石巻放浪①~自慢の日和山
【石巻に行こう!】
先に申し上げておきます。私が石巻に思うこと、これから書くことは私の自己満足です。あしからず。
石巻に初めて訪問してからおよそ1年が経ち、2017年9月9日の訪問で4回目となりました。
いつも【復興支援むすび】の小林さんにおんぶにだっこで、ほいほ~いと付いて行ってギターを鳴らして美味しいものを食べているだけ。
受身なだけではなく、そろそろ何かしらの形でフィードバックしないといけないと思い立ちました。本当は見た事実だけを淡々と書こうかとも思いましたが、私が石巻について勉強不足だったり、私が見たものは石巻で起こったことのごくごく一部でしかないため、思い切って私の個人的な観点から見た感じた石巻を総括的にまとめたいと思います。時系列はまちまちなのでご了承ください。
石巻を訪れるきっかけは【復興支援むすび】の小林さんに声をかけていただいたことです。小林さんは東京は江東区亀戸にある「ミュージックラウンジ・バーン」さんで、毎月第3土曜日に「復興支援しナイト」というイベントのホストをされています。
そんな小林さんに、介護保険施設(事業所)で演奏するよ~、来る?と。何か口説き文句言われた気がするけど忘れた。あれっ、自分から行きたいって言ったんだっけ? ともかく、言葉巧みな小林さんの1本釣りに見事にかかったのです(嘘)。
私は復興支援というよりも「仕事とは離れたところで高齢者の人に接してみたい」というのが当初の目的でした。丁度仕事に煮詰まっている時期で、リフレッシュしたいなぁと。復興支援やボランティアという意識はなく、演奏のついでに被災地が見られれば良いな、という軽い気持ちです。今でもそれはあまり変わっていないのですがね。
かくして演奏を口実にした私の石巻訪問が始まります。
【地元の方のお国自慢その1 義理人情】
石巻の高齢者の方のお国自慢に、「石巻の人は人情に厚い」といった声が多く聞かれました。確かにその通りと思います。
私が初めて石巻を訪れたあとの感想は、「あっ、ここなら住める」です。
年を重ねてそれなりに旅行をしてきましたが、「良いところだな、また来たいな」とは思っても「住める」と思える場所はほとんどありません。地元大好きだし。
石巻で接する人と市内の雰囲気が私には合っていました。その街並み・風景は違えども、どことなく私が住んでいる町に近いものを感じたのです。
似ているんですよね、人との接し方が。何となく下町っぽい。ざっくばらんで親切で、それでいて人の踏み込んじゃいけないラインというのをきちんと分かっている。今時の東京の下町の人よりもよっぽど粋な下町の人っぽい。
勝手な分析ですけど、その背景にはその風土が関係していると思っています。
これは地元ボランティアさんの話。
“石巻にはわざわざ外に売り出すような名産品がないんだよ。何でかわかる?
必要がなかったんだよ。石巻で生活が完結できてた。海の幸は美味いし、山では山菜も採れる。それに美味い米の産地でもある。
生活に必要なものが石巻で揃えられた。冬だって雪がそんなに降るわけじゃないし、気候が良い。それで満足できちゃうんだよ。敢えて外に売り出す必要がなかったからなんだ。”
現在の石巻に名産品がないとは思いませんが、言わんとしていることは何となくわかる気がします。
所謂【下町人情】というのは江戸時代の下町、貧乏長屋のコミュニティーで生まれています。一つのコミュニティーで幾つもの家族が生活するには互助の精神で共生するしかありませんでした。
助け合いもすれば、おせっかいもしたり、本当は持っているくせにお隣に「お醤油貸してくれる?」といった“うちはお宅より貧乏だよアピール”、泣いていても敢えてそっとしておいたり。
みんなそこで生きるのに必死だから生まれたコミュニケーションだったんですね。しかしそれは閉鎖的とも言えるし、時に残酷でもありました。
石巻が貧乏長屋と言っているんじゃないですよ。一つの市と長屋ではスケールが違いまし、生活環境もあまりに違います。だけれども、生活を完結できてしまう一つのコミュニティーという意味では、石巻も同じようにそのコミュニティーの中で幸せに暮らしていく術を身につけて、石巻の方の人柄があるのかなと。個人的見解。
震災後という要素もあるのかもしれません。石巻を訪れる度に、会う人会う人に必ず言われるのが、この言葉。
「来てくれるだけで嬉しい」
石巻に来て私は何もできないですよ、と言っても必ず同じ言葉が返ってきます。
これは石巻の方ではなく、今年に入ってから知り合った仙台在住の方の言葉ですが、私が石巻に行った話をしたところ即答で帰ってきた言葉が、
「ありがとうございます」
でした。同じ宮城県とはいえ仙台市の方なのに。
“震災後何年も経って、だんだんと訪れる人が減ってきている。震災がだんだんと過去のことになってきている。まだまだ支援は必要なのに。心のケアっていうのは必要なんですよ、特に石巻は。忘れてませんよ、って何度も行ってあげてください。美味しいもの食べてください。それだけでいいです。”
と言われました。
ただ、必ずしも石巻の全ての人が誰でもウェルカムな気持ちでいるとは限りません。そうでない方たちも当然いらっしゃいます。
震災直後から支援を拒否した方もいらっしゃると聞いています。震災後の報道(陣)にうんざりして外部を拒むようになったという話も。車で石巻を案内して頂いている時に某地区の奥の方を通ったところ、「何だお前ら、何しに来た」というような厳しい目力を感じたこともあります。
人は安易に踏み込んじゃいけない領域というのをそれぞれ持っています。おせっかいも度が過ぎてはいけない。これは被災地関係なく、普段の人間関係も同じだと思います。
とはいえ、客観的に見て支援が必要なのに受け入れてもらえない、そんなもどかしい状況もあるのも事実のようです。
2017年12月に仮設住宅の大掃除のお手伝いに行った時、掃除が終っておちゃっこ(お茶やお菓子を頂きながらおしゃべり。宮城県や秋田県の方言)。
おばあちゃん、時間ないからもういいよって言っているのに、せんべい・みかん・おばあちゃん特製蛸の酢漬け、出すわ出すわ。蛸の酢漬けに至っては小皿に出てきたものを美味しいって言ったら、そうかい(^。^)、って大量追加。酢漬けだけそんなに食べられないよ。東京に帰って時にはお腹を壊していたのは全く関係がないと思う。
おばあちゃん、我々の帰りも雪降ってるからいいよって言っても、サンダルを履いて手を振りに出てくる。
石巻はそんな人達がたくさんいます。
【地元の方のお国自慢その2 日和山】
JR石巻駅の南側に位置し、眼下に石巻漁港、太平洋を見渡せる丘陵。ハトヤのCM(関東の人しかわからない?)「前はう~み~」の元歌、宮城のご当地ソング、斎太郎節にもその名が出てきます。
江戸時代の地誌によると、その名前は、石巻から商船が出向する前に山に登って天候を確認することから付いたとか。
日和山と石巻漁港の間には、東日本大震災で被害の大きかった南浜・門脇地区が広がり、その景色もまた一望できます。2016年9月に私が初めて南浜地区を訪れた際には瓦礫はもうありませんでしたが、肩のあたりまで草が生えている中、砂利道を車で走りました。
車中で「この辺りは街だったんだよ」と説明を受けましたが、頭の中では想像がつきません。先に日和山からこの地区を見ていたけれども、ピンときていません。
後に大川小学校を訪れた時の河北地区でも同じ感覚に陥ります。頭の中が真っ白というか、穴が開いている感じ。明らかに震災の爪あとが残る建造物などを見れば、その被害の甚大さというのを目の当たりにできるけれども、何もないとその想像がつかない。人間にとって無って怖いものでもあると思います。
草の間を走っていくと「東日本大震災メモリアル 南浜つなぐ館」に着きました。つなぐ館の横には大きな看板があります。何度もテレビで見た【がんばろう!石巻】でした。それを見た瞬間、テレビで見た光景が一気に脳裏に広がります。その光景は看板の周りにまだ沢山の瓦礫が残っている時の映像です。ここなんだ。
つなぐ館の中には震災前の写真や模型、震災後の写真などが展示されています。ぜひ見に来て下さい。
1年後(その間も来ているけれど)、2017年9月に南浜地区を訪れた時は少しずつ変わってきていました。新しい道ができていたり、墓地ができていたり。つなぐ館へ向かう道すがら、車を運転している小林さんが「来るたび道が違う」とブーブー言っています。
南浜・門脇地区そのものが「石巻南浜津波復興記念公園」として建築が進んでいます。
つなぐ館の前で一人の男性に声をかけられました。頭にタオルを巻いて、たっぷり日焼けしています。
“「どこから来たの?」
「東京です」
「もう中見た? 新しくシアターができてこれがなかなかいいんだ」
「まだです。これが落ち着いたら入ろうと思って」”
この時、観光バスが3台止まっていて、つなぐ館の中に人が多かったのです。
”「こんな人が多いの初めてみたよ。がははは」
「僕もですwww」
「何回もここ来てるの?」
「石巻自体4回目ですね。その度ほぼここに来てます」
「変わった人だね。何で?」
「去年たまたまご縁があって来ることがあって、居心地が良くて、何もできないけど美味しい物食べて帰ろうと思って」
「魚美味しいでしょ、ありがとうね」
「お兄さんは地元の方なんですか?」
「うん、南浜で生まれ育ってね。これからこの辺りは公園になるんですよ。10年かけて150万本の樹を植樹してね。実は私その植樹の事務局の会長やってるんですよ。生まれた育ったところが綺麗になってほしくてね。これからここは緑がいっぱいになりますよ。9月23日にあそこで1本目の植樹があるんです」“
男性はつなぐ館の斜め前の方を指差すと、「じゃ!」と行ってしまいました。かっこいい。惚れるわ。
最近知ったことですが、日和山、石巻って身近な土地でした。こじつけなのですが。
現在の東京都葛飾区や私が住む墨田区を含む一帯を、平安時代末期に葛西清重という武将が所領していました。鎌倉時代に入ると清重は源頼朝から功績を称えられ、奥州総奉行に任じられます。そしてその時に城を築いたのが日和山だったそうです。清重は日和山からどんな景色を見たのでしょうね。想像するとわくわくします。
こじつけついでにもう1つ。我が墨田区には「東京慰霊堂」という場所があります。この「慰霊堂」という場所は大正の関東大震災の被災者、昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲者の無縁仏が奉安されています。
墨田区の公立小中学校では昔から震災や戦災についての教育に力を入れていました。慰霊堂の中には当時の様子が生々しく描かれた絵があったり、同じ公園内に資料館があります。
小学校の社会の授業でも、放課後でも何度もこの公園に行きました。遊び場でもあったのです。生活の中で、地震って怖いんだ、戦争って良くないんだ、小さい頃から摺り込まれていました。私が石巻に惹きつけられているのも、そんな環境とリンクしているからかもしれません。
日和山は桜も綺麗とのこと。一度春に行ってみたいものです。毎朝、日和山体操(ラジオ体操? 未確認です)なるものをやっているそうで、結構人が集まっているらしいですよ。
2017年9月の訪問時に日和山で杖を突いた老人男性に声をかけられました。「どこから来たの?」。東京からです、と答える。お父さんは地元の人?と聞くと、「僕も昔東京の世田谷にいて、50年前にこっちにきたんだよ」。聞いてもいないことをひたすら話しかけてきます。
奥さんが女優さんみたいだと周りから言われた、日和山には���田真央、羽生弦が来た。映画の撮影で阿部寛が来た。撮影ってあんなに人が来るんだ。手が映って怒られちゃったよ等々。意訳です、ほとんど聞き取れないくらい訛ってる。3回位、同じ話をループするとおじいちゃん満足したのか、「じゃ」とひょこひょこ行ってしまった。他の獲物を見つけに行くのでしょう。
ほっとしていると、近くのベンチに座っていたこれまた高齢者男性2人組が声をかけてきました。「お兄ちゃん、どこから来たの?」。期待に応えて笑顔で「東京です!」と返事。
「ここ座りなよ!」と男1に誘われ、男1と男2の間に座る。なぜだ。
男1「あの人何言ってるか分かった?」
私「いや~半分以上分からなかったです」
男1「だろ? 俺ら地元の人間でもな~に言ってんだか分んないんだよ! 訛りひどいんだよ!」
男2「ふふふふふふふ」
私「そうなんですね~。お二人とも地元なんですね?」
男1「そうだよ。で、あの人、阿部寛が来とか言ってなかった?」
私「言ってました。あと浅田真央や羽生弦が来たとか」
男1「東京の世田谷にいたとか?」
私「言ってました、言ってました。あと奥さんが女優さんみたいだったとか」
男2「あー、やっぱり」
男1「あの人、ここで人に声かけては同じこと6年間言い続けてるんだよwww」
男2「うふふふふふふ」
あなたたちも6年間ここであの人を見守っているんですね、わかります~。
日和山には地元の方、観光客、色んな人が集まる素敵な所です。
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