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#共和国大統領の誕生日
herbiemikeadamski · 1 year
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月22日(火) 友引(己卯) 旧暦 10/29 #小雪 月齢 27.7 年始から326日目(閏年では327日目)にあたり、年末まであと39日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 48/53週目の47回目の火曜日でゴザル。 いえ、別になんとした事もありませ んがね😅💦ただ、今年の火曜日は💦 たったの五回です✋明日は、祝日で 「心配ご無用♪」週中に休めるって 良いですよね✋毎週、これだったら 楽だよなぁ~って前半2日後半2日で 週休3日🤣😆🤣もう、このぐらいの 働きでイインジャネ♪って思うわぁ~今w ただ、明日休めるかは本日のノルマに かかってるんですけどね✋それに💦 明日は、熊本コナミスポーツクラブが定休日。 これ、今更なんだけど祝日でお休み なんだから会員にサービスで営業したら イインジャネ♪って思いませんか🤣😆🤣 しかし、そこにお勤めの方はウキウキな 気分になるんでしょうか😅💦ダロウネ✋ (o゚д゚)マジスカ?\(__ )マジデスw😅💦 . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ケネディ大統領暗殺事件.  1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが ダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。 . この事件を知った子供の頃は、アメリカって恐ろしい国だなぁ~ってのが、あったけど現在はアメリカというよりも世界の支配階級に  君臨する数名によって好き放題に操られてるんだと思う✋先日の安倍首相暗殺事件があった時に真っ先に、この時間が思い付き  遂に日本にも手が回る様になったんだと怖くなりました⤵️⤵️⤵️国の代表やら大統領、首相なんて体裁で全て影武者に操られ居るの  が、この世の常なんですよね🙏 . #友引(トモビキ). 六曜の名称の1つで、相打ち勝負なしの日のこと。  つまり良いことはないが悪いこともない日のことである。  ちなみに六曜は仏教とは関係なく葬式を避けるという話は迷信である。  「友人を引き込む」とされている日とされている。  友引にの日には、結婚式、入籍、七五三、お宮参り、引越し、建築、契約、納車、宝くじ購入、は問題ない日です。  験担ぎで拘るなら、凶となる11時~13時の間を避けると良いでしょう。  六曜は、先勝(センショウ)、友引、先負(センプ)、仏滅(ブツメツ)、大安(タイアン)、赤口(シャッコウ)の6つである。 . #小雪.  二十四節気のひとつ。  この頃から寒くなり雨が雪へと変わることがあるので「小雪」。  気温が下がり初雪が舞い始める。 . #成人式発祥の日. #回転寿司記念日. #いいフルフルの日. #大工さんの日. #人事戦略を考える日. #CREAMSWEETSの日. #マシュー・マコノ日. #大人の日. #いいフルフルの日. #ボタンの日. . #ペットたちに感謝する日. #長野県りんごの日. #いい夫婦の日. #和歌山県ふるさと誕生日. #甘酒ヌーボーの日. #あにまるすまいるの日. #試し書きの日. . . ●ダブルソフトでワンダブル月間. ●ラブラブサンドの日(毎月22日). ●デルちゃん誕生の日(毎月22日). ●禁煙の日(毎月22日). ●カニカマの日 <6月を除く毎月22日> . ●生命保険見直し月間(1日から30日). . . ●レバノン独立記念日. . . ●新型コロナウィルス発祥記念日(#中華人民共和国湖北省武漢市 2019年).  今では信憑性がないデマ説が「風前の灯火」状態で、今もなお報道機関は嘘を言い続けて  居るため愚民達は本当の事だと信じ切って居ます。。。_| ̄|○...正にですよ✋  「噓から出た実」です。ψ(`∇´)ψケッ! . . ■本日の成句■. #子に過ぎたる宝なし(コニスギタルタカラナシ). 【解説】 子供は人間の最上の宝である。 どんな宝も子供には及ばない。 . . 1993(平成5)年11月22日(月)赤口. #成田凌 (#なりたりょう) 【俳優、ファッションモデル】 〔埼玉県〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/ClPNINghyKbVrQ47xTqwuVKDrgFIaBV77k-fT00/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)1月24日(水曜日)
   通巻第8104号 
 清濁併せのむのが政治だが、個人のポケットに入る賄賂大好きの政治家もいる
  ナウルについでツバルが台湾断交の動きを見せた
*************************
南太平洋の要衝にあるナウルは、地政学的に重要な拠点。だが、人口僅か一万余。国家というより町会機構、しかし国連で一票を持つからややこしい。
台湾総統選が終わるのをまって、ナウルは台湾との外交関係を断絶して、中国に切り替えた。カネに転んだと噂された。
ナウルの外交的裏切りに対して、台湾総統府と民進党は、「北京が総統選挙の終了後、直ちに外交的な圧力をかけたのは、民主主義の価値に対する報復であり、それ以上に国際社会の安定と秩序に対して公然と挑戦するものだ」と非難した。
次はツバルが、中国へはしるだろうと予想する報道がなされた。
豪『ウィークエンド・オーストラリアン』(1月12日)は、駐台湾マーシャル諸島共和国のビケニベウ・パエニウ大使が、「ツバ���関係者」から耳打ちされた賭して、「ナウルに倣い、外交承認を中国に切り替える可能性がある」と発言したと報じた。台湾総統選の直前だった。
ツバル政府は、ただちに「パエニウ大使の発言は公式立場を表すものではない」とし、台湾との外交関係は引き続き強固であることと確認した。
 騒ぎを醸し出したのは豪メディアだが、1月23日にペニー・ウォン豪外相は、「ツバルが台湾との外交関係を断絶しようとするいかなる動きにもオーストラリアは干渉しない」とし、「ナウルに倣って同盟関係を中国に移す可能性がある」とした報道を受けた記者会見で、「ツバルの外交政策は太平洋諸国単独の問題であり、台湾や中国の承認に関するいかなる決定にも介入しない」と述べた。
台湾と強い絆で結ばれるのはマーシャル諸島。1月22日、��ルダ・ハイネ大統領は世界各国代表が出席し、首都マジュロで開催された大統領就任式で、台湾との強固な関係への支持を再確認した。
式典では蔡英文総統(蔡英文)、ミクロネシア連邦、日本、パラオ、米国の代表らからの祝辞が読み上げられた。
蔡政権の特使として就任式に出席した台湾の田重光外務次官は「両国は国政選挙を実施したばかり、民主主義と自由の価値観を共有している」と祝辞のなかで述べた。
 ▼札束攻勢で台湾承認国家は12ヶ国に減った
 南太平洋諸国で台湾と断交した国々はバヌアツ、フィジー、キリバスなどで、2016年5月に民進党の蔡英文政権が発足した時点ではまだ22か国と外交関係があった。
 フィジーには南太平洋大学に「孔子学院」。バヌアツの海岸通りの商店街は殆どが新移民の華僑経営である。
蔡英文政権誕生以来、中米・カリブ海で5か国、オセアニアでて3か国、アフリカで2か国が台湾と断交した。ナウルの断交での残りは12ヶ国となった。アフリカにいたっては、旧スワジランド(2018年に「エスワティニ王国」と改称)を例外に、55ヶ国のうち、54ヶ国が台湾と断交した。いずれも中国の「札束外交」によるもので、台湾の国際的孤立が狙いである。
中国のアフリカ外交は「一帯一路」プロジェクトとセットになっており、各国のインフラ整備や鉄道網への投資に集中しているうえ、産油国のナイジェリア、アンゴラ、鉱物資源が豊かな南ア、コンゴに重点的な投資を行ってきた。
しかし、中国への反発も根強く、ザンビアで反中国デモ、南アフリカでも猛烈な批判がなされた。エチオピア東部では、反政府組織オガデン民族解放戦線が中国資本の油田探査基地を襲い、中国人9人が殺害された。
 南太平洋の島嶼国家群の中国への傾斜を重く見た米国は急遽「調整官」を派遣し、とくにソロモン、パプアニューギニアではカート・キャンベル調整官(現国務副長官)が当該国の大統領等と話し合いを持ったが、調製は円滑には進まなかった。
 ところがその後、ソロモン、パプアニューギニアなどでも反中国暴動が発生し、チャイナマネー問題が浮上した。台湾の頼清徳次期政権、前途多難。
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xf-2 · 6 months
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自民党の谷垣禎一元総裁(78)の自宅を訪ね、岸田文雄内閣の支持率がなぜ上がらないのか、一杯やりながら率直に質問をぶつけてみた。岸田首相の外交面の成果は、知らぬ間に立ち消えになってはいませんか。
「確かにね。今回のウクライナ戦争で存在感が高まっているグローバルサウス(新興国・途上国)の取り込みなどは、日本の強みを生かしてよくやっている。彼らの一部には、西側の先進国に『あいつらは今も上から目線だ』と腹を立てている国が多い。事実上の『一強』となった米国や植民地支配の過去を抱える英仏に対し、『西側リベラリズムのおごり』と批判する国さえある。その中で、日本は独自のODA(政府開発援助)を駆使して努力を重ね、『欧州はうんざりするが、日本は違う』と評価も集めた。首相はここをうまくすくい、西側とつなぐ役割を果たしている」
ただ、今後はこの外交でも、首相にとって厳しい難局面が待つと説く。
「この戦争が終わったとき、どう新しい国際秩序を作っていくのかが焦点となる。そこでは、日本がすごく損な立場になるわけにはいかない。日本は必ず、それなりの地位を占めなければならない。国内では国民生活に目配りしながら、対外的にはこの難題に挑まなければならない。岸田さんに限らず、自分が首相になりたいと狙っている人にとっても、答えを出すのは簡単ではないはずだ」
テーブルには『野菜の揚げびたし』が登場した。パプリカとカボチャ、なすを素揚げして、甘辛いマリネ液にしっかりしみこませている。香ばしい夏野菜の香りと甘さが、冷えた久保田によく会う。
谷垣さんが「水内さんは産経新聞だからこっちが好きかな」といいながら、テーブルには白い陶器に「中華民国立法院」と書かれた蒸留酒「白酒(バイジュウ)がやってきた。テーブルには、「中華人民共和国」と書かれた「貴州芽台酒」も登場。「酒に国境はありませんよ」と酒巻俊介カメラマンが笑ったが、私はなんとなく中華民国を注ぐ。
食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 食卓には、台湾からいただいたという白酒も登場した=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 谷垣さんに「一気に飲み干すんですよ」と言われたが、アルコール度数は50度! しかし、独特の香ばしい匂いがさわやかだ。昨年、谷垣さんのインタビュー連載を担当し、今回同席した豊田真由美記者は「食道の位置が分かる」とむせながら飲んでいる。
「この前、フランスのマクロン大統領がNATO(北大西洋条約機構)の東京事務所開設に反対したでしょ。私は心理がよくわかるんですよ」
谷垣さんが語りだした。 「海洋国家の道を選ぶか、大陸のつながりを大切にするか。各国が個別の事情を抱えていますよね。英国は海洋国家の道を選び、EU(欧州連合)から抜けた。残った独仏を中心とするEUはどうするか。陸続きの中国に経済などの利益を全部取られては大変だ。中国とうまく付き合いつつ、必然的に、カザフスタンなど中国の周辺国とも協力する。フランスがNATO日本事務所に反応した背景は、ここまで見なければならないと思うんです」
谷垣さんも白酒をなめる。
「日本もずっと、2つの選択を迫られていたでしょう。海洋国家としてアングロサクソンと組むか、大陸につながるところと組むか。日本では明治以降、右翼を中心に、中国や韓国と組んで欧州に踏みにじられない大義の旗を立てろという議論があった。しかし、当時は日英同盟を選び、今は日米同盟。アングロサクソンと組む流れを継いでいる」
「韓国も、似たような選択を迫られてきましたよね。北朝鮮との関係強化を図った文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は、日本でいえば、沖縄県の米軍普天間飛行場の辺野古移設にブレーキをかけた鳩山由紀夫元首相の言動に近いと思っているんですよ。韓国では『北と南の連携を強くしていこう』という訴えが国民の喝采を浴びる面もあるでしょう。ただ、今の時代に文政権みたいな道をとるとあまりに支離滅裂になる。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が誕生したのは、日本にとっても本当によかった‥、ああ、すっかりいい気になってペラペラしゃべっているなあ」
谷垣さんが車いすを少し動かしながら話題を変えた。
「最近は新聞を読みながら、私と同世代の方の回顧録をよく読むんですよ。私たちの世代は一体何を残したか-と考えながらね」
谷垣さんは昭和20年生まれだ。
「例えば歌手の加藤登紀子さん。読売新聞で連載していたが、彼女は私の1歳年上で、東大の五月蔡でシャンソンの『赤い風船』を歌っているのを聞いたことがあります。彼女と政治的立場は大きく異なりますが、同じ時代の空気を吸ってきた。もう1人挙げれば、ピアニストの山下洋輔さん。彼は麻布高校の先輩で、文化祭でピアノを弾いていたのを覚えている。ジャズという日本でまだ珍しかったやり方に挑んでいた」
「もう1人、倉本聰さん。彼は喫茶店でアベックのすぐ横に座り、会話をじっくりと聞きながらシナリオを練ってきた。テレビをどう活用するのか、一生懸命考えてきたんですね。戦後日本の可能性を開くためさまざま頑張ってきた」
「逆にいえば、そうそうたる大会社に行き、少し前まで『半導体は日本だ』と頑張った友人がいた。しかし、今は見る影もない-。俺たちの世代は何をやってきたんだろう。私とすべてジャンルは異なるが、この年になって、じっくり考えるんですよ」
日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 日本酒のグラスを手に語る自民党の谷垣禎一元総裁=東京都世田谷区の自宅(酒巻俊介撮影) 少し遠い目をする谷垣さん。自らも、政治の中枢で時代を動かしてきたじゃないですか。
「自分のやってきたことはこんな副作用を生んでいたのかと考えるものばかりですよ。自分の思った通りになったことは絶対ない。ほとんど、予期しないことが起きている。例えば難民の問題。私は議員になりたての頃、自民党法務部会の副部会長としてこの問題に取り組みました。当時は無制限に外国人を入れるととんでもないという議論があり、入国には『職業訓練』という形を取り入れたが、今から思えば、物の見方が足りなかったと自省することが多い。『こんなこと考えもしなかった』という問題が次々と起きてね」
もう一例として挙げたのが、女性の社会進出の遅れだ。
「私は昭和20年生まれだから、現行憲法の『男女同権』は素晴らしいと教わった。しかしその私が何をやってきたかといえば、政治家の傍らで、家事は全部女房に押しつけた。家事はやってみると結構大変ですよ。こんなこと言ったら、あの世の女房に怒られるかもしれないが、専業主婦じゃない人が家事に取り組むのは大変だ。今は働く女性が圧倒的に増えたでしょ。亭主と女房がどっちも働いているのに、家事は女房だというんじゃね。子育てしながら政治に携わる上川陽子外相や加藤鮎子こども担当相は相当優秀ですよ」
子供2人を育てる豊田記者が「家事をしない人と結婚できませんよ」と合いの手を入れる。
「でも、少子化対策って、政府の政策でこなせるものなんですかね」
シャッターを切っていた酒巻俊介カメラマンが尋ねた。(聞き手 水内茂幸)
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ysformen · 1 year
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『日本人が知らない満洲国の真実』を読んで印象的だったところ。
歴史とは因果関係を明らかにすることです。
良い悪いや善悪の判断は、生身の人間がすることではなく、閻魔様の役割だとでも思ってください。
日本人は真面目すぎて、問題が発生した時に一所懸命に考えて、その都度、最前と思われる対処を行なったのがよくなかったのではないかと、私は思うのです。何千年も前から現地に横たわっていた問題など、放っておけばよかったのです。
日本人のすぐに白黒つけたがる性格がいけなかったのではないかと、最近では思っています。
台湾と朝鮮と満洲は日本史として考えるべき。
日本人は自分たちのしたことについて、まったく自覚がないところは悪い点です。
日本がパリ講和会議で出した人種差別撤廃条約にしても、あれがいかに欧米の人を困らせたか、日本人は全然理解していません。
アメリカがハワイを併合したときも、日本はかなり文句を言いました。アメリカはすごく腹を立てましたが、日本はそれについて無自覚で、その後、アメリカが日本に報復したくなるとは思いもよりませんでした。
日本人は何もしていないのに被害を受けたと思っています。しかし私はちょっと違うと思います。日本人は自分たちがいかに世界中に大きなインパクトを与えたか無自覚すぎます。
私から言わせれば『あなたたち、自分たちがいかに、世の中を変えたのか、もっと自覚なさい」というところです。
日本人にその自覚がないため、却って無責任に映るのです。日本人が無自覚に正当論を述べたり、本当のことを言ったりすることが、相手にとって痛手になればなるほど、相手はそれを根に持ちます。
今の中国人からすると、日本人が「日本は平和憲法を守って、何もしていません」と言っているのは、とても嘘臭く見えるようです。
優等生が「明日のテストの勉強、私、全然してないの。どうせ悪い点だわ」と言っているのと同じような感じです。それでいい点を取るのですから、嘘つきだと憎まれるのです。
中国人からすると、日本人は全員が嘘つきに見えるようです。
第一次世界大戦後、日本は世界の一員として相応しい態度と振る舞いをしようという意気に燃えていたのに、結局、ヨーロッパからは日本だけが悪者扱いをされてしまいました。
本当に今とそっくりだと思いませんか。
ヨーロッパ人は、そもそもアジア人を信用していないのです。ヨーロッパ人の人種差別は根が深いのです。日本人は名誉白人にはなっても、白人ではありません。
1919年というのは、たった一年ですが、世界史が動き出した一年と言えます。
この1919年の前か後かによって、因果関係がまったく変わってきます。
1919年、世界同時革命を目指すコミンテルンが誕生し、ウィルソン米大統領が民族自決を煽ったせいで、アジアでも激しい民族運動が勃発しました。朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動です。
ハプスブルク帝国を八つ裂きにし、オスマン・トルコ帝国抹殺し、この両国から二十もの国が独立していきました。
現在ではこの両国の旧版図に五十もの国がひしめき合っています。
1919年、ソヴィエトはカラハン宣言を出して、日露戦争後、満洲やモンゴルのを互いの勢力圏に分割した日露の秘密協定暴露し、日本とロシアの取り決めを無効としました。
日本を悪い国だと世界に示すのが目的でした。
中国が共産化して反日に変わった1919年から、満洲は中国であると言われるようになるのです。
ロシアがソ連軍になって過去の関係を全て無視したのと同じように、ソ連の後ろ盾を得た中国も、過去の人間関係や国際関係、条約を全部棄てました。
満洲における日本と中国の関係は1919年を境に完全に変わったのです。
日本という国家はイデオロギーではできていません。最初からみんなが仲良く暮らしていて、憲法などなくても平気なのです。私は憲法廃止論者です。憲法など無い方が、よほど縛りが無くていい国が作れると思っています。よそから来たイデオロギーは日本人には合わないと思います。
中国人と喧嘩をしろということではないのです。見方や感覚がまったく違うので、合わせようと思うことをやめればいい。
感情を抜きにして付き合う必要があることを、日本人は知らなければならないと思うのです。
国際連盟にとどまっていても、戦争に突入したということもあり得ます。
日本ではなくアメリカが戦争をしたがっていたので、いつかは戦争になっていたはずです。
本当は、アメリカがなぜそれほど日本を敵視して、戦争をしたがったのかこそ、問題にすべきでしょう。
日本人が強いのは軍事力だけで、満洲事変のときにも、ソ連もアメリカも日本軍が怖くてかかってこれなかったのです。それでも日本が最終的に負けたのは、本当にインテリジェンスが弱いとしか言いようがありません。
満洲にいた満洲人が最後に言ったのが、「日本も残念ですね。こんなに軍事力が強くて、こんなに立派だったのに」という言葉で、現地の方からもそう見えたのでした。
現在の中華人民共和国や北朝鮮と、当時の満洲や併合後の韓国と、どちらがまともな生活をしているか比べてみてください。
そうした観点から論じるべきなのに、日本人は、何事においても、ああすればよかった、こうすればよかったと反省し、失敗した理由を考えすぎます。
矛盾は矛盾のままで、特に問題にすることなく放っておくのです。解決など考えずに、そのままにしておこうというのが大陸的なのです。
戦後の日本の新しい発想というのは、大陸帰りの人からのものが多いです。
当時、右であれ左であれ社会主義の影響を受けなかった人はいません。社会主義を考えなければ世界史は理解できません。
関東軍もそうですが、軍人はほとんどが貧乏な家で育ちました。そのため、資本家がいなくて人間は平等であるという社会主義の国を目指したのです。
当時の満洲には、自分たちが南方の国民党や共産党と同じ中国人であるという意識はまだなく、のちに歴史を書き換えたのです。
江戸時代は指導者を育てる教育をしていたのが、明治になって官僚を育てる大学しかつくらず、政策を考える帝王教育、君主教育が日本にはなくなったから、立派な指導者が育っていないのです。
日本人は個々人がしっかりしても、全体としては方向性がないというのは本当に残念です。
ノモンハン事件後に関東軍司令官となった梅津美治郎は 、暴走する関東軍参謀らを処分し 、人事の立て直しをはかりました 。彼のもとで一九四一年に 、ソ連国境付近で関東軍特種演習 (関特演 )が行なわれました 。
梅津が支那駐屯軍司令官時代には 、宋哲元の部下が熱河省を侵犯したのに対して 、梅津 ・何応欽協定 (一九三五年 )を結んでいます 。
梅津は 、昭和のありとあらゆる重要事件に関わっていたと言ってもいいでしょう 。二 ・二六事件後に陸軍の粛軍人事を行ない 、一九四五年の降伏文書調印式にも嫌々ながら軍の代表として出席し 、ミズ ーリ号で降伏文書に署名しています 。そのときに息子に対して 、二 ・二六事件とノモンハン事件のことを指して 「今度もまた後始末だよ 」とぼやいたと言われています 。
明治以降の積み重ねが 、今の日本の土台になっているということを 、日本人はしっかりと認識すべきです 。それを理解した途端に 、日本人は元気になると思います 。日本の歴史の本当の姿がわかれば 、それだけで将来は開けると私は思うのです 。従って 、今 、日本のなかで自国民が誇りを持つことに対して滅茶苦茶に足を引っ張っている噓を 、取り払っていくだけで 、それ以上は何も言わなくても 、日本人は勢いよく前へと進めると思います 。
日本の六十歳を超えた世代がこのように全然あてにならないので 、三十代 、四十代が本気で頑張らないと 、日本は本当に駄目になると私は思っています 。
満洲国が存続していたら 、日本人も変わることができたのにと思うのです 。日本の中央官庁の職員になったら 、研修で否応なしに最初の三年位 、満洲に行かされます 。そうすれば 、世界のことがわかり視野が広がって 、いい訓練になったのになと思います。
日本では権威 (天皇 )と権力 (侍 ・将軍 )を分けていて 、満洲国でもそれに倣ったからです 。権威と権力の分離は日本の歴史の素晴らしいところで 、日本の歴史では 、天皇陛下がいたずらに権力を振るうということはそうそうなかったのです 。
支那事変と 、それに続く大東亜戦争さえなければ 、満洲国は今の南米の国などとは比べものにならないほど立派な国になっていたはずです 。もう少しで 、共産党の中国や 、北朝鮮のような国ではない立派な近代国家が 、アジア大陸に誕生していた可能性が高かったのです。
今の北朝鮮や中国に対して 、 「われわれは 、こんな国を作ろうとしたのではない 。もっと立派な国をつくろうとしたんだ 。国民に幸せに暮らしてほしいと願って投資したのに 、異民族支配は嫌いだと日本人を追い出しておいて 、同じ民族になら 、殺されても満足なのか 。その後 、なぜこんな状態になったのだ 」と 、日本人は抗議する権利があると思うのです 。
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hachinana87 · 1 year
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The New Yorkerのハミルトン特集翻訳
The New Yorkerの2015年のハミルトン特集の翻訳してみた。1万7千字ぐらいなっちゃってますが。。。できてすぐの記事なので、のちの評価の俯瞰はないのですが、創作過程とミランダのキャリアがわかる記事です。締めがエモい。
【このカッコが私の注釈です。例のごとく誤訳マシンなので気になる人は原文を読もう!】 
ハミルトンについてのすべて 
The New Yorker, FEBRUARY 9, 2015 ISSUE  
レベッカ・ミード 
2009年4月、作家・作曲家・パフォーマーのリン=マニュエル・ミランダは、ホワイトハウスからの連絡を受けた。新しい大統領とファーストレディが「アメリカの経験」をテーマにしたライブ・パフォーマンスを企画し、ミランダは招待されたのだった。当時29歳だったミランダは、前年に彼が作曲・作詞したブロードウェイ・ミュージカル「イン・ザ・ハイツ」に出演していた。ワシントン・ハイツを舞台に、サルサとメレンゲをラップやヒップホップと融合させた音楽と、ブロードウェイにありがちな展開を効果的に混ぜた物語だ。「ハイツ」はベスト・ミュージカル賞や作曲賞などのトニー賞を受賞し、後者の受賞の際には「Sunday in the Park with George」を引用した快活なラップを披露した。“Mr. Sondheim / Look, I made a hat! / Where there never was a hat! / It’s a Latin hat at that!”(そしてタキシードのポケットからプエルトリコの旗を取り出した)ホワイトハウスはおそらくミランダからラテンアメリカンの経験を期待していたのだろう。「イン・ザ・ハイツ」からの曲でも良いと提案された。 
ミランダはもっと違うことを考えていた。数ヶ月前、彼と彼のガールフレンド、ヴァネッサ・ナダルは結婚し、メキシコへ新婚旅行へ出かけた。プールの浮き輪に揺られながら、彼は気まぐれに読書を始めた:ロン・チャーナウによる800ページ超の、アレクサンダー・ハミルトンの自伝だった。ミランダはハミルトンの初期の人生に魅了された。婚外子で、セント・クロワ島で極貧のうちに育った。父に捨てられ、幼い頃に母を亡くし孤児となり、ハミルトンは青年期に自力で革命の熱気高まるニューヨークに移民した。雄弁で筆の早い文筆家で、フェデラリスト・ペーパーの2/3を執筆した。独立戦争でジョージ・ワシントンに仕えた後、アメリカ初の財務長官となった。のちに、不倫問題が明るみになり、政界初のセックス・スキャンダルにより悪名を集めた政治家となった。その後閣僚に入ることはなく、50代になる前に死んだ。個人的不和が修復不可能となったために、決闘で副大統領のアーロン・バーに殺されたのだ。 
ミランダはハミルトンの波乱万丈な人生、才気、言語の巧みさ、そして自己破壊的なまでの頑固さを、独特のレンズを通して眺めた。それは、ヒップホップの物語、移民の物語としての視点だ。ハミルトンは彼の父、ルイス・ミランダJr.を思い起こさせた。プエルトリコの地方で生まれ育った若く野心的な男で、18歳になる前に大学を卒業し、ニューヨーク大学で学業を治めるためにニューヨークに移住した。ルイス・ミランダはエド・コッホ市長のヒスパニック関連の特別顧問をつとめ、その後政治コンサルト会社のMirRamグループを設立し、フェルナンド・フェラーなどの顧問を行った。高校の夏休みには、リン-マニュエルも父の会社で働いた。のちに、彼はエリオット・スピッツアーの2006年の知事選などの、MirRamグループの顧客の政治広告のための宣伝曲を書いた。チャーナウの1800年選挙の描写はーー現代の政治キャンペーンの起源だーーミランダの政治キャンペーンに対する内部の視点と共鳴した。ハミルトンと同胞たちが行った政府の目的に対する議論は、MSNBCとFOXの対立のごとく今も活きている。 
ミランダはまた、ハミルトンのなかにトゥパック・シャクールを見た。西海岸のラッパーで、1996年に射殺された。シャクールは複雑な、社会派の歌詞を書いた。ミランダは特に“Brenda’s Got a Baby,” に魅了された。21歳の娼婦になった女の子が暴行者のこどもを産む物語を描いたヴァースだ。シャクールはまた極端に気難しく、気に入らないラッパーのことを公に罵倒した。ミランダはハミルトンの中に同じ言語的才能と、これまた似たような、致命的な、引き際の知らなさを見た。これらはハミルトンの物語の中でとてもドラマティックな要素だった。彼がのしあがるために必要だった性格が、彼を転落させると言う点だ。ホワイトハウスのイベントの主催者が電話した時、ミランダはハミルトンについてのラップを提案した。彼らは了承した。 
5月の夜、ミランダと他のパフォーマーたちはーージャズベーシストでボーカリストのエスペランザ・スポルディングや、ジェームス・アール・ジョーンズがいたーー大統領に紹介された。ミランダは彼に空港で買った”Dream from My Father”にサインを頼んだ。ステージで、ミランダはハミルトンのコンセプト・アルバムに取り組んでいると発表した。「ハミルトンはヒップホップを体現していると思う」と彼は言い、人々は笑った。まだ一曲しか書いていないとは言わなかった。ミランダはハミルトンが「言葉が違いを見せる」ことの体現をしていると説明した後、ハミルトンの最初の20年の人生を4分の複雑な歌詞で要約して見せた。華奢で、黒く短い髪で濃い髭のミランダは跳ねるようなエネルギーをまといながら、ステージを歩き回り、ラップした“the ten-dollar Founding Father without a father / Got a lot farther by working a lot harder / By being a lot smarter / By being a self-starter.” 彼のパフォーマンスは観客から歓喜の呟きを引き起こし、オバマ一家は熱狂した。(ミランダは後から、大統領の最初のリアクションは「ティモシー・ガイトナー【オバマ政権の財務長官】も見るべきだったな」というものだった、と教わった。) 
6年後、その歌は、2月17日からパブリック・シアターで開幕した「ハミルトン」のオープニング・ナンバーとなり、ミランダがタイトルロールをつとめた。ヒップホップに根付いているが、R &B、ジャズ、ポップ、ティン・パン・アレー【ブロードウェイの音楽を起因とした商業ポップス】、現代ブロードウェイの合唱などを包括した。「ハミルトン」は歴史と文化の再イメージ化の到達点である。ミランダの語りの中では、成り上がりで向こうみずな移民の物語は、アメリカの物語となる。ハミルトンが自ら宣言するリフレイン“Hey, yo, I’m just like my country / I’m young, scrappy and hungry / And I’m not throwing away my shot,”は、その戯曲家にも言えることだ。ミランダは自分のツイッターのアイコンをハミルトンの10ドルの肖像に、自分のニッと笑った口、黒い眼、あごひげを抜めなく重ねている。 
「ハミルトン」はアメリカの歴史を現代の設定に置き換えたものではない。ミランダの建国の父たちはヴェルヴェットのフロックコートと半ズボンを着る。フーディやジーンズではない。デヴィッド・コリンのセットは、裸のレンガに木の足場。暖かな照明は蝋燭の光を思い起こさせる。ロープと金具の固定具で飾られたステージは、船の建設ーーそして建国、または18世紀のニューヨークの構築ーーを思い起こさせる。  
ミランダはアレクサンダー・ハミルトンを眩いばかりの焦点を持って描き出す。多才で、抑えるのがやっとの怒り。ハミルトンは条約を書く時歩き回り独り言をいうことで知られていたが、舞台ではラップでの独白は驚くほどの自問で彩られる。「死のことを思い出の様に想像する/いつ掴まるか/眠りのうちか/7フィート目の前か/逃げるか受け入れるか」“I imagine death so much it feels more like a memory / When is it gonna get me? / In my sleep? / Seven feet ahead of me? / If I see it coming do I run or do I let it be?”ミランダは閣僚会議を、囃し立てるサポーターたちに囲まれたラップバトルに置き換える。州の債務を補償するために設立を目指した国立銀行ーーハミルトンの先見的な発明だーーに関する議論は生き生きしたやりとりを生む。ハミルトンは悪意を込めてトマス・ジェファソンを貶す。“Always hesitant with the President / Reticent—there isn’t a plan he doesn’t jettison.” 
「ハミルトン」が初のアフリカン・アメリカンの大統領在職期間に創られたのは偶然ではないようだ。このミュージカルは国の誕生を意外にも、しかし必然的に、軽く描き出す。エリートの白人による荘厳な所業としてではなく、全てのアメリカ人の創造の物語として描いている。トマス・ジェファソン、ジェームス・マディソン、そしてジョージ・ワシントンはアフリカン・アメリカンによって演じられる。ミランダはまた、女性たちにも重要な役割を与えている。ハミルトンの妻イライザ・スカイラー(フィリッパ・スー)や義理の姉アンジェリカ・スカイラー(レネー・エリーズ・ゴールズベリー)だ。3人目の妹が加わったジグザグのハーモニーはまるでデスティニーズ・チャイルドのようだ。ミランダは建国の父たちを高尚な政治家とではなく、孤児や、無鉄砲な革命家として、時にはケチなライバルとして、極端に不安定な機運、機会、リスクを抱えて生きる。この瞬間の業績と危機はーー国の境の島で生まれた、移民の息子、父無し子の大統領の時代に生きる今にとってーー、決して時代の遠い出来事ではない。 
今年でパブリックの芸術監督就任10年目を迎えるオスカー・ユスティ���は、「ハミルトン」はここ数年で最もエキサイティングな作品だというーーたぶん、1992年に彼が依頼し、プレミアのプロダクションを監督した、トニー・クシュナーの「エンジェルス・イン・アメリカ」以来の。彼はミランダのこの作品と、シェイクスピアの初期の史劇であるヘンリアド【リチャード2世、ヘンリー4世第一部・二部、ヘンリー5世を一塊としてみる言い方】との関係をみた。「リンがしていることは、国の市井の声を韻文に昇華しているということだ。それがヒップホップのしていることだし、強弱韻文がしてきたことだ。リンは彼の国の創造の物語を、現在のわたしたちのこの国がしているのと同じように語っている。韻文の形で、シェイクスピアは英国の物語をグローブの観客たちに語り、英国を英国たらしめる手助けをしたーー英国人としての意識を持つことに貢献したのだ。それをリンは「ハミルトン」でやっている。彼は建国の物語を『私生児の、移民の孤児』の目から、有色人種の目を通して語りこう伝える、『ここは俺らの国だ。俺たちのものだ』と」。 
10月の晴れた日、ミランダと彼のコラボレイター、「イン・ザ・ハイツ」と「ハミルトン」の演出家トマス・カイルは、パブリック・シアターを出てニュージャージーのウィーホーケンにあるハミルトン公園に向かった。「ハミルトン」を考えついて数年の間に、彼は数個のプロジェクトに携わった。チアリーディング映画のミュージカル化「Bring It On: The Musical」を共作、2012年にブロードウェイで上演された。「モダン・ファミリー」と「ママと恋に落ちるまで」に出演。即興ヒップホップ・コメディ・グループのFree Style Love Supremeとして、ジョーズ・パブやその他でパフォーマンスし、去年の秋にはTVシリーズが放送された。その間中もずっと、製作中の作品のために歌を書き、歴史書を読み続けた。2012年、彼は「ハミルトン」のコンサート・プロダクションをリンカーン・センターのアメリカン・ソングブックシリーズで上演した。タイムスでは、スティーブン・ホールデンが「ゲーム・チェンジャーとなることは明らか」と称えた。 
ミランダはミュージカルに取り組みつつ、ハミルトンの膨大な手紙や出版物を読み、独立戦争の名残の残るニューヨークのさまざまな場所を訪れた。パール・ストリートにあるフランシス・タバーンは、英国軍に敗北した後のジョージ・ワシントンが将校たちと涙の別れを告げた場所だ。しばらく、ミランダは西162番街のモリス=ジュイメル・マンションで執筆する許可を得られた。国の歴史的な建築物で、マンハッタンで現存する中では一番古い建物だ。ワシントンは邸宅をハーレム・ハイツの戦いでの司令部として使用し、のちには副大統領のバーの居住となった。「アメリカ金融博物館の館長に会ったんだけど、彼は建物の表札を見せてくれて『ここはトマス・ジェファソンのニューヨークでの家だったんですよ』って教えてくれたんだ」とミランダは言った。「僕たちはこの大騒ぎの地層の上にいるっていうのが良いんじゃない?」ロン・チャーナウはホワイトハウスのパフォーマンスの数ヶ月前にミランダと出会い、作品の歴史監修となった。「リンは無駄な発明はしなかったよ」とチャーナウ。「まずは史実に忠実にしようと努めた。それでもし事実から逸脱しなきゃいけない時は、大体納得がいく理由があるのがわかるんだ。彼に尋ねたんだ、『もし歴史的に間違ってたら指摘したほうがいいか?』と。彼は答えた。『もちろん。歴史家にもこの作品を尊敬してほしいからね』」 
ウィーホーケンへの小旅行はミランダにとっては初めてだった。決闘はここで、1804年の7月に行われ、バーはハミルトンを撃ち、彼はその負傷が元で翌日に死んだ。当時、決闘はニューヨークでは禁じられていたが、ニュージャージーでは許容されていた。「ハミルトン」では3つの敵同士による3つの決闘がドラマ化され、そのうちの2つが致命的なものである。死者の中にはハミルトンの息子フィリップを含む。「決闘は現代の仲裁裁判みたいなものだったんだ」とミランダは驚きを含めながら言った。「まるで『おい、納得できないんだったら、ニュージャージーの広場に行くぞ。武器と医者を連れてこい』みたいなノリだよ」 
台本を作る中で数年を費やしてもなお、ミランダはハミルトンの最期の瞬間をどう描けばいいかわからなかった。さまざまな困難があったが、歴史の記録が曖昧だったことが一つの理由だ。バーはハミルトンを最初の一撃で撃ったが、のちにハミルトンの行動がー銃を確かめる様子や、眼鏡をかけていたという事実がー自分を本気で殺しに来たことを示していたと主張した。ハミルトンはしかし、多くの手紙の中で、彼はバーを外して撃つつもりであるーーショットを投げ捨てるつもりだーーということを示唆していた。目撃者はのちに、ハミルトンは空に向かって撃ったと証言した。 
5月のワークショップ・プロダクションでは、ミランダはハミルトンに決闘の準備のラップを与えた。「目に日が入り思わず目が眩む/私のニューヨークがゆっくり立ち上がるのを見た」“The sun is in my eyes and I’m almost giddy / As I watch it slowly rise over my New York City”ーそしてバーを殺すか殺すまいかと考えあぐねた。音楽的にも歌詞的にも、この歌はミランダが捉えようとした賭けを捉えることはできなかった。 ハミルトンがバーに対して持っていた誠意の欠如への不信は、国の不透明な行く末への恐怖と重なった。その歌は、ハミルトンの柄にもない躊躇と、バーの柄にもない積極性がもたらす、避けられない悲劇への予感を表現することができていなかった。ミランダは再び歌を作り変えつつも、リハーサルへの心配もしていた。彼は言う。「存在しないもの、どうしても現れてこないものがあるのに、役者たちが部屋に入ってきちゃって『うわー!』ってなる」。カイルはミランダに締切を設けて、全ての歌の草稿に反応した。彼がいうに。「プレッシャーがある時のリンの反応はもっと多くのものを生み出す起爆剤なんだよ」 
バーとハミルトンの危険を孕んだ関係は、ミランダのショウの肝だ。オープニング・ナンバーでバーはハミルトンのことを「私生児、孤児、売女の子でスコットランド人」と紹介する。この歌詞はジョン・アダムスのハミルトンに対する侮蔑に由来している。バーは特権を持って生まれた。父はプリンストン大学となる学校の学長で、母方の祖父はジョナサン・エドワーズ【著名な神学者でプリンストン学長】だった。ただ、ハミルトンと同じく、彼は若くして孤児となり、法律を学び、政治の世界へ足を踏み入れていった。ミランダの語りでは、彼らはお互いの反転図だった。ハミルトンの熱心なまでの無鉄砲さはバーの冷たい慎重さと対を成している。「ハミルトンは失うものもない孤児だけど、バーは失うものしかない孤児なんだ」とミランダは言う。 
バーをハミルトンの引き立て役とすることは、史実に沿うばかりでなくミュージカルの前例からも必然だった。「ジーザス・クライスト・スーパースター」はユダが物語を語る。ミランダは宿敵の視点からハミルトンを見せるというアイディアに魅せられた。スティーブン・ソンドハイム(2009年の「ウエストサイド物語」のリバイバルの時、劇をスペイン語に訳すためにミランダを採用した)はミランダが払うミュージカルの歴史に対しての尊敬の態度を称賛した。「現代の劇作曲家の多くはあまりこの業界の歴史に興味を払わない。でもリンはミュージカルシアターがどこから来たのか知っている。ミュージカルがどこから来たかを大事にしている」。ミランダはハミルトンの初期の曲を数年前、ソンドハイムに披露している。「圧倒されたよ。素晴らしいと思った」ソンドハイムは言う。「とても新鮮で、念が入っていて、舞台的だと思う」 
ミランダはソンドハイムのように、音韻構成と音楽のフレーズの組み合わせに注意を払っている。だが「ハミルトン」を作曲する際、商業的ブロードウェイ音楽からもインスピレーションを得た。「”レミゼ”的な音楽を作りたくてね。テーマを再登場させるのに賢い手が必要だった」彼は言う。「涙腺に直接響くと言う点では、あの作品の上を行くものはないよ」。「ハミルトン」はまた、ミュージカルの先人たちにもちょっとしたリスペクトを払っている。アーロン・バーがハミルトンや未来の革命家たちに怒りを鎮めるように忠告するせりふは、「南太平洋」からの引用。“I’m with you but the situation is fraught / You’ve got to be carefully taught.” 「これはロジャー&ハマースタイン的レイシズムの引用」ミランダは言う。ちょうど車はニュージャージーに向かうリンカーントンネルを通ったところだ。クリストファー・ジャクソン(彼は「イン・ザ・ハイツ」でも出演した)演じるジョージ・ワシントンは、自分のことを皮肉っぽく語る(“The model of a modern major general / the venerated Virginian veteran whose men are all / Lining up, to put me on a pedestal.” )が、これは「ペンザンスの海賊」からの引用で、ミランダ曰く、ギルバート&サリバンの改善である。「mineralは一番ベストな韻じゃないっていつも思ってたんだよね」 
ミランダのスコアは音楽のジャンルに対しても意味を込めた。キング・ジョージが去りゆく植民地に歌う曲は“You’ll Be Back”。ブリティッシュポップ的なーーただしハープシコードでーーウィットと美しい旋律に満ちた悪意。(“When push / Comes to shove / I will send a fully armed battalion / To remind you of my love,” と高慢な王を演じるブライアン・ダーシー・ジェームズ【オフ・ブロードウェイでの時は彼がジョージ3世を演じた】は歌う。)ミランダはハミルトンとジェファソンの世代の違いを、音楽で表現する。ジェファソンはハミルトンよりも一回り以上も年上なので、ちょうどパリから帰ってきた彼に屈折したジャズナンバー “What’d I Miss?” を与える。ジェファソンはラッパーのダヴィード・ディグスが演じる。彼は「ハミルトン」のために、国際ツアーを延期しなければいけなかった。彼は言う。「リンは普段滅多に交わらない世界の交差点に存在してるんだよ。ラップ音楽の熱心なファンで、とても優秀なラッパーでフリースタイラー。そして偶然にもミュージカルシアターと非常に親密な中で育った。その全部がオーセンティックに感じるんだ。」 
90年代初期のポップ音楽ーーミランダの青春時代のサウンドトラックだーーが、スコアの中に織り込まれている。聴衆はフージーズやモブ・ディープ、ブランド・ヌビアンの要素を聞きつけるだろう。作品はノートリアスB.I.G.ことクリストファー・ウォレスにさまざまな形で言及している。ニューヨークのラッパーで、1997年に24歳で射殺された。ハミルトンが自己紹介する時、自分の名前のスペリングをテンポに乗せて歌うが、これはウォレスが“Going Back to Cali.” でしたことだ。ミランダは特に楽しんだのは“Duel Commandments”において、ウォレスのドラッグ取引入門の曲“The Ten Crack Commandments”のリフを使った部分だ。この歌は作品の最初の決闘で現れる。ここではハミルトンとバーは敵手のセコンド同士だった。5月のワークショップでは、ミランダはハミルトンとバーの決闘でもこのカウンティングの構造を用いることにした。演出家のカイルが説明する。「ハミルトンとバーの決闘のために準備をする必要があった。ハミルトンは死ぬことになるからね。だから構造的にもその下準備が必要だって僕らは思ったんだよ。同時にヒップホップファンが愛する何かを入れることは、15年前にビッギーが言ってたようなことを、ずっと昔のやつらもやってたってことを表してるんだ。」ミランダは頷く。「これは不法な行為についての曲で、それがどう行われているかについての歌なんだ」彼は言う。「そして僕らも彼も両方ともモーゼからの盗用した構造で作っている」 
ウィーホーケンの柵に囲われた広場についてから、ミランダとカイルは不毛にもハミルトンが倒れた方向の手がかりを探した。1806年の初めには決闘のハミルトンの立ち位置に大理石のオベリスクが建ったが、数年のうちに壊された。のちに、崖の尾根に列車のレールが敷かれ、決闘場を根こそぎ無くしてしまった。最終的にミランダとカイルは1919年にハミルトンの胸像が立っていた柱を見つけた。 42番街の向かいにあるそのメモリアルは、驚くほど小さかった。ジェファソンやワシントンなら全身の像が建っていただろう。 
メモリアルは閉じられた門の向こうにあった。ミランダが低い壁を登って崖の端から見下ろすと、茂みと木々の間から、下にあるアパートメントの建物が見えた。「こんなに手入れされているとは思わなかった。歩いて入れる林を想像してた。頭の中では、僕が生まれ育ったところの林みたいに、鬱蒼として隠れたところを考えてたよ。その想像がこれに置き換わることはないかな」ミランダは携帯電話でハドソン川の向こう側にあるマンハッタンを撮った。「聖地巡礼」、のちにそうツイートした。 
「イン・ザ・ハイツ」の作曲家はワシントンハイツではなく、そこから30ブロックほどアップタウン側の、インウッド・ヒル・パークの近くで育っ���。マンハッタン最後の自然の森があるところだ。ミランダは2人姉弟の末っ子。姉のルツ・ミランダ-クレスポはエンジニアとして鍛錬し、今はMirRamグループのCFOである(リン-マニュエルの珍しい名前は、プエルトリコの作家ホセ・マニュエル・サンティアゴのベトナム戦争に関する詩“Nana Roja Para Mi Hijo Lin Manuel”から取っている。ルイス・ミランダが10代の頃に読み、将来のために取っておいた名前だ)。母は、プエルトリコで生まれたが赤ん坊の頃にすぐニューヨークに移民した、病院の心理士だ。 エドムンダ・クラウディオは住み込みの乳母で、プエルトリコから来た親戚。ミランダは彼女をアブエラ(おばあちゃん)と呼んだ。「うちの両親はずっと働き通しで、週末しか会わなかった」と彼は言う。「父と僕はアクション映画を見に行って、卓球やビリヤードで遊んだよ。同じ家に住んでるのに、週末だけ遊びに来る人みたいだった」 
夏には、彼と姉はプエルトリコに行き祖父母の家に滞在し、言語の上達に努めた(ミランダのスペイン語は流暢だが、ネイティブスピーカーのそれとは違う)。子供たちは学問の面でも文化の面でも、多くを期待されていた。ルイスは彼らにサルサの踊り方を教えた。「僕にとっては、踊りを教わったことは本当に本当に大事なことだった」彼は言う。家族は経済的にはさまざまな背景があった。ミランダの父方の大おじはプエルトリコ独立党の創設者だったが、基本的には親類は労働者階級だった。5歳の時、ミランダはハンター高附属小学校の試験を受けたが、そうしたのは近所では彼だけだった。「プエルトリコ人の父にとってどんなことだったか、僕には想像もつかない」彼は言う。「僕の友達はみんなユダヤ系だった。ハンターに行くのはそうだからね。僕は学校ではリンで、家ではリン-マニュエルだった。学校と家では別人だった。友達はみんなアッパー・ウエスト・サイドやアッパー・イースト・サイドに住んでいて、僕は彼らのナニーたちとはスペイン語で話してた」 
ミランダは6歳の時にピアノレッスンを受け始めた。「先生がリサイタルを催した。子どもたちがそれぞれ何曲か弾くんだ」ルイス・ミランダは思い返す。「リン-マニュエルが最初の曲を弾いて観客が拍手して、2曲目を演奏する。その時彼は『これもできる、これも知ってる』っていう感じになっちゃって。ピアノから引きずり下ろさなきゃならなかった。彼は拍手が大好きだからね」。彼のショーマンシップは時に宿題にも現れた。3年生の時の宿題、ジーン・メリルのThe Pushcart War(手押し車戦争)についてのレポートとして、彼は家族を巻き込んで本の中の出来事を再現したショートビデオを提出した。その中で彼はニュースキャスター風のスーツを着て、気取ったナレーションをした。「賢い子どもたちの中での必要通貨はファニーなこと。ファニーになれるなら大丈夫。だから僕はとても楽しい」(ミランダは今でも友人や家族を彼の創作意欲に巻き込んでいる。企業弁護士のナダルと2010年に結婚した時も、招待客を巻き込んで「屋根の上のバイオリン弾き」の”To Life”の寸劇で彼女を驚かせた。40万人がYouTubeでその様子を見ている) 
両親はミュージカルの愛好家だった。「たくさんパーティをしたけど、流している音楽はほぼラテン音楽だった。サルサやエル・グラン・コンボ」彼は言う。「でも掃除の時の音楽はいつもキャスト・アルバムだった」ブロードウェイに頻繁に行くほどのお金はなかったが、ミランダは”聖なる3作”「レミゼ」「ファントム」「キャッツ」に連れて行ってもらった。「7歳の時にレミゼを見に行ったのを覚えてる。フォンテーヌが死ぬところで泣いて、少し寝て、ジャベールの自死のシーンの時にはまた起きてた。あのショウを体験するにはすごくいい方法だったと思う。『キャッツ』を見たときは、花道を走り抜ける猫たちに触れられたのを覚えている。『ファントム』を見たときは『うわマジか!』て感じだったね。だって醜い作曲家が自分の意志を世界に押し付ける話だろう。親近感が湧いた。」 
ミランダは音楽を正式に勉強したことはない。ピアノレッスンは小学校を卒業するころには行かなくなっていた。ただ、ベッドルームのキーボードで、趣味としての音楽は続けた。高校で、彼はミュージカル演劇を始めた。9年生の頃、「ペンザンスの海賊」でシニアの生徒を負かして役を得た。「まだあの時の拍手を覚えてるよ。僕の人生で一番お気に入りの歓声だ」彼は言う。最終学年では、「ウエストサイド物語」を監督した。「シャークスにはラティーノがいなくて。いろんな濃さのブラウンと、アジアンの生徒たちだった」ミランダは思い返す。「だから父に来てもらって、シャークスのアクセントをつけてもらった。他の子たちにどうやってラティーノになるか教えたんだ。学校では全然ラティーノとしての自分は出してこなかったから、『ウエストサイド物語』はそのための方法だったね」ミランダが『ウエストサイド物語』の作詞家ソンドハイムと初めて道を交えたのはハンター高でだった。ソンドハイムは、同級生の父親(彼が生徒のためにアレンジを頼んだのだった)の友人だった。「彼はどうやってショウができるのかについて、素晴らしい話をしてくれた」ミランダは言う。「彼は僕らに、どうやってオープニング・ナンバーと台詞を書いたか教えてくれたーー歌詞に載せて歌い始めたーーでもジェローム・ロビンスは『いや、全部踊りで行こうと思う』と言ったんだって。すごく印象的だった。その時が初めてミュージカルが本当に作られるのか見た瞬間だった」 
1997年、17歳の誕生日の時、ミランダは『レント』をブロードウェイで見た。「僕は思ったよ、これならできる!って。今のことをミュージカルにしてもいいんだ」。彼は学校の文化祭で20分ほどのミュージカルを描き始めた。MSNBCのブロードキャスターで、その時ハンター高の生徒だったクリス・ヘインズは、ミランダの初期作品の「ニ長調の悪夢“Nightmare in D Major” 」を演出した。ヘインズが思い返す。「主人公の名前はディランで、悪夢の中にいる。彼の過去から愛は奪い去られ、その途中で邪悪な豚が出てくる。悲しいバラードがあって、忘れ去られた恋愛に関する歌なんだけど、今でも歌えるよ」ヘインズによると、ミランダは自分の才能に気づいていた。「それが彼の力だったと思うんだよ。自信と自尊心が彼のカリスマの一部なんだ。変に謙虚ぶらないんだよ。遠くから眺めてて、想像したよ、『あいつ、自分のことをなんだと思ってるんだろうな?』答えは、”世代に一つあるかの音楽の天才”だ」 
ハンター高を卒業した後、ミランダはウェズリアン大に行き、高校の頃の作品を再演した。「天国での7分間」という作品で、7年生のファースト・キスに関するミュージカルだ。「ウェズリアンはハンターに似ていて、頭にある馬鹿げたアイディアにを具現化することができるんだ」彼は言う。2年生の頃、ミランダはラティーノ文化センター兼寮のラ・カーサに移り住んだ。そこには8人の移民一世の生徒たちがいた。「この時が初めてラティーノの友達ができた時だった」彼は思い返す。「初めてマーク・アンソニー絡みのジョークと‘The ThunderCats’とか馬鹿げたアメリカ文化に関するジョークが、同時に通じる瞬間だった。『レント』が僕にミュージカルを書く許可を与えたみたいに、自分のホームについて書く許可が与えられた瞬間だった」 
2年生の頃、彼はワシントン・ハイツを舞台にしたミュージカルを書いた。ラテンミュージックとヒップホップで近所の音を再現した作品だ。ラテン音楽も、ヒップホップも、それまで作曲したことがなかった。苦しい三角関係を取り上げたストーリー自体に新鮮味はなかったが、2000年の春に作品が上演されたとき、ミランダはヒップホップが席にいる観客との距離を縮めることに気づいた。「ラテン音楽とヒップホップの融合は強い効き目がある。このグルーブには何かがある。」 
後の大学の二年間には、彼はそのミュージカル(初期の「イン・ザ・ハイツ」)の台本は棚にしまった。しかし、演劇関係の学生のあいだで評判は回って行った。2002年、ミランダの4年生でのプロジェクト“On Borrowed Time”がウェズリアンの劇場で上演されていた。2年上の卒業生トマス・カイルは劇団の立ち上げの手助けをしていて、劇場に立ち寄っていた。「イン・ザ・ハイツ」を気に入っていた彼は“On Borrowed Time”にはあまり興味がなかった。終了後ミランダと握手をして、横柄にも、「楽しめよ」と告げた(二人はいまだにこのフレーズを週に何度かお互いに言い合っている)。一ヶ月後、ミランダとカイルはニューヨークの西14番街にあるドラマ・ブック・ショップの地下で待ち合わせ、5時間話し込んだ。「『イン・ザ・ハイツ』のことを二年間ずっと考えてたから、話をはじめたら止まらなかったよ」カイルは言う。 
ミランダがウェズリアン大を卒業した後、父は彼をロー・スクールに行かせたがった。ルイス・ミランダはルーベン・ブラデス【作曲家でサルサ歌手。アメリカに亡命する前はパナマで弁護士をしていた】を引き合いに出し、大成する前に法律の学位を取って保険をかけておけば、と説得した。そうはせず、ミランダはハンターに戻り、7年生の英語の代用教師となった。「文法の授業をしたね。僕たちの頃はやらなかったんだけど。だから子どもたちに教えるために文法を勉強した」。同時に彼は「イン・ザ・ハイツ」の制作に取り組んだ。数ヶ月の間、彼とカイルは役者を交えて素材を試した。ミランダはボデガの店主でナレーターのウスナビを演じることにした。「この契約でいちからラップを習ってくれる人が見つからなかったから、僕に回ってきたようなもんだね」 
作品は最終的に数人のブロードウェイ・プロデューサーの目に留まった。「アベニューQ」などを手掛けることになるケヴィン・マクコラムもその一人だ。「彼は『なんの話かわかってきたらまた来な』て感じだったね」とミランダは言う。(マクコラムは「ハイツ」のブロードウェイでのプロデューサーとなった)2004年、ミランダとカイルは若き戯曲家キアラ・アレグリア・ヒュデスを雇い、脚本を書き直した。ヒュデスは大胆な書き換えをした。三角関係をなくし、ウスナビを謙虚ながらもカリスマのあるアンカーとして中心に据えた。【ハイツのメイキング本曰く、ベニー、ニーナ、リンカーン(ニーナの兄)の三角関係をなくしたのはプロデューサーの提案だったそうです】ミランダの愛するホームを描いた物語の中心だったロマンスは、二次的な要素になった。 
2007年、数回のワークショップを経て、作品はオフ・ブロードウェイで上演された。翌年ブロードウェイに移った。いくつかの感情的・ストーリー的矛盾はあったが、その独創性と中毒性は多くの賞賛を得た。タイムスのチャールズ・イシャーウッドはこう書いた「『イン・ザ・ハイツ』は+サルサ・フレスカ−(セックス、ドラッグ、病気)のアップタウン版『レント』である。」 
ミランダは動きの中で作詞をしている。アパートメントの近くのフォート・タイロン・パークを散歩しながら。または181番街からダウンタウンにゆく地下鉄の中で。彼のiTunesのフォルダはミュージカルのかけらでいっぱいだ。”Battle Loop”、”Burr-Hamilton Loop”はLogic Proで作曲した。「いいなとか面白いなとか、キャラクターに話してほしい片鱗とかを思いついたら8から16小節ぐらいの音楽をまず書く。そしてヘッドフォンをつけて出掛けて、犬の散歩をしながら独り言を言ってる」。時には作曲中の節をボイスメモに吹き込みながら、他のものをループで聞く。アーロン・バーを象徴する”Wait for It”のリフレインは夜地下鉄に乗りながら思いついた。「ダンボでやってる友達の誕生日パーティに行く途中だった。メロディをiPhoneに録音して、15分パーティに出て、帰りの電車で後の部分を作曲したよ」 
長い間、ミランダはハミルトンか、アメリカの歴史の中では悪役となることの多いバーか、どっちを演じたいか決めることができなかった。ハミルトンの死後、バーは南西部で謀反を画策したとの疑いをかけられた(最終的には無罪となったが)。ミランダは多くの歴史家とは違い、バーに同情的だ。「バーには同じぐらい親近感があるよ」彼は言う「バーはハミルトンと同じぐらい賢くて才能があった。それにハミルトンと同じぐらい失ってきた。ただ、だからこそ、ハミルトンが前に進むところでバーは一歩引いてしまった。人生の中で、自分がハミルトンのようだと思うのと同じぐらい自分はバーだったと思う。誰しもこう言うことがあるだろう、友達や仲間が自分を通り過ぎて、成功したり、結婚したり、家を持ったりする。自分は一文なしで、独身で、仕事もなくもがいているのに。そして自分に言い聞かせる、『機会を待て』と。」ミランダは最近35歳になった。「ハミルトンがこの歳に達成したことを考えると、すごくバーみたいな気持ちになる。それか、ポール・マッカートニーと比べたりとか。ソンドハイムとか。ガーシュインとか。アウトキャストとか。彼らの業績を考えると驚いてしまう。」 
最終的には、キャリアの面を見通した打算が勝った。「ハリウッドから連絡があると、大体は白人の主人公の友人役。もし主人公を演じたいなら自分で機会を見つけて、自分で書くしかない。ジョン・レグイザモもおんなじことを言っていた」(パブリックでは、バーは最近のNBCのドラマシリーズ”SMASH”に出演したレスリー・オドムJr.が演じている)ハミルトンを演じることは、ミランダいわく「本当の自分よりも生意気に、賢く、衝動的にならなきゃいけない。2時間半は自分の手綱を外さなきゃいけないね」 
トマス・カイルはミランダが最終的にハミルトンを選んだことには驚かなかった。彼いわく「ハミルトンが自分を時限爆弾のように感じてるのは、リンの性質ととても合ってる」。「ハイツ」のブロードウェイ公演のリハーサルの時に、開演前に死んでしまうという迷信的恐怖を発達させた。「いつもジョークを言ってたよ。『無名の作曲家、マンホールに落下』『無名の作曲家、バスに轢かれる』」ミランダはいう。「ハミルトンの『死はいつも思い出のように感じる』と言う歌詞を書いた時、『ああこいつのことは知ってるな』って思ったよ」 
親友となったキアラ・ヒュデスいわく、「ハイツ」は自伝的処女作である。「これが僕だ、これが自分が来た場所だーそれを爆発的なエネルギーで表現する必要があった」。対して「ハミルトン」は、彼女いわく、ミランダが大人として書いた初めての作品である。そしてこの作品も、彼のさまざまなアイデンティティと強く関わっている。「彼はプエルトリコで、彼はニューヨーク、彼はヒップホップで、彼はブロードウェイ。彼は異なる世界の全てだと言うこと。それを一つの部屋に全部持ってくると、人々は熱狂するって彼は気づいた。だってそれはこの国そのものだから。」 
パブリックシアターのミランダのチームは、このショウがヒップホップミュージカルと表現されるのを好まなかった。それも妥当な反論だろう。色々なジャンルを含んでいるから。また、戦略の面でもそうだった。そういったカテゴライズは聴衆の興味を限定する恐れがあった。特にブロードウェイ(最終的にそこを目指していた)では。(「ハミルトン」は2014年の終わりにはパブリックでソールド・アウトし、2回公演を延長した) 
ヒップホップは音楽シーンでは世代を制覇しているが、ブロードウェイでは影響が小さい。3年公演が続いた「イン・ザ・ハイツ」以外で試みがあったとしたら、去年の“Holler if Ya Hear Me”(トゥパックの歌詞を元にしたミュージカルで、6週間の公演だった)が唯一だろう。「ハイツ」のプロデューサーで「ハミルトン」に大金を注ぎ込んだジェフリー・セラーいわく。「誰も一晩中ずっとヒップホップを聴きたいわけじゃないし、こっちもそうするつもりはない。『ハイツ』を三年間公演したけど、もしヒップホップミュージカルと言われていなかったら、もっと長くできてたと思う。美しくて感動的なショウだったからね」 
「ハミルトン」宣伝の障壁は音楽の認識だけではなかった。セラーは観客たちが「誰がアメリカの官僚についてのショウを見たいんだ?」と言っているのが想像できた。同じ問題は、2010年のブロードウェイ作品“Bloody Bloody Andrew Jackson”でも起こった。7代目大統領についてのエモ・パンクミュージカルだ。評価は高かったが、興行面で振るわず四ヶ月の公演を終えた。 
セラーの警告に反して、ミランダの独立戦争についてのラップ・ヒップホップを作曲する才能は、アウトキャストを聞いたこともないであろう聴衆に受け入れられた。戯曲家のジョン・ゲールは去年の春、友人にワークショップ公演に誘われた。「ショウを見ながら、こんなに生を感じたことはなかった」ゲールはいう。「ドアを開けて新鮮な風が吹き込む時のあの爽快な気持ち。彼はハミルトンの精神をとらえ、ロン・チャーナウの本の空気をとらえ、時代の精神をとらえた。おかしなことだが、それを優雅さと注意深さと統制と、狂気を持ってしてやり遂げた」。ミランダのヒップホップ・フリースタイラーとしての才能の証明はまた、新しい観客も捉えたようだった。ブルックリンを拠点にしたパフォーマンスアーティストのレモン・アンダーソンは「ハミルトン」をこう表現する。「劇場に行ったこともないコミュニティが、これを見にくる。いつも自分達の文化圏のみんなに言ってるんだ、『ラップの観点からもこんな歌詞が凄いショウはないよ』って」。ミランダと「ティモシーの小さな奇跡」で共演したコモンは言う。「ランチタイムにセットでフリースタイルをした時のことをいつも思い出すよ。『うわ、こいつは凄い才能があるな』と思った」 
ミランダの作品はオペラのように歌い通しなので、キャラクターがラップに移っても違和感がない。「ハミルトン」のジェファソンを演じるダヴィード・ディグスは、そのことをアメリカをステージで表現したものだと言う。「それがお互い会話する唯一の方法なんだよ。それが大事だと思う。いつも省かれてきた自分達を、歴史の一部として見ることができる。ラップは僕たちの世代の声なんだ。有色人種の人々の声だ。それがこの作品の中にただ存在して、特異な扱いをされないと言うことが、歴史は僕たちのものだと言う感覚をもたらす。」威厳に満ちたジョージ・ワシントンを演じるクリストファー・ジャクソンは、低く響くヒップホップのビートに乗せるラップから、朗々とR&Bバラードまでを歌い上げる。彼いわく、この作品は奴隷制の構造とその悪影響について潜在的に批判している。「ブロードウェイの観客は説教されるのは嫌いだから。多人種のキャストにすることで、有色人種である我々役者たちがキャラクターを演じると言うことだけで、追加的な文脈を加えることができる。��� 
「ハミルトン」のリハーサルは、タイムズ・スクエア近くの貸スタジオで行われた。12月初旬のある午後、キャストは”My Shot”に取り組んでいた。独立戦争前夜の活気に満ちたナンバーだ。出演者ほとんどが出てくるヒップホップダンスを、振付師のアンディ・ブランケンビューラーが振り付けていた。ミランダの音楽は、今やアレックス・ラカモアによってオーケストラ化され、力強いクレッシェンドを作り上げていた。彼もブランケンビューラーと同じように、「イン・ザ・ハイツ」からの付き合いのベテランだ。若き俳優アンソニー・ラモスが、舞台の向こう側から怒りを込めて突進する。彼はハミルトンの親友で、奴隷所有者の息子のジョン・ローレンスを演じている。独立戦争の頃、ローレンスは奴隷たちを兵士としてリクルートし、勝利のあかつきには身分を解放すると約束し、黒人連隊を作ろうとした。彼は1782年の終戦間近に戦死する。“Don’t this shit make my people wanna rise up!” とラモスは歌い、反乱者たちのコーラスをリードする。 
役のために髪を肩まで伸ばしていたミランダは、心配そうな空気を纏い、目は疲労に縁どられていた。11月の初めに、長男セバスチャンが生まれていた。それにも関わらず、ミランダは役としていきいきを動き回っていた。あるときはアンサンブルとダウンステージを踏ん反り返って歩き、指を頭の上に高く上げる。まるで銃を撃つように。次の瞬間にはパソコンやスマホに何かを打ち込む。「頭の中のアプリがたくさん開いてる。台本、振付を覚えること、ツイッター。それからニュース」 
その午後、ニューヨークでは、大陪審は警官のダニエル・パンタレオを殺人罪では起訴しないことを決めた。ステタン・アイランドのエリック・ガーナーは、去年の夏単本のタバコを売っていたことで逮捕された際、首を絞められ死んだ。その1週間前はミシシッピのファーガソンで暴動が起こった。これもまた大陪審がアフリカン・アメリカンのマイケル・ブラウンを射殺した白人の警官ダレン・ウィルソンを起訴できなかったことがきっかけだった。「『立ち上がれ』と僕らは叫んでいるけど、多くの人も同じように思っている」ミランダは言った。 
2009年、ミランダのホワイト・ハウスパフォーマンスのあと、パーティはロビーのレセプションエリアに移った。そこではDJがヒップホップを流していた。ミランダは驚いた。アメリカはついに昔の人間ではなくて、自分達と同じ時代を生きる人間が大統領をしてるんだと思った。もしここ最近の社会がその包括の約束を裏切る辛い証拠だとしても、ミランダはまだ言葉の力を示すことができると思った。デモの参加者がマンハッタンでのデモを始めた時、ミランダは”My Shot”からの歌詞を呟いた。“If we win our independence / Is that a guarantee of freedom for our descendants? / Or will the blood we shed begin an endless / Cycle of vengeance and death with no defendants?”  
午後のリハーサル室は静かだった。ミランダとジャクソンはカイルと別のシーンに取り組んでいた。1776年の8月、絶望的なブルックリンの戦いの後の、ワシントンとハミルトンの出会いのシーンだ。”Right Hand Man”の中で、ワシントンはハミルトンを召集し兵士としてでなく秘書として働くようにオファーする。“Head full of fantasies of dying like a martyr? / Dying is easy, young man. Living is harder.” ハミルトンは反論する。彼は連隊の指揮権が欲しいのだ。 
カイルはミランダにハミルトンは何を考えているのか尋ねた。「保身モードになってる。ワシントンが正直になるまでは」とミランダは返答した。「『ゴッドファーザー』でアルパチーノが列車の音を聞いて、行くか行かざるか、と考えているところみたいな感じ。警察署長とソロッツオのところに行くか?それとも、ディナーに行くか?」ハミルトンは、ミランダが言うには、「勝利のための生贄」になる決心をしていた。戦場を離れるのはいつも最後だった。今やハミルトンはワシントンの側に着くことの将来の利点を素早く計算していた。この計算は一小節で示される必要があった。「この瞬間、彼はいう。『これをのしあがる手段にしよう』と。『戦場で成り上がると思っていたが、この方法で行くしかない』」 
数回歌を繰り返して、ミランダはワシントンへのハミルトンの返事を考え出した。“I am not throwing away my shot.” 数曲前では、ハミルトンの戦場で命を投げ出す決意を示すフレーズだった。今ここでは、彼の人生よりも続くレガシーを築くチャンスを掴んだ瞬間を示すものだった。台本では、ワシントンはハミルトンを一言で遮るーー「息子よ」ーーこれはワシントンの若い部下に対する親心が現れている。(チャーナウは、ハミルトンは根拠なくワシントンの私生児であると噂された、と書いている。)だがジャクソンの「息子」の言い方はまた、ヒップホップ風の、ブラザーフッドや対等さもまた示している。 
ミランダとジャクソン、そしてカイルは台詞を繰り返し、ワシントンのハミルトンの新しい目的に対する理解をどう表現するか探っていた。兵士から未来の政治家になるハミルトンの変化を聴衆に感じ取ってもらいたかった。ミランダは自分の原稿を確認した。「息子よ、じゃなくてシンプルに『いいぞ』と言った方がいいかな?」と言った。「『いいぞ』ってことは『お前を雇うぞ』てことだし。それでハミルトンは新しい才能が開花するんだから」 
ミランダの台本はまだ草稿状態だった。ハミルトンの死のページは「新曲製作中」と書いていた。数週間後、まだミランダは旋律に悩んでいた。「最後の瞬間ハミルトンは何を考えるだろうか?」彼は言った。「トミーが筆を置けと言うまでずっと考え続けるだろうね」続けて、「目の前のバーは、彼が10代の頃から知り合いだ。そのことを考えるだろう。たくさんの子供たちと共に置き去りにすることになる妻のことを考える。負債と、それに対する罪悪感について。でも彼はクリスチャンだったし、また会うことができる息子がいる。ジョージ・ワシントンともまた会える。たくさんの愛する人が、彼を向こう側へと呼んでいる。弾丸が銃を離れるまで、そのことを表現する時間がどれだけあるのか」 
決着はほとんど最後の瞬間に訪れた。元旦の早朝のこと。眠る赤ん坊の息子を胸に置いて彼はベッドに横たわっていた。隣ではナダルが寝ている。長いことなかった静かな時間だった。静寂。彼は考えた。それは「ハミルトン」でまだ演奏していないものだった。何も音楽がないのはどうだろうか。犬の散歩に行く。この時はヘッドフォンは家に置いていった。時々ノートにメモするために立ち止まった。次の日の朝5時まで起きて、ハミルトンの最後の瞬間をついに聴いた。 
3週間後、パブリック・シアターでプレビューが始まった。ロビーにはニューヨーク・ヒストリカル・ソサエティから借りた、バーとハミルトンが向かい合わせで銃を引く銅像が立っていた。舞台では、ミランダのキャストは慣れない衣装を着て心地よく、観客の祝福を楽しんでいた。宝石に飾られたキング・ジョージの尊大な忠告は笑いを呼び、“Duel Commandments”でのビッギーのオマージュは喜んで迎えられた。「レ・ミゼラブル」“One Day More” のスタイルを恥ずかし��もなく拝借した一幕の最後は歓声で迎えられた。ハミルトンの自慢の息子、フィリップの痛ましい死は、観客の涙を誘った。 
2時間半の音楽の嵐の後、バーとハミルトンの決闘の瞬間が訪れた。バーが致命的な銃弾を放った後、ハミルトンは長く思い描いた死が訪れたことに気づくと、音楽は消えた。黒の喪服に身を包んだミランダはラップではなく、詩を語った。彼の最後の思考と感情のひらめきはもはやビートや旋律にはつながれていなかった。「誰かが私のために歌う旋律を書く/アメリカ、素晴らしき未完成の交響曲/あなたが私を呼んだ」と静かに語った。ハミルトンは妻や友人たちを思い、思考は飛び交い、昔の歌を歌う。言葉はばらばらになり、儚く浮かび上がる。彼はよろめき、そして静寂が落ちた。◆
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kennak · 2 years
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いろいろな要素があるので、少し書き出していきます。 1/ 自民党と統一教会について、常識だと思っていたことが、世間には想像以上に知られていないことがわかってきました。 (・ω・) https://twitter.com/Booskachan_Ver2/status/1545452884195962881 統一教会(または協会)は「世界基督教統一神霊協会」です。 現在は「世界平和統一家庭連合」と名を変えました。 統一教会の教祖は「文鮮明」(本名ではない)という人物です。 英語では Sun Myung Moon と書かれることが多く、この宗教をMoonismと呼ぶこともあります。 彼の宗教活動が始まったのは日本占領時代のようですが、大正時代からあった「血分け」といういかがわしい宗教を基にしているという説があります。 サタンの血を清めるため、教祖と性交して云々、という奴です。 これは後の教義にも継承されるのですが。 (・ω・) 4/ いかがわしいのはともかく、彼は戦後の混乱した朝鮮半島で信徒を集めることに成功したようです。 そして朝鮮戦争が起こり、韓国の情報工作機関KCIAが、彼の宗教能力に目を付けたみたいです。 1977年のアメリカ下院報告によると、統一教会はKCIAの工作組織である、とされています。 (・ω・) 5/ この報告はフレイザー報告書と言われるものです。 (・ω・) 6/ 詳しいことが分からない部分もありますが、「世界基督教統一神霊協会」として創設されたのは、朝鮮戦争直後の1954年らしく、創設間もない時期の信者にはアメリカの情報機関員や、後のKCIA要員もいるらしいので、初期から工作活動との親和性が高いのです。 (・ω・) 7/ カルト宗教として日本で問題になり始めたのは、1960年代後半のようです。 まだマスコミも発達していない時期ですが、主に若者が狙われ、狂信的な信仰に入って家を出てしまい、教誨のための金集めをするなど、親を泣かせたのです。 今でもよく聞くカルトですね。 (・ω・) 8/ 統一教会は、宗教運動と並行して政治団体も持っています。「勝共連合」といいます。 共産主義に勝つ、という「反共」思想です。 しかし、なにしろ元が怪しい淫行宗教ですから「共産主義=サタン」という程度の「思想」です。 (・ω・) 9/ 彼らの教義は「統一原理」と呼ばれていて、「原理講論」という書物にいろいろ書かれているのですが、かなり大部の書物で、書かれていることをまともに理解するのは(ry (・ω・) 10/ しかし、突き詰めると「サタン側」「天使側」という雑な括りで話が出てきたりして、最近のQアノンみたいな臭いもします。 添付は初学者向けの教材「はじめての統一原理」から引用です。 (・ω・) 11/ このカルト宗教が本領を発揮し始めるのは、1970年代だと言っていいと思います。 冷戦構造が落ち着き、1972年にニクソン大統領が中国を訪問、ベトナム戦争も終わる気配を見せてきます。 韓国は朝鮮半島からアメリカという後ろ盾を失うことを怖れました。 (・ω・) 12/ そこで朴正熙大統領とKCIAは対外工作に力を入れます。 統一教会(勝共連合)が日本やアメリカの政界へ浸透を図るのです。 ここで日本側の受け皿になっていたのが笹川良一です。 戦前からのファシストで、同じく戦犯だった岸信介らとも昵懇の仲です。 (・ω・) 13/ 文鮮明は1967年には来日し、笹川らと「反共活動」を発起することで意気投合していたようです。 70年頃には「生長の家」などの反共団体とも連携した動きを見せており、どんどん動きは活発になるのです。 (・ω・) 14/ 笹川良一、児玉誉士夫など戦前からの右翼人脈は、当然、岸信介に結びつきます。 70年安保で左翼学生運動に悩まされた岸らは、対抗のために任侠団体や右翼学生団体を活用するのです。 これは「生長の家」が「日本会議」の母体になった経緯でもあります。 「日本会議」は有名ですよね。 (・ω・) 15/ これは有名な写真です。 1973年に、岸信介が統一協会本部の文鮮明を訪問した写真だそうです。 書かれているとおりの関係です。 (・ω・) 16/ さて、統一教会の「原理講論」は1960年代には日本でも翻訳されています。 しかし、あえて翻訳されなかった部分があります。 韓国発祥の新興宗教なので日本は「サタン側」なのです。 ( ^ω^ ) ドヒャー 17/ 右翼の皆さんはそれでいいのか! いいのです。 反共で自民党の権力が維持できて金が儲かればいいのです。 一日一善は大事だけど競艇や競輪で金を設けるのはいいのです。 ( ^ω^ ) 18/ そもそも岸信介自身、戦犯容疑者として巣鴨に収監されていたのを、アメリカCIAが「アメリカの傀儡政権を作れ」というので釈放して、総理大臣にまでしたのです。 アメリカ傀儡国家の日本で、反共やって権力持って金儲けするのが、彼らの仕事です。 ( ^ω^ ) 19/ つまり、自民党は朴正熙の軍事独裁政権と、超仲良しだったのです。 一緒に反共活動をやって、権力を維持していくのが仕事です。 日米同盟や韓米同盟が命です。 (・ω・) 20/ さて、統一教会やKCIAはアメリカへもロビー活動をやります。 しかし、これはアメリカ議会で大問題になりました。 外国の工作機関が入り込んで政治に関わるなんて、普通の国の愛国者は許しません。 当たり前です。 (日本は普通の国ではないのでいいんですけど) (・ω・) 21/ アメリカで問題になって設置されたのが、通称「フレイザー委員会」で、1977年に発表された調査報告が、統一教会について詳しい資料になっています。 それがね、アサヒジャーナルに載っちゃったのです。 朝日新聞は酷いことしますねえ。 (・ω・) https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1908266-00 22/ さて、統一教会は信者を集めてお金を集めるだけでなく、さまざまな事業にも手を伸ばしています。 日本では炭酸飲料「メッコール」とか「一和の高麗人参茶」とかが有名だったりしますけど、そんな可愛いものばかりではないです。 中でも特異なのは武器の製造です。 (・ω・) 23/ 1950年代終わりには「鋭和散弾銃」(現在の統一重工)という企業を作っており、やがて韓国陸軍に武器を納入するまでになりました。 そして、この鋭和散弾銃は日本にも入ってくるのです! (・ω・) 24/ 鋭和散弾銃はWikipediaにも載っていますが、かなり強力で日本の公安当局や国会でも問題になりました。 なにしろ霊感商法や親泣かせのカルト宗教絡みの企業が、こんなものを輸入するのですから、問題にならないのがおかしいです。 でも結局輸入されます。 (・ω・) 25/ こういう極右勢力による武器の輸入に関しては、前にも触れましたけど、極左学生団体への対抗という思惑があったのでしょう。 岸信介は60年安保のデモ隊を自衛隊の治安出動で排除しようとして、防衛庁長官に拒否された経験もあります。 (・ω・) 26/ sabage-archive.com ミリタリー偉人伝「治安維持出動を断り自衛隊を救った男、第11代防衛庁長官・赤城宗徳」|サバゲーアーカイブ 海外のニュース映像などで、デモ隊など市民の鎮圧に軍隊を投入した結果、最後は強力な武装で害意の有無に関係無く市民が殺戮されてしまう悲劇を見た事があると思います。幸い日本では自衛隊が自国民へ向け武力行使に至った事例はありませんが、危うくそのような悪しき前例を作りかけた事はありました。1960年の安保闘争で自衛隊の治安出動を辛うじて食い止めた男とは。 そうそう、原理講論の日本語版から削除されたという部分ですが、これは「エバ国家=サタン側」の日本は、再誕したメシア(文鮮明のこと)の国である韓国に従属するという、まことに(韓国にとって)愛国的な部分です。 これが「天皇拝跪事件」を引き起こします。 ( ^ω^ ) 27/ 「天皇拝跪」とは、統一教会の日本代表である久保木氏が、天皇を演じて文鮮明に跪く儀式のことです。 これが問題になり、一部(あくまで一部だけ)の右翼が反発したんですね。 この儀式も朝日新聞が暴露しちゃったみたいです。 朝日新聞はほんとに酷いね。 ( ^ω^ ) 28/ 統一教会はとにかく韓国の文鮮明(真のお父様)が絶対なので、天皇なんかより偉いのです。 右翼はそれでいいのか! 自民党はそれでいいのか! いいのです、当たり前です。天皇はパヨク! 世の中は権力と金ですよ。 ( ^ω^ ) 29/ さて、霊感商法で財産を失う人、家族が破壊された人、いろいろ問題を起こした統一教会ですが、世間の人をいちばん驚かせたのは「合同結婚式」でしょう。 多数の男女が集まり、教祖が選んだカップルで結婚するというトンデモなイベントです。 誇り高い日本人は下世話な話が好きなのです。 (・ω・) 30/ そしてなんと、かつて超一流アイドルだった桜田淳子さんや、新体操の山崎弘子さんが、合同結婚式に参加しちゃったのです。ドヒャー これをもって、統一教会が高額で売りつける壺のことを、世間では「桜田の壺」と呼ぶようになります。 ( ^ω^ ) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/277648 31/
fruitfulなブースカちゃんさんはTwitterを使っています
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nyantria · 2 years
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水無月某日
 ロシアのウクライナ侵攻から112日目の6月15日は、中国の習近平国家主席が69歳の誕生日を迎えた日であった。その日に習主席はロシアのプーチン大統領と電話会談を行い、中露の結束を確認し合った。日本のメディアはそれを大きく伝えなかった。しかしこれこそ注目すべき出来事だとフーテンは前回のブログに書いた。
 なぜならロシアの軍事侵攻の翌日、習主席はプーチン大統領に電話をかけ、「戦争ではなく話し合いで解決すべき」と戦争に反対の立場を伝え、その一方で米国のバイデン大統領がロシアに対する経済制裁を世界に呼び掛けると、それにも反対して中国は国連総会の投票で棄権した。
 また中国はウクライナが「一帯一路」構想に欠かせない国であるため、ウクライナにも友好的な姿勢を見せ、一方のウクライナも中国に対し、戦後復興の経済協力に頼ることを考えている節があり、敵対的にはならなかった。
 そのため中国はロシアに協力的ではあるが、ウクライナ戦争の推移を慎重に見極めるスタンスを取っていると思われた。ネオコンに誘導された西側の報道では、プーチンの精神異常や健康不安説が次から次に出てくると共に、ロシア軍の残虐性や作戦の失敗事例ばかりが大きく伝えられる。
 それがここにきて習主席がプーチン大統領と2度目の電話会談を行い、「戦争をやめろ」とは言わずに中露の結束を確認し合ったことは、戦況がロシアに有利となり、ウクライナ戦争がプーチン勝利で最終段階に入ったことを証明するとフーテンには思えた。
 そして電話会談では、中露がこれまでの国際秩序に代わる新たな国際秩序、それは新興国と発展途上国の側に立った世界を構築することが話し合われた。つまりウクライナ戦争を契機に中露は「新しい世界」を作ろうと考えているのである。
 ロシアの軍事侵攻を西側世界は「第二次大戦後の国際秩序を破壊する」としてプーチンに「大悪人」の烙印を押した。しかしプーチンはむしろそう言われることを覚悟して、米国が主導する一極支配の国際秩序を壊すために軍事侵攻に踏み切った可能性がある。
 これまでの世界は欧米を中心とするG7(米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本)が主導したが、これからはBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)と上海経済協力機構(中国、ロシア、パキスタン、イラン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン)を中心に、モンゴル、ベラルーシ、アフガニスタン、サウジアラビア、エジプト、カタール、トルコ、アゼルバイジャンらが結束して世界を主導していこうと中露首脳は会談で語ったのだ。
 ウクライナ戦争が浮かび上がらせたのは、ロシアの経済制裁に参加したのがG7を中心とする欧米諸国で、アジア、アフリカ、中東などの国々はほとんど参加していないという事実である。日本はアジアで唯一のG7加盟国だから制裁に参加したが、アジアで他に参加しているのは韓国、台湾、シンガポールだけだ。
 つまり米国のバイデン大統領がプーチンを孤立させ、ロシア国内に反プーチン運動を起こさせて政治的失脚を狙った経済制裁は、国連加盟193カ国の4分の1に満たない国が参加しただけだ。むしろ米国の世界的影響力の衰退を証明することになった。
 15日の中露首脳電話会談で習近平とプーチンが語ったBRICSと上海経済協力機構を中心とする世界は、米国一極支配に対する明確なる挑戦である。だからフーテンはこの電話会談を歴史的出来事と受け止めた。するとその2日後に、その構想が現実となって現れた。
 17日にロシアのサンクトペテルブルグで「国際経済フォーラム」が開催され、127カ国が参加したのだ。例年だと140カ国程度が参加しているというが、ウクライナ戦争の制裁のため欧米社会からの参加は見送られた。日本も参加していない。しかし127カ国が参加したのだから、参加国が1割減っただけである。
 このフォーラムに中国の習主席がビデオメッセージを寄せ、「新興国と発展途上国の側に立った国際秩序の構築」を改めて訴えた。それは新たな経済圏構想の宣言といえる。つまりこのフォーラムが示すのは、米国を頂点とするG7体制に対し、新興国と発展途上国が起こす「下剋上」なのだ。
 しかし日本のメディアはこのフォーラムにも冷ややかだった。日本のメディアが向いているのは26日からドイツで始まるG7サミットと、29日からスペインで始まるNATO首脳会議である。岸田総理が出席するからそうなる。
 だがそれに対抗するように23日にはBRICS首脳会議がオンラインで予定され、その前日の22日には中国の習主席がBRICSの各国に向けて演説を行うという。フーテンの目には旧世界のG7と新世界のBRICSが同じ時期にガチンコ勝負のようにぶつかる。
 日本のメディアには新興国と発展途上国が非力な存在に見えるのだろう。しかし購買力平価でGDPを比べれば、ロシアに経済制裁を課した国より、課さない国の方が上回る。国土面積や人口となれば圧倒的に新興国��大きい。もはや無視出来る存在ではないことをウクライナ戦争は示したが、日本のメディアは無視している。
 そしてさらに注目すべきは、米国のバイデン大統領が中国の習主席との電話会談を近く行う予定であることを明らかにしたことだ。何のための電話会談か。バイデンは先月東京で開かれたクワッドの会合で「台湾有事」に米国は軍事介入すると言ったが、すぐに打ち消す猿芝居をやった。
 その時ブログに書いたが、インフレが止まらない米国経済を何とかしないと秋の中間選挙で敗れるため、バイデンは中国に課している関税を引き下げようと考えている。ロシアに経済制裁を課していながら、トランプ前大統領が経済制裁の一環として中国に課した高関税を引き下げようというのだ。
 そのための電話会談であることがまず考えられる。しかし表はそれかもしれないが、裏ではウクライナ戦争の終わらせ方をどうするか、習主席の関与を促す狙いがあるのではないかとフーテンは想像する。
 なぜならウクライナ戦争は、5月21日にウクライナのゼレンスキー大統領が「2月24日前の状態に戻せば勝利」と発言したことで終わったも同然だからだ。2月24日以前の状態と言えば、クリミヤ半島も東部の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」もウクライナの領土ではない。
ネオコンの狂った見方で戦争報道を始めたため世界の「下克上」を無視する日本のメディア(田中良紹) - 個人 - Yahoo!ニュース
フーテン老人世直し録(653) 
2022. 6. 19.
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taketea44 · 2 months
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毎日が記念日
3月3日は…
耳の日
日本耳鼻咽喉科学会が1956年に制定しました。
「み(3)み(3)」の語呂合せ。
そして、三重苦のヘレン・ケラーにサリバン女史が
指導を始めた日。
電話の発明者グラハム・ベルの誕生日。
そうそう、うちの姪っ子ちゃんの誕生日でもある。
はっぴ~!
【疑わしいAI-イチロウによる3月3日の出来事】
1. 1875年 - 初の室内アイスホッケーの試合が、カナダのモントリオールで行われました。
2. 1923年 - トルコ共和国が正式に成立し、大統領としてムスタファ・ケマル・アタテュルクが就任しました。
3. 1973年 - コンコルド超音速旅客機が初めて商業運航を開始し、ロンドンからバーレーンへの飛行が行われました。
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shintani24 · 2 months
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2024年2月24日
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宮沢元首相の「日録」見つかる 戦後40年間克明に「第一級の史料」(朝日新聞 連載:宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡 第1回 プロローグ)2024年2月24日
宮沢喜一・元首相(1919~2007)の40年間に及ぶ詳細な政治行動記録が見つかった。期間は、佐藤栄作内閣の経済企画庁長官に就任した66年12月から死去前年の06年9月に及ぶ。保守本流の政治家として戦後日本の軽武装・経済重視路線を築いた宮沢氏の折々の行動や考えがうかがえるほか、自民党内の権力闘争をめぐる具体的な記述もある。
記録は大学ノート185冊に及び、宮沢氏の事務所の執務室に、木箱に入れて保管されていた。政治学者で東京大学名誉教授の御厨貴氏が遺族から託され、研究者グループを組織して朝日新聞と共同研究。「宮沢喜一日録」として内容を分析するとともに、データベース化を進めてきた。
「日録」は宮沢氏が最晩年まで自らの政治活動の記録として手元に置いて活用していた。原則1日当たり2ページが充てられ、左のページには秘書が作成したその日の細かい日程が、会合の出席者とともに記されている。右のページには宮沢氏の直筆で、会談内容や簡潔な感想のほか、帰宅後に受けた電話の相手や内容などが記されている。
「宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡」はこちら 「日録」には、宮沢元首相の最大の強みであった外交政策、蔵相などとして手腕を発揮した経済・財政政策、首相として直面した政治改革など、宮沢氏自身と戦後日本の歩みが刻まれています。各テーマについて日録を手がかりに取材した記事を25日以降も随時配信します。
金丸元副総裁の逮捕「やむなし」
たとえば、自民党総裁選に勝利する2週間前の91年10月11日には「竹下派宮沢支持決定を知る。これにて大勢きまる」。93年に脱税事件で金丸信・元副総裁が逮捕された当日には「逮捕やむなし」との書き込みがある。
92年の米大統領選の際には、共和党の現職大統領ブッシュ(父)の敗北を告げるキッシンジャー元国務長官の電話での言葉が記されている。
94年に非自民連立の細川政権と野党自民党の間で政治改革関連法案が焦点になっていた際には、後任の党総裁河野洋平氏に早期決着を助言していたことも、日録への本人の書き込みで判明した。
宮沢喜一「日録」の記載例
御厨氏によると、戦後政治の一線で活躍した主要政治家の数十年単位の行動記録で、欠損のない史料は例がない。ほかの政治家や官僚らの記録と照らし合わせることで史実の検証や横断分析が可能になることから、「これから戦後政治の研究をする際に必ず参照しなければならない第一級の史料だ」と評価する。
宮沢氏は護憲・ハト派の代表格だった一方、首相(在任期間91~93年)としては国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、自衛隊をカンボジアに派遣している。
首相在任中は今日と同様に相次ぐ政治とカネを巡る事件に直面。政治改革への対応を迫られた。当初から選挙制度改革よりも腐敗防止策を重視しながら実現できず、自民党の分裂を招き、結党以来初の下野を経験した。日録には当時の詳細な足跡が記録されている。
御厨氏は「高度成長と冷戦が終わった後、新たな国のかたちが見いだせないまま、失われた30年が過ぎた。宮沢氏は吉田茂元首相の下で戦後の政治と経済の骨格を実質的につくった人物。今こそその軌跡を日録でたどり、これからの日本の針路を探すことが求められている」と語っている。(池田伸壹)
朝日新聞社は宮沢喜一氏の「日録」について、東京大学名誉教授の御厨貴氏を中心とする学者グループと共同研究を続けてきた。日本語と英語の手書き文字をテキスト化するなどしてすべてのページと添付資料をデジタル化。当時の朝日新聞の記事や国会議事録、首相動静などと横断検索できるデータベースの構築を同社メディア研究開発センターで進めており、将来公開する時期や方法を検討している。デジタル化によって他の史料との横断分析も容易になるため、「戦後政治史研究を革新する新たなプラットフォームができた感がある」と御厨氏は語る。
未解決の派閥とカネ、重い検証資料 政治部長・松田京平
政治家の動静を確認することは、権力監視の基本だ。宮沢喜一氏のように、首相、閣僚として長く政権中枢にいた人物の行動記録は、戦後80年を控えた日本の政治史の断面を浮かび上がらせ、自民党派閥の裏金事件で問われる政治改革を考察することにもつながる。
日録には宮沢氏の直筆によるメモや補足のような走り書きがあり、本音や衝撃が垣間見える。後年振り返って書く回顧録と違う臨場感がある。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作という歴代首相に仕え、戦後日本を牽引した政治人生の前半。後半は首相として、自衛隊の海外派遣など国際貢献を問われ、蔵相時代に始まったバブル経済の後始末、行き詰まりをみせた自民党政治の立て直しに追われた。政敵さえも認めた知性と教養、キャリアを持ちながら、保守本流、護憲派の信念と現実政治をどう取り結ぶかに苦闘した日々を日録は飾ることなく粛々と記している。
日録の記録は精緻だ。実は、政治への関心が高かった祖母から宮沢氏の足跡を教わった影響で、私は高校生のころ手紙を書いた。1989年以来、宮沢氏との文通は5往復。その縁で、記者になる前を含め94~05年に計3度面会しているが、すべて時間が分単位で私の名前と共に日録に残っていた。
「新聞の影響力、落ちていますね。しっかりやってください」。最後の面会となった05年11月2日、25分間の多くが激励で、身が引き締まる思いだった。
同じ広島選出で自民党派閥「宏池会」会長を後に継承した岸田文雄首相の名前は、88年に岸田氏自身の結婚披露宴に出席したのが最初。個別の面会や電話など計85件、登場する。
派閥の政治資金事件で宏池会解散に踏み切った岸田氏は、縁戚でもある宮沢氏について著書で「政治の師とも呼ぶべき方」と記している。宮沢氏が30年前に直面した政治改革は、派閥とカネの問題を解決できぬまま今回の事件に至った。国民の政治不信と首相の指導力。今の岸田氏に突きつけられた課題は重なる。当時の行動を克明に残す日録は、首相のありようから政治を見つめ直す重い検証資料でもある。
牧原出(東京大学先端科学技術研究センター教授)【解説】 宮澤喜一日録研究会には、私も出席しており、あえてそのさわりだけでも紹介したいと思います。この日録は、秘書のつけた毎日の動静が左ページにあり、右ページは余白となっています。宮澤は鉛筆で主としてこの右ページにメモを書き込んでいますが、全体としてはあまり多くはありません。主たる情報は、秘書の記した会見の場所、日時、移動先などです。夜の会合についてもきちんと記されています。その意味では、巨大なデータセットとしての価値が高い資料だと言えます。研究会でもこうした動静データから、数々の興味深い洞察が展開されていました。派閥運営についてもメモは多く、派閥解消が叫ばれる今となっては貴重な歴史資料です。
私自身は、戦後史のなかで内閣官房長官の動静がここまで詳細に記された記録は他にないことに気づき、その箇所を丁寧に読みこみました。「『事故係』というあだ名がついた宮沢官房長官」と当時は語られていたようですが、日録には外交関連の事項が多く、宮澤氏ならではと思います。伊藤正義外相が鈴木善幸首相とのあつれきで辞任するくだりは、官房長官の冷静なメモが光っていました。このとき外務次官に辞任を慰留するなど、全体として人事案件で辞任を申し出る高官への慰留に努めるというメモが多く、リーダーシップに動揺が見られた鈴木善幸内閣での官房長官の対応と見ることができるかもしれませんが、政治の継続性に意を払うのは、政治家宮澤喜一ならではとも言えるでしょう。やはり、この長大な日録は、『佐藤榮作日記』と並んで、戦後政治の一級資料です。
駒木明義(朝日新聞論説委員=ロシア、国際関係)【視点】 ロシア初代大統領のエリツィン氏について何を書き残しているのか、非常に興味があります。
宮沢氏の首相在任は1991年11月5日から1993年8月9日で、ソ連崩壊による新生ロシア誕生からの3年間と、ほぼ重なります。
宮沢氏はソ連崩壊の2日後には早くもエリツィン氏に親書を送り、平和条約締結に意欲を伝えました。
92年1月には、ニューヨークで初会談。終了後に記者団に「自分としては潮時と思っている」と手応えを語りました。日本に帰る機中では「There is a tide in the affairs of men」とそらんじました。「人のなすことには潮時あり」。シェークスピアのジュリアス・シーザーの一節です。傍目にも高ぶった様子だったといいます。
ところがエリツィン氏は、92年9月9日、公式訪日の予定の4日前に、宮沢氏に電話でキャンセルを告げました。宮沢氏はドタキャンにずいぶんとショックを受けていたといいます。
結局エリツィン氏は93年10月に訪日。宮沢氏はすでに退任しており、細川護熙首相が首脳会談に臨みました。
ジェットコースターのようだった日露関係とエリツィン氏について、宮沢氏直筆の所感が残っているかも、と思うと興奮します。
林尚行(朝日新聞GE補佐=政治、経済、政策)【視点】 始まりました。息の長い企画になりそうです。なにより宮澤家の皆様、御厨先生はじめ政治学者の皆様、企画に向けてご協力・ご尽力いただいた皆様に感謝申し上げます。まずは政治取材の最前線から「宮澤日録」を考察する政治部長論文、宮澤政治を形作った外交について日録の記述を引きつつ紐解く概論的な記事、宮澤氏を直接知る政治学者お二人による日録のガイドブック的対談、30年前の政治改革をめぐる宮澤氏の知られざる動きを明らかにする記事ーーなどを順次、紙面とデジタルでお届けしていく予定です。その他の分野についても、随時発信していきます。政治が混迷を深める今だからこそ、読者の皆様に多角的に戦後政治を考える手がかりになるようなコンテンツをお届けできるよう、取り組んでいきたいと考えています。連載ページ(https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=2076)もローンチしました。アプリの方は、ぜひとも連載フォローしていただければ幸いです。よろしくお願いします。
吉岡桂子(朝日新聞記者=中国など国際関係)【視点】 宮澤氏は漢詩にも通じた日本の伝統的な教養人だと中国の人たちからも思われていました。「片氷心在玉壺」。日経の私の履歴書の結びも唐詩選から引いています。私が取材をしたのは98年から01年にかけての蔵相・財務相時代ですが、日本の証券・銀行危機からアジア通貨危機と重なります。取り付け騒ぎが起きかねない怒濤のような日々をどのように過ごしていたのか、ほぼ同じ時期に日本が当時は「裏庭」視していたアジアを襲った通貨危機とどう向き合ったのか。米国との溝もありました。中国からの日本への批判もありました。外務省が前面に出る交渉は外交史料として黒塗りであっても残るのですが、経済外交、とりわけ大蔵・財務省の一部がコントロールする通貨外交は、通貨マフィアとの言葉のとおり、記録に残らないものがたくさんあります。それだけに大臣としてどのように過ごしていたか、それとも、やはり危機対応は官僚の仕事で大して気にしていなかったのか。今に続く日本の失われた時代を象徴する時代であり、今の中国やアジアとの関係の伏線だった時代でもあり、とても興味があります。
要職にある方は、その責任としていろんな形で記録を残してほしい。自分が関与した出来事が後世に語られるとき、自分の声が消されることなく、歴史に響かせることにもつながると思う。
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金沢市 支援物資の提供を改めて呼びかけ(NHKニュース 2月24日)
金沢市は、市民などから寄せられた支援物資を、地震直後から被災者に届けてきましたが、物資の数が減ってきているとして、改めて提供を呼びかけています。
金沢市では、1月6日から定期的に市民や企業などに支援物資の提供を募り、多いときは1日720件ほど寄せられていましたが、23日は25件にとどまるなど、次第に数が減ってきているため、改めて提供を呼びかけています。
特に必要とされているのは、断水している被災地向けの水で、500ミリリットルか2リットルのペットボトルです。
また、常温で保存が可能な野菜ジュース、携帯トイレも要望が多いということです。
このほか、お茶のペットボトルやカップ付きのみそ汁とスープ、パックごはんとレトルト食品、それにカセットコンロや去年1月以降に購入したガスボンベも求められています。
いずれも新品、未開封のもので、飲料や食料については、賞味期限がことし6月以降のものにしてほしいとしています。
提供方法は持ち込みに限り、2月26日までの午前10時から午後4時の間に金沢市泉本町の「泉本町倉庫」で受け付けています。
23日は、市民が車で訪れ、段ボール箱に入った飲料水や野菜ジュースを届けていました。
提供した金沢市の40代の女性は「できることは限られていますが少しでも役に立てるよう物資を届けに来ました」と話していました。
金沢市能登被災地支援本部生活物資支援班の河野裕介さんは、「被災地ではまだまだ支援物資が求められている状況です。みなさんの協力をお願いします」と話していました。
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shunsukessk · 4 months
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「遺跡としての晴海団地」参考文献
「遺跡としての晴海団地」は日本建築学会のウェブサイト「建築討論」で2023年1月から11月にかけて連載された。もしかすると、いつか誰かの役に立つかもしれないので、参考文献の一覧をまとめておく。なお、赤字は連載内で2回以上触れたもの。
都市
磯崎新「都市の類型」、『磯崎新建築論集2 記号の海に浮かぶ〈しま〉』、岩波書店、2013年。
磯崎新「建築=都市=国家・合体装置」、『磯崎新建築論集6 ユートピアはどこへ』、岩波書店、2013年。
レム・コールハース『S,M,L,XL+』、太田佳代子、渡辺佐智江訳、ちくま学芸文庫、2015年。 ・「シンガポール・ソングライン」 ・「ビッグネス、または大きいことの問題」
藤村龍至「超都市(ハイパー・ヴィレッジ)の建築」、『SD2021』、鹿島出版会、2021年。
山岸剛『TOKYO RU(I)NS』、山岸剛、2022年。
ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」、前田英樹訳、『ドゥルーズ・コレクション1 哲学』、河出文庫、2015年。
里見龍樹『不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』、河出書房新社、2022年。
晴海
『万博』1938年5月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
「オリンピック中止 万国博覧会の延期 閣議で承認」、東京朝日新聞(夕刊)、1938年7月16日。
『万博』1938年11月号、紀元二千六百年記念日本万国博覧会事務局。
東京都中央区役所編『昭和32年版 中央区政概要』、東京都中央区役所、1957年。
東京都中央区役所編『中央区史 下巻』、東京都中央区役所、1958年。
『観光お国めぐり 東京都の巻(上)』、国土地理協会、1959年。
東京都中央区役所編『昭和35年版 中央区政年鑑』、東京都中央区役所、1960年。
「運転手、死体で発見 血だらけ乗捨てタクシー」、朝日新聞(夕刊)、1963年12月7日。
「個人タクシーご難 晴海 三人組強盗に襲わる」、朝日新聞、1965年8月10日。
「運転手しばり放り出す 晴海 三人組タクシー強盗」、朝日新聞、1966年5月26日。
「スペインが初名乗り 万国博参加」、朝日新聞、1966年8月27日。
三島由紀夫『鏡子の家』、新潮文庫、1969年。
「カーサ晴海」、『近代建築』1977年8月号、近代建築社。
東京都中央区役所編『中央区史三十年史 上巻』、東京都中央区役所、1980年。
日東製粉社史編纂委員会編『日東製粉株式会社65年史』、日東製粉株式会社、1980年。
『第二次東京都長期計画』、東京都企画審議室計画部、1986年。
晴海をよくする会『晴海アイランド計画の提案』、晴海をよくする会、1986年。
「ソ連の一万トン客船 あす初寄港」、朝日新聞、1987年3月20日。
東京都港湾局、社団法人東京都港湾振興協会、東京港史編集委員会編『東京湾史 第1巻 通史 各論』、東京都港湾局、1994年。
小柴周一「晴海アイランド トリトンスクエア」、『新都市開発』1998年1月号、新都市開発社。
『晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業』、住宅・都市整備公団、晴海一丁目地区市街地再開発組合、1999年。
吉本隆明『少年』、徳間書店、1999年。
茅野秀真、大村高広「再開発地区計画の活用による一体的な広場・歩行者空間形成の実現──晴海アイランドトリトンスクエアにおける実践例──」、『再開発研究』第18号、再開発コーディネーター協会、2000年。
『トリトンプレス』vol.2、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2000年。
『トリトンプレス』vol.5、晴海一丁目地区市街地再開発組合、2001年。
「晴海トリトンで「いい日常」」、朝日新聞(夕刊)、2001年3月23日。
「晴海一丁目地区第一種市街地再開発事業 晴海アイランド トリトンスクエア」、『近代建築』2001年6月号、近代建築社。
佐藤洋一『図説 占領下の東京』、河出書房新社、2006年。
夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』、原書房、2016年。
渡邊大志『東京臨海論』、東京大学出版会、2017年。
晴海団地
「港に近く、高層アパート群」、朝日新聞東京版、1956年1月22日。
大髙正人「東京晴海の公団アパート」、『国際建築』1956年11月号、美術出版社。
志摩圭介「団地ずまい礼讃」、『新しい日本 第2巻 東京(2)』、国際情報社、1963年。
「団地に住んでゼンソクになった 工場ばい煙規制へ」、朝日新聞(夕刊)、1963年10月8日。
種村季弘『好物漫遊記』、ちくま文庫、1992年。
種村季弘ほか『東京迷宮考』、青土社、2001年。
中央区教育委員会社会教育課文化財係編『中央区の昔を語る(十六)』、中央区教育委員会社会教育課文化財係、2002年。
晴海団地15号館(晴海高層アパート)
小野田セメント株式会社創立七十年史編纂委員会編『回顧七十年』、小野田セメント、1952年。
河原一郎、大髙正人「新しい生活空間へ」、『新建築』1957年1月号、新建築社。
野々村宗逸「住宅公団の晴海高層アパート」、『住宅』1957年4月号、日本住宅協会。
『建築文化』1959年2月号、彰国社。 ・大髙正人「設計の概要」 ・河原一郎、大沢三郎「都市の住居:高層アパート」 ・野々村宗逸「いつまでも豊かさを」
川添登「晴海高層アパート──将来への遺跡」、『新建築』1959年2月号、新建築社。
前川建築設計事務所「晴海高層アパート」、『近代建築』1959年2月号、近代建築社。
木村俊彦「構造計画論の展開と私の立場」、『建築』1962年1月号、中外出版。
ロジャー・シャーウッド編『建築と都市 臨時増刊 現代集合住宅』、エー・アンド・ユー、1975年。
「アンケート:パブリック・ハウジングの可能性」、『都市住宅』1980年8月号、鹿島出版会。
日本経営史研究所編『小野田セメント百年史』、小野田セメント、1981年。
日経アーキテクチュア編『有名建築その後 第2集』、日経マグロウヒル社、1982年。
レイナー・バンハム「世界の建築の日本化」、伊藤大介訳、鈴木博之編『日本の現代建築』、講談社、1984年。
枝川公一『都市の体温』、井上書院、1988年。
大髙正人、小西輝彦、小林秀樹「昭和の集合住宅史(6)高密度高層住宅 広島市営基町住宅と公団高島平団地」、『住宅』1992年3月号、日本住宅協会。
野沢正光「〝ささやかな悠久〞をおびやかすもの──晴海高層アパート1958によせて──」、『住宅建築』1994年10月号、建築資料研究社。
住宅・都市整備公団、日本建築学会編『晴海高層アパートの記録』、住宅・都市整備公団、1996年。
『住宅建築』1996年8月号、建築資料研究社。 ・小畑晴治、野沢正光、初見学、松隈洋「座談会──晴海高層アパートから引き継げるもの」 ・初見学「晴海高層アパート残照」
井出建「都市に住まうことの戦後史 「晴海アパート」取り壊しと集合住宅の未来」、『世界』1998年1月号、岩波書店。
志岐祐一「晴海高層アパート 可変性検証の記録」、『住宅建築』1998年3月号、建築資料研究社。
高橋郁乃「「晴海高層アパート」は歴史館に行き、そして晴海は…」、『建築ジャーナル』1998年9月号、建築ジャーナル。
前川國男
田中誠「住宅量産化の失敗と教訓──プレモス前後」、『今日の建築』1960年9月号、玄々社。
ル・コルビュジエ『今日の装飾芸術』、前川國男訳、鹿島研究所出版会、1966年。
佐々木宏編『近代建築の目撃者』、新建築社、1977年。
前川國男、宮内嘉久『一建築家の信條』、晶文社、1981年。
丹下健三「前川先生の死を悼む」、『新建築』1986年8月号、新建築社。
伊東豊雄「公共建築の死・前川國男を悼む」、『住宅建築』1986年9月号、建築資料研究社。
宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』、晶文社、2005年。
生誕100年・前川國男建築展実行委員会監修『建築家 前川國男の仕事』、美術出版社、2006年。 ・井出建「前川國男と集合住宅」 ・「日本万国博覧会建国記念館 コンペ応募案」
前川國男建築設計事務所OB会有志『前川國男・弟子たちは語る』、建築資料研究社、2006年。 ・河原一郎「前川國男」 ・松隈洋「「生誕一〇〇年・前川國男建築展」という出発点」
団地
島田裕康「住宅団地におけるコンクリート塊の再生利用」、『月刊建設』1996年10月号、全日本建設技術協会。
原武史『団地の空間政治学』、NHK出版、2012年。
祝祭
岡本太郎、針生一郎「万博の思想」、『デザイン批評』第6号、風土社、1968年。
岡本太郎『新版 沖縄文化論』、中公叢書、2002年。
「五輪チケット、販売済みは収容人数の42% 7割が地元」、朝日新聞デジタル、2021年6月11日。URL=https://www.asahi.com/articles/ASP6C66BZP6CUTIL05R.html
「IOC広報部長、コロナと五輪「パラレルワールド」無関係強調」、毎日新聞デジタル、2021年7月29日。URL=https://mainichi.jp/articles/20210729/k00/00m/050/117000c
ギリシャ神話
ヘシオドス『神統記』、廣川洋一訳、岩波文庫、1984年。
呉茂一『ギリシア神話(上)』、新潮文庫、2007年。
賃金
労働大臣官房労働統計調査部編『昭和33年 賃金構造基本調査結果報告書 特別集計』、労働法令協会、1960年。
「賃金構造基本統計調査」、厚生労働省ウェブサイト。URL=https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chinginkouzou.html
銀座
東京都中央区役所編『中央区史 中巻』、東京都中央区役所、1958年。
赤岩州五編著『銀座 歴史散歩地図』、草思社、2015年。
築地
テオドル・ベスター『築地』、和波雅子、福岡伸一訳、木楽舎、2007年。
東京タワー
電気興業社史編纂委員会編『電気興業 40年史』、電気興業株式会社、1990年。
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ari0921 · 1 month
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)3月22日(金曜日)
    通巻第8186号 
 希望の州と言われたアリゾナ州も不法移民で大混乱に
  人口の30%がヒスパニック、共和党が選挙で勝てない理由
*************************
 野球キャンプ、TSMCの進出、インテルの工場拡大と雇用増加で景気浮揚が見られるアリゾナ州が、不法移民のもたらす危機に襲われている。アリゾナ州の国境対策は取締の弛緩、壁建設の遅れなどに加えて連邦資金が4月に枯渇する見通しとなった。
不法移民流入を防げないとなるとカリフォルニア、テキサスと並んで不法移民が殺到するおそれがある。
州知事は民主党のケイティ・ホッブズ。国境対策に予算増額を表明し、キルステン・シネマ上院議員(民主党から無所属)とマーク・ケリー上院議員(民主党、元宇宙飛行士)も同調している。民主党も立場を変えたのだ。11月の改選選挙ではシネマが不出馬となり、共和党候補が有利と伝えられている。
 
 アリゾナ州ヘレフォード国境では過去数ヶ月に最大の不法移民が通過したとみられる。
国境近くの牧場主などは、「壁が完成していないために侵略されているのです。そのうえ必要な人員を配置していません」と『ワシントン・エギザミナー』紙の取材に答えている。。
 アリゾナを通過する不法移民はヒスパニックが主で、アリゾナに留まるヒスパニック人口は急増、じつに3割を越えた。
 元凶はオバマ政権時代の「DACA」である。
これは「アメリカン五リームを持て馬手北若年移民に対し、強制退去の延期措置(Deferred Action for Childhood Arrivals)。2012年6月に導入された寛大な移民政策だ。16歳の誕生日前に入国し、就学中であり、高校の卒業資格をもつか軍隊から名誉除隊しており、有罪判決を受けておらず、国家安全保障に脅威を与える危惧がない等を条件とする。
 2017年9月にトランプ大統領はDACAを撤廃したが、2020年6月に連邦最高裁判所はDACA撤廃を「専断的で根拠を欠く」行為と認定してドリーマー救済廃止案を棄却した。
 だから不法移民は急増し、バイデン政権時代だけで1200万の不法移民が流入し、治安が極度に悪化した。11月大統領選挙、最大の争点はこの移民問題である。
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kanglo · 7 months
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【ファイナル!】ありがとうサステナ塾「人間とは何かを考える~人間の本当の役割とは何か」(2023年11月17日)渋谷にてリアル開催
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サステナ塾 ファイナル開催のお知らせ: 2015年10月より開催を続けてきたサステナ塾。この度、当塾は、2023年11月17日の第62回目の開催を持って終了とさせて頂きます。そして、2024年以降は、「大人のためのSDGs超基礎講座」「イノベーションサロンZ」「システムD研究会」と発展的統合をし、新しい形で再スタートを切ることとなりました。これまで塾生として長らく参加をして下さった皆様に心より感謝の意を申し上げます。最終回、ぜひ、皆様とお会い出来ますことを心より願っております。有難う御座います。(サステナ塾 塾長 森夕花/代表世話人 藤井啓人/世話人 楠徳生)
【ファイナル!】ありがとうサステナ塾「人間とは何かを考える~人間の本当の役割とは何か」(2023年11月17日)渋谷にてリアル開催(最後の懇親会あり)チケット: https://sustainajuku20231117.peatix.com/view https://www.facebook.com/events/1492075201550322
美しい地球を不毛な惑星にしないために、共に学び、共に行動する場、それがサステナ塾です。
Be the change you want to see in the world. あなたが見たいと思う変化に、あなた自身がなりなさい - Mahatma Gandhi(マハトマ・ガンジー)
ーーーーーーーーー
■開催日時: 2023年11月17日(金)19時~21時 ※終了後にいつもの「魚民渋谷神南店」で懇親会あり
■開催場所: 東京都渋谷区神南1丁目19-8 勤労福祉会館 2階(第4洋室) https://www.kokuchspace.com/p/b00ae591486832364617df30c134bf1f5df81da52f5d97346edb8a2a062ee6e3/
■参加費(下記は1回分のチケット料金です): 塾 生(一般)2000円(学生)500円 初参加(一般)2500円(学生)1000円
*会場でのお支払いも可(領収書ご用意します)※事前にお申し出ください。 *当日のキャンセルは、ご遠慮ください。 *一度でもサステナ塾にご参加いただいたことがある方は塾生となります
■開催方法:リアル開催&ZOOMオンライン ※ZoomURLは、お申込みいただきました後に、事務局よりお送りさせて頂きます
■参加方法: ①Peatix経由: https://sustainajuku20231117.peatix.com/view
②問い合わせフォーム: https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeayilkIVEuMZERZh2_EkEQIY4589ZpHXyO6KyTANxOziZ4_Q/viewform ※当ページにも参加ボタンを押しておいて下さい。 ※入金後の前日までのキャンセル連絡は、返金対応致します(銀行振込の場合は、手数料を差し引かせて頂きます) ※入金後、当日のキャンセルの場合は、ご返金は出来ません。あらかじめご了承下さい。
■サステナ塾アーカイブ(過去のサステナ塾の記録映像集:有料コンテンツ) https://vimeo.com/ondemand/sustainajuku
■塾長:森夕花(もりゆうか): 横浜生まれ。ドイツのフライブルクに留学中、フライブルグ市の行政と市民による持続可能な世界を目指す社会システムに出会う。その後、ユーゴスラビア紛争で、ドイツに逃れた難民の方々と出会い、罪のない人々の深い悲しみに触れ、生きるとは何か、幸せとは何かを考える大きなきっかけとなる。帰国後、戦争や内乱に巻き込まれ傷ついた子供達を救済するためのNGOドイツ国際平和村の存在を知り、世界の平和と心の癒しに携わることが自分自身の使命と感じ、ヒーリングセンターアルケミストで研鑽を積み、2001年から2008年まで同センターで、ヒーラーとして人間と動物の癒しに携わりながら、講師として後進の指導にあたる。2003年から自らの内面の探求のため、十数回、インドのアシュラムを訪れ、ヒンズー教の聖者より宇宙の真理の教えを受け、様々な神秘的な体験をとおして見えない世界の存在を確信する。また、心理学、仏教の禅、認知行動学、ジョーティッシュ(インド占星術)、メディカルハーブ、中医学などのホリスティック医学を学び研鑽を積む。 2015年1月、カングロ株式会社 執行役員に就任(2017年1月同社取締役に就任)。ライフコーチの他、アリゾナ州セドナにおいて『ビジョンクエスト(自己探求)ツアー』、茨城県常陸の国の『マインドフルネス古民家合宿』など、自然と宇宙との繋がりを取り戻し、古の叡智と共に暮らす生き方を体験し、それぞれが人生のMISSIONとVISIONを思い出す旅の案内人としても活動している。
■世話人:楠 徳生(くすのきのりお): 合同会社JOLLAB代表。 ビジネス心理コンサルタント、Re3コーチ。長年IT系のプロジェクトマネジメントに従事している中、様々なストレスから体を壊したり、うつになってしまう人間を多く見てきた。その経験から、単なる管理手法でなく人間の心に関するアプローチの必要性を感じ様々な心理学的手法研究してきた。また以前オタク、変人、病人しかいないチームで日本初の画期的プロジェクトの大成功を納めたことをきっかけに、まわりにいる人間が無関係の「他人」や競争すべき「敵」でなく、協働し、自分が能力を発揮したり、足りない部分を補い助けてくれる「資源」であるという世界の見方に至る。現在そのことを伝え、楽しく成長する組織作りをお手伝いするために資源の再認識を行う「Re3」グループコーチングや、学校教育に活かしアクティブラーニングに関するコンサルティングを実施している。神奈川県藤沢市在住。
■代表世話人:藤井啓人(ふじいひろと): 茨城県東海村出身。高卒後、上京し新聞配達をしながら予備校に通い筑波大学に入学。4年間、体育会硬式野球部に所属し選手と2軍監督を���験。1992年に株式会社リクルート入社。12年間、組織・人事コンサルティング事業に従事し、約2000社の企業の変革に携わる。社内表彰制度で全国MVP・部門MVPの受賞計8回。2004年に独立し、事業再生コンサルティングのマネジメントリコンストラクション社を設立。2010年5月カングロ株式会社 代表取締役に就任。独自のサステナビリティ・イノベーティブ・コンサルティング事業を開始。米国で「今最も羨望の注目を浴びる企業」とされるオンライン・リテーラーのザッポス社のハピネス経営、「社員をサーフィンに行かせよう」「レスポンシブルカンパニー」の題材となっているアウトドア用品メーカーの米パタゴニア社を研究し続け、約1000社3000名のビジネスパーソンにセミナーや勉強会等でその真髄を伝えている。2013年には西アフリカのナイジェリア連邦共和国にて合弁会社を設立し、水問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題を日本のテクノロジーで解決するソーシャルビジネス事業も行う。実地の中から発信される指南は、斬新・先駆的でかつパワフルであり、魂を揺さぶるものとなっている。2013年以降、システムD研究会、自転車事故防止委員会、セブメディの会を設立。2015年より同士と共に「懐かしい未来プロジェクト(HOOPS!)」「サステナ塾」を開始し、持続可能な地域社会の実現のために人間本来の役割を思い出すためのあらゆる「体験」の場と機会を提供している。自転車のある生活をこよなく愛し、年間約1万kmを走破する。マラソンランナー、トライアスリート。趣味はゴミ拾い、ベランダ菜園 ------------------------
【最新ダイジェスト版動画】 第61回シンサステナ塾/人間とは何かを考える特別シリーズ①人間誕生の秘話(2023年7月21日) https://youtu.be/yL-Kv9urVak 第60回記念シン サステナ塾/この8年間で学んだことを振り返って/創造性をひらく~アートによる自己探求の世界(2023年5月19日) https://youtu.be/nGoyfZEPIgo 第59回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ③/3」なぜこの時代に生まれてきたのか(2023年3月17日) https://youtu.be/Uvt5cMsq2Sk 第58回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ②/3」働くとは何か(2023年1月20日) https://youtu.be/8jw6qHFC5E4 第57回シン-サステナ塾/特別シリーズ「人生の真実シリーズ①/3」人生の目的とは何か(2022年11月18日) https://youtu.be/tYvC9xKt9lk 第56回シン-サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える③命の活かし方」(2022年9月16日) https://youtu.be/MFp0T0q3kKU 第55回サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える②命の尊厳とは」(2022年7月15日) https://youtu.be/n6JJZqphbdc 第54回サステナ塾/特別シリーズ「命(いのち)を考える①命とは何か」(2022年05月27日) https://youtu.be/GMtpT0UzV7A 第53回サステナ塾「生命科学の世界を視る③DNAは宇宙の仕組み」(2022年3月18日) https://youtu.be/V5-OiBNiKx4 第52回サステナ塾「生命科学の世界を視る②オートファジーメカニズムの発見が人類にもたらすもの」(2022年1月21日)https://youtu.be/44uaxrmloeM 第51回サステナ塾「生命科学の世界を視る①生命の生き残り戦略としての動的平衡」(2021年11月19日) https://youtu.be/6D4HvtzIvnw 第50回サステナ塾「地球はこれからどうなっていくのか?」私たちの地球を知る❸(2021年9月17日) https://youtu.be/Sg-f7jEnMpE 第49回サステナ塾「ナウシカはなぜ墓所を破壊したのか?」私たちの地球を知る❷(2021年7月16日) https://youtu.be/QrJdhP9rons 第48回サステナ塾「地球は本当に生きていた(ガイア理論進化版)」私たちの地球を知る❶」(2021年5月14日) https://youtu.be/yIfq2rPWZoc
<サステナ塾VTR> https://youtu.be/avSh5flzx94
■主催:サステナ塾 https://www.facebook.com/sustainajuku ■協力:カングロ株式会社 https://www.kanglo.co.jp SSPC(SDGs超実践者委員会)、HOOPS!、イノベーションサロンZ、システムD研究会、セブメディの会、自転車事故をなくすっぺ委員会、フィロアーツ研究会、ショックコヒーレント・イノベーションクラブ
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takahashicleaning · 8 months
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TEDにて
ラジブ・マヒシュワラン : アメリカバスケットbasketのNBAの激しい動きの背後にある数学
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
アメリカNBAは、型にとらわれない動き、選手間の接触、そして、「時空パターン認識学的」なる要素を持った速い動きの試合です。
ラジブ・マヒシュワランとその仲間は、コーチや選手が、新しいデータを直感的なものとを融合出来るように、試合の鍵となるプレイの背後にある動きを解析しています。
それだけでなく、この研究で得られた知見は、様々な場面における人々の動きを理解するのにも役立つことでしょう。
私と研究仲間は、動く点の科学に魅せられています。これらの点は何でしょう? 全て、我々、自身です。我々は、家の中、事務所の中を動き回り、街や世界中で買物や旅行をしています。
こんな動きを全て理解できたら、素晴らしいと思いませんか?
ここにパターン、意味を見出し洞察することができたら?
幸運なことにも、我々は、自分達自身の情報を実に上手く取得できる時代に生きています。
それが、センサー、ビデオ。または、アプリであろうとも見事なほど詳細に動きを追跡することができます。
一般の社会システムでは、憲法やプライバシーの観点から違法ですが・・・
そんな動きのデータを得るのに最適なのが、オープン性の高いスポーツです。
バスケ、野球やフットサルであれ、競技場に装置を取り付け選手の動きを1秒にも満たない間隔で撮影し追跡します。そう、我��がやっていることは、スポーツ選手を皆さんがご想像されるとおり動く点へと変換することです。
他の生データと同様に、膨大な数の動く点を取得します。取り扱いは、面倒で面白い作業ではありません。でも、選手の動きには、例えば、バスケット(Basket)のコーチが知りたいものが含まれています。
問題は、コーチが各ゲームを逐次観察し、それを記憶し、分析することが不可能であるということです。1人の人間には不可能であっても、機械になら出来ます。
問題は、機械がコーチの様な視点を持ってゲームを見ることができないことです。いや、少なくとも、今までは不可能でした。では、我々は機械に何を学習させたのでしょう?
単純な方法で始めました。パス、シュートやリバウンドを教えました。バスケット(Basket)ファンならご存知ですよね?次に、もう少しだけ複雑なことに取り組みました。
ポストアップ、ピックアンドロールやアイソレーションなどです。選手なら大抵知っていることですが、ご存じなくても問題ありません。
そして、今では機械は、ダウン・スクリーンやワイド・ピンといったプレイも把握できるようになりました。基本的にプロだけが知っているプレイです。
機械には、コーチの視点で見るように学習させました。どうやって出来たのでしょう?コーチにピックアンドロールについて説明を求めれば解説してくれたことでしょうがそれをアルゴリズムに組込むのは至難の業です。
ピックアンドロールとは、4人で行う2対2の攻防戦でのこういったダンスのような動きです。このように動いていきます。
スクリナー(ディフェンスをガードする選手)が、ボールマンのディフェンスの横に行き、ずっとガードするのです。そして、2人が動きこうなります。アルゴリズム化が困難な例です。
スクリナーが邪魔をするのですが、近づいても停止しなければ、おそらくピックアンドロールでは ありません。逆に、停止しても十分に近づかなければ、ピックアンドロールとはならないでしょう。
近づいて停止しても、リングの下ではピックアンドロールにはならないでしょう。正確なタイミング、距離と場所に依存するので判断を難しくしています。
幸いにも、機械学習では我々が知っていることの記述を我々の限界以上にこなします。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
(個人的なアイデア)
さらに・・・
勝手に警察が拡大解釈してしまうと・・・
こんな恐ろしいことが・・・
日本の警察は、2020年3月から防犯カメラやSNSの画像を顔認証システムで本人の許可なく照合していた!
憲法に完全違反!即刻停止措置をみんなで要求せよ。
日本の警察の悪用が酷いので、EUに合わせてストーカーアルゴリズムを規制しろ!
2021年に、EU、警察への初のAI規制案!公共空間の顔認証「原則禁止」
EUのAI規制は、リスクを四段階に分類制限!
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
禁止項目は、行動や人格的特性に基づき警察や政府が弱者個人の信頼性をスコア化や法執行を目的とする公共空間での顔認識を含む生体認証。
人間の行動、意思決定、または意見を有害な方向へ操るために設計されたAIシステム(ダークパターン設計のUIなど)も禁止対象にしている。
禁止対象の根拠は「人工知能が、特別に有害な新たな操作的、中毒的、社会統制的、および、無差別な監視プラクティスを生みかねないことは、一般に認知されるべきことである」
「これらのプラクティスは、人間の尊厳、自由、民主主義、法の支配、そして、基本的人権の尊重を重視する基準と矛盾しており、禁止されるべきである」
具体的には、人とやり取りをする目的で使用されるAIシステム(ボイスAI、チャットボットなど)
さらには、画像、オーディオ、または動画コンテンツを生成または操作する目的で使用されるAIシステム(ディープフェイク)について「透明性確保のための調和的な規定」を提案している。
高リスク項目は、法人の採用活動での利用など違反は刑事罰の罰金を売上高にかける。
など。他、多数で警察の規制を強化しています。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関���ってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
ケイド・クロックフォード:顔認証による大衆監視について知る必要のあること!
セバスチャン・ユンガー:なぜ?退役軍人は戦争が恋しくなるのか!
クリス・クルー:拡張現実Augmented Reality(AR)が、どのようにスポーツを変革して共感を紡ぐのか?
エピソード1Episode1 - オリンピックとパワー(Olympics and Power)について(パワーか、フォースか―人間のレベルを測る科学 - Amazon)
<提供>
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henokaapa · 1 year
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自ら閉ざす未来の扉
コロナの感染拡大が止まらない、死者も昨日は460人を超え最大、もう少しで衆院議員全員が一日で死ぬ数字になる。今や日本が世界一の感染国だが、ニュースは中国の感染の拡大の心配ばかり、私は日本人にお願いがある、自分の中に刷り込まれている概念や観念を一度取り払って再構築することを。そこから始めないと例えば「日米安保」と聞くだけで無条件に鵜呑みして受け入れてしまう。今月11日に岸田さんが渡米してバイデン氏と日米安保の再確認と同盟強化をする、とニュースでは簡単に当然の如く語っているが、既にアメリカはご承知のように過去のアメリカではすでにない、下院の議長を決める共和党の内紛は見ての通り、しかも政権が変われば民主党と共和党の政策は水と油、例えば対ロシア、ウクライナでも共和民主が対立しているのは皆さんご存じ。対中対立でも夫々中身は違っている。民主党のペロシ前下院議長が台湾寄港を巡って自宅が襲われ彼女の夫が瀕死のけがを負ったことはご存じだろう、今のアメリカはそういう国なのだ。2024年の大統領選も今のアメリカの混乱からは全く予想もつかない、そんな中で日本がどれほど忠誠を誓っても肝心のアメリカの政治が何時どうなるのかアメリカ人当人が分からないだろう。新しい下院の議長誕生によってバイデン民主党と野党共和党との対立と混乱はさらに激しくなりもし政権が変われば違う国になるようなものだ、そんなアメリカに行って岸田さんのする約束が将来の日本をどれほど苦しめることになるか、日本国民は分かっているのか。それはひとつの例えにすぎない、日本人が持っている無反省の概念は単に対アメリカだけでなく一度自分の頭にしまわれた価値観はそれを見直すという考えがそもそもない。その固定概念が日本の進歩を止めていることはご存じか?。私は単に今の状態を批判しているのではない、日本人がより良くしかも豊かになるためには今のままの在り方では、政治とか表立った姿だけではなく、日本人の在り方そのものが何故これほど世界から抜け落ちてしまっているのかを考えれば、それは日本人の固定観念や刷り込まれた生活や生き方や対人関係や広くは世界感などに縛られそこから一歩も動けないところからきているからだ、認識から始めるとは、そういう固定概念価値観を一度捨て、すべてを自分の新しい生命観から見直すことを言う。そしてその為に自分自身の不明な部分に新しい光を当て、暗い解らない部分を無くしていく作業をすることをしなければ、新しい自分は生まれてはこない。それは非常に厳しくつらい作業だが、それを怠ると今の日本全体の姿のように何もかも失うことになる、例えば少子化対策でも今年の選挙で自民党の傷が浅ければ早速消費税の引き上げに動くだろうし、<政策の洗い直し?、そんなことすると今までの日本全部が流れてしまうんじゃないのハハ、洗いついでに外交姿勢も洗い直したら?エヘ>、それが今のこの国の姿となっていることを、ぜひ理解して欲しい。コロナに苦しむ国民の訴えは無視してもアメリカの言うことには素直に応じる総理大臣<やっぱ命は惜しいやナ>。そこから始めないと日本はこのまま太平洋に沈み込むことになろう、中国が、韓国が北がどうのこうのではない、どんなにアメリカに追従してもそんなことは無駄だと、自ら気付かなければ日本は終わる。それに気付いてほしい。
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nyantria · 2 years
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ナチズム下の女たち -第三帝国の日常生活-
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第1章「職場でのファシズムと労働組合」を語るのは1897年生まれのアニーさんです。
自身の生い立ちから始まり、第1次大戦中の1917年に20歳になって正規の女店員に。
戦争が終わると両親は「ドイツ社会民主党(SPD)」に入党します。
本書ではSPDがどんな政党かは解説されていませんが、
簡単に言えば、中道左派の当時の第1党で、ワイマール共和国の初代大統領が
SPD党首のフリードリヒ・エーベルトですから、まぁ、極々普通の家庭のようです。
しかし1933年にナチス政権が誕生すると、生協の百貨店でベテラン組合員だった彼女は
ナチス側の新しい上司から経営者側に就くよう持ちかけられますが、それを断ると解雇・・。
そんなこともあってか、彼女や両親の心情は反ナチスです。
子供を7人も生んだ母親の元へ、ナチ党婦人部がやって来て、
「母親十字章」をくれると言ってきても、それを拒むお母さん。
職安でようやく見つかった従業員200名のデパートの職場では、
挨拶は「ハイル・ヒトラー」が励行され、支配人はSA(突撃隊)、要職もSAとSSが占めています。
例の挨拶をしなくても目立たないように、大勢の同僚たちと一緒に出勤し、
政治的な言動は慎み、出回っていたナチス本など見るのも嫌なのに、
ナチスの新聞は読んで、いま起こっていることを知らなければなりません。
自宅の机の上には「わが闘争」を聖書のように置き、突然の家宅捜索にも対処。
それでも表紙のようにナチスの旗を掲げていないことを理由にSAがやって来るのでした。
戦争が始まると家族揃って外国放送をラジオで聞き、元SPDの同志と再会。
そんな隠れた反ナチの彼女は1944年、突然、上司に呼び出されます。
そこには上司の他、礼服に身を包んだSA隊長にハンブルク最高指導者の姿が・・。
彼らはなんと、亡くなったナチ婦人部の女性指導者の後任に彼女を指名するのです。
彼女にとっては絶体絶命のピンチ。。
https://ona.blog.ss-blog.jp/2013-04-03
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taketea44 · 6 months
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毎日が記念日
11月3日は…
文化の日(National Culture Day)
戦前は、明治天皇の誕生日であることから、「明治節」という祝日でしたが、1946年11月3日、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日に定められました。
新しい文化、日本の文化、文化は変わり続けている。
【疑わしいAI-イチロウによる11月3日の出来事】
1973年 - カイロとダマスカスの原則合意:エジプトとシリアの指導者は、アラブ諸国の統一戦線を強化するための原則に同意しました。これは中東における政治的な動きを象徴するものとなりました。
1998年 - バンダ・シン・バフカン救出:バングラデシュの作家、タスリマ・ナスリンが指導する人権団体が、バングラデシュ政府によって投獄された作家バンダ・シン・バフカンを救出しました。これは表現の自由と人権の重要性を再確認する出来事でした。
2014年 - アメリカ議会中間選挙:アメリカ合衆国で中間選挙が行われ、上院と下院の議席が選ばれました。これはアメリカの政治における重要な出来事で、政治的なバランスが左右されることとなりました。
2016年 - アメリカ大統領選挙:共和党のドナルド・トランプと民主党のヒラリー・クリントンの間で行われたアメリカ合衆国大統領選挙の投票日でした。トランプが当選し、アメリカの政治的景色を変える歴史的瞬間となりました。
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