Tumgik
#のろゐみこ
avomagazine · 2 months
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Every week, we bring you a treasure trove of captivating music videos from lesser-known, new and intriguing Japanese artists who deserve your support! Join us on this extraordinary musical journey as we shed light on the artists who often go unnoticed but leave an unforgettable impact. We also maintain a YouTube Music playlist!
This week we highlighted music videos from: 🍙 Carpenter’sBlue 🍙 Futures 🍙 台所きっちん (Daidokoro Kitchen) 🍙 Burst Blue 🍙 のろゐみこ (Noroimico) 🍙 CLAN QUEEN 🍙 短編画廊 (Tanpen Garo)
Find the article here.
Enjoy the music!
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konjaku · 2 months
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辛夷[Kobushi] Magnolia kobus
It grows up to about twenty meters for the larger ones. Sometimes, still early spring, in a deep, cold forest, it is breathtaking to come across a kobushi with white flowers blooming in profusion on its branches as if it was covered with snow only there.
The following is a scene of Kiso, Nagano Prefecture, in spring from the train on the novelist 堀 辰雄[Hori Tatsuo] and his wife's way to Nara to see the flowers of Asebi.
僕はもう觀念して、しばらくぢつと目をあはせてゐた。とうとうこの目で見られなかつた、雪國の春にまつさきに咲くといふその辛夷の花が、いま、どこぞの山の端にくつきりと立つてゐる姿を、ただ、心のうちに浮󠄁べてみてゐた。そのまつしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫のやうにぽたぽたと落ちてゐるにちがひなかつた。……
[Boku wa mō kannen shite, shibaraku jitto me wo awasete ita. Tōtō kono me de mirare nakatta, yukiguni no haru ni massaki ni saku to iu sono kobushi no hana ga, ima, dokozo no yama no ha ni kukkiri to tatte iru sugata wo, tada, kokoro no uchi ni ukabete mite ita. Sono masshiroi hana kara wa, imasigata no yuki ga toke nagara, sono hana no shizuku no yō ni pota-pota to ochite iru ni chigai nakatta. ......] I gave up and was closing my eyes for a while. The flowers of Kobushi to be said the first to bloom in the spring in snowy regions that I could not see with my own eyes at last, in the eyes of my mind I could just picture them (the tree) standing clearly on the edge of a mountain somewhere. From those pure white flowers, the snow that had fallen just a few moments ago must have dripped as it melted, as if they were drops of those flowers. ...... From 辛夷の花[Kobushi no hana] Source: https://dl.ndl.go.jp/pid/1133550/1/29 (ja) https://en.wikipedia.org/wiki/Tatsuo_Hori https://www.youtube.com/watch?v=PhHoCnRg1Yw
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mochi-10 · 6 months
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あんぷろ様のいーあるふぁんくらぶ歌ってみたイラスト担当させていただいております。よろしくお願いします!
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hachikenyakaiwai · 3 months
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まいてあつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的��され、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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conlangcrab · 5 months
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0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z А Б В Г Д Е Ж З И Й К Л М Н О П Р С Т У Ф Х Ц Ч Ш Щ Ъ Ы Ь Э Ю Я Ѐ Ё Ђ Ѓ Є Ѕ Ї Ј Љ Њ Ћ Ќ Ѝ Ў Џ Ѡ Ѣ Ѥ Ա Բ Գ Դ Ե Զ Է Ը Թ Ժ Ի Լ Խ Ծ Կ Հ Ձ Ղ Ճ Մ Յ Ն Շ Ո Չ Պ Ջ Ռ Ս Վ Տ Ր Ց Ւ Փ Ք Օ Ֆ ֏ ᚠ ᚡ ᚢ ᚣ ᚤ ᚥ ᚦ ᚧ ᚨ ᚩ ᚪ ᚫ ᚬ ᚭ ᚮ ᚯ ᚰ ᚱ ᚲ ᚳ ᚴ ᚵ ᚶ ᚷ ᚸ ᚹ ᚺ ᚻ ᚼ ᚽ ᚾ ᚿ ᛀ ᛁ ᛂ ᛃ ᛄ ᛅ ᛆ ᛇ ᛈ ᛉ ᛊ ᛋ ᛌ ᛍ ᛎ ᛏ ᛐ ᛑ ᛒ ᛓ ᛔ ᛕ ᛖ ᛗ ᛘ ᛙ ᛚ ᛛ ᛜ ᛝ ᛞ ᛟ ᛠ ᛡ ᛢ ᛣ ᛤ ᛥ ᛦ ᛧ ᛨ ᛩ ᛪ ᛫ ᛬ ᛭ ᛮ ᛯ ᛰ Ⰰ Ⰱ Ⰲ Ⰳ Ⰴ Ⰵ Ⰶ Ⰷ Ⰸ Ⰹ Ⰺ Ⰻ Ⰼ Ⰽ Ⰾ Ⰿ Ⱀ Ⱁ Ⱂ Ⱃ Ⱄ Ⱅ Ⱆ Ⱇ Ⱈ Ⱉ Ⱊ Ⱋ Ⱌ Ⱍ Ⱎ Ⱏ Ⱐ Ⱑ Ⱒ Ⱓ Ⱔ Ⱕ Ⱖ Ⱗ Ⱘ Ⱙ Ⱚ Ⱛ Ⱜ Ⱝ Ⱞ Ⴀ Ⴁ Ⴂ Ⴃ Ⴄ Ⴅ Ⴆ Ⴇ Ⴈ Ⴉ Ⴊ Ⴋ Ⴌ Ⴍ Ⴎ Ⴏ Ⴐ Ⴑ Ⴒ Ⴓ Ⴔ Ⴕ Ⴖ Ⴗ Ⴘ Ⴙ Ⴚ Ⴛ Ⴜ Ⴝ Ⴞ Ⴟ Ⴡ Ⴢ Ⴣ Ⴤ Ⴥ Ⴧ Ⴭ あ い う え お か が き ぎ く ぐ け げ こ ご さ ざ し じ す ず せ ぜ そ ぞ た だ ち ぢ つ づ て で と ど な に ぬ ね の は ば ぱ ひ び ぴ ふ ぶ ぷ へ べ ぺ ほ ぼ ぽ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ ゐ ゑ を ん ゔ ゞ ゟ ア イ ウ エ オ カ ガ キ ギ ク グ ケ ゲ コ ゴ サ ザ シ ジ ス ズ セ ゼ ソ ゾ タ ダ チ ヂ ツ ヅ テ デ ト ド ナ ニ ヌ ネ ノ ハ バ パ ヒ ビ ピ フ ブ プ ヘ ベ ペ ホ ボ ポ マ ミ ム メ モ ャ ヤ ユ ヨ ラ リ ル レ ロ ワ ヰ ヱ ヲ ン ヴ ヵ ヷ ヸ ヹ ヺ ㄅ ㄆ ㄇ ㄈ ㄉ ㄊ ㄋ ㄌ ㄍ ㄎ ㄏ ㄐ ㄑ ㄒ ㄓ ㄔ ㄕ ㄖ ㄗ ㄘ ㄙ ㄚ ㄛ ㄜ ㄝ ㄞ ㄟ ㄠ ㄡ ㄢ ㄣ ㄤ ㄥ ㄦ ��� ㄨ ㄩ ㄪ ㄫ ㄬ ㄭ ㆠ ㆡ ㆢ ㆣ ㆤ ㆥ ㆦ ㆧ ㆨ ㆩ ㆪ ㆫ ㆬ ㆭ ㆮ ㆯ ㆰ ㆱ ㆲ ㆳ 𐌰 𐌱 𐌲 𐌳 𐌴 𐌵 𐌶 𐌷 𐌸 𐌹 𐌺 𐌻 𐌼 𐌽 𐌾 𐌿 𐍀 𐍁 𐍂 𐍃 𐍄 𐍅 𐍆 𐍇 𐍈 𐍉 𐍊 𐐀 𐐁 𐐂 𐐃 𐐄 𐐅 𐐆 𐐇 𐐈 𐐉 𐐊 𐐋 𐐌 𐐍 𐐎 𐐏 𐐐 𐐑 𐐒 𐐓 𐐔 𐐕 𐐖 𐐗 𐐘 𐐙 𐐚 𐐛 𐐜 𐐝 𐐞 𐐟 𐐠 𐐡 𐐢 𐐣 𐐤 𐐥 𐐦 𐐧 𛀁
idk just thought of the twitter bot that used code to assign every unicode symbol a meaning and thus created a hyper-compact writing system that could get a incredibly high amounts of info compressed into a short message. that counts as a megascript to me so all i'm doing is pondering the magic.
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tutai-k · 10 months
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【予約開始しました】『ゆけ、この広い広い大通りを』
9月に三重県久居の日々詩編集室から、孤伏澤つたゐの本がでます!
『ゆけ、この広い広い大通りを』
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シスヘテロの二児の子持ちの専業主婦まり、バイクと音楽が好きなトランスの女性の夢留、都会で働くことができなくなったフェミニストの清香、――かつて同級生だった三人が、「地元」でちいさな試みをする物語です。
 ★あらすじ★ ふたりの子を育てながら生まれ育った町で暮らすまりは、困ったことがあるといつも、友人の夢留を頼る。――父の介護をしながら地元で暮らしている夢留とまりは、かつて中学の同級生だった。ふたりは大人になってから出会いなおし、いまでは子どもやパートナーをふくめた付き合いをしている。 そんなある日、都会で生活していたもうひとりの同級生、清香が急に帰省することになって……。
『浜辺の村でだれかと暮らせば』や『オメガのライカと、わたしたち』『首輪とロマンス』とかがお好きなかたはとてもお楽しみいただけるんじゃないかな? と思います。
いろいろ迷いながら書いて、いまだ足りない部分とかもたくさんあるとは思います。 「地方」でなく「地元」で生きている、そんなひとたちに届けばいいなと思っています。
本の予約はHIBIUTA ONLINE SHOPからできます。九月ころの発送になる予定です。ヨモツヘグイニナから出てる本も取り扱ってもらっているので、よかったらあわせてどうぞ。 よろしくおねがいします~。
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moja-co · 9 months
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「御即位式」  大正天皇の御即位式が行われたのは、青島陥落の翌年、大正四年十一月十日だった。御即位式のことを、一般に御大典といったが、明治天皇の御大葬が、日本が文明開化の代になってから初めての出来事であったと同じように、御即位式もここ数十年の間かつてなかったことではあるし、欧州戦線のあおりを受けて、丁度日本が好景気のさなかだったので、全国民挙げてお祝い申し上げたのであった。その時僕は、五年生になってゐた。  その日は、学校で祝賀式があって、新しい天皇陛下の御真影を拝み、「君が代」を斉唱し、教育勅語の拝読のあと、校長先生から色々のお話があって、天皇陛下万歳を三唱して、その日の授業はお休みになった。  明治天皇の御真影はどうなったか知らないが、新しい天皇陛下の御真影を頂く行事があったことを覚えている。尤も、それが何年の何月だったか忘れたが、御即位式よりも前だったことは確かである。  多分、神戸の県庁で、校長先生が頂いて帰られたのだらうと思う。何時何分に御真影が姫路駅にお着きになり、何時何分に学校にお着きになる、と時刻予定がきまって、全校生徒は、校門の前にズラっと両側に整列して、お迎えした。その時刻の少し前から、学校前の道路は一般の通行禁止になって、警官が警戒に立ってゐた。  待つほどに、京口橋の方から、人力車がボツボツ来るのが見えて、「気をつけ!!」の号令がかかった。見てゐると、警官が一人、車の前をテクテク歩いて、人力車の上には、校長先生が白手袋の両手で、大きな紫色の風呂敷包みを、おもそうに捧げて居られる。それがやっと見えた頃に「最敬礼!!」の号令がかかった。しばらくすると、警官の足と、車夫の足と人力車の車輪、その後にもう一人の足が、目の前を通って行った。  その日しばらくしてから、講堂で、御真影奉戴式があった。明治天皇が崩御になってから、三大節にも、講堂の御真影の棚は開かなかったが、新しい天皇陛下の御真影を頂いてから、前通に、御真影奉拝の最敬礼が、よみがえったのであった。  御即位祝賀式のときには、校長先生から、御即位式について色々お話があった。万世一系の日本では、一日一刻も天皇陛下のない時があってはならぬので、明治天皇がなくなった時、すぐに、当時の皇太子殿下が三種の神器をお受けになって、天皇の位につかれた。それを践祚(せんそ)といったが、天皇陛下がその位におつきになったことを、天照大神その他の御先祖に報告されなければならぬし、国民一般に又外国にも、そのことをハッキリ知らせなければならないので、先帝陛下の喪が明けてから、その儀式を行われるのである。この御即位式は、大昔から続いてゐる儀式だから、昔からの仕来り通りに、元の皇居である京都御所の、紫宸殿という第一の御殿で、古式通り厳かに行われるのである、というようなお話であった。  御即位式の日取りがきまると、その儀式のことや日程が、次々に新聞で細かく解説予告されてゐたが、いよいよ式が始まると、天皇陛下が東京を出て、京都に向かわれる鹵簿((注)ろぼ=天子の行列のこと)や、関連の色々な写真が、その記事と共に、次々に掲載された。新聞もここ数年の間に非常に発達して、写真版などもきれいになってゐた。  又、前年の青島陥落のときと同じように、全市を挙げての祝賀行事が催され、我々小学生は、日の本の小旗をかざして、町々を旗行列をし、夜は夜で、色んな団体の提灯行列が、いくつもいくつも、「祝えや祝え!!」と歌いながら、又、それぞれで万歳万歳!!と、市内を行進して、大変な賑やかさだった。  御即位式のときに、国家社会に功労があって勲章を頂いてゐる人に、天皇陛下からごちそうを下される、ということがあった。特別立派な勲章を貰ってゐる人は、東京に召されるのだが、勲五等だった父には、神戸の県庁でごちそうを賜るというので、菊の御紋章のついた御召状が届けられた。  父は以前に、広島や大阪に勤めて、軍需品の納入その他のことで、功績があったのだそうで、勲大等の旭日勲章を頂いたが、僕がごく幼い頃、専売局に勤めてゐた時に、一段進んで、勲五等になり、瑞宝章を頂いてゐた。だから、今では民間の塩田業者であったが、御即位式の御馳走に召されたので、大変の喜び方で、あちらやこちらで、大自慢にしてゐたが、いよいよその日には、朝早くからフロックコートを着て、これが勲五等の瑞宝章だ、これが勲大等の旭日章である。旭日章は本当に手柄がなければ頂けないので、一段下ではあるがこの方が立派なのだ。これが日清戦争の従軍章、これは北清事変(明治三十三年)の従軍章、これが日露戦役の従軍章だと、一つ一つ、僕に説明しながら、それを胸にズラッと吊り並べて、シルクハットをかぶって、意気揚々と停車場に向かった。  その日、もう日が暮れてから、父は、胸いっぱいに勲章を飾ったまま、人力車から自分独りで降りるのが危ないほど酒に酔って、それでも白い風呂敷包みだけは、大切に持って、帰ってきた。その風呂敷包みには、その日の御馳走が入ってゐたのである。素木の足のないお膳と、素焼きのお皿や瓶子(へいし)のようなものと、銀色のボンボニールとかいうものを取り出して、これには何が入ってゐた、これに何がと、一つ一つ説明してくれたが、どれも空だったことを記憶してゐる。
大正天皇の即位式の日のことが、大伯父(祖母の兄)の遺した回顧録に記されてました。 従兄弟が見つけて、文字起こしまでしてくれた! けっこう貴重な資料だと思う。
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m12gatsu · 1 year
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無題
挙式で引用した詩の全文です。
噴火口のあとともいふべき、山のいただきの、さまで大きからぬ湖。
あたり圍む鬱蒼たる森。
森と湖との間ほぼ一町あまり、ゆるやかなる傾斜となり、青篠密生す。
青篠の盡くるところ、幅三四間、白くこまかき砂地となり、渚に及ぶ。
その砂地に一人寢の天幕を立てて暫く暮し度い。
ペンとノートと、
愛好する書籍。
堅牢なる釣洋燈、
精良な飮料、食料。
石楠木咲き、
郭公、啼く。
誰一人知人に會はないで
ふところの心配なしに、
東京中の街から街を歩き、
うまいといふものを飮み、且つ食つて廻り度い。
遠く望む噴火山のいただきのかすかな煙のやうに、
腹這つて覗く噴火口の底のうなりの樣に、
そして、千年も萬年も呼吸を續ける歌が詠み度い。
遠く、遠く突き出た岬のはな、
右も、左も、まん前もすべて浪、浪、
僅かに自分のしりへに陸が續く。
そんなところに、いつまでも、立つてゐたい。
いつでも立ち上つて手を洗へるやう、
手近なところに清水を引いた、
書齋が造り度い。
咲き、散り、
咲き、散る
とりどりの花のすがたを、
まばたきもせずに見てゐたい。
萌えては枯れ、
枯れては落つる、
落葉樹の葉のすがたをも、
また。
山と山とが相迫り、
迫り迫つて
其處にかすかな水が生れる。
岩には苔、
苔には花、
花から花の下を、
傳ひ、滴り、
やがては相寄つて
岩のはなから落つる
一すぢの絲のやうな
まつしろな瀧を、
ひねもす見て暮し度い。
いつでも、
ほほゑみを、
眼に、
こころに、
やどしてゐたい。
自分のうしろ姿が、
いつでも見えてるやうに
生き度い。
窓といふ
窓をあけ放つても、
蚊や
蟲の
入つて來ない、
夏はないかなア。
日本國中の
港といふ港に、
泊まつて歩き度い。
死火山、
活火山、
火山から
火山の、
裾野から、
裾野を
天幕を擔いで、
寢て歩きたい。
日本國中にある
樹のすがたと、
その名を、
知りたい。
おもふ時に、
おもふものが、
飮みたい。
欲しい時に、
燐寸よ、
あつて呉れ。
煙草の味が、
いつでも
うまくて呉れ。
或る時に
可愛いいやうに、
妻と
子が、
可愛いいと
いい。
おもふ時に
降り
おもふ時に
晴れて呉れ。
眼が覺めたら
枕もとに、
かならず
新聞が
來てるといい。
庭の畑の
野菜に、
どうか、
蟲よ、
附かんで呉れ。
麦酒が
いつも、
冷えてると、
いい。
若山牧水『空想と願望』
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myonbl · 1 month
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2024年4月25日(木)
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Appleのオンラインストアには<学生・教職員向けストア>があって、<大学生、高等専門学校および専門学校生、これらの学校に進学が決まった生徒のみなさん、大学受験予備校生、教育機関の教職員の方々などが対象>であることから、私など重宝している。例えば<Mac mini>の一番安いモデルは一般なら84,800円のところが70,800円で購入出来るのだ。今回は自宅のM1モデルを下取りに出してM2モデルを購入した。研究室に入れたiMac(M3)が快適なので、落差が気になりだしたのだ。さて、どうかな?
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3時起床。
日誌書く。
Mac mini の入替作業、まずは使用中のM1モデルを初期化して、次にM2モデルに Time Machine のバックアップを復元する。結構時間がかかると思っていたが、いつもの起床時間までには完了した。M1モデルは下取りに出すのだが、土曜日に集荷を予約している。
ツレアイの起床に合わせて洗濯開始。
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朝食、珈琲、今朝は弁当なし。
プラゴミ、30L*1。このところ、トレイをスーパーに持っていくので従来の45Lではなく30Lで間に合うようになった。
彼女は夜の太鼓の練習があるので自転車で出勤、私は一人で出発。
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今朝は交通量が多く、結構時間がかかってしまった。
昨日の<情報機器の操作Ⅰ(栄養学科)>の入力課題をチェック、かなりタイピングにバラツキがある。
<スタディスキルズ>第4週の授業内容を検討、ワークシートを用意する。
木曜日3限は<スタディスキルズ(教育学科)>、18名のクラスだが1名は退学したようなので17名が3週連続欠席無し。今日からグループワーク開始、3班に分けたのだがそれぞれカラーが違って面白い。
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帰路は順調、48分とは凄い。
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まずはコレモ七条店まで買い物、トマト・キュウリ・レタス・コロッケ・アジフライ。
糠床メンテナンス、キュウリを漬ける。
奥川ファームの真タマネギをスライスして酢に漬ける。
Mac mini のチェック、今回は吊るしモデル(メモリーが8M)なのでいささか余裕がない(お金がないので仕方ない)。
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早めに息子たちの夕飯、ホウレン草のごま和え/ニンジンの��か漬け/トマト/焼きソーセージ(ハーブ)/コレモの<昔ながらのコロッケ>、揚げと若布の味噌汁、🍷。
🍷ちびちびやりながら、ツレアイの帰りを待つ。
20時に終了との連絡、あれこれ肴を用意する。
🍶+🍷いただきながら録画モードで
レトロでアート 五感で楽しむ個性あふれる町 〜大阪 十三界わい〜
初回放送日:2024年4月25日 昭和の香り漂う飲食店の傍らに個性的な壁画が!?大阪・十三をよゐこ有野晋哉と朝ドラ「ふたりっ子」に出演し大阪とゆかりの深い菊池麻衣子が旅し、五感で楽しみつくす。 大阪・梅田からほど近く、神戸、京都へのアクセスも抜群。レトロな飲食店が賑(にぎ)わいを見せる大阪・十三。歓楽街を一歩進めば、意外なモノづくりの老舗に、巨大なアート作品も出現!個性あふれる町の魅力満載の旅▼おばちゃんから引き継ぐ子供に大人気の“イカ焼き”の味▼発酵パワーが注目される“柿渋”の老舗ですてきな染め物体験▼個性的な壁画に込めれらた町の人たちへの温かい思い
なかなか面白かった。
片付け、入浴、体重は2日前から600g減少。
パジャマに着替えて日誌書く。
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ま、こんなものかな。
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pineappleyk · 1 year
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賢島への往復の電車の中で三島由紀夫の『潮騒』を約40年ぶりに読みました。
向かったホテルは井上靖、山崎豊子、三島由紀夫らが執筆や宿泊をした場所で、私もお気に入りです☺️
以前に「潮騒」を読んだ時は、あまりこれと言った感想は無く、「ミーハーなアイドル映画の原作」という印象でしたが、今回は「こういう世界があって欲しい」という希望に満ちた感動がありました。
三島由紀夫は川端康成宛の手紙に「明朝ここ(神島)を発つて、三重賢島の志摩観光ホテルへまゐります。そこで僕はまた、乙りきにすまして、フォークとナイフで、ごはんをたべるだらうと想像すると、自分で自分にゲツソリします。」と送っています。
私はゲッソリどころか大満足でしたので、世俗に毒されているという事なのでしょう。
良い季節に私も神島を訪れたいです🥰
皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します🙇🏻‍♀️
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ryotarox · 1 year
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あめつちの詞(あめつちのことば)とは、仮名48字からなる誦文(*1)のこと。単にあめつちともいう。今日までの国語学・言語学における研究では、平安時代初期に作られたとされている。
あめつちの詞 - Wikipedia
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
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あめつちの詞が出てくるもっとも古い例は、 源順(911年 - 983年)の私家集『源順集』である。その中に、あめつちの詞の仮名を以下のようにはじめと終りに置いて詠んだ「あめつちの歌」があり[1]、和歌の内容を春・夏・秋・冬・思・恋の構成としてそれぞれ8首、合わせて48首が収められている。
おおむね2音節の言葉を連ねており、冒頭から「さる」までは、「天 地 星 空 山 川 峰 谷 雲 霧 室 苔 人 犬 上 末 硫黄[4] 猿」という言葉を並べたものとみられるが、それ以降の「おふせよ えのえを なれゐて」は意味不明な語の羅列になっていて形式的にも破綻している。その理由については不明であり、「おふせよ」以下にどのような言葉を当てはめるかについても諸説あって定かではない
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(*1)ず-もん 【誦文】 名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる 経文やまじないの文句を唱えること。「じゅもん」とも。
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geniusbeach · 1 year
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石の言葉
 名古屋を巡る車の中で、静岡に砂丘があることを友人から教わった。鳥取以外に砂丘が存在することは意外だったが、私はちょうど、ぼうっと眺めるだけで済む単調な風景を欲していたところだった。というのも、このところ雑事に追われていたせいで、精神は干された雑巾のように疲弊しきっており、何事に関しても乾いた考えしか浮かばなくなっていたからだ。友人に請うて予定を変更し、翌日足を伸ばしてみることにした。
  三月某日。朝から曇天。連休の中日であるせいか車道はしばしば滞った。昼過ぎにようやく浜名湖に着き、そばにある店で鰻を食べつつ、私は植田正治が撮影した写真を思い出していた。白い空と白い砂に二分された画面の中央に、黒い服を着た人物が立っている。現実から遊離した夢のような断片。まるでタンギーの時空にぽつんとある、マグリットのオブジェ。新しいのにどこか懐かしい、シンプルで強烈なイメージだ。そんな不思議な光景が、この先で待っているだろうか。重箱の蓋を閉め、肝吸いをすする。椀のなかにある黒い背景と白い肝のネガポジを反転すれば、近くて遠い異世界が現れるだろう。思いもよらぬ効果は、そのように簡単な操作で得られるのかもしれない。携えたカメラで何かを撮ってみよう。
 中田島砂丘は浜松の南部に位置し、遠州灘に面している。砂は、その東端が接する天竜川の上流から運ばれてくるそうだ。駐車場に車を停め、滑り止めが敷かれた小道を歩いて登って行く。林を抜けると視界が開けた。友人が声を上げる。空と、一面の砂が広がっていた。砂原へと続く急斜面を、足を取られながら興奮ぎみに降りる。すると、不意に下方から視線のようなものを感じ、私は立ち止まった。目を凝らすとそれは人でも動物でも虫でもなかった。石であった。坂の下に、じっとこちらを見つめている石があったのだ。遠ざかる友人をよそに、砂に顔を打たれながら、私はそれを見た。あたりにごろごろ転がる石とは何かが違う。風と波の果てしない響きのなかで、その石は白くきわだち、寂しそうだった。
 私たちにはどこか通じ合うものがあった。ルートを外れ、靴にざばざばと砂が入り込むのも構わず、石のもとまで無心で下って行った。拾い上げると、それは花崗岩であった。美しい卵型をしており、側面に少し平べったい部分がある。表面はチョコチップアイスを思わせる、白にわずかな黒のまだら模様。握ってみるとたしかな重みがあり、旧知の仲でもないのに、手にしっくりとなじんだ。持ったまましばらく考え、その石を散策の相棒にすることに決めた。
 石は、大人しい。しかしその性質はなかなか気難しい。浜を東へ歩いていく途上、こいつをどう扱おうかと悩んだ。ぐっと握りしめたり、持ち上げたり、掲げたり。ときに置いたり、立てたり、回したり。はたまた投げたり、落としたり、転がしたり。その全面が顔ともいえる、しかしいっさい動いてくれないカタブツをなだめすかしながら、何枚も写真を撮った。そのうち何やら、石の言葉が聞こえてくるような気がした。しかしその言葉とはいったいどんなものだろう。
 雨に濡れて。/独り。/石がゐる。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。
 そう書いたのは詩人草野心平だが、なんでもない石について、石そのもののごとく簡潔に、そこに秘められた歴史と存在の必然性を言い表している。なおかつ映像的でもあり、事物を外部から見た限界ぎりぎりのところを巧みに描写している。とはいえ、それは石の発した言葉ではなく、あくまで人間から見た石の姿にすぎない。最終的にその主張を想像して汲み取るのは我々読者だ。詩人石原吉郎によれば、詩とは「沈黙を語るための言葉」だという。結局、我々が読めるのは「書かれた詩」でしかない。ほんとうの詩は事物と感興との沈黙の関係にあり、口にしたとたん霧消してしまうたぐいのものなのだ。ただしその意味で、カメラは言葉と同等に詩をつかみ得る道具となる。
 石の言葉の意味は石にしかわからないが、聞くことはできる。それは生成と漂着の場所にこだまする音に根ざしているはずだ。ここは砂丘。海と空と砂と風がある。それらを組み合わせて固めた言語が質量となって、いま手のなかにある。石の組成、つまりこの風土の中心に改めて石を据えてみようと思った。空へと放り投げて、あるいは、太陽と重ね合わせたシルエットに向けて、シャッターを切る。一連の試行錯誤の末、徐々に一個の石の多様な側面が見えてきた。浜にある無数の石の中、風紋を斜めに切る光彩と陰影の間、人の足のような流木の上、それぞれの関係性の中で石は表情を変え、異なる何か訴えかける。それは静かだが、熱のこもった対話であった。
 石のようになかなか動こうとしない私に友人はやきもきし、途中からどんどん先に進んでいった。帰りがけに走って追いついたところ、持って帰るつもりかと聞かれた。私は黙って首を振り、堆砂垣の向こうにそっと転がした。ホテルに戻ると、お気に入りを見つけたと言って、友人はポケットから小さな黒い石を取り出してみせた。彼は彼で写真を撮っていたらしい。そうしてにやりとしながら差し出されたカメラの画面には、私と石の出会いが切り取られていた。少し笑うと、名残惜しさが込み上げてきた。ふたたび永遠の海亀の卵へと還った石は、満月とともに夜を語り明かすにちがいない。ここちよい疲労に包まれてほんとうの石となった私は、夢幻のなかでその会話を聞いただろうか。
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snarp · 4 months
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Sakutaro Hagiwara once said in a poem,
"Owaa, good evening"
"Owaa, good evening"
"Ogyaa, ogyaa, ogyaa"
"Owaaa, the head of this household is ill"
-- Bag-Thing, Baroque: Distorted Delusions for Sega Saturn (1998), directed by Kazunari Yonemitsu
Cats
Coal-black cats, two of them,
on the roof of a sensual night,
from the tips of their taut, erect tails,
a threadlike crescent blurs.
“Owaa, good evening.”
“Owaa, good evening.”
“Ogyaa, ogyaa, ogyaa.”
“Owaaa, the master of this house is ill.”
-- Cat Town, by Sakutaro Hagiwara; translated by Hiroaki Sato (1978)
Original:
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
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foucault · 6 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひとまずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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hachikenyakaiwai · 2 months
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【かいわいの時】宝暦十四年(1764)四月六日:対馬藩通詞鈴木伝蔵、大坂に滞在中の朝鮮通信使節随員を殺害し出奔(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
(事件のあらまし) 朝鮮の上々官名ハとううんとうと申を、対州の家中通詞役鈴木伝蔵といふ者、右上々官を鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し自害の体をしつらいさし殺しけり。右上々官ハ日本にて大目附役の人なるよし其趣を聞に、西国にて人参を荷打せしと偽りて金銀を私欲したる事ありて此役人に伝蔵より返済せねばならぬ金子有しを毎々催促しける、大坂にて相渡べき約束なりしをいまだ相渡さず、よって厳しく催促致しける故、何とやら私欲の義も露顕に及ぶべきやうになりしゆへ止事を得ず、右のごとく害しける由也(『明和雑記』)。
(犯行現場および時刻) 西本願寺津村別院棕櫚の間(朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図)。初七日戊子陰寒(『趙済谷海槎日記』)。コメント欄に写真 ▼朝鮮人来朝大坂旅館西本願寺座割兼小屋掛絵図 조선인래조대판려관서본원사좌할겸소옥괘회도 京都国際学園「関西に残された朝鮮通信使の足跡」より。
(殺害方法および凶器) 寝所へ忍入、鑓の穂先壱尺斗残し是を以て咽を突通し、自害の体をしつらいさし殺しけり(『明和雑記』)。関の兼永の槍(『通航一覧』)長さ4寸ほど(『差上記』)。
(事件の目撃者) このとき賊は、三房格軍(水夫)の姜右文の足を誤って踏み、驚いて目を覚ました姜によって目撃されている(『日東荘遊歌』訳注)。
(指名手配) 一 行年廿六歳 一 背ノ高サ五尺三寸中肉にて顏の色白ク眼は少シ大キク張強シ人体骨柄賤からず 一 其節之着類黒羽二重之袷下には群内大嶋の襦袢 右体之者見付次第訴出候ハゝ御褒美被下候間可遂吟味者也 四月九日(「鈴木伝蔵人相書」)。
(犯行の動機) 崔天悰は高麗人参の密貿易に絡んで鈴木伝蔵を叱責した。事の露見を恐れた伝蔵が崔を殺害した(『明和雑記』『摂陽奇観』)。伝蔵の自白によると、人参の取引がもとで殺したというが、真相は到底わからず(『日東荘遊歌』)。
(事件の背景) 朝鮮と対馬の通詞が手を組んで密貿易(積荷の横領)を繰り返していた(『扶桑録』『東槎日記』「海遊録』)。舞台は主に大坂であり、一行はできるだけ長く大坂にとどまろうとした(『扶桑録』)。「裨将の言うままに放っておいたら《略》崔天悰事件のようなこと必ずやまた起こるでありましょう」(金仁謙)。※鈴木伝蔵は通信使が絡んだ密貿易の一味。崔天悰もそうであったかは不明。
(事件の余波) この一件を初めに歌舞伎化したのは並木正三で、67年(明和4)2月大坂嵐雛助座(角の芝居)で《世話料理鱸庖丁(すずきぼうちよう)》を上演。史実に近かったため2日間で中止を命ぜられ、ただちに奥州藤原の世界に改めた《今織蝦夷錦》を上演した。『世界大百科事典(旧版)』【韓人漢文手管始】より。
(写真)「世話料理鰭庖丁 絵番付」1467(『摂陽奇観』所収)
(浜松歌国は)鈴木傳藏の朝鮮信使殺害事件を詳記し、次に其の事件があってから四年目、この事件が角の芝居嵐雛助座に於て、並木正三により新狂言に取組まれたことを書き加へたのみでなく、當時板行の繪番附を其のまゝに貼りつけてゐます。この鈴木傳藏事件が上演されたは、歌國が生れる十年前のことで、その當時の繪番附を手に入れることは容易ではなかつたらうと思はれます(校訂者識)。『浪華叢書 第四』より=写真も。
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willidleaway · 1 year
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so like @desultory-novice​ I’ve been thinking a bit about the voice clips that you can hear in the new remix of the final boss track. the exact parameters are a little lost to me but in Audacity I attempted the following on the original track:
Vocal Reduction and Isolation, Isolate Vocals. Leave the frequency band at the default settings (120-9000 Hz), and set the strength to somewhere around 1.5 and 2. (Too high and Audacity just returns silence!)
Filter Curve EQ with this curve:
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and then the only change is to turn the volume back up to max out at -3 dB with Normalise.
this doesn’t work amazingly, unfortunately—the orchestral samples mix hard with the vocal samples so isolating the vocals would probably take a lot of manual artisanal spectral suppression. but! this processing is enough to make things a little less distracting, and I’ve compiled a set of three samples from the resulting output where I think I can particularly clearly hear things:
kaa—bi ... (this was taken from ~04:25)
i ... iroha ... (taken from ~05:00)
ma ke ... fu ... kaa ... bi ... (taken from ~06:30)
(oh, also, these timestamps are for the full track, to avoid confusion.)
and this leads me to my conspiracy theory. keep those audible syllables in your head as you read on. i-ro-ha ... ma-ke-fu ...
if you go look at the Star Allies OST website, there’s a sound staff roundtable discussion (kindly translated previously by Kai), where they discuss how Void Termina’s voice was created (Kai’s translations in square brackets):
(熊崎)そうですね、4人の声です。ゲーム内のボイスではおなじみの安藤さん、比較的若い声の小笠原さん、それから女性の声も欲しかったので『みんなで!カービィハンターズZ』ディレクターの東藤さん。そして私。4人の演技、声が混ざった鳴き声をやってみよう、って。[Kumazaki: Yes, it was the voices of four people. You, Mr. Ando, being a regular with in-game voice clips, Mr. Ogasawara with his comparatively younger voice, as well as Mrs. Todo, the director of “Team Kirby Clash Deluxe, because we wanted a woman’s voice, too. And me. We wanted to try out a cry made by mixing voice lines from the four of us.]
(安藤)そういえば何て言ってたか、覚えてないなあ。[Ando: By the way, what did we say? I can’t remember.]
(熊崎)「イロハニホヘト、カービィ〜」です。[Kumazaki: It was "Irohanihoheto, Kirby”.]
(安藤)あー、そうか。[Ando: Oh, right.]
(熊崎)全��同じ言葉で、「イロハニホヘト、カービィ〜……」みたいに発して別々に録りました。私が言ったら安藤さんが、「あ、それでいく」って言ったんですよ(笑)。[Kumazaki: We each uttered those same words, “Irohanihoheto, Kirby…”, all recording seperately. When I told you, you said “Oh, we’re going with that”. (laughs)]
hmm. let’s go look at Iroha (emphasis mine):
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
some of these look familiar? here, a romaji transliteration (again, emphasis mine):
Iro fa nifofeto Tirinuru wo Wa ka yo tare so Tune naramu Uwi no okuyama Kefu koyete Asaki yume misi Wefi mo sesu
so my conspiracy theory is ... it’s Iroha again. the Iroha is basically a ‘the quick brown fox jumps’-type pangram, and while it has actual literary meaning, it’s often used to simply iterate through all the kana. I think Ando went to record himself reading the Iroha and saying ‘Kirby’ once in a while, and then shuffled the different segments around, and that constitutes most of the discernible vocal samples that aren’t crying or screaming. I say it’s a conspiracy theory because I haven’t gone through all of the vocal samples, so there could be something extra hiding in there (and of course I could be mishearing some things).
and if it holds up? not terribly exciting, I know, but still interesting from a development standpoint!
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