Tumgik
yo4zu3 · 4 years
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NIGHTCALL(柴君)
 ▽
 その日の君下はすこぶる機嫌が悪かった。
 元々の鋭い目付きと無愛想な性格が相まって、だいぶ人相が良くない自覚はある。それ故に君下はクラスで浮いている存在だった。親しい友人もいなければ、用がない限り誰も彼に近づこうとしない。通常運転で既にこれだから、今日のように君下が青筋を何本も立てて座っていると、あからさまに教室の空気が何キロも重くなった。
 ーー事の発端は前日の練習後に遡る。
 すっかり日の落ちきった午後8時過ぎ。
 その日鍵当番だった君下は倉庫に備品を片付け終えて、鍵を返しに体育教官室へと向かった。ノックをして「失礼します」と声をかけると、白く烟った教官室の奥から「君下、ちょっと」と顧問である中澤の声がした。グラウンドの脇にある小さなプレハブで、ほとんど体育教師たちの喫煙所と化しているそこは、普段ならば生徒が立ち入ることは許されていない。君下は初めて足を踏み入れる場所に少しドキドキしながら、「ッス」と小さく返して扉を閉めた。
「おう。どうだ、新しいポジションは」
 ぎい、と椅子が鳴り、パーテーションの向こうに背伸びをした中澤の頭が見えた。いつ見てもとっ散らかった黒髪にいくらか白いものが混じり、疲労が滲み出ているようだった。
「まあ、ぼちぼちです」
「そうか」
 二人の間でゆらゆらと紫煙が燻っている。中澤は咥え煙草のまま、無言で何か言いたげな目を向けていた。そうして暫くの沈黙が続くと、ようやく君下は腹の底で蟠っていた疑問を口にした。
「でもなんで、俺がフォワードなんすか」
 数時間前、中澤は部活前の君下を呼び止めて、ポジション変更を告げていた。入学して以来ずっとトップ下を守ってきた君下に、センターフォワードに入れと言ったのだ。
 このチームでプレイして半年は過ぎたが、君下には中澤の考えがいまいち分からないままだった。そもそも君下を聖蹟に引っ張ってきたのは他でもない中澤であったが、たかが中学生にエースナンバーをくれてやると約束したこともまた、腑に落ちないことだった。とはいえ当時の君下は、自分の力を過信していたきらいがあった。それに加え貰えるものはありがたく貰う主義なので(俗に言う貧乏性というやつだ)、返すつもりもなかったのだが。
「お前ならできると思ったからだ」
「はぁ」
「まあまだ初日だ。明日も同じ形でいくから、焦らずやってみろ」
 中澤は深くヤニを吸うと、ゆっくりとした動きで目を伏せて灰を落とす。それからもう一度まっすぐ君下と向き合った。
「それと大柴のことなんだが」
 その名前を耳にして、君下の顔がぴく、と引き攣った。なんとなく、こちらが話の本題なのだろうと思った。中澤もそれに気づいたようで、言葉を区切ると片眉を僅かに上げた。
「なんだ、なにか聞いていたか?」
「いや、なにも」
「そうか」
「で、何なんすか」
「一週間ほど休むそうだ」
「……は?」
 君下はぽかんと口を開けながら、なるほど合点がいった。
 君下がいきなりフォワードにコンバートされたのは、正規のフォワードである大柴が何かしらの理由でポジションを外れたから。大柴がいない理由などそんなことはどうでもいいが、問題はなぜパサーである君下がそこに入るのかということだ。
 選手層の厚いこの学校にはフォワードをやるものはいくらでもいる。それに君下がトップ下を離れるのならば、ふたたび開いたその穴には一体誰が入るというのだろう。
 君下の賢い頭脳は一瞬にしていくつもの疑問が浮かべたが、そのどれもが意味のないことのように思えた。中澤の光のない瞳がじっとこちらを伺っている。監督には何か考えがあるのかもしれなかった。
「……ポジション交代はその一週間だけっすよね」
「いや、それはわからん」
「おいおい、俺は嫌ですよフォワードなんて」
 よりによって、あいつの代わりだなんて。
 そう言い返すのも憚られた。そのぐらい、君下は大柴喜一という男が気に食わなかった。
 蘇る中学都選抜時代の記憶。同じチームにいながら味方同士で競い合うようにボールを奪っていたあの頃。たしかに君下は、最初からパサーをしていたわけではない。むしろ今の大柴のように、自分で積極的にゴールを狙うようなプレイスタイルだった。頭も切れて自分で点を取れる。それ故に中学選抜でついたあだ名は「悪童」であり、おそらく中澤もそれを知っているのだろう。そうでなければこの指示には疑問点があまりに多い。
 いつのまにか握った拳に汗をかいていた。君下が目の前の男を睨むように立っていると、煙草の火を消した手でぽん、と肩を叩かれる。力強いが、それでいてやさしい手つきだった。
「君下。賢いのは随分だが、そうあまり深く考えるな。俺はこのチームのありとあらゆる可能性を試したいだけだ」
「……」
「やるだけやってみろ。ただ、チームが今のままでは勝てる試合も勝てん。そのぐらい、ピッチに立っているお前なら分かってるだろ」
「ッ……クソが」
 君下は昨日のことを思い出して、小さく舌打ちを零した。
 結局何も言い返すことができなかった。中澤の突拍子も無い提案はともあれ、言っていることはあながち間違いではなかったからだ。
 七月、夏のインターハイは予選決勝で敗退した。
 一年生である君下にとって高校最初の大舞台だった。敗因はオフェンス陣が思うように点が取れなかったことと、チームの司令塔である君下との連携がほとんど機能しなかったことだった。
 苦汁を舐めることは二度としたくなかった。あんな無様に敗けるのは御免だった。中学時代の大敗を教訓にしてきたつもりだったが、その結果がこれだった。
 勝てない。
 だから君下は的を絞るために、チームの頭脳であり心臓であるパサーに徹することにした。たとえ自分の得点を捨ててでも。
 だがそれでも勝てなかったら、あの努力の日々には一体何の意味があるのだろう。
「おーい君下、寝てんの?」
 唐突に声がして、背後から肩を叩かれ君下はハッとした。そこでようやく自分がぼんやりとしていたことに気がついた。
「うぉ、何だよ」
「何だよじゃねーよ、さっきから何回も呼んでるんだけど」
「悪い……」
 君下に声をかけたのは鈴木だった。同じサッカー部の一年で、レギュラーではないがそこそこ上手い経験者。地味だが人好きする性格で、部内でも浮き気味の君下に気軽に声をかけてくるような男だった。
「どうした、寝れてないのか? すごい顔してるぞ」
「うるせぇこれは元からだ」
「それは否定しないけど、今日は特にひどいぜ。乾燥した日のグラウンドみたいな顔色してる」
「お前わりと失礼だな……」
 あまりにもじっと見つめられるので、君下はなんだか気恥ずかしくなってきた。目を逸らして、「何でもねぇよ」と小さく呟くと、鈴木は紙パックの牛乳を啜りながら「ならいいけどさ」と、さして興味もなさそうに教室の入り口を見ている。
「君下がいつもに増してすげー顔してるから、みんな怖がってるぜ」
 そう言われて、君下はようやく周りを見た。昼休みである今、自分の周りの席はおろか、君下の席からきっちり教室半分は人が居なかった。ドアの周辺に佇んでいる、不安げにこちらを見つめるクラスメイトの集団に気づいたところで、再び鈴木に視線を戻す。君下と鈴木を見つめるたくさんの目は、まるで檻の中にいる猛獣でも見ているかのような視線だった。
 見た目で勘違いされやすいが、君下はいわゆる不良などではなかった。根はクソがつくほどの真面目であり、寧ろ学業における成績は優秀で、入学以来ずっと学年一位をキープしている。それに加えて強豪サッカー部の特待生で奨学金を貰っている身であるから(君下の家は貧乏な父子家庭だった)、素行不良などどうしたってできるわけがなかった。
 ただ大柴と居ると、腹の奥底から湧き上がる得体の知れない感情に左右されやすくなる。あのふざけた態度と面を見ているだけで、どうにも我慢が効かなくなってしまうのだ。
 顔を合わせればどちらかがーーどちらかと言えば大柴からの方が多いがーー喧嘩を吹っかけて、その場で睨み合いや口論になる。悪ければ互いに手がでることもあるが、大抵の場合がその場に居合わせた誰かの仲裁で未遂に終わった。そう言うことがしばしば起こり、いつのまにか二人は犬猿の仲として学校中に認知されるようになったのだ。
 ▽
「あの赤アタマ、とうとうクビになったのか?」
「さぁ、知らね。ともかく1つ席が空いて良かったよな」
「ほんとそれ。ただでさえレギュラーなんて狭き門なのによ、一年が二人も居座っちゃあな」
「最初から先輩に席を譲れってんだよ」
「言えてる」
「つーか君下もだよ、なんであいつがフォワードなんだよ」
「あーあれ監督の指示だとよ。臼井が聞いたって」
「マジ? なんでよ」
「知らん」
「ついにケツでも開いたか?」
「ギャハハあり得る」
「おい! きったねぇなー、飛ばすなよ」
「だってよぉ、夏負けたの、明らかにあいつのせいだったろ?」
「な、流石の悪童もブルっちまったんじゃね?」
「あーあったな悪童とかいう大層なあだ名」
「ハッ、どこでもいいから使ってくれってか、一年坊が。調子に乗りがって」
 大柴がいない部活はいつも通りだった。
 入学早々レギュラー入りを果たした君下や大柴が、控えの上級生に陰口を叩かれているということはなんとなく想像がついた。今までだって何度も似たような経験をして、その度に結果で黙らせてきた君下だったが、こんなあからさまな陰口を偶然聞いてしまって、素直に気分がいいとは言えなかった。
 大柴の不在についてミーティングで中澤は何も言わなかったし、それについてわざわざ聞き返す者もいなかった。君下が大柴の居たポジションにコンバートされた今、大柴はドロップアウトと考えるのが妥当だった。
 君下は当然のようにフォワードの練習に混ぜられ、久しぶりにも感じるシュート練習に身を入れた。トップ下でもそれなりに蹴る機会には恵まれるが、聖蹟高校の得点数の8割以上は、伝統である三本の矢からなるフォワードの功績だった。総シュート数で考えても、圧倒的に場数が違う。
 加えてフォワードは敵ディフェンダーとのぶつかり合いになることが多い。前線でボールを保持するための身体の強さは勿論のこと、それを振り切るだけの脚力と、飛んできたボールに合わせられるジャンプ力や背の高さも必要になる。
 君下はそのどれもを持っていない。背や筋肉量といった先天的なフィジカル面も足りなければ、瞬発力だって左サイドの水樹に比べれば今ひとつだった。だから何も持たない君下が前線で勝負するためには、シュートの精度を上げる以外に道はない。
 慣れない雰囲気での練習を終え、君下は日課にしている勉強もそこそこに眠り込んでしまった。一日中気が立っていたこともあり、無意識のうちに疲労が溜まっていたらしい。夢も見ないほどぐっすりと眠り、目が覚めたのは翌朝5時だった。
「……寝すぎたな」
 ベッドの上で背伸びをして、ブランケットに包まったままカーテ��の外を見る。秋の朝は遅い。空は夜を色濃く残したまま、まだ星がいくつか輝いていた。こんな時間に目が覚めたのはあの夏の試合ぶりだった。
 だが起きるのには僅かに早い時間だった。自主参加の朝練には顔を出すつもりだが、それでもあと30分は眠れるだろう。君下はゆるく瞼を閉じて、再び睡魔がやってくることを祈った。
 そうして暫くうとうととしていると、ブルッ、と枕元のスマホが振動した。震え続けるスマホに苛立ち、チッと短く舌打ちをしてもぞもぞと手繰り寄せる。
「あ?」
 あれからまだ十分も経っていなかった。当然アラームも鳴っていない。ホーム画面に残っていたのは、メッセージアプリからの通知で「バカ喜一:不在着信」の文字。
「電話……あいつが?」
 中学都選抜の付き合いで止むを得ず連絡先を交換した記憶はあるが、実際に番号を使ったことなど今まで一度もなかったはずだった。メッセージアプリって電話帳が勝手に登録されるのか? 寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、手の中のスマホがもう一度震えだす。また「バカ喜一」からの着信だった。本当に本人なのか怪しいところだが、君下は出るかどうか迷った末、緑の通話マークに触れた。
「……おう」
『お、繋がった。そっち何時だ?』
「はあ?」
『だから、何時だって聞いてんだろ』
 電話の相手はちゃんと大柴だった。だが言われた言葉の意図がよく分からない。もしかしてかけ間違いなのか? 偉そうな口調はいつも通りなのに、随分と久しぶりに声を聞いたような気がした。
「朝5時過ぎだが」
『ア? んな早く起きてるとか、ジジイかよ』
「んだとテメェ」
 親切に教えてやった挙句に罵られ、カッと頭に血が上った君下は通話を切った。強制終了。二度とかけてくるんじゃねぇと思いながら、ブロックしようと思ったがどうにもやり方がわからなかった。覚えていたらあとで鈴木に聞こうと思った。
 へんな電話のせいですっかり目が覚めてしまった。少し早いが支度をして、まだ空が暗いうちに家を出た。その後電話がかかってくることもなければ、人の疎らな電車に揺られてぼんやりとしていると、あれだけ嫌っていた大柴から着信があったことなどすっかりと忘れてしまった。いつのまにか日が昇っている。たくさん寝たからか、昨日よりは少しマシな気分だった。
「お、昨日より元気そうだな」
 そう言われて君下が振り返ると、いつのまにか鈴木が後ろの席に座っていた。鈴木はいつものように牛乳パックのストローを噛みながら、片手であんぱんの袋を破っている。この男はたしか君下の隣のクラスだったはずだが、まるで最初から自分の席だと言わんばかりの態度で他人の席に腰掛け、口の端からパンくずをぼろぼろと零していた。
「食い方が汚ねぇ……」
「いやこれパッサパサなんだって。見ろよ、半分食ったのにまだあんこが出てこない」
「やめろ、食いかけを人に向けるな」
「絶対あんこ入ってないよな? チクショウ売店のおばちゃんに文句言ってくるわ」
 ドッコイセ、ととても高校生に似合わない掛け声とともに、鈴木はのそりと立ち上がると大きく背伸びをした。くああ、と大きく口をあけて欠伸をする鈴木に向かい、「お前こそちゃんと寝てんのか?」と問いかけると、背伸びのせいではみ出したシャツをスラックスに押し込みながら「いやーホラゲ実況見てたら寝れなくなってさ」とケシの実のついた口でぼそぼそ呟いている。
「あ、」
 唐突に声を上げた君下は、そういえばこの男に聞きたいことがあったはずだった。律儀にも椅子を元に戻した鈴木が「ん? なに?」と首を傾げていたが、やっぱり思い出すことができずに「いや、忘れたわ」とだけ返した。鈴木はしばらく不思議そうな顔をしていた。
「君下ってわりとおしゃべりだよな」
「別に、普通だろ」
「なんか色んな噂が立ってるからさ、てっきりヤバいやつかと思ってたけど。口が悪いしちょっと変だけど、思ったより親しみやすいっていうか」
「変って、どこが」
「そのインナーの信じられないほどのダサさとか」
「ハァ? 目ぇついてんのか格好良いだろうが」
「あとそのネックレス、田舎のチンピラみたい」
「お、お洒落だろ……」
「全然。てか普通に怖いからやめたほうがいいよ」
 そんな感じでああだこうだと一通り文句をつけて、鈴木は去っていった。不思議な男だった。それでも嫌な気がしないのは、陰口を言う上級生たちとは違い、この男に一切の悪気が感じられないからだろうか。
 ▽
 枕元で長い振動がして、君下は無意識のうちにスマホを手に取ったらしい。枕に顔を埋めたままそれを耳元へ当てると、ガザガザとしたノイズに混じり、男の低い声がする。
『おい、起きてるか』
「んーー……ぁんだよ、」
 喋りながら、寝起きの君下は自分が誰と話しているのかわからなかった。頭が重い。昨夜は遅くまで予習をしたから、あまり寝たような気がしなかった。そんな君下の都合など知らない男は、『なんだよ、毎朝5時に起きてるんじゃないのか』と不貞腐れている。
『寝ぼけてんのか?』
「………………っるせーんだよタワケが」
 ムニャムニャと呟いて、諦めたように薄っすらと目を開ける。ぼやけた視界が捉えたスマホの通話画面には「バカ喜一」の文字があった。ちょうど朝5時を過ぎたところで、昨日も似たような時間に電話があったことを思い出した。
「テメェ……ふざけんのも大概にしろよ。こんな朝っぱらに電話してきやがって」
『るせぇな、俺だって暇じゃないんだよ』
「つーかお前、今どこに居んだ」
『イギリス』
「ハア? テメェのほうこそ寝ぼけてんのか?」
『昨日言っただろうが』
「聞いてねぇ。 つか、イギリスがどこか知ってんのかよ」
『当然だろ、馬鹿にするな』
「馬鹿だろうが」
『ブッ殺す』
 そこでブチッと通話が切れた。大柴が切ったようだ。
「いや……何なんだよ」
 君下はスマホを放り投げると目を瞑り、ごろりと仰向けになった。両腕を額の上に乗せて、はぁーっと長い溜息をついた。
 ……イギリスだと?
 学校も練習も来ないやつが、なんで突然そんなところに居やがるんだ。テメェが練習に来ないせいで、俺はやりたくもないフォワードをさせられているというのに。
 ブーッと再びバイブレーションが鳴った。また大柴からの着信だった。自分から切っておいて掛けてくるとは、奴は余程暇なのだろう。電話に出るか迷った君下は起き上がり、のろのろと部屋を出て小用を足しに行った。戻ってくるとまだスマホが健気に鳴っているので、仕方なく濡れた手で通話ボタンに触れる。
『遅い』
「うるせぇ俺はテメーと違って暇じゃねぇんだ」
『せっかく俺様が起こしてやったってのに』
「早すぎだ馬鹿が。そっちは……夜8時ってとこか」
『ああ、結構寒いぞ』
 君下は通話開始5秒で電話に出たことを後悔した。どうやら大柴はモーニングコールのつもりで電話を掛けてきたらしい。余計なお世話だ。
 だが本当にイギリスにいるのだな、と君下は思った。そもそも日本にいるのならば、大柴がこんな時間に起きているはずがない。
「つーか、なんで急にイギリスに?」
『従姉妹の結婚式だ。俺も練習があるし、最初は行く予定じゃなかったんだが無理矢理母さんが……まあ、いろいろあんだよ。家庭の事情ってやつだ』
「ハッ、金持ちも大変だな」
『そういうお前は、練習はどうだ?』
「あぁ……」
 君下は黙ってしまった。あれだけ練習に不真面目だった大柴が、部活のことを気にかけているのが心底意外だった。だからこの男に本当のことを言うべきなのか、少しの間迷ってしまった。
 俺が今、お前のポジションをやっていること。俺のいたポジションには、大して上手くもない三年が入っていること。そのせいでなかなか連携が取れずに水樹が苦労していること。皆はお前がもう戻って来ないと思っているということ。
 ……というか、お前は本当に戻ってくるんだよな?
 そんならしくもない疑問までもが浮かんできたところで、電話の向こうから『喜一、そろそろ出掛けるわよ』と彼の姉らしき声が聞こえてきた。
『悪い、もう行くわ。今から夕食なんだ』
「あ、ああ……そうか」
『じゃあな、俺の分までしっかり練習したまえ』
「うるせぇタワケが。お前こそサボってんだから筋トレぐらいしとけよ」
『余計なお世話だバーカ』
 ブツリ、そこで今度こそ通話は終わった。
 最後、咄嗟に口うるさいことを言ってしまった君下に対し、大柴は本気で怒っている様子ではなかった。どちらかというと仲の良い友人に対して使うような、気安い軽口のような「バーカ」だった。聞きなれない声になんだか胸のあたりがむず痒く��自分のベッドの上だというのに居心地が悪かった。
 いつのまにか、普段起床する時間になっていた。アラームのスヌーズ機能を切った君下は、もうすっかりと目が覚めている。 
 ▽
 
 翌朝も大柴から電話が掛かってきた。やはり朝5時ちょうどだった。
『起きてるか?』
「ン゛……んだよ喜一……」
『おい起きろよ、俺は夕食前しか時間が取れねぇんだ』
 聞き飽きているはずの大柴の声はどことなく落ち着いていて、寝起きの耳にやさしい、低い声だった。君下は練習の疲労が溜まっているせいか身体が怠く、目を閉じたままごろりと寝返りを打って仰向けになる。
『お前が疲れてるなんて珍しいじゃねぇか』
「別に、いつも通りだろうが」
『あっそ』
「それで結婚式とやらは終わったのか?」
『いや、明後日だよ』
「そうかよ……」
 一言二言と適当に話しているうちにだんだんと頭が回ってくる。冷静になった君下は、なぜ俺はこいつとどうでもいい話をしているのだろう、と訳がわからなくなった。思い返してみれば大柴と、こんな友人同士の世間話のような会話をしたことがなかった。
 昨日だってそうだった。部活の様子を聞いてきた大柴があまりにも意外だったので、君下はつい本当のことを言い止まってしまった。つまり君下は大柴に気を遣ったのだ。この犬猿の仲である男に、悪童と呼ばれた男が、だ。信じ難いことである。
『そういや今日筋トレしたぞ』 
「テメェどうせ腹筋10回とか、そんなしょうもねぇこと言うんだろ」
『なぜ分かった?!』
「バカじゃねーの」
『う……で、でも走ったぞ! ホテルの横にバカでかい公園があって、デカイ犬もいっぱい走ってた』
「へーへー」
『んだよ舐めやがって……フン、まあいい。俺様は今からレストランへ行くからな』
 今日はロブスターだ! と電話口で叫ばれ、思わず顔を顰めているとそこで電話は切れていた。ロブスターは羨ましいが、一体あいつは何がしたいんだ。
 その日は土曜日で、午後の練習では他校との練習試合が組まれていた。相手は東京でベスト8に残る常連校であり、選手層も厚く、攻守ともにバランスのいいチームだ。そこへ君下が初めてフォワードとして、ボールキックをすることになったのだった。
「君下、お前は無理に取りに行かなくてもいい。が、来たボールは必ず拾え。自分で狙えるなら狙って、無理ならいつも通り水樹か、右サイドの橋本に流せ。俺はお前にフォワードに入れと言ったが、お前のやることは普段と少しも変わりないよ」
 試合前に中澤の言葉を聞いた君下は、あぁなるほど、と思った。まだ一年の君下にエースナンバーを与え、トップ下としての才能を見出したのは中澤であり、敗戦が続いた今でもその可能性を見捨てられたわけではないことを理解した。
 要するに司令塔のポジションが一列上がっただけだ。とは言えそこはチームの最前線であり、全体の指揮を執るには偏りすぎている。後列を動かすためにはどうしたって中盤、とくにトップ下を経由しなくてはいけない。その為の「大してうまくもない三年生」だった。つまり君下が全てパスで動かせばいい。
 結果は、数字だけで見れば引き分けで思うようにはいかなかったが、君下にはたしかに手応えがあった。課題も見えた。後半で蹴ったフリーキックがうまく入ったとき、求めていた何かが満たされる感覚があった。本来ストライカーならば持っているはずの獰猛さを、この練習試合を通して君下はまざまざと思い出したのだった。
「おつかれ〜」
 首元をひやりとしたものが触れ、君下は思わず「ヒッ!」と悲鳴を上げた。ゾゾゾ、と鳥肌を立たせながら振り向くと、冷えたスポーツドリンクを片手に鈴木が立っていた。その後ろに佐藤という、いつも鈴木と組んでいる男もいる。
「テメェは……いつもいつも俺の背後に立つんじゃねぇ」
「こわ、どっかの殺し屋みたいだな」
 君下が「ほい」と手渡されたドリンクを受け取ると、二人は君下の隣に座り込んだ。試合に出ていない二人は何をするわけでもなく、ただ君下が靴紐を解いているさまをじっと見ているだけなので、どうにも居心地の悪い君下は「んだよお前ら」と渋い声を出す。
「君下、なんか今日は吹っ切れたみたいな顔してる」
「そうか?」
「うん、ちょっと嬉しそうだよ。な、佐藤」
「うーん、ごめん。俺には全然わかんないんだけど」
 いきなり話を振られた佐藤は、眉を下げて困ったように笑っている。君下はあまりよく佐藤のことを知らないが、こいつは苦労人タイプだろうなと思った。
「でもお前、あれはまさか狙って打ったのか?」
「あのフリーキックな。相手チームもびっくりしてたよな」
「まあ、あんなのはマグレだ。毎回入るようなもんじゃねぇ」
 半分は謙遜だったが、それを百発百中にするための練習をしてきたつもりだった。今日入ったのはそのうちの何割かに過ぎないのだろうが、キックの精度は経験の数に比例すると君下は思っている。しばらくどん底を歩いてきた分、この1点は希望を持つには十分な1点だった。
「ていうかさ、大柴って辞めてないよな」
 何気ない佐藤の一言に、君下は飲んでいたスポーツドリンクを吹き出しそうになった。寸でのところで飲み込むと、気管に入ったのか「ゴホッ!!」と大きく咳き込む。鼻の奥がつんとする。
「うわッ大丈夫か?」
「……な、何でもねぇ」
「あー佐藤、こいつの前で大柴の話はナシだろ」
「え、そうなの?」
 君下は口元を拭いながら、キッ、と隣の鈴木を睨んだ。当の鈴木は涼しい顔で、しかしぺろりと舌を出している。なんだか嫌な予感がしていた。
「喧嘩の相手がいなくなってさ、ほんとは寂しいんだよこいつ」
「おい、何バカなこと言ってやがる」
「そうなのか?」
「あ、水樹先輩」
「なっ……?! アンタも信じてんじゃねぇ!」
 鈴木の両頬をつねる君下の後ろに、いつのまにか二年生である水樹と臼井が立っていた。「いひゃい、いひゃい」と抵抗する鈴木の声に、通りかかった他の先輩らも「え、なになに?」「何してんの?」と次々と群がってくる。
 君下は咄嗟に鈴木の顔から手を離し、「あ、いや、何でもないっす」と、わざとらしい笑顔を貼り付けて肩を組んでみせた。これ以上鈴木が何も言わないように、肩を組むふりをして首を締めようという魂胆だったが、水樹の隣に立っていた臼井が唐突に「それにしても、今日のお前はすごく良かったよ、君下」と褒め出したので、それがあまりに意外だった君下は「あ、あざす……」と答えることしかできなかった。
「確かにあのキックは痺れたわ」
「わかる、最近めっちゃ蹴ってたしな」
「ポジション変わって大変だったろ? ほんとお前はよくやってるよ」
 結果は引き分けで褒められたものではない。だがそれでもきちんと評価してくれる者もいる。その事実にほんの少しだけ泣きそうになっていると、首を大きく傾けた水樹に「今日の君下は、なんか大柴みたいだった」と言われて、君下はその日で一番キレ散らかしたのだった。
 ▽
 電話が鳴っている。
 君下はスマホを手に取り、「着信:バカ喜一」の文字をぼうっと眺めた。
 大柴がいなくなって既に5日が経っていた。
「おう」
『あ? なんだ、起きてやがる』
「毎日テメェに起こされるのも癪だからな」
 自分で言いながら思わずふ、と小さく笑うと、聞こえていたらしい大柴が『なんだよ、気持ち悪いな』と笑っていた。
 未だに電話で話していることが幻のように感じるのは、大柴の声が記憶の中よりも柔らかいからだろうか。あの嫌味ったらしい顔も見えないせいなのか、不思議と君下が本気で苛つくことはなかった。
『さっきまで隣の公園で子供たちとサッカーしてたんだ。俺様の圧勝だったけど、でもさすがはヨーロッパって感じだったな。俺らが子供のときより上手いかも』
「へぇ、折角だから負けてくれば良かったのに」
『負けねーよ。俺を誰だと思ってる』
「大人げねぇな」
『それで急に土砂降りになって、慌てて戻ってきたところだ』
「そりゃあ、災難だったな」
『うわ、道が冠水してやがる。酷いなこれ』
 大柴の声が遠くなったので、恐らく窓を見に行ったのだろう。そういえば電話に出たときからザーザーと雨のような音がしてた。
「明日なんだろ、結婚式。あ、待てよ、日曜なら今日か?」
『明日で合ってる』
「せいぜい楽しんで来いよ」
『ん。式が終われば明後日にはもう飛行機だ』
 あ、帰ってくるのか、と、君下は当たり前のことを思った。中澤にも言われていたので分かってはいたが、なんだか実感がまるでなかった。
 大柴は戻ってくる。そうしたら君下はもうフォワードじゃなくなる、かもしれない。元に戻ることは喜ばしいことのはずだった。
 だが君下は、昨日の練習試合で何かを掴みかけた気がした。出来ることが増えるということは、単純に考えて良い事のはずなのに、大柴の居ないチームがうまくまわりはじめてなんだか寂しく思ったことを、鈴木に言われた君下は気づいてしまったのだ。
 同時に君下はずっと苛立っていたのだ。
 大柴がいなくなり、それを受け入れはじめたチームと君下自身に。
 当然のように中澤が君下をフォワードに置き換えたことに。
 君下に黙って、勝手にイギリスなんかに行ってしまった大柴に。
「ハハッ」
 思わず君下は笑った。自分でも気味が悪かった。それでも笑わずにいられなかった。お前がいなくて寂しいと言ったら、この男はどんな顔をするだろうか。そう考えて、今だけは電話越しで顔が見えないことが惜しかった。
「さっさと帰って来ねぇと、寂しくて泣いちまうだろうが」
『……へ? な、なに言って……おま、』
 予想通りの反応を見せた大柴がおかしくて、笑い死にそうだった。君下は暫く笑いを堪えていたが、どうしても漏れてしまう吐息を聞いて、本当に泣いているのだと勘違いした大柴が「いや、仕方ねぇだろ……」と慰めのような言葉を吐くので、もう限界だった。笑いすぎて本当に涙が出てくる。
「冗談だバーカ。だがぼーっとしてると、俺がテメーの背番号貰っちまうからな」
『あ゛?! なんでそうなるんだよ!』
「ああ、言い忘れてたが、俺いまお前のポジションしてんだわ」
『ハア?! 聞いてねぇぞ!』
「まあ言ってないからな。お、練習の時間だ。せいぜい旅行を楽しめよ」
『おい待てっ!』
 ブツリ。通話を切って、ついでに電源も落とした。
 君下はもう寂しくなどなかった。
 君下の電話に怒り狂った大柴が帰ってくるのが楽しみだった。 
 
( NIGHTCALL / おしまい )
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パンと味噌汁とホットミルク(鈴佐)
 高校を卒業しても相変わらず付き合いがある人間といえば、サッカー部の連中以外では意外にも何度か合コンに行った程度の顔見知りだったりする。それ以外であまり絡んだ記憶もなく、そもそもクラスが一緒だったのかすら怪しいその男と、偶然にも大学で再会したのが全ての始まりだった。
 選手権大会で優勝した際にスタメン入りしていた佐藤は、校内でちょっとした有名人として持て囃された時期があった。普段なら連まないような派手な身なりをした男が、恰も「俺たち幼馴染です!」といった態度で手を振ってくる。佐藤はそれになんとなく手を振り返す。で、気がつけば高校を卒業し、大学入学後何度目かの合コンに至る訳だ。
「ねー鈴木くん何飲む?」
「あ……じゃあジンジャーハイボールで」
 つーか俺、鈴木じゃねぇ、佐藤だし。そう言いたいのは山々だったが、いつも通り酒と共に飲み込んだ。最初こそは可愛らしい上目遣いで佐藤くんと読んでくれる。だがそれも酔いが回り一段と頭の悪くなった女たちは、どうしてだか決まって俺を鈴木と呼ぶのだ。どちらも似たような名前だろう、と言われるのは目に見えている。だが冷静に考えてほしい。共通点が互いに平仮名三文字漢字二文字という点だけで、決して似通っている訳ではない。となると考えられる事といえば、どちらも全国苗字ランキングの上位に食い込むような、在り来たりな名前であるという事。そして、その在り来たりな名前のせいで、俺という人物が相手に正確に把握されていないという事。考えただけで切なさで泣きそうになる。
「鈴木くん飲むのはやーい!」
 グッと一気に煽ったハイボールが、飲み込むたびにしゅわしゅわと喉を焼く。だから鈴木じゃねぇって。洒落たイタリアンから始まった会は、場所を移すこと三軒目。所謂大衆居酒屋のような小汚い店で、そこそこにメイクも崩れて来た女たちに佐藤の理性は崩される訳がなかった。ブスブスブス、ブスばっかじゃねぇか。程々に酔いの回った頭でそんなことを思うと、なんだか自分が大柴に似ているような気がして急に可笑しくなる。碌に女も知らない癖に、幼稚な文句を吐き続けた腐れ縁の男を思い出す。結局クラスが三年間同じだった。佐藤に彼女が出来なかったのは、間違いなくアイツのせいだと信じている。
「……今なんじ」
 見慣れた天井を仰ぎ見て、使い古された言葉を発する。からからに乾いた喉が張り付いて、みっともない音しか出ない。二人掛けのソファーに無理矢理押し込めた足が痺れている。鈍い脹脛の痛みに耐えながら、身体を折り曲げ爪先を掴む。そういえば靴下はどこに行ったのだろう。
「ちょうど二時を過ぎたところ」
 淡々とした口調で鈴木が答える。外されたイヤホンから漏れるシャカシャカとした軽快なリズムが少しだけ煩わしい。
「いつも悪いな、栄太」
「そう思ってるなら、あんなになるまで飲むなよな」
「はは……悪い」
 二度目の謝罪を口にすると、二人にそれ以上会話はなかった。またこれだ。佐藤は本来、そう容易く飲まれるほど酒に弱くはない。興味のないこと以外はある程度憶えているし、気になった女がいたかどうかも憶えている。忘れ物さえした事がなければ、駅前のベンチで寝たことも、今の今まで一度もなかった。それなのにここ最近は立て続けに帰宅した時の記憶がない。それも必ず終電の無くなった頃に、幼馴染である鈴木の住むアパートで目が醒めるのだ。鈴木とは大学も違えば、住む場所も正反対であり、今日の合コンの話ですらした覚えはない。それなのに俺はどうして鈴木の家にいるのだろうか。
 翌朝佐藤が眼を覚ますと、鈴木は既に起きていた。数時間ぶりの天井を見つめながら、飲み過ぎのせいか頭痛のする頭が動き出すのを待った。
「朝飯食える?」
 起きていることに気づいたらしい鈴木は、焼かないままの食パンを齧りながらキッチンからやって来た。1DKのアパートには味噌と出汁の香りが漂っているのに、白飯ではないのかと少し落胆する。こういうちょっとズレている所が如何にも鈴木らしい。
「ちょっと食いたい。つーか腹減った」
「どっちだよ」
「どっちも。腹減ってるけどなんとなく食える気がしないときってあるじゃん」
「ふーん変なやつ」
 ずず、とワカメの味噌汁を啜る鈴木は、相変わらずのポーカーフェイスだった。佐藤は日常生活以外であまり使うことのなくなった腹筋で勢いよく起き上がると、硬いソファーで寝ていたせいで何処もかしこも身体が痛んだ。ぐっと背伸びをして、遅れて出てきた欠伸を噛み殺す。ローテーブルに用意された木の椀からはゆらゆらと湯気が立っていた。
「栄樹、今日授業は?」
 ふうふう、と味噌汁に息を吹きかけていると、既に食べ終えたらしい鈴木が食器を重ねている。
「三限だけ。栄太は?」
「俺も三限から。出るまでもう一回寝ていいぜ」
「んーどうしようかな」
 味噌汁は思ったより熱くなかった。白味噌の程よい塩分が、飲み過ぎた身体にじわりと染みる。そんなことを鈴木に言えば、間違いなく「うわ、年寄り臭い」と言われるだろう。聞かずとも目に浮かぶような光景に、パンを齧る口元が緩む。そういえば味噌はアルコールを分解するのだとか、いつかテレビで聞いたことがある気がする。もしかしたら食パンに味噌汁というこの妙な組み合わせも、二日酔いの佐藤を気にかけての事だったのかもしれない。そう思うと余計に上がる口角を隠し切れない。
「なに笑ってんだよ」
 厚手のマグを二つ持ってきた鈴木が眉間に皺を寄せている。色違いで同じデザインのそれは、決して二人揃いで買った訳ではないのにそう見えてしまうからタチが悪い。
「いや、俺ってもしかして愛されてるなって」
「えっ気持ち悪……だからいつまで経っても彼女が出来ないんだよ」
 それはお互い様だとは、今は言わない方がいいだろう。ホットミルクは味噌汁に合わないことも、いつか言って聞かせなければならない。
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yo4zu3 · 4 years
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勝利の女神(中臼)
 脱ぎ散らかした皺のついたワイシャツ。行方不明の下着。山積みになった煙草の吸殻。古い畳と汗の匂い。
 何処にでもある4階建てアパートの最上階、角部屋。1LDKとは呼び難い、柱も仕切もない吹き抜けた空間には、最低限の生活をする為だけの家電と一人用の布団が一組あるだけだった。男の一人暮らしを思わせる殺風景な部屋に、我ながらミニマリストとはよく言ったものだと思う。そこはただ男が一人、一日の終わりに寝に帰るだけの為に存在する。待ち人など誰もいない、そこに流れているのは孤独の時間だけだった。‬
《勝利の女神》
 ‬‪この殺伐とした部屋にあまりにも不似合いな、美しい髪をした少年は、気だるげな雰囲気を醸し出して事後の熱の残る万年床に寝そべった。少年はうつ伏せのまま頬杖をつくと、半分開けられたベランダの窓からゆらゆらと燻る紫煙を眺めていた。夕焼けに照らされたその瞳はあかく輝いているようで、この世のものとは思えないほど幻想的な輝きに俺は息を呑み、そして少しの恐怖さえ感じた。‬
‪ 「臼井」と、その少年の名を呼ぼうとした。咥えていた細筒から唇を離すと、言葉を発する前に先に臼井が口を開く。‬
‪「明日、学校休もうかな」‬
‪「…冗談はよせ」‬
‪「ふふ、面白くない」‬
‪ あかい瞳はにやりと笑ってみせた。心にもないことをわざと口にするだなんて、面白くないのはこちらも同じだ。もう一口だけ煙を含むと、吐き出しながら短くなった煙草をベランダのコンクリートに押し付けた。陽のほとんど沈んだ空には、いくつか星さえ見えていた。ここ最近で最後に雨が降ったのはいつだっただろうか。丸く焦げ残った無数の灰の跡が、押し付けた吸殻のまわりに不規則に並んでいる。昔は窓も開けずに煙草を吸っては元嫁に怒られたものだ。一瞬脳裏にちらついた懐かしい思い出に、臼井に見えないように小さく笑う。ここに残った跡だけが、俺たちのこの不条理な関係を、身体を重ねた数を物語っていた。‬
‪「心配しなくてもいつも通りやりますよ。これでも元副キャプテンなんで」‬
‪「ああ、いつも頼りっぱなしで悪いな」‬
‪ 悪いと口にしておきながら、俺は臼井に頼りっぱなしだ。この荒れた生活に一雫の潤いを齎したのも、実績も実力もなかった俺に名誉監督という称号を与えたのも、全部全部、紛れもなくこの少年に支えられていたお陰だと思い知らされる。彼は、臼井は、どうして自分のような冴えない男に抱かれるのだろう。単位欲しさに教師と寝る輩がいるのは風の噂で聞いたことがある。だかそれが私立高校でもあり得るのだというのか。臼井は俺に何かを望むような素振りは一切見せなかった。一年から即レギュラーに入れたのも、彼自身の実力がそうさせた話であり、俺の個人的意見などでは決してない。現に反対するものは誰一人いなかったのだ、事実上部員全員が臼井の実力を認めているということだ。‬
‪ それにこの様子だと、とうてい俺に気があるようには見えない。いつも身体を重ねるのは決まって週末の一日のみで、行為が終われば身支度を済ませてあっさりと寮へと帰ってしまう。多少門限を延長してはいるものの、普段から素行不良など見えない彼は寮母にも信頼を寄せられている。まさかそっちの趣味なのかと疑った事もあるが、俺以外の誰かに抱かれている様子もない(現に初めてのときは、本人は言わなかったが処女だったと思う)。それにこの容姿だと、男女問わずに選び放題であろう。わざわざ何の利益も生まないバツイチの男と寝て、それでいて俺がこうやって元嫁に復縁の話を持ちかけることを寧ろ喜んでいるようにさえ見える。一体この少年は何がしたいのか、相手の意図がまったく読めない。���々謎は深まるばかりだった。‬
‪ 気がついた頃には完全に日は落ちて、代わりに綺麗に半分欠けた月が空に顔を出していた。薄暗闇に目が慣れ、臼井のいる布団だけがぼんやりと白く浮かび上がる。なんとも不思議な光景だ。俺はこの窓淵に座って見る眺めが少しだけ好きだったりする。‬
‪「明日、きっとうまくいきますよ」‬
‪「…どうしてそう思う?」‬
‪「俺がそう思うから」‬
‪「お前は神の遣いか何かなのか」‬
‪「神の子かも」‬
‪「はは、よく言うな」‬
‪ 神の子、か。確かにこの男なら本当にそうかもしれないと思わせる所がある。美しい顔立ちに、透き通るような空によく似た髪色、スポーツ選手とは思えないほどその肌は白く、どこを撫でても滑らかで。勝利の女神ーー男相手にこう思うのは些か不自然だが、この男は紛れもなく、俺の、俺だけのヴィーナスだった。‬
‪「今日は…泊まってもいいですか、ここに」‬
‪ 柔らかく微笑む顔に、少しだけ翳りを見た気がした。今まで一度だって口にしたことがなかったことを、くしゃくしゃのシーツの上に組んだ腕に頭を預けて投げかけた。初めての、それも決して嫌ではないこの男からの願い事など、この俺が断れるはずもないのは分かりきっている。いいよ、そう短く投げ返すと、男は月明かりに照らされていた金色の瞳を薄く閉じた。‬
‪ 翌朝、俺はフローリングの冷たさで目が覚めた。気怠さの残る身体を引きずって、なんとか下着は履いていたようだった。腹に当たる冷たさと引き換えに、羽毛の掛け布団は肩まできちんと掛かっている。‬
‪「うすい…」‬
‪ 名を呼ぶがそこに彼の姿はなかった。開けっ放しのカーテンから覗く外では、まだ半月が遠くの方に小さく見えた。薄明かりに慣れた視界のなか、手探りでスマホを探して電源を入れる。午前4:24。どうりで外はまだ暗い。‬
‪ 新着メッセージが二件。一つは、今日会う予定の元嫁から、時間と場所の確認メール。リマインダーとも言っていい。了解、とだけ短く返信し、もう一つのメッセージを開ける。くだらない迷惑メールだったのですぐに消して画面の電源を切った。元嫁との約束の時間までまだ7時間ほどある。今日のプランなんて何もなかった。念入りに計画を立てれば立てるほど、大事な約束は上手くいかないのだと、この数年の何十回もの苦い経験でようやく学習した。「きっとうまくいきますよ」そう言った男の言葉が頭の中でリフレインする。あの繊細な声で紡がれれば、本当にうまくいく気がしてくるのだから不思議なものだ。もう一度スマホを開き、アラームをセットし直して今度こそ意識の電源も落とした。‬
‪ その日俺は、元嫁に二度目の結婚指輪を渡すことに成功した。震える手でポケットの中の小さな箱を取り出して、何と口走ったかなんて覚えてすらいなかった。それでも緊張の中でしっかり覚えているのは、涙目で嬉しそうに驚く嫁の顔と、そのとき脳裏に過った、昨夜何度も激しく抱いた臼井の、今にも泣き出しそうな顔だった。小洒落たバーでバーボン���入ったグラスを回しながら、小さな肩を抱き寄せてながら少しの寂しさを感じていた。俺の意識のどこか遠くで、ヴィーナスは俺じゃないですよ、だなんてつまらない言葉が聞こえたような気がした。‬
‪ あれから数ヶ月、臼井は聖蹟高校を卒業した。あの日以来、あいつが俺の家に来ることも、身体を重ねることも一度もなかった。‬
‪ 卒業後の臼井は誘いのあったプロチームへと入団し、その名前は度々テレビや新聞などで見かけるほどに有名になっていった。次の春で丸二年。目まぐるしくもあり穏やかな日々は、俺と臼井が肌を合わせていた三年間をあっという間に風化させてゆく。まるでそんな事が、最初からなかったかのように。‬
‪ たくさんの物を残して、男は儚い幻のように、俺の前から消え去った。‬
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yo4zu3 · 4 years
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モブ下くん
「お前、顔赤いぞ。酔ったのか?」
 中学からの片思いは、10年経った今ようやく実を結んだところであった。ノンケである俺の幼馴染、大柴喜一をその気にさせるのにかなりの時間を費やした。一生かけてでもいいと思ったほどに、俺はこいつを愛している。それに対して素直でない喜一も、ようやく俺に愛の言葉をささやくようになった。長かった。想いが通じ合うまでに10年。慎重に進めたかった俺たちは、身体の関係なんて勿論まだであった。
「んーわかんねぇ・・ふわふわしてて、ちょっと眠いかも」
 そんな喜一と最近恋人同士になり、都内某所のお洒落なダイニングバーでデートをしているところだ。高校卒業後、大学へと進学した俺は法学を学び、今は小さな法律事務所で弁護士としてお世話になっている。一方の喜一は最後のインターハイの後、プロサッカーチームからのスカウトを受けていた。今年で早いことにもう6年目だという。お互いにライフスタイルが合わないせいか、こうやってゆっくりと酒を飲む機会もなかなかなかった。あれ、もしかして今日は付き合ってから初めてのデートということになるのではないだろうか・・・
「あんま強くねぇんだから、ちょっと控えろよ。明日休みだっけ?」
「ん、休み。喜一は?」
「俺も明日はオフだ。久しぶりにがっつり寝たいな」
 休み・・・そう聞いて心臓のあたりがどくん、と大きく脈打った。この流れなら、この後は喜一の家にお泊りかな。ああ、いよいよ抱かれるのだろうか。期待で口元が緩みそうになるのを堪え、手元のカクテルに口を付けた。あまい。まるで砂糖水のようだ。
「だから、そんなに早く飲むなって」
「んーいいの、休みだから~」
 ステムを握る俺の手を、喜一の大きな掌が包んだ。温かな体温が心地よい。逆の手で喜一の指を引き剥がすと、その長い指に己の指を絡めた。やんわりと握れば、やさしく握り返してくる指。この指で、俺の身体に触れて欲しい。そう思えば下半身の、主に尻が疼いて仕方ない。喜一と違ってサッカーは高校で辞めてしまった。日焼け跡すら残っていない、真っ白に戻った素肌をなぞるように、その長く形のいい指を滑らせて欲しい・・
「あ、おれ、ちょっとトイレ・・」
「ああ、というか大丈夫か?一人で行けるか?」
「だ、大丈夫だって、ガキじゃあるまいしへーきへーき・・」
 そう言って席を立てば、喜一は追っては来なかった。危なかった。このままついて来られたりでもしたら、危うく軽く勃起したペニスを見られるところだった。思ったよりも酒が回っているのか、ふらつく足ではうまく進まず、壁に手をついてゆっくりと足を進めた。スラックスの前が窮屈で仕方ない。あ、トイレの看板が見えた。別に用を足したいわけではないのに、その三文字を見るとひどく安心するのは気のせいか。
 ドン。角を曲がると誰かとぶつかった。少し前かがみになっていたせいか、軽い衝撃だったはずなのによろけて倒れそうになった。ぐい、と引っ張られる俺の腕。痛い。力が強すぎるんだよ。
「あ、すんません」
「いえ、こちらこそ不用意でした。君下くん」
「え・・」
 名前が呼ばれ、長い前髪越しに顔を上げればいつか見た顔がそこにはあった。あれ、誰だっけ。名前すら出てこないその顔だったが、じい、とチャックを下ろす音が聞こえてすべてがフラッシュバックした。あ、そうだ、そうだった。
「せんせ・・・?」
***
「ゴふっ・・ん、んん!」
「いい子にしててくださいね・・」
 力強く腕を握られたまま、俺はこの男・先生(なぜだか分からないが、そう呼んでくれと過去に教えられた。その当時の俺には遊び相手の呼び名に何の興味も抱かなかったし、今だってそうだ。)に男子トイレへと引きずられるようにしてやってきた。抵抗したいのに足に力が入らない。もたもたとしているうちに個室のドアを開けられ、そこへ抑え込まれるようにして無理矢理連れ入れられた。
「はなせっ・・やだっ、せんせ、っ」
 頭を上から押さえつけられ、便器の前で屈みこむような体制になった。俺の背後でドアの鍵がかかった音がしたのと同時に、カチャカチャとベルトを外す金属音がする。まずい、逃げなきゃ。そう思って振り返ろうとすると、するりとベルトを抜き取り俺の手首へと慣れた手つきで細い革のベルトが回された。
「すぐ済むから・・絶対に傷つけたりしないよ、君下くん・・」
 眼鏡をかけた男の冷たい瞳と視線が合った。冷ややかにこちらを見つめる瞳には、確かに俺へと欲情した獣のようなぎらつきがあった。ぞくり、と背筋を駆け上がる恐怖感と、少しの好奇心。だめだ、だめだぞ。もうこんなことしないって、喜一と真剣に向き合うと決めたときに自分自身に誓ったじゃないか。それなのに、両手首を縛られてもなお俺の下半身は痛いほどに反応していた。身体が、ぜんぶ覚えている。何度も何度も縛り付けられ、苦しい思いをしていたあのひどく長い日々を脳裏で思い出していた。
「いい子だね・・随分見ない間にすっかりいい体になったね・・・あれから6年ぐらいだから、もう社会人なのかな?」
「っるさい、ぁっ・・ん、ゃめ」
「やめていいの?こんなに腰が揺れてるのに・・・もしかして、ここ触るの久しぶりだったのかな?」
 シャツの隙間から手を差し込まれると、ひんやりとした細い指先が俺の胸の飾りを撫でまわした。傷つけないと言っておいて、優しさなんて微塵もない。この男はいつもそうだ。強い力で乳首を摘ままれれば、嫌でも声が漏れてしまう。それを快楽からくるものだと勘違いした男は、さらに爪を立てるように強く引っ掻いた。
「っ・・・あ、やめ・・て・・取れちゃ、う、よぉ」
 血が出ているのかすらわからない。それでもヒリヒリと痛む敏感な皮膚は、少しの刺激にも過敏に反応してしまう。生理的な涙が目尻に浮かんだ。だが零すわけにはいかなかった。この嫌悪感からくる涙でさえ、この男のあるようでないような理性を破壊する起爆剤になりかねないことは経験から十分に理解していた。
 カチャカチャと己のベルトも外されて、下着ごとスラックスを一気に擦り下ろされる。ひんやりとした外気にさらされて鳥肌が立つのが分かったが、今はそんなこと気にしていられる余裕はない。男の指が俺の顔へと伸びてきて、噛み締めていた唇の隙間から指を差し込んだ。こじ開けられて舌を掴まれれば、引き抜くようにして唾液を奪われる。べとべとになった手で先ほどから疼いて仕方がなかった秘部へと這わせられた。
「ああ、まるではじめて君と身体を重ねたときのようだよ・・・きゅっと、ここも心も閉ざしていたね・・」
「キモイこと、言ってんじゃねぇ、っ!ああっ痛っ・・!いた、いよぉ・・」
「すぐに思い出すよ・・すぐに女の子にしてあげるからね・・・・」
 ずぶり、と音を立てていきなり三本の指を突き立てられて、俺の身体は思わず仰け反った。痛い。苦しい。それしか考えられないのに、俺のペニスからはだらしなく先走りが垂れているのが視界に入る。恐らく根元までずぼりと埋まったであろうその指をぐりぐりと拡げるように動かされ、いやだ、いやだ、と頭を振れば、もう一方の手で便器の上に頭を押し付けられた。冷たい蓋が頬に触れて、余計に切ない気持ちにさせられる。恋人とデートにやってきたはずなのに、俺は昔の男にトイレの個室で淫行を加えられているだなんて。
「ひっ、ああん・・そこ、そこだめぇっ・・・だめだよぉせんせえええ」
「そうだね、ここ大好きだね・・。もっと気持ちよくなるために、もっと大きいのが欲しいかな?」
 ぐりぐりと前立腺を潰されて、目の前でチカチカと火花が散った。だらしなく開いた口からは、鼻にかかった喘ぎ声と唾液がだらだらと零れていた。腰は前後に揺れて、同時に今にも弾けそうなペニスも涎を垂らしながらゆらゆらと揺れている。理性が、溶けてゆく。大昔にこの男に開発された身体が、まだその快楽を覚えている。どこを擦って、どこを攻められれば理性が吹き飛ぶかなんて、本人は覚えていないというのに。身体と、この指だけが知っている俺の女の子スイッチ。もう止められない、止まらない。
「ほ、欲しいぃ・・せんせ、の、おっきいちんぽ・・・ほしいよぉ・・」
「僕も君下くんのケツマンコに入りたいよ・・」
「んぅ、はやく・・・はや、ぐぅんんん!!!」
 一気に最奥まで突き上げられ、びりびり、と全身に快感が走り抜けた。背筋がぴん、と伸び、不自然に足先に力が入った。イッちゃった。先生にお尻の最奥まで突かれて、俺ははしたなく果ててしまった。ぽたぽた、と精子が床のタイルに零れる音がした。
「ぁっ・・ああっ・・♡」
「もうイッちゃった?相変わらず、きみは悪い子だね・・」
 乱れた髪を掴まれ乱暴に出し入れする肉棒は、前立腺をごりごりと擦って容赦なく俺の身体を食らった。一度達して敏感になった中は侵入者を締め付ける。久しぶりの生の肉の感覚に、俺の身体は喜ぶように絡みついた。
「あんっ♡あっあっあっんんっ♡そこっ・・きてぇ・・また、イッちゃ・・あぁ♡」
 根元まで引き抜いて腹がぶつかるほどに勢いよく突き上げれば、結腸を硬い亀頭がぐりぐりと刺激した。俺の大好きな、最奥の快感ポイント。さっき達したばかりなのに、力なくぶら下がっていたはずのペニスは再び硬度を取り戻し、透明な液体を垂れ流しにしている。腰をきつく掴んでいたはずの先生の右手が離れ、しばらくすると俺の開きっぱなしの口に何か布のようなものが詰め込まれた。
「あう゛っ・・ん、んん゛、んごっ」
「ちょっとだけ、静かにできるかな・・・そうだよ、いい子だね」
 ごわごわする布に鳥肌が立った。このサイズは恐らく俺のか、先生の靴下か何かだろうか。腕はベルトできつく縛られ、快楽に溺れる身体に吐き出す力も残っていない。容赦なく与えられる最奥への激しい刺激に理性なんて最早なかった。先生も絶頂が近いのか、俺の尻を爪を立てながら思いっきり掴んでくる。痛い、痛いのに。今は痛みさえも快楽へと変わってゆく。
「あ゛っいあ゛いっ・・いっ、ああ゛っあ、あ・・・あ゛っ♡」
「逝くよ・・先生も、くっ・・君下くんのおまんこに、逝っちゃうよ・・・!」
「ひあ゛っ・・ああああッ♡」
 男はピストンを速めると、ついに尻を鷲掴みにして最奥まで力強く突き上げた。達する直前に尻から手を放し、燃えるように熱い指が俺の首へと巻き付き、そして力いっぱいに男にしては細いと言われる首を絞めた。あ、来た。呼吸もできなければ、音もなくなった。顔に血液が上るのを感じながら、俺は二度目の絶頂を迎えた。ああ最高に気持ちいい。ペニスはびゅるびゅると音がしそうなほどに吐精し、腸は男の精液を吸い取ろうと収縮する。中でびく、びくと先生の性器が震え、熱い精液が注がれるのがわかる。汚物を咥えたままに、俺は快楽に身を委ねて意識を飛ばしてしまった。
***
「おう、遅かったな」
「ああ、悪い。ちょっと混んでて・・」
「そうか」
 席へ戻れば、テーブルの上に転がったレシートが視界に入った。恐らく既に会計を済ませたのであろう。俺のグラスに残っていたはずの、オレンジ色をした甘ったるい酒もいつのまにか氷が少し残っているだけになっていた。
「この後どうする?お前、もう終電ないだろ」
 高級そうなシャツの袖から覗くピカピカの腕時計を読めば、時刻はちょうど12時を回ったところだった。このダイニングバーから俺の家まではかなり距離があるが、喜一の住んでいるマンションからはさほど遠くない。それもあってこの店を選んだのだと言うつもりもないが、まあつまりはそういうことを狙って立てたプランな訳で。答えは言わずとも最初から決まっていた。
「ん、そうだな・・もう一軒行く体力はちょっとないな」
「じゃあうちに来るか?タクシー乗ってもそんなにかからねぇし」
 そう言うと喜一は上着を掴んで立ち上がった。俺も鞄を取り立ち上がろうと足に力を入れたが、飲み過ぎた酒のせいかセックスのせいか、がくん、と膝から力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ・・ちょっと飲み過ぎたかも」
 だから言ったじゃねぇか、そう言って俺の腕を掴んで引き上げると、かなり近い距離で喜一と向き合う体勢になった。重なる視線と視線。あの頃から変わらない身長差に、少しだけ顔を上げて喜一を見つめる。するとふと、俺の腕を掴んでいた喜一の大きな手が離れ、俺の首元にそっと触れた。そして俺の首に巻き付くかのように、やさしく両手を這わせた。
「んぁっ・・!き、喜一?」
「ほら、ぼーっとしてねぇではやく行くぞ」
 一瞬で離れた指は、何事もなかったかのように俺の手を引いて店を出た。普段は外で手なんて繋ぐことはなかったのに、どういう風の吹き回しなのか。もしかして、喜一も酔っぱらってしまったのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、相変わらずふらつく足で喜一の後ろをついて行った。
 それにしても、喜一に触れられた首元があつい。思わぬ接触に声が出てしまったのは、あの男と同じことを喜一がしたせいなのか、それとも。
 俺は喜一の後姿を眺めながら、ごぽり、と尻から死んだ精液が溢れるのを感じていた。 
 ふらふらとした足取りでなんとかタクシーへ乗り込むと、無線のがさついた声が時折混ざりながら、車内のラジオからは懐かしい曲調の歌が流れていた。音楽なんて、この騒がしい街のどこからか流れてくる音が耳を素通りするだけで、特に好きな歌手もいなければ聴きた��曲もなかった。それでもなんとなくこのメロディーに聞き覚えがあるのは、はて、どうしてだっただろうか。
 混みあう道を車はのろのろと走り続け、10分程度で人通りの少ない道で停車した。勘定を済ませた喜一が先に降り、俺の肩を担いでタクシーから引っ張り出すと、ポケットの中をごそごそと漁ってカードキーを取り出す。
「は、すげぇ家…」
 思わず口から滑り出た言葉に、喜一はふふ、と鼻を鳴らした。だってここ、明らかにデザイナーズだろう?酒の回った頭では読めないほどのオシャレな名前に、セキュリティのしっかりした正面玄関。分かってはいたがプロのスポーツ選手は住む場所までも世界が違う。ピピ、と音が鳴り緑のランプが点灯し、強化ガラスのドアは音もなくスライドして戸は開いた。
 4基もあるエレベーターはすぐに降りてきて、中へと入ればG以外のボタンはついていない。ここでもカードキーをかざせば自動で目的の回数がパネルに表示される。はは、こりゃ鍵は絶対落とせねぇな。
「これ、宅配の業者とかどうすんだ?」
「ああ・・荷物ならレセプションで預かって貰えるから、そこまで取りに行く」
「なるほどな」
 ぐいぐいと昇るカウントは28でようやく止まり、開かれたドアの先からコンクリートのひんやりとした空気が肌に触れた。酔いは店にいた時よりも幾分か冷めてはいたが、妙に喉が渇いていた。初めて訪れる喜一の部屋に緊張しているのかと言われれば、緊張していないわけではなかったが、ああ水が飲みたい。こくり、と無意識に喉が鳴る。
「おじゃましま、んグっ…!」
 開かれた重厚感のあるドアの向こう、足を一歩踏み入れて急に後ろから喜一に頭を押さえつけられた。コンクリートの壁が頬に当たって冷たい。バタン、と後方でドアの閉まる音がして、電気も付けられないままの真っ暗な部屋で聞こえてくるのは喜一の息遣いと、それから、
「敦…」
「ひっ…ァ、きい、ち」
 耳元から腹の底まで、地鳴りのように響く声。恐ろしさにぶわっと全身に鳥肌が立った。バレた、ばれた、絶対に喜一は分かっているんだ…恐ろしいのに、鼓膜に触れた愛しい人の声に反応して、精液をだだ流しにしていたアヌスがきゅっと収縮したのを感じた。それと同時に胸いっぱいに込み上げてくるのは嫌悪感。ああどうしてこんなにも愛しい男がいるというのに、それなのに、俺はつい先ほど、違う男に抱かれて乱れてしまったのだろう。
 心臓が握られたかのように苦しくて、吐き気さえもしてきたとき、喜一の指が背中から這って俺の身体をなぞり上げた。ワイシャツ越しに華奢だと言われ続けた腰、筋肉のすっかり落ちた腹筋の真ん中を辿り、胸を掠めて、顎を掴まれて。まるで存在を確かめるかのような、その動きに無意識に息が上がる。
「きいち、あのっ…」
 俺の言葉は無視されて、顎をぐい、と引っ張られてそこに無理矢理口づけられる。頭だけ後ろに向かされて、きつい体制のせいでうまく唾液が呑み込めない。それでも関係ないと言うかのように、熱い舌が侵入してきて咥内を荒々しく掻き回してゆく。いつのまにか顎を抑えていた手は外され、代わりに首へと巻き付く両手。ぢゅ、ぢゅう、とはしたない音を立てながら舌ごと吸い上げられて、徐々に喜一の両手へ力が込められてゆく。
「あ、あっ、ぐるぢ、イっ… き、ァっ」
 ぬるついたの下着の中で、いつのまにか俺のペニスは痛いほどに張りつめていてた。無意識に喜一のほうへと突き出した腰は、ペニスを壁に擦りつけるようにへこへこと前後へ揺れている。これじゃあまるで動物じゃないか。意識のどこかでそう理解していても、与えられる快楽に背けるほど俺の理性の盾は強くはなかった。
 きゅ、と喉仏が潰れそうなほどに力が入り、酸素の足りない頭の中が真っ白になった。あ、イク、イキそう。壁に凭れながらやっと立っていた脚がガクガクと大きく震えだし、絶頂への階段を急速に駆け上がって行く。ぐぽ、ぐぽと音を立てながら物欲しげに開閉するアヌスから、残っていたらしい精液が垂れ流れていたが、そんなことは気にして居られない。後ろ手で喜一のスラックスを握りしめると、急にぱっ、と喜一が俺の首から両手を放した。
「へぁっ…?!ァ、あんんん゛っ…ゲホッごぼッ!!」
 急に肺に大量の空気が流れ込んできて、うまく息ができずに咽た。バクバクと大きく脈打つ心臓のあたりを掴みながら、力をなくした膝は折れ曲がって壁伝いにずるずると力なくしゃがみ込んでしまった。ああ、あとほんのもう少しだったのに、イけなかったじゃないか。何も見えなかった暗闇に慣れてきた瞳で、ぼんやりと浮かび上がる喜一のシルエットを睨みつけた。
「へえ…お前ってこういうのがイイんだな」
 パチン、と付けられた部屋の照明。眩しさに目を細めて見上げれば、口元は歪な弧を描いているのに、目が笑っていない喜一と視線が合った。
***
「頼む、ふろ、ッ…シャワーだけでも」
「ダメだ」
「ンァっ、ヤダぁ…」
 完全に腰が抜けてしまった俺をベッドまで引きずった喜一は、自身のベルトを引き抜くとそれを俺の手首へとぐるぐると巻き付けた。細い革がしっかりと巻かれた両手首は、すこし窮屈でまるでそこに心臓があるかのようにドクドクと脈打っていた。
 先程イキかけたこともあり下着が濡れていてもわからないが、トイレかシャワーにでも行かないと後孔に溜まった他の雄の精液を知られてしまう。それなのに、仰向けに押し倒された俺の股の間に、喜一が長い脚を折り曲げて身体を差し込んでくる。もう、逃げられない。スラックス越しのお互いの股間がぴったりとくっつくき、俺の前がテントを張っているのも全てお見通しだった。
「すげぇ勃ってるな。さっきのキス、そんなにヨかったか?」
「ぁうっ…!さ、さわんなァっ…」
 亀頭をグリグリと掌で捏ねくり回され、思わず変な声が出てしまった。自由のきかない両腕を頭の上まで持ち上げられて、それと同時にぐっと喜一の顔との距離が縮まる。薄明るい間接照明に照らされた、パーツも配置も完璧なうつくしい顔。おれの大好きな顔。それなのに、その瞳だけは哀愁の色味を帯びていた。
「足、開けよ」
 間に入られてもなお抵抗するかのように、膝を擦りよせ必死に秘部を隠そうとする俺の耳元でまたあの低い声が鳴った。ゾクゾクと背を駆け上がる波。そのままぴちゃぴちゃ、と耳を舐められて、舌は首筋まで這って鎖骨をちゅう、と吸い上げた。ちり、と皮膚に痛みが走って、少しだけ満足そうな穏やかな表情をした喜一の顔が視界に入る。
「喜一、頼むからシャワーに」
「いい」
「でも…っ」
「いいから」
 そう言うと喜一は俺の静止も聞かずに、散々趣味が悪いと馬鹿にしていた星柄のTシャツを掴み、力任せにそれを左右に引きちぎった。バリっと勢いよく裂けた布切れに驚きの表情を隠せない。いくら嫌いでも破ることはないだろう。そう思い睨みつけようとして背筋が凍るのを感じた。…なんて顔しているんだ、いや、俺がこうさせているのではないか。美しい眉間には深い皺が寄せられて、瞳には普段の喜一にはないような鋭い攻撃的な輝きが見受けられた。まるで獣だ。恐ろしい、そう思うのは今日何度目だろうか。言葉がでないほどに狼狽えていると、カチャカチャと金属のぶつかる音がしていつの間にかベルトは外され、足首まで勢いよくスラックスが引きずり降ろされた。
「こわい、きいち…こわい、ッ」
 こわい、と子供の譫言ように口にするも、そこにいるのは今や肉食獣と化した大男だ。聞き耳なんて都合のいいものは生憎持ち合わせてなどいないようだ。
 本当は喜一自身が怖いわけではない。俺がひた隠しにしてきた秘密を、こんな形で喜一が知ってしまうことが何よりも怖かった。
 その大きな手で膝を掴み、無理矢理股を開かされて、俺のぐちゃぐちゃに濡れた下着に視線が落ちる。こんなに汚い姿を、最愛に見られている。その事実だけで、気を失ってしまいそうなほどに今の俺の神経は弱っていた。
「やめ…ひっ、ああっ」
 汚れた下着を一気に引き剥がすと、喜一は自身の性器を取り出して軽く扱き、俺のぐちゃぐちゃに解れた肛門へと性器をぴたりと宛がった。あつい。めくれ上がった粘膜から、喜一の体温を直に感じる。ぐぽ、と音を立てながら先端が押し込まれ、それほど抵抗もなくすんなりと受け入れる後孔に少しだけ嫌気が差した。
「きっつ…」
「は、ァ……っ」
 慣らされているとはいえあの男の物などと比べ物にならないほど大きな圧迫感に、あまりの衝撃に軽く吐き気さえもしてきた。縛りあげられた手先は血液が巡らずに少し感覚が薄れてきていて、互いの手の甲に爪を立ててもあまり痛みは感じない。大きすぎる快楽に、必死にないに等しい理性を保とうと余計なことを考えてはみるものの、ぽたり、と生暖かい何かが俺の頬に落ちてきて意識は現実へと戻された。
「き、いち?」
 一瞬、泣いているのかと思った。長い前髪が目元を覆い、喜一の後方から差す薄明りのせいで表情はよく見えない。嫌な予感が過ってたまらず声を掛ければ、返ってきたのは返事ではなく腹の中を突き上げる強い衝動だった。
「ぅア゛ッ!!!やぁっ…、ああッ!」
 浮いた腰骨を掴み、ガツ、ガツと激しく突き上げられて、はしたないと分かっていても声が抑えられなかった。長かった片思いからようやく恋人へと昇格出来て、そして今夜やっと初めて喜一と身体を繋げたというのに、それなのに、俺は昔の男に半ば無理やり抱かれた後で、それでいて喜一はいつもと様子が随分と違っていて…こんな仕打ちはあんまりじゃないか。心が張り裂けそうなほどに痛いというのに、非情にも開発された身体は正直で、与えられる強い快感に先走りなのか射精なのかわからない汁をだらだらと流しながら、恍惚の表情を浮かべ泣いているのだ。
「ア゛っあ゛ッあっ…き、ちっ……も、だめっ!おかしく、なるッ…ンッ」
「おかしくなれよ、んっ…もっと奥欲しい?これ、」
 この奥のとこ、そう言って喜一が最奥を突き上げた瞬間、全身に電撃が走った。あ、だめ、ただのメスになってしまう、そう思ってももはや止める術はなく、されるがままに結腸をガンガンと突き上げられて飛んでしまいそうになる。喜一の硬く出っ張った亀頭が狭いナカを掠めて、ああ気持ちいい、すごく気持ちがいいのに、
「ひぅ・・あぁァ♡やら、あっ♡もっと…ぉ♡」
「ぁあ、イケねぇのか?っ…なぁ、首、絞めてほしいんじゃねぇの?」
 汗でぬるついた手が首へと周り、やんわりと両手で包むように触れた。まだ力が入っていないのに、それだけで後孔がヒクヒクと収縮するのがわかる。
「ひゅッ…ァ、ア、ァァっ…やぁッ♡」
「今、ナカ、締まったな…なぁ、本当に欲しくねぇの?これ、気持ちいんだろ?」
 余裕のなさそうな喜一の声に、絶頂が近いことを知る。ああはやく、喜一の、せーし、いっぱいいっぱい、おれのなか、ぶちまけてほし、いっ あっまたッ、おく、あっ あああああっ♡ くるじっ あ゛がッ…
 気道が急激に狭まり、目の前が真っ白になった。ぽた、ぽたりと降ってくるのは、喜一の汗なのか、それとも自分のものなのか。近くに喜一の匂いがして、開きっぱなしだった唇に噛みつくように喜一が接吻をした。あ、来る、きちゃう、ぶるぶると全身が震えて、思いっきり腰が仰け反ってペニスから勢いよく液体が噴き出た。
「あっ♡あっあっあっああア!!!」
「あ、俺も、イ…ッ!!」
 ぎゅう、と食いちぎらんばかりに収縮した腸壁を掻き分け、最奥まで突き進んだ喜一のペニスは勢いよく精を吐き出した。快楽にその綺麗な顔を歪め、長い長い射精をする姿はあまりにも愛おしかった。生温かいもので腹の奥が満たされる感覚は、先程も嫌々ながら味わったというのに、それなのにどうしてこんなにも心が満たされるのであろう。朦朧とする意識の中で、ぼんやりとそんなことを思っていると、はあ、はあ、と荒い息を整えている喜一のほうからにゅう、と長い腕が伸びてきた。
「君下、かわいい…綺麗だ」
 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった頬を握られ、タコのような顔になった俺に喜一はたしかにそう言った。ああそういえばこいつは昔からそういうやつだったなと、遠のく意識の中でひとり思い出したのだった。
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yo4zu3 · 4 years
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夏の尾谷
※現パロ/同棲してる
「なあ、たまには映画でも観ないか」
 風呂上がりのビール缶に口をつけながら、リモコンを握った尾形の手は宙に浮いたまま止まっていた。濡れた長い前髪からぽたり、ぽたりと水滴が滴り落ち、着ていた白のシャツに染みを作っているがさほど気にはならない。それよりも今しがた掛けられた声のほうが気になったので、ソファに凭れたまま首だけで振り返る。逆さになった視界には、ダイニングテーブルに腰掛け、同じくビール缶を握る谷垣の姿が映った。
「映画?んなもん見るったって、この家にあったか」
「ない」
「だろうな」
「だから借りてきた」
 そう言った谷垣は黒色の正方形の布袋を掲げて見せる。少し得意げな顔が気に入らないが、谷垣にしては準備がいいのでまあ良しとしよう。「おら、貸せよ」背を伸ばし、ぶらぶらと揺れる袋をひったくると、中身を取り出して言葉を失った。中央に穴の空いたディスクには、《厳選!本当にあった怖い話〜夏休み編〜》と印字されている。どうにも胡散臭さが拭えないそれは谷垣の趣味なのだろうか、全く興味の沸かない内容に、尾形は酒の匂いの混じる溜息しか出ない。
「貴様……趣味が悪いな。それから、これは映画ではないぞ」
「えっ」
 却下だ却下、そう言ってディスクを袋に仕舞うとローテーブルヘと投げやった。明からさまな溜息をつく谷垣に、振り返らずとも相当落ち込んでいることが窺える。暫くザッピングを繰り返したのち、観たい番組が特に見つからなかった尾形はもう一度袋を手に取る。こんなものが新作らしく、返却期限は明日の朝八時となっている。果たしてそこまでして借りる物なのだろうか。次第にその中身に興味のようなものが湧いてきた。
「……仕方ねぇな」
 ほら、こっち来い、とソファの空きスペースをぽん、と叩くと大男が嬉しそうに飛んできたので、早速ディスクをセットして再生ボタンを押した。
 結論から言うと、それは物凄く気味の悪い映像だった。よくある薄暗い廃墟をハンドカメラ片手に撮影された映像からは、しんと冷えた空気さえ伝わってきそうなほどのリアルさがあった。が、所詮は作り物なのでそれだけだ。一瞬肌をざわっとしたものが走ったが、ただ隣に座る男の豊かな腕毛が撫ぜただけであり決して恐怖心からではない。谷垣は始終ビビっていた様子で、そのたびに二人がけのソファがガタ、と音を立てていた。
「谷垣よ、得意ではないものをなぜ借りたのだ」
「……なんとなく、気になっただけだ」
 時刻は深夜一時を軽く過ぎていた。明日は二人とも休みだが、休みの日の朝にわざわざ駅前まで返しに行くのは面倒だと思い(谷垣ひとりに行かせれば良かったが、なんとなく家に一人で居たくなかったとは言わなかった)、ついでにつまみでも買いに行くかと二人して着替えると家を出た。
⌘⌘⌘
 返却ポストにディスクを投げ入れ、隣のコンビニでビールとつまみ、それから煙草を手に取った。谷垣が会計をしている間、妙に落ち着かない尾形は店内をうろうろしていると、アイスケースに新作のハーゲンダッツを見つけて「これも追加で」と袋詰めをしている店員に手渡す。
「えっ」
「いいだろ、気になったんだ」
 にやりと笑うと谷垣は諦めたように溜息を吐き、「すいません、これで」と五千円札を差し出す。新作というものに惹かれる気持ちはまあ、分からんでもない。
 蛍光灯の眩しい店を出るとじっとりとした空気が肌を包んだ。梅雨は明けたもののじめじめと蒸し暑い夏は好きではない。そりゃあ凍てつくような雪国の冬よりは幾らかマシだったが、それでも高い湿度というものは好きにはなれなかった。
「あ〜〜蒸し暑いな」
「そうだな」
 ペタペタとサンダルを鳴らしながら、人気のない夜道を歩く。駅から徒歩八分のアパートは新築で陽当たりも良く、何より静かだという理由でそこを選んだ。男二人の同居は何かと人目に付きやすいからだった。
「なあ、ずっと何かが引っかかっているんだが」
 しん、と静まり返った夜道で、唐突に口を開いたのは谷垣だった。コンビニの袋をぶら下げた尾形が横を振り向く。
「何だよ、怖い話か」
「分からん……だが何か嫌な予感がする」
「おいおいやめてくれよ」
 髪を掻き上げ、正面を向く。何かって、何も分からないじゃないか。つまらない。そういえばさっきの角を曲がったあたりから、なんだか妙に肌寒いような気がしていた。
「いやいや、あり得ねぇって」
 わざと声に出して呟いてみる。相変わらず奇妙なほどに人気はない。それを狙って選んだ物件だったが今は少しだけそれを後悔した。無意識に歩くペースが速くなり、何も言わない谷垣もそれに合わせてはやく足を動かした。早く帰らねば、折角買ったアイスクリームも溶けてしまう。次の角を左へ。その先三軒目が俺たちのアパートだ。
 アパートに辿り着く頃には、二人は軽く息切れしていた。僅かに掻いた汗は運動による汗なのか、それとも冷や汗なのかは区別がつかない。エントランスの前に立ち、どこかに仕舞った鍵を探していると、ぼうっと上を見上げていた谷垣がぽつりと呟く。
「……電気が付いている」
 そう言われ、鍵のまだ見当たらない尾形もつられて二階の角部屋を見上げる。確かにそこが俺たちの住まいであり、それ以外の部屋には一切明かりが灯っていなかった。
「なんだよ、消し忘れただけ��ゃねぇか」
「いや、確かに消したと思ったのだが」
「点いてるんだから忘れたんだろうが」
 そうでないとすればおかしいだろう。俺たちが不在の今、あの部屋にいるのは一体誰だと言うのだ。つう、と背筋に冷えた汗が流れる。どこかの馬鹿が借りたディスクのお陰で、妙な思考に走ることに苛立っていた。わずかに震える手でスラックスのポケットを漁るが、入っているのは今朝の釣り銭とカードケースと、それからライターだけだった。ないとは思うがポロシャツの胸ポケットを上から触り、その場でがくりと項垂れる。
「鍵がねぇ」
「え……でも、さっきは確かに尾形が閉めただろう」
「お前持ってるか?」
「ああ、ちょっと待て」
 震える拳で額の汗を乱雑に拭う。谷垣がポケットを漁る間、ビニール袋から新品の煙草を取り出して封を切る。一本を咥えて火をつけると、青白い煙がゆらりと立ち上がった。先ほどの映像に出てきたような火の玉はこんな色をしていたっけな、なんて思いながらゆっくりと煙を吸い込む。
「おい、まだみつからねぇのかよ」
 エントランスのガラスに凭れ掛かり苛ついたように声を上げると、びくりと肩を揺らした谷垣がこちらを振り返る。谷垣の真っ青な顔色に、言わんとしていることを察して思わず手元のビニール袋を落としてしまった。地面に打ち付けられた缶とアイスが潰れる音がする。
「俺も、鍵がない」
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yo4zu3 · 4 years
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エンドロールにはまだ早い(柴君)
 ∵背中に想う
 長く降った雨に打たれ、今年の桜は既に散ってしまった。新緑の生い茂る木々の足元で、ほんの薄く色づいた花びらだけが、濡れたコンクリートにいつまでも張り付いている。  送別会ラッシュがひと段落したかと思えば、すぐに歓迎会が催される。何かと理由をつけて飲みに出かけたいのは、春の穏やかな気候がそうさせるからかもしれない。全くはた迷惑な話だな、と年中金欠の俺は心の中で悪態付く。それでもこうして律義に出席する事におそらく理由はない。が、あえて言うのならばやはり春のせいなのだろう。
 よく晴れた金曜日だった。その日の夜は高校時代に所属したサッカー部のOBが集まる、いわゆる同窓会の予定があった。急な休講により午前で講義を終えてしまった俺は、大学の敷地内にある図書館で時間を潰したのち、人々で溢れかえる駅の改札を抜けた。同じく飲みに来たのであろう人の波を避けながら、先のほうで信号待ちをする集団の中に見覚えのある男の頭を見つけた。頭一つ分ほどの目線の高さに燃えるような赤い髪。派手な身なりの男はどこからどう見ても大柴喜一だ。幼馴染で、犬猿の仲。高校を卒業して二度目の春を迎えた今も、その関係は変わっていない。だから一瞬、変わらない懐かしい後ろ姿に声をかけるべきか迷っていた。だが追いつく手前で歩行者信号が青に変わると、大柴は足早に去ってゆき、それ以上近づくことは叶わなかった。
 まずいな、とどこかぼんやりした頭で思う。成人してもなお酒も苦みも得意ではないので、“とりあえず”のビールを残すとすぐにカルピスハイへと切り替えた。だが今思えばそれがまずかったのかもしれない。いつものように何食わぬ顔でノンアルコールにしておけばよかったのに、今日に限ってそうしなかったのは、この場の雰囲気に流されたからに違いない。早々に回ったアルコールのせいで耳や頬がひどく熱かった。  いよいよまずいなと思ったのは、場所を変え、二軒目へと向かおうというときだった。皆が笑いながらゆっくりと歩く中、ふと、先頭にいたはずの大柴が立ち止まり、靴紐を結び直すためにその場に屈み込んだ。繁華街の雑踏の中、眩いほどのネオンライトが、きちんと鍛えられた背中の筋肉を浮き彫りにさせている。あいつの体なんて初めて見たわけでもない。それなのにその後ろ姿を捉えてから、ずっと大柴から視線が外せない。  どこの駅前にもあるようなチェーン店の安居酒屋の、寂れた座敷席で皆が胡座をかくなか、大柴だけがその高い背をきちんと伸ばして座っていたり、トマトスライスをつまむ箸使いは意外にも綺麗だと思った。昔からこんな感じだっただろうか、と酔いのまわった頭で考えても仕方がないことはわかっている。だがあれから二年たった今、俺も大柴も少しだけ大人になっていても何らおかしい話ではない。  一番遠い席に座る男を眺めていると、時折視線が合ったように思うのは気にし過ぎているだけだろうか。よそった焼きそばを半分ほど皿に残し、誤魔化すようにカルピスハイを口に含む。同窓会というものに浮かれているのは、案外自分も同じかもしれない。
 終電が間もなくだという理由で、二軒目の会計を済ませると会は一旦お開きになった。道のど真ん中で「よし、次行く人~っ!」と叫ぶ灰原先輩はすこぶる機嫌がよく、飲み足りないらしい上級生たちは次の店を探すためにそれぞれがスマホと向き合っていた。 「もう面倒くせぇから、歩きながら適当に入ろうぜ」  誰かがそう言うと、散り散りになっていた男たちはあてもなく夜の街をゆっくりと歩き出した。その間にもメニューを持った客引きのアルバイトが「お兄さんたち、どう?」「飲み放題980円ですよ」とひっきりなしに声をかけてくる。 「えーっと、今何人だ」 「十ぐらいじゃね?」 「君下、お前は終電大丈夫なのか?」  唐突に声をかけてきたのは臼井だった。ぼんやりと自分の足元を眺めながら歩いていた俺は、その声に熱くなった顔を上げた。セーブしていたのか、あるいは酒に強いのか、普段とあまり変わらない様子の臼井はにこやかだった。 「明日休みなんで大丈夫っす」 「そうか、それならよかった」  そうは言ったものの、正直に言えばこの後どうするかなんて何も考えてはいなかった。都内の大学に進学した俺は、今も変わらず実家に住んでいる。走ればまだ終電には間に合うだろうが、急ぎで帰る予定もなければ、そうするだけの余力も残っていなかった。 (それに……)  ちらり、と斜め後ろを歩く大柴を見る。あいつもこのまま残るのだろうか。結局この日はまだ一言も口を聞いていなかった。とくに何かを期待しているわけではないが、このまま先輩たちに付き合ってだらだらと始発まで待つのも悪くない。  いつのまにか次の店が決まったらしく、店の入り口で水樹が両手を挙げて立っている。水樹は卒業後、以前より契約していた鹿島にそのまま入団した。明日の練習は大丈夫なのだろうか、とお節介なことを思っていると、店の前でふと、誰かに手首を掴まれて思わず立ち止まる。 「あ?」  勢いよく振り向くと、険しい表情をした大柴が俺の手首を掴んでいた。 「なっ……にすんだよ」  なんで、お前が。思いがけない人物に少し怯んだ俺の声は、威勢を失くしみっともなく尻すぼみになってしまった。掴まれた手首がじりじりと熱い。振り払おうと腕を振り回すが、俺よりも一回りほど大きな掌はそう簡単に放してくれず余計に力が込められて、触れられたそこが一層熱を持ったように思えた。  おかしい。今日の俺はどうかしている。嫌いなはずの男をじっと盗み見、触れられ、まるでそれを喜んでいるかのように頬や身体が熱い。先ほどから無駄に高鳴っている胸の鼓動ですらいつもと違っていた。こんなのはまるで俺じゃない。 「っ、気安く触んな」 「お前、もう帰れ」  その掌の温度とは裏腹に、冷めた声が棘のように胸に刺さる。素っ気ない物言いはいつのも大柴と同じなのに、なにかを堪えるようなその瞳は、はじめて見る表情だった。だから油断したのかもしれない。 「すんません、こいつ連れて帰ります」  俺の手首を掴んだまま、店の入り口で人数を数えていた臼井に向かい大柴がそう言った。臼井は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに「ああ、分かった。気をつけて帰れよ」といつもの笑みを浮かべて小さく手を振った。隣にいた水樹が俺と大柴を交互に見て、不思議そうに首を曲げていたがそれどころではなかった。お疲れ様っす、と軽く会釈をした大柴が、俺を掴んだまま駅とは反対方向へと歩き出したからだ。 「ちょ、待て! 放せバカ!」  嫌がる俺を引きずって道のど真ん中を進む大柴の表情は窺えない。が、なぜか怒っていることは雰囲気で察していた。まだ肌寒い春の夜にぴりぴりとした空気を纏い、あれから何も言わない大柴に俺は諦めて引きずられることにした。ここで揉めて運よく逃れられたとしても、ふらつく足で人の波をかき分けて、一体どこへ行くというのだろう。酔っぱらった男が引きずられているこの奇妙な光景に、街行く人々は何ら疑問に感じていないことだけが唯一の救いだった。
 そこからは所々の記憶が曖昧だった。ひどく酔っていた、というよりも、あまり思い出したくないというのが本当かもしれない。  繁華街の眩いネオンがピンクや紫ばかりに変わり、怪しげなバーやホテルが立ち並ぶ。普段足を踏み入れることのないエリアにやってきたところでまさかとは思ったが、大柴の足は迷うことなく一軒のホテルへと吸い寄せられてゆく。ラブホテルにしてはシンプルな――言い換えれば味気のない――ここは大柴の行きつけなのだろうか、と思うと、なぜか胸のあたりがずきりとした。大柴はパネルの前で一度立ち止まり、何やら部屋を選んでいる様子だったがそんなことはどうでもよかった。こいつの意図がまるで読めない。今日一度も話しかけなかった男、それも犬猿の仲であるはずの俺を突然こんな場所へと連れ込んで、一体何がしたいのだろう。だが俺は不安になるどころか、むしろその先を想像してあり得ないと思いながらも秘かに期待してしまった。  壁に凭れ、うっすらと額にかいた汗を掌でぬぐうと、その腕はまたすぐに大柴の掌へと収まった。連れられたエレベーターの中で、暫くの間ぎこちない空気が流れる。俺の手首を握る大柴の手が湿っている。これは夢ではなく現実なのだと他人事のように思った。
 ⌘⌘⌘
 翌朝、ひどい頭痛で目を覚ますと、頭の鈍い痛みよりも自分が素っ裸で眠っていたことに驚いた。起き上がろうとして腹筋に力を籠めるが、身体のあちこちに痛みが走り思うように力が入らない。 「……っ」  ひねり出した声も掠れ、張り付いた喉が渇きを訴える。おまけに昨日のコンタクトをしたままの視界はぼんやりとしていて、ここが自宅ではないことに気づくまでに随分と時間が掛かった。遠くでざあざあと水の流れる音が聞こえている。  俺は、あの後どうしたのだろう。肌触りのいいシーツに手を伸ばしながら、その感触を確かめる。ひんやりと冷たいそれはしっとりと濡れているようにも感じた。思考を巡らせすぐに思い出したのは、終電組を見送り、大柴に半ば無理やりここへと連れられたことと、あいつの怒ったような瞳の色。全身に触れた大柴の指。腰の痛み。俺の名を呼ぶ低い声。どれも朧気だが現実だという確信がある。
「起きたか?」  声のしたほうを振り向くと、真っ白なバスローブを羽織った大柴が立っていた。派手な赤い髪色も水分を含んだ今はやけに大人しく、垂れ下がった先端からぽたり、ぽたりと水滴を垂らし、バスルームへと続く絨毯を濡らしている。備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出すと、その一方をこちらに向かって投げてくる。 「……今何時だ」 「知らん。自分で見やがれ」  蓋を外し、ゴクゴクと喉を鳴らしてそのほとんどを飲み切った大柴は、俺のよく知る太々しい態度だった。急に自信のなくなった俺は、サイドテーブルに投げられていた自身のスマホを起動する。午前十一時半を過ぎたところだった。 「シャワー入るならさっさと入れ。ちなみに二時間延長しているから、これ以上はテメェで払えよ」  身体の痛みを堪えながら、時間内になんとかシャワーを済ませると、昨日の服をそのまま身に着けて外へ出た。高く上った太陽の光がやけに眩しい。あれだけたくさんのネオンが輝いていたこの街も、今は寂れたようにひっそりと息を殺して佇んでいる。道行くサラリーマンの視線が痛い。居心地の悪い中、どうやってこいつに別れを告げればいいのかがわからなくて、二人してぼうっと突っ立っていると突然、大柴の腹が鳴った。 「腹減ったな」  同意を求めた大柴の腹がもう一度鳴り、「ラーメンでも行くか」と勝手に歩き出す。別にこのまま別れてもよかったものの、その後ろ姿を追いかけてしまったのは、昨夜の残像が重なったせいなのかもしれない。結局これが何なのかわからないまま、俺はラーメン屋ののれんをくぐることになった。
「お前、ラーメンなんか食うんだな」  太めの麺を魚介のスープに浸しながら、カウンターの隣の席で豚骨ラーメンを啜る男の手元を盗み見ていた。昨日見た綺麗な箸使いは幻などではなく、硬めに茹でられた極細面を器用につまんでいる。 「あーまあ、大学の付き合いとかでたまに、な」 「友達いるのかよ」 「なっ、舐めんなよバカ君下! つーかお前こそ、どこで何してんだよ」  そう言われて初めて気が付いた。俺たちは幼馴染であるのに、高校を卒業して以来の互いのことを殆ど知らなかったのだ。少し呆気にとられながら、時間を埋めるようにぽつぽつと近況を話し始めると、ホテルを出たときに感じていたギスギスとした空気はいつの間にかなくなっていた。傍から見ればただの仲のいい友人のように見えるだろうか。今よりも更に若かった俺たちはいがみ合うばかりで、互いが他愛もない話を何の気づかいもなくできる相手だということをこれっぽっちも知りはしなかった。だから隣で笑う男に対し、まるで昨夜の出来事が最初からなかったかのように振舞った。  大柴は都内の私立大学に通っているらしく、今は一人暮らしだという。どうせ親の金で借りたマンションなのだろうと思ったが、それは口には出さなかった。俺も自分のことを聞かれたので、実家であるスポーツショップを手伝いながら、たまの空いた時間で家庭教師のアルバイトをしていると話した。 「じゃあここの会計はお前が払え」 「あ? 奢りって言ったじゃねぇか」  席を立ちながら、当たり前のように伝票を手渡してくる大柴を睨みつける。 「奢りだとは言ってねぇだろ」 「テメェ、嵌めやがったな」 「まあハメたと言えばそうだが」 「なっ……そっちじゃねぇだろ! このタワケが」  いきなり蒸し返された昨夜の失態に思わずお冷を吹きこぼしそうになる。袖で口元を拭い、目の前にあった腹にジャブをお見舞いしてやると、「いってぇなバカ!」と大柴が吠えた。 「チッ、せっかく人がなかったことにしてやろうと思ったのに」  結局その場は君下が支払った。ホテル代に比べれば大した額ではないが、口止め料ぐらいにはなるだろう。のれんをくぐり外へ出ると、いつの間にか太陽が真上に昇っている。相変わらず時間の感覚が曖昧だったが、家に帰って眠ればそのうち戻るだろうか。 「じゃあな」 「ああ、またな」  そう言うと、タクシーで帰るという大柴は大通りへ向かい歩いてゆく。 「またって何だよ」  小さくなってゆく後ろ姿を眺めながら、果たして次はあるのだろうかと、ふと思った。 
 ∵好きだと言えない
 見慣れない番号から連絡があったのは、あれからちょうど一週間たった金曜日の午後だった。机の上でうるさく鳴り続けるバイブレーションに負けて、電話を取ったのが運の尽きだった。 「テメェ、何回鳴らせば出やがるんだ!」  耳鳴りがしそうなほどの大声に、思わずスマホを耳から離した。それからもう一度画面を確認し、表示されている番号を速攻で着信拒否に設定した。  次に電話が鳴ったのはちょうど四限が終わった頃だった。またもや知らない番号から電話が掛かってきたが、嫌な予感しかしないそれを無視し続けた。今日はこの後家庭教師のバイトがある。着信が途切れた隙に、カレンダーに保存した住所を確認して地図アプリを開く。大学からほど遠くない場所にある一軒家で、中学生相手に中間試験対策を行う予定だった。  早歩きで校門を抜けると、目の前の通りに真っ赤なスポーツカーが停まっているのが視界に入った。半分開いた運転席から、車と同じ髪色の男がサングラスをかけて、こちらに向かい手を振っているのが窺える。 「嘘だろ」  鳴りっぱなしの電話の相手が目の前に現れたのだと悟ると、これ以上近づきたくはなかった。今からでも気づかないふりをしてどうにか逃げ切りたかったが、車の中の大柴は口をへの字に結んだまま、親指で助手席を指している――つまり、乗れということか。少し迷ったが、君下は素直に従うことにした。ここは自分の通う大学の目の前であり、万が一あいつの機嫌を損ねて騒がれても困るのは俺のほうだ。ただでさえ目立つ真っ赤なスポーツカーは、既にこの場に不似合いだった。あのラーメン屋で迂闊にも大学名を教えたことを後悔しながら、身を屈めて助手席――後部座席のドアに手をかけると鍵が掛かっていて開かなかった。止むを得ずだ――へと乗り込むと、車はすぐに発進する。 「おい、何処行きやがる」  今日はバイトが、と言おうとして、大柴の機嫌がすこぶる悪いことを察して口を噤んだ。むしろ怒りたいのはこちらだというのに、どうして俺が気を遣わなければいけないのだろう。大柴の前だと時々自分がわからなくなる。 「なんで電話に出ねぇんだ」  やはり拗ねていやがる。アポイントなしにやって来られるぐらいなら、せめて通話に出てやればよかったと少しだけ後悔した。 「授業中だぞ」 「知るか。俺も授業中だった」 「どんな学校だよお前のところは……つーか、わざわざここまで来て何の用だ」  信号に引っかかると大柴は短く舌打ちをし、ブレーキを踏んだままこちらを振り向く。サングラス越しに目が合い、なぜかあの日の夜を思い出して急に気恥ずかしくなった。あの日の出来事は何度も忘れようと試みたが、ふとした瞬間に大柴の温もりを思い出しては惨めな気持ちになっていた。こんなこと、二度と忘れられる訳がない。 「その……なんだ、お前と飯でも行こうと思って」 「は?」 「いいだろ飯ぐらい。たまには幼馴染と話したいこともあるだろうが」  幼馴染だと? どの口がそう言っているのだろうか。眉間に皺が寄るのと同時に、不自然に心臓が高鳴っている。 「生憎だが、俺は今からバイトなんだよ……あ、次の信号を右に曲がれ」 「じゃあ終わるまで待ってる。因みに俺の奢りだ」  奢りという言葉に嫌でも眉尻がピクリと反応した。それを見たのであろう大柴は余裕のある笑みを浮かべている。やはりこの男はいちいち気に食わない。 「当たり前だろうタワケが。八時に迎えに来い」
 半信半疑で仕事を終えて外へ出てみると、暗闇の中でもその車体ははっきりと窺えた。運転席のシートを倒して眠りこける大柴の姿を認め、小さくため息をついたのち窓ガラスをノックする。  そこから車を走らせること数分で焼肉屋の駐車場に辿り着いた。「今日は肉の気分だな」と笑った男に俺はまだ少しだけ警戒心を抱いている。  当たり前だが運転してきた大柴は酒を飲まなかった。俺も翌日のことを考えて酒はビール一杯に留め、たわいも無い話をして二時間ばかりで店を出た。何も言わずとも実家まで送り届けた男は欠伸を噛み殺しながら「じゃあ、またな」と言った。やはり次もあるのか、と内心で思うだけにして、家の前で車が見えなくなるまで見送った。  そんなことが週に一度、あるいは二週に一度ほどのペースで続いている。俺のスマホの着信履歴には「バカ喜一」という名で登録された番号がずっと並んでいる。発信履歴には、未だその文字が一つもない。
 ⌘⌘⌘
 雲一つなく晴れた火曜日だった。季節はいつの間にか夏から秋へと移り変わり、この奇妙な関係が始まって半年が過ぎていた。  あれ以来大柴と酒を飲むことはあっても、ひどく酔うこともベッドを共にすることもなかった。人当たりが決して良いわけではない君下にとって、大柴と過ごす時間は己を晒け出せる数少ない機会になっていた。正反対の性格とは、裏を返せば酷く似通った思考をしているということだ。その証拠にサッカーに関して言えば、同じピッチに立った二人の呼吸はぴたりと合う。そう考えると自分たちは決して相性が悪いわけではないらしい。近過ぎた距離だけが互いを嫌悪する理由だったのかもしれない、と今更になって思うのだった。  ともあれ俺は大柴に特別な感情を抱いている。これが恋なのかはわからないが、自覚するまでに大した時間は掛からなかった。
「珍しいな、お前から誘ってくるなんて」  柔らかな午後の日差しが差すテラスでアイスコーヒーを啜っていると、待ち合わせの時間よりも少し早くやってきた大柴が隣の席に腰掛けた。初めて俺から電話をかけて、まだ三十分も経っていない。手にしていた文庫に栞を挟み、テーブルの上のスマホと重ねて置き直した。 「まあな……早かったな」 「ちょうど風呂入ったところだった」  そう言われてみると、大柴の髪がまだ濡れているような気がした。少しだけ心拍数が上がるのを感じていると、「それで」と大柴が続きを促す。 「あまり奢られてばかりだと、あとで何言われるかわかんねぇからな。たまには俺が奢ってやる」 「うむ、よかろう」  今日大柴を誘ったのは、明日が十月十日――つまり大柴の誕生日だということも少なからず関係している。当日に予定を組まなかったのは我ながら女々しい考えだと思う。その日に都合よく誘いが来ると限らなければ、大柴に彼女がいるのではないかと勘ぐっている自分がいたからだ。今までそういった類の話をしなかったのは意図的なのかもしれない。一度だけ大柴に聞かれたことはあったが、「そういうお前はどうなんだ」と聞き返すだけの勇気はなかった。  思えば高校時代は部活に明け暮れていて、恋愛ごとなどに全く興味がなかった。幸いにもサッカー部は練習が忙しく、彼女がいる奴の方が少ない。自分のことで精一杯なのに、他人に気を遣い機嫌を取り、それが一体何になるのだろう。性欲処理なら自慰で済む。彼女だっていつかそのうち出来るだろう。当時は本気でそう思っていた。  だがそれが大学に進学し、サッカーを辞めた今でも変わることはなかった。放課後と休日の殆どを占めていたサッカーは、そのまま家の手伝いと細々とした家庭教師のアルバイト、そして勉強へと成り代わった。
 珍しく電車で来たという大柴を連れて、待ち合わせをした駅前から続くゆるい坂道を上り、裏通りにあるスペイン料理店へと足を運ぶ。予約した時間よりも早めに着いたが、カウンターがメインの狭い店内は既に半分ほど席が埋まっていた。あたりを見渡しながら「よくこんな店選んだな」と感心したように言う大柴に、「ちょうどテレビでやってたんだよ」と教えてやる。通された一番奥の席に着いたところでウエイターがメニューを持ってやって来たので、とりあえずカヴァを二杯オーダーした。  人気店というだけあり、前菜にと頼んだスパニッシュオムレツが運ばれるころには店の前に軽く列ができていた。機嫌のよいたくさんの話し声、忙しなく鳴るグラスや食器のぶつかる音、薄暗い空間にぶら下がったあたたかな裸電球の色と陽気なギターが鳴るラテン音楽。舌を弾ける慣れない泡に気分はすっかり良くなり、塩気のきいた料理はどれも絶品だった。魚介のたっぷりと乗ったパエリアをつついている大柴も「お前にしては悪くないチョイスだ」とへらりと笑い上機嫌だった。本当に機嫌がいいらしくいつもよりもグラスを開けるペースも早く、いまは何杯目かのテンプラニーリョを舐めている。 「なあ、そろそろ付き合わねぇか」  まるで昨日の試合結果を伝えたかのような、何気ない口調だった。だから気分よく酔っていた君下は危うくその言葉を聞き流すところだった。 「そうだな……って待て、おい、今なんつった?」 「だから、付き合おうかって聞いてるんだよ」  やはり大柴は天気の話でもしているかのように言うものだから、話の内容が鈍った頭に入ってこない。言葉に詰まっていると、追い打ちをかけるようにワイングラスを持つ手を上から握られる。ああ畜生、なんてずるい奴だ。こうされてしまえば、その大きな手を振り解くことは難しい。悔しさにぐっと唇を噛みしめていると、それを見た大柴はにやりと勝ち誇った笑みを浮かべている。 「明日が俺様の誕生日だと知らなかったわけではあるまい。だからプレゼント代わりにお前をも貰ってやろうと言ってるんだ」 「っ! 畜生が」 「返事はイエス以外聞かねぇぞ」 「じゃあわざわざ聞くんじゃねぇよ」  分かっているくせに、とテーブルの横に下げてある伝票をひったくり、そそくさと席を立ちレジへと向かう。入り口付近の小さなパーテーションで会計をしていると、大柴が俺の背後を通り過ぎながら「俺の家な」と耳打ちした。 「クソ……やっぱり嵌められてんのかも」  俺は騙されているのだ。頭ではそう思っているが、素直にうれしいと思っている自分もいる。無意識ににやける口元をこれ以上誤魔化しきれそうにない。顔が妙に熱いのは、飲みすぎた赤ワインだけのせいではないような気がした。  
 ∵切れない関係
 なぜこいつなのだろう、と腰を動かしながら何度も思った。打ち付けるたびに君下の細い腰がびくり、と跳ね、だらし無く開いたままの唇がてらてらと濡れているのが視界に入る。正直に言うと、男は論外だと思っていた。突っ込まれる側なんて勿論無理だが、抱くことすら考えたことなどなかった。だが現実に今、同じ男である君下の中を貫く己の欲望は、はち切れそうなほどに張り詰めていた。 「んっ……もう、出そう……」 「ぐッ……あぁっ……」  思ったより限界は近い。一刻も早く欲を吐き出したくて、内壁を擦り上げるように性器を擦り付けた。ぢゅぷ、ちゅぷ、と音を立てるそこは何で濡れているのかも定かではない。そもそもここ小一時間ほどの記憶が曖昧だった。懐かしい顔ぶれで年に何度かの会合をしていたはずが、いつのまにか幼馴染と駅前のラブホテルの一室にいる。アルコールの影響でどろどろに溶けた思考のまま、自力で立つことすらままならない様子の君下を壁に押し付け、服もそのままに膨らませた股間を擦り付けた。俺以上に泥酔している君下の、苦しそうに息を吐く唇に吸い寄せられるように口づけ、気がついた頃にはこうなっていた。うつ伏せになった君下とシーツの間に左手を差し込むと柔らかいものに触れたが、同時に生温かい滑りを感じて君下がいつのまにか一度達したことを察した。別に否定したいわけではない。だがこれは、明らかに男同士のセックスだった。
 正直に言って、あまり居心地のいい視線ではなかった。理由はわからないが、俺は君下に睨まれている。長年の付き合いで君下が俺を好ましく思っていないことは知っている。だがこうも判りやすい嫌悪を示されたことはなく、大抵は俺の存在自体を無視されることが多かった。だから睨まれていることに気づくと、必然的にその視線の意味を知りたくなった。  カルピスらしきものを飲む君下を盗み見る。長い前髪が邪魔をしてうまく表情は読み取れないが、一番遠いこの席から見てもわかるほどに、顔全体が赤く染まっていた。酒は弱いのだろうか。それとも顔に現れるタイプなのか。ともかくジョッキを握りしめたまま、誰と話すわけでもなくちびちびとそれを口に含み続けている。君下の隣に座る鈴木とたまに目が合うが、俺が君下を見ていたことは恐らく気づかれていないだろう。  結局何一つ答えを得ることができないまま、会はお開きになり、大げさに手を振りながら終電組が帰って行った。俺の住むマンションはここからそう遠くない。酔いも心地よい程度に留まっている。どうせタクシーで帰るのだ。今すぐ帰る理由も見当たらず、かといってこれ以上残る目的もない。帰りたくなれば適当に抜ければいいか、などと思いながら、なんとなく人の流れに乗って歩いていると、前を歩く臼井が君下に何かを話しかけている。 「明日休みなんで大丈夫っす」  大丈夫ではないことは、その不確かな足取りを見ればわかる。臼井もおそらく分かっているだろうが、本人の意思を尊重したのか、「それならよかった」と笑いかけるだけだった。いや、良くねぇだろう。そう思うと、俺の体は勝手に動いていた。
 初めて身体を重ねた日から、ずっと君下のことが頭を離れなかった。かわいそうだと思ったわけではない。だがあの時、酔った君下を放っておけないと思ったのは紛れもない事実だった。本能に突き動かされるまま、適当に連れ込んだホテルで衝動的に身体を繋げた。俺も大概酔っていたのだろうが、壁に押し付けた君下を前に、俺の下半身はしっかりと反応を示していた。それでも誰でも良いわけではないことは、プライドの高い俺自身が一番よく判っている。俺はあの時たしかに、幼馴染である君下敦という男に欲情していたのだ。     ⌘⌘⌘
 君下が会計を済ませている間にタクシーを拾うと、行き先を告げて後部座席へと乗り込んだ。待ちわびた瞬間だった。まさか自分の誕生日の前日に食事に誘われるとは夢にも思わなかった。遅れてやっきた君下が隣へ乗り込むと、自動的に扉が閉まり、ゆっくりと車は夜の東京を滑り出す。緩やかな車の揺れに合わせて時折触れた肩だけが、これが夢ではなく現実なのだと俺に訴えかけていた。   そうして俺たちは晴れて恋人同士になったわけだが、思っていたよりも上手くいっていたと思う。付き合うとはいっても、俺は所属している大学のサッカー部の練習、君下はバイトと実家の手伝いで忙しい。会う頻度は付き合いはじめる以前と大して変わらなければ、行き先だっていつもの居酒屋か、俺の気に入っているバーだったり、そんなもんだった。デートらしいものをしたこともないが、あれほど仲の悪かった俺たちにしては大きな喧嘩もなかった。友情の延長線のような関係は気楽で、それでいてやることはやっているので性欲は満たされるが、その一方で何かが足りないような気もしていた。
 互いに予定のない金曜の晩は、外で待ち合わせて軽く食事をしたのち、俺のマンションへと一緒に帰る。手間だからと一緒にシャワーを浴び、そのまま互いの性器を擦り合わせて軽く抜いた。風呂でやるとのぼせるから嫌だ、という君下の意見を酌み、濡れたままベッドルームまで運んでやると溺れるように身体を重ねた。本来ならばモノを受け入れる場所ではないそこは、初めて抱いた頃と比べると、随分と慣れた様子だった。恐らく君下には他にも男がいたのだろう。本人に直接聞いたわけではないので確信はなかったが、そう思うと胸のあたりがもやもやとした。これがいわゆる嫉妬だということに気づいてしまえば、どうしたってあの男を自分だけのものにしたいと思うのは人間の本能だ。存在すらわからない相手に嫉妬し、根拠のない怒りをぶちまけるかのように、ぐったりとした細身の身体を力任せに何度も突き上げた。
 二度目のシャワーを浴び終えベッドへと戻ると、気を失っていたはずの君下が起きていた。俺の枕を抱えて力なく横たわっている。自分の放った精液にまみれていた白い腹も、いつの間にかきれいになっていた。 「一緒に住まねぇか」  ベッドの空いているスペースに腰かけながら、ずっと思っていたことを口にした。寝ぼけ眼だった君下の瞳が少し見開かれる。 「というかここに住め。特別に家賃は要らねぇし、家の世話をするなら今雇っている家政婦と同じ額を出してやる」  実家の手伝い以外にもバイトをしているということは、この男は相変わらず金に困っているのだろう。男二人暮らしの生活費を稼ぐために掛け持ちをしているというのに、さらに俺と会うためにバイトを増やされれば会う時間も今以上に限られてくる。そんなのは堪ったものではないだろう。 「えっこの家……家政婦なんていたのか」 「当たり前だろう。俺が家事をやると思ったか」 「まあ、確かに想像できねぇな」 「だろう。それに慌てて帰る必要もなくなる」  俺がただこいつをそばに置いておきたかっただけだ。これは俺のわがままなのだと、そんなことは分かっている。だがそれを素直に口にしたところで、この男が素直に従うという期待はしていなかった。一緒にいるための理由を必要としたのは、曖昧なこの関係を、何かで縛っておきたかったからなのかもしれない。そのぐらい俺たちの関係は、ひどく壊れやすいもののような気がしていた。
 それからすぐに君下は、両手に荷物を提げて俺の住むマンションへとやってきた。古い旅行鞄はいつかの修学旅行で見たような気がする。くたびれたそれに入っていた殆どは大学で使うらしい参考書や難しい本だった。最小限の服も私物も、あっという間に俺の部屋の一部となった。  家事はある程度できるという君下に「とりあえず腹減ったから何か作れ」とリクエストをすると、「じゃあまずは買い出しに付き合え」と交換条件を言い渡された。ここの家賃は勿論、食費などの生活費もすべて俺が――正確には俺の親父が――支払うとの約束だった。 「冷蔵庫は酒か水しかねぇし、お前ちゃんと食ってるのかよ」  呆れた様子でほとんど使われていないシステムキッチンを確認した君下は、「うわ、鍋もフライパンもねぇな」と頭を抱えている。俺は食事の大抵を外食か、もしくは週に二度やってくる家政婦が作ってきたもので済ませていた。広いキッチンにはコンロのほかにオーブン機能付き電子レンジも備わっていたが、自分で使うのはドリップ式のコーヒーメーカーぐらいものだろう。  そのほかにもあれやこれやと君下が買い物リストを作り、行き先も近所のスーパーから少し離れたショッピングモールへと変更になった。広々とした店内で大きなカートを押して歩きながら、いかにもカップルらしいなとどこか他人事のように思った。 「もっと良いもの買えよ、どうせ俺の金だ」  俺がそう言ったのも何回目だろうか。貧乏性とは知ってはいたが、まさかここまでだとはさすがに思わなかった。どうでもいいものはいつまでも悩むくせに、よく使うような必需品は百円ショップなどで済ませようとする。現にいま君下が選んでいる包丁も、まるで子供のままごとに使うもののように安っぽい代物だった。 「これちゃんと切れんのか?」 「喜一、お前はわかってねぇな」 「あ? なんだと」  プラスチックの箱に入ったそれを籠へと放りながら、君下は得意げな顔で俺を見る。いつになく楽しそうな男は、「切れねぇ包丁で料理するのが主婦ってもんだろ」と訳の分からないことを言い、見下したように笑っていた。俺はその言葉の意味がいまいちわからなかったし、それを理解する日は一生来ないだろうと思った。切れない包丁を買ったその日、君下は案の定涙を流しながら玉ねぎを切っていた。頭がいい癖に意外とバカだというところも愛おしい。玉ねぎ入りの焼きそばを食べながら、いつのまにか心底こいつに惚れていることに気づかされた。  だが、そんな日々は半年も続かなかった。いつかこうなると分かっていたのに、どうして止められなかったのだろう。君下が毎日刻んでいた玉ねぎの香りは、もう思い出すことができない。
  
 
 ∵花が散る
 いつのまにか桜が蕾をつけている。  君下と最初に寝たのも確か去年の春だったな、と教室から見える中庭の木々を眺めていると、ふいにポケットの中身が震えた。先月買い替えたばかりのスマートフォンを取り出すと、君下から「今日は実家に泊まる」と短いラインが入っていた。ロックを解除して「了解」とだけ返事をしながら、そういえば今日は練習がなかったのだと思い出す。まっすぐに帰宅してもどうせ夕食は外で摂ることになるだろう。
「あ、大柴くん。今日って結局来れるんだっけ」  退屈だった講義が終わり、荷物を纏めていると斜め後ろの席から声をかけられた。聞き覚えのある声に振り向くと、ミルクティーブラウンの長い髪をひとつにまとめた女がこちらを覗き込んでいる。確か同じサークルのミキだかそんなありきたりな名前だったはずだが、女の名前にいまいち自信はなかった。 「あー、たぶん行けるけど」 「よかった! 大柴くん最近来ないことが多かったから、ちょっと寂しかったってミキが言ってたよ」 「ああ……」  ミキはもう一人の連れのほうだったか……なんて失礼なことを思いながら、集合場所を聞いて一度その場で別れた。どのみち今夜は一人で食事をする予定だったので、それに人数と酒が少し加わる程度だ。思い返すと君下と一緒に暮らし始めてからは、籍だけ置いていたサークルにはほとんど顔を見せなくなっていたので、たまにはこういう日も悪くないのかもしれない。そう軽く見ていた俺が甘かったのだ。  時間を気にせずに酒を飲んだのは久しぶりで、情けないことに早い時間に潰れてしまった俺は、目を覚ますと見知らぬ天井が視界に入り大いに戸惑った。泥の中にいるように重たい身体と、どくどくと脈打つような頭の痛みにしばらく起き上がることも適わない。肌に当たる感覚から今俺はベッドの上にいて、そ��広くはない部屋のどこかからはすうすうと規則正しい寝息が聞こえている。それも一つではなく、この空間に複数人いることはなんとなく察した。  これはものすごくまずい状況ではないか。ベッドに横たえたまま顔を動かすと、顔のすぐ隣に女の真っ白な太腿がある。花柄のスカートはめくれ上がり、布の隙間から薄桃色の下着が覗いていた。頭の痛みどころではないこの状況に飛びあがるようにベッドから降り、部屋を見渡すと、サキもミキもアサミもマリも服を乱し、誰だかわからない女と男がそこら中に横たわり眠りこけている。 「なんじゃこりゃ」  覚えのない光景に呆然としていると、ずるり、と前の開いたスラックスが落ちかけたので慌てて引き上げる。通していたはずのベルトは見当たらず、背中を嫌な汗が伝う。嘘だろう。まさか俺は――  慌ててチャックを引き上げると、布の上から財布もスマホもポケットに入っていることを確認して大慌てで部屋を出た。失くしたベルトなど今はどうでもいい。とにかくこの悪夢のような場所から一刻も早く立ち去りたくて、安っぽいホテルの廊下を一目散に駆け抜けた。
 その日は幸いにも土曜日で大学に行く必要はなかった。だが夕方には練習があるので、面倒だが一度車を取りに戻ることにした。時刻はちょうど朝の八時を過ぎ、駅前には休日出勤のサラリーマンがちらほらと窺える。コンビニに寄り、水と頭痛薬を購入して飲み込むと、ホテルを出たころよりも幾分か冷静さを取り戻したような気がした。  一日ぶりの愛車を運転しながら、昨夜のことは考えないようにしていたがどうしても罪悪感がぬぐい切れない。何が起こったのか一切記憶はないが、所謂ラブホテルのような場所で目が覚めてしまえば、どんな馬鹿でも大方の予想はつく。ずっと大柴の隣に座っていたミキ――サキだったかもしれない――が、始終俺にべったりくっついていたことは覚えている。俺にその気がなくたって、何もなかったとはとてもじゃないが思えない。  ふらふらになりながら帰宅すると、玄関にはないはずの靴がきちんと脱ぎ揃えられていて、またもや嫌な汗が額に浮かぶ。まさかもう帰ってきたのか? あれからまっすぐに帰ったので、時刻はまだ九時にもなっていない。思わず独り言が零れたのと、寝室の扉が開くのはほぼ同時だった。 「よお……俺が居ねぇからって夜遊びか?」  靴を脱ぐために腰かけた俺の背中に、低い君下の声が刺さる。長い付き合いの中で君下の怒った声は何度も聞いているが、これは俺の知っている声とはだいぶ違っていた。ぞくり、と鳥肌が立ちそうなほどに冷たく、突き放すような声だった。振り向かなくとも君下が本気で怒っているのだと気づいた俺は、弁解したい気持ちを抑え、「急な集まりで飲みすぎて終電逃しちまった」とだけ報告した。暫くの沈黙が流れる。居心地の悪さを誤魔化すように、脱いだ靴をきちんと並べなおしていると、君下は「さっさと風呂入ってこい」と吐き捨てるように言うとリビングへと去って行った。  熱いシャワーを浴びながら、今回の件をどうやって切り抜けようかと考えていたが、リビングでコーヒーを飲んでいた君下に「女と寝ただろ」と先手を打たれてしまった。 「くせぇんだよ。如何にも頭からっぽです、みたいな品のない香水を振りまいてんじゃねぇよ」  自分では気づかなかったが、帰宅した当初から俺が纏っていた匂いがいつものそれではないと気づいていたようだった。君下の勘がいいのは昔からだが、ずばりと言い当てられて余計に居心地が悪くなる。 「お、俺は悪くねぇからな。何も覚えていないし、確かに同じ部屋に居はしたが、それだけで浮気とは限らねぇだろ!」 「誰が浮気って言ったんだ馬鹿が!」 「なっ……! テメェがカマかけるようなこと言ったじゃねぇか! それに浮気って、お前こそ他に男がいるんじゃねぇのかよ」 「あ? んだよそれ、自分のことは棚に上げて、よくそんなことが言えるな!」 「おい誤魔化すなよ!」  言い訳を重ねるうちに、つい熱くなってずっと気になっていたことを口にしてしまった。「本当は俺以外にも、男が居るんじゃねぇの?」そう言うと君下は、ひどく傷ついたような顔をした気がした。バン、と大きな音を立てて、君下の変な柄のマグカップがテーブルに叩きつけられる。その音にびくり、と肩を揺らしたが、次の瞬間、君下の眉が寄せられ、その切れ長の目に涙が浮かんでぎょっとした。見たこともないぐらいぐしゃぐしゃに顔を歪め、短い嗚咽を漏らしながら泣き始めた君下に、俺の怒りはあっという間にどこかへ消えてしまっていた。両手で顔を覆う君下を抱き寄せ、震える背を力強く抱きしめる。 「ごめん、ほんとに覚えてなくて……悪かった」 「うっ……ぐ、っ」 「もう二度としねぇよ。絶対に」  どうしてこんな大事な存在を傷つけることができるだろうか。こんなにも愛おしい奴を、俺はこいつ以外に知らないというのに。  顔を覆っていた手を引きはがし、赤く腫れた目尻に口づけを落とす。ちゅ、ちゅ、と何度も優しく触れたそこは、海のようなしょっぱい味がした。君下が泣き止むころには、いつの間にか頭痛はしなくなっていた。
 それから一週間後、君下はこの家を出て行った。元々少なかった荷物はきれいになくなり、リビングのテーブルの上に「ごめん」とだけ書かれた付箋と、合鍵だけが残されていた。一度実家を訪ねてみたが、記憶の中より少し痩せた親父が出てきただけで、「あいつは秋からずっと友達の家にいるぞ」という情報しか手に入らなかった。大学の前で待ち伏せをしたことも何度かあったが、いつかのときのように、偶然に君下と遭遇できた試しは一度もない。  四月に入り、毎年恒例のOB会にも行ってみたが、案の定君下の姿はなかった。今年の幹事である鈴木に聞いてみたが、欠席の返信を貰って以降、さっぱり連絡が取れないらしい。「お前、なにかしたんだろ」臼井に似て勘のいい鈴木にそう問い詰められたが、俺たちの関係を知らないこいつらに何と説明すればいいのかすら浮かばず、「何もねぇよ」と言うことが精いっぱいだった。その年も桜はいつの間にか散ってしまっていた。いつか花見をしようと約束したが、叶うことはもうないだろう。  
 
 ∵なすすべもない
「で? いつまでここに居るんだよ。あ、俺もウノだ」  手札から一枚を切り捨てた鈴木が、思い出したかのようにそう言った。 「分かんねぇ……あいつが諦めるまで? おい佐藤、はやくしろ」 「あ~~どうしよう、ちょっと待って。ちょっと考えてるから」 「何でもいいから出せよ栄樹、どうせその手札の量だと負けるぞ」 「うるせぇ! 今からでも十分ひっくり返せるぞ、っと、ワイルド」 「色は?」 「青」 「ん、あがりだ」 「サンキュー君下、俺もあがり」 「だあああああ!! 何なんだよお前らは!」  つうかもう帰してくれ! やけを起こしカードを巻き散らした佐藤が吠える。そうは言うがいつの間にかすっかり夜も更け、もう終電は走っていないだろう。
 俺が大柴のマンションを出て向かったのは鈴木の家だった。一度遊びに行ったことのあるそこはこぢんまりとした学生向けのアパートで、広さはないがベッドのほかにどうにか寝れそうなサイズのソファーが置いてある。急に訪ねてきた俺に対し、鈴木は特に理由を求めることもせずに「ソファーなら貸してやる」と言ってあっさりと受け入れた。鈴木の住むアパートから大学までは少し距離があったが、大学を挟み大柴のマンションとは反対方面なので正面玄関を通らずに済む。  喜一のいない俺の日常は案外普通に戻ってきた。喜一に貰った金は貯めてあった上に、減らしていた���庭教師のアルバイトも再開すれば生活費には困らない。迷惑料として家賃の半分を鈴木に手渡すと「そんなの要らねぇから、ちゃんと理由だけ教えろ」と返されてしまったが。 「もう半年か? あいつ、びっくりするぐらいしょげてたぜ」 「ふん、野郎がそんなことで落ち込むたまかよ」 「でもあれはさすがに可哀そうだった。俺なんか危うく鈴木の家にいるって言いそうになったからなぁ」 「ハイハイお友達だな、泣けるぜ」  今年の春のOB会は幸運にも鈴木が幹事だった。うまく言い訳をしてくれたらしく、君下の不参加を誰も不思議に思わなかったのだろう。ただ一人を除いては。 「まああいつモテるからなぁ。ほら、顔だけはいいだろ」 「顔だけ、な」 「付き合ってたお前がそれを言ってやるなよ」  ぐしゃり、と握り潰したチューハイ缶をゴミ袋に投げ入れると、あくびをしながら佐藤は「もう寝るわ」と言って、寝床にしている床へと転がった。ローテーブルには食べかけのつまみや総菜などが残っていたが、十月じゃあもう腐る時期じゃねぇな、と理由をつけてそのままソファーへと寝転がった。 「栄太、でんき~」 「ったくお前らは……」  頭上でパチン、と音がして視界を暗闇が覆った。闇夜に浮かぶ残光性のまるい輪を見つめながら、まだ眠れそうにないなとぼんやりと思う。
 覚悟はしていたつもりだった。だがその覚悟があっても、それを受け止めるだけの心が俺にはなかったのだ。要するに子供だったのだ。俺も喜一も。青春時代のすべてをサッカーに捧げ、とても恋愛どころではなかった俺たちの心はまだ思春期にも満たないのだろう。  大柴が女受けするというのは紛れもない事実だ。背が高く顔も良くてサッカーもできる、おまけに両親は医者で運転手付きの大豪邸に住んでいる。だが壊滅的にバカなので彼女ができない。俺にとってはどれも随分昔から知っていることだった。それでも彼氏ではない関係を求める女も一定数はいるはずだった。その可能性を甘く見ていた俺にも非があると思っている。男同士だなんてうまくいくわけがない。そう思ってしまうのは、俺もあいつも元々そういう趣味ではなかったというところにある。やっぱり女のほうがいい。そう言われてしまえば最後、俺にはもう成す術がない。そのことが一番恐ろしいと、あの日知ってしまったのだ。  実家に泊まると連絡したが、いざ自分のうすっぺらな布団で寝てみると急に寂しさがこみ上げてきた。馴染みのあるはずの布団が急に赤の他人のもののように思えたのだ。隣に感じない大柴の温もりを恋しく思い、あまり深く眠れないまま早朝に目を覚ますと、簡単な朝食とメモを残して実家を後にした。春の明け方はまだ肌寒い。それでも今頃家で寝ているであろう大柴の寝顔を思えば、寒さなど微塵も感じることはなかった。鍵を差し込み、起こさぬようにそっとドアを開けるといつもの靴が見当たらない。少しの違和感を覚えたが、寝室のドアを開けて余計に胸がざわついた。もしかしたら、もしかして――
「おい、それ、どうにかなんねぇのかよ」  うんざりしたような鈴木の声に、まどろんでいた君下ははっとした。息をしようとしてずっ、と鼻を啜り、そこでようやく自分が泣いていることに気づいた。 「悪い、へんな夢見てた」 「毎日か?」 「……」  毎日とは、と聞き返さなくても意味が分かった。おそらく俺は無意識のうちに、毎晩こうして悪い想像をしながら泣いていたのだろう。 「いい加減にちゃんと話し合えよ。案外あいつも同じ気持ちかもしれないだろ」  鈴木の言葉は全くの正論だった。俺は佐藤に差し出されたティッシュボックスから一枚を引き抜くと、思い切り鼻をかんでゴミ箱に向かって投げた。 「すまねぇな」 「そう思うならさっさと服着ろ。そんで荷物持って外に出ることだな」  徐に立ち上がり、部屋の明かりをつけた鈴木を目を細めながら見上げる。素っ気ない口調から怒っているのだと思っていたが、意外にもその口元は笑っていた。ぽかんとした表情で見上げていると、アパートの外から短いクラクションの音が鳴る。「お、早かったな」と呟いた佐藤はスマホで何かを打ち込んでいる。 「おい、まさか」 「迎えがきたぞ。さっさと帰るんだな」
 ∵エンドロールにはまだ早い
 低いエンジン音が振動となって両脚を伝う。途中で買ったトールサイズのラテを飲みながら、落ち着かない気持ちをどうにか抑えようと試みていた。  佐藤から連絡があったのは先週の木曜日の午後だ。休講になった四限を車で寝て過ごし、練習へと向かおうとした時だった。寝ぼけ眼で電話を取り、「ふぁい」とあくび交じりに返事をすると、「お前、今日鈴木の家に来れるか」といきなり要件を伝えてきた。 「君下がいる。練習が終わったら来いよ」  君下が出て行って、既に半年が経っていた。
 俺が悪いのだと分かっている。だが別れも告げずに急に消えた君下に対し、俺だって怒りがないのかと聞かれれば答えはノーだ。知り合いをつたって探し回ったが、一向に足取りがつかめない。これは誰かが嘘をついている可能性もあると思ったが、そうまでされるとあいつを連れ戻そうという気にはこれ以上なれなかった。  君下にはやはり男が居たのだろうか。あの時はつい頭に血が上り、かっとなってそんなことを口にしたが、思い返してみるとあいつがそれに明確な答えをしたかどうかは分からない。もしかしたら俺がほかの女に手を出したこ��をきっかけに、ただ俺と別れる理由を作りたかっただけなのかもしれない。いや、でも――。考えれば考えるほどに悪いイメージは浮かんでは消え、忘れようにも忘れられない。まさに悪循環だった。  君下がいない間、あのサークルの集まりには何度か顔を出した。寂しさを埋めたいだけなのか、あるいは自分を試したかったからなのか。黙っていれば女には困らない容姿をしている自覚はある。見てくれだけを狙っている馬鹿な女は案外あっさりと釣れた。  だが何度女の裸を前にしても、どうしても抱く気にはなれなかった。華奢な美女からむっちりとしたギャルまで様々を試してみたが、ただ目の前のそいつが君下ではないという現実を突き付けられるだけで、そのたびに無駄に張り手――もれなくインポという不名誉な称号付き――を食らう羽目に遭ってしまった。それはプライドの高い俺の心を傷つけるだけでなく、本気で不能になってしまう予感さえしていた。君下のいない今、唯一の友人である佐藤に泣きつくと、「俺も何かわかったら連絡するから」と毎度困った顔で慰められた。  そして佐藤はその約束を守ったらしい。
 鈴木の住まいは何の変哲もない、いたって普通のアパートだった。住所を教えられたが今が夜だということもあり、この何の特徴もない建物を見つけるのに随分と時間が掛かってしまった。パッ、と短くクラクションを鳴らすと、佐藤から「今行く」とラインが入り、程なくして二階の角部屋から男が一人出てきたことが窺える。遠目で見てもわかる、長い黒髪の男は紛れもなく君下だった。  逃げられるかと思ったが、君下はまっすぐに俺の車へと歩いてくると、何も言わずに助手席へと腰かけた。大きな荷物は膝の上に抱えたまま、その眼はじっと前方を見据えている。 「帰るぞ、君下」  返事はないが、君下は大きなカバンの上からシートベルトを締めたのでそれを了解と取ることにした。まるで家出した息子を引き取りに来た親父のような気分だな、と呑気なことを思いながら、俺はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 深夜の道路は思ったよりも空いていて、互いに一言もしゃべらないままあっという間に自宅マンションへと辿り着いてしまった。地下駐車場に車を停め、エレベーターで六階へ昇る。隣の住人はまだ起きているらしく、玄関の外にまで深夜のバラエティ番組の声が聞こえていた。  靴を脱ごうと背を屈めると、急に背中に重みを感じてバランスを崩した。 「おわっ?!」  どすん、と派手な音を立てて俺は膝から転げ落ちた。すぐに受け身を取った上にマットレスのお陰で痛みはないが、急にのしかかってきた君下に「何だよ、危ねぇだろうが」と文句を言おうとした俺の唇に、あたたかなものが触れた。 「?!」  突然に口づけられ、無防備だった唇の隙間から舌が侵入してくる。歯列をなぞり、その奥で縮こまっていた俺の舌を探り当てるように、君下の舌がじゅ、ぢゅっ、と厭らしく音を立てながら吸い上げる。 「あっ、まへ……」  久しぶりの感覚に腰がじん、と痺れ、貪りあうような口づけの合間に吐息が漏れた。すべてを吸いつくすかのような、君下の積極的な舌遣いに柄にもなく翻弄されっぱなしだった。いつの間にか俺の両手は君下の腰を抱き、シャツの裾からやわらかな肌を探り当てようと伸びてゆく。 「はぁ……っ喜一、っ」  ここはまだ玄関先で、足元には靴を履いたまま君下はゆらゆらと腰を動かしている。俺の顔を両手で挟み、しっかりとその存在を確かめるように深く口付ける。忙しない接吻に口の端から唾液がこぼれるが、それすらも吸い尽くすように君下の赤い舌が俺の顎を這う。 「おい、どうした……らしく、ねぇじゃねぇか」  ようやく解放された唇は酸素を取り込み、久しぶりに深く呼吸をしたような気がした。上気しぼうっとした様子で膝立ちになる君下を抱き寄せる。柔らかな黒髪の隙間に指を差し込み、首筋に鼻先を埋めると久しぶりの君下の匂いがした。 「どこにも行くなよ」  ようやく捻り出した声はどこか頼りのない声だった。君下に会ったら、言ってやりたいことはたくさんあった。この半年間、どんな思いで俺がお前のいない家に住んでいたのか。必死に探して、誤解を解いて謝ろうとして、それでも見つからないお前のために、何度眠れない夜を過ごしたのだろう。言いたいことは山ほどあったはずなのに、いざ本人を目の前にしてしまうとそのどれもが無意味だった。伝えたいことはただ一つ。どんな形であれ俺のそばに居てほしい。たったそれだけだったのだ。 「去年の今日……お前が俺にくれたものを覚えているか」  きつく抱き寄せたまま、君下は何も言わない。俺の真横にある顔が、どんな表情をしているのかすら分からなかった。 「あの時のプレゼントを返せと言われても困るのだが」 「……クセェ奴だな」 「るせぇな、じゃあ言わせるなよ」  俺の肩で君下が震えている。泣いているのかと思ってぎょっとしたが、引き剥がしてみると目に涙を浮かべ、必死に笑いを堪えていた。  「テメェ、笑うか泣くかどっちかにしろよ」 「クク……っ。わ、笑ってんだろうがッ……ブフッ」 「あー信じらんねぇな、畜生。俺は誕生日だっていうのに」  もうとっくに日付は変わっている。十月十日――今日は俺の誕生日だ。まさかこうなることを狙ってわざと君下は戻ってきたのだろうか。そう思えなくもないし、それだけのことをやるほどこいつの性格が悪いことを俺はよく知っている。 「なあ、誕生日プレゼント、何が欲しい?」  半泣きの君下が俺に聞いた。 「あ? お前を貰うってさっき言ったじゃねぇかよ」 「それは去年やっただろ? 今年は何がいいかって聞いてやってんだよ」  確かに一度もらったものを返してもらっただけである。これで今年もお前を貰うと言えば、またこいつは居なくなり、来年の誕生日に戻ってくるかもしれない。我ながらそれを思いついたことにぞっとしたが、君下以外に欲しいものなんて今すぐには思いつかなかった。 「あ、そうだ。新しい包丁買ってくれよ」 「なんだそりゃ」 「ちゃんと切れるやつにしろよ。それでお前が俺に焼きそばを作ってくれ。春になったら一緒に桜を見に行こう。どうだ? これでいいだろう」  返事を聞く前にその唇を塞いでやる。どうか気が早いだなんて思わないでくれ。先のことは何一つわからないが、今はこのまま君下と繋がっていたかった。俺たちの物語は、エンドロールにはまだ早いのだ。
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yo4zu3 · 4 years
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ベテルギウスは泣いている(相保)
 東京の冬は寒い。
 それは今に変わったことではないが、それでも寒さは年を追うごとに厳しさを増しているような気がした。 保科は白い息を吐きながら、「温暖化とは名ばかりで寧ろ氷河期に向かっているようだな」と呟くと、目の前で鼻の頭を赤くした男はさも不思議そうな顔をした。話が少し難しかっただろうか。見るからに健康そうな小麦色の肌は、どちらかと言えば机に向かって勉強するよりも、無邪気に外を走り回っていそうなタイプだった。偏見だったら謝ろう。
「何笑ってんだよ」 「笑っていない」 「嘘つけ、にやけた面しやがって」
 そう言って尖らせた唇が近づいてきて、保科の耳元を掠めた。寒さで悴んだそこに温かな吐息が当たり、不快に眉間を寄せる。すぐに離れた小麦色の顔はそれを見るなり「分かりやすい奴」と言ったきり、相庭がそれ以上近づいて来ることはなかった。
 第一印象は、よく喋る男だと思った。  元々二人に接点はない。高校も違えば、出身や学年さえ違った。共通点と言えば、既にプロサッカーチームとの契約を交わした高校生――十傑と呼ばれている――だという事と、両者ともに聖蹟高校に敗れたという事ぐらいだろう。  聖蹟高校は強い。それは夏のインターハイの覇者・梁山高校を破ったという、紛れもない事実が証明している。  あの日の試合内容に不満はない。保科率いる東院学園はエースを欠きながらも全力を出し切り、それよりも聖蹟高校が一枚上手だったと納得している。だがそれでも、一ミリも後悔していないと言えば恐らく嘘になる。 それ故だろうか、ピッチに立ち続けるはずだった男は未だに観客席からボールを眺めている。まるでそこにまだ未練でもあるかのように、憑りつかれたようにスタジアムへと足を運び続けた。
 そうしているうちにいつの間にか、隣に座る男がいた。  日に焼けた肌をした男は一つ年下で、二年生にして卒業後のプロ入りが決まっている。そしてその男もまた同じ学校に敗れ、同じようにピッチの外からボールを目線で追っている。  もしも東院学園があの試合に勝っていたのならば、いずれこの男の率いる一星学園と対戦していたのだろう。そう思うとこの状況は、実に奇妙なものだと思う。
 隣の男はよく喋る。  話す内容と言えば専らサッカーの話題だったが、サッカーの戦術は勿論、相撲も嗜み、いくらか言葉を交わすうちに関係のない話をあれやこれやとしてくる奴だった。  次の試合はどう見る、敵に回したくない選手は、兄貴のどっちが強い、何チームからオファーが来た、サッカーは何歳から、履き潰したスパイクの数は、好きな食べ物は、山と海ならどちらが好き、初恋はいつ、今までにもらったラブレターの数……などと、まるで雑誌か何かのインタビューかと思うような内容が、次から次へと飛び出す。一方的に喋り倒すその勢いに最初は圧倒されたが、そうやって構ってくる男を保科は案外嫌いではない。  おしゃべりな男に、むしろ幼馴染の男を思い出す。  系統は少し違うようだが、真面目で機械的だと言われる保科から見れば、どちらも明るく華があり、いい意味でうるさい存在だった。彼らとは対極である保科に対ししつこく絡むところだとか、それでいて保科が聞いていないと分かれば――例えばたった今もそうだが――話を止め、「おい、聞いているのか?」と責めるようなことはしない。ただ目の前で頬杖をつき、目尻を下げて微笑む男を、保科は不思議な思いで眺めていた。  
「それで、どこまでついて来るつもりだ」 「どこって、俺のホテルこっちだし」
 スタジアム近くのカフェテラスを後にして、手持ち無沙汰の二人はなんとなく駅の方へと向かっていた。梁山戦をギリギリで勝ち抜いた聖蹟イレブンに物申したいことは多々あったが、二日連続の激戦で疲労も溜まっている選手たちを、しかも夜分に伺うことは流石に失礼だと思い留まったのだ。 あー行きたかったなぁ、と未だに文句を垂れる男は自身の宿泊するホテルに辿り着くと、「よし、帰るか」と言って保科の右腕を引いた。さも当たり前のようにエントランスをくぐろうとしたので、「一体どういうつもりなのだ」と立ち止まると、ジャージのポケットに片手を突っ込んだ相庭は呑気な様子で、口笛を吹く顔をこちらに向けた。
「え、泊まって行かねぇの?」 「なぜ俺が泊まるんだ」
 そう言い返すと驚いたように目を見開く男に、保科は呆気に取られた。掴まれた右腕に力が籠る。
「あんな試合見せられた後じゃあ、話し足りねぇだろ」 「いや、結構だ」 「まあそう言うなって」
 自動ドアの間で小競り合いをしていると、ガラス越しにこちらを見るレセプショニストと視線が合う。この時間ならば誰に見られることもないだろうが、このままでは見た目がよくないと思い、諦めて「泊まりはしないが、少し寄るだけなら」と言って抵抗をやめた。
「さっさと行こうぜ。凍えそうだ」
 保科の態度に気を良くしたのか、腕を掴んだままにかり、と笑う男をやはり拒むことができない。 薄暗いロビーを通り過ぎ、他の客に混じりエレベーターを待つ。その後姿を眺めながら、大勢の観客の前で、「いいから来い」と保科の右腕を引いた幼馴染の姿がぼんやりと重なっていた。
 底抜けに明るい男だった。  男は中学最後の試合で怪我をして以来、高校では殆ど試合に出ることはなかった。出たとしても途中出場であり、選手層の厚い強豪校である東院学園において、切り札を使わざるを得ないピンチなど極稀なものだった。  怪我を負ったのは紛れもない不運だったが、あの時エースである海藤を保科が信じ切れずに敗退したのは事実だ。それでも文句のひとつも言わず、誰に対しても明るく振舞い、引退することなく最後まで高校サッカーをやり切った男の姿に何度も苦しめられ、そして何度も励まされた。  そんな海藤に対し、称賛でも同情でもない複雑な感情を抱かずにはいられなかった。その感情には、未だに名をつけられないままでいる。
「余裕そうだな」
 窓辺のソファに相庭の膝が乗り上げると、その体格のいい身体が保科の上に覆い被さる。つい数日前に話すようになった男が何を考えているのかわからない。
「やめてくれ」 「嫌なら押し返せよ」
 その言葉に、下から睨み上げるように見つめ返すと、「おー、怖いな」と揶揄うような口ぶりで返される。それにも怯まず近づいてくる顔に、ふい、と視線を逸らすと窓の外に繁華街のネオンが見えている。相庭の鼻先が首筋をなぞり、ぶるり、と背が震えたが、やはりどうも嫌な気はしない。それどころか、この男にもっと触れて欲しいとさえ思っていた。これが違う人間ならばどうしただろうか、と考えながら、地上で輝く人工的な光から逃げるようにゆっくりと目を閉じた。
 ⁂
「見えねぇなぁ」
 ベッドの淵に腰掛けた相庭が、カーテンの開いたままの窓を眺めていた。腰のだるい保科はベッドに項垂れたまま、頭だけを動かして外を見る。真っ黒な空には何も見えず、部屋の明かりが反射して思いのほか眩しかった。目を細めて赤い線のはしる相庭の背中を見つめる。
「何を探している」 「星だよ」
 そう言われてもう一度空を見るが、やはり星などどこにも見えない。東京では珍しい話ではないが、長崎は違うのだろうか。真っ黒な空は面白みもなく、その代わりに日に焼けていない相庭の素肌を眺めていると、「何見てんだよ」とにやけた顔の男がこちらを振り返る。
「意外とロマンチックなのだな」 「はあ?俺が?」 「ほかに誰がいる」
 いそいそと布団に潜り込んできた男の素肌が触れると、少しだけひんやりとしていた。暖を取るように足が絡められ、足先の冷たさに思わず足を引っ込めると、「逃がさねぇ」と言った相庭の足が余計に絡まった。
「俺、寒いの苦手なんだよ」 「知らないな」 「冷てぇ。俺のことなんか全然聞いてくれねぇし」
 確かに言われてみれば、保科から相庭に何かを問うたことはない。ここ数日一緒にいて、知っていることと言えば年下のプロ内定者で、意外にもロマンチストだということぐらいだった。
「すまない」 「んじゃあ、なんか聞けよ」 「……長崎は、星が綺麗なのか?」
 咄嗟に捻り出した言葉に、「ああ、すごいぞ」と言った相庭の目が、まるで少年のようにきらきらと輝いたような気がした。こんな顔もしてみせるのか。相庭の年下らしい部分を垣間見て、保科は少しだけ気分がいい。たまには質問するのも悪くないかもしれない。
「見せてやりてぇな、長崎の星」
 抱き寄せられた腕の中で聞いた声は、柔らかでひどく心地が良かった。
 ⁂
 すうすうと寝息を立てて眠る相庭を起こさぬように、何も告げないままそっとベッドを抜け出した。エントランスを通り抜けると、冷たい夜風が頬を撫ぜる。日付の変わらぬうちに、保科はホテルを後にした。 そういえば浦と亜土夢はどうしただろうか。凍えそうな夜道を歩きながら、近くで観戦していたはずのチームメイトたちを想った。会場近くのカフェテラスでその姿を見た切り、二人はどこかへ消えてしまったのだ。
「タク」
 ふと、正面から聞き慣れた声がして足を止める。いつのまにか駅前まで歩いていたようで、改札の前に立っていたのは海藤だった。
「海……」
 どうしてこんなところにいるのだ。 海藤は引退して以来、受験勉強のために試合を観に来ることは一度もなかった。予想もしない人物に遭遇し、保科はそれ以上何と声を掛けていいのかわからない。言葉を失い、ぽかん、と開いた口から白く息が立ち昇ると、それを見た海藤が、「さあ、帰ろう」と保科の冷えた手を取った。その手もまた、冷え切っていた。
 終電にはまだいくらか時間があった。改札を抜けエスカレーターを上っていると、前に立つ海藤の頭上に一粒だけ星が見えていた。
「どうした?」
 天を見つめる保科に気付いた海藤は、保科と同じ方向を見る。「何もないな」と言う海藤に、保科は「いや、ひとつだけ、星が見えている」と指をさしながら答える。確かに先程のホテルからは見えなかったそれは、まるで燃えているかのように赤く輝いていた。
「あ、ほんとだ。何だったかなぁ、あれ」 「……シリウス?」 「いや、何だっけ、べ……ベガ……みたいな」
 男が二人、真冬の駅のホームで空を見上げ、星の名についてああだこうだと言っている姿は傍から見れば奇妙なものだろう。電車がやって来るまでそれは続き、いよいよその名を思い出すことができないまま乗り込んだ。人もまばらな車内は暖房が効いていて、冷たくなった耳や繋いだままの指先がじんわりと熱を持ちはじめる。  並んで腰かけたシートからは、まるで保科を追いかけるようにあの星が輝いていた。もの凄いスピードで流れてゆくネオンの光とは違い、真っ暗な空の変わらない場所でその存在を主張し続けていた。
「こんな時間まで何していたんだ」
 ぼんやりと窓の外を眺める保科に、隣に座る海藤はゆっくりと口を開いた。
「話し込んでいたら、つい遅くなってしまった」 「はは、そうか」 「海はどうしてあそこに」 「少し前に浦と亜土夢から連絡があってさ……タクが見当たらないって」 「すまない」
 咄嗟に口から出た謝罪の言葉に、海藤は「謝ることじゃない」と言った。それが何に対してなのか、保科にもわからないままだった。
 最寄り駅で降りると、海藤は「じゃあ、俺はもう少しだけ勉強していくから」と言って、そこでようやく手を離した。温まった手が再び冷たい空気に触れ、それが余計に寂しい。
「タク、変わったな」
 いつかのときのように目を細め、寂しげに笑う海藤に心臓がぎゅ、と握られたように苦しい。
「何も変わらないだろう」 「変わったさ」
 ふふ、と笑った海藤は、自嘲の笑みを浮かべている。そんな顔は知らない。訳がわからずに口を噤んでいると、「星なんて、今まで一度も気に掛けたことがなかっただろ」と呟いた声はあまりにも小さく、保科の耳に届くことはなかった。
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yo4zu3 · 4 years
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やさしい光の中で(柴君)
(1)ある日の朝、午前8時32分
 カーテンの隙間から細々とした光だけがチラチラと差し込む。時折その光は強くなって、ちょうど眠っていた俺の目元を直撃する。ああ朝だ。寝不足なのか脳がまだ重たいが、朝日の眩しさに瞼を無理矢理押し上げる。隣にあったはずの温もりは、いつの間にか冷え切った皺くちゃのシーツのみになっていた。ちらりとサイドテーブルに視線を流せば、いつも通り6時半にセットしたはずの目覚まし時計は、あろうことか針が8と9の間を指していた。
「チッ……勝手に止めやがったな」
 独り言のつもりで発した声は、寝起きだということもあり少しだけ掠れていた。それにしても今日はいつもに増して喉が渇いている。眠気眼を擦りながら、キッチンのほうから漂ってくる嗅ぎ慣れた深入りのコーヒーの香りに無意識に喉がこくりと鳴った。
 おろしたてのスウェットをまくり上げぼりぼりと腹を掻きながら寝室からリビングに繋がる扉を開けると、眼鏡をかけた君下は既に着替えてキッチンへと立っていた。ジューという音と共に、焼けたハムの香ばしい匂いが漂っている。時折フライパンを揺すりながら、君下は厚切りにされたそれをトングで掴んでひっくり返す。昨日実家から送ってきた荷物の中に、果たしてそんなハムが入っていたのだろうか。どちらにせよ君下が普段買ってくるスーパーのタイムセール品でないことは一目瞭然だった。
「おう、やっと起きたか」 「おはよう。てか目覚ましちゃんと鳴ってた?」 「ああ、あんな朝っぱらからずっと鳴らしやがって……うるせぇから止めた」
 やっぱりか、そう呟いた俺の言葉は、君下が卵を割り入れた音にかき消される。二つ目が投入され一段と香ばしい音がすると、塩と胡椒をハンドミルで少し引いてガラス製の蓋を被せると君下の瞳がこっちを見た。
「もうすぐできる。先に座ってコーヒーでも飲んどけ」 「ん」
 顎でくい、とダイニングテーブルのほうを指される。チェリーウッドの正方形のテーブルの上には、今朝の新聞とトーストされた食パンが何枚かと大きめのマグが2つ、ゆらゆらと湯気を立てていた。そのうちのオレンジ色のほうを手に取ると、思ったより熱くて一度テーブルへと置きなおした。丁度今淹れたところなのだろう。厚ぼったい取手を持ち直してゆっくりと口を付けながら、新聞と共��乱雑に置かれていた郵便物をなんとなく手に取った。  封筒の中に混ざって一枚だけ葉書が届いていた。君下敦様、と印刷されたそれは送り主の名前に見覚えがあった。正確には差出人の名前自体にはピンと来なかったが、その横にご丁寧にも但し書きで元聖蹟高校生徒会と書いてあったから、恐らくは君下と同じ特進クラスの人間なのだろうと推測が出来た。
「なんだこれ?同窓、会、のお知らせ……?」
 自分宛ての郵便物でもないのに中身を見るのは野暮だと思ったが、久しぶりに見る懐かしい名前に思わず裏を返して文面を読み上げた。続きは声に出さずに視線だけで追っていると、視界の端でコトリ、と白いプレートが置かれる。先程焼いていたハムとサニーサイドアップ、適当に千切られたレタスに半割にされたプチトマトが乗っていた。少しだけ眉間に皺が寄る。
「またプチトマトかよ」 「仕方ねぇだろ。昨日の残りだ。次からは普通のトマトにしてやるよ」
 大体トマトもプチトマトも変わんねぇだろうが、そう文句を言いながらエプロンはつけたままで君下は向かいの椅子に腰かけた。服は着替えたものの、長い前髪に寝ぐせがついて少しだけ跳ねあがっている。
「ていうか同じ高校なのになんで俺には葉書来てねぇんだよ」
 ドライフラワーの飾られた花瓶の横のカトラリー入れからフォークを取り出し、小さな赤にざくり、と突き立てて口へと放り込む。確かにクラスは違ったかもしれないが、こういう公式の知らせは来るか来ないか呼びたいか呼びたくないかは別として全員に送るのが礼儀であろう。もう一粒口に含み、ぶちぶちとかみ砕けば口の中に広がる甘い汁。プチトマトは皮が固くて中身が少ないから好きではない。やっぱりトマトは大きくてジューシーなほうに限るのだ。
「知らねぇよ……あーあれか。もしかして、実家のほうに来てるんじゃねぇの」 「あ?なんでそっちに行くんだよ」 「まあこんだけ人数いりゃあ、手違いってこともあるだろ」 「ったく……ポンコツじゃねぇかこの幹事」
 覚えてもいない元同級生は今頃くしゃみでもしているだろうか。そんなどうでもいいことが頭を過ったが、香ばしく焼き上げられたハムを一口大に切って口に含めばすぐに忘れた。噛むと思ったよりも柔らかく、スモークされているのか口いっぱいに広がる燻製臭はなかなかのものだ。いつも通り卵の焼き加減も完璧だった。
「うまいな、ハム。これ昨日の荷物のか?」 「ああ。中元の残りか知らないけど、すげぇいっぱい送って来てるぞ。明日はソーセージでもいいな」
 上等な肉を目の前に、いつもより君下の瞳はキラキラしているような気がした。高校を卒業して10年経ち、あれから俺も君下も随分大人になった。それでも相変わらず口が悪いところや、美味しいものに素直に目を輝かせるところなんて出会った頃と何一つ変わってなどいなかった。俺はそれが微笑ましくもあり、愛おしいとさえ思う。あとで母にお礼のラインでも入れて、ああ、それとついでに同窓会の葉書がそっちに来ていないかも確認しておこう。惜しむように最後の一切れを噛み締めた君下の皿に、俺の残しておいた最後の一切れをくれてやった。
(2)11年前
 プロ入りして5年が経とうとしていた。希望のチームからの誘いが来ないまま高校生活を終え、大学を5年で卒業して今のチームへと加入した。  過酷な日々だった。  一世代上の高校の先輩・水樹は、プロ入りした途端にその目覚ましい才能を開花させた。怪物という異名が付き、十傑の一人として注目された高校時代など、まだその伝説のほんの序章の一部に過ぎなかった。同じく十傑の平と共に一年目から名門鹿島で起用されると、実に何年振りかのチームの優勝へと大いに貢献した。日本サッカーの新時代としてマスメディアは大々的にこのニュースを取り上げると、自然と増えた聖蹟高校への偵察や取材の数々。新キャプテンになった俺の精神的負担は増してゆくのが目に見えてわかった。
 サッカーを辞めたいと思ったことが1度だけあった。  それは高校最後のインターハイの都大会。前回の選手権の覇者として山の一番上に位置していたはずの俺たちは、都大会決勝で京王河原高校に敗れるという失態を犯した。キャプテンでCFの大柴、司令塔の君下の連携ミスで決定機を何度も逃すと、0-0のままPK戦に突入。不調の君下の代わりに鈴木が蹴るも、向こうのキャプテンである甲斐にゴールを許してゲーム終了、俺たちの最後の夏はあっけなく終わりを迎えた。  試合終了の長いホイッスルがいつまでも耳に残る中、俺はその後どうやって帰宅したのかよく覚えていない。試合を観に来ていた姉の運転で帰ったのは確かだったが、その時他のメンバーたちはどうしたのかだとか、いつから再びボールを蹴ったのかなど、その辺りは曖昧にしか覚えていなかった。ただいつまでも、声を押し殺すようにして啜り泣いている、君下の声が頭から離れなかった。
 傷が癒えるのに時間がかかることは、中学選抜で敗北の味を知ったことにより感覚的に理解していた。君下はいつまでも部活に顔を出さなかった。いつもに増してボサボサの頭を掻き乱しながら、監督は渋い声で俺たちにいつものように練習メニューを告げる。君下のいたポジションには、2年の来須が入った。その意味は、直接的に言われなくともその場にいた部員全員が本能的に理解していたであろう。
『失礼します、監督……』
 皆が帰ったのを確認して教官室に書き慣れない部誌と共に鍵を返しに向かうと、そこには監督の姿が見えなかった。もう出てしまったのだろうか。一度ドアを閉めて、念のため職員室も覗いて行こうと校舎のほうへと向かう途中、どこからか煙草の香りが鼻を掠める。暗闇の中を見上げれば、ほとんどが消灯している窓の並びに一か所だけ灯りの付いた部屋が見受けられる。半分開けられた窓からは、乱れた黒髪と煙草の細い煙が夜の空へと立ち上っていた。
『お前まだ居たのか……皆は帰ったか?』 『はい、監督探してたらこんな時間に』
 部誌を差し出すと悪いな、と一言つけて監督はそれを受け取る。喫煙室の中央に置かれた灰皿は、底が見えないほどの無数の吸い殻が突き刺さり文字通り山となっていた。監督は短くなった煙草を口に咥えると、ゆっくりと吸い込んで零れそうな山の中へと半ば無理やり押し込み火を消した。
『君下は……あいつは辞めたわけじゃねぇだろ』 『お前がそれを俺に聞くのか?』
 監督は伏せられた瞳のまま俺に問い返す。パラパラと読んでいるのかわからないほどの速さで部誌をめくり、白紙のページを最後にぱたりと閉じた。俺もその動きを視線で追っていると、クマの濃く残る目をこちらへと向けてきた。お互いに何も言わなかった。  暫くそうしていると、監督は上着のポケットからクタクタになったソフトケースを取り出して、残りの少ないそれを咥えると安物のライターで火をつけた。監督の眼差しで分かったのは、聖蹟は、アイツはまだサッカープレーヤーとして死んではいないということだった。
 迎えの車も呼ばずに俺は滅多に行かない最寄り駅までの道のりを歩いていた。券売機で270円の片道切符を購入すると、薄明るいホームで帰路とは反対方向へ向かう電車を待つ列に並ぶ。間もなく電車が滑り込んできて、疲れた顔のサラリーマンの中に紛れ込む。少し混みあっていた車内でつり革を握りしめながら、車内アナウンスが目的の駅名を告げるまで瞼を閉じていた。  あいつに会いに行ってどうするつもりだったのだろう。今になって思えば、あの時は何も考えずに電車に飛び乗ったように思える。ガタンゴトンとレールを走る音を聞きながら、本当はあの場所から逃げ出したかっただけなのかもしれない。疲れた身体を引きずって帰り、あの日から何も変わらない敗北の香りが残る部屋に戻りたくないだけなのかもしれない。一人になりたくないだけなのかもしれない。
『次はー△△、出口は左側です』
 目的地を告げるアナウンスで思考が現実へと引き戻された。はっとして、閉まりかけのドアに向かって勢いよく走った。長い脚を伸ばせばガン、と大きな音がしてドアに挟まる。鈍い痛みが走る足を引きずりながら、再び開いたドアの隙間からするりと抜け出した。
 久しぶりに通る道のりは、いくつか電灯が消えかけていて薄暗く、不気味なほど人通りが少なかった。古い商店街の一角にあるキミシタスポーツはまだ空いているだろうか。スマホの画面を確認すれば、午後8時55分を指していた。営業時間はあと5分あるが、あの年中暇な店に客は一人もいないであろう。運が悪ければ既にシャッタは降りているかもしれない。
『本日、休業……だあ?』
 計算は無意味だった。店のシャッターに張り付けられた、チラシの裏紙には妙に整った字でお詫びの文字が並んでいた。どうやらここ数日間はずっとシャッターが降りたままらしいと、通りすがりの中年の主婦が店の前で息を切らす俺に親切に教えてくれた。ついでにこの先の大型スーパーにもスポーツ用品は売ってるわよ、と要らぬ情報を置いてその主婦は去っていった。こうやって君下の店の売り上げが減っていくという、無駄な情報を仕入れたところで今後使う予定が来るのだろうか。店の二階を見上げるも、君下の部屋に灯りはない。
『ったく、あの野郎は部活サボっといて寝てんのか?』
 同じクラスのやつに聞いても、君下のいる特進クラスは夏休み明けから自主登校となっているらしい。大学進学のためのコースは既に3年の1学期には高校3年間の教科書を終えており、あとは各自で予備校に行くなり自習するなりで受験勉強に励んでいるようだ。当然君下以外に強豪運動部に所属している生徒はおらず、クラスでもかなり浮いた存在だというのはなんとなく知っていた。誰もあいつが学校に来なくても、どうせ部活で忙しいぐらいにしか思わないのだ。  仕方ない、引き返すか。そう思い回れ右をしたところで、ある一つの可能性が脳裏に浮かぶ。可能性なんかじゃない。だがなんとなくだが、あいつがそこにいるという確信が、俺の中にあったのだ。
『くそっ……君下のやつ!』
 やっと呼吸が整ったところで、重い鞄を背負うと急いで走り出す。こんな時間に何をやっているのだろう、と走りながら我ながら馬鹿らしくなった。去年散々走り込みをしたせいか、練習後の疲れた身体でもまだ走れる。次の角を右へ曲がって、たしかその2つ先を左――頭の中で去年君下と訪れた、あの古びた神社への道のりを思い出す。そこに君下がいる気がした。
『はぁ……はぁっ……っ!』
 大きな鳥居が近づくにつれて、どこからか聞こえるボールを蹴る音に俺の勘が間違っていない事を悟った。こんなところでなにサボってんだよ、そう言ってやるつもりだったのに、いざ目の前に君下の姿が見えると言葉を失った。  あいつは、聖蹟のユニフォーム姿のままで、泥だらけになりながら一人でドリブルをしていた。  自分で作った小さいゴールと、所々に置かれた大きな石。何度も躓きながらも起き上がり、懸命にボールを追っては前へ進む。パスを出すわけでもなく、リフティングでもない。その傷だらけの足元にボールが吸い寄せられるように、馴染むように何度も何度も同じことを繰り返していた。
『ハッ……馬鹿じゃねぇの』
 お前も俺も。そう呟いた声は己と向き合っている君下に向けられたものではない。  あいつは、君下はもう前を向いて歩きだしていた。沢山の小さな石ころに躓きながら、小さな小さなゴールへと向かってその長い道のりへと一歩を踏み出していた。俺は君下に気付かれることがないように、足音を立てないようにして足早に神社を後にした。  帰りの電車を待つベンチに座って、ぼんやりと思い出すのは泥だらけの君下の背中だった。前を向け喜一、まだやれることはたくさんある。ホームには他に電車を待つ客は誰もいなかった。
(3)夕食、22時半
 気付けば完全に日は落ちていて、コートを照らすスタンドライトだけが暗闇にぼんやりと輝いていた。  思いのほか練習に熱中してしまったようで、辺りを見渡せば先輩選手らはとっくに自主練を切り上げて帰路に着いたようだった。何の挨拶もなしに帰宅してしまったチームメイトの残していったボールがコートの隅に落ちているのを見つけては、上がり切った息を整えながらゆったりと歩いて拾って回った。
 倉庫の鍵がかかったのを確認して誰もいないロッカールームへ戻ると、ご丁寧に電気は消されていた。先週は鍵がかけられていた。思い出すだけで腹が立つが、もうこんなことも何度目になった今ではチームに内緒で作った合鍵をいつも持ち歩くようにしている。ぱちり、スイッチを押���ば一瞬遅れて青白い灯りが部屋を照らした。
 大柴は人に妬まれ易い。その容姿と才能も関係はあるが、自分の才能に胡坐をかいて他者を見下しているところがあった。大口を叩くのはいつものことで、慣れた友人やチームメイトであれば軽く受け流せるものの、それ以外の人間にとってみれば不快極まりない行為であることは間違いない。いつしか友人と呼べる存在は随分と減り、クラスや集団では浮いてしまうことが常であった。  今のチームも例外ではない。加入してすぐの公式戦にレギュラーでの起用、シーズン序盤での怪我による離脱、長期のリハビリ生活、そして残せなかった結果。大柴加入初年度のチームは、最終的に前年度よりも下回った順位でシーズンの幕を閉じることになった。それでも翌年からも大柴はトップに居座り続けた。疑問に思ったチームメイトやサポーターからの非難や、時には心無い中傷を書き込まれることもあった。ゴールを決めれば大喝采だが、それも長くは続かない。家が裕福なことを嗅ぎつけたマスコミにはある事ない事を週刊誌に書き並べられ、誰もいない実家の前に怪しげな車が何台も止まっていることもあった。  だがそんなことは、大柴にとって些細なことだった。俺はサッカーの神様に才能を与えられたのだと、未だにカメラの前でこう言い張ることにしている。実はもう一つ、大柴はサッカーの神様から貰った大切なものがあったが、それを口にしたことはないしこれからも公言する日はやって来ないだろう。
「ただいまぁー」 「お帰り、遅かったな」
 靴を脱いでつま先で並べると、靴箱の上の小さな木製の皿に車のキーを入れる。ココナッツの木から作られたそれは、卒業旅行に二人でハワイに行ったときに買ったもので、6年間大切に使い続けている。玄関までふわりと香る味噌の匂いに、ああやっとここへ帰ってきたのだと実感する。大股で歩きながらジャケットを脱ぎ、どさり、とスポーツバッグと共に床へ投げ出すと、倒れ込むように革張りの��ファへ��ダイブした。
「おい、飯出来てるから先に食え。手洗ったか?」 「洗ってねぇ」 「ったく、何年も言ってんのにちっとも学習しねぇ奴だな。ほら、こっち来い」
 君下は洗い物をしていたのか、泡まみれのスポンジを握ってそれをこちらに見せてくる。この俺の手を食器用洗剤で洗えって言うのか、そう言えばこっちのほうが油が落ちるだとか、訳の分からない理論を並べられた。つまり俺は頑固汚れと同じなのか。
「こんなことで俺が消えてたまるかよ」 「いつもに増して意味わかんねぇな。よし、終わり。味噌汁冷める前にさっさと食え」
 お互いの手を絡めるようにして洗い流していると、背後でピーと電子音がして炊飯が終わったことを知らせる。俺が愛車に乗り込む頃に一通連絡を入れておくと、丁度いい時間に米が炊き上がるらしい。渋滞のときはどうするんだよ、と聞けば、こんな時間じゃそうそう混まねぇよ、と普段車に乗らないくせにまるで交通事情を知っているかのような答えが返ってくる。全体練習は8時頃に終わるから、自主練をして遅くても10時半には自宅に着けるように心掛けていた。君下は普通の会社員で、俺とは違い朝が早いのだ。
「いただきます」 「いただきます」
 向かい合わせの定位置に腰を下ろし、二人そろって手を合わせる。日中はそれぞれ別に食事を摂るも、夕食のこの時間を二人は何よりも大事にしていた。  熱々の味噌汁は俺の好みに合わせてある。最近は急に冷え込んできたから、もくもくと上る白い湯気は一段と白く濃く見えた。上品な白味噌に、具は駅前の豆腐屋の絹ごし豆腐と、わかめといりこだった。出汁を取ったついでにそのまま入れっぱなしにするのは君下家の味だと昔言っていた。
「喜一、ケータイ光ってる」 「ん」
 苦い腸を噛み締めていると、ソファの上に置かれたままのスマホが小さく震えている音がした。途切れ途切れに振動がするので、電話ではないことは確かだった。後ででいい、一度はそう言ったものの、来週の練習試合の日程がまだだったことを思い出して気だるげに重い腰を上げる。最新機種の大きな画面には、見覚えのある一枚の画像と共に母からの短い返信があった。
「あ、やっぱ葉書来てたわ。実家のほうだったか」 「ほらな」 「お前のはここの住所で、なんで俺のだけ実家なんだよ」 「知るかよ。どうせ行くんだろ、直接会った時に聞けばいいじゃねぇか」 「え、行くの?」
 スマホを持ったままどかり、と椅子へと座りなおし、飲みかけの味噌汁に手を伸ばす。ズズ、とわざと少し行儀悪くわかめを啜れば、君下の表情が曇るのがわかった。
「お前、この頃にはもうオフだから休みとれるだろ。俺も有休消化しろって上がうるせぇから、ちょうどこのあたりで連休取ろうと思ってる」 「聞いてねぇ……」 「今言ったからな」
 金平蓮根に箸を付けた君下は、いくらか摘まんで自分の茶碗へと一度置くと、米と共にぱくり、と頬張った。シャクシャクと音を鳴らしながら、ダークブラウンの瞳がこちらを見る。
「佐藤と鈴木も来るって」 「あいつらに会うだけなら別で集まりゃいいだろうが。それにこの前も4人で飲んだじゃねぇか」 「いつの話してんだよタワケが、2年前だぞあれ」 「えっそんなに前だったか?」 「ああ。それに今年で卒業して10年だとさ。流石に毎年は行かねぇが節目ぐらい行ったって罰は当たんねーよ」
 時の流れとは残酷なものだ。俺は高校を卒業してそれぞれ違う道へと進んでも、相変わらず君下と一緒にいた。だからそんな長い年月が経ったことに気付かなかっただけなのかもしれない。高校を卒業する時点で、俺たちがはじめて出会って既に10年が経っていたのだ。  君下はぬるい味噌汁を啜ると、満足そうに「うまい」と一言呟いた。
*
 今宵はよく月が陰る。  ソファにごろりと寝転がり、カーテンの隙間から満月より少し欠けた月をぼんやりと眺めていた。月に兎がいると最初に言ったのは誰だろうか。どう見ても、あの不思議な斑模様は兎なんかに、それも都合よく餅つきをしているようには見えなかった。昔の人間は妙なことを考える。星屑を繋げてそれらを星座だと呼び、一晩中夜空を眺めては絶え間なく動く星たちを追いかけていた。よほど暇だったのだろう。こんな一時間に何センチほどしか動かないものを見て、何が面白いというのだろうか。
「さみぃ」
 音もなくベランダの窓が開き、身体を縮こませた君下が湯気で温かくなった室内へと戻ってくる。君下は二十歳から煙草を吸っていた。家で吸うときはこうやって、それも洗濯物のない時にだけ、それなりに広いベランダの隅に作った小さな喫煙スペースで煙草を嗜む。別に換気扇さえ回してくれれば部屋で吸ってもらっても構わないと俺は言っているのだが、頑なにそれをしようとしないのは君下のほうだった。現役のスポーツ選手である俺への気遣いなのだろう。こういう些細なところでも、俺は君下に支えられているのだと実感する。
「おい、キスしろ」
 隣に腰を下ろした君下に、腹を見せるように上を向いて唇を突き出した。またか、と言いたげな顔をしたが、間もなく長い前髪が近づいてきてちゅ、と小さな音を立てて口づけが落とされた。一度も吸ったことのない煙草の味を、俺は間接的に知っている。少しだけ大人になったような気がするのがたまらなく心地よい。
 それから少しの間、手を握ったりしてテレビを見ながらソファで寛いだ。この時間にもなればいつもニュースか深夜のバラエティー番組しかなかったが、今日はお互いに見たい番組があるわけでもなかったので適当にチャンネルを回してテレビを消した。  手元のランプシェードの明かりだけ残して電気を消し、寝室の真ん中に位置するキングサイズのベッドに入ると、君下はおやすみとも言わないまま背を向けて肩まで掛け布団を被ってしまった。向かい合わせでは寝付けないのはいつもの事だが、それにしても今日は随分と素っ気ない。明日は金曜日で、俺はオフだが会社員の君下には仕事がある。お互いにもういい歳をした大人なのだ。明日に仕事を控えた夜は事には及ばないようにはしているが、先ほどのことが胸のどこかで引っかかっていた。
「もう寝た?」 「……」 「なあ」 「……」 「敦」 「……なんだよ」
 消え入りそうなほど小さな声で、君下が返事をする。俺は頬杖をついていた腕を崩して布団の中に忍ばせると、背中からその細身の身体を抱き寄せた。抵抗はしなかった。
「こっち向けよ」 「……もう寝る」 「少しだけ」 「明日仕事」 「分かってる」
 わかってねぇよ、そう言いながらもこちらに身体を預けてくる、相変わらず素直じゃないところも君下らしい。ランプシェードのオレンジの灯りが、眠そうな君下の顔をぼんやりと照らしている。長い睫毛に落ちる影を見つめながら、俺は薄く開かれた唇に祈るように静かにキスを落とした。
 こいつとキスをするようになったのはいつからだっただろうか。  サッカーを諦めかけていた俺に道を示してくれたその時から、ただのチームメイトだった男は信頼できる友へと変化した。それでも物足りないと感じていたのは互いに同じだったようで、俺たちは高校を卒業するとすぐに同じ屋根の下で生活を始めた。が、喧嘩の絶えない日々が続いた。いくら昔に比べて関係が良くなったとはいえ、育ちも違えば本来の性格が随分と違う。事情を知る数少ない人間も、だからやめておけと言っただろう、と皆口を揃えてそう言った。幸いだったのは、二人の通う大学が違ったことだった。君下は官僚になるために法学部で勉学に励み、俺はサッカーの為だけに学生生活を捧げた。互いに必要以上に干渉しない日々が続いて、家で顔を合わせるのは、いつも決まって遅めの夜の食卓だった。  本当は今のままの関係で十分に満足している。今こそ目指す道は違うが、俺たちには同じ時を共有していた、かけがえのない長い長い日々がある。手さぐりでお互いを知ろうとし、時にはぶつかり合って忌み嫌っていた時期もある。こうして積み重ねてきた日々の中で、いつの日か俺たちは自然と寄り添いあって、お互いを抱きしめながら眠りにつくようになった。この感情に名前があるとしても、今はまだわからない。少なくとも今の俺にとって君下がいない生活などもう考えられなくなっていた。
「……ン゛、ぐっ……」
 俺に組み敷かれた君下は、弓なりに反った細い腰をぴくり、と跳ねさせた。大判の白いカバーの付いた枕を抱きしめながら、押し殺す声はぐぐもっていてる。決して色気のある行為ではないが、その声にすら俺の下半身は反応してしまう。いつからこうなってしまったのだろう。君下を抱きながらそう考えるのももう何度目の事で、いつも答えの出ないまま、絶頂を迎えそうになり思考はどこかへと吹き飛んでしまう。
「も、俺、でそ、うっ……」 「あ?んな、俺もだ馬鹿っ」 「あっ……喜一」
 君下の腰から右手を外し、枕を上から掴んで引き剥がす。果たしてどんな顔をして俺の名を呼ぶのだと、その顔を拝みたくなった。日に焼けない白い頬は、スポーツのような激しいセックスで紅潮し、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。相変わらず眉間には皺が寄ってはいたが、いつもの鋭い目つきが嘘のように、限界まで与えられた快楽にその瞳を潤ませていた。視線が合えば、きゅ、と一瞬君下の蕾が収縮した。「あ、出る」とだけ言って腰のピストンを速めながら、君下のイイところを突き上げる。呼吸の詰まる音と、結合部から聞こえる卑猥な音を聞きながら、頭の中が真っ白になって、そして俺はいつの間にか果てた。全て吐き出し、コンドームの中で自身が小さくなるのを感じる。一瞬遅れてどくどくと音がしそうなほどに爆ぜる君下の姿を、射精後のぼんやりとした意識の中でいつまでも眺めていた。
(4)誰も知らない
 忙しないいつもの日常が続き、あっという間に年も暮れ新しい年がやってきた。  正月は母方の田舎で過ごすと言った君下は、仕事納めが終われば一度家に戻って荷物をまとめると、そこから一週間ほど家を空けていた。久しぶりに会った君下は、少しばかり頬が丸くなって帰ってきたような気がしたが、本人に言うとそんなことはないと若干キレながら否定された。目に見えて肥えたことを気にしているらしい本人には申し訳ないが、俺はその様子に少しだけ安心感を覚えた。祖父の葬儀以来、もう何年も顔を見せていないという家族に会うのは、きっと俺にすら言い知れぬ緊張や、不安も勿論あっただろう。  だがこうやって随分と可愛がられて帰ってきたようで、俺も正月ぐらい実家に顔を出せばよかったかなと少しだけ羨ましくなった。本人に言えば餅つきを手伝わさ��こき使われただの、田舎はやることがなく退屈だなど愚痴を垂れそうだが、そのお陰なのか山ほど餅を持たせられたらしく、その日の夜は冷蔵庫にあった鶏肉と大根、にんじんを適当に入れて雑煮にして食べることにした。
「お前、俺がいない間何してた?」
 君下が慣れた手つきで具材を切っている間、俺は君下が持ち帰った土産とやらの箱を開けていた。中には土の付いたままの里芋だとか、葉つきの蕪や蓮根などが入っていた。全て君下の田舎で採れたものなのか、形はスーパーでは見かけないような不格好なものばかりだった。
「車ねぇから暇だった」 「どうせ車があったとしても、一日中寝てるか練習かのどっちかだろうが」 「まあ、大体合ってる」
 一通り切り終えたのか包丁の音が聞こえなくなり、程なくして今度は出汁の香りが漂ってきた。同時に香ばしい餅の焼ける香りがして、完成が近いことを悟った俺は一度箱を閉めるとダイニングテーブルへと向かい、箸を二膳出して並べると冷蔵庫から缶ビールを取り出してグラスと共に並べた。
「いただきます」 「いただきます」
 大きめの深い器に入った薄茶色の雑煮を目の前に、二人向かい合って座り手を合わせる。実に一週間ぶりの二人で摂る夕食だった。よくある関東風の味付けに、四角く切られ表面を香ばしく焼かれた大きな餅。シンプルだが今年に入って初めて食べる正月らしい食べ物も、今年初めて飲む酒も、すべて君下と共に大事に味わった。
「あ、そうだ。明日だからな、あれ」
 3個目の餅に齧りついた俺に、そういえばと思い出したかのように君下が声を発した。少し冷めてきたのか噛み切れなかった餅を咥えたまま、肩眉を上げて何の話かと視線だけで問えば、「ほら、同窓会のやつ」と察したように答えが返ってきた。「ちょっと待て」と掌を君下に見せて、餅を掴んでいた箸に力を入れて無理矢理引きちぎると、ぐにぐにと大雑把に噛んでビールで流し込む。うまく流れなかったようで、喉のあたりを引っかかる感触が気持ち悪い。生理的に込み上げてくる涙を瞳に浮かべていると、席を立った君下は冷蔵庫の扉を開けてもう2本ビールを取り出して戻ってきた。
「ほら飲め」 「おま……水だろそこは」 「いいからとりあえず流し込め」
 空になった俺のグラスにビールを注げば、ぶくぶくと泡立つばかりで泡だけで溢れそうになった。だから水にしとけと言ったのだ。チッ、と舌打ちをした君下は、少し申し訳なさそうに残りの缶をそのまま手渡してきた。直接飲むのは好きではないが、今は文句を言ってられない。奪うように取り上げると、ごくごくと大げさに喉を鳴らして一気に飲み干した。
「は~……死ぬかと思った。相変わらずお酌が下手だなお前は」 「うるせぇな。俺はもうされる側だから仕方ねぇだろうが」
 そう悪態をつきながら、君下も自分の缶を開ける。プシュ、と間抜けな音がして、グラスを傾けて丁寧にビールを注いでゆく。泡まで綺麗に注げたそれを見て、満足そうに俺に視線を戻す。
「あ、そうだよ、話反らせやがって……まあとにかく、明日は俺は昼ぐらいに会社に少し顔出してくるから、ついでに親父んとこにも寄って、そのまま会場に向かうつもりだ」 「あ?親父さんも一緒に田舎に行ったんじゃねぇの?」 「そうしようとは思ったんだがな、店の事もあるって断られた。ったく誰に似たんだかな」 「それ、お前が言うなよ」
 君下の言葉になんだかおかしくなってふふ、と小さく笑えば、うるせぇと小さく舌打ちで返された。綺麗に食べ終えた器をテーブルの上で纏めると、君下はそれらを持って流しへと向かった。ビールのグラスを軽く水で濯いでから、そこに半分ぐらい溜めた水をコクコクと喉を鳴らして飲み込んだ。
「俺もう寝るから、あとよろしくな。久々に運転すると疲れるわ」 「おう、お疲れ。おやすみ」
 俺の言葉におやすみ、と小さく呟いた君下は、灯りのついていない寝室へと吸い込まれるようにして消えた。ぱたん、と扉が閉まる音を最後に、乾いた部屋はしんとした静寂に包まれる。手元に残ったのは、ほんの一口分だけ残った温くなったビールの入ったグラスだけだった。  頼まれた洗い物はあとでやるとして、さてこれからどうしようか。君下の読み通り、今日は一日中寝ていたため眠気はしばらくやって来る気配はない。テレビの上の時計を見ると、ちょうど午後九時を回ったところだった。俺はビールの残りも飲まずに立ち上がると、食器棚に並べてあるブランデーの瓶と、隣に飾ってあったバカラのグラスを手にしてソファのほうへとゆっくり歩き出した。
*
 肌寒さを感じて目を覚ました。  最後に時計を見たのはいつだっただろうか。微睡む意識の中、薄く開いた瞳で捉えたのは、ガラス張りのローテーブルの端に置かれた見覚えのあるグラスだった。細かくカットされた見事なつくりの表面は、カーテンから零れる朝日を反射してキラキラと眩しい。中の酒は幾分か残っていたようだったが、蒸発してしまったのだろうか、底のほうにだけ琥珀色が貼り付くように残っているだけだった。  何も着ていなかったはずだが、俺の肩には薄手の毛布が掛かっていた。点けっぱなしだった電気もいつの間にか消されていて、薄暗い部屋の中、遮光カーテンから漏れる光だけがぼんやりと座っていたソファのあたりを照らしていた。酷い喉の渇きに、水を一口飲もうと立ち上がると頭痛と共に眩暈がした。ズキズキと痛む頭を押さえながらキッチンへ向かい、食器棚から新しいコップを取り出して水を飲む。シンクに山積みになっていたはずの洗い物は、跡形もなく姿を消している。君下は既に家を出た後のようだった。
 それから昼過ぎまでもう一度寝て、起きた頃には朝方よりも随分と温かくなっていた。身体のだるさは取れたが、相変わらず痛む頭痛に舌打ちをしながら、リビングのフローリングの上にマットを敷いてそこで軽めのストレッチをした。大柴はもう若くはない。三十路手前の身体は年々言うことを聞かなくなり、1日休めば取り戻すのに3日はかかる。オフシーズンだからと言って単純に休んでいるわけにはいかなかった。  しばらく柔軟をしたあと、マットを片付け軽く掃除機をかけていると、ジャージの尻ポケットが震えていることに気が付いた。佐藤からの着信だった。久しぶりに見るその名前に、緑のボタンを押してスマホを耳と肩の間に挟んだ。
「おう」 「あーうるせぇよ!掃除機?電話に出る時ぐらい一旦切れって」
 叫ぶ佐藤の声が聞こえるが、何と言っているのか聞き取れず、仕方なくスイッチをオフにした。ちらりと壁に視線を流せば、時計針はもうすぐ3時を指そうとしていた。
「わりぃ。それよりどうした?」 「どうしたじゃねぇよ。多分お前まだ寝てるだろうから、起こして同窓会に連れてこいって君下から頼まれてんだ」 「はあ……ったく、どいつもこいつも」 「まあその調子じゃ大丈夫だな。5時にマンションの下まで車出すから、ちゃんと顔洗って待ってろよ」 「へー」 「じゃあ後でな」
 何も言わずに通話を切り、ソファ目掛けてスマホを投げた。もう一度掃除機の電源を入れると、リビングから寝室へと移動する。普段は掃除機は君下がかけるし、皿洗い以外の大抵の家事はほとんど君下に任せっきりだった。今朝はそれすらも君下にさせてしまった罪悪感が、こうやって自主的にコードレス掃除機をかけている理由なのかもしれない。  ベッドは綺麗に整えてあり、真ん中に乱雑に畳まれたパジャマだけが取り残されていた。寝る以外に立ち入らない寝室は綺麗なままだったが、一応端から一通りかけると掃除機を寝かせてベッドの下へと滑り込ませる。薄型のそれは狭い隙間も難なく通る。何往復かしていると、急に何か大きな紙のようなものを吸い込んだ音がした。
「げっ……何だ?」
 慌てて電源を切り引き抜くと、ヘッドに吸い込まれていたのは長い紐のついた、見慣れない小さな紙袋だった。紺色の袋の表面に、金色の細い英字で書かれた名前には見覚えがあった。俺の覚え違いでなければ、それはジュエリーブランドの名前だった気がする。
「俺のじゃねぇってことは、これ……」
 そこまで口に出して、俺の頭の中には一つの仮説が浮かび上がる。これの持ち主は十中八九君下なのだろう。それにしても、どうしてこんなものがベッドの下に、それも奥のほうへと押しやられているのだろうか。絡まった紐を引き抜いて埃を払うと、中を覗き込む。入っていたのは紙袋の底のサイズよりも一回り小さな白い箱だった。中を確認したかったが、綺麗に巻かれたリボンをうまく外し、元に戻せるほど器用ではない。それに、中身など見なくてもおおよその見当はついた。  俺はどうするか迷ったが、それと電源の切れた掃除機を持ってリビングへと戻った。紙袋をわざと見えるところ、チェリーウッドのダイニングテーブルの上に置くと、シャワーを浴びようとバスルームへと向かった。いつも通りに手短に済ませると、タオルドライである程度水気を取り除いた髪にワックスを馴染ませ、久しぶりに鏡の中の自分と向かい合う。ここ2週間はオフだったというのに、ひどく疲れた顔をしていた。適当に整えて、顎と口周りにシェービングクリームを塗ると伸ばしっぱなしだった髭に剃刀を宛がう。元々体毛は濃いほうではない。すぐに済ませて電気を消して、バスルームを後にした。
「お、来た来た。やっぱりお前は青のユニフォームより、そっちのほうが似合っているな」
 スーツに着替え午後5時5分前に部屋を出て、マンションのエントランスを潜ると、シルバーの普通車に乗った佐藤が窓を開けてこちらに向かって手を振っていた。助手席には既に鈴木が乗っており、懐かしい顔ぶれに少しだけ安堵した。よう、と短く挨拶をして、後部座席のドアを開けると長い背を折りたたんでシートへと腰かけた。  それからは佐藤の運転に揺られながら、他愛もない話をした。最近のそれぞれの仕事がどうだとか、鈴木に彼女が出来ただとか、この前相庭のいるチームと試合しただとか、離れていた2年間を埋めるように絶え間なく話題は切り替わる。その間も車は東京方面へと向かっていた。
「君下とはどうだ?」 「あー……相変わらずだな。付かず離れずって感じか」 「まあよくやってるよな、お前も君下も。あれだけ仲が悪かったのが、今じゃ同棲だろ?みんな嘘みたいに思うだろうな」 「同棲って言い方やめろよ」 「はーいいなぁ、俺この間の彼女に振られてさ。せがまれて高い指輪まで贈ったのに、あれだけでも返して貰いたいぐらいだな」
 指輪という言葉に、俺の顔の筋肉が引きつるのを感じた。グレーのパンツの右ポケットの膨らみを、無意識に指先でなぞる。車は渋滞に引っかかったようで、先ほどからしばらく進んでおらず車内はしん、と静まり返っていた。
「あーやべぇな。受付って何時だっけ」 「たしか6時半……いや、6時になってる」 「げ、あと20分で着くかな」 「だからさっき迂回しろって言ったじゃねぇか」
 このあたりはトラックの通行量も多いが、帰宅ラッシュで神奈川方面に抜ける車もたくさん見かける。そういえば実家に寄るからと、今朝も俺の車で出て行った君下はもう会場に着いたのだろうか。誰かに電話をかけているらしい鈴木の声がして、俺は手持ち無沙汰に窓の外へと視線を投げる。冬の日の入りは早く、太陽はちょうど半分ぐらいを地平線の向こうへと隠した頃だった。真っ赤に焼ける雲の少ない空をぼんやりと眺めて、今夜は星がきれいだろうか、と普段気にもしていないことを考えていた。
(5)真冬のエスケープ
 車は止まりながらもなんとか会場近くの地下駐車場へと止めることができた。幹事と連絡がついて遅れると伝えていたこともあり、特に急ぐこともなく会場までの道のりを歩いて行った。  程なくして着いたのは某有名ホテルだった。入り口の案内板には聖蹟高校×期同窓会とあり、その横に4階と書かれていた。エレベーターを待つ間、着飾った同じ年ぐらいの集団と鉢合わせた。そのうち男の何人かは見覚えのある顔だったが、男たちと親し気に話している女に至っては、全くと言っていいほど面影が見受けられない。常日頃から思ってはいたが、化粧とは恐ろしいものだ。俺や君下よりも交友関係が広い鈴木と佐藤でさえ苦笑いで顔を見合わせていたから、きっとこいつらにでさえ覚えがないのだろうと踏んで、何も言わずに到着した広いエレベーターへと乗り込んだ。
 受付で順番に名前を書いて入り口で泡の入った飲み物を受け取り、広間へと入るとざっと見るだけで100人ほどは来ているようだった。「すげぇな、結構集まったんだな」そう言う佐藤の言葉に振り返りもせずに、俺はあたりをきょろきょろと見渡して君下の姿を探した。
「よう、遅かったな」 「おー君下。途中で渋滞に巻き込まれてな……ちゃんと連れてきたぞ」
 ぽん、と背中を佐藤に叩かれる。その右手は決して強くはなかったが、ふいを突かれた俺は少しだけ前にふらついた。手元のグラスの中で黄金色がゆらりと揺れる。いつの間にか頭痛はなくなっていたが、今は酒を口にする気にはなれずにそのグラスを佐藤へと押し付けた。不審そうにその様子を見ていた君下は、何も言わなかった。  6時半きっかりに、壇上に幹事が現れた。眼鏡をかけて、いかにも真面目そうな元生徒会長は簡単にスピーチを述べると、今はもう引退してしまったという、元校長の挨拶へと移り変わる。何度か表彰状を渡されたことがあったが、曲がった背中にはあまり思い出すものもなかった。俺はシャンパンの代わりに貰ったウーロン茶が入ったグラスをちびちびと舐めながら、隣に立つ君下に気付かれないようにポケットの膨らみの形を確認するかのように、何度も繰り返しなぞっていた。
 俺たちを受け持っていた先生らの挨拶が一通り済むと、それぞれが自由に飲み物を持って会話を楽しんでいた。今日一日、何も食べていなかった俺は、同じく飯を食い損ねたという君下と共に、真ん中に並ぶビュッフェをつまみながら空きっ腹を満たしていた。ここのホテルの料理は美味しいと評判で、他のホテルに比べてビュッフェは高いがその分確かなクオリティがあると姉が言っていた気がする。確かにそれなりの料理が出てくるし、味も悪くはない。君下はローストビーフがお気に召したようで、何度も列に並んではブロックから切り分けられる様子を目を輝かせて眺めていた。
「あー!大柴くん久しぶり、覚えてるかなぁ」
 ウーロン茶のあてにスモークサーモンの乗ったフィンガーフードを摘まんでいると、この会場には珍しく化粧っ気のない、大きな瞳をした女が数人の女子グループと共にこちらへと寄ってきた。
「あ?……あ、お前はあれだ、柄本の」 「もー、橘ですぅー!つくちゃんのことは覚えててくれるのに、同じクラスだった私のこと、全っ然覚えててくれないんだから」
 プンスカと頬を膨らませる橘の姿に、高校時代の懐かしい記憶が蘇る。記憶の中よりも随分と短くなった髪は耳の下で切り揃えられていれ、片側にトレードマークだった三つ編みを揺らしている。確かにこいつが言うように、思い返せば偶然にも3年間、同じクラスだったように思えてくる。本当は名前を忘れた訳ではなかったが、わざと覚えていない振りをした。
「テレビでいつも見てるよー!プロってやっぱり大変みたいだけど、大柴くんのことちゃんと見てるファンもいるからね」 「おーありがとな」
 俺はその言葉に対して素直に礼を言った。というのも、この橘という女の前ではどうも調子が狂わされる。自分は純粋無垢だという瞳をしておいて、妙に人を観察していることと、核心をついてくるのが昔から巧かった。だが悪気はないのが分かっているだけ質が悪い。俺ができるだけ同窓会を避けてきた理由の一つに、この女の言ったことと、こいつ自身が関係している。これには君下も薄々気付いているのだろう。
「あ、そうだ。君下くんも来てるかな?つくちゃんが会いたいって言ってたよ」 「柄本が?そりゃあ本人に言ってやれよ。君下ならあっちで肉食ってると思うけど」 「そうだよね、ありがとう大統領!」
 そう言って大げさに手を振りながら、橘は君下を探しに人の列へと歩き出した。「もーまたさゆり、勝手にどっか行っちゃったよ」と、取り残されたグループの一人がそう言うので、「相変わらずだよね」と笑う他の女たちに混ざって愛想笑いをして、居心地の悪くなったその場を離れようとした。  白いテーブルクロスの上から飲みかけのウーロン茶が入ったグラスを手に取ろとすると、綺麗に塗られたオレンジの爪がついた女にそのグラスを先に掴まれた。思わず視線をウーロン茶からその女へと流すと、女はにこりと綺麗に笑顔を作り、俺のグラスを手渡してきた。
「大柴くん、だよね?今日は飲まないの?」
 黒髪のロングヘアーはいかにも君下が好みそうなタイプの女で、耳下まである長い前髪をセンターで分けて綺麗に内巻きに巻いていた。他の女とは違い、あまりヒラヒラとした装飾物のない、膝上までのシンプルな紺色のドレスに身を包んでいる。見覚えのある色に一瞬喉が詰まるも、「今日は車で来てるから」とその場で適当な言い訳をした。
「あーそうなんだ、残念。私も車で来たんだけど、勤めている会社がこの辺にあって、そこの駐車場に停めてあるから飲んじゃおうかなって」 「へぇ……」
 わざとらしく綺麗な眉を寄せる姿に、最初はナンパされているのかと思った。だが俺のグラスを受け取ると、オレンジの爪はあっさりと手放してしまう。そして先程まで女が飲んでいた赤ワインらしき飲み物をテーブルの上に置き、一歩近づき俺の胸元に手を添えると、背伸びをして俺の耳元で溜息のように囁いた。
「君下くんと、いつから仲良くなったの?」
 酒を帯びた吐息息が耳元にかかり、かっちりと着込んだスーツの下に、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。  こいつは、この女は、もしかしたら君下がこの箱を渡そうとした女なのかもしれない。俺の知らないところで、君下はこの女と親密な関係を持っているのかもしれない。そう考えが纏まると、すとんと俺の中に収まった。そうか。最近感じていた違和感も、何年も寄り付かなかった田舎への急な帰省も、なぜか頑なにこの同窓会に出席したがった理由も、全部辻褄が合う。いつから関係を持っていたのだろうか、知りたくもなかった最悪の状況にたった今、俺は気付いてしまった。  じりじりと距離を詰める女を前に、俺は思考だけでなく身体までもが硬直し、その場を動けないでいた。酒は一滴も口にしていないはずなのに、むかむかと吐き気が込み上げてくる。俺は今、よほど酷い顔をしているのだろう。心配そうに見つめる女の目は笑っているのに、口元の赤が、赤い口紅が視界に焼き付いて離れない。何か言わねば。いつものように、「誰があんなやつと、この俺様が仲良くできるんだよ」と見下すように悪態をつかねば。皆の記憶に生きている、大柴喜一という人間を演じなければ―――……  そう思っているときだった。  俺は誰かに腕を掴まれ、ぐい、と強い力で後ろへと引かれた。呆気にとられたのは俺も女も同じようで、俺が「おい誰だ!スーツが皺になるだろうが」と叫ぶと、「あっ君下くん、」と先程聞いていた声より一オクターブぐらい高い声が女の口から飛び出した。その名前に腕を引かれたほうへと振り返れば、確かにそこには君下が立っていて、スーツごと俺の腕を掴んでいる。俺を見上げる漆黒の瞳は、ここ最近では見ることのなかった苛立ちが滲んで見えるようだった。
「ああ?テメェのスーツなんか知るかボケ。お前が誰とイチャつこうが関係ねぇが、ここがどこか考えてからモノ言いやがれタワケが」 「はあ?誰がこんなブスとイチャつくかバーカ!テメェの女にくれてやる興味なんぞこれっぽっちもねぇ」 「なんだとこの馬鹿が」
 実に数年ぶりの君下のキレ具合に、俺も負けじと抱えていたものを吐き出すかのように怒鳴り散らした。殴りかかろうと俺の胸倉を掴んだ君下に、賑やかだった周囲は一瞬にして静まり返る。人の壁の向こう側で、「おいお前ら!まじでやめとけって」と慌てた様子の佐藤の声が聞こえる。先に俺たちを見つけた鈴木が君下の腕を掴むと、俺の胸倉からその手を引き剥がした。
「とりあえず、やるなら外に行け。お前らももう高校生じゃないんだ、ちょっとは周りの事も考えろよ」 「チッ……」 「大柴も、冷静になれよ。二人とも、今日はもう帰れ。俺たちが収集つけとくから」
 君下はそれ以上何も言わずに、出口のほうへと振り返えると大股で逃げるようにその場を後にした。俺は「悪いな」とだけ声をかけると、曲がったネクタイを直し、小走りで君下の後を追いかける。背後からカツカツとヒールの走る音がしたが、俺は振り返らずにただ小さくなってゆく背中を見逃さないように、その姿だけを追って走った。暫くすると、耳障りな足音はもう聞こえなくなっていた。
 君下がやってきたのは、俺たちが停めたのと同じ地下駐車場だった。ここに着くまでにとっくに追い付いていたものの、俺はこれから冷静に対応する為に、頭を冷やす時間が欲しかった。遠くに見える派手な赤色のスポーツカーは、間違いなく俺が2年前に買い替えたものだった。君下は何杯か酒を飲んでいたので、鍵は持っていなくとも俺が運転をすることになると分かっていた。わざと10メートル後ろをついてゆっくりと近づく。  君下は何も言わずにロックを解除すると、大人しく助手席に腰かけた。ドアは開けたままにネクタイを解き、首元のボタンを一つ外すと、胸ポケットから取り出した煙草を一本口に咥えた。
「俺の前じゃ吸わねぇんじゃなかったのか」 「……気が変わった」
 俺も運転席に乗り込むと、キーを挿してエンジンをかけ、サンバイザーを提げるとレバーを引いて屋根を開けてやった。どうせ吸うならこのほうがいいだろう。それに今夜は星がきれいに見えるかもしれないと、行きがけに見た綺麗な夕日を思い出す。安物のライターがジジ、と音を立てて煙草に火をつけたのを確認して、俺はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(6)形も何もないけれど
 煌びやかなネオンが流れてゆく。俺と君下の間に会話はなく、代わりに冬の冷たい夜風だけが二人の間を切るように走り抜ける。煙草の火はとっくに消えて、そのままどこかに吹き飛ばされてしまった。  信号待ちで車が止まると、「さむい」と鼻を啜りながら君下が呟いた。俺は後部座席を振り返り、外したばかりの屋根を元に戻すべく折りたたんだそれを引っ張った。途中で信号が青に変わって、後続車にクラクションを鳴らされる。仕方なく座りなおそうとすると、「おい、貸せ」と君下が言うものだから、最初から自分でやればいいだろうと思いながらも、大人しく手渡してアクセルに足を掛けた。車はまた走り出す。
「ちょっとどこか行こうぜ」
 最初にそう切り出したのは君下だった。暖房も入れて温かくなった車内で、窓に貼り付くように外を見る君下の息が白く曇っていた。その問いかけに返事はしなかったが、俺も最初からあのマンションに向かうつもりはなかった。分岐は横浜方面へと向かっている。君下もそれに気が付いているだろう。  海沿いに車を走らせている間も、相変わらず沈黙が続いた。試しにラジオを付けてはみたが、流れるのは今流行りの恋愛ソングばかりで、今の俺たちにはとてもじゃないが似合わなかった。何も言わずにラジオを消して、それ以来ずっと無音のままだ。それでも、不思議と嫌な沈黙ではないことは確かだった。
 どこまで行こうというのだろうか。気が付けば街灯の数も少なくなり、車の通行量も一気に減った。窓の外に見える、深い色の海を横目に見ながら車を走らせた。穏やかな波にきらきらと反射する、今夜の月は見事な満月だった。  歩けそうな砂浜が見えて、何も聞かないままそこの近くの駐車場に車を停めた。他に車は数台止まっていたが、どこにも人の気配がしなかった。こんな真冬の夜の海に用があるというほうが可笑しいのだ。俺はエンジンを切って、運転席のドアを開けると外へ出た。つんとした冷たい空気と潮の匂いが鼻をついた。君下もそれに続いて車を降りた。  後部座席に積んでいたブランケットを羽織りながら、君下は小走りで俺に追いつくと、その隣に並んで「やっぱ寒い」と鼻を啜る。数段ほどのコンクリートの階段を降りると、革靴のまま砂を踏んだ。ぐにゃり、と不安定な砂の上は歩きにくかったが、それでも裸足になるわけにはいかずにゆっくりと海へ向かって歩き出す。波打ち際まで来れば、濡れて固まった足場は先程より多少歩きやすくなった。はぁ、と息を吐けば白く曇る。海はどこまでも深い色をしていた。
「悪かったな」 「いや、……あれは俺も悪かった」
 居心地の悪そうに謝罪の言葉がぽつり、と零れた。それは何に対して謝ったのか、自分でもよく分からない。君下に女が居た事なのか、指輪を見つけてしまった事なのか、それともそれを秘密にしていた事なのか。あるいは、そのすべてに対して―――俺がお前をあのマンションに縛り付けた10年間を指しているのか、それははっきりとは分からなかった。俺は立ち止まった。俺を追い越した、君下も立ち止まり、振り返る。大きな波が押し寄せて、スーツの裾が濡れる感覚がした。水温よりも冷たく冷え切った心には、今はそんな些細なことは、どうでもよかった。
「全部話してくれるか」 ���ああ……もうそろそろ気づかれるかもしれねぇとは腹括ってたからな」
 そう言い終える前に、君下の視線が俺のズボンのポケットに向いていることに気が付いた。何度も触っていたそれの形は、嫌と言うほど覚えている。俺はふん、と鼻で笑ってから、右手を突っ込み白い小さな箱を丁寧に取り出した。君下の目の前に差し出すと、なぜだか手が震えていた。寒さからなのか、それともその箱の重みを知ってしまったからなのか、風邪が吹いて揺れるなか、吹き飛ばされないように握っているのが精一杯だった。
「これ……今朝偶然見つけた。ベッドの下、本当に偶然掃除機に引っかけちまって……でも本当に俺、今までずっと気付かなくて、それで―――それで、あんな女がお前に居たなんて、もっと早く言ってくれりゃ、」 「ちょっと待て、喜一……お前何言ってんだ」 「あ……?何って、今言ったことそのまんまだろうが」
 思い切り眉間に皺を寄せ困惑したような君下の顔に、俺もつられて眉根を寄せる。ここまで来てしらを切るつもりなのかと思うと、怒りを通り越して呆れもした。どうせこうなってしまった以上、俺たちは何事もなく別れられるわけがなかった。昔のように犬猿の仲に戻るのは目に見えていたし、そうなってくれれば救われた方だと俺は思っていた。  苛立っていたいたのは君下もそうだったようで、風で乱れた頭をガシガシと掻くと、煙草を咥えて火を点けようとした。ヂ、ヂヂ、と音がするのに、風のせいでうまく点かない。俺は箱を持っていないもう片方の手を伸ばして、風上から添えると炎はゆらりと立ち上がる。すう、と一息吸って吐き出した紫煙が、漆黒の空へと消えていった。
「��のまんまも何も、あの女、お前狙いで寄ってきたんだろうが」 「お前の女が?」 「誰だよそれ、名前も知らねぇのにか?」
 つまらなさそうに、君下はもう一度煙を吸うと上を向いて吐き出した。どうやら本当にあのオレンジ爪の女の名前すら知らないらしい。だとしたら、俺が持っているこの箱は一体誰からのものなのだ。答え合わせのつもりで話をしていたが、謎は余計に深まる一方だ。
「あ、でもあいつ、俺に何て言ったと思う?君下くんといつから仲良くなったの、って」 「お前の追っかけファンじゃねぇの」 「だとしてもスゲェ怖いわ。明らかにお前の好みそうなタイプの恰好してたじゃん」 「そうか?むしろ俺は、お前好みの女だなと思ったけどな」
 そこまで言って、俺も君下も噴き出してしまった。ククク、と腹の底から込み上げる笑いが止まらない。口にして初めて気が付いたが、俺たちはお互いに女の好みなんてこれっぽっちも知らなかったのだ。二人でいる時の共通の話題と言えば、サッカーの事か明日の朝飯のことぐらいで、食卓に女の名前が出てきたことなんて今の一度もない事に気付いてしまった。どうりでこの10年間、どちらも結婚だとか彼女だとか言い出さないわけだ。俺たちはどこまでも似た者同士だったのだ。
「それ、お前にやろうと思って用意したんだ」
 すっかり苛立ちのなくなった瞳に涙を浮かべながら、君下は軽々しくそう言って笑った。  俺は言葉が出なかった。  こんな小洒落たものを君下が買っている姿なんて想像もできなかったし、こんなリボンのついた箱は俺が受け取っても似合わない。「中は?」と聞くと、「開けてみれば」とだけ返されて、煙が流れないように君下は後ろを向いてしまった。少し迷ったが、その場で紐をほどいて箱を開けて、俺は目を見開いた。紙袋と同じ、夜空のようなプリントの内装に、星のように輝くゴールドの指輪がふたつ、中央に行儀よく並んでいた。思わず君下の後姿に視線を戻す。ちらり、とこちらを振り返る君下の口元は、笑っているように見えた。胸の内から込み上げてくる感情を抑えきれずに、俺は箱を大事に畳むと勢いよくその背中を抱きしめた。
「う゛っ苦しい……喜一、死ぬ……」 「そのまま死んじまえ」 「俺が死んだら困るだろうが」 「自惚れんな。お前こそ俺がいないと寂しいだろう」 「勝手に言ってろタワケが」
 腕の中で君下の頭が振り返る。至近距離で視線が絡み、君下の瞳に星空を見た。俺は吸い込まれるようにして、冷たくなった君下の唇にゆっくりとキスを落とす。二人の間で吐息だけが温かい。乾いた唇は音もなく離れ、もう一度角度を変えて近づけば、今度はちゅ、と音がして君下の唇が薄く開かれた。お互いに舌を出して煙草で苦くなった唾液を分け合った。息があがり苦しくなって、それでもまた酸素を奪うかのように互いの唇を気が済むまで食らい合った。右手の箱は握りしめたままで、中で指輪がふたつカタカタと小さく音を立てて揺れていた。
「もう、帰ろうか」 「ああ……解っちゃいたが、冬の海は寒すぎるな。帰ったら風呂炊くか」 「お、いいな。俺が先だ」 「タワケが。俺が張るんだから俺が先だ」
 いつの間にか膝下まで濡れたスーツを捲り上げ、二人は手を繋いで来た道を歩き出した。青白い砂浜に、二人分の足跡が残る道を辿って歩いた。平常心を取り戻した俺は急に寒さを感じて、君下が羽織っているブランケットの中に潜り込もうとした。君下はそれを「やめろ馬鹿」と言って俺の頭を押さえつける。俺も負けじとグリグリと頭を押し付けてやった。自然と笑いが零れる。  これでよかったのだ。俺たちには言葉こそないが、それを埋めるだけの共に過ごした長い時間がある。たとえ二人が結ばれたとしても、形に残るものなんて何もない。それでも俺はいいと思っている。こうして隣に立ってくれているだけでいい。嬉しい時も寂しい時も「お前は馬鹿だな」と一緒に笑ってくれるやつが一人だけいれば、それでいいのだ。
「あ、星。喜一、星がすげぇ見える」 「おー綺麗だな」
 ふと気づいたように、君下が空を見上げて興奮気味に声を上げた。  ようやくブランケットに潜り込んで、君下の隣から顔を出せば、そこにはバケツをひっくり返したかのように無数に散らばる星たちが瞬いていた。肩にかかる黒髪から嗅ぎ慣れない潮の香りがして、俺たちがいま海にいるのだと思い知らされる。上を向いて開いた口から、白く曇った息が漏れる。何も言わずにしばらくそれを眺めて、俺たちはすっかり冷えてしまった車内へと腰を下ろした。温度計は摂氏5度を示していた。
7:やさしい光の中で
 星が良く見えた翌朝は決まって快晴になる。君下に言えば、そんな原始的な観測が正しければ、天気予報なんていらねぇよ、と文句を言われそうだが、俺はあながち間違いではないと思っている。現に今日は雲一つない晴れで、あれだけ低かった気温が今日は16度まで上がっていた。乾燥した空気に洗濯物も午前中のうちに乾いてしまった。君下がベランダに料理を運んでいる最中、俺は慣れない手つきで洗濯物をできるだけ綺麗に折りたたんでいた。
「おい、終わったぞ。お前のは全部チェストでいいのか?」 「下着と靴下だけ二番目の引き出しに入れといてくれ。あとはどこでもいい」 「へい」
 あれから真っすぐマンションへと向かった車は、時速50キロ程度を保ちながらおよそ2時間かけて都内にたどり着いた。疲れ切っていたのか、君下は何度かこくり、こくりと首を落とし、ついにはそのまま眠りに落ちてしまった。俺は片手だけでハンドルを握りながら、できるだけ眠りを妨げないように、信号待ちで止まることのないようにゆっくりとしたスピードで車を走らせた。車内には、聞き慣れない名のミュージシャンが話すラジオの音だけが延々と聞こえていた。  眠った君下を抱えたままエントランスをくぐり、すぐに開いたエレベーターに乗って部屋のドアを開けるまで、他の住人の誰にも出会うことはなかった。鍵を開けて玄関で靴を脱がせ、濡れたパンツと上着だけを剥ぎ取ってベッドに横たわらせる。俺もこのまま寝てしまおうか。ハンガーに上着を掛けると一度はベッドに腰かけたものの、どうも眠れる気がしない。少しだけ君下の寝顔を眺めた後、俺はバスルームの電気を点けた。
「飲み物はワインでいいか?」 「おう。白がいい」 「言われなくとも白しか用意してねぇよ」
 そう言って君下は冷蔵庫から冷えた白ワインのボトルとグラスを2つ持ってやって来た。日当たりのいいテラスからは、東京の高いビル群が遠くに見えた。東向きの物件にこだわって良かったと、当時日当たりなんてどうでもいいと言った君下の隣に腰かけて密かに思う。今日は風も少なく、テラスで日光浴をするのには丁度いい気候だった。
「乾杯」 「ん」
 かちん、と一方的にグラスを傾けて君下のグラスに当てて音を鳴らした。黄金色の液体を揺らしながら、口元に寄せればリンゴのような甘い香りがほのかい漂う。僅かにとろみのある液体を口に含めば、心地よいほのかな酸味と上品な舌触りに思わず眉が上がるのが分かった。
「これ、どこの」 「フランスだったかな。会社の先輩からの貰い物だけど、かなりのワイン好きの人で現地で箱買いしてきたらしいぞ」 「へぇ、美味いな」
 流れるような書体でコンドリューと書かれたそのボトルを手に取り、裏面を見ればインポーターのラベルもなかった。聞いたことのある名前に、確か希少価値の高い品種だったように思う。読めない文字をざっと流し読みし、ボトルをテーブルに戻すともう一口口に含む。安物の白ワインだったら炭酸で割って飲もうかと思っていたが、これはこのまま飲んだ方が良さそうだ。詰め物をされたオリーブのピンチョスを摘まみながら、雲一つない空へと視線を投げた。
「そう言えば、鈴木からメール来てたぞ……昨日の同窓会の話」
 紫煙を吐き出した君下は、思い出したかのように鈴木の名を口にした。小一時間前に風呂に入ったばかりの髪はまだ濡れているようで、時折風が吹いてはぴたり、と額に貼り付いた。それを手で避けながら、テーブルの上のスマホを操作して件のメールを探しているようだ。俺は残り物の鱈と君下の田舎から貰ってきたジャガイモで作ったブランダードを、薄切りのバゲットに塗り付けて齧ると、「何だって」と先程の言葉の続きを促した。
「あの後女が泣いてるのを佐藤が慰めて、そのまま付き合うことになったらしい、ってさ」 「はあ?それって俺たちと全然関係なくねぇ?というか、一体何だったんだよあの女は……」
 昨夜のことを思い出すだけで鳥肌が立つ。あの真っ赤なリップが脳裏に焼き付いて離れない。それに、俺たちが聞きたかったのはそんな話ではない。喧嘩を起こしそうになったあの場がどうなったとか、そんなことよりもどうでもいい話を先に報告してきた鈴木にも悪意を感じる。多分、いや確実に、このハプニングを鈴木は面白がっているのだろう。
「あいつ、お前と同じクラスだった冴木って女だそうだ。佐藤が聞いた話だと、やっぱりお前のファンだったらしいぞ」 「……全っ然覚えてねぇ」 「だろうな。見ろよこの写真、これじゃあ詐欺も同然だな」
 そう言って見せられた一枚の写真を見て、俺は食べかけのグリッシーニに巻き付けた、パルマの生ハムを落としそうになった。写真は卒アルを撮ったもののようで、少しピントがずれていたがなんとなく顔は確認できた。冴木綾乃……字面を見てもピンと来なかったが、そこに映っているふっくらとした丸顔に腫れぼったい一重瞼の女には見覚えがあった。
「うわ……そういやいた気がするな」 「それで?これのどこが俺の女だって言うんだよ」 「し、失礼しました……」 「そりゃあ今の彼氏の佐藤に失礼だろうが。それに別にブスではないしな」
 いや、どこからどう見てもこれはない。俺としてはそう思ったが、確かに昨日会った女は素直に抱けると思った。人は歳を重ねると変わるらしい。俺も君下も何か変わったのだろか。ふとそう思ったが、まだ青い高校生だった俺に言わせれば、俺たちが同じ屋根の下で10年も暮らしているということがほとんど奇跡に近いだろう。人の事はそう簡単に悪く言えないと、自分の体験を以って痛いほど知った。  君下は短くなった煙草を灰皿に押し付けると火を消して、何も巻かないままのグリッシーニをポリポリと齧り始める。俺は空になったグラスを置くと、コルクを抜いて黄金色を注いだ。
「あー、そうだ。この間田舎に帰っただろう、正月に。その時にばあちゃんに、お前の話をした」 「……なんか言ってたか」
 聞き捨てならない言葉に、だらしなく木製の折りたたみチェアに座っていた俺の背筋が少しだけ伸びる。  その事は俺にも違和感があった。急に田舎に顔出してくるから、と俺の車を借りて出て行った君下は、戻ってきても1週間の日々を「退屈だった」としか言わなかったのだ。なぜこのタイミングなのだろうか。嫌な切り出し方に少しだけ��張感が走る。君下がグリッシーニを食べ終えるのを待っているほんの少しの時間が、俺には気が遠くなるほど長い時間が経ったような気さえした。
「別に。敦は結婚はしないのかって聞かれたから答えただけだ。ただ同じ家に住んでいて、これからも一緒にいることになるだろうから、申し訳ないけど嫁は貰わないかもしれないって言っといた」 「……それで、おばあさんは何て」 「良く分からねぇこと言ってたぜ。まあ俺がそれで幸せなら、それでいいんじゃないかとは言ってくれたけど……やっぱ少し寂しそうではあったかな」
 そう言って遠くの空を見つめるように、君下は視線を空へ投げた。真冬とは言え太陽の光は眩しくて、自然と目元は細まった。テーブルの上に投げ出された右手には、光を反射してきらきらと輝く金色が嵌められている。昨夜君下が眠った後、停車中の誰も見ていない車内で俺が勝手に付けたのだ。細い指にシンプルなデザインはよく映えた。俺が見ていることに気が付いたのか、君下はそっとテーブルから手を離すと、新しいソフトケースから煙草を一本取りだした。
「まあこれで良かったのかもな。親父にも会ってきたし、俺はもう縛られるものがなくなった」 「えっ、まさか……昨日実家寄ったのってその為なのか」 「まあな……本当は早いうちに言っておくべきだったんだが、どうも切り出せなくてな。親父もばあちゃんも、母さんを亡くして寂しい思いをしたのは痛いほど分かってたし、まあ俺もそうだったしな……それで俺が結婚しないって言うのは、なんだか家族を裏切ってしまうような気がして。もう随分前にこうなることは分かってたのにな。気づいたら年だけ重ねてて、それで……」
 君下は、ゆっくりと言葉を紡ぐと一筋だけ涙を流した。俺はそれを、君下の左手を握りしめて、黙って聞いてやることしかできなかった。昼間から飲む飲みなれないワインにアルコールが回っていたのだろうか。それでもこれは君下の本音だった。  暫くそうして無言で手を握っていると、ジャンボジェット機が俺たちの上空をゆっくりと通過した。耳を塞ぎたくなるようなごうごうと風を切り裂く大きな音に隠れるように、俺は聞こえるか聞こえないかの声量で「愛してる」、と一言呟く。君下は口元だけを読んだのか、「俺も」、と聞こえない声で囁いた。飛行機の陰になって和らいだ光の中で、俺たちは最初で最後の言葉を口にした。影が過ぎ去ると、陽射しは先程よりも一層強く感じられた。水が入ったグラスの中で、溶けた氷がカラン、と立てたか細い音だけが耳に残った。
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yo4zu3 · 4 years
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笑わない肖像(山土)
 ドライアイ用のとろみのついた目薬を差しながら、山崎退は欠伸を噛み殺すように口を噤んだ。薄暗い部屋には彼以外に誰もおらず、誰かに見られて怒られるわけでもないというのに、そう習慣づけられてしまっては今更直す気にもなれなかった。今は任務中で、何時いかなる時も気を抜いてはならない。他人をのぞく時、他人もまたお前を覗いているのかもしれない。それを避けるべく俺はこの空間で空気と化さねばならない。誰にも知られることなく、いつも誰かの様子をそっと伺っているのだ。
 監察の任務に就くにあたって、いくつかの暗黙のルールが存在する。とは言え誰が決めたわけでもなく、直属の上司である副長にそう言いつけられているわけでもない。ただこの特殊な任務をこなすうちに、自然と身についたものだと言ったほうがいいのかもしれない。主に攘夷浪士対象に行われる張り込み作業中の、あんぱんと牛乳だってそうだ。普段から好き好んで摂取しているわけでもないそれは、まあ、あれだ。この国において張り込みと言えば、あんぱんに牛乳だからだ。ここがアメリカだったら紙の容器に入った中華系デリを食していたかもしれない。  だからと言って他の監察方に俺のルーチンを強要するつもりも、これを真選組の公式ルール化するつもりもなかった。それぞれがやり易いやり方で任務に当たるのが最善だと、俺は勝手に思っている。……まあ沖田隊長のあの派手なやり方には、正直言って賛成しかねるところはあるが、ともかく監察というのは組織の中でも特殊で、かつ自由な役職だと思うのだ。  そんな訳で俺は今日も古びた六畳間の和室で、あんぱんと紙パックの牛乳を片手に握りしめながら、いくつか開いた障子の穴から向かいの建物を見張っていた。
「今日も対象に動きなし、っと」
 日も落ちてしまったところで、監察日記に今日の報告を書き加えてゆく。���り映えしない文字の並ぶ様子に、退屈だが少し安堵した。今日も何事もなく、江戸が平和な一日を終えたという証拠なのだ。ペンのキャップを閉めて、もう一度自分の書いた文字と向き合う。書き留めたところのインクがまだ乾いていなかった。  副長のように毎度炭を削って筆を浸すほど、俺は字が達者なわけではない。報告書も使って筆ペンか、原作者の都合で丸ペンで書くことが多かった。コンビニで普通に筆ペンが買えるこんなご時世にわざわざ上等な筆を使うのも、副長個人のルーチンみたいなものだろう。誰に習ったのか知らないが、柔らかな馬の毛の腰を立てて書くのは思ったよりも難しい。俺も副長を真似て何度か使っては見たものの、その書き味に一向に慣れずに文字通り筆を投げてしまった。そういえば、あの筆はどこにやったのだろう。原田にでも譲ったのだったろうか。  幾分か下りた肩の荷に、ぼんやりとどうでもいいことを考えながら、胡坐をかいたままごろりと敷きっぱなしの布団に寝ころんだ。万年床と化した布団はひんやりとしていて、西日に照らされ続けた身体に心地が良い。今のうちに少し仮眠をとっておいたほうがいいのかもしれない。悪が動くのは決まって深夜なのだと、俺の監察としての勘がそう告げている。
 次第に暗くなる室内の暗さに慣れた目を瞑る。闇の中で聞こえるのは、近くの繁華街を行き交う人々の賑やかな声と、隣の住人が流しで洗い物をする食器の音、どくり、どくりと控えめに鳴る己の心音。瞼の裏側で、スーパーのビニール袋が増えるだけの殺風景なこの部屋を思い浮かべて、次に思い出すのは恐らく書き間違えた和紙の散乱する副長室。あの人は今も着流し姿のまま、ひたすらに机に向かっているのだろうか。十日前に確認したシフトの内容はもう覚えていない。いつもの引き出しの中には、煙草のストックはまだあっただろうか。きちんと、休んでいるのだろうか。
***
 よく晴れた秋のことだった。長期の潜入捜査明けでその日非番だった俺は、冬の町内大会に向けてひとり、誰も寄り付かない石庭を踏みながらミントンの練習に励んでいた。ぶん、ぶん、と空気を切り裂くようなガットの音に混ざる、じゃり、と小石を踏む音がだんだんと近づいてくる。大型の男の足音に原田かなと目星をつけ、今日の俺は誰の静止も聞かないよ、そう言ってやろうと振り返る前に、『おう、ザキは今日もミントンか!』と、酷く聞き慣れた大きな声が聞こえたので、予想していた人物ではないことを悟った。
『お疲れ様です、局長。写真、ですか』
 乾いた青空によく映える黒の制服に身を包んだ近藤勲は、見慣れない三脚と二眼レフカメラを抱えて中庭へとやって来た。尋ねれば、倉庫の整理をしていて出てきた近藤の私物だという。真っ黒なボディーはゴツゴツとしていて、銀色で装飾されたローライフレックスの文字は所々メッキが剥がれかけていた。だいぶ古びてはいたが、それなりに大事にされてきたのだと一目見てわかった。
『ああ、昔、ちょっとな。まだ使えるかわかんねぇけど、懐かしくてつい触ってみたくなったところだ』
 そう言った瞳は普段のような鋭い眼差しはなく、柔らかな雰囲気の、ただの一人の青年のように俺の瞳には映った。俺が先程まで素振りをしていた塀の近くに、近藤は慣れた手つきで三脚を組み立て始める。わざわざ足場の悪い石庭なんか選ばなくとも、この先に柴の生えた場所ももあったがそれは口にしなかった。ねじを締め終え、しゃがんだ背中からよし、と声が上がると、今度は本体の裏蓋を開け始める。スラックスのポケットから取り出した細巻きのフィルムを取り出して、ベロを引き延ばして巻き付けると、横についているレバーをゆっくりと回し始めた。
『へーこの時代にフィルムだなんて、粋ですね』 『だろう?これも随分昔のものなんだ、まだ撮れるといいんだが・・・よし、できた』
 ぱちり、と裏蓋が音を立てて締まり、先ほど立てた三脚に取り付けられる。腰ほどの高さにある二つのレンズは、よく磨かれたのか高く昇った太陽を反射してキラキラと輝いているようにさえ見えた。『じゃあ早速撮るか』、そう言ってカメラの前に立つ近藤の後姿を見て、俺は少しだけ不自然に思った。二つのレンズが向けられた先は、立派に手入れされた石庭などではなく、この屯所を囲っている白い塀だったからだ。
『撮るって局長・・・そこじゃあ何も映らんのじゃないですか』
 俺の言葉を背中に受け、振り返らないままシャッターを切る音がする。一度ハンドルを巻き上げ、切って巻き上げること数回目、ようやく俺のほうを見た近藤局長の目は、覗き穴に向けられるような柔らかく笑った笑みのままだった。
『何って、お前がここに立つんだよ』 『はあ・・・』 『さっきな、こいつと一緒に昔のアルバムも出てきて見てたんだが、そういえばお前の写真がないんだよ』
 不思議なほどに、一枚も――  それに返事はできなかった。したかもしれないが、先程と同じようなはぁ、だとか、恐らくそんな意味のない言葉ぐらいしか出なかっただろう。からん、と足元で音がして、俺は手にしていたラケットをその辺に落としてしまった。胸の内にもやもやとした、黒い霧のような感情が顔を出すのがわかる。触れられたくない。不覚にも、そう思ってしまった。
『あー俺、そういうのちょっと苦手というか・・・ほら、俺って地味ななりだし、写真映りも良くないんですよ』 『そんなの関係ねぇだろう。思い出だよ、俺の』 『・・・そうは言われても』 『まあいいからさ。たとえお前が半目で映っていたとしても、笑わねぇし誰にも見せねぇって』
 そう言って近藤はバシバシと俺の肩を叩く。写真を勧めるのも肩を痛いほどの力で叩くのも、一切の悪気がないのだから質が悪い。この人のそういうところに惹かれてこの組に入ったのも事実だった。『わかりましたよ』とわざとらしく渋々といった雰囲気で言うと、『じゃあそこに立って』と真っ白な塀の前へと立たされる。二つのレンズと向かい合い、おかしなシチュエーションになんだか妙に緊張が走る。白い背景に一人ぼうっと突っ立っているって、証明写真じゃあるまい。笑ったほうがいいのだろうか、そう思ったが気乗りしなくて、にやり、と不気味な笑みを浮かべてみるも、『怖ぇーよザキ、もうちょっと自然に、な。リラックスしろよ』と苦笑いされてしまった。  『じゃあ撮るぞー』と声がして、近藤は少し屈んで上部のレンズからこちらを覗き見る。こうやって人を覗く事には慣れた身でも、覗かれるのは決して気持ちのいいものではないな、とそんなどうでもいいことが頭を過り、かちん、と音がした。
『よし、終わり』 『あ、もういいんですか』
 結局俺は、笑わなかった。いつものような真面目腐った、真選組監察といった顔をしてのけたのだ。どうせこの写真が使われるのは、俺が死んだ後ぐらいなのだろう。遺影なら笑わないほうがいい。なぜだかそう思ったのだった。
***
「おい、起きたか」
 目が覚めると、見慣れない真っ白な天井が視界に入った。ああ、見慣れないとは嘘だ。たまに見る、これは恐らく大江戸病院の病室の天井だろうか。声のする方を振り返ろうとするが、麻酔か何かで身体が思うように動かない。その様子に気付いたのか、「いい、無理して動くな」と間髪入れずに声は言う。ちらりと視界の端に映ったのは、隊服をきっちりと着込んで咥え煙草を吸う土方の姿だった。
「だから病院は禁煙ですよ」 「この部屋は喫煙可だ」 「いやいや・・・何ですかその屁理屈」 「あ?任務に失敗しといてよく言うじゃねぇか」
 ドスの効いた低い声でそう言われ、返す言葉もなかった。俺が病院で目覚めるということ、それはすなわち任務失敗を意味していた。記憶が途切れたのは、確か張り込み捜査中の潜伏部屋の中。仮眠を取ろうと布団に寝ころんで、そしてそのまま眠りについたのだと思っていた。どれぐらい眠っていたのだろうか。身体はちっとも動かないが、見た感じどこかが斬られたり折れたわけではなさそうだ。何から聞こうか、そう思っていると細長く紫煙を吐き出した土方が先に口を開く。
「今回ばかりは死んだと思ったぞ」 「はは・・・すんません」 「すまんで済むなら切腹は存在しねぇって、お前がヘマするたびに言ってんだろうが」 「・・おっしゃる通りです」
 ぐ、と力の入らない右手に力を込めた。ゆるく握られた掌に、これは麻酔なんかではなく神経系の毒物の作用だと知る。情けない。こうやって毎度副長に見舞わせておいて、今回だって何の尻尾も掴めなかった。
「あの、状況は・・・」 「張ってた吉田屋はシロ、ありゃ今回の件とはなんの関係もねぇ。ただ、張り込みしていたお前が食ったあんぱんから毒物が検出されたのは、偶然にしちゃあちと出来過ぎている。今は別の監察が工場の製造および運搬ラインを辿ってるってところか」
 カチ、と音がして、マヨ型のライターに火が点る。淡々とした声で状況を述べながら、土方は何本目かの煙草に火をつけた。機械的に煙を吸い込んでは吐き出す、を数度繰り返して、暫くの沈黙が続く。動かない頭をそのままに、視線を窓のほうへと投げる。何日経ったのかは分からないが、遠くの空が夕日に照らされ真っ赤に染まっていた。じきに夜が来る。俺の意識が遠のいたあの夜のように、暗闇がこの部屋を包むのだろう。
「そういえば、いよいよお前が死んだと思って、早とちりした近藤さんが遺影を持ってきやがったんだ。俺ァまだ昏睡状態だって止めたんだが、通夜は葬儀はいつだのって随分騒いだんだからな」 「あーそれは、なんだか想像がつく・・」
 ははは、と乾いた笑いが漏れる。伊東鴨太郎の一件で、俺は以前にも死人扱いをされてしまった事がある。ちょうど松平のとっつぁんの愛犬が死んだのとタイミングが被って、その時は死体不在のまま葬儀が決行されてしまった。死亡確認が取れていないのに人を葬ろうとするなんて、なんていい加減な職場だろうか。これが警察だというのだから世も末だ。  それにしても、結局あの時近藤が撮った俺の写真は、やはり遺影にされたらしい。その時��為に写真が必要になるということは、この仕事に就くときから分かってはいた。だが俺はこの世に自分がいなくなったとしても、写真を一枚たりとも遺したくなかったのだ。それは監察という仕事柄、この何の特徴のない顔が割れるのを避ける為でもあり、そして何よりも、俺自身が誰にも知られずに死んでしまいたいからという理由でもあった。本隊とは常に別行動を取る監察は、死ぬときも生きるときもきっと一人なのだ。思い出なんかいらない。たった一人、俺が死んでも覚えていてくれる人がいる、そう信じているから。
「じゃ、俺は見廻りに戻るぞ。医者が言うには三日もありゃ退院できるそうだ。精々安静にしておくことだな」
 そう言うと、土方は振り返りもせず病室を後にした。その背中を視線だけで追い、心の中で敬礼をする。なんだかんだ言いながら、毎度見舞いに来る土方が山崎の身を案じているのは痛いほど感じていた。半分開けられた窓からは、つんと冷たく乾いた風の匂いがする。もうやがて冬がやってくる。
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yo4zu3 · 4 years
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醒めるまで(山土)
※大学生パラレル
 その男は上から二つ目のボタンまできっちりと閉めたシャツを着て、憂鬱そうな表情を浮かべて一番端の席に座っていた。本人はいかにも目立ちたくないといった雰囲気を醸し出しているのに、そうさせないのは彼の容姿が目を見張るほど整っているからなのか。新歓という名目の所謂合コンが始まった瞬間から、その場にいた女子たちの熱い視線を集めていた。  入学早々学校一の美男子としてもてはやされている彼の事なら、山崎のような普通の学生でも土方十四郎の名前だけは知っている。まさかその有名人の土方が、偶然居合わせた飲みの席で退屈そうにしているその男だとは夢にも思わなかった。確かに顔の造りは良いということは、遠目で見ても容易に判る。それでも山崎の感じた第一印象は、とても冷たい瞳をした男だった。  山崎がこの場に呼ばれたのは、単なる人数合わせでしかないだろう。その程度にしか思っていなかったものだから、何科の美女が来るだとか、そういった話にはこれっぽっちも興味が湧かなかった。どうでもいいのだ。他の男たちのように、特に彼女が欲しいわけでもない。そりゃあ、できれば童貞なんてさっさと捨てたいところだったが、やはり彼女となると(しかもそれが初めての相手となれば尚更)こんなバカの掃き溜めのような場所で見つけるべきではないのだろうと薄々諦めてはいた。  そんなことを思いながら、向かいのテーブルに座る着飾った女たちを順番に眺める。明らかに品定めをしているような態度にならないように、薄っぺらな笑顔を貼り付けてわらう。人に自慢できる特技は持たないが、割と人間観察は好きな方だ。女たちは如何にも今時の大学生といった感じだが、思っていたよりも感じは悪くない。かと言って特に好きなタイプでもなかったので、適当な相槌を打ちながら薄いハイボールをちびちび飲み、この場を抜け出す術を頭の隅で考え始めていた。  それにしてもなぜ男が七人なのに対して、女子は六人だけなのだろうか。お陰で山崎は一人溢れた者の席(お誕生日席というやつだ)に座っている。その対角線上にある壁際の端に土方が座っているわけなのだが、ここからだと横に並ぶよりも表情がより明確に見える。土方は自分から話を滅多に振らないが、質問されればそれなりに答えているようだった。時折笑いが巻き起こると、俯きながら控えめに口角を上げる姿も見られる。あ、この人も笑うんだ。いくら愛想がないからと言って、土方もロボットではないのだ。そう思うのも変な話だが、笑った顔があまりにも綺麗なものだったので、山崎はハイボールを口に含んだままいつまでも遠くの席を見つめていた。
「そろそろ席替えしようぜ」  そう言いだしたのは男側の幹事だった。男女ともに賛成の声が上がり、女子たちが割り箸の袋でくじを作り始める。男女別れて一斉に引き、皆が席を移動してゆくのを座ったままぼんやりと眺める。また誕生日席だったのだ。 「おっザキまたそこかよ」  暫く見つめていた端の席には、今回の幹事である男が座った。ハハ……と困ったように笑ってみせると、「お前らしいな」と悪気のない笑みで返される。山崎よりも学年が一つ下の彼は、人懐っこい性格で誰に対しても分け隔てなく接してくるタイプだ。交友関係も広く、友人の多くない山崎をこのサークルに誘ったのも、何度となく行われる集まりもすべて彼が手配しているらしい。どういう訳だかあの土方を呼んだのも彼であり、時折「大丈夫か」と声をかけている姿も目にしている。それに対し土方のほうも、他の連中にするような冷ややかな態度は取らず、相変わらず素っ気はないがどこか親し気であった。  自分は何故こんなにも土方の事を気にしているのだろう。新しいジョッキに口を付けながら、アルコールの回り始めた頭で考える。確かに第一印象が良くないと、時間が経つうちにその人がいい人に見えることはよくある事だ。第一土方の印象は悪いわけではない。ただつまらなさそう、そう山崎が感じただけなのだ。 「あっ、土方くんここー?」 「みたいだな」 「良かったぁ。さっきは遠くてあんまり話せなかったから」  ぼんやりとしていると、目の前で茶髪の女子が嬉しそうな声を上げる。その声に意識が呼び戻され、辺りを見渡すとちょうど土方が山崎のいる席の隣に腰を下ろした。如何にも男らしく鞄はなく、泡のなくなったビールだけを握っている。まさか隣になるとは思ってもおらず、驚きでその顔をまじまじと見つめていると「顔、なんか付いてる?」と気だるそうな声がして慌てて首を振る。 「ならいいけど」  それだけ言うと、土方は目を伏せる。長い前髪がはらり、と落ち、細く長い睫毛の上に掛かっている。その儚げな美しさに、山崎は思わず息を飲む。酔いのせいか、バクバクと耳元で心臓が鳴る。土方は既に女子からの質問攻めに遭っていたが、山崎の頭にその内容は碌に入らず、ただ耳を通り抜ける音に過ぎなかった。
 それ以降特に言葉も発さないまま時間が流れ、ふいに靴先に何かがぶつかる感覚があった。一瞬何だろうと下を確認したくなったが、土方からの視線を感じて動きを止めた。向かいの女子に気付かれないほど、ごく自然に流された視線に何か意味があるのだと直感した。身構えていると、丁度ジョッキを空にした土方が徐に立ち上がる。 「わりぃ、ちょっとトイレ」  土方に、「いってらっしゃい」と甘い声がする。山崎もそれに続いて「あ、お俺も……」と足元に置いていた鞄を手に取り立ち上がるが、それ以上誰も何も言わなかった。 「土方……さん?」  個室を出ると、長い廊下の先に土方の後姿が見える。御手洗いと書かれた釣り看板を通り過ぎ、出口まで���くと立ち止まってこちらを振り返る。がやがやとした店内で「早くしろ」と小声で言われても聞こえないが、口の動きから恐らくそう言っているのだろう。ふわふわとした脳が揺れないように小走りで店を後にした。
*
「あの、どこ行くんですか」  そう尋ねても「どこか」としか答えがなかったので、山崎は早々に会話を諦めた。黙ってエレベーターに乗り込みビルを出ると、来た時にはまだ薄明るかった春先の空はすっかり陽も落ち暗くなっていた。そう遠くない場所に見える繁華街のネオンがきらきらと眩しい。飲食店の立ち並ぶ通りをまっすぐと進み、迷うことなく一軒を決めると土方は戸を開ける。「いらっしゃいませー」と明るいバイトの声がして、そこでようやくこちらを振り返る。 「吸う人?」 「あ、俺は吸わないけど……土方さんが吸うならいいですよ」  それを聞いた土方が「二名、喫煙で」と告げるとすぐにボックス型の半個室へと案内される。先程の居酒屋に似たこの店もよくあるチェーン店に過ぎないが、見たところ若い客があまりいないせいか少しばかり静かだった。 「お前、何飲む?まだ飲めるだろ」 「じゃあ、ジンジャーハイボールで」 「またか。好きなんだな、ハイボール」  さっきも飲んでただろ、そう言いながらポケットから煙草を取り出すと、一本とライターを引き抜いてテーブルの上に投げる。備え付けの呼び出し鈴を押しながら、煙草を咥えると奇妙な形をしたライターで火を付ける。嗅いだことのある匂いを少しだけ懐かしく感じた。 「生と、ジンジャーハイ。あー、飯どうする?」 「俺はもういいかな……さっきの店、結構量あったし」 「じゃあたこわさびとイカの一夜干し、別皿でマヨネーズ多め」  店員が注文を取り終えて去ってゆくと、土方は再び煙を含む。今は横ではなく向かいに座っているので、先程よりもより表情が鮮明に見ることができる。ゆっくりと煙を吐き出す土方はどこか肩の荷が下りたような様子だった。容姿だけでキャーキャーと騒ぐ女たちよりも、初対面だが無害そうな男といるほうが落ち着くのだろうか。とにかくその変わりように山崎は内心驚いた。 「お前、名前は?」 「や、山崎退です」  畏まった自分の声に、なんだか面接でも受けているような気分だった。「なんか面接みてぇだな」と笑う土方に、もはや乾いた笑いしか出てこない。自分の膝の上に握った拳がじっとりと汗ばんでいる。土方が一本目を灰皿に押し付けたタイミングで、「お待たせしましたー」とアルコールの入ったグラスが運ばれてくる。 「えーっと……改めまして?」 「なんで疑問形なんだよ。乾杯」  こつん、と控えめにぶつけられたグラスに、自分の中の何かが崩れる音を重ねて聞いた。
 もう何杯目だろうか。数えることも億劫となった頃、土方が呼び鈴を押すのが視界の端に入る。 「生追加。オラ山崎、次は何ハイボールだ」  テーブルに両肘をついた状態で暫く下を向いていた山崎は、「いやまだ残ってるんで……」と弱気な声を上げた。 「じゃあ普通のハイボール、氷少なめで」 「うぇぇ……俺飲まないですよ」  酒が飲めないわけではないが、この日は流石に堪えてしまった。あれから土方とはぽつり、ぽつりと話をした。何を勉強しているのだとか、出身はどこだとかいう当たり障りのない話から、どういう女がタイプで先程の女子メンバーの誰が可愛いだとか、幹事である男の話にまで及んだ。 「あー近藤さんはあれだ、幼馴染なんだ」  聞けば同じ道場に通い、近藤を追ってこの大学に入学したとの事だった。彼がいなければ今の自分はいなかっただろう、そんな言葉が土方の口から出るものだから、この男は思っているよりも熱い何かを持っているのだろう。酔いが回っても相変わらずその顔は綺麗なままだが、その細身に似合わず大食漢で、馬鹿みたいに煙草を吸い、よく喋り、よく笑う。イカの一夜干しに大量のマヨネーズをかけたことには白目を剥きそうになるほど驚いたが、お互いにほんのり顔が赤らむ程度に飲んだ頃にはすっかり最初の印象など頭の中から消え去っていた。 「あ、やべぇ。終電がない」  埼玉方面の実家から通っているという土方は、スマホの時計を表示して呟いた。完全に机に突っ伏している山崎の肩を揺さぶり、「おい、おきろ」と芯のない声を出している。 「おい山崎。終電、しゅうでん。何時だよ」  握られた肩が熱い。土方の手は思ったよりも温かかった。 「おれ、家近いんでなんとか……」 「いやならねーだろ……タクシー呼ぶぞ、いいか?」  伏せたままうんうん、と頭だけを縦に動かし、了解の意を伝える。再び呼び鈴を押した土方が会計を頼み、ついでに貰ったのであろう冷を首元に当てられて思わず飛び起きる。 「おわっつめたッ!ちょっと、何するんれすか」 「やっと起きたな。ほら、帰るぞ」  二人分の上着を抱えた土方は先に立ち上がり、伝票をもってどこかへ行ってしまう。あとで半分払わなければ、そう思いながら冷の入ったグラスを握り、舐めるように少しだけ飲んだ。随分長い間伏せていたお陰か、酷かった酔いは少しだけマシになったような気がした。  支払いを終えたらしい土方が戻ってくると、腰を支えられながら店を後にする。店から大通りは目と鼻の先で、深緑色のタクシーは既に脇に着けて酔っ払い二人を待っていた。やっとの思いで後部座席に乗り込むと、行き先を聞かれて住所を伝えると「本当にすぐそこじゃねぇか」と土方が呟く。 「ワンメーターでいくかもな」 「だから言ったじゃないですか。ていうかさっきの会計、半分出しますよ」  そう言って尻ポケットから財布を引き抜こうとすると、「あー今はいい、次で」とその手首を掴まれ止められてしまった。次って、次があるということだろうか。自分の中で聞き返して思わず口元が緩みそうになる。 「ではお言葉に甘えて……というか、土方さんはどうやって帰るんですか」  窓からは見慣れた景色が流れてゆく。道は思いの外混んでおらず、山崎の住む賃貸マンションまであと二ブロックで着いてしまう。ここからタクシーで帰るのだろうか。窓の外を眺めたまま、土方は「さあな」としか答えない。どのぐらいの料金がかかるのか知らないが、間違いなく今日の山崎との飲み代よりはかかるのだろう。よくある学生マンションなのでそこまで広いわけではないが、男一人ぐらいなら泊めれないこともない。それに互いの連絡先を知らないのに、本当にこの次があるのかだって怪しい。 「あの、もし土方さんが大丈夫であれば、うち来ます?」  たかが同性を家に招くのに、こんなに勇気が必要だったことがあっただろうか。財布からようやく離した手をシートに投げると、土方の温かい指先に僅かに触れる。驚いたように少しだけ見開かれた土方の瞳が、見つめていた窓ガラスに反射している。ああやはり、この人はどんな顔をしても綺麗なのだなと思うと、もっといろいろな表情を見たいという欲が顔を出す。 「あ、この辺でいいです」  山崎はマンションの手前でタクシーを停めて料金を支払い、車を降りると何も言わずに土方も続いて車を降りる。街灯が並ぶ道を早足で歩きながら、山崎は顔を見られないようにするのに必死だった。さてどうしようか。  部屋の鍵を取り出す頃には、もう酔ってなどいなかった。
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yo4zu3 · 4 years
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朱殷の人(山土)
※原作設定 ※女装山崎を含みます
 真選組監察役・山崎退に与えられる任務は様々だ。  監察と言えば主に諜報や潜入のプロとして認識されているが、山崎の場合、屯所の中庭の草むしりから暗殺までありとあらるゆる任務が与えられる。それ故に他の隊士と違い、彼には所属の部隊がない。区分するならば副長直属ということになるが、命令を下すのは必ずしも上司である土方という訳ではなかった。必要があれば秘密裏に、それも局長以外の誰にも知られることのないような極秘任務に就くこともある。まあそんな重大任務は今の今まで回ってきた試しがないのだが。要するに、どんな内容であれ与えられた任務を淡々とこなしてゆく。己の職務に対しそういう認識を持っている山崎は、割とこの仕事が好きだったりする。  地味な容姿も助けてか、山崎は潜入捜査を得意とした。剣も使えない訳ではないが、隊長格の連中に比べればその腕は劣るところがある。それに元々の性分から、人に限らず余計な殺生をあまり好まない。それでもいざという時には自分の命ぐらいは護れるものだから、こうやって監察役として何年も使って貰っているのだろう。
「山崎」  朝礼を終え、巡回の準備に取り掛かろうという頃、山崎は副長である土方に呼び止められた。返事をする前に土方はくるり、と背を向けてしまったので、何も発さないままとぼとぼと後をついて行く。土方は自室に山崎を呼ぶ時、それを明確に口にしない。部下を部屋に招き入れることは、この男所帯の隊では特に珍しい行為ではない。それにも関わらず、土方が山崎を呼ぶ時は必ずと言っていいほど、その名前だけを呼ぶのだ。恐らくは潜入捜査の令が下りたのだろう。そう長くはない距離を無言で男の背を追いかけながら、大体の見当をつける。 「入れ」 「失礼します」  副長室に踏み入り、後ろ手でぴたり、と障子を閉めて振り返る。土方は山積みになった書類の束から一枚の紙を引く抜くと、「ん」、と咥え煙草のままこちらへ差し出した。ジュ、と燃える音がして嗅ぎ慣れた匂いがそう広くない部屋を満たす。 「当たり……か」 「あ?なんか言ったか?」  思わず心の声が漏れる。慌てて「いや、こっちの話です」と付け足すと、煙を吐き出した土方はもうその言葉の意味にはさほど興味がないように見える。  土方が手渡した紙には、簡単な地図と情報、それに名前がいくつか書かれていた。やはり潜入捜査で間違いないが、見覚えのある名前になんとなくこの件は黒のような気がしてならない。じっと紙を見つめる山崎に、土方も押し黙る。その沈黙が、恐らくは潜入だけでなく場合によっては暗殺も必要になる一件なのだと察することができた。 「……潜入は一週間後だ。いつも通り、方法はお前に任せる。好きにしろ。但し、」 「但しやばいときは連絡を入れろ、ですよね」 「分かってるじゃねぇか」  ふ、と小さく笑った土方は、半分ほど吸った煙草を揉み消すと、懐から新しい一本を取り出して火を付けた。あーあ、勿体ねぇや。そう言うと殴られるのが目に見えているので言いはしないが、恐らく顔には出ていたであろう。 「もういい、分かったら下がれ」  それだけ言うと土方は、衣桁屏風に脱いだ上着を掛け、今にも崩れそうな書類の山に向かい始める。山崎は少しだけその背中を眺めたのち、土方の邪魔にならないよう静かに部屋を後にした。
*
 件の潜入捜査をするにあたり、女装を選んだのは山崎本人だった。  理由は多々あるが、今回のターゲットである楠木という男、これがかなりの女好きだということが大きい。表向きでは一般的な商社であるが、裏では武器密輸に加え、最近では天人製の麻薬まで扱っているとの情報があった。相当に儲けているのだろう。山崎が諜報活動の一環として出入りしているキャバクラでも、羽振りのいい客としてその名を耳にしたことがある。うまく女に化けて奴を誘うことができれば、案外早く片が付く任務なのかもしれない。そう簡単にいかないとは分かっていても、普通の下人として潜入し、標的のお近づきになるよりは確率は確かである。試さない手はなかった。
 小さな化粧台の前に正座する。赤の漆塗りのそれは女装をはじめて何度目かの、潜入捜査成功の褒美として土方に頂いたものだった。 「一体どこからこんなものを?」  振り返らずにそう尋ねると、監察部屋の戸に背を預けたまま、副長は煙を吐き出す。 「俺だっていろいろと伝手はあるんだよ」 「へぇ……」  映し出される自分の顔と、その奥に見える小さな土方の姿を交互に見た。鏡自体は綺麗だが、丸みを帯びた漆の角は所々に塗装が剥げ、本来の木の色味が剥き出しになっている。お世辞にも売り物にはならなそうなそれは、恐らくどこかの遊女から譲り受けたものなのだろう。あまり多くを語りたがらない土方の横顔に、山崎は勝手にそう推測することにした。   鏡の下には小さな金具の取っ手がついている。その中に、経費で買い揃えた化粧道具を布に包んで大事に仕舞っている。一般的な女が使うものは大抵揃えたが、元が男である山崎の場合はより手の込んだ化粧が必要となった。大げさなほど明るいトーンの粉を叩き、短い睫毛の上から糊でプラスチックの睫毛を貼り付ける。  山崎にとって化粧とは、文字通り女に化けるための手段でしかない。これも任務のうちだと言い聞かせ、せっせとやり方を覚え任務に当たっていた。だが女に化けるのは思ったほど嫌ではない。元が小ざっぱりとした塩顔であり、背もそこまで高くはない。不本意ながら、局長や他の隊士のような如何にも剣士という体付きはしていない。男所帯の隊の中でも、線の細い山崎は女装向きといえばそうなるのだ。 「見事なモンだな」  土方は相変わらず戸のそばに立ったまま、部下の変貌の一部始終を眺めていた。咥えていた一本を吸い終えると、取り出した携帯灰皿に吸い殻を突っ込んで、土足のまま畳張りの室内へと足を踏み入れる。鏡越しにその姿を見た山崎は、朱殷の口紅のついた左手薬指を止めた。ティッシュで指を軽く拭うと立ち上がり、振り向く。暫くの正座で少しばかり脚が痺れていた。
「本当に女のようだな」 「そう見えなきゃ任務に支障が出ますからね」  褒められるのは気分がいい。たとえ女の姿だとしても、それが山崎に対して発せられた言葉だという事に変わりはないのだ。生成り色の肌襦袢のまま、自身の袖口を掴むと山崎は若い町娘のようにくるりと回って見せた。それを見た土方は、ふふ、と笑みを零すと、咥えたまま火を付けていない煙草を口から外し、そのまま山崎の腰に手をかける。柔らかな木綿の感触越しにじんわり、と男の手の温度が伝わる。その腕をぐっと手前に引き寄せられれば、浮かれていた山崎はあっさりと土方の腕の中に納まってしまう。普段ならば山崎が土方に対してするように、腰から下、尻のラインをなぞるように掴まれる。あまりの近さに声すら出ず、ただ目の前で瞳孔の開いた瞳に映る己の姿を見ることしかできない。そうしているうちに近づいてくる土方の唇に、咄嗟に右手の指先を宛がう。 「あっ……ダメですよ、副長」  そう言いながら、正面を向いていた顔を少しばかり俯ける。苛立ったようにチッ、と短い舌打ちが聞こえた。全く、舌打ちしたいのはこちらの方だ。普段はどれだけ接吻をせがんでも、任務中だからと頑なに断られる。その癖に女が相手(実際には女装した男なのだが)だとこうも容易く手を出そうとするのか。普段土方を組み敷いている男があまりに上手く女に化けるものだから、からかっているだけなのかもしれない。だがその態度が少しだけ気に食わない。 「別に、少しぐらい良いじゃねぇか」 「アンタねぇ、任務前だってわかってるでしょう。それにこの口紅、実は毒が仕込んであるんです」  少しだけ悪い顔をしながら付け足すようにそう言うと、土方の眉間が微かに寄せられる。確かに山崎は、毒を仕込んだ口紅を所持している。だがそれは唇の上に引かれてなく、今はまだ引き出しの中に大事に仕舞ってあるのだ。これを使うのは早くて数時間後といったところだろうか。とにかく、揮発性の高いそれを今塗ってしまう訳にはいかなかった。  勘ぐっている様子の土方は間合いを変えないまま、山崎を真っすぐと見つめる視線も動かさない。山崎も、この小さな嘘がばれないように表情を作る。女になりきるのだ。万が一ここで嘘がばれるようなら、女好きの標的にさえ通じる訳がない。 「じゃあ、俺、そろそろ行きますんで……」  そう言い身体を引き剥がそうとするが、己の腰に回った腕はびくりともしない。女装してもさほど違和感がないほどに山崎は細かったが、土方も似たようなものである。それでも剣の腕はかなりのもので、毎朝の稽古も欠かさない男に山崎が腕力で叶うわけがなかった。そうしているとあっという間に、先程は受け流した唇が、山崎の唇を塞ぐ。少し乱暴に当てられた唇越しに、がつ、と土方の歯が当たるのを感じる。あ、と声を発しそうになって薄く開いた唇の隙間から、ぬるり、と舌が侵入して、固まったままの山崎の歯列を舐め上げる。 「ッ、ちょっと、副長……っ!」  流石にこのまま流されるのはまずい。少しだけ腕の力が弱まったのを見計らい、その身体を強く押して唇を引き剥がす。半歩後ろによろけ、顔を伏せた土方の口端には、唾液に混ざった朱殷の色がべとりとこびりついていた。 「……らねぇよ」 「え?」 「毒だか何だか知らねぇが、そんなに死にたきゃお前にも分けてやる」  吐き捨てるようにそれだけ呟いて、土方はゆっくりとした足取りで戸口の方へと向かい、そのまま出て行ってしまった。一度も振り返りはしなかったが、その口元は笑っていたような気がした。真っすぐ続く廊下を歩くその後姿を、ぽかんとした表情で山崎はいつまでも見つめている。  土方は嘘に気付いていたのろうか。これで本当に山崎が毒を塗っていたとしたら、任務の前に二人して死んでいたかもしれない。なんて男だろう。こんなことされてしまえば、こんな物騒なものなんて使う気になれない。力の抜けた膝は崩れ、化粧台の前にへたりと座り込んだ。目の前の磨かれた鏡に、間の抜けた女の顔をした自分が映る。ひどく滑稽だった。
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yo4zu3 · 4 years
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すべてきみの思いどおりに(文庫再録版)
 これは一体……どういう罰ゲームなのだろう。思わずそう錯覚するほどに、今この空間のすべてが拷問のように感じられた。
 事の発端は数か月前、とある休日にまで遡る。
 秋の陽が落ち切った頃に練習が終わり、いつものように身支度を済ませ、最寄り駅までの短い道のりを大柴と共に歩いていた。
 俺たちが付き合い始めて既に三か月が過ぎていたが、互いに学業とサッカー中心の生活をしているため、デートらしいデートはあの夏祭り以来していない。学校でも部活でも、毎日嫌というほど顔を合わせているが、やはり好きな相手とは一日中一緒にいたいと思うものだ。こうして毎日駅まで送ってくれることが当たり前になっても、駅がすぐ近くに見えてくるとどうしても足取りが重くなってしまう。話すことといえば部活やサッカーに関することばかりで少しも変わり映えがしないのに、それでも離れがたく思ってしまうのはこの幼馴染の男がどうしようもなく愛おしいからだ。ゆっくりとした歩調で歩いていても、このささやかな時間に終わりはやって来るのだ。
「じゃあな」
 改札の前で向かい合い、一度だけ大柴の手を握る。人前では恥ずかしくてキスなんてできないけれど、離れる前の少しの間だけ、こうして大きな手に指を絡ませて、ぎゅっと握りしめるのが二人の別れの挨拶だった。冷えた指先から大柴の体温がじんわりと伝わってくるようで、それだけで満たされた気持ちになる。
 横目で電光掲示板を確認すると、そろそろ電車がやってくる頃だ。
「また明日」
 そう言って握った手を放そうとしたその時、繋がったままの手を大柴に強引に引き寄せられた。前方にバランスを崩すと、大柴の逞しい胸板に顔をぶつけ、思わず「ぶッ」と不細工な声が出る。そのままぎゅっと抱きしめられ、今しがた離れようとした決意がいとも簡単に揺らいでいく。
「おい喜一、電車が……」
「今日泊ってけよ」
 低く潜められた声が鼓膜を揺らすと、もう抵抗できる気がしなかった。どきどきとうるさい心音は、どうやら俺だけのものではないらしい。
「な、ちょうど姉貴も居ねえんだ……いいだろ?」
 抱きしめる腕に一段と力が籠められる。こんな誰が見ているかもわからない場所で……と思う反面、しかし今夜はどうしても帰りたくなかった。大柴も同じ気持ちなのだろうか。そう思うと素直にうれしくて、腕の中で俯いたまま「うん」と短く頷く。ガタンガタン、と高架を通り過ぎる電車の音がやけに遠く聞こえていた。
 自宅とは逆方向の電車に乗りながら、後輩マネージャーである生方の家に泊まるという旨のLINEを親父に送った。するとすぐに〈了解〉という短い返信と共に、可愛らしいスタンプが送られてきて、このときばかりは親父の放任主義に救われたような気がした。急な誘いで着替えも持ち合わせていなかったが、一晩ぐらいならまあ大丈夫だろう。明日も学校は休みだが、部活は通常通りの予定なので大柴の家から直接向かうつもりだ。
 そもそも大柴の家に訪れるのも夏祭り以来だった。あの日は浴衣を返すだけで泊っていかなかったので、つまり今日は付き合って以来、二度目のお泊りということになる。そこまで考えが至ると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。恋人の家に泊まるということは、当然その先があるということなのだ。それを期待してついてきたはずなのに、今更何を緊張しているのだろう。電車を降り、そわそわと落ち着かない様子で大柴の手を握りながら、見慣れない夜道を歩いてゆく。
「あ、そうだ。晩飯のこと連絡すんの忘れてた」
 大柴が急にそんなことを言うので、「まあ、何かあるだろ」と適当に相槌を打った。忘れてたということは、恐らく大柴邸には一人分の夕食のみが用意されているのであろう。確かに練習後なので腹は空いているが、あの大きな冷蔵庫を漁れば何かしら作れそうだ。最悪、米さえあればそれでいい。
 そう思っていると、コホン、とわざとらしい咳ばらいが聞こえ、思わず大柴を見上げる。また少しだけ背が伸びたと思うのは気のせいだろうか。
「……ゴム買いたいから、コンビニ寄ってもいいか」
 ぼそぼそと喋る大柴の耳の端が赤くなっている。なるほど、夕飯の件はただの口実だったのか。それに気づくと思わず吹き出しそうになったが、笑いを堪えながら「ああ、行くぞ」と言うと、一刻もはやく大柴の家に帰りたかった。
 炊飯器にあたたかい米がまだ残っていて、それをよそうと大柴のおかずを半分もらって夕食を済ませた。軽いノリで一緒に入るかと言われた風呂は丁重に断り、大柴の後にシャワーを浴び、借りた上下揃いのスウェットを着てリビングへと戻る。先に戻っていた大柴は濡れた髪をそのままに、ミネラルウォーターの入ったグラスを片手にソファに深く座り込んで衛生放送を見ていた。その隣に腰かけると、二人分の重さを受けた革のソファがぐ、と沈み込む。
「寒くねぇか?」
「いや、大丈夫だ。つーか髪乾かさないのか?」
「あー、めんどいからいい」
 首にかけたタオルにぽたり、ぽたりと雫が垂れていた。いつもは派手な赤色が濡れていると少しだけ暗く見えるから面白い。まるで知らない人のようだった。
 その綺麗な横顔を見つめていると、俺の視線に気づいた大柴が振り向き、何も言わずにこちらに向かって両腕を大きく広げる。そこに凭れるように身体を預けると強く抱き返された。薄手の布越しに感じるしっとりとした肌や体温が、いつもと違うシチュエーションだと訴えている。自分の髪から大柴と同じシャンプーの匂いがすることにひどく興奮を覚えていた。
「んっ」
 見上げると大柴の濡れた口唇が降って来る。軽く触れただけの口唇がちゅ、と音を立てて離れ、ゆっくりと目を開けると、こちらを見つめるはしばみにとろりとした熱が宿っている。ずくり、と子宮が期待に疼くと、もう止められなかった。
「ん、んぅ……」
 時折はあ、と短い息を零しながら、互いの唇を貪った。大柴の首に両腕を回すと、二の腕にぬれた冷たい感触がしてそれさえも興奮材料になった。大柴が片腕で俺の身体を抱き、もう片方の手が服を弄り素肌に触れる。腰を撫でた手がそのまま上へとゆっくりと上り、膨らみに触れたところで「んあ?」と大柴が驚いたような声を出した。
「おま……下着どうした?」
「へ? あ、ああ……どうせ脱ぐだろうし、そもそも替え持ってきてねぇし、つけなかった」
「ってことは下もか?!」
「そうだけど」
「つーか、俺が渡したタオルと一緒に新しいの置いてなかったか?」
「え……?」
 何のことだかわからず呆然とする俺に、大柴は明らかに落胆した様子で「マジかよ……」と盛大に溜息をついた。だが言われてみれば確かに、預かった籠の底には下着らしいものがあったような気がする。まるで大柴の髪色を思わせる真っ赤なレース地は、ほとんど下着らしい面積はなく、とてもじゃないが履けそうな形状をしていなかった。元々下着をつけないつもりでいたものだから、それが大柴が俺のために用意した下着なのだということに気づかなかったのだ。
「いや……あれ、てっきりお前の姉ちゃんのかと」
「んなわけねぇだろ! 姉さんがあんなの履いてたらフツーに引くぞ」
「なっ……そんなモンをテメェの彼女に着せようってか?」
「だあああ! それとこれとは話が別だろ!」
 よりにもよってあんなセクシーなものを着させようとしていたことに対して、俺は少なからずショックを受けていた。
 確かに彼氏に見せれるような可愛らしい下着は持ち合わせてはいないが、それでもこれはないだろう。大事な部分を何一つ隠せなさそうな、いかにも「私を食べて下さい♡」と言わんばかりの下着をこっそりと用意していただなんて、隠す気のない下心にいっそ呆れさえもしていた。
 それに何よりも、これではまるで俺たちの関係がマンネリ化しているのだと、間接的に言われているような気がした。それが一番ショックだった。
「そ、そんなに俺に魅力がないのかよ……」
「あ? んなわけないだろ」
「じゃあなんで……っん、」
 文字通り口唇を塞がれるように口づけられると、ぬるり、とあたたかな舌が滑り込んできて、俺の言葉を飲み込んだ。舌を絡めとるように吸われ、一度は冷めかけた熱は容易くすぐにぶり返す。粘度のある唾液を分け与えるような深い口づけに、胸の奥がぎゅっと締め付けられて堪らなくなる。
「はぁッ、……きい、ち」
「お、俺が着てほしいから、ってのはダメかよ」
 お前、いつもサイズの合わねぇのしてるだろ? だから俺様が新しいのを買ってやったんだ。偉そうな口調で言った大柴は、そのふてぶてしい態度に似合わず僅かに耳が赤くなっている。自分で言いながら照れているらしいこの男も、案外かわいいところがあるものだ。
「気持ちはうれしいけど、あれはちょっと派手すぎる」
 それに洗濯に出すには恥ずかしすぎるだろ。そう付け足すと大柴は「確かに」と、素直に納得したのが少しだけ可笑しかった。
「じゃあもっと無難なやつなら良かったか?」
「んー、程度にもよる」
「お前基準だとまた星柄とかガキっぽいのになるだろ」
「あ? あれ気に入ってるんだけど」
「マジかよ」
 時折ちゅ、ちゅっと啄むようなキスをしながら、なんでもない冗談のような軽さで「今度一緒に買いに行くか」と言うものだから、思わず「ああ、いいぜ」とその場のノリで答えると、それに気を良くした大柴の手が俺の身体を弄りはじめる。明らかに流されていることはわかっていても、それよりもその時はただ、目の前の男がどうしようもなく欲しかった。深くなる口づけと愛撫に理性がぐずぐずに溶かされてゆき、あっ……、と明らかな色気を含んだ声が漏れた。
「つーか、下着付けてねぇほうがエロいんだけど……」
 ほら、と大柴の長い指が、スウェット越しに俺の割れ目の上をなぞる。濃厚なキスを繰り返すうちに疼いた子宮から愛液が滲み出て、ライトグレーの生地をうっすらと汚していた。
「あ、ごめ、っんあ……ッ!」
 せめてソファを汚すまいと慌てて腰を浮かせ膝立ちになると、割れ目に触れていた大柴の指が陰核を強く弾き、びくっと小さく背が震えた。ぎぃ、と大きく軋む革の音と、大柴の喉仏がこくりと鳴るのはほぼ同時だった。
 それからソファでくたくたになるまで抱き合い、日付が変わる頃に二階にある寝室のベッドに運ばれて、もう一度身体を繋げたところで俺の意識は途切れてしまった。気が付いたときには素っ裸のまま大柴の腕の中にいて、中途半端に閉められた遮光カーテンの隙間からぼんやりと白んだ朝日が差し込んでいる。
 まだ起きるのには随分早い。毛布の中で触れる素肌は心地よく、目を閉じるとすぐに微睡みが迎えに来る。しあわせな温かさに包まれて、俺はこのときの口約束をすっかり忘れてしまい、後に痛い目を見ることになるとは思いもしなかった。
  
 二月。
 長いようであっという間だった冬の選手権大会も終わり、いよいよ三年生が引退するとようやく緊張の糸がほぐれる時期だった。今は無理して詰める時期ではない、という監督の意見で、以前よりはコンスタントに休みが取れるようになり、時期が時期なだけに浮かれていたのは恐らく俺だけではないだろう。
 冬は何かとイベントごとが多い。選手権と時期が重なることもあり、世間一般で言う一大イベントであるクリスマスや正月は、俺たちにとって手放しに祝えるものではなかった。だから余計に選手権後であるバレンタインが近づくと、部員たちがそわそわしていることをマネージャーである女子二人はなんとなく察している。それに便乗して、日頃の感謝と労いの意味も込めて、今年も監督を含めた部員全員にはマネージャーから義理チョコを用意するつもりだった(勿論その資金は、俺が秘かに別けておいた部費からやり繰りしている。)。
〈明日買い物付き合えよ〉
 久しぶりの休みを翌日に控えた夜、大柴からそんなLINEが入って丁度良いタイミングだと思った。翌週の平日がバレンタインデーなので、今週末は部員たちに渡すチョコを買いに行こうと思っていた矢先のことだった。これはいい荷物持ちができたと内心でほくそ笑みながら、手早く返事を入力する。
〈いいぜ。どこ行く?〉
〈××のショッピングモール。新しいスパイク見に行く〉
〈おい〉
〈スパイクならうちの店で買えよ〉
〈今日発売の限定モデル置いてんのかよ〉
〈……〉
〈ないから取り寄せる〉
〈ふざけんな。俺は明日買うぞ〉
〈そういうのは先に言えよタワケ!〉
〈まあ、とにかく見に行こうぜ〉
〈明日十時に駅前に迎えに行く〉
〈おう〉
〈おやすみ〉
〈なあ〉
〈あ?〉
〈俺にもチョコくれんの?〉
〈いつも通り、全員に義理やるけど〉
〈本命は〉
〈さあな〉
〈おい〉
〈おーい君下〉
〈無視すんなバカ〉
〈……〉
〈おーーーーーーーーい〉
 翌日、自分で指定した待ち合わせ時間に十五分遅れて大柴がやって来た。悪びれた様子の一切ない男の膝裏に蹴りをお見舞いし、電車に乗った。
 最近できたらしい駅直結の大型ショッピングモールは休日だということもあり、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。ピンクや茶色のハートで彩られたポップがくどいほど飾りつけられ、嫌でもバレンタインを意識させるような企業戦略に早くもうんざりしそうだった。
「さっさと買い物してどっかで飯食おうぜ」
 何食いたい? と片手で器用にフロアガイドを開く大柴が、もう片方の手でさりげなく俺の手を拾った。指を絡ませ、そのまま大柴のダウンコートのポケットに招かれる。ポケットの底には丸まった紙くずや得体のしれないものがあったが、悪い気はしなかった。むしろ普通のカップルみたいだなと今更なことを思ってしまうと、急に頬が熱を帯びてゆくような気がした。
 目当てのスパイクの品番とサイズをしっかりと控えると、今買うと言って聞かない大柴を半ば無理やり引きずりながらスポーツ用品店を出た。その後も目移りの激しい大柴にあれこれと連れ回されて、まるで大型犬の散歩でもしているかのような気分にさせられる(この場合、引きずられているのは飼い主のほうだ)。
 その点、俺が入念に下調べをしておいた義理チョコレートについては、激混みの催事場でも難なく目的の商品を手に入れることができた。一応は名のあるブランドものを買ったことが意外だったらしく、大柴は少し感心したように「で、俺のは?」と聞いてきたが、それを華麗に無視して催事場から抜け出した。
 そうこうしているうちにいつの間にか昼時になり、混み合う前に館内にある適当な洋食屋へと入ると、ランチハンバーグプレートと大盛りのオムライス〜赤ワインソースがけ〜を平らげて、デザートのスフレチーズケーキまできっちり完食した。
 あたたかなカフェモカを啜りながら、向かいでブラックコーヒーを飲む大柴を見つめる俺はいつになく上機嫌だった。予定通り予算内でチョコレートが買えた上に、おまけでいくつか試食まで貰えたのだ。自分では絶対に買おうと思わない高級チョコレート店のサービスの良さに、自然と緩む口元をもはや隠す気などなかった。
「あ、そうだ。あと一軒だけ付き合えよ」
 頬杖をつき、窓の外を眺めていた大柴が、たった今思い出したかのように勢いよく顔を上げる。
「? いいけど」
 元はと言えば今日買い物に行こうと言い、散々いろんな店に引っ張り回した挙句、大柴は今まで何も買わなかったのだ。大量のチョコレートの入った紙袋を三つぶら下げ、当たり前のようにランチを奢り、こ��ではまるで本当にただの荷物持ちとして来たようだった。連れ回されて既にくたくただったが、あと一軒ぐらいなら付き合ってやろう。そう思えるほど、この時の俺はすこぶる機嫌が良かったのだ。
「え、待てよ、喜一」
「あ? なんだよ」
 なんだよ、って何だよ。そう聞き返したくなるほどうまく呑み込めない状況に、俺は呆然とその場に立ち竦んでしまった。
 白、ピンク、ベージュに黄色、淡いブルーやヴァイオレットなど、思いつく限りの様々な色が、うるさく視界を埋め尽くしている。俺たちがこのパステルカラーで彩られたふわふわとした空間に迷い込み、かれこれ三十分が経過しようとしていた。
「お、これなんかどうだ?」
「お似合いだと思いますよ」
 新たに目の前に差し出されたのは、似たような装飾のついた明るいオレンジ色だった。シンメトリーの真ん中にはレースでできた大ぶりのリボンが施されている。今までの選択肢に比べると少し派手ではあるが、これはこれで可愛いかもしれない。ぼんやりとした頭でそう思っていると、これは、こっちは、と大柴の手が伸びてきて、目の前に新たな色が次々と現れる。
「やっぱり選べねぇから、全部買うか」
 にこにこと愛想のいい店員の勧めるまま、俺の手元で増え続ける色とりどりの下着の山。それをいつになく真剣な顔つきで選びながら、しまいにはとんでもないことを言い出す彼氏。
 地獄のようなこのシチュエーションは一体何なんだ? 回らない頭で何度考えてみても、脳裏にちらつくのはいつか大柴の家に泊まった際に渡された、真っ赤なレースの下着だった。
「いやいやいや、待て! 待ってくれ!」
「あ?」
 尻ポケットから財布を取り出そうとする大柴に、ストップの意を込めて抱えていた下着の山を押し付ける。こんなにいらねぇ、つーか、こんなに買ってもらっても悪いし、そもそもここに彼氏と居ること自体が恥ずかしいし、しかもサイズも分からねぇのに……など、言いたいことがぐちゃぐちゃになって、何から突っ込めばいいのかわからない。助けを求めるように店員を見るが、「よかったらご試着されますか?」と、サービスとしては的を得ているが微妙な見当違いの答えをされる始末だ。
「いや、そうじゃなくて……」
「うむ、そうか。先にサイズを合わせるべきだったな」
 勝手に納得した大柴に「とりあえず、これ合わせてみろよ」と手渡されたのは、控えめなフリルのついた淡いピンク色の下着。この店に入って最初に大柴が選んだものだった。
 店の奥にあるフィッティングルームに案内され、始終ニコニコ顔の販売員に「採寸されますか?」と聞かれ、そこでようやく我に返った。こんな店に来ること自体が初めてである。何もわからないことを正直に伝えると、彼女はかしこまりましたと少しだけ微笑んで、肩にかけていたメジャーを握り手際よく採寸を始める。大柴に渡された下着ではカップのサイズが小さすぎることがわかり、新しいものを用意してもらい、それを身に着けてまずそのフィット感に驚いた。
 苦しくもなく、寄せすぎず、かといって動いても容易にずれることがない。小ぶり(だと本人は思っている)の乳房がきれいな形を保ち、かわいらしいピンクの中にすっぽりと納まっている。今まで着ていた三枚980円の下着なんかとは比べ物にならない安定感に、これならサッカーで激しく動いても大丈夫だなと思うと満足した。
 結局その後も悩みに悩み、最終的に大柴がチョイスした下着を二組買った。そんなにたくさん要らねぇと言ったが、どうせ買うなら一も十も同じだという無茶苦茶な理論を投げられ、「どうせまたすぐに入らなくなるんだから、」の一言が意外にも効いたようだった。少しだけ大柴の頬が赤い気がしたが、追及するのも面倒なので気のせいだということにしておこう。存外長居してしまったようで、帰りの電車に乗り込むころには既に陽がだいぶ傾いていた。
「少し寄って行けよ」
 陽が落ちるのはあっという間だが、夕食時にはまだ早い。家の前で紙袋を四つ受け取ると、くい、と顎で家の中を指した。表の店はとっくにシャッターが下りていて、店主である親父はどこかへ出かけたようだった。いつも通りならば飲みに出ているのであろう。とにかくあと数時間は、滅多なことがない限り帰ってこないという確信があった。
 靴を脱ぎ、すぐに二階にある自室へと上がると、大柴はいつも通りベッドへと腰かけた。君下の部屋にはソファという洒落たものはなく、小学生のころから使い続けている木組みのシングルベッドと学習机のみという、女子高生の部屋にしてはシンプルすぎる内装だった。
「変わってねぇな」
「ん、ああ。そういやお前が来たのって、いつぶりだろうな」
 このベッドに後ろ手をついて寛ぐ大柴の姿を見るのはものすごく久しぶりなような気もしたし、そうでないような気もする。思い返せば高校に入ってからは、ほとんど毎日のように顔を合わせているのだ。それでも飽きずに一緒に居て、しかもこうして恋人同士になる日が来るだなんて、出会ったばかりの頃には考えられなかったことだろう。犬猿の仲であったはずの俺たちが、恋人という枠に収まっていること自体がほとんど奇跡のようだった。むしろ目の前の男を想う気持ちは日に日に強くなってゆくばかりで、抑えきれない気持ちをどうすることもできず、時折堪らなくなることがある。
「君下?」
 大柴の長い脚の間に立ち、とん、と軽い力で肩を押すと、その大きな身体が呆気なくベッドへと沈む。膝をついてベッドへと乗り上げ、大柴の顔の横で両手をつくと、驚きでまるく見開かれたヘーゼルナッツの瞳を覗き込んだ。
「喜一、プレゼントやるよ」
 バレンタインの、ちょっと早いけどな。そう言って、大柴が何かを言いかけた口唇に、ちゅっと触れるだけのキスを落とす。下唇を吸い付くように啄み、だらしなく開いたままの口唇を舌でなぞると、俺の腰に添えていた大柴の手がぴくり、と反応した。そのまま舌を差し込むと、誘われるように大柴の舌が伸びてきて、ちゅ、じゅっと音を立てながら絡みつく。ぱらり、と落ちた髪の束が邪魔だったが、キスを止める理由にはならない。俺の腰を掴んだ手が下り、スカートの布越しに尻を強く掴まれると、んっ、と声が漏れて、交わりが一層深いものに変わる。
「はっ……なんだ、やけに乗り気だな」
 大柴が両の手で尻を揉みしだきながら、下から突き上げるようにジーンズの膨らみを押し付けてくる。腰を跨ぐように馬乗りになった秘部に前立てが当たり、じわり、と下腹部が濡れる感覚がして、自ら腰を擦りつけた。
「! んっ、も、脱ぎたい……っ」
「じゃあ自分で脱げよ」
「あっ……!」
 いつもであれば何も言わずとも衣服をひったくられるところだったが、今日の大柴はどうやら違うらしい。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべ、服の上からやわやわと尻を揉んだり、腰を掴んで前後に揺するだけでこれ以上手を出そうとしなかった。ジーンズの金具がショーツ越しの陰核に擦れ、あっやだぁっ! と漏れる自分の声が一層羞恥を煽った。何より俺からプレゼントだと言っておいて、自ら包みを開けさせられるだなんて恥ずかしいにも程がある。
「いじわる、」
「ふん、俺にマウント取ろうなんて百年早いんだよ」
 そんなもの、最初から取ろうだなんて思っていない。これはちょっとしたサプライズのつもりだった。だから俺は今日、大柴に下着売り場に連れて行かれたとき、正直に言うと内心で焦ってしまった。俺のこの企みがばれてしまったのではないかと、まさか気づいてここへ連れてきたのではないかと思ったが、どうやらそれは単なる思い過ごしだったようだ。
 大柴の腰に跨ったまま、俺はまるでストリップでもするかのように、ゆっくりとポップな色合いのニットに手をかける。じりじりと焦らすように裾をまくり上げながら、口元がにやけそうになるのをぐっと堪えた。クロスさせた腕の向こう側で、大柴が静かに息を飲むのがわかる。
 シャツを脱ぎ捨て現れたのは、数か月前のあの日大柴に渡された、真っ赤なレースの下着だった。
「! おま……それ、」
 完全に予想外だったらしい大柴は、ひどく驚いた様子で肘で上体を起こした。その鼻先にキスを落とし、へへ、と照れ隠しに笑うと、スカートのホックに指をかける。片足を開けてスカートを引き抜き、それも床に放り投げた。
 いつかあの下着を履いてやろうと思いついたのは、選手権が終わったあたりだった。
 たまたま大柴の家に遊びに行くと、散らかった部屋の隅にあの真っ赤が無造作に置かれていることに気づいてこっそりと持ち帰ったのだ。飽き性である大柴のことだから、この下着のことも今まで忘れていたのだろう。ほとんどがレース素材でできたそれは色素の薄い肌が透け、中央でぷくりと主張する乳首の色までもが丸見えなそれを、大柴が穴が開きそうなほど見つめている。
「プレゼントだ、今日だけだからな」
 大柴の首に両腕を回し、むき出しになった形のいい額へと口唇を押し付ける。ベッドの上で膝立ちになり、ちょうど大柴の顔に胸を押し当てるような体制になると、大柴が布の少ない尻を撫でながら、「やべ……すげぇえろい」と熱の籠った声で呟いた。
「んあっ、き、いち……っ!」
 ぢゅ、ぢゅぷ、と下品な音を立てて、勃起した乳首を下着越しに執拗に舐られた。普段の布越しよりも感覚が鋭く、それでいて直よりももどかしい刺激が絶妙だった。何よりもこんな破廉恥な下着を着た俺自身と、それに興奮しているらしい大柴の息遣いを間近に感じて、興奮しないほうがおかしな話だ。舌は乳首を愛撫し、右手は既に濡れそぼったショーツに伸び、左手で自分の前立てを取り出し、扱いている。俺はただその愛撫に感じ入って、あっ、ん、と声を上げそうになる口を手で押さえることで気を保とうとしていた。
「声、出せよ」
「ん、やだっ……聞こえる、からぁッ!」
 何も考えられずひたすらに手の甲に歯を立てていると、大柴がペニスを扱いていた手を止め、俺の手を絡めとった。唾液でぬるりと光る噛み痕に、労るようにキスを落とす。
「こっち……触ってくれ」
 俺の手を握ったまま、がちがちに勃起したペニスへと導かれると、二つの手で挟み込むようにして握らされる。手の中で脈打つ暖かなペニスはまるでいきもののようだ、といつも思う。太い雁首をぐりぐりと重点的に扱くと、大柴がう、と堪らず声を漏らして、バツが悪そうににやりと笑った。その顔が好きだった。決して温かくもない部屋で、ほんのりと額に汗を浮かべている、大柴のその快楽にゆがんだ顔がたまらなく好きだった。割れ目から先走りの雫がぷくりと溢れ、それを絡めとるように亀頭をつつんだ手を動かした。
「は、ぁ、んっ、んぅ……」
 手の動きが激しさを増し、たまらずに舌を伸ばして口唇を求める。低くセクシーな声を出す、少し厚い下唇をやわらかく挟んで吸いつくと、秘部に触れた大柴の指が入り口をぐちぐち、と掻きまわす。真っ赤なレース地のショーツはつけたまま、ずらすように脇に寄せると、そのままつぷりと太い指を沈めた。
「ああ……っ!」
 期待に濡れた膣は狭く、押し広げるように大柴の指が進んでゆく。ふ、あ、と途切れ途切れに息を吐きだすと、その息を食らうように深く口づけられる。中指がナカを擦りながら、器用に親指で陰核を引っ掻くように押されるともうダメだった。
「あっ、やだッ! きいち、き、あッ! んあ……っ!」
 頭の中が真っ白になる。ペニスを握っている手もまともに動かせず、ただひたすらに喘いでいると、わざとらしく耳元で「手、止まってるぞ」と意地悪く吹き込まれる。ぞくぞくと快楽が背を走り、じわり、とまた膣が潤いを増してゆく。あまりの快感にうっすらと生理的な涙が浮かび、喘ぎ声に嗚咽が混じっていた。
「うッあぁ……! も、ッ!」
「イきたい? おい、勝手にイくなよ?」
 膝立ちのままの脚ががくがくと震え、絶頂が近いのは明らかだった。大柴もそれを分かっている。分かっていて手を緩めようとはせずに、あえて快楽を得るポイントを外して焦らすようなことをする。これを焦らしプ��イだとは思わずにやっているのだから、相当にたちの悪い男だった。
「も、やだ……ひぅ、うぅ……っ」
 追い詰めるように尖った乳首に歯を立てられ、大柴の肩を握る指先が、俺の意思を無視してただ快楽に��えようと力を籠める。も、イきたいっ……弱弱しい声でそう絞り出すと、口唇をぺろりと舐めた大柴の指がイイところをトントンと弾き出した。
「ひッ…………あアァっ! イっ……んああッ!」
 陰核を擦り上げられ、きゅう、と腹の奥が熱くなる。もっと欲しい。もっと。そう訴えるように両脚が、膣が震え、びくびくと背をしならせて俺は達した。
「うお、すげぇ……吸い付いてる」
「んあッ! やめろ、ばかぁ」
 入れたままの指をぐりぐりと回しはじめるが、それでも物足りないと腹の奥が疼いている。ようやく指が抜け、肩で息をしながら達した余韻に浸っていると、いつのまにか服を脱いだ大柴に「これも脱げ」と雑な手つきで唾液まみれになったレース地のブラをひったくられた。
「んっ」
 先走りの垂れたペニスをゆるゆると扱きながら、そこへそっと口唇を寄せる。舌先で雫を掬うとじわりと苦い味がした。ぺろぺろとアイスクリームでも舐めるように亀頭に舌を這わせていると、「も、いいから早く入れたい」とぎらついた目で訴えられて、ごくりと喉を鳴らした。
 コンドームを手早く被せると、喜一は俺のシングルベッドに仰向けで横たわった。小さなベッドから足が少しはみ出ているが、そんなことはどうでもいいと言うように、こちらを見る雄の顔が「はやく来いよ」と俺の手を引いている。
 セックスの経験なんて数えるほどしかないが、大柴はいつも正常位で挿れたがった。上に乗ったことはない。恐る恐る大柴の腰を跨ぎ、反り立つペニスの上に膝立ちになる。上から見下ろす大柴の姿は新鮮で、期待に濡れた顔をしているのはお互い様だった。コンドームの張り付いたペニスを握り、下着をずらして自ら入り口に宛がうと、改めてその大きさを感じて怖気づきそうになってしまう。思わずこくり、と息をのむと、ふいに大柴が俺の腰を両手でつかみ、下から突き上げるように大きく腰を動かした。
「!! んあああッ!」
 ずんっと太い杭のようなそれが身体に打ち込まれたような衝撃があった。びりびりと甘い快楽が全身を走り、それだけで達してしまいそうになる。
「まッ……まて、きーちっ……ぁんっ」
 上に乗っていることでいつもよりも深く繋がっている気がする。腰を掴んだまま腹の奥をえぐるように揺さぶられ、あっ、うっ、とひっきりなしに声が出てしまう。あの大きな亀頭でごりごりと子宮の入り口を刺激されると、もう何も考えられなくなる。いつの間にか両脚が喜一の腰に巻き付くようにしがみつき、はしたない声を上げて腰を擦り付けながら、俺は呆気なくイった。
「ぅあッ……! イく! また、ぁあッ……!」
「くっ……締まりすぎだ、バカっ」
 達している最中にがつがつと突き上げられ、快楽の波が止まらない。いっそ恐ろしくなるほどの快感にぞっと鳥肌が立っていた。ぎちぎちに締め付ける膣が大柴の精を搾り取ろうとうねり、「はァ……も、出そ……っ」と眉根を寄せた大柴が絶頂が近いと訴えていた。
「ん、ぁあっ、また、ダメッ、イっ……!」
「あ、イく、っ……ああっ!」
 何度目かの絶頂を迎えるなか、奥へと突き上げた大柴が果てた。コンドーム越しでもはっきりとわかる、どく、どくと精を吐きだす鼓動を感じながら、大柴の身体に身を委ねると大きな腕が抱きとめてくれる。耳元で聞こえる力強い心音に、お前はおれのものだと言われたような気がした。
「あれ、その下着かわいいですね」
 新しいの買ったんですか? 急に声を掛けられ、思わずびくり、と肩を揺らした。練習着の袖に腕を通したままの格好で振り向く。同じく隣で着替えている生方が、この手の話題を振ってくるのは珍しいことだった。
「あ、うん。可愛いだろ……」
「もしかして大柴先輩に貰ったとか?」
「へっ?!」
 図星を突かれ、今度こそ素っ頓狂な声が出てしまう。二人しかいないロッカールームに声が響き、しまったと思ったがもう後の祭りだった。
 頭のいい後輩は恐ろしく察しも良い。まさかこんなところでそれが裏目に出るとは思わず、これ以上誤魔化しても無駄だと悟ると素直に頷いた。
「へぇ……なんかそういうのいいですね。愛されてるっていうか」
 意外だなぁ、と笑う生方は、なぜか当事者である俺よりもずっと幸せそうに頬を染めている。あまりこの手の話題を部内でしないようにしていたこともあり、同じ女子とはいえ生方にこんな話をすることに何とも言えない気恥ずかしさを感じていた。
 着替えを終えた生方がパタン、とロッカーを占めると、「あ」と思い出したかのようにこちらを振り向く。
「先輩、知ってます? 男性が女性に下着を送るのって、自分の色に染めたいっていうアピールらしいですよ」
「っ……!」
 いたずらっぽく笑う生方に、なんとなくそんな意味だとは予感していた。
 腕の下に隠れている自分の下着に視線を落とす。熱を孕んだ瞳でこちらを見つめる大柴を思い出し、すべてがあいつの思惑通りなのだということに気づくと、じわり、と下着が濡れたような気がした。
 
                   (すべてきみの思いどおりに)
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yo4zu3 · 4 years
Text
背中に抱きつく(文庫再録版)
 強豪校のサッカー部のマネージャーというものは、どうしてこんなにも休みがないのだろうか。
 雲一つない青空の元、揺れる洗濯物を眺めながらはあ、と溜息をついていると、 「どうかしたんですか」と背後から生方の声がした。
「いや、ただ毎日毎日忙しいなって思って」
 そう返せば興味のなさそうな返答が聞こえてきたが、俺ももうこの話を続ける気はなかった。ここで俺たちマネージャーが何と言おうが、毎日の練習はそう簡単になくなったりしない。あり得ない話だが仮に練習がなくなったとしても、ここにいるのはサッカーのことしか頭にない馬鹿たちだけだ。なんだかんだ言いながら各々で自主練するに決まっている。
「それにしても最近暑いですね……ドリンク濃い目にして、氷増やしときます?」
「ん、そうだな。お前に任せる」
「じゃあ、ピッチャー持って先に行ってますね」
「おう」
 長引いた梅雨がようやく明けたかと思えば、照り付けるような強烈な日差しに夏が着々と近づいているのを感じていた。夏、夏……そうだな、来週には期末試験があるな……それから、花火に海に、バーベキュー、プールだっていいな……。
「あーもうすぐ夏休みか……」
 やりたいことは山ほど思い浮かぶのに、夏休み、その響きに魅力を感じることが君下にはできなかった。去年のあの地獄のようなスケジュールを思い出しただけでも軽く寒気を覚える。
 四十日ほどの長期休暇は、俺たちにとっては純粋な休みなどではない。マネージャーとして参加した去年ですら大変だと思ったのに、今年は更に選手として練習にも参加するつもりでいたから尚更だ。
「……去年までの俺だったら、休みが欲しいだなんて思わなかったのになぁ」
 そうだ、確かにそうだった。
 サッカーに全てを捧げてきた今までの俺だったら、練習よりもやりたいことなんて、他に何一つ思い浮かびすらしなかった。そりゃあ一応は年頃の女の子が、夏休みにどこかへ遊びに行きたいだなんて考えること自体は至って普通だ。学校と実家であるスポーツ店の往復しかしていない俺に、親父も気を使ったのかどこか遠出でもするかと尋ねられたこともあった(そんな金もねぇし結局どこも行ったことはないが、それ以来親父にも何も言われなくなったし、今じゃ当たり前の光景になっている)。むしろ普通じゃなかったのは今までのほうである。
「おーい君下、そろそろ入れるか?」
 自身の心境の変化に戸惑っていると、グラウンドのほうから右手を挙げたキャプテンの声がした。こんなクソ暑いのによくグローブなんてしていられるものだ。真っ青な空にそれはとてもよく映えていた。
「今行きます!」
 そう大声で返事をして、ベンチに置いていたボードをひらひらと振って見せた。スパイク、タオル、それから部室の鍵……よし、準備万端だ。ガチャガチャと籠に荷物を詰め込んで、皆が集まるベンチ前まで小走りで駆けてゆく。もうすぐ訪れる夏休み。ありもしない休みが一日でもあることを密かに願いながら。
「まじかよ」
 休み時間、数学係の用事で準備室を訪れたものの、目当ての先生はどうやら不在のようだった。ったくあのハゲ、小さく舌打ちをしながら乱暴にドアを閉め、早歩きで職員室まで歩いていると、背後から「君下」と俺の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。
「あ、監督、ちわッス」
「丁度良かった、今急ぎか? やっと夏休みのグラウンドの使用スケジュール出たから、マネージャーに先に渡しておこうと思ってな……」
 俺の早歩きに並ぶと二人してずいずいと空いている廊下を一直線に歩き進めた。あ、この人喫煙室にいたのか。ふわり、と香るのは独特のそれの匂いだった。
「すまんがちょっとそこで待っててくれ」
 そう言って監督は一度職員室の中へと消えた。
 試験週間中である今は、いかなる用事があろうとも生徒は職員室に立ち入ることを許されていない。教員たちは試験が終わったばかりの教科の採点に追われているらしく、いつもに増してプリントの類がさほど広くもない机に山積みになっているのが伺えた。
「お、あったあった……俺今日会議出てから部活行くから、先にこれ生方にも渡しといてくれ。他のは俺が後で渡す」
「了解っす」
 少し折れ目の付いたプリントを受け取ると、内容に目を通すか少しだ���迷った。
 恐らくは例年通りであるのなら、全ての日に『練習』という文字が記載されているのだろう。今はテスト期間中で余計なことはできるだけ頭に入れたくないと思うのに、なぜだろうか。少しばかりの期待と好奇心に勝てる気がしなかった。
「あ……? 嘘だろ」
 プリントを握る手が少しだけ湿っている。ゴール前でのフリーキック、キーパーと一対一で対峙したときのような緊張感が全身を走り抜けた。
 全部赤だ。真っ赤。練習練習練習練習……ほらな、やっぱりそうじゃねぇか。なに勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるんだ俺は。
 引きつった口元から乾いた笑いが漏れる。ああやっぱり見なけりゃ良かったんだ。それでもプリントの表から目が離せずに、何か間違いがあるのではないかと視線が探してしまう。来週が終業式で、次の日からは他県での五日間の合同合宿に、八月頭にある練習試合……
「ん?」
 盛りだくさんの練習内容に監督もよくやったなと、一周回って尊敬の念が芽生えてきたころで、俺の視線は終業式の日に止まっていた。
 黒の文字で終業式とだけ書かれたそこを見落としていたが、これは……練習は、ないのだろうか? 当たり前のように登校日はグラウンドに出て帰る習慣だったからか、当然その日も練習だとばかり思っていた。去年の終業式はどうだったかすら覚えていない。だが、これはもしかしたら、もしかするのかもしれない。
「あ、やべっ 宿題の件、聞き損ねたじゃねぇか……!」
 誰もいない廊下に予鈴が響き渡る。次はたしか日本史の試験のはずだ、五分後に鳴る本鈴に遅れたら試験自体を受けさせてもらえなくなる。仕方ない、宿題の件は昼休みにでもまた来るか。
 ああちくしょう。まだ休みだって確定したわけでもないのに、それなのに、この密かに高鳴る胸の鼓動をどうしたらいいのかわからない。緩む口元をそのままに、パタパタと足音を鳴らして教室まで駆けて行った。
 結論を言うと、その日は奇跡的に休みだった。
 監督曰く、終業式が終わり次第、全グラウンドの整備を一斉にすることになったそうで、体育館の運動部や文化部を含めた全部活動が、半強制的に休みになっているらしい。
 サッカーの練習なんてボールを蹴る以外にもできることは沢山あるが、合宿を次の日に控えていることもあり、今回は休みということで体育委員会に提出したらしい。それを聞いた馬鹿共は、祭りがなんだとか言ってあっという間に散っていってしまったが、それが選手のモチベーションに繋がるのなら、それはそれでありなのかもしれない。今年の一年には少々無理をさせているところもあるものだから、今のうちにしっかり休んで四十日間を戦い抜いてほしいという、監督なりの気遣いでもあるのだろう。
「休みだとよ、終業式。お前、なんか予定あんの?」
「あっ!」
 だらだらと着替えていたらしく、遅れて部室から出てきた大男は俺の頭にぽん、とその大きな手を置いてきた。今日の練習メニューチェックのために、真剣にボードと睨めっこしていたからか、喜一が近づいてきたことにすら気づかずにその肩が大げさにびくり、と跳ねてしまった。
 そうだ、俺がここ最近、休みだなんだのって浮かれていた理由は恐らくこれだ。
 去年と今年の違い。それは幼馴染の大柴喜一が俺の彼氏というものに昇格したことだった。
 互いの想いを通わせて早一か月は過ぎたが、お互いに練習や家の手伝いが忙しくてあの勉強合宿の日以来オフで会ってもいなければ、初デートというものすらまだであった(それでもやる事は済ませてしまったのだが)。
 デート……その言葉に自分がひどく似合わないのは承知ではあったが、好きな男と二人で遊ぶのは世間一般にはデートというのだろう。
「い、今メニューやってるから、話なら後にしろよ」
「なあ、どうせ予定ないだろ? どっか行かねぇか、二人で」
「ふ、ふたり……」
 その言葉に思わず顔を上げてみれば、遠くにあるはずの顔がすぐ近くまで迫ってきていて、ああこいつ、いつ見てもムカつくぐらいの美形だな、なんて思っているうちにさらに近づいて、ちゅ、と可愛らしい音を立てて額に口付けを落とされた。
 予期せぬ喜一の行動にぼんやりとした顔で(きっと頬は真っ赤だったに違いない)目を白黒させていると、長い前髪をぐしゃぐしゃ、と乱暴にかき乱された。なんだこれ。誰かが見ているかもしれないというのに、それにこんなことしておいてまるで照れ隠しのよううじゃないか。
「どこ行きたいか考えとけよ」
 何か言いたげに乱れた前髪の隙間から見上げるが、喜一はすぐに振り返って、じゃあな、とその場を立ち去ってしまった。
 ああ前髪が邪魔だ。犬のようにバサバサと頭を振って掻き分けて、小走りでグラウンドに向かう喜一に視線をやる。なんだよあいつ、耳、赤くなってるじゃねぇか。こっ恥ずかしい奴。その事実に気付いてしまって、俺の顔もつられてもっと赤くなった気がした。
 どこに行きたい? そう聞かれて一応はいろいろ考えてはみたものの、いまいちしっくりとくる答えは見つからずについに本日、終業式を迎えてしまった。
 朝食のマーガリントーストを齧りながらあれやこれやと思考を巡らせていると、この時間にしては珍しく起きていた父親がバタバタと二階から駆け下りてくる気配がした。いつもは登校する前に君下が起こしてから家を出ていた。ったく、どっちが世話しているんだか分かったもんじゃねぇな、と心の中で溜息をつく。
「おはよう敦、今日終業式だろ?」
「おはよう。ああ、そうだけど」
 ��ンパン、と手についたパンくずを払い、使い終わった食器を机の上でまとめた。最後に牛乳をもう一杯だけ飲もうと立ち上がり、冷蔵庫のほうへと向かう。
 そういやこんなに牛乳が好きになったのも、最初は喜一の背を追い越したくて飲み始めたんだっけな。そんなくだらない理由でも親父は笑って、決して安くもないものを良く何年も買ってくれたものだ。お陰で普通の女子高生よりも幾分か乳が大きくなってしまったが、まあ、今はまだサッカーできてるから気にはしないようにしている。
「で、流石に今日は部活ないんだろ? 今夜神社の祭りやってるから、暇だったら焼きそば屋台手伝いに来いよ」
「絶対にヤダ」
「おいおい、正気か? いつものお前なら、臨時収入だって飛びつくじゃないか」
「うっ……い、いや、今日は先約があんだよ、先約が」
 ふーん、珍しいこともあるもんだな、ぶつぶつと呟く親父の声はもうとっくに耳に入ってこなかった。その代わりにある一つのアイデアが頭の中に浮かんでいた。
 そうだ、祭りがあるじゃないか。
「あ? お前……俺様との初めてのデートに、こんな近所のショボい祭りなんかでいいのか?」
「ショボくて悪かったな! それに、他に行きたくても俺たちにこれ以上休みがねぇじゃねぇか!」
「確かに……まあ、お前がそれでいいなら俺はどこでもいいんだが」
 一学期最後のホームルームが終わり、クラスメイトである��木と共に教室を出ると、タイミング良く佐藤と喜一がこちらに向かって歩いてきていた。俺の姿を見るなり、わざとらしく鈴木の腕を引いて去っていく佐藤の態度に、恐らく喜一が何か喋ったのだなと悟った。
「でもお前、あの祭りでいつもタコ焼き屋だかなんだか親父さんとやってなかったか?」
「焼きそばだタワケが。いいんだよ今年ぐらい」
 ほらさっさと行くぞ、そう言って俺は喜一の袖を引っ張った。
 そういえば部活以外で話すのは随分と久しぶりかもしれない。サッカー部以外の生徒のほとんどは、俺たちが付き合っていることを知らないというのに、こんな廊下のど真ん中で二人っきり、しかもデートの話をするのはなんだか気恥ずかしかった。
 はやくこの場から離れたくて、直接手を握るのは恥ずかしいから袖口を握ったのに、この男はどうしようもない馬鹿らしい。袖を引っ張る俺の手を、もう一方の手で上から握りしめたのだ。拳の間に指を滑り込ませ、あっという間に指を組ませられる。いわゆる恋人繋ぎってやつだ。
「俺んち行くぞ」
「へ? き、着替えるだけなら自分の家に」
「浴衣、どうせ着替えるなら着てくれよ。お前持ってないんだろ?」
「なっ……」
 勝手に人の手まで握っておいて、なにを言い出すんだこいつは。バクバクと心臓の音がうるさい。繋いだ手から喜一のあたたかな体温が伝わって、ついには顔にまで伝わったかのように頬が熱い。
 もう頭も回らなくなって、これ以上何も言い返すことができない。ずいずいと長い脚で廊下を早歩きする喜一に引っ張られるように、ただ必死に自分の足を動かすことしかできなかった。
「あの、これちょっときつ過ぎなんじゃ……」
「いえいえそんなことありませんよ。途中で帯が崩れてしまっては勿体ないですから」
 喜一の家へ着くなり、俺はお手伝いさんに半ば無理やり連れられるようにして衣装室へと案内された。
 ウォークインクローゼットの前にある大きな姿見の前に立たされて、あれやこれやと色とりどりの柄の浴衣を合わせられ、まるで着せ替え人形のような気分を味わうことになった。とは言っても、俺はサッカーばかりしていたから、着せ替え人形で遊んだことすらないのだけれど。
 何度目かの試着でようやく決まったのは、大きな芍薬の花があしらわれた、深い紫色の浴衣。重たい髪の色もあり少し地味かなと思ったが、帯を黄色と橙の二本使いにすることで少しは華やかになったのだろうか。生まれて初めて締める帯の圧迫感に胃が潰れそうだと思いながらも、やたらと褒めてくれるお手伝いさんに、たまにはこういうのも悪くはないかな、なんて思ったりもした。
「ど、どうだ……?」
 既に着替えたらしい喜一は玄関先で俺を待っていた。干し草色というのだろうか、落ち着いた色味の浴衣を纏った喜一は、目鼻立ちのはっきりした整った顔はいつもに増して男らしく、ぐっと大人びたように見えた。思わず息を飲むほどに見惚れてしまう。
「お、おう……まあまあ似合ってるじゃねぇか」
「なんだよそれ、変なら変って言えよ」
「いや、すっげぇ似合ってる」
「っ……! もう行くぞ! おい、あんまりじろじろ見るな馬鹿!」
 パカパカと引っかかる下駄に何度も躓きそうになりながら、俺たちは日の沈みゆく夕焼けの中、しっかりと手を繋いで神社のほうへと歩き出す。
 祭りなんて、純粋に遊びに行くのはいつぶりだっただろうか。気が付けば親父のやっている焼きそば屋台で売り子をするのが当たり前になっていて、こうやって誰かと他の出店を見て回ったりする余裕なんてなかったように思う。
 だんだんと暗くなってゆく空の端で一番星がきらりと瞬いた。そういえば最後には花火が上がるんだっけ。花火だなんてただ火薬玉が爆発しているだけで特別騒ぐような代物ではないと思っていたのに、いつの間にか密かに楽しみにしている自分がいる。
「ん? どうした」
「……なんでもねぇよ」
「腹減ったな、何食おうかな」
「うちの焼きそば十人前ぐらい買ってけよ」
「またかよ……毎年毎年飽きるだろうが」
「うるせぇ、黙って家計に貢献しろ」
 わかっている。俺がどうして休みなんか欲しがったのか、興味もなかった花火を楽しみにしてしまうのか。それもこれも全部、喜一のせいだ。 
「あ? 敦……? どうした?」
 半歩前で俺の手を引くこの後ろ姿がどうしようもなく愛おしくて、手を繋いだまま喜一の背中に抱き着いた。驚いたのか、喜一はその場で立ち止まり、カラカラと鳴っていたふたりぶんの足音も夕日と共に消える。借り物の和服だということも忘れてぎゅう、と力いっぱい抱きしめれば、いつもと同じ喜一の匂いがしてひどく心が落ち着いた。
「足、いてぇのか?」
「……」
「そうか、優しい喜一様が負ぶってやらなくもないぞ」
「……」
 力を込めた指先がすこしだけ震えているのが自分でもわかった。今は何も言いたくない。それでも喜一は何も言わずに、その場にしゃがみ込むと俺の腕を解いて自身の首元に巻き付けさせた。
 ヨイショ、爺臭い掛け声とともに立ち上がれば、軽々と宙に浮いた身体。足の指に鼻緒だけが引っ掛かり、脱げそうになるのを必死に指を結んでいると喜一が下駄を取り上げた。ああもう、こいつのこういうところで気の利くところが狡過ぎる。心臓がいくつあっても足りやしない。
「うわ、ちょっと高すぎて怖い……」
「我儘なお姫様だな……落ちたくなきゃしっかりつかまってろよ」
 カランカラン、とひとつ分の足音が響き渡る。ゆっくりとした足取りで、一歩ずつ前へ前へと進んでゆく。すっかり辺りは暗くなっていて、遠くのほうから祭りの陽気な音楽が聞こえてくる。
 俺たちの短い短い夏休みは、もうすぐそこだ。
                         (背中に抱きつく)
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yo4zu3 · 4 years
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さよならはキスのあと、(文庫再録版)
「うわぁ。今のシュート、すっげーな」
「っていうかその前のあれ。大柴にパス出したやつって……マネージャーじゃなかったっけ?」
「ああ、一組の君下だろ? 確かに一年の頃はそうだったけど、いつの間にか練習に混ざるようになったな。何でも中学の頃はスゲェ選手だったらしいぜ」
「へぇ〜そうなんだ」
「って、誰だよお前」
 へぇ、そうか。君下くんとキーチマンが幼馴染とは聞いてはいたけど、なるほどな。都選抜にいたという噂の彼女が、まさかこんなにも近くにいたなんて。
 給水していたらしい野球部員に混ざり、風間はにい、と白い歯を見せて大きく笑う。それと同時に両隣から大きく咳込む音がする。あれ、どうしたの? もしかして君下くんのパンツでも見えちゃった?
「風間ぁ! テメェ、サボってんじゃねぇ」
「サボってないよ〜」
「さっさと戻って来ねぇと外周追加するからな!」
 遠くのサッカーグラウンドから、聞き慣れた怒鳴り声が聞こえる。やべ、怒られちゃった。ぺろりと舌を出しながら笑ってみせると、野球部員は苦笑いをしていた。
 伝統ある聖蹟サッカー部には、他の部とは別に専用のグラウンドを与えられている。それが後から増設されたのか知らないが、専用グラウンドから給水所までがちょっとだけ遠いのだ。今も外周の合間に、先輩の目を盗んで給水しに来たって訳だけど……視力のいい俺には、黄色のビブスを着た君下くんが、鬼のような形相でこちらを睨んでいるのがよーく見える。あーあー、女の子がそんなに眉間に皺寄せちゃダメだよ。
「ふふ。それにしても、本当に俺はラッキーマンだな」
「いや、だからお前誰だよ……」
     ⌘ ⌘ ⌘    
 桜の花びらもほとんど散ってしまった四月。
 俺がサッカー部の部員として少しずつ練習に復帰するようになって、あっという間に半年が過ぎた。
 冬の選手権敗退と同時に三年生が引退し、卒業して、俺たちも無事進級して二年生となった。毎年恒例の大量の新入部員の面倒も見ながら、マネージャーと選手の両立……これが慣れないうちは本当に大変だった。
 新キャプテン・水樹を筆頭に何かと個性派揃いの三年。幼馴染のバカとまとまりのない二年。それに加えて、今年の一年には期待のスーパールーキーもいれば、運動自体が全くの初心者もいるという。一気に倍近くに増えた洗濯物を目の前に、何度溜息が出たことだろうか。
 それでもストレスもフラストレーションも全てキックの力に変え、思いっきりボールを蹴った日は、心地の良い疲労感に包まれ熟睡することができた。ひどく懐かしいこの感覚に身を委ね、目を閉じればあっという間に夢の中だった。
「ラスト1周! おい来須! 顎が上がってんぞ、気合入れろ」
「がんばれつくしー」
「ちょ、なんで俺だけ……っていうか風間! お前も走れ!」
 カチリ。ストップウォッチの左側を押し、手元のボードにラップタイムを記録する。ピピッ。短い電子音に左手首に嵌められた、ラバー製の腕時計をちらっと見やれば、午後五時を過ぎた頃であった。二、三年のいるメイングラウンドはそろそろ基礎練に入った頃であろうか。
「おい、風間」
 ぎろり、と横目で隣に立つ黄色いジャージを睨みあげる。
 一年生に聖蹟サッカー部指定の黒ジャージが渡されるのは、たしか五月の合宿以降だったと記憶している。それまでは学校指定のジャージを代わりに着用するのが普通だ。そう、普通だったら。
「ん?」
「ん、じゃねぇよタワケ。スーパールーキーは外周免除、ってか?」
「さあ、俺は監督に好きにしろって言われてる」
 へぇ。低い声でそう呟けば、肩まで伸びた金髪を降らしながら、にこにこと顔を覗き込む。悪気のない笑みが逆に恐ろしく感じた。
 聖蹟高校サッカー部には毎年多くの入部希望者が訪れる。スポーツ推薦で入学したものだけではなく、名門という名に憧れて入部した者も多数いるのだ。それらをふるいにかけるかのように、新入部員たちには仮入部期間が設けられ、初日からシャトルラン百本という過酷な練習を強いられる。かくいうこいつも例外ではなく、初日こそは他の一年に混ざって真面目に練習に参加していたはずだ。
 だが正式に入部届を出してからというものの、いつしかこうやって俺の隣で一年の練習を見学するのが日常になっていた。たった数日で随分と偉くなったものだと思うが、三年や監督ですら厳しく注意できないのには理由がある。
「ねえ君下くん、ちょっとだけ俺と蹴らない? タイムはキャプテンが見てくれるっていうから」
「ほへ?」
「……ああ、いいぜ」
 じゃあ頼むわ、と未だ状況を理解していないであろう水樹へストップウォッチを手渡せば、笛を咥えたまましょんぼりとした表情で見つめられる。
 そりゃそうだよな。キャプテンだって、この噂のルーキーと早くサッカーしてぇよな。
「アンタはまだ怪我治ってねぇんだから、もう少しだけ我慢してくれ。治ったら血反吐吐くまで蹴らせてやるからな」
「わーお、それって愛の鞭ってやつ?」
「うるせぇ! さっさと行くぞ」
 ぴゅー……と萎れた音色で返事をした水樹には目もくれず、隣でクスクスと笑う金髪に蹴りを入れてやった。
「あ、そうだ。ついでに洗濯干してもいいか?」
「えー仕方ないなぁ〜」
 外周のスタート地点である校門前から、サッカー部専用のグラウンドまではそう距離はなかった。向かう途中で洗いあがった洗濯物を干すために部室に寄ると、明らかに部のものではないサッカーボールの跳ねる音がした。どこからか持ってきたのであろうそのボールは、風間の髪色と同じく派手な黄色をしている。それをうまくつま先で転がして、ビブスを干している俺の周りをドリブルしながらくるくると回り始めた。器用なもんだ。
「俺はいつからカラーコーンになったんだ」
「あはは。だって暇なんだもん」
「少しは手伝えバーカ」
 手にしていた洗濯バサミをつまんで開き、通り過ぎた金髪に向けて手を放す。ぱちん、と子気味の良い音がした。
「あっ?! いてててて! 絡まった」
「ざまあみろ」
 春の暖かな風が吹き、干した色とりどりのビブスが揺れる。鼻腔を擽る、清楚なせっけんの匂い。左手でビブスの裾を洗濯紐へと巻き付け、片方を挟んで止める。もう一個、と新しい洗濯バサミを取ろうと手を伸ばした瞬間、指先に感じる鈍い痛み。ぱちん。
「あっおい!」
「お返し」
「この野郎……」
「ねぇ、なんでサッカー辞めたの?」
 どきり。久しぶりに感じる、背筋が凍りつくような感覚。
 練習に復帰して以来、このことについて触れて来る者など誰一人いなかった。あえて触れてはこないが、それでも現二、三年は君下がマネージャーに専念していた時期を知っている。
 だが百歩譲っても入学したばかりの一年生に、それを問われる筋合いはない。それでも頭の中である一つの仮説が浮かび上がると同時に、目の前のこいつに限ってはあり得る話なのかもしれないと思った。
「……お前は俺のこと、どこまで知ってんだ?」
「んー、ある噂なんだけどね。俺らの一個上の都選抜に、すげぇうまい女が居たって話」
「やっぱりか」
「はは、当たりかな?」
 こくり、と頷いて見せると、そのまま俯いた。こいつに悪気はないのは十分に分かっている。まだ一か月も一緒にはいないが、なんとなくこいつは人を馬鹿にするようなタイプではないことだけは、その柔らかな雰囲気から感じ取っていた。
 サッカーっていうのは性格がプレーに大きく反映するのだ。ボールの扱いでそいつの女に対する扱い方が分かるぞ、だなんて、親父がよく言っていたっけ。
「辞めてぇねよ」
「そうなんだ」
 それだけ言うと風間は、再びボールを足先で突き始めた。手前に戻して、軽々と足の甲へと乗せてみせる。しばらくキープしたかと思えば、今度は軽く蹴り上げて首の後ろへと持ち上げた。
 ふん、スーパールーキーだか何だか知らないが、見たところリフティングじゃあ俺には遠く及ばない。だがしかし、大したやつだ。まるでボールが笑っているかのように、風間の身体へ自ら吸い付いてゆくのがわかる。相当蹴っているのだろう。ビブスを干しながら横目でこっそりと様子を見ていた。
「なんか噂で聞いてたのと印象違うなって思った」
「……」
「もっとこう、噂よりも女の子らしいっていうか」
「はあ? 俺が?」
 思わず手が止まってしまった。女の子らしい……? いやちょっと待てよ、そもそもその噂って何なんだ? まさか噂の中の俺は、ゴリラみたいな屈強で厳つい女とでも思われていたのであろうか。それではあまりにも失礼だ。失礼すぎる。
「あり得ねぇ……」
「え? どっちの意味で?」
「は? いや、その質問こそどういう意味だよ」
「きみした、終わったぞ」
 噛み合わない会話に、お互いの頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、君下の後ろから声がした。開けっ放しのドアのさらに向こう側から、ひょこり、と顔を出したのは水樹だった。先程渡した記録用のボードをひらひらと揺らして見せている。 
「あ、ああ。サンキュ」
「なんだ、蹴ってないのか?」
「君下くん、なんか洗濯しなきゃってさー遅いんだよね」
「テメェが手伝えば早く済んだだろうが」
 ごつ。受け取ったボードで頭を叩いてやると、思ったよりも鈍い音が響いた。奇人な見かけによらず中身のいっぱい詰まったお脳をしてやがる。これがキャプテンや喜一だったらぽこ、と間抜けな音がしていたに違いない。
「ほら、さっさと練習に戻れ。そのうち相手してやるから」
「へーい」
「アンタはウエイト行ってこい。とりあえずいつものメニューやって、終わったら柔軟付き合うから呼んでくれ」
「うん」
 俺の指示にぴょこぴょこ跳ねながら走ってゆく様はまるで二匹の犬だ。いたずらっ子だが賢いゴールデンレトリバーに、アホだが忠実な柴犬。やはりフォワードという生き物は扱いやすいな、と心の中で漏らすのと同時に、もしも俺がこのチームで司令塔ができたらどれほど面白いだろうと想像して、少しだけ笑った。
     ⌘ ⌘ ⌘
 初めて迎えた冬の選手権は、インターハイと同じくあと一歩のところで敗れてしまった。
 まただ。一年唯一のレギュラーだった俺は、夏と同じで、やはり何もできないまま試合が終わった。あと一歩のところだった。それでも負けは負けだ。
 この試合で三年は引退する。特別親しかった先輩が居たわけでもないが、それでも涙ながらに会場を後にしたあの寂しげな背中は、いつまで経っても忘れることができないだろう。
 そして二度目の、夏のインターハイを賭けた都大会決勝——……
 対桜木高校戦、前半終了時でスコアは一対一。下馬評では相手校のほうが有利とは言え、復帰したキャプテンも加わった聖蹟イレブンだって決して負けてはいない。
 息を切らしてベンチへ戻ると、唇を噛み締め、不安げにこちらを見つめる君下と視線が合った。何か言いたげな複雑な表情。だが突然隣に立っていた柄本に、君下よりも先に泣かれてしまい、その場にいた全員が度肝を抜かれてしまった。
「俺たちは勝つ、それだけだ」
 そういって泣いている柄本へと、得意の頭突きをかましてやった。あれは本当は柄本だけでなく、あんな泣きそうな顔した君下や、何よりも俺自身に言い聞かせていたのかもしれない。
 俺自身が俺の意思でこいつをフィールド上へと戻したというのに、その君下がいないと試合では勝てない。俺は自分の才能に胡坐を掻いていたことにようやく気がついた。
 だが本当はそうじゃない。君下がいなければ、俺は何の役にも立ちやしない。あのパスがなければ、俺は百パーセントの力を出し切れないのだと、この敗戦で嫌というほど思い知らされた。
「大柴! Bチームのセンターに入れ」
「ウッス」
 監督の声に、ふと我に返った。今は全学年を交えたミニゲームをしているところだった。Bチーム——オレンジのビブスのほうか。このチームの右サイドはルーキーの風間、左にはキャプテン、そしてトップ下には君下がいる。聖蹟伝統の三本の矢。後に控える冬の選手権は、恐らくこのメンバーで戦うことになる。
 風間や柄本が加わった新体制になって暫くが経ち、怪我で一時離脱していたキャプテンがいない間も様々なフォーメーションでずっと練習はしてきた。あとはいかに質のいい攻撃バリエーションを増やせるか。それが今後を戦い抜くカギとなるだろう。
 相手ボールからキックオフ。すかさずプレスをかけてボールを持たせない。自信のない体力面の心配をして、結局攻めきれないなら意味がない。体力なんてものは、少し走って今すぐに付くわけでもない。どうせ途中交代になるのだったら、一つでも多く仕事をせねば。与えられたこのポジションだって、今までの練習だって意味がない。
 そうだ。スコアボードに残らねば、努力することすら何の意味も持たないのだ。
「貸せ! こっちだ」
 積極的に相手に当たってボールを貰いに行く。生まれ持ったポテンシャルを使いこなせていないというのが、自分なりに分析した敗因だった。身体が大きくても足元が手薄にならないのが俺の才能であって、おまけに人よりも何倍も身体は丈夫だ。どんな高い球にでもヘディングで合わせることができるし、味方が上がってくるだけの時間稼ぎだってできる。あとはゴールにボールを押し込むだけだ。
 得意のルーレットを仕掛け、振り向いた先には大きく空いたシュートコース。思いっきり右膝を振りぬけば、インパクトの瞬間に手ごたえがあった。これは、入る。そう思った時には、どこからか現れた相手チームのディフェンダーにボールをトラップされていた。
「くそっ……!」
「惜しい。だが今のはいい攻撃だったぞ、大柴」
「臼井先輩……」
 大きくクリアーしたのは、聖蹟の守備の要・臼井だった。汗を拭う素振りを見せる割に、汗などどこにも掻いていないように見える。
 この男はいつもそうだ。守備が誰もいない手薄なところに現れて、鮮やかにボールを奪い去ってゆく。味方であることは頼もしいが、敵である今はいちばん厄介な存在であった。
「開始早々お前がこんなに走るだなんて、珍しいな。何かあったのか?」
「や、別に」
「そういえば一年の頃のあだ名、何だっけ。ふてくされ王子だったか」
「やめてくださいよ。俺は大統領以外呼ばれたことなんてない」
「はは、誰が呼ぶんだよそれ」
 ボールの流れに合わせ自陣へと緩やかに走れば、珍しく臼井が並走してきた。普段からゲーム中ではなくとも、俺に話しかけてくることなどまずない。一体何に目を付けられたのだろうか。ちらり、と横目で見やるも、いつもと同じキノコのような頭をしているだけで、それ以外に特段おかしい様子はない。これがクラスの女子の言っていたポーカーフェィスってやつなのだろうか。
「喜一、マーク振り切れ!」
「あ? んなこと言っても、誰もいねぇぞ!」
「チッ」
 いつの間にか、臼井は並走をやめてどこかへと去っていた。君下に言われた通り、念のため辺りを見回すがマークになど着かれていない。むしろ俺は絶好のポジションにいて、しかもフリーだ。
 君下のやつ、コンタクトしてねぇのか? いや、もしかするとこの場合、逆に見えてはいけないものでも見えてんじゃねぇの? コートの中のオレンジのビズスを数えてみるが、やはり自分を含めて十一人しかいない。良かった、ホラーのほうじゃなかった。
「おいコラ! 俺にパスだ! 浮き球のパス!」
 デカい身体でぴょんぴょんと飛び跳ねてみるが、いつもより視界が広がっただけでボールは回ってこない。それどころか、敵のフォワードまでもがボールを奪いに戻ってきているというのに、いつまでも君下がキープしている始末だ。
 風間には二枚のマーク、速瀬先輩には一枚。どう考えても俺以外にパスコースはない。
あいつ、ちょっと腕が訛ったんじゃねぇのか? そう思っているうちに、先にマークを振り切った風間へとパスが通る。生意気なルーキーはボールを持つとすかさず切り返し、あっさりとディフェンダーを躱してゆく。放ったボールは綺麗な弧を描き、ネットの中へと吸い込まれた。
「ナイス! 風間ぁ!」
「危なかったぁ! 灰原ちゃんがあと五センチ背が高かったら取られてたわ」
「いや、小さくねぇし!」
 練習試合でもないというのに、風間の周りには敵味方関係なく人だかりができている。輪に入れないまま、その場に立ちすくんで上がった息を整えていると、後ろから背中を蹴られて思わず一歩踏み込んだ。
「ってぇな……」
「テメェの目は何見てたんだよ」
「お前こそ、俺が取り憑かれてるだとか言って脅かすなよ」
 振り向けば、こちらをきつく睨みあげる黒い瞳と視線が合った。あれから俺はもう少しだけ背が伸びて、ついにはこいつとの身長差は竹の物差し一本分を超えた。自分の胸ほどの高さで膨れる頬をつついてやると、ぶぅ、と間抜けな音を立てて頬がしぼんだ。
「誰がそんなこと言ったか? あぁ?! ずっと臼井先輩にマークされてただろうが」
「は? どこにいたんだよあの人」
「知らねぇよ! ずっとお前の周りにいたのに気づきもしなかったのかよ。目ぇついてんのか」
「ンだとコラぁ!」
「はいはい二人とも、そこまでにしような」
 見かねた臼井が間を割ってきた。
 ここ最近はずっとこんな調子だった。いつしか犬猿の仲は復活していて、特に君下なんかは一年が入ってきてからというものの、毎日生理じゃないのかというほどに荒れ狂っていた。そういえば、二年に上がってからというものの、俺も君下と共に自主練することもぱったりとなくなった気がする。
「俺、交代します……こんなんじゃパスの出し甲斐がねぇ」
「いいのか? ゲームに入るの久しぶりだろう?」
「ハッ、そりゃいいわ。お前よりも来須のほうが多少はマシだぜ」
 俺のほうは見向きもせずに、ベンチの監督のほうへと真っすぐ駆けてゆく黒髪を、ただ見送ることしかできなかった。思ってもいない愚痴をこぼしながら。
「おい、大柴! お前も交代だ」
「は?」
 声のするほうを見やると、既にビブスを脱いで部室へと向かう小さな背中が視界に入った。その手前で監督は立ち上がり、俺へ向かって手招きをしている。
 もしかして今の言い争いでレッドとか、練習試合でもねぇのにそんなことはないよな……? 不満げに眉を顰めて駆け寄れば、もう君下の姿は見えなかった。
「なんで俺まで交代するんすか」
「いや、今のは確実にお前が悪いぞ。とてもじゃないが、最適な状況判断とは言えなかった」
「それは……」
「ちょっと頭冷やしてこい。最近のお前は、なんていうか……お前らしくないプレーをしている。君下だって、少なからずそのことには気付いているが、ただでさえマネージャーの仕事との両立は大変だ。お前が支えてやらないでどうするんだ」
 俺が支えてやる……どうしてそんなこと、この人は知っているのだろう。
 俺があの日、君下の背中を押した日。俺は誰にも言わなかったが、君下のことを支えてやろうと一人で決めた。女性らしくなりゆく事に怯え、大好きなサッカーも満足にできないこの弱い生き物を、俺が守ってやると決めたのだ。
 そう決めたはずなのに、今の今までずっと忘れていた。そんな大事なことを忘れるぐらいに、俺は自分の結果が出ないことに焦り、気を取られてしまったのも事実だ。ああ、なんて情けない男なのだろう。
「監督、ありがとうございます」
「お、おう……そんなかしこまられると気味が悪いな」
 大きな体を深々と折り曲げれば、さっさと行ってこいと強めに叩かれた。なんでもないそのパンチは、今の俺にとって痛いほどの感覚を残した。
「君下……何してんだ?」
 まだ自分のロッカーを持たない新入部員たちの鞄が山積みになっている部室の奥に、目当ての彼女の姿はあった。俺らの予想に反して、いつも通りのなんともない様子で掃除をこなしている。流石に泣いてはいねぇか。内心でほっと胸を撫でおろした。
「あ? お前もうへばって交代かよ」
「ちげぇよ。監督命令だ」
「違わねぇじゃん」
「ったく、勝手に言っとけ」
 君下の周りに積み上げられた、埃の被った大量のフォルダ。どうやら今までの対戦校のデータなんかを整理していたようだ。足の折れかかったパイプ椅子を引きずって持ってくると、それらを崩さないように君下の正面を陣取り、どさり、と腰かけた。
「へぇーこんなのあったんだな」
「一応はな。だがただ記録して取っておくだけじゃ、宝の持ち腐れってやつだろう」
「確かになぁ」
 一番上にあった緑色のファイルを手に取って、パラパラとめくって見る。古びて角が丸くなったそれは、主に新聞記事の切り抜きが挟まれており、見出しだけを読めばどうやら卒業生でプロになったものの記事だと読み取れた。流石は伝統ある名門校なだけあって、かなりの量のページ数があった。なんとなく昔テレビで見たことのある顔もちらほらいる。
「なあ」
「ん?」
「俺ってその……女の子らしいと思うか?」
「はぁ?」
 思わず聞き返してしまった。顔を上げればバツの悪そうな君下と視線が合う。いつの日か見た、茹でだこみたいに頬を真っ赤に染めて。
「いや、その……言われたんだ。思ってたより女の子っぽいって」
「誰にだよ」
「風間……」
「ふーん。俺からは、お前はお前だと思う、としか言えねぇな。何があったか知らねぇけど、お前のことはガキの頃から知っている俺にとっちゃ、そんな感じだ。性別っていうよりか、お前は君下敦って感じ」
「そうか……」
 バカでもわかるほどに沈んだ声を無視した。自分でも訳の分からない返しをして、手元のファイルに視線を戻す。ごく自然に、動揺を悟られないように。君下の口から出た意外な人物の名前に、正直ノーマークだったなと言葉を噛み殺した。
「ん?」
 相変わらずペラペラとめくり続けていた手元のファイルの最後のページをめくると、よく見知った顔が載っている切り抜きが目に入った。それは俺もいつかの朝刊で目にした記憶のある、まだ新しい記事だった。
 聖蹟二年・水樹寿人 十傑入り J鹿島と契約へ
「そういやいつの間にかプロだもんな……やっぱすげぇわあの人」
「お前だって目指すだろう、プロ」
 一瞬ちらり、とこちらを見上げた瞳。汗を吸ってくるりと外側に跳ねた髪の毛を耳にかけながら、まるで俺の心を刺すかのように真っすぐに向けられた眼差しにドクリ、と心臓が跳ねた。 
「あ、ああ」
「なんだよその気の抜けた返事は……まあお前にそのつもりがなくても、俺が連れてくからな。お前に俺の夢は託した」
 こつん、と音を立てて、君下の拳が俺の膝小僧へとぶつけられた。何やってんだよ俺は。俺がこいつを支えなきゃいけないはずなのに、結局はこいつに助けられてばかりだ。ピッチの中だけでなく、こんなときまで頭が上がらないだなんて男として情けなさすぎる。
「ったく、お前はいつも勝手なんだよ」
 サッカーを辞めると言った時もそうだ。
俺に夢を託しただなんて確かにそんな話をガキの頃してはいたが、君下が辞めてからは聞いたことすらない。小さく呟いた言葉は、こいつに届いたのかすらわからない。だが今はそれでいいと思った。
 結局のところ、俺にできることはただ一つ。それだけは変わらない、決定事項だった。
     ⌘ ⌘ ⌘
「俺たちにはまだまだ課題が山積みだ。水樹、」
「ああ。選手権まで時間がない。そのために今日俺たちは、全力で勉強する」
 チッ。思わず漏れた舌打ちは、静まり返った空間にやけに響いた。状況を呑み込めていない様子の面々を無視して、俺は半年前まで使っていた懐かしいテキストをパラパラとめくっていた。
 それにしても、この大きな家に上がるのもずいぶん久しぶりだ。壁一面に張り巡らされた水槽のポンプが、後ろでポコポコと心地の良い音を立てるのに耳を傾ける。
「なぜですか?! 元素記号を覚えれば勝てますか?!」
「それは君がバカだからだ、来須」
「諦めろバカ」
「テメェらもバカだから呼ばれてんだよ!」
 ギャアギャアとバカが騒ぎ立てる。失礼ながら俺にとっちゃ、ここに集められた奴はどいつも同じレベルの馬鹿だ。
 文武両道を掲げる聖蹟高校では、毎年赤点を取った者は夏休みに勉強合宿へと強制送還されるのだ。スポーツ特待生も特進クラスも関係ない。去年もこうやって先輩らが勉強を見てくれたお陰で、勉強合宿行きをギリギリで逃れた喜一は、文句も言わずに自らテキストを開いているようだった。ちったぁあのバカを見習え、バカ共が。
「君下先輩、なにメガネして賢ぶってんすか」
 小馬鹿にしたような顔でこちらを覗き込んでくるのは来須だった。確かに、特に後輩マネージャーの生方が入部してからというものの、選手として部活に参加する機会のほうが多かった。だから眼鏡をしていない俺を見慣れないのも頷ける。が、目の前のその生意気ヅラには一発お見舞いしてやらねぇと気が済まない。
「君下は二年の学年トップだ」
「え?!」
「え、じゃねぇぞタワケ共が」
 胸倉を掴み持ち上げ、来須の背にあったソファーに突き倒し、そのまま馬乗りになって殴りにかかった。男と女の対格差じゃ、俺は力でこいつに勝てるわけがない。できるだけ体重をかけるように腰の上に乗り上げ、抵抗する手首を捕まえる。来須は俺が重いのかそれとも恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして足をバタつかせながら逃げようとする。
「いやっ、ちょ、君下先輩! その、あ、当たってるから!」
「は? 何わけわかんねぇこと言ってんだよ」
「キャー君下くんのエッチぃ」
「風間、お前も後でシバく」
 ふざけた声のするほうをキッときつく睨むと、テレビゲームのコントローラーを握る風間と視線が合った。というか、こいつはいつからここに居たんだ? 俺が事前に臼井先輩に聞いたメンバーには、確か風間は含まれていなかったような気がする。
「っていうか遊んでんじゃねぇバカ!」
「えー俺勉強できるし」
「嘘つくな!」
 ほら、とどこからか持ってきたのか小テストらしきものを出してくる。来須の手首を掴んでいた手を離して皆で囲む。数枚あったそれらは全てに赤字で丸が付けられて、どの解答用紙にも名前の横に1の文字。まさか。皆が驚きの表情に満ちているあいだ、既に興味をなくしたかのように、風間の視線はデカいテレビ画面に釘付けだった。
「帰れ!」
 来須から飛び退き、風間の首根っこを掴むと、そのまま玄関までずりずりと引き連れ外へと放り出した。相変わらずへらへらと笑うこいつに悪気がないのが伺える。だがこいつは、いくら頭が良くても人にものを教えられるタイプでもないし、どちらかというと積極的に邪魔しにいくタイプだった。残念ながら今日この場には必要ない。
「何で来たんだよ」
「だって俺に内緒で楽しいことしようとしてたでしょ」
 俺の腕の中で首を絞められながら、ぷう、とふくれっ面をする風間はまるで子供のようだった。喜一やキャプテンとは違うタイプの子供だ。だがこいつは他の子供よりも勘が鋭かった。そしてそれを探るようなことも、知らぬ顔して平気でやってのける。
 つい先日も、柄本を連れて閉店前の君下スポーツへと尋ねてきたこともあった。扱いやすいがその分相手にしにくいところがある。
「何が目的だ?」
「えーそんなんじゃないよ」
「気持ち悪いな、はっきり言えって」
「じゃあ聞くけど君下くん、キーチマンと何かあった?」
「は?」
 意外な質問に、心の底からヘンな声が出た。こちらを見上げるキラキラとした大きな瞳と視線が合う。髪も長くて顔立ちも綺麗だし、こいつのほうが俺よりもよっぽど女らしいんじゃねぇの。いつかこの男に言われた言葉を思い出した。
「んなの聞いてどうすんだよ」
「別に、大した意味はないよ。ただ俺が聞きたかっただけ」
「……何にもねぇよ。あいつはただの幼馴染だ」
「ふーん」
 先程から質問攻めだというのに、聞いているのかわからないような声がする。なんだか腑に落ちなくて、首を絞める腕をもう一段上へと引き上げるとぐえ、と潰れたカエルのような声がした。
「ねえ」
「あ? まだ何かあんのかよ」
「さっきから、俺の頭におっぱい当たってる」
「……っ!」
「やっぱり君下くんって着痩せするタイプだよね。まな板生方とは違うわ、ってあれ?」
 ドサリ。ショックのあまり、何も言わずに風間を絞めていた腕を解くと、踵を返して玄関のほうへと歩き出す。中に入るなりバタン、と勢いよく閉めたドア。バクバクと跳ねる心臓が嫌にうるさい。
 いやいやいや、何してたんだ俺は。男勝りな性格なのは自他共に認めている。だからとは言え昔からの癖でつい、いつも喜一にやるようなことを、気を許した部員たちに平気でやってしまった。先程の来須の一件も、恐らく今と同じことだろう。
 ということはつまり、喜一もあえて俺に言わないだけで、今まで同じ思いをしてたってことか? いや、考えすぎるのはよくないぞ、敦。あいつは風間や来須以上に馬鹿なんだ。それに今更俺の事なんか、女として思ってなんかいないかもしれない。俺だってあいつの事、あいつの……。
「ふう……」
 考えを打ち消すように、ドアに凭れたままその場で大きく深呼吸した。その静けさに徐々に冷静さを取り戻し、俺は今日一体何のためにここに来たのかを思い出す。
 そうだ、この馬鹿共の勉強を見ねば。
 長い廊下を歩きリビングへと戻ると、既に学年ごとに纏まりテーブルへと着いていた。
一年の三馬鹿には生方と柄本と俺、一番やばいと噂の水樹には臼井がつくことになった。喜一は……まぁ放っておいても家庭教師の先生や、秀才な姉が何とかしてくれるだろう。それに今はなんとなく、あいつの顔を真正面から見れる気がしなかった。ソファに腰を下ろし、愛用しているシャープペンをくるくると回しながら、一年前に終えた数学の教科書へと視線を落とす。
「とりあえず、ここからここまで十五分で解け。一問でも間違えたらコロス」
「え……なんでこんなにキレていらっしゃるの……?」
「いいからさっさと解け」
 午後五時をまわり、とっくの昔に集中力の切れた来須たちは、働かない頭を必死に捻り唸っていた。人に教えるというのは案外疲れるもんだな、と同じく頭を抱える生方を横目で見て思う。柄本だけはいまだに根気強く粘ってはいるが、皆そろそろ限界だろう。
「腹減った……」
「そうだな。台所借りていいことになっているから、カレーでも作ろう」
 そう言って、真っ先に立ち上がったのは臼井だった。あの宇宙人相手に長時間勉強を見てて、流石に嫌気がさしたのであろうか。この場に女が二人もいるというのに料理を押し付けないのは、女子だけに任せないという優しさなのか、それとも自分がこの場から抜けたいだけなのか。どちらにせよ臼井先輩なら安心だ、とリビングを出ていく先輩の背を見送っていると、臼井は急に思い出したかのように振り返った。
「そうだな……君下、手伝ってくれるか?」
「あ? 俺?」
「流石に俺一人でこの人数分は時間がかかるからな……さて、行こうか?」
 ああ、この人は間違��なく何か企んでいる。薄い笑みを貼り付けた顔を見て、己の頬が引きつるのがわかった。どうやら拒否権はないらしい。
 重い腰を上げて立ち上がれば、毒とか入れそうというヤジが聞こえる。誰かわからないが検討はついていたので、とりあえず来須の頭に思いっきり拳骨を落としておいた。
「なんで俺なんすか」
 広いキッチンの奥で、臼井は玉ねぎの尻を落として慣れた手つきで皮を剥く。ずるり、と乾燥した茶色が剥け、中から艶々と輝いた身が現れた。なんてことないそれさえも、この家にあるだけで高価な物かと錯覚してしまうほどに、ここのキッチンはいつ来ても慣れなかった。
「ん? ああ、本当は生方でも良かったんだが、あいつに包丁を握らせるのは俺が怖くて、な」
「……」
「っていうのは冗談だ。ちょっと君下と話がしたくてさ。それに、この家の事なら当の本人より、お前の方が詳しく知ってそうだしな」
「はは……まあ幼馴染なんで」
 ピーラー、取ってくれる?そう言ってにこやかな笑みを浮かべる臼井の顔は、とてもじゃないが俺には穏やかには見えなかった。
 きっと何も知らないクラスの女子たちは、この貼り付けた笑顔でイチコロなのだろう。俺がまともな女じゃなくて良かったな、と改めてこの状況を客観的に見た。俺はまだ冷静だと、自分に言い聞かせて。
 トントントントントン……半割にした玉ねぎをリズムよく刻んでゆく。うちの切れない出刃包丁なんかじゃなく、ここのナイフはいつも新品のように手入れのされた素晴らしい切れ味だった。涙腺を刺激する厄介な汁も、今は飛び散ることがない。繊維の押しつぶされる音はなく、ただひたすらに、まな板と刃のぶつかる音。
 トントントントン——……
「へぇ。きっと料理ができるとは想像してはいたが、うまいもんだな」
「まあ、俺んち父子家庭なんで……こういうの慣れてるっていうか」
 隣のシンクの上ででジャガイモの皮を剥く臼井が、覗き込むようにして俺の包丁さばきを見ていた。いつ見ても綺麗に整えられた、シルバーに近い髪の毛がふわりと揺れる。
 何だこの人……女の俺よりもいい匂いがしやがる。それに思えば俺は今まで、臼井先輩にこんなに近づいたことはなかったことに気付く。妙な距離感に、不自然に心臓が跳ねる。クールだと言われる目元はもちろん、形のいい鼻、ピンク色の薄い唇なんかはセクシーだとさえ思う。
 いや、何を考えているんだ俺は! 普通、男の人にセクシーだなんて言葉を、しかも高校生相手には滅多に使わないだろう。動揺していることに気付かれまいと、玉ねぎを切る手元は緩めない。端まで切り終えると、まな板の脇に用意していたボウルにそれを入れた。
「あ、あの……ニンジンとか入れますか?」
「そうだな。じゃあ俺が皮を剥くから、先にこっちを切ってくれないか」
 そう言って臼井は、ずっと手の中にあったのであろう、綺麗に皮の剥かれたジャガイモを手渡してきた。受け取ったとき、不意に指先が触れた。それは驚くほど冷たくて、思わず臼井の顔を見やれば避けていた視線が合ってしまった。
「今、大柴の事考えただろう?」
 にやり、と三日月のように歪めた瞳がこちらを見ている。相変わらず冷めた瞳からは、何の感情も読み取れそうにない。確かにあの一瞬、臼井の指に触れたとき……喜一の体温を思い出してしまったのは事実だった。
 太陽みたいに大きくて、あたたかな掌の温度。自分は表情一つ読み取らせないのに、俺のちょっとした感情の変化にはすぐに気づいてしまう。ああこれだから、俺はこの人が苦手なのだ。
「いや、そんなこと」
「なんだ。お前たち、付き合ってるんじゃないのか?」
「なっ……!」
 その言葉に、思わず持っていたジャガイモを落としてしまった。まな板の上で何度かバウンドし、スリッパを履いた俺のつま先に当たり大理石の床を不規則に転がってゆく。丸く整えられてはいるが、きちんと芽まで処理されたそれはいびつな形をしており、真っすぐには進まない。転がるジャガイモを身体が反射的に追いかける。食べ物なので流石に足でトラップはしなかったものの、食器棚にぶつかって止まっていたそれを屈んで拾い上げる。ここの床は綺麗に掃除してあるし、洗って煮込めば問題ないだろうか。
「少なくともお前は大柴の事、好きなんだろう?」
「それは……」
 それは、よくわからない。
 これは本心だ。思い出せないほど遠い昔から、喜一は俺の憧れであり、ライバルであり、そして何より幼かった俺がサッカーを本格的に始めるきっかけでもあった。あの日、あの場所で大柴喜一という男に出会っていなければ、今の俺は存在しなかったと言っても過言ではないほどに。
「……っ」
 思わず指で触れた、己の唇。
 あの日、喜一の濡れた唇に塞がれて、そして自分も黙って受け入れてしまった。
「それは、俺にもよくわからないんです。本当に」
「そうか。最近あいつの様子が変なのは、君下、お前も分かっているだろう」
 確かに最近の喜一はどこかおかしい。
 喜一らしくない、というのが一番合っている気がする。黙っていれば、それを肯定と取ったらしい臼井は話を続けた。いつの間にか火にかけられた鍋のなかで、玉ねぎが焼けてジューっと音を立てている。
「俺はいくら副キャプテンであろうと、部員のプライベートに首を突っ込む気はない。顧問だろうと、後輩だろうと。それはわかるな?」
「ああ」
 次第にしんなりとして、黄金色に色づきはじめた具材をかき混ぜながら、臼井は続ける。伏せられた睫毛さえも美しい。全ての材料が揃い、あとは順番に炒めて煮るだけだ。手持ち無沙汰になった俺は洗いあがった器具をひとつずつ、時間をかけて拭いていた。
「お前と大柴が付き合っていようが、そうじゃなかろうが、結局のところ俺はどちらでもいいと思っている。いくら知っている仲とは言え、そんなことに口出しするのは野暮だからな。だがこれが部に悪影響を及ぼしていると判断すれば、俺だってそうはいかないんだ」
「悪影響、ですか」
「まあ、そんなに悪く捉えないでくれ。言葉を選ぶのは、頭のいいお前にとって失礼だと思っただけだ。下手に隠されるよりは幾分かマシだろう?」
 確かにその通りだと思った。俺は下手に本音を隠されるのは好きではない。そんな回りくどいことをするのなら、傷つこうが真実を述べてもらうほうがマシだった。学年も違えば、普段は戦術の面でしか話す機会がないというのに、本当にこの人は俺をよく理解している。
 全てが程よく炒まると、臼井はあらかじめ測っておいた分量の水を加えた。そして底から削るように大きく掻き回して、木べらを取り出し中火にして重い陶器の蓋を落とした。腰に手を当てた臼井の視線がこちらへと向く。夕日に照らされたシルバーは光を反射してキラキラと輝いているかのように見えた。
「それで、俺はどうすればいいんですか。まさか本当に付き合えとでも?」
「まさか。その気がないお前に、そんなこと言うつもりはない。ただ俺たちにとって、お前も大柴も大事なウチの戦力だというのは事実だ。特に大柴は、今では聖蹟伝統の三本の矢の一角を担っている。あいつの出来が今後を左右することは、お前だって百も承知だろう?」
「ああ……」
 ポコポコと音を立て、鍋の中身が沸騰したことを知らせた。重い鍋の蓋の隙間から湯気が上がることも気にせず、臼井は手元のボタンを操作してさらに弱火に落とす。
「そこでだ。俺が言いたかったのは、マネージャーのお前にもう少し気持ちの面でもコントロールしてやって欲しいってことだ。選手だったお前ならこの言葉の意味、わかるだろう?」
「マネージャーの俺、か」
「さて、あとはルーを入れるだけだ。ここは君下に任せるから、俺は少し向こうの様子を見てくるよ。生方だけじゃ、今頃手に負えなくなってると思うし」
 そう言うと、ぽん、と俺の肩に手を置いた臼井はキッチンを後にした。
 静けさを取り戻したキッチンに小さく響く、カタカタと陶器の蓋の震える音。テーブルの上には、既に人数分の皿とスプーンが用意され、その手前にはスーパーでお馴染みのパッケージのみが取り残されていた。へぇ、喜一もバーモントカレーを食って育ったのか、それとも今日の献立を決めた臼井が事前に買ってきたのか。この家に不似合いなそれが少しだけ可笑しかった。
     ⌘ ⌘ ⌘
 夜十時を回ったところで、勉強合宿初日はお開きとなった。お開きとは言え、ホストである俺はこの豪邸を哀れな部員たちの勉強の場として貸していただけで、あとは普段通りにドリルを持ったまま部屋をうろついていただけなのだが。
「さて、今日はこのぐらいにするか。夜更かしは美容にも良くない」
「うわ、なんか軍曹が言うと説得力あるな」
 ピンポーン——……
 それぞれがテキストを片付けていると、急に玄関先の明かりが灯り、来客を知らせるベルが鳴った。こんな夜分に誰だろう。
「俺出るんで、交代で風呂入ってください」
 そう言い残して、俺は足早に玄関のほうへと歩き出した。
 今日はお手伝いさんも随分前に帰ってしまい、両親は出張で一週間ほど帰らないと聞かされている。陰から水樹を見ていた姉の姿は確認したし、訪ねて来たのが身内ではないことは確かだった。誰だろうと脳内で考えを巡らせていたが、擦りガラス越しに見えたシルエットで大体の見当がついてしまった。
「何しに来た、風間」
 インターホンで出ればよかったな、とこの時思ったが後の祭りだ。スリッパを履き替えずに、土禁部分から長身を伸ばしてドアを押し開ければ、思った通り風間の姿があった。脇にへんてこな形の枕を抱え、そいつの髪色と同じ派手な黄色のビニール袋をいくつもぶら提げている。
「こんばんわ。今日泊まりなんでしょ? 俺も加わりたいなーって」
 ダメかな? にこり、と笑う姿は、どう見ても許可を待っているようには思えない。するり、と大きく空いた脇から中へと入り、スリッパも履かずに素足をペタペタと鳴らしてリビングへと進んでゆく。全くこいつは、頭が空っぽのようでそうでない。まるで読めないやつだと思った。
 合宿と称されたこの会は、泊りがけで行われることになっている。それなりに大きな家なので客間はあるものの、ここにいる全員が止まるには少しばかり狭く感じた。それに女子を同じ部屋に泊めるのは流石に気が引ける。そう話さずとも、マネージャー二人は自主的に自宅に帰ると言うし、母子家庭だという柄本も母が待っているからと帰っていった。順番に風呂に入ったあとは、特にやることもなく何も言わずに皆が居間へと集まっていた。
「この大画面でAV見たいわ〜持って来ればよかった」
「大柴先輩持ってないんすか」
「あー俺の部屋にあったかもしれねぇ。二階の角だ、入っていいぞ」
「大柴の部屋か、汚そうだな」
 それを聞いた来須と新戸部が、走って二階へと駆けあがってゆく。それ以外は適当に風間が持ち込んだ大量の菓子とジュースを広げ、テレビゲームをやったり本を読んだりと、皆が思い思いに過ごしていた。まあ野郎が集まったところで特にやることなんてない。水樹キャプテンに至っては、ソファーの裾に足を引っかけて、風呂上りにも関わらず一人黙々と筋トレをしている。どういう神経しているんだろうか。
「ねー、キーチマンは何フェチ?」
 ここに来てからコントローラーを握りっぱなしの風間が仰け反り、ソファーに腰かけていた俺を見た。今はゾンビのゲームをやっているらしく、ドロドロに溶けた血色の悪い人のようなものが近づいてくる。げ、薄気味悪ぃな。というか、こんな悪趣味なゲームが果たしてうちにあっただろうか。
「フェチというか、へそのラインが好きだな。だがデブはダメだ、話にならん」
「うわーいきなりキモいの来た」
「そういう風間はどうなんだ?」
 同じく長いソファーの反対側に座っていた臼井が、前かがみに座りなおして話に乗ってきた。思わぬ人の食いつきぶりに、���うく飲んでいた炭酸飲料が鼻から出るところだった。ゴホッ、ゴホッと少し咽て、涙の浮かんだ目頭を押さえる。
「おっぱい一択でしょ」
「はは、言うと思った」
「でも生方みたいな小さいおっぱいには人権はないぞ! 君下くんぐらいだったら全然アリだけど」
 ブフォッ!
 もう一度飲み物に口を付けた、数秒前の自分を呪い殺してやりたい気持ちになった。勢いよく吹き出すと、母が気に入っていたトルコだかインドだかで買ってきたという絨毯にポタポタ、とシミを作った。透明なので乾けばバレることはないだろうが、念のため明日お手伝いさんが来たら真っ先に伝えよう。うん、そうしよう。
「な……おまっ」
「お前、いつの間に生方だけでなく君下先輩のまで……揉んだのか?」
「揉んだわけではないかな。でも見りゃ分かるじゃん。君下くんは明らかに着痩せするタイプでしょあれは」
 こいつ……いつの間に君下にそんなことしたんだ?!
 それにしても、それををよくあいつが許したなと思った。許しが出たとしても、きっと後で酷いタコ殴りにされたに違いない。それほどまでに俺の想い人は、女扱いされることにコンプレックスを抱いていた。俺だって最近は、普通のスキンシップでさえ触れることもできないというのに。
 歯ぎしりが鳴りそうなほどに力んでいると、パタパタと足音がし二階から探索隊が戻ってきたようだった。
「ああ、確かにあれはデカかった」
「えっ来須まで?!」
「そうなのか?」
「いやいや水樹……お前は去年のこともあるだろ」
「え、何すかそれ」
 一年が目を輝かせて興味津々というように臼井のほうを見やる。副キャプテンが言っているのは、恐らくあの砂浜ダッシュの日のことであろう。
 だがよくよ考えて見れば、あの時近くにいたのは俺とキャプテンだけだったはずだ。俺がこんなことを言いふらす訳がないし、だとしたらまさかキャプテンが喋ったのか? 少しの疑心を持って未だ腹筋をしている水樹をちりと盗み見る。仮にもしこの人が臼井先輩に言ったとしても、きっと悪気はないのだろう。
「いや、君下が怒りそうだからやめとく。なあ、大柴? というか流石だな。尻派の俺には分からなかったな」
「軍曹のその顔は絶対嘘だな……」
「で、新戸部。大柴の部屋には何かあったか?」
 一瞬、臼井と目が合った。俺の心を読んだかの如く、この好奇心旺盛なサル共の気をうまく話を逸らしてくれたらしい。やっぱり何か知っているに違いない。こんなときはいつも、俺の嫌な勘は絶対に当たるのだ。
「それが、とりあえず一本しか見当たらなくて……見ろよこれ」
「うわぁリアルだな」
「わ、悪かったな悪趣味で」
「いやむしろ安心したッス。医者の息子もこんなの見るんだって」
 臼井の言葉に思い出したかのように、新渡戸は後ろ手に持っていたパッケージを見せた。それはエッチなガーターベルトを嵌めたナース姿の女が、患者らしき服を着た男の上へと跨っているような、そんなよくあるパロディー物のパッケージだった。うわ、こいつら懐かしいの見つけてきたな。思わずゴクリと唾を飲み下した。
「せっかくだから、この後ろのデカいスピーカーつけていいっすか? あ、でも大柴先輩のお姉さん、上にいるんだっけ」
「あーうちは全部屋防音だし、よく知らんがそんなにデカい音にしなきゃ大丈夫じゃねぇか?」
「よっキーチマン! さすが七光り!」
「え、なに? 怖い映画大会?」
 不意に一年の誰かが、パチン、と部屋の電気を消した。来須がDVDをセットする様子を、皆が後ろからじっと見守る。男子高校生なんて所詮は猿だな、なんて思いながらリモコンを手にし、何度も見たはずのそれに少しだけ期待に胸を躍らせながら、再生ボタンを押した。まあ俺も大概猿だなと思う。
 LOADINGの文字の後。映ったのは、いかにも安っぽいセットの部屋。お決まりの診察台にベッド、それにどこに使うのかさっぱりわからない折り畳みのパーテーションに、こういうビデオでよく見る偽物の観葉植物。今見れば馬鹿っぽく映るそれでも、まだ幼かった自分も当時は期待に目を輝かせていたのだろう。
「え、みんな抜くの?」
「わかんねぇ。状況次第だろ。俺は看護婦長に期待」
「ねぇこれゾンビなの?」
「俺は無理だな。水樹がこれじゃあそれどころじゃないよ」
 医者姿の男と看護婦、それに患者らしき男が出てきてチープな診察の演技が始まる。外来患者であろう男はなぜか既に病衣を纏っている。
 だがそれ以上に、俺には気になる点があったのだ。
「なんかこの子、君下くんに似てない?」
 ぴくり、と肩が跳ねた気がした。が、それを誤魔化すかのように、すぐにソファーの上で身動ぎして体重移動をした。隣には臼井が座っている。暗闇だから顔は見られないとしても、きっと些細なことで臼井には感づかれてしまう。そう思った判断だった。
 風間め……今俺が必死に違うことを考えようとしていたのに、まんまと核心を口にするとは。
 確かにこの女は、黒髪のショートヘアを外に跳ねさせたような髪型をしていた。背丈は君下よりも随分と小さいものの、切れ長の目は少しだけ目つきがきつくて、上唇がやや尖がってぷっくりと突き出していた。普段であれば最初の小芝居をすっ飛ばして本番から見てしまうのだ、ろくに女優の顔なんて覚えているはずがないことを、今は少しだけ後悔した。
『はぁっ……や、あ、せんせぇ……っ、み、見ないで』
「やべ、お前が変なこと言うから君下先輩に見えるじゃねぇか」
「そう? やっぱ違うわ」
「な、おま……なんて無責任な」
 タイトな服を捲し上げられ、患者役に見せつけるようにして股を開かせる医者。なぜこんなシチュエーションになったのかすら、今の俺の頭ではストーリーを拾えなかった。
 脳内で響く、甲高い高い声。
 ちがう、こいつは君下じゃない。
 君下のほうがもっと柔らかくて、肌がきれいで、引き締まっていて、それから、それから……記憶の中の姿を思い出す。ほら、やはりどこも似ていない。君下のほうが、俺にとっては何百倍も魅力的だ。
 それなのに、羞恥心を堪えて必死に声を出すまいと我慢する、画面の中の女優の顔から視線を外すことができなかった。
 折角客間に布団の用意をしたというのに、結局は俺以外の誰もがリビングから動くことはなかった。
 あの後AVに飽きたと言い出した風間が、どこからか持ってきたDVDを流し始めてそのまま映画鑑賞会となった。最近リリースされたらしい地球滅亡系のハリウッド映画や、こんなの良く知っていたなと言いたくなるほど古いSFムービー。結局二本目で俺以外の全員が寝落ちしてしまい、テレビを消して全員分のブランケットをかけて回るという始末だ。俺が他人の世話を焼く日が来るだなんて、夢にも思ってもみなかった。
 最悪だ。
 いくら新しい映画を見ても、俺の興味がそちらへ向くことはなかった。目を閉じれば、瞼の裏側にこびりついた君下に似た女優の姿。その後にも何人も出てきたのだが、最初のインパクトが強すぎてそれどころじゃない。
 正直に言うと、勃起した。クッションで隠してはいたが、俺の熱はそれを見終える最後まで硬いままだった。他の奴らがいて抜くこともできずに、結局はそのまま持ちこたえた。そして皆の世話が終わり、一人自室に戻ると猿みたいに自身を擦りつけた。記憶の中の映像と、現実のあいつを思い出して何度も、何度も。
     ⌘ ⌘ ⌘
 勉強合宿二日目。
 どうせ馬鹿共は遅くまで騒いでいたのだろうと予想し、開始を十一時にしようと勝手にこちらで話を進めた。駅前で集合し大柴邸への道のりを歩き、たどり着けば出迎えてくれたのは喜一ではなく姉の美琴だった。
「あ、おはようございます」
「おはようみんな。ごめんね、まだあいつら寝てるみたいなの」
 そういう美琴は困ったような笑みを浮かべている。それで中がどうなっているのか大体察しがついた。生方と顔を見合わせて溜息をつけば、さっぱりというような柄本が慌ててキョロキョロと交互に俺たちを見やった。
「み、みなさんおはようございます……」
「うわ、なにこの屍共」
「生方、片っ端から叩き起こすぞ」
 リビングのドアを開けると、まず目に入ったのは屍の如く眠る男たち。丸めて放られたブランケットに、テーブルの上に散乱するスナック類、使いっぱなしでジュースの色の染み付いたグラスまである始末だ。あのミスター聖蹟とも呼び声の高い臼井ですら、ソファーに横たえて綺麗な寝顔で眠っていた。
 俺たちが起こしに回っている間、柄本はブランケットをきれいに畳んで部屋の隅へと集める。流石は家事を手伝っているだけあるな、と少しだけ関心をした。
「ふぁ……おはようマナミちゃん」
「誰だよその女」
 いつの間に合流したのだろうか、風間の襟元を掴んで揺さぶれば、シャツが伸びただけで肝心の本人には全く起きる気配がない。それどころか全く知らない女の名で呼ばれた。呆れて言葉が出ないでいると、後ろから生方の見事な回し蹴りが飛んできて、風間の脇腹へとめり込んだ。
「うぐっ……これは、貧乳だな」
「誰が貧乳だ、ああ?」
 サッカーには使えないが、なかなかいい蹴りだ。ぐりぐりと足の甲を骨の間にめり込ませようと回す姿に、聖蹟の未来は明るいなと勝手に思った。
「あれ? そういえば大柴先輩はいないんですか?」
 洗い物を回収している柄本が急に声を上げた。そう言われれば、たしかに今朝は喜一の顔をまだ見ていない。あいつのことだ、雑魚寝などできん! などとぬかして一人キングベッドのある自室へと籠っているに違いない。
「ああ、そういえばそうだな」
「臼井先輩! お早うございます」
「おはよう」
 いつの間にか起きて着替えを済ませたらしい臼井がキッチンへと向かった。急いでいたのか、後頭部のほうが一束だけまだ寝ぐせがついたままだ。奥で冷蔵庫から牛乳を漁っている水樹キャプテンの姿も見える。
「そうだな、柄本は俺と朝食の準備……いや、この時間ならブランチかな。生方に片付けは任せて、君下は大柴を探してきてくれ」
「あ? いや、男の部屋に俺が行くのは」
「だがお前しか、この家の間取りが分からないんだ。ただ起こすだけでいい。行ってくれるか?」
 臼井がそう言うと、一瞬、新戸部がなにか言いたそうな顔をしたが、臼井が目で何かを言ったらしく大人しく口を閉ざした。いつもに増して柔らかな臼井の笑みも怪しい。なんだかそれが気に食わなかったが、どうやったってこの場の誰もが喜一を起こしに行く気はないらしい。
 ただ起こしに行くだけだ。ここまで言われて断る理由もないし、さっさと行って帰ってくればいいだけの話だ。
「い、行けばいいんだろ、行けば!」
「ああ、頼んだよ。そうだ、今朝はパンケーキだけど、君下もどうかな?」
 パンケーキというお洒落な言葉に、一瞬心が揺らぐ。朝食はいつも通り食べてはきたが、もう昼も近かった。
 それに皆に言ってはいないが、俺は甘いものに目がない。たまになら自分で作ったりもするが、人の作ったスイーツはなぜだか妙に美味しいものだ。違うからな、俺は決して食べ物なんかで釣られたりはしねぇぞ。頬が緩みそうになるのを堪えて小さく呟く。
「……食う。いちごも、欲しい」
「はは、わかったよ。買ってこよう」
 ぺた、ぺた、と音を立てながら、半螺旋の階段を上ってゆく。見慣れた階段のはずなのにどうしてだろう、今はやけに長い道のりに感じた。
 頭の中では昨日の臼井の言葉がリフレクションする。
 『��ネージャーのお前にもう少し気持ちの面でもコントロールしてやって欲しい』
 あれから家に帰ってからも、この言葉の意味を考えていた。
 臼井の性格から考えれば、単に選手のモチベーションを上げるような言葉をかけるだとか、そういう次元の話をしているわけではなさそうだ。俺が思うに恐らく臼井が言いたいのは、今回の喜一が変なのは、俺との不仲が原因なんじゃないかということだ。今は特に大きな試合前ではないからいいものの、これが選手権の前だとチーム全体の迷惑となる、とでも言いたいのだろう。
 だがどうしろというのだ。もしこの場を、喜一との仲直りの場だとして提供されたとしても、それでは根本的な問題の解決とは言えないだろう。それに喜一とは今までいろんなことがあったが、俺もあいつもいつも肝心なことは何一つ言わないのだ。本当は自分でもわかっている。俺の憧れが、この関係が壊れるのが嫌で、俺は自分の気持ちに正直になりきれていないことを。 
 コンコン、
 深いブラウンの大きな扉をノックしてみるが、思った通り返事はない。
 臼井の言う通り、この家のドアはどれも同じ形と色をしていて、おまけによくある下げ札などされていないので見分けがつかない。この家には何度も来たことはあったが、部屋に入ったのは果たしていつぶりだろうか。変わっていなければ、今立っている目の前のこのドアの向こうのはず。
「おーい、喜一」
 斜め向かいの部屋は確か、姉の美琴の部屋だった。闇雲に廊下で叫んでも迷惑になるだけだ。それにこれだけノックして起きないのなら、外から何を言おうが無駄だろう。
意を決してドアノブに手を駆ければ、がちゃり、と音を立てて重く高級感のあるドアが開いた。
「うわ、相変わらず汚ねぇ部屋だな」
 そこはゴミというゴミはないものの、溢れかえった物が散乱して十分な足の踏み場が確保できなかった。スリッパを履いたつま先で軽く避け、一人が通れるぐらいの道を作りながら歩き進める。昨日喜一が歩きながら読んでいたドリルも、足元に転がっていた。
 恐る恐るベッドのほうへ近づいた。ブランケットを頭まで被った大きな塊は、ぐうぐうと音を立てて規則正しく上下に動いている。デカい芋虫め。声をかけるも反応がない。それどころか俺の声が鼾にかき消されているほどに、こいつは熟睡しているようだった。昨夜は相当遅くまで起きていたのだろう。
「おい、起きろ馬鹿」
「……」
 強めに揺するが、風間同様になかなか意識は戻って来ない。無駄にデカいベッドの端っこで寝ているので、力を入れようにも腕が届かない。片膝だけ乗り上げていたのを今度は完全にベッドに乗り上げて、おまけにブランケットもめくって耳元で大声で喋ってやった。
「おい! いつまで寝てんだボケ!」
「ウっ……るせぇー」
 鼓膜に響いたのか、肩眉を上げて顔を歪める喜一。ざまあ見やがれ。
 喜一はいつも寝起きが悪い。低血圧なのか知らないが、意識が戻ってから動き出すまでにかなり時間がかかる。とりあえず反応はあったことだし、あとはこいつのお粗末な脳が起きるまでここで待つのみだ。己の身体を反転させ、大きな身体を背もたれ代わりにして座り、そこら中に散らばるものを積み上げてタワーを作っていた。
「何でこんなに物があるのに、こいつの部屋には収納がないんだ。無駄にお洒落にしやがって、デザイナーの設計ミスだろ」
 ブツブツ文句を言いながら偶然手にしたのは、ナースの格好をした女が映るDVDのパッケージ。その姿に医療関係の何かかと思い、ろくに見もせずにタワーの一番上に重ねた。
「は? いやいやいや……」
 そもそもいくら医者の息子だからって、喜一の部屋に医療関係のDVDなんてあるわけがない。ここに腐るほど積んでいるサッカー関連のものならまだわかるが、それ以外に興味を示したことが今まであっただろうか。不審に思い、もう一度それを手に取って裏を見れば、どうやら様子が違うことはすぐに分かった。
 ナースの格好はしてはいるが、靴下が腿の上まであったり、下着が丸見えだったりと如何わしいものばかりだ。それに誰のか分からない性器にモザイクがかけて映っている。
うわ、こいつ、こんなのが趣味だったのかよ! 見慣れないものに思わず視線が釘付けになっていると、後ろから伸びていた逞しい腕に気が付かなかった。
「おわっ?!」
 もぞもぞと起きていた喜一に、アダルトなパッケージに夢中になっていたところを後ろから抱き竦められた。ちょうど腹のあたりを太い腕に巻き付かれ、ブランケットの中に招き入れらる。ふわり、と鼻腔をくすぐる喜一の匂い。もう一年も前になるあの合宿の日も、こうやって同じベッドで抱きしめられていたことを思い出した。
「ちょっ、喜一!」
「うるせぇな、耳元で叫びやがって」
「やめ、耳元でっ……しゃべん、なァ!」
 背中を丸めて距離を縮めた喜一の、熱い吐息が耳元にかかる。仕返しなのだろうか、だが喜一は絶対にわざとやってやがる。避けようと首を竦めるが、大きな体にホールドされて身動きが取れない。寝起きの余計に低い声が直接鼓膜へと響き、腹の奥がじんわりと痺れる感覚がした。びりびりと震える肩。な、なんだこれは。
「何見てたんだ?」
「べ、べつに……あっちょっと!」
 するり、と大きな手が伸びて、俺が左手に握っていたDVDを取り上げた。こんなものを異性の幼馴染に見つかるだなんて、俺は被害者じゃないが、俺だったら絶対に御免だった。
 それに、その、なんというか……さっきから俺の尻のあたりに、喜一のモノが当たっている……気がする。朝だしこれが生理現象気なのは、保健体育の授業で習っていて頭では理解してはいる。だがこの状況では、それとは違う気まずい空気が流れる。
 パッケージをじいっと見つめる喜一は黙りこくっていた。やばい、流石に怒っただろうか。
「……」
「えっと、き、喜一」
「あーやべぇわ、思い出しちまった」
「え?」
 そう呟く前に、俺の唇は喜一の熱い唇で塞がれていた。
     ⌘ ⌘ ⌘
 眠りにつけないまま朝日を拝み、気がつけば心地の良い微睡みの中にいて——
 ああ愛しい声がする。
 俺の名を呼ぶ、愛しい声が……。
「おい! いつまで寝てんだボケ!」
「ウっ……るせぇー」
 ゆさゆさと身体を揺さぶられ、誰かが俺の睡眠を邪魔しようとしている。寝不足の脳にはまだ酸素が行き渡らない。鼓膜の強く震える感覚。ったく、誰だよこんな人の耳元で叫ぶバカは。
 被っていたはずのブランケットは首元まで引きずり降ろされ、閉じた瞼越しに太陽の光を感じた。眉間に皺を寄せていると俺を掴んでいた手が離れ、代わりに脇腹のあたりに寄りかかる一人分の体温。ひどく懐かしく、そしてあたたかい。次第に頭が働き始めると、俺様をソファ代わりに凭れている女のぶつくさ言う小言が聞こえてくる。聞こえてくるのは君下の声だけで、コイツ以外はこの部屋には誰もいなようだ。そうか、それならいいだろう。
「おわっ?!」
 腕を伸ばして抱き寄せれば、何かに夢中だったらしく驚いたのかヘンな声がした。相変わらず可愛げねぇな。細身の身体をしっかり抱え、ブランケットの中まで引き込めば抵抗はしなかった。黒髪に鼻を埋めると、ほのかに感じるいつもの君下の香り。最近はこうやって触れることもなかったので、随分と久しぶりに感じる。そういえば、俺が合宿で同じようなことしたのも、もうそろそろ一年前になるんだな。
「ちょっ、喜一!」
「うるせぇな、耳元で叫びやがって」
「やめ、耳元でっ……しゃべん、なァ!」
 仕返しとばかりに、身体を曲げて耳元で話しかけた。とびっきり低い、甘い声を出して。それに身体が反応したのか、震えるように絞り出された抵抗する気のないような声。
 あーかわいい。お前はそうやって素直にしてりゃ、他の女なんか目に入らないほどに可愛いのに。きっと今さえも顔を真っ赤にして、涙目を必死にこらえているのであろう。
 ふと見やれば、ブランケットの端からはみ出ている、小さな手に握られたパッケージ。なんとなく嫌な予感がしてそれを奪い取ろうと手を伸ばす。
「何見てたんだ?」
「べ、べつに……あっちょっと!」
 軽々と取り上げたそれを見て、一瞬息をのんだ。昨夜リビングの大画面で、皆でで見ていたナースもののDVD。その中に出てくる君下に似た女優。そして風間が何気なく言ったあの一言。そしてそれをオカズにして猿のように抜いてしまったことも全部。
「……」
「えっと、き、喜一」
「あーやべぇわ、思い出しちまった」
 全部、思い出してしまった。
「んっ……!」
 気が付けば、目の前のその唇を塞いでいた。
 あの日以来、見ないようにしていたふっくらとした唇。薄く開かれたそれに視線が釘付けになり、こくり、と俺の喉仏が動くと同時に頭の中の何かが切れる音がした。
 少し驚いたように見開かれた瞳と、至近距離で視線が合う。相変わらず抵抗はない。舌なめずりをするように君下の下唇を舐めてやれば、ほんの少しだけ開かれたその隙間にぬるりと舌を滑り込ませた。
「ん、んああっ……だめ、」
 流石にがっつき過ぎたのか、顔をぷい、と逸らせて絡めていた舌を避けられてしまった。伏せられた睫毛には心なしか涙の雫がついているように見える。
 果たして本当に嫌だったのだろうか。君下が強く握りしめているシャツの下、俺の心臓のあたりが少しだけ痛い。
「今更ダメって、夜這いしてきたのはどっちだよ」
「はあ? なんだよ夜這いって……それにもう昼前だぞ」
「関係ねぇ」
 そう言ってそっぽを向く小さな顎を掴んで、こちらへと向けさせる。涙で潤んだ瞳に、ほんのり赤い目尻。唇は俺の唾液で艶めかしく光っている。寝起きだということもあり、すっかり硬くなっている下半身を擦るように君下に押し付ければ、不安気に瞳が揺れる。
チッ。君下でもないのに、俺の口から思わず舌打ちが漏れた。
「あーやめた。お前にそんな顔されちゃ、こっちは何にもできねぇよ」
「えっ」
 解放してごろり、と君下に背を向けて横になった。胸のあたりまで落ちていたブランケットを再度引っ張って頭の上まで被る。やってらんねぇ。なんだよ、お前から来たくせに、あんな不安そうな顔しやがって。やっぱり俺じゃ嫌だってことかよ。
「風間には触らせたんだろ」
「な……」
「あいつは良くて、俺はダメなのかよ」
 ああ嫉妬とは、なんて醜いものだろう。そんなこともお構いなしに感情に流されるまま、腹の底から出た低い声で問う。
 そうだ、俺は風間やキャプテンに嫉妬している。自分の気持ちに気付いていながら、それをどうしたってうまく伝えられずにいて。月日だけが延々と流れてゆき、それでいて他の男たちに絡まれる君下に、俺は焦っていたのかもしれない。
 結局は一年前から何ら変わっていないのだ。ふて寝した俺の背の後ろ側で、突き放された君下が今どんな顔をしているのか知る術もなかった。
「なんだよそれ。お前、本っっ当に馬鹿じゃねぇの」
 地の割れそうなほどの低い声が鼓膜に響いた。馬鹿という、今はもう聞き慣れた言葉にピクリと身体が反応したが、何も言い返す気になれなかった。というよりも、何も言えないほどにその低い声に恐怖している自分がいた。
「お前、昔から語彙が足りなすぎるんだよ。風間がどうとか、そんなのは今はどうでもいい。俺はお前の気持ち一つすら聞かされずに、こ、こんな事されんのかよ」
 背中に痛いほど刺さる、君下の言葉。
 ああそうだ。確かに俺たちには圧倒的に言葉が足りない。長い年月を共に過ごしているうちに、知らないことが知っていることよりも少なくなってしまったのも事実だ。何も言わずに傍に居れる関係でも、言わなきゃ分からないこともある。たとえば、この話だってそうだ。
「なんだよそれ……お前だって何にも言わねぇじゃねぇかよ! あの日だって普通にキスも受け入れるし、俺はその気があるんだと……そしたら来須には跨るし、風間には身体触らせるし……俺の勘違いだったんじゃねぇかって思うと」
 言い終える前に、気持ちが先に走り出した。言葉にしながら勢いよく振り返れば、タイミングよく飛びついてきた君下の唇と俺の唇がぶつかった。がり、と歯のぶつかった、色気のない接吻。その痛みさえも全て包み込むように、君下の身体へと腕を回して唇を貪った。
「ふっ、ん……敦、あつし……好きだ、すき」
「ん、あっ、いま、しゃべんな……ばーか」
 一瞬、お互いの視線が絡み合い、ふふ、と笑いが漏れる。
 ああ、さようなら。俺の殺して埋めてきた初恋も、いまは温かな太陽の下、こうして二人でくだらない事として笑いあえるのだから、きっと少しは救われるだろう。再び口づけを落とせば、示し合わせたかのようにそっと瞼を閉じた。
「あ、まって、おい敦……んっ」
「はッ……もう、待たねぇよ……っ」
「ちょ、あっ……ほんとに、待てって!」
「あ?」
 先程までの恥じらいが嘘のように、積極的に舌を入れてくる君下を制した。俺の理性がなくならないうちに引き剥がせば、とろん、と蕩けさせた瞳を不思議そうに潤ませてこちらを見ている。少し折れかかっていた己の熱がぐんと質量を増すのを感じながら、小さく苦笑いした。
「俺、まだ肝心なこと聞いてないんだけど」
「へ……?」
 わけが分からないという顔を向けてくるが、俺は騙されない。今日こそは絶対に吐かせるという意気込みを込めて、座りなおした胡坐の上に君下の身体を持ち上げて乗せる。いつもは身長差のせいでちぐはぐな視線だが、こうして座ればもっと近づけるし、何より今は同じ目線の高さに君下の瞳がある。真っすぐにその瞳を見つめると、心当たりがあったのか少しだけ視線を逸らされた……ような気がする。
「お前は俺のこと、その……どうなんだよ」
「まさかここまでさせといてわざわざ言わせるのかよ」
「俺だけ言うのはずるい」
 なあ、と顔を突き出せば、君下の上半身は少しだけ後ろに仰け反った。手で支えてやれば、俺の前に胸を突き出すような体勢になる。なるほどな、確かに風間が言う通り、思ったより君下の胸は大きいようだ。まるい弧を描く双丘のあいだに、ぽふ、と顎を乗せてやれば、やわらかな感触が当たる。
「へんたい」
「もう俺のだ、何とでも言え。それで?」
「う……」
 抱きしめる腕に力を籠める。どこにも逃げ場なんて今更ないっていうのに、それでもささやかな抵抗をしようとする腕の中の存在が愛しくてたまらない。寝起きでボサボサであろう俺の髪をいじりながら、気を逸らそうとしたって無駄だ。もうこの手は放してやらないのだから。
「キスしてくれたら、教えてやってもいい」
 彼女いない歴十七年に別れを告げるのは、どうやらキスのあとらしい。
     ⌘ ⌘ ⌘
「好き……俺はずっと、喜一のこと、好きだった」
 言葉にすれば、それはあっという間に空中に消えてしまいそうで。少し泣きそうになりながら、俺はありのまま��気持ちを正直に告白した。ばくばくとうるさい心臓が、ぎゅう、と締め付けられたように苦しく、切ない。これがきっと、恋をしているということなのだろう。
「んっ……すき、きいち……んん、すき」
 好きという気持ちと共に、ぼろぼろと溢れて止まらない涙。頬がつめたく濡れるのも構わずに、俺は夢中で喜一の唇に吸い付いた。この胸を渦巻く気持ちを表すのに、言葉だけじゃ本当はちっとも足りていない。唇から唇へと、想いがそのまま伝わればいいのに、なんて。非科学的なことを考えてしまうほどには、今の俺には余裕なんてなかった。
「ん、分かったから、泣くなって」
「あっ……ばかぁ、すき、だから……っ」
 熱い指先が俺の頬を撫でた。涙を擦り付けるように何度か軽くこすり、そのまま指は滑り俺の唇へと差し込まれる。しょっぱいのは、涙の味なのか。舌でしゃぶっていると、喜一の顔が近づき、涙を拭うようにべろりと頬が舐め上げられた。
「ふふ、犬みたい。バカ犬」
「うるせぇ。バカだとか好きだとか、忙しい女だな」
 再び唇に口づけられる。何度も、何度も角度を変えて重なる唇。気持ちいい。触れるたびに、甘く切ない痺れが下腹部に集まる。もっと、もっと欲しい。胡坐をかいた喜一の上に跨っていることも忘れて、快楽に任せて下半身を擦り付けようと勝手に腰が動いた。いつのまにか、涙は止まって頬は乾いていた。
「うわ、やらしー」
 喜一のとびきり低い声が、耳元で鼓膜をびりびりと揺らす。こいつ、わかっててやっているのだろうか。煽られているようでそれが余計に興奮させる。再び口付けながら、喜一の逞しい首に両腕を回せばそのまま後ろへと押し倒された。背中に触れた、やわらかなクッションの感覚。見上げれば、そこには余裕のなさそうな顔をした、俺の愛しい人。真っすぐと俺を見つめるその瞳は熱を帯びていて、まるで獲物を狙う獣のようにぎらついていた。
 ああ俺はこの男に、今から抱かれるのだ。
     ⌘ ⌘ ⌘
「ん、はぁ、ああ……っ、あ、あ」
「敦、好きだ……すき、ん、っ」
 お互いの唾液で柔らかくなった唇を吸い続ければ、敦のブラウンの瞳はどろどろに溶けきったようだった。時折秘部を擦り付けるかのように揺れる腰が、気持ちがいいと訴えているようで。焦る気持ちを抑えようにも、俺の理性だってもうギリギリだった。快楽に溺れそうな好きな女を目の前にして、それはいつ切れてもおかしくはない。 
 唇を味わいながら、震える指で胸の前のボタンを外してゆく。センスのない星柄のブラウスも、今はもう目に入らない。それにどんなにダサい服を着ていようが、脱がしてしまえば同じことだ。
「あ……やだ、恥ずかしいから……」
 すべて外し終えれば、真っ白な日焼けしていない肌があらわれた。真っ先に視線が行くのは、風間の言う通り着痩せするタイプらしい豊満な胸。やわらかそうな双丘を包む下着まで柄物かと思いきや、意外にも黒のレースのついたシンプルなものだった。敦の白い肌によく映える。やっぱり黒の下着ってエロいな。それにしても。
「なんか、アレだな。窮屈そうだな」
「あ、いや……それは最近急にデカくなってきて……」
「まさか買い替えてねぇっていうのか」
 両腕で顔を隠されて表情が見えないが、恐らくは当たりだろう。今度なにかのタイミングでちゃんと敦に合ったサイズの下着でもプレゼントしてやろう、と頭の隅で考えつつ、背中に腕をまわしてパチン、とホックを外した。
「あっ」
 意外にも簡単に外れたホックに、俺は内心で少しだけ安堵した。緩んだ布を剥ぎ取るようにして敦の腕から引き抜けば、今度は両手で大きな胸を抱えて隠していた。
「なんで隠すんだよ」
「……恥ずかしい」
「全部、見せろよ。俺はお前を……敦を俺だけのものにしたい」
 そう言えば、顔を真っ赤にしてそっぽを向く敦。……そりゃそうだよな、つい最近まで女であることを誰にも見せたくなかったのだ。ここまでしておいて、俺は急に冷静になりはじめていた。
 何を急いでいるのだろう。まだやっと、お互いの気持ちに気付き合えたばかりではないか。こいつを誰にもとられたくなくて、それで必死になって心だけでなく、身体まで手に入れようとして。頭は冷静でも、俺の下半身は今にも射精してしまいそうなほどに張りつめていた。それが情けなくて鼻で笑って誤魔化すことしかできない。
「悪い……こんなことするの、俺たちにはまだ早すぎたよな……」
「ちが、っ……そうじゃない」
「敦?」
 声は震えて泣き出しそうだったが、未だ横を向く顔から表情は読み取れない。焦らずに、敦が自分から口を開くのを待とう。そう決めて、敦に覆いかぶさっていた身体を避けようとすれば、胸を隠していた腕を解いて両手で顔を挟まれた。少しだけ潤んだ瞳とまっすぐぶつかる視線。
「……」
「俺も、お前に全部見て欲しい。全部だ。お前だけの女にして欲しい……」
「敦……」
 そう言って今度は、俺の手を取り敦の心臓のあたりへと触れさせた。手のひらから伝わる、とく、とく、と波打つ心臓の音。ああこいつも俺と同じで、緊張しているんだな、なんて当たり前のことをぼんやりと思った。
「嫌だったらすぐ言えよ?」
 それが今できる、俺がこいつにしてやれる精一杯の優しさだった。
     ⌘ ⌘ ⌘
 恐る恐る自分の身体に触れる喜一を見るのは、なんだかとても新鮮だった。
 壊れ物を触るかのようにやさしい指先は、普段のガサツなあの喜一とは思えないほどに丁寧で、俺を怖がらせないように気遣ってくれているのだと感じた。両手で包むように双丘に触れられ、なんだかふわふわした気持ちになる。感触を確かめるかのように何度も揉む姿に、ああこいつも初めてなのだなと確信を強めた。
 そう思うと急に愛おしくなって、喜一の首に腕を回して手繰り寄せ、半開きの間抜けな唇にキスを落とす。ちゅ、ちゅ、と短いリップ音をわざと立てて、何度も啄ばむように唇を咥えた。
「ん、ああっ……それ、だめぇ……っ」
「あ、ダメか?」
「やぁ、ちが……」
 キスに気を取られていると、やわやわと触られていただけの胸の頂を喜一の指が引っ掻いた。思わずビクリ、と腰が跳ね、喘ぎ声のようなものが漏れてしまった。下着がまた濡れたのが分かる。とっさにダメとは言ったものの、そこはどちらかと言えば気持ちよくてダメ、なのだ。
「ここ、気持ちいいんだろ?」
「ひっんぅ……」
 にやり、と笑った喜一は、今度はそこを親指の腹で押すように擦ってきた。わざとらしく耳元で囁く声が余計に子宮に響く。背を仰け反れば、余計に胸を突き出すような形になった。その反応に満足したかの様子の喜一は、顔を近づけて赤い舌先でその飾りを舐め上げた。
「ひぁっ! き、ちぃ……」
 舌先を尖らせ何度も執拗に転がされれば、徐々にそこは色を濃くして勃ちあがる。ぷくり、と存在を主張する乳首に吸い付き、きつく吸われると背筋をあまい電流が走り抜けた。
「お前、ちょっと感度良すぎるんじゃねぇ? こんなエロい体して、今更やめる気なかっただろ」
「んぁ、あ……喋ら、ないでぇ……」
 敏感になったそこは僅かな吐息にさえ反応する。羞恥と快感で頭がおかしくなりそうだ。喜一は右胸だけを、子供のように吸い付いたり、まるで俺にその様を見せつけるかのように舌で転がしてみせる。左は大きな右手で揉みながら中心を撫でまわされている。じわり、と濡れる下半身がより一層主張するかのように動いた。
 もう我慢できない。このむず痒い欲を解放したくて仕方がない。早く、はやく。
「きぃち……っ、もう、やめてぇ……」
「あ?気持ちいのに?」
「ちが……! もう、ほ……欲し、いからっ……ん」
「何を?」
「へ……?」
 一瞬、力が抜けてしまった。
 欲しい。言葉だけではなく、先ほどから全身でそう言っているのに。
 先程まであんなに余裕がなさそうだったのに、今は俺の胸をしゃぶりながらにやにやとたくらみ顔でいる。どうやらこいつはすっとぼけたふりをして、俺に言葉で言わせたいらしい。急に絶望感が込み上げる。なんて言えば満足してくれるだろうか。なんて言えば、喜一の欲しがっている言葉を伝えられるだろうか。
「あ……ぅっ、きーち、」
「ここ、触ってほしいのか?」
「んああっ」
 股の間に、硬い何かが押し付けられた。それが喜一の勃起したペニスだということに気付いたのは少し遅れてからであった。スカートは押し倒されたときに既にめくれていて、秘部は実質下着のみを纏った状態だ。薄い布越しに押し付けられる、スウェット越しでも十分に硬いとわかるペニス。大きくグラインドするように押し付けられ、ちょうど気持ちの良いところを引っ掻かれて、切ない声が零れ落ちる。
「あ、そこっ……きもち、ぁあっ……んんん」
「触っていい?」
「あぅ……ん、はやくぅ」
 どっちか分かんねぇじゃん。そう言いながらも右手は胸から離れ、指はショーツ越しの濡れた割れ目をなぞり上げた。背中を駆け上がる快感に、腰をガタガタと揺らして堪えようとした。指の腹で割れ目を何度も往復され、その度に陰核への甘い刺激が与えられる。
「ずっげぇ濡れてる……そんなにここで感じてたのか? それとも、キスから?」 
 視線をこちらに合わせたまま、ちゅ、と軽く乳首にキスを落とす。ああはやく、俺は目の前のこいつが欲しいのに。もどかしい気持ちをどうにもできなくて、堪えきれずに喜一の襟足を握りしめていた手を腹のほうへと伸ばした。
「わっ……敦?」
「俺も、喜一のに触りたい……これ、」
「え……いや、俺のはいいって……うっ」
 喜一の硬くなったそれに指先が触れれば、スウェットの中で一瞬、ピクリと跳ねるのがわかった。かたちを探るように手のひらでなぞるそれは、びっくりするほど熱かった。返事も聞かないまま下着ごとずるり、と下ろすと、喜一の勃起したペニスが勢いよく飛び出した。そこまでしてようやく腹を括ったらしい喜一は、俺の上から動くと膝立ちになって手招きをする。
「無理してんじゃねぇよな」
「してない。俺だって、お前に気持ちよくなって欲しい……」
 顔を赤らめながら正直な気持ちを言葉にすれば、伝わったのか喜一の頬も少しだけ紅潮しているようだった。なんだかそれが嬉しくて、喜一の見ていないところで俺の膣がきゅう、と切なげに締まるのを感じていた。
     ⌘ ⌘ ⌘
「きもちい?」
「……っ、ああ……」
 敦の細い指が竿に絡みつき、拙い動きで上下に擦れば俺の口からも自然と声が漏れた。
 気持ちいい。初めての、しかも好きな女とのセックスで興奮していないわけがない。正直キスだけでもやばかったというのに、まさか、敦が俺のモノを触りたいと言い出したときには気を失いそうになってしまった。不安げにこちらを伺いながら、一生懸命に俺のイチモツを握る姿に眩暈がする。
「ひぇっ?! ちょっ、喜一! 何触って……んん、」
「折角だから一緒に気持ちよくなりてぇだろ?」
「ばかぁ……っん」
 俺だけやられっぱなしってのも性に合わない。前かがみになっていた敦の尻に指を這わせて、未だ脱がせていない下着の隙間から指を差し込んだ。濡れているそこをさらに滑らせ、指先は勃起した陰核を捉える。やさしく擦れば敦は背を跳ねさせて反応した。
「それ、だめぇ、ヘンに、なっちゃうぅ……」
 濡れた声が余計に股間に響く。秘部への刺激に敦の手は先程から止まっていた。
「ほら、手、止まってるぜ」
 もう一方の手で敦の手ごと竿を握って、上下に動かしアシストしてやる。根元から絞るように裏筋を擦り上げ、亀頭をぐりぐりと撫でまわせばすぐにでも達してしまいそうだった。もう我慢できない。これ以上耐えていると俺のほうが気が狂いそうだ。このまま擦って先に一発出してもいいかもしれない。手の動きを速めて、込み上げる射精感に堪えていると、亀頭を生暖かいものが包んだ。
「え? あ、敦?」
「ひかえひ」
 俺は思わず両方の手の動きを止めてしまった。モゴモゴと喋る敦は、俺のペニスを頬張っていた。亀頭にぱくりと吸い付き、溢れ出た先走りを拭うように割れ目に舌を這わせられる。それだけでも今にも射精してしまいそうだというのに、さらに咥えられない部分を小さな両手で挟むようにして擦り上げられた。
 チクショウ、こんなのどこで覚えて来るんだよ。不意打ちのフェラチオに、俺のペニスはこれ以上持ちそうにはない。
「やべ、敦、はなせ……!」
「ん、んぐっ……やらぁ、あ、んん、」
「くっ!」
 目の前の艶のある黒髪を握りしめれば、敦は俺の言うことに反してペニスを喉の奥まで飲み込んだ。全部は入らなかったがやわらかな上顎の先は狭く締まっていて、亀頭へ刺激を与えるのには十分だった。
 あ、もう出る。そう思った時には既に射精は始まっていて、慌てて引き抜こうもぴっちりと締まった喉から引き抜くのは容易ではない。結局そのまま敦の咥内で射精し、喉の奥に勢いよく出た精液に、敦の綺麗な顔が歪められた。
「っふ、ゲホッ、ゲホっ……んん」
「すまん……出してくれ」
「……」
 口元を両手で押さえ、目尻に涙を浮かべた敦は無言でふるふると頭を振った。
 どうしたのだろう。俺の前で吐き出すことが恥ずかしいのだろうか。少し硬度をなくした己の息子と同様に不安げに見つめていると、しばらくしてこくり、と白い喉が動いた。
「え、まさか、飲んだ?」
「ん」
「俺の精子を……?」
「何回も言うな、ばか」
 なんだろう、この胸の内を満たす満足感は。涙目でこちらを見つめる小さな存在がどうしようもなく愛おしい。抱き寄せて、敦の濡れた唇へと口づけた。俺の精子がついていようが構わない。もう一度、もう一度と、触れた唇からびりびりと小さなあまい電流が走る。唇を挟んで、吸って、内側を舐めるように舌でなぞれば、俺の下半身はすぐさま元気を取り戻した。溶けだしそうな瞳に見つめられて、俺の理性ももう消えてしまったと悟る。
「きーち……?」
 キスをしたままその小さな体を押し倒して、俺は着ていたパーカーを乱暴に脱ぎ捨てた。
     ⌘ ⌘ ⌘
 薄暗い部屋に、喜一の半裸が晒される。昔から見ているというのに、いつのまにかほどよい筋肉がついた男らしい身体に思わず見とれてしまった。
「何見てんだよ……俺の裸なんて、今更だろ」
「ん、でも、トレーニングサボってる割には、いい身体してるよな」
「それ、褒めてんのか」
 真っ赤な髪が近づいてきて、ちゅ、と鼻先にキスが落とされた。ふわり、と香る、喜一の匂い。そういえば、香水とか使っているのかな。だが思い返せば、出会った時から喜一はこんな匂いがしていた。清潔感があるすっきりとした匂いなのに、それでいてどこか甘い香りがする、不思議な匂い。この部屋だって、喜一の甘い匂いで充満している。先程から握りしめているこのブランケットも、枕も、全部喜一の香りだ。
「あっ……ん、やだ、そこばっか……!」
「じゃあどこがいいんだよ」
 ここか? そう耳元で囁かれて、ぞくぞくと鳥肌が立った。欲しいと思った場所を、喜一の指が的確に掠める。堪らずに震えながらも漏れる吐息。ああはやく、はやくお前のすべてが欲しい。
「もうぐちゃぐちゃだな……ここも、全部」 
 いつの間にか下着は剥ぎ取られ、俺の右足に引っかかったままになっていた。喜一の長い指が割れ目をなぞり、そのうちの一本が体内へと侵入してくる。身体を割られるはじめての感覚に、目尻に生理的な涙が浮かんだ。
「痛いか?」
「んん、痛くない、けど……なんか、へん」
「じゃあ泣くな。痛かったらすぐ言えよ」
 ちゅ、と落とされる眉間へのキスに、少しだけ緊張が和らいだ。それを見計らったかのように、狭い中を引っ掻きながら指はさらに奥へと進む。腹側を擦りながらゆっくりと出し入れされれば、むず痒いようなもどかしい感覚に襲われて、自然と腰が前後に動いてしまう。もうとっくに我慢なんてできなくなっている。喉の奥に絡まっている、喜一の精子の味を思い出しながら、これから起こることに期待して淫らな姿を晒しているのだから。
「腰、揺れてる」
「ぁ……もっと、欲しい、きーち……」
「もうちょっと待っていろ」
 指をもう一本増やされて、さらにもう一方の手で陰核を触れられれば、抑えていた声は自ずと漏れてしまう。
 気持ちいい。遠くでじゅぷ、じゅぷと膣がかき乱される音がする。羞恥と快感で頭がどうにかなってしまいそうだ。腹の奥がきゅう、と収縮するのを感じる。もっと奥まで欲しい。もっと、もっと。
「あっあっんん、ん、きいち、き、ぁあっ……あ、」
「敦……もう我慢できねぇ」
「ん、おれ、も……」
 ちゅぷ、と音を立てて、指は勢いよく引き抜かれた。圧迫感がなくなったそこは物寂しさだけが残り、余計に切ない気持ちにさせた。俺の愛液がたっぷりと絡みついたその指を舐めながら、喜一はあたりをきょろきょろと見回してある一点で視線を止めた。ほとんど物置と化した学習机の二番目の引き出しの中、いつも使っているブランド物の財布を取り出すと、その中から見慣れないパッケージを取り出した。
 銀色の包みをしたそれの端っこを口で咥え、びり、とパッケージを引き裂くと、中に入っていたゴム製のものを手にする。反対の手で喜一の反り返ったペニスを何度か扱き、スキンを亀頭にぴたりと貼り付けた。
 なんだこいつ、思ったより手慣れてるな。一連の流れをあっという間にやり終えたのをぼんやりと眺めながら、ちょっとした嫉妬心が芽生えた。何度か入り口のあたりをなぞられ、ぴたり、と膣口に亀頭が宛がわれる。
「挿れるぞ」
 だがそれ以上の思考は許されなかった。次の瞬間、喜一の大きなペニスがゆっくりと侵入してきて、裂けるような痛みが下半身を襲った。
「いっ……ぁ、痛ぁ、ん、」
「ごめん、ごめんな、敦」
「だ、大丈夫、だからぁ……全部、ちょうだ……ああっ!」
 全部言い終える前に、喜一の腰はぐん、と奥まで突き進み、俺の膣は喜一のモノでいっぱいになった。痛くて苦しくて息ができないほどだったが、やっと大好きな喜一と繋がれたことがそれ以上に嬉しくて。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって、悲しくなんてないのに、自然と涙が次から次へと零れ落ちた。
「��めん、敦……痛いよな」
 どうやら俺が痛くて泣いていると勘違いしたらしい。喜一が心配そうに、俺の頭を優しく撫でた。普段はちっとも気を遣えない馬鹿が、こんなときだけ優しかったりするのはずるすぎる。ちょっとだけ悔しくて、意地悪を言ってやりたい気持ちになる。
「すっげぇ痛い。ばか。デカすぎるんだよ、ばか」
「わ、悪かったなデカくて」
「ばか、すき。だいすき……」
 喜一の首に両腕を回して引き寄せると、自分から口づけをした。ああ愛おしい。
 やっと気持ちが通じ合えて、そして体まで繋がって。まるで心まで通ったような気持ちになるのは気のせいだろうか。ゴム越しにはじめて感じる喜一のペニスは、驚くほどかたくて、そして熱かった。
     ⌘ ⌘ ⌘   
「ん、っあ、あっ、あっ、んぅ、きーち、ぃ」
 止まんねぇ。止められねぇ。敦に負担を掛けたくないと頭では分かっているのに、動く腰を止めることができなかった。
 やっとの思いで繋がった身体は、思っていた以上に具合が良くて。理性を失った今の俺には止めてやることができなかった。だが痛みだけだった最初の頃とは違い、次第に快感のほうが勝ってきているのか、ほとんど悲鳴のようだった敦の声にも色っぽい響きが混ざっていた。
 ちゃんと気持ち良くさせてやれてるだろうか。眉間に皺をよせ、シーツを握りしめている敦が少しだけ気がかりだった。
「っ、敦……声、ちょっと抑えられるか?」
「ふぇ……? ん、んっ、ぁっ」
「ん、いい子だ」
 目の前のことに夢中ですっかり忘れていたが、一階には勉強会で集まった皆がいるのだった。唇で敦の唇を塞げば、少しくぐもった声になったが、到底抑えられそうにない。それにこの大きなベッドが、先程からギシギシと激しく音を立てていたので、これ以上何をしてもあまり意味がないのだと悟った。
 敦のナカは思った以上に柔らかくて、今にもペニスが溶けてしまいそうなほどに熱かった。ゴム越しに伝わる体温が愛おしい。動くたびにきゅう、きゅうと締め付けてくる狭い膣を行き来すれば、そのたびに切ない声が漏れだした。もっと、もっと、と俺の本能を煽る声。反動で揺れている乳房に手を伸ばし、頂を指で弾けば一層甘い声が漏れる。ぎゅう、と締まって俺を離さない膣に、意識が飛びそうなほどの快楽を与えられて。
「やば、締めすぎ、だろっ……」
 宙に浮いていた敦の脚を抱えて、俺の肩の上に乗せて挿入すればより深く繋がった。角度を変えながら何度も中を擦るように動かして、腹側の入り口近くのある一点を亀頭が突き上げた途端、敦の細い腰がビクビクと跳ねあがるのを俺は見逃さなかった。
「あうっ、な、だめぇっ……! なんか、へん……っ」
「ここ、いいんだろ?」
「だめっ……アっ、んんんっ……あっ、あっ、ア、んんぅ、あンっ」
 腰を掴んでそこを重点的に攻めれば、枕やブランケットを握り締めて必死に快楽に耐える姿が視界に入った。はじめて与えられる大きすぎる快楽に、身体が追い付いていないのだろうか。腰は連続して痙攣し、元から狭い膣は俺のペニスを食いちぎらんばかりに締め付けている。
 あ、も、持ちそうにない。少々乱暴になりながらも、打ち付ける腰が止まらない。敦の咥内でイったばかりなのに、またしても敦のナカでイキそうだ。
「ひぁっ……あっ、んんン〜〜〜〜っ!!」
「うッ、きっつ」
 驚くほどきつい締め付けと共に、敦は果てた。細い腰をこれでもかと浮かせ、うっすらと割れた腹筋はビクビクと小刻みに痙攣している。まるで俺の精子を搾り取ろうとしているかのような、うねるような膣の収縮の波にのまれ、俺もあっけなく敦のナカで果てた。
「敦……好き、好きだ……っく、」
「ぁう、んんっ……ん」
 抱き寄せれば、しっとりと湿った肌が重なる。どくん、どくんと脈打つ心音を聞きながら、俺は敦のナカで思いっきり射精した。それは長く長く、永遠に続いているかのような時間だった。
     ⌘ ⌘ ⌘
「なぁ、開けてもいいと思うか」
「うーん……やっぱり止めたほうがいいんじゃないかな」
 君下先輩が大柴先輩を起こしに行って、恐らく三時間は経っただろうか。未だに降りてくる様子がない二人にちょっとだけ心配になった僕と、いかにも好奇心に目を輝かせている来須くんの二人が調査隊として二階へと派遣された。
 部屋を見つけるなり僕がノックをしようとすると、ちょっと待て、と来須くんに止められた。すると彼はドアに耳を貼り付けて、中の様子を窺っているようだった。こいこい、と手招きをされて、少しの罪悪感を持ちつつも耳をドアに宛ててみたが、中からは何も聞こえなかった。もしかして、二人でどこかに行ってしまったのだろうか。困惑した表情を浮かべた来須くんは、同意を求めるかのように僕に質問した。
「いや、やっぱり開けようぜ、柄本。もし居なくなってたら探さなきゃなんねぇし」
「でも……」
「いーから。どうせ怒られんのは俺だ」
 そう言うなら僕にわざわざ聞かなくてもいいのではないだろうか。そうは思ったが口にはしなかった。
 きっと彼には、この中の状況に大方検討が付いているのだろう。それでも自分の目で確かめたい何かがきっと、ここにはあるのだと僕は悟った。それなら仕方がない。来須くんの責任ってことで、僕も付き合うことにするよ。
「でもノックはしたほうがいいんじゃ」
「構うかよ、今更だ」
 そう言った来須くんは、ドアノブを勢いよく回して扉を開けた。昼間だというのに薄暗い部屋は、電気もついていなければ、さらには遮光カーテンも引かれていた。物が溢れ返り、散らかった部屋の角には、大きなベッドの上で一定のリズムで動くブランケットの山。それに、甘い香りに混ざっている、独特の、なんというのだろう……何とも表現し難い匂いがした。
「来須く……」
「戻るぞ」
「え、でも」
 そう言って、足を踏み入れることなく扉を閉めた来須くんのほうを見て、僕は言葉の続きを失った。
 何と言ったらいいのだろう……これも表現に困ってしまうのだが、そのときの来須くんは、今までに見た事のないような複雑な表情を浮かべていた、と思う。
 そしてくるり、と後ろを向いて、すぐに階段を下りて行ってしまった。階段の下で待っていたらしい、新戸部くんや白鳥くんと話す声が聞こえてくる。いつも通りの来須くんだ。僕はどうしてもあの表情の意味が気になってしまった。何事もなかったかのような振舞いの意味も、きっと何かあるに違いないと直感で思った。
「ごめんなさい、君下先輩、大柴先輩……!」
 小さな声で謝りながらも、僕はドアノブに触れて勢いよく押し開けた。恐る恐る一歩足を踏み入れると、すう、すうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
 なんだ、二人とも寝てしまったのか。そう解れば少しだけ緊張がほぐれた。もうお昼はとっくに過ぎていて、きっと二人ともお腹を空かせているだろう。僕らは先程臼井先輩が作ったパンケーキと、昨日の残りのカレーをみんなで頂いてしまった。二人を起こしたほうがいいかな、そんな親切心でベッドまで近寄って、僕は固まってしまった。
「来須くん……ごめん」
 僕はなんとなく、来須くんの表情の意味を理解してしまったような気がした。
 幸せそうな二人の寝顔。それに肩までしか見えていないけど、ブランケットの下は二人とも裸のようだった。
 僕は慌てて視線を逸らして、音を立てないように静かに扉を閉めた。この話を、あとでみんなになんて説明しよう。そんなことを考えながら、僕は元来た階段をゆっくりとした足取りで降りて行った。
                           (さよならはキスのあと、)
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yo4zu3 · 4 years
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初恋は土に埋めた(文庫再録版)
「で、今日は何の用だよヘボフォワード」
 君下敦は頬杖をつきながら、見慣れた天井を見上げていた。黄色い光を放つ蛍光灯が、途切れ途切れに点いたり消えたりしているのをぼんやりと眺めている。替えはどっかにあったかな、なんて、そんなことを考えながら。
「ヘボじゃねぇぞブス」
「それが人様に頼み事をする態度なのか? あぁ?」
 そこから少し視線を下ろすと、偉そうに俺の前に仁王立ちする大柴と目が合った。中学を卒業したばかりにしてはデカすぎる体格に、座りながら見上げ続けるのは一苦労だ。
 どうせ何も買わない癖に。どういうわけだかここ最近のこいつは毎日のように、こうして君下スポーツへと足を運んでいた。そして毎日のように俺に練習を見てくれと頼み込む。何を言われても無視を決め込む俺の前で、今日もかれこれ一時間はこうして偉そうにレジ前を占領していた。
 全く、この聞かん坊の大木は追い返すだけでも一苦労だ。壁掛け時計にちらっと視線を流すと、もうじき午後八時になろうとしていた。あいにく店終いの時間だ。首が取れてしまわないうちに、この大男にもさっさと帰って貰うことにしよう。
「頼む。練習付き合ってくれ」
「お客さん、今日はもう店じまいでーす」
「頼んでんのにスルーすんじゃねぇよ」
「あ? 何だって?」
「すんませんお願いします」
 ぺこり、と勢いよく頭を下げる。その反動で背負っていたエナメルバッグが勢いよく赤い頭を目掛けて落ち、ボスッと痛そうな音がした。ざまあみやがれ。内心で笑いながら、追い返すように表のシャッターに手を掛ける。歴史ある古い店内は、まだ営業時間だというのに客はこの男以外に居やしない。
 ガラガラとシャッターを半分ほどまで下ろしてみるが、大柴は未だ動じずに誰もいない店内で頭を下げ続けている。チッと舌打ちをひとつして、肩まで伸びた黒髪をくしゃくしゃと掻き乱した。俺はどうにもこの男の頼み事に弱いらしい。
「……一時間だけだぞ」
 ため息交じりにわざと面倒臭そうに呟いて、勢いよくシャッターを下ろした。
     ⌘ ⌘ ⌘
 幼馴染の君下敦は、三代続くスポーツショップを営む父を持つ。
 聞けば君下の母は物心ついたときには既に他界しており、一緒に過ごした記憶はほとんど無いという。なるほどな、と俺は思う。男手一つで育てられた敦がサッカー少女になったのも、ぶっきら棒で男勝りな性格になったことも頷けるわけだ。
「親父、ちょっと出かけてくる。すぐ帰るから!」
 店の奥にいるらしい父親へ声をかけると、返事なのかわからない、だらしのない低い男の声がした。そういえば店主だというのに、こいつの親父を店先で見たことは一度もない。昔はよく試合に来ていたらしいが、高校に入りプレーをしなくなってからは、比較的時間に余裕のできた君下に店番すら任せるようになったという。もう歳かもしんねぇな、と不貞腐れた様子で語っていたのは、まだ記憶に新しい。
「で、何すんだ?」
 高校に入るとマネージャーに転向したというのに、相変わらず器用なボールさばきでリフティングをしてみせた。宙に浮くボールは驚くほど軽やかで、まるで引力でも働いているかのように君下の足元へと吸い込まれてゆく。
「自慢かよ。相変わらず嫌味な女だな」
「うるせーな暇なんだよ。やるならさっさとやるぞ」
 そう言うとボールは君下の足元を離れ、俺の膝下へと綺麗な弧を描いてやって来た。それをトラップして受け取れば、腕まくりをして腰を低く構えた君下が、まっすぐとこちらを見据えている。その眼差しはサッカー選手のそれそのものだ。ゾクリ、と俺の背中を緊張感が走る。
 ああ、やはりこいつはサッカーをしているときが一番いい顔をしている。勿体無いな、なんて口が裂けても言えないが、今まで一度も思わなかったわけではない。
 俺はこいつが他の誰よりも努力家なのを知っている。
 女子ながら東京都選抜にまで参加していた君下は、都内有数のトップ選手の中でも呆れるほどに努力をするやつだった。
 俺のようにある程度サッカー経験のあるやつは、足元にボールを持つだけでそいつのサッカーセンスがどれ程のものか感覚で分かるのだ。言うまでもなく、君下は俺が見てきた他のどの選手よりも、群を抜いてうまかった。
 男と比べれば特別なドリブルや足の速さ、強靭なフィジカルなどは持ち合わせていないが、それを埋めるだけの努力と頭の良さを持っていた。特にフリーキックなんて、あいつの右に出る者はいなかったように記憶している。
「くっ……相変わらず、だなっ!」
「ハッ。ちょっと鈍ったんじゃねーの?」
 低い位置にいた君下にボールを奪われ、何度も取りに行くがなかなか奪い返せないでいた。久しぶりに対戦した君下は思いの外小さく、また少しだけ身長差が広がったような気がした。ボールの扱いがうまく小回りが利く。俺にとってこれほど厄介な相手は他にいないだろう。
 それは俺の意識が一瞬、ボールから反れた瞬間だった。
 ボスッ、と反対側へと蹴り上げられ、しまったと思った頃にはボールは俺の頭上を超えて、背後でゴールネットが揺れていた。二人で練習するときは、いつも決まって君下の家の近くにあるこの河原だった。フットサル用の小さなゴールに見事に決めて見せた君下は、よっしゃ! と嬉しそうにガッツポーズを繰り出す。
「……俺の負けだな」
 整っていない息のまま、ハハ、と口元を緩めれば、君下の眉間に皺が寄った。彼女も同じく肩で息をしているようだった。寒さのせいか鼻の先が少しだけ赤い。
「お前があっさり負けを認めんの、なんか気味悪いな」
「好きに言ってろ」
 やっぱり辞めるには勿体無いな、なんて思いながら。俺はネットに絡まるボールを拾い、君下に向かって再びパスを出した。
     ⌘ ⌘ ⌘
 大柴喜一に出会ったのは、俺がまだ小学生の頃だった。
『隣町にすごく上手い奴がいるらしいぜ』
 きっかけはいつものように近所の公園でボールを蹴って遊んでいる時に、仲間の誰かが俺に言った何気ない一言だった。
 あっちゃんは天才だとか褒め散らかした友達たちが、口を揃えて言うものだから気になるのは必然だった。その後すぐにみんなで噂の少年を偵察しに行って以来、俺の心はそいつに釘付けになることも知らずに。
「君下」
「うおっ?! 何だよ急に」
 ゴウンゴウンと低い音を立て、高速で回るカラフルな色のビブス。それらを眺めて
昔のことに思いを馳せていると、後ろからひょっこりと現れた男。二年生の水樹だ。
「おなかすいた」
「さっきおにぎり食ってたじゃねーか!」
「足りない……」
「……」
 精一杯しょんぼりしてみせるが、生憎俺には通用しない。先程部員のために握った大量のおにぎりは、どうやら既に食べてしまったようだった。それに今の時間ならまだアップ中のはずである。この調子じゃあ今日は最後まで持たないだろう。
 水樹はこれでも関東では名前の知れている選手だというから、人は見た目だけではないのだと思い知らされる。大柴だって、普段は馬鹿でアホでアホな奴だが、一年生ながら名門・聖蹟高校でレギュラーの座に就いている。全く、馬鹿と天才は何とやらだ。
「本当にあんたってやつは……しょうがねぇな」
 俺は一度部室に戻る��、鞄の中をガサゴソと漁った。あれ、どこやったっけ? 確かクラスの女子に貰ったのがあったはずだ。
 程なくして見つけた目当てのものを取り出して、不思議そうに首を傾げてこちらを伺っている水樹に向かい投げつける。硬い胸板にぶつかって落ちると、水樹はそれをうまく空中でキャッチした。ナイスパス。
「グミ……?」
「それやるから、はやく練習戻れよ」
 手元のグミを不思議そうに見つめていたが、俺の指示にうん、と頷く水樹の瞳はきらきらと輝いていた。嬉しいを全力で表現するかのように、ぴょこぴょこと跳ねながらグラウンドへと駆けてゆくその姿は、まるで小学生のようだった。本当に何処かの誰かと同じだな……なんて思っていると、今しがた頭の中で思い浮かべていた人物が、基礎練で既にへばったのか、ふらふらとした足取りで部室へと戻ってきた。
「み、水……」
「甘えんな、キモい。外にピッチャーあるから自分で飲め」
 お前は俺のカーチャンじゃねえ! プリプリと腹を立てながら、紙コップをひとつ引き抜き渡してやる。大柴は不機嫌そうにそれを受け取ると、何かを言った気がしたが、
回る洗濯機の音に掻き消されて俺の耳に届くことはなかった。
     ⌘ ⌘ ⌘
 初めて挑んだ夏のインターハイは、東京都予選決勝で東院学園に敗れて幕を閉じた。
 何も出来なかった。ピッチで泣き崩れる先輩らを尻目に、一年で唯一レギュラー出場していた俺はかける言葉も見つからず、その場に立ち尽くす事しか出来なかった。
「……」
「……」
 浮かばない表情のまま、帰りの電車に乗り込む。帰宅ラッシュと重なりそこそこに混雑していた車内では、しかしついに部員の誰もが言葉を発することはなかった。一人、また一人と先輩らがそれぞれの最寄駅で降りて行き、いつの間にか車内に知っている顔は俺と君下のみとなった。
「惜しかったな」
 長く続いた沈黙を破り、先に口を開いたのは君下だった。解散前のロッカーでこいつも俺と同じく、複雑な表情を浮かべて立ち竦んでいたことを鮮明に覚えている。
 俺は正直、君下はすぐにでも泣き出すのではないかと思っていた。だが泣いてはいなかった。その代わりに、試合に出ていた俺たちよりもずっと悔しそうに唇を噛み締め、その瞳には闘志のような炎さえ灯っているように見えた。
「……お前がいてくれたらな」
「!」
 口を開くとまず出たのは、思わずこぼれた本音だった。それを聞いた君下の喉が、ヒュッと小さく鳴るのが聞こえた。
 俺にとっては初めて迎えた、君下のいない試合だった。
 もしも君下が選手としてサッカーを続けていたのなら。もしも君下がほんの少しでも今日のピッチに立つことができていれば。もしかしたら、この状況は何か変わっていたのかもしれない。そんな浅はかな希望さえ夢見てしまうほどに、俺はこの敗北を受け止めきれていなかった。
「俺だって……」
 震える声に振り向くと、いつの間にか君下の頬は涙で濡れていた。ぽた、ぽたり、と溢れ出た涙が雫になって君下の膝に落ちている。目を真っ赤に腫らして唇を噛み締め、その小さな拳は痛いほどに強く握られていた。ぎょっとして言葉が出ない。それなりに付き合いは長いが、こいつの泣き顔を見ることだけは未だに慣れなかった。
「き、君下」
「そんなこと分かっている! 俺だって、ピッチに立てたら勝てるのにって、何度も思った……でも無理だ、俺は、ヒッ……お、女だからっ……」
 壊れたダムのように溢れ出す涙は止まらない。言葉をすべて言い終える前に、声をあげてわんわんと泣き出す始末だった。込み合う時間帯で他の乗客からの視線が痛い。
 停車を告げる車内アナウンスが流れ、ゆるゆると電車のスピードが落ちる。俺たちが降りる予定の駅はもう一駅先だったが、このどうしようもない状況にとりあえず電車を降りると、改札を出てすぐ近くのベンチに腰掛けさせた。そのあいだも泣き続ける小さな背中をやさしく撫でながら、俺は日の沈みゆく真っ赤な空をぼんやりと眺めることしかできなかった。
「落ち着いたか?」
「ん……」
 一頻り泣くとようやく気持ちが落ち着いたのか、俺にもたれ掛かっていた身体がふわりと離れた。しばらく撫でていた頭はいつも以上にボサボサになり、声はひどく掠れてしまっている。
「なあ、聞いてもいいか」
「……なんで選手を辞めたかは、聞かない約束だぞ」
「バレたか」
「お見通しだバーカ」
 まただ。拒絶の言葉に、チクリと胸が痛む。やはり何度聞こうがこれだけは頑なに答えてくれないらしい。
 俺はサッカー推薦で聖蹟高校に入学した。選抜で同じチームだったとはいえ元々君下とは違う中学で、その時はお互いの進路について触れないまま中学卒業を迎えてしまった。君下の家が貧乏だというのは流れでなんとなく知ってはいたし、同じスポーツ推薦でも貰っていなければ、やはり敵チームとして巡り合うことになるだろうと思っていた。
 だが聖蹟高校の入学式で、偶然にも同じ制服を着たこいつを見かけたとき、それは神様が与えてくれた運命なのだと本気で思った。またこいつと同じチームでサッカーができるんだと、期待に胸を膨らませていた。
 それなのに。
「俺はサッカー辞めたんだ。でもマネージャーとしてサッカーは続けられるから」
 君下の眉を下げて笑う姿を、このとき初めて目の当たりにした。
 なに悲しそうな顔してんだよ。本当はまだやれるんだろう。そう言いたくても言い出せないほど、その笑顔にはどこか寂しいものがあった。
「もう飽きちゃっただけ」
「実家の店番が忙しくてさ」
「高校デビューして彼氏でも作ろうかな」
「将来は官僚になって、大金持ちになるんだ。特進クラスだし、流石に勉強しねぇとやべぇから」
 見え見えの言い逃ればかりを並べて、君下は心を隠した。その様子を見るに耐えられずに、これ以上は聞かないと俺から約束したのも確かだ。だが、それでも気になってしまうこの心を、これ以上どうにか出来そうになかった。
     ⌘ ⌘ ⌘
「あっちい……」
 目の前に広がる、思わず走り出したくなるような白い砂浜。ジリジリと白い皮膚を
焼き付ける灼熱の太陽。夏休み初日で賑わっている海水浴場からしばらく歩き、人気
のなくなったそこはまるでプライベートビーチのようだ。俺はジャージの裾を膝まで
捲り上げて、抱えていた大荷物を砂の上にどさりと降ろした。
 俺たちは今、神奈川県のビーチにいる。
 もちろん泳ぎに来たわけではない。走りに来たのだ、この誰もいない砂浜を。
 毎年恒例夏休みの初日に行われる地獄の砂浜ダッシュ。その名の通りひたすら砂浜を走る、というかなり過酷な練習メニューだ。先日の東京都予選では、選手全員の体力不足のために、延長戦を戦い抜けなかったのも敗因のひとつだった。
「とりあえず二十本からいくぞ。全員位置につけ」
 始まる前から浮かない顔の部員をよそに、波の音だけがしずかに聞こえる砂浜にピィッ、と甲高いホイッスルが鳴り響く。まるで地獄の始まりを告げる音のようだった。
 まだ早朝だというのに海辺の日差しは十分に強い。隣の海水浴場から借りてきたパラソルを広げると、潮風も吹いているおかげか日陰はそこまで暑くなかった。パラソルの横にビニールシートを敷き、簡単な給水所を作る。近くの水道でピッチャーに水を溜め、スポーツドリンクの粉を溶かして準備完了。今日のマネージャーの仕事はこれでおしまいだ。
 さて、持ってきた参考書でも読んで暇をつぶそうか。パラソルの下に自前のベンチを広げると、そこへゆっくりと腰掛けた���
「……した、君下、起きろ」
 おい、という声がして、誰かに肩を強く揺さぶられた。聞き覚えのあるこの声は……誰のものだっけ?
「あ、おはよう」
「……お、おはよう? って何してんだアンタ」
 瞼を開いて、ぼやけた視界のなかで真っ先に捉えたのは水樹だった。しかももの凄く近い。水樹のキラキラした瞳に、ぽかんと口を開けた間抜け面の俺が映って見えるほどに近い。
 ただ走るだけの練習はあまりにも退屈で、手持ち無沙汰だった俺はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。先程まで読んでいたはずの参考書は地面に落ち、所々に砂が被っている。
 あれ、そういえば練習はどうなった……? 近すぎる水樹から距離を取るためにも、腰掛けていたベンチから立ち上がると、思ったよりも不安定な砂の上で俺の身体は呆気なくバランスを崩した。ぐらり、と大きく視界が揺れる。
「いっ……って、すんません!」
「大丈夫か? 足とか捻ってないか」
「あ、おれは、大丈夫……です」
 倒れると思った瞬間、右腕をぐい、と水樹に引っ張られた。自然と抱き寄せる形になり、先程よりもずっと近くに水樹を感じる。サッカーで相手と接触することはあっても、それ以外では普段こんなにも男の人に密着することは滅多にない。慣れないシチュエーションのせいで緊張から早まる心拍数。大きな手で触れられた右腕がやけに熱く感じる。
「せっけん……」
「へ?」
「いや、なんでもない」
 ぼそっと呟いた水樹がさらに近づき、俺の首元に顔を埋める。水樹の鼻がすん、と鳴り、何をされているのか気がつくと一気に恥ずかしくなった。緊張でじっとしていた俺はいよいよ耐えきれなくなり、目の前の厚い胸板をどん、と力強く突き放す。
「……あ、ごめん。嫌だった?」
「い、嫌っていうか……その、ちょっと変だろ……」
「そうか」
 湯気が出そうなほど自分の顔が赤くなっているのがわかる。それを水樹に見られたくなくて、ぷい、とそっぽを向けば、遠くのビーチで遊ぶ部員たちが遠くに見えた。時間から考えて今は昼休憩のようだった。いつの間にかぎらぎらと輝く太陽は天高くまで昇っていた。
「そ、そういえばなんでわざわざ起こしに来たんだよ。もう撤収するのかと思ったぜ」
「あ。そうだった。君下とサッカーしようと思って」
「へ? 俺と?」
 俺とサッカーしようだって? 確かに君下が中学時代に都選抜にいたことは、部内でも周知の事実であった。だがこうやって直に練習を申し込まれたのは、幼馴染の大柴以外では初めてのことだった。
「あんた、十分すげーじゃん。俺なんか練習相手にならねぇよ」
「いや、俺は君下のプレーが見てみたい。パスしてくれるだけで構わない」
 その顔は、どう見ても冗談で言っているとは思えない、真剣な眼をしていた。そのま
っすぐな眼差しに、俺はなんだか自分の心を見透かされているような気さえした。
 あり得ない。こいつが、サッカーを始めてまだ一年と少しのはずのこの男に、俺の何が分かるというのだろうか。
「……俺はもう、サッカーは、」
「本当にか? 誰よりもサッカーを愛しているという、そういった顔をしているぞ」
「!」
 水樹の言葉が胸に突き刺さる。本当にどいつもこいつも、人の心を土足で訪ねて来やがって……。そのまっすぐな言葉に揺さぶられ、覚悟を決めるように胸の底から息を吸えば、潮風が肺いっぱいに染み渡った。
「先に言っとくが、今日だけだからな」
 そう言うと、嬉しそうな顔をした水樹がこくこくと頷いた。つられてふ、と口元を緩めると、俺は着ていたジャージの上着とサンダルを脱ぎ捨て、白く輝く砂浜へと裸足で駆けだした。
     ⌘ ⌘ ⌘
 午前中のダッシュ練がやっと終われば、各自持ってきた弁当を食べて二時間ほどの休憩となった。ここへ来る途中に通った人気のあるビーチへ行くもよし、ここの海で泳ぐのも自由だ。かく言う俺は、その辺で借りてきた大きな浮き輪に尻を乗せて、泳ぐでもなくぷかぷかと波に身を任せていた。
「あーつかれた……」
 練習は嫌いだ。それもただ速く走るという名のダッシュやら、外周やらというものは特に。まあそんなもの練習する奴は、俺のような輝かしい才能すらないやつだけなのだろうが。
 サッカーなのだからボールを持って走ったり、ボールを蹴らねば意味がない。この練習だってそうだ。今日はボールを使った練習が一切ないという。そんな練習はやりたいやつだけがやればいいし、一日やったところで意味などない。こんなこと言えば君下が「お前は練習ってモンが分かってねぇ」だの、鬼のような形相でガミガミ言ってくるもんだから、うっかり口には出さないようにしている。
「そういえばあいつ、どこ行った?」
 さんさんと輝く太陽が浮かぶ夏の空には、雲などどこにも見当たらない。かけていたサングラスを押し上げ、練習中に君下が座っていたパラソルのほうへと視線をやる。ここからだと遠くてよく見えないが、ベンチの前に誰かが立っているのが見えた。
(ん? あれは君下じゃねぇな……何してんだ、っておい!)
 目を凝らして見ていると、その誰かの奥にいた君下がふらついたのがなんとなく見えた。やばい、と思ったときには、すぐ側にいた誰かが君下の腕を掴んでその身体を引き上げていた。こんなところから届くはずがない手を、反射的に伸ばそうと身を乗り出すと、派手なピンク色の浮き輪の上でバランスを崩し、大きな水しぶきを上げて海へと落っこちてしまった。
「ぷはっ! ゲッ、水飲んじまった……しょっぱい」
 幸いにも浅瀬にいた為、俺の恵まれた身長では溺れたりしなかった。それでも頭までがっつりと水を被り、長い前髪からポタポタと雫が垂れて煩わしい。適当に掻きあげてパラソルのほうへと視線を戻せば、君下を抱きとめる男の頭が下がるのが遠目に見えた。
「え……」
 キス……したのか?
 その瞬間、ぎゅっ、と胸のあたりが締め付けられた。ばくばくと心臓が鳴り、身体が急に冷えたように感じる。気がつくと無意識に、浮き輪を掴んでいた拳をかたく握っていた。
 なんだかいけないものを見たような気がしたが、金縛りにあったかのようにその様子から視線が外せない。すぐに君下が相手の男を突き飛ばしたのを見て少しだけ安心するが、その男が水樹だということに気付いた瞬間、目の前が真っ暗になるような錯覚に襲われる。
「は? なんで、水樹が……?」
 初夏の水温は決して低くないはずなのに、身体は奥歯を鳴らして震えている。ああ、
幼馴染のこんなとこ見るぐらいなら、速瀬先輩や国分先輩らとナンパでもしに行けば良かった。胸の奥のほうから湧き上がる、吐き気にも似たそれが嫉妬だということに、この時の俺はまだ気づかなかった。
     ⌘ ⌘ ⌘
「君下、いくぞ」
 どこからか持ってきたのであろう、使い古したサッカーボールが飛んできた。それを右足でトラップすれば、ぺち、と音を立ててボールが砂浜へと落ちる。流石にスパイクのない素足で硬いボールを受けるのは、痛くないと言えば嘘になる。だが昔はよく雨の日になると家の中で、それも素足でリフティングの練習をしたなと唐突に思い出した。
「で、どこに出せばいいんだよ」
「どこでもいい、君下の好きなところに出してくれ」
「はあ……」
 いくら毎日プレーを見ているからといって、実際にやるのとでは多少のイメージのズレがある。それに水樹と組むのは今日が初めてだ。所詮はお遊びみたいなものだが、練習に付き合っている以上、俺は相手の要求に最大限応えるつもりでいたのだが……。まあそんなこと、大柴並みのこの阿保には最初から期待してはいなかった。
 とりあえず最初は一番いいボールを出そうと思い、記憶の中の水樹のプレーを思い起こして右足を振る。バン、と大きな音が鳴り、思い描いたほうへと真っすぐにボールが飛んでゆく。ボールが出されたのと同時に、勢いよく水樹が砂を蹴り、飛び出した。
 インパクトの瞬間、正直少しやりすぎたと思った。ここは普段とは違う砂浜で、普通の芝やグラウンドよりも足元の環境はすこぶる悪い。それにあれだけ走った後なのだ。少しぐらい手を抜いてやればよかったと思ったその時、遠くでべちん、と音を立てて水樹がボールを受け取ったのが見えた。思わず目を見開いた。
「!」
「……ナイスパスだ、君下」
 受け取るとそのままシュートモーションに入り、適当に流木を立てて作ったゴールの中へとボールが吸い込まれていく。試合でもないのに思いっきり振り抜いた水樹は、打ちつけた裸足が痛いのであろう、砂の上に転がって足の甲を押さえていた。
 なんということだろう。
 自分が出した最適とも言えないパスが、水樹によって一瞬にして最高のパスへと変貌を遂げた。
 パスが通った瞬間、ずっと昔、初めて大柴のプレーを見たときほどの大きな衝撃を受けた。この怪物め。久しぶりの感覚に、思わず口元が緩みそうになるのを誤魔化しながら水樹のもとへと駆け寄る。
「大丈夫か?」
 転がる水樹に手を差し出せば、素直に握り返してきた。先程己の右腕を掴んでいた、
熱くて大きな手。ふと視線が交わる。
「君下……最高のパスだった。俺はあのパスが欲しいんだ、練習でも試合でも」
「今日だけって言っただろ」
「どうしてサッカーを辞めたって言う? 本当はまだできるだろう?」
 なあ君下。恥ずかしくなるほど真っすぐな眼差しを向けられる。
 俺はこの全てを見透かすようなこの人の瞳が少し苦手だ。どいつもこいつも俺の気持ちなんて何も知らないのに、俺にそんな質問をぶつけてくるんだ。悪意もなく、そしてそれが俺を傷つけていることなんて知らずに。
 
 バシャッ!
 突然、頭から水を思いっきり被った。べったりと前髪が張り付いて気持ち悪い。予想もしない出来事に、腰を浮かせていた水樹も驚いたのか、再び尻餅をついている。張り付いた前髪を掻きあげて振り向けば、そこには半裸で、なぜかびしょ濡れになってバケツを抱えた大柴が突っ立っていた。
「なっ、何すんだよバカ喜一!」
「……」
「なんか言えってコラ!」
 思わず手を伸ばし、目の前の胸板をドン、と叩いてやった。久しぶりに触れるその身体に、いつの間にか大柴はずいぶん背が伸びたように思う。何も言わない大柴を見上げていると、見たこともないほど冷たい瞳で見つめ返される。果たしてこいつはこんな色の瞳をしていただろうか?
「……」
「喜一?」
 殴った拳が、大きな手で包み込まれる。俺の手が触れているのは、ちょうど大柴の左胸のあたりだった。濡れた肌からドク、ドク、と力強い心音が伝わる。いつもと違う大柴の様子にその場から動けないでいると、不意につんつん、と後ろから肩をつつかれて、我に返った。
「な、なんだよ」
「君下、ブラが透けてる」
「えっ?!」
 水樹の言葉にぎょっとして、慌てて自分の胸元を見る。海水を含んだ白いシャツがぴっちりと張り付き、ブラどころか、身体のラインまでもがはっきりと浮かんでしまっていた。慌てて水樹のほうを振り向くと、少しだけ顔を赤らめてぽりぽりと頬をかいている。その辺で遊んでいたはずの部員の視線も、いつの間にかこちらへと向けられていた。
 ああ恥ずかしい! 恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ!
「テメェ、覚えておけよ!」
 大柴のほうを振り返りもせずに、吐き捨てるようにそれだけ言うと、一目散にパラソルのほうへと駆けていく。ベンチに脱ぎ捨てたジャージとサンダルを掴み、参考書を拾い上げて、砂も払わないまま乱��に鞄へと詰め込んた。近くの日陰��昼寝をしている監督を叩き起こして、言付ける。
「監督、今日は上がらせてもらいます」
「ん……何だ? 冷たっ! って、なんでそんなに濡れてんだ」
 寝起きで状況が掴めないらしい中澤は、俺の言葉にただ目を白黒させるだけだった。
「明日はたぶん来るんで。じゃあ」
「は?! おい君下ぁ!」
 最悪だ最悪だ最悪だ! 
 夏休みに浮かれる人々の波をかき分けながら、元来た道を駅のほうへと歩き出す。時折驚いたような視線とすれ違うが、そんなことは気にしていられなかった。電車に乗るまでに、服も髪も、訳の分からないこの涙もすべて乾くだろうか。
 悔しさに噛み締めた唇は、ほのかに塩の味がした。
     ⌘ ⌘ ⌘
 君下は元々喧嘩っぽいところがある女だった。
 最初に出会ったときも確か、フェンス越しにこちらを睨みつけるように俺の練習を見ていたのを思い出す。あまりにも熱心なので何か用かと思い、親切に声を掛けたが、あいつはそれを無視して、数人の男の子と煙を撒くように走り去っていった。それが後に、東京都選抜で再会する事になるとは夢にも思わなかったが。
 最初はただの競争心丸出しのガキだと思っていた。背も低いし、細いし、とてもサッカーが上手そうには見えない。それによく聞けば女だというから余計に驚いた。お世辞にも可愛らしいとは言えない顔つきに、男勝りな強気な性格。だがプレーをひと目見て、今までの考えが全て覆された気分になった。
 圧倒的だった。
 鮮やかなパスワークに、絶妙なボールコントロール。それに何より、他の選手の動きをよく見ている。頭が良くてチームの司令塔なのかと思いきや、パスコースの見当たらない場面では自分でボールを運び、シュートを狙えるから驚きだ。ゴールを狙う瞳の奥には、ぎらぎらと輝く闘志が燃えているかのようだった。ポテンシャルに恵まれ自分の才能に胡座をかいていた俺が、生まれて初めて胸の高鳴りを聞いたような気がした。
 あの頃に戻れたら、とたびたび思う。
 気の強い君下と我儘な俺は、決して相性が良いわけではなかった。最初こそ喧嘩が絶えなかったが、それもお互いの扱いに慣れてしまえば逆に居心地がいいとさえ思うようになった。君下も恐らく同じであろう。いつの間にか、俺たちが犬猿の仲と呼ばれることも少なくなった。
(ずっと二人で、てっぺん狙っていけると思っていたのにな)
 あの日以来、君下との仲は今までにないほど険悪になっていた。元々仲がいいわけではなかったが、長い時間を共にしているうちに、相手が何をされて嫌だとか、そういうことは無意識に刷り込まれていたはずなのに。どうやら俺は、君下の地雷を踏み抜いてしまったらしい。それでもこれが最善だったのだと信じている。
 あの日、泣きながら一人で先に帰る背中を見送ることしかできなかった。
「なっ、何すんだよバカ喜一!」
 バカはどっちだよ。そんな泣きそうな顔晒して。
 水樹の口から出た言葉に、俺の心臓も止まるかと思った。きっと君下の顔は青ざめて、心が裂けそうになっているに違いないと直感した。
 そんな顔は俺以外の奴に向けないくていい。お前の不細工な泣きっ面も、照れて茹でだこみたいになった顔も、ゴールを決めて喜ぶ姿も、みんなみんな、知っているやつなんて俺ぐらいで十分なのだから。
「テメェ、覚えておけよ」
 ああ、頼むからそんな顔をしないでくれ。インターハイで負けたあの日、泣いているお前の顔を見て張り裂けそうになった俺の心なんて、一生知らなくていいから。
     ⌘ ⌘ ⌘
 夏休みに入ると、朝から晩までサッカー尽くしの日々が始まった。
 さすがは伝統ある強豪校とだけあって、四十日間もある夏休みのうち、一日たりとも休みがない。正直、今の状況でこれは憂鬱にならざるを得ない。毎日バカ喜一と顔を合わせなければいけないだなんて……散々長い年月を共に過ごしておいて、今更これが嫌だと思う日が来るとは思っていなかった。
 次の日から監督への宣言通り、練習には顔を出した。
 いつも通りに洗濯や補給の準備をし、ミニゲームのスコアを付けてゆく。部活中は用がない限り、こちらからあえて話しかけることもなく、そんな俺を大柴もわざわざ引き留めたりはしなかった。
 部活が終わればいつも通り、まっすぐ帰宅して店番をする。あれだけしつこく通っていたのが嘘のように、閉店間際になっても大柴はやって来なかった。淡々と作業のように流れる毎日が、これほど面白くないとは想像してもみなかった。
 夏休みも二週目に入り、聖蹟高校サッカー部は遠征合宿の為に鹿児島県へと来ていた。この合同合宿に参加しているのは皆インハイ予選で敗れた学校だが、うちと同じく元々が全国区の強豪揃いであった。どこも選手権にかける思いは同じってことだ。
 合宿所に着いた俺たちは、荷物を置くなりすぐに練習を始めていた。明日からは四泊五日のこの合宿のメインイベントである、全校総当たりの練習試合が始まる。全国制覇を目指す以上、ここでの全戦全勝は必須だ。慣れない土地の空気を肺いっぱいに吸い込み、気合いを入れた俺は明日の対戦相手のデータにもう一度目を通していた。
「君下、ヒモ切れちゃった」
 ウォームアップをしているはずの集団から、水樹がベンチに駆け寄るのが見えた。どうしたものかと聞けば、左足のシューズの紐が切れたという。
 俺の実家は小さなスポーツショップを営んでいて、元々は商売目的で紐の替えやスタッドなどは常にいくつか持ち歩いていた。エナメルバッグから替え紐を取り出し、慣れた手つきで新しい紐を通してやる。そのくらいなら自分でやらせるのが普通だが、どうやら水樹は指先があまり器用でないらしく、前に紐を切ったときも付け替えに三十分ほどかかっていた。せっかくの合宿で、こんなことで時間をロスするのは勿体ない。悪態をつきながらも手伝ってやるのは、君下なりの優しさであった。
「ん。できた」
「いつもいつもかたじけない」
「まったく、その通りだよ」
 ほら、さっさと行け、と背中を強めに叩いてやる。うん、と頷き水樹はシューズの感覚を試しながら走り出す。あっという間に小さくなってゆく後ろ姿を見送ると、再び手元の資料へと目を通した。
 濃密な時間はあっという間に過ぎてゆく。
 食堂での夕食を前に、皆で軽くミーティングを済ませ、俺は監督である中澤と明日の打ち合わせをするために、監督の部屋を訪れようとしていた……はずだった。
「いや……確かこっちを曲がったような……」
 八校の部員全員が泊まれるほど広いこの合宿所は、延々と同じような廊下に同じようなドアが続いている。手元の館内案内を確認してみても、もはや今自分がどこにいるのかすら把握できない。
 腕時計にちら、と視線を落とす。午後六時三十八分。七時からの夕食に間に合うように、食堂へと戻らねばならない。
 時間がなかった。珍しく焦りながら、やはり元来た道に戻ろうと振り返った瞬間、どん、と何か硬いものにぶつかる感覚がした。
「いでっ! あ、ごめんなさい」
「おっと、大丈夫かい?」
 顔を強打し、涙目になりながら声のほうへ顔を上げれば、プフ、と小さな笑い声が聞こえる。ぶつかったのは、かなり体格のいい男であった。君下の身体を支える腕なんて丸太のように太いのに、それでいて随分と可愛らしい顔がついているものだからアンバランスにも程がある。見ず知らずの人に支えられっぱなしなのも申し訳ない。慌てて身体を離そうとすると、もう一方のマグロみたいな腕が君下の細い腰に回る。
「え? や、お、俺、急いでるんで……」
「ふふ、鼻が赤くなってる」
「わっ笑うな!」
「ごめんごめん、君は……どこのマネージャーかな?」
 羞恥心に目に涙を浮かべながらキィ、と睨めば、大男の目尻が下がり、優しい音色の声がする。
 こいつ……甘い顔をするのに、瞳の奥がまるで笑っていない。
 一瞬恐ろしくなって、目の前の胸板をどん、と叩いてみるもビクともしない。叩きつけた拳の下には、黒色のジャージに青函と刺繍された文字が見えた。青函高校って、あの全国区の……そして明日の対戦相手の——……。
「ねぇ聞いてる? このジャージは水樹のとこかな?」
「ひっ」
「当たりだね」
 いつの間にか、男は君下の股の間に太い脚を滑り込ませていた。今日に限って制服を着用しており、ガードの緩くなったスカートは、この男の脚に押し上げられて皺をつくっていた。壁際に押しやられて、背中にひんやりとした感覚が広がる。厚い胸板を押していた拳はいとも簡単に後ろの白い壁へと縫いとめられて、思うように身動きが取れない。もう片方の手で顎を持ち上げられ、真っ黒く塗りつぶしたかのような、一切の輝きを持たない瞳に至近距離で見つめられる。ふっくらとした指でなぞられた唇は、薄く開くだけで声が出ない。
 だめだ、泣くな、なくな。こわい。こわい、たすけて……。
「はへ、ひみひた?」
 聞き覚えのある声がして、目の前の男の肩がビク、っと小さく跳ねた。真っ黒な視線がそちらへ逸れる。
 モゴモゴと俺の名を呼んだのは、歯ブラシを咥えて口の周りを泡だらけにした水樹だった。なぜかパジャマを着ているのは今はどうでもよかった。
「はいら?」
「久しぶりだね。悪いけど取り込み中だよ、水樹」
「ほうか」
「えっ待てよ、おい! 助けろよ!」
 頷くと、歯ブラシを咥えたまま水樹はどこかへと消えてしまった。恐らく水樹にはこの状況が理解できなかったのであろう。今まで恐怖で声が出なかったのが嘘のように、急に大声が出てしまった。それを聞いて、平と呼ばれたその大男はプフ、と再び小さく吹き出した。
「笑い事じゃねぇ! はなせ! このゴリラ!」
「あーあいつはやっぱり面白いな。こりゃますます明日が楽しみだな、君下」
「っ……み、耳元で、しゃべんなっ……!」
 ゾワゾワと耳元から鳥肌が広がる。股の間に挟まれた脚が上下に擦るように動いていた。たまらず変な声が出てしまいそうになるのを、口を噤んで必死に堪えた。
「んん……や、やめっ……んン、っ」
「意外と可愛い声出すんだな。ますます気に入ったよ」
「てめっ……」
 限界だった。
 その冷たい瞳と目を合わせたくなくて、必死で顔を逸らしていた。空いた首元を形のいい鼻先でなぞられれば、嫌でも身体が反応してしまう。高い位置に縫い止められたままの両腕も、血が逆流してうまく力が入らない。誰かが通り過ぎることを願いながら、延々と続いているように見える廊下の先を、じっと見つめることしかできなかった。
「君下? ったくどこにいるんだあの馬鹿……おーい君下いるか?」
 ゆるゆると与えられる快楽に、理性を保つので必死だった君下の耳に再び入った、ひどく聞き慣れた声。すこしだけ懐かしくもある声を耳が拾った時、安心したのか堪えていた涙がどっと溢れ出た。突然しゃくりあげて泣き出す君下に、目の前の平は少し面倒臭そうに肩を竦める。パッ、と両手が解放されるのを感じた。
「ひっく……ひっ……っ、ぅう」
「彼氏が来ちゃったね。残念。続きはまた今度」
 ちゅ、と何かが音を立てて、俺の髪に触れて離れた。股の間から男の脚が抜かれ、不意に支えを失った身体は脱力したかのようにその場にペタリ、と座り込む。
 怖かった。女として触れられたこと、そして女としてこの身体が機能しようとしたことが、君下にとって、とてもとても怖かった。
 まだ血の巡らない両手で顔を包みながら、訪れた安堵にボロボロと泣いた。つまらなさそうに口笛を吹きながら去ってゆく男のことは、もうどうでもよかった。
「……っておい! 君下!」
 久しぶりに聞く大柴の声色は、酷く動揺していた様子だった。俺の近くに寄るとその場に座り込み、涙でぐちゃくちゃになった顔から両手を奪い取る。
 ああやめてくれ、見ないでくれ。
 こいつだけにはこんな姿、絶対に見られたくなかったのに。
 言葉にならず、ぐちゃぐちゃに濡れた瞳で訴えかければ、はしばみ色のそれに捉えられる。最後に見た、冷たく刺さるような瞳は今はどこにも見当たらなかった。
「き、ぃち……テメェ、いつも……遅ぇんだ、よ」
「うん、ごめんな。とりあえずここじゃ人来るだろうから、どっか行こう。歩けるか?」
「ん……」
 小さく頷くと、大柴は俺に肩を貸して立たせてくれた。だが支えがなくなった途端、膝にうまく力が入れられない。内股になって崩れようとしたところを、再び大柴の腕に支えられる。揺れた赤色の髪の毛からぽたり、と雫が垂れ、ほのかに高級そうなシャンプーの香りがした。
 大柴は少しだけ苦笑いをして、「やっぱり運んでいく」と言うと、大きな背を曲げて目の前にしゃがんで見せた。素直にそこに凭れ掛かると、脚に大柴の大きな手が触れて身体がひょい、と軽々持ち上がる。いつもよりも地面が遠い。そういえば昔はよく、怪我するたびにこうやって負ぶってもらったな、と幼い頃を思い出す。悔しいが、今はこいつの背中の温もりを感じながら、心が落ち着いてゆくのを揺れと共に感じていた。
     ⌘ ⌘ ⌘
 コンコン、
 風呂上りで戻ったばかりの二人部屋に、ノックの音が響いた。どうせ相部屋の佐藤を訪ねてきた鈴木だろうと思い、返事も適当に佐藤にドアを開けさせると、そこには予想外の人物が立ち竦んでいた。
「あれ、水樹さん。どうしたんすか?」
「うん。えっと、大柴いる?」
「いますけど……」
 おい大柴、水樹さん来てるぞ。その名前を耳にして、俺の眉間がピクっと攣った気がした。
 水樹寿人——二年生ながら名門・聖蹟での時期エースとして名高いが、サッカーは高校から始めた超初心者。ボールを持っても一切のオーラを感じないのに、プレーは滅茶苦茶、ゴールコースじゃないところからいきなりスーパーロングを放つなど、いまいち行動の読めない奴だった。
 そして何より、君下に余計な世話をさせているところが気に食わない。俺が今、君下との仲が悪くなったのも、こいつのせいだと言っても過言ではない。
「何の用だよ」
「お、おい大柴! 先輩に向かってなんて口聞くんだよ」
「うん。あのね、君下が探してる」
「は?」
「え、マネージャーが?」
「助けを求めてた。どうやら俺じゃダメらしい」
「意味わかんねぇ。つーか、あいつはどこにいるんだ?」
 俺も馬鹿とはよく言われるが、この人の言っていることも大概分からねぇ。馬鹿同士のギリギリ成り立たない会話に、佐藤は途中から俺たちの顔を交互に見比べているばかりだ。あっち、と指を差す水樹に、期待外れだとは思ったが、とりあえず行ってみるしかないと思った。何かまずいことが起こっているような気がする。そう俺の直感が言っているのだ。
「おい大柴! どこ行くんだよ、もうすぐ夕飯だぞ」
「わりぃ、後で行くって適当に監督に言っといてくれ。水樹さんも頼んだ」
「んな勝手な……」
「合点承知の助」
 謎の言葉を口にして、ビシッと親指を立てている水樹の姿はもう見えなかった。
「君下? ったくどこにいるんだあの馬鹿……おーい君下いるかぁ?」
 あっちと言われたが、走りながら果たしてそれが正解なのか分からなかった。どれだけ走ろうが一向に変わらない、白い廊下に並ぶ同じ形をしたたくさんのドア。あれだけ多くの選手が宿泊しているにもかかわらず、廊下は不気味なほどに静まり返っていた。ますます嫌な予感しかしない。しかしよくあの水樹が、迷うことなく大柴の部屋にたどり着いたな、と的外れな感心さえする。
 しばらく歩けば、遠くのほうから誰かの口笛が聞こえた。
 不規則なリズムが聞こえる方へと早足で歩いてゆくと、途中で黒いジャージを着た体格のいい男とすれ違った。すれ違いざまに、大きく真っ黒な瞳でこちらをじろじろと見てくる。
「ふーん君が……ちょっと妬けるな」
「? なんだテメェ」
 見ず知らずの男に嘗め回されるように見られ、一瞬怯んだが、男はすぐに俺に興味を無くしたかのように、ポケットに手を突っ込み口笛を吹きながら歩き出した。
 一体何だったんだ? 立ち尽くす俺の耳に、どこかから小さく啜り泣く声が聞こえた。再び胸の中がもやもやと曇ってゆく。
「おい、君下?」
 延々と続く迷路のような廊下で見つけたのは、小さく蹲って泣いている君下だった。
 一瞬、記憶の中の、昔の君下の姿が重なる。それほどまでに、目の前の彼女は小さくなって何かから怯えているようだった。俺は君下を見つけるなり、その姿にひどく動揺して、一目散に駆け寄ると傍に腰を下ろした。
 とりあえず泣きじゃくるこいつを負ぶってきたのはいいが、行く宛などどこにもなかった。食堂へ向かう他校の選手たちと廊下ですれ違う。もうそろそろ夕飯の時間か。俺は着ていたジャージを君下の頭から被せると、顔を見られないようにして皆と逆方向へと歩き続けた。
 習性とはなかなかうまく出来ているもので、歩き続けているうちにいつのまにか自室へとたどり着いていた。恐る恐るドアを開ける。しんと静まり返った散らかった室内に、どうやら佐藤はもう行ったらしいと悟る。しばらくは帰ってこないだろう。
「立てるか?」
「ん、」
 随分と大人しくなった君下に問いかければ、ズズ、と鼻を啜って一言頷いた。背中からおろしてやり、俺のベッドに腰かけさせる。ただでさえ身長の高い大柴にとって、合宿所のチープなシングルベッドはとても狭く感じていた。練習後の脱ぎっぱなしにしていた服を適当に床へ投げ捨てて、なんとか二人分のスペースを作ってそこへ腰かける。
「汚ねぇ部屋だな……佐藤に同情するわ」
「うるせぇ。つーかもう元気じゃねぇか」
 まったく、鼻も目尻も真っ赤にして、膨れた面でよく言う。いつもの調子に戻りつつある君下の様子に、なんだか懐かしい気持ちがした。
 手を伸ばして、君下の頬に触れる。あまり肉のついていないように見えるシャープな顔立ちだが、触れればその頬は意外と柔らかいことに気付く。目尻に涙の線がついている。そこをやさしく指で拭ってやると、ピクリ、とわずかに肩が跳ねる。不安そうに揺れる君下の瞳に、胸のあたりがぎゅっと締め付けられた気がした。
「その……この間のことは、ごめんな。お前のあんな顔見てたらつい、その……」
「!」
「悪かったよ、何も考えずに水なんか掛けたりして」
 素直に謝るというのは、これ程までに気恥ずかしいことなのだろうか。同時に君下の頬が、みるみるうちに赤く染まってゆく。
 やめろ、そんな目で見るんじゃない。俺だってきっとお前に負けないぐらい、真っ赤な顔してるに決まっている。お互いにそっぽを向いて、しばしの沈黙が流れる。
「……なんか言えよ」
「お、俺が……サッカー辞めたって言ったの、俺の身体の���となんだ」
「!」
 今、なんて言った?
 突然のことに驚きながら君下のほうへ振り向くと、真剣な眼差しでこちらを見つめる視線と交わる。
 今まで言いたくないと頑なだったこいつが初めて明かす、俺も知らない本当の理由。
 こいつは話す覚悟を決めたというのか? 今まで誰にも語ることのなかった、君下敦の本音を。それなのに、俺は一体なにを動揺しているんだ?
 バクバクと耳元で鳴る、自分の心臓の音がいやに煩い。うまく言葉が出ずにいると、君下は自身の頬にあった俺の手を取り、自らの心臓の上へと導いた。
 そこにあるのは、頬よりもずっとやわらかな感触。脂肪の乗った双丘の下で、俺のものと同じくドクドクと力強く脈打つ心臓。緊張で手が汗ばむのを感じた。
「違和感を感じたのは、中三の夏だったかな……ちょうど選抜大会がひと段落したぐらいだった。思うように身体が動かないんだ。本当はもっと前から気づいていたのかもしれない……でも気づかないフリをしてたんだ」
「……」
 ゆっくりと話し始めた君下に、俺は黙って話の行く末を見守ることにした。俺の手は君下の胸元に宛がわれたまま、心音を掌に感じたままで。ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉から、君下が今まで一人で抱え悩んでいたことが伺えた。
「急に体重も増えて、胸も膨らんで、身体が前よりも丸くなった。そしたら前みたいなプレーができなくなった。それは多分気のせいじゃない。女に生まれた以上、いつかこうなるとは思っていたけれど……それがその時だとはまだ信じたくなくて、結局中学卒業するまではサッカーはそのまま続けた」
「……うん」
「聖蹟に入ったら、またお前と同じチームでサッカーできるって思ってたけど、制服着ていざお前の前に立ったら……なんか嫌になった」
「え?」
 それは……どういう意味だ?
 まだ半年も経っていない、入学式のことを思い出す。俺だって、あの時はまたお前とサッカーができるって、期待に胸を膨らませていたはずだ。それなのに。こいつはそんな俺を見て、嫌になったとはどういうことだ?
「あ、いや……お前が嫌になったわけじゃない。そうじゃなくて……あの頃よりも女になった姿を見せるのが、すごく……嫌だった」
「何だよそれ……今更じゃねぇか。お前が女だってことは、当たり前のことだろう」
「いや、そうじゃないんだ。さっきも青函の平ってやつに絡まれて、ただの女扱いされたことが悔しかった。それに反応してしまう、俺の身体にも……お前は男子と同じレベルでサッカーができないって、突きつけられてるみたいで。今まで俺がこうやってサッカーを続けられていたのは、お前が俺を女扱いしなかったからだってことに改めて気付かされた。今まで守られていたんだなって。だからもういいんだ。俺は選手には戻れない。マネージャーやってる今でも楽しいし、またお前とたまにボール蹴れたら、それで十分だから」
「……じゃあなんで泣いてんだよ」
 君下は独白している間、ぼたぼたと大粒の涙を零していた。散々泣きはらした真っ赤な目で、まだ足りないと言わんばかりに零れ落ちる涙の雨。心の中に黒く溜まっていた不安や葛藤、それがすべて溶け出たかのように次から次へと溢れ出す。
 君下は女で、それは紛れもない不変の事実で。
 それでもサッカーを辞める理由にならないと俺は思う。
「お前はまだサッカーができるよ。全国だって狙える。お前が入れば聖蹟はもっといいチームになる。もし前みたいにうまくできなくても、それはそれでいいじゃねぇか。また一からお前のサッカーを作ればいい。俺たちはまだ一年で、時間だってたっぷりある。サッカー、好きだろ?」
「……っ、ひっ……く……」
 君下が辞めると言ったあの日から、ずっと言いたかった言葉を言い終えると、なんだか心がスッキリした。泣きじゃくる君下を抱き寄せると、大人しく俺の胸に身体を預けてくる。
 ああ、安心する。
 お前が弱音を吐く場所なんて、やっぱり俺の前だけで十分だ。
     ⌘ ⌘ ⌘
 俺は、女に生まれたことを後悔しているわけではない。
 男になりたいと思ったことがないわけではないが、楽しそうにサッカーをする同級生たちを眺めながら、女の子のグループで遊んでいた日々もあったものだと思い出す。
 スポーツショップを営む父は、大のサッカー好きだった。その影響なのか、テレビでサッカーの試合を見ることはしょっちゅうだし、休みの日になれば近所のフットサルなんかもよく見に行った。ボールも家にあるものを使って見様見まねでリフティングを���めれば、あっという間に上手くなった。俺がサッカーに夢中になるのにそう時間はかからなかった。
 本当はこのままサッカーを続けることもできた。名門ともあって聖蹟の練習はかなりハードだけれど、それをこなしてみせるだけの自信もあった。
(だけど俺は一つだけ、喜一に言っていないことがある)
 本当は桜の咲き乱れるあの日、校門の前で再会した喜一に、恋に落ちてしまった。長年眠っていた俺の中の青い春は唐突に訪れ、そして俺の運命を大きく捻じ曲げた。
 その日以来、俺はただの女になってしまったのだ。
 コンコン、
 突然、薄暗い部屋の中に、誰かがドアをノックする音が響いた。大柴の胸の中で啜り泣くのを止め、思わず息を殺す。もしかしたら、夕食を済ませた佐藤が帰ってきたのかもしれないと思った。
「大柴ーいるかぁー?」
 コンコン、ともう一度ノックする。その声はどうやら監督のようだった。
 次の瞬間、ガチャリ、とドアノブが音を立て、薄暗い部屋に黄色い明かりが差し込む。廊下からはこちらは見えないであろう。いくらマネージャーであるからといって、男子部員の部屋に忍び込んでいることがバレれば一大事だ。
 頼む、中に入らないでくれ。祈るように目をきつく閉じていると、何かがふわりと被せられた。それが布団だと気づいた時には、俺の身体はベッドの上に引っ張り上げられ、大柴に抱きしめられる形で横になっていた。足を絡められて、全身ぴたりとくっついた体制になっている。思わず声が出そうになったが、両手で口を押えて堪えた。耳元で聞こえる心音は、自分のものなのか、それとも。
「……」
「なんだ、寝てんのか……ったく、君下もいなくなるわ、どうなってんだ」
 大柴の姿を確認したのか、監督は何かをぶつぶつ言いながら部屋を出て行く。ドアの外から灰原たちの賑やかな声が聞こえる。どうやら夕食は終わったようだ。なんとか見つからずには済んだが、このままではいずれ佐藤たちも帰ってくるだろう。
「……おい、いつまで抱き着いてんだよ」
「……」
「き、喜一! まさか本当に寝たんじゃねぇだろうな?!」
「もうちょっと」
「はあ?」
 頭から布団を掛けられっぱなしで、流石に息が苦しくなる。もぞもぞと動いて出口を探す。布団の端から頭を出せば、目の前の大柴と至近距離で視線が合う。
 お互いの吐息がかかってしまうほどに近い。こんなに近くで顔をまじまじと見たのはいつぶりだろうか。薄暗い中でもわかる、黙っていれば綺麗な顔立ちをしているこいつになぜだか無性に腹が立つ。
「……」
「なに見てんだよ」
「うるさい奴だな」
「なっ……お前が離さないから、んむっ」
 唇にあたる、やわらかい感触。
 俺を抱きしめていた片腕が身体から離れ、大きな手で顔を包まれ、キ、キスされてしまった。とっさのことに目を見開いたままの俺は、目の前の伏せられた長い睫毛を見ることしかできなかった。
 だが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ触れたところからじんわりと広がる温もりが心地よい。
「んっ……はぁ、ぁあ……」
 次第に息が続かなくなって、必死で酸素を求めて口を開いた。生まれてはじめてのキスのやり方なんて知るはずもない。薄く開いた唇の隙間から、大柴の厚い舌が入ってくる。思わず引っ込めてしまった自身の舌をあっさり絡めとられ、吸い上げられれば身体がビクっと跳ねた。
「……き、いち?」
「そんな顔で見るなよ。黙ってしばらく抱かれてろ」
「……おう」
 そう言って、再び、触れるだけのキス。唇を離せば、逞しい腕が背中に回って抱きしめられる。
 こいつの考えていることがわからない。何も聞けないまま、仕方がないので俺も喜一の背中に腕を回して抱きしめてやる。目の前の胸板に顔を埋めれば、いつもの喜一の匂いがした。抱きしめる大きな背中は、少しばかり震えているような気がした。
     ⌘ ⌘ ⌘
 ほんの出来心だった、と、君下を抱きしめながら思う。
 未だに触れた唇が熱い。かき乱したあいつの咥内の温度も、柔らかい肌の感触も、俺を見つめる濡れた瞳も、全部が俺の思考をどろどろに溶かしてゆく。
 ああ最低だ。
 俺がこいつをフィールドに連れ戻す。そう決めたはずなのに。
 いつの間にか一緒に過ごした長い時間の中で、俺の心は違うベクトルへと向かっていた。今更ここで俺がこいつを、ただのひとりの女として扱ってどうするんだ? それは君下が、俺に一番してほしくないことのはずだろう。なのに俺は、俺自身の欲を殺しきれずに、あいつにキスをしてしまった。
(俺がこいつの中の、サッカープレイヤーの君下を、殺してしまった)
 そこまでして手に入れたいと思ってしまったのも事実だった。他のどの男にもこいつは渡したくないと、醜いほどに嫉妬してしまった。君下の抱えている、色んなものすべてを俺だけが知っていればそれでいい、それで良かったはずなのに。
「こういうとき、なんて言えばいいんだっけ……なあ、敦」
 スー、スー。規則正しい君下の寝息が聞こえくる。抱きしめられた心地よい体温に、いつの間にか眠りについてしまったのだろう。俺の身体にしっかりと腕を回して眠る姿は、まるで小動物のようだった。そっと額に張り付く前髪を掻き分けてやる。
「で、もう済んだか?」
 パチ、と音がして、部屋の明かりが点けられた。眩しさに目を細めながら、入り口のほうへと視線をやる。こんな時間まで部屋に戻ってこなかったのは、きっと佐藤なりの気遣いなのだろう。少しだけ複雑な気持ちになった。
「ああ。悪かったな」
「って、え? それ……君下か? つーかお前ら付き合ってたのか?」
「ちげーよ。こいつがあまりにも泣くもんだから、慰めてやってたら寝ちまった」
「うわ、やらしいな」
「そんなんじゃねぇって」
 俺の心中も知らずに冷やかしてくる佐藤に向かって、あっちに行けと手を払うジェスチャーをする。腕の中の君下がもぞり、と寝返りを打つたびに、目を覚ますんじゃないかといやな緊張が走る。せめて今だけはこのまま、俺の腕の中でおとなしく眠っていて欲しかった。すやすやと眠る君下の額に、誰にも気付かれないようにもう一度キスを落とした。
 結論から言うと、君下は選手には戻らなかった。
 ただ時間が空けば、簡単なパス練などの基礎練習ぐらいには参加するようになった。
マネージャーが君下のほかにいないので、そう簡単にマネージャーを辞められては困る、という監督の意見もあるらしい。
「え? あいつ、サッカー特待だったのか?」
 紅白戦で交代を言い渡され、しぶしぶベンチに戻れば監督からそんな話を聞かされた。今まで知らなかった事実に、思わず飲んでいたスポーツドリンクを吹き出しそうになる。
「ああ、そうだ。元々は俺があいつを聖蹟に誘ったんだ。あいつは俺の誘いをあっさり断って、自力で奨学生枠取ってサッカー部のマネージャーになると言い出したときには、正直驚いたがな。俺は十分やれるから選手でやらないかと何度も言った。だがあいつは頑なに頷かなくてな……」
「……」
 俺だけじゃないんだな、こいつに可能性を見ていたのは。手元のドリンクを見つめながら、昔のことに思いを馳せる。
 そういえば水樹さんだって、そんなことを言ってあいつを困らせていたっけ。あの時は単に、君下の聞いてほしくないところに触れようとした水樹を警戒していた。だが今となっては、みな同じ気持ちだったのだなと思える。
 交代でトップ下に入り、コートを駆ける君下を見つめながら監督は続ける。
「あいつ、何か変わったな。プレースタイルもそうだけど、人間としての根本っていうか……根っこのほうが何か変わったように見える」
「そうっすね」
「お前、何か言ったのか?」
「さあ、そんなこと忘れちまった」
 こぼれ球を拾った君下が一人だけ抜け出る。そのままドリブルで持ち上がり、敵チームのディフェンダーが滑り込む前に逆サイドにパスを出す。そこへタイミングよく走り込んでいた水樹につながり、繰り出される強烈なミドルシュート。キーパーの指をギリギリのところで掠めて、大きくネットが揺れる。ゴール——。
 皆が水樹に駆け寄り、喜びでもみくちゃになっている姿はまるであの時のように輝いて見える。
 合宿のあの日のことは、その後お互い口にすることはなかった。何事もなかったかのように練習が続き、夏休みが明け、放課後は君下に練習に付き合ってもらう日々。次第に君下も練習に参加するようになり、秋が来て、もうすぐ冬の選手権が始まろうとしていた。
「げ……何も泣くことねぇだろ大柴……」
「うるせぇ、泣いてねぇ」
 歪む視界で、うまく前が見えない。きっと俺がこいつの為に涙を流すことなんて、一生でこれっきりなのだ。
 ああ、俺が君下のサッカー人生を、あの時殺してしまわなくて本当に良かった。だから心の奥に仕舞った淡い想いは、もう二度と出て来なくてもいい。
                                           (はつ恋は土に埋めた)
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