Tumgik
#✿ 星降る闇の下で甘い愛撫 ᭄
wlloob · 4 months
Text
◌ ࣪ ࿙᷒ᰰ࡛࿚ᵕ࿙࡛࿚ᰰ᷒࿙⃛͜࿚⃛ ఎ ࣭ 𑁍ᩧ ࣭ ໒ ࿙⃛͜࿚⃛࿙᷒ᰰ࡛࿚ᵕ࿙࡛࿚ᰰ᷒ ࣪ ◌
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
𖠺 ⃘᰷᰷ solo mi alma dolorida ! 爱 𝄒
Tumblr media
𖣁  ` ू  ꒰ まだ私を愛しますか , when I'm no longer 𝓨oung and 𝓑eautiful?  ꒱ ❘ ❙ 𖠁
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
2K notes · View notes
lostsidech · 3 months
Text
 タイラーはぴくりと顔をあげた。
「なんだ?」
 見張らせている外が、わずかに騒がしくなった気がしたのだ。
 しかしタイラーの役目は、囚えている少女の相手のほうだった。何故なら、最もこの計画も解釈異能もよく知っているタイラーでなければ、この少女を相手するのは危険すぎるからだ。
『私、貴方たちのことそんなに悪い人間だとは思いません』
 機器越しの少女がふいに言った。
「……ほう」
『だって、私の自由も奪わないし、傷つけもしない。語り掛ければちゃんと答えてくれる』
 タイラーは黙って少女の言葉を聞いた。加工音声越しに、それは元が少女の声だったかどうかも判別が難しくなっている。
『では、そんな人間がなぜ私を使って、大会を止めようと試みたのか? 当ててあげましょう。莉梨を調べるときは、自分も深淵を覗くつもりでやるんですよ』
 その声が確かに、笑った。
『貴方たちはなぜ、大会の他のありとあらゆる参加者ではなく、私を攫ったのか ホムラグループは有名ですが、他にも参加している組織の中に有名な企業はあります。その中で私が選ばれる理由があるとしたら。一つ、ホムラグループに悪感情があった。これはとても単純な答えですね。ですが、そうであるなら莉梨に一切憎悪が向かないのが不思議な話です』
「そう思うんだな」
 タイラーは相槌を打つ。
 少女はまるで社交場で対話するように、礼儀正しくええ、と言い添えてから続けた。
『二つ目。私でなければならなかった──私と日本SEEPとの繋がりを知っていた。至極個人的な』
「……」
 タイラーは少し反応が遅れる。何も言うべきではない。
『貴方たちは各国が大会に探りを入れていることに気づい��いた。だから、むしろ貴方たちが手を下せば、来るのはSEEPの子たちだと思った』
 タイラーが答える前に、少女は矢継ぎ早に続ける。
『貴方はそれを自分が裁きたかった。だとすると、貴方は大会の敵だけれど、アメリカチームの味方』
「……何を言ってる」
『そうでしょう? サウスブロンクスのタバコ屋さん』
 ──臓腑を撫でられるような寒気があった。
 タイラーは静かに息を吐く。これだけ対策しても、彼女には正体は割れてしまうのだ。
「何を以て俺をそう呼ぶんだ」
『サーモグラフィと言いました。それからセンサー。そうしたものを、莉梨の能力対策になる精度で持っているのは民間警備会社 官公組織 いいえ、それにしては動きが無軌道にすぎる。貴方たちは、そうしたものを手に入れられる立場にあった、個人の集まりです』
 正解だ。それらはタイラーが軍にいた頃のよしみで譲り受けた。
「そして それだけならNYじゅうの闇市場が該当する」
『ふふ。貴方たち、莉梨をどこで誘拐しました?』
 タイラーは直接そこに出向いていない。だが──大会宿泊者向けホテルのリネン室だ。
『あの場所ね、そもそも莉梨が情報収集のために出向いていた場所のひとつなんです。協会のホテルの中に、表向きメイドとして働きながら、ダウンタウンに通じている方がいるのを知っていたから。その人に誘拐させたでしょう?』
「どうしてダウンタウンの情報なんか」
『シオンさんがそこの生まれだからです』
 莉梨はきっぱりと言った。
『私の好きな人が、シオンさんを気にしてたんです。軽い気持ちだったかもしれないけど、私はちゃんと調べました。彼女がブロンクスの貴方と一緒に育っていたことも、貴方の情報屋筋のメイドがあのホテルに張り込んでいることも』
 タイラーが思いもよらない時点から、彼女はこちらの尻尾を追っていた。
 改めて、世界のトップを走る異能勢力の跡取りというものを恐ろしく感じる。自分はそんなものに手を出していたのだと。それでも、タイラーは黙って彼女の話を聞き続ける。
『ええ、つい今しがたそこへ、大会で起こっていることを聞きました。丹治さんは、莉梨の誘拐に対処しようとしていたとき機材の転倒に巻き込まれ、片手を怪我したようですね。パネルディスカッションには出られるけど試合は難しいから、試合に出ないことになった。貴方はそのときすでに、計算違いだったのではないでしょうか』
 タイラーは気づけば、正体をこれ以上明かさないことよりも、彼女の聡明さを聞きたいといた感情に囚われていた。
「何故?」
『貴方は、丹治さんたちにこそ、試合に出てほしかったからです。裏社会の子供たちには、表舞台に立って、シオンさんと相対してほしくなかった』
 帆村莉梨はそこで言葉を止める。こちらの反応を伺うように。
 タイラーは苦い顔をしていた。
「どうして? だって、そうなっても現に誘拐は続いただろう?」
『そう、貴方たちは最初の目的を遂げられなかった』
 少女は声音を乱さない。
『でも、貴方たちはもう莉梨を攫ってしまった。それなら、続けるしかない。せめて彼女たちがやろうとしていることから目をそらさせるために』
「彼女たち?」
「アメリカチーム。ひいてはシオンさん個人です」
「何故、彼女に思い入れていると思うんだ」
『脅迫状です。「今すぐこの馬鹿げた大会をやめさせろ」。「やめろ」ではなかった』
 くらりとした。
 自分でも気が付かなかったミスだった。それはつまり。
 人の無意識を、この少女は覗き込んでいる。
『もしSEEPを貶めるのが目的であれば、語り掛ける相手はSEEPになるはずです。彼らは大会の主催なのだから、「やめろ」「中止しろ」で構わない。けれど貴方はやめ「させろ」と書いた。直接大会を止める力はない相手に向けて書いていた。あるいは、貴方がそうであってほしい人に向けて書いていた』
「……そんなところから」
『悪い人に思えない、って言ったでしょう 莉梨はそこに愛情を感じてしまったんです。その後の莉梨の歓待もきっとそうだって。本当は、誰かのことを守りたい人なんだって』
 ふふ、と少女は笑う。少女の声にすら聞こえない加工音声で。
 タイラーは思わず天を仰いだ。
「最初から、俺じゃ役者不足か……いや、まあそんなことはとうに知れている。それでもやったことに今も意味があるんだ」
『ええ、貴方はとても頑張りましたよ。相手が悪かったんです』
 少女の声が、ふっと切れた。
「言ったでしょう? 私のことを理解するなら、深淵を覗くつもりでやることです」
 タイラーははっと顔をあげた。
 加工音声に向かって話していたのに、最後の声だけは背後から聞こえたのだ。
 ふわりとした金髪の少女がそこに佇んでいた。腕にピンク色のうさぎのぬいぐるみを抱えている。
 ──タイラーが目の前にしているサーモグラフィの映像は、いつの間にかもぬけの殻の部屋だけを映していた。
「声も姿も届かなくても、お話に引き込んで目を逸らさせるくらいなら簡単」
「鍵は……?」
「気づかなかった? 貴方が今、話しながら開けに来てくれたのですよ」
 ぎょっとして手の中を見る。そこには確かに、少女を閉じ込めていた防音室の、外からの戸締り用の金属鍵が握られていた。
「状況について、児子が手紙で教えてくれました。おかげで貴方との話にも役に立っちゃった。ほら、扉を開けてもらうのなんて簡単。心を開いてもらうのとおんなじなのだから」
 莉梨は愛らしく微笑み、スカートの裾をつまむ。
「この要領でお外の方々も聞いてくれるといいのですが、撮られちゃったら色々言われそう。簡単に行かないみたいだから、ナイトの皆さんを待っています」
「待つ、って」
『あ、あー。聞こえる?』
 ふいにウサギのぬいぐるみが喋った。タイラーはまた度肝を抜かれて身をのけぞらせた。
『どうも。自分自身を憑かせてます。お嬢がお世話になりました』
 ぬいぐるみに似つかわしくもない、平坦な青年の声が言う。背筋がひたりと冷える。状況こそ馬鹿らしいが、タイラーは知っている。──これは、裏社会を知る者の声。
 帆村莉梨は唇に指をあてた。
「私、そこの児子と違っておおごとにする気はありません。
 貴方が世界の注目を半分こにしてくれたことは、私自身も結構感謝していますよ。だからほら、今度は一緒に誰かを守りましょう」
×××
 簡単なことだった。
 タイラーはお仕着せの家の暮らしの中で、同じように、排水溝の中に捨てられていた天使に出会った。
「赤ん坊が捨てられている」
 と、アパートの隣の少年に知らされて、その時向かえるメンバーで一斉に見に行った。タイラーは力仕事ができるから、マンホールの下に降りられるだろうと呼び出されたのだ。
 だからその赤ん坊を一番に抱き上げたのはタイラーだった。本当の親がどのように彼を抱き上げ、そして捨てたのかは結局分からないが。
 親は分からなかったが、綺麗な少年だった。
 アパートの全員で面倒を見ることが決まり、彼には「シオン」と名前がつけられた。ただ発音しやすいというだけの、意味のない素朴な名前だった。
 物心ついたころから、少年は中性的だった。少女の衣服の方を好み、屈託なく甘いものやロマンスを楽しんだ。それはタイラーたちの世代からしてみれば「なよついた」趣味で、でありながら彼が一切弱さを感じさせないことに驚きを感じさせた。
 少年は強く、自由で、清らかだった。
 気づけば彼は「彼女」になることを望むようになった。それは悩みではなく、中性的であることを誇るがゆえの、選択的なものだった。
「シオンは誰より自由でいいと思うの」
 まだ舌足らずな歳から、彼女はそう言った。
「せっかくたくさんの人の中で生まれたんだもの。もっとたくさんの人に見てもらってもいいでしょ」
 それが十二歳の彼女をSEEPに呼び寄せる原動力になった。
「アメリカの星にならないか、って」
 マンホールの天使は言った。それを聞いたタイラーは煙草屋の勘定を続けることができなかった。
「興味があるのか」
「シオンならみんなの象徴になれるって言われた。SEEPは世界組織でしょう。じゃあシオンは七〇億人の星になるってことだよ」
 そのこと自体に不満はない。シオンはそういう子供だった。誰にも縛られない。
 けれどタイラーはどうしてもそのとき、戦場で死んでいった少女を思い浮かべていた。
 あの頃はまだ誰もそうとは呼ばなかった、自然開花の異能者。彼女は念動力が使えたがために、戦争に駆り出された。
「それは汚れ仕事も背負うってことだぞ」
「わかってるよ。みんなの星ってそういうものでしょ」
 タイラーに止める能力はなかった。資格も、権利もなかった。シオンは親権登録もされていない孤児であり、政府からすれば保護対象だったのである。タイラーの元にいるよりも、世間的にはよほど良いに決まっていた。
 見送ることしかできない、という鬱屈はタイラーの胸の中に確かに影を落とした。
 やがてシオンはSEEPの広告塔としての活動を始めた。実際に社会奉仕活動や災害救助活動もやったし、単にテレビに出て喋ったり、歌を歌うこともあった。
 スラムのメンバーのほとんどはそれを喜んだ。しかしタイラーにとっては、政府に不信感が増すだけの出来事だった。金目的にしか見えなかった。
 超常術と、その裏側にある仕組みに個人的に関心を持ったのはそれからだ。
 裏稼業の情報屋に通えば、SEEPが公表しない情報が得られるとアパートの仲間から聞いた。半ばアンチSEEPになっていたタイラーは、鬱屈の解消のために裏取引をするようになった。解釈異能という言葉にどんどん詳しくなっていった。
 いつしか自分が情報屋の側になっていた。サウスブロンクスで煙草と一緒に情報を売る。いつか個人でも身を守れるようにいろいろな機器を揃えた。いつ「掃除」されるか分かったものではないから。
 仲間も引き込むつもりはなかった。これはタイラー個人の鬱屈の問題である。
 タイラーは特に日本のSEEPを調べた。彼らは明らかに怪しかったから。
 SEEP前身発祥の地。もとから興味はあった。情報屋の仕事をする中でも、日本SEEPとヒイラギ会の繋がりは断続的に情報として入ってきていた。ヒイラギ会のアイコンと見なされる、元日本SEEP会員の容姿情報。リヴィーラーズ・ライトとの関わりが噂される、謎の古い知識を持ったヒイラギ会の情報源。潰すなら本気で潰さなければ、世界の協会が内側から食われかねない。
 ただ、アメリカSEEPの長がそれらをどこまで押さえているのかが疑問だった。
「シオン、ヒイラギ会の吊るしあげを任されたんだよ」
 にやりとして少女は言った。
「あまりにもSEEPとヒイラギ会の関係が疑わしくなってる。このままじゃ、アメリカも一緒に疑われる。何かあるまえに、日本のSEEPを潰す。これで信頼は戻る」
「それは君の望むことなのか」
「まあ、いいんじゃない? これくらいは。ワタシは星なんだし」
 その日のシオンはゆるりとタバコ屋の汚れた椅子から立ち上がり、笑った。
 自分のことを、かつてはシオンとしか呼ばなかった少年は、気づけば、少女としてワタシと言うようになっていた。
「さよなら、失敗したらもう会わないよ」
 それが少女の最後の個人的な言葉だった。
 以降、タイラーとシオンは二人では話していない。
 タイラーは秘密裡に、アメリカSEEPが大会を使って報道予定の原稿を手に入れた。そこには秘匿派との争いのこと、ヘリポートのことと、事件の隠蔽を中心にとりとめもない日本SEEPの不祥事がつづられているだけだったのだ。
 独立系の日本を世論的に貶めたい。
 そういう組織的理由が垣間見えた。
 手ぬるかった。ヒイラギ会にまつわる様々な危険を察知しているとは思えない。これで大会の手順に不備があれば、一歩違えば糾弾されるのはアメリカのほうだ。ライバルの日本の評判を落として大会に勝とうとしていると言われても仕方がない。
 もっと明確な証拠を掴め。タイラーは苛立っていた。自分の方が正確な情報を掴めると思った。日本SEEPが本当に単独で罪を犯していることがわかる正当な証拠を。
 ──そして。
 雲を掴むような情報収集期間を経て、タイラーはとある少年を知った。
 それは取り寄せた日本SEEPの研修記録を読んでいたときのこと。試験などを一切受けていないにも関わらず、SEEP会員として登録されている名前をひとつ見つけたのだ。
 自然開花異能者であっても、安全な協会式に力を整えるために最低限の研修は受けるはず。それすらないということはつまり、最初から協会とは異なる方法で力の体系化ができている人間││「他の解釈異能者」に他ならない。
 会員登録されているだけならまだ罪はない。ただ、それを理解したうえで読み返せば、アメリカ側が取り上げようとしている事件記録に同じ名前があった。
 高瀬望夢。彼はまだ子供でありながら、日本SEEPに留め置かれている。恐らく解釈異能派閥向けの戦力として。戦争で死んだ少女がフラッシュバックしていた。子供の人権を何とも思わない、非道な戦いだと感じたことを思い出していた。
 汚れ仕事を引き受けるのは大人であるべきだ。
 間もなく、ホムラグループの少女からとある連絡が来た。件の高瀬望夢が情報収集に来るというものだ。彼女はタイラーの顔を知らないはずだが、タイラー側は今まで集めてきた情報全てで彼女の容姿も、能力も知っていた。そして彼女が日本SEEPの隠蔽事件の一つで被害に遭い、その際彼女と一緒にいたメンバーの中に高瀬望夢がいることも知っていた。
 ここまで割れれば。大会に出るシオンたちに日本SEEPの断罪を任せることはない。タイラー一人でも十分やれる。
 自分の憤りに対して、自分自身が子供を襲おうとしている矛盾には気が付いていた。
 それも含めて、徹底的に悪者になってやろう。シオンが汚れ役になる前に。
 タイラーは恐らく逮捕される。捕まったとき、理由を語れば十分だ。
 大会の話題性で、真実は一気に世界に広まるだろう。
×××
 莉梨の声は翔成のイヤホンに届いていた。ホムラグループの青年が届けてきているのだ。
 児子操也が先行したのなら、莉梨を心配する必要はもうない。ただし、外にいる銃を構えた連中を掃討する必要があった。
「おい、待て」
 そのうち一人が携帯端末を見て眉をひそめた。
「放送、止めさせろ。これ、誰が流してる」
 彼らの端末には、彼らのYouTubeチャンネルが映っている。
『暴露します。このチャンネルを使っている人たちは、僕らホムラグループが作ったイベントの協力者です』
 語っているのは、一人の少年だった。
『誘拐事件でお騒がせしました これは有事の時に、どんな対応を僕らホムラグループが為すことができるか、皆さんにお見せしたかったものです』
「誰だ、このガキ」
「ホムラグループのヤツ、こういう割り込みをかけてきたか。どこで乗っ取られた 仕方ない。配信を停止しろ 切れねえのか? 電源ごと落とせ! クソ、電子機器までジャックするとは聞いてない……」
「よし、あいつら、完全に切りましたね」
 翔成も自分の携帯端末の画面を落とした。そこには、今まさに翔成が自分の顔を映して撮影していた動画が映っている。
 ただし、翔成はそれを世界に向けて配信などしていない。
 彼らがそう思い込んでいるだけだ。
「おれは既存の映像を人に送って、視界を塗り替えることくらいしかできませんけど」
 周りに控えていた、大人のホムラグループ社員たちが頷いた。
「これでおれたちが即座に撮られる心配はありません、先手必勝! 混乱してる間に制圧!」
 銃の男たちが混乱している間に、非戦闘要員のホムラグループ社員たちも動いた。同じく携帯を経由して攪乱を送る者、直接相手の無力化洗脳に走る者。
 こちらは一般中学生、自分で撮った動画が世界に配信されるなんて、そんなことがそうそうあってたまるか!
「こっちだって必死なんです。友達と自分守るためなら、嘘くらいついてやりますよ」
×××
 目まぐるしく変わる会場、最後の一分間。
 瑠真は地べたに座り、膝を立てて目の前を睨んでいた。走り回り続けた疲弊で地形変化の勢いについていけず、足をくじいたのだ。その拍子に銃を落とした。それは少し離れた位置に転がっている。
 まっさらになった会場、目の前には金髪カチューシャの少女がいる。彼女は今すぐにでも瑠真を撃てる位置にいる。
 彼女が瑠真を使って、ヒイラギ会と日本の協会を巻き込もうとしている、その全ての企みを聞いたのに。こんなところで動けなくなるのは、悔しい。
 今タイムを取っても仕方がない。たとえ怪我が治っても同じ位置から再開せざるを得ない現状、シンプルにこの平面地形では勝ち目がないのだ。
 瑠真がそう思いかけた瞬間、目の前を最初のような地形の壁が取り巻いた。
「あれ」
 さらに、協会の点数パネルが一気に回るのが見えた。
 シオンとの間に障害物ができる。瑠真にとっては千載一遇のチャンスだった。
「──ッ、タイム!」
 瑠真は手をあげてインカムに叫んだ。ギリギリ、会場のデジタル表示の一五分カウントが停止した。時間は三〇秒。それだけあれば、動かなくてもできることがある。
 歯を食いしばりながら立ち上がり、念じるように口に出す。
「後、回、しっ……」
 嘘のように足の痛みが消えた。
 軽く足首を振る。完全に治っている。まるで怪我をする前の状態。怪我なんてなかったかのように。
 実際はそれが負債に過ぎないことを、瑠真は知っているけれど。
「アンドリューがやられたのか」
 壁の向こうでシオンが言った。今日の朝ごはん、卵トーストじゃなかったのか、というくらいの、軽い口調だった。
「じゃあワタシが瑠真ちゃんに勝つしかないな」
 身構える。三〇秒が終わる。同時に脚に増強をかけ、まずは銃を落とした地点へ。拾うと同時、膝をバネにして、高い壁の上に飛び乗った。息があがっている。ずっとこんなことを繰り返していれば当たり前だ。
 上側を取られると狙われやすい、という判断だった。そしてそれはシオンも同じだった。
 壁の上、ほんの数メートルずれた位置に、トン、とシオンのシルエットが立った。照明を背に背負って、その姿は燃え盛る天体のように見えた。
「君達の尻尾、掴んだ理由なんだけど」
 シオンはしごく今まで通りだった。背がぞわぞわする。揺らがない彼女自身に対して。
「分かったんだ。二人とも協会のために動いてない。過去の大切な人がヒイラギ会にいるってことでね」
「それはっ……」
 瑠真は少なくともそうだ。奥歯を噛みしめる。それを否定せずに、ヒイラギ会の味方だと思われないためには、しなければならない説明が多すぎる。
「日本にはヒイラギ会の影響が強いという話は聞いてた。意図的に会長が君達を近くに置いてるって話もね。──おっと」
 シオンは続けようとして、ふいに言葉を切った。瑠真が銃口を真っ直ぐ向けたからだ。
 ここから逆転するには。瑠真はまだ負けたつもりはない。彼女たちのプロパガンダに乗るな。むしろ不正は向こうだ。甘い蜜を持つ腐ったリンゴ。
「なんで、こんなことに手を貸してるの? こんな、汚い大会に」
 日本語の音声は、日本ではすぐに放映されても、世界では翻訳の手間をかけられて英語ほどの訴求力には欠ける。それでも瑠真にはこれしか使えない。
 シオンは狙われているのに堂々と手を広げた。瑠真はその理由を知っている。──彼女は光を歪める力を持つ。真っ直ぐ進むレーザー銃に対して、狙いを逸らさせる相性は抜群なのだ。
「汚いって ワタシが君達を嵌めたとでも思ってる」
 光を操る少女は、本気の声音だ。
「『公平な思想の競い合い』。それがこの大会の趣旨だったじゃない。君達の世界解釈と戦って、何が悪いの」
「言っても聞く気ないでしょうね。でも、私はヒイラギ会じゃない 勘違いで吊るしたほうが恥をかくわ」
「ヒイラギ会かどうかじゃないんだ、ルマ」
 シオンはそんなことを言った。こちらの名前を憶えていた。
「協会はクリーンでなくちゃならないんだよ。
 日本SEEPは今、ワタシたちの基準でクリーンじゃない。隠蔽事件があり、他の解釈と通じている。君達がいるだけで、理想像とは程遠いんだ」
 じわじわと、無理だと悟っていた。
 説明は通じない。反駁したすべての言葉は相手にとって意味がない。
 この感覚には覚えがあった。秋にヒイラギ会の少年と対峙したときのやり取り。相手は自分とは完全に相いれない世界で生きている。あるいは、相いれてしまった瞬間に自分が自己定義を見失うようなやり取りだ。
「──そう」
 であれば。
「私協会辞めてもいいよ」
 背後でペタルが渦巻くのを感じた。高瀬式で学んだ技術の一つ、手を起点にしなくてもコントロールすること。これはできるようになっている。
「これは正々堂々の競い合い。そう言うのね だったら私が、アンタのその勝ち筋の邪魔をしても何とも言われない」
 試合の実況を届けてくるインカムがうるさい。瑠真が流し込んだペタルが、具現化した勢いで耳元の機械を破壊する音がした。急にしんと静寂が訪れる。瑠真はさらに会場の真上に手をやった。そこにあるのは報道用カメラだ。
 カメラが粉々になり、視界の悪い地形のあちこちに飛び散った。
「駄目だよ、瑠真ちゃん。『それ』は──きみの暴力性は」
 シオンは平然としていた。効いていない。どうしたらいい。瑠真の背にようやく焦燥が走る。彼女はもはやプロパガンダも、点数も気にしていない。
「協会が最も捨て去るべきものだ。カメラ止めて。……ああもう残ってないみたいだね」
 それだけはうまくいったのだと思う。シオンも語り掛ける先に困ったようだから。
 その上で、彼女は七〇億人の星である少女は、首を傾げる。
 見られる必要が無くなったから、それは本当に彼女自身の発言だったのだろう。
「きみはさ」
 流麗な声が言う。
「ただ求めるだけで全然中身がない、まるでからっぽの体を外からいろんな装飾で固めてるみたいだ。君は君の渇きに一体、いったい何を容れようとしているの」
 瑠真が泣きそうな顔をした。
 その瞬間、会場が、壊れた。
×××
『お。悪くないね、瑠真ちゃんも望夢も』
 誉は楽しそうに鼻歌を歌っていた。シロガネはそれを聞きながら、コントロールパネルを見下ろし、ぱちんぱちんといくつかのレバーを下ろす。
『人間は勝者に弱い。そう、だから自分たちが格好良く見えるように、正攻法で勝つのはまず一番の正解だ。それから、それが叶わないなら少なくとも、平等じゃない舞台は無理やり止めさせる』
「それが望夢くんと、瑠真ちゃんのやったこと」
『うん。だけどちょっと詰めが甘い』
 誉はコントロールパネルの上に浮遊しながら、モニター越しに大会の様子を見ていた。
『ニュースで不祥事まで流れてしまった以上、ここまでやっても日本の糾弾は免れられないのさ。最悪、二人はまた別の協会式教育プログラムなんかから受けなおしになるかも』
「え 何言ってるの。また研修からやり直されたら、ここまで瑠真をヒイラギ会式に寄せたのに残念だよ」
 カノがぶうたれた。シロガネは彼らのやり取りにこっそり苦笑いしている。
『そう。だから、めちゃくちゃにしちゃえばいいんだろう きみたちヒイラギ会のやり方って、いつだってそうだったはずだ』
 ぱちん。最後のレバーのセットを、シロガネは終えた。
「カノ、やる? 一言言えば、ボクが全部吹き飛ばすよ」
「ダメよ、吹き飛ばしちゃ。大会さえ邪魔できればいいんだもの」
「たとえだよ」
「ホント? 瑠真を怪我させていいのはわたしだけだから」
 シロガネは内心気に入らないながらも、頷く。カノが何を望むかなんて最初からわかっている。
「誉、どう思う」
『今の瑠真ちゃん、怪我しないじゃん』
 電脳幽霊は気軽な口調で言った。
『怪我したって全部後回しだよ。術式の効力がペタル切れで無くなる前に、治癒に控えてあげさえすれば』
「……それならいいか。そういうふうに瑠真を仕込んだのはわたしたちだもんね」
 カノはあくまでそういうふうに納得する少女である。
「、どうなると思う」
『さぁ、どうだろう。アメリカにまで悪いとこ突かれて、その上でめちゃくちゃになったらさすがに折れるかな』
「ほんと そうしたらそろそろ、わたしのところに来てくれる」
 カノが目を輝かせる。そう、彼女の望みはいつでも簡単。七崎瑠真に側にいてほしい。そのためなら世界も変えるし、本人が味方に裏切られて希望を喪ってもいい。
『様子見に行こう。タイミングも全部丁度いいし』
 誉は隣のヒマワリの頭を撫でた。正確には電子の体は撫でるように手を動かしているだけで感触はないはずなのだが、ヒマワリは嬉しそうにその場でぴょんぴょんする。
『確認だけど、カノ。瑠真ちゃんがそれでも俺たちのところに来るのを望まなかったら、「あれ」やってもいいんだね』
「もちろん」
 カノの声は元気だった。
「そのために寿々ちゃんも待たせてるんだわ。よーし、シロ、いつでもはじめて」
 りょうかい、と軽く返す。
 それからシロガネは、目標に向けて手を動かし始める。
 ここはコントロールルーム。大会の仮想空間を制御するシステムの、自動式の無人中枢である。
 
 シロガネがパネルを叩いた。
 その時、会場の全てがランダムに発生した仮想空間に包まれ、多くの人は突如発生した迷路に惑うことになった。
次>>
0 notes
kachoushi · 5 months
Text
各地句会報
花鳥誌 令和5年12月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年9月2日 零の会 坊城俊樹選 特選句
売られゆく親子達磨の秋思かな 三郎 初秋の六区へ向かふ荷風かな 佑天 浅草にもの食ふ匂ひして厄日 和子 秋の風六区をふけばあちやらかに 光子 蟬一つ堕つ混沌の日溜りに 昌文 中国語英語独逸語みな暑し 美紀 神谷バーにはバッカスとこほろぎと 順子
岡田順子選 特選句
ましら酒六区あたりで商はれ 久 レプリカのカレーライスの傾ぐ秋 緋路 鉄橋をごくゆつくりと赤とんぼ 小鳥 ぺらぺらの服をまとひて竜田姫 久 橋に立てば風に微量の秋の粒 緋路 秋江を並びてのぞく吾妻橋 久 提灯は秋暑に重く雷門 佑天 浅草の淡島さまへ菊灯し いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月2日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
さざなみの落暉の中の帰燕かな 睦子 流木を手に引き潮の夏終る 同 無干渉装ふ子等や生身魂 久美子 秋暑し右も左も行き止まり 愛 秋の虹までのバス来る五号線 同 バスを降りれば露草の街青し 同 投げやりな吹かれやうなり秋風鈴 美穂 先頭の提灯は兄地蔵盆 睦子 なりたしや銀河の恋の渡守 たかし 指で拭くグラスの紅や月の秋 久美子 くちびるに桃の確かさ恋微動 朝子 法師蟬死にゆく人へ仏吐く たかし 息づきを深め白露の香を聞く かおり 燕帰るサファイアの瞳を運ぶため 愛
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月4日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
恐ろしき事をさらりと秋扇 雪 美しき古りし虹屋の秋扇 同 秋扇想ひ出重ね仕舞ひけり 千加江 秋扇静かに風を聞ゐてみる 同 鵙高音落暉の一乗谷の曼珠沙華 かづを 秋夕焼記憶に遠き戦の日 匠 補聴器にペン走る音聞く残暑 清女 夕闇の迫りし背戸の虫を聞く 笑 秋扇閉ぢて暫く想ふこと 泰俊 曼珠沙華情熱といふ花言葉 天空
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月6日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
片足を隣郷に入れて溝浚へ 世詩明 野分中近松像の小さかり ただし 吹く風の中にかすかに匂ふ秋 洋子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月7日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
何事も暑さの業と髪洗ふ 由季子 染みしわの深くなり行く残暑かな 都 膝抱き色なき風にゆだねたり 同 秋の灯を手元に引きてパズル解く 同 のど元へ水流し込む残暑かな 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月9日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
枯蟷螂武士の貌して句碑に沿ふ 三無 籠に挿す秋海棠の朱の寂し 百合子 一山の樹木呑み込み葛咲けり 三無 風少し碑文を撫でて涼新た 百合子 守り継ぐ媼味見の梨を剥く 多美女 葛覆ふ風筋さへも閉ぢ込めて 百合子 かぶりつく梨の滴り落ちにけり 和代 秋雨の音の静かに句碑包む 秋尚 梨剥いて母看取り居ゐる弟と 百合子 たわわなる桐の実背ナに陽子墓所 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月11日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
登り来て峙つ霧を見渡せり エイ子 太鼓岩霧に包まれ夫と待ち のりこ 秋茄子の天麩羅旨し一周忌 エイ子 秋茄子の紺きっぱりと水弾き 三無 散歩道貰ふ秋茄子日の温み 怜 朝の日の磨き上げたる秋茄子 秋尚 山の端は未だ日の色や夕月夜 怜 砂浜に人声のあり夕月夜 和魚 四百段上る里宮霧晴るる 貴薫
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月11日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
星月夜庭石いまだ陽の温み 時江 サングラス危険な香り放ちけり 昭子 団子虫触れれば丸く菊日和 三四郎 羅の服に真珠の首飾り 世詩明 無花果や授乳の胸に安らぐ児 みす枝 蜩に戸を開け放つ厨窓 時江 秋立つやこおろぎ橋の下駄の音 ただし 曼珠沙華好きも嫌ひも女偏 みす枝 長き夜を会話の出来ぬ犬と居て 英美子 妹に母をとられて猫じやらし 昭子 長き夜や夫とは別の灯をともす 信子 蝗とり犇めく袋なだめつつ 昭子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月12日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
鳳仙花見知らぬ人の住む生家 令子 秋の灯や活字を追ひし二十二時 裕子 露草の青靴下に散らしたる 紀子 父からの裾分け貰ふ芋の秋 裕子 かなかなや女人高野の深きより みえこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月12日 萩花鳥会
秋の旅ぶんぶく茶􄽂の茂林寺に 祐子 胡弓弾くおわら地唄の風の盆 健雄 大木の陰に潜むや秋の風 俊文 月今宵窓辺で人生思ひけり ゆかり 天に月地に花南瓜一ついろ 恒雄 月白や山頂二基のテレビ塔 美恵子
………………………………………………………………
令和5年9月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
蜩や五百羅漢の声明に 宇太郎 我が庭は露草の原湖の底 佐代子 水晶体濁りし吾に水澄める 美智子 手作りの数珠で拜む地蔵盆 すみ子 蝗追ふ戦終りし練兵場 同 病院を抜け出し父の鯊釣りに 栄子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月15日 さきたま花鳥句会
虫しぐれ東郷艦の砲弾碑 月惑 熱帯夜北斗の杓の宵涼み 八草 兵の斃れし丘や萩の月 裕章 夕刊の行間うめる残暑かな 紀花 校庭に声もどりをりカンナ燃ゆ 孝江 八十路にもやる事数多天高し ふゆ子 子供らの去り噴水の音もどる ふじ穂 杉襖霧襖越え修験道 とし江 耳底に浸みる二胡の音秋めけり 康子 敬老日いよよ糠漬け旨くなり 恵美子 重陽の花の迎へる夜話の客 みのり 新涼の風に目覚める日の出五時 彩香 鵙鳴けり先立ちし子の箸茶碗 良江
………………………………………………………………
令和5年9月17日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
昼の星遺跡の森を抜けて来て 久子 曼珠沙華もの思ふ翳ありにけり 三無 いにしへの子らも吹かれし秋の風 軽象 明け六つの鯨音とよむ芒原 幸風 秋の蟬さらにはるけき声重ね 千種
栗林圭魚選 特選句
朝涼の白樫の森香の甘し 三無 莟まだ多きを高く藤袴 秋尚 艶艶と店先飾る笊の栗 れい 榛の木の根方に抱かれ曼珠沙華 久子 揉みし葉のはつかの香り秋涼し 秋尚 風に揺れなぞへ彩る女郎花 幸風 秋海棠群がるところ風の道 要 秋の蟬さらにはるけき声重ね 千種
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月20日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
江戸生れ浅草育ち柏翠忌 ��詩明 神谷バーもつと聞きたし柏翠忌 令子 柏翠忌句会横目に女車夫 同 旅立たれはやも四年となる秋に 淳子 桐一葉大きく落ちて柏翠忌 笑子 虹屋へと秋潮うねる柏翠忌 同 言霊をマイクの前に柏翠忌 隆司 若き日のバイク姿の柏翠忌 同 一絵巻ひもとく如く柏翠忌 雪 柏翠忌旅に仰ぎし虹いくつ 同 柏翠忌虹物語り常しなへ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年9月24日 月例句会 坊城俊樹選 特選句
秋天を統ぶ徳川の男松 昌文 秋の水濁して太る神の鯉 要 眼裏の兄の口元吾亦紅 昌文 秋冷の隅に影おく能楽堂 政江 群るるほど禁裏きはむる曼珠沙華 順子
岡田順子選 特選句
身のどこか疵を榠櫨の肥りゆく 昌文 カルメンのルージュみたいなカンナの緋 俊樹 口開けは青まはし勝つ相撲かな 佑天 光分け小鳥来る朝武道館 て津子 蓮の実の飛んで日の丸翩翻と 要
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年8月2日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
炎天下被るものなき墓の石 世詩明 夫恋ひの白扇簞笥に古り 清女 野ざらしの地蔵の頭蟬の殻 ただし 一瞬の大シャンデリア大花火 洋子 三階は風千両の涼しさよ 同 素粒子の飛び交ふ宇宙天の川 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
0 notes
usickyou · 2 years
Text
ラブランド
Welcome to love land - THE LOVE LAND!  『ようこそ愛の国、ラブランドへ!』
 
 突然に現れたその言葉が眩しくて、目を閉じた。空にかかるシャンパンゴールドのネオンに心を慣らしながら、少し、この状況について考える。あたしは誰か。自明なのでパス。ここはどこか。愛の国ラブランド、景色は遊園地のようだ。今は真夜中、きらびやかな仕掛け時計が午前一時を回ったばかりだと知らせている。何が、どうして。ちっともわからないので唇を噛んだ。少なくともその痛みは信じられそうだった。  まだ眠たがる体を起こすと大好きなベッドを離れて、外の世界へ踏み出した。裸の足を優しくくすぐる芝生が心地よくて、確かめるみたいに何度も踏みしめてその温もりに気付く。ちょうど春と夏のまんなか、羽根の毛布にくるまって夜風を感じるくらいの暖かさ。かすかな風には甘いおかしの香りが混じって、新芽くらいの空腹を感じた。  なるほど愛の国、とあたしは一人で頷く。光も音も、空気や手触りさえも心地よく、ここはとても素敵な空間だった。そっと差し出されたハートの風船を受け取ると、マスコットらしいウサギを模したキャラクターがにこにこと(正直よくわからないけど笑っているのは確かだ)笑いかけるので、あたしは自然と笑い返して手のひらを振る。仲むつまじく並んで去っていく二人のマスコットと、渡された黄色い風船と、のんびり見比べているとアナウンスが響いた。 『迷子のお知らせを……よりお越しの一ノ瀬志希ちゃん、宮本フレデリカちゃん……メリーゴーランドまで……』  途切れ途切れの(ちょっと幼げな)声は、なぜか懐かしかった。知らないはずなのに、初めての気がしなかった。ぼんやりと星のない空へ向けていた視線を下ろすと正面にはいつの間にかメリーゴーランドがあって、もう、ベルが鳴っている。そこではフレちゃんが手を振っていて、「こっちだよ」と限りない喜びへあたしを誘っている。  脚が、本当に小さな子どもになったみたいに駆け出して、けれどあたしを待たずにベルは鳴り止む。もたもたと柵を乗り越えて、つまずいて、回り出す舞台へ飛び乗った。ハートの馬車のドアを開いて、フレちゃんは手を伸ばす。あたしは息を切らせながら手のひらをしっかりと掴むと、その柔らかさで、全部を思い出した。  ちょうど、一時間前だった。フレちゃんはしなやかな、よく手入れされたその指であたしをそこへ連れていくと、「お誕生日おめでとう」っておでこにキスをくれた。「大人になるまで待てなかったね」なんてとても幸せそうに笑って、あたしは頭の中の白い光のせいでその言葉も何度も触れる唇も全然わからなかったのに、かたく繋ぎ合った手のひらの柔らかさだけをちゃんと覚えてる。  鮮明に、白飛びした写真に咲いた青い花みたいに。  ほとんど反射で離そうとした手をフレちゃんが掴まえて、あたしの体はハートの馬車に乗り込んだ。だけど心は今もあのベッドに置き去りで、「しきちゃん」あの洪水のように押し寄せた愛のただ中と同じ声で呼ばれて、振り向けずにいる。もし見られてしまえば、たとえば急に走ったせいで息が上がっているし、きっと頬も赤い。目が合えば、あの暗闇の中で溶融した視線を見つけてしまう。なのにフレちゃんは「あたし、さみしいなあ」そんなふうに、いとも簡単にこの甘い恐れを実現させてしまう。  フレちゃんが覗き込んで、あたしたちの視線が交わる。その目が、唇が、あたしの首すじを撫でたお鼻が、あたしが唇でなぞると「くすぐったいよ」と震えた鎖骨が、おぼつかない手つきで一生懸命に脱がせた白いもこもこのパジャマが、すべすべのおなかや信じられないくらい柔らかな胸からした甘い香りが、敏感な腸骨のでっぱりや内腿の薄い皮膚の内側に透けていた血管、湿潤と熱であたしを捕らえて離さなかった愛の中心が、そして、あたしの全身、体だけじゃ足りず心までを愛し尽くしてくれたその指が、たった一時間前のこと全てが一瞬の視線によって目の前のフレちゃんと混じり合って、あたしは幸せの過剰摂取で死んでしまうと思った。  だけど、おそろしいことに、この幸せには続きがあった。  フレちゃんははじめ不思議そうにしていた。目の奥を覗いて、首を傾げて、一度だけまたたいた次の瞬間にはその瞳孔をいっぱいに開いてあたしのことを見た。見る間に頬が赤くなって、唇は小さく震えて、ついには乗り出していた体をシートに縮めてしまう。いつもと全然違う調子はずれの鼻歌が聞こえて、まだ膝が触れ合っていたことに気付くと静電気が走ったみたいに引き離す。  そうやって、あたしたちはこの小さな馬車の中で迷子になった。互いにそっぽを向いたまま外を眺めて、言葉もなく、手をつないだり抱きしめたりキスをしたり一時間前まで当たり前だったふたりは、ぐるぐる回る遊園地の明かりのどこにも見つからなかった。  あたしは一度だけ、気付かれないようそっと振り向いた。すると同じようにしていたフレちゃんと目が合って、はじき合うみたいに目を反らした。その瞬間、鮮やかなもも色の頬にちょっとだけ怯えの混じった上目づかいを見た時、今度こそあたしは死ぬんだと思った。だけどどうにか生きていたので、停止のベルを聞くと次第に流れを弱めていく景色を眺めながら途方に暮れた。  だから、二度目のアナウンスは救いの日に鳴る鐘のように聞こえた。 『迷子の……一ノ瀬……フレデリカちゃん……ミラーハウスまで……』  その声は、あまりに正しかった。だってあたしは、フレちゃんでさえきっと、この愛の国の歩き方を少しも知らない。大げさで、だけど切実なそのやり方を、あたしたちはまだ全然知らなかった。  ゆらゆらと、ハートの風船が揺れている。静かに、あたしたちの隙間をちょっともて余すみたいに。
 *
 メリーゴーランドを降りると、シナモンシュガーのチュロスをかじりながらミラーハウスへ向かった。ほんの短い時間だったけれど、ふたりで並んでいるのに手を繋がずにいるのはすごく不思議な思いがした。当たり前がそこにない、もしかして体の一部をなくしたような、そういう感覚。 「あたし、ミラーハウスってはじめて」笑っちゃいそうにたどたどしい鼻歌を途切れさせて、フレちゃんは言う。「しきちゃんは?」 「んー、たぶんあたしも」あたしは答えて、決して視線が重ならないように(なんだかばかみたいだ)横顔から気持ちを伺おうとした。「どうしよっか?」  そんなふうに迷いかけたあたしたちの前に、ウサギのマスコットが姿を見せる。後ろから覗き込むようにして、背中を押すと開かれた入り口へ連れていく。「わお!」とフレちゃんが笑うので、つられるみたいにあたしも笑うことができた。それぞれ手にハートのスタンプを押されて、フレちゃんが赤い風船を受け取ると、手を振ったウサギが扉を閉じてしまった。  そこではあたしたちが折り重なりながら無限に続いた。正面も背後も横顔も、上下を見れば頭のてっぺんから爪先まで、理屈は知りながら初めての光景は驚きに満ちて、同時にかすかな恐怖を伴った。だけどフレちゃんは本当に楽しそうにしていて、おそらく人類史上初めてのポーズを取ってみたりその歴史的快挙にあたしを誘ったりして、それでもふたりの間には、鏡像にさえ越えられない一線があった。  そうやって、しばらく遊び倒してやっと「出口ってどっちだっけ」とフレちゃんは言う。あたしは鏡に触って「こんな感じで行けるかな」と答える。「メルシーしきちゃん」そう言ってぺたぺたと鏡をなぞる姿は一つ角を曲がると消えてしまって、後には無限に連なるあたしが取り残された。 「フレちゃん」とあたしは叫んだ。鏡越しの声が聞こえて、その向こうだとわかると「離れて」と言って思い切りガラスを蹴る。鏡が鈍い音を反響させて、痛みだけが残った。「だめだよ、しきちゃん」全ては衝動だったので、行為の危険性は遅れて認識された。でも、と手で叩いた鏡の中であたし同士が視線を重ねるのは、滑稽な一人芝居みたいだった。 「出口で、会えるんだよね」 「そうだけど、でも」 「じゃあ、平気だよ。ね」 「わかんないよ。だって、普通じゃない」 「大丈夫。だって、ここは愛の国だから」 「あたしには……ねえ、信じていいの」 「愛を、信じられない?」 「……わかんない、だって、こんなの」 「初めてだから?」それはフレちゃんの声じゃなかった。「怯えてるの? にゃはは、それってすっごくナンセンス」鏡越しのあたし��、挑発するみたいに笑った。「未知は喜びじゃないの? そうやってずっと生きてきたよね? 今さら怖がる必要なんてない、今までみたいに楽しんでいこうよ、ね?」  あたしは、あたしから逃げ出す。背後の鏡に勢いよくおでこをぶつけて、鏡の中のあたしがおなかを抱えて笑った。痛みをこらえながら目を閉じると、耳も塞いで、足先で鏡の縁を辿りながら歩いた。暗闇の中で角を右へ、右へ、右へ、ほとんど軸足が動かないことに気付いて目を開くと、そこにはホラーハウスの光景がある。足のないおばけのマスコットや角の欠けた墓石、剥がれた黒い壁紙にはぐちゃぐちゃとしたクモの巣がかかっていて、空間の中心にある朽ちかけた棺には『一ノ瀬志希 ついに愛を知ることのなかった女』そう刻まれていた。  あたしは振り向くとほとんど頭をぶつけるつもりで、それでこの悪夢が覚めると信じて棺の鏡像へ飛び込んだ。けれどそこにあったはずの鏡は消えて、体は無防備に投げ出される。痛みに呻きながら顔を上げると、遠くにフレちゃんを見つけて歩き出す。その表情は一歩ごとに確かになって、目の前まで来てやっと、ほっとしたみたいに笑った。だけどすぐに、きっと自分が怪我をするよりずっと辛そうな顔をした。 「しきちゃん、急がなくていいよ。ね、ゆっくりでいいから」 「……フレちゃん、でも、心配だから」 「あたしは大丈夫、ほら、キュートなフレちゃんのまんまでしょ?」 「……ほんとだ。にゃは、フレちゃんってなんでそんなにかわいいの、もう」 「ふふーん、ママとパパ、しきちゃんのおかげかなあ」そう言って、フレちゃんは手のひらを広げてガラスにぴたりとくっつけた。「ねえ、手、繋ぎたいよ」 「うん」とだけ答えて、あたしはガラスに触れようとした。だけど、寸前に起きたあの愛のフラッシュバックに手を止めた瞬間、フレちゃんの背後からあたしが姿を見せる。残酷に笑うあたしに抱きしめられて、フレちゃんは嬉しそうに笑い返した。  二人の距離は少しずつ近付いていく。二人を隔てるもの全てがなくなって、唇が重なろうとした瞬間にガラスは鏡面を取り戻す。鏡の中のあたしがぼろぼろと涙を流しながら、あたし自身と手のひらを重ねた。それが冷たくて、固くて、ひどく悲しくて、うずくまった。この愛の国に置き去りにされて、あたしはどうしようもなくひとりきりになった。  あたしは「怖いよ」と言う。愛が怖くて泣いている。「痛いよ」と言う。愛の痛みで泣いている。そうしながら、胸の内にある温もりを抱きしめる。かすかなともし火が消えてしまわないよう、必死に抱きとめている。だから、「ねえ」という声に答えられない。「どうして泣いているの?」不思議そうに訊ねる誰かに、顔を上げられずにいる。 「あたしには分からないけど、そっか、涙には副交感神経を活性化させるはたらきがあるから、必ずしも悪いことじゃないよね」その声は幼いのに訳知りで、せっかくだから、と続けるとあたしの髪を優しく撫でてくれた。「これでもっとリラックスできるよ。どう? ママとあたしで実証済だから」  あたしはその声を知っていて、それは園内で聞いたアナウンス、だけど、ずっと昔から知っている。 「ごめんね、もう行かなきゃ。だってママとパパが一緒だから」そう言って彼女の指があたしの髪を離れると、楽しげなおもちゃのメロディが鳴りはじめる。待って、とあたしは顔を上げた。その姿は、光と涙で滲んで見えた。ウサギの乗り物に乗っていて、両隣には歩幅を合わせて歩く大人のシルエットがあって、かろうじてそれだけが分かる。「そうそう」と彼女はひとさし指を立てると「ここってすごく素敵だよ。ほんとはね」と言う。立ち上がって、あたしはふらふらと白い光へ飛び込んでいく。目も眩むほどのかがやきの中で「知ってるでしょ」という声を確かに聞く。  それきり、何も聞こえなくなった。光も音もなくして、高鳴りをやめない鼓動だけをつぶさに感じていた。  あたしはゆっくりと目を開く。少しずつ、この恐ろしいほどの光に心を慣らしていくと、真っ白な空間にあのマスコットを見た。彼はちっとも似合わないタキシードで装っていて、あたしと視線を重ねるとシルクハットを手にして恭しくおじぎをする。指を三本立てて、二本、一本、そして、力強く両手を広げると手にしたステッキでこの世界に魔法をかけた。  白い世界には、色が響く。無音の世界を音楽が塗り変える。夜をスクリーンにして、今、鏡の中のパレードが躍り出した。そこには無限に連なる彼らがいて、だけどそれぞれが別々の命を持っている。タキシードとシルクハット。色とりどりのドレス。ちっちゃな子には短いズボン。真っ赤な布地に金の刺繍をあつらえた旗、振り回すのは羽根帽子の少女たち。後ろからは楽隊が続いて、力強い太鼓のリズムに高らかな管弦の音色を織り重ねた。  そして、パレードの中心には電飾に彩られたミニチュアのお城がある。またたくたびに色を変える光のテラスではあたしたちが、どれだけあげても尽きない笑顔をあたり構わず振りまいている。  鏡の中のあたしが、あたしを見つける。肩を叩かれたフレちゃんもすぐに気付いて、ふたりは大きく手を振った。早くおいでよ、楽しいよ。ねえ、こんなに素敵なんだよ。そんなふうに誘った手がやがて指し示したパレードの出口、この夜への入り口へ、あたしは走り出す。マスコットたちが、子どもたちも楽隊も、そしてお城のふたりがあたしへ声援を送った。次々に、鳴り止まない声や音楽が背中を押した。きらびやかな光が進む道を形作ると、その向こうで開けた夜を身に纏ったフレちゃんがいっぱいに腕を広げてみせた。それが本当のフレちゃんだなんてことは(ミラーハウスは、もう終わった)当たり前に分かって、あたしは勢いのままにその体を抱きしめる。あんまり思い切り飛び込んだせいでバランスを崩すと、れんが塀から乗り出した体を夜風が支えた。そこはお城のテラスで、あたしたちは「あぶなかったね」と笑いながら愛の国に溢れる光を見下ろす。「あたしね、子どものあたしに会ったんだよ」フレちゃんは、目を輝かせたまま話しはじめる。 「あたし、不安でどうしたらいいかわからなくて、だけど子どものあたしはぜんぜん、きらきらした目で笑うんだよ。一緒にいこうって、手を繋ぐんだよ。子どもって、すごいよね。あたしなんてもう、かなわないなあって思っちゃった」 「でも」とあたしは頬をつついてみせる。「フレちゃん、きらきらしてる」 「そう、そうなんだよー! さすがしきちゃん、そこであたしは考えました。子どもには敵わないなら、あたしが子どもになっちゃえばいいんだって。そしたらね、ほら、こんなにきれいな場所だったんだよ!」  フレちゃんが手を振って、愛の国には新たな明かりが点る。ローラーコースターや大観覧車、生まれた光の全てがこの夜を彩り尽くした。 「魔法だ、何もかもフレちゃんの思いのままだ」とあたしは笑う。しばらく光を眺めると、フレちゃんへ向き直る。その瞳があまりに眩しくて、途方もない力で引き寄せるので「ねえ、あたしもそれほしい」と思わずねだる。返事なんて少しも待たずに、あたしたちはキスをする。重ねた唇や手のひらからは愛の行為が鮮やかに甦って、なのにそれは少しも怖くなかった。触れ合う肌をかけ巡った幸せが、一瞬一瞬を満たしてやまなかった喜びが、まるで今この瞬間に起きているように感じられていた。 「あたしね、フレちゃんとなら子どもでいたいよ」 「それって、あたしがお子さまだから?」 「ううん、愛してるから」 「そっかー、じゃあずっと子どもでいようね」 「大人になっても、ね」 「一緒だよ。だって、すごく愛してるの」  そんなことを言いながらちっとも子どもじゃないキスをして、あたしたちはこの国の住人になる。まぶしい光の一部、中心、いちばん明るい一点になって、やっと目覚める準備ができたのだと知る。 『……えー、もうすぐ閉園のお時間です』もう聞き慣れた、その声が響いた。マイクの後ろからは隠す気のない笑い声が聞こえて、あたしには彼女が一人じゃないことがよく分かった。『お帰りは当園自慢のローラーコースターからどうぞ。それと、えっと、こう言うの? それじゃあお別れに、せーの、”良き愛を!” また、ここで会おうね』
 *
 ローラーコースターは、のんびりと空を目指す。ふかふかの座席もぜんまい仕掛けの軽やかな音も、夜に浮かぶハートの月も、自慢のローラーコースターには愛の仕掛けがたくさんあって、あたしたちは最前列でそれこそ子どもみたいにしてずっとはしゃいだ。 「あ、風船!」フレちゃんはそう言って、パジャマにくくっていた風船をしゅるしゅると外す。「なくなっちゃうのかなあ」 「にゃはは」とあたしは届くように笑って、受け取った風船をあたしのとまとめて空に放った。赤と黄色の風船は空を昇って上昇気流をつかまえるとあっという間に消えてしまって、星のない夜の星になった。ぱちんと鳴らす指を合図に無数の光が空に点ると、そのまたたきは遥か向こうの地平線にまで連なった。 「わお、ボーノボーノ!」 「フレちゃんそれってイタリアン」 「そうだっけ?」 「でも、伝わる。よく分かるよ」 「さっすがー、しきちゃんはフレちゃんハカセだね」 「いつも考えていますので」  そんなふうにいちゃついていたら、突然のかがやきに目がくらんだ。それはローラーコースターの下、地上から湧き上がる光で、まるでステージからの景色みたいにあらゆる色であたしたちを包み込んだ。たちまち空と地の境は曖昧になって、一つの球体になった世界からは重力さえ消えてなくなった。昇るのか降りるのかもわからなくなったレールの上で、「ちゃんと見なさいって」とあたしは肩をすくめる。「でも、子どもは叱られるのがおしごとだから」とフレちゃんは悪びれずに言う。それでもあたしたちはこの国の愛のわざにすっかり虜にされていたので、気が付けばずいぶん高いところまで昇っていた。もうすぐに、ローラーコースターはその本質を発揮する。見下ろした景色にその瞬間を重ねると、背中がぞくぞくとした。お腹の底をねじられるみたいな感覚がして、思わずフレちゃんにぴたりと身を寄せた。 「こわい?」フレちゃんはあたしと真逆に目を輝かせて言う。あたしはうんうんと何度か頷いて答えると、ほとんど無意識に探したフレちゃんの手のひらを強く握る。「前にみんなで乗って、なんていうの、すごかった」そこから流れ込む愛の記憶はやっぱり生々しく鮮やかで、重なり合うハートのスタンプみたいに優しい色をしている。  フレちゃんはあたしの手を握り返して、「大丈夫」と言った。「あたしがついてるよ。ふたりなら、ぜーんぶシルブプレだから」 「なにそれ」と笑いながら、あたしは思う。怖かったり痛かったり、なのにきらきら輝いて、愛することは本当にたいへんだ。だけど、だからこそ楽しい。夢中になる。がんばりたくなって、きみを喜ばせたいだなんてありふれたアイディアが世界にたった一つの宝石みたいに特別な輝きを放つ。「あ、でもそういう魔法の呪文、あたしも知ってるよ」あたしはそう言って、耳うちの仕草で誘いをかける。ふんふんと耳を寄せたフレちゃんに、いたずらの吐息と一緒にささやきかける。  帰ったら、あたしがフレちゃんに何をしたいか。  ふかふかのベッドで、あたしがフレちゃんに何をしてほしいのか。  そういうことを伝えたお耳からフレちゃんはみるみる真っ赤になっていって、「ばかばか」とあたしを叩いた。それがちっとも痛くなくて、優しくて、繋いだ手を離さずにいるのがおかしくて、「かわいいよ、すごく」なんて言っているうちに、ついに上昇を終えたローラーコースターが落下の準備を始めた。  あたしたちは、前を向く。背筋を伸ばしたら、息を呑む。レールの先には真っ白な光の渦があって、そこをくぐって行くのだと分かった。「またね、ラブランド」と唱えて、あたしはまたフレちゃんの手のひらを強く握った。悲鳴を上げる準備は、それで済んだ。  体が落下を始めると、あたしたちはお揃いの悲鳴をあげる。それはまるで、産声みたいだ。生まれた日の祝福、人生に二度はない時間の再来は夢にだけ許された奇跡だ。ハッピー・リ・バースデイ。このレールを過ぎたあたしたちは、どんなふうに目覚めるだろう。どうか、とあたしは愛の国に流れる星に願いをかける。良き愛を。生まれ落ちたふたりに、いつまでも。  ローラーコースターは光の渦へ飛び込んでいく。その寸前、あたしは見覚えのあるかがやきを目にする。シャンパンゴールドのネオンサイン。あたしは叫ぶのをやめて笑った。そのうちに、眩しくて何も見えなくなった。フレちゃんを抱き寄せて、キスをした。その甘い愛の手触りを感じながら、あたしの意識は途切れた。  この夢の出口であたしたちが見たのは、こんな言葉だった。
 
Welcome to THE LOVE LAND - All of the world!  『ようこそ愛の国、ラブランドへ!』
0 notes
kuro-tetsu-tanuki · 3 years
Text
異海感想
前にツイッターに思わずネタバレ垂れ流してしまって良くなかったなぁと思ったのでブログにしときゃええやろという安直な考えのもと作成されております。 そっちの文章も入ってます。
Sadaさん作 異海 ―ORPHAN’S CRADLE― のネタバレ有感想になっておりますのでお気を付けください。
後、思いの丈を気持ち悪いレベルで吐き出してますのでキモイと思ったらブラウザバック推奨。
まず製作者のSadaさんに感謝を。 こんなにも素晴らしいゲームを、魅力的なキャラクター達を、面白くあたたかなシナリオをありがとうございます。 本当に楽しい。面白い。 おかげでEDFもモンハンもほっぽってずっと異海やっちゃってる。時間が溶ける(誉め言葉)。
語りたいことが多すぎるので思いつくことをガンガン語っていこうと。
取り合えずEDは全部見終わった、んだけどイベントもスチルも回収できてないの多いのでまだまだ周回しなくてはならない。 まぁそんな自分の状況はさておき。 シナリオが!良い!!んですよ!!!! 僕のさっぱりな語彙力では表現できないので割愛。 どのシナリオ読んでても面白い。面白過ぎてスキップできない。 周回の為にスキップもするけどお気に入りのシナリオ来ると読んじゃう・・・また時間が溶けてゆく・・・。 差し込まれるBGMもチョイスが良い。情景にあったチョイスをされてて自然にシナリオに没入できる。 照雄さんや吾郎さんと勝負する時のピアノ曲とか、最終盤の蛭子と問答して裕くんが色々理解した時の切ないピアノ曲とか���まらん。アルペジオがいいんだ。 曲名とかも知りたいくらい良い曲多い。フリー素材なんだっけ?欲しい。 料理、島開発、クラフト要素も楽しい。クラフトとかまだ作れてないの一杯あるんだろうなあ。 ミニシナリオが充実してるのもすごく良い。 多すぎて作者さんの多大な愛を感じる。本当に凄い。 色々気になる設定もありすぎて設定資料集を見たい。
人物評というか感想というか
裕くん 我らが主人公。基本的に周囲が奇人超人が多い中、貴重な常識人ツッコミポジション。 そんな彼も一皮むけば色んな要素が詰まった子でした。 よく笑い、時に悩み、泣き、葛藤しながらも自分の道を見つけて進むことができる姿はまさに主人公。 優しいというより愛情深い。いや、基本的に異海に出てくるキャラクターは皆愛情深いけれども。 サブイベントで人外にですらその手を差し伸べるその深い愛情は圧巻。 たまに「裕くん絶対母性芽生えてるよね?」とか思った。鬼灯イベとか料理のミニシナリオとか。 その大きな愛情で色んな人達を悉く陥落させていく様は正に主人公。 もうハーレムとかで良いから裕くんは皆を幸せにしてあげて欲しい。 相手と状況によっては(主に後ろが)大変なことになりそうな裕くんの未来はどっちだ。 EDによって色んな状況になるのも流石主人公。海堂さんEDはビックリな成長具合だった。そりゃ海堂さんも驚くわ。
定晴さん 色々デカくて豪快な父性溢れるチートスペック超人その1。面倒見も良い。 そりゃ裕くんじゃなくても惚れるわ。 その裏にある定晴さん自身の事情や葛藤がまた何とも。 そりゃ巌さんから見たらソリ合わないよね・・・。 吹っ切れた後は最初の印象に違わぬスケベェなおっさんでした。 スケベ的な意味で裕くんは体もつのだろうか・・・。 だが男前すぎてつらい。裕くん幸せにしてあげて。 ちらほら描写はあるけど君絶対ただの一般人じゃないよね。
巌さん ヤクザみたいな雰囲気のおっさん。のくせに時たま見せる柔らかな父性がまたニクイあんちくしょう。 勇魚さんとは違った意味でこの人はこの人で色んなことで雁字搦めになってた。 初期印象がガラリと変わる人。シナリオでも言及されてたけど懐が大きく、愛情深い。 お前はどこのエロゲの主人公だってくらい父性愛溢れまくってる。 でも巌さん絶対Sっ気あるよね。 元は真面目な消防士ってんだから色々あったんだよね、多分。ってなる。 しかしこの人も大概ハイスペックだよね。他が飛びぬけてるだけで。
洋一くん チートスペック超人枠その2。 別の意味で初期印象がガラリと変わった人。 寡黙マッチョいいよね!とか思いながら攻略したら死んだ。 死んだ。 個別シナリオはもうボロ泣きした。 ノベルゲーやってて泣いたのなんて初めてかもしらん。 この時点で洋一くん推しが限界突破した。好き。 前半の寡黙な洋一くんも良いけど不器用に感情を表す彼も良い。 タガ外れてエッチ要求しまくる彼も良い。 捨てられた犬みたいな表情で「駄目か」「嫌か」なんて言われたらそりゃあ拒否できないよね。 頑張れ裕くん。
辰馬くん ちょっと天然気味なラガーメン。が最初の印象だった。だった。 ヒーラーでサバイバーでラガーメンで医者志望でタガが外れりゃオオカミさん。 ふとした瞬間に出てくる闇と言うか情報の洪水というか、最早何を言ってるのかわからない。 一途、めっちゃ一途。一途すぎて若干ヤンデレの気配も・・・。 でも、なんというか愛おしい。母性をくすぐるというか、愛される人柄だよね。 でもやる気になればクソかっこいいんだからホントにズルい。 巌さんもそうだけど彼も大概ハイスペック。
千波くん 打波の生んだぴゅあぼーい。 何というか甘酸っぱい青春ルートだった。 いや、ルートとしては葛藤も切なさも苦しさも色々あったんだ。 あったんだけど、「ああ、ちょっと切ない。けど、甘酸っぱい」。 そんな言葉が自然と出てくる。千波くんかわいいよ千波くん。 裕くんとの距離感が絶妙に良い。 支えるようで支えられていて、寄りかかるようで寄りかかられていて。 実に微笑ましい。末永く爆発しろ。
冴さん つよい。 いや、その一言で片づけちゃだめなんだろうけど。 印象としてはサモ〇イのメイメ〇さんポジション。 眼鏡だしお酒好きだし。 勇魚さんルートで彼を叱責する彼女には痺れた。 色んな意味で裕くんの味方をしてくれた人。本当に素敵な女性である。 彼女は彼女で秘密があるみたいだけど結局何者だったのだろうか・・・。
イザナギさん 〇モナイ3でいうハ〇ネルさんポジション。 彼も何者だったのかは正直ようわからんかった。 でも、裕くんの味方で、裕くんを導いてくれてたのは確か。 なんというか、ほっとする感じがして好き。
照道さん 良識枠。イザナギさんと同じでほっとする枠。 色々言うけど裕くんを支え、導いてくれた人。その名前は伊達ではない。 ラストで駆けつけてくれたあの勇ましい姿には痺れた。クソカッコいい。 崇くんとは末永く幸せに暮らして欲しい。 ぬか漬け?・・・ウッアタマガ
崇くん 天使。 もうそれ以上の言葉があるだろうか。 いや、後半のあれやこれやで色々と思うこともあるけれども。 本当に、本当に末永く幸せになって欲しい。 崇くんかわいいよ崇くん。
吾郎さん ギャグ枠と思いきやシリアス部分もがっつり持ってくお方。 月狂いの恐ろしさとその苦悩がよくわかるシナリオでございました。 ぶきっちょな吾郎さんも良いですがあんなオラオラした吾郎さんもよき。 下手すりゃ裕くんあのままMに目覚めていたのでは・・・? 互いが互いを思いやる故の忘れ石。でも、忘れたくない。あんなんズルいわ。そこからのEDへのあの流れ。ズルいわ! EDでのギャップにもやられた。制服はズルい。萌え。 子供たちもかわいい。
潮さん 面倒見がすごくよく、性格イケメン。 実際いい男。というか色男。そして一途。 ED見つけるのにめっちゃ時間かかった。まさかノーマルの先だったとは思わなんだ。 いや、どうなんだろ、トゥルー後にもあるなら全く感想が変わってくる。 ノーマル後の潮さんEDを見た感想としては、せつない。 ただひたすらに、せつない。 裕くんと潮さんのあの関係はそれはそれでいいんだ。 幸せそうで。潮さんも満更じゃなくて。 ノーマルエンド、やっぱ悲しいよなぁ。 照道さんが消えて。あの後、崇くんはどうなったのだろうか。 吾郎さんとか汐音ちゃんがいるから平気だろうとは思うけど、絶対自分責めそうだよなぁ。 やっぱり、皆で幸せになって欲しいんだ。 もし汐音ちゃん√のトゥルー後のEDっていう√があれば、全然感想変わったなぁ。
藤馬さん 皆大好き(?)藤馬さん。 目じり下げて笑うあの表情は破壊力あると思います。 完璧超人かと思いきやまさかのメシマズとは・・・。 えっちスケベにーさんだった。えっち最中も敬語なせいで最早言葉攻めだったよ。プレイかよ。 でもそれ以上に愛情の人だった。 辰馬くんに、父に、そして裕くんに向けた愛が溢れまくってる人だった。 兄弟揃って外見も中身もイケメンだった。知ってた。 ED1はまさかのオチだった。いや、弐鬼さんルートでんなこと可能なのは知ってたけど。 そして藤馬さんやっぱ勾制御できなかったら色々ハジけてるじゃないですかヤダー。 あの場合兄弟とは竿だったのか穴だったのか・・・ゴクリ そして問題児三兄弟って多分吾郎さんとこだよね。 ED2は切ない。でも、あの結末の先に続く物語もありそうな感じがある。 結局、あの場合はどっちが柱になったのだろうか。 にしても兄弟揃って独占欲強めな感じがひしひしと。イイデスネ
勇海さん えっちなとうさん。けしからん。実にけしからん。好き。 父性愛溢れまくってて砂糖どころか蜂蜜吐いた。 裕くんがでろでろに甘やかされてるのを見ると「良かったねぇ裕くん」という気持ちが芽生える。 洋一くんや辰馬くん、千波くん見てると「もっと甘えてええんやで」って思うけど裕くんももっと甘えていいと思う。 それを引き出した勇海さんマジお父さん。爛れているのはご愛敬。 定晴さんとの3Pルートもスケベェで実に良い。 裕くんのお尻が心配にはなる。でも裕くんが幸せそうだからいいか。 しかし、疾海さんを内地に解き放って本当に大丈夫だったのだろうか・・・。
弐鬼さん マッチョ刀鍛冶おじーちゃん。 お世話してたら回春したおじーちゃんとえっちしてた。 おじーちゃんがえっちすぎるのがいけないとおもいます。 EDは世界観の一端が見えてそれも良かった。 いきなりおっぱじめたのには吾郎さんじゃなくてもびっくりすると思います。 このルートの裕くんが一番神秘に満ちてる状態なのかな。 洋一くんの五感が鋭いのも弐鬼さんの血族だからなのだろうか。
泰蔵さん 船長兼細工師さん。 最初はぼんやりと「ああ、裕くん島に残ったら旺海の当主しながら細工師するのかな」なんて思ったりもした。 個人的には裕くんのお師匠ポジションになっている。 絶妙な塩梅で裕くんのこと気に掛けてくれるお方。 絶対弟子みたいな目であたたかく見守ってるよね。 なんでかわからんが凄い好き。
沙夜さん ほんわかお母さま。そしてぬか漬けの女帝。 裕ちゃん呼びは中々にくるものがある。可愛らしいお母さまだ。 色々大変で色々な苦悩を背負ってる。 でも最後にはきちんと向き合い、子を守り、愛にも生きる。女は強かった。 にしても、千波の年齢逆算してもそこそこのお歳の筈だが・・・お盛んっスね・・・。
蛭子 黒幕。加害者でもあり被害者でもあり、サモナ〇3のイス〇ポジション。 彼の願いは所謂「自身の死」だった。 そりゃあんな状況に押し込められて無間地獄状態ならそう望むのも無理はないわ。 けど、色んなEDを見た後に思う。結局彼にとって一番幸せなEDはどれだったんだろう。 正規?√は定晴さんEDぽいけど、個人的には蛭子くん自身が色々学んでいきそう辰馬くんED、藤馬さんED1もありかなぁと思ってしまう。 彼も幸せなれるそんな未来があったのかなぁ。
全然関係ないけど、蛭子はマヒトの姿を模してる。 マヒト登場時に「はいてない」選択肢出てた。 つまり蛭子もはいてないのでは? どんだけシリアス話をしてても君はいてないの??? 3週目あたりでそんなアホな思考が湧いてもうダメだった。
考察とも言えない雑感。 考察何てしたことないから理論も順番もちぐはぐのぐちゃぐちゃ駄文。
辰馬ルートやって思ったのが、「自分の命を顧みず、他の誰かを慈しむ」「負の感情に共感し、それを慰めることができる」。 これをできる人が「柱」の素質の大きさなのではないかと。 そこに血筋とか勾とかは恐らく関係ないのではないかと。 んで、バッド√を見て思った。 あのループの中の定晴さんのあの台詞。 多分、定晴さんもあのループの中での記憶を持ち越してて、「もう少しでお前(裕くん)をこのループから解放してやる」って意味だったのかな、と。 そして多分、その代償として定晴さんが柱になるのではなかろうかと。 禍憑きの骨イベントで崇君と定晴さんが同情、というか共感したことで禍が消え去ったのも、あの2人が柱の資質持ちだからなのではないか?と思ったり。 というかイザナギさん回復イベントで産魂に光を入れられた人って、大なり小なり皆柱の資質あるって事なのでは・・・?
裕くんの父親について 某方がSadaさんと問答してらっしゃったけど、多分これ泰蔵さんだよなぁ。 冴さんのお言葉や鑑定の結果見ても一点ものの髪飾り、星見石は打波で産出する、加工が難しい、泰蔵さんの髪飾りに対する扱い、泰蔵さんは細工師、んでお酒飲んだ時のお話。 うん、やっぱりアレ泰蔵さん作では? よくよく泰蔵さんの立ち絵見ると裕くんに似てる気がする。体格とか髪型とか。あと眉毛。 蛭子も命や魂は生み出せないって言ってたし、真那さんと泰蔵さんの子+蛭子の一部=裕くんなんだろう。多分。 多分泰蔵さんは気づいてるよね。そら何かと気に掛けてくれるわな。 そう仮定して泰蔵さんの台詞を見返すとやっぱそうなんじゃね?って思ってしまう。
裕くん本人について 何かしらの勾を持っており、幼い頃から幽霊とかが見えてる。 旺海の血を継ぐ者。 勾については汐音ちゃんから「幽世を渡る力に優れている」と言及されている。 「幽世を渡る力」は詳細が語られていない為不明点も多い。 おそらくこちらは「蛭子の一部としての旺海裕」が持つ力なのであろう。 幽霊や魂といったものを視認し、時には意思疎通さえ行うことが可能。 視認した相手の死の運命のようなモノも感じ取ることができる。 元々できたのか打波島に戻ってから目覚めたのかは不明だが、霊的な存在を祓う、共感し慰撫することで魂を輪廻の中に還す柱としての力も行使している。 ここら辺は主に攻略キャラに関係ないサブイベで行使している。雪女とか胡麻団子の女の子とか鬼灯とか。 幽世の力に関係するのかは不明だが、水鏡による先視に関する力も突出している。 先視は藤馬さん√にて「超高性能のシミュレーション結果」のようなものと明言されている。 絶対の結果ではないが、高い確率で起こる事象の1つを視るのだと。 この先視に関して、前述した『視認した相手の死の運命のようなモノも感じ取ることができる』という能力にも関わって来るのではないだろうか。 バッド√で蛭子がいくつかの結末をシミュレートして試行を繰り返していることから、蛭子が元々行使していた力。 それが、蛭子の一部である裕くんが『死の運命の視認』という限定的ながらも先視の力を行使できても不思議ではない。 余程裕くんの根幹に根ざす力なのか、打波を離れてもその能力は無くなっていない。(巌EDなど) それと、裕くんの勾に関係するかは全くの不明だが、打波島に来てから彼は黄泉がえりを繰り返していると言える。 桃の花咲き乱れるあの空間はしょっちゅう描写されるが、あれが描写されるときは肉体的に死を迎えようとしているか、あるいは魂が肉体を離れている状態なのではないだろうか。 あの空間を降りきったら死んでしまうよと警告もされるし。 巌√で月読のお守りをなくした時、洋一√で顎岬ダイブした時は明確に一度死にかけて(あるいは死んで)いると思しき描写になっている。 しかも桃の花空間も描写されている。 どうみても助からない筈なのに蘇生している。 この事象に関しては裕くんの勾なのかそれとも蛭子が手助けしているかは不明だが、デッドアンドリバースしているのは確かだろう。 先視や水鏡、黄泉がえりの異能を含めて「幽世を渡る力」なのだろうか。 書き出してても全然わからん。 他、定晴さん√にて蛭子から「君は旺海の勾も継いでいるんだね」と言及されている。 こちらは「旺海真那の子、旺海裕」として持つ力なのであると思われる。 旺海の勾については「魂の分割」と作中で明言されており、自分の魂の一部を別個体として存在させるって感じかと思われる。 定晴さん√ではそれを定晴さんの魂でおこなったと。 だからあの場に定晴さんは現れたということだ。 まだある。 条件が揃えば笹神楽を神器として行使することが可能。 この時、裕くんは笹神楽がツール、自身をバッテリーと称している。 この状態に定晴さんソウルが加わると、位相すらも蛭子と同等になる。 これ、限定的にとはいえ限りなく神に近づいてますやん。 いや、蛭子の一部なんだから不思議ではないっちゃないけど。 折れない柱として完成されうるスペックも持ち合わせており、不完全な状態でも柱としての適性は高い。 ていうか弐鬼さん√に至っては一時的ながらも柱そのものとして打波島を支えていた。
定晴さんについて 内地の人間なのに浮き出ていた禍憑きの刻印。 定晴√ラストの裕くんに流れ込む力。 名言されているわけではないが、弐鬼さんEDにて語られる「さる人物の体の中に残っていた海皇の因子」。 さる人物って多分これ定晴さんだよね。 そう仮定すれば定晴さんの謎スペックにも説明はつく。多分。 ていうかスィーフィード〇イトかお前は。好き。
エロについて すごいえっち。 ええ、ええ。すごいえっちでドシコでしたよ! よくこんな量のテキストとシチュエーション思いつくなぁなんて戦慄もちょっとした。 定晴さんの色々溢れまくりなえっちもいい。 巌さんの包み込むような、お互いに色々曝け出すようなえっちもいい。 洋一くんの若さ溢れまくるドチャくそ激しいえっちもいい。 千波くんの青さと若さとやんちゃさ溢れかえるえっちもいい。 辰馬くんのひたすら一途な激し目えっちもいい。 サブキャラの方々もたいへんえっちでございました。 言葉で表しきれないのでまずやればいいと思う。 定晴さんと勇海さんのW雄っぱいサンドで吐血した。いや、吐蜂蜜した。
簡単な総評 めっっっっっちゃ良い作品でした!!!!! そしてめっっっっっちゃ時間が溶けた。 というか回収終わってないスチルもイベもあるからまだやらねば。 あああ、裏設定とか世界感とか凄い気になる! ここまで引き込まれた作品なんて久々だ! Fateやら放サモやらはまだ完結してないから除外。 それ考えたら勝手な考察なんてするほどどっぷり浸かった作品なんて赤松漫画とかハリポタ以来かも。 あああ、一緒に語れる人が欲しい!!あれこれ聞いてみたいし話したい!!
あのボリュームで、プレイ時間で、2000円ちょっとって安すぎない????
お布施はどこにすればいいんです・・・?
しかもまだ追加があるかもしれないというこの・・・。
Sadaさんありがとう・・・ありがとうございます・・・。
2 notes · View notes
tanamuregaki · 6 years
Text
終章とエピローグ
先にソロール『砂の上の星詠みたち 』 (リンク先のページの下のほう) を読むとわかりやすいと思います。
終章 1 「これは母上に返すよ。僕たちには、もう必要のないものだ」  ジュバは、弟のギルタブと共に、革表紙の本を差し出した。星明りの下、分厚い革の表紙がぬらりと光を反射する。そこには兄弟の署名が記してあり、インクの色が黒々とその存在を主張していた。 「母上のものでしょう」  母と呼ばれた女――シェダルは首を横に振った。 「いいえ。これは誰のものでもない、幻の本。『戯書』と呼ばれるものよ」  戯書、か。小さくギルタブが呟いた。シェダルは頷き、説明を続ける。 「この本は、常に世のどこかを漂っている。といっても、普段は実体を持たないわ。この世界とは違う……もう一つの世界といったらいいのかしら。その世界で、この本が私たちの傍に対応する場所を通ったとき、こちら側から魔力を用いて干渉することで、初めてこちらの世界に姿を現すもの。私はその機会を詠み、詠み通りの日に、触媒を通してあちらの世界に触れた」  懸命に話に耳を傾けていたギルタブだが、内容が頭に入ってこなかったのか、複雑そうに眉を顰めてみせた。 「ふん。複雑な話だな……」  ギルタブの兄であるジュバの方も、話をしっかりと理解できた様子はない。それでも、自分なりに内容を解釈し、語り出す。 「ええと……。要するに、『戯書』はいつもは別の世界にあるっていうことだよね。それで、その世界にもこの国と同じ場所が存在していて、たまたまそこを『戯書』が通り掛かったとき、こっちの世界から魔力という腕を伸ばして、こっちに引っ張り出すことができる……。そういうこと?」  シェダルが、ジュバの釈義に頷いた。 「そんなところでしょう。知っている? この世にはいくつもの世界が存在していると言われているわ……。『戯書』は、そんないくつもの世界を繋ぐことができる、特別なものなの。だから、必要がなくなれば、元の世界に返さなくてはならない。――本当にもう、いいのね」  本当に必要ないのかと、シェダルが問う。しかし実際には、二人の答えはとっくにわかっていた。
「うん」
「必要ない」
 兄弟はしっかりと頷いた。すると、本の持ち主を表す文字が、夜に溶け込むようにじわりと滲み出す。次の瞬間には、本の署名は跡形もなく消散していた。 「あとは、私が処理しましょう」 「ありがとう、母上」  ジュバは礼を言ってから、なにか思いついたように再び口を開く。 「あの、『戯書』は常に移動しているんだよね。そんなに手に入れることが難しい本なのに、どうして母上の手の届くところに、たまたま現れたんだろう」 「それはね、ジュバ」  シェダルが軽く微笑んだ。 「星が廻った――ということよ」 「……そうか。“星が廻った”んだね」 ��ええ」  ジュバとシェダルは、互いに目を合わせて意味深長に微笑み合った。星の詠めないギルタブだけは、会話の内容を理解できず、不服そうに口を窄めていたが。  しかし、シェダルの笑みはすぐに消えた。鋭い視線をジュバに向け、厳かな声色で問いかける。 「ジュバ。貴方の星は、貴方になんと言っていますか」  ――星? 何を聞かれているのかわからず、ジュバはぼんやりと相手を見つめ返す。 「うん? ええと、何の話?」  シェダルは表情を変えないまま、忠告するように声を落とす。 「星詠みを怠らないで。よく、見極めるのです。機会を誤ってはいけません。わかりましたか」 「その……」  ジュバが口籠ると、すかさずギルタブが口を出す。 「兄上。返事を」  ジュバは二人を見つめ返すと、暫し沈黙した。 ◆ 2 「牢などではなく、あの塔の小部屋とは……。よく配慮してくださり、感謝します。陛下」  広い廊下に、数人分の足音が響き渡る。いつものように雲のない、しかし、全くもってゆったりしているとは言えない空気の午後だった。シェダルは、自らの夫であり王であるザウラクに、恭しく感謝を述べたところだった。それに気を良くしたのかどうなのか、ザウラクは僅かに口元を緩めた。 「あの部屋ならば、まず逃れられまい。その上、宮殿一の景色が眺められる場所でもある。最後の数日間を過ごさせるには、おあつらえ向きだろう」 「お優しいのですね。あの子も景色に見惚れていたようで、何よりです」 「一言も話さなかった点は気になるが――しかし、確かに、喜んでいるように見えたな。あのまま、何も知らぬうちに眠らせて処刑するのが、せめてもの慈悲というものだ。――して、例の“魔法の書”のことだが」 「はい。確かに、書庫にあったものです。このように――」  数人の従者と共に、二人は書庫へ入る。シェダルはザウラクの目の前で、『戯書』を手放して見せた。すると、戯書はひとりでに漂い、書庫の内部を進んでいく。そして、ある書架の前で一度止まると、本と本の隙間にするりと収まった。まるで、元からそこにあったかのように、違和感なく。ほう、と息を漏らすザウラクに向き直り、シェダルは説明を始める。 「元あった場所へと、ひとりでに戻る魔法が仕掛けられておりました。この書に限らず、この一帯の本たちにも同じような魔法が仕掛けられていたようです。大切な本を無くしてしまうことがないよう、外国の図書館などでも用いられる魔法です。ただ、ここにあるものはどれもが古い故に、この一冊にしか魔力が残されていなかったようです」  ザウラクはつまらなさそうに鼻を鳴らすと、従者の一人に軽蔑の視線を向けた。 「くだらん仕掛けだ。例の道化に、つまらん報告をした罰をせねばならないな。のう、道化よ?」  道化と呼ばれた従者は即座に飛び上がった。芝居掛かった甲高い悲鳴を上げて、慈悲を乞うた。 「ヒィ! ヒヒッ、お、お許しを、陛下ァ」 ◆ 3  黒い月の高くなる頃、煌々と輝く星々は、より一層明るさを増していた。夜闇と星影の降り注ぐ砂丘を、狐が一匹駆けて行く。その足跡はしかし、女の青白い瞳が見送る中、痕跡を掻き消す風とともに遠ざかっていった。ここに残っているのは、ただ風が吹くばかりのひとけのない静かな中庭と、一人の女、そして、僅かにあどけなさの残る次期王だった。昼間は白い壁を彩る色鮮やかな花々も、今は更けた夜に沈み込み、寂しそうに葉を揺らすだけでいる。長い沈黙を破ったのは、いつか王となる少年――ギルタブの方だった。 「自らの名に誓う盟約の術、だそうだな」  ギルタブの静かな声色には、どこか刺すような響きがあった。それは、高貴なるもの特有の、威厳や誇りを感じさせる声にも似ている。しかし、彼の声に込められたものは、それだけではない。偽っているものを尋問するような、鋭い確信を持って発せられた言葉だった。指摘されたシェダルは、たじろぐように僅かな間を開けた後、ひどく小さな声で返答する。 「よく、勉強したのですね、殿下」  「殿下」という言葉を聞いた瞬間、ギルタブは不快そうに片目を細める。 「その呼び方はするな。星詠みとはいえ、お前は僕を生んだ者だろう」  ギルタブの咎めるような視線と声に、シェダルはそっと目を伏せた。長い睫毛が、その目元を隠す。それでも、ギルタブは語調を改めはしない。 「なぜ、あいつを生かしたんだ? あいつが生まれたとき……」  もう十何年も前のこと。あってはならない印をもって、その男は生まれ落ちたのだ。ギルタブにとっては、自分が生まれるよりも前のこと。当時の母親の心境など、知る由はない。 「そのときの私は、愚かで浅はかな、ほんの娘だった。後先のことなど、ろくに考えてはいなかったのよ」 「だが、そのせいでお前は――」 「ええ。月を裏切った星詠みは、月によって裁かれる」  月の様に白い髪が揺れる。女は、見えぬ月を見上げていた。それでも、ギルタブは月を見ない。黒い月の位置など、わからなかったからだ。 「あなたに、謝らなければなりません。私は二人の子供を産みながらも、二人を同じように愛することが出来なかった。私は、あなたに触れることさえ……」 「勘違いするなよ」  シェダルの言葉を遮って、ギルタブは低く言い放った。強がるような瞳で、自分の母親を睨め付ける。 「僕はお前に謝ってほしいんじゃない。触れられたいなどと子供じみた事、一度だって思わなかった。僕は、そう思うこと自体、許されない立場にいるんだ。愛される必要など、なかった」 「……いいえ」  それまで弱々しかったシェダルの声に、僅かに凛とした、小さな炎のような意志が宿った。彼女は月を見るのをやめると、振り返ってギルタブに向き直る。 「私は、きっと母親ではなかったでしょう。あなたに何もしてあげられなかった。それでも……」  シェダルは自分の二人目の息子を見つめた。彼女の青白い瞳の光が、少年の紫色の瞳と交差する。 「ギルタブ、私は……」  ギルタブは、目を見開いた。彼女の眼光に捉えられたように、その光から目が離せなかった。かつてないほど鮮明に、母親の顔が見えるのだ。彼女は―― 「あなたを、愛しているわ……」  ――泣いていた。彼女のそんな顔を見るのは、初めてだった。それに、いつもの香の匂いに混じって、初めて感じる匂いがあった。それは、紛れもなく人間の、彼女自身の匂いだった。自分の身体のすぐ傍に、母親の存在があった。 「……母上」  ギルタブは戸惑った。これほどまで近い距離に、母親の接近を許したことはなかった。当然、甘えたことも、無い。どうすればいいのかわからなかった。この場でようやくできたことは、ただ俯いて、母親の胸に額を預けることだけ。顔をあげられるはずもなかった。今の自分はきっと、次期王に相応しくないだろう、情けない顔をしているに違いないから――。
 二人の抱擁は、恐らくほんの短い間だったろう。それでもなお、二人にとっては、まるで時が止まったのかと感じられるほどに長く、そして、何千年も待ち焦がれた瞬間のように感じられた。シェダルは、自分と同じ銀の髪を持つギルタブに、そっと指先で触れようとした。しかし、髪に触れる寸前のところで、ひどく臆病な指先は止まってしまう。生じたのは、僅かな間の躊躇だった。「さよならだ」  シェダルの温かな胸に、くぐもった声と共に、冷たい風が吹き込んだ。母親の温もりから、ギルタブが自ら身を剥がしたのだ。次期の王となることを決定づけられたギルタブは、これ以上温もりを求めることもできなかった。そして、ほんの刹那、母親の瞳を見つめた。これで最後なのだと、交差する二人の視線が互いに別れを告げていた。ギルタブは、豪奢な紫色の外套を翻す。
 キン、シャン――。重い金の装飾を揺らしながら、硬い靴音が廊下に響く。大きすぎる装束を纏った未完成の少年は、一人、暗い廊下を駆け抜けた。その手に、明かりは持たれていない。ただひたすらに、夜の闇へと溶け込んでいく。彼が振り返ることは無かった。ただの一度も。
 月のない星影の下、残された細い指先が宙を彷徨った。 ◆ 4 ああ白きその面 主が世は千の星詠み捧ぐまで 使徒とともに輝かんことを 忠実なる我らを導きたまえ その御許にいつか還らん ――アマン ひょろろろと鳥の声が響く、広い晴天の下。ジュバは、朝日にきらきらと輝く川面を、眩しそうに見つめていた。傍には、いつの間にか黒い髪の童子――マァが寄り添っている。ジュバの微かな歌声を、零すことなく聞きつけたのだ。 「手前の国の歌かい」 「うん」  ジュバは、これは月を称える賛歌なのだと、マァに教える。 「国の皆が歌っていたんだ。それで、何となく、覚えていたから」 「へぇ」  船頭が出向いてくるまで、まだ余裕がある。興味深そうにしているマァに、しばらく国の話をすることにした。月のことや、儀式のこと、人が死んだらどこへ行くのか、など。そんなことを、ひたすら話し続けた。マァは、そんなジュバの話にじっと耳を傾けながら、時折心地よく相槌を打った。ジュバにはそれが、ただ、ありがたいと思った。彼が傍にいてくれるだけで、救われるような気がするのだ。  ぴちゃり、と。ジュバの視線の先で、魚が跳ねた。 「あ」  川の下には、いくつもの魚影が見える。ふいに、その群れに白い翼の鳥が降り立った。よく見れば、乱反射する水面に、ひとつだけ浮いている銀色の体が見える。魚だ。一匹、浮いている。 「ん、どしたよ」 「いや……」  鳥は、死んだ魚を一匹見つけると、大切そうに嘴に咥えて飛び去った。 「……そろそろ、行こうか」 「ん、おう」  その鳥は、白い光の中へと飛んでいった。  高く、高く。 ◆ 5 いつものようによく晴れた、慌ただしい王宮の朝。 その日は、ある人物の処刑が行われるはずだった。 しかし、実際には処刑が実行されることは無かった。 処刑されるはずだった人物が、当日になって忽然と姿を消してしまったのだ。 その日、彼が発見されることは無かった。 代わりに見つかったのは、別の人物の遺体――。 星詠みの女が、変死していたのだ。 王の命により、その後も王宮の者たちは必死になって青年を探し回る大騒動となった。 捜索範囲は国全体にまで及んだが、魔道具の力をもってしても、結局、彼が見つかることはなかった。 それと、もうひとつ。王宮で見つからなかったものがあったらしい。 ある男の話によると、書庫にあるはずの“魔法の書”が、いくら探しても見つからないという。尤も、そのことを話しても、誰も信じてくれなかったそうだが―― エピローグ ◆  東西南北どこを見ても、海、海、海。星空のようにきらきらと輝く雄大な青い水の中で、その船はひと際眩しく、太陽の光を反射させていた。いたずら好きな海風が、乗客たちをからかうように外套や髪を撫でていく。でっぷりとした腹の小柄な男が、広大な海を満足げに眺めながら、黄金色の液体の入ったグラスを傾けた。男は昼間であるにも関わらず、船の上で酒を頂くという、実に優雅なひとときを楽しんでいる。つい先日、その男は商売で成功を収めたばかりだったのだ。少しうまくいったからといって休むつもりもないが、移動中くらいは贅沢をしてもいいだろうと、船上での昼酒に踏み切ったというわけだ。
 こんな日の酒は旨い。気分は上々だった。船に寄り添うように飛ぶ海鳥に、ひとつ餌でもやりたくなった。今日の私は機嫌がいいのだ――。どれ、とつまみの燻製に手を伸ばしたとき、視界の端に、海や空よりもなお鮮やかに輝くものが見えた気がした。私がそちらに首を向けると、たった今扉から出てきたらしい、褐色の外套を羽織った男が目についた。すぐ傍には、色の白い子供を引き連れている。親子かと思ったが、外套の男は、よく見ればまだ青年といっていいほど若そうに見えるし、連れている子供とは対照的な、土のように黒い肌をしていた。変わった組み合わせの旅人だと、好奇心から二人を眺めていると、色の白い子供がこちらをちらりと一瞥した。しかし、子供はすぐに視線を戻すと、青年と共に手すりの方へと歩いていった。そんな私に遠慮することなく、一羽の海鳥が私のテーブル降り立った。せがむようににゃあと鳴くので、私は燻製を投げてやる。  心地よい陽気と風を感じながら、私は暫くの間海鳥と戯れた。気が付けば、周囲の鳥の気配がずいぶんと増えている。そして、その中に混じって、先ほどの二人組が私の方を見ていた。特に、色黒の青年のほうは、まるで子供の様に瞳を輝かせて、私と海鳥たちとを好奇心いっ��いに眺めていた。 「鳥が好きなのかい?」  私は指先で海鳥の首を撫でながら、さりげなく砂漠地方の言葉を使い、旅人に話し掛けた。外套の隙間から覗く足元からして、青年の出身は砂漠地方のどこかに違いないだろう。青年に目を向けると、彼は驚いたのか一瞬戸惑ったようだが、やがて、はにかむように笑って見せた。 「うん。あなたも好きなの?」 「ああ、まあな。俺は商売人なんだが、仕入れ先なんかで、よくこいつらと遊んでやるのさ」 「へえ、そうなんだ」  話すことで緊張を緩めたらしく、青年は私のいるテーブルに近寄ってくる。その際、青年の外套が風に揺れ、外套の下の髪が垣間見えた。こ���辺りでは珍しい、銀髪だった。私がそれに見とれる間、私には聞き取れない声で、色白の子供が二言三言喋った。青年は子供のほうを振り返ると、何やら小魚のようなものを受け取っている。海鳥たちにやるつもりなのだろう。楽しそうに笑い合って小魚を掲げる二人の周りに、にわかに海鳥たちが集まってくる。私はその様子を眺めながらふと、とある事件を思い出した。「そういやあ――」  褐色の肌に銀の髪を持つ人々の暮らす、砂漠の国家で起こった珍事件のことだ。その情報は、酒場で働く友人から仕入れたものだ。内容が少し物騒なこともあり、印象に残っていた。もしかすると、この青年の故郷が、渦中の国なのかもしれない。事件の話を始めると、二人は私に注目した。 「――この間、星詠みの国だかどっかで、恐ろしい犯罪者が逃げ出したっていうじゃないか。もしかして、お前さんたちの国じゃあないかい?」  言い終わらないうちに、二人は顔を見合わせた。子供の方は何か考え込むような仕草をし、青年は首を振ってから口を開いた。 「犯罪者って、どんな人? 僕たちは、最近あまり新聞を読めていなかったから、そういう話には詳しくないんだ」 「そうか、知らなかったか……」  二人は確かに「星詠みの国」という言葉に反応していたように見えたが、事件のことは知らなかったらしい。旅をしていれば、案外、故郷のいざこざの話など、耳に入ってこないものなのかもしれない。私は良心から、例の事件の犯人について、この二人に忠告することにした。 「なんでも、他人の魔力を奪い取る、恐ろしい魔術師なんだとさ。そいつがどうも、国の要人を殺して、魔力を奪って逃げ出したらしい。それで、国中探しても捕まらないってんで、外国に逃げ出したんじゃないかって噂されててな。――ああ、けど、大丈夫だ。その魔術師には特徴があるんだ。そいつは、黒い肌と白い髪をしていて、目が青白く光るんだそうな。しかも、奪った相手の魔力の色を、そのまま自分の髪に宿すんだとさ。今は髪の一部が青色になっているって話だ。髪を見りゃあ、一発でそいつかどうかがわかるだろうさ」  私は一口酒をあおると、こう付け足そうとした。「お前さんたちも気を付けな」――しかし、口を開こうとする矢先、二人が既にこの場を離れていることに気が付いた。 「ごめん、商人さん。もうすぐ船が停まるみたいだ。降りる準備をしに行くよ」  少し離れた位置から声が掛かる。そちらへと首を回すと、船内へと繋がる扉の前で、背中を向けた青年と子供が、顔だけをこちらに向けていた。爽やかな潮風が、青年の外套を大きくはためかせた。 「おや?」  はたと思い至る。青年の顔をよく見れば、健康的な褐色肌に銀色のくせ毛髪、そして、射貫くような青白い瞳に目が留まる。それは、件の魔術師の特徴によく当てはまっていた。そして何よりも――銀のくせ毛に混じり、外套の中から冴え切った青い髪が僅かに覗いたように思えた。 「お前さん、まさか……」  私の言葉を遮るように、太い汽笛が響き渡った。
「まさか」
 二度目の汽笛が鳴る前に、青年が口を開いた。 「――人違いだよ」  そう続けると、青年はからりと微笑んで、子供を連れだって船内へと消えていった。
3 notes · View notes
mashiroyami · 4 years
Text
Page 118 : 魂の在処
 彼女は夢を見た。  久方振りの夢だった。  時に、赤い獣の眼に囲まれ、腹から止めどなく血を流す弟の姿、全てを焼き尽くす暴力的な炎に食い尽くされるような悪夢に、夜中に眼が覚めることもあった。逆に、一生眼を覚ましたくないほどに幸福な夢を見ることもあった。弟が笑いながら背の高い向日葵畑に歓声をあげていて、世話になった叔父夫婦が遠くで師弟を見つめている、そしてエーフィやブラッキーがくるくると踊るように甘えてきて抱きしめる、たとえばそんな夢。  この時は、夜の夢だった。長い暗闇を歩いた先だったから、記憶に引き摺られたのかもしれなかった。  彼女は乾いた匂いの立つ草原に座り、夜空を見ていた。星の敷き詰められた空だった。天の河は本当に河のように星がゆっくりと流れていて、満天の星空には瞼がまたたくたびにいくつもの流星がちらつき、白であったり、青であったり、赤であったり、はたまた虹色であったり、様々な色を発している。輝いては、さっと、消えていく。あっけなく跡形もなく消えていく。零れおちてきそうなほどたくさんの星に満たされていながら、不思議と騒がしい印象はない。静かだった。静粛で、息を呑んで見守る他無い、広大無辺の空間であった。しかし、幻想的に静かに輝く夜空の下、遙か彼方で佇む真っ黒な山間のあたりには赤い別種の光があった。妙にお互い繋がりながら脈打つように輝いていた。それは森を燃やす炎の光だった。  これだけの光が広がっているにも関わらず星光はあまりにも遠く、彼女の座る場所は殆ど周囲がはっきりとしなかった。耳を撫でる草の音や、さわさわと身体を撫で付ける草叢の感触で今ここは草原だと判別できるだけで、それが無ければ、ひとり、宇宙に浮かんでいるような光景だった。  不意に、彼女は肩を叩かれ、隣を振り向いた。  見覚えのある顔に、虚ろな瞳が見開く。  僅かな星の光を浴び、青年、アラン・オルコットが微笑んで、なんでもないような素振りで隣に座っていた。嘗ての日々、笑っていたあの頃のままの、幻。  昂ぶる感情があるのか、彼女は口を開けては閉じて、言葉を発することすらできずに彼をじっと見つめる。彼女より背丈の高い青年は、小さな子供を可愛がるように、優しく栗色の髪を撫でた。  あたたかな行為で決壊したように、彼女は彼の胸へと跳び込んで、背中ごと強く抱きしめた。そして、言葉の代わりに泣いた。  彼の肩口が濡れていく。咎めず、突き放さず、彼もまた彼女の背に手を回して、あやすように背中を優しく叩いた。声は無く、なんてことないように笑っていた。一定のゆっくりとしたリズムに、不規則な嗚咽が混じり、闇夜に染み込む。  張り詰めていたものが解かれ、ただの子供へと戻った彼女は、ゆっくりと顔を話し、腫らした瞼のままですぐ傍の彼をもう一度目視する。  事あれば隙間無く喋り続けていた彼だったが、声を失ってしまったように口を閉ざしたままだ。暫く沈黙を挟み、彼女は、ごめん、と言った。涙が彼方の星光を反射していた。彼はゆるく首を横に振った。依然何も言わないままで。  彼は姿勢を崩し、ゆっくりと立ち上がる。繋いだ手に引かれて彼女も重たかった身体を起こした。ずっとそこに座って閉じこもっていたけれど、夜の中に立ち上がり、ほんの少しだけ宇宙に近付いた。彼女は泣いた分だけ幼くなって、彼の掌にすっぽりと小さな手を収め、ぎゅっと硬い指を握りしめた。  おーい。  不意に、懐かしい声が彼女の隣から発された。彼の声だった。繋がれていない手を頬に当て、遠くに向けて呼びかけた。闇に吸い込まれていったその先に、淡いオレンジ色の炎が揺れている。  彼女はつぶらな栗色の瞳を瞬かせて、鬼火のような淡い炎を凝視する。  炎を纏った仔馬がぼんやりと振り返る。その傍に、足下だけ浮かび上がっている、誰か。炎にも星にも照らされることなく、誰かがいることは解るのだけれど、誰なのか判然としない。まるで、足だけ残して、絵を無理矢理上から黒く塗り潰して消したような、そんないびつな姿をしていた。
 口から泡が鈍い音と共に吐き出されて、自らの衝撃に叩かれアランは夢から醒めた。  急いで身体を起こし、掌を見ると、いつも通りの大きさでそこにある。水に揺らぐ袖を捲ると、鳥肌がびっしりと立っていた。汗が垂れる環境であれば、額に脂汗が滲んでいたことだろう。  おもむろに周囲を見渡す。眠る前と同じく球形を半分に切り取ったドーム状の洞は変わらず、よりかかる傍には置物と化した巨大な獣が横たわっている。ブラッキーも同様で、彼の方はまだ眠っていた。苦悶という程ではないが、安堵でもない、僅かに眉間に皺を寄せた表情で眠っている。彼もまた夢を視ているのかもしれなかった。  彼女を眠らせたそれは姿を消していた。  ふと、アランは左肩に手を当てた。  ブラッキーの鋭い牙に穿たれた傷は無く、服も破れてはいない。僅かな穴すら無く、綺麗なものだった。一瞬の出来事ではあったが、彼女の記憶に深く根ざしているのだろう。しかし、丁寧に指を添わせ何度確認しようとも、結果は同じだった。  そしてブラッキーも、ガブリアスの残虐ともいえる逆鱗の連続に身体が抉られたはずだ。宙に舞った血液が、晴れ渡った蒼穹には鮮明な対比を成していた。アランは黒い体躯に掌を当て探るが、まるで傷は見当たらない。天井にちらつく碧い光が照らす薄暗い環境下で、相変わらず月の輪が光らない点も妙だった。  そもそも、この場所自体、得体が知れない。  明らかに水中なのだけれど、アラン達はその中で容易に眼を開けていられる。息苦しさも無い。泳いでいるというわけでも沈んでいるというわけでもなく、身体が異様に重いだけで、地上を歩くように移動することができる。けれど、水に揺れるように髪や服は靡いていて、口から零れるものは泡沫である。  確かに彼女とブラッキーは、湖に飛び込み、そして沈んだ。意識が途切れて気が付いてみれば、不思議な水底の森に倒れていた。初めの形が想像できぬほど瓦解した廃墟は、エクトルが地上の教会でアランに語った、嘗て湖底に沈んだ元々のキリの残骸、水底の遺跡と考えるのが自然か。しかし、それにしては不自然ばかりの場所である。  碧い廃墟を見回していると、長い洞窟とを繋ぐ出入り口に影が揺らぎ、それが帰ってきた。散歩にでも赴いていたような素振りで踏み入れてくると、目覚めたアランに気付いて瞳を丸くした。憎めない顔つきである。  手ぶらのままのんびりとした足取りで座り混んでいるアランの傍までやってくると、巨大な貝殻を填め込んだ重たげな頭を下げた。つられてアランも礼を返す。 (あの)  アランは恐る恐る言葉を発する。水、のような周囲に薄められながらも、相手には届いているらしく、それは小首を傾げる。 (ここは……どこですか? 本当に湖の底なんですか? 貴方は、水神様、なんですか?)  それは明らかに人間ではなく、獣の類の形をしていた。そしてクラリスは、水神はポケモンだと断言していた。  しかしそれは何も返さず、沈黙だけ流れていく。 (元の場所に、帰られるんですか?)  それは何も言わない。 (……帰らせてください)  懇願するような目つきで見上げると、漸く、それが動いた。返答は���否。首を横に振る。何故かと彼女が問う前に、それが手を差し出してきた。顔の前に出されたその仕草には既視感を抱いただろう。彼女は警戒を強め動こうとしたが、身体はその場に縫い付けられているのか、腰が浮かなかった。  それは、しかし再び彼女を眠りにつかせようとはせず、腰を曲げて肩に手を置いて、二度軽く叩いただけだった。  アランは意図を図りかねたのだろう、怪訝な表情を浮かべていたが、自由に身動きがとれなければ抵抗のしようがない。  困惑を拭えないでいると、それはアランの隣に屈んでくる。壁に寄りかかって眼を閉じている巨大でしなやかな獣を撫でる。その手つきに愛おしさが滲んでいて、アランはまじまじと見つめた。触れられた獣は眼を開けることはなく、ぴくりとも動かない。  きっと、死んでいる。  この世界は死に絶えている。動いているのは、獣を撫でるそれと、アランと、静かに寝息を立てているブラッキーだけ。  アランは水に揺れる自らの掌に視線を落とす。 (私、死んだんでしょうか)  既に諦念が滲んでいる声音に、それは顔を上げる。  生を超越した空間であるなら、数々の不自然は、誰も経験することがない人智の届かぬ世界では成り立つ可能性がある。  掌がゆっくりと畳まれる。 (実感が無い……)  俯いた顔は、光を閉ざして真っ暗だった。その中心の双眼が抱えるは、更に深く昏い、沼底の色。  ぱっと顔が上がったのは、項垂れた手に他の手が重ねられたからだった。望みを失った平坦な表情が、間近でそれの顔を見る。全く違う種族のそれが、彼女の両手を包んで、首を振って、微笑んだ。  絶句するアランを導くように、それは立ち上がり、出入り口に視線を向けた。つられてアランも視線を遣ると、この洞へ伸びるあのおぞましい程に暗い横穴の奥に白い影が見えた。暗闇の中に映える光のようだった。碧い光ばかりが点在している世界に浮かび上がる、異様な揺らめきであった。  固唾を呑んでアランは近付いてくる存在に眼を凝らす。  そして、ぐっと瞳孔が縮まる。 (なんで)  声が微細に震えた。  白壁が鮮やかに映えるキリの町を象徴するようなその存在は、全身を覆うゆったりとしたワンピースのような純白の布を身につけている。目深に被ったフードを模した布が顔を半分ほど覆っているが、綺麗に切り揃えられた黒髪がその隙間に窺え、水に揺蕩うように揺れていた。 (クラリス)  俄には信じ難いといったようだった。ごくごく短期間だったにも関わらず強烈な印象を残していった友人を、彼女は忘れるはずがなかっただろう。 (クラリス……!)  アランの口から大きな水泡が溢れ出した。  俯いた白い衣の下から、淡い化粧を施した唇が動き、僅かに布が浮いて露わになった漆黒の宝石のような両眼がアランを捉えた。凪いだ湖面のように静かだった表情が一瞬驚愕にぶれた。まさしく彼女はクラリス・クヴルールその人であった。  しかし、動揺は瞬時に潜む。ぐっと瞳を閉じ、胸の前で合わせた手の指先に力が籠もる。そのまま前へ、つまりはアランとそれが待っているドームの奥へと歩みを進めていく。  反応に手応えがなく、アランは固唾を呑んで彼女の行動を見守る。  円の中心に向かうのはクラリスだけではない。地に縫い止められたアランを置いて、それも歩み出す。  音すら死に絶えた場所で、惹かれ合うように両者は出逢い、正面で向き合い視線を絡ませる。それは頭に被った貝殻が巨大で、何もせずに立っていると目線はクラリスの方が上になる。クラリスは瓦礫と貝殻の破片が敷き詰められた地に両膝を折り、深くそれに礼をする。  それも返礼し、右手を出す。その指が、クラリスが被る衣の隙間を縫って、額に触れた。  一瞬、衣に隠れたクラリスの瞳が戦慄き、それを隠すように瞼が閉じられる。  暫し石像のように彼等は動かず、クラリスの身につけている純白の柔らかな衣だけが、生きた魚のたおやかな鰭のように靡いていた。不思議な光景を、アランは静観していた。  やがて、クラリスは俯いたままで瞳を開け、ゆっくりと立ち上がった。そのまま顔を隠していた衣が剥がれて、今度は、それの背後で座り込んでいるアランに視線が移った。  心臓が大きく跳ねたアランだったが、クラリスは平静な表情を浮かべていた。そこには、友愛とも呼べるような感情は読めない。  それがおもむろに振り返り、奥へ戻っていく。クラリスもそれを追い、呆然とするアランの前に両者が立った。 (クラリス)  もう一度アランは名を呼んだ。  あの日、あの瞬間、湖上で叫んだ名を。  しかし、近くにしたクラリスは俯いた眼差しを湛えており、焦点が合っていなかった。 (……漸く、話せる)  待望であった声はアランの耳にも届いただろう。透いた声は水底にお誂え向けであったが、表情と同様に声にも感情の起伏はなかった。  アランははっきりと違和感を抱いたのか、瞬時に眉間に皺が刻まれる。 (そう怒ることではない。噺人を通さなければ言葉を交わせないのだ)  クラリスの唇が動き、小さな泡が零れては上っていき、消える。  アランは隣に立つそれを見やり、もう一度クラリスを見た。 (……クラリスじゃない?) (察しが早くて助かる)  それが微笑んだ。クラリスは無表情のままで。  そして、それはしゃがみ込み、座るアランと視線の高さを合わせる。 (直接貴方に語りかければ、貴方を破壊する可能性があった)語るはそれの方だが、実際の声は脇で棒立ちになっているクラリスであるというのが不思議であった。(噺人以外を呼んだのはいつ以来か。よく参った) (呼んだ……)  アランは戸惑いながら、それを見据える。 (貴方は、水神様ですか?)  この空間にやってきた際の問いをアランは再度投げかける。 (今や、形だけだがね)  水神は、自嘲めいて呟いた。正しくは、呟いたのはクラリスの口ではあったが。 (あまり驚いているようには見えんな) (驚いていますよ。でも、そうだろうなとは思っていたので) (最初、私にそう問いかけたね。虚を突かれたものだった。貴方は想像を少しだけ違えてくる)  水神は微笑んだ。 (だから興味深い。人間は皆、面白いのだがね。……たとえば、ずっと尋ねたかったのだが、貴方は、ここにやってくる時何も感じなかったのか)  感じる、とアランは呟いて口から小さな水泡が零れた。 (暗闇が纏わり付いてくるような感覚。無性に不安に駆られるような、或いは囁きが聞こえてくるような、厭なものを、何か感じなかったか) (何も。……いえ、確かに、厭な感じはありました。重くて、寒気がするような。でも、それだけで) (そうか)  水神は眼を細める。  そのままゆっくりとクラリスの横を擦り抜けて、アランの前に屈むと、右手が彼女の頬に触れた。アランは一見毅然とした表情で、ぶれることなく水神の顔を見つめる。 (まみえた時に先ず解った。とても昏い目つきをしている)  頬を撫でる仕草には、慈愛を含んでいるようであった。 (心を閉ざしているのだね)  揺れる毛先を手で避ければ、碧い光に照らされるばかりの栗色の双眼が露わとなる。 (ここではむしろ心は露わとなる。肉体に守られている精神が剥き出しになれば、自ずと安定を失い、蔓延る気配に毒される。以前、多くの異形の者達が砕かれていった。この世界には癒やされることのない怨念が沈み、根付いている) (この世界は、どこなんですか?) (どこだと思う)  アランは暫し一考し、顔を上げる。 (死後の世界) (当たらずとも遠からず)  水神は苦笑する。 (それが真だとすれば、貴方もそこの獣も、このクラリスも死んでいることになる) (ああ……)  納得したようにアランは相槌を打つ。  水中でありながら生きているように存在している不思議な状況下で、アランやブラッキーの存在がいかほどかは不明であっても、クラリスは水神の言葉を民に伝えるためにキリに戻る。であれば、彼女は死んでいるはずがない。 (でも、ここは、キリの湖の底でしょう、きっと。私は湖に跳び込んで溺れるブラッキーを助けようとして、そうしたら突然大きな波が立って、水の中に引き摺り込まれて、それはなんとなく覚えているんです。……眼が醒めたら、ここにいました) (確かにここは湖の底だ。しかし、異なる。水底の更に奥。生ける者は来られない場所)  アランは唇を噛む。 (それって、死んでいるということでは) (いいや。貴方も獣も死んではいない。肉体は鼓動を続けている。辛うじてだがね。肉体と精神が離れているだけで、死ではない。今の貴方という存在は、貴方という魂そのものなのだ。獣も、クラリスも同様) (魂……) (理解したかね)  アランは自分の手を覗く。碧い暗闇に浸り、水の動きに合わせて指先が揺れている。しかし、薄れるわけでも溶けるわけでもなく、確かにそこに存在していた。 (全然、解りませんし、変な感じですけども)ぽつりと言う。(死んでいないということは、信じます) (充分)  満足げに水神は微笑む。  水神はのっそりとした動きでアランの正面に座る。クラリスは対面する彼等の中間地点で、双方の顔が見える位置に無言で続いた。純白の衣が動きに合わせて海月のように揺れる。クラリスは相変わらず無表情であり、そこに自我は無い様子だった。 (貴方を呼ぶのに)  両者に挟まれたクラリスの声で、水神は語りかける。 (特別な理由は無い。しかし、貴方のことは知っていた。彼女が噺人として初めてここにやってくる日、貴方が彼女の名を湖で呼んでいたと、知っている) (……え) (必死に呼んでいただろう。喉が枯れるほどに叫んでいた)  アランは目を丸くし、まじまじと水神を見つめる。 (聞こえていたんですか) (聞こえていた。視えていた、という感覚が近いが) (そんな)  アランは小さく狼狽える。  エクトルですら湖上に少女とエアームドの姿があったと人伝に後から聞いたという話だった。であれば、クラリスに届くはずもなく、誰の耳にも入ることのない無意味な行為として消えたはずである。 (まさか、クラリスにも聞こえていたんですか) (彼女からは聞いていない。しかし、クラリスは貴方の話をしていた。それから、貴方の友人や従える獣の話も。噺人でクヴルール以外の話題、それも外部の人間に関する話をするとは随分珍しいから興味深かった。湖上で呼んでいたのが貴方だとすぐに解った)  アランは意志を持たないクラリスを見やった。  整った横顔は凜とした気配を漂わせながらも、決してそこに彼女は居ない。 (だから私は貴方を認知したのだ。湖面に触れた瞬間に理解した。血の気配は標になった。そして呼んだ。貴方を呼んで、そして貴方はここに来た。長い行程だったろう)  水神は静かに慮る。  水底の森を探りながら進み、辿り着いた長い洞窟を、碧い灯りを頼りに抜けてきた。窮してもおかしくはない暗い道程を思い返したのか、アランは沈黙し、静かに頷く。視界はほぼ暗闇であり、本来であれば暗闇に作動するブラッキーの発光習性も全く機能しなかった。慎重な旅路ではあったが、暗闇に屈せずに歩く姿は、光を求めて手探りで彷徨う生き物そのものだった。 (自分の足音すら聞こえなかったのに、何故かずっと誰かに呼ばれているような気がしていたんです。見えない糸を、ずっと手繰ってここまで来たような) (事実、私は確かに呼んでいた。声ではなく、意識を寄せていた。意志を拡げれば、私達は繋がることができる。その波紋を掴んだ貴方はここに来た。だが、この外はあまりに深い森だから、迷い込んだまま自分の形すら失う魂も少なくはない) (それは)一度考え、アランは再び口を開く。(消える、ということですか) (消えるわけではない。迷ったままなのだ。しかし迷い込んだことも解らなくなり、いずれ自分を忘れる。そうして自分の輪郭を保てなくなり、砕け、暗闇に溶ける。水は蒸発しても消失しないだろう。同様に、魂は消えず漂い続ける。そこに意志は最早無いが、彼等の思念が更にこの世界を濃くする。暗い、寂しい、悲しい……母を呼び、父を呼ぶ。愛する者を呼ぶ。私はいつも耳を傾けている。目を瞑ると、聞こえてこないか)  促され、アランは躊躇いがちに瞼を伏せる。  碧い光が遠くで揺らぐ中、暗い空間を暫く見つめていた栗色の瞳が静かに姿を現す。 (聞こえません)  凜とした言葉には、偽りも強がりも透けてこない。  クラリスの声で、そうか、と水神は呟く。 (水底に響く激情を抱えながらも完全に閉ざすとは考えにくいが。それでいてここまで辿り着いた。不思議なものだ) (閉ざすって、心を?) (そう。魂そのものでありながら、その器の更に内側に心をしまいこんでいる。だから干渉されない。その獣が歩く力すら失ったのは、無数の魂に感化されたためでもあるだろう) (ブラッキーが……いなくなるかもしれないんですか?) (その獣は、ブラッキーというのだね)水神は微笑みを深くして、ブラッキーに視線を遣った。(それは彼次第であり、貴方次第でもある。少なくとも貴方がブラッキーを覚えている限り、彼は彼で在り続けるだろう) (忘れるなんて) (人は忘れる生き物だ)  水神はアランの言葉をしんと遮る。 (この獣はそうでなくても不安定だ。強い憎悪を感じる。彼を繋ぎ止め��おきたいなら意識を向けなさい。肉体から離れた魂は脆い。記憶は存在証明となる。心象によって存在は形作られる。クラリスのことも、きちんと覚えていられるように) (クラリスも……) (彼女の場合は少し特殊だがね。けれど、感情豊かな彼女を形作るのは、貴方達の存在も小さくはない) (クラリスは……怨念というものが、平気だったんですか) (噺人と私の間では繋がりが殊更強い。だから彼女達は誘いを辿って迷い無くここにやってくることができる。そこにたとえ感情が無くとも)  淡々と話す水神の言葉に、アランは沈黙する。 (むしろ、感情はできるだけ無い方が安全ともいえる。魂に共感して不安定になるためだ。噺人が外の世界からの干渉を断つのはそこに所以がある。彼女達を守るための方法でもある)  心をできるだけ清らかに保つ。さもなければ、水神の元へ辿り着くことすら出来ない。地上にて、エクトルはアランにそう語った。 (でも、そんなのは) (言わんとすることは理解する。噺人を呼び止めようとしていた貴方のこと。私も、正しいばかりではないと考えが移りつつある)  アランは憂う水神の表情を凝視した。 (だから暫く噺人を選ばなかった) (……クラリスは、久しぶりの噺人、なんですよね) (よく知っている。彼女から聞いたか) (はい) (未来を視る鳥獣のことも知っているか) (ネイティオのことですか) (彼等には惨い思いをさせた) (そうしたのはクヴルールの人達です) (きっかけを作ったのは私だ。そんなつもりはなかったと言っても、漂う獣達は許さないだろう)  水神と同様、未来を正確に導き出す特殊なネイティオを作り出すまでに、クヴルールは生まれない噺人の代わりにネイティオを水神の元へと送りこもうと試みた。しかし、ネイティオの魂は水神の元に辿り着けずに魂は壊れたのだろう。嘗て傷だらけになって帰ってきたという鳥獣の肉体と別に、帰り損ねた心は永遠に水底を飛び続けている。 (ネイティオが可哀想で、噺人を選んだんですか) (いいや)水神は僅かに首を振る。(人間の行動は意外ではあったが、気にも留めていなかった) (じゃあ、どうして)  水神は沈黙した。クラリスに劣らずまっすぐとした言葉を投げかける。 (ここには時間という概念が殆ど無い)  ぽつりと水神は呟く。 (貴方はキリの人間ではない。噺人の本来の由来を知らないだろう)  アランは頷く。 (元々は、ここに留まる私達に時を報せ、水底に朽ちた嘗ての町の噺を伝聞するための存在だった。未来予知は副次的なものに過ぎない。彼等の欲するものを与えただけ。……嘗て、キリの民は私の教えた未来を信じて生活していた。ほんの少し、いくらかの日を超えれば嵐が来る、或いは初雪が降る、晴天の吉日、些細な事象を含めて分け与えた未来を一つの柱として生きていただろう。しかし、今や、私が居なくなろうと、その役割は私だけのものでないと証明された。水神という存在を必要としない者も多くいるだろう。私の与えるものに価値は消えつつある。それは人間にとっての私自身の価値に等しい)  存在そのものを尊重された生き物が、長い時を経て、人々の記憶から失われていき、代わりに生まれたものによって価値は低下していく。新しきが古きを駆逐し、変容していく様と同じように。  そして、少しずつ忘れられていき、朽ち果てていく。 (……それでも、噺人をまた選んだのは……)  アランがしんと入り込む。 (寂しかったから、ですか?) (寂しい、か)  情緒的だ、と水神は言う。 (太陽も月も無い、時間の無い水底における時の指針。それが噺人。貴方が現在を知るために空を仰ぐように、私は噺人を寄せた。それだけのこと) (でも、未来を視ることができるんですよね) (未来は過去の先にあり、現在の先にある。現在という点が解らなければ、視える点を測ることは出来ない。春の嵐、夏の夕立、秋の木枯らし、冬の吹雪、重なり得ないものが重なる。今が解れば何が過去で何が未来なのかは自ずと判明する)  アランは顔を顰める。 (解るような、解らないような) (生きている貴方は理解しなくてもいい。生きるとは時間の中にいることに他ならない。生物は存在そのものが今であるのだから) (……水神様は、生きてないんですか) (私は長く水底に居座り続けている。この場所自体が時の流れから隔絶されている。死んでいるとも、生きているとも言える)  相変わらずアランが悩ましげな表情を浮かべている姿を、水神は微笑ましく見守った。 (貴方は知りたがりのようだ。ここに居ればいずれ自然と理解できるだろう)  水神は立ち上がり、アランの一歩前にやってくる。天井の碧い光を浴びて、アランには水神の作る大きな群青の影がのしかかる。彼女の目はぼんやりと濃く碧い逆光の中にいる水神を見つめ返した。 (私と居るか)  時の流れない、誰の言葉も届かないこの水底に。  アランは再度口を動かした。しかしその直後、がくんと頭が前に揺れる。瞼が重くのしかかろうとしている瞬間を耐えるように持ち堪えた。 (負荷が大きいのだろう) (何……) (少し眠るがいい。心配せずとも、ここでは時は無限だ) (でも……、まだ……)  水神の右手がアランの瞼に迫る。彼女が水神の棲むこの場所へやってきた時と同じ動きであることにアランは気付いたかどうか。碧い影に更に暗闇が被さって、クラリスを映した暗い視界を遮り、柔らかな掌が触れた。強張った表情が和らぎ、抗う隙も無く彼女の瞼は閉じられた。  浮かぶことなく、地上で重力に従って倒れ込むように、アランはそのまま前へと倒れていった。  意志を失った魂を水神は受け止める。  そしてゆったりとした動作で上半身を起こし、背後に横たわる巨大な獣にまた寄り添わせた。眠るアラン、ブラッキーの顔は苦しみとは無縁で、穏やかな顔つきをしている。  おやすみなさい。水神はぽつりと呟き、クラリスとの回路を切断した。 < index >
0 notes
oharash · 5 years
Text
Home,sweet home.
電車のなかで、俺はいつも音楽を聴く。ドアのわきに立って、デイパックを足元に置いて。iPodはジャケットのポケットに入れている。ネックウォーマーをずり上げて、鼻も口もうまるようにうつむいている。
 ネックウォーマーは何本も持っているのでしょっちゅう洗う。顔を埋めた時に柔軟剤のにおいがするように。
 こうしているととても安心した。まわりにどれだけ人がいても、こうしていれば誰も俺を見ないし話しかけない。イヤフォンからはBUMP OF CHICKEN。俺は全然聴かないアーティストだったけど、ユウくんが好きだというので最近聴くようになった。気に入った曲がいくつかあったのでよくプレイリストに入れている。弱音という名の地雷原を最短距離で走ってこい、藤原基央が俺の耳だけに歌いかけている。
 ふだんの下校と違うのは俺が特急に乗っていることだった。桑川を過ぎたあたりで隣のボックス席が空いたので座ることにした。羽越本線の景色はひたすらに鉛色だ。水平線に行くほどに薄いグレーになっていく海に、それに少し暗さを足した雲が垂れ込めている。それでも今日は雲が薄い方で、その隙間からいくつか光の筋が伸びて海を貫いていた。
 インスタをスクロールすると兄が雪山でトリックを決めている動画をアップしていた。
  今年、兄が高校を卒業すると同時に俺は高校生になった。俺は相変わらず一年の3分の2は海外で過ごしていて、それはほとんどにおいて兄と一緒だった。物心ついてからの記憶にはずっと兄がいてそれは今も何も変わらない。合宿もふだんの練習もメシも寝るときも。俺がメディアに取り上げられることが増えたとかそういうことはライダーとしての俺たちにはそんなに重要なことではなかったけれど、俺だけが招待される大会が増えたことだけは岩みたいにゴツゴツした現実だった。
 プレイリストが切り替わってヒップホップが流れ出す。デイパックのポケットから水筒を取り出し口に含んだ。サラサラと薄い音がする。澄んだ水の冷たさ。
 兄のできることや得意なことが、俺のできることや得意なこと、好きなことに自然となった。俺たちはそういう兄弟だった。今も次の遠征に兄に一緒に行ってほしいし一昨日までの遠征だって一緒に行きたかった。そんなことが続くたび、チューニングがずれるみたいに言葉が通じなくなってゆく。それは兄と俺だけの言語で、今までの俺たちは「あつい」のひと言でそれが25度なのか30度なのかまでぴったりとわかりあえた。曇りくらいで気が塞ぐのはそのせいかも知れない。あるいはユウくんの誘いにのったのだって。
  画面が更新されシュウイチくんがバックカントリーの下見をしている写真が流れてきた。滑らかに雪上を駆ける感覚が足に蘇り、一昨日の雪上練習でできたこめかみの擦り傷がじん、と震えた。
 T市の駅で降りて西口にまわる。S市行きのバスに乗る頃には光はすっかり黄色く、その後バスで寝たまま到着したS市は光の粒が舞っていた。当たり前だけど俺の地元であるM市よりずっと都会で、M市にはない広告看板やネオンが瞬いている。街だけど風に冷たいかおりがするのが心地よかった。「着いたよ」とメッセージを送ると「予定通りにC駅に迎えに行くね。S駅まで迎えに行けなくてごめん」と返ってきた。仕方ないユウくんがターミナル駅にいたら目立つし。ましてここは彼の地元にほど近いし。昨日LINEで送られてきた通りに鈍行に乗り換えて、指定された駅で降りる。階段を登ると、自動改札の前にキャップとメガネのユウくんがいた。アンダーアーマーのスリムなダウンジャケットを着ている。
「おつかれ」
「おつかれ」
   最初の言葉はどうしてもぎくしゃくして居心地が悪い。
「来てくれてありがとう。疲れたでしょ。とりあえず出よ。荷物持つよ」
 ユウくんちの最寄駅前は小ぢんまりと栄えていた。ここでユウくんが育ったなんて嘘みたいな好ましい控えめさ。大晦日の夕方だからか、知らない街だからか、すれ違う人はみんな家路を急いでいるように見える。もう少しで街から誰もいなくなってしまいそうだ。半歩先を行くユウくんの背中を早足で追いかけた。
「これもしかしてお土産?」ユウくんがさっき俺から受け取った紙袋を少し上げる。「母さんが持ってけって」「いいのに。大晦日に大事なアヅを預かるんだから、お釣りがくるよ。アヅと年越しできるなんて嬉しい。来てくれてありがとう」ユウくんは嬉しい、とかありがとう、とかそういう言葉をよく口にする。まだそれに慣れなくて俺はすぐに言葉を返せない。道路の向かい側の道を歩くカップルの、馴染んだ後ろ姿を羨ましく眺めた。同じように半歩ずれて歩いていても、楽しそうに話しながら歩く後ろ姿。俺はピアスを外してポーチにしまった。ひとつ無防備になった気がして心細くなっ��。
 ユウくんの家の玄関を開けると、湿度の高い空気に包まれた。リビングではお父さんがテレビを見ていてお母さんがオープンキッチンに立っていた。「遠くから来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね。困ったことがあったら何でも言って」お父さんはわざわざ立ち上がって俺に握手を求めながらそう言った。大きくてかさついた手は全然ユウくんに似ていない。古い木の幹みたいに頑丈そうな男の人だ。校長先生って聞いていたけど本当にそんな感じ。にこやかで、俺の茶髪もオーバーサイズのファッションも気に咎めるふしがないのがかえって居心地が悪かった。うちみたいに部屋の隅に雑誌や脱ぎ捨てた上着や書類が溜まったりしていなくて、代わりに背の低い観葉植物が葉っぱを広げている。兄弟喧嘩で空いた壁の穴だとか落書きの後なんかもない。清潔で整った住まいを見ていると、ユウくんがどうしてあんなに物怖じせず人に好意を示せるのか少しわかった気がした。
 ユウくんの家族と鍋と寿司を食べて、紅白を見た。俺の家ではいつもガキ使だったのでちょっと新鮮だった。一年のほとんどは海外にいるのでたまに帰国して音楽番組を見ると歌手も歌もほとんどわからなくて、弟が解説を加えてくれる。そんな話をしたらユウくんが「わかる!  俺も姉ちゃんに教えてもらう」と機嫌よく笑ってくれた。寿司はお店からとったものだった。きちんと握られた寿司はめちゃめちゃ美味くて、それなのに俺は母の手巻き寿司が恋しくなった。母のつくる手巻き寿司は兄と俺の好物だ。ぬるい酢飯と、母が産直で買ってくる刺身が唇に触れる最初の一瞬が好きだ。あのつるつるとした滑らかさが。
 ユウくんのお姉さんは友達と旅行に行っているそうで会うことはなかった。紅白が終わる前に布団に入った。午前5時に出る、という約束はそのときにした。元日の朝一番に、誰と何をするより先に、出かけようという約束。
「大丈夫?」
すっかり全部話がまとまった後になってユウくんは聞く。
「アヅ、移動で疲れてるでしょ。もっと遅くていいんだよ」
「いい、5時」
「まだ暗いよ?」
 ユウくんは時々、変なところで煮え切らない。
「知ってる」
 視線だけを向けて言うとユウくんは観念したらしく、じゃあアラームセットするね。とスマホを手に取った。
 ユウくんの部屋は家具としては勉強机と、窓の脇にぴったり寄せたベッドと本棚がふたつしかない居心地の良さそうな部屋だった。けれどその本棚が俺の身長ほどあり、本はそれぞれ2段ずつしか収められておらずほかの段にはさまざまなものが置かれている。トロフィーや賞状なんかは別の部屋に置いてあるのか姿はなく、大部分は何の役に立つとも知れないがらくた同然の品々だった。なぜか古びた羅針盤、アンモナイトや三葉虫の化石(フェイクかもしれない)、RPGに出てきそうな剣に龍が巻きついているキーホルダー、象牙や石英やサンゴを加工したアクセサリー、ガラスの香水瓶、三角プリズム、チェスの盤と駒、そしてスワロフスキーなどの凝った装飾を施されたヘッドフォンとイヤフォン。まだまだあったが、どれもユウくんらしい趣味のもので俺の部屋にはないものばかりだった。俺がクリスマスに贈ったTiffanyのブレスレットは箱と一緒に一番上の段へ置かれていた。
 海外遠征に出るたびに集めるのだろうか。これらとりとめのない収集品のひとつひとつに、ユウくんの嗜好だとか経てきた時間にまつわる何らかの記憶のかけらが閉じ込められているのか、と俺はため息をつくような気持ちで考えた。この部屋をなんとなく居心地よく感じるのは、ユウくんが短いけれど分厚い時間を一緒に過ごしてきたこれらのものが含む記憶のふくらみのせいなのかも知れなかった。
 灯りを落とした部屋で、気がつくとユウくん目を開けて俺をじっと見下ろしていた。すこし面白がっているような顔つきになっているのはユウくんの目に、布団の上でまんじりともせずいる俺もまた収集品のひとつのように映っているからだろうか。やがてその表情も失われ、ユウくんはゆっくり目を閉じた。彼の瞳にいたずらっ子のような表情が一瞬ちらりとまたたいたのが俺は気に入って、もう一度それを見たいと待ち続けたけれど、それきりユウくんは目を開かない。呼吸のリズムがいつのまにか寝息のそれに変わっていた。
 4時すぎに目が覚めた。アラームが鳴るまでうとうとして、ユウくんと一緒に着替えて顔を洗った。真っ暗だ。
 何も咎められることをしているわけじゃないのに、なぜかどきどきした。
 玄関へ向かうとき、ユウくんの両親の寝室のまえを通る。俺は息をひそめ、床がきしまないようにゆっくりと、最大限の注意を払って一歩ずつ歩いた。
 玄関には、活けたばかりの水仙の香りが漂っていた。消臭剤じゃなくて生花ってあたりに俺の家との違いを感じる。お正月の冷たいかおり。
 なるべく音をたてないようにドアをしめた瞬間、何か取り返しのつかない悪いことをしてしまったような気持ちになった。眠っているユウくんの父さんと母さんのもとからユウくんを連れ去って、悪いことをさせるような気持ち。
 おもては寒く、まだ月も星も見えた。ユウくんはエレベーターの中で俺の手を握り、そのまま自分のダウンジャケットのポケットに入れた。
俺は空いている方の手でニットビーニーを少し下げた。今までで一番ユウくんを親しい人として感じた。
 道は海の底みたいにしんとしている。玄関灯に照らされて、どの
家にもしめ飾りが飾られていた。
「しずかだね」
ユウくんが言うので俺は頷いて「さむいね」と空を見上げる。ずっと手を繋いでいた。
  3時だとまだ、カウントダウンを終えて帰ってくる人がいる。6時だと早起きの老人が元朝参りへ繰り出し始める。5時の住宅街はまだ眠っていて、息を吸うと鼻と口の周りに冷たい空気が集中した。まだ誰も吸っていない新しい冷気だ。
 車のいない道路をいくつか渡って、古めかしいというか単に古い岩造りの鳥居の下にたどり着いた。鳥居の右も左も民家。道路を挟んで向かい側にはシャッターを下ろした商店。有名でも何でもない、ユウくんが子どもの頃に友達と初詣に行った神社を希望したのは俺だった。
 それでも神社だけあって、てっぺんの見えない石段を登る。石段の両側には赤松や杉が生い茂って石段をトンネルのように覆っていた。
「S市は初売りが有名なんだよ。他の地域に比べて福袋の中身が超豪華なんだって。2日の朝からだけど、みんな今日の夜とかから並び始める」
「行ったことあるの?」
 ヤッケを着て長靴を履いたじいさんが階段を降りてくる。うちの地元で見るようなスタイルに少し心が和む。繋いだ手を離した。
「ない」「ないのかよ」
 石段を登り終えると社の前は小さな広場になっていて、神社の人とおぼしきばあさんが火を焚いていた。
「アヅ知ってる? 正しいお参りの作法ってさ」
「うん」
「鳥居をくぐったらしゃべっちゃいけないんだって」
「何でそれ今言うの」
「だよねえ。今思い出したよ。水で口を洗うやり方とかも見てきたんだけどさ、そもそもここ水場ないしね。昔はあったような気がしたんだけどな」
 お賽銭を入れて手をふたつ叩いて目をつぶった。閉じたまぶたが冷たい。炎の中でバチっと木がはぜる大きな音が耳の奥へ残響を残した。
  息を吸いながら目を開けると、ユウくんはまだ目を閉じて手を合わせていた。邪魔をしてはいけない気がして体がこわばる。やがてユウくんは目を開けて、うっとりと御神体に目を向けたまま少し微笑んだ。
  おみくじを引いた。特に飾りやお守りの入っていない100円のシンプルなやつ。俺は末吉、ユウくんは小吉。庭火にあたりながら神さまの言葉を読み上げていく。
「なんかふたりともショボい」
「持ってる男ふたりなのにね。��え末吉と小吉ってどっちがいいんだろうね?」
「末っていうくらいだから俺のがやばくね」
 スマホを取り出して検索窓に「末吉 小吉」と打ち込む。ユウくんは覗き込むように俺にもたれ、スマホと俺のおみくじを見比べていた。
「あらそいごと、あぶないです、全力を尽くしましょう。転居。取り返しのつかないことになります。注意しましょう。お産。安産です。アヅもう出産するしかないんじゃない、これ」
「はー? あ、やっぱ末吉のがヤバイって。その下、すぐ凶じゃん。凶なんてそうそう入ってないだろうからどっちみち俺らヤバいね。つか俺‘学問 茨の道である’とか知ってるっつーの。ユウくんの…しせもの」「うせもの」「うせもの。‘でない’とか見も蓋もなくね」
「失くさなきゃいいってことでしょ。それより恋愛、俺‘一途な思いが愛を深める  行動で示せ’…行動かあー。行動って難しいよね。俺ジュニアの頃から結構気合い入ったストーカーの人いるんだけどさ、あの人だってあれで俺への何かを示してるつもりなんでしょ」
「何それめっちゃヘビーな話」
「話さなかったっけ」
「ストーカーいるのは知ってたけどそんな前からだとは思わんかった。ていうかいいの、タクシーとかで来た方がよかったんじゃねえの」
「ううん、さすがに正月はあっちも休みたいのか、海外に行ったままだと思ってるのか来ないんだよね」
  木を燃やしているとき独特の煙のかおり。ユウくんがぐいぐいと俺にもたれてくるので、お互いのダウンジャケットがこすれあって軽薄な音をたてる。「なんかされない?」「へーき。さすがにカナダに住むわけにいかないのかあっちにいる時も四六時中張ってるわけじゃないし、大会とかのときはSPつけるし。アヅも気をつけなよ、これからどんどん人気出てくるんだから。ていうか何の話だよ。行動で示せってって話だよね。今年俺めっちゃ示すために行動するわ。何してほしい?」「肩が重いから自力で立ってほしい」「うわ塩っ。でもほんと、基本は自分で考えて行動するけど、してほしいことあったらいつでも言ってよ」
 ユウくんが俺の顔を覗き込むので、そのつるりとした頰が間近にやってきた。骨の上に薄い皮膚が張っていて女の子みたいに白い。
  俺のおみくじ。‘恋愛 心落ち着ければ吉’。神さまは簡単に言ってくれる。落ち着いてできる恋愛なんてそもそもしない方がいい。
 行動ねー、とユウくんは繰り返した。白い息が泡みたいに消えていく。俺は丁寧におみくじを畳んで財布に入れた。
 帰り道、国道から一本入ったコンビニで温かい烏龍茶を買った。お正月の早朝のセブンイレブンはそこそこ静かだ。客は眠そうな顔をした若い男女の集団と、親密そうな若い女の子ふたり、そして俺たちだった。
「初めてだね」
 外のベンチに座るとユウくんが言った。
「え?」
 ユウくんは深く腰掛けて背筋を伸ばしている。俺は浅く腰掛けるのが癖だ。膝が前に出て、ちょっとだらしない具合になる。
「会うの、今年はじめて」
  ホットレモンに口をつけて言う。小さな飲み口から湯気が立ち上って消えていく。
「……そだね」
  俺は息をついてもうひとつ脱力した。コンビニ前の適当な空気が落ち着く。空にはまだ暗さが満ちていた。真夜中の高速を走っている時の抵抗感のあるぬるぬるした闇じゃなくて、頰をさらさらと撫でる細かな粒子の闇だ。
「おめでと」
 俺が言い、
「今年もよろしく」
と、ユウくんが言った。
 ユウくんがトイレ、というのでもう一度コンビニに入った。ユウくん
が思い出して年賀状を会計している間、俺はユウくんの横に立ってガムとか小さなぬいぐるみとか、食玩とかミニカーなんかが並んでいる即席の棚を眺める。
「あ、プー」
 それは柔らかいプラスチックでできたくまのプーのコインケースだった。顔の裏側に垂直な切れ込みが入っている。俺の手のひらの半分くらいの大きさ。手にとった顔だけのくまのプーは首からかけられるようにひもが付いている。
「買ってあげようか」
 ユウくんが言った。
「え、いいよ」
 俺が言うより早く、ユウくんはそれを掴んでレジに出していた。
 帰り道、俺はそれを首にかけて小銭を入れてみた。歩くたびに小銭がかすかに音をたてる。俺の姿を見てユウくんが少し驚いていた。
「無理やり買っといてなんだけど、意外。アヅが身につけてくれると思わなかった」
 俺も同感だった。ここまでファンシーでなくても、キャラものをあえて身につけてファッションをハズす奴はいる。けど俺はそういうのはあまり好きじゃなかった。人のリアクション待ちのようにも感じるしそんなもので目をひくのはすごくダサい気がするから。
 自分でも驚いたのだけれど、俺はこのプレゼントがすごく嬉しかった。すごくすごく嬉しくて、ばかばかしいくらい胸にしみて、俺はこんなにひとりぼっちだったのかって思った。
 そっとドアを開けると、家はまだ眠りの中だった。俺たちは部屋に戻り、部屋着に着替えてもう一度ベッドにもぐる。正確にはユウくんはベッドに、俺は床にしいた布団に。
「母さんも父さんもココの出身なんだけどさ、なんでかお雑煮は関西風なんだよね。元日はいつもそれ」
「関西風ってどんなの」
「餅が丸くて汁が白い。ばあちゃんちで食べるのは普通のさ、いや普通って言ったら変だけど、いわゆる関東風のすまし汁みたいなやつで。俺、言われるまでふたつが同じ‘お雑煮’だって知らなかったよ。うちが関西風なのはただの母さんの好みらしいけど。アヅんちは?」
「たぶんユウくんのばあちゃんちのパターン」
「だよねえ。まあ、とりあえず食べてみてよ」
 眠る前にキスがしたいなと思っていると「やっぱり一緒に寝る」とユウくんはベッドからずるりと体を落として俺の隣に潜り込んだ。そしてむく犬みたいに俺の腹に額を押し付けた態勢に落ち着く。俺の頰を撫でていったユウくんの柔らかい髪は外のかおりを残していた。俺は自分が懸命に無表情を取り繕いながら、実はややもすると埒をこえてごぼりと外へ溢れ出してしまいそうになる気持ちを押し殺そうと必死になっていることに気づいた。それが寂しさであることをユウくんは知らない。俺以外に誰も知らない。
  ユウくんは俺よりずっと大きいけれど小さいペットみたいな振る舞いをする。身のうちに飼っているうちにどんどん情がうつるような。餌をやり忘れてるんじゃないか、ときどき不安になる。餌をやり水をやり、ユウくんが満足そうにごろごろ喉を鳴らし始めると、俺は彼の柔らかな髪だとか張り詰めた背なんかを撫でてやる。ユウくんが安心してゆく一方で俺はどんどん不安になって、寂しさがぱりぱりと耳の奥でひび割れていく。
「ねえアヅ」
   ユウくんが俺の腹に頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「神社で何お願いしたの」
「…俺もユウくんもケガしませんように」
「うわめっちゃ現実的。夢がない」
「いやすごく大事でしょ。全然、一番大事」
「そりゃそうだけど。俺はアヅが俺のことめちゃめちゃ好きになってくれますようにってずっとお願いしてたよ」
  ユウくんはペットみたいに振る舞うし時々年齢より幼く見えるけど、一方で期待というものを何ひとつ持っていないように見える。最初からきれいさっぱり。
  普段は可愛く見られるような仕草を意識してやっているくせにそんなところは全然可愛くなくて、そういうところを見ると不安になるばかりの俺の心は少し凪ぐ。
  それから、俺が何も言わなくても言葉を催促しないところも。
「俺を幸せにできたのはスケートとアヅだけ。俺を悲しくできるのもスケートとアヅだけだよ、」ユウくんは言葉を探すように少し黙る。「そりゃ、スケートはひとりでできるものじゃないから家族とかコーチとかサポートしてくれる人含めてのスケート、だけど」
 ユウくんはもぞもぞと上体を起こして俺を見下ろす。こめかみのかさぶたに指がそっと触れた。
「アヅ疲れたでしょ。人見知りなのにうちの親とたくさん喋ってくれてありがと。親に俺のカッコいいアヅを紹介できてよかった。改札で見たときすごく心細そうで、悪いことしたなって思ったんだ。年越ししようって無理やり誘ったし。でも俺アヅのこと大好きだからさ、連れてきたかったし、これからもそうするよ。ねえ。だから約束しよ」
  何に、という言葉すらなかった。ユウくんが俺の瞳の中を覗き込んでいる。その目はピカピカと光っていて、本物のけもののようだった。何月何日に、とか、何時にどこで、とか決めなくても、約束はできるのだ。ユウくんに会って俺はそんなことを初めて知った。
  ユウくんの母さんが作ってくれたお雑煮を食べてテレビを見た。ユウくんの箸づかいはとてもキレイだ。それを見ながら慣れない中指を使って箸を駆使し餅を拾ってみる。ユウくんの父さんがお年玉を渡してきてすごく困った。どう言ったら気を悪くさせないで断れるかを考えていると「君がプロのスノーボーダーなのは知っているけれど、私にとって君はユウの友達の高校生だから」と言ってユウくんの父さんは俺の手をとってポチ袋を握らせた。お礼を言うとユウくんが嬉しそうに俺の肩を抱いた。穏やかで暖かいこの家の空気が少し体に馴染んだ気がする。
「アヅはスケボーも上手いんだよ。小4からスポンサーついてるから、メディアにも全然物怖じしないしすごいかっこいいんだ」「いや前の大会のとき全然喋れてなかったじゃん」「えっ喋ってたよ。すごく落ち着いてた」「帰国後の会見で、報奨金どうしますかーって聞かれたとき俺とスバルくんが貯金っすねーへへっとかまだ決めてないっすとか言った後に超ハッキリ‘僕は全額寄付します’ってユウくんが言って、あとで仲間に俺すんごいいじられたし。俺ら超馬鹿っぽいって」「いやあれはほら、まあ、アヅは疲れてたし仕方ないよ」「何そのフォローになってないフォロー」「エックスゲームスの賞金のほうが高いんでしょ? 俺あれ聞いて、ああ俺の世界大会の重さとこの人たちのは違うんだなって思ったもん。何か、色んな世界とか考え方があるんだなって思った」
  ユウくんはにっこり笑った。薄い唇の間に少しだけ歯がのぞき、それは結構キュートな笑顔だった。ユウくんの父さんも同じ笑い方をしていて、それはとても似ていた。
   そういえば昔の写真を見ると俺と兄は同じ顔をしていたけど、去年くらいからはっきりと違う顔になってきた。あるものを選ぶ、あるいは選ばされるというのは別のものを選ばないということで、俺たちはそうした大小無数のむごく切ない分岐点の連なりから成り立っている。そのうちのひとつが痛切な悔恨だとかそういったものとともに想起されて、その分岐から以後の‘全てのちがい’が生じたのだとあるとき突然思い込む。でもきっと、それは生まれた時から決まっている。
 ぎゅうと締め付けられる胸を抑えると、なぜだか笑みがこぼれた。決まっているから、だからそんなことは悲しんだって詮無いことだ。その代わりに俺はおみくじだとかプーの財布だとか、そんな小さなものを積み重ねる。
 甘やかな餅が咀嚼され喉奥に追いやられていく。ユウくんが優雅な仕草で黒豆を取り分けてくれるのを見て、いつか兄に会わせたいな、と思った。
0 notes
coinlaundry-days · 5 years
Text
戯曲 眠りながら、青を頼りに
Tumblr media
「眠りながら、青を頼りに」 作:平野明
なるみ 20歳 詩を書く大学生 無意識に消費する 客席を認識できる 五十嵐杏 25歳 消費される人間(の形をした人間ではないもの) 青い糸が見える
_
1 ○薄暗い。すでに舞台にはなるみがいる。床に座ってパソコンを打っている。手首には青い糸。
○杏、なるみの手首の青い糸をたぐって、登場。隣に座る。二人の手首は青い糸で結ばれて��る。ふと別の青い糸の先端が上からぶら下がっているのにも気がついて、それをゆっくり下へ引いていく。蜘蛛の糸のイメージ。引き切ったその糸の終わりもまた青。その糸を持って、舞台の下手から上手へピンと張る、高さは頭の位置。客席と舞台に青い境ができる。指を伝わせて、はけ。
○なるみパソコンを打ちながら、
なるみ独白 美しいものを美しいまま書き写したい。だって、私の言葉は、眠る君や、美しい世界の寄せ集めでできているのだから。それがなくなったら、私はいよいよ、空洞になってしまう。
○明るく電気がつく。なるみ、パソコンを打つ手を止める。隣に置いていた、濡れた紙の束を持って立ち上がり、張られた紐に洗濯ばさみでその紙を干していく。一枚一枚伸ばして丁寧に、上手側から。紙の内容が観客側に見えるように。紙には一面の詩。
なるみ すごい雨。
○しばらくして杏、濡れた紙の束とタオルを持って登場。
杏 ありがとうございました、タオル。 なるみ いえいえ。 杏 干すのも、ありがとうございます。本当に。 なるみ あの、こんな感じで大丈夫ですかね? 杏 大丈夫です。バッチリです。 なるみ それも干しましょうか。 杏 あ、はい。 なるみ (タオルを受け取って同じく干す)
○二人で紙を干す
杏 何か今日ご用事とか、ありませんか? 大丈夫ですか? なるみ 大丈夫です。何も無い日なので。 杏 よかった。 なるみ そちらは? 杏 わたしも特に何も。
なるみ これ、いつまでに、乾かせばいいんでしたっけ。 杏 明日の夕方までです。 なるみ じゃあまだ時間はあるんですね。 杏 そうですね。でも晴れるかどうかですよね。 なるみ 調べます? 杏 すみません。 なるみ (スマホを出して調べる)あ、夕方から晴れるみたいですよ。 杏 ほんとだ。よかった。 なるみ それにしてもすごい雨ですね。 杏 ですね。
○雨が降っている
杏 朝ごはん、ありがとうございました。 なるみ いえいえ。お口に合いました? 杏 はいもう全部美味しくて。旅館のご飯みたいだった。 なるみ 褒めすぎです。 杏 お味噌汁があって、焼き鮭と玉子焼きがあって、おひたしがついていて、って。 なるみ 今日だけですよ。いつもは簡単に済ませちゃいます。シリアルとか。 杏 でもすごい嬉しかったです。 なるみ よかったです。ありがとうございます。 杏 ごちそうになりました。
なるみ 朝、急に話しかけちゃって、すみません、びっくりしましたよね。 杏 いえいえ。確かにびっくりしたけど……隣のおじさんの方がびっくりしてて、それに一番びっくりしました。 なるみ ああ。あれは私の言い方が悪かったのもあるけど。 杏 「え、俺がですか?」は流石に なるみ え、あれ言いましたよね。 杏 言ってました。 なるみ 聞き間違いかと思ってふつうに無視しちゃったんですけど。 杏 言ってた言ってた。
杏 このインタビューっていうか、企画は、もう何回目かなんですか? なるみ いえ、実は杏さんが一人目で、あの。 杏 はい。 なるみ よかったら敬語じゃなくて大丈夫ですよ。 杏 じゃあ、ありがとう。そうなんだ。えー。貴重な一回目が私なんかでよかったの。 なるみ よかったですよ。杏さんが優しい人でほんと安心しました。いや、声かけても引かれないだろうなって思ったから、私も声をかけれたんですが。 杏 優しそうに見える? なるみ はい。この方なら大丈夫かな、って。
○雨が降っている
なるみ これで最後ですかね。 杏 そうだね。ごめんなさいね、本当に。あとでお礼するね。 なるみ いえいえ、いいんです。
なるみ それにしてもすごい雨ですね。 杏 だね。雷もなってる。
○客席と舞台の間に、干された紙によって仕切りができる。この仕切りより観客側を外、舞台側を内と呼ぶ。
杏 雷、落ちなきゃいいけど。
○暗転
なるみ あ、落ちた。
杏 ははは。 なるみ ははは。 杏 狙ったようなタイミングで落ちたね。 なるみ 杏さん。あ、ここにいた。 杏 います。 なるみ 大丈夫ですか。 杏 はい。 なるみ 懐中電灯探してきます。 杏 はい。気をつけて。
/
2 ○懐中電灯をつける。なるみは外にて、観客のための独白。杏は内にて、なるみへの返答の言葉。青い糸で繋がれた手首。糸が見えないなるみは大きなジェスチャーで杏を引きずり、動きを制御し決定づける。
なるみ独白 停電のタイミングで、独白行きます。1998年生まれ20歳女、生まれも育ちも東京、大学2年生をしている鳴海です。 今、授業で、「課題発見」っていう名前の個人課題を出されていて、それは社会の中に自分で課題を発見して解決するって趣旨のものなんですけど、これを発端に私は彼女に、彼女は五十嵐杏さんというのですが、に、会いました。というのも、私は課題を、電車の中に発見したからです。私の取り組んだ課題発見とは、あ。長くなりそうなんですけど、杏さんなにか独白で言いたいことあったら先どうぞ。(と言って光源を投げる。)
杏独白 特に、ないよ。(と言って光源を投げる。)
なるみ独白 私の取り組んだ課題発見とは、電車で隣り合って座った人との縁を信じる、というものでした。ほらよく言うじゃないですか。出会う人ってそれがどんな些細な一瞬のすれ違いでも、前世で何か縁があったからすれ違うんですよ。今日はじめに挨拶した人も何かの縁、スクランブル交差点ですれ違って5人目の外国人にも何かの縁があるのだとしたら、東京駅から立川までの長〜い中央線を隣り合って座った人には、どんなに強力で個人的な縁があるのでしょう。私たちは駅に着いたらとりあえずホームに降りしてまうけれど、思い切って、一緒に中央線を戦い抜いた隣人に話しかけてみてはどうだろうか。もしかしたらいい人かもしれない、そうでないかもしれない。それは話しかけてみないと分からないけれど、試してみる価値はある。だってすれ違った人にでさえ、縁があるのだから。すみませんまだ続きます。杏さんなにか言いたいことありますか。(と言って光源を投げる。)
杏独白 特に、ないよ。(と言って光源を投げる。)
なるみ独白 私はこの課題発見の企画を「電車の隣人と、朝ごはんを。」と、題して進めました。朝、電車で隣に座った人に「家に朝ごはん食べにきませんか?」と誘うのです。なぜ朝ごはんかと言うと、人とご飯を食べる時間帯って大抵昼か夜で、朝ごはんはあまりないじゃないですか。一番プライベートな食事の時間に誘うことで、より親密な関係になれると思ったからです。 安全と公平さのため、ターゲットは同性、嫌がられたらすぐ身を引く、まだ誰も座っていない東京駅発の電車に乗る、この3つをルールにしました。杏さんなにか言いたいことありますか。(と言って光源を投げる。)
杏独白 特に、ないよ。(と言って光源を投げる。)
なるみ独白 はい、決行日の今日の天気はあいにくのこの大雨でしたが、記念すべき第一回目です、そのまま続行することにしました。午前3時、家で慣れない和定食をこしらえ、雨の吹き荒れる中、東京駅へ向かいます。午前6時、駅にスタンバイしていた私は、中央線青梅特快3両目、右ドア、乗ってすぐの角席に乗り込みました。杏さんなにかありますか。(と言って光源を投げる。)
杏独白 特に、ないよ。(と言って光源を投げる。)
なるみ独白 東京駅の時点では隣にまだ人はいません。神田、まだいない、御茶ノ水、まだいない、四谷、はいきた、私の隣に人が乗り込みました、しかも女の人です。しかし彼女がいつ降りるのかが問題です。新宿、まだ降りない、中野、まだ降りない、そのうち彼女はうとうとと眠りはじめ、私の肩にもたれかかって、三鷹、まだ降りない、国分寺、まだ降りない、そうして私の家がある立川駅につき、彼女は目を覚まし、二人は同じタイミングで席を立ちました。 『すみません、家に、朝ごはん、食べにきませんか?』 彼女の名前は五十嵐杏さん。杏さん独白、なにかあったらどうぞ。(と言って光源を投げる。)
杏独白 特に、ないよ。(光源の電気を消す)
/
3 (杏はこれから終始、青い糸を手でもてあそんでなるみとの距離感を測ることになる) ○雨が降っている。電気がつく。
なるみ ああ。 杏 ああ、つきましたね。 なるみ よかった。
(間)
なるみ スーツも乾かしますか。 杏 いえ。あ、でも……乾かそうかな。いい? なるみ はい。ハンガーこれでいいですか。 杏 うん、ありがとう。 なるみ お預かりします。
なるみ 何か飲みます? 杏 大丈夫、お構いなく。 なるみ って言っても紅茶かコーヒーかしかないのですが。よかったら。 杏 いいよ。 なるみ 気にしないでください。 杏 じゃあ、紅茶で。 なるみ はい。お砂糖使いますか。 杏 大丈夫。ありがとう。 なるみ はい。あ、停電。
○杏の手元の光源の電気がつく。
杏 えっ。(客席があるだろう場所へ視線を無理に飛ばして)……五十嵐、杏です。でも、特に、ないです。
なるみ 杏さん。
○照明戻る。杏の手元の光源の電気が消える。
なるみ どうぞ。あっついのでお気をつけて。 杏 ありがとう。いただきます。
○二人、しばらく紅茶を飲む。紅茶を飲む杏をじっと観察するなるみ。なるみ立ち上がり、外へ。杏の向かいには誰もいない。
なるみ独白 杏さんが紅茶を飲んでいる、のを私はじっと見つめる。 杏 なんか不思議ですね。私はただいつも通り、電車に乗っただけなのに、たまたま隣に座った人と、今、こうやって向かい合っていて、おいしい紅茶をいただいていて。 なるみ独白 あの、似てませんか。 杏 前世とかあまり信じないんですけど、こうして会っているっていうのは、確かに縁ですね。……なるみちゃん?
○なるみ戻ってくる。
なるみ あ……。縁、ですかね。そうだったら嬉しいけど。 杏 縁だよ。
なるみ ……話を切るようですが。 杏 はい。 なるみ 杏さんって、星・ルイーズ・梅子に似てるって言われません? 杏 え? 星? なるみ アイドルなんですけど。 杏 うーん、初めて聞いたな。 なるみ すごいマイナーなとこなんですけど私その子が好きで。うつむいた時の杏さんがすごい。……あ、どうしようすごい似てる。 杏 そんなに似てる? なるみ 似てる。かわいい。エモい。 杏 えー。 なるみ 握手してください。 杏 そんな。 (なるみと杏、握手をする) なるみ うわ。やば。 杏 そんなやばい? なるみ はい。ありがとうございます。
(間)
杏 この企画、あと何人ぶんするの? なるみ あと2人ぐらい、ですかね。 杏 大変だね。 なるみ まあ。 杏 それで、調査が終わったら学校で発表するんでしょう。 なるみ そうですね。プレゼンボードとか作って。再来週の金曜の午前にあるんですけど。あ、杏さん来ます? 杏 そういう発表って聞きに行っていいの? なるみ 関係者なら、多分、いいと思います。 杏 行きたい。でも待て。金曜か。ごめん、その日仕事あるなあ。 なるみ 全然大丈夫です。社会人忙しいですもん。 杏 ごめんね。頑張ってね。 なるみ ありがとうございます。
なるみ 杏さん、お姉ちゃんみたい。 杏 え? なるみちゃんの? なるみ はい。姉感すごいし。 杏 そうかな。 なるみ 私のお姉ちゃんになってほしい。 杏 本物の姉妹はもっとばちばちしてるもんなんじゃないの。 なるみ そんなことない。 杏 そうかなあ。私、なるみちゃんのお姉ちゃんか。 なるみ お姉ちゃん。
なるみ あ、停電。
○電気が消える。なるみ外へ。杏と会話しながらも、その目は客席へ。杏はなるみへの返事の言葉。
なるみ独白 雨はまだ降り止まず、今ここに干している、杏さんのびしょ濡れの原稿は一向に乾く気配を見せない。想定外のことだったけれど、この雨のために、これから10時間、私は杏さんと一緒に過ごすことになる。杏さんは常識ありそうな、いい人だし、むしろかなり好印象だしかわいいし、私は一向に構わないんだけど。杏さんなにか独白ありますか。
杏独白 特に、ないよ。
なるみ独白 ええないんですか。普通独白って自分が思ってること言いますよね。何もないと逆に怖いんですが。なんか、なんか、ないんですか。へんな女に捕まっちゃったよ、とか、一緒にい��の気まずすぎる、とか、早く帰りたい、とか。
杏独白 特に、ないよ。
なるみ独白 私、耳ふさいでるんで、お構いなく。
杏独白 特に、ないよ。
なるみ独白 ないんですか、本当にないんですか。
杏 あ。
○電気がつく。杏は疲弊し、なるみは元気を増す。
杏 あ、ついた。 なるみ 停電多いな。ちょっと楽しいけど。 杏 たしかに。あはは。
なるみ この原稿、いつまでに提出すればいいんでしたっけ。  杏 明日の夕方まで。でも、もうお暇しようかな。紙も、うん。ちょっとは乾いてきたし。 なるみ 雨、まだすごいですよ。 杏 でも。悪いし。 なるみ いやいやいや。ゆっくりしていってください。うちでよければなんですが。 杏 悪いよ。 なるみ いいんですって。お構いなく、お姉ちゃん。 杏 ごめんね。じゃあ、もうちょっといさせてもらうね。 なるみ はい。
(長い間)
○部屋を見渡す杏。 杏 なるみちゃんって普段何してるの? なるみ えー。なんですかね。 杏 大学生でしょ? サークルは? なるみ 入ってないんですよ。だから平日は、授業受けて、休日は友達と遊んだりとか、して。あとは課題をして。 杏 課題が忙しいのか。 なるみ うーんでも、基本ぐうたらですけどね。 杏 趣味とかは? なるみ 趣味……。ここだけの話なんですけど、 杏 うんうん なるみ 私、詩を書くのが好きで 杏 へー! なるみ うわ、恥ずかし 杏 いや、すごい、素敵。 なるみ でも全然なんで、ほんと。 杏 なんか、でも、わかるなー。 なるみ え? 杏 書いてそう、詩。 なるみ 本当ですか。初めて言われました。 杏 上手そう。 なるみ ええ。趣味で書いてるので、下手ですよ。 杏 見たい、とか言ったら。 なるみ ダメです。 杏 そっかあ。少しも? なるみ ダメです。
○少しずつ動作と言葉がフェードアウトしそれぞれの時間へ。
/
4 ○なるみ、パソコンで何かを打ち始める。杏、それを自分のスマホで見る。電気が落ちる。 ○二人は内にいる。杏はただ読み上げる。なるみは客席へ向かって、杏との会話を続ける。
杏 『生活に突然現れた女は 綺麗な言葉づかいをする 綺麗な振る舞いをする 綺麗な顔をする その目の奥にひっそりと佇んでいる怪物を 綺麗に隠そうとする 綺麗のれいは19画のれい』
なるみ すみません、私ちょっと眠っていいですか。
杏 『壊れた海のように雨が降る朝に 女にあった』
なるみ 今日、早起き絶対できないって思ったから、寝てないんですよ。
杏 『しめった電車の中で ひとりだけ遠い目をして』
なるみ これかけるので大丈夫です。よっと。(隅にたたんであるブランケットを広げてかぶる)で、このまま寝ちゃいます。
杏 『耳に押し込まれたイヤホンの先は』
なるみ あはは。杏さんも、ごゆっくり。寝てもいいし、何してもいいんで。
杏 『どこにも刺さっておらず』
なるみ おやすみなさい。
杏 『ただ宙をぶらついていた』
○杏、眠る。
なるみ独白 杏さんが眠っている。美しい寝顔だ。私はキーボードを叩く。この人を言葉にしたい、美しいものを紙に描き写すように、言葉にしたいと思った。眠っている人間がいちばん好きだ、妖精みたいだから。
○なるみ、パソコンにまた打ち込む、しばらくタイピングの音
杏独白 『(眠りながら)女はビニールみたいな膜に守られて私の隣にいる 指で膜を押せば膜はいらだって確かな弾力で押し返す しかし舌で舐めれば甘味をともなって溶ける 強い矛盾をもって オブラートって食べたこと、ある?』
杏独白『女、ずっと出ていかなければいい』
○タイピングの音が言葉を追いかけてくる
杏独白『女はうちにきた 珍しそうに家の中を見渡すのがおかしくて ちょっと笑ってしまった “なんで笑うのよ”って言った口のとがり 何度考えても どうしてあまりにも愛しい?』
○タイピングの音が言葉を追いかけてくる。なるみ、パソコンを閉じ、眠る。同じタイミングで杏が起き、
杏 いい寝顔。
○立ち上がり、空になった紅茶のカップを二人ぶん持って、はけ。電話の声が聞こえる。
杏電話 もしもし。五十嵐です。あ、久しぶりです。元気です。このいただいた青い糸のことでお電話したんですけど。あの、ぜんぜんだめで。先っぽが赤の人に、ぜんぜん当たらないんですけれど。なんでですか。会う人みんな私じゃない人と話してて。私。……戻るのは嫌。もう少しがんばるけど。でも今回は少なくともはずれくじだったから、早く他に行こうと思う。じゃあ。はーい。
○杏、干している紙に触れる。客席に背を向けて一編読み上げる。
杏 あ、ちょっと乾いている。
杏 『酔っ払って帰ってきた女は私の首に腕を回して “いつもなんで日なたの匂いがするの”と聞いた 私がいつか女に聞いた言葉だった』
杏 私は言葉が下手。だから、私が私のこと言うより、あなたのような人が誰かに話す私の方が、よっぽどきれいで、嫌いだな。
杏独白 って。独白ってね、なるみちゃん、こういうことを言うの。なるみちゃんの独白は、ひとりじゃないの。いつもそこに誰かがいて、その誰かのために話してるのよ。でも独白ってね、きっと今みたいなことを指すんじゃないかな。私はなるみちゃんが眠っているから、ここに誰もいないから、初めて言える言葉を、初めて言ったんだけど。
/
5 ○杏、なるみの手首の糸を噛み千切ろうと試む。その瞬間なるみ、暗闇の中に起きる。
なるみ 杏さん。
杏 おはよう! なるみ 紙、もう乾いてます? 杏 ちょっとだけ。 なるみ 手伝いましょうか。 杏 ううん、大丈夫。
なるみ 今何時ですか。 杏 お昼の13時。 なるみ 暗い。 杏 まだ寝てていいよ。私の家じゃないけどさ。 なるみ どうもありがとうございます。
なるみ たばこ吸うんですか。 杏 ああこれ。うん。 なるみ 意外。 杏 ……そうかな。 なるみ 吸うなら換気扇の下でお願いします。 杏 いいよ。 なるみ ご遠慮なく。
○なるみ、眠る。
○杏、はける。換気扇の回る音がする。 ○なるみ、パソコンを立ち上げる。タイピングの音。
なるみ独白 「女が吸う煙草が好き 親指と中指で 不器用にはさんで むらさきの煙がすべて残らず 雲になればいい」
○なるみが打ち込む音。
なるみ独白 「女、ずっと出ていかなければいい」
なるみ独白 「眠っている人間がいちばん好きだ 妖精みたいだから」
○なるみが打ち込む音。換気扇が止まる。
なるみ独白 雨はまだ降っている。私は強烈な睡魔に負けて、初めてあった五十嵐杏さんの前で何時間も眠ってしまう。彼女は素敵な人だ。害がなく、透明な水とか、妖精みたいだ。一瞬寝かけた顔はもっと素敵だった、眠っている人間がいちばん好きだ。声をかけてよかった。やっぱり何か縁があったのだ。
○と言ってなるみ外へ出る。杏登場、内へ。
なるみ独白 杏さんなにか独白ありますか。
杏 (なるみを見て)なるみちゃん。 なるみ独白 杏さんが呼んでいる。 杏 誰と話しているの?(外へ出ようとする) なるみ独白 (客席に目を向けながら杏と話す)杏さんは、ここに来てはいけない。見てはいけない。 杏 どうして。 なるみ独白 人には人の見える風景があって。 杏 その風景は美しいはず。 なるみ独白 それでも見てはいけない。見てしまえばあなたは。 杏 あなたが私と話すとき、あなたはその美しい風景を見ているのね。 なるみ独白 杏さんなにか独白ありますか。
○なるみは目をつぶって杏の首に手を回して無邪気に抱きつく。開いたその目と言葉は客席へ投げられる。杏は抱きつかれるままなるみに向かって話し始める。
杏 特にないよ。
なるみ独白 杏さんがなんか好きだ、妖精みたいだから。
杏 ごめんね。私は妖精じゃない。 なるみ独白 みんなが吸わない煙草を吸うから、妖精みたいだ。 杏 なるみちゃんは私ではない人のために詩を書く。 なるみ独白 杏さんは怒っている? 杏 怒っていない。 なるみ独白 杏さんは怒っていないようだ。 杏 わたしたち同じだから。 なるみ独白 杏さんと私は同じらしい。 杏 なるみちゃんが詩を書く理由はあなたの風景のため、みたいに私だって私が煙草を吸う理由は、本当は、人の詩に出てくる私のためなのかもしれない。 なるみ独白 杏さんは間違ったことをいうので私もいう。「杏さんのためだよ。」 杏 私たちすっからかんだから。そうするしかなくて。 なるみ独白 杏さんは怒っている? 杏 怒っていないよ。怒れるほど、何かが嫌いじゃない、好きじゃないから。 なるみ独白 ああよかった。杏さんは眠っている。 杏独白 眠っていない。 なるみ独白 杏さんは眠っている。眠っている人間が一番好きだ、妖精みたいだから。 杏独白 眠りたくない。お願い、もう、私を眠らせようとしないで。
○杏、外へ。客席を認識する。
杏 なるみちゃんはこの風景を見てたのか。 なるみ独白 杏さん。 杏 はい。 なるみ独白 お茶飲みます? 杏 うん。 なるみ独白 お砂糖は。 杏 大丈夫。
○二人、内へ。しばらく紅茶をのむ。なるみは客席を見ながら、杏はなるみの横顔を見ながら。
なるみ独白 杏さんが好き。 杏 困るなあ。なるみちゃんが見ているのはあの人々。ワールドワイドウェブのために書いた私は、私ではない。 なるみ独白 怒ってる? 杏 怒っている。だってそこにいる私は眠ってばかりいてだらしがないもん。私をなめるな。 なるみ独白 なめては、 杏 うそうそ。ただちょっと、寂しいだけ。
なるみ独白 怒ってる? 杏 安心して。大丈夫、怒っていないから、おやすみ。
○杏、なるみを寝かせる。干された紙を撫でていく。
/
6 杏独白 赤い糸は運命の糸、青い糸は運命じゃない糸で、私のこと見てるようで私を飛び越えた先ばかり見ている人に続く糸、なるみちゃんは無自覚に私を消費する、私は無自覚ぶって眠り続ける。っていう、無言のやりとりがあって、でもそれが好きだったのかもしれない。あーあ。怒りながら、でもきっと、君が私の写真に使う、フィルムっぽく加工できるアプリに、君はエモいって言葉に、生かされていたのかもしれない。
杏電話 もしもし。もうこんなのやめようかな。掴もうとして掴む糸だけ馬鹿みたいと思った。うん。私も、好きじゃないって言いながら、こんなに誰かの言葉を丁寧に持ち歩いててさ、馬鹿みたい。うん、馬鹿みたいだよ。
○杏はけ。電気が明るくつく。なるみが起きる。手首に青い糸はもうない。
なるみ あ、ちょっとだけ乾いてる。
○なるみ、乾いているものから取っていく。杏、登場。杏の手首には糸の断片が残っている。
杏 どう、乾いてる? なるみ 湿ってる程度には。 杏 じゃあ全部回収しちゃおうかなあ。 なるみ いいんですか。 杏 うん。 なるみ 杏さん。雨、上がりそう。 杏 ほんとだ。
なるみ この原稿ってなんだったんですか。 杏 ああ、これ。 なるみ 読まないようにしてたんですけど。 杏 いいよ。読んでも。
なるみ 詩? 杏 みたいなものかな。 なるみ へえ。誰の詩ですか。 杏 忘れたけど、それは男の人だった。
なるみ あ、これ全部一人の「女」の話だ。 杏 わかった? なるみ すごい。なるほど。この登場する女の人、とても魅力があって可愛いらしいですね。
杏 じゃあそろそろ帰ろうかな。 なるみ あ、はい(と言って紙を渡す)。 杏 ありがとう。こんな時間までいちゃってごめんね。 なるみ いえいえ。楽しかったです。玄関まで送ります。 杏 ありがとう。
○杏、干していた青い糸を回収。杏となるみ、はけ。誰もいない舞台に、一枚だけ紙が落ちていて、二人はそれに気づかなかった。 ○玄関が開く音。
杏 じゃあ、お世話になりました。ご飯も、ごちそうさまでした。発表、頑張ってね。 なるみ はい。こちらこそ、声かけさせていただいてありがとうございました。 杏 ふふ。 なるみ また、遊びに来てください。何かのご縁だと思うので。 杏 うん。また来るね。 なるみ 絶対。 杏 うん。
杏 じゃあ、さようなら。 なるみ さようなら。またいつか。
○玄関のドアが閉まる。 ○なるみ登場。床に残された一枚に気付き、手に取る。
なるみ あ、忘れ物。
○舞台を出ようとするが、とどまって、読み始める。なるみが杏を描いた詩の数々だった。
なるみ ……私の詩だ。
○さっきまで糸が張っていた境に手を伸ばして、空を掴む。境界線があった場所、そこを何度か行き来して探す。独白は独り言へ。もう客席という第三者は見えなくて、あなた対わたしの世界が、ただある。
なるみ あれ、なんか、いつもと違う。ここに、何か、あったはずなんだけど。あれ。さっきまでここにいた人。名前。なんだったっけ。誰だっけ。誰と話してたんだっけ。
0 notes
odaimatome · 6 years
Text
ALL
すべて
中指の指輪 アメシストの毒薬 スイートドリームファンタズム ピンクトルマリンの淡い恋 アジアンタムのある部屋で ロリポップフランベルジェ 愛と呼ぶには遅すぎた クロッカスが紫色になるまで有効 『お願い、ギリア』 沈丁花の花冠 シレネを持って微笑む君は 琥珀色の呪縛 コウホネを込めたマシンガン 賞賛はいらない 『キイジョウロウホトトギスを知ってるか』 神様は守ってくれない 勝者は敗者に嘘をつく ローファーを履いた背伸び 向日葵の愛 最初から秘密でした 臆病な恋歌 花言葉は長く持ちました 優しくしないで 硝子の眼をしたお人形 女の子は甘い麻薬でできているの クラシックショコラエチュード 空色の蜜 白いスミレが咲く頃に 親指の恋人 優しすぎるから、 小さな想いの拠り所 マラカイトを捧ぐ 今夜の約束 プリンセスはご機嫌ナナメ スイートリボンルージュ あと一歩、君の瞬きの傍に 指先が赤くなる頃に ホワイトカルサイトピース 大事な言葉が聞こえない 共に笑った日を数え 言うなれば赤の風信子 踏み出せないのはたった三寸 神様が受ける罰 涙はとうに枯れました 輪廻で解けない約束を あの停留所で待ち惚け 作戦名:馬酔木 ピエロは恋をしないのか ブルースター即興曲 ディアサファイア アルデバランを探していています ハイヒールに仕込み刀 ダリアが君を待っている 一生涯の上映時間 トカレフは忘れない あの星は海のしるし 彩玉を四半分 プラチナミスティルティン 飛沫の息吹 君の世界は晴天 菊の花はうそつき 君を守る空気砲 クランベリーボムに気をつけろ アルシャウカットの見る夢は ロードナイトに剣を シュトルーテルレイピア 明けない夜もなくはない シャドーマター・マスター 出たなでたらめ定期便 弱くて甘くて敵わない カランコエに埋もれてしまう 第三印象で諦めました 黒いメノウが君を呼ぶ Q.どうして僕が泣いているのでしょう ベゴニアのある生活 しめやかに騙してみせて 赤椿の髪飾り 未完成な身勝手 友人Wは猫も殺せない 月下美人は花咲けない 神様は夢も見られない メランコリー・メリー 雪柳の影に隠れて タンピング間奏曲 縷々流々留 点Pへ、点Cより 鈴の音をせがむ 雨が降ったら迎えに行くね あかしゃぐまのお気に入り ふるえる心の声を聴け 明日の天気はおそらく流転でしょう。 処方箋:砂金水晶 よわいいつつでおとなかおまけ スノードロップ・ステップ ストロベリーミサイルを放て! さらば青春の合言葉よ 薬指のキュゲスにキスを ガーデンクォーツシップ 僕の想いはいつも雨天 キックオフ・スタンダード アルビオリックスの演台 カンパニュラチャント カミサマカットミス よなよななよなよするなよな 黒い目の鬼、帰す 賞賛のキスはまだはやい 私の半身があちら側にいるのです 彼の声の冬天 トライアングル・トライデント 君はレグルス アマリリスのヒロイン 一色の虹色 どうか許さないで、を許して 好きな人の好きな人を好きになる魔法 「そばにいて」をただ求めて ペリステライトに帰らせていただきます チューベローズで口止め ささいなことでおこらせた つまらないことでなかせた それでもあいしてしまった 明日のあなたに用がない 今日終わる世界の隅で 昨日言えなかったこと メロディラインのワンピース シュガーアップルメリージェーン ハートレスなヘッドドレスを ミッドナイトミラクル グッドナイトスター シンクロサンライズ 想いは紅 いえないミステリー 覚悟は会えなく ミステリーサークルによろしく 浄玻璃ばかり かなしをみずして ごきげんようメルティハニー さびれたこころにカードキー あいにおぼれたぼくのマミー ハートのハスラー スペードのスリラー クローバーのクラーケン ダイヤのダースベイダー 僕の心の三転倒立 春待ちラピスラズリ ハッピーエンドは望まない 嘘をついたら燃やすこと 君が勝てない10の理由 タンザナイトは振り向かない 優しさでできた角砂糖 ノクターンはそれなり メメントモリはすぐそこに ずっと好きでいること 貴方の罪ばかり タチアオイは赤い アルタイルのきみ その涙を拭うのは 許してよスパイス 千切っても契っても恋 君を探せないわ 捨てないオーラライト 星屑でできた街 伸びゆきて刺し カバンサイトのアンテナ 血に抗えない ロベリアの天使 いつまでも可愛かった にくしみの瞳で撃ちぬいて 始まれぬ終わり あなたに逢いたくなかった 氷刃の穴 陽光は甘い シオンでいて ステルンベルギアフレイル 本能に爪をたてて 変われなくていいの 触れた指先ミントブルー 本日回天日和 狂ったワタシのこと、この気持ちこそ狂気なのです 飛びたいファハン 救われぬメシア 減らないラグー こもれびがささやくので カステラバーズ ツユクサに囲まれて 大気圏を超えたら アヤメのシンデレラ モテカワ神の7日世界創造 ミルクベイビービターハニー フォンダント・ハート Cuverture Sentimental マシュマロみたいなキスをして 俺の歯型ごと、 ドックタグなんてつけるな まるでブラックオパール 夢ばっか見てよ アイじゃなくて何? 芍薬にあわず インスタント神様 永遠にまたあした ミアプラの瓶 偶像にクチナシ ジギタリスしちゃおっか ささくれた音に乗って 愛になれなかったね アレキサンドライトの魂 触れたいのアンタレス 夏にしかいない彼女 夜なんかこなくても ベネトナシュのしずく ラリマーの子守唄 幸福の中に不幸 千秋楽の幕開け 婚約指輪はスフェーンが良い ザッハトルテの妃 色天まで行きたい レトリート・ラブラドライト サンザシだけで生きていける ロンギヌスの槍を壊せ 守ってよモルガナイト 立金花を待ってる 一生アンコール 君が統べて ダイヤモンドの砕き方 フォーマルハウトの孤独 教えてよマスター 君を包みたかった 大人になりそこねちゃったね 不自由だけで生きていく ラズベリーバレットで射抜け 「死ぬほど好きよ」と飛び降りた わたしの証はここにない デネボラをつかみたくて 子供の余韻 傷んだ毛先ごと愛して サンタピリアガール ハックルベリーロケットで空まで エンジェルシリカじゃいられない スノーフレークモーニング 四半世紀って骨になれる? 全部あげるから全部捨てて このまま彼方まで LAXの背骨 赤い糸なんて知ったこっちゃないよ 君に本音なんて言ったことあるかい わざわざざわざわきみのわざ わざわざざわざわわざわいは 何番目だったかだけ教えて ミルク・コルセスカ バルジが弾ける音を聞いた 踊れなくても王子様にはなれる おねがいなにも言わないで ちぎれたつながり 絡めた先からすりぬけた メロウに似合う悲劇がいいな 君以外映す眼はいらない インカローズ・シャムシール アザレアを贈りたいあなた ダビー・マイオールを彩る 冥界よりも10℃低い 笑顔が涙のようでした 憎しみこそ最も美しい愛だよ 殺すか愛すか選んで 目の見えない神様 嫌いなとこなら100言える 早々寄り添う嘘の相 指先の両翼では羽ばたけない 無敵の隣人 言葉にしないからオドントグロッサムで アテナに見捨てられたっていい ブルーベリーマシンガンに見惚れろ 山茶花を赤くして 僕の特別で君の普通 2人で飛び越える深夜2時 セルペンティスの誘惑 殴り合いコンチェルト 荒天が全てさらった ナズナの手錠をかけて いっそ狂ってしまえ 僕のヘリオトロープでは足りませんか 旅立ちトルマリン 地獄で生きてみろ 駆け抜けろアルマク サンタさんあなたをください こればっかりは許して(これで3度目です)許 嘘つきファンタジスタ 鴝鵒よ、欲は良く酔う様よ 君の人生のサントラになれただろうか 君よ、走るのを止めてくれ 身の丈にあったクライマックス 洗い立てのあなたの匂い イキシアを6本束ねたら エンゼルランプを灯そう 君が消えても僕は踊れる このさよならは二度とこない アケルナーで待ってる それでも君の笑顔は死なない スターチスによせて 泣くなゲンマの輝きよ 寝転べば青天井 もし不安が全部星になったら あれは夜、君の乞い。 あの雷を許せるかい 呉天の夢を見て眠れ 鍵を叩けカメリア ホマン��愛されし者の名 おんなじ悲しみに縋っていたい 憐れ私が溺れた夜 殺しに来たなら殺し返す こんなの愛だって私が言えない アベルの嘆願 アルテルフに焦がされて ぶち壊せと呼んでくれ フラチラリア・リズム 貴方がそれを馬鹿にした 私が愛していたことを、貴方だけ覚えていて 幸せになったら何もできない はじまりのサダルバリ ギャラクシー・キッチンのかくしあじ マクルで繋いで キングピーターで乾杯 優しい理由と下心 愛の悲劇、哀の喜劇 悲しみの灰皿にしていいよ ユーレイバナなんか咲くな 君に似てよく回るアルコール 恋で固めた嘘しかつけず 理想郷行、1枚 モルダバイトのひとみ 闇なんか怖くなかったの 踊って死ね、歌って死ぬから 君がまだ惑星だったころ ケンタウロスの足も見えない 夜が明けるまで好きでいて 「初めての1つや2つ、減るもんじゃないだろ」 神様に還さなくっちゃね 満ちても欠けても円くあれ アマゾナイトのコンパス 嫌って光って 貴方に殺される夢をみて眠る 心ばかりここになし サダルメリクに誤魔化されて 少女よ、カルミアであれ 甘えられたら恋なんかしてない 君の為に切った髪なのに! 赤い靴下燃やしに行こう いつか死んだ眼前の君 好きになってよくなかった 明ける夢の霜天 凍える指を温めてよ お前の炎で私を灯しておくれ 散った赤も翻せ白 思い出なんかにできるかよ 想いより先に繋がった 「えっその物々交換成り立ってる?」 さらさら浚う空の皿 愛と平和とラブとピースと地球とアースと君と僕 引く手数多の行く手無し ミヤスルビー、命燃やして 花束を踏んで去っていけ 花道に喝采を落として 墓までもってきゃ永遠だ 知りたくなくって知りたかった 感情線超特急君行き 指先まで汚しちゃってさ 幸せだってハイタッチしよう 凛と立つのは藪柑子 君が葡萄なら僕が楡 好きが高じて爆発してしまいました アクアマリンを持った来た マフラーなんかで隠さないで くすむぐらいなら死んでやる 近づく背中を追い続け センチメンタルバリアー 燃やすなら海じゃなくて山 3段フリルが良かったな 歯形すら愛しくてどうしよう 守れなかったヨルガオの笑み 「それならさ、ね、逃げちゃおっか」 嘘っぱちの永遠を飾れ 目が潰れるほど未来 揃いの絶望携えて 君と光年を歩こう 大っ嫌いだサクラソウ オールシーズン一致はしないよ シンプルでいることが一番難しい 自己都合宗教 愛も真似できない 星などならず側にいてくれ ベータ・アーラェにのせて踊ろう これっぽっちの終わり 蛇結茨は煙がお好き 幕が下りるまで恋人 その名を覚えているのは、もう アカシアの形をなぞる お揃いじみた恋情 絶望シンコウペーション アルギエバの温度 ローダンセを折るけどいいかな インナーから陰謀論 君と、ケーリュケイオンの蛇のように 灰になるほど愛していた 一緒に歴史になろうよ 絡めた小指を解いたら どこかの星で僕と握手! 近く遠く近い隣 氷製指輪でプロポーズ ベッドタイム・ア・ラ・モード それは君の夢か 美しい愛はちょっと苦い 僕だけのオキザリス 内々居ない否無い名 生き急いだ死にざま 肺にしか鳴れないメーデー 死に至る希望 想う間、のみ無敵 許したいから許せないの トリックがあったって魔法でいいよ それは君たちの残した呪い、背負った重み 君の煌めきをみんな忘れた いつまでも変わりたいまま アップルサイダーアキュリス 諦念退色 創った地獄に救われた 君に捧げた三十一の言葉たち 記憶にない記録 血肉になるよう弔って 定常宇宙テント 心の臓まで君のお守り 燃ゆる心は青い色 勝利を飾る百合の花 指先を洗う作法すら忘れてしまった僕らは 揺れる心の天球 伝承たれ我が王 君の瞳が焼き焦がす者 アイオライトみたいな声で 偶然必然アキメネス 地獄を病めないで たが為に死んだわたしの山 ストレリチアを繰り返し咲かせ 人の悲劇を嘆くな グロキニシアで魅せろ 惚れ直す為に嫌いになります 10年後もまだ愛でさ 温く撫ぜたゾズマ メルティック•ギサルメ 縁の切れ目は計画的に 山桜色の君だから おやすみ明ける未来まで 明明未明運命論 孤独好きの相棒 この世の終わりもあんたの隣
1 note · View note
nnmliner-t · 7 years
Text
scene31~60
twitterにて「#ハートをくれたあなたのいるワンシーンを書きます」という自作タグを使って創作した短文をまとめました。私の勝手にイメージするその人が遭遇しそうな少し奇妙なワンシーンを書いています。
1~30 http://nnmliner-t.tumblr.com/post/156832730161/scene-1-30
31 アラン模様のセーターの、そのでこぼこを無意識に指先でなぞりながら、彼女は夜風を浴びていた。熱くなった瞼と頬に冷気が刺さり、白い息が紺色の空に溶ける。気持ちが落ち着いても空を見続けていた彼女の目がふと見開かれた。するすると、月から、縄ばしごが降りてくる。
32 散歩の途中でミルクの小川を見つけた彼女は、リュックからざるを取り出して川底の砂をすくった。砂は無色のガラス粒で、ふるうとピンク、黄緑、青の金平糖が残った。彼女はその作業を何回か繰り返し、集めた金平糖を瓶に詰めて立ち去った。スカートの裾が少し濡れていた。
33 どこへともなく車を走らせていると、松並木の道へ出た。松の向こうは田畑や果樹園ばかりで、のどかで退屈な風景だった。コンビニで車を降りた時、遠くの空に銀色に光る円盤が浮いているのに気が付いた。野良猫らしきものが吸い上げられていく、その光景をぽかんと見ていた。
34 使い古した机の上に気に入りの文具を並べていく。無心で配置している内に、その並びが街のように見えてくる。ざわめきが聞こえ、ごく小さな人々や犬や鳥たちが現れると、彼女はそれに夢中になった。スマートフォンが通知音を鳴らした途端街は消え、彼女の愛らしい文具だけが残った。
35 ベランダで煙草を吸っていると、指先から植物が生えてきた。小さなハート型の葉をつけた蔓草がさわさわと生い茂り、腕一本覆ったところで成長を止めた。彼女は煙草を吸い終わるとそれを全部むしってキッチンへゆき、オリーブオイルと塩で炒めてぺろりと食べた。
36 いつの間にか、部屋の中に白くてきれいなヤギがいる。あまりに大人しく優しそうな顔をしているから撫でてみたくなって、おそるおそる手を差し出したところで目がさめた。昨日着ていたカシミヤのセーターが、椅子の背にかけられたままふうわりとしている。
37 両手で瞼を覆うと、暗闇のなかに点滅する幾何学模様がみえる。嫌なことがある度に瞼の裏を見ていたら、嫌なこと全部に、モザイクのようにその模様が重なるようになってしまった。彼女は枕につっぷして、困ったような諦めたような声を低く出す。「あー」。
38 色も形も慎重に選んで大きな花束をつくったものの、贈る機会を失ってしまった。捨てることも慈しむこともできずに萎びてゆくのを眺めていたら、花瓶の水がどんどん増えて溢れてきた。部屋は水浸しで、何もかも嫌になって、彼女はばしゃんと座り込む。
39 白い皿に乗った葡萄の小さな一粒を、摘んで口に放り込む。皮に歯をたてると弾けて、つるりと果肉が喉へすべる。飽きるほど動作を繰り返しているのに、葡萄は一向に減る気配がない。このまま食べ続けたらきっと肌が紫色になってしまう、そう思いながらも、また手を伸ばす。
40 いつからか、他人の顔がコラージュに見えるようになった。その人自身の顔の他に雑多な事物が切り貼りされていてそれらが常に蠢いている。美しい配置もまれにあったが時間と共に崩れてしまう。映画の中の人々だけは変わらなかった。救いだと思った。
41 足元が覚束なくなるほど酒を飲んだ帰り道を、巨大な魚が塞いでいた。魚は街灯の下で黒くぬめり、彼女はそれをナマズの仲間かもしれないと思った。触れてみると粘液と共に銀と赤のラメが付着した。彼女はそれを光に翳してケラケラ笑い、それから迂回して別の道で帰った。
42 水面に雪が落ちては消えていくのを眺めながら、水の中からその光景をみるところを想像した。それがあまりに美しくて、彼は思わず水に指を浸した。首筋を悪寒が駆け抜け、指先はびりびり痺れた。凍る寸前の水というのは、最も冷たい水なのだ。
43 手のなかで眠る小鳥のくちばしの色を見ていた。桜貝のようなそれは艶やかで滑らかだった。窓に目をやると寒空の下すずめたちが飛び交っている。彼女は、暖かな部屋の少し冷たい手のなかで身じろぎする小鳥を再び見下ろす。軽くてやわらかで、あまりに愛おしい。
44 水割りのグラスに間接照明の黄みがかった光が当たっている。彼女は黒光りするカウンターに頬杖をつき、ところどころ剥げた壁に貼られた古いポスターを眺める。腰掛けているスツールの座面をなぞるとビロードの細かな毛が指先をくすぐった。この店自体が生き物のようだ。
45 坂道の向こうから夜明けが迫っていた。「逃げなければならない」と思った。彼女は西へ向かって音のない住宅街を走る。家々や電柱を幾つ越えても影は奇妙に伸び続け、赤光がじわじわと忍び寄る。つまづいて膝をついた地面に小さな花が咲いていて、その陳腐さに彼女は微笑む。
46 ずっと忘れていたことがあって、うたた寝の中でそれを思い出したのだが、目覚めた拍子に忘れてしまった。休日の午後は静かで、部屋中の日用品が絵画のように輪郭を濃くして存在を主張する。覚醒するにつれて喪失感が襲ってきたが、飼い猫がじゃれついてきてそれも忘れた。
47 拳銃を手に入れた彼女は、好奇心を抑えきれず羽毛の詰まった枕に銃口を押し付けた。撃鉄を起こして引き金をひくと、感じたことのない衝撃に鼓膜と腕がびりびり痺れた。彼女は重い銃を手放して無意識に自分の髪の毛を触った。今飛び散った羽毛のように、何だかひどく柔らかい。
48 コンパクトなライダースを羽織りオレンジの髪を風に流しながら歩く彼女は、つい先ほど機関銃に全身を撃ち抜かれたばかりだった。身体中くまなく空いた穴の、そのひとつを小さな蜜蜂がすり抜けたものだから「蜂の巣」と呟いて彼女は笑う。見上げれば雲一つない晴天だった。
49 朝、身支度をして鏡の前に座っていたら、そこに映った女が話しかけてきた。「海へいきましょう」。伸びてきた手を掴んだ時には既に鏡の中に居て、左右反転した自宅を出ると海だった。ふたりは手を繋いだまま波打ち際へ走り、飛び込んで、しばらくすると見えなくなった。
50 本棚の隙間から出た黒い糸を引っ張ってみるとそれは長い髪の毛で、物理法則を無視した動きで女がずるりと現れた。女は床に座り込み、面食らった彼女に構わず赤い唇で喋り出す。それは全て本棚に収められた小説に書かれている言葉だったので、彼女は女を「しおり」と名付けた。
51 もう動かな��古い車に乗り込んで埃と黴の混じった匂いを嗅いでいた。後部座席に転がっていたラジオに電池を入れてチューニングを合わせてみる。最新のポップソングが車内の空気を乱し、興醒めした彼女は窓を開けて顔を出し深く息を吸い込む。新緑の香りがした。
52 青みがかった透明な光が差すだけの何もない部屋で彼はじっと耳を澄ませていた。台所のシンクに置かれた食器には水が溜まっていて、そこに水滴がぽつりぽつりと落ちていく。枯れて久しい花瓶の花を一瞥し、彼は立ち上がる。今夜彼はこの部屋を去る。
53 「この足でどこまでいけるのか」。問いかけながら彼女は自身の足首をさする。夜の空気はぬるく土の匂いがして、木々の輪郭はむくむくと蠢いていた。全身を金属にすげ替える想像をしながら顔を上げると真っ黒な空に一本の電車が走っていて、窓の列が光って見えた。
54 露わにした首筋の清々しさは時にかすかな頼りなさを連れてくる。彼女はいつも遠い地平を目指しながら、手の届く範囲の柔らかなものたちを愛でる。橙色の西日が差すときだけ羽を生やす彼女はそれが正常に動作するかだけ確認して再び人の姿に帰る。期が熟すのはまだ先らしい。
55 どうしようもない気分になって、コンクリートに頭を打ち付けたら色とりどりの血が吹き出した。この色を使って絵でも描こうと思案している内に立っていられなくなり、彼は地面に仰向けになって空を見た。都会特有の濃紺が広がっていて、星を数えてみたがすぐに尽きた。
56 春風の中を歩いていると目の前にひらひらと薄紙が落ちてきた。手にとって翳すとそれは淡い色彩で描かれた地図だった。複雑な地形に蟻塚のような建造物が描かれた紙を、彼女は丁寧に畳んでシャツの胸ポケットに収める。折に触れて、彼女はこの地図を眺めることになる。
57 チョコレート製の地面はみるみる溶けて、一歩ごとに深く沈みこむ。吐き気がするほど甘い匂いに満ちた空間に、耐えきれなくなって彼女は叫ぶ。開かれた喉の奥に凍りついた地平があり、彼女はその中で座禅を組み目を閉じている。頭上に言葉が、豪雨のように落ちてくる。
58 ぬかるみに足を取られながらそれでも歩き続けるのは、丘の向こうから聞こえてくる甘美な音楽のせいだった。石に打ち付けた膝が血を流し、塞がったはずの傷跡も時折疼いた。疲れ果て、冷たい泥に半身を埋めた時、地の底からも音楽が聞こえることに気が付いた。美しい音だった。
59 真夜中の台所でひとり、黙々と料理をする。鍋の中で崩れていく野菜を眺めながら、過ぎた日々のことやありもしない過去を��想したりする。何気なく開け放った窓から狐がするりと入り込み、彼女の足元にまとわりつく。これから何が始まるのか、彼女は呆然としてしまう。
60 まぶたにガーネットの赤だけのせて彼女はふらりと家を出る。人ごみをすり抜けて雑居ビルに辿り着くと古いエレベーターに乗り込んで最上階を目指した。重い扉を開けて屋上に立ち、柵から身を乗り出しながら煙草に火をつける。目の前を、カラスが悠々と横切っていく。
1 note · View note
yo4zu3 · 4 years
Text
モブ下くん
「お前、顔赤いぞ。酔ったのか?」
 中学からの片思いは、10年経った今ようやく実を結んだところであった。ノンケである俺の幼馴染、大柴喜一をその気にさせるのにかなりの時間を費やした。一生かけてでもいいと思ったほどに、俺はこいつを愛している。それに対して素直でない喜一も、ようやく俺に愛の言葉をささやくようになった。長かった。想いが通じ合うまでに10年。慎重に進めたかった俺たちは、身体の関係なんて勿論まだであった。
「んーわかんねぇ・・ふわふわしてて、ちょっと眠いかも」
 そんな喜一と最近恋人同士になり、都内某所のお洒落なダイニングバーでデートをしているところだ。高校卒業後、大学へと進学した俺は法学を学び、今は小さな法律事務所で弁護士としてお世話になっている。一方の喜一は最後のインターハイの後、プロサッカーチームからのスカウトを受けていた。今年で早いことにもう6年目だという。お互いにライフスタイルが合わないせいか、こうやってゆっくりと酒を飲む機会もなかなかなかった。あれ、もしかして今日は付き合ってから初めてのデートということになるのではないだろうか・・・
「あんま強くねぇんだから、ちょっと控えろよ。明日休みだっけ?」
「ん、休み。喜一は?」
「俺も明日はオフだ。久しぶりにがっつり寝たいな」
 休み・・・そう聞いて心臓のあたりがどくん、と大きく脈打った。この流れなら、この後は喜一の家にお泊りかな。ああ、いよいよ抱かれるのだろうか。期待で口元が緩みそうになるのを堪え、手元のカクテルに口を付けた。あまい。まるで砂糖水のようだ。
「だから、そんなに早く飲むなって」
「んーいいの、休みだから~」
 ステムを握る俺の手を、喜一の大きな掌が包んだ。温かな体温が心地よい。逆の手で喜一の指を引き剥がすと、その長い指に己の指を絡めた。やんわりと握れば、やさしく握り返してくる指。この指で、俺の身体に触れて欲しい。そう思えば下半身の、主に尻が疼いて仕方ない。喜一と違ってサッカーは高校で辞めてしまった。日焼け跡すら残っていない、真っ白に戻った素肌をなぞるように、その長く形のいい指を滑らせて欲しい・・
「あ、おれ、ちょっとトイレ・・」
「ああ、というか大丈夫か?一人で行けるか?」
「だ、大丈夫だって、ガキじゃあるまいしへーきへーき・・」
 そう言って席を立てば、喜一は追っては来なかった。危なかった。このままついて来られたりでもしたら、危うく軽く勃起したペニスを見られるところだった。思ったよりも酒が回っているのか、ふらつく足ではうまく進まず、壁に手をついてゆっくりと足を進めた。スラックスの前が窮屈で仕方ない。あ、トイレの看板が見えた。別に用を足したいわけではないのに、その三文字を見るとひどく安心するのは気のせいか。
 ドン。角を曲がると誰かとぶつかった。少し前かがみになっていたせいか、軽い衝撃だったはずなのによろけて倒れそうになった。ぐい、と引っ張られる俺の腕。痛い。力が強すぎるんだよ。
「あ、すんません」
「いえ、こちらこそ不用意でした。君下くん」
「え・・」
 名前が呼ばれ、長い前髪越しに顔を上げればいつか見た顔がそこにはあった。あれ、誰だっけ。名前すら出てこないその顔だったが、じい、とチャックを下ろす音が聞こえてすべてがフラッシュバックした。あ、そうだ、そうだった。
「せんせ・・・?」
***
「ゴふっ・・ん、んん!」
「いい子にしててくださいね・・」
 力強く腕を握られたまま、俺はこの男・先生(なぜだか分からないが、そう呼んでくれと過去に教えられた。その当時の俺には遊び相手の呼び名に何の興味も抱かなかったし、今だってそうだ。)に男子トイレへと引きずられるようにしてやってきた。抵抗したいのに足に力が入らない。もたもたとしているうちに個室のドアを開けられ、そこへ抑え込まれるようにして無理矢理連れ入れられた。
「はなせっ・・やだっ、せんせ、っ」
 頭を上から押さえつけられ、便器の前で屈みこむような体制になった。俺の背後でドアの鍵がかかった音がしたのと同時に、カチャカチャとベルトを外す金属音がする。まずい、逃げなきゃ。そう思って振り返ろうとすると、するりとベルトを抜き取り俺の手首へと慣れた手つきで細い革のベルトが回された。
「すぐ済むから・・絶対に傷つけたりしないよ、君下くん・・」
 眼鏡をかけた男の冷たい瞳と視線が合った。冷ややかにこちらを見つめる瞳には、確かに俺へと欲情した獣のようなぎらつきがあった。ぞくり、と背筋を駆け上がる恐怖感と、少しの好奇心。だめだ、だめだぞ。もうこんなことしないって、喜一と真剣に向き合うと決めたときに自分自身に誓ったじゃないか。それなのに、両手首を縛られてもなお俺の下半身は痛いほどに反応していた。身体が、ぜんぶ覚えている。何度も何度も縛り付けられ、苦しい思いをしていたあのひどく長い日々を脳裏で思い出していた。
「いい子だね・・随分見ない間にすっかりいい体になったね・・・あれから6年ぐらいだから、もう社会人なのかな?」
「っるさい、ぁっ・・ん、ゃめ」
「やめていいの?こんなに腰が揺れてるのに・・・もしかして、ここ触るの久しぶりだったのかな?」
 シャツの隙間から手を差し込まれると、ひんやりとした細い指先が俺の胸の飾りを撫でまわした。傷つけないと言っておいて、優しさなんて微塵もない。この男はいつもそうだ。強い力で乳首を摘ままれれば、嫌でも声が漏れてしまう。それを快楽からくるものだと勘違いした男は、さらに爪を立てるように強く引っ掻いた。
「っ・・・あ、やめ・・て・・取れちゃ、う、よぉ」
 血が出ているのかすらわからない。それでもヒリヒリと痛む敏感な皮膚は、少しの刺激にも過敏に反応してしまう。生理的な涙が目尻に浮かんだ。だが零すわけにはいかなかった。この嫌悪感からくる涙でさえ、この男のあるようでないような理性を破壊する起爆剤になりかねないことは経験から十分に理解していた。
 カチャカチャと己のベルトも外されて、下着ごとスラックスを一気に擦り下ろされる。ひんやりとした外気にさらされて鳥肌が立つのが分かったが、今はそんなこと気にしていられる余裕はない。男の指が俺の顔へと伸びてきて、噛み締めていた唇の隙間から指を差し込んだ。こじ開けられて舌を掴まれれば、引き抜くようにして唾液を奪われる。べとべとになった手で先ほどから疼いて仕方がなかった秘部へと這わせられた。
「ああ、まるではじめて君と身体を重ねたときのようだよ・・・きゅっと、ここも心も閉ざしていたね・・」
「キモイこと、言ってんじゃねぇ、っ!ああっ痛っ・・!いた、いよぉ・・」
「すぐに思い出すよ・・すぐに���の子にしてあげるからね・・・・」
 ずぶり、と音を立てていきなり三本の指を突き立てられて、俺の身体は思わず仰け反った。痛い。苦しい。それしか考えられないのに、俺のペニスからはだらしなく先走りが垂れているのが視界に入る。恐らく根元までずぼりと埋まったであろうその指をぐりぐりと拡げるように動かされ、いやだ、いやだ、と頭を振れば、もう一方の手で便器の上に頭を押し付けられた。冷たい蓋が頬に触れて、余計に切ない気持ちにさせられる。恋人とデートにやってきたはずなのに、俺は昔の男にトイレの個室で淫行を加えられているだなんて。
「ひっ、ああん・・そこ、そこだめぇっ・・・だめだよぉせんせえええ」
「そうだね、ここ大好きだね・・。もっと気持ちよくなるために、もっと大きいのが欲しいかな?」
 ぐりぐりと前立腺を潰されて、目の前でチカチカと火花が散った。だらしなく開いた口からは、鼻にかかった喘ぎ声と唾液がだらだらと零れていた。腰は前後に揺れて、同時に今にも弾けそうなペニスも涎を垂らしながらゆらゆらと揺れている。理性が、溶けてゆく。大昔にこの男に開発された身体が、まだその快楽を覚えている。どこを擦って、どこを攻められれば理性が吹き飛ぶかなんて、本人は覚えていないというのに。身体と、この指だけが知っている俺の女の子スイッチ。もう止められない、止まらない。
「ほ、欲しいぃ・・せんせ、の、おっきいちんぽ・・・ほしいよぉ・・」
「僕も君下くんのケツマンコに入りたいよ・・」
「んぅ、はやく・・・はや、ぐぅんんん!!!」
 一気に最奥まで突き上げられ、びりびり、と全身に快感が走り抜けた。背筋がぴん、と伸び、不自然に足先に力が入った。イッちゃった。先生にお尻の最奥まで突かれて、俺ははしたなく果ててしまった。ぽたぽた、と精子が床のタイルに零れる音がした。
「ぁっ・・ああっ・・♡」
「もうイッちゃった?相変わらず、きみは悪い子だね・・」
 乱れた髪を掴まれ乱暴に出し入れする肉棒は、前立腺をごりごりと擦って容赦なく俺の身体を食らった。一度達して敏感になった中は侵入者を締め付ける。久しぶりの生の肉の感覚に、俺の身体は喜ぶように絡みついた。
「あんっ♡あっあっあっんんっ♡そこっ・・きてぇ・・また、イッちゃ・・あぁ♡」
 根元まで引き抜いて腹がぶつかるほどに勢いよく突き上げれば、結腸を硬い亀頭がぐりぐりと刺激した。俺の大好きな、最奥の快感ポイント。さっき達したばかりなのに、力なくぶら下がっていたはずのペニスは再び硬度を取り戻し、透明な液体を垂れ流しにしている。腰をきつく掴んでいたはずの先生の右手が離れ、しばらくすると俺の開きっぱなしの口に何か布のようなものが詰め込まれた。
「あう゛っ・・ん、んん゛、んごっ」
「ちょっとだけ、静かにできるかな・・・そうだよ、いい子だね」
 ごわごわする布に鳥肌が立った。このサイズは恐らく俺のか、先生の靴下か何かだろうか。腕はベルトできつく縛られ、快楽に溺れる身体に吐き出す力も残っていない。容赦なく与えられる最奥への激しい刺激に理性なんて最早なかった。先生も絶頂が近いのか、俺の尻を爪を立てながら思いっきり掴んでくる。痛い、痛いのに。今は痛みさえも快楽へと変わってゆく。
「あ゛っいあ゛いっ・・いっ、ああ゛っあ、あ・・・あ゛っ♡」
「逝くよ・・先生も、くっ・・君下くんのおまんこに、逝っちゃうよ・・・!」
「ひあ゛っ・・ああああッ♡」
 男はピストンを速めると、ついに尻を鷲掴みにして最奥まで力強く突き上げた。達する直前に尻から手を放し、燃えるように熱い指が俺の首へと巻き付き、そして力いっぱいに男にしては細いと言われる首を絞めた。あ、来た。呼吸もできなければ、音もなくなった。顔に血液が上るのを感じながら、俺は二度目の絶頂を迎えた。ああ最高に気持ちいい。ペニスはびゅるびゅると音がしそうなほどに吐精し、腸は男の精液を吸い取ろうと収縮する。中でびく、びくと先生の性器が震え、熱い精液が注がれるのがわかる。汚物を咥えたままに、俺は快楽に身を委ねて意識を飛ばしてしまった。
***
「おう、遅かったな」
「ああ、悪い。ちょっと混んでて・・」
「そうか」
 席へ戻れば、テーブルの上に転がったレシートが視界に入った。恐らく既に会計を済ませたのであろう。俺のグラスに残っていたはずの、オレンジ色をした甘ったるい酒もいつのまにか氷が少し残っているだけになっていた。
「この後どうする?お前、もう終電ないだろ」
 高級そうなシャツの袖から覗くピカピカの腕時計を読めば、時刻はちょうど12時を回ったところだった。このダイニングバーから俺の家まではかなり距離があるが、喜一の住んでいるマンションからはさほど遠くない。それもあってこの店を選んだのだと言うつもりもないが、まあつまりはそういうことを狙って立てたプランな訳で。答えは言わずとも最初から決まっていた。
「ん、そうだな・・もう一軒行く体力はちょっとないな」
「じゃあうちに来るか?タクシー乗ってもそんなにかからねぇし」
 そう言うと喜一は上着を掴んで立ち上がった。俺も鞄を取り立ち上がろうと足に力を入れたが、飲み過ぎた酒のせいかセックスのせいか、がくん、と膝から力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ・・ちょっと飲み過ぎたかも」
 だから言ったじゃねぇか、そう言って俺の腕を掴んで引き上げると、かなり近い距離で喜一と向き合う体勢になった。重なる視線と視線。あの頃から変わらない身長差に、少しだけ顔を上げて喜一を見つめる。するとふと、俺の腕を掴んでいた喜一の大きな手が離れ、俺の首元にそっと触れた。そして俺の首に巻き付くかのように、やさしく両手を這わせた。
「んぁっ・・!き、喜一?」
「ほら、ぼーっとしてねぇではやく行くぞ」
 一瞬で離れた指は、何事もなかったかのように俺の手を引いて店を出た。普段は外で手なんて繋ぐことはなかったのに、どういう風の吹き回しなのか。もしかして、喜一も酔っぱらってしまったのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、相変わらずふらつく足で喜一の後ろをついて行った。
 それにしても、喜一に触れられた首元があつい。思わぬ接触に声が出てしまったのは、あの男と同じことを喜一がしたせいなのか、それとも。
 俺は喜一の後姿を眺めながら、ごぽり、と尻から死んだ精液が溢れるのを感じていた。 
 ふらふらとした足取りでなんとかタクシーへ乗り込むと、無線のがさついた声が時折混ざりながら、車内のラジオからは懐かしい曲調の歌が流れていた。音楽なんて、この騒がしい街のどこからか流れてくる音が耳を素通りするだけで、特に好きな歌手もいなければ聴きたい曲もなかった。それでもなんとなくこのメロディーに聞き覚えがあるのは、はて、どうしてだっただろうか。
 混みあう道を車はのろのろと走り続け、10分程度で人通りの少ない道で停車した。勘定を済ませた喜一が先に降り、俺の肩を担いでタクシーから引っ張り出すと、ポケットの中をごそごそと漁ってカードキーを取り出す。
「は、すげぇ家…」
 思わず口から滑り出た言葉に、喜一はふふ、と鼻を鳴らした。だってここ、明らかにデザイナーズだろう?酒の回った頭では読めないほどのオシャレな名前に、セキュリティのしっかりした正面玄関。分かってはいたがプロのスポーツ選手は住む場所までも世界が違う。ピピ、と音が鳴り緑のランプが点灯し、強化ガラスのドアは音もなくスライドして戸は開いた。
 4基もあるエレベーターはすぐに降りてきて、中へと入ればG以外のボタンはついていない。ここでもカードキーをかざせば自動で目的の回数がパネルに表示される。はは、こりゃ鍵は絶対落とせねぇな。
「これ、宅配の業者とかどうすんだ?」
「ああ・・荷物ならレセプションで預かって貰えるから、そこまで取りに行く」
「なるほどな」
 ぐいぐいと昇るカウントは28でようやく止まり、開かれたドアの先からコンクリートのひんやりとした空気が肌に触れた。酔いは店にいた時よりも幾分か冷めてはいたが、妙に喉が渇いていた。初めて訪れる喜一の部屋に緊張しているのかと言われれば、緊張していないわけではなかったが、ああ水が飲みたい。こくり、と無意識に喉が鳴る。
「おじゃましま、んグっ…!」
 開かれた重厚感のあるドアの向こう、足を一歩踏み入れて急に後ろから喜一に頭を押さえつけられた。コンクリートの壁が頬に当たって冷たい。バタン、と後方でドアの閉まる音がして、電気も付けられないままの真っ暗な部屋で聞こえてくるのは喜一の息遣いと、それから、
「敦…」
「ひっ…ァ、きい、ち」
 耳元から腹の底まで、地鳴りのように響く声。恐ろしさにぶわっと全身に鳥肌が立った。バレた、ばれた、絶対に喜一は分かっているんだ…恐ろしいのに、鼓膜に触れた愛しい人の声に反応して、精液をだだ流しにしていたアヌスがきゅっと収縮したのを感じた。それと同時に胸いっぱいに込み上げてくるのは嫌悪感。ああどうしてこんなにも愛しい男がいるというのに、それなのに、俺はつい先ほど、違う男に抱かれて乱れてしまったのだろう。
 心臓が握られたかのように苦しくて、吐き気さえもしてきたとき、喜一の指が背中から這って俺の身体をなぞり上げた。ワイシャツ越しに華奢だと言われ続けた腰、筋肉のすっかり落ちた腹筋の真ん中を辿り、胸を掠めて、顎を掴まれて。まるで存在を確かめるかのような、その動きに無意識に息が上がる。
「きいち、あのっ…」
 俺の言葉は無視されて、顎をぐい、と引っ張られてそこに無理矢理口づけられる。頭だけ後ろに向かされて、きつい体制のせいでうまく唾液が呑み込めない。それでも関係ないと言うかのように、熱い舌が侵入してきて咥内を荒々しく掻き回してゆく。いつのまにか顎を抑えていた手は外され、代わりに首へと巻き付く両手。ぢゅ、ぢゅう、とはしたない音を立てながら舌ごと吸い上げられて、徐々に喜一の両手へ力が込められてゆく。
「あ、あっ、ぐるぢ、イっ… き、ァっ」
 ぬるついたの下着の中で、いつのまにか俺のペニスは痛いほどに張りつめていてた。無意識に喜一のほうへと突き出した腰は、ペニスを壁に擦りつけるようにへこへこと前後へ揺れている。これじゃあまるで動物じゃないか。意識のどこかでそう理解していても、与えられる快楽に背けるほど俺の理性の盾は強くはなかった。
 きゅ、と喉仏が潰れそうなほどに力が入り、酸素の足りない頭の中が真っ白になった。あ、イク、イキそう。壁に凭れながらやっと立っていた脚がガクガクと大きく震えだし、絶頂への階段を急速に駆け上がって行く。ぐぽ、ぐぽと音を立てながら物欲しげに開閉するアヌスから、残っていたらしい精液が垂れ流れていたが、そんなことは気にして居られない。後ろ手で喜一のスラックスを握りしめると、急にぱっ、と喜一が俺の首から両手を放した。
「へぁっ…?!ァ、あんんん゛っ…ゲホッごぼッ!!」
 急に肺に大量の空気が流れ込んできて、うまく息ができずに咽た。バクバクと大きく脈打つ心臓のあたりを掴みながら、力をなくした膝は折れ曲がって壁伝いにずるずると力なくしゃがみ込んでしまった。ああ、あとほんのもう少しだったのに、イけなかったじゃないか。何も見えなかった暗闇に慣れてきた瞳で、ぼんやりと浮かび上がる喜一のシルエットを睨みつけた。
「へえ…お前ってこういうのがイイんだな」
 パチン、と付けられた部屋の照明。眩しさに目を細めて見上げれば、口元は歪な弧を描いているのに、目が笑っていない喜一と視線が合った。
***
「頼む、ふろ、ッ…シャワーだけでも」
「ダメだ」
「ンァっ、ヤダぁ…」
 完全に腰が抜けてしまった俺をベッドまで引きずった喜一は、自身のベルトを引き抜くとそれを俺の手首へとぐるぐると巻き付けた。細い革がしっかりと巻かれた両手首は、すこし窮屈でまるでそこに心臓があるかのようにドクドクと脈打っていた。
 ��程イキかけたこともあり下着が濡れていてもわからないが、トイレかシャワーにでも行かないと後孔に溜まった他の雄の精液を知られてしまう。それなのに、仰向けに押し倒された俺の股の間に、喜一が長い脚を折り曲げて身体を差し込んでくる。もう、逃げられない。スラックス越しのお互いの股間がぴったりとくっつくき、俺の前がテントを張っているのも全てお見通しだった。
「すげぇ勃ってるな。さっきのキス、そんなにヨかったか?」
「ぁうっ…!さ、さわんなァっ…」
 亀頭をグリグリと掌で捏ねくり回され、思わず変な声が出てしまった。自由のきかない両腕を頭の上まで持ち上げられて、それと同時にぐっと喜一の顔との距離が縮まる。薄明るい間接照明に照らされた、パーツも配置も完璧なうつくしい顔。おれの大好きな顔。それなのに、その瞳だけは哀愁の色味を帯びていた。
「足、開けよ」
 間に入られてもなお抵抗するかのように、膝を擦りよせ必死に秘部を隠そうとする俺の耳元でまたあの低い声が鳴った。ゾクゾクと背を駆け上がる波。そのままぴちゃぴちゃ、と耳を舐められて、舌は首筋まで這って鎖骨をちゅう、と吸い上げた。ちり、と皮膚に痛みが走って、少しだけ満足そうな穏やかな表情をした喜一の顔が視界に入る。
「喜一、頼むからシャワーに」
「いい」
「でも…っ」
「いいから」
 そう言うと喜一は俺の静止も聞かずに、散々趣味が悪いと馬鹿にしていた星柄のTシャツを掴み、力任せにそれを左右に引きちぎった。バリっと勢いよく裂けた布切れに驚きの表情を隠せない。いくら嫌いでも破ることはないだろう。そう思い睨みつけようとして背筋が凍るのを感じた。…なんて顔しているんだ、いや、俺がこうさせているのではないか。美しい眉間には深い皺が寄せられて、瞳には普段の喜一にはないような鋭い攻撃的な輝きが見受けられた。まるで獣だ。恐ろしい、そう思うのは今日何度目だろうか。言葉がでないほどに狼狽えていると、カチャカチャと金属のぶつかる音がしていつの間にかベルトは外され、足首まで勢いよくスラックスが引きずり降ろされた。
「こわい、きいち…こわい、ッ」
 こわい、と子供の譫言ように口にするも、そこにいるのは今や肉食獣と化した大男だ。聞き耳なんて都合のいいものは生憎持ち合わせてなどいないようだ。
 本当は喜一自身が怖いわけではない。俺がひた隠しにしてきた秘密を、こんな形で喜一が知ってしまうことが何よりも怖かった。
 その大きな手で膝を掴み、無理矢理股を開かされて、俺のぐちゃぐちゃに濡れた下着に視線が落ちる。こんなに汚い姿を、最愛に見られている。その事実だけで、気を失ってしまいそうなほどに今の俺の神経は弱っていた。
「やめ…ひっ、ああっ」
 汚れた下着を一気に引き剥がすと、喜一は自身の性器を取り出して軽く扱き、俺のぐちゃぐちゃに解れた肛門へと性器をぴたりと宛がった。あつい。めくれ上がった粘膜から、喜一の体温を直に感じる。ぐぽ、と音を立てながら先端が押し込まれ、それほど抵抗もなくすんなりと受け入れる後孔に少しだけ嫌気が差した。
「きっつ…」
「は、ァ……っ」
 慣らされているとはいえあの男の物などと比べ物にならないほど大きな圧迫感に、あまりの衝撃に軽く吐き気さえもしてきた。縛りあげられた手先は血液が巡らずに少し感覚が薄れてきていて、互いの手の甲に爪を立ててもあまり痛みは感じない。大きすぎる快楽に、必死にないに等しい理性を保とうと余計なことを考えてはみるものの、ぽたり、と生暖かい何かが俺の頬に落ちてきて意識は現実へと戻された。
「き、いち?」
 一瞬、泣いているのかと思った。長い前髪が目元を覆い、喜一の後方から差す薄明りのせいで表情はよく見えない。嫌な予感が過ってたまらず声を掛ければ、返ってきたのは返事ではなく腹の中を突き上げる強い衝動だった。
「ぅア゛ッ!!!やぁっ…、ああッ!」
 浮いた腰骨を掴み、ガツ、ガツと激しく突き上げられて、はしたないと分かっていても声が抑えられなかった。長かった片思いからようやく恋人へと昇格出来て、そして今夜やっと初めて喜一と身体を繋げたというのに、それなのに、俺は昔の男に半ば無理やり抱かれた後で、それでいて喜一はいつもと様子が随分と違っていて…こんな仕打ちはあんまりじゃないか。心が張り裂けそうなほどに痛いというのに、非情にも開発された身体は正直で、与えられる強い快感に先走りなのか射精なのかわからない汁をだらだらと流しながら、恍惚の表情を浮かべ泣いているのだ。
「ア゛っあ゛ッあっ…き、ちっ……も、だめっ!おかしく、なるッ…ンッ」
「おかしくなれよ、んっ…もっと奥欲しい?これ、」
 この奥のとこ、そう言って喜一が最奥を突き上げた瞬間、全身に電撃が走った。あ、だめ、ただのメスになってしまう、そう思ってももはや止める術はなく、されるがままに結腸をガンガンと突き上げられて飛んでしまいそうになる。喜一の硬く出っ張った亀頭が狭いナカを掠めて、ああ気持ちいい、すごく気持ちがいいのに、
「ひぅ・・あぁァ♡やら、あっ♡もっと…ぉ♡」
「ぁあ、イケねぇのか?っ…なぁ、首、絞めてほしいんじゃねぇの?」
 汗でぬるついた手が首へと周り、やんわりと両手で包むように触れた。まだ力が入っていないのに、それだけで後孔がヒクヒクと収縮するのがわかる。
「ひゅッ…ァ、ア、ァァっ…やぁッ♡」
「今、ナカ、締まったな…なぁ、本当に欲しくねぇの?これ、気持ちいんだろ?」
 余裕のなさそうな喜一の声に、絶頂が近いことを知る。ああはやく、喜一の、せーし、いっぱいいっぱい、おれのなか、ぶちまけてほし、いっ あっまたッ、おく、あっ あああああっ♡ くるじっ あ゛がッ…
 気道が急激に狭まり、目の前が真っ白になった。ぽた、ぽたりと降ってくるのは、喜一の汗なのか、それとも自分のものなのか。近くに喜一の匂いがして、開きっぱなしだった唇に噛みつくように喜一が接吻をした。あ、来る、きちゃう、ぶるぶると全身が震えて、思いっきり腰が仰け反ってペニスから勢いよく液体が噴き出た。
「あっ♡あっあっあっああア!!!」
「あ、俺も、イ…ッ!!」
 ぎゅう、と食いちぎらんばかりに収縮した腸壁を掻き分け、最奥まで突き進んだ喜一のペニスは勢いよく精を吐き出した。快楽にその綺麗な顔を歪め、長い長い射精をする姿はあまりにも愛おしかった。生温かいもので腹の奥が満たされる感覚は、先程も嫌々ながら味わったというのに、それなのにどうしてこんなにも心が満たされるのであろう。朦朧とする意識の中で、ぼんやりとそんなことを思っていると、はあ、はあ、と荒い息を整えている喜一のほうからにゅう、と長い腕が伸びてきた。
「君下、かわいい…綺麗だ」
 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった頬を握られ、タコのような顔になった俺に喜一はたしかにそう言った。ああそういえばこいつは昔からそういうやつだったなと、遠のく意識の中でひとり思い出したのだった。
0 notes
lostsidech · 5 years
Text
 灯火のほの明かりを挟んで、対峙した。  なつめは思案するように袖に手を入れて春を見据えていた。その姿勢は粉屋で見てきた教師としての仁路なつめとよく似ている。  ちりちりと灯火が揺れた。  勝負の続きだった。なつめが口を開いた。 「ぼくの代わりに神さまになったってこと?」 「ええ」
 喋ると胸の傷跡から花が舞い散る。アネモネ。雛菊。金盞花。 「今宵の神の力はわたしが背負った。あなたが呼び出そうとしても、神の言葉はより強く繋がっているわたしに降りるわ。あなたの知りたいことを知りうるのは、わたししかいない」  それを教えるとは限らないけど。春はそう言わなかったが、たぶんなつめにその意図は伝わったと思う。もともと春に訊いても教えてくれないから自分で試そうと言い出した人だ。 「だから君を愛せってこと?」  もはや呆れ果てた語調でなつめが首を振った。  その口にした言葉の鋭さに春はきゅっと心臓を縮めた。愛という言葉に春のような熱をはらんだ含みはない。かえってそう言う春に当てつけて唾棄するような。 「浅はかだよ」  ああ、そうだ。  春は浅はかだ。愚かだ。馬鹿だ。  言われてかえって、春の身体は楽になる。背中の力を抜く。そんな言葉で愛してもらったら、こちらが幻滅だ。なつめはそんなに馬鹿じゃない。  なつめは続ける。 「春は、ぼくの理想を否定したね」  誰もが分かり合えて、誰もが手を取り合う理想の世界。 「春は、ぼくにだれもが理解し合う普遍の真実なんていうものは幻想で、ぼくのわがままだって言った。  なのに、君とは分かり合えって言うの?」  春は唇を噛んだ。  もっともだ。なつめの立場だったらそう思うだろう。  人はきっとわかりあえない。春はそう思う。同じ理想を抱いたって、同じ言葉で語ったって、誰かと同じ人生の同じ場所になんか辿り着けっこない。なつめの語る世界はいつだって素敵だけれど、それを現実にすることが一つの真理なんかで叶うとは思えない。  だからこそ、春自身が自分の言葉を差し出している今、なつめにわかってもらえると無邪気には信じたくないのだった。  だけど。 「わかりあえなくても」  わかりあえなくても、誰もが突き詰めれば一人でも。 「一緒にいることはできる」  そしてそれはきっと、素敵なことだ。  だって春はあの、粉屋の時間が大好きなのだから。  最初から、一緒にい���いだけだった。  なつめと同じ目でものを見たかったのも、この人と同じ高さの足場が欲しかったのも。大人になりたかったのも、こども扱いが嫌だったのもそうだ。  一緒にいることを受け入れてほしかった。  そうしたら、もしかしたら春だって、いつかは辿り着くかもしれないのだ。みんなが分かり合って、誰もが手を取り合う理想の世界。そんなものがあることを悪いと思うわけがない。なつめの性急で自分本位なやりかたが怖いと思ったとしても、ふたりで、春も納得できるやりかたで答えを見つけることはできるかもしれないのだ。  わかりあえないからって排斥し��ってそこで言葉を閉じてしまったら、その道はない。 「だからね、なつめさん。わたしの手を取って」  手のひらから花がこぼれる。 「一緒に世界を作ろう。あなたのやり方じゃなくて、わたしたち一緒のやり方で」  なつめのまぶたがぴくりと動いた。  これが春の見た夢のすべて。春の夢をぜんぶ、吐き出した。  なつめがそうだねと言ってくれたら。笑って、仕方ないな、ここは負けたよって言ってくれたら。  春はきっと、それだけで、神さまにだってなった意味がある。  なつめがその手を持ち上げた。自分の喉と胸の間のあたりに触れる。きっと春が刺した、今は花の零れる傷跡が、このあたりだろうかと思いを馳せているのだろう。そうやって長い、思案があった。そうやって、春のことを、考えていたんだろう。きっと今までにないくらい。 「ねえ。ハルキって言ったよね」  うん、と春は頷く。声が届いている、と思う。言葉が届いている。個と個を隔てる深淵。その向こうにも、言葉は届く。 「きみは、辿り着いたんだね」  ぼくが行きたかった、人の未踏に。  なつめの瞳に、春の放つ金色が映り込んでいる。 「ずるいな」  微笑んだ、少年は、そう言って。  きっと、それこそが、彼にとっては誰かの言葉を受け入れることだったのだ。  ようやく諦めたように自分の手を喉から離し、春の差し伸べた手に向かってゆっくりと近づける。春はやっと張り詰めた表情を緩めて笑うことができた。良かった、と身体が熱くなる。これが完璧な結末。なつめの思いも受け止めて、春の望むように隣にいられる。  春の夢が芽を開く。ずっと垂れていた花をもたげてようやく空を見る。いつか弾けたその夢の萌芽が、繋がって繋がって、誰かの涙を拾い上げる。  春の迷ってきた道が、花になる。生まれたときから、花に祝福されていた。祝福されるばかりで、ちっぽけな春はずっと泣いていた。ようやっと辿り着いた。愛されてきたことに胸を張れる。貰ってきた蕾を、今度は自分で開かせるようになる。――  これが春の見た夢のすべて。  それが春のきっと操ることを知った、魔法――  視界の裏で、ちか、と、何かがうごめいた気がした。 「……あ」  違和感。  ふら、と軽く少年の身体が揺らいで、その拍子に手が離れた。色白だけれど少年らしく筋ばった手が、再び己の胸に当たる。  その胸を、後ろから一本の植物が貫いている。 「……は」  疑問の声を漏らしたのは、春のほうだった。  ひら、  と。  胸元から花びらが零れ落ちる。茎の先で咲いた花が、なつめの溜息の代わりみたいに足元へと舞い散る。  数秒何も言えずに見ていた。  蓮だった。  茫と美しく、妖しく咲く花。仏の花―― 「え」  春の周りに咲き乱れる花々の一つが長く茎を伸ばして、なつめの身体を回り込み、後ろから真っすぐに刺している。 「な、に……………………?」  春は何もしていない。  春の花が、なつめを貫いている――だけど、春がしたわけじゃない。手が滑ったってなつめを刺すはずがない。この人と一緒にいるためにすべての行動があったのだ。じゃあ内側の姫さまの力が? いや、姫さまだってしない。間違えたってそんなことだけは、するはずがない……  かぷ、となつめが気の抜けた息をした。空気が揺れて、はっと振り向いた。  幣殿の暗がりから。ほの明るく光を照り返す白い手を伸ばして、誰か人影が歩いてくる。  その手の中に、  握られている、虎目石の、数珠、 「あ……ほま…………」  とっさに名前を呼べなかった。 「誉!?」  息切れに近いような、声が出た。  浅い色の瞳を薄闇に煌めかせて、少年の姿が、灯火の明かりについに現れた。花のどれかが一瞬光を遮った。僧服の少年が本殿の隅に立っていた。  誉の存在を。  忘れていたわけではない。だけど、彼は今宵、無言の観測者だったはずで。彼が見に来たのは、春の舞で、春の決断で、春の選択で、  春が間違えなければ、手は出さないんじゃなかったのか。 「いやぁ、まぁありがたいことだね。俺たちが作った均衡に対して、なつめくんみたいな破壊者は往々にして現れるわけで」  初めて会った時から変わらず、劇役者のような喋り方をする男だった。 「きみのような『生きた神』が一人いれば、こうやって餌になるじゃないの」 「あ……………………?」  何を。  何を言っている、この男は?  なつめが膝から崩れ落ちた。春は反射的にその頭を抱きかかえて一緒に座り込む。膝の上に少年の頭を抱えるような形になった。なつめが苦しげに「ううう」と言う。春ははっと蓮の花に目をやった。まるでなつめの身体の中から何かを吸い上げるみたいに、白かった花が朱に染まりつつある。 「痛い? ねっ、なつめさん、痛いよねっ!?」  動転して春はそれ以上どうすることもできない。己の足元から伸びているはずの花なのに頑として操れないのだ。どうして? 「甘いね。ねえ、神の卑女(ひめ)。わかりあえなくても一緒にいられる、あんたらしいと思う。俺もちょっと感動しちゃった。もしそこにもう一歩希望があれば、俺も膝を屈して手を取っちゃったくらいにさ」  誉の目がぎらぎら光る。その手が携えた数珠が鳴る。春はもはや手で引き千切ろうと握りしめていた蓮の茎から目を離し、誉を蒼白な顔で睨みつけた。 「どういうこと? 希望って?」 「俺、前にも自分の話はしなかった?」  言っていた。言っていたが、だってこいつの言うことはいつもあんまりにも不可解だ。 「あなたがッ、これをやってるの!?」 「ははは、やってるのは春ちゃんだよ。俺他人の力にただ乗りしかできなくてさ! 解析干渉操作ってとこ……ほわ」  春が掴んで全力で振りかぶったランプが身を避けた誉の肩のすぐ横を通り過ぎて後ろの柱に当たった。がしゃんッと激しい音を立ててランプの硝子が割れた。古木の床の上に火の付いた心材が零れだす。 「あーあ、勿体ないことしないでよ。危ないな」 「うるさい!!」  春は感情を昂らせて叫んだ。立ち上がって駆け寄って張り倒したいがなつめを放り出してはとても行けず、忌々しい蓮の花が春となつめを繋ぎ止めている。膝に縋りついた少年は痛々しい呼吸を繰り返している。  春はなつめの頭を必死で撫でながら誉を睨んだ。確か接触には痛みを和らげる効果があったはずだ。  誉は、春の完璧な結末を、邪魔した。 「これを解いてッ!」 「頼まれても申し訳ないけど」  誉は生意気になつめを見下ろして息を吐く。その視線はまるで、うまくいかなかった日照実験の鉢植えを諦めるみたいに無色透明だった。 「俺、悪人だよ」  春は怒りに煮えたぎりながら拳を握りしめた。 「誉……」  罪浄庵でこいつは何と言った。これがほんとうにあのとき話した少年と同じ僧か。  俺の出番なんか無くていい。春がなつめを救うことを期待している。  頭がちかちかした。許容量以上の動揺を突き付けられると人間はこうなるのだと今知った。 「信じてたのに。あなたはなつめさんを傷つけたくないって……」  言葉にしたら、その台詞はあまりに陳腐だ。  春は泣きたくなった。信じていた? ずっと憎い、嫌いだと思い続けてきたはずのこの男を、春はどこかで信じていたのか。 「俺を信じてた、ね」  誉は笑う。口元だけで小さく笑う。その表情の意図まで読み取る余力は今の春にはない。 「それだけはありがたく受け取っておくよ。ありがとう、神奈春」  古木に燃え移ったランプの火がちろちろと揺れる。誉の顔の陰影もそれでうごめく。 「俺もあんたを信じたかった」  そうして、踵を返した。  同時、なつめの胸から花の幻影が掻き消えた。なつめが咳き込むような音を立てて背中を丸めた。その押さえた心臓の穴から一気にどす黒い液体が流れ出した。春は声にならない叫びをあげた。  春の作っていた花園もほとんど一気に消失した。たぶん春自身の動揺が表れたせいだ。春は必死に頭を巡らせて、癒しの性質を持つ花の名前をいくつか思い浮かべた。止血に使えるものもある。神の力をもってすれば、そういう花はもっと強力な治療薬になるはずだ。  なつめの手の上から己の手を当てる。光の花びらが宙を舞う。けれど胸のざわめきが収まらない。春の手もすぐに暗がりで汚れていく。自分とは違って神の花には変わらない血。  春自身がこの人を無力な人にとどめたのだ。 「ごめんなさい」  思わず呟いていた。  金色をはらんだ手に力をこめたとき、ひんやりした手がその上からそっと触れた。なつめの反対の手だ。  春は少年の顔を見た。痛みにぼんやりと緩んだ少年の瞳が春をとらえている。 「いいよ。春」  掠れていたけれど、状況に見合わずしっかりとした声だった。 「挑んで、今夜、死ぬ気だった」  春はなつめの手を握ったまま固まった。  死、という言葉が今のなつめの口から出たのが怖かったのだ。 「やめてよ」  あなたは、知りたいことを全部知らずに死ぬのが怖いのじゃなかったのか。 「神降ろしでもないのに神の力に触れることが、身のためにならないってぼくは知っていたし」  なつめは胸を押さえながら、 「誉に殺されるかもしれないって、わかってた」 「…………」  わかって、どうして。  身を守ろうとも思わなかったのか。やりようはあったはずだ。それこそ春たちと高瀬川の繋がりを知っていたのなら、神奈神社に働きかけるとか。 「やれるだけ、やってみて、それで滅ぶならいいって、思ったんだ。何もせずに知らないまま、飢えたまま果てるより」  馬鹿言わないで、と、言えない。  春の背筋をつきんと痛い共鳴が走り抜ける。ついさっき春が姫さまに向かって言ったこと。春にとってはなつめのために生き抜くことがそうだった。なつめにとってはたぶん、違うものがそうだったのだ。  癒しの花を生む光が、一瞬揺らぐ。 「あなたは、そんなに」  春は泣き出したい思いをこらえる。 うん、と少年は口の端をあげる。 「真実が、見たい」  こどものような無垢な顔が笑う。血だらけで蒼白なまま。 「春、ぼくはね、ここにいるのが君で良かった」 「なに?」  身体が震える。今じゃなかったら、いつだって聞きたかった言葉だ。身をかがめてなつめの口元に耳元を寄せる。彼が大声を出さなくても聞き取れるように。 「ぼくは、誉に殺されると思ってた。誉と睨み合って、誉に理想を吐いて死んでやるって思ってた」  その声音は、重症の少年に不気味なくらい鮮明だ。 「でもね、だから、最後に聞いてくれるのが春で良かったと思うんだよ」 「最後って言わないで。わたしはあなたを死なせる気はない」 「最後だよ」  明確な、意志のこもった断言。 「最後を春にさせてくれ。君はぼくが届かなかった神になってくれたから。誉にただ滅されるのとは違う。君がここに残って、ぼくの夢を繋いでくれるから」  夢。その鈍重な二文字に殴られたような気がした。  なんて傲慢な言葉だ。なんて巨大な押し付けだ。ついに春のまぶたを押し上げて零したかった涙がほろほろと溢れ出す。なつめは自分が死んででも、己の思想を生かしたいと言うのか。 「わたしにあなたの言う真実を作れって?」 「そして、それで世界を繋げって」  神を夢見た少年は、笑う。春の手から手を離して。その手をうえに。 「ぼくは死んだらどこへ行くのかなあ?」 「……」 「仏教徒なら仏の国だろう? 耶蘇にも天国がある」  見えない天を指した指先が揺らぐ。 「春は、姫さまのところに行ったんでしょう?」  初めて、その瞳が、明確に涙に潤む。 「いいなあ……」  ずるい。  さっき見た光が、春の脳裡にもう一度よみがえった。なつめの頬をつうっと透明な筋が伝って通った。  春を通して神を見て、春を利用していた少年は、最後もやっぱり春を見なかった。 「なんてひとなの」  春は呟く。泣きながら、押し付けられた重荷の巨大さを思いながら呟く。  ついさっきまで、春が勝ったと思っていた。春の言葉が通じて、手を繋げたと思った。その瞬間だけを切り取ればたぶん、間違っていなかった。だけどどうしても、ああ、最後には、勝てない。そんなことはないと思っているけれど、思想に不変の優劣があるのだとしたら春はやはり、絶対になつめには勝てないんだ。  ただ、汚れた手をこどものように握りあって。  あの瞳はいつでも、星の光を見ていたのだと思う。
次≫ もくじ
0 notes
ablnovel123 · 6 years
Text
スネグーラチカの愛と献身
(パラレル。ちっちゃなユウリくんとちっちゃなユウリくんに夢中になり愛と献身をまなぶヴィのはなし)
 俺がユウリに出会ったのは、格別に冷え切った冬の日のことだ。  その日は大粒の雪が降り注いでいて、視界を埋め尽くす白があふれんばかりだった。雪のなかに、もこもこしたちっちゃなかたまりを見つけた。よくよく見ればそれは人間だった。ちいさなこども。雪のなかに倒れふしていて、目はわずかに開いていたものの虚ろで、あと数分もしないうちに意識を失うだろうことが見てとれた。寒いか、と尋ねると、そのちいさな子は、さむくない、と応えた。さむくない、あたたかい。薄いくちびるがわずかに開き、弱々しくささやいたのを聞いた瞬間、俺はその子を抱き上げていた。あたたかい。凍えながらもその子はあたたかかった。抱き上げた腕のなかの重みを、やわらかさを、俺は戸惑ったようにまばたきしながら眺めたのだった。 *** 「びくとる?」  ユウリが一生懸命、という風に俺を呼ぶ。  この子はまだ、俺の名前をうまく呼べない。  吹雪のなかでユウリを見つけて、連れ帰ったその日から、俺は彼とともに暮らしはじめた。もといたところへ返す、ということは考えなかった。だってユウリは自分の家もわからないようだし、どうしてここに来たのかもあまりに幼くて言えないみたいだし、しかたない。そう思っていた。もちろん、その気になれば調べる手段なんていくらでもあっただろう。だけど俺は気づかないふりをした。自分自身をあまりにうまく騙してしまった。彼がいずれ俺のもとを去るかもしれない、という可能性は丸めて頭の隅に押しやって、器用にも忘れ去っていたのだ。 「ん? なに?」 「おなかすいた」 「え、また? さっき食べたでしょ」 「……」 「そんな顔してもだめ」 「びくとる…」 俺なりに厳しい口調で言ったが、眉を寄せて舌ったらずな口調で俺の名前を呼ぶユウリは、なんというかたまらない。結局おやつを与えてしまう。ユウリはにこにこして、口のまわりにいろいろつけながらビスケットを頬張っている。かわいいけど。かわいいけど、あんまり甘やすのはよくないと思ったばかりなのに。でもかわいい。 「ね、びくとるも、たべる?」  にこにこしながらビスケットを食べるユウリを見つめていると、ユウリはおずおずとビスケットを差し出してきた。なんてやさしい子なんだ! 感嘆の叫びをあげ��うになり、すんでのところでこらえ、俺は「ユウリがぜんぶ食べていいんだよ」とドロドロにとろけそうな顔で言った。  ユウリはそれを聞いて、手のなかのビスケットをちょっと見つめた後、もどかしげに首を振る。だめ、と言う。俺を真剣な顔で見つめ、訴えかけてくる。 「だめ、これ、びくとるにあげるの」 「ユウリが食べていいんだよ?」 「あげる」  頑固そうな顔をしてユウリがビスケットをさしだす。 「くれるの?」  よだれまみれの手にしっかり握られ、べちゃべちゃになったビスケットを受け取る。ありがとう、と言うと、ユウリはほっとしたようにふにゃ、と笑った。 「びくとるが、たべるの」 「うんうん食べるよ、ユウリがくれたものだからね」 「ぼくもたべる」  うれしそうに言って、ユウリはビスケットを頬張る。  うまく食べれなくてぽろぽろこぼしている。でも気づくそぶりもない。かわいい。どうしようもないほどにかわいい。  夢中になってユウリを見つめていると、俺がビスケットを食べていないことに気づいたユウリは、じっとヴィクトルを見つめ、首をかしげた。食べないの、と言いたげな顔に、あわててビスケットを口に放り込む。フクースナー、と大げさに喜んでみせると、ユウリはきゃっきゃと笑い、言う。 「いっしょ。びくとるもいっしょ」 「ビスケットを食べるのが?」 「うん」 「俺が同じことするの、うれしいの?」 「うん」  ユウリはこっくりうなずく。 「いっしょがいいの」  そう言って、ユウリはふわふわした笑顔を浮かべた。  白い頬がやわらかくほどけ、きらきらした夜空のような瞳がぐっと細まり、ビスケットのかけらをくっつけた薄いピンクのくちびるは花がほころぶようにちいさく開き、笑みをかたどる。それを見ていると、からだの奥底からわきあがってくるような愛おしさを感じる。どうしよう。とっさに片手で胸のあたりをおさえた。どうしよう?  なんて言ったらいいかわからなくて、無言で口を動かし、ビスケットを頬張る。ビスケットはべちゃべちゃしていた。以前の俺だったら、きたない、と思って顔をしかめたに違いない。でも、ユウリのよだれでふやけたビスケットを食べて、ぜんぜん平気だった。平気どころか、おいしいとさえ感じた。おいしかったのだ。ほんとうに。 ***  端的に言って、俺は突然あらわれたこのちいさな子に、夢中になってしまったのだ。  長くひとりで過ごしてきていささか捻くれてしまった部分も、ユウリにはまったく通じない。ユウリにはひたむきさしかない。  最初は遠慮がちに小さな声で、でも懸命に、絞り出すようにヴィクトル、と呼ぶ声。  ぎゅ、とヴィクトルの服の裾をつかむ小さな手のひら。  いっしょに眠るベッドで、そっとすり寄ってくるあたたかい体。  時折見せるふにゃふにゃした笑顔に、うれしくなると唐突に抱きついてくる癖。  びくとる、びくとる、いっしょにいて。  いっしょに寝て。どこへも行かないで。ぼくだけを見てて。  まんまるの、黒くひかる瞳がぐっとのぞきこんでくる。それを見ていると、体の中にじんわりとした火が灯るのを感じる。長いこと冷え切っていたものが癒され、温められ、ほの明るい光に照らされ、喜びが全身を熱い血とともにかけめぐるのを感じる。これだったのだ、と思う。  疑いようもなく、これだったのだ。  自分だけを見つめ、自分だけを求め、脇目も振らずにただひたむきに求めてくれる存在がそばにいてくれるようになり、そうして自分がいちばんだと思っていた俺は、誰かに尽くすことを知ったのだ。きっと俺はずっと、これを知りたかったのだ。愛を。献身を。自分よりずっと大事なものがあるという感覚を。幼いこどもの世話するということを通じて、自分が今まで知らなかったものを知っていくのをまざまざと感じていたのだった。  しあわせだった。  ずっとひとりだった生活がふたりになった。  それは何にも代えがたい喜びをもたらし、俺は愚かにも、ただただ浮かれきっていた。 ***  ヤコフがたずねてきたのは、俺とユウリがともに暮らし始めて半年が過ぎた頃のことだ。ある晴れた日のことだ。霜のついたガラス窓からは、抜けるように明るい青空が見える。舌を向けば、目もくらむほどの真っ白い海のような雪景色が見える。陽光をまぶされとびきりの宝石もかくやと言わんばかりの輝きを放つ。そういう、美しい日だった。  ひさしぶりに尋ねてきたヤコフは、俺の腕に抱かれた小さなこどもを見て、腰も抜かさんばかりに驚いていた。まず家の変わりようが、彼に驚きを与えた。ヴィクトルが長い間ひとりで暮らしてきた、品の良いちいさな家は、いまやまったく様変わりしている。高価な絵画に代わって、ユウリが描いたと思われる、いかにも幼児らしい絵が飾られている。ヴィクトルがこだわりぬいた食器を並べていたはずの棚には、代わりにありとあらゆるヌイグルミがつめこまれている。キッチンにはビスケットだのチョコレートだのが所狭しと並んでいる。  出した紅茶を飲みもせず、ヤコフは気難しい顔で、一変した俺の家を眺めていた。 「音楽でもかける?」  ヤコフの難しい顔に、なんとなくそわそわしながら言う。 「いや、いい」  ヤコフはそっけない調子で首を振る。  ふうん。ユウリは音楽かけると喜ぶけどね。いっしょに踊りだしたりもするんだよ! にこにこしながら言っても、ヤコフは「そうか」としか言わない。むっつりと黙り込むヤコフに落ち着かない気分になり、俺はみょうに饒舌になる。 「ユウリってばね、まだ走ると転んじゃうくらいおぼつかない足取りなのに、踊りがうまいんだよ。前にね、音楽かけてたらすっごい喜んでにこにこして、リズムにあわせてからだを揺らし始めたんだ。俺もあわせていっしょに踊ったら、すぐに真似し始めて。それがうまいんだよ。なんていうんだろう、こんなに小さいのに、リズム感があるんだ。歩いたり走ったりするよりずっと踊る方が得意みたい。のびのびしてる。何よりすごく嬉しそう。見てるとワクワクする踊りなんだ。たのしくて、音楽そのものってかんじで、いっしょに踊りだしたくなっちゃうような。ね、ヤコフも見る?」  浮かれた調子で言うと、ヤコフは呆れたように首を振った。  信じられんな、とつぶやく。信じられん。まさかヴィーチャが、こどもの世話をしているとは。それも喜んで。まったく、何が起こるかわからないものだな。深くため息をつき、驚いた表情をするヤコフを前に、俺は上機嫌にうなずいた。  まあね。今の俺はもう、以前の俺とは違うんだよ。  そんな風に言って、笑みくずれる顔を隠せずいる俺とは反対に、彼は厳しい顔をしている。テーブルの上で腕を組み、じっと睨むように紅茶を見つめ、しばらく黙りこんだあと、ヤコフは重々しい口調で口をひらいた。 「おい、ヴィーチャ」  いやな予感がした。 「え? ヤコフもユウリをだっこしたい? だめだよユウリは俺のなんだから〜」  わざとらしくはぐらかそうとすると、もう一度厳しい声で呼ばれる。おい、ヴィーチャ。ユウリは人見知りらしく、さきほどからヤコフの方を見ようともしない。膝の上で抱っこしたユウリの背中をやさしくなでてやる。ユウリは俺の胸に顔をうずめ、その服をしっかり握りしめ、隠れるように抱きついている。 「ヴィーチャ」  また呼ばれて、ついに俺は観念して口を開いた。 「ん?」 「ユウリはいくつなんだ?」 「さあ? 5つ? 8つくらいかな? 二桁はいっていない気がする」  俺のぼんやりした返事を聞き、ヤコフは叫びそうになるのを必死にこらえるような顔をした。膝の上でユウリも落ちつかなそうにもぞもぞしている。 「この子の親はどうしてる?」  俺は口に浮かべていた笑みを消した。 「この子はいったいどこから来た?」  ヤコフの声は絞り出すようだった。膝の上に乗せたユウリをきつく抱きしめる。 「その子を探している親がいるとは、家族がいるとは思わんのか?」  ヤコフは焦りと不安にかられ、まるで懇願するような口調で言った。 「まさか」  ヤコフの顔にはありありと絶望が浮かんでいた。 「まさかお前、その子の家族を探したりしとらんのか?」  黙りこくったまま、ユウリをぎゅう、と抱きしめた。ユウリは突然強まった力に、驚いたような声をあげる。ワア。たよりない、まだ幼い、こどもの声だ。それを耳にして、ヤコフはいよいよ悲鳴じみた声をあげそうになった。 「なあ、ヴィーチャ。お前はその子をどうするつもりなんだ?」    ふいに、暖かい部屋のなかに外の吹雪がしのびよってきた気がした。 ***  ヴィクトルの様子が変わったことには、すぐに気がついた。  あの、ヤコフというひとがきてからだ。  深いしわの刻まれた顔をしたその人物は、ヴィクトルに対して何かを必死に訴えかけていた。ずいぶん長い間話し込んでいたようだけれど、実際どれほどの時間が経ったのかはわからない。ヤコフが話す間じゅう、ヴィクトルはぼくを抱きし��て離そうとしなかった。ヤコフの言葉にほとんど返事もせず、こわい顔で黙り込んでいる。ぼくを抱きしめるヴィクトルの力は、いつもよりずっと強い。痛いくらい。でもがまん。ぎゅうっと抱きしめられるのなんて、がまんすることはできる。  ただ、がまんできないこともある。 「びくとる……」  ぼくはヴィクトルの長い髪をちょっとひっぱった。  銀色の、雪景色のような髪は触れるとさらさらしていて、それをひっぱるのはぼくの台のお気に入りだった。  髪の毛をひっぱると、いつもヴィクトルはちょっと厳しい顔をして「だめだよ」と言う。それから、「おしおき」と言ってぼくのおなかをこちょこちょとくすぐる。ぼくが笑いの発作におそわれて、あわてて身をよじって逃げようとすると、ヴィクトルはぼくを解放する。逃げて行くぼくを見て楽しそうに笑い、「もうくすぐらないからこっちへおいで」と言う。ほんとうかなあ。用心深く、おそるおそる近づいていくと、ヴィクトルはとろけそうな笑みを浮かべてぼくを抱きしめ、おでこにちゅってキスをする。  それがいつものぼくたちだった。  でも今日のヴィクトルは違っていた。 「……なに?」 「びくとる、ぼく、おしっこ……」  か細い声で言う。だから離して、という意味をこめて、ヴィクトルの髪の毛をちょっとひっぱる。でもヴィクトルは離そうとしない。戸惑ってヴィクトルを見上げると、彼は奇妙に穏やかな顔をしてゆったりと言う。 「いいよ」 「え?」 「ここですればいい。いいよ?」  言われた言葉に驚いて、目をまんまるにして彼をじっと見つめた。口もきけずにぼうっとヴィクトルを見ていると、おなかの下の方がむずむずしてきて、ぼくは焦って暴れ出した。やだ。びくとる、はなして。あわてて言ったのに、ヴィクトルの腕はちっとも弱まる気配を見せない。 「おい」  たまりかねたようにヤコフが言う。 「離してやれ、ヴィーチャ」 「やだよ」  間髪入れずにヴィクトルは言い、ますますぼくを強く抱きしめる。 「びくとる、だめ、ぼくおもらししちゃう」  泣きそうになりながら言っても、ヴィクトルはぼくを離さない。 「ここでして、いいのに」  やさしい声で言われた言葉に、ぼくはいよいよ途方に暮れてしまう。ほんとにやめて、と叫びだしたところで、ヤコフが近寄ってきて、ヴィクトルの肩を強く握った。 「いい加減にしろ」  おそろしい声だった。  怒りと焦燥にあふれた彼の瞳は射抜くようにヴィクトルを見つめ、その肩を強く強く握っている。ぼくが怒られているわけではないにもかかわらず、こわくてついにぼくは泣き出してしまった。ヴィクトルはヤコフの視線を動じることもなく受け止め、表情をなくして睨み返していたが、ふいに興味を失ったように目をそらし、ぼくを解放した。  あわててヴィクトルの膝の上から抜け出す。一目散にトイレの方に走り出すぼくは、もうヤコフとヴィクトルの様子を気にする余裕もない。トイレに向かって駆けていくぼくの耳には、ヴィクトルのつぶやきがわずかに入るだけだった。  彼は抑揚のない声でつぶやいている。  ヤコフが悪いんだ、と。 「ヤコフが悪いんだ。俺とユウリを引き離すようなこと言うから」    ぼくの頭をポンと撫で、また来る、とだけ言ってヤコフは去って行った。  銀世界のなかにぽつんと、茶色いコートを羽織ったヤコフがいる。彼はしっかりとした足取りで、雪を踏みしめている。葉を落とした木々の枝にこんもりと砂糖のように雪がつみあがっている。ほかにはなにもない。雪はしんしん音もなく降っていて、ヤコフは振り返りもせずに歩いて行った。木枯らしの風のような、さみしそうな背中だった。  最後にぼくを見たヤコフの顔には、深い疲労がにじんでいた。ヴィクトルは返事もせず、ヤコフを無表情で見送っていた。そんなヴィクトルを、ヤコフは痛ましいものでも見るような目つきで眺め、こわい顔で睨みつけた。ヴィクトルも睨み返す。  そんな二人を見ていると、ぼくはこわくなって、もうヤコフには来ないでほしい、と思った。ヤコフを嫌いなわけではない。ぼくの頭を撫でるヤコフの手のひらはあたたかく、その声はやさしかった。でも、ヴィクトルが。ヴィクトルが、追い詰められたような顔をしたヴィクトルが、たまらなかったのだ。 ***  ヤコフがやってきた日の、夜のことだった。  俺はいつものようにユウリと一緒にベッドにもぐりこんで、あの子を寝かしつけ、その穏やかな寝顔を見つめていた。耳をすまさずとも、静かな夜の部屋に、あの子のかすかな寝息が響いている。それを食い入るように見つめていた。ユウリといっしょにねむるようになってからついた習慣だ。ユウリが先にねむる。その寝顔を心ゆくまで眺め、閉じられたまぶたがまた明日開くのを楽しみにして、眠りにつく。そうして日々を過ごすようになっていた。でもそれももう、終わるのかもしれない。この子は俺のもとを去るのかもしれない。いまではなくても、いずれ。もといた場所へ返してと訴えだして。  ふいに、喉がつまったように感じた。酸素がうすくなったみたいで、顔を歪めて懸命に深呼吸をした。心臓の音が全身に響きわたっていた。目の前にはちいさなからだがある。ユウリがベッドに横たわっている。甘い匂いがする。ふっくらした頬はすべすべしていて、その肌がどれほどあたたかく、やわらかく、こどもの清らかさに満ちているか、俺はよく知っている。ふにゃふにゃした手足も、すこしばかりふくらんだおなかも、その下にある愛らしいばかりの小さな性器も。じっと見つめていると、ユウリがすこし身じろいだ。うすく空いた口の間から乳歯がのぞいていた。光を落とし、暗さのなかに沈み込むような夜の部屋で、どうしてかユウリの白い肌だけは異様なまでにくっきりと見える。んん、とあえかな声が幼い唇のあいだから漏れた。なにかを探すように、ヴィクトルが寝ている方にユウリはねむったまま手を伸ばした。その手を握ってやると、ユウリは安心したように頬をすりよせ、母の乳房かなにかと勘違いしているのか、やわらかく指をくちに含んで吸う。ちゅう、という音とともに、乳歯がゆびに当たって、なまあたたかい舌がそっと触れ、指が湿る。めまいがする。口の中に唾液がたまるのを感じた。のみこむ音が、深夜の音のない部屋にやけに大きく響いた。呼吸がさらに浅くなり、肌が泡立ち、それから、体の奥の方からしたたる何かを感じた。わきでてあふれ、それはふくらんでいき、あっという間に濁流となり、目の前の子がほしくてほしくてたまらなくなった。  それは途方も無いほどの衝動で、嵐のように巻き上がったかと思うとあっという間にすべてをなぎ倒し、後にはなにも残らなかった。ユウリの寝顔を見ながらひとり抜いたあとの俺には、なにひとつとして残っていなかった。からっぽだった。虚無だった。からだのすべてが空洞になったかのようだった。ユウリはねむっている。とても穏やかに。やさしい子だ。愛らしい子だ。この子は愛そのものだ。守られるべき、愛されるべき、幼いこどもだった。ああ、と声にならない声が漏れた。狼狽していた。自分でも驚くほど動揺していた。視界が急に揺れた。濡れた手をしばらく見つめた後でようやく、俺は自分が泣いていることに気がついた。 ***  ヤコフが来た日から、ヴィクトルはちょっとへん。  どことなくぼんやりとして、話しかけても生返事しかかえってこないことが増えた。心ここにあらずといった感じで、むすっと黙り込んでしまうことが増えた。混じりけなしの悲しみが彼の全身を覆い、鬱々として、言葉を発することもできないようだった。そんな時のヴィクトルはまるで、からだのなかにある大きな混沌と戦っているように見えた。  あいかわらずぼくたちは一緒にねむっていたけれど、ヴィクトルがちゃんとねむっていたかはわからない。トイレに行きたくなって夜中に目を覚ますと、いつだってヴィクトルはぼくをじっと見つめていた。薄い闇のなかに、青い目が星のように浮かんでいる。透明で、きらきらしていて、ぞっとするほど綺麗な瞳。 「……びくとる、ねむくないの?」 「ん、もうすぐ寝るよ」 「もうすぐ……?」 「うん。もう少し、ユウリを眺めてからね」 「……ね、びくとる」 「なに?」 「ぼく、おしっこ、いきたい」  遠慮がちに言った。  最近では、それを言う時は少し緊張してしまう。  機嫌の良い時のヴィクトルに言うのは、なんにもこわいことなんてない。  だけどぼんやりしている時のヴィクトルは、ぼくをトイレに行かせてくれないのだ。ここでしていいんだよ、なんて、ヤコフが来た時と同じように奇妙にやさしい声で言う。  ぼくは困る。だって、おもらししちゃう。そんなことしたらだめだ。でも泣きそうになりながらもじもじして、おねがい、と言うと、たいていの場合ヴィクトルはぼくを解放してくれる。  ただ、そうじゃない時もあるのだ。  こないだのヴィクトルは、すごくいじわるだった。  ぼくが泣いても腕をつかんで離してくれず、とうとうぼくはその場でおもらししてしまった。もう大きいのに。はずかしくてどうしようもなくなってわんわん泣くぼくを抱きしめて、ヴィクトルはやさしい声で言った。おもらししちゃったねえユウリ、悪い子だね、って。そう言うヴィクトルの声はうっとりしていて、怒られているはずなのに、そうは思えないほど彼はうれしそうだった。わかんない。ぼくはもう、よく、わかんない。 「ここでしていいって、いつも言ってるだろう?」 「……でも、そんなの、わるいこだよ」  ぼくは足をわずかに動かし、おなかの下の方のむずむずと戦いながら言った。 「びくとるだって、そういった」  必死で訴えかけると、ヴィクトルは猫みたいな顔をして笑う。 「悪い子でいいんだよ」 「……だめだよ」 「いいんだ、ユウリ。こんなに大きくても、おもらししちゃう悪い子でいいんだよ」  ベッドのなかで、ヴィクトルがぼくを抱き寄せた。ヴィクトルの長い髪がぼくのからだにかかる。彼の体はぼくよりも冷たい。でも甘い汗の匂いがする。ヴィクトルの、白くて細い、女の人みたいな綺麗な指が、ぼくの頭を撫で、髪のあいだに差し込まれ、やわらかくかき混ぜるように頭皮を撫でた。 「悪い子でいいんだ。ひとりでトイレにも行けない子でいいんだ。俺がずっとそばにいるんだから。なんでもしてあげるんだ。ユウリのことは、俺がなんでも」  歌うような口調で言うヴィクトルの腕がぼくのからだに巻きつけられる。彼の腕のなかにすっぽりとおさまってしまう。閉じ込めるような腕に、ぼくはもう逃げることもできずにいる。ヴィクトルの高い鼻がぼくの頭におしあてられ、熱い息がかかる。  おなかの下の方から、じわりと濡れていく感触を覚えて、ぼくは声も出さずに泣いた。鼻をつく、ツンと不愉快な匂いに、ぼくは顔を手で隠した。とても耐えられない。 「……しちゃった?」  ヴィクトルがささやく。  ごめんなさい。涙をこぼしながら言うと、ヴィクトルは満足げに笑う。 「かわいい」  甘やかな声が耳元でする。すごくかわいいよ、ユウリ。そのまま彼の手は、濡れたぼくのズボンをさらりと撫でた。  ぼくをトイレに行かせてくれないヴィクトルと、そうでないヴィクトル。  時々、ぼくはヴィクトルがちょっとだけこわい。  おもらししてしまって、泣きじゃくるぼくを抱きしめ、濡れたズボンとシーツを替えてくれて、シャワーを浴びせてくれた後のヴィクトルは、何か憑き物が落ちたような顔をして、ぼうっとしている。 「……びくとる、ぼくもうねむい……」  かわいた、あたたかいパジャマに身をつつんだぼくは、しぼり出すような声で彼に言う。先ほどまで、ぼくの着替えをこの上なく楽しげに見守っていた彼は、今はひどい憂鬱におそわれているようだった。話しかけても返事はほとんど返ってこない。  ねむいよ、ともう一度訴えると、ようやく彼はぼくの方を見る。  ああ、とため息のような声を漏らし、うつろな声で「おいで」と言う。いそいそと近寄ると、自分が呼んだくせに怯えたような顔をして、ヴィクトルはぼくの手をなかなか取らない。しびれを切らして自分から彼の腕の中に飛び込む。 「……ユウリは」  しがみつくように抱きついたぼくに向かって、ヴィクトルは言う。 「ユウリは、ばかだね。俺はこんなやつなのに」  かわいそうなユウリ。  そうつぶやいてぼくの頬を撫でるヴィクトルの手は、冷たかった。  外は吹雪で、轟音のような音が分厚い窓の外から漏れ聞こえている。外はきっと寒い。でもここはあたたかい。ヴィクトルはぼくより体温が低いけれど、それでもやっ��り、くっついていればあたたかいのだ。なのに彼は、自分が触れればぼくが凍えてしまうとでも言うよう��、ぼくに毛布を巻きつけ、離れるか離れまいか迷うような手つきでしかぼくにさわろうとしない。そのくせ、ちょっとでもぼくが離れるそぶりを見せると、おびえたような顔をする。そんなヴィクトルに、ぼくはむきになって強く抱きつく。おそるおそる、といった風にぼくの頬を撫でるヴィクトルの手はたよりなく、ぼくよりよっぽど、彼の方が痛ましく見える。  ぼくをトイレに行かせてくれないヴィクトルと、そうでないヴィクトル。  片方のヴィクトルがあらわれた後には、決まってもう片方のヴィクトルがあらわれる。  こわいヴィクトルのあとにあらわれるヴィクトルは、なんだかすごく、かなしそう。 ***  愛を。献身を。自分よりずっと大事なものがあるという感覚を。  そういうものを、ユウリから教えられたはずだった。  彼を慈しむことを通じて、与えることを知ったのだと思い込んでいた。  ひとりの生活が、ふたりの生活になること。  窓の外には代わり映えのない雪景色が広がっている。でも、ユウリを抱きあげていっしょに眺める景色は、今までとはまったく違うものに見える。雪なんて毎日降るのに、ユウリはそのたびにきゃあきゃあ言って喜ぶ。びくとる、ぼく、うさぎつくりたい。三つ編みにした俺の髪をちょっとひっぱってユウリがねだる。風邪ひいちゃうからちょっとだけだよ。そう言って、ユウリにもこもこの帽子をかぶせてやり、しっかり防寒させて、抱っこして外に出る。ユウリの小さな手が、懸命に丸いかたまりを作る。雪のかたまりにしか見えない。でも、ユウリは「うさぎさん」と言ってうれしそうにしている。だから俺も、飽きることにも飽きてしまうほど何度も見た雪のかたまりが、うさぎに見えてくる。うさぎさんだね、上手につくれたね。褒めてやるとユウリはにこにこしながら俺の方にそのかたまりを差し出した。あげる。びくとるにあげる。受け取ると、ユウリはふにゃふにゃ笑って「びくとる、すきぃ」と言いながら俺に抱きついてきた。  たまらなかった。  俺が、いったいお前に何をしてしまったと、何をしてやりたいと思っていることだろう? 突き刺すような痛みとともに後悔が湧きあがり、心臓が焼け落ちそうだった。もらってばっかりだ、俺は。お前になにもしてやれないのに。いやなことをするばかりなのに。与えられたのは俺の方だった。与えることを知ったなんて、どうしてそんな傲慢なことを思えたんだろう。俺はなにひとつ、知らないままだった。献身は傲慢さでしかなかった。奉仕は強欲でしかなかった。愛は欲だった。何も知らないままだった。狼狽し、身動きもとれなくなる。家の前につながる雪に埋もれた小道は、あたかも急にやる気をなくしてしまったかのように途絶えている。外は寒い。ユウリの鼻は赤い。俺はこの子のためにできることをしなければならない。 「あ、ヤコフ? 元気?」 「……ヴィーチャ」 「あのさ、お願いがあるんだけど」  わざと明るい声を出した。  ヤコフはすぐさま察してくれたようで、ユウリのことか、と言う。 「うん。ユウリのことなんだけどさ、あの子が電話をかけてきたら、ユウリを迎えに来てやって欲しいんだ。ヤコフなら俺は信頼できる。どこだかわからないけど、ユウリを元の家に帰してやってよ」 「自分で調べようとはせんのか」 「はは、そういうのはヤコフの方が得意だろう?」 「お前はそうやって、わしの言うことは聞かんくせに、なんでもかんでも、面倒ごとばかり押し付けおって」  ため息をつかれ、俺は力なく笑いを漏らした。 「だってさ、やだよ。もし調べて、ユウリの家がすごく幸せそうだったら、俺はどうしようもなくなる。俺があの子にしてやれることなんてなんにもないんだって、そう思うしかないだろう。しかも、もし不幸な環境だったら、余計に俺はユウリを離せなくなる。俺と一緒にいることの方が不幸かもしれないのに、決して離してなんてやれなくなる」  言葉を切って、息を吸い込んだ。 「だから、ヤコフに任せる。とにかく、あの子が幸せになれるようにしてやって。良い環境なら、そのまま帰してやって。もしそうでもないなら、どこかあの子が幸せになれる場所を見つけてやって。お願いだ」  他人にユウリを託すことは耐え難かった。それでも、必死で、懸命だった。電話ごしには、助けを求めるハグはできない。片手で顔をおさえ、今すぐにでも電話を切り、そのまま電話を床に叩きつけ、破壊してしまいたい衝動と必死に闘いながら、絞り出すような声を出した。歯ぎしりでもしそうだった。今言ったことのすべてを、取り消したかった。ヤコフが決して俺たちの家に来れないように、ユウリを連れて逃げ出したかった。  ゆっくり息を吐く。 「あの子は賢い子だ。だいじょうぶ、きっとうまくやれる。助けてあげて、ヤコフ。ユウリを、たすけてあげて」  肺の奥の奥のほうまではいるように、深く深く息を吸う。ふとすれば震えそうになる体を、なんとかなだめた。歯ぎしりでもしそうだった。あるいは、凍えるようにがちがちと口を震わせ耳障りな音でも出しそうだった。俺はあらゆる衝動と戦っていた。愛を。献身を。悲壮で、悲惨で、ばかばかしいほど真剣な声で、俺はヤコフを呼ぶ。ヤコフ。ちいさなあの子の姿を胸に押し抱くように思い浮かべ、ようやく声をしぼり出した。  ユウリをたすけてやって。  おれからあの子を、逃してやって。 ***  さむいのは、そんなにいやじゃない。  ヴィクトルはヤコフが来る前みたいに、明るく笑って楽しそうにしている時もあれば、長いことひとりで沈黙のなかに沈み込んでいる時もある。その日はあいもかわらず吹雪だった。外に出ることはできない。どんなにあたたかい格好をしても、とてもぼくには耐えられない。だから家の中にいる。ここは寒くて、ぼくたちはいつも家の中にばかりいる。  でもたまに、外であそぶこともある。  雪がふったあと、澄み切った青空が広がっていて、ふわふわの雪がまるで砂糖菓子みたいに見えて、ぼくはきゃあきゃあさわいで喜ぶ。ヴィクトルはぼくを抱っこして、窓辺に近寄り、外の景色を見せてくれる。びくとる、ぼく、うさぎつくりたい。彼の髪の毛をひっぱってそうねだねれば、ヴィクトルは、風邪ひいちゃうからちょっとだけね、と言って、ぼくを連れ出してくれる。雪をいっしょうけんめいかためていると、ヴィクトルが小枝を差してくれる。柊の葉をつけてくれる。ヴィクトルのおかげで、うさぎができる。うさぎさん、と言ってヴィクトルに差し出すと、彼は上手にできたね、と褒めてくれる。うれしい。ぼくはヴィクトルがほめてくれると、すごくうれしい。 「あげる」 「いいの?」 「うん。びくとるにあげる」  そう言うと、ヴィクトルはぼくからうさぎを受け取って、じっとそれを見つめた。からっぽになった手でヴィクトルにぎゅっとだきつく。 「びくとる、すきぃ」  ふにゃふにゃ笑いながら言うと、彼の瞳に涙がもりあがった。白い肌の目元が赤く染まり、美しい瞳がゆらゆら揺れて潤んだ。掠れ、喘ぐような声で彼はつぶやいた。もらってばっかりだ、俺は。お前になにもしてやれないのに。いやなことをするばかりなのに。そう言い、青い目から涙があふれ出した。どうして、ヴィクトル。ぼくはヴィクトルがすきだから、だいすきだからあげたいと思ったのに。なんでかなしいの。あわてて彼にしがみつくうちに、ぼくも涙が出た。ヴィクトルの目からは、雨みたいにぼたぼたと大粒の涙が落ちていて、だけどその目はどんな晴れの日の青空よりきれいな色をしている。  その日のヴィクトルは、ぼくを抱き上げて好きなだけその長い髪をさわらせてくれ、絵本を読み、歌い、一緒にお菓子をつくり、機嫌がよさそうにしていた。でもそのあと、ぷっつりと糸が切れるようにソファに座りこんでしまっていた。楽しげな笑いは姿を消し、ひとり憂鬱のなかで膝を抱えて座り込んでいるようだった。ぼくは彼の機嫌を損ねないよう、おとなしくじっとしている。  長いことぼうっとした後、ヴィクトルはぼくに言った。 「ジェド・マローズの話は知ってる?」 「……ちょっとだけ」 「あれさあ、俺とユウリみたいだよね」  ヴィクトルはあいかわらず、夢見るように虚ろな目をしている。 「おれも、寒さの中でユウリを見つけた」  一面の雪景色。銀色に染まったまぶしい世界。美しく、それでいておそろしいようなあの場所で、寒いか、とたずねたジェド・マローム。あたたかいと応えた女の子。女の子を助けたジェド・マローム、たゆたう銀色の、長い髭のひと。彼は女の子に食料と衣服を与えてやって、そのおかげで女の子は無事に家に帰ることができる。 「うん。びくとるがたすけてくれた」  ぼくはうれしくなって、勢い込んで言う。  びくとるのおかげ。びくとるのおかげで、ぼくは寒さのなかでひとりさみしく死んでしまうこともなく、こうして元気に過ごしていられる。ありがとうびくとる。  懸命に伝えようとしたけれど、ヴィクトルは何かをあきらめたように笑って言った。 「おれも、帰してやるべきだったんだ。たすけて、そこで終わりにすればよかったのに。そのうちに、なんでもしてやりたいと思うようになった。なんでも。ユウリのことならなんだって。ただ世話をしてやり、慈しんでやりたいだけだった。なのにどうしてだろう?  いつの間にか、俺が知ったはずの愛や献身は形を変えたんだ。傲慢で、ひとりよがりになった。ユウリが泣いても離してやれなくなった。そんなの愛でも献身でも、なんでもない。こわくなったんだ。いつかユウリと離れることなんて、思いつきもしなかったんだ」  ばかだ、おれは。  うわごとのようにそうつぶやき、自分に対する苛立ちを必死に抑えようとするかのように、彼はかたく拳を握り締めた。びくとる、とぼくは声をかけたが、彼は聞こえてもいない様子だった。両手で顔を覆い、長いことそのままの姿勢で、みじろぎすらしなかった。  どれほど時間が経ったのか、ずいぶんと動かずにいたあと、ゆっくり彼は顔をあげた。白い手の間から久しぶりに見えたヴィクトルの顔は、真っ青だった。 「ユウリ、こないだここにきた人を覚えてる?」 「……うん」 「名前はわかる?」  うん。ヤコフでしょ。  ぼくがそう言うと、ヴィクトルはしばらくうつむいた後、掠れた声で言った。 「このメモをいつも持っていて」  彼はぼくに、番号の書かれたメモを渡した。白い紙に、殴り書きされた黒い文字がある。それは行き場のない何かに耐え、苦渋の末に書かれたように見える。 「電話の掛け方は知っている?」  ぼくにメモを握らせたヴィクトルは、ぼくを抱き上げ、電話の前に運んだ。番号が並んだ、かたい機械は、無機質で無言だった。  いい、見てて。  そう言って、ヴィクトルはメモに書かれた番号を押す。そのあと、あるボタンを押す。それからぼくの耳に電話を押し当てる。音楽にしてはずいぶんと単調な音が響いたあと、深く低く、しゃがれていて、どことなく落ち着いた声がした。  あ、と声を出しそうになった瞬間、ヴィクトルがさっとぼくから電話を取り上げ、息の根を止めるようにボタンを押す。  びくとる、と言いかけ、彼の方を見つめると、ヴィクトルは無表情のまま言う。 「わかった? こうしたら電話がかかる。ヤコフにね。もしユウリが、ここを、」  ヴィクトルはいったん言葉を切った。  一瞬間をおき、息を吸いこんだあと、彼は言った。 「……もしもユウリがここを出て行きたくなったら、こうして、ヤコフに電話をかけるんだ。そうしたらきっとヤコフが迎えに来てくれる。家族のもとに連れ帰ってくれるよ」  ぼくは言葉を失ってヴィクトルを見つめた。ヴィクトルはただぼくの手にメモを握らせ、その手を包み込んだ。聞き取りにくい、震えた声がぼくに繰り返し言い聞かせた。このメモを、決してなくしてはいけないよ。いいかい、このメモに書かれた番号をよく覚えて、電話の掛け方を忘れないようにするんだよ。
0 notes
hinagikutsushin · 6 years
Text
碧眼の薬売り
 ちゅんちゅん、と朝を知らせる小鳥の囀り。
 空いた障子の隙間から、何匹かの雀が私の元へと飛んできた。
 私の周りをくるくると飛ぶと、2匹は私の肩の上に留まり、もう1匹は差し出された私の手に留まる。
 二匹が自身の毛繕いで忙しい中、すりすりと私の指に体を擦り付ける甘えたがりな小さい雀を、人差し指でそっと撫でる。
 ふわふわとした羽毛、じんわりと感じる温かな体温。雀も居心地良さそうに目を細めているのに釣られ、私も目尻を下げた。
 すると、それを見て好奇心を擽られたのか、はたまた嫉妬したのか、私の手の方に移って撫でろ言わんばかりに頭を差し出す肩に留まっていた二羽の雀。それを気に入らない一羽が、羽をばたつかせやってきた雀に猛抗議する。
 バタバタ賑やかな自分の手の平。ふふっと口から声が漏れた。
 外では青々とした木々が、こちらを見ながらこしょこしょと内緒話をするかのように、くすくすと笑うかのように、葉を揺らした。
  爽やかな陽射しが注ぐ、和やかな葉月の末日、私は未だ、歩けない。
  私が目を覚ましてから一週間ほどの日時が経った。
 その間は、ヒナギの作ってくれるご飯を食べたり、薬を塗ったり、包帯を巻き直したり、こうして暇になったら、ヒナギに障子を開けてもらって、夏の山の景色を眺める日々。
 時折、今朝の様に野生の動物が私の元を訪れるのも珍しいことではない。実際、毎日来ている。
 最初は雀、明くる日は兎、そして栗鼠、貂、大きいものだと鹿、それから蝶や蛇まで。障子を開ければ皆、ちらとこちらに寄る。それもヒナギがいない時に。
 若しかしたら、私は動物に好かれているのだろうか、とも考えた。
 でも、私がただ単に忘れているだけで、実は記憶を失う前に会っていたんじゃないかとも考えた。
 悩める話だが、彼らがこちらに来る分には全然問題ないし、寧ろ歓迎したいくらい。何しろ、足が動かないこの状態だと、私に出来ることは寝る、食べる位しかなく、こうして寄ってくれると私の良い暇潰しになるのだ。自分本意なのは分かっているが。
 今日来てくれた雀はその中でも顔見知りだ。初日から、毎日のようにこの部屋にやってくる。一羽で来る時もあれば仲間と飛んでくる時もある小ぶりで可愛らしい雀。勝手に私が「おちび」と呼んでいるその雀はほかの雀は甘えん坊なのか、よく撫でてくれと頭を差し出してくる。
 未だにワタワタと慌ただしい手の平で、そっと三羽を包む。すると、指の間からにゅっと顔を出す雀がまた可愛らしくて、笑った。
 なんとか手から脱出した二羽が、障子の向こうへと飛び去って行った。パタパタと羽を広げて飛ぶ姿が少し、羨ましくて。
 「わたしも、おちびみたいにとべたらいいのに」
  おちびは、首を傾げ翳った私の顔をずっと見つめるだけだった。
  すると突然、バッと羽を広げ森へ帰っていくおちび。
 ヒナギかな、と思い、障子の方を向くと、知らない人の影。少し小柄で柔らかい印象のあるそれは、無骨で大柄な彼のものではないことは明らかだ。
 じゃり、じゃり、と近づいてくる人影に緊張し、布団をぎゅっと握りしめる。
 ヒナギは狩りの途中で不在。私はこの通り動けない。
 どうすれば。
 冷や汗が頬をつっと傳う。
 そして近づいてきた人影は、いよいよ障子の目の前で止まった。逆光で、その姿はよく分からない。
 「あらまぁ、随分と小さな患者さんだこと」
  鈴をころりと転がしたような高い声が部屋を木霊する。
 敵意の無い間延びしたその声に、手から力が抜けた。
 雲が太陽を隠したことにより顕になる彼女。
  背中くらいの長さの銀の髪の上には竹笠。山吹色の小袖を着て、背中には木でできた大きな薬箱のようなものを背負っている。
 何よりも惹かれたのが、空のように青い瞳。透明感のある、そして光の角度によって星のように光る猫目がちな碧眼は、独特ののんびりとした雰囲気と相まって、何��ら神秘的な、魅力的なものに見えた。
 暫しぼうっとその女の人を見ていると、彼女は困ったように眉を下げ、自分の顔に何か付いているのかと聞いてきた。
 ハッとして首を振ると、胸をなでおろし、縁側に座る彼女は、徐に重たげな薬箱を下ろした。
「さあて、貴方の治療のことなんですけどねぇ」
「あ、え、ちりょう……?」
「そうですよ? ……おやぁ、もしかしてヒナギさんから何にも説明なかったのですか?」
 困りましたねぇと、竹笠を外し俯いて何かを考えるお医者さんらしきその人は、ぽんっと手を打ち何かを思いついたかと思えば、草履も脱ぎ、こちらへやってきた。にこにこと笑いながらこちらに来る彼女にどうしていいかわからず、アホの子の様に口を開いてポカンとする自分。気付いたら目の前まで来ていた彼女に驚き、軽く肩が跳ねた。
 「自己紹介をしましょう。仲良くなるにはそれが一番でっ、あら?」
  ひょいっと突然後ろへ下がった顔。その後には、
 「初っ端から近いんだよお前は」
「まぁ、保護者様のお出ましですねぇ」
「っヒナギ……!」
 コイツに何されていないかと聞かれた私は素直に頷いた。驚きはしたが、まだ何もされてはいない。
「紹介してなかったな、コイツはツグモネ。薬売りだ」
「人間から妖怪までドンと来いってもんですよ」
 ふふん、と胸を張る彼女は、もう一度、今度は私の視線が合うようにしゃがみ直し、ふわりと微笑んだ。
「改めまして、私の名前はツグモネ。もうかれこれ何十年も旅をしているお医者さん兼薬売りです」
 よろしくねぇ、とやはり間延びした声で告げた彼女。私も軽く自己紹介をすると、ほんの少しだけ目を見開いて、嬉しそうにゆるゆると顔を緩ませた。
「まぁ、ヤスヒコ君ねぇ。かっこいいお名前」
「え、えと、ヒナギが……つけてくれた」
「あらあら彼が? 珍しい事もあるものです」
 彼、名前をつける感覚可笑しいでしょう、と問いかけられれば頷くしかない。本当に酷いものばかりだった。後ろではヒナギが片手で顔を覆い、もうその話はよしてくれと言わんばかりである。自業自得だ。
   その後、ヒナギは狩った鹿の処理をすると言い、今部屋にいるのはツグモネと私だけ。
 ヒナギの知人とはいえ、初対面だ。少しだけ居心地悪そうに身をよじると、変なことはしませんよとツグモネが笑った。
「お体、少し触りますねぇ」
 その声に頷けば、細い指先がそっと怪我をしている肌をなぞる。
 触られるたび少しピリリと痛む傷だが、我慢できる位の痛みだ。もっとこう、痛いことをするのかと思った。
「ふふ、もっと色々な器具を使って痛いことするのかと思いました?」
「もっといたいこと、するのかと」
「人間のお医者さまならそうなさるでしょうねぇ。私は幸い他の人より五感が鋭いので、そんな事しなくてもいいんですよ」
「どういうこと……?」
「そういうこと、です」
 ふふふとしか笑わない彼女が少しだけ胡散臭く感じた。
「足はどうです? 動きますか?」
 ふるふると首を降れば、そりゃあそうでしょうねぇというお言葉。包帯を取れば大小の切り傷、擦り傷、打撲による痣と腫れ、その見るに堪えない姿をさらけ出し、あまりの醜さに自分も思わず顔を顰めた。それでも、崖から落っこちた割には酷い怪我ではないらしい。
 足の触診が終わり、ツグモネがちらと私の尾に目を向けたかと思えば、カッと目を開いてそれを掴んだ。
 突然掴まれ背中を走るぞわっとした奇妙な感覚に、ひぃっと情けない声を出せば、彼女はハッとした様子で申し訳なさそうに手を離した。
「ごめんなさい、ビックリさせてしまいましたよね」
「だ、だいじょうぶ……」
 私がそうおどおどと告げると、ほっとしたように胸をなで下ろす彼女。だが、すぐにその表情は深刻なものに変わっていった。顎に手を当てて、うんうんと悩みながら私の尾をじぃと射抜くかのように見るツグモネの姿に、次第に私の体にも力が入る。
「ヤスヒコ君は、記憶がないとおっしゃっていましたね」
「……ん」
「今のところ思い出せる一番古い記憶って何ですか? どんな些細なことでも良いのです」
 昔の記憶――そう尋ねられ、空っぽの頭の中で自分の古い記憶をしばし思い出そうとしてみる。暗闇、轟音、そして――……、
 「はしってる」
 「というのは?」
「まっくらやみ、ひどいおとのなかで、わたしははしってた」
 しかし、この記憶が夢なのか現実なのかは定かではないとそう告げれば、ツグモネはほんの少しだけ表情を曇らせると、再びにっこりと笑って、私の記憶を取り戻す方法を少し考えてみただけだと、そう言った。
「うーん、やっぱり出来なさそうです。ごめんねヤスヒコくん。あっ、勿論貴方の脚は治せるから安心してねぇ」
 彼女は薬箱をガサゴソと探り、懐紙に包まれた粉薬とずんぐりとした灰色の壺を取り出した。
 彼女の説明によれば、粉薬は炎症と感染症を抑える薬、そして、
「これはね、河童の妙薬といって、まぁ万能薬なんですけど、これを1日1回、貴方の足に塗ってくださいねぇ」
「…….かっぱ」
「そう、河童。うふふ、昔ちょこっと縁があってねぇ……」
 薄く笑う彼女は物凄く不気味だ。
 今日は私が塗ってあげますねと、妙薬を壺から一掬いし、私の足にのせ、馴染ませるように広げた。無色透明でどろりとしたその薬は青臭い。少し沁みるものの、ひやりと冷たいそれは、蒸し暑いこの季節には程よく気持ちが良い。次第に足の感覚が鈍くなり、だんだんと頭がぼうっとしてくる。
「あらあらぁ、おねむですか?」
「む……」
「んー、妖怪ならそこまで眠気は来ないはずなんですけど、やっぱり人間用に調合し直した方が良さそうですねぇ。麻痺毒の量を減らしますか」
 なんてものを加えているんだと抗議しようとした時にはすでに、私は夢の中に落ちていた。
   暖かな日差し、群青色の空、日に照らされ黄金色に光るの草原の上で私は立っている。向こうからやってくる、無数の白い狼の群れ。その中でも一際大きな狼が、黒と白、ふたつの大きな尻尾を振ってこちらを見つめる。
 やがてそれがぐぐぐと体を丸めたかと思えば、だんだんと小さく、小さく縮み、尾が消え、髪が生え、やがて人になった。
 周りの狼たちは甘えるようにその人に体を擦り付ける。依然彼はこちらを見つめたまま動かない。
 すると、彼は突然手招きをするかのように手を動かした。
 何故かとても駆け寄りたくなって脚を動かそうとするが、縺れて、そのまま倒れ込んでしまう。
 やがてだんだんとぼやけていく彼の姿。
 必死に手を伸ばす――届かない。
 藻掻いてみる――動かない。
 「……が、……まで」
  ポツリとそう呟いた彼、遠すぎて、よく分からない。
 「け……が、……るまでは」
「……かし、元々は……へ……予定ですよ」
「それでも、だ……頼む」
 ぼんやりと、ヒナギの声が聞こえて、目が覚めた。もう夜なのだろうか、真ん丸な月が私の部屋を青白く照らしている。
 襖の隙間から、ツグモネとヒ��ギが見えた。何やら深刻な雰囲気にゴクリとつばを飲み、少し布団をずらして身を乗り出し、そろりと襖を開ければ、ツグモネがこちらへ気づき、手を振る。
「お目覚めですか?」
 意外とお早いお目覚めでしたねぇ、とコロコロ笑う彼女によれば、先程の妙薬は人間には少し効きすぎるらしい。ついでにいえば、調合をし直したから今後はそれを使ってくれとの事だ。
「たしかさっき、まひどく……」
「毒も使い道によっては薬になりますからねぇ」
 威圧するかのように微笑まれ何も言えない。
「まあ、今回はそんな所ですかねぇ。薬は取り敢えず1週間分。足りなくなったころにまたお伺いします」
「あぁ、よろしく頼む」
「いえいえ。あぁ、あとヤスヒコくん」
 彼女はすすすすっと私の方へ寄ってきて、耳元に口を寄せた。
 「あなたの尾っぽ、間違いなくこの山の主様だった方のものです」
 「……!」
「主様の生きる時間はこことは異なるので、特に人間がその時間を生きるには形を変えるしかないのですよ」
 ふっと離れた彼女の顔には薄ら笑が浮かび、星のように輝く蒼の瞳で私を見下ろす。彼女に見下ろされた時に見えた、瞳の奥にちらつく寂寥と同情の念が私の心をざわつかせる。
 結局その日、ツグモネが去った後も、ヒナギと彼女の会話が、彼女の言葉が、眼が忘れられず、ひたすら布団の中で悶々と悩んだまま、朝を迎えた。
   「昨日ツグモネと何を話していた、だ?」
  翌日、寝不足で目の下のクマを作った私にぎょっとしたヒナギに、昨日ツグモネとなんの会話をしていたのかを聞いてみた。しかし、答えはなんとまぁ無難な感じで、私の怪我がどのくらいで治るのか、という話らしい。
「まあ、河童の妙薬を使ったとしても、早くて完治は秋が終わる頃って言ってたな」
「そんなに、かかるんだ」
「何か、気になることでもあったのか?」
「……」
 ツグモネに告げられた言葉を言おうとしたが、憚られ、口を結んだ。きっと、こんな事を言っても、何も変わらない。
「……なんでもない。ねえヒナギ、わたし、けがなおったら、このやまを、みてみたい」
「……そうだな、もう少し良くなったら、気分転換に外に出よう。歩けるまでは、私が抱いてやろう」
 もしかしたら、見て回るうちに自分のことを思い出せるかもしれない。
  きっと思い出すことは嬉しいことのはずなのに、私の心の奥底で思い出さないでと誰かが叫んでいるような気がして、その違和感を追い払うように、手首を強く握った。
 ← →
0 notes
mashiroyami · 5 years
Text
Page 111 : 過去と未来
 家宅と放牧場を繋ぐ扉は僅かに開いており、細い風が部屋を循環していた。浅い眠りから覚めたアランは、その風の音で起きたようだった。秋の朝は冷めている。ほんの少し立った鳥肌を包むように上着を羽織り、風の奥のざわめきを追いかけた。まるで誘われるように、夢の中を浮かんでいる顔で、朝陽が照らす現実に足を踏み入れた。卵屋の傍でザナトアをはじめここに住む生き物たちが何かを囲うように蹲っていた。アランは輪の外から覗き込んで、ザナトアが調べるように手を添えているその先を直視する。その小さな身体に飛び散っている乾いた血と、抉られ露出した肉体を見ただけで、瞬時に息絶えていると彼女は理解しただろう。  それは、数週間前に群れから離れ羽に傷を負ったポッポ。ヒノヤコマ達に連れられて少しずつ自分の道を歩もうとしていたポッポ。喉笛が抉られるように千切れており、か弱い首はあらぬ方向に曲がっている。辺りには抵抗を物語るように汚れた羽根が散乱していた。血で固まった羽毛は逆立ったまま先が風に揺れていた。血だまりは既に土に沁み、朝露が濃度を薄めている。草原で息絶えた残骸が朝の日差しを浴びて強調された。  一体、誰が。  僅かに震わせた声。緊張しながら問うたのはアランだった。 「狼狽えるな。よくあることだ」  凜とザナトアは言い放ち、丁寧に亡骸を抱き上げる。小さなザナトアの、小さな腕の中にすっぽりと収まる小鳥は身動き一つしない。出るだけの血はとうに流れきって死後硬直が進んでいた。驚愕とも苦痛ともとれる丸い瞳も僅かに開いた嘴も、揺すろうともそのまま凍ってしまっている。夜風と朝露に曝され冷えた身体は、永久にぬくもりを取り戻すことはない。 「悲しくならないんですか」  平然としているようにも見える老いた横顔に問いかける。 「悲しいさ」ザナトアは即座に答える。「そして虚しい。でも慣れたさね」  皺だらけの手が、死骸に触れた手が、アランの背を静かに叩く。 「墓を作るよ」
 林に足を運び、奥へ進むとその光景は見えてくる。背の高い木々の隙間から入る早朝の木漏れ日がちかちかと揺れている中で、朽ち果てかけた木製のささやかな十字が整然と、しかし尋常ではない数で一面の土に刺さる情景は、薄い霧がかかったように寂然としていた。  ここ一帯の全ての地面を覆い尽くすような無言の墓の群衆。来たばかりのアランは訪れたことのない寂寞の地である。  息を呑み、立ち尽くすアランにザナトアが声をかけ、彼女は我に返った。  アランは連れてきたアメモースを隣に座らせ、二人がかりで、木の根元近くをスコップで掘る。フカマルも黙って土を掻き出す。地面タイプを併せ持つ彼は、土の扱いが上手で、人間よりも勢い良く掘り進めていった。ヒノヤコマや他の鳥ポケモン達は頭上の枝に止まり見守っている。誰かが指示したわけでもなく、示し合わせたように皆押し黙っている。誰もがこの沈黙を破ることは許されなかった。  柔らかい土ではあったが、ポッポ一匹分が入るだけの穴を作るには少々時間を要し、差し入る陽光が輝きを増す中で、やがて十分な穴が出来上がった。  秋の朝は冴え冴えとしているが、一連の動きでアランの額には豆粒のような汗がいくつも浮かんでいた。手の甲で拭い、深い影を含んだ空洞をしんと見下ろす。  黙すポッポを、ザナトアは丁寧な所作で、そっと、穴に入れて、余分に感慨に浸る間伐を与えず、上から掘り起こした分溜まった土を戻していく。さっと、身体が汚れていく。埋もれていく。嘴が見えなくなり、目が隠れ、傷だらけの身体がみるみるうちに土を被り、遂には完全に遮断され、明らかに掘り返したと解るその場所に、他と同様に即席で作った木製の十字を突き刺した。その瞬間の音こそが、訣別だった。  あのポッポはもう地上には存在しない。  目を閉じ、死を弔う。  数秒の後、アランが先に瞼を開いても、ザナトアは祈り続けていた。横顔は決して険しくはなくむしろ一見穏やかのようだが、皺の一つすら不動であり、正しく清閑の一言に尽きた。  木の葉が重なり揺れる音が、風の来訪を示す。呼び起こ��れるようにザナトアが手を下ろし新しい墓を視界に捉えた後、入れ替わるようにして、隣でフカマルが大声でさめざめと泣き始めた。人間の赤ん坊が泣くように懸命に声をあげて涙し、茂る木々の音のみの静けさである林を震わせた。  全身で悲しむ感性を宥めるように、ザナトアはその頭を撫でる。彼につられるように、天からは別離の挨拶をするような鳥ポケモン達の声が重なり合い、木々の隙間を縫って林の中をずっと響いていった。それはまるで自然が奏でる鎮魂歌のようであった。  アランは表情を凍り付かせたままで、涙は最後まで出てこなかった。  やがてフカマルが泣き止み、時間をかけて激情が落ち着いてきた頃、ザナトアは広がる墓場のほとんど中心に佇む、朽ちかけた大きな十字の前までアランを案内した。大きな、とはいっても、他と比較して多少枝が太いほどであり、特別な違いは殆ど無い。 「これが、どうかしたんですか」  アランからそう尋ねられることを待っていたように、ザナトアは重い口をゆっくりと開いた。 「チルタリスの墓だよ」  言われてすぐアランは目を丸くする。  昨日の今日だ。彼女がわざわざそう伝える意味、示されたチルタリスが一体どういった存在なのか、理解しているだろう。  足下でぺちぺちとその十字架を叩くフカマルを諫め、老婆は肩を落とす。 「フカマルの父親だよ。この子はガブリアスとチルタリスの間に生まれた子だ」 「それ、エクトルさんは、知っているんですか」 「知っているだろうね。知った上でだ、あいつ、ご丁寧に前金と卵と、一緒に何匹かポケモンをここに置いていった」深い息を落とし、苦々しい口調で続ける。「殆どは相棒と言っていいメインパーティの面子だ。訣別とするにはあまりに身勝手だったね。チルタリスはとりわけ悲惨だった。……滅びの歌という技を知っているかい」  アランは首を横に振る。  気丈に振る舞っているようではあるが、ザナトアも感傷に浸っている様子だった。 「長い旋律を三回繰り返し歌い続けると、自分も含め相手も味方も全員戦闘不能になる荒技さ。トレーナー同士のバトルではなかなかお目にかからないが、野生となると危険なもので、見えないところから歌われて手持ちが全滅、遭難してそのまま行方知らず、なんてホラーに使える話もあるような技さね。……チルタリスは、鍛えれば滅びの歌を自然と身につける。あの子は幼い頃から一緒だった主人との長い別離に寂しさを拗らせ心を病み、三日三晩滅びの歌を歌い続け仲間まで道連れにして逝った。あの歌は、たとえ頭が呆けても忘れられないだろうさ」 「……壮絶」  ぽつりと呟くと、ザナトアは頷いた。  膨大に立ち並ぶ十字架に囲まれた中心で、暫し沈黙を味わう。身代わりのように、無言で地面に立つ父親を示す墓の前、先程は叩いていた掌で今度はゆっくりと撫でる子供の姿があった。  自然を彩る小さな生き物たちの声もまた、歌のよう。滅んだ後に咲く、ささやかな花々のような生者達の声と、静まりかえるほどにどこかから幻のように漂う死者達の気配が混ざりあう。ここはそういう場所だった。 「あの夜、ここに住むポケモンも多く死んだ。中には育て屋として預かっていた子もいた。責任を取ろうにも命に代わるものなんてこの世には無い。どうにか落ち着いたけれど、もうブリーダー稼業は続けられないと確信しちゃったね」  そうですか、とアランは零し、周囲に目配せした。  夥しい���の十字架の理由。いくら育て屋として様々な別れを経験しているとはいえ、通常であれば、預けたポケモンはいずれおや元へ引き取られていく運命にある。数十年という、アランにとっては気が遠くなるであろう年月を経ているにしても、夥しいまでの墓はあまりに過剰な死別を物語っていた。 「それで、育て屋を辞めたんですね」 「まあ、跡継ぎもいないから、引き際をどうすべきか少し考え始めていたところだった。……こっちは、クロバットの墓さ」  小さな墓場の巡覧は続く。懐かしい昔話でも語るような口で、ザナトアはアランを促す。数歩左へ向かったところに、似た十字架が立っていた。 「……姿を見ないから、きっと、いないんだろうなとは、思っていました」 「察していたか。そりゃあ、そうかね。あんたは元々そのために来たんだ。会いたかったんだろう」 「まあ……はい」 「残念だったね」 「いえ」首を振り、躊躇いがちにアランは目を伏せる。「……その、記録、見ました。クロバットが頑張って飛ぼうとしていたこと、ザナトアさんが飛ばせようとしていたこと、ちょっとだけですけど、読みました。だから、会えなくても知ってます」 「いつの間に? いじらしいね。で、どう思った」  アランは迷うように言葉を選ぶ時間を使う。 「……驚いていました。あんなに頑張らなければ、もう一度飛ぶことはできないのかって」  ザナトアは懐古を込めてゆっくりと頷く。 「あのクロバットは、少し特別だった。あんなに踏ん張れる子はそういない。クロバットのことが世に知れてからは、同じようなトレーナーがやってきたし、あたしも出来る限りのことはしたけど、飛べるようにはしてやれなかった。……アラン」  改まって呼ばれ、彼女は、ザナトアの顔を見た。真剣な眼差しに射貫かれて、身動きがとれなくなる。 「必ずまた飛べるようになるとは、限らないんだ。それはきちんと言っておきたい」  だから、とザナトアは緊張を解かずに続ける。 「お互いに納得する答えを出して欲しい。あんたはポケモントレーナーだ。あんたが迷えば、ポケモンも迷う。アメモースと、エーフィ、ブラッキーを大事に育ててあげなさい」  そう言って、ザナトアはアランの胸に抱かれているアメモースの肌を撫でた。アメモースは気持ちの良い甘えた声を出し、その手に擦り寄る。死の衝撃を刹那の間忘れさせるだけの平穏が、指先に生まれた。  安らぎの瞬間を前に、アランは冷えた顔つきのまま深く頷き、ゆるやかに触覚を上下に動かすアメモースに視線を落とした。そして、再びクロバットの墓へと戻す。彼女がたったひとつの希望と縋った生き物、羽を失いながらも再び飛翔したという獣の不在を示す、無言の墓前で静かに一礼した。 「……クロバットも、滅びの歌で?」  ザナトアは頷く。 「頑張っていたんだけどね。チルタリスを励まそうともしていたが。あたしも、クロバットも、誰もね、閉ざしてしまったあの子の心に声を届かせることはできなかった」  冷静でいるようだが、ザナトアから滲んでいる自責の念にアランは唇を僅かに締めた。老婆の身体は、たゆたう感傷を重く背負い込み、平時より幾分縮こまっているかのようだった。 「あたしを求めて来てくれた子を助けることができず、たった一匹のポケモンの心を解してやることもできず、多くを死なせた。最も無責任なのは、あたしさ」 「……エクトルさんの責任でもありますよ」 「なんだ、励ましてくれてるつもりかい?」かすかに自嘲の色を滲ませながら、笑いかける。「そうさね。本当に無責任。でもね、今更あいつを責めたって仕方ないのさ。一度くらい墓参りに来いとは思うがね」 「今度会ったら、伝えておきましょうか」 「伝えたところで、来るかどうか。あいつだってキリの人間なら知っているはずだよ。それでも来ないんだ。これが答えさね」軽く首を振り、口許だけで微笑んだ。「余計なことまで喋っちまったね。帰るよ」  踵を返し、折れた腰でゆっくりと帰路を辿り、アランはその歩幅に合わせる。ザナトアの語り口はあくまでもうとうに清算したように淡々としていたけれど、重みを共有した二人の間に会話はなかなか生まれなかった。  林を抜け、影の落とす場所の無い広大な草原へ出る。  水で薄めたような透明感のある朝だった。空には薄く破って散らばめたような雲がぽつぽつと流れている。地上にはほとんど遮るものがないおかげで、随分と広い。どこかから優しい牧歌が流れてきてもおかしくないような、際限なく長閑な場所だった。美しい空の下、ザナトアは眼を細めた。 「いい秋晴れだね」 「はい」 「きっとポッポも、気持ち良く空に飛べるさね」 「……はい。きっと」  濁りの無い目には、小さな羽ばたきが映っているかのようである。誰よりも大きく翼を広げ、誰よりも高いところへと翔る小鳥の姿を見守る目だった。 「……空を飛ぶって、どんな感覚なんでしょうね」  アランがぼそりと呟くと、そうさね、とザナトアは返す。 「あんたは、一度も鳥ポケモンに乗ったことがないのかい」  軽くアランは首を振る。 「ありますよ。一回だけ。でも、その時のこと、あんまり覚えてないんです」 「勿体無いな。あれはなかなか癖になるよ。ま、あたしももう随分やってないがね」 「落ちたら」アランはほんの僅かに間を置いた。「大変なことになりますもんね」 「まだそこまで愚図じゃないよ」  馬鹿にするな、と抵抗するような口調だが、いたって穏やかな笑みを浮かべていた。  薄い雲が涼やかな風にのんびりと吹かれゆく姿を二人して見つめる。 「空って、あんまりに遠いから」  一度言葉を選ぶように口を閉じてから、アランは続ける。 「自分で飛んでいくことができたら、きっと気持ちがいいでしょうね」 「そうさね」  ぽつんぽつんと、泡沫のような会話が生まれては消えていった。アランは鼻からつんと冷たい秋の空気を吸い込む。深く、内側から身体に馴染ませるような味わいをゆっくりと呑み込んで、強ばった拳を僅かにほどいた。 「飛べたらいいのに」  ぽつりとした独り言を、ザナトアはうまく聞き取ることができなかった。  空を仰ぐ深い栗色に、透いた青色がかかっている。頭一つ分以上も違う高低差では、彼女を見上げるザナトアにその瞳は見えない。  ザナトアは何も言わず、そしてアランも沈黙に浸り、やがて誰も合図を出さないうちにどちらからということもなく再び歩き始めた。柔らかく乾いた草原をゆっくりと踏みしめる。腰を折りながらたっぷりとした時間をかけて歩くザナトアにアランは並行し、家に進むごとに、あのポッポが死んでいた卵屋の傍に近付くほどに身を固くした。  その後、ザナトアとフカマルは卵屋に向かいポケモン達の食事を、アランは自宅に戻り遅くなった朝食を用意することとなった。  裏口の傍で、エーフィとブラッキーが待っている。薄く青い日陰で耳を垂れ、寝そべるブラッキーにエーフィは付き添っていた。エーフィが微風に合わせるように尾を揺らし、しかしふと、アランを前にして、その動きを止める。  ザナトアと別れ、一歩、一歩と踏み出すほどに、アランの影から冷気が沸き上がってくるように、伴う気配は強張っている。  ポケモン達と共に帰宅し、後ろ手に扉を閉め、長い溜息を吐いた後、呟いた。 「誰が」  誰がポッポを――殺した。  アランは右手首のブレスレットを握る。 「黒の団なんてことが有り得るかな?」  エーフィに問いかけたが、彼女は肯定も否定もしなかった。 「違うだろうとは思う。発信器はもう無いはずだし」  いや、と呟き、ブレスレットに視線を落とす。 「そうとは限らない、のだとしたら……」  部屋は窓から差し込む、カーテンを通した弱い陽光のみ。手首は深い影の中にあり、囲う小石は淀んでいる。 「……でも、仮に場所が割られていたとしてもこんなまどろっこしい真似をするとは考えられない。……ただ、野生ポケモンが襲ったって話で片付かない予感がする。気味悪いというか……嫌な予感がする。万が一に、黒の団の仕業なのだとしたら、もう、ここには……。……でも……」  返答を期待してはいないように、一人、呟きを止めない。整理をするように、回る思考を口にしてその糸口を導こうとするけれど、最後には、わからない、と締めた。  噛み千切られた首と朝。不吉だった。黒い雨水が硝子窓を這うのを見つめているようだった。この家で新たな日常を過ごす外でも、近付く祭を謳う穏やかな時ばかりが経っているわけではない。現在とは、過去からの地続きの上にある。これから、いつ、何が、誰がその硝子を割り、破片の散らばる闇の中、首を掴みかかってくるか、解らない。  心許ないエーフィの一声に、アランは頷く。 「とにかく、今は用心していよう。何か怪しいことがあったら、すぐに報せて」
 ポッポの死から幕を開けた一日は、始まりこそ劇的だったが、それからは開いた穴を見て見ぬ振りをしているかのように努めて平穏に過ぎていきつつあった。近付くレースを前にヒノヤコマ達は外へ繰り出し、地上のフカマルは草原に棲み着くナゾノクサの群れの傍に立って、友達の堂々たる飛翔を遠景に眺めていた。ザナトアは寝たきりとなっているマメパトに薬を混ぜた餌を、手から啄ませるように与えて、その横でアランは、エーフィのサイコキネシスで下ろした天井の添え木にこびりついた汚れを雑巾で磨いていた。力仕事はすっかりアランが担うようになりつつある。アランは首にかけたタオルで汗を拭い、感嘆の息を吐く。アメモースは邪魔にならぬよう、ザナトアの定位置である椅子に座り、黙々と労働を眺めていた。  じきに夕暮れ時へと進もうという頃合いに休憩を言い渡されたアランは、アメモースを連れてリビングへ戻った。身を入れて励んでいた身体は疲労感を覚え、ソファに勢いよく座りこめばぐったりと目を閉じた。弛緩しゆく身体のほてりに委ねて暫し休んでいたが、数分経った後、ゆっくりと身を起こした。  毎晩眠っているソファにかけられたブランケットの端を揃えて畳み、端に置く。乱雑になった鞄の中を整理しながら、アメモースの薬やガーゼを纏めたポーチを取り出した。  アメモースの、当てられたガーゼを身長に剥いで、隠れていた傷口が露わになる。相変わらずそこにあるべきはずの翅は無いけれど、抜糸された跡は少しずつ埋まっていき、ゼリーのような透明感のある身体には不釣り合いな黒ずみも消えていた。鎮痛剤が奏功しているのか、最近は痛みに表情を歪める様子も少なくなっていた。  フカマルや他のポケモン達が駆け寄ってきて声をかけられれば、嬉しげに返事をして触覚を盛んに動かすようになった。新しい生活に馴染んでいくほど、急速にアメモースは回復しつつある。個体差はあれど、元々ポケモンは人間と比べ自然治癒の速度には目を見張るものがある。彼とて例外ではない。勿論、今の生活がアメモースに良い効果をもたらしていることは間違いなかった。  アランは真新しいガーゼを取り、テープを使って傷口をあてがう。直後、アメモースが穏やかに鳴いた声に、彼女は手を止めた。挨拶のようにたった一言。彼がアランに向けて声を発したのは、久しぶりだった。  フラネで発した悲鳴と、声にならない感情をそのまま表したような銀色の風。あの頃、誰もが混乱の渦中にあった。心も身体も整理がつかないまま旅に飛び出して、模索を続けている。そして、確実に修復されていくものがある。回復と同時に、決断を迫られる時は近付く。  アメモースを抱く時、彼女は背中を自分側に向けさせる事が多い。お互いに顔の見えない位置関係だ。今、ゆっくりとアメモースを回し、互いを正面に見据える。 「迷ってる」  ぽつりとアランが語りかけると、アメモースは不思議そうに表情を覗った。 「もう一度飛ぶことは、そんなに簡単なことじゃないって。時間もかかるし、きっとアメモースにとっては、辛い日々になる。苦しい思いをしてまで、頑張る必要なんてあるのかな。本当に叶うかどうかも分からないのに。傷つくだけかもしれない。ザナトアさんが見てきたポケモン達や、あのポッポのように。それは虚しい」  長い溜息をついた。あのね、と重い口ぶりのままで語りかける。 「アメモースが空を飛べるようになったらいろんなことがうまくいくような気がしていた。心が晴れて、皆が前向きになるような。だけど、違う。願っていただけ。そうなればいいって。ただ、止まってしまったらもう何もできなくなってしまう予感がしたから、その口実にしただけで。……いや、ただ私が、逃げ出したかったから」  一瞬、固く口を噤んだ。 「ひどいことを言ってるな。……ずっと、君のためという建前でいた。勝手にあの人から引き離して連れ回して。……ごめん、アメモース」  アランは静かに頭を垂れた。 「ごめん」  繰り返して、そしてそのまま、暫く動かずにいた。  アメモースが声を発するまで、アランは相手を見ることができなかった。穏やかな声を耳に入れて顔を上げた先で、アメモースの瞳は、笑んでいた。解っているのか、解っていないのか、その判別はつかないけれど、彼はアランに笑いかけていた。  つられるように、アランは口元に微笑みを浮かべた。そして、また彼の名前を呼ぶ。ねえ、アメモース。問いかける時期をずっと探っていたは��なのに、彼女はするりとその言葉を喉から零す。 「君は、飛びたい?」  つぶらに潤う瞳は揺るがずに、現トレーナーの真剣な表情を見つめた。 「痛みが無くなって元気になったら、もう一度飛びたい?」  飛ぶ。  あの空へ。  地を生きる彼女も一瞬だけ夢を見た。大空に向かうことを。  どこまでも蒼く、どこまでも遠く。風を纏い風と共に生きる、あの自由な世界へ。  アメモースは、首を傾げた。戯けたように、あるいはまるきり解らないように傾ける。  まだ決断すべき時では無いのか。彼女自身も迷っている。トレーナーが迷えば、ポケモンも迷う。アランの表情はかすかに曇る。  いつかここを出て行く時がやってくる、それは育て屋に暮らす野生の生き物に限った話ではない。迷い子としてやってきたこの場所、向かうべき道が見つかれば、或いは向かわなければならない道が明らかとなれば、発たなければならない理由があれば、いつかは再び旅立つのだ。
 その晩、深夜の事件の全貌は明らかにならないまま昼行性の生き物たちが眠りにつき、ひっそりと冷たくなった夜にアランはそっとソファから立ち上がった。  今晩は夜空を雲が覆っており、とはいえ湿気は薄く雨は降っていない。差し入る月や星の光が無く、周囲は足下のブラッキーの光の輪のみ、異様に浮き上がっていた。  息を殺し、直接放牧地帯へと繋がる扉に近付き外へと出れば、強い夜風に栗色の髪が吹き上がる。乾いており、やはり雨雲ではないようだ。このあたりは地上からの光も殆ど無い。萎縮するほどの闇に迷い込んだ。  果ての無い暗闇は掴み所が無い。  目が慣れてきて、僅かに見える物の輪郭と耳を頼りに、アランは摺り足で進んでいく。外に置かれた棚や壁を指で伝い、卵屋へと歩みを進める。  緊張を緩めず、開きの悪い扉を開ける。昼間ならポケモン達の声や羽ばたきで充満しているこの小屋も、今は沈黙している。まるで、死に絶えているように。  内壁を辿って一段ずつ大きな螺旋階段を登っていく。  二階まで来れば、生きた気配を嗅ぎ取った。藁に座り込み眠る鳥ポケモン達を一匹一匹確認する。彼女はまだそれぞれを覚えているほどではないが、少なくとも妙な空白は見られない。一晩数えるほどに、一匹居なくなっていく。そんな可能性が無いと言い切れない。  用心深く冷ややかな視線で周囲を見回すアランの視界に、一匹、椅子に隠れて彼女の様子を覗う獣が入った。気付いた直後こそ身構えたが、軟らかな月光に明らかにされれば、すぐに緊張は解かれた。丸い身体は細い椅子に隠れられるほど小さいものではない。  フカマルだ。巨大な口に整然と並ぶ肉食獣の牙は、か弱い小鳥の首ひとつ、容易く噛み砕く力があるだろう。しかし、ポッポは彼の友達だ。ポッポに限らず、ここに住むポケモン達に彼は生まれ持った愛嬌で好かれ、彼自身も仲間に対して溢れんばかりの愛情を向けている。墓前で見せた激しい号泣に嘘の混じりけなどなかった。彼は心優しいドラゴンであり、今もアランに脅える様からは、とても彼が事件の加害者であるとは見えない。  アランは唇の前に人差し指を立て、ドラゴンの隣へと近付く。その間、フカマルは彼女を凝視し、ひとときも目を離さなかった。強い警戒心と恐怖心を抱いているのだ。アランは小さく息を吐き、硬質な肌をゆるやかに撫でた。  大丈夫、と囁く。椅子を挟んで座り込み、壁を辿るように作られた寝床で眠りにつく鳥ポケモン達を仰いだ。  フカマルもまた見張っているのだろうか。新たな被害者が出る予感を払拭できず卵屋に集った同志は、沈黙を頑なに突き通す。  深い藍色の夜に白い光。青い世界に漂う獣の香りと、穏やかな寝息は一晩中続いていった。フカマルは座り込み、うとうとと瞼を閉じては、時折はっと覚める、そんな様子を繰り返した。アランは膝を抱え緊迫し続けたが、ゆるんだ夜の空気に馴染んでいくように、だんだんと肩の力を抜いていった。  その晩は何も無く過ぎていき、卵屋の青は薄らいでいく。有明の優しい眩さが山の向こうから広がり、大きな窓より光が注いだ。意識せぬうちに眠りに落ちたのはアランもフカマルも揃っていて、間近の囀りに瞼を開けばいつも通りの朝に包まれていた。平凡な朝が本当に平凡としてやってきたのだ。  まだ半分も目が開いていないフカマルのとろとろとした足取りに合わせて卵屋を後にしようと階段を降りている途中で、耳に障る扉の音がした。まだ生き物が全て目覚めていない早朝に、その音は強く響いた。ザナトアとアランで目が合った。彼女は一瞬目を丸くしたが、続いて呆れた表情を浮かべた。 「まさか一晩中見張っていたのかい」  階段を最後まで降りたアランはおずおずと頷くと、元気だねえと苦笑した。 「若いってのはいいもんさね。ちゃんと寝なよ」 「大丈夫です。このくらい」 「は。ちょっとは生意気な口も叩けるようになってきたか?」  皮肉交じりな口調で笑う。 「で、夜通し見張った甲斐はあったのかい」 「どうでしょうね。でも、誰も殺されなかったですし」  ね、と足下のフカマルに目配せをする。フカマルは立ちながら微睡んでアランの足に寄りかかっており、意識があるのか無いのかはっきりせぬ様子でぼんやりと返事した。 「物騒なことを言うね」  目を細めたザナトアが怪訝な口ぶりで言う。発言の違和感に気付いていないかのように、アランはどこか平然とした顔つきでいた。  「あのポッポが、明確な意図を持った誰かに殺されたと、そう思っているのかい」  圧力を感じたのか、アランはぐっと息を呑み込んだ。 「……分かりません」  ザナトアは首を左右に振る。 「昨日も言ったかもしれないけれど、良いか悪いかは別としてあたしはこういうことには慣れたんだ。ここは野生との境目があやふやだから、夜に野生ポケモンが忍び込んできて食べられるのは特別な話じゃない。昔は用心棒がいたが、今は止めた。だから、仕方が無いんだよ。あんたがそうも気に病む必要は無い」 「でも」アランの握りしめた拳に力が入る。「野生ポケモンに襲われたとは、限らないじゃないですか」  朝の空気には不釣り合いに、二人の間の空気に小さな火花が散る。 「あの傷は、明らかに自然の傷じゃない。食い千切られた跡ですよね。勿論、野生ポケモンによる可能性もあります。だけど、それ以外の理由だって否定できないでしょう」 「トレーナーが意図的にそうしたと?」  低い声で問われアランは硬直したが、老婆からかかる強い圧力に負けじと深く頷く。 「そうだね。確かに可能性は零じゃない。あんたには衝撃的だったろう。だがね、決めつけて行動するには少々直球すぎる」 「ザナトアさんだって、決めつけていることになっていないですか? よくあること、今回もそうだろうと」 「というより、拘る理由が無いかね。これが客のポケモンだったら死因を確認する必要があるけれど、毎回事件性を考慮していたらきりがない」  冷静に断言するザナトアは揺るがなかった。二人の間で散った火花を察知したのか、寝ぼけ眼のフカマルもはたと気が付き、おろおろと二人の間で視線を往復させる。二の句が継げず、アランは沈黙した。 「ま、冷たい奴だと思うのは勝手だけどね」 「いえ……」 「少し、意外だよ。そこまで動揺しているようには見えなかったから、あんたがそうも入れ込むとは。……考えすぎだよ。ちょっと気分を変えたらいいさね。顔でも洗ってきな」  細い手がアランの腰を叩き、横をすり抜けて老婆は二階へと上がっていく。 「ザナトアさん」  丸まった背中に呼びかける。のっそりと階段を上がっていく歩みを止め、振り返ったなんでもない顔に、アランは唇を噛み締める。 「確かに事故のようなものかもしれないですけど、なんだか嫌な予感がしてならないんです。恐いことが起きてしまわないかって」  数秒間ザナトアは言葉を探し、真顔で口を開いた。 「心当たりでもあるような物言いだね」  芯を捉えるような一言を残して、ザナトアは立ち尽くすアランに背を向けた。 < index >
0 notes