだ。もうあの折り鶴ショーを見れなくなるのか、と残念に思っていると、あの折り鶴を窓際の席に残したまま、男性は電車を降りていった。えっ?あれ~!? これ、忘れ物ですよ~、と声をかけそうになったが、明らかに忘れ物ではない様子で、その男性はそれを置いて降りていった。前のボックス席が空っぽになったので、私と夫は、その窓際の席に向かい合って腰かけた。二人で、窓際に置かれた折り鶴をじっくり鑑賞して、そのひとときを楽しませてもらった。多分、単なる趣味で折り鶴を折り続けていたのかな、誰にあげるわけでもなく…。折ること自体を楽しんでいたのかな…。
私たちが降りる駅が近づいてきた。本当は、この折り鶴を持ち帰って飾りたい気分だった。でも、ふと考えた。あの男性は、ここにこれを置いていき、こうやって後に座った人が、電車でのひとときを楽しめるようにしてくれたのだろう。それならば、私たちがこれを持っていってしまってはダメじゃないか。また後にここに座る人のために置いておこう、と。
今、あの折り鶴がどうなったのかわからないけれど、またあの席に座った人を楽しませたに違いない。そして、もし誰も持ち帰らずにそれをそこに置いたままにしていたならば、最後に見るのは、終着駅で降車確認をする運転士さんや駅員さんだ。あの折り鶴が、緊張感のある仕事での疲れを癒したに違いない。そして、運転士さんなどが、それをそのままにしておいてくれたならば、始発駅で電車に乗り、この折り鶴を目にした人の心を潤すのだろう。そうやって、小さな幸せが続いていく…。
こんなことを考えるときにぴったりなのは、私の大好きなJohnny Hates Jazz のこの曲だ。
(288) Johnny Hates Jazz - Spirit Of Love (Official Video) - YouTube
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smallflowersj · 8 months
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「何もないところ」
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2年前に首都圏からここに引っ越してきたときに、あるお店の人が私に言った。「よくこんな何もないところまで来ましたねえ」。それは、「ようこそ、何もないところですが」といった歓迎の気持ちを込めた言葉だったと思うが、こんな風に言われてしまう「何もないところ」ってかわいそうだな、とちょっと思った。
確かに、「〇〇市」と言えば、「ああ、あの観光名所で有名ですよね」と言われるようなところは数多くある。しかしよく考えてみれば、それよりもはるかに多くの市町村などが、「それ、どのあたりですか?」と言われるような、聞いたこともないような名前の場所だろう。読み方がわからないものもあれば、自分が住んでいる県の町でも場所があまりよくわからない、何があるのかわからない、という場合もある。
そんな「何もないところ」の一つに引っ越してきた私の新たな趣味がウォーキングだ。「何もない」ということは、都会にはない視界が開けた風景がすぐ近くにあるということ。それで、歩くのが楽しくなったのだ。そして、遠くを見ることが多くなったから、視力もよくなった。そんな場所を歩いていると、いろいろな発見がある。同じ道を歩いていても、時間帯や季節によって、「何もないところ」は異なる表情を見せる。それらを写真に残してみると、あることに気づく。あれ、これが「何もない」場所なんだろうか、いろいろあるじゃないか、と。
「何もなく」ても、そこで生活し、学校で勉強し、あるいは仕事をしている人がいる。毎日、夕暮れ時には家々に灯りがともり、海岸沿いにある工場の煙突からは絶えず白煙が出ている。洋上風力発電のための風車も回っている。都心に行った帰り道、高速道路を走る車からこれらが見えると、ああ、家に帰ってきたな、と思う。私にとって一番好きな場所は、今、住んでいるところなのだ。そういった「何もない」ところでも、人々の日々の営みがあることを愛おしく思う。
どんな場所にも、その場所なりに美しい風景がきっとあるだろう。多くの「何もない」と思われている場所にも、必ず何かあるはず。もしあなたが今、住んでいる場所をあまり気に入っていなかったとしたら、今日、少しだけ歩いてみて、見つけてみませんか。 神栖(かみす)市(茨城県)
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市役所裏の緑地公園。1周4.4キロの池があり、10種類以上の野鳥が見られる
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ウィンド・パワーかみす第1洋上風力発電所。神栖市は、日本初の本格的な洋上風力発電所が誕生した場所。誰もいない海岸で景色を満喫できる
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息栖(いきす)神社。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と香取神宮(千葉県香取市)とあわせて東国三社とされる。鹿島神宮、香取神宮までは、それぞれ車で20分ほど。東国三社に共通のお守りがあり、本体となる木のお守りをどこか1社で買い、残り二社で、色の異なるシールを購入して本体に貼れば完成(最初の1社のシールはすでに貼られてある)。
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季節によって、この景色は変わる。冬は緑がなく、一面、荒涼とした砂漠のよう
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地元の人ですらほとんど行かない夕日スポット、なさか夕日の郷公園
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イギリスで出会った景色と一瞬、似て見えた(?)風景
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*ここまで読んで、神栖市に関心を持ってくれた方へ。神栖市がどこにあるかは、市のキャラクター、カミスココくんが、ものすごくわかりやすく示してくれています(頭は茨城県の形。神栖市はココよ、と教えてくれています)。ちなみに、好物はナタデココみたいです。
カミスココくんプロフィール / 茨城県神栖市 (city.kamisu.ibaraki.jp)
*ほとんど誰からも注目されない場所が、日の光を浴びてきらきら輝いている。そんなところを歩くときに気分を一層盛り上げてくれるのが、この音楽。
(278) "Say So" - Doja Cat - Cover (Violin) - YouTube
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smallflowersj · 8 months
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夏の夕方、温泉街での思い出
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以前の写真を見て、もう一度行きたいと思う特別な宿がある。温泉街の高台にあり、木のぬくもりを存分に感じられるしつらえ。地酒を楽しめるバーや、コーヒーなどを飲みながら書籍や雑誌を読むことができるライブラリーラウンジもある。しかし、ほかにない魅力は、この宿と、この宿から徒歩4分ほどのところにある姉妹館の宿を行ったり来たりして温泉を楽しむことができる湯めぐりだ。
もちろん温泉そのものの楽しみもあるが、この徒歩4分の道のりが、またとてもいい。夕暮れ時に、足元の照明が美しい木の廊下を通って、高台の宿の外に出る。坂道を下ると、小道が伸びている。こっちの道を行くのかな?と思うほど、観光客はまばらだ。角のちょっとしたスペースで、木の椅子を出して涼んでいる人がいた。渓流と夏の虫の音が聞こえる。温泉街のぽっ、ぽっと灯りが灯る建物の間の細い道を歩いていくと、渓流にかかる橋の向こうに姉妹館が見えた。アーチのフォルムが美しいエントランス。一つの宿に宿泊予約をしながら、2つの宿を楽しめる、あまりない経験。おすすめだ。
会津東山温泉くつろぎ宿(福島県)
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smallflowersj · 8 months
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ごく普通の景色に隠れたもの
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この写真は、ごく普通の穏やかな夏の日の光景に見える。実際、そうなのだが、この写真には見えていない歴史がある。右側奥に見える茶色っぽい屋根の小さな建物が、「そこ」に入る受付窓口があるところで、その隣に、「そこ」がある。
「そこ」とは、沖縄戦で、傷病兵の治療が行われた陸軍病院の壕である。暗くて狭い壕の中で、軍医、看護師、そしてひめゆり学徒などが治療に当たった。医療設備や薬が乏しく、麻酔なしでの手術や手足の切断などが行われた。訪問者は、その壕の中に実際に入ることができる。懐中電灯を消してみて、実際はどのくらい暗いのかを体験することもできる。
何よりも印象に残っているのは、壕の中の臭いを再現したものを嗅がせてもらった経験だ。今まで嗅いだことのないような臭い。中にいる人たちの汗、血、尿の臭いが入り混じった臭い。湿っぽく不衛生で、狭い壕の中にこの臭いが充満していたら…と考えただけでも頭が痛くなりそうな臭い。目をつぶって臭いを嗅いでいると、壕の中の光景がイメージできるような気がした。その過酷な状況を想うと胸が苦しくなり、息ができなくなりそうだった。
真っ暗な壕から出ると、午後の日がさんさんと降り注いでいる。写真では緑色と赤い洋服が少し見えているだけだが、3人の子どもたちが遊んでいた。ちょうどその洋服が見えるところに、歌碑が建てられている。そこには、こう記されている。「鎮魂 額づけば 戦友葬りし日のごとく 夜明けの丘に 土の香匂ふ 両の足失なひし兵 病院を探して 泥道這ひずり来たる」。子どもたちの笑い声に見送られながら坂を上り、何度も振り返って、今の平和がずっと失われないように、亡くなった人々の苦しみが忘れ去られないように、と願う。
帰り道、「飯上げの道」を通る。ふもとの炊事場で調理し、炊きあがったご飯を、砲撃の危険にさらされながら、丘の上まで担いで歩いた道。ここで命を落としたひめゆり学徒もいた。「つらかったよね、よく頑張ったね」。自分の女子高時代に似て見えた、ひめゆり学徒たちの集合写真を思い出しながら、親しい友人のように心の中で声をかけ、その場を後にした。
沖縄陸軍病院 南風原(はえばる)壕群20号(沖縄県)
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smallflowersj · 8 months
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心を強くもって…
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決して近くにあるわけではないのに3回も足を運んだ神社は、ここしかない。そこに行く一般的なルートは、駅からバスで1時間以上かけて行く方法だ。しかし3回目は、表参道を歩いて訪問した。神社の「表参道」。ここで、平坦で散策するのに楽しい道のりを想像する人も多いだろう。しかし、この神社は標高1100メートルのところにあり、表参道とは、3.7キロの登山道である。車道ができるまで、参拝者が歩いた道である。
訪れたのは、晩秋。最初は、枯れ木や滝などの風景を楽しみながら進む。しかし途中から、だんだんきつくなってくる。そもそも最初から登山道を通って参拝する人の数はそれほど多くないのだが、ゆっくり歩いているうちにどんどん抜かされ、やがて一人になってしまった。自分の足が止まると、落ち葉を踏みながら歩く音も聞こえなくなり、静寂に包まれる。クマが出ると言われている場所だけに、恐怖が襲ってくる。
道がたくさんの落ち葉で埋もれ、足元ばかり見ていると、行くべき方向が分からなくなる。だから、ときどき顔を上げて、数メートル先くらいの進むべき方向を確認しながら進む。さわさわと風に木が揺れる音がするが、その木々を見上げても、ゴールである神社の建物の影すら見えない。「まだまだ修行が足りないぞ」と、言われているかのようだ。この神社には、弱い気持ちを持って行ってはだめだ、というのを何かで読んだことがある。今回はいつも以上に、その心意気を試されているかのように感じた。
ようやく上のほうで、人声が聞こえてきた。私がこの神社で一番好きな場所である奥宮遥拝殿が見えた。バスで来て、最初に本殿に行くと、この場所はやや遠い奥のほうにある。しかし、登山道から来ると、出口はここにつながっていた。遥拝殿は、正面の岩峰にある奥宮を遥拝する場所だが、私が来るときはいつも霧で包まれ、何も見えない。しかしその霧の中の遠くを見ていると、表現できないパワーで体中が満たされるように感じる。霧で何も見えなくても、ずっといたいと思う場所である。
三峯神社(埼玉県)
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smallflowersj · 8 months
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懐かしく感じるのに、非現実的な不思議な場所
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駐車場に車を停めて、真っ暗な道をしばらく行くと、突然、まばゆいばかりの光に包まれた小さな「町」が出現する。幅の狭い川の両岸に隙間なく旅館やカフェ、バーなどが立ち並び、多くの窓からオレンジ色の灯りが溢れている。西洋風の古い建物だが、どこか懐かしく、またモダンな雰囲気。
両岸は、いくつかの小さな橋でつながれ、行ったり来たりすることができる。窓からあふれる光とは対照的に、橋の上や建物の前の小道は少し薄暗く、ガス灯や足元を照らす小さな灯りが点在し、それがまたとてもいい。この小道を歩いていくと、窓越しに店内が見え、川の流れの音に交じって、食事時の食器の音や楽しそうな笑い声、バーからはジャズの音楽まで聞こえてくる。
昼間に来たら、きっと雰囲気は違うのだろう。しかし、やっぱりおすすめは、夜だ。特に冬の夜。寒いときに、暖かく照らされたその「町」は、宿に泊まらずただ散策するだけでも心が満たされる、非現実的な空間なのだ。
銀山温泉(山形県)
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smallflowersj · 8 months
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私の秘密の庭
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何年経っても、ずっと心に残っている風景がある。夕暮れ時の修道院跡。ここは、観光客で賑わうカンタベリー大聖堂からそれほど遠くない場所にある(写真左側の遠くに見えているのが、カンタベリー大聖堂だ)。しかし、ここまで足を運ぶ観光客は少なく、犬を散歩させている人がいるくらいだ。ああ、こんなところを毎日、犬の散歩で訪れることができるなんて!
観光客がいないのは、あまり見るものがなく、広大な芝生に、廃墟と化した修道院跡があるだけだからだ。建物は基礎部分以外ほとんど残っていず、象徴的な赤色の石壁がひときわ目立つ。しかし、この赤色の壁が夕日に照らされ、芝生に影を落とすとき、私にとっての極上の時間がやってくる。修道院の部屋があったであろう基礎部分の石の上に腰かけて、当時の修道士もこの夕日を眺めたのだろうかと空想にふけるのだ。そして、その時にイヤホンで聴く音楽がある。80年代にShattered Dreams がヒットしたイギリスのバンド、Johnny Hates Jazz の My Secret Gardenだ。
(278) Johnny Hates Jazz - My Secret Garden - YouTube
聖オーガスティン修道院(聖アウグスティヌス修道院、英国)
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