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whiteroom7 · 30 days
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少子高齢化の進展により明るい話題の少ない今の日本において、米大リーグで活躍する大谷選手の話題は、やはり頼もしい。若者にとっても、大きな夢と希望を与えてくれる存在ではないかと感じる。
そんな大谷選手に突然のように降ってわいた元通訳・水原一平の違法スポーツ賭博事件。大谷選手自身は、事件への関与を否定しているが、不明な点もある。単に違法賭博というだけではなく、日本円にして6億円とも7億円とも言われる巨額の金額が水原通訳ではなく大谷選手の口座から送金されている模様だ。現時点では、事件の全貌や真相は判明しておらず、今後の捜査が待たれるところだ。
過去には、大王製紙の元会長がカジノで100億円を超える損失を出したとする事件もあった。ギャンブルとは、そこまで人を引き摺り込む魅力があるらしい。
冒頭の画像は、茂木健一郎の書籍からで、「ギャンブルの依存症」について記されていた部分である。「ハマる」という状態から、さらに繰り返し強い刺激を求めるようになり「止めたくても止められない」状態になると「依存症」であり、元に戻るのが困難になるとのことだ。この「依存症」は、よく知られているように、ギャンブルだけではなくアルコールや薬物でも起こる。
私自身はギャンブルにはほとんど興味はなく、近いところとしては、宝くじとサッカーくじ(toto)を購入したことがある程度だ。私の知人には、宝くじでいわゆる高額当選者が複数いる。興味深いのは、さらに宝くじを買い続ける人がいる一方で、運を使い果たしたということで宝くじの購入をやめてしまう人もいることだ。冷静に考えれば、当たったところで止めるのがいいのかなと思う。私も、ナンバーズとtotoで約2万円と8000円程度が当選した時点で止めた。20年ほど前だろうか。ナンバーズとtotoの当選時期も不思議なほど接近していて、半年程度の違いだった記憶がある。ナンバーズは、換金に行ったところ、少額にも関わらず窓口のおばさんに驚かれ「誕生日ですか」と尋ねられた。私は「いえ、適当な数字です」と答えた。実際、そうだった。おばさんの驚き方を見て、この程度の金額であっても当選する人は少ないんだなと感じた。それと、誕生日のように、毎回数字を固定し、いつかあたりが来る日を待つという手法を取る人が多いとも感じた。くじ自体は独立事象で、前後や未来に影響を与えることがない。毎回ランダムな数字と固定数字でも、確率的には同じである。頭では分かっていても、過去に出たことのない数字が出る確率が高そうに思える。これも心理学で解明されている現象である。
サッカーくじ、totoについては、当初は気合が入っていた。当時は、テレビで試合をよく見ていたしクラブや選手についてもある程度の知識があった。各クラブには明らかに実力差がある。それは主に、母体の資金力によるものかもしれない。これはひょっとするとひょっとするかも、そんな気持ちすらあった。だが、いうまでもなく現実はそんなに甘くはなかった。Excelでデータの分析をしながら予想した。toto開始と同時に導入された「引き分け」。これも厄介だった。結局、リーグ優勝チームでさえ、勝率は6割強でしかなく、チームの実力差はもちろんだが、試合のあやや偶然性や運の入り込む余地が想像以上に大きいことに気がついたのだ。これで、急速に熱が冷めた。幸いだったのは、ここまでそれほど時間がかからなかったことである。
今、改めてtotoのサイトを確認すると、当時よりもくじの種類が増えている。当選金額が小さく、より当たりやすいくじが追加されてきているようだ。射倖心を煽るような部分は薄まってきているようだ。ひょっとして、機械学習のようなAI的な手法を活用すると効果があるのだろうか。だが、AIでtotoを次から次へと当てていく、そんな世界は考えづらい。AIといえども、確率を支配することは不可能だ。実現確率が小さくそれに伴う期待値も小さい事象に対しては、AIの効果は限定的だろう。人間より優れた結果を残すことは期待できるが、1度の当たりが極めて大きくない限り、トータルあるいは一定期間でプラスになることは難しいだろう。それは、仮に人間の10倍の確率で当選するとしても、元々の確率が小さいため、その10倍も有意に当選できる確率とはならないからだ。詳しくは知らないが、おそらくは競馬についても同様のことが言えるだろう。いずれにしても、くじはくじでしかない。大半の人は損をして終わるに違いがないのだ。税金の一部だと思えば気休めになるかもしれない。くじをやるなら、賭ける方ではなく胴元をやる、これが永遠の真実であることは変わりがない。
ともあれ、現在では大谷選手は違法賭博への関与を否定している。水原元通訳は、大谷選手にとって最も重要なコミュニケーション手段の一つを担ってきており、大谷選手の信頼も厚かったと想像される。大谷選手に無断で巨額資金の送金だけではなく、その信頼すらも失ってしまった。水原元通訳にとっては、自らの裏切り行為により失ってしまった信頼の大きさにも気づくべきだろう。信頼は、一朝一夕には築けないが、失うのは一瞬である。
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whiteroom7 · 2 months
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俗に言う「3.11」、東日本大震災も13年目を迎えた。今年は、元日に能登半島地震が発生、3月に入ってからは「千葉県東方沖」「千葉県南部」で比較的大きな地震が続いている。いよいよ、また大きな地震が迫りつつある気配を感じる。
大地震は来ないことに越したことはないし、それを願っている。とはいえ、現代の人類の知力やテクノロジーを持って地震を制御することは不可能である。できることは、大地震に備えて準備をしておくことだ。これがリスク管理である。能登半島地震のことを考えれば、この先半年から1年程度は要注意期間と考えておこう。
食料は1週間から10日、あるいはそれ以上保管している。1年と言うスパンで見た場合、消費期限が到来する食品もあるかもしれないが、当面は大丈夫だろう。水も、2Lの6本入りケースが4つ。うち1つは今月で期限が切れるので、3ケース新規に購入。水は、マンションでも備蓄はあるが、非常の場合には当てにはできない。ポータブルコンロのガスタンクの予備も昨年購入しているので、一応確認しておこう。
今のところ、避難することは想定していないが、これについても、万が一避難することを考えて、防災グッズや持ち物をリュックに入れて準備しておくことにする。避難所等への避難を想定していないのは、私の住むマンションは、ブリヂストン製のゴムが支える免震構造になっているからだ。このため、東京や関東でも被害が大きかった東日本大震災の時も、1つを除いて、家具や物が倒れたり移動したりといった被害は全くなかった。これはダメだろうと思っていたのが、自室のサイドテーブル上にツインタワーのように1メートル以上に積み上げていたCDの山。これが無事だった。事前に無事とは聞いていたが、自分の目で確かめるまではしっじられなかった。塔のように積み上げたCDが床に散乱、CDが飛び出しケースも破損。そんなイメージが想像され、諦めていた物だった。いざ、自分の目で確かめtみると、やはり驚いた。免震構造の「凄さ」をまじまじと感じた一瞬であった。我が家で唯一倒れ��いたのが、私の作業テーブルの上に置いてあった高さ5cm程度のウルトラマンのフィギュアだった。何かのおまけについて来た物だっただろうか。足の設置面は1mm*4mm程度で、確かに安定性は悪そうだ。本来、地球が危機に陥った時に助けに来てくれるはずのウルトラマン。それだけが倒れたのだ。不甲斐なさを感じ、その後に廃棄してしまった。
東日本大震災の時の私の住む地域での揺れは震度5強。免震構造が、この大きな揺れから自宅を守ってくれた。恐ろしいまでの免震性。毎年、ブリジストがメンテナンスをしているので、今でもこの免震性が維持されていると考えていいだろう。東日本大震災、今年の能登半島地震では最大震度は7を記録している。ここまで大きな揺れの場合は何らかの被害を被ることは想定しておく必要がある。家に被害がなくとも、インフラ、特に電気が止まると避難を余儀なくされるかもしれない。
もっとも、リスクを過剰に評価することも適切とはいえない。起こりうることを全て心配していてもキリがない。心配しすぎると、外を歩くことすらできなくなりそうだ。結局、どこまでのリスクを想定しておくかは、個人に依存し最適解は存在しない。今の日本の状況であれば、限界集落や離島でもない限り、数日で食料や飲料水は届くだろう。もしそれができないときは、日本そのものが崩壊するほど広範囲に甚大な被害を受けているに違いがない。そこまで考慮する必要はない。
地震の予測については、すでに分析をしていた仲間がいた。彼によると、年末時点での能登半島や北陸、日本海側での地震のリスクはそれほど高くなかったようだ。もっとリスクの高い地域は他にあるとのことであった。分析モデルやデータにも依存するとは思うが、それ以上に、自然現象としての誤差が大きいのではないかと感じた。地震の発生状況において、20〜30年程度は十分に誤差の範囲ではないだろうか。1年で数ミリから数センチの生じる歪みが、どこまで耐えられるか。時間とともに地震の発生確率は高まっていくと見られるが、その限界値が判明していな以上、断定的に地震の発生時期を予想することは難しいだろう。この誤差が、地震の予測を困難にしている大きな要因ではないかと考えるのだ。
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whiteroom7 · 2 months
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「渋谷陽一ロス」、そんな気分に陥っている自分に気がついた。
結果として最後となってしまった「ワールドロックナウ」の放送終了後、通例であれば番組で紹介nau 曲のMVを自身のブログで更新して来た渋谷陽一。だがその時は、ブログはなかなか更新されなかった。おかしいなと思っていた矢先、「病気療養による入院」という記事が更新された。その後、ワールドロックナウのDJは伊藤政則が務めるとのことだった。伊藤政則は、その初回の冒頭で「しっかりと番組を守っていきたい」と決意を述べていた。いくつかの意図が読み取れる言葉だった。時間はかかるかもしれないが、渋谷はDJとして復帰してくるだろう、そんな楽観的な感触を抱いた。その後程なく、2ヶ月近く先のイベントの中止が発表された。この頃から、復帰には時間がかかりそうな予感があった。そこで今回の番組終了の一報。
病気療養とはいえ、渋谷陽一は表舞台から忽然と消えてしまった。
毎週聴いて来たあの声を聞くことができない、なんともいえないもどかしさ。
渋谷陽一のDJスタイルは、単に話が面白いあるいは感情むき出しのような薄っぺらなスタイルとは一線を画し、常に冷静でアーティストやレーベルに媚びることなく対等に自説を展開して来たことだ。その構造や様式、時代背景、社会現象、ひいてはメンバー同士の立場などの要素を加味した曲の解説で、理論派とも言われてきた。曲には解釈というものがあり、音楽を単なる娯楽からアートへと昇華し、音楽そのものとの向き合い方や鑑賞方法を教えてくれたのだった。
また、音楽業界の悪しき慣習に対し疑問を投げかけ、闘う音楽評論家・DJとしての一面も持ち合わせていた。自分で納得できないことに対しては決して迎合すrことがなかった。
ここで救われるのは、ワールドロックナウの終了に伴い後継番組が用意されていること。同じ曜日j、同じ時間でDJは先の伊藤政則に加え大貫憲章も登場するようだ。番組名は変わるが、事実上ワールドロックナウは継続していると考えて良さそうだ。渋谷���復帰に含みを持たせているようにも思える。いずれ、ゲストとして登場することに期待したい。もっとも、新たなDJの選定が新年度の番組編成に間に合わなかったための暫定的な措置である可能性も高いか。
「若いこだま」からかぞえて50年。渋谷陽一自身のDJによる番組は一旦途切れる。私のロック人生に最も大きな影響を及ぼした人物だろう。再びあの声を聞ける日が待ち遠しい。だが無理せず、後進に道を譲る、そんな転換時期にあるかもしれない。ひとまず、ここに感謝の気持ちを残しておきたい。
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whiteroom7 · 3 months
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発生から1ヶ月経過し、やはり気になるなってことで、能登半島地震。
能登半島においては、数年前から地殻の変動が観測されてきており、遠からず大きな地震が発生するのではないかと警戒されてきた。行政的な指導もなされてきたのではないか推察される。地震そのものは防ぐことができなかったとしても、事前に対策を講じておく時間は十分にあり、被害を小さく抑えることができたのではなかったか。そして、よりスムーズは避難やより快適な避難生活が提供できたのではなかったか。だが、大地震に対する事前準備や検討、シミュレーションなどが実施されてきたようには感じられない。今となっては、後出しジャンケンでしかないとは言え、残念なことだ。
近年では、地震だけではなく温暖化の影響もあってか、豪雨による河川の決壊による住民の避難も相次いでいる。その中で繰り返される、食料や水を求める行列、過酷な避難所生活。毎度毎度目にするこれらの光景、なかなか改善される兆しが見えないところも気になる。古着や千羽鶴を送らなくなったり、孤立地域にはドローンで支援したりと、進歩はしているのかもしれないが、根本的で直接的に関係する部分の改善は必要だ。
妻が九谷焼や有田焼などの陶磁器、特にそのデザインに興味を持っていて、たまたま昨年は2度石川県を訪れていた。偶然とは言え、その2度とも、ほぼその直後に能登半島で大規模な地震が発生したことになる。九谷焼の器もいくつか購入しており、高価ではないとはいうものの、お気に入りは年に一度、正月にしか出さないような器もあるほどだ。今回の能登半島地震により、九谷焼の生産にも大きな影響が出ているようだ。こうしたこともあり、妻はこの地震に大きなショックを受けている様子だ。
そんな事情もあって、何か石川県や能登半島に対してできることはないか、そんな思いが湧いてきた。近年の大地震では、わずかながらではあるが赤十字を通して義援金を送ってきた。東日本大震災とフィリピン沖の大地震では、iTunes StoreにおいてチャリティCDも購入してきた。今回も、赤十字を通した支援を考えていたが、石川県が直接開設している銀行口座があることを知った。これなら直接的な支援ができるだろう。今回は口座振り込みを利用した。
だが本当に役立つ支援とは、やはり石川県や能登半島への旅行と九谷焼の購入ではないか。支援の範囲や対象は限られるが、お店や街にとっては直接的な支援になるのではないだろうか。そんな思いは今でも残る。
その後、クレジットカード会社が保有ポイントを寄付できることを知った。こちらは赤十字を通じた寄付になる。ポイントは5000ポイント以上あって、1ポイント5円換算だそうだ。普段使用しているAmazonでの換算は3円であることを考えると、効率は高い。これで25,000円になる。赤十字を通すことで、直接的な支援にはならないと思われるが、寄付の方式としては「全額寄付される」とある。こちらについては引き続き検討中である。
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日本は地震大国であるがゆえに、今後も首都直下型地震や南海トラフ地震などの巨大地震の発生が危惧されている。大地震発生の危険性は確率的に表現されていて、「今後何年の間に何%」と表岸される。数値としては大きいと感じる場合もある。これらの数字という客観性があるので、その信頼性は高そうに感じる。だが、その数字はどのようなものであるかはよく知らないのが現実ではないだろうか。研究者が主観だけで言っているとは考えられないので、何らかの理由または根拠はあるだろう。
そこで考えたのが、機械学習による地震発生状況の予測と評価である。調べてみると、気象庁では100年余りの地震データを公開している。震源地のデータと、実際に揺れた震度のデータの両方が存在する。被害の大きさという観点では、震源地のデータよりもむしろ震度のデータが重要である。だが、この震度のデータは実際の計測値であり、農村部より都市部の方が地震計は多く設置されている。つまり、設置密度は全国でばらつきがある。このため、都市部のデータが多く存在する傾向があり、都市部に地震が多いかのような偏りが生じてくるのではないだろうか。しかも、小さな震度の地域が多くあると、それらがノイズと化し、重要な地震が隠れてしまう恐れもある。このように考えると、機械学習に採用する地震のデータとしては震源データの方が適切であろう。だが、震源データについても100年余りの期間であり、この間の測定・計測技術の進歩により測定データの視度には差がある可能性が大きい。しかも、どちらのデータを採用するにしろ、そもそも過去100年程度のデータから未来を予測するには、その精度に限界があるだろう。データとしての信頼性はともかく、有史以来、記録に残る大地震を考慮する必要があるのではないだろうか。
そんなことを考えながらも、精度・信頼性はともかく、何らかの数値は得られるであろう。適用するモデルは慎重に考慮する必要はある。ピンポイント的な予測は困難としても、関東や東北、北陸といった地域ごとのリスクは評価できるだろう。さらに、断層のデータを追加で学習させることで、さらなる精度の向上が期待できるかもしれない。新しいことを考えるのは、常にエキサイティングだ。機械学習も、私自身のSE人生の集大成として取り組んでいるテーマの一つでもあるので、巨大地震の予測についても取り組んでみた。今年の後半になるだろうか。
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whiteroom7 · 4 months
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昨年、12月初旬の羽田第2ターミナル。クリスマスに向けた飾り付けもできてきた頃だった。所用のついでに飛行機を観察。STAR WARS仕様のANA機発見。C-3POカラーだ。R2-D2デザインのもう1機は、成田発着を主とする国際線に就航している。こちらは、ファーストクラスが用意されていることだろう。コアなファンがいることでも知られるSTAR WARSであるが、このような機体を見ても心躍るのだろうか。
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機体後尾をズームアップしてみる。全体の写真ではあまりわからなかったが、窓周りのペインティングは工夫の跡が見える。遠くから見て違和感のないデザインになっているに違いない。
さて、この日は話題のC滑走路で離着陸が行われていた。機体の撮影には、ガラス面にあるワイヤーに注意が必要だ。手前のワイヤーにピントが合わないようにする必要がある。うまくぼかしたワイヤーは、そのまま残すとリアル感が増すか。
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といいうことで、スカイマーク機の離陸。離陸するJAL機も撮影したのだが、今回は見送る。
1月2日に発生した海保機とJAL機の接触炎上事故、その原因は明らかではないが、管制官とパイロットとのコミュ位ケーションのミスに原因があるとすれば、勘違いやミスの連鎖が事故につながった可能性もある。この時だけ、特別な「何か」があったとは考えずらい。時折報道される、パイロットの「ヒヤリ」なども含めて考えると、空の安全も、薄氷の上に成り立っていることを改めて実感させてくれる。かつて、米国のある大きな空港で、遠くで既に着陸態勢に入っている滑走路を、別の機体が横切っていくシーンを離陸待ちの機内から目撃したことがある。その頃は、危険と言うよりは大空港の過密スケジュールと感じた。
もっとも、ミスやトラブル、事故は注意深く避ける努力はすべきであるが、絶対的に避けることができるわけではない。大小を問わず、現実的にはさまざまな場所で起こりがちだ。となると、ミスや事故を起こさないことはもちろん重要ではあるが、もっと重要なことは、それらが起きた時の対応である。今回の事故では、海保の職員は5人死亡したが、JAL機の乗客・乗員は全員が安全に避難できた。これが海外からは「奇跡」とも言われて賞賛を受けているほどだ。このようなミスやトラブル、事故の時に物事の本質が見えてくることが多い。物事が悪い状況に陥った時に、それをどのようにリカバーするかで、その人の実力や本質が見えてくるものだ。重要なことは、ミスをしないことではなく、いかにリカバーするかなのだ。このような状況下で、本物と偽物の区別がつくのだ。その点でも、JALの乗員の行動は評価されるべきだろう。業務の一環とはいえ、400人近い乗客の命を危機から守ったJALの乗員こそ、国民栄誉賞にふさわしいのではないか。
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whiteroom7 · 6 months
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先日、笠間の石切り場「石切山脈」にてモンブランを食す。石切り場で、なぜモンブラン?などという堅い疑問はおいておき、行列に並ぶ。並ぶこと、約40分。ようやく注文。注文してから、番号で呼ばれるまで、更に10分ほどかかったか。モンブランをいただくい、体力と忍耐力が必要になる。テントの中のテーブル席を確保して待つ。並ぶところも食べるところも屋外で、日光を避けられるのは2つあるテントだけだ。このため、荒天時にはお店自体が休店となるようだ。この点は、石切り場にあるモンブランのお店ということを感じさせてくれる。それだけではなかった。購入したモンブランを食べるエリアには、切り出した石によるオブジェが展示されている。モンブランを食しながら、アートの世界に浸ることができる、かもしれないのだ。また、その奥には、かつての石切り場を見渡すことができる。
注文したモンブランが出来上がる。プレミアムモンブランとモンブランソフト。スプーンは紙製、モンブランソフトは容器も紙製だ。慣れないとチープ感はあるが、使い勝手は悪くない。環境配慮をアピールしながらのコストダウンかも。そうであったとしても、実用的には十分だ。
さて、一見してわかるのは、上に載せられているモンブラン、これがかなり細い。紙スプーンですくうようにして口に入れてみる。なんともクリーミィでまろやか、まるで粉か泡のような木目細やかさだ。味わいも、かなり濃厚。とにかく細かいので、口の中に広がりやすいからかもしれない。なんとも深い味わいがする。下のソフトクリームの部分と混ぜてみると、普通なのかもしれない。妻のプレミアムモンブランも少しいただく。中にスポンジはあるが、やはり濃厚な味わいは変わらない。粉のような泡のような細かいモンブランが効果を上げていると思われる。
食べている途中、どこからかタバコの煙が漂ってきた。このモンブランの深い味わいの最中に、タバコの煙はだめでしょ。ってことで周囲を見ると、隣のテントの端の方で60代と見られる男女3人がタバコを吸っているのが見えた。「ん?ここ、いいんだっけ?」と言うと、妻がすかさず「私が言ってくるね」と言って席を立った。すると、「スミマセン」と言って、彼らはすぐさま退散していった。自覚はあったようだ。私達より奥でモンブランを食べていた女性2人が、わざわざ妻にお礼を言いに来た。こういう場合、男が出ると角が立つことがある。特にこの年代は逆ギレすることも多い。同年代として、恥ずかしいことだ。彼らには、石切り場はお似合いだが、モンブランはどうかな。
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モンブランを食べるところのすぐ後ろに見えるかつての石切り場。池のように溜まった水は、自然の雨によるものなのだろうか、それとも意図的に貯めているのだろうか。いずれにしても、底はまだ石で覆われているのであろうか。このあと、やや離れたところに石のオブジェを展示しているところがあり、軽く見学する。素人的な観点からは、石を削るあるいは磨くという動作は想像できるるが、石を切り出したり中をくり抜いたように穴を開けることは想像しづらい。そのための道具もあるのだが、実感できないというのが正直なところだ。石切と言っても、実際には「削る」というイメージなのだろう。
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石切山脈では、通常の見学コースの他に予約が必要な「プレミアム・ツアー」が用意されており、実際石切りの作業を行っている現場を見ることもできるようだ。ただこの日は、すでに予約が埋まっていてプレミアム・ツアーには参加できなかった。「プレミアム・ツアー」に「プレミアム・モンブラン」。ここは、「プレミアム」という単語がお好きなようだ。ただ、「プレミアム」は、それと比較しうるプレミアムで「ない」事象があって初めてその価値がある。比較の対象がないと、それが普通のサービスだよねってことで、「プレミアム」そのものの価値が薄れてしまう。
帰路、高速道路に乗る前から事故の情報が出ている。渋滞覚悟で、高速道路に入る。下の道を通るという選択肢もあるが、急ぐわけではないので、時間はかかっても快適さを優先する。この先の渋滞を考慮し、最初のSAに入り、インフォメーションで事故の状況を確認。2台が事故に巻き込まれていて、通過までに3時間近くかかる見通しとこと。SA内をぶらついたり、車内で仮眠したりで時間を潰すことにする。駐車場をざっと見渡すと、車内にとどまっている人も散見される。私達と同じことを考えているのか。
仮眠の後、再び事故の様子を確認しようとインフォメーションへ向かう。すでに担当者は不在。帰宅したようだ。通常時と異なり、事故のときは通行のめどが立つまで担当者が適切な情報を提供してほしいというのが本音だが、すでに日本はそうした顧客サービス重視の国ではなくなってきている。個人の都合のほうが優先されやすい。職務に対する責任よりも時間が優先する。そういう時代だ。そんな事を考えながら、通行状況のパネルを見る。まだ赤い。まだ事故処理中のようだ。再び、SA内をぶらつく。すると、笠間栗のソフトクリームを見つた。時間もあることだし、もう一回頂い見るかということでソフトクリームを購入。「ん?美味しいねこれ」。「石切山脈のより美味しい」。ひょっとして、ソフトクリーム全体にマロンが混ぜられているからだろうか。こちらの方がオトクな気がする。大きさや種類が違うので、一概に比較はできないが、価格は1/2から1/3程度である。もっとも、ソフトクリームとしてはかなり高価らしい。
もっとも、モンブランやそのシュークリーム、ソフトクリームで使用するマロンは、そのお店で独自に製造しているわけではもちろんない。お店が、地元の笠間栗を購入してきて皮をむき、渋を取ってマロンを作っているわけではないのだ。分業化が進んだ現代では当たり前のことだが、モンブランなどの最終製品を作るお店は、業者からマロンのペーストを購入している。これを使って商品を作っているに過ぎない。業者も複数あるだろうし、ひょっとするとマロンのペースにも種類やグレードがあるかもしれない。それによって、味や食感、価格が変わってくるだろう。だがそこに、お店独自の味付けなどの特徴を出す余地はほとんどない。マロン自体の味や品質にはお店や商品による違いはあまりなさそうなのだ。こんな話を聞くと、当たり前のこととは思いながら、どこか冷めたような、夢が壊されてしまうような感覚に陥ってしまうのだった。
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whiteroom7 · 6 months
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先日、妻から「マザー牧場のコキアが見頃だって」という連絡があった。えぅ?本当か?まだ9月なのにコキアが見頃なのか。早くないか、と思ったが、テレビの情報番組でその様子を放映していたようだ。ということで、マザー牧場へ行ってみることにした。
マザー牧場でのコキアは、丘陵部分の斜面に植えられている。春にはネモフィラ畑になっている部分の奥に当たる。この時期としては、見事に色づいている。もっとも、コキアの面白いところはその色というより、形状にあるのではないか。丸く球状に近く、どこか愛嬌があるように感じる。動物で言えば、まるでぬいぐるみのようなパンダの面白さに似ている。
コキアは、種が取れるそうなので花も咲くようだ。だがそれは、かなり小さそうだ。一年草として、花を楽しむのではなく、枯れていく葉を楽しむ植物も珍しいのではないか。実際、マザー牧場のコキアに触れてみたところ、すでにカサカサで、折れてしまいそうな感覚であった。
コキアは、形や大きさがほぼ同じで整然と一面に植えられている場合が目立つ。この、なんとも人工的で幾何学的な並びがコキアの魅力なのかもしれない。緑から茶色に色が変わっていくところは、あくまでもオマケ的な要素なのではないか。コキアの一群を眺めながらそんな気がした。
帰り道、両側が林のように茂っているところを走っているとき、野生のサルが枝に飛び移るところを目撃。これがアカゲザルのようだ。房総半島では、すでにニホンザルはほぼ絶滅したとされ、アカゲザルとそれとの交配種が大半を占めるという。アカゲザルは外来種で、繁殖力も旺盛とのこと。これは、少子高齢化が進む日本の未来を暗示しているようにも思える。
帰路、続いて市原SAに寄る。このSAには昨年もこの時期に寄っていて、コキアが生育されていることを知っていた。今年もコキアが植えられているという確信はなかったが、とりあえず寄ってみることにした。SAの端の方になるので、エリアとしては小さいが今年もコキアを見ることができた。
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市原SAのコキアは、まだ青々としていた。こちらの方が普通である印象だ。その頃は、自宅付近でも色づいているコキアはなく青々としていた。マザー牧場のコキアの色づきが早かったのだ。平地と比べて高度が高いマザー牧場では、色づきが早いのかもしれないし、単に早めに種あるいは苗を植えたのかもしれない。時間差でコキアを楽しむことができたばかりではなく、色づいたコキアとまだ青々としたコキアの両方を楽しむことができた1日だった。
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whiteroom7 · 7 months
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The Rolling Stones の"Sweet Sounds of Heaven"。彼らの18年ぶりとなるスタジオ録音のニューアルバムからは、1曲目として公開された"Angry"に続く2曲目となる。「怒り」の次が「天国の甘い音」。意識していたとは思えないが、この落差が楽しい。いや、やはり意図的か。
"Angry"が80年代風とすれば、この"Sweet Sounds of Heaven"はややジャズ風な演奏で、70年代風。というより70年前後の印象に近い。具体的には”Wild Horses"や"You Can't Always Get What You Want"を彷彿とさせる。これらをさらに進化させた感じだ。ストーンズ節とも言え、実によくできている。イントロのピアノには Stevie Wonder、ボーカルには Lady Gaga が参加している。Lady Gaga、本当に歌がうまい。Mic Jaggerを完全に凌駕している。Gaga はこの曲を「ゴスペル」と表現している。たしかにそのような歌い方になっている。
Mic も Gaga も、たまたま同じスタジオにてレコーディングしており、Mic が Gaga に声をかけたことになっている。どこまでが偶然なのかはともかく、元々この2人は知り合いだったことになる。Gaga は「自分の知っている Mic は1人だけ」とも言っている。この2人の繋がりは、どのようなものだったのか、そこに興味がある。ふと思い出すのは、新型コロナ初期に Gaga が呼びかけた医療従事者向けのチャリティコンサートに The Rolling Stones が出演していたこと。以前から繋がりはあったようだ。
1曲目である"Angry"のMVには、故Charlie Watts も一瞬登場する。楽曲の演奏には加わっていないとされる。Charie は The Rolling Stones を脱退したわけでもないので、Mic や Keith に取っては、今でもメンバーの一人、そんな意識があるのではないか。実際、ニューアルバムには Charie が参加している楽曲も含まれるという。
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何年か前に KISS の Gene Simons が、なぜ新しいアルバムを作らないのかと問われ「昔のような曲が作れなくなった」と答えていたことがある。これは、KISS だけではなく、長期に渡って活動しているバンドの大きな悩みのひとつなのではないか。これは、単にいい曲が作れなくなったと言うだけではなく、今までのキャリアの評価を汚すようなアルバムを発表したくないという気持ちではないかと推察する。新しいアルバムを作るのであれば、かつての延長線上、少なくとも過去のキャリアを傷つけることがあってはならない。すでに確立している現在の地位を貶めることがあってはならないのだ。日本では「晩節を汚す」とも言う。そんな思いがあるかもしれない。つまり、この時点で彼らはもはやチャレンジャーではなく、守りに入ってきていることになる。このため、すでにレジェンドのような立場にあるアーティストにとって、新しいアルバムを発表することは、私が考えている以上にプレッシャーが大きいかもしれない。あえて、そんなリスクを取る必要はもはやないと考えてもおかしくない。そんなことを思わせる Gene の発言であった。
そんな中で、あえて18年ぶりに発表される The Rolling Stones のニュー・アルバム。どこか、同窓会的な面も否めないが、先行して発表された2曲を聞く限り大きな期待を抱かせてくれる仕上がりになっている予感がある。そして、ツアーの期待もかかる。
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whiteroom7 · 8 months
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UFOやエイリアンに関しては、一般的に認められた事実や科学的根拠がなく、想像や空想の域を出ていないミステリアスな現象だからこそ興味を引くのだ。もしそれらが現実となれば、社会に大きな影響を与えるのだろうか。だが、そうはならないのではと考える。最初の頃はインパクトがあるのは当然だが、それは長くは続かずに収まっていくのではないか。なぜなら、もし、UFOやエイリアンが存在するとすれば、それは単に隠蔽されていただけで、現在の社会や科学技術に既に織り込まれているはずだから。今、UFOやエイリアンが出現したとしたら社会生活に多大な影響を与えるであろうが、隠蔽あるいは意図的に公開されていなかった場合、その影響は限定的ではないか。例えば、隣人から「実は私はM78星雲から来たんです」と告白された場合、一時的には驚くかもしれないが、その後の付き合い方が変わるとも思えないから。
そもそも、UFOやエイリアンが地球に飛来してきているのであろうか。おそらくその心配は無用だろう。現在の人類が保有する科学技術、特に宇宙技術を考えると、そこに人知を超えた遥かに高度な文明を持つエイリアンや彼らが作ったUFOの技術が応用あるいは転用されているようには考えられない。宇宙開発は、人類にとっては極めて高度な技術であることは当然だが、あくまでも過去の技術開発の延長線上にあり、突出した技術とは考えにくい。このことから類推すると、UFOやエイリアンは地球に飛来してきている可能性はあるが、少なくともそれらの技術は利用されていないと考えるのが妥当だろう。過去はともかく、現代においては、といいう条件はつくが。
かつて、エイリアンとされる映像が多数テレビで放映されていた。いずれも人型で、未来感を感じさせるようなシンプルな体型だった。ところがその後、洋画、特に米国のSF映画に登場するエイリアンはその多くが節足動物のような形状で、巨大な生物も多い。それまでのエイリアンのイメージとは一線を画すものになっている。一言で言うと、とても人間を超える知的生命体には見えないのだ。このような、映画に獣型のエイリアンを採用するのは、その裏になにか隠された意図があるのではないかとさえ疑ってしまうほどだ。もっとも、全てが高度なUFOに乗って地球に飛来してきたわけではないのだが。
さて、私自身も、かつてUFOらしき物体を3度目撃した体験を持つ。改めて振り返ってみる。
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1度めは、中学生の夏の頃中学校のグラウンド。やや視線は上を向いていた。そこに、突然2本の線状のものが現れ高速で右側に移動。夏独特の雲に突入。そのまま2本の線状のものは雲から出てこなかった。時間にして1秒足らずか。距離感は知るべくもないが、遠方で航空機が飛んでいるよりも遥かに高速だった。今思えば、2本の線は飛行機雲のように残ってはいなかったので、何らかの推進力によるものかもしれない。
2度めは学生時代。大学からの帰路、当時住んでいたアパートの1本手前の曲がり角を過ぎ、数歩歩いたときだった。住宅地で、車の行き違いが難しいほどの幅の道路の先に、複数の赤色の点のようなものが上昇していくのが見えた。私には、一見、打ち上げに失敗した花火のように見えた。花火かなと思ったのは、その時期がおそらく9月、あるいは10月だったからだろう。程なく帰宅した。
だが、これはそれだけでは終わらなかった。私が目撃したそれほど広くない道路は東西に伸びていて、その西側に見えたのだ。ということは、方角的に東京方面で発生したことになる。そのためか、私以外にも目撃者が多数いて、その日のラジオの深夜番組ではUFOではないかと大きな話題になっていた。そして、翌日の新聞にも掲載されるほどであった。最終的には、正体不明というところに落ち着いた。当時も気象庁が発表していた記憶がある。
3度めは、ある山の中腹からやや上の位置に、浮遊しながらゆっくりと左方向に移動している物体だった。5分から10分ほどは見ていただろうか。形状としては細長く、円柱を横に倒したようなものだった。材質的にはメタリックな感じであった。何だったかは不明だが、何らかの人工物であったのではないかと当時は考えた。UFOがこの高度とスピードで移動していくとは考えにくかったから。では一体何だったのか。やはり疑問には感じる。
米国には以前から、UFO目撃情報だけではなく、UFO墜落説やエイリアン捕獲説があり、それらの真偽も含めてUFOに関する情報を多数所有しているのではないかと考えられてきた。そのような観点から、これはとても興味深い試みと言える。今回の米国防省のサイトは、今後、その本気度が問われるだろう。情報公開の一環としてUFOとエイリアンの情報を小出しにその存在を徐々に既定事実化していくのか、議会での追及をかわすガス抜き的な位置づけなのか。
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whiteroom7 · 9 months
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先日、土用の丑の日を前に成田の「川豊」にてうなぎを食す。とは言え、訪れたのは別館である。本店は、成田山新勝寺の参道にあり、うなぎをさばくパフォーマンスを見せてくれることでも知られる有名店。こちらで食べるには、長く待たされることが多い。別館でも待たされるが、こちらは許���範囲か。
川豊のうなぎは、ここ数年で食べた中では最も美味しいと言うか、私には合ううなぎである。また食べたいと思わせるところがある。こういうところはあまりない。やはり別格。
うなぎは、値が張ることもあり、どうせ食べるなら美味しいところで頂きたいものだ。できれば有名店で、などと思ってしまう。有名店と言われるお店もいくつか行ってみたが、口に合わず外れなお店が意外と多い。有名店と言われるお店は、どこか一癖あるのか、それが合う人にとっては最高のお店なのかもしれないが、私にとってはその味と価格が見合わないお店が多いのだ。この味でこの価格か、と感じることが実に多い。つまり、私にとってうなぎの有名店は、ハズレが多く分の悪い賭けという印象だ。そんな中にあって、数少ない当たりのお店が「川豊」である。
桜や紅葉、あるいは飛行機を見るために度々訪れる成田。ここは、川豊だけではなくうなぎの美味しいお店が多い。普通の蕎麦屋のうなぎも美味しかったりする。成田山公園内のお店のうなぎも美味しい。実際には普通程度の美味しさなのかもしれないのだが、うなぎ専門店とは違って価格が抑えられており、コストパフォーマンスが高いからかお得感もある。
伝統的にうなぎが美味しいと言われる成田。平凡で普通の味なのかもしれないが、私の好みによく合っている。
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whiteroom7 · 9 months
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国立博物館で開催中の「古代メキシコ展」を見学。古代メキシコと言えば、やはりマヤ文明。こちらに興味があった。エジプトやインカ帝国に関しては何度か展示を見たことがあるが、マヤ文明は初めてになる。こちらもピラミッド状の神殿が興味深い。それと最近、とは言っても10年ほど前にはあるが、人類の終末を予言したとも言われるマヤ文明のカレンダー。こうした、現代科学でも解明できていない部分が多い文明は、その事実とともに不可思議さが想像力を刺激してくれる。
マヤ文明もインカ帝国と同様に、スペイン人により支配され終焉してしまうわけだが、その文明発祥の紀元は思っていた以上に古く、紀元前2000年程度まで遡るようだ。エジプト文明からはやや遅れるようだ。メキシコのピラミッドとしてエジプトのそれとよく比較されるティカル1号、2号神殿。これらは700年代以降に建造されている。
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ティカル2号神殿が建造された時期、この頃日本は飛鳥時代から奈良時代への移行期で、600年代後半に天武天皇、持統天皇、文武天皇がそれぞれ即位。700年代に入ると大宝律令制定、平城京遷都。そんな時代である。
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マヤ文明と言えば、やはりティカル2号神殿。高さは40m弱で、想像していたよりは大きい。およそ、10階前後のビルと同じ程度の高さか。写真で見ていたときは、4、5階程度の高さかなと考えていた。構造はエジプトのピラミッドよりは複雑だ。エジプトのピラミッドの進化型とも言えるが、マヤ文明と当時のエジプト文明の交流があったとは思えないので、四角錐という形状は偶然の一致だろう。マヤ文明のピラミッドは、山をモチーフにしていると考えられている。そこにエジプト文明との相違がある。ティカル1号神殿は更に大きく、高さは50メートルを超える。10数階建てのビルに相当する高さだ。ティカルの両神殿も故人が埋葬されているので、その役割も似ている。
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チャックモールも来ていた。これは、想像していたよりは小型だった。仰向けで右を向いた独特のフォルムは、1度見たら忘れられないほど印象的だ。腹部には生贄をおいて捧げられたと言うが、ひょっとして、当初は実際の人間の腹部に生贄を置いていたのかもしれない、などと思わせるところがある。古代文明の神事にありがちな、残酷な儀式だっただろう。
見学している人達の中には、外国人も目についた。屋外で、コーヒーなどを販売しているところでは、飲み物を受け取ると「グラシア」と声をかけている人もいるのでメキシコ系の人達が来ているようだった。日本に居住するメキシコ人だろうか。「古代メキシコ展」以外の場所では、欧米系の外国人もチラホラ見られる。彼らは、観光で来日していると見られる。
マヤ文明はユカタン半島に位置していた。ユカタン半島と言えば、およそ6,600万年前に恐竜など多数の生物が絶滅した原因となる小惑星が落下した地点でもある。生物の絶滅の起点となった地域に生まれた人類の文明。これらは無関係なはずだが、どこか関連性を求めてしまいがちだ。
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whiteroom7 · 9 months
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今のところまだあまり期待してはいないが Threads に登録してみる。事前に聞いていたとおり、最低限の機能を実装し、取りあえず安定的に動く、そんなところか。独立したアプリとはいえ、システム的には、Instagram を拡張していると見られる。Threads と Instagram の双方に互いのリンク・アイコンが用意されており、あたかも同一アプリのように動作する。タブ切り替えの感覚だ。実際、共通化されていないのはフォロー関係くらいか。それ以外は、Instagram の情報がコピーされる。一部、変更は可能なようではあるが。
誰一人フォローしていないにも関わらず、タイムラインには見ず知らずの人の投稿が表示される。興味深い試みだ。おそらく、使用していくとユーザの興味に応じて表示内容も変わっていくと思われる。だがいずれ、フォローしていないユーザが表示されることに違和感を持つかもしれない。これは、調整できるようになるだろうか。
私の場合、Instagram では私自身に興味を持ってくれる人とのコミュニケーションを重視しているので、基本的には私からのフォローはしていない。フォローバックが基本だ。フォローバックする場合も、フォローに対して無条件ではフォローバックしておらず、コメントをくれることが最低条件になる。このようにしてコミュニケーションを維持してきた。「いいね」の数は全く気にしていない。ではあるが、Threads ではどのようにしたらいいのかやや迷う。もう少しフォローバックを増やしたほうが楽しく利用できるかもしれない。
リアルな世界での出会いは自らコントロールすることが困難な場合が多い。だが、SNS ではそれが可能なのだ。自分の友だちは自分で選ぶ。結果的に、これは自分を安売りしないことにもなる。
表示形式は、確かに Twitter によく似ている。誰が考えてもこのようなデザインになるのかもしれないが、そこはやはり後発の Meta/Instagram らしさをもっと出してほしかったところではある。また、投稿をクリックするとその投稿だけが表示されるモードになる。投稿や写真、コメントが一覧表示されるのだ。この機能も Twitter にあるが、Instagram にはなかったものだ。これがInstagram が使いづらい大きな要因である。Instagram の場合、タイムライン上で「続きを読む」「コメント◯件をすべて見る」をタップあるいはクリックし続ける必要がある。一覧性に欠け、非常に使いづらい。「読む」と「見る」の相違も微妙に気になる。ややジャンルが異なるとはいえ、アプリとしてみると Instagram より Twitter の方が優れている点が多く、私にとっては使いやすいと感じる。正直なところ、Instagram の人気が高い理由が私にはよく理解できないのだ。Threads はそれに一歩近づいたようではある。
Threads には Web 版がないということで、Threads 以外への拡散は難しそうだ。だが、Web 版の Instagram のプロフィール画面には Threds のアイコンが用意されている。これをクリックすると、自分の投稿は確認できるようだ。だが機能としてはそこまでで、それ以上のことはできない。具体的には QR コードが表示され、スマートフォンでの操作が必要となる。全く Web 版がないわけではなさそうだ。また、Threds アプリをよく見てみると「リンクをコピー」と「シェア」というメニューが存在する。これを試してみると、他のシステムでシェアできる投稿への URL が取得できる。これを利用することで、Threads 以外へもシェアが可能となっている。現在では、プロフィールの一部が表示できる程度の Web 版 Threads であるが、アプリと同等の機能が提供される可能性が高いだろう。
現在のインターネット空間での最大の遊び場といえばSNS になる。世界中の人達と交流できるのは本当に楽しい。距離感はほとんど感じられない。あるのは時差くらいである。南半球の人達とは、季節も異なるか。SNS 以前は、音楽関係で英国やイタリア、ドイツと言った欧州諸国もそれなりの存在感はあったが、やはり「世界」や「海外」といえばそれは米国を意味していた。こうした偏った考えを修正してくれたのが SNS である。SNS における欧州の人たちの存在感はとても大きい。英国が脱退したとはいえ、EU の総人口は4億人を優に超え、未加盟国を含めた欧州全体の人口は7億人を超える。これは米国の人口の2倍以上で、彼らの存在感が大きいのは当然のことだ。社会や政治、文化を考えれば、世界を動かしているのはむしろ欧州と言っていいほどだ。それほどまでの影響力がある。今更ながら、これに気がついた。それに加え、今ではグローバル・サウスと呼ばれるインドやブラジルからの参加者も目立つ。数としては少ないが、アフリカ諸国にもユーザはいる。彼らは日本的に言えば、まともな人が多い。想像するに、途上国の SNS ユーザは比較的裕福で、教育レベルも高い人が多いようだ。
ただし、歴史的背景から、日本人やアジア系人種を嫌う欧米人が少なからず存在することにも留意が必要だ。
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Threads では、登録して翌朝には既に100人を超えるフォロワーがいて驚く。1件も投稿していないにも関わらずだ。普通の SNS ではありえないことだった。フォロワーの大半はInstagram のフォロワーだった。とりあえず、親しいフォロワーをフォローバックしてみる。
Instagram 繋がりとはいえ、フォロワーが100人を超えていると、フォロワーに対する言いようのない責任感を感じてしまう。そこで、Instagram には投稿したことのない写真を1枚投稿してみる。これが、思った以上に反応があった。フォロワー以外の反応が多い。これはおそらく、投稿の露出度と言うか見せ方が Instagram とは異なっているからだろう。冒頭に書いたフォローしていないにも関わらず表示される Instagram で言うところの「発見」的な場所で表示されていると考えられる。この機能の威力をまざまざと感じさせられた。Instagram と密接な関係を保ちながら���独立したアプリとして提供されている Threads 。機能的に Instagram と共通する部分もある。実際、Instagram と同じ内容を投稿しているユーザも目立つ。これでは、Threads の本来の意義があまり感じられない。Threads を利用するに際しては、新たな投稿戦略やポリシーを持つ必要があるだろう。
個人的にはスマートフォンのアプリ版しかない SNS は利用しづらい。本格的に Threads を利用するのは、Web 版がリリースされてからになりそうだ。
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whiteroom7 · 10 months
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今や、夫婦漫才とも言われる Toyah と Robert の Fripp 夫妻。Sunday Lunch でついに Cream の "Sunshine of Your Love" をカバー。Cream の曲だけに、ク��ーム状のものを体に垂らしながらの過激なパフォーマンスを演じている。Eric Clapton も大笑いか。
普段は King Crimson のリーダーとして気難しいイメージのある Robert Fripp だが、この一連の Sunday Lunch の映像を見るとそのイメージとは程遠い一面が見えてきて興味深い。King Crimson や Robert Fripp のお堅いイメージが崩れるとする見方もあるようだ。どちらが本当の Robert Fripp なのか。まぁ、そんなことはどちらでも構わないのだ。King Crimson が仕事用の顔かもしれないし、Sunday Lunch がただのお遊びかもしれない。公私でキャラを使い分ける。これでいいのではないか。
彼らのように、夫婦漫才ができるようなアーティスト同士のカップルは他にも何組か思いつく。だが、この2人だけが実際にそれを行っている。やはりここが重要だ。実行できるにも関わらずそれをやらないということは、そのようなアイディアがなかった場合を除けばそれなりの理由があるはずだ。所詮は YouTube の世界、深く考えても仕方のない領域かもしれない。
また、Robert Fripp が Cream の曲をカバーしたことにも意味がありそうだ。Robert Fripp と Eric Clapton との関係だ。ジャンルがやや異なるとはいえ、同じギタリスト。この2人の交友関係は定かではないが、関係は悪くなさそうだ。もし2人の関係が悪ければ、星の数ほどある楽曲の中からわざわざこの曲を選曲したりはしないだろう。少なくとも Robert は Eric をギタリストとして、そしてミュージシャンとしてリスペクトしていると思われる。
同じバンドで活動し、名作と言われるほどのアルバムを共に製作していながらも、その後、メンバー間の不和により脱退、あるいは解散。こんなバンドは多い。一時期は、アルバムを製作しても、ツアーに出てもすべてが楽しい時期だ。この頃が、後に「全盛期」や「黄金期」と言われる時期になる。理由は様々だが、その後、メンバー間にきしみが生じ始め、主要メンバーの脱退や解散へと至る。一度は再結成されることもあるが、長続きせず結局再度解散。こうした経緯を辿ったバンドは実に多い。この過程が、あたかもバンドの正常な成長軌跡であるかのように。更に特徴的なのは、その後にメンバー同士の軋轢が続き和解する例が殆どないことだ。その後も対立し続ける。特にこれは英国のバンドに顕著だ。米国のバンドでは思いつかないほどである。これを、島国と大陸の国民性の違いと一括りで言っていいのかはよくわからないところだ。結果的にそうなっている。あのバンドもこのバンドも。ファンからすると、実に残念なことだ。
幸いなことに、Robert と Eric は同じバンドに在籍したこともないからか、利害関係も薄く比較的良好な関係を維持しているように感じられる。今後も、Eric Clapton の曲をカバーするだろうか。
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whiteroom7 · 11 months
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先週「うたコン、当たったよ」と妻から連絡があった。NHKで、毎週火曜日の夜に放送されている歌番組で、毎週抽選で観ることができるようだ。私は「うたコン」は時々観る程度で、さほどの興味はなかった。ただ、当選した回は、放送開始70周年の特別番組とのことだった。時間も30分延長されている。ビデオ出演の黒柳徹子、石川さゆり、郷ひろみ、早見優らの名前があった。さらに、菅原洋一。えぅ?まだ現役で歌っているのか。相変わらず、「あの人は今」的な人選だが、一度は見ておきたいと思わせる歌手だった。NHKホールは、紅白歌合戦も1度、国際フォーラムで開催するなど大規模な改修もされたはずだし、行ってみるか、ということで6/6(火)の放送を観に行ってきた。石川さゆりの生歌は、一度聴いてみたいよね、という願望も実現した。
当日は、台風2号の影響で夕方から雨模様というあいにくの天候。観客は、高齢者中心かなと思いきや、30代や40代といった若一世代も意外と多かった。
NHKホールには、数年前にジャズのフェスで行ったことがある。チック・コリアやリー・リトナーなどの演奏が聞けた。チック・コリアは、この時の演奏が日本での最後の演奏となってしまった。最後の来日公演となったことは残念だだが、チック・コリアの日本における最後のの演奏を聴けたことができたのは幸運だった。代表曲とも言える「スペイン」は演奏されなかったが、チック独特の前かがみの演奏スタイルは今でもよく覚えている。このフェスには、アル・ディ・メオラも来ていたが、日程がが合わなかった。
1回目の時の席は1階席で通路側から3席目で、中央やや左から観た。今回は2階席で前から三列目通路側で、ほぼ中央から観ることができた。2階席ではあったが、前回より前方に位置するように感じた。座席としてはかなり良かった。
ステージを見ると、左側には椅子席が用意されていた。ここで出演者とトークををする場だ。そして、中央上方には大きなスクリーンが用意されていた。これはおそらく、中継するテレビ映像が映し出さっるのだろう。ビデオ出演する黒柳徹子もここに登場するはずだ。前回もこのモニターはあったはずだが、気が付かなかった。ジャズのフェスは、生中継ではなかったので、利用されなかったのだろう。
NHKの放送番組なので、前座のようなイベントはないが、注意事項などの説明やペンライトの振り方の練習はは面白おかしく進め、事前に場を盛り上げる工夫がされていた。説明が終わると同時に番組は始まった。
オープニングは出演者の持ち回りで「いつでも夢を」。早速、黒柳徹子がビデオで登場。若くして歌番組の放送に携わり、今日まで第一線で活動していることのやはり只者ではない。日本歌謡界の生き証人というだけではなく、テレビ放送界のレジェンドとも言える存在である。彼女より長くテレビ放送に関わっている人は日本ではいないのではないだろうか。改めて黒柳徹子の偉大さを感じた。
石川さゆり。まさか、石川さゆりの生歌を聴ける日が来るとは思わなかった。近年では、紅白歌合戦のトリこそMISIAに譲ってしまったが、歌唱力には衰えを感じさせない鬼気迫る凄みがある。やはり上手い。衣装を替えての2曲は大サービスか。
郷ひろみ。まだ60代後半とはいえ、ステージのみならず客席の方まで走り回る様子はシニアの鑑。日常的に歌い、踊り、トレーニングを続けている様子がうかがえる。妻の隣のおばさんたちは、持参したタンバリンを上に上げて叩き出すのりの良さだ。未だ衰えぬ人気。ダンスと言うか振り付けは最近の若いアーティストのそれとは異なり、手や脚の振りが大きく昭和な印象であるが、それこそが郷ひろみのアイデンティティか。
米米CLUB。名前は知っていて、単発的には観たことがあるが、特に印象に残ることはなかった。しかし今回生で観てみると、そのしっかりとした音楽性が感じられた。ここまで生き残ってきているのは、それなりの理由があるのかもしれない。ただの食わず嫌いだったか。とても興味深いグループで、今後も注目していきたい。
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ステージの演出は、会場で見るとやはりテレビと比較して迫力がある。奥行きが感じられることと3D的に1階観客席の上方にまで飛び出してくるように見える光の演出もある。また、常時ではないが、ステージの外側にも照明の効果が見られる。これはテレビ映像には映されていない。また、光の演出は、単なるRGBでは光の強さは表現できず、キラキラと光り輝く様子はテレビ映像よりもはるかに綺麗で印象的に映った。実際の会場では、アーティストとその場を共有し、同じ体験ができるのだ。そうした点で、NHKホールで実際にショーを観覧できたのはとても有意義な時間だった。
全体としては、あっという間の1時間半であった。2度目のNHKホールで、2階席でありながら前から3列目でほぼ中央という良い位置関係。ビデオや出演者のトークの間、ステージの照明は落とされているが、楽器やセットの入れ替えが行われている様子がわかる。1つのステージでの生放送という、限られたリソースを有効に活用するためのその舞台裏を垣間見ることもできた。ビデオやトークは、それ自体必要であることはもちろんだが、次のステージの準備にも必要な時間でもあったのだ。開演直後から盛り上がるような事前の工夫もされるなど、考え抜かれた演出はテレビ放送70年の経験はダテではない。一貫性のないように選ばれたように見える出場者も、私には理解できなかったが、ひょっとするとそこには深い意図があるのかもしれない。とても満足度の高いショーだった。
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whiteroom7 · 11 months
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ジェフ・ベックのトリビュート・コンサートから「ピープル・ゲット・レディ」。サー・ロッド・スチュワートがボーカルで参加。歌い方としては、軽く流した感じだが、軽やかな動きで健在ぶりを示している。それ以上に、トップ・スターとしての余裕が満ち溢れている。ロニー・ウッドも実に楽しそうだ。ここに、コージー・パウエルがいれば、第1期ジェフ・ベック・グループの主要メンバーが集ったことになる。そこまでは無理か。
ロニー・ウッドは、今ではローリング・ストーンズのギタリストとして多忙なはずだ。そういえば、ジェフ・ベックも、一時期、ローリング・ストーンズへの加入が噂された時期もあった。もしその時、ジェフ・ベックがローリング・ストーンズに加入していたとしたら、ロニー・ウッドはどうしていただろうか。おそらく、今と同じくローリング・ストーンズのギタリストだっただろう。なぜなら、仮にジェフ・ベックがローリング・ストーンズに加入したとしても長続きせず、短期間で脱退していたに違いないから。その後釜として、ロニー・ウッドが参加したはずだ。ジェフ・ベックもロニー・ウドもそういう種類の人たちなのだ、多分。その後、ジェフ・ベックは、ミック・ジャガーのソロアルバムには参加していたんだな。
このトリビュート・コンサートを企画したエリック・クラプトンの姿にはやや違和感がある。最近では珍しく、白色のストラトを弾いている。これは��晩年白色のストラトを好んで弾いていたジェフ・ベックに対する敬意の表れあろうか。セットリストを見ると、ジェフのキャリアが始まったヤードバーズ時代の曲も選ばれていて、エリック・クラプトンが担当している。当時のジェフは、エリックの後任だったことも影響しているかもしれない。
当日の映像をいくつか見ていると、ジョン・マクラフリンも参加している。ジョンの演奏は随分久しぶりに観る。やはり上手い。本気でギターを弾きに来ている。そんなことを感じさせるプレイだ。もちろんこの日のためではなく、日常的にジェフの曲を弾き慣れている印象だ。
何かとご難続きのジョニー・デップ。ジェフとの共作アルバムが、まさかジェフの最後のアルバムになるとは本人もジェフも想像できなかっただろう。ひょっとすると、ジェフと一緒のツアーのk計画もあったかもしれない。そんなことを思わせる。
エリック・クラプトンは、4月に日本公演を終え、休む間もなくトリビュート・コンサートの準備に取り組んだと見られる。この「ピープル・ゲット・レディ」は、先日のチャールズ国王の戴冠式の公式プレイリストにも採用されていた曲だ。だが、歌詞の内容を考えると、このトリビュート・コンサートにこそふさわしい曲だ。ジェフ・ベックはギターはもちろん荷物も持たず切符も持たずに、到着した列車に一人で乗り込み、そのまま旅立っていったのだ。
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whiteroom7 · 11 months
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2019年春、最寄りの都立公園にて撮影。2019年といえば、新型コロナによる外出自粛要請が出される前の年である。東京五輪を翌年に控えた、普通の春だった。そんな一枚が、野良猫写真としては私のお気に入りの一枚である。200mm/F2.4 のレンズの実力がよく出ている。やや警戒しているような表情ではあるが、目にピタリとピントが合いしかも浅い。バックの菜の花はもちろんだが、背中の体毛も既にボケ始めている。すぐ後ろにある杭やそれにつながる鎖のボケ具合も良く、それぞれの距離感をうまく表したボケ具合になっている。耳もカットされておらず、野良猫としては貴重な存在でもある。
この写真は面積比でおよそ2/3程度にトリミングしている。猫や鳥に限らず、動物を撮影する場合は構図を考えている時間がない場合が多いの、とにかくシャッターを切ることを優先させている。人に慣れている野良猫の場合、「撮って、撮って!」「私ってキレイ?」とでも言わんばかりにポーズを決めてくる場合もあるが、それはまれですぐに動いてしまう場合が多い。近づきすぎず、離れすぎずという距離感も重要。
猫の写真もたくさん撮影してきたが、中でもこれはお気に入りの一枚である。よく撮れたなという良い、あるいは好きな写真と、お気に入りの写真とは微妙なズレがある。好きな写真がすべてお気に入りというわけでもなく、せいぜい1/2から1/3程度か。無意識のうちに写真をランキングしているだけではなく、おきい入りという「これはいいな」という感情は、また別の要素から湧き上がってきている感覚がある。
猫と鳥は写真としてみると、動物としてひとくくりにはできない独立したジャンルを持った特別な存在である。それぞれ、専門として撮影している写真家も多い。いずれも身近な存在だからかもしれない。これだけの大きさの哺乳類が、半ば野生で生息している点は興味深いところである。だが、猫にとっても徐々に住みづらい環境になりつつあるようだ。住宅地で生息するのはかなり難しくなってきているようだ。公園や寺社などの空間に集まりがちだ。地域猫と呼ばれる猫も、減少しているのが現状だ。その一方で、都内や23区内の住宅地では、ハクビシンやタヌキ、キツネ、アライグマなどがしばしば目撃されており、これらはむしろ増加傾向にあるようだ。こうした現象には、やや矛盾を感じざるを得ない。地域猫と呼ばれる猫も一定数は保存してほしいものではある。
今年に入って、ストックフォトで1週間に複数枚の写真が売れるようになってきた。金額的には微々たるものなので、ささやかな社会貢献かなと考えている。ストックフォトに登録している写真はまだ数十枚と多くはないので、売れている写真は10数枚・種類に過ぎない。その中でも、よく売れているのは数枚・種類に限られる。大多数の写真は全く売れないのだ。ごく小数の写真が売上の大半を占めるという、パレートの法則がここにも見える。ストックフォトにもベキ分布という社会の縮図が現れているところが興味深い。ストックフォトで売れていると実感できるのは、1週間で2桁、あるいは毎日複数枚売れる頃か。そのためには、今の3倍から4倍の数の写真が必要だろう。先は長い。
だがしかし、ストックフォトの将来は暗いかもしれない。ストックフォトの需要は減少することはないと思うが、その供給源は画像生成AIが主流となる可能性が高い。事実を伝える必要なる報道や旅行、商品写真などごく限られた分野を除けば、AIによる生成画像で十分だろう。特に、モデルを使用する場合には肖像権などの権利関係が複雑になるため、生成画像に対する需要は大きいだろう。モデルとなる人物そのものに価値がある場合を除いて、生成画像に置き換わっていくだろう。アマチュアのモデルにとっては受難の時代となりそうだ。さらに、ストックフォト自体が生成画像の材料に過ぎなくなる時代が来るかもしれない。画像生成AIの登場で、ストックフォトの流れも大きく変わりそうだ。
お気に入りの猫写真であるが、この手の写真はストックフォトではまず売れない。「猫」自体があまりにも一般的で誰にでも容易に写真を撮影することができ、猫写真が世の中に溢れかえっているというのがその理由である。参入障壁が低く、世の中に大量に存在するものの価値は低いのだ。
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whiteroom7 · 1 year
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昨年末頃からある銀行と手続きを進めていて、支店にも2度足を運び書類にサインや押印をしてきた。その後、サインと押印が2ヶ所漏れていたとの連絡があり、郵送で対応することになった。郵送されてきた書類にサインと押印をし、同封されていた返信用封筒に入れて郵便局に持っていった。
返信用の郵便物を窓口に差し出す。すでに切手は貼られているが、窓口の女性は計量する。 窓口の女性「20円です」 私「はぁ?」 窓口の女性「20円足りないんです」
そんなバカな。計量こそしていないが、家を出るときに、返信用封筒に貼られた切手の金額が、送られてきた封筒に貼られた金額と同じであることは確認していた。
私「これは返信用でですね…」 私が言葉を切ると、一瞬間を置いて、 窓口の女性「でも、20円足りないんです」
私は、経緯を説明しようとしたが、説明して仮に理解してもらったからと言って、目の前にある郵便物の料金が「わかりました、20円不足していますがこれでいいですよ」となるはずがないと悟り、途中で止めた。自分に対して、どこか虚しさすら覚えたのだ。話は途中で打ち切ったが、窓口の女性はおおよそ察してくれたようだった。それが「でも」という言葉に現れていた。彼女は、差し出���れた郵便物を計量し、適切な料金を徴収するという自らの仕事を忠実に実行しているに過ぎなかった。その郵便物がどのような経緯をたどって差し出されたか、郵便料金には関係しないのだ。ましてや、個別の事情を酌量し、郵便料金を決定する権限は彼女にはない。
私は、「そうですか」と言って20円を支払い、郵便局を後にした。勝負で言えば、私は負けたのだ。
だがやはり腑に落ちない。帰り道、しばし考えてみた。可能性があるのは計量か。計量機器の調整が不十分で、局によって郵便料金が異なるということになれば、社会問題化しかねない。さすがにこれはなさそうだ。定期的に機器の調整はしているだろう。だがしかし、貼り付けられた切手の確認だけではなく、事前に郵便物の計量もしていれば、この点で対抗できた可能性は残る。あるいは、別の郵便局に差し出したらどうだったか。結果は変わっていただろうか。
かつて、日本郵便の開発プロジェクトにおいてプロジェクト管理支援の業務を担当ことがあったので、郵便事業については多少の知識があった。そこで思い返してみた。そのプロジェクトは、郵便事業の中でもコア事業の1つではあったが、郵便物引受後の業務であったため、直接的な関わりはなさそうだった。
結局の所、疑わしいところは残るが、郵便料金不足の原因は判然としない。20円の支払いで済んだ点は良かったということにしよう。
ついでではあるが、この日本郵便のプロジェクト管理支援業務は、私にとってはうまく行ったプロジェクトの1つである。このような、開発・技術・管理支援の案件は、思い出す限り全てうまく実行できた。しかも、記憶に残るプロジェクトが多いし、私自身このような案件が好きだった。要求事項は、顧客や案件ごとに大きく異なり、これといった定型的な業務の進め方がなく、全て顧客の個別の事情に基づいて計画を立てたり進め方を考える必要がある。オール・カスタマイズで難易度も様々である。中には、どのように進めたら良いのか迷ったり悩んだりするような案件もあったが、友人と話をしていく中でヒントを得ることができたりもした。
開発・技術・管理の支援で重要なことは、常に顧客視線で現状を客観的に判断し、今やるべきことや改善案などを考えて提案・進言していくことである。言われたことをだだやっているだけでは不十分なのだ。私達に支援業務を依頼してよかったと思わせる必要がある。走りながらも常に顧客の立場で考えていく。進め方にはこれといった方法論や手法は存在しないので、自ら考えていく必要がある。しかし逆の見方をすると、裁量範囲が広く、自分で考えたとおりに実行できる点にやりがいを感じるのだ。これに対して開発案件は、一般的に苦労する割に報われづらい。これは主に、制約条件が多く、裁量範囲が狭いことがその理由だ。更に契約上、すべてが完璧であって当たり前なので、評価が減点法になりがちである。ビジネスだから仕方ないのだが。
また、このような支援業務は継続受注できる割合が高い。私自身の満足度も高いが、顧客にも喜んでいただいているようだ。日本郵便の場合も、プロジェクトの途中で別のプロジェクトのプロジェクト管理を受注できた。現行プロジェクトと一部時期が重なるのため、別にもう1つのグループを立ち上げて対応した。
当時を思い起こすと、2つ目のプロジェクトの見積もりの依頼を受ける1ヶ月近く前に、そのプロジェクトのマネージャーの方が見え、現在のプロジェクトの進め方について話を聞かせてほしいという相談を受けていた。こちらも大規模なプロジェクトなので、マネージャーの方も不安を感じられていたような印象だった。予算の目処が立ったのだろうなと勝手に考えたものだった。
いずれのプロジェクトも割と記憶に残るプロジェクトとなった。
そういえば、日本郵便がまだ郵政省だった頃に提案書を書いたことがあった。他の事業部のヘルプだったが、最後は4人で徹夜して書いた記憶がある。なぜ徹夜になってしまったかは既に記憶がない。提案書の作成で徹夜になったのは2回あって、その1つが郵政省だった。しかしながら逸注。当時は、提案させてもらえるチャンスがあっただけでもラッキーだった。それが次に繋がっていったんだな。
ふと、このような想いが蘇ってきた出来事だった。
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