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#マックス・ヴェーバー
extracts-sheep · 2 years
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野口和彦(Kazuhiko Noguchi)@kazzubc
M. ウェーバー「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実である…これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」『職業としての政治』(原著1919年)、94ページ。
午前11:30 · 2022年7月17日·Twitter Web App
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lastscenecom · 3 months
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ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、1914年の第一次世界大戦勃発の前夜、西洋勃興の中核は、プロテスタント世界の発展だと的確に見抜きました。プロテスタント世界とは、この場合、英国、米国、プロイセンによって統一されたドイツ、北欧諸国を指します。 フランスがラッキーだったのは、これらの先頭集団を走る国々に地理的に近かったから、くっ付いていけたところです。 プロテスタントの国々では、教育水準が人類史上類例のないほど高くなり、識字率もきわめて高くなりましたが、それは全信徒が聖書を一人で読めなければならないとされたからでした。 また、地獄落ちの不安があるゆえに、自分は神に選ばれているのだと実感したくなり、それが勤勉に労働する意欲につながり、個人も集団も強い道徳規範を持つようになりました。 もちろんプロテスタント文化には負の側面もあります。米国の黒人差別やドイツのユダヤ人差別など、最悪の人種差別はプロテスタント文化に端を発しています。プロテスタントの思想には、人を地獄落ちの者と神に選ばれた者に分けるところがあり、そのせいでカトリック式の人類みな平等の考え方が放棄されたのです。 近時はプロテスタント文化が崩れ、それによって知的水準が下がり、勤勉な労働意欲が消え、大衆が欲深さを露わにしています(この事象の正式名称はネオリベラリズムと言います)。その結果、西洋は発展せずに、没落に向かっているのです。
「ロシア衰退は幻想で西洋が崩壊に向かっている」 ソ連崩壊を予見した歴史学者が警告(クーリエ・ジャポン) - Yahoo!ニュース
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ari0921 · 5 months
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我が国の未来を見通す(96)
連載最終回を迎えて
宗像久男(元陸将)
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□おわりに──「今」の取り組みが「未来」を創る
思えば、109回に及んだ『我が国の歴史を振り返
る』の続編のような格好で、『我が国の未来を見通
す』と題したメルマガを発信開始したのは、202
1年11月8日でした。あれから2年あまりの歳月
が流れ、今回で96回を数えます。
本メルマガは、我が国の未来に立ちはだかることが
予想される課題のうち、(1)少子高齢化問題、(2)農
業・食料問題、(3)気候変動・エネルギー問題の3大
課題から始めました。いずれも私の専門外でしたが、
第1話でも告白しましたように、「もとより歴史の
専門家でない自分が、歴史の書籍を刊行したのだか
ら、それぞれの分野の専門家でなくとも、躊躇する
必要はないのではないか」との“陰の声”が騒ぎ出
し、逆に勇気が湧き、このテーマで書く決心をした
のでした。
「未来がどうなるか」など神様以外だれにもわから
ず、未来は不確実・不透明で予測困難です。一方、
歴史を研鑽してわかった重要な1つとして、「歴史
の時間軸・空間軸のつながり」がありました。時間
軸で過去を振り返れば、江戸、明治、大正、昭和と
その時代時代の国の「舵取り」をはじめ、様々な事
象が次の時代、つまり「未来を創ってきた」ことは
否定できませんし、空間軸でいえば、我が国の動き
と諸外国の動きを切り離して論じた歴史は真実を物
語っていません。
よく言われるように、「過去はやり直すことができ
ないが、未来は創り出すことができる」との立場に
立てば、国家が直面する様々な課題に対する「今」
の取り組みが「未来」を創ることは当然なのです。
そのような視点に立って、“いかに「未来」を創り
出すか”について取りまとめたのが第4編でした。
本音を言いますと、“のたうち回りながら”考え抜
いた結果、「『強靭な国家』造り」というキーワー
ドが“降りて”きました。
「『強靭な国家』造り」を目標として、では“どの
ようにして「強靭な国家」を造るか”に関しても、
具体案を提示することから“逃げたくない”との決
意もあって、ずいぶん悩みました。しかし、これに
ついても、突然、“降りて”きました。
言葉を代えれば、インスピレーションでしょうか。
前回のメルマガでも不思議な体験を何度か経験しま
したが、今回の連載は、何も考えないでパソコンに
向かって原稿を書き始め、一挙に4000字ほど書
き上げるようなこともしばしばでした。いま思うと、
とても奇妙でした。本屋で必要な書籍を見つけた経
験談についてはすでに紹介しましたが、自分で書い
た原稿を後で読み直し、「誰が書いたのだろうか」
と首をひね��ながら推敲したこともありました。
こうして、第4編だけで32回、7カ月ほどかかり、
しかも1回あたりほぼ6千字~7千字のボリューム
になってしまいました。時を合わせたように、ウク
ライナ戦争が佳境に入り、ガザ地区の紛争が勃発し
たことなどもあって、これらについても、そのつど
自分が認識している範囲で触れましたので原稿は膨
らむばかりでした。
さぞや、読者の皆様には読むだけでも大変だったも
のとお詫びかたがた反省しております。このテーマ
で第4編のようなまとめ方が適切なのかどうかにつ
いては、読者の皆様を始め、他の有識者などの評価
を頂かなければならないのですが、その中で、「国
力」という言葉も“降って沸いた”ように頭に浮か
んだのも事実でした。
この「国力」という言葉自体も外交文書などでは使
われなくなって久しいこともわかりました。そこで、
現役時代に読んだ書籍を再び開きながら、現在の我
が国に相応しい「国力」については自分で“定義”
するしかないことに気がつき、大胆にもそれを実施
し、それぞれの要素をさらに現状分析してみました。
そうしたところ、我が国の現状の課題は上記3分野
に留まらず、経済力や政治力や科学技術力や教育な
ど「国力」を構成する「ハード・パワー」の実際の
データをチェックしてみると、軒並み「下降期」に
あることを理解しました。これらを知った時のショ
ックはとても大きいものがありました。
さらに、「国力」を構成する「ソフト・パワー」の
うちの「国家戦略」となると、戦後の我が国では検
討された歴史がなく、戦前の歴史を辿ってみても、
明治維新の「富国強兵」「殖産興業」しかないこと
も知りました。これも我が国の「国柄」なのでしょ
うが、戦前は国家目標として「国防」、つまり「安
全」重視であり、戦後は「経済」、つまり「富」重
視と、著しくバランスを欠いていたこともわかりま
した。
戦前の関係者の名誉のために少し補足しますと、戦
前も「国是」とか「国家目標」とか「国家戦略」と
いう概念はあるにはありましたが、それらよりも
「国防」の方が上位に位置していたなかで、4度に
わたる「帝国国防方針」が定められ、紆余曲折の中、
実際の「国家運営」がなされてきました。なかには、
「国是」や「国家戦略」が省略され、「国防の本義」
として要約された方針もあったようです。
余談ですが、戦後は「国力」のみならず、「国益」
「国防」、もはや死語になっている「国体」など、
「国」を冠した言葉が公の場で使われなくなって久
しいですが、昨年末に「国家安全保障戦略」ととも
に策定された「国家防衛戦略」の前身は「防衛計画
の大綱」と呼ばれていました。その源流は、昭和3
2年に策定された「国防の基本方針」でした。
「国防の基本方針」は、米ソ対立の冷戦が激烈さを
増したこともあって、「安全」をアメリカに丸投げ
し、経済一辺倒の「吉田ドクトリン」の中で、“せ
めて「基本方針」ぐらいは”と考えて策定したので
しょう。アメリカから圧力もあったのかも知れませ
ん。わずか8行の中に4つの基本方針を述べている
だけなのですが、当時の状況からするとなかなか内
容にある方針だったと考えます。
しかし、いつの間にか、その「国防」から「防衛」
とか「安全保障」と“柔らかい表現”になり、長文
で複雑な計画にもなって、その上に「基盤的」など
の形容詞がつけられたこともあって、「防衛力」の
“本来あるべき姿”から離反し続け、その分、“ツ
ケ”が溜まってきたと思えてならないのです。私は、
昭和32年以来一貫して「国防」という言葉を使い
続けていたら、現在の「防衛力」はその名称も中味
もかなり違っていたものと考えるのです。
話を戻しますと、この「国家戦略」については、そ
の策定の必要性を訴え、具体的な提言を試みた書籍
は、私自身は1冊しか発見できず、驚きと同時に寂
しさを覚えました。
それでも「国家戦略」については、誰かが強いリー
ダーシップをとって、知恵者を数人集めて研究させ
れば、その策定は不可能ではないと考えますが、大
方の国民の精神を集大成した「国家意思」の統一と
なると一層難しいと考えました。
しかし、研鑽を重ねるうちに、我が国の憲法の精神
ともいうべき「基本的人権」、しかもそれを「公共
の福祉」に使用する「責任」があるというくだりは
活用できると閃きました。なぜならば、「強靭な国
家」を造ること、そしてそのために「国力」を増強
することは、「公共の福祉」そのものであると考え
たからでした。
つまり、現憲法下においても、憲法の精神にのっと
って「国家意思」を統一しつつ、「強靭な国家」を
造ることは可能と判断したのでした。なにしろ残さ
れた時間は短く、憲法改正の議論をする余裕がない
と考えていますので、この発見は嬉しいものがあり
ました。
しかし、このようなことについて理論的には実行可
能としても、だれが国家・国民の先頭に立って舵取
りをするか、と問えば、それこそは国民に後押しさ
れた「政治家」の仕事であることには論を俟たない
でしょう。
本メルマガでは、「国力」の「ハード・パワー」の
一要素として「政治力」を取り上げ、素人の域を超
えない範囲で現状分析を試みました。まだまだ言い
足りないことはあるのですが、マックス・ヴェーバ
ーの『職業としての政治』の中の最後の文章、私が
最も感銘を受け、納得した部分を(少し長いですが)
紹介しておきたいと思います。
 「政治とは、情熱と判断力の2つを駆使しながら、
固い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いて
いく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指
して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能
なことの達成もおぼつかないというのはまったく正
しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
しかし、これをなしうる人は指導者でなければなら
ない。いや指導者であるだけでなく、英雄でなけれ
ばならない。(中略)自分が世間に対して捧げよう
とするものに比べ、現実の世の中が──自分の立場
から見て──どんなに愚かであり卑俗であっても、
断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『そ
れにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。
そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」
このような気骨があり、政治を行なうことを「天職」
と認識している政治家(達)の出現が待望されます。
最近の政治家の不祥事についてのコメントはあえて
避けますが、政治家の先生方にこの一文を読ませて
あげたい衝動にかられます。
一方、民主主義国家である我が国の未来は、つまる
ところ、マックス・ヴェーバーがいう、政治を「天
職」と認識している政治家(達)を輩出する国民に
かかっているとも言えるでしょう。国民の側もカー
ライルの「この国民にしてこの政治あり」をしっか
り認識する必要があるのです。
戦後の歴史教育を批判した1冊として有名な『日本
の歴史の特性』も紹介しましたが、著者の歴史家・
坂本太郎氏は、「どこの国の教科書も、自国の立場
を正当化し、過去を美化していないものはない。ひ
とり日本だけ自国の立場を冷淡に批判するというの
は常識にはずれている」として、「青少年の心に訴
え、明日の活躍への希望をつちかうものは、愛情に
根ざした歴史でなければならぬ。2千年もの長い間、
1つの民族をもって1つの国家を造り、輝かしい平
和と独立とを保ちつづけた日本の歴史を、世界一の
存在だと知るとき、国家愛、民族愛、伝統愛は、油
然として沸き起こらねばなるまい、と思うのである」
と結んでいます。
坂本氏のこの指摘は、まさに“我が意を得たり”で
あり、改めて、「歴史のつながり」の重要性を訴え
るものと考えます。過去・現在・未来はつながって
います。改めて、“過去は変更することはできませ
んが、未来は創り出せる”のです。
そして「国家100年の計」とはこのようなことを
指すのだろうと考えます。私は、「我が国の歴史を
振り返る」として主に「国防」の分野の歴史を振り
返り、史実を知ってから先人たちに敬意を表してい
る自分自身を発見しました。それもあって、「我が
国の未来を見通す」としてメルマガを発信し続けな
がら、現在の我が国の課題を引き起こした最大の要
因は、戦前の歴史を否定し、歴史を分断したことあ
るのではないだろうか、と考えるようにもなりまし
た。
百田尚樹氏は、近著『大常識』の中で、「日本人の
平和ボケは不治の病」と断定していますが、その原
因こそ、戦前の歴史を否定し、あえて学ぶことを避
けてきたことが、多くの日本人から“現実をしっか
りとらえる”知性を奪って、それが「平和ボケ」に
つながっていると思えてなりません。今こそ、しっ
かり軌道修正する必要を感じます。
また、元国連職員の谷本真由美氏も近著『世界のニ
ュースを日本人は何も知らない』の中で面白い指摘
をしています。つまり、「日本は世界の文化の最終
終着地である」として、日本は、国内文化のみなら
ず、“イギリスや中国国内などもはや(現地には)
存在しないそれぞれの伝統文化さえも大事にしてい
る”「良さ」があると解説しています。このような
日本文化が将来、“世界を救う”ことにつながる可
能性もあるでしょう。
このようにあれこれか考え、悩んだ結論として、我
が国の「統治のかたち」あるいは「国のかたち」は
現在のままで��いのだろうか、という点については
今も頭に残ったままです。本文では少し触れました
が、結論はどうあれ、そのための憲法改正を含み、
勇気を振り絞ってその議論に立ち向かうのは、戦後
世代に課せられた「宿題」のような気がするのです。
260年あまりの徳川幕府に終止符を打った幕末の
志士たちは、吉田松陰が唱えた「草莽崛起」(そう
もうくっき)〔志を持った在野の人が立ち上がり、
大きな物事をなす〕によって心を動かされ、命を賭
して行動したと言われます。
講話の行脚をしている時、偶然にも何人かの人が熱
い気持ちを込めて「草莽崛起」という言葉を口にし
ておりました。現在、本当に「明治維新」ならぬ
「令和維新」として、心ある在野の人が立ち上がる
時が到来しているのかも知れないのです。後世に我
が国の有形無形の”資産“を残すために戦後世代が
覚醒して立ち上がり、やがて「巨大なパワー」に成
長する・・・本メルマガがそのような輪が広がるこ
とに少しでも貢献できるのであれば本当に望外の喜
びです。
12月12日は「漢字の日」でした。今年の漢字は
「税」だそうで、京都清水寺の森清範貫主が本殿の
前で揮毫されているお姿を拝見しました。実は、大
阪の講話の折に、京都清水寺に立ち寄って貫主にご
挨拶させて頂く機会を得て、漢字1文字を揮毫して
いただきました。
私は、「我が国の未来」が「明るく、輝かしい未来」
になることを心より祈念し、「輝」という漢字を揮
毫していただきました。私自身は今なお、心ある多
くの日本人が覚醒し(「荒魂」が眠りから覚め)、
力を合わせて、様々な障害を乗り越え、必ずや明る
く、輝かしい未来を創り出す、そのような日本の
「国柄」は変わらないと信じていることを付け加え
ておきたいと思います。
まとまらない「あとがき」になってしまいましたが、
これをもって「我が国の未来を見通す」完結です。
読者の皆様、長い間、お付き合いいただき、本当に
お疲れ様でした。元自衛官としてあるまじき暴言の
数々について心よりお詫び申し上げ、重ねての御礼
とさせて頂きます。
最後になりましたが、毎回、私の誤字脱字だらけの
つたない原稿に目を通していただき、メルマガ軍事
情報と仲介の労を取り続けて頂いた並木書房の奈須
田社長、そして、毎回のように、冒頭で過分なご紹
介を賜り、時に極めて適切なコメントや叱咤激励を
頂いた上、「我が国の未来を見通す」のバックナン
バーも残して頂いているメルマガ軍事情報オーナー
のエンリケ氏に心より感謝申し上げ、結びと致しま
す。長い間、本当にありがとうございました。
(おわり)
(むなかた・ひさお)
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gallery-fall · 9 months
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『すべての雑貨』文庫版
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三品輝起『すべての雑貨』筑摩書房
800円+税 | 256頁 | 文庫判 | 2023年4月10日発行 |  ちくま文庫
2017年に夏葉社より刊行された1冊めの自著『すべての雑貨』が、筑摩書房より文庫化されました。
若干の加筆訂正のほか、文庫版あとがき「六年後のルノアールで」と、荒内佑さんによる解説「小さく、遅く、むなしい、遁走」を追加しました。
本書は「雑貨とはなにか」について考えたことと店やじぶんについて書いた、29の文章からなるエッセイです。
解説を書いてくれた荒内さんは「cero(セロ)」というバンドでご活躍の音楽家で、出色のソロ・アルバム『Śisei』は店でもよくかけています。また2020年には『小鳥たちの計画』(筑摩書房)というエッセイも��梓しています。
またカバー作品は工藤冬里さん、カバーデザインは佐々木暁さんが手がけてくれました。
どこかで見かけたら、ぜひ読んでみてほしいです。
→  筑摩書房の紹介 →  通販(FALL) →  旧版『すべての雑貨』夏葉社 → 『雑貨の終わり』新潮社
インターネット、ヒロ・ヤマガタ、英字新聞柄のシャツ、ムーミン、マガジンハウス、マックス・ヴェーバー、Amazon、ソニープラザ……あらゆるものが雑貨化する社会の、雑貨店主の思考録。
「世界がじわじわと雑貨化している気がする。これは豊かになって物の種類が増えたから、ってだけじゃない。それまでは雑貨とみなされてなかった物が、つぎつぎと雑貨に鞍がえしているせいなのだ」。
ひとりで雑貨店を営む著者は、この社会のあらゆる事物を手がかりに「雑貨とは何か」を帳場で考えた。雑貨、消費社会、店の経営、人生についての、とても面白いエッセイ。(『すべての雑貨』帯より) 
-
本書は「雑貨そのもの」について書かれた雑貨の紹介本でも、世界中の雑貨を探し回るような冒険譚でもない。そうではなく「雑貨をめぐる状況」について書かれたエッセイだ。社会学でも、経済学でも、考現学でも、消費文化論でもなく、エッセイ。もちろん今挙げた要素は全て入っているが、アカデミックな方向に行きそうになる手前で、踵を返し、西荻窪の雑貨屋に帰ってくる。広大な思索や考察をくり広げても、あるいは遠い思い出を掘り起こしても、閉店後の店で、店主が足元を見つめ一人立ち尽くしている——そんな印象が通底している。(荒内佑「解説 小さく、遅く、むなしい、遁走」より)
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関連情報
『綴葉 ていよう』(京大生協 綴葉編集委員会) → 綴葉(425号)
国立市にある増田書店の文庫担当者が、不定期に発行するフリーペーパー『Now Printing 文庫新刊案内 8月』で『すべての雑貨』をとりあげてくれました。 → Now Printing → Instagram
『散歩の達人』(交通新聞社)2023年8月号でインタビューを受け、『すべての雑貨』も少し紹介してもらっています。(2023年7月) → 散歩の達人(2023年8月号) → X
『men's FUDGE』(三栄)2023年7月号に『すべての雑貨』のレビューが掲載されました。(2023年6月) → men's FUDGE(2023年7月号)
荒内佑さんによる『すべての雑貨』の解説「小さく、遅く、むなしい、遁走」が「webちくま」に公開されました。(2023年4月) → webちくま → Instagram
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もくじ
Ⅰ 夜と店の隅で 雑という字 半径一メートル 雑貨の銀河系 ちがいさえあれば 英字新聞 これは本ではない 予告された雑貨の記録 家路 雑貨の秋 音楽を聴いたころ オフシーズン ホットポー
Ⅱ 道具考 路傍の神 千のキッチュ 千のクンデラ 十一月の谷 俗と俗とが出会うところ 弦楽四重奏曲第十五番 漏れかっこいい スピード・オブ・ライフ
Ⅲ 限界集落 船底の構造模型 パーリア的、ブラカマン的 悲しき熱帯魚 幽霊たち 最後のレゴたちの国で 落葉
文庫版あとがき「六年後のルノアールで」 解説「小さく、遅く、むなしい、遁走」荒内佑
三品輝起
Teruoki Mishina
1979年、京都府で生まれ、愛媛県で育つ。2005年より東京の西荻窪にて雑貨店「FALL」を経営。2017年『すべての雑貨』(夏葉社、のちに、ちくま文庫)、2020年『雑貨の終わり』(新潮社)、2024年『波打ちぎわの物を探しに』(晶文社)を出版する。
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地図 | 13:00 - 19:00 | 月・火お休み
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kirezilla · 1 year
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自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
── マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(脇訳)
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sendaihiscafe · 2 years
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せんだい歴史学カフェ 第119回放送「歴史のゼミって何やってるの? テキスト選びからレポートまでのお悩み大会」の参考文献
第119回放送をご視聴いただき、ありがとうございました!
放送時のtogetterまとめはこちら⇒ https://togetter.com/li/1939181
放送で取り扱った参考文献は以下の通り!
・南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』 (講談社学術文庫)、講談社、2014年
・東京大学教養学部歴史学部会 編『東大連続講義 歴史学の思考法』岩波書店、2020年 https://www.iwanami.co.jp/book/b505598.html
・服部良久他『人文学への接近法 西洋史を学ぶ』京都大学学術出版会:人文学への接近法 (kyoto-up.or.jp)
・マックス・ヴェーバー 著 大塚 久雄 訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年、 https://www.iwanami.co.jp/book/b248662.html
・『岩波講座 世界歴史』第3期シリーズhttps://www.iwanami.co.jp/news/n43810.html
・橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社学術文庫、2016年https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211825
・『論点・西洋史学』https://www.minervashobo.co.jp/book/b505245.html
・『論点・東洋史学』https://www.minervashobo.co.jp/book/b595260.html
・『論点・日本史学』https://www.minervashobo.co.jp/book/b607345.html
以上、よろしければご参照ください!次回放送もどうぞお楽しみに!
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yasuhitoyano · 6 years
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■覚え書き ルソー:『社会契約論』(1762年) 『人間不平等起源論』(1755)『エミール』(1762年) フランス革命(1789年–1799年) ロバート・フルトンが、蒸気船の商業化に成功(1809年) 世界最初の商用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通(1825年) ウィリアム・クックによる電信の最初の商業化(1839年) ★イプセン生(1828年) 明治維新(1868年 ※明治元年) 東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設される(1871年 ※明治4年) 西南戦争(1877年 ※明治10年) イプセン:『人形の家』(1879年)『幽霊』(1881年)『ヘッダガブラー』(1890年) チェーホフ:『かもめ』(1896年)『ワーニャ伯父さん』(1899年-1900年)『三人姉妹』(1901年)『桜の園』(1904年) フロイト:『夢判断』(1900年) ★イプセン没(1906年) ソシュール:一般言語学講義(1906年-1907年、1908年-1909年、1910年-1911年) 夏目漱石:『吾輩は猫である』(1905年)-『明暗』(1916年) 第一次世界大戦(1914年-1918年) マックス・ヴェーバー:『職業としての政治』(1917年) ロシア革命(1917年) ロシア革命100年(2017年) 明治150年(2018年)- 現在
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nusumigaki · 4 years
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社会学者のマックス・ヴェーバーはカルヴァン派の人々の生き方と業績が、資本主義の原型を生み出し発達させたと考え、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著しています。
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yusobukawa · 5 years
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アンディ・ウォーホルと資本主義
アンディ・ウォーホルの作品は、「物」を対象化する。
この括弧付きの「物」は、普段わたしたちがそれとして扱っている物と同じではない。ウォーホルが描き出すのは、被造物における物神性が排除された、21世紀の現在まで続く、20世紀的消費社会における「物」である。そこにおいて、あらゆる物に取り憑くはずの八百万の神は、背景に遠のいている。
彼の作品が意味しているものは、複製技術時代の芸術作品として、アウラを失っていることの自嘲的揶揄とも受け取れるし、象徴性、意味性を失ったハイパーリアルにおける、改めて焼き増しされた60年代のダダ的表現の再確認と受け取ることも出来るだろう。
彼自身の言葉で語るならば
「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」
ということになる。すなわち、意味などないのだ、と。
しかし、それとは裏腹に、我々は彼の作品を見るとき、そこに神秘性を見出しているように思える。
個体性の零度に達したかのようにして並ぶキャンベル缶や、極彩色に着色されたマリリン・モンローの微笑み、シルクスクリーンの裏に彼のサインと制作ナンバーを見つけることは、かつての宗教者が神の痕跡を見つけることとどこか似ている。
わたしたちのこういった心理は、どのように説明されるだろうか。
これの解釈を試みるために、キーワードを二つ挙げようと思う。それは、「主体化としての近代」と、「脱主体化としての現代」である。
今日わたしたちがその中で暮らす文明が(資本主義社会が、と言い換えても良い)、どのようにして生成/構成されたのかについては、マックス・ヴェーバーの有名な著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)』が、一つの解答を与えている。ヴェーバーは、16世紀の西洋社会において、ルター、カルヴァンなどによって主導された宗教改革の影響が、キリスト教教義による厳格な禁欲主義へと帰結したことが、資本主義社会の誕生のきっかけとなったことを指摘している。
「生産の〝規格化〟という資本主義の要求に形影相伴っている、あの生活様式の画一化という強力な傾向は、もともと〝被造物神化〟の拒否をその観念的基礎としていたのだ」
すなわち、わたしたちの文明が、物から神性、象徴性、意味性を排除し、消費社会における「物」を作り出すのは、我々の深部にある、他ならぬ超越論的神秘性がその下部構造として"ア・プリオリ"に働いているからだ、とヴェーバーは言うのである。プロテスタントは偶像崇拝を禁じている。これは、たとえ神の姿を表現したものであるとはいえ、人間の作ったものが神の代用として神秘性を持つことを、悪しきことと考えたからだ。良き信者とは、純粋に神と自己との関係においてのみ、神の姿を見るのである。
したがって、ヴェーバーの指摘にしたがうならば、物が記号化された「物」となるのには、一種の宗教的な強制力が働いている、ということになる。それは流通の利便性や氾濫する広告の効果などでは決してない。物が画一化され、平面化されるのは、人々が合理的精神を愛する神の意志に沿うためなのだ、と言える。
ルターもまたその一部に与するドイツ観念論の伝統は、そもそも「神がなければ知性なし」のテーゼを掲げている。神は、人間の「理・知」を愛するのである。
わたしたちは、科学の時代を自称する現代に生きながら、その一方で、依然として神に似た「何か」が放つ神秘性とのパースペクティブを基準にして日々の生活を営んでいるように思える。
ここで、先に挙げた「主体化としての近代」と「脱主体化としての現代」について考えてみよう。
近代における主体化の運動は、垂直的な権力社会ー君主制、封建制などを基礎とする社会ーの崩壊とともになされた。垂直的な社会は、上から順に権力を下ろしていく。そのとき、最上位にあるものとして要請されたのが神であった。主体化の運動は、君主制の崩壊に伴う神の死とともに、その存在を内面化することによってなされた。すなわち、神の死は社会的な必然だったが、実際にはそれは存続し、個体的な人々の主体性の中にその住処を見出したのだ。これによって、少なくとも形式的には、社会の枠内にいるすべての人の内面に、抽象的な神が移植された。これが、「主体化としての近代」である。
しかし、神は、人が自分と同じ顔をすることを嫌うのである。「“被造物神化”の拒否」は、すべての対象、すなわち、対象化された自意識に対してすら向けられる。内奥の「神」と、外面の「人」。この関係はしばしば逆転される。要するに、人間が神のような顔をすること。しかし、これは決して許されないのである。すなわち、内面化された神は決して人間化されたわけではなく、あくまでも神のままで、人に対する支配を続けなければならない。人と神のパースペクティブは、決して止揚されてはならないのだ。神に対し、人はあくまでも客体的な存在に止まる。これが「脱主体化としての現代」である。すなわち、統一的な主体の客体として、自己を有限的に分裂させること。この傾向は、全体化、画一化を嫌うように見えたポスト構造主義の面々においても例外ではなく、むしろ彼らによって強化すらされたのである。
ウォーホルが、「(作品の)裏側には何もありません」と語るのは、己の主体性の存在を覆い隠し、あくまでも客体的な態度を保とうとしたためであるとも取れる。
近代以後を生きるわたしたちは、密かな信仰を内面化し、その垂直的な力学を利用して、自らの主体的な同一性を構築する。しかし、その一方で、それを脱主体化しようとする水平的な力にも晒されている。
ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で提唱した芸術作品が持つアウラの「いま」「ここ」性は、カントの超越論における感性の形式としての「時間」「空間」に対応するものとして考えることができる。超越論によれば、この「時間」と「空間」は、感性と現象の接点を段取りするのであり、この感性は、理性から悟性の段階を経て、垂直的に統一される自意識の素材を提供する。
この超越論を前提するならば、アウラの喪失が示すものとは、すなわち統一的な理性主体としての自意識の解体である。それは、内奥の神と人間の自意識の、不当な同一性の摘発である。
わたしたちは、自らのアイデンティティさえも、共時的な記号として機能する「物」と同じように扱わなければならない。神によって構築され、守られていたはずの個体的な自意識を、今度は神の命によって廃棄するというわけだ。
この一見矛盾した相反する二つの傾向こそが、近現代/資本主義社会の動力であり、このズレによって消費社会の歯車は回転している。
「物」が、徹底的に無味乾燥であればあるほど、それを見るものに神秘的存在を強く意識させるのは、そういった事情が「裏側」で働いているからだ。宗教的に純粋である白と、無印良品としての白がここで重なる。
わたしたちは、神の存在を信じない。かつて偶像崇拝を禁じた厳格な社会は、今や神そのものに対する信仰すらも不純として廃棄したのだ。しかし、わたしたちはすでに、新たな偶像を手に入れている。それは、偶像としての神秘性を、超越性を、個体性を徹底的に廃棄された「物」である。
アンディ・ウォーホルが描き出すのは、そういった「物」なのだ。偶像なき偶像崇拝。そこに神がいないことによって描き出される神の威光。今や、「物」は、わたしたち自身の鏡像である。わたしたち、すなわち抽象的な意味における「わたし」たちは、今やそういった対象なしには存続できない。神秘的でないこと、主体的でないこと、唯物的かつ即物的であること。唯物論は、「神の否定」として客体的に存在するわたしたちに許された、唯一の積極性として提示されている。
不在であるがゆえに感じられる神の威光。それは、ウォーホルが勧めるように、作品の「表面だけ」を見つめることによって炙り出される。作品の「裏側」は存在しない。なぜなら、神の住処は、作品ではなく鑑賞者自身の視点の裏側なのだから。鑑賞者は、自らの内奥に棲む神によって、ウォーホルの作品の空白を埋めるのである。
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naishinokami · 3 years
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信条倫理家は、純粋な信条の炎、たとえば社会秩序の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることにだけ「責任」を感じる。(中略)行為には信条の証しという価値しかなく、またそうであるべきなのである。
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』、脇圭平訳、2020年、岩波書店、104ページ。
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uedah1 · 3 years
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感染症流行下の暮らし14
近畿地方三府県等へ出されていた緊急事態宣言は延長・対象の追加が決まる。都道府県で延長を求める方針が決まり、政府に伝えられ、政府は分科会に諮り、答申が出、政府が発出する。この迂遠な…もとい慎重なシステムは、南海トラフ三地震を想定した災害緊急事態の布告とは様相が違うなあと思う。
しかし、政治判断が幾重にも必要とされるこの仕組み、妥当なのだろうか?マックス・ウェーバー(ヴェーバー)の言う所の「予見可能性」が無い運用にはなっていないだろうか。フェーズ1~4とか呼ばれている指標も、結局何か良く分からない(なし崩し的に、単なる病床の逼迫度合いばかりが取り上げられるが、結局このボトルネックからは自由になれないので、最初からこの所しか重要ではなかったのではないかと思った)。急に使われ始めた「まん延防止等重点措置」然り、どうなればどう、という明確さがなく、すっきりしない。
身の回りでも、陽性反応、自宅療養、ワクチン接種と言った情報が飛び交うようになって来た。
さて改めて調べてみると、政府のCOVID-19対処の緊急経済対策は令和二年度予算で補正を含めて233.9兆円、令和三年目度予算では令和二年度予算の余りを併せて73.6兆円の規模。二年で約300兆円が国内に投入されている。そう思うと、本当にぶったまげる金額の財政支出であり、本邦もよくやっていると思えてくる。全てが直接COVID-19に対応する為のものではなく、新時代の新様式を整えるという名目で既存の政策をどさくさ紛れに推進する分が含まれている事を承知で、だ。しかしながら、実際に、去年の今頃の専らの話題だった、休校要請と現金給付の大論争は、大学のオンライン講義化の是非と給付ルールの混乱(所管で変わる適用基準など)というレベル迄トーンダウンしたと言えるのではないだろうか。
さて、去年の今頃と言えば、効くか効かぬかのアビガン争奪戦があったかと思うが、未だに治験中らしく、今秋迄に結果を出す事が目標らしい。スピード感がないとそしるべきか、拙速を避けたと評すべきか…。
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extracts-sheep · 2 years
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だが、こんにちでさえ、成功に対するわれわれの態度は、ときに思われるほど神の摂理への信仰と無縁なわけではない。われわれは自由な人間主体であり、自分自身の努力によって出世も成功もできるという考え方は、能力主義の一面にすぎない。同じく重要なのは、成功を収める人びとはその成功に値するという信念である。能力主義のこうした勝利主義的側面は、勝者のあいだにおごりを、敗者のあいだに屈辱を生み出す。そこに反映しているのは、依然として残る神の摂史理への信仰である。それは、ほかの点では世俗的な社会の道徳的語彙のなかに根強く存在してい るのだ。  「幸運な人物が幸運であるという事実に満足することはめったにない」と、マックス・ヴェーバーは述べている。「それだけでは飽き足らず、彼は自分の幸運に対する権利があることを知らねば気がすまない。自分はそれに値するし、何よりも他人とくらべてそれに値するのだと確信したがる。また彼は、あまり幸運でない人も当然の報いを受けているにすぎないという信念が認められることを望んでいる」  能力の専制の少なくとも一部は、こうした衝動から生じる。こんにちの世俗的な能力主義的秩序において、成功の道徳的解釈は、神の摂理へのかつての信仰を繰り返したようなものとなる。つまり、成功を収める人びとの権力や富は神の介入のおかげではない――彼らは自分自身の努力と苦労のおかげで出世するものの、その成功は彼らの崇高な美徳を反映しているというのだ。裕福な人びとが裕福なのは、貧しい人びとよりもそれにふさわしいからなのである。
実力も運のうち 能力主義は正義か? | マイケル・サンデル
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ino-null · 3 years
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山道登ってるときめちゃくちゃアドレナリンでてキモチイイ、あそこでだけ自分を取り戻せる。 pic.twitter.com/XvDufG4pjC
— MC マックス・ヴェーバーによろしく (@tsfmysd) December 11, 2020
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tayano · 4 years
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たとえば、社会学の祖のひとり、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本がある。これは、古代中国にもローマにも発達した経済はあったのに、なぜ近代の西洋社会だけが、資本主義を急速に発展させたのか、という問いに対して、それは人々が贅沢を求めたからだという通説を否定し、実は倹約を旨とするプロテスタントの考え方(倫理)が要因になったのだ、ということを主張した研究だ。いまではヴェーバーの主張は歴史的に見て正しいとは言えない、という理解がスタンダードであるようだが、社会学部ではいまでもヴェーバーの研究を紹介している。 その理由は、『プロ倫』の主張が、まさに社会学的な発見のモデルケースになるからだ。ヴェーバーは「意図せざる結果」という言い方をするのだけれど、本人たちはそんなつもりがなかったのに、そういう人たちが集まって社会を形成し、ある営みを経ると、当初は思ってもいなかったような結果になるという思考のパターンを伝えるために、社会学者はいまでもヴェーバーについて講義するのである。 こうした「本人たちはよかれと思って行動したのに、思ったような結果にならない」という例は、現代でも散見される。被災地のためにと思って物資を送ったら、物資の整理や備蓄、分配の仕事が増えてかえって被災者支援を妨げるとか、「マスクの買い占めはやめましょう」とアナウンスすることで、逆にマスクを確保しようとする人が増えて品不足が起きるとか。 重要なのは、このとき社会学は、人々を「正しい知識を身に着けていない情弱だからデマに踊らされる」といった見方を取らないということだ。大事なことなので二回言う。社会学は、社会を生きる人々に対して「アホな連中だ」といった決めつけをせずに、「この人たちはこの人たちなりに、なにかをよかれと思って行動しているはずだ」と想定し、なぜそんなことをするのだろうと問うのである。
社会学は何をしているのか « SOUL for SALE
https://blog.szk.cc/2020/09/16/what-does-sociology-do/
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taizooo · 6 years
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2017年の良かったこと
* 良かったこと: FUNKstudy(通年) 三年日記(通年) 今週末の良かったこと(ほぼ通年) Life with Tumblr [daily text posts](ほぼ通年) アドベントカレンダー完走 [2017AC2017, RAC8](12月) 読書(→5月) ランニング(6月→) 読書(11月再開→)
* 結果に結びつかなかったこと: 禁コーヒー(11月) 洗濯物、畳む(→11月)
* Web: scrapbox https://scrapbox.io/ tumblr 10週年 https://www.tumblr.com/dashboard
* 読書: カート・ヴォネガット 「スローターハウス」「これで駄目なら」 マックス・ヴェーバー 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 ドナルド・キーン 「百代の過客」 松尾芭蕉 「おくのほそ道」 フィリップ・マフェトン “Maffetone Method” アダム・スミス 「道徳感情論」
* FUNKstudy & yetAnotherFunkStudy: Google Play Music の I’m feeling lucky the numero group のコンピレーション http://www.numerogroup.com /cd https://scrapbox.io/cd スカート | 20/20 tofubeats | FANTASY CLUB ロックステディ (ギターマガジン 9月号 ジャマイカ 楽園のギタリストたち) スティービー・ワンダー
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うめはとりを読んで
みなさんおひさ。ほぼ半年ぶりの更新だ!ハーバード大学経営大学院の博士課程で組織の勉強と研究に精進している。人生を捧げる覚悟を決めた組織論だが、今回生まれて初めて組織論についてのクラス(セミナー)を履修している。これまですべて独学だった割には、思っていたより自分の組織に関する知識量は少なくなく、独学もバカにならないなという毎日だ。それでも、しっかりとしてシラバスがあり、我流で頭の中でまとまっていた文献が体系的にリストアップされているのは非常にありがたい。周りのクラスメイトには頭がいっちゃてる人に見えているかもしれない、というくらいセミナーで爆発している。人の話をよく聴ける能力も学者として重要なので、今週から意識的に口数を2割カットしようともしている。
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昨年ノースカロライナ州のホンダエアクラフトカンパニー社を訪問した際の写真。藤野社長、竹内教授と。
さてはともあれ、しんご先生がいよいよウェズリアンに帰還した。それと同時に「うめはとり」も花開いているようだ。中でも、フェミニズムについての以下の論点が非常に面白い。:
しずは:
脱構築っていうのは、私的には毎日蓄積される、個人レベルの無意識的な習性の源流を意識的にたどるっていう感じ。この「習性」を文化人類学とか社会学ではかっこよくhabitus(ハビトゥス)って呼ぶの。habitus 自分の行動、思考のクセはどうやって生まれたんでしょうねっていう質問を繰り返していく際に、「ジェンダー」とか「人種」とかっていう補助線があると辿りやすいよね、っていうお話。例えばなんで女の人だけ化粧したがるんだろう、とか、なんで「男の人」と「女の人」のボールの投げ方に違いがあるんでしょう、とか。
そして、議論は進み。。。
しんご:
そうかそうか。決定論的な考え方に抵抗したかったわけだ。
でもね、なんか最後のところがよくわからなくて、「もう少し主体的に自分に影響を及ぼすものを選びたくなった」っていうところを説明してもらえると嬉しいかな。
しずは:
なんか世の中には、「○○主義」ってよばれるものや「ジェンダー」とか「人種」とかhabitusを形成するものがたくさんあると思うんだけど、それらからの影響を受けずに自分を形成していくのは社会の中に存在していく限り無理だと思うんだよね。だから、せめて自分がどんなものに影響を受けていて、そのいいところとわるいところはこんなところで、自分が嫌だと思うhabitusは出来る限りデトックスしていって、みたいなことをしたいような。
しんご:
ん?その答えと「自分に影響を及ぼすものを選ぶ」というのは違う話なのでは?自分を取り囲む環境を選んでいこう、という話をしているのかと思った。
あと、どんだけ頑張ったって、そのhabitusを形成するもののリストは無限に続くわけで。どこまでいってもその闘争は終わらないじゃない。一生そのプロセスを続けていくの?
しずは:
うん、そんな意味もある。なんだろうはっきりこれです、っていうものはないから正直答えられない。理由なんて全部後付けの様な気もする。答えたらなんかすごい自己意志力を過信しているようにも聞こえちゃうからそれもいや。それにまだフェミニズム勉強しはじめて2年しかたってないからまだなにもわかっていないような気もする。最初はフェミニズムって自分が今までつながれてた鎖をとってくれたものなんだーって思って嬉しかったけど、しんごさんのいっているように勉強すればするほどフェミニズムの鎖がどんどん自分の想像力を小さくしているようで最近苦しくなってきたような気もする。じゃあ勉強やめてしまえ、えいやっ、ともならない。あれ、こんなに生きるのって難しかったっけっていうのが正直な感想ですわ。
ここで一つ隠れた前提がある。上記の議論に基づけば、habitusは○○主義といった世界観やそれから派生した価値観によって形成されていることになる。つまり、「価値観→ハビタス→実際の行動(アクション)」ということになる。これが、「価値観が社会的に潜在していて、人々がそれに基づいて行動をし続けるため、その価値観自体が存在し続ける」というシステムだ。これは確かに決定論的だ。自分の主体性がない(社会的要素に決定されている)。その場合、しんごの「「自分に影響を及ぼすものを選ぶ」というのは違う話なのでは?自分を取り囲む環境を選んでいこう、という話をしているのかと思った。」という返答はもっともだ。自分の置かれている社会環境に潜在している価値観によって自分の習慣が形成されているから、その環境を変えない限りは自分は変われないということだ。大前研一が「人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変えること。2つ目は住む場所を変えること。3つ目は付き合う人を変えること。」と言ったうちの、後者2つがこれに価する。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」もカルヴィニズムというプロテスタント一派の「一生懸命働くことで救われる」という宗教的世界観が資本主義の発展を牽引したという有名な主張をしている。
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ハーバード大学経営大学院(ビジネススクール)キャンパスの美しい紅葉
一方、この���価値観→ハビタス」の前提は文化社会学者の中で��ここ30年で都落ちしつつある視点でもある。社会における「文化」というものが一定の価値観を形成しているのではなく、文化は様々な、時には相反する価値観、世界観、シンボル、ストーリ、ハビタス、などを内包していて、それが「文化資源」として機能しているという考え方だ。Ann Swidler (1986)は次のように言い切る:
Culture influences action not by providing the ultimate values toward which action is oriented, but by shaping a repertoire or "tool kit" of habits, skills, and styles from which people construct "strategies of action" (p.1) .
文化は特定の行動を支持する究極的な価値観を通して人々の行動に影響を及ぼしているのではなく、むしろ、様々な生活習慣や生活上の時術とスタイルが入っている一種の道具箱としての側面があり、人々はその時々の状況に応じて文化の道具箱から特定の道具を選んだり、複数の道具を組み合わせて行動につなげる戦略を立てるのだ。
上記だけだと漠然としているので例を一つ挙げよう。学校の廊下で部活の先輩にばったり会って会話になったとする。いわゆる「日本的な」文化に基づけば「目上の人には敬語を使わなければいけない」という社会的な価値観(習慣と見ることもできる。価値観と習慣がコインの表裏であるいい例だ)がある。さらに、年上のものは「社会的に」自分よりステータスの高い人だという信条も付随している。このシチュエーションに遭遇した場合、ほとんどの人は頭を下げ挨拶をし、敬語で会話をするわけだが、果たして、「目上の人には敬語を使わなければいけない」という価値観によって自動的にそうさせられている(インプットさせらてている)のか?「価値観→ハビタス→行動」論に基づけばそういうことになる。
道具箱としての文化の視点に立ってみると、上記のシチュエーションのニュアンスはだいぶ変わってくる。この場合、「目上の人には敬語を使わなければいけない」という習慣を個人が意識的・無意識的に関わらず主体的に利用し、状況を自分有利に進めようとしていると捉える。個人は別にこの特定の価値観を利用する必要もない。弱そうな奴だったら相手が年上だろうが先輩だろうが無視するかもしれないし、はたまたカツアゲをするかもしれない。相手が強い奴でも後ろに先生がいることが分かっていれば反撃されることはないと踏んでタメ口で話すかもしれない。日本的な価値観が「目上の人には敬語を使わなければいけない」だからといって、状況に関わらず必ず自動的にそれに従わなくてはいけないわけではない。たまたま与えられた状況下でそれが最適な道具だったというだけだ。この場合、個人の主体はかなり確保されているように見える。
そう考えると、いろいろな社会状況に置かれることは自分が利用できる道具を増やす行為と見ることもできる。しずはの言うように「ハビタスをデトックス」しなくても意識的に使いこなせるようになれば良いのだ。マッスルメモリーのように、野球をするときはバッティングの(反復練習の末会得した習慣的な)動き、サッカーをするときはサッカーの動きを使いこなせるようになれば良い。場所と状況を見分けて、最適な文化的資源を最適に利用して行動を起こす。ソーシャルインテリジェンスが高い人はそれができる。
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博士学生の必需品、バランスボール。これで、長時間座り続けてもビクともしないインナーマッスルを創り上げる。
もちろん、個人がどのくらいの主体を担保できるか。つまり、「文化資源」を使いこなすことができるようになるかは難しいところだ。それがものすごく得意な人もいるだろうし、下手くそな人もいるだろうし、練習によって飛躍的に上達する人もいるかもしれない。もしかすると、それがしずはのいう「もう少し主体的に自分に影響を及ぼすものを選ぶ」ことなのかもしれない。大前研一の「時間配分を変えること」もその一つなのか?
これは、無意識的に資源に「使われるか」、意識的に「使うか」ではない。別に無意識的に資源を使うことだってある。目的地に到達するために無意識的に地下鉄という道具を使ったっていい。別に車に乗ってもいいけど、習慣化しているから無意識的に地下鉄に乗っても良い。それは、地下鉄を使うために目的地に向かうのではない。文化資源を自己実現というエンドのためのミーンズと見ているだけだ。
結局、2つの視点はコインの裏表。社会的価値観から見ても、個人を主体に見ても、それは視点の違いでしかない。どちらを、エンドとしてみるかの違いだ。それでも、自分をエンドとしてみたほうが肩の荷がおりる。無駄に社会的価値観と戦わなくても、自己実現のためのミーンズとしてみると主体性を取り戻すことができる。エンドとミーンズはあまりにも簡単に逆転するが、自分をエンドに置くほうが、余計なしがらみに悩む必要がなくなる。例えば、社会的な地位を得るのがエンドになって、自分を見失ったり、それに対抗するために悩むのではなくて、自己実現をするための一つの道具として社会的な地位得たっていいではないか。どの道具をどう使うかは自分次第。
では、しずはやしんごのようにジェンダー論を学ぶこと、あるいは文化資源をコントロールする能力を育成するという観点での教育の価値とは何なのか?実は、こういう能力の育成が社会人として活躍するための重要な要素なのかもしれない。皆はどう考える?
それではまた!
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