社会学ノート
ノート
文明化
:予測困難な中世の生活は、気まぐれで感情的な振る舞いに満ちていた。これに対し、暴力・租税の独占に基づく近代的国家の形成や市場経済の発達、上流社会での差異化の競争によって、感情や振る舞いの自己規制を強いる社会的なルールが広がっていく。人間の行動様式や感情の構造に見られるこの意図せざる長期的な変化を、文明化という。
・権力による暴力独占と文明化(N.エリアス)
より安定した暴力独占をもつ社会、さし当りそれは領主ないし王の、かなり大きな宮廷に現れるが、このような社会では人びとの不快感と羞恥心を感じる範囲がひろがり、皆がより文明化された態度をとるようになる。
「文明化の仮定とは、人間の感情や行動の自己規制がますます強化・細分化されてゆく」過程のことであり、それは「社会が国家という解体に組織され、広い地域にわたって物理的暴力が独占化・集権化される」ことによって起こるのである。
・文化地帯(W.F.オグバーン)
近代文化の諸部分は同一の割合で変化しているのではなくて、ある部分は他の部分よりもはるかに急速に変化する。文化の一部分にまず変化がおこり、それに従属して文化の他の部分にも変化が生じる場合、従属部分の変化はしばしば遅延する。
物質文化(工業技術など)→非物質文化へ(制度、観念、慣習的なもの、イデオロギー)
近代化
:産業化や技術革新などの原因により、社会は「前近代」的状態から「近代」的状態へと変化する。この移行のプロセスにあって、合理的精神が支配したり、民主的な政治体制が出来上がったりなど、経済以外に文化や政治などの領域でも変化が生じ、多くの社会が似た特徴を示すようになる。
資本主義と世界システム
世界システム視角の基本的な特徴は、①資本主義を国民経済を基礎単位としたものとする視点を批判し、それを部分での経済活動の特性からではなく、世界経済の総体の構造特性からとらえる点、②世界を中核、半周辺、周辺の三層構造ととらえたうえで、この不均等発展を経済領域のみならず社会・政治の領域も含めて統合的に分析する点、③時間的な周期的変動とそれを通じての全体的な再編成のメカニズムに注目する点の3点に集約できる。そして、これらを貫くメタ理論的な水準には、市場における均衡ではなく、市場の不均衡と不可逆的な累積的構造生成のメカニズムを強調する基礎視点があり、この発想を彼は「史的システムとしての資本主義」という概念に集約させた。
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ブローデルをはじめとする社会史のアナール学派から引き継いだ人口・物価の歴史統計的視点を駆使して、ヨーロッパ世界経済が13世紀以降に経験した拡張収縮の周期的パターンを分析し、それがどのようにシステムの再編成に影響したかを論じた。
アナール学派:現代フランス歴史学の一潮流。研究対象を長期持続や日常性などの歴史の深層にすえた点、および問いの水準で「現在と過去との対話」を重視する点において、社会科学の領域のも大きなインパクトを与えている。
従属理論:第三世界の低開発は、先進国による支配の結果であり、前者の発展のためには後者への従属を断ち切らねばならないと主張するラディカルな経済社会理論。
社会史:社会史とは、複数の社会集団・社会階級とそれらの相互関係の歴史である。従来、社会史という用語はつぎの3つの意味に使われてきた。①下層階級の生活と運動を扱う歴史②風俗・慣行・日常生活など人間行動の社会的側面を扱う歴史③社会構造よりも経済構造の変動に重点を置きつつ、経済から社会を説明していく歴史。
エスニシティとナショナリズム&想像の共同体と伝統の創造
ゲルナーによるナショナリズムの定義
:ナショナリズムとは政治的単位と文化的単位の境界線が一致しなければならないと主張する政治的原理である。
→産業社会と分業体制、中央集権国家、文化的標準化といった近代的条件がネーションの形成を推進し、ナショナリズムが国境内の産業社会に新たな秩序を与えた。
アンダーソンによる定義
:ネーションを「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」と定義し、①想像されたもの(=たとえ小さなネーションでも、そこに属する人々は大勢の自分の同胞に会うわけでもなく、また彼のことについて聞いたり、知ったりすることもないが、心の中に「共同の聖餐のイメージ」をもっている)②限られたものとして想像される(=どれほど多くの人々を擁するネーションでも、そこには国境があり、その先には他の国民が存在している)③主権的なものとして想像される(=主権国家としての自由や権利が保障されており、成員がこれを統治している)④一つの共同体として想像される(そこに不平等や搾取が存在しても、成員同士が「常に水平的な深い同志愛」を思い描いている)という特徴を持っている。
ホブズボウムの創られた伝統論
;彼によれば、「伝統」には、「実際に創りだされて、構築され、形式的に制度化されたもの」と「容易に辿ることはできないが、数年間など日付を特定できるほど短期間に生まれ、急速に確立されたもの」の2つがあり、「創りだされた」伝統は、「歴史的な過去との連続性がおおかた架空のもの」となると指摘。
エスニシティ:エスニック集団への帰属状態、ないしはエスニックな自己意識。エスニック集団は、客観的には言語、宗教、歴史的集合体験等の文化的指標による集団的境界をもち、主観的には集団メンバーの所属意識により定義される。
エスノセントリズム;自らの人種ないし民族を美化してこれを至上のものとする反面、他人種、他民族を偏見・差別の対象とする思想や生活態度をいう。
啓蒙の弁証法
:『啓蒙の弁証法』の主題は、人間の優れた能力とされてきた理性の中には暴力の契機が含まれており、文明が巻き起こす野蛮状態をそうした暴力性の歴史的帰結と見ることにある。まず理性には、自然的世界がもっている本来の豊かな質的多様性を抽象化してとらえ、一面的な操作と支配の対象にする傾向がある。また理性は、人間の自己保存のための道具と化して、内的な自然(感情や欲望)、外的な自然環境、社会的世界を暴力的に支配する。アドルノとホルクハイマーは、こうした理性の暴力性や道具と化した理性の歴史を「啓蒙と神話の絡まり合い」として描いた。
・抑圧と文化の理論(S・フロイト)
人間は自己自身を抑圧する動物である。自らを抑圧することにより一方で文化を創出するが、また他方で自ら創出した文化により抑圧される。
・ルサンチマンと道徳(ニーチェ)
キリスト教道徳の起源は、抑圧された弱者の抱くルサンチマン(怨恨)にある。弱者は、その無力さのゆえに、自分たちのルサンチマンを報復行動に移すことができないので、ただ「想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつける」。換言すれば、「恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪(無力の憎悪)の歯ぎりしをしながら、この逆倒を固持した」弱者たちによってキリスト教道徳は形成された。この意味で、それは「道徳上の奴隷一揆」の所産にほかならない。
cf)社会学は、私たちの「日常政界の意識からしばしば隠されている意味のレベル」をさぐり、「社会の公式的な解釈のなかに与えられている現実」とは違ったレヴェルの現実を探求する。したがって、社会学的意識のなかには、現実を暴露し、お上品な体裁を否定し、すべてを相対化していくというモチーフが内在している。
合理化のパラドクス
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』
:カルヴァン系宗派の信者は、自らが救済されるに違いないという確証を強く求めるようになった結果、浪費衝動・怠惰心を抑制し、神の栄光に不断に奉仕し続けることによって、自分は救われる人間だと思おうとした。このような意図せざる結果によって、禁欲的に職業に励む信者が生みだされ、富や消費への誘惑を断ち、余剰を投資するという資本主義的な動機づけが強化されていく。
合理化の逆説的帰結
①「合理化に伴う非合理化の先鋭化」
②「合理化の衝突」
③「合理化に伴う意図せざる社会淘汰」
世俗化
ウェーバー:近代化とは、人々が伝統的な慣習や自らの感情ではなく、目的合理的に思考、行動するようになるという意味での合理化(「脱呪術化)である。さらに、近代化は、政治や経済などの自律的な価値原理をもつ世俗的領域を分化させるプロセスでもあった。その結果、伝統的な宗教は、新たに生まれた近代社会の多元的価値の競合に敗れて衰退していくものと捉えた。
デュルケム:宗教を「聖なるものに関する象徴と儀礼の体系」と定義し、その存在や働きが完全に損なわれることはないとしつつ、共同体の道徳として社会統合に資することを宗教本来の機能とし、近代化に伴い高度な社会分化が進行するなかで、宗教はこの機能を十分に果たせなくなると考える。
・「神の道具」と教養人(M.ウェーバー)
ピューリタニズム(あるいは禁欲的プロテスタンティズム一般)は「神の道具」として仕事に励む人間を生み、儒教は自己完成をめざし教養をつむことに努める人間を生んだ。
官僚制と近代組織
ウェーバーの官僚制論
:官僚制は、合法的な支配の純粋型。
特徴①権限の原則(活動の規定・権力の規定・計画的な任命)②一元的で明確な上下関係③文書による職務遂行ならびに公私の分離④専門化した活動⑤職務への専念⑥一般的な規則の基づく職務遂行
→官僚制原理は、正確性や恒常性や信頼性に優れ、計算可能性に富んでいるおり、それは普遍的な適用が可能なもんであり、ウェーバーにおいては形式的にもっとも合理的な支配のありようだった。
→それ以降の研究による��僚制のまとめ
①専門性(諸活動がはっきりと区切られていること)②集権制(指揮命令系統がしっかりしていること)③公式性(それらが文書によって明確に規定されているこおt)
支配と権力
支配の3類型(ウェーバー)
⑴合法的支配:合理的に制定された規則には従うべきであり、しかもその規則に定められた限界(権限)の範囲では支配者の命令に服従すべきであるという信仰。
⑵伝統的支配:古くからある秩序は侵してはならないという伝統的な規範への信仰に基づく。伝統的な規範は曖昧であり、合法的支配での明確に制定された規則と違い、権限は不明確である。それゆえ伝統的支配では、支配者に対する恣意的な命令を下す余地がある。しかし恣意も、実際には伝統的な規範によって制約されており、無制限というわけではない。
⑶カリスマ的支配:支配者が特異な(非日常的な)能力を有しているとの信仰に基づく。
基礎集団と機能集団、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
基礎集団:地縁や血縁などに基づいて自然に成立しているように感得される集団
機能集団:特定の目標の達成のために人為的に創られた集団
ゲマインシャフト:家族、村落、近隣、仲間など、本質意志に基づいた実在的で有機的な生命体で、根本的なところで結合している。
ゲゼルシャフト:企業、大都市、国家など、選択意志に基づいた観念的で機械的な構成体で、結合を見せたとしても結局は分離している。
生活世界の植民地化
:生活世界の植民地化とは、私たちの日々の生活が営まれている世界が行政や経済の肥大化によって内側から浸食され掘り崩される事態をさす。植民地化の結果、意味喪失をはじめとする病理現象が生じる。
生活世界:知識のストックであり状況を解釈し意味づけることを可能にする文化、社会的集団への帰属を規制する社会、自己同一性の基礎である人格の三要素によって成り立っており、言語を基盤にしたコミュニケーションによる秩序形成がなされている。
※生活世界の植民地化は、このような生活世界のなかに行政や経済の肥大化によって貨幣と権力が侵入する事態をさす。
シュッツによる日常生活世界の定義
:日常生活世界とはまず<私>が<私>の身体によって繋留されている世界である。<私>が日常生活世界で経験する現実は、<私>の身体が位置する<いま>と<ここ>をそれぞれ時間・空間の原点として、過去—未来、上—下、前—後、左—右、遠—近に従って組織されている。日常生活世界は理論的関心の対象ではなく、実践的関心の対象であり、<私>は日常生活世界において常識的知識を用いて対象に働きかけ、実践的な目的を追求する。また日常生活世界は他者とともに生きられている間主観的な世界である。<私>はもっとも身近な対面状況に直接的に経験できる<あなた>を見いだす。しかし、<あなた>以外にも、<私>は同時代をともに生きる他者たち、すでに亡くなっている過去の他者たち、これから生まれてくる未来の他者たちについても多くのことを知っており、この知識を介してこれらの他者たちを間接的に経験している。
ハビトゥスと文化的再生産
ハビトゥス:人々は社会生活の中でさまざまな経験を積み重ねる。これら過去の社会的諸経験は、反復を通じて身体へと刻み込まれ、人々の性向を形作る。このように過去の諸経験を通じて身体化された社会的性向は、いったん獲得されれば、今度はある種の図式となって、あらゆる文脈で、必ずしも自覚を伴わずとも、一定の傾向性や規則性を備えた知覚・思考・評価・感覚・行為を生み出すように人々を駆動していくことになる。ブルデューは、こうした実践を生成する、持続的で移調可能な性向システムを、ハビトゥスと呼ぶ。
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ハビトゥスは、人々が組み込まれる社会階級的な位置との関係において規定づけられる。
文化資本:個人または集団がそれぞれの社会的活動の場において有する文化的有利さの可能性の大小をさす。家族その他の社会的環境のもとで伝達される文化的財・知識・言語能力、その他諸々のハビトゥス等によって構成される。この文化資本は、文化的再生産のメカニズムを説明するうえで必要な概念として設定された。
階級・階層と社会移動
階級:階級というのは、近代社会の産業経済の仕組みに人々がどのように位置づけられているかということに重きを置いた見方である。そのため階級は職業的地位と切り離し難句関連する。これを社会学の言葉として理論化したのは、マルクスとウェーバーである。マルクスは生産手段の所有/非所有という観点をとりわけ重視し、産業社会のシステムに資本家階級と労働者階級の対立構図を見だした。これに対してウェーバーは、実体として存在している地位集団について、財の所有、技能の有無、ライフチャンスなどの多様な観点から説明した。
階層:階層の方は、明瞭な境界のない地位の連続体、あるいはいくつかの地位や属性が重なり合って成立している複合的な不平等の在り方を指す。社会的出自、学歴、職業的地位、財や経済力などのような社会的地位の関連構造を総体としてさすには、「階層」が用いられる。
・文化としての性差(M・ミード)
ジェンダー
:生物学的・解剖学的な男女の違いを意味する「性」に対して、社会的文化的に形成される男らしさ、女らしさを表す概念。ジェンダー概念を重視することによって、政治・経済・教育・文化・家族など、社会生活のあらゆる領域で女性が男性とは異なる位置を占め、異なる役割を与えられていることの意味が問われるようになった。
家族
:夫婦関係を基礎にして、そこから親子関係や兄弟姉妹の関係を派生させるかたちで成立してくる親族関係者の小集団。しかも感情融合を結合の紐帯にしていること、ならびに成員の生活保障と福祉の追求を第一義の目標としていることにその基本的特徴がある。それだけでなく、家族は人間社会の基本的単位であり、また人間形成、したがって社会化の基礎的条件を提供する最も重要な社会集団である。
近代家族とジェンダー
アリエス以降登場した「新しい家族史」は、近代家族の概念そのものを脱構築するものだった。その一人であるショーターは、家族に対する人々の感情の変化(「感情革命」)こそが近代家族を誕生させたと述べる。ショーターによると家族にまつわる感情の変化は、①男女関係②母子関係③家族と周囲の共同体との間の境界線、の3つの分野にわたり起きたという。すなわち①男女が結婚相手を選ぶ際に、愛情(ロマンティック・ラブ)が重視され、結婚後もそれが夫婦を結びつける絆となる、②母親にとって子どもがもっとも重要なものとなり、母性愛が子どもの幸福に何よりも必要だと思われるようになる、③家族と社会の間に境界が引かれる一方で、家族を結びつける絆がより強調され、プライバシーが誕生する、といった感情革命が資本主義の進展とともにわき起こり、近代核家族が誕生したのだとショーターは指摘する。
落合+西川の近代家族論
①家内領域と公共領域の分離②家族成員相互の強い情緒関係③子ども中心主義④男は公共領域、女は家内領域という性別分業⑤家族の集団性の強化⑥社交の衰退⑦非親族の排除⑧核家族⑨この家族を統括するのは夫である⑩この家族は近代国家の基本単位をなす
※西川がつけ加えたのは⑨と⑩
家父長制
:性と世代に基づいて、権力が不平等に、そして役割が固定的に配分されるような規範と関係の総体
個人化
:近代化の高度化段階を特徴づける概念で、その内容は近代化初期段階で形成された企業・近代家族といった集団が人々を包摂する力を弱め、堅固なものから流動的なものへと変化していく過程のことを指す。これによって企業共同体や近代家族がうさん霧消してしまうわけではなく、結果として人間関係の流動化の度合いが高まるなかで、個々人が文字通り「個人」として、生活やキャリア、そして自らのアイデンティティを形作っていることを余儀なくされる。こうした個人化は、一方では社会変動や社会状況の変化によって構造的に生みだされてくる問題が、それを構造的に解決することが困難であるがゆえに、個人の自己決定に委ねられ、自己責任の名のもとにおいてそれを個人の問題に転化する社会状況の現出という文脈のなかで生まれたものでもある。
感情労働
:職務上で要請される労働場面において適切とされる感情を保持したり維持したりすることで対価を得ているさまを指す。また、その中で人は自己感情からの疎外を経験しているとする。
・抽象的公民の誕生(K.マルクス)
(近代資本主義社会にあっては)現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ、真の人間は、抽象的な公民の姿においてはじめて認められる
疎外
:人間の社会的活動による産物、例えば頭の活動の産物である観念や、手の活動の産物である生産物が、それ自身の生命を与えられ、独自の力をもつかのように見え、それを作り出した人間に対して、逆に彼を支配する疎遠な力として現れるようになることをいう。
アノミー
:適切な規制を欠いている状態。
:社会的規範の動揺・弛緩・崩壊などによって生じる欲求や行為の無規制状態。
→アノミー的自殺(デュルケム):どれほど努力を続けたとしても、抱く欲望がさらに膨れ上がってしまい、現状に決して満足できず、苦しい努力の報われない自らの人生を苦痛にしか考えられなくなり起こる自殺。
逸脱行動とアノミー(マートン)
:制度的規範が揺らぎ、目標を効率的に達成するためならば、社会的に許容されていない手段にでも��える状況。
ラベリングと逸脱(H.S.ベッカーほか)
1. 人が逸脱者というラベルを貼られるのは、逸脱行為のゆえにというより、社会的マジョリティによって定められた同調・逸脱に関するルールが恣意的に適応されたためである。したがってこのラベルは、とりわけ社会的弱者に対して適応されやすい。
2. 人は、他者によって逸脱者というレッテルを貼られ、他者から逸脱者として処遇されることによって、逸脱的アイデンティティと逸脱的生活スタイルを形成する。
ラベリング
:統制活動は、3つの位相において逸脱現象の生成に寄与する。第1に、特定の行為類型を逸脱と定義する位相において。第2に、その定義を具体的な行為者に適用する位相にいて。第3に、被適用者が否定的な自己形成を進める位相において。いずれの位相においても、生成の行方を左右するのは統御側と逸脱側の相互作用である。
社会統合と自殺
デュルケム『自殺論』
社会統合:個人が社会に結びつく様式をさす。個人と個人、あるいは個人と社会集団との結びつき。
自己本位的自殺:社会集団の統合度が弱いときに生じる自殺。「常軌を逸した個人化」によって生じる。
集団本位的自殺:社会統合が高いケースにおいて、社会集団との結びつきが強いために、個人の生命が集団の利益や規範よりも軽視され、また個人が集団のなかに埋没することによって生じる。
アノミー的自殺:社会的規範がアノミー状態に陥り、人々の欲望が際限なく広がり、欲求不満状態に陥るため起こる自殺。
宿命的自殺:社会規制が強い場合に起き、社会が人々の欲望や行動を過度に規制することによって起きる。
アイデンティティ
:エリクソンの中心概念の一つで、客観的には人格の統合性と一貫性を示す概念。主観的には自分がほかならぬ自分であるという確信ないし感覚をいうが、それは同時に自分の不変性と連続性を周囲の他者も認めているという確信・感覚に裏づけられている。
自我の社会性(G・H・ミード)
自我の社会性とは、人間の自我が他者との関連において形成され、展開されることである。自我は真空の中で生まれるわけではなく、孤立した形で存在するのでもない。自我は常に他者とのかかわりあいにおいてその姿を現す。
ミード:「役割取得」(role taking)
→人間は他者の役割期待との関連において自らの自我を形作る。「一般化された他者」
社会化
:人が社会の中でルールや価値を学び、そのことで他者と相互に役割行為を遂行できるようになるプロセスのこと。
第一次社会化は、家族や学校のなかで親や友だちと遊びやゲームなどを通してルールや価値を内面化していく過程として現れる。
第二次社会化は、社会集団のなかで他者と交代可能な「匿名的」な役割を果たしていくなかで、ルールを内面化していく過程である。
準拠集団と予期社会化
準拠集団:人が自分自身を関連づけることによって、自分の態度や判断の形成と変容に影響を受ける集団。一般的には、家族・友人集団などの身近な所属集団からなることが多い。しかし、人が現在所属していない集団、つまり過去に所属した集団、あるいは将来所属したいと思っている集団、つまり非所属集団もまた準拠集団となりうる。
予期社会化:現在自分が所属していない集団を準拠集団とし、そのうえでその準拠集団のルールや価値を学び取るプロセスを指す。
自己
:自分自身との関係である。
→自己の自己たる固有性がそれ自身に言及し、また働きかけることができるという点。自己は他者との関係として成り立つが、他なるものとの関係において成り立つ対象は自己に限られるわけではなく、関係的に成り立つあらゆる対象の中で自己だけが固有にもつ形式、それが自己自身への関係。
『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より
アンソニー・ギデンズは「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。
「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。
「自分の状態についての問題意識が高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。
たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。
自我
:行動や意識の主体とされ、他とは区別された自己のパーソナリティの中核をなすもので、社会的行動の理解における重要な準拠枠とされる。
・自己呈示のドラマツルギー(E.ゴフマン)
社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者(パフォーマー)であり、観客(オーディエンス)を意識した「印象の演出者」である。
共同主観性(間主観性)
:他人は自分と同じような意識を持ち、自分と同じように世界を見ていると思い、その仮定の上に立って思考し行為している世界体系。
再帰的近代化
近代化は伝統社会から単純な近代へ、そして単純な近代から再帰的な近代へという2段階で展開してきた。再帰的近代の段階では、社会活動全般が、それに関して新たに得られた情報や知識によって絶えず検討・改善され、その結果として当の営みがそれ自体、大きな変貌を遂げることになる。
理性それ自体を合理化する再帰的な力が見境もなく働くと、因習・習俗・教理といったものだけでなく科学的な知識さえもが特権的な立場を失い、あらゆるものが疑義や吟味や修正の対象となってくる。こうして前近代にも近代初期にも健在であった基礎づけ志向は極端に衰微し、また歴史の進歩イメージも大きく揺らぐことになった。だが、この新たな時代の位相を脱近代と呼ぶことにギデンズは強く反対する。近代とはまったく異質な時代が立ち現れたというわけではなく、むしろ近代的な合理化の作用が再帰的に徹底するような時代になったという点に着目したギデンズは、これを専らハイ・モダニティという言葉で表現している。
消費社会:ボードリヤールによれば、現代高度産業社会は、生産よりも消費、モノの機能性よりもコード化された差異が優位となっている「消費社会」である。消費は、消費者個人の自律的で自発的な享受というモノの「効用」のレベルから、差異化されたモノ=記号のシステムへの個々の消費行動の強制的な組み込みという「意味作用」のレベルへと転位している。
近代社会と大衆社会
近代社会:近代社会とは、政治的世界における市民革命、経済の領域における産業革命によって誕生した資本主義・民主主義によって支えられる社会であり、貴族階級に代わって台頭した新興市民階級が歴史の表舞台に立った時代であった。その意味で、近代社会はしばしば「近代市民社会」と称される。一般的に「市民社会」は、その理想形において教養と財産を有する「自由」な個人とそうした個人の間の「平等」な連隊によって形成された社会とされている。
大衆社会:20世紀に入り、科学技術の発展によって、大量生産・大量消費のシステムが実現するが、こうしたシステムを維持するため、大量の労働者階級に加え、新中間層―事務・管理業務を担うホワイト・カラー―と呼ばれる新しい社会層が登場したのである。また、社会全体の生産力を向上させ、それらを効率的に管理するために障害となる中間諸集団が排除され、その結果、一方では所属集団を失い、原子化した個人が社会に溢れ、他方ではそうした彼ら/彼女らを画一的で巨大な官僚制的組織が吸収していった。さらに、コミュニケーション技術の高度な発展により、新聞・雑誌、そして映画・ラジオなどのマス・コミュニケーションが発達したが、その負の側面としてメディアを通して大衆の社会心理を操作する大衆操作や大衆支配の可能性が高まった。こうした過程を経て、19世紀まで社会をリードした能動的で自立した「市民」は姿を消し、画一的・没個性的な労働者と新中間層からなる「大衆」の時代が到来した。
エポケー:フッサールが主題化している、現象学的・反省的態度が成立するための方法概念であり、自然的態度に特徴的な外的世界の存在に対する素朴な信念を括弧に入れ、したがってまた、外的世界の存在を前提にしているすべての学の妥当をも「遮断」すること。
機能主義
:実体概念を排斥し、要素間の相互作用の見地から対象を機能的に把握する立場に立ち、その結果、あらゆる現象を動的に、つまり絶えざる生成・消滅の過程として理解することを強調する。19世紀末に台頭した科学方法論。
構造主義:一般に構造を要素と要素間の関係からなる全体として捉え、事象をその構造の要素間の関係や変換の結果として見る方法的な視点をいう。
→「構造」とは、あるひとまとまりの現象の中で変わりにくく、比較的安定的な関係性のパターンを意味し、「機能」とはある事象がそれを含む全体に対して果たす有益な作用のことをいう。
機能=構造主義
:社会を実体的な統一体というよりは、多様に分化した構造(=制度)として関係論的に捉える見方のことで、文化規範や地位・役割体系といった観点から制度を把握するとともに、社会システムの存立を規定する機能要件の定式化やその体系的把握を推し進めた。
ポスト構造主義
:1960年代末にフランスで現われた思想運動。「主体」の脱中心化、関係の論理、啓蒙的・進歩史観批判、「記号」・「差異」の戦略的使用など構造主義の諸要素を含む。しかし、構造主義がレヴィストロースのように静態的・閉鎖的システムとしての「構造」を措定し、科学の方法たろうとするのに対し、ポスト構造主義はデリダのように構造の生成・連動・流動を強調し、世界や現象を「差異の戯れ」にまで解体しようとして形而上学批判の方向をとる。
ポストモダニズム
:近代の後にくる発想法を総称する言葉で、効率性と合理性を追求する機能主義(モダニズム)思想に対する批判を表明し、遊び、象徴的表現、自由発想などを取り入れる運動を指す。
公共性と市民社会
公共性:経済システムの「貨幣」や国家の「権力」というメディアによるのではなく、言語メディアを用いた主体同士コミュニケーションによって形成される圏域としての「生活世界」を土台としつつ、そこでの自由で平等なコミュニケーションが生む「合意」によって構成される領域。
リスク社会
:産業社会が出現する頃より、新たな危険との向き合いが一般的なものになっていく。そこでは、医学の進歩が乳児死亡率を飛躍的に減少させたように、科学技術の発展は数多くの危険を排除していった。危険はもはや個人を超越した統制不可能な事柄ではなく、人間の力によって克服可能なもの、すなわち「リスク」として人々に認識されるようになったのである。
逆説的なことに、このような近代特有のリスクに対する向き合い方が変化するきっかけは、産業社会の「失敗」ではなく、その「成功」であった。科学技術の発展は、補償不能・限定不能・知覚不能といった新たな特徴をもつリスクを次々に生み出していった。そうしたリスクは、かつてのように社会の外側にあって統制可能で克服可能なものではなく、社会の内側から社会の変化を駆動し始めたのである。
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福祉国家の成立、教育の普及、ジェンダー革命、雇用システムの変化などに伴って、個人化が進行していく、そこでは、人々はさまざまなリスクと、そこから生じる不安や不確実性を、集団ではなく個人で処理・克服しなければならない。
格差社会
:社会成員が、特定の基準から見て隔絶された階層に分断された社会。特に、所得・資産面での富裕層と貧困層の両極化と、世代を超えた階層の固定化が進んだ社会。日本の場合、戦後の階級社会から、中間層を軸にした階層社会へ進み、雇用の不安定化などが原因となって現状では流動化した格差社会になっている。
人的資本
:当該社会の人口の規模と健康状態、特にその教育・技術水準及び肉体的・精神的能力などがその内容を指す。人は、知識や技能などの自らの人的資本形成に投資し、生産性を高めることで、より大きな便益を得ることができる。すなわちここで重要なのは、人間を投資対象として認識すること、また人的資本蓄積によって将来リターンが得られることへの期待である。
・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル)
新たに集団に所属することは、個性にとってはそれだけ広い活動領域が与えられることになり、これを積み重ねていけば、必然的に個性はより高度に発達する結果となる。
社会分化:一方で集団の規模が拡大していくとともに、他方で集団の内部で個人間の差異が高まり個性が発達していくという二重の過程である。
→集団の規模が大きくなるにつれて、集団内部での生存競争が激しくなり、各メンバーがその競争において優位に立とうとするがゆえにメンバーの間に差異が生まれ、メンバーが個性的になっていく。その反面、メンバーが個性的になると同時に反比例して集団は個性を失っていく。
「分化と個体化とは隣人との紐帯をふるめるが、そのかわりにより多くの人びととの新しいそれを紡ぐ」(ジンメル)
社会分化は、一方で個人がさまざまな可能性を発展させ人格を完成させるための条件を作り出すにもかかわらず、他方では個人を特定の機能の担い手に押し込め人格の完成を阻害している。
機能分化社会
① 個人が階層などの社会の特定の一部分に埋め込まれるということがない。
② 様々な機能が独自の論理に基づいて展開し、機能分化が貫徹すると、統治者/被統治者、生産者/消費者、教師/生徒といった役割が相互に独立となり、特定の階層がこれらの役割の一方を束ねるということはもはやなくなる。
③ 特定の階層やそこで繰り広げられる相互作用が社会全体を代表しているとみなすことは不適切となり、集合的単数名詞としての抽象的な社会の概念が形成・受容されるようになる。
顕在機能と潜在機能
制度が社会の存立に果たす客観的機能と、制度を実践する行為者の主観的意図は必ずしも一致しない。制度がどういった機能をもつかは、それをどういった視点でとらえるかによって、多様かつ可変的である。顕在機能とは当事者の視点から定義される機能であるのに対し、潜在機能とは、当事者の意図とは無関係に、観察者によって発見される機能である。
・動機の語彙(C.W.ミルズ)
動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態というよりは、人びとが自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。
社会学者や心理学者たちは、それぞれの専門知識や語彙を動員してさまざまな行為に対してしかるべき動機を「付与」する。
・相関主義(K.マンハイム)
▶︎人間の意識の真理性に対する懐疑の念は、敵対者に対する不信と疑念としてまず成立し
た
▶︎部分的イデオロギー
:敵対者は事実を正しく認識しようという気はなく、その理念や考えにしたがって、多かれ少なかれ故意に、事実を覆い隠そうとしている。
=相手の特定の理念を利害・関心から暴こうとする場合に成立
▶︎全体的イデオロギー
:敵対者の世界観全体がその個人的真理からのみならず、その背後の集団・社会状況に関係づけられて暴露される。
⇒相関主義
:特定の歴史的時点に立った特定の集団に所属していくことによってのみ接近しうる真理があり、このような特定の立場に立つことによってのみ到達しうる部分的真理を、全体的観点から相関させる作業が進展していけば、無限に全面的な真理にたどり着けるとする立場。
※イデオロギー:人間、自然、社会についての一貫性をと論理性をもった表象と主張の体系であり、それによって諸個人の生活に根底的な意味が与えられ(価値体系)、自己と環境世界および両者の関連についての合理的認識をもたらし(分析体系)、自己の願望と確信とによって潜在的エネルギーを意志的に活性化する(信念体系)とともに、具体的なイッシューについての日常的な意見の体系(政治的プログライム)を提起する。
・多元的現実の構成(A.シュルツ、P.L.バーガー)
われわれが<現実>とよんでいるものは、実体的実在でも、先験的な所与でもない。それは多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものにすぎない。にもかかわらず、<現実>が客観的な拘束力をもつのは、それが主体に構造的に<内在化>されるからである。そして、そのような<現実>構築のプロセスは、本質的に社会的相互作用の場と切り離すことができない。
・認知的不協和の理論(L.フェスティンガー)
不協和を増大させる傾向のある新しい情報に、強制的にかあるいは偶然にさらされると、強制的にかあるいは偶然にさらされると、その人は不協和の増大を避けようとして、しばしば新しい情報を誤解または誤認することになるであろう。
・預言の自己成就(R.K.マートン)
ある状況が起こりそうだと考えて、人びとが行動すると、そう思わなければ起こらなかったはずの状況が、実際に実現してしまう。
「危惧の念を実在に転化する預言の自己成就は、慎重な制度的規制が欠如した場合にのみ作用するものである」
・欲望の模倣とモデル=ライバル論(R.ジラール)
欲望は、他者の(モデル)の欲望を模倣することによって発生する。それゆえ、欲望主体はモデルと同一物を欲望することになるから、欲望を貫徹しようとすれば、モデルは主体の欲望を妨げる障害(ライバル)に変わる。このような他者をモデル=ライバルという。
・志向のくいちがいと羞恥(M.シューラー)
羞恥の発生パターン
⑴自分は個別者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを普遍化しようとする場合
ex)自分が相手にとって恋人らしく振る舞おうとするときに、相手は自分との関係を単なる恋愛の1ケースとしてしかみなしていないような場合
⑵自分は普遍者として与えられているにもかかわらず、他者がそれを個別化しようとする場合
ex)患者である自分を、恋人の医者が診察しようとする
・道徳意識の発達―義務と善(J.ピアジェ)
一方的尊敬によって特徴づけられる上下的な社会関係からは義務と他律の道徳が、相互的尊敬によって特徴づけられる平等的な社会関係からは善と自律の道徳が生まれる。子どもの道徳的発達、すなわち義務と他律の道徳から善と自律の道徳への進化は、かれらが仲間との平等的な関係を経験することを通して生じる。
・結合定量の法則(高田保馬)
個人の結合の傾向には定量がある。それゆえ一方の人びとと強く結合すれば、他方の人びととの結合は弱くなる。同様に全体社会にも結合の傾向の定量がある。それゆえ一つの部分社会の結合強度が増大すると、他の部分社会のそれは減少する。
EX)恋愛に熱中する人は親不孝となり友人から離れる、社交的で多くの友人を持つ者は、真の知己を持ち得ない。
裏命題:一つの結合が刺激となって、他の結合が活性化または強化される。
→国家は家族の拡大図というメタファー=家族への忠誠が国家の忠誠を意味する。
But,矛盾の存在:ex)親孝行すべきなので、軍隊にはいくべきではない。
・外集団への敵対と内集団への親和(G.ジンメル)
外部社会や集団と対立関係にある集団では、成員相互の連帯感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性が高くなりやすい。その点で、対立・抗争は社会化の一形式でありうる。
さまざまな形をとった対立が一つの統一体のなかで、あたかもタテ糸にたいするヨコ糸のように、結合的な相互作用で互いに織りなされることによって、むしろ積極的に―結合に活気を与えたり、新しい結合の契機を導いたり、結合をさらに促したりというふうに―作用していると見ているのである。
・インフォーマル組織の発見(G.E.メイヨー)
フォーマルな集団のなかに自然発生的に形成されたインフォーマルな組織が、フォーマルな組織の生産性を左右する。
インフォーマルグループはより具体的には、「ある特定の働き方を通じて得られた個人関係のネットワーク」であり、「組織の経済的目標に対して多くの点で反対するような、メンバーが共通してもっている一連の習慣や信念」でもある。しかし、またあるときには、「個人の希望を叶えると同時にマネジメントの目標に対して好意的に働くもの」であった。つまりそれは職業集団が実際に形成されたのち、そこでの関係を通じて事後的に発生するものであり、その意味では事前に計画や予測することのできない関係から構成されている。
・準拠集団と相対的不満(R.K.マートン)
人は自らの行動や態度を決定するさいに、その指針となる係留点を必要とする。この係留点が、とりわけ評価の基準点となる場合、人はその基準点として採用する個人や集団と自己とを比較することによって、満足を覚えたり、不満を抱いたりする。
・多集団の交錯と個性の発達(ジンメル)
人格とは、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものである。それらの要素は集団に所属することによって個人へ伝えられる。したがって、個人が所属する集団の数が増やせば、それだけ、人格はより個性を発達させることになる。
・裹頭制の鉄則(R.ミヘルス)
大規模の組織においてその存続の必要上始動的地位の分化が生じ、この地位が固定化されるが、このことがさらに指導を支配へ転化させる。このようにして、あらゆる組織は必然的に裹頭制へ向かう。
・部分の機能的自律性とシステム内緊張(A.W.グールドナー)
グールドナーは、社会システム内の相互依存はヴァリエーションをもつという見方に立ち、<諸部分の相互依存度が低いということは、その部分が自らの存続上の欲求を充足するにあたって、他の諸部分に依存する度合いが低いということを意味する>と見て、「各部分は機能的自律性(functional autonomy)をもつものである」という見方を導入した。
・互酬の不均衡と権力の発生(P.M.ブラウ)
ある社会関係の一つの側面における互酬の成立は、他の側面における互酬の破綻を伴う。社会的交換の過程には、互酬上のバランスをめざすストレインとインバランスをめざすストレインの二つがせめぎ合っており、この二つのストレインが一つの社会関係の表裏に同時にあらわれるからである。権力はこのインバランスから派生する。
・世界の複雑性と自己準拠システム(N.ルーマン)
この世界には実現される体験や行為よりもはるかに多くの体験や行為の可能性が常に存在しており(世界の複雑性)、われわれが生きてゆくためにはこの無数の可能性のなかから限られたものを選択せざるを得ない(複雑性の縮減)。この「複雑性の縮減」という機能を担うのが「意味」であり、この「意味」を構成する主体が「システム」である。
世界の複雑性とは、われわれに選択を迫る体験や行為の可能性が無数に存在することをいう。
「世界の複雑性の縮減」とは、体験や行為の無数の可能性を秩序化し、意思決定によって一定のものを選ぶと同時に、他のものを排除する、という行為によってである。
意味は一定の前提や戦略に基づく選択遂行をつうじて、数ある体験や行為の可能性のなかから限られたものを選び出し、他のものは否定することによって複雑性を縮減する。
・犯罪の潜在的機能(E.デュルケム)
犯罪は、その被害者はもちろん、当の犯罪者も意図せず、あるいは認知すらしていないような、何らかの有用な結果を社会全体に対してもたらす。
・閉じた社会と開いた社会(H.ベルクソン)
閉じた社会とは、その成員が外部に対してみずから防衛しながら、責務の圧力によって相互に結ばれている社会であり、蟻塚を思わせるような生命進化の一到達点である。これに対して開いた社会とは、原理上全人類を包容する社会であり、生命の根源から愛の力を汲み出す少数の選ばれた魂によって渇望され、彼らの招きによって成員がみずからを変質させてゆく。
・集合行動の理論(N.J.スメルサー)
ストレイン(社会的な矛盾や緊張状態)に直面した人びとは、それを軽減・緩和する何らかの方法についての「一般化された信念」にもとづいて、社会秩序を再構成するために集合行動をおこす。
自己呈示
:他者と愛呈する対面的な状況のなかにおいて、コミュニケーションをとろうという意志に関わりなく、すでにそこにいるだけで自分に関する情報を伝えている。このことを自己呈示という。
社会理論:「人間の行為や社会とはそもそもこうなっている」という説明をめざした理論体系のこと。
「構造の二重性」
エイジェンシー:行為者個人あるいは行為のこと。エイジェンシーには「媒介」「代理」といった意味合いがあり、人びとの行為がエイジェンシーとして働くのは、それが構造を媒介して社会システムを再生産するから。規則=構造が維持されるのは、行為の意図せざる結果にすぎない。このように、構造はエイジェンシーの条件となり、またその結果でもある。それが構造の二重性である。
・聖―俗―遊(R.カイ���ワ)
聖なるものは俗なるものの違背と侵犯であり、同時に<戦慄すべきもの>でも<魅了するもの>でもある。聖なるものから緊張と恐怖をとり去り、興奮と解放をもたらす自由な活動が遊びであり、聖と同様に俗と対立する。
・贈与論(M.モース)
贈与は、外見上、自発的、一方的、断片的な現象であるけれども、根底においては、拘束的、互酬的システム的な実在である。つまり、贈与は「物」の提供というよりも、むしろ「シンボル」の交換である。
・女性の交換と近親婚の禁止(C.レヴィストロース)
近親婚の禁止は(インセクト・タブー)は、母、姉妹、あるいは娘を娶ることを禁止する規則であるよりはむしろ、母、姉妹あるいは娘を他人に与えることを強いる規則である。すなわちそれは、女性を与え、また受け取る集団相互の互酬的交換体系を始動させる規則なのである。
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