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#木山神社奥宮
yamada50 · 1 year
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隣接する感神院木山寺と神仏習合を成す木山神社奥宮 平安初期に創建し、京都八坂祇園社、播磨広峯社と並び最古級の牛頭天王社として崇敬を受けました 昭和37年に里宮へ遷宮しましたが、天正8年(1580)造営、江戸中期に再建された本殿は今も残り牛頭天王をお祀りしているとのことです #木山神社奥宮 #木山神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 木山神社奥宮(きやまじんじゃおくみや) 鎮座地:岡山県真庭市木山1145 主祭神:牛頭天王 社格:県社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #真庭市 #牛頭天王 #木山寺 #神社巡拝家 (木山寺 (高野山真言宗 別格本山 醫王山 感神院)) https://www.instagram.com/p/ClRSZMDvlBO/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月5日(月曜日)
   通巻第8118号
 孫子を読まずして政治を語る勿れ。派閥解体、政治資金浄化????
  吉田松陰の代表作は、じつは孫子の研究書(『孫子評註』)だった
*************************
 自民党の派閥解消を聞いて、日本の政治家は政治の本質を理解していないことに唖然となった。派閥はまつりごとのダイナミズムを形成する。パワーの源泉である。それを自ら解体するのだから、政治は星雲状態となる。となると欣喜雀躍するのは中国である。国内政治にあっては、その「代理人」たちである。
 孫子が言っているではないか。「謀を伐ち、交を伐つ」(=敵の戦略を見抜き、敵戦力を内訌させ、可能なら敵の一部を取り込め、それが戦争の上策である)。そうすれば、闘わずして勝てる、と。
 高杉晋作も久坂玄瑞も、松下村塾で吉田松陰の孫子の講議を受けた。松陰亡き後の門下生だった乃木希典は、師の残した『孫子評註』の私家版を自費出版し、脚注もつけて明治天皇に内奏したほど、心酔していた。世にいう松陰の代表作はその辞世とともに有名な『講孟余話』と『留魂録』だが、現代人はすっぽりと『孫子評註』を忘れた。これは江戸時代の孫子研究の集大成である(『吉田松陰全集』第五巻に収録)。
松陰は山鹿素行を師と仰ぐ兵法家から出発している。毛利長州藩の軍事顧問だったのである。
 
もとより江戸の学問は官学が朱子学とは言え、新井白石も山鹿素行も荻生徂徠も山崎闇斎も、幕末の佐久間象山も西郷隆盛も孫子は読んだ。しかし江戸時代の二百数十年、太平の眠りにあったため、武士には、読んでもその合理的で非情な戦法に馴染めなかった。
その謀(はかりごと)優先という戦闘方式は、日本人の美意識とあまりに乖離が大きく、多くの日本人は楠正成の忠誠、赤穂浪士らの忠義に感動しても、孫子を座右の書とはしなかった。
明治以後、西洋の学問として地政学が日本に這入り込み、クラウゼウィッツは森鴎外が翻訳した。戦後をふくめてマキャベリ、マハンが愛読され、しかし誤読された。吉田松陰の兵法書はいつしか古書店からも消えた。
しかし戦前の指導者にとっては必読文献だった。
 
 吉田松陰が基本テキストとしたのは魏の曹操が編纂した『魏武註孫子』で、考証学の大家といわれた清の孫星衍編集の平津館叢書版を用いた。そのうえで兵学の師、山鹿素行の『孫子諺義』を参考にしている。
もともと孫子は木簡、竹簡に書かれて、原文は散逸し、多くの逸文があるが、魏の曹操がまとめたものが現代までテキストとなってきた。
 ▼孫子だって倫理を説いているのだが。。。
 孫子はモラルを軽視、無視した謀略の指南書かと言えば、そうではない。『天』と『道』を説き、『地』『将』『法』を説く。
 孫子には道徳倫理と権謀術策との絶妙な力学関係で成り立っているのである。
 戦争にあたり天候、とくに陰陽、寒暖差、時期が重要とするのが『天』である。『地』は遠交近攻の基本、地形の剣呑、道は平坦か崖道か、広いか狭いかという地理的条件の考察である。戦場の選択、相手の軍事拠点の位置、その地勢的な特徴などである。
『将』はいうまでもなく将軍の器量、資質、素養、リーダーシップである。『法』とは軍の編成と将官の職能、そして管理、管轄、運営のノウハウである。『道』はモラル、倫理のことだが、孫子は具体的に「道」を論じなかった。
日本の兵学者は、この「道」に重点を置いた。このポイントが孫子と日本の兵学書との顕著な相違点である。
 「兵は詭道なり」と孫子は書いた。
従来の通説は卑怯でも構わないから奇襲、欺し、脅し、攪乱、陽動作戦などで敵を欺き、欺して闘う(不正な)行為だと強調されてきた。ところが、江戸の知性と言われた荻生徂徠は「敵の理解を超える奇抜さ、法則には則らない千変万化の戦い方だ」と解釈した。
 吉田松陰は正しき道にこだわり、倫理を重んじたために最終的には武士として正しい遣り方をなすべきとしてはいるが、それでいて「敵に勝って強を増す」とうい孫子の遣り方を兵法の奥義と評価しているのである。
 つまり「兵隊の食糧、敵の兵器を奪い、そのうえで敵戦力の兵士を用いれば敵の総合力を減殺させるばかりか、疲弊させ、味方は強さを増せる」。ゆえに最高の戦闘方法だとし、これなら持久戦にも耐えうる、とした。
 江戸幕府を倒した戊辰戦争では、まさにそういう展開だった。
 「孫子曰く。凡そ兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ。旅を全うすると上と為し、旅を破るは之れに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之れ���次ぐ」
 つまり謀を以て敵を破るのが上策、軍自作戦での価値は中策、直接の軍事戦闘は下策だと言っている。
 ▼台湾統一を上策、中策、下策のシミュレーションで考えてみる
 孫子の末裔たちの国を支配する中国共産党の台湾統一戦略を、上策、中策、下策で推測してみよう。
 上策とは武力行使をしないで、台湾を降伏させることであり、なにしろTSMCをそのまま飲みこむのだと豪語しているのだから、威圧、心理的圧力を用いる。
 議会は親中派の国民党が多数派となって議長は統一論を説く韓国瑜となった。
宣伝と情報戦で、その手段がSNSに溢れるフェイク情報、また台湾のメディアを駆使した情報操作である。この作戦で台湾には中国共産党の代理人がごろごろ、中国の情報工作員が掃いて捨てるほどうようよしている。軍の中にも中国のスパイが這入り込んで機密を北京へ流している。
軍事占領されるくらいなら降伏しようという政治家はいないが、話し合いによる「平和統一」がよいとする意見が台湾の世論で目立つ。危険な兆候だろう。平和的統一の次に何が起きたか? 南モンゴル、ウイグル、チベットの悲劇をみよ。
 中策は武力的威嚇から局地的な武力行使である。
台湾政治を揺さぶり、気がつけば統一派が多いという状態を固定化し、軍を進めても抵抗が少なく、意外と容易に台湾をのみ込める作戦で、その示威行動が台湾海峡への軍艦覇権や海上封鎖の演習、領空の偵察活動などで台湾人の心理を麻痺させること。また台湾産農作物を輸入禁止したりする経済戦争も手段として駆使している。すでに金門では廈門と橋をかけるプロジェクトが本格化して居る。
 下策が実際の戦争であり、この場合、アメリカのハイテク武器供与が拡大するるだろうし、国際世論は中国批判。つまりロシアの孤立化のような状況となり、また台湾軍は練度が高く、一方で人民解放軍は士気が低いから、中国は苦戦し、長期戦となる。
 中国へのサプライチェーンは、台湾も同様だが、寸断され、また兵站が脆弱であり、じつは長期戦となると、中国軍に勝ち目はない。だからこそ習近平は強がりばかりを放言し、実際には何もしない。軍に進撃を命じたら、司令官が「クーデターのチャンス」とばかり牙をむくかも知れないという不安がある。
下策であること、多大な犠牲を懼れずに戦争に打って出ると孫子を学んだはずの指導者が決断するだろうか?
 ▼孫子がもっとも重要視したのはスパイの活用だった
  『孫子』は以下に陣形、地勢、用兵、戦闘方法などをこまかく述べ、最終章が「用間(スパイ編)」である。敵を知らず己を知らざれば百戦すべて危うし」と孫子は言った。スパイには五種あるとして孫子は言う。
『故に間を用うるに五有り。因間有り。内間有り。反間有り。死間有り。生間有り。五間倶に起こりて、其の道を知ること莫し、是を神紀と謂う。人君の宝なり』
 「因間」は敵の民間人を使う。「内間」は敵の官吏。「反間」は二重スパイ。「死間」は本物に見せかけた偽情報で敵を欺し、そのためには死をいとわない「生間」は敵地に潜伏し、その国民になりすまし「草」となって大事な情報をもたらす。
 いまの日本の政財官界に中国のスパイがうようよ居る。直截に中国礼賛する手合いは減ったが、間接的に中国の利益に繋がる言動を展開する財界人、言論人、とくに大手メディアの『中国代理人』は逐一、名前をあげる必要もないだろう。
 アメリカは孔子学院を閉鎖し『千人計画』に拘わってきたアメリカ人と中国の工作員を割り出した。さらに技術を盗む産業スパイの取り締まりを強化した。スパイ防止法がない「普通の国」でもない日本には何も為す術がない。
 (十年前の拙著『悪の孫子学』<ビジネス社>です ↓)
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elle-p · 4 months
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Famitsu 1823 Persona 3 Reload part scan and transcription.
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続報
謎だらけの迷宮タルタロスも新ギミックを追加してリニューアル!
真田明彦
声:緑川 光
さあ挑め、奈落の果てに
当時開発に携わったP-STUDIOがみずから現行最新機種でフルリメイクしたJRPGの名作。1日と1日の狭間に存在する“影時間”に潜む謎の存在“シャドウ”と戦う若者たちの物語が、新たに描き起こされたグラフィックで色鮮やかに蘇る。今回は、登場人物たちの情報や迷宮タルタロスの新要素を紹介する。
3年生でボクシング部の主将。専用ペルソナ“ポリデュークス”は、不死身の肉体を持ち、剣術と拳闘の名手として名をはせた、ギリシャ神話の英雄だ。
専用ペルソナ
ポリデュークス
己の拳を武器にシャドウを叩きのめす
電撃と打撃のハイブリッドでシャドウたちを蹂躙する
←↑もちろん真田も、本作からの新要素である超強力なスキル“テウルギア”を使用できる。彼のテウルギア“ライトニングスフィア”は、敵全体へ相性を無視した電撃属性の大ダメージを与える効果を持つ。
専用ペルソナ
ルキア
山岸風花
声:能登麻美子
主人公の同級生で、パーティーを後方から支援するナビ役を務める。専用ペルソナ“ルキア”は、古代ローマで信仰を貫いて殉教したシチリア島の聖女。
←↓支援スキルで主人公たちをサポートする風花。テウルギアの“オラクル”は、味方全体にランダムでいい効果が発生する。
↑→突剣を振るう美鶴。テウルギア“ブリザードエッジ”は、敵1体へ相性を無視した氷結属性の特大ダメージを与える効果を持つ。
桐条美鶴
声:田中理恵
専用ペルソナ
ペンテシレア
3年生。特別課外活動部部長にして生徒会長、フェンシング部にも所属する。専用ペルソナ“ペンテシレア”は、ギリシャ神話に登場する誇り高きアマゾネスの女王。
巨大な迷宮タルタロスに挑め!
1日と1日の狭間に存在する“影時間”にのみ姿を現す巨大な迷宮“タルタロス”。内部には無数のシャドウが徘徊し、主人公たちに襲い掛かる。本作ではグラフィックや一部ギミックが新しくなったほか、ダッシュ移動、ボタンひとつでパーティー全体のHPを回復させる“オートリカバー”などの機能も追加。
↑→本作では操作系が見直され、探索がやりやすくなった。また、戦闘後のシャッフルタイムも選択制になるなどより便利に。『ペルソナ3ポータブル』で追加された失踪者救出も実装。
破壊オブジェクトと施錠された宝箱
タルタロス内には破壊可能な物体や宝箱が点在しており、フィールドアクションで破壊した物体からは、回復アイテムなどが出現することがある。宝箱には施錠されたものもあり、“薄明の欠片”と呼ばれるアイテムで解錠が可能。手間は掛かるがそのぶんいいアイテムが入手できる。
オブジェクトを壊しアイテム収集に励もう
↑→破壊オブジェクトの中には、宝箱の解錠に使う薄明の欠片が入っていることも。発見したら積極的に破壊するといい。
エントランスの時計
タルタロスのエントランスに置かれている時計を起動すると、パーティーメンバー全員のHPとSPを全回復できる。ただし、起動には毎回薄明の欠片が7個必要となる。薄明の欠片は貴重なのでムダ遣いせず、探索期限間際で探索の継続が必要な場合など、いざというときに使おう。
SPを回復できるありがたい施設
←タルタロスではとくにSPの回復手段が乏しく、時計は貴重な存在。使いどころを見極めて薄明の欠片を投入するのだ。
モナドの扉とモナド通路
探索中、“モナドの扉”と呼ばれる巨大な扉が出現することがある。その先には貴重なアイテムが入った宝箱と、強力なシャドウが待つ。
←↑モナドの扉の奥では、貴重なアイテムが入手可能。ただし、強力なシャドウが待ち受けているので、腕前に自信があれば挑戦しよう。
風花だけが使える支援スキル
風花の支援スキルは、戦闘だけではなく探索時のサポートも行える。探索中に“ナビボタン”を押せば、支援スキルを選択して発動できる。
←↑フロア内の敵から感知されなくなる“ジャミング”を始め、スキルは多岐にわたる。発動にはほかの仲間と同様にSPが必要となる。
港区の街を巡って出会いを捜そう
街中で出会う“コミュ”のメンバー
→放課後や夜の時間には、ポロニアンモールや巌戸台駅など、学園外のさまざまな場所に移動できる。
主人公が、出会った人々と交流を重ねて絆を結び、その絆をさらに深めていくことで発生、成長する“コミユニティ”(通称“コミュ”)。コミュランクを上げると、そのキャラクターにまつわる特別なイベントを見られるほか、ペルソナ能力の強化にもつながる。今回は、コミュを築ける人物の中から、おもに学外で出会う人々を紹介しよう。彼ら彼女らとは、放課後や夜の時間などをメインに交流することができる。
飛躍的に顧客を増やすテレビ通販会社社長。お金にがめつく、独特の経営理念を持つ。主人公をタレントとして売り出そうと目論む。
たなか社長
テレビ通販社長
声:島田 敏
ややガラの悪い僧侶。煩悩だらけの様態を見せるが、檀家からの評判は上々。主人公に独自の価値観と言葉で説教をくり返す。
無達
型破りな僧侶
声:青森 伸
他校の陸上部のエースで、全国���ベルで注目を浴びる実力者。主人公に才能を見出し、ともに競い合うライバルとして認める。
早瀬 護
他校のエース
声:梅原裕一郎
オンラインゲームで出会うプレイヤー。主人公の操るN島を相棒と呼ぶ。休日には必ずログインし、主人公が来るのを待っている。
Y子
インターネット
声:なし
長鳴神社脇の公園で出会う女の子。両親が離婚寸前で不安を感じ、あまり家に帰りたがらない。主人公をおにいちゃんと呼び慕う。
大橋舞子
神社の女の子
声:河野ひより
不治の難病を患っており、休日になると弱った体をおして神社へやってくる。自分の生きた証を童話という形で残そうとしている。
神木秋成
余命いくばくもない青年
声:野島裕史
古本屋“本の虫”の店主夫婦で仲はとても良好。数年前にひとり息子を亡くし、生前に彼が植えた柿の木を形見のように思っている。
北村文吉•
光子
古本屋の老夫
声:高木早苗
声:龍田直樹
休日にはメールでの誘いも
放課後や休日には親交を深めたキャラクターたちからメールで誘いを受けることがある。個性的なメールにニヤリとすることも⋯⋯?
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tanzawa77 · 1 month
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11月19日〜20日
早朝に家を出て新東名を気持ちよく自動運転でとばして西へ。巡航120kmでも自動運転は安心です。
今日は岡崎の街めぐり。岡崎城はコンクリートの再建天守ですが、城の縄張りはしっかり残ってます。
城内の「大河ドラマ館」は珍しく良かったです。だいたいのドラマ館はめぐっているわたしが言うので間違いないです。
八丁味噌の蔵や大樹寺もめぐりました。岡崎。良い街でした♪
翌日は
浜名湖越しに昇る朝日を見られました。よい風景でした。
宿を出て先ずは��掛川城」に。木造で再建された天守が美しいです。二の丸御殿は江戸時代に建てられたものが残っています。徳川、今川、武田で領有を争ったあと、豊臣の大名として山内一豊が整備した城です。小さいですが、縄張りもしっかり残っていて良い城でした。
つぎは「駿府城」です。近年、家康時代の天守台が発掘されています。明治の半ばに陸軍の連隊が置かれ、天守台を破壊して堀を埋め立ててしまいました。江戸城の天守よりも大きな天守があったとのこと。ちょっと残念ですね。
静岡浅間神社に寄って久能山の東照宮に。クルマを下に置いたので1159段という石段を登って参拝しました。ちょっとした登山でした。日光東照宮に移るまで「東照大権現」がいらっしゃったところです。社殿は国宝。極彩色のりっぱなものです。社殿のさらに奥には家康公の遺骸が祀られています。
石垣イチゴのソフトクリームを食べて、三保の松原に。富士山を写真に収めて今回の旅は終了です。
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jpf-sydney · 3 months
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Besuto essei. 202
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日々の雑感、考察、失敗談から、亡くなられたあの方への追悼文まで… さまざまな書き手たちが、「エッセイ」という枠組みのなかで書き記した2021年の記録。 この年に新聞・雑誌等の媒体に発表された中から選りすぐった、珠玉のアンソロジーです。
Shelf: 914.68 BES 2022 Besuto essei. 2022 = The best essay. edited by Nihon Bungeika Kyōkai.
Tōkyō : Mitsumura Tosho Shuppan, 2022. ISBN: 9784813804147
337 pages ; 20cm.
Editorial board members: Kakuta Mitsuyo, Hayashi Mariko, Fujisawa Shū, Horie Toshiyuki, Machida Kō, Miura Shion. Text in Japanese.
Table of contets:
部屋にいる感じ / 武田砂鉄
ロクな恋 / 李琴峰
特に秘密、ありません / 二宮敦人
親父の枕元 / 原田宗典
犬の建前 / 宇佐見りん
いつか「コロナ福」だったと言える日 / 鷲田清一
紙 / 内田洋子
学び始める春、失敗を楽しむ / 山本貴光
瀬尾夏美 / おじいさんの空き地
落合博満への緊張感 / 鈴木忠平
月の砂漠 / 小池水音
冷水を浴びせる : 坂上弘の文体 / 三浦雅士
陰のある光 / 小泉凡
脳内・ドイツ / マライ・メントライン
父と兄の書棚が招いた変な読書 / 志茂田景樹
心の扉を開く音楽 / 寮美千子
立花隆さんを悼む / 柳田邦男
失われゆく昭和探して / 川本三郎
大人への扉を開けたのは / 加納愛子
関係性の結晶 / 齋藤陽道
ガラスのこころ / 岸田奈美
"諦められない"心でアイヌ語研究に夢中 / 金田一秀穂
アイヌとして生きる / 川上容子
佃煮に想う / 小泉武夫
最高の食事 / 田中卓志
珠玉の世界 / ブレイディみかこ
神様、世間様 / 尾崎世界観
さいとう・たかをさんの思い出 / 辻真先
コロナ禍社会と密になった / 本谷有希子
最後の飛翔 / 椹木野依 -- 我が町の「宝」 / 井上理津子
ネガティブな皆さんへ / 尾上松緑
「あいつなりに筋は通ってるんだ」 / 岩松了
翻訳とは / 村井理子
「覚えられない」 / 茂山千之丞
白土三平さんを悼む / 田中優子
そんな時代 / 海猫沢めろん
ともに歩けば / 小川さやか
(笑)わない作家 / 万城目学
雪原 / 岸本佐知子
河合雅雄さんを悼む / 佐倉統
学園の平和、取り戻せ! / みうらじゅん
料理 / 小山田浩子
田中邦衛さんを悼む / 倉本聰
「声」分かち合う喜び / 温又柔
エリック・カールさんを悼む / 松本猛
月みる月は / 彬子女王
トーストと産業革命 / 青山文平
祖父母のすずらん守る / 星野博美
考えることに失敗する / 神林長平
悪態俳句のススメ / 夏井いつき
死も遊びだと思いましょ / 横尾忠則
UFO / 柴田一成
「やめた」後の達成感 / ほしよりこ
息子よ安心しなさい、あなたの親指は天国で花となり咲いている / 青木耕平
那須正幹さんを悼む / 高樹のぶ子
愚かさが導いてくれた道 / 沢木耕太郎
クールでお茶目なかっこよさ / 谷慶子
機械はしない終業挨拶 / 黒井千次
閉、じ、こ、も、り / 村田喜代子
ナマケモノ / 奥本大三郎
夢を彷徨う / 髙村薫
愛しの小松政夫さん / 鈴木聡
胃袋の飛地 / 湯澤規子
『老人と海』をめぐる恋 / 高見浩
「すごい」と「やばい」 / 酒井順子
写真を撮られるということ / 松浦寿輝
安野光雅さんを悼む / 大矢鞆音
この世の通路 / 佐々涼子
◆編纂委員作品◆
瀬戸内寂聴さんを悼む / 林真理子
多分、両方だと思いますよ / 町田康
忘れがたきご亭主 / 三浦しをん
あそこの棚に置いてある。 / 堀江敏幸
それは私の夢だった / 角田光代
遠き花 / 藤沢周.
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rinam-works · 1 year
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「本を読む小屋」2号(B6サイズ本文48ページ、価格454円+税10%)、完成しました! 今回はレイアウトだけでなく、カメラマンとして取材先に同行させていただきました! 特集は「競馬」。表紙は嵐山光三郎さんのイラスト。馬をイメージした茶色のインクで印刷をお��いしました。いい色です。ぜひ手に取って、見てみてください! 内容は、水沢競馬場、嵐山光三郎さんの寄稿、岩本騎手へのインタビュー、国内最大級のサラブレッドの産地だった小岩井農場、チャグチャグ馬コの出発点である鬼越蒼前神社。新連載は、タイマグラにある民宿フィールドノートの奥畑充幸さん、今はなきミニコミ誌『谷根千』に携わっていたフリー編集者の山﨑範子さん。シダを愛する稲富さん、翻訳家の木下さん、ライターの胡桃さんのコーナーも引き続き、連載しています。
販売店は、 盛岡市:さわや書店(本店・フェザン店)、書肆みず盛り、ブックナード、盛高書店、おかず屋ゴーシュ 遠野市:伝承園、やませみ文庫 宮古市:フィールドノート となっております。 今回は県内各書店にて販売する予定です。 どの書店に入るかは今のところ未定。分かり次第、お知らせします。
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poddyshobbies · 1 year
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糸島・長嶽山古墳群~6号墳
神社を中心に14基の古墳が点在しています。
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神社横の丘の上に位置します。丘の下には長嶽山古墳群の説明板が立ってます。
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↑↓ 神社側の丘の下から
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↓ 登るのは上宮(1号墳)への参道(林道)側からです。
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↓ 6号墳側から ~ 写真の奥が上宮(1号墳)方向
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↓ 東面の斜面下
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墳頂が丘のトップになってます。
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墳丘には石が散らばってます。石室のものでしょうか。
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墳頂
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下方向
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木の根元が大きく窪んでます ~ ここから石室を荒らしたようです。(盗掘坑)
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石室は枯葉などに覆われて見えませんでした。
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神社の境内から東方向の眺め(6号墳の丘を背に)
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2023.3.20(つづく)
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oniwastagram · 2 years
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📸湯島天神(湯島天満宮)庭園 / Yushima Tenjin Shrine Garden, Bunkyo-ku, Tokyo ② 東京・湯島の『湯島天神』(湯島天満宮)の庭園が素敵…! 東京の合格祈願と梅の名所🌸創建は古墳時代と東京屈指の古さをほこり、徳川家康ら徳川将軍家にも崇敬された神社…その日本庭園は現代の庭師の巨匠 #安諸定男 が2010年代頭に作庭。戦災を免れ江戸初期から残る大鳥居は東京都指定有形文化財。 ...... 続き。庭園の背後を彩る梅以外にもモミジ🍁や下草が自然の景を作り、その奥の滝💦からの流れや音は東京のど真ん中であることをちょっと忘れてしまう姿。 鱗の姿のような石積みに少しずつ姿を変える石畳の園路、そして木橋〜土橋〜石橋と色んな橋。広さ以上に多彩な風景を感じさせてくれる庭園。 . ただ訪れた日は結界があり中には入れない状態…梅の時期だけ歩けたりするのかな?また中を歩ける時にも訪れたいな〜。 . この園内には湯島天神を舞台とした泉鏡花『婦系図』にちなんだ筆塚も。また境内には王貞治⚾️さんにまつわる石碑など現代の人にとっても親しみやすい?碑もあります。 . 現在は週末のみ開館している宝物殿では横山大観、竹内栖鳳、菱田春草、伊東深水など近代の日本画家による作品を所蔵・展示🖼近くへ行った際はぜひ立ち寄ってみて。 . 東京・湯島天神(湯島天満宮)庭園の紹介は☟ https://oniwa.garden/yushima-tenjin-tokyo/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #tokyogarden #zengarden #beautifultokyo #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #japanart #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #japanshrine #landscape #landscapedesign #ランドスケープ #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #東京庭園 #造園 #東京神社 #寺社仏閣 #東京旅行 #東京観光 #おにわさん (湯島天満宮) https://www.instagram.com/p/Ch4M6vUPvg9/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ignitiongallery · 22 days
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大崎清夏+蓮沼執太『大崎清夏詩集をセッションする』
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詩人・大崎清夏さんの第1詩集『地面』、第2詩集『指差すことができない』(中原中也賞受賞)、第3詩集『新しい住みか』をまとめた一冊『大崎清夏詩集』(青土社)。この刊行を記念して、大崎さんの朗読と、音楽家・蓮沼執太さんによる音楽のセッションを、5月10日にtwililightで開催します。
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2012年のKAATで上演されたシアターピース『TIME』以来、「ミュージック・トゥデイ・トーキョー・2015」、「浜離宮アンビエント」など、何度も共同作業をしている蓮沼執太さんと大崎清夏さん。
そんなお二人が今回は大崎さん初の集成『大崎清夏詩集』をセッションします。
音響を担当するのはあらゆる現場で二人を支えてきた葛西敏彦さん。
地面、指差すことができない、新しい住みか。朗読と音楽によってどのような詩空間が立ち上がるのか。ぜひご体験ください。
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日時:2024年5月10日(金)
開場:19時30分 開演:20時 終演:21時
会場:twililight(東京都世田谷区太子堂4-28- 10鈴木ビル3F&屋上/三軒茶屋駅徒歩5分)
料金:3000円+1ドリンクオーダー
定員:20名さま
出演:大崎清夏(朗読)、蓮沼執太(音楽)
音響:葛西敏彦
件名を「大崎清夏+蓮沼執太『大崎清夏詩集をセッションする』」として、お名前(ふりがな)・お電話番号・ご予約人数を明記の上、メールをお送りください。
*このメールアドレスが受信できるよう、受信設定のご確認をお願い致します。2日経っても返信がこない場合は、迷惑フォルダなどに入っている可能性がありますので、ご確認ください。
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大崎清夏(おおさき・さやか)
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1982年神奈川県生まれ。2011年「ユリイカの新人」に選ばれ、2014年、詩集『指差すことができない』で第19回中原中也賞受賞。『踊る自由』で第29 回萩原朔太郎賞最終候補。そのほか、著書に『大崎清夏詩集』(青土社)、『目をあけてごらん、離陸するから』(リトルモア)、『私運転日記』(twililight)などがある。2022年、奥能登国際芸術祭の一環として脚本を手がけた朗読劇「珠洲の夜の夢」がスズ・シアター・ミ ュージアムにて上演され、翌23年には同じく「うつつ・ふる・すず」の脚本も手がけた。音楽家や美術家など、他ジャンルのアーティストとのコラボレーショ ンも多く、絵本の文や楽曲歌詞、ギャラリー等での詩の展示など、さまざまなかたちで活動を行う。2019年、第50 回ロッテルダム国際詩祭招聘。知らない町を歩くことと、山小屋に泊まる登山が好き。
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蓮沼執太(はすぬま・しゅうた)
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1983年、東京都生まれ。蓮沼執太フィルを組織して、国内外での音楽公演をはじめ、多数の音楽制作を行う。また「作曲」という手法を応用し物質的な表現を用いて、彫刻、映像、インスタレーション、パフォーマンスなどを制作する。主な個展に「Compositions」(Pioneer Works 、ニューヨーク/ 2018)、「 ~ ing」(資生堂ギャラリー、東京 / 2018)などがある。また、近年のプロジェクトやグループ展に「Someone’s public and private / Something’s public and private」(Tompkins Square Park 、ニューヨーク/ 2019)、「FACES」(SCAI PIRAMIDE、東京 / 2021)など。最新アルバムに『unpeople』(2023)。第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。
web: https://linktr.ee/shutahasunuma
Instagram: https://www.instagram.com/shuta_hasunuma/
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yamada50 · 1 year
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一世一度の践祚大嘗祭を行う大嘗宮 3年前に参拝に上がっていた大嘗宮です 御世代わりにおける最重要祭祀、大嘗祭を行うために建てられます 通例では10日前に着工、7日前に地鎮祭、5日で全て造営し大嘗祭の3日前に竣工するスケジュールだそうですが、今回は数ヶ月かけて造営しました また屋根は青草茅葺が通例ですが今回は経費削減のため板葺となっています 東西に悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)が配置しますがこちらが大嘗祭の中心をなす殿舎です 正面奥最も北側に廻立殿が置かれ天皇と皇后が祭祀に先立ち沐浴を行う場所です 践祚大嘗祭は応仁の乱以降断絶していましたが江戸時代霊元天皇によって復興され東山天皇即位の際221年ぶりに斎行されました 通例では悠紀殿、主基殿、廻立殿の三殿は神聖清浄なものであるから焼納が伝統でしたが、建設リサイクル法の趣旨に従い解体材をバイオマス燃料として再利用されたとのことです 皇居に参入したのもはじめてでしたが宮中祭祀の場を目にすることも貴重ですので朝早く起きて参拝した甲斐がありました とはいってもその時は都内に住んでいたのですが #大嘗宮 #大嘗祭 #皇居 #東御苑 #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #黒木鳥居 #令和 #践祚大嘗祭 #宮中祭祀 #悠紀殿#主基殿#廻立殿 #神社巡拝家 (皇居東御苑 / Imperial Palace East Gardens) https://www.instagram.com/p/Cl6UDKWvMPU/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 2 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
   通巻第8176号
 明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
  福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
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 北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待ち受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
 筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ? 
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
 継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
 脱線すると能の『花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17日に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産EV。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
 新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
 沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
 さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は「高志」、または「越」とも書きます)。
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((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛び出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝の行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
 官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
 (( 以上ご参考までに )))
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kojitakada · 1 month
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箱根奥湯本、
天山湯治郷でお花見を!(^o^)丿
「さくらゆ」でまったりと。
控えめに言って最高。
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kennak · 1 month
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猫ノ沢事件(ねこのさわじけん)とは、1916年(大正5年)に秋田県河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢(現大仙市協和船岡沢内)で発生した事件である。この事件により全国一の密造酒摘発地であった秋田県での密造酒の習慣を大きく変えるきっかけになった事件であった。「猫ノ沢」の地名は資料によっては「猫の沢」と記述される場合も多いが、この記事では前者で統一する。 概要[編集] 沢内白山神社神社の前が猫ノ沢事件の現場となる 1916年(大正5年)6月24日、秋田税務署間税課長ら一行8名は、未明豪雨の中を濁酒検挙のため、河辺郡船岡村船岡字猫ノ沢部落に向っていた。早朝から同部落を調べ、隣接の庄内部落に向かう途中、猫ノ沢部落に向かう夫婦連れに出会う。署員は「どこから来たか」と尋ねたところ、男は「貴様らの如き者に用事はない」と暴言を吐き、突如Kに組み付いて押し倒したので、他の署員が取り押さえて不心得を諭した。ところが、その夫婦は猫ノ沢集落に帰って、「いま税務署属らに不当の暴行をうけ殺されるところだった」と伝えた。部落民は日頃から濁酒検挙で税務署属に悪感情を抱いていたところから憤慨し、その暴行への復讐、および再び濁酒検挙にこないよう打ちこらしてやるべきだと相談がまとまり、税務署属の帰路を襲うべく盤木を鳴らして部落民を小学校前に集め待機した。一方税務属一行は、猫ノ沢部落白山神社付近の沢合いや堰端、田圃など捜索すべく進んでいた。これを知った部落民は盤木を乱打して襲撃を促し、蓑笠を着用し、鎌、鉈その他の凶器をたずさえ、降雨の中を白山神社前に向い税務署属一行と出会うや喚声をあげて襲いかかり、無抵抗の税務署属らを突く、刺す、殴るの乱暴を働き、凄惨な修羅場と化した。税務署属一行は鎌で背部から肺に達する瀕死の重症を負わされた者、鎌で頭部を乱打され骨膜に達する重傷を負った者など5人が重軽傷を負った。この事件は首謀者、実行行為のあった者、あるいは声援して騒いだ一部の部落民が、騒擾、公務執行妨害罪、傷害罪で起訴され、10名を懲役(各6年2名、5年3名、1年5名)、15名を罰金(各30円3名、20円12名)に処する有罪判決が、2名に無罪の判決が言い渡され確定した[1]。 背景[編集] 明治維新以降、酒類に対して一般的に課税することとなったのは、1871年(明治4年)の「清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則」[2](明治4年太政官布���第389号、清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ収税方法規則)を定めた時からである。この課税制度はもっぱら販売用の酒類を対象として規定されており、自家用のため製造する酒類については「細民農桑ノ辛苦ヲ醫スルカ爲」[3]のものとして課税の対象外としていた。しかしその後、財政規模の拡大とともに酒税負担を漸次増加せしめることとし、また、自家用酒を製造している者には資産家が多く、「細民」はかえって課税された酒類を購入するという齟齬も発生していた。そこで、1880年(明治13年)制定の酒造税則(明治13年太政官布告第40号)は、酒税の増税に伴い、自家用酒製造数量を1石(180L)以下に制限した(同附則)。1882年(明治15年)には、製造数量の制限のほか免許鑑札制度を導入し、免許鑑札料80銭を徴収するとともに、自家用酒として製造した酒類の販売を禁止した。さらに、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)に行われた日清戦争の歳入不足を補うために、1899年(明治32年)には自家用酒税法を廃止し、同時に自家用酒の製造を全面的に禁止した。しかし、1899年(明治32年)の酒類の製造数量はかえって減少傾向さえ示した。濁酒製造免許者は77%増となったが、その免許を受けるには年間50石(9000L)以上生産することを条件としていた。そのため、部落内の共同出資により団体を結成しその代表者の名義で免許を受け合法的に製造することが考えられていた。しかし、その濁酒を基にしてさらに大量の濁酒を密造する者が続出したため、結局かえって密造を助長する結果となった[4]。 その後、1909年(明治42年)頃から密造取り締まりが厳密に実施され全般的には密造が減少傾向にあったものの、秋田県と岩手県は1916年(大正5年)まで密造激甚地として残っていた[5]。密造禁止の趣旨が徹底せず「自家用酒の製造は本来の悪事ではない」「小さな密造犯を処分するのは法律の目的ではない」「税務官吏の取り締まりは自分の成績を上げるためで、罰金のうち何割かは賞与としてもらうのではないか」という話が流布し、これらが税務官吏に対する怨恨になり、一方犯罪者に対する同情となり、相互庇い合うという傾向すら見られた[4]。 1900年(明治33年)7月3日の秋田魁新報では「酒は蕎麦と同様自家で作るべきものとの慣習は村落民に一つの観念を作り容易に抜けず、自家用酒制限されるや、彼等の不平高まり、税吏をみること疫病神のごとし、時に税吏に対し蛮行を振う愚民もあり、しかも村民一般の感情がかかる蛮行者をみること義民のごとく、犯罪者に対し同情をあたえつつあり、実に笑止千万なり」と報じている。密造酒の摘発には新聞記者も同行して記事を書いているほか、摘発記事などもかなり大きく報じている。税吏に濁酒を押収された家は「ヤマイ神につかれた」としてむしろ同情の眼で見られた。摘発は現品を押さえ、しかも醸造人が明らかでなければ罰金は科せられなかった。そこで、農民たちは知恵をしぼった。期限まで罰金を納められない場合には入獄しなければいけなかったが、この場合は年寄りや女房が夫に代わって労役につくことが多かった[6]。 国は毎年6億円の歳出を必要としていたが、そのうち1億円は酒税によるものであった。当時、秋田県は密造酒による検挙人数はいつも全国一であった。「取締当局としては一罰百戒の見地から厳重な取締による大量検挙以外効果はない」とされ、1916年(大正5年)6月22日に仙台市で開催された東北六県税務署会議に出席して帰庁した千葉税務署長は、23日に濁酒取締について署員をあつめ協議したが、この時に一罰百戒の見本とされたの��猫ノ沢であった。当時の猫ノ沢は「本村より約9km隔たった山間の僻地で戸数約10戸、人の気質は荒く交通不便のため司直の手が延びないことを幸いに、山林の盗伐や賭博など村風も極めて悪かった。濁酒密造も盛んで前年に引き続き、部落で共同して、麹室という大箱4つを設置し、毎月持回り製麹していた」[7]と思われていた。また事件発生直後に猫ノ沢に行った千葉税務署長は部落民にその惨事を問うに「そんな事がありましたか」と言われたり「税務署の人と喧嘩し村の若者も一人殺された」と、とぼけられた[6]。濁酒の常用はまた県民病である脳卒中とも結びついていて、1916年(大正5年)の間に脳出血及び脳軟化症で死亡した者1885人(『県統計書』)で病死者数のうち第一位を占めていることからみてもいかに有害なものかがわかるとされていた[8]。 裁判と事件の影響[編集] 猫ノ沢事件の公判は秋田地方裁判所で行われ、1916年(大正5年)10月19日に判決が言い渡された。判決では無防備の税吏に対して農民多数が共謀して凶器を振るい、暴虐の限りを尽くしたのは全国にその例を見ないとして騒乱罪が適用された。また、公務執行妨害罪と傷害罪も併合されたため、2名に懲役6年、3名に懲役5年、5名に懲役1年、3名に罰金30円、12名に罰金20円という厳しい内容となった(2名に無罪)。しかし、あまりにも厳しい判決の上に「事実誤認が多くあって、判決には納得できない」として、有罪判決を受けた25名のうち15名は弁護人を通じて宮城控訴院に控訴した。翌1917年(大正6年)6月22日に出されたのは控訴を退ける棄却判決であった。さらに、この判決に承服しなかった者は大審院に上告した。上告手続きと弁護にあたったのは、名を広く知られた法学博士の花井卓蔵と鶴田忞であった。花井ら弁護人は擬律錯誤や理由不備の不法があるとして、実例を上げながら駁論した。しかし、大審院は同年11月3日、上告を退ける棄却判決を言い渡し確定した[6][9]。 この事件以前は、税務署の取り締まりが非常に冷酷で税務官吏が横暴であるために事件を誘発したのではないかと非難する論調もあり、秋田県において密造者に対する同情心もあったが、事件後は公判の過程で実情が知らされるにつれ民心も一変し、密造に対して矯正する気分が広がった。従来は税務官吏の臨検を蛇蝎視していた地方も、税務署官を地方の旅舎に宿泊させ、地方有力者が税務官吏の地方巡回を遺憾とし、密造矯正を口にすることを栄誉とする傾向さえ発生した[10][11]。 この事件が起きた後の猫ノ沢では、多数の検挙者を出したのは郷村の不面目として小学校に子どもまで全員が集められた。そして警察署長、税務署属、船岡村長、小学校長から、濁酒がいかに弊害が多いものであるかという講話を聞き、一致して密造皆無を誓ったと新聞報道された[6]。 住民の証言[編集] 摘発隊は午前5時ころから、一戸ごとに立会人をつけて猫ノ沢を調査した。ところが、猫ノ沢では摘発隊が来るという情報を前日すでに掴んでいたのか、現品をきれいに処分していた。また、猫ノ沢のある人が羽後境駅から朝の一番の汽車に乗ろうと家を出ると、電灯を灯した人と出会った。船岡の村役場で休んでいるので酒役人だと考え、走って猫ノ沢に戻ってそのことを伝え、さらに庄内部落にも知らせたとする証言もある。一行はひとまず猫ノ沢を引き上げ300mほど奥にある庄内に向かった[6]。 猫ノ沢部落では1916年(大正5年)当時酒役人が来ると、酒役人はすぐ濁酒を置いている場所に行き、1軒や2軒で濁酒を見つけると後の家は捜索せず直ぐに帰った。人々は密告を疑った。こうした事情で部落では濁酒造りは事件発生時既にかなりなくなっており、金を出して清酒や焼酎を飲むように変わりかけていた[6]。 事件の日、朝4時から税務署の署員らは村人の前日までの田植えで疲れた寝込みを襲い無断で家に入り流し場や戸棚、屋敷に土足のまま上がり家を調べた。酒役人らは挨拶もしないで家を次々に調べたという。9人の酒役人らは猫ノ沢で一件の濁酒も発見できず、続いて庄内の捜索しようと川縁のあぜ道を急いだ[6]。 被告Cの妻の証言は以下の通りである。被告Hの妻と、被告BはBが嫁をもらう以前から仲が良いということが部落では噂になっていた。Hの妻は酒役人が家を探して帰った後に、庄内の方に鎌を持って田を見に行った。その後すぐに、Bが鎌を持って庄内の方にでかけた。Bの妻はそれを見てBがHの妻の後を追ってでかけた考えた。そこでBの妻は後を追い、ヤブの中に体を潜めてBを見ていた。酒役人は雨が降る時にヤブに隠れているBの妻を怪しみ酒を隠しに来たのだろうと問うと、Bの妻は田に水を掛けに行く所だと答える。酒役人はその田に案内しろと詰め寄った。そこに庄内の田を見終わったBが帰ってきた。Bは妻に何をすると9人の酒役人に飛びかかって行くが、返り討ちにあう。草刈りに家を出てそれを見ていたGは、Bが殺されると助けを求めて猫ノ沢を叫んで歩いた。Bは顔や手足が血だらけでひどい姿であった。Bは仕返しを口にするが、周囲の者になだめられて気持ちを落ち着かせ、朝食を取った。そして、大曲営林署の下刈り仕事に行こうと刈払鎌を持って家を出た。猫ノ沢部落の男が鎌を持って白山神社の方に行くと、酒役人が白山神社の周囲を捜索して猫ノ沢の方に向かってきた。それを見たBは腹の虫が収まらず「殺してやる」と酒役人に突進して行った。「またBが殺される」と一緒に走って行った。盤木はIの家に泊まっていた大工が騒ぎを聞いて偶然打ったものだという。証言からは、この時下刈りに一緒に行った者は5,6人で、事件は偶然に発生したとする。取り調べは事件の3日後から始まった。証言では、度胸が無い男と周囲から嫌われている男が目をつけられ、警察から「事件の一切を打ち明けると許してやるから」と言われ次々に村の人々が収監されたとされる。中には病気で歩くのも大変だったEも収監され懲役5年の判決を受けているという。実際には5-6人ほどの人たちしか襲撃に参加していないのにもかかわらず、25人もの人が服役した[6]。 その後、村人は取り調べの様子を話さなかった。そのため野添憲治は、当時かなり厳しい取り調べが行われ、一審の裁判記録が事実と違っていたからこそ、控訴や上告に繋がったのではないかとし、さらに偶然数人で一行を襲った事件なのに、どうして25名が騒擾罪などの重い罪で服役しなければならなかったのか、そこには事実誤認があったのだとしている。残された家族は、男手が無いため田畑を売ったりと生活にかなり苦労した。被告Aと被告Bは出所後、集落の総代や村議会員に推され一応の名誉回復をした[6]。 一番の被害者である税務署員は1917年(大正6年)5月11日に仙台の第二審公判の様子を見ていて、それを日記に残している。Bはほとんど事実を否認あるいは曲弁して、自分一人が税務官らを暴行したと供述した。裁判長から9人の税務官をよくただ一人で追い散らしたのかと問われるが、Bの答弁ははなはだ曖昧であった[4]。 脚注[編集] [脚注の使い方] ^ 『秋田県史 第六巻 大正昭和編』、1977年、p.157 ^ 「租税史料叢書」第四巻 酒税関係史料集Ⅰ~明治時代~ ^ 明治財政史 第5-6巻 221頁 ^ a b c 税務職員の殉難小史 ^ 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年 ^ a b c d e f g h i 野添憲治『猫ノ沢事件 -その虚像と実像-』、たいまつ社、1977年、p.65-135 ^ 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史. 上巻』、1969年 ^ 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史. 上巻』、1969年 ^ 判決摘要 - 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年 ^ 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、仙台税務監督局、1920年 ^ 事件の反響 - 仙台税務監督局『東北六県酒類密造矯正沿革誌』、1920年
猫ノ沢事件 - Wikipedia
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bearbench-tokaido · 2 months
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三篇 上 その四
かごかきは、困った様子で、 「しかし、他に方法がないのだし。 これなら、眠くなっても、ふんどしのおかげで、落ちることもない。 いやでも、これで、乗っていきなされ。」 と、気の毒そうに言う。 北八もその言いようにおかしくなってきて、これも話の種と乗って行けば、それをみた弥次郎兵衛が、 「ハハハ、白いふんどしで、かごの胴中をくくったところは、まるで、お侍の屋敷での葬式みたいだ。」 その言いように、北八は、 「ええい、いまいましい。そんなことを言うな。」 弥次郎兵衛は、かまわず、 「いやまてよ、葬式だとかごの中には、仏が乗っていてものを言うはずがねえ。 でも、今は、ペラペラしゃべっているから、こりゃ、さしずめ、世に聞こえた罪人ってとこか。」 それを聞いて、北八は、 「ええい、なおいまいましい。もういい。降りて行こう。」 と、ここでかごをおりて、ここまでの金を払った。
さて、二人は、山道をたどって行くが、雨が激しくなってきたので、坂道を滑る様に歩いて、ようやくに中山の宿場に着いた。
この中山の宿場は、白い餅で水飴を包んだ、子育飴の餅が名物である。 弥次郎兵衛と北八は、酒飲みで甘いものは苦手ときてるから、やっとのことで、一つ二つ食っているうちに、雨がさらに強くなっってきた。
ここもとの 名物ながら われわれは 降りだす雨の もちあましたり
などと、弥次郎兵衛が一首詠む。 さて、他にも、この中山には、伝説の無間山の観音寺の鐘があったのだが、今は、その寺の名だけ残っていてないのだという。
この寺に むげんのかねも つきなくし 借金とりに 嘘をつくのみ
それよりこの坂をくだって、日坂の宿場についたのだが、雨はさらに激しさを増してきて、今はもう一歩も進めない状態になった。 あたりの見分けもつかないほど降る雨に、二人も閉口して、とある旅館の軒下で、雨やどりすることにした。
弥次郎兵衛は、 「まったく、いまいましい。はでにふるもんだ。」 それに答えて、北八、 「花屋が、看板の代わりに植える柳の木じゃあるめえし、いつまでも軒下に立ってもいられない。 しかたがない。 弥次さん、大井川は越したんだし、この宿場に宿を取ろうじゃねえか。」 弥次郎兵衛は、首を振り振り、 「ふざけるない。今何時だと思ってるんだ。まだ昼飯時だろう。 今から泊まってどうするんだ。」 その様子を聞いていた旅館の婆が 「この雨じゃ、身動き取れませんで。お泊りなさい。」 と、声をかけてきた。
北八、その声に振り向いて、 「いや、こりゃ泊りたくなった。弥次さん、見ろ。 この宿には、もう女性客が、大勢泊っているようだ。」 弥次郎兵衛は、眉間にしわを寄せて、北八の言う方をふりむいたが、急に顔をほころばせて、 「おや、確かに大勢いる。」 それに覆いかぶせるようぬに、 「さあさあ、お前さんがた、泊りなさい。」 と、いう婆の声が聞こえる。 「そうだな、この雨だ。そのほうがいい。」 と、弥次郎兵衛は、先ほどとは打って変わって、ニコニコしながら、北八を促すと、さっさとこの宿に入っていった。 この宿で二人は足を洗って、すぐに奥の次の間に通り、弥次郎兵衛が、 「これこれ、女中さん、白湯があれば一杯くんな。」 と、問い掛ける。 「はいはい、ただいま、持ってきましょう。」 と、すぐに白湯を持ってくる。
弥次郎兵衛は、 「よしよし。北八、昨日の薬をだしてくれ。」 と、北八に、 「腹痛が痛いのか。くだらない冗談でも聞かしてやろう。」 と、くだらないことを言っている北八に、弥次郎兵衛は、腹をさすりながら、 「ええい、馬鹿なことをいわないで、早くくれ。」 「そりゃ、ガスが溜まっただけだ。豆でも、食やなおるわ。」 と、なおも洒落ているので、弥次郎兵衛は、いらいらしながら、 「ええい、そんなことはどうでもいい。早く薬を出してくれ。」 「わかった。わかった。さてと、田町の反魂丹はどこだったか。 ああ、あった、ほれ、手を出しな。」 と、北八が、ようやく弥次郎兵衛に渡す。
ところで、この反魂丹とは、下痢、腹痛、暑気あたりなどに効果のある、その当時の家庭常備薬で、その頃の旅人は、たいてい持っていた。
弥次郎兵衛は、北八から引っ手繰るように受け取った。 「どれ、二つも飲めば効くだろう。」 と、クスリをよく確かめもせずにガリガリと口に入れてかみ砕くと、 「なんだ。こりゃ、胡椒だ。ああ、辛い辛い。」 この胡椒も、その当時は健康薬として、旅人が持ち歩いていた。
北八は、笑って、 「ハハハ、それは、胡椒だったか。 どれどれ、えーと、ああ、ここに錦袋円がある。それこれだ。」 弥次郎兵衛は、 「錦袋円か。これならいいだろう。」 と、錦袋円の包紙をあけて、薬を口に放り込む。 この錦袋円も万病に利くという家庭薬で、包のなかにブリキ製の小さな観音が入れてあった。
弥次郎兵衛は、顔をしかめて、 「ガリガリ、ガリガリ、ああまた何か変なものを食わしやがった。ペッペッ。」 北八は、 「どれ見せな。いやこれは観音様だ。」 「ほんとだ。観音様の頭を、かみ砕いてしまった。ハハハ。」 と、弥次郎兵衛は、慌てていたので、観音様まで飲み込もうとしていたのだ。
そこへ、女中がやってきって、言った。 「御膳をあげましょう。」 「五膳。いや、三膳も食べればたくさんだ。」 弥次郎兵衛は、 「また、こいつは、減らず口を叩く。 まったくやかましい男だ。黙ってしゃべれ。」 と言うと、北八は、鼻で笑う。 この間に膳も出て、いろいろ洒落冗談をいいながら、飯を食べはじめた。
弥次郎兵衛は、先ほどから気になってしかたがなかった事を、今、思い出した��いう風に女中に聞いてみた。 「ちょっと聞くんだが、奥の客人は女ばかりみたいだが、ありゃなんだね。」 女中は、ニコニコしながら答える。 「みんな、巫子でございますよ。」 「巫子ってことは、人の霊魂を呪術や神がかりで呼び出す霊媒ってことか。」 弥次郎兵衛が、さらに聞くと、女中は、肯いている。 それを聞いて、弥次郎兵衛と北八は、顔を見合わせにんまりしている。 女中が、奥の客人は巫子だというのを聞いて、北八は、 「そりゃいい。ぜひ、誰かの霊をだして貰いたいもんだ。」 弥次郎兵衛も興味津々で、 「俺もそうしたいが、もう時間が遅かろう。 四時をまわると、霊が寄り付かないと聞いた事がある。」 と、言うと、女中は、少し首をかしげて言う。 「お客さん、まだ、二時を少しまわったところですよ。」 弥次郎兵衛は、 「そそ、そんなら聞いてみてくんな。 俺の死んだかみさんを呼んでもらおう。」 と、ひざをのりだす。 「おお、『おつぼ』の事か。こりゃ懐かしい。」 北八も、うれしそうに答える。(発端の章、参照)
「それじゃ、今聞いてきましょう。」 と、女中が立っていくと、この間に食事もすみ、帰ってきた女中が、巫子が承知した、というので、弥次郎兵衛と北八の二人は、奥の座敷へ入っていった。 すると、そこにいる巫子は、口寄せ(交霊)の道具の箱を持ち出して、その中から、商売道具の弓矢などを取り出し、姿勢をただしている。 すると万事心得たこの旅館の女中が、水をくんで持ってきた。 弥次郎兵衛は、『おつぼ』と『おふつ』(発端の章、参照)の事を思い出しながら、巫子の言うように、そこにある葉に水をつけて振ると、巫子は、まず神下ろしを始めた。
巫子が何やらしゃべり出した。 「そもそも謹み敬って申し奉るは、上に梵天帝釈、四大天王、下界にいたれば閣魔法王、五道の冥官、我が朝は神国の始め、天神七代、地神五代の御神、伊勢は神明天照皇大神宮、外宮には四十末社、内宮には八十末社、雨の宮風の宮、月読日読の御命、北に別宮鏡の社、天の岩戸大日如来、朝熊岳福智慧円満虚空蔵、そのほか日本六十余州、総じて神の政所、出雲の国の大社、神の数が九万八千七社の御神、仏の数が一万四千三の霊場、冥道を驚かし、ここに請じ奉る。」 「はあ恐れ有りや。 このときに、此の此の方の諸精霊、代々の仏たち、弓と矢のつがいの親、一郎どのより三郎どの、番も変われ、水も変われ、変わらぬ物は五尺の弓、一打ち打てば寺々の仏壇に響く納受。」 何やら難しい呪文ともお経ともつかないものを二人は神妙に聞いている。 「やれやれ、懐かしい。よく水を向けて下さった。 お前の妻が出てくるところだが、娑婆にいたとき精進が嫌いで、肴は骨まで食やった報い、今は牛鬼になって、地獄の門番をしていらるるゆえ暇がない。それでわしが出ましたぞや。」
さて、その代理の霊は誰の霊か、弥次郎兵衛が質問する。 「おめえ誰だ。わからねえ」 それに、巫子に付いた母の霊がこたえる。 「ああ、私は、お前さんの唐の鏡じゃ、子宝どのよ。」 北八それをきいて、 「唐の鏡ってことは、弥次さん、お前のお袋さまじゃねえか。」 弥次郎兵衛も納得して、 「ははん、おふくろか。そなたにゃ用はない。」 と、がっくりきた様子で答える。
つづく。
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yoshkawa · 2 months
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【山登り】蝋梅花盛りの宝登山、山頂の茶屋で一服
【この記事のポイント】 ・宝登山山頂の蝋梅は見頃、売店の秩父こんにゃくはプリッとした食感が素晴らしかった 宝登山山頂は整備されていて眺めがいい、というのは西武秩父駅ですれ違ったチャリに乗った地元の方から聞いていた話。 長瀞の町や武甲山を見渡すことができ、確かに仰る通りでした。 宝登山といえば蝋梅園が著名、ロープウェイがあるので気楽に行ける観光地なんですよね。 蝋梅は木によって微妙に咲く時期がずれる花のようで、全てが満開ということにはならない様子。 咲いている木の近くを通ると、フッと甘い香り。 あ、もうすぐ冬も終わるなと感じる瞬間ですね。 花の数はそれほど多くないので桜のような華やかさはないものの、陽光に照らされる鮮やかな黄色は美しいものです。 ここまで歩いてきたおかげで、感動は一入でした。 とはいっても花より団子、宝登山神社の奥宮すぐ近くにある茶店に寄ってみましょう。 店名は『…
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22centuryworks · 2 months
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『罪と悪』齊藤勇起監督・仁也さん(全力応援)舞台挨拶付き上映@フォーラム仙台_20240225
齊藤勇起監督「罪と悪」という作品がこの3連休舞台挨拶付き日誌の最終章である。2月2日に封切られ、その週末に一度、齊藤監督、主演・高良健吾氏、守屋茜さんはフォーラム仙台さんに来られている。フォーラム仙台さんのチケット完売史上最速記録を更新したと伝えられた(高良氏のファンが詰め掛けたらしい)。それから今日までロングラン上映となり、再び舞台挨拶が行われた。監督は「また仙台に来られたコトはじぶんの財産になります」とまで仰っていた。たしかに短期間に二度来たのは赤井英和一家以来なのだ(追記鈴木竜也監督もいた)。
4人の少年が出てきて、4−1=3、3+1=4、4−2=2、2−1=1というような〝罪と悪〟なるテーマの上で少年たちの実数が浮上しては消え、消えては浮上する。それがのどかな田舎風景と溶け合い、この世界の「悪」の起源の不確かさ、「正」の根拠の不確かさを浮き彫りにしていく。齊藤監督のデビュー作にして、完全オリジナル作であり、このような作品を世に送り出すコトの苦難の道のりについて、全力応援仁也さんが語っていた。映画を世に放つコトは、人生ひいては人間についていっしょにかたりあいましょう、と呼び掛けているに等しい。完全オリジナル作なら尚更、勇気を奮い起して今日を迎えているに違いない。
ロバート・レッドフォード監督作のようなとても繊細な作品であり、終始面白く感じた。かれらはどこから来て、どこへ消えていくのか。その確度のなさが、全然泥臭くないイケメンふう俳優3人(高良健吾、大東駿介、石田卓也)によって表現されている。よくみるとこのポスターは「月」という字を象っているようだ。同世代の二人(齊藤監督は1983年、仁也さんは1985年生まれ)の話も伺えてよかった。本作は監督曰く齊藤版「ミスティック・リバー」であり「ミシシッピー・バーニング」、橋村支配人曰く「スタンド・バイ・ミー」らしい。本来5日はかかる終盤の祭りのシーンを1日で撮り終えたという奇跡と同様に、今作は月影現象が刻印されたフィルムとして記憶されるかも知れない。
この映画にも佐藤浩市氏が出てきて、最高だった。 
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別れる理由
ドラマ「お別れホスピタル」はとても良い作品だった。気づくのが遅く第二話から知り、第四話で瞬く間に終ってしまった。感触も淡泊と言っていいドラマだったが、主演・松山ケンイチが前田哲監督「ロストケア」の先に見たモノがあった。「グリーフケアの時代に」にも繋がるが、そのケアがなされなかったばかりに、破綻した「社会生活」=言語生活が放置され、このドラマにも度々描かれた暴発が起ってしまう。ではこのケアとは何なのか? それは主演・岸井ゆきのさんのコトバ「人生の最後にも出会いが待っている、それはすごいコトなんだ」に尽きるだろう。その木漏れ日を映したドラマである。
金田諦應住職はキッチンカーふうの移動式カフェでその放置され破綻した言語生活のケアにあたっている「アーティスト」だった。被災者や大切なヒトを亡くした遺族の方が涙を流すのを待っている。そこに出会いがあるからだ。「お別れホスピタル」は平山秀幸監督「ツユクサ」のような良質な映画の味わいがあった。
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K_Matsuyama2023
「罪と悪」の前に、エリザベス宮地監督「WILL」をチネ・ラヴィータさんでみた。普段から肉を食べるヒトにしか判らない「性欲ギンギン」の世界を2時間20分という長尺でみた。猟師たちの顔には性欲みたいなモノがベットリと塗られていた。私は普段肉を食べないので、結構長く感じたし、東出昌大氏が奥崎謙三にみえてきた(「ゆきゆきて、神軍」のファンはみてほしい)。私も東出昌大氏のように、異性に対する性欲を抑えられない時期があったので共感した。だが今は、かれと同じように合理的解釈に落とし込む形でそれを忘れて生きているし、この先もきっとそうに違いない。つまり、それをいかに合理的解釈に落とし込むか、なのだ。アフロさんが相変わらず最高だった。
東出氏は奥崎謙三のように芝居については相当の自信を持っている。周囲の猟師たちも、狩猟などは性欲の合理的解釈の一形態にすぎないコトを知っていて、かれに役者としてその形を完成させてほしいと希っていた。
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