. 今回はあまり無理をせずゆっくりさせていただきました。 喫茶養生記に因んで桑の葉のお茶やお菓子などが販売されていました。 #建仁寺 #建仁寺双龍図 #臨済宗大本山建仁寺 #臨済宗 #細川護煕 #栄西 #喫茶養生記 #桑茶 (建仁寺) https://www.instagram.com/p/CjflYN-P-G-/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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八坂の塔 Japan Kyoto . 日本.京都 DSC_5278 por 俊鴻影像
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welcome visit my page & give me a like www.facebook.com/crphoto66 in Japan Kyoto 攝於日本京都 法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。 寺の正式名は法観寺です。八坂神社と清水寺の中間に位置しており、「八坂の塔」という呼称で余りにも有名なので、正式名はあまり知られていないようです。東大路から東へ坂道を上るこの風景は、なんとも表現できない程、素敵な情景です。京都にいるんだな、と実感できる場所でもあります。 法觀寺(ほうかんじ)是位在日本京都府京都市東山區的臨濟宗建仁寺派寺院。山號「靈應山」(れいのうざん)。本尊藥師如來、傳說開基(創立者)為聖德太子。五重塔通稱「八坂之塔」,是東山一帶的象徵。
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📸龍安寺庭園“石庭” / Ryoanji Temple Rock Garden, Kyoto 京都の世界遺産『龍安寺庭園“石庭”』が素敵…! 世界中の人が再び訪れる日を待ち侘びる日本の代表的な“禅の庭”…作庭者は室町幕府管領 #細川勝元?美術家 #相阿弥 ?茶人 #金森宗和 …?15の石の配置の意味は…?まだまだ謎多き、その謎の考察も楽しい枯山水は『庭の国宝』国の特別名勝にも指定。 京都・龍安寺庭園“石庭”の紹介は☟ https://oniwa.garden/ryoan-ji-temple-rock-garden-%e9%be%8d%e5%ae%89%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ...... “石庭”(The Rock Garden)が有名な「龍安寺」は室町時代中期に創建された臨済宗の禅寺。 世界遺産“古都京都の文化財”にも構成され、“石庭”こと『龍安寺方丈庭園』が“庭の国宝”国の特別名勝(&特別史跡)、江戸時代の建築である龍安寺本堂(方丈)も国重要文化財、境内に広がる池泉“鏡容池”も『龍安寺庭園』として国指定名勝です。 . これまで何度か訪れていますが、2022年『京の夏の旅』の「龍安寺仏殿・西の庭」の特別公開で約2年ぶりに訪れました!まずは石庭のこと。 . お寺の正式名は「大雲山 龍安寺」。貴族・徳大寺家の平安時代からの別荘があった地を管領・細川勝元が譲り受け、妙心寺5世住職・義天玄承禅師を開山に迎え1450年に創建。 その後すぐに勃発した応仁の乱⚔️で焼失してしまいますが、1499年に勝元の息子・細川政元が再建。 . 江戸時代中頃の1797年にも火災🔥に遭い、主要なお堂を焼失。 私たちが“石庭”を眺める建物=国指定重要文化財の本堂(方丈)はその火災の後に同じ龍安寺の境内にある『西源院』より移築されたもの。『西源院』さんは現在湯豆腐のお店として庭園が公開されています(別途紹介)。 . この方丈の沿いには江戸時代、水戸黄門こと徳川光圀に寄進されたと伝わるつくばいも。 . そして!今日では世界中から鑑賞する人が訪れる“石庭”。東西25m、南北10mの中に白砂が敷き詰められ、その中に大小15の石が配された枯山水庭園。 (つうか、朝イチでもないのに平日ならまだこんな独占できるのか…) 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #石庭 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #worldheritage #世界遺産 #おにわさん (Ryōan-ji) https://www.instagram.com/p/CgFGKA1rUN7/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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足利義満と金閣寺:極楽浄土の世界への扉
足利義満が描いた極楽浄土の世界、それが金閣寺です。鹿苑寺とも呼ばれるこの寺院は、相国寺の塔頭寺院の一つであり、その美しい舎利殿「金閣」で知られています。元々は室町幕府三代将軍・足利義満が鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を譲り受け、建てたもので、庭園と建築は極楽浄土を現し、北山文化の舞台として栄えました。本稿では、足利義満の生涯や金閣寺の歴史を紐解きながら、その魅力を探求してみましょう。
足利義満の背景と金閣寺の誕生
足利義満はどのような経緯で生まれ、金閣寺を創建したのでしょうか?その背景と共に金閣寺の誕生を探ってみましょう。
足利義満は、延文三年(1358)に足利二代将軍義詮と良子の娘良子として生まれました。南北両朝の抗争が続く中、康安元年には義満がたった3歳の時に京都が攻められ、父・義詮は近江へ逃れることになります。その際、義満は建仁寺の蘭洲良芳のもとへ逃れ、五日間かくまわれた後、播州白旗城の赤松則祐の元に送られました。その後、義満は無事に京都に帰還し、天龍寺において住持・春屋妙葩から受衣しています。
義満は11歳で将軍職を継ぎますが、父の遺言により細川頼之の補佐を受けながら成長し、地方の有力な守護大名を制御して将軍としての地位を確立していきました。そして応安四年(1371)には室町北小路に幕府を移し、「花の御所」と称される美しい室町第を完成させました。
足利義満の生い立ちと大胆な行動により、金閣寺は誕生しました。その美しい舎利殿は極楽浄土を象徴し、後世に響く寺院となるのでした。
金閣寺とその美しい舎利殿
金閣寺はどのような特徴を持ち、極楽浄土を表現しているのでしょうか?その美しい舎利殿について探ってみましょう。
金閣寺は正式には鹿苑寺と呼ばれ、足利三代将軍義満が造営した山荘・北山殿が母胎となっています。舎利殿である金閣が特に有名であり、その美しさと格式により一般的には金閣寺と呼ばれるようになりました。宗派としては臨済宗相国寺派に属し、その名は足利義満の法号である鹿苑院殿に由来します。この名は、お釈迦さまが初めて説法された鹿野苑に因んでいます。
金閣寺の舎利殿は、極楽浄土を現し、美しい庭園と建築が調和した姿で称賛されています。一休禅師の父である後小松天皇や、中国との貿易を盛んにして文化の発展に寄与するなど、歴史的にも重要な舞台であり、北山文化の中心となりました。
金閣寺は美しい舎利殿が特徴であり、極楽浄土を象徴する寺院です。歴史的背景からもその重要性が伺えます。
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🌟臨済宗建仁寺派 の大本山
#京都最古の禅寺
The Oldest Zen Temple Kenninji
京都市東山区大和大路四条下ル小松町584
建仁寺は建仁二年(1202年)寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし 山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えます。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
本図には落款も印章もありませんが、俵屋宗達の真作として晩年の最高傑作とされています
二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右隻に風神、左隻に雷神が描かれており、現在は京都国立博物館に寄託しており、 建仁寺��は高精細複製作品の屏風画が展示されている
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口を開けば暑いしか出てこなくなった時、必要な風景ってなんだろう!?
引き算されたとか、芯とした場所を探す、それが答えだそうです。
そして今僕その答え合わせをしているところです。
このフレーズは6月下旬から放映されている建仁寺編『そうだ京都へ行こう』JR東海のCMです。
臨済宗の大本山の一つです。
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大徳寺・塔頭 龍翔寺
京都の紫野にある広大な大徳寺の中には多くの塔頭があり、さながらお寺のテーマパーク。
こちらは大徳寺派の心臓部ともいえる本派専門道場・ 龍翔寺 。
ここは禅宗である臨済宗・大徳寺派のお坊さんになるための修行寺で、一般人は入ることができません。
ここで厳しい修行を終えた者が臨済宗の教師及び僧になることができます。
同じ臨済宗の南禅寺、天龍寺、建仁寺など有名な各派本山系のお寺の中にも同じような本派専門道場があります。
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📸東福寺 盛光院庭園 / Tofukuji Jokoin Temple Garden, Kyoto ——紅葉の名所『東福寺』の仁王門からすぐ…例年11月の紅葉時期に特別公開される隠れ家的寺院の苔の美しい庭園🍁(*通常非公開。今年の公開は終了) 京都・東福寺 盛光院庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/tofukuji-jokoin-temple/ ...... 「盛光院」(じょうこういん)は京都を代表する寺院の一つで紅葉の名所『東福寺』の塔頭寺院。山内の最北部で東福寺仁王門からすぐ、JR・京阪の東福寺駅や東福寺バス停から最も近い寺院の一つ。 通常非公開ですが例年11月の紅葉時期に特別公開され、苔の広がる庭園を鑑賞することができます。 . 2022年11月に初めて拝観。(コロナ禍含め)毎年この時期は公開されているそう。11月のピーク期に東福寺エリアに来てなかったから全然気づいてなかった…。 . 鎌倉時代、東福寺10代住職を直翁智侃(仏印禅師)により建立。直翁智侃は大分県の豊後万寿寺や国東半島に23のお寺を建立するなど九州を中心に信仰を広げ、博多を代表する禅寺『承天寺』の住職もつとめられました。 . 現在見られる伽藍のうち、入って手前の庫裡が江戸時代の建築、奥の本堂が大正時代に再建されたもの。庫裡が京都でよく見る臨済宗の庫裡とはちょっと違うデザイン…? . その両者のお向かいに美しい苔の広がる庭園があります。昭和中期〜後期に先々代のご住職により作庭されたもので、同時期に建立された“招竹堂”と額のかかる中門に「昭和47年に建立」とあるのでそれと同時期かな? 続く。 - - - - - - #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都紅葉 #建築デザイン #ランドスケープ #京都観光 #京都旅行 #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #landscapedesign #kyototemple #特別拝観 #京都特別公開 #京都特別拝観 #庭院 #庭园 #おにわさん (大本山東福寺塔頭 盛光院) https://www.instagram.com/p/CmO2rUfvCbd/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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【かいわいの時】天正十七年(1589)六月二十二日:秀吉、四天王寺に修復料米5000石を寄進(大阪市史編纂所「今日は何の日」)。当時被遺是 米五千石之事 肝要候也 可精人事 其方請取造営 六月廿二日(朱印) 天王寺 秋野(「豊臣秀吉朱印状」大阪市指定文化財)。
秀吉が四天王寺へ米五千石を遣わし秋野坊*へ造営に精を入れるように命じたもの。年紀不明ですが、『天王寺年表』では天正十七年としています。*秋野坊(あきのぼう)西門の北にあり。当寺、公文所三綱職と号して、世々一山衛護の家なり(『摂津名所図会 2』)。石山合戦の際に四天王寺が焼失したことは間違いなく、天正四年五月十日に正親町天皇が再興に尽力を図るように四天王寺の執行に命じた綸旨が残る。この時の被害の状況は明らかではないが、豊臣秀吉が四天王寺再建を計画して記した「四天王寺造営目録」*には、中心伽藍をはじめ主要な堂宇が列挙されていることから、相当な被害を受けたものだと考えられる。天正四年に焼亡後の再興の経過は明らかではないが、いくつかの秀吉の朱印状やその他の文書が四天王寺に残る(木村展子)。「四天王寺の慶長再建について」(神戸大学美術史研究会『美術史論集 9』2009所収)より。*別紙跋文に文禄三年(1594)とあります。本紙には、金堂・講堂・太子堂・六時堂・食堂・五重塔・仁王門・南大門・西門・万塔院・鐘楼・求聞持堂の12棟について、再建に必要な費用と担当奉行について記されています。
「米の絶対価値不変の法則」*により、米5000石(1589)=13億5千万円(現在)。『造営目録』や『多聞院日記』(1478~1618)などから、この費用は五重塔の新築費用だったと思われますが、秀頼の時代になって、五重塔は額田部の額安寺から移建されており(足立康1935)、減額された可能性があります。目録にある12棟合計では、1万7000(別に5000石)。単位を「貫」とみれば、17000貫+5000石=45億9000万円+13億5000万円=59億4000万円。秀頼まで引き継がれた復興事業の総費用は、こんなもんでは済まなかったようにも思えます。
*当会では、江戸時代を通じて米の絶対価値(1石=27万円・2003現在)は変わらなかったとする「米の絶対価値不変の法則」を採用しています。また、中世(室町~戦国)は物価が比較的安定していたことや、明治初期は俸給を石高で表していたことなどから、この法則を室町~明治初期まで拡張しています。たとえば、戦国大名である長宗我部元親・盛親親子が1597年5月10日(慶長2年3月24日)に制定発布した分国法『長曾我部元親百箇條』には、諸職人の手間賃(最低賃金)として「上手者」が京枡籾7升、「中者」が京枡籾5升、「下手者」が京枡籾3升とされています(豊臣石垣コラム「金箔押しの手間賃」による)。法則によれば、7升=0.07石=18900円(上手者)、3升=0.03石=8100円(下手者)となります。また、この法則により、その時々の米価をみることで、当時の貨幣価値を知ることができます。たとえば、江戸初期まで米1石がおおむね1000文(1貫文)前後で推移していたことから、1石≒1000文(中世)≒27万円(現在)が成り立ちます。いささか乱暴なようですが、1496年の京の臨川寺、大徳寺などでの番匠(大工)の日当が100文(鈴木公雄『貨幣の地域史』による)≒27000円であったことから、妥当な範囲と思われます。
(写真)「天王寺」。『蘆分船』1675(筑波大学附属図書館蔵)より
石の鳥井ハ忍性といふ沙門、永仁二年に是を立られしとかや。さらば此鳥井ハ極楽浄土の東門の中心にあたるといへり。西門に二王を立られるへきに、南大門に立らるる事ハ、太子末代にいたりて補陀洛山に通ひ給ふゆへに、南大門にたてられけると也(一無軒道治)。
石鳥居は、寛文七年(1667)2回目の顕落があり、寛文九年(1669)ほぼ現在のように修補が出來上りました。
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ミニ講座 第18回「虚鐸伝記」徹底分析!其の二 法燈国師は何した人? 覚心と張参の友情物語💓
普化宗の尺八伝来のキーパーソン二人目!
その、法燈円明国師・心地覚心・無本覚心たるや、一体何した人?
そもそも名前がいくつもあってややこしい。どれで呼べばいいんですか?
まずは虚鐸伝記に合わせて法燈国師について!
国師(こくし、くす)というのは、高僧に対して皇帝(朝廷)から贈られる諡号(しごう)の1つで、死後に与えられる名前だそうです。
姓は恒氏。諱は覚心。
諱 いみな「忌み名」
① 生前の徳行によって死後に贈る称号。諡(おくりな)。
② 身分の高い人の実名。生存中は呼ぶことをはばかった。
号は無本、本名とは別に使う名称。
房号は心地房。
寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を僧房(そうぼう・僧坊)というそうで、私僧房には○○房(○○坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった。
日本浄土宗の祖とされる法然の例で言うと、法然の号は房号(「法然房」の略)であり、諱(いみな)は源空(げんくう)である。
幼名は不明です。
と、色々ありますが、諱の意味が「生前の名前」と「死後の名前」と両方の意味があるんですね。覚心が本名だそうです。
心地覚心(しんち かくしん)1207~1298年
鎌倉時代の臨済宗の僧で長野出身。1235年東大寺で受戒、のち19歳の時、高野山で密教を学び、禅定院で禅を学ぶ。姓は恒氏。諱は覚心、無本と号した。1225年出家、得度。29歳の時に奈良東大寺で具足戒を受けた。また高野山で真言密教を学ぶ。その後、鎌倉、京などで諸師遍歴。
兄弟弟子にあたる円爾(えんに・臨済宗の僧)の勧めにより入宋を志し、1249年に、覚儀、観明らを伴なって紀伊由良から九州に渡り、博多を出て入宋。
杭州湾口にある普蛇山 フダサン(中国四大仏教名山の一つ)に着き、中国五大禅寺のひとつである径山寺 キンザンジ(興聖万寿禅寺)に上る。そして径山では円爾の師である無準師範 ブジュン(中国の南宋の臨済宗の僧)が既に示寂 ジジャク(僧の死)していたので、径山の癡絶道沖 チゼツドウチュウに参じ、翌年には道場山に参じた。その後、阿育王山 アイクオウザン に掛塔 カトウ(僧が一寺にとどまり修行すること)し、2年ほどその地で修行した。その後、1253年(建長5年)杭州の霊洞山護国仁王寺の無門慧開 ムモンエカイ(1183-1260)(南宋の 臨済宗の僧)に参じて、遂に臨済宗楊岐派 ヨウギハ(中国禅宗五家七宗の一つ)の法を嗣(つ)いだ。そして1254年(建長6年)無門慧開より「無門関」(禅書)「月林録」を授けられて帰朝した。
宋より径山寺味噌の製法を伝え、帰朝後種々の改良の末、湯浅の水が良かったことから醤油が作られるようになった。これが我が国の醤油の発祥の由来である。
あ〜、金山寺味噌ね〜。
こちら、法燈国師像↓
紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像
重要文化財 http://fukuoji.netより
増補注釈『虚鐸伝記』洛陽 山本守秀注釈・河本逸童増補
国立国会図書館より
学心(覚心)が宋にやって来たの図。
以下、漢文と国字解の翻訳と、私の翻訳です↓
本邦僧学心者亦遊学于此
ほんぽうの僧、学心なる者もまたここに学びしてあり
唐宋の時代には日本より多くの物学びの為に入唐。日宋とて、僧俗の内にて勝れたる人を遣わせし事なり。或いは公辺(おおやけのこと)へ願いて入宋せし人も多かりしなり。僧も、其おりから入宋して、彼護国寺に掛錫 カシャク(修行僧が行脚の途中で他の寺にとどまること)して禅法を学び居られしという事なり。此にとは寺をさしていう。
(学心とは覚心のこと。唐、宋の時代には日本から多くの人が勉強のために海を渡った。覚心は護国寺に行き禅を学んだ)
同学相唱和而興参友善
同じく学び合い唱え和して
学心と張参とは、同じく禅を学んだ。ことに万里の蒼波(そうは)をしのぎ来りて学ぶ、学心なれば、志を感じあひたる事、言外にあらはれたり。相とは互いにのこころなり。唱和すとは詩を作れば和韻をし、文章は互いに琢磨することなり。参を友としよしとは、あまた僧・居士あるうちに、学心と張参ことに心安也。交わり深しということ也。
(覚心と張参は、一緒に禅を学んで、とっても仲が良かった)
一時閑話���次語及先世伝虚鐸今尚曲事其調之弄之一奏入妙
ある時。閑話之次(カンワノツイデ)とは、しづかに四方山のはなしをしけるついでにという義なり。其のはなしのあまりに、先祖張伯は唐の代にて其時の知識普化禅師に見え、虚鐸を伝え来りて今なを其曲を失わずという事を存(そん)すると云也。及ぶとは、ようすありて、虚鐸というものを伝え来りて、其吹ようを習熟せりと語りて、張参虚鐸を取出し、これをちょうし、これを弄(ロウ)うすとは、とくと音しめをあはせ、吹きたるに、其一なかでのふきよう、ねいろの妙にしておもしろき事を、一奏入妙(ヒトタビソウスレバミョウニイル)とはいうなり。
(ある日、張参が先祖の代々伝わる虚鐸のことを覚心に話した)
学心一賞三歎脆坐膝行曰
(ガクシン、イッショウサンタン、キザシッコウシテイワク)
学心ことのほか感に堪えかね、一賞とは一たび賞翫 ショウガン(そのもののよさを楽しむこと。珍重すること)しほむる事なり。三歎とは、「 ああ、妙音かな」と三度声を発して、さてもおもしろき事やと。座をなすを脆坐という。ひざに近づき寄るを膝行すと云う
(覚心、超感動)
奇哉妙哉世之於象管未聞如此清調妙曲賞可愛者伏請教授一曲長伝妙音于日本
(キナルミョウナルカナ)
扨(さて)も扨もふしぎに妙なる音いろかな。世の象(しょう)管に於けるいまだかくの如き、清調、妙曲を聞かずとは、是迄我本国にても種々様々の笛を見たけれども、此の形の笛も見ず。又このようにすみやかな、妙なる吹きようを聞かず。賞すべく愛すべき者とは、まことに賞美(しょうび・ほめたたえること)して、もてあそぶべきものなりとなり。長く妙音を日本迄に伝うというものなりと念比(ねんごろ)に願う事也。
(こんな妙なる音、聞いた事無い!日本に持って帰る!と覚心)
於此為学心再奏之使之学此
此処に於いて、学心のこふが為なり。再び之を奏しとは学心に聞かさんが為に、又吹きし也。之を使(し)てとは、学心をして。之を学ばしむとは、此の曲調を教えて習わしむをいう。
(張参、学心の為に教えてあげる)
学心学之有日禅已熟曲已就而告別于張参
学心之を学ぶとは、虚鐸の音を学ぶ也。日有りとは、学ぶ日を重ねたる也。禅すでに熟すとは、禅学参禅も能心に入りし事也。曲すでに成とは、虚鐸も覚えてそれより、日本に帰らんとて、張参に暇乞いして舒州の護国寺を出て、明州の津湊に赴かんとする。
(覚心、何日も虚鐸を学び習得し、禅の修行も円熟してきた頃、日本に帰る)
辞舒州而解纜于明州南宋理宗帝宝裕二年帰船于本邦于時 後深草天皇建長六年也
舒州を辞してとは、護国寺にて、みなみな暇乞いをして出られし事也。纜(ともづな)を明州に解くとは、明州はもろこし(日本から中国を呼んだ名)の湊口にて、唐宋の頃よりの渡り所也。今の寧波(ニンポー市)も明州のうちにありと覚ゆる也。本朝より渡海にも便り良き地なれば帰棹(キトウ・帰路につく船)の時も此所(ここ)宜しき也。此の時の帝(みかど)は南宋にて理宗皇帝と称し奉(たてまつ)る。宝裕(ほうゆう)二年は、其の時の年号也。すでに彼土(カノド)を跡に見て、ともづなをとき、風波をしのぎ、日本に帰り、つきてみれば我朝の帝は後深草天皇(ゴフカクサノテンノウ)にて渡らせ給い、建長六年に帰朝せしという事也。
【もろこし】昔、中国から伝来したものにつけた語。中国南方の越 (えつ) (浙江セッコウ省付近)の諸国・諸族の「諸越」の訓読みから起こり、最初その地方をさしていたのが、しだいに中国全土をさすようになったという。一説に、その地方から諸物が渡来した意とも。
(1254年、後深草天皇の頃に帰る)
自是学心或入高野山或出洛陽城
これより学心ある時は、高野山に分け入りて心をすまし、又ある時はみやこへも折々出られしを洛陽城に入りといふ。洛陽は、もともともろこしの都の名なり、しかれどもかり用いて。此方にても称し来れり。此の方の都は平安城というは本名也。
(覚心、高野山に行ったり、平安城に行ったり…)
平安城は794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。
逍遊有年造立一寺于紀州號西方寺而終住于此
逍遊年有り(ショウユウトシアリ)とはずらずらと年光(月日)のおしうつるをいう。されば一つの寺を紀州の内につくり立て、西方寺となづけて、此所にすまれし也。此寺は由良というところにあり。
(覚心は紀州由良の地に西方寺のちの興国寺を立ててそこに住む)
以其碩徳世號大禅師弟子日益進
その碩徳をもって、世大禅師と号すとは、学心帰朝せられてより、年月重なり、徳業満ち足り、禅機ありけるゆえ、世の人称美して大禅師と申せし言也。弟子(テイシ)益々進むとは、遠きも近きもつきしたがいて業をうけ、禅学の為により集る。弟子の僧、日に増して多く来たりし也。
(その後出世して禅師の名前をもらう。弟子も日に日に増えてきた)
学心(覚心)日本に帰ってきたの図。
以上が虚鐸伝記による法燈国師の登場の場です。
張参との出会いの場面はフィクションであるとしても、なかなか良い話で、これは日中友好の象徴にしても良いくらいですね。
今回のチラシの絵は思わず覚心と張参が肩を組んでるイラストにしちゃいました。
昭和初期には、尺八伝来の地・興国寺を盛り上げようと谷北無竹、津野田露月、谷狂竹、小泉止山、浦本折潮、桜井無笛、高橋空山、などなど全国の名だたるメンバーによって法燈教会が設立されるが、残念ながら内部分裂により霧散。その後、前団体とは異なる法燈国師奉賛会が新たに設立され、今日も活動している。(尺八修理工房幻海のHPより)
法燈国師が尺八を吹いたのは伝説ということですが、Wikipediaをはじめ興国寺のことが書かれている情報にはどこも「興国寺は虚無僧発祥の地」となっております。専門書には虚鐸伝記は「偽書」「小説」となっているのに、一般には法燈国師は尺八伝来の人と奉られているという、ウソも通せば道理が引っ込むなんてことが現実に。。。
どうせなら、覚心と張参の友情物語をもっと誇張すればいいのにな〜なんて思ったり。
考えようによっては、法燈国師をダシに人が集まる機会が増えるわけですので、伝説も大切かも!
以上、
「虚鐸伝記」徹底分析!其の二 法燈国師は何した人?覚心と張参の友情物語💓
でした!
次回はキーパーソン三人目、いよいよ虚竹登場です💙
...
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【常光寺】(じょうこうじ)八尾市本町
河内西国三十三箇所3番。おおさか十三仏霊場5番。臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院の末寺で、山号は初日山。
通称は八尾地蔵尊。本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。 山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。
南北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)
大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられた。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
【八尾地蔵盆踊り】
古くから毎年8月23日・24日の両日地蔵盆会が厳修され、夜には盛大に盆踊りが行われています。 常光寺の盆踊りは、600年といわれる長い間中河内地域に定着し、中河内の盆踊りといえば、先ずは「常光寺の地蔵盆踊り・流し節」といわれるほどの人々に親しまれています。 南北朝時代、地蔵堂が荒廃したため室町・至徳年間、足利義満がこのお寺を祈願所として伽藍を再建するときに、材木を運ぶ木遣り唄として唄われたのが今に伝わる「流し音頭」であって、河内最古の音頭として河内音頭の原型とも言われています。 平成8年には、環境庁の「残したい、日本の音風景100選」に選ばれています。
所在地:大阪府八尾市本町5-8-1
アクセス:近鉄大阪線 八尾駅から徒歩約10分
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京都五山の擬人化です〜
京都五山は、南宋にならってつくられ足利義満のころに完成した官寺の制度「五山・十刹の制」の一部です。
別格 南禅寺
京都五山 天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
鎌倉五山 建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
これらの寺を「五山」とよび、その下に十刹・諸山とよばれる官寺を置きました。
幕府は僧録をおいて官寺を管理し、住職などを任命しました。
室町幕府では、初代将軍の足利尊氏が禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)に帰依して以降、臨済宗を手厚く保護しています。
そのようなサポート体制の中、五山寺院では水墨画や五山文学などの文化が栄え、また幕府の政治・外交顧問などとして活躍する禅僧も現れました。
参考:詳説日本史・国史大辞典・ニッポニカ・各寺院公式HPなど
鎌倉五山と南禅寺はまた載せます〜
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flickr
Dragon by Teruhide Tomori
Via Flickr:
Located : Kenninji temple Komatsu-cho, Higashiyama-ku, Kyoto. 臨済宗建仁寺派大本山 / 建仁寺 京都市東山区小松町584
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真夏の古都散策 Part.1 京都 建仁寺
東京暮らしを始めて3年。遠のいてしまった京都を久しぶりにぶらぶら散策してみた。
最初に訪れたのは臨済宗建仁寺派の大本山、建仁寺。京阪線 祇園四条駅から10分程、石畳の路地が連なる雰囲気のある界隈に佇む。
三門・庭園等、見所は無数。中でも法堂の天井を舞う双竜の迫力には圧倒される。
靴を脱ぎ、時を重ねた風合いの廊下を踏みしめ、時に畳に膝まづき、堂内をゆっくり心穏やかに巡る。これが古都散策の魅力。
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