十二神将変 塚本邦雄
河出文庫
カバー装幀=間村俊一、フォーマット=粟津潔
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語り手は常に〈いま・ここ〉で語るが、それを読む読者が体感するのは、小説テクストが書かれたその時ではなく、読んでいる「いま」である。こうして、「いま」という時制が浮上する。「語るいま」は、作者ではなく語り手の行為そのものの時制である以上、まさにそれこそが「いま」小説テクストを読んでいる読者の領域なのである。語り手とは読者だったのだ。
— 石原千秋著『読者はどこにいるのか 読者論入門』(2021年9月Kindle版、河出文庫)
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白尾悠 著『サード・キッチン』
単行本の時に描き下ろした装画を引き続き使用していただきました。
PB:河出文庫
BD:アルビレオ
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大濱普美子『猫の木のある庭』(河出文庫)
収録作6篇とも、古びた建物の手触りやにおいまで伝わってくるきめ細かな描写がすばらしい。かつて在った人や生き物の不在を鮮やかに浮かび上がらせる。この著者の作品はすべて読みたいと思った。ゼーバルト以来の衝撃。
装幀:大久保伸子、装画:武田史子
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「ババヤガの夜」王谷晶(河出文庫)
カバーデザイン:山影麻奈 カバー装画:寺田克也
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#こぽこぽ珈琲 #おいしい文藝 #河出文庫 人気シリーズ「おいしい文藝」が文庫化。 年代いろいろ、各作家の珈琲にまつわるエッセイ31篇を収録。 珈琲を傍らに置いてゆっくり読書なんて至福の時間ですね。 お正月休みにいかがでしょうか🎍 LIS摂田屋(@lis_nagaoka )にて販売中。 ・ ・ ・ #ブックスはせがわ #書店 #本屋 #移動本屋 #移動販売 #移動販売車 #bookknock #LIS摂田屋 #雑誌 #書籍 #写真集 #文庫 #漫画 #絵本 #児童書 #エッセイ #小説 #magazine #book #新潟県 #長岡 #bookstore (Food & Lifestyle Store LIS) https://www.instagram.com/p/CmwG6ELLDb3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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読み終わった本 直感力を高める数学脳のつくりかた バーバラ・オークリー 沼尻由起子 訳 河出文庫 先に読んでいた読書猿さんの「独学」と 内容が重複している箇所が多いけど 表現を変えて今回も教えていただく 推しが微笑む帯があるので読む本なのだ 数学脳→数学や科学の学習技能や学習法 集中力の高めかたや記憶の定着の方法など 体験談を交えて紹介 (海外の通販番組風に読めて面白い) 各章ごとに要点を自分なりに整理するよう促され この読書を通して数学脳をつくる準備ができる(?) #読書 #読了 #読み終わった本 #直感力を高める数学脳のつくりかた #バーバラオークリー #沼尻由起子訳 #河出文庫 #読書の秋 勉強方法に詳しくなっていくけれど 何の勉強をしているのでしょうか🤔 https://www.instagram.com/p/ClaAnj9PhS6/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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七等生
- 五年集
1972
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I knew our friend @smilekit-001 doesn't really speak English, so the least I can do is to dig out the original versions of some of my comics XD
中文版被我挖出來了啦老大!
And then here's Fedi's diary entries.
今天是1939年八月26日。
我和當時的總參謀Halder反覆討論入侵波蘭的事宜。克魯格跟我一樣鬥志滿滿的,但軍方裡頭其他人在擔心英國的下一步。
不多時,英國與波蘭簽訂協議的消息下來了,Halder立刻禁止我們輕舉妄動。英國佬總是會做英國佬會做的事情,我其實不怎麼意外;但一聽到要鳴金收兵,克桶他看上去要抓狂了(Kluge is…besides himself)。
喔對了,我的總部那裡是凱撒巴德療養院,四個有妄想症的傢伙溜了出來,抓住我的便衣警衛揍了一頓還關起來。呼呼我很久沒遇過這麼好笑的事了www。
今天是1939年八月27日。
Halder那邊反正就這樣了。我一直在跟布勞希奇(Brauchitsch)反覆確認何時要動員軍隊,我現在只關心這件事。克魯格同意我的所有見解。喔耶。
但是顯然布勞希奇很介意英國大使來訪柏林這件事。他說我們與比利時、法國與英國的關係十分緊張,這嚴重拖累了軍人們的士氣,各處的情緒都很低落。我不認為談判能談出個什麼所以然來,總之我下午的時候親自去看了一下我的師團。
今天是1939年九月一日。
攻勢正式開始了,我指揮第二軍團(II Army Corps)與第十裝甲師(10th Panzer division)快速地朝東普魯士前進。維斯瓦河畔地區馬上就掃除了障礙。我要第二軍團的史特勞斯在庫爾姆(Kulm)的方向設立橋頭堡。這時候英國與法國還是只會在邊上嚷嚷而已,感覺上有夠俗辣。因為我催史特勞斯催得緊,波蘭轟炸機根本炸不到我們的人。
等到佔領庫爾姆之後,我就能利用那裡的鐵路把人員一路運到波蘭沃姆札(Lomza)。我趕緊把第四軍團的克魯格召喚過來,談談如何進入沃姆札的事宜,沒想到這桶子開飛機撞到樹,進醫院了。嘖,只好把克桶那部份的事情通通丟給史特勞斯了,得把他挖起來聽簡報。
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いきなり偉そうなことを書いて各方面から顰蹙を買いそうなんだけど、あえて言う。僕は自分の日記より面白い日記を読んだことがない。これはハッタリでもなんでもなくて、それくらいの気持ちがないと何処の馬の骨とも知れないチャリンコ屋の日記に1,500円や2,000円を出して購入してくれている方々に申し訳が立たない。ただし「自分より」と言うのには注釈が必要。『富士日記』や『ミシェル・レリス日記』みたいな別次元の傑作は対象外として、近年、雨後の筍のように量産されているリトルプレスやZINEを体裁とした日記やエッセイ群を見据えての発言と思って頂きたい。商売としての仕入れはさておき、個人的に興味があったので色々と手を伸ばして読んでみたものの、そのほとんどが「私を褒めて。私を認めて。私に居場所を与えて」というアスカ・ラングレーの咆哮をそのままなぞらえたような内容、若しくは「持たざる者同士でも手を取り合い、心で繋がっていれば大丈夫」的な似非スピリチュアルなマジカル達観思想で構成されているので、正直ゲンナリした。しかもタチの悪いことに、そういうものを書いている人たち、あわよくば商業出版の機を窺っていたりするものだから、出版社や編集者の立場からしたらまさに入れ食い状態。「ビジネス万歳!」という感じでしょう。晴れて書籍化の際には口を揃えて「見つけてくれてありがとう」の大合唱。いやいやいや、ちょっと待って、あんたら結局そこにいきたかっただけやんってなりません?これまでの人生をかけて手にした「生きづらさ」の手綱をそんなにも容易く手放すんかい!と思わずツッコミを入れたくもなる。現世で個人が抱える「生きづらさ」はマジョリティに染まらぬ意思表明と表裏の関係にあった筈なのに、どっこいそうはさせないとばかりにどこからともなく湧いてくる刺客たちの誘惑にそそのかされては、呆気なく自らの意志で握手(悪手)に握手(悪手)を重ねる。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。以前、僕もある出版社の編集長から「DJ PATSATの日記を当社で出版させてほしい」という誘いを受けたけれど、もちろん丁重にお断りした。僕は自主で作った300冊以上の読者を想定していないし、それより多くの読者に対する責任は負いかねるというような趣旨の言葉を伝えた。そもそもなぜ僕が友人(マノ製作所)の力を借りながらわざわざシルクスクリーンという手間をかけて制作しているのかを理解しようともしない。編集長は口説き文句のひとつとしてECDの『失点・イン・ザ・パーク』を引き合いに出してこられたのだけれど、いま思えばそういう発言自体が安易というか不遜だと思わざるを得ない。結局その方は僕を踏み台にしようとしていただけだったので、負け惜しみでも何でもなく、あのときの誘いに乗らなくて良かったといまも本気でそう思っている。まぁ、これは僕個人の考え方/価値観なので他者に強要するものでもなければ、共感を得たいと思っている訳でもない。逆に彼らも推して知るべしだ。誰もが商業出版に憧憬を抱いている訳ではない。昔から煽てられることが好きじゃないし、賑やかで華やかな場面がはっきりと苦手だ。だからと言って消極的に引きこもっているつもりもなく、寧ろ積極的に小さく留まっていたいだけ。かつては各地の井の中の蛙がきちんと自分の領域、結界を守っていたのに、いつしかみんな大海を目指すようになり、やがて井の中は枯渇してしまった。当然、大海で有象無象に紛れた蛙も行き場をなくして窒息する。そのようなことがもう何年も何年も当たり前のように続いている現状に辟易している。そんな自分が小さな店をやり、作品を自主制作して販売するのは必要最低限の大切な関係を自分のそばから手離さないためである。何度も言うているように自営とは紛れもなく自衛のことであり、率先して井の中の蛙であろうとする気概そのものなのだ。自衛のためには少なからず武器も必要で、言うなれば作品は呪いの籠った呪具みたいなもの。そんな危なっかしいものを自分の意識の埒外にある不特定多数のコロニーに好んで攪拌させたりはしない。多数の読者を求め、物書きとして生計を立てたいのなら、最初から出版賞に応募し続ける。だからこそ積年の呪いを各種出版賞にぶつけ続けた結果、見事に芥川賞を射止めた市川沙央さんは本当に凄いし、めちゃくちゃにパンクな人だと思う。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、天与呪縛の逆フィジカルギフテッドというか、とにかく尋常ならざる気迫みたいなものを感じた。なぜ彼女がたびたび批判に晒されるのか理解できない。それに佐川恭一さん、初期の頃からゲスの極みとも言える作風を一切変えることなく、次々と商業誌の誌面を飾ってゆく様は痛快そのもの。タラウマラ発行の季刊ZINEに参加してくれた際もダントツにくだらない短編を寄稿してくれて、僕は膝を飛び越えて股間を強く打った。
佐川恭一による抱腹絶倒の掌編「シコティウスの受難」は『FACETIME vol.2』に掲載。
ついでにこれまた長くなるが、かつてジル・ドゥルーズが真摯に打ち鳴らした警鐘を引用する。
文学の危機についていうなら、その責任の一端はジャーナリストにあるだろうと思います。当然ながら、ジャーナリストにも本を書いた人がいる。しかし本を書くとき、ジャーナリストも新聞報道とは違う形式を用いていたわけだし、書く以上は文章化になるのがあたりまえでした。ところがその状況が変わった。本の形式を用いるのは当然自分たちの権利だし、この形式に到達するにはなにも特別な労力をはらう必要はない、そんなふうにジャーナリストが思い込むようになったからです。こうして無媒介的に、しかもみずからの身体を押しつけるかたちで、ジャーナリストが文学を征服した。そこから規格型小説の代表的形態が生まれます。たとえば『植民地のオイディプス』とでも題をつけることができるような、女性を物色したり、父親をもとめたりした体験をもとに書かれたレポーターの旅行記。そしてこの状況があらゆる作家の身にはねかえっていき、作家は自分自身と自分の作品について取材するジャーナリストになりさがる。極端な場合には、作家としてのジャーナリストと批評家としてのジャーナリストのあいだですべてが演じられ、本そのものはこの両者をつなぐ橋渡しにすぎず、ほとんど存在する必要がないものになりさがってしまうのです。本は、本以外のところでくりひろげられた活動や体験や意図や目的の報告にすぎなくなる。つまり本自体がただの記録になってしまうわけです。すると、なんらかの仕事をもっているとか、あるいはただたんに家族がある、親族に病人がいる、職場に嫌な上司がいるというだけで、どんな人でも本を産み出せるような気がしてくるし、このケースに該当する当人も、自分は本を産み出せると思い始める。誰もが家庭や職場で小説をかかえている……。文学に手を染める以上、あらゆる人に特別な探究と修練がもとめられるということを忘れているのです。そして文学には、文学でしか実現できない独自の創造的意図がある、そもそも文学が、文学とはおよそ無縁の活動や意図から直接に生まれた残滓を受けとる必要はないということを忘れているのです。こうして本は「副次化」され、マーケティングの様相を帯びてくる。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(河出文庫p262-263)
僕は制作の際にはいつも必ずドゥルーズのこの言葉に立ち返っては何度も確認作業を繰り返し、ようやっとリリースにこぎつける。しかしそもそもが作品化を企んでいる時点で自分まだまだやなぁと思うに至る訳で、なんとも一筋縄ではいかない。そういう意味では滝野次郎という人がインスタグラムに投稿している日記のような文章には、はじめから読まれることを意図しているにもかかわらず、本来ならば読まれることを目的とした日記からは真っ先に削除されるような状況ばかりが羅列されていて、なかなかどうして凄まじい。馴染みの飲食店で見つけたお気に入りの女性店員を執拗に観察したり、断酒を誓った直後に朝から晩まで酒浸りであったり、謎の投資で10分間で40万円を失っていたり、銀行口座と手持ちの金を合わせても1,000円に満たなかったり、それでも「俺は俺を信じる」と闇雲に自身を鼓舞していたり、そうかと思えば急に脈絡もなくひたすらに左手のハンドサインを連投していたりと、しっちゃかめっちゃか。比肩しうるは円盤/黒猫から出版された『創作』くらいか。あらゆる規範から逃れるべくして逃れ得た、いま最もスリリングな読み物であることに間違いはないが、同時に、これは断じて文学ではない……とも言い切れない不気味な何かが海の藻屑のように蠢いている。
(すでに何らかの隠喩ではないかと勘ぐったり……)
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宮武外骨 吉野孝雄
河出文庫
カバー装幀=赤瀬川原平、フォーマット=粟津潔
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(前略)これまでずっと願ってきたことなので、「物語、手に入れて読ませて。読ませて」と、都で待っていた実母をせきたてたところ、衛門の命婦という名で三条の宮に仕えている親戚に、手紙を書いてくれた。すると、命婦は私たちの帰京を喜んでくれ、「三条の宮からいただいたのです」という、とくべつ立派な綴じ本の物語を何冊も、硯箱の蓋に入れて贈ってくれた。私はもう嬉しくてたまらず、夜も昼も耽読した。そして、そうなると、もっともっと読みたくなった。
— 江國香織訳『更級日記』(2023年11月、河出文庫〈古典新訳コレクション〉)
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トマス・M・ディッシュ「SFの気恥ずかしさ」
神を信じないあなたが贈るSFへの信仰告白
昨年国書刊行会から出たSF評論集。ディッシュのSF短編集「アジアの岸辺」をむかし読んで、すごく露悪的だし悪意に満ちてるけれど、どこかさわやかなところが印象に残っていたので買って積んでた。
同業他者の本をこう評す文章が楽しめる人は楽しめるとおもう。わりと楽しかったです。
この本は小説ではなくて治療的読書の英語で書かれた空想である。それが私にはうまく働かない。
ディズニーランドに行った疑り深い人間のように、私はつい本物でない細部に目が向かう。つまり椰子の木のコンクリートの幹だとか、すりきれた人工芝だとか、人造ライオンの生気のないうなり声だとか。しばらくすると旅行者ばかりが気にかかる。つまり、どこのどいつがこんなに手順通りのにせものを楽しめるのだろうか、楽しめるのだとしたら、本物でないから楽しいのだろうか、それとも、とても信じられないが、あえて虚構性に目をつぶっているのだろうか、と。
「SFの気恥ずかしさ」
実験・思弁小説としてではなく、いわゆる大衆小説としてのSF批判なんだと思う。現代日本に置き換えると需要層に向けてもっとピーキーになった「なろう小説」批判に近いように思える。
ただ、ここで批判される子供っぽい欲望や恨みという感情、さらにそれに対する複雑で変わりゆく眼差し自体を消費させながらすごい速度で大量の情報と欲望を集めて、メディアミックスを駆使しテキストをお金集約装置へと変えていくあまりにもファストなシステムを横目で見てると、本編は大衆小説批判としては少し古びてしまった印象
それとはまったく別にSFへの信仰告白としては100点
いまいったようなことは、どれも重要ではないと。そして、結局のところ、こういう調子で締めくくって、どこがいけないのでしょうか?たとえ完全な真実ではなくても、それは良い本をかこうとするものの信仰の祈りでなければならない。わたしはそれを信じます。みなさんもそれを信じるべきなのです。
「アイデア」「壮大なアイデアと行き止まりのスリル」
古今東西のさまざま文学と結びつけ、するどい言葉でさくさく刻んでいくのが読み物として楽しい。個別の作品がわからないので適切な批評かはよくわからない。ポーへの批判がすごい。ディックは高評価。
ポーは昔読んだきりだけど、これ聞いてなるほどと思うとともに、奇想と雰囲気いいのでポーっぽい一人称ホラー短編ゲームは楽しそうと思った。
「ポーのあきれた人生」「テーブルいっぱいのトゥインキー」
ポーとかブラッドベリとかに半分自己嫌悪に近い形で悪口言ってるときのが筆が乗ってていきいきしていて魅力的。以下、ブラッドベリの悪口から引用。
たくさんの大人たちにとってこうした短編は早すぎる埋葬をこうむった十一歳の自分に戻る戸口となり、子供たちは(ずっと昔、私がそうだったように)まるで本物であるかのようにこの魅力にとびつくのだろう。―ホステスのトゥインキーやキャンディー・コーンやストロベリーのクール・エイドが、どれもギラギラと火星のように赤色二号の怪しい光を放って並ぶビュッフェであるかのように。
「レイバーデイグループ」「聖ブラッドベリ祭」
二流作品(ディッシュ評)お焚き上げの会。文章も性格もわるくていいですね。
「ヴィレッジ・エイリアン」「最初の茶番」
ベストセラーとなったUFO連れ去り事件ノンフィクションor小説?についてのフィクション込みの論考。往年の高橋源一郎の文学探偵みたいで、嫌味と紙一重のもってまわった技巧含めて楽しかった。 ディッシュ、すごくSFを愛してるからこそSFづらして出てくるいい加減な作品のこと許せないんだろうな。
「『未知との遭遇』との遭遇」
スピルバーグの未知との遭遇の解題。宇宙戦争とかもそうだけど、結構宗教的だなあと思うスピルバーグをよく説明してくれている。最後の皮肉っぽさ、ディッシュだなという感じ。
それが本当に映画のサブテクストだとしたら、どうしてこんなにヒットしたのだろう。(中略)観客が映画の教訓に感銘を受けたからではなく、迫力ある映像、金色の仔牛としての神という、印象的な神の実像を描いてみせたからだ。我々は神の顔を見たいと渇望しても、神のために狂人になる覚悟はない。大勢の宗教者が狂気は神にいたる道だとくり返し説いてきたが、凡人にできることではない。しかし、それを映画のシミュレーションで見るなら楽しめるし、しかもその映像がSFのお約束のイメージで無菌化されていれば、なおさら考える必要はない。SFはその定義からして、重要なことを決して意味しないのだから。
「SF ゲットーへの案内」
欧米SFをくさすレムに、もっとちゃんと現代欧米SFを読んでくれ!という訴え
ディッシュは無神論者だったらしいけど、全体的にSF信仰を強く感じる。SFの価��を信じてて、SFかくあるべしというのが強固にあるからこそ、各作品をきちんと読んだうえで駄作という批判も傑作という賛辞も強く示していくそういう文章はきらいじゃない。
ディッシュの破綻してしまった人生最後の支離滅裂な小説「The Word of God」が、SFへの殉教だったのかなとSFロマンチストとしては考えてしまうところ。参照Wiki
ところで、マンハッタンについてのインタラクティブテキストであるところの「アムネジア」というテキストADVゲームの脚本書いていたのははじめて知った。
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大森望責任編集『NOVA 2023年夏号』(河出文庫)
溝渕久美子「プレーリードッグタウンの奇跡」が、動物・ファーストコンタクト・言語とオレの好物三種盛りでよかった。
斜線堂有紀「ヒュブリスの船」斜線堂さんの小説の登場人物は徹底的にいたぶられて、いつも清々しいほど救いがない(そこがよい)。
勝山海百合「ビスケット・エフェクト」作中に出てくる食べ物が全部おいしそうでよかった。味や食感の細かい描写をしているわけではないのに、どうしてこんなにうまそうなんだろう。シチュエーションかな。
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大洋さんから届いた絵 #271
松本大洋さんから、ひと言。
「河出書房新社の日本文学全集
古川日出男(訳)『平家物語』が4冊の文庫になります。
全巻のカバーを描かせていただくことになりました。
第1巻には、平家に批判的な人間を取り締るべく
京の市井を見回ったとされる
『禿髪』(かぶろ)を描きました。」
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