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#天空の寺院
dragonstudio · 2 years
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CIMETIÈRE D’ENFANTS – KOYASAN OKUNOIN 高野山奥の院 MONT KOYA / JAPON Le mont Kōya (高野山, Kōya-san) est une montagne de la préfecture de Wakayama, au sud d’Ōsaka qui a donné son nom à un complexe de 117 temples bouddhiques. Le bonze Kūkai (空海) a installé la première communauté religieuse sur ce mont, qui allait devenir le principal centre du bouddhisme Shingon. Situé sur un plateau à 800 md’altitude entouré de huit sommets, le premier monastère s’est développé pour devenir une ville, Kōya, possédant une université d’études religieuses et plus de cent temples offrant l’hospitalité aux nombreux pèlerins et touristes. l’Okuno-in (奥の院?), un immense cimetière avec près de 200 000 pierres tombales de samouraïs, de personnalités et de gens ordinaires, sous une forêt de cryptomérias centenaires. Au cœur du cimetière se trouve le Tōrō-dō, le temple des lanternes. On pense que deux flammes y ont brûlé sans interruption depuis un millier d’années. À proximité du Tōrō-dō se trouve le Gobyo, le mausolée de Kūkai, devant lequel viennent se recueillir de nombreux fidèles. #高野山 #koyasan #japan #和歌山 #wakayama #写真好きな人と繋がりたい #寺 #世界遺産 #旅行 #instagramjapan #関西 #観光 #風景 #旅行好きな人と繋がりたい #photo #観光地 #photography #ig_japan #風景写真を撮るのが好きな人と繋がりたい #天空の寺院 #iphone越しの私の世界 #insta_wakayama #photooftheday #instajapan #旅人 #followme #日本 #koya_town #ファインダー越しの私の世界 #temple https://dragonstudio.fr/2019/06/03/cimetiere-denfants-koyasan-okunoin-%e9%ab%98%e9%87%8e%e5%b1%b1%e5%a5%a5%e3%81%ae%e9%99%a2-mont-koya-japon/ (à Koyasan World Heritage) https://www.instagram.com/p/CftTLhEIS-t/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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catdoll007 · 5 months
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amiens2014 · 2 years
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藤井寺/徳島県吉野川市【四国八十八箇所霊場第11番札所】壇の大クスに立ち寄ってから参拝
藤井寺とは 金剛山一乗院藤井寺(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)は、徳島県吉野川市鴨島町飯尾(とくしまけんよしのがわしかもじまちょういのお)にある臨済宗妙心寺派の寺だ。 四国八十八箇所霊場第11番札所で、本尊は薬師如来(やくしにょらい) 寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは、四国八十八箇所霊場のうちここだけだ。 大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。 金剛山 一乗院 藤井寺 – (一社)四国八十八ヶ所霊場会 から引用 藤井寺 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525 0883-24-2384 (more…)
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hachikenyakaiwai · 5 months
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【かいわいの時】慶長十一年(1606)十二月十三日:秀頼、生国魂神社を再建(大阪市史編纂所)
家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた(略���当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など(柏原市「玉手山物語」)。※原文ママ
石山本願寺建立の際には、この生国魂神社を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、生国魂神社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。このときに造営された社殿は、「生国魂造」と呼ばれる、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである(いくたま夏祭りみこし会)。
(写真)『摂津名所図会 巻之三』より「生玉神社 其二」(スミソニアン蔵)。
江戸時代には、豊臣秀頼により造営された社殿が慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による兵火で焼失したが、江戸幕府により社殿は再興され、社領300石も安堵された。寛永-正保期(1624 - 1648年)の「摂津国高帳」によれば、その社領地は下難波村(現在の浪速区)にあった。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、黄金若干を当社に寄進したという。『摂津名所図会』では、当時の境内の様子や走馬神事の様子などが描かれている。幕末の『浪花百景』にも絵馬堂、弁天池が選ばれている。弘化2年(1845年)には、社殿の造替がなされた《略》1912年(明治45年)1月には「南の大火」により社殿を焼失し、1913年(大正2年)11月に再建された。しかし1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲により再び焼失した。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列され、翌1949年(昭和24年)7月に本殿が再建されるも、1950年(昭和25年)9月のジェーン台風で倒壊してしまった。その後、1956年(昭和31年)4月に鉄筋コンクリート造で再建された(ウィキペディア)。
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ari0921 · 12 days
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
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 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統���から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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shunya-wisteria · 2 years
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天空の古刹 立石寺
山寺とも呼ばれる天空の古刹 宝珠山 立石寺を参拝。
山形と仙台を結ぶ仙山線 山寺駅で途中下車。 麓の根本中堂を参拝後、登山道へ。松尾芭蕉が句の着想を得たといわれるせみ塚等を経て、石段を進むこと1時間弱。
まだ暑さの残る時期の訪問で、大粒の汗が取り留めなくながれ。。。悪縁切りのご利益があるとされる奥之院・大仏堂へお参りし、ちょっと一息。さらに先の開山堂へ。
岩の上に立つ開山堂と朱色の納経堂は、天空の古刹と呼ばれるだけあって圧巻の光景。青空の下で輝く姿は映えないわけがない。 開山堂の脇を進んだ先、舞台造りの五大堂から見下ろす自然豊かな集落もまた素敵でした。
ありがたい修行の石段いわれる道中ですが、豊かな自然と句碑等の史跡が楽しめ、運動不足・体力の乏しい私でもあまり苦なく足を進められました。
さて、下山後は近くのお店に入り、かき氷でクールダウン。次の電車を待つこといたしましょう。
立石寺と平泉の中尊寺・毛越寺、松島の瑞巌寺は、9世紀に慈覚大師 円仁が開山し、松尾芭蕉が訪れたみちのく 4つの古刹であり、これらを巡る旅は四寺廻廊と呼ばれているとか。偶発が重なり(?)この度、1年で四か所を巡ることができてしまいました。
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moment-japan · 1 year
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愛染明王坐像〔重文)奈良国立博物館蔵
建長8年、 山城国相楽郡〔現在の京都府木津川市)で、大仏師・快成と小佛師快尊・快弁の手によって東大寺大仏殿の焼け残りの柱材を用いて造像・建立された愛染明王。
願主は真言律宗の開祖・叡尊の高弟で阿闇梨の寂澄。
尚、叡尊の高祖は空海です。
真言律宗は真言密教とその戒律である三昧耶戒(さんまやかい)を修学する宗派。
三昧耶戒とは、サンスクリット語のサマヤ(約束・契約という意味)からきており、仏との約束に基づく戒めと誓約という密教だけに存在する戒律のことを三昧耶戒といいます。
鎌倉・室町時代に一大宗派に躍り出た真言律宗ですが、明治時代にこの宗派も例外なく薩摩・長州の輩連中による廃仏毀釈によって復活が不可能というくらいの壊滅的な被害を受けました。
しかしその後、さまざまな知識人や常識ある人々の助けもあり、現在、北は福島、南は熊本まで100近くの末寺を擁する宗団にまで復活しました。
数多な国宝を有する京都・浄瑠璃寺も真言律宗の寺院です。
浄瑠璃寺はもともと奈良・興福寺の末寺でしたが、薩摩・長州からの廃仏毀釈で壊滅的な被害を受けた興福寺と同じ被害を受けないようにと、真言律宗に転じ貴重な文化財を守りました。
鎌倉時代作、奈良国立博物館蔵の重文・愛染明王。
真紅の身体と三眼六臂の憤怒相、怒髪天の頭上には、ひとたび雄たけびをあげれば、どんな猛獣や邪鬼もおとなしくなるという獅子の冠、後部には執着や愛欲を焼き尽くす日輪形光背、腕には煩悩を打ち砕く五鈷杵に衆生の眼を覚まさせる鈴の五鈷鈴、悟りの世界の象徴である蓮の花、そしてトレードマークであるキューピットのような弓矢などを持っています。
仏教における仏は、そのいくつかが古代ローマ神話に出てくる神が起源になっています。
愛染明王もローマ神話の神クピードー(キューピット)が地中海からシルクロードを通り中央アジアでヒンズー教の神仏に姿かたちを変え、日本に伝わってくる過程で、このスタイルになったといわれています。
愛染明王は左手の第三の手だけは何も持っていない金剛拳のように見えますが、この拳の中には衆生の思いや願いに応じるための摩尼宝珠を隠し持っています。
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happy-pix-jpn · 6 months
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【空舞う鳳凰たち】
ご縁頂いて数々の国宝が安置されている本堂内で 奈良国立博物館美術院国宝修理所の方の作業を拝見。 とても佳き時間を過ごさせて頂きました。 休憩時間、上空に鳳凰が舞ってました♬ 新薬師寺にて撮影 2023年10月11日
ご本尊・薬師如来さま(国宝/天平時代)の光背取り付けの際 6体の化仏がどうやって光背と繋がってるのか…とか 女性が両手で軽々と持たれてる様子から重さを推測したり 美術院の方の大判カメラによる仏像撮影を拝見出来たり 十二神将像で一体だけ国宝でない仏像の制作話や 国宝本堂正面入口などにある盃状穴の話を聞かせて頂いたり… レンズを通してではなく、しっかり目に焼き付けました。 貴重な機会にお声掛けて頂き有難うございました🙏
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yoooko-o · 7 months
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09/10/2023 21:47
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左)アゼルバイジャン国旗 中央)アゼルバイジャンは天然ガスを筆頭に天然資源国家のため、石油を掘り出しているそうです。道路沿いにあるのはご愛嬌みたいで、実際は本格的な石油プラットフォームで掘削しているそうです笑 右)現在進行形でバクーの街は開発が進んでいます🏢
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ゴブスタン国立保護区(Gobustan Rock Art Cultural Landscape)にあるGobustan National Park Museum 館内は撮影OK📸 模型や3D映像、タッチパネル形式でゴブスタンの地形の成り立ちを展示するなど、日本の地方都市よりも先駆的な博物館でした。
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こちらがゴブスタンの岩絵(本物) 敷地内にやたらと蛇注意の標識がありましたが、実際は見かけずに済みました🐍
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この日のlunchはバクー旧市街近くのレストランでチョウザメのグリル🦈 キャビアも食べたことない私がいきなりチョウザメを食べる日が来るとは…笑 臭みやクセはいっさいない、美味しい白身魚でした😋🍴
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バクーにもピラミッドはありますDDD
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バクー近郊にあるPink lakeこと、Masazir(Masazır gölü)
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永遠に”燃える山”ヤナル・ダグ(Yanar Dağ)🔥 アゼルバイジャンの国名の由来は”火の土地”や”火の守護者”だそうです。 山の上も歩けるので行きましたが、昨日まで無風だったカスピ海の風が…🌀 頂上を歩いてみたけれど、吹き飛ばされ、ふもとの火の中にあわやダイブしそうな勢い…苦笑 最後がガイドさんと一緒に下りました。普段から風は吹くそうですがここまで強い風は珍しかったそうです。
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マルダキャン要塞跡
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アテシュギャーフ/拝火教寺院
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アゼルバイジャンの定番はザクロ 可愛いけれど、この後の飛行機が怖くて断念😢
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サジチ(大鍋料理)🍲 これで3人分と言われましたが、こんなに食べられませんよ💧
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場所は変わってヘイダル・アリエフ国際空港(アゼルバイジャン語:Heydər Əliyev adına beynəlxalq hava limanı、英語:Heydar Aliyev International Airport)✈
これからジョージアに飛行機で移動になりますが、ここの注目pointは航空会社。 これを見た瞬間、大変失礼ながら映画『〇の豚』を思い出し、おまけにトビリシはTBS。某テレビ局を連想した私たち一行は「〇の豚の飛行機でTBSに行くんだ」とカウンターで皆で爆笑😆
日本では「Buta=🐖」ですが、アゼルバイジャン語では伝説の鳥だそうですが、他サイトでは勾玉模様やペイズリー模様など色々出てきますが、いずれにしてもアゼルバイジャンの伝統的な装飾であることは確かなようです。 ※Buta Airwaysはアゼルバイジャン航空傘下のLCCです。
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ライトアップと建物が派手な空港でした笑
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因みにアゼルバイジャンの出入国スタンプ。なんで重ねるのよ泣!?
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LCCらしく、歩いてタラップを上がります。
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バクーの夜景🌃 因みに機内食のバケットのサンドイッチがありましたが、お腹いっぱいなので断りました🥖
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myonbl · 28 days
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2024年4月2日(火)
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今年度最初の出勤、まずは研究室のカレンダーをめくる。もちろん、自宅同様に<SOU・SOU>のものである。総務課にあるレターボックスをのぞくと、<辞令>と前期授業の教科書が入っている。私の契約規定では担当授業は週4コマ程度となっているのだが、前期の担当授業は今年も9コマ、毎日出勤せねばならない(おいおい)。10時から<入学式>、それが終わればとっとと退散、明日からはちゃんと働くからね〜。
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4時45分起床。
日誌書く。
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朝食。
洗濯。
可燃ゴミ、30L*3。
今月からツレアイは火曜日の訪問は1件のみ、午前中に戻るとのことなので弁当作りはなくなった。
7時45分ひとりで出勤。
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東寺前通過、塀越しに見える桜はまだまだ。
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近頃は吹田JC周辺の渋滞が多発しているので、今年度は茨木ICで下りることにする。
タイムカード整理、レターボックスチェック。
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前期の時間割、月曜午前で<スタディスキルズ>の資料作り、火〜金の空きコマは原稿書きを頑張るのだ。
10時から入学式、学長のスピーチはイマイチ、理事長のスピーチは結構。
終了後、久しぶりにA兄・sampe兄・H姉と四方山話。
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帰路も順調。
ツレアイがランチの用意、お相伴にあずかる。
彼女は法然院で開催中の知人の個展に向かう。
朝の早い私は軽く午睡。
町内の会計係に監査資料を届ける。
Yさん宅で<使用済み天ぷら油回収>のための謝礼を頂く。
ツレアイの帰宅に合わせて、一緒に夕飯準備。
<櫟谷会>から祭の寄付集め、いつも通り¥5,000寄進する。
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4人揃って早めの夕飯、テレビでは男子カーリングを流す。
録画番組視聴、刑事コロンボ。
第53話「かみさんよ安らかに」/ Rest in Peace, Mrs.Columboシーズン 1, エピソード 53 雨降る墓地で、コロンボ夫人の葬儀が行われていた。傘もささずに立ち尽くすコロンボ。その姿を不動産業者のビビアン・ドミートリーはじっと見つめていた。ビビアンの夫は10年前、同僚の密告により顧客の金の使い込みが発覚して、その客を殺害していた。
片付け、入浴・・・のはずが今夜もダウンしてしまった。
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いかんなぁ。今日もこの体たら��、なんとかしなくては。
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takahata-kodomoen · 6 months
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七五三参りに行ってきました☆
朝は霧が濃く、七五三参り行けるかしら…と心配しましたが、出かけるころには青空が広がり、ぽかぽかと気持ち良いお天気になりました。たんぽぽ組はお友だちや先生と手を繋いで、つくし組はお散歩カートも使って、お隣の自性院まで行ってきまいた。「元気に大きくなれますように…」と、のの様に手を合わせてからお寺の中を散策☆イチョウの葉っぱがたくさん落ちていて「きれいだね」とみんなで拾っってきました。雪が降るまでの間、お天気の良い日にはまたお散歩に行きたいなぁと思います♪
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楽しかったね���
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dragonstudio · 2 years
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CIMETIÈRE D’ENFANTS – KOYASAN OKUNOIN 高野山奥の院 MONT KOYA / JAPON Le mont Kōya (高野山, Kōya-san) est une montagne de la préfecture de Wakayama, au sud d’Ōsaka qui a donné son nom à un complexe de 117 temples bouddhiques. Le bonze Kūkai (空海) a installé la première communauté religieuse sur ce mont, qui allait devenir le principal centre du bouddhisme Shingon. Situé sur un plateau à 800 md’altitude entouré de huit sommets, le premier monastère s’est développé pour devenir une ville, Kōya, possédant une université d’études religieuses et plus de cent temples offrant l’hospitalité aux nombreux pèlerins et touristes. l’Okuno-in (奥の院?), un immense cimetière avec près de 200 000 pierres tombales de samouraïs, de personnalités et de gens ordinaires, sous une forêt de cryptomérias centenaires. Au cœur du cimetière se trouve le Tōrō-dō, le temple des lanternes. On pense que deux flammes y ont brûlé sans interruption depuis un millier d’années. À proximité du Tōrō-dō se trouve le Gobyo, le mausolée de Kūkai, devant lequel viennent se recueillir de nombreux fidèles. #高野山 #koyasan #japan #和歌山 #wakayama #写真好きな人と繋がりたい #寺 #世界遺産 #旅行 #instagramjapan #関西 #観光 #風景 #旅行好きな人と繋がりたい #photo #観光地 #photography #ig_japan #風景写真を撮るのが好きな人と繋がりたい #天空の寺院 #iphone越しの私の世界 #insta_wakayama #photooftheday #instajapan #旅人 #followme #日本 #koya_town #ファインダー越しの私の世界 #temple https://dragonstudio.fr/2019/06/03/cimetiere-denfants-koyasan-okunoin-%e9%ab%98%e9%87%8e%e5%b1%b1%e5%a5%a5%e3%81%ae%e9%99%a2-mont-koya-japon/ (à Koyasan World Heritage) https://www.instagram.com/p/CdIgpPdIFA9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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oniwastagram · 1 year
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📸西芳寺庭園“苔寺” / Saiho-ji Temple Garden (Moss Temple), Kyoto ——聖徳太子からスティーブ・ジョブズまで。室町時代/南北朝時代を代表する禅僧 #夢窓疎石 が作庭し現代には100種類以上の苔に覆われた完全予約制の世界遺産&“庭の国宝”庭園。 2021年からオンライン予約も開始!空き枠がある場合に限り前日まで予約可能です。 京都・西芳寺庭園(苔寺)の紹介は☟ https://oniwa.garden/saihoji-temple-%e8%8b%94%e5%af%ba/ ...... “苔寺”として有名な「洪隠山 西芳寺」。世界文化遺産“古都京都の文化財”にも構成される臨済宗の禅寺で、その庭園は“庭の国宝”国の特別名勝に指定。写真は2週間程前の姿。 . 長年『往復はがきによる事前申込制の拝観』📮を採用されている“苔寺”ですが、2021年6月からオンライン予約がスタート!💻 . 拝観希望日の2ヶ月前から予約可能な往復はがきでの申込に対し、オンライン申込は《人数に空きがある日に限り、2週間前から前日まで予約受付》という形。 . 「久しぶりに行きたいな、往復はがき買いに行かなきゃ」なんて思いながらついつい先送りにしてしまう自分のような方にピッタリのオンライン申込…!(なおオンラインの方が拝観料は高く設定されているので、ちゃんと計画を立てたい人は変わらず往復はがきがオススメです) . 京都の西部・松尾山⛰の麓に位置する西芳寺。古くは飛鳥時代に聖徳太子がこの地に別荘をかまえたとも言われる京都屈指の歴史スポットでもあり、創建も奈良時代の天平年間(729~749年)と平安遷都以前。 . 以来何度も荒廃と再興を繰り返した西芳寺。現在まで残る庭園の原型を作庭・整備したのは、南北朝時代の1339年に近隣の『松尾大社』の宮司・藤原親秀に請われ西芳寺の中興開山となった夢窓疎石。 . 庭園の中心“黄金池”は平安時代に入寺した弘法大師空海も儀式に用いていたそうなので既にあったんだろうけど、石組や地割などは夢窓疎石が手掛けたもの。 続く。 ------ #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #建築デザイン #ランドスケープ #京都観光 #京都旅行 #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #landscapedesign #kyototrip #kyototemple #mossgarden #kyoto #庭院 #庭园 #世界遺産 #おにわさん (Saihō-ji) https://www.instagram.com/p/ClBjfoZPP9D/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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serendipityorchid · 1 year
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南蔵院で笑顔✨
篠栗の南蔵院へ行ってまいりました‼️
色々お話は聞いたことはあったのですが、実際に行くのは初めて❗️
御朱印を集め始めて初のお寺ということで
ドキドキ🌟
南蔵院へ向かう車の中で夫・遊くんと神社仏閣トーク。神社とお寺についてお勉強中の遊くんに色々聞いたりしつつ楽しい車内。
楽しすぎたのか私はGoogleマップを見ながら道を間違いました(笑)それでもなんだか笑いながら到着。
敷地内を地図を見ながら、巡っていくと急な階段や大きな岩をくぐっていく道に七福神のトンネルなど、アトラクション気分。テーマパークの様な楽しさと、撮影はダメ🙅な場所も多く厳かな雰囲気が混在していていました。
水みくじもやってみました。水みくじの説明をしていただいたお寺の方が、おみくじの種類もいっぱいあるらしく全部引いていると大変だけど気になるのよねと教えてくれました🤭
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そして御朱印をいただくことに。
今までものに書いていただこうと思いましたが、
お寺用にしてみようと南蔵院のご朱印帳を買いました。
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そしていよいよ涅槃像のところへ‼️
天気の良い青空のもと涅槃像を見た時とても優しい気持ちになりました。
そういえば、ここへ来てとても楽しい⁉️朗らかな気分になっているなと思っていました。
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護摩木を奉納し涅槃像の体内参拝(お砂踏み)で四国八十八ヶ所をお参りすることができました。
ミャンマーよりお釈迦様、阿難様、目連様の三尊仏舎利の贈呈を受け釈迦涅槃��はこれら三尊仏舎利を安置する場所として建立されたそうです。
色々初めての経験でドキドキでしたが、本当にさらに日本文化に興味津々になってきました🌟
遊くんと私は帰りも道を間違ったりしながらも朗らかな気分は続いたのでした🎵
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月27日(土曜日)
   通巻第8107号  <前日発行>
 ミャンマー国軍のクーデターは「西郷なき西郷軍」?
  軍と仏教高僧との融合統治が機能不全に陥ったのではないか
*************************
ミャンマーで「本当は」何が起きている��か?
 大手メディアは投票箱民主主義至上史観だから、本質的なことが見えてこない。
 2021年2月、ミャンマー国軍はクーデターに打って出た。ところが、ミャンマーの民衆が想定外に強く反発し、「民主主義を蹂躙した」として大規模な抗議集会が開かれた。抗議デモに軍が出動、多くの死傷者がでたため国際社会から批判に晒された。
 欧米の傀儡といわれたアウン・サン・スー・チーを支持する人たちは外国のメディアが同情的に報道したので、鮮明に反政府の旗を掲げた。こうなると正義はどちらにあるのか、よく分からない政権運営が続いた。因みに2021年のミャンマー経済はGDPがマイナス18%、通貨は暴落し、庶民は生活苦に喘ぐ。
 クーデターから三年が経った。欧米のメディアの複写機である日本は「国軍=悪」vs「民主主義団体=善」のスタンスを依然として維持している。スーチー政権のときにロヒンギャ70万をバングラデシュへ追い出すと、欧米メディアは一斉にスーチーを「人種差別主義」「ノーベル賞を返還せよ」と猛烈な批判に転じたが、日本はそのまま、ミャンマー国軍批判である。
 この価値基準は「イスラエル=悪」vs「ハマス=善」、「ゼレンスキー=善」vs「プーチン=悪」と、リベラルな西側政治家やメディアが作り上げたフェイク図式に酷似している。ミャンマー国軍ははたして悪魔なのか?
ミャンマーの社会構造は宗教を抜きに語れない。
仏教徒が90%をしめ、しかも上座部(小乗仏教)である。僧侶が800万人もいる。
軍隊は徴兵制で43万人(実態は15万に激減)。
つまりこの国は軍と仏教世界との融合で成り立つ。軍は元来、エリート集団とされ、国民からの信頼は篤かったのだ。それが次第にモラルを低下させ、徴兵ゆえに軍事訓練は十分ではなく、そもそも戦意が希薄である。愛国心に乏しい。
 軍クーデターは伝統破壊の西欧化に反対した政治的動機に基づく。単なる権力奪取ではない。つまり「西郷軍が勝って、近代化をストップした」ような政治図式となるのだが、現在のミャンマー軍(ミン・アウン・フライン司令官)はと言えば、「西郷隆盛なき西郷軍」である。権力は握ったものの何をして良いのか分からないような錯乱状態にあると言える。
 軍人は経済政策が不得手。コロナ対策で致命的な遅れをとり、猛烈インフレに襲われても、適切な対応が出来ず、外資が去り、自国通貨は紙くずに近く、闇ドルが跋扈している。
国民は外国で反政府活動を活発に展開する。国内各地には武装組織が蠢動を始めた。
 ▼まるで「西郷のいない西南戦争」でクーデターが成功した
 西南戦争は『道義国家』をめざし、挫折した。戦略を間違えた。というより勝利を計算に入れずに憤然と立ち上がったのだ。
佐賀の乱、神風連、秋月の乱、萩の乱から思案橋事件が前哨戦だった。城山で西郷は戦死、直前に木戸が病没、大久保暗殺がおこり、明治新政府は「斬新」な政策を実行に移した。しかし行き過ぎた西洋化、近代化。その象徴となった「鹿鳴館」に反対して国学派が復興した。
 ミャンマーの仏教鎮護国家の復活が国軍指導者の目的だった。
しかし彼らは広報という宣伝戦で負けた。都会は西洋民主主義、グローバリズムに汚染され、若者は民族衣装を捨てていた。西洋化は、あの敬虔なる仏教との国ミャンマーにおいてすら進んでいた。
 となりのインドでは巨大なモスクを破壊し、その跡地に大きなヒンズー寺院建立した。竣工式にはモディ首相自らが出席した。
 ミャンマー国軍に思想的指導者は不在のようだ。だからこそ、国軍は仏教の高僧を味方にしようとしてきた。しかし国内的に厄介な問題は同胞意識の欠如である。そのうえ山岳地帯から国境付近には少数民族各派の武装組織(その背後には中国)が盤踞している。中国はミャンマー国軍政府と「友好関係」を維持しているが、背後では武装勢力に武器を供給している。
 主体のビルマ族は70%だが、嘗て国をまとめた君主はいない。カチン、カレン、モン、シャン、カヤ族と、それぞれ少数の武装組織が国軍と銃撃戦を展開しているものの、反政府で連立は稀である。カチン、カレン、モン族は博くラオス、カンボジアにも分散しており、ラオスでのモン族は米軍について共産主義と闘った。敗戦後、17万人のモン族は米国へ亡命した。
 2023年10月27日、ミャンマーの反政府武装組織が初めて三派共闘し、シャン州北部で「国軍」と戦闘、驚くべし国軍が敗走した。国軍兵士数百が投稿した。
 中国の秘密裏の仲介で停戦状態となったが(24年1月26日現在)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、西部ラカインのアラカン軍(AA)の「三派」の共闘はこれから「連立」となるか、どうか。
この三派以外にも不明の武装組織(なかにはギャング団、麻薬シンジケートも武装している)。なにしろミャンマーは五つの国と国境を接し、130の少数民族がいるとされる。 
 
国境問題の複雑さが問題をさらに複雑にする。ミャンマーが国境を接する国々とは、インド、中国、ラオス、タイ、バングラである。地域によっては少数民族が多数派となる。
西海岸の古都シットウエイはインドとの海路の拠点であり古代遺跡があるため外国人観光客が多い。
チャウピューは中国へのパイプラインがミャンマーを斜めに横切り雲南省へと繋がっている拠点、ここには中国企業が進出し、工業団地を建設中で、ロヒンギャとの暴動になった場所、行ってみる、と放火されたモスクの無残な残骸があった。やや東側の中部、マンダレーは雲南華僑の街である。
旧首都のヤンゴンと新首都ネピドーはアクセスが悪い。マンダレーは国際空港こそ立派だが、翡翠やルビーの商いはほぼ華僑が握る。そうした三都三様の物語が付帯する。
 ▼麻薬王
ラオス、タイ国境に拡がるのが統治の及ばない「黄金の三角地帯」である。
アフガニスタンにつぐ麻薬産出地域で、ギャング団と武装組織と博打場である。治安の安定はあり得ないだろう。
黄金の三角地帯の形成と発展、その後の衰退は国民党残党という闇とCIAの奇妙な援助があり、やがて彼らへの弾圧、そしてミャンマーとタイとの絶妙な駆け引きをぬきにしては語らない深い闇である。
国共内戦に蒋介石は敗れて台湾に逃れたが、南アジアで戦闘を継続したのが国民党の第27集団隷下の93軍団だった。およそ一万もの兵隊が残留し、シャン州をなかば独立国然とした。モン・タイ軍(MTA)は『シャン州独立』を目指した軍事組織で、ビルマ共産党軍が主要敵だった。
国民党残党の軍人とシャン族の女性のあいだに産まれたのがクンサ(昆沙)。
のちに『麻薬王』と呼ばれる。中国名は張奇天で、一時はモン・タイ軍の2万5000名を率いた。軍資金は麻薬だった。
CIAが背後で支援した。アルカィーダを育て、やがて裏切られたように、ムジャヒデン(タリバンの前身)を育てたのもCIAだったように、やがて米国はクンサに200万ドルの懸賞金をかけた。
『麻薬王』と言われたクンサは紆余曲折の後、麻薬で得た巨費で財閥に転じ、晩年はヤンゴンにくらした。2007年に74歳で死亡した。米国の身柄引き渡し要求にミャンマー政府は最後まで応じなかった。
もうひとつの有力部族=ワ族はモン・クメール語を喋る少数民族で、いまワ族の武装組織は中国の軍事支援がある。
 ▼ミャンマー進出の日本企業は、いま
さて安倍首相が二度に亘って訪問し、日本が投じたティワナ工業団地はどうなったか。
ヤンゴンの南郊外に位置し、コンテナターミナルを日本が援助した。しかし国軍クーデター以後、西側が制裁を課し、日本政府が同調したため、日本企業の10%がミャンマーから撤退した。住友商事、KDDIなどが残留しているとは言え、投資のトップはシンガポール、中国、そして台湾、韓国が続く。
日米印の企業投資は実質的にぼゼロ状態だ。
拍車をかけているのが外交的孤立である。ミャンマー軍事政権を支持するのは中国である。背後では、ロシアが接近している。
 仏教界は分裂している。将軍たちと協力し、仏教とビルマ文化の両方を外部の影響から守る必要があるという軍の理念に共鳴した高僧もおれば、「ラカイン州で地元の仏教徒とイスラム教徒のロヒンギャ族の間で暴力的な衝突が起きると、『過激派僧侶』といわれるウィラトゥ師は、「ビルマ仏教はイスラム教徒によって一掃される危険にさらされている」とし、「イスラム教徒経営の企業のボイコット」を奨励した。
 軍事クーデターに反対するデモに参加した僧侶たちも目立った。シャン州北部の主要都市ラショーでは国軍の統治が崩壊した。
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【新潟県謡曲古跡めぐり上越編】1日目9箇所目  2021/6/27ー28
能「壇風」「田村」
水俣観音堂 《 糸魚川市水俣 》 水保観音堂の創建は不詳ですが泰澄大師が養老年間(717~724年)に開いたとも弘法大師空海が大同元年(806)に開いたとも云われています。
その後、坂上田村麻呂が当地を訪れた際、境内が整えられ寺院として草創したそうです。当時は吉祥院に属し、信仰を広げ最盛期には七堂伽藍を備た大寺院として周囲にも大きな影響力を持ちました。古くから神仏習合し隣接する日吉神社の祭祀を担っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により吉祥院が廃寺となり日吉神社と観音堂だけが残され現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。
水保観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門だったことがわかっています。水俣観音堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺(旧茅葺)、桁行5間、梁間5間、平入、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄付き、中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。
寺宝には大正12年(1923)に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳、身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となり住民からは「水保の観音さん」と呼ばれています。)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。 この仏像は、桜材の一木造りで、高さ1.548メートル。 平安時代中~後期(藤原時代)の作と推定されています。丸のみを横に用いて荒っぽく削る「鉈彫り」の技法で作られたものです。 この技法で彫られた例は新潟県には2例しかなく貴重な仏像です。 一般公開は33年に1回です。(平成16年8月27日~29日に一般公開されました)
又、水俣観音堂には鎌倉時代に後醍後天皇の倒幕に加担し佐渡に流され、本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が十一面観音の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝のもの思われる墓(五輪塔)もあります。毎年5月1日に行われる例大祭では日吉神社の神事の後、観音堂まで神輿渡御が行われ、さらに境内で神楽が奉納される神仏習合の名残が見られます。
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