六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、兵庫県芦屋市の町名及び同地の高級邸宅街。「丁目」のない単独行政地名。
神戸市、大阪市および阪神間の市街地と瀬戸内海を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面の海抜200 - 250メートル地点に位置する。1928年に払い下げられるまでは国有林で[5]、現在も芦屋市の自然環境の一部分を形成している。
芦屋の一部は元々、大阪財界人の別荘地として開拓されていた。六麓荘町の開発は、明治後半から大正時代にかけ、日本一の富豪村[6]と呼ばれた住吉村(現・神戸市東灘区)や夙川、香櫨園など近隣地域の影響を受けた延長上のものであった。1928年(昭和3年)から富商・内藤為三郎ら大阪財界人の手によって、国有林の払い下げを受けて当初197区画、数万坪にのぼる宅地造成を行ったことから始まった。六麓荘という地名は「風光明媚な六甲山の麓にある別荘地」に因み名付けられた。電線類地中化など先進的な街づくりが取り組まれた[5]。
六麓荘の開発は、1928年(昭和3年)に大阪財界人のひとり森本喜太郎が発起人になって、土地開発・住宅造成の会社である「株式会社六麓荘」を設立したことが始まりである。社長には上記の内藤為三郎、専務に森本喜太郎が就任した。この当時は、資金があまり準備できず、2人は協賛金や株の手付けなどの資金調達に専念した。
この地帯も国有林であったので、国有林の払い下げなどの運動については、法律に長けた取締役の瀬尾喜二郎が国との交渉にあたったとされる。
六麓荘開発のコンセプトは、この地を「東洋一の住宅地」とすべく香港の九龍半島やその対岸の香港島の白人専用街区をモデルに開発が行われた[5]。南斜面の起伏のある恵まれた地形を有効に利用し、スケールの大きな住宅地が形成された。例えば、細い山道にすぎなかった道を幅6メートル以上に拡幅して、1区画につき少なくとも300坪から400坪以上を標準とした。また、自然の地形を尊重した曲線道路により、住宅地全体が構成され、造成時に切り出された石材は石垣や石橋、庭石に利用。山林の赤松もできるだけ残されて庭木などに活用された。
敷地内に流れる山からの湧水を小川として取り込むほか、溜池や道路を流れる川には橋をかけた。さらに、特色として上水道は経営地の最高部に貯水池を設け、下水道はヒューム管を埋設。都市ガスも導入している。また、電気については、電柱が著しく風致を損なうとして、多額の費用をかけて日本で初めてとなる電線類の地中化が行われた。道路の保全と美観上の問題を含めて全面的な道路舗装を行い、安全面にも留意している。開発当初の1区画の敷地規模は、平均300 - 1000坪以上である。
六麓荘最大の特色として「六麓荘町内会」が開発直後から組織されていることが挙げられる。なお、「町内会」を別に「自治会」と称する事もある。町内会は環境保護・景観保護の為に、ある意味においては、治外法権的な役割を果たしており、町の住民は、開発当初から町内会独自の協定を設けて高級住宅街の維持に努めてきた。協定では、建物は一戸建ての個人宅に限り、新築と増改築には町内会の承認が必要である。
町内での営業行為は一切禁止しているため、マンションや商店、自動販売機は全くない[5]。町内会員により構成される六麓荘町内会(六麓荘土地有限会社)は、道路部分の土地所有権を有している。開発当初は道路を区分所有していたが、管理に限界があり、有限会社を設立することで共有財産とした。しかし、有限会社での自主管理にも限界があったために、芦屋市に無償貸与して市による管理が行われることになった。
新規居住者は、入居時に、町内会の入会金を支払いとともにこれとは別に月々の管理費を支払っている。これらの資金は、共有施設がある駐在所兼公会堂施設の維持・管理と町内会の活動経費に充てられている。新規入居者は、計画時に芦屋市から申請の内容が町内会に伝えられ、町内会でこれを承認するという手続きをとっている。セキュリティー面では、1930年(昭和5年)に町内会が無償で建物を提供して、芦屋警察署の六麓荘駐在所が開設された。
現在の建築条例(旧建築協定)は敷地面積を400平方メートル(121坪)以上とし、400平方メートル未満の面積への分筆も禁止され、用途は2階建以下の一戸建個人専用住宅に限られる。建物の高さは最高10メートルで、軒の高さは7メートル以下とし、営業行為も一切禁止で他にも色々な制限がある。
上述の厳しい制約から、賃貸契約や会社名義(社宅)としての利用が不可であると勘違いされる事も多いが、建築条例を充たした建物であれば居住形態の制限等は無い。賃貸(借家)住まいや社宅住まいの住人も数多く存在している。
バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災以後の近年では世代の交代や高額の相続税の支払いが原因で、土地を手放すケースが増加した。そのうえ前述している紳士協定に過ぎない「建築協定」では風致を維持することができなくなることが懸念されるようになる。そのため住民は強制力のある条例による景観保護を市に求めることとなった。
住民の要望を受けて芦屋市は「建築協定」をそのまま「条例」に格上げした「景観保護条例」を市議会に提出した。「景観保護条例」は、2006年(平成18年)12月22日の芦屋市議会で全会一致で可決されて、2007年(平成19年)2月1日から施行となった。通称「豪邸条例」として話題になった[5][7]。
六麓荘町 - Wikipedia
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HAPPY NEW YEAR
あけましておめでとうございます。
(遅い)
久しぶりに天気がむちゃくちゃいい散歩日和。
正月でめでたいので、東山(金沢)の松。
このまま電線をぶっちぎり、電柱をもなぎ倒す勢いで永遠に成長していただきたい。
(凄いオーバーハング具合!)
市の文化財に指定されている民家の立派な松でございます。
「世の中は 常にもがもな渚漕ぐ
あまの小船の 綱手かなしも」
小倉百人一首:鎌倉右大臣(源実朝)
「がも」は願望の終助詞、「かなしも」は悲しいという意味ではなく、しみじみとした趣深さに心ひかれる時に使う表現です。
(古典の授業か?)
人並み外れたやさしさと、繊細で鮮烈な感性を持っていたといわれる実朝。
「世の中は永久不変であってほしい」
無常観の認識に立ち、いつもと変わらぬ漁夫の仕事ぶりと浜辺の風景の一瞬の中から見つけた、ささやかな願望・・。
不変な平和を望みながら、自らが意図しない激しい権力闘争に巻き込まれ28歳の若さで暗殺されてこの世を去った実朝らしい作品です。
(今の時代にぴったりなうたですね)
というわけで、これをもって新年のご挨拶に代えさせていただきます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
(なんやねん)
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とどまらないもの
そこは駅のようだった。
電車が停まりドアが開いたのだから、実際に駅なのだろう。たとえ、木々が天井を破り、ホームを蔦が這い回り、ベンチの座面の継ぎ目から花が溢れていても。ガラス張りの建物だったのだろうが、今はフレームしか残っていない。割れたガラスはホームに落ちたままになっていて、陽光にきらきらと光っている。ここは駅、なのだけれど、こんな場所だっけ、と思う。
そのどこか別の世界のような光景に、僕はしばらく呆然と立ち尽くした。とても静かだ。僕が乗っていた列車が行ってしまうと、ほかに停車している列車はなく、到着や通過を知らせる放送もない。ときおり吹き抜けていく風の音が、びゅう、と響いた。一緒に降りた数人の乗客は、足早にどこかに行ってしまった。ホームに残ったのは僕だけだった。
そう思っていた。
さて自販機か売店でも、と思い、そんなものは期待できないな、とベンチを探して、僕のほかにもうひとり、ホームに残っている人を見つけた。
ベンチに女性が座っていた。彼女もまた僕を見つけたらしい。こちらを見て、何か思いついたような表情を浮かべ、会釈をした。光の具合のせいで、輪郭が少し揺らいで見えた。若くはないけれども、それほど老いてもいない。大人になってそれなりに長く経ったところに立っている人だと思った。
「しばらく、電車は来ないでしょう」
彼女は言った。
そうかもしれない。時刻表がないので何とも言えないのだけれど。
「座ってお待ちになったら」
言われるままに、僕は彼女の隣に、少し離れて座った。ほかにもベンチはあったのだけれど、どれも植物の苗床か支柱になっていて、人間のために存在しているようには見えなかった。
「どこかでお会いしたことがないかしら」
彼女は、そんなことを言った。
どうだろう。僕はあまり、人の顔を覚えるのが得意ではない。会ったことがあるような気がするけれど、別の人のことを思い出しているような気もする。それでも、あのときの、という記憶がひとつ、浮かんできていた。
「失礼なことだとは思うけれど、あまりよく覚えていないんです」
「ええ、私も。でも、確かにあなたとはどこかでお会いした気がするの。たぶん、何年も前に。そして、何か大切な話を聞いてもらった」
僕は頷く。
「そうかもしれません。あなたはあなたの旅について話をしていた気がする」
「私の旅は、滑走路から始まったのよ」
そう、そんな話を聞いた気がする。
「作り直されたばかりの、まっさらな滑走路から。あれから十二年も経って、私の旅も一回りしたのかもしれない。思えばこの駅も前に来たことがある気がする」
「あれからの旅は、どんな旅でしたか」
僕は問う。
「新しい景色を見に行く旅だった。新しい人と出会い、新しい言葉を話す旅。そしておそらくは、これ以上の出会いはもうないだろうと思えるような旅。人生には、不意に、そういう旅が用意されることがあるのね。人生、なんていうと大げさだけれど」
そういうものか、と僕は何となく頷く。
「でも、また同じ場所に戻ってきたということですよね。その、この駅にいるということは」
「ええ、そう」
彼女は笑う。
「そういえば、この駅は、建て替えるそうね」
彼女は、やぶれた天井の向こうの空を見上げて言った。
「そうでしょうね」
とりあえず僕はそう返す。多少惜しい気持ちもある。荒れ果てた駅を、荒れ果てた、と表現するのはひとつの視点であり、生い茂る草木にとってはこの方が良いのだろうし。でもそれはそれとして、雨が降れば大変だろう。新しい駅には、新しい人がやって来る。
「駅に留まる人はいないの。 必ず、皆どこかに向かうのよ。ねえ、私の旅は決して幸福な旅立ちではなかったけれど、私が大切な旅をして、出会いを得て、今ここにいるためには、その旅立ちがなければならなかったのよ。あの旅立ちと、この長い道のりがなければならなかった」
彼女はそう言って、立ち上がった。
「さあ、私はそろそろ行くわ。もうすぐ、電車が来るの」
そして、放送もなく、駅員の案内もなく、電車が静かにホームに入ってきた。
僕は彼女を見送ると、またベンチに腰を下ろし、電車が来るのを待った。
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20230624 自転車のまち
ご存じのように京都の町なかは道路がせまい。大きな道以外はたいてい一方通行である。だからクルマで動くとものすごくめんどうくさい。とめておくこともできないので、ふだんの買い物はまず、自転車をつかうことになる。町にはスーパーに買い物にゆくおばちゃんの自転車であふれている。おばちゃんだけでなく、老若男女、ママチャリが多い。学生マンションの前にはかならず自転車がとまっているし、ほうぼうの家の前でも同じように駐輪されている自転車が目につく。あまりにも普通に目にしている風景なので、われわれはこれが当たり前だと思っているが、よそにゆくと案外そうでもないことに気づく。
京都の町には、町内ごとにお地蔵さんがある。5000以上あるとかないとか言われているが、さすがに、これはどこの町でもそうではないのかも、と、思われているらしい。一方、政治家のポスターが異様に多いことについては無自覚である。電柱にはたいてい黄色と黒の反射板がまかれているし、町名のかかれている消火器のおさめらている赤い箱や、同じく赤い防火バケツはどこにでも転がっている。そういうものが歴史的建造物(とはいっても築150年以内のものが大半)と一体化して、町なみをつくっている。一歩通行をしめす青い標識と、進入不可の赤い丸に白の横線のはいった標識、「停れ」「止まれ STOP」の赤い道路標識。ゴミ袋の上からかかぶせてカラスの害からまもる黄色や青の防鳥ネットの丸められたもの。
そういう町なみの中を、人があるき、自転車がはしりまわっている。同じように、自分もはしりまわる。5年以上、こんな感じでつづけてきた。ずいぶんたくさんの写真を撮ったものだと思う。撮ったものをあとでながめてみると、見ていなかったものがたくさんうつっていることに気づく。そしてそれはとても楽しい経験である。自分の脳内の地図が濃くなってゆく。そういうふうに思う。
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三輪秀次の小説(二次創作)
きみは河を渡る
切れた電線はうねり、パチパチと鳴っている。もうもうと立ちのぼる埃と煙は視界を狭める。降ってくる灰を吸い込んで、喉が痛い。ゴホと咳が出た。
空を雲が厚く覆っていた。
時折、低く戦闘機が飛ぶ。空気を震わせる爆音も、いつの間にか聞こえなくなる。
無駄を知り還ったのだ。替わりにヘリコプターのバタバタという回転音が耳に障る。避難を促すサイレンがとうとう途絶えた。
道路や瓦礫の上にうち捨てられた、おびただしい数の死体ももはや何も言わなかった。
それらの胸には皆、着衣の上から同じ箇所にこぶし大ほどの穴が開いていた。彼らが開けていったのだ。心臓の脇を的確に単調にえぐり取っていく様子は、実りの季節を迎えて収穫にいそしむ農夫のようだった。
鋭い鉄の匂いが鼻の奥を刺す。血だまりに足が取られる。地面のいたるところにできた血液の浅い湖は徐々に固まり、粘度を持ちはじめていた。その上に、ぽつりぽつりと何かが落ちてくる。
……雨。
『姉さん』
三輪は姉を探していた。
「お断りします」
三輪の返事に根付は下がり気味の眉をさらに下げた。
「うーん、やっぱり無理かねえ」
「去年に引き続き、申し訳ありませんが……」
これ以上は目を合わせないように顔を伏せて押し黙る。可愛げのない態度だったが、断る選択肢しか持っていない。
ボーダー本部メディア対策室である。
いかにもオフィス然としたレイアウトだ。メディア対策室の名の通り、棚を並べた一角があり、派手なロゴのついたグッズたちが飾られている。
棚の横にも小ぶりの段ボールがいくつか置かれ、中にはビニールに包装された何かが入っていた。
さらにはミニスタジオのようなものがつくってある。
雑然としているが、外部の人間への窓口だけあって、明るい開放的な空間であった。
三輪がめったに訪れない部署だ。それも入り口で済ませる所用くらいで、もしかしたら、ボーダーに所属して四年近く、初めて足を踏み入れたかもしれない。
A級隊員の嵐山をデフォルメしたぬいぐるみの飾ってあるテーブルで、茶を勧められている。早く作戦室に帰りたい。自然と眉間が寄ったが長い前髪に隠されて、根付が気づいた様子はなかった。おそらく、気にしてもいない。
「原稿はこちらで用意するし、内容はちゃんとチェックしてもらうんだけどね、ダメかね」
根付が頼んでいるのは、来月に行われる三門市主催の追悼式典のスピーチだった。
近界民による大規模侵攻から四年目の式典となる。
公会堂のステージに設置した祭壇を花で埋め尽くし厳粛に行われる。市外からお偉方や著名人がたくさんやって来て、それぞれ追悼の意を表わす。最後に遺族代表数人にお鉢が回ってくる。大人枠が何名かと青少年枠が一名。
三輪に白羽の矢がたったのはその青少年枠だった。理由はボーダー隊員で遺族である人物のうち、比較的年下で一番長く所属しているからである。
日頃から「ボーダーの印象向上」を仕事にしている根付からの依頼は筋の通ったものだった。
しかも、直属ではないが上役である。
「三輪くんには業務外のことを頼んでいるのはわかっているんだけどねえ」
人を丸め込む技量の高さがなんぼの職に就いている根付だが、実はかなり弱気に出ている。
理由はわかる。
三輪に式典のスピーチを依頼するのは初めてではない。
一年目のとき、三輪は流されるままに引き受けたものの、原稿に目を通した段階で押し寄せてきた感情に引きずられて過呼吸を引き起こしてぶっ倒れ、騒ぎになったのだ。当然、本番のスピーチは見送られた。彼が中二のときの話だ。
二年目は話がやってこなかった。当時、所属していた隊の隊長である東が反対したのだと思う。頼まれたとしてもとても務まらなかっただろう。
三年目は根付は本部長を同伴してわざわざ頼みにきた。しかし、断った。三輪にとってこの依頼は荷が重く、片手間にできるものではなかった。高校生になったばかりで何かと忙しかったし、そのころ広報部隊としてメディア展開をはじめた嵐山隊を売り出す根付の派手な手法に若干いやな予感がしたのだ。
そして、四回目の式典である。
遺族でボーダー所属、さらに今年は初めて自分の部隊を結成している。
千六百人超の死者行方不明者を出した異世界からの侵略戦争によって、最愛の家族を失いながらも生き延びた子どもが立派に成長し、隊長となって隊員を率い街を守っている。
『これからもボーダーの一員として、三門市を守っていくことを誓います』
おそらく、そんな言葉で締めくくられるであろう、未来への宣誓。
三輪もボーダーの印象がよくなることに否やはない。
いまのところ命令はされていないが、任務ならば遂行しなければならないというのもわかっている。
ただ、ことこれに関してはそつなくこなせる自信はなかった。
「ちょっとしたインタビューもあるけど、一局に絞るから」
「……」
元々、要領のいいほうではない。愛想はかけらも持ち合わせていない。人前でしゃべることも苦手だ。ましてや全国に映像が配信されるなどと聞くと気が遠くなる。
それだけではない。
……雨はあっという間に激しくなった。
血のにおいに、ドブのようなそれが加わるなか、ようやく彼は探し人に出会えた。
折り重なるように積み上がった死体の山が崩れたのか、その脇に彼女は転がっていた。
他のそれらと全く変わることなく、彼女の胸にはぽっかりと穴が開いていた。死に神は何もこぼさずに等しく命を刈り取っていったのだ。
「姉さん」
誰か。
誰か姉さんを。
当日は各メディアも入り、騒がしくなるであろう時期を避けて、そこを訪れることにしている。
追悼の意を込めた公園は市街地に近い高台に造られていた。
本当の追悼の場所は、いまだボーダー管理下の警戒区域だ。
まだ真新しい石碑が幾本か建っている。
円柱の形をした石碑には名前がただ刻んである。犠牲者の名前だ。
三輪は一つの石碑の前でたたずんでいた。腕を上げ、石碑にそっと触れる。指を滑らせる。知っている名前もある、知らない名前もある。ゆっくりと滑らせていく。
一点で指が止まる。
彼女の名前だった。
『誰か』
『誰か姉さんを助けて』
目の前に広がる風景はいまも鮮やかだ。音も匂いも。足にまとわりつく重さも。降ってくる雨の粒まで。
足下の彼らはみな目を開けているが、そのまぶたは動かない。その指は動かない。
今の彼は知っている。死体は苦しまない。
大丈夫だ。
向こう岸で、穏やかに微笑んでいる。そこまでの距離はいつでも一歩だ。ひとあし、踏み出すだけで届くほどに近い。
時間は流れる。仮にマイクの前に立ち、メディア対策室のしたためた美しい文章を読み上げても、もう息がくるしくなることはないだろう。それでも、引き受ける気にはならなかった。
三輪は立ち上がると頭を下げた。
「お役にたてず、申し訳ありません」
強引に話を終わらせる態度を根付は咎めず、一緒に席を立った。
「残念だけどねえ。来年もまたお願いすることになると思うけど」
来年は五年という節目の年のために大々的になるという。おおっぴらに全国規模でボーダーの存在をアピール出来る数少ない機会だ。遠征には金がかかる。そのスポンサー集めも兼ねているという。民間組織であるボーダーにとって、金の話はいつでも切実だ。
「まあ、気にしないでいい、他に方法はあるからね」
頼りになるだろう、と彼はにやりと笑った。
これからの物語を紡ぐことは彼にとっては今までの物語をひとまず終わらせることになる。彼にはそれはどうしてもできない。
向こう岸はまだそこにある、いつでも行ける。死者たちは微笑んで待っている。一歩、踏み出せばすぐに会える。
黒い河の冷たい流れに脚を膝まで浸し、目の前の彼岸を見つめて彼は立っている。
この場所から立ち去りたくはないのだ。
いまは、まだなお。
了
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2023/4/22〜
4月22日
よく眠れずもうだめかと思っていたのに、午前も午後も友人に会って、それ以外は電車とかで信じられないほど眠ってへとへと。
今日はfurfurの赤いワンピースとzuccaのガーディアンを着る!と決めていたので、部屋を出て肌寒かったけれど、1日ずっと寒かったけれど、やっぱりお気に入りの服を着られてずっと幸せ感があった。
午前中はギャラリーの打ち合わせで高田馬場へ。
待ち合わせまでの待ち時間、駅の時計の上に馬がいるのを見つける。
午後はお茶をしに池袋へ。
待ち合わせまで西武と東部の間をうろうろしていたら、駅の柱の上にふくろうがいるのを見つける。
ギャラリーの担当のお姉さんがしっかりして可愛くておしゃれだった。身なりはとてもシンプルなのにおしゃれ!
そのあとミズマアートギャラリーで新津保さんの展示を鑑賞。
やっぱりアクリルマウントで白枠をつけて展示をしたい。
早速ギャラリーの方からメールが入っていたり、いろいろ作品作り以外での準備もあるので、今はとりあえず体力を温存させるためにひとまず眠る。
お茶をした友人は、出産や子育てを選択できる環境にいるけれど、それを選ぶと写真や作品作りをしなくなってしまうのでは?という怖さがあって、それを選べないとのこと。
私はそれを聞くことができて嬉しくなってしまう。
新年度のことや、キャプションの考え方のこと、長島先生のレビューの話、疲れている時はレトルトの湯煎すらできない話、などをした。
私がいま不安感が付き纏っている体調の話をして「あ、こんな話しちゃってごめん…」と言うと「いや、…あ、ハリネズミかわいい〜」と、ソーサーにカップで隠れていたハリネズミを見つけた反応にかき消されてしまって、テンションも何もかも噛み合ってなくておかしかった。
いろんな花が見頃なことがよくわかる帰り道に少しだけ写真を撮れた。
友人と別れていっき眠気とだるさが現れ、山手線を逆回りしたりして何とか帰宅。
昨日、今日と、会った人にタカノのフルーツチョコはバナナばかりが残る不思議の話をしたけれど、全く共感を得られなかった。
4月23日
頭の中で写真展用ブックレットに載せるキャプションをずっと考えていた日。
それなので、そのほかのことを気にするのが面倒なり、それでも家に帰ってするすると体の力が抜けてしまった。
昨晩はいつも行くショッピングモールの地下1階のチケットセンター(?)に辿り着けず、モールの通路をぐるぐるする夢を見た。チケットセンターは1階へ移動していたのだけれど、いつも通りのテナントが並ぶだけの安心できるはずの風景に、お目当てのセンターを見つけられず恐ろしくなった夢。
8年?7年?前の日記を見ると、ちょうど今頃、藤まつりに行って、パパブブレの飴を部屋で舐めてポップをしていた。
午後の予定で「あまり興味ないかもですが…」と、スカイツリーがディズニーとコラボしたライトアップをしていることを教えてもらった。
バズ・ライトイヤーのことを“バズ”と呼んでいて、友達みたい。
出してもらったお花のお茶はマリーゴールドだった!
宅配便の集荷のタイミングでいつもシャワーに入ってしまい、2週連続で対応できずにいる。
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23/5/30
橋本駅から新宿行きの電車に乗った。地上10メートル、高架を走る京王線の車窓から見える家、道、電柱、電線、木、川、屋根のアンテナなどは、つい2ヶ月前まで確かに俺の日常の風景だったものだ。3年という、あるまとまった期間において。しかし、この2ヶ月間、地元新潟に帰って暮らしていたせいで、つい2ヶ月前まで日常だった風景は知らない間に懐かしい思い出へと変わってしまった。何が変わってしまったのだろう。橋本駅前の道が、リニア駅建設の都合だと思うけど、ウネウネと蛇行したものに変わっていたぐらいで、2ヶ月程度では街自体ほとんど変化していなかった。変わったのは無論、俺の方なんだろう。知らない間に変わっていた俺が車窓から見る街に、変わった俺を見たんだろう。
日常はいつの間に思い出へと姿を変え、非日常はいつの間に日常になるのだろう。日常だったものは思い出になり、非日常は日常になる。その日常はまたいつの日か新たな思い出になるのだろうか。その繰り返しは人に何をもたらすのだろう。身の回りで起こるあらゆることは何もかも、夏が過ぎ去った後の、あの高い夕暮れの空のように、どこか寂しくも焦がれるような思い出へと移ろうのだろうか。人はなぜ過ぎ去るものに心惹かれ、記憶というものを携えていくのだろう。
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