Legends and myths about trees
Forest spirits and natives (3)
Menehune - Legendary dwarves who live in the deep forests of Hawaii
Menehune are a mythological race of dwarf people in tradition who are said to live in the deep forests and hidden valleys of the Hawaiian Islands, hidden and far away from human settlements.
The Menehune are described as superb craftspeople. They built temples (heiau), fishponds, roads, canoes, and houses. Some of these structures that Hawaiian folklore attributed to the Menehune still exist. They are said to have lived in Hawaii before settlers arrived from Polynesia many centuries ago. Their favorite food is the maiʻa (banana), and they also like fish. Legend has it that the Menehune appear only during the night hours to build masterpieces. But if they fail to complete their work in the length of the night, they’ll leave it unoccupied. No one but their children and humans connected to them can see the Menehune.
While archaeologists have never found remains of a distinctively small race of ancient people in Hawaii, many think the Menehune legend may well have a basis in fact. In 2003, a species of dwarf human was discovered on the Indonesian island of Flores. Homo floresiensis was only about 1 meter in height and fully bipedal. The skull has human-like teeth with a receding forehead and no chin.
Fossils have been discovered from 38,000 to 18,000 years ago, though archeological evidence suggests it lived on Flores between at least 95,000 and 13,000 years ago. It used stone tools and fire, and hunted pygmy elephants, Komodo dragons, and the giant rats found on Flores. Its discoverers believe that h. floresiensis is a dwarf form of Homo erectus. It is not uncommon for dwarf forms of large mammals to evolve on islands. Modern humans arrived on Flores between 55,000 and 35,000 years ago, and presumably interacted with h. floresiensis (Refrence: “The Three Menehune of Ainahou (Maui)” by Charles Kauluwehi Maxwell Sr).
木にまつわる伝説・神話
森の精霊たちと原住民 (3)
メネフネ 〜 ハワイの深い森に住む伝説の小人族
メネフネとは、ハワイに伝わる神話上の小人族で、ハワイ諸島の深い森や隠れた谷に住み、人里から遠く離れたところに住んでいると言われている。
メネフネ族は、優れた職人で、神殿 (ハワイ語:ヘイアウ)、養魚池 (メネフネ養魚池)、道路、カヌー、家などを建設した。ハワイの民間伝承では、メネフネのものとされるこれらの建造物は、今でもいくつか残っている。彼らは、何世紀も前にポリネシアから入植者たちがやってくる以前からハワイに住んでいたと言われている。好物はバナナ (ハワイ語: マイア) で、魚も好物である。伝説によると、メネフネたちは夜の間だけ現れ、傑作を作り上げると言われている。しかし、夜の長さの中で作品を完成させることができなければ、その作品は無人のまま放置される。彼らの子供と彼らにつながることが出来る人間以外には、メネフネを見ることはできない。
ハワイでは、考古学者が小人類の遺跡を発見したことはないが、メネフネ伝説には根拠があると考える人は多い。2003年、インドネシアのフローレス島で、小人の一種が発見された。ホモ・フロレシエンシスは、身長が1メートルほどしかなく、完全な二足歩行であった。頭蓋骨には人間のような歯があり、額は後退し、顎はない。
3万8000年前から1万8000年前の化石が発見されているが、考古学的な証拠から、少なくとも9万5000年前から1万3000年前まではフローレス島に住んでいたと考えられている。石器や火を使い、ボルネオ象やコモドドラゴン、フローレス島に生息する巨大ネズミを狩っていた。発見者たちは、ホモ・エレクトスの小人型であると信じている。大型哺乳類の矮小型が島で進化するのは珍しいことではない。現生人類は、5万5千年前から3万5千年前の間にフローレス島に到着し、ホモ・エレクトスと交流があったと推定される (参考文献: チャールズ・クルウェヒ・マックスウェル・シニア著「アイナホウ(マウイ島)の3人のメネフネ」より)。
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文学フリマ大阪
9/10文フリ大阪に行ってきました。出店はせず買い物だけ。出店は何度もしているんだけど一般参加って初めてだったので感じたことなどのメモです。
8月にコロナに感染してしばらく寝込んでいたので(まともに動けるまで結局3週間ちょっとかかった)、なんとなくリハビリのような旅行だった。とにかく体力が落ちていたので、あまりたくさんは動き回れず。前日に一泊し、文フリ当日は夜行列車(サンライズ瀬戸)で帰ってきた。すごくカラフルで楽しい時間だったので、旅行のいろいろはコピー本にでもまとめたいなー。
(これは泊まったホテルの部屋。あんまりじょうずに撮れなかった。そもそも今回の旅行はあんまり写真撮らなかったかも)
文フリ大阪所感
・14時ごろ到着。人は多いけどそこまで混雑している感じではなかった。谷町線からOMMビルに上がって、なんとなくそれらしい人びとの後ろをついて行くと会場があった(ポスターとか看板はわかんなかった)。
・開催時間は11:00-17:00。14時からでも3時間あるのでゆっくり見て回れるだろうと思ったけどなかなかそうでもなかった。すごい当たり前なんだけど、本持って歩くと疲れるね…。
・見本誌コーナーに行ってみた。ふだん本置いて回収するだけなので新鮮。
出店者側のときは、表紙(表1)に見本誌票貼るのどーしてもイヤだったんだけど(見せたいものを隠しちゃうのが耐えられない)、見本誌を読む側からするとべつに気にならないな…と思った(隠れていても全体像はわかる、そりゃそう)。
そして思ったより見本誌の数は少ない印象。置いてない人も多いのかも。
・見本誌をいろいろ読んで、前書きとか後書きとかある同人誌やっぱいいな〜と思った。知らない人がこんなことを考えている、こういうわけでこの本を作ったという打ち明け話はやはり面白い。作品世界になかなか入っていけなくてもとりあえず後書きを読んでみて興味をひかれたり…というのはあった。
あとアンソロはどっかにコンセプトが書いてあると伝わりやすいかも。でもべつに書いてなくても読むときは読む。
・会場内に休憩スペースはなかったと思う(アンケート記入用の机椅子はあった)。
別フロアにカフェとかあるんだけど、疲れていたのでそこへ移動する気力がなく、疲れているのにずっとうろうろしてしまう…という意味わからんムーブをしてしまった(一般参加初心者すぎる)。
・同じフロアの屋外デッキ(川が見える)に出て、窓枠に座ってちょっと休憩した。同じような人けっこういた。
・14時だと完売している本も多かったけど、現地で完売するような本って通販や書店委託等なんらか別の入手手段がある気がする…のであんま焦んなくてもいい気がしている(コピー本とかは売り切っておしまいかもだけど)。
・書店で売っている本はわざわざ文フリでは買わないかな〜と思ってるけど(ここの書店で買いたいとかhontoのポイント使いたいとかもあって)、やっぱ買った本もあるな…。結局のところ気まぐれかもしれない。
・「書店で売っている本」が増えていたり、紙や印刷代の高騰だったりで、本一冊の値段は全体的に上がっている印象。何冊でも買う!何キロ買った!みたいな人も以前より少ないんじゃないかな(本をキロで表すのあんま好きじゃないけど)。
・アンソロや合同誌だとボリュームゾーンは1300円〜2000円くらい? 1000円ぴったりも多かったかな。
これはせっかくアンソロやるなら装丁のしっかりしたものをそれなりの厚みで作りたい、特別な一冊にしたいといった熱量かなーと思う。
コロナ禍初期、イベントの開催や参加が不安定だったので通販や独立系書店への委託に力を入れた人も多かったと思うけど、そういう流れからか、造りのしっかりした本が増えているように思う。通販するならあんまり小さい薄い本だと送料もったいないし、書店に置いたときに見劣りしない・埋もれないような本にしたいし…とか?
・ただシェア型書店とか私設図書館とかやっている実感としては、装丁がんばらないとだめとも限らない気がしている。これは装丁のよさに関わらず中身のいいものは売れますよというわけではなくて、またきれいな本はかえって埋もれるみたいなのともちがって、「読まれる」(≠売れる)はいろんな気まぐれの重なりあいであってなんでっていうのはよくわかんない…ということ。
・ぜったい通販とかなさそうなコピー本を事前情報ゼロであれこれ手に取るの楽しかった。やっぱそういうの大事だしイベントの醍醐味だよな〜と思った。
・スペース前に人が滞留しちゃう問題。島と島のあいだの通路はかなり狭いところがあるので、場所によってはかなり気になる。通れないなーって場所は無言で諦めた感じ。この滞留は、最後尾こちらです的な列というよりは知り合いやサークルメンバーがワイワイしてる感じだったかな(わたしが行ったの午後だったので)。会話に夢中になって気づいていないのかも。わたしもぜったいやらかさないという自信はないので気をつけよ…と思った。
・1スペース長机半分(90cm)なので、人間が2人横に並んだらだいたいはみでると思う。
・だから出店してるとけっこうおたがいさまだなって思うんだけど、隣がすげー売れてて自分がそうでもないと一方的に損させられてる感みたいなのはあるかもね。知り合いがいたら隣接で申し込むのが精神衛生上いいのかも。
・ずっと同じことしゃべりつづける呼び込みはわたしも苦手。圧がすごくてその一帯がお客さんから避けられちゃうとかあるので近くの出店者はストレスだよね…。ほかのイベントで呼び込みうるさいって話あんまり聞かない気がするんだけど文フリ特有なんだろうか。
・「無料で試し読みしていただけまーす!」って繰り返し呼びかけている人いたけど、試し読みが有料のほうがめずらしくない…???
・以前わたしも、隣がバナナの叩き売りみたいな感じでずーーーっと呼び込みしつづけていたことがあって(しかもけっこう噛む)、これは耐えられんと思ってがんばって声かけてみたけどはっきりうるせえとは言えなかった(「もしかして寅さんとかお好きなんです?」としか言えず、「は?」って顔された)。
・呼び込みしまくって本が売れるわけではないと思うんだけど、まー不安なんだろうな。黙って座っているのがその人には耐え難くて、しゃべりつづけてないと怖いのかも。あるいはしゃべり続けることがこの人にとってのイベントの楽しみ方というか。
・まー次回うるせえなって思ったら「うるさいですよ笑」って言ってみるようにするね…。そちらとこちらの快不快が衝突するのはある程度しょうがないので、今度はそちらが「呼び込みしたいのに迷惑って言われた!」って愚痴りな〜。
・作品を眺めているときに声かけられるのは迷惑とは思わない。わたしが図太いだけかもだけど、へーって聞いて買わずに去るとか試し読みだけするとかぜんぜんある。
ただまあ要するにコミュニケーションの話なので、会話があんまり噛み合わないことはある。「●●●●(その同人誌のタイトル)にご興味ありますか?」って聞かれて「???(初見なのでわかりません…)」ってなったり。
・通りすがりの人みんなに渡しているペーパー的なのも、個人的にはちょっとうっとうしい。だいたい断ってしまう。わかんないけど、せっかくイベントに来たからには自分で探して見つけた、手に取ったっていう体験を欲している気がするので、手当たり次第に配られたものってちょっとちがうような気がしているというか。わがままかもだけど。またふだんの生活で「チラシ配り=不要、受け取らない」っていう反応が自分の中にできあがっちゃってるのもあるかも。
・でも疲れてくるとなんでも受け取ってしまう。大学の新歓みたいに次から次へ、付近の人から渡される。そしてせっかくだからと目を通し、気になって通販したものもあるので出会いのきっかけになることはあるっちゃあるな〜と思った。
・出店者&来場者アンケート。パンフレットに挟まってるんだけど、今回初めてちゃんと目を通した。「あなたの年齢と性別(性自認)」って項目にぎょっとした。
その他・答えたくないという欄があって、まあ男女二択よりはいいと思うけど、そもそも同人誌の売り買いの場で性別を尋ねる必要なくない…? それを集計して何に使うんだろう。べつに何も分析したりしない(できない)だろうし、意味ない項目は作らない方がいいと思う。
・で、直接言ったろうかと思ったんだけど(アンケート提出した人にはステッカープレゼントと書いてあったので誰かスタッフの人がいるんだろうと)、回収ボックスんとこ行ったら事務局の人(代表?)が疲れ切った感じで座っていて気づいてもらえなかった。
・ブース番号と「#文学フリマで買った本」とハッシュタグが書いてある紙が全ブースに共通で配られていたようで、机に貼っている人多かった。うろうろしているときにここはどこだかわかりやすかった。
けど、なんかこう統一フォーマットってあんま好きじゃないな〜とは思った。わたしがひねくれてるだけかもだけど統一したものを貼るくらいならみんなで迷子になるほうがよい…(といいつつすごい格好よく作ってあれば使いたくなるとは思うんだけど)。
・あとこの紙、ブース番号と出店者名のうしろにハッシュタグが書いてあるので、これだと「A-××のザネリさんが今日買った一冊はこれです」って感じに見えない…?
あーーごめん、そうじゃないです、「買った本をSNSにアップするときはこのタグを推奨しています」って意味だとは、さすがにわかってます。このハッシュタグを使えって各ブースで訴えてるのがうっとうしいわと言いたかった。わたしがひねくれてるだけかもしんないけどそんならこのタグではつぶやかないでおこ〜とか思ってしまった。
・なんかいやなことばっか書いちゃうけどちゃんと楽しかった。以前アルファツイッタラーみたいな人が「文フリってブースも本もぜんぶ同じに見えちゃう」みたいなこと言ってたけど、ぜんぜんそんなことないな。
規模が大きくなってイベントの雰囲気が変わったという声はしばしば耳にするんだけど、いろんな本がそれぞれに存在している豊かさにやはり打たれる。まあわたしは参加歴がさほど長いわけではないからよくわかってないだけかもだけど。でもこんなにたくさんあるんだって途方もなさに圧倒されるし、うれしくなる。
そしてこんなにたくさんあるんだから自分が書く必要はない…みたいに思うことってわたしはあんまりなくて、これだけたくさんいろいろあるんだからわたしのも混ざっているのが自然だよなーって思う(すごい前向きみたいだけど)。
・ただまあ一度にたくさんの本を見る&うろうろして疲れるので、手に取った本をちょっとめくって読んでみようとしてもうまくチューニングを合わせられないとかはあるかも。手に取る気力もなくなっていく。なのでイベントじゃない場所で出会ったらもっと読みたくなったかもなーみたいなことは思う。そういうのも含めてめぐりあわせだとは思うんだけど。
・そして本を買うお金・読む時間には限りがあるので(もちろんいくら積読してもいいのは当然だけど、買われた本は読まれてほしい、やはり)、一回の出店者数・来場者数が増えていくことを素朴に喜び続けていいのかはちょっとわからない。収入が上がっていかないのに本の値段は上がっているので(傾向として)、「気になったらとりあえず買ってみる」という感じでもないし。そもそも文章の同人誌は漫画の同人誌より読むのに時間がかかるので、時間の奪い合いみたいなことも思う。
(なので作品を読んでもらえると、あなたのお金や時間をわたしの小説に使ってくれたのかと驚くし、本当にうれしく思う)
・ただなんていうの、自分含め以前から出店していた人がイベントの拡大にうーんとなっていると(うーんとなっている姿ばかり目立つと)、新たに始めたい人の邪魔をしちゃってないかなーと不安にはなる。早い者勝ち?っぽい感じになるのもなんかちがう気がするし。大規模���ベントへの参加を減らして(ペースを落として)、小さめのにちょこちょこ出店するとか…などちょっと考え中。
・本を買うとき、なんか照れちゃってぜんぜん名乗れなかった(ときどき気づいてくださる方もいた)。
せっかく来たんだからあいさつくらいしよう、本の感想も言いたいしがんばって名乗ろう!と途中ちょっとやってみたんだけど、慣れないことをするからかなんかへんなテンションになった。。。立ち話が苦手なタイプ。。。(2、3人であまり目をあわせず2時間くらいしゃべるとやっとリラックスできる)
・本買うだけでテンションが乱高下してるんだから、出店者は相当気疲れするように思う。なんかへんなこと言ったりやったりしていても、あー疲れてるんだろうな、いっぱいいっぱいなんだろうなっておたがいなんとなく察せたらいいね…。
・あと自分が出店しているときは、ちらっと遊びに来るだけ、無配もらいに来てくれるだけでもほんとにうれしいんだけど(顔見せに来てくれるのがうれしい)、買う側になるとけっこう遠慮しちゃうね。
とくにほかのイベントや通販ですでに本は買っていて…という方のところはじゃましちゃ悪いかなーと思って行けなかった。ささっとあいさつだけしに行けばよかったかな〜とかとても後悔している。
・本の感想。せっかくお会いしたんだから伝えたい…!と思ったんだけど、これよかったですくらいしか言えず。へとへとに疲れていたのもあるんだけど総じて会話がへたくそだったなー。
・で、終わった後ごはん食べたら急にめちゃめちゃ元気になった。元気になったことがうれしくて「花びんの水を替えたお花のようにシャキッとしました」って自分のことを花束にたとえてしまったり、どうした?って勢いでしゃべり散らかしてしまったり…それはそれでとても反省。
長くなったので買った本の話はまた別途。イベント以外の楽しかったもろもろ(観覧車乗ったりサンライズ瀬戸に乗ったり)はまたコピ本にでもします〜。
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「答えは愛」
「で、質問は何でしたっけ?」
Dr. アリーナ・レセニヒによるインタビュー
ゲスト:サンユ
オリジナル動画:https://youtu.be/ZJSXAyWoPw8
【和訳】 ALAE PHOENICIS by Telegram
サンユとは
Dr.アリーナ・レセニヒが「サンユ」を紹介:
サンユは私にとってとても特別な人。4年半前に出会ってから、私の人生はとてつもなく変化し、良い意味でひっくり返りました。それ以来彼女と共に歩んでいます。あらゆるレベルでの学びがあり、それまでの人生では想像も出来なかったことを実行できるようになりました。今やれていることは以前はとても出来ませんでした。私はとても怖がりな人間だったからです。特別な時代に、流れに逆らって泳ぎ、自分の顔を公に晒して啓蒙活動をし、多くの逆風を受けて…それでもって、結構楽しくしていられるなんて…誰も信じなかったでしょう。きっと叫びながら逃げ去っていました。
そして、考えたこともなかったような新たな人生の基準も得ました。
人との付き合い方や、自己表現の仕方はとても自由になり、彼女のおかげで濃い喜びを感じるようになったことで、人生が良きように代わりました。
本日、私のスピリチュアルな師であり、愛する友人であるサンユが来てくれてとても嬉しいです。
アリーナ:こんにちは、チョコ・マウス(笑)
サンユ:こんにちは、愛すべき人(笑)
アリーナ:来てくれてありがとう。彼女には大方50回ぐらいお願いしたのよ、私の公開インタビューに来て「愛」と言うテーマについて語って欲しいって。だって、それがサンユ自身であり、サンユが人生で体現していることであり、彼女を構成するすべてを表現しているから。
彼女は常に断っていたのだけど、あるとき私は彼女が弱気になった瞬間を捉えたわけ。とっても嬉しいわ。でも、エンジェル、どうしてこんなに時間がかかったの?
サンユ:…愛とは、永遠から来ているもの。言語とは、限られたツール。ということは、何かを言葉にする度に、私は「これは完全ではない、何かが違う」と感じる。それは「大海を風呂桶に流し入れる」ような感覚がする。そして…(口ごもって)
サンユ:それに...言語は、「味」を伝えることが出来ない。もし、私が今、あなたの知らないインドの果物の味を教えたくて、「想像してみてね、噛み心地はデーツとバナナを合わせたような感じで、甘みはラズベリーとキウイとパイナップル、でもそれほどジューシーではない」って描写するとします。…どれぐらい時間が掛かる?
アリーナ:決して無理な話ね。
サンユ:もし、果物の味さえも伝えることが出来ないならば、「たったひとつの味」をどうやって伝えられる?
一方で、言語はガイドにもなる。あなたが「塀を作りたいのだけど、どうすればいい?」と尋ねてきたとすると、「石、次に粘土、石、粘土…これを積んでいけば?」って伝えて、何が起こるか見てみましょう、となる。ここで私がどう思うのかはどうでもいいの。あなたが私を信じようが信じまいが、どうでもいい。要は、あなたが「この体験」に心を開けるのかどうか。そして、単純にまる一日、石と粘土を交互に積み上げてみれば、出来上がったものと「塀」とに結びつきを見つけられるのかどうか、あなたが自分自身のために知ることができる。こうして、「言語」は道標にはなる。
そうやって、あなたは私が弱気になる瞬間を捉えたわけ。
アリーナ:なんて、素敵!
でも…「愛」とはあなたにとって何なの?「とても言葉には出来ない」っていっているのはわかったけれど、それでも言葉にしてみようとするならば、どのように描写する?どういう意味で言っている?
サンユ:私のいう「愛」とは、二人の人間がお互いに「愛している」といい、それと同時に「他の人は愛していない、もしくはより少なく愛情を感じている、もしくは別の種類の愛情である」ということを示唆するものではないわ。私が話そうとしている「愛」とは、そういうジャンルのものではなく…
アリーナ:でもそれが、殆どの人が「愛」だと思っていることでしょ?
サンユ:そう。その通り。
私の云う愛は、ある種の、深くて普遍的な真実で、それは私たちの心の器の底の方に眠っている。そして、一つ一つの心は、巨大なダイヤモンドの一側面であり、神聖さを映している。すべての側面(ファセット)は、その神聖さを自分なりに映し出し、その他のあらゆる心を同じように照らす。なぜなら、それらも「自分なりの神聖さ」を映し出しているから。
つまり、私の云う「深い愛」とは、ひとつには「創造物全体の中に在る意識はたったひとつ、唯一の愛流である」ということ。そして私たちはこの愛を源泉として湧き出ているということ。愛という根源が私たちを織りなしてる物質。それが、私たちをここに生み出した意図だということ。
創造物は全体でひとつをなしており、人は誰でも、その「唯一の光」から生まれ出た。
私たちの身体は個性という差異のある世界に生まれ、その物質的なレベルにおいては多様性という原理がある。しかし、その物質的レベルの背後には、非物質的なもの、スピリチュアルなものがある。そして、そこにはこの、たったひとつの流れしか無い。
そして、ふたつ目の秘密。これは誰でも、望みさえすれば自分の中に発見できる。それは、私たちが永遠の存在だということ。生み出されたこともなく、死ぬこともない。私たちはスピリチュアルな精神的存在で、人間的な体験というのを80年とか90年間ぐらいをこの身体の中味わう。そして、身体が亡くなっても、私たちは未だそこに在る。つまり、私たちは永遠なる意識体として、時間制限付きで人間としての経験をしている存在だということ。
アリーナ:OK。ご説明ありがとう。でもね…
それは私たちが日常体験していることではないわ。だって、私たちはお互いに別々の存在としての体験をしている。分離され、孤立し、殆どの他人のことはどうでも良くて…なぜ、そうなのかしら?
サンユ:私たちにはある種の社会的に導入された催眠、心理的条件付けが施されている。「私は私の身体であり、私のマインドが考えているものであり、自分の過去を合計したものである」、そのように教育されている。いわゆる「ボディ=マインド・アイデンティティ」と呼ばれるもの。それはとても精鋭な輪郭を持っていて、形があり、顔があり、名前がある。「ここに居る私以外は、その他の世界」だと思っている。それを私は「分離のアイデンティティ」と呼んでいる。
エゴとはEGO - edged God out - つまり、普遍的な宇宙意識は自意識から追い出されている。まるでメルヘンにあるように、偽の王様(EGO)が王座に座り、本物の王様が追放されている状態。
アインシュタインは、こうして私たちが互いに分離していると思い込んでいることを「意識の視覚的錯覚」と呼んだ。
アリーナ:そうね… では何故、EGOと同一視するのをやめて「愛の意識」の中で生きることが大事なのかしら?
サンユ:量子物理学、そして古き叡智によると、私たちは自らの精神を以て、その現実・人生・世界を創造しているとのこと。イエス・キリストは「汝の信じる通りのことが、汝に起こる」「汝が考えるものに、汝はなるだろう」といった。
量子力学は「あなたの思考が、あなたの現実を創る」とした。
一日に、6万の思考がマインドに入ってくる。天才と統合失調症の人には一日8万にまで至ることも。
つまりそれは、まるで宇宙飛行士のヘルメットをかぶっているような感じで、その中では6万の思考が軌道に乗ってヒューヒュー飛び回っているようなもの。私たちは自己解釈の世界にいる、(頭を指して)これはストーリーテラーなわけ。これは毎秒毎秒、ストーリーを創り出していて、私たちはシミュレーションのような世界の中にある。
ここで、例え話をすると、真夏の暑い中、アイスカフェの外席に100人ぐらい座っているとして、そこへ想像を絶する驚くほど美しい女性がやって来る。ミニスカから覗く長くてスリムな足。豊満な胸。とにかく華麗そのもの。彼女は前列にあるすべてのテーブルの間を通り抜ける。最初のマインドが思うことは「ワオ!なんて美しいのかしら!…毎日鍛えてるの?どうしよう、私はもう半年もちゃんとトレーニングしてないわ。いい加減にジムに行こうとずっと思ってたのに。ああ、でも毎月の費用を払えるかしら…でももうイヤ、お腹はダボついているし、足だって…明日絶対に申し込みに行こう」。次のマインドはこう思う:「なんて女。あんなのと付き合いがなくてよかったわ」。その次のマインド:「まあ…60年前は私もああやって人生を楽しんだわ。人生の春は本当に良かったわ。でも正直なところ、80歳になった今は、あんな虚栄心市場で誰かと張り合ったりしなくていいので私は楽だわ。あの娘はせいぜい楽しめばいい」。次のマインド:「なによ、売春婦みたい。この世は売春宿じゃないのよ。もうちょっと肌を隠せないのかしら。親にしつけられていないの?破廉恥な」…等等。
あ、一つ忘れていた。もう一つのマインドは「おお!あの娘とベッド・インしたいな。でもあんな外見の娘が僕になびいてくれるはずがない」というやつ。
そこで、懸賞付きの質問。このアイスカフェの客たちは「誰」を見ているのでしょう?
アリーナ:誰もが、自分のことしか見ていない。
サンユ:その通り。誰もが、この美しい女性をスクリーンに見立てて、自分の価値観、自分が癒せていない心の傷…または自己の存在価値に残された傷、自分の夢や願望、世界観、人間観を眺めている。
彼女はスクリーン。(頭を指して)これはスライド投影機で、スライドを差し込む割れ目がここにある。そしてこれまで自分が溜めてきたすべての条件付け・刻印・プログラミング・パターン・過去が、このスライドに入っている。このスライドを通して、自分自身をこの女性に見ている。…ということは、私たちはかつて、自分自身以外をこの世の中に見たことがない、ということ。誰もがこの女性の中に別人を見ているだけではなく、誰もがこのアイスカフェという同じ場所に居るのに、そこには100種の世界があって、ひとつは爆発せんばかりの楽しい気分になっているのに、1,5メートル先の席では爆発せんばかりの憤りを感じている。誰もが、自分だけの世界に生きている。
そうなると、トランプについて、コロナについて…何に関しても、誰かの意見に耳を傾けたところで、世界についてそんなに多くのことはわからない。実際には、「世界とはこういうものである」と主張している人物のことが、本を開くように見せられているだけ。
私がまだ、診療所を営んでいたころ、多くの愛すべき患者さんたちがやってきた。コロナの期間に関していうと、ある人は人類史上最大の残酷で邪悪な黙示録を目前にしており、ある人はパラダイス・黄金時代へ移行する直前のように感じていた。そしてその中間には更に、様々な色彩があった。そして、全員が同じ惑星に住んでいるのに、そこには75億種類もの世界が存在しているのは驚くべきこと。
エゴ意識には、いくつかの強迫観念がある。
その内のひとつは、分極化という意識。こいつは常に審判しないと気が済まない。審判のひとつは、世界を善と悪に区分化することで、当然、善側は私だ、となる。
アリーナ:違う違う。善側は私よ!私の方が善側よ!
サンユ:あら…(笑)言っておくけど、あなたは邪道に走っているわ。私たちのどちらか一人が善側なのだとすれば、それはどちら?
アリーナ:そう、それは私よ。善側は私。
サンユ:アハハハハ!じゃあ、こうしましょう。「私たち」は善側ね?OK?(アリーナ:OKよ!どっちにせよね(笑))
それで、「善良」だと謳ってきた者たちが残してきた血痕を辿れば…善良なキリスト教徒たち、善良な回教徒たち、善良な資本主義者たち、善良な植民地主義者たち、善良な共産主義者たち、善良な国家社会主義者たち… これらを振り返ると、私たちは本当に「善側」に属したいのかわからなくなってくる。そして意図的ではなかったことは確かであろうと、どうやら地獄への道というのは「善良」という名の石畳で張り巡らされている。
人類の歴史は、人類の歴史を何一つ教えてくれていない。今のところはね。でも、それはこれから変わるかも知れない。(アリーナ:今がチャンスよ)そうね(笑)。私たちには、自分自身と世界を別の形で眺めることが出来る。その別の形とは、創造物を全体として捉えることと、すべての小さなパーツは大きな全体を反映している。ラテン語の pars pro toto (一部が全体を代表)。小宇宙は即ち大宇宙である。イエスの述べていた、天界は即ち地上界、鏡の法則、アナロジーの法則。露の玉がどれだけ小さかろうが、それは創造物全体を反映している。どういうことかというと、私がこの世で目にするもののすべてを、私は自分の中に見出すことが出来るし、私が自分の中に見出すすべてを、私はこの世に見出すことが出来る。
そして…私は何に対して戦おうとしているのだろう。
そこで、あなたの「EGOから離れて「愛の意識」への移行がなぜ大事なのか」という質問だけど、アインシュタインの言葉を借りると「原因がつくられたレベルでは、その問題を解決することが出来ない」ということ。
アリーナ:つまり、憎しみは憎しみをもって解決できないし、怒りは怒りをもって解決できない、ということね?
サンユ:そういうこと。だって、不安・憎しみ・憤りといったものは、分離のアイデンティティから起こったものであり、この問題解決には、上位の階層へ移行しなければならない。それが「一体感」という意識。ワンネス、統合、愛。
そして…病んでいるマインド(意識)は、分離のアイデンティティという幻想の中にあり…つまりワンネスを破り飛び越えてしまっていて、断片化された世界を創造してしまう。
マインドが健全ならば、それは愛の意識の中にあり、愛に満ちた世界を創造することになる。
アリーナ:ここで、ちょっとプライベートな質問をするわね。あなたは心理セラピストであり、27年間いくつかの診療所を営んできたけれど、あの巨大な「C危機」がやってきたとき、あなたはあなた自身や何よりスタッフに、今後どのような規制が及ぶのかを懸念して、診療所を閉鎖する決断を下して、それまでほぼ500㎡の敷地にある大きな家に住んでいたのに、今後何をどうするのかわからないまま、ほとんどすべてのものを手放したわけだけど…
サンユ:でも知ってる?以前、私はいつも鍵を探しまくっていたでしょう?でも今は、この惑星で私の車の鍵はひとつしか無いのよ。なんという気楽さ!(笑)
アリーナ:それがまたあなたらしいわね。生活基盤のすべてを失ったのに、鍵が減ったって喜ぶなんて。でも、あんな形で自分の生活基盤を手放すよう強要されて、あなたにとってそれはどういうことだった?
サンユ:強要された?(アリーナ:ええ)
ねえ、ちょっとしたゲームをしない?(アリーナ:いいわよ)
私は思春期の娘で、あなたは私の母親ね。
あなたは娘に、自分の人差し指で自分の鼻を触らせたいの。
娘の私はそれを最高に馬鹿馬鹿しいと思っていて…だって子供が思春期になると親ってなんだか変になるのよね。私はそれが嫌で。母親のあなたは云うことを聞かせようと頑張って欲しいの。
アリーナ:わかったわ。
サンユ、人差し指で鼻を触ってご覧なさい、いい子だから。
…サンユ?…ほら、鼻を触ってよ。ねえ、触ってったら。今すぐに!
指図を受けて、うつむくサンユ
しつこく言われて、目をそらすサンユ
サンユ:OK。ちょっと待って。
では、云う通りにしなければ、どうなるの?
アリーナ:4週間テレビ禁止。3ヶ月間外出禁止。次の誕生会は3回なし。それとxボックスも3ヶ月間禁止。
サンユ:ちょっと待って…(上の条件を復唱すると、アリーナが肯定)。
ふーん…(しばらくうつむいて考えてから)
ゆっくりと鼻を触るサンユ
サンユ:エンジェル、(満足そうに微笑むアリーナ)今、決断して行動したのは誰?
アリーナ:あなたね。
サンユ:(頷いて)正解。どこで強要されたのかしら。私がやった。自分の決断。
そしてあなたの質問は、それがCの時期にどのように反映されたのか、ということよね…(しばらく考えて)そうね、アジェン��2030を取り上げましょう。ワーストケース(最悪の場合)は、信じがたい虐殺があり、生存者は皆バイオロボットに変身。
私はそれ同類のものを自分の中に見いだせるのだろうか?
長く探す必要はない。私も人生の最初の3分の1はお肉を食べていた。たった3センチの口内で味わう喜び。如何なる呵責も感じずに、敢えて…いえ、何も考えてさえいなかった。この3センチの喜びのために、誰かが動物を一生「収容所」で虐待し、苦しませることを容認していた。
ここで誰かが、「サンユ、だって人間とは違って、動物なんだから」って云うかも知れない。それは理解できる。けれど、動物の痛覚は人間と変わらないことも今は知っている。動物も人間と同じように愛情を感じること、そして自分以上に子供に愛情を掛けることも知っている。私にとってその点で、人間と動物の区別がない。やっぱり「感性を持つ存在」。その意味で、それを主義として自分の中に見出すのなら、何に対して私は戦闘をおこなうのだろう。それでも、だからといって私はそのアジェンダに自分を差し出すつもりはない。全くない。どちらかといえば、私はその主義を自分の中に再発見しようと決断し、自分の中で統合しても、今後はマニフェストしなくて良いということになる。これは他のテーマにも繋がってくる。
「お前はクリスマスも大晦日も、家族と過ごしてはいけない」と言われれば「はあ、そうですか。ご説明ありがとう。でも私のつもりは全然違って、当然クリスマスを家族と過ごすために会いに行きます」と言うでしょう。
そう。当時、私はマスク解除証明を発行していたことで、警察との対峙があった。そして、自分の中のどこに“警察”を見いだせるのか、自問した。すぐに明らかになったのは、彼らは「自分たちの世界」、つまり「階層構造と秩序で成り立っている法と規律と義務と権利の世界」を愛しているということ。そして、彼らは自分たちのやり方で、自分たちのツールを自分たちの世界のために駆使する。私は自分のやり方で、自分の世界を、彼らとは違う手段で確保しようとするわけで、そこには当然差異がある。それでも、自分の世界を確保しようとする主義主張を彼らは映し出していた。そこで私は争う必要がない。
私に言えるのは、「ご訪問ありがとう。当然、私は証明書を発行し続けますが、この問題をどう解決しましょうか」ということ。「私は罰金を払わねばならない?なるほど。私がそれを受け入れたいのか、よくかわからないので、様子を見ましょう。私の子供はマスクを着用すべきということですが、何故なのかご説明いただけますか?あなたの見解は興味深いですが、私にとってはそれは全くもって真実ではないし、重要でもありません。私の子供がマスクを着用せずにいられるよう、何でもやります。父兄イニシアチブを設け、動画を構成し、なぜマスク義務に反対なのか説明します。その他の組織に働きかけ、法律家に相談します。これらのすべてに効果がなければ、私は子供を学校には行かせません。そして、あなた方がホームスクーリングをさせたくないのであれば、私たちは国を去ります」。
「あなた方は、私にワクチン接種を受けさせたいのですか?なぜ?絶対にイヤですね。どうしましょうか?私は刑務所行きですか?OK。この転生では私はまだ刑務所に入ったことがないです。では、外からの条件に縛られないで自由に生きるための訓練を喜んでさせてもらいます。それは何時からスタートしますか?」
これらはひと言で言い換えると、「no war(戦争反対)」。
私は繋がり(connected)続けていたい(訳注:高次の自分と)。この、何事もジャッジしないという繋がり(connection)。ドイツ語のUrteil (音:ウルタイル/意味:審判・ジャッジ) という言葉は良く出来ている。Urーというのは原初・オリジナルなものを指し、Teilというのは「部分、分けた一部」と言う意味。原初の段階ではひとつだったものが、意識によって分割されているからジャッジが起きる。
そうして、審判・ジャッジするいかなるものにも、私はエネルギー的に連結しようと思わない。それは私を弱らせるので。
つまり、私は自分自身のエネルギーの中に留まり、そこと繋がり続けます。それは当然「民事不服従」ということになる。だって、私の世界で不正が正義として扱われるのなら、民事不服従とは「愛の行動」だということになり、服従こそが犯罪。私が愛に満ちた抵抗の道を選ぶのは当たり前じゃない?でも、そこには憎しみも分断もなく、戦争も起こらない。
アリーナ:わかったわ。そこにあるのは唯一、愛だけ、ということね。でも、それならばこの世の邪悪はどうなるの?
サンユ:(大きく頷いて)…うーんと。
同様のイメージとして… 「電流」をとってみましょう。ラジオに電流を流すと音が出る。電球に流すと明かりが灯るし、ヒーターを通すと暖を取れる。
このイメージをもって、「愛」という流れを想像すると、権力志向の人の頭に差し込まれたスライドのフィルターを通った結果、その愛は「暴君」という姿で映し出されるかも知れない。
別のフィルター、お金に執着する人のスライドの場合、愛の流れがやって来ると、その先の結果は窃盗犯かもしれない。
3つめのフィルター、3つめのマインドセットであるスライド。それは宗教的…もしくは政治的思想。愛の流れがその意識フィルターを通ると、果には狂信的なテロリストが表現されるのかも知れない。
愛流は、どんなマインドセットによって濾過されるかで、最終的表現の形が異なるだけ
どんなスライドがフィルターになっているかによって、結果は歪み、果には倒錯的なものにまで至る。
だから、いわゆる「邪悪な人物」というのも、自分がやりたいようにやる権利がある…もしくは、それをするのが正しいことになるのかも知れない。…例えば自爆テロ…そうして他人を死の巻き添えにするとか。その者のマインドセットからは、それは正しい行動ということになっているか、もしくは「自分にはその行��を起こす権利がある」とみなされている。
改めていうと、私は彼らを正当化しているのではなくて、心というのはジャッジに興味がなく、ひたすら「理解したいだけ」なのです。
2000年前のベストセラー(訳注:聖書のこと)には「隣人を自分のように愛せよ」とあったけど、私には「隣人を自分自身として愛せよ」と聞こえてくるし、その声から更に「敵を愛せよ」とも聞こえてきた。
そして、ここであなたに質問するけれど、私は「隣人(訳注:原語では「最も近くにいる人)」そして「最も遠くにいる人」を愛すべきだという。では、この最も近距離の人と、最も遠距離の人、これら両者の間のどの辺りに切れ目があるのか?
どういうことかというと、ファウチだとか、ゲイツだとか、ドイツ健康相のラウターバッハだとか、シュワブだとかなんだとか…みんながこの中に含まれている。
「主よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。
では、彼らは何故、知らないのでしょうか?
彼らは、自分たちが何者かを、知らないのです。
自分が永遠の意識体であり、しばしの間、短い体験をするために肉体に宿っているだけなのだ、ということを知らなければ、その無知から苦悩が生み出される。それは、無常のものにしがみつくことであり、死に絶えてゆく儚さへの恐怖がそこにあり、自身をそれと同一視していると、その他の創造物と自分とは分離しているという世界観にあり、そのために利己的考えに陥って、その他の世界と自分との繋がりは絶たれてしまっている。
この世の犯罪のすべては、加害者が被害者と自分を同一視しないことから起こる。
だからこそ、私たちは自分の意識に働きかけ、エゴという意識によって生み出される分離分断を手放し、ワンネスの意識に至ることに価値を置くことになる。
アリーナ:うん…それで、この世の行く先についてのあなたの予見は?終末の世がやってくるのか、それとも新世界の誕生へ向かうのか。
サンユ:…蛹にとっての「この世の終わり」というのは、この世にとっては「蝶の誕生」を迎えること。
私たちは今、本当に自分たちがどのようなプロセスの中の、どの地点にいるのか、わかっているのだろうか。
私にはわからない。
ただ、愛というのは「目的地点」にとらわれてはいない。
想像してみて。今日が月曜日だとして、木曜日にはこの世のすべての核爆弾が投下されるとする。どの島だろうが、逃げ場はない。そこで、あなたの玄関のベルがなり、開けてみると誰もいないので、ドアを締めようとした時、足元の玄関マットには赤ちゃんが寝かされていた。木曜日には世界が崩壊すると知っているあなたは、足元の赤ちゃんを有機ゴミに出すだろうか?それとも、抱き上げて栄養を与え、おむつを換えて愛撫し、木曜日に原爆が落とされたら、自分の身体で赤ん坊を覆い、守ろうとするのだろうか。
それはつまり、愛は「結果とは無関係」だということであり、結果は自ずと現れてくる、それだけのこと。
アリーナ:そう、そういうことなのよね。ありがとう。私は皆さんに、身体的健康について自分の知識をシェアしたいとは思っていますが、その他にすこしでも、感情面、そしてスピリチュアルな側面についても自分が学んだことを、皆さんんにシェア出来ればと思って。
〈2022年秋に開催されたワークショップ・セミナーの紹介〉
サンユ:私たちの核となるものは、永遠に神聖であり続ける、これは全く持って素晴らしいこと。どういうことかというと、私たちの奥深くにある自然は太陽であり、人生において何が起ころうと、この太陽は決して破壊されることはない。この核心は永遠に神聖なまま。
スクリーンに上映されているのはホラー映画だったり、アクション映画だったり、家族ドラマだったり。しかし、上映が終われば、スクリーンは真っ白に戻り、なんの破損もなく、焼き跡もついていない。全く変化はなく、壊されることはない。私たちの内なる太陽(光)とはそういうもの。
人生を歩む中には、転生という観念、つまり別の人生の存在と共鳴することがある。人生は今回一度きりと考える人たちは、スラグのようなものに撒かれている。つまり幻想が玉ねぎのような層になっていて、そうした「概念(コンセプト)」に覆われている。それは分離の意識という誤った知覚であり、傷心、被害者意識にまみれている。
私たちが取り組むべきことは、この覆われた殻を取り外していくこと。
これはミケランジェロの説明に通じるものがある。
「こんな、雑な大理石の塊から、君はどうやってこの世のものとは思えないほど美しい、あのダビデのような姿を掘り出すことが出来るのか」という問に、彼はこう答えた「ダビデは既に大理石の塊の中に居るんだ。私はそれを覆っている余分な部分を取り除いているだけ」。
私たちはみんな、まさにそれをやっている。私たちは、真実ではないものはすべて、幻想として見抜くようになり、時と共に内なる光は自ずとして輝き出してくる。
こうした概念を自覚していくワークは大事。
私たちはあまりにも多くのことを、信じ込んできた。
そしてもしかすると、信じてきたすべてのことが、真実ではなかったのかも。
それで、人類は自分が考えていることを信じてきたために、苦悩してきた。繰り返して言います:もし、私たちがこれまで考えてきたこと、これが嘘であったのなら、これを信じていれば私たちは苦悩することになる。
しかし、素晴らしことに、宇宙は私たちの内部にナビシステム、いわゆる「感情ガイドシステム」を設置してくれた。私の感情は、私にとっての方磁石のようなもので、毎秒の如く私の日常、そして私の人生に寄り添ってくれている。
そして、アインシュタインはこうも言った:「私は神の思考が知りたい。それ以外は二の次だ」。
では、神の思考とは?実際には神は思考をしておらず、存在そのものなだけだけど、イメージとして、神という存在が思考するならば、。それは愛という思考。
もし、私たちが宇宙に漂う愛の思考と一致して振動しているならば常に、私たちは感謝、感激、献身、結束、幸福を感じるはず。
しかし、もし私たちが宇宙の思考と一致して振動していないのならば。即、憤り、悲しみ、失望、傷心…いわゆるネガティブな感情に襲われることになる。
そして、そのようなネガティブな感情が降りてきたときこそ、高次の自分はあなたに向かってサインを送っている:「君は今、君の真実とは共鳴しない振動の仕方をしているよ、戻りなさい」。
私たちはこれを学ぶべき。〈部分的にワークショップの内容紹介〉
アリーナ:締めくくりに、何か私たちに向けて言っておきたいことはあるかしら?
サンユ:アインシュタインの引用だけど、「人は、最初から実現不可能に思えるかどうかで、その思想の良し悪しを見極めることができる。それゆえ私は、希望するすべての人たちとともに、愛の思想、愛に満ちた世界をあえて夢見るのである」
そして、ヴィクトル・ユゴーの引用:その時が訪れたアイデアほど大きな力を持つものはない。そして今、約1万3500の戦争と36億人の死者を経て、ついに愛の時が来た。
安全を守るために自由を放棄すれば、自由も安全も失いかねない。
そして、安全とは港に停泊する船でもある。しかし、船はそのために造られたのではない。
そして今、変化の風が吹くとき、私たちは何を望むのだろうか?
防護壁を作りたいのだろうか?それとも風車を作るのか?
防護壁とは、抵抗すること、コントロールすること、しがみつくことを意味し、風車は手放すことを意味する。
そして時には、自分らしくいられるようにするため、私たちは自分らしさを手放さなければならないこともある。
そして、ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの女流版画・彫刻家)はかつてこのように言った:私たちの才能は、使命である。(ドイツ語で才能は「ガーべ」、使命は「アウフガーべ」)
そして、私たちのガーべが誕生時に託されるものならば、今私たちはどうすべきなのか。闇について嘆きたいのか、それとも明かりを灯したいのか、そして、私たちのガーべを昼の光に晒し、大いなる全体に捧げ、私たちが己の道を行くことで愛の意識へと到達することを望んでくれる人たちのために、どんな明かりを灯すのか。
なぜなら、きっと今こそ人類史上最も重要な革命の時代が訪れているのだから。政治革命ではない。経済革命でも、社会革命でもない。
起ころうとしているのは、自己の意識変容。分離のアイデンティティから、愛の愛テンティティへと移行しようとしている。
マハトマ。「偉大なる呼吸」と言う意味。
マハトマはこう言った:「あなたがこの世に見たいと願う変化、あなたがその変化になりなさい」。
彼は、何故そのように言ったのでしょう。
それは、私たちはひとつであり、分離した存在ではないから。
そこにあるのは大きなひとつの意識という大海。
私たちは人間という意識領域の中に、互いに繋がり合いながら集団として存在している。
あなたが成し遂げる如何なること、どんな針穴をあなたがくぐり抜けようと、それは何処かの誰かに何かをもたらし、この誰かも、自分なりの針の穴をくぐり抜けている。
そして、何処かの誰かが自分のためにくウォンタム・リープを成し遂げたとして、それはあなたに跳ね返ってきて、もしかするとあなたは自分にとっての新しいレベルへとジャンプすることになるのかも。
一人は万人のために、万人は一人のために。
そして…危機というものが来るのは大抵、ある種の生き方がもう耐え難くなった時。
そして、問いかけるべきことは「すべての社会には、それ相応の革命が起こる」ということ。そして今、私たちは愛の革命を望むに値しないだろうか?
アリーナ:私はそれにイエスと答えるわ。そして、その道へ向かおうとする誰もを、喜ばしく思う。
サンユ:そして、その道へ向かおうとしない誰かをも、喜ばしく思っていいのよ。彼らが己の道を往き、自分の魂が求める全てを得ていけるよう、願いましょう。
アリーナ:その通りね。私のエンジェル、一千回、感謝を述べさせて。
サンユ:ありがとう。百回分の感謝をお返しするわ。
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