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#姿勢専科加古川準備室
shinomama · 2 years
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《 #姿勢講座 》 2022.10.22 ぼちぼちとやってます... 今回は姿勢と膝痛のお話 相変わらず 人前で話すのはホンッマ苦手です。 かこむさんでフライヤーをたまたま手に取り 九州からわざわざ私の話を聞きに帰ってこようとされてた方...お時間間違われたらしくキャンセルされましたが ご縁があればまたお越しください。 11月と12月はイベントが多く講座はしませんが 年明けには再開します。 #小野市 と #高砂市 と #加古川市 で計画しています。 「ここで姿勢のお話してほしい」 「こんな場所あるよ」などあれば ご一報頂ければ助かります。 #姿勢調整師すがのしの #姿勢科学士すがのしの #徒手療法師すがのしの  #姿勢専科加古川準備室 #姿勢専科kcsセンター明石中央 #兵庫県姿勢調整師会 #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯 #街の健康支援センター #未来の医療費削減策 #姿勢講座講演承ります #まだ見ぬ人に手を届かせるために (パルプラザ) https://www.instagram.com/p/CkEoeQrymcY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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buriedbornes · 4 years
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第34話 『旧き世に禍いあれ (2) - “ブラストフォート城塞"』 Catastrophe in the past chapter 2 - “Blastfort Citadel”
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 ブラストフォート城塞を見渡せば、『城』という華やかな言葉の印象とは遠い、石造りの堅牢な風貌は砦のそれと言っていいだろう。
 スヴェンはこの建造物も元は修道院だったと噂では聞いていた。ただ、城塞に研究所を設けた時には既に砦として使われていて、実際のところどうだったかは、皆目見当がつかない。むしろ験を担いだ誰かの作り話ではないかと考えていた。作り変えられた施設にしては、礼拝堂だったと見られる建物もなく、険しい斜面をわざわざ切り出して作られた来歴の割には、この地に作られた由来すら記録に残されていないのも疑念の余地がある点だった。
 城塞と名を冠しながらも、城壁の内側に市街はない。居並ぶのは兵舎や倉庫、そして厩舎などの背の低い軍用の建物で、全てが同じように暗い色をしていた。
 はぁと深い息を吐く。その息は白く、スヴェンは体をぶるりと震わせた。外套の襟を直し、足を早める。
 短い秋は瞬く間に過ぎ去り、もうすっかりと冬だ。視界に入る山岳はすっかりと白い雪に閉ざされている。ブラストフォートは年中気温が低く、1年の半分以上は雪に覆われている。
 この城塞は、トラエ、ラウニとソルデの三国間で起きた紛争の中心地となった。三国の国境線が交わる丁度中央地点で、思惑も戦線もぶつかり合った。互いの国へ進攻するに際しても、ここを通らず他二国に兵站を送るにはどうあってもリスクの高い迂回が生じる関係で、攻めるも守るも、話はまずこの城塞を手中にしてから、という事情もあった。この要塞を抑えた国が勝つと信じられ、激しい争奪戦が目下進行している。
 トラエがこの城塞を維持し続けられているのは、”軍神”ゴットフリートのおかげだ。不敗を誇るゴットフリートは、皇帝の厚い信望を受け、ブラストフォート城塞に陣を敷いた。ここを確実に堅持し続けることが、即ち勝利を意味する。武勲で比肩する者のいないゴットフリートが此度の采配を受けたのも、当然の帰結であり、疑いを示す者もいなかった。
 対するラウニやソルデもそれを理解していたからこそ、戦火はさらに激しくなって行った。トラエ無双の英雄が、史上最も堅牢を誇る城を守護している。つまり、ここを打ち崩したもの、あるいは守り抜いたものが、この戦争を制するに等しい。この三国戦争の顛末を決定づける、天下分け目の決戦地の様相を呈していった。
 ゴットフリートは戦場で一度もその膝を地面についたことはなかった。スヴェンが城に派遣されて3年、ブラストフォート城塞は今もトラエ帝国領のままだ。各地で名を馳せたどんな名だたる英雄が攻めてこようとも、この城塞を越えた者は未だかつていなかった。
(砦としての適切なつくりと、それを最大限に生かす武将……。理屈で言うは容易いが、それがこうして揃い立つと、これほどまでに守り抜けるものなのか)
 スヴェンは眼鏡のブリッジを押し上げて、先を急ぐ。その手は幾冊もの分厚い魔術書があった。
 激戦地とはいえ、兵糧が乏しくなるこの季節には大きな動きも見られなくなる。天候によってはなお一層、双方ともに大人しいものだ。攻めあぐねた敵軍に二面三面と包囲されながらも、ブラストフォート城塞はまるで平時のように静まり返っていた。
(ああ……どうしてうまく行かないのだ……)
 城塞の中にある研究室の扉を開ける。
 真っ暗な部屋を、たったひとつのランタンが照らしていた。本来はもっと採光がいい窓があったのだが、スヴェン自身が本棚で潰してしまっていた。外光は観測を伴う実験に不向きだ。
 城塞の中の、私の城。眼鏡を再度押し上げて、ふふと短く笑う。
「次はうまくやってみせる……この書こそ本物だ、今度こそ……吾輩が見つけるのだ」
 ぶつぶつと言葉を口の中で繰り返しながら、長い執務机の上に置かれていた書類や本を床にすべて落とし、新しい本を置いた。
 本棚やコートハンガーにかけられた外套、並んだ靴などは嫌と言うほど規則正しく、寸分のずれもないように置かれているというのに、余程気が高ぶっているのか、今は床に落ちた本たちを気にして直すそぶりもない。
 大きな椅子に腰かけて、その本を開いてページを手繰り始めた。
 世界を知るということに限りはあるのだろうか。スヴェンは幼い頃からずっと考えていた。世界を知るためにありとあらゆる本を読み解き、特例を受けて最高学府に進級したときも、当然のこと、以外には特に何も思わなかった。神童と呼ばれ、世界の知識を見る間に吸収し、未知の研究に邁進し、知性で遥かに劣る両親とは縁を切り、知こそが価値とする者達とこそ縁を深め、生きてきた。
 ――この世界は、一個の生命だ。
 そう悟ったのはいつのころだろう。それからスヴェンの関心は世界の表層を辿ることではなく、世界の成り立ちの根源を掴むことに移った。
 この感覚までも理解し共有で��る者はさすがにいなかったが、スヴェンは気にすることはなかった。目的と到達点は明確だったからだ。
 世界が生まれた瞬間を見る。つまり、過去へ遡行しその瞬間を観測することが出来れば、世界が生命であり、巨大な有機体であり、何がどうやってそれを作り出したのかを証明できるのではないか、と考えた。菌類はそれぞれの菌根で膨大な情報網を作り上げることで知られている。ならば世界は? 世界と世界を構成する生命や物質との関係も、似たものではないのか?
 夢を見ていると言われた。気が狂ったとも。けれど、スヴェンは時間を移動することに執着し、トラエ皇帝はスヴェンの情熱に理解を示した。思えばこんな突拍子もない目的に意義を見出す皇帝というのもまた、妙ではあるとは思った。皇帝にもまた、過去に遡行する事で成し遂げたい、”過去に戻ってでもやり直したい何か”が、心中にあったのかもしれないが、それを聞き出す術をスヴェンは持たないし、スヴェン自身興味もなかった。少なくとも、時間遡行がもたらしうる皇家の安定、全ての危険を排し、あるいは時を超えて未来の悲劇を食い止め続けて、皇家そのものを永遠に君臨させる、という”表向きの”理由――そのために、皇帝はスヴェンを支援することを決定し、臣君達も、やや半信半疑ではありながらも、それを支持した。
「これだ」
 今日も皇帝に頼んでいた奇書が届けられた。
 スヴェンはブリッジを押し上げ、眼鏡の位置を直す。正常な観測のためには、眼球とレンズの距離は常に1.5cmを保たねばならない。立ち上がろうとして自分が先程叩き落した本を見やり、露骨に眉をしかめる。頭の中を整理し終えて一息ついたら、急に普段の几帳面さが顔を出した。手早くそれらを元あった場所へそそくさと戻して、室内を完璧に揃え、部屋の中心に立った。
「まず、魔石を用意して……」
 木箱に詰めてある魔石を取り出し、机に置く。魔石は貴重な資源である。研究には大量の魔石が不可欠だった。魔石なしには、相当な魔力量を消耗する実験を繰り返し行うことは出来ない。ブラストフォートは戦地だ。当然、魔術師部隊が使うために魔石も大量に集められていたが、落城までには湯水のごとく消費されていた魔石も、入城し防衛に転じてからは、ゴットフリートを中心とした白兵戦主体の迎撃戦において、これらが投入される機会も乏しく、結果余剰が出ていた。山と積まれた荷物を運び出すにも、労力がかかる。それならば、国内にいる魔石を必要とする人員が、逆にブラストフォートまで来れば良い。研究をする場所としては些か物騒な地ではあったが、自由にできる大量の魔石が得られる機会には代えがたかった。スヴェンは二つ返事で前線まで足を運んだ。研究には様々な代償がつきものだ。それを理解してくれる後ろ盾を得たスヴェンは、他の誰よりも恵まれていると言えるだろう。
 取り上げたいくつかの魔石の中から、更に質の良いものを選ぶ。一番大きいものはナリだけで中身は薄く、魔力自体は少ないようだ。ページをたぐる仕草に似た動作で、一粒ずつ指を触れては次の石に触れ、研ぎ澄ませた感覚で内容量を確認していく。最後に触れた人差し指ほどの魔石が最も密度が高く、多くの魔力を秘めていた。
「よし……よし……まずは一時間前に戻る……そうだ……」
 長い間研究し、様々な方法を用いたが、まだ成功させたことがない。
 スヴェンも焦り始めていた。戦火は年を追って激しさを増している。今は冬期で戦線が膠着しているが、雪が溶ける頃にはまた激化される。2国がこの城塞を攻め、帝国は防戦し続ける。魔石の余剰が出ているのも今だけだ。魔石の消費量も年々増え続け、そうなればいつ自分に回してもらえる分が枯渇するとも知れない。そう考えれば、時間は限られている事になる。一度でも成功させられれば、魔石を消耗する前の時間に何度でも戻って、ほぼ無限の実験を繰り返し、術式完成を確実なものにすることが出来る。それが理想であり、今の目標だ。勿論この方法は戻る人間の肉体時間の経過は加味されておらず、スヴェン本人の寿命の解決という課題が残ってはいるが、禁術に手を出せば、その辺りは時間遡行に比べれば造作もないだろうと見当がついていた。
 本のページを睨むように再度読み上げようとした時、パチン、と何かが弾ける音がした。ふぅっと風が頬を撫でる。
 音がした方向を振り向いて、スヴェンは動けなくなった。
 空間に大きな渦が現れたのだ。
 その渦に向かって風が吹き込んでいる。
「おお!」
 未知なる光景に弾んだ声を上げる。
 まず渦から出てきたのは、手だった。男の両の手が伸び、時空の切れ目をこじ開けて、その姿を現した。これから始めようとしていた実験によって、数分か数時間の未来から自分が戻ってきたのではないか。どうやら、今実験している術式は成功したのではないか。歓喜に身が打ち震える。
 単純な転移魔術など、スヴェンも何度も見たことがあるし、日常的に行使している。周辺空間に生じた歪の性質や姿の現れ方から、今目の前で行われているものは、通常のそれとは質が異なることは一目で判断できる。それは”理論上、時間遡行が成功すればこのような形で転移が成されるだろう”と想定した結果そのものだった。
「スヴェン博士か?」
 渦から現れた男に尋ねられ、スヴェンは驚いて身を竦めた。
 男は自分の身なりに気が付いたのか、ゴーグルの中の目を丸めて、被っていたマスクを外した。城塞の戦士たちよりも重装備だが、防寒具として見ても、防具として見ても、異様な姿をしていた。それはむしろ、ガスや毒に汚染された領域に立ち入る者が使う防護服に似ていた。
 男は軽く会釈した。
「僕はフィリップ。スヴェン博士で間違いありませんか?」
「いかにも、吾輩はスヴェンだが……」
 答えながら、興奮で何度もメガネを押し上げる。
「僕は未来から来た」
「おお、やはり! では、未来では時間移動の方法が確立されたのか! 素晴らしい! 素晴らしい!!」
 スヴェンは無邪気に飛び跳ねた。
 悲願だ。
 奇跡が目の前で起きたのだ。経緯こそまだ判然としないが、宿願が果たされたのだ。
「その方法が知りたいか?」
「ああ、無論だ。吾輩にとって、生涯をかけた研究の成果だ!」
「僕の生きる時代にはその技術は確立している」
 身の内から湧きあがる感動に震える。長い時間をかけた研究が実を結ぶのだ。喜ばない人間がいようものか。
 スヴェンはズレたメガネを何度も押し上げ、唇をペロリと舐めた。
「未来では、あなたの完成させた基礎を発展させ、実際に過去に飛ぶことが出来るようになった」
「そうか……そうか……! それで」
「研究資料はある。それを渡してもいい」
 フィリップと名乗った男は荷物からひとつの本を取り出して見せた。スヴェンは手を伸ばしたが、ぴたりと手を止める。
「……吾輩は、基礎を完成させた……?」
「ああ、そうだ」
「つまりは吾輩が術式を確立させたわけではないのだな」
 基礎を完成させた研究者が自分だとして、その先、実際に技術転用することは別の次元の話になるはずだ。魔術、火薬、物理……この世の全ての技術はそうして生み出されてきた。小さな研究の成果を種として多くの科学者が取り組み、発展的に理論を大成させていく。芽吹いたものを育てひとつの大樹とするにはそれだけの手間と時間と閃きが必要になる。
 今までもスヴェンは『時間遡行の第一発見者』『行使者』となるために、寝食を忘れ、周囲から気味悪がられるほど、研究に必死で取り組んできた。
 それでも時間が足りないと感じていた。その肌感覚は間違いではなかったのだ。
 目の前に提示された本は確かにスヴェンを求めた結果に導くだろう。
 だが、同時に自身の敗北を決定づけるのだ。己の力量だけではここには辿り着けなかったのだと、認めることとなる。
 フィリップは静かに逡巡するスヴェンを見ていたが、やがて、微笑みながら頷いた。
「これは’’真実’だ。研究者としての矜持はさておき、”真実”を知りたくはないか?」
 スヴェンはハッとして顔を上げた。
 真実。
 私は何のためにここまで進み続けてきたのか。
 彼が言っていることが正しく、自身で術式を完成することがなかったとしても、それは過程に過ぎない。私が目指していたものは、あくまで”真実”ではないのか?
「もしも、それをいただくと言ったら? 何が望みだ?」
 心のどこかで、素直にそれを受け取る事に呵責が生じていたのだろう。だから、それを受け取る事を、無意識に合理化したがっていたのかもしれない。未来から来た男に対価を返すことで、”真実”を受け取ってしまう自分に理由を与えようとしていた。
 予見した通りにスヴェンの瞳に灯った貪欲な光を見出して、フィリップはにやりと笑った。
「城塞内の警備情報をいただこう」
「警備の? 何故だ?」
「知らない方がいい。あなたには関係のないことだ」
「……そもそもお前は、何のためにここにいるのだ?」
「知れば、来たるべき未来のことも伝えねばならなくなる。必要以上に過去を変える事は避けたい……ただ、必要なものがあるとだけ。それを持ち帰る事だけなら、この時代の歴史には影響しない、それは保証しても良い」
 まるで台本があるかのように、フィリップは淀みなくスヴェンに語り掛ける。
 未来から来た。それは間違いないだろう。スヴェンが口外もしていなかったはずの、仮説段階の転移の様子そのものが目前に展開したことで、疑う気持ちなど寸分もなくなっていた。受け取った資料に目を通せば、そこからもまたフィリップが未来から来た事が真実であるという証拠を得る事もできるだろう。ただ、もう一声、フィリップが信頼に値するという、自身が”真実”を受け取る事に感じる呵責を打ち消すだけの理由を求めたかった。
「受け入れたいのは山々だが、警備情報をとなると難しい。未来から来た事が仮に真実でも、君がトラエ以外の人間であったならば、私の立場からすれば利敵行為に与しかねない事になる。理解してくれるか」
 スヴェンはこう言い放ちながら、内心で自嘲した。スヴェンは、フィリップ���トラエの人間である事を証明してくれる事を期待していた。彼があらかじめ私の呵責を砕く準備までした上でここに来ていると、察しが付いていた。その上でこんな事を方便にするのは、戯曲を棒読みする姿を見透かされるようで、歯がゆかった。
 フィリップは答えをやはり用意していたようで、間髪入れずに分厚い上着のポケットから、ひとつのネックレスを取り出した。金色のネックレスは傷がつき、古いものだった。スヴェンはその取り出す様を見ながら、やはり見透かされていたのだと、思わず赤面した。
「開けてみてくれ」
 スヴェンはおずおずと受け取り、開いた。そして息を飲む。
「これは……!」
「一緒に映っているいる赤ん坊が僕だ」
 一目見て分かった。写真に写った男は、ゴットフリートだ。城塞の食堂で目にした、岩でも噛み砕きそうな厚い顎、豹を思わせる眼光、右頬と左こめかみに負った特徴的な傷跡。スヴェンの知るゴットフリートよりもかなり年を重ね、白髪や白髭を蓄えた風貌で笑っていた。
 ――未来だ……。
 スヴェンは、ごくりと息を飲んだ。
「あのゴットフリートが、人の親、果ては老人か……。戦場で死ぬような者ではないとは、思っていたが」
「祖父は一族の誇りだ」
「……分かった。警備情報を渡そう。だが、本当に面倒事は起こさないのか……?」
「表立っては何も起きないから、安心していただきたい。この時代には捨て置かれたものを、持ち帰るだけだ」
 スヴェンには、その言葉の意味まではわからなかった。
 その後の逡巡を見越したように、ゆっくりと研究書をスヴェンに差し出す。
「戻れる先は魔力の量に左右される。魔力を1点に集中すればいい。杖を使えばいいだろう」
「お……おお……」
「この本に詳しくまとめられている。運命は、未来は変わらない」
「本当に?」
「あなたが、あなたのために使うだけに留めれば、自ずとそうなるだろう」
 答えないスヴェンの胸に、ドンと本が叩きつけられる。
 その感触に、スヴェンの理性はぐらりとふらついた。
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 月が高く上ったのを見上げて、フィリップはゆっくりと山岳の斜面を進んだ。姿勢を低くし、音を立てないように。
(……不安はあったが、狙ったタイミングに戻れたな……)
 グレーテルと徹底的に城塞の歴史を調べた。
 激しい攻防戦から間がなく、その後しばらく戦闘がない、天候が落ち着いている時期。かつ、当日の天気が晴天で満月であること。
 いくら協力を得ることが出来て警備の状況が把握できていても、誰もいないはずの山の斜面で灯りを用いて、遠目にでも見つかる危険を冒すことは避けるべきだ。暦を遡り、目途をつけたのが今日この日だった。
 斜面には雪が積もっている。この積雪から数日、戦線に動きはなかったと記録されている。束の間の平和。だが、その直前には、この斜面で、たくさんの人と人が殺し合ったのだ。静寂に包まれた雪景色の中、あちこちに矢が突き刺さったまま放置されていた。戦闘の跡だ。
 左右を見渡してから、フィリップは一番近くの雪を掻いた。そこにも矢が刺さっている。
(……矢先の雪がほのかに赤い)
 山岳地の雪らしく、水を含まないさらさらとした雪で、払えば埋もれたものが簡単に姿を現す。
「……あった」
 雪の下には、傷の少ない兵士が眠るように倒れていた。
 念のため体を検めるが、四肢も無事で、背中に矢を受けた痕があるだけだ。専門外だが、転がした下の赤黒い土の色から察するに、死因は失血だろう。
 こんなに状態のいい屍体を見たのは、いつぶりか。
 ここはまさに、フィリップにとって宝の山だ。
 見渡す限り、無数の屍体が隠されている。先日攻め入ってきたが退路を断たれ、殲滅の憂き目にあったラウニの一個師団がこの斜面に眠っている。
 ざっと見積もっても数千から万を超すだろう。 この雪の下にある屍体さえあれば、それらは全て、二人が未来で戦うための手足となる。計り知れないほどの戦力だ。
 グレーテルも転送を待っているだろう。と言っても、未来で待つ彼女の方からしたら、突然数千の屍体が目前に現れるような形になるのかもしれないが。
 兵士を完全に雪の上に横たえてから、フィリップは術式を展開した。過去に遡行することに比べ、未来に送ることは難しくはない。状態が劣化しない静止した時空間に屍体を閉じ込める。そして、ある特定の時期に来たら、閉じた時空間から屍体を現実に表出させるように仕込んでおく。川の流れを下るように、時の流れに逆らわずに未来へ向かうのであれば、身を任せるだけで良い。逆に、流れに逆らって上流に向かおうとするには、莫大なエネルギーを要する。それが、時間遡行研究者たちがたどり着いた、ひとつの答えであった。
 遺体はぼぉっと青白い光に包まれて、ふっと消えた。
 成功だ。
 こうして閉じ込めた屍体全てが、グレーテルの元で姿を現すだろう。彼女も状態のよさとその数に感動するはずだ。周囲を見渡し、笑みが溢れる。
 屍体の数は多ければ多いだけいい。フィリップは近くの雪中を再び探り始めた。
「ん? なんだぁ?」
 突然降ってきた声に、フィリップはぴたりと動きを止めた。
 振り向けば、豪奢な装備に身を包む屈強そうな男が、首を傾げながらこちらを見ていた。ありえない。
「――……巡回はいないはずじゃ……」
 スヴェンから得た警備資料は棚から即座に取り出されたものであって、あの場で嘘を取り繕うためにあらかじめ用意できるようなものではなかったはずだ。
 だからこそ、その内容を信じたフィリップは夜を待って行動を開始したのだ。
「巡回なんざしてねえさ。散歩してただけだ」
 男は野太い声で言った。
「しっかし、誰だ、お前は。さっき屍体を掘り返してたよな?」
「……何のことだ」
「おいおい、しらばっくれても無駄だ。見てたぞ。目の前から消えたんだからな」
 失敗した。
 頭の中で思考が急回転を始める。どうやってこの場を切り抜ける? 取り繕うか、命を奪い口を封じるか、逃げるか?
「転送魔法か? それで屍体を運んで何しようってんだ」
「それは……」
 なにかうまい口実はないか、言葉を手繰ろうとするフィリップを待たずに、男は叫んだ。
「戦場泥棒は重罪だぜ!」
 雪をギュッと踏みしめる音を立てて、男はフィリップに飛び掛かる。
 やるしかないか。
 咄嗟に、重力歪曲《グラビティプレス》の術式を展開する。
 跳躍し上向いた兜の中の顔を、月明かりがはっきりと照らす。豹のような眼光がこちらを見据えていた。一瞬、フィリップの胸中に幼い日が去来した。
(――……ゴットフリート爺さん!)
 逃げなければならない。話も通じない。殺してはいけない。
 月明りを背に大きな影が落ちる。
 フィリップは咄嗟に術式を変じて、空間移動《テレポート》に切り替えた。短い距離であればすぐに展開して移れる。
 鈍い音を立てて、ゴットフリートが鞘から引き抜いた剣が雪に突き刺さる。さきほどまでフィリップが立っていた雪の跡は、衝撃で爆ぜて消え失せる。そのまま、目線を数歩先のフィリップに向ける。
「はっ、やっぱり転移か。ラウニの連中は知ったこっちゃねぇが、ここには俺の隊の奴も幾人か眠ってんだ…」
 雪から剣を振り上げるように引き抜き、巻き上げられた細かい雪がまるで煙幕のように広がる。視界が真っ白に染まる。
 フィリップは咄嗟に腕で顔を庇ったが、視界に影が過る。
(まずい!)
 二度目の転送が一瞬遅れ、避け切れなかった。ゴットフリートの剣先は肩から胸にかけて切り裂く。傷は浅いが痛みによろめく。
 雪の影から突きを繰り出したゴットフリートは、目をぎらりと輝かせる。
「魔術師相手は滅多にやれねえんだ。面白えな……!」
 まともにやり合ったら、殺される。
 運が悪すぎる。
 本気でやり合ったところで、ゴットフリートに勝てるわけもない。仮に勝てたとしても、祖父である彼を今この場で殺したら、未来から来た自分は一体どうなる? 前例がなく、全く予想がつかない。年老いてからも人の話を全く聞かなかったあの男が、戦場跡をうろつく怪しい男が語る”理由”なぞ、おとなしく聞いてくれるはずもない。殺さずに無力化出来るような術も持ち合わせてはいない。
 なんとかやり過ごして、逃げるしかない。
 再度テレポートをしようと身構えたフィリップに向かって、ゴットフリートが大きく踏み出そうとして、ぴたりと止まった。
「……なんだ? 臭ぇな……」
 眉をぐっと止せ険しい表情で辺りを見渡す。
 確かに何か匂いがする。嗅いだことのない匂いだ。
「屍体の臭いでもないな……なんの臭いだ……?」
 唐突に、その匂いが一層強くなった。
 屍体は確かに掘り返した。けれども、この気温で、雪の下にあった兵士の体は腐敗するはずがない。凍てつき、匂いもなかったはずだ。
 腐ったような、けれどももっと酷く脳を直接刺激するような……嗅いだことのないほど異臭。
「……うっ」
 胸が悪くなる。
 ゴットフリートも片手で鼻を抑えながら、周囲を見渡した。
 ふたりの視点が1点にとまった。打ち捨てられた盾だ。放り出されて地面に突き立ったままのそれが、奇妙な黒い靄に包まれている。
「おい、小僧、お前の術か、ありゃあ?」
 ゆらゆらと噴き出ていた黒い煙の密度が増す。
 フィリップは自分の背中が粟立つのを感じた。
 あれは、だめだ。
 理由はわからない。ただ、本能が叫ぶ。けれど、足が竦んで動かない。
 盾を包んでいた煙は次第に細くなり、盾と地面が成す角から勢いよく噴き出した。そして、その煙が見たこともない不気味な黒い猟犬の姿を取った。
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~つづく~
原作: ohNussy
著作: 森きいこ
※今回のショートストーリーはohNussyが作成したプロットを元に代筆していただく形を取っております。ご了承ください。
旧き世に禍いあれ(3) - “猟犬の追尾”
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
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3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
問い9:日本の朝鮮から撤退後について>3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
目次は こちら
3.日本が朝鮮に及ぼした形の無いもの
 日本は、1876年に朝鮮と交流を始めて、1945年に朝鮮から撤退した69年間に、形がなく目に見えないものも朝鮮に残してきています。以下に思いつくままにそれらを列記します。
①    李氏朝鮮時代は労働をすることを恥と思っていた両班が、1892年に科挙の廃止と、1894年の金弘集政権による身分制度の廃止と、総督府の身分差別を認めない政策とによって、労働をしても恥ずかしくない意識となり、新しい労働文化が生まれました。そして現在の韓国では、優秀な人々の労働の成果が生まれました。
②    李氏朝鮮時代は怠けて貧しさを装うことが自衛手段だった農民と漁民が、豊かになっても両班や官僚によって収奪されなくなったので、積極的に働く社会意識と労働文化が生まれ、朝鮮の新しい発展の原動力になりました。
③    物として売買され、人権も「姓」もなかった奴婢が、その身分から解放されたので、好きな姓名を持つことができ、日本統治時代には朝鮮人は原則的に全員が平等な社会の一員になりました。
④    李氏朝鮮時代は、地方の行政官が行政・警察・司法・徴税・軍事とすべての権限を持っており、その地方では絶対的な権力を持っていたので、思う通りに農民と漁民と奴婢から収奪し賄賂を受け取り、横領を重ねていたが、日本統治時代には行政と警察と裁判と徴税が分離されたので、諸悪と腐敗の根源がなくなりました。
⑤    李氏朝鮮時代は、国王と大臣が多額の賄賂を受け取って地方の行政官を任命し、各種職位を売っていましたが、日本の統治により国王も大臣も売官売爵ができなくなり、地方官は多額の賄賂の必要がなくなり、地方へ派遣された官僚は多額の賄賂のお金を取り返す必要がなく、その結果庶民からの収奪がなくなりました。
⑥    大韓帝国時代に韓国政府から日本へ財務顧問の派遣を要請するまでは、大韓帝国政府の財政は逼迫しており、その上皇室は国家財政から奪って贅沢な暮らしに耽っていましたが、財政顧問の指示で皇室財政と国家財政を分離して管理されるようになり、国王による勝手気ままな無限の享楽による国費の浪費ができなくなりました。
⑦    昔からおよそ500万人前後と言われていた朝鮮半島の人口が、1910年時点の人口調査では1312万人でしたので、それまでは徴税額の62%が地方官僚による横領が行われていたことが判明しました。総督府の正確な人口把握により地方官僚は横領ができなくなり、全額中央政府の収入になり、国家財政の不足は改善されました。
⑧    李氏朝鮮時代の法廷は、罪人とされた人に自白するまで拷問を加える場でした。その拷問はここに書きたくないほど残酷極まりないものであり、拷問と訊問が同時に交互に行われるのが当時の朝鮮の法廷であったことが、西洋人によって報告されています。日本の関与により直ちに近代的な司法制度に改定され、公正な裁判が行われるようになりました。そして笞打ち刑は朝鮮笞刑令廃止制令(1920年4月1日)で廃止されました。
⑨    李氏朝鮮時代の監獄は、狭い所に多くの囚人を男女区別なく押し込み、一人当たりの面積が0.47平方メートルであったと記述されています。日本統治時には日本やアメリカ並みの広さと処遇にして、少年と女性の受刑者を一般の受刑者と分け、出獄後の厚生を出来るように少年たちには学校の授業を行い、一般の受刑者にも職業訓練などの教育をして、出獄後の再犯の発生を防ぐことを主にしました。李氏朝鮮時代の刑罰主義一辺倒から再犯防止主義へと監獄行政が転換されました。
⑩    李氏朝鮮時代には、経国大典がありましたが無視され、実際には国王や官僚によって統治が恣意的に行われていた面が多かった行政が、法体系を日本から移入して整備されました。『朝鮮総督府施政年報 昭和14年度』の「第1章 総説」の「第2節 法規の制定及整理」には、郵便・電信・工業所有権・著作権・会計などは日本と法制の統一を要するので、勅令をもって施行し、民法・民事訴訟法・刑法・商法・裁判・監獄・教育・地方制度・土地収用・永代借地・河川・港湾・水利組合・森林林野・漁業・鉱業・会社・銀行・金融組合・商業会議所・市場・鉄道・道路・寺刹・墓地・諸税・国税徴収・関税・医業・薬品・危険物・伝染病予防・行政執行・海事及水難救助・諸営業取締などの諸法規や法令は、朝鮮の実情に合わせて導入され、順次改正を加えながらこれらに基づいて行政を行ったことが記されています。人治から法治へと変化したのです。これにより、朝鮮の近代国家への脱皮が推進されました。これらの法体系は、日本が朝鮮から撤退した後もその多くが影響を残したものと思われます。
⑪    李氏朝鮮時代には、初等教育は書堂だけであり、書堂が女性を受け入れなかったのに対し、日本統治により小学校が普及して女性も学校へ行けるようになり、高等女子学校が57校もできて高等教育も受けられるようになりました。これにより、国民の半分を占める女性が学べるようになり、女性が男性と対等に学べる環境がつくられました。これは、最近女性大統領や大臣・長官が出るまでに女性の地位の向上するきっかけとなりました。また、家の中に閉じこもって昼間に屋外で姿を見せることがなかった女性が、日本統治時代には昼間から外に出るようになり、女性解放が進みました。
⑫    日本の統治時代に多くの朝鮮人の人材を育ちました。その一つは工場や会社を経営した人達です。『大韓民国の物語』の「第二部文明史の大転換」の「9 日本がこの地に残した遺産」の「人的な資本」の188ページには次のように記されています。
[何よりも貴重な人的資源は、店舗や工場、1920年代以降、前近代社会の褓負商(行商人)に代わって、固定した店舗をもつ商人の数がどんどん増加し、1938年段階では店舗の数が39万6000にも達しました。1939年の段階で、5名以上の従業員を雇用する工場や会社を経営する朝鮮人は4000名にも達します。その中に今日の韓国を代表する企業グループを創業した三星の李秉喆、LGの具仁会、現代の鄭周永らが含まれています。]
また、二つ目の人材グループは、学校卒業後に総督府や学校に就職した人達です。彼らは官吏として、教師として活躍しました。その数は約17万人に達していたと、『大韓民国の物語』に記されています。第三のグループは、銀行員・医師・法律家などです。第四のグループは日本へ行って会社や軍隊に入って日本の考え方や仕事の仕方を身に着けた人たちです。このような多くの多種の人材を育てて朝鮮に残してき���した。彼らの多くは李氏朝鮮時代には存在しなかった職種の人達です。日本統治時代の教育をベースにして、日本人と一緒に仕事をする過程で、或いは日本へ留学をして、あるいは独自に道を切り開く過程で、これ等の朝鮮の人材が自らを育てたのです。或いは日本の軍隊に入って厳しい規律と強い意志で自らを鍛えた人も居たと思います。このような人材の存在が、日本が撤退した後の韓国の発展を牽引したと言えます。これも目に見えない日本が残した人的財産といえると思います。
⑬    1904年8月22日に締結した日韓協約より派遣された日本人顧問は、財政の整理や予算編成に関して租税法規を制定し、歳入の確実な増収を図ると共に、旧来の徴税機関による誅求の弊害を正し、宮内府の管理していた租税や専売事業などを政府に移したが、1905年の予算で207万円(現在価値で約414億円)が不足したので、1905年から1909年までの5年間で約2070億円を日本の国家予算(日本人の税金)で補いました。
⑭    また、日本統治時代になって総督府が設立されて、朝鮮の政府として活動を始めましたが各種の費用が不足して、日本から総督府予算の不足分を1910年から1943年まで毎年多額の資金を「補充金」および「公債」として日本から投入し、朝鮮の改革に使われました。『朝鮮総督府統計年報』によれば、「補充金」の合計額は4億6610万7052円で、「公債」の合計額は15億9363万8633円で、総計20億5974万5635円が日本から朝鮮へ支援金として投入されていました。当時の20億円は現在価値に直すと約2万倍となり、約40兆円です。
植民地からは何でも吸い上げるものと一般に思われていますが、朝鮮の場合には逆に日本本土の政府から、日本国民の税金と日本人から集めた資金で、朝鮮の酷い状態を改善する諸施策を実施するために、現在価値にして約40兆円もの莫大な金額が注ぎ込まれていました。これも目に見えない日本が残してきたものであるといえます。
⑮    李氏朝鮮時代には儒学の中の性理学だけが学問と看做され、その反動で仏教は弾圧され、寺は山奥に移り、仏像などは破壊されるかあるいは地下に埋められました。日本の統治時代に日本の考古学者などが総督府と共にそれを発掘し、博物館を創ってここに展示しました。朝鮮に博物館を造ったのは朝鮮人に暗殺された伊藤博文統監でした。この時点でこの博物館の展示品は、朝鮮古来の制度・風俗・宗教・美術・工芸・その他歴史的に参考になるもので、陳列の総点数は1万3375点に達していました。
さらに、総督府は1933年8月8日に「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」を制定して、朝鮮の文化財や天然記念物が海外に売り飛ばされることを厳禁して、保護しました。捨てられあるいは埋められていた遺物を発掘し、文化財として大切にして保存する考え方は、当時の朝鮮には無く、そして考古学も無く、考古学の専門家も居ませんでした。李氏朝鮮時代と大韓帝国時代には誰も顧みなかった文化財を発掘保存した行為は、日本が残した目に見えないものです。当時の朝鮮人はこの分野に関心が持たれていませんでした。陳列の総点数が1万3375点に達していたことは、朝鮮の発掘された文化財が大切に保存されていたことを物語っています。
⑯    李氏朝鮮時代から大韓帝国時代の初めまでは、学問は儒学が全てでしたが、朝鮮が日本へ門戸を開いて使節団を日本へ送ってから日本並みの学校制度への取り組みが始まりました。しかし、本格的に学校制度が日本並みに整ったのは総督府の教育への熱意と現在価値で14兆円を超える大型投資とを待たねばなりませんでした。日本が朝鮮から撤退した時点では、女性を含めて誰でも学校へ行けるようになり、李氏朝鮮時代のように身分と性別による学習の制限はなくなりました。総督府により朝鮮の僻地にまで教育の手が差し伸べられて文盲をなくす努力がなされ、教育の重要性が朝鮮人に認識され、朝鮮人の学問と知的水準が高まりました。そして、この学校教育は朝鮮人の人的資源の苗床になりました。
⑰    李氏朝鮮時代はまともな貨幣制度がなく、商業や経済の発展の阻害要因になっていました。大韓帝国から顧問として招聘された日本人が指導して貨幣制度と金融体制を整え、朝鮮が発展する基礎ができました。朝鮮は日本統治時代になって貨幣と金融制度が整った近代国家と成りました。この金融制度が整うことで、市場経済のシステムが機能するようになりました。この市場経済システムは朝鮮が日本統治時代になって初めて経験したものであり、日本が撤退した後の現在の韓国の体制の中にも引き継がれたものであるといえます。
⑱    日本が朝鮮と交流を始めた1976年の日朝修好条規が結ばれた頃から日本による併合までの朝鮮は、衛正斥邪運動が盛んであり、朝鮮が世界で一番文明度の高い国との思い上がりがあり、洋夷と倭夷を排斥して朝鮮の対外開放と近代化を阻止しようとする両班と義兵が盛んに活躍した時代でした。日本の統治を経た後は目立った対外排斥運動はなくなり朝鮮は外に向かって目を向けた状態となりました。これは韓国が発展する基礎となりました。
⑲    日本統治時代の初め頃まで、朝鮮の各地に匪賊・草賊が猖獗を極めており、住民は彼らに襲われる恐怖におののいていました。そこで総督府は、朝鮮全土の499カ所に隈なく日本人と朝鮮人からなる憲兵分遣駐屯地を設けると共に、匪賊討伐を行い、朝鮮から匪賊や草賊は消えました。これにより朝鮮の人々は安心して生活できるようになりました。
⑳    ⑳ 日本を見て開化派となった朝鮮の人たちと福澤諭吉の高弟井上角五郎の協力により、朝鮮初の近代新聞(官報)である『漢城旬報』が1883年に刊行されました。これは井上角五郎らが新聞の必要性を訴えて、朝鮮政府の外衛門の顧問となり、外衛門に博文局を設置してもらい、井上の指導と努力のもと発刊にこぎつけたものです。初めは朴泳孝と兪吉濬が居ましたが朴は左遷され、兪は米国に留学してしまったのです。この時に使われた漢字活字は三輪広蔵らが日本から持ち込みました。
 しかし、金玉均の政変の時、博文局は放火され印刷機械が焼かれて、『漢城旬報』は39号を以て、1884年12月に廃刊になりました。
 当時、朝鮮では全ての文書や書籍は漢文でした。それは当時の朝鮮の知識人は、ハングルは真の文字ではないとして馬鹿にしていたからです。そして相変わらず知識人の特権意識としての公式書には漢字(漢文)だけが使われていました。
 実は、ハングル文字の使用は燕山君によって禁止されていました。燕山10年(1504年)7月20日、「今後ハングルを教えるなかれ、学ぶなかれ、また既に学んだ者は用いてはならない。ハングルを知る者をすべて摘告するように漢城市内に発令せよ。それを知りながら報告しなかった者はその隣人と併せて罰する。」とのハングル禁止令が出されました。
 続いて7月22日には「所蔵されているハングル書はすべても焚書せよ」との指令が出されていました。
 1506年には中宗によってハングルを研究する唯一の公的機関である「革諺文庁」を廃止されていました。このことは『朝鮮王朝実録』に明記されている事実です。
 一方、福沢諭吉は朝鮮を文明国にするためには世界で起こっていることを知り、文明開化の意味を知る必要があると考え、ハングル文字の活字を世界最初に発案し、私費でハングル活字を作らせ、漢字・ハングル混じりの新聞の発行と普及に勤めたのです。
 1885年6月、博文局総裁と成った金允植は新聞再刊のために新たな印刷機とハングル活字の購入を井上に依頼し、福沢の門人の井上角五郎は帰国して福沢が造ったハングル活字と印刷機械を買い取って朝鮮に戻りました。朝鮮史上初の、漢字・ハングル混合文を用いた『漢城周報』の創刊号は、このようにして金充植と井上角五郎とによって1886年1月に発行されました。
 ハングル禁止令以来、公的な文書においてハングルが用いられることはありませんでした。しかし、この朝鮮において、政府の関与した新聞にハングル文の記事が採用されたのです。約382年間も顧みられなかったハングルが福沢諭吉と井上角五郎によって蘇ったのです。しかし残念なことに、赤字財政のため博文局が1888年7月7日閉鎖され、2年と6カ月で『漢城周報』は廃刊となりました。
 その8年後の1896年になってようやく、「独立協会」によってハングル文字の『独立新聞』が発行されました。この新聞は福沢諭吉が提唱したのと同じ主旨で、民衆の意識を呼び覚ますために、ハングル文字で発行されました。
 また、日本統治時代の学校の教科書は漢字・ハングル混合文で編成され、これが使われました。それまでは漢字だけの教育が書堂でなされていたのですが、日本の統治時代になって初めて190万人の小学生に対する6年間のハングル文の必須科目としての学校教育によって朝鮮人の識字率が大幅に向上し、文化や産業の発展の基礎になりました。
 現在の韓国の文字ハングルは、約382年間も公式には顧みられませんでしたが、福沢諭吉と井上角五郎によって再び日の目を見るようになったものであるといえます。しかしなぜか、現在の韓国の教科書は、上記の幾つかの大切な事実を完全に隠蔽して、若者に教えていません。
㉑    李氏朝鮮時代の末期まで、病気になると、医師といえる人と病院がなく、病気に対する知識もなかったので、巫女や祈祷師に依存して居たようです。日本統治時代になって医療制度が整いました。『歴史を偽造する韓国』によれば、京城帝国大学の医学部において最先端の知識と技術を持った朝鮮人が1929年から1943年の15年間で237名が卒業したことが記されています。その結果と総督府の努力により、身近に医者や病院ができて医療環境が整い、そこで診てもらうと病気が治るようになると、巫女や祈祷師に依存しなくなりました。
㉒    李王朝時代までの朝鮮は儒教の国でした。儒教は序列が基本です。その序列は儒教の生まれた中国は大中華で朝鮮はそれに次いで「小中華」で、儒教を知らない日本は「蛮夷」であるとして蔑視していました。
 日本の統治時代を通じて朝鮮の小中華思想は完全に消えたと思われましたが、まだ基本的な部分で残っています。例えば韓国では日本の「天皇」を「日王」と表記しています。蔑視していた日本が「皇」と称することは許せないので、皇より下の王の表現にして日本を蔑む侮日の気持ちが、現在でも「日王」の表現を用いさせていると思われます。
 これは日本に対して失礼極まりないことですが、そのことに韓国の人は気付いていなのか、あるいは気付いているからこそ、このような日本を貶める表現を使っているのかもしれません。
㉓    朝鮮では儒教の教えで「親からもらった体を傷つけてはいけないとの思想から、髪の毛は生涯一度も切らない習慣がありました。高宗が断髪令を出したところ、日本人とそのときの金弘集政権へ非難が集中し、国王はそれを撤回して、民衆に近代化の改革を進めていた金弘集総理を殺させました。このような激しい反発があった断髪令ですが、その後自然に髪の毛を切る人が増えて、日本の統治が終わる頃には殆どの人が断髪していました。これは日本が残したものと言えないかもしれませんが、その影響はあったと思います。
㉔    純宗は皇帝就任の3年後に勅諭を発して、日本との併合に踏み切りました。併合条約公布に際し大韓帝国皇帝が公布した勅諭を、朝鮮語の『朝鮮王朝実録/純宗実録3年』の邦訳を、『フリー百科事典Wikipedia』から引用して次に記します。
[皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
 此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せしむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
 惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ
 朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年(1910年)八月二十九日 御璽]
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 上の大韓帝国皇帝が公布した勅諭は、新羅の最後の国王が、王子たちや大臣たちの反対を退けて、高麗に降ったときと同じ思いが記されています。純宗の勅諭のアンダーラインを付した部分の記述は、純宗の思いが、新羅の国王が高麗に降ったときと全く同じです。新羅の敬順王にとって隣に高麗があったように、純宗にとって、隣に日本があったのです。これも、日本が朝鮮に残した目に見えない影響だと思われます。
 「韓国併合ニ関スル条約」の協議調印に関する内閣総理大臣李完用への純宗皇帝の全権委員任命状を示します。御璽御名が印されています。
㉕    日本人は朝鮮から引き揚げる時、1000円だけ身に着けることが許されました。その結果、個人と企業などの銀行預金などの金融資産は全部朝鮮の誰かのものになったのです。日本が朝鮮から撤退しても、その時まで朝鮮では日本のお金が通用しており、朝鮮人も朝鮮の企業も、資産はすべて円です。ですから、円の価値を直ちに零にすることは不可能です。日本人が引き上げた後も、何らかの対策が取られるまでは、円の価値は朝鮮では保持されたはずです。その対策が執られても、それは円を変換(交換)する必要があるだけです。日本人が残して来た莫大な現金資産を、朝鮮人の誰かが自分の物にしたのです。
㉖    日本は朝鮮の地に,誰でも自由に活動できる資本主義経済システムを残してきました。1939年時点で、朝鮮に於ける職業別戸数がこのことを示しています。『総督府年報 1941』の「第1章 総説」の「第3節 戸口」によれば、
全戸数   :朝鮮人412万3646戸、 日本人 16万1400戸
農業    :朝鮮人292万5988戸、 日本人    7047戸
水産業   :朝鮮人    6万4355戸、 日本人    2233戸
鉱業    :朝鮮人    7万1532戸、 日本人    5966戸
工業    :朝鮮人  12万2341戸、 日本人    2万6478戸
商業    :朝鮮人  30万2704戸、 日本人    3万0725戸
交通業   :朝鮮人    4万6696戸、 日本人    9146戸
公務及自由業:朝鮮人  14万1572戸、日本人    6万6007戸
その他有業者:朝鮮人  34万6148戸、日本人    6731戸
無職    :朝鮮人  10万2249戸、日本人    7068戸]
 その他の外国人が1万1478戸ありましたが省略しました。農業と水産業と商業の一部の行商人以外の職業は、日本統治時代に生まれた新しい職業であるといえます。農民が冬季に副業としてやっていた家内の仕事は、独立した職業といえる状態ではなかったと思います。1910年の日韓併合を経て、1939年には朝鮮に新しい経済システムができていたのです。このことは、1939年の朝鮮経済が次のように成っていることから明らかです。倍率は1910年比です。
払込資本金:60.9倍12億1187万円(現在価値24兆円)
貿易総額 :40.1倍23億9524万円(現在価値48兆円)
銀行貸出金:36.8倍15億0644万円(現在価値30兆円)
 朝鮮人の誰も特定の職業に就くことを強制されていませんでしたから、これは誰でも自己の能力に応じて自由に参加できる資本主義経済システムであるといえます。この資本主義経済システムへは、朝鮮人が日本人の何倍も多く参加していましたので、日本が朝鮮から撤退しても急に消滅することはないと思われます。
 以上が、日本が1876年に朝鮮と交流を持ってから1945年に撤退するまでの69年間に朝鮮に影響を及ぼして残した無形の事柄です。
 なお、余談ですが、韓国に博物館を作り、韓国人に暗殺された伊藤博文公爵について、この暗殺をした人物を韓国は英雄として称えていますが、殺された伊藤博文公爵の朝鮮に関する考えを紹介したいと思います。
 その一つは、新渡戸稲造の『偉人群像』に、伊藤公爵が語った言葉として、「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」いっていたと記されています。このように、伊藤公爵は朝鮮人を高く評価し、併合には反対だと主張していました。そして、日清韓の連帯を唱えていました。日韓併合に反対していた伊藤が暗殺されてしまったために、その後、山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになったのです。
 二つ目は、近年発見された伊藤公爵の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていたことを裏付けるものだ」としています。しかし、伊藤公爵は暗殺されてしまいました。残念ながら、これが現実です。
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honryu2 · 4 years
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第一章     若い感受性ゆえの挫折
1976年、私は中国のごく一般的な家庭の3人兄弟の末っ子として、ハルピンという街に生まれた。両親はともに教員をしていて、中国では大学の教員は基本的に大学キャンパス内のマンションに住むことができるので、私は子供の頃、キャンパスならではの運動施設や広場、緑豊かな公園などに恵まれ、伸び伸びと過ごせたと思う。
 当時のハルピンは三階までの建物が多く、街の中でも荒地があちこちあり、それらはすべて子供にとって楽園だった。夏には、トンボや蝶を追ったり、バッタを捕まえたり、冬には野外でアイススケートしたり、橇を作って遊んだりしていた。近所の子供たちもよく一緒に遊ぶ時代で、今の中国の街では見られない風景だった。
 ハルピンは20世紀始め、ロシアが中国の東北地域の植民地支配を始めた頃、鉄道の重要な拠点として街をつくられた。ロシア本土の街と違って、極東にあって、ヨーロッパ的な都市を一から作るため、ロシア側にはしっかりとした都市計画があったようだ。20年代ではとても美しいロシア風の街のひとつで、シベリア鉄道の終起点の一つでもあった。当時ヨーロッパからの資本や銀行がたくさん入っており、ユダヤ人も大勢おり、アジアで上海の次に国際色の強い街だった。30年代に入ると日本に占領され、満鉄の重要な街として日本にも知られた。ロシア風の古い建物が多く、文化的にも東欧からの影響が濃く存在していた。今でも北京より遥かにお洒落で、ファッションセンスのある街である。
 50年代以後、毛沢東の「北大荒(中国の東北にある黒竜江省など人口密度の少ない地域)開拓」の呼びかけに応じて、多くの若者が故郷を離れ、全国各地からハルピンにやってきた。そのためハルピンの人口は膨らんだ。中国には各地方の方言があるが、ハルピンは一番標準語に近いと言われる。各地方の人たちが集まったので、標準語を使うしかなかったからだ。
 母と父は大学卒業後少し南にある遼寧省からやってきた。父は普通の鉄道員の家庭出身だが、母は資本家家庭出身で、波乱万丈の中国近代史を間近で見てきた。小さい時から母はよく戦時中のことや、社会主義の前の中国のことを話してくれてい���ので、日本への最初の印象はその時出来上がったように思う。
 そのことに少し触れたい。母の曽祖父は清王朝の官吏で、清が滅んだ後、賭博場(今でいうカジノ)を経営し、瀋陽で(満州時代は奉天と呼ばれた)では多少名の知られた人物であった。軍閥張作霖とも親交があり、1931年の満州事変(日本関東軍による張作霖暗殺、満州出兵)の後は日本軍から警戒されていて、相当な不遇にあった。しかし三人の娘は皆顔立ちが綺麗だったために、それぞれ満州時代の商売人や当時の高官に嫁いだ。私の祖母の嫁ぎ先、すなわち私の祖父は瀋陽で屈指の商売人だった。日本とも貿易があったため、よく母を連れて日本に来たりしていた。母は、日本の女の人が和服を着て綺麗だったと私によく話してくれた。瀋陽の中心街に住んでいたので、(東京でいうと銀座のような場所)、平和に暮らす日本人しか見ていないので、日本に対して非常に良い印象を持っていたようだ。
 母は南満洲鉄道の「アジア号」の話をよく聞かせてくれた。当時家族で豪華な車両を貸し切りに「アジア号」に乗っていたといつも自慢げに話していた。「アジア号」は当時では世界一速かったらしい。私には半信半疑だったが、何年前に日経新聞を読む時に、偶然に「日本が世界に誇る列車、アジア号」の話が出てきて、とても懐かしかった。
 私の子供頃は、よく「一休さん」と「おしん」、そして「姿三四郎」がテレビで放送されていた。そのお蔭で、その時代の中国人は皆日本に対してとても好感を持っていた。礼儀正しく、辛抱強く、真摯的で、それが90年代以前の中国人の日本に対する印象であった。もちろん、愛国主義教育で戦時中日本はどれだけ中国に対して悪いことをしたかという教育と、日中戦争をテーマとした映画の中では日本は「鬼」と化しているが、だれでも戦時中の日本人と実際の日本人とは別者に考えていた。それは今でも同じだ。最近日本のメディアではよく、中国人は愛国主義教育のため日本を嫌いになっていると言うが、それは単に中国の事情知らないだけである。或いは意図的なものかもしれない。最近の日本嫌いは、どちらかというと、日本人が自ら自分の美徳を見捨てたところにあると思う。昔の日本人ほど尊敬できるところは少なくなった、というところからだと思う。
 また、私の中では、昔から「自国が弱ければ虐められるのが当然」という考えがあった。歴史知識があるなら当然思うことかもしれない。中国はアヘン戦争以後、日本だけでなく、ヨーロッパ列強に侵略されていた。だからといって、日本の侵略戦争を好意的に解釈するつもりはない。侵略戦争はいつの時代でもどこでも起きている。しかし、近代に入ってからは、大量の民間人の虐殺の伴う侵略、とくに残酷な手段による虐殺は許し難い。ナチス・ドイツを許し難いのは戦争を起こしたからではなく、大量の民間人を意図的に迫害し、虐殺したことにあると思う。第一次世界大戦もドイツによるものだったが、そこには大きな違いがあった。
 それが過去であって、狂った時代であって、少しでもまともな人はそれが今の日本と結びつかないだろう。政治家たちは政治交渉のカードとして出すかもしれないが、本気で当時の日本と今の日本と同じ風に見る人はいないと思う。むしろ、中国の教科書には、明治維新の意義やそれに対する評価が高く、中国ではそれがうまくできなかったから取り遅れたというような論旨も見えた。私が日本留学を選んだのは、経済、技術大国となった日本への憧れもあるが、それ以上に明治維新や戦後急速な復興を成し遂げた日本に対する尊敬の気持ちがあったからだと思う。
 当時の中国では、優秀な学生たちは皆海外留学を望む時代だった。留学のことを「渡金(金箔を付けるという意味)」と言われ、企業でも大学でも留学経験のある人を重要視される傾向もあった。国としても外国に学び、自国を高めたいという時代であって、個人レベルでは、当時の中国人は海外にいくことはほとんど不可能な時代で、外の世界を見る唯一の手段は留学だった。先端の知識への渇望と好奇心が私達を駆けたてたかもしれない。
 私の場合、高校入ってからよく英語で海外の本や雑誌を読んでいたので、当時の中国の雑誌の世界観が私にはとても狭かったし、いつか海外留学したいという気持ちが強かった。当時の中国の優秀な学生は皆アメリカ、またはドイツか日本留学を選ぶ時代であった。私は日本留学を考えた。猛勉強をして、高校一年生の時にはすでに高校の卒業試験を受けて、試験に合格し、卒業証書をもらい、留学の手続きを始めた。
 *     *  *
 こうして、1992年1月、高校三年の前期を終えて、私は一人で東京にやってきた。東京・小平で月1万5千円の木造のぼろアパートを借り、高円寺にある日本語学校に通い始めた。
 当時の中国は貧弱そのもので、ほとんどの留学生は自分で生計を立てなくてはいけなかった。本国からの仕送りを受けるどころか、多くの留学生は日本で稼ぎ、本国に送金する時代だった。私も、日本語はゼロから勉強し始めたが、三ケ月ほどでなんとか伝えたいことは言えるようになり、アルバイトを探し始めた。たまたま知人の紹介で、ある指圧の先生の下で指圧を習い、三鷹、立川そして福生などで指圧のアルバイトをしていた。仕事を選ぶまでもなく、とにかく経済的に自立したかった。
 家に帰るのはいつも深夜で、疲れてすぐに寝てしまう時もあった。これでは目標としたこの年の進学には間に合わなくなるので、アルバイトが終わっても家には帰らず、家の近くの東京学芸大学の教室に忍び込んで、朝まで勉強したりしていた。今思えば、喫茶店やファミリーレストランでも勉強できたが、当時まず知らなかったことと、生計のことと進学の学費など考え、とにかくお金は使えなかった。それに、当時の中国は一食10円程度の時代だったので、日本に来てすべてがあり得ないくらい物価が高かった。来日まもなく月20万円ほど稼げたが、ほとんど貯金に充てた。
 苦労したという人もいるかもしれないが、私はそれを苦労と全然感じなかった。それより当時の中国はATMもコピー機械すらなかった時代なので、日本に来てすべてが新鮮に感じた。とにかく日本語を覚え、進学のことだけを考えていた。アルバイトに相当の時間をつぎ込んだはずだが、意外と日本語の勉強も猛スピードで進んでいた。
 大抵の人は日本語学校に一年半か二年間通うけれど、私は半年経ったところ、今年の受験でも行けると感じた。日本語はまだまだ習っていない文法や語彙も多かったけれど、雑誌や新聞を読んで、知らないものと出会ったら自分で辞書さえ調べれば、理解できるようになった。もう一年日本語学校に通うことは時間の無駄だと感じた。
 しかし、私の通った学校は社会人向けで、進学指導はなかった。多くの日本語学校では進学指導があることさえ知らなかった。すべて自分で準備するものだと思っていた。そして、その年の9月から、午後のアルバイトに行くまでの時間、東京学芸大学の図書館に通い、日本の高校の教科書を巡りはじめた。
 その二ヶ月後に、日本語能力試験とセンター試験を迎えた。有機化学ではほとんどカタカナでとても覚えられなかったし、微積と線形も中国の高校では今外されて、大学で勉強することになっていたので、さっぱりできなかったが、それ以外の部分はほぼ満点を収めたので、留学生の中では7番目だった。
 当時の自分は情報がなかったので、早稲田が日本で一番いい大学と思い込んでいた。早稲田の試験を受ける時に、試験官はとても傲慢だったのを覚えている。しかし試験問題は、それでも高校生の試験問題なのかと思うくらい簡単だった。
 1月に入ってたまたまある塾の数学の先生と出会い、彼は私の成績を見て、あなたはとても早稲田に行く人ではないよと言われた。そして旧帝国大学のことを教えてくれて、東大か、京大、東工大を受けるべきだと言われた。せっかくだから日本の政治経済の中心地に残りたいので、東大と東工大を出願したところ、東大は高卒2年以内でないと受ける資格がないと言われ、結局東工大しか受けられなかった。
 そのことを少し説明しないといけない。私は高校入って海外留学したいという気持ちがあったので、高校の授業を一年で一通り勉強し、高一の時にも卒業試験を受けて卒業証書を取得していた。そのため、卒業証書では、二年過ぎてしまったことで東大を受ける資格はなかった。そのことは、自分の中でとても悔しい思いをした。
 その後の早稲田の面接の時に、20人ほどの先生たちに一周囲まれて、日本語もまだ慣れていない来日一年目の自分は、とても緊張していた。しかし、聞かれているのはほとんど学費払えるかの経済問題。少しずつ、私が勉強しに来ているのに、なんて学費のことばかり質問するのだと反抗心が強くなり、もともと東大を受けられない悔しい気持ちが胸いっぱいだったので、なぜかすごく胸が張って答えられるようになったと今でも覚えている。
 しかしその後の東工大の試験はまったく違った。試験官も全く高圧的な態度はないが、試験問題は泣きそうなくらい難しかった。数学は三割しか解けなかった気がする。それでも合格できたのは物理と化学、英語が良かったかもしれない。面接の時も面接官はとても優しかったのを覚えている。うちの学科に来ないか、そんな具合だった。
 大学入学まで残りの二ヶ月はとにかく学費・生活費を稼ぎ、高校で習っていなかった微積と線形代数を勉強した。そんな思いだけだった。深夜のコンビニのアルバイトもした。昼間はまた普通に指圧のアルバイトをしていた。ある時、コンビニのバイトで徹夜上がり、昼間も普通に勉強できて、倍の時間を使えたと嬉しくて電話で母に話した。そうしたら、母に「体壊すよ」とすごく叱られた。でも母の言うことを聞かなかった。そんな生活を一週間ほど続けていたある日、電車を乗っていたら、吐いてしまった。母が正しかった。
 東工大入学後、更に悔しく感じることはたくさんあった。それまで高卒で東工大に入学した留学生は私一人だけだった。なぜなら、中国では高校で微積と線形代数を教科書で扱わないし、また英語の試験は国によって試験問題はまったく違うので、よほど余裕がないと、外国で受ける、つまりまったく系統の違い試験問題を受ける時にいい成績を取りづらい。だから、中国で大学に一度入って一年、二年で中退して来日した学生の方が高卒の人より遥かに有利だった。中国の大学は日本と違って、高校並に勉強できるところなので、彼らは微積や線形代数、そして英語がとても余裕だった。
 だから、東大が高卒二年以内という制約あって、競争少ないため、留学生にとって東工大より遥かに入りやすかった。東工大の場合、大学中退した実力のある学生たちが上位並んでいるので、中国高卒の留学生が東工大に入れた人はこれまで私以外いなかった。私の場合、数学以外は、彼らに差を付けられなかった。英語でさえ、もともと海外留学を考え、高二の時猛勉強したことがあり、そのお蔭ですっかり英語が好きになり、自然科学、経済、歴史、哲学まで英語で読むことが好きになった時期があって、高二の時に中国大学院の入学試験(5級)に合格していた。
 こうして、東大を受ける資格のない留学生の中の成績上位の学生たちは皆東工大に来ていたので、私の成績は東工大では7番目となったため、初年度奨学金をもらえなかった。東大を受けられれば一番になれたのに。悔しくて学校に事情を話しに行った。留学生課の先生は細かい事情を当然知るすべがなく、一応理解を示し慰めてくれた。しかし、期待したところ、何も具体的に助けてくれなかった。今思えばたった月7万円の奨学金だが、しかし、当時の私たちには大きな意味があった。なにせ、親の一ヶ月の給料は4千円だった時代。生計を自分で立てている私たちには学習時間にそのまま直結するものだった。そのことで、私の後の人生に大きな影響を与えた。二つのことを心に銘記させられた。
 一つは日本の奨学金制度に対する疑問から。奨学金は、優秀な学生にあげるべきなのに、日本の場合は、各大学に平均的にあげる傾向があった。援助金のようなものだった。皆平等に扱うという発想からかもしれない。私が日本の平等意識に疑問を抱き始めたのはその時からだった。
 もう一つは人に頼ろうとしなくなったこと。だれかが同情してくれて助けてくれるだろうと期待したところ、結局、自分しか頼りにならないことはその時思い知らされた。その時から、人や社会に頼らず、自分の力で生きていく、と心の中に決めた。それは今の自分の生き方そのものになっている。
 後の話だが、私が創り上げた馬上の旅では、日本的でないものがたくさんあった。たとえば、乗馬の際に、私は参加者を平等に扱っていない。素質のある人が私���特別扱いして伸ばしていく、けっしてできる人を抑制して平均に合わせるようなことはしない。普通の日本人の考えだったら、だれかを特別扱いして他の人から反発を受けるだろう。しかし私はそんなことを気にしない。素質のある人を伸ばすことで、他の人にビジョンを示すことができる。そうすると他の人も頑張ってくれる。結果的に皆が早く上達できる。どんどん上にいくからこそ見える世界がある。それこそ人の権利を尊重することにあると思う。もし、私が旅での中で結果的な平等のやり方にしてしまったら、だれでも不完全燃焼になってしまい、魂まで喜びを覚えるような境界は一人も達せなかっただろう。今の日本社会はまさにこういった結果的平等の考えによって、完全燃焼ができなくなっている。抑圧的な社会になっていく。日本社会はそういう意味で、平均に合わせようという力が大きすぎる。もっと上に行けて、もっと大きなものを知れる人の権利が奪われたのと同然なのだ。
 奨学金を得られなかった分、自分で稼いてやる。そんな気持ちの中、大学��最初の二年間は、アルバイトを沢山した。田園調布駅で朝の通勤ラッシュ時にホーム要員として働き、夜は工場で働き、土日は指圧のアルバイトを入れ、7つものアルバイトを掛け持ちしていた。地下鉄サリン事件の時は、永田町のビルで朝の掃除のアルバイトをしていた。事件があと10分でも早ければ、自分も被害者になったかもしれない。
 今思えば、これらのアルバイトの経験は、日本社会を間近で見る貴重な機会になった。その後、独立創業する自分に大きな意味があったと思う。
7つのアルバイトはいずれも朝9時から夜5時までの学校の時間に重なっていなかったので、大学の友人たちは私が全くアルバイトをしていないと思われた。しかし当時、アルバイトで月20万円ほども稼いだ。当時の一か月の生活費の出費は家賃を含めて3万円程度だったので、実はそんな稼ぐ必要はなかったが、中国からの貧しい留学生の中では、多く稼げることはそれも一つ能力を測る基準であった。今思えば、私達は学生でありながら、生計を自分で立てている時点で、多く稼げる人もそんなに稼げない人も、立派に社会人として独立していたと思う。が、同じ条件、同じ出発点だからこそ、その中に自然と競争意識が生まれ、一つの価値観が形成されていく。
 同じ東工大でも、アルバイトが見つからない人はたくさんいた。私に紹介してほしいと頼みに来る人もいた。私は可能な限り彼らを助けていたが、同時に彼らを叱りたくもなった。私たちは能力も状況も同じなのに、何て自分で見つけられないのだ。99軒に断られても、100軒目に期待する。それが当時の私の心意気だった。自分ができない、失敗だと認めない限り、できないことはない。その時からそう思い始めた。
 経済の独立への執念が強かったため、勉強は疎かにした。勉強時間はほとんど電車の中だけになってしまった。学習意欲も次第と下がっていた。そうさせたのは、日本の大学教育に対する失望感と進学後の挫折もあった。
 後で分かったことだが、東工大の授業は、日本の大学の中でもとりわけ難しかった。特に自分の専門とする制御システムの学科はそうだった。東工大の二年生の授業は東大の大学院一年レベルとも言われた。とにかく自分の研究をそのまま伝えている先生が多くて、どう教えれば学生のためになるかということをまったく真剣に考えていなかった。大学の先生は研究者である前に、まず教師であって教えることが仕事だということを忘れている先生が多かった。
 勿論、当時の私の日本語能力も問題だった。授業中一生懸命聞いていても、いざ演習となると、隣でずっと寝ていた学生から、これは先生が言ったのではないかと言われたりした。理系の場合、外国語で学ぶ時、ある程度知識を俯瞰できる余裕がなければいけないことは身をもって知った。
 そして、東工大の学生は、物理問題もすべてが微積で考える。それが微積を独学で習い、まだ自由に操れない自分は、微積の考えについていけなかった。高校まで物理も数学も学校では一位だった自分が、そんなふうに「差」を付けられてしまうことがとても悔しかった。今でも納得しない。微積の考えを高校の時点で物理に導入することは私が賛同できない。考えが安易になって、直感的な“物理力”ができなくなる。
 大好きな勉強に楽しみがなくなった。しかし、その一方で自信はあった。その自信はどこか別なところに訴えようとした。
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hello-diversity · 5 years
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[テキストアーカイブ]触れる、聞く、嗅ぐことから…新しい“ユニバーサル・ミュージアム”を考える
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出演:広瀬浩二郎(国立民族学博物館)、角野史和(一級建築士事務所こと・デザイン)、中元俊介(福祉事業型「専攻科」エコールKOBE)、吉川史浩(Water Ground Mountain)
進行:横堀ふみ(DANCE BOX)
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この日の後半は、角野史和さん、中元俊介さん、吉川史浩さんがまず自己紹介を行って、広瀬さんがこの日、新長田のまち歩きをしてみた感想を話してから、3人による広瀬さんへの質問タイムがはじまりました。 ここでは、広瀬さんのまち歩きの感想から掲載します。
なお、この秋には「下町芸術祭」のプログラムとして、広瀬浩二郎さんによる新長田でのまち歩きが計画されています。
広瀬:まず商店街を歩いてきて、わりと大きな通りで音楽なんかも流れていたので、それなりに元気な商店街なんだという感じがしました。広い道を歩いているときはあまり左右の感覚ってわからないのですけど、それが路地になると迫ってきて、いろんな音も聴こえてくるので、今日は路地を歩かせてもらったのが楽しくて、まちの雰囲気がわかりました。やっぱり路地に入るといろんな匂いがして、生活してるんだなというのが伝わってきます。 僕は不勉強で海がこんなに近いと思ってなくて、なんとなく潮の匂いがしてきて、ふと気づいたらチャポチャポと波の音が聴こえて、ウミネコですか…が鳴いてたりして。個人的に面白かったのは、そこにおじさんがたむろしていて、帰ってきた漁師の方かなと思ったら、どうもそうでもないらしくて、日本語なんだけど最初から最後まで何を話してるのかまったくよくわからなかった。それでも楽しげに話していて、地元の人なんだなという感じで。 後半は市場の方へも行ってみて、すごく細い道を歩いたりして、ベトナム料理店に入りました。まず、その第一印象はうるさい(笑)。みなさんベトナムの方なので内容はわかりませんけど、楽しそうにしゃべっておられて。店のおばさんは日本語が話せる方だったので、注文をして、食べて、「おいしかったです」と言って出てきましたけど、やっぱり独特の雰囲気でほんとにベトナムにいるような感じがして、暑かったうえに、熱いものを食べたので汗だくになりましたけど、食べるということは見えない者にとって、まちを感じるうえでやっぱりすごく大事だなと思います。 僕も最近、「ユニバーサルツーリズム」という言葉を使うことがありますけど、ユニバーサルミュージアムという博物館での実践をまち歩きにもどんどん応用していこうという発想でいます。ところが、研修会や講演なんかに行ってみると、いろんな障がいのある人が旅行すること、イコール、ユニバーサルツーリズム、インクルーシブな社会なんだという言われ方をしていて、たしかにその発想も大事なんだけど、ここのプロジェクトで言ってるような「ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ」というのは、そういうことではなくて。たとえば、視覚障がいの人がまち歩きでは、匂いや触るってことをメインに考えるんだけど、別にそれは見える人にとっても応用可能で、普段の視覚中心のまち歩きじゃなくて、触覚や嗅覚にフォーカスしたまち歩きをしてみましょうと。そうすれば、これは「ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ」のユニバーサルツーリズムになってくるので、せっかく新長田でチャンスをいただけるなら、そういう一歩進んだ企画ができたらいいなと思っています。
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角野:広瀬さんは「無視覚流まち歩き」という言葉も使われてますよね。ユニバーサルツーリズムよりも、そっちのほうがしっくりくる気がしました。
吉川:広瀬さんがユニバーサルツーリズムのようなことをこれまでにされてきた中で、参加者の方がどんな反応をして、どんな感想があったのかを聞いてみたいです。
広瀬:そんなにたくさんやってるわけじゃないですけど、評判もよかったのは、大阪の空堀でのまち歩きです。空堀のNPOに協力依頼をして、最初は、僕ともうひとりの視覚障がい者でお願いにいきましたら、向こうの方々も視覚障がい者を受け入れるのは初めてだということでかなり戸惑いがあって、警戒をされながらもこちらが押しかけていって、とにかく顔を付き合わせるうちに話を進められました。 空掘も昔ながらの商店街で、商店街がとても協力的でしたので、いっしょに巻き込んで、たとえば、かつお節を実際に削る体験をやってみたり…それも当初は、NPOの方から「目が見えないと刃物は危ないからムリだ」と言われましたけど、「とりあえずやりましょう」ってやってみたら、案ずるより産むが易しでやれて、そういう打ち合わせを重ねました。結果、目の見えない人と健常者がざっくり半々くらいで集まって、基本的にはペアで歩く形のまち歩きを行いました。商店街の方々もサービス精神が旺盛だったので、結構いろんなものをただで出してくれたりということもあったし、空堀は地形に起伏があって、坂を感じ���りだとか、場所によって日の当たり方が違っていたりもしたので、視覚障がいの人も健常者も視覚以外の感覚で楽しむというところに反応してくれた印象がありました。秋に新長田でまち歩きができるなら、角野さんと何度か安全確認もふくめて下見をして、打ち合わせを重ねることが、まち歩きを成功させるには大事なのかなと思います。
角野:今の話を聞いてると、なんか無料で食べ物を出さなあかん気がしてきました(笑)。
吉川:どの店やったら出してくれるやろうって、ちょっと想像しましたね。
角野:僕にそんな力あるかな(笑)。ハードルが上がりましたね(笑)。見える人と見えない人が半々ということですけど、そこでコミュニケーションとかもあったんでしょうか。
広瀬:視覚障がい者のひとり歩きは危険ですから、見える人と見えない人がペアで歩きました。こちらの7月のキックオフ・ミーティングでも「距離感」というキーワードが出ていたと思いますけど、視覚障がいの人と晴眼者の人では、歩くときの距離感が明らかに違います。今日、僕が新長田を歩いたときには横堀さんの肘を持たせてもらって歩きました。これって、よく言われるのは、たとえば男女のカップルでデートをするときに、一番むずかしいのは手をつなぐところまでに非常に時間がかかるんだけど、視覚障がい者はそこを飛び越えてすぐに近寄れるじゃないか、恵まれてるみたいなことを言われて…僕は自分のうん十年の経験から全然そんなことはないと思うんですけど、距離感ということでいえば、たしかに肘を持たせてもらうって文字通りの触れ合いですよね。そこで親しくなれる部分はある気がしますし、特にまち歩きの場合は、おおげさにいえば、これはノンバーバルコミュニケーションで、肘に触れてることでいろいろ伝わってくるわけです。階段を上がるときには肘が上がるし、ちょっと怖いところを歩いたり警戒するときにはこちらもぎゅっと握ったりすることもあるので、これを触れた点でのひとつの新しいコミュニケーションだと考えると距離感が縮まる気がします。 だから、まち歩きをする前には準備体操のように、触れた点を意識して動くみたいなことをしてから、まちへ出るようにしています。そうすると、私は誘導する人、あなたは誘導される人という意識が少しなくなって、その分、一緒に楽しむという意識が出てくるような気がします。横堀さんは今日歩いてみてどうでした? ずっと連れて歩くというのはうっとおしかったでしょうけど(笑)。
横堀:このままどこかに飛んでいきそうな子どもを引き止めながら歩くような感じがしました。でも、広瀬さんと歩くのはドキドキしましたね。自分の思てることを全部見抜かれてそうで。そのドキドキも全部伝わってるんだろうなと思って。それもすごく楽しかったです。
中元:ちょっと話がズレるかもしれないですけど、触れること自体が踏みこんでいくことなんだろうなと、そして、そういう触れることがコミュニケーションなのかなとお話を聞いてました。僕は、芸術的な感覚で考えるところが多くて、コミュニケーションをとることがアートだと感じているので、その触れて、嗅いで、感じてっていうまち歩きからコミュニケーションが生まれるというのがいいなって。 今日はじめて広瀬さんとお会いしたと��、最初って何をしゃべったらいいかなと思いながら、僕ら沈黙してしまったんですよね。広瀬さんに会って挨拶をした後に。沈黙したときに気を遣うっていうとあれですけど、広瀬さんは沈黙をどういう風に感じてるのか。見えないからこそ感じてることもあるのかなって。
広瀬:僕もおっさんなので、だんだん図々しくなってるんで、あまり考えないようにしてますけど、やっぱり沈黙は苦手で。いちばん僕らが苦手なのは立食パーティーで、それは沈黙とは違いますけど、たとえば、知らない間に角野さんが来て、知らない間に中元さんが去ってるというようなことがよくあるんです。周りがガヤガヤしてるとよくわからなくて、さっきまで中元さんと話してたから、「え、中元さん、なんとかだよね」って言うと、もう中元さんはいなくて返事が返ってこない。で、角野さんが「あれ、中元さんはもういないよ」って言われたときに、その恥ずかしさというか、その場にいられないような感覚。これはなかなか慣れないものです。立食パーティーでもういっこイヤなのは、僕はわりと大食いで、そんなにお酒は飲みませんけど、飲みっぷりもいいと思われていて、知らないうちに結構注がれてる。もうお腹いっぱいだからいらないや、と思ってたら、いつの間にかまたよそわれて、しょうがないから食べたら、「やっぱり大食いなんだ」と思われて、またよそわれて(笑)。だから、特に視覚障がいの人とコミュニケーションの場合は、声かけが大事で。これ、親しくなるほど忘れられるんですけど(笑)、ごめんなさい、質問からちょっとズレましたけど、たしかに沈黙されると相手が何やってるのかはわからないので、沈黙しても気配は消さないでほしい。ゴホンゴホンってやるとか、資料を読んでるならガサガサ音をさせるとか。 あと、ついでにいうと、吉川さんも中元さんも福祉の仕事をされてるから語弊があったらよくないですけど、「ふれあい」という言葉が障がい福祉の世界では使われていて、僕はその「ふれあい」ってイヤな言葉で、マジョリティの側が「さあ、ふれあいですよ。障がい者の方もどうぞ」って感じを感じなくもない。もともとの、漢字で書く「触れ合い」は相互接触ですから、いい言葉のはずで、さっきから話してる一緒に歩くというのも触れ合いですよね。漢字で書く「触れ合い」を大事にして、ひらがなの「ふれあい」と区別して使ったりしています。 もうひとつ、中元さんから芸術の話が出て、絵画は難しいですが、彫刻作品を触るというのは、おおげさに言うと作者とコミュニケーションしている、作者の制作を追体験してるみたいなことになります。作者の思いや、どんなエネルギーを込めてこれをつくったのかを想像しながら触ると、それがたとえ間違ってたとしても作品とのコミュニケーションであり、作品の向こうにいる作者とコミュニケーションできるので、特に彫刻や立体物の場合は、触るというところがひとつの強みになるんじゃないかなと思っています。
吉川:角野さんもまち歩きでめっちゃ触るじゃないですか。
角野:そうですね。東京駅にあるKITTEという建物は、足もとにすごくなめらかな曲線が使われてるんですね。柱とか、もとはひとつの石だと思うんですけど、それを目で見るだけじゃもったいない、触りたい、「ほんとに石だ!」みたいな…たまらない(笑)。たぶん、鑑賞に触覚を使うのはとても贅沢なことで、僕なんか形を目で見るだけではもったいないという気持ちで触ってるんですね。それはすごくいい体験になるんちゃうかな。
横堀:角野さん、もし新長田のまち歩きのなかで、触るんやったらここやみたいなのってありますか。
角野:新長田は匂いとか、あるいは狭さとか、そんなんを感じてもらえたらと思ってるんですけど…海の匂いもあるし、どちらかといえば、ぱっと思いつくのはそっちですね。食もそうだし。真野地区って隣り町ですけど、そこはゴムの加工が多くて、ゴムの匂いがすごくするんですね。範囲が広くなりすぎるので難しいかもですが、歩いて匂いを感じることでまちの文化がわかるみたいなことは、すごくいいなと思ってます。
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吉川:靴工場の音とかも面白いかもしれないですね。うちのクライミングジムの上が靴工場になっていて、ブイーンとか、ガコガコって音がするけど、想像してもどんな機械が全然わからへん。その音を聞いてたら見に行きたくなりますもんね。
角野:マイク持ったついでに広瀬さんに質問させてください。今日、広瀬さんが紹介してくださった新聞記事の見出しに「野生の勘の取り戻し方」って書いてありましたけど、僕もまち歩きをやってると「この路地におうな~この奥行ったらなんかあるな」とか、そこは研ぎ澄まされていて、まあまあ当たるんですよ。実際の匂いじゃないですよ。僕は目で見る感覚を「何かにおう」と置き換えて、そこに行くわけですけど、広瀬さんもまちを味わうときにそういう感覚ってあるんですか。
広瀬:うーん、それとはちょっと違うかもしれないですけど、食べ物屋さんに入ったとき、なんとなくここはおいしいとか、まずいとかみたいなのを感じます。それは音や匂いだと思うんですけど、逆に、視覚に惑わされずに、こぎたない店でも実はここはおいしそうだなというのはあるのかなと思います。
角野:床のベトベト感とかかな。
広瀬:その「野生の勘」というのをちょっと解説すると、僕の専門の人類学の話になりますけど、レヴィ・ストロースという人類学者がいて、彼が『野生の思考』という本を出しています。人類学では古典的な重要文献ですけど、レヴィ・ストロースによれば未開人と文明人がいて、未開人が劣っていて、文明人が優れてるって、わりと二者択一に考えられてきたのが、実はそうじゃなくて、未開人は野生の思考というのを持ってるんだと。文明人も本来それを持っていたんだけど、文明という名のもとに野生の思考を忘れかけてるんだというんです。この図式は、健常者と障がい者にも当てはまって、たとえば、僕は視覚を使わないで歩いてるけど、時代をさかのぼれば、暗い夜道を星明かりをたよりに歩くなんてことは、誰でもやっていたことで、そういうみんなが持っていた感覚が、いろいろ便利になると失っちゃうところもあって。角野さんがおっしゃるように、自分が持ってた「何かよくわからないけど、たぶんこっちやろ」みたいな感覚、それを幸か不幸か、わりと色濃くのこしているのは障がい者の方なんじゃないかという気がします。だから、当然、障がいをとりのぞく努力もあるけれど、逆に障がいのある人が持つ野生の思考、野生の勘みたいなことを再評価しようと思って、野生の勘という言葉を使っています。
角野:なるほど、ええな。アイマスクをしてまち歩きをしたら、もっと敏感になれるかもしれないですね。
吉川:たしかに、カーナビを使いはじめて道を覚えなくなりましたもんね。逆に、山へ行くときって紙の地図を持って、コンパスで歩いたりするから絶対に忘れないんですよ。「ここちょっと上がったら目的地かも」みたいな感覚的なところが研ぎ澄まされてるかも。
広瀬:さっき言いそびれたんですけど、建物の壁を触るのって楽しいんですよ。なので、角野さんには新長田の壁をぜひ探していただきたいです。僕はいま、京都国立近代美術館のプロジェクトを手伝っていて、展示品には絵画が多いのであまり触れるものはなくて、それなら美術館の建物を触ろうかって、学芸員の方に建物の素材をいろいろ説明してもらって、建物を触りまくってます。やってみると、美術館はおしゃれな建物で、素材にもこだわってるからわりと面白くて、室内の柱でもツルツルになってるけど、手を伸ばして上のほうを触ってみたらザラザラだったりして、やっぱり下の方は人に触られてるんだなというのがわかったり。階段がおしゃれな構造になってるのでそれを触ってみたり、裏側にまわってみたり。そういう建物を触って楽しむこともしたいので、角野さんにはぜひ触り甲斐のある建物を探していただけるとうれしいですね。
角野:建物はありますね。駒ヶ林の路地の入り組んだところに、和洋折衷の角野邸という建物があって、もとは漁業の網元さんの建物なんで、すごくいい材料を使ってるので、なめまわすように触るといいかもしれないですね。
中元:保育園もいいですよね。階段の手すりがすごく気持ちいい。
角野:手すりは触ってしまいますよね。広瀬さん、いい手すりありますか、今までに触った手すりで、これはよかったなみたいな。
広瀬:やっぱり美術館の手すりは、それぞれおしゃれなんです。あと、話が違うかもしれないけど、駅の手すりって、視覚障がい者でも普段からひとり歩きをしてる人であれば、駅の階段みたいな規則正しい階段は別に苦にならない、手すりを持たずに杖でカンカンってやりながら歩けるんですけど、ときどき手すりに点字で「何番線は何」とか案内があるんです。僕がひとり歩きするときにそれを使うんですけど、意外とあの点字がつぶれてたりするんですね。たまにガムが付いてるやつとかあったりして、そういうのを見つけると怒りというか、悲しくなることがありますね。
中元:僕らがガムをとっていけばいいんですね。
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横堀:実は予定時間を過ぎてしまっているので、お帰りにならないといけない方はいつでもどうぞ。あと10分、15分くらい延長しても大丈夫でしょうか。…じゃあ、あと10分くらいをお話の時間ということで。
中元:どうしても聞きたいことがひとつありまして。その前に、広瀬さんは恋愛感情として、女性が好きな男性でよかったですか。
広瀬:はい。
中元:そうなったときに、視覚障がい者の人が美人だという女の人ってどんな人なのかなって。そういう恋心がどこから生まれるんだろうってヤボな質問ですけど。
広瀬:それは非常によく聞かれるんです。大事な質問だと思います。やっぱり、なんだって感じでしょうけど、声ですね。しゃべり方、イントネーション、間のとり方などから、年齢やどういう人なのかとかをいろいろ想像して、一目惚れに当たりハズレがあるように、当然、ひと耳惚れにも当たりハズレがあるんですけど(笑)。第一印象の声というのはすごく大きいと思いますね。
中元:ちなみにどんな声が好みですか。
広瀬:どうでしょうね…もう今はすっかりおばあちゃんになってますけど、昔は松坂慶子とかのしゃべり方が好きだったりしました。
中元:あ、艶っぽい感じか。
角野:なにを分析しとるんや(笑)。
広瀬:だけど結局、振り返ってみて、今まで好きになった女性に共通点があるかといえばそんなにないし、すごくいい声だったかというとそうでもないような気がします。
中元:第六感みたいなところでしょうか。ありがとうございます。
角野:これは、ちょっと難しいんですけど…「映え」ってあるじゃないですか、インスタ映えとかの映え。視覚でみなが楽しんで「映え」って言ってるんですけど、広瀬さんの映えに対抗する作戦ってなにか思ってはることがありますか。
中元:「触り映え」的な?
広瀬:そうですね、まず、自分のしゃべったことと矛盾するかもしれないけど、僕、見える見えないに関係なく、そんなにファッションとか気にしないタイプで、最近では人前でしゃべったりすることもあるので、あまり突拍子もない格好はしないようにして、家族に確認してもらったりとか、多少なりとも見栄えするものを着て。世の中、視覚中心ですから。「いや、おれは触るだから裸でいいだろう」って、そこまで過激にはなれませんので(笑)。 そういう意味で、「触り映え」とおっしゃてくだいましたけど、これは芸術鑑賞にも関わってくるんですけど、触って感じる美とは何か。これを考えはじめると難しくて、答えが出るわけでもないんですけど、来年に(国立民族学博物館で)計画している特別展では、いろんなアーティストに協力してもらって、触って楽しめるもの、触って美しいものってなんだろうってみんなで考えてみたいと思っています。
角野:そっか。言われてみれば、いわゆる「映え」って視覚優先のものに対する活動ですよね。触り映えするものは何なのか。追求していく作業も面白そうですね。
横堀:じゃあ、最後に吉川さん。
吉川:最後、感想みたいになりますけど、意外と自分も触って何かを認識して、確認してることがあるんだなとお話を聞きながら感じました。僕らはロッククライミングをするときに、ロープを出したり、カラビナという連結器具を使ったりするんですけど、その不具合を感じるのは、触っていつもと同じ動きをしないときに「あっ、おかしいな」となって、後から見る。触るほうが先。ロープを結んだ形とかでも、触って感じている。意外と生活のなかで触るという行為によって確認するということを自分もやってたんだと思いました。それに気づけたことは、触るのを楽しみにするみたいな、自分の感覚がちょっと広がった気がしてよかったなと感じました。ありがとうございます。
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この後、広瀬さんの指示のもと、会場全員で身体を動かすことをやってみました。2人で1組になって、正面打ちのように相手が振り下ろす腕を防ぐのですが、その防御姿勢をとるのを目で見て/声を聞いて/触わった点に意識を集中して/の3パターンで体感。触覚にしたがって動くことが、視覚や聴覚に比べても圧倒的に早く反応できることを実感しました。
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shibaracu · 4 years
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●●禅(ぜん)   ★虚無僧(こむそう)
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●●禅(ぜん)   ★虚無僧(こむそう) 虚無僧  http://w01.tp1.jp/~sr10031313/images/yjimage-5.jpeg 今ここに生きて有る命の真実 この真実を禅では本来の自己という。 本来の自己を表わす業が座禅である。 が禅の心得だそうです。 日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む 只管打座(しかんたざ)を唱えている。 タダ座って只管打座(しかんたざ)  「只管」は、ただひたすら。「打座」は、仏教で、座禅すること。 簡単なようで難しい。 昔聞いたのではヨガのように瞑想しなさいとは言わないようだ。   虚無僧が禅宗からの派生とは知らなかった。 子供の頃に深編み笠で回ってくる虚無僧は少し怖かった。 今ではほとんど見かけることもない。 少し形は違うけれども普通の編み笠でも良いようだ。 深編み笠で回って来るので あの編み笠の中の顔が下からのぞいても見ることは出来ない。 だから怖かったのかも知れない。 子供の頃見かけた虚無僧は正式の服装して腰に印籠を下げていたかな。 脇差しは無論していなかった。 遠い懐かしい風景が目に浮かぶ。     ★禅 - Wikipedia     https://ja.wikipedia.org/wiki/禅 禅(ぜん)は大乗仏教の一派であり、南インド出身の達磨が 中国に入り教えを伝えて成立したとされている。 中国禅は唐から宋にかけて発展したが、明の時代に入ると衰退 していった。 日本に純粋な禅宗が伝えられたのは鎌倉時代であり、 室町時代に幕府の庇護の下で発展した。 明治維新以降は、日本の禅が世界に伝えられた。 日本禅宗24流   曹洞宗 3派   臨済宗 21派   ★虚無僧(こむそう)http://bit.ly/wbnKtX 禅宗の一派である普化宗の僧であり、剃髪しない半僧半俗の存在である。 普化宗は中国(唐)の普化を祖とし、日本には臨済宗の僧・心地覚心が中国に渡り、 普化の法系の張参に竹管吹簫の奥義を受け、張参の弟子「宝伏」�� 4人の居士を伴い、1254年(建長6年)に帰国し紀伊由良の興国寺に 普化庵を設けて住まわせたことに始まる。 「古くは、『こもそう(薦僧)』ということが多く、 もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという。」 虚無僧の様相については、 「尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧」 とされており、 「多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。」 虚無僧はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、 江戸時代になって徳川幕府によって以下のように規定された。  托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯をまえに結び、  腰に袋にいれた予備の尺八をつける。  首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。  足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。    旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。  なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱(げばこ)は、  明治末頃から見受けられるようになったもので、  虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたものである。  江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、  「明暗」などと書かれてはいなかった。  江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、  偽虚無僧も皇室の裏門を用いていたようである。   ★曹洞宗の公式サイト http://bit.ly/Akqm83 ★臨済宗・黄檗宗の公式サイト http://bit.ly/zNTYq2   ★曹洞宗大本山永平寺 第78世貫主 宮崎奕保禅師 (道号・法諱) 栴崖奕保(せんがい えきほ). (禅師号) 黙照天心禅師. (もくしょうてんしんぜんじ). (生誕) 明治34年(1901)11月25日. 平成20年(2008)1月5日. (世壽). 108歳. https://youtu.be/SRezHZsNOI8 宮崎奕保禅師の禅のお話し   2018/04/02   ★これが永平寺だ!永平寺曹洞宗大本山永平寺  2011/10/31 https://youtu.be/PLE7Jta6k74   ★新日本風土記「永平寺」道は無窮なり悟りても猶行道すべし 2019/05/10 https://youtu.be/RgIdPQjUZNU 修行というのは何かのためにやるのではない、生活そのものが修行なのです。   ★Zen Dogen the Zen Master https://youtu.be/4T0QbAQXQV4?list=PL8447A93C7DCA0141 http://bit.ly/xJuE8h http://bit.ly/wAOnLq    シナ語?英語字幕 http://bit.ly/z7L2Mq http://bit.ly/x7n4HI http://bit.ly/xzWb5k http://bit.ly/ys5HMV http://bit.ly/zL8KzG http://bit.ly/ytDjpH http://bit.ly/y5OVN5   ★財団法人禅文化研究所 http://www.zenbunka.or.jp/   ★人 間 禅 道 場  http://bit.ly/z5mtOX 明治の初頭に山岡鉄舟、中江兆民らの先覚者が、当時鎌倉円覚寺管長の今北洪川禅師(白隠禅師より8世)を拝請し、社会人のための禅会として人間禅教団(旧名両忘協会)は創設されました。   ★大安禅寺 http://www.zazen.or.jp/ 福井県は松平家ゆかりのある、花しょうぶの美しいお寺です。   ★禅文化歴史博物館 | 駒澤大学 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/museum/ 禅文化歴史博物館情報/開館時間. 駒澤大学 禅文化歴史博物館 (駒沢キャンパス内) 〒154‐8525 東京都世田谷区駒沢1-23-1 入館無料平日 10:00~16:30(最終入館16:15まで). お問い合わせ先駒澤大学禅文化歴史博物館事務室. TEL:03-3418-9610   ★坐禅 - Wikipedia http://bit.ly/x1D7Hp 日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む只管打座(しかんたざ)を唱えている。   ★坐禅のやり方(初心者) - 禅-Zen http://zen.halfmoon.jp/zazenn.html 坐禅 やり方、基礎知識. はじめに  坐禅に関しては、最初は何やらとっつきにくいものではないかなあと思います。  個人で自宅でもできるものだとは思いますが、最初はお近くの座禅会などで、  正しい坐禅をご教授していただくのがよいかと思います。  また、一人ではなかなか時間に流されてしまいがちになってしまいますが、  座禅会などはまわりの方々もいらっしゃるので、集中度がちがって  くるような気がします。  ただいきなり座禅会などで、初めてのことが多いと、頭がこんがらがって  しまうかもしれないと思い、初めてこれから坐禅に挑戦したい・興味がある  という方向けとして、坐禅の簡単な組み方の説明を載せてみます。 (世の中にはいろいろととても素晴らしい坐禅の方法の説明サイトや書籍があると思います。本サイトでうまく伝わらないかもしれません。ご不明点とうありましたら別サイトや書籍をお調べになる、座禅会で直接ご指導を受けてみるなどの方法もあります。)   ★自宅で座禅、呼吸整える http://bit.ly/wN7tUC 背筋を伸ばし下腹に力 邪念を払い心穏やか 座禅にはともすれば厳しい修行のイメージがつきまというが、寺院が主催する座禅会では若い女性の姿も目立つようになってきた。「気分が引き締まった」との感想に加え、「美容と健康にもいい」といった声も。とかくストレスのかかる現代社会。自宅での日常生活にも、座禅のエッセンスを取り入れてみよう。 ★座禅の仕方 http://bit.ly/wU0CQw 禅とは「禅那」と言いサンスクリット語のdhyanaの音訳で、静慮とか思惟とか 思量するという意味があり、古代インド仏教から伝わる瞑想法です。 座禅は安楽の法門とさえ言われるように、その座法はおしゃか さまのお悟りの姿に見るごとく身体の最も安定した形です。 その座禅とは、静座(せいざ)をして座禅の三要素である 調身・調息・調心による身体を調え、呼吸を調え、心を調えることによって 精神の統一から本来的に備わる真実の自己(仏性)の自覚にあります。 その過程における精神医療的効果や禅定における集中力や不動心や忍耐力の 養成の効用面が広く知られ、企業研修などに活かされています。
・ぜんな  【禅那】 〔梵 dhyāna〕 禅。禅定。 ・せい りょ【静慮】 ( 名 ) スル 心を落ち着けて静かにおもいをめぐらすこと。 ・しい【思惟】 ( 名 ) スル ① 考えること。思考。しゆい。 「其しいする所甚だ卑下にして/明六雑誌 19」 ② 〘仏〙 「しゆい(思惟)」に同じ。 ③ 〘哲〙 「思考(しこう)② 」に同じ。 ・しりょう【思量】 ・しれう 【思料】 ( 名 ) スル いろいろと考えること。おもんぱかること。思慮。 「客人ならんと思量せしかば小腰を屈めて前掛けに手を拭ひ/新粧之佳人 南翠」
  ★はじめての座禅指導.WMV   2011/01/24 https://youtu.be/sUOJaJh-tIw   平成23年1月22日 座禅講座   ★尺八・虚無僧 http://bit.ly/zk5LXg 虚無僧は普化宗の徒で、出家者として全国を行脚していました。 しかし、お坊さんのように剃髪していたわけではなくまた、お坊さんでもなく 、 徒として所属していたようです。 そして、基本的には武士(浪人)が虚無僧に なれる条件でした。 だから、適当な仕官口が見つかると、再び還俗したようです。 中には、黒沢琴古のように指南役として尺八を教えることを専門に、 江戸などで、一般のお弟子を取っていたようです。 と言っても、これは、庶民の音楽とは 無縁でした。 商業都市が形成され、一般大衆(といっても所謂、中流以上の人でしょうね。 ) の生活と時間に余裕が出来てくると、文化も多様化してきました。 それでも、尺八は庶民には高嶺の花だったのでしょう、と言うのも、 男伊達と 言えば尺八をカッコよく手にした歌舞伎絵が多くあるからです。 庶民の憧れのカッコだったんでしょうね。 いつも、かっこいい男は、少しやくざっぽくて、楽器の一つでも 粋に奏するものです。 しかし悲しいかな、多くの、真の芸術家はそんなにカッコ良くはありません。 いつも、生活の塗炭にもがき苦しんでいるようです。   ・還俗 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/還俗 還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを 捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。 「復飾」(ふくしょく)とも。 自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。 日本では、律令「僧尼令」における刑罰の一つでもあった。 武士・公家の家督や棟梁、氏長者といったものを相続していた当主が亡くなり、謀反防止のためなどの理由で出家していた子弟・縁者などが相続して家名を 存続させる目的のものもあるなど、背景はさまざまである。 また、宮門跡となって入寺得度(出家)した親王が再び皇親に戻り、 宮家を継承することもあった。 特に幕末維新期にはその数は増えていった。   ★虚無僧研究会 http://bit.ly/yRfoEp   ★虚無僧(こむそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] 尺八を吹きながら家々を回り、托鉢(たくはつ)を受ける僧。 薦(こも)僧、菰(こも)僧というのが本来の呼び名で、 諸国を行脚(あんぎゃ)して遊行(ゆぎょう)の生活を送り、 雨露をしのぐために菰を持ち歩いたからである。 ぼろを身にまとって物乞(ものご)いしたので、 暮露(ぼろ)とも梵論字(ぼろんじ)(梵論師)ともよばれた。 普化(ふけ)僧ともいう。 普化宗は禅宗の一派で、中国の唐代の普化和尚(おしょう)を始祖とし、 法燈(ほっとう)国師覚心(かくしん)が宋(そう)から日本に伝来したという。 覚心は紀伊国(和歌山県)に興国寺を開山し、宗旨も広まり多くの流派ができた。 虚無僧寺としては、 京都の明暗寺、 下総(しもうさ)小金(こがね) (千葉県松戸市)の一月寺(いちがつじ)、 武蔵(むさし)青梅(おうめ) (東京都青梅市)の鈴法寺(れいほうじ)などが著名であった。 普化宗では、心を虚(むな)しくして尺八を吹き、虚無���断を禅の至境とした。 近世初期には武士以外の入宗(にっそう)を認めず、 また幕府も自由の旅を許すなどの特典を与えたが、 浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用し、乱暴をはたらくなどの弊害が続出した。 普化宗は1871年(明治4)に廃宗となり、88年に京都に明暗教会が設立されたが、 虚無僧は宗教から離れ、尺八修業の方便か物乞いの手段かになって影を潜めた。 僧とはいいながら半僧半俗で、 多くは有髪(うはつ)で、 天蓋(てんがい)と称する深編笠(ふかあみがさ)をかぶり、 着流しで、首から袈裟(けさ)と頭陀袋(ずだぶくろ)をかけた。 手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)なども着けた。 古くは草鞋(わらじ)を履いたが、江戸時代の中ごろから 高下駄(たかげた)を履くようになった。 出没自在、腕のたつこと、無頼性など、不思議な魅力をもつところから、 時代劇では善玉としても悪玉としても、しばしば脇役(わきやく)として登場する。 [ 執筆者:井之口章次 ] ★虚無僧で遊ぶ http://bit.ly/zJqy6i 目次    虚無僧で遊ぶ        TRPGで虚無僧を使う    参考文献 ★虚無僧 - AIRnet http://www4.airnet.ne.jp/sakura/blocks_menu/conjyaku_04/komuso.html 【虚無僧】  虚無僧の歴史は古く,七百年以上前にさかのぼる。  法燈国師によって開かれた臨済宗法燈派「興国寺」(和歌山県由良町)は  虚無僧の本山として名高い。  東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207~1298)が,  建長元年(1249)入宋,建長六年に弟子四人を連れて帰国,  紀州由良に興国寺を立てた。  興国寺の中に普化庵を建て弟子を住まわせたが,この流れの中から  京都白川に明暗寺が作られることになっていくのである。  禅宗が栄えて,禅宗の中の普化宗は紀伊,伊勢,志摩を中心に  末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林(箱根の関より南の  禅宗の寺の第一に数えられるという意味)と言われた。  「・・・大門から入ると二十三坊の坊舎が左右に建ち四十六坊もあった・・・」  と古い文献にあり,当時全国から多くの学僧が集まり”学問の府”の偉容を  誇っていたが,信長・秀吉に焼かれてこれらの堂塔はことごとく消失した。   ★【妙音】虚無僧の行進曲【手の内ご無用】 2010/06/04 https://youtu.be/RlybT_mfNNo 2010年6月、高岡市の国泰時総本山で行われた虚無僧による行進の風景です。 禅宗のお寺である国泰時総本山では外部の宿泊者の受け入れもしており、 また、リクエストをすれば、日帰りで座禅を組むことができます。 お寺の周りは竹の子の名産地で、竹の子料理店が軒を連ねており、 シーズンには行楽客で賑わいます。   ★honkyoku for sampled bassoon  法竹 https://youtu.be/FboLa83-AA0   ★本曲(本曲、「オリジナル曲」)は、屈従と呼ばれる日本の虚無僧が演奏する尺八またはほっちく音楽です。コムソウは、13世紀には早くも啓蒙と施しのために本曲を演奏しました。本曲とは、水前の練習です。この練習を始めたフケ派は19世紀に存在しなくなりましたが、今日では多くの本曲の口頭で書かれた血統が現在も続いていますが、音楽は現在コンサートやパフォーマンスの設定でよく練習されています。   ★竹音空間(ちくおんくうかん)|竹楽器製作者:遠藤健二|法竹(ほっちく) https://otomoribeat.wixsite.com/chikuon 竹音空間では、法竹(ほっちく)と呼ばれている素朴な尺八(地無し尺八、地無し管)を製作しております。 法竹は真竹で作ったシンプルな縦笛ですので、竹が持つ本来の音色が出ます。 尺八古典曲の音色は日本の豊かな自然の中で生まれました。 尺八古典曲の音色は日本の豊かな自然の中で生まれました。 尺八古典曲は音楽的でありながらも自然の様を 写し取ったような表現もあり音楽の枠にはおさまりきらない幅があります。 それは、もともと日本人が鳥や虫の声、自然の音を音楽と同じように親しみ聴いて来たから ではないでしょうか。素朴な竹から奏で出る竹音には、そんな日本の音楽の原点があると思います。   ★尺八癡人街頭表演(捨てられた町`)(悲情的城市) http://www.youtube.com/watch?v=4wwhSlV0ALk&feature=related   ★虚無僧 法竹 虚鈴 Komuso Hocchiku KyoRei   2011/04/08 https://youtu.be/8LcG-n1_Zko by 関家悠也(Sekiya Yuya)   ★尺八 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/尺八 尺八(しゃくはち)は、日本の木管楽器の一種である。 リードのないエアリード楽器に分類される。 中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代から 江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。 「尺八」の名で呼ばれてきた楽器は複数あり、狭義には現在使用されている 普化尺八(ふけしゃくはち)を指す。 現行の普化尺八は、伝説では9世紀ごろに唐の禅僧普化の弟子張伯が 虚鐸(きょたく、こたく)として発明し、1254年に心地覚心が日本に持ち帰り、 1400年ごろに虚無(楠木正勝)が広めたという伝承があるが、 史実として確実に遡れるのは17世紀までである。 名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する。 語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、 7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、 中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが 一尺八寸であったためと伝えられている。 演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。 英語ではshakuhachiあるいは、Bamboo Fluteとも呼ばれる。 真竹の根元を使い、7個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。 上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。 一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。 尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。 これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。   ★尺八について(歴史)|公益財団法人 都山流尺八楽会 http://www.tozanryu.com/introduction/shakuhachi/shakuhachi01/ 尺八ってどんな楽器? 尺八は真竹(まだけ)の根に近い部分を7節使うのが一般的です。 しかし近年は廉価な木製、プラスチック製の尺八もあります。 標準管の長さは一尺八寸(約54cm)で、一尺八寸管、略して八寸管とも 呼ばれています。半音(一律)刻みでいろいろな長さの尺八がありますが、 一尺八寸管以外によく使われるのは、一尺六寸管です。 尺八の長さと音程の関係は短いほど音が高く、長いほど低い音が出ます。 同じエアリード楽器に分類される楽器としては「リコーダー」「フルート」「オカリナ」などがあります。 ●尺八の歴史をさかのぼってみよう ・古代尺八(雅楽尺八)の伝来 ・一節切(ひとよぎり)尺八の普及 ・虚無僧の登場 「慷月調」作曲の前年、明治35年(1902)11月   奈良で撮影した虚無僧姿の流祖(右) http://www.tozanryu.com/introduction/shakuhachi/shakuhachi01/images/image05.jpg ・尺八ってこんな楽器です! http://www.tozanryu.com/introduction/summary/ 竹で作られた管楽器です。中国(唐時代)から伝来したものが始まりとされ、楽器の長さ(一尺八寸)がその名の由来とされています。他の楽器には無い奥深い音色を奏でることができます。 ・「都山流」は国内最大と言われる尺八の流派です 120年以上続く尺八の流派です。尺八には様々な流派があり、都山流は「流祖中尾都山」が明治29年(1896)に大阪にて創始しました。現在は京都に本拠を置き、若手からベテランまで多くの著名な演奏家を擁し、教授資格を持つ師匠は約4000名に及びます。平成28年(2016)に創立120年を迎えることができました。
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ronshi · 7 years
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新年の1週間を有意義に過ごすための,100のアイデア
新年の1週間を有意義に過ごすための,100のアイデア (2014年1月2日)
 年末年始・新年・正月の過ごし方を考えてみました。「やることリスト」ではなく「アイデア」なので,この中から3つか4つでも,あなたにとって少しでも興味を引くものがあれば,ぜひ実践してみてください。
1.身近な人に感謝を伝える
親や兄弟,友人,同僚,上司や先輩などにさり気なく感謝の気持ちを伝えてみましょう。自分の気持ちがスッキリするだけでなく,信頼関係の構築にも繋がります。人と人は,立場を超えて精神的な繋がりで親しくなることができます。
2.自分以外の人に振る舞う料理をつくる
帰省して実家で過ごしている方は,親に任せるのではなく,朝食やランチだけでも自分でつくってみると良いかもしれません。一人暮らしで時々自炊をしている方も,実家のキッチンで料理をすると,新鮮な気持ちになります。
3.本を3冊読む
年末年始は本を読む絶好の機会です。「積ん読」を消化するほか,Kindleなど新しいデバイス環境を整えて,これまで読んだことのないジャンル(ビジネス書だけでなく科学技術の教養や,小説など)にチャレンジしてみると良いかもしれません。
4.年末にできなかった掃除をする
年末にはトイレや水回りの掃除が終わっているかもしれません。新年だからこそ掃除をしたい箇所は,デスク周りや玄関など,自分の生産性を高めてくれる場所を探して,掃除や整理整頓をしてみましょう。年末にできなかった方は,1月5日(日)までに掃除を終えておくと,スッキリとした気持ちで週明けの月曜日を迎えられるはずです。
5.秘湯に行く
若い人に人気の,清潔でいかにもモダンな温泉宿も良いですが,九州や東北,北関東であれば群馬県などには多くの秘湯(立ち寄り湯)があります。食事や清潔さを重視するのではなく,「お湯」そのものにこだわりをもって温泉を探すと,新鮮な体験ができるはずです。
6.Huluで映画を見まくる
正月をゆっくり過ごしたいなら,大量の映画・海外ドラマがストーミング再生できるWebサービス Hulu.jp に登録してみましょう。2週間は無料なので,のんびり見るにはちょうど良い機会です。また,iTunes���映画レンタルなどを使って,2013年に見逃してしまった話題の映画を見るのもおすすめです。
7.文章を書いてみる
本を読んでいると,自分でも文章を書きたくなるかもしれません。文章を書くことは,自分の思考を整理することに繋がります。一番簡単な方法はブログを書くことですが,FacebookやTwitterに,自分の考えやエッセイを投稿してみることから始めても良いかもしれません。
8.「2014年の100のリスト」を作る
この記事のように,自分自身にとって「2014年の100のリスト」を1月5日までに完成して,印刷して壁に貼ると良いでしょう。大事なポイントは,1年間で実現出来そうなことにフォーカスすることです。「人生の100のリスト」は有名ですが,なかなか達成困難なものも多いです。1年間という制約がある中で,あなたが取り組みたいことを具体的に書き出してみましょう。
「100のリスト」を作成する上で大事なポイント
   数字を含めて,具体的に書く    ミニマムでも達成可能なものを書く(「目標」というより「予定」だと考えると気持ちが楽になる)    箇条書きをチェックできるようにして印刷し,必ず壁に貼るか持ち歩く    「習慣」(毎月10冊の本を読む,毎日1時間英語を勉強する,等)は避けて,なるべく独立したリストを作る
9.漫画を読む
ふだん漫画を読まない方も,漫画喫茶に3時間だけ行ってみて,有名な漫画を読むと良いでしょう。最近は,自己啓発やビジネスの考え方,人生のライフプランに役立つ漫画なども増えています。
10.筋トレをする
この記事を読んでいただいている方は,次の項目に進む前に,上体起こしと腕立て伏せを10回ずつチャレンジしてみましょう。出来た方は,明日は20回ずつチャレンジしてみます。
11.新しい趣味を探す
趣味を探す方法は,身近な人に教えてもらうことです。身近な人を5人ピックアップして「最近何かハマっている趣味は?」と尋ねてみましょう。ヒントになるかもしれません。多くの趣味を持つことは,人生を豊かにする近道です。
12.瞑想する
瞑想は,なんとなく頭をスッキリするのではなく,科学的にも理想的な健康状態に近づくことが証明されています。「無心になる」「雑念を取り払う」ということは難しいことです。
すぐに出来る瞑想方法
   頭のてっぺんから足の指先まで,(頭,髪の毛,眉毛,まつ毛,眼球,網膜,鼻… )と,人間を構成するパーツを限り順番に思い浮かべながら,ゆっくりとトレースしていくイメージを再現します(15分程度)    その後,何も考えない時間を15分間つくってみます(車の音,風の音などあらゆる雑音に対して,「音が鳴っている」という客観的な事実のみを受け止めて,それに対して深く追求しないことです。
13.朝日が昇る前に目覚める
寝正月と言ったものですが,冬は空気が澄んでおり,朝が最もきれいな季節です。朝日が昇る少し前に起きると,早朝の静寂と幻想的な朝焼けを目にすることができるはずです。東京都の1月初旬の日の出の時刻は6:51です。6時30分にアラームをかけると良いでしょう。
14.頭のなかに思いつくキーワードを書き出す
綺麗に片付けたデスクに,真っ白い紙とペンだけを用意して,あなたが思ったことを次々と書き出してみましょう。どんな些細なことでも構いません。次々と出てくる言葉を書き出して,自分の思考の連鎖を観察してみましょう。
15.旧友やお世話になった人に手紙を書く
5人の人に手紙を書いてみましょう。大学・高校時代の同級生,お世話になったあの人に,手紙やメールを書いてみると良いかもしれません。年賀状は多くの人が受けとる可能性があるので,少しタイミングをずらして1月10日頃に届くように手紙を書けば,きっと印象的な手紙になるでしょう。
16.これまでに感動したことを思い出す
「心が揺さぶられる」「心が震える」体験について思い出してみましょう。そのときの自分の心の状態,気持ちはどんなものだったでしょうか。2014年,同じような体験ができるシチュエーションは予定されていますか? なければ,無理やりスケジュールをつくりましょう。例えば異国の壮大な自然を前にして感動を覚えたのであれば,今年前半の海外旅行のスケジュールを立てて,航空券を手配してしまうのがベストです。
17.デスクの整理整頓をする
自分のデスクの上は,あなたの頭の中とリンクしています。机を整理することで,自分の思考整理にもなることでしょう。 18.30分間で出来る,新しいことに挑戦する
新年を機会に,大きな志や習慣を作ることは良いですが,なかなか続かないものです。そこで,「30分間でできる」という制約をつけて,自分にとって「新しい挑戦」は何かを考えてみましょう。そして実践してみます。最新の研究結果では,「これまでに馴染みのなかったスキル」を新たに学ぶことで,記憶力が向上することがわかっています。
19.贈り物をする
家族や友人など身近な人だけでなく,2013年に出会った人に対して,目に見える物ではなく,体験をプレゼントしましょう。身近なものでは,映画のギフトカードや旅行券などです。500円のものを,10人にプレゼントしてみてください。きっとその経験は,自分が使う5000円の消費以上の価値があるものになるはずです。
20.「また買いたい」と思える本以外を捨てる
「いつか読むかもしれない」という理由で,ずっと本棚に残った本を整理しましょう。本を選ぶ基準は「また買いたいか」という一点だけです。本を整理しながら,つい読み始めてしまった本はそのまま残しておいて良いのです。
21.朝食にこだわる
都会の現代人は,コンビニのパンなどで腹ごしらえを済ませてしまいがちな朝食ですが,新年の朝食はちょっとだけこだわってみましょう。
22.部屋の荷物の4分の1を捨てる
あなたが十分に生きていくために必要なものは,あなたの部屋にあるモノのうち半分以下に減らすことができるはずです。不要なものは捨ててしまいましょう。1年以上着ていない洋服は,捨ててしまっても問題ありません。
23.未来のテクノロジーについて想像する
東京オリンピックが開催される2020年に,私たちの身の回りにあるテクノロジーは,どのように変化をしているか,一人の消費者として想像をふくらませてみましょう。
24.下着を一新する
目に見えない部分を新しくすることで,気持ちも入れ替わります。上質な下着というものは,男女を問わず,着心地だけでなく自分の気持ちを前向きにさせてくれます。
25.聴いたことのない音楽を聴いてみる
「耳が疲れる」瞬間があります。音楽を受け入れられなくなってしまったとき,違う国の音楽や,親しい友人がレコメンドしてくれる音楽を聴いてみましょう。聴く場所を変える,ということも良いです。(部屋であればベランダ,出先であれば公園など)
26.24時間オフラインになる
仕事のメールがあまり来ない年始の数日間は,オフラインになる絶好の機会です。この記事をひと通り読み終わったら,インターネットを断ち,自分自身と向き合う時間をつくってみましょう。
27.入浴剤やトリートメントなどのバスグッズにこだわる
入浴は面倒なものではなく,人間の健康・精神的な安心をもたらすものだと考えましょう。バスグッズに少しこだわることで,1日の終わりの入浴や,毎朝のシャワータイムが有意義なものになるかもしれません。
28.カメラを持って出かける
レンズ越しに見える世界は,非日常の世界が広がっています。カメラが無くても,スマートフォンのカメラ機能を使って,出かけてみましょう。フォトブックをつくっても良いかもしれません。
29.着たことない色を身につける
クローゼットには,似たような色の服であふれていませんか?「自分には似合わない」というのは,自分自身の思い込みかもしれません。初売りでは,着たことのない色の服を購入してみましょう。
30.新しいお酒にチャレンジする
ビール,日本酒,焼酎,ワイン,ウイスキー,世界には様々なお酒の種類があります。コンビニには売っていない,自分が飲んだことのない新しいジャンルのお酒を飲んでみると世界が広がるかもしれません。
31.モノやサービスの「シェア」について考え始める
モノやサービスを「所有」ではなく「シェア」するという考え方によって,消費を繰り返すストレスから脱げだすことができます。例えばカーシェアリングサービス「カレコ」では,首都圏を中心にガソリンスタンド以上の「カーシェアリング・ステーション」がすでに配備されており,急速に普及が進んでいます。また東京でも始まった「Uber」は,プライベートdriverをシェアするという発想で誕生した,世界で成長中のアプリのタクシー配車サービスです。
32.プロフィール写真を変える
あなたのFacebook,Twitterなどのプロフィール写真を変えてみましょう。
33.ネイルをシンプルなものにする
女性の方は,ネイルをシンプルなものに変えてみましょう。
34.SNSやメール・チャットではなく,電話をする
LINE,Facebook,Twitterがコミュニケーションの中心になっていませんか? 肉声でやり取りできる電話は,多くの情報量を持っています。「特に用事はないけど,おしゃべりがしたくて」と,身近な人に電話をしてみましょう。
35.行ったことのない都道府県を減らす
まず,訪れたことのない都道府県を書き出してみましょう。この1週間で,日帰りや1泊2日でも行けそうなところはありませんか? 5件以下だった方は,全国制覇することを2014年の目標に加えてみましょう。
36.人間観察をする
2Fのカフェの窓際から,道行く人々を観察してみましょう。
37.動物と遊ぶ
自宅のペットと思う存分遊びましょう。ふだんの接し方以上に,一緒に昼寝をしたり,愛でてあげて下さい。ペットがいない方は,動物園にでも行ってみましょう。
38.古いアルバムを見る
卒業アルバムや,子供の頃のアルバムを見返してみましょう。誰かに連絡をしたくなったら,電話してみましょう。
39.新しい資格の勉強を始める
資格は実用的なものでもなく,趣味でも良いです。また,資格によって何か有益な出来事が起こるとは思わないことです。大人になると,なかなか見つけにくい「自分に自信をつける体験」「勉強に向かう時間」を作るための,持ってみたい資格を探してみると良いでしょう。
40.10分間ぼんやりしてみる
たまにはぼんやりしてみるのも良いでしょう。
41.山に登る
初心者のかたの雪山は危険ですが,晴れた日には早起きをして登山をしてみましょう。低い山の多くには,途中に神社がたくさんあります。混雑した都心の神社よりも,清々しい気持ちで初詣ができるかもしれません。
42.海を眺める
できれば沖縄の離島に旅行しましょう。波の音に耳を傾けながら,2014年をどんな1年間にするか想像してみましょう。
43.髪型を変えてみる
新しい髪型に挑戦するなら,今でしょ。
44.新しいアプリを10個インストールしてみる
日々素晴らしいアプリが誕生しています。スマートフォンでアプリを検索してみて,自分のお気に入りのアプリを何個か見つけてみましょう。
45.スマートフォンのアプリを半分に減らす
一方で,多くのアプリが氾濫している状態でも有ります。6ヶ月以上使っていないアプリは,スマートフォンから削除しましょう。
46.ハードディスクを整理する
デスクの整理整頓と同様に,仕事道具や相棒であるパソコンのハードディスクの内部を整理をしましょう。
47.泳ぐ
大人になると,また現代社会においては水の中で泳ぐ機会がありません。あなたの住んでいる町から30分以内に,登録不要な室内プールがあるかもしれません。水に浮いてみましょう。
48.携帯電話を持たずに,ディナーにいく
食事中にもスマートフォンを触っている人が増えている今,改めて食事を楽しむために,あえて携帯電話を置いて食事に出かけてみましょう。
49.他人の絵馬を見る
けっこう面白いです。
50.健康診断に行く
2014年を健康な1年にするために,新年の1週間のうちに健康診断のスケジュールを入れておくと良いでしょう。
51.これまで生きてきた日数,平均寿命までの日数を数える
あなたが生を受けてから現在まで,何日経ったでしょうか。また,平均的な寿命を迎えるまであと何日でしょうか。
52.川柳を詠む
日本語の美しさに触れてみましょう。そのプロセスは,思った以上に頭を使います。
53.雲を眺める
おとなになると,空を見上げる機会も少なくなります。よく晴れた日の午後は,公園の芝生で大の字に寝そべり,雲を眺めてみましょう。
54.両親の話を聞く
年末年始は,両親のエピソードを聞く絶好の機会です。
55.自分の力で10万円稼ぐアイデアを考える
組織に所属し,与えられた仕事の成果として給与を貰うのではなく,自分自身の力で10万円稼ぐためにはどうしたら良いか,考えてみましょう。
56.家計簿をつけ始める
ダイエットと金銭管理は似ています。それらを成功させるためには,毎日「レコーディング」することです。自分の収支を把握できない以上,お金は貯まりません。MoneyFowerdなどのWebサービスを使えば,家計簿をつけるのも簡単です。
57.不要な銀行口座,クレジットカードを解約する
不要なものは溜め込まないように,銀行口座・クレジットカード・使わなくなったWebサービスなどの解約をしてみましょう。
58.読んだことのない雑誌を立ち読みする
立ち読みが許される書店であれば,自分が読んだことのない雑誌を手にとってみてください。
59.食わず嫌いを克服する
食わず嫌いがある方は,チャレンジしてみましょう。ダメだったらまた来年があるのです。
60.ブログを30日間,書き続けてみる
始めるのは簡単,続けるのは困難。30日間,まずはブログを書き続けてみましょう。「文章を書く」ことは思考整理につながります。誰かに読ませる必要は無く,読者は自分ひとりだと思って,自分のためにブログを書くという選択肢もあります。
61.新鮮なフルーツを使った料理をつくる
大きな鍋でじっくり煮込んだ自家製ジャム,キッチンの奥に眠っているミキサーで作るフレッシュジュースなど,新鮮なフルーツを買ってきて料理してみましょう。
62.初恋の人をFacebookで検索する
もし初恋の人が結婚していても,ショックを受けないようにしましょう。
63.小学校・中学校時代の恩師をFacebookで検索する
見つからないかもしれませんが,見つかったらメッセージを送ってみましょう。忘れられていてもショックを受けないようにしましょう。
64.田舎に住んでいる両親に,iPadをプレゼントする
もし両親がデジタルデバイスに対して難色を示すような場合でも,iPad なら大丈夫です。丁寧に使い方を教えて,リビングに1台置いておきましょう。
65.高校のクラスメイトを一人ずつ思い出してみる
4分1は思い出せないはずです。卒業アルバムを見てみましょう。
66.死後の世界について想像する
子供の頃,想像して恐ろしくなった「死後」の世界について,もう一度想像をふくらませてみましょう。
67.宇宙について想像する
宇宙は膨大で,多くの謎に包まれています。音を伝えるものはなく,出口のないトンネルです。いま話題になっている映画「グラビティ・ゼロ」を見に行くと良いでしょう。
68.ホームパーティを主催する
お正月を家族と過ごしたあとは,新年の料理をコンセプトに友人を招いてホームパーティを主催しても良いかもしれません。
69.スマートフォンのケースを変える
最近はスリム軽量ケースや,いろんなデザインのケースがあります。おすすめは,芝生をモチーフにしたiPhoneケースです。
70.一人でブレストをする
「100のリスト」を作るとき,一人でブレストをしている状態に近いです。他のジャンルでも,一人で出来るブレインストーミングを探してみましょう。
71.極上のスイーツを食べる
コンビニではなく,専門店に行ってみると幸せになれるかもしれません。
72.苦手な人のいいところを5つ見つける
あなたの苦手な人の良いところ5つ挙げてみてください。今後の人間関係がスムーズに行くための練習です。
73.確執のあった人,裏切られた人をゆるす
これは,あなた自身のためにきっと必要なことです。大事なのは「心の底から,本当にゆるす」ということです。人生は限られていて,自分以外の人の影響で,自分の魂を汚す必要はありません。
74.自転車に乗ってとなり町に行く
小学生の頃,やってみたかったんです。
75.とにかく笑う
初笑いは済ませましたか? 大事なのは「声に出して笑うこと」です。一人でネット徘徊して,面白いコンテンツを見つけて心のなかでクスっと笑うのではなく,友達と一緒に面白い動画を視聴して,大爆笑しましょう。
76.カレンダーを自分で作る
少しコンピュータの操作に慣れている方は,無料のデザインソフト(またはAdobe製品の体験版期間)などで,自分だけのカレンダーをつくってみましょう。スケジュールの立て方,時間管理の方法については人それぞれです。
77.一人でバーに行く
一人でバーに行ったら人生変わるかもしれませんね。もし違和感がなければ,異性に声をかけてみましょう。
78.自分の年齢?1kmをスロージョギングする
あなたが30歳であれば,5時間かけて30kmのスロージョギングをしてみましょう。普段スポーツをしない方でも,ゆっくりゆっくり走れば大丈夫です。きっと達成感があります。
79.体重計に乗る
全ては,現実と向き合うことから始めます。
80.寿司を握る
自分で握った寿司は,意外と美味しいのです。もちろん近所で一番良さそうなスーパーで新鮮な魚を買ってきて,上手に炊いた酢飯を使いましょう。形は崩れていても,きっと旨いはずです。
81.ラジオを聞く
テレビの正月番組ではなく,ラジオの正月番組も魅力的です。
82.友達と朝食をする
新年に朝食会を開くなんて素敵なことだと思いませんか。朝はゆっくりと時間が流れます。とりとめのない会話のあと別れても,朝の10時です。そこから1日,あなたはきっと満ち溢れた時間を過ごせるはずです。
83.NISA口座で株式投資を始める
2014年1月からスタートした,「少額投資非課税制度」NISA(ニーサ)口座について調べてみて,3?7年での長期運用の株式投資を始めてみましょう。これは税制改革に伴って,株式の売却益が約10%(特例)→ 通常の約20%に戻ってしまうことに伴って新たにできた制度です。20歳以上であれば口座を開設でき,年間100万円までの取引における有価証券売却益の税金が,0円になります。
84.12時間,好きな勉強をしてみる
受験勉強を思い出しながら,12時間机に向かってみましょう。ノートパソコンやスマートフォンで勉強するのではなく,紙とノートを使ってみましょう。
85.店員さんとコミュニケーションをとってみる
小さなお店やセレクトショップで,店員さんと会話をしてみましょう。
86.引っ越しを考える
自分を変えるためには,環境を変えるのが最も近道です。とはいえ,仕事を変えるのはなかなか決断が必要です。現状にモヤモヤとした気持ちを抱えているなら,部屋の大掃除のついでに引っ越しを考えてみましょう。新しい町に住むと,お店,出会う人,通勤ルート,ライフスタイルが一新します。
87.パスワードを変える
セキュリティに対するリスクが高まっています。早めに強固なパスワードを変えて,対策をしておきましょう。
88.お気に入りのマグカップを見つける
仕事場に一つ,自宅に一つ。ランチの後に,お気に入りのマグカップでコーヒータイムは至高の時間です。
89.キャンドルナイトをする
夕暮れ以降に電気をつけず,キャンドルだけで生活してみましょう。キャンドルの「ゆらぎ」は人の心を穏やかに,癒してくれます。
90.500円貯金を始める
今日から毎日500円ずつ貯金したら,今年の大晦日には約18万円たまっています。そのお金で年末年始に海外旅行をしたり,新しいMacbookを買っても良いでしょう。
91.Siriに「あけましておめでとう」と言ってみる
もしあなたが新年の挨拶をする人がいなければ,Siriと会話をして盛り上がりましょう。
92.プログラミングを始める
プログラミングは,業界に関係なく,教育上の素養となるものとして推奨され始めています。専門を極める必要はありませんが,アルゴリズムや,自分が使っているソフトウェアがどんな仕組みで動いているか知っておいて損はありません。
93.行きたかったお店に行ってみる
休暇が明けたら,ずっと行きたかったお店に行ってみましょう。新年の休暇明け,1月6日(月)のランチ・ディナーは,お店の人やシェフの料理も,きっといつも以上に気持ちが込められているはずです。会話も弾むかもしれません。
94.財布を整理する,または財布を変える
レシートや不要なポイントカードであふれていませんか? もしあなたが経済的な成功に向けて努力をしている人であれば,財布の状態をもう一度チェックしてみましょう。精神論ではありますが,整理整頓された財布を持ち歩くことで,あなたの姿勢もきっと変わってきて,巡り巡ってあなたの人生にプラスになるかもしれません。
95.自分の悩み,弱みを人に打ち明ける
信頼の置ける身近な人に,自分の悩みや弱みを打ち明けましょう。大切なことは「何か回答を求めるわけではなくて,ただ自分の話を聞いてもらいたいんだけど」と,前置きを置くことです。話を聞くだけなら耳を傾けてくれますし,あなたも話をするだけで気持ちが整理できるのです。
96.寝る前の30分間に,ストレッチをする
快適な睡眠と,日々の健康のためにストレッチを取り入れてみてください。
97.6年計画を立てる
2020年の東京オリンピックは,多くの日本人にとってちょうど良い目安になるはずです。2020年の新年を迎えるまでに,あなたが達成したい目標を立てて,それを1年ごとに分解して,筋道を立ててみましょう。6年というのは,生まれてから小学校に入学するまでであり,小学校に入学して卒業するまでの期間です。あなたがもし今日生まれたと思ったら,これから6年かけて,あなたは何をしますか? 2014年の新年に,ぜひ考えてみましょう。
98.知らない人に,自分から挨拶をしてみる
まったくの他人に挨拶はしづらいですが,自宅マンションのエレベーターで居合わせた人などには「おはようございます」「こんにちは」と声をかけてみましょう。気持ちもスッキリするはずです。
99.自分のことを好きになる,過去の自分を認める
自分のコンプレックスを認めましょう。自分の過去の過ちを認めましょう。過去を振り返るのではなく,未来を見据えるのに最適な1週間にしましょう。
100.やらずに後悔していることをやる
あなたが後悔していることを抱え��いるのであれば,それはどんな形であれ,自分の行動を制約するものの一つになっているはずです。やらずに後悔していることがもしあれば,早めに消化してしまうことです。そして,どうにもならない事があれば,それについては「認めて」忘れてしまうことです。
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shinomama · 2 years
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《学びを止めず》 今日も今日とて #映えない弁当 🍱持って🤔 月イチの #姿勢調整 の技術のブラッシュアップ研修を受講してまいりました。  今日は 睡眠環境と姿勢の関係のお話 子どもの栄養のお話 などの座学も含めて学びました。 技術は骨盤部位 世間でなんでそないに骨盤骨盤言うんやろ?って思うくらい 会う方会う方に「骨盤歪んでるんです」とか「産後に骨盤開いてるから何とかしたいんです」って言われるんです。 ちょー!待てー!そんなん誰から聞いてん!?ってついツッコみたくなるんです。 ホンマにヒトのカラダの構造を学問で学んだ方にはわかるはず! 構造上 ありえませんから〜(どなたかの芸風🤔) そんなお話 私と直接会えばめっちゃお話します。 10/22(土)14時 姿勢と健康のお話〜膝痛のお話 パルプラザ 2階会議室 加古川市志方町志方1538-1 お問合せ・お申込は #姿勢専科KCSセンター明石中央  078-914-7177 もしくは 090-3670-7177 まで   来月から私の中では恒例の #加古川市 内の小学生向けの職業体験 #職業人と語ろう も始まります。 すでに5校の依頼を受けております。 ワクワクしか✨    もちろんオトナの皆さまにも 11/3(木・祝)10:00~16:00 #PakuPakuマルシェ  #加古川市 金剛寺浦公園 11/19(土)&11/20(日)10:00~16:00 第6回 #加古川フェスティバル (オトナ版《職業人と語ろう》になるかと思います) イオン加古川駐車場 詳細は追ってご案内させて頂きます🌟 親御さんも子どもさんに関わる人たち必見! 子どもの姿勢を考える本が明日 #Amazon さんから発売されます。 「 #姿勢が子どもの未来を変える !」 子どものカラダはオトナのカラダをちっちゃくしたコピーではありません。 コレを知ることによってオトナの皆さんもご自身のおカラダにも通ずることや生活のヒントいっぱいあるかと思います!!(読んでへんから知らんけど…たぶん間違いない) お昼ごろにでもAmazonさんでポチっとしてみてください🤗 #姿勢調整師すがのしの  #姿勢科学士すがのしの  #徒手療法師すがのしの  #姿勢専科KCSセンター姫路西院 #街の健康支援センター  #姿勢専科加古川準備室  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #姿勢講座講演承ります  #まだ見ぬ人に手を届かせるために   https://www.instagram.com/p/CjfuFcEpmxt/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shinomama · 2 years
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《今月もやります》 気持ちは、ジョッシー~HEROES MARCHÉ ~ 本日開催です🎪 載ってはいないですが 新たな出店者さんもあるそうで楽しみです🤗 私はいつもの #姿勢チェック と #姿勢調整 施術体験での出店です。 ランチやお茶がてらにいかがですか🌟 #americanstylerestaurant_heroes #姿勢調整師すがのしの #姿勢科学士すがのしの #徒手療法師すがのしの  #姿勢専科加古川準備室 #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯 #未来の医療費削減策 #姿勢講座講演承ります #まだ見ぬ人に手を届かせるために https://www.instagram.com/p/CjB4OqTPBEp/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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shinomama · 2 years
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《 #かこフェス 出店します》 いよいよ明日です🌟 日時  3月20日(日)          10:00~18:30 (開場9:00) 場所  加古川河川敷特設会場 入場無料 たくさんのアーティストさんのパフォーマンスはもちろんフードや雑貨などの販売もあります。 MCは 大好きなDJの #ターザン山下 さんと 私の永遠の推し #城恵理子 ちゃんです。 このおふたりがMCと知って 何とか出店できんものかと思っていたら チャンスが舞い降りてきました🙌✨ ピザ屋の #HIDEAWAY さんありがとうございます😭✨ 私は雑貨販売のブースA16にて #姿勢チェック と #姿勢調整 の体験施術をさせて頂きます。 お天気も大丈夫そうですね。 感染予防もしっかりとさせて頂いて みなさまのご来場をお待ちしております。 #KAKOGAWAMUSICFES  #姿勢調整師  #姿勢科学士すがのしの  #徒手療法師すがのしの  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #未来の医療費削減策  #姿勢専科加古川準備室  #姿勢講座講演承ります  #まだ見ぬ人に手を届かせるために   https://www.instagram.com/p/CbR9LPdJltH/?utm_medium=tumblr
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shinomama · 3 years
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《 #成人式 》  今日は沙羅の成人式でした。 6時半からの着付と美容にその他準備にドキドキしながら迎えました。 と言いながら ほぼほぼうちの母上がのがんばりなんですが。 今朝は4時半起床でダンナさんのお弁当も 沙羅が途中で小腹が空いたときのためにおにぎりも作りましたよ( ˙꒳˙ )v  沙羅の着物は沙羅が3歳の時にうちの母上が「コレ!」って決めたもので呉服屋こと #きぬや さんでは今年の成人一番手に着付予約も決まってたらしいです。 今年の前撮りまで私はまったくどんな生地なのかも知らずに過ごしてました。 まさかのモノクロの総絞りで感想はしっぶ〜!!でした✨ 残布を使ってマスクまで準備されてましたが本人の肌当たりがもうひとつだったようでほとんど使われず…しゃあないかな?  友達との写真撮影や式会場や3往復ほどさせて頂きました🚗 ³₃ 沙羅の晴れ姿を見て ホンマにステキなお友達や周りの方々に支えられててありがたいなぁと改めて感じられた一日でした♡  私はというと 1人でも多くの方を笑顔に元気にしていけるよう #姿勢調整師 としてもっともっとがんばります( •̀ᄇ• ́)ﻭ✧  今日もほぼほぼ #姿勢関係ないやん 😝 #姿勢専科加古川準備室  #姿勢専科kcsセンター姫路西院  #姿勢専科kcsセンター明石中央  #姿勢は自分では治せません  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #姿勢講座講演承ります  #姿勢調整師って何 ? #まだ見ぬ人に手を届かせるために  (きぬや姫路本店) https://www.instagram.com/p/CJ6Iu77JHV3/?igshid=1pe9r0t5xajqp
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shinomama · 3 years
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《私の生誕祭😁》 リアルもSNSも含めてたくさんのお祝いメッセージありがとうございました✨ 改めてたくさんの方と関わっていることを実感させて頂きました! 25日の誕生日当日 普段は寝ている沙羅が起きてきて バイトに行く準備に勤しんでました。 私もお仕事に行く準備…化粧してる最中に 沙羅がHappybirthdayなど歌いながらどうも動画を撮ってる感じで…仲良し友間のインスタライブかな? 「手ェしか映してへんから大丈夫!」てなんの保証やねん🤣 えーーー!ちょー待て!母はスッピンで今から化粧やし 急いどるし!に対してCHANELのショッパーを受け取る…朝からこれ59ポイントしか😭😭😭😭  「泣くなや〜」って言われながら泣いたけど時間なくて高そうで恐縮で泣くしかなくて 化粧できんで遅刻ギリギリでした。 この日は #姿勢専科KCSセンター明石中央 の加古川出張所dayで 店長とお客様からもバースデープレゼントを頂きました💕  お気持ちがうれしいやら恐縮やらでした。 店長のてつお先生からはシャンパンを。 「しの先生ラッパ飲みで終わるやろ?」って失礼やろー!ま、間違いないけどww 沙羅からのプレゼント中身は帰宅後のお楽しみで開けたら CHANCEのオータンドゥルのパルファムでまた泣きそうになり…   心がキューってなって 香りを嗅いでキュンとなって 気持ちが大渋滞な誕生日でした♡ ちなみにダンナさんからは早めのプレゼントで 🆕太郎ちゃんを頂いてました🦴 支柱の抜き差しが固くていろいろまだ大変でお友達に助けてもらいました🤣  #姿勢調整師  #姿勢専科加古川準備室  #姿勢専科kcsセンター姫路西院  #街の健康支援センター  #姿勢は自分では治せません  #兵庫県姿勢調整師会  #姿勢調整師募集中  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #姿勢講座講演承ります  #まだ見ぬ人に手を届かせるために   https://www.instagram.com/p/CJTdNTSpb12/?igshid=1ordlvbuopymt
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shinomama · 3 years
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余裕かましてピースサインしとりますが 全然余裕ないんですw 今日 着物の着付教室の基礎過程を修了しました…てかまだ全然 帯結べへんやん💦 ってことで年明けからもうワンクール受講することにしました(*>ω<*) お教室が終わってiPhoneちゃん確認したら 「司会レジメ作成お願いします」と他店の先輩先生から連絡が入ってました😱 明日は規模を縮小しての KCSの大忘年会で 兵庫地区は神鍋の #志ん屋 さんで執り行われます。 初のリモート忘年会の上に地区の司会進行役にドキドキです! 9月の #JFCP国際セミナーワークショップ もそうでしたが感染症対策役も設定しての開催です。 司会がんばります(๑و•̀ω•́)و 兵庫地区だけなのかわかりませんが クリスマス会みたいにプレゼント交換があるそうで楽しみです♪ そんな明日は沙羅の20歳の誕生日です☆ 育児に関してはまったく(育児だけやなくて家事も仕事もみんなやってる感ナシ💔)自信もなくて 時間だけが過ぎていきました… バースデーケーキはKiss-FM KOBEがご縁でTwitterで繋がったKissネーム #王塚台のケーキ屋さん こと #フェアリーテール さんにお願いしました🎂 すると無茶振り?現地アドリブ?はたまた実習?な勢いで王塚台のケーキ屋さんは「プレート 自分で書きます?」 え??マヂで?!そんなんやったことないし! でも! こんなこともないとまず体験できんので 苦手ながらもやってみました(*ˊ˘ˋ*) ご指導頂きながら書いたけど 季節がららしく なかなか握力持ってかれるチョコペン芸でした😆 マドレーヌ付けてくださってましたね✨ 王塚台のケーキ屋さん ありがとうございました♡ さて明日の出発までにやることってチェックリスト出したらいろんなことが気になってしゃあないので思いつくことで今 できること終わらせて今日は寝ます。 明日は明日の風が吹く☺️ #姿勢調整師 #姿勢専科加古川準備室 #姿勢専科kcsセンター姫路西院 #姿勢専科kcsセンター明石中央 #街の健康支援センター #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯 #未来の医療費削減策 #姿勢は自分では治せません #姿勢調整師って何 ? #姿勢調整師募集中 #姿勢講座講演承ります #まだ見ぬ人に手を届かせるために (ケーキ工房 フェアリーテール) https://www.instagram.com/p/CIasmhpJiHo/?igshid=1c0alazj3w81b
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shinomama · 3 years
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《あなたにサラダ以外も》  昨日も今日も忙しく過ごさせて頂きました。 先週末にTwitterでとあるお友達にツッコミ入れてから「会お!」ってなって昨日会ってきました。 ランチしながらお互いの近況や思い出にこれからの計画などワクワクしっぱなしの時間を楽しみました。 これも私が #姿勢調整 のお仕事を続けてなかったらたぶんなかった再会に感謝です☆ #新長田 のvono vonoさんでウニのクリームパスタとミートパイをシェアしたんですが どれ食べてもおいしくてかわいくてステキなお店でした♡ 誘ってくれたなっちに感謝です(*ˊ˘ˋ*)  今日は加古川出張所dayで裏仕事も含めて走り回らせて頂きました。 帰り際 お客様でもある#パルプラザ さん内の化粧品店 #ローズ さんのオーナーさまより大量のミニトマトと大根を頂きました*(\´∀`\)*: お野菜頂けるのホンマうれしいで��。 サラダ以外でも火を通したりアレンジが利くお野菜は特にありがたいですね♡  取り急ぎミニトマトを使おうとキッシュ焼いてみました。 トースターで焼けるレシピを見つけたのでやってみたらそれなりにできました! 黄色いトマトと赤いトマト 両方混ぜてベーコンと玉ねぎとブロッコリーを加えて焼きました。 明日の朝ごはんにいただきます🙏 大根はちょっと紫がかったものも頂いたので色を活かせるお漬物やマリネみたいなものに使えたらと模索中でこれもワクワクです。 夜なので交感神経の働きをしずめないとw   #vonovono  #おうちごはん  #姿勢調整師  #姿勢専科加古川準備室  #姿勢専科kcsセンター姫路西院  #姿勢専科kcsセンター明石中央  #姿勢は自分では治せません  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #姿勢講座講演承ります  #姿勢調整師って何 ? #まだ見ぬ人に手を届かせるために   https://www.instagram.com/p/CIQe4naJQd0/?igshid=1xdkz5jxyd2ua
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shinomama · 3 years
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《 #職業人と語ろう 》 今日は #姿勢調整師 のお仕事を #加古川市立浜の宮小学校 の生徒さんに向けてお話させて頂きました。  コロナ禍で学校行事もままならない状況で 私なりにウィルス感染予防対策をしながらの参加です。 今日は哲生先生 にもお手伝い頂きました♪ 私が姿勢調整師として所属させて頂いている団体のウィルス感染予防対策を参考に活動させて頂いてます。  この活動が少しでも生徒さんの想い出のひとつになって 姿勢調整師のお仕事やお身体の大切さが生徒さんの将来や親御さんや先生方の健康やお身体に対して考える機会になって伝わってますように😌✨    #姿勢専科加古川準備室  #姿勢専科kcsセンター姫路西院  #姿勢専科kcsセンター明石中央  #姿勢専科kcsセンター加西  #街の健康支援センター  #腰痛 #肩こり #頭痛 #生理痛 #猫背 #側弯  #姿勢は自分では治せません  #姿勢調整師募集中  #姿勢講座講演承ります  #まだ見ぬ人に手を届かせるために  https://www.instagram.com/p/CHdAoQmpwJ0/?igshid=l30921lq0exd
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