Prince of Genius Rise Worst Kingdom ~Yes, Treason It Will Do~.
Alternative : The Genius Prince's Guide to Raising a Nation Out of Debt,天才王子の赤字国家再生術 ~そうだ、売国しよう~,天才王子的赤字国家振兴术,The Genius Prince's Guide to Raising a Nation Out of Debt (Hey, How About Treason?),Tensai Ouji no Akaji Kokka Saisei Jutsu - Souda, Baikoku Shiyou,YES, treason it will do: Prince of genius rise worst kingdom,Souda, Baikoku Shiyou: Tensai Ouji no Akaji Kokka Saisei Jutsu
Prince of Genius Rise Worst Kingdom ~Yes, Treason It Will Do~ summary: The prince of this small and weak kingdom strives for only one thing: selling out his country and living a quiet life in leisure! Sadly, the greatest obstacle he will ever face is his own genius...! As he achieves ever greater accomplishments, he earns more and more favor with the people of his kingdom...which makes fulfilling his own dreams all the harder!!!<br>
#MangaFeeds.com, #ReadFreeMangaOnline
MangaFeeds.Com: Read manga online the latest manga comic book, updated daily: https://mangafeeds.com/post/prince-of-genius-rise-worst-kingdom-yes-treason-it-will-do_1576900031
Read more.
0 notes
3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
問い9:日本の朝鮮から撤退後について>3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
目次は こちら
3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
日本は、1876年に朝鮮と交流を始めて、1945年に朝鮮から撤退した69年間に、形がなく目に見えないものも朝鮮に残してきています。以下に思いつくままにそれらを列記します。
① 李氏朝鮮時代は労働をすることを恥と思っていた両班が、1892年に科挙の廃止と、1894年の金弘集政権による身分制度の廃止と、総督府の身分差別を認めない政策とによって、労働をしても恥ずかしくない意識となり、新しい労働文化が生まれました。そして現在の韓国では、優秀な人々の労働の成果が生まれました。
② 李氏朝鮮時代は怠けて貧しさを装うことが自衛手段だった農民と漁民が、豊かになっても両班や官僚によって収奪されなくなったので、積極的に働く社会意識と労働文化が生まれ、朝鮮の新しい発展の原動力になりました。
③ 物として売買され、人権も「姓」もなかった奴婢が、その身分から解放されたので、好きな姓名を持つことができ、日本統治時代には朝鮮人は原則的に全員が平等な社会の一員になりました。
④ 李氏朝鮮時代は、地方の行政官が行政・警察・司法・徴税・軍事とすべての権限を持っており、その地方では絶対的な権力を持っていたので、思う通りに農民と漁民と奴婢から収奪し賄賂を受け取り、横領を重ねていたが、日本統治時代には行政と警察と裁判と徴税が分離されたので、諸悪と腐敗の根源がなくなりました。
⑤ 李氏朝鮮時代は、国王と大臣が多額の賄賂を受け取って地方の行政官を任命し、各種職位を売っていましたが、日本の統治により国王も大臣も売官売爵ができなくなり、地方官は多額の賄賂の必要がなくなり、地方へ派遣された官僚は多額の賄賂���お金を取り返す必要がなく、その結果庶民からの収奪がなくなりました。
⑥ 大韓帝国時代に韓国政府から日本へ財務顧問の派遣を要請するまでは、大韓帝国政府の財政は逼迫しており、その上皇室は国家財政から奪って贅沢な暮らしに耽っていましたが、財政顧問の指示で皇室財政と国家財政を分離して管理されるようになり、国王による勝手気ままな無限の享楽による国費の浪費ができなくなりました。
⑦ 昔からおよそ500万人前後と言われていた朝鮮半島の人口が、1910年時点の人口調査では1312万人でしたので、それまでは徴税額の62%が地方官僚による横領が行われていたことが判明しました。総督府の正確な人口把握により地方官僚は横領ができなくなり、全額中央政府の収入になり、国家財政の不足は改善されました。
⑧ 李氏朝鮮時代の法廷は、罪人とされた人に自白するまで拷問を加える場でした。その拷問はここに書きたくないほど残酷極まりないものであり、拷問と訊問が同時に交互に行われるのが当時の朝鮮の法廷であったことが、西洋人によって報告されています。日本の関与により直ちに近代的な司法制度に改定され、公正な裁判が行われるようになりました。そして笞打ち刑は朝鮮笞刑令廃止制令(1920年4月1日)で廃止されました。
⑨ 李氏朝鮮時代の監獄は、狭い所に多くの囚人を男女区別なく押し込み、一人当たりの面積が0.47平方メートルであったと記述されています。日本統治時には日本やアメリカ並みの広さと処遇にして、少年と女性の受刑者を一般の受刑者と分け、出獄後の厚生を出来るように少年たちには学校の授業を行い、一般の受刑者にも職業訓練などの教育をして、出獄後の再犯の発生を防ぐことを主にしました。李氏朝鮮時代の刑罰主義一辺倒から再犯防止主義へと監獄行政が転換されました。
⑩ 李氏朝鮮時代には、経国大典がありましたが無視され、実際には国王や官僚によって統治が恣意的に行われていた面が多かった行政が、法体系を日本から移入して整備されました。『朝鮮総督府施政年報 昭和14年度』の「第1章 総説」の「第2節 法規の制定及整理」には、郵便・電信・工業所有権・著作権・会計などは日本と法制の統一を要するので、勅令をもって施行し、民法・民事訴訟法・刑法・商法・裁判・監獄・教育・地方制度・土地収用・永代借地・河川・港湾・水利組合・森林林野・漁業・鉱業・会社・銀行・金融組合・商業会議所・市場・鉄道・道路・寺刹・墓地・諸税・国税徴収・関税・医業・薬品・危険物・伝染病予防・行政執行・海事及水難救助・諸営業取締などの諸法規や法令は、朝鮮の実情に合わせて導入され、順次改正を加えながらこれらに基づいて行政を行ったことが記されています。人治から法治へと変化したのです。これにより、朝鮮の近代国家への脱皮が推進されました。これらの法体系は、日本が朝鮮から撤退した後もその多くが影響を残したものと思われます。
⑪ 李氏朝鮮時代には、初等教育は書堂だけであり、書堂が女性を受け入れなかったのに対し、日本統治により小学校が普及して女性も学校へ行けるようになり、高等女子学校が57校もできて高等教育も受けられるようになりました。これにより、国民の半分を占める女性が学べるようになり、女性が男性と対等に学べる環境がつくられました。これは、最近女性大統領や大臣・長官が出るまでに女性の地位の向上するきっかけとなりました。また、家の中に閉じこもって昼間に屋外で姿を見せることがなかった女性が、日本統治時代には昼間から外に出るようになり、女性解放が進みました。
⑫ 日本の統治時代に多くの朝鮮人の人材を育ちました。その一つは工場や会社を経営した人達です。『大韓民国の物語』の「第二部文明史の大転換」の「9 日本がこの地に残した遺産」の「人的な資本」の188ページには次のように記されています。
[何よりも貴重な人的資源は、店舗や工場、1920年代以降、前近代社会の褓負商(行商人)に代わって、固定した店舗をもつ商人の数がどんどん増加し、1938年段階では店舗の数が39万6000にも達しました。1939年の段階で、5名以上の従業員を雇用する工場や会社を経営する朝鮮人は4000名にも達します。その中に今日の韓国を代表する企業グループを創業した三星の李秉喆、LGの具仁会、現代の鄭周永らが含まれています。]
また、二つ目の人材グループは、学校卒業後に総督府や学校に就職した人達です。彼らは官吏として、教師として活躍しました。その数は約17万人に達していたと、『大韓民国の物語』に記されています。第三のグループは、銀行員・医師・法律家などです。第四のグループは日本へ行って会社や軍隊に入って日本の考え方や仕事の仕方を身に着けた人たちです。このような多くの多種の人材を育てて朝鮮に残してきました。彼らの多くは李氏朝鮮時代には存在しなかった職種の人達です。日本統治時代の教育をベースにして、日本人と一緒に仕事をする過程で、或いは日本へ留学をして、あるいは独自に道を切り開く過程で、これ等の朝鮮の人材が自らを育てたのです。或いは日本の軍隊に入って厳しい規律と強い意志で自らを鍛えた人も居たと思います。このような人材の存在が、日本が撤退した後の韓国の発展を牽引したと言えます。これも目に見えない日本が残した人的財産といえると思います。
⑬ 1904年8月22日に締結した日韓協約より派遣された日本人顧問は、財政の整理や予算編成に関して租税法規を制定し、歳入の確実な増収を図ると共に、旧来の徴税機関による誅求の弊害を正し、宮内府の管理していた租税や専売事業などを政府に移したが、1905年の予算で207万円(現在価値で約414億円)が不足したので、1905年から1909年までの5年間で約2070億円を日本の国家予算(日本人の税金)で補いました。
⑭ また、日本統治時代になって総督府が設立されて、朝鮮の政府として活動を始めましたが各種の費用が不足して、日本から総督府予算の不足分を1910年から1943年まで毎年多額の資金を「補充金」および「公債」として日本から投入し、朝鮮の改革に使われました。『朝鮮総督府統計年報』によれば、「補充金」の合計額は4億6610万7052円で、「公債」の合計額は15億9363万8633円で、総計20億5974万5635円が日本から朝鮮へ支援金として投入されていました。当時の20億円は現在価値に直すと約2万倍となり、約40兆円です。
植民地からは何でも吸い上げるものと一般に思われていますが、朝鮮の場合には逆に日本本土の政府から、日本国民の税金と日本人から集めた資金で、朝鮮の酷い状態を改善する諸施策を実施するために、現在価値にして約40兆円もの莫大な金額が注ぎ込まれていました。これも目に見えない日本が残してきたものであるといえます。
⑮ 李氏朝鮮時代には儒学の中の性理学だけが学問と看做され、その反動で仏教は弾圧され、寺は山奥に移り、仏像などは破壊されるかあるいは地下に埋められました。日本の統治時代に日本の考古学者などが総督府と共にそれを発掘し、博物館を創ってここに展示しました。朝鮮に博物館を造ったのは朝鮮人に暗殺された伊藤博文統監でした。この時点でこの博物館の展示品は、朝鮮古来の制度・風俗・宗教・美術・工芸・その他歴史的に参考になるもので、陳列の総点数は1万3375点に達していました。
さらに、総督府は1933年8月8日に「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」を制定して、朝鮮の文化財や天然記念物が海外に売り飛ばされることを厳禁して、保護しました。捨てられあるいは埋められていた遺物を発掘し、文化財として大切にして保存する考え方は、当時の朝鮮には無く、そして考古学も無く、考古学の専門家も居ませんでした。李氏朝鮮時代と大韓帝国時代には誰も顧みなかった文化財を発掘保存した行為は、日本が残した目に見えないものです。当時の朝鮮人はこの分野に関心が持たれていませんでした。陳列の総点数が1万3375点に達していたことは、朝鮮の発掘された文化財が大切に保存されていたことを物語っています。
⑯ 李氏朝鮮時代から大韓帝国時代の初めまでは、学問は儒学が全てでしたが、朝鮮が日本へ門戸を開いて使節団を日本へ送ってから日本並みの学校制度への取り組みが始まりました。しかし、本格的に学校制度が日本並みに整ったのは総督府の教育への熱意と現在価値で14兆円を超える大型投資とを待たねばなりませんでした。日本が朝鮮から撤退した時点では、女性を含めて誰でも学校へ行けるようになり、李氏朝鮮時代のように身分と性別による学習の制限はなくなりました。総督府により朝鮮の僻地にまで教育の手が差し伸べられて文盲をなくす努力がなされ、教育の重要性が朝鮮人に認識され、朝鮮人の学問と知的水準が高まりました。そして、この学校教育は朝鮮人の人的資源の苗床になりました。
⑰ 李氏朝鮮時代はまともな貨幣制度がなく、商業や経済の発展の阻害要因になっていました。大韓帝国から顧問として招聘された日本人が指導して貨幣制度と金融体制を整え、朝鮮が発展する基礎ができました。朝鮮は日本統治時代になって貨幣と金融制度が整った近代国家と成りました。この金融制度が整うことで、市場経済のシステムが機能するようになりました。この市場経済システムは朝鮮が日本統治時代になって初めて経験したものであり、日本が撤退した後の現在の韓国の体制の中にも引き継がれたものであるといえます。
⑱ 日本が朝鮮と交流を始めた1976年の日朝修好条規が結ばれた頃から日本による併合までの朝鮮は、衛正斥邪運動が盛んであり、朝鮮が世界で一番文明度の高い国との思い上がりがあり、洋夷と倭夷を排斥して朝鮮の対外開放と近代化を阻止しようとする両班と義兵が盛んに活躍した時代でした。日本の統治を経た後は目立った対外排斥運動はなくなり朝鮮は外に向かって目を向けた状態となりました。これは韓国が発展する基礎となりました。
⑲ 日本統治時代の初め頃まで、朝鮮の各地に匪賊・草賊が猖獗を極めており、住民は彼らに襲われる恐怖におののいていました。そこで総督府は、朝鮮全土の499カ所に隈なく日本人と朝鮮人からなる憲兵分遣駐屯地を設けると共に、匪賊討伐を行い、朝鮮から匪賊や草賊は消えました。これにより朝鮮の人々は安心して生活できるようになりました。
⑳ ⑳ 日本を見て開化派となった朝鮮の人たちと福澤諭吉の高弟井上角五郎の協力により、朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』が1883年に刊行されました。これは井上角五郎らが新聞の必要性を訴えて、朝鮮政府の外衛門の顧問となり、外衛門に博文局を設置してもらい、井上の指導と努力のもと発刊にこぎつけたものです。初めは朴泳孝と兪吉濬が居ましたが朴は左遷され、兪は米国に留学してしまったのです。この時に使われた漢字活字は三輪広蔵らが日本から持ち込みました。
しかし、金玉均の政変の時、博文局は放火され印刷機械が焼かれて、『漢城旬報』は39号を以て、1884年12月に廃刊になりました。
当時、朝鮮では全ての文書や書籍は漢文でした。それは当時の朝鮮の知識人は、ハングルは真の文字ではないとして馬鹿にしていたからです。そして相変わらず知識人の特権意識としての公式書には漢字(漢文)だけが使われていました。
実は、ハングル文字の使用は燕山君によって禁止されていました。燕山10年(1504年)7月20日、「今後ハングルを教えるなかれ、学ぶなかれ、また既に学んだ者は用いてはならない。ハングルを知る者をすべて摘告するように漢城市内に発令せよ。それを知りながら報告しなかった者はその隣人と併せて罰する。」とのハングル禁止令が出されました。
続いて7月22日には「所蔵されているハングル書はすべても焚書せよ」との指令が出されていました。
1506年には中宗によってハングルを研究する唯一の公的機関である「革諺文庁」を廃止されていました。このことは『朝鮮王朝実録』に明記されている事実です。
一方、福沢諭吉は朝鮮を文明国にするためには世界で起こっていることを知り、文明開化の意味を知る必要があると考え、ハングル文字の活字を世界最初に発案し、私費でハングル活字を作らせ、漢字・ハングル混じりの新聞の発行と普及に勤めたのです。
1885年6月、博文局総裁と成った金允植は新聞再刊のために新たな印刷機とハングル活字の購入を井上に依頼し、福沢の門人の井上角五郎は帰国して福沢が造ったハングル活字と印刷機械を買い取って朝鮮に戻りました。朝鮮史上初の、漢字・ハングル混合文を用いた『漢城周報』の創刊号は、このようにして金充植と井上角五郎とによって1886年1月に発行されました���
ハングル禁止令以来、公的な文書においてハングルが用いられることはありませんでした。しかし、この朝鮮において、政府の関与した新聞にハングル文の記事が採用されたのです。約382年間も顧みられなかったハングルが福沢諭吉と井上角五郎によって蘇ったのです。しかし残念なことに、赤字財政のため博文局が1888年7月7日閉鎖され、2年と6カ月で『漢城周報』は廃刊となりました。
その8年後の1896年になってようやく、「独立協会」によってハングル文字の『独立新聞』が発行されました。この新聞は福沢諭吉が提唱したのと同じ主旨で、民衆の意識を呼び覚ますために、ハングル文字で発行されました。
また、日本統治時代の学校の教科書は漢字・ハングル混合文で編成され、これが使われました。それまでは漢字だけの教育が書堂でなされていたのですが、日本の統治時代になって初めて190万人の小学生に対する6年間のハングル文の必須科目としての学校教育によって朝鮮人の識字率が大幅に向上し、文化や産業の発展の基礎になりました。
現在の韓国の文字ハングルは、約382年間も公式には顧みられませんでしたが、福沢諭吉と井上角五郎によって再び日の目を見るようになったものであるといえます。しかしなぜか、現在の韓国の教科書は、上記の幾つかの大切な事実を完全に隠蔽して、若者に教えていません。
㉑ 李氏朝鮮時代の末期まで、病気になると、医師といえる人と病院がなく、病気に対する知識もなかったので、巫女や祈祷師に依存して居たようです。日本統治時代になって医療制度が整いました。『歴史を偽造する韓国』によれば、京城帝国大学の医学部において最先端の知識と技術を持った朝鮮人が1929年から1943年の15年間で237名が卒業したことが記されています。その結果と総督府の努力により、身近に医者や病院ができて医療環境が整い、そこで診てもらうと病気が治るようになると、巫女や祈祷師に依存しなくなりました。
㉒ 李王朝時代までの朝鮮は儒教の国でした。儒教は序列が基本です。その序列は儒教の生まれた中国は大中華で朝鮮はそれに次いで「小中華」で、儒教を知らない日本は「蛮夷」であるとして蔑視していました。
日本の統治時代を通じて朝鮮の小中華思想は完全に消えたと思われましたが、まだ基本的な部分で残っています。例えば韓国では日本の「天皇」を「日王」と表記しています。蔑視していた日本が「皇」と称することは許せないので、皇より下の王の表現にして日本を蔑む侮日の気持ちが、現在でも「日王」の表現を用いさせていると思われます。
これは日本に対して失礼極まりないことですが、そのことに韓国の人は気付いていなのか、あるいは気付いているからこそ、このような日本を貶める表現を使っているのかもしれません。
㉓ 朝鮮では儒教の教えで「親からもらった体を傷つけてはいけないとの思想から、髪の毛は生涯一度も切らない習慣がありました。高宗が断髪令を出したところ、日本人とそのときの金弘集政権へ非難が集中し、国王��それを撤回して、民衆に近代化の改革を進めていた金弘集総理を殺させました。このような激しい反発があった断髪令ですが、その後自然に髪の毛を切る人が増えて、日本の統治が終わる頃には殆どの人が断髪していました。これは日本が残したものと言えないかもしれませんが、その影響はあったと思います。
㉔ 純宗は皇帝就任の3年後に勅諭を発して、日本との併合に踏み切りました。併合条約公布に際し大韓帝国皇帝が公布した勅諭を、朝鮮語の『朝鮮王朝実録/純宗実録3年』の邦訳を、『フリー百科事典Wikipedia』から引用して次に記します。
[皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せしむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年(1910年)八月二十九日 御璽]
高解像度で見る
上の大韓帝国皇帝が公布した勅諭は、新羅の最後の国王が、王子たちや大臣たちの反対を退けて、高麗に降ったときと同じ思いが記されています。純宗の勅諭のアンダーラインを付した部分の記述は、純宗の思いが、新羅の国王が高麗に降ったときと全く同じです。新羅の敬順王にとって隣に高麗があったように、純宗にとって、隣に日本があったのです。これも、日本が朝鮮に残した目に見えない影響だと思われます。
「韓国併合ニ関スル条約」の協議調印に関する内閣総理大臣李完用への純宗皇帝の全権委員任命状を示します。御璽御名が印されています。
㉕ 日本人は朝鮮から引き揚げる時、1000円だけ身に着けることが許されました。その結果、個人と企業などの銀行預金などの金融資産は全部朝鮮の誰かのものになったのです。日本が朝鮮から撤退しても、その時まで朝鮮では日本のお金が通用しており、朝鮮人も朝鮮の企業も、資産はすべて円です。ですから、円の価値を直ちに零にすることは不可能です。日本人が引き上げた後も、何らかの対策が取られるまでは、円の価値は朝鮮では保持されたはずです。その対策が執られても、それは円を変換(交換)する必要があるだけです。日本人が残して来た莫大な現金資産を、朝鮮人の誰かが自分の物にしたのです。
㉖ 日本は朝鮮の地に,誰でも自由に活動できる資本主義経済システムを残してきました。1939年時点で、朝鮮に於ける職業別戸数がこのことを示しています。『総督府年報 1941』の「第1章 総説」の「第3節 戸口」によれば、
全戸数 :朝鮮人412万3646戸、 日本人 16万1400戸
農業 :朝鮮人292万5988戸、 日本人 7047戸
水産業 :朝鮮人 6万4355戸、 日本人 2233戸
鉱業 :朝鮮人 7万1532戸、 日本人 5966戸
工業 :朝鮮人 12万2341戸、 日本人 2万6478戸
商業 :朝鮮人 30万2704戸、 日本人 3万0725戸
交通業 :朝鮮人 4万6696戸、 日本人 9146戸
公務及自由業:朝鮮人 14万1572戸、日本人 6万6007戸
その他有業者:朝鮮人 34万6148戸、日本人 6731戸
無職 :朝鮮人 10万2249戸、日本人 7068戸]
その他の外国人が1万1478戸ありましたが省略しました。農業と水産業と商業の一部の行商人以外の職業は、日本統治時代に生まれた新しい職業であるといえます。農民が冬季に副業としてやっていた家内の仕事は、独立した職業といえる状態ではなかったと思います。1910年の日韓併合を経て、1939年には朝鮮に新しい経済システムができていたのです。このことは、1939年の朝鮮経済が次のように成っていることから明らかです。倍率は1910年比です。
払込資本金:60.9倍12億1187万円(現在価値24兆円)
貿易総額 :40.1倍23億9524万円(現在価値48兆円)
銀行貸出金:36.8倍15億0644万円(現在価値30兆円)
朝鮮人の誰も特定の職業に就くことを強制されていませんでしたから、これは誰でも自己の能力に応じて自由に参加できる資本主義経済システムであるといえます。この資本主義経済システムへは、朝鮮人が日本人の何倍も多く参加していましたので、日本が朝鮮から撤退しても急に消滅することはないと思われます。
以上が、日本が1876年に朝鮮と交流を持ってから1945年に撤退するまでの69年間に朝鮮に影響を及ぼして残した無形の事柄です。
なお、余談ですが、韓国に博物館を作り、韓国人に暗殺された伊藤博文公爵について、この暗殺をした人物を韓国は英雄として称えていますが、殺された伊藤博文公爵の朝鮮に関する考えを紹介したいと思います。
その一つは、新渡戸稲造の『偉人群像』に、伊藤公爵が語った言葉として、「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」いっていたと記されています。このように、伊藤公爵は朝鮮人を高く評価し、併合には反対だと主張していました。そして、日清韓の連帯を唱えていました。日韓併合に反対していた伊藤が暗殺されてしまったために、その後、山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになったのです。
二つ目は、近年発見された伊藤公爵の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていたことを裏付けるものだ」としています。しかし、伊藤公爵は暗殺されてしまいました。残念ながら、これが現実です。
1 note
·
View note