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#新編バベルの図書館
misasmemorandum · 1 year
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『新編バベルの図書館3』 J. L. ボルヘス編集
何故この本を読もうと思ったのか思い出せない。スティーブンソンの短編を読みたかったのかな、だ。
スティーブンソン、ダンセイニ卿、アーサー・マッケン、チャールズ・ハワード・ヒルトンとそしてウィリアム・ベックフォードの作品が収録されている。ヒルトンのものは19世紀の最新科学に基づくものなのか、私の頭に一切入ってこないので読んでない。ボルヘスが書いた序文がとても美しく、これを読むだけでも価値があると思った。ノートに取ったのを下に
スティーブンソン
「声たちの島」舞台はハワイ。カウアイ島とハワイ島。魔法使いが出て来る。
「壜の小鬼」これもハワイ。モームの貧しい夫婦みたいな話で、最後は自暴自棄の強欲なアホがこの壜を引き取る。いや、このアホ、実はヒーローなのか?
「マーカイム」罪と悔恨。似てるような誰かは何かの使いなのか。
「ねじれ首のジャネット」魔女ですか、、、。
ダンセイニ卿 読んでて状況が簡単に想像できた。好きになった。
「潮が満ち引きする場所で」夢に見たこと。漱石の夢十夜みたい。大好き!
「剣と偶像」石器時代の始まりと信仰の芽生え。二人の男の物語。
「カルカッソーネ」運命の企みを知る占い師。「妖精の王が多くの妖精たちを従えて、人間たちから隠れ棲もうとやってきた土地」
 「歳月は、われらのそばを巨大な鳥のように飛び去ってゆく。運命と神の掟におどろき脅え、古えの灰色の沼地から飛び立った巨大な鳥のようにな。それらに抗って、いかなる戦士も勝てはせぬ。運命がついにわれらに打ち勝ったのじゃ。われらの遠征は水泡に来した。これも当然かもしれぬ」
「ヤン川の舟唄」ベルドンダリスという町。<時>が神を殺す。まさしく夢の世界。
「野原」凶事の兆しのある、未来の凶々しい予感
「乞食の群れ」 「家々はそれぞれ異なる夢を育んでいる(p186)」
「不幸交換商会」よおわからん
「旅籠の一夜」台本形式。読めないので読まなかった。
アーサー・マッケン
「黒い石印のはなし」妖精、矮人(ドゥワーフか?)との合いの子、蛇族的な民俗学者の研究
これ以外は読まなかった
ベックフォードの「ヴァテック」は1782年の作品なせいか、現代の小説と断替えなど構成が全く違うので少し読みづらくもあったが、とても不思議で魅力的な内容で3分の1ほどは読んだ。が、他の本(金と銀です)を読み始めてこの手の作品を読めなくなってしまったので諦めた。これはいつか読んでみたいと思う。
ダンセイニ卿を好きになったので、『二壜の調味料』と言う短編集をリンリーと言う探偵が出て来るのだけ読んだ。短編の最後の文章に恐怖がやってくるみたいな書き方で何度怖い/気持ち悪い思いをさせられたか。うまい作家さん。いつかまた読んでみたいと思ってはいる。
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shunsukessk · 4 years
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あるいは永遠の未来都市(東雲キャナルコートCODAN生活記)
 都市について語るのは難しい。同様に、自宅や仕事場について語るのも難しい。それを語ることができるのは、おそらく、その中にいながら常にはじき出されている人間か、実際にそこから出てしまった人間だけだろう。わたしにはできるだろうか?  まず、自宅から徒歩三秒のアトリエに移動しよう。北側のカーテンを開けて、掃き出し窓と鉄格子の向こうに団地とタワーマンション、彼方の青空に聳える東京スカイツリーの姿を認める。次に東側の白い引き戸を一枚、二枚とスライドしていき、団地とタワーマンションの窓が反射した陽光がテラスとアトリエを優しく温めるのをじっくりと待つ。その間、テラスに置かれた黒竹がかすかに揺れているのを眺める。外から共用廊下に向かって、つまり左から右へさらさらと葉が靡く。一枚の枯れた葉が宙に舞う。お前、とわたしは念じる。お前、お隣さんには行くんじゃないぞ。このテラスは、腰よりも低いフェンスによってお隣さんのテラスと接しているのだ。それだけでなく、共用廊下とも接している。エレベーターへと急ぐ人の背中が見える。枯れ葉はテラスと共用廊下との境目に設置されたベンチの上に落ちた。わたしは今日の風の強さを知る。アトリエはまだ温まらない。  徒歩三秒の自宅に戻ろう。リビング・ダイニングのカーテンを開けると、北に向いた壁の一面に「田」の形をしたアルミ製のフレームが現れる。窓はわたしの背より高く、広げた両手より大きかった。真下にはウッドデッキを設えた人工地盤の中庭があって、それを取り囲むように高層の住棟が建ち並び、さらにその外周にタワーマンションが林立している。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。そのちょうど境目に、まるで空に落書きをしようとする鉛筆のように東京スカイツリーが伸びている。  ここから望む風景の中にわたしは何かしらを発見する。たとえば、斜め向かいの部屋の窓に無数の小さな写真が踊っている。その下の鉄格子つきのベランダに男が出てきて、パジャマ姿のままたばこを吸い始める。最上階の渡り廊下では若い男が三脚を据えて西側の風景を撮影している。今日は富士山とレインボーブリッジが綺麗に見えるに違いない。その二つ下の渡り廊下を右から左に、つまり一二号棟から一一号棟に向かって黒いコートの男が横切り、さらに一つ下の渡り廊下を、今度は左から右に向かって若い母親と黄色い帽子の息子が横切っていく。タワーマンションの間を抜けてきた陽光が数百の窓に当たって輝く。たばこを吸っていた男がいつの間にか部屋に戻ってワイシャツにネクタイ姿になっている。六階部分にある共用のテラスでは赤いダウンジャケットの男が外を眺めながら電話をかけている。地上ではフォーマルな洋服に身を包んだ人々が左から右に向かって流れていて、ウッドデッキの上では老婦が杖をついて……いくらでも観察と発見は可能だ。けれども、それを書き留めることはしない。ただ新しい出来事が無数に生成していることを確認するだけだ。世界は死んでいないし、今日の都市は昨日の都市とは異なる何ものかに変化しつつあると認識する。こうして仕事をする準備が整う。
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 東雲キャナルコートCODAN一一号棟に越してきたのは今から四年前だった。内陸部より体感温度が二度ほど低いな、というのが東雲に来て初めに思ったことだ。この土地は海と運河と高速道路に囲まれていて、物流倉庫とバスの車庫とオートバックスがひしめく都市のバックヤードだった。東雲キャナルコートと呼ばれるエリアはその名のとおり運河沿いにある。ただし、東雲運河に沿っているのではなく、辰巳運河に沿っているのだった。かつては三菱製鋼の工場だったと聞いたが、今ではその名残はない。東雲キャナルコートが擁するのは、三千戸の賃貸住宅と三千戸の分譲住宅、大型のイオン、児童・高齢者施設、警察庁などが入る合同庁舎、辰巳運河沿いの区立公園で、エリアの中央部分に都市基盤整備公団(現・都市再生機構/UR)が計画した高層板状の集合住宅群が並ぶ。中央部分は六街区に分けられ、それぞれ著名な建築家が設計者として割り当てられた。そのうち、もっとも南側に位置する一街区は山本理顕による設計で、L字型に連なる一一号棟と一二号棟が中庭を囲むようにして建���、やや小ぶりの一三号棟が島のように浮かんでいる。この一街区は二〇〇三年七月に竣工した。それから一三年後の二〇一六年五月一四日、わたしと妻は二人で一一号棟の一三階に越してきた。四年の歳月が流れてその部屋を出ることになったとき、わたしはあの限りない循環について思い出していた。
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 アトリエに戻るとそこは既に温まっている。さあ、仕事を始めよう。ものを書くのがわたしの仕事だった。だからまずMacを立ち上げ、テキストエディタかワードを開く。さっきリビング・ダイニングで行った準備運動によって既に意識は覚醒している。ただし、その日の頭とからだのコンディションによってはすぐに書き始められないこともある。そういった場合はアトリエの東側に面したテラスに一時的に避難してもよい。  掃き出し窓を開けてサンダルを履く。黒竹の鉢に水を入れてやる。近くの部屋の原状回復工事に来たと思しき作業服姿の男がこんちは、と挨拶をしてくる。挨拶を返す。お隣さんのテラスにはベビーカーとキックボード、それに傘が四本置かれている。テラスに面した三枚の引き戸はぴったりと閉められている。緑色のボーダー柄があしらわれた、目隠しと防犯を兼ねた白い戸。この戸が開かれることはほとんどなかった。わたしのアトリエや共用廊下から部屋の中が丸見えになってしまうからだ。こちらも条件は同じだが、わたしはアトリエとして使っているので開けているわけだ。とはいえ、お隣さんが戸を開けたときにあまり中を見てしまうと気まずいので、二年前に豊洲のホームセンターで見つけた黒竹を置いた。共用廊下から外側に向かって風が吹いていて、葉が光を食らうように靡いている。この住棟にはところどころに大穴が空いているのでこういうことが起きる。つまり、風向きが反転するのだった。  通風と採光のために設けられた空洞、それがこのテラスだった。ここから東雲キャナルコートCODANのほぼ全体が見渡せる。だが、もう特に集中して観察したりしない。隈研吾が設計した三街区の住棟に陽光が当たっていて、ベランダで父子が日光浴をしていようが、島のような一三号棟の屋上に設置されたソーラーパネルが紺碧に輝いていて、その傍の芝生に二羽の鳩が舞い降りてこようが、伊東豊雄が設計した二街区の住棟で影がゆらめいて、テラスに出てきた老爺が異様にうまいフラフープを披露しようが、気に留めない。アトリエに戻ってどういうふうに書くか、それだけを考える。だから、目の前のすべてはバックグラウンド・スケープと化す。ただし、ここに広がるのは上質なそれだった。たとえば、ここにはさまざまな匂いが漂ってきた。雨が降った次の日には海の匂いがした。東京湾の匂いだが、それはいつも微妙に違っていた。同じ匂いはない。生成される現実に呼応して新しい文字の組み合わせが発生する。アトリエに戻ろう。
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 わたしはここで、広島の中心部に建つ巨大な公営住宅、横川という街に形成された魅力的な高架下商店街、シンガポールのベイサイドに屹立するリトル・タイランド、ソウルの中心部を一キロメートルにわたって貫く線状の建築物などについて書いてきた。既に世に出たものもあるし、今から出るものもあるし、たぶん永遠にMacの中に封じ込められると思われるものもある。いずれにせよ、考えてきたことのコアはひとつで、なぜ人は集まって生きるのか、ということだった。  人間の高密度な集合体、つまり都市は、なぜ人類にとって必要なのか?  そしてこの先、都市と人類はいかなる進化を遂げるのか?  あるいは都市は既に死んだ?  人類はかつて都市だった廃墟の上をさまよい続ける?  このアトリエはそういうことを考えるのに最適だった。この一街区そのものが新しい都市をつくるように設計されていたからだ。  実際、ここに来てから、思考のプロセスが根本的に変わった。ここに来るまでの朝の日課といえば、とにかく怒りの炎を燃やすことだった。閉じられた小さなワンルームの中で、自分が外側から遮断され、都市の中にいるにもかかわらず隔離状態にあることに怒り、その怒りを炎上させることで思考を開いた。穴蔵から出ようともがくように。息苦しくて、ひとりで部屋の中で暴れたし、壁や床に穴を開けようと試みることもあった。客観的に見るとかなりやばい奴だったに違いない。けれども、こうした循環は一生続くのだと、当時のわたしは信じて疑わなかった。都市はそもそも息苦しい場所なのだと、そう信じていたのだ。だが、ここに来てからは息苦しさを感じることはなくなった。怒りの炎を燃やす朝の日課は、カーテンを開け、その向こうを観察するあの循環へと置き換えられた。では、怒りは消滅したのか?
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 白く光沢のあるアトリエの床タイルに青空が輝いている。ここにはこの街の上半分がリアルタイムで描き出される。床の隅にはプロジェクトごとに振り分けられた資料の箱が積まれていて、剥き出しの灰色の柱に沿って山積みの本と額に入ったいくつかの写真や絵が並んでいる。デスクは東向きの掃き出し窓の傍に置かれていて、ここからテラスの半分と共用廊下、それに斜向かいの部屋の玄関が見える。このアトリエは空中につくられた庭と道に面しているのだった。斜向かいの玄関ドアには透明のガラスが使用されていて、中の様子が透けて見える。靴を履く住人の姿がガラス越しに浮かんでいる。視線をアトリエ内に戻そう。このアトリエは専用の玄関を有していた。玄関ドアは斜向かいの部屋のそれと異なり、全面が白く塗装された鉄扉だった。玄関の脇にある木製のドアを開けると、そこは既に徒歩三秒の自宅だ。まずキッチンがあって、奥にリビング・ダイニングがあり、その先に自宅用の玄関ドアがあった。だから、このアトリエは自宅と繋がってもいるが、独立してもいた。  午後になると仕事仲間や友人がこのアトリエを訪ねてくることがある。アトリエの玄関から入ってもらってもいいし、共用廊下からテラス経由でアトリエに招き入れてもよい。いずれにせよ、共用廊下からすぐに仕事場に入ることができるので効率的だ。打ち合わせをする場合にはテーブルと椅子をセッティングする。ここでの打ち合わせはいつも妙に捗った。自宅と都市の両方に隣接し、同時に独立してもいるこのアトリエの雰囲気は、最小のものと最大のものとを同時に掴み取るための刺激に満ちている。いくつかの重要なアイデアがここで産み落とされた。議論が白熱し、日が暮れると、徒歩三秒の自宅で妻が用意してくれた料理を囲んだり、東雲の鉄鋼団地に出かけて闇の中にぼうっと浮かぶ屋台で打ち上げを敢行したりした。  こうしてあの循環は完成したかに見えた。わたしはこうして都市への怒りを反転させ都市とともに歩み始めた、と結論づけられそうだった。お前はついに穴蔵から出たのだ、と。本当にそうだろうか?  都市の穴���とはそんなに浅いものだったのか?
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 いやぁ、  未来都市ですね、
 ある編集者がこのアトリエでそう言ったことを思い出す。それは決して消えない残響のようにアトリエの中にこだまする。ある濃密な打ち合わせが一段落したあと、おそらくはほとんど無意識に発された言葉だった。  未来都市?  だってこんなの、見たことないですよ。  ああ、そうかもね、とわたしが返して、その会話は流れた。だが、わたしはどこか引っかかっていた。若く鋭い編集者が発した言葉だったから、余計に。未来都市?  ここは現在なのに?  ちょうどそのころ、続けて示唆的な出来事があった。地上に降り、一三号棟の脇の通路を歩いていたときのことだ。団地内の案内図を兼ねたスツールの上に、ピーテル・ブリューゲルの画集が広げられていたのだった。なぜブリューゲルとわかったかといえば、開かれていたページが「バベルの塔」だったからだ。ウィーンの美術史美術館所蔵のものではなく、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵の作品で、天に昇る茶褐色の塔がアクリル製のスツールの上で異様なオーラを放っていた。その画集はしばらくそこにあって、ある日ふいになくなったかと思うと、数日後にまた同じように置かれていた。まるで「もっとよく見ろ」と言わんばかりに。
 おい、お前。このあいだは軽くスルーしただろう。もっとよく見ろ。
 わたしは近寄ってその絵を見た。新しい地面を積み重ねるようにして伸びていく塔。その上には無数の人々の蠢きがあった。塔の建設に従事する労働者たちだった。既に雲の高さに届いた塔はさらに先へと工事が進んでいて、先端部分は焼きたての新しい煉瓦で真っ赤に染まっている。未来都市だな、これは、と思う。それは天地が創造され、原初の人類が文明を築きつつある時代のことだった。その地では人々はひとつの民で、同じ言葉を話していた。だが、人々が天に届くほどの塔をつくろうとしていたそのとき、神は全地の言葉を乱し、人を全地に散らされたのだった。ただし、塔は破壊されたわけではなかった。少なくとも『創世記』にはそのような記述はない。だから、バベルの塔は今なお未来都市であり続けている。決して完成することがないから未来都市なのだ。世界は変わったが、バベルは永遠の未来都市として存在し続ける。
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 ようやく気づいたか。  ああ。  それで?  おれは永遠の未来都市をさまよう亡霊だと?  どうかな、  本当は都市なんか存在しないのか?  どうかな、  すべては幻想だった?  そうだな、  どっちなんだ。  まあ結論を急ぐなよ。  おれはさっさと結論を出して原稿を書かなきゃならないんだよ。  知ってる、だから急ぐなと言ったんだ。  あんたは誰なんだ。  まあ息抜きに歩いてこいよ。  息抜き?  いつもやっているだろう。あの循環だよ。  ああ、わかった……。いや、ちょっと待ってくれ。先に腹ごしらえだ。
 もう昼を過ぎて久しいんだな、と鉄格子越しの風景を一瞥して気づく。陽光は人工地盤上の芝生と一本木を通過して一三号棟の廊下を照らし始めていた。タワーマンションをかすめて赤色のヘリコプターが東へと飛んでいき、青空に白線を引きながら飛行機が西へと進む。もちろん、時間を忘れて書くのは悪いことではない。だが、無理をしすぎるとあとになって深刻な不調に見舞われることになる。だから徒歩三秒の自宅に移動しよう。  キッチンの明かりをつける。ここには陽光が入ってこない。窓側に風呂場とトイレがあるからだ。キッチンの背後に洗面所へと続くドアがある。それを開けると陽光が降り注ぐ。風呂場に入った光が透明なドアを通過して洗面所へと至るのだった。洗面台で手を洗い、鏡に目を向けると、風呂場と窓のサッシと鉄格子と団地とスカイツリーが万華鏡のように複雑な模様を見せる。手を拭いたら、キッチンに戻って冷蔵庫を開け、中を眺める。食材は豊富だった。そのうちの九五パーセントはここから徒歩五分のイオンで仕入れた。で、遅めの昼食はどうする?  豚バラとキャベツで回鍋肉にしてもいいが、飯を炊くのに時間がかかる。そうだな……、カルボナーラでいこう。鍋に湯を沸かして塩を入れ、パスタを茹でる。ベーコンと玉葱、にんにくを刻んでオリーブオイルで炒める。それをボウルに入れ、パルメザンチーズと生卵も加え、茹で上がったパスタを投入する。オリーブオイルとたっぷりの黒胡椒とともにすべてを混ぜ合わせれば、カルボナーラは完成する。もっとも手順の少ない料理のひとつだった。文字の世界に没頭しているときは簡単な料理のほうがいい。逆に、どうにも集中できない日は、複雑な料理に取り組んで思考回路を開くとよい。まあ、何をやっても駄目な日もあるのだが。  リビング・ダイニングの窓際に置かれたテーブルでカルボナーラを食べながら、散歩の計画を練る。籠もって原稿を書く日はできるだけ歩く時間を取るようにしていた。あまり動かないと頭も指先も鈍るからだ。走ってもいいのだが、そこそこ気合いを入れなければならないし、何よりも風景がよく見えない。だから、平均して一時間、長いときで二時間程度の散歩をするのが午後の日課になっていた。たとえば、辰巳運河沿いを南下しながら首都高の高架と森と物流倉庫群を眺めてもいいし、辰巳運河を越えて辰巳団地の中を通り、辰巳の森海浜公園まで行ってもよい。あるいは有明から東雲運河を越えて豊洲市場あたりに出てもいいし、そこからさらに晴海運河を越えて晴海第一公園まで足を伸ばし、日本住宅公団が手がけた最初の高層アパートの跡地に巡礼する手もある。だが、わたしにとってもっとも重要なのは、この東雲キャナルコートCODAN一街区をめぐるルートだった。つまり、空中に張りめぐらされた道を歩いて、東京湾岸のタブラ・ラサに立ち上がった新都市を内側から体感するのだ。  と、このように書くと、何か劇的な旅が想像されるかもしれない。アトリエや事務所、さらにはギャラリーのようなものが住棟内に点在していて、まさに都市を立体化したような人々の��動が見られると思うかもしれない。生活と仕事が混在した活動が積み重なり、文化と言えるようなものすら発生しつつあるかもしれないと、期待を抱くかもしれない。少なくともわたしはそうだった。実際にここに来るまでは。さて、靴を履いてアトリエの玄関ドアを開けよう。
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 それは二つの世界をめぐる旅だ。一方にここに埋め込まれたはずの思想があり、他方には生成する現実があった。二つの世界は常に並行して存在する。だが、実際に見えているのは現実のほうだけだし、歴史は二つの世界の存在を許さない。とはいえ、わたしが最初に遭遇したのは見えない世界のほうだった。その世界では、実際に都���がひとつの建築として立ち上がっていた。ただ家が集積されただけでなく、その中に住みながら働いたり、ショールームやギャラリーを開設したりすることができて、さまざまな形で人と人とが接続されていた。全体の半数近くを占める透明な玄関ドアの向こうに談笑する人の姿が見え、共用廊下に向かって開かれたテラスで人々は語り合っていた。テラスに向かって設けられた大きな掃き出し窓には、子どもたちが遊ぶ姿や、趣味のコレクション、打ち合わせをする人と人、アトリエと作品群などが浮かんでいた。それはもはや集合住宅ではなかった。都市で発生する多様で複雑な活動をそのまま受け入れる文化保全地区だった。ゾーニングによって分断された都市の攪拌装置であり、過剰な接続の果てに衰退期を迎えた人類の新・進化論でもあった。  なあ、そうだろう?  応答はない。静かな空中の散歩道だけがある。わたしのアトリエに隣接するテラスとお隣さんのテラスを通り過ぎると、やや薄暗い内廊下のゾーンに入る。日が暮れるまでは照明が半分しか点灯しないので光がいくらか不足するのだった。透明な玄関ドアがあり、その傍の壁に廣村正彰によってデザインされたボーダー柄と部屋番号の表示がある。ボーダー柄は階ごとに色が異なっていて、この一三階は緑だった。少し歩くと右側にエレベーターホールが現れる。外との境界線上にはめ込まれたパンチングメタルから風が吹き込んできて、ぴゅうぴゅうと騒ぐ。普段はここでエレベーターに乗り込むのだが、今日は通り過ぎよう。廊下の両側に玄関と緑色のボーダー柄が点々と続いている。左右に四つの透明な玄関ドアが連なったあと、二つの白く塗装された鉄扉がある。透明な玄関ドアの向こうは見えない。カーテンやブラインドや黒いフィルムによって塞がれているからだ。でも陰鬱な気分になる必要はない。間もなく左右に光が満ちてくる。  コモンテラスと名づけられた空洞のひとつに出た。二階分の大穴が南側と北側に空いていて、共用廊下とテラスとを仕切るフェンスはなく、住民に開放されていた。コモンテラスは住棟内にいくつか存在するが、ここはその中でも最大だ。一四階の高さが通常の一・五倍ほどあるので、一三階と合わせて計二・五階分の空洞になっているのだ。それはさながら、天空の劇場だった。南側には巨大な長方形によって縁取られた東京湾の風景がある。左右と真ん中に計三棟のタワーマンションが陣取り、そのあいだで辰巳運河の水が東京湾に注ぎ、東京ゲートブリッジの橋脚と出会って、「海の森」と名づけられた人工島の縁でしぶきを上げる様が見える。天気のいい日には対岸に広がる千葉の工業地帯とその先の山々まで望むことができた。海から来た風がこのコモンテラスを通過し、東京の内側へと抜けていく。北側にその風景が広がる。視界の半分は集合住宅で、残りの半分は青空だった。タワーマンションの陰に隠れて東京スカイツリーは確認できないが、豊洲のビル群が団地の上から頭を覗かせている。眼下にはこの団地を南北に貫くS字アベニューが伸び、一街区と二街区の人工地盤を繋ぐブリッジが横切っていて、長谷川浩己率いるオンサイト計画設計事務所によるランドスケープ・デザインの骨格が見て取れる。  さあ、公演が始まる。コモンテラスの中心に灰色の巨大な柱が伸びている。一三階の共用廊下の上に一四階の共用廊下が浮かんでいる。ガラス製のパネルには「CODAN  Shinonome」の文字が刻まれている。この空間の両側に、六つの部屋が立体的に配置されている。半分は一三階に属し、残りの半分は一四階に属しているのだった。したがって、壁にあしらわれたボーダー柄は緑から青へと遷移する。その色は、掃き出し窓の向こうに設えられた目隠しと防犯を兼ねた引き戸にも連続している。そう、六つの部屋はこのコモンテラスに向かって大きく開くことができた。少なくとも設計上は。引き戸を全開にすれば、六つの部屋の中身がすべて露わになる。それらの部屋の住人たちは観客なのではない。この劇場で物語を紡ぎ出す主役たちなのだった。両サイドに見える美しい風景もここではただの背景にすぎない。近田玲子によって計画された照明がこの空間そのものを照らすように上向きに取り付けられている。ただし、今はまだ点灯していない。わたしはたったひとりで幕が上がるのを待っている。だが、動きはない。戸は厳重に閉じられるか、採光のために数センチだけ開いているかだ。ひとつだけ開かれている戸があるが、レースカーテンで視界が完全に遮られ、窓際にはいくつかの段ボールと紙袋が無造作に積まれていた。風がこのコモンテラスを素通りしていく。
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 ほら、  幕は上がらないだろう、  お前はわかっていたはずだ、ここでは人と出会うことがないと。横浜のことを思い出してみろ。お前はかつて横浜の湾岸に住んでいた。住宅と事務所と店舗が街の中に混在し、近所の雑居ビルやカフェスペースで毎日のように文化的なイベントが催されていて、お前はよくそういうところにふらっと行っていた。で、いくつかの重要な出会いを経験した。つけ加えるなら、そのあたりは山本理顕設計工場の所在地でもあった。だから、東雲に移るとき、お前はそういうものが垂直に立ち上がる様を思い描いていただろう。だが、どうだ?  あのアトリエと自宅は東京の空中にぽつんと浮かんでいるのではないか?  それも悪くない、とお前は言うかもしれない。物書きには都市の孤独な拠点が必要だったのだ、と。多くの人に会って濃密な取材をこなしたあと、ふと自分自身に戻ることができるアトリエを欲していたのだ、と。所詮自分は穴蔵の住人だし、たまに訪ねてくる仕事仲間や友人もいなくはない、と。実際、お前はここではマイノリティだった。ここの住民の大半は幼い子どもを連れた核家族だったし、大人たちのほとんどはこの住棟の外に職場があった。もちろん、二階のウッドデッキ沿いを中心にいくつかの仕事場は存在した。不動産屋、建築家や写真家のアトリエ、ネットショップのオフィス、アメリカのコンサルティング会社の連絡事務所、いくつかの謎の会社、秘かに行われている英会話教室や料理教室、かつては違法民泊らしきものもあった。だが、それもかすかな蠢きにすぎなかった。ほとんどの住民の仕事はどこか別の場所で行われていて、この一街区には活動が積み重ねられず、したがって文化は育たなかったのだ。周囲の住人は頻繁に入れ替わって、コミュニケーションも生まれなかった。お前のアトリエと自宅のまわりにある五軒のうち四軒の住人が、この四年間で入れ替わったのだった。隣人が去ったことにしばらく気づかないことすらあった。何週間か経って新しい住人が入り、透明な玄関ドアが黒い布で塞がれ、テラスに向いた戸が閉じられていくのを、お前は満足して見ていたか?  胸を抉られるような気持ちだったはずだ。  そうした状況にもかかわらず、お前はこの一街区を愛した。家というものにこれほどの帰属意識を持ったことはこれまでになかったはずだ。遠くの街から戻り、暗闇に浮かぶ格子状の光を見たとき、心底ほっとしたし、帰ってきたんだな、と感じただろう。なぜお前はこの一街区を愛したのか?  もちろん、第一には妻との生活が充実したものだったことが挙げられる。そもそも、ここに住むことを提案したのは妻のほうだった。四年前の春だ。「家で仕事をするんだったらここがいいんじゃない?」とお前の妻はあの奇妙な間取りが載った図面を示した。だから、お前が恵まれた環境にいたことは指摘されなければならない。だが、第二に挙げるべきはお前の本性だ。つまり、お前は現実のみに生きているのではない。お前の頭の中には常に想像の世界がある。そのレイヤーを現実に重ねることでようやく生きている。だから、お前はあのアトリエから見える現実に落胆しながら、この都市のような構造体の可能性を想像し続けた。簡単に言えば、この一街区はお前の想像力を搔き立てたのだ。  では、お前は想像の世界に満足したか?  そうではなかった。想像すればするほどに現実との溝は大きく深くなっていった。しばらく想像の世界にいたお前は、どこまでが現実だったのか見失いつつあるだろう。それはとても危険なことだ。だから確認しよう。お前が住む東雲キャナルコートCODAN一街区には四二〇戸の住宅があるが、それはかつて日本住宅公団であり、住宅・都市整備公団であり、都市基盤整備公団であって、今の独立行政法人都市再生機構、つまりURが供給してきた一五〇万戸以上の住宅の中でも特異なものだった。お前が言うようにそれは都市を構築することが目指された。ところが、そこには公団の亡霊としか言い表しようのない矛盾が内包されていた。たとえば、当時の都市基盤整備公団は四二〇戸のうちの三七八戸を一般の住宅にしようとした。だが、設計者の山本理顕は表面上はそれに応じながら、実際には大半の住戸にアトリエや事務所やギャラリーを実装できる仕掛けを忍ばせたのだ。玄関や壁は透明で、仕事場にできる開放的なスペースが用意された。間取りはありとあらゆる活動を受け入れるべく多種多様で、メゾネットやアネックスつきの部屋も存在した。で、実際にそれは東雲の地に建った。それは現実のものとなったのだった。だが、実はここで世界が分岐した。公団およびのちのURは、例の三七八戸を結局、一般の住宅として貸し出した。したがって大半の住戸では、アトリエはまだしも、事務所やギャラリーは現実的に不可だった。ほかに「在宅ワーク型住宅」と呼ばれる部屋が三二戸あるが、不特定多数が出入りしたり、従業員を雇って行ったりする業務は不可とされたし、そもそも、家で仕事をしない人が普通に借りることもできた。残るは「SOHO住宅」だ。これは確かに事務所やギャラリーとして使うことができる部屋だが、ウッドデッキ沿いの一〇戸にすぎなかった。  結果、この一街区は集合住宅へと回帰した。これがお前の立っている現実だ。都市として運営されていないのだから、都市にならないのは当然の帰結だ。もちろん、ゲリラ的に別の使い方をすることは可能だろう。ここにはそういう人間たちも確かにいる。お前も含めて。だが、お前はもうすぐここから去るのだろう?  こうしてまたひとり、都市を望む者が消えていく。二つの世界はさらに乖離する。まあ、ここではよくあることだ。ブリューゲルの「バベルの塔」、あの絵の中にお前の姿を認めることはできなくなる。  とはいえ、心配は無用だ。誰もそのことに気づかないから。おれだけがそれを知っている。おれは別の場所からそれを見ている。ここでは、永遠の未来都市は循環を脱して都市へと移行した。いずれにせよ、お前が立つ現実とは別世界の話だがな。
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 実際、人には出会わなかった。一四階から二階へ、階段を使ってすべてのフロアを歩いたが、誰とも顔を合わせることはなかった。その間、ずっとあの声が頭の中に響いていた。うるさいな、せっかくひとりで静かに散歩しているのに、と文句を言おうかとも考えたが、やめた。あの声の正体はわからない。どのようにして聞こえているのかもはっきりしない。ただ、ふと何かを諦めようとしたとき、周波数が突然合うような感じで、周囲の雑音が消え、かわりにあの声が聞こえてくる。こちらが応答すれば会話ができるが、黙っていると勝手に喋って、勝手に切り上げてしまう。あまり考えたくなかったことを矢継ぎ早に投げかけてくるので、面倒なときもあるが、重要なヒントをくれもするのだ。  あの声が聞こえていることを除くと、いつもの散歩道だった。まず一三階のコモンテラスの脇にある階段で一四階に上り、一一号棟の共用廊下を東から西へ一直線に歩き、右折して一〇メートルほどの渡り廊下を辿り、一二号棟に到達する。南から北へ一二号棟を踏破すると、エレベーターホールの脇にある階段で一三階に下り、あらためて一三階の共用廊下を歩く。以下同様に、二階まで辿っていく。その間、各階の壁にあしらわれたボーダー柄は青、緑、黄緑、黄、橙、赤、紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤と遷移する。二階に到達したら、人工地盤上のウッドデッキをめぐりながら島のように浮かぶ一三号棟へと移動する。その際、人工地盤に空いた長方形の穴から、地上レベルの駐車場や学童クラブ、子ども写真館の様子が目に入る。一三号棟は一〇階建てで共用廊下も短いので踏破するのにそれほど時間はかからない。二階には集会所があり、住宅は三階から始まる。橙、黄、黄緑、緑、青、紫、赤、橙。  この旅では風景がさまざまに変化する。フロアごとにあしらわれた色については既に述べた。ほかにも、二〇〇もの透明な玄関ドアが住人の個性を露わにする。たとえば、入ってすぐのところに大きなテーブルが置かれた部屋。子どもがつくったと思しき切り絵と人気ユーチューバーのステッカーが浮かぶ部屋。玄関に置かれた飾り棚に仏像や陶器が並べられた部屋。家の一部が透けて見える。とはいえ、透明な玄関ドアの四割近くは完全に閉じられている。ただし、そのやり方にも個性は現れる。たとえば、白い紙で雑に塞がれた玄関ドア。一面が英字新聞で覆われた玄関ドア。鏡面シートが一分の隙もなく貼りつけられた玄関ドア。そうした玄関ドアが共用廊下の両側に現れては消えていく。ときどき、外に向かって開かれた空洞に出会う。この一街区には東西南北に合わせて三六の空洞がある。そのうち、隣接する住戸が占有する空洞はプライベートテラスと呼ばれる。わたしのアトリエに面したテラスがそれだ。部屋からテラスに向かって戸を開くことができるが、ほとんどの戸は閉じられたうえ、テラスは物置になっている。たとえば、山のような箱。不要になった椅子やテーブル。何かを覆う青いビニールシート。その先に広がるこの団地の風景はどこか殺伐としている。一方、共用廊下の両側に広がる空洞、つまりコモンテラスには物が置かれることはないが、テラスに面したほとんどの戸はやはり、閉じられている。ただし、閉じられたボーダー柄の戸とガラスとの間に、その部屋の個性を示すものが置かれることがある。たとえば、黄緑色のボーダー柄を背景としたいくつかの油絵。黄色のボーダー柄の海を漂う古代の船の模型。橙色のボーダー柄と調和する黄色いサーフボードと高波を警告する看板のレプリカ。何かが始まりそうな予感はある。今にも幕が上がりそうな。だが、コモンテラスはいつも無言だった。ある柱の側面にこう書かれている。「コモンテラスで騒ぐこと禁止」と。なるほど、無言でいなければならないわけか。都市として運営されていない、とあの声は言った。  長いあいだ、わたしはこの一街区をさまよっていた。街区の外には出なかった。そろそろアトリエに戻らないとな、と思いながら歩き続けた。その距離と時間は日課の域をとうに超えていて、あの循環を逸脱しつつあった。アトリエに戻ったら、わたしはこのことについて書くだろう。今や、すべての風景は書き留められる。見過ごされてきたものの言語化が行われる。そうしたものが、気の遠くなるほど長いあいだ、連綿と積み重ねられなければ、文化は発生しない。ほら、見えるだろう?  一一号棟と一二号棟とを繋ぐ渡り廊下の上から、東京都心の風景が確認できる。東雲運河の向こうに豊洲市場とレインボーブリッジがあり、遥か遠くに真っ赤に染まった富士山があって、そのあいだの土地に超高層ビルがびっしりと生えている。都市は、瀕死だった。炎は上がっていないが、息も絶え絶えだった。密集すればするほど人々は分断されるのだ。
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 まあいい。そろそろ帰ろう。陽光は地平線の彼方へと姿を消し、かわりに闇が、濃紺から黒へと変化を遂げながらこの街に降りた。もうじき妻が都心の職場から戻るだろう。今日は有楽町のもつ鍋屋で持ち帰りのセットを買ってきてくれるはずだ。有楽町線の有楽町駅から辰巳駅まで地下鉄で移動し、辰巳桜橋を渡ってここまでたどり着く。それまでに締めに投入する飯を炊いておきたい。  わたしは一二号棟一二階のコモンテラスにいる。ここから右斜め先に一一号棟の北側の面が見える。コンクリートで縁取られた四角形が規則正しく並び、ところどころに色とりどりの空洞が光を放っている。緑と青に光る空洞がわたしのアトリエの左隣にあり、黄と黄緑に光る空洞がわたしの自宅のリビング・ダイニングおよびベッドルームの真下にある。家々の窓がひとつ、ひとつと、琥珀色に輝き始めた。そのときだ。わたしのアトリエの明かりが点灯した。妻ではなかった。まだ妻が戻る時間ではないし、そもそも妻は自宅用の玄関ドアから戻る。闇の中に、机とそこに座る人の姿が浮かんでいる。鉄格子とガラス越しだからはっきりしないが、たぶん……男だ。男は机に向かって何かを書いているらしい。テラスから身を乗り出してそれを見る。それは、わたしだった。いつものアトリエで文章を書くわたしだ。だが、何かが違っている。男の手元にはMacがなかった。机の上にあるのは原稿用紙だった。男はそこに万年筆で文字を書き入れ、原稿の束が次々と積み上げられていく。それでわたしは悟った。
 あんたは、もうひとつの世界にいるんだな。  どうかな、  で、さまざまに見逃されてきたものを書き連ねてきたんだろう?  そうだな。
 もうひとりのわたしは立ち上がって、掃き出し窓の近くに寄り、コモンテラスの縁にいるこのわたしに向かって右手を振ってみせた。こっちへ来いよ、と言っているのか、もう行けよ、と言っているのか、どちらとも取れるような、妙に間の抜けた仕草で。
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umenomi · 4 years
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2020/8/22(土)-2
7月に読んだ本 ・『夢網』/大下さなえ/思潮社 ・『乙女の本棚シリーズ 夜長姫と耳男』/坂口安吾/絵・夜汽車/立東舎 ・(再読)『日本探偵小説全集4 夢野久作集』/夢野久作/創元推理文庫 ・『SABRINA』/ニック・ドルナソ/訳・藤原光/早川書房 ・『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』/編・講談社文芸文庫 ・『十二番目の天使』/オグ・マンディーノ/訳・坂本頁一/求龍堂 ・『花屋の娘』/西岡兄妹/青林工藝社 ・『荒神絵巻』/原作・宮部みゆき/絵と文・こうの史代/朝日新聞出版 ・『THE LIBRARY OF BABEL』/ホルヘ・ルイス・ボルヘス/エッチング・エリック・デマジエール/David R Godine Pub ・(再読)『幻獣辞典』/ホルヘ・ルイス・ボルヘス/訳・柳瀬尚紀/河出書房新社 ・『百合文芸小説コンテストセレクション2』/編・コミック百合姫×pixiv/pixiv小説編集部 ・『BEETLESS』(上巻・下巻)/長谷敏司/角川文庫 ・『文藝 特集・覚醒するシスターフッド』/河出書房新社 ・(再読)ボリス・ヴィアン全集『うたかたの日々』/ボリス・ヴィアン/訳・伊東守男/早川書房 ・『犀星王朝小品集』/室生犀星/岩波書店 ・(再読)『人魚の石』/田辺青蛙/徳間書店 ・『夜汽車作品集 おとぎ古書店の幻想装画』/絵・文 夜汽車/パイインターナショナル ・『乙女の本棚シリーズ 外科室』/泉鏡花/絵・ホノジロトヲジ/立東舎 ・『ねむり姫』/澁澤龍彦/オブジェ・野村直子/写真・林宏樹/アートン ・『もうすぐ絶滅するという煙草について』/編・キノブックス編集部/キノブックス ・(再読)『生誕の災厄』/E・M・シオラン/訳・出口裕弘/紀伊國屋書店 ・『寺山修司の仮面画報』/寺山修司/平凡社 ・『更級日記 現代語訳付』/菅原孝標娘/訳・原岡文子/角川ソフィア文庫 ・『源氏物語』(上・中・下)/紫式部/訳・吉屋信子/国書刊行会
大下さなえの『夢網』はずっと読みたくて読みたくてでも見つからないもやもやを行きつけの古書店が一気にすっとばしてくれた。運命を感じる……。少し不穏な文章に惹かれる一冊だった。私の大好きな『雲のむこう、約束の場所』でヒロインが読んでいるのがこの詩集。
『THE LIBRARY OF BABEL』は『八本脚の蝶』を遺された二階堂奥歯さんがその日記内で紹介されていて気になったので購入。想像上の図書館である「バベルの図書館」をエッチングにして絵として具現化している。いいなあ。私もバベルの図書館に行きたい。二階堂さんは今そこにいるのかな。向こうでも沢山の本を読まれているのだろうか。 『うたかたの日々』をまた読み返してるのは完全に米津玄師の影響ですね。わかりやすい……。「感電」良い曲だよー。「カムパネルラ」を聞いてしまったので8月は宮沢賢治と中原中也に溺れています。
源氏物語はあとウェイリー版を読みたい。吉屋信子版は読みやすかったなあ。 祖母が孫に語り聞かせる構造の二重小説の体裁をとっている。谷崎潤一郎訳は絢爛豪華って感じだけど、色々読んだ中でなんだかんだ角田光代訳が自分にはしっくりきているのだった。
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tak4hir0 · 4 years
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まず前提を述べておくと、私は実写版『カイジ』シリーズが大好きである。   原作の持ち味をそのまま活かすなら、立木文彦による濃厚なナレーションが印象的なアニメ版が絶対的な正解だろう。しかし、流石に実写でそれをやるとくどいという判断か、「濃厚さ」を「クセの強い演技」でまかなったのが実写映画版である。藤原竜也の舞台仕込みの仰々しい演技が、原作が元から持っていたこれまた仰々しい台詞回しと奇跡的にハマり、ヒットを記録。藤原竜也の代表作として、今でもモノマネシーンでは不動の地位を誇る、そんな当り役になった。   確かに、色々と思うところはある。ナレーション要素を削ったことで邦画特有の「全てを台詞で説明する」性格は加速したし、限定じゃんけんでは見所であるはずの買い占めをオールカット。鉄骨綱渡りでは人生の真髄を悟るシーンをこれまたカットした。鉄骨から落ちていくCG合成のシーンはやっぱりちょっとオマヌケだし、ラスボス格の兵藤会長はホームに入所した一般男性っぽい。2作目においても、��体的な語り口が鈍重でスマートさに欠ける。   しかし、香川照之が演じた利根川は原作にない「姑息に立ち回って出世してきた悪党」という魅力があったし(Eカードでその「立ち回り」の気付きを突かれる展開とも相性が良い)、何より、藤原竜也の知的かつ豪快な声質はカイジの思考パターンにぴったりであった。そして、2作目の伊勢谷友介による一条も最高に見応えがあった。「これはちょっと、うーん?」な思いもあるにはあるが、それを十二分に上回るくらい、私はこの実写シリーズが大好きなのだ。特に1作目など、もう何十回観たことだろう。   カイジ 人生逆転ゲーム [Blu-ray] 出版社/メーカー: バップ 発売日: 2010/04/09 メディア: Blu-ray   カイジ2 人生奪回ゲーム [Blu-ray] 出版社/メーカー: バップ 発売日: 2012/04/25 メディア: Blu-ray     そんな『カイジ』が、9年ぶりに帰ってくる。『カイジ ファイナルゲーム』。しかも、17歩でも和也編でもなく、原作者・福本伸行によるオリジナルストーリーと言うではないか。   映画「カイジ ファイナルゲーム」オリジナル・サウンドトラック アーティスト:菅野祐悟 出版社/メーカー: バップ 発売日: 2020/01/08 メディア: CD     スポンサーリンク       実は観る前から薄々嫌な予感はしていたのだが(詳しくは後述)、エンドロールが終わった後、私の心にあったのは「虚無」であった。   驚愕・・・!圧倒的虚無っ・・・!!中身が無いとはまさにこのこと・・・・・・っっ!!!!あろうことか・・・!!まるで『カイジ』によるカイジパロっ・・・!!!『カイジ』という作品の魅力、それが懇切丁寧に全て取り除かれている・・・!!繰り広げられるのはっ・・・・「カイジらしいなにか」・・・!!!ば、馬鹿な!!!くそっ!くそっ・・・!お前ら・・・!!   いや、胸を張れっ・・・!手痛く負けた時こそ・・・ 胸をっ・・・!!   まずもってオリジナルストーリーなのだから、お話の枠組みはいっそ「それなり」で構わない。「2020年の東京オリンピック後に日本は貧困大国へ突入していった」という導入にも色々と思うところがあるが、そこはもういい。極貧生活のはずなのに一般市民の服が妙に小奇麗なのも、この際構わない。相変わらずモブ集団のIQと倫理観が崩壊しているけども、まあそれも良しとしよう。関水渚が演じるヒロインが最初から最後まで見事に「居るためだけに居る」感じになってしまっているのも、まあ、まあ、まあ〜〜〜〜、良しとしよう。   もちろん、そういう部分が「出来ている」に越したことはない。とはいえ、「出来ていない」ならそれはそれで構わないのだ。そもそもの原作からして荒唐無稽な世界観なので(そこに筆圧で説得力を持たせるのだからすごい)、今更この手のツッコミは入れない。分かって観に行っている。承知の上だ。   『カイジ』の、それも実写映画シリーズならではの魅力はなにか。それは、「①知略と心理戦が行き来する手に汗握るギャンブル」「②それを取り巻く演者の仰々しい演技」、このふたつである。まず①があって、それをコーティングするように②がある。それでこその写映画シリーズだ。   原作にもあった、イカサマと騙し合いが交錯するEカードに、常識を超えた仕掛けと掛け合いで魅せるモンスターパチンコ・沼など、そこにはまず絶対的に①がある。これはもちろん、原作漫画のヒットがそのクオリティを保証している。そこに、映画ならではの②が加わる。ナレーションや福本漫画特有の演出が無い代わりに、藤原竜也が、香川照之が、伊勢谷友介が、とにかく顔面と演技で圧(お)す。脂汗を滲ませながら、全身の筋肉を震わせながら。とにかく「濃く」「仰々しく」立ち振る舞う。もはや失笑ギリギリの演技が『カイジ』だからこそ成立する。そんな唯一無二のバランス。   じゃあ今回の『ファイナルゲーム』がどうだったかというと、肝心要の①、これがもう残念極まりないのである。これが原作者考案とは・・・。福本漫画のファンとして、思わず目を覆いたくなる。   もっと突っ込んで分解していくと、『カイジ』における①、つまり「知略と心理戦が行き来する手に汗握るギャンブル」には、大きくふたつのパターンがある。ひとつは、「A.極限の状況下での気付きや閃きによる逆転」。あるいは、「B.常軌を逸した発想による大仕掛け」。分類すると、AがEカードや17歩、Bが限定ジャンケンの買い占め行為や地下チンチロだ。また、沼はBからAに移行していくハイブリッド型、とも表現できる。『カイジ』のギャンブルは、このどちらか、あるいはそれが合わさっているからこ���面白いのだ。Aはギャンブル漫画の王道アプローチとして、Bは犯罪計画の面白さや「コンゲーム」「コンフィデンスマン」といった要素にも近い。   では果たして、『ファイナルゲーム』にはAまたはB、あるいは両方があったのか。否っ・・・!!!圧倒的否っ・・・!!!!そこにあるのはAっぽいなにか・・・!!Bっぽいなにか・・・!!!ハイブリッドっぽいなにかっ・・・!!!!(以下、ネタバレ込みで感想を記す)   スポンサーリンク       まず冒頭の「バベルの塔」は、まあこれは、導入部分のさらっとしたギャンブルなのでまだ良いでしょう。世界観説明のためのギミックだ。問題は、中盤に大きく尺を割く「最後の審判」。個人対個人の対決で、支援者の提供を含めた互いの総資産で競い合うゲーム。アプローチとしては完全にB(大仕掛け)タイプのギャンブルで、カイジが事前に仕込んだ策略がここぞという場面で炸裂する、そんな展開を期待してしまう。しかもご丁寧に、会場の見取り図まで手に入れて、何やら画策しているのではないか。「あの沼にような大胆かつ奇抜な発想で敵を追い込むのか!?」。   ・・・そうワクワクするも、全くそんなことはない。いや、ひとつだけ、「時計職人の知り合いを抱き込んで会場の時計に仕掛けを施し、ゲーム終了時刻を誤認させる」という戦略はあったが、それは単にプレイ時間を確保するための保険的工作に過ぎない。肝心要の、「どうやって敵に勝つか」という部分への答えには全く足りていないのだ。   じゃあその「どうやって敵に勝つか」の部分がどう展開されたかというと、「ギャンブルの途中で抜け出して他のギャンブルで勝って追加資金を稼いでくる」というもの。へただなぁ、カイジくん・・・へたっぴ・・・。しかもその「他のギャンブル」も当てがある訳ではなく、その場になって初めて焦って周囲の賭場を走り回る始末。正気か・・・!? 例えるなら、「モンスターパチンコ・沼への必勝法、それは追加資金を他のギャンブルで稼ぐことだ!」と叫びながら周囲のルーレット台に駆け寄るようなものである。カイジ、お前・・・そんな・・・マジなのかお前・・・!!マジなのかよっ・・・!   そうやって向かった先にある「ドリームジャンプ」。10本のロープのうち1本だけが正解の身投げギャンブルで、9割の確率で転落死するというもの。それ自体は良い。一見運の要素だけで構築されていそうな戦いに「理」を見い出す、それこそがカイジだ。   しかしあろうことか、「電気系統を壊して前回のゲームから正解番号を変更できないようにする」って、お前・・・!マジなのかよカイジ!!おいカイジっ・・・!!まず電気系統の守り!!帝愛お膝元のギャンブル帝国なのにガードがひとり居ない!!そもそも「操作できなければ前回と同じ正解番号」である情報はどこから入手できたのか。普通は毎回ランダムで選出されるシステムじゃないのか。   しかも極めつけは「その飛び降りゲームに賭けて遊んでいる富裕層のハズレ馬券をゴミ箱から漁って正解番号を推察する」って・・・!おい・・・!カイジっ・・・!!!か〜〜〜〜〜〜っ!!笑わせるなっ・・・!!そして正解は9番なのに仲間が「きゅう」 と叫んだ瞬間にサイレンが鳴って番号が分からない!「きゅうなのか? じゅうなのか? 『うー』と叫んだあの口の形はどっちだ? どっちなんだ?」ってそんなしょうもない二者択一を大真面目に繰り返すカイジ・・・!カイジ・・・!!!お前!!!!そ、そして・・・驚愕の・・・・番号を告げた仲間が普段からやっていた映画監督のような仕草・・・「キュー!」・・・それを手でやっていたら伝わった・・・・「俺は直前で番号を変えることが出来たんだ」・・・違うんだよカイジ・・・そんな・・・そんなシンプルな運(とも呼べないようなもの)で助かったのをさも策略かのようにドヤ顔で語るお前を見たくて映画館に来たんじゃないんだよカイジ・・・!!お前ってやつはっ・・・・・・!!!   そして、その「ドリームジャンプ」で得た資金をもとに「最後の審判」に勝利する。いやいや、「ひとつのギャンブルで勝つために途中で抜けて他のギャンブルで勝って元のギャンブルにもその賞金で勝つ」って、もうなんか色々と破綻しているのではないか・・・。観ている方もストレスですよ、普通に。   更にはダメ押しで登場する最後のギャンブル「ゴールドジャンケン」。金の卵を握ってグーで勝った者はその黄金を手にすることが出来る。そもそものルールが「勝つこと」なのか「黄金を得ること」なのかよく分からないゲームだと思って観ていたら、案の定、「お前はグーなら黄金を握ると思い込んでいるっ!」などと言って空のグーを出すカイジ。   ・・・んんんん??? しかも対戦相手の福士蒼汰は、相手プレイヤーの黄金を握った時の肩の下がり具合や挙動からグー・チョキ・パーを推察する、このゲームのプロだと言うではないか。いや、それEカードの時の利根川だから!!利根川で一度知ってるからそれ!!しかも利根川はそれを言っておきながら敵の体温や動悸を計ってイカサマしていた二重の仕掛けなのに、福士蒼汰はそれが普通にお前の特技なのかよ!!しょぼすぎだろ!!!イカサマでもなんでもなくて普通にめっちゃゲームが上手いヤツじゃねぇか!!おい!!!もうこうなったらいっそ宇宙キテくれよ!!!   などとまあ、このように、ギャンブルのクオリティがつくづく残念なのである。A(瞬間の閃き)っぽいなにか。B(大仕掛け)っぽいなにか。そのハイブリッドっぽいなにか。「それらしい」やり取りだけが延々と交わされる。ただそれだけ。よって、①の「知略と心理戦が行き来する手に汗握るギャンブル」が完全に破綻してしまっている。そこに手に汗握る魅力はない。手はカラッカラ、乾いている。乾燥肌だ。   そうなると、②の「それを取り巻く演者の仰々しい演技」が、ただひたすらに「浮いて」くるのである。まるで中身の詰まっていないエビフライ。着こなせていない派手な洋服。ギャンブルの精度が低い「中身」を「仰々しくクセの強い演技」でコーティングすると、そこに生まれるのは必然、「虚無」である。   藤原竜也の圧力も、吉田鋼太郎の染み渡る味も、福士蒼汰の熱量も、その全てが見事にから回っていく。「カイジらしくないギャンブル」を「カイジらしい演技」で包むのだから、そりゃあ、「虚無」である。なんで・・・なんでこんな・・・。   もちろん、菅野祐悟によるお馴染みのテーマソングが流れれば、それなりにアガることはアガるのだ。ただそれは、ソースの匂いを嗅いで条件反射のように興奮しているだけで、重要なのはそのソースが何に「かかって」いるか、という点だ。知略も計画もない行き当たりばったりと運だらけのギャンブル。そしてそれをドヤ顔で解説していく仰々しい演技。無念である。    スポンサーリンク       そして何より、これが原作者・福本伸行によるオリジナルゲームという事実が哀しい。実に哀しい。   もはや遠慮せずに書いてしまうが、やはり近年の福本漫画のクオリティには疑問を感じるところである。肝心の『カイジ』も、17歩に13冊を要した時点でやや如何なものかと思っていたが、その後の和也編やワンポーカー編、現在連載中の24億脱走編には、あの頃に覚えた緊迫感や作品への信頼感がどうしても足りない。 『アカギ』も、鷲巣麻雀が長いことそれ自体は構わないのだけど、地獄に行ったり配牌だけでかなりの尺を使ったりと、流石に顔をしかめてしまう展開が多かった。新連載『闇麻のマミヤ』も、主人公が本格的に出てくるまでがとにかく鈍重。ストーリーテリングとして本当にそれで良いのか、疑問が残る。   賭博堕天録カイジ 24億脱出編(5) (ヤンマガKCスペシャル) 作者:福本 伸行 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 2019/11/06 メディア: コミック   闇麻のマミヤ 1 (近代麻雀コミックス) 作者:福本伸行 出版社/メーカー: 竹書房 発売日: 2019/12/06 メディア: コミック     今回の『カイジ ファイナルゲーム』は、確かに「福本漫画らしい」展開であった。悪い意味で、「(近年の)福本漫画らしい」。『トネガワ』や『ハンチョウ』といったスピンオフが面白いのは、原作それ自体がヒリヒリとした緊張感に満ちており、それとの落差がえげつないためである。原作が失速し、あろうことか本家本元がギャグ漫画であるスピンオフに迎合かのするような作りは、あってはならないのである。   中間管理録トネガワ(9) (ヤンマガKCスペシャル) 作者:福本 伸行,三好 智樹,橋本 智広 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 2019/11/13 メディア: コミック   1日外出録ハンチョウ(6) (ヤングマガジンコミックス) 作者:萩原天晴,福本伸行 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 2019/07/05 メディア: Kindle版     だからこそ今回の『ファイナルゲーム』には、事前の宣伝からして不安があった。予告編では、福本漫画ならではの「圧のある台詞」がわざわざ文字として踊る。そういう、いわゆる「カイジ的」な部分を推す。宣伝が全般的に、そういった方向性でまとめられていた。   www.youtube.com   「甘えるな!!世間はお前らのお母さんではない!!だけど今回はファイナルゲームを楽しむために特別に教えてあげるスペシャル映像 3分で理解るカイジ」 圧倒的公開!!!!!https://t.co/tGi23smm6t#カイジ #カイジファイナルゲーム#藤原竜也 — 映画『カイジ ファイナルゲーム』 (@kaiji_movie) 2019年12月13日   原作のそういった持ち味が魅力であることは重々承知しているが、それは受け手サイドが「すごい!なんて台詞だ!」とニヤつきながら震撼するから面白いのである。公式がそのノリに迎合して、「ほらほら圧のある台詞ですよ」と、そんなことをやっては興醒めも甚だしい。こちとら真剣に『カイジ』を楽しんでいるのだ。頼むから茶化さないでくれ。キンキンに冷えているのは俺の『カイジ』への熱量だよ。   長年をかけて積み上がってきた偉大なる作品世界、その他者を寄せ付けない孤高の作風を、あろうことか作者を抱き込んだ公式サイド自らが崩していく。「カイジっぽいギャンブル」を、「カイジっぽい演技」で、「カイジっぽい宣伝」を。ただその外面だけを利用したコンテンツ形成に、あろうことか創造主たる福本伸行が全面協力している。この残念さ。無念さ。近年の氏の作品に見られたズルズルの傾向、まるで作者自身がセルフパロをしているような薄い違和感が、『ファイナルゲーム』でもご丁寧に再現されてしまっている。   この作品は、福本伸行という私が敬愛する漫画家の、一種の断末魔なのかもしれない。あまりにその悲鳴は鈍く、心に響かないのだけど。   賭博黙示録カイジ(1) (ヤングマガジンコミックス) 作者:福本 伸行 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 1996/09/03 メディア: コミック   人生を逆転する名言集 作者:福本 伸行 出版社/メーカー: 竹書房 発売日: 2009/10/05 メディア: 単行本    
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honyade · 5 years
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松本道弘、デイビッド・セイン、加賀美晃、西巻尚樹が語る近未来英語セミナー! 日本人が科学すると英語は単純に! 『英語大図解 : SVOP新単則典』(QOL倶楽部)刊行記念
日本人が日本人のために作った英語教育法SVOPが始動します。 危機的な英語教育の混迷に終止符をうつ、次世代英語OSの誕生。英語の歴史に大きな1ページが加わります。 ネイティヴ・スピーカーにとって「英語」は当たり前です。けれども、いったん日本語を身に付けた日本人は浴びるように見聞きすれば…身につく…ワケはありません!! 日本の大人に必要な英語構造の理解。それが SVOP です。今の英文法では、ネイティブ英語は理解不能です。 ★ 基調講演:ネイティブ英語を単純化するSVOP  VSOP英語研究所 西巻 尚樹 ★パネル鼎談:英語界の三銃士が、来たるべき学習システムを吠えます。 ・戦う英語道、英語界の泰斗:松本道弘(六角ディベート絋道館館長) ・日本人の英語、変!ネイティブ英語伝道師    デイビッド・セイン ・英語検定試験を極めた五冠王  英語求道士:加賀美晃
日時 2019年4月26日 (金) 19:00~20:30(開場時間18:30)
会場 本店 8F ギャラリー
参加定員:80名(申し込み先着順) ※定員になり次第、締め切らせていただきます。
申込方法 1階カウンターに参加対象書籍をご用意します。参加ご希望の旨をお申し付けください。ご購入いただきましたら参加券をお渡しします。 またはお電話でも、ご参加のお申込みを承ります。(受付電話番号:03-3281-8201) 電話予約の方も、参加対象書籍をご購入いただき、参加券をお受け取りいただいてから、ご入場となります。 当日開演時間までにお求めください。開演1時間前からは、8階で受付をいたします。 ▼参加対象書籍 :『英語大図解 :  SVOP新単則典』(本体価格1,500円、4/20発売) ※書籍の発売前でもご予約できます。 ★八重洲ブックカードゴールド会員の方は、ご予約のみでご入場いただけます。ご入場の際にゴールドカードをご提示ください。
主催:八重洲ブックセンター 協賛:QOL倶楽部、新英語教育協議会CRSTA
西巻尚樹 (にしまき なおき) VSOP英語研究所 所長。放送大学非常勤講師。慶應義塾大学文学部哲学科卒。新潟生まれ。 半世紀の英文法研究の末、英語が単純な語順SVOPで作られていることを発見。日本人が日本人のために作った日本人の英文法:VSOP英文法を提唱。受講者から「中学の時にSVOPを知っていれば!青春を返せ!」と大きな反響とサポートを受けている。 「世界で一つだけの英語教科書」(日本実業出版社)、「世界に1つだけの英語『to』だけでここまでわかるのか!」(ダイヤモンド社)「英語順」(あさ出版)など多数。
松本道弘 (まつもと みちひろ) 1940年大阪生まれ。関西学院大学卒業。日商岩井に勤務する間に、海外渡航の経験なしに独力で英語を磨く。その後、西山千氏(アポロ月面着陸時に、日本で初めて英日同時通訳)に師事し、その推挙でアメリカ大使館の同時通訳者となり、後にNHKテレビ上級英語講座の講師を勤める。独自の六角ディベートを考案、現在、紘道館館長、国際ディベート学会会長。インターネットテレビNONES CHANNELでGlobal Insideキャスター。 ・難読・和英口語辞典(さくら舎)・難訳・和英「語感」辞典(さくら舎)・超訳 武士道―グローバル時代の教養を英語と日本語で学ぶ(プレジデント社)、<ベストセラー>GiveとGet(朝日出版社)など日本及び英語文化に関して140冊を越える著作がある。
デイビッド・セイン カリフォルニア州アズサパシフィック大学社会学修士号。証券会社勤務の後、来日。翻訳家・通訳・英会話教師(日米会話学院、バベル翻訳外語学院)として活動。多数の英会話関連の書籍を著している。1999年には、英語を中心テーマとした出版物等の企画・編集・制作を業とする有限会社エートゥーゼットを設立し、同社の運営するエートゥーゼット英語学校(東京:根津、春日)の校長として英語教育に携わる。(Wikipediaより)著書に『ビジュアル版英会話1日1パターンレッスン 驚くほど話せるようになる!』PHP研究所、『ワンコイン英会話 雑談編/日常生活編/』秀和システム 、『ネイティブが教える英語の時制の使い分け』古正佳緒里共著 研究社など多数。
加賀美 晃 (かがみ あきら) MIT経営大学院修士、東京大学工学部卒業。 35歳で本格的英語学習に目覚め、50歳過ぎて「難関英語資格五冠(実用英検1級、TOEIC990点、通訳案内士、工業英検1級、国連英検特A級)」を達成したフツーの会社員。会社では、グローバル事業の発掘・推進を担当。これまでに4回、計10年超の米国赴任(ボストンに社費留学、シリコンバレーに駐在2回、ニューヨークに駐在1回)を経験し、米国/世界における日本のプレゼンスが年々落ちてきていること(Japan passing)に強い危機感を覚える。「日本人の実用英語力不足がその主因の一つである」との信念の下、下記に示す著書やネットによる個人ノウハウ(例:英語4技能学習法、米国留学/駐在体験談、興味深い英語表現や語法知識など)の精力的発信を通して、微力ながらその底上げ貢献に努めている。 【著書】「英会話のクスリ」(Amazon Kindle版)・https://amzn.to/2KUrU1e 【ブログ】 ニッポンを元気にする英語 https://amba.to/29id5Sp 【その他】「DMM英会話なんてuKnow?」公式回答者
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経歴[編集] 出自と学歴[編集] 1899年、ボルヘスは教養ある中産階級の家庭に生まれた。出生した場所はブエノスアイレスの中心区であったが、それから間もなく一家は同都市郊外のパレルモに転居している。父 ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス・ハズラムは弁護士であり、また外国語教師養成学校で英語を使った心理学の講義も受け持っていた。父方は、イタリア系やユダヤ系の血が流れており、セファルディム・ユダヤ人の末裔に当たる。ボルヘス自身はとりわけイギリスとユダヤの血を誇りにしていた。祖母はイングランド人であり、その英語は母親譲りのものであった。ボルヘスの母レオノール・アセベド・スアレスはウルグアイの旧家の出で敬虔なカトリックであった。母方の祖先にはヨーロッパからの南アメリカの植民に大きく関わった軍人もおり、家族はしばしばボルヘスに彼らの英雄譚を話して聞かせた。 家庭では英語とスペイン語の2言語が同じように使われていた。一家にはまた文学的伝統が受け継がれており、父方の先祖には何人かの詩人、文学者もいた。父は幾つかの文学作品の執筆を試みており、父方の祖母も80を過ぎてゴールズワージーやH・G・ウェルズに親しむ大変な読書家だった。その読書のほとんどが英語だった母は、夫が死んだ後にはサローヤンの『人間喜劇』やホーソーンの短編、ジョン・リードの美術論などを翻訳しており、ボルヘスは後年、彼自身のものとされているメルヴィル、フォークナー、ウルフの翻訳は彼女の手によるものだと述べている[5]。彼女はボルヘスがのちに視力を失ってからも、口述筆記をし、替わりに手紙の返事を書き、旅行に同行するなどして彼の秘書役を務めた。 父の書庫には5000冊を越える膨大な蔵書があり、ボルヘスは幼い頃からここに出入りして、マーク・トウェイン、ポー、ウェルズ、ロングフェロー、ディケンズ、『ドン・キホーテ』(最初は英訳で読んだという)、グリム童話、『千夜一夜物語』などを英語で読み、スペイン語ではアルゼンチンの無法者やガウチョを描いた作品を好んで読んでいた。6歳の頃から見よう見まねで物語を書き始め、10歳のときにはワイルドの「幸福な王子」をスペイン語に訳し日刊紙「エル・パイス」に掲載されたが、「ホルヘ・ボルヘス」と署名されていたため周囲の人間は父親によるものだと思ったらしい[6]。ボルヘスは父親の教育方針で学校教育を受けず、当初はイギリス人の家庭教師に付いていたが、9歳から市内の小学校に編入している。 1914年、第一次世界大戦勃発の前夜に、ボルヘス一家はスイスのジュネーヴに渡った。父親の眼の治療のためと、ボルヘスおよび妹のノラの進学のためである。ボルヘスはカルヴァン学院(Collège Calvin, 正式名Collège de Genève)の中等科に進んだ。授業ではラテン語、フランス語が使われており、これに加えてボルヘスはドイツ語を独習しハイネやマイリンク、ショーペンハウアーなどを読んでいた。その後一家は、アルゼンチンに戻ることを決めるが、その前にスペインで1年間生活することに決め、1919年にスペイン・バルセロナに移った。すでに1918年にカルヴァン学院でバカロレア資格[7]を取っていたボルヘスは創作に専念し、バルセロナでは『ギリシャ』誌を中心とする前衛的な文学運動ウルトライスモに参加した。スペイン滞在中にボルヘスはエッセイ集と詩集を書いたが、いずれも出版はせず破棄してしまった。 作家活動[編集] 1921年3月、一家とともにブエノスアイレスに帰郷したボルヘスは本格的な作家活動を開始し、この年に若い作家を集めて壁雑誌『プリスモ』を発行した。これはただ一枚の紙に印刷したものを街中の壁に貼ったもので、第1号には「ウルトラニスモ宣言」が載せられている(2号で終刊)。ボルヘスは当初ウルトラニスモの立場を鮮明にしていたが、後に初期の活動を強く後悔することになる[8]。著名な批評家ビクトリア・オカンポ(スペイン語版)の後援を受け、1923年に処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を出版。1930年までの間に3冊の詩集と4冊のエッセイを刊行、3種の雑誌を刊行し、このうち3番目のエッセイ『アルゼンチン人の言語』がブエノスアイレス市民文芸賞の第二席となった。ボルヘスは賞金で得た経済的余裕を利用し、隣人であった無名の詩人エバリエスト・カリエゴの伝記を1年を使って執筆している。 1930年にはアドルフォ・ビオイ・カサレスと知り合い、数年後からアンソロジーの編集や注釈、小説の翻訳や��誌の刊行など、様々な仕事を彼と共同で行なうようになった。ビオイ・カサレスはボルヘスより13歳年下で当時はまだ17歳だった。一方で、ボルヘスは共同作業を始めたころにはすでにビオイのほうが師になっていた、と述べている[9]。二人は後に互いの曽祖父の名前を組み合わせたペンネーム「オノリオ・ブストス・ドメック」を使い、『ドン・イシドロ・パロディの六つの問題』などの探偵小説も執筆している。 1933年から34年にかけて、ボルヘスは実在した人物の伝記を潤色して作った短編集『汚辱の世界史』を発表しており、自伝エッセイではこの作品が彼の短編作家としての「真の出発」点と見なされている[10]。1935年、短編「アル・ムターシムを求めて」を発表。これは架空の小説を紹介する形式で書かれたもので、ボルヘスの代表的な作品群の原型となるものであった。1937年、ボルヘスはブエノスアイレス市立図書館の司書となり初めて定職についたが、仕事量の極めて少ない閑職で、ボルヘスは勤務時間の多くを読書と作品の執筆に費やした。仕事は楽だったものの、自分の存在の小ささを味わわされた市立図書館勤務時代の9年間をボルヘスは「濃厚な不幸の九年」だったと述べている[11]。 1938年、父が死去した年に、ボルヘスは開け放たれた窓に頭をぶつけて大怪我を負い、1ヶ月の間生死の境をさまよった。これによって以前までの言語能力を失ったのではないかと恐れた結果、書きなれている詩や評論ではなくまず短編小説を試してみようと考え、これによって「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が書かれた[12]。続けて「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」「バベルの図書館」など代表的な短編が書かれ、1942年に作品集『八岐の園』として刊行、1944年にさらに9編からなる『工匠集』を加え『伝奇集』として刊行された。同年、アルゼンチン作家協会より栄誉大賞を贈られる。 1946年にフアン・ドミンゴ・ペロンが政権を握ると、政権に抵抗したという理由で図書館の館員から公共食肉市場の検査官に転属させられたため、ボルヘスは職を辞した。10年に及ぶペロン時代はボルヘスにとって苦悩の日々であり、母は自宅監禁の身となり、妹と甥は刑務所に一ヶ月投獄され、ボルヘス自身も絶えず刑事の尾行に付きまとわれていた。職を辞したボルヘスはこれによって失業の身となったが、1950年アルゼンチン作家協会会長に選出されると、アルゼンチン・イギリス文化協会と自由高等専門学校で講義を持つ身となり、以後はアルゼンチンとウルグアイ各地を講演旅行して回る身となった。 晩年と私生活[編集] 1955年、革命の成功によりペロンが失脚し、ボルヘスは周囲の推薦によって新政権からアルゼンチン国立図書館の館長に任命された。翌年にはブエノスアイレス大学の英米文学教授にも就任する。しかしこの頃にはボルヘスの視力はかなり衰えており、20代からの度重なる手術の甲斐なく50年代末には盲目同然となっていた。ボルヘスの失明は遺伝性のもので[13]、父もまた手術を重ねた末晩年に視力を失っている。盲目となって以降作品は口述筆記によって作成し、また記憶だけを頼りにして作ることができる定型詩を好んで作るようになった[14]。晩年には古代英語と古代アイスランド文学の研究に没頭した。 ボルヘスの作品は1950年代以降、ロジェ・カイヨワが中心となってフランスに翻訳紹介され次第にその名が知られるようになった。1961年にはサミュエル・ベケットとともに第一回国際出版賞(フォルメントール賞)を受賞し国際的名声を得る。その後マドニーナ賞(1966年)、エルサレム賞(1972年)、セルバンテス賞(1980年)、レジオン・ド・ヌール勲章(1983年)などを受賞している他、オクラホマ大学、コロンビア大学、オックスフォード大学等から名誉博士号を受けている。 ボルヘスは1967年に旧友エルサ・アステテ・ミジャンと結婚したが、しかし教養のない彼女との共同生活はうまくいかず、1970年に離婚。1985年にジュネーブに移住後、教え子でありボルヘスの個人的な助手を務めていた日系人マリア・コダマと1986年4月に再婚した。同年6月、肝臓癌により死去。遺体はジュネーブのプランパレ墓地に葬られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホルヘ・ルイス・ボルヘス#出自と学歴
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経歴[編集] 出自と学歴[編集] 1899年、ボルヘスは教養ある中産階級の家庭に生まれた。出生した場所はブエノスアイレスの中心区であったが、それから間もなく一家は同都市郊外のパレルモに転居している。父 ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス・ハズラムは弁護士であり、また外国語教師養成学校で英語を使った心理学の講義も受け持っていた。父方は、イタリア系やユダヤ系の血が流れており、セファルディム・ユダヤ人の末裔に当たる。ボルヘス自身はとりわけイギリスとユダヤの血を誇りにしていた。祖母はイングランド人であり、その英語は母親譲りのものであった。ボルヘスの母レオノール・アセベド・スアレスはウルグアイの旧家の出で敬虔なカトリックであった。母方の祖先にはヨーロッパからの南アメリカの植民に大きく関わった軍人もおり、家族はしばしばボルヘスに彼らの英雄譚を話して聞かせた。 家庭では英語とスペイン語の2言語が同じように使われていた。一家にはまた文学的伝統が受け継がれており、父方の先祖には何人かの詩人、文学者もいた。父は幾つかの文学作品の執筆を試みており、父方の祖母も80を過ぎてゴールズワージーやH・G・ウェルズに親しむ大変な読書家だった。その読書のほとんどが英語だった母は、夫が死んだ後にはサローヤンの『人間喜劇』やホーソーンの短編、ジョン・リードの美術論などを翻訳しており、ボルヘスは後年、彼自身のものとされているメルヴィル、フォークナー、ウルフの翻訳は彼女の手によるものだと述べている[5]。彼女はボルヘスがのちに視力を失ってからも、口述筆記をし、替わりに手紙の返事を書き、旅行に同行するなどして彼の秘書役を務めた。 父の書庫には5000冊を越える膨大な蔵書があり、ボルヘスは幼い頃からここに出入りして、マーク・トウェイン、ポー、ウェルズ、ロングフェロー、ディケンズ、『ドン・キホーテ』(最初は英訳で読んだという)、グリム童話、『千夜一夜物語』などを英語で読み、スペイン語ではアルゼンチンの無法者やガウチョを描いた作品を好んで読んでいた。6歳の頃から見よう見まねで物語を書き始め、10歳のときにはワイルドの「幸福な王子」をスペイン語に訳し日刊紙「エル・パイス」に掲載されたが、「ホルヘ・ボルヘス」と署名されていたため周囲の人間は父親によるものだと思ったらしい[6]。ボルヘスは父親の教育方針で学校教育を受けず、当初はイギリス人の家庭教師に付いていたが、9歳から市内の小学校に編入している。 1914年、第一次世界大戦勃発の前夜に、ボルヘス一家はスイスのジュネーヴに渡った。父親の眼の治療のためと、ボルヘスおよび妹のノラの進学のためである。ボルヘスはカルヴァン学院(Collège Calvin, 正式名Collège de Genève)の中等科に進んだ。授業ではラテン語、フランス語が使われており、これに加えてボルヘスはドイツ語を独習しハイネやマイリンク、ショーペンハウアーなどを読んでいた。その後一家は、アルゼンチンに戻ることを決めるが、その前にスペインで1年間生活することに決め、1919年にスペイン・バルセロナに移った。すでに1918年にカルヴァン学院でバカロレア資格[7]を取っていたボルヘスは創作に専念し、バルセロナでは『ギリシャ』誌を中心とする前衛的な文学運動ウルトライスモに参加した。スペイン滞在中にボルヘスはエッセイ集と詩集を書いたが、いずれも出版はせず破棄してしまった。 作家活動[編集] 1921年3月、一家とともにブエノスアイレスに帰郷したボルヘスは本格的な作家活動を開始し、この年に若い作家を集めて壁雑誌『プリスモ』を発行した。これはただ一枚の紙に印刷したものを街中の壁に貼ったもので、第1号には「ウルトラニスモ宣言」が載せられている(2号で終刊)。ボルヘスは当初ウルトラニスモの立場を鮮明にしていたが、後に初期の活動を強く後悔することになる[8]。著名な批評家ビクトリア・オカンポ(スペイン語版)の後援を受け、1923年に処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を出版。1930年までの間に3冊の詩集と4冊のエッセイを刊行、3種の雑誌を刊行し、このうち3番目のエッセイ『アルゼンチン人の言語』がブエノスアイレス市民文芸賞の第二席となった。ボルヘスは賞金で得た経済的余裕を利用し、隣人であった無名の詩人エバリエスト・カリエゴの伝記を1年を使って執筆している。 1930年にはアドルフォ・ビオイ・カサレスと知り合い、数年後からアンソロジーの編集や注釈、小説の翻訳や雑誌の刊行など、様々な仕事を彼と共同で行なうようになった。ビオイ・カサレスはボルヘスより13歳年下で当時はまだ17歳だった。一方で、ボルヘスは共同作業を始めたころにはすでにビオイのほうが師になっていた、と述べている[9]。二人は後に互いの曽祖父の名前を組み合わせたペンネーム「オノリオ・ブストス・ドメック」を使い、『ドン・イシドロ・パロディの六つの問題』などの探偵小説も執筆している。 1933年から34年にかけて、ボルヘスは実在した人物の伝記を潤色して作った短編集『汚辱の世界史』を発表しており、自伝エッセイではこの作品が彼の短編作家としての「真の出発」点と見なされている[10]。1935年、短編「アル・ムターシムを求めて」を発表。これは架空の小説を紹介する形式で書かれたもので、ボルヘスの代表的な作品群の原型となるものであった。1937年、ボルヘスはブエノスアイレス市立図書館の司書となり初めて定職についたが、仕事量の極めて少ない閑職で、ボルヘスは勤務時間の多くを読書と作品の執筆に費やした。仕事は楽だったものの、自分の存在の小ささを味わわされた市立図書館勤務時代の9年間をボルヘスは「濃厚な不幸の九年」だったと述べている[11]。 1938年、父が死去した年に、ボルヘスは開け放たれた窓に頭をぶつけて大怪我を負い、1ヶ月の間生死の境をさまよった。これによって以前までの言語能力を失ったのではないかと恐れた結果、書きなれている詩や評論ではなくまず短編小説を試してみようと考え、これによって「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が書かれた[12]。続けて「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」「バベルの図書館」など代表的な短編が書かれ、1942年に作品集『八岐の園』として刊行、1944年にさらに9編からなる『工匠集』を加え『伝奇集』として刊行された。同年、アルゼンチン作家協会より栄誉大賞を贈られる。 1946年にフアン・ドミンゴ・ペロンが政権を握ると、政権に抵抗したという理由で図書館の館員から公共食肉市場の検査官に転属させられたため、ボルヘスは職を辞した。10年に及ぶペロン時代はボルヘス��とって苦悩の日々であり、母は自宅監禁の身となり、妹と甥は刑務所に一ヶ月投獄され、ボルヘス自身も絶えず刑事の尾行に付きまとわれていた。職を辞したボルヘスはこれによって失業の身となったが、1950年アルゼンチン作家協会会長に選出されると、アルゼンチン・イギリス文化協会と自由高等専門学校で講義を持つ身となり、以後はアルゼンチンとウルグアイ各地を講演旅行して回る身となった。 晩年と私生活[編集] 1955年、革命の成功によりペロンが失脚し、ボルヘスは周囲の推薦によって新政権からアルゼンチン国立図書館の館長に任命された。翌年にはブエノスアイレス大学の英米文学教授にも就任する。しかしこの頃にはボルヘスの視力はかなり衰えており、20代からの度重なる手術の甲斐なく50年代末には盲目同然となっていた。ボルヘスの失明は遺伝性のもので[13]、父もまた手術を重ねた末晩年に視力を失っている。盲目となって以降作品は口述筆記によって作成し、また記憶だけを頼りにして作ることができる定型詩を好んで作るようになった[14]。晩年には古代英語と古代アイスランド文学の研究に没頭した。 ボルヘスの作品は1950年代以降、ロジェ・カイヨワが中心となってフランスに翻訳紹介され次第にその名が知られるようになった。1961年にはサミュエル・ベケットとともに第一回国際出版賞(フォルメントール賞)を受賞し国際的名声を得る。その後マドニーナ賞(1966年)、エルサレム賞(1972年)、セルバンテス賞(1980年)、レジオン・ド・ヌール勲章(1983年)などを受賞している他、オクラホマ大学、コロンビア大学、オックスフォード大学等から名誉博士号を受けている。 ボルヘスは1967年に旧友エルサ・アステテ・ミジャンと結婚したが、しかし教養のない彼女との共同生活はうまくいかず、1970年に離婚。1985年にジュネーブに移住後、教え子でありボルヘスの個人的な助手を務めていた日系人マリア・コダマと1986年4月に再婚した。同年6月、肝臓癌により死去。遺体はジュネーブのプランパレ墓地に葬られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホルヘ・ルイス・ボルヘス#出自と学歴
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